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赤の広場の南側に建つ、そしてロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる聖ワシリー寺院を訪ねる。1990年にユネスコの世界遺産に登録された寺院。 8つの小聖堂が中央の生神女庇護大聖堂を取り囲んで支える構造は、8つの小聖堂が中央の生神女に庇護される構造であると。9つあるドームの全ての高さ・大きさ・装飾が異なるものとなっているのです。最も高い中央の塔の高さは47m。タマネギ型はローソクの炎の形の表現であり、赤の広場にあるモスクワのシンボル的存在。ガイドブックによれば、聖堂が完成した後感動した皇帝が、他に同じような聖堂を造らせないために建築家の目を潰したとのこと。 聖ワシリー寺院の前のミーニンとパジャルスキーの像。 イワン4世が亡くなると、モスクワでは貴族たちの権力争いや農民一揆など政情不安の状態が続き、1610年にはモスクワがポーランド軍に占拠されてしまったのです。1612年、ノブゴロドで暮らしていた商人ミーニンとパジャルスキーを指導者とする義勇軍が組織され、モスクワを奪還。翌1613年、義勇軍はミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフを皇帝に選出し、以後1917年まで続くロマノフ王朝がはじまったのです。 内部も鮮やかな装飾に彩られていました。玉ねぎ屋根の下は一つ一つが独立した教会として別部屋になっていたのです。外観の大きさに比べ、内部は意外なほどに狭い。大聖堂というと、内部が大きな空間になっている思い込んでいましたが、ここは全く異なった内部構造。真ん中の塔には高い天井にシャンデリア、イコン画が。 ミニの聖ワシリー寺院。 ロシア正教の教会は、カトリックのように美しいステンド・グラスを飾ることはなく、小さな明かり取りがあるだけで、ろうそくのかすかな光の薄やみの中で拝するイコンは、身の引き締まる思い。イコノスタスは、ロシア正教ならではの優れた教会美術であることを実感。 上部のドームからの光が眩しい。 正面の壁が「イコノスタス(聖障)」。イコンの描かれた壁で、来世とこの世の接点を意味していると。宝座と呼ばれる祭壇のある至聖所と、信者の会衆席である聖所とを隔てる壁で、至聖所に入れるのは聖職者に限られているのです。中央にキリストの玉座像、左側には聖母マリアの立像、右側に授洗者ヨハネの立像、その両側に十二使徒の立像が描かれているのです。 折しも男性4人のきれいな歌声が流れてきました。、歌の後にはCDの販売。窓からクレムリンの城壁そしてイリンカ通りが見えた。壁にも様々な装飾がなされていました。狭い迷路のような内部観賞を終え再び赤の広場に出たのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.29
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国立トレチャコフ美術館(Государственная Третьяковская галерея、略称:ГТГ)は、ロシア、モスクワにある美術館。世界有数のロシアファインアートのコレクションで知られる美術館。何とモスクワの豪商トレチャコフが収集した約10万点に及ぶロシア美術を専門としたコレクションであるとは驚き。本館に入場し、200ルーブル払い写真撮影可能なシールをもらい胸に張り見学開始。トレチャコフは「肖像画ギャラリー」の設立を構想していたとのこと。確かに、館内には肖像画の展示が多かった。作者と作品名はほとんど解らないのが現実。キプレンスキー作 「アレクサンドルプーシキンの肖像 」 オレスト・アダモビィチ・キプレンスキーの肖像。 イヴァノフ作 民衆の前に現れたキリスト。 フョードル・モレル作 「ゴーゴリの肖像」 V.G.ベロフ作 「トロイカ」V.A.セロフ作 「桃を持つ女の子」ウラジミール・ボロヴィコフスキー作 「ロプヒナの肖像」 ヴルーベリ作 「幻の王女」クラムスコイ作 「忘れえぬ人」2009年に「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」が日本で開催されて、この作品も展示されて深い印象を残したと ガイドから。ヴァスネツォス作 「英雄たち」ヴァシリーベレシチャーギン作 「ティムールの扉(ティムール)」 ワシリー・ヴェレシチャーギン作 「戦争の結末」スーリコフ作 「銃兵処刑の朝」 そして土産物屋。 トレチャコフ美術館鑑賞後は赤の広場へ。ボリショイカーメンヌイ橋に立つ鍵の木。ここにかけると永遠の愛が叶うという、パワースポット。ところで、妻からこんなニュースがあったと。『パリのセーヌ川に架かる橋ポンデザールで9日、手すりのフェンスが歩道側に崩落し、橋が数時間閉鎖された。この橋の鉄製フェンスには、永遠の愛の証として恋人たちが取り付けた多くの南京錠がかかっており、重さに耐えきれなくなったとみられる。 こうした南京錠は5年以上前から、パリや欧州の他の都市にある橋で見られるようになった。通常、恋人たちは南京錠の鍵を川に投げ入れる。』 いずれにしろ安全が『鍵』なのであった。再びモスクワ川の噴水とピョートル大帝記念碑が見えた。 ボロトナヤ広場の前を歩く。ここにはロシア帝国の画家・彫刻家のイリヤ・レーピンの銅像が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.28
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そしてこの日の目玉でもあるダイヤモンド庫と武器庫の見学。クレムリン武器庫に併設されたダイヤモンド庫は、ロマノフ王朝がかき集めた宝石類が集まった撮影禁止の世界最高級の宝石保管庫。ここは予約制で、持ち物を持って入場できません。カメラもビデオも全てダメで全て荷物は預けます。そして何よりここにはエカテリーナ2世の笏がある。この王笏の先には伝説のダイヤモンド「オルロフ」が装着されているのだ。「インドの神の目」と呼ばれ、世界を渡り歩いて持ち主を次々と怪死させ、エカテリーナ2世の愛人オルロフの手に渡った189カラットの悪魔のようなダイヤモンド。でかいというか分厚いというか。これだけ巨大だと、思ったほど輝いてもいない。撮影できなかったので以下はパンフレット、ガイドブックから。アンナ女帝の王冠。 モノマフの帽子。 トンボ。 18世紀の宮廷馬車。ミハイル・ロマノフの玉座。 エカテリーナ2世の載冠式のドレス。そして武器庫へも。武器庫のハイライトは色々あるが、やはり注目はロマノフの至宝「インペリアルイースターエッグ」。キリスト教ではイースター(復活祭)の時期になるとカラフルに塗った卵を交換して飾る風習があるが、ロマノフ家はその財力にあかせて宝石商にして天才デザイナーカール・ファベルジェに超豪華イースターエッグを作らせた。それが世界に54個(現存50個)作られたと言われる、インペリアルイースターエッグ。黄金や宝石をちりばめたそのあまりの豪華さ故に、現在では誰も作ることができないと言われているのです。同じく撮影できなかったので以下はパンフレット、ガイドブックから。 ボロヴィッツカヤ塔より一端クレムリンを出る。Pashkov House 。貴族のPyotr Pashkovが建てた宮殿。現在の持ち主はロシア国立図書館。旧ソビエト連邦の国章は「地球の上に鎌と槌」を描き、これを麦の穂で囲んだものであったがその麦と鎌が道路のフェンスに。 モスクワ川に架かるボリショイ・カーメンヌィ橋より遠く救世主キリスト聖堂が左側に。ここはロシアにおける東方正教会の総本山。ロシア革命後、ソビエト共産党の影響で(正確にはスターリンの命令によって)爆破・破壊されたが、ソ連崩壊後の西暦2000年に再建されたのです。モスクワ・トレチャコフ美術館近くのLuzhkov橋近くの噴水。 昼食はミートボールスープ。 骨付きのキエフ風カツレツ。鶏肉を叩き込んでバターを挟んだカツレツ。 ケーキ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.27
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この日も早朝散歩に。ホテルの前景、外観は花をイメージしているのであろうか。 ホテル前のコロヴィンスコエ通りを右方向に5分ほど歩き公園に到着。周囲は長閑なアパートが建ち並んでいた。 池の近くには、鴨?のつがいが同じく早朝散歩中。 釣りをするオジサン達も。 池の水面は鏡の如く、静かに早朝の青空を映していた。 そして1時間ほどの早朝散歩からホテルに戻り朝食。 我々の宿泊部屋から1階の朝食のブッフェレストランを見下ろす。 そして8:30にこの日の最初の観光地 クレムリンに向けて出発。車窓からは、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家のニコライ・ゴーゴリの像が。クレムリンに到着し入り口で開場を待つ。前方にはトロイツカヤ塔が。クレムリンは壁で囲まれた城塞。周囲はおよそ、2200メートル。そこには18の塔が。クレムリンに入城するためには、トロイツカヤ塔かボロヴィッツカヤ塔のどちらかをくぐらなければならないのです。今回のツアーでは、トロイツカヤ塔から入城。トロイツカヤ塔手前のクタフィヤ塔。ここだけが二重の関所となっているのです。トロイツカヤ塔はクレムリン観光の出発点。北西の城壁の中央に位置し高さ約80メートル。クレムリンを囲む20の塔の中で最も高い。突端部にはロシア革命20周年を記念してルビー製の赤い星が付けられていた。入り口に立つ衛兵。入場してすぐに見える兵器庫前には大量の小型大砲が。これは、ナポレオン軍から奪い取った物。ナポレオンの大砲。ナポレオンの「N」が刻まれていた。右側にある建物はクレムリン大会宮殿。クレムリンの中にあっては、最も近代的な建物。すなわち最も歴史の浅い建物。この建物ができたのは1959年から1961年にかけて。6千人を収容できる大会議場を有し、そこには12カ国語に対応できる同時通訳装置があると。ここは、ソ連共産党大会や大きな国際会議の開催場所となっていたのです。クレムリン大会宮殿の双頭の鷲。 大統領府。奥に見えるのは兵器庫の角にある「ニコリスカヤ塔」。パトリアーシェ宮殿横の十二使徒聖堂。大砲の皇帝。16世紀末に造られたブロンズ製の大砲。口径890mm,重量40t当時としては世界最大の口径をもった大砲。かつては、スパスカヤ塔の門を守るために置かれていたと。幸か不幸か、一度も発砲されたことはなかったと。大砲の前にある弾は飾り物で、19世紀に造られたとのこと。砲弾の径の方が大砲の口径より大きく入らないと現地ガイドから。 ウスペンスキー大聖堂。かつてのモスクワ大公国の母教会であり、ロシア正教会の著名な大聖堂。入り口も歴史を感じるフレスコ画が。 鐘の皇帝。高さ6m、直径6.6m、重さ200トン以上。この鐘は一度も鳴らされたことのない鐘とのこと。1737年にモスクワに大火事が起こり、その時鐘を冷やすために水をかけたところ、亀裂が生じて一部が欠けてしまったと。 欠け落ちた部分だけでも、11.5トンもあると。それにしても「大砲の皇帝」と同様、ロシア人はおよそ、巨大な現実的ではないものに力をいれる民族なのでしょうか。ロシアの国土の巨大さが為せる技か?ウスペンスキー大聖堂の左のブラゴヴェシェンスキー大聖堂。屋根は金メッキを施された銅板に覆われており、金色に輝くクーポルと白い壁の対比がこの大聖堂の特色。 イワン大帝の鐘楼。 高さ86m。16世紀初めに建築。当時はモスクワで一番の高さがあり、見張り塔の役目を兼ねていたと。グラノヴィータヤ宮殿。サボールナヤ広場(聖堂広場)の西にあり、外国からの使節団を迎える式典が催されたという。グラノヴィータヤとは「多面」を意味し、正面を装飾する石が多面体であることに由来すると。 大クレムリン宮殿。かつて皇帝が住んでいた宮殿。現在の建物は、19世紀に焼失した後再建されたもの。ソ連時代にはソ連最高会議場が置かれ、現在は要人の会見場になっているため、内部の見学はできないとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.26
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ツアーバスを降り、綺麗な公園の中を歩く。 この湖はチャイコフスキーの「白鳥の湖」のモデルになった湖でチャイコフスキーが近くに住みこの湖を見ながら、名曲「白鳥の湖」を作曲したとのこと。建物群は2004年に世界遺産登録されたばかりのノヴォデヴィッチ修道院。現在は女子修道院となっており、元はクレムリンの出城であり、堅牢な城壁に囲まれているのです。ここの墓地には、ゴーゴリ、チェーホフはじめ近くはフルシチョフ、グロムイコ、ゴルバチョフ元大統領夫人などの有名な方が静かに眠っているとのこと。右側の金色のネギボーズは修道院内のスモレンスクの生神女大聖堂。「白鳥の湖」とは言うものの、多くの鴨が緑地そして湖面に。 ノヴォデヴィッチの高さ72mの鐘楼が中央に。その右横にはロプヒン宮殿が。左にはノヴォデヴィッチ修道院の入り口門の上に建つプレオブラジェーンスカヤ教会が。てっきり修道院の近くまで行くものと思っていたが、チャイコフスキーと同様に、湖越しに修道院全体を眺めるだけでバスに戻ったのであった。そしてバスは土産物屋ロシアプレゼンツへ。入り口は狭くて、ここが店とは一見分からないが、次々と日本からのツアー団体が入って来たのであった。サービスにウォッカの試飲も。カラフルなマトリョーシカ。昨年の2013年12月までCSKAモスクワに所属していた本田圭佑のマトリョーシカも販売されていた。ポスターも。ノヴォデヴィッチ修道院を描いた絵画も。我々が見た風景と全く同じ。そして高価なキャビアも販売されていた。キャビア(чёрная икра:チョールナヤ・イクラー)は、チョウザメの卵の塩漬け。1個が200ユーロ→25,000円以上と目が飛び出るほどの値段。最近ではチョウザメの漁獲高が激減しているためキャビアの値段が高騰しており問題になっているのであった。バスはアルバート通り入り口で停車ししばらくのフリータイム。アルバート通りは、ロシア連邦の首都モスクワの中心部、クレムリンの西側にある通り。全長約1キロメートル。15世紀以前から続くモスクワ有数の古い街路の一つで、現在は歩行者天国。レストラン、カフェ、高級ブランド店が並ぶ繁華街として知られる通り。旅友のSさんと散策開始。通りのところどころにこうしたモニュメントがあり、観光客?がその前で写真を撮っていた。若い女性がこの前で写真を撮りまくっていたが、ここで写真を撮ると結婚出来るとか。1997年に73歳で亡くなったシンガーソングライターの元祖で、Булат Шалвович Окуджаваブラート・シャルヴォヴィッチ・オクジャワの記念碑。詩人で作曲家で自分の曲をギターで弾き語りもした人物とのこと。アルバート通りの脇道を入ると教会も。 有料トイレ。 使い方はロシア語の為よく解らなかった。 通りの中程のファンタンゴフ劇場入口右横の噴水の上には黄金の女性像が。 「氷の皇女トゥーランドット」ピエロに変身したビラ配り。 アルバート通り入り口近くに建つロシア外務省。モスクワ市内に建つ尖塔をもつ巨大建物の1つ。 バスで夕食会場のレストランへ向かう。モスクワ川と合流するところにピョートル大帝の巨大なモニュメントが車窓から レストランに到着。野菜スープ。もちろんビールも。これがこの日の主食。量がチョット寂しい。シャンリクと言うポークの串焼き。コーヒーも。モスクワ観光のホテルはモスクワ市街地からは、少し離れた閑静な住宅地にあるイリス コングレス ホテル。ホテルのロビーは真ん中が吹き抜けで、天井が高く、華やかな雰囲気。部屋も広く小綺麗。白を基調とした落ち着いた部屋。しかし男二人にはくっつき過ぎているツインベッド。このBEDで連泊を覚悟。そして途中購入した40%ウォッカを二人で楽しみ、覚悟?のBED IN。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.25
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ミーラ(ドゥブレル)通りをモスクワ大学に向けて走る。外装かカラフルな高層ビル。 Hotel Kosmos オスタンキノ・タワー( Останкинская телебашня)。ロシアのモスクワにある高さ540mのテレビ、ラジオ塔。ソビエト連邦時代の1963年から建設が開始され、1967年に完工。展望台は337メートル。東京スカイツリーの天望デッキと同様に床の一部がガラス張りで真下が見えるようになっていると現地添乗員から。 Hotel Olimpiyskiy ODA, salon krasoty オリンピック・スタジアム。 「ロシア外務省」?。27階建の高層ビルで「スターリン様式」のロシアらしい造り。モスクワ川に架かる橋。 渋滞が始まっていた。 再びオリンピック施設。 ボルガ運河。 モスクワ大学が見えてきた。 雀が丘に到着。生憎の小雨。雀が丘はロシアの首都モスクワにある、市街地を一望できる丘。モスクワ南西部でモスクワ川が大きく蛇行する高台のヴァラビョーヴィの丘に位置し、モスクワ大学を背にする市の展望台。このジャンプ台はモスクワオリンピックとは無関係?結婚式帰りであろうかロシアの美人達。 ロシア最高学府の「モスクワ大学」。ゴルバチョフ大統領はここの法学部卒で、1990年ノーベル平和賞を受賞した。だが、国民からは「アメリカに魂を売った売国奴」とされ超不人気であったと。遠くに「モスクワ国際ビジネスセンター」の超高層ビル群が見えた。建設中のビルもある。天気が良ければもっと美しいのであろうが。遠くオスタンキノ・タワーも見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.24
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再びウスペンスキー大聖堂の鐘楼。 聖水の泉 は イスラム風のお清めの場所。ここの水で手を清めたり口に含んだりすると、病気に効くと言われているので持ち帰る観光客の姿も。聖霊降誕教会。柱には複雑な彫刻が。1477年建立の「ドゥホフスカヤ聖堂」で、下が鐘楼、上が物見台という2層からなる特異な建物。教会の建物群の中で、異色の塔。どこからか運び込まれた記念碑、オベリスク? 振り返って「授洗イオアン聖堂」を。 大修道院内の「博物館」 。総主教館。 円柱の装飾が美しいセルギエフ教会(旧大食堂). 中央広場からの光景は色彩に溢れていた。 再び鐘楼とスモレンスカヤ教会 レーニン像手前からの塔の名はウトチヤ・バシュニャ?レーニン像。無神論を奉じるソ連時代には、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産は没収され多くの聖職者や信者が処刑されたと。そして「至聖三者聖堂」👈リンク を後にして昼食会場に。 チキンヌードルスープ。 壺焼きマフィン。中にはジャガイモとポーク。 デザートとミルクティー。 そしてセルギエフ・ポサードの観光を終え、モスクワ市内へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.23
