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*鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の願文 その2而しかシテ其実践躬行そのじっせんきゅうこうノ跡あとハ歴々れきれきトシテ先生せんせいノ遺書いしょニ存そんシ其その書しょ殆ほとんどド万巻まんがんヲ以もっテ算さんス然しかリト雖いえどモ之これヲ知しル者もの多おおカラズ知しラザレバ行おこなフコト能あたハズ行おこハザレバ世よヲ済すくヒ民たみヲ理りスルコト能あたハズ是これ猶なお名玉めいぎょくヲ懐中かいちゅうニ蔵ぞうスルガ如ごとシ豈あに痛つう惜せきセザルベケムヤ是これヲ以もっテ令孫れいそん尊親先生たかちかせんせいノ允許いんきょヲ得えテ之これヲ謄写とうしゃセシメ全部ぜんぶ九千巻かんヲ得えタリ之これヲ二千五百冊さつト為なシ文庫ぶんこ一宇うニ収おさメ併あわセテ之これヲ神社じんじゃニ奉納ほうのうシ衆庶しゅうしょノ熟覧研究じゅくらんけんきゅうニ備そなフ将来しょうらい幸さいわいニ有志ゆうしノ士し之これヲ繙ひもとキ明晰めいせきナル識見しきけんヲ以もっテ先生せんせいノ教旨きょうしヲ解釈かいしゃくシ熱誠ねっせい以もっテ之これヲ世よニ拡張かくちょうシ忍にん耐たい以もっテ実践じっせんシテ息やマザレバ民風みんぷう頓とみニ興おこリ富ふ強きょう期きシテ竢まツバシ仰あおギ冀こいねがクバ先生せんせいガ神霊しんれいノ冥護みょうごニ依よリ人類じんるい必至ひっしノ要道ようどうタル報徳ほうとく教義きょうぎノ広ひろク天下てんかニ普及ふきゅうシ真正しんせいナル文明ぶんめいノ実じつヲ見みルヲ得えンコトヲ不肖藤三郎ふしょうとうさぶろう誠恐せいきょう頓首とんしゅ頓首とんしゅ敬うやまっテ白もうス 明治四十二年五月三十日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝
2022年08月03日
*鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の願文報徳社徒(ほうとくしゃと)不肖藤三郎(ふしょうとうさぶろう)誠恐誠惶(せいきょうせいこう)謹(つつしん)デ二宮尊徳(にのみやそんとく)先生(せんせい)ノ神霊(しんれい)ニ白(もう)ス恭(うやうやし)ク惟(おもんみ)レバ先生畢生唱道(せんせいひっせいしょうどう)シ給(たま)ヘル報徳(ほうとく)ノ教義(きょうぎ)は洋(よう)ノ東西(とうざい)ヲ論(ろん)ゼズ宗教(しゅうきょう)ノ如何(いかん)ヲ問(と)ハズ古往今来幾千万歳(ここんこんらいいくせんまんさい)ヲ経(ふ)ルモ凡(およ)ソ世界(せかい)ニ生存(せいぞん)スル人類(じんるい)ニ於(おい)テ貴賎(きせん)貧富(ひんぷ)男女(だんじょ)老幼(ろうよう)ノ別(べつ)ナク允(まこと)ニ克(よ)ク遵守(じゅんしゅ)セザル可(べ)カラザル要道(ようどう)ニシテ若(も)シ之(こ)レ無(な)クバ人道(じんどう)廃頽(はいたい)シテ民衆(みんしゅう)安息(あんそく)スルコト能(あた)ハザルナリ 先生(せんせい)ノ世(よ)ニ在(いま)スヤ憂国(ゆうこく)ノ至誠外(しせいそと)ニ溢(あふ)レ熱血(ねっけつ)ノ注(そそ)グトコロ感奮興起(かんぷんこうき)セザル者(もの)ナク済世恤民(さいせいじゅつみん)ノ良法諸州(りょうほうしょしゅう)ニ亙(わた)ツテ其効実(そのこうじつ)ニ(に)顕著(けんちょ)ナリ
2022年08月03日
「日本醤油醸造会社の出現と解散に思う」茂木正利に日本醤油醸造会社に勤務した堀場秀雄氏(*)の話が載っている。 堀場氏は明治16年生まれで、昭和48年1月30日に茂木氏と舘野正淳氏が堀場氏宅で、日本醤油醸造株式会社創立当時のことを聞いた。 堀場氏は東京、蔵前の東京高工を卒業してから3ヶ月、滝野川の醸造試験所に勤めた。 明治40年に日本醤油醸造会社に入社し、明治44年に会社が換算するまで勤務した。 栂野明二郎氏は3年ほどたってから入社したが、彼は頭を使う仕事で、直接は工場に出なかった。堀場氏は工員と一緒になって、仕事に没頭した。大豆を煮たり、小麦を煎ったり、更に製麹、仕込、圧搾、火入までやった。この会社には、醤油造りを知っている人が、社長を始め従業員の中に1人もいなかった。それ故、堀場氏はすべての作業で非常に苦労した。例えば大豆を煮るのに、蒸煮缶に直接蒸気を通すと、蒸気の通路が出来て、大豆の半分は生煮えになるので、大豆を半煮えにしてから、蒸気を通すと、今度は上手に煮えた。麹を造るには円とう形のタンクを使用し、中に麹蓋を上手に吊し、麹蓋から原料がこぼれないように苦心したが中々うまくいかなかった。諸味は横型のタンクに入れ、外から温めて熟成させたが、よく発酵しないので、高橋偵造先生を時々尋ねて、醤油酵母を分けて頂いた。熟成した諸味はタンクに入れて貯蔵し、圧搾はキリンで行った。火入した醤油の表面には、醤油の蒸発を防ぐためえ、パラフィンまたは蝋を流した。私は醤油造りは全く苦難の苦難の連続であった。もし私の上席者に醤油造りの専門家がおったら、、品質のよい醤油が出来たであろうし、会社もあるいは潰れずにすんだかもしれない。鈴木氏は天才肌の人で、製糖界の成功者だから、自信過剰で、自分には専門外のことでも、専門家の意見に従わないで、何事も自分の常識で処理したのである。また鈴木社長は次から次へと80余の特許を活用して、色々のことをやらせるが、うまくいかないと怒鳴る習性があるので閉口した。 仕事は朝の6時から晩の6時までの12時間勤務であった。工具は18時間勤務の二交替制で、一週間毎に交替した。 当時の小名木川工場は砂村(現在の砂町)にあり、工場の周辺は田んぼで、付近には大日本製糖の精製工場と他に製粉工場が一つあるくらいで、近くには漁師も住んでいた。 鈴木藤三郎氏が、醬油事業に取り組んだのは、鈴木氏の促成醬油がハワイのような熱帯地方でもかびないし、遠洋航海に出る船が、醬油樽を積んでインド洋を往復しても、醬油は濃くなるが、カビが生えないのに自信を得たともいわれる。 藤三郎は明治36年(1903)10月、すなわち日ロ戦争の直前に、陸軍糧秣廠から醬油エキス製法の発明を依頼された際、その原料である醬油の醸造法を研究したら、醬油づくりは200年も改良されていないことを知り、新しい醬油醸造法の発明に心血を傾けるようになったという。
2022年07月23日
「日本醤油醸造会社の出現と解散に思う」茂木正利に日本醤油醸造会社に勤務した堀場秀雄氏の話が載っている。一部抜粋する。堀場氏は明治16年生まれで、昭和48年1月30日に茂木氏と舘野正淳氏が堀場氏宅で、日本醤油醸造株式会社創立当時のことを聞いた。堀場氏は東京、蔵前の東京高工を卒業し、3ヶ月滝野川の醸造試験所に勤めた後、栂野明二郎氏は3年ほどたってから入社したが、彼は頭を使う仕事で、直接は工場に出なかった。堀場氏は工員と一緒になって、仕事に没頭した。大豆を煮たり、小麦を煎ったり、更に製麹、仕込、圧搾、火入までやった。この会社には、醤油造りを知っている人が、社長を始め従業員の中に1人もいなかった。それ故、堀場氏はすべての作業で非常に苦労した。例えば大豆を煮るのに、蒸煮缶に直接蒸気を通すと、蒸気の通路が出来て、大豆の半分は生煮えになるので、大豆を半煮えにしてから、蒸気を通すと、今度は上手に煮えた。麹を造るには円とう形のタンクを使用し、中に麹蓋を上手に吊し、麹蓋から原料がこぼれないように苦心したが中々うまくいかなかった。諸味は横型のタンクに入れ、外から温めて熟成させたが、よく発酵しないので、高橋偵造先生を時々尋ねて、醤油酵母を分けて頂いた。熟成した諸味はタンクに入れて貯蔵し、圧搾はキリンで行った。火入した醤油の表面には、醤油の蒸発を防ぐためえ、パラフィンまたは蝋を流した。 私は醤油造りは全く苦難の苦難の連続であった。もし私の上席者に醤油造りの専門家がおったら、、品質のよい醤油が出来たであろうし、会社もあるいは潰れずにすんだかもしれない。 鈴木氏は天才肌の人で、製糖界の成功者だから、自信過剰で、自分には専門外のことでも、専門家の意見に従わないで、何事も自分の常識で処理したのである。また鈴木社長は次から次へと80余の特許を活用して、色々のことをやらせるが、うまくいかないと怒鳴る習性があるので閉口した。(続く)
2022年07月22日
鈴木藤三郎が創設した日本精製糖株式会社や鈴木鉄工所は、また日本の食品製造や機械工業の人材養成の場でもあった。特に有名なのは、株式会社荏原製作所の創業者 畠山一清氏である。株式会社荏原製作所 荏原創業者 畠山一清に「畠山は1906年に機械工学科をトップで卒業。帝大の銀時計なら三井・三菱でも引く手あまただが、あえて鈴木鉄工所に入社する。経営者の鈴木藤三郎は氷砂糖の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る技師長に初任給50円(現在の50万円以上)と高給で迎えられたが、輸出用の樽が洋上で次々と爆発し、これが内紛に発展して、1910年に倒産してしまう。」とある。その経緯は「熱と誠」に詳しい。月島機械を創業した黒板伝作氏もまた鈴木鉄工所の出身である。鈴木鉄工所から流れ出た人材の流れは、思ったより深く、藤三郎の報徳の精神とともに日本の工業界の底流に流れ込んでいるかもしれない。2006年03月01日月島今昔人ものがたり(6)「わが町内に月島工業の先駆者あり」(1)「月島機械の黒板伝作社長」月島の築島は明治も中頃に行われた。隅田川河口における近代的港湾施設の建設決定が遅れ、洪水対策としての隅田川浚渫事業が行われた。その浚渫土砂を持って築島が、港湾建設決定より一歩先じて実行された。それが月島の誕生である。 その月島の目的外ともいえる築島の結果は、近代工業の月島へと進行してゆくのである。進むべき道が定まった近代工業の町月島は、石川島造船所(現在の石川島播磨重工)を中心として、フロンティア精神の漲る人々が全国から集まって来た。そうした人々の中でも月島における立身出世の鑑として、月島の人々から尊ばれた人が、多く輩出した。 その出世した先輩達の中でも、代表的な人のうち三人の方が、わが月島四之部町会(現在は西地区と東地区に分かれる)の町内にいた。すなわち月島機械株式会社の黒板伝作社長、株式会社石井鉄工所の石井太吉社長、株式会社安藤鉄工所の安藤儀三社長である。 月島機械株式会社初代社長の黒板伝作氏は、明治9年(1876)に長崎県で生まれ、私立大村尋常中学校を卒業、熊本第五高等学校を修了し、明治33年(1900)7月東京帝大工科大学機械科を24歳で卒業した。 しかも、五高入学前に小学校教員を経験したり、東京帝大に入学した後も学費を補うために鈴木鉄工部でアルバイトをするなど、苦学力行をしたといわれる。 黒板氏の父親は警察官出身の村長ではあったが資産家ではなく、子息への学資の負担は十分に行えなかったといわれる。 東京帝大を卒業した人たちは、明治時代には日本を背負うという自負を持ち、周囲の人たちの期待を強く感じていた筈といわれ、本来国家を背負うためには官吏の道が早い筈である。 しかし当時は官吏としての技術者は冷遇されていたため、野心あるものは、民間から引く手あまたの技術者として、民間の工業界に飛び込んでいった。黒板伝作氏もそうしたなかの一人であったそうだ。 その黒板氏が乞われて選んだのは鈴木鉄工部であったが、その前に日本精製糖からの入社要請を承諾し、200円の前借をしていたといわれる。当時の労働者の平均年収は198円余であり、帝大出の工学士はかなり優遇されていた。 そうした状況で黒板氏は日本精製糖に入社をせず、その弟会社の機械メーカー鈴木鉄工部に入社した。それは製糖会社で機械の番をしているよりは、鉄工部で機械を作るほうが面白かったと、御自身が述べている。黒板氏の志向のあり方、考え方がよく解かるといわれている。 その黒板氏は入社した鉄工部に5年近く関係しただけで、独立への道を歩み出した。明治38年(1904)年東京月島機械製作所を創業し、黒板氏の工業活動が本格化した。の工場が異色の存在として注目されたのは、黒板氏の学者的性格と、経営上の採算をときには度外視するという、技術者としての研究熱心さからだといわれている。 その上、人を育てることへの努力傾注が、工場全体を職人気質で埋めず、欧風の学問に触れる機会を徒弟たちに与え、職人工場にとどまらない近代工場へと、自力で歩みはじめた。それが独力で近代的技能教育を志した点として、月島機械の特色であったという。 月島機械に給仕として入社し、独立して黒板氏とは盟友的存在といえる、安藤鉄工所社長の安藤儀三氏は、在社当時を次のように語っている。「事務所に隣接して黒板社長の私宅があって私宅には書生が4・5人いた。先生は34、5歳で工場を経営し、工場では小学出の徒弟等25・6名を養成しつ々、設計には大学、商工、工手学校の出身者を置き、夜学校に通学する者も数名居るという、前途洋々たる、宏壮の状態であった。その受注先も官庁の他に鉱山、化学、土建、発電会社、鉄道方面等多方面であった。青年には勉強の余暇を与える等の温情溢れるものがあった。人望も厚い人で、この社長の下で日夜働くことが、どれだけ良かったかわからない。」と語る。 また、「俺は人間を育ててやる、だから直ぐには駄目だが末には伸す積もりだ。」とも安藤氏は黒板氏を語っている。それを実証するのは、徒弟養成所(後の技能者養成所)であるといっている。 日本の近代大工場が、工場の設備や技術・技能体系、その管理体系を外から移植したり、国家的バックアップを受けて育って来たが、中小工場では、熟練職工を大工場から引き抜くとか、大工場に移植された技術や技能を模倣し、職人が自力で技術や技能を習得し、練り上げるほかなかったという。 その点月島機械のように、徒弟養成所により工場を組織化する政策を設けたことは、新しい考へ方と旧い考へ方の闘争を持ちながら、小学校卒の徒弟たちに、彼らが受けられなかった教育を補完したいという。 また新しい時代をひらき、創造的な人間になるためには堂々たる勉強が必要だと言い、黒板氏は自らもそう努めながら、人々にもその場と機会を用意したのだと言われている。その努力が月島機械の基礎を築き、現在の月島機械を作り上げたと言われ、月島の誇りとなっているのだと語られている。 月島の近代工業の一っ月島機械は、他の工場が環境公害の関係で、区外に転出してしまったなか、本社機能を残し現在も健在に営業を続けている。
