その時、この森町から、東京の工部大学校へ遊学していた石川という学生が、少し健康をそこねて帰郷していると聞いて、藤三郎は、早速訪ねて行って、いろいろ疑問のところを尋ねた。そして、いよいよこうすれば結晶させることができるのだという見当がついて来たので、勇気百倍する思いがあった。
また、藤三郎が苦心していた氷砂糖は、当時、清国の福州あたりから輸入されていたような茶色のものではなく、純白透明なものであったが、どうしたら透明なものにできるか、ほとんど見当がつかなかった。それで、郷里の 森町本町に薬剤師の岩間善次郎という人が、桝屋という薬屋を開いていた
ので、そこへ行って調べてもらったところ、 植物性の色素を除くには、骨炭で濾(こ)すのがよい
と書いてあると教えられた。
そこで、さっそく、それを試みることにして、骨炭といえば、骨を炭にしたものであろうかと、町から少し離れた忠右衛門新田という所に部落があったので、そこへ行っていろいろな骨を拾い集めた。そして、大洞院という寺の近くのウスン場という所に炭焼場があったので、そこで木炭を焼くようにして骨の炭を造って家へ持って帰って、砂糖水を濾過して見たが、さっぱり脱色も漂白もされたような様子はなかった。
藤三郎は一時は落胆したが、再び気を取り直して 枡屋に行って、その訳を話して、もう一度本をよく調べてもらったら、その骨炭を造るには蒸し焼きにするのだということが分った
。
そこで、家の炭の畑を掘って、黒焼きを造るように骨を蒸し焼きにして試験して見たら、十分その効果があったので、手をうって喜んだ。彼は、それに勢いを得て、繰り返し繰り返し骨炭を造っては、脱色漂白の実験に夢中になっていた。
隣近所でも、初めはそのことを知らなかった。どうもこのごろ、変な匂いが時々する。多分、焼場の煙が、風の加減でこっちへ吹きつけられるせいだろう位に思っていた。ところが、その臭気が、毎日毎日匂ってきて、それが、だんだん猛烈になってきた。何しろ一千余の小さな町なので、たちまち町中の問題になって、「どうも才さ(藤三郎の幼名才助)の家があやしい」と睨まれ、骨炭蒸し焼きの事実が暴露して、警察から屋敷内で骨灰の製造することを差し止められてしまった。それからは、不便を忍びながら、町からずっと離れたところでやらなければならないようになった。しかし、次第に事業に光明が見え出した藤三郎にとっては、その位の困難はなんでもなかった。このようにして、その年は暮れたのであった。
森町の「町並みと蔵展」に4月2日出かけ、藤三郎生家で〇〇さんに会った。
○○さんの先祖は、鈴木藤三郎伝に出て来る 薬局の枡屋をやっていたのだという。
「身代わり地蔵」という昔話があります と教えていただいたのが面白かった。
中遠昔話より
第46話
(えんめいみがわりじぞうそん)
延命身代わり地蔵尊(袋井市)
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