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『ベレンの塔』の観光を終え、再びバスに乗り『発見のモニュメント』に向かってバスは走る。右手に見えたのがベレン灯台 (Farol de Belém・Belem Lighthouse)。1940年の「国際博覧会(Exposição do Mundo Português)」の為に作られたのだが、本来の灯台の役割は当初からないとのこと。また、灯台の背後には「日本庭園(Jardim do Japão)」という庭園があると。 インド通りを走ると再びシントラ線の電車が。車体には多くの落書きが。そしてバスを降り発見のモニュメント( Padrão dos Descobrimentos)を訪ねる。ポルトガル語の発音は、「パドラオン・ドス・デスコブリメントス」であるようだ。巨大なモニュメントだが、上空から見るとこの様に見えると。上がテージョ川。 【https://jp.pokke.in/padrao-dos-descobrimentos/】より記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてあると。建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の国際博覧会(Exposição do Mundo Português)の象徴としてベレン灯台と同時に制作したもの。独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表していると。最初に作られた記念碑はもろい素材で制作されたため、1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念してコンクリートで再度制作されたのだと。記念碑正面にある石畳には多くのポルトガル人航海者が大陸や国に到達(発見)した年が記述された世界地図のモザイク画が描かれていた。ヨーロッパ、アフリカ大陸。1427年、エンリケの派遣したディエゴ・デ・シルベスによって「発見」されたアゾレス諸島(Açores) とマデイラ島(MADEIRA)の文字が。1434年 エンリケ航海王子の派遣隊が前人未踏のボジャドル(Bojador)岬の通過に成功,さらにアフリカ西海岸の金と奴隷を求め,エンリケが死亡した1460年にはGUINE(ギニア)の南のシエラレオネまで達したのだ。ポルトガルの場所には、ポルトガル国旗の中央に表されているシンボルがはめ込まれていた。五つの青い盾はオーリッケの戦い(1139年)をめぐる初代ポルトガル王アフォンソ1世の伝説にある敵の五人の王を、青い盾の中にある五つの白い円はキリストの五つの聖痕(せいこん)を表すと。聖痕とは、イエス・キリストが磔刑となった際についたとされ両手,両足および脇腹,額の傷を現すのだと。下部の一つは外れてしまった模様。誰かが持ち去ってしまったのであろうか?1488年、ブルトロメウ・ディアスがジョアン2世(ポルトガル王)の命でアフリカ周航を指揮。暴風で流され、アフリカの南端の岬を発見。後にジョアン2世により「喜望峰(きぼうほう)」と名づけられ、アフリカを迂回する東インドへの航路発見の可能性がさらに高まったのだ。ポルトガル人のアフォンソ・デ・アルブケルケによるホルムズ(Ormuz)への侵攻は1507年。1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り、インド西岸のカリカット(CALECUTE)に到達して香辛料をポルトガルに持ち帰った。セイロン島(スリランカ)支配開始は1505 年。東南アジアの国々。1512年、現インドネシアのモルッカ諸島へとポルトガルが上陸。このモルッカ諸島は、香辛料の中でも特に貴重なナツメグが取れる唯一の地域であったため、この地域をめぐって西欧各国で争いが激化した。最初はスペインと香辛料の独占をめぐって争ったが、ポルトガルが支配権を勝ち取った。その後、世界の覇権がポルトガルからオランダへと移り変わった17C前半に、オランダへと支配権が移って行ったのであった。そして日本へ。日本の場合、ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されているのだと。1543年8月、種子島にポルトガル人が漂着し鉄砲が伝えられたことは日本の歴史でも有名な史実だ。その鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり、日本の歴史に大きな影響を与えたのであった。しかし、ポルトガル人が日本にたどり着くには長い年月がかかっている。1415年、エンリケ航海王子が北アフリカのセウタを占領、イスラム教徒から奪ったその町を基点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだ。そして1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、インドやマラッカ、中国南部に進出するようになった。そしてセウタ攻略から130年後、ようやく日本にたどり着いたのだ。 それから6年後の1549年8月15日、マラッカを出航したポルトガル船に乗ったフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)は、52日目の10月6日鹿児島の浦港に到着し上陸したことから日本のキリスト教時代が始まったのは高校時代に学んだのであった。 豊臣秀吉の時代になってキリスト教徒への弾圧が始まり、さらに、徳川家康以後は組織的に行われるようになった。このような経緯を辿ったのは、キリスト教の布教がポルトガルの独占貿易と表裏一体をなし、布教の裏には常に大国ポルトガルの影があったからだと言われているのだ。ポルト・セグーロ(PORTO SEGURO)は、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが大西洋を横断しブラジルを発見し、初めて上陸した(1500年4月22日)地である。床には直径50メートルの「風のバラ」の説明文が。このモザイクは1960年に南アフリカ共和国から贈呈されたものであると。「発見のモニュメント」は「1960年」に「エンリケ航海王子の没後500年」を記念して建てられたのだと。以上の詳細は【大航海時代の幕開け〜】⬅リンクを参照下さい。正面から。航海用の「天球儀」のモニュメント。発見のモニュメントの、「大航海時代に活躍した偉人たち」の説明。 【るるぶポルトガル】より西側の像。東西併せてヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする33人の偉人像を従えて、堂々とエンリケ航海王子の像が。西側の人物の名前を再び。エンリケ皇太子を入れて17名。 【http://kitagawa.ws/padraodosdescobrimentos/】より右から①エンリケ航海王子②フェルナンド聖王子- ジョアン1世の王子、エンリケ航海王子の弟③ジョアン・ゴン・サルベス- 航海士④ジル・イアネス- 航海士⑤ペロ・デ・アレンケーレ- 頭だけ見える像。航海士⑥ペドロ・ヌネス- 15世紀の数学者右から2番目が⑦ペロ・デ・エスコバール- 肩より上が奥に見える、航海士⑧ジャコメ・デ・マイオルカ- 天文学者⑨ペロ・ダ・ゴビリャン- 15世紀の冒険家、陸路でインド到達⑩ゴメス・イアネス・デ・ズラーラ- 年代史家、作家右から⑪ヌノ・ゴンサルヴェス- 画家⑫ルイス・デ・カモンイス- ルネサンス期の詩人。航海者を著作『ウズ・ルジアダス』で讃えた⑬フエレイ・エンリケ・カルバーリョ- 神学者右から⑭フェルナン・ゴンサロ・デ・カルバーリョ- 神学者⑮フェルナン・メンデス・ピント- 作家⑯ドナ・フィリパ・デ・レンカストレ- ジョアン1世の王妃、エンリケ航海王子らの母⑰ペドロ・デ・コインブラ- ジョアン1世の王子、エンリケ航海王子の兄⑯ドナ・フィリパ・デ・レンカストレ(ジョアン1世の王妃、エンリケ航海王子らの母) をズームで。再び西側の全景を。記念碑の中に入ることも出来、小さなスペースがあってリスボンの歴史を展示している他、屋上までエレベーターで上がれるのだと。屋上は、狭いが、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めを堪能することが出来るとのことであるがここも残念ながら・・・・。記念碑の内部にある小さなスペースでは、リスボンの歴史を展示していると。階段の北側の正面には金属の2つの碑文が。エンリケ航海王子の碑文。月桂冠の上に「NO V CENTENÁRIODO INFANTE D. HENRIQVE 1460-1960」と書かれていた。「エンリケ王子の500回忌に。1460年―1960年」と。大航海時代とは、西ヨーロッパの15世紀初めから17世紀初めにかけて、イベリア半島の2国(ポルトガル、スペイン)をその先導者とし、それまでの地中海世界から目を地球全域に向け、主として大洋航海によって、それまでヨーロッパでは伝説的・空想的領域にあった世界の各地が、探検航海により次々に現実に確認されていった時代をいう、とウイキペディアなどで説明している。1385年ジョアン1世がアヴィス朝を開く。ジョアン1世の第5子であるエンリケ航海王子により 大航海時代が始まり、1438年には、エンリケ航海学校も設立される。 1415年にエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸北西アフリカの「セウタ」を攻略したことが 大航海時代の始まりと言われる。 1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する。 1500年にはカブラルがブラジルを発見する。 1519年にはマゼランが世界一周を実現する。 この時期が、交易する世界各地からの富と文化でポルトガルが最も栄えた時代である。15世紀から17世紀と言えば日本では室町時代から江戸時代初期、ほぼ戦国時代に当たるのであった。ポルトガル王国は、15世紀のヨーロッパ人の世界探検において先駆的な国であった。1494年のトルデシリャス条約によって、新世界はスペインとポルトガルの領域に分けられたのだ。トルデシリャス条約とは 15世紀の末、世界はスペインとポルトガルによって分割された。ポルトガルは地球を東回りに、アフリカ大陸南端の喜望峰を経由し、インドに達した。スペインは地球を西回りに、西インド諸島に達した。この航海とその後の支配こそが、ヨーロッパの植民地体制の始まりである。<トリデシリス子午線 紫=トリデシリャス子午線 緑=サラゴサ子午線>1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めたのであった。 世界全体をポルトガルとスペインだけで二分しようという条約で、他の国々にしては誠に得手勝手な条約であったのだ。本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。南アメリカの大部分がスペインの植民地だったにもかかわらず、この条約の効果としてブラジルだけがポルトガルの植民地になっていたのであった。 左側には、 「AO INFANTE D. HENRIQVE E AOS PORTVGVESES QVE DESCOBRIRAM OS CAMINHOS DO MAR」 ( ヘンリー王子とポルトガルの海の道を発見 )と。その下に錨が。 モニュメント東側。再び、人物名は下記とのこと。 【http://kitagawa.ws/padraodosdescobrimentos/】より先頭は「大航海時代の先駆的指導者」の①「エンリケ航海王子(1394年〜1460年)」 船首に彫られているのは、カラヴェラ船を手にしたエンリケ航海王子。 併せて西アフリカの海岸からギニア湾、マデイラ島、アゾレス諸島、 カーボベルデまでの地図を持っているのだと。 カラヴェラ船の名前はポルトガル語の「オーク材(Carvalho)」に由来すると言われているが、 正確なところは定かでないのだと。 エンリケ像の高さは9メートルあると。 発見のモニュメントは、それ自体もカラヴェラ船の形になっている。 後ろ側からみると、帆柱が十字架のフォルムになっていたのであった。②「アフォンソ5世」、アフリカ・ポルトガル帝国を造った人物。③「ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃〜1524年)」、インド航路を発見。④「アフォンソ・バルダイア」(航海士)⑤「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」はブラジル発見者。 ⑥「フェルディナンド・マガリャインス(マゼラン)」、史上初の世界一周達成。⑦「ニコラウ・コエーリョ」(航海士)中間部一番左手前は⑧「ガスパル・コルテ=レアル」。 1500年、ポルトガル王マヌエル1世はガスパル・コルテ=レアルを新しい土地の発見と アジアへの北西航路発見のため北大西洋へ派遣したと。 次が⑨「アフォンソ・デ・ソーサ」、9代インド総督⑩「ジョアン・バーロス 」- 歴史家⑪「エステバ・デ・ガマ 」- 大航海時代の船長⑫「バルトロメウ・ディアス」 - 喜望峰を初めてまわりインド洋へ到達左から⑬「ディオゴ・カオン」 - コンゴ川に到達した最初の人物⑭「アントニオ・デ・アブレウ」 - モルッカ諸島に到達した最初の人物⑮「アフォンソ・デ・アルブケルケ」 - ポルトガル領インド第2代総督(副王) 後ろから2番目が日本で1549年にキリスト教布教活動を行った⑯「フランシスコ・ザビエル」- イエズス会宣教師一番後ろが⑰「クリストバウン・ダ・ガマ」- 航海士・騎士。祈りの姿の⑯「フランシスコ・ザビエル」をズームで。再び東側全景を。モザイク地図のポルトガルの場所に埋め込まれていたものと同じものが最頂部に。そして発見のモニュメントと向かい合う如く、この後訪れたジェロニモス修道院が見えた。雲ひとつない青空にジェロニモス修道院が白く輝いていた。 ・・・つづく・・・
2019.03.11
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この日はポルトガル旅行6日目・観光の最終日。7時前に我が部屋からの朝焼けを楽しむ。デージョ川も見えた。リスボン郊外。そして朝食。朝食会場から。この日の太陽が姿を現す。時間は7:45。高層アパートにも陽光が。ヴァスコ・ダ・ガマ橋 (Ponte Vasco da Gama)も確認できた。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は、ポルトガルのテージョ川河口(三角江)部に架けられた斜張橋。リスボン近郊のサカヴェン (Sacavém) とモンチジョ (Montijo) を結ぶ。全長は17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。1995年に着工され、リスボン国際博覧会開催直前の1998年3月29日に開通。ヴァスコ・ダ・ガマ橋という名前は、航海者ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達500周年を記念して付けられたと。2連泊のホテル ラマダ リスボン(Ramada Lisbon) のフロント。ホテル 入口。この日のリスボン市内観光の最初の『ベレンの塔』を目指しバスは進む。この日も快晴。気温も高かった。アフォンソ・コスタ通りの立体交差の地下に入る。ジョアンⅩⅩⅠ通り沿いのショッピングモール・Centro Comercial do Campo Pequenoが右手に。クレーンを利用し高所での塗装工事中。ビルの壁には抽象絵画も。緊急車両??の駐車場か?ポルトガルの電話番号は警察、消防とも112。アグアス・リブレス水道橋( Aqueduto das Águas Livres)が前方に姿を現す。アグアス・リブレス水道橋はローマ時代の水道橋を思わせたが、建設されたのは1748年のことだと。エドゥアルド7世公園からカンポリデ駅(Campolide)方面に進むと橋が見えて来た。1748年につくられた橋は、当時は上を歩いて渡ることができたが、アルベスという名前の連続殺人犯が橋の上から犠牲者を投げた事件により現在では封鎖されていて歩いて渡ることができないと。シントラ線(Linha de Sintra)のCampolide駅。アグアス・リブレス水道橋の下を通過。高速A5を走る。丘の上に立つアパート群。N117とのIC。「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」の文字が刻まれていた。下にはインドネシアの文字も。調べて見るとインドネシアの国章、ガルーダ・パンチャシラ。神鳥ガルーダが抱える盾に描かれた5つのエンブレムは、パンチャシラの5原則を示すと。①唯一神への信仰(無宗教はダメというだけで、イスラム教しか認めないということではない)②公正で文化的な人道主義③インドネシアの統一④合議制と代議制における英知に導かれた民主主義⑤全インドネシア国民に対する社会的公正であると。インドネシア関連の建物であったのだろう。シントラ線(Linha de Sintra)の電車がバスの横を。The combatants Overseas Monumento aos Combatentes do Ultramar。1961年から1974年の海外戦争中に亡くなったポルトガル軍の兵士たちに捧げられた記念碑。アフリカでの長年の紛争で亡くなった各兵士の名前が記念碑を囲む3つの壁に刻まれていて、亡くなった兵士の永続的な記憶を約束してその中央下部で炎が燃え続けていると。そして『ベレンの塔』が車窓に姿を現す。バスを降り観光開始。この日のリスボン観光の現地添乗員は、ポルトガル人と結婚され、この地に25年在住の日本人女性そして若い女性が研修生?として同行。リスボン(ポルトガル語: Lisboa)はフェニキア語から派生した「安全な港」を意味すると。サカディラ・カブラルとガーゴ・クーチホ記念碑に到着。(Sacadura Cabral and Gago Coutinho Monument)。ベレンの塔横のトーレ・デ・ベレン庭園の東側エリアにある水上飛行機のモニュメント。これは南大西洋を縦断し南米まで飛んだサンタ・クルス号のレプリカ。1922年6月にポルトガルの海軍士官、サカディラ・カブラル操縦士、ガーゴ・クーチホ航法士らが、ポルトガルのリスボンからブラジルのリオ・デ・ジャネイロまで横断飛行に成功した事を記念して作られたのだと。飛行距離は8383km、飛行時間は62時間26分であったと。ちなみに本物の機体は海洋博物館に展示されていると。ベレンの塔(Torre de Belém)の構造図 【るるぶポルトガル】よりそして正面に『ベレンの塔』。16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。ベレンの塔はリスボンのベレン地区にある塔で、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに登録されているのだと。正式には「サン・ヴィセンテの砦(Torre de São Vicente)」 と言うのだと。「テージョ川の貴婦人」と称される優美な石造りの塔。テージョ川側の先端部をズームで。塔の屋上部。四隅にあるのが見張り櫓。見張り櫓をズームで。右に廻り込んで。内部を見学できる桟橋もあったが・・・。更に廻り込む。塔は堡塁部分が2層、地上部分が4層。屋上部分は展望テラスとして利用されていると。堡塁1層目:地下牢。最下層に位置し、潮の干満さを利用した水牢、時間帯や天候により 海水が入り込む仕組みになっている。当時、政治犯が多数投獄され 幽閉生活を送っていたと。堡塁2層目:砲台。四方を見張るいくつもの大砲が置かれたスペース。現在は模型を展示。 軍事的な遺跡としての歴史を偲ばせる。地上部分は4層構造で1層目は兵器倉庫:大砲用の火薬などテージョ川からの侵入者に備えた兵器が保管された場所。2層目は国王の間:王の居室、3面に渡る外壁に張り巡らせたアーケード状の柱廊はレリーフが 美しい。3層目は謁見の間 : 王家一族が使者や家来たちの謁見を受けた公式の部屋。4層目は礼拝堂 :航海の無事を祈った空間。天井にはマヌエル様式が施されている。5層目はテラス :テージョ川からの侵入者を見張る櫓としての機能。今回は見ることが出来なかったが、テージョ川から見ると、このように見えるのだと。3層目のテージョ川側には外壁に張り巡らせたアーケード状の柱廊が。 【https://worldheritagesite.xyz/contents/belem-tower/】より正面から真ん中には聖母マリアの像が。 【http://theageofdiscoveryinportugal.blogspot.com/2017/09/torre-de-belem.html】よりロータリークラブが設置したベレンの塔の縮尺模型も。テージョ川に架かる4月25日橋(Ponte 25 de Abril)、クリスト=レイ像 (Santuário Nacional de Cristo Rei)を見る。前日も見た4月25日橋とクリスト=レイ像をズームで 。クリスト=レイ像 (Santuário Nacional de Cristo Rei)を更にズームで。バスに戻りながらサンタ・クルス号のレプリカを再び。前方に『発見のモニュメント』が見えたのでズームで。『ベレンの塔』と『発見のモニュメント』の間にはヨットハーバーがあり『発見のモニュメント』への川沿いの連絡道は途中で途切れていた。中央が連絡道を分断しているテージョ川に繋がるヨットハーバーの出口。 ・・・つづく・・・
2019.03.10
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ユーラシア大陸最西端のロカ岬の観光を終え、この日のホテルがあるリスボン市内に向かってバスは走る。車窓から山頂に立つ16世紀のペニニヤ礼拝堂(SANTUÁRIO DA PENINHA)が見えた。岩だらけの岩の露頭の上に立ち、この風の強い場所からは、シントラの海岸線全体の素晴らしい景色を眺めることができると。美しいバロック様式のインテリアと、聖母マリアの生涯を描いたアズレージョのタイルが見る事が出来るのだと。陽光に水面が輝く大西洋。車窓からは、再びオオキバナカタバミ?の花が丘の斜面に咲き乱れていた。リスボンに向かっての海岸線が車窓から。バスのドライバーが、天気が良いので海岸沿いの道路N247を走って海岸の景色を楽しみながらリスボン市内に向かってくれる、と添乗員から。先程訪れたロカ岬方面をギンショ海岸(Guincho Beach)の車窓から。Guincho BeachとCresmina Beachの間にあるホテル フォルタレーザ ド ギンショ(Fortaleza do Guincho)。カボラソ灯台(Cabo Raso Lighthouse)。ランタンとバルコニー、それに付属の建物があり、高さ13メートルの円筒形の赤い金属製の灯台。近くから。広大な砂浜のGuincho Beachを保護するために、近くのCresminaの要塞と一緒に建てられたのだと。大西洋の海岸沿いは断崖が続く。ドライバーの好意で途中臨時停車し『地獄の口(Boca do Inferno)』の観光が出来たのであった。地獄の口とは、 ユーラシア大陸の西端部のイベリア半島の西端部の海岸に存在する洞窟。 ちなみに、ポルトガル語の「boca」は「口」や「入口」という意味で、 「inferno」は「地獄」という意味であると。大西洋の荒波に岩が削り取られてできた洞窟とのこと。『地獄の口』案内図。バスを降り進むと大きな貝殻の土産物が。岩場の散策道を進む。この日の波はここも静かであった。波打ち際は岩だらけ。先程横を通ったカボラソ灯台(Cabo Raso Lighthouse)が見えた。散策道から覗くと大きな穴が開いていた。そこに、波が打ち寄せるのであったが、この日は波も静かに・・・。荒天時には、洞窟の入口に波が壮観に押し寄せるため、この場所はカメラマンの人気スポットであると。北西方面に断崖が続く。遠くには貨物船の姿が。何か愛する女性に対する偽造自殺に関連した事件?の説明板のようであったが・・・???。「Não posso viver sem ti. 」⇒「私はあなたなしでは生きていけません。」と偽造された遺書の言葉も記されていた。1930年に、有名な魔術師、占星術師、神秘主義者のAleister Crowley(アリスター・クロウリー)が、ここ地獄の口で自殺偽装を??。ここにもカルポブローツス・エドゥリスの花が。更に進むと見えて来たのがRibeira Beach Cascais(カシュカイシュにあるリベイラビーチ)。Forte da Cruz。ポルトガルでの高級ウェディング会場でありオペラやコンサート会場もあると。角にとんがり帽子の建物。宮殿のような豪華な建物。この建物の裏にあるのがアサルジンハ(Azarujinha)ビーチ。こちらも、おとぎの国の建物。マルジナル通りを進む。サンタナ病院(Hospital de Sant'Ana)が左手に。光る海。プライア・デ・カルカヴェーロス(Praia de Carcavelos)はエストリル(Estoril)の海岸で最大の砂浜がある海水浴のメッカ。その手前にあったのがサン・ジュリアン・ダ・バーラの要塞(Forte de São Julião da Barra)。ズームで。テージョ川近くの広場にはクジラの尾のモニュメントが。そしてテージョ川の河口まで進む。多くの小舟が浮かんでいた。そして見えて来たのが4月25日橋(Ponte 25 de Abril)。4月25日橋は、リスボンとテージョ川対岸のアルマダとを結ぶ、長さ2,277 mの吊り橋。1966年8月6日に開通した。建設したのは、サンフランシスコのサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジと同じアメリカン・ブリッジである。そして対岸の丘の上にはクリスト=レイ像 (Santuário Nacional de Cristo Rei)が。TORRE VTS (Centro de controlo e tráfego maritimo de Lisboa)海上交通管制センター で海に向かって傾斜して建てられているのであった。翌日訪ねる予定のベレンの塔が車窓から。ベレン灯台 (Belem Lighthouse)。翌日訪れた『発見のモニュメント』。4月25日橋(Ponte 25 de Abril)が近づいて来た。開通した当初は、当時のポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールにちなみ、サラザール橋と呼ばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命のすぐ後、革命が起こった日から名前をとって改称されたと。クリスト=レイ像 (Santuário Nacional de Cristo Rei)を再び。テージョ川の南岸に、高さ110mの巨大なモニュメントで最上部にはキルスト像が両腕を広げて立っていた。4月25日橋の下を潜る。長さは2,277 mで、上段が6車線の道路、下段が複線の鉄道となっているのだと。カスカイス線(Linha de Cascais)の電車が横を走っていた。そして夕食のレストランに到着。付け合せは天麩羅であっただろうか。ビール。前菜。タコのリゾット。アイスクリーム。そしてこの日の宿はラマダ リスボン(RAMADA LISBON)。我々の部屋、この後、2つのベッドを離しましたが。バスタブ。そしてトイレ。 ・・・つづく・・・
2019.03.09
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添乗員に案内されロカ岬のビジターセンター(インフォーメーションセンター)に向かう。このセンターに向かった理由は自分の名前入りの『ユーラシア大陸最西端到達証明書』を発行してもらうため。証明書は2種類の中から選べて11ユーロでA3版見開きサイズ。ビジターセンター内にある申込用紙に、氏名・日付を記入し受付の人に渡すと蝋印が付いた証明書をゲットできたのであった。1枚目の表紙はヨーロッパの地図。表紙をめくると、A3見開きで左にロカ岬の石碑と上空からの写真が。そして右手にA4サイズの『ユーラシア大陸最西端到達証明書』が。『ユーラシア大陸最西端到達証明書』Certifico(証明する)Que + 【私の名前】が。そしてこの日の日付『12.Feve.2019』とポルトガル語で。封蝋(ふうろう、シーリングワックス、英: Sealing wax)。封蝋とは、ヨーロッパにおいて、手紙の封筒や文書に封印を施したり、主に瓶などの容器を密封するために用いる蝋である。手紙や文書の場合は、この上に印璽(シール)で刻印することで、中身が手つかずである証明を兼ねる。中世~近世のヨーロッパでは公式文章や親書などの重要書類に封をして本物であることの証明として使われていたとのこと。そして裏のページには『証明書』の説明文が9カ国語で。日本語の部分。『【私の名前】がポルトガル国シントラにあるロカ岬に到達されたことを証明します。 ここはヨーロッパ大陸の最西端に位置し、「陸尽き、海始まる」と詠われ、新世界を求め 未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの信仰心と冒険魂が、今に尚 脈打つところです』と。ところで旅行前に訪ねたネットのページにはこの最西端到達証明書の保有率ナンバーワンはなんと日本人なんだと。しかも…発行枚数の3割が日本人で占めているのだと。本当に私を含め日本人は『○○限定』とか『最○端』というフレーズに弱いとは感じていたのであったが、日本国内で御朱印を集めている私にはGETする選択肢しかやはりなかったのであった。初めてのポルトガル訪問でのポルトガル土産として購入したのです。昔の書体で名前を記入してくれて、ロウ印をペタリ。これも良い記念と土産になりました。アジアの最東端・日本にいる私達が、ユーラシア大陸の最西端を訪れる。ユーラシア大陸の最西端に立っているんだなと思うと、感慨はひとしお。そんないかにも「冒険」といった感じを味わえる旅であると感傷的になった自分がいたのであった。ビジターセンター前のバス停近くの小さなロータリー状の芝生広場にあった岩庭風の中にあったこの石碑は?シントラ=カスカイス自然公園内のロカ岬周辺案内図。シュリ・チンモイの平和の花のプレート。ロカ岬は、全世界に800ヶ所ある、1989年からSri Chinmoy Peace Blossoms.という事業に認定された、平和のために捧げられた場所だと。再び灯台を目に焼き付ける。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -1。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -2。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -3。ロカ岬周辺の崖と大西洋そして灯台。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -4。国際ロータリークラブの創立750週年記念の石碑。PAUL HARRISと刻まれているのは、シントラのロータリークラブの会長の名前。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -5。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -6。ロカ岬周辺の崖と大西洋 -7。上空ではドローンが絶景を撮影中。ドローンのカメラ⬅リンクは下記の如き絶景を捉えていたのであろう。動画を切り取る-1。動画を切り取る-2.ロカ岬周辺の崖と大西洋 -8。再び頂上に十字架の在る石碑を。再び夕日を浴びたカルポブローツス・エドゥリスを。南アフリカのケープ地方が原産。北アメリカでもカリフォルニア州からメキシコに帰化。海岸沿いの砂丘や道端、断崖などに生え、高さは20センチほどになる。長さが2.7メートルにも伸びる地下茎で広がる。葉は断面が三角形の多肉質 と。ロカ岬とも今生の?別れ。 ・・・つづく・・・
2019.03.08
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オビドスの観光を終え、バスに乗り込み次の観光地のロカ岬に向けてバスは出発した。観光用の2頭立ての馬車が客待ち中か?再び水道橋が見えて来た。1570年頃、狂女ファナの娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の妹でもあるカタリナ王妃が、町に水を供給するためにつくらせた。建設費を支払うために、オビドス周辺の王妃名義の土地を売却したのだと。旧市街の入り口から町の外に向かってずっと伸びていた。他のヨーロッパの街でみる水道橋に比べると規模が少し小さめの感あり。高速A8を利用してひたすら南下。オビドスからロカ岬まで約132kmあると。車窓からは、常にオレンジ瓦の屋根と白壁に家々が。果実畑が拡がる。風力発電も。発達した高速道路網に感心しきり。山の斜面には高層アパート郡が。居眠りする暇もなく、車窓の景色を楽しむ。家庭用の風力発電装置か?そして大西洋の海岸に向かって山道を下っていくと道の両脇には黄色の世界が拡がる。カタバミの一種であろうか?オオキバナカタバミ?それとも黄色のオギザリス?カボ・ダ・ロッカ道路をロカ岬に向かって進む。google mapで。航空写真で。ズームで。世の中、便利になりました。車窓前方に僅かにロカ岬(Cabo da Roca)の建物が見えて来た。ロカ岬に建つ、観光案内所やカフェ・レストランが入っている建物を車窓から。そして到着しバスを降りる。時間は15:15。高さ140mの断崖の上に建つロカ岬灯台。ロカ岬は、ポルトガル共和国リスボン都市圏にあるユーラシア大陸最西端の岬。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島があるのだ。そして更にその先にはアメリカ大陸が。もし有り余る時間と金があるのなら、この海を越えてアメリカ経由で日本へ戻ってみたい。「地球一周の旅」!!それはまた、いつの日か???位置は北緯38度47分、西経9度30分。北緯38度47分は日本の福島市とほぼ同じ緯度。レンタルの小型の電気自動車で散策できるのであろうか?石碑の立つ断崖の先に大西洋が拡がる。再び灯台周辺の建物を。石碑の周りには多くの観光客の姿が。石碑に近づき海側から見上げて。カトリック教徒の十字架が先端部に。十字架のモニュメントはロカ岬のシンボルポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり 海始まるAQUI ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA」を刻んだ石碑。『AQUI ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA(CAMOES)』訳すと余談ですが、PONTA(先端)が日本に伝わり「先斗町」(ポントチョウ)となったとのこと。ユーラシア大陸最西端のロカ岬。北緯38度47分、西経9度30分、海抜140m。添乗員からは、大西洋からの強い風が吹き荒れている為、帽子は飛ばされるので無帽が原則とのことであったが、この日は幸いにも快晴、無風という添乗員も初体験のようで非常に幸運であったのだ。大西洋の波も静かに。時間は15:22、光る海・大西洋。再び灯台の建物を。断崖前には、木柵が。石碑近くから、北の方向を見る。積丹半島を思い出したのであった。以下4枚の写真は、先日のBS放送のロカ岬の上空からの写真です。そして、黄色のカタバミの花の中に多肉植物が群生していた。常緑多年草多肉植物のカルポブローツス・エドゥリスであろうか? ・・・つづく・・・
2019.03.07