2022年06月11日
機械修理工場を併設、人材を育成。「藤三郎は北海道から東京へ帰ると、すぐ主要な部分に自分の考案を加えた設計をし、建築に着手し、くふうした機械もすえつけ、6月に試験的な精製糖工場を建設した。それから実験に従事して、ついに多年願望の純白な精製糖を造ることができた。 純白な精製糖は得られるようになったが、歩留まりが悪くて、製品の数量が少ない。実験としてはよいが、事業としては収支が償わない。新たな工夫を凝らしてみるが、満足するような結果は得られなかった。藤三郎は考えた。化学的変化では、改良の余地がないまでに研究し尽した。歩留まりが悪く、結果が思わしくないのは、機械に欠点があるに違いない。機械の改良をやることにしよう。(略)今まで通り、全く他に任せるなら、無限の資力がある訳ではないから、途中で研究中止の境遇に陥らないとも限らない。この危険を防止する最良の策は、機械の製作を自分の手ですることだ。これからの工業は機械力にまつこと絶大だ。将来のためにも、これは必要であると考えた。藤三郎は、そこで、ランキンの機械学の翻訳本を手に入れて、それを座右において独学し、また工学専門の学者を訪ねて教えをこい、しばらくそれに全力を傾注した。そして、半年経たないうちに、鉄工業に関するひと通りの知識を修めたので、明治24年(1891)早々から、宅地の一隅に小鉄工所を設けて、最初は5人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。これが鈴木鉄工部の起こりである。この鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。この鉄工部ができてからは、新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになったので、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をした。そして、明治24年(1891)4月ごろには、自分でも満足するような砂糖精製機械を完成することができた。その製品も市場の好評をはくし、藤三郎の年来の希望は、ようやく達せられた。鈴木鉄工部は明治24年(1891)に、わずか3千円の資本で創立された当時は、3間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と2馬力のエンジンを備えたばかりでした。藤三郎は約20年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地3千5百坪、従業員4百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。」「鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。 初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。 私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っている。私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。その精神は、鈴木さんの薫陶を受けた私の処世訓ともなっている。 はっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を実践し、がんばってきたということだった。」(「熱と誠」荏原製作所創業者畠山一清) 2009年12月25日付の利先生のメールでは鈴木藤三郎が工場敷地を決めたことや、社長が直接、現場で直接機械の操作を教え、機械の修理をしたことを指摘されています。藤三郎は鈴木鉄工部の精神、自ら修理し工夫改善によって性能を向上させるという人材教育を台湾製糖にもそのまま移植したのです。「普通トップの座にいる社長は、現場などで直接仕事の操作をしたり工員に教えることは滅多にありません。世界ひろしとはいえどもただ鈴木藤三郎一人だと思います。この橋仔頭の工場の敷地も彼が決めたのです。工場を建てるにはまず水源がなければなりません、そして人里を少し離れなくてはなりません。彼はすべてを計算に入れていました。彼は機械の操作を現場の人に教えながら工場の機械をなおしていきました。支配人の山本は農業の方なので、工場は全然白紙でした。私は戦後になってから製糖所に入社しました。台湾にある製糖所36箇所全体を見て回りましたので、多くの大型機械を見ました。そのため橋仔頭第一工場の機械つまり藤三郎が選んだ(設計した)機械はみな玩具のように見えましたが、この素晴らしい機械は、その後湾裡製糖所に移され長年使用されてきました。 利純英」 遠州の報徳運動の特色の一つは、安居院庄七が報徳と共に伝えた関西の先進的な農業技術(定規植え等)にあります。遠州の報徳社では報徳の研究とともに農業技術の改善普及を行いました。それは農作物の収量の増加に繋がっていて、報徳人は熱心に学びました。おそらくそうした中から発明者や生産技術を常に工夫改善してやまないという人間が育っていったのではないでしょうか。それが現代でもトヨタのカイゼンやホンダの技術重視といった社風に繋がっているようにも思われるのです。藤三郎も発明や工夫改善をしてやまない遠州の報徳運動から生まれたのです。
2022年06月08日
二宮先生語録【二八四】人身疾無れば、則ち健にして安く、疾有れば、則ち之が為めに苦しみ、又之が為めに死す。国家患無ければ、則ち豊且つ寧、患有れば、則ち之が為めに危く、又之が為めに亡ぶ。叔世国家の患、荒蕪と負債とに在るのみ。苟くも此の二患を除かんと欲せば、我が助貸法にしくはなし。夫れ助貸の法たるや、欲有るに非ず、欲無きに非ず。助有るに非ず、助無きに非ず。又増に非ず滅に非ず。正に日月とその徳を同ふす。蓋し財を施さざれば、則ち衆を済ふ能はず。徒に施せば、則ち足らざるを恐る。故に余、心思を竭すや数年なり。終に日月大地を照臨し、万物を生育するの至徳に法り、以て助貸の法を立つ。苟くも我が法に頼らば、則ち以て荒蕪負債の二患を除き国家をして豊寧に帰せしむるなり。☆二宮尊徳の無利息貸付法は「国家の病気は荒蕪と負債にある」そこで「数年、心思をつくして、ついに日月が大地を照し、万物を生育する至徳の法にならって立」てたものである。「いやしくも私の方法に頼るならば、荒蕪と負債の二つの患いを除き、国家を豊かで安心にすることができる」 二宮尊徳の発見し天地の李鵬にのっとって組み立てた方法は人間社会の永遠の理法にほかならない。 それを近代産業社会に応用して成功し、その真理を成功も失敗も含めてその人生で実証したのが砂糖王・発明王と呼ばれた鈴木藤三郎である。 二宮尊徳と鈴木藤三郎を学び、自らの人生に実践することは有意義であろう。鈴木藤三郎はその願文でのべている。「二宮先生が一生涯説かれた報徳の教えは、洋の東西を問わず、人種・宗教を問わず、幾千万年をへても、世界に生存する人類が、貴賤・貧富・男女の別なく、まことによく守らなければならない大切な教えであって、もしこれがなければ人道は衰えてしまい、何のわずらいもなしにすごすことはできなくなってしまう」
2022年06月08日
きのう、Mさんからメールがきた。「こんにちは。いまいち一円会の最終の会報を送っていただきありがとうございました。今市は一度おじゃまさせていただきました。活動は無駄にならないと思いますが、なくなるということは感慨深いものがあります・」「相馬、今市とお世話になった報徳の団体がなくなってしまうのは残念ですね。(略)老兵は死なず消え去るのみ といいますが、鈴木藤三郎の「願文(がんもん)」*からひくと報徳は死なず 不死鳥のように復活する。なぜならば 報徳は人類がまことによく順守しなければならない必須の道であるから といえましょうか。」*『報徳の教義は、洋の東西を論ぜず、人種宗教の如何(いかん)を問はず古往今来(こおうこんらい)幾千万歳を経るも凡(およ)そ世界に生存する人類に於(おい)て貴賎・貧富・男女・老幼の別なく允(まこと)に克(よ)く遵守せざる可(べ)からざる要道』
2022年05月02日
静岡県報徳の師父 4 「駿河みやげ」の尾羽修斉社 と 「報徳の精神」明治40年1月23日発行の斯民第1編第10号に「駿河みやげ」(国府犀東著)が載る。床次竹二郎ら内務官僚と鈴木藤三郎氏らが尾羽修斉社の視察記録があり、当時の報徳運動とその影響を知ることができる。◎庵原郡庵原村は駿河東報徳社の管下にあって、報徳社の著名なるものが二つある。杉山報徳社と尾羽修斉社である。この日報徳社に行くには、里程が少し遠いため、半日で往復することは難しいので、まず尾羽修斉社に立ち寄って、それから二社の本社であう東報徳社を訪問する予定を立てた。◎尾羽の戸数は36戸で、牧田氏の所有地が大部分を占める。住民は多くがその小作人である。現戸主の祖父、牧田包栄氏の時、洪水に引き続いて、天保の大飢饉があり、家道は衰えた。包栄は家の興復、村の興復を図るため、尊徳翁の門弟の柴田順作翁に相談して、報徳社を作った。尾羽修斉社の発端である。当時一家一村のために仕法を立て、盛んにそれを行っていた頃、遠州から安居院義道氏が、たまたまこの村に巡回した折、牧田氏宅で柴田翁と面会した。安居院氏は同席の包栄氏に向かって、『家の宝はいうまでもなく、家財道具一切を売り払って、推譲した後でなければ、興復の望みはない』と語った。村の全部を挙げて皆、報徳社員で、生計に苦しむ者はない。近隣の信用も極めて厚く、日用品を始め、肥料などでも、江尻町で調達するのが常だけれど、江尻の商人は、尾羽の人と聞けば、子どもを使いにやっても、すぐ信用し掛売りし、取引をするとの事だ。肥料代など50円に上っても、怪しむ色なくすぐこれを手渡す。これは尾羽の人が、借用を恥辱に思い、やむを得ず借りても、必ず期限の前に返済することから、このように信用されている。☆ここにマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘する「信用のできる正直な人という理想」がある。内村鑑三は、「予が見たる二宮尊徳翁」において「真正の経済は道徳の基盤に立たなければならないということを、先生はその事業生涯で証明した」と語り「先生の報徳説が行われるところは、必ずまず道徳的な大変化、大復興が起こらねばならない」とした。その実例がここにある。◎尾羽の住民は、星が移り物が変わっても、波に動かない岩石に似ている。登記所を開設して以来、土地の異動は極めてまれで、登記を行うのは相続などの時だけに限って、土地の売買など、いまだかつてない。◎安政年間より、社員の間に『助け合い』がある。植付けや刈入れの時、病人などで手の回らない家があれば、社員総出でその労をとる。植付け時、尾羽の田は一斉に植付けが終り、一人も後れを取ることはない。◎牧田家の座敷の扁額は、故品川子爵の遺墨がある、『衛君、蒲野に一老父が息をあえぎ松の苗を多く栽えるを見る。衛君は問う、老父よ、なんじはどうして松の苗を栽えるのか。答えるに、将来家の棟の梁(はり)とするためです。衛君曰く、老父よ、年は幾つか。曰く、八十有五、衛君笑って曰く、松の材を盛んにしても、老父よ、これを用いることができようか。曰く、木を植えるのは、その役立つのに百年の後にまつものです。君は必ずこれをこの世に用いようとされるのか?ああ君の言は、どうして国をたもつ者にふさわしいといえましょう。私は老人ですが、死んでも子孫のための計を行わないでいられましょうか。衛君は大いに恥じて、謝して曰く、私は過っていた。あなたを師としよう。そこでいたわるのに酒食を以てすると。詩に曰く、貽厥孫諒以燕翼子。老父に於てこれ有り。明治31年10月23日、念仏庵主筆』。☆鈴木藤三郎の「報徳の精神」は「人は生まれながら既に大変な恩を受けている。先人の遺徳に報いるのが人の道である。既に受けている恩に報いることを生涯勤め、後人に良いものを遺す。これが報徳である。」◎静岡県報徳社事蹟と応急規定その他の帳簿を見る。午前の私たちの一行は8人、西个谷氏の饗をうける。◎西个谷氏が杉山区と庵原全体について語るに『杉山に農業補修学校があります。明治8年11月の設立で、夜学校も設置します。日本に実業補習学校があるは、これを最初とします。杉山村の今日があるのは、全く片平信明翁の力によるもので、報徳教の効果が最も顕著なのは、この地でありましょう。』(略)◎庵原郡十か村900戸、庵原村字庵原280戸。西个谷氏は庵原村の戸長を勤めたことがあり、今は東報徳社の社長。「庵原で従来積立金があったが、これを土台とし、規約を結び、奢侈を改め勤労を勧め、毎年2回各戸から10銭ずつ積み立て、これで他村の山林を買い造林費を費やし、杉、ヒノキ25万7千本を植栽した。30年後には、少なくも2万円の収入を得るから、8千円を280戸に分配し、残りは学校の財産とします」。
