全248件 (248件中 1-50件目)
マザー・テレサ日々の言葉よりいつも神の前を歩むよう努めなさいすべての人の中に神を見いだすために朝の瞑想を1日中生きてゆかなければなりませんお互いにほほえみ合いましょういつでも簡単なわけではありません時にはほほえむことが難しいこともあるでしょうその時こそ祈るのです平和は微笑みから始まります。あなたが微笑みたくない人にも1日5回微笑みましょう。神の光をともして、世の中で、またすべての人々の心の中で、あらゆる憎しみや権力愛を消しましょう神の愛の宣教者会の精神は、完全に神にしたがうこと、他人を信じ愛すること、そして、だれに対しても陽気でいることです。喜びとともに苦難をも受け止めなければなりません。貧しい人生を明るく信じて生きなければなりません。そして、もっとも貧しい人のなかにいるイエスの世話を陽気にしなければなりません。神は陽気に与える者を愛するのです。微笑みながら与えられたものこそ最高の贈り物なのです。もし、あなたが神に対してつねに「はい」と答える心づもりがあるなら、どんなことがあっても微笑んでいるようにしなさい。そうすれば神の恵みが受けられ、傷つくまで与えつづけることができるでしょう仕事の最中でも、祈ることはできます。仕事は祈りを妨げないし、祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。ただほんの少しだけ心を神に向けるだけで良いのです。愛しています、お任せしています、信じています、神よ、私は今あなたが必要です。こんな感じでいいのです。これは素晴らしい祈りです祈ることを愛しなさい。日中たびたび祈りの必要を感じるようにしなさい。祈りは心を広くして、神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにします日々の、その祈りがなければ、一日たりとも、いや一時間たりともこの献身の生活は続けられません今、この瞬間幸せでいましょう。それで十分です。その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。今、幸せであるように努めましょう。他の人をーあなたより貧しい人々も含めてー愛しているのだということを、行動によってすることで、彼らを幸せにすることができるのです。たくさんのものが必要なわけではありません。ただ、微笑みかけてあげるだけでいいのです。だれもが微笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。神はあなたを愛しているのですから親愛なる主よ、私がどこに行こうと、あなたの香気を放つことができますように、お助けください。私の魂を、あなたの霊といのちであふれさせてください。私の人生のすべてが、ただあなたの光の輝きだけとなりますように、私の全存在に染み込み、捕らえ尽くしてください。
2022年01月05日
「挫折こそ最高の学び」 バド元日本代表・潮田さん、宇城市で講演会2021/10/12バドミントン元日本代表の潮田玲子さんの講演会が9日、ウイングまつばせ文化ホール(熊本県宇城市松橋町)であった。同市教育委員会主催。 潮田さんは「オグシオ」の愛称で人気を集めた小椋久美子さんとの女子ダブルスで、2008年北京五輪で5位入賞。ロンドン五輪混合ダブルスにも出場し12年に引退した。2児の母。 「挫折こそ人生において最高の学び」と題して講演。現役時代、世間の耳目を集める中で積み重なるプレッシャーやメダルを取れなかったことへの深い後悔と苦しみを吐露。落ち込む理由を分析し「これまで自分のために戦ってこなかった」ことに気付いたという。挫折を乗り越えるため「自分自身と向き合う」「どうしたいのか」など自ら考察する独自の方法を紹介。自分を客観視する大切さを説き、「重要なのは行為そのものであって結果ではない」というガンジーの言葉(*)に「一歩踏み出す勇気をもらった」と語った。*「重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。」(ガンジー)“It's the action, not the fruit of the action, that's important. You have to do the right thing. It may not be in your power, may not be in your time, that there'll be any fruit. But that doesn't mean you stop doing the right thing. You may never know what results come from your action. But if you do nothing, there will be no result.”― Mahatma Gandhi
2021年10月16日
「マハトマ・ガンジー」ロマン・ロラン著宮本正晴訳ガンジーの最高の努力は、排斥されている階級をヒンズー教徒の社会に入れることであった。不可触賎民(パリア)の権利回復の熱烈な要求、この社会的不公平に対する彼の義憤と苦悩の叫びは、彼の名を不朽にするに足るであろう。ガンジーが「ヒンズー教の最も恥ずべき穢れ」と呼んでいるものが、彼に与えた苦しみは、幼少の頃の気持ちに源を発していた。1921年4月27日の講演でこう語っている。「幼いころ、一人のパリアが私の家に雇われて仕事をしていた。子どもの私はその男性に触れることは禁じられていて、触った後では水垢離をとらされた。私はそれが納得できないで両親と議論した。学校では『触ってはならない人々』にたびたび触った。私の母はそのけがれを清めるために、後でイスラム教徒に触れるように命じた。しかし、12歳のとき私の判定はなされていた。『このインドの良心のけがれを消そう』と自ら誓った。『堕落した同胞を救おう』と計画した。」ガンジーによれば、このただ一つのことだけでも、インド人が世界で受けている一切の不正は当然だと見える。『インド人がイギリス帝国のパリアになったのは、永遠の正義の報いである。インド人は血に汚れた自分の手をまず洗うべきである!手を触れてはならない ということがインドを堕落させた。南アフリカで、東アフリカで、カナダで、インド人自身がパリアとして遇されている。パリアが存在する限り、自治(スワラジ)は不可能である。インドは罪を負っている。イギリスはインド以上に暗いことを何もしたのではない。第一の義務は弱者を保護することであり、人間の良心に背かないことである。この罪を洗い清めない限り、私たちはケダモノ以上の価値はない。スワラジとは地上全体に正義が支配することである。』
2021年07月26日
マザー・テレサ日々の言葉よりいつも神の前を歩むよう努めなさいすべての人の中に神を見いだすために朝の瞑想を1日中生きてゆかなければなりませんお互いにほほえみ合いましょういつでも簡単なわけではありません時にはほほえむことが難しいこともあるでしょうその時こそ祈るのです
2021年07月22日
マハトマ・ガンジーは、ある時、少年であったお孫さんに、こんな寓話を語った。 まだ夜が明けきらない海辺で、一人の男が、浜に打ち上げられたヒトデを拾っては、海に投げて帰していた。太陽が昇れば、ヒトデは干上がって、死んでしまうからだ。 そこに、若者が来て尋ねた。 「何をしているんだい」 「ヒトデを救おうとしているところさ」 ヒトデは無数にある。 若者は呆れて言った。 「これだけのヒトデを全部、助けることなどできないよ。むだなことだ。そんなことぐらいわかるだろう」 だが、男は、また、ヒトデを投げ込むと、静かに言った。 「あいつにとっては、大きな違いさ」 マハトマ・ガンジーは、この話を通して、こう教えたかったのである。 「一人の命に触れ、その命を救うことができれば、それこそ私たちが作り出せる大きな変化なんだ」(『ガンディーを継いで』塩田純著、NHK出版)
2021年07月17日
マザー・テレサ「ランプをともさないのですか。」年配の男性「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れ、ランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」からアボリジニーのある居住地に、年配の男性がいました。その貧しい老人くらいひどい境遇を、あなたがたはいままで見たことはないと、私は断言できます。彼はだれからも完全に無視されていました。その家は散らかりほうだいで、汚れていました。「家の掃除と洗濯をさせてくださいませんか。 それからベッドをととのえさせてください。」わたしは彼に言いました。「これでいいんだ。ほっといてくれ。」彼は答えました。「もし、わたしにやらせてくれたなら、もう少しましになりますよ」もう一度、わたしが言うと、彼はとうとう納得しました。そこで掃除と洗濯をすることができたのです。わたしが部屋を片付けていると、ほこりまみれのきれいなランプを見つけました。彼が最後にそれに明かりをともしてからどれだけ時間がたったのかは、神のみぞ知るです。わたしは言いました。「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。いったいだれのためにつけろっていうんだね。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」彼はうなづきました。その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。わたしはその人のことをすっかり忘れていましたが、彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。」〇これを読んでいて「ハヤット神父」の引用する聖パウロの言葉が浮かんだ。昔、朝ラジオからよく流れてきたものだ。「暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい。」この言葉はマザーが愛した言葉だという。私の亡き畏友木谷文弘が「木谷ポルソッタ通信」に載せた話にもこの言葉が出てくる。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉だ。「誰かがやるだろうということは、誰もやらないということを知りなさい。」 旅にでないワインが旅に出た話 「以前、大分県の直入町役場で働いていた首藤さん、県議会議員をされているんだけど、その人の講演録をインターネットで見つけたらとてもよかったんだ。 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していたんだ。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れたんだ。するとね、『首藤さん、あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言うんだ。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長と首藤さんと通訳でドイツに渡った。それで苦しんだんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませてあげたい』と頼んだんだって。 すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。『どうしたの、マチ子さん?』と首藤さんが聞いた。『首藤さん、私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせていただいた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』というふうにマチ子さんが言うんだ。『首藤さん、ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているですよ』 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだね。 首藤さんはね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いたんだって。 平成元年からドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。こんな農村であんなことをやってあいつらはドイツかぶれだという陰口もある。それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと泣けて泣けて仕方がなかったというんだ。 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったらね、帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだって。「誰かがやるだろうということは、誰もやらないということを知りなさい」マザーが愛したその言葉が強烈に首藤さんに降り注いできたんだって。つまり、前年に商工会のみんながドイツに渡っている。ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。ただ、誰かがやるかもしれない。地域づくりのほかのことに対してもそうだ。これはいい話だが、誰かがやるだろう。そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。そういうマザーテレサの言葉に、『ああ、そうか。3人でこのことに挑戦をする』ということの意義がマザーテレサから示唆されたような気がしたと首藤さんはいうんだ。
2021年07月15日
マザーの手の中でこのように死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息をひきとる前に言うことばが『サンキュー』である、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えている。・・・この話を終ってマザーは言うのであった。 It is so beautiful.「和子さん、あなたは自分のことばかり考えているみたい。少し、お母さんの身にもなってみたら」今でもなぜか、はっきり覚えている言葉ーそれは、何でもないことのようで、それこそ私にとっては「回心」のー心の方向を180度転回させるー言葉となっていました「愛をこめて生きる」渡辺和子より インドのカルカッタに当年とって78歳になるマザー・テレサという」一老修道女が住んでいる。この人は「神の愛の宣教者」という修道会の創始者であり、国際連合が『世界最悪の居住条件を持つ』と宣言したこの街で、貧しい人の中でも最も貧しい人々に仕えることを使命としている。その貧しさとは物質的なものもさることながら、それ以上に、この世で人々から『不要』『邪魔者』扱いをされている人々、自分自身『生きていても、いなくても同じ』、または、『生きていない方がいいかも知れない』と思っている『貧しい人々』である。 1979年のノーベル平和賞受賞者であるマザーはかくて、望まれずして生まれたが故に捨てられた子どもたちを拾って育て、人々に忌み嫌われるハンセン病患者を手厚く看病し、さらに、路傍で一人寂しく死んでゆこうとする瀕死の病人を『死を待つ人の家』に連れて死なせてやることに力を尽くしているのである。・・・『人間にとって、生きのびることもたいせつですが、死ぬこと、しかもよい死を迎えることは、もっとたいせつなことなのです。』 生まれた時から不要者として生み落とされ、その後の年月をひたすら社会の邪魔者とのみみなされて来た浮浪者たち、死ぬことによって厄介払いと他人から喜ばれるような一生涯しか送れなかった人々が、その生涯の最後において、死の直前の数分間、または数時間、生まれて初めて人間らしく扱われ、優しさを体験するのである。 かって貰ったことのない薬が惜しげもなく与えられ、受けたことのない温かい扱いを受け、身体をきよめられ、名前と宗教を尋ねられて、彼らは治療に勝る、かつ治癒と次元の異なる『たいせつなもの』を取り戻して死んでゆく。・・・ マザーの手の中でこのように死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息をひきとる前に言うことばが『サンキュー』であるということ、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えているという。・・・この話を終ってマザーは言うのであった。 It is so beautiful.「それは本当に美しい光景です」と。渡辺和子さんの「愛することは許されること」の「はじめにー私と聖書の出会い」はとっても心を打つ。それは普通ならこんなに赤裸々に人前に出さないであろう赤裸々な心の葛藤をいわば神のまえに捧げる犠牲のひつじのように差出しているからである。それはまた心の清澄さにほかならない。私の生れた家は浄土真宗でした。ですから父が死んだ時も葬儀は仏教で行われ、長いお経の間、座布団の上で神妙に座っていましたし、お骨を納めに母に連れられて、京都の東本願寺に行ったこともあります。 小学校は吉祥寺にある成蹊小学校。・・・ このように、他力本願の仏教を宗旨とした家に生まれ、・・・神棚が祭ってある茶の間で父から儒教の「論語」の手ほどきを受けた私は、・・・やがて双葉高等女学校というカトリック系のミッション・スクールに入学しました。これが私のキリスト教との最初の出会いですが、これとて私の意志ではなく、母や姉が決めたことでした。・・キリスト教の教えである公教要理を聞いたことがありましたが、その帰り道、四谷駅あたりで「シスターは今日、『神様は何でもご存じ』とおっしゃったけれども、私そんなこと信じないわ』と宣言して誘ってくれた友人を悲しめたものです。・・・私は「望まれないで生れた子」でした。みごもった時、すでに43歳だった母は、師団長夫人という世間体もあり、できることなら、私を産まないですませたかったらしく、医者であった義兄にも、どうしたらよいか相談したようです。その母に向かって「産んでおけ」と言ってくれたのは、他でもない父でした。「男が子どもを産むならおかしが、女が産むのに何のおかしいことがあるものか」。・・そんな出世前のいきさつもあってか、私は母よりも父がずっと好きでしたし、54歳だった父もまた、孫のような私を、目に入れても痛くないほど可愛がってくれました。父は私が9歳になったばかりの2月の雪の朝、2・26事件と呼ばれるクーデターの犠牲となって死にましたが、この9年間に、私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています。私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今になって思うと、父を『敵』の最中でたった一人で淋しく死なせないために、私は生まれてきたのかも知れないと思うようようになりました。渡辺さんのお母さんは夫が2・26事件で惨殺された後、一滴の涙も流さず、遺された15歳、12歳、9歳の子供たちに向かって、「これからはお父様と2人分、きびしくしつけます」宣言する。その言葉どおり、母は甘えるどころか恐ろしい存在となった。和子さんは、すでに嫁いでいた22歳年上の姉に「お母様は、まま母ではないの?」と尋ねたくらい厳しいものだったという。何が何でも一番になりなさい、100点を取ってこなければ家に入れませんという母の叱咤のもとで、逆に和子さんは他に厳しく高慢で勝気な人間になってしまう。お母さんから「あなたは冷たい、つんつんしている。」と言われ、「そんなふうに育てたのはあなたじゃない」と心の中で反発していたという。そういう母に冷たくしか出来ない自分もまたつらかった。思い余って、尊敬していたシスターにあらいざらい心のうちを打ち明ける。「私は母が嫌で嫌でたまらないのです。そして、母にそんな気持ちしかもてない自分がもっと嫌なのです。」そのときシスターは静かにこうおっしゃった。「和子さん、あなたは自分のことばかり考えているみたい。少し、お母さんの身にもなってみたら」今でもなぜか、はっきり覚えている言葉ーそれは、何でもないことのようで、それこそ私にとっては「回心」のー心の方向を180度転回させるー言葉となっていました。
2021年07月02日
ゴンジャはリジューの聖テレサにちなんでマリア・テレサという新しい名前を選びました。マリア・テレサ自身は「マザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって?いいえ、とんでもない。私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。」リジューの聖テレサとアビラの聖テレサとはどのような人物なのか?リジューの聖テレサリジューの聖テレーズ(フランス語:Thérèse de Lisieux, 1873年1月2日 - 1897年9月30日)あるいは幼いイエスの聖テレジア、小さき花のテレジアは、19世紀フランスのカルメル会修道女。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」。カトリック教会の聖人にして教会博士の一人。若くして世を去ったが、その著作は今日でも世界中で広く読まれる。テレーズはフランスのアランソンに生まれた。父ルイは時計屋を営み、母ゼリーは腕のいいレース職人だった。マルタン夫妻は、修道士・修道女になる望みを持っていたことがあり、ともに信仰あつく、仲が良かった(のちにともに列聖される)。夫婦の間には9人の子供が生まれたが、結核などのために4人が夭逝し、5人の娘たち(マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズ)だけが成長することができた。テレーズは末っ子で、感受性が強く、誰からも愛される子供だった。テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、テレーズが9歳のとき、それまで母親代わりを務めていた次姉のポリーヌがリジューのカルメル会修道院に入った。この頃からテレーズは、修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるようになる。ロレト修道会のシスター社会から外に出たマザー・テレサが身につけていたのは、僅か5ルピーだけでした。しかし彼女の最も貧しい人たちを助けたいという思いは、どんなに物質的に保証されるよりも大きかったのです。マザー・テレサのミッショナリーとしての第1歩は、街路やスラム街に最も貧しい人たちを訪ねることから始まりました。最初彼女が訪れた場所の一つは、学校のすぐそばのモティシル貧民区でした。しかしマザー・テレサは最初は彼らから疑惑の目で見られ、すぐに受け入れられたわけではありませんでした。時とともに彼女の愛にみちたまなざしは彼らのすべての疑いを解き、彼女がそこに共にあり、彼らに奉仕し、彼らを助け、彼らに一番身近な人たちからでさえ、もう長く感じることのできなくなってしまった愛をささげてくれることに気づいたのでした。まずマザー・テレサの元教え子のスパシニ・ダスが、ミッションの手助けをしたいとマザー・テレサの活動に加わりました。そして少しずつマザー・テレサのミッショナリーのシスターたちの数は増えていき、1950年10月7日、彼女の愛の宣教師会は、ローマ法王ピウス12世の布告をもって公式に認められたのでした。マザー・テレサのミッショナリーは、彼女自身によって書かれた神の愛宣教師会の最初の規約からなるルールが土台となっていました。その要点は、神そして身近な人達に対する愛と、貧しい人々の中でも最も苦しんでいる人達に対する全面的な献身でした。神の愛の宣教者会1946年9月10日、ロレト修道会のコルカタの聖マリア学院で裕福な子女たちを教えていたシスター・テレサ(後のマザー・テレサ)はコルカタからダージリンに向かう列車の中で、「もっとも貧しい人のために働くように」という神の招きを受ける体験をした。1948年にローマ教皇から修道院を離れて暮らす許可を得ると、インド国内で医療訓練を終え、マザー・テレサは一人でコルカタの街に入った。そこで彼女は死に行く人々、誰からも見捨てられた人々の世話を始めたのである。そんな彼女のもとへやってきて、その活動を助けたのはかつての教え子たちであった。1950年10月7日に「神の愛の宣教者会」は教皇庁によって認可を受け創立された。最初はマザー・テレサを含む12人の修道女達で始まった。1952年には「死を待つ人々の家」が開設された。1963年3月25日、「神の愛の宣教者兄弟会」修道士(ブラザー)の会が創立される。1965年2月1日には「神の愛の宣教者会」が教皇庁立の認可を受ける。同年、ベネズエラを皮切りにインド国外での活動を開始。日本やアメリカ合衆国を含め、全世界の国に活動が広がっている。1969年3月26日、「マザー・テレサ共労者会」が設立され、教皇パウロ六世の認可を受ける。