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兵馬俑坑の見学を終えて、次に「秦始皇帝陵」に向かう。 秦始皇帝陵は兵馬俑坑の西約1.5キロメートルにあった。 約2200年前、中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、すぐに陵墓の造営に着手。70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成した陵墓は、『史記』によると地下宮殿のようであったと記されているのだ。長らく伝説と考えられていたこの記述も、近年の調査で痕跡が確認され、秦始皇帝陵の発掘が待たれているのだ。始皇帝陵に入口ゲートには「麗山園」の文字が。 始皇帝は紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨。中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者。統一後、始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。正面に見える山が始皇帝陵。始皇帝陵 配置案内図。大きさは東西350m、南北345m、高さ76m、体積は約300万m3。盗掘を防ぐため、この墓に近づく者に矢を射る仕掛けまであったと。兵馬俑坑は、この陵(墓)を取り巻くように配置され、そこから出土した等身大の俑は皆、東を向いているのだ。しかし兵馬俑の兵士たちが東を向いている謎に明確な答えはでていないのだと。世界遺産のマークが刻まれた巨大な石碑は雨に濡れていた。そして大きな赤い文字「秦始皇帝陵」と刻まれていた。この日の見学はここまでであったが、更に奥に進むことが出来るのであったが・・・・。近年、中国の調査隊の地質調査の結果、陵墓の地下に東西168m、南北141m、高さ15mの巨大な空間が存在すること、中から平均値の40倍以上の水銀の反応が出たと明らかになっているのであった。「水銀を使って始皇帝陵に河川や海を作った」という記録が『史記』と『漢書』にも見られるが、真実かどうかは謎のままであったのだ。大陸の地質学者、常勇氏と李同氏も始皇帝陵から土壌サンプルを採取して分析した結果、土壌の水銀含有量が異常に高いことも判明したのだと。陵墓周辺で採取した土壌サンプルからは水銀が殆ど検出されなかったため、『史記』と『漢書』の記録は事実である可能性が高いと推測されている。」 のだと。そして残念なことに、現在この巨大な空間を発掘する目途は全く立っていないのだと。 【http://takashi1016.com/mausoleum-of-the-first-qin-emperor-4420】よりそして午前中の観光を終え昼食会場へ。 「絲綢之路展覧館(シルクロード展覧館)」前庭にはシルクロードを移動する駱駝の像が並びシルクロードらしさを演出。 勇敢な騎馬兵の像も。こちらにも。漢武帝の像も。漢武帝の治世の前期は漢の最盛期であり、中国史上において栄光の時代の一つでもあった。しかし、文景の治による蓄積によっての繁栄であるという見方もあり、後半の悪政も含めて考えれば武帝の評価は分かれる所。彼自身、外交や遠征などの派手な事業については特筆すべき事柄が多いが、内政に関して見るべきものがない。むしろ、こうした地道な政治を後手に回していたきらいがあり、盛んな造作もあいまって治世末には農民反乱が頻発した。このため、後世は秦の始皇帝と並び「(英邁な資質ではあるが)大事業で民衆を疲弊させた君主」の代表例として、しばしば引き合いに出されることとなると。昼食は野菜料理が種類も多く、味もとても旨かった。そして店の外にはこの文字が大きく。看板のこの字は中国語で一番画数の多い漢字・58画なのだと。「ビャン」という、太いきし麺みたいな麺を表す漢字だそうだ。そして「ビャンビャン饼」が売られていた。落花生をつぶして混ぜた餅のようだ。これでもかと騎馬像が至る場所に。何故か近くにはエジプトのファラオの石像も。我がバスに戻る。バスのサイドボディーに描かれているのは映画・「白鹿原影視城」のコマーシャル画面か?途中、華清宮(かせいきゅう)の前を通過。華清池とも呼ばれるこの場所は、中国四大美人であり世界三大美女の一人とも言われる「楊貴妃」ゆかりの地。歴代王朝の温泉保養地だったそうで、楊貴妃が湯浴みした場所として有名であると。これは楊貴妃と玄宗皇帝らしく、ここは彼らのデート場所であったらしい。城の如き建物はホテルであろうか。 ここ中国では我がカメラのGPS機能が正確ではないので、建物の詳細が不明。 兵馬俑で有名な臨潼の町の境界には「臨潼への再来を歓迎します」と書かれた朱色の門がありその下を通過。西安科技大学。 「西安科技大学は陝西省西安市にある工学系を主とした陝西省直轄の総合大学である。1958年に西安交通大学の鉱山系学科を分離して西安砿業学院として創設され、1999年に西安科技学院、2003年に西安科技大学に改称された。」 と。西安工程大学。「中国陝西省における重点大学の一つ。前身は1912年に創立した北京高等工業専門学校の機械紡織学科であり、その後何度かの統合を経て2001(平成13)年2月に教育部を併合し西安行程大学となった。現在、大学は15の学部と2つの教育部を設置しており、在学生は約16,000人に及ぶ総合大学」 とのこと。高層アパート群。西安の人口は2015年で870.6万人と。西安市は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった「長安」 。「西安(西京)とは「西の首都」の意味であるが、一般的に東アジアの伝統では、首都の名前をこのようにつけることが多かった。例えば、日本の東京やベトナムのトンキン(東京)は、「東の首都」を意味する。日本の東京は、首都を意味する京都からの方角をもとにしており、「北京」、「南京」、「西京(長安、西安)」は、中国の内陸部にある洛陽からの方角をもとにしている。」 と。洛陽は西周時代に都として建設され洛邑(らくゆう)とよばれ、漢代に改称、北魏・晋・隋・後梁・後唐などの首都であったと。西安の火力発電所。経済成長により西安市民の自動車の保有台数も著しく増加しておりそれらの排気ガス、そして気温が真冬は零下10度近くまで下がる為、暖房器具用の石炭の消費も増えたことが西安の大気汚染をひどくしたのだと。そして中国の各都市の大気汚染も自動車の保有台数の増加や規制が緩いディーゼルエンジン、ここ火力発電所や重化学工業工場の有害な排気が重度の大気汚染を招いている要因であると。 ピンクの花は全て造花である事は後に解ったのであった。陕西省国・・・・?。陝西体育場。収容人数は50,000人、総敷地面積は97,000m2。主にサッカーの試合に用いられ、サッカー中国代表の試合が開催されることも。 そして「陝西省美術博物館」の建物に立ち寄る。折しも「何柳生絵画芸術展」が開かれていた。 西安市の立派な図書館の隣にある円形の建物で地元の人の姿は皆無。入館すると博物館の係員の人が日本語で案内してくれた。下の円形ホールがオークションの会場になると。ホールの天井も見事。何柳生氏の版画作品が展示されていた。この版画は「清華大学」 。キャンバスの広さは中国一を誇っており、構内には職員アパートから銀行、郵便局、スーパーマーケット、コンビニから屋台まである。常住者は約14,000人、教育機関は幼稚園から大学まで総てそろっているのだと。 中国の北京市にある国立の総合大学。理工系に強く、中国国内で一、二を争う国家重点大学。 「清華古月堂」。清の道光帝が建てたもので、清華園西院の一角にある。総建築面積は 70m2で、建築当初は書斎専用であった。その後、住居として使っていた。現在は大学の総務部門としているとのこと。 館内には素晴らしい作品があったがほとんど通過して玉器の販売スペースに案内された。だいたいここで30分くらいの買い物時間。係員の方はとても親切で今まで詳しく聞けなかった玉について説明してくれた。旅友のSさんがターゲットにされたが何とか逃げ切ったのであったしかし興味の無い方には苦痛のようであったがこれも低料金ツアーの理由。何も購入しなくても最後まで親切に見送りまでしてくれたのであった。この展示室はこの日は写真撮影禁止であったが下記の如き作品が販売されていた。 【http://tom.o.oo7.jp/tabi/si1/si1-7.html】 より様々な掛け軸も。そして色つき山水画か?そして今回の旅行で気がついたのは、中国では「google検索」 が使えないこと。更に「googleマップ」も使用不可。旅行前に今回のツアーで訪ねる場所そして散策したい所を事前にチェックマークを入れて置いたが、中国ではそのマークが全て消えており、GPS機能もかなりズレた場所を表示する状況に。 そのほかYoutubeやWikipediaもアクセス出来ない模様。いろいろと中国からの規制や検閲が多いため、google側から自ら撤退した様であるが。 数々の国を訪ねたが、今までこの様に「google検索」 や 「googleマップ」が使用出来ないのは初めての事なのであった。 ・・・つづく・・・
2018.03.13
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そして次に兵馬俑2号坑へ。2号坑は1976年、1号坑から北東へ20mほど離れたところで発見された。1号坑の補助をおこなう秦軍の左軍(歩兵や車兵それに騎兵などが主)。兵馬俑の数は約1300体。さまざまな役職の兵傭が展示されていて、間近で見ることができたのであった。形はL字を逆さにした差し金形で、東西96m、南北84m。面積6000m2と、1号坑の半分弱の大きさ。89台の戦車、472の馬俑、900以上の兵士俑が埋まっているといわれている。屋根の丸太を外しただけで、未発掘の場所が多く残っていた。車輪の姿が確認出来た。1 号、 2 号、 3 号兵馬俑坑に合わせて戰車が 130 両余りあると。戰車は全部木で造ったため、出土された時に朽ちてしまった状態で、痕跡しか殘っていない。その形は、二つの車輪に 1 本の轅 ( ながえ ) 、四頭陶馬をつなぐものである。車体は長方形を呈して、幅 1.4m、前後の長さ 1.2mである。その 周辺には、高さ 40cm 、窓格子の上ような柵が囲まれて、後ろに出入り の門扉が一つ、車輪が1.35mの高さである。戰車は全体が漆塗りされているが、あるものに絵や模樣が見えている。実用な戰車と同じように車馬具が備わっていると。 井戸の跡。二号坑配置案内図。瓦礫の如くに発掘されたままの場所も。まだ発掘途中の兵馬俑がバラバラになって土に埋まっているのであった。頭のない騎馬の姿も。まだまだ未発掘の場所が残っていた。こちらにも。調査用の梯子も架かっていた。「秦俑坑出土的典型文物」 展示コーナー。 2号坑から出土した跪射俑。右足を跪き、左足を立て膝にして遠射兵器である弩(いしゆみ)を構えている姿で、高さ1.2m。 後ろ側から。 くるぶしまでの浅めの麻靴をはいており、右足の靴裏が外側に表れている。 靴裏には滑り止めが施されている。重心をかけるかかと部分やつま先に突起が多く、 土踏まず部分には突起が少ない。ここまで表現している事に感動!! 弓矢を持った姿を図書館から借りた本より転載。 中級軍吏俑。中級軍吏俑は頭に「双板長冠」をかぶり、鎧甲をかけている。鎧甲の形として、上半身の前だけ守る彩色の縁どりがついた前胸甲と甲片がかなり大きく彩色の縁どりがついた辺甲という 2 種類があると。手に剣を持ちながら威嚴に立っているのだと。穏やかな顔。 高級軍吏俑。 後ろ側から。位(くらい)は頭の冠を見ればわかるという。2号坑から出土した「英姿颯爽的騎兵俑」。英姿颯爽的騎兵俑とは「さっそうとした勇姿の騎兵俑」の意。兵俑の身長は1.8m,陶馬の高さは1.72m,長さは2.03m。 馬には鞍があるが,鐙(あぶみ:馬の鞍の両側に吊し,乗馬する時に足をかけるもの)は無い。4人の騎兵と4頭の馬が1組の状態で出土し,全て東を向いていたと。2号坑から1997年に出土した「訓練有素的立射俑」。手には弩級を持ち、矢をつがえて攻撃命令を待つ兵士の姿。元来、矢入れを背負っていたものと思われる。半身に構え、上からみた時に足をL字型に開く姿勢は、命中精度を高めるのに適したものであると。装備はすね当てをつけ,革製の靴を履いている点を除けば、歩兵俑と同じ服装である。 身長1.78m。この類の陶俑は2号坑から172体出土したとのこと。俑を具に観察すると,様々な服装や格好により身分が区別され,顔立ちや体格は漢をはじめ蒙古や西域など,それぞれの民族的特色を表現していると。 この高度な写実性は,この兵馬俑の特徴の一つと。残念ながら、彩色が多く残っている兵馬俑は展示されていなかった。始皇帝兵馬俑博物館に向かう車中で添乗員の毛さんが彩色兵馬俑の復元写真を見せてくれた。この様に見事な彩色が施されていたとのこと。そして2010年5月18日、中国陝西省西安市が世界に誇る歴史的遺産・兵馬俑で、新たに発見された兵士の俑が3体、下の写真の如く公開されたと。 【http://www.recordchina.co.jp/b42309-s0-c40.html】より銅車馬館(どうしゃばかん)を訪ねる。世界遺産のシンボルマーク。館内。銅車馬館の案内が記載されているのであろうか?1980年暮、始皇帝陵の西側20m、地表から 7.8mの深さで2台の彩飾された大型の銅車馬が発見された。この2台の車は大きな木槨の中に置かれていたが、2,000年余りの間に、木槨は腐朽して陪葬坑も自然に陥没した.その際、2台の車も 粉々に破壊されたと。修復は3,000点におよぶ破片の為もあり8年近く要し、1988年にやっと元の様相に復元され、展示されることになったのだ。1号銅車馬は、先導車。4頭立て2輪馬車に御者が直立し、馬車には傘が立つ。 銅車馬は秦始皇の御用車を模造したもので、秦始皇陵の陪葬品の一つである。サイズは1号車は全長2.25m、全高1.52m、実際の車馬の1/2とのこと。1号銅車馬は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられている。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立つ。 人、馬、車すべてが青銅で模造されており、大量の金銀装飾が施され、生き生きとしている。秦代の高度な冶金鋳造、装飾工芸技術などには、目を見張るものがある。2台共双輪で、四頭の馬で曳かれている。今までに発見された同じタイプ車馬では最大で,最高級で 、貴重な歴史資料であると。 2号車は全長3.17m、全高1.6mで、これも実際の車馬の1/2とのこと。2号銅車馬は、安車または轀輬車といい、始皇帝が乗るための車で正座した御者1体が手綱を引いていた。車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれていると。後ろからも。御者の背中には長剣が。そして2号銅車馬。輿のなかに寝そべって乗ることのできる2号銅車馬は、壁の内外面と天井の内面に龍と思われる文様がびっしりと描かれていると。正面から人の少ない瞬間に。壁には小窓が三方に。安全上、大きく出来ないのであろうが、それにしても小さ過ぎて夏は極めて暑く辛そうなのであったが。後ろが出入口なのであろう。出入口は閉まっており、内部は残念ながら確認出来なかった。銅車馬は、警護用武器として弩弓と矢を備えていたと。その矢は、一部が別に展示されていた。2号銅車馬の各部分の成文分析表。銅車馬の製造工程一覧表。銅車馬館を出ると再び黄梅(おうばい)の花が。黄色い花が梅に似ていることと、咲く時期が同じことからこの名前になったが本来、梅とは関係なく、ジャスミンの仲間。垂れさがる細長いツル状の枝に花が咲いていた。 中国では、旧正月(2月)頃に咲き出すので「迎春花(げいしゅんか)」と呼ばれると。秦皇大劇院と書かれた楕円形の建物。 公園の円形噴水?には、勢いよく岩山を駆け上る6頭?の馬の姿が。正面から。第1発見者の楊さん?の土産店に立ち寄る。本を購入すると本へのサインと記念撮影が出来るようだ。しかし第1発見者を名乗る楊さんは何人もいるのだとネットより。以前にNHKドキュメントの”アナザーズストーリーズ/運命の分岐点”に出ていた第1発見者の楊さんと顔は異なり、年齢もかなり若い方が座っていたのであったが?息子さんなのであろうかとも。 大小様々な大きさの兵馬俑の土産物が販売されていた。本物の兵馬俑と同じ土、製法で作ったあると売り込みも激しかった。 ・・・つづく・・・
2018.03.12
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兵馬俑坑1号坑の見学を更に続ける。1974年、井戸掘りをしていた農民が兵馬俑のかけらを偶然発見した場所がここ1番の場所と。兵馬俑の最前列。主鋒の前方部隊は、歩兵で3列で見事に整列。これだけでも大変な数。多くの歩兵俑の姿。髷を高々と結い上げ、立派な髭をたくわえた戦士。右前合わせの上着を革帯で留めていた。歩きやすいように丈の短いズボンと脚絆を着用。兵士俑の横顔のアップ。頭と胴体は別々に製作され、頭を上から差し込む構造となっていると。 シャッターを押し続けました。入口方面の上段(白い台形の上辺)が一般見学フロアー。その下(台形の底辺)は特別な記念撮影用フロワーであるようだ。南側展望通路から。 最前列の武士俑と、その後方の光景。史記や漢書など、数々の歴史書に秦の始皇帝陵の存在は記されていたが、数々の動乱などにより、存在そのものが長い間忘れ去られていたのであった。兵馬俑坑入口?部分には7本の柱と土壁、そしてその上部に丸太が並べられた場所が。兵馬俑の上部は巨大で強靭な梁と棚木の屋根で支えられ、屋根の上にはむしろを敷いて、土の層を被せたのだと。そしてそれが朽ちて落下し、俑を破壊して倒してしまったと。凹みは梁の載った跡と。横顔を再び。様々な表情はいつまでも見つめていたいのであったが。ここは発掘後に埋め戻し養生している場所か?1号坑では今も発掘が行われており、補修された像は展示待ちとなってここ修復ヤードに保管中。顔や掌、そして足下はビニール袋で養生中。顔の部分をズームで。自分の居た場所に戻り出番を待つ俑。破片をジグソーパズルの如くつなぎ合わせ、帯で固定している姿も。修復員の姿が。頭部の修復の途中であろうか。騎馬の姿も。多くの武士俑(兵士俑、歩兵俑)が修復中であった。それぞれの庸には管理番号のTAGが付けられていた。右腕の先端の復旧を待つ多くの俑。ガードマンの姿も。兵馬俑1号坑全景を西側から。そして1号坑の見学を終え屋外に。窓の外側には騎馬をあやつる兵士の姿が。オウバイ(黄梅)の花が満開中。次に3号坑の見学へ向かう。3号坑は1号坑の北側西端に約25m離れ,2号坑からは西に120m程のところに位置し、兵馬俑で既に発見された3つの坑(穴)のうち、最も小さいものがこの第3号坑。馬4頭立て,兵俑4体の戦車が出土。 総面積は500平方m程度, 戦車の南北の両脇にはそれぞれ小部屋があり、小部屋の中には軍の幕僚や警備部隊と思しき兵俑が64体存在していると。ここでは11体×2列の兵俑が発掘され,鹿の角や動物の骨も出土している。 当時,鹿は「純霊の物」という扱いを受けていて、政治や軍事戦略などの策定手段の一つとして祈祷が用いられていたことから、この小部屋は軍幕の祭祀や祈祷の場所であったと考えられていると。兵傭が壊れ、ここでも瓦礫の如くに横たわっていた。頭部のない多くの兵傭。頭部のないまま横たわる兵傭の姿。軍馬が4頭並んでいたが、これは秦軍の当時の戦車。4頭の騎馬。別の角度から。 ・・・つづく・・・
2018.03.11
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翌朝は小雨の中、ホテルで大きな傘を借り、ホテル周辺の散歩に出かける。早朝のホテル入口。時間は7:50。 中国では近年、毎年のようにスマホアプリを活用した超便利な社会システムが生まれている。政府の後押しがその社会システムを加速させている。その一つとして、大注目なのが、都市部を中心に昨年から大流行の「シェア自転車」だ。現在、「シェア自転車」には数社が乱立した状態で、洗練されたデザインで特に注目なのがMOBIKE(摩拝単車)。手続は全てスマホで簡単に済ませることができるのだと。しかし乱立状態で、使用されないものが市内に大量に放置されており、「ゴミ化」していると添乗員の毛さんから。会社毎に自転車の色が異なるとも。地下鉄1号線駅「通化門」入口。西安の地下鉄は全部で15路線が計画されており、そのうち1号線と2号線、3号線が営業運転中併せて全ての線で延長工事中とのこと。古くからの電気製品商店街は開店前で一面にブルーシートが。「西北国際茶城茶叶茶具批犮中心」。製茶の姿のモニュメント。右から茶摘み、乾燥そして茶の手揉みの姿。私が幼い頃、我が実家でも両親が自宅用のお茶を手揉みで作っていた事を懐かしく想いだしたのであった。『茶経』(ちゃきょう 茶經)は、8世紀頃中国・唐の陸羽(733~804)によって著された書物。当時の茶に関する知識を網羅しているのだと。茶に関する最古の典籍であり、760年前後に撰述されたものと考えられている。ここで取扱っている茶は、団茶(紅茶または緑茶を蒸して型に入れ、干し固めた茶)であり、現代日本で飲用されている煎茶や抹茶ではない。その内容には、単なる喫茶法を超え、茶道に至る精神性を垣間見ることができるのだと。 お茶を楽しむ陸羽夫妻。出来あがった茶をラクダ(駱駝)に乗せシルクロードを運ぶ姿。 雨除け屋根を付けたバイクに乗った母子の姿。そして9:00にホテルを出発し兵馬俑坑に向かう。今回は14人のツアーでバスの席はガラガラ。高層アパートが車窓から。そして早速、現地ツアーガイドの毛さんから中国の王朝の歴史講義が。高速道路料金所。兵马俑收费站(兵馬俑料金所)を通過。ETCの文字も確認出来た。そして始皇帝兵馬俑博物館の駐車場に到着。始皇帝兵馬俑博物館の配置案内図。始皇帝の絶大な権力を象徴する遺産。地下に埋められていた推定8000体と言われる実物大の兵士、馬、戦車の陶俑。これらが発見されたのは1974年。「20世紀最大の発見」といわれる兵馬俑は、当地の農民が井戸を掘り起こそうとした際、その一部が偶然に発見されたのであった。これが後の一号坑の一部で、その後、関係機関による調査を経て二号坑、三号坑と発掘が続き、2000年には秦始皇帝陵の六号坑から8体の文官俑が、同年夏には秦始皇帝陵の東北部で青銅製の鶴、白鳥、雁などが配された七号坑(水鳥坑)が発見されたのだ。始皇帝兵馬俑博物館前に建つ秦の始皇帝像。冠の上に「冕板(べんかん)」という木の板を乗せて立つ始皇帝。冕板前後の端には真珠、珊瑚、ガラス玉を糸で通した旒(りゅう)を垂らしたのだと。旒の数は身分により異なり、皇帝の冕冠は前後に十二旒、計二十四旒である。秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑はユネスコの世界遺産(文化遺産)に1987年登録された。「秦始皇帝陵博物院」 と刻まれた石碑。そして円の上部には「秦」の文字がくずして表現されていた。「秦始皇帝陵博物院」 は「秦始皇帝兵馬俑博物館」と「秦始皇帝陵(遺跡公園)」との2つの部分からなっているのだ。秦始皇兵馬俑博物館入場口の前を通り遊客中心(ツーリストセンター)へ。センター内には各種言語の案内書が。そして毛さんが買ってきてくれた秦始皇帝陵博物院と書かれた入場チケットを受領。秦始皇兵馬俑博物館入場口を望む。 「秦始皇兵馬俑博物館」の文字が。 そして始皇帝兵馬俑博物館の入口までの電気カートに乗り向かう。始皇帝兵馬俑博物館の第1号坑。入口から入ると荷物検査が。そして兵馬俑坑第1号坑が目の前に。兵馬俑坑第1号坑は東西230m、南北62mの中に兵士俑8,000体、馬俑600体が埋葬されているが、発掘数は1,000体程度で、巨大なド-ム内では現在も発掘作業が続けられ、気の遠くなる様な修復作業を経て年々陶俑の数は増えており、秦の強大な軍陣が明らかになっているとのこと。11の壁に仕切られ、東を向いて3列横隊の兵士はこの前衛部隊である。また11の空間には38列の兵俑が縦隊に整然と並び、右翼部隊、左翼部隊、後衛部隊になっている。俑達の平均身長は、およそ180cmであると。ズラリと整列する傭(殉死者のかわりに埋葬した人形)の軍隊。底は地面から4.5メートルから6.5メートルまであると。10メートルの土壁が2.5メートル間隔で建設され、9つの巡回廊下を形成。 軍隊と平行に盛られた土の部分に丸太が渡され、その上に藁と土をかぶせ埋められていた。そのため木が腐るとかぶせていた土が落ちて、傭は粉々に壊れてしまったのだと。 幅3.5mほどの通洞には4列縦隊で兵俑が並んでいた。 兵や馬の表情や衣装はひとつひとつ異なっていた。 兵俑は一体ずつ全て異なっており、その規模と精巧さは恐ろしいほどで驚異的。この日は小雨の為に陽光は差し込んでいなかったが、日が差し込めば表情はさらに吐き生きと感じられたであろうが。 将棋倒しになっている兵士傭。復元されるのを待っているかの如し。戦車100余台、陶馬600体、兵士俑8000体を数えるという。8番に札の場所には戦車があったと。3頭の騎馬の姿も。この馬庸は鞍やアブミを着けていないが、交代用の予備馬なのであろうか。見学通路を反時計回りに進む。すべての人物は、顔の特徴や表情、服装、髪型、身振りが異なり、その当時の軍事、文化、経済史の研究に対して豊かで詳しい資料を与えてくれているのだと。上半身は空洞だが下半身は空洞ではないのだと。顔の表情はそれぞれ異なり、身分により服装もまちまちでだが、共通しているのは、いずれも手に武器を握っていること。一部の俑にはまだ色彩が残っていたと。馬の高さは1.5メートルで西域の大宛の馬に似て、足が速いと。頭の無い俑も所々に。兵馬俑はこの場所の付近の粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いて作られたと。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、人類文明の進歩を窺うことが出来るのだと。騎馬をズームで。たてがみは前端を左右に分けているほかは短く刈り揃えている。馬が耳を前に向けているのは機嫌のいい時なのだと、昔大学の体育実技で乗馬を学んだ時に助手の先輩から聞いた記憶があるがこの騎馬も機嫌が良い姿なのであろうか。 ・・・つづく・・・
2018.03.10
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク3/5(月)から3泊4日にて「シルクロードの起点 歴史深き古都 西安4日間」の旅に、いつもの旅友Sさんと行って来ました。西安はシルクロードの東の起点として栄えた都市で、旧名は長安。紀元前1100年ごろから約2000年の間に、秦、前漢、西晋、西魏など11王朝の都となった。紀元前3世紀には、秦の始皇帝が万里の長城や壮大な墓を残し、墓を守る兵馬俑は西安最大の歴史遺産となっている。現在の市街地を含む広大な地域に大興城の都が造営されたのは、6世紀末に隋が興ったころで、続く唐の時代に太宗が「貞観の治」によって帝国の基礎を固めた。玄宗皇帝の開元年間には、李白、杜甫といった詩人を輩出したことでも名高い。10世紀初頭に唐が滅亡して以降、首都に返り咲くことはなかったが、現在も中国西北部の政治経済の中心となっている都市。事前に図書館で本を借り、事前学習するも完読に至らず出発。 今回は4日間ですので、やや小さいトランクを妻から借り、リュックと共に。今回もSさんの愛車で羽田空港へ。9時に我が家で拾って頂き、横浜新道へ。横浜新道から東京湾岸道路へ。前方に横浜ベイブリッジ。ベイブリッジを順調に渡る。そしてSさんが予約していてくれた駐車場に自宅から40分の9:40前に到着。このマイクロバスで羽田空港国際線ターミナルへ。今回のツアーは阪急交通社(trapics)のツアー。受付で説明を受けeチケットを受領し、チェックイン開始の時間待ち。 羽田国際線ターミナルを暫し散策。4階 江戸小路 江戸舞台には何の飾りも無し。雛祭りも終わって片づけてしまったのであろうか?江戸小路。江戸舞台の左側に歌舞伎演技場風の店舗が並ぶ。折しも獅子舞の集団が。獅子舞とは神楽の一種。元々は家のお祓いをするなど場を清めたりするための舞で、あわせてその場に立ち会った人も獅子に頭を噛んでもらうことで良いことが起きる、縁起が良いとされているのです。旅友のSさんも頭を噛んでもらいました。江戸時代、旅の始発点は日本橋。その日本橋が装いも新たに羽田空港に設置されている。まさに旅立ちは昔も今も日本橋。総檜(そうひのき)づくりの「はねだ日本橋」が羽田で旅行者の出発を待っているのです。反対側の日本橋への階段周辺には桜が満開。「ずんだ茶寮」 で一休み。「ずんだ」のさわやかな美味しさを味わえる大好評の「ずんだシェイク」を楽しむ。 そして小さな「天むす」も。 5階「お祭り広場」。お祭り広場ステージにて曲芸のパフォーマンスを楽しむ。口で支えた棒の先に茶碗を立てる"五階茶碗顎"などの日本古来の太神楽曲芸も鑑賞。大変縁起の良いものだといわれている「傘回し」に子供も挑戦。我々も「紙テープ立て」をしばし体験。そして中国通貨・元への両替も行い、チェックイン後、出国手続きを無事完了し出発ゲートへ。この日は上海空港・『虹橋(ホンチャオ)国際空港』で乗り継ぐ西安へのフライト。 13:30発の上海航空と中国東方航空のコードシェア便(共同運航便)。 エアバスA-300便、後方窓側A席を確保。 定刻に出発し、最初の機内食。時間は15:15。そしてひたすら雲の上を飛び、霞いやスモッグ?のかかった上海上空に。機窓から「黄浦江」が見えた。巨大な住宅団地。中層のアパート群。虹橋(ホンチャオ)国際空港に到着。時間は17:03。タラップを使い飛行機を降りる。 バスにてターミナルビルへ。 入国カウンターを無事通過。10本の指の指紋を採られる。 入国審査時の外国人の指紋採取は日本も2007年から導入しているのだ。 ターミナルビル内を移動。 印鑑の如き、いや時計の如きモニュメント。荷物を受け取り到着ロビーへ。虹橋(ホンチャオ)国際空港は第1ターミナル(1号航站楼)と第2ターミナル(2号航站楼)に分かれており、春秋航空を除く全ての国内線は第2ターミナルから出発。 現地案内の女性に出迎えられれ第2ターミナルへ地下鉄で移動。西安へのフライトは19:55発中国東方航空・MU2168便。搭乗口が65から62番ゲートに変更となり、あわてて搭乗口へ移動 。エアバス321便・国内便でも機内食が出た。そして西安咸陽国際空港(XI'AN XIANYANG INT'L AIRPORT:XIY)に着陸。時間は21:55過ぎ。荷物の受取り場所には、紅葉した巨大な木の葉の如きモニュメントが。今回の現地添乗員の毛さんに出迎えられツアーバスに乗車しホテルに向かって西安咸陽国際空港を出発。バスの中で、毛さんの自己紹介の後は早速、西安の歴史の学習をスタート。そして中国語も。道路沿いにはこれでもかの勢いでビル群や街路樹がライトアップされていた。そして西安の3連泊のホテルに到着。「金花大酒店(GOLDEN FLOWER,XIAN)」。新城に位置する2 軒のレストランがある 4 つ星のホテル。時間は23:30。ホテルのフロント。我々の部屋は737号室のツイン。想像以上の広さで一安心。洗面所。シャワー室&トイレ。バスタブも付属していたが浅くて・・・・・。そして自宅から持って行った日本酒とインスタント焼きそばでこの日の反省会を2人で。 ・・・つづく・・・