2022年04月10日
『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋1『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋2『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋3p.8 その後、6年ほどかけ氷砂糖の製法を発明する。この間、砂糖が結晶化する模様を調べるために、自身の実験室の中に閉じこもり一日も外出せずに三か月ほど試行錯誤を繰り返したという。食事も外から握り飯をもらうだけで、ようやく氷砂糖法を見出した。実験室を出ると、すぐに病気となり、髪の毛は抜け、半年間寝込んだという11)。11) 鈴木藤三郎「予が発明上苦心の経験」(井上泰岳『我半生の奮闘』1909年) その後、鈴木藤三郎は東京の村山仁兵衛商店と氷砂糖の一手販売特許を結び森町に氷砂糖工場を設立した。この時、資金援助を岡田良一郎に期待したが断られ、結局、福川泉吾(森町村の実業家)の支援を得てようやく実現した。さらに明治21年10月、小名木川南葛飾郡砂村に工場建設に着手する。これが鈴木製糖所である。砂糖工場の完成と共に砂糖事業を開始する。また、砂糖精製機械を発明し、製糖機械が一般の需要に準ずるようにしたのである。ところが、明治27年3月、氷砂糖工場が火事になる。工場は全焼するが、3か月で再建する。明治28年11月には自家経営の精製糖及び氷糖事業の一切を提供し、資本金30万円で日本精製糖株式会社を設立する。p.9 鈴木藤三郎が明治前期の段階で国内の精製糖生産を可能とし、精製糖会社を起業したことは、砂糖の輸入防遏(ぼうあつ)を考えるうえで産業史的意味は大きいといえるだろう。「精製糖工業発祥の地」(大日本明治製糖創業の地)「砂糖は八世紀に伝来し、十七世紀後半までは薬として珍重されてきたといわれています。江戸時代には、八代将軍徳川吉宗が国産化を奨励、明治に入ると、日本の各地で精製糖(白砂糖)の製造が試されるようになります。しかし、いずれもうまくいかず、明治二十三(一八九〇)年、この地に建てられていた鈴木藤三郎の製糖所でようやく成功し、砂村において日本ではじめて純白の砂糖が誕生しました。鈴木藤三郎は、安政二(一八五五)年遠江国(静岡県)に生れ、明治十七(一八八四)年より氷砂糖を製造していました。同二十二年、上京し、砂村に工場を移し、同二十五年から本格的に精製糖の製造を開始しました。藤三郎が工場の移転地としてこの地を選んだ理由は、原料や製品の運搬に小名木川の水運がとても便利だったからです。また砂村は、砂糖の国産化の奨励地として、徳川吉宗が甘蔗(さとうきび)の苗を栽培させた、極めて砂糖とゆかりの深い土地であったためでもありました」
2022年02月06日
『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋1『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋2p.7 まず鈴木藤三郎の活動について紹介する。 鈴木藤三郎は、安政2年(1855)、古着商太田平助の子として生まれた。5歳の時に菓子商の鈴木伊三郎の養子となる。藤三郎は13歳のときに家業に従事し、19歳(明治7年)のときに相談する。 このとき尊徳の弟子である福住正兄が著した『富国捷径』を読んだ。**藤三郎が初めて読んだのは『天命十箇条』である。「荒地開発主義の実行」では次のように記す。「23歳の正月でありますが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、そこで始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思って、いろいろ質問をしたことでありました。 天命十箇条 この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でありました。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになったのであります。このごろ郷里森町(遠江国周智郡)の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でありました。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席しておりましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものはかって想像しておったものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め説を聴いてあるきました。」岡田佐平治翁と報徳の伝播 その頃、倉真村の岡田さんは、今の良一郎君の父君、岡田佐平治翁の盛んに道を説いておられる頃でありましたが、そのお話が聴きたいにも、何分私などにはよいツテがないために、お目にかかることができなかったのですが、明治10年かと思います。浜松の玄忠寺に報徳の会が毎月一度ずつ開かれまして、これへ岡田翁が出られますので、幸いのことと存じ、森町から浜松までは7里ありますが、会日には必ずこれへ出席しておりました。 徹夜の研究 しかし月に僅か1回くらいの事では修行が進まぬと思っておりましたところ、その後見付町の金剛寺で、今の岡田良一郎さんが、青年を集めて報徳研究会というのを催されたので、喜んでこれへも出席しました。ごく熱心になる者ばかり10名ほどの会でありましたが、毎に徹夜をして議論をしたものであります。見付へは森町から3里ありますが、毎月20日の会日には、特に朝起をしまして、およそ午後の4時頃までに一日の用を果し、それからテクテクと出かけるのです。夜どおし難問の研究をしまして夜が明けると、金剛寺の和尚が看経を読むその声を聞いてからいつも家路につくのであります。それから引佐郡井平村の松島授三郎氏、この人も有名なる報徳の先生でありますが、ここへも何遍か行っては話を承りました。 論客とあだ名せらるる所以 元来私は物に熱しやすき性質でありますから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風でありますから、人によるといやがります。熱心なのは良いがああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名をもらっておったのであります。 腑に落ちざる投機につきての説諭 かって相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でありました。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのであります。ある時2日ばかりの大会をした後、なお4,5日新村氏に逗留しておられる間の事であります。森町の報徳社員のうち某々の2名が、報徳では厳禁なる投機に手を出して、正に破産しかかっておるので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでありましたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席におりますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の2人は心服したようでありますが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのであります。」渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。 投機業は商道にあらず 私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかであります、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。 困った求道者 渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしなしばこんな議論を先輩に対して致しましたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でありました。 難解の疑問 その頃、私にはなお一つ深き疑いを抱いておる問題がありました。それは二宮先生の置書の文の上に、「知足」と大きく書きまして、その下へ「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草(たばこ)の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」とあります。この幅は私も一つ持っておりますが、この文章の意味が不明なため、私はほとんど3か年の間この問題を諸方へかつぎあるきました。先輩の説も多くは承服することができず、二宮先生の教えの中にも、これを解くたよりを見出すことが出来なかったのであります。然るにある時、前に申した井平村の松島氏の宅に、遠譲社の大会がありました。福山翁のまだ生存中のことであります。私もかねてこの目的がありますので、新村氏の供をしてそれへ参りました。この道の羅漢たちが集まられて4,5日の間続けて報徳の道を講説研究するのであります。私は折を見てこの問題を出しますと、各先生それぞれお説がありましたが、どうも服し難い、多数の説はこれは身代の分度を指したものである、他を顧みるな、人を羨むなという意味だというような説であります。それでは人間というものは実につまらぬものだといわなければなりませぬ。この時の座長は、平岩佐兵衛氏でありましたが、最後にこの人に尋ねますと、平岩氏曰く「これはそんな形のものでは無い、つまり人の才智に各々分が有ることを意味するのである」この説は初耳でありましたけれども、私はそれでもやはり心服することが出来なかったのであります。 積極分度 平岩氏は私がこの問題を解くがために既に3年かかっていると聞いて、「そんならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人もともにこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのであります。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際におりながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を允可(いんか)せられたのであります。このとおり私は理論は盛んに求めておりましたが、いまだ実行には着手してはおりませぬ。もっとも製茶の職業だけは怠らずかせいでおりましたが。元来この商売は報徳とは縁の遠い楽な仕事でありまして一季出盛りの時の外は随分朝寝も致します。養父は報徳の教えは聴いた人ではないが、菓子製造の職業には、なかなか熱心勤勉な方で朝早く一仕事してからまだ私が寝ておりますと、枕元へ参られまして「何だ朝寝の報徳というがあるか」と怒鳴ります。私も理論に馳せるくらいですから、なかなか口は達者なもので、即座にこう答えるのです。「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがある、諺にも寝勘弁というではありませんか。まず一通り将来の計画を立てて、段々に実行に着手するのです。今は年の半ばですから、明年の1年1日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代りに来年からは、あまり働き過ぎるなどと、ご心配をなさらぬようにして下さい」と申しました。こう申しましたのが明治9年の8月頃であります。一夜明けた初春からは今までの茶業もやめよう、あくまでかの菜の葉主義をもって学び得た理論を実施に施すには、やはり家の世業によるに限ると思いまして、明治10年の1月から向う5ヶ年を1期とし、かの「荒地の力を以て荒地を開く」という理を自分の考え通りに解釈して、これを自分の事業に用いんものと、いよいよ躬行の計画を立てたのであります。同書と森町村の新村利助の薫陶を受け、報徳思想の信奉者となる。とりわけ尊徳の「荒蕪の力を以て荒蕪を拓く」という思想に感銘を受け、菓子屋は菓子屋の力をもって発達すべきであると悟り、茶業を辞めたという。このとき茶相場は悪く、しばらく時機を待つべきだという忠告もあったが、一切を売り払ったという話が残されている。