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今まで気温30℃以上の日々が続いたが、この日は突然の22℃。長袖をはおり、スズダリを後にし、黄金の環の最後の訪問地である180km離れたセルギエフ・ポサードに向かう。この地はモスクワの北東70kmの地点に位置するのであるユネスコの世界遺産に登録されているトロイツェ・セルギエフ大修道院に到着。 この大修道院は至聖三者聖セルギイ大修道院(ロシア語: Троице-Сергиева Лавра)とも呼ばれており、至聖三者(ロシア語: Троице)とは正教会用語で、他キリスト教教派でいう三位一体に当たる。大修道院と訳されるラヴラ(ロシア語: Лавра、ラーヴラ)とは、修道院の格式の高さを示す修道院の称号とのこと。入り口は修復工事中であった。入り口横のフレスコ画。 配置案内図。ガイドからチケットを受け取る。 修道院入口からツェルカフィ・ロシュデストヴァ・イオアンナ・プレドテチ:洗礼者ヨハネの生誕教会を見る。トロイツェ・セルギエフ大修道院のウスペンスキー聖堂。こちらの修道院のメインはこの聖堂。ねぎぼうずが青色で黄金の星模様。 横壁の中央には3種類のフレスコ画が描かれていた。 大修道院の牧師であろうか、観光客のガイドをしていた。ここには神学校が併設されており、現在でも数百人の牧師たちが生活をしているとのこと。金色の玉ねぎ尖塔の周囲に星が飾られた青色の玉ねぎ尖塔が配置されていた。金色はキリスト 青色はマリア様を表わしているのだと。この大修道院の現地ガイドの女性とモスクワガイドのミハイル。 18世紀に建立された、白とスカイブルーと金色のコントラストが美しい「鐘楼」。鐘楼の鐘が塔の中央に。 近くに行って見上げてみた。 高さ88メートル。建設当時はロシアで一番高い建造物であったと。ゾシマ・サヴァチ教会。 中央はスモレンスカヤ教会。スモレンスカヤ教会とも呼ばれていますが正式な名前はスモレンスクの聖母イコン教会。聖水の泉 中庭の様子。 ロシアでは宮殿や教会の内部の写真撮影に別料金を取るところも。こちらの大修道院では写真撮影料100ルーブルを払うと、聖歌の合唱CDの土産が付いてきました。 ウスペンスキー大聖堂内の全体を覆う「金箔のイコノスタス」。 天井まで描かれたフレスコ画の「イコン」。 ウスペンスキー聖堂内部正面を斜めの位置から。 中央の門を正面から。門の上の絵画。天上の絵。イコノスタス(聖障)。信者が礼拝する場所と至聖所を隔てるイコン(聖像画)の壁 数々の聖人のイコン。 燭台を清掃する信者の姿も。 再び聖人のイコン。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.22
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スズダリの我々の宿泊の部屋はツイン。 ロシア紙幣 ルーブル。5000ルーブル以外は下の写真。一番多く出回っているのが100ルーブル紙幣と10ルーブル紙幣。ルーブルの下の額にはカペイカの単位があり、これはコイン。コインには1ルーブルや5ルーブルコインもあるのです。この日も二人で、昨日訪ねたスズダリの世界遺産群の復習をかねて早朝散歩。朝日が東の空から。「スパソ・エフフィミエフ修道院」の城壁。絞りを絞って撮影。 城壁がカーメンカ川の静かな水面に姿を映していた。 コウホネの花をズームで。真ん中の 柱頭が黄色であるから日本では「根室コウホネ」と言われている種類。左手にスパソ・エフフィミエフ修道院。 ポクロスキー修道院の城壁の下を歩く。地盤沈下かいずれも傾いていた。 アレキサンドロフスキー修道院。 二人で仲良く朝日を浴びて。 リスパラジェンスキー修道院と真ん中には鐘楼が水面に。 リザパラジェンスキー修道院の聖なる門。 門から中に入ると、修道院の年配の女性尼が笑顔で迎えてくれた。 リスパラジェンスキー修道院のプレポドベンスカヤ鐘楼の下部は修復中。 正門の大きく高い塔屋の前に小公園があり、記念碑が立っていた。碑文は「ドミートリー・ポジャールスキーへ感謝を込めて」。17世紀始めの大動乱期にポーランドのロシア侵入に立ち向かい国民的英雄となった人物。胸像の台座の両脇から塔のイコンが望めるように設置された記念碑。ドミートリー・ポジャールスキーは、ここスパソ・エフフィミエフ修道院に埋葬されているとのこと。スモレンスク教会。スパソ・エフフィミエフ修道院と道路を隔てて位置する17世紀に建立された教会。 大通りを左折しホテル方面に歩く。「城壁」の各所に設けられた塔には銃眼のような穴が見られる。戦いに備えたものであろうか。この塔もやや傾いていた。預言者イオアン復活教会とボゴヤブレンスカヤ教会。共に18世紀にカメンカ川沿岸に建造された教会。 教会の修復が進まず屋根の部分は崩れ落ちそうな状態。 この朝の早朝散歩コースを帰宅後の確認し朱記してみました。ホテルに戻り、この日の朝食。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.21
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ウラジーミルにある黄金の門を訪ねる。ウラジーミルはロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。1108年頃にキエフ大公ウラジーミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国の南東を守るもの。13世紀には北東ロシアの中心になったが、その後のモスクワの興隆と共に地方都市的存在になってゆき現在に至っている。1992年、ウラジーミル市の聖堂群は、先ほど訪ねたスーズダリ市に残る聖堂群とともに、「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録されたのです。「黄金の門」は、ウラジーミルの正門。「黄金の門」はユーリー・ドルゴルーキーの子、アンドレイ・ボゴリュプスキー公によって1158年から1164年にかけて建設されたと。門の上にはリゾパラジェーニエ礼拝堂が。ただ、現在はこの門の中を車は通れなかった。門の内部には歴史資料が展示されているとのこと。車は門の両側を通過。黄金の門のすぐ外側にそびえる聖トロイツァ教会。ロシア正教会の中でも古儀式派と呼ばれるグループによって建てられたものであると。黄金の門の横の城壁の名残の土塁に昇る。当時は両脇が城壁が続いていたと。10m程横に当時の城壁の一部が丘の様に土塁の形で残っていました。ウスペンスキー大聖堂に向かう。大聖堂前の聖堂広場には、3面の銅像が建つ塔があり、それぞれ、違う像が飾られていた。ウラジーミル2世、フセヴォロド3世あたりであろうか。 ウスペンスキー大聖堂。ウスペンスキー大聖堂は生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう)とも呼ばれ13世紀・14世紀の中世ロシアにおける母なる教会として位置付けられる聖堂の一つ。この聖堂は世界遺産「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」の一部。ウスペンスキー大聖堂の主塔を見上げると何故か人の顔に見えたので望遠で。大聖堂と連なる丘の南西には展望台とウラジーミル公の銅像。 こちらも世界遺産に登録されているドミトリエフスキー聖堂。ウスペンスキー聖堂は5つのドームだが、ドミトリエフスキー聖堂は一つのドーム。 外壁の見事な浮き彫り。フセヴォロド大巣公の守護聖人、テッサロニカのデメトリウスに捧げられたものだという。白壁にある聖人のレリーフが印象的。 浮き彫りの中でももっとも大きく目立つのは、旧約聖書に搭乗するダビデ王。 シベリア鉄道と貨物列車の姿が。 シベリア鉄道ウラジーミル駅越しの展望。見渡す限り大平原が広がっていた。。ウスペンスキー大聖堂を裏側から見た姿 。バスに戻る途中のクリトゥリ・イ・オッデハ公園の噴水とハートマーク。ホテルに戻るにはやや時間が早いと言うことで、ツアー仲間の女性陣のリクエストに応えて、大型スーパーマーケット「Globus」に立ち寄ることに。 巨大なアルコール売り場。「BOДKA 」 の文字が。もちろん「ウォッカ」売り場。果物も極めて豊富。 キュウリは日本のものよりメタボで寸足らず。段ボール箱が陳列棚。 アメリカンチェリーも大量に。そしてスイカも。 肉も大量に陳列されていた。 ドライフルーツも山のように。 そしてサッカー・ワールドカップ(W杯)ブラジル大会の公式球「ブラズーカ」も。 ホテルへ戻る途中にスーズダリの世界遺産群を一望できるビューポイントでバスを駐めてくれた。 そして夕食のレストランへ。入り口には伊藤 若冲の絵画の如き色づけの鳥の置物が。野菜サラダ。スープ。 ペリメニ(水餃子) ジャムのパイ。 そしてこの日は今までで一番早い時間でホテルに到着。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.20
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我々のツアーバス。スモレンスカヤ教会と鐘楼。スモレンスカヤ教会の5つのネギ坊主が印象的。スモレンスカヤ教会は1696~1706年に建造されたと。バスからリザパラジェンスキー修道院の聖門(1688年建造)。2本の塔を持つのは珍しい。カメンカ川と聖イリヤ教会。ロシア革命で破壊された鐘楼が2009年に再建された教会。 スズダリには各地から木造建築物が移築され野外博物館になっていた。プレオプラジェンスカヤ聖堂。ニコルスカヤ教会。クレムリンの南側、カーメンカ川に掛かる橋を渡ったところに木造建築博物館が保存されています。ボリソグレプスカヤ教会。おとぎの国の建物の様なラジヂェストヴェンスキー聖堂。ラジヂェストヴェンスキー聖堂は、現存するズーズダリで最も古い建築。13世紀に建てられた白石建築だが、浮き彫りが施された教会下部のみが13世紀当時のもので、上部は16世紀に建て直されている。この教会の13世紀の扉、聖書物語が金メッキで描かれた黄金の門が有名で、現在は聖堂内に展示されている。聖堂内部は13世紀にまでさかのぼるフレスコ画で覆われ、17世紀の巨大なイコノスタスが残っているとのこと。ふたたびと聖イリヤ教会と水面にその姿を映すカメンカ川。川縁の枯れ木には多くの野鳥が羽を休めていた。 ズダリの案内図。高台からのスズダリ教会群。トルヴゴァヤ広場にあるヴァスクレシェンスカヤ教会。自由時間となりトルヴゴァヤ広場の屋外出店や土産物屋を散策。多くの蜂蜜が廉価で販売されていた。 ハチミツが売られていた。スズダリを描いた絵画も。そして指定された時間に指定された昼食レストランに到着。しかしここでトラブル発生。現地旅行会社からの予約が入っていなかったのであった。現地添乗員が電話で長々とやりとりをしていたが、遂に諦め宿泊ホテルの昼食バイキングに急遽変更されたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.19
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この日も早朝から朝食。ホテル前から。 ホテル裏のカーメンカ川沿いに早朝散歩に出かける。カーメンカ川にカルガモの親子が仲良く。別の雛も仲良く巣の中で。 朝の草をはむ馬が二頭のんびりと。 カーメンカ川に咲く河骨 (こうほね)の花。川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨(かわほね)と書かれるようになったと。また、読みは「かわほね」から「こうほね」に変化したと。カーメンカ川とスパソ・イェフィーミエフ修道院(14世紀中期創建)の遠景。 対岸にはポクロフスキー女子修道院。ピョートル1世の最初の妃だったエヴドキヤ・ロプヒナもここで暮らしていたと。ピョートル1世は彼女との離婚後にエカテリーナ1世と結婚したのです。スパソ・イェフィーミエフ修道院の城壁。 ボゴヤブレンスカヤ(神現)教会(右)、右が預言者イオアン復活教会(左側) ホテルに戻るとロビーの片隅で卓球を楽しむ家族が。 バスでスズダリ観光のスタート。 モスクワから170キロのところに位置する「黄金の環」を代表する都市スズダリ。スズダリは人口一万二千人、街全体が世界遺産に登録されている。スズダリの最初の観光場所はスパソ・エフフィミエフ修道院。修道院の中心を占めるのはスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂。正面の金色のドームを持つ建物が。そして周囲を緑の丸屋根が取り巻いていた。澄み切った青空を背景にした聖堂の姿は、ロシアの教会建築を見慣れた身にとってさえ殊に美しく感じられた。修道院で、内部は聖人たちを描いた見事なフレスコ画で埋め尽くされているとのこと。スパソ・エフフィミエフ修道院は1352年建立の男子修道院で、12の建物があり、長さが1.5kmの城壁に囲まれているのです。スパソ・エフフィミエフ修道院内の一番奥にある塀に囲まれたこの場所は大昔のスーズダリ監獄棟。 スパソ・プレオブラジェンスキー聖堂聖堂のすぐ前には鐘楼が建てられていた。ちょうどお昼頃だったか、一人の若い男性が鐘を鳴らし始めた。ロシアの教会にとって、鐘は唯一許された「楽器」であり、その独特の音色は芸術的に高く評価されているとのこと。 両手、両足を見事に使い紐で繋がった12個の大小の鐘(カリヨン)を鳴らして音楽を奏でてくれた。多くの観光客が美しい鐘の音に耳を傾け、鳴り終わるや拍手でこれを讃えたのであった。見事なタイミングでのカリヨン演奏。このスズダリを訪れるツアーでは、添乗員は客に鐘の演奏を聞かせるために到着時間を調整するらしいのです。ウスペンスカヤ教会。ウスペンスカヤ教会は食堂を兼ねた建物となっているとのこと。建物の中には、ロシア人画家のナイーブアートが展示されていると。 正面入口を入ってすぐ右手には薬剤師の菜園兼庭園=薬草園があった。外壁の上部は回廊になっている。この修道院は敵の襲撃に備えた城砦の役割も担っていたのです。 府主教棟のトイレに。 入り口には洒落たプレートが。男性用。 女性用。 スパソ・イェフィーミエフ修道院の門塔の高さは12m。 スパソ・イェフィーミエフ修道院の門塔外壁右側のイコン。外壁の上部の回廊に昇る。薬草園が再び。 内門とその上に建てられたブラゴヴェシチェンスカヤ教会。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.18
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血の上の救世主教会見学後はバスでサンクトペテルブルク空港へ。途中の料金所。この料金所にはロシア語「СТОП」ではなく英語で「STOP」と。空港内で各自昼食を取る。私はパスタを注文。そして野いちご?ジュースも。シベリア航空 モスクワ・ドモジェドヴォ国際空港行き 14:25発。バスにて飛行機へ。後部から搭乗。プルコボ空港を離陸。機窓右側にサンクトペテルブルクの住宅街とフィンランド湾が。右下にはユジュノ=プリモルスキー公園が見えた。機窓から運河の多い水の街であることが確認できたのであった。ノヴゴロド州上空か?多くの沼が。日本の形に何故か似ていたのでシャッターを。往路はチェックインでトラブったモスクワ・ドモジェドヴォ国際空港に戻る。今回は何事もなく定刻に到着し荷物も時間こそかかったがきちんと出てきたのであった。 空港にはこれからの観光での現地ガイド・ミハイルとドライバー・アンドレイ が似顔絵をバスのフロントガラスに貼り付けて待っていてくれた。バスは、モスクワの街を囲む大環状道路を進む。バスの前方には巨大な冷却塔が水蒸気の白煙を青空に。ガイドによると原子力発電所ではなく火力発電所とのこと。モスクワの街へ温水を送っていると。 有名なモスクワの大渋滞は始まる。仕事を終え、帰宅する車の渋滞であろうか。 コロリョフの街に入る。首都モスクワの中心からは23キロメートル北東、市境となるモスクワ環状道路(MKAD)からは7キロメートルほど北東に位置する。 ソ連およびロシアの宇宙開発において重要な役割を果たしてきた街。コロリョフ市のモニュメント。スズダリへの田園地帯を走る。見渡す限りの草原で山の如き風景は皆無。途中、自然に雑草の如く生えているルピナスの群生がいたる所で。車窓からの夕焼けが美しかった。 時間は22時近く。まだ日が沈んでいないのであった。 ホテル到着は22:30過ぎ。 ホテルはGTK ツアーセンターリザリト。ロビーではギター抱えて歌を披露する人物も。 部屋に荷物を置き慌ただしく夕食。野菜サラダ。 壺焼きグラタンは美味。 牛肉のプラム煮。 紅茶。 そしてこの日はシャワーを浴び慌ただしく就寝。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.17
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ネヴァ川クルージングの後はサンクトペテルブルク最後の観光場所の「血の上の救世主教会」へ。恐ろしい名称を持つ教会なのです。文字通り「血」の教会。農奴解放令(1861年)を出した「解放皇帝」アレクサンドル2世は、この地で革命家によって投げつけられた爆弾によって、瀕死の重傷を負った皇帝は、担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御。そしてこの教会はアレクサンドル2世を弔うためにその暗殺地点に建てられた教会なのです。エルミタージュ美術館(宮殿)から東へ1キロ足らずの所にあったのです。公式名は、ハリストス復活大聖堂(Собор Воскресения Христова)。このほか、血の上の教会(Church on Spilt Blood)の名称も。 血の上の救世主教会は1907年に完成した教会。中央上部にはキリストが描かれていた。ロシア聖教独特の色鮮やかなネギ坊主型のドームは、西欧風の洗練された街並みのなかで、異彩を放っていました。外壁には144の地域の紋章がモザイクで描かれているとのこと。入り口部上部の絵画。 外壁もそうだったが、内部も天井から壁、床まで柱も含めて全てがモザイクで覆われていた。 聖人が描かれた柱と豪華なシャンデリア。 中央天蓋。そこには全能者キリストのモザイク画が。 そしてその下のドーム。 ドーム下の床も保護されたはすばらしい色石(半貴石)によるモザイク模様。 ここが、1881年3月1日に皇帝アレクサンドル2世が爆弾で暗殺された現場。そこの石畳は当時のまま残されていた。つまり、今は教会の内部になっているが、当時は車道だったということ。 東側のイコノスタス。東側は、ロシア正教にとっては祭壇の向いている方角になる。 つまりは太陽の昇る方である。ロシア人は日本人と同じように昔は自然崇拝で、山や川などと共に太陽を敬っていたとのこと。 イコノスタスは、聖なる空間の礼拝所と俗人の世界の礼拝の場を分け隔てつつ、2つの世界の仲介として存在するイコンの壁で、正教会の中では最も重要な要素。石材はジェノヴァの大理石。王門は扉がしまっていた。 宝石がちりばめられたイコノスタスの王門。 最後の晩餐と聖人のイコン。13歳のキリスト。 主廊と側廊で3つに分かれたイコノスタシスのうち向かって右側(南側のイコノスタシス)ピンクのロードナイトが美しいイコノスタシス。この場所のイコンのテーマはキリストの復活。 再び中央天蓋。 北側の内壁。中央は「使徒マタイの召命」。2003年に制作された180分の1のサイズの精巧な模型窓の下のパネルはキリストの生涯がテーマのモザイク画。そして別の出口から外へ。ソ連時代は粗末に扱われ、一時期は倉庫として使われていたとのことであったが、長い修復期間を経て現在は美しい姿が蘇ってい驚きと感動の時間であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.16
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この日の朝は日本から持って行ったソーメンをホテルの部屋で楽しむ。旅友のSさんが電気鍋を持参、私がソーメン、麺つゆを持参は毎回同じ。 麺つゆは紙コップに。 久しぶりの日本食は美味。 朝食もたっぷりと。 この日の最初の観光はネヴァ川のクルージング。バスにて向かう途中、乗用車が電柱に激突しているのを発見。初老の運転手は運転席で携帯で電話中。警察か救急車を呼んでいるのであろうか。いずれにしろこの街は交通事故の多いのであった。 出発点はゴローホヴァヤ通りのモイカ川に架かる橋の近く。 我々ツアー仲間だけの専用船でモイカ川を下りネヴァ川に向かう。 エルミタージュ美術館の横を通りネヴァ川に出る。トロイツキー橋が前方に。 ペトロパブロフスク要塞はサンクト発祥の地 ナヒーモフ海軍学校。ロシア連邦の海軍幼年学校。ネヴァ川の河畔に係留・保存されているアヴローラ (オーロラ 防護巡洋艦)の煙突が見えた。ロシア革命の象徴のひとつとして記念艦となっていると。 ミハイロフ城。18世紀末から19世紀初頭にかけてパーベル1世の命により、イタリア人建築家の設計で建造された城。 モイカ川に架かるPervy Sadovy橋。在ペテルブルグ日本国総領事館の前を通過。 久しぶりに見る日本国旗。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.15