2018.03.09
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この日の朝は3:15に起床し、洗面、トランクの整理、そして着替えと帰国の準備。宿泊したRamana Hotel Saigonはタンソンニャット国際空港まで車で15分、3.4 kmの距離にあるホテル。ホテルは 9 階建て、 客室が 283 部屋。この日の朝食はホテルフロントでサンドイッチの入ったBOXを受け取る。そして予定通り4:10にはホテルを出発。今回のツアー仲間はあくまでも「punctual」な4人。空港にアッと言う間に到着。ホーチミン・タンソンニャット国際空港での出国手続きもスムーズに進む。帰路の成田空港への便はベトナム航空 6:05発 VN302/NH9704共同運航便。搭乗ゲートには多くの利用者が出発を待っていた。 ホーチミン・タンソンニャット国際空港にはJAL便も乗り入れ。 5:45には夜も明けて明るくなってきていた。そして定刻に成田に向けて離陸。1時間もたたないうちに朝食の和食を楽しむ。 隣の席の山形の大学に通う女性と話をする。夏休みを利用して友人二人の女性3名で4泊5日のホーチミンのみの観光に来たとのこと。格安便を早期にネットで購入し、ホテルもネットで予約したと。オーチミン市内で名所観光やショッピングを楽しんだと。そして成田に着いてからは、東京駅まで行き、深夜バスにて山形の自宅に戻ると。 利用便はAirbus A321-100/200であったが、国際便にもかかわらず座席背面の個人モニターはなし。10年以上毎年海外に旅行しているが、この様な国際線フライトを経験したのは初めてなのであった。以前、テレビのニュース?で飛行機内の個人モニター画面は「時代遅れ」 、アメリカン航空が新型機で廃止したと。理由は、機内でのWIFI環境も整備され、乗客の大半がノートパソコン、スマートフォンやタブレットを持ち込み、機体の個人モニター画面の利用が少なくなったためだと。しかし、まさかベトナム航空がこの考え方を先取りしているとは考え難いのであったが。 よって朝食後は直ぐにウトウトと。 気がつけば既に飛行機は成田空港上空に。旅の疲れもあったのか、トイレにも立たず4時間余りの熟睡。そして予定より早く14時過ぎに成田空港に着陸。 成田空港は小雨が降っていた。成田空港では、さすがにバスの移動ではなくボーディングブリッジに。成田空港第1ターミナルに到着。 「迎」の字のお出迎え。毎回この字を見ると日本に帰ってきたことを実感するのである。帰国手続きもスムーズに終わり、順調に預け荷物を受け取り、税関検査終了後到着ロビーへ。そして旅友Sさんは、駐車場会社にTEL。私はレンタルしていたWIFIを返却に。外に出ると、既にSさんの愛車が我々の到着を待っていてくれたのであった。そして直ちにSさんの運転で成田空港を出発し帰路へ。新空港自動車道に向けて出発。ここまで着陸後約50分。 成田JCTから東関東自動車道に入る。暫く走ると幕張の高層ビル群が見えて来た。 宮殿の如き青い屋根の東京ディズニーランドホテルが左手に。 前方に渋滞表示も出ていたが、幸い我々のルートには影響なし。有明清掃工場の煙突が右手に。 首都高速湾岸線の鶴見つばさ橋手前からの丹沢の山々。 そして前方左手に横浜ベイブリッジが。 横浜ベイブリッジを通過。 左手に本牧埠頭。 そしてこの後、首都高速神奈川3号狩場線~横浜新道を利用して、成田から1時間45分弱で我が家までSさんに送ってもらったのであった。 今回のツアー旅行は何と4人だけの初めて経験する少人数のツアー。東村山に住む現役40代の親切なMさん御夫妻なのであった。そして細長い国・ベトナムをハノイ~ハロン湾~ダナン~ホイアン~ホーチミンとベトナム航空国内便を利用し、数々の世界遺産を訪ねる旅であった。ハノイに到着し、最初に驚いたのは2輪バイクの「カオス」・ 「混沌(こんとん)・無秩序」 の世界。そして専用車での移動の際は、車の洪水、耳障りな警笛音と排気音と驚きの連続なのであった。歩道はあるものの露店、路上食堂、バイクの路上駐車等々、そして歩道のタイル・煉瓦の凸凹で歩くのも大変なのであった。ベトナム国内の治安は、他のアジアの国々と同じように、最低限、気をつけていれば、危険はなくむしろ、安全な気がしたのであったが。ベトナム料理は結構旨く、私の口に合うものが多かったのであった。そして物価も、思いの他安く感じ、かなり贅沢しても、問題なしか?とも。そして中国、韓国と異なり反日の雰囲気や記念碑等にも遭遇する事もなく、反米の雰囲気も感じられないのであった。 ハロン湾のクルージングは小雨&曇りの天気がかえって幸いし、水墨画のごとき景色を楽しむ事が出来たのであった。鍾乳洞は、想像以上に中が広く驚いた事は事実であるが、人工的に色を変えてライトアップするのは、なんとなく日本とは感性が違うなぁと感じたのは私だけであったか?ハノイの街は、雑多な街角に垣間見える人々の慎ましやかな日々の営みに、何故か懐かしさを感じる私であった。私が子供の頃の昭和の日本を想い出しながら。 ホイアンの旧市街は昼は黄色の壁がまぶしい、明るくレトロな街並み。夜はそこにランタンが灯されると、街は一気に幻想的な雰囲気に包まれたのであった。毎日がお祭りのように賑わうこの街だが、治安の悪さは特に感じられなかった。ランタンにも様々な色、柄があり大きさも様々で好みのランタンを探しカメラで写すのも楽しいのであった。ノスタルジックな雰囲気に酔いしれる、ホイアンの旧市街そしてアンホイ島の夜をもう一度ゆっくりと訪ねたいと思うほど魅力的な世界遺産なのであった。 ホーチミンは1960年から1975年まで長きに渡ってベトナム戦争が続いていた街。第二次インドシナ戦争とも呼ばれているベトナム戦争はベトナム人にとって過酷で残酷な記憶となり、現在でもその爪跡が残っていると予想していたがその爪痕はほとんど感じる事が出来なかったのであった。これもホーチミン滞在1日未満の為であろうか。ベトナム戦争時に活躍した革命家「ホー・チ・ミン」はベトナムを独立に導いた英雄としてベトナム人の多くが敬意の念を抱いている事が、観光地やいたるところにホーチミン像や絵を見ることから理解出来たのであった。ホーチミンの街を歩けばフランス風ヴィラやカフェが建ち並び、その様子はフランスのシャンゼリゼ通りを思わせた。ホーチミンが「プチパリ」、「東洋のパリ」とも呼ばれている理由もなんとなく。そして観光客も欧米人の多くはフランス人なのではとも感じたのであった。 ベトナムは現在では数少ない社会主義国。近代に入ってドイモイ政策によって外資を受け入れるようになったが、現在でも警察は政府直轄であり、依然として公安、役所の人間は高い権力を誇示しているのだと。そして賄賂の世界も未だあるのだと。社会主義国は基本閉鎖的で、外国人に対して寛容ではないはず。今回の短い突貫の旅行中は社会主義を感じさせる場面は皆無であったが、長い滞在時には時として社会主義国ならではの思わぬ落とし穴?があることも・・・、と今更ながら感じているのである。 さて次回の海外旅行は何処に? ★『青の世界に恋する旅!魅惑の古都ウズベキスタン』 それとも★『大連、瀋陽を中心とした中国東北部(黒龍江省、吉林省、遼寧省)』 それとも★『神話の国ギリシャとエーゲ海の島々』 それとも★『????????????????』 それとも・・・・・・ ・・・もどる・・・ ------------ ベトナム縦断世界遺産旅行記 完 ------------
2017.09.24
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サイゴン大教会の横にある中央郵便局へ。1886年に建設を開始し、1891年に当時のフランス領インドシナの郵便・電信施設として完成。鉄骨設計はエッフェル塔の設計者のギュスターヴ・エッフェルが手がけたと。パリのオルセー美術館(当時オルセー駅舎)をモデルにしたと。屋上にたなびくのは、赤と黄のベトナムの国旗。片手を空に掲げる若き男女労働者の像。 平和や希望をを象徴しているのだろうか。ホーチミンのコロニアル建築物の中でもとびきり芸術的な「中央郵便局」 。正面玄関の上には大きな時計が時を刻んでいた。その時計の下には建設を開始した1886年、完成した1891年の文字が。当時ベトナムを統治していたフランス政府によるフランスへの連絡手段として造られたものだとのこと。正面の彫刻も見事。鮮やかな黄色に映える白の繊細な彫刻。今年の4月に訪れたラトビアの首都リガのユーゲントシュティール建築群の建物にもこれに似た彫刻があったことを想い出す。しかしリガの建物はアール・ヌーヴォー建築群?正面から入場するとアーチ形に造られた天井は奥行きがあり、高い天井は、壁から壁までいっぱいに大きな弧を描いていた。そして緑の鉄製ポールがそれを支えていた。高い天井と開放的な空間が美しい、フランス植民地時代の名残を残す建物。その先にドーンと飾られている大きなホー・チ・ミンの肖像画 。優しい眼差しが印象的。79歳まで生きたと言われるホー・チ・ミンであるが何歳頃の肖像画なのであろうか。現在でも通常の郵便・通信業務を行っており、コロニアルスタイルの観光名所としても人気。建物中心ホールの中央部および建物両翼は観光客相手のみやげ物売り場となっているが、ホール外周のカウンターでは現在でも郵便をはじめとして各種通信・金融サービスカウンターが並び、国際電話用の電話ボックスやそれを模したATMが設置されていた。 入口を入ってすぐ左右には壁画が。右側の壁画はサイゴン中央郵便局が完成したすぐ後の1892年に制作されたもので、当時のサイゴンとその周辺の地図であると。左側には1936年の南ベトナムとカンボジアの電信網が描かれていると。壁画地図の下にはシックな木目調の電話ボックスも。 時の流れを感じさせる木製電話ボックスの中にATMが設置されているのを見ると、何とも不思議な感覚。上には、世界の時刻が示された世界時計が設置されていたが、明らかに東京の時間は違っていた。いや全ての時計が誤指示?いや止まっている?長針の位置からそれが!しかしこのアナログ時計は、少なくとも1日に2回は正確な時刻を示す瞬間があるのだが。ここで、精巧に作られたベトナム名物の前輪2輪後輪1輪の自転車タクシー「シクロ」を土産に購入。そして妻が自分のオペラ発表会の姿をイメージ?した人形をシクロの座席に乗せ我が家の玄関に飾ってくれた。更に市内の土産物屋まで専用車で移動。 ロータリー中央にはAPEC2017のモニュメントがここにも。 サイゴン大教会を裏側から。 1900年建設のホーチミン市民劇場 またはサイゴン・オペラハウス 。南ベトナム共和国政府時代は国会議事堂として使用されたこともあると。そしてその横では日本とベトナム共同のJICAによる地下鉄工事が行われていた。専用車を降り、ブランド店や土産物店、カフェなどが立ち並ぶドン・コイ通りを散策。フランス統治時代には、ナポレオン時代の将軍の名前を取って「カティナ通り」と呼ばれていた。南ベトナム時代には、それが「トゥ・ヨー(自由)通り」と改名。現在の名前になったのは、南北ベトナムが統一された1975年以降のことと。そして土産物屋「タンポポ」で一時休憩。アオザイを着た人形やベトナム製のTシャツなど、今回の旅行で見慣れた土産物が売られていた。 そしてこの後、「タンポポ」の2Fにあるマッサージ店「SPA SEN-SE」で4人全員参加で、それぞれ60~70分のリラックスタイム。マッサージ室はカーテンで区切られて個室状態に。我々二人はホットストーンによる70分全身マッサージを。握りこぶし程度の大きさの温かい石を使ったマッサージで、これがとにかく気持ちよかったのであった。リラックス後は今回のベトナム旅行最後の観光場所のベンタイン市場に専用車で向かう。途中、車窓から35階建てオフィスビルのベトコムバンクタワーが見えた。ホーチミンNO.2の高さで205m、地上35階・地下4階建て。2010年10月に着工し、2015年4月まで約5年をかけて完成したと。革製品専門店の店頭にはワニの剥製が。クロコダイル?それともアリゲーター?グランドホテルサイゴン。復元されたコロニアル様式の建物を利用した高級ホテル。 今回の我々の格安ツアーでは縁のない1930年開業の老舗ホテル。サイゴン川沿いにあるフェリーターミナル付近を走る。サイゴン川の豊かな流れが車窓から。サイゴン港付近でも川幅は300~500m、水深は11mあり、全長200m以上の船舶でも入港が可能であると。日本とベトナムのJV(共同企業体)による工事現場横を通過。 ホーチミン市では2020年開通を目指して地下鉄建設工事が進んでいるとのことであるがハノイの鉄道の如く工事中断とならないことを願うのであった。そして地下鉄が完成すると、このバイクのカオスの世界は緩和されるのであろうか?そしてベンタイン市場に到着。 ホーチミン市にある大規模な市場。1907年に建設が決定し、1914年に完成。第二次世界大戦時に大きな被害をうけ、1950年に改修が行われ現在に至ると。専用車を降り散策開始。伝統様式により建設された巨大な建物の中に個人商店が数畳の狭い店を構えてひしめき合っている屋内市場。観光客向けの土産物店だけではなく、日用品や食料品を売る店もあり大抵のものがそろえられる他、食堂やカフェ、甘味処も存在。招き猫や布袋様、仏像の頭等様々な人形が。日本生まれの招き猫は、ここベトナムでも人気のようです。ここホーチミン市の多くの商店経営者や家族の間では、招きネコは幸福や幸運をもたらす霊的な動物と信じられており、さまざまな種類の招きネコ関連製品が売られているのだと。様々な種類のドライフルーツ売り場。ベトナムでは青果だけでは消費しきれないので、様々な工夫でドラーフルーツにと。活海老も売られていた。日本で言う車海老であろうか?この市場も、朝に訪ねれば、南シナ海で捕れた様々な魚介類の市の様子も楽しめるのであろう。やはり市場の探索は早朝が良いのである。 カラフルな花屋。 様々な果物が見事に積み上げられていた。 中央には、アイスクリーム味の美味な果実だと言う「カスタードアップル」。和名はその姿から釈迦頭、仏頭果。ドリアン。 今回の旅行で味わった数々の果物も。下部の赤いのはドラゴンフルーツとランブータン。 マンゴスチン。 市場の手前の建物の屋根は修理中。 自転車でドリアンを売るオジサンとこれを買う若い女性の姿。食べられるのは、種子の周りのクリーム状の部分で、果実全体に占める可食部分の割合は少なそう。ドリアンの果実は臭いが強烈なため、飛行機内への持込みが禁止されていると。ベトナムの公共の建物やホテルも、持ち込み禁止にしている所が多いとガイドから。そしてこの日の夕食会場はレストラン バタリス(Batalis)。 歴史博物館の敷地内にあるベトナム料理レストラン。この日のメニュー。南部ベトナム料理・フーティウナムヴァン(Hu Tieu Nam Vang)。 付け合わせのモヤシ、ニラ、レタス、香草他を入れて楽しむ。柔らかくつるっとした喉越しを楽しむ北部のフォーに対し、半乾燥させてから裁断するためコシがあるのが特徴とのこと。付け合わせ。パンケーキ。 豆果入り焼き牛肉。 鶏の唐揚げ。 ニンジン&野菜入りチャーハン。 野菜スープ。 スイカ入りフルーツゼリー。 最後に蓮茶。レストランの窓からは歴史博物館に展示されている大砲の姿も。18世紀から19世紀に使用された大砲とのこと。 そして店を出るとライトアップされたテレビ塔が。 そしてホテルへ向かう途中に突然の豪雨が。バイク群団はそれぞれに雨を避けられる歩道にバイクを乗り上げ、カッパを取り出し見事なまでの早業でカッパを被り再発進。歩行者で傘をさす人の姿はほとんど見かけなかった。 二人用のカッパなのであろうか? 背中部分が異常に広いカッパ。そして旧サイゴンの最後の夜のホテルに到着。ラマナ ホテル サイゴン(RAMANA HOTEL SAIGON)。 そして翌朝は4時にホテルロビーに集合、4:10の出発だとガイドから再確認の指示が。我々の部屋。 このベッド上での滞在時間は約4時間なのであった。シャワーを急ぎ浴び、トランクの整理を済ませ、少量のアルコールを補充し明朝に向けて爆睡したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.23
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ホーチミン市街中心部より北西約8kmの位置にある、かつてはサイゴン国際空港とも呼ばれたタンソンニャット国際空港を後にし、昼食レストランのあるホーチミン市中心部に向かう。ベトナム最大都市のホーチミン。19世紀にはフランスの植民地となり、その後ベトナム民主共和国の首都サイゴンとして栄え、ベトナム戦争終了後にはホーチミン市と名前を変えた。現在はベトナムの経済中心地として目覚ましい発展を続けているのだ。ベトナム戦争が終了を迎えたあと、南北統一を果たしたベトナムはさっそく社会主義政策を敢行。社会主義政策といえば、ソ連や中国でも行われた計画経済による社会で、完全に国主導で生産管理を行い、経済をつくっていく社会。1975年以降、社会主義政策を推進したが上手くいかず、中国では1978年・登小平による「改革開放」政策が採用され、市場経済を導入。ベトナムも1986年、中国を真似るかの如く市場経済を取り入れる方向に政策転換が図られ現在も推進されている政策が有名なドイモイ政策。ドイモイとは、日常使われている生粋の二つのベトナム語、dôi (変える)と moi (新しい)を組み合わせた単語。 更に市内中心部に向かって進む。700万人以上の人口を抱えるベトナム最大の経済都市・ホーチミン市。日本と同じく行政区画が設定され、19の区(Quận)と5つの県(Huyên)に区分されているホーチミン市だが、行政・経済・文化等の都市機能が集中しているのは「1区」。Dai Giac寺の道路側の壁には巨大な石版画が車窓から。 そして七重塔も垣間見えた。ビテクスコ・フィナンシャルタワー。2010年10月に完成したビルで高さ265.5メートルの地上68階・地下3階建。二輪バイク群団がこのホーチミンの街にも。 ホーチミン市の子供のアミューズメントセンターであるとガイドから。 赤のアオザイを纏った女性マネキン。 アオザイとは、正装として着用するベトナムの民族服。「アオザイ」はベトナム北部の発音であり、南部では「アオヤイ」と発音すると。アオ(Áo)は上衣の一種を意味する中古音で、ザイ(dài)はベトナム語で「長い」を意味する形容詞。つまり「長い上着」となる。女性用アオザイの美しさは世界的に認知されており、ベトナム土産としても人気が高いと。この日の昼食場所のレストランに到着。海藻スープ。 大型の茶碗蒸し?卵豆腐の如き? イカの唐揚げ。 白身魚の酢豚風。揚げ豆腐? イカとタマネギ等の炒め物。チャーハン。 そしてホーチミン市内の観光に専用車で向かう。ここにもバイク群団。 救急車。 3-7区人民委員会。ニュー パール ホテル (New Pearl Hotel)。バイク競争のスタートライン? 皆、赤信号の残り時間の表示を見つめているのであった。そして青の号砲一発。いざ・・・!!ベトナムの交差点には、「全赤」信号のシステム運用は皆無のようであった。そして「統一会堂」に到着し専用車を降りて外からの観光。南ベトナム政権時代の大統領官邸であり、同時にベトナム戦争終結のシンボルでもある「統一会堂」。 政情が不安定だった時代に建物の呼び名もたびたび変遷し、1873年から1955年の呼称は「ノロドン宮殿」、1955年から1975年の間は「独立宮殿」、そして現在に至ると。この統一会堂の内部見学は今回のツアーには含まれていなかった、残念!! 手入れの行き届いた庭の先に見えたのは2台のロシア製戦車・T-54。1975年4月30日、ここの門をベトナム解放軍のこの戦車が無血入場。事実上のベトナム戦争終結であり、一つの国家が終焉を迎えた瞬間であったのだ。戦車から少しのところに戦闘機も。F-5Eタイガー戦闘機。どうやらこの戦闘機はベトナム戦争で北ベトナム軍が鹵獲(ろかく)して、統一会堂の爆撃に用いた戦闘機とのこと。 統一会堂への正面道路の両脇にはベトナム国旗をあしらった紋章?統一会堂正面の花壇。カラーはやはり赤と黄色のベトナム色。 APEC2017がベトナム各地で行われていた。APECとはアジア太平洋経済協力,Asia Pacific Economic Cooperation。前日の9/10から15日には、中小企業大臣会合がここホーチミンで行われていたのであった。統一会堂の正面には警備のホーチミンの公安の警察官?が3名。 ベトナムではお巡りさんの業務が公安と交通の2つに分かれているのだと。公安のお巡りさんは犯罪を取り締まり、泥棒から市民を守る。緑色の服を着ているのが特徴。そして、交通のお巡りさんは交通違反を取り締まり、事故から市民を守る。ベージュ(黄色)の服を着ているのが特徴であると。そして サイゴン大教会へ移動。サイゴン大教会はベトナムのホーチミン市1区にあるカトリックの大司教座大聖堂。サイゴン聖母大聖堂、聖マリア大聖堂とも呼ばれる。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設されたもの。フランス植民地主義者がホーチミン市の前身であるサイゴン市を制圧したのち、フランス人がミサを行う場所として、この教会を建設したのだと。19世紀末に建てられたレンガ造りの教会。ホーチミン市のシンボル的存在。門前には聖母マリア像が。数年前には聖母マリア像が涙を流したとして、地元の新聞で話題にもなったとのことだが、真相はいかに……。二つの尖塔が印象的な建物で、正面から見ると左右対称なすっきりしたデザイン。 しかし、建設当初はこの尖塔はなかったと。最上部の十字架を含めると60.5メートルの高さがある2つの鍾塔は1895年に鼠色の部分が増築されたと。 いずれも、フランスから赤煉瓦などのすべての建築資材を運んで造られたと。この大教会の内部には見事なステンドグラスがあるとのガイドブックからの予習結果であったが、この教会内部にもこの日は入ることが出来なかった。 大聖堂の向かいに立つMetropolitan Building。多くの日本の企業がこのビルに入っているとガイドから。 つづく ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.22
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翌朝、財布の中身を確認中に、前日観光した来遠橋がベトナム20,000 ドン紙幣に描かれていることを確認。そして中庭の隅にある朝食場所に向かう。大きな木に果実が。 その時すれ違ったホテルの係員に、ベトナム語の名前を聞いたのですが忘れてしまいました。木の高さや葉の先端が大きく裂けているのでパンノキ??そして朝食会場の庭園ビューレストラン・Lily Restaurantへ。この日は軽く。 ベトナムで初めてのブドウを。 赤いのはスイカのジュース。チョット甘すぎるので何かを添加しているのであろう。昔、仕事で中国に出張した際、二日酔いの朝、トマトジュースと勘違いし一気に飲んだことを想い出したのであった。庭園ビューレストランの横の池では蓮の花が開花。 今年は何回も蓮の花を見たがこれが見納めか? 真っ赤なハイビスカスも。 ホテルロビーには他人とは思えない太鼓腹の布袋様が。 ホテル名が刻まれた石碑がホテルの前庭に。 プルメリアの花。 そしてダナン空港に向けて専用車でホテルを出発。ホテル・Golden Bell Boutique Villaが車窓に。アジアハイウェイ1号線である国道1A号線を走る。トルコとブルガリアとの国境付近を起点にアフガニスタン、インド等を経由しここベトナム、中国、北朝鮮、韓国、そして対馬海峡を渡り福岡から東京まで繋がっている総延長は2万km以上に渡るアジアハイウェイの路線の一つである。この地も高層マンションの建設ラッシュ中。 Co Co川を渡り海岸線に向かう。 マーブルマウンテンと呼ばれる五行山が左手に見えた。 巨大な墓地。ベトナムでは、一度死者を土葬の形で土に埋め、2年か3年後に掘り起こし、骨だけを取り上げ、壺に入れて正式なお墓に埋葬する習慣があると現地ガイドから。サッカースタジアムのホア・スアンスタジアム(Sân vận động Hòa Xuân)が左手に。 カムレ川を渡る。 富士山の如き山が描かれた看板。世界一の高低差と長さを誇る、ギネスブック登録のロープウェイがある高原観光地のバーナーヒルズ(Bà Nà Hills)産のミネラルウォーター?の広告看板か。 ダナンも街も二輪車が多い。 こちらはノーヘルは極めて少なし。しかしマスク着用は7~8割。ベトナムはバイクの量が半端なし!排気ガスが酷いのでみんなバイクの運転の時はカラフルマスクを着用。更にベトナムの「ホンダギャル」は排気ガス対策と併せて、太陽の光から肌を守るものとして日常使っているとのこと。よってカラフルマスクはファッションの一部と。 そう言えば、旅友のSさんはカラフルマスクを土産に買っていたが、奥様の評価は?そしてあのマスクは誰が身につけるの?空港入口の料金所。 ダナン国際空港。 国内線発着ロビー。 靴、ベルト、ジャケットを脱がされ、荷物検査も無事通過。出発ロビーから火山が噴火したような雲が現れていた。 利用便は10:30発 VN117 ホーチミン行き。 バスにて移動し後方タラップより搭乗。トーイングカー(Towing Car)が隣の飛行機を押し始める。やや旧式のトーイングカーか?トーイングカーは、地上で止まっている航空機を牽引したり、押したりして移動させる特殊な作業車の事。我が飛行機の滑走路進入時に3機の飛行機が次々と着陸し、10分ほど滑走路進入を待つ。 そして離陸。 ダナンの街ともお別れ。そしてダナン湾に出る。機内雑誌には前々日に訪れたハロン湾の夕焼けの写真が。 来遠橋のライトアップの写真も。 ダナン湾の奥まで飛行上昇し右に旋回。ベトナムの西部を南北に走るアンナン山脈、ハイヴァン峠が見えた。チャム島。透明度の高い海、真っ白な砂浜が特徴のチャム島。自然保護区としてユネスコにも指定されており、1日に訪れる人数が制限されている貴重な島。 hon ong島.ホエールウォッチングが出来る島。 タム ハイ島(Tam Hai Island) 上空。タム ハイ島 砂嘴。 Phu Ninh湖。Đồng Nai 川とĐồng Nai橋。市内で大きく蛇行するサイゴン川。サイゴン川とホーチミンの街並み。赤いアーチ橋はビンロイ橋 。その手前に南北鉄道の鉄橋が。サイゴン川が迫ってきた。空港手前のアパート?群。そしてホーチミン・タンソンニャット国際空港に着陸。空港ロビーには多くの利用者が。そして待っていてくれたホーチミンの現地ガイドの女性・トイさんに出会い、出発ロビー前で専用車の到着を待つ。今回のツアーは4人なので、何事も待つことなくスムーズに進んだのであった。人民委員会庁舎の大きな写真が目の前に。ホーチミン市人民委員会庁舎、通称ホーチミン市庁舎、サイゴン市庁舎は、1902年から1908年にかけて、当時のサイゴン市庁舎としてフレンチコロニアル様式で建設された。 1975年以降、ホーチミン人民委員会庁舎と称される。ホーチミン市庁舎の優雅なコロニアル建築は、一般公開されていないにもかかわらず観光客に人気で、記念写真の撮影ポイントとなっている。 外観の撮影は可能で、特に夜間にライトアップされた建物がとても美しいとのこと。この日も同型式の専用車で昼食レストランに向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.21
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夕食後は明かりの灯った旧市街をトゥボン川に架かるアンホイ橋に向かって歩く。ホイアンのランタンは、元々ホイアンが交易都市として栄えた15世紀以降に中国から伝わったもの。長らくは寺の飾りとして、また慶事の際に使われる事が殆どだったが、ホイアンに観光客が訪れ始めた1990年代頃からランタンを販売する店が徐々に増え、現在に至ると。 アンホイ橋に辿り着く。対岸のアンホイ(An Hội)島のランタンの灯りがトゥボン川の水面に映り込み、穏やかな表情を映していた。 アンホイ橋を渡る。小舟に乗り込み川面からランタンの灯を楽しむ観光客の姿も。 アンホイ橋を渡ると、ナイトマーケットのあるアンホイ島。アンホイ橋の欄干の灯り。 橋の上からの夜景を楽しむ多くの観光客。 対岸からの来遠橋。近くから撮したかったが・・・。 ベトナム料理店・Madam Kieu Restaurantもランタンを。そして自由行動時間になり、ランタンの店が並んでいる商店街を散策。和灯篭の形に中国風絵画が。 様々な色模様の布を貼られた、様々な形の販売用のランタンが店頭に。 モデル撮影も行われていた。周囲の観光客もソッとカメラを向けて、そして私もソッと。 世界遺産の町・ここホイアンでは、毎月満月の夜にランタン祭りが行われるのだと。満月になる旧暦の14日、ホイアンの家々は電気が消え、提灯の明かりだけが町を照らし、地元の人たちや外国人観光客で前日から賑わうのだと。 残念ながら9月は4日(月)がその日であったと。この日は6日遅れの9月10日(日)。竹灯籠にも灯が。 まるでここだけは京都の夜の如し空間。 単色のもの、模様を駆使した布で覆われたランタンが以下次々に。 以前のテレビ放送「世界で一番美しい瞬間」という番組で見て以来ずっとこの眼で見てみたかったホイアンの夜景が真に目の前に。四脚鳥居がトゥボン川沿いの広場に。日本人が奉納したものであろうか。 昇龍。アンホイ橋の欄干の灯りと赤提灯も鮮やかに。 店頭でアルコールを楽しむ観光客の姿が至るところで。 再びアンホイ橋を見る。 駿馬?獅子? これらは皆ランタン祭り時の展示品? 亀。雉?こちらは鶏の家族。 ベトナム・ホイアンの時間も忘れる幻想的な光景。帰路はトゥボン川沿いの別の出口から。ベトナム・ホイアンのランタンのカオスの世界、時間も忘れる幻想的な光景そして昭和の香り漂うノスタルジー満載のランタンを大いに楽しんだ後は、専用車でホテルに向かう。この日のホテルはフーティンホテル(Phu Thinh Hotel)。 我々の部屋。 何とベッドルームからトイレ、浴室が丸見えでビックリ。しかし浴室に入ると内部に昇降式ブラインドがきちんと設置されていて一安心。以前、現役の時に仕事で宿泊した大阪のビジネスホテルのシングルルームにはこのブラインドが設置されていなかったのであった。シングルルームならともかく? しかしこの夜は男2人、ヤレヤレ。そして部屋からのホテル中庭。そして勿論ブラインドを下ろしシャワーを浴び、OLD PARにてこの日の長い一日の観光の反省会を行い、二人ともアッと言う間に爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.20