1976年に「神の愛の宣教者会」女子観想会が、1984年には「神の愛の宣教者会」司祭の会が創立された。1990年、創立者のマザー・テレサは体力の衰えから総長職の辞任を申し出たが、修道女達の強い希望によって再任された。2代目総長としてシスター・ニルマラ・ジョシーが選ばれたのは1997年3月13日のことである。マザー・テレサは半年後の1997年9月5日に87歳で死去。なお、カトリックの女子修道会の総長は「マザー」と呼ばれるのが通例であるが、ニルマラは「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人である」という理由により、総長職を継いだ後もマザーを名乗ることはなく、2015年6月23日に亡くなるまでずっとシスターを名乗り続けていた。これは3代目総長のシスター・メアリー・プレマも同様である。2007年9月5日にはマザーの没後10年を記念し東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサが行われ、500人を超える参拝者が訪れ祈りを捧げたほか、バチカン大使館より教皇大使と参事官も共同司式で参加した。2010年8月26日にはマザー・テレサ生誕100周年を記念したミサ説教が東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた。2016年9月4日、教皇フランシスコはマザー・テレサを列聖し、聖人であると宣言した。〇愛には限界がありません神は愛であり愛は神だからですですからあなたがほんとうに神の愛のうちにいるなら神の愛は無限なのですだからこそこう言うのですどれだけたくさんのことをするかが問題なのではなくどれだけたくさんの愛をその行為にこめるかが大切なのです「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」89ページより愛という大きな贈物The Great Gift of Loveしばらく前から、わたしたちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこに行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。ガテマラのシスターたちは、どこでもそうするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、わたしにあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力ではどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりいました。彼は、シスターにこう言いました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね。」現在、彼は仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつでも何かを持ってくるのです。このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。テレーズは10歳のとき、突如体調不良を訴えた。ノートルダム教会に9日間のミサを捧げてもらい、姉たちもテレーズの聖母像の前にひざまずいて祈っていた。聖霊降臨祭の日、テレーズは聖母像が微笑むのを目撃した(ほほえみの聖母)。直後、テレーズは全快し健康になっていた。『この地上には何の救いも見い出せなくなった哀れな幼いテレーズは、「天国のおかあさん」(聖母像)に向かって一心に憐れみを乞い願いました。・・・ すると突然、聖母の姿がそれまで見たことのないほど美しくなり、顔立ちにはえも言われぬ優しい表情が現れました。しかし私の魂の奥まで届いたのは、うっとりするような心奪われる聖母の微笑みでした。その時、私の苦しみのすべてが立ち消え、大粒の涙があふれて静かに私の頬を伝って流れました。その涙は、純粋な喜びの涙でありました。・・・私は思いました。"ああ!聖母が私に微笑んでくださった、何と幸せなことだろう・・・"と。』(『ある魂の物語』原稿A、26ページ)テレーズが16歳になり、司教が修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受ける。1890年9月8日、最初の修道誓願を宣立したテレーズは、修道名に「聖なる御顔(尊き面影)」(la Sainte Face) という言葉を付け加えた。もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは1896年4月に喀血。そのまま病勢が進み、1897年9月30日に姉たちに見守られながら24歳で亡くなった。彼女は海外宣教に強い関心があり、インドシナ宣教の望みがあったが、それは果たされなかった。テレーズが死の直前に「私は地上に善を為すために天での時を過ごしましょう。私は天から薔薇の雨を降らせましょう。(Je veux passer mon ciel à faire du bien sur la terre.Je ferai tomber une pluie de roses.)」と言い残したように、死後、彼女のとりなしによって多くの奇跡(病気の治癒、回心など)がもたらされた。それは現代に至るまで続いている。死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まった。1914年6月10日、教皇ピウス10世はテレーズの列聖調査を進める宣言に署名した。ベネディクトゥス15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという条件を、テレーズに限って特別に緩和することを決定、これは異例のことであった。1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖される。リジューのテレーズは病人、パイロットや花屋、宣教師、ロシアの他に、子どもや弱い者の守護聖人になっている。彼女はジャンヌ・ダルクに次いでフランスの第2の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから、1927年には海外宣教者の守護聖人となった。テレーズは自分の天職を「愛」であると語っており、修道生活においても、人の欠点をゆるすこと、他人に惜しみ無く愛を与えること、人に譲ること、誤解されても相手を責めないこと、批判されても甘んじて受けること、苦手な相手のためにも愛をもって祈り善行をなすことを「完徳」への第一歩であると見なしていた。〇アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物。カスティーリャのアビラ(マドリードの北西53マイルのところにある)で生まれた。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。彼女は、父、セペダのアロンソ・サンチェス勲爵 (the knight Alonso Sánchez de Cepeda)、そして母のベアトリス・ダビラ・イ・アウマダ (Beatriz d'Ávila y Ahumada) による教えを受けて、非常に信仰深く禁欲的な理想をしっかりと植え付けられていた。"アビラの聖テレーズ"の名でも知られるイエスのテレーズ(1515-1582)は、 ある日、エンカルナシオン修道院の回廊に通じる階段の途中で 一人の幼い男の子とばったり出会い、いきなり"名前は何ていうの?"と聞かれます。突然のことにひどく驚きながらも"イエスのテレーズよ"と答えると、 男の子は満面の笑みをたたえながらこう返します。"じゃ僕は、テレーズのイエスだ"『私のためにこれほどまで小さくなられた方を、恐れることはできません。 ・・・私は彼を愛しています!・・・なぜなら、彼は愛と憐れみ以外の何者でもないのですから』 - 手紙266番よりテレサは聖者の生き様に魅了されて、少女時代に何度か家出をし、荒野の殉教地を探した。1534年のある朝、問題児の収容施設をこっそり抜け出して、彼女はアビラにあるカルメル会の御托身女子修道院に入った。修道院では、彼女は病気に苦しんだ。病気の初期には、彼女は信仰書『信仰入門書』(Abecedario espiritual) を読む中で、崇高な宗教的恍惚感を繰り返し経験した。彼女は闘病中に自分は「回想」という最も低い段階から「平和への献身」もしくは「(神との)合一への献身」という段階まで引き上げられ、それは完全なる恍惚感の一つであると告白した。これは頻繁に鮮やかな「涙の祝福」を伴うものであった。彼女は人間の生まれながらの完全な無力さを意識することが、神への絶対的服従の必要性につながるのだと考えた。彼女はその時、カルメル会女子修道院を創立し、それまでの修道院のだらしなさを改革しようと決心した。1563年5月、テレサが新しい修道院へと移転した時、彼女は明らかな貧しさと豊かさの拒絶という最も重要な原則について、教皇の支持を取り付けた。その原則を彼女は「規約」という形で明確にするようにしていった。1567年、彼女はカルメル会の長、ルベオ・デ・ラヴェンナ (Rubeo de Ravenna) の特別な許しを得て、彼女の指示で複数の新しい修道院を創立した。そしてこの努力を続ける中で、後に彼女はほとんど全てのスペインの地方を訪問する長い旅を行った。これらの旅を続ける中で、彼女は『創立の書』を著した。1576年、テレサやその友人たち、そして彼女たちの改革に対抗する旧来の保守的なカルメル会の修道士たちの側から、一連の迫害が始まったが、数年の後、ついに彼女の判決がスペイン王フェリペ2世の書面によって通告され、彼女は安堵を得ることができた。教皇グレゴリウス13世の簡潔な声明文は、跣足カルメル女子修道会の新しい支局に対して、特別な管区長を置くことを許可した。彼女は1582年の10月4日から10月15日の間の夜に亡くなったとされる。彼女の没後40年がたって、彼女は列聖された。教会では彼女を「天使のような修道女」として崇敬している。
2021年06月17日
マザー・テレサと呼ばれるゴンジャ・アグネス・ボヤジウは1910年8月26日スコピエでボヤジウ一家の三人の子の末っ子として生まれました。ゴンジャとは「バラの蕾」という意味です。ゴンジャは生まれた翌日1910年8月27日にスコピエのカトリックの聖堂「イエスのみ心教会」で洗礼を受けました。彼女は幼年期と青春期を毎日この教会のミサに出席し、また教会のいろいろな活動に参加しました。ゴンジャは姉とともに教会の聖歌隊で歌うことを喜びとしていました。マンドリンも弾き、教会のドラマ・セクションにも属していました。ゴンジャは書くことも好きで、自分の書いた記事などを教会の新聞「ブラゴヴェスト」に発表してしました。ゴンジェはユーモアに対して特別な感覚があったと彼女を知る人たちは言っています。同級生のなかでも彼女の聡明さと規律正しさ、組織力で秀でていました。マザーの生家はカトリックの聖堂「イエスのみ心教会」のすぐ近くにありました。ゴンジェは家族とともにミサに出席しました。教会の庭では頻繫にイベントが行われ、彼女はいつもそれに積極的に参加しました。ゴンジェはしばしば一人で教会に行ってはイエス像の前で祈っていました。彼女は12歳の時、このイエス像の前で祈っているときに、初めて神に仕えよという呼びかけを聞くという体験をしました。写真はスコピエのカトリック教会「イエスのみ心教会」
2021年06月16日
マザー・テレサ(アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ)の家族ボヤジウー家は、スコピエの中心地にあるポプ・コチナ通り14番地に住んでいた。マザー・テレサの父親ニコラ・ボヤジウ、尊敬された商人であり企業家でした。彼はスコピエの社会政治活動に積極的で、街の行政活動にも関わり、市民の大きな尊敬を集めていた。彼の息子ラザールによれば、父親のニコラは厳しいけれども公正な人物で、子供たちには誰に対しても経緯と品位をもって接することを求めたという。ニコラは1918年~19年ある出張から帰宅後、不意に帰らぬ人となりました。そしてボヤジウー家の苦しい時代が始まりました。母親のドラナ(Drana)・ボヤジウは、コソヴォ近辺のノヴォ・セロで生まれた。彼女の家は貴金属にかかわる豊かな家系でした。ドラナは20歳ごろニコラ・ボヤジウと結婚し、三人の子供をもうけました。長女のアガ、長男のラザールと次女ゴンジャ。ラザールによると、ドラナは朝から晩まで子供たちのために働き、夫ニコラがなくなったのちは、母親としてだけでなく、父親の役割まで引き継ぎ、一人で子供たちの世話をし続けました。ドラナは大変信心深く、夫がなくなったのちにも貧しい人々を思いやり、援助をし続けました。彼女は1972年6月12日。アルバニアのティラナでなくなりました。マザーの言葉「両親は私たちが神を愛するように育ててくれ、祈りを教え、隣人を愛するように教えてくれました。それは、幸せなカトリックの家庭でした」。ボヤジウ一家の中で一番年上は1903年生まれの長女アガでした。彼女は父親との絆が強く、しばしば彼の仕事を手伝いました。父が亡くなってからは長女として母親を手伝い、弟と妹の養育に責任をもってあたりました。1928年妹のゴンジャがスコピエから出ていったのちは、アガは母親と二人スコピエに住んでいました。1932年彼女は弟ラザールの住むアルバニアのティラナに移り住みました。そしてその2年後には母親も二人の子供たちのもとへと移り住みました。アガはスコピエで経済を勉強しましたが、最初ティラナではセルビア語・クロアチア語とアルバイア語の通訳として働き、その後、ティラナ・ラジオ局のキャスターを勤めました。彼女は母親と暮らし、結婚して自分の家族を持つことはありませんでした。そして1973年にティラナでなくなりました。マザーの兄ラザールは1908年スコピエで生まれました、オーストラリアのグラッツで陸軍士官学校を終えたのち、ゾグ王の率いるアルバニア軍の軍隊に入りました。アルバニアには第二次大戦の始まる前にイタリアに占領され、ゾグ王は降伏し、ラザールはイタリアに移り、マリヤ・サングヴィニというイタリア人女性と結婚しました。彼は娘に姉と同じアガという名前をつけました。写真はマザーの兄ラザール、ゴンジャ、母ドラナ、姉アガヤンブレコヴィッチ神父はゴンジェが生まれた街を離れ、自分の人生を神に捧げる決心をするのに重要な役割を果たしました。教会では聖書を学ぶ授業のときに、世界中のミッショナリーからの手紙が読まれましたが、そのようなミッショナリーの一部になりたいというゴンジェの願いを大きくする一因になりました。ゴンジャ17歳の時に、スコピエを含むこの地域のカトリック教会の若者たちに、アフリカやインドのミッションに参加するようにという呼びかけが届きました。ゴンジャは迷うことなくインドに贈られることを願い、アイルランドのロレト・カトリック修道院に入ることを決めました。ゴンジャが成人となる数か月前、ロレト・カトリック修道院から彼女を受け入れるという手紙が送られてきました。このニュースはヤンブレコヴィッチ神父によって伝えられました。兄ラザールが語るところでは、母親は大変心重く、娘が去っていくニュースを受け入れたという。ドラナは彼女の娘が神の道にしたがって生きる固く心に決していていることを知っていました。母親はゴンジャの決心を受け入れ祝福しました。ゴンジャが出発する前日、一家の前には家族の友達や親せきが集まり、彼女の旅立ちの無事を願いました。1928年9月26日ゴンジャ出発の日、彼女は母親と姉と一緒に駅へ向かいました。そこで大勢の人に見送られて出発しました。列車はスコピエからザグレヴで一人の若いスロベニア人女性と同行し、二人でアイルランドのダブリンへ向かいました。写真はスコピエの「イエスのみ心教会」の前でキリスト教女性会の人達、1924年、ゴンジャ・アグネス・ボヤジウのスコピエにおける最後の写真、出発の前日に撮影(1928年9月25日)惜別わたしは大好きな家を去っていく そして愛する国を。 わたしは行く 蒸し暑いベンガルへ 遠い岸辺へ。わたしは去っていく 昔の友だちから家族と家庭を顧みず心は私を前進させるキリストに仕えるために。大好きなママ、さようなら神がみんなと共にありますように。より高い力が私を引っ張っています、灼熱のインドへ。船はゆっくりと先へ進む大海原の波を砕いて、わたしの目は見つめる、最後に、大好きなヨーロッパの岸辺を。勇気をもってデッキに立つわたしの顔には喜びと平和、キリストの幸せな小さき者よ、彼の新しい花嫁になろうとして。彼女の手には鉄の十字架救い主はそこに架かっておられる。彼女の熱い魂はそこにつらい犠牲をささげる。「おお神よ、このいけにえをお受けくださいわたしの愛のしるしとして。あなたの被造物をどうぞどうぞお助けくださいあなたのみ名の栄光のために」その代わりにただ一つのことを願います。わたしたちすべての者の優しい御父よ、わたしに少なくとも一人の魂を救わせてください。あなたがすでにご存じの方の魂を。」夏の美しく清純な朝露のように彼女の温かい涙が静かに流れ始め、彼女の苦しい、いけにえを聖なるものとして今、ここに封印をするのです。
2021年06月16日
香港、タイに学べ」ミャンマーのデモ隊、SNSで各国と共鳴毎日新聞2021年2月16日国軍によるクーデターに抗議するミャンマーのデモ隊が、香港やタイの民主化デモの手法を取り入れている。各地の若者らは国境を超えて、ソーシャルメディアを通じて緩やかに連携し、強権的な政府への抗議活動を支え合っている。 「当局の弾圧から身を守るため、香港やタイのデモから学んだことを活用したい」。最大都市ヤンゴンで抗議デモを行う団体の一つ、ダゴン大学生自治会のミンハンテットさん(22)は語る。香港、タイのデモ参加者らはソーシャルメディア上にデモに参加する際に推奨される装備などを投稿し、それがビルマ語に翻訳されて拡散。ミャンマーのデモ隊はヘルメットや雨がっぱ、防護マスクなどを身につけ、当局がデモ排除に使う放水や催涙ガスから身を守っている。 また、ミャンマーのデモでは、多くの市民が人さし指、中指、薬指をつき上げる「3本指」のポーズを取る。これはタイのデモ隊の影響だ。タイでは昨年から、軍の政治関与を認めた憲法の改正や王室改革を求めるデモが続き、米映画にヒントを得た3本指のポーズを「反独裁」の象徴として使っている。ヤンゴンに住む通訳、タンゾーウィンさん(35)は「両国は若者が民主主義社会を求め、正当な選挙で選ばれた政府が国を率いることを望んでいる点で共通する」と話す。 一方、タイの反体制デモはミャンマーの影響を受け始めている。ミャンマーでは台所の金物をたたいて「悪霊」を追い払う風習があり、国軍への抗議活動にも使われるが、タイのデモでも鍋やたらいを持ち込んでたたく人が目立つようになった。タイでは2月以降、デモ隊がミャンマー国軍への抗議集会に参加したり、ミャンマー人がタイ政府への抗議デモに参加したりする姿も見られる。タイのデモ指導者の一人、パリット・チワラックさんは1日の集会で「民主主義には国境がないことを証明したい。ミャンマーとタイを独裁者から解放するため、一緒に闘おう」と呼びかけた。 ソーシャルメディア上では、香港、台湾、タイで民主化運動を行う若者らが「ミルクティー同盟」というネットワークを作っており、ミャンマーを加えようという動きもある。ミャンマー当局はクーデター後、国内のインターネットを数回遮断しているが、ミンハンテットさんは「ネットに親しんでいる若者たちは国軍の対応に怒っている。軍の横暴が私たちを団結させ、抗議行動に駆り立てている」と強調する。
2021年02月16日
マザー・テレサの愛 中外日報社説 抜粋是枝律子さんの講話より是枝さんは40代で労働者の街、大阪・釜ヶ崎で野宿者支援活動をしている時にマザーテレサのことを本で知って感銘を受け、単身で会いに行った。以降、駅のトイレ掃除などの副業で資金を稼ぎながら医薬品、食料品を送ったり、自ら医療を手伝いに50回以上も現地に赴いたりもした。マザーは、ユーモアにあふれ、傷の治療に日本から大量に持参した軟膏にちなみ是枝さんを「ミズ・オロナミン」と呼んだ。 路上に生まれ育ちハンセン病と結核で伏す少年を3日間、献身的に看護した是枝さんが帰国する時、それまで無言だった彼が「行かないで。お母さんのようだ」と泣いた。「わずかな日しか世話していないのに」と思う是枝さんに、マザーは「それが愛よ」と教えた。「大切なのはどれだけたくさんの事や偉大な事をしたかではなくどれだけ心をこめたかです」の言葉どおりだった。(中外日報社説(令和元年11月27日) 抜粋)是枝さんは元看護師さんで49歳のときマザー・テレサと出会いますマザーご存命中の10年間ほど日本とカルカッタを行き来しボランティア活動をされた方です2009年に交通事故にあい現在は車椅子生活になりました現在は看護学校や小・中学校など講演活動中マザーと直接親交のあった数少ない日本人のお一人ですその中から看護師という道を歩まれマザーとの出会いから彼女の人生は今に導かれていたのでしょうマザーとの写真を撮りたいの?良いわよ撮りなさいそんな自然な会話から女性ならではのマザーとのやり取り祈りをもっとも大切な時間としたマザー祈っている姿はとても神聖でその姿を写真になんてそれでも是枝さんの申し出に明日○時に着なさいとそっとOKを出すマザー自身のボランティア活動のほか今でも医療・治療に関わる物資は充分ではありませんがその当時は日本のオロナイン軟膏がとても歓迎され沢山輸送するのに苦労した話などその当時のお話ならでわですマザーの所でお父さんがケアを受けましたそのお父さんの最後のときに彼の記憶の風景を再現してくれようとシスター達は工夫をしてくれたそうですそのことを体験した彼の子供(女の子)はその後成長されてシスターの道にすすんだそうですマザーの所に預けれれた子供は海外のご夫婦と養子縁組をして新しい人生を踏み出しますその時その報告のためにシスターは子供をマザーのお墓の上に置きシスター達はマザーの前でそのことの別れを悲しみに涙を流すのだそうですそんないくつかのエピソードをお聞きしてシスターにとってマザーはかけがえのない存在で今でも沢山の方の中にマザーは生きている事故で苦しんだ是枝さんの病室には沖守弘さんの撮られたマザーの写真で埋め尽くされたときっとマザーがずっと彼女の気持ちを支えたに違いありませんそして今もきっと見つめているのでしょう
2021年01月30日
✨✨✨✨ この本は、中村さんに助けてもらったことを後世に語り継ぐために、アフガニスタンで出版された2冊の絵本、『カカ・ムラド〜ナカムラのおじさん』と『カカ・ムラドと魔法の小箱』に解説を加えまとめたものです。『カカ・ムラド〜ナカムラのおじさん』は中村さんがアフガニスタンで行ってきたこと、事実をもとに描かれた創作です。『カカ・ムラドと魔法の小箱』は、作者のイメージする中村さんが登場するファンタジーです。 診療所を建てて病気を治したり、日照りが続いて乾いてしまったときに水をひいて緑に変えたり ー 。 中村さんについて描かれた、遠い国から届いた2つの物語です。(本文より)✨✨✨✨ また、本の中に、中村さんが祖母や聖書、牧師さんから教わったことや、中村さんが好きだった言葉(一隅を照らす)なども紹介してあり、とても素晴らしい本でした✨🍀ガフワラとは、 アフガニスタンのNGO。2016年、日本に留学していた代表のザビ・マハディが滞在中に設立。「ガフワラ」は公用語の1つダリ語で「ゆりかご」を意味する。日本の絵本や児童書に触れ、自国の子供たちの情操教育のためには良質な絵本が必要だと感じ、帰国後、本格的に活動をスタートさせる。これまで、オリジナルの絵本の制作や海外作品の翻訳を多数手がけ、学校などの施設に広く配布している。
2021年01月11日