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聖イサク寺院は、ロシア、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂。ドームは全高101.5メートルの偉容を誇る。聖イサク大聖堂、聖イサアク大聖堂とも表記される。 現在の建物は4代目に当たり、高さ101.5m、幅97.6m、奥行き111.3m、収容人員は1万4000人を誇る。エルミタージュ美術館や血の上の救世主教会とともにサンクトペテルブルク最大の観光スポットとなっている。イサク聖堂の巨大な大理石円柱。入り口上の彫刻。大聖堂を飾っている彫刻 聖堂の内部は、モザイクによって壁画が描かれ、装飾には大理石や緑色の孔雀石がふんだんに使われていて、豪華そのもの。 圧巻は、ドーム頂上部の白銀に輝く鳩。聖母マリアと天使や使徒たちに囲まれた純銀製の鳩は、頂上部の窓から差し込む日の光を浴びて、まさに聖霊のように輝いていました。フレスコ画に覆われた普通のロシア正教会の聖堂とは異なるため、西洋の教会のような印象を受けるが、ロシア正教会であることは、十字架やベンチやパイプオルガンがなく、中央にイコスタスが据えられていることからも明らか。 主祭壇のイコノコスタス。まわりにはパウロ、エカテリーナ、アレクサンドル、ネフスキー、聖母子、キリスト、イサク、ニコラス、ピョートルの聖人たちの絵が飾られていました。「キリストの復活」を描いたステンドグラス。ロシア正教の寺院ではあまりステンドグラスは使われず珍しいとのこと。荘厳そして美の一言。 聖堂の南側の重厚な扉を内部から。 大きな扉が西、北、南の3ヶ所にあり1枚10トンもあるとのこと。 聖堂の東正面の上にある最後の晩餐の絵画。煌びやかな黄金の天井装飾。 建築時の大理石の柱を立てるための足場の模型も展示されていた純銀の鳩のドーム下の窓から差し込む陽光。 聖母とキリスト。 緑色の石は孔雀石で、ラピスラズリなどの色鮮やかな石が使われ、世界で3番目に大きい聖堂。 イサク広場の中心に建つ「ニコライ1世の騎馬像」。 観光終了後はレストランでボルシチを楽しむ」。テーブルビートをもとにしたロシア、ウクライナの伝統的な料理で、鮮やかな深紅色をした煮込みスープ。サワークリームと、細かくちぎったディルが加えてあった。白身魚のフライは旨かったが米は×。 アイスクリームは旨かった。 そして紅茶も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.14
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尖塔の頂上を飾る都の守護神である天使の像は、風見鶏の役割も果たしているとのこと。 ピョートル1世像。やけに顔が小さい。 本来の入り口側の聖ペテロ門。 2体の彫像が門の両脇に。 左手の像。 右手の像。 ヨハネ橋からヨハネ門を見る。 ネヴァ川岸の芝生では多くの人々が日光浴を楽しんでいた。 トロイツキー橋を渡る。 次ぎに訪問予定の血の上の救世主教会の目を通る。 宮殿広場まで戻る。この広場は中央広場であると同時に血の日曜日事件(1905年)、十月革命(1917年)、スターリン哀悼大集会(1953年)などの歴史的事件がここで起こっている場所。 1834年、ナポレオン戦争の勝利を記念してアレクサンドルの円柱が建てられた。高さ47.5m、円柱の上には、戦争の勝利者であるアレクサンドウ1世をモデルにした十字架を持つ天使の像が。 ここで2時間半に及ぶ散歩の疲れと水分補強に二人でビールを楽しむ。 ツアー仲間と待ち合わせ時間に無事合流し、再びエルミタージュ美術館正門に出る。 見上げるとロシア国旗が棚引いていた。 “スラブ三原色”と呼ばれる白・青・赤の3色を横に三等分に配列した旗で、白は高貴と率直の白ロシア人を、青は名誉と純潔性の小ロシア人を、赤は愛と勇気の大ロシア人を表わすのだと。さらに、白は平和、高潔、青は忠実、誠実、赤は勇気、戦争で国のために流した血も表すと現地ガイドより。宮殿広場では客を待つ白馬がのんびりと。 エルミタージュ美術館で有名な猫の1匹ものんびりと。中にはエカテリーナ2世の時代の猫の子孫だといわれる猫もいるそうだが・・・。旧参謀本部の凱旋アーチ。 凱旋アーチの上には馬に引かれる戦車に乗った勝利の女神の像が。2時間半に渡る散策コースを赤線で確認。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.13
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旅友のSさんと二人でエルミタージュ美術館を出て、宮殿橋に向かい振り返るとエルミタージュ宮殿が白と青の調和が見事であった。宮殿橋を渡りながら目的地のペトロパヴロフスク聖堂の鐘楼が見えた。 宮殿橋途中からのエルミタージュ美術館。 宮殿橋の中間部。跳ね橋のためトロリーバス用高架電線は繋がっていないことを確認。エルミタージュ美術館と同色に近いクンストカメラの全景が橋の反対側前方に。 クンストカメラは珍しい石、奇形動物の剥製、仏像、解剖学標本など世界中の珍品を集めていたピョートル一世の個人コレクターが所蔵品の基礎となったとのこと。橋の前方に赤く塗られたロストラの灯台柱が目に入ってきた。昔の灯台であり、高さ32m。「ロストラ」とは船首の部分を意味すると。古代ギリシア・ローマ時代には、海戦において勝利した記念に敵の船首を切り取る習慣があったとのこと。ロストラの灯台柱は、19世紀初頭にフランスの建築家トマ・ド・トモンによって建設。現在でも、夜には灯台としてその役割を果たしていると。柱の台座には5mほどの彫像が据えられており、ロシアの4つの偉大な川ヴォルホフ、ネヴァ、ドニエフル、ヴォルガを表していると。 旧証券取引所の中央博物館。ソ連海軍からロシア海軍の歴史資料が展示されているのです。 王宮橋の先はワシリエフスキー島。この島の最先端の岬はストリェールカと呼ばれている。ストリェールカからのペトロパヴロフスク要塞の眺め。 川岸に停留している大型木造帆船はレストランになっていた。 帆船の先端には羽を付けた黄金の天使が。ペテロパヴロフスク要塞に渡る橋が見えてきた。 橋を渡り要塞内へ。 要塞からエルミタージュ美術館、イサク聖堂がネヴァ川越しに。 城壁下のネヴァ川岸のビーチは多くの海(川)水浴客が水着姿で短い夏の陽光を楽しみ日光を浴びていた。 結婚式のカップルも。 川岸の更衣室? ネヴァ門より入場。 ペテロパヴロフスク要塞の地図。ペテロハヴロフスク聖堂が青空を背景に輝いていた。ペテロハヴロフスク要塞は18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから土地を防衛するために築かれた。河口付近のザーヤチ島を高い壁で取り囲むように構築された。スウェーデンの脅威が低下した19世紀には、政治犯収容所としても利用され、一時はバクーニンやネチャーエフ、ドストエフスキー、レーニンらも収容された。ロシア革命後には失脚した臨時政府の閣僚らも収容されたとのこと。鐘楼の高さは122m。現在でもペテルブルクで最も高い建設物。 この建物の中にチケット売り場と土産物売り場が。 聖堂の中に入る。歴代の皇帝がここに眠っています。アレキサンドラ二世と皇后マリヤ・アレクサンドラヴナの墓。安置室の出口付近には新しい御影石の石棺があり、ここにニコライ2世一家の遺骨が納められているようです。 この大聖堂は首座使徒たる聖使徒ペトル(ペトロの教会スラヴ語読み)と聖使徒パウェル(パウロの教会スラヴ語読み)を記憶するもので、最初の大聖堂は、サンクトペテルブルクの石で造られたと。 内部平面が十字架を基本にしていない長方形?。装飾はやはりバロック風で豪華。 シャンデリアの青が美しい。 ロマノフ王朝の系図が肖像画、写真で。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.12
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フランシスコ・ゴヤ作 「アントニオ・サラデの肖像」。アントニア嬢は女優としての才能よりも美貌で名高かった。36歳で結核で他界したが、もしゴヤが残した2枚の肖像ががなければ、遠い昔に忘れられていた女優と。 ムリーリョ 「犬を連れた少年」。少年の笑顔がすばらしい。古代絵画史の回廊を歩く。 正面(テレベニン)回廊ルーベンス作「ベルセウスとアンドロメダ」 ゼウスとダナエの子、ペルセウスはエチオピアの王女アンドロメダを怪物から救い結ばれるのです。2F中庭も青空の下、緑が輝いていました。 3階の19世紀を中心にしたフランス絵画の部屋へ。階段を上がり、真っ先に見たことがある絵と思ったのがナポレオンの絵シャン=アントゥアン・グロ作「アルコル橋上のナポレオン」 そこを、抜けるとセザンヌ、ルノアール、ゴッホ、ゴーギャン、モネ、マチスなどフランス印象派を代表する絵画がずらりと並ぶ。最初はルノアール作「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」ルノアールの恋人であった女優ジャンヌ・サマリーを描いたもの。38才の時にサロン展に出展し好評を得た作品とのこと。ルノアールを心酔させた彼女は、33歳の若さでこの世を去ったと。ルノワール「玩具のムチを持つ子ども」 木漏れ日の表現が見事な作品。同じくルノアール作「扇子を持つ女」 ルノアール作「Woman in Black」 モネ作 「モンジェローヌの池」カミーユ・ピサロ作「パリのモンマルトルの並木道」 セザンヌ作 「静 物」 ゴッホ作 「あばら屋」 同じくゴッホ作 「ライラックの木」正に屋外ではこのライラックが満開の時に観賞できたのであった。ゴッホの死の前年の作品とのこと。ゴーギャン作 「タヒチの牧歌」 ゴーギャン作 「果物を持つ女」 マチス作 「ダンス」。ダンスの作品は2点あり、1点目はニューヨーク近代美術館、2点目はこのエルミタージュ美術館とのこと。エルミタージュ美術館にあるダンスの作品は平面描写でありながら、頭の中で立体化をイメージさせる巧みな技法がほどこされているのだとのガイドの説明であったが私には・・・・・・????。マチス作 「音楽」。マチス作 「青いテーブルクロスと静物」。マティスは鮮やかな柄の布を描いた作品を数多く制作しているが、これほどまでに大きな比率で一枚の布がキャンバス全体を占めている作品は他にないとのこと。静物の下に布があるというよりは、大きく広げられた布に静物がちょこんと乗っかっているという感じ。マティス作 「 Ladia DelectorsKaya の肖像」。ピカソ作 「姉妹」。エルミタージュ美術館には、ピカソの作品が30点あまり所蔵されているとのこと。ピカソ作 「アブサンを飲む女」ピカソ作 「3人の女性」。ピカソ作 「裸婦」。箱根ポーラ美術館でピカソの同じような絵画を見たような?約2時間強にわたるガイド付き観賞を終え、時間は13:15過ぎ。各自で自由昼食そしてその後は16:30までの自由見学とのこと。我々二人は、エルミタージュ美術館の観賞見学はこれまでとし、その後はエルミタージュ美術館周辺の散策を決断したのです。添乗員の了解をなんとか頂き、集合時間、集合場所を確認し、混んでいる館内での昼食は避け、エルミタージュ美術館を自己責任で二人で離れたのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.11
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まずは「大使の階段(ヨルダン階段)」を上り2Fへ。冬宮殿の入口となるヨルダン階段は、各国の大使がこの階段を上がり、皇帝に謁見したことから「大使の階段」と呼ばれているのです。この階段は建築家フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリが手がけたバロック様式装飾の典型的なもので、彫刻や絵画がふんだんに使われ、きらびやかさを強調。 1837年におきた火災の後にティツィアーノによって天井画が描かれたとのこと。エリザヴェータ女帝の肖像画。この美術館はサンクトペテルブルク最大の見所で、多くの名作を擁する世界有数の美術館。建物はロマノフ朝の王宮であり、歴代の皇帝の住まいでもあった。18世紀、ロマノフ朝のエカテリーナ2世が収集したコレクションを発端とし、19世紀末に美術館として開館。「エルミタージュ」はフランス語で「隠れ家」という意味で、もとはエカテリーナ2世の個人的な美術館だったとのこと。ピョートル大帝の間。美女とならんだピョートル大帝の肖像画。聖ゲオルギーの間(大玉座の間)。歴代皇帝による謁見の間。大使の階段から続けて部屋を通された外国の大使や使節はここで皇帝に拝謁。玉座の後ろには、ロマノフ王朝の紋章である双頭の鷲の刺繍がありました。双頭の鷲は、16世紀からロシアの紋章で、現在でもロシアのシンボルマーク。ロシア正教において一番有名な聖人「聖ゲオルギー」は、ロシアで悪いシンボルである「竜」を殺す聖人で、ロシアでは、軍人の守護神として大切な存在!その聖ゲオルギーが、白いレリーフになり玉座の上の壁に彫刻されていました。パビリオンの間の孔雀時計 18世紀の技師コックスの制作。この時計は、エカテリーナ女帝の愛人とされたグルゴリー・ボチョムキン公爵が1780年に購入し、エカテリーナに贈ったものです。ドイツ人のエカテリーナ2世には、10人以上の愛人がいたと。現在は月一度、からくり時計を動かし公開 しているとのことであるがこの時計の隣には大きなディスプレイでその動きをビデオで紹介されており多くの観光客が見入っていた。床に嵌め込まれた八角形のモザイク。メドゥーサやケンタウルス、トリトンなど、古代神話が描かれていました。 レンブラントの部屋。ルーベンスと並ぶオランダの巨匠・レンブラント。「放蕩息子の帰還」 父から財産を等分に与えられた兄弟のうち、弟は家を出て放蕩し財産を消費した後、豚の世話役となり、その餌で餓えを凌いでいたが、最後には実家へと戻るものの、父は息子の帰還を喜び祝福を与えるという、信仰と慈悲と希望を説いた場面であると。「ダナエ」この絵画はレンブラントが初めて手がけた等身大ヌード画であり、彼の最高傑作の一つ。この絵画は後に精神疾患の診断が下されるリトアニア人の青年から硫酸を浴びせかけられた上に刃物で二回切りつけられた。これにより画面中央ほぼ全ての顔料が溶け落ち、水滴状になって垂れ下がるという大きな損傷を負ってしまう。中でも大きな損傷を受けたのはダナエの顔、髪、右腕、両脚だったと。修復は1985年から1997年の長期にわたって行われたが完全に修復することはかなわなかったと現地ガイドの説明。 初期ルネッサンスの間にあるフラ・アンジェリコの「聖母子等」。レオナルド・ダ・ヴィンチの間。生涯で10作品程度しか完成させていないダ・ヴィンチ。そのうちの2作品が、エルミタージュ美術館に所蔵されているのです。「リッタの聖母」この絵には、聖母の腕の中で赤ん坊がきまり悪そうな姿勢をしてお乳を飲んでいて、左手の中に雛を持っている様子が描かれています。このリッタの聖母は、ルネサンス期の画家によって多くのレプリカ(複製画)が作られたそうです。この絵を注意深く見てみると、聖母子のはっきりした輪郭や窓の外の風景が水平的なことなどから、最終的にこの絵を完成させたのは、レオナルドの弟子のひとりのボルトラッフィオと言われています。そして「ブノワの聖母」。この絵画については以前、日本テレビ「奇跡の美術館 エルミタージュ~2枚のダ・ヴィンチと巨匠が遺した暗号(メッセージ)~」で下記の如く説明されていたのです。番組では『ブノワの聖母子』についてレオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないのではないかと、2点の疑問が提示されていました。1.「リッタの聖母」と異なり背景の描かれていない窓。2.人間的過ぎる聖母。『モナ・リザ』も『最後の晩餐』も、レオナルドの絵には外の風景が細かく描かれています。しかし、この『ブノワの聖母』の窓には何も描かれていない。何故か。この絵の窓は高い位置にある、だから窓からは空しか見えなかったのだろう。科学者でもあったレオナルドはそのような点も正確に描いたのでしょう、というのが番組の解釈でしたが、その真実は如何に?ティツィアーノの「ダナエ」同じく ティツィアーノの「悔悛するマグダラのマリア」。マグダラのマリアは娼婦であったことをキリストの前で懺悔しているのです。ラファエロの回廊。ラファエロの手によるヴァチカンのフレスコ画が壁一面に模写されていました。マジョリカの間。 500点のルネサンス期のイタリア製マジョリカ焼きの作品が保管されています。ラファエロの「コネスタビレの聖母」 ミケランジェロの間。「うずくまる少年」は筋肉美が素晴らしい。360度いろんな角度から眺める美体 。小イタリア天窓の間。「リュートを弾く若者」 。激情の画家カラヴァッジョの初期様式の頂点を示す傑作。虚ろ気ににこちらを見つめる若者。ローマに到着して間もないカラヴァッジョの青年期の作風は、青年(又は少年)を思わせる若々しい男子に、病的にも思える虚実な表情が大きな特徴のひとつであると。カナレット作の『ヴェネツィアに於けるフランス大使のレセプション』ベラスケスの「オリバーレス伯の肖像」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.10
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昨夜の就寝は03時前、さすがの早起きの我々も目が覚めたのは7時前。とりあえずこの日の荷物の準備をし朝食に向かう。このホテルに連泊のため、トランクのパッケージングが不要なので楽なのであった。 この日は9:30にホテル出発でしたので、ホテル裏にある徒歩5分ほどの24時間営業のスーパーマーケットを訪ねる。海外旅行時は行き先々の市場やスーパーマーケットを訪ねるようにしているのです。市場やスーパーで取り扱っている商品からその国・土地の食生活や生活レベルを推し知る事が出来るからです。そして私の知らない果物や食料品等新しい出会いが出来ることもあるのです。 このサンクトペテルブルクは人口500万人の大都市、人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置するのです。 野菜売り場には日本以上の種類の野菜が陳列してありました。流石に大根や白菜、ホウレンソウ等はありませんでしたが。果物もオレンジ、小粒のリンゴ、桃、アメリカンチェリー、イチゴ、洋梨等豊富でした。 さすがに鮮魚は ほとんど無くサーモンの切り身が。そして銀だら?が丸ごと一匹。 その他の魚も売っていましたがほとんどが干し魚。そして肉も豊富。チーズ類は明らかに日本より豊富な種類が塊で。 蜂蜜も販売されていました。蜂蜜はロシア語で「МЕД」と言うようです。ホテルを9:30に定刻に出発しエルミタージュ美術館へ。途中バスの車窓から、ロシアの詩人・作家プーシキンの家を見る。 そしてエルミタージュ美術館に到着。宮殿広場の隅でバスを下車し美術館に徒歩で向かう。正門屋上にはロシア国旗がたなびいていた。新エルミタージュの前を通る。柱廊玄関、高さ5m(通常の人間の約3倍の身長)、10体の花崗岩製アトラス(atlas)像(A・テレベーニェフ作)。アトラスとは、男性の彫刻を柱、橋台、付柱などに施したもの。 宮殿の間を通った運河脇を抜け、大ネヴァ川沿いに出る。川の向こう側にはペテロハヴロフスク要塞が。 冬の宮殿グループ入り口より館内に入る。エルミタージュ美術館の銘板。Государственный Эрмитаж(国立エルミタージュ)の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.09