2022年02月05日
『鈴木藤三郎と岡田良一郎』落合功 鈴木藤三郎抜粋1はじめに 鈴木藤三郎は、安政2年(1855)古着屋平助の子として生まれた。5歳の時に菓子商の伊三郎の養子となり、明治7年(1874)の時に相続する。氷砂糖製造や精製糖生産を実現し、日本精製糖株式会社を設立し砂糖王などといわれた実業家であった。明治36年、37年にかけて衆議院議員にも当選し、政治家としても手腕を発揮する。実業家といえば経営手腕に注目されるが、鈴木藤三郎の場合は発明家としての手腕が評価され、砂糖のみならず、醤油醸造、製塩などにおいても重要な発明をしている。特許の数は明治31年から大正12年(1923)まで159にのぼる。また鈴木藤三郎は家を相続した青年期に報徳思想に傾倒する。実業家として大成し、日本精製糖会社を退任した明治39年には、二宮尊徳尊徳の遺著約1万巻が相馬にあることを知ると、筆生20名を雇い、満3年をかけて筆写させた。その数は9014巻、2500冊にのぼるが、それを報徳文庫として、栃木県今市町の報徳二宮神社に奉納する。1)鈴木藤三郎についての成果は伝記を中心にした物が多い。本論では、主として以下の成果を参考にしている。楫西光速「鈴木藤三郎」(『産業史の人々』1954年、東京大学出版会)、山田克郎『銃眼のある工場ー鈴木藤三郎伝ー』(泰光堂、1942年)、服部一馬「近代的製糖業の成立期における二人の『企業家』ー鈴木藤三郎と中川虎之助ー」社会経済史学会編『近代企業家の発生』(有斐閣、1963年)、鈴木五郎『鈴木藤三郎伝ー日本近代産業の一開拓者ー父 鈴木藤三郎の一生ー』(実業之日本社、1939年)、地福進一編著『報徳産業革命の人ー報徳社徒 鈴木藤三郎の一生』(二宮尊徳の会、2011年)、御手洗清「鈴木藤三郎」『遠州偉人伝 第二巻』(浜松民報社、1963年)。また報徳思想の影響を受けた実業家を紹介したものとして、村松敬司「日本近代産業の指導者と報徳」(二宮尊徳生誕二百年記念事業会報徳実行委員会編『尊徳開顕』1987年、有隣堂)
2022年02月04日
藤三郎、富士の裾野、桃園に鈴木農場を開く明治35年(1902)藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(現裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。長男嘉一郎が経営に当った。農場の面積は、約百町歩の大農場で、茶園16町歩、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住み、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。 藤三郎は、商業、工業、植民地農業に報徳の仕法を応用し、非常な効果をあげた。そこでこれを内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起した。明治39年(1906)11月9日藤三郎を会長とする佐野実業会は、冬季大会を静岡県駿東郡佐野町尋常高等小学校で開催した。駿東郡の重立った人々が来会し、協議後、藤三郎と留岡幸助が報徳に関する講話をした。その夜、留岡は藤三郎の鈴木農場に宿泊し、その夜から翌日午前にかけ趣味ある談話を交わした。藤三郎が老後の精神的本陣として経営する農場を一巡し、藤三郎と留岡は、10日午後1時の汽車で帰京している。また明治40年(1907)1月3日、4日にかけて中央報徳会の一行が鈴木農場に宿泊し、農場を視察した。その模様は「斯民」で「駿河土産」(本書p214)として国府犀東氏が紹介している。 駿河みやげ《下》(国府犀東 斯民第1編第12号明治40年3月23日号p64-74)<鈴木農場 抜粋>◎やがて佐野の駅に着く。停車場の薄暗き中に鈴木氏の家人出で迎いて立てり。出口に行けば手に手に提燭(てしょく)をかかぐ。みな鈴木農場と筆太にしるす。腕車(人力車)に載せられて闇中を行く。車夫の提に沼津停車場としるす。あやしんでこれを問えば夕刻沼津よりここに呼び集めらるという。さては鈴木氏予らを迎えんための心づくしなるか。◎渓橋を渡る。東側に鞺鞳(とうとう:水響く様子)の響きありて、暗黒の中に真白きもの頻りにおどる。上に洋館らしきが灯(ひ)を点じていと賑わし。白きは佐野の五流瀑、洋館は瀑園のホテルなるべし。左方の高処に二階屋の灯火きらめけるを望む。鈴木氏の別墅(べっしょ:別荘)たる桃園荘はこれなんある。◎道は橋より左に折れて、急湍(きゅうたん)の声を左側に聞きつゝ、車は坂路(さかみち)の下に来る。丘の北側に真白きもの地に敷く。車を下りてそを踏めば、さくさくと音せり。さてはこの朝降りし雪の残りしならんか。阪を登りて半ばにあたる。右に離して門を設けたれど戸あることなし。前栽の木立を縫うて先ず玄関に入る。鈴木氏出で迎いて『さぞ寒かりしならん』という。音吐例のごとく朗々たり。◎請ぜられて楼上に登る。欄の外にガラス戸を立て閉め展望に便す。北東南の三面皆開けたれど暗夜をいかにせん。6畳に14畳の2室、前者の東ヒサシに扁額して、『桃園』の二字を署す。鉄舟居士の筆にかかる。後者の扁額に竹を描く瀟洒また見るべし。9尺の大牀に三幅対、南朝三名臣の絵をものす。菊池氏の子孫画を以て名あるものこれを描く。牀の左側に白衣大士の古像あり、古色蒼然、由緒あるらしき木像なり。つくづく見れば鎌倉の禅刹に見し所と、鑿法極めてあい似たり。必ず運慶の作ならんと察せらる。◎座定まりて話始まる。主人も客も皆話好きなり。何かと話する中、鈴木氏かの観音像を座上に引き出さる。空ぼりの像裏に署して、寿永二年運慶作としるす。鈴木氏いう、「もと箱根の権現に在りしものなりと伝う」と。なつかしきかな、この観音や。昔、曽我五郎の幼時かばわれたる御寺に在りし仏像なり。虎の御前が冥福を祈りし寺の仏像なり。作の運慶なるはいうまでもなく、人をことさらになつしからしめたれどそれよりも一たび回想して700年前の鎌倉時代を目前にホウフツたらしめたるは、さすがに芸術の力なり。観音は黙して語らず。静かに青蓮の目を睇えてヒトミに深き光を輝かすのみなれども、黙々の中に当年の歴史を物語ること、蘇秦張儀やデモセニスの雄弁もまた及ばざるものあり。◎あい代りて旅装を脱し、和服に着換えて浴室に入る。順次に浴を出でて広間に居並ぶ。配膳規則正しく連ねられて、大鈴木小鈴木父子座を並べて危坐(きざ:きちんと座ること)。酒を勧めらるゝもいずれも杯を傾くるなし。飢を覚ゆるほどに二椀三椀の香飯を喫し尽くす。牀の間なる児島高徳桜樹をけずりて詩を題するの図より起りて、桜を植ゆるの話始まる。原氏いわく、『日本に貴ぶべきは山桜なり。普通の桜は花も一時に開きて一時に散じ、虚栄浮薄の花なれば、国華とすべからず。葉に毛虫生いて益あることなく、木もまた世用に値いせざれば、かかる花を賞するはもっての外なり』と。一場の『桜花亡国論』、光焔万丈、機鋒峭峻、また当るべからず。◎話題一転して、断食の事に及ぶ。鈴木氏七日不食の事を語りて、少時清水港より横浜に行かんとし、今よりいえば乗り得べしとも見えざる小蒸気船に貨物満載せられしより、人みな危ぶみてこれにとうぜんとするものもなかりしを、それと心もつかずでその船に乗込み、海上台風にあうて大波に漂わさるゝこと七昼夜、全く食わず飲まずして元気いまだ衰えざりしが、横浜に着きて旅舎に入りし後は全く昏睡の身となり果て、人事不省なる霎時(しょうじ:しばらくの間)、医薬によりてようやく蘇生して漸次に薄き粥などをのどに通しうるに至りしとの話をして覚えず風濤澎湃の中に坐するの想いあり。◎『戦時に際して陸軍糧秣廠よりの依嘱もあり、さきに砂糖凝結の実験をなし、方式に従いて、醤油のエッキスを試造したるに、初めて高熱度を用いし為か、豆分と塩分と全く分離して固有の旨味を失い、実験意のごとくならざりしが、ついで低温度にて固結せしめるの方式を設け、ついに原来の味と全く異ならざる固形醤油を造り得るに至りしが、当時戦地に供給せられしはすべてこの醤油なりしなり』とて膳に用いられし醤油がこのものなりと説明せらるゝを聞きゝては、戦役の当時この便利なる固形醤油がいかに我が軍隊を利益したるの多かりしやを憶えざるを得ず。◎『従来は砂糖の製造に従事したりしが、かくてこれよりは全く自己の業をも替え、醤油の醸造を始めんはずにて、今は既にその試験をもおえたり』とて、更に新式醸造法の説明もあり、従来の醤油醸造がいたずらに2か年にわたりて、暑日の発酵と寒時の発酵とを経過せしめるに反して、一定の装置により、従来の長日月を僅々2か月に短縮し得たること、並びに従来の醸造法が防腐剤に代用するため、味を付けるに必要なるよりも更に多くの塩を一時に用いたるをも改め、絶えず液層のおもむろに振盪(しんとう)せられつゝ、上層下層の漸次に交代して、ために腐敗を免がるゝの構造をも作り、従来の旧法と全くことなりて、一時に多くの塩を投ぜざる工夫をも凝らしたることまで、事詳らかに語られしが、かくて長年月を費やさざるもよく醤油の製分をば、まず暑日と高温の下に、ついで又寒時と同温の中につきて両次とも従来の旧法と同一の発酵点に達せしむることを得、時間を省きたるだけにでも、多額の醸造額を得べきことゝなりたるは、近来外国にも日本の醤油を需要するもの多き今日なれば、発明としていかに有益なるべきや、固より予らの呶呶(どうどう:くどくど言うこと)を待たざるべし。◎大食したる者の実験談も起りぬ。変化に魅せられたるものゝ話もありき。銀燭爛として火桶の炭火なお紅を噴けども、話の尽きぬ気色も見えず、四大寂然として、夜は三更を過ぎぬ。大鈴木小鈴木父子共に一礼して楼を下り、一同寝臥を連ねて脚を展ばし、既に華胥の国に遊ぶ。◎紅日杲々(こうこう:日光の明るいさま)として光は欄の東に充ちぬ。板戸の透間より金線天のごとくに射りて、枕頭の観音像を薄暗き中に現前せしめぬ。寝過ごしたりとて起き出でつ、板戸を繰れば、楼はまさに旭日とあい対し、箱根の連山、伊豆に走る処、巒々(らんらん:峰々)霞を帯びて、寝覚めの色、新沐の人に似たり。楼下に瀑園の流末、急端をなして水声石に吼ゆ。嗒焉(とうえん:我を忘れるさま)として物我を忘るもの良久。一月四日なり。◎一人起き二人起き、宛(さな)がら道者の旅宿に在るの観あり。げにや報徳旅行の道者一行7人とはよくも言いたり。盥嗽(かんそう)を終えて先ず椽下(えんのした)に出でぬ。庭ゲタひっかけて庭に歩す。鈴木氏客と接してありしが、幾もなくして客去り、同じく庭に出でゝ『ここへ来れよ』と導きつ、屋の北側に小澗谷(かんこく:谷)を作りしを指し、そこなる三重の小瀑、流れの上にカヤ葺きの一亭子あるを見よという。西に小瀑を見下しつ、その上に小丘の頂重なりたる間、竹篁(ちくこう:竹林)茂れる上に、富士の絶巓(ぜってん:山の頂)真白きが、鈴木氏の園中をのぞきこみたらん風情『諸君お早う』といわんばかり。◎導かれて養雞(ようけい)の小屋に行く。鉄網張りし中に西洋種の鶏肥えたるが羽美しく、雛を引きてその中に遊ぶさま、ことに長閑(のど)かなり。鵝鳥(がちょう)の一隊、家鴨(あひる)の一隊、そのあたりに分列式を挙げてわれを迎う。再び庭に来れば、そこにも、塒(ねぐら)を設けたるあり、紅日三竿なれど未だ起き出でず。天の岩戸をおし明けば、幾羽となくうるわしき雞(とり)始めて東天紅となき始め、先を争うて戸の中より跳ね出でぬ。こゝにも雞支隊あらんとは、図らざりき。小鈴木氏曰く、『雞(とり)は十分にねむらする方、もっとも発育によろし。早く起こして寒さに逢わせんは悪(あ)しゝ』と。用意極めて周到、雞を養うこと孫を愛するに似たり。◎中川望氏と屋後にめぐり、ガチョウ群の陣前を過ぎて門内に出づ。中川友、白石、相田三氏もまた跟して到る。門に対するの小丘、右方斜めに小谷を呀し、筧して水したたる。その上に残雪一面をおおう。