2011年07月16日夜、外に出たら満月だった。昼間の講演で 鈴木秀子 先生は言われた。「きのう、満月でしたねえ。とてもきれいでしたね。アメリカでは、満月は むしろ気味悪がれるのです。」7月から 9時から20時まで 15%の節電を要請されている。こうして自然の暑さに身をさらすとき、私たち日本人がいかに快適という名の人工的環境に身を置いていたか痛感する。昼間の暑さから 宵の風の涼しさに 身をゆだねるとき 月の光の美しさもしみじみと味わわれる。鈴木秀子先生は 天災と人災 と言われた。東北大震災でも 地震や津波は 天災で 人々はすぐに復興にとりかかっている。ところが福島の放射能は人災で 放射能のため 村全体が 避難して 復興ができない。そこの村の村長さんはヒゲを伸ばして まだ村民の200名が行方不明で、全員の行方がわかるまでヒゲをそらないとオイオイと泣かれたという。放射能のために 遺体の探索もままならないのである。村長さんが 避難民のところに激励に行くと 行政の怠慢さを叱られることを覚悟していくのだが、誰もとがめる人はいないというのである。天災は立ち直ることができる。しかし、人災はままならない。鈴木先生はこんな話もされた。先生の尊敬するシスターは92歳の時に日本語の勉強を始められた。今94歳だという。そのシスターが「ああ、そうか」とよく言われる。女性なので、「ああ、そうか」という言い方はおかしいですよ」と言うと、そのシスターは「ああ、そうか」と人が言うとき、目が輝いている。人は自分でああ、そうかと思わないと自分のものにできない。人からいくら教えられても、ああ、そうかと腹の底におちなければ生かすことができない」と。おそらくは一人一人の国民が「ああ そうか」と気付くまで 人災は続くのであろう。 鈴木先生は講演の初めにこう言って祈られた。「姿勢を正して、背筋を伸ばして、丹田に落として一緒にお祈り下さい」と。 祈りあわれみ深い神さま、あなたはどんな時にも私たちから離れることなく、喜びや悲しみを共にしてくださいます。今回の大震災によって苦しむ人々のために、あなたの助けと励ましを与えてください。私たちもその人たちのために犠牲をささげ、祈り続けます。そして、一日も早く、安心して暮らせる日々が来ますように。また、この震災で亡くなられたすべての人々が、あなたのもとで安らかに憩うことができますように。 そして「祈りは波動によって届けられました」とおっしゃった。どうか、この震災で亡くなられたすべての方々が安らかに憩われることを。💛この時の「ああ、そうか」と人が言うとき、目が輝いている。人は自分でああ、そうかと思わないと自分のものにできない。人からいくら教えられても、ああ、そうかと腹の底におちなければ生かすことができない は現在のコロナの終息にもかかわっているのかもしれない。「ああ、そうか」と腹のそこにおちて国民全部が「会食禁、対面マスク着用、移動制限」を自分のものにしなければ、ワクチン接種までコロナの流行はやむこととがないのかも。
2021年01月02日
ネルー「自叙伝」蝋山芳郎訳より1921年は、私たちにとって異常な年だった。・・・ガンジージが、民衆のあらゆる階級、グループに魔法をかけ、彼らを一つの方向に向かって闘争する一つの混成群に引き込んだ手際は、特筆に価することだった。・・・さらにいっそう特筆すべきは、これらの要求や感情が外国人の支配者に対する憎悪にはならなかった、という事実であった。民族主義は、本質的には何かに反対する感情である。だからそれは違った民族集団、外国人の支配者に対する憎悪や怒りによって育成され、助長されるものである。1921年のインドにも、この種の憎悪や、また怒りが確かに存在した。しかし同じような状態に置かれていたほかの国々に比べると、それは並外れて少なかった。これは疑いなくガンジージが非暴力の持つ意義を強調したことに基いていた。それはまた、非協力運動の開始ととも生まれた解放感と自分たちの力の自覚そして信念に基いていた。順調に進んでいて、近々勝利が得られそうなとき、どうして怒ったり、憎悪でいっぱいになることがあろうか。(略)ガンジージは品性と敬虔さを強調した。彼は、インドの民衆に気骨と品性を与える点に、驚くほどの成功をおさめた。・・・無気力で、遅れた、ばらばらだった民衆が、突如として胸を張り頭を起こして、統制のとれた全国的な規模の共同行動に参加してきた。(略)1921年を通じて、個々の会議派の党員が逮捕され、刑の宣告を受けたが、大量検挙はまだ行われなかった。・・・年末になって、事態は危機にまで発展した。イギリス皇太子がインドに来ることになった。そして会議派は、彼の訪問に関連したすべての行事をボイコットすることを宣言した。・・・12月の初め、皇太子が私たちの州に来る数日前に、一斉検挙が開始された。・・・逮捕と有罪判決が、特にベンガルと連合の2州に嵐のように行われた。・・・1921年12月と1922年1月の間に、約3万人が非協力運動に関連して投獄の判決を受けた。しかしマハトマ・ガンジーはまだ獄外にあって、毎日メッセージや指令を出し、民衆を鼓舞すると共に、暴力的な傾向を抑えた。・・・1922年2月になって、突然、全局面が一変した。ガンジージが不服従運動を中止したのだ。私たちは獄中で、それがチョウリ・チョウラ村付近で起きた事件、すなわち村民が幾人かの巡査に対する報復として派出所に放火し、その中にいた6名近い巡査を焼き殺したことのためだと知った。私たちはまさにこれからという時、闘争を中止したことを知って起こった。非協力運動は一頓挫した。5,6週たって、政府はガンジージを逮捕し、長期刑の判決を下した。ガンジージは非暴力の、そして平和的な非協力の方法を採択するように説得した。彼の声と態度は冷静かつ明晰であらゆる衝動を欠いていた。しかし冷徹な態度の背後には、燃え上がる炎の熱と凝集した熱狂が秘められていた。ガンジージの口から発せられた言葉は、私たちの知性や感情の奥底まで飛び込んできて、そこに不思議な興奮をかきたてた。ガンジージが差し示した道は険しく、困難だった。だが、それは勇敢であり、自由を約束してくれた。1920年にガンジージが書いた有名な論文「剣の教義」でこう言っている。「わたしは信じている。卑怯と暴力のいずれかを選ばなくてはならないときには、わたしは暴力を勧めるだろう。・・・わたしはインドが卑怯に振舞って、インド自身の不名誉に対する救いのない犠牲になるならば、むしろインドの名誉を守るために、武器に訴えさせたであろう。しかし、非暴力は暴力にまさる万々であり、許しは懲罰よりもはるかに男性的であると信じている。」「宥恕は武人を飾る。しかし、ゆるす側に罰する力があるときにのみ、自己抑制はゆるしとなる。無力な者が寛大を装ったところでそれは無意味である。鼠は、猫に八つ裂きにされるがままになっているとき、猫をゆるしてはいない。・・・けれどもわたしは、インドが無力だとは思わない。またわたしは、自分が無力な人間だとも思っていない。」「力は体力からではなく、不屈の意志から来るのである。」「わたしは夢想家ではない。わたしは実際的な理想主義者であると自認している。非暴力の宗教は、たんにリシ(賢者)や聖者たちのためのものではない。それは同様に、一般庶民のためのものである。暴力が獣類の法(のり)であるように、非暴力は人類の法である。獣類にあっては精神は眠っており、獣類は肉体の力の他には法を知らない。人間の尊厳は、より高い法に、すなわち精神の力に従うことを要求する。」「それゆえに、わたしはあえてインドの前に、自己犠牲という昔の法を提起したのである。なぜなら、サティヤグラハ(真理把持)とその分枝である非協力運動や市民的抵抗は、全て受難の法に与えられた新しい名称にほかならない。暴力のさなかにあって非暴力の法則を発見したリシたちは、ニュートンよりも偉大な天才たちであった。彼らは、ウェリントンよりも偉大な戦士たちであった。リシたちは、自ら武器を用いることを知っていながら、その無益なことを悟り、救いは暴力によってではなく、非暴力によってもたらされることを、疲れ果てた世に教えたのである。」「非暴力は活動的状態においては、自らすすんで苦しみを甘受する。それは、悪をなす者の意志にいくじなく服従するのではなく、全心全霊をもって圧制者の意志に抗することを意味する。この人類の法に従って行動するとき、一個人が、彼の名誉や宗教や魂を救うために、不正な帝国の全権力を拒否し、その帝国の崩壊とその復興の基礎をおくことも可能である。」「こうしてわたしは、インドが弱いために非暴力を実践するよう説いているのではない。わたしは、インドが自らの力と能力を自覚しつつ非暴力を実践することを望む。」「もしインドが剣の教義を取り上げるならば、一時の勝利は得られるかもしれない。そのときには、インドはわたしの心の誇りであることをやめるであろう。わたしはインドと結婚している。わたしはすべてをインドに負うているからである。インドは世界に対して一つの使命をになっていると固く信じている。」(略)(ネルーはガンジーの裁判を傍聴した。)それは記念すべき出来事だった。傍聴した私たちは、それを一生忘れることはできない。裁判長はイギリス人だった。ガンジージの法廷での陳述は非常に感動的なものだった。私たちは感激に震えながら、彼の生き生きとした言葉と印象的な姿を、心にたたきこんだのであった。
2020年12月20日
マザー・テレサ日々の言葉より私が神の声を聴いたのは汽車でダージリンへ向かう旅の途中でした私には神の声であることがはっきりとわかりました神が呼んでおられると私は確信しましたメッセージははっきりとしていました私は彼らを助けるために貧しい人たちの中に住み修道会を去らなければなりませんこれは神のご命令であり実行されなくてはならないはっきりしたことだったのです招きは神と私の間のことです大事なことは神が私たちをそれぞれ違うやり方でお呼びになるということですあの困難で劇的な日々にこれは神のなさるみ業であって私の働きではないということは確信していましたし、今もそう信じていますこれは神の業ですそして世界はそこから恩恵を受けるであろうということが私にはわかっていました「神父さま、ありがとうございます。私は、この11年をとおして初めて、自分の暗闇を愛するようになりました。この暗闇は、イエスが地上で味わった暗闇と痛みの一部分だと信じます。イエスはもはやご自分では苦しむことができないので、地上にいる私のうちで苦しむことを望んでおられることに深い喜びを、今日ほんとうに感じました。今まで以上に、神に自分を委ねます」
2020年09月26日
私たちのしていることは大海の一滴にすぎないと感じていますけれどもしその一滴がなければ海はその一滴分確かに少ないということです私たちは数や量では考えませんいつもその時たったひとりの人を愛しているのです。どんな時でもいつもひとりのその人に集中してお世話をしているのです「マザー・テレサの愛という仕事」56ページより1948年に私はロレッタ修道院を離れました。それが私にとって初めての旅であったわけですが、ちょうどカルカッタの市街を歩いているときに、一人の司祭が私の方に向かってやってきました。そして彼は、カトリックの出版物のために寄付をお願いしたい、というのです。一瞬ためらいました。私は旅立つ時は5ルピーを持っていたのですが、途中で貧しい人に4ルピーを渡してしまったので、手元には1ルピーしか残っていなかったからです。しかし私はその1ルピーを彼に寄付させてもらいました。その日の午後のことです。先ほど出会った司祭が一通の封筒をもって、私を訪ねてきました。ある人物が、私が行おうとしていることを耳にしてぜひ援助したいということで、その封筒を司祭に預けられたのだそうです。封筒を開けてみると、そこには50ルピーが入っていました。その時私は、神が私の仕事を祝福してくださっているのだと、実感しました。そしていかなることがあっても、私を見捨てられることはないだろう と改めて思ったのです。「同書」80ページより私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。私たちは弱気になってはならないのです。勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。
2020年09月25日
ロレト修道会のシスター社会から外に出たマザー・テレサが身につけていたのわ、僅か5ルピーだけでした。しかし彼女の最も貧しい人たちを助けたいという思いは、どんなに物質的に保証されるよりも大きかったのです。マザー・テレサのミッショナリーとしての第1歩は、街路やスラム街に最も貧しい人たちを訪ねることから始まりました。最初彼女が訪れた場所の一つは、学校のすぐそばのモティシル貧民区でした。しかしマザー・テレサは最初は彼らから疑惑の目で見られ、すぐに受け入れられたわけではありませんでした。時とともに彼女の愛にみちたまなざしは彼らのすべての疑いを解き、彼女がそこに共にあり、彼らに奉仕し、彼らを助け、彼らに一番身近な人たちからでさえ、もう長く感じることのできなくなってしまった愛をささげてくれることに気づいたのでした。まずマザー・テレサの元教え子のスパシニ・ダスが、ミッションの手助けをしたいとマザー・テレサの活動に加わりました。そして少しずつマザー・テレサのミッショナリーのシスターたちの数は増えていき、1950年10月7日、彼女の愛の宣教師会は、ローマ法王ピウス12世の布告をもって公式に認められたのでした。マザー・テレサのミッショナリーは、彼女自身によって書かれた神の愛宣教師会の最初の規約からなるルールが土台となっていました。その要点は、神そして身近な人達に対する愛と、貧しい人々の中でも最も苦しんでいる人達に対する全面的な献身でした。〇愛には限界がありません神は愛であり愛は神だからですですからあなたがほんとうに神の愛のうちにいるなら神の愛は無限なのですだからこそこう言うのですどれだけたくさんのことをするかが問題なのではなくどれだけたくさんの愛をその行為にこめるかが大切なのです「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」89ページより愛という大きな贈物The Great Gift of Loveしばらく前から、わたしたちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこに行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。ガテマラのシスターたちは、どこでもそうするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、わたしにあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力ではどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりいました。彼は、シスターにこう言いました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね。」現在、彼は仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつでも何かを持ってくるのです。このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。
2020年06月17日
ゴンジャはリジューの聖テレサにちなんでマリア・テレサという新しい名前を選びました。マリア・テレサ自身は「マザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって?いいえ、とんでもない。私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。」リジューの聖テレサとアビラの聖テレサとはどのような人物なのか?リジューの聖テレサリジューの聖テレーズ(フランス語:Thérèse de Lisieux, 1873年1月2日 - 1897年9月30日)あるいは幼いイエスの聖テレジア、小さき花のテレジアは、19世紀フランスのカルメル会修道女。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」。カトリック教会の聖人にして教会博士の一人。若くして世を去ったが、その著作は今日でも世界中で広く読まれる。テレーズはフランスのアランソンに生まれた。父ルイは時計屋を営み、母ゼリーは腕のいいレース職人だった。マルタン夫妻は、修道士・修道女になる望みを持っていたことがあり、ともに信仰あつく、仲が良かった(のちにともに列聖される)。夫婦の間には9人の子供が生まれたが、結核などのために4人が夭逝し、5人の娘たち(マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズ)だけが成長することができた。テレーズは末っ子で、感受性が強く、誰からも愛される子供だった。テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、テレーズが9歳のとき、それまで母親代わりを務めていた次姉のポリーヌがリジューのカルメル会修道院に入った。この頃からテレーズは、修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるようになる。テレーズは10歳のとき、突如体調不良を訴えた。ノートルダム教会に9日間のミサを捧げてもらい、姉たちもテレーズの聖母像の前にひざまずいて祈っていた。聖霊降臨祭の日、テレーズは聖母像が微笑むのを目撃した(ほほえみの聖母)。直後、テレーズは全快し健康になっていた。『この地上には何の救いも見い出せなくなった哀れな幼いテレーズは、「天国のおかあさん」(聖母像)に向かって一心に憐れみを乞い願いました。・・・ すると突然、聖母の姿がそれまで見たことのないほど美しくなり、顔立ちにはえも言われぬ優しい表情が現れました。しかし私の魂の奥まで届いたのは、うっとりするような心奪われる聖母の微笑みでした。その時、私の苦しみのすべてが立ち消え、大粒の涙があふれて静かに私の頬を伝って流れました。その涙は、純粋な喜びの涙でありました。・・・私は思いました。"ああ!聖母が私に微笑んでくださった、何と幸せなことだろう・・・"と。』(『ある魂の物語』原稿A、26ページ)テレーズが16歳になり、司教が修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受ける。1890年9月8日、最初の修道誓願を宣立したテレーズは、修道名に「聖なる御顔(尊き面影)」(la Sainte Face) という言葉を付け加えた。もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは1896年4月に喀血。そのまま病勢が進み、1897年9月30日に姉たちに見守られながら24歳で亡くなった。彼女は海外宣教に強い関心があり、インドシナ宣教の望みがあったが、それは果たされなかった。テレーズが死の直前に「私は地上に善を為すために天での時を過ごしましょう。私は天から薔薇の雨を降らせましょう。(Je veux passer mon ciel à faire du bien sur la terre.Je ferai tomber une pluie de roses.)」と言い残したように、死後、彼女のとりなしによって多くの奇跡(病気の治癒、回心など)がもたらされた。それは現代に至るまで続いている。死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まった。1914年6月10日、教皇ピウス10世はテレーズの列聖調査を進める宣言に署名した。ベネディクトゥス15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという条件を、テレーズに限って特別に緩和することを決定、これは異例のことであった。1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖される。リジューのテレーズは病人、パイロットや花屋、宣教師、ロシアの他に、子どもや弱い者の守護聖人になっている。彼女はジャンヌ・ダルクに次いでフランスの第2の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから、1927年には海外宣教者の守護聖人となった。テレーズは自分の天職を「愛」であると語っており、修道生活においても、人の欠点をゆるすこと、他人に惜しみ無く愛を与えること、人に譲ること、誤解されても相手を責めないこと、批判されても甘んじて受けること、苦手な相手のためにも愛をもって祈り善行をなすことを「完徳」への第一歩であると見なしていた。〇アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物。カスティーリャのアビラ(マドリードの北西53マイルのところにある)で生まれた。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。彼女は、父、セペダのアロンソ・サンチェス勲爵 (the knight Alonso Sánchez de Cepeda)、そして母のベアトリス・ダビラ・イ・アウマダ (Beatriz d'Ávila y Ahumada) による教えを受けて、非常に信仰深く禁欲的な理想をしっかりと植え付けられていた。"アビラの聖テレーズ"の名でも知られるイエスのテレーズ(1515-1582)は、 ある日、エンカルナシオン修道院の回廊に通じる階段の途中で 一人の幼い男の子とばったり出会い、いきなり"名前は何ていうの?"と聞かれます。突然のことにひどく驚きながらも"イエスのテレーズよ"と答えると、 男の子は満面の笑みをたたえながらこう返します。"じゃ僕は、テレーズのイエスだ"『私のためにこれほどまで小さくなられた方を、恐れることはできません。 ・・・私は彼を愛しています!・・・なぜなら、彼は愛と憐れみ以外の何者でもないのですから』 - 手紙266番よりテレサは聖者の生き様に魅了されて、少女時代に何度か家出をし、荒野の殉教地を探した。1534年のある朝、問題児の収容施設をこっそり抜け出して、彼女はアビラにあるカルメル会の御托身女子修道院に入った。修道院では、彼女は病気に苦しんだ。病気の初期には、彼女は信仰書『信仰入門書』(Abecedario espiritual) を読む中で、崇高な宗教的恍惚感を繰り返し経験した。彼女は闘病中に自分は「回想」という最も低い段階から「平和への献身」もしくは「(神との)合一への献身」という段階まで引き上げられ、それは完全なる恍惚感の一つであると告白した。これは頻繁に鮮やかな「涙の祝福」を伴うものであった。彼女は人間の生まれながらの完全な無力さを意識することが、神への絶対的服従の必要性につながるのだと考えた。彼女はその時、カルメル会女子修道院を創立し、それまでの修道院のだらしなさを改革しようと決心した。1563年5月、テレサが新しい修道院へと移転した時、彼女は明らかな貧しさと豊かさの拒絶という最も重要な原則について、教皇の支持を取り付けた。その原則を彼女は「規約」という形で明確にするようにしていった。1567年、彼女はカルメル会の長、ルベオ・デ・ラヴェンナ (Rubeo de Ravenna) の特別な許しを得て、彼女の指示で複数の新しい修道院を創立した。そしてこの努力を続ける中で、後に彼女はほとんど全てのスペインの地方を訪問する長い旅を行った。これらの旅を続ける中で、彼女は『創立の書』を著した。1576年、テレサやその友人たち、そして彼女たちの改革に対抗する旧来の保守的なカルメル会の修道士たちの側から、一連の迫害が始まったが、数年の後、ついに彼女の判決がスペイン王フェリペ2世の書面によって通告され、彼女は安堵を得ることができた。教皇グレゴリウス13世の簡潔な声明文は、跣足カルメル女子修道会の新しい支局に対して、特別な管区長を置くことを許可した。彼女は1582年の10月4日から10月15日の間の夜に亡くなったとされる。彼女の没後40年がたって、彼女は列聖された。教会では彼女を「天使のような修道女」として崇敬している。〇教皇ベネディクト十六世の257回目の一般謁見演説 アビラの聖テレサ親愛なる兄弟姉妹の皆様。アビラのテレサは1515年、スペインのアビラで生まれました。本名はテレサ・デ・アウマダ(Teresa de Ahumada)です。 彼女は自叙伝の中で幼年時代のいくつかの出来事に言及しています。テレサは「神を畏れ、徳に満ちた両親」から、9人兄弟と3人姉妹の大家族の一人として生まれました。9歳にもならない幼いときからすでに幾人かの殉教者の伝記を読むことができました。殉教者の伝記は彼女に殉教への望みを抱かせました。そこで彼女は殉教者として死んで天国に行くために家を出ることまで考えました。幼いテレサは両親にいいました。「わたしは神を見たいのです」。数年後、テレサは幼いときの読書について語っています。そして自分は真理を見いだしたと述べます。この真理を彼女は二つの原理に要約しました。第一は、「この世に属するものはすべて過ぎ去ること」、第二は、神のみが「永遠に、永遠に、永遠に」存在することです。20歳のとき、アビラのエンカルナシオン修道院に入りました。修道生活を始めたテレサは、イエスのテレサの修道名を名乗りました。3年後、重い病にかかり、4日間の間、昏睡状態に陥り、ほとんど死んだかのように思われました。テレサは自分の病との戦いは、弱さと神の呼びかけにあらがう心との戦いでもあると認めます。1554年の四旬節、39歳のとき、テレサの自分の弱さとの戦いは頂点に達しました。たまたま「傷にまみれたキリスト」の像を見いだしたことが、彼女の生涯に深い刻印を残すことになります。「突然神の存在がわたしに迫ってきて、神がわたしのうちにおいでになる、またはわたしが神のうちに完全に沈められていることをまったく疑うことができませんでした」テレサはカルメル会の改革の理念を具体化し始めました。1562年、テレサはアビラの司教アルバロ・デ・メンドサ(Alvaro de Mendoza)の支援を得て、最初の改革カルメル会修道院をアビラに創立しました。その後間もなく、カルメル会総長ジョヴァンニ・バッティスタ・ロッシ(Giovanni Battista Rossi)の認可も受けました。その後の数年間、テレサは計17の新しいカルメル会修道院を設立し続けました。1568年にアビラ近郊のドゥルエロに最初の跣足カルメル会修道院を創立しました。1580年、テレサはローマから改革カルメル会のための免属管区を設立する認可を得ました。これが跣足カルメル会の出発点となります。テレサは地上の生涯をこうした設立活動を行っている最中に終えます。1582年にブルゴスのカルメル会修道院を設立した後、アビラに帰る途中の10月15日、アルバ・デ・トルメス修道院で亡くなりました。つつましく次の二つのことばを繰り返し唱えながら。「ついにわたしは教会の娘として死にます」。「わが花婿よ、今こそ御身とまみえる時です」。テレサの深く複雑な霊性を短いことばでまとめるのは困難です。いくつかの本質的な点を述べたいと思います。第一はこれです。聖テレサは、福音的な徳があらゆるキリスト教的生活と人間生活の基盤であることを示します。とくに富からの離脱、あるいは福音的な清貧です。これはわたしたち皆にかかわります。また、互いに愛し合うことです。これは共同生活と社会生活に不可欠な要素です。へりくだりとは、真理を愛することです。決断は、キリスト教的勇気から生まれます。テレサは、神への希望は、生ける水への渇きだと述べます。人間的徳も忘れてはなりません。すなわち、柔和、誠実、謙遜、親切、快活、教養です。第二はこれです。聖テレサは、聖書の偉大な人物に深く親しむとともに、神のことばにしっかり耳を傾けるよう指示します。聖女が親しみを感じたのは、何よりも雅歌の花嫁と、使徒パウロであり、また、ご受難のキリストと、聖体のイエスです。聖テレサにしばしば見られるもう一つのテーマは、キリストの人間性を中心とすることです。実際、テレサにとって、キリスト教的生活はイエスとの個人的な関係です。イエスとの個人的関係は、恵みと愛と倣(まな)びを通じて、イエスとの一致において頂点に達します。親愛なる兄弟姉妹の皆様。イエスの聖テレサは、あらゆる時代の信者にとってキリスト教的生活のまことの教師です。しばしば霊的な価値を欠いた現代社会にあって、聖テレサはわたしたちに、神と、その現存と、その働きをうむことなくあかしすることを教えてくれます。聖テレサはわたしたちの心の奥深くにおられる、神への渇きを本当に感じることを教えてくれます。神を見、神を尋ね求め、神と語り合い、神の友となりたいという望みを本当に感じることを教えてくれます。