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イサク大聖堂の駐車場にバスを駐め青銅の騎士像に向かう。サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂。ドームは全高101.5メートルの偉容を誇る。 クンストカメラは、ロシア、サンクトペテルブルクにある博物館。ロシア史上、最初に創設された博物館。1714年にロシア帝国の皇帝ピョートル1世によりつくられ、鉱物や医療用の薬剤、古銭のコレクションが保存され、動物学資料館や地球儀・天体儀が置かれているとのこと。 青銅の騎士像。青銅の騎士像の台座の文字には「ピョートル1世へ エカテリーナ2世より 」とラテン語で。 ピョートル大帝の騎馬像で、同市の観光名所の一つ。この都市を創建したピョートル大帝の偉業を称えたプーシキン作の叙事詩『青銅の騎士』が有名になったため、この名で呼ばれるようになったと。 サンクトペテルブルグで結婚式を挙げた新郎新婦が、教会を出た後に、青銅の騎士像にブーケを捧げに来る習慣がいつしか定着しているのだと。公園の花壇も見事に整備されていた。 この後はニコライ宮殿でフォークロアディナーショウへ。旅友の女性と最前列の座席を取り、女性のお二人がハンカチやガイドブックを椅子に置き席を外していると、フランス語をしゃべる団体がこの席に座ろうとしたのです。この席は旅友の席であり、いま席を外していると英語で説明してもフランス語をまくし立て言うことを聞かないのでした。未到着の人間の席を確保していると誤解したのでしょうか、フランス人?もなかなかの強かな国民なのでした。司会の女性が漸く登場。 フォークロアショーは、ロシアの伝統的な芸能を現代風にアレンジして今の若い世代にも空きさせない工夫をしている歌と踊りのショー。コサックダンスグループ,フォーク・トリオ,ロシア民族楽器演奏グループなど 複数の集団によるもので、300人ほどの満員の観客は全員満足!!。 コサックダンスグループが男女で次々と。 ショーの途中では、男性の国の違う観光客を3人舞台に上げて、面白おかしく舞台を進め、笑いのテクニック観客を十分に楽しませてくれました。我が旅友のご夫妻のご主人も舞台で大活躍。 幕間には、飲み物とスナックをサービスする心遣いまで、これまでのロシアのサービスには見られない接遇であった。一人二役の活躍。 そしてニコライ宮殿内でピアノ演奏を聴きながらの夕食。 ポテト、ハム、キャロット他のサラダ。 卵イクラ載せと野菜のサラダ シャンパンも付いていた。 白魚身ソテーとカリフラワー盛り合わせ。 そして一端バスにてホテルに戻る。モスクワ凱旋門横を通過。露土戦争(ロシアVSオスマントルコ)での勝利を記念して建てられた門と。この時は22時を過ぎていたが未だこの明るさ。正しく白夜の世界を旅していたのであった。ホテルに戻り希望者だけで深夜のネヴァ川に架かる橋が、大型の船を通すために何カ所かの橋を上げて通すという「跳ね橋」見学に向かう。エルミタージュ美術館角の宮殿橋の前に到着したのは25時過ぎ。白夜のため空は夕暮れの如し。ペデロパブロフスク要塞がネヴァ川の対岸で輝いていた。目の前にはクストカメラ(博物館)のドームが見えた。跳ね橋が上がる時間が迫るに連れて、橋の下には多くの観光船が集まってきた。 空には見事な上弦の月が。そして跳ね橋が上がり始めた。時間は25:33。 ゆっくりとゆくりと。 そして完全に上がったのは 25:37。そして開いた橋の間からクンストカメラ(博物館)が姿を現したのであった。いつの間にか橋の下の観光船は姿を消していた。この時間に次々と上がる跳ね橋を追いかけて観光するために次の跳ね橋に向かったのであった。 そして再びホテルに戻ったのは26:30。なんと密度の濃いロシア・サンクトペテルブルク観光の初日・1日であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.08
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昼食後はバスでペテルゴフにあるピョートル大帝夏の宮殿を訪ねる。ペテルゴフは、サンクトペテルブルク南西約30kmのフィンランド湾に面する場所。北方戦争に勝利して名実ともに大国になったロシアにふさわしい宮殿をというピョートル大帝の野心から建設された宮殿で、歴代皇帝が美しさに磨きをかけたと。第二次世界大戦中にはドイツ軍に破壊されましたが、現在までに修復され、世界遺産にも指定されているのです。チケット売り場に進んでいくと、真っ先に目に飛び込んでくるのが、大宮殿脇の教会の金ピカ。夏の如き午後の強い日差しに照らされて、まばゆく輝いていたのです。園内には約150の噴水と4つの滝があり訪れる人を魅了するのです。 海を愛したピョートル大帝は、フィンランド湾を望む離宮の建設を命じたのです。 フランスのパリ郊外にある「ベルサイユ宮殿」をモデルにしたとされ、大宮殿を背にして庭園を見下ろすと、その向こうにはフィンランド湾が望めたのです。 下の公園から見上げると滝の上に浮かび上がる姿は実に荘厳。園内の噴水は20km以上離れた丘から引かれており、一切ポンプなどを使用しない水力工学技師「ヴァシーリー・ツヴォルコフ」が開発したシステムが今も活用されていることには驚きそのもの。私の如き現代を生きる技術者の端くれにとっても驚異的でただただ脱帽。大宮殿と大滝そして両脇から吹き上がる噴水と多くの黄金の彫像。黄金の彫像は古代ギリシャ神話の神とのこと。 20mも水を噴き上げる獅子の口を開けるサムソン像。サムソンはロシアを、獅子はスウェーデンを表していると。 半人半魚の噴水。大滝の噴水で最も有名なのがサムソン像だが、それに似た像がこれ。半人半魚が怪魚の口を引き裂き、勢いよく水を噴き上げていた。結婚式のカップルの姿も。 チェス山。三匹のドラゴンから、チェス盤に水が流れる仕掛け。 ローマの噴水。ローマのサン・ピエトロ聖堂前の噴水をモデルにしたローマの噴水など庭園と噴水が見事に整備されていた。いたずらの噴水はベンチに向けて定期的に水が噴き出るのです。吹き出る時間を知らずにベンチに座った者は濡らされるという仕掛け。しかし観光客は吹き出す時間が解っており、その時間近くになると大混雑したのでした。 ピョートル大帝の実物大像。身長2メートル13センチの大男であったとのこと。 太陽の噴水。回転するポールの先の球(太陽)から円形を描くように水が噴き出ていました。その様子が太陽の光線のように見えると現地ガイドから・・・・なるほど。庭園のリスに餌を与えようとする子供達の姿。 モンプレジール宮殿。ピョートル大帝の お気に入り の場所であったと。庭園にはこうした小さな館が点在しており、いずれも博物館になっていて入場できるようです。残念ながら宮殿を含め私たちは入場しませんでしたが・・・残念。こちらも 『いたずらの噴水』。普段は石が敷き詰められているところですが、ある場所を通ると急に噴水がわき出ます。どうやら近くの椅子に座っているおじさんが、操作しているようでした。いたずら好きのピョートル大帝が庭園内にいくつか作らせたのだと。 フィンランド湾と遠くサンクトペテルブルクの街並みが小さく。 緑の中を東の方へ進んで行くとまず、東の庭園の中心という「アダムの噴水」へ。アダムがいれば当然イブだが、そちらは西の方の中心にいると。可哀相に別れ別れにされていたのです。 「スリに注意」と写真撮影に夢中な私に対する警告表示板も。 大宮殿からフィンランド湾に向けてまっすぐ運河が伸びていました。運河の両脇には噴水が配置され、大宮殿前の大滝、サムソン像がひときわ目を引きます。 噴水とピョートル宮殿の黄金のキューポラ。 バスが夏の宮殿近くに入ってこれないとのことで暫く歩きながらバスに向かう。理由は自転車ロードレースが開催中とのこと。 有料道路の料金所。未だETCシステムは無し。 車窓から見えたキリスト教教会。マリインスキー帝室劇場。サンクトペテルブルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。ソビエト連邦時代(1924年 - 1991年)はキーロフ劇場と呼ばれていたと。ロシアの作曲家 ニコライ・リムスキー=コルサコフの像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.07
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宮殿内の見学を終え、再び宮殿の外へ。青と白の外壁が美しいこの宮殿の全長は740メートルにもなるとのこと。そして装飾はバロック的な華々しさと、古典主義様式の優美さを兼ね備えているのです。全員で庭園観光を開始。キャメロン(建築家)の回廊。キャメロンが築いたこの回廊は、古典主義の気風を持つ《ポエム》と呼ばれていると。中に入りませんでしたが、ここには瑪瑙(めのう)の間があるとのこと。キャメロンの回廊を正面から。エカテリーナ二世の要望によりギリシャ・ローマの叙事詩の一節のごとく表現したといわれているとのこと。池の脇にはグロット宮が。 音楽ホールとのこと。 グロット宮の前には男性裸像も。池の奥には浴場が。ここ以外にも浴場は点在していたのです。 小犬が駆け回っていたり、リスがいたりのどかな庭園。宮殿から延びる軸線の奥には、エルミタージュ(隠れ家)と呼ばれる建物がありました。庭園側から見た宮殿。 こちらも「上の浴場」。 黄金色に輝く、宮殿内の教会のドーム。壮大なのだが、どこか女性らしいこの宮殿なのであった。 ロシア・バロック様式の宮殿として1756年に完成。帝政ロシアの富を象徴しているのです。宮殿の空色と金色の塔は、青空に映えているのでした。庭の片隅ではフルートを吹く音楽家の姿も。 エカテリーナ宮殿のMAP。よく見るとまだまだ訪ねていない建物が多いことが解ったのでした。右側のエカテリーナ宮殿とエカテリーナ2世が孫のために建てた学習院を繋ぐ回廊。 ロマノフ王朝時代の衣装を着て観光客に記念写真を勧める商売人の姿も。後ろ姿をチョット1枚。 帰り道沿いの教会。 帰り道のプーシキン像。 ロシアの国民的詩人プーシキンは、このエカテリーナ宮殿と渡り廊下でつながっている学習院の第一期生で、ここで6年間学んでいたと。昼食のレストランで店員とオーダーを確認する現地添乗員のアナスタシアさんと添乗員のNさん。アナスタシアさん、無断掲載すいません。 気温32℃の下での散策後はもちろんビールを注文。前菜のサラダが旨い。 スープは魚スープ・ウハー。ウハー(ロシア語:Уха)とは、白身魚と野菜を食材に使用したロシア料理のスープ。主食はチキン・シュニッツェルとライス。デザートはクレープ。コーヒーも旨かった。エカテリーナ宮殿の見学後はバスでサンクトペテルブルグへ向かう。エカテリーナ宮殿のあるツァールスコエ・セローと呼ばれますが、その入り口にあるエジプトゲート(Египетские ворота)。 鉄道の踏切を渡る。 踏切の手動式操作場か?ユニークな建物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.06
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翌朝は6時から朝食。一番乗りか?バイキングスタイルの朝食。そしてホテル周辺を早朝散歩。 ホテル近くの道路脇には甘美な香りの濃いライラックの如き花が満開。 そしてサンクトペテルブルクでの最初の観光場所は南に25kmのツァールスコエ・セローにあるエカテリーナ宮殿。宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来。エカテリーナがドイツの建築家を雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させたのです。開門を待って、扉の美しさが見事なエカテリーナ宮殿正門より入場。エカテリーナ宮殿の外観。ブルーが美しく輝く宮殿。 宮殿内は靴にビニ-ル袋を被せて入場。最近の世界遺産系はこういったところが多くなって来たことを実感。椅子に腰掛け、袋を被せる旅友。2階に上る階段へ。ゆったりとした踊り場があり、歩みを止めて鑑賞できる豪華な階段。白い壁の中の赤のカーテンのシンメトリーが美しかったのです。そしてカーテン越しの日光が白壁をほのかに赤く染めて…。 広い階段は、上り口が対面にもあり、見上げると両サイドの壁には一区画の中心に古伊万里の兜鉢が埋め込まれ、シンメトリーにラッパ型の壷や蓋付きの沈香壷が飾られていました。何本か中国の陶磁器も混じっているが殆どが日本の古伊万里。宮殿には食堂と名の付いた部屋が沢山あるのでした。まず入ったのは、「帯勲者の食堂」。家具や食器類は全て当時の物と。陶器製のペチカ。オランダ焼とのこと。宮殿内部からの正面ゲート。大広間(玉座の間)。左右に大きな窓、窓の間に配された鏡、磨かれた床、天井にフレスコ画が。この宮殿で一番広い部屋で、17×47mもある。その全てがキンキラと輝いていた。床は寄せ木の絵で、広間全体の装飾は、金箔された木造装飾。あの大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、帰国の許可を得たのもこの大広間。大広間の天井画。天井は余り高くないと感じましたが、高く見せるために青空が描かれているのでした。大広間の鏡の前で鏡に向かって旅友と。窓からの陽光で彫刻も輝きを増していました。 再び正面階段上、西側窓辺の「眠れる天使」。 白の食堂。大貴族達を接待したときに使う食堂。狩りなどを行ったので、飾ってある絵も狩りの絵が中心。鳥の絵で埋め尽くされていました。気持ち悪い「鳥の死骸の絵」も。白の間に置いてあった飾り壷も見事。マイセン装飾作品・18世紀に生まれたロココの華、スノーボールと呼ばれる貼花装飾のアジサイ?の飾り壺。 赤柱の間。家族の食堂とのこと。緑柱の間。こちらも同じく家族の食堂とのこと。 肖像画の間。部屋の中央に女帝の衣装が展示されていました。この部屋にはエカテリーナ二世や皇后エリザベスなどの肖像画ががざられており、白いダマスク織の壁は金のフレームに縁どられていました。アレクサンドル1世の肖像画。エカテリーナ2世の孫にあたります。エカテリーナ2世に大いに可愛がられたと。そして眩いばかりの琥珀の間。 エカテリーナ宮殿一番の見所。琥珀とは、木の樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化した宝石。ここの内部撮影は禁止とのことで入り口から。 入り口から再びズームで。部屋全体の装飾が琥珀で出来ており、これは世界で唯一のもの。琥珀が第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られため、この琥珀の間は失われていたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に琥珀の間は完全に復元されたとのこと。黄金が光るのとは違った深みのある輝き。 次は絵画の間。作者・モチーフ・年代にかかわらず単純にサイズだけで絵画を並べた部屋。無節操ではありますが、こういう絵の飾り方もこれはこれで圧巻と感じたのです。白の小食堂。ロマノフ朝第6代のロシア皇帝・エリザヴェータのプライベートルーム。当時の調度品も残っていました。緑の食堂のテーブル。 淡い緑色の壁と白いレリーフが特徴的で優しい感じ。エカテリーナ2世がスコットランドの建築家に依頼した部屋とのこと。床の寄せ木細工も美しかったのです。 そして宮殿内部見学終了後はトイレ&自由時間。お土産SHOPの展示品を楽しむ。マトリョーシカも種類が豊富。インペリアル・イースター・エッグ。そして琥珀のネックレス。そしてトイレの小便器は北欧と同じく私にはやや高すぎたのでした・・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.05
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いよいよ『ロシア世界遺産の旅9日間』に出発。今年も旅友のSさんが愛車JUKEで我が家に5:45前に迎えに来てくれました。そして妻に見送られながら、この車で成田空港まで向かいました。横浜新道から多摩川を渡る首都高速へ。そして順調に東関東道へ。Sさんが既に予約済みのシャトルパーキング場に到着。事務所前での手荷物の積み替え、受付終了後、成田空港第2ターミナルまで小型バスで送ってもらったのです。帰国後は、入国審査、手荷物の受け取り、関税検査が終了した段階で連絡。するとこの車を、スタッフが空港到着ターミナル前の道路まで届けてくれるのです。 成田空港第2ターミナルに到着。私は予約していたロシアでネット利用のためのWIFIを受け取り。既にウェブチェックイン済みのためトランクをJALカウンターに預ける。JL日本航空、S7シベリア航空いずれも航空連合「ワンワールド」メンバーであるためマイレージカードをしっかり提示。その後、日本円をロシア貨幣のルーブルに2万円分をとりあえず両替。しばらくして集合時間8:45に再び受付カウンターに集合。この旅の添乗員の女性からこの日のスケジュール説明を受ける。今回のツアーは総勢12名であり、ご夫婦3組、女性二人連れ2組そして我々男二人。平均年齢は60才を超えていること間違いなし。 そして北口から出国審査へ。以前あった成田空港第2旅客ターミナルの本館とサテライトを結んでいた「シャトル」は撤去され動く歩道に代わっていた。出発ゲートは83、JL441便とS7 4122便との共同運航便、10:45発モスクワ行き。 機体は787-8。座席数223座席であり航続距離8,500海里(15,700km)の787型機の基本型であり、最初に開発されたモデル。窓のシェードはなくなり、代わりに電子カーテンが搭載され、乗客が透過光量を調節できる優れもの。定刻の10:45に出発。 最初の機内食、味噌汁、そしてビール、白ワインを楽しむ。 日本海上空を通過しハバロフスク上空からモスクワに向かう。 機窓からシベリアの白き大地が。 読書、音楽鑑賞、映画鑑賞、そしてウトウトと・・・気がつくとモスクワまで後2時間。 機窓 からは大きく蛇行する川が。モスクワ郊外の住宅街が見えてきた。 そしてモスクワ・ドモジェドヴォ国際空港に到着。出国手続き時には添乗員から、この空港は横入りが多いので大胆にとのアドバイス。荷物を受け取り乗り換え用の国内便カウンターへ急ぐ。 国内便はS7シベリア航空・S7-0043便、17:45発。ここでトラブル発生、旅友のご夫妻の奥様の搭乗が不可と。原因はS7社のオーバーブッキングのとばっちりか?添乗員がeチケットを見せ、乗せるよう強く交渉するもNOと。出発時間も迫っていたため、添乗員が奥様に変わり次の便でサンクトペテルブルクに向かう事を決断。ベテラン添乗員の判断力は流石!!我々ツアー仲間12人のみのFLIGHTとなったのであった。海外観光旅行で添乗員無しのFLIGHTはスペインのオーバーステイ以来の体験。後で聞いた話によると、座席の1席が壊れており、使用不可であったと。なるほど私の席の前方に1席空席が。S7便に後部からタラップで搭乗。 1時間45分のFLIGHTでサンクトペテルブルグ・プルコヴォ空港に到着。 ソヴィエト時代の古いターミナルから近代的なものになったており、古いターミナルは撤去工事?中であった。バスで空港ターミナルへ移動。そして空港には既に手配済みの現地添乗員とポーターが待っていてくれていたのであった。これには皆、安堵の表情と笑顔が。しかしながら次のトラブルは、何とか搭乗出来た奥様のトランクが出てこなかったのであった。その代わりに次ぎのFLIGHTに変更した我が添乗員のトランクが出てきた。モスクワ空港で急遽、添乗員→奥様に搭乗者を変更したのであったが荷物の変更が間に合わなかった?のであった。これも添乗員が強く最確認していたのであったが・・・・・これが日本と違う価値観??いや、いいかげんさそのものの国民性か。翌早朝、何とかその荷物はホテルに到着し事なきを得たのであったが。しかしご夫妻と添乗員は眠れずにトランクを待ちわびていたのであった。 この日のホテルは空港近くのクラウンプラザ・サンクトペテルブルク エアポート。我々のツインの部屋は広く綺麗であった。ここで3連泊なのである。3連泊は旅友との旅行では初体験。 テレビのディスプレイには名前入りのWELCOMEメッセージが。BEST CHOICEであると自信満々のメッセージと共に我々の名前が。そしてその下にはホテルの前景が。浴室は大きなバスタブ付き。 そしてシャワー室も併設。 時間は22:15過ぎ。この日の夕飯は付いていないため、部屋で成田空港で購入していた即席麺とこれも事前購入の焼売を食べたが冷蔵庫には鍵が掛かっていたためアルコール無し。慌ただしくシャワーを浴び、長旅の疲れもあり爆睡の眠りについたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2014.06.04