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ホイアン市場の北の端まで歩く。ホイアン市場はホイアンの目抜き通りであるチャンフー通りを西へ進んだところにある屋内市場。奥行きのある市場はバクダン通り側から続いており、縦に走るチャンクイカップ通り沿いにも露店があふれ出ていた。ここら一帯がすべてホイアン市場。食堂エリア。市場内で最も広いエリアで、多くの現地人がここで朝と昼の食事をとると。我々も多くの店員のオバチャンから呼び込みを受けた。 葉物野菜売り場は屋外で道路に飛び出して。 ドラゴンフルーツ他様々な果実が。 生きた鶏も販売中。 グレープフルーツ・ルピー?。 市場の外れに位置する南北のホアンジェウ通り。 ホイアンはランタンの街と言われ、ランタンを売っている店も多かった。。 見慣れた果物、そして初めて見る果物と楽しめたのであった。 しかし午後も遅い時間の観光であったため、バクダン通り沿いの毎朝5時頃から開かれるという魚市は残念ながら見ることが出来なかった。魚市の模様はガイドブックにも掲載されていなかったので見たかったが。世界各国のそれぞれの市場を訪ねると、その国の食生活が解り、また生活風景をみられるので非常に面白いのである。 そして再び旧市街を散策。澄漢宮。関帝廟 ( かんていびょう)とも言われ、三国時代の蜀漢の武将であった関羽の神霊をまつる祠廟。物凄く重厚な外観。明郷華先堂。市場の近くにあり黄色い鮮やかな門が目印。ホイアン旧市街の建物はベトナムというより中国の雰囲気が色濃いので中国に居るような錯覚を覚えるのであった。形式は、福建会館等と同じで、前堂、中庭(盆栽)、本殿。「祥光遠照」と書かれた扁額。向かって右が「保生大帝」、左が「天后聖母」と書かれていたが真ん中は?? 「明郷華先堂」と書かれた扁額。ご本尊が天后聖母ではなくて、男性像。海南会館(瓊府(けいふ)会館)。瓊府とは海南島を意味しており、1851年にホイアンの近くの海で略奪に遭って死んでしまった海南人の商人の魂を鎮める場所。クアンコン廟(關公廟)。交易の衰退時期に造られた中華様式の廟。内部の祠堂に祀られているのは三国志でも有名な関羽。17時を過ぎ既に門は閉まっていた。 中華会館も既に門を閉じていた。1741年に福建、朝州、広東、海南、と嘉応の5つの中華人全体がこの会館を建てた。会館の主神として天后聖母を祀っている。現在、ホイアンの華僑の人の華文礼儀という中国語の学校になっていると。 夕食はチャンフー通りにある「Otta Cuisine」でベトナム料理を楽しむ。中庭での夕食。ビールは「333」。 ベトナムの揚げせんべい。 ホイアン名物「ホワイト・ローズ」。米粉で作った皮にエビのすり身を詰めて蒸し上げた物。スープ。魚の土鍋煮。唐辛子を浮かべたヌックマムとココナッツジュースで煮詰めた甘辛味の白身の魚料理。野菜の蒸し物は味が薄かった。肉の唐揚げ料理。ご飯。そして暗くなり照明も入り、竹の蔭が壁に映り幽玄な雰囲気が。そしてお腹も一杯になり、この日の最後の観光である、アンホイ橋の先のランタンショップの並ぶクー・チョ・デム(Khu Chợ Đêm )と呼ばれるホイアンの夜市観光に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.19
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廣肇会館(こうちょうかいかん・Hội Quán Quảng Đông)を訪ねる。 色鮮やかに装飾の施された大きな門。1786年に建てられた広州・肇慶出身者の集会所で、各国の観光客に人気のスポット。廣肇會館の「廣」は広州市、「肇」は肇慶(ちょうけい)市を意味し、現在も華僑の人々の集いの場となっていると。重厚な中門。中庭にはタイルと陶器で飾られた9つの頭を持つ龍の像が。本堂会館。建屋の天井からは螺旋状の珍しいものがたくさんぶら下がっていた。螺旋状の線香とのこと。この特徴的な線香は、見た目が良いだけではなく、螺旋状になっている分、通常の線香よりも持続時間が長くて実用的であると。別の日本人ツアーガイドに尋ねると、なんと約3週間も燃え続けることができるのだと。奉納には2500円が必要と。でも1日約100円となり効能があれば・・・・。廣肇會館の祭壇には三国志で有名な「関聖大帝」(関羽)が祀られていた。劉備とともに活躍した関羽は、後に神格化され関聖大帝と呼ばれるようになった歴史上の人物。白馬の姿も。船には「一帆風順」と書かれた旗が。順風に帆をあげる。物事が何事もなく順調にいくこと。「決死の千里行」の絵画。関羽が劉備のもとを目指して馬を走らせる旅が「関羽の千里行」。会館内側から門を見る。「継往開来」と書かれた扁額が。前人の事業や学問、技芸などを受け継いで、これを現在に生かして発展させ、さらには未来へと伝えること。ホイアンの伝統的な様式の建物はベトナム料理レストラン「SAKURA」。青空の下、カラフルなランタンの蔭が地面に。タンキーの家(進記家・Nha Co Tan Ky) 200年以上の歴史を持つ進記家。1985年にホイアンで最初の文化遺産に登録されたと。現在は7代当主がこの家を守っているのだと。ベトナム、日本、中国の三か国の建築様式がミックスされた味わい深い建物。 約200年前に広東省からきた中国人漁師によって建てられ、香料の貿易で財を成した商人の家。ホイアンの伝統家屋の中でもその内部の柱や梁の美しさで知られると。 。ウナギの寝床のようにかなり奥行がある家で、もう一方の出口は川に面していた。中庭を取り囲む建物。窓の造りや彫刻が美しかった。 見事な黒檀の彫刻。雨季には洪水で浸水することもあるようで、この建物も1階の天井には、2階に荷物を運び上げるための格子状の窓が。 毎年、雨季になるととんでもない量の雨が降るようで、タンキーの家といえども何度も浸水しているようで、その時の写真と、黄色で水位と年月日が記入されていた。チャンフー通り沿いの広場に立つKazimierz Kwiatkowski(カジミエシュ クワトコフスキー)の記念碑。長年に渡る戦争によって破壊されたベトナムのモニュメントを再建し、保全活動すべくユネスコの呼びかけに応え尽力したポーランドの建築家。 貿易陶磁博物館 (海のシルクロード博物館・Bảo tàng gốm sứ mậu dịch)。海のシルクロードとは、中国~インド~アラビア半島を結ぶ海の貿易路のこと。貿易陶磁博物館は、ホイアン近郊で発掘された出土品や海底で発見された沈没船の遺品や陶磁器、絵巻物などが展示されていた。ホイアンは、16世紀頃から国際貿易港として栄え、中国や日本を中心にヨーロッパ諸国などとの貿易の場なったと。入口正面にはホイアン付近、チャム島の海底で見つかった沈没朱印船の模型が飾られていた。ホイアンを中継地として運ばれた陶磁器などが展示されていたが、こんな日本地図も貼られていた。17世紀の日本での陶磁器窯の分布図であるようだ。2階テラスから見るホイアン旧市街の街並み。広間の先には、吹き抜けの中庭があり、壁に刻まれた極彩色の彫刻が目を引いた。博物館の中庭には休憩スペースがあり、その先には当時の生活を再現した模型が。当時のホイアンの人々はどんな生活をしていたのか、生活の中で陶器や陶磁器がどのような役割を果たしていたのかが分かりやすく表現されていた。最初は本物のベトナムの女性と思いましたが・・・。この女性と記念撮影も。旅友のSさんとツーショットの記念撮影。次は「福建會館」。一見するとお寺のような内外装であったが、こちらもその前に訪ねた廣肇会館と同じく中国人の集会所。福建會館と呼ばれるこちらは、主に福建省の中国人が集まる集会所。日本橋を背にチャンフー通りを歩いていると、すぐ左手に見えてくる派手な門が特徴。これでもかの派手な門構えは実に中国らしい。 異次元の世界のような空間が広がっていた。 一番上の屋根の下に「金山寺」という文字があり、中断の屋根の下には篆書体で「福建會館」とあった。 福建会館の本堂。屋根の飾りも様々に。 ここの天井にも多くの渦巻き型のお線香が下げられていた。 ここでも福建省出身者の多くが信仰する天后聖母が祀られていた。天后聖母は天上、天妃とも呼ばれていると。もともと媽祖(まそ)と呼ばれる女の伝説から生まれた女神で、媽祖が神格化されて聖母となったのがはじまり。そして媽祖は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。現在ではここホイアンだけではなくベトナム全国の寺院で祀られている定番の守り神であると。ズームで。 ベトナムは人口の8割近くが仏教徒。天后聖母は道教の最高神だが、ベトナムでは隔てなく崇拝されている事が解ったのであった。現在では家内安全、学業祈願、商売繁盛、子宝繁栄なんでも参拝の対象となっていると。17世紀に中国の福建省からやってきた6家族の家長の像と、ベトナムの医療の礎を築いたと言われているレ・フー・チャックの像も下に。その両側には般若のような怖い顔をした像も安置されていた。迫力ある般若の顔。いろいろな祭壇が。 龍の飾りも派手。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.18
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シクロに乗って世界遺産ホイアンの旧市街を観光。先頭のシクロに乗りカメラを構える旅友Sさん。 ホイアン(ベトナム語: Hội An / 會安)は、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナン市の南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町。人口約12万人。ヨーロッパ人にはファイフォ 、フェイフォ(Faifo) と呼ばれたこともあると。15~19世紀にかけては、アジア、ヨーロッパの交易の中心地として繁栄し16~17世紀頃にはアユタヤ、マニラと並んで日本人町も作られていたのだ。最盛期には1000人以上のが住んでいたと。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。 ベトナム戦争時代に破壊されることもなく街並みは残され、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えているのだ。 ブーゲンビリアが青空に映え美しかった。貿易陶磁博物館の前を通過。 ランタンの土産物屋。 トゥボン川に出て来遠橋の見える場所でシクロを降りる。ガイドブックには「シクロに乗って観光」と書いてあったが、シクロの運転手からの説明は一切なく、来遠橋までの10分足らずの移動用シクロであり、降りる際にはチップ1$を。「ホイアンー日本 文化交流2017」の文字がトゥボン川に浮かぶ船台の上に。ベトナムのホイアン旧市街にあるこの石橋は来遠橋(らいえんばし、ベトナム語: Lai Viễn Kiều / 來遠橋)、または日本橋(にほんばし、ベトナム語: Cầu Nhật Bản / 橋日本)と呼ばれていると。幅3m、長さ18mの瓦屋根付きの太鼓橋で、約420年以上前の江戸時代が間もなく始まろうとしていた1593年に、当時ホイアンに居住していた日本人がが橋を架け、当時の日本人町と中華街を結んでいたとされる。江戸時代の鎖国が始まるまで、朱印状の1/4にあたる程ホイアンとの交易が盛んであった歴史があるのだと。修復を繰り返しながら既に420年以上の歴史ある来遠橋は、ホイアンを代表する観光名所の一つとして一日中観光客で賑わっていると。祠への入場は有料チケット制となっているが、橋の通行のみであれば無料。橋の入り口には高さのある敷居が設置されており、自動車やシクロの通行は出来無いが、自転車やオートバイなら引いての通行が可能であり、現在でも市民が日常生活に利用している様子。現代のベトナム語では Chùa Cầu(橋寺)とも呼ばれ、その名が示す通り、橋の中に祠が設けられていた。橋の名前は、1719年に広南国王の阮福淍(ベトナム語版)が論語の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」から名付けたとされる。申年に建築が始まり戌年に終わったことから、橋の両端には申と戌の木像が。戌と申の像が、来遠橋の中にあるお寺と来遠橋の安全を守っているような不思議な雰囲気。橋の中央からトゥボン川を見る。現代のベトナム語では Chùa Cầu(橋寺・カウ寺)とも呼ばれ、その名が示す通り、橋の中に祠が設けられていた。ランタンには日本語で「ホイアン」の文字が書かれていた。「来遠橋」と書かれた扁額とその下の丸い彫刻二つは魔除けの意味が込められているのだと。寺の中には祭壇があり、その横には昔の来遠橋の写真も掲げられていた。トゥボン川は何度か洪水を発生し、その時の到達水位が橋の柱に示されていた。来遠橋を西側に抜けるとNguyễn Thị Minh Khai(グエンチミンカイ)通りに出た。この通りは、1600年頃に日本人街として栄えた。江戸時代の鎖国とその後の大火災で日本人街は徐々に無くなってしまったが、当時建築されたオールドハウス群は、日本の建築様式も取り入れられていると。 フ-ンフンの家 (馮興家)を訪ねる。フーンフンの家は約200年前に建てられた貿易商人の家で、ベトナム・中国・日本の建築様式が取り入れられた木造家屋。黒い外観に赤いランタンが映えていた。観光客がひっきりなしに押し寄せているが、実際にこの家に住んでいる家族がいるのだと。入口には「世徳流?光」と書かれた扁額が。中国様式、ベトナム様式に加え、階段や屋根は日本の建築様式が取り入れられていると。手すりや窓は中国様式?内部の2階へ。二階には祭壇と天后聖母が安置されていて、日本でいうとこの「神棚」の役割を。馮興家(フーンフンの家)の祭壇は中国、ベトナム、日本の建築様式が混合。3体の中国人像の後ろの床には洪水時に1階から2階へ荷物を上げるための床窓も作られていた。ホイアンのこの地は洪水に見舞われることが多い事が解るのであった。2階ベランダからの来遠橋西側入口。日本人町があったのではないかと言われる方向。見事なベランダ天井の彫刻。ベランダの装飾は鯉だろうか。龍になるという伝説をモチーフにしているのか?柱には螺鈿細工が。中国の故事の絵画か?水墨画。花鳥画。フーンフンの家を出て、来遠橋の西側入口前へ。再び来遠橋を渡り、更に旧市街を散策。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.17
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ダナン国際空港の国内線到着ロビーに出ると「Kさ~ん」と私の名を呼ぶ声が。声を掛けてくれたのは、この日のホイアン観光の現地ガイドのホンさん。ハノイと同じ型式のミニバス専用車に乗りホイアンを目指す。ここダナン国際空港はベトナム戦争の際には、アメリカ空軍の北ベトナムへの北爆の前線基地となった。また、密林を取り払うために、爆撃機に積む枯葉剤の備蓄がされていたので、漏れだした枯葉剤の汚染が2017年現在でも完全に除去出来ず、枯葉剤で土壌汚染された場所は、表層をコンクリートで固めて、飛散防止をしているのだと。ホンさんから、この日の観光行程の説明を受ける。我が家の近所にもいそうなお兄さんで日本語も達者。現在のダナンはベトナムの中心に位置する白浜の美しいビーチが続く港町。神秘的なハロン湾のあるハノイ、水上マーケットが人気のホーチミンに並ぶ商業都市で、フランス統治時代の名残を感じるコロニアル風の建物が立ち並ぶ近代的な街 。前方に黄金のアーチ橋が見えて来た。ドラゴン橋(ロン橋)と呼ばれ、2013年の3月末に開通したダナンの観光名所であると。全長なんと666mもあり、片側3車線合計6車線ある迫力満点の巨大な龍の形をした世界的にも珍しい橋とのこと。 ハン川に架かるドラゴン橋(ロン橋)の手前の三角地帯の緑地の中にタコの形をした不思議なモニュメント。 ドラゴンの尾をズームで。チャンティリー橋 (Cau Tran Thi Ly) が右手奥に。ドラゴン橋と同日に開通した橋がチャンティリー橋。全長731メートル・幅34.5メートルのこの橋は、ソンハン橋のように帆布(ハン川を進む船の膨らむ帆)の形をして、デザイン。斜張橋だが主塔が傾いているのが特徴的。手前のグエンバンチョイ橋は現在歩行者専用橋に変わっている模様。その奥にはアジア・パーク内のTien Son スポーツセンターが。 二つのアーチと頭と尾から構築されていた。橋の設計は、アメリカに拠点を置くルイス・バーガー・グループと。 ドラゴン橋は、毎週土曜日と日曜日の21時頃からドラゴンの口から火や水を吹くのだと。そしてこの日の昼食の海鮮レストラン・Nhà hàng Cá Voi Xanhに到着。 店の裏は美しい東シナ海の海岸、そして青い海が拡がっていた。 店内には多くのベトナム人?の観光客が食事を楽しんでいた。この日のビールはトラが特徴のベトナムビール「LARUE(ラルー)」ベトナム中部で人気を誇るラガービールとのこと。イカの炒め物。海老せんべいに載せて。海苔スープ。海老春巻き。 白身魚の煮物。日本の味付けで食べたかった!! 店員女性がライスペーパーに載せての食べ方の見本を。 私も真似して。 五目チャーハンも美味しかった。 目の前にはビーチが広がっていて、テラスでも食事が可能。透き通るような青い空、太陽の光が降り注ぐキラキラとした美しい海、ホワイトサンズと呼ばれるサラサラな白い砂浜が50km以上続くビーチは、米紙「フォーブス」で世界の豪華なビーチの1つに選ばれたと。ビーチ沿いの沿岸地帯では5つ星の高級ホテルが次々と建設され、世界中の富裕層にも人気のリゾート地となっているのだった。 しかしこのビーチに遊泳者の姿は皆無。 リンウン寺(Chùa Linh Ứng)は、ソンチャ半島ある広大な敷地面積を誇る寺。ダナンのこのビーチからも白い大きな観音様が見えた。敷地内には本堂や巨大な観音像、絶景ポイントなどなど見どころが満載と。観光客からはパワースポットであり人気の寺と。 昼食後は、海岸沿いをホイアンに向けて専用車は走る。高層のマンション?も林立し、 再開発が進んでいた。ミーケ-・ビーチ(My Khe Beach) 。椰子の葉パラソルが並んでいたが、人出は殆どなし。ベトナム人は暑い日中ではなく、夕方涼しくなってから海に出てくるため、夕方になると一気に地元の方で賑わうのだと現地ガイドのホンさんから。 Premier Village Danang Resort。外国人用のカジノがあると。CROWN INTERNATIONAL CLUB。 山全体が大理石で構成されていることからマーブルマウンテンとも呼ばれている五行山が右手前方に。 そして道路脇には多くの大理石の彫刻が並んでいた。 ショッピングモール:Đại Việt Cổ - World Gems Vietnamにてトイレ休憩。 店頭の見事な大理石の彫刻が迎えてくれた。漆塗りの絵画。 ベトナムの女性画。 そしてホイアンに向けて更に進む。潟湖に架かる橋を渡る。徳賽寺(Phan Châu Trinh) 専用車を降り、観光開始。シクロに乗っての観光前に民芸品店に案内される。生まれたてのカイコは桑の葉を食んでいた。 そして絹糸の出来上がる工程が案内されていた。絹糸の刺繍を行うお針子さん達。 店内の作品は撮影禁止と。外に吊されたランタンが美しかった。 プルメリアの花も美しかった。 タヒチ、フィジー、サモア、ハワイ、ニュージーランドなどの太平洋の島々でレイに好んで使われるのは、このプルメリアの花であると旅友のSさんから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.16
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3日目の早朝5:30過ぎの部屋からのハノイの朝焼け。 この日はホテルを8時に出発しハノイ空港からダナン空港に飛び、世界遺産の街ホイアンの観光。この日の朝食。 ホテルの横に「大洋マグロ」 と書かれた店が。マグロを中心に海鮮料理が売りの店。現地ガイドによるとかなり高価とのことであったが。 車窓からの高層住宅。 ハノイの信号は、時間表示が。赤信号は残り15秒、左折可は残り10秒。 Nam Thang Long 工業団地入口ゲート。 再びソンホン川にかかるニャッタン橋を渡る。 ハノイ・ノイバイ国際空港の管制塔が見えて来た。ノイバイ国際空港の国内線乗り場に到着。 国内線ロビー。 ここでハノイ観光の現地添乗員の燕さんとお別れ。見事な経費削減、いやワーキングシェア。時間は8:20、出発まで2時間以上待たなければならなかった。ベトナム空軍のMig戦闘機?がドーム型格納庫に待機。タコの足の如き巨大な柑橘類が土産物店に。身が少ないので生食には向かず、一般的に砂糖漬けなどで菓子にしたり、乾燥させて漢方薬にしたりして利用されると。仏手柑(ぶっしゅかん) と言うらしい。この日の搭乗券。 10:35発 ダナン(Danang)行き VN165便。この日の機種はAIRBUS A321。 機内サービスはウェットティッシュと小ペットボトルの水1本のみ。ハノイからダナンまではバックボ湾を出て南シナ海海上を南下。飛行時間は1時間強。 定刻に出発。ハノイ郊外の街並み。 水田の中に小さな集落が散在していた。Duong River(ドゥオン川)と Phu Dong Bridge(プードン橋)ソンホン川(紅河)、全長 1,200 キロメートル。ナムディン市の街が眼下に。 ナムディン市はナムディン省の省都。紅河デルタ地方に位置し、バクボ湾(北部湾)に接している。省都ナムディン市はハノイ市、ハイフォン市に次ぐ紅河デルタ第3の都市で、13世紀に成立した陳朝の根拠地でもあった。フランス領インドシナ期には繊維工業を主体とした工業都市としても知られたと。ベトナム北部の河川は皆茶色に濁っていた。 ダイ川(Day)とリンコー川(Linh Co)がバックボ湾(トンキン湾)に注ぐ。我々の前の席のベトナムの男の子。南シナ海の沖合い28kmにあるコンコ( Con Co) 島面積: 2.3 km² 人口:約400人とのこと。ベトナムの海と島の国防安全保障と経済社会発展にとって重要な役割を担っていると。トゥ・トゥ・ヒエン(Cửa Tư Hiền)とQL49B道ハイウェイ&Cửa Từ Hiền橋。浜名湖の如き外海と通じた汽水湖。フエの南方に位置するDam Cau HaiとChan May BAY。 Song Tuy Lo貯水池か? Song Cau Do川に架かるアジアハイウェイ(QL1A)と鉄道橋。Cầu Cẩm Lệ橋。 アジアパーク(Asia Park)と高さ115mのSun Wheelが右手に。そしてダナン国際空港に到着。バスにて空港ロビーに移動。 飛行機の後方タラップからの降機は久しぶり。 漸く荷物が出てきて我がトランクを回収し出口へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.15
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帰路も往路と同じトゥアン・チャウ・アイランド 内の道を進む。ハロン湾観光船の発着場の一つ。 蓮の花の飾りが。 トゥアン チャウ モーニング スター ホテル。豪華な別荘か? そして再び工事中断している線路の高架橋の下を通過。料金所。 建設中の競技場。 左手に大きな公園のアーチ状のモニュメントが。 右手にビナコミン炭鉱(株)の工場が。 立派な寺院が。 そして再び石炭の山のモニュメント下を通過。 サービスエリア入口。土産物売り場でトイレ休憩。 店の名は「Nhà hàng Việt Tiên Sơn」。巨大な茶器。 トイレの手洗いの蓮も美しかった。 アオザイ売り場。アオザイ(ベトナム語: Áo dài , 襖𨱽)とは、正装として着用するベトナムの民族服。「アオザイ」はベトナム北部の発音であり、南部では「アオヤイ」と発音。アオ(Áo)は上衣の一種を意味する中古音で、ザイ(dài)はベトナム語で「長い」を意味する形容詞。つまり「長い上着」となる。これは造花。この果実の名は? ハイズオン省とバクニン 省の境を流れる川。バクニン省は、サムスン(韓国)、キヤノン(日本)など世界的に有名な多くの企業が進出している省。 ベトナムのカトリック教会「Trung tâm Thánh Mẫu Từ Phong 」が左手に。そしてこの日の夕食のベトナム料理店に到着。ベトナム料理 「 5 Spice Restaurant」のこの夜のメニュー。ベトナムにも象がいるのでしょうか?象が特徴のラベル HALIDA ビール。サッパリした口当たりだけど後味にややの苦味残るので、微妙な味のビール。ベトナムのビールはもっと薄く、サッパリしてると思ったがこれは意外とクセあり。 コリアンダーとキノコのスープ。 ゴマ入りの野菜のフライ。 チャーカー(cha ca )。 ターメリックなどで味付けした川魚を揚げ焼きし、たっぷりのディル(香草)と青ねぎを加えて炒めた料理。??? キノコソースのローストチキン。 ズッキーニのスープ。 野菜炒め。 アイスクリーム。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.14
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ハロン湾は「海の桂林」と外国人から注目され世界遺産に登録された。長い年月、海水による浸食作用によって個性的な形の奇岩がつくられ今のハロン湾の景観となったのだ。象岩、犬岩、闘鶏岩などユニークな呼称が付けられている奇岩を楽しめると。エメラルドグリーンの海面から約3,000の奇岩が突き出す景観は圧巻と。桂林は漓江という河によって浸食されたが、ここハロン湾は海によって浸食されて巨大な湾になっているという違いがあるのです。石灰岩の白き岩肌。犬岩。 ズームで。 雨上がりの雲も厚く棚引き、まるで山水画のような景色。 パノラマにて撮影。右の島が、ベトナムの20万ドン紙幣にも印刷されている、ハロン湾で最も有名な岩「香炉島(Hang Dinh Huong)」。写真で見ると大きく見えるが、実はとても小さな島。浸食により、岩の下部中心が空洞になっているのが大きな特徴で、まさしく脚をそなえた香炉を彷彿とさせる形状であると。この写真からは残念ながら空洞は見えなかったが。もう少しシャッターを待てば!この日はやや満潮気味?手元の20万ドン紙幣。日本円で約1000円の紙幣。上の写真と同じ角度で紙幣の「香炉島(Hang Dinh Huong)」も描かれていた。前方に水上生活者の漁師村が。ここで魚介類を生け簀で飼って、小型の船でクルーズ船の乗客に販売するのだと。 ハロン湾の、「ハ」は降りる、「ロン」は龍を意味するのだと。その昔、外敵の侵略に悩まされていたこの地に、龍の親子が降りたったという伝説があると。 敵を打ち破って宝玉を噴き出すと、それが奇岩となり、その後、海からの外敵の侵入を防いだのだと。 奇岩が次々と。 樹木が垂直の壁に貼り付いて。 絵になる景色が次々と。 闘鶏岩。2羽の鶏が向き合い闘っているように見えると。また、2羽の鶏が愛をささやいているように見える「ラブ・アイランド」と呼ばれるとも。少し角度が変わると口づけの姿が?。遠くにバイチャイ橋そしてその先の山には白い雲が棚引いていた。バイチャイ橋(ベトナム語: Cầu Bãi Cháy )は、ベトナムクアンニン省ハロン市のホンガイ坊とバイチャイ坊とを結ぶハロン湾に架かる橋。日本のODA特別円借款により建設。ハノイと西北部地方を結ぶ国道18号線のほぼ中央に位置し、クアルク海峡に架かる橋。海抜215mのバーデオ山の山頂に立つ観覧車「サン・ホイール・ハロン」の姿が。岩の背比べ。この岩は緑の衣をほぼ全面に。 ゴリラ岩。我が船の船長。 鍾乳洞のティンクエン洞に向かう。 この鍾乳洞は、多くの観光コースに組み込まれているので、多くの船が立ち寄るのだ。鍾乳洞入口が見えた。下船し、ティンクエン洞に向かって階段を登って行く。ティンクエン洞の中はライトアップされて完全に観光地化されていた。しかし、ハロン湾に点在する洞窟の中でも、その美しさおいて、スンソッド洞窟と肩を並べる鍾乳洞であるとのこと。内部の高さは20~30mと日本にはない高さ。しかし、色とりどりに照らされた鍾乳石は美しかった。このような感じの洞窟を30分ほど歩く。なんだか別世界に来た雰囲気が。 天井近くに空いた横穴は天然のもので「天国の門」(Cong troi)と呼ばれていると。1993年に時化(しけ)で遭難した地元漁師が偶然この穴を覗(のぞ)いたことでこの「ティンクエン洞」が発見されたのだと。また、この穴から差し込む陽光から「ティエンクン(天空)洞」と名付けられたとのこと。 クラゲの大群の如し。 ズームで。 これぞ真に「オッパイ」 。 出口の前にある展望台からハロン湾を一望。多くのクルーズ船が観光客の帰りを待っていた。 帰路の遊歩道。 オバチャンが小舟を操り、海に浮かぶゴミを回収中。 崖下の石造りの遊歩道には世界遺産のロゴマークが並んでいた。 そして再び専用船に乗り帰路に。再びバイチャイ橋。全長903メートルの巨大吊り橋が、清水建設や三井住友建設などの日本企業を主体とする共同プロジェクトにより建設されたと。 帰路も奇岩の光景を楽しむ。 そして港に到着。約3時間のダウゴー島(Dau Go Island) 、Cap Ngan Islandを周遊するクルージングであった。数億年かけて形成された海にたゆたう幽玄な岩山を多いに楽しんだのであった。そして特にハロン湾の朝日、夕日は見事とのこと。熟した果実のように赤やピンク、オレンジ、黄色のグラデーションに、澄んだ紫が入り混じった絶妙な色合いになるのだと。美しい朝焼け、夕焼けを背景に、湾に浮かび上がる奇岩群をいつの日かもう一度とも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.13
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2日目の朝食。左上はフォー。 フォー(ベトナム語: phở)とは、ベトナム料理の平たい米粉麺。本場はベトナムでもここ北部であるとのこと。形は日本のきしめんに似るが、原料は米粉と水であり、ライスヌードルの一種。そしてデザートはスイカ、ドラゴンフルーツ、パイナップルを楽しむ。 この日も BAOSON HOTEL INTERNATIONAL に連泊。 トランクのパッケージングが無い為、余裕で8時に集合場所のロビーに。そして小雨の中、この日の日帰り観光の『ハロン湾』に向けて専用車で。雨の中でも、カッパを纏ったバイク群団が次々と。 この日もホン川(紅河)に架かるニャッタン橋 を渡る。途中の道路は雨で対向車線が水たまりの世界。 ルクナム(Luc Nam )川にかかる工事中断中の線路の鉄橋は既に完成? そして民芸品店(ABC market place)でトイレ休憩。店の前の中庭には驚くばかりの数の大理石を中心とした彫刻が。 純白の大理石の裸婦像。こちらは茶色の衣服を纏った像。茶色の大理石は、別の大理石から彫り出し貼り付けてあると。しかし繋ぎ目等解らない見事な作品。店に入ると刺繍工房があり、多くのお針子さんが作業中。『刺繍絵』は一枚のキレの上に、時に百色以上の色糸を使い、絵画のような刺繍を縫いあげる芸術。 ハロン湾の夕焼けのこの刺繍絵を購入。 ネットで作品の原画写真を発見。そしてマンゴーのドライフルーツも購入、旅友と5個買うと1個おまけの言葉に・・・・。 ここクアンニン省は、世界遺産のハロン湾で有名だが、世界でも指折りの品質と埋蔵量を誇る無煙炭の産地としても有名。 道路には石炭の山をイメージした構造物が。そして車窓から驚くべき荷物を積んだバイクを発見。生きている子豚を金属籠にギュウギュウ詰めしバイクの左右、上に積んで移送するバイク。子豚の総数は40頭?近く。ハイウェイ18号線料金所を通過。世界遺産のロゴマークが。貨物線に列車が停まっていた。 遠くにハロン湾に浮かぶ島々の姿が見えて来た。 魚介類の養殖場も確認出来た。 クルーズ船の出るトゥアンチャウ島に渡る連絡道路入口を通過。 連絡道路を進み島内に向かう。 雨があがったクルーズ船乗り場に到着。ホテルから4時間15分の12:15着。 我々ツアー4人だけの専用船は『image』。 40~50人乗りのクルーズ船に添乗員を含めたった5人で乗船。 そして直ちにハロン湾観光をスタート。周囲の大型クルーズ船も同じ方向にゆっくり進む。 早速この日の昼食をクルーズ船内で。まずは白ワインのを注文。 そして海鮮料理が次々と。 食事の途中に小さな船が横付けして漁師が船に。蟹が美味しいと進める。 そしてシャコも。 Mさんご夫妻は蟹とシャコを注文。暫くすると塩茹でした蟹がテーブルに。 我々はシャコを2匹づつ。シャコは旅友Sさんの大好物。 添乗員の燕さんが綺麗に殻を剥いてくれました。 暫くするとおばちゃんの乗った別の船が近づく。船には様々な果物が並べられていた。 2種類の果実SETを買わされた?茶色の丸いのはリュウガン(ロンガン)だったのだろうか?沖縄でも食べた龍眼?レイシのような甘さがあり、果実は小さいが、酸味がなく甘みが強くて、冷やして食べるともっと旨そうだったが。そしてもう一つはランブータンと言う果実とのこと。濃い赤色のピンポン玉ほどの外皮は、刺のような突起物に覆われた気味の悪い外見であったが。しかし果肉は白くツルツルしており、薄い甘味があり、外見とは裏腹に上品な味であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.12