いざ登らんとして雪を踏みて丘上を指す。荊棘時に人の足を鉤して痛さを覚ゆ。白石氏最も登るに艱(なや)む。中川友氏ために留まりてその手を引き、丘腹の坂路に引き上ぐるさま、全く溝に陥りし人の助け上げられたらんようなり。◎坂路をめぐりて頂きに立つ。一亭子あり、踞牀を設けて展望に便す。富士を左方の丘後に望み、前面に佐野の瀑園を指点すべし。鈴木氏の家は眼下に在り。相田氏は賢者なり。倒行逆旅せずして丘麓より坂路の沿い、悠然として登り来る。崖をこゆるほどの愚はあらざるべし。◎丘を下りて門に入り、再び楼上につきて座を定む。農場の主任らしき人どもに交わりて、静かに農場の説明を始む。まずこの地何の処かと問えば、静岡県駿東郡富岡村字桃園という、それより反別などを語りしを記さんに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格1万8千円にて爾来開墾等に要したる経費を合すれば、3万1千円に及びしとの事なり。(相田氏の手帳による)◎鈴木氏の語る所によれば、この地はもと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたるものなりしが、黒田氏はその後東宮武官として久しく在職したるも、他の人々はいずれも零落したるがため、漸く黒田氏の補助によりてこの地の開墾を経営したりしに、漸次に困窮して事業ますます振るわず、さればとてこの地面を分割して売却するにも忍びずとて、いずれも困じあえりしより、(明治)32年駿東郡長の交渉もありて、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたりという。◎小作人は今10戸を算じ、農事多繁の時には、他より雇るゝこと常に10人。小作人には、まずもって4間半に2間の家屋を建築し、無料にてこれを貸与し、鋤鍬の類を給与す。農場の中につきて5町歩ばかりには、リンゴ、ブドウ、桃、 柿等の果樹を栽培す。野菜は小山なる富士紡績会社に交渉して、職工の副食に供せしめたるに、会社にても新鮮なる野菜を得るの道も開けたりとて大いに喜べりといへり。製茶にありては、年1千貫目を産し、一農場にてこのくらいの額を産するもの、今日にてははなはだ稀れなりという。目下、牛舎を建築中にて、こゝに放牛をなし、かつは肥料をこれに資らんとの計画なりという。養雞、数百羽、その他アヒル、ガチョウ等あり。これを鈴木農場における事業の一斑となす。◎朝食を追えて服装を理(おさ)め、玄関に出れば、農場をめぐるの用意にとて、馬4頭静かにわれらを待つ。大鈴木氏その一に乗り、岡田氏その次の一に乗り、われまたその次の一に乗る。馬背得々として出で立つ。◎さきに登りし丘に行き、南方なる一丘に馬をつなぐ。小林ありて林外に一亭あり、林中に小神祠を置き、そのかたわらに古石碣(いしぶみ)あり、『柾薗貞純親王塔』と鐫(せん)す。更にそのかたわら近くに一碑(※)を建て、鈴木氏その由来を書してこれに刻す。白石氏そを写し取れるに曰く、『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』と。 石碑(桃園神社に現存)※2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ現地で発見した。◎前宵桃園貞純親王の事、端なく話頭にのぼる。中川望氏曰く、『我が家、もと中川瀬兵衛に出づ。系図によれば遠く貞純親王に出でぬという』と。奇なるかな、期せずしてその後裔たる中川望氏が端なくもその祖先の古塔に礼するの機を得たらんとは。◎農場を望めば、茶圃つゞき、茶圃連なり、上に富士の霊山厳然たり。丘下に瀑園の流崖に迫って急灘(きゅうたん)を激せしむ。再び馬に登って農場に向かう。途中、鈴木氏その馬をとめて下方を指し、『定輪寺の旧地域は、昔時この辺にも及びしが、今は挙げて農場の中に入る』といいて、寺が一山を隔つるを指し教ゆ。◎宗祇法師が終焉の地は、桃園山定輪寺に在りしと聞きしが、さてはこの地すなわちこれなりしか。たゞ赴きてその墳を弔い得ざりしを惜しむのみ。宗祇の辞世に曰く、『はかなしや鶴の林の煙にも立をくれぬる身こそうらむる』と。自画賛に曰く、『うつしをくは我影ながら世の憂きも知らぬ翁のうらやまれぬる』と。俳諧に曰く、『世にふるはさらにしぐれのやどりかな』と皆定輪寺に伝えられぬべし。義経の頼朝に対面したる黄瀬川も、程遠からぬ地なるべきか。馬隊は先に立てよという。予ら馬背の一群先に立ちて農場をめぐる。一小屋あり四面ガラス戸にて、報時鐘(ほうじしょう)などをもそこなる尖頭にかけたり。牛舎をもめぐりしその小屋ある処に憩う。農場監視の場なりとか。茶圃の間を行きぬ。黄牛斑牛そこらに遊び、桃林牛を放つの趣きあり。行き行きて地ますます高し。宛然たる裾野なり。農場の最高処にあたる。地を界するに桜樹一列をもってす。旧この地を経営したる静岡武士が武士の誇りとして植えたるものならめ。右に大野が原を望む。茶褐色にして林木薄黒し。上に富士山咫尺(しせき:距離が非常に短いこと)の前に直立して手に攀(よ)づべきを覚ゆ。馬背得々として引き返す。◎午餉(ごしょう:昼飯)をおえぬ。汽車発着の時刻も迫りたればとて、倉黄(そうこう:慌てて)暇を告げて立ち出ず。鈴木氏馬背に鞭を横えて来り送る。我が馬その後に従い、一馳せすこぶるはやし。心もとなき馬術なれば、跳ね落とされんとするもの数回、瀑園の南、橋上馬を立てゝ劉備の渓関を飛び越えし当年を想う。馬一散に駆け出して停車場近し。一行皆列りて汽車の発すること間髪をいれず。『サヨナラ』の一声、車轆々(ろくろく:音を立てて走るさま)たり。(をわり)
2022年01月14日
森町のYさんから「NHKの大河ドラマ鎌倉殿……の1回のロケ地の一つが、裾野市の不二聖心学院だったそうです。」と情報提供をいただいた。初回の大河ドラマを見ていたのだが、そのときはちっとも気づかなかった。改めて見直すと、確かにもとは鈴木農場だった裾野市の不二聖心学院ののっぱらだ。不二聖心学院の土地は元は鈴木藤三郎がつくった鈴木農場である。おそらくは日本国内では藤三郎由来の風景を一番とどめているところであろう。私は都合3回訪問した。不二聖心学院の学校の図書室には鈴木藤三郎関係の書籍がアーカイブとして保管されている。思う、いつの日か、森町の観音像、台湾高雄の製糖工場と黒銅観音像、そして鈴木農場の面影をとどめる不二農園が世界遺産として登録されないものかと。鈴木藤三郎氏は明治10年、21歳のとき、氷砂糖の製造法の研究を始め、明治16年製造法を発見、17年森町に工場を建設、21年工場を東京に移した。後に製糖事業を兼ね、大日本製糖会社に発展、更に台湾製糖会社を設立、製糖業の第一人者であった。明治32年「鈴木農場」となったこの農場の主体は、茶園と果樹林で、山林の手入れ育成にも工夫をこらし(*)、乳牛を導入して酪農経営も行うなど、地方の営農に改善をもたらした。* 「駿河土産上」で鈴木藤三郎が山林経営について意見を述べている箇所がある。「遠くを諮る者は富み、近くを諮る者は貧す」という尊徳先生の言葉を想起するような山林経営方法論であり、とても興味深い。「鈴木氏まず『平生造林の事につきて常に考えつつあれど』と、極めて遠慮深く口を切りつゝ『造林事業をなさんには、伐採期となりて、全体を皆伐するは然るべからず。皆伐すれば、その跡はもとの赭山(あかやま)、されば伐木の跡には、必ず補植をなし、一区一区と漸次に伐るべきものと覚ゆ』(中川氏の手帳による)◎『植継ぎさえなしおかば、永代にわたりて立派なる財産たるべし。この村の山林にも、伐採期となりて、悉皆伐り出し、それを金にして、各戸に分かつをやめ、その幾分を補植費に残しておかば万全の策ならん』と。鈴木氏の所見、皆同感なりしが如し。中川望氏も、西个谷氏に勧めて『今のうちに村人に説き勧め、鈴木氏の意見にあるごとき仕組とし、方法を変更してはいかん』と説く。西个谷氏うながいつ、さなりさなりという。」
2022年01月13日
親日国「台湾」の歴史 中村 清隆の中で「報徳産業革命の人」が参考文献の一つにあげられている。製糖王 鈴木藤三郎明治の時代、砂糖は高級品で日本は海外の粗悪品まで全て輸入に頼っていた。藤三郎は遠州森町(現静岡県森町)で菓子屋を営む鈴木家に4才の時養子入りした。21 才の頃、報徳の教えを知り、その信奉者となった。家業で報徳の「荒地の力を以て荒地を開く」を実践して、計画経営で5年後に売上げを 10 倍にのばす。発明家で、160 もの特許を取っている。1890 年(明治 23)日本で初めて純白の精製糖の製造に成功する。1900 年(明治 33)国策会社である台湾精糖株式会社が設立し、精糖業に精通した藤三郎に白羽の矢が立ち社長に就任する。台湾の精糖業殖産は、サトウキビの育つ気候と広大な土地とを有する台湾の主力産業になり得る事業と大いに期待されていた。推進役を果たしたのは、井上馨蔵相 — 児玉源太郎総督 — 後藤新平民政長官 —新渡戸稲造殖産局長 — 三井物産 — 鈴木藤三郎社長のライン。台湾の砂糖生産高は、1900 年3万 t、1905 年6万 t、1940 年 160 万 t、台湾の主力産業となった。現在も遺構を見ることができる。鈴木社長は、農民に利益を与え、同時に会社も利益をあげてさとうきび農業を進歩させる「両得農業法」を考え出し、実践した。実は、今市二宮神社に鈴木藤三郎から歴史に残る贈り物が残されている。1905 年(明治 38)二宮尊徳翁没後 50 周年祭の時、尊徳翁の遺著1万巻が戊申戦争の際相馬に避難して残されていることを知り、翌 39 年1月から 41 年 11 月までの3年間、筆生 20 人を雇い総数9014 巻の原本を報徳全書 2500 冊に筆写させ、石蔵・鳥居とともに 1909 年(明治 42)報徳二宮神社に奉納した。これにより、二宮尊徳が各地で行った仕法や日記・書簡類が散逸せずに現代に残されている。現在、今市報徳二宮神社宝物館2階に保存されている。さらに、昭和になって故佐々井信太郎先生により「二宮尊徳全集」(全 36 巻)として刊行された。日光市二宮尊徳記念館にその初版本が展示されている。参考図書 「台湾人と日本精神」 蔡焜燦(さい・こんさん) 「武士道解題」 李登輝 「台湾を見ると世界が見える」 藤井厳喜+林建良 「報徳産業革命の人」報徳社徒鈴木藤三郎の一生 「台湾論」 小林よしのり 「台湾紀行」 司馬遼太郎
2022年01月07日
川崎市のKさんからメールをいただいた。Kさんとの対話「GAIA 様いつも 楽しく ブログ 拝見しています。10月16日の「雲居禅師」の話 大好きな話で 思い出しました。「初雁」を本棚に探しましたが見当たらず、amazon にて 再度購入し 読み返しました。森銑三先生も尊敬する先生の一人です。今度、いろいろな禅師の伝記のお薦めの本があれば、ブログにて 教えてください。今 建築の勉強をしていて なかなか本が読めませんが また お会いして、二宮尊徳先生のお話をできること 楽しみにしています。」G 「GAIA愛読感謝します。いまいち一円会の木村先生が地方創生雑誌『かがり火』に載った私のインタヴュー記事を会報に載せてくださるとのこと。有難いことです。今市の報徳二宮神社の宝物館で見た鈴木藤三郎寄進の報徳全書の感動が鈴木藤三郎という人を顕彰したいという思いから本を出版しました。北海道の札幌近郊の島松駅逓記念館案内してくださったもと土木屋の方が「広井勇博士は波動公式を作るなど偉大な方だが新渡戸稲造ほど世に知られていない」と嘆かれ、よし私が広井勇を世に広めようという思いが「技術者シリーズ」を世に送り出しました。「念ずれば花開く」です。同じ念ずるならば鈴木藤三郎が報徳の精神で明らかにしたように「後の人々のために何か良いものを遺そう」これが原動力です(◍•ᴗ•◍) 」K「「後の人々のために何か良いものを遺そう」 感動しました。私も 地福様を見習い 力を尽すことを 誓います。廣井勇 先生の 墓参りにも 行きます。「技術者シリーズ」素晴らしいですね。ありがとうございました。」
2021年10月22日