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンクロシア・サンクトペテルブルグ、黄金の環、モスクワ旅行に旅友のSさんと行って来ます。ロシア観光のためのVISAも入手しました。 ロシア観光のガイドブックも購入。 サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は、ロシアの都市、レニングラード州の州都。かつてロシア帝国の首都であった。第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード(Петроград)、ソ連時代(1924 - 91年)はレニングラード(Ленинград, リニングラット)と呼ばれていた都市。ロシア西部、バルト海のフィンランド湾最東端、ネヴァ川河口デルタに位置する街。ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第二の都市。人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置するのです。サンクトペテルブルクは、ネヴァ川河口の泥沼地に人工的に作られた町。バレエや文学が盛んな芸術都市として知られ、5月下旬から7月中旬には太陽の沈まない白夜がある町としても有名。1703年にピョートル大帝が、ロシアの近代化の窓口として莫大な費用をかけて都市を建設。のちのエカテリーナ2世によって現在のエルミタージュ美術館が建てられるなど、芸術都市としての礎が築かれていった。19世紀にはロシア文学が花開き、世界最高峰の名作が次々に生み出されていった。天才と謳われた詩人・プーシキンや、『罪と罰』のドストエフスキーなど、著名な人物もこの都市を拠点に活動していたのです。 世界の三大博物館と言われるのは大英博物館、ルーブル美術館、そしてこのエルミタージュ美術館。美術品の収集といった点では同じですが、他の二つの博物館・美術館とは性質がかなり違っているのです。第一に、ここが歴代皇帝の居住地でもあったということ。エルミタージュ美術館は冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心とした5つの建物で形成されているのです。5つの建物とは、冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場なのです。ここで6時間の美術品鑑賞の予定なのです。赤の広場は、ロシアの首都モスクワの都心部にある広場。長さは695m、平均道幅は130mの巨大広場。「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであったとのこと。広場は北西から南東に長く、南西側にはガガーリンやスターリン、片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある見所一杯の広場。 モスクワの北東に位置する代表的な3つの都市「スーズダリ」、「ウラジーミル」、「セルギエフ・パッサ-ト」。これらを線で結ぶとちょうど環状になる処から、『黄金の環』(ザラト-エ・カソツォ-)と呼ばれているのです。とりわけスーズダリは、草原の中の狭い町だというのに、古代から中世の教会や修道院が約50個も点在。もう、そこらじゅうタマネギ頭だらけとのこと。 予習のために、通販で中古本を2冊購入しました、とりあえずは読破しましたが予習時間が足りません。居直って『百読は一見に如かず』と。 ロシア語のアルファベットも一夜漬けで。 阪急交通社から書類や備品が送られてきました。 そして今日の大阪日帰り出張後に最終パッキングも完了?! 行って来ま~~す。 ・・・つづく・・・
2014.06.03
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今回の中欧旅行は、訪問国が全て「シェンゲン協定」実施国であったため、実施国を経由しての入国審査は不要。よって国境を越えるのは、日本で言えば県境の如き。高速道路で時速100km近くで国境を猛スピードで越えたのであった。しかし最後のポーランドの出国審査は厳重で、身ぐるみ剥がされ、IT製品も1個1個確認されたのであった。ワルシャワからはQATAR航空981便 16:50発。離陸後のワルシャワ上空からの高速道路。 ヴィスワ川(Wisła)。ヴィスワ川(Wisła)は、ポーランドで最長の川で、ポーランド国内を大きく蛇行しながら北へ流れ、バルト海へと注ぐ川。機窓からの夕焼けは、旅の終わりで感傷的に。 機内夕食。 夕食後は旅の疲れのためか爆睡。気がつけば既にペルシャ湾上空。クウェートの街の灯りか? バーレーンへのペルシャ湾に架かる橋 キング・ファハド・コーズウェイ(King FahdCauseway)。バーレーンのペルシャ湾沿岸。 そしてカタール上空へ。オレンジのナトリュームランプが煌めいていた。 そして定刻にカタール・ドーハ国際空港に到着。 ここで2.5時間のトランジット。日本に向かう便はQATAR航空 804便01:50発。 オマーン海上空からアラビア海へ出て飛行機はパキスタン上空へ向かう。 再び機内食。この後、我が身にトラブル発生。キャビンクルーが隣の客に缶ビールを提供する際、開いたビール缶を私の椅子の端に落としてしまったのであった。私の席には既に夕食の載ったトレイがあり腰を上げる事もママならず。よってズボンの臀部そしてブリーフまで濡れ冷たくなったのであった。ズボンはファーストクラスのパジャマズボンに着替えたが、ブリーフの交換は不可。よってお手ふき用のドライタオルをお尻に何枚か挟み込まざるを得なかったのであった。飛行機は中国大陸上空から渤海湾へ。下は山東半島。 そして久しぶりの日本食。 和蕎麦が旨かった。 マグロの赤身の刺身も。 真っ直ぐ進めば北朝鮮上空へ。しかし飛行機は方向を変え渤海湾を南下。更に南下し東に機首を変え韓国上空へ向かう。 韓国を横断し日本海そして新潟上空から成田空港へ無事着陸。 カタール・ドーハ国際空港に比べて極め利用客が少なくて寂しい成田空港。 そして成田空港からSさんの車、Sさんの運転でで自宅に向かう。首都高速湾岸線を千葉から横浜へ走っていくと大きな観覧車が。 そして20:30に帰宅したのであった。 南から北へと中欧の北に位置する各国の主要都市を実質7日間で駆け抜ける旅であった。1.ハンガリー⇒2.スロバキア⇒3.オーストリア⇒4.チェコ⇒5.ドイツ⇒6.ポーランドの主要都市、古都を訪ねる旅であった。1.ハンガリー・ブダペストは新旧入り混じった混沌とした街、ドナウ川からの鎖橋の夜景 そして両岸のライトアップされた古都は忘れられない光景。 この旅の全ての旅程でのベテラン添乗員の説明も素晴らしく、その経験と博識に 脱帽する毎日であった。2.スロバキア・プラチスラバはドナウ川に面しているからか、小さい街ながら開放的な 街。ユーロ圏でありながら物価は安く、治安も良好、英語の通用度も高かった。 そして丘の上にある城、外部からの見学のみの為かどこかオモチャの如し。3.オーストリア・ウィーンのシェーンブルグ宮殿はオーストリア帝国、絶頂期の ハプスブルグ家を感じることができたのであった。 美術史博物館のレンブラント、ブリューゲル、ラファエロなど著名な絵そして クリムトの壁画が美しかった。そして何よりもフェルメール『絵画芸術』に出会えたの だ。ウィーン歴史地区は、シュテファン聖堂、広場・・・等々ゆっくりとそして深く観賞の 為にもう一度訪れたいと。4.チェコ・チェスキー・クルムロフはレンガ色の屋根と蛇行するブルタヴァ川が印象的。 「ヨーロッパで最も美しい街」の一つという、世界遺産の町を堪能。これ以上観光地化 しないことを願いたい。 プラハの聖ヴィート教会は圧巻、かの有名なカレル橋、旧市街での歴史散策も 想い出深い。5.ドイツ・ドレスデンは第2次世界大戦末期、連合軍による空襲で壊滅的な被害を受けた 街。見事に復興した文化と芸術の街ドレスデンに驚嘆そして堪能したのであった。 がれきとなった部材を組み合わせて再建された聖母教会は、「ヨーロッパ最大のジグ ソーパズル」と言われたと。旧東ドイツ人の執念に驚嘆・尊敬そして感謝。 ゼンバーオーバーは本当に美しいオペラハウス、そして日本人男性オペラ歌手の 生の歌声が聴けたのは幸運そのもの。6.ポーランド・アウシュビッツ、ここはナチスドイツが強制収用所を作ってユダヤ人を 含む150万人余りを虐殺したホロコーストの現場を訪れたのであった。 人間がどれほど残忍になりえるのかを実感せざるを得ない重たい時間であった。 ドイツがナチ蛮行への徹底した反省に基きアウシュビッツ収容所をユネスコ世界文化 遺産にするうえで大きな役割を果たした事実も理解できたのであった。 世界各国からの訪問者は、いずれも寡黙であり目に涙を浮かべている姿が 至るところで。地球上に人類が存在する限り、永遠に残しておくべき人類の 『負の遺産』なのであった。 第二次大戦後、各国が歩んできた道のりは異なるものの、この時期のヨーロッパ史においては、いずれも負の歴史を紡いできた印象の強い国々への訪問であった。特にポーランドはソ連による支配とナチス・ドイツによる併合という2度の憂き目に遭っており、滞在時も未だにどことなく薄暗いような印象があるものの近代化への光も着実に射し込んできていると感じたのは私だけであろうか?戦後華々しく発展を遂げてきた、いわゆる西側諸国を今まで観光して来た私であったが、世界の歴史、将来について学びそして考える上では、今回の中欧旅行は意義深いものであったと今このブログを書きながら実感じているのである。 そして10日間の駆け足の旅であったが、真実・現実を本当に知るには最低1ヶ月は必要と感じているのである。40人のツアー客そして我々4人の旅友に大いにお世話になった事そして忘れられない旅になったことに感謝しこの旅行記の筆を置きたい。さて来年は何処に? 完
2013.10.13
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王宮広場。旧市街南端にある大きな広場。壁の赤いレンガだけでなく屋根の部分にも赤い瓦が使っているのだった。 左奥には屋根越しにヤン大聖堂の屋根も見えた。 王宮広場の高い石柱の上で十字架を手にして立っているのは、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ移したジグムント3世の碑。旧王宮の時計塔。 観光馬車の女性も客待ち中。 ポーランドの女子大生達も我がカメラにポーズを。 旧王宮広場からクラクフ郊外通りを望む。 洗礼者ヨハネ大聖堂は外装工事中。 13世紀末から14世紀初頭に建てられた、ワルシャワで最も古い教会。ゴシック様式の建物。ワルシャワで初めてオルガンが置かれたのもこの教会との事。 パイプオルガン。 美しいステンドグラス。 第二次世界大戦後に再建されたワルシャワのイエズス会教会。 遠足?のワルシャワの子供達。 ワルシャワ旧市街広場は現在工事中。1980年ユネスコ世界遺産に登録されたワルシャワ歴史地区は、例外的な世界遺産。戦争によって灰燼に帰した町並みが完全な姿で再建されたとはいえ、再建であることに変わりはないから。第二次世界大戦中に徹底的に破壊されたワルシャワの町は、昔の絵画や町の破壊を予期して人々が描いた スケッチ、写真などをもとにして、レンガのひびに至るまで丹念に修復され、見事に中世の町並みは復活したと。ワルシャワ歴史地区が世界遺産に登録された のは、建物自体の歴史的な価値というよりは、首都再建を願ったポーランド国民の情熱がユネスコによって高く評価されたから。 ワルシャワの旧市街広場のほぼ中央には当地のシンボルともなっている人魚像が工事中の為一人寂しく。コペンハーゲンで見た人魚姫の像はがっかりしたが、ワルシャワの人魚姫像の方が印象的なのであった。 ワルシャワのバルバカンを抜ける。もともとは砦。それが現代でも残っていることに歴史を感じるのであった。 聖ジャック教会。ワルシャワ蜂起時に破壊されたが、大戦後再建されたバロック様式の建物で、ワルシャワで最も美しく、重要な教会の一つと言われているとのこと。 ワルシャワ蜂起記念碑。第2次世界大戦も末期、1944年8月1日、ワルシャワ市民がドイツ軍に対して蜂起した。この蜂起45周年を記念して、1989年8月に建てられたのがこの碑。ちなみにこの蜂起は失敗に終わった。市街のほとんどを破壊された上、20万人の死者を出し、1944年10月2日に降伏したのであった。 ポーランド軍のフィールド大聖堂。 クラシンスキ宮殿と公園。ネーミングの元になった貴族クラシンスキ家が17世紀に作った宮殿。戦後再建され 今では国立図書館の一部として使われていると。公園にはカラフルで大きなペガサスが置かれていた。地中海をイメージして4年前に作られた作品とのことであるが???。昼食は、ポーランド独特の鮮紅色のスープ バルシチ(Barszcz)。ビーツ(赤かぶ)の色を出したコンソメスープとのこと。 ポーランド風カツレツSさんとおそろいで土産にそしてこの旅の思い出に帽子を購入。 約150年目に創業したチョコレートメーカー「ヴェデル」の店を訪ねる。ワルシャワ中央駅とホリデイインの間にあるショッピングセンターへ。 三角形のガラスが屋根を構成した曲線美の屋根。ワルシャワ ズウォティ・タラスィ ショッピングモール(Zlote Tarasy Shopping Mall)本店は休店とのことでこのショッピングモールにある店へ。 名物 ホットチョコレートを注文。飲んでる途中に撮影。 Wedelのチョコレート飲料を2缶土産に購入。 全ての観光を終了し、バスでワルシャワ・フレデリック・ショパン空港へ。
2013.10.12
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ワルシャワ最終日の朝も4人で早朝散歩。道路横の鉄道の駅のプラットホームでは衣料品も売られていた。 朝日を浴びた文化科学宮殿。 ワルシャワの街も漸く明るくなってきた。 科学技術博物館。 文化科学宮殿前の広場に建つオベリスク。 科学技術館前の彫像。 ハードロックカフェの大きな巨大ギターと雲に覆われ始めた文化科学宮殿の頂上付近。 ワルシャワ市内で一番大きいスーパーマーケット。1時間の散策を終え、ホテルで朝食。 旅も終盤戦に入り甘いものがおいしい。 バスに乗りワルシャワしない観光開始。 世界で最も有名なショパン像はワジェンキ公園の中、ベルヴェデルのすぐそばにあるウヤズドフスキ大通りに面した門の正面に建っていた。この像はワルシャワを代表するシンボルのなかでも有名なもののひとつ。この銅像は風に揺れる柳の木の下に座り、故郷マゾフシェの自然に耳を傾けるショパンを表現しているとの現地ガイドの説明であったが、どう見ても柳には・・・・??。近くにはリストの像も。 現地ガイド。 ポーランド首相官邸。アレキサンダー教会 ポーランド科学アカデミー。建物の手前にはニコラウス・コペルニクス像が建っていた。当時天動説が幅を利かせ教会が絶大な権力を持っていた時代。後にガリレオ・ガリレイが地動説を支持して宗教裁判にかけられ、「それでも地球は回っている」なる名言を残したのに、当のコペルニクスの方は死ぬ直前まで公表しなかったので迫害されずに済んだと。像の周囲には天動説の惑星を表現したオブジェが石畳に埋め込まれていた。こちらは地球。聖十字架教会。教会の入り口へのぼる階段の上には十字架を背負ったイエズス・キリスト像が建っていた。この教会には3つの身廊・側廊があり、2階建て。 聖十字架教会の中に入る。大きな扉を押し開けて中に入ると、厳粛な空間が。 ここはショパン一家が通っていた教会。身廊に向かって左から2つ目の柱の下にはショパンの心臓が入った壺が安置されていると。そこに彫りこまれた銘板にはマテオの福音の一節が刻まれているとのこと。「あなたの宝のある所には あなたの心もある」と。ショパンはパリで死亡したが、姉のルドヴィカがショパンの希望を聞き入れてポーランドに心臓を持ち帰ったとの説明が。 ステンドグラスも美しかった。 ショパンが学んだというワルシャワ大学正門。ワルシャワ大学には東洋研究所日本韓国学科があるとのこと。同学科はポーランド・ひいてはヨーロッパの日本研究・東アジア研究の中心となり、現在に至っていると。ヴィジトキ教会。ショパンがこの教会の日曜ミサでオルガンをひいていたとのこと。ポーランドのカトリック教会枢機卿ステファンウィシンスキーの記念碑。 Kordegardaギャラリー。 白壁が美しい現大統領官邸。(旧ラジヴィウ宮殿)8歳のショパンが初のコンサートを開いた場所。大統領官邸前に立っている像はポーランドの英雄ポニャトフスキ像。段ボールで造ってあるというクラシックカー トラバント。 カルメル会教会。カルメル会の教会として知られている聖母マリアの被昇天のと聖ヨセフの教会は、ワルシャワにおけるローマカトリック教会。 アダムミツキェヴィチ記念碑。最も有名なポーランドの詩人の記念碑。クラクフ郊外通り。 クラクフ郊外通りは王宮広場から南へ延びるメインストリート。クラクフ方面に向かっているためにこの名が付けられたと。聖アンナ教会。 ショパン16歳の秋から学び始めたワルシャワ音楽院が置かれていたシトー会修道院(現・聖アンナ教会)。 王宮広場の手前にある聖アンナ教会の鐘楼 。鐘楼上は旧市街のパノラマがゆっくりと楽しめる場所であったが・・・。
2013.10.11
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クラクフ中央駅に到着。駅の上は大きなショッピングモール。ショッピングモール内をホームに向かって移動。久々のエスカレータ利用。ホームに到着。当駅発の寝台列車によって、チェコのプラハ、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブダペスト、など我々がこの旅で訪れた都市と結ばれているのだ。クラクフ中央駅(Krakow Glowny)の表示。利用列車は12:48発。列車はビャウィストク(Białystok)行。 ビャウィストクは、我々の目的地のワルシャワを超えポーランド北東部にある都市で、ポーランド北東部最大の都市。列車が到着。8人のコンパートメントスタイルの列車。定刻に列車はワルシャワに向けて走り出す。8人のコンパートメントに我々4人、ポーランド人のご婦人、青年一人、そして若いカップルの満席。列車の中でワインを飲むつもりであったがこのメンバーでは・・・と諦めた。途中Kさんが日本の折鶴をポーランド人に披露。わが旅とものSさんも挑戦。ところがカップルのナイスガイは見事な腕前でSさんより上手で感心しきり。なぜ知っているのかと尋ねると、ネット動画で勉強したと。次に紙風船をKさんが披露。流石にこちらは未習熟。お土産に欲しいと言い、自宅で挑戦すると。和気藹々の時間を過ごしアットいう間にワルシャワ駅に到着。 ワルシャワ市電が街中を走り回っていた。 文化科学宮殿。文化科学宮殿は、高さ237メートル、42階立て、尖塔の高さは49メートルあり、総室数は3288室とのこと。旧東側の宗主国ソビエト連邦の指導者スターリンからの迷惑極まりない贈り物であると。 近代的な高層ビルも市内のあちこちに。この日の宿泊ホテルはラディソン ブル ソビエンスキ。ホテルのフロント。 ツゥインの部屋。 チェックイン後暫く時間あるのでホテル近くを散策。果物売り場。 そして向日葵の種。この売り場近くで老婆が2人が路上の脇に座り込みこの向日葵の種を食べていた。 多くの種類のスモークハムも売られていた。曲線美の高層ビル。 財務省大臣宮殿。この日の夕食のスープは、穀物や野菜の入った具だくさんスープ クルブニク。 久しぶりのタイ米はボソボソ。夕食後は我々ツアーだけのショパンのミニピアノコンサート。演奏者は イェルジ・ロマニウク。世界中の国々で積極的に演奏活動を行っているピアニスト。旅友のSさんがピアニストと記念撮影。 ホテルへ戻るバスの車窓からはライトアップされた文化科学宮殿が。