2020年06月17日
列車はスコピエからザグレヴへと向かい、ゴンジャはザグレヴで一人の若いスロベニア人女性ベティカ・カインチと会いました。そして二人は1928年10月13日ザグレヴを出発し、オーストリア、スイス、フランスを経て、イギリス海峡を船で渡り、イギリスからアイルランドのダブリンへと旅をつづけました。ダブリン到着後はすぐにラットファンフォームの聖母会館に送られ、そこで英語の勉強をしながら、ロレト・カトリック修道院のシスター達の生活について学ぶために、数週間滞在しました。その滞在中に、ゴンジャはマリア・テレサという新しい名前を選びました。それは小さなイエスの花ーミッショナリーの守護者として知られるリジューの聖テレサに因んだものでした。1928年12月1日、数週間にわかるミッショナリー生活についての準備を終えると、若いシスター・テレサは、船で暑いインドへと出発しました。1929年1月6日インドのベンガルに到着したマザー・テレサは、そこからコルカタに向かいました。その後1929年1月16日には、ダージリンへと送られました。そしてマザー・テレサは1929年5月に、正式にロレト修道会の見習い修道女として受け入れられました。彼女は活発にロレト修道女たちの公式語である英語を学び、またベンガル語とヒンズー語の勉強もしました。ロレト修道会の学校はコルカタにあり、その学校ではカースト制度の身分の高い娘たちが教育を受けていましたが、マザー・テレサはそこで地理と歴史と聖書を教えていました。1931年5月25日、彼女は初めて清貧、誠実、ロレト修道会内における従順の誓願をたてました。そして1937年5月24日にマザー・テレサはダージリンで終生誓願をたてたのでした。マザー・テレサは、教育者として特別な天分を見せました。教師としての仕事以外にも、自由時間にはコルカタの貧民地区を訪問し、貧しい子供たちを自分の周りに集め、地面に字を書きながら子供たちに教えました。ロレト修道会のシスターたちは、年に一度、修道院から外に出て精神の修養を行っていましたが、それは他の街の修道院で行われることが多いでした。1946年9月10日、マザー・テレサはコルカタからダージリンへ向かうそのような旅の途中、学校の仕事をなげうち、街の通りに出て、インドの最も貧しい人々の中へ入るようにという神の声を再び耳にするという体験をしました。〇「マザー・テレサの 愛 と言う仕事」214ページよりマザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって?いいえ、とんでもない。私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。私たちの仕事は苦しみがなければ、きっと人助けのための社会事業ということになるのでしょう。しかしそれでは、イエス・キリストのための仕事ではなくなってしまいます。真の救済にはならなくなってしまいます。イエスは、私たちがイエスが味わわれた生活、苦悩、孤独、死を共有することによって、私たちに救いの手を差し伸べてくださるのです。イエスとともにいるからこそ、私たちを救ってくださったのです。私たちもイエスと同じことをしなければなりません。貧しい人々は、精神的な貧しさからだけでなく、あらゆる貧しさからも救われるべきなのです。そしてその時に、私たちも、彼らと同じ貧しさを共有しなくてはなりません。貧しい人々と一緒にいることで、私も彼らも救われるのです。彼らの人生に神をもたらし、神のところに遣わすことで、彼らは完全に救われます。私は時々、ひどく心細く感じることがあります。心が空虚になり、自分自身が中身のない貝殻のように思え、私の中の支えを失ってしまいそうになるのです。ヨーロッパや合衆国に出かけていくたびに、裕福であるはずのその国でひどく不幸な人々に出会い、心が痛くなるのです。物質的に裕福であるがゆえに、家庭は崩壊し、子どもたちは親から見捨てられているといった現実を、何度も目の当たりにしているからです。今、このような先進国の人々が取り組まなくてはならないのは、自分の血をわけた家族のために働き、離れかけている夫婦の心を結び、子どもたちが両親の愛をたくさん受けることのできる家庭をつくることです
2020年06月16日
マザー・テレサと呼ばれるゴンジャ・アグネス・ボヤジウは1910年8月26日スコピエでボヤジウ一家の三人の子の末っ子として生まれました。ゴンジャとは「バラの蕾」という意味です。ゴンジャは生まれた翌日1910年8月27日にスコピエのカトリックの聖堂「イエスのみ心教会」で洗礼を受けました。彼女は幼年期と青春期を毎日この教会のミサに出席し、また教会のいろいろな活動に参加しました。ゴンジャは姉とともに教会の聖歌隊で歌うことを喜びとしていました。マンドリンも弾き、教会のドラマ・セクションにも属していました。ゴンジャは書くことも好きで、自分の書いた記事などを教会の新聞「ブラゴヴェスト」に発表してしました。ゴンジェはユーモアに対して特別な感覚があったと彼女を知る人たちは言っています。同級生のなかでも彼女の聡明さと規律正しさ、組織力で秀でていました。マザーの生家はカトリックの聖堂「イエスのみ心教会」のすぐ近くにありました。ゴンジェは家族とともにミサに出席しました。教会の庭では頻繫にイベントが行われ、彼女はいつもそれに積極的に参加しました。ゴンジェはしばしば一人で教会に行ってはイエス像の前で祈っていました。彼女は12歳の時、このイエス像の前で祈っているときに、初めて神に仕えよという呼びかけを聞くという体験をしました。〇ナイチンゲールは、16歳の時「1837年2月7日、神は私に語りかけられ、『神に仕えよ』と命じられた」とメモに書いている。
2020年06月16日
ヤンブレコヴィッチ神父はゴンジェが生まれた街を離れ、自分の人生を神に捧げる決心をするのに重要な役割を果たしました。教会では聖書を学ぶ授業のときに、世界中のミッショナリーからの手紙が読まれましたが、そのようなミッショナリーの一部になりたいというゴンジェの願いを大きくする一因になりました。ゴンジャ17歳の時に、スコピエを含むこの地域のカトリック教会の若者たちに、アフリカやインドのミッションに参加するようにという呼びかけが届きました。ゴンジャは迷うことなくインドに贈られることを願い、アイルランドのロレト・カトリック修道院に入ることを決めました。ゴンジャが成人となる数か月前、ロレト・カトリック修道院から彼女を受け入れるという手紙が送られてきました。このニュースはヤンブレコヴィッチ神父によって伝えられました。兄ラザールが語るところでは、母親は大変心重く、娘が去っていくニュースを受け入れたという。ドラナは彼女の娘が神の道にしたがって生きる固く心に決していていることを知っていました。母親はゴンジャの決心を受け入れ祝福しました。ゴンジャが出発する前日、一家の前には家族の友達や親せきが集まり、彼女の旅立ちの無事を願いました。1928年9月26日ゴンジャ出発の日、彼女は母親と姉と一緒に駅へ向かいました。そこで大勢の人に見送られて出発しました。列車はスコピエからザグレヴで一人の若いスロベニア人女性と同行し、二人でアイルランドのダブリンへ向かいました。惜別わたしは大好きな家を去っていく そして愛する国を。 わたしは行く 蒸し暑いベンガルへ 遠い岸辺へ。わたしは去っていく 昔の友だちから家族と家庭を顧みず心は私を前進させるキリストに仕えるために。大好きなママ、さようなら神がみんなと共にありますように。より高い力が私を引っ張っています、灼熱のインドへ。船はゆっくりと先へ進む大海原の波を砕いて、わたしの目は見つめる、最後に、大好きなヨーロッパの岸辺を。勇気をもってデッキに立つわたしの顔には喜びと平和、キリストの幸せな小さき者よ、彼の新しい花嫁になろうとして。彼女の手には鉄の十字架救い主はそこに架かっておられる。彼女の熱い魂はそこにつらい犠牲をささげる。「おお神よ、このいけにえをお受けくださいわたしの愛のしるしとして。あなたの被造物をどうぞどうぞお助けくださいあなたのみ名の栄光のために」その代わりにただ一つのことを願います。わたしたちすべての者の優しい御父よ、わたしに少なくとも一人の魂を救わせてください。あなたがすでにご存じの方の魂を。」夏の美しく清純な朝露のように彼女の温かい涙が静かに流れ始め、彼女の苦しい、いけにえを聖なるものとして今、ここに封印をするのです。
2020年06月16日
ボヤジウ一家の中で一番年上は1903年生まれの長女アガでした。彼女は父親との絆が強く、しばしば彼の仕事を手伝いました。父が亡くなってからは長女として母親を手伝い、弟と妹の養育に責任をもってあたりました。1928年妹のゴンジャがスコピエから出ていったのちは、アガは母親と二人スコピエに住んでいました。1932年彼女は弟ラザールの住むアルバニアのティラナに移り住みました。そしてその2年後には母親も二人の子供たちのもとへと移り住みました。アガはスコピエで経済を勉強しましたが、最初ティラナではセルビア語・クロアチア語とアルバイア語の通訳として働き、その後、ティラナ・ラジオ局のキャスターを勤めました。彼女は母親と暮らし、結婚して自分の家族を持つことはありませんでした。そして1973年にティラナでなくなりました。マザーの兄ラザールは1908年スコピエで生まれました、オーストラリアのグラッツで陸軍士官学校を終えたのち、ゾグ王の率いるアルバニア軍の軍隊に入りました。アルバニアには第二次大戦の始まる前にイタリアに占領され、ゾグ王は降伏し、ラザールはイタリアに移り、マリヤ・サングヴィニというイタリア人女性と結婚しました。彼は娘に姉と同じアガという名前をつけました。・「わたしの両親はアルバニア人です。第一次世界大戦の前に、その頃まだユーゴスラビアではなく、そして今はもうユーゴスラビアではない場所で生まれました。多くの意味で、わたしは自分の国を持たないとはどういうことかを実感しています。」・「初聖体を受けた5歳半のときから、わたしの心には人々の魂への愛が燃え続けています。」・「貧しい人たちに自分を捧げたいと思うようになったのは、ユーゴスラビアのスコピエで、わたしがまだ12歳のときでした。わたしは家に両親と一緒に住んでいました。わたしたち子どもはカトリックでない学校に通っていましたが、教会には子どもたちが神の呼びかけに応えて召命を生きるのを助けてくれるとてもいい司祭たちがいました。貧しい人たちに仕えるよう神が呼んでおられると感じたのは、そのときが初めてでした。1922年のことです。」
2020年06月16日
マザー・テレサ(アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ)の家族ボヤジウー家は、スコピエの中心地にあるポプ・コチナ通り14番地に住んでいた。マザー・テレサの父親ニコラ・ボヤジウ、尊敬された商人であり企業家でした。彼はスコピエの社会政治活動に積極的で、街の行政活動にも関わり、市民の大きな尊敬を集めていた。彼の息子ラザールによれば、父親のニコラは厳しいけれども公正な人物で、子供たちには誰に対しても経緯と品位をもって接することを求めたという。ニコラは1918年~19年ある出張から帰宅後、不意に帰らぬ人となりました。そしてボヤジウー家の苦しい時代が始まりました。母親のドラナ(Drana)・ボヤジウは、コソヴォ近辺のノヴォ・セロで生まれた。彼女の家は貴金属にかかわる豊かな家系でした。ドラナは20歳ごろニコラ・ボヤジウと結婚し、三人の子供をもうけました。長女のアガ、長男のラザールと次女ゴンジャ。ラザールによると、ドラナは朝から晩まで子供たちのために働き、夫ニコラがなくなったのちは、母親としてだけでなく、父親の役割まで引き継ぎ、一人で子供たちの世話をし続けました。ドラナは大変信心深く、夫がなくなったのちにも貧しい人々を思いやり、援助をし続けました。彼女は1972年6月12日。アルバニアのティラナでなくなりました。マザーの言葉「両親は私たちが神を愛するように育ててくれ、祈りを教え、隣人を愛するように教えてくれました。それは、幸せなカトリックの家庭でした」。〇マザー・テレサの家族のための祈り天の父なる神様。あなたはナザレの聖なる家族の中に人生のお手本を与えてくださいました。愛する父よ。どうか私たちの家族がもう一つのナザレの家族になることができますように助けてください。愛と平和と喜びが満ち溢れる家族となることができますように。祈り深く、自分を熱心に分け与え、喜びで生き生きとした家族とならせてください。家族で祈り、喜びの時も悲しみの時も一緒にいる家族となれますように。家族の一人一人の中にイエス様を見ることができるように教えてください。特に誰かが悩みをこらえているときに。ご自分をささげるイエス様の心が私たちの心をイエス様と同じように謙遜にさせてください。そして、家族としての責任を聖なる形で行うことができるように助けてください。神様が私たち一人一人を愛してくださっていると同じように、私たちもますます互いを愛し合うことができますように。そして、あなたが私たちの罪を赦(ゆる)してくださるのと同じように、私たちもお互いの過ちを赦すことができますように。愛する父よ。どうかあなたが与えてくださるものをすべて受け入れ、あなたが取り去られるものをすべて大きな笑顔をもって明け渡すことができますように。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
2020年06月16日
2007.4.8(日)カリガートの「死を待つ人の家」を訪れた人がこの家にみなぎっている『平和』を不思議に思ったようです私は単純にこう言いました「神がここにおられるのです」ここではカーストや宗派は問いません彼らが私と同じ信仰ではないということは問題ではありませんよ「マザー・テレサの 愛 という仕事」113ページよりカルカッタにある<死を待つ人の家>に、一人の無神論者がやってきたことがあります。私はその時のことを忘れられません。彼が来る少し前に、シスターたちが街の通りから一人の人を連れてきたのです。その人の体はウジで覆われていましたから、おそらく排水路の中で倒れていたところをひきあげられたのでしょう。一人のシスターが彼の世話をしておりました。もちろん彼女は、その時やってきた無神論者が自分を観察していることなど知りません。しかし、彼女がていねいに体を清めてあげ、微笑みをもって接していたことは、言うまでもありません。その無神論者はじっとその場に立って、シスターの様子を観察していました。そして私のところにやって来て、こう言いました。「私は神を認めていませんでした。認めないだけでなく、私の胸の中は神への憎悪でいっぱいでした。しかし今は、私の胸の中は神への愛であふれそうです。シスターのおこないの中に神の愛を見ることができたのです。その人を世話するシスターの手、その人を見つめるシスターの微笑み、その人に対する愛に満ちた優しさを通して、そこに神を見ました。今、私は神を信じられます」と。
2020年03月06日
みあしの跡」p.1-2より序 佐伯奥様は己とその行いを世に顕すことを好みなさらずに、ただ主に知られ、天に宝を積むことのみに心を専らにせられましたから、その生涯を書物に綴って世に出すことは奥様の意志に反すると申される人々もかなりありました。一応ご尤もな点でありますが、奥様は主を崇め、主の恩寵を述べ伝うることはご生涯の使命とせられた所であります。 ある時土倉龍次郎、小糸奥様と偕に私は御郷里大和の大瀧に行き、一夜村人を集めて集会したとき、奥様は、「我と我が家族の上になし給える諸々の御行を証するなら遠き人の話を要せず」とのことを語られたことがあります。 本書を著すのもまたこれがためであります。奥様の功績を世に顕すためではない。奥様の上に、奥様を通して主イエスのなし給える貴き御行を証せんがためであります。これをしも徒らに葬り去らんいは主のため、また奥様のため我ら後輩のものは相済まんことと思います。表題もまたこの意味において「みあしの跡」(In His Steps)と名付けました。奥様は「エホバよ栄光を我らに帰するなかれ。我らに帰するなかれ。汝の憐憫と汝の真実(まこと)の故によりて、ただ聖名(みな)にのみ帰したまえ」と叫んでおいでなさる。それ故本書を読む人は奥様を斯(か)くなし給うた主イエスを崇め、主に一切の栄光を帰し奉り、奥様の主はまた我らの主なることを願うものあります。哥林多前書(明治元訳) 第十五章十、十一コリント人への第一の手紙(口語訳)15:10しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。15:11とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。
2020年02月27日
「みあしの跡」より彼女の人となり 佐伯理一郎 彼女の一生涯を通じて最も秀でた一事はその性質の極度まで、正しき事であった。爪の垢ほどの不正の事も彼女にとっては一大罪悪であって自分は素より、その為した事の正しくなかりしということを知った時はどこどこまでもこれを質(ただ)しこれを改め、夫や子供たちその他心やすき人の不正に対してもこれを改めさせずには置かぬ性質であった。(一例)同志社女学校在学中同室の中山咲子さんという一年前のクラスの人の毛糸編の針を借りてそのまま忘れてかえさず、卒業後直ちに結婚して次から次へと子供が生まれるので遠方に尋ねて行く事もできず、あけくれ心にかかりながら、遂に十年ばかり経て後、漸く東京在の頗る辺鄙な御家に尋ねて行き、お詫びをした。その時そのお方はビックリなされ、そんな些細な事をどうして忘れもせずにいたかと仰せられたそうで、昇天後その時のありさまをお尋ね申し上げたところ、左の通りのご返事が参りました。「あの時奥様のご容姿あまりに気高く、敬虔の御念強きに打たれ、ご在学中些細なる事につきお詫びのお言葉を承り、余りにも恐縮いたしてただ痛み入り、為に大いに信仰に励まされ、爾来純福音に恵まれております」云々。 右の事柄が彼女にとりて一生涯中の最大事業でありました。(二例)明治二十九年同志社病院を引受け、備品全部は買い取ることになった。ところが数年の後奥深き棚の引出しに新しきタウル一ダース残っていた。ところが金を払った伝道会社の委員ケリー氏は帰米後にてその住所さえ判然とせず、よって牧師木村清松氏に頼み、その旨を告げ送金したが、ケリー氏も大分困られた由にて何でもその金は伝道会社に献金せられたとか聴きました。 教役者(きょうえきしゃ)に対しては極度に敬意を払うた。たといその人が無教育であろうが未成年者であろうが、いやしくも献身せられたほどの人であれば、必ず「先生」という敬称を付け、それが全く蔭日向(かげひなた)なしで、いかなる場合でも同じで少しも差別をつけず、万一誰か言い捨てに話す人あれば、目下の人の時は直ちに眼前にて注意し、目上の人であれば、後であの人は気の毒に不敬虔の人であると評した事が多かった。 聖霊を憂えしめぬ事、右と同じように聖霊を崇(あが)め奉ったことはおびただしいもので、事いやしくも聖霊に関する時は姿勢を正してこれを語り、人と談話中でもしばしば沈黙して聖霊の降下を仰ぎ待ち、事ごとに聖霊の御差図を待った。 神癒については彼女は真に驚くべき絶対の信仰を有していた。天地を創造なされた全能の神様が何で病ぐらいを御なおし下さる事のできぬものかという意気で、それに自分も第5回目の分娩以来身体(からだ)弱くなり、床に就きやすき習慣となったが、一たび神癒を信ずるに至りてはヨハネ伝五の八にある「起きよ床を取りあげてあゆめ」との聖句を基礎として、癒されたと信じた以上、いつまでも床にあるはみ旨ならず、なるべく早く床をとりあげて行かねばならぬと自分先ずこれを実行し、人にもすすめた。それで弱いながらに常に起きていた。若しもこの信仰なかりせば彼女は六十二歳まで生きながらうべきではなかった。彼女がその母の年まで地上に保たれたのは全くこの信仰のあったがためであった。長男や次男が大手術、難病者等ある時は直ちに電話を以て母に祈りを求める。母は直ちに三階に上がり祈りに時を費やした。この事がいかに大なる力をせがれたちに与えたであろうか、計り知られぬのである。 任せきった生涯、一たび神にお願いしてお任せした以上は決して自分で心配せぬ特質は実に目覚ましきものであった。せがれたちを代わるがわる外国に留学させ、各々数年又は十数年をも経過するその間には人々から何千里という遠い処にお遣(や)りになりて、さぞご心配でしょうと問われた時、彼女は襟を正してそれは皆神様にお任せしてありますから私(わたくし)は少しも心配いたしませぬ、それを心配するようでは神様をないがしろにするというものです。私は決してかようの事は致しませぬと答えるのが常であった。 深き同情の念に充たされていた事。彼女は余り涙もろき人ではなかったが、不仕合せの人を見ては、黙視していられぬ質(たち)であった。たとえば二十五年前(ぜん)東京の国民新聞にただ一人の男児(こども)をのみ持ちいた寡婦が直ちに当人に向かって書状を出し、もし産婆看護婦にでもなって余生を送りたければコチラにお出でなさい、学資金も入らぬようにしてお世話をして上げましょうと、言うてやった。結果できあがった人が竹内修(しゅう)とて卒業後近衛家にお世話して、二十年間同家になくてはならぬ人物となったのであります。またあのA-という人のごとき二十余年絶えず同情して上げました。また古き卒業生、新しき生徒交(かわ)るがわる助けを求めて来る人には一々面会して教護する処あると同時に魂の救われる事は何よりも先ず先にせねばならぬことを語り聞かせ、禱告(とうこく)により毎日おびただしい人のために祈りて上よりの御助けを求めていた。 事ごとに祈りに拠りて事を処した。何事の相談に預かっても容易に返答せず、先ず祈りを以て御旨のある処を御尋ねして後に答えるを常とした。一度み旨と信じて決した事はいかなることがあってもこれを変更しない、内助の効の最も大なりし点は則ちここに在りました。 ブラザー・ローレンスを手本となしたる事。晩年およそ二十年ばかりの間聖書に次いで彼女の最も多く幾度(いくたび)も幾度も繰り返し読んだ書はローレンスの伝記であります。台所において自ら炊事をなすこともすくなくはなかったが、その時は彼女はローレンスを以て自ら気取り、人をしてその表情のローレンス然たる処あるを思わしめた。 性来無言を好んだが伝道のためには多言した。ある時は余り語り過ぎはしないかと思うばかりの事もしばしばあった。 親より特に頼まれた女中または看護婦などにはクリスチャンらしき規則正しく注意深き行いが伴わなければいけないと厳重過ぎるほどの訓戒を与えることもしばしばであった。 十一献金の事は最も厳重に実行した(彼女の負担せる家計の範囲において)これこそ四十年一日のごとくであった。
2020年02月26日