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ホテルへ向かう途中の信号待ち時の我々のワゴン車の横のバイク軍団。これは何であろうか?傘の骨のみを広げた様な、アンテナ?大乗仏教のお印?高層アパートとその下のバイク軍団。そしてこの日のホテルに到着。この日のホテルはBASON HOTEL INTERNATIONALホテルのフロント。この日の我々の部屋。ホテルの部屋からの高層アパート。一休み後は再び専用車でこの日の夕食レストランへ向かう。民家の屋根には至る所で水道用高架タンクが。LOTTEビル。文廟(Temple Of Literature)を横から。ハノイ・ドンダン線の線路を横断。こちらはバイクに4人家族が。そして夕食のレストランへ。この日のベトナム料理のコースメニュー。ビールは『ビア バー バー バー』 。ベトナムの代表ブランド。HANOI 鶏 スープ。 春巻きのフライ。骨付きポーク。 野菜スープ。 牛肉のブラックペッパー入りソテー。 豚肉入り豆腐のトマトソース煮。 ご飯。カラメルプリン。 満腹になり店を出る。夜もバイクのカオスは続く。レストラン『ToCoToCo』。ハノイ駅からハロン湾への鉄道は工事が中止されていると。ハノイのKARAOKE店。そして長い1日が終わりホテルに戻り、成田で購入したOLD PARでこの日の反省会を。そして23時には爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.11
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ホアムキエン湖散策の後は、ハノイの旧市街職人町を散策する。11世紀に李朝が宮廷への貢ぎ物を作らせるために各地から職人を招集し住まわせたのが始まり。36業種の職人が職種ごとに分かれて暮らす通り、入り組んだ細い路地、古い家並みが残る一帯を徒歩で散策した。曲芸とも言えるバイク荷物のバランス調整済み?日本のものとは比べ物にならないくらいに、甘くて美味しいベトナムの果実が並ぶ。しかも種類も豊富で、市場に並ぶ数々には驚き。ハンザウ通りは、サンダルやスニーカーといった履物を扱う靴屋通り。男性用、女性用、子供用と様々なサイズが店頭に。狭い通りをを進む。狭い通りにもバイクが進入し両側に駐車。11世紀から19世紀まで、北部ベトナムの首都はタンロンという名前であった。ハノイはその後の名称。そのタンロンの中心区は、現在ホーチミン廟がある周辺で、リータイトーをはじめとする歴代皇帝が居城していたタンロン城であったと。この日散策している旧市街は、その時代に一大商業区だったエリア。現在は世界遺産には指定されていないが、ベトナム政府が管轄する指定遺産となっている。建て替えなどが行われずに、古き良き街並みをいまに保っているのだと。ランタンが美しかった。Hang Glay通りのビアガーデン、ベトナム料理店 『BEER 2KU』。仏壇へのお供え物であると。ハンブオム通りには、タンロン(ハノイ)四鎮の一つ、デン・バックマー(白馬最霊祠)が。ハノイ最古の寺院。屋根には、太陽を中にして二頭の龍が向いあっていた。様々なタオル、布地や糸といった手芸用品を扱う店が軒を連ねていた。 地元の小学校か。 小学校?内部。北西の一角には竹屋が並ぶ一角があった。散策を終えワゴン車へ戻る。レーニン公園は、軍事博物館の前のディエンビエンフー通りを挟んだ向かいに。もともとグエン朝時代ハノイ城の南端に位置した場所。レーニン像は、1980、81年ごろに建てられたもので、デザインは1970年代のハノイの都市設計を担当していたロシア人のイサコヴィッチ。戦没兵士慰霊塔を裏から。ホーチミン廟と一直線に重なっていると。クアバック教会というカトリック教会でハノイ3大教会の一つだと。 タンロン城跡(Di tích Hoàng Thành Thăng Long)正北門(Cửa Bắc bên ngoài)旧ハノイ城のタンロン皇城を囲む城壁に造られた五つの門のうちの一つで、現在残っている唯一のもの。ここは車窓観光の一つに入っていたが、徐行することもなく・・・・??。鎮武観(クアンタン寺)。玄天鎮武神を祀り11世紀に建立された道教寺院。チュックバック湖の南端にあり、風格のある門には古い漢字で“真武観”の文字がある。ベトナム最大の銅像といわれる玄天鎮武神像は必見。高さ約4m、重さ4tのスケールと。LY TU TRONG像・・・李自重(1914-1931、わずか17歳で生涯を閉じたベトナムの革命家)ホー・チ・ミン元国家主席の眠るホーチミン廟に到着。周辺には、晩年までの15年間を過ごしたホーチミンの家や国会議事堂、独立宣言の読まれたバーディン広場といった、ベトナムの歴史を語る上で欠かすことのできない重要な建物が集まっていた。 ホーチミン廟の正面には、芝生の敷き詰められたバーディン広場が広がっていた。ここは1945年9月2日にホー・チ・ミン元主席によって、ベトナムの独立宣言が読み上げられた場所であると。ホーチミン廟の前で棚引くベトナム国旗。赤は革命で流された尊い血を表わし、黄色の星の5条の光はそれぞれ労働者、農民、知識人、青年、兵士の5階層の団結を象徴する。通称「金星紅旗」と呼ばれると 現地添乗員の燕さんから。 総大理石造りの廟は蓮の花をイメージしていると。遺体は永久冷凍保存されガラスケースの中に安置されているが、この日はロシアに旅行中とのこと。ホーチミン廟正面。 白い制服の兵士が二名立っていた。ホーチミン廟入り口、30分ごとの衛兵交替も見れるとのこと。 そしてバーディン広場を挟んで向かい側には国会議事堂が。ベトナム国会の紋章。 そしてこの日の観光を終了しワゴン車に乗り込みホテルへ向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.10
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"ベトナムの首都ハノイの玄関口であるハノイ・ノイバイ国際空港は、新ターミナルの国際線(第2ターミナル)と旧ターミナルの国内線(第1ターミナル)にターミナルビルが分かれていた。2014年末から運用を開始した国際線の第2ターミナルは4階建てで、1階は到着ロビー、2階は入国フロア、3階は出国フロア、4階はラウンジという造り。大成建設株式会社とベトナム最大手の建設会社ビナコネックス社との共同企業体にて建設。 空港出口には50代?の女性現地ガイド燕(Yến)さんかクラブツーリズムのプレートを持ち待っていてくれ直ぐに確認出来た。待っていてくれたワゴン車(ドライバー入れて9人乗り)に乗り込みハノイ市内に向かう。国際線ターミナルを振り返る。ハノイはベトナム社会主義共和国の首都で、人口は約700万人。ホーチミン市がベトナム経済の中心地である反面、ハノイはベトナムの政治・文化の中心地と言われることが多い。ベトナムの人口は、約9,340万人(2015年)、面積は、34万9,241km2で日本やや小さい。空港料金所。ハノイがベトナムの中心都市となったのは、7世紀頃のこと。唐代には雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったこともあり、安南都護府がおかれ唐による南方支配の拠点となった。唐末に安南都護府の支配は形骸化し、さらに紅河が当時の海上交易網から外れていったため、その重要性は一時低下した。しかし、11世紀の李朝はこの地を都と定め、農業地帯を統治する拠点とした。李朝の成立以降、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄。その間は昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)など様々な名で呼ばれてきたが、1831年に現在の名称になった。1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となった。空港入口部の赤いアーチ。市街地が見えて来た。2015年1月4日、ハノイ市内とノイバイ国際空港をつなぐニャッタン橋が開通(ベトナム語: Cầu Nhật Tân/梂日新)。ニャッタン橋の別名は『日越友好関係橋』。日本のODAで建設されたこの橋は、車線数が上下3車線ずつの計6車線。緊急車両用車線も別途2車線ある幅の広い橋。時速80Kmで通行でき、これまで小一時間かかった空港までの時間も30分に短縮されたと。 ニャッタン橋はホン川(紅河)にかかり、全長3755メートル。ホン川(紅河)は中国雲南省の山地に源を発し、ハノイを経てトンキン湾に注ぐ。全長1200キロ。鉄分を含む水の色から、紅河とよばれるのだと。旧称ソンコイ川。複数の塔から斜めに張ったケーブルを橋桁につないで支える「斜張橋」部分の長さは東南アジア最大の1500メートル。三井住友建設を中心とした日本企業が工事を手掛けたと。 遠くにタンロン橋(Thang Long Bridge)も見えた。タンロン橋はロシアが作ったそうで、なかなか壮観な鋼トラス橋。階が鉄道、二階が車道らしい。ちなみにタンロン橋は20年くらい前に建設され、その当時は東南アジアで最長の橋・3kmだったとのこと。ニャッタン橋を遠方から振り返る。 高層アパートの建設も盛んに行われていた。 そして道路にはバイクのカオスの如き列が。三人乗りのバイクにビックリしていたらガイドの女性からタブレットの写真を紹介された。何と家族?6人乗り!! 。運転するお父さんの前に子供を1人、そして最後部のお母さんとの間になんと3人の子供を挟み込み、しかも全員ノーヘル!!。 こんな写真も。巨大な豚?後ろにを載せたバイク。そして前には子供?も。豚は生きているの?? 参寶寺を車窓から。漢字が書かれているとなんかほっとする。ベトナム語はさっぱり。意味の見当すら付かない。なお、ベトナムでは漢字の使用を公式には廃止しており、表記文字としてのアルファベットを使って表記していると現地ガイドから。沿道の途中に立っていたハノイの民家は間口の狭い3階建てが多い。レンガ造りの家でどの家もベランダはかなり立派。家の正面はきれいに塗装し飾ってあるのだが、脇はモルタルの塗りっぱなしという家がほとんどで不思議な感じ。ハノイ中心部に向かう道路(Âu Cơ通り)脇には長いカラフルなモザイク壁絵がどこまでも。 この歩道橋は屋根付きの立派なもの。 Red River(紅河)に横たわっている、大きな古い鉄橋・ロンビエン橋。設計は、エッフェル塔でおなじみ、ギュスターヴ・エッフェルによるとの説明。長さは約1,700mほどで完成したのは、フランス植民地時代の1902年の115年以上昔。ベトナム国家銀行本店は、ベトナムの中央銀行。 道路脇には結婚式後の?カップルの姿が。 ワゴン車から降り観光開始。リ・タイト公園のリ・タイト(李太祖)像。高さ9メートル・重さ9トンのベトナム李朝の初代皇帝像。李 公蘊(り こううん、リ・コン・ウアン、ベトナム語: Lý Công Uẩn、974年―1028年)字は兆衍、1009年から1028年にかけ在位。元号は順天、廟号は李太祖(リ・タイト、ベトナム語: Lý Thái Tổ)。ベトナムの自転車タクシー『シクロ』で観光している姿も。ホアンキエム湖の湖岸を散策。ハノイ市街の中心にあり、過去に幾度となく川が氾濫してできた、現在は穏やかな湖。別名「ホー・グオム」と呼ばれ、人々の憩いの場所になっているのだと。ちなみに「ホアンキエム湖」とは「還剣(ホアン・キエム)の湖」という意味なのだと。これは初代皇帝・黎利(れいり)がこの湖で手に入れた宝剣で明(中国)に勝利し、その後この湖で宝剣を持ち主に返したという伝説が由来していると。 ホアンキエム湖に浮かぶ亀の塔 ホアンキエム湖の伝説では、1428年黎朝の始祖(レ・ロイ)は、湖に住む亀から授かった宝剣で明軍を駆逐し、ベトナムを中国支配から解放した。平和が訪れた頃、再び亀が姿を現し、剣を返すように啓示され、湖の中のこの小島で剣を返したと。ハノイには10以上の大小の湖が市内に点在。ホアンキエム湖はガイドブックでもお馴染みの、ハノイを象徴する湖 ホアンキエム湖の東岸から湖を眺めると、まず玉山島の上に建つ神社「玉山祠」が目に入った。この島は古くは象耳島と呼ばれていたが、11世紀はじめに玉象山、13-14世紀には玉山と名前が変わり、その頃には皇帝や貴族が釣を楽しむ魚釣台が設けられたと。玉山祠には文・武・医の神、文昌帝君、関聖帝君(関羽)、呂祖と、チャン・フン・ダオ(陳興道)が祀られていると湖畔の大木の幹には大きな瘤が。 湖面に映る緑も美しかった。 島と岸の間には、赤く塗られた木製のフク橋(棲旭橋)が架けられていた。 石積みの丘に塔が立っていた。筆塔とよばれ、塔に書かれた「写青天」の文字は、「人が得た知識は世の中に公開しなければならない」ということを表していると。 玉山祠入口門。 「福」と「禄」の文字が大きく書かれた門。残念ながら今回は中に入らず。その奥の門。龍(向かって右)と虎(左)が描かれた門。市街入口に建つ戦没者記念像(Quyet Tu De To Quoc Quyet Sinh)。この戦没者記念像は、インドシナ戦争で戦没者の記念像。男性2人女性1人が勇敢に立っていた。「国の誕生のために死ぬ」とのベトナム語の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.09.09
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この日は、いよいよベトナム縦断旅行出発の日。旅友のSさんが早朝5:30過ぎに我が家に愛車で迎えに来てくれました。そして成田空港に向けて国道1号線から横浜新道に入る。 横浜新道から湾岸線へ。 横浜ベイブリッジを順調に渡る。 羽田空港のシンボル的存在の 羽田スカイアーチ(はねだスカイアーチ)が左手に。第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁。その後ろに新旧管制塔も。東関東道に入る。 成田空港ICから新空港自動車道へ。 新空港自動車道を降り第1ターミナル北ウィングに向かう。 成田空港管制塔が目の前に。 北ウイング4階出発ロビー前の道路で車を預け、集合場所のG-6・7 に到着。時間は7:15。自宅から1時間45分で到着。今回のツアーは日本からの添乗員は同行しない。クラブツーリズム係員からこれからの流の説明を受けた後にチェックイン。ベトナム・ハノイ空港まではベトナム航空VN311便 10:00出発便。 ベトナムでは米ドルが使えるとのことで日本円を米ドルに両替。この日のレートは111.31円/ドル。 時間があるので、5Fに上がり散策。5Fからの4F国際線出発ロビーを見る。5F展望ロビーからベトナム航空機を見る。『NARITA』と刈り込まれた植栽。航空科学博物館の案内パネル。 早めの出国手続きを終え、江戸の粋と現代のモダンがミックスした個性的なショップ、北ウイング3Fにある『ASAKUSA』。 メイドインジャパンにこだわった商品展開。 歌川広重 名所江戸百景『日本橋江戸ばし』と書かれた巨大な美人画。免税店でウィスキーを購入し、22番出発ゲートで待つ。搭乗ゲートを通過時に、係員に呼び止められ脇の場所に案内される。何とそこには先程預けた我がトランクが。係員からリチューム電池がトランクに入っているから、トランクから機内持ち込み荷物に移し替えよと。トランク内のこの場所にリチューム電池があるとトランクを開ける前に教えられる。その場所に見事にあったモバイルバッテリーを取り出しリュックに移す。充電器に使われているリチウムイオン電池やリチウム電池は危険物に分類されていると。飛行中の揺れや離着陸による衝撃などにより発火したり爆発したりする危険性があるため、機内への持ち込みが制限されているのだと。特に、貨物室の下部では揺れによる衝撃がさらに大きくなると。万一、貨物室で発火してしまうと火を消し止めるのはとても難しいからであると係員の女性が丁寧に説明してくれた。そして何とか機内に。 VN311便はボーイング787-600 通称ドリームライナー。 定刻10:00に出発し、暫くすると左手の雲の合間に富士山の姿が。 琵琶湖、山科、京都の街並みが見えた。 そしてビールを。 徳山市上空を通過し九州上空へ。 遠く長崎・雲仙普賢岳が見えた。 大村湾に浮かぶ長崎空港が眼下に。 そして機内食を楽しむ。金目鯛西京焼、ご飯、温野菜添え。蓮根金平、薩摩芋甘露煮、卵焼き。フルーツ盛り合わせ、パン。 そして下界は雲に隠れ、私もビール、赤ワインも入りウトウトと。気がつくと既にハノイの上空に。 水田地帯が眼下に広がっていた。そして現地時間13時に着陸。成田空港から5時間の飛行。そして日本との時差は-2時間。 初めて降りるベトナム・ハノイ空港。 ノイバイ国際空港(ノイバイこくさいくうこう、ベトナム語: Cảng hàng không quốc tế NộiBài、英語: Noi Bai International Airport)は、ベトナム社会主義共和国の首都・ハノイ市にある国際空港。ハノイ都心部から北に約45km離れた場所に位置しており、ベトナム北部最大の空港。ベトナム航空とベトジェットエア、ジェットスター・パシフィック航空がハブ空港としている。 無事入国手続きを済ませ、 手荷物受取場へ。やはり日本と異なりかなりの時間を要したが無事に我がトランクを回収。 そして現地添乗員の待つ出口ロビーに向かう。
2017.09.08
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク明日、8月9日~12日の5日間の予定で、いつもの旅友Sさんとベトナム旅行に行って来ます。クラブツーリズム主催の『往復直行便利用 ベトナム世界遺産紀行5日間』。 観光場所はハノイ、ホイアン、ホーチミンのいずれも世界遺産の街。 成田空港からベトナム航空を利用。 成田からハノイ・ノイバイ国際空港へ。そしてベトナム国内の移動もベトナム航空国内便でハノイ~ダナン~ホーチミン。最初に訪れるのはハノイ。ハノイ市内観光では、ホーチミン廟、タンロン城、ホアンキエム湖、を訪ねまた旧市街も散策予定。 2日目は世界遺産・ハロン湾クルーズ。世界8奇観の一つに数えられ、「海の桂林」と称されるハロン湾。大小3000余りの島々がまるで墨絵のように点在する様子を楽しみます。 この日の宿泊もハノイのホテルで2連泊。3日目の朝はダナン国際空港から専用車で世界遺産・ホイアンに。ホイアンでは前輪2輪後輪1輪の自転車タクシー「シクロ」での観光。来園橋(日本橋)、海のシルクロード博物館、福建会館を訪ねます。 夕食後は、ランタンの灯るホイアンの街の散策。 4日目はホイアンから専用車でダナン国際空港に戻る。そして空路でホーチミン・タンソンニャット国際空港へ。 ホーチミン市内観光では、統一教会、中央郵便局、サイゴン大教会、ベンタイン市場、ドンコイ通り散策の予定です。旅行の準備として、ガイドブックとベトナム戦争についての書籍を地元の図書館からレンタルし予習を。 最終案内「旅のしおり」も届きました。なんと「今回のご参加は4名様です。」の文字が。10年以上毎年海外にツアー旅行していますが、4人のツアーはネパールに次いで2回目。しかしネパール旅行は、現地でツアー会社を経営する知人に組んでもらった我々専用ツアー。よって事実上は初体験の少人数ツアー。スマホの地図アプリ(APP)に主な観光地をチェックしハートマークを。ホテルの位置と早朝散歩の観光場所を確認し、早朝散歩のコースを検討中。早朝散歩はこのアプリを散歩ナビ用に使うのです。ホイアンもチェック済み。 最後のホーチミンですが、早朝散歩の時間はなさそうです。 東南アジアは久しぶりですし、半ズボンでの観光も考えています。念のため、以下の物もトランクに。そして今回もトランクと移動用リュックで。リュックにタグも付けました。集合時間は早朝7:30、場所は成田空港・第1ターミナルビル(北ウィング)。旅友のSさんが、今回も愛車で我が家に5:30過ぎに迎えに来て下さいます。そして成田空港近くの駐車場に車を預けておくのです。通貨は米ドルに換金しておけば良いようです。 さてさて、4人のツアーの残り2人は女性?男性?それともご夫婦?年齢は?よって、暫くはブログはお休みです。 ・・・つづく・・・
2017.09.07
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予定通り、14時前にホテルを出発しヘルシンキ国際空港へ向かう。バスはヘルシンキの西、バルト海に浮かぶ島を繋いでいる高速道路51号線を進む。101号線へのインターチェンジにあったヨットの如きモニュメント。 ユニークな外装のビル。 高速101から45号線への乗り継ぎ空港へ向かう。そして14:30過ぎに空港へ到着。 ヘルシンキ・ヴァンター国際空港(フィンランド語:Helsinki-Vantaan lentoasema)は、フィンランド共和国のヴァンターにある国際空港。ヘルシンキ国際空港、バンター空港と呼ばれることもある。 フィンランド共和国の首都ヘルシンキの北15kmに位置する。フィンランド最大の空港であり、北欧のみならず、中欧や東欧や、アジア各都市へ向けた便のハブ空港として機能。この日の帰国便は17:20発 JL0414便 成田行き。荷物を預けると制限重量23kgを1.5kgオーバーと。1kg以内であれば許してくれる様であったが、1.5kgオーバーはNOと。実はそれを想定していて、トランクに2kg分ほどを別の袋に入れておいたのでこれをハンドキャリーとしてトランクから出して再検査は合格。 出国手続きもスームーズに終了し、17:30過ぎには離陸。約9時間半のフライトの開始。離陸後暫くして飛行機はUターンし進路へし、機窓からはヘルシンキ・ヴァンター国際空港の滑走路が見えた。ヘルシンキから東へ150キロほどに位置するクーサンコスキという、まだ50年しかたっていない新しい町の上空を通過。しかし機窓から真っ白の雲しか見えなかった。ここはなんでも製紙工場でもっている町で、ヨーロッパ最大?なのでは?。 ヴォルホフ(ボルホフ、ロシア語: Во́лхов)はロシア・レニングラード州の中部にある都市。サンクトペテルブルクからは東へ122km。 離陸後2時間ほどで夕食が出る。久しぶりの和蕎麦を楽しむ。 その後は、旅の疲れ?もありアルコールも程よく効き爆睡。気がつくと既にロシア・ハバロフスク上空へ。時間は日本時間4月28日6:30過ぎ。 軽食が出る。 日本海に出る。 佐渡島が機窓に姿を現す 雲の下に佐渡島の内海府海岸(うちかいふかいがん)が見えた。新潟市上空から本州へ。左下に新潟空港が見えた。 鹿島灘から成田空港へ。 そして成田空港に着陸。時間は予定通りの8:25。 10日ぶりの日本へ。 ツアー仲間の川崎からのご夫妻と、四国から参加の看護士二人の足取りは軽く。 入国手続きに向かう。 そして無事荷物を受け取り、お世話になった添乗員、ツアー仲間に挨拶しこの旅を無事終えたのであった。そして待っていた旅友Sさんの車で何故か3人で成田空港を後にしたのであった。 バルト3国そしてフィンランド・ヘルシンキの10日間の旅であった。そして今回も早朝起床し、タリン、リガ、カナウス、ヴィリニウスの街を歩き巡ったのであった。そして自由時間の夕方にもヴィリニウス、リガ、ヘルシンキの街の散策に出かけたのであった。そして上記都市の中心部にある観光名所は外側からではあるが、ほぼ制覇したのであった。バルト3国は限りなくヨーロッパに近い国と感じたのであった。 本来はエストニアはフィンランド系、 ラトヴィアはドイツ系、 リトアニアはポーランド系で、民族の歴史、 文化の伝統、 言語、 宗教はそれぞれ異なる。にもかかわらず、 この3国がひとくくりにされているのは、 バルト海に面しているという地理的な共通性のほかに、 ピョートル大帝の時代にロシア革命を機会に独立を獲得し、1940年に、 独ソ不可侵条約に伴う秘密協定によって、 ほとんど同時にソ連に統合されるという運命を共にしているからだと現地で学んだのであった。そしていわゆる社会主義化と粛清があり、 多数の国民がシベリアへ流された事も。、現在、 エストニアの人口は131万、 ラトヴィアは214万、 リトアニアは285万である。ソ連邦に「加盟」した時には、 この3国は元からの加盟共和国よりも生活水準が高かったし、今もほかの地域よりも消費物質を豊かに保たれているとも。エストニアはバルト3国の中で一番北に位置し、バルト海を挟んで西はスウェーデン、北はフィンランドと向かい合っている国。晴れた日にはフィンランドが望めるほどで、フィンランドと同じ文化・言語圏に属しているのであった。その首都タリンの旧市街を歩くと、中世そのままのパステルカラーの町並みが残り、早朝散歩の足音が石畳にこだましているかのようであった。タリンは北欧文化とドイツ文化がほどよく混ざりあった美しい古都なのであった。 今も高いインフレ率と失業で悩む国内とのことだが、物価の高い北欧からの旅行者にとっては、特に物価の安さが魅力的であると。品数も多く、特に手作りの製品、セーターや装飾品などの品質の良さと安さには定評があると。週末にはバルト海を船で渡り多くのフィンランド人がタリンに買い出しに来るのだと。 ラトヴィアは勤勉で合理的なドイツと相通じるものがある様に感じたのであった。果てしなく広がる白樺の森と湖は、 まさに北欧の自然そのもので、 大いなる安らぎに満ちている国であった。現在の人口は、 およそ214万人。 民族の構成はラトヴィア人56.9%、 ロシア人30.1%、白ロシア2.8%、 ウクライナ人2.5%、 リトアニア人2.1%、 ポーランド人1.4%、その他2.1%。独立までの道のりは長かったが、 現在隣の大国であるロシアに対する民族的な感情は比較的落ち着きをみせていると。経済的に深いかかわりをもつことが、 現実的な判断につながっているとのこと。氷河の後退で造られた穏やかな気候の地ラトヴィア。氷河期にこの地を覆っていた氷河が後退していく際、 地表を削りとり、 現在のなだらかな地形を形造ったのだと。これは他の2ヵ国も同様であると。国土の面積は6万4589平方キロで3国の中で2番目の広さ。最高地点は何と331.5メートル、 最大の湖ルバンスの面積は82平方キロ。最も長いダウガヴァ川は1020キロで、 このうち367キロがラトヴィア国内を流れていると。そして800年の歴史をもつバルト最大の都市、 リガ (RĪGA)。バルト海に注ぐダウガヴァ川沿いにリガを建設したのは、 キリスト教の布教にやってきたドイツの司教だった。 その後、 ハンザ同盟の一員として繁栄し、 やがてバルト3国で最大の人口を抱える都会に発展。 しかし近代的な新市街から旧市街に一歩足を踏み入れれば、そこは大聖堂や教会の尖塔が浮かび上がる別世界であった。中世と現代のコントラストをリガは鮮やかに見せてくれたのであった。 また19世紀の装飾的な建物、 ユーゲントシュティール建築(JUGENDSTIL)は圧巻、感動の連続であった。更に16世紀からこのあたりを支配していたクールランド公が夏の離宮として建てたルンダーレ宮殿はベルサイユ宮殿を彷彿させたのであった。花の咲く時期にもう一度訪ねたい空間・時間であった。 リトアニアは街を歩いていると、 一番建物の装飾に凝っていると感じたのであった。人なつこく陽気なリトアニア人がバルト3国で最初に独立の火蓋を切ったのは、その情熱のなせる業なのであったのであろう。 バルト諸国で唯一のカトリックを信仰する国であり、 リトアニア人が多数を占め、独立後、 国内に残ったロシア人との摩擦が3国中で、 最も少なかったのだと。丘の上にある古城から眺めた早朝のヴィリニウスの旧市街は、 緑の中に赤茶色の屋根が点々と見え隠れしていた。 首都とはいえ豊かな自然にめぐまれたこの町は静かで落ちついた雰囲気を醸し出していた。 はるか遠くに目をやると、 いったいどこまでつづくのか、ただひたすら深い森がひろがっていたのであった。ヴィリニスは別名『バロックの町』。 華麗なバロック建築を旧市街のあちこちで目にする事が出来たのであった。赤レンガのゴシック建築、 聖アンナ教会(ŠV.ONOS BAŽNYČIA)は美しかった。16世紀に建立された教会。 ヴィリニュスにあるゴシック建築の傑作のひとつ。正面から見ると塔が3本あるのが特徴的だった。正面ファサードには33種類のレンガが使われるなど、 凝ったつくりになっていたのであった。そして「命のビザ」の舞台、 カナウスの旧日本領事館を訪ねたのは、このツアーで最も印象的な時間なのであった。1939年から2年間、 日本領事館が置かれていた場所。 その領事館にいた唯一の日本人外交官、故・杉原千畝氏は日本の通過ビザを独断で発給し、 ユダヤ人難民6000人の命を救ったのだ。我が大学の、そして彼の帰国後の同じ市民の在りし日の姿、行動に多いに感動したのであった。一方 リトアニアの新しい聖地?、 十字架の丘(KRYŽIŲ KALNAS)はラトヴィア国境に近いシャウレイ近郊の丘に。 ロシア皇帝に反逆して死んだ人を悼むため、 1863年ころから十字架が立てられはじめたらしい。 ソ連当局は十字架を撤去しようとしたが果たせず、丘は無数の十字架で埋め尽くされていたが、もう一度訪ねたいとは????。新市街と旧市街の境にあったバロック建築の傑作、 聖ペトロ&パウロ教会(ŠV.PETRO IR POVILO BAŽNYČIA)も圧巻であった。ヴィリニュスにあるバロック建築でも最高傑作に挙げられる教会。1668年に建設がはじまり、 7年後に完成した。 内部にはバロック調の華麗な装飾がびっしりと溢れるほどの建物内側全面にほどこされているのであった。壁を埋めるキリストや天使の彫像は聖書に題材をとったもので、 その数は2000体以上にのぼるのだと。しばし佇んでいたい空間なのであった。 そして最後にフィンランド・ヘルシンキ。ヘルシンキは海と北欧特有の淡青色の空をもつ都市であるが、潮の香りのしない街なのであった。バルト海の入り江フィンランド湾に面していて、いくつもの湾、半島、島々に市街が広がっていた。潮の香りがしないのは、内海であるバルト海の海水の塩分濃度が通常の1/10の0.3%しかないからなのだと。海水塩分濃度が低いので、日本の海よりも海水浴を気軽に楽しめ、小型船舶でクルーズを楽しむ本格派もいるのだと。冬になって真水に近いため凍りやすい海水が完全に凍ったら、スキーやスケートを楽しんだり、氷に穴をあけて魚釣りを楽しむのだと。マーケット広場奥の高台岩盤の上のレンガ造りの建物で、 塔にねぎ坊主の様なキューポラがある教会がウスペンスキー大聖堂。ギリシャ正教に基づき東西に向けて建ててあった。この中には、 美しく、 また美術的にも価値あるイコンをたくさん見ることが出来たのであった。そしてこのツアー最後に訪れたスオメンリンナ要塞。ヘルシンキ前方の島々に築き上げられたスオメンリンナの海の要塞は1991年要塞スオメンリンナを独特な“軍事的・文化的建築物の記念碑”として世界遺産のリストに。 スオメンリンナの東側と西側は損傷を受けていたが、バルト海とフィンランドの歴史に多いに息づいていたのであった。 それは、 “多彩な歴史”、 “自然の美”、 “生きた町”の調和そのものなのであった。このツアーの仲間は全員が『PUNCTUAL』であり、常に集合時間5分前には全員集合。そしてツアー後半には全員が意気投合し楽しい旅行となったのであった。先代に住むご夫妻からは蜂蜜の注文まで頂いたのであった。 そして来年は何処に?ウズベキスタン?シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、『青の街サマルカンド』や茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。それとも夏のアイスランド? 『火山と氷河がつくりだす絶景だらけの奇跡の島・アイスランド』。夏には美しい白夜、そして世界最大級の露天風呂ブルーラグーンでノンビリと。 ・・・・・・・・完・・・・・・・