2013.10.10
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ピアノの弦をモチーフにしたオブジェ。 弦の白き部分は噴水。現地ガイドの女性。 目の前にヴァヴェル城が姿を現した。 聖ペテロ聖パウロ教会。ヨハネパウロ2世はこの教会で大司教を務めた。中央市場広場からヴァヴェル城に向かう途中にあった教会。教会の名前に聖人が二人というもの珍らしい。立派なバロック様式。クラクフで最初の バロック様式で建設された教会で 教会の前の柵にキリストの12使徒の像が飾られていた。聖アンデレロマネスク教会。11世紀の終わり頃、パラティン伯ヴォイヴォデ・シェチェフにより建てられた教会で、ロマネスク様式の建物。12世紀末から13世紀初頭、巨大な塔やバロック様式のドーム、殿堂などが付け加えられたと。また14世紀には、ゴシック様式の小礼拝堂が教会の横に建設されたのだ。ヴァヴェル城入り口への坂を上る。ヴァヴェル城はクラクフの旧市街南、ヴィスワ川のほとりにそびえるゴシックルネサンス様式の城で、ポーランドを代表する歴史遺産。11~16世紀まで国王が住んでいて、敷地内には大聖堂や旧王宮、王の墓など歴史的な建造物が多く残されているのだ1320年にクラクフがポーランドの首都となると、国の政治を司る王宮として、文化の中心地として大いに栄えたのだ。 道路脇でアコーディオンをひく芸人。 ヴァヴェル城内にある大聖堂。1364年に建てられたこの聖堂はゴシック様式。後にルネサンス式の礼拝堂が増築されたのだ。中央の高い塔は「ジグムントの塔」。ここには、周囲8mもある巨大な鐘が吊り下げられていると。 ヴァヴェル城内への入り口門。 大聖堂の前に3メートルの高さのヨハネ·パウロ二世のモニュメント。右端の金色のドームはジグムント1世が建てた「ジグムント礼拝堂」。1533年に完成したポーランド・ルネサンス建築の最高傑作といわれる建物。 城内の壁の蔦は彩りを増していた。 中庭。三つの尖塔。 ヴァヴェル城の王宮に入る黒き門。歴史を感じる門。 ヴァヴェル城 王宮。回廊上部の壁には壁画模様が。金色の「ジグムント礼拝堂」。 クラクフの子供達。笑顔が美しい。 「ヴァヴェル城」はクラクフ旧市街の南、ヴィスワ川のほとりにあった。。レンガ造りの茶色の外観が印象的な、美しい王城。大時計のついた鐘楼。 歴史を感じる蔦のからまる門。 ヴァヴェル城を外側から。 城壁の赤い煉瓦が美しかった。 ワルシャワに向かう前の昼食。小麦粉のサワー・スープ、ズーレックは発酵させたライ麦ベースのスープ 豚肉のステーキ コトレット。 そしてクラクフ駅へ急ぐ。
2013.10.09
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この日のクラクフ郊外のホテル。クラウン ピアスト ホテル&パーク。この日も4人でホテル周辺の早朝散歩。ホテルの壁には緑の蔦が。もうしばらくすると紅葉開始か。あわただしく朝食を。この日は日本から持って来たカレーを部屋のポットで温めて食堂に持ち込み楽しむ。この日は軽めの朝食。マレイキ広場のラヂスラス・ジャジロ王の騎馬 バルバカン。バルバカンは、その街を守る城壁の円形の砦 。1498年の造られたもの。後のワルシャワでも登場したが、ポーランド内では3つしか残っていない貴重なものと。隣接するフロリアンスカ門の防備の役割を果たしていたと。ロリンスカ門からフロリアンスカ通りを望む。フロリアンスカ通りはクラクフの旧市街の中心の中央市場広場へと続く通り。遠く聖マリア教会の尖塔が見えた。通りの両側にショップ、レストランが並び、旧市街でも最もにぎやかな通り。フロリンスカ門をフロリアンスカ通り側から。かつて旧市街のまわりには城壁が張り巡らされていたが、近代になり取り壊され、現在は一部を残すのみ。旧市街の立体地図。 チャルトリスキ博物館ポーランド最古の美術館本美術館の収蔵品コレクションは私立美術館としてはヨーロッパ有数の規模を誇る。レオナルド・ダ・ヴィンチ 『白貂を抱く貴婦人』もこの美術館の中に。中央広場に近づくにつれ聖マリア教会の尖塔が巨大に。 聖マリア教会1222年の創建、ゴシック様式。この教会には有名な話があると。かつて、ここをモンゴルが攻めて来た時、ラッパ吹きが教会の窓から襲撃を知らせたのだ。しかし、彼はラッパを吹き終わらないうちに喉を射抜かれてしまった。その悲劇を悼んで、「聖マリア教会」では、毎時、ラッパが吹かれるのだと。ラッパの音は、必ず途中で途切れるのだと。2つの塔の高さが違う理由についても、悲話があると。昔、この教会に2つの塔を建てるために有名な建築家兄弟が選ばれた。兄弟は競い合って塔を建てたが、兄は自分より弟のほうが建築家として優れていることに気づき、劣等感から弟をナイフで刺し殺して、密かに遺体をヴィスワ川に捨ててしまったと。弟が行方知れずになってしまったため、弟が建てていた塔は兄のより低いまま建設中止になり、屋根を付けて完成としたと。しかし良心の呵責に耐えかねた兄は2つの塔の披露の日に罪を告白し自殺してしまったと。弟の塔から飛び降りたという説と、弟を刺したその同じナイフで自殺したという説があると。 この事件の教訓を忘れないため、織物会館内部の丸天井にはナイフが掛けられていた。聖マリア教会の壁面。 会館前にはポーランドの偉大な詩人アダム・ミツキェヴィッチ像が中央広場の南東の角に建つ、聖ヴォイチェフ教会。10世紀に建てられたクラクフ最古の教会。 聖バルバラ教会。聖マリア教会の裏にあった。織物会館。織物会館は14世紀にルネサンス様式で建てられ幅100m、奥行き50mという大きなものでかつて衣服や生地の取引が行われたところであったと。現在は美術館や観光案内所、土産物店などが入っていた。広場には多くの花屋が。何と呼ぶのであろうか生花のリング。 旧市庁舎の塔のふもとにはこんなモニュメントが。不気味な顔。ルネッサンスやバロック建築のきめ細かい彫刻が美しいクラクフの街には、およそ不似合い。旧市庁舎。旧市庁舎は13世紀末にここに建てられたが1820年に取り壊され70mの高さのあるこの塔だけが残されたと。 聖アンア教会が右手前方に。 ヤギェウォ大学中庭。クラクフにあるポーランド最古の大学。コペルニクスなどが学んだ。ポーランドを代表する総合大学で、近年では大学ランキングでワルシャワ大学を抜いてポーランドのトップに立つこともあると。同大学の図書館は、モーツァルトとショパンの自筆楽譜を多数所有していることで知られているのだ。結婚式を迎えてカップルの喜びのポーズ。 ヤギェウォ大学中庭から外へ。 ミウォシュ【Czesław Miłosz】の像。ポーランド生まれの詩人・小説家。フランスへ亡命したのち、1960年に米国へ移住1970年帰化。悲哀と幻滅をたたえた叙情詩が多い。1980年ノーベル文学賞受賞。詩集「真昼の明かり」、評論「とらわれた魂」など。 ヤギェヴォ大学のコペルニクスの像 。ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた人物。ポーランドの可愛い子供達。この日は遠足?
2013.10.08
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四方を電流有刺鉄線に囲まれ、外の世界から完全に遮断されたアウシュビッツ絶滅収容所。その一番最果ての角そして正門から一番遠い部分にあたるその場所が、<死のブロック>と呼ばれる場所。 ナチスドイツが数千人を銃殺した「死の壁」 レンガ作りの赤い壁は、一見したところどこにでもあるような、普通のブロック状の壁。何も知らずにこの壁を見たら、おそらく私は何も感じるものはないかもしれない。何千という銃弾を受けた壁。 収容者用三段ベッド。 収容所を囲んでいる二重の有刺鉄線フェンス。鉄線には6000Vの高圧電流が流れていたと。 ヘスの絞首台。1947年、初代アウシュヴィッツ所長のルドルフ・フェルディナント・ヘス が締首刑にされた場所。 ガス室。 そして焼却炉の煙突。 ガス室内部。 天井にチクロンガスの投入口があった。 苦しみもがいた爪痕がガス室の壁の至る所に。写真を撮るのも、ブログに掲載するのも躊躇しましたが、このような悲しい事実があったことを未来に語り継ぐことが、ここを訪れた私の責務と。 焼却炉。ユダヤ人はガス殺されて遺体はこここで火葬されたと。アウシュビッツの長官は 「お前たちの出口はここの煙突しかない!」と収容者に口癖のように叫んでいたと説明が。 再びバスに乗りアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ。被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。 死の門。この門をくぐると生きて帰れない事から「死の門」と呼ばれるようになったと。 展望室に上がる。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設が。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされるのだ。ピーク時の1944年には90,000人が収容されたのだ。そのほとんどはユダヤ人と。 巨大な収容所の平面配置図。 このホームで生死の仕分けが行われたのだ。 恐怖と劣悪な環境、奴隷労働。ガイドは「想像できない光景」と表現していた。これはわずか70年近く前に、実際に人類が行ったことなのだ。日本人は、加害者として、同時に被害者として両方の立場で、戦争の悲劇を子供たちにも伝えていく責任を負っていることを痛感したのであった・・・・・・・・・。そしてバスでクラクフまで走りホテルにチェックイン後にこの日の夕食。 全員が落ち込んだ気持ちでの夕食。 スープ。 そして旨くなかった餃子のようなすいとんの様なピロシキ。 店内で歌も歌われていたが・・・・。 クラクフ旧市街にある礼拝堂の尖塔が。
2013.10.07
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ヴィエリチカ岩塩抗近くのレストランで昼食。 野菜サラダ。メインディッシュ。オシフィエンチム(Oswiecim)の文字が車窓から確認できた。ドイツ語名でアウシュヴィッツ (Auschwitz) 。 この日の訪問地はアウシュヴィッツ。第二次世界大戦が勃発するとポーランドはドイツに侵攻され、1940年にはポーランド軍の兵舎を転用してアウシュヴィッツ強制収容所が建設されたのだ。強制収容所跡は現在国立博物館として保存され、ユネスコの世界遺産(負の世界遺産)に登録されているのだ。我々のバスドライバーの勘違いで、最初にアウシュヴィッツ=ビルケナウ第二強制収容所(ビルケナウ強制収容所)に小雨の中到着。 添乗員の指示でUターンし、アウシュビッツ 第一収容所に到着。博物館の入口にある付近の当時の航空写真。鉄道線路を挟んで下側にアウシュヴィッツ強制収容所、上側にビルケナウがあり、広大な敷地にこれらの施設か作られていたことが分かったのです。 入場し添乗員による人数確認。 アウシュヴィッツの象徴である「Arbeit macht frei(アルバイト・マハト・フライ=働けば自由になる)」のゲート。実際、この門をくぐって自由になった人はいないのであった。 ARBEITのBが上下逆さまなのは有名。収容者が作らされたもので、せめてもの抵抗の証としてこのように逆さまに作ったという説があるらしい。収容所内の建物群。1941年以降に、ここに収容された人々によって、二階建てに増築されたり改築されたりした赤レンガの頑丈な建物。 レンガ造りの収容棟は、現在28棟ある。設立された当時は一階建ての14棟と二階建ての6棟の計20棟しかなかった。囚人の増加に伴い、すべての棟は二階建てになり、新たに8棟が増設され、現在残る28棟になったのだ。もちろん、この増設も囚人たちの労働力を使って行っているのだ。正面奥は監視塔。 別名「絶滅収容所」。?ここは民間人のユダヤ人を中心として少なくとも110万人の命が、過酷な強制労働、人体実験や有毒ガスに寄って殺害された、「ホロコースト」の代名詞である場所。4号棟にある展示室へ。 アウシュヴィッツにはヨーロッパ各地からユダヤ人、政治犯、捕虜などが送り込まれたと添乗員からの説明。 囚人のカルテ。アウシュヴィッツに連行されたユダヤ人の数。ヨーロッパ中の国から連れてこられたのがわかるのであった。アウシュビッツ収容所へ殺害されるために送られてきた人々の殆どは、東ヨーロッパに移住させられるだけと信じていたと。 収容所に送られてきた人々の写真。、新たな生活に希望と喜びを持って笑顔の人も。鉄道引き込み線に着いた人々を待っていたのは、「選別」。医師が判断して労働できそうな人は収容所へ送られれ、仕事ができないと判断された人たちはそのままガス室へ。証言によると、運ばれてきた人間の70%を超える人々がガス室へ送られていたと。性別・年齢関係なく・・・。地下のガス室に入っていく囚人たちを再現した模型。 囚人たちが階段で地下に降りて、最初の部屋(脱衣場)で服を脱ぎガス室に向かう姿が。そしてその奥に焼却炉があったのだ。シャワーを浴びさせてやると隊員に騙され、皆洋服を脱がされシャワー室にみせかけた、嘘のシャワーの室。その天井の穴から、この毒薬チクロンBを投入して窒息死させたと。チクロンBという毒薬と珪藻土。 猛毒のシアン化水素であり、気化すれば青酸ガスになるのだ。アウシュビッツだけで 1942-1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用されたと。 解放後に見つかった空き缶の山 中身が入った缶もあったと。当時のヘス所長の証言によると 約1500人を殺すのに6-7キログラムの毒ガスが必要だった。と。ソ連軍が入ってきたとき、倉庫から袋に入った約7トンの髪の毛が発見された。現在、約25m×5mのケースに溢れんばかりに展示されていた。すべての髪の毛はくすんだ色をしていて、嗄れ果てたような感じになっていた。この量には圧倒されてしまったtのであった。ガラス越しに見学しているだけなのだが、なんか息苦しくなってくる自分がいたのであった。 髪の毛で作られ毛布。収容された人の(特に女性の)髪の毛を再利用して、敷物や潜水艦の船員の靴を作ったと。展示されていた膨大な髪の毛の束の数だけ確実に人が死んでいるのである。 囚人たちの夥しいクシ。 義足、義手、松葉杖など。 食器や数々の生活用品。 収容所に送られてきた人たちのトランク。トランクには名前や住所を書かされたと。収容所に送られてきた人たちの靴。皆、新たな生活に希望と喜びを持って来たと。よそ行きのピカピカの靴を新調してこれを履いて。この靴一つ一つに人生の足跡が。 靴磨き粉。
2013.10.06
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宿泊ホテルはブロツワフにあるカンパニーレ オールド タウン。ブロツワフはポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつ。この朝も4人で6:30から1時間ほどの早朝散歩を計画。 その前に朝食をとる。 市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっていると。川には多くの白い泡が。40年前?の日本と同じ光景。まだまだ生活水の処理が遅れているのであろう。街のガルニゾン教会の尖塔。 それにしても泡の多さが気になったのであったが。ここが泡の発生源、しかし川が未処理の界面活性剤でよごれているからこそ。 朝早く路面電がひっきりなしに。そして中には多くの通勤客が。 ビィエリチカ 岩塩坑に高速道路で向かう。この日の宿泊地クラクフまでは221kmの表示が。 ポーランドの高速は有料なのであろう。料金所が。未だETCは発達していない模様。 ヴィエリチカ岩塩坑に到着。 ヴィエリチカ岩塩坑で採掘された岩塩は「白い金」 といわれ、中世ポーランド王国に大きな利益をもたらしたのだ。近年は岩塩坑夫が利用したであろうエレベーターで地下へ。 13世紀から本格的な採掘が初まり、14~16世紀、岩塩はポーランド王国の財源の三分の一を担うまでになったと。坑道は深さ327m、全長300kmにも及ぶと。1996年にコストの問題と洪水の危険から採掘が中止され、現在は観光地となっているのだ。観光客向けの3.5kmの坑道には歴史や神話上の様々なモチーフをかたどった彫像が並び、さらに礼拝堂や岩塩採掘史までが展示されていたのであった。坑道は丸太で補強されていた。坑道の丸太が白く塩で覆われている箇所も。 岩塩層に光が当たり黒く輝いていた。 ポーランド王ボレスワフ・フストドリビとの婚礼のため、ハンガリーからやってきたキンガ姫は道中の泉に婚約指輪を投げ入れ、ヴィエリチカの住民に掘り出すよう求めたと。するとその泉から岩塩層と指輪が発見されたという伝説があるとの説明が。 キンガ姫の伝説の一場面。中世の頃、塩の彫刻は採掘作業用のオイルランプに照らされて揺らめき、命を持つかのように見えたとの説明。 岩塩を彫刻して造った像が至る所に。 丸太の道がなくなり塩の巨大なトンネルを手すりに掴まりながら降りた。薄暗がりに王様の像、妖精の像、コペルニクスの像も。孤独な暗黒の世界で、塩鉱夫達はこの像を眺め安らぎを得ていたのであろうか。王様の像。 キリスト像。これは岩塩ではなさそう。 坑内でのくつろぎの場面か?。 塩の階段。 塩で作られた聖人 。ポーランド出身の前ローマ法王ヨハネ=パウロ2世。こちらは最近造られたものであろう。 天井からは「王様の塩」と呼ばれている純度の高い白い岩塩から作られているシャンデリァが下がっていた。信じられないような光景。総て岩塩工の手によるもの。 キンガ礼拝堂。とても地下にあるとは思えない広さ。岩塩坑での仕事は常に危険がつきまとっていて、坑内の無事を祈るためにいくつもの礼拝堂が造られたと。この「聖キンガ礼拝堂」はその中で一番の大きさで地下100mの場所に。模様の入った床やシャンデリア、奥の礼拝堂に至るまでほとんどが岩塩で造られているのであった。 岩塩で造られたキンガ礼拝堂の奥にあるマリア像。 シャンデリアを真下から。神秘的な光景。 壁には数々の彫刻があったがこの「最後の晩餐」は見事。地底には他に運動場があり博物館も。壁や天井から鐘乳石のように塩の結晶が溶け出してその先には塩で出来たつららから滴り落ちるのも濃い塩水。年間に110万人が訪れる場所。 こちらの壁彫刻も見事。 マリア像。光が神秘的。濃い塩水が緑に輝いていた。 約1時間の見学であったが、岩塩の力で殺菌された涼しい坑内で、塩の芸術の数々に感動した、あっと言う間の時間であったのだ。
2013.10.05