「致知」2000年9月号「対談 黒柳徹子 VS 鈴木秀子」鈴木 「徹子の部屋」はもうずいぶん長い間続いていますね。黒柳 もう25年(2000年当時)になり、いま6500回くらいです。 (黒柳さんのユニセフの親善大使の話が続く)(インドのマドラスという港町で国立小児病院で)そういう子どもが20人ぐらい収容されている病室を訪ねました。一番端にいた10歳ぐらいの男の子が目を開いて私を見ているのと目が合ったものですから、私は小さな声で「あなた頑張ってね、先生も一生懸命やってくださっているんですから」って言ったんですね。日本語ですから、意味が通じるはずはないんですけれども、その男の子はノドの奥で「ウウー」って言ったんです。唇も舌もノドも声帯も全部筋肉が硬直しちゃっていますから、言葉にはならないみたいなんですが、看護婦さんに、何て言ったんですか?って訊いたら、「あなたのお幸せを祈ってます」って言ったというんですよ。 それを聞いたとき、私、もう本当に「ごめんなさいね」っていうしかなかった。鈴木 私は深いところでだれかのために祈ったり、何かができるというのが、本当に幸せにつながっていくことなんだろうと考えています。そんな惨めな子どもなのに、「あなたのお幸せを祈ります」という言葉が最期に出るなどということは、素晴らしいことだと思います。黒柳 ユニセフの親善大使になって最初に行ったのは、アフリカのタンザニアだったんですが、2年もずっと雨が降らなくて、飢えが本当にひどい所でした。 食べ物がなくて、子どものときに栄養がちゃんと行き渡らないと、脳が育たないんだそうです。そういう子はどうなるかっていうと、立って歩くとか走るとかいうのは、全部脳の指令ですから、ただズルズルと這い回るだけなんです。もちろん考えることも、しゃべることもできない。 私がそういう子を見ていたときに、小さな村の村長さんだったんですが、「黒柳さん、これだけは覚えて帰ってください」とおっしゃったことがありました。どういうことかというと、大人は死ぬときに、苦しいとかいろんなことを言うのだけれど、子どもは一言も文句を言わない、ということなんですね。皆、周りの大人を信頼して黙ってバナナの葉っぱの下で死んでいく。だから「このことだけは忘れないでください」って。 そのときはわかったような気がしたんですが、それからいろんな子どもたちに会うにしたがって、本当のことはわかっていなかったんだなと思うようになりました。つまり、子どもたちは、なんて清らかなものだろうということなんです。だから多分神様はそういう清らかなものに、どんな状況でも、強く、前向きに生きる力をお与えになったんだろうと思うんです。・・・・・・ 鈴木 村長さんのお話もいまのお話もとても感動的なお話しでした。 私はコミュニオンといって、自殺した子どもを持つ親のグループ、登校拒否とか非行に走る子を持つ親のグループの会を開いているんですが、初めは皆さんとても暗い気持ちで来られるんですね。でも、だんだんに子どもが死を通して何かを訴えているのだという意義を見つけ出していきます。やがて、そういう子どもを持った家族の辛い体験が何らかの形で他の人に役立てば嬉しいといって、素直に話してくださるようになります。 初めは悲しみのどん底に突き落とされて、自分も死にたいくらいの思いでいるわけです。でも周りにその人たちの苦しみを理解し、受け入れてくれる人たちがいれば、その人たちがだんだん蘇(よみがえ)るというか、普通の生活に戻り始めるときがきます。そのときというのは、他人のために何か自分にできることがあれば、というところに意識が向いていくときなんです。そうなると立ち直ることができるんです。黒柳 「窓ぎわのトットちゃん」に書いたんですが、私が通った小学校の小林宗作という校長先生は、子どもには素晴らしい個性や能力があるから、それが周りの環境や大人の考えで潰されないうちに、早く芽を見つけて育てようという考えの先生だったものですから、いつも教室を見て歩いていました。 ある日の授業で、人間には昔、尻尾があったという話が出ました。高橋君という背の伸びない子が同級生にいたんですが、担任の先生が「高橋君も尻尾の跡が残っているんじゃないの」と冗談ぽくいうと、高橋君は「ありません、ありません」ってムキになって否定するんです。そのころの私は、尻尾があったほうが嬉しいのにな、なんて思っていましたから、どうしてそんなに否定するのかなと、不思議だったんですが、その日の放課後、私が学校の裏を歩いているとき、校長先生が、「高橋君は自分の体にコンプレックスを持っているだろう。その高橋君に尻尾があっただろうなんて、どうして君は考えがないんだ」と、私たちの担任の先生を叱ってらっしゃるのを聞いてしまったんです。 私はまだ低学年でしたから、校長先生の言っている意味はよくわからなくて、いつもはまったく怒らない校長先生が、すごく怒っていたという印象のほうが強かったんですが、大人になってみると、校長先生はそれぐらい一人ひとりに気を配っていたんだな、ということがわかります。鈴木 いまの黒柳さんのお話は、私にはまるで昨日の出来事のように聞えました。そのときはわからなかったとおっしゃったけれども、高橋君が痛みを感じたということはなんとなく心に残っていて、そして校長先生がどういう態度で接したかということが、黒柳さんの原点になっているんじゃないかと思います。 黒柳 エリザベス女王が日本にいらしたときに、お話ししたことがあるんですが、英国大使館にいる私のお友達がそれを見ていて「君って変わってるね」って言うんです。「どうして?」って訊いたら、その人は私が前にゴリラの写真を撮りに行ったときに、そばで見ていたこtがあるんですが、「ずいぶんいろんな人に会ったけど、女王様と話すのと、ゴリラと話すのと変わらない人は見たことはない」って(笑い) 小林先生は「助けてやれ」とか「手を貸してやれ」ということは一度もおっしゃらなかった。ただ「皆一緒にやるんだよ」ということしかおっしゃらなかったんです。ですから、相手がだれだから特別なことをやろうというのではなくて、人間にはいろんな人がいるんだなと思いながら育ってきましたので、私はだれに対しても変わらないというのは、小学校のときの教育のおかげだと思います。鈴木 人間は死ぬまで苦しみが付きまとうものなんですから、苦しみがないことが幸せなのではなく、苦しみを乗り越えながら、他の人はその苦しみを行かしながら、生き生きとしていくことにつながっていけばいいと思うのです。鈴木 物やお金にしがみついて、その繁栄だけを求めると、ちょうど切り花を飾ったようで、目に見える世界はきれいになるし、いかにも幸せそうだけれども、そういうものだけで、満たされると、心の空しさが起こってくるんですね。 あるとき、講演でこういう話をしたら、講演が終わったあと、一人の紳士が「コーヒーを御一緒する時間はありますか」と言うので、ご一緒したことがあるんです。その方は精神科のお医者さんだったのですが、おっしゃっるには、人間のエネルギーには縦と横の線があって、例えば横線をお金や物や地位のエネルギーだとすると、縦線は見えない世界だというんです。もし人が10のエネルギーを持っているとすると、物欲が広がれば広がるだけ、縦のエネルギーはなくなるわけです。 ところが、その人がある日、ガンの宣告を受ける。あるいは会社が倒産したとか、社長にしようと思っていた息子が死んだりしたというような場合、突然頼りにするものがなくなるわけですから、どんでん返しがきますね。 がんといわれて入院してしまったら、どんな大きな会社を持っていようと何の役にも立たない。そこで初めて自分の頼りになるものは何だろうかと考えるんですが、そのときに、いかに縦の線を短く生きてきたことかということをしみじみと感じるというのです。 それまでは8ぐらいあった横のエベルギーが、1か2になってしまうわけですから、その分を2しかなかった縦の線に振り替えていかなければならない。そういう人を何人も診てきたけれども、その振り替えがいかに大変かというお話しでした。 私はほとんど寿命が尽きて、いつ亡くなるかわからないような人を病院に訪ねて、「何かしたいことがありますか」と訊いているんですが、だれかと諍いを起こしたような人がいれば、まず「仲直りをしたい」というんです。やはり人間には愛が一番大切だから、それに背くような行為があったら、修正して愛でつながりたいという願いが一番強いんですね。 その次に言うのは、「家に帰りたい」ということ。それから、皆チューブでつながっていますから、「自分の口で食べたい」と言う。「自分の足で立って、歩いてお手洗いにいきたい」と言う。ほとんどの人がこういうことをいうんです。 それを聞いて私がいつも思うことは、私がいま会っている人で、自分の家に帰れられないような人はいないし、食べ物も自分で自分の口で味わえる。私たちにとっては、自分の足で歩いて家に帰るなどということは、当たり前のことで、死んでいく人のように、切実に思う人なんていないということなんです。ところが、それがどれほどの恵みであるか、ということには気が付かない。 だから、私は死んでいこうとしている人たちが一様に望むことというのは、生きている人たちへの遺言だと思うんです。「当たり前のことこそ恵みで、死を間近にしてそのことに気が付くのでなく、いま気付きなさい」ということを伝えているんだと思うんですね。何かをすれば幸せになるのではなくて、いまが幸せなのだということに気付くことだと思います。黒柳 中学生のころに読んだフランスの詩で、どなたが書いたかもわからないんですが、「人間、生まれてきたことは、人のためにちょっと何かをすること」というのがあって、いい詩だなと思ったことがあるんですね。「いっぱいしなさい」といわれてもできないけど、ちょっとならできる。皆がそう思いながら生きていけばいいんです。鈴木 私が好きなエミリー・ディキンソンの詩には「一羽の小鳥を癒しなば、我が生涯に悔いあらじ」という言葉がありますが、一羽の小鳥を癒すことだって、自分の置かれた立場でできる、ほんのちょっとしたことなんですね。」人間が幸せになるためには、小さいことでいいから、自分が何かできるという意識があること。自分だけ、と言っているうちは幸せにはなれないのですね。 ミルトン・エレクソンというアメリカの心理療法家の話なんですが、ある未亡人が彼を訪ねてくるんです。未亡人にはものすごい財産があるんですが、孤独で自分は不幸の塊のような思いでいるんです。好きなことは何もないし、自分を幸せにしてくれることもない。けれども、そんな彼女にもたった一つだけアフリカスミレを育てる趣味があるんですね。 そこでエリクソンは、できるだけたくさんのアフリカスミレを育てること、日曜日に教会へ行ったとき、誕生日のリストをもらってきて、誕生日がきた人にアフリカスミレを一鉢ずつ贈りなさい、という宿題を出すんです。 未亡人は一所懸命にアフリカスミレを贈り始めるのですが、一鉢贈るたびに思いがけない喜びの葉書とかお礼の手紙がくる。自分の周りにだんだん笑顔の人が近づいてくる。そうして未亡人はとても幸せになった とエリクソンは書き残しています。 ちょっとした物であろうが、何か自分のできることをしていくということですね。黒柳 ソントン・ワイルダーというアメリカの作家が書いた『わが町』というお芝居があります。主人公はエミリーという女の子ですが、彼女は自分の子どもを産んだあと、20何歳かで死ぬんです。おしょうとめさんたちは先に死んでいて、舞台の右と左にこの世とあちらの世界があるという終わりのほうのシーンで司会者が、「自分が一番幸せだったと思う日、たった一日だけこの世に帰らせてあげる」というんです。エミリーは12歳のお誕生日の日を選びます。 お父さんお母さんはもちろん若いですよね。エミリーは「パパとママがこんなに若かったなんて知らなかった」なんて初めて気が付くんですね。家の中やお庭には懐かしくて素敵なものがいっぱいある。でも、皆素敵だから当時はわからなかった。 そして再び死んだ人に帰って「本当の幸せがわかっていなかった。命が何万年もあるみたいに思い込んで。人間って、生きているときって、何も見ていないんですね。家族がちょっと顔を見合わせたり、いまが幸せだって気付いていなかった」としゅとめに言うんです。 昔、私もエミリーの役をやったことがあって、やっているうちに涙が出てきてしまうようなお芝居なんですが、 ちょっとでも立ちどまって親の顔を見るとか、友達のこと、親切にしてくれる人のことを少しでも思ってみることができれば、生きているうちに幸せをかみしめることができるんじゃないかと思います。鈴木 そうですね。人間は目につくものとか、触れることのできるもので幸せをつかもうとします。しかし、最初におっしゃったように、私たちには一見不幸に見えるような子どもたちが、生きていこうとする、そういう生き生きとした精神が、見える世界にあふれ出ていくとき、本当の幸せをつかむことができるのですね。
2020年01月25日
マザー・テレサ「神は愛であって 私たちを愛し 私たちひとりひとりを すばらしいことのために創られた」祈りの実は愛を深め信仰を深めますもし信じるなら祈ることができるでしょう愛の実は奉仕ですですから愛の働きはいつでも平和の働きなのです自分たちの心と手を愛する奉仕の働きに使うことができるようになるためには神を知らなくてはなりません神は愛であって私たちを愛し私たちひとりひとりをすばらしいことのために創られたということを知らなければなりません「心の革命」上甲晃「東京の墨田区にT石鹸という会社があります。その社長が父親から会社を譲られたときに非常に経営状態が悪かったので、徹底的なリストラを行いました。技術の人間を営業にまわしたりして、大幅に人員を削減したのです。その結果、一時的に利益はあがりましたが、そのツケは後からまわってきました。 当時は成田空港闘争の過激派が全盛だった頃で、会社に人が足りなくなるとパートを入れていましたが、そのパートに過激派が入り込み、会社を乗っ取られそうになったのです。そのとき、社長はずいぶん苦しんだそうです。そして最後に行き着いたのが聖書の世界でした。彼はこれまでの自分のやり方を深く反省したといいます。この世には無駄な人間、余分な人間などいない、という聖書の教えにふれ、人を経営者の都合で選別して考えていた自分の考え方のなかに欠点があることを知りました。それまでは、余分な人間には会社を辞めてもらうことが経営者としての手腕だと思っていたのですが、それが根本的な誤りであることに気がついたのです。 それから、その会社では定期採用はいっさい行わず、頼まれた人しか受け入れないことにしました。そうすると来るのは世間の企業で持て余している人間ばかりだったそうです。肉体的、あるいは精神的に障害を持っている人などです。しかし、そういう人たちを受け入れはじめた途端に、会社の業績が上がっていったのです。 どういうことかというと、社長は役に立つ、役に立たないという考え方を捨てて、たとえ障害者がふつうの人の3割しかできなくても、その3割の力を発揮してもらったら100%だというふうに考え方を改めました。そうやって見方を変えてみると、それまで気づかなかったことに気づくようになったといいます。 たとえば、毎朝窓を開けると仕事を社員に命ずると、ふつうの人間は適当にやります。しかし知的障害を持った人は言われたとおりにきっちりと開けに来るというのです。極端なことを言えば、入院していても、病院を抜け出してまで窓を開けに来るそうです。その経営者は、そういうふうにして人を使うことができるようになった。ふつうの人間に適当に仕事をやらせるよりも、たとえ少し力が劣ってもきっちりとひとつの仕事をこなす人間で成果をあげる方法を見つけたわけです。 それは、役に立たない人間は切り捨てるというそれまでの考え方を捨てたから気づいたことであり、まさしく経営者の心の革命がみごとに会社をよみがえらせたのです。」
2020年01月21日
もしあなたが謙虚であるなら何ごともあなたの心を汚さないでしょうもしあなたが聖人であるなら神に感謝しなさいもしあなたが罪人であるならそのままでいてはいけません「大切なのは私たちが自分自身の心を見つめること」byシスター渡辺和子 「赦(ゆる)し」私は36歳のとき、岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任命されました。シスターの中で一番若造で、米国帰り。風当たりが強い時期もありました。 そのころ、ある方が「ほほえみ」という詩をくださったんです。その最後に「もしあなたが期待したほほえみがもらえなかったら、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。ほほえみを忘れた人ほど、ほほえみを必要としている人はいないのだから」とありました。私がされてうれしいことは、相手も望んでいること、私がされてつらいことは相手にもしてはいけないと、思いが至りました。「懺悔(さんげ)」。 カトリックの教会では「赦しの秘跡(ひせき)」があります。大事なのは、ほんの一瞬でいいから、私たちが自分自身の心の中を見つめる時を持つことではないかと思っています。私は22歳年上の姉が子どもを産む年に母が私を妊娠しました。「娘と同じ時期に子どもを産むのは恥ずかしい」と言った母に、父が「せっかく授かった子どもだから産んでおけ」と言ったそうです。親の気持ちが胎児に伝わるといいますが、幼いころは母が嫌いで、父が大好きでした。 事件の朝、母は30数人の兵隊を阻止するのに懸命でした。私が父のところに行くと、父は足元に立てかけてある座卓の後ろに入れと目で指示しました。私が隠れたとたん、軽機関銃が父をめがけて撃ちました。一部始終を私は見ていました。今、思うと、母も兄たちも立ち会えなかった大好きな父の死に立ち会うことができたのです。ある意味でうれしゅうございました。 母はその後、「これからはお父様と2人分厳しくします」と宣言、実行しました。また「私の唯一の趣味は子どもを育てること」と言い、本当に私たちだけのために生きてくれました。87歳で亡くなりましたが、私にとっては世界一の母でした。 「ほほえみ」ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが、相手にとっては非常な価値を持つ。ほほえまれた者を豊かにしながら、ほほえんだ人は何も失わない。瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまる。お金があっても、ほほえみなしには貧しく、貧しくても、ほほえみのある家は豊かだ。ほほえみは、家庭に平和を生み出し、社会を明るく善意に満ちたものにし、二人の間に友情をはぐくむ。疲れた者には休息を与え、失望する者には光となり、いろいろな心配に思い病んでいる人には解毒剤の役割を果たす。しかも買うことができないもの頼んで得られないもの借りられもしない代わりに盗まれないものもし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。実際、ほほえみを忘れた人ほど、それを必要としている
2020年01月21日
・もし怯懦と暴行のうちいずれか一つを選ばなければならないとしたら、私はきっと暴行を勧めるであろう。・けれども、非暴力は限りなく暴力に優り、情けは懲罰よりも男らしいという事を私は信ずる。・私はインドの力と自分の力をより良き目的のために用いたいと考えている。われわれは、世界のためになすべきより良い仕事と、伝えるべき、よりよい使命をもっている。・非暴力の宗教はただ聖徒や賢者のためにあるのではない。それはまた普通人のためにあるのだ。暴力が動物の法則であるように、非暴力は人類の法則なのだ。・動的状態における非暴力は、意識的の受難を意味する。・私は実行家として、インドが政治界における精神生活の実行力を認めるまで待ってはいられない。インドは自己が無力であると考えてイギリス人の機関銃や、戦車や、飛行機の前に萎縮した。そしてインドは自己が無力であるから「非協力を採用」した。この非協力は同じ目的に役立つに違いない、すなわち十分に多数のインド人がそれを実行するならば、イギリスの不正の荷担からインドを解放するに違いない。・剣の教義(青空文庫掲載)M・K・ガンジー福永渙訳 (読みやすくするため旧漢字やかな遣いを改めた) 暴力支配の現代では、暴力の終局の至上権の法則を誰かが拒否し得ようとは、何人も考えることができないであろう。それだから、たとえ一般の暴動が起ろうとも、「非協力」の進行を妨げないようにという忠告の手紙が匿名の人から私のところへ来るのである。又、他の者は私が密かに暴動を画策しているに違いないと独りで決めて、公然と暴力を宣言する楽しい時がいつ来るかと尋ねて来る。イギリス人は、公然であれ祕密であれ、暴力以外のいかなるものにも屈しはしないと彼らは私に言う。又聞くところによると、私は決して本音を吐かないから、印度中で最も腹の黒い人間であって、私がたいていの人と同様に暴力を信仰していることは一点の疑いもないと信じている人もいるそうである。 剣の教義が人類の大多数を支配していることはこのようである。そして非協力の成功は主として暴力の有無によるのであり、この事に関する私の意見は多数の人々の行動に影響するところがあるから、私は自分の意見をできるだけ明瞭に述べて置きたいと思う。 若し怯懦と暴行のうちいずれか一つを選ばなければならないとしたら、私はきっと暴行を勧めるであろう。だから、私の長男が、1908年に襲われてほとんど死ぬ目に遭った時あの場にいあわせたら、逃げ出して私を見殺しにすべきであったか、それとも彼が用いることを得、又用いんことを欲していたところの腕力を振って私を護るべきであったかと尋ねた時、私は腕力を用いても私を擁護するのがお前の義務であったと答えたのである。私がボア戦争、いわゆるズールー反乱、及び今度の大戦に参加したのもその故である。私が暴力的手段を信仰する人たちに武術の訓練を勧めるのもその故である。私はインドが怯懦な態度で自分が受けた不名名誉をぬぐおうともせずに、泣き寝入りを続けているよりは、むしろその名誉を回復せんがために武器を執って起つことを望むものである。 けれども、非暴力は限りなく暴力に優り、情けは懲罸よりも男らしいといふ事を私は信ずる。情けは武士を飾る。しかし、情けとは懲罰の権力ある強者のみがもつ特権である。無力な弱者が情けをかけるということは意味をなさない。猫に食い殺されようとしているネズミが、猫に情をかけることはできない。故に、私はダイヤー将軍及その一味の者に対して、彼等の罪悪に相当する懲罰を加えよと叫ぶ人々の感情が分る。彼らはもしできることなら、ダイヤー将軍を八ツ裂きにしたいと思っているのだ。私は自分が無力な弱者であるとは思っていない。ただ私はインドの力と自分の力をより良き目的のために用いたいと考えているだけだ。 私の言うことを誤解してくれては困る。力は体力から生ずるものではない。それは不屈不撓の意志から生ずるのだ。普通のズールー人は体力では普通のイギリス人よりも遙かに優れている。ところが、ズールー人はイギリス人の少年を見ると怖がって逃げる。それは、その少年の持っている拳銃、又は少年のために拳銃を用いる人を怖れるからである。彼らは死を恐れるのだ、したがって身体が逞しいのに似合はず臆病なのだ。われわれはこのインドにおいて、十万のイギリス人が3億の人間を脅かす必要のない事をすぐ悟り得るであろう。それ故に、思い切った情けはわれわれの力の確認を意味する。文化的な情けと同時に、吾々の心の中に、ダイヤーやフランク・ジヨンソンのごとき徒をして、敬虔な印度人の頭に再び侮辱を加えしめないような強大な力の波が起らねばならない。現在私が自分の目的を達し得ないことは、私にとっては何でもないことだ。われわれは腹を立てず、怨みを抱かずにいるには、あまりに踏みつけられていることを感ずる。けれども私は、インドは懲罰の権力を振うことによってより利益を得ると公言することを控えなくてはならない。われわれは、世界のためになすべきより良い仕事と、宣(の)べるべき、よりよい使命をもっている。 私は夢想家ではない。私は実行的理想家でありたい。非暴力の宗教はただ聖徒や賢者のためにあるのではない。それは又普通人のためにあるのだ。暴力が動物の法則であるように、非暴力は人類の法則なのだ。動物にあっては精神は眠っている、動物は体力の法則の他には何らの法則を知らない。万物の霊長たる人間は、それよりもより高い法則――精神の力に従うを要する。 それ故に、私はあえてインドに自己犠牲という古い法則を提供したのだ。何となれば、サティアグラハ(真理の把持、真理の力)及びそれから生れた「非協力」や「市民的不服従」は、受難の法則の新らしい名前に過ぎないからである。暴力のまっただ中において非暴力の法則を見い出した聖者たちは、ニュートンより偉大な天才であった。彼らはウエリントンより偉大な戦士であった。武器の使用の範囲を知った彼らは、その無用なことを悟り、悩める世界に向って、救いは暴力に存せずして非暴力に存することを教えたのである。 動的状態における非暴力は、意識的の受難を意味する。それは悪をなす者の意志におとなしく服従することを意味しない。われわれの全精神を挙げて圧制者の意志に反抗することを意味する。人類のこの法則に従って行動するならば、一個人にしてよく不正な国家の全権力に反抗し、その名誉、宗教、霊魂を救い、国家の没落もしくは再生の基礎をうち建てることができる。 従って、私はインドが弱いから非暴力を実行せよというのではない。私は、インドがその力を自覚して、非暴力を実行することを望む。インドが自己の力を自覚するには、何らの軍隊的訓練を要しない。われわれがややもすれば自己は一塊の肉に過ぎないと考えるから、そんなものを必要だと思うのである。私はインドがあらゆる物質的弱点を超越して凱歌を挙げ、全世界の物質的結合を蔑視し得る不滅の霊魂をもつことを自覚することを望む。猿の群れを引き連れた一人の人間ラーマが、ランカの怒とうによって保護されている傲慢な十個の頭をもったラヴアンの力に反抗するという聖典中の物語は何を意味しているか。それは精神力の物質力征服を意味していないか。しかし、私は実行家として、インドが政治界における精神生活の実行力を認めるまで待ってはいられない。インドは自己が無力であると考えてイギリス人の機関銃や、戦車や、飛行機の前に萎縮した。そしてインドは自己が無力であるから「非協力を採用」した。この非協力は同じ目的に役立つに違いない、すなわち十分に多数のインド人がそれを実行するならば、イギリスの不正の荷担からインドを解放するに違いない。 私はこの「非協力」をアイルランドのシン・フェーン主義(アイルランドの政党。Sinn Feinはわれわれ自身の意味。1905年A.グリフィスが英国からの民族独立をめざす政治結社として結成。)と区別する。何となれば、「非協力」は暴力と肩を並べて進むことを許さないからである。私はこの平和的な「非協力」の試用を暴力派の人々に勧める。「非協力」はもともと弱いものだから、失敗することはないだろう。それは手答えがないために失敗するかも知れない。それが真に危険な時期である。国民的屈辱をもはや忍べなくなった高潔の士は、その怒りを漏らしたくなるであらう。彼らは暴力に訴えるであろう。しかし私の知る限りでは、彼らは彼ら自身又は彼らの祖国を非道な待遇から解放することができずに死ななければならない。もしインドが剣の教義を採用したら、一時的の勝利を得るかも知れない。が、その時には、インドは私の心の誇りとはならなくなる。私がインドに愛着を感ずるのは、私のすべてを印度に負うているからである。私はインドが世界に対しして一つの使命をもっていることを堅く信じている。インドは盲目的にヨーロッパを模倣してはならない。インドが剣の教義を採用する時は、私の試練の時であろう。私はその時が来ないことを望む。私の宗教は地理的限界をもたない。その信仰を把持する時それは私のインドに対する愛をも凌ぐであろう。私の生涯は、私がインド教の根柢であると信ずるところの非暴力の信仰によって、インドのために尽くすことに捧げられるであろう。 私は私を信じていない人にあえてお願いするが、私を暴力主義者と考えて、暴動を扇動し、始まったばかりの闘争の円滑な進行を妨げないように望む。私は、祕密は罪悪として嫌っている。試みに諸君は「非暴力的非協力」を行って見られよ、しからば私が何ら隠し立てをしていないことが分るであらう。(1920年8月11日「ヤング・インデイア」紙所載)