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オビドスの北側城壁の上を歩くことを決断。添乗員から自己責任で、そして「難しい漢字の名前」に変わらぬようにくれぐれも注意と。城壁上からのポサーダ・カステロ・オビドス。城壁上からの南東方面の眺望。オビドスの村を囲む城壁が連なっていた。進行方向左側には手摺のない城壁頂部を足元をしっかり確認しながら進む。今気がついたのですが、このロープは安全用の手摺替わりのロープだったのでしょうか?城壁頂部からの眺望。田園も拡がっていた。田園の中に無人のオビドス駅があった。城壁頂部からのオビドスの街並み。この先で城壁頂部には柵があり歩行禁止となっていた。柵の手前の急な階段を降りきり、広場から歩いて来た城壁を見上げる。歩いて来た城壁上をズームで。高所が苦手の旅友も頑張ってゲート前まで辿り着いてた。そしていつものポーズで。ポサーダ入口からディレイタ通りまで戻る。再びサンティアゴ教会前に。中に入ってみると本屋兼図書館のごとく。サンティアゴ教会入口からディレイタ通りを見る。サンティアゴ教会前から城壁へ向かう門。門を潜って見ると城壁の下に。ここにも城壁を貫通する門があった。そして再びサンティアゴ教会前に戻る。右手の壁の植物はブーゲンビリアであると。このようにピンクに咲き誇ると。 【http://koarashi.my.coocan.jp/portugal/portugal_coimbra_mobile.htm】より。再び路地の美しさをカメラで追う。サンタ・マリア広場よりベロリーニョ(罪人のさらし柱)を見る。サンタ・マリア広場。サンタ・マリア教会内部(ガイドブックの写真より)。内壁には見事なアズレージョが。天井にも(同上)。ディレイタ通りの店の壁のアズレージョ。「tasca torta」で旅友4人で昼食。ビールも。野菜サラダとサンドウィッチを4人でシェアー。注文したサンドイッチの数が一つ足りなかったが、正確な数が通じていなかった模様。昼食を済ませ再びJINJA(ジンジャ)の店の前へ。酒の名前・JINJA(ジンジャ)が何故か?気に入ったので購入。チョコカップ入で一杯1€であった。チョット甘かったがチョコカップも美味。ところが、旅友は飲み終わったチョコカップを何故か捨ててしまったが、仕上げに食べるのだとアドバイスすると慌てて拾って・・・。添乗員から、事前に説明もあったのだが・・・。チョコっと、聞き漏らされてしまわれたのでしょうか?? ・・・つづく・・・
2019.03.06
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バスに乗り込み、次の観光場所のオビドスを目指す。車窓からSana シルバーコースト ホテル(SANA Silver Coast Hotel)を。高速A8を走る。車窓から、丘の上にオビドスの城が見えてきた。ポウサダ カステロ デ オビドス - ヒストリック ホテルになっているいると。ポルトガル七不思議のひとつに数えられるオビドス城の一部を改装したホテルになっていると。オビドスのカトリック教会・Santuario do Senhor Jesus da Pedra。オビドス城が近くに。観光用の馬車が。水道橋 Aqueduto da Água。正面に古いアーチが見えた。16世紀に造られた、長さ3kmの水道橋の端っこであると。そしてバスを降り、オビドスの街の見学に向かう。リスボンの北約80kmに位置するオビドス。紀元前300年ごろケルト人が作った街といわれる。ローマ、続いて西ゴートによる支配を経て、8世紀にはムーア人に占領されたが、1148年、のちに初代ポルトガル王となるアフォンソ・エンリケスがオビドスを征服したと。ポルタ・ダ・ヴィラ。天井の抜けた四角い塔の南と北に、出入り口が1つずつ開いている。写真は南口で、町の外側を向いている。入口の右側には城壁が続いていた。門の天井部。門をくぐって内側のアズレージョを楽しみにしていたが、残念ながら修復工事中の為かネットが一面に。ネットがなければ下の写真のごとくに。キリストの受難を題材に18世紀に描かれたもの。天井の絵も美しいはずであったが・・・。 【http://www.bornfromegg.net/colo/lb13.html】より『谷間の真珠』と呼ばれる中世の面影を残す美しい村。花で飾られた白いそして青い帯のアクセントの壁の家々が。像ではなく、女性が銀粉を体中に塗って。城壁の上を歩く観光客。村の入口の先の右側にあった柱は、ポルトガルの詩人カモンイス (Luis Vaz de Camoes)の記念碑詩人カルモンシス:(1524年頃から1580年)ホメロス、ダンテと古典詩人と比較される偉大な詩人。 1932年に完成したもの。この後訪ねたロカ岬に有名な碑文「ここに地果て海始まる」があったのであった。狭い小路の下には様々な植物や花が植えられていた、壁が青ければ、これぞモロッコのシャウエンの如き雰囲気。更にディレイタ通りを村の奥に向かって進む。オビドスの酒『GINJINHA(ジンジャ)』を売る女性。ジンジャはサクランボを漬け込んだ果実酒。製造の過程で砂糖や水、シナモンなどを使用することもあると。歴史を感じさせる民家の玄関。青空と白の壁の空間。サンタ・マリア教会。サンタ・マリア教会は、城壁に囲まれたオビドスの街の中心にあった。エンリケ航海王子の甥であったポルトガル王アフォンソ5世が、まだ10歳の頃にこの教会で8歳のイザベラと結婚式を挙げたのだと。ファサードは改修工事中。サンタ・マリア広場の西側に立っていたのがペロリーニョ(Pelourinho 、罪人のさらし柱)。権威の象徴であり町の自治のシンボルであった1513年建造のペロリーニョが。昔、見せしめのために罪人をカゴに入れて吊り下げたのだと。路地の先にサンティアゴ教会が見えて来た。サンタ・マリア教会教会とペロリーニョ。狭い路地の両脇に土産物が所狭しと。ブーゲンビリアが美しい通りであったが、この日は未だ・・・。サンティアゴ教会(Church of São Tiago)。現在は本屋さんになっていた。サンティアゴ教会の横にある北門をくぐり更に奥に進む。この監視台隣に高級ホテル・ホザーダが旧古城を改築して営業中。POUSADA(ポサーダ)と書かれた表示板が。監視台を見上げる。監視台は自然の岩山の上に建っていた。見事な城壁。ポルトガルでは歴史的建造物をこのように宿泊施設に改修してよく利用するのだと。この場所で自由解散。昼食もオビドスの村の中でご自由にと。これががホテルとは。最奥の広場。城壁と見張台が青空を背景に聳え立っていた。階段状の劇場広場であろうか? ・・・つづく・・・
2019.03.05
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この旅行の5日目は、コスタ・デ・プラタ(銀海岸)に面したポルトガル屈指のリゾート地であるナザレ(Nazaré)の朝。部屋からは、前日訪れたシティオの展望台とナザレの崖の下のペスカドーレス地区間を移動できるケーブルカーの線路が見えた。高台にあるシティオ地区へのアクセスに欠かせないのがこのケーブルカー。ポルトガルではケーブルカーを ASCENSOR と呼んでいるようです。運賃は片道1.2ユーロ。往復いっぺんに購入しても2.4ユーロなので特に往復割引の設定はないと。夜遅い時間以外は15分おきの運行と。時間は7:10、ケーブルカーの動いている姿は、まだ確認できなかった。漸く街、浜辺は明るくなって来ていた。そして朝食後に旅友とコスタ・デ・プラタ(銀海岸)の散歩にでかけた。ケーブルカーの在る丘の斜面には朝の陽光が。我がホテルを振り返って。海岸に向かって歩くが、人の姿は殆どなし。そして海岸に到着。海岸通りのレプブリカ通りを早朝散歩する犬の姿が。展望台の在る断崖も朝の陽光に輝く。しかし砂浜にも人の姿はなく、コスタ・デ・プラタ(銀海岸)を二人占め。脚長オジサンを自撮り。上半身でも。波から逃げる旅友の反応は素早かった。まだまだ大丈夫!!岬の先端にあるサン・ミゲル要塞には現在は赤い灯台が。購入したポルトガルの帽子を被り、高級カメラを構える旅友。ナザレは世界的に有名なサーフィンスポットらしく、世界中からサーファー好きが集まって来るのだと。2013年にビッグウェーバーのギャレット・マクナマラがこの地で100フィート(30.5m)の巨大波をライドしギネスを更新したと。その時の写真であると。その時の動画も⬅リンク。 【https://hep.eiz.jp/nazare-blow-up/】よりホテルへ戻る途中の貝の土産物も店頭のショーウィンドウに並んでいた。ナザレの街はいたるところに狭い路地が。ホテル 入口。ホテルのフロント。ホテルのフロントの壁にはアズレージョの絵画が。コスタ・デ・プラタ(銀海岸)に立ち漁船の横で。そしてホテルを8:45に出発。約29km離れたカルダス・ダ・ライーニャ(Caldas da Rainha)へ向かう。『王妃の温泉』または『王妃の鉱泉』という意味であると。広域自治体も同名のカルダス・ダ・ライーニャである。市のみで人口25千人余り。温泉と陶器産地として知られているのだと。ナザレの海岸ともお別れ。高速道路には未だ車は少なかった。工場から水蒸気がもうもうと。高速IC1への料金所を通過。そしてカルダス・ダ・ライーニャ(Caldas da Rainha)の街に到着しドン・カルロス公園の前でバスを降りる。ポルトガルの女王 レオノールデエイビス像。ズームで。レププリカ広場に向かって進む。正面に陶器の土産物売り場が。そしてレプブリカ広場に到着し朝市を見学。この広場は、『果物広場』という 通称を持ち、毎日、近隣の農家の人々が農産品を売りに来るのだと。様々な生花が。オレンジ。様々な果物が。反対側から。添乗員から朝市の規模がだんだん小さくなって来ていると。レタス、縮れキャベツが。ドライフルールの種類も多く。オリーブの実を様々な味に。人出もだいぶ増えて。相対色で彩られたキャベツのような形の陶器が。この男根作品の焼き物は何を入れるのであろうか?調べて見ると、この街の出身者のAlfredo Aramanhoのアイデア作品であるようだ。レプブリカ広場前の建物。ドン・カルロス1世公園入口。公園内部。 ・・・つづく・・・
2019.03.04
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この日の観光を終り、ナザレのホテルに向かう予定であったが、この日は天気もよく夕日が美しそうであったので、明朝最初に訪ねる予定であったナザレ・シティオ地区の観光を今日行う事に変更になり、バスで向かう。バスはIC9高速に向かって進む。カサルマガノ通りを進む。バスの車窓からはオリーブ林が。今度はぶどう畑。ポルトガルの電線にはいたるところで紅白のボール状のものが取り付いていた。ヘリコプター等による空中からの殺虫剤等の散布が行われるために、電線の位置が解るようにしているのだと。IC9高速に乗り、大西洋沿岸にあるナザレをひたすら目指す。ナザレの街に入り、タンケス通りにあった闘牛場(Praça de Touros da Nazaré)。ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会( Santuário de Nossa Senhora da Nazaré)が車窓に現れる。私たちの貴婦人=聖母マリアの教会という意味だと。大西洋に面する港町ナザレの旧市街シティオ地区⬅リンクにある教会。ナザレの守護聖人を祭り、14世紀に創建。現在見られるバロック様式の建物は17世紀に建造された。オランダのファン=デル=クロートの工房が手掛けた、祭壇脇の回廊を飾るアズレージョが有名。ナザレというのは 8世紀にロマノという僧が この街にやって来た時、彼が持っていた聖母マリア像が イスラエルのナザレのものだったことに由来するらしい。そしてメモリア礼拝堂 (Ermida da Memória)。バスを降りメモリア礼拝堂 を正面近くから。展望台のすぐそばにある、この礼拝堂。ここが 聖母マリアが現れた奇跡の場所だと。1182年に 狩りをしていたロピーニョという人が獲物を追って 岬の端まで馬を走らせていた。霧で先が見えなかったため、馬とともに 危うく崖から落ちそうになった。しかし、聖母マリアが現れて、馬は奇跡的に後戻りし、九死に一生をえたのだと。内部天井のアズレージョも見事。一面に敷き詰められた青い装飾タイル。地下におりる階段の壁にも続いていたが、日没時間も迫っていたので。ナザレは銀の海岸(コスタ・デ・プラタ)に面したポルトガル屈指のリゾート地で、 ポルトガル人をはじめヨーローパ各地から観光客が訪れるのだと。三日月状に広がる砂浜と紺碧の海のコントラストは絶景そのもの。「崖の上のシティオ地区」から眺める「砂浜のプライア地区」。喜望峰を発見した冒険家ヴァスコ・ダ・ガマもここを訪ねたのだと。白く崩れた波が凸凹の形状に拡がる不思議な世界。そして、ここ「ナザレ海岸」👈リンクは、冬になると大西洋に吹き荒れる嵐が生み出す壁のような巨大波が打ち寄せ、ビッグウェイブサーフィン世界記録が樹立されるなど、今ではビッグウェイブサーファー達がこぞって訪れる人気ポイントになっているのだと。夕日も水平線に迫ってきていた。オレンジの屋根と白壁の街並み。この日のホテルも確認できた。白波がCAPの如くに。海岸の上空からの動画👈リンクを紹介します。そして引き潮時もCAPの如き白波が。奥まったナザレの港。オレンジ色に光る光る海。再び不思議な白波模様。スペイン土産のオッパイチーズ(ケソ・テティージャ)が並んでいるが如きに。砂浜も赤く染まって、そして無数の足跡が。カモメも夕日見物に。オレンジに染まった海に浮かぶ小舟。この先はアメリカ大陸・ニューヨーク。白壁も夕日に輝く。上空には三日月が。更に水平線に近づく夕日。そして水平線に接する。ナザレの街中にある白き岩山・Mount St. Bartholomewの頂上にある塔も夕日を反射してに赤く輝く。水平線に沈んで行く夕日。この日の最後の輝き。時間は18:02。バスは18時に出発とのことで、慌ててバスに戻るバスの車窓から、残照を楽しむ。先程上ったナザレ岬(峡谷)の展望台も影絵の如くに。ここ「ナザレ」は「巨大波」👈リンク で有名な世界的に知られたスポット。30mを超える波も押し寄せるのだと。ネットから2枚の写真を。そしてこの日のホテルはHOTEL MARE(マーレ)。チェックインした我々の部屋。トイレ、シャワー室。そしてホテルから徒歩10分ほどのレストラン・São Miguelへ夕食に。天井から布が下がっていて、とてもロマンチック?な雰囲気。まずはビールで。ここのパンも美味しかった。スープ。そして イワシのグリル(炭火焼、サルディーニャス・アサーダス)はなんと3匹も! 。そして大きなジャガイモと野菜サラダが添えられて。デザートは焼きリンゴ(マッサァン・アサーダ)。そして徒歩にてホテルに戻ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.03.03
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サンタレンの戦いに勝利し、レコンキスタに貢献したテンプル騎士団に、その恩賞としてアフォンソ1世が土地を与えたのが、トマール修道院の起源とされる。テンプル騎士団が弾圧された14世紀以降、キリスト騎士団に受け継がれ、団長を務めていたエンリケ皇太王は、豊かな財力によってポルトガルを大航海時代へ導いた、といわれている。『Antonio Portocarreiros Chapel(ポルトカレイロス家の礼拝堂)』。1626年に彼の家族のために建てられた。壁は17色のダイヤモンド形のタイルで覆われています(3色)。壁にはキリストの生涯を描いた11枚のパネルが飾られていた。一面アズレージョで満たされた部屋。礼拝堂内のタイル絵。受胎告知の場面であろうか。Sacristia Nova 新聖具室。新しいと言っても16世紀のもの。礼拝堂の1つにある幻想的に装飾された天井。真ん中には、ポルトガル紋章と弧状球と一緒にテンプル騎士団の十字架が。テンプル騎士団の十字架。ポルトガル紋章。テンプル騎士団聖堂・Rotunda (ロトンダ)入口。エルサレムのオマールモスク(十字軍がエルサレム神殿の名残りと信じたモスク)や、聖墳墓教会(キリストの墓があったとされる場所に建てられた)に倣って造られた。ビザンチン風ロマネスク様式。柱頭はロマネスク様式を色濃く残している。円堂の外側は16角形、内部は8角形で、ゴシック、マヌエル様式の彫刻と絵画で彩られていた。聖堂入口上部。その奥には。珍しい形をした礼拝堂。テンプル騎士団が乗馬したまま礼拝できるようにこういう形にしたのだと。聖堂入口上の天井付近。逆方向の天井。カメラの設定を変えて撮影してみました。何と呼ぶ場所なのでしょうか?右の出っ張ったお立ち台は本物。左側は絵画。設定を元に戻して。少し右から。中央洗礼室。中央洗礼室のキリスト像。ズームで。テンプル騎士団の上級騎士達は決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされていて、中世最強の騎士団と呼ばれるほどだったとか。多くの祭壇が。円堂中央部の8角柱と周歩廊の壁画はゴシックの天蓋で覆われ、聖者と天使の彫刻が。円形の周歩回廊壁と天井はキリストの生涯を描写した16世紀のゴシック様式のフレスコ画とパネルで彩られていた。右側の絵画をズームで。動物を抱えた像。矢で射られた姿。テンプル騎士団の活動が禁止された後は、そのメンバーが中心となってキリスト教騎士団が結成された。 そして1357年には、そのキリスト騎士団がここトマールを本拠地として活動することに。ポリトガルの国章も。5つの盾は初代ポルトガル王アフォンソ1世が1139年のオーリッケの戦いで駆逐した5人の敵王、もしくはイエス・キリストの5つの聖痕を、7つの砦はイスラム教徒からの国土回復運動(レコンキスタ)の中で1252年に国王アフォンソ3世が奪還した城塞を表すと。フレスコ画のなくなっている壁も。こちらは未完成?「サンタ・バルバラの回廊」(Claustro de Santa Barbara)と呼ばれるもので、この回廊も16世紀に増築されたものなんだとか。いくつも回廊が並んでいるという、本当に迷路のような場所。サンタバルバラの回廊 Claustro de Santa Barbara)のテラス上部にある、世界に躍進した当時のポルトガルを偲ばせる模様。マヌエル様式の窓(Janera Manuelina)テラス上部にある、16世紀に世界に躍進した当時のポルトガルを偲ばせる模様。マヌエリーノ様式の傑作として知られているもので、キリスト騎士団のマルタ十字、国の紋章と大航海時代を代表する海草、サンゴ、ロープ、鎖といったモチーフが盛り込まれたダイナミックな彫刻で飾られていた。このマヌエル様式の窓にはくねくねとしたロープと共に顔まで付いていたのであった。ジョアン3世の回廊(Claustro de D.Joao Ⅲ)イタリア・ルネッサンス様式がマヌエリーノ様式にアレンジされて16世紀に建てられた回廊で、別名フェリッペ家の回廊。スペインのフェリッペ二世がここでポルトガル王フェリペ一世として戴冠したから。フェリペ1世の在位期間である1591年に完成したのだとか。それでも日本は安土桃山時代。廊下一つみてもこのスケール。両側の壁に並ぶ入口もそれぞれ個室になっていた。廊下のアズレージョ。廊下、個室がT字路に。食堂。台所。台所の窯。オリーブオイル貯蔵庫(olive oil cellar)。ミシャの回廊( Claustro da Micha)。1543年に完成。回廊に西側の部屋にはパンを焼く竈があり、当時はここで」貧しい人々にパンが配られたのだと。宿舎の回廊(Claustro da Hospedaria)。4隅にあった井戸への螺旋階段。宿舎の回廊( Claustro da Hospedaria)から礼拝堂の屋上を見上げる。1541-1542年建築。巡礼者を受け入れた場所。再びマヌエル様式の窓(Janera Manuelina)を見上げる。 ・・・つづく・・・
2019.03.02
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トマールのキリスト修道院の駐車場に到着しバスを降り観光開始。コンウェント通りからキリスト修道院の建物を見る。石畳の坂道をに向かって登っていく。かつて城塞だったことがよくわかるように、右手上には城壁が連なっていた。左手の広場にはキリスト修道院の見どころの大きな写真が。入口。入口前から城壁を見る。ここも世界遺産の為、現地添乗員が待ってくれていた。矢を射る狭間。キリストの修道院は、ポルトガルのトマールを支配するテンプル騎士団の城の壁の内側の丘の上にあった。城と修道院はどちらも1314年まではテンプル騎士団の本部であり、1357年以降はキリスト騎士団の本部。城は1160年に建てられた、そして、全域は今日ユネスコによって世界遺産として登録されている。案内図。城壁の上には旗が。坂道を登るツアー仲間。城壁の至る場所に狭間が。矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間であろうか?見張り塔であろうか?修道院とは思えない堅牢な城壁。城壁に造られた次の門を潜る。ポルトガル語の名称『CONVENTO DE CRISTO』。1160年に建設開始。1983年に世界遺産に登録されたと。城門をくぐると現れるキリスト修道院(Convento de Cristo)。なかなかの迫力。円堂・テンプル騎士団聖堂が前方に。城壁上部。城壁の中の門を振り返る。真っ赤なアロエの花。円堂に向かって更に階段を上がる。見事な彫刻。円堂の『南門』。南門の精細な彫刻。リスボンのジェロニモス修道院を手掛けたスペイン人建築家が1515年に建造。門は閉鎖されていて、観光客はこの門の脇から入る。 赤子を抱く女性像。可愛いエンジェルの姿が。見事な城壁を再び。南門横の鉄格子で囲まれた窓の横から入る。青色の部分がマヌエル1世時代に建設された部分。赤色がテンプル騎士団時代、緑色の部分がエンリケ航海王子の時代に建設されたことを示していると。『墓の回廊(Claustro do Cemiterio)』チケットもらって入るとすぐにで迎えるのが、ポルトガルの特有のタイル・アズレージョの壁面が印象的な「墓の回廊」と呼ばれる回廊。修道士たちの墓所とのこと。騎士や修道僧の墓地としての意味で作られたのでその名があると。この2本の柱が等ピッチで並び壁、そして屋根を支えていた。アズレージョで彩られていた。『沐浴の回廊(Claustro da Lavagem)』。そして「墓の回廊」に隣接して、それよりもさらに大きな「沐浴の回廊」が。名前の由来は、かつて修道僧たちがここで沐浴をしていたから。ここにもアズレージョが。2階部分も回廊になっていた。1426年頃から作られ、1453年に完成したと。沐浴の回廊の窓からはエリンケ航海王子の宮殿跡地が見えた。ポルトガルの至る所で聞くエリンケ王子、ここにもいたんですね。40年も住まれていたとのことです。沐浴の回廊から見える、修道院主要部。どうも鐘楼がくっついた円形の砦のような感じに見えなくもないですが、あの独特の形の建物に今から入っていきます再び『墓の回廊』鐘楼をズームで。 ・・・つづく・・・
2019.03.01
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コインブラの観光を終え、バスに乗り込み昼食会場のポサーダに向かう。バスの車窓から、モンデゴ川沿いにあるコインブラ駅が見えた。時間は12:20。国土を南北に縦断する幹線鉄道路線を走る列車、例えばリスボンからポルトへ向かうアルファ・ペンドゥラール(AP:Alfa Pendular)やインターシティ(IC:Intercidades)などは、市街地の北西郊外にあるコインブラB駅(Coimbra-B)に停車する。そこから市街地中心部のここコインブラ駅(Coimbra)へは、盲腸線が作られており、一部列車はコインブラ駅を始発あるいは終着駅とする近郊線(Urbanos de Coimbra)とポルトやAveiroから来る普通列車に接続している。盲腸線とは、公共交通機関において営業距離が短く、かつ起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線を指す。モンデゴ川の向こう側の丘の上に見えたのが新サンタ・クララ修道院(Mosteiro de Santa Clara-a-Velha )。新サンタ・クララ修道院は、17~18世紀にかけて、モンデゴ川の洪水を避けるために、川沿いの修道院の代わりに新しく建てられた修道院。修道院内には、教会や庭園など、いくつかの見どころがあると。前方右側に再びサンタ・クララ橋(Ponte de Santa Clara)が。サンタ・クララ橋にはポルトガル国旗とコインブラの市旗が。モンデゴ川の下流方面。ウニヴェルシターリオ・デ・コインブラ競技場をズームで。このスタジアムはユーロ2004の一次リーグ、イングランド対スイス、フランス対スイスが行なわれたと4。このスタジアムでジダンやベッカムがプレーした。サッカーの世界ではなかなか話題に上らないコインブラが、世界中から注目される瞬間であったと。サンタ・クララ橋を渡りラウンド・アバウトをイネス・デ・カストロ通り方面に進む。道路沿いにあったモニュメント。その先にも。Hotel D. Luís - Coimbra。昼食会場のポサーダ デ コンデイシャ コインブラ( Restaurante da pousada de Condeixa a Nova。)『ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ』は コニンブリガの遺跡から 2.6 km 、コインブラ大学から16.5 kmのファミリー向けの 4 つ星ポサーダ。このポサーダ(POUSADA)には43室の部屋と、レストラン、屋外プール、およびフィットネスセンターがあるとのこと。ポサーダとはかつて国の重要なものだった建物などを改装したポルトガルを代表するホテル。ヨーロッパの国営ホテルといえばスペインのパラドールが有名だが、ここポルトガルでは【ポサーダ】と呼ばれている。ポルトガルに点在しており、その数30軒以上に及ぶ。古城や王宮、修道院を利用したヒストリックや、それをさらに現代風に改装したヒストリック・デザインなど建物のデザインも多種多様であると。フロント。フロントの置物。まずは黒ビールを注文。ポルトガルのパンはどこも美味しかった。スープ。アサリと豚肉の料理・カルネ・デ・ボルコ・ア・アレンテジャーナ。(Carne de porco á Alentejana)。デザート。そしてレストランの前庭の像。こちらにも。前庭からポサーダを見る。前庭からの眺め。「BAR」と書かれた建物。前庭にはプールも。そして出発時間まで周囲を散策。歴史を感じさせる壁。ここも、今は使われていない修道院の建物?建物の中庭に入ってみると大きな犬三匹が小屋に。そして大声で私に向かって吠えまくったのであった。入口にはこの看板が。運転手に聞くと「犬に注意」と書いてあると。この樹は?枝垂れ桜のごとし。どんな花を咲かせるのであろうか?やはり修道院であったのだろうか?ポルトガルのコインブラという街は、古い大学街で、坂が多く、川があり、陶器店も多く、何となく京都のような印象を受けた。動物柄の細かな絵付けが特徴の陶器であると。壁には掛け軸のごとく絵画も。そして昼食後はトマールに向けてバスは走る。A13高速を利用し南下。リオ・デ・ガリーニャスの村。ペネラ城(Castle of Penela)が右手の山の上に。ポルトガルの第三都市コインブラから南に50kmほどのペネラの町にある城。ペネラ城は、Lusitaniaの時代に建てられた。その城跡にローマ人が建てなおした。12~13世紀にかけ改装したり増築されたりして今の姿になった。町の歴史も古く、創設1137年。初代国王の Afonso Henriques の時代である。ポルトガルの国の中でもっとも古い町のひとつである。山の上には風力発電が並んでいた。車窓からの丘陵、街並みを楽しみながら進む。風見鶏型小型風力発電か?軍事基地の前を通過。ホセ・サルバドール闘牛場(Praça de Touros José Salvador - Tomar)。スペインの闘牛場では牛を殺すが、ここポルトガルでは殺さないのだと。ナバン川を渡る。トマールの街並み。中央に見えるのが街の中心広場に建つサン・ジョアン教会。時計塔には16世紀の時計が埋め込まれているのだと。 ・・・つづく・・・
2019.02.28
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芸術学部/文学部の校舎の前には高い台座の上に4つの彫像が。ネット情報(翻訳情報)では「古典的な作家Sappho、Thucydides、Aristotle、Demosthenesの彫像で構成されたBarata Feyoによる彫刻」とあったのでこれを信じて。Demosthenes(デモステネス)像。雄弁有名な政治家であり、古代ギリシャの演説者。Aristotle(アリストテレス)像。もちろん有名な哲学者。Thucydides(トゥキュディデス)像。古代ギリシャの歴史家、「ペロポネソス戦争の歴史」の著者。Sappho(サッポー)像。19世紀に住んでいたギリシャの詩人。Leopoldo de Almeida(レオポルド・デ・アルメイダ)による彫刻。Aesculapiusの娘の像?持っている棒には蛇?が巻き付いていた。右側には16世紀のギリシャの賢人、ヒポクラテスだと。そして再びサン・ジョアン通りの坂道を徒歩で下る。右手前方に「New Cathedral(新カテドラル)」。バロックのファザードが美しかった。有名な「天正少年使節団」がこの街を尋ねる前の1550年代に、フランシスコ・ザビエルから鹿児島で洗礼を受けた日本人(洗礼名ベルナルド)がポルトガルまで旅をし、コインブラのイエズス会修道院で修行し、ここで逝去したことが、同会の記録に残っているのだと。イエズス会の初代総長であったイグナチオ・デ・ロヨラからバチカンにも招かれ、教皇にも拝謁していると。そしてこのベルナルドの墓がこのNew Cathedral(新カテドラル)にあるとの事で中に入りたかったがツアーコースには入っていなかった。東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えたのだと。しかしながら日本名は知られていないのだと。そして1999年にザビエル来日450周年を記念して鹿児島のザビエル公園内に新しいザビエル像が建立されたが、ザビエルの隣りに建てられたのが、ザビエルに愛された青年、このベルナルドの像であったと。右にザビエル、中央にベルナルドの像、左にヤジロー。ヤジロウ(弥次郎)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物と。 【https://4travel.jp/travelogue/11281816】より「greja de Sao Joao de Almedina(サンジョアンデアルメディナ)教会。」その横手前にあるのは城壁の名残であると。城壁の名残をズームで。横たわる塀はNational Museum Machado de Castro(国立博物館)を囲む城壁の一部であると。更に続く。城壁の一部の上に建つ現在の建築物。狭い路地の坂道を降っていくと左手にあったのが「Sé Velha - Coimbra(旧カテドラル)」。外から眺めると、旧大聖堂は狭い窓と銃眼付き胸壁をもち高さがあるため、小さな要塞に似た姿であった。これは、ムーア人と交戦中の時代に建てられたことを意味しているのだと。東ファサード。翼廊交差部の上部は細部にバロック要素を持つロマネスク様式のドームが存在感を。最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂である。初代コインブラ伯でモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)でもあったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られたと。北ファサードレコンキスタの時代には要塞としての役割も担っていた堅固な造り。 胸壁には銃眼も。入口は1530年頃に造られたもので、ルネサンスの影響が見られる初期のものだと。そして、1580年代にリスボンを経てバチカンを訪ねた「天正少年使節団」は有名であるが、彼らもバチカンからリスボンに戻った後、このコインブラを訪ねているのだと。ズームで入口横の像を。 西ファサード。こちらが見学用の出入口であるようだが、内部見学はこれもコースに入っていなかった。西ファサードの中ほどに扉口と、扉口に似た窓を上部に持つ塔のような建物。扉口も窓もどっしりとした、アラビア風・ロマネスク前派の影響を受けたモチーフで飾られていた。大聖堂は丘を下る場所に建てられているため、ファサードは角の厚い控え壁で補強されているのだと。西ファサード前の小広場。ケーブラ・コスタス通りと呼ばれる狭い階段路を下って行った。落書きは何処も同じ。狭い道の両脇には食堂や土産物屋が並んでいた。「ポルトガルの洗濯女」の像かつてはモンデゴ川で洗濯をする女性たちの姿が見られたと。シャンソンで歌われ、「ポルトガルの洗濯女⬅リンク」は一躍有名になったのだとか。別の角度から。説明板。ポルトガルギター(コインブラタイプ)を弾く人形。「FADを聴きませんか?」7世紀のBarbican Gate(バービカンゲート)と呼ばれる門。コインブラ城の城壁の一部のようだ。市立博物館の説明板?アズレージョのお土産。"コインブラ・ファド" を象徴するかのようなポルトガルギターをかたどった女性像。ポルトガルギターはポルトガルの民族楽器でファドの演奏などに使用されるのだ。リスボンの下町で生まれたファドは、人生の歓びや悲しみ、哀愁など主に女性の心情を歌うのに対し、"コインブラ・ファド" はもともとは男子学生が愛する女性に捧げたセレナーデで、歌い手は男性のみで演奏者も含めほとんどはコインブラ大学の出身者なのだと。フェレイラ・ボルディス通りを歩く。コルク製のバッグ。様々な缶詰を売っている店。遊園地の如き缶詰専門店。日本語のパンフレットで説明してくれたが・・・。アコーディオンを奏でるオジサン。国民的おやつ「Pastel de Nata/パステル ・デ・ナタ」。ポルトガルの「コンフェイト」。日本の金平糖とは違って、ポルトガルのコンフェイトは透明感が無く、凹凸も浅く控えめ。そしてボルタジェン広場近くでしばしの自由行動に。元首相のジョアキン・アントニオ・アギアル像(Monument to Joaquim António de Aguiar)。ズームで。モンテゴ川(Rio Mondego )に架かるサンタ・クラーラ橋(Ponte de Santa Clara)。ポルトガル銀行。左手は狭い敷地にホテル アストリア(Hotel Astória)。サンタ・クラーラ橋側からボルタジェン広場方面を見る。サンタ・クラーラ橋とモンテゴ川。ポルトガル近代主義の代表的作家で,詩,短編,長編小説,戯曲,評論などさまざまなジャンルで活躍した「TORGA」の名が。モンテゴ川の上流側。下流側。再びボルタジェン広場を。BS放送から、コインブラの街並みの上空からの映像です。モンテゴ川への斜面に拡がるコインブラの街並み。中央上にコインブラ大学の時計塔が。 ・・・つづく・・・
2019.02.27