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ゼンパー・オーパー(ゼンパー・オペラ) Semper Oper。 ゼンパー・オーパーはドレスデンにある州立歌劇場の愛称。東ドイツ時代はドレスデン国立歌劇場であったが、現在はザクセン州立歌劇場である(旧称で呼ばれることも多い)。世界で最も華麗な劇場の一つとして知られ、特にいぶし銀の響きといわれる劇場専属の管弦楽団 シュターツカペレ・ドレスデン SachsischeStaatskapelle Dresden のサウンドは世界中にファンが多いのだ。 この日は、運良く内部の見学のみが可能な日であったのだ。 天井の絵画も壮観。 折しもこの時は、何の催し物であったかは不明であるが、若き日本人の男性オペラ歌手が壇上で公演していたのであった。 5分ほどで終了したが、ラッキーな体験であったのだ。観客席のも多くの観客が。 天井も豪華で緻密で見事。ゼンパー・オーパー(ゼンパー・オペラ) Semper Operは 手前の騎馬像ザクセン王ヨハンの命によって建てられたのだ。ツヴィンガー宮殿。 宮殿中庭。ここも幾何学的な模様が美しかった。 ツヴィンガー宮殿中庭からのザクセン王ヨハンの騎馬像。 再び旧宮廷教会。屋根の上に立ち並ぶ78人もの聖人の銅像が非常に印象的だった。。ドレスデンの観光を終えバスで270km弱のブロッワフに向かう。途中で渋滞、一時停止。乗用車が道路脇の農地に突っ込パトカーが出動。 この晩の夕飯。
2013.10.04
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バスでこの日の昼食レストランに。メニューはソーセージ料理。しかしこれが主食。 これはスープ・・・・? レストラン内のステンドグラスは印象に残っているのである。 現地添乗員のドイツ人女性。ドレスデンは人口:約50万(東部ドイツ新5州の1つザクセン州の州都)。旧東ドイツで3番目に大きい都市。ドレスデンは「エルベの真珠」とも呼ばれるザクセン州の州都と称えられ、華麗な宮廷文化が輝くバロックの町であるとの説明。フラウエン教会(Dresdner Frauenkirche)。教会の建物は第二次世界大戦中のドレスデン爆撃を乗り切ったものの、完全に焼損し爆撃の翌日崩壊。現在はかつての敵同士の和解を象徴する建築物として再建。外部の復元は2004年に、屋内は再建の開始より13年後の2005年に完了。 アウグスト2世の銅像。18世紀前半,アウグスト強王(1670-1733)とその息子のフリードリッヒ.アウグスト2世の治世下で,ドレスデンの町は一変した.アウグスト強王はドレスデンの歴史を語る上で欠かせない人物であるが,ポーランドで生まれた王は当時,ザクセン王国をも勢力下に納め,その首都であったドレスデンを文化の中心地にしようと優れた芸術家や音楽家を次々に招聘した.またお抱えの宮廷建築士=ペッペルマンに美しいバロック調の建物を数多く作らせた.その代表作は何と言ってもツヴィンガー宮殿.現在のドレスデンの美しい町並みは,この王無くしてはあり得なかったと。 こちらはルターの銅像。この教会はドイツ福音主義教会を構成するザクセン福音ルター派州教会に属していると。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残したとのこと。 広場ではピアノの生演奏が行われていた。この日は日曜日。 黒い部分が大戦前に使われていた材料を再利用し復元した部分。オリジナルのレンガを組み合わせる作業は困難を極め、世界最大のジグソーパズルと言われたと。 現地ガイドが大戦直後の悲惨な聖母教会の写真?を示してくれたのであった。 ガラスのドームが芸術アカデミー。建築家コンスタンティン・リプシウスが、1885年から1894年に、この芸術の殿堂を建てた。ここにはアカデミーとザクセン芸術協会の展覧会場が入ってるとのこと。この大きなガラスドームは外見から「レモン絞り器」というあだ名で呼ばれていると。そう言われればなるほど・・・・。 「レモン絞り器」の上の女神ファーマの金の像 君主の行列(Fürstenzug)。大戦の空襲で町のほとんどが破壊されたドレスデンだが、奇跡的に残ったものがこの「君主の行列」という壁画。レジデンス城のシュタルホーフ(武芸競技場)の北の外壁を飾る、長さ102mの「君主の行列」。35人のザクセンを支配したヴェッティン家の王侯、それに市民階級の代表者たちが描かれているのである。 1868年に画家ヴィルヘルム・ワルターが、2層の対照的な色からなる漆喰の、表面の湿った層を掻き落として線画を描く壁の装飾技法であるスグラフィット用法で仕上げたと。しかしながらしかし 漆喰の損傷が激しく、1904年から1907年にかけてこの外壁を24,600枚のマイセン焼きの磁器タイルの壁画に替えたと。 絵の最下部には「富める者」 「好戦者」 「温厚なる者」 「誇り高き者」 「噛まれた者」といった 添え名の記された君主もいるのである。そして各君主の在位期間が記載されているのであった。 それにしても磁器タイルとは思えない精巧な描写。 アウグスト2世(アウグスト強王)の勇姿。 行列の最後は子供たちも一緒の庶民の群れ、群れの最後尾にこの絵を描いた画家ウイルヘルム ヴァルターも描かれているとのこと。 カトリック宮廷教会(Katholische Hofkirche)ザクセン最大の教会であり、最後のバロック教会。ドレスデン地方裁判所。ブリュールのテラス前の像。 ブリュールのテラスからアウグスト橋。ブリュールのテラスは、エルベ川にテラスのように張り出した庭園付きの広大な遊歩道である。本来はエルベ側の堅固な要塞だったが、それを当時権力を振るっていたザクセン首相ブリュールが改造したものであるとのこと。 ブリュールのテラスから見たドレスデン城(左)と旧宮廷教会(右)
2013.10.03
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我々旅友4人はいたって元気。この日も5時からプラハの街の早朝散歩。ホテルを出てもまだ日の出前なので薄暗い。ホテル近くのの公園内を散策。さすがにこの地でもこの時間には人はほとんど見かけず。公園の隅に各種トレーニングマシンが設置されていた。日本の公園内にも1~2種の簡単なものは見かけたことはあるが、トレセンの如くこの様に各種器具が設置されていることに驚きと感動の瞬間だったのだ。 旅友のSさんも早速挑戦。まだまだ元気そのものの先輩であるが、いつか誰にでも来る日を覚悟して異国の地でリハビリ訓練を開始したのであった。 5:40 東の空が赤く染まってきた。 見事なチェコ・プラハの朝焼け。 そして1時間の早朝散歩を終え宿泊ホテルに戻る。 早速朝食。 ロビーには紙幣の両替機が設置されていた。日本円からの両替が可能なのであった。 プラハから8号線、E55号線でドイツ・バスタイ渓谷へ向かう。途中、バスはプラハ駅横を通過。 ホテル出発は7:50。40名のツアーであったので集合時間の心配をしたが今回の旅友は全員PUNCTUAL!!。集合時間の10min前にはほぼ全員が集合。途中、高速道路脇にはグライダー用飛行場がいやただの平らな草原? 2時間ほどでバスタイ渓谷に到着。バスを降り渓谷の展望道路まで歩く。 途中客を乗せた白馬車に出会う。 建物の壁に這うツタは既に真っ赤に紅葉。 集合時間を確認し散策開始。見回すと、周りはすごい奇岩が立ち並んでいた。中国の桂林 に似た景観か。巨大な岩の割れ目から光が射し込み神秘的。その隙間から遙か下に田園風景が。 バスタイ橋には多くの観光客が。 断崖が一気にエルベ川に。 岩の割れ目から エルベ川沿いの村落が見えた。丁度エルベ川蛇行する場所の上。エルベ川は、チェコ北部およびドイツ東部を流れ北海へと注ぐ国際河川。全長約1,091kmはヨーロッパでは14番目に長く、このうち727kmがドイツ国内を占める川。 カヌーで船旅を楽しむ人も川面に。 村の教会であろうか? 奇岩の数々、ただしロッククライミングの人影は見えず。 かつては要塞としての役目も担っていたと添乗員の説明。 巨岩が橋で繋がり断崖の先端まで。 何故か日本の国旗が描かれていた。 奇岩。 バスタイ橋の全景。やはり要塞? 帰りに赤く染まった落ち葉を拾い撮影中に、旅友のKさんの可愛い手が突然。私の顔も赤く染まったのであった。しかしKさんの本音の意図は、私に対する「濡れ落ち葉」 STOP?バスタイ渓谷の観光を終え再びバスでドレスデンに向かう。 ドレスデン市内の教会の尖塔は12:25を示していた。 折しもこの日はドイツ総選挙の日。道路脇には、勝利したメルケル首相の巨大ポスターが。 エルベ川から巨大尖塔のある大聖堂、ドレスデン城が見えた。 ギネスブックに登録されている「世界一美しい牛乳屋さん」 へ立ち寄る。店の内部。牛乳を飲んだが我が家の近くの牧場の牛乳の方が味が濃いのであった。 世界一美しいと誰が判断したのであろうか?金額でギネスを手に入れた?これもビジネスモデル? 我が旅友は隣にあるマスタード売り場の方が大人気。 各種のマスタードを味見して購入できるのだ。これもビジネスモデル。世界一辛いマスタード屋さんとしてギネス登録したら?
2013.10.02
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カレル橋の反対側の旧市街橋塔門が近づいてきた。 塔門をくぐる。 塔門をくぐり振り返る。 塔門の中間から見下ろす像。 カラフルな建物の下をヴルタヴァ川が流れていた。聖サルヴァトーレ教会。 歩いて渡ってきたカレル橋と聖人像。建物の下を通過する路面電車。トンネル部分の高さが低いため、パンタグラフが架線により押し下げられていたのであった。 旧市街広場に建つティーン教会の尖塔が2本。 旧市街広場の天文時計のある塔が目前に。 15世紀に作られ、当時のままの姿で今も時を刻んでいると。 この天文時計は3つの主要な部分、すなわち空の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤、「使徒の行進 (The Walk of the Apostles)」と呼ばれるキリストの使徒などが時間ごとに動く人形仕掛け、それから月々を表す浮き彫りの暦版からなると。 文字盤(プラネタリュ-ム)。 暦表。17時になり仕掛け時計が動き出したのだ。文字盤の脇にいる死神が鐘を鳴らしその音と共に塔の上にあるキリストの12使徒がゆっくりと次々に現れては消えてゆくのであった。最後に一番上でニワトリが一声鳴いて終わり。旧市庁舎(西側)の美しい「スグラフィット装飾」の建物。スグラフィット装飾とは16世紀半ば、ボヘミア全土に広がった「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」といわれる壁絵の装飾技術。もとはイタリアからもたらされたもの。レンガの壁に木炭などの黒い漆喰を塗り、その上に石灰の白い塗料を塗り、その上から下絵を針金で突いて写しとり、下絵にそって白い塗料を掻き削ると、下から黒い漆喰があらわれ、白黒の絵が出来上がる。遠くからは、凹凸のある石壁のように見えるが、実際には凹凸のない壁画であると。 自由時間にボヘミアンガラスの店を覗く。 クリムトの絵画を題材にしたガラス作品。 こちらはかなりエロチックな作品。 旧市庁舎広場で大型シャボン玉を造り遊んでいた。 大きなシャボン玉の裏には聖ミクラージュ教会。聖ミクラーシュ教会はプラハの最も大きいと最も有名なバロック様式の建物。バロック様式の真珠とも呼ばれていると。イエズス会の教会として1703-1756年の間に建てられたドーム。教会の長さは60メートルと幅は40メートル。教会の両方の塔の高さは79メートルと細い塔の上に(215段の階段)上ることが可能。時間があれば上りたかったが残念。旧市街広場のヤン・フス像。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られているのだ。当時のローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になり死亡した。以後、チョコにおける信者(フス派)は、ローマカトリック教会と戦うことに。ヤン・フスの像は、1915年フス没後500年を記念して造られたのだ。ティーン教会。 旧市街広場の東側に特徴のある二つの尖塔を持つゴシックの教会。正式名称はティーン(税関)の前の聖母マリア教会。教会の裏に税関があったから。見学を終え旧市街に別れを告げ徒歩でバスに向かう。カレル橋から2つ下流の橋を渡る。 橋脚の上の,トーチカを持った女性像。橋からのプラハ城・ 聖ヴィート大聖堂。レトナー公園の不思議なモニュメント。 メトロノームとのこと。メトロノームのある場所はもともと大きなスターリン像があったとのこと。それが1989年の共産党独裁政権崩壊と共に像が壊され、」メトロノームに代わったと。正式にはチェコでは「タイムマシーン」と呼ばれており、時間は止まらない、未来に向けて時を刻み続ける、そんな意味がこめられていると添乗員のHさんから。あくまでも博識のベテラン添乗員であることをこの旅行でいたる場所で感じたのであった。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の静かな流れ。川は旧市街のあたりで湾曲し、流れが緩やかであり、ところどころが浅瀬になっており、水鳥が餌をあさるために、多く集まって来ていた。ここチェコの作曲家スメタナは連作交響詩組曲「わが祖国」の第2曲でヴルタヴァ川を題材としていることを想いだしたのであった。ホテル・パノラマ プラハにチェックインしホテルでの夕食。甘いものが欲しかったのであった。 ここチェコもビール(チェコ語では Pivo と言います)が有名。何せ、国民一人当たりのビールの消費量が世界一であるとこれも添乗員から。この日は黒ビールに挑戦。やや甘い。黒糖のような甘さ。苦味はかなり抑えられ飲みやすかったが後味は口に甘みが残る感じ。フルーティーさはあまりなし。
2013.10.01
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カレル橋に向かって坂を下ると、カレル橋入り口にある塔のアーケードが見えてきた。カメラをズームしてみると、観光客でごった返している事が確認できた。なるほどこの日は土曜日。橋塔。両側にはボヘミアンクリスタルや人形のみやげ物屋風な店が並んでいた。 アーチの上ではトランペットの演奏が始まった。 カレル橋(Karlův most)はチェコ共和国の首都、プラハを流れるヴルタヴァ川に架かる橋。WIKIPEDEIAによると神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1402年に完成。建築家ペトル・パルレーの設計による。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。橋の長さは515.7メートル、幅は9.5メートル。15のアーチの上に、砂岩の切石の橋桁が渡されている。また橋を守るために3つの塔が建てられており、とくに旧市街側の塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の聖人彫刻が並んでいると。聖書書から題材をとったり、歴史的な聖人、チェコの英雄がモデル。カレル橋の聖人像を確認しながら進む。最初の聖人像(1.救世主と双子の聖コスマスとダミアヌス像)は何故かなかった。2.聖ヴィート=ヴィトゥス像。16.聖ヴァーツラフ像 3.聖ペニート=フィリッホ像。唯一の大理石像。 17.マタの聖ヨハネとヴァロフの聖フィリックス及び聖イワン像。4.聖カイェタヌス像。18.聖ヴォイチェフ=アダルベルト像。5.聖アウグスティヌス像。 19.聖ルトガルディス。6.聖ダタイのユダ像。20.トレンティーノの聖ニコラス像。 7.パドゥアの聖アントニウス像。21.聖ウィンケンティウス・フェレリウスとプロコプ像。 8.聖ヤン・ネポムツキー像 橋上最古で、唯一のブロンズ像。台座のレリーフ(左)。ネポムツキーに告解する王妃と残酷なヴァーツラフ4世とその猟犬。プレートの猟犬に触れると願いが叶うと。 22.燭天使に守られた聖フランチェスコ像9.聖ノルベルト、ヴァーツラフ、ジギスムント像。23.聖ルドミラとヴァーツラフ像。10.洗礼者ヨハネ像。 24.聖ボルジャ・フランシスコ像。 11.キュリロスとメトデウス像。 25.聖クリストフォルス像。12.聖アンナ、聖母とみどり児像。26.聖フランシスコ・ザヴィエル像。13.ブロンズの十字架像。 27.聖ヨゼフ像。14.聖母と聖ドミニクス、トマス・アクィナス像。28.ピエタ像15.聖母と聖ベルナルドス像。29.聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリーザベト像。30.聖イヴォ像。カレル橋から見た ヴルタヴァ川の風景です。上流側を見る。Legion Bridgeとその先に国民劇場。 クルーズ船ものんびりと。 そしてカレル橋の観光客。 ストリートパーフォーマンスに多くの観光客が。マラー ・ストラナ橋塔が見えて来た。ストリートミュージッシャン。 聖ヴィート大聖堂の塔も見えた。似顔絵描き。
2013.09.30
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次の観光場所チェコ・プラハ城に向かう。 ブルタバ川を渡る。 バスの窓から聖ヴィート大聖堂が見えてきた。 王宮内に入るマチアス門。 マチアス門の衛兵。 中庭と王宮庁舎(現在は大統領府)第2の中庭から門をくぐった第3の中庭に入ると、目の前に圧倒的な迫力で迫ってくるのが聖ヴィート大聖堂。尖塔の高さは96.6m。聖ヴィート大聖堂のファサード。正門 豪華なゴチック様式のバラ窓。正面入り口。 大聖堂の内部は、天井の高さ34メートル、幅60メートル、奥行き124メートルの大空間。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ大聖堂」。プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会。 この大聖堂のステンドグラスの数々に感動の連続。 柱にステンドグラスを通過した光が。 違う角度から見た聖ヴィート 大聖堂。屋根に小さな尖塔が至る所に。 プラハ城からカレル橋方面を望む。 帰りは城の横の階段をカレル橋方面に下る。
2013.09.29
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二晩宿泊した、ウィーン イベントホテル ピラミデの我々の部屋。この日はモーニングコール5:30 早々に朝食。そして7時に出発、目指すは世界遺産チェスキー・クルムロフ歴史地区。WEST AUTOBAHN A1をひたすら走る。ドナウ河に流れ込む枝川。 途中ドライブインでトイレ休憩。旨そうな生果実ジュース。西洋ミツバチの巣蜜も売られていることに、趣味の養蜂家として大感激。 ひたすら北海道に似た草原を走る。 オーストリア~チェコの国境を猛スピードで通過。 10時にチェスキークルムロフに到着。チェスキー・クルムロフの地図。チェスキー・クルムロフは、プラハから南に170Kmほど来たボヘミア地方の森の中にあり、人口が約1万4000人ほどの小さな街。 チェスキークルムロフ渡り廊下を歩く。チェスキー・クルムロフ は、チェコ・南ボヘミア州の小さな都市。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語のKrumme Aueをその語源とする。チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味。 チェスキークルムロフ城のカラフルな塔。水車小屋。 スヴォルノスティ広場とペスト記念碑(旧市街の中心広場) 添乗員から城まで足を延ばすのは時間的に厳しいと言われたが、Sさんと果敢に挑戦。 ブルタバ川の橋の上から城の塔を望む。 石畳の感触を確かめながら、商店街の或る坂を上る。 ラトラーン通りのチェスキー・クルムロフ城の中央門、チェルヴェナー・ブラーナCervená Brána = 赤い門をくぐる。 城への入り口。 高くそびえる、聖ヴィート教会の姿も確認できた。 蛇行するブルタバ川。 教会の尖塔。 キラキラ輝くブルタヴァ川の曲線と、ボヘミアの深い緑、街並みのパステル・カラー。その美しさから人々はこの街を「眠れる森の美女」と評したのだ。何とか昼食のレストラン前の集合場所に時間通りに戻る。 レストラン内部は岩の洞窟。 スープ。 そして立ったニジマス。 全て完食。ビール代はチェコ紙幣100コルナで支払う。1コルナは約5円。 ブルタバ川がきらきら美しいかった。 ラフティングを楽しむ夫妻?