2020年01月03日
ローマ「法王」の呼称「教皇」に 政府、来日合わせ変更政府は20日、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王の来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。 理由について外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためだと説明している。 これまでは東京にある「ローマ法王庁大使館」に合わせるかたちで法王の呼称を用いてきたという。カトリック中央協議会のホームページによると、日本とバチカンが外交関係を樹立した当時の定訳が「法王」だったため、「法王庁大使館」になったという。 法王の来日は1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり。23~26日の日程で、滞在中には被爆地の広島市や長崎市などを訪れるほか、25日には天皇陛下や安倍晋三首相との会談が予定されている。ローマ法王フランシスコが2019年11月19日(火)、アジア訪問に出発しました。アリタリア航空がAZ4000便の特別便を運航、ローマからタイ・バンコクに向かっています。使用する機材は、A330-200の機体記号(レジ)「EI-EJM」で、バンコク・ドンムアン空港へ現地時間11月20日(水)12時30分に到着する予定です。AZ4000便には、パイロット4名、客室乗務員9名が乗務しています。この便には、法王と今回のアジア訪問の随行者に加え、イタリアと国際メディアが同行しています。アリタリアによるローマ法王の国際訪問フライトは、今回が178回目となります。タイの訪問後は日本を訪れる予定です。発表されている予定では、11月23日(土)にドンムアンを出発し、17時40分に羽田空港へ到着する予定です。11月24日(日)は、7時20分に羽田から長崎へ向けて出発、9時20分に長崎空港へ到着し、長崎爆心地公園や日本二十六聖人殉教者に表敬します。16時35分には長崎から広島へ移動し、17時45分に広島空港へ到着予定です。広島平和記念公園でのメッセージを終え、20時25分から航空機で東京へ向かい、21時50分に羽田到着します。11月25日(月)は、天皇陛下と会見し、東京ドームでミサ、安倍首相との会談、11月26日(火)は上智大学などを訪問し、羽田空港で11時20分に別れの式を経て、ローマ・フィウミチーノ空港へ向けて出発予定です。■ローマ法王の来日予定<11月23日(土)>09:30 バンコクから航空機で東京へ17:40 羽田空港到着17:40 羽田空港で歓迎式<11月24日(日)>07:20 航空機で長崎へ09:20 長崎空港到着10:15 長崎爆心地公園10:45 日本二十六聖人殉教者へ表敬14:00 ミサ長崎県営野球場で教皇の説教16:35 航空機で広島17:45 広島空港到着18:40 広島平和記念公園でメッセージ20:25 航空機で東京へ移動21:50 羽田空港到着<11月25日(月)>10:00 東日本大震災被災者との集い 天皇陛下との御会見皇居にて11:45 青年との集い16:00 東京ドームで説教 首相との会談<11月26日(火)>07:45 イエズス会員とプライベートミサ 上智大学クルトゥルハイムのチャペル10:00 上智大学への訪問教皇の講話11:20 羽田空港で別れの式11:35 航空機でローマへ
2019年11月21日
マザー・テレサ日々の言葉よりうぬぼれたり人に厳しかったりわがままでいるのはとても簡単なことですけれども私たちはもっとすばらしいことのために創られているのですよ私たちはそれぞれにたくさんのいいところも同様に悪いところも持っていますひとりひとりの成功をほめ称えるのはやめましょうその称賛はすべて神に帰すべきです
2019年07月29日
私は単純にこう言いました「神がここにおられるのです」マザーの手の中で最後の息をひきとる前に言う言葉が『サンキュー』です。It is so beautiful.「マザー・テレサの 愛 という仕事」113ページよりカルカッタにある<死を待つ人の家>に、一人の無神論者がやってきたことがあります。私はその時のことを忘れられません。彼が来る少し前に、シスターたちが街の通りから一人の人を連れてきたのです。その人の体はウジで覆われていましたから、おそらく排水路の中で倒れていたところをひきあげられたのでしょう。一人のシスターが彼の世話をしておりました。もちろん彼女は、その時やってきた無神論者が自分を観察していることなど知りません。しかし、彼女がていねいに体を清めてあげ、微笑みをもって接していたことは、言うまでもありません。その無神論者はじっとその場に立って、シスターの様子を観察していました。そして私のところにやって来て、こう言いました。「私は神を認めていませんでした。認めないだけでなく、私の胸の中は神への憎悪でいっぱいでした。しかし今は、私の胸の中は神への愛であふれそうです。シスターのおこないの中に神の愛を見ることができたのです。その人を世話するシスターの手、その人を見つめるシスターの微笑み、その人に対する愛に満ちた優しさを通して、そこに神を見ました。今、私は神を信じられます」と。「愛をこめて生きる」渡辺和子より インドのカルカッタに当年とって78歳になるマザー・テレサという」一老修道女が住んでいる。この人は「神の愛の宣教者」という修道会の創始者であり、国際連合が『世界最悪の居住条件を持つ』と宣言したこの街で、貧しい人の中でも最も貧しい人々に仕えることを使命としている。その貧しさとは物質的なものもさることながら、それ以上に、この世で人々から『不要』『邪魔者』扱いをされている人々、自分自身『生きていても、いなくても同じ』、または、『生きていない方がいいかも知れない』と思っている『貧しい人々』である。 1979年のノーベル平和賞受賞者であるマザーはかくて、望まれずして生まれたが故に捨てられた子どもたちを拾って育て、人々に忌み嫌われるハンセン病患者を手厚く看病し、さらに、路傍で一人寂しく死んでゆこうとする瀕死の病人を『死を待つ人の家』に連れて死なせてやることに力を尽くしているのである。・・・『人間にとって、生きのびることもたいせつですが、死ぬこと、しかもよい死を迎えることは、もっとたいせつなことなのです。』 生まれた時から不要者として生み落とされ、その後の年月をひたすら社会の邪魔者とのみみなされて来た浮浪者たち、死ぬことによって厄介払いと他人から喜ばれるような一生涯しか送れなかった人々が、その生涯の最後において、死の直前の数分間、または数時間、生まれて初めて人間らしく扱われ、優しさを体験するのである。 かって貰ったことのない薬が惜しげもなく与えられ、受けたことのない温かい扱いを受け、身体をきよめられ、名前と宗教を尋ねられて、彼らは治療に勝る、かつ治癒と次元の異なる『たいせつなもの』を取り戻して死んでゆく。・・・ マザーの手の中でこのように死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息をひきとる前に言うことばが『サンキュー』であるということ、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えているという。・・・この話を終ってマザーは言うのであった。 It is so beautiful.「それは本当に美しい光景です」と。
2019年07月16日
マザー・テレサ「ランプをともさないのですか。」年配の男性「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れ、ランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」からアボリジニーのある居住地に、年配の男性がいました。その貧しい老人くらいひどい境遇を、あなたがたはいままで見たことはないと、私は断言できます。彼はだれからも完全に無視されていました。その家は散らかりほうだいで、汚れていました。「家の掃除と洗濯をさせてくださいませんか。 それからベッドをととのえさせてください。」わたしは彼に言いました。「これでいいんだ。ほっといてくれ。」彼は答えました。「もし、わたしにやらせてくれたなら、もう少しましになりますよ」もう一度、わたしが言うと、彼はとうとう納得しました。そこで掃除と洗濯をすることができたのです。わたしが部屋を片付けていると、ほこりまみれのきれいなランプを見つけました。彼が最後にそれに明かりをともしてからどれだけ時間がたったのかは、神のみぞ知るです。わたしは言いました。「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。いったいだれのためにつけろっていうんだね。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」彼はうなづきました。その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。わたしはその人のことをすっかり忘れていましたが、彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。」これを読んでいて「ハヤット神父」の引用する聖パウロの言葉が浮かんだ。昔、朝ラジオからよく流れてきたものだ。「暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい。」この言葉はマザーが愛した言葉だという。私の亡き畏友木谷文弘が「木谷ポルソッタ通信」に載せた話にもこの言葉が出てくる。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉だ。「誰かがやるだろうということは、誰もやらないということを知りなさい。」 旅にでないワインが旅に出た話 「以前、大分県の直入町役場で働いていた首藤さん、県議会議員をされているんだけど、その人の講演録をインターネットで見つけたらとてもよかったんだ。 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していたんだ。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れたんだ。するとね、『首藤さん、あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言うんだ。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長と首藤さんと通訳でドイツに渡った。それで苦しんだんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませてあげたい』と頼んだんだって。 すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。『どうしたの、マチ子さん?』と首藤さんが聞いた。『首藤さん、私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせていただいた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』というふうにマチ子さんが言うんだ。『首藤さん、ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているですよ』 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだね。 首藤さんはね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いたんだって。 平成元年からドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。こんな農村であんなことをやってあいつらはドイツかぶれだという陰口もある。それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと泣けて泣けて仕方がなかったというんだ。 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったらね、帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだって。「誰かがやるだろうということは、誰もやらないということを知りなさい」マザーが愛したその言葉が強烈に首藤さんに降り注いできたんだって。つまり、前年に商工会のみんながドイツに渡っている。ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。ただ、誰かがやるかもしれない。地域づくりのほかのことに対してもそうだ。これはいい話だが、誰かがやるだろう。そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。そういうマザーテレサの言葉に、『ああ、そうか。3人でこのことに挑戦をする』ということの意義がマザーテレサから示唆されたような気がしたと首藤さんはいうんだ。
2019年07月15日
2008年08月03日渡辺和子さんの「愛することは許されること」の「はじめにー私と聖書の出会い」はとっても心を打つ。それは普通ならこんなに赤裸々に人前に出さないであろう赤裸々な心の葛藤をいわば神のまえに捧げる犠牲のひつじのように差出しているからである。それはまた心の清澄さにほかならない。私の生れた家は浄土真宗でした。ですから父が死んだ時も葬儀は仏教で行われ、長いお経の間、座布団の上で神妙に座っていましたし、お骨を納めに母に連れられて、京都の東本願寺に行ったこともあります。 小学校は吉祥寺にある成蹊小学校。・・・ このように、他力本願の仏教を宗旨とした家に生まれ、・・・神棚が祭ってある茶の間で父から儒教の「論語」の手ほどきを受けた私は、・・・やがて双葉高等女学校というカトリック系のミッション・スクールに入学しました。これが私のキリスト教との最初の出会いですが、これとて私の意志ではなく、母や姉が決めたことでした。・・キリスト教の教えである公教要理を聞いたことがありましたが、その帰り道、四谷駅あたりで「シスターは今日、『神様は何でもご存じ』とおっしゃったけれども、私そんなこと信じないわ』と宣言して誘ってくれた友人を悲しめたものです。・・・私は「望まれないで生れた子」でした。みごもった時、すでに43歳だった母は、師団長夫人という世間体もあり、できることなら、私を産まないですませたかったらしく、医者であった義兄にも、どうしたらよいか相談したようです。その母に向かって「産んでおけ」と言ってくれたのは、他でもない父でした。「男が子どもを産むならおかしが、女が産むのに何のおかしいことがあるものか」。・・そんな出世前のいきさつもあってか、私は母よりも父がずっと好きでしたし、54歳だった父もまた、孫のような私を、目に入れても痛くないほど可愛がってくれました。父は私が9歳になったばかりの2月の雪の朝、2・26事件と呼ばれるクーデターの犠牲となって死にましたが、この9年間に、私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています。私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今になって思うと、父を『敵』の最中でたった一人で淋しく死なせないために、私は生まれてきたのかも知れないと思うようようになりました。渡辺さんのお母さんは夫が2・26事件で惨殺された後、一滴の涙も流さず、遺された15歳、12歳、9歳の子供たちに向かって、「これからはお父様と2人分、きびしくしつけます」宣言する。その言葉どおり、母は甘えるどころか恐ろしい存在となった。和子さんは、すでに嫁いでいた22歳年上の姉に「「お母様は、まま母ではないの?」と尋ねたくらい厳しいものだったという。何が何でも一番になりなさい、100点を取ってこなければ家に入れませんという母の叱咤のもとで、逆に和子さんは他に厳しく高慢で勝気な人間になってしまう。お母さんから「あなたは冷たい、つんつんしている。」と言われ、「そんなふうに育てたのはあなたじゃない」と心の中で反発していたという。そういう母に冷たくしか出来ない自分もまたつらかった。思い余って、尊敬していたシスターにあらいざらい心のうちを打ち明ける。「私は母が嫌で嫌でたまらないのです。そして、母にそんな気持ちしかもてない自分がもっと嫌なのです。」そのときシスターは静かにこうおっしゃった。「和子さん、あなたは自分のことばかり考えているみたい。少し、お母さんの身にもなってみたら」今でもなぜか、はっきり覚えている言葉ーそれは、何でもないことのようで、それこそ私にとっては「回心」のー心の方向を180度転回させるー言葉となっていました。
2018年07月02日
「愛をこめて生きる」渡辺和子より インドのカルカッタに当年とって78歳になるマザー・テレサという」一老修道女が住んでいる。この人は「神の愛の宣教者」という修道会の創始者であり、国際連合が『世界最悪の居住条件を持つ』と宣言したこの街で、貧しい人の中でも最も貧しい人々に仕えることを使命としている。その貧しさとは物質的なものもさることながら、それ以上に、この世で人々から『不要』『邪魔者』扱いをされている人々、自分自身『生きていても、いなくても同じ』、または、『生きていない方がいいかも知れない』と思っている『貧しい人々』である。 1979年のノーベル平和賞受賞者であるマザーはかくて、望まれずして生まれたが故に捨てられた子どもたちを拾って育て、人々に忌み嫌われるハンセン病患者を手厚く看病し、さらに、路傍で一人寂しく死んでゆこうとする瀕死の病人を『死を待つ人の家』に連れて死なせてやることに力を尽くしているのである。・・・『人間にとって、生きのびることもたいせつですが、死ぬこと、しかもよい死を迎えることは、もっとたいせつなことなのです。』 生まれた時から不要者として生み落とされ、その後の年月をひたすら社会の邪魔者とのみみなされて来た浮浪者たち、死ぬことによって厄介払いと他人から喜ばれるような一生涯しか送れなかった人々が、その生涯の最後において、死の直前の数分間、または数時間、生まれて初めて人間らしく扱われ、優しさを体験するのである。 かって貰ったことのない薬が惜しげもなく与えられ、受けたことのない温かい扱いを受け、身体をきよめられ、名前と宗教を尋ねられて、彼らは治療に勝る、かつ治癒と次元の異なる『たいせつなもの』を取り戻して死んでゆく。・・・ マザーの手の中でこのように死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息をひきとる前に言うことばが『サンキュー』であるということ、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えているという。・・・この話を終ってマザーは言うのであった。 It is so beautiful.「それは本当に美しい光景です」と。
2018年07月02日
「God's Will!」マザー・テレサはよくそうおっしゃったという。日本からマザー・テレサの活動を取材にいった撮影隊がマザー・テレサへのインタビューを30分行った。「マザー・テレサは私たちに向かって、疲れたでしょうから、一緒にお茶をいただきましょうと誘ってくれた。私たちは、喜んでテーブルについた。マザーと一緒にお茶を飲めたのも嬉しかったが、翌日の撮影スケジュールを打ち合わせておく必要もあったからだ。そのとき、私は悩んでいた。翌日は、ハンセン病患者の村の取材と同時に、空港近くの農村医療の巡回団の取材のどちらも撮影したい。しかし、カメラは一つ、どっちかに決めなくてはならない。「どちらに決めますか?」通訳のシスター白井が決断を迫る。私はもう少し考えさせてくれと言った。そのとき、マザー・テレサが迷っている私に笑顔で「無理なことをどうこう思い悩むのは無駄なことです。神さまはできることしか選ばれない。できないことは、神さまがお望みではないのだと思いなさい。」そう言って、お茶を話を進めながら話を続けた。1年前ドイツのカメラマンが2度もカルカッタへ来て撮影したのに、なぜか両方ともフィルムが真っ白だったというのである。「それはきっと神さまが望んでいらっしゃらなかったのでしょう。もし神さまがお望みなら(ゴッズ・ウィル)あなたがたの撮影はきっとうまい考えが浮かぶでしょう。」・・・結論からいうと、翌日の撮影は、2つとも可能になった。それは、私たちの協力者であるイエズス会のロベルジュ神父によって、思いがけず、サブ・カメラの使用が延長できる知らせが入ったからだ。さっそく私たちスタッフは、A班、B班に分かれて撮影することにして、マザーにそのことを伝えた。するとマザー・テレサは即時に言った。「神さまは、今回は2つのことをお望みなのでしょう。よかったですねー。」この時以来、私たちのスタッフの間で、マザーの言葉を真似るのが流行った。それは「ゴッズ・ウィル」(なにごとも神さまがお望みならば)という素敵なものであった。(「マザー・テレサとその世界」111ページより)
2018年06月23日