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4日目の朝は何と4時に目覚ましが鳴り起床。前日はスペインにいたために時差が1時間ずれていて、二人のスマホの時間が自動で切り替わっていなかったのであった。スペインでは、フランス、ドイツなどと同じヨーロッパ中央時間を、 ポルトガルは、イギリスと同じ西ヨーロッパ時間(グリニッジ標準時間)を使っているので、2国の間には1時間の時差があるのであった。現在、中央ヨーロッパ時間を使用している国の中には、実際の経度がUTC+1のタイムゾーンから外れている国もあり、スペイン、フランスなどは、国土のほとんどがUTC+0のタイムゾーンにあたる経度に位置しているのではあるが・・・。現在スペインでは、中央ヨーロッパ標準時(CET)によって時が刻まれているが、イベリア半島の隣国、ポルトガルや経度の近いイギリス、地中海を挟んだお向かいのモロッコでは、1時間遅いグリニッジ標準時(GMT)を採択しています。実は、もともとスペインもこのグリニッジ標準時だったものの、1942年に当時のフランコ独裁政権が同盟国だったドイツに合わせて変更したのだと。なるほど、経度的にはスペインはグリニッジ標準時(GMT)が適当ではと。この朝は、モーニングコーヒー替わりに日本から持ち込んだソーメン(揖保乃糸)を部屋内で楽しむ。麺つゆも日本から持って来た液体濃縮タイプ。そして我が部屋からの日の出。ホテル(AXIS PORT)のロビー。ホテルの玄関。ホテルを見上げて。そしてバイキング式の朝食後、9時にホテルを出発して116km離れたコインブラへ向かう。横断歩道で信号待ちするポルトの人々。この日は快晴。高速道路には既に多くの車両が。国鉄(CP)のCONTUMIL駅横を通過。ドラガン競技場が車窓から。ポルトガル・ポルトにあるサッカースタジアム。スーペル・リーガに所属するFCポルトのホームスタジアムである。雨が多い土地柄を考慮し、透明な素材の開閉型屋根を持つ。 スタジアム名は、FCポルトのロゴマークの上にあるドラゴンの存在に由来すると。高速A20をドェロ川に向かって南下する。あっという間に濃霧に包まれる。渡っているドェロ川の影響と添乗員から。霧も晴れ、車窓にブドウ畑が拡がる。牛が草を喰む牧場も。ポルトガルの田園風景を楽しみながら進む。A1高速からイグレージャのSanta Maria da Feiraの村の風景。IP3インターチェンジ(IC)近くで再び霧が。コインブラ郊外のインターチェンジ(IC)。コインブラの街に入りサン・ジョアン通りを進む。コインブラはポルトガルの学問の町、因みにリスボンは政治、ポルトは商業の町と呼ばれていると。コインブラ大学の角を左折しラルガ通りへ。コインブラ大学の校舎の壁には3体の像が。バスが停車すると、黒のマントを着た女学生がバスに近づいてきた。ボランティアで鉛筆を売り寄付金を集めているのではと添乗員から。想いを寄せた男子学生のマントの裾を、女子学生が歯で噛み切るという習慣が今も残っていると。ディニス王の時代から続くならわしで、裂け目の多い学生ほど「人気がある」という証拠なのだと。日本でいう制服の第2ボタン!!。なんと甘酸っぱい(笑)、しかし今、日本では???そしてコインブラ大学の散策開始し「鉄の門」に向かう。ポルトガルで最古のこのコインブラ大学は、ヨーロッパでも4番目に古い。大学の前身は、ディニス王が1290年にリスボンに創立した大学で、何度か移転した後の1537年、ジョアン3世がコインブラの宮殿内に、大学を設置した。当時から、ボローニャ・パリ・サマランカ・その他から教授が招聘され、国際的に重要な研究機関だったという。特に、人文学は伝統を誇ったとか。現在は、医学部・法学部・科学技術でも、優秀な学生が育っていると。因みに、リスボン大学は1911年創立されたが、これがポルトガルで2番目の大学だ。コインブラ大学が、如何に重要な学問の担い手だったかがわかるのであった。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交うと。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがあると。右手には芸術学部/文学部の校舎。石像が校舎の前に並ぶ。対面の総合図書館の壁にも3体の像が。「鉄の門」の右横の建物。ここにも。歩いて来たラルガ通りを振り返ると大学創設者のディニス王の像(Estatua de D. Dinis)の後ろ姿が。鉄の門(ポルタ・フェレラPorta Ferrea)、別名「無情の門」。無情の門とは、この大学の学生はこの門を入ったら学問以外のことを考えてはならないとの教えであると。女子学生が噛み切ったマントの切れ端?ここに縛り付けておくのは、「私のこと以外は考えてはならない」とのアピールか?白の切れ端は他の意味が?「無情の門」の上部。門の上にはディニス1世の像、最上部には知の神ミネルバが飾られているのだと。「無情の門」の右横の石像。「無情の門」の左横の石像。ラテン回廊(Via Latina)、左は時計塔で「カブラ(山羊)」と呼ばれている。ラテン回廊と呼ばれるのはここではラテン語しか話してはいけないからだと。先日のBS放送の上空からの写真も紹介します。時計塔。時間は10:45。1733年に建てられたこの時計塔は、コインブラ大学のシンボル的存在として親しまれているのだと。そして時計台は今でも現役で時を刻み続けているのだ。コインブラ大学の敷地をぐるりと望むラテン回廊(Via Latina)ジョアン3世(1502 - 1557)像。1537年、コインブラ大学を創設する。ジョアン3世は、前世紀にイタリアで生まれた新しい理念を導入することを試みた。彼はポルトガル人が留学するための奨学金を創設し、ポルトガルの人文主義者で当時パリにいた博識のアンドレ・デ・ゴウヴェイアをコインブラ大学のコレジオ・ダス・アルテス (Real Colégio das Artes e Humanidades / Colégio das Artes,1542-1837) の学寮長に任命した。ゴウヴェイアは、神学のエリ・ヴィネ、数学のペドロ・ヌネシュ、法学や古典学のディオゴ・デ・テイヴェなど、多くの教授たちを招聘したのだと。別の角度から。マヌエル様式の門・ファサード(Portal Manuelino)。サン・ミゲル・チャペルや聖ミカエル教会とも呼ばれる礼拝堂が内部にあると。旧大学の中心部にあるのが、10世紀に造られたこの広大な広場。1255年までポルトガル王国の首都であった古都コインブラ。レコンキスタを推進し、ポルトガル王国の独立を達成した初代国王アフォンソ・エンリケシュ(Afonso Henriques)が住んでいた王宮があったのがまさにこの場所。その後首都はリスボンに移され、この王宮があった場所はコインブラ大学の敷地となった。礼拝堂に対面する建物が下の写真。建物の入口門の上の彫像。ここでトイレタイムで建物の中へ。女性陣は土産物売り場の前に長蛇の列が。通路の壁にはアズレージョが。私もトイレを済ませしばし土産物屋を散策。大学のカフェ。一般観光客も利用することが可能なのではと。旧校舎内の回廊。ここにもアズレージョが。そして再び土産物売り場へ。店内。可愛らしい人形。この椅子で旅友が私の写真を撮ってくれた。黒いマントを着た人形。そして広場に出て再び時計塔を。中庭。左にラテン回廊、中央に鉄の門。中庭には多くの観光客が。時計塔に向かって一番左にあったのが、ジョアン5世治下の1724年に建てられたジョアニア図書館(Biblioteca Joanina)。正面から。このジョアニナ図書館は1724年、ジョアン5世によって、このコインブラ大学の敷地内に設立された。バロック調の外観はこの図書館の重厚な歴史を物語るべく、訪れる者だれもを圧倒するに充分な迫力を持っており、図書館というよりクラシックな大聖堂を連想させる造りが見るものを魅了して来たと。16世紀から18世紀の印刷本3万冊が保管されている。手書きの貴重本は別室で保護されていると。この建物の下にさらに2階あり、合わせて30万冊の蔵書が収められている。虫に本を食べられないように館内にコウモリが飼われていて、糞で汚れないよう夜間はテーブルにシートが敷かれる。この図書館は1910年まで使われており、自然光だけで使用されたので閲覧時間は10時から15時までだったようだ。図書館入口の上部の彫像。残念ながら時間切れで内部には入れなかったが入口の隙間からシャッターを。正面の壁にはジョアン5世の肖像画が飾られていた。BS放送で紹介された図書館内部の写真も紹介します。そして図書館の先からモンデゴ川(Rio Mondego)を。正面にペドロ・イネス橋(Pedro e Inês bridge)。丘の斜面に立つコインブラの街並み。再びコインブラ大学の中庭。そして旅友集団の後ろ姿を追いかけて行ったのであった。最後にもう一度、『無情の門』そしてその前のタイル模様を。 ・・・つづく・・・
2019.02.26
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添乗員に案内されて大聖堂を1周することに。オブラドイロ広場を挟んでパラドール デ ソス デル レイ カトリコ ホテル (Parador de Sos del Rey Catolico)の向かいの建物。コレシオ・デ・サン・シェローメ(現在はサンティアゴ大学の学長オフィス)であると。カテドラド前の「オブラドイロ広場」には白の観光用ミニトレインが。カテドラルの横ではバグパイプでガリシア地方の音楽を演奏していた。裏側の広場に面したカテドラルの北側の門。18世紀にネオクラシック様式で建てられたのだと。正面近くから。目を布で塞ぎ十字架を持つ女性像。インマクラーダ広場から見た修道院。巨大な修道院がたくさんあることに驚かされる。修道院はよほど裕福だったのだろう。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(Escola Universitaria de Traballo Social - USC)の建物にもなっていると。屋上の騎馬像。裏口はこの時は内部が改修工事中のために閉鎖中のようであった。移動台車の乗った懐かしい写真機で白黒の写真を撮ってくれる店が。土産物売り場。オニキスのアクセサリーを売っている店は聖堂の裏手にあった。オニキス(黒水晶)は悪霊を祓う石として使われてきた魔除けの石であると。教会にぴったりの土産なのであったが。キンターナ広場(Praza da Quintana de Vivos)。カテドラル裏側にある広場は、静かな雰囲気が漂っていた。キンターナ広場のサンパイオ・デ・アンテアルターレス修道院。小さな窓は48個あり鉄格子に囲まれていた。真ん中の白い十字架は半島戦争(ナポレオンとの戦い)の戦死者を祀ったものであると。キンターナ広場に面した聖なる門(Puerta Santa)・・免罪の門。聖なる門はこの日は閉鎖中。門の上部。中央が聖ヤコブ、左右が弟子のテオドロとアタナシウス。下部には門の両脇に12世紀頃のロマネスク様式の24人の像が。聖なる門1。聖なる扉2。プラテリアス広場からのベレンゲラ(Berenguela)の時計塔。カバロスの泉(Fonte dos Cabalos)。馬の噴水で4頭の馬の口から水が出る仕掛け。そしてアーチを抜けてオブラドイロ広場に出る。そして聖堂内に。聖堂内の配置図。青色部分がロマネスク様式で、最も古い部分であると。【https://blog.goo.ne.jp/aqacompass/e/65747797c3972c74dd32f768fd756441】よりサンティアゴ・デ・コンポステーラの別の配置図 【http://nobuko.sakura.ne.jp/santyago/santyago1.html】より添乗員の外での説明に従い中央祭壇の横から、狭い階段を少し登り、ヤコブの背中に。聖ヤコブの像に後ろから抱きつく旅友。「聖ヤコブ像に抱きつけば、巡礼は終わる」とも。この後、私も旅の安全と・・・・をお願いして聖ヤコブのマントにキスを。そして階段を下り中央祭壇の反対側に行くと地下に安置された「聖ヤコブの棺」が。キリスト教信者たちはこぞってこの聖堂を訪れ、この聖ヤコブの棺に礼拝するのである。それにより自分自身の負うすべての罪が許されると、ヨーロッパ各地からぞくぞくと信者が”巡礼者”として訪れるのであると。中世においてサンティアゴ巡礼は苦行であったと。ヨーロッパ各地を出発した人々は、数ヶ月かけてピレネー山脈の麓にたどり着く。フランス側から峠を越えると、そこからイベリア半島内陸部を横断する約800キロの道のりが始まったのであったと。隙間からズームで。ややピンぼけ。ローマ教皇のパウロ2世の来サンティアゴの記念プレートが。主祭壇は17世紀後半に造られたチュリゲラ様式で、中央に聖ヤコブの像が祀られていた。左右にはヤコブの弟子の聖アタナシオと聖テオシドロがいると。残念ながら、正面祭壇右側には改修工事中のパイプ足場が。ズームで聖ヤコブ像を。ズームすると後ろから抱きついている人の右手が確認できた。聖ヤコブ像の手前?の上の天使?像が気になりました。(向かって左側)大聖堂に存在する著名な巨大振り香炉・ボタフメイロ(botafumeiro)の姿が写真左のものであろうか。この香炉は焚いた香を入れた後、聖堂内を振り子のように振る儀式に使われているのだと。向かって右側。そして大香炉・「ボタフメイロ」。大聖堂に存在する著名な巨大振り香炉。この香炉は焚いた香を入れた後、聖堂内を振り子のように振る儀式に使われている。「ボタフメイロ」👈リンク とはガリシア語で「煙を吐き出すもの」を意味していると。中央祭壇手前のパイプオルガン。別の角度から。身廊の真ん中から。大聖堂にあった懺悔室であると。中央祭壇の横から裏には、様々なの祭壇が取り囲んでいた。多くの祭壇に安置されている像の写真を撮りましたが、説明できる知識を持ち合わせていませんし、ネットで調べてもわかりませんでした。身廊上部の天井。工事中のため、身廊に置かれている礼拝用の椅子は全て撤去されていたのであっった。やはり礼拝用の椅子がないと違和感が。騎馬像。マリア像。ズームで。銀細工の門 。キリスト受難の様子が彫刻されているようです。再び銀細工の広場には4頭の馬の噴水が。銀細工師の店があったことからこのような名前になったのだと。再びベレンゲラ(Berenguela)の時計塔。世界遺産に関する記念のプレート。そして巡礼の終着地点を示すホタテガイが。ホタテガイを踏むと幸運がもたらされるようで多くの観光客が。よって私も。オブラドイロ広場中央にある、サンティアゴの道終点の標識。巡礼者であろうか?そしてバスの待つ場所まで徒歩で向かう。再びサンティアゴ・サン・フランシスコ修道院が正面に。そして往路とほぼ同じ道を230kmあるポルトへと向かう。時間は17時。途中、夕日に光る大西洋の海を楽しむ。葉のない広葉樹の間から夕日がバスに射し込む。そして19:30前に連泊のホテルに到着。この日はホテル内のレスイトランでの夕食。長い往復約500kmの移動を終え、部屋に戻り旅友のSさんと慌ただしく反省会を行いベッドに入ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.02.25
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バスを降りサンティアゴ・デ・コンポステーラの散策開始。サンティアゴ・サン・フランシスコ修道院(Convento de San Francisco de Santiago)が前方右に見えて来た。別名は「サン・フランシスコ・デ・バルデデオス修道院と教会」と。13世紀はじめにゴシック様式で建てられたが、18世紀にバロック様式で建替えられたと。ドーム付きの鐘塔が2塔。正面(ファサード)。柱はエンタシス。古代建築で、柱の中ほどに持たせた、わずかなふくらみ。ギリシア、ローマ、ルネッサンスの建築に行われ、わが国でも飛鳥(あすか)時代の建築に見られる。聖フランシスコの像(Monumento a San Francisco de Asís)。ガリシアの彫刻家フランシスコアソレイの作品。スペイン内の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は数多くあると。しかしポルトガルからの道はただ1~2つであったと。 【http://tabing.hatenablog.com/entry/2014/05/23/004047】よりサン・フランシスコ通りを進む。オブラドイロ広場(Praza do Obradoiro)に出る。正面に市役所を含む官公庁の建物(旧ラジョイ宮殿)。現在では、こういう公共の建物を、巡礼者の人たちが泊まれる施設にもしていると。左手に後に訪ねるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。パラドール デ ソス デル レイ カトリコ ホテル (Parador de Sos del Rey Catolico)。パラドール(スペイン語: Parador)は、スペイン、プエルトリコなどスペイン語圏にある比較的高級なホテル・チェーンを指す。このパラドールうは5星と。1499年にアラゴンのフェルナンドとカスティーリャのイサベルのカトリック両王によって建造された、王立病院兼巡礼者の宿泊施設。ゴシック、ルネサンス、バロック美術に彩られた歴史的な建物であると。スペインでは古城などを改装したり、景勝地に新しく建てた半官半民の宿泊施設網。見事なホテルの入口の造景。馬車が置かれていた。前方にサンティアゴ・デ・コンポステーラのカトリック教会(Church of San Fructuoso)。ズームで。ホルタス通り(Rúa das Hortas)を下る。カトリック教会を振り返る。石畳の路。汚水用マンホールであろうか?巡礼道にはホタテ貝のマークが至る所に。ホタテ貝のマークには諸説あるようだが①エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺体を弟子が船に乗せて海をさまよい、辿り着いたのが サンティアゴ・デ・コンポステーラ。その時に船の裏に沢山の帆立貝が着いていたという説。②ヤコブが布教の旅で帆立貝を首から下げていて、水を汲んで飲んでいたという説③サンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼した人が記念に現地名物の帆立貝を食べて持ち帰った。 無事に帰還した印なので縁起もののお守りとして身につける他にも諸説あるそうですが。スペインの郵便ポストは黄色。昼食レストランへ。野菜スープ。野菜は何?ガリシア料理とのこと。鮭のステーキ?とサラダ。デザートはアーモンド味。オレンジの屋根に白壁の家屋が続く。白壁が多いように見えますが、規制はなく、ピンクやイエローの濃い色に塗っているものもあるが、陽光が強いので、色が褪せてパステル調になり、だんだん白っぽくなるのだと。正面の路の隙間に大聖堂が。ポムバ通り(Rúa do Pomba)を歩くと、民家の壁にも歴史を感じさせる造景が。サンタ・スザンナ公園(Carballeira de Santa Susana)のある丘の細道を上っていくと先物の建物が同じレベルで。ポルトガル、スペイン全体に言えることですが、大体どの屋根も半筒状のレンガ色の瓦。これは国が色や素材を指定したり、規制しているわけではなく、ポルトガルで瓦と言えば土管のような筒状の素焼きのものしかなく、それを縦半分に切って屋根瓦として使用していると。修理する時もこれしかないので、自然と統一感が出るのだと。大聖堂の撮影ポイントであると。樫の並木道から見るカテドラルの美しさは、絵ハガキになるほど有名なのだと。目の前の低地を挟んで少し高台に位置する大聖堂の姿は素晴らしい全体像を見せてくれたのであった。大聖堂には4種の旗がはためいていた。スペイン国旗、EU旗、ガリシア フラグ、・・・・・?????。青空も姿を現してくれた。工事中のネットも覚悟していたのであったが。散策路の脇で大聖堂を見ていたこの人は誰?ネットで調べてみると1906年にゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞したスペイン人のサンティアゴ・ラモン・イ・カハル氏との書き込みも。公園の樹木を大切に屋根を設計した温室であると。アルメダ公園の広場の水場が右手に。日本から持ち込んだ椿であると。アラメダ公園のこのオバアチャン像は?これもネットで調べてみるとこの変な像?は、以前毎日ここに現れたオバアチャン姉妹だと。だれが造ったのであろうか・・。今では有名とのこと。「二人のマリア」と呼ばれ、スペイン内乱の時代に政治的見解が左翼寄りであると迫害されたこの姉妹は、派手な服装で毎日午後 2 時から公園を散歩していたと。公園をこうした人目を引く姿で散歩することは、当時のスペイン社会を抑圧していた保守的文化に対する静かな抵抗として今も語り継がれているのだと。 時々、衣装の色が変わっているようだと現地ガイドから。サン・クレメントの泉(Fuente San Clemente)。後ろの建物は高等学校(IES Rosalía de Castro)。フランコ通り(Rúa do Flanco)の商店街をオブラドイロ広場に向かって歩く。イベリコ豚のハム売り場。イベリコ豚の何年熟成物であろうか?買って食べてみたかったが・・・・。そして正面にサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が見えてきた。再びオブラドイド広場に。正面の市庁舎(ラジョイ宮殿・Rajoy Palace)、その他「旧ラクソン宮殿」、「ラクソイ宮殿」、「ラショイ館」、ガイドブックやサイトによって呼び方があるようだ。18世紀中頃にフランスのシャルル・レモーの設計によるもの。長さ90mの正面は、半円アーチのアーケードの上にあり、中央の円柱に支えられた柱廊の上には馬に跨った勇ましい像が。中央の屋根に聖ヤコブが馬に乗りモーロ人を征服している姿の像が。中世以来、ヨーロッパ随一の巡礼聖堂として知られるサンティアゴ‐デ‐コンポステラ大聖堂の西側正面に位置するオブラドイド広場。17世紀の王立救護院(現在はホテル)、16世紀初頭のサンヘロニモ修道院、18世紀のラジョイ宮殿(現在は市庁舎)など、四方を歴史的建造物に囲まれる。名称は大聖堂の建設中石切り場(オブラドレス)だったことに由来する。1985年、サンティアゴ旧市街が世界遺産(文化遺産)に登録されたと。大聖堂。ウィキペディアによると「9世紀頃、エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺骸が埋葬されたという伝説が誕生した。1075年にアルフォンソ6世の治世の下、大司教ディエゴ・ペラエスの指示で、「尊敬すべき親方」大ベルナルドとロベルトが建築を開始した。1100年にディエゴ・ヘルミレスによって親方エステバンに委託された。また大司教ヘルミレスは12世紀初頭、ヤコブの聖遺物の一部をピストイアに送ることを了承した。1168年には彫刻家マテオに西側の封鎖と主身廊の聖歌隊席を含め、完成させるよう委託された。マテオは聖堂正面「栄光の門」やスペインバロック様式の主祭壇を作り上げた。1211年、大聖堂はアルフォンソ9世に奉献された。その後基礎的な構造は守られつつも建築は続き、その後数世紀のルネサンスからバロックが流行した時期に、回廊の増設や併合が行われた。その間に主祭壇やオルガン、オブラドイロ門などが増築された。新古典主義の時代にはアサバチェリア門が増築された」と。中央の尖塔。ズームで。正面左側の尖塔。塔の高さは高さ75~80mであり、左側がラチェト塔(鐘の塔を模して1738年に建設)。ズームで。聖ヤコブの父であるセベダイの像が飾られていると。正面右側の尖塔。右側が「鐘つき塔(12世紀起源、17世紀に補強して今の形に完成)。ズームで。聖ヤコブの母であるマリア・サロメ像が飾られていると。 ・・・つづく・・・
2019.02.24
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3日目のこの日も早朝起床し朝食へ。このホテルには野菜類が準備されてなかったのであった。そしてこの日は、ポルトから約230km離れたスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに向けてひたすら高速道路を走るのであった。朝から風も強く、雨の中の北上であった。バスの前方に席が廻って来たが、フロントガラスにカメラがフォーカスされてしまい中々外の写真はうまく撮れなかったのであっった。雨も小降りになり、空も明るくなって来た。高速A3を走り、スペインとの国境手前にあるESPANHA(スペイン) Valenca を目指す。Valenca手前の料金所を通過。そして国境を通過しスペインに入る。右手に「ESPANIA」の表示板が。ミーミョ川を渡る。レレス川近くのPontevedraを目指す。前方の空は青空に。そして左手に大西洋が見えてきた。この大西洋のビーゴ(VIGO)湾は植物プランクトンが豊富で、そのことがこの海域に魚介類の豊かさをもたらしており、バテアと呼ばれる養殖いかだによるムール貝の養殖で世界的な産地となっていると。また漁獲高も豊富なことで知られると。湾には多くの養殖用に筏が浮かんでいた。ビーゴ湾に架かるロンデ橋が前方に。ロンデ橋を渡る。高速道路脇のレストランでトイレ休憩。この地方特有の高床式の穀物倉庫であった建物が残っていた。オレオ(Horreo)と呼ばれる、この地方独特の、高床式の穀物倉庫。夏のガリシアは、あまり雨が降らないのだが、この地方は、その他の季節はよく雨が降り、それゆえ、湿気も高く、高床式の穀物倉庫があちこちに、今もあると。立派な倉庫をもつことは、その家の名誉でもあり、だいたいは、目に付くところに置くようで、道路沿いを走っていても、あちこちで目に止まったのであった。レギュラーガソリンの値段は日本よりやや高く160円/L程度。前夜の強風で?表示パネルが飛んでいた。上空には飛行機雲が。ビーゴ湾はロンデ橋の奥5km程入り込んでいた。高速道路脇には真っ黄色のミモザの花が開花していた。満開のミモザも。しばらく走るとコンポステーラ(Compostela)の表示板が現れた。料金所。そして車窓にサンティアゴ デ コンポステーラ大聖堂の尖塔が左手奥に見えて来た。一般道に降り、サンティアゴ デ コンポステーラの「歓喜の丘」を目指す。そして「歓喜の丘 (Monte do Gozo)」に到着しバスを降り観光開始。時間は12:24。スペインのサンチャゴ巡礼路は800kmで、巡礼者たちは約1ヶ月ほど歩き、目的地を目指します。そして、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラの5km手前の丘、モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)に差し掛かるとカテドラルの尖塔が小さいけれどはっきりと見えるのです。丘に建つ巡礼者の像を見ていると、目指す聖地を見つけた時の喜びがひしひしと伝わって来たのであった。巡礼者の視線の先がサンチャゴ・デ・コンポステラ。巡礼者の場所からサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂をズームで。カテドラルまであと5km。巡礼者は近くに宿をとり、体を清めてから聖ヤコブに礼拝するのだと。聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへと至る中世の巡礼の道。旧市街の由緒ある建物が歴史を偲ばせるキリスト教の三大聖地のひとつで、9世紀にキリストの12使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓が発見され、多くの巡礼者がこの地を目指すようになったのだ。巡礼の旅の苦労が顔に滲み出ていた。そして大聖堂をこの目で確認できた喜びの姿も。涙ぐんでいるようにも。巡礼者の後ろ姿。マントには巡礼の証の帆立貝が。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来訪を記念する記念碑が別の丘の上に。ここにも帆立貝が十字架の中央に。日本スペインの交流400週年記念碑。1613年、スペインに対する我が国最初の公式使節である慶長遣欧使節団(仙台藩主伊達政宗の命によりフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として)スペイン国王フェリペ3世の下に派遣されてから400周年を記念して建てられたのだと。そして歓喜の丘からの帰路に再度振り返って。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指して我々は「バス」にて「歓喜の丘」を下ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.02.23
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世界遺産に登録された歴史的な街並みが郷愁を誘うポルトガル第2の都市、ポルト。ポルト観光で見逃せないスポットのひとつが、サン・ベント駅( Estação São Bento )。サン・ベント駅は、鉄道を利用しない観光客もわざわざ足を運ぶほどの人気スポットとなっているのだと。そのワケは、駅構内を彩るおよそ2万枚のアズレージョ。アズレージョ は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル。製法は、陶器に類似しており、粘土板を正方形状に裁断し、1000度の高温で60時間焼く。その後、絵付けを施し、再度900度で30時間焼いて完成すると。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。今回の旅行でも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の外や、鉄道駅でも見られたのだ。1900年、修道院の跡地に建てられたサン・ベント駅は、重厚感漂うクラシカルな外観が特徴。ポルトガル人建築家ジョゼ・マルケシュ・ダ・シルバによって、フランスのボザール様式の影響を受けて設計されたのであった。駅構内に足を踏み入れると、壁一面にアズレージョの世界が広がったのであった。サン・ベント駅構内のアズレージョは、ポルトガルを代表するアズレージョ画家、ジョルジュ・コラコによって1930年に制作されたもの。ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略など、ポルトガルにおける歴史的な出来事が描かれていたのであった。正面から入って右手の壁にあったアズレージョ。「ジョアン一世のポルト入場」。ズームでジョアン一世を。「セウタを征服したエンリケ航海王子」 セウタは北アフリカに位置する戦略的な港であり、サハラからの貿易ルートの終点。1415年にエンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。この攻撃の目的は、この地域一帯からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興することにあった。ポルトガル領だった名残は、セウタの紋章がポルトガル王国の国章に酷似している点に表れている。「セウタを征服したエンリケ航海王子」 の上、最上部左側には「開通した汽車の通過を待機している農夫達」の姿が。ズームすると、天井に近い部分には色彩豊かなアズレージョが。正面最右側のホーム入口部。中央ホーム入口部右側上部の牛飼いと農家の風景。入口左側は物売りの女性たちであろうか。右側は仔牛を連れている女性。中央入口右側。下部は中世の庶民の生活の情景も描かれていた。中央時計、時間は17:40。中央の左側入口部。果実を収穫し、壺に入れ肩に担いでいる女性の姿のようであるが。船に乗る女性たち。正面に向かって左側の壁。「アルコス・デ・バルデベスの戦い」。この戦いは、アフォンソ・エンリケとアルフォンソ7世の軍隊の戦い。このアズレージョに描かれているように、戦いは馬に乗って騎士によって行われた。アフォンソ・エンリケが勝利者となり、後にザモーレ条約(1143)となり、ポルトガルの独立とアフォンソ・エンリケがポルトガルのアフォンソ1世王となることが認められたのだと。「レオン王に謁見する家族」。ズームで。ホーム入口最左側。近づいて。正面最左側のホーム入口部上部は祭典のパレードであろうか?水汲みの光景であろうか?急ぎ足?それとも躓いている?オバアチャン。サン・ベント駅の3番線ホーム。サン・ベント駅からは、ポルト近郊に行く電車が発着するとのこと。ブラガやアヴェイロなど、ガイドブックで名前を知っている町へ向かう電車も止まっていた。右側が4,5番線ホーム。ホームには黄色い電車が何本も止まっていた。ホームの直ぐ先にはトンネルの入口が。天井部は馬に乗る戦士の姿。馬の躍動感も見事。添乗員の説明を聞く旅友。このサン・ベント駅は北部のミーニョ(MINHO)地方の玄関口であり、そして反対側のドウロ(DOVRO)地方への玄関口にもなっているので白い天井に地方の方向を示すMINHOとDOVROの文字が黒字で書かれているのだと。時間は17:45。駅構内は広すぎてカメラに入りきりませんでした。そしてサン・ベント駅を出て再び斜め右前にあるサン・アントニオ・コングレガドス教会(Igreja de Santo António dos Congregados)のアズレージョをカメラのレンズ越しに。この教会も訪ねたかったが、残念がら今回の観光コースには入っていなかった。サン・ベント駅前の6差路。横断歩道を渡りサン・ベント駅とサン・アントニオ・コングレガドス教会を振り返る。モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通りを夕食のレストランンに向かって歩く。モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ噴水(Fonte Mouzinho da Silveira)は 巨大な花崗岩の噴水。赤い建物・Mercado Ferreira Borgosには相変わらず長蛇の列が。再びポルト宮前を歩く。時計は18:00を示していた。ドェロ川沿いの建物には明かりが灯り始めていた。そしてこの夜のレストラン会場に到着。「POSTIGO DO CARVAO」.。店の前からドン・ルイス1世橋も垣間見えた。サラダ。バカリャウ(Bacalhau)。デザート。そして再びライトアップしたドン・ルイス1世橋の光景を楽しむ。街の灯りがドェロ川の川面に映り込んで。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院もライトアップされて。時間は19:13。そしてバスに乗り込みこの日のホテルに向かう。この日に訪れたサン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)もライトアップされていた。対岸には、この日に訪ねたサンデマンワイナリー工場も見えた。そしてこの日のホテル:Axis Portoに到着。時間は20時前。我々の部屋は405号室。早速ベッドを離す操作を行ったのであった。トイレ、シャワー室。テレビ。 ・・・つづく・・・
2019.02.22
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再び左手にエンリケ航海王子の像を見る。足元に地球儀を置き若きエンリケ航海王子がとある方向を示している。王子が指差している先は南のアフリカ方面。ポルトガルが制覇したいと望む地中海の制海権はすでにイスラムやイタリアなどの手中にあり、カスティリャ王国やアラゴン王国(後のスペイン王国)も進出を計っていた当時、ポルトガルはそこに入り込む余地がなかったのだ。当時、天動説をとっていたキリスト教世界だが、それでもポルトガル人は地球が球体であることを知っており、アフリカ沿岸を下っていけば、アジアに到達できるであろうと言う漠然とした考えを持っていたのであったと。再びポルサ宮とエンリケ航海王子公園に立つエンリケ航海王子像。「ポルサ」とは、ポルトガル語で証券取引のことであると。火災で消失したサン・フランシスコ修道院の跡地にポルト商業組合の建物として1834年に造られ、ごく最近まで証券取引所として使われていたのだと。正面右手にサン・ベント駅の横にあるサン・アントニオ・コングレガドス教会(Igreja de Santo António dos Congregados)が見えた。ここも壁にはアズレージョが。そして更に歩を進めドン・ルイス1世橋方面に坂道を下る。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっている。メトロは橋を挟んでポルトで最も大きい病院の一つ、サン・ジョアン病院(Hospital de São João)とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの役所を結んでいる。同区間のメトロは2005年9月に開業したが、それ以前は上段も道路橋となっていた。橋梁の上段を転用した事によって上段の道路交通が阻害されることとなったため、メトロの建設に先立ってドウロ川上流側に別に道路橋を建設し、上段を通っていた道路交通を迂回移転させる方策を採っているとのこと。ドェロ川が見えて来た。歩道を歩くが、両側の歩道には多くの観光客が。前後にメトロの姿が見えないことを確認し、慌ててシャッターを。ドェロ川の下流側。こちらは上流側。インファンテ橋が見えた。橋上をゆっくりと歩き絶景を楽しむ。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院を振り返る。橋の中央からインファンテ橋を見る。メトロが横を通過。遠くにサン・ジョアン橋(Ponte de São João)。ドン・ルイス1世橋を徒歩で渡りきり、添乗員が勧める撮影ポイントから。上流側とポルトの街並み。再び徒歩で橋を渡りバスの待つ場所へと向かう。ポルト大聖堂を見る。右手の対岸にはケーブルカーが見えた。ケーブルカーはドンルイス1世橋(下層部)の北詰付近から北東側の高台を結んでいる。車両自体は新しくシンプルなデザインで綺麗であった。高低差60m程度の急坂を通っていくが、ドウロ川周辺の景色が良く見えるのだと。蛇腹の如き台車の上に乗車車両が。メトロは、ドン・ルイス1世橋を渡り切ると地下トンネルに入って行く。クレリゴス教会の尖塔。クレリゴス教会 は、ポルトガル・ポルトにあるバロック様式の教会。鐘塔は『クレリゴスの塔』と呼ばれ、ポルト市内各所から眺められる、市の象徴となっている 教会は、18世紀にポルトガル北部で優れた作品を残したイタリア人芸術家ニッコロ・ナッソーニが、クレリゴスの修道士らの依頼で建てたものである。ポルト大聖堂(Sé do Porto)が左手に。市内で最も古い建造物であり、ポルトガル国内で最も重要なロマネスク様式建築の一つである。現在のポルト大聖堂はフーゴ司教の後援のもとで1110年頃に建立が開始されて13世紀に完成したが、司教座自体はスエビ王国支配下の5世紀から6世紀には既にポルト市にあったと記録されている。大聖堂は平面が四角形の双塔を備えている。いずれも控え壁で支えられ、ドームを頂いている。ファサードには装飾が施されておらず、しかも異種建築様式の混合となっている。バロック様式の張り出し玄関と、銃眼模様のアーチの下に美しいロマネスク様式のバラ窓があり、要塞化された教会だという印象を与えると。 ・・・つづく・・・