2017.05.18
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王の門(King’s Gate)の前には跳ね橋が。 スウェーデン時代の銘板。スウェーデン語?なので、何を書いているかは?? 王の門(King’s Gate)の前に拡がる青い海。 スオメンリンナの象徴ともいえる場所。王の門(King’s Gate)は、要塞の式典用の 門として1753から1754年にかけて 建設。門は、1752年に 要塞の建設者スウェーデン王アド ルフ・フレドリク(Adolf Fredrik)が建設作業の視察に訪れた際、王を 乗せた船が錨を下ろした場所に建設されたのだと。そして「2006年9月9日、フィンランドを訪問した当時の小泉首相はヘルシンキを観光し、ここスオンメンリンナ要塞を訪れ、この場所手前のフェリー埠頭から上陸し観光を始めたと。首相は、最後の外遊の地フィンランドの世界遺産・ここスオメンリンナの王の門(King’s Gate)で拾った石は、思い出深い宝石となった、と感想を述べた。また首相は、フィンランドで初めて造られた裏千家の茶室でお茶を楽しんだ。」 と現地ガイドから。煉瓦積みの建物の前にも大、中の大砲が並んでいた。 擁壁の壁には倒壊防止用の支え棒が。 何故か要塞の最先端に海老茶色・白・海老茶色の二色旗のラトビア国旗が。 巨大な11B(28cm)大砲が青空に向けて。 石造りの要塞壁の上に赤煉瓦が更に積み上げられていた。この中に小泉元首相が訪ねた裏千家の茶室・徳有庵があるのだと。要塞壁がどこまでも続く。 対岸の島の要塞の姿が良く解った。 第二次世界大戦時の潜水艦ヴェシッコ号が展示されていた。 潜水艦は要塞の主要観光ルートからちょっと外れた場所に何故かあった。いわゆるUボートII型 (U-Boot-Klasse II) はドイツ海軍の潜水艦で、第二次世界大戦で用いられたのだ。 Uボートを後方から。しかし遠目から見ても、展示しているというよりもただ適当に?置かれているだけという感じは否めなかったのだが。内部も見学できるらしかったが時間も無く諦める。この階段の上に入艦用のハッチがあったが、こんな場所に潜水艦のハッチがあるとは考え辛いので、おそらくは後で付けたものに違いないと。目の前の橋の先の集合場所に急ぎ足で向かう。 重厚な要塞の城壁は日本の城の城壁の如し。 待ち合わせ場所の土産物屋でしばし。 そして帰路のフェリーに乗り20分弱でヘルシンキ・マーケット広場に戻る。 マーケット広場から見えた観覧車「スカイ・ウィール」。 この観覧車内にサウナ専用ゴンドラ「スカイサウナ」が昨年6月にオープンしたと。その最高到着地点は、地上約40m。 このゴンドラは4、5人乗りで、1周にかかる時間は5~7分ほど。最高室内温度が90度のサウナ・ゴンドラに乗って、汗をかきつつ絶景を楽しめるというわけ。240ユーロ(約3万)?で1時間貸し切りにできると 現地ガイドの話。ムーミンやマリメッコで有名な北欧・フィンランド。実はサウナ発祥の地でもあり、国民のサウナ愛たるや、日本人の想像がおよばないほどであることを想い知ったのであった。マーケート広場には多くの食べ物の出店が。 様々な活魚も売られていた。しかし氷もなく魚がただ並べられているだけ。 そしてランチは自由にとのことで我々3人はビールの飲める店に。広場の横にあるレストラン・Ravintola Kappeliラヴィントラ カッペリへ。 カッペリとはフィンランド語で礼拝堂を意味するが、もともと礼拝堂があったわけではなく、一説にはもとの建物がチャペルに似た形をしていたことからそう呼ばれ始めたと。横のドアから店内に入ろうとしたら、店内の客が正面に回れと手振りで教えてくれたのであった。入って右側がレストラン、左側がカフェ。 内装は非常に豪華。 かつてはシベリウスも通った店内とのこと。カフェにてビールと野菜サラダ風の盛りの上に鴨ロース肉?が盛られている一品を購入。 かなり量もあるサラダセットの一品。 そして肉の下にはキヌア?それとも粟?稗?が。これは今一なのであったが完食。 ランチを終え集合場所に向かうと目の前にヘルシンキ(フィンランド)の救急車が通過。 救急車の電話番号は119ではなく112のようだ。再びマーケート広場の噴水。 噴水の中央には港を振り返る美しい女性ハヴィス・アマンダ(Havis Amanda)の銅像が。フィンランド人彫刻家ヴィッレ・ヴァルグレン(Ville Vallgren)が 、パリのアトリエで出会った19歳のパリジェンヌがモデルと。彼女をモデルにした乙女の銅像をパリのアートサロンで発表したヴァルグレンは、1908年にヘルシンキの噴水広場のメインモニュメントとして母国に贈ったと。ヴァルグレンは「海から湧きあがるような女性像は、ヘルシンキの象徴でもある」と語ったと。 トラムに乗りヘルシンキ中央駅まで。 再び時計塔。時間は13:15。ヘルシンキ中央駅正面。 駅舎が大きすぎてカメラに入りきれなかったのであった。 ホテルの横のエネルギー工場。ヘルシンキの街に蒸気、温水を送っているのだと。フィンランドの首都、ここヘルシンキでは90%以上の地区で地域熱供給が導入されていると。そして地下鉄に乗りホテルに集合時間の14時前に予定通り到着。
2017.05.17
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要塞の石の壁に囲まれた道を、島の奥に向かって更に進む。 この石造りの城壁の如き建物には屋根が追加設置されていた。 バスチオン・ホーレマンの長い花崗岩城壁。 パイパー公園(Piperin puisto) の池。これは要塞スオメンリンナの最も古く大きな庭園とのこと。この庭園は1780年代に植栽がなされた。 これは、 フィンランド最初の“英国調庭園”として知られていると。 バスチオン・ホーレマンの長い花崗岩城壁の前にある池は、通称 『恋の池』。奥にはカフェ・パイパーが。『恋の池』の水面で旅友とツーショット。 シェルターそれとも弾薬庫が至る所に。 丘の上に巨大な大砲が海に向かって。 岬の西側には、 スオメンリンナでも珍しい小さな砂の海岸があった。その両脇は自然の岩盤から成り立っていた。 自然保護された小さな海水浴場である。 一枚岩の岩盤が一面露わに。 要塞の最前線の城壁と建物。 砲座や弾薬庫、ため池も多く設けられていた。 ロシアに向けて設置?した真っ黒な巨大な大砲と土塁。 大砲の手前に回転装置が設置されていた。そしてその横には小さな展望台が。 こちらの大砲には回転用ダビッド?が。 石の稜堡が土の盛土で覆われていた。 なだらかな射撃台と土盛りの窪みが変化に富んだ景色を生み出していた。 つまり凹凸や直線が、 柔らかな形に変えられていた。 それぞれの土盛りには弾薬庫が掘り込まれていて、 それらは3方から土で覆われていた。 また海から砲撃された砲弾があたらないように、 入口側の壁は城塞の内側に向けて造られていた。 美しい形?の防空壕or弾薬庫。 大砲の近くまで行って。 攻め寄せる敵軍に対し防御する際に死角ができないように造られた星形要塞であることが理解出来た稜堡の光景。 要塞最先端の遊歩道。 前方にはバルト海が拡がっていた。 バルト海に面した要塞稜堡。 要塞の石積みの壁には貫通するトンネル通路が。 この狭い海路を巨大クルーズ船が通過すると。 この辺りは要塞の壁(稜堡)がクネクネと。 要塞最奥部の 石造りの壁は幾重にも。要塞壁内の当時のままに残された長いトンネル式通路を歩く。明るい通りやすい道から、暗くて狭いトンネルへ。懐中電灯が必需品なのであったが・・・なんとか無事に通過。現地の人、特に子どもたちに人気があるのは、スオメンリンナにあるこの様な様々なトンネルや地下道を冒険することだと。要塞の最先端は流石に重厚な要塞壁が幾重にも。王の門(King’s Gate)の内側。
2017.05.16
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このロシア時代の兵舎を改築したピンク色の建物には、インフォメーション・センターやトイレ、地元の方も利用されるというカフェ「ヴィアポリン・デリ&カフェ(ViaporinDeli&Cafe)」そして、スオメンリンナの醸造所(Suomenlinnan Panimo)のレストランがあり地ビールや海鮮料理が楽しめるのだと。インフォメーションセンターには、英語、独語、中国語など、日本語を含めて8カ国後の案内パンフレットが用意されていた。ピンクの門をくぐると、島の灯台の役割も果たすスオメンリンナ教会が見えて来た。 そしてそのピンクの門と塔を振り返る。 現地ガイドの説明を聞く。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された、世界遺産にも登録されている海防要塞。元々、この要塞は1748年にスウェーデン=フィンランドがロシア帝国に対する守りを固めるために造ったものであると。 しかし、皮肉なもので、フィンランド戦争中の1808年5月3日に要塞はロシア軍に占領され、1809年のロシア軍によるフィンランド占領の足がかりとなってしまったと。当初の名前はスヴェアボリ(Sveaborg, スウェーデンの要塞)であったが、フィンランド国民からの要望の高まりを背景に、1918年にスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称されたと。スオミはフィンランド語で「フィンランド」を意味。スウェーデンに関連する名前から自分の国の名前に変更したということ。スオメンリンナの要塞は、現在ヘルシンキの主要な観光地の一つとして人気を博していると。実はヘルシンキ市内から秘密の?海底トンネルも通っていて、いざという時には使用出来るようになっているのだと。 スオメンリンナ要塞配置図。 6つの島の上に建造された海防要塞。スオメンリンナ教会(Suomenlinnan kirkko)。小高い丘にあるこの島のシンボル、1854年に要塞の建設とともに作られた教会。緑の尖塔が美しい教会だが、支配国が変わるたびにカトリック→ロシア正教と変更され、今現在は福音ルーテル派の教会。鎖と柱は砲台をリメイクしたものとのこと。また、空路や海路用の灯台としての役割も果たしていると。 スオメンリンナ教会(Suomenlinnan kirkko)の芝生にいた海鳥。名前は聞いたのであるが・・・?? カモメの一種か?この壁の内側は「図書館」で一部は幼稚園にもなっていると。狭間・銃眼の様な開口は塞がれていたが、僅かな隙間から園児の姿も見えるとガイドの話であったが・・・。 写真案内図。 城壁の所々に入口が。図書館の入口? この教会は、ヘルシンキで最も人気のあるウェディング会場の一つと。式のあと、カップルは要塞のまわりを馬車で廻るのだとか。水鳥をカメラに収める旅友達。 スオメンリンナ管轄機関棟。ユネスコの世界遺産であるスオメンリンナを復元、管理する政府機関棟。 イソMustasaariのスーパーマーケットか? 島にはかつて要塞だった当時の建物が多数残っていると。ここは1748年にスウェーデンによって要塞が築かれ、後にロシアのものとなり、約100年前にフィンランド領に。1970年代に海軍学校を除いて軍施設は無くなり、当時の建物は一般市民の住まいになるなどで、今も800人以上が島に住んでいるという。 様々な建物が。Piirtamo会議室とレストランChapmanか?造船所が右手奥に。黒い建物の後ろにカフェバーValimo。 スシサーレン橋を渡り更に島の奥へ進む。 ブリュワリー工場の煙突か?レンガ造りの建物や煙突は当時の名残で、外観はそのまま利用し、内装を修繕して利用し、しっかり歴史を残しているのであった。Svensksundの戦いの碑。Svensksundの戦い (フィンランド語: Ruotsinsalmi 、ロシア語: Rochensalm )は、1790年7月9日と10日に現代都市コットカの外でフィンランド湾で戦った海上戦闘であった。スウェーデンの海軍はロシア艦隊に激しい敗北をもたらした1788-90年のルソー・スウェーデン戦争が終結した 。この戦いは、スウェーデンの最大の海戦勝利であり、バルト海で最大の海戦であると。 エーレンスヴァルド博物館(Ehrensvärd-museo) スオメンリンナ要塞の建設を指揮したスウェーデン軍の司令官、アウグスティン・エーレンスヴァルドの住居を利用した博物館。彼の肖像画をはじめ、絵画、家具、武器、船の模型などを見ることができると。要塞機能を備えた住居の造りにも注目出来ると。スウェーデン戦争、ロシア戦争、クリミア戦争、フィンランド国内戦争で重要な無台となった島。写真はエーレンスヴァルド博物館の壁。 看板を見ての通り、スオメンリンナ島は世界遺産に認定されている。 コートヤードに続くトンネル。 トンネルの途中の両側には、通路があった。少し歩いてみたが、こちらは薄暗くて、ちょっと危ない雰囲気。 スヴェア城塞の造船所(Sveaborgs varv) 。乾ドックとなっている時が多いようだが、この日は海水が満々と。コートヤードは、1760年代から要塞の中央広場として使用。この広場は1855年のクリミア戦争中、爆撃により大被害を受けたようです。アウグスティン・エーレンスヴァルド(Augustin Ehrensvärd)の墓。 スウェーデン王国統治下のフィンランドで、このアウグスティン・エーレンスヴァルドの指揮により海上要塞の建設が始まったのであった。 ブロンズから成型された軍事に関わる装飾的シンボルが取り付けられていた。ローマ帆船の船首、 その上にはエーレンスヴァルトの紋章を描く盾(シールド)、剣とヘルメット、 スウェーデンのセラフィム騎士国の鎖と記章(バッジ)も。 エーレンスヴァルドの勇姿を偲ばせるこの騎士の甲冑と船先のモチーフは1805年にストックホルム出身の名彫刻家ヨハン・トビアス・セーゲルによって完成。広場の先のパイパー公園(Piperin puisto)に、大砲を発見。 砲身のライフリング(rifling)も確認できた。ライフリング(rifling)は、銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝を意味し、日本語では施条(しじょう)、あるいは腔線(こうせん)。 この螺旋状の浅い溝で銃身内で加速される弾丸に旋回運動を与え、ジャイロ効果により弾軸の安定を図り直進性を高める目的。大砲を反対側から。
2017.05.15
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観光最終日のヘルシンキでの9日目の午前中は自由行動。我々はオプショナルツアーのスオメンリンナの要塞の観光を申し込んでおいた。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気があるのだ。この日は早朝散歩なしで、帰路のパッケージングを行い8時過ぎに会場に行き朝食を済ませる。そして9時に現地ガイドの女性と共にホテルを出発しバスにてフェリー乗り場に向かう。途中でトラムに乗り換える。 ヘルシンキ中央駅前を通過。ヘルシンキ中央駅前の個性的な建築は、日本でもよく紹介されている。現在の駅舎は、エリエル・サーリネンが設計し1919年に完成したもの。正面玄関には左右に2体ずつ、ランプを持った石像が鎮座。再び時計塔が車窓に。 そしてアテネウム美術館。フィンランド国立劇場。ヘルシンキ中央駅の広場の北側のヘルシンキ中央に位置する劇場。フィンランド国立劇場はフィンランドで最も古い劇場。 ヘルシンキ大聖堂がビルの間から見えた。 マーケット広場(Market Square)でトラムを下車。マーケット広場とは、海沿いにある青空市場。食べ物から土産屋まで様々な出店市場が並んでいた。広場の先にはヘルシンキ観光案内所のある建物が。マーケット広場の噴水。噴水が魚の口から勢いよく。正面にシティーホール。上部の網は、マーケット広場の野鳥対策に敷設したようだが直ぐに効果がなくなったと現地ガイドから。 フィンランド国旗。20世紀初頭から使用されるようになった国旗。場合によっては、siniristilippu(「青十字旗」の意)とも呼ばれる。白地にキリスト教を反映しているとされる青のスカンディナヴィア十字を描いた旗。この国旗に使われた青の色は、フィンランドにある数千の湖と海と空を、白が国土を覆う雪を反映していると。ロシア皇帝ニコライ1世の皇后アレクサンドラ記念碑。訪フィンランド(1833年5月29日~6月10日)記念碑とのこと。マーケット広場には多くの亀の像が。 駐車禁止の遊び心か?車止めになっている?亀も。スオメンリンナ要塞行きのフェリーが到着。 そして乗船開始。定刻にフェリーは出発し、デッキに出てヘルシンキ湾の風景を楽しむ。美しい尖塔がそびえ立つドイツ教会(Tyska kyrkan)。ハンザ同盟の商人たちによって17世紀に建てられた教会。幾度となく改築され、現在の形になったのは1887年のこと。内部にある金メッキを施した38体の天使の顔が実に印象深いのだと。 ウズペンスキー寺院が後方右手に。手前にあるValkosaari島のレストランNJK(左)とスオメンリンナ要塞のスオメンリンナ教会(右)をズームで。行く手の湾には小島が点在。島のレストラン サーリスト(Saaristo)。陸と島のレストランを結ぶ船は、5月初めから9月終わりまで運行すると。フェリーから見た大型豪華客船タリンクシリアライン(Tallink & Silja Line)。北欧の他の国を結んでいます。ちなみにこのシリアライン(SILJA LINE)はスウェーデンのストックホルムと結んでいると。レストラン サーリスト(Saaristo)を別角度から。振り返ると白亜のヘルシンキ大聖堂が。 そして左にはシティーホールが。そして現地ガイドからこんな話も。ヘルシンキは、バルト海の入り江フィンランド湾に面していて、いくつもの湾、半島、島々に市街が広がっている。潮の香りがしないのは、内海であるバルト海の海水塩分濃度が低いからだと。通常3%程度ある塩分濃度がなんと0.3%と1/10程度しかないと。なるほど 潮の香りがしなかったのであった。前方のスオメンリンナ教会をズームで。 遠くヘルシンキの北東にあるRoihuvuoriに建っている巨大なコンクリート製の逆三角形給水塔が見えた。 スオメンリンナ要塞の手前にある島にある海軍士官学校。 この島は一般には開放していないと。そして船の上からスオメンリンナ要塞が見えて来た。 港に到着し下船し観光開始。
2017.05.14
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帰路はタリン港から2時間でバルト海を渡りフィンランド・ヘルシンキ港に到着。 ヘルシンキの現地ガイド(出雲出身の日本人)が待っていてくれていた。 ヘルシンキ西港(Helsinki West Terminal)。西港は、ヘルシンキの中心から2.4キロ程の距離にあり、タリン(Tallinn)とサンクトペテルブルク(St.Petersbourg)へのフェリーが発着しているのだと。 黒の大型バスでホテルまで移動。 利用したTALLINK Megastar号が垣間見えた。 Ruoholahti(ルオホラハティ)から海沿いをヘルシンキ街中に向かう。Holiday Inn Helsinki - West Ruoholahti に16時前に到着。ヘルシンキ中央駅よりメトロで2駅のRuoholahti駅近くの4つ星ホテル。ヘルシンキ中央駅まではメトロで5分ほどの距離。2005年開業の9階建てのホテル。ホテルフロント&ロビー。 今回の旅行最後のホテルの我々の部屋。 このホテルのツインの部屋のBEDは幸い離れていました。(笑)そしてチェックイン後の自由時間はヘルシンキ市内観光に熊本のMさんと3人で地下鉄で向かう。ホームへのエスカレーターはかなりの角度でかなり長かった。 地下鉄路線駅案内。 フィンランドで唯一の地下鉄であり、世界で最北の地下鉄である。一端が分岐した全長21.1kmの1路線で、17の駅がある。地下鉄と名を冠してはいるものの、路線の大部分は地上区間であり、地下を走るのは都心などごく一部である。しかし地上駅でも、積雪対策などのためホームをコンクリートなどで覆っている構造のものが多いのだと。ヘルシンキ中央駅で下車。エスカレーターは緑にライトアップ。 そして地上に出る。ヘルシンキ中央駅の時計塔が見えた。 アテネウム美術館。ヘルシンキ現代美術館やシネブリュコフ美術館とともにフィンランドを代表する美術館の一つで、建築家テオドル・ホイエルにより設計され1887年に完成。国定文化遺産建築としてヘルシンキ市の中心部に位置している。 暫く歩くと目の前の小高い丘の上に建つ白亜の巨大聖堂・ヘルシンキ大聖堂が。1812年にロシアによって首都がヘルシンキに移された後に建設が始まった、天空に浮かぶような美しい白亜の巨大聖堂。今も昔もこの街を優しく見守るシンボル的存在で、まさにヘルシンキの代名詞的な建物であり、へルシンキ観光の最初の一歩にぴったり。 ルーテル派の本山となる協会で、1852年に30年の歳月を費やして完成。ヘルシンキではこの大聖堂より高い建物を建ててはいけないのだと。 教会内に入ると見事なシャンデリアが迎えてくれた。 中央祭壇。祭壇には、サンクトペテルブルグの画家が描いた『イエスの埋葬』が。大聖堂のすぐ隣にはヘルシンキ大学の本館と図書館がある。下の写真はヘルシンキ大聖堂から図書館側を見たところであるがこの建物は図書館ではなくヘルシンキ大聖堂の建物の一つか? 大聖堂の隣の下部にはヘルシンキ元老院広場( Senate Square)。 様式はネオ・クラッシック様式。石畳と大聖堂は大きな階段で結ばれていた。ベルリン出身の建築家カール・ルートビヒ・エンゲルがロシア統治時代の19世紀前半に建造し、北側にヘルシンキ大聖堂、西側にヘルシンキ大学があり、東は官庁街となっていた。広場には御影石が敷き詰められいた。元老院広場の中央には、1894年に建てられたロシア皇帝アレクサンドル2世の彫像が立っていた。彫像の製作者はW.ルーネべリ。在位は1855年 - 1881年。ロマノフ朝第12代ロシア皇帝、ポーランド立憲王国第3代国王。ニコライ1世の第一皇子、母は皇后でプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ。上記のようにアレクサンドル2世は、1855年3月2日 - 1881年3月13日の時期、ロマノフ朝のロシア皇帝であり、同時にポーランド国王であり、フィンランドの大公であった。アレクサンドル2世のフィンランドに対する寛容な治世の感謝のしるしとして元老院広場にこの銅像を建立した(1894)。 次に訪れたのは生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、フィンランド語: Uspenskin katedraali)は、ヘルシンキに所在する正教会の大聖堂。ロシア帝国の建築家:アレクセイ・ゴルノスターエフの設計により1862年から1868年にかけて、ヘルシンキ市街を一望できるカタヤノッカ半島の丘陵地に建立された。ロシア語風に「ウスペンスキー大聖堂」と呼ばれる事もあると。 真っ白なヘルシンキ大聖堂と対照的な色彩が印象的なウスペンスキー寺院。 北欧最大のロシア正教の教会、ウスペンスキー寺院。黄金の玉ねぎ屋根が乗ったレンガ造り。 聖堂の地下には、第2次世界大戦中にソ連軍の空爆からの避難所として、地元の消防団が掘削した防空壕が残っている。現在では内部の温度変化が少ないことに注目した電力会社が数百台のサーバを設置し、その熱を周辺地域の温水暖房に利用していると。 時間的に教会内部は無理と考えていたが、幸い建物横の扉から内部も見学できた。ドアを開けると、聖堂へと続く長めの階段が。聖堂の中央にあるドームを下から撮影しました。天井も手を抜くことなく細部までデザインがなされていて感動ものです。吊るされたシャンデリアのひもがなんともか細く、それでも静かに聖堂を支配していた。教会内部は、シンプルなヘルシンキ大聖堂とは対照的な装飾的できらびやかな空間が広がり、圧巻。中央付近にたくさんの聖人画が描かれており、装飾の一つ一つが細かいのなんの。宗教のことは無知であるが、中世のキリスト教的な雰囲気がしてとても神々しいのであった。ヘルシンキ港と運河に沿った街並み。 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世の皇后、アレクサンドラ皇后の行啓記念碑だと。 ヘルシンキ シティー ホール(Helsinki City Hall)。 オールド マーケット ホール(Vanha Kauppahalli)。フィンランドの建築家グスタフ・ニューストロム(Gustaf Nyström)設計。エテラ港に近く、ひときわ存在感のある建物。最高裁判所。 聖ジョーン教会(St. John's Church, Helsinki)。カイヴォプイスト公園の西側に1ヶ月後にはみどり溢れるであろう広場が。そこに19世紀後半に建てられた美しいネオゴシック様式の教会。漢字「蓮」と書かれたレストラン。「ラーメン」の文字に誘われたが・・・。 そしてオプショナルツアーであった「カモメ食堂」前に到着。 映画『かもめ食堂』の撮影が行われたまさにその場所で、「Ravintola KAMOME(ラヴィントラ カモメ)」というレストランがオープンしたのは、昨年4月とのこと。今回オプショナルツアーは人数未達で不成立になったと。窓から中を覗いてみると水色の壁とシンプルなインテリアが。客も何人かは。日本人の姿はなしか?ラーメンは15€⇒1800円にビックリ!! そしてバス、地下鉄を乗り継ぎホテルに戻る。いや、スーパーに立ち寄り部屋での宴用の買い出しを。 この日の宴はサーモンを新たに。 そしてこの日もホワイトアスパラの塩ゆでを楽しむ。 そして今回の旅行でも最後の夜に手延素麺 ・揖保乃糸(いぼのいと)でソーメンパーティーを3人で。21:30の我が部屋からの夕景。まだ明るいのであった。そして宴は更に続いたのであった。
2017.05.13
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ラエコヤ広場の旧市庁舎前での集合後は、このバルト三国観光の最後に聖カタリーナの小径 の散策に向かう。ラエコヤ広場のエストニアの少年。 少女二人。 オルデ ハンザ(olde hansa)は人気のレストラン。 オルデ ハンザ前のポーランド大使館(写真中央の車の前)。 聖カタリーナの小径(Katariina Kaik)と書かれた標識。 ヴェネ通り(Vene)側から入ったこの通路の先がカタリーナの小路。 聖カタリーナ教会。 こんな景色が目の前に。 タリンで最も中世を感じられる場所であると。 左の壁には、展示品の墓石等の説明板が。 19世紀の半ばに、荒廃した教会の西側が取り壊され、保存状態のよい墓石が展示されたと。その後墓石は、プライベートコレクションや納屋の舗装用としてまた1882年には、墓石の殆どがArthur Girard de Soucantonによって彼の夏の別荘「Rocca al Mare(海辺の石)」に移されてしまったと。現在は、聖カタリナ教会の南側から移動された墓石。1959年〜1960年に「Rocca al Mar」から戻された墓石が、一緒に飾られていると。 墓石の壁の先には、これまで見た記憶のない景色が。 小径の両側には工芸品の作業場が集まっていた。眼鏡、帽子、キルト、陶磁器、宝石、手塗りのシルク、およびその他の商品の創出と販売を、職人が伝統的手法で行う作業場を集めた、「聖カタリナ・ギルド」の拠点であると。 ガラス工芸品の工房。15~17世紀に生まれた複数の小さな部屋であり、オープンスタジオのスタイルとなっていた。観光客等は、職人によるガラス吹き現場を見ることができる模様。残念ながら立ち寄る時間なしで入口から写真のみ。。瓦の乗ったアーチと石造りの壁で独特の雰囲気のある場所。中世の建物はでつっかえ棒で支え合う構造であったのだろうか。この小径は、ヴェネ通り(Vene)とムーリヴァエ通り(Müürivahe)を繋いていた。 再び瓦の乗ったアーチと石造りの壁。創造性豊かさと中世のムードを融合させた地域なのであった。そしてムーリヴァエ通り(Müürivahe)へ出ると、ここは早朝散歩で歩いた道。 道路の石畳の整備工事が行われていた。 そしてヴィル門へ出る。 タリン旧市街の観光、バルト三国の観光を終えバスにてタリン港に向かう。バスの車窓から再びエストニア劇場が。 ロシア文化センター前を通過。 聖オレフ教会の尖塔も見納め。 タリン港近くのレストランで昼食。 久しぶりの肉料理。 店の壁には。 超ロングなピンクのリムジンカーが停車。 そしてタリン港に到着。ヘルシンキ行きの船は13:30発。 乗船ゲートは客で混んでいた。 そして船は定刻にフィンランド・ヘルシンキに向けて出向。船から見たタリンの旧市街。アレキサンドル・ネフスキー聖堂のクーポルそして聖ニコラス教会の尖塔。この海からは10本ほどの尖塔が見えたのであった。 遠ざかっていくエストニアの大地。そしてタリンのテレビ塔が見送ってくれた。1980年のモスクワオリンピックで行われるレガッタのイベントに向け、より良質の電信サービスを提供する目的で建設された。塔はタリン中心部から北東に6キロメートルの場所にある地区、ピリタ近郊に位置すると。塔の具体的な高さは314メートル、展望台は、地上170メートルの高さに位置し、直径が38メートル。展望台は一般の観光客に開放されているのであった。すれ違ったバイキング ライン(VIKING LINE) の船舶。ヴァイキングラインは、フィンランドの大手船会社。大型のフェリーをヘルシンキを中心にマリエハムンなどオーランド諸島やスウェーデン、エストニアに就航させているのだ。そして往路に利用したTALLINKの船。この日の復路の船はTALLINK Megastar。最大で2,850名の乗客が乗船可能な大型船で、2017年1月に建造。全長212.2m 船幅30.6m デッキ数12 巡航速度27ノット。復路は船内のパブリックスペースでノンビリとヘルシンキ港までの2時間を楽しむ。