「シスターは私に『他人を裁いてはいけない』『相手が誰であってもフェアに扱わなくてはいけない』という大切な美徳を教えてくれました。」「志を持ちなさい。そして志を持ったら決して途中でギブ・アップしてはいけません。絶対に途中でやめてはいけないのです。」「大事なことは、大人になって初めて理解できるようなことでも、人生にとって大切なことはどんどん教えてくれる、そんな環境を子育てのなかにつくることが大切です。シスターたちは、私たち孤児全員を一人前の人間として大切にし、尊重してくれたのです。悪いことをすれば厳しく叱りました。そんな時には必ず『あなたには限りない可能性がある』と付け加えました。」「困難に直面したとき、この言葉を指針としています。『非常に難しいこと、困難なことは、良き人間にこそ起こる』人間の価値は、その人がどれだけ困難に遭遇したかではなく、それをどう乗り越えたかで、評価されるものだと思います。だから私は、どんな困難に出会っても決してあきらめず、ただ自分を信じて次に進むということを、とても大切にしてきました。そして最終的には目的を達成すると自分の心に決めています。」2006年08月09日 オレゴン州知事テッド・クロンガスキーが語るシスターの教え「致知」9月号に五日市剛さんと今野華都子さんの「社員のすべてを引き受け、人生の苦楽をともにする」という対談が載っていたので読んだ。内容に感動してコピーしては知り合いに配った。なんでも「致知」9月号の注文が殺到してんてこ舞いらしい。おそらくすぐに売り切れとなるであろう。その9月号の他の記事も読んでいたら、オレゴン州知事テッド・クロンガスキー氏のインタビュー記事が載っていて、これにも感銘を受けた。テッド氏は1940年ミズーリ州生まれで、生後すぐに父親を亡くし、カトリック教会の施設で育った。「私が生まれた直後に父が亡くなりました。そのため私は、カトリック教会の学校の寮でシスター達に育てられました。」テッド氏は、生きる上で守るべき大切なことはすべてシスターから教わったという。「シスターは私に『他人を裁いてはいけない』『相手が誰であってもフェアに扱わなくてはいけない』という大切な美徳を教えてくれました。私はこの二つを忠実に守ってきました。彼女たちの指導がなければ、いまの自分はありえません。」テッド氏は、高校を卒業して海兵隊に入り3年間勤めた後、退役して製鉄所で働いていた。自分の出身から他人に劣等感を抱いていて、一生製鉄所で働いていけたら、それでいいと思っていた。しかし、ある時、テッド氏はシスターから言われた言葉を思い出した。「志を持ちなさい。そして志を持ったら決して途中でギブ・アップしてはいけません。絶対に途中でやめてはいけないのです。」「大事なことは、大人になって初めて理解できるようなことでも、人生にとって大切なことはどんどん教えてくれる、そんな環境を子育てのなかにつくることが大切です。シスターたちは、私たち孤児全員を一人前の人間として大切にし、尊重してくれたのです。悪いことをすれば厳しく叱りました。そんな時には必ず『あなたには限りない可能性がある』と付け加えました。」「困難に直面したとき、この言葉を指針としています。『非常に難しいこと、困難なことは、良き人間にこそ起こる』人間の価値は、その人がどれだけ困難に遭遇したかではなく、それをどう乗り越えたかで、評価されるものだと思います。だから私は、どんな困難に出会っても決してあきらめず、ただ自分を信じて次に進むということを、とても大切にしてきました。そして最終的には目的を達成すると自分の心に決めています。」
2018年06月19日
2008年04月04日 「私は生きていて良かった」相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいねbyマザー・テレサ家族ふれあい新聞第693号より思考が人生を創る(三)(神渡良平講演録より) 私が以前に書いた「マザー・テレサへの旅路」という本があります。今生きていらっしゃる人達の中で、最もメッセージを持っている人。僕達に語りかけるものを持っている人は誰だろうと考えた時マザー・テレサだと思ったんです。それで、マザー・テレサの伝記を書こうと思い立って、いろんな資料を手に入れて研究していったんです。そのうちにどうしてもカルカッタに行きたいと思うようになりました。マザー・テレサのグループと一緒に、死を待つ人の家で働いたり、孤児院でボランティアをやりながら、彼女達のグループの中に脈々と流れてる精神を感じ取りたい、そう思ったんです。 ところが、彼女が倒れたというニュースがテレビに流れて、アメリカから心臓病の手術の大家が急きょ、カルカッタに駆けつけ、マザー・テレサの命が危ぶまれる事になったわけでした。 私はカルカッタに行っても、お会いすることはできない、しかしお会いできなかったとしても、シスター達と一緒に仕事をする中で、あの世界を感じ取りたい、そう思ってカルカッタに行きました。案の定、マザー・テレサは病院でしたし、お会いできませんでした。マザー・テレサの施設はカルカッタ市内に七つあるんです。「死を待つ人の家」とか、「孤児たちを集めている家」とか、いろんなところがあるんですが、そういったところで奉仕活動をして朝晩のミサに参加しておりました。丁度3日目の事でした。夕方のミサに参加しておりましたら、礼拝堂は細長い礼拝堂なんですね。それの左半分がシスター達で、右半分が私達ボランティアとか地元の方が参加する場所なんです。私は丁度、境目の所の、後ろの所にいつも座ってミサに参加してたんです。ミサの半ばぐらいになって、車椅子で入って来た人がいました。それはマザー・テレサじゃないですか。ええ~!と思って、「ああ、この人がマザー・テレサ」というような感じでした。見ると、着ている物も継ぎはぎを当てたようなものを着ていらっしゃるし、靴下も継ぎが当たった黒い靴下を履いていらっしゃいました。修道会の創始者でもあり、ノーベル平和賞も貰った人だから、それなりの椅子が用意されていて、そこにお座りになってもおかしくないだけれども、一番出入り口に近い、人が出入りするそういう下座の所に座られて、一緒にミサに参加されたわけでした。そういうマザー・テレサを身近に見ながら、終わるとみんな自分の部屋に帰られるマザー・テレサを囲んで、いろいろ話をするんですね。そういうマザー・テレサに励まされて、私も毎日ボランティアに行っていたのでした。ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。朝、最初各病室の掃除から始まるんです。みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。片付けると、あちこちウンコの山ができている。体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。そういうのが山のようになっている。それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。そんな事をやっている時でした。お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。かかとが骨折し、骨が突き出していた。蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。困っていたら、通りかかったボランティアの青年が「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。蛆虫がいる。蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。インドのカースト社会というのはひどい社会で一番下の不可触民は、人間とみなされていません。彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。それを抱きしめる。その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。そのシーンを見た時に私は「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。「みなさん、わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。その人が「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」というふうに思って頂かなかったら意味がない。どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」2008年04月04日 天は私達に逃げる事ができないような立場に追い込んで、大切な事を教えて下さる。家族ふれあい新聞第694号より思考が人生を創る(四)(神渡良平講演録より) 私が「マザー・テレサへの旅路」という本を書いた時に、私は一つ大切な事を発見しました。それはベルギーの女性で、ジャクリーヌ・ド・デッカーさんという人が1957年、マザー・テレサの修道会に献身したいと来られるんです。マザー・テレサもそういう修道女志願を受け入れたかった。けれども、ジャクリーヌさんは病気持ちでした。 修道女になることはできませんで、そのまま帰って手術を受け、二回も三回も手術を繰り返すという状態になっていったんです。彼女はすっかり気落ちして、自分は生涯を修道女として捧げたいと思ってたのに、修道女にもなることができなかったと落ち込んでいたところにマザー・テレサから手紙が来るんです。「ジャクリーヌさんお願いがあります、どうぞ私たちの為に祈っていただけませんか」 修道院は九時には消灯です、9時には皆さん各部屋に入られて自分のベッドで休まれるんですが。マザー・テレサは3畳ほどの自分の部屋に帰られると、それから世界中から来ている手紙や献金やなにかに対するお礼のカードをお書きになる。それが夜中の2時まで続くんです。そして朝4時半のミサに参加される。毎日2時間、3時間の睡眠しかない状態の中で生活していた。こんなに苦しい事は、もう他のシスター達にはやらせたくないと思うような生活。だから、彼女の手紙にあるんですね。「私の時間は人がコッペパンを食べるように食べつくされてしまっています」と。だから、彼女はジャクリーヌに手紙を書いた。 「私は祈りがどれほど大切かと思ってます。でも、現実には日常生活において、時間を取ることができない。だから、どうぞ私たちが表に出て働きますから、背後で祈っていただけませんか。そしてその祈りの場を、どうぞ世界中に広げて行ってください。病院から病院、その寝たきりの人達が手をつないで、そして私達ができない分を祈って下されば、私達は体が動きますから、貧民街に行って貧しい人達に奉仕しますから、どうぞ祈りで支えて下さい」それでジャクリーヌさんは、自分の生き甲斐を見出す。「ああ、自分にもそういう形の参加の仕方があるのか」と発見し、その祈りの輪を世界中に広げて行った。「マザー・テレサ愛の宣教者会」という組織です。それから25年後、マザー・テレサがノーベル平和賞に選ばれ、ストックホルムに呼ばれた時、彼女はジャクリーヌを連れて行った。壇上に上がってスピーチする。その背後にジャクリーヌがいて「私は生きてきて良かった」と感じる事ができた。その事を書いてたのを講演会を企画していた半野さんの奥さんが発見される。「祈り」というものが表における活動を支えなければ、それはただのやかましい鐃はちに終ってしまう。それで半野さんに言う。「表に出てビラを配るのは私達がします。あなたは家にいて祈って下さい。必要な人と出会わされるように、必要な人がそのパンフレットいただくように祈ってください」と言う。半野さんはその3月31日の講演会に向けて、祈りの生活をする。そして、当日3月31日。250名入る会場に、なんと239名が入ったんです。講演会は素晴らしい講演会になりました。半野さんは確信をうる。「いける!」それで彼の中に僕にしかできないようなビデオを作る事ができるという世界に変って行った。ある時、彼から手紙が来ました。パソコンで書いている手紙でした。僕は彼に言いました。「半野さん、手書きの手紙を欲しい。手書で書いたら字がとても読めないような字になるからって気遣ってワープロで打ったんだろうけれども、この一枚の手紙、読めないような字、僕も昔はそうだった。でも、それが練習になるんだ。全ての事を手書きでやっていけば、そのうちに人が読めるような字になってくる。だから最後にお詫びして、本当に字がふるえてしまってごめんなさいとお詫びすればいいんだから、とにかく自分で書きなさい」彼はもう車椅子に乗ってません。足を引きながらですけども歩いています。まだ麻痺が残ってますが、右手で手紙を書くまでになった。それを見て思うんです。天は私達に逃げる事ができないような立場に追い込んで、大切な事を教えて下さる。その人の人生を光り輝かされるではないか」
2018年06月14日
2007年08月22日 コーヒーカップの上の祈り「マーティン・L・キング」梶原寿著 より1955年12月5日モンゴメリー改良委員会の会長にキング牧師は推挙された。これ以後381日に及ぶバス・ボイコット運動の幕が切って落とされた。12月10日 モンゴメリーのバス会社、黒人居住区の運転を中止した。1956年1月26日 キング牧師がモンゴメリー市の25マイル速度制限区域を30マイルで走ったかどで逮捕される。1月30日 キング牧師宅のポーチに爆弾が投げ込まれる。その前々日1月27日の夜、「コーヒーカップの上の祈り」として有名な体験がキングに起こったのであった。「それは真夜中のことだった。その夜私は運営委員会で外出していた。帰宅すると妻はすでにベッドについていた。私も休むためにすぐにベッドにもぐりこんだ。するとまもなく電話のベルが鳴った。向こう側から汚い声が聞こえてきた。『黒んぼ(ニガー)、おれたちは、お前やお前らのごたごたはうんざりしている。もし3日のうちにお前がこの町から出て行かなかったら、お前の頭をぶち抜き、お前の家を爆破するぞ(in three day, we're going to blow your brains out and blow your house)』。私はこのような言葉をそれまでにも何回も聞いたが、どうしたものかその夜は胸にこたえた。寝返りをうって眠ろうとしたが眠れなかった。そこで起き上がって台所に行き、コーヒーでも飲めば少しは落ち着くかも知れないと考えて沸かし始めた。そこで私はいろんなことを考えた。大学で学んだばかりの神学と哲学をふり返って、罪と悪の存在と現実に対する哲学的・神学的理由付けを試みてみた。だが答えはそこからは出てこなかった。私はそこに座り込んで、生まれてから1ヶ月しかならない可愛い娘のことを考えた。また向こうで寝ている献身的で忠実な妻のことを考えた。そして、彼女たちは私から取り去られるかも知れないし、私も彼女たちから取り去られるかも知れないと思った。私はもう耐えられないと思った。私は弱かった。 その時、何者かが私に語りかけた。『お前は今お前の父親に電話してはいけない。彼は175マイル先のアトランタにいる。お前は今お前の母親に電話してもいけない。お前はただ、お前の父親がかつてお前に話してくれたあのお方に頼らなければいけない。道なきところに道をお作りになることができるそのお方に頼るのだ。』私はその時、宗教(レリジョン)は私にとってリアルなものでなくてはいけない。私は自分自身で神を知らねばならないということが分かった。そこで私はコーヒーカップの上にうつ伏せになった。私はそのことを決して忘れない。私は祈りに祈った。その夜私は声をあげて祈った。私は言った。『主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。だが私はこんな姿を人々に見せたくあります。なぜなら、もし彼らが私の弱い姿を見、勇気を失っていることを知ったら、彼らも弱くなってしまいます。("Lord, I'm down here trying to do what's right. I think I am right. I think the cause that we represent is right. But Lord, I must confess that I'm weak now. I'm faltering. I'm losing my courage. And I can't let people see me like this because if they see me weak and losing my courage, they will begin to get weak." )私は明日の朝笑顔で執行委員会に出られるようにしたいのです。』その瞬間、私は内なる声(インナー・ボイス)を聞いたように思った。『マルティン・ルーサーよ。義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。("Martin Luther King, stand up for righteousness. Stand up for justice. Stand up for truth. And lo, I will be with you, even until the end of world.")』私は閃光の輝きを見た。雷鳴の轟きを聞いた。罪の大波が私の魂を征服すべく突進してくるのを感じた。しかし私は同時に闘い続けよ、と優しく語りかける主イエスの声をも聞いた。彼は私に、決して一人にはしないと約束した。決して決して一人にはしないと」
2018年05月09日
2007年07月06日 チャンバーランのガンジー<「ガンディーとタゴール」158ページ>20年にわたる南アフリカで闘争に一応の決着をつけたガンジーは、「祖国のために奉仕するため」インドに帰国してきた。最初の1年間は「耳は開くが、口を閉じて」インド国内を旅行した。1916年の暮れに、ガンジーがラクナウで開催された国民会議派大会に出席していたとき、一人の貧しい農民代表がガンジーのもとにやってきて、チャンパーランの農村の惨状を見てもらいたいと嘆願した。男は何週間もガンジーの傍らを離れず、嘆願し続けた。ガンジーは翌年四月に北インドのネパール国境に近いチャンバーランに訪ねることを約束した。そこでは、農地の大半がイギリス農園主が所有し、人口の98%を占める農民のほとんどが小作人だった。農民は地代のほかに、借地の15%を藍(あい)の栽培にあて、安値で農園主に買い取られていた。ところが合成の藍が開発され、藍の価格が下落すると、農園主は代金を現金で支払うよう要求した。農民の生活は困窮を極め、各地で一揆が発生したが、農園主は力でおさえつけ作物を没収し、家畜や家財を差し押さえ、運河の水にまで課税した。ガンジーを乗せた汽車が駅に到着すると、数百人の農民が出迎えた。「ガンジーさんという偉い方がわれわれを助けにきてくれる」そんな噂が村から村へと伝わり、農民達は苦境を聞いてもらうため続々とつめかけた。翌日からガンジーは象に乗って、藍農園の実情を調査し始めた。一人の警官が次の汽車で立ち去るよう警察署長の命令書を提示した。ガンジーは、調査が終了するまで命令に従う意志のないことを書面で回答し、いかなる処分ににも服するつもりだと書き添えた。その日の夕方ガンジーのもとに翌朝裁判所に出頭すべしという召喚状が届いた。この知らせは野火が広がるように村々に伝わり、翌朝には何千何万の農民が裁判所をとりかこんだ。ガンジーが農民に与えたのは「怖れなき心」であった。検事や裁判官は驚いて裁判を延期しようとしたが、被告人はこれを拒否し、自ら有罪の申し立てをした。これには検事も裁判官もそして弁護人も驚いた。検事は「即刻この地を離れることを約束するなら起訴を取り下げる」と言ったが、ガンジーは「それはできません・・・出獄後もここを自分の住み処とするでしょう」と答えた。判事は困って保釈手続きをとるよう勧めたが、保釈金を支払う意志がないことを明言したため、ついに保釈金なしで釈放された。こうして2ヵ月後農園主と政府役人、それに農民側の唯一の代表としてガンジーを加えた調査委員会が発足し、ガンジーらの調査結果にもとづいて、小作人方の廃止と強制的に取り立てられた地代の償還が勧告された。委員会は初めガンジーが100%の払い戻しを要求すると思っていたが、ガンジーは50%しか要求せず、さらに農園主側委員の要望を入れて25%まで譲歩したため、農園主は払いしぶることができなくなった。☆この事件とその解決は以後のガンジーの戦いのモデルとなったようである。「自叙伝」でも「チャンバーランでのその日は、わたしの生涯で忘るべからざる日であったし、農民とわたしとにとって、特筆すべき日であった」と述べている。「チャンバランはジャナカ王の領地で、1917年までは、インド藍の農園でいっぱいだった。チャンバランの小作農者は、土地の20分の3は、領主のためにインド藍の栽培に当てなければならなかった。ラジクマル・シュクラは、かってこの略奪に苦しめられた農民であり、私にチャンバランに行って農民の悲惨を見てもらいたいと頼んだ。1917年の初め、私たちは田舎者のかっこうでカルカッタをたち、チャンバランに向かった。・・・(ガンジーは訴訟になっているケースを調査して言った)「これらの訴訟事件を調べて、わたしは法廷に持ち出すことはやめたほうがよい、という結論を出しました。農民たちがこれほどうちひしがれ、また恐れている場合には、法廷は無用です。彼らのためになる真の救済は、恐怖心をとり除いてやることです。」そして友人達に援助を頼む。友人達は全力での援助を約束する。「わたしのほしいのは事務上の援助と通訳になっていただくことです。あるいは刑務所に入れられることになるかもしれません。・・・私にはお金を出す力はありません。愛と奉仕の精神から行ってほしいのです。」「私たちはあなたの要求されることは何でもしましょう。刑務所に入ったことはありませんが、なんとかやってみましょう。」ガンジーは調査を始めるにあたって、農園主と税務監督官に会見を求めた。農園主協会の書記は申し入れがあれば書き物で出すよう要求し、税務監督官は威張り散らして即刻この地を去るよう勧告した。ガンジーはそれらを協働者に伝え、政府はこれより先に進むのをやめさせ、予想より早く刑務所に入るようになるかもしれないことを伝えた。翌日象の背に乗ってモティハリに向かう途中、警察署長の使いがガンジーにチャンバラン退去の命令書を差し出した。ガンジーは調査が終るまで命令に従えないと書面で返事した。そして次の日、命令に従わないかどで、ガンジーの裁判をやることになった。退去命令と召喚の知らせは、野火のようにひろがり、モティハリではいまだかってない光景が展開された。裁判所は人の群れで込み合い、群集はガンジーの行くところにはどこにでもついていった。役人達はガンジーが個人として彼らを怒らせるつもりがないことを理解し、安心して群集の整理にあたった。そしてそのことは群集にとって役人の権威が揺らいでいることを知らせ、処罰される恐れを忘れさせた。農民たちはガンジーたちを旧知の友人かのように迎え入れ、ガンジーはこの出会いに神とアヒンサ(不殺生)それから真実に見えることができた。人々に対する愛以外なにものも発見できなかった。そしてガンジーは「私は裁判にかけられるはずであったが、裁判にかけられるのは政府であった」と述べている。ガンジーは声明を読み上げた。「わたしは人道的な全国的な奉仕を行う動機から、この地方にやってきた。助けにきてくれ、という農民の切なる要請に応じてやってきた。農民達はインド藍農園主から公正に取り扱われていない、と主張している。私は問題を研究しないでは援助を与えることはできない、私は政府と農園主から援助を受けてそれを研究したい。」州の副知事はガンジーに対する訴訟の撤回を命じ、徴税官は調査を許可した。資金なしでは仕事を実行できなかったが、ガンジーはチャンバランの農民から一切受け取らないことを決意していた。何かを受け取れば、当然誤解を生まざるを得ない。ガンジーたちはチャンバランの貧しさにふさわしい最大の節約を決意する。使用人は使わず、時間を厳守し、つとめて簡素な食事をした。農民達は群れをなして申し立てをしにやってきた。申し立てはインド政府の警官の立会いのもとで行われ、ガンジーたちは彼らを丁重に取り扱った。農園主も怒らせまいとし、常に手紙を書いたり会ったりした。農園主の幾人かは憎み、幾人かは無関心をよそおい、2,3の人は丁寧に遇してくれた。ガンジーはそうしたなかで教育の大切さを確信し、6つの村落に小学校を開設する。教師の志願者は医療と衛生の仕事もした。志願者達は村落を理想的に清潔にすることに力をそそいだ。道路や庭先を掃き、井戸を清掃し、近辺の水溜りをうめ、村落の人々から志願者を集めた。いくつかの村落では人々自らが道路直しまで熱心に行ったが、村落の何人かはこうした仕事をやることに露骨に反対した。農民の苦情が何千となく記録され、苦情を申し立てる農民の数はいよいよ増加していった。農園主は怒り、調査が長引いており、中止し立ち去ることを要求した。ガンジーは「人々に救済がもたらせないかぎり、ここを離れる考えがない」ことを書いた。副知事は調査委員会を設置し、ガンジーをその委員に任命した。委員会は農民に有利な判定を下したが、農園主たちは、絶大な権力をふるった。しかし副知事は毅然とした態度で委員会の勧告を完全に実行した。こうして約1世紀にわるティンカティア制度は廃止され、農園主の支配も終わりを告げた。調停委員会の仕事が片付かないうちに、ケダ地方の不作で税を払えない農民を指導してもたいたいという依頼があり、また、アーメダバードの労働者の賃上げについての指導の依頼があった。ガンジーはこれら二つをすばやく片付けて、チャンバランに引き返すつもりだったが、ガンジーは二度とチャンバランに戻ることはできなかった。
2018年05月09日