2019.02.21
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ドン・ルイス1世橋をバスで渡り、橋の袂で下車する。ドェロ川越しに丘の中央のミセリコーディア教会の塔、その右に聖ローレンス教会の2本の塔が見えた。ドェロ川の下流側を見る。ここから5km程で大西洋に流れ着くのだ。ドン・ルイス1世橋を再び見上げる。下の橋は上のアーチ部分から懸架されている構造であることが解った。一番高い場所に立つのがポルト大聖堂。ドェロ川沿いを上流に向かって徒歩で進む。上空には観光用ロープウェイが頻繁に。ディオゴ・レイテ通りの両側には土産物屋やオープンテラスレストランが並んでいた。かつては、ラベーロ(RABELO)というこの帆船でここからポルト・ワインは運ばれていたのだと。 今は鉄道やトラックの時代なので、ラベーロは観光用の飾りであると。ポルトの街とドェロ川を見下ろすカトリック教会。再びラベーロという帆船と右手にクレリゴス教会 (Igreja dos Clérigos)。ラベーロとドン・ルイス1世橋。ここはローマ時代に「カレ」と呼ばれていた南岸の港『ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイア地区』。ラベーロが浮かんだ河岸には、30を超すワイン工場が並んでいると。英語の名前が多いのは、17世紀にスペインに対抗する手段として関税特権を与えられたイギリスの企業が進出した為、以後ここポルトでのワイン醸造が盛んになったのだと。そしてサンデマン(SANDEMAN)ワイン工場を訪ねる。1790年にジョージ・サンデマンによって設立された、ポートワインとシェリーの老舗メーカー。工場は1811年からの歴史であると。入口脇に年号の書かれた黒いプレートが貼ってあり、過去にあった洪水の水位を表したものであろう。なんといちばん上は、3m近くはあろうかという入口の天井際に印があった。工場入口で見学の順番を待つ。サンデマン社のロゴは黒帽子に黒マントを羽織った男の姿。多くの種類のサンデマン社のポルトワイン(SANDEMAN PORTO WINE)が陳列棚に。昔のワイン抜きやボトルラベルが展示されていた。中に入るとサンデマン社のロゴと同じ黒帽子・ソンブレロに黒マントを羽織った優しい面差しのおねえさんが現れ、工場内の案内をしてくれた。ここにもサンデマン社のロゴマークが。工場内に案内されると多くの樽が迎えてくれた。「ポルトは働き、リスボンは楽しみ、コインブラは歌い、ブラガは祈る」という言葉があり、その言葉どおりポルトはポルトガルの商工業の中心地でもあった。中でも、ワインの生産と輸出が街の繁栄を支えてきた。ドウロ側上流の丘陵地帯に広がるブドウ畑から世界的に有名なポート(ポルト)ワインが生まれたのだと。今でも世界第8位の年間約100万キロリットルを生産し、農業人口の25%がワインに携わっていると。ポルトワインは発酵の途中でブランデーを加え発酵を停止させて糖分の分解を抑えるというアルコール強化ワインで、アルコール分は20%ある。当時ワインは輸出に弱く、大西洋の厳しい航海に耐えるようにブランデーを入れたのが始まりで、独特の甘味にブランデーとワインの熟成過程で生まれる芳醇な薫りやコクと深みのある味が人気だ。種類は赤ブドウから造り大きな樽で熟成後さまざまな年数のワインをブレンドするルビー(テイント)ポート、白ブドウから造りルビーポートのようにブレンドしてから3~4年熟成させるホワイト(ブランコ)ポート、琥珀色になるまで最低でも7年樽熟成させるトーニー(アロウラド)の3種類。ルビーポートは普段遣いとして、ホワイトポートは食前に飲まれることが多い。もう1つ、別格扱いであるヴィンテージポートと呼ばれるポートワインがあるが、これは良質のブドウがとれた収穫年の最高ワインから選び抜かれ、それを樽熟成2年後に試飲したうえでヴィンテージか否かが決定される。さらにその後、瓶詰めされて10~50年熟成させる究極のポートワインなのだと。多くの樽がこれでもかと積まれていた。液面計の付いた樽も。樽に付いたサニタリー仕様のバルブ。『ポートワインができるまで』を紹介した感じのビデオ上映を見た。ポートワインのブドウは、山の斜面のブドウ畑から籠を背負ってすべて手摘みで収穫される。畑が傾斜しているため機械が使用できないそうだ。けっこうな重労働に違いない。上映が終わると、いよいよ試飲である。入口を入ってすぐ左側にあった直売兼試飲場所に戻り、長テーブル席につく。ルビー、ヴィンテージをそれぞれ小さなワイングラスに少量ずつ飲ませてくれた。そしてサンデマン工場見学、試飲を終え店を出てバスの待つ場所へと戻る。頭上にはロープウェイが。絵になる光景、青空であれば更に映えるのではあったが。上流の遠くにアハビダ橋の姿も確認できた。右手高台にあるのが、ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院。晴れていればドン・ルイス橋と旧市街の絶景が楽しめる場所であると。ドン・ルイス1世橋の上層橋を渡る観光客の姿が。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院の下にケーブルカーの駅があるようだ。対岸のセント ローレンス教会の尖塔をズームで。ミセリコーディア教会。橋の袂まで戻りバスに乗り込む。バスにて再びドン・ルイス1世橋を渡る。写真左手には石の塔が門のごとく2塔が。ボルサ宮の前にはインファンテ・ドン・エンヒーケ庭園⇒「エンリケ航海王子公園」が。ボルサ宮は19世紀に建造されたネオ・クラシック様式の建物。現在はポルト商工会のオフィスになっていると。「エンリケ航海王子公園」のすぐ北側にある赤い建物・Mercado Ferreira Borgosは、現在はイベント会場などに利用されているようで、この日は長い行列が。 フェルナンド通りの坂道。そしてバスを降りフェレイラ・ボルジェス通りの坂道をドェロ川に向かって下る。左手にはインファンテ・ドン・エンヒーケ庭園があり、中央に大航海時代の英雄、エンリケ航海王子の像があった。近くにはエンリケ航海王子の家もあるとのこと。エンリケ航海王子の像。指差す先は喜望峰であろうか?坂を下った正面にあったのがパロキアル・デ・サン・ニコラウ教会。右に曲がると右手にあったのがサン・フランシスコ教会。サン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)を見学。中は撮影できませんでしたが豪華な聖堂。写真はファサード。壺?を抱える女性像。子羊を抱く女性像。世界遺産のマークが。サン・フランシスコ教会は、ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。サン・フランシスコ教会は、1383年にゴシック様式で建てられ、その後、17~18世紀にバロック様式に増改築された。外観は、質素な造りになっていたが、内部に入ると装いは一変。ファサード正面。質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で彫刻を覆い尽くしていて贅沢。これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。 【https://www.travelbook.co.jp/topic/913】よりこちらはBS放送からの写真です。慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。キリストの家系図 「ジェッセの家系樹」この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人のフランチェスコ会士の像が収められている。 【https://4travel.jp/travelogue/10951139】より樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいます。正面から下部を。サン・フランシスコ教会の見学を終え、坂道を下る。ドェロ川沿いのインファンテ・ドン・エンヒーゲ通りを走る2階建て観光バス。パロキアル・デ・サン・ニコラウ教会の手前のビルのこの壁絵は何を表現していたのであろうか?レストランのようであったが。そしてポルサ宮殿下のT字路まで戻る。 ・・・つづく・・・
2019.02.20
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ショップ?に向かう階段も豪華な造り。誰の像であったのだろうか?アフォン5世??「アフォン5世の回廊」を東側に降り、一旦外に出て「未完の礼拝堂 」に向かう。教会の主祭壇の外側に作られた未完の礼拝堂へ向かう。あの煙突のようなものは、屋根がない柱だったのであった。1437年にジョアン1世の息子ドゥアルテ1世により建築が始まったが1521年にジョアン3世がジェロニモス修道院(リスボン)の建築に力を入れたため、バターリャ修道院の建築をやめてしまい、ついに未完に終わった礼拝堂。外から見た「未完の礼拝堂 」はややうす汚く、どんな立派な建て物であっても、500年も経った未完成の建て物の様はこんなもので当然であろうか。周囲に大きな建物がないだけに、近づくとその大きさ、古さ、歴史が感じられるのであった。「未完の礼拝堂(Capelas Imperfeitas)」入口部。入口上部の練ロープの如き造形美。内部から。八角形の建て物の中庭の入り口からは、確かに天井は無いものの、予め天井が無い建物だと云われたとしても決して矛盾を感じないのではなかろうか。「未完」のまま現在も存続しているのがなんとも深みがあるのであった。歴史の風雪に耐えてきた、歴史の証人として存在しているというのが魅力的だった。柱の頂部も見事な彫刻美。この「未完の礼拝堂」には、ドゥアルテ1世と妻レオノールの二人が眠っていた。 写真のようにこの二人も手を重ねていた。ドゥアルテ1世というのは、ジョアン1世と王妃フィリッパの間に生まれた息子である。弟がエンリケ航海王子なのであると。天井からは白き雨雲が。天井がポッカリと開いたままの「未完の礼拝堂」。ジョアン1世の息子、ドゥアルテ1世と彼の子孫が埋葬されるための王室の第2の霊廟として造られる筈であったが、ドゥアルテ1世とその妻であるレオノール・デ・アラゴンの2人のみが埋葬されているのであった。石棺はこちらにも・・・・・。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事なそして精細な彫刻。出口。入口=出口。そして再び屋外へ。右手に教会への南側入口(ポータル)が。こちらの入口上部の彫刻。広場のたわわに実ったオレンジの木。昼食のレストランへ。まずはビールを。スーパーボック(SUPER BOCK)は、ポルトガルでシェアNo1のポルトガルビール。野菜サラダ。鶏肉?のトマト煮とライス。デザートはプディン・フラン(Pudim Fran)。そして最後にもう一度バターリャ修道院を。そして再び高速道路を北上しポルトを目指す。ポルトガルの高速道路はかなり良く整備さていると感じたのであった。そして路面の整備もしっかり行われている模様。我々のバスはメルセデス・ベンツ製。高速道路の料金所はETCで通過可能。ドェロ川(Rio Douro)に架かるFreixo Bridgeを渡る。渡って来たFreixo Bridgeの下を潜りドェロ川沿いを走る。ドン・ルイス1世橋が見えて来た。遊覧船がドェロ川を走る。そして正面にドン・ルイス1世橋の全景が姿を現す。リベイラと反対方向のAvenida de Gustavo Eiffle(エッフェル通り)から見た橋の姿。下の写真はBS放送のドン・ルイス1世橋の上空からの写真です。その先にはドェロ川に沿ってポルトの美しい景観を、高い位置から観光出来るスキー場にあるゴンドラリフトの如き乗り物が稼働していた.ガイア側にあるセラ・ド・ピラール修道院はその一部が一般に公開されており、そこから橋、ドウロ川、旧市街の全景を一望できるとのこと。エッフェル(エッフェル塔の建築家)の弟子テオフィロ・セイリングの建築デザインで建てられたルイス一世橋は、1881年11月に建設が始まり1886年10月に開通したと。見上げると、上層をトラムが走り抜けていた。上層橋は長さ385m、幅8m、地上45m。下層の長さは174mとのこと。二重橋になったのは、ポルトとガイア市との両岸の高低差のゆえだと言われていると。かつては、上下ともに人と車の通行路であったが、現在は下段を人と車が、上段はメトロが通り両脇に歩行者用の1.25mの歩道があった。橋の入口には「PONTE LUIZ 1」と書かれた銘板が。左折して橋を渡って向こう岸ガイアへ向かう。ルイス一世橋の前身は「ペンシル橋=Ponte Pensil」というつり橋であったと。 美しいトラス構造はパリのエッフェル塔と同じ構造でリベットにより組み立てられている。この三角トラス構造のリベット結合は鉄の使用量が少なくても強度を出せる割安な構造として当時使われていたと。下層の橋の途中からインファンテ橋を見る。 ・・・つづく・・・
2019.02.19
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左上からアフォンソ王子、ジョアン1世の剣、ジョアン2世の兜、剣そして中央にはジョアン2世の盾(たて) 。説明板。再び教会正面。更に近寄って。内陣奥のステンドグラスには聖母マリアとキリストの生涯が描かれていた。それぞれをズームで。中央にキリスト像。崇高で神秘的な磔刑像。十字架には「I.N.R.I.」の銘板が架けられていた。「I.N.R.I .」はラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語で、日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳され、「イエスが自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し、神を冒涜した」という罪状を意味しているのだと。古代の磔刑では、処刑場に引かれていく罪人の首には罪状を書いた銘板がぶら下げられ、その銘板は磔刑時に十字架上に架けられたのだと。聖フランシスコ(S.Francisco)聖人像。聖ドミンゴス(S.Domingos)聖人像。???像。骸骨を持っているので「マグダラのマリア」だろうか?こちらは?ジョアン1世の回廊に出る。ジョアン1世の回廊は、初代建築家によってつくられたゴシック様式の回廊に、その100年後マヌエル様式の装飾が付加されたものであると。まるでレースのような狭間飾りには、天球儀やエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれ、ポルトガルを代表する様式の誕生につながっていくのであるが、それはジョアン1世の曾孫の代まで時代が下るのだと。ジョアン1世の回廊中庭。反対側には前衛芸術品?も。中庭と回廊。ジョアン1世の回廊は、当初は簡素な回廊だったが、後にマヌエル様式の装飾を施したと。回廊のコーナー部。美しい柱の模様。右側は胡椒の模様であると。左はパイナップル?美しい空間。尖塔を中庭から。回廊の狭間飾り天球儀をズームで。回廊の狭間飾り。中央にエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれていた。美しいステンドガラスが参事会室のここにも。ズームで。教会の北側にあるジョアン1世の回廊の東側に続いている参事会室は、現在、第1次世界大戦とアフリカの植民地争いで命を落とした無名戦士の墓が置かれていて、衛兵によって守られていた。1時間ごとに衛兵の交代が行われ、タイミングよく見ることが出来たのであった。柱のない空間。建設された当時、天井が落ちるのではないかと騒がれたのだと。キリスト像。目が動いて。オレ、チョット疲れたので早く交代衛兵が来ないかと?交代の衛兵3人が回廊から現れた。そして参事会室中央に向かう。両側の2名が交代。そして交代完了。交代した衛兵を横から。ロープが編み込まれた模様も。祈る少女。フレスコ画?も。食堂の入り口の手洗い場を下から。近づいて。そしてアフォンソ5世の回廊。天井のリブヴォールト交差部分に取り付けられている紋章はドゥアルテ1世とアフォンソ5世のものであると。15世紀に造られたゴシック様式のアフォンソ5世の回廊とその中庭。回廊は簡素なデザインのアーチが並んでいた。 ・・・つづく・・・
2019.02.18
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2日目の朝も元気に早朝起床し7時からの朝食へ。ホテルフロント。朝食後は、ホテルの前を散策。リスボンのVIP イン ベルナ ホテル(VIP Inn Berna Hotel)入口。リスボン空港から4~5kmにあるホテル。開業年 :1983年、建物階数 :10階、総部屋数 :240部屋。2019/1/1より、ホテルの宿泊料金とは別に、1泊1名あたりEUR2.00の市税が必要となっていた。ホテルの前のアントニオ・セルバ通り。近くの交差点の角には青いドームの闘牛場が。そして8:30にバスにてホテルを出発し約123kmの場所にあるバターリャ観光に出発。リスボン市内から高速道路を利用して北上。高速道路の料金所。石油・ガス貯留施設。高速道路の脇にはブドウ畑も拡がっていた。起伏の多い高速道路が続く。風力発電の姿も車窓の両側に。そして10時前にバターリャ修道院の姿が車窓から見えて来た。バスを降りると現地添乗員が待ってくれていた。ポルトガルの世界遺産観光にはワーキングシェア制度があり、必ず現地添乗員が説明してくれるのであった。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味すると。このバターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録ているのだ。バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院の、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁が迎えてくれた。正式名は聖母マリア修道院。(ポルトガル語表記でMosteirode Santa Mariada Vitória)で知られるバターリャ修道院は、1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国軍をジョアン1世が打ち破ったことを聖母マリアに感謝するために建設が開始され、完成したのは16世紀で、その間7人もの王が在位したと現地添乗員から再び。アルジュバロータの戦いは、1383年からカスティーリャ王国とポルトガルとの間で展開された戦争において、ポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られているのだと。ドン・ジョアン1世広場には勝利の聖母マリア修道院の前に立つ、アルジュバロッタの戦いを率いた英雄ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラの騎馬像が。若いジョアン1世の下、全軍を指揮した司令官であると。王も若かったが、司令官も、当時、若干25歳であったのだ。その若さで、戦史に残る戦いをやってのけたのだから、ポルトガルの正に英雄である。晩年には、妻に先立たれた後、財産をリスボンのカルモ教会に寄贈し、自らも僧籍に入ったと。もともと敬虔なキリスト教徒であったのであろう。世代を越えたポルトガル・ゴシックとマヌエル様式が混在し、独特の調和を生み出す建築物。ゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。2世紀にかけて、15人の建築家が携わり、国内では未知であった様々な建築技術、芸術様式が導入さた事が理解できたのであった。正面の窓は幾何学模様のゴシックウィンドウ。先日のBS放送のドローンによる上空からの写真2枚です。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口。西側の広場に面している勝利の聖母マリア修道院の中央扉口上部はアーチ・ヴォールトと言う形を成していて「キリストの戴冠」と旧約聖書に登場する王、天使、預言者、聖者ら78体の聖像が天蓋の下に刻まれていた。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口左側。使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口右側の使徒。修道院入り口のアーチ・ヴォールトの上部。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。再び人のいない瞬間にシャッターを。最上部をズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。78体の聖像も再びズームで。修道院礼拝堂の内部に入る。修道院は入り口、身廊、創設者の礼拝堂、元参事官室、王の回廊、洗盤、未完の礼拝堂などで構成されていた。入口を入るといきなり、目の前に教会の美しい光景が広がった。奥行き約80m、天井高さは」約32mもあり、ポルトガル最大の大きさを誇ってはいるものの、均整を保つ為に横幅は約22mと狭い設計。また、彫像や装飾物が少ない為、とてもシンプルな造りに見えたが、正面には、キリストや聖母マリアの涯を描いたステンドグラスがあり、簡素な雰囲気に彩りを添えていたのであった。光は10枚あるステンドグラスからだけなのでかなり薄暗かったが。このステンドグラスは、15世紀半ばにドイツ人の芸術家が持ち込んだ最古のもので、ポルトガルで最初にステンドグラスを備えた教会建築との事。入ってすぐの所にマテウス・フェルナンデスの墓が。彼はこの修道院の建築指揮をとっていた人物だと。入口方向を振り返って。入口上部のステンドグラスの窓。左右の壁にもステンドグラスが。幾何学模様。なんといってもこの支柱が大きくその先に天井が。ここはジョアン1世が最初に作らせたパンテオンであることから、創設者の礼拝堂(Capela do Fundador)という名がついていると。ステンドグラスの上部。入って右手には創始者の礼拝堂があり、ジョアン1世とその妻が眠っていた。創設者の礼拝堂への入口右側には隣接する他の2つの墓が。Martim Gonçalves de Macedo、Diogo Gonçalves de Travassosの墓と。創設者の礼拝堂の中には、15世紀に造られたジョアン1世の家族の」墓が。中央にはジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターの棺が置かれていた。ジョアン1世。ジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターの棺を正面から。この部屋は、1426年から1434年にかけて指揮を取った、フュゲットが建設したポルトガルで最初のパンテオン(偉人たちを祀る建造物)。教会内とは違い、華やかなクロケットと呼ばれるゴシック建築特有の装飾が施されていた。説明板。棺の下部。何か由緒あるライオンであると添乗員から・・・忘れました。ズームで。壁には写真が。ジョアン1世像の写真。ジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターは仲良く手を繋いで。八角形の空間になっていて、天井は星形のリブ・ヴォールトになっていた。その中心にジョアン1世と王妃のフィリパ・デ・ランカスターの棺が。リブ・ヴォールト天井部分は1755年のリスボン大地震で崩壊しその後再建されたものだと。周りには息子のペドロ王子、エンリケ航海王子などの棺も置かれていた。墓の説明板。エンリケ航海王子の棺。両手を併せて。頭のところの被り物が異なっていた。和辻哲郎の「鎖国」という本を学生時代に読んだ記憶が。その中でエンリケを取り上げ、日本が太平洋戦争に負けたのはエンリケ航海王子のような精神がなかったからだと主張していた・・・??。フェルナンド聖王子(Fernando, o Infante Santo, 1402年9月29日 - 1443年6月5日)の墓。ポルトガル王国アヴィス王朝の人物。国王ジョアン1世と王妃フィリパの間の第6王子である。ドゥアルテ1世、エンリケ航海王子の実弟。カトリック教会の福者。 そしてここにも美しいステンドガラスが。ステンドグラスには王家の紋章も。ズームで。 ・・・つづく・・・
2019.02.17
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク2月8日(金)から2月15日(金)までいつもの旅友のSさんとポルトガルそして北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに旅行に行って来ました。参加ツアーは阪急交通社(TRAPICS)の【ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!決定版ポルトガル8日間】朝7時に何時もの様に、茅ヶ崎から我が家に迎えに来ていただき、Sさんの愛車で成田空港に向かう。国道1号線を横浜新道に向かって走る。横浜新道戸塚料金所を通過。時間は7:18。そして首都高速神奈川3号狩場線を進むと左手前方に横浜ベイブリッジが姿を現す。首都高速湾岸線に架かる横浜ベイブリッジは、1989年(平成元年)9月27日に開通した神奈川県横浜市にある長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)。本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでおり、上層部は首都高速湾岸線で、下層部は国道357号となっている。そして次には鶴見つばさ橋を通過。鶴見つばさ橋は、神奈川県横浜市鶴見区にある橋。首都高速湾岸線の扇島と大黒埠頭とを結んでいる。横浜ベイブリッジと並び、横浜を代表する橋。中央径間長(510m)は多々羅大橋、名港中央大橋に次いで斜張橋として日本国内3位、また全長(1020m)は一面吊りの斜張橋としては世界一の長さである。首都高速湾岸線を進むと前方に東京国際空港管制塔が。航空機の発着数日本一。空の玄関口、東京国際空港に建っている日本一高い115.7メートルの管制塔。羽田空港下のトンネルに入る。首都高速湾岸線を更に進み、東関東自動車道へ。習志野本線料金所を通過。成田空港出口手前。第2・3ターミナル方面に向かう。成田空港第2ゲートに向かう。成田空港Terminal2に到着。時間は9:02。British Airways のチェックインカウターJに向かう。我々のフライトBA6便のチェックイン開始時間は9:35。そしてこの旅行仲間のKさん姉妹と合流し、チェックイン。航空会社チェックインカウンターでパスポートを提示し、搭乗券(ボーディングパス)を2枚受け取る。機内持ち込み手荷物以外の荷物はカウンターへ預け、手荷物引換証も受け取る。フライトBA6便はイギリス・ロンドンヒースロー空港行き。その後別のBA便に乗り換えポルトガルのリスボン空港に向かうのであったよって荷物は最終目的地のリスボン空港まで自動的に運ばれ、荷物の預け直しは無かった。円をユーロに替えた後は2F喫茶店で4人で一休み。そして10:35に阪急交通社受付カウンターに向かうと既に今回の添乗員のSさんは既に別の旅友に説明中であった。この後のセキュリティチェック、出国審査の説明、搭乗ゲート集合時間の説明を受け説明書類&ガイドレシーバを受け取り出国手続きに向かう。セキュリティチェック、出国審査を無事通過する。顔認証ゲート及び自動化ゲートを利用した場合には、パスポートにスタンプ(証印)されないと思っていたが、スタンプを希望すれば職員に伝えると押してくれるとのこと。ゲート通過後は時間に余裕があるので「AKIHABARA」等の免税店をブラブラと。ゲートは72番、12:35発 ロンドン行きBA6便。JL7081との共同運航便。私のボーディングパス。そして12:08に登場。利用便はBoeing787-9便。乗客数は216人(4クラス)、最大速度954km/h、航続距離15,400km。エコノミークラスの座席配列は3+3+3の1列9座席でほぼ満席。ほぼ定刻の12:35に出発。出発時刻は飛行機が動き始めた時刻のこと。そして離陸し飛行機は新潟市上空を通過し日本海へ。約1時間後の13:37にビールと赤ワインを楽しむ。日本海上空を横断しロシアの太平洋岸のハバロフスク地域のに向かう。そして最初の機内食を楽しむ。時間は14:40。機窓からの景色を楽しむ。ロシアのサハ共和国西部の山々が白く輝いていた。そして機窓には雲が広がり、私も眠りにつく。しばらくして目を覚ますと、時間は離陸後約7.5時間後の20:00。飛行機は白海上空に。そして2回目の機内食はパスタ。そして北海上空を南下し、ロンドン・ヒースロウ空港を目指す。そしてロンドン・ヒースロー空港に着陸体制に。時間は15:55。そして飛行機を降り全員集合し、ヒースロー空港の内での移動に関する説明を添乗員から。ターミナル5からターミナル3への移動用のバスを待つ。ヒースロー空港のターミナル別は下記。ターミナル1:閉鎖中ターミナル2:スターアライアンスターミナル3:ワンワールド(ブリティシュ・エアウェイズ(BA)一部を除く)ターミナル4:スカイチームおよび航空連合非加盟航空会社ターミナル5:ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)およびワンワールド専用バスにてターミナル3へ移動。そしてポルトガル・リスボン空港への便はBA504便、19:15発。リスボンへのボーディングパス。定刻に出発し順調に飛行。窓側座席よりリスボンの街の灯りを楽しむ。ナトリウムランプのオレンジ色の世界が街中に拡がっていた。リスボン空港到着時間は22:19。今回初めて使うWIFIも電波を受信し一安心。ポルトガルにも通信会社が何社かありる。最大手がMEO、二番手は定番のボーダフォン三番手がこのNOSで、この3社が主要な通信会社。リスボン空港内の店を見ながら移動。美しく彩られた店。リスボンはポルトガル語:LISBOA、英語:LISBON 仏語:LISBONNE独語:LISSABON、ロシア語:Лиссабон、中国語:里斯本延べ15時間近くの飛行機であったが皆さん元気。そして現地添乗員の待つ場所に到着し、人数確認後説明受け。リスボン空港内ロビー。リスボン空港の別称はウンベルト・デルガード空港そして待っていたバスにてホテルに向かう。総勢33人のツアー仲間。時間は既に0時直前の23:40過ぎ。深夜であるが多くの車が走っていた。15分程走るとこの日のホテルへ到着。時間は23:55。VIP イン ベルナ ホテル(VIP Inn Berna Hotel)。そして翌日の集合時間、出発時間の説明を受け部屋に。部屋のトイレ。そして、旅とものSさんが、ヒースロー空港で購入してくれたウィスキーを飲みながらこれもSさんが準備してくれていたカップヌードルで腹ごしらえをして、急ぎシャワーを浴びてあっという間に爆睡したのであった。時間は1時過ぎ。 ・・・つづく・・・
2019.02.16