2017.05.12
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ラエコヤ広場にて1時間弱の自由時間をもらう。旅友Sさんと旧市街の北のふとっちょマヌガレータを目指し早足で。ラエコヤ広場から聖霊教会に向かうトンネル出口。この反対側が聖霊教会。 ラエコヤ広場の少し北にある、聖霊教会。市庁舎および聖霊教団救貧院の礼拝堂として、14世紀に建てられた教会。タリンの他の教会は、ほとんどが、ハンザ同盟の商人たちのためのものであったが、この聖霊教会は、エストニアの下層の人たちのための教会だったと。 人気のレストラン「Balthasar 」 の裏入口。旧市庁舎(左)と聖ニコラス教会の尖塔(右)をラエコヤ広場から。ブレーメン塔。聖ニコライ教会。ヴェネ通り沿いの右側の城壁。ライ通りに出て旧市庁舎方面を振り返る。聖オレフ教会。Meriton Old Town Hotel Tallinn。粉挽き小屋。正面の丸い建物は、14〜18世紀に使用されていた元粉挽き小屋。当時は馬を利用して挽いていたようです。1757年にはこの教会の火事の影響を受け、1772年に再建。また「エストニア自由戦争(1918年〜1920年)」 の際には「祖国を守るため」にこちらで銃が配布されたと。前方のスールランナ門を潜って城壁外へ出る。太っちょマルガレータ(Paks Margareeta)、中は海洋博物館。旧市街北端、スールランナ門に隣接する砲塔の通称。16世紀前半に町の防御のために建造。高さ20メートル、直径25メートルで壁の厚さは5メートル近くあると。兵舎や監獄として使われたことがあり、通称は囚人の食事の世話をしたマルガレータという名の女性にちなむ。1917年のロシア革命時に火災になったが、修復後は海洋博物館になっているのだ。 太っちょマルガレータの横のグレート・コースト・ゲート(Great Coast Gate)。PIKK通りを下って港に向かうには最後にこのゲートをくぐることになる。脇塔の上部も複雑な形状。 門の上には、タリンの紋章が彫られていた。砲塔は現在、エストニア海洋博物館として、さまざまな帆船の模型や船具などを展示。 塔の屋上からは、旧市街や港を展望することもできると。太っちょマルガレータ(右)と聖オレフ教会の尖塔(左)芝生の上に三日月の如く光る物は「エストニア号のモニュメント」。これは、エストニアの大型フェリー「エストニア号」が座礁、沈没して、乗客・乗員のほとんど、約900人が死亡した事故の慰霊モニュメント。集合時間もあり引き返す。「3人姉妹」と建物。15世紀に建てられた住宅の集合体で、タリン観光の名所の一つ。建物正面が女性的な雰囲気を持っていることから「三人姉妹」と呼ばれていると。建物の上部には荷物を引き揚げるクレーンがあり、屋根裏は荷物を入れる倉庫になっていると。再び聖オレフ教会。内務省の建物。旧KGB本部ビルディング。KGB(カーゲーベー)と聞いてもいまの若い人は知らないか?ソ連の国家保安委員会のことで、アメリカでいうところのCIAに相当する組織。ウラジーミル・プーチン現ロシア大統領はこの組織の出身で、東ドイツを拠点に活動していた時期があったのだ。 100mを超す聖オレフ教会の尖塔もKGBの無線通信に利用されていたのだと。旧KGB本部ビルディングと内務省を結ぶ連絡橋。内務省側にはエストニア国旗が掲げられていたが、もちろんKGB側にはなし。 人気のレストラン Bona。公園の隅にあったこの建物もロシア正教会?左手にスウェーデン大使館。ロシア大使館手前の外装が美しい建物。ロシア大使館の一部?。Kanutiギルドホール。1806年創業のタリン最古の老舗カフェ マイアスモック(Maiasmokk)。店入口付近には、ティーカーップの乗った観覧車の飾りが。そして「The oldest cafe in Tallinn, 〜」との記載が。先程ツアー仲間とトイレを使わせていただいたカフェ。ラエコヤ広場の入口まで戻ってきました。集合時間に余裕があったので、1422年開業の市議会薬局(Raeaptek)内部に入る。ドアにもヘビマークが。薬局カウンター。歴史を感じさせる展示物の数々。窓際の壁の絵は、18世紀の寓話の女神(Thalia )の絵。窓辺の円柱は、白雲石で出来た17世紀のバロック様式。漢方薬の如きサンプル。精密天秤。これも歴史を感じさせてくれる古い瓶やパッケージ、ラベル。蒸留器?薬局の窓からのラエコヤ広場と旧市庁舎。薬局を出て待ち合わせ場所に向かう。再びラエコヤ広場と旧市庁舎。壁に飾られたキリスト像。ドラゴンの装飾が施された雨樋とのこと。
2017.05.11
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我が部屋から、タリン港をカメラズームすると大きなクルーズ船が入港中であることが見えた。そして8:30前にタリン旧市街観光にバスで出発。これがタリン旧市街観光の本番で、早朝散歩はその為の予習(笑)。案の定、散歩コースと同じ道をバスは走る。Vene Teater, Tallinn, Viro ロシアの劇場。のっぽのヘルマン近くでバスを下車。外はあいにくの小雨。世界遺産の旧市街地図。再びアレキサンドル・ネフスキー聖堂。ロシア式の聖堂では、「クーポル」と呼ばれる屋根が。十字架の上の短いのはキリストが磔にされた十字架を表し、下にある斜めの棒は天秤で右上が天国、左下が地獄を意味していると。 2つ目の三日月は「錨」なのだと。船が停泊する時に錨を下ろすのと同じと。宗教もここで錨を下ろす、つまりこの地にこの宗教を根付かせると 言う意味があるのだと。入口上部にライオン3頭が縦に並んだ国章が掲げられていた。このロシア正教会はモスクワに総主教庁が置かれており、現在のモスクワ総主教アレクシー2世(俗名はAleksei Ridiger)はタリン出身者であるとのこと。トームペア城は18世紀にバロック様式の宮殿そして現在は国会議事堂。入場はできなかった。王宮の前は13世紀にドイツの騎士団がこの場所に砦を建てたのが最初と。その頃の様子は西側の城壁と崖の景観とのっぽのヘルマンといわれる塔で見ることができるのだと。商工会議所の壁の映画俳優・Voldemar Pansoの像。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。時計と尖塔。展望台からの眺望。旧市庁舎の尖塔のトーマスおじさんをズームで。聖ヨハネ教会の尖塔をズームで。 エストニア科学アカデミー 。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂。 城壁。 デンマーク王の庭側に入り、早朝散歩では上れなかった城壁上部に狭い階段を上がる。ここは突き当たりの喫茶店のスペースになっている模様。 デンマーク王の庭を城壁上部の「馬小屋」と名づけたタリ塔から。処女の塔、キーク・イン・デ・キョクの赤い屋根も。 回廊からの景色を楽しむ。 顔の無い像は最近設置した美術品とのこと。 短い足(Luhike Jalg)。長い足(Pikk Jalg)に比べて細くて急な下り坂。 短い足(Luhike Jalg)への入口を振り返る。 ニクリステ博物館=聖ニコラス教会(Niguliste kirik)。博物館の裏側に出た。1230年代にゴットランド島からきたドイツ商人によって建てられた教会で第二次世界大戦の際爆弾で破壊され、その後1980年代に修復。現在は宗教芸術のみを対象とする博物館。たくさんの展示作品の中でも、バーント・ノトケの美しくも不気味な絵画「死の舞踏(Danse Macabre)」は有名と。尖塔の下にも小さな教会風建物が並んでいた。 聖ニコラス教会の遠景。 旧市庁舎前のラエコヤ広場に出る。 ラエコヤ広場の周囲には色彩豊かな建物群がほぼ同じ高さで並んでいた。 旧市庁舎の東壁には荷物昇降用のフックが。この旧市街の建物には至る所に同様に。旧市庁舎の尖塔。雨も止み青空も見えて来た。
2017.05.10
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旧市庁舎をラエコヤ広場中央から。 65mの尖塔を見上げる。 再びラエコヤ広場を囲む建築群。右手に聖霊教会の尖塔。 旧市庁舎をヴィル通り側から。旧市庁舎壁のこちら側は装飾無し。ヴィル通りをヴィル門に向けて歩く。 ヴィル門手前左のセーターの壁。 セーターの壁は、タリンの旧市街地にある「城壁」を利用した「ニット製品の露店」が並ぶ場所。この日は城壁の下の道は道路工事中。中央に見えるのがヘレマン塔(Hellemanni Torn)。3階建てのヘレマン塔(Hellemanni Torn)は14世紀に建設され、監獄や武器庫として使用。塔からは、石と木でできた城壁に登ることができ、城壁の長さは200mあるため、聖オレフ教会=オレヴィステ教会(Oleviste kirik)、精霊教会、旧市庁舎(Raekoda)など旧市街の主要な場所を眺めることができると。 聖ニコライ教会。丸いドームを持つ白亜の教会。これがロシア正教の聖ニコライ教会。 ドミニコ修道院の中庭につながっている聖ペテロ・パウロ教会の門 。ドミニコ修道院。最初にドミニコ修道会は1229年トームペアに修道院を建立したが帯剣騎士団との闘いに敗れ、1246年に現在の場所に修道院を移した。修道院を起点としてエストニアにおけるキリスト教の布教につとめるが、ドミニコ修道会は宗教裁判や免罪符に深く関わっていたため、市民から憎まれた。宗教改革が到来すると1524年に暴徒と化した人々に修道院が破壊され、さらにその翌年、市議会によって布教活動を停止されるに至った。その後、1531年に火災に遭い大部分が廃墟となっている。20世紀半ばに発掘調査と改修が行われ、現在は博物館となっていると。ヴェネ通りを南に歩く。 振り返ると聖ニコライ教会が見えた。 ヴェネ通りを更に進む。 再びヴィル通りを歩く。 ベンチに座っていた豚。休んでいけば?と誘われているような気がしたが。ヴィル門(右側) ヴィル門(左側)。 ヴィル門を城外から。 ヴィル門横にも入口が。反対側にも。 ヴィル門前には花屋が既に開店中。 チューリップ他様々な花々が。 タリンの街を走るトラム。タムサーレ公園のパルク街道に沿った場所にあった像。Tallinn Sailing Regatta Mermaid(タリン セーリング レガッタ マーメイド)。モスクワで実施された第22回夏季オリンピック(1980年)の記念碑。タリンのピリタ川でセーリング&レガッタ競技が行われたようだ。そして早朝散歩を終えホテルに7:30に戻り朝食へ。
2017.05.09
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更に早朝散歩は急ぎ足で。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。大聖堂(トームキリク)は、1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐ建設した教会で、エストニア本土で最古の教会。聖母マリア大聖堂とも呼ばれています。創建当初は、木造の教会でしたが、その後石造の大聖堂が建立され、聖母マリアに捧げられた。創建から何度も修復が繰り返されたため大聖堂(トームキリク)は、さまざまな建築様式が混在する教会となったと。1684年には、トームペアを襲った大火災によって大部分を消失し、約100年の年月をかけて再建。大聖堂の屋根の上にアレキサンドル・ネフスキー聖堂の「タマネギ」が見えた。この緑の建物はエストニアで結成された「ドイツ貴族による騎士団のための建物」。現在の建物は4代目で、建築家Georg Winterhalterによって1845年〜1848年に建設(その前は1684年6月6日の山の手で起きた大火災で消失)。1920年〜1940年に外務省、1948年〜1992年には国立図書館2009年からエストニア芸術大学(Eesti Kunstiakadeemia)の校舎のひとつとして使用されていたが2016年には大学も移動したようだ。 18世紀のドイツ貴族の邸宅。エストニア・タリン司法高等裁判所。展望台入り口。パットクリ展望台 Patkuli Vaateplats から。眼下には間口の狭い切妻屋根の住居がひしめいていた。煙突のある赤いとんがり屋根も。聖オレフ教会の尖塔。キリスト変容教会。聖ニコラス教会。タリン港。州首相庁舎。ピック・ヤルク(Pikk Jalg)通りを歩く。ピック・ヤルクは長い足の意味。下町と城を結ぶ唯一の道。短い足Luhike Jalgの道が出来ると市民はこの道を使い、貴族たちの馬車はこの長い足の道を使ったと。ピック通りの門塔。正面の高台がトームペア(Toompea)。先程訪ねたタリンの山の手地区。旧市街西部、城壁に囲まれた丘の上に位置し、13世紀建造のトームペア城、タリン大聖堂、帝政ロシア時代のアレクサンドルネフスキー大聖堂などがあったのだ。旧市庁舎の尖塔が見えて来た。ラエコヤ広場(Raekoja Plats)と旧市庁舎(Raekoda)。ラエコヤ広場は中世以来19世紀末まで市場があった。隣接する14世紀建造の旧市庁舎はバルト諸国で唯一のゴシック様式の庁舎建築として知られる。塔の高さは65m。ラエコヤ広場(Raekoja Plats)を取り囲む建物。広場を取り囲むかつての商人たちの館は、色とりどりで綺麗。ラエコヤ広場の一角には1422年開業の市議会薬局が。今も営業を続けており、ヨーロッパ最古の薬局。杯に巻きつく蛇。再生のシンボルでもある蛇があしらわれていると。1422年に記録に初登場しているが、その時の主人は3人目だったとか。薬局内配置図。壁にも薬局の看板が。
2017.05.08
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8日目の朝も5時過ぎに起床、部屋からの眺め。ホテルは旧市街の東の入口・ヴィル門の近く。聖オレフ教会の尖塔が部屋から見えた。 そしてタリン港も。しかし窓ガラスが汚れていた。これは日本と異なる現実。 6時前に早朝散歩に出発。宿泊ホテル SOKOS VIRU。旧ソ連時代の1972年に建設、2011年に改装した22階建て、総部屋数516室の大きなホテル。ホテル前の道を西に進むと、右側にヴィル門が見えた。 左手には巨大な魚を抱き上げる少年二人の像が。エストニア劇場。 1913年、独立前のエストニアで、市民の寄付により建設。二つの建物から成り、向かって左側が「エストニア国立オペラ」、右側が「エストニア・コンサートホール」。劇場前庭の像。 エストニア・ドラマ劇場。 元は1920年に創設されたパウル・セップ率いるエストニア・ドラマスタジオ。1910年建設のドイツ劇場で、426席の大ホールと159席の小ホールがあると。西欧の古典劇やエストニア作家の劇が上演されているとのこと。 聖ヨハネ教会近くにあった銅像。ヘイノ・エッレル(Heino Eller、1887~ 1970)はエストニアの作曲家、教育家。 ここタルトゥ出身。ヴァイオリンと音楽理論の個人レッスンを受けて、いくつかのオーケストラやアンサンブルで演奏し、ソリストとしても活動した人物と。 1918年にエストニア独立宣言。1920年にタルトゥ (Tartu) にてロシアと平和条約締結。エストニア独立戦争戦勝記念碑。第一次世界大戦の後,独立を達成。自由の広場にそびえる、明るい黄色の色彩を帯びた、新ゴシック様式のこの教会が聖ヨハネ教会。 チャールズ教会。ペンテコステ派教会。 キーク・イン・デ・キョク(Kiek in de Kok)。円柱形ののっぽな塔には、キーク・イン・デ・キョクという名前がついています。北ドイツの方言(低地ドイツ語)で、「台所を覗く」という意味。 この塔は1475年に、トームペアの丘の最も緩やかな(つまり、攻城ルートになりやすい)斜面を守るために建造された。1577年のリヴォニア戦争で、ロシア軍の砲弾により最上部を爆破された。その後の修復で、記念に砲弾(6個程)が塔の壁に埋め込まれ、現在でも確認できる。 高さは49.4メートル。塔の上から近所の民家の台所を覗き見できることから、見張りの兵士たちがこの名前をつけたと。 キーク・イン・デ・キョクの後方に聖ニコラス教会の尖塔が見えた。 処女の塔(ネイツィトルン、Neitsitorn)という名の四角い塔。 この名前にも中世ならではの皮肉がこめられていて、実際には売春婦を収容する監獄であったと。 三階建ての塔は、今はカフェになっていると。 日本大使館。ワバドゥセ広場の北西方向にある建物。建物の横にテラスのようなスペースがあった。そこに階段で登って行くと、目の前に聖ニコラス教会が。 城のそばにある処女の塔(ネイツィトルン Neitsitorn)の周辺の城壁も見事。 キーク・イン・デ・キョクを再び別角度から。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂が見えた。 デンマーク王の庭の手前の城壁を外側から。小さな櫓には石落としもついていた。 城壁を潜り内部へ。 デンマーク王の庭(Taani Kuninga Aed)。1219年、デンマーク王ヴァルデマー2世が、当時山の手(Toompea)にあったエストニア人首長の砦を攻めている際、神頼みをすると「赤地に白十字の旗を掲げよ」とのお告げがあり、その通りに旗を掲げて攻め入ると戦いが好転したとか。それによりここがデンマーク国旗(ダンネブロ)発祥の地と言われています。左奥にあるのが、城壁の外からみた「台所を覗く塔(Kiek in de Kok)」手前の四角い塔が「処女の塔(Neitsitorn)」 聖ニコラス教会の尖塔が再び。城壁の上に上れるようであるが時間が早くゲートが閉まっていた。 顔の無い像は、近年の作品とのこと。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂正面。帝政ロシアの一地方にエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキー(Mikhail Preobrazhensky)によって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計され建設された。タリンにあって最大かつ最重要の正教会のクーポル付き大聖堂。 この聖堂は、エストニアの英雄の墓の上に建てられたもので、ロシアの権力を示すとともに、エストニア人の民族運動を抑える目的があったと。エストニアが最初に独立した1918年には移転する計画があったが、実現することはなく、ソ連から独立後現在に至るまでこの地に残されていると。 よってトームペア城の前に建っているのは、エストニアの人々にとっては面白くない建物らしい。 タリンにある教会の中で、最も大きく、豪華な造り。5つのたまねぎドームは、ロシア建築の象徴。ロシアから独立を果たしたエストニア人たちは、1924年にこの大聖堂の取り壊しまで計画したが、予算の関係で敢え無く断念。その後、修復作業が行われ、今日は、エストニアがロシアから受けてきた影響の歴史が垣間見られる一大観光スポットなのだと。 トームペア城=現国会議事堂(Toompea Loss)。バロック様式のピンク色の城。13世紀前半に建設され、支配者が変わるたびに改装されてきた城。 内部は、ガイドツアーで見学できるとか。 屋上にはエストニアの国旗。青はエストニアの空・川・湖・海を表しており、エストニアの国民を象徴するとともに希望・友情・団結を表す。 黒は故郷の大地と同時に暗黒時代の悲しい歴史を忘れまいとする決意を示す。 白は氷と雪および人々の幸福の追求を意味すると。アレキサンドル・ネフスキー聖堂を別の角度から。 のっぽのヘルマン(Pikk Hermann)とトームペア城(Toompea Loss)。 塔の高さは50.2mあり、15世紀の建造当時のまま残されているのだと。 丘の上にはリンダの像が。 古代の王カレフの墓を作るために石を集めていたリンダは、最後の石をエプロンに包んで丘を上がろうとしたが、エプロンの紐がきれて石が落ちてしまったとか。疲れ果てたリンダはその石に腰をおろして悲しみの涙を流したそうで、その姿を描いたのがこの像。彼女の涙は、3km程離れたウレミステ湖になっとのだと。
2017.05.07
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宮殿内部の美を鑑賞後は、外に出て庭園鑑賞をスタート。ルンダーレ宮殿の庭園を含めた全体配置図。 庭は緑の劇場を彷彿させ、パルテール庭園特有の池や噴水がレイアウトされていた。パルテール(parterre)庭園とはヴェルサイユ宮苑などのフランス平面幾何学式庭園に見られる図案を描く装飾花壇。「刺繍花壇」とも呼ばれると。2005年にはローズガーデンの造園が始まり、現在も続いていると。ローズガーデンの大きさは9,000m2で、12,000種とラトヴィアで最大のコレクションと。 バロック様式の豪華な宮殿と美しい左右対称のフランス式庭園。これが「バルトのヴェルサイユ」と呼ばれる一因。中央噴水から四方に拡がっている幾何学的曲線美で植栽された緑の木とその周囲は煉瓦色の美しい色模様。 中央噴水はお休み中。 ソ連の支配下にあった頃は、荒廃していた宮殿も、独立後は、見事に修復。中央噴水から放射状に拡がっている散策通路には、未だ緑の新芽や花は残念ながら見ることは出来なかった。庭園西側からのルンダーレ宮殿。散水チューブも張りめぐられていた。 再び見事に刈り込まれた植栽と赤煉瓦色の石が敷き詰められた地面による緑と赤のコントラストが美しさを。 宮殿前に戻り、一段高いバルコニーからの景色。 遠くに赤い屋根の建物が。庭園管理用の機材の倉庫と控室か? 開花したバラのトンネルを想像して。 こちらは竜宮城の如し。 帰り道からのルンダーレ宮殿。 この日は、スイセンの花が開花したばかり。日本と比べて2ヶ月以上遅れて春が近づいている景色。 庭園はバラ園となっており、季節になると色とりどりのバラが咲き誇ると。 庭園内には所々にベンチも。 庭園の散策を終え、宮殿前に戻る。 庭園入口を庭園側から。 青空の下での7月の庭園の姿を思いっきり想像しての散策を終え庭園を後にする。そして宮殿外周部を散策。 人の姿もなく、一人占め。 宮殿正面の姿も一人占め。 庭園そして宮殿はいずれもシンメトリーの世界。 宮殿内のレストランMezotne Restaurantでランチ。 こちらも野菜の豊富なメインディッシュ。 この大移動の最初のトイレ休憩はラトヴィア⇔エストニアの旧国境にあったドライブインで。 エストニアの道路の速度制限は街中:50km/h,郊外:80km/h,主要高速道路:90km/h。ヘッドライトは常に点灯させる必要があると。そして高速道路は無料。2回目のトイレ休憩はエストニアのリガ湾沿いを走った後、パルヌから内陸部に入り20km程走ったE67号線沿いのHalinga Restoranを利用。そしてバスは300km以上を走破し、19時にこの日のエストニア・タリンにあるSOKOS VIRU HOTEL に無事到着。 外気温は1℃と酷寒の世界。 疲れた体をバイキングスタイルの夕食で癒やす。 この日は部屋でホワイトアスパラパーティー。 チューブ式を探したが見つからず瓶入りマヨネーズを購入し、カップに取り出す。 この国でも出始めたばかりのホワイトアスパラを楽しんだのであった。
2017.05.06
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更にルンダーレ宮殿の見学を続ける。HERCOGA BIBIOTEKA と書いてあったのでバロン公の書斎か。天井フレスコ画。 テーブルには地球儀と地図。続いてはピンクの人口大理石が使われたバラの間。天井画は春の女神達を描いていると。女神フローレンスが美しく集います。21の花飾りが添えられていた。美しいバラの花が壁一面にちりばめられていた。シャンデリアを清掃する係員の姿は珍しいと。水色の間。水色の間には景色や静物の絵がたくさん飾られていた。天井の漆喰彫刻。椅子の布地の模様も美しかった。ピンクの肖像画の間。色々な方の肖像画が。クールラント大公ビロン公。ロマノフ朝第4代のロシア皇帝アンナ帝。クールランド公の寝室。天蓋の付いたベッド、緑色のカーテン、部屋の両側に暖炉が。こんなところで眠ってみたい!!眠れない!!中央の壁面にはビロン公と妻ベニグナの肖像画が。見事な床の寄木細工も美しかった。天井のフレスコ画。 肖像画の間。中央でシャンデリアが輝いていた。 だまし絵。窓から見た宮殿南側のフランス庭園。 公の謁見室、別名赤の書斎。赤いダマスク織の壁面が印象的。寝室の隣にあるということはプライベートな空間だったということなのだろう。多くの絵画も。天井画はヴィーナスとアドニスの神話が描かれていると。クールランド公の第一書斎。 ここも多くの絵画が。 イタリアの間と呼ばれる小さな部屋。この部屋にも多くの風景画や昔の写真が。大理石の間。食堂として使われた広間。壁面を覆う人工大理石からその名が。天井の美しい花模様が優しい雰囲気を醸し出していた。ビロン家の肖像画等が飾られた部屋。宮殿内に肖像画の間という部屋もあるのですが、この宮殿にはどの部屋にも肖像画が必ずと言っていい程飾られていて、当時の支配者達の栄枯盛衰が伺えたのだ。ピーター・バイアンPēterisBīronsの肖像画。1795クールラントの最後の公爵。夫人像。 2階の見学可能な部分の見学を終えた後に、1階の展示施設の見学。そこには、修復の際発掘されたものや、修復で使われたもの、修復前の荒れた状態の宮殿の写真等が展示されていた。
2017.05.05
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7日目の朝の兵ども?が夢の後。 ホテルの巨大なELEFANTはカメラの画面に入りきらず。 朝食後、8:30にバスはBauska(バウスカ)にあるルンダーレ宮殿に向けて出発。この日は小雨、豪雨と天気が大きく変化する中、80km離れた宮殿に向けてラトヴィアA7高速を走る。 バウスカにある青い屋根のジョージ正教会横を通過。バウスカは三つの川の合流点にあり、15世紀にリヴォニア騎士団はこの地の丘に巨大な城を建設しました。その後は、リトアニアとの貿易の中継地として発展したと。そして予定通り10時にルンダーレ宮殿に到着。 小雨の中、宮殿観光に向かう。宮殿近くのレストラン Balta maja。 この宮殿は『バルトのヴェルサイユ』ともいわれている。 以前に訪ねたウィーンのシェーンブルン宮殿を思い出された。宮殿のカラーはマリアテレジアイエローとも言われ裏庭の庭園もよく似ていた。 この宮殿は、ロシアの女帝 アンナの愛人ロビン公の夏の宮殿として建てられたと。建設中にビロン公がシベリアに流刑になってしまうなどの紆余曲折がありつつも、およそ30年もの歳月をかけて、 サンクトペテルブルグの冬の宮殿を手掛けたイタリア人の建築家・ラストゥレリによって1768年に完成。 ルンダーレ宮殿正門の上に置かれたライオン像。コの字状,2階建てのこのルンダーレ宮殿は2階建てのバロック-ロココ様式で,138の部屋から成るのだと。 宮殿の屋根にはコウノトリの巣が。 宮殿入り口から前庭を振り返る。 中に入ると大理石の女性像が迎えてくれた。靴の上から青のビニールカバーを履いて,専任ガイドの方が案内して下さった。正面玄関に面した回廊部分。白と金を用いた天井の美しい曲線装飾が華やかさを演出していた。 宮殿内受付所。いかにも宮殿といった階段。 これぞロココスタイルの装飾。 黄金の広間の手前の小室・緑の間。中央角に陶器製の暖炉用煙道が。黄金の広間を人の写らないチャンスを見計らいシャッターを。公の載冠式が行われた、宮殿の最も豪華な広間。金箔の漆喰彫刻はプロイセンの彫刻家・J.M.グラフが手掛けたと。壁は人口大理石と漆喰彫刻に金ぱくを貼っているので・・・・超豪華。シャンデリア。知恵、力、正義などのテーマを寓話的に描いた天井のフレスコ画。イタリア人バロック画家F.マルティーニとC.ツッキによるものと。黄金の間を出口方向から。 黄金の間に隣接する小部屋には、陶器が飾られていました。黄金の間からは、グランド・ギャラリーが続いています。グランド・ギャラリーの天井のフレスコ画。壁のフレスコ画。緑の間。アンナ女帝、エリザベス女王、エカエリーナ2世などの肖像画がたくさん飾られていた。ビロン公の肖像画。白の広間。舞踏会が行われたここ白の広間は、ここに参列されたご婦人方やその装いを損なうことなく貴婦人たちの着飾ったドレスが美しく映えるようにと白一色の内装で統一してあると。壁や天井のレリーフは一見大理石のようであるが,この辺りでは大理石が産出せず,石灰岩を加工した漆喰を用いているのだと。このロココ様式の漆喰彫刻は素晴らしく、白い部屋の格調を高めるのに役立っているのだと。外から入る光により彫刻に陰影が付き、その美しさはただ白いだけの部屋ではないのであった。天井の一部に飾られた代用大理石彫刻の一つ。 ズームする。 コウノトリであるが,この巣は本物の小枝を白くして用いているのだと。白の広間の壁は、農村風景や動物、神話を描いた漆喰彫刻で飾られていました。磁器の間。45の台の上に東洋の磁器が並んでいた。滝をイメージしてツリー状に置かれた台に陶器が置かれていた。 青の間に戻る。ズボフ伯の部屋には様々な絵画が。タイル張りの暖房設備も見事。冬の厳しい寒さゆえ、暖房設備もそれだけ大きくなり、それを無骨に見せないように、こんな風に美しく飾ったのだろうか。書斎として使われていたのであろう。各種の家具も置かれていた。 緑間の天井の漆喰彫刻。緑の間。
2017.05.04