天使 に出会った「天使は人の中に出さなくてはいけませんよ」「この子はいつでも私たちにどのように愛を行いに表すかを教えてくれます」その顔には、美しいほほえみがありました。「愛の先生」!重い障害のあるあの子をそう呼んでいるんですよ」2007年06月28日ブログを見ていたら 天使 に出会った詩の言葉も その 『天使』 の形もいいねえ「生後2週間で脳障害を負ったマリナちゃんとその家族」「手当たり次第に物を口にしバックの中身をばらまき、カードをふたつ折りにしたり蛇口を開けっ放しにして家の中を水浸しにしたりとひとときも気を休めることが出来ない母親」「でも無垢なマリナちゃんの笑顔に逆に癒されていく」と。 『天使』 マリナが宿泊訓練で出かけた日 スーパーで夕食の食材を みつくろっていると 「今日はお一人ですか」 見知らぬ婦人に声をかけられた 「私 いつも遠くから見ていたんですよ お嬢さんに会うだけで励まされるんです 天使は人の中に出さなくてはいけませんよ」と マザー・テレサの話に「愛の先生」というのがある。 最後に南アメリカの ベネズエラを訪れた 時の事はいつまでも 忘れないでしょう あるお金持ちの家族が子供たちの家を建てるための土地を シスターたちに下さったので私はお礼に伺いました。 そこで私は家族の一番上の子が重度の身体障害を もっていることを知りました。私はその子の 母親に尋ねました「お子さんの名前は?」 彼女は答えました。「愛の先生です。 この子はいつでも私たちにどのように愛を行いに 表すかを教えてくれているからです」その顔には、美しいほほえみがありました。「愛の先生」!重い障害のあるあの子 をこう呼んでいるんですよ
2018年04月15日
「私がついた愚かな嘘のために、父が悲嘆と苦痛にさいなまれながら歩く姿を見ました。そのとき、私は今後一切嘘はつかないと心に決めました。愚かな嘘のために両親にこのような苦しみを与えてはいけないと」「ガンディーを継いで」塩田純著よりガンジーの長男ハリラールは偉大な父に反抗し、酒に溺れ、イスラム教に改宗し、父の教えを破ることを生きがいとするような生活だった。対照的に次男のマニラールはそんな兄を補うかのようにガンジーに生涯従順に従った。1933年マニラールに長男の不行跡について手紙を書いた。一人の悩める父親だった。「ハリラールは相変わらず酒に溺れています。いや、むしろ酒で満腹だとでも言った方がよいでしょうか。酒が重過ぎるので彼はこれ以上の重荷を背負うことができません。彼のことを愚痴っているのではありません。彼の行動は、私自身の罪の苦々しい結果であって、私はそれに黙って耐えています。」偉大な魂、ガンジーですら一番身近な者を感化することができないこともあったのである。「縁なき衆生は度しがたし」次男のマニラールはガンジーがインドに帰った後、父の命でマニラールは南アフリカに戻り、「インディアン・オピニオン紙」を発行する。マニラール23歳の時であった。「あなたは南アフリカに行くのが辛かったでしょうが、あなたを行かせなければならない私は、もっと辛かったのです。しかし、あなたのためになるのならば、ときには鉄よりも心を固くしなければなりません。そちらであなたがあるべき姿になるのならば、すべてはあなたの利益になるでしょう。」マニラールは、イスラム教の女性との結婚を望んだが、父に反対されてあきらめた。そして1927年3月にインドに一時帰ったとき、父ガンジーが選んだスーシラーと結婚した。マニラール35歳、スーシーラーは19歳であった。スーシーラーはインド独立運動に献身した家柄の娘で、耳が不自由だったが、夫と共に南アフリカに渡り、夫の仕事を助け、やがて記事を書くまでになった。アルンはその二人の息子だった。父マニラールについて長女のシーターはこう語っている。「ある日、父がチョコレートとお菓子を持ち帰ったのですが、翌日にはなくなっていました。父は私にお菓子はどこにあるか聞きました。『わからない、多分、農場の子どもが入ってきて食べたのではないかしら』私は自分が食べたのではありませんが、誰が食べたかいえませんでした。本当のことを言うように父はいい、罰として一日中、部屋に閉じ込められました。後で他の子供達が自分たちが食べたと白状し、やっと許してもらいました。父は子供達が過ちを犯すと、自分にも罰を与えました。小さな嘘でも、その日は断食し、翌日まで及んだことがありました。7日間断食したことがあります。父はよく言ったものです。『子供達を正直にできなければ、私に悪いところがあるのだから、自分を罰する。』父も母も断食したことがありました。私たち子どもにとっては辛い体験です。しかし、この体験から同じ間違いはしなくなりました。」長男アルンも父アリラールが子どもの過ちのため自らを罰する姿を回想している。ある土曜日、マニラールは会議に出席するためダーバン市街にでかけた。フェニックス農場とダーバン市街まで約30キロ離れていた。アルンは16歳で自動車免許を取ったばかりだったので、運転手を申し出た。母スーシラーはアルンに買い物のリストを渡した。アリラールは自動屋の点検、オイルの交換などするよう言いつけて、夕方この交差点で待っているから自動車で一緒に帰ろうと約束して別れた。アルンは母に頼まれた買い物をすませ、車を整備工場に預けてすぐに映画館に入った。ジョン・ウェイン主演の二本立てだった。そしてアルンは夢中になって見入り、映画館を出たときには5時30分になっていた。あわてて整備工場に行って約束の交差点に自動車を走らせた。すでに6時を回っていた。マニラールはわが子に事故でも起きたのではと心配しながら道路を行きつ戻りつしていた。「どうして遅れたんだね」「自動車の整備が遅れたんで、待っていたんだ。」すると父は厳しい表情で言った。「おまえに真実を言う勇気がなかったのは、私の育て方に問題がある。おまえは私に嘘をついている。私がおまえに対してどんな点で間違っていたか考えるために、私は家まで歩いて帰ることにする。」夕方6時過ぎからマニラールは家のあるフェニックス農場まで、30キロの道を歩き出した。アルンは自動車でのろのろと父の後ろをついて行った。5時間半の道のりはアルンにとっても辛く長かった。「私がついた愚かな嘘のために、父が悲嘆と苦痛にさいなまれながら歩く姿を見ました。そのとき、私は今後一切嘘はつかないと心に決めました。愚かな嘘のために両親にこのような苦しみを与えてはいけないと。子どもが間違ったことをした場合、ほとんどの親は大声で怒鳴ったり、外出を禁じたり、罵声をあびせたりします。しかし、結果として残るのは苦痛だけです。子どもたちは『自分たちが見つかったのが悪かった。今度は絶対に見つからないようにしよう』と思うのです。そして何度も同じ過ちを繰り返すのです。しかし、私の父は自分自身に試練を与えていました。私は5時間半も父が苦しみぬく姿を目のたたりにして、それが私の戒めとなったのです。」
2018年03月06日
小平は「怒った猫」 ガンジーの言葉が人生訓 スピード2018.2.18平昌五輪第10日(18日、江陵オーバル)スピードスケート女子500メートルで、小平奈緒(31)=相沢病院=が36秒94の五輪新記録で、日本女子スピード陣で史上初の金メダルを獲得した。日本勢としては1998年長野五輪男子500メートルの清水宏保以来の快挙。小平は2010年バンクーバー五輪団体追い抜きの銀、今大会1000メートルの銀に続く、自身3個目のメダルを手にした。3連覇を狙った世界記録保持者の李相花(28)=韓国=が37秒33で銀メダル、郷亜里砂(30)=イヨテツク=は37秒67で8位、神谷衣理那(26)=高堂建設=は38秒255で13位だった。 メダルを逃したソチ五輪後、スケート大国オランダへの単身留学には、レース後半の失速を克服する狙いがあった。小平はトップ選手が集うチームで1998年長野五輪2冠のマリアンヌ・ティメルに師事。第一人者からは理想の滑りを意識付けるため呼び名「BOZE KAT(ボーズカット)」を与えられた。背中を丸め、相手を威嚇する「怒った猫」を意味するオランダ語だ。フォームで示せば、肩の位置を高くする一方で腰は低い姿勢。重心を下げて空気抵抗が減れば、効率良いスケーティングで失速を防ぐことができる。 身長1メートル65の小平は当初、1メートル80近い女子選手と同等に肩を上げ、膝が伸びて上体が突っ込んだと自己分析する。海を渡り半年足らずで習得したオランダ語を駆使。2006年トリノ五輪3000メートルを19歳で制したイレイン・ブストの後方をついて滑り、技術を磨いた。 平昌五輪シーズン前、インド独立の父、マハトマ・ガンジーの言葉「永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きよ」Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever. - Mahatma Gandhi を引いて抱負を語っていた。信州大の教育学部生涯スポーツ課程を卒業しており、引退後は中学か高校の教師を夢見ている。実直な31歳が3度目の五輪で大きな花を咲かせた。☆マリアンヌ・ティメルからメッセージ「この場所、今、すべてのストライドに集中して。そうすれば、あなた自身でいられるよ」。「もう猫じゃないわ。虎よ」で世界一。小平奈緒の滑りはメンタルから進化。2017/03/06スピードスケートの今季ワールドカップ女子500mで、出場した6戦に全勝、世界距離別選手権金メダル、冬季アジア大会金メダル、世界スプリント選手権優勝。女子短距離のエース、小平奈緒(相澤病院)が無敵の強さで勝利を重ね、平昌五輪へ邁進している。 躍進の背景には、2014年ソチ五輪の後、2シーズンにわたって拠点を置いたオランダでのトレーニングがある。それは、'06年のワールドカップ初参戦から長年培ってきた技術やフィジカルに、最後のピースを付け加えるべく選んだ方法だった。 小平がオランダに求めたものは何か。オランダでつかんだものは何か。 '10年バンクーバー五輪に続き2度目の五輪となったソチ五輪で、500m5位、1000m13位という成績に終わった小平が、スケート王国として知られるオランダに向かったのは14年5月だった。オランダはソチ五輪スピードスケートで金メダル8、メダル総数23個を獲得していた。 国内にスピードスケートのプロが約10チームあるという中で、小平が加入したのは北部のヘーレンフェーンという街にある『チーム・コンティニュ』である。チームを選ぶ際に決め手となったのが、マリアンヌ・ティメルコーチの存在だった。トリノ五輪での「獣のような眼差し」に驚嘆した。 小平の脳裏には、焼き付いて離れない光景があった。'06年2月19日に行なわれたトリノ五輪女子1000m。スタートラインに向かうティメルの、メラメラと炎を燃やすような視線に釘付けになった。TIMMER Marianne NED – 1000 m – Olympics – Torino 2006 ティメルはその5日前に行なわれた女子500mのレースで、微妙な判定のフライングにより、失格となっていた。「怒りを1000mにぶつけた」というティメルは、怒濤のレースを見せて金メダルに輝いた。'98年長野五輪の1000、1500mに続き、8年ぶり、3個目の金メダルだった。 小平は驚嘆した。「500mで失格して1000mに向かうときの眼差しの鋭さ。人間じゃない、獣のような眼差しの鋭さでした」 ティメルは2010年まで現役を続けていたこともあり、指導歴自体は浅い。そのためソチ五輪で金メダリストを育て上げたわけではない。しかし小平が惹かれたのは、トリノ五輪で見た、金メダリストとしての強烈なメンタリティーだった。 小平は、23歳で出た'10年バンクーバー五輪で500mで12位、1000mと1500mで5位入賞を果たし、田畑真紀、穂積雅子と組んだチームパシュートでは銀メダルを獲得した。そして、個人種目で金メダル獲得を目指したソチ五輪までの4年間は、下半身の筋肉を増やし、氷に密接するような低い姿勢の滑りを身につけ、ワールドカップで表彰台に上がる回数を徐々に増やしていた。 ただ、ここぞという大会ではなかなか力を発揮することができなかった。シーズン前半の好調さを持続することができず、失速することもままあった。 小平を長年指導する結城匡啓コーチは「力は確実についているが、まだ大きな大会で爆発的な滑りを見せたことがない。どうにかして爆発させてやりたい」という悩みを抱えていた。 500mに照準を合わせて臨んだソチ五輪の5位という成績は、いわば実力がそのまま反映された現実だった。 オランダに渡った1年目のシーズン、小平はワールドカップ参戦9シーズン目にして初めて表彰台の真ん中に上がり、シーズンのW杯ランキング500mで総合1位になるという大成功を収めた。ただ、長野の和食で育った体には、乳製品がどうしても多くなってしまうオランダの食事が合わなかった。2シーズン目は牛乳と卵のアレルギーになって体調を崩し、成績不振に陥った。 2年ぶりに帰国し、和食中心の生活に戻した今シーズンは、2年間取り組んできたスケーティングフォームの改造が実を結び、自己ベスト連発の原動力となっている。ここぞというところで、爆発的な滑りをする力も見せた。 平昌五輪のプレ大会となった2月の世界距離別選手権では、五輪2連覇中の地元韓国の星、李相花を抑えて優勝した。1000mでも2位になった。その2週間後にカナダ・カルガリーで開催された世界スプリント選手権では総合ポイントの世界新記録を樹立し、日本人として黒岩彰以来30年ぶりとなる優勝を飾った。 オランダに渡ったばかりのころ、小平に「怒った猫になりなさい」と指導したティメルコーチはSNSを通じて世界スプリント優勝を称え、「もう猫じゃないわ。虎よ。頂点を楽しむのよ」とメッセージを送った。勝ち続ける自分に負けない、勝者のメンタリティーを感じ取ったのだろう。 結城コーチも、「メンタルは逞しくなった。以前とは全然違う。落ち着きがあり、すべてにおいて、何があっても大丈夫だと思えている」と成長に目を細めている。「2年間、金メダリストの視線や雰囲気、振る舞いを身近で感じてこられたことが良かった。今は精神面で土台がしっかりし、自分の中に幹があると感じている。どこか自信のなかった自分とはお別れできたかな。でも今はまだ通過点ですから」 勝ち続けても飄々としている。目指すのは1年後の頂点である。
2018年02月19日
「赦(ゆる)し」私(渡辺和子)は36歳のとき、岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任命されました。シスターの中で一番若造で、米国帰り。風当たりが強い時期もありました。 そのころ、ある方が「ほほえみ」という詩をくださったんです。その最後に「もしあなたが期待したほほえみがもらえなかったら、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。ほほえみを忘れた人ほど、ほほえみを必要としている人はいないのだから」とありました。 私がされてうれしいことは、相手も望んでいること、私がされてつらいことは相手にもしてはいけないと、思いが至りました。カトリックの教会では「赦しの秘跡(ひせき)」があります。大事なのは、ほんの一瞬でいいから、私たちが自分自身の心の中を見つめる時を持つことではないかと思っています。私は22歳年上の姉が子どもを産む年に母が私を妊娠しました。「娘と同じ時期に子どもを産むのは恥ずかしい」と言った母に、父が「せっかく授かった子どもだから産んでおけ」と言ったそうです。親の気持ちが胎児に伝わるといいますが、幼いころは母が嫌いで、父が大好きでした。 事件の朝、母は30数人の兵隊を阻止するのに懸命でした。私が父のところに行くと、父は足元に立てかけてある座卓の後ろに入れと目で指示しました。私が隠れたとたん、軽機関銃が父をめがけて撃ちました。一部始終を私は見ていました。今、思うと、母も兄たちも立ち会えなかった大好きな父の死に立ち会うことができたのです。ある意味でうれしゅうございました。 母はその後、「これからはお父様と2人分厳しくします」と宣言、実行しました。また「私の唯一の趣味は子どもを育てること」と言い、本当に私たちだけのために生きてくれました。87歳で亡くなりましたが、私にとっては世界一の母でした。 「ほほえみ」 ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが、相手にとっては非常な価値を持つ。 ほほえまれた者を豊かにしながら、ほほえんだ人は何も失わない。 瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまる。 お金があっても、ほほえみなしには貧しく、貧しくても、ほほえみのある家は豊かだ。ほほえみは、家庭に平和を生み出し、社会を明るく善意に満ちたものにし、 二人の間に友情をはぐくむ。 疲れた者には休息を与え、失望する者には光となり、いろいろな心配に思い病んでいる人には解毒剤の役割を果たす。 しかも買うことができないもの 頼んで得られないもの 借りられもしない代わりに盗まれないもの もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、 不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。 実際、ほほえみを忘れた人ほど、 それを必要としている
2018年02月02日
愛の働きであっても仕事のための仕事にしてしまう危険性はいつでもありますだれのためにしているのかということを忘れてしまうとそれが落とし穴になるのです神とキリストへの尊敬と愛と献身によって私たちはできる限り美しくそれをすることができるのです喜ばしい奉仕の活動を通してのすばらしい経験はまだ経験していない人たちへと伝えていかなければなりませんそれは私たちの働きのとても大きなご褒美のひとつです「マザー・テレサの 愛 と言う仕事」214ページよりマザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって?いいえ、とんでもない。私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。私たちの仕事は苦しみがなければ、きっと人助けのための社会事業ということになるのでしょう。しかしそれでは、イエス・キリストのための仕事ではなくなってしまいます。真の救済にはならなくなってしまいます。イエスは、私たちがイエスが味われた生活、苦悩、孤独、死を共有することによって、私たちに救いの手を差し伸べてくださるのです。イエスとともにいるからこそ、私たちを救ってくださったのです。私たちもイエスと同じことをしなければなりません。貧しい人々は、精神的な貧しさからだけでなく、あらゆる貧しさからも救われるべきなのです。そしてその時に、私たちも、彼らと同じ貧しさを共有しなくてはなりません。貧しい人々と一緒にいることで、私も彼らも救われるのです。彼らの人生に神をもたらし、神のところに遣わすことで、彼らは完全に救われます。私は時々、ひどく心細く感じることがあります。心が空虚になり、自分自身が中身のない貝殻のように思え、私の中の支えを失ってしまいそうになるのです。ヨーロッパや合衆国に出かけていくたびに、裕福であるはずのその国でひどく不幸な人々に出会い、心が痛くなるのです。物質的に裕福であるがゆえに、家庭は崩壊し、子どもたちは親から見捨てられているといった現実を、何度も目の当たりにしているからです。今、このような先進国の人々が取り組まなくてはならないのは、自分の血をわけた家族のために働き、離れかけている夫婦の心を結び、子どもたちが両親の愛をたくさん受けることのできる家庭をつくることです
2017年11月20日
カリガートの「死を待つ人の家」を訪れた人がこの家にみなぎっている『平和』を不思議に思ったようです私は単純にこう言いました「神がここにおられるのです」ここではカーストや宗派は問いません彼らが私と同じ信仰ではないということは問題ではありませんよ「マザー・テレサの 愛 という仕事」113ページよりカルカッタにある<死を待つ人の家>に、一人の無神論者がやってきたことがあります。私はその時のことを忘れられません。彼が来る少し前に、シスターたちが街の通りから一人の人を連れてきたのです。その人の体はウジで覆われていましたから、おそらく排水路の中で倒れていたところをひきあげられたのでしょう。一人のシスターが彼の世話をしておりました。もちろん彼女は、その時やってきた無神論者が自分を観察していることなど知りません。しかし、彼女がていねいに体を清めてあげ、微笑みをもって接していたことは、言うまでもありません。その無神論者はじっとその場に立って、シスターの様子を観察していました。そして私のところにやって来て、こう言いました。「私は神を認めていませんでした。認めないだけでなく、私の胸の中は神への憎悪でいっぱいでした。しかし今は、私の胸の中は神への愛であふれそうです。シスターのおこないの中に神の愛を見ることができたのです。その人を世話するシスターの手、その人を見つめるシスターの微笑み、その人に対する愛に満ちた優しさを通して、そこに神を見ました。今、私は神を信じられます」と。
2017年11月16日
愛の働きであっても仕事のための仕事にしてしまう危険性はいつでもありますだれのためにしているのかということを忘れてしまうとそれが落とし穴になるのです神とキリストへの尊敬と愛と献身によって私たちはできる限り美しくそれをすることができるのです喜ばしい奉仕の活動を通してのすばらしい経験はまだ経験していない人たちへと伝えていかなければなりませんそれは私たちの働きのとても大きなご褒美のひとつです「マザー・テレサの 愛 と言う仕事」214ページよりマザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって?いいえ、とんでもない。私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。私たちの仕事は苦しみがなければ、きっと人助けのための社会事業ということになるのでしょう。しかしそれでは、イエス・キリストのための仕事ではなくなってしまいます。真の救済にはならなくなってしまいます。イエスは、私たちがイエスが味わわれた生活、苦悩、孤独、死を共有することによって、私たちに救いの手を差し伸べてくださるのです。イエスとともにいるからこそ、私たちを救ってくださったのです。私たちもイエスと同じことをしなければなりません。貧しい人々は、精神的な貧しさからだけでなく、あらゆる貧しさからも救われるべきなのです。そしてその時に、私たちも、彼らと同じ貧しさを共有しなくてはなりません。貧しい人々と一緒にいることで、私も彼らも救われるのです。彼らの人生に神をもたらし、神のところに遣わすことで、彼らは完全に救われます。私は時々、ひどく心細く感じることがあります。心が空虚になり、自分自身が中身のない貝殻のように思え、私の中の支えを失ってしまいそうになるのです。ヨーロッパや合衆国に出かけていくたびに、裕福であるはずのその国でひどく不幸な人々に出会い、心が痛くなるのです。物質的に裕福であるがゆえに、家庭は崩壊し、子どもたちは親から見捨てられているといった現実を、何度も目の当たりにしているからです。今、このような先進国の人々が取り組まなくてはならないのは、自分の血をわけた家族のために働き、離れかけている夫婦の心を結び、子どもたちが両親の愛をたくさん受けることのできる家庭をつくることです
2017年11月14日
私たちのしていることは大海の一滴にすぎないと感じていますけれどもしその一滴がなければ海はその一滴分確かに少ないということです私たちは数や量では考えませんいつもその時たったひとりの人を愛しているのです。どんな時でもいつもひとりのその人に集中してお世話をしているのです「マザー・テレサの愛という仕事」56ページより1948年に私はロレッタ修道院を離れました。それが私にとって初めての旅であったわけですが、ちょうどカルカッタの市街を歩いているときに、一人の司祭が私の方に向かってやってきました。そして彼は、カトリックの出版物のために寄付をお願いしたい、というのです。一瞬ためらいました。私は旅立つ時は5ルピーを持っていたのですが、途中で貧しい人に4ルピーを渡してしまったので、手元には1ルピーしか残っていなかったからです。しかし私はその1ルピーを彼に寄付させてもらいました。その日の午後のことです。先ほど出会った司祭が一通の封筒をもって、私を訪ねてきました。ある人物が、私が行おうとしていることを耳にしてぜひ援助したいということで、その封筒を司祭に預けられたのだそうです。封筒を開けてみると、そこには50ルピーが入っていました。その時私は、神が私の仕事を祝福してくださっているのだと、実感しました。そしていかなることがあっても、私を見捨てられることはないだろう と改めて思ったのです。「同書」80ページより私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。私たちは弱気になってはならないのです。勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。
2017年11月13日
全248件 (248件中 1-50件目)