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今年も、いつもの旅友Sさんとポルトガル旅行に行く予定を立てています。参加ツアーは阪急交通社(TRAPICS)の【ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!決定版ポルトガル8日間】当初に申し込んでいたツアーは、催行が危ういと判断し、既に催行が決定していたツアーに急遽変更しました。やはり最初に申し込んだツアーは催行中止になったようです。今回は、昨年ウズベキスタン旅行でご一緒し、お世話になったKさん姉妹も参加されるとのことで賑やかな楽しい旅になりそうです。最終旅行日程表も送られて来ました。今回のツアーは総勢33名、男性14名、女性19名とのこと。札幌出発、仙台出発の方も成田まで来て合流されるとのこと。予習用にブックオフで購入しました。地球の歩き方はやや古いですが。スペインには10年以上前の2008年6月に行きましたがポルトガルは今回が初めてとなります。ポルトガル共和国・通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面す。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国なのです。(以下の写真の多くは、ツアー会社やネット写真を転載させていただきました。)ポルトガルの国旗は旗竿側5分の2に緑、旗尾側5分の3に赤の縦二色に盾など国章の主要部分を配した旗。一説に、緑は希望を、赤は共和国成立の革命を表すとされる。また、緑は希望と誠実さを表すとともに勇敢なるアヴィス騎士団(ポルトガルアヴィス朝建国に関わる)のシンボルカラーであり、赤は大航海時代、新しい発見や未知なる大地を目指し、大洋と闘った輝けるポルトガル人の先人たちの犠牲の血を表している、とする説もある。金色(黄色)の球状の物体は、大航海時代の航海用具・天測儀である。ポルトガルの先人による測量術発展と、それによる新規航路の発見を表し、つまりはポルトガル海上帝国の輝かしい歴史を表していると。盾の中の七つの黄色い城はルコンキシュタ(レコンキスタ、国土回復運動)の終わりにアフォンソ3世がベルベル人(ムーア人)から奪い返した城砦を、五つの青い盾はオーリッケの戦い(1139年)をめぐる初代ポルトガル王アフォンソ1世の伝説にある敵の五人の王を、青い盾の中にある五つの白い円はキリストの五つの聖痕を表すとされている。14世紀に入りポルトガルは積極的に海上交易に進出し,1385年ジョアン1世 (名王) は海商ブルジョアジーの支持を得てカスティリアから独立を守り,アビス朝を開いた。その子エンリケ (航海王子) は西アフリカ探検を推進して大航海時代を準備した。バスコ・ダ・ガマは海路インドに達して,海上の香料交易ルートを確立し,ポルトガルは黄金時代を迎えた。しかし,その繁栄は長く続かず,16世紀後半には没落の道をたどりはじめ,1580年ポルトガルはスペインに併合された。 1640年ジョアン4世 (再興王)は,スペインの勢力衰退に乗じて独立を回復し,ブラガンサ朝を開いた。以後,植民地ブラジルの砂糖産業,金鉱開発に努めたが,経済的,軍事的に対イギリス従属を強めていった。 18世紀後半ポンバル侯の改革によってポルトガル経済は若干立直りをみせたが,1807年ナポレオン軍の侵入を受けて王室はブラジルに亡命し,国土は半島戦争により荒廃した。 20年自由主義革命の勃発によりジョアン6世 (温厚王)は立憲王政を承認し,22年植民地ブラジルは独立した。彼の死後王位継承をめぐって国内はマリア2世を支持する自由主義派とドン・ミゲルを擁護する保守反動派に分れ,19世紀前半内乱が続いた。 51年サルダニャ公の内乱平定によりポルトガルは革新党,進歩党の二大政党による安定期を迎え,産業革命が進行した。 19世紀末には共和主義が台頭し,王政の財政危機,政局不安定から 1910年 10月共和国が樹立したのであった。1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域である。そしてポルトガル語を話す国はどんな国?ポルトガル語を母国語とする人口は、世界で約2億5000万人である。そのうちポルトガルの人口は1000万人程度、約2億人のブラジルがポルトガル語を公用語にしているため、話者人口が多い。ポルトガル語の話者の80%以上がポルトガルではなくブラジル国内という珍しい言語である。世界的にみると、7~8番目に大きな話者人口である。現在ポルトガル語を公用語としているのは、以下の諸国と地域である。ポルトガル、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、カーボ・ベルデ、ギニア・ビサウ、サントメ・イ・ブリンシペ(他にマカオ、東チモール、インドのゴア等)の国である。そして旅行で覚えて行きたいポルトガル語。[こんにちは!] [Olá]オラ[元気ですか?] [Como está?]コモ(エ)スタ?[元気?] [Como estás?]コモ(エ)シタス?[元気だよ、ありがとう] [Estou bem, obrigado/a]シュトウバイン、 オブリガード(男性) オブリガーダ(女性)[元気です!] [Estou ó[p]timo/a]シュトウ オッティモ(男性)オッティマ(女性)[うまくいってる? 調子はどう?] [Tudo bem?]トゥドバイン?トゥドベイン?[ハイ!順調] [Tudo [bem]トゥド!(上の質問に対する答えかたです。)[まぁまぁだね] [Mais ou menos]マイゾメノシュ (手のひらを下に向けてヒラヒラさせて、まぁまぁ、という表現をする)[お会いできて嬉しいです。] [Prazer]プラゼール[お会いできて光栄です!] [Muito prazer]ムイントプラゼール! [おはよう] [Bom dia]ボンディーア[こんにちは] [Boa tarde]ボアタールデ[こんばんは] [Boa noite]ボアノイト(ボアノイテ)[さようなら] [Adeus]アデウシュ[またね〜] [Tchau/Chau]チャウ![また後でね!] [Até logo]アテロゴ。[また明日ね] [Até amanhã]アテアマニャ[では また!] [Até já]アテジャ(テジャ)[次回までね!次会う時まで] [Até a próxima]アテアプロッシマ[ハイ] [Sim]シン スィン[いいえ] [Não]ナウ ナォゥ[お願いします] [Se faz favor]ス ファスファボール[ありがとう] [Obrigado/a] オブリガード 男性/オブリガーダ 女性[本当にありがとう。感謝します。] [Muito obrigado/a] ムイントオブリガード 男性/ ムイントオブリガーダ 女性そしてポルトガルの気温。平均気温は東京より7℃ほど高く2~3月の首都リスボンの平均気温は12~15℃と。ポルトガルは、南西から押し寄せる大西洋の暖流のおかげで、緯度から考えればとても温暖な地なのです。首都リスボンは北緯38度でほぼ仙台と同じ緯度なのですが。そして時差は日本より9時間マイナス。今回のツアーでは成田空港からブリティッシュ・エアウェイズでロンドン・ヒースロー空港経由でポルトガルの首都リスボンに向かう。イギリスはシェンゲン条約に加入していません。シェンゲン条約とはヨーロッパの加入国を大きく1つの国としてみなすような条約なのです。もしイギリスが加入していればロンドン・ヒースロー空港で入国し、ロンドン→リスボンを国内線のような感覚で搭乗することになります。しかしイギリスはシェンゲン条約に加入していないので、入国審査の必要はなく入国審査はポルトガルのリスボンで受けることになるのです。そして成田で預けた荷物もそのままリスボンまで。そしてポルトガル・リスボンに到着し、深夜にリスボン市内のホテルに到着そして宿泊。そして翌朝からの5日間で7つの世界遺産を含む、11の観光地を訪ねるのだ。【世界遺産1】バターリャ観光【世界遺産2】ポルト歴史地区【世界遺産3】サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道(歓喜の丘) 【世界遺産4】サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街)【世界遺産5】コインブラ大学【世界遺産6】トマールのキリスト修道院【世界遺産7】リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔2日目の朝は8:30にホテルを出発し、バスにて北上しこの旅行での最初の観光場所バターリャへ。[約123KM、約2時間]着後、バターリャ観光(1時間)。世界遺産の『バターリヤ修道院』を訪ねるのです。『バターリヤ修道院』バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁によって多くの人々を驚嘆させる。バターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録されたと。観光後、更にバスにて北上しポルトへ。[約186KM、約2時間30分]。ポルトは工業が盛んなポルトガル第二の都市。【世界遺産2】ポルト歴史地区観光(3時間)◎サンフランシスコ教会、◎ポートワイン工場(見学と試飲)、○ドン・ルイス1世橋(橋の上を歩きます!)、○サン・ベント駅(ポルトガルの伝統的なタイル装飾「アズレージョ」を鑑賞。『サンフランシスコ教会』。ボルサ宮の隣り、ドウロ川沿岸に偉容を誇るバロック式教会。1233年に第4代ポルトガル王サンチョ2世(Sancho Ⅱ,在位1223~1248年)により建てられ、17~18世紀に改修が施された。内部はターリャ・ドゥラーダと呼ばれる金泥を塗った木彫りの彫刻で装飾されている。キリストの家系図「ジェッセの家系樹」も必見。『ポートワイン工場(見学と試飲)』。1790年に創設者ジョージ・サンデマンがポルトガルワインのセラーを購入したのが始まり。ポートワインはドウロ地域の中心、シマ・コルゴ地域にあるキンタ・ド・セイショで生産されたブドウを使用している。“ドン"の愛称で知られる、学生マントとソンブレロ(騎士帽)のシルエットは1928年に登場した。『ドン・ルイス1世橋』。ドン・ルイス1世橋はポルトガルのポルトにある道路・鉄道併用橋で、ドウロ川に架かっている。世界遺産「ポルト歴史地区」に含まれ、2016年からは「ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院」として、登録名にも明記された。 ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。サン・ベント駅の『アズレージョ』。駅構内に足を踏み入れると、壁一面にアズレージョの世界が広がります。アズレージョとは、ポルトガル伝統の装飾タイルのこと。サン・ベント駅構内のアズレージョは、ポルトガルを代表するアズレージョ画家、ジョルジュ・コラコによって1930年に制作されたものです。ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略など、ポルトガルにおける歴史的な出来事が描かれています。そして2日目はポルトに宿泊。3日目は8:30はホテル発。国境を超えスペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへ。[約230KM、約3時間]サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、キリスト教の聖地であるガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路・フランス人の道 (Camino Francés)。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指すと。フランス人の道 (Camino Francés)はフランスとスペインの国境にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーの街からサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの約780kmであり、サンティアゴ巡礼路のうちで最も多くの巡礼者が歩いている道。パリ→サンティアゴ・デ・コンポステラは何と約1,700キロの巡礼路であると。【世界遺産3】サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道にある○歓喜の丘へ。『歓喜の丘』。千年以上も前から、巡礼者たちはヨーロッパ西の果てにある「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指して歩き続けました。なぜイベリア半島の端にある「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」が、エルサレムやローマに並ぶ『キリスト教の三大聖地』の一つとされたのでしょうか?それは、1世紀頃にエルサレムで殉教したキリスト十二使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン語名・サンティアゴ)の墓が、約800年の時を経て遠く離れたこの地で発見されたからなのです。聖ヤコブの遺骸を祀る聖堂が建てられたサンティアゴ・デ・コンポステーラは聖地となり、祈りに向かう信者が各地から訪れました。特に『聖遺物崇敬』が盛んだった中世、巡礼者の列は絶え間なく続いたと言われています。サンティアゴ・デ・コンポステーラの街を見渡す近郊の丘まで辿り着いた者たちは、巡礼の最終地点となる大聖堂の尖塔を眼下に望み、喜びの声を上げたと言われています。後に「歓喜の丘」と名付けられたこの丘に立つと、巡礼者たちが聖なる地を初めて目にした瞬間の喜びの想いが胸に伝わってきます。キリスト教の聖地【世界遺産4】サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光(2時間30分)そして、聖地を目指し長旅を続けた巡礼者が憧れの大聖堂を訪ねるのだ。『サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂』。11世紀に建造が開始された「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂」は、その荘厳さ内部装飾の豪華さを含め、キリスト教三大聖地の一角に相応しい『壮大なモニュメント』。巨大なカテドラルの内部には、「聖ヤコブの墓」の上に主祭壇が造られ、祈りを捧げる礼拝者を厳かに迎えます。そして、金色に輝く彫刻装飾が施された祭壇の中央には、これこそが巡礼の象徴に他ならない『聖ヤコブ像』が鎮座。巡礼の終着点○オブラドイロ広場を訪ねる。『オブラドイロ広場』。オブラドイロ広場はガリシア州最大級の広場で、サンティアゴ デ コンポステーラの重要なシンボル。広場に面してそびえ立っているのは、11 世紀初頭に建築されたサンティアゴ デ コンポステーラ大聖堂。外観は美しいバロック様式ですが、館内の 12 世紀に建造された栄光の門に施された彫刻はロマネスク芸術を代表する傑作。そしてこの日はポルトまで[約230KM、約3時間]戻り前日のホテルに連泊。そして4日目からは最終日までひたすらバスにてリスボンまで南下しながらの観光。4日目は9:00にホテル発。コインブラへ。[約116KM、約1時間30分]ポルトガル最古の大学で有名なコインブラ観光(1時間30分)。ヨーロッパ屈指の伝統を持つ【世界遺産5】○コインブラ大学、○カテドラルを訪ねる。『コインブラ大学』。13世紀に設立された世界最古の大学のひとつである。ポルトガル屈指の名門国立大学とされる。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。2018年のQS世界大学ランキングでは総合401位。 『コインブラ・カテドラル』。コインブラの旧大聖堂は、ポルトガルのコインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂。昼食後、トマールへ。[約69KM、約1時間15分]着後、昔の面影が色濃く残るトマール市内観光(1時間)ポルトガル最大の修道院【世界遺産6】◎キリスト修道院を訪ねる。『トマール・キリスト修道院』。ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築といった様々な建築様式が融合した建築物で、1160年にテンプル騎士団によって建設が開始されました。建設当初は勃興したばかりのポルトガル王国の対ムーア人への防波堤の役割を果たしていました。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後は、その名をキリスト騎士団へと改編し、その後もこの修道院を守り続けています。テンプル騎士団の教会らしくエルサレムにあるオマール・モスクをモデルとした円堂が有名です。その他、墓の回廊と沐浴の回廊、サンタ・バルバラの回廊、ジョアン3世の回廊が見られます。観光後、ナザレへ。[約80KM、約1時間30分]でホテルに到着予定。5日目は8:15にホテル出発。ナザレのシティオ地区にて写真ストップ。『ナザレのシティオ地区』。ナザレと言えばここ,というほど有名な風景が,シティオ地区の展望台から臨めます。映画のワンシーンでも有名な,美しく伸びた海岸線に,スペイン瓦の建物が並んだ風景は,ポルトガルを訪れたら一度は是非見ておきたい美しさ。その後、カルダス・ダ・ライーニャへ[約29KM、約30分]着後、王妃の湯治場として有名なカルダス・ダ・ライーニャで○朝市を見学(30分)。『カルダス・ダ・ライーニャの朝市』。カルダス・ダ・ライーニャは、『王妃の温泉』または『王妃の鉱泉』という意味である。市のみで人口25,316人。温泉と陶器産地として知られている。街の中心にあるレプブリカ広場で開かれる朝市では、特産の陶器も売られている。ポルタ・ダ・ヴィラと呼ばれる朝市はこの街の台所だ。近郊の村々から運ばれてきた野菜や果物を中心に、チーズやナッツ、手づくりのお菓子なども売られている。ここでおみやげを探すのもいいし、売り手と買い手のやりとりを見ているだけでも楽しい。その後、谷間の真珠と言われるオビドスへ。[約7KM、約15分]着後、城壁に囲まれた白い小さな町○オビドスで散策<『オビドスの白き壁の街並み』。13世紀、新婚旅行でこの地を訪れたポルトガルのディニス王とイサベル王妃。美しい景色を気に入った王妃に、このオビドスをプレゼントしたのだと。以来、革命によって王室が滅びるまで代々”王妃の村”として栄えるた。城門をくぐると、白い壁の家と石畳でできた細い道。迷路のような中世の美しい街並みは保存状態が良く観光地として人気。各自昼食後、ロカ岬へ。[約132KM、約2時間]ユーラシア大陸の最西端○ロカ岬観光(30分)。『ロカ岬』。ユーラシア大陸最西端の岬である。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。6日目は9:00にホテル出発。リスボン市内観光(1時間30分)【世界遺産7】○ジェロニモス修道院、○ベレンの塔、○発見のモニュメント)観光後、旧市街散策(1時間)(○ロシオ広場、○アウグスタ通り)『ジェロニモス修道院』。16世紀のポルトガルの栄光を今に伝える白亜の大寺院。マニュエル1世(Manuel I/1469~1521年)が、ヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た巨万の富を費して建てたもの。16世紀初頭の着工から300年以上の期間をかけて19世紀に完成した。その完成度の高さからポルトガル建築の最高峰と讃えられる。1983年、世界遺産に登録された。『ベレンの塔』。16世紀初めに建てられたマヌエル様式の塔。白く優美な外観は、純白のドレスをまとった貴婦人に喩えられる。テージョ川を監視し、リスボン港を守る要塞として建設されたもので、長く厳しい航海から帰り着いた船乗りたちを迎え入れる故国ポルトガルのシンボル的存在だった。1983年、世界遺産に登録された。『発見のモニュメント』。テージョ川岬に立つ一大モニュメント。ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の地として知られ、1960年にエンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられた。高さ52mの巨大モニュメントの先端には、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする33人の偉人像を従えて王子の像が立つ。『サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台』。グロリア線ケーブルカー終点のすぐ右手、緑豊かな小さな公園のなかにある展望台。赤レンガ屋根の連なりと青いテージョ川、遥か前方に佇むリスボンの象徴サン・ジョルジェ城が一望できる。特に西日に輝く夕刻の眺めが美しい。休憩に最適なカフェもある。昼食は、リスボンの台所○リベイラ市場にて各自で楽しむ。『リベイラ市場』。カイス・ド・ソドレ駅の前にある市民の台所、リベイラ市場内にオープンしたフードコート。リスボンの有名店が軒を連ね、いろいろなものを少しずつ食べることができるから旅行者にも最適だ。昼食後は【世界遺産】シントラ王宮観光とシントラの街散策のオプショナルツアーに参加予定。『シントラ王宮観光とシントラの街散策』。1910年の共和制宣言まで王家の夏の離宮として使われていた。13世紀に原型が築かれて以来趣向を凝らした改築が繰り返され、中でも16世紀にマニュエル1世が増築した一画が圧巻。中心部にあたる礼拝堂と「白鳥の間」は14世紀末に改築されたもの。夜もオプショナルツアーに参加予定。『ファドディナーショー』ポルトガルといえば哀愁漂うファドは必見。イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる。ポルトガルの夜をいざなうファドショーとディナーを楽しめる。そして7日目は5時前の早朝にホテル発、空港へ。〔07:15~07:20〕リスボン発『リスボン空港』。ウンベルト・デルガード空港は、ポルトガルの首都リスボンにある国際空港。TAP ポルトガル航空及びポルトガリア航空の本拠地である。正式名称は「リスボン空港」。 この空港は1942年10月15日に開業し、第二次大戦中、ドイツとイギリスの航空会社両方に使用されていた。2007年8月1日にターミナル2が作られた。各ターミナル間は無料のシャトルバスが運行されている。 2016年5月15日に反サラザール派の将軍であったウンベルト・デルガードに因んで、リスボン・ウンベルト・デルガード空港に改称した。空路、ブリティッシュ・エアウェイズにてロンドン経由で帰国の途へ『ヒースロー空港』。イギリスの首都ロンドンの西部にある最大規模の空港で、国際線利用者数では2013年まで世界一の空港だった。所有・運営は、民間会社のイギリス空港会社 (BAA) である。空港コードはLHR (IATA) /EGLL (ICAO) 。ブリティッシュ・エアウェイズ、ヴァージン・アトランティック航空のハブ空港になっている。滑走路は並行に2本あり、それぞれ3,902m、3,658mの長さを持ち、パリのシャルル・ド・ゴール空港、フランクフルトのフランクフルト空港と並び、ヨーロッパの大規模空港である。旅客ターミナル4つと貨物ターミナル1つを持つ。ロンドン市内などとのアクセスは比較的便利なものの、周辺を住宅地に囲まれていることから騒音規制が厳しいことでも有名である。パスポートも残有効期限を確認。今回も、いつもと同様に下の写真の如く、トランクとリュックで準備を始めています。そして今回もいつもの様に、旅友のSさんが愛車で我が家まで迎えに来てくれる予定。今回もやや忙しい旅になりそうですが、元気に楽しんで来たいと思っているのです。
2019.02.07
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バスに乗りシェムリアップ国際空港に向かって走る。シェムリアップ国際空港(Siem Reap International Airport)に到着。アンコール国際空港(Angkor International Airport)との愛称もある空港。遺跡保護と観光客誘致のため、移転拡張計画が進められているのだと。中国の資本により、市内中心部から東方50kmのソニクム地区の場所で新空港が建設されているとのこと。中国の雲南省投資控股集団が55年契約のBOT(建設、運営、譲渡)方式で請け負ったと。そして添乗員トゥーンさん、ドライバーと別れてしばしチェックイン時間まで空港ロビーで待った後にチェックイン。出国審査はスムーズに通過したが、荷物のX線検査で引っかかる。パスポートを見せると、「荷物を全部持ち、こちらに来い」と部屋に連行?される。部屋に入ると先程チェックイン時に預けた、私の青のトランクが目の前に。この場所は預け荷物のX線検査場なのであった。私のトランク内に『タブレット』が入っているので取り出し、機内荷物として持ち込めと。女性係員の言う事は直ぐに理解出来たので、トランクを開けタブレットを取り出しているともう一人、私のツアー旅友の男性も部屋に連行?されて来たのであった。係員が旅友にも『トランクにデジカメが入っているので取り出して機内荷物にせよ』と。ところがこの旅友の言葉は『このトランクは私のものではない』と。係員は『TAGはあなたの名前になっているから間違いなくあなたのトランクである』と繰り返して主張。何回かのやりとりの後、私がこの旅友の仲間である事が解ったようで私に『彼の名前はMr.○○ではないのか?』と。しかし帰路のこの時まで私はこの旅友の彼の名前を知らなかったのであった。最近のツアーでは個人情報、プライバシー保護の観点から参加者リストの配布やバスの中等での自己紹介がないので、旅友の名前は自ら積極的に知ろうとしないと解らないのである。『Idon't know his name.』と答えると、係員の彼女は『Could it be? he is your tour furiend!』と名前を知らないことを信じてくれなかったのであった。そして終いにはお前の問題は解決したから『Get out of the room!』と。『No、Ido remain this room until his trouble is resolved.』と何回も抵抗。この後も様々なやりとりが有り、漸くトランクの本当の持ち主(これも同じ旅友)も部屋に現れ、トランクのカギを開けデジカメを出したので何とか解決したのであった。最後に私が名前の間違っていたtagを指差し『This is your mistakes made in handling of this tag!』と言うとなんとか『Yes、but・・・・・・』と係員が辛うじて認めたのであった。しかし、tagはそのまま交換することなく、彼のトランクはコンベヤー上を移動して行ったのであった。この時間に約20分程度かかったであったろうか?搭乗待合室で待っていてくれた旅友達は、最初に連行された私が、最後まで戻ってこなかったので大いに心配してくれていたのであった。やれやれ・・・・・!!今後は航空会社にかかわらず『タブレット』は手荷物で機内持ち込みにと。そしてシェムリアップ⇒プノンペンのカンボジア・アンコール航空のプロペラ機ATR 72にてカンボジア国内を移動。ATR 72はフランスとイタリアの航空機メーカーが合弁事業で興したATR製のターボプロップ双発旅客機。プロペラ機に乗るのは、久しぶり。飛行機はカンボジア・アンコール航空18:10発K-0116便。定刻に出発し、トンレサップ湖上空を飛行しプノンペン国際空港に。飛行時間40分程で着陸。時間は18:51。 飛行機後方出口より下り徒歩にて空港ビルに。ツアー仲間全員の荷物も無事受け取り一安心し、国際線ターミナルに移動する。空港前には、カンボジアに入国した日に見た、カンボジアの伝統舞踊であるアプサラ・ダンスを踊る姿の像と再会。そして国際線ターミナルにまでトランクを転がしながら移動。成田空港への便は22:50発全日空NH-0818便。搭乗ゲートが21番である事を確認。シェリムアップ国際空港で現地添乗員と別れた後は、プノンペン国際空港までそしてプノンペン国際空港内の移動は我々ツアー仲間13人のみでの移動なのであった。今度は無事、成田行きの便のチェックイン、荷物検査、出国手続きも無事完了。帰路の座席も旅行前にネットで予約済み。搭乗迄時間があったので免税店を散策。多くの免税店があったが、人の姿は比較的少なかった。様々なカシューナッツが売られていた。搭乗口の21番ゲートはこの先であったが、しばし写真の緑のソファーでくつろぐ。そして定刻より早くの22:35に飛行機(B-787)は出発し、プノンペン国際空港を離陸し日本に向かっての飛行を開始。時間は22:50。そしてアルコールも入り、しばしの爆睡。目が覚めると飛行機は既に日本に入り、沖縄と徳之島の中間部の沖永良部島上空に。そして食事が。東の空から朝日が。時間は5:44。そして予定より早く6:17に成田空港に着陸。入国手続きも無事完了。通路の壁には『迎』の文字が。そして荷物も無事受け取り、旅友の皆さんにも挨拶し、この旅をご一緒しお世話になったUさんとも近い内の再会を約束し、帰路は成田エクスプレスを利用。成田エクスプレスの車窓から見る日本の田園風景はカンボジアと同じ。千葉駅に近づくとモノレールの高架線が。そして品川駅を出る。この後、終点の大船駅で下車し東海道線に乗り換え藤沢駅で下車。藤沢駅からはバスにて無事10:30過ぎに帰宅したのであった。インドシナ半島南部にある国、そして東はベトナム,北はラオス,北から西にかけてはタイと国境を接し,南はタイ湾に面する国、「カンボジア」を訪ねる旅であった。【https://www.travelzentech.jp/world/map/Cambodia/Map_of_Cambodia_and_neighboring_countries.htm】より世界文化遺産の一つとして知られるアンコールワットは、今から約150年前にはその存在を知る人すらいなかったのであった。フランス人博物学者アンリ・ムオが再発見するまで密林の奥深くに眠り続けていたのであった。その規模と完成された美しさで知られるアンコールワットの造営から遅れて半世紀後今度は一辺約3kmの城壁で囲まれた王都が造られたのだ。その王都はアンコール・トムと呼ばれ、その中心に位置するのがバイヨン寺院。アンコール・ワットとバイヨン寺院、クメール建築美術を語るうえでは欠くことのできない二大遺跡を中心に永い眠りから覚めたアジアの至宝を訪ねる旅であった。クメール建築の最高傑作アンコール・ワットをひとめ見ようと、世界中からの旅行者でにぎわうシェムリアップ、年々猛スピードで変化を続けるビジネス都市プノンペンをこの眼で見、急速な発展を実感したのであった。独裁、内戦...かつてのカンボジアを象徴するこれらの言葉はすでに遠い過去となりつつある事も肌で感じることが出来たのであった。人々は内戦時に失った多くの伝統文化をもう一度復活させようと努力を重ね、周辺国に負けない舞踊、織物、食文化がまさに命を吹き返していたのであった。そして様々な種類、味のフォーを連日楽しんだのであった。深い祈りとともに暮らす敬虔な仏教国、そして新生カンボジアの今をこの目に留めることが出来たのであった。1970年から23年間、東南アジアのカンボジアで続いた内戦。1976年から4年続いたポル・ポト政権の時代、虐殺と飢餓による死者は、70万人から300万人ともいわれているのだ。教師や医師、国の再興を助けたいと海外で学んだ学生たち、政府に抵抗した人、ただ歌やダンスを踊っただけの人…多くの人たちが虐殺されたのだと。下図は、旅行前の予習中にネットで見た図。2年前の2016年のカンボジア人口の年齢分布。縦軸が年齢、横軸が人口の数(千人)を表しており、左側が男性、右側が女性の年齢別の人口分布。34歳までの人口と比べると、それ以上の年齢の人口が圧倒的に少ないことがわかるのだ。これはつまり、1980年以前に生まれた人たちの多くが、虐殺(や国外逃亡)の影響を受けていることを意味しているのだ。我が日本国の人口ピラミッド図では男女を問わず60才~75才が大きく膨らんでいるが、下図は衝撃的な図なのであった。1993年に内戦は終わりを迎え、現在は平和を取り戻しているカンボジア。しかし、内戦の爪痕は未だ残っている現実が存在しているのであった。 【https://jammin.co.jp/charity_list/171106_npohero/】より更に30年近く続いた内戦が終わり、近年、経済発展を遂げている一方で広がる経済格差、伸び悩む教育の質、貧困、高い非識字など、挑戦・克服すべき課題は山積みのままであると現地添乗員トゥーン氏がバスの中で熱く語っていたのであった。更に教室数が不足している学校では、午前と午後にわかれた2部制をとっているが、それでも追いつかないところは3部制をとり対応している村もあると。そのため、児童一人当たりの授業時間は短くなっているのだと。また田舎での子供の就学率は20%前後と、まだまだ子供の労働力に頼っていると。また内戦で教員が激減し、数を補うため正規のトレーニングを受けずに村長が選んだ村人が教員を行っており、現職の教員の育成も急務な課題であるとも。教育が重要な一方で、国をリードする高度人材の育成もまた必要とされていると。優秀な人材は米国やタイ、シンガポール等に出て行ってしまっていると。政府で働く役人や、経済界を代表する経営者を育てることが、国を引っ張っていく人材の育成につながるのでこれも大きな課題であり、更なる日本のカンボジア支援をお願いしたいとこれも添乗員が熱く語っていたのであった。 【http://j2k-i.com/service3】よりそしてこの内戦により命を失った日本人がいた事を再認識した旅でもあった。映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』で知られる戦場カメラマン・『一ノ瀬泰造』氏。内戦下で写真を撮り続け、当時の政権クメール・ルージュ支配下にあったアンコールワットに単独潜入した後、26歳の若さで消息を絶ったのであった。アンコールワットに侵入した泰造はクメール・ルージュに捕らえられ、アンコールワット遺跡群の東の外れにあるプラダック村(Preah Dak)で処刑されたのであった。享年26歳。そして遺骸が発見された場所に地元の方々が建てたお墓が今も存在し、いつまでも地元の方々によって守られているのであると。時間が許せば訪ねてみたかったが・・・。 【http://yoshikazu-debori.com/2017/06/14/ichinese-taizo/】より一ノ瀬泰造氏がアンロク付近のオペレーションに参加して取材中に被弾したカメラ。 【http://yoshikazu-debori.com/2017/06/14/ichinese-taizo/】よりそして報道写真家の沢田教一氏。昭和11年2月22日生まれ。昭和36年UPI通信社東京支局に入社。ベトナム戦争時にサイゴン支局に勤務。昭和41年(1965年)戦争の悲惨を切り取った、「安全への逃避」でピュリッツァー賞を翌年に受賞。川を泳いで銃弾の炸裂する村から対岸へ逃げようとするベトナム人母子を撮影した下の写真。そして昭和45年(1970年)10月28日プノンペン南方の国道2号線ででゲリラに銃撃され、死去。享年34歳。 【http://yoshikazu-debori.com/2017/06/14/ichinese-taizo/】よりそしてもう一人の日本人は『中田 厚仁』氏。大学卒業後の1992年5月、中田は国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1993年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するボランティア(国際連合ボランティア(UNV))に採用され、7月にカンボジアへ渡ったのだ。1993年4月8日、中田氏はプラサットサンボ郡を自動車で移動中、フィル・クレル村の域内でクメール・ルージュによって拘束・射殺されたのであった。1995年、中田が殺害された現場一帯が開発され、周辺の7つの村を併合した新たな村が建設されることになった。村人の多くは中田のことを記憶しており、協議の結果村名は「ナカタアツヒト村」に決まった。これを受けてカンボジア政府は村名を「ナカタアツヒト・コミューン」と公式に定め、同時に中田をコンポントム州の最高名誉州民とした。1998年には中田の父武仁が日本で集めた募金をもとに村に小学校が建設され、「アツ小学校・中学校」と名付けられた。 【http://roots-osaka.com/action/guest-house/blog67-atsuhitonakata/】より小学校の敷地内には中田の名前の頭文字Aを模ったモニュメントが設置されていると。そして中田氏が学校を見えるように作られた墓地。そしてこちらも地元の方々にによって守られているのであると。一日本人として、カンボジアの方々に敬意と感謝を表すと共に、カンボジアの平和と発展を願うのである。そして『合掌』。 【https://tekutekuto.com/atsuhito_commune/】より最後に、『本田圭佑』のカンボジアサッカーの強化への取り組みにおおいに期待したいのである。世界的な認知度を誇る本田圭佑がカンボジアを国外へアピールすることは国全体にとっても大きなメリットとなるのであろうから。 【https://football-tribe.com/japan/2018/08/12/66347/】よりそして、次の海外旅行は、来年2月8日(金)にポルトガルへと。『ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!>決定版ポルトガル8日間』日本の国土の約1/4しかないポルトガルそしてスペインを8日間で7つの世界遺産を含む、11の観光地を訪ねる旅。【世界遺産1】バターリャ観光【世界遺産2】ポルト歴史地区【世界遺産3】サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道(歓喜の丘) 【世界遺産4】サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街)(注2)【世界遺産5】コインブラ大学 【世界遺産6】トマールのキリスト修道院【世界遺産7】リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 ・・・その25・・・に戻る ・・・END・・・
2018.11.12