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ホテルにチェックイン後は19時の夕食まで自由時間とのことでこの日もTXにてリガ旧市街に旅友のSさん、熊本のTさんの3人で向かう。途中、ダウガヴァ川沿いの1905年革命を記念するモニュメント「1905年記念碑」前を通過。まずは中央市場でTXをおり、Tさんとは別行動で旅友Sさんの蜂蜜購入につきあう。既に16:30を過ぎ、中央市場の店は片付けを始めていたが、Sさんは何とか蜂蜜を大量に購入することができたのであった。そして中央市場裏口から出て、RIGA駅の散策に向かう。RIGA駅構内。ホームにはモスクワ行きの夜行寝台列車が停まっていた。モスクワ行きの電光掲示板の表示を撮影したが、文字は残念ながら写っていなかった。LED行先表示器のLEDは、目に見えない速度で点滅を繰り返しており、速いシャッター速度を切ると減灯している部分が線状に消えて写ります。 遅いシャッター速度で撮れば、字が綺麗に写ることが多いのですがこれを忘れていました。こちらはリトアニア国内行きの列車。リフォーム教会。メンツェンドルフ家博物館。聖ペテロ教会。13世紀初頭の木造教会から始まり後に石造に高さ123mの尖塔はリガのランドマークとなっているのだ。 ラトヴィア占領博物館。市庁舎。ブラックヘッドの会館。聖ローランドの像。リガ大聖堂。聖ヤコブ教会。国会議事堂。スウェーデン門。リガに唯一中世から残る城門が、このスウェーデン門。当時城壁の外のヤコブ兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく出入りしたことからスウェーデン門と言われたと。17世紀後半に城壁と塁壁の間にあった建物を改築し造られた。現在は門をくぐると幸せになると言われ、カップルが多く立ち寄る名所に。スウェーデン門を潜りトゥルニア通りへ。トゥルニア通りから見た城壁。中世には高さ10m長さ2kmに渡る城壁に市街は囲まれていた。城壁の塔は「ラーメラ塔」。火薬塔と軍事博物館。14世紀に建てられたレンガ造りの火薬塔は26メートルの高さ、外壁の厚さは3m。スウェーデンの攻撃で半壊したそうで、上の方は17世紀に修復されていると。旧ヤコブ兵舎側面にはラトヴィアの全77都市 の紋章が飾られていた。稜堡の丘。旧市街に沿うようにそしてピルセータス運河を挟むようにして作られてる長細い公園の一角に小高い部分があってこれが稜堡の丘。ピルセータス運河。 世界文化遺産リガ歴史地区はダウガヴァ川とピルセータス運河に挟まれて川中島のようになった地区が旧市街地で、 その周辺に見所が集中しているのであった。1991年1月20日の犠牲者記念碑が小橋を隔てて2ヶ所に。 1991年1月20日は独立運動の真っ直中で旧ソ連軍の特殊部隊がラトヴィア内務省を攻撃し多くの犠牲者が出たと。ルドルフス・ブラウマニス(Rūdolfs Blaumanis)記念像。ラトビアの 劇作家、ジャーナリスト。 ピルセータス運河の対岸に見える、小さな中国風のミニチュアの家が「白鳥の家」?? ラトヴィアのクルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレ三地方の融和を意味する銅像とのこと。 噴水も元気よく涼しげ。 ピルセータス運河と遊覧船乗り場。 自由の記念碑。1935年,ラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑。下に刻まれているのは「祖国と自由に」という文字。 塔の上に立つ女性ミルダが持つ3つの星はクルゼメ・ヴィゼメ・ラトガレのラトビアの3つの地域を表していると。また、頭上の3つの星と手から腕にかけての形の中の空白を子供に見立て、母親が子供を高く抱き上げている様子を表しているのだと。国立オペラ座。 オペラ座前の噴水近くのベンチに座り、帰路のJAL便のWEBチェックインをスマホでTRY。何とか最後方の窓際2席を確保。ラトヴィア国立歴史博物館。 ブリーヴィーバス大通り中央分離帯に置かれた黄色のモニュメント。 いかにもロシア正教!の建物は救世主生誕大聖堂。 外飾りも印象に残る教会。 見るからにロシア的玉ねぎ型のドーム。残念ながら中に入れる時間は過ぎていた。 RIGA駅に向かう途中の道端にグラフィックアーティストカール・パデグス(1911- 1940年)の記念碑が。 RIGA駅に戻りTXでホテルへ。科学アカデミー前を通過。 ダウガヴァ川を渡る鉄道鉄橋の下を潜る。 ヴァンシュ橋からのRIGA城。 そして、ELEFANT HOTEL に到着したのは20時過ぎ。
2017.05.03
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連泊したヴィリニウスのホテルを6日目のこの日も6時過ぎに出ての早朝散歩。 朝の陽光の当たる街並みをネリス川の川面に映していた。 ロシア正教教会。 ヴィリニャ川に浮かぶ小さな船。川沿いのTibetan広場近くにあったモニュメントは何?陰陽石? ロシア正教教会を背景に手を広げて立つ聖人?像。 ロシア正教教会をヴィリニャ川側から。 見つけたら幸せになるといわれる「ウジュピス人魚」 少し悲しそうな顔をしていたが、この像もウジュピスのシンボルの一つらしい。ヴィリニウスのなかにあるウジュピス共和国。ヴィリニャ川で旧市街とは隔たれた場所なのだが、ここが、独立を宣言しているのだと。今では、ヴィリニウスのモンマルトルとも呼ばれている芸術地域とのこと。共和国に入る橋の上からヴィリニャ川を。ウジュピオ通りにある、「ラッパを吹き鳴らす天使の像」。2002年の独立記念日に除幕された記念碑らしい。 逆光!! 旧市街と新市街の境を流れるネリス川を渡ったところにあった「エネルギーと技術の博物館」。日本の国立科学博物館、科学技術館と同じ目的の建物?この博物館の建物は、1903(M36)年に運転を開始した火力発電所をそのまま利用したもの。尖塔の女子像。右手で掲げているのは傘がついた電灯。ギリシャ神話のエレクトラの像で、ソ連時代に一旦撤去されたのち、1994年に再建されたと。ホテルへの帰路、橋の下に吊された物体を発見。 これは何かのモニュメント? 朝食を終え、8時にホテルを出発しシャウレイまでの214kmのバス移動を開始。E272号線をひたすら走る。 十字架の丘に到着十字架の丘(リトアニア語: Kryžių kalnas「クリージュ・カァルナス」)は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして世界遺産・無形文化遺産に登録された。その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられていると。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されていると。入口の出店には様々な木製の十字架が販売されていた。十字架と一言で言っても、宗派事に様々な形状の十字架があることを知ったのであった。ラテン十字、ロシア十字、ケルト十字 、エジプト十字、太陽十字・・・・・。城壁の如き入口を潜り十字架の丘へ向かう。畑の中に盛り上がった丘に群がるように立つ十字架の丘。リトアニアの国民はほぼ全数が敬虔なカトリック信者、「十字架の国」とも呼ばれていると。その民族の、誠実な信仰心と、芯の強さと内なる激しさが守り通した貴重な市民の遺産、それがこの「十字架の丘」であると添乗員から。まさに圧巻?の光景。世界中からたくさんのカトリック教徒がこの丘を目指してやって来ると。1993年には時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世もこの地を訪れ祈りを捧げたのだと。リトアニアは過去2度ロシア・ソ連に併合、進攻されている。最初は1795年、ロシア化政策の強要、遂に堪りかねた市民達は、1830年、憎きロシアへの蜂起が多発。ロシアの報復迫害も日ごとに激しさを増す。それは、カトリック教会の弾圧、リトアニア語の禁止などに及び、反抗者は、2度と帰れぬシベリア流刑へと。その頃から、この丘に十字架が多数立ち始めたと。処刑された人、流刑された人、その家族や知人が十字架を持ち寄り、この地がロシアに対する怨念と祈りの場になったのだと。しかし、更に時を経てリトアニアの最大悲劇は続く。第一次大戦のドイツ占領でロシア・ソ連との一時的な平和条約、それもつかの間、1940年、再度、ソ連軍が進攻、併合されてしまっとと。ロザリオを右手にかかげて。何たる悲劇のリトアニア、ソ連軍のレジスタンス狩りは、悪の極致を極め、何と5年間に数十万人がシベリアへ流刑されたのだと。その度に増える十字架・・・。リトアニアの独立宣言は、1990年、暗い悲惨なソ連併合時代は、60年の長きに亘る。一説では、何と流刑者は100万人に達したとも。リトアニア人は抵抗もできず、ただ祈るのみ、この丘へ十字架を立て、流刑者を想い涙する・・。それも許さなかったソ連軍。「十字架の丘」を禁域とし、むごい仕打ち。何度もブルドーザーで十字架を薙ぎ倒し、焼き払い、丘の消滅をも・・。しかし、人々の魂はそれに屈しなかった。倒され焼かれても、夜中に十字架を立てる。傀儡リトアニア政府もこれには手が付けられなかったと。 肉親を思う気持ちは権力や武力にも勝る、英々と生き続ける、「十字架の丘」。展望、休憩所?日本語の書かれた十字架は目に止まらなかった。 昔はこちらが参道?であったらしい。大きなロザリオを下げて・・・・。言葉はいらない。十字架の丘を再度振り返る。再びは訪れない、訪れたくない光景。墓地ではないことは解っていたが。バスに戻ったが、皆言葉少なに。そしてシャウレイの街中で昼食。ドライバーも店を探して街中を2周して漸くレストランに到着。店は「JUONĖ PASTUOGĖ」。野菜スープ。リトアニア風餃子であるコルドゥーナイ。水餃子のクリームシチューのようで味は「ぼちぼち」。昼食後はラトビア・リガに向けて約130kmの移動。正面にシャウレイ市庁舎。シャウレイ州立大学。「ŠIAULIAI」の文字が。シャウレイ・セントピーターポール大聖堂。そしてリトアニアからラトビアへの国境を越えA8号線をひたすらリガに向かって走る。そしてこの日のリガのホテル「RIXWELL ELEFANT HOTEL RIGA 」に到着15:15過ぎ。
2017.05.02
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トラカイ観光の後は、再びヴィリニウスに戻り、ヴィリニュスの中心を流れるネリス川沿いに通称『杉原桜公園』と呼ばれている公園を訪ねる。入り口に当たる場所には、外交官で『日本のシンドラー』と呼ばれ、多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝の功績を称えるモニュメントがここにも建立されていた。記念碑には『故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ、早稲田大学在学中に日本国外務省の留学試験に合格しハルピン学院に学び、その後外交官となった。1940年リトアニア共和国領事代理の時代に、身近に迫る戦争の危機の中にありながら、必死の覚悟と信念を以って、亡命ユダヤ人約6千名に対して、1ヶ月にわたって査証を発給しつづけ、彼らの生命を救った。 これは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され、永遠に語り継がれるべきものである。ここに早稲田大学は、級友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するとともに、リトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり花咲くことを祈念して桜の木を植樹するものである。 2001年10月2日 早稲田大学』 と。 杉原千畝が命のビザを発給したのは、リトアニアのカウナスという都市にある日本領事館だが、リトアニアのここ首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。杉原千畝は、早稲田大学在学中に外務省の試験に合格。ヴィリニウスにある杉原千畝の記念碑は、早稲田大学によって作られたのだ。また、杉原桜公園の桜は杉原千畝の生誕100周年を記念して植えられた。天皇陛下もここを訪れたことがあるのだと。『杉原桜公園』と書かれた石碑であったが、桜の花はまだ半月以上後か。 バスはヴィリニウス旧市街の観光に向かう。これが本番の観光なのであった(笑 )。添乗員が現地ガイドの英語を通訳して我々に説明するスタイル。夜明けの門。夜明けの門は、街の城塞の一部として1503~1522年に建てられた。9の市門の内、唯一の現存している門。城門らしく防衛に使われた5つの丸い銃眼が。門の上部にはリトアニアの紋章が。門に描かれたフレスコ画。 夜明けの門をくぐりった。振り返ると、夜明けの門の2階の窓の中に聖母礼拝堂が見えた。礼拝堂に行く為に,写真の左手にあるテレサ教会から階段を上がって細い通路を進んだ。我々が訪れた時は祈りの時間で,多くの信者が集まっていたので遠くから。このイコン「黒い聖母の像」は1993年に修復されて現在の形になったそうで,顔の部分と手のみが高価で華美な銀と金の布で覆われていた。慈悲の母聖母マリアの絵は世界中で知られているが、他の国の多くの教会は、このイコンの絵のコピーを持っているのだと。ヴィリニウス大聖堂と鐘楼に再び。大聖堂内部に。祭壇と身廊は意外とシンプル。 パイプオルガン。 内部にも大理石の像が。これも聖カジミエル像か? 聖カジミエルの礼拝所大聖堂最大の見どころ。大理石と砂岩で造られていると。聖カジミエルの遺体は、120年後に開けられた時に、全く変化がなかったという奇跡が伝えられていると。 正面の、聖カジミエルのイコンには、手が3本。画家が、何度消そうとしても、また現れたので、そのまま3本にしたと。内装は、1691~1692年に改築され、祭壇、フレスコ画、化粧漆喰で飾られた。この礼拝堂は、ヴィリニュス大聖堂の他の何よりも、ポーランドリトアニア合同の栄光を象徴していると。天井にも、フレスコ画が。ヴィリニウス大学と聖ヨハネ教会。 旧市庁舎広場と旧市庁舎。 聖ニコラス教会。ヴィリニウスで最も古い正教会の教会の一つ。この場所の最初の木造の正教会の礼拝堂は、1340年頃に建てられた。現在の建物は、1865年にネオビザンティン建築で再建。 聖パラスケワ教会。琥珀美術館に立ち寄る。 様々な虫の入った多くの琥珀が、ルーペ&照明付きで展示されていた。以前、天皇陛下ご夫妻もお訪ねになったようであった。 聖ミカエル教会。 聖アンナ教会(Šv. Onos Bažnyčia)とベルナルディン会教会(Bernardinų Bažnyčia)。ナポレオンが持って帰りたいといったという逸話のあるアンナ教会は左側の茶色の建物で,その奥がベルナルディン教会。 聖アンナ教会(Šv. Onos Bažnyčia)。聖アンナ教会は、15世紀に建てられた後期ゴシック様式の教会。ベルナルディン会教会(Bernardinų Bažnyčia)。15世紀半ば、フランシスコ会によって建てられた教会と修道院。16世紀後改築されたと。そしてバスに乗り大聖堂から5分程の場所で下車。聖ペテロ・パウロ教会(Šv. Petro ir Povilo Bažnyčia)。 聖ペトロ・聖パウロ教会は、カトリックの教会でありかつてのラテラノ修道会の中心であったと。聖母マリア像 木製の美しい主祭壇は、ダウガイのカトリック教会へ1766年に移されたと。主祭壇の代わりに、4体の預言者(ダニエル、エレミヤ、イザヤ、エリヤ)の像と、「聖ペトロと聖パウロの別れ」を表した大きな中央の絵画が、置かれたのだと。教会内の白に合わせて,パイプオルガンも白に塗られていた。オルガンの上の3つの小さい方のフレスコ画は、聖ペトロの人生から三枚続き、すなわち、身体障害者を癒す、牢獄からの脱出、動物達と敷布の幻影が描かれていた。この教会の中の装飾は群を抜いてた。教会の建築には8年,内部の装飾には33年かかったっと。内部には2000以上の漆喰彫刻があり,教会の中に白い光が満ちていた。 真鍮とガラスビーズで作られた船の形のシャンデリアが、ドームの中間から吊るされており、聖ペトロが漁師であったことを思い出させます。この船は、1905年に設置され、7枝に分かれた8本のろうそく立てが。 見事な精細な漆喰彫刻。翼廊には、教会で活動していた2修道士団、「慈悲深い神の母」と「キリストの5聖痕」の祭壇 が。アウグスティヌスの礼拝堂。 そしてこの日も長い観光の一日が終わり連泊のホテルに戻り夕食を楽しむ。スープ。 メインディッシュ。 デザート。 そしてこの日もスーパーでアスパラを購入し、部屋でウイスキーで反省会。 この日も活きエビも購入し塩ゆで。 そして23時過ぎには私は片付けもせずに爆睡。
2017.05.01
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この日はゆっくりと10時にホテルを出発し、最初の観光地のトラカイ城に向かう。ヴィリニウスに移る以前にここリトアニアの首都が置かれていたトラカイは、赤煉瓦の湖上が水面に映る美しい観光地。 ヴィリニウスのホテルから28kmほどの、二つの湖に囲まれ、半島のような南北に延びるトラカイの最も古い地域。 バスを下り湖畔をトラカイ城に向かって歩くと右手前方に観光案内所が。 城の門楼へ続くガルヴェ湖の上に掛けられた橋を渡り進む。 門楼前に到着。リトアニア大公国(12世紀?〜1795年)時代の14世紀後半に最初に建てられた城。17世紀に巻き起こったモスクワ大公国との戦争で、城は損壊され再び建設されることはなく、徐々に荒廃の一途を辿った。第二次世界大戦後、大きな再建計画が1946年に開始され、1951年から1952年にかけて工事が盛んに行われた。再建工事の大部分が終了したのは1961年のことである。城は15世紀の建築様式で建設されていると。 城壁の所々には監視塔が設けられていた。リトアニアの国章の旗が青空に。赤い盾の中心に、銀色(白色)で右手で剣を振り上げた馬に乗った騎士が描かれている。騎士の持つ盾は青地に金(黄)の総主教十字(ヤギェウォ十字)。拍車と剣の柄は金(黄)で、馬具は青と金(黄)。この騎士は通称をヴィーティス(Vytis、追跡者)というと。 博物館見学と写真撮影許可用のチケットを購入し城内へ。 トラカイ城案内図。 トラカイ城の本丸が正面に。左側に兵の宿舎(現在は博物館)。建物の内側は広い庭となっており,馬に跨った将兵が隊列を組んで出兵の準備を整えた場所であったとのこと。中庭から入口方向を振り返る。 中庭では中世騎士に扮した男の寸劇が行われていた。 階段を上がり本丸に向かう橋を渡ると下には空堀が。往事はここまで水が入り込み水路となっていたのであろう。 本丸内部。 トラカイ城本丸入口の跳ね橋。本丸の入り口に連なる道には跳ね橋が設けられていた。高く強固な城壁と,この跳ね橋で滅多なことでは本丸まで侵入するのは困難であったか? トラカイ城本丸中庭。本丸には中庭が設けられ,そこに回廊が巡らされていた。また窓やドアもこの回廊に沿って設けられていた。そして外側はほぼ閉じた構造であり,外敵に対しては鉄壁の守り。剥がれた壁を覗くと,やはり石とレンガ造りであるが,レンガはゴシックレンガ呼ばれるタイプで,全体ではロマネスク要素を含むゴシック様式だと。 レセプションの大広間。大きな部屋で,外国要人の歓迎式典を行うなど,日本で言えば迎賓館の大広間に相当?屋根の構造が中東のバザール天井の如し。やはり城より砦。 壁には大きな戦場の油絵や肖像画が架けてあった。当初フレスコ画もあったのだが傷んで剥がれてしまったと。ヴィータウタス大公(在位1401~1430年)。ステンドグラスも小柄ながら美しかった。 これもヴィータウタス大公像?。 中世騎士像。 トラカイ城の最北端側。 再びステンドグラス。 本丸を出て次に右手の兵の宿舎・博物館を散策。 陶磁器。中国風扇子。 そして再び本丸を。 楼門を出て城壁周囲を一週する。本丸入口の跳ね橋手前の橋。 対岸の島の上の白き建物にもリトアニア国章がたなびいていた。 そして再び橋を渡りバスに戻る。この湖は冬は完全凍結すると。 そしてバスにて近くのレストランに移動し昼食。 トラカイに昔から伝わってきた伝統料理・肉入りパイ料理「キビナイ」 を楽しむ。
2017.04.30
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5日目のこの日の朝も、6時過ぎに、前日の散策で時間の関係で上れなかったゲディミナス城の丘を目指してホテルを出る。ネリス川沿いを歩くと、朝日を浴びた使徒フィリップヤコブ教会が。そしてここヴィリニウスにはレンタルサイクルシステムが存在するらしく自転車が綺麗に並んでいた。 ネリス川沿いのジュヴィユ通りを歩くと前方に、複雑に曲がった水道管?とその先にゲディミナス城が姿を現した。 「エネルギーと技術の博物館」の先のネリス川に架かる橋を渡り大聖堂方面に歩を進める。 リトアニア国立博物館とその後ろにゲディミナス塔。リトアニアの歴史や民族文化に関する展示。ミンダウカス(Mindaugas)像。1253年に王位についたミンダウカス公は初代そして唯一のリトアニアの国王.13世紀に国家としてのリトアニアを形成したのがこのミンダウカス公。 リトアニア大公宮殿前の石像はモアイ像の如し。 リトアニアにキリスト教が浸透する前の土着信仰の神々の像とのこと。大聖堂周辺はもともと雷神ペルクーナスをまつる自然信仰の聖地。そして再びヴィリニウス大聖堂。十字架は後光が射していた。 青空に白く輝く鐘楼。 大聖堂の屋根上に立っている三聖人の像。 大聖堂 入り口上の聖カジミエル。 大聖堂入り口。 入口天井。 内部には日曜日の朝のミサを待つ人の姿が。ゲディミナス塔。 この門は閉まっていたが、パネルによると裏門からのルートもある模様。 幸い裏門は開いていたので、ここから石畳の坂道を上る。 思いの外急な坂。前方には運休中のリフトの頂上駅が。 先程歩いて来たルートが確認できた。 ゲディミナス塔近くの丘の上の城博物館。 ゲディミナス塔 聖ヨハネ教会方面の旧市街の観光の中心地域。 3つの十字架の丘。この地で殉教したフランチェスコ修道会の僧を悼むため、17世紀初めに木製の十字架が建てられた。その後、改修や撤去を経て、1916年にコンクリート製の記念碑が置かれたが、旧ソ連時代に破壊。1989年に復元され、ビリニュスのシンボルとなっていると。旧市街の眺めを堪能し丘を下る。 工芸博物館入り口。 昨日と同様にゲディミノ大通りを歩きホテルに向かう。国立ドラマ劇場の前の像を再び。Vladas Jurgutis像。リトアニアの司祭、経済学者、教授。リトアニア銀行の最初の会長として、「リトアニアリタスの父」と呼ばれている人物。ゼマイート像。リトアニア作家、教育者とのこと。 KGB博物館のとなりの小さな広場にある石を積み上げたこの記念碑。ソ連占領時代の犠牲者のためのもの。KGB博物館。旧ソ連領となる前からソ連のKGB(ソ連国家保安委員会)に監視されていたリトアニアの人々は、KGBの本部が置かれていたこの場所に連れて来られ、拷問を受けたり、シベリアに送られたりしていた。地下の留置所を含めこの建物は現在、博物館として一般に公開。建物の壁には、ここで犠牲になった人々の名前が刻まれていると。 ゲディミノ大通りをネリス川まで歩く。 リトアニア国立図書館。 国会議事堂。 聖母教会。 そして9時前にはホテルに戻ったのであった。
2017.04.29
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聖ヨハネ教会が前方に。ヴィリニュス大学の中にある教会。旧ソ連時代、ここは科学思想博物館として使用されていた。内部には有名な学者たちの肖像画も飾られていると。 聖ヨハネ教会の尖塔。 大統領官邸の横入口。 官邸中庭。内部に入れる様であったが、セキュリティイチェックが厳しそうだったので時間も無く諦めた。大統領官邸正面。手前はダウカンタス広場(Daukantas Square)。16世紀ごろはヴィリニュス司教の住居であった。18世紀にロシア帝国に支配された時には、ヴィリニウス総督の住居となり、ロシア皇帝アレクサンドル1世やフランス王ルイ18世、ナポレオンなどがこの宮殿に訪問したと。1997年に改装され、それ以降はリトアニア大統領の官邸となっていると。大統領が官邸あるいは街にいるときは大統領の紋章の国旗が揚げられるのだと。この日は官邸にいたようであった。ヴィリニウス大学1579年に創立されたこの大学は、中央ヨーロッパでもクラクフのヤギェウォ大学、ケーニヒスベルクの大学に次ぐ古い歴史を誇る大学。1700年以降、ロシア帝国の領地になったヴィリニュスで、大学は反対運動の本拠となった。そのため大学はロシアにより、およそ1世紀もの間封鎖。敷地内には12の中庭があり、またバロック様式の建物にはフレスコ画が残されていると。聖ヨハネ教会の尖塔がこちらからも見えた。ヴィリニウス大学配置図 聖ミカエル教会。リトアニア大公国の最高位であったレオ・サピエカの命により、一家の廊として1594年から1604年にかけて建造されたルネッサンス様式の教会。1655年にはコサックの襲撃を受け建物の一部は破壊されたが、その後何度か改修が繰り返され現在に至った。旧ソ連時代は、建築博物館として使用されていたと。 聖アンナ教会(左)とベルナルディン教会(右)。聖アンナ教会旧市街の東側にあるこの教会は、15世紀末に建造されたゴシックの秀作といわれている建造物です。フランボワイアン式の華やかなファサードを持つ、この赤レンガ造りの教会は、その美しさからナポレオンが持ち帰りたがった、という逸話も残されていると。 教会内部。入ってすぐに目に入る主廊と主祭壇。美しいステンドグラス。 教会前で結婚式の記念撮影が行われていた。ベルナルディン教会。赤レンガのベルナルディン教会は15世紀に造られているが、現在の建物は16世紀の改築後のもの。聖アンナ教会と近接している。アダムミツキェヴィチモニュメント。 聖アンナ教会旧市街の東側にあるこの教会は、15世紀末に建造されたゴシックの秀作といわれている建造物。フランボワイアン式の華やかなファサードを持つ、この赤レンガ造りの教会は、その美しさからナポレオンが持ち帰りたがった、という逸話も残されていると。 ゲディミナス城。14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っていた。ここからは新市街と旧市街が一望できまると。「下の城」と呼ばれる王宮は、大聖堂のある広場に。この塔は丘の上に建っており、丘の上にはケーブルカーで上れるとのことであったがこの日は、土砂崩れも影響で運休中であった。 ゲディミナスの塔。リトアニア国旗の黄・緑・赤の3色旗が塔の上に掲げられていた。 王宮。代々のリトアニア大公居城(再建)、現在は博物館。 大聖堂はヴィリニュスのシンボル。18世紀のクラシック様式、鐘楼は高さ53m。 人間の鎖の起点。1989年ソ連からの独立を求めるバルト3国の人々は、手と手を握り、ヴィリニウス・リガ・タリンを結ぶ「人間の鎖」を作った。この広場はその起点。人々が連帯して世界に訴え、歴史を変えた記念すべき場所。 文字はstebuklas(奇跡)と書かれていると。この上で時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうらしいので私も。ヴィリニュス大聖堂。旧市街にあるカトリック教会の大聖堂。多神教の古代より雷神ペルクーナスの神殿があったとされ1251年、十字軍の弾圧から逃れるため、ミンダウガス王がキリスト教を受け入れて最初に建造した主教座教会。その後元の神殿に戻され、14世紀にキリスト教が国教となり教会が再建。建物は18世紀に大改築が行われ、現在見られる姿となった。正面の屋根にある聖スタニスラウス、聖ヘレン、聖カジミエルの3聖人の像は、旧ソ連時代には撤去されていたが、1996年に再設置されたと。 ヴィリニュス大聖堂広場のゲディミナス大公像。鎧に身を固めたゲディミナス大公が馬を従えた像。ヴィリニュス大聖堂前からケディミノ大通りを見る。大聖堂前のケンタッキーでトイレ休憩。品物を購入し、レシートのパスワードNoを押さないとトイレの扉が開かないシステム。 帰路はホテルまで徒歩にて。リトアニア国立ドラマ劇場前の怪しい3体の像。この3体の像は音楽・舞踏・学術・文芸などを司るギリシア神話の女神、ミューズ。女性なのか??それぞれ表情が異なりドラマ、悲劇、喜劇を表しているのだと。 クディルコス広場。ヴィンツァス・クディルカ(Vincas Kudirka )の像。リトアニアの詩人、医者、作家。リトアニア国歌「国民賛歌」の作詞者および作曲家。 ネリス川沿いの建物の壁には滝の姿を描いたアートが一面に。 大天使ラファエル教会。 使徒フィリップヤコブ教会をズームで。 そして18:30前にホテルに戻り19時からの夕食を。スープ。 メインディッシュ。 デザート。 そして部屋に戻り、この日の長い一日の反省会をウィスキー片手に旅友と。
2017.04.28
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昼食は郊外の高速A1号線手前、ネリス川沿いのリトアニア料理を食べられる洒落たレストラン。店の名はMūsų Dvaras。マシュルーム スープ。リトアニア名物「ツェペリナイ」(ミンチのジャガイモ団子)。飛行船ツェッペリンに似ていることから命名されたとのこと。そして次の訪問地 ヴィリニウスまでの102kmの大移動。左手にヴィリニウス発電所。テレビ塔(326.5 m)。1991年にソ連からの独立を願って立ち向かった一般市民とソ連軍の争いの痕跡が残る歴史的建造物とのこと。現在は上層階に回転レストランもああるのだと。こちらは民間工場か。ネリス川を渡る。そして BEST WESTERN VILNIUS HOTEL に到着したのは予定より早く14時過ぎ。チェックインし、夕食の19時までは自由時間とのことで15時前にはフロントでTXを呼んでもらい旅友と二人でヴィリニウス旧市街の散策に出発。TXで旧市街の一番奥の「夜明けの門」まで9€で連れて行ってもらう。もちろん翌日の午後に正式観光が予定されていたが、その際に訪ねない寺院を中心に散策することにしたのであった。夜明けの門を潜り振り返る。聖テレサ教会。1633年から1650年にかけて建造された、初期バロックのファサードが特徴的な教会。装飾された渦巻き型のオベリスクが、どことなくローマ風建築。レンガ造りが多かったこの時代に、リトアニア大公国の副首相だったステーポナス・パツァスの保護と寄付を受け、花崗岩と大理石等の豪華な建造された美しい教会。教会内部。教会の中は広く 祭壇までいく道の間も非常に美しい壁画や美術品が。天井画。ステンドグラス。次に聖霊教会へ。入り口は可愛らしいピンクの外観。聖霊教会は、ヴィリニウスで最も古く、成熟した後期バロックの時代の最も贅沢に装飾された教会の一つ。教会の最初の建物は国のキリスト教への改宗前のゲディミナス時代には、この場所に立っていたと考えられていると。15世紀の初めに大公ヴィータウタスは、聖霊教会を建てたが1679年~1688年に教会が拡張され、再建されたと。聖三位一体教会。教会と修道院として使われていた、バロック様式の東方帰一教会。この東方帰一教会とは、16世紀にポーランドとの連合国として、ロシア正教徒の多いウクライナ、 ベラルーシに進出した際、宗教的妥協のために始められた「ユニエイト」(合同教会)に属す宗派で、ロシア正教の儀礼を残しながらもローマ法王の権威を承認した珍しい宗派の教会とのこと。城壁を内側から。円形城壁。ヴィルニウスは、かつては旧市街の周囲を城壁が取り囲む城塞都市。 しかし、現在では、その面影は旧市街南端の「夜明けの門」、そこから北東へ延びる城壁の一部、そして復元が完成したこの「円形城塞」が残る程度とのこと。円形城塞背後の城壁は、石積みの土台の上に赤レンガで築かれていた。ここは見張り櫓のようなものか。ミッショナリー教会。正教会大聖堂。 聖カジミエル教会を裏側から。聖カジミエル教会正面。17世紀初頭に建造されたイエズス会の教会。ここにはリトアニアの守護聖人である聖カジミエルが祀られています。ロシア=ポーランド戦争の時に火災に見舞われ、その後18世紀中頃にバロック様式で再建されました。後にロシア正教、そしてプロテスタントの教会となりますが、宗教が禁じられていた旧ソ連時代には博物館として使用されていました。独立回復後の1991年、イエズス会の教会として復帰。内部には聖カジミエルの生涯を描いたフレスコ画や後期バロック様式の祭壇が3つあると。オールセイント教会。聖母マリア教会の尖塔。旧市庁舎。旧市庁舎はそもそもゴシック様式の建物であったが、18世紀の終わりにクラシックな建物に改装された。かつては裁判所、財務室や武器弾薬庫などが置かれ、地下には刑務所も。現在は様々なイベントが年中開催されていると。聖ニコラス教会。リトアニアのなかでも最古とも言われる。14世紀半ばに作られた煉瓦作りの教会。聖ニコラス教会を横から。フランシスコ教会聖母マリア・フランシスコ修道院・昇天教会 聖キャサリーン教会。1625-1743年に建てられた後期バロック様式の教会。教会の南東側はクリストファーが設計したプロビデンスチャペル。この建物も第二次世界大戦中に破壊され貴重な作品の多くを失ったとか。ソ連時代には、教会はヴィリニュス美術館に属していたと。 聖イグナトス教会。美しいアーチが印象的なイエズス教会。教会内部。奇跡的に残っている18世紀当時のフレスコ画が大切に保管されていると。聖トリニティ教会。