「畠山一清」 鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践しがんばってきた。私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。 畠山一清(はたけやまいっせい)は金沢の七尾城主・畠山家の18代当主でした。 畠山は東京帝国大学機械工学科に進んで、井口在屋(いのぐちありや)博士のもとで学び、1906年に機械工学科をトップで卒業。東京帝大の首席なら三井・三菱でも引く手あまたでしたが、あえて鈴木鉄工所という所に入社しました。経営者の鈴木藤三郎は氷砂糖の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る技師長に初任給50円(現在の50万円以上)と高給で迎えられました。しかし、輸出用の樽が洋上で次々と爆発し、これが内紛に発展して、1910年に倒産してしまったのです。 その頃、畠山は病死した父と長兄にかわって一族を東京に呼び寄せており、生活を維持するため大会社に再就職を決め、畠山は恩師の井口の勧めで「ゐのくち式渦巻ポンプ」を開発する「国友製作所」に入社し、井口の理論を使って「ゐのくち式渦巻ポンプ」第1号を完成させたのです。この会社は舶来品崇拝の風潮に負け2年後に倒産してしまいました。 しかし畠山は、この素晴らしいポンプを世に埋もれさせてはいけない、と奮起し、「ゐのくち式機械事務所」を立ち上げました。これが現在の日本のポンプのトップメーカー「荏原製作所」(1920年に屋号を変更)であります。日本のポンプを世界トップレベルへ 井口の理論から生まれたポンプは、畠山の「何事も熱意と誠心を持って接すれば相手に通じないことはない」「自ら創意工夫する熱意と誠の心」によって信頼と実績を築き、世界を制したポンプとまで言われるようになったのです。その技術は特許をとらず、広く公表したところも、日本の発展を願う、畠山の誠の心だったのではないでしょうか。 大正時代の中ごろまでは、外国製品の優位の時代が続きましたが、荏原製作所に屋号変更後、ターボブロア(送風機)の製作を開始。第一世界大戦も終息して景気が冷え込み、舶来品崇拝が復活しつつありましたが、畠山は陣頭に立って、灌漑、水道、化学、鉱山向けの注文を獲得していきました。ついには灌漑用を独占していたイギリスのアレン社を勝ち抜くに至りました。 当時の東京市の水道は、多摩川から玉川上水によって新宿・淀橋浄水場に導水していましたが、水路が数カ所決壊したため3日間も断水してしまいました。この時畠山は、このたった一本の用水に依存する状況、東京の人口の増加をみて、危機感を抱きました。「万が一災害が起きたら東京はどうなる?」と考えた畠山は、市長に予備ポンプ設備の必要を進言しました。しかし、役人は予算不足をたてに動こうとしなかったのです。 業を煮やした畠山は、大正10年、私財を投じてポンプ8台を寄付したのです。その翌々年に関東大震災が勃発。東京市の水道は完全に断水しました。しかし、畠山が寄付したポンプが稼働し、震災翌々日の午後には東京の水道は生き返ったのです。これにより火災の拡大を防ぎ、衛生面を確保し伝染病の発生を防いだのです。 それでも、東京市は1926年のターボポンプの交換に、水道用ポンプの一流であるスイスの機械メーカー、ズルツァーを採用するというのです。畠山は粘り強く交渉し、ズルツァーと荏原、日立、三菱の国産勢で公開性能競争を行わさせました。結果は国産勢の圧勝。さらに名古屋市でも荏原製作所の送水ポンプがズルツァーを圧倒。遂に日本のポンプが優秀であると認めさせたのです。こんな風にして日本製のポンプが信頼を勝ち得ていったのです。 畠山は、最初に勤めた鈴木鉄工所の社長、鈴木藤三郎から「報徳精神」の薫陶を受けましたが、晩年次のように述懐しています。「顧みれば喜びも苦しみもかずかずであった。ただはっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践しがんばってきた。」「私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。私は金もうけ優先の経営は考えたことがない。」 その畠山が最初に作った「ゐのくち式渦巻ポンプ」が愛知の明治村に保存されています。井口在屋博士、畠山一清の息吹が今もここに伝わってくるようです。
2021年10月20日
「畠山一清」 鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践しがんばってきた。私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。 畠山一清(はたけやまいっせい)は金沢の七尾城主・畠山家の18代当主でした。 畠山は東京帝国大学機械工学科に進んで、井口在屋(いのぐちありや)博士のもとで学び、1906年に機械工学科をトップで卒業。東京帝大の首席なら三井・三菱でも引く手あまたでしたが、あえて鈴木鉄工所という所に入社しました。経営者の鈴木藤三郎は氷砂糖の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る技師長に初任給50円(現在の50万円以上)と高給で迎えられました。しかし、輸出用の樽が洋上で次々と爆発し、これが内紛に発展して、1910年に倒産してしまったのです。 その頃、畠山は病死した父と長兄にかわって一族を東京に呼び寄せており、生活を維持するため大会社に再就職を決め、畠山は恩師の井口の勧めで「ゐのくち式渦巻ポンプ」を開発する「国友製作所」に入社し、井口の理論を使って「ゐのくち式渦巻ポンプ」第1号を完成させたのです。この会社は舶来品崇拝の風潮に負け2年後に倒産してしまいました。 しかし畠山は、この素晴らしいポンプを世に埋もれさせてはいけない、と奮起し、「ゐのくち式機械事務所」を立ち上げました。これが現在の日本のポンプのトップメーカー「荏原製作所」(1920年に屋号を変更)であります。日本のポンプを世界トップレベルへ 井口の理論から生まれたポンプは、畠山の「何事も熱意と誠心を持って接すれば相手に通じないことはない」「自ら創意工夫する熱意と誠の心」によって信頼と実績を築き、世界を制したポンプとまで言われるようになったのです。その技術は特許をとらず、広く公表したところも、日本の発展を願う、畠山の誠の心だったのではないでしょうか。 大正時代の中ごろまでは、外国製品の優位の時代が続きましたが、荏原製作所に屋号変更後、ターボブロア(送風機)の製作を開始。第一世界大戦も終息して景気が冷え込み、舶来品崇拝が復活しつつありましたが、畠山は陣頭に立って、灌漑、水道、化学、鉱山向けの注文を獲得していきました。ついには灌漑用を独占していたイギリスのアレン社を勝ち抜くに至りました。 当時の東京市の水道は、多摩川から玉川上水によって新宿・淀橋浄水場に導水していましたが、水路が数カ所決壊したため3日間も断水してしまいました。この時畠山は、このたった一本の用水に依存する状況、東京の人口の増加をみて、危機感を抱きました。「万が一災害が起きたら東京はどうなる?」と考えた畠山は、市長に予備ポンプ設備の必要を進言しました。しかし、役人は予算不足をたてに動こうとしなかったのです。 業を煮やした畠山は、大正10年、私財を投じてポンプ8台を寄付したのです。その翌々年に関東大震災が勃発。東京市の水道は完全に断水しました。しかし、畠山が寄付したポンプが稼働し、震災翌々日の午後には東京の水道は生き返ったのです。これにより火災の拡大を防ぎ、衛生面を確保し伝染病の発生を防いだのです。 それでも、東京市は1926年のターボポンプの交換に、水道用ポンプの一流であるスイスの機械メーカー、ズルツァーを採用するというのです。畠山は粘り強く交渉し、ズルツァーと荏原、日立、三菱の国産勢で公開性能競争を行わさせました。結果は国産勢の圧勝。さらに名古屋市でも荏原製作所の送水ポンプがズルツァーを圧倒。遂に日本のポンプが優秀であると認めさせたのです。こんな風にして日本製のポンプが信頼を勝ち得ていったのです。 畠山は、最初に勤めた鈴木鉄工所の社長、鈴木藤三郎から「報徳精神」の薫陶を受けましたが、晩年次のように述懐しています。「顧みれば喜びも苦しみもかずかずであった。ただはっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践しがんばってきた。」「私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。私は金もうけ優先の経営は考えたことがない。」 その畠山が最初に作った「ゐのくち式渦巻ポンプ」が愛知の明治村に保存されています。井口在屋博士、畠山一清の息吹が今もここに伝わってくるようです。
2021年10月17日
「鈴木藤三郎展」の記事。「近代産業の先駆者 生涯たどる 鈴木藤三郎の出身地・森町で展示」森町文化会館にて。9月26日まで。
2021年09月15日
二宮先生語録巻の3【221】仏教の経典(観音経:妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25)にいう。「具一切功徳。慈眼視衆生。福寿海無量、是故応頂礼」と。何を「具一切功徳(一切の功徳を具える)」というのか。天地の間に生ずる者は、皆な動功の徳を具えているのがこれである。これを身体の理にたとえれば、物をとるには必ず手が有る。路を行くには必ず足が有る。あるいは縄をない、あるいはワラジを作る。これをこれ一切の功徳を具うというのだ。何を「慈眼視衆生(慈しみの眼で生きとし生ける者を視る)」というのか。日月が世界を照らすこと、これである。これを世間の事にたとえれば、縄やワラジを売る者が衆生。そしてこれを買う者が観音菩薩である。これを買うや、必ず良い品か悪い品か、精密か粗雑かを論ずる。そして値(あたい)を払う。これを慈眼衆生を視るというのだ。何を「福寿海無量(福と寿の海は量ることができない)」というか。田畑は百穀が生じ、山や海は鳥や獣、虫や魚、草や木を生ずる、これである。これを生業にたとえれば縄1房をなえば、値(あたい)4銭を得る。2房をなえば、8銭を得る。田を1段耕せば、米が1石がとれ、2段を耕せば、2石がとれる。これを売ると、必ずこれを買う者が有る。これを福寿海量り無しというのだ。観音の功徳はこのようである。誰か礼拝しないものがあろうか。このゆえにまさに頂礼(ちょうらい)すべしというのだ。『報徳産業革命の人』p.97-9838 藤三郎の観音信仰「お父さん、観音経では、どこが一番ありがたいと思いますか?」「それは観世音菩薩が、仏身を以て得度すべき者には、即ち仏身を現じて為に説法し、童男童女を以て得度すべき者には、童男童女を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広現してこれを済度する無礙自在身を持っていられるところだナ。」 藤三郎は、実生活上では二宮尊徳の報徳の教えを基礎としていたが、精神生活上では観世音菩薩を深く信仰していた。毎朝、冷水浴をしたあと、仏前に向かって観音経1巻を読誦することは、東京へ移転してから、どんな朝でも欠かしたことがなかった。 藤三郎が観音を信仰するようになったのは、家の宗旨が、観音経(妙法蓮華経)を重んずる禅宗であったということにもよるが、そのほかに二宮尊徳が、また観世音菩薩を信仰していたことということにも、影響されたものである。 「報徳記」に、尊徳が、まだ14歳の金次郎のころ、隣村の飯泉村の観音堂に参拝した時、行脚の僧がやって来て、堂前にすわって読経した。その経を聞いていると、金次郎はなぜか歓喜に堪えない気持になった。それで、読経が終って、その坊さんに、「いまのお経は、何経ですか?」と問うたところ、「これは、観音経です」と答えた。「観音経なら今までたびたび聞きましたが、今のように分ったことはありませんが・・」「普通呉音で読むので意味が分らないのが、国音で訓読したから分ったのでしょう」と坊さんはいった。金次郎は、懐中を探って銭200文を取り出し、「これを、お供えしますから、今のお経を、もう一度読んで聞かせ下さい。」と頼んで、ふたたび聞いてすっかり観音の信仰を得た、御仏の願いも衆生を救助することだ、と悟ったと書いてある。藤三郎が読んでいたのも、ヤハリ訓読した観音経であった。明治34年(1901)に、藤三郎は鈴木鉄工部で、観世音菩薩の銅像を4体鋳造させた。この原型は大熊氏広氏の作ったもので、御身の丈は1丈にあまり、眉間の白亳亳は藤三郎の金のカウス・ボタンを鋳潰して入れた。一体は郷里森町の菩提寺のある庵山に、一体は養母やすの隠棲する鎌倉の別荘に、一体は日本精製糖会社裏の本邸の庭に、あと一体は明治35年(1902)8月15日に台湾の橋仔頭工場の構内に建立した。 森町の庵山へ建てたのは、実母ちえの7回忌追福のためであった。当時の曹洞宗の管長西有穆山が、 福寿界無量の功徳有難や 母の為とて建てし御仏という御詠歌を作って、福寿観音と称して、今でも同地方の霊場の一つになっている。 台湾の橋仔頭工場への一体は、当時、マラリアや土匪の襲来で、常に不安の念に襲われていた工場員や家族達に信仰の対象を与え、観音の妙智力で守護していただくことはもとよりであるが、なお新領土の民にも、加護を垂れ給えという祈りがこめられていた。それから百年、この観音像は、現在でも同地の信仰の中心になっている。💛2011年6月10日、鈴木藤三郎の足跡を求めて台湾橋頭に来た三人衆は利純英氏と一緒に観音経を読んで高雄の黒銅観世音に礼拝した。6月12日、利先生はわたくしにメールをくださり、それにはワードでの文章が添付されていたが、その一節にはこう書かれていた。「さて、私は子供の頃からすべての宗教を聴いて来ましたが、残念ながら未だにこれと思った宗教には参加しておりません。その日私は始めて観音菩薩に手をあわせ拝みました。それというのは、その日貴殿が真心こめて一心ふらんにお教を読んでいる姿を見て、・・・・・・観音菩薩の縁があったのではないかと思うようになり、本当に感謝感激しております。」