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カンボジア最終日の朝も元気に早朝起床。折しも朝日が登る時間6:09。ホテルの中庭にあった小祠堂。孔雀の置物も。こちらはプールサイドの荷物置き場?。このプールも見納め。3日間で宿泊客がプールに入っているのを見たのは1回そしてアメリカ人男性二人のみ。フロントではクメール音楽が演奏されていた。伝統打弦楽器『クゥム』であると。フロント横のGUEST ROOM。立派な椅子、テーブル。そして3連泊のホテルを後にし、このツアーの最後の観光場所『トンレサップ湖遊覧』に向かう。車窓からトンレサップ湖が左手に見えて来た。時間は9:30。トレンサップ湖は東南アジア最大の湖。豊かな水と盛んな漁業で人々の生活を支えていて「カンボジアの心臓」と呼ばれていると。乾季でも琵琶湖の3倍、雨季には琵琶湖の10倍以上の大きさになるのだと。水上生活者の数も世界最大規模で、100万人が住んでいるとも言われ、いくつもの村があると。船のティケットをもらい出港時間を待つ。土産物売り場の小太鼓(スコー・トゥーイ)。カンボジアでは太鼓は「スコー」といい、小太鼓は、スコー・トゥーイ(下写真)、大太鼓はスコー・トムとよばれるのだと。蛇とサソリのアルコール漬けが土産に。そして貸し切りの船でトンレサップ湖遊覧のスタート。トンレサップ湖はカンボジアの面積の約7%を占めると。トレンとは「川」、サップとは「淡水湖」という意味。トンレサップ湖は、インド亜大陸とアジア大陸の衝突で沈下したことによってできたせき止め湖。1年のうちほとんどの期間は水深1mくらいの深さ。しかし雨季になりモンスーンが吹くと、いつもは湖からメコン川に流れ込んでいるトレンサップ川が逆流して、湖の面積が広がる。肥沃なメコン川の流れと普段は森である場所まで湖が広がることによって、湖に栄養が豊富に供給されてプランクトンや魚が大量に発生。そうしてトレンサップで採れる魚は、アンコール王朝の時代からカンボジアの人の生活を支えているのだと。出港場所はトンレサップ湖の入り江。この日は火曜日の午前中のためか、遊覧の観光客の姿は少なかった。入り江からトンレサップ湖に向かう途中に、船内で手伝いをしている少年が1ドルで小遣い稼ぎのマッサージをしてくれるのであった。時間は10分ほどであろうか。別のツアー客用の遊覧船。水位の関係もあり進行方向左側にはずっと陸が続いていた。そして右側はマングローブのような林があるため、細長い川の如くに。漁の帰りか、猛スピードで寄港する小型船。湖には教会も浮かんでいた。湖では船をつなげただけの家、雨季の増水に備えて高床式にしている家、学校、教会、中には商店もあり、土産を買うこともできるのであった。日本の生活とはまた違ったスタイルの生活があることがわかり、自然と共存する人々の生活を垣間見ることが出来たのであった。水草の中を進む小型船。多くの水草が浮かんでいた。湖上に浮かぶレストラン又は土産物屋であったろうか?カンボジア語、ベトナム語で文字が書かれていたが。母子で仕事か?トンレサップ湖には600種類以上の淡水魚が生息しており、カンボジア人の摂取するタンパク質の6割はトンレサップ湖でとれた魚から摂っているという話も。トレンサップ湖はカンボジアのほぼ中央にある湖だが、ベトナムの人が多く住んでいるのだと。これは高床式の鉄塔のある立派な建物。携帯基地局のアンテナであろうか?公共の建物?ホテル?2㎞ほど進むとチョンクニア村を抜け、何もない広大な湖に突入。先には陸地も見えない巨大な湖を実感。そして船は帰路に。湖上の土産物屋には椰子の実を荷揚げ中。そして別の土産物屋に船を着ける。すると多くのワニの姿が。ワニを養殖しているのだと。美しく装飾された皿も土産物に。土産物屋屋上からの水上村の眺望。こちらはワニの剥製の土産。そして船は港に向かって進む。船首より。この建物は?監視場?船の運転席と運転手。湖に浮かぶチョンクニア村のベトナム人小学校。遠くの小さな山の上の遺跡・プノンクロム遺跡(Phnom Krom Pagoda)をズームで。そしてトンレサップ湖遊覧を終わり船着き場で下船。そして再び車窓の風景を楽しみながら昼食のレストランに向かう。昼食会場は『ニューバイヨンレストラン(NEW BAYON RESTRAURANT)』。300人以上収容可能なカンボジア料理の大型レストラン。クメール料理とのことであったが中華料理風??。ソムローカリー。カレーの色がオレンジ。カンボジアのカレーはそれほど辛くはなかった。ココナツの甘みを感じるカレーに色々な野菜や肉を入れて煮込んだもの。イカ入り?野菜炒め。酢豚ではなく酢鶏。薄いさつま揚げのようなもの。うす甘い感じで美味しかった。デザートはバナナとリュウガン?。ニューバイヨンレストランの入口に咲いていたブーゲンビリアの花。シェムリアップの町の中心にある大きな公園・Royal Independence Gardensが車窓から。そして、昼食後はホテルに戻り、シャワーを浴び帰国のための荷物の最終整理。我が部屋からの景色も見納め。そして14:30に3連泊したEMPRESS ANGKOR HOTELを後にしシェムリアップ国際空港に向かって走る。途中、ラッフルズグランドホテルアンコール(Raffles Grand Hotel d'Angkor)で『ハイティー』体験に立ち寄る。Raffles Grand Hotel d'Angkorはシェムリアップ中心部にあり、アンコールワットとシェムリアップ国際空港からRaffles Grand Hotelまでそれぞれ車で10分で、近くに寺院がたくさんあるホテル。『ハイティー』とのことであったが、実質は『アフタヌーンティー』。ヨーロッパではオペラやクラシック・コンサート、クラシックバレーなどの催しが盛んだが、これらが開演するのは夕方以降。早めの夕食にするにもかなり中途半端な時間になってしまう。そして催しが終わった後に夕食を食べるとなると夕食の時間が大変遅くなり、お腹が空いてしまう。そのために、催しの前に『アフタヌーンティー』で腹ごしらえをするのである。お腹が空いていては、せっかくの楽しみも楽しめなくなるとの考え方。ヨーロッパの人々は楽しみ方を知っているのである。三段重ねのケーキスタンドが個別に目の前に。珈琲または紅茶がセットになっていた。三段重ねのケーキスタンドにビックリそして喜ぶ旅友。メニューは「Raffles Signature High Tea(ラッフルズシグネチャーハイティー)」最下段のケーキ類。中段にスコーン。スコーン用のジャム、クリームチーズ。そして上段にはサンドイッチがこれでもかと。遺跡巡りの〆に癒しのひとときなのであった。しかし流石に全部は食べきれずスコーンはお持ち帰りとしたのであった。像のモニュメントがテーブル中央に。プルメリアの上に赤い花片が。蓮の花。歴史を感じさせるリフト。現在でも稼働中の様であった。天井の照明も美しかった。今回のツアーでお世話になった豪華バス。今回のバスドライバーと添乗員。 ・・・その24・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.11
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バンテアイ・スレイの観光の後は、バスに乗りシェムリアップの街に引き返す。途中車窓からは夕焼の光景が。時間は17:41。アンコール・トムに続く道を引き返す。途中、車窓からはPhum Pheak Marketの多くの屋台が見えた。そして『アンコールクッキー・Angkor Cookies』と言うお土産屋に立ち寄る。これも今回の旅コースのひとつ。“マダムサチコ”こと小島幸子さんがオーナーの、アンコール遺跡群観光の拠点シュムリアップにあるショップ。こちらでツアーガイドをしていた際に「お菓子の土産店は?」と何度もたずねられ、それならと自ら2004年にオープンしたとのこと。店名にもなっている「アンコールクッキー」は、アンコール・ワットをかたどった、カシューナッツが香ばしくて美味しいクッキーであると。そしてハチミツも日本語表示で販売されていた。5.5円/gとこの国にしてはかなり高価。土産物は買う予定がなかったので、外に出て休憩場所で出発時間を待つ。休憩場所の建物の壁には数匹のヤモリがノンビリと。そしてこの日の夕食会場の『AMAZON ANGKOR RESTRAUNT』に到着。高級ホテルが連なる国道6号線近くにある、有名なビュッフェレストラン。収容350人以上の広々とした店内は現代的な雰囲気。規模はシェムリアップ市内でも最大規模であると。レストラン店内は会場仕立てとなっていて、400人以上収容可能。ここで楽しめるのはビュッフェディナー。かなり広いので料理があるところまでは多少歩かなければならなかったが、ビュッフェ料理はクメール、日本、タイ、ベトナム、中国、西洋など各国料理が約50種以上が並んでいたのであった。いろいろと料理を楽しみました。この後もフォー、スープ他いろいろと。デザートも。そしてこの『AMAZON ANGKOR RESTRAUNT』の売りは、食事をしながらカンボジア古典舞踊・アプサラダンスショーを楽しめるのであった。古典舞踊・アプサラダンスショーの行われる舞台がレストランテーブルの最前列に。そして司会者の案内で古典舞踊・アプサラダンスショーが始まったのであった。時間は予定通り19:30。男性と女性のダンサーによる農村をテーマとしたダンス、カンボジアの物語をテーマとしたダンスが行われたのであった。クメール伝統の舞踊。時間と共に登場人物が増えて。何を表現しているのであろうか?カンボジアに古くから伝わる宮廷舞踊の一つ。きらびやかな衣装に身を包んだ女性たちが、妖艶な踊りを舞う。手の動きに特徴があり、カンボジア独特の雰囲気が。鑑賞できたのはアプサラダンスだけではなかった。伝統民謡からはじまり、さまざまな演目がステージ上で繰り広げられたのであった。農村でのワンシーン。男性が女性に求愛している場面も。女性はなかなか花を受け取ってくれず、音楽に合わせて何度も男性の手を払い、顔をそむけます。それでも、男性は諦めずに一生懸命女性を振り向かせようと頑張る。そして最後はついに......と。椰子の実をカスタネット代わりに。この踊り子がTOPダンサーか?「アプサラ」の語源は、「アプサラス(Apsaras)」という古代インドの神話に登場する天女。アンコールワットの遺跡には舞のようすが描かれていたのであった。微妙なバランスで。この指の意味は?それぞれの手や指の動きには意味があり、生命の一生、儚さを花の芽生えから実が落ちるまで例えて表しているとのことであったが。演奏部隊。インド神話「モニメカラ」。モニメカラという水の女神と嵐の精との闘いの場面を表現したダンス。インド神話になぞらえて再現された有名なワンシーンであり、モニメカラの話は隣のタイにまで及んでいると。当時は単なる娯楽ではなく、乾季のあとにやってくる雨季への雨ごいの祈りの際にも踊られたと言われていると。ちなみに、モニメカラの女神は仏教神話でも海の女神、保護者として登場するのだと。私の前に座った旅友2人は、大きな声で、踊り子のスタイル、年齢、美貌等を厳しく!!批評。私を含めて、廻りに座っていた男性旅友は、自分の事を忘れて??語り合うこの二人の会話も、アプサラダンスショー以上に面白かったのであった。昔からの『愛情と嫉妬は紙一重』との言葉を実感したのであった。やさしい微笑、艶めかしい腰のくびれ、ひらひらとたなびく腰巻?…。古今東西かかわらず、美しい女神はいつの時代も、王や人々の心を癒して来たのであった。いよいよアプサラダンスの開始。民族衣装を身に纏った7人の踊り子達が、ゆっくりとした動作で舞踊を披露。アプサラとは天女という意味で、アプサラダンスは神への祈りを意味し、時の国王が愛でる格式高い舞踊でもあったのだと。アプサラダンスの起源は正確には分かっていないとのことだが、アンコールワットなどの王朝時代に国王によって愛でられていたとなると、1000年以上の歴史を持つことに。一時はタイのアユタヤ抗戦によって踊り子たちが連れ去られてしまったこともあったと。その後、再びアプサラを伝えようと時の国王が踊り子を連れ戻し、クメールの伝統舞踊として確立させ現在に至っていると。7人が一同に。そして踊り子が全員登場してのフィナーレへ。時間は開始後1時間の20:30。そしてカンボジア古典舞踊・アプサラダンスショーの余韻を感じながらホテルに戻る。ライトアップだれたホテルの前庭をカメラに。ズームで。ナーガもライトアップされ神秘的な輝きを。阿修羅の姿も。象の姿。そして長い1日を終わり部屋に戻り、翌日夜の帰国に備えてトランクの整理を慌ただしく行い、シャワーを浴びて爆睡したのであった。 ・・・その23・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.10
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ホテルでの休憩の後はシェムリアップの郊外にある『バンテアイ・スレイ』に向かう。アンコール・トムの西側の湿地帯を走る。アンコール・トムの北側からの道路にある最近出来上がった?の四面仏頭。67号線の水田地帯を走る。車窓からは椰子の木が。住宅販売のパネルが並んでいた。そしてバンテアイ・スレイ (Banteay Srei) に到着。時間は16:15。バンテアイ・スレイ は967年に建てられたヒンズー寺院で、シヴァ神とヴィシュヌ神に捧げられた寺院だと言われていると。アンコールトムやアンコールワットといった主要なアンコール遺跡から遠く離れたこの地に、何故この小寺院が作られたかというと、それはこの寺院を赤色砂岩で建てるというコンセプトがあったからだと。すなわち、この赤色砂岩が採れる土地の近くに建てたということ。シェムリアップから北東に約40㎞離れたこの地に建てられた小寺院は、朝は朝日に照らされて赤く燃えるような雰囲気が漂うのだと。我々がバンテアイ・スレイに着いたのは16時過ぎ。駐車場からバンテアイ・スレイに続く道も、なるほど夕陽を浴びていたが赤色。確かに赤色砂岩が採れるエリアなのであった。バンテアイ・スレイとは「女の砦」を意味していて、数々の繊細なレリーフと優美な外観から、近代になってその名が付けられたのだと。「アンコール美術の至宝」「クメールの至宝」などと称されているのだと。世界遺産を示す石碑。バンテアイ・スレイ (Banteay Srei) 配置案内図。別の配置図が解りやすい。 【https://terry658-2.blog.so-net.ne.jp/2018-08-18】より参道の木々には野生のオウムの姿が。入口から歩いていくと、赤い絨毯のようなラテライトという赤土の参道が続いていた。第一東塔門。第1東塔門の左から伸びているのは蛇神ナーガ。まず、ナーガの頭があって、ナーガの胴体に囲まれたスペースの中に、象に乗ったシヴァ神が。破風に注目せよと添乗員から。カーラ(食欲旺盛な怪物)の上にゾウに乗ったヴィシュヌ神の妻ラクシュミーが坐っているのだと。三頭の象(アイラーヴァタ)の上に。脇の柱の彫刻(左手)も精細で見事。カーラ(食欲旺盛な怪物)が描かれていた。八角形の柱の彫刻(右手)。第一東塔門を潜り進むと、両脇にリンガ(男性器)を模倣した柱が並ぶ。参道をまっ直ぐ進むと、次第に赤色砂岩とラテライトで造られた第1周壁と第1周壁門が見えて来た。第1周壁の塔門を潜る。中にリンガの台座が見えて。正面に第2周壁の塔門。両脇には環濠の中の池が。そしてその奥にバンテアイスレイの祠堂が見えた。第二周壁の門の破風。ヴィシュヌ神の彫刻が。最も美しいといわれている塔門。正面のレリーフに描かれているのは、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーが象の聖水で身を清めている場面であると。次の門にも同様な彫刻が。カーラ(食欲旺盛な怪物)の上にヴィシュヌ神の妻?踊るシバ神。左側に座っているのはカリーカラミヤという女性。大変美しい王妃であったが、王が亡くなった後後、あちこちの王がこの女性を奪い合い争ったと。憂いたカリーカラミヤは自分の魅力、美貌を破壊してくれとシヴァ神に頼みシヴァ神は望みを聞き入れ美貌を破壊してしまった。右側では雷神インドラ神が太鼓を叩いて居る場面であると。バンテアイ・スレイの連子窓(偽窓)。アンコール特有の嵌め殺し窓も、ここではさらにその装飾性に磨きがかかっていた。建築資材が赤砂岩であることにもよるのであろうが、優美。第三周壁入って右手の経堂。大雨を降らすインドラのレリーフ。火神アグニがナーガを殺すために森に火事を起こし、それを消すために雨を降らす。カイラス山で瞑想するシヴァ神。抱きついているのは妻のパールヴァティー。下方では20本の腕と10の頭を持つ魔王ラーヴァナが、瞑想の邪魔をするためカイラス山を動かそうとしているのだと。見事な彫刻を追いかける。ヴィシヌ神の化身『ナラシンハ』が阿修羅王を組み伏し、殺そうとしている場面。魔王ラーヴァナがシータ姫を誘拐する場面。猿王の兄弟ケンカの場面。バンテアイ・スレイ 南塔。ここにもカーラ(食欲旺盛な怪物)が描かれていた。ヤクシャと猿の守護座像。象に乗るクメールの獅子?片膝をついた守護神の像。バンテアイ・スレイの中央祠堂の基壇には階段が六つあり、それぞれに守護座像が置かれていた。中央堂の西面はヤクシャ、南祠堂はシンハ、そして北祠堂はガルーダ頭の坐像が。更に中央堂前殿の東面はヤクシャ、南面と北面は猿の守護座像が。経蔵。中央祠堂は夕陽を浴びて。『東洋のモナリザ』のある祠堂の塔も青空に映えて。上部が脱落している彫刻も。『東洋のモナリザ』。このバンテアイ・スレイを一躍有名にしたのは、フランスの作家・冒険家であるアンドレ・マルローがこのバンテアイ・スレイの壁面に彫られたデバターに魅せられて、盗掘して国外に持ち出した事件。下の写真はアンドレ・マルローが盗掘したデバターで、今では「東洋のモナリザ」と名付けられているのだと。バンテアイ・スレイには東洋のモナリザ以外にも美しいデバターが沢山あった。赤岩砂岩で建てられた建物に彫られ、しかも彫りが深く美しいデバターが多いのが特徴。このバンテアイ・スレイも東向きに建てられているので、午前中、できれば早い時間に訪れると、朝日に照らされたデバターはより妖しく映るのだと。いやいや、この日の夕陽を浴びたデバターも妖しく映るのであった。こちらのデバターは顔が・・・・。境内の祠堂。塔門を内側から。西側の方からバンテアイスレイを見たところ。祠堂を守るように半神半獣の像が左手に小さく。それにしても精緻な彫刻が至る場所で。雨を降らせるインドラ神の上部。ヤクシャ頭坐像。見事な彫刻が次々に。バンテアイスレイは小さな寺院。しかしながら、赤色砂岩で作られたこの寺院の美しさは、アンコール遺跡の中でもひときわ印象的。下の写真は、そんなバンテアイスレイらしい雰囲気が良く出ている建物。反対側から。怪獣マカラの口に両足を突っ込んだクメールの獅子。マカラの口から吐き出されたとされていると。スリット状の窓。窓枠にははめ込むための穴も確認出来た。第一東塔門に向かって戻る。今にも崩壊しそうな周壁箇所も。 ・・・その22・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.09
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三つの頭を持つ巨象.象のテラスでは、象に乗った象使いたちの躍動感溢れる姿が見られた。王宮に面する部分は、王のテラスと呼ばれ、外壁にはガルーダとガジャシンハが交互に並んでテラスを支えていた。その北側の蓮の花の彫刻があるテラスでは、蓮の花を絡め取る三つの頭を持つ巨象が。バルコニーの下部分の彫刻は半人半獣の兵士でしょうか。上は仏像のようにも。ガルーダをはじめとした半神半獣もテラスを支えていた。これから戦争に行く兵士たちを鼓舞したり、あるいは戦争から凱旋した兵士たちをねぎらったりした場所ですから、威厳と神がかり的な仕掛けが必要だったのであろう。テラスの一辺は25m、ラテライト(紅土)と砂岩で造られている。像のレリーフを挟んで高さ6mの壁面にびっしりと浮彫が彫られていた。ライ王のテラスが姿を現した。象のテラスにあるデバターなどのレリーフ。崩れていたものを修復したもの。象のテラスの中でも特に、この王のテラスは王宮の門前に位置しており、左手正面に勝利の門から続く道が延びているのであった。王のテラスをズームで。ライ王の像(レプリカ)。テラスの上のライ王の像は、ライ病にかかった王だという説、髭(ひげ)と牙があることから閻魔(えんま)大王とする説もある。これはレプリカで、本物はプノンペンの国立博物館にあると。ライ王のテラスの壁面は迷路のように通路が作られていた。そして様々な仏像のレリ-フが通路の両側に。美しい女神の横顔。阿修羅像。女神の表情も様々。女神と阿修羅。女神。内壁と外壁の間の通路にはもともとの壁画がこれでもかと。敵対して描かれる事が多い神々と阿修羅がここでは一緒に描かれていた。九つの頭を持つナーガ。象のレリーフ。『ライ王のテラス』が象のテラスの隣に。作家・三島由紀夫氏の戯曲にも登場したことで知られるライ王だが、このテラスの建造意図は明確には分かっておらず、またライ王が何を指し示すのかも不明となっている曰くつきのテラス。その一方でテラスの壁には非常に数多く緻密の阿修羅と神々の彫刻が連なっていて見ごたえあり。高さは約6メートルほどあり、象のテラスよりも高難度の設計であることが見て取れたのであった。ガルーダ。再びライ王のテラス。接近して見事な彫刻を。そしてアンコール・トムの見学を終え昼食会場にバスで向かう。途中、アンコール・トムの北大門の手前。シェムリアップ国際空港前を再び通過。昼食レストランに到着。前菜。この日のメインディッシュはステーキであったが写真撮影は忘れてしまった。そしてデザート。プレートにはアンコールワットの姿が。そしてこの日も昼食後はホテルの部屋に戻り2時間弱の休憩。 ・・・その21・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.08
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アンコール・トムのバイヨン寺院を北側から後にし、バプーオン方面に向かうと大きな大仏殿が右側に。信仰の熱い地元の人が、お供えをしてお参りしていた。『Wat Preah Ngok(ワットプレア・ゴク)』を横から。アンコール・トムの全体配置図。中央に先程訪ねたバイヨン寺院。その北側・西面にこれから訪ねるピミアナカスそしてその南にバプーオン。 【https://www.nabunken.go.jp/research/cambodia/remain.html】よりそして更に進むと池の先にバプーオン(Baphuon)寺院が見えて来た。バプーオン(Baphuon)とは「隠し子」という意味を持つのだと。カンボジアとシャムの争いの中で、王子をこの寺院にかくまったという「隠し子伝説」からついた名前であると。アンコール遺跡にある寺院の1つであり、アンコール・トムにあるバイヨンの北西に位置する。11世紀中頃の1060年頃、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられ、ウダヤーディチャヴァルマン2世(在位1050-1066年)の国家的寺院として築かれた。3層からなる山岳型(ピラミッド型)寺院で、バプーオン様式の原型である。池の前の緑地には野生の猿が戯れていた。寺院は、王宮の周壁の南側に隣接し、東西425メートル、南北125メートルにおよぶ砂岩の周壁に囲まれている。須弥山(メル山)を象徴する山岳型寺院であり、その基盤は東西120メートル、南北100メートルにおよぶ。3層の基壇の上は回廊で囲まれ、中央祠堂が1基ある。王宮前広場の南端にあるその東塔門から長さ200メートル、橋脚の高さ約1メートルの参道が内側の塔門に向かって延びる。途中に十字形のテラスがあるこの参道は、3列に並ぶ円柱の橋脚とともにほとんど崩壊していたが、フランス極東学院 (EFEO) によって修復されたと。多くのヨーロッパ系の観光客が塔門に向かって延びる参道を歩いていた。参道の下に潜り、真っ直ぐに伸びる3列に並ぶ円柱の橋脚をカメラに。装飾の施された円柱の上に敷石が並んでいるので、横から見ると、まさに橋が浮いているようにも感じられるのだと。特に雨期になると、空中参道の両側に水が溜まって池になり、空中参道が強調されると。橋脚参道の東塔門方向。橋脚参道の塔門方面。池の水位が高ければ、橋が浮いているように見え真に「空中参道」が・・・と。バプーオン寺院を正面から。ピミアナカス方面への門を潜る。門を振り返る。『王宮修復プロジェクトセンター』の展示コーナー。ピミアナカス手前の完全崩壊寸前の祠堂遺跡。ピミアナカスの説明板には日本語が。『ピミアナカス』に向かって歩く。『ピミアナカス(Phimeanakas)』正面。王宮内で一番の見所となるピラミッド型寺院で、東西35m、南北28m、高さ12m。ピミアナカスは正しくはピミアン・アカーハといい「天上の宮殿」、「空中楼閣」という意味があると。三層のピラミッド型の建物で、11世紀初頭にジャヤバルマン1世により建てられたヒンズー寺院。バイヨン寺院や象のテラスは12世紀末にジャヤバルマン7世に築かれたもの。それよりもかなり古い建造物。王宮の中に建てられていた寺院で、王族の儀式の場所として使用されていた建物であると。ラテライト(紅土)の基壇を3層に積み上げ、頂上に小さな祠堂を載せている。その周囲に疑似回廊があり、地上から仰ぎ見る視覚を意識したピラミッド型の寺院となっている。ピミアナカス周辺案内図。王宮の塔門(Leper King Terrace)。王宮の塔門を潜る。王宮の塔門を振り返る。王宮はバイヨン寺院から北に向かう道の西側に、東西約600m、南北約300mの周壁に囲まれた王宮がある。東側の重厚な周壁の間にある塔門をくぐると、中央付近にピミアナカス寺院があり、その奥に王宮跡がある。王宮は木造であったために、その痕跡は残っていない。ピミアナカス寺院の北側に女池と男池があるとのこと。今回のツアーには王宮の観光は含まれていなかった。別の角度から。『象のテラス(Elephant Terrace)』上まで来る。王宮の塔門に接して南北300mにわたって象のテラスがあり、その北のライ王のテラスへと続いている。これらのテラスは、バイヨン寺院と同様、12世紀末にジャヤヴァルマンVII世の命により、パプーオン寺院と一体化するように造営された。戦地から凱旋した兵を王族達がこのテラスで閲兵を行ったといわれていると。『象のテラス(Elephant Terrace)』の南側。12世紀後半、ジャヤヴァルマン七世によって創られ、王族の閲兵などに使われた広い空間。王宮前にあり高さ3m、長さは300m以上、東側壁にはその名のとおり象のレリーフが見られ、また中央ブロック側壁にはガルーダ像レリーフがならんでいたのであった。『象のテラス(Elephant Terrace)』の北側。『象のテラス』正面の『王のテラス』を上から。ナーガ、シンハ象の後ろ姿が。『プラサット・スゥル・プラット(Prasat Sour Prat)』。象のテラス前の南北に走る道の東側に『プラサット・スゥル・プラット』が立ち並ぶ。「綱渡りの塔」と呼ばれており、王宮前広場に集まった観衆のために綱渡りをして見せたという話が伝わっているが、真偽は分からないとのこと。12基の塔がラテライト(紅土)で造られており、王に捧げた宝物などを収納する儀式に使われたものと見られる。現在、日本政府による調査・修復が行われているという。暫くすると、緑地に立つ塔の前には青のTシャツを着た観光客が記念撮影中。『象のテラス』上を北に向かって進む。 ♪この木なんの木気になる木… 『象のテラス』上の『蓮の花の像』が目の前に。そして閲兵が行われた『象のテラス』を北端から見る。 ・・・その20・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.07
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バイヨンは2重の回廊をもち、外側の第一回廊の大きさは東西160m、南北140m、内側の第二回廊は東西80m、南北70m。中心には中央祠堂が立ち、それを取り囲むように16の四面仏塔が林立するテラスがある。第二回廊には16の塔があり、その塔にもバイヨンの象徴とも言われる「クメールの微笑み像」が四面に彫られていた。また、回廊にはヒンドゥー教色の強いレリーフを見ることができたのであった。回廊にはアンコールワットの浮き彫りにも匹敵する彫像群が彫られている。その総延長は1200m。神々、人間、動物ひっくるめて11000体以上が数えられる。外側の回廊の壁には『チャンパ軍とのトンレサップ湖での激戦』、あるいは地上戦で敵を殲滅させて行く『アンコール軍の奮闘図』が上段を占め、下段にはその時代のクメールの日常風景が薄彫りで描かれている。第1回廊 東面北側のレリーフ。ジャヤバルマン7世がトンレサップ湖上でチャンパと戦争をした時の場面などが壁画。当時の生活や市場の様子、樹木などの精緻な彫刻もあり、細かくびっしりと彫られていた。アンコールワットの壁画は宗教説話的な要素が強いが、バイヨン寺院には庶民的なものが多く残されているのだと。これは軍船であるが、多くの漕ぎ手を要する大型船で、水面下の魚の姿がユーモラスに彫られていた。これはクメール軍とチャンパ軍の水上戦を描いたものであると。クメール軍とチャンパ軍の水上戦。ワニが転落した兵士を狙っている姿が。クメール軍とチャンパ軍の水上戦。クメール軍とチャンパ軍の水上戦。多くの兵士が船から転落。トンレサップ湖の湖上戦で水中に転落した兵士に食らいつくワニの姿が。船の下には多くの魚、ワニの姿が。亀や水中に生息する樹木の姿も。家族の団らんの姿も。お産をする女性の図。下の写真のレリーフに見える建物はマーケットの如し。手前の女性は、昼寝をしているようにみえます。左側では、荷物を手渡している男性が。現代のプサールーマーケットやこのオールドマーケットでも、働いている大多数は女性。今にも動き出すような姿で。口げんかをしている男が二人、そしてその横では女性がマニキュアをやってもらっているような姿が。闘犬を楽しむ人々の図。闘鶏の姿も。ドラを打ち合う姿であろうか?男の顔に槍を突き刺す瞬間か?背中の汗を拭く妻の姿か。料理を運ぶ人の姿か。こちらも。豚を丸焼きしている姿。戦争の勝利を祝う凱旋パーティの準備をしているのであると。バイヨン寺院の外回廊のレリーフはアンコール・ワットと異なり人々の暮らしの姿が生き生きと刻まれていた。崩壊して天井もないため風雨や日差しにさらされて黒ずみ独特な風合いを醸していた。ここにはほんの一部を紹介した。そして上に登っていくと、4面を菩薩像と思われる像を彫り込んだ塔が。様々な表情を眺めていると、時間が経つのも忘れたのであった。神であるようで、人であるようで、この姿はクメールの微笑みと呼ばれていると。第1回廊東面中央付近のデバター。第2回廊東面北側。第2回廊東面入口近くのデバター。中央祠堂の中から上部を見上げると光が射し込んでいた。13世紀末にこの地を訪れた元朝の使節団の記録では、四面塔は金色に輝いていたと書かれていると。様々な表情の四面仏頭を楽しむ。現地添乗員のトゥーンさんが「この顔は京唄子さんに似てるでしょ」と。こちらは仏頭の風化が激しい。一つ一つの顔の表情が違うので楽しめたのであった。見上げて。バイヨン寺院の特徴は、謎めいた微笑を浮かべる最大2m余の大きな顔が彫られた四面像。観世音菩薩像を模していると言われており、通称「クメールの微笑」と言うと。バイヨン寺院では微笑を浮かべる大きな四面像が彫られた塔をあちこちで見かけたが、旅行パンフレットでよく使われている「クメールの微笑」がどこにあるかは直ぐに見つかったのであった。微笑みの表情が美しい仏頭をズームで。経年劣化のせいか、顔の一部分が崩れてしまってきているものも。中央祠堂の内部には袈裟が新しい仏像も。四面仏頭が並ぶ。若い僧侶の姿が。バイヨン寺院を建造した王様、ジャヤバルマン7世には王妃が二人いた。最初に結婚した妻は戦争中だったため、ろくに結婚生活もおくれずに、ジャヤバルマン7世が即位した直後に亡くなってしまった。その後、前妻の姉妹である二人目の王妃と結婚するのだが、バイヨン寺院にはその姉妹王妃二人のレリーフが残っており、レリーフには、当時の状況が反映されていると。二人目の王妃は平和になった後に結婚した為、そのレリーフは華やかな装飾で彩られていた。こちらは風化、浸食が激しい。中央祠堂の入った側と反対方向から下部を見る。こちらは壁が激しく崩壊していた。バイヨン寺院の北側。北門側は崩壊が激しいように感じたのであった。楽し気なレリーフ。こちらは3人で。北大門に続く通路の仏像。北大門方向からバイヨンを見たところ。 ・・・その19・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.06
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早朝に朝日に染まるアンコールワット観賞を終えホテルに一端戻り、再び8:30にホテルを出発しアンコール・トムの観光に向かう。途中シェムリアップ国際空港にはSmall Planet Airlines Cambodiaという航空会社のA320-200が停まっていた。そしてこの時間も観光用気球はロープで停留中。気球観光は人気は無いのであろうか?この日の早朝に朝日観賞を楽しんだアンコールワットがバスの正面に。アンコールワットからアンコール・トムまでは、巨木の並木を潜りながらバスは進んで行った。アンコール・トムの外濠が見えて来た。南大門をズームで。9世紀から13世紀にかけてインドシナ半島を治めたクメール王朝は、アンコール・トムと呼ばれる帝都を設営した。一辺約3km、全長約12kmの城壁が、ほぼ正方形の広大な敷地を堅固に守っていたのであった。「アンコール」はサンスクリット語で「都市」、「トム」はクメール語で「大きい」という意味をもっている。アンコール・トムは、12世紀後半にジャヤヴァルマン7世が建造した都市。帝都の中央に、仏教寺院のバイヨンが建造され、この寺院を中心に十文字のまっすぐな道路を整備した。バイヨン寺院からの道路は、要塞に築かれた南大門、北大門、西大門、死者の門に繋がっている。おのおのの門は帝都の玄関の役割を担った。おのおのの門は破損が激しく、往時の姿を残すのは、アンコール・ワットの北約1500mの位置に建つこの南大門のみとなったと。高さ約23mの門は、王が象に乗ったまま通ることができる大きさ。砲弾を思わせる城門の塔には、東西南北の4つの面に観世音菩薩の彫刻が施されていた。ヒンドゥー教の寺院であるアンコール・ワットとは異なり、アンコール・トムは仏教の宇宙観によって構成されているのだと。バイヨン寺院へと続く道が拡がっていた。道の両側には、神々と阿修羅がナーガの胴体を引き合う像(54体ずつ計108体)が出迎えてくれたのであった。様々な表情の阿修羅像(正面左側)。54体の阿修羅像が続く。ナーガの胴体を引く阿修羅像。右側の阿修羅像。阿修羅像の下の凹んだ場所には銃弾の破片が今も突き刺さっていた。様々な表情の阿修羅像を楽しむ。外濠を見る。バイヨン寺院への参道は道幅も広く。自分に似た阿修羅像を探しながら。アンコール・トムの中心にあるバイヨン寺院の南大門。アンコール王朝第二十代の国王ジャヤヴァルマン7世(1130年~1218年)は、ベトナムのチャンパ王国によって奪われた王都を奪還したクメール最大の王。ジャヤヴァルマン7世が都城として築いたのが「アンコール・トム」で、その中心に位置する寺院が「バイヨン(バヨン)」。「バ」は美しい、「ヨン」は塔という意味。南大門の彫刻も見事に残っていた。門の右手では3頭のゾウが蓮の花をからめて遊んでいた。南大門を潜り振り返る。南大門の四面仏。裏からの正面仏。左側。そして正面にバイヨン寺院が。本物の象に乗り見物する観光客。聖池越しのバイヨン寺院。四面仏をズームで。穏やかな顔の四面仏。バイヨン寺院手前にある聖池でタニシを捕る親子。再び聖池越しのバイヨン寺院。一片3kmの城壁で囲まれた王都アンコール・トム。その中心に位置するのがこのバイヨン寺院。この四面仏頭の乱立するバイヨン寺院は仏教寺院としてクメール人独自の宇宙観の中心に燦然と輝いていたのだと。多くの四面仏頭。観世音菩薩の四面頭はテラスに49、5つの塔門を入れて全部で54あると。ズームで。入口のアバター像を追いかける。こちらにも。柱の2面にも。 ・・・その15・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.05
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カンボジア旅行の4日目は早朝5時にホテルを出発しアンコール・ワットの日の出観賞。中央の塔も漸く姿がハッキリと。そして中央祠堂の塔も茜色の空を背景に黒い姿で。時間は5:38。アンコール・ワットの中に聖池が2つあるが、回廊の真ん中にある中央祠堂へ向かって左側の池がベストポジションなのであった。聖池も赤く染まって来て、見事な『逆さアンコール・ワット』の姿が。日本を出発時には、カンボジアの浮きは10月末までであるので、アンコール・ワットの朝日観賞は無理なのではないかと思っていたが。空がみるみる更に赤く染まる。時間は5:41。空には僅かな雲の姿もあり、その姿も刻々と変わっていったのであった。中央祠堂をズームで。空の色が刻々と白く変化して。パノラマモードで。色々な撮影モードを駆使して。『逆さアンコール・ワット』をズームで。中央祠堂の正面右側に場所を移動。振り返ると経蔵に陣取る観光客。聖池の蓮の花。カメラの設定を変えて。そしてアンコール・ワット回廊の上が白く輝き始めた。そして朝日が姿を現す。時間は6:10。陽光が見る見るうちに強くなって。カメラの角度を変えて。ズームで。この日の朝日は中央祠堂から離れた右側から。陽光に輝く経蔵。そろそろ引き上げの準備をする観光客の姿が。中央参道。そして、調べてみると下の様な写真が撮れるのは春分の日(3月21日)とのこと。 【http://www.geocities.jp/ikokunotabi5/cambo1203/index.htm】よりそしてバスに戻りホテルへの帰路。観光用の気球が車窓から。乗客の姿はなく、未だ係留中。世界遺産の記念碑を車窓から。シェムリアップ国際空港・管制塔。シェムリアップ市内から空港までは約8kmの場所。シェムリアップ空港駐車場入口。空港入口ゲート。そしてホテルに戻り朝食。時間は7:20前。デザートもしっかりと。 ・・・その17・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.04