2013.09.28
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ウィーン新王宮。650年以上もの歴史を重ね、ハプスブルク家の盛衰を見つめてきたウィーン王宮。広大な敷地の中に18もの棟が複雑に入り組んで建ち、現在では多くの博物館が入っていると。新王宮の前には、対トルコ戦争の英雄オイゲン公の騎馬像が立っていた。オイゲン公はフランスのサヴォイ家の出身で、最初はフランスのルイ14世に仕官したが、門前払い。。次に神聖ローマ皇帝レオポルト1世を訪ね、将軍として迎えられたと。 1683年、ウィーンは20万を越えるオスマン・トルコ軍に包囲されたが、オイゲン公の活躍で防衛に成功したと。 オイゲン公の騎馬像の向かい側にはカール大公の騎馬像が立っていた。皇帝フランツ1世の弟で、オーストリア軍を指揮してナポレオンと戦った将軍とのこと。カール大公の騎馬像は2本の足でバランスよく立っていた。 王室入り口近くにある聖ミヒャエル教会。ミヒャエル教会は1250年に建設されたロマネスク様式の教会。 教会入り口。再び新王宮新王宮の見事な彫像。カフェ・DEMELの本店で休憩。DEMELは多くの観光客が訪れ、ウィーン市民にも愛されている洋菓子店。特に有名な本場「ザッハー・トルテ」を楽しむ。 山盛りの生クリームを4人で分ける。 生クリームがこぼれ落ちそう。 再び散策開始。スペイン乗馬学校の白馬か。 王室の一部である聖オーガスティン教会に入る。マリア・テレジアもフランツ・ヨーゼフもここで結婚式を挙げたと。 多くの観光客で賑わっていたが、栄華を誇ったハプスブルグ家の教会にしては意外に質素。 マリア·クリスティーナの墓。ピラミッドの形をした墓でピラミッドの中心は、悲しい行列を迎える暗い口を開けていた。 パイプオルガン。 ウィーン市街の中心部には観光馬車が多い。観光馬車はフィアカー(Fiaker)と呼ばれている。 ケルントナー通りを散策。 アルベルティーナ美術館 アルベルティーナ美術館は、世界最大規模の重要なグラフィック・コレクションで知られ、デューラーの「野兎」やクリムトの女性像など美術史上の名作が所蔵されていると。更に、新たなコレクションでは、モネ、ピカソからバセリッツに至る現代美術の名作が見られるとのこと。建物は、ハプスブルク家のプライベートな宮殿だったもので、ホーフブルク王宮の南端を構成し、ウィーンの古い城壁の一部に組み込まれているのです。 ウィーン国立歌劇場。ネオ・ルネッサンス様式。19世紀 モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で幕を開けたとのこと。専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団が、世界でも一、二の人気を争うオーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体であると。 マルタ騎士団教会(Malteserkirche)。 幻想的な人形が。 市内にて再集合後、バスでシェーンブルン宮殿のコンサートへ。 既に多くの観客が。 モーツァルトとシュトラウスの楽曲の数々を宮廷オーケストラが演奏。 プログラムはモーツァルトの「フィガロの結婚」、「偽の女庭師」、「ドン・ジョバンニ」といったオペラより序曲、アリア、デュエット。ヨハン・シュトラウスの「こうもり」からの楽曲、「ジプシー男爵」、「美しく青きドナウ」、「ラデツキー行進曲」といった作品が演奏されたのであった。休憩時間を含み2時間のバラエティ豊かでハイクォリティな生演奏を大いに楽しんだのであった。 そしてこの日は深夜のホテル到着。
2013.09.27
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広場には多くの花屋が、そして美しい花々が。 カプツィーナー教会・皇帝納骨所。ハプスブルク家の人々はその殆において、心臓が王宮ホフブルク付属のアウグスティーナー教会に、内臓がシュテファン大聖堂に、そして残りの遺骸がこのカプツィーナー教会に安置されているのです。教会のの正面にある大きな扉は普段は閉じられているとのこと。 アルベルティーナ広場には戦争とファシズム(ナチス)を告発する記念碑が。中央に見える尖塔は、14世紀に建造されたハプスブルク家縁のアウグスティ-ナ教会の塔。 後ろに立つ2本の石柱の前にある黒っぽい石の塊は、命令に従って街路に這いつくばり掃除をするユダヤ人の年寄りの像であると。 有刺鉄線を巻かれ、人としての尊厳が奪われた表情が哀れ。この像は不正、ファシズム、戦争反対のモニュメントとのこと。アルベルティーナ広場横の美術館。世界最大規模のグラフィックコレクションで知られるアルベルティーナ美術館にはピカソやモネ、バセリッツなどの現代美術の名作も展示されているとのこと。建物自体はもともとハプスブルク家の宮殿だったため、部屋の数々は豪華に装飾されていると。王宮通用門?とハプスブルク家の象徴「双頭の鷲」。 王宮庭園内に 1901 年に建てられた温室植物園。現在は内部が改装され、蝶類の博物館とカフェ ・ レストランになっていると。 新王宮の屋根にも「双頭の鷲」が。 十七世紀のオーストリアのある修道院長のアブラハム・ア・サンタ・クララの像。 ウィーンといえばこれ、モーツァルト像と花のト音記号。 新王宮ブルク公園の一角に1896年に創られた像。モーツァルトはザルツブルク出身。25歳からウィーンに定住し、生涯に700曲以上の作品を残したのです。モーツァルトの足元には、美しい天使たちが。王宮庭園から音楽の都ウィーンの街を優しく見守っていたのです。 後ろには新王宮が。 自然史博物館。 マリア・テレジア広場のマリア・テレジア像。 美術史博物館へ向かう。 オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダの各地ハプスブルク家の領土を中心に生み出された400年間にわたる美術コレクションを中心とする美術館。美術史博物館と向かい合って建っている自然史博物館。 正門両脇の彫像。 入口から壮麗。中欧の美術館・博物館はフラッシュなしなら撮影OKのところが多いのであった。ネオ・ルネッサンス様式の建物の壮麗さに、感動しきり。2階への踊り場の中央には、アントニオ・カノーヴァ 「テセウスとケンタウロスの戦い」。 中央ホールのドーム。 豪華な装飾天井。ブリューゲル『バベルの塔』フェルメール 『絵画芸術』。フェルメールの絵に見られる鮮やかな青の「フェルメール・ブルー」が印象的。三十数点しかないフェルメールの作品、そしてベスト3に入る作品を直にこの眼で!!ルーベンス 『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』 ブリューゲル『雪の中の狩人』 ブリューゲル『農家の婚礼』 ラファエロ 『草原の聖母』模写する学生の姿も。 レンブラント自画像。アンチボルト 「四季 夏」。 美術史美術館はウィーンで最も人気のある美術館の一つ。ブリューゲルの『雪中の狩人』、『バベルの塔』をはじめ、フェルメール、ラファエロ、ルーベンスなどの傑作を鑑賞できたのであったが時間が足りない!!。
2013.09.26
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この門から、ベルヴェデーレ宮殿へ ベルヴェデーレとは、ラテン語で美しい眺めの意味。 300年位前のオスマントルコとの戦いで有名な将軍「オイゲン公」 の夏の離宮として造られたと。上宮下宮間の斜面に広がるバロック庭園の眺めの美しさが有名で、世界10大美景と言われているとのこと。 池に映った姿に感動。 池での遊泳禁止の看板。文化の違い?。 マリー・アントワネットが祝宴を挙げたバロック建築の宮殿。 黄色のカンナの花が美しさを増していた。 宮殿の随所には、上半身が乳房をあらわにした美女で、下半身がライオンのスフィンクスが配置され、宮殿を守っているのであった。 上宮から下宮方面を望む。ベルヴェデーレ宮殿は、上宮(南側)と下宮(北側)の2つの宮殿からなり、その間はなだらかな坂になっており、上宮からの眺望。フランス式庭園と下宮、そして、その向こうに見えるウィーンの街並みは絵になる。遠く左奥にシュテファン大聖堂の塔が見えた。 幾何学模様の庭は圧巻。 上宮にはクリムトの『接吻』やエゴン・シーレ『死と乙女』など19~20世紀オーストリア絵画がまとまって展示されていたが館内は撮影禁止。よってパンフレットより、クリムトの『接吻』。この絵は、女性に人気のある絵で、クリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲがモデルに描かれたと言われて「究極の愛」を表現したと言われているのです。慌ただしくベルヴェデーレ宮殿の観光を終え出口(入り口)からバスに戻る。 時間に余裕があるとのことでウイーン環状道路リンク(Ring)を車窓観光。ウィーン国立歌劇場。世界三大オペラ座の一つであるウィーン国立歌劇場。(あとの2つはパリのオペラ座とミラノのスカラ座とのこと)。1869年にモーツアルトの『ドン・ジョバンニ』で幕開けしたと。 ウィーン王宮前のテレジア像。 ギリシャ神殿のようなオーストリアの国会議事堂。正面にはアテナ女神が立っていた。古代ギリシャの英知と戦争と平和の神様。彼女は右手に勝利の女神ニケを、左手には槍を持っていた。 ウィーンの議会の前のポスターは9/29に行われる選挙に投票するように呼びかけていた。アテネの女神像の足元には4人の像が。これは、ハプスブルク家の領土を流れていた4つの川ドナウ、イン、エルベ、モルダウを表しているとガイドから。誰がどの川なのか?国会議事堂の前の騎馬像 。屋上にも巨大な像が。 ヴォティーフ教会の巨大な尖塔。ネオ・ゴシック様式で多数のステンドグラスがある教会として有名とのこと。 ウィーン最古の教会、ルプレヒト教会。ロマネスク様式が一部残る、創建は8世紀、その後11~12世紀に建て増いたとのこと。 シュテファン大聖堂。 ウィーンのシンボルで、その観光名所のひとつであるゴシック様式の大聖堂。ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、モーツァルやとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂。オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち、教会の塔としてはウルム大聖堂(161メートル)、ケルン大聖堂(157メートル)についで世界で3番目の高さがあるとのこと。外観の改修工事が行われていた。 屋根瓦で描いたモザイクの様な紋章も美しかった。空に突き刺さっている尖塔。 ドンナーの泉。1737年 ハプスブルグ家の繁栄とかつ、祝うために造られた泉。 昼食はこのウィーン料理のレストランMuellerbeisl。日本語のメニューが用意されていた。 ベジタリアンのKさんは魚料理の特注品。 私はシュニッツェル、ウィーン風カツレツ。
2013.09.25
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宿泊ホテルは イベントホテル ピラミデ。この日も朝6時から4人で早朝散歩。ホテルを出てもまだ薄暗い。 ホテルの周辺を散策。だんだんと明るくなり朝焼けが姿を現した。 そしてピークの見事な異国ウィーンの朝焼け。早起きは三文の得とはこのこと。 約1時間の散歩を終えホテルに戻る。 ロビーは広く、フロントには従業員の姿も。 朝食はバイキング。ハムは旨かった。 朝食会場の屋根がピラミッド型の開放感のあるガラス張りで、ウィーンのはずなのに、明るい南国の雰囲気を醸し出してたのであった。 この日の最初の観光は「シェーンブルン宮殿」 現地ガイドはこの地に住む日本人女性。「シェーンブルン宮殿」 はハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した宮殿。現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されているのです。 シェーンブルン宮殿庭園入口門の塔の上には鷲が。 女帝マリア・テレジアが子どもたちの住居にするため改造し、1794年に完成。マリア・テレジア・イエローの外観が美しい宮殿。 建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180m シェーンブルン宮殿内の大ギャラリー。宮廷の大宴会や舞踏会が開かれた豪華な大ホールの天井。1814年、「会議は踊る」と揶揄されたウィーン会議に使用されたと。 (写真はパンフレットより転載)宮殿の入口近くには馬車の乗り場が。馬で周辺を走ることができるのです。芝生の緑と周囲の花々、そして中心に白き彫像。 庭園の周囲には多くの彫像が。 シェーンブルン宮殿庭園 シェーンブルン宮殿庭園とグロリエッテ 水たまりに映ったシェーンブルン宮殿 シェーンブルン宮殿庭園とグロリエッテ シェーンブルン宮殿庭園にあるネプチューンの泉 庭園とシェーンブルン宮殿マリア・テレジア・イエローの外観が美しい宮殿そして花壇、植え込み、噴水などを幾何学的に配置した西洋庭園に感動した時間であったのです。
2013.09.24
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再びバスで昼食のレストランに向かう。ドナウ河畔に立つスロバキア国立博物館の手前で下車。 昼食はハルシュキ。すり下ろしたジャガイモと小麦粉をゆでて作ったダンプリングと牛乳で溶いた羊乳のチーズソースを絡めたもの。カリカリに焼いたマシュルーム?が載っていた。 メインディッシュは川魚。 ドナウ河には大きな観光船が停留中。 昼食後は旧市街を散策。様々な色と形の屋根。 河畔の公園には踊る少女像が。 スロバキア国立劇場。 スロバキアの詩人フビェズドスラフ像と噴水。 旧市街の壁には、音楽家モーツァルトやリストが来た事を記したプレートが。 ハエル門(Michalská brána)旧 市街を囲む城壁に付いていた 4つの門のうち、現存する唯一の門。マリア・テレジアがこの街のさらなる発展を考えて 18世紀後半にこのミハエル門を除いて全て撤去したと。 中央広場(フラヴネー広場)にある旧市庁舎と仕掛け時計のある尖塔。現在は歴史博物館になっているとのこと。中央広場にある日本大使館の日の丸と金色に光った菊の紋章が確認できた。海外で日の丸を見ると心が和むのであった。 中 世より市の中心広場として使われた広場。様々な市の催しや集会・処刑などが行われまた市場が立ったと。広場の中心にある噴水は「ロランド噴水」と 呼ばれ、 1572年、当時のオーストリア皇帝マクシミリアン 2世の命を受けて作られたブラチスラバ最古の公共水汲み場。その中心に立つ騎士像は皇帝マクシミリアン。 ナポレオンが肘をかけているベンチ。多くのカップルがベンチに腰掛け記念撮影。我がツアーのご夫妻も。 30分ほどの自由時間になり中央広場周辺を散策。 プリマティア宮殿内の教会入り口。教会内部ではミサが行われていた。 祭壇上部。 フランシスコ教会。この「フランシスコ教会 Franciscan Church」の歴史は13世紀に始まるようで、聖マルティン大聖堂と並んでブラチスラヴァでも最古の教会の一つとのこと。ブラチスラバは愉快な街。これは像ではなく本物の人間。 マンホールから覗く人の銅像はお馴染。 我が旅友の女性二人も像と一緒に。2Fの窓の外に座っている像。 ブラチスラバ市庁舎。ユーロ旗、スロバキア国旗、ブラチスラバの市旗が掲げられていた。 プラチスタバの観光を終え、バスでオーストリア・ウィーンに向かう。ノルドオスト・アウトバ^ンA6を利用して70km弱のウィーンへ。ここにも車窓から風力発電が見えた。スロヴァキアとオーストリアの国境を通過。 ウイーン市内のStadtpark(市立公園)近くでバスを降りる。ウィーン 市立公園 案内図。 ドナウ河に流れ込むウィーン川は公園の中央を南北に流れる川 。市立公園の中に建っているヨハンシュトラウスの像 ウィーン出身の音楽家はモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シュトラウスも・オーストリアの人口はわずか800万人余りだが、有名な作曲家だけでなく、ウィーン大学卒からはノーベル賞の受賞者が何と13名も出ていると現地添乗員から。公園西端に ヒューブナークアサロンが。ウイーン音楽の魅力的な演奏を聴ける場所。前方には花時計が午後5:50を指していた。 銅像の横で歌唱練習をしている女性の姿。 夕食レストランに到着。 スープは旨し。 米は堅くボロボロ。 デザートはオーストリアを代表する菓子として知られているアプフェルシュトゥルーデル。
2013.09.23
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ブダペストの宿泊ホテルはゴールデン パーク ホテル。 ホテルフロント。 我々のツインの部屋日本のビジネスホテルと同じ。4人での早朝散歩への前に朝食をとる。ホテルの前にあるブダペスト・ケレッティ(東駅)。ブダペストで最大のターミナル駅。バロシュ広場(Baross)に面しているがこの広場は現在工事中であった。。東駅構内。ドームを有する風格のある駅舎は、1881年から1884年にかけて建てられ、その当時ヨーロッパではもっともモダンな駅舎とされていたとのこと。 ブダペストを発着するほとんどの国際列車はこのブダペスト東駅が利用されているのだ。ウィーンやプラハに向かう国際線の発車時刻表。 歴史を感じられる列車車両。 正面の大きな飾り窓を駅舎構内から。 ファサード(建築物の正面デザイン)。多くの人物像が。2つの彫像はジョージ・スチーブンソンとジェームズ・ワット。 そして市内を通過しスロヴァキア・ブラチスラヴァに向かう。途中、再びドナウ川を渡る。 高速道路M1を利用。交通量はかなり多い。 至る所に風力発電が。 途中、ハンガリーとスロヴァキア国境を通過。島国に住む日本人にとって、陸つづきの国境が、なぜか不思議な感じがその都度するのは私だけではないはず。東欧の主要国が2004年に欧州連合(EU)に加盟して9年、シェンゲン条約に加盟して5年になる。シェンゲン協定によって国境検査が撤廃された区域は2008年12月以降で25のヨーロッパの国に広がっており、その人口は4億人。超社会主義時代の国家や国境が極めて硬直的だったのと比べ、正反対の状況が生まれたと添乗員のHさんの説明。国という敷居が低くなる中、西から東へ企業進出が進み、東から西への出稼ぎ労働が増えていると。 再びドナウ川を渡る。ドナウ川はドイツ南部の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川。河口にはドナウ・デルタが広がる全長は2,850 kmの河川。 我々の移動バス。 ブダペストから200km以上を走り2時間弱でプラチスラヴァの街に到着。窓横にプラチスラヴァ城が見えてきた。 城壁の横をバスは進む。 プラチスラバ城の隣に立つ国会議事堂の前の女性像。国会議事堂は小さなホールのような新しい建物。人口540万~550万の小さな国なので、これで事足りるのであろうか。 ウィーン門 。このウィーン門をくぐり登城 。ウィーン門をくぐり、少しなだらかな坂道を登って行くと、左手に宮殿が見えてきて、正面に城門が。元はケルト人やローマ人の砦があった場所で、9世紀にモラバ王国の宮殿や教会が建てられた。18世紀にマリア=テレジアの居城として使われ、現在は城内に歴史博物館と音楽博物館が併設されているとのこと。四角い建物の四隅にそれぞれ塔を持つ独特の外観から「ひっくり返したテーブル」などと呼ばれて親しまれている城。 宮殿の前庭には騎馬像が立っていた。大モラヴィア王国時代のスヴァトブルク王の像。 ドウナ川のほとりの高台にあるので、これまた絶景。青空を背景に白亜の城が輝いていた。 ドナウ川の橋の欄干の上(下の写真の空飛ぶ円盤状のところ)のレストランと展望台。川向こう数キロ程度までがスロバキア領で、その向こうがオーストリアである。眺望は抜群。 赤い車は、市内を回る観光バスであると。城内敷地まで来るようだ。
2013.09.22
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ゲレルトの丘に到着。ドナウ川にそそり立つ標高235mの岩山。丘の頂上にあるツィタデッラと呼ばれる要塞からのドナウ川の絶景。 遠くドナウ川上流にあるマルギット島が見えた。島全体が公園になっているとのこと。手前には先ほど通過したくさり橋が。 奥のマルギット橋と右手には国会議事堂、そして手前にはくさり橋。 再びバスに乗り中央市場へ向かう。緑色の橋は建国1000年を記念して建設された自由橋。 遠く丘の上に中央広場に立つシュロの葉を掲げる女神像が。 中央市場に到着。ハンガリーのあらゆる食材が集まる市場。 こちらもモザイク様式の屋根が印象的。内部は鉄骨構造で非常に広く、2階も。1階は主に、野菜&果物、肉やサラミなどの食料品の店がこれでもかと並んでいた。カリフラワー、ニンジンそして太いキュウリが。 デンスケスイカも。今年の我が農園で栽培した同じ品種か。 肉、ハム、サラミの店。 現地ガイドの女性・・・・・・さん。 この日の夕食はこのレストランで。 「グヤーシュ」 ハンガリー起源のシチュー料理。牛肉とタマネギ、パプリカなどからなるまあまあの味。ホテルにチェックイン後一休みし、貸し切りチャーター船にてドナウ川のイルミネーションクルーズへ。 エルジェーベト橋と遠くにマーチャーシュ教会。マーチャーシュ教会をズームで。 オレンジ色に輝く国会議事堂。 くさり橋下を通過。 セーチェーニくさり橋は、全長375メートルに連なる電球が鎖のように見えることから、くさり橋と呼ばれているのです。その電球がライトアップされる夜間の姿の美しさに感動。 ブダの丘にある「王宮」。エルジェーベト橋。 ゲッレールトの丘の女神像も白く輝いていた。 くさり橋と王宮。 再び国会議事堂の輝き。 マルギット橋の北側にある船着き場から乗船し、自由橋を過ぎた南側でUターンして船着き場に戻るナイトクルージング。ドナウ川に架かるマルギット橋、くさり橋、エルジェーベト橋、自由橋や、川岸にある国会議事堂、教会、大学などの建物、そして丘の上にある王宮、マーチャーシュ教会、漁夫の砦などの建物が、とても美しくライトアップされていたのであった。ブダペストの夜を、やや寒かった、がいや爽やかな風を浴びて楽しく過ごした忘れられないクルージングであったのだ。
2013.09.21
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