2021年09月09日
静岡県の遠州および静岡県民の皆様へ告知です。(緊急事態宣言中の地域にお住いの方はご遠慮いただいたほうがよいようです)森町文化会館常設展示室で鈴木藤三郎展が開催されています。期間は9月25日(日)まで、月曜日が休館(20日が祝日のため開館、21日が振替休館)。新型コロナウイルス感染症対策にご理解いただき、マスク着用、入館時の手指消毒、県外からの来館等にはご配慮ください。
2021年09月09日
台湾の製糖工場の保存活用に見られるアダプティブ・リユースの取り組み西川博美ほか (概要)・近年日本では「富岡製糸場」が世界遺産に登録されるなど、産業遺産の保存が注目されている。・ヨーロッパを中心に注目されるアダプティブ・リユースは循環型経済における既存建物の再利用の一環として歴史的建築の文化的背景を考慮しながら、現代社会に適合した用途で再利用するためのものであることから、産業遺産の活用において魅力的なコンセプトとして期待される。・台湾では多くの産業遺産の積極的な活用が行われている。特に2000年以降、日本統治時代の鉄道、製糖、製塩、製茶など各種産業遺産を、民間の力を導入しながら活用する事例が増加している。中でも製糖業は台湾の主要産業だったが、1990年代以降、工場の廃止が相次ぎ、跡地の保存と活用が注目されるようになった。・アダプティブ・リユース導入では高雄の旧橋し頭工場(現・台湾糖業博物館)を紹介する。・高雄市北部の橋し頭工場は新式(機械式)製糖工場として台湾ではじめてのもので、台湾の製糖産業発展において重要な文化財として指定を受けている。・この工場は1901年に台湾総督府鉄道の縦貫線予定地に隣接して建設が開始された。工場のほか、社宅・事務所・職工所・倉庫など付属し、建物の多くは煉瓦造りである。1907年酒精工場が建設され、サトウキビ運搬のための鉄道も開通した用途で1908年には鉄骨造りの第二工場が完成し、最新機械が導入された。 ・戦後は国営企業である台湾糖業公司が引き継いだが、1970年頃から国際的な砂糖価格低迷によって操業継続の危機に陥った。・この工場を歴史的遺産として着目する動きは1990年代後半から始まる。1995年工場用鉄道が観光用に転用された。1992年2月工場は完全停止した。・2001年、高雄県文化局と文史協会が中心に橋し頭製糖工場100周年行事を開催した。これが工場を文化財として保存・活用する契機となった。同年、橋し頭トウショウ芸術村が設立された。2006年に台湾公司60周年に「台湾糖業博物館」が設立された。2008年に県定古跡として指定、同時に敷地全体が「」橋し頭トウショウ文化景観保存維護計画地域として、認定される。またMRTの駅が施設に隣接して開設された。・文化景観保存維護計画地の敷地23ha、南北に工場エリア、行政管理エリア、生活居住エリアに分けられる。おわりに台湾を代表する近代産業の価値を認識し、工場としてのシステム維持に配慮し、地域の文化的経済的ポテンシャルを高めている。アダプティブ・リユースの成功例と考えられる。その手法は個々の建物の活用は柔軟なものでありながら敷地全体を包括する計画や明確なコンセプトを有しているところに特徴がある。米欧旅行から帰国後の鈴木藤三郎(編者著)1 台湾製糖株式会社設立明治二八年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾振興政策として台湾製糖株式会社が設立される。明治三三年創設発起人会が開催され、それに先立って藤三郎、山本悌二郎による実地調査が行われた。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任される。工場地は藤三郎の踏査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれる。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則り、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指す。藤三郎自ら工業建設に従事する。また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行う。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社である。1 「台湾製糖株式会社史」に次のようにある。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先ず高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(一九〇〇)十二月二日であった。」工場は最初、総督府の調査に基づき麻豆付近が考えられていたが、鈴木、山本踏査の結果、曾文渓、橋子頭の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定した。明治三四年二月一五日建設工事に着手する。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎であった。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成した。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めた。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と「台湾製糖株式会社史」に記す。 明治三四年(一九〇一)二月に鈴木藤三郎は台湾製糖の事務所と工場建設にとりかかり、工場は一〇月峻工し、機械据付は一一月に終った。藤三郎は台湾製糖株式会社に広大な農地を購入し、会社自らサトウキビを品種改良し、原料を自給した。1 「前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。」「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌たる時代に斯界に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年(明治二十一年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得してゐた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。 さて製糖機械は、既述の通り、八重山糖業株式会社が北海道紋鼈製糖株式会社から譲り受けていた仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶その他を更に当社が引受けたのであるが、それは何れも西暦一八七九年(明治十二年)の製作にかかり、この種の機械中、我が国に輸入させられた最初のものであった。当社はこの外、大阪汽車製造株式会社製及び石川島造船所製の火管式ボイラー、英国マコニー ハーヴェー会社製の圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶及びそれに付属する真空ポンプ、英国ワットソン レイドロー会社製の分蜜機及びその附属品を購入し、なお鈴木藤三郎氏経営に係る、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他をも購入し、愈々其の組立据付に着手したのであるが、齋藤技師が主として之に当り、鈴木鉄工部から派遣された技師、職工及び紋鼈で甜菜糖製造に従事したことのある人々並に僅少の内地人現業員と、是等の工事に対しては全く無智な本島人を使用した、従って工事の進行には、想像以上の苦心困難が伴ったのは勿論である。」(台湾製糖株式会社史)2 鈴木藤三郎は両得農業法を案出し、会社も農民も共に利益となることを会社の方針とした。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(台湾製糖株式会社史)「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」と台湾製糖株式会社史にある。当時三井物産合名会社台北支店長として、創立下準備のため現地調査に携った藤原銀次郎氏は「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆な御用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主なる商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないが、その本当の仕事の先駆をしたものは台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起って台湾は今日の繁栄を見るに至った」と述懐する。台湾製糖の成功は台湾産業のリーディング・ケースとなったもので、藤三郎の台湾における実業人としての功績も高く評価されるべきと考える。
2021年09月08日
9月4日から森町文化会館で「鈴木藤三郎展」が開催中です。「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」でも「大日本報徳学友会報」に掲載された鈴木藤三郎の半生を資料として掲載しています。 鈴木藤三郎(一)鈴木藤三郎君立志画談 ・・・・・・・・ 106(二)米欧旅行帰国後の鈴木藤三郎 ・・・・ 125鈴木藤三郎君立志画談 山田露洲生(大日本報徳学友会報第三一、三三、三四、三八、四〇回(一九〇四年十二月~〇五年九月)収録)第一期の一 生年より明治九年に至るまで▲諸言 鈴木君は日本の実業家、殊に糖業界の偉人とし衆議院議員として最も有名な方で、報徳界のためには始終尽力され、昨年遠江国報徳社で特別精業善行者の賞与式を行ったときには特別賞を贈られた方である。この画談に用いる材料は君が自筆の歴史画で自ら半生の経歴を描かれたもので、他に得べからざるの好材料である。殊に君は深く二宮先生を尊信し、報徳の訓言を服膺して成功され、常に「余の今日ある、報徳の教えを守り、実業に応用したことによる」と公言され、また将来の日本はおおいに実業的大和魂を養成しなければならない、実業的大和魂とは、報徳心をもって実業に応用するにほかならないのであると言われている。その言や服膺するべく、その行いや模範とするに適する、しかもその材料はただ一つの経歴画である。▲日本一の砂糖製造場 東京の小名木川に雲をつくばかりの煙突そびえ黒煙渦をなして天につきあたるを見る。これぞ本邦唯一の砂糖製造場で輸入糖と対抗しつつある、日本精製糖会社の煙突である。この大製造場こそ、鈴木君が苦心惨憺たる丹精によって生み出されたので、君は現に会社の専務取締役としてすべての責任を帯びて経営されつつある。▲鈴木君はいずれの人か 君はこの会社を経営されるために東京小名木川治兵衛新田に家をかまえておられるが、元は東海道鉄道袋井停車場より三里ばかり北へ入りこみたる、森町といえる小さな町の、とある菓子屋の養子であるが、実は同町太田平助といえるものの二男である。太田氏には二人の子どもがあったが、鈴木氏には一人の子どももなかったから、極めて幼年のときに貰われ、鈴木氏の家で生長したのである。実家も豊かな家ではないが、養家もまた細い資本で営業する菓子屋のことであるから、君は少年の折より菓子製造に販売にできる限りの働きをなして養父母を助けられ、父の没後にはその業をついで営業されたのである。君は養父母によく孝養を尽されたと聞いているが、これは君の天性にも出たるものであるが、また生母の賢たる感化にもよるだろうと信ずる。これは君の成功談には直接関係はないようであるが、母の感化が少年子弟には偉大の関係がある故に、ちょっと話しておこうと思う。君が鈴木氏に養われてのち、実家は不幸が打続き、父も病没し、兄もまた早世され、老いた母はひとりわびしく暮らすこととなった、人々その不幸を憐れみ、殊に旦那(だんな)寺の和尚(おしょう)来たり、君を貰い返してはいかんとすすめるも母は義を守りて許さないだけでなく、ある日、君を膝下に招き、事の始終を語り、かつ父在世の日、汝をば鈴木家の養子として遣わし、汝は養父母の丹精によりかく生長したものなれば、その恩義は生みの父母に異ならない、ひたすら心を尽くし養父母に孝養せよと深く諭されました。君はその教えを聞き、母の意中を察し、これより一層孝養を尽されたと聞いております。