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ホテルでシェムリアップの夜の街への不参加者がバスを降り、5名でシェリムアップのナイトバスツアーに出発。6号線沿いを走る。STREET60のラウンドアバウトのApsara Circle Garden近くの道路沿いの夜店を最初に訪ねた。ここは『アジア伝統博物館』近くの場所。屋台には様々な果物が売られていた。モンキーバナナとミカン。モンキーバナナは果実の長さが7 - 9cmほどの小型バナナ。皮は薄く、果肉はやわらかくて濃厚な甘みを持っている。日本では主にフィリピンから輸入している。レディ・フィンガー (Lady Finger)とも呼ばれる品種。ランブータン。ランブータンは風味や食べ方がライチと似ている。皮をむくと中には丸くてプリプリとした甘い果肉が入っているのであった。様々な肉も竹串に刺されて売られていた。カエルの姿焼き。中学時代に、食用蛙、赤蛙を食べた記憶があるが、今は・・・・???。アヒルの半孵化状態のゆで卵であるとのこと。カンボジアを代表する(?)食べ物のひとつで、『ポンティアコーン』と言うのだと。スプーンで先端に穴を開け、まずは胡椒&ライムを注いでスープを飲むのだと。そして穴にしっかりとスプーンを入れて「グイッグイッ」っとすくいとり中身を食べるのだと。味自体は、少し歯ごたえのあるゆで卵であると添乗員から。栄養価も高く滋養強壮にも優れていて男性の食べ物であるとも。しかし私には食べる勇気は持ち合わせていなかったのであった。食べた方がいらっしゃいましたら、ご感想を書き込んでください。初めて見るような多くの品物が売られていた。こちらはタニシの煮付け。イナゴであろうか?シェムリアップ川にかかるオールドマーケット橋を渡る。橋の麓の獅子像。橋を通過するバスの車窓からシェムリアップ川に映り込むライトアップを楽しむ。オールドマーケット近くでバスを降り散策開始。面白いものを見つけました。水槽に小さな魚がたくさん泳いでいた。『ドクターフィッシュ』。ドクターフィッシュとは、魚による足の角質取り。水槽に入れた足に多くの魚が近寄ってきて足を突っついていたのであった。店員からお前もやってみろと言われたが・・・????!!。手を入れて良いかと尋ねたらどうぞとの事で恐る恐る手を入れると魚が私の手を突っつきだし、くすぐったい?いや気持ち悪い感触なのであった。暫く足を魚に突っつかせると足がツルツルになるとのことであったが。Sister Srey Cafe近くにはクメール伝統衣装の女性の姿が。手のない仏像。オールドマーケット近くにあるオレンジ色の建物はKhmer Kitchen Restaurant。地下の道路脇では『ヘナタトゥー』の店が。ヘナタトゥーは、砂漠に育つ「ヘナ」という植物の葉のペーストで描くボディアート『ヘナタトゥー』は、肌に残らないのだと。「消える」タトゥー、 『ヘナタトゥー』は、お洒落なボディーアート として、最近人気を集めている、大注目のタトゥーであると。狭い路地も散策。仏の頭像もライトアップされて。多くの観光客がクメール料理を楽しんでいた。シェムリアップのナイトマーケットに近い「パブストリート」。その名の通りパブやバーが立ち並ぶにぎやかな通り。長さ100mほどの通りに小さなお店がひしめき合っていて、なかにはカンボジアの伝統舞踊アプサラダンスを毎晩見ることができるクラブもあった。『PUB STREET』と書かれたネオンも。ヨーロッパ系の観光客も多かった。多くのバーやレストランが軒を連ねるこの通りの代名詞ともいえるのが「レッドピアノ」。映画の撮影で当地に滞在していたアンジェリーナ・ジョリーが通っていたことでも知られる名店。この店の2Fでしばしのビール休憩。店内には四面仏頭の姿の小型モニュメントが。ユニークな像も迎えてくれた。ビールを飲みながら窓の下を。店を出て帰路に。多くの観光客が散策し賑わっていた。中国語で『炒冰(chǎo bīng)』と書かれていたアイスクリーム屋。字面から見ると、氷を炒める?と思ってしまうのだが。しあし本当にそうなんです。冷たい鉄板の上で、火を通さずに「炒める」のです。作り方は、果物やクッキーなどを小さく刻んで、ミルクと一緒に冷たい鉄板の上で「炒める」。そして、薄く伸ばして最後にくるりと巻いて出来上がり。食べたかったが、グッと我慢。写真だけを撮らせていただきました。昔、台湾で食べたような、食べなかったような記憶が。店頭のテラスに座り込み、シェムリアップの夜を楽しむ多くの観光客。生の海老や鮮魚も売られていた。そしてバスの待つ場所に場所に向かう。女仏?も見送ってくれたのであった。 ・・・その16・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.03
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第1回廊と第2回廊を繋ぐ十字回廊に進む。十字の回廊の脇にある4つの沐浴池は高僧たちの沐浴する場、王が祈りの前に身を清める場など諸説があるのだと。第2回廊側の南の沐浴池。第2回廊側の北の沐浴池。十字回廊の中央で添乗員がスマホのソフトにて方位を確認し説明する。アンコール遺跡群のほとんどが東向きであるのに対して、アンコール・ワットは西向きに建てられているのだと。「王の墳墓として創建された為、日が沈む方角(=人生の終焉)を向いている」、「西を司るヴィシュヌ神を祀る神殿だった為西向き」などこれも諸説があるのだと。第1回廊側北側の沐浴池。第1回廊側南側の沐浴池。徳川三代将軍家光より仏教の聖地「祇園精舎」視察の命を受けて、このアンコール・ワットをインドの「祇園精舎」と思い込んでこの地を訪れた日本人の落書きの跡が残っているのだと。柱に書かれた落書きは、文面からすると、加藤清正の家臣だった森本右近太夫が、亡き父母の菩提を弔って、仏像四体を奉納した記念に書いたものであったと。その落書きを見てもまったく読み取れない。写真だけは残しておこうと思って撮ってきた。それが下の写真である。落書きの文面は『寛永九年正月初而此所来 生国日本 肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫 一房 御堂心為千里之海上渡 一念之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為 其仏像四躰立奉者也 摂州津池田之住人森本儀太夫 右実名一吉善魂道仙士為娑婆 是書物也 尾州之国名谷之都後室其 老母亡魂明信大姉為後世是 書物也 寛永九年正月廿日』と書かれていたと。「寛永九年正月に初めて此所に来る。生国日本、肥州の住人、藤原の朝臣森本右近太夫一房、御堂を心がけ、数千里の海上を渡り、一念の儀を念じ、生々世々裟婆寿世の思いを清める者なり。其の為に仏四体を奉るものなり。摂州津国池田の住人森本儀太夫右実名一吉、善魂道仙士、裟婆の為に是を書くものなり。尾州の国名谷の都、後、其の室老母の亡魂、明信大姉の後世の為に是を書くものなり。寛永九年正月廿日」その大意は、「日本の肥州肥前或いは肥後国の住人である藤原朝臣森本右近太夫一房は、寛永九年正月にはるばる数千里の海上を渡ってこの御堂祇園精舎に参詣し、摂津池田の住人である父森本儀太夫一吉の現世利益と、尾張名古屋出身の亡母明信大姉の後生の為に四体の仏像を奉納したことを書くものである。寛永九年正月二十日」ということらしい。十字回廊の天井。再びデバター。第1回廊西塔門周辺を沐浴池側から。第1回廊内部。夕日が差し込んで。高さが約四メートルのヴィシュヌ神。西参道の十字テラスよりアンコール・ワットを振り返る。ズームで。西参道を戻りながら、夕陽に輝くアンコール・ワットの姿を。北側の経蔵。西参道の石畳に映る自分の影を。南側の経蔵。北側の経蔵をズームで。夕陽が西塔門越しに沈んでいく。中央祠堂を。西塔門上部の彫刻。西塔門の像。環濠を望む。再び西塔門を。第1回廊とナーガ。環濠に陽光が映り込む。ズームで。夕陽に映える西塔門をこれでもかと。アンコール・ワットの5個の塔をこの日の最後に。そして観光後は、民芸品店に立ち寄り、ショッピング。そして夕飯は中華料理を楽しんだのであった。 ・・・その15・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.02
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南面西側はアンコール・ワットの創健車であるスールヴァルマン2世の行軍が描かれていた。レリーフの案内表示板。南面西側の第1回廊。写真のやや右側に座っているのがスールヴァルマン2世。アンコール・ワッを建造した王。建設当時はレリーフの王の姿は金箔で覆われていたという伝承もアルのだと。周辺にかすかに残る朱色は当時の彩色であると。象に乗って戦いに赴くスールヴァルマン2世。さしかけられた日傘の多さが地位の高さを物語る。戦いに赴くスールヴァルマン2世。神の象徴である先の尖った三角の帽子を被っている。象に乗るスールヴァルマン2世。象に乗り弓矢を引くスールヴァルマン2世。その下の行軍の中にはシャム(タイ)の傭兵もいる。ニヤニヤしている兵士の姿も。南面東側は詳細な『天国と地獄』の描写。地獄の光景には思わず恐れおののく程。閻魔大王「ヤマ」。南面東側の天井。天国。上段:天国と下段:地獄。上段は「駕籠に乗り運ばれる王」。エンマ大王が剣を突きつけて判決を下している場面。顔が崩れてしまっているが。舌を抜かれる人。串刺しにされた人。全身に釘を刺される人。草地で戯れる?猿。第1回廊の東面南側。デバター(女神)。東面南側は『乳海攪拌』。92体のアスラが頭側を、88体のデーヴァが尻尾側を曳いて、大海をかき混ぜている。ビシュヌ神の頭上には、インドラ神?と144人のアプサラスが舞い、足もとの水中には、ワニや魚が泳いでいる。ヴィシュヌ。中央にヴィシュヌ、その下に彼の化身の亀クールマがいる。ヴァースキを引っ張っているアスラが左側に、神々が右側に描かれている。化身の亀クールマ。天女アプサラス。デバター。第2回廊を見上げる。第1回廊と第2回廊の間の東面より第1回廊を見る。草を刈る係員。添乗員から説明を聞く我が旅友達。第2回廊から第1回廊を見下ろす。観光客との記念撮影の商売をする人たち。第3回廊東免南側を見上げる。第3回廊南面北側を見上げる。第3回廊に上がるにはこの場所に仮設された階段を上がるのであったがこの日は混雑しており、角度的にも危険が多いから我慢して欲しいとの添乗員からの話があり諦めたのであった。第3回廊への中央階段。ヘアスタイルの違う4体のデバターが並ぶ(第2回廊内側東面)第3回廊への南面階段。第1回廊には夕陽が差し込み反射して輝いていた。第3回廊南東角を見上げる。このデバターは他のものより彫りが深い。6体のデバターが並ぶ。夕陽に輝いて。第2回廊外面の十字回廊近くではにはデバターが14体並ぶ。第2回廊の外から夕陽に輝く第3回廊を見る。頭の上の飾りが賑やかなデバターも。頭の飾りをズームで。連子窓の影が。 ・・・その14・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.01
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ホテルの部屋で2時間ほど休憩した後に15時出発で『アンコール・ワット』の観光に向かう。バスに一番乗りしたが横に3座席の豪華なバス。私は最後部の4座席を一人占め。2007年にオープンした4つ星ホテル・PACIFIC HOTELの前を通過。そしてシェムリアップ空港前を通過。アンコール国際空港(Angkor International Airport)との愛称もある国際空港。日本の羽田、成田からの直行便もあるようだ。しかしながら空港前の道路には未舗装部分もあった。翌朝の気球による観光も客を待っている模様。英語とフランス語でWELCOM、BIENVENUEと。そしてアンコール・ワット手前の大型バス駐車場から徒歩にてアンコール・ワットに向かう。「果物の女王」と呼ばれるマンゴスチンであろうか?バナナ、スイカも売られていた。そしてアンコール・ワットが正面に。5つの尖塔のうち3っつが堂々と。大きなリヤカーに様々な生活用品を積んで移動販売中。西参道正面。西参道は修復工事のため、2020年頃までは閉鎖とのこと。日本の上智大学が遺跡を管理するアプサラ機構と共同で西参道の修復工事を行っていると。西参道の7つの頭を持つ巨大なナーガ(多頭の蛇神)。右手のシンハ像(獅子像)の頭が欠落。正面右側のナーガとシンハ像。アンコール・ワット(Angkor Wat)は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表する寺院。ヒンドゥー教寺院として作られたが、16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在も上座部仏教寺院となっている。サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれているのだ。修復工事中の為、通行禁止となっている西参道を斜めから見る。そしてこちらが仮設の浮き橋。西参道と右手に西塔門。西参道の約50m南に仮設された浮き橋。西参道の修復工事期間中はこの浮き橋を使ってアクセスするのだ。浮き橋の路面。西塔門前には椰子の木が。周壁の正面には3つの門があり、右側にある「ゾウの門」。「ゾウの門」から内部に入る。ゾウの門の柱には弾丸の痕跡が残されていた。1972年、カンボジア内戦によって、寺院はクメール・ルージュによって破壊されのだと。聖池に向かい経蔵を振り返る。当時『経蔵』には、聖典や書物が収められていたのだと。5塔がはっきりと。南側の経蔵を再び。聖池の水面に映るアンコールワット。十字テラスから正面参道に進む。更に進むと中央祠堂の3塔が見えて来た。第1回廊 西面南側。アンコール・ワット中心部の案内図。の図はアンコールワットの平面図で、下が西になる。第一回廊のレリーフが素晴らしいといっても、四周すべてが見どころかというと、そういうことではのようであった。西面(左:ラーマーヤナ、マハーバーラタ)と南面(下:スールヤヴァルマン二世の行軍)、そして東面の南側(右の下半分:乳海攪拌)は素晴らしいレリーフであると。逆にそれ以外は彫りが粗く、後日中国人に彫らせた部分があるとも言われているのだと。立体配置図。 【http://jiyuseikatsu.web.fc2.com/ang01angkorwat2.htm】より第1回廊の女神デバター。昔は人々が手で触って、その手の油で黒ずんでいるのであろう。こちらにもデバター。こちらも胸、胴体が黒く光っていた。アンコールワット 第一回廊の西面南側のレリーフは『マハーバーラタの戦闘場面』第一回廊は東西200メートル、南北180メートルで、多くの彫刻が施されているのであった。第一回廊の西面(南側)「マハーバーラタの戦闘場面」「マハーバーラタ」とは神々をもまき込んで展開するこの壮大なカウラヴァ軍とパーンダヴァ軍の王位継承をめぐる天下分け目の戦いの叙事詩。そのクライマックスの戦闘場面が94mに渡る壁画に描かれていると。左から攻めるカウラヴァ族と右から攻めるパーンダヴァ族の軍が細かく描かれているのだと。「マハーバーラタ」の壁画の横には長い回廊が続き、柱などに施されているレリーフも見応え十分。壁面に向かって左側から進軍しているのがカウラヴァ軍。両軍とも指揮官は馬車に乗り、その下に歩兵が描かれている。整然とした行進である。カウラヴァ軍の楽士が“ドラ”を鳴らしながら進軍中。指揮官の王子達は馬車(シャリオット)に乗り、片足で舵棒を操る横向きのポーズで。第1回廊 天井部。槍と盾を持ちゾウの上に立つ姿が。楯と槍を振りかざす。馬車に乗る指揮官の姿が至る場所に。両軍が、中央で激突している。まさに両軍入り乱れての大乱戦。迫力ある戦闘を描いたレリーフ。こちらにも楯と槍を振りかざす場面が。右側から進軍してくる「マハーバーラタ」の主役アルジェナ王子率いるパーンダヴァ軍。一緒に進軍している象もいきり立っているのであった。カウラヴァ軍の勇者ドロナの姿。右側から整然と進軍するパーンダヴァ族。勝利に酔う兵卒の隊列か?18日間の死闘はクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)の力を借りたパーンダヴァ軍の勝利で幕を閉じたと。 ・・・その13・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.31
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『タ・ケウ』タ・ケウは、アンコール遺跡の1つ。「クリスタルの古老」の意味を持つ。10世紀末にジャヤヴァルマン5世により建設が開始されたが、王の死去により未完成のまま放置された。山岳型のヒンドュー教寺院で、構造は東西120m、南北100m、5層の美しいピラミッド型。未完成のまま放置された寺院の遺跡であるが、現段階で中央祠堂は地上20m以上の高さにあり、完成していればピラミッド型寺院の中では最大規模のものになっていた可能性が高かった寺院。『スピアン・トマ』スピアン・トマは、カンボジアのアンコール地域にある「石の橋」として知られる。現在に残るいくつかのクメール王朝時代の橋の1つであり、タ・ケウの西に位置する。『勝利の門』を潜る。アンコール・トムの東門は二つあり、死者の門と勝利の門。戦いに勝利した戦士たちが凱旋した時に通ったのがこの勝利の門。勝利の門の上には、アンコール・トムの他の門と同様、東西南北の四面に観世音菩薩の大きな顔の彫刻が。勝利の門を抜けると正面には『象のテラス』が見えて来た。象のテラスの中心で、王様のテラスと呼ばれている場所。 王様のテラスの部分は象ではなく、ガルーダが支えていた。 象のテラスに近づく。象のテラスの前で右折してまっすぐ進みと、アンコールトムの北門が見えて来た。北門を潜ると道路の両側には、阿修羅が大蛇(ヴァースチ)の胴体を引き合う姿が。そしてニャックポアンの人口池沿いを走る。ニャックポアン入口近くにバスを降り、ニャックポアンに向かう。両側には土産物売り場が並ぶ。何の種であろうか????NHAN (龍眼)の様にも見えたが。人口池に立つ木々。立ち枯れの木々?が幻想的な様子は上高地の大正池の如し。ニャックポアンに向かう木製の一本橋を進む。小さな白き花が一面に。ガガブタ(鏡蓋)の花。ガガとは鏡のこと。(ガガは影から来て鏡のこと)池の面を表していると。それにハート型の葉でフタをしてしまう。・・・で、ガガブタ(鏡蓋) と。 白い花弁の周辺は細かく裂けていて、もじゃもじゃ?の白い花を咲かせていた。一面に毛が生えたような見かけになっている花。花の中央部は黄色。枯れてしまった樹木なのであろうか?スイレンの白い花。池と石積みの遺跡が正面に。正面の北小祠堂の後ろに中央祠堂が立つ。ニャックポアン配置図。4つの結合する池は、水、土、火、風を象徴する。それら4つの癒しの池はそれぞれ中央の水源である主水槽と石の水路によって繋がれ、四大獣 (maha ajaneya pasu)、すなわちゾウ、ライオン(獅子)、ウマ、ウシ(牡牛)が、それぞれ北、南、西、東の方向をつかさどる。 【ウィキペディアより】 そして正面に中央祠堂が立つ。敷地には一辺70mの正方形の聖池「ジャヤタターカ」があり,その中央のあたかも宇宙に浮いているような島に円形の中央祠堂が建てられていた。 中央の聖池は,病を癒す不思議な聖水を湛えたといわれるヒマラヤの聖湖「アナヴァタプタ」(現在の西チベットの聖山,カイラス山の南に位置するマナサロワール湖を指すものと推測される)を象徴するものとのこと。 中央聖池の水は,人間(東),獅子(南),牛(西),象(北)の頭部の彫刻を通って27m四方の正方形の池に流れ出る構造になっている。 これら4つの彫刻は,聖湖から流れ出るインドの四大河(諸説あるが, 現在のインダス川,ガンジス川,パキスタン領内を流れるサトレジ川,アッサムからバングラデシュに流れるプラマプトラ川などが有力)を象徴したものと。アンコール朝最盛期のジャヤバルマン7世が作った当時の病院ニャック・ポアン。観世音菩薩の化身、ヴァラーハ(Balaha)。天を駆ける神馬の下部には18人がしがみついていると。水位が高く、神馬の下部にしがみついている18人の姿は見えなかったが、水位がないと下の写真の如く見えるようだ。人食い鬼女から逃げる船乗りらを救おうとする彫像であると。 【http://www.ja6ybr.org/~jf6dea/hsrpt/xu/xurpt310.htm】より。北小祠堂を横から。東の小祠堂中央祠堂を斜めから。基壇の周りを取り囲むヘビ(ナーガ)の頭だけが水面から頭を出していた。円形の基壇の東側で分かれる2匹が、西側で尾を絡ませているようだ。neak(ニャック)はサンスクリットの naga のクメール語訳であるとのこと。よってニャック・ポアンとは「絡み合う2匹のナーガ(蛇)」という意味。西の小祠堂方面を見る。小池の横の林の中にも祠が。祠の内部。再び一本橋を戻る。1本橋からの風景を楽しむ。大量の椰子の実が。そしてバスに乗り、オールドマーケットに向かう。バスの窓からパゴタ・Wat Damrei Sencheyが。その先には最近建てられたであろう四面仏が。ズームで。四面仏の門を潜り左折して進む。窓から観光用の気球か?。街の中に入っていく。1991年よりスイス人のリヒナー医師によって再建された子供のための病院がカンタボパ小児病院。施設はプノンペンに四箇所、シェムリアップに一箇所あり、カンボジア人だけでなく外国人を含むすべての16歳未満の子供を無料で診察し、その運営費の多くは寄付金で賄われていると。リヒナー医師は、スイスで小児科医の免許を取得後、1947年にスイス赤十字を通じてプノンペンのカンタボパ小児病院に派遣された。しかし、クメール・ルージュのプノンペン占拠により強制帰国を余儀なくされた。その後、内戦が終了した1991年、ノロドム・シアヌーク前国王とカンボジア政府の要請により、リヒナー医師は再びプノンペンに戻ることになり、病院の再建にあたったと。CAMBODIA Beer の文字が。アンコール国立博物館。シアヌーク元国王像。シェムリアップ川沿いを走る。寺院:Wat Preah Prom Rath(ワット・プリア・プロム・ラス)入口。1915年建立、古いお寺である。そして『オールドマーケット』につき散策開始。肉類、海産物、フルーツなどの食料品や衣類、食器などの雑貨類など現地の人々の生活に密着したものを売っている市場。また観光客向けの土産類もたくさん売っていた。魚肉の干物売り場。衣服売り場。SILK製品売り場。香料やドライフルーツ売り場。カンボジアは世界有数のコメどころだけあって、たくさんの種類が売られていた。衣類や様々な土産物も。広島カープの大ファンの旅友の土産に真っ赤な帽子を購入、私用は同じ柄の黒の帽子を購入。オールドマーケット前のシェリムアップ川。そしてこのひの昼食は『Tropical Restourant』で。この日のメニューはタイスキ。暑いカンボジアで鍋料理とは不思議でしたがなかなかの味。店のスタッフが鍋に具材をどんどん入れてくれた。野菜、肉、きのこ類、つみれ、豆腐、ビーフンのような物など具たくさんの鍋。まずは肉類を入れて。野菜も豊富な鍋料理。ビールも飲みながら。そして〆には卵、ごはんを入れて雑炊にして。デザートはマンゴー。そして1km程離れた我がホテルに戻り2時間ほどの休憩タイム。 ・・・つづく・・・
2018.10.30
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デバター像をカメラで追いかける。浸食に負けずに。微笑みのデバター。樹木の隙間からデバター像が覗く。ズームで。チラリと覗く女神デバターのレリーフ。祠堂の中の回廊を歩く。上部から多くの根がぶら下がり血管のように絡まる根そして木。彫りが深く、妖艶なデバター。こちらも。中央祠堂の近くには、スポアンの根の上にさらに別の植物の根が張り巡らせ毛細血管の如し。この周辺にには彫りの深い数々のデバターが。こちらの祠堂、塔の下部は比較的保存状態が良く。ひたすら祈るデバダー。塔とガジュマルを再び。中央祠堂の南西側の回廊を踏みつけ今にも押しつぶしそうな光景が。太い根っこが複数垂れ下がり、今にも動き出し遺跡を食い尽くそうとするかのように、絡まり、枝を分け、立ちそびえる巨大樹。遺跡とのコントラストが何とも言えない風景。こちらは清楚なデバダー。こちらは瞑想にふけって?。この一角は中庭の如し。再びデバダーを追う。見事な冠のデバダー。添乗員がここを見ろと。古代の恐竜「ステゴザウルス」?の彫刻であると。この時代に「ステゴザウルス」が生きていたのか?、はたまたこの時代にはすでに恐竜の事を知る術があったのか?、全く違う動物なのか?。今となっては誰も知ることができないが、そんな神秘がたまらないのであった。「ステゴザウルス」の上には「人」「牛」、下には鳥、右には「鹿」らしき彫刻も。こちらは獅子?ヒンズー教徒によって彫られたのであろう、祈る姿が再び。東門の北東面にあるレリーフ。阿修羅が瞑想するお釈迦様の邪魔をするので、ロムサイソーという名の長い髪の女の子が、池の水を長い髪の毛で吸い上げその水を瞑想場所の周囲に移して、阿修羅が入ってこられないようにしたと言う伝説があるのだと。上座の位置に、蓮に乗る長い髪の女の子。上空には、飛天が舞う。再び東側の入口の東門に戻る。壁の上には砲弾の如きものも。そして修復工事の過程を説明するパネルが。修復前(上)の修復後(下)の写真。東側入口の塔門への参道の修復前(左)の修復後(右)の写真。 ・・・その11・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.29
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3日目の最初の観光場所はタ・プロム寺院。バスにてチャールズ・デ・ゴール通りを走る。途中、右手に昔のアンコール・ワットのチケット売り場が残されていた。昔はこんなに小さかったのだと添乗員が。途中、小型のマイクロバス2台に乗り換えて更に進む。左手にアンコール・ワットの外堀を見ながら進む。そして右手にタ・プローム寺院の周壁が見えて来た。そしてタ・プローム寺院の『東塔門』前に到着しマイクロバスを降りる。タ・プロームの意味は梵天の古老(ぼんてん:仏教の守護神)とのこと。タ・プローム寺院はアンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内のひとつで、12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤーヴァルマン7世が母の冥福を祈るためにと。入口にはカンボジア国旗と共に、タ・プロームの修復を担当しているインドの国旗が示されていた。『東塔門』を見上げる。東塔門を潜る。崩壊した物を復旧したとのことで、支保工パイプが所狭しと。そして東塔門を出て振り返る。塔の面に彫られている人面像バイヨンの四面像人面像は観世菩薩像を模しているというのが一般的な説である。しかし戦士をあらわす葉飾り付きの冠を被っていることから、ジャヤーヴァルマン7世を神格化して偶像化したものであるとする説も存在する。また21世紀に入り、3次元化と解析によりヒンドゥー教の神々を表しているという説も出たのだと。タ・プローム配置案内図。タ・プロ-ム寺院はアンコール・トムの東側に位置する寺院遺跡。東西1000m、南北700mという広大なラテライトの壁に囲われた中に建っていた。大木の中を現地添乗員の後を進む。ここでは当初、5000人近い僧侶と600人近い踊り子が住んでいたのだと。仏教寺院として建てられたが、後にヒンドゥー教に改宗したものと考えられていると。カンボジア語でスポアンという木(ガジュマル)。東門が正面に見えて来た。東門を潜りながら上を見上げる。美しい彫刻が。両脇にナーガそして前方に『前柱殿』その先に東側入り口の塔門。ナーガの胴体を支える柱にも彫刻の跡が。胴体も修復が繰り返されていることが理解出来た。東側入口の塔門。塔門の右手。東門の壁面に立つ美しいデバターに感動。左手は崩壊していた。振り返る。左方面に進むと巨大木が途中から伐採されていた。この大木は弱っており強風等で倒れると、この根と共に石積みの遺跡が崩壊する可能性があるために伐採したのだと。見事な彫刻がここにも残っていた。合掌する多くの仏が並んでいた。植物や動物の姿も。遺跡の上にスポアン(ガジュマル)が。そして遺跡は多くのパイプで支えられていた。壁を飲み込む巨大木出現。崩壊が刻々と進んでいるのであった。インドによる復旧、復元作業が行われていた。巨木の根が遺跡を締め付けているが如し。熱帯の巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論があるのだと。現在、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続中であるとのこと。懸命に耐えている祠堂。デバター像。正面の祠堂の中を潜る。塔が姿を現す。こちらは遺跡を覆うように根が生えていたのであった。苔も生えて。タ・プローム寺院には39の祠堂(しどう)、塔がある。その中のここ中央祠堂北東側に建つ祠堂内では、合掌の後に胸を叩くと反響してエコーが響くのであった。旅友もTRY。胸以外のところをたたくとひびかないのが不思議。低音に反応する部屋の構造となっているようであった。悩みがあるときに人々が来て胸をたたいたとか、病気かどうか調べたとか、うそをついていないか調べたなどいろいろと説があるのだと。完全に呑み込まれた遺跡。建造物を自然の力が押しつぶしていく過程をまざまざと見ることが出来たのであった。真に大木が遺跡を侵食している光景そのもの。美しいデバター。 ・・・その10・・・その戻る ・・・つづく・・・
2018.10.28
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3日目のこの日も元気に起床。時間は6時前。3006号室の部屋のカーテンを開けると、東の空が赤く染まっていた。前の建物を入れて。そしてこの日の太陽が姿を現した。時間は6:02。私の部屋の絵画のスイレンの花に私の影が映って。6:30からの朝食に向かう。中庭のプールの横を歩く。MEALEA SPA & FITNESS CENTER は ホテル内のスパ。ヨニ台に立つ『リンガ』。円柱形のリンガはヒンズー教の神シヴァ(男性)の象徴、 台座のヨニはシヴァ神の妃ドゥルガー(女性)の象徴といわれ、この2つの組み合わせは、繁栄や豊かさ、平和、不死などを意味しているのだと。男性のシンボルの如き先端に仏の姿が。プールサイドには、 山頂や登山道などの道標となるように石を円錐状(ピラミッド型)に積み上げたケルンの如きものが。シュロの実であろうか?蓮の花。そしてホテル内のレストランで朝食を楽しむ。この朝もフォーを楽しむ。パンと果物。ドラゴンフルーツ、スイカ、miniバナナ。そしてホテルの外に出て散策。早朝のスコールも幸いにも既に止んでいた。ホテルを正面から。正面にライオン像が狛犬の如きに。大蛇ナーガヴァースキの長い胴体を引っ張りあう神々の姿。この日訪ねた世界遺産である石造伽藍アンコールワット遺跡の第一回廊におよそ百mに及ぶ「乳海撹拌」の壁面彫刻に似た姿。横から。先頭の4面仏。その後ろに続く神々達。ライオンの像。横から。中央に鎮座する仏様。愛くるしい象の姿も。『EMPRESS ANGKOR HOTEL』。象の姿と中央の仏様を斜めから。これもナーガのレリーフか?仏様が多くの場所に鎮座。こちらにも鳥と仏様の姿が。美しい黄金色のデバターの像。ロビー横に安置された神棚。部屋に戻る途中に再びプールを。庭には椰子の木が。ここにも仏様が。壁面に飾られているのはアンコールワットのレリーフであろうか?こちらにも。前国王のシアヌークとシアヌーク妃そして現国王の写真も飾られていた。部屋からフロントへの回廊には壷を抱えた多くの女性仏像が。正面から。フロント前の像。ロビー内のソファーも立派。フロント。フロントの後ろの壁にはアンコールワットの姿が。 ・・・その9・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.27
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サンボープレイクックを後にし、約100km先のスピアン・プラップトゥフへ向けてバスはひたすら走る。6号線に戻り、Prey Pros湖に架かるPrey Pros橋を渡る。そしてクメールレストラン:Somros PreyPros Restaurantにてトイレ休憩。湖畔には植物の葉で造った屋根のあるユニークな形状の小屋がウッドデッキで繋がれてレストランになっている様子。プルメリアルブラの真っ赤な花。そしてバスにてシェムリアップ方面に向かう。サトウキビを運ぶ簡易トラック車を追い抜く。多くのツアー仲間は爆睡中のようであったが、私は最後部席から車窓の景色を楽しむ。パゴダ・『Wat Bakong』。そして100kmを走り抜き『スピアン・プラップトゥフ』に到着しバスを降りる。時間は15:34。国道6号線を東に進んだコンポン・クディという町に位置する、何と1000年の歴史を誇る、アンコール王朝時代に作られた石の橋。スピアンとはカンボジア語で「橋」という意味なので、直訳するとプラップトゥフ橋。クメール王朝時代の道の遺跡で最も保存状態が良いのはコンポンクディにあるこのスピアン・プラップトゥフ遺跡。ここは未だに現役の橋として活躍中。橋に至るまでの赤い土の道も残っていて、両側には食堂や飲み物を売る店、そして小さな宿屋が並んでおり、さながら日本の旧街道の様相を呈していた。橋の両側はナーガの神(蛇神・9頭)が、そしてその胴体部分が橋の欄干ともなっていた。石像の前にお線香が手向けられていることから、現在でも、地元の人にとっては信仰の対象になっているのであった。スピアン・プラップトゥフは全長が約90m、幅約16m、高さ約10mある大きな橋。シェムリアップからプノンペンへと続く道の途中にあるこの橋は、通行のためだけではなく、下を流れるチクレン川の水位を調整する機能も果たしていたとされているのだと。2006年以降車での通行は禁止されているが、バイクや自転車での通行は可能。今でも生活の為の重要な橋になっている事が解るのであった。地元住民が橋でくつろいでいる姿も見ることが出来たのであった。橋の黒い部分までチクレン川の水位が上昇することがあるのであろう。現地では一般的に『スピアン・コンポン・クディ(Spean Kompong Kdei)』と言われていると。よってコンポン・クディ橋と。地球の歩き方 P,130-131(2018-2019)にも載っていたが、名前の記載は「スピアン・プラップトゥフ」になっている。橋の右側から。ナーガ。橋の左側から。川の水量が少ない時期(乾季)には、下まで降りて行くことが出来、1960年代にフランスによって修復された跡や、橋の構造などをじっくりと観ることが可能とのこと。しかしこの日は残念ながら時間が無く、季節も雨期の最後の10月中。こちら左側の橋の袂から。フランスによって、修復されたとはいえ、700年以上も昔に造られた橋が現在でも利用できるということは、当時のクメール人の技術の高さを物語っているのであった。そしてバスはシェムリアップに向かって進む。途中バスが、路上屋台の横で一時停車した。現地ガイドがバスを降りて何かを購入。買った物は、30cm程の長さの竹が蒸し焼きされている物。バスに戻り現地ガイドが、中に入っている物が出てくるまで竹を裂いて。前方に座っていたツアー仲間が車窓から見つけ購入を依頼したようであった。添乗員から『クロラン』と言い、クロランとは、カンボジアのおやつで、竹筒にもち米とココナッツミルクと小豆を入れて炭火で蒸し焼きにした甘さはほんのりでおいしいと。カンボジアでは名物のおやつであると。旅友のご厚意でご馳走になったが、予想外に旨かったので合った。そしてバスは更にこの日のホテルのあるシェムリアップに向かって進む。バイクには4人家族が乗って。アンコールワットの入口に近づくと、道端には多くの露天商が店を出していた。こちらは靴売り場。翌日予定されているアンコールワット遺跡群を見学するためにはアンコールパス(Angkor Pass)と呼ばれる入場券が必要とのことで、翌朝の混雑を避けるため、この日にチケット・オフィスに入場券を購入に立ち寄る。写真入りのアンコールパス(Angkor Pass)販売場所に並ぶ。予約済みであったのか、それともツアー専用の窓口なのか列には我々のみ。横には個人購入の長い列が。我々が購入する3日券は、購入日から10日間以内の任意の3日間で有効で62ドル。1 DAY PASS は37ドル、7 DAY PASS は72ドル。いずれにせよ極めて高い金額。私のチケット。首からぶら下げる事が出来る黄色の紐が付いていた。(この写真は、翌日に入場時にパンチ穴が付いた後の物)そしてホテルに向かう。車窓からは果物の露点商が。途中、ラウンドアバウトの交差点の角にあった石像。翌日に訪ねたアンコール・ワットの第1回廊のレリーフ・乳海攪拌の一場面か?シェムリアップの小さな寺院・Preah Ang Chek Preah Ang Chorm。建築中の建物。日本では考えられない仮設足場。バイクのカオスが始まっていた。時間は17:15。そしてシェムリアップ郊外にある、この旅で3連泊するホテルに到着。ホテル名は『EMPRESS ANGKOR HOTEL』。到着時間は17:21。私の3連泊の部屋。枕が7個と多さにビックリ。一人でどの様に使えというのか?違う硬さや高さの枕が置いてあって、好みに合わせて変えたりできるのであろうが。そういう「不特定多数の人が泊まるところ」で、お客さんの好みに合わせるために幾つか枕があるのは解らないではありませんが。ベッド上のベッドスローの上にはWELCOME GOODSが。中に入っていたのは、粒コショウがビニール袋に入って。そしてホテルのレストランで夕食。時間は18時過ぎ。こちらは4人でシェアー。スープ。メインディシュは撮り忘れていました。デザートはカボチャプリン。この日のカボチャは甘く美味しかった。中庭には大きな屋外プールが。バスルーム。洗面台、シャワー室、トイレ。バスタブも大きく。そしてこの日もテレビそして撮った写真を確認しながら、ウィスキー片手にしばしの一人反省会を。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.26