2017.04.27
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次いでカウナス城の前でバスを下車。この城は煉瓦造りの城で、前の広場には雷を待っている雷信仰の時代の人をデザイン化したカンクリニンガスの像が立っていた。 何故か私には「水戸黄門」像に見えたのであった。13世紀にドイツ騎士団の侵攻に備える国境(ネリス川)の土手沿いに構築された城塞であり、壁の厚さ2m、高さ13mもあったと。しかし、川の氾濫でいつしか城の崩壊が始まり現在は、修復された城壁と塔の一部のみが残っていた。カウナス城の碑。 空堀に架かる木橋とカウナス城。カウナス城とその後ろに聖ゲオロギ教会。リトアニアの国章であるヴィーティスと呼ばれる乗馬した騎士の絵の旗が。ドイツ騎士団との攻防に重要な役割を担ったカウナス城。今では朽ち果てた城壁を眺めながら、そんな歴史の一幕に想いを馳せてみたのであった。 聖ゲオロギ教会は15世紀のゴシック建築の教会。 カウナス司祭神学校。 先程訪ねたイエズス教会(後方)と旧市庁舎(手前)の尖塔は一つの教会の如し風景。 そしてメトロ・ポリスホテルへ。 杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していたホテルこそが、このホテル・メトロポリス。このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。 高級住宅地の狭い道路を曲がりながらバスが進むと杉原記念館に到着。正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。思いの外小さな、領事館というより普通の住宅なのであった。杉原記念館の外観を門から。現在記念館は地下1階のみとなっているが、正面の窓が当時の執務室。門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。 現在の記念館入り口は横から。 杉原ー命の外交官基金 杉原記念館 と書かれたプレートが。 杉原千畝が書いたヴィザの写真。我々は、まず最初にやや広い部屋に通され、杉原千畝の生涯と功績を紹介する15分ばかりの映画を観た。部屋にはリトアニア、日本、オランダ、イスラエル国旗が。カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクである。彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断したのであった。事の始まりは、1940年7月18日の早朝。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然、多くの人たちの話し声で騒がしくなった。杉原が、カーテンの隙間から外を見ると、よれよれの服を着た老若男女たちが群れ集まっていた。新大陸への出国するために、シベリアと日本を経由する通過ビザを求めるユダヤ人難民たちだった。 当時、リトアニアは、ナチ・ドイツとスターリン・ソ連による強盗同士のモロトフ=リッベントロップ協定秘密議定書に基づいて、ソ連に占領されていた。そのためソ連は、もはや独立国ではないリトアニアに各国の出先機関は不要とばかりに、各国に大使館・領事館の閉鎖を求めていた。在カウナス日本領事館は、まだ開いていた数少ない国だった。その日本領事館に、必死のユダヤ人が最後の命綱として集まって来たのである。杉原は、母国にビザ発給の是非を尋ねる。ナチ・ドイツと同盟していた当時の日本の外務省は、ユダヤ人救援には当然に否定的だった。放っておけ、という答えだった。しかしキリスト教徒(正教会の信者)だった杉原は、必死の形相で通過ビザを求めるユダヤ人たちの窮状を見過ごせなかった。 大胆にも本国の訓令に反して、通過ビザを無断で発給することに決めたのである。1ヶ月で発給したビザの数は2139通にもなったと。ビザを書く指は腫れ、手はしびれた。妻の幸子夫人が腕をさすって、介助したと。ビザを書き始めたのが1940年7月29日。そこから日本領事館が閉鎖された8月25日、リトアニアを出国した9月5日まで。休む間も惜しんでビザを発給し続けた。最後はカウナス駅で列車が出発する直前まで手書きでビザを発給し、車窓から放るように手渡したと。 杉原が発給した通過ビザの実物。敦賀上陸と書かれている。在カウナス領事代理の杉原の署名がある。 日本各地からの訪問団の記録。 当時の外交官執務室を再現した執務室。机に座り杉原千畝領事の目線を体験することも出来たのであった。 そして当時の領事官で働いていた人の姿も。 様々な関係資料が壁全面に。 訪問帳には、この部屋を訪れた人々の様々な思いが綴られていた。 杉原千畝家族。中央が杉原千畝、左が妻の幸子で、右端が幸子の妹の菊池節子。杉原千畝は1986年、心臓病で86歳でこの世を去る。奥さまの幸子さんは2008年に他界。当時の領事官の人々。3人のご子息。第2次大戦の闇の中で、杉原千畝はなぜ、回訓に背き職を賭してまであのような決断ができたのか。千畝が残した数少ない下記のことばから、わたしたちは彼の思想、人間性にふれることができるでは。 『最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を、文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。・・・果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している』 (『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊)この様な人物を大学の先輩に持ったことに「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。
2017.04.26
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この日も早朝起床し6時過ぎにカウナスの街の散策に出発する。まずはホテルから5分強の場所にあるカウナス駅へ。ドイツ軍侵攻に伴い隣国ポーランドから迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対し、当時在カウナス日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝(ちうね)は、盟邦ドイツへの配慮から査証発給を避けるよう訓令を発していた本国外務省の意向に反し、ユダヤ人に対して日本通過を可能とした査証及び渡航証明書を発給して欧州からの脱出を支援したのであった。杉原千畝がリトアニアからの国外退去を命じられドイツへ移動する際、汽車が発車する直前まで「命のビザ」を発給し続けたのがこのカウナス駅なのだ。 列車案内板、時間は6:24。ホームに出て、杉原千畝の記念プレートを探したが見つからなかった。 新型の電車が出番を待っていた。ホームにはオランダ・アムステルダムまで1576km、ヴィリニウスまで104kmの表示が。 カウナス駅を後にし更に歩を進めると前方にあったのがKauno Šv. Kryžiaus (Karmelitų) bažnyčia教会。 次に訪れた聖ミカエル教会(St. Michael the Archangel Church)。これがライスヴェス通りの端に通せんぼするが如く立っている巨大な聖ミカエル教会。カウナスがロシア帝国支配下であった1891~1895年にかけて、正教のカウナス要塞として新ビザンチン様式で作られたとのこと。第一次大戦でカウナス砦が陥落後、鐘はドイツに運ばれ、教会は1919年まで閉鎖。そして二次大戦中はカウナス砦のローマカトリック教会となり、またその後ソ連占領下ではキリスト教が奪われ、アートギャラリーとして使われた。独立回復後は再びローマカトリック教会として復活したと。 天を仰いで横たわる男の像は何を訴えていたのだろうか? 聖ミカエル教会の裏側。 暫く歩くと左手にナショナルムク・シアーリオニス美術館。 壁に描かれた不思議な絵。悩む?女性像。ホテルの近くにはロシア正教会が二つ。 ロシア正教会 Apreiškimo Švč. Dievo Motinai katedra。ロシア正教会 Kristaus prisikėlimo cerkvė 。そしてカウナスのバスターミナル。 ホテルに戻り朝食。 9:30に出発しカウナス市内観光へ。最初に訪れたのが、15世紀前半に建てられたゴシック様式のヴィタウタス大公教会。この教会はヴィタウタス大公が、タタール征伐に出かけた際に、戦場で奇跡的に難を逃れたことがあり、感謝の印に建てたものと言われていると。 この教会はネムナス川の横にあった。ネムナス川の流れは思いのほか速かった。1946年にカウナスは大洪水の被害に遭い教会も一部が水没したと。教会に取り付けられたプレート。洪水被害の最高水位が印されていた。 15世紀に建てられたゴシック様式の傑作と言われる「ペルクーナスの家」。ヨーロッパの古い言い伝え的な話だが、かつてこの場所には雷神ペルクーナスを祀る神殿があったのだと。その言い伝えを裏付ける証拠として19世紀に修築が行われたときに、30cmのブロンズ像が見つかったのだと。ただ、「ペルクーナス説」、「タタールによってもたらされたインドの神像だという説」という二つの説で論争が起こったと。この論争が原因なのか不明だがその像は、失われてしまい現在では残っていないと。像は失われたものの、ペルクーナスの名前は定着し今に至っているのだと。 カウナス旧市庁舎へ向かう道を振り返る。左側がヴィタウタス大公教会 、右側が「ペルクーナスの家」。 カウナス旧市庁舎(Kaunas town hall)広場に到着。塔を持つ白い建物がカウナス旧市庁舎だが私には教会のように見えたのであった。16世紀半ばに建設され,1775年,『白鳥』にも例えられると云う現在のバロック様式の優美な姿に再建されたそうだ.ロシア支配下時代は政治犯の牢獄,後に皇帝の別宅等々に変遷し,現在は結婚式場や婚姻届の提出場所となっているのだと。また旧市庁舎の古い地下室は、現代作家の陶器博物館として利用されていると。 市役所の前は広場となっており,タリンでも旧市役所前に広場があったのと似ていた。青空に映える旧市庁舎。 旧市庁舎入り口。左側に黄色・緑・赤の3色のリトアニア国旗が。黄色は太陽、光、繁栄、緑は自然の美しさと自由と希望、赤は大地と勇気と祖国のために流された血を表していると。右側はリトアニア国章。赤い盾の中心に、銀色(白色)で右手で剣を振り上げた馬に乗った騎士が描かれていた。イエズス教会(St. Francis Church & Jesuit Monastery)。旧市庁舎の左手に見えたのは,17世紀建立で,修道院併設のイエズス教会。他の教会同様,ソ連占領下では他用途に転用され,独立回復後教会に復活したと。ぱっと見,このイエズス教会が市役所,旧市庁舎が教会に間違えそうな雰囲気も。 この「考える人」?は詩人マイロニス 。市庁舎広場の水飲み場? ベルナディン修道院とその前に立つ銅像。旧市庁舎の右背後に隠れたように建っているのが、ベルナディン修道院だが、その門の右に人物像が立っていた。ガイド氏からも説明がなかったが、聖人なのか?。手元のガイドブックにも触れられていない。 書かれていたMotiejus Valančiusで検索すると、カトリック主教だが、19世紀リトアニア・サモギティア地方では有名な作家だったらしい。旧市庁舎広場は絵になる光景。 カウナス大聖堂(Kaunas Cathedral)。正式には聖ペテロ&パウロ大聖堂(St Peter and St Paul's Cathedral)と呼ばれ,聖ペテロと聖パウロに捧げたカトリック教会。翌日首都ヴィリニュスで訪ねた聖ペテロ&パウロ教会も同じ名を冠してあった。赤いレンガ造りの外側は直線主体の比較的さっぱりした形態だが,ゴシック様式だそうで,1671年頃建てられたと。そして1655年の戦禍で被害を蒙り,1671年にいくらかルネッサンス様式を付加して再建されたと。 カナウス大聖堂の内部。さっぱりした外側に対し,内部は多くの彫刻やフレスコ画で埋められ,とても見応えが。壁や柱が淡いピンクやパープル等で彩色され,所々に金箔が貼られ,華やか。こうした色使いで,ケバケバ感なくして落ち着いた美しさを演出していた。改装の一環として,1771年にポーランドリトアニア共和国最後の国王スタニスワフアウグストポニャトフスキ(Stanislaw August Poniatowski:1732~1798年)が内部装飾の基礎を作ったと。1775年には聖書台や聖歌隊席が設けられ,現在の形態になったのは1800年からのさらなる改築の結果だとのこと。
2017.04.25
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リーガ大聖堂のステンドグラスの美しさの余韻に浸りながら、更に旧市街の散策を続ける。「三人兄弟の家」。三人兄弟の家は、三連を成すリガの典型的な建物。外観は建築当時の姿をほぼ留めており、3つともそれぞれの時代を表す特徴的な建物。向かって右端の建物は、15世紀に建築されたリガ最古の石像住宅で、階段式の切妻屋根とゴシックの壁龕で装飾。この住宅が建築された時代は、リガの土地問題が深刻ではなかったため玄関を石のベンチで飾っていたと。中央は、淡い黄色の外壁が印象的な建物。17世紀に建築され、正面はオランダのマニエリスム様式。最後に、向かって左端、17世紀末に建設されたグリーンの外壁の末っ子は、他の2軒に比べ幅の狭い建物で、バロック様式の破風が特徴的。現在、三人兄弟の家は、ラトビア建築博物館となっており見学することができるようだ。三人兄弟の目と鼻の先にも高い塔を持つ古そうな教会があり、そこがローマカトリック教会の聖ヤコブ教会。後で知ったのだが、塔の中程に突起物があり、”哀れな罪人の鐘”と呼ばれる鐘がつるされている。罪人の処刑が行われる際に、この鐘が鳴らされていたために、そう呼ばれていたと。1330年代、リヴォニア騎士団により建てられた城。その後騎士団とリーガ市民の衝突により破壊され、1515年に現在の城が完成。今は、大統領官邸として使われていると。現在はライモンツ・ベーヨニス大統領(2015年7月8日就任、任期4年)。 尖塔。 頂上には三つの金の星が。 白い教会は、聖母受難教会。 白の外壁に水色の尖塔が清楚でシンプルな印象を醸し出していたのであった。 教会内部。 ダウガヴァ川まで歩を進める。河岸にあるリーガの守り神のクリストファーの像。 顔にヒゲをはやして手に棒を持ち、キューピー人形?を肩に乗せてガラスケースに入れられていた。 ダウガヴァ川に架かるヴァンシュ橋。 ヴァンシュ橋近くからラトビア国立図書館をズームで。 NLL Buildingと呼ばれるこの建物は2014年に完成。ラトビア産まれの建築家、Gunnar Birkerts氏の設計によるものだと。 川の対岸のビルはスウェーデン中央銀行ビル。 リーガ港近くには、クルーズ船が停泊中。 ヴァンシュ橋の歩道からリーガ城を見る。 左にリーガ城、右にダウガヴァ川。右はラトビア国旗、何故か早稲田カラーに見えたのであった。左はラトビア共和国紋章。残念ながら裏側から。 少女像。シベリアに移送された子供達のための記念碑のようであった。リーガ城の大統領官邸入口。衛兵が門の両側に。バルコニー。ここに大統領が姿を現すのであろう。自由時間が終了し、ツアー仲間と昼食へ。リーガ城近くのレストラン Alus arsenals。地下の洞窟といった雰囲気の店。スープ。メインディッシュ。ビールも楽しんだ昼食後は、カウナスへ向けての長距離バス移動。聖母受難教会裏の石のモニュメントが車窓から。再び科学アカデミーの建物。リーガテレビ塔も車窓から。Rīgaの街とも暫しの別れ。Southem橋を渡りA7線に入る。E67号高速を利用して南下し15時過ぎにBAUSKAの街を通過。ラトビア⇒リトアニアの国境を停車せずにあっと言う間に通過し更にバスは進む。そしてカウナス駅前を通過しホテルに近づく。そしてこの日の宿、「IBIS KAUNAS CENTRE」に18:15に到着。我々のこの日の部屋。洗面所。そして夕食に。メインディッシュ。この日はデザート付き。夕食後は近くに新しく出来たスーパーマーケットへ。果物も日本以上に豊富。活エビを250g程とアスパラガスを一束購入。そしてエビは、旅友の電気釜で塩茹でに。ウィスキー片手にエビの塩ゆでと茹でアスパラを多いに楽しんだのであった。
2017.04.24
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リーガ旧市街の観光をスタート。 ラトヴィア・ライフル部隊の彫像。高さは10メートルはあろうか。ソ連によって建てられたという軍服外套を着た3人の立像。リーガ市庁舎を横から。ブラックヘッドの会館と左に聖ペテロ教会の尖塔。このアングルもリーガでは有名な人気の景色。リーガで最も華やかと言われるブラックヘッドの会館(ギルド)はリーガ建国800年祭を記念して再建された。ブラックヘッドとは未婚の貿易商人の友愛会で、将来グレートギルド(職業組合)を目指す若い貿易商人たちが親睦を図るための会館であった。14世紀の中ごろ創建され、その後何回か改築。1941年のドイツ軍の空襲で破壊され2001年に往年の華やかな全容が蘇ったと。時計の下にある4つの都市の紋章は4大ハンザ同盟都市で、左からリーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメン。ブラックヘッド会館屋根の風見鶏ファザードには彫金細工の大きな青い色の時計。大時計は、月、日、時間、月齢を現していると。製作した時計職人は、2度と同じものを作れないように目をくりぬかれたと。紋章の下に飾られているのは、ギリシャ神話の神々。最高神ゼウスの代わりにポセイドンがいるのは、海上交易都市であるためであろう。ギリシャ神話の神々などの装飾(右)「ブラックヘッド」の命名のもととなった黒人の守護神、聖マウリティウスの像。ギリシャ神話の神々などの装飾(左)ブラックヘッドの会館の左側部分、左側屋根の風見鶏。ブラックヘッドの会館前にはリガの守護神であるローランドの像が。ローラント像は、中世文学「ローランの歌」に登場する、イスラム勢力と勇敢に闘ってその後伝説化された英雄ローラントを現したもの。石像は自由都市としての尊厳を象徴。昨年訪ねたクロアチアのドブログニクにもあったことを思い出した。再建されたリーガ市庁舎正面。市庁舎の風見鶏には最初に建立の1756年と。その後1941年の大戦で焼失し、2003年に再建されたのだ。聖ペテロ教会。リガのランドマークともなっている聖ペトロ教会の尖塔は、1690年に創建。この塔も何度も落雷による火災などで焼け落ち、その度に修復、改築を行ってきた。ロシアの支配下にあった1721年には、ピョートル大帝自ら消火活動にあたったと。現在の姿となったのは、第二次世界大戦後のことで、塔の高さは123.25m。塔にはエレベーターで昇ることができ、塔からは、リガの街を一望することができると。尖塔の時計は動いていないようであった。 教会入り口。聖ヨハネ教会はレンガ色の外壁の教会。聖ヨハネ教会の前にあるブレーメンの音楽隊の像。一番下にロバ、その上に犬、そして猫、一番上にニワトリなぜドイツでなくラトビアにもあるのかと思ったらリーガがブレーメンの姉妹都市だからと。ロバの前足を撫でながら願い事をすると願いがかなうと信じられているそうですが皆はなぜか鼻先を触っている!?そしてピカピカに。聖ヨハネ側の門、そして向こうがヤーネスの中庭。ヤーニスの中庭の城壁。ヤーネスの中庭出口門。そして再びKalēju通りからの入口門から出て振り返る。聖ヨハネ教会の近くにあるショッピングモール「ガレリヤ・ツェントゥルス」を利用してトイレ休憩。Kaļķu通りからの自由記念碑。ラトビア独立戦争(1918-1920)で殺された兵士に捧げられている記念碑。完成は1935年11月18日、高さ42メートル、石灰岩、石灰華、銅で作られている。記念碑の周囲の彫刻やレリーフは、13のグループに分かれており、それぞれラトビアの文化や歴史を表している。 記念碑の中心部分は上へ行くに従って細くなる四角柱型で、その上の銅像『自由の女神』の手には、金色の星が3つ掲げられている。3つの星はラトビアが独立したときの3つの地域を表しているのだと。さらに観光は続く。小ギルド・コンサートホール。 右手に大ギルド・コンサートホール。 屋根の上に猫(のオブジェ)がいる「猫の家」。昔リーガはハンザ同盟の都市として発展したが、その為ドイツ人の地位が高く、この家のかつての主人は、全て条件を満たしているにもかかわらず、ラトヴィア人という理由だけで、ギルドへ加盟を拒否されたことに抗議の意思を表すため、ギルドのあった場所に背を向けた猫を屋根の上にとりつけたのだとか。現在はそのギルドのあった場所はコンサートホールになっており、その音楽に誘われて、猫は向きを変えたと。 トンガリ屋根にちょこんと乗っている猫が一対。 リーヴ広場で奇妙な石の彫刻。ガイドからの説明もなく、ガイドブックにも載っていないので、正確なところは不明。 そしてリーガ大聖堂。1211年、アルベルト司教によってダウガヴァ川の近くに建てられた。その後、増改築が何度も行われ、ロマネスク建築、バロック建築などの建築様式が混在するようになった。現在の建築物は18世紀後半のもの。建設開始からの長い年月に地盤沈下した跡が判る。 大聖堂内部に入る。墓碑銘や司祭やギルドの墓石などが数多く展示されていた。リガ大聖堂の見どころの一つが、聖堂内を彩る美しいステンドグラス。 見所として、聖堂北側側面にあるリーガの歴史を映した4枚のステンドグラス。「ティゼンハウゼン一家や聖母マリア」。 ズームで。「アルベルト司教による大聖堂の創設」。 ズームで。 「1621年、スウェーデン王クスタフ?アドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」。 ズームで。 「1525年、リガ市長に信仰の自由の宣告所を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」 。 ズームで。 更にステンドグラスの感動は止まらなかったのであった。 中央にはキリストが。 ズームで。赤が美しいバラ窓。 大聖堂内の見所のもうひとつとして、パイプオルガンがある。このパイプオルガンは6718本のパイプ,124本のストップを持つもので、1882年から1883年にかけて製作され、1884年1月31日に設置されたと。最も長いパイプは10mにも及び、建造当時、世界最大級のものであったが現在では世界で4番目に大きなパイプオルガンとのこと。残念ながら、行ったときは修復中?だったが、時間によっては生の演奏が聴けると。 たくさんの人物の彫刻が見守ってくれていた。大聖堂南側には、以前の修道院の回廊があり、大砲や大聖堂を飾っていた装飾品等が展示されていた。 塔の上で町を見守ってきた古い黄金の風見鶏。大砲? 大砲の弾。 回廊から内庭を。 回廊から尖塔を。 中庭内の最初の司教像。
2017.04.23
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この日の朝は雨のため早朝散歩は中止し、朝シャワーとパッケージングを部屋でゆっくりと。9時のホテル出発に合わせフロントに。 朝食はこの奥のレストランのビッフェで種類もソコソコ、味は結構美味しかった。 そして9時に出発し最初の観光場所の「中央市場」へ。雨の中、RIGA駅を右手に見てバスは進む。RIGA駅の裏に回ると、左手には巨大な21階建て「科学アカデミー」が見えた。 ラトビアにおけるソ連時代の支配を象徴する建物。バルト三国の中で唯一現存するスターリン様式の建物で、中央市場の裏手に位置する。同じような建物はワルシャワやモスクワの7シスターズに象徴されるように威厳のある重厚な建物。既に以前の旅行でモスクワ、ワルシャワ等でも散策し近くまで行き巨大さに圧倒された建物。ちなみにラトビア語ではZinatnu Akademijaという。そしてダウガヴァ川に出る。ダウガヴァ川は、ロシアのヴァルダイの丘に源を発し、ベラルーシ、ここラトビアを流れ、リガ湾でバルト海に注ぐ大河。前方にアクメンス橋そして三角形のおもしろい形の国立図書館の建物が見えた そしてホテルから20分程で中央市場に到着。かまぼこ型の屋根がユニーク。この建物は1930年代に作られたもので、元は飛行船ツェッペリンの格納庫だったと添乗員から。なるほど、どうりで巨大なわけ。 バスを下り中央市場の散策開始。この市場は東ヨーロッパにおいて最大の市場の一つであり、毎日8万〜10万人がここを訪れるのだと。ショッピ ングに人気の場所で、地方の農畜産物、また外国産のフルーツや工業製品などを販売していた。新鮮な魚、肉、野菜やその加工品、フルーツやベリー、ミルクやチーズ、エコ食品、カントリーブレッド、ハチミツなど、様々なものを販売。またその場で試食することもできた。市場に並ぶ屋台の数はおよそ 3,000 軒。広大なパビリオンを見るには、少なくとも数時間を予定しておくことをおすすめしたいのであった。見たこともない活魚の種類も多かった。 巨大な筋子(すじこ)。 ハチミツ売り場。 野菜売り場。 肉売り場。 アルコール売り場。 リーガ土産No.1(?)といえば、ブラック・バルサム。18世紀中ごろ、ウォッカをベースに24種のハーブをはじめ、様々な材料から作られたちょっと苦めの45度酒。“風邪気味かな”っと感じたら、温めたブラックカランツ・ジュースと混ぜて、グイッといくのが現地流とのこと。 ショッピングを楽しめるスポットは中央市場の周りにも。市場の真後ろにある倉庫ものぞいて見た。19 世紀後半に建てられた倉庫では、どことなくロシアの雰囲気が感じられる靴や衣料品等様々な日用品も売られていた。 市場の前にはトラムが乗り入れていた。こちらにもハチミツ、蜜蝋が販売されていた。 300~400gで3~4€と極めて安価にビックリ。中央市場の見学を終え、バスに乗り込み「ユーゲントシュティール建築群」に向かう。公園に突如現れた巨大なサルの宇宙飛行士。「猿の惑星」?これはロシアが宇宙に送った動物たちの慰霊碑のようなものだとか。そして小雨の中、「ユーゲントシュティール建築群」の観光を始める。リガ旧市街の北側に、ユーゲントシュティール(ドイツ語でアールヌーヴォーの意味)建築の建物が集中した一角があったのです。実はここに限らずリガ市内の建造物の約40%?はユーゲントシュティール建築なんだと。しかし『ユーゲントシュティール建築群』にある天才建築家・ミハイル・エイゼンシュテインの作品群はレベルが違い圧巻過ぎたのでした。リーガ出身で、サンクトペテルブルグで建築を学んだ建築家・ミハイル・エイゼンシュタインの作品は斬新かつ自由なスタイルで知られ、市内には彼がデザインした建築が18軒あるのだと。Kronvalda公園の向かいにあるMonika Centrum Hotels近くから見学スタート。エリザベテス通り33番地の建物は1901年のエイゼンシュテインの作品。 ファサードを飾る彫像群は見事。 Alberta iera(アルベルタ通り)に入る。アルベルタ通り12番地の建物(1903年 K.ペークシェーンズ、E.ラウベ)。 建物内には「リガ・アール・ヌーヴォー美術館」がある模様。アルベルタ通り12番地の建物(1903年 K.ペークシェーンズ、E.ラウベ)。 元建築家の住んだ住宅に作られた博物館。1907年に没したラトビア人建築家、コンスタンティーンス・ペークシェーンスによって作られたビルの中にあり、建築家が住んだ当時のインテリアも再現。入り口のらせん階段は美しすぎた。天井も階段にも劣らず。 アルベルタ通り13番地の建物( 1904年 エイゼンシュテイン)。動物、植物そして下の如く喜怒哀楽を表す人面、女性など無数の彫刻が。2002年に修復を終わり輝きを取り戻した建築の一つとのこと。アルベルタ通り11番地の建物は歴史を感じさせる共同住宅? アルベルタ通り8番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)。中心部の装飾が見事。珍しい青煉瓦が使われていた。 アルベルタ通り6番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)。赤煉瓦が美しい建築。右側上部には三つの人面彫刻が並ぶ)修繕中なのが残念であったが、維持していくためには・・とジッと我慢!!アルベルタ通り4番地の建物(1904年 エイゼンシュタイン)。最も完成度の高いユーゲントシュテイール建築の一つと。シンメトリーの正面入口(ファザード)中央の窓は美しい曲線で縁取られていた。 最上部の左右には建物を守護する2頭のライオンと中央には3つのメドゥーサ(ギリシア神話に登場する怪物)の頭が飾られていた。 隣の共同住宅。 アルベルタ通り2a番地の建物。一番上の窓に見える部分は「空を切り取るため」のもの。ガラスは嵌っておらず、この枠の向こうには部屋はない。 赤タイル付きの「柵」の如きファサードが印象的。女性やスフィンクス、人面など様々な彫像で装飾されていた。 エリザベテス通り33番地の建物。 人が建物の柱を必死に支えてる風。エリザベテス通り10b番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)最上部を飾るデフォルメされた人面が目立つのであった。ヤクザ(YAKUZA)レストラン。日本食チェーン店であるようだ。ご丁寧に”ヤクザ”とカタカナ名も。更に英語のYAKUZAのロゴにオシャレな?刀傷の装飾まで施していて、店名に対するこだわりが感じられるのであった。 しかし本物の方がこの店を見つけたら・・・??RIGA地方裁判所。 そして「ユーゲントシュティール建築群」の観光を終え、リガ歴史地区観光へと再びバスに乗り込む。
2017.04.22
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