実に母の高義は感ずるに余りある次第で、この母にしてこの子ありと言わなければならない。 遠州の国には嘉永の初年、相模の人、安居院義道先生が始めて報徳の教えを伝えられ、それ以来各地に行われ、この森の地も早くより信ずるものの多い所で、報徳の参会なども古くより行われておったから、君もいつとはなしにその教えの感化を受け、報徳の談話をも聞き、報徳書をも読まれるようになった。君一日報徳四要の文といって、故富田高慶翁のものとされる、以誠心為本。以勤労為主。以立分度為体。以推譲為用。(誠心をもって本と為す、勤労をもって主となす、分度を立てるをもって体となす、推譲をもって用となす)のいう語を見て、非常に深く感じられ、昼は家業に従事し、夜は孤灯の下に報徳書をひもとき、もって精神の修養につとめられた。これ実に明治初年の頃の事で、君が今日あるその原因は全くこの時代の精神修養にあったので、恐らくは君は成功の秘訣はこの以誠心為本。以勤労為主。の二句にありと、感じ、この語を実際に活用し、現実になしたならば天下何事か成らざらんと大決心をされたのであろう。報徳の四要を誦する人は多いけれども、君のごとく実際に活用する人の少なきは歎ずべきの至りであると言わなければならない。君の言われるとおり将来の日本は実業的大和魂の振起を要する場合であるから、諸子もまた君のごとく、現実にこの語を活用されることを二宮先生在天の霊はご希望をされているであろうと思う。1 「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎(「斯民」第一編第九号(明治三九年一二月二三日)二五頁) 子供の時から報徳という語は聞いていましたが、私はただ身代を殖やした人たちが、破れわらじを履き、けちな事をして金をためるのを報徳というのだとばかり思っていました。報徳に入るの発端 私は養子ですが、一九歳の年になるまで、いわゆる生活の問題については何という考えもなく、無事に働いて日を暮らせばそれで善いくらいに思っていましたが、ふとこれではならぬという気になって、何でも一つ金を儲けることだと、親の家は以前から菓子製造業であったけれども、自分はその頃流行の製茶の商売に手を出し、その年から二三になる頃(明治八年)まで働いていました。然るに二三歳の正月ですが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思っていろいろ質問をしたことでした。天命十箇条 この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でした。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになりました。このころの郷里森町の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でした。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席していましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものは、かつて想像していたものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め、説を聴いてあるきました。岡田佐平治翁と報徳の伝播 その頃、倉真村の岡田さんは、今の良一郎君の父君、岡田佐平治翁が盛んに道を説いておられる頃でしたが、そのお話が聴きたいにも、何分私などにはよいツテがないために、お目にかかることができなかったのですが、明治一〇年かと思います。浜松の玄忠寺に報徳の会が毎月一度ずつ開かれまして、これへ岡田翁が出られますので、幸いのことと存じ、森町から浜松までは七里ありますが、会日には必ずこれへ出席していました。徹夜の研究 しかし月に僅か一回くらいの事では修行が進まぬと思っていましたところ、その後見付町の金剛寺で、今の岡田良一郎さんが、青年を集めて報徳研究会というのを催されたので、喜んでこれへも出席しました。ごく熱心になる者ばかり一〇名ほどの会でしたが、毎に徹夜をして議論をしたものです。見付へは森町から三里ありますが、毎月二〇日の会日には、特に朝起をしまして、およそ午後の四時頃までに一日の用を果し、それからテクテクと出かけるのです。夜どおし難問の研究をしまして夜が明けると、金剛寺の和尚が看経を読むその声を聞いてからいつも家路につくのであります。それから引佐郡井平村の松島授三郎氏、この人も有名な報徳の先生ですが、ここへも何遍か行っては話を承りました。論客とあだ名せらるる所以 元来私は物に熱しやすき性質ですから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風ですから、人によるといやがります。熱心なのは良いが、ああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名を貰っていたのです。腑に落ちざる投機につきての説諭 かつて相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でした。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのです。ある時二日ばかりの大会をした後、なお四、五日新村氏に逗留している間の事です。森町の報徳社員のうち某々の二名が、報徳では厳禁とする投機に手を出して、正に破産しかかっているので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでしたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席にいますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の二人は心服したようですが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのです」渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかです、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。困った求道者 渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしばしばこんな議論を先輩に対していたしたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でした。難解の疑問 その頃、私にはなお一つ深い疑いを抱いている問題がありました。それは二宮先生の置書の文の上に「知足」と大きく書きまして、その下へ「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」とあります。この幅は私も一つ持っていますが、この文章の意味が不明なため、私はほとんど三か年の間この問題を諸方へかつぎあるきました。先輩の説も多くは承服することができず、二宮先生の教えの中にも、これを解くたよりを見出すことが出来なかったのです。然るにある時、前に申した井平村の松島氏の宅に、遠譲社の大会がありました。福山翁のまだ生存中のことであります。私もかねてこの目的がありますので、新村氏の供をしてそれへ参りました。この道の羅漢たちが集まられて四、五日の間続けて報徳の道を講説研究するのです。私は折を見てこの問題を出しますと、各先生それぞれお説がありましたが、どうも服し難い、多数の説は、これは身代の分度を指したものである、他を顧みるな、人を羨むなという意味だというような説であります。それでは人間というものは実につまらぬものだといわなければなりません。この時の座長は、平岩佐兵衛氏でありましたが、最後にこの人に尋ねますと、平岩氏曰く「これはそんな形のものでは無い、つまり人の才智に各々分が有ることを意味するのである」この説は初耳でありましたけれども、私はそれでもやはり心服することが出来なかったのです。積極分度 平岩氏は私がこの問題を解くため既に三年かかっていると聞いて、「それならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人も共にこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのです。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経(へ)尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際にいながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を承認されたのです。このとおり、私は理論は盛んに求めていましたが、いまだ実行には着手してはいません。もっとも製茶の職業だけは怠らずかせいでいましたが。元来この商売は報徳とは縁の遠い楽な仕事でして一季出盛りの時の外は随分朝寝もいたします。養父は報徳の教えは聴いた人ではないが、菓子製造の職業には、なかなか熱心勤勉な方で朝早く一仕事してからまだ私が寝ていますと、枕元へ参られまして「何だ朝寝の報徳というのがあるか」と怒鳴ります。私も理論に馳せるくらいですから、なかなか口は達者なもので、即座にこう答えるのです。「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがある、諺にも寝勘弁というではありませんか。まず一通り将来の計画を立てて、段々に実行に着手するのです。今は年の半ばですから、明年の一年一日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代りに来年からは、あまり働き過ぎるなどと、ご心配をなさらぬようにして下さい」と申しました。こう申しましたのが明治九年の八月頃です。一夜明けた初春からは今までの茶業もやめよう、あくまでかの菜の葉主義をもって学び得た理論を実施に施すには、やはり家の世業によるに限ると思いまして、明治一〇年の一月から向う五ヶ年を一期とし、かの「荒地の力を以て荒地を開く」という理を自分の考え通りに解釈して、これを自分の事業に用いんものといよいよ躬行の計画を立てたのです。2 余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法(大日本醤油醸造会社長鈴木藤三郎「実業日本」一一(二〇))十年の元旦から生れ返って大奮発 私はふとした機会で報徳教を耳にすることになった。そうすると私が今まで是(ぜ)であると信じていた考えは甚だ人道にそむいているということが解ったので、爾来四、五年間は必死になって報徳を研究した。元来私は物に熱しやすい性質であったから、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、どこでもうるさく尋ね、時には議論さえしたことも少なくない。報徳主義の人には謙譲の美徳を尊敬して、人と議論するなどということは少しもない。それを私が目上の人であろうが、さしつかえがあるにも係らずにやるので、自然私のことを『論客』とあだ名されるようになった。当時私は製茶の販売をやっていたので、相当に稼いでいたが、出盛りの時以外は用もないので朝寝をすることがある。養父は報徳主義を聴いた人ではないが職業には熱心勤勉な方で、朝早く一仕事してからも未だ私が寝ているのを見、私の枕元へ来て『何だ、朝寝の報徳というがあるか』と責める。私も理論を研究している時である。なかなか口は達者なもので、即座に「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがあります。大工が板を削る前には必ずかんなを磨いてからかかる、床屋が顔を剃るにも必ずその前にかみそりを磨きます。それが物の順序です。諺にも寝勘弁というではありませんか。一通り将来の新計画を立てて段々に実行に着手する。私は大工がかんなを磨き、床屋がかみそりを磨いているのと同じく、今は実行に着手する準備です。今は年の半ばですから、明年の一月一日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは容赦して下さい。その代り来年からは余り働き過ぎるな、などとご心配をなさらないようにして下さい」と言った。先ず買って来たのは目覚し時計 報徳の教えを聞いてから職業の大切なこと、人間に尊卑の区別あるは誠心のいかんによるので、その執る職業には少しも関係せぬことを悟ったので、今まで独立してやっていた製茶事業をやめて再び家業の菓子製造業に従事することにした。そして第一に朝は五時に起きることに決めた。しかし困ったことには今までは朝寝の癖がついたので、なかなか目がさめない。人に