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王宮&シルバーバゴタの観光を終わり、バスに乗り約200km、3時間半の移動を開始する。左手に先程訪ねた王宮の『チャンチャーヤの館』をバスの車窓から。昨夜宿泊したホテルの前を通りトンレサップ川沿いを上流に向かって走る。モスク・Masjid Nurunnaim (K.M 8 Cambodia)トンレサップ川に架かるプレップ・ポブ橋を渡る。トンレサップ川の水上住宅。こうした水上コミュニティには実はカンボジア人ではなくベトナム系の住民が多いと。国道6号線の湿地帯を北に向かって走る。このカンボジアの国道6号線は、首都プノンペンからタイ国境に至る全長447kmの主要幹線道路。しかし、一部の区間では維持管理が十分ではなく、舗装がはがれた部分もあるなど、緊急的な改修が必要となっていたのだと。2000年以降に未改修となっている約17.5kmの区間において道路の改修と3橋梁の架け替えを日本がODAとして支援したのだと。プノンペンのガソリン価格。レギュラーガソリンは4200リエル、×0.028=118円/L。日本より35円/L程度安かった。カンボジアのガソリンスタンンド?ペットボトルやビンに入れて、道端で販売。 プラスチックは静電気が発生しやすいので危険なはずだが。最初はハチミツか飲料を販売していると見ていたのですが・・・・。この辺りは多くの石仏が。石材屋の多い部落か。現代のシャカの生地はネパールのルンビニではなく、この村であると添乗員から。様々な形状の門が道路脇に。セン川を渡る。カンボジア中部を流れる全長約 320kmの川。同国北部、タイとの国境をなすダンレク山脈に源を発しメコン川とほぼ並行してその西を南流し、トンレサップ湖南東端部に注ぐ。この日は長距離移動のため昼食はおにぎり入りの和風弁当をバスの中で楽しむ。そしてサンポープレイクックに到着。時間は12:58。チケット売り場で添乗員が入場チケットを購入。入口の湿地帯には紫の小さな花が一面に。アンコール(クメール)王朝から遡ること数百年、古代国家「真臘(しんろう)」時代の遺跡であるサンボープレイクック遺跡群。森の寺院と称されるサンボープレイクック遺跡群は、数々の貴重なレリーフと共に木々のなかで今もひっそりと佇んでいた。「真臘(しんろう)」とは6~8世紀頃に存在した古代国家で、7世紀初頭に「イシャナプラ」を首都として栄えたといわれ、サンボープレイクック遺跡群はその当時の建築物と考えられていると。古代国家「真臘(しんろう)」はカンボジアでは、「チェンラー」と呼ばれていたと。この時期、日本では飛鳥時代にあたり、聖徳太子の政治や法隆寺建立(607年)、さらに大化改新(646年)などがあった頃。日本が律令国家に向けての国造りに邁進していた時代、カンボジアではのちの東南アジア最大の国家建設につながる道程にあり、それまでに類を見ない大都城が出現していたのだ。入口で現地説明員がバスに乗り込み説明してくれたが、我が添乗員がクメール語を日本語に通訳。「豊かな森の寺院」を意味するサンボープレイクックは大きな3つの遺跡群「プラサット・サンボー」、「プラサット・タオ」、「プラサット・イエイ・ポアン」とその周囲に散在する100を超える遺跡からなるのだと、現地説明員から。世界遺産登録証。アンコール遺跡群、プリア・ヴィヘアに続き2017年7月にカンボジア第3の世界遺産となったプレアンコール遺跡。7世紀頃にイサンバルマン一世王により建造。広さは25平方キロメートル、中心部と多くの寺院が壁に囲まれ、そのうち10個は東南アジア特有の八角形をしている。また、敷地内の砂岩はアンコール時代の装飾を象徴し、サンボープレイクックのスタイルとして知られると。ここでの芸術や建築が、他の地域のモデルとなり、アンコール時代に特徴的なクメール様式の土台となったと。サンボープレイクックの発見から世界遺産に登録されるまでの経緯が説明されていた。サンボープレイクック遺跡群の全体配置図。遺跡には木の根っこが絡みつき樹木の力を物語る。石や煉瓦の隙間に入った種子が成長し、大樹となって遺跡を包み込んでいるのだ。樹木は、本当は遺跡の破壊者なのかも知れないが、同時に、今にも崩れそうな構造を辛うじて支えているのも事実であろう。樹木の根が包み守っているようでもあり、中の遺跡が見えなくなるほどに、がんじがらめに締め付けているようでもあった。人間の創造と自然の営みとが、争いと和解の末に渾然一体となって存在するかの如き姿に、不思議な畏敬の念を覚えたのであった。仮設のトタン屋根で保護された遺跡。雨から守ることで崩壊を防ぐのが目的なのであろうか?この遺跡を後ろ半分が無いことが分かる。なんでもヘレニズム文化に影響された彫刻があるので特別に保護しているとのこと。レンガ造り主体の祠堂が多数残っており、その中でも「空中宮殿」と言われる美しいレリーフが残っていた八角形の遺跡。宮殿と思われるレリーフの一番下、床を支えるようにグリフォンが支えていることから「空中宮殿」と呼ばれるようになったとか。このレリーフは遺跡の入場チケットにもプリントされているのであった。貴重なレリーフ「空中宮殿」。直射日光があまり当たらない北面側の保存状態が比較的良いと。サンボールプレイクックの幾つかの煉瓦造りの祠堂には、「空中宮殿」の彫刻によって壁面が飾られていた。宮殿の一番下では、羽のついた人や馬などが宮殿を支えて様に見える。宮殿の中央には印を結んだ人物が上半身を覗かせている。彫刻の一部には、漆喰の跡や彩色の跡があり、建設当時は外壁に漆喰が塗られ、彩色されていたのであろう。四角形の塔。塔入口。塔入口の彫刻。上を見上げる。内部の神棚。そして下にある四角形の横にあるのが『リンガ』?。その横にあったのが『ヨニ』。中央にあるべき『リンガ』自体はこの場所からは失われていたが。ヒンズー教の象徴で、リンガとヨニと呼ばれている。<br>中央にあるべき円柱形のリンガはヒンズー教の神シヴァ(男性)の象徴、 台座のヨニはシヴァ神の妃ドゥルガー(女性)の象徴といわれ、この2つの組み合わせは、繁栄や豊かさ、平和、不死などを意味していると。四角いヨニの真ん中に、リンガが嵌まり込むように正四角形の穴が下まで突き抜けてあいているのだと。また、穴の周りは、儀式の際にリンガに注ぐ聖水を流す溝が掘りこんであり、四辺の一箇所は、溝がついた突起部があった。男性のシンボルの形をしたヨニの先から流れ落ちて聖水となった水を使って、身を清めたのだと。この塔の壁面のレリーフもしっかり残っていた。帰国後調べたら、この遺跡のレリーフが一番保存状態が良いのではと書いてあるページが。盛り上がった場所に立つ遺跡。観光客もまだまだ少ないこともあり、未だ森の中に眠り続けているような神秘性をも感じさせる、いにしえの都・ サンボープレイクック。屋根の部分には雑草が生い茂っていた。プラット・タオ(Cグループ)の遺跡群の説明板。前方に塔が姿を現す。中央エリアのプラサット・タオ。正面入口の両脇に立つライオン像。クルクルとした鬣(たてがみ)で大きく口を開けて叫んでいるが如し。土台の石と一体構造。C1塔内部。黄金の神棚。塔内部から上を見上げる。天井に向かってぎっしりと積み上げられたレンガは、現代のサイズよりもずっと大きく、製造方法には謎が残るのだと。ライオン像を後ろから。尾を頭の後ろまで上げていた。扉の閉まられた塔。入口上の見事な彫刻。正面から。四角形の塔がここにも。プラサット・チュレイ(「N18」)Nグループ(プラサット・サンボ―)の北側にある建物。樹齢約200年の木の根が絡み付いていたのであった。N17の建物は新しく見えるが、初期に造られたとされていると。爆弾により?かなりの崩壊が進んでいた。弾痕とのこと。内部の像。そしてサンボープレイクックからの帰路に、添乗員から今通過している村に「アツ小学校・中学校」があるのだと。日本の中田厚仁さんは、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC )の下で厳戒下のカンボジアがはじめて民主化に向けた総選挙が予定されていた。その選挙監視員としてボランティアとして活動中、何者かによって銃撃されて1993年4月8日25歳という若さで死亡したのであった。中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地であったが総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々を統合して新しい村が作られたと。彼らは、1995年この村を「ナカタアツヒト・コミューン」と名付けた。村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいると。この村が1998年に洪水により水没した時、中田厚仁さんの父、武仁さんは募金を募り渡そうとしたが村長は「私達は作物が水に浸かってしまい、食べる米が欲しい。しかし、今食べる事よりも将来のためにそのお金で学校を作ってください。」と希望され小学校が建立されたのだと。現在では中学校も併設されて村の生徒がここで勉強に勤しんでいるのだと。そして中田厚仁さんの残した言葉の一つに『だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。』と添乗員から。「アツ小学校・中学校」そして中田厚仁さんの墓も校庭奥にあるとのことで是非訪ねたかったが残念ながら・・・。 【http://roots-osaka.com/action/guest-house/blog67-atsuhitonakata/】より ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.25
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王宮とシルバーパゴタの間の小路を進み、シルバーパゴタへ。シルバーパゴダ。王宮の南側に隣接する壮麗な仏教寺院。今から約100年前に建立された王立の寺院で、伽藍(がらん)に銀のタイルが敷き詰められていることから、こう呼ばれる。内部には、数千個のダイヤがちりばめられた黄金の仏像やエメラルドの小さな仏像、仏陀の聖骨が納められているという精密な彫刻が施されたストゥーパ、仏陀の生涯を表した小さな黄金像、聖牛ナンディンの像などが安置されている。1902年に王室の菩提寺として建立。1962年に大理石の柱をもつ現在の建物に再建された。名称は、床面に5000枚以上の銀のタイルを敷き詰めていることに由来する。スイレンの青き花。シルバーパゴタ 配置図。敷地をぐるりと囲んでいる回廊には、東南アジア一帯に伝承されてきた叙事詩「ラーマーヤナ」のフレスコ画が642メートルに渡って描かれていた。ラーマーヤナとは、魔王に攫われ(さらわれた)たシーター姫を勇敢なラーマ王子が救い出すというインド発祥のラブストーリー。回廊手前で、補修中なのかシルバーパゴタ側は黒いネットで覆われていたが奥の方は観ることが出来た。図書館(右)とシルバーパゴタ。巨大なストゥーパ。図書館。ノロドム王の騎馬像が中央に。ノロドムはカンボジアの国王(在位:1860年10月19日 - 1904年4月24日)。カンボジア近代史の始まる時期に在位したが、治世の初めは隣国シャムとベトナムから圧迫を受けた。その防御のためフランスに保護を求めた結果、カンボジアはフランス領インドシナに組み込まれることとなったが、ノロドム王のとった行動は、隣国に呑み込まれて消滅する危機からカンボジアを守ったと国民には信じられているとのこと。ノロドム王の騎馬像を横から。ズームで。シルバーパゴタよりノロドム王の騎馬像と両サイドにストゥーパを見る。靴を脱いでシルバーパゴタの中へ。エメラルド製の仏像や等身大の黄金のブッダ像、宝石を散りばめたシャンデリアが内部空間を彩っていたが、残念ながら中は撮影禁止。内部の見学を終え、靴置き場に。再びシルバーパゴタの外観。カンボジアの首都プノンペンのシンボルとも言われる「シルバーパゴダ 」は、王宮とともにカンボジアの紙幣にも描かれていたのであった。大理石の柱がクメール様式の屋根を支え、床は銀のタイルが敷き詰められていた。カンタ・ボーファ王女のストゥーパ。王家式典の館。スラマリット王のストゥーパ。カンタ・ボーファ王女のストゥーパ。アンコールワットの模型。反対側から。シルバーパゴタの出口に向かう。2つのストゥーパを。樹木を囲んで多くの石仏が。別の角度から。沙羅双樹の花。クメール王朝の地図。クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。伝統音楽の演奏が行われていた。ジャヤーヴァルマン7世は、クメール王朝の国王。クメール王朝初の仏教徒の国王であり、仏法で国を統治する転輪聖王となることを志して、戦乱で荒廃した国の復興を目標としていた。 彼が行った慈善事業は高く評価され、また数々の軍事遠征を実施する好戦的な性格も持ち合わせていた。寺院だけあって、敷地内にはノロドム王、アンドゥオン王など歴代の王様を祀ったストゥーパや仏像も建てられていた。仏像の四肢が欠けているのは、神仏像に高価な宝石を埋め込む習慣があったことから本来は崇拝の対象である神像が盗掘行為の対象になり、金儲けの盗人によって持ち去られてしまったかららしい。腕無し足無しはまだしも、首だけ仏像や首無し仏像など、日本では不気味がられて敬遠されるような形のものもこの地では信仰の対象になるのだと。沙羅双樹の花を手に持つ石仏像。こちらにも小さな社?王家の写真展示館に向かう。多くの末社の如き建物が並んでいた。王家の写真展示館。王家の写真。若かりし頃のシアヌーク殿下。象の像が。そして王宮、シルバーパゴタの見学を終え、出口から駐車場へ。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.24
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プノンペンの『ワット・プノン』の観光を終え、次の観光地の『王宮』にバスで向かう。メコン川とトンレサップ川が合流地点にある『ソカ プノンペン ホテル&レジデンス(Sokha Phnom Penh Hotel & Residence)』を再び左手に見ながら進む。『Botumvatey Pagoda』王宮南のワットボトムパークのすぐ横にある寺院が右手に。旅行ガイドブックではワット・ウナロムと表示されていた。ワット ウナロムはカンボジア仏教の中心的役割を果たす寺院。1440 年代に建立されたワット ウナロムは、プノンペンに現存する 5 つの僧院の一つ。カンボジアのマハ ニカーヤ派の総本山であり、国内でも最も重要な高僧が在職していると。ウナロム寺院は合計 44 の建物で構成。かつてここには 500 人の僧侶が生活し、仏教研究所の図書館には 3 万冊を超える書籍が所蔵されていたのだと。ところが、1974 年にクメール ルージュが首都プノンペンを陥落させた際に、ワット ウナロムも大部分が破壊されてしまったと。現在、この寺院は見事に修復されていたのであった。そして『王宮』の『チャンチャーヤの館』をバスの車窓から。1913年に建立されたかつての木造寺院。壁を使わない構造で、夜には月の光が奥まで差し込んで来るので別名“月光殿”。王宮のランドマーク的な存在で、バルコニーからはソティアロス通りが望まれると。国王が演説する際の演壇に使われることもあると。『チャンチャーヤの館』の前の公園には元国家元首のシアヌークの奥様のノロドム・モニニヤット・シハヌーク妃の写真が飾られていた。年齢 82歳でご健在とのこと。王宮の駐車場に到着しバスを降り入口へと向かう。金属製の門には象の姿も。王宮の塀沿いを進む。屋根の先がここでも天に向かっていた。死者の魂が天空に上がって行くのであろうか?王宮にはシルバーパゴダ前にある共通の入り口から入場。フランス人の建築家が関わっているためか西洋風。扉には合掌する仏の姿が。『王宮(THE ROYAL PALACE)』の配置図。膝が見える短パンやスカート、タンクトップやノースリーブシャツ、大きなリュックや危険物の持ち込み、着帽での入場は不可と。多くの白の仏像が迎えてくれた。ドヴァラパーラ(門番)の如き像も後ろに。沙羅双樹の木。沙羅双樹の赤い花。熱帯の花らしく、派手な赤い色をしていた。そして王宮の中でもひときわ目立つ黄色い屋根の建物の『即位殿』の姿が現れる。『宴会ホール』。王宮・即位殿に近づいて。即位殿の尖塔。即位殿は幅約30m、長さ約50mあり、黄金の尖塔は59mの高さ。四面仏顔がはめこまれた尖塔。四方を見渡す観世音菩薩。「哀れみ」「慈悲」「情け」「平静」を表していると。即位殿の左に『宝庫』と『国王の執務室』。国王執務室のガルーダ。ガルーダはインド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する神鳥。ガルダがサンスクリットやヒンディー語による名称で、英語やインドネシア語などではガルーダというのだと。再び即位殿を。『勝利の門』。即位殿の正面。現在のシハモニ国王の即位式も、ここで行われたという。靴を脱いで中に入ることができ、内装やシャンデリアなどは豪華なものだったが、写真撮影は禁止なので内部の写真はない。ナーガ。柱の上部にも像が。即位殿の周囲の廊下。『ゾウ舎』を斜めから。王の乗るゾウがここで飼育されていたのであろうか?ゾウ舎を正面から。面白い形の苅込の柘植の木?と宝庫。即位殿とゾウ舎の間からは王様の住む宮殿の門が見え、写真の右側には旗を掲げるポールがあったが、ここの旗は王様が宮殿にいるときに掲げられることになっていると。旗が揚がっていないときは王様が不在であるというという印しであると。この日は旗が棚引いていたが、写真には写っていなかった。タビビトノキ(旅人の木、学名Ravenala madagascariensis)は、マダガスカル原産のバナナに似た植物。名称の由来は、葉柄に雨水を溜めるため、乾燥地帯の旅行者の飲料水供給源として利用されたとも、また高木は葉が東西方向へ扇状に広がることから旅人に対するコンパスの役割を果たすからともいうが、ともに確かな定説ではないとのこと。青空と黄色のベストマッチ。ナポレオン三世の館は工事中。ナポレオン三世の妻から贈られ、フランスから移築された建物だそうで、これは現物を見たかったが・・・・。ゾウ舎と即位殿。日陰で休憩する観光客。シルバーパゴタへの連絡門に向かう。赤い花の咲く木が右手に。イクソラ(和名:サンタンカ)の花。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.23
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観光2日目の朝は7:40にホテルを出発し、最初の観光地『ワッ・プノン』を目指してトンレサップ川沿いの前日の道を反対に再び走る。暫く走ると小高い山の下に花時計と馬、犬?の像が見えて来た。ワット・プノン (「山の寺院」の意)はカンボジアの首都プノンペンにある仏教の寺院(ワット)。1373年建立。標高は27メートルでプノンペンでは一番高い位置にある宗教建築である。バスを降りると多くの鳥が籠の中に。買ったスズメ?は逃がしてあげるのだと。捕われている鳥を逃がしてあげるという行為が「徳を積む」ことになり、次に生まれ変わったときに幸せになれるように祈るのだと。カンボジアだけでなく、タイやラオスなど、小乗仏教(上座部仏教)を信仰する人が多い国では寺院周辺や境内などでよく見られる光景なのです。かごの小鳥はスズメの他にツバメもよく見ます。ツバメの方が値段が高く、徳をより高く積むことができるのだとか。蓮の花も売られていた。伝説によれば、ダウン・ペンという裕福な未亡人が川に流れ着いた大きな流木の中に4体の仏像を見つけ、その仏像を祀るために、丘の上に小さな寺院を築いたことが元となっている。「プノンペン」の名前の由来になったペン夫人が1372年に建立したと。後にこの寺院は参拝客を集め、多くの人が祈りを捧げる聖域となった。その後、1437年の巳年のとき、クメール王朝最後の王であるポニャー・ヤットがプノンペンに新しい王宮を建てた際に、大臣のデチョー・スレイに丘をより高くするように命じた。王の死後は、聖域の西にある著名な仏塔に王とその一族の遺灰が納められた。ワット・プノンは、クメール暦における新年と亡人節(日本のお盆にあたる)の間、カンボジアにおける祈りの中心となっているのだと。ワット・プノンの登り口の階段の両脇にはナーガ像が。ナーガは現世と異界をつなぐ存在として見なされており、クメール建築の入り口には必ずこいつがどーんと現れたのです。下からナーガ(蛇)、ドヴァラパーラ(門番)、シンハ(獅子)を横目に階段を上って行った。ワット・プノンは鮮やかなピンクが印象的な建物。そして前には対のシンハ(獅子)が。シンハとはサンスクリット語でライオンを意味すると。古く仏教発生の地インドでは野生のインドライオンが跋扈していたようで、絶対的な力の象徴として、インドでは広く神格化されて来たのだと。しかしインド以東の地域ではライオンは生息していないので、その形態は徐々に狛犬の様にデフォルメされて、今日の様な彫刻に至っているのだと。デヴァダー(女官)のレリーフ。幟。お線香と燭台。デヴァダー(女官)のレリーフがここにも。靴を脱いで中に入る。境内は蛍光灯で明るく照らされ、仏像は電飾で光り輝く。こちらが本尊の黄金仏で、予想以上にきらびやかなものであった。祈る人々の姿。我がツアーの旅友の姿も。黄金仏を斜めから。壁面の絵は仏陀の一生を描いたもので、こちらも見事なもの。本堂内に数人いた欧米人観光客も、感動したように眺めていた。 外に出て再びワット・プノンを見上げる。太鼓が納まった建物。仏塔の傍らの祠に祭られたペン夫人の像を窓越しに。本堂の背後にはストゥーパがあり、四隅にはここにもシンハ(獅子)が置かれている。 更に上にはドヴァラパーラ(門番)の像も四方に。直径12mの巨大な芝生時計。時間は8:15。オウコチョウ(黄胡蝶)のオレンジの花。群れ咲く様はまさに蝶が舞う如くで、華やか。花弁は5枚。10本ある濃い赤色の長い雄しべは、鳥が花粉を媒介しやすいようにできているのであろう。沖縄でこの花に訪花する蝶と共に見た記憶が。六角形の休憩場所?と仏塔。国営企業である電力会社・EDC(Electricite du Cambodgeがワット・プノンの前に。再びワット・プノン正面入口に戻りバスに乗り込んだのであった。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.22
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2日目の朝は5時に起床。未だ外は暗く、部屋からのトンレサップ川とCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)。部屋のテレビのチャンネルリスト。世界各国63局の放送が視聴可能。58番にNHK(JAPAN)と。部屋のMINI BAR のAngkor Beer 330ml は$2.5、そしてTiger Beer 330ml は$4.0。水はEvian Water 330mlがAngkor Beerと同じ値段の$2.5。私たち日本人は普段、水道水は飲めて当たり前のものだと思っています。最近ではミネラルウォーターやウォーターサーバーの水を日常的に飲んでいる人も多いですが、水道水も日常的に飲んでいても問題ありません。しかし、日本のように水道水が安全なもので、飲んでも問題のない国は本当に少ないのです。水道水が飲めるかどうか不明な国もあるそうですが、一般的には大体15カ国くらいだと言われています。人間の身体はほとんどが水でできていますので、水って体づくりには非常に重要なものなのです。生きていく上では必要不可欠な水ですから、水道水の浄水レベルが低い国では、水道水ではなく、必ず販売されている綺麗な水を飲むことがMUSTなのです。安全な水を飲むということも、旅を快適に満喫するためには必要なことなのです。外がだんだん明るくなる。時間は5:27。そして東の空がみるみる赤く染まって来た。時間は5:35。トンレサップ川の川面も朱に染まって来た。そして雲の上にこの日の朝日が姿を現す。時間は5:58。トンレサップ川の川面も光り輝く。この日も好天で暑くなったのであった。川には小さな浮き船に乗った釣り人の姿が。網を仕掛けていた場所のようであった。そして6:30に朝食会場に。ホーも美味。ホテルのフロント。そして朝食後は、旅友Uさんと共にホテルの前の道をしばし散策。朝から多くのバイクが。ホテルの入口にはホテル名が黄金の文字で。ホテル前のバス停の案内板。停留所番号や路線番号はカンボジア語表記しかなく、車内アナウンスがないとのことなのでプノンペンの土地勘がない人、カンボジア語が読めない・話せない私にとってはバス利用はかなりハードルが高く感じてしまったのであった。トンレサップ川に架かるCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)の上に行ってみる。まだ交通量は比較的少なかった。道路の横には狭い歩道が。橋を渡り対岸まで歩きたかったが、チョット危険そうなので諦める。店の前に安置されている神棚。五路財寶 四方金銀?の文字が。道端では肉も売られていた。何の肉なのであろうか?トラックには多くの氷が。道には多くの穴ぼこや水溜まりが。15分ほどの散策を終え、部屋に戻り、無料で置いてあるペットボトルに入った水をリュックに入れ、出発のための準備をしたのであった。 ・・・その3・・・にもどる ・・・つづく・・・
2018.10.21
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王宮の前のトンレサップ川沿いの道路を進む。川沿いの公園では、バドミントンのように羽を蹴り合う「ダーカウ」というスポーツを楽しんでいる姿が。この遊びは以前にベトナムや中国でも見たのであった。左手に翌日に訪ねる王宮が見えた。王宮の後ろに沈む夕陽。王宮のトンレサップ川対岸には大きなホテルが建っていた。メコン川とトンレサップ川が合流地点に建設された『ソカ プノンペン ホテル&レジデンス(Sokha Phnom Penh Hotel & Residence)』。体操?をする人々。椰子の木がトンレサップ川に沿って。トンレサップ川にかかる長さ719メートルの橋は、Cambodian-Japanese Friendship Bridge(カンボジア-日本友好橋)。その隣にはCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)が。そして前方右手にこの日のホテル『RIVER PALACE HOTEL』の姿が見えてきた。バスを降りて。ホテル全景をネットの写真から転載。 【https://www.booking.com/hotel/kh/river-palace.ja.html】よりホテルの1階ラウンジ。1Fのラウンジでウェルカムドリンクをいただく。2Fの私の部屋205号室。ベッド。「ベッドスロー」。本来の目的は家の中でも靴を脱がない欧米で、ベッドに靴のまま足を投げ出して座ったときにベッドが汚れないようにガードするための物であると、以前何処かの添乗員から。ベッドメイキング済みって意味もあるのであろうか?つまりトイレのペーパーの三角折りとか、便器に巻いてある「消毒済み」と同じ意味か??Welcomeバナナは緑色。でも美味しかった。日本で売られているバナナとは種類が違うのか?部屋はバスタブ付き。シャワー室の隣に便器。そして我が部屋からCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)が見えた。18:20からホテル内のレストランで夕食。まずは Angkor Beerを楽しむ。シチュー。メイン ディッシュ。デザートはカボチャの上に乗ったプリン。パンプキンプリン?ココナッツ風味のプリンがカボチャの上に。そもそも「カボチャ」という名前は「カンボジア」が由来。日本への渡来については諸説あるが、ニホンカボチャは天文年間(1532年-1555年)に豊後国(現在の大分県)にポルトガル人がカンボジアから持ち込み、当時の豊後国の大名であった大友義鎮(宗麟)に献上したという説が有力であるとのこと。当初 は「カンボジア」がなまって「かんぼちゃ」や「かぼちゃ瓜」~最終的には「カボチャ」になったのだと。プリンは美味しかったが、カボチャは味が全くなく水っぽく旨くなかった。夕食後は部屋に戻り、この日はシャワーで汗を流す。そして成田空港で買って持ち込んだウイスキーを片手に日本NHKBS放送を画面のきたないテレビで見たのであった。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.20
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待っていてくれたバスに乗り込み、カンボジアでの最初の観光場所を目指す。プノンペン国際空港の有料駐車場の出口ゲートへ。今回のツアーバスは2席+通路+1席の豪華バス。そして参加人数は13人+現地添乗員。流暢な日本語を喋る添乗員のトゥーンさん。そしてプノンペン国際空港を後にし一般道路へ。ビルの外壁には、漢字、ハングル語、英語、クメール語が氾濫。民間航空庁(State Secretariat of Civil Aviation (SSCA))の入口には多くのカンボジア国旗がはためいていた。『カンボジアの国旗は、上から青・赤・青が用いられた旗の中央に白いアンコール・ワットを配置した旗。 現行の国旗は、1993年の王政復古の際に制定されたもので、青は王権を、赤は国家を、白は仏教徒を表している』とガイドブックより。カンボジアの車両のナンバープレート。登録場所(クメール語とローマ字表記)、車両区別の1~4の数字、ローマ字、数字4桁で構成されていると。ローマ字は現在は車の数が増えて2文字になっていると。普通自動車は2、オートバイ、トゥクトゥクは1、大型バスは3そしてトラックなどは4という区別であると。カンボジアと言えば世界遺産「アンコールワット」。そしてその国の有名ビールと言えば「アンコールビール」なのだが、最近結構ライバル会社も増え、様々なプロモーションを行っているのだと。そのうちの一つが、缶ビールのプルトップ部分の裏側に「当り」や「外れ」が印刷されており、写真のような印刷が出るとお金がもらえると言うモノ。一等賞はなんと、5,000,000リエル(約9万円)なのだと。道路には多くのバイクが走っていたが、ベトナムほどではなかった。バスの最後部に席を確保し、右に行ったり左に移動したりと、バスの車窓からの風景を楽しむ。父親が運転し後部座席に母親、そしてその間にアカチャンの姿が。道路の入口にある門。こちらには黄金の門が。「天恩彌勒佛院」と書かれた寺院の立派な門。ネムノキの大きな長い実が。政府機関の建物であろう。入口には元カンボジア国王・シアヌークの肖像が。尖塔が。ユニークな外装の建物。プルメリアには白い花が。トゥクトゥクには多くの客がすし詰め状態で。高層ビルディング。左手はホテル・Rosewood Phnom Penh、右手は プノンペンの銀行・Canadia Bank Tower。Monorom Gardenの中のユニークな像。『ガネージャ』という太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつヒンドゥー教の神。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ事業開始と商業の神・学問の神とされると。黄金の外壁の建物が夕陽を浴びて輝く。ズームで。元国王・シアヌークの写真がカンボジア国内には溢れていた。こちらにも。『独立記念塔』旧宗主国であるフランスから1953年に独立したカンボジア。これを祝って1958年に建てられたのがこの。蛇の姿をした守り神「ナーガ」が取り囲むデザインは、アンコールワットの塔を模したものと。塔の周りの広場は公園へと続いていて、早朝はジョギングや体操を楽しむ人が集まり、夜はライトアップされて地元の恋人たちのデートスポットとしても人気があると。市民が公園を憩いの場として楽しむ、プノンペンの日常風景を肌で感じることのできるスポッ。シアヌーク前国王の像を訪ねる。NET情報によると『1941年、18歳で国王に即位、フランスからの独立運動の先頭に立つ。独立後の55年、父に王位を譲り政党を結成、議会選挙に勝利し首相となった。60年の父王の死去に伴い、王位空席のまま国家元首となる。非同盟を方針としつつ、中国、ソ連、ベトナムに接近し「左寄りの中立外交」を追求。しかし米国の支援を受けたロン・ノルのクーデターで国家元首の地位を追われると北京に亡命政権を樹立、ポル・ポト派と組んで反ロン・ノル運動を展開した。75年、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が政権をとると、帰国はしたものの王宮内に幽閉された。78年12月、ベトナムのカンボジア侵攻でクメール・ルージュ政権が倒れ、シアヌークは再び北京に亡命。ポル・ポト派、ソンサン派(旧ロン・ノル派)と共に反越三派を結成、米国、ASEANなどの支援を受けた。91年、帰国し、93年の「カンボジア王国」樹立で国王に就任。内政への影響力を保持していたが、2004年10月7日、高齢と健康問題を理由に退位を表明。王室会議でシアヌークの実子、シハモニ殿下が新国王に選出され、同月29日に即位した。』と。激動のカンボジアの歴史を生き抜いた人物。今も国民の尊敬の念は衰えていないと。2012年に亡くなった元シアヌーク国王。2013年10月11日、シハヌーク前国王の一周忌を前に、高さ4.5mのブロンズ像が完成したとのこと。総工費は約120万ドルだったと。シハヌーク前国王像を覆う建物の尖塔。フンセン公園。カンボジアのフン・セン首相にちなんで名付けられた「フンセン公園」は、地元の人たちが集う憩いの場であると。公園にはウォーキングができる道が整備されていた。水の象徴であり豊穣を司る七つ頭の蛇ナーガ(蛇神)は一年に一度脱皮する不老不死のシンボル。若かりし頃のシアヌーク殿下。ロータリー交差点に故シアヌークの王妃の写真が。なお、現シハモニ国王は65才で独身との添乗員の説明に旅友のUさんの顔が輝くのであった!!元NHKアナウンサー・有働由美子の強力なライバルの出現なのであった!!。仏像のお姿を背中側から。ホテル カンボジアーナ。トンレサップ川沿いにそびえ立つ6階建ての大型ホテル。トンレサップ川沿いをこの旅の最初のホテルに向かって進む。プノンペンの会議場・Chaktomuk Conference Hall(チャクトマック会議場)第6回世界仏教徒会議の会場として建設されたとのこと。ココヤシの実が道沿いで売られていた。カンボジアでは欠かすことのできない重要な果実。タックドーンと呼ばれる実の中のジュースは栄養価が高く、特に病中・疲労時、妊娠中等に良いとされる。内側の柔らかい白い果肉部も食用で料理やデザートに使われるのだと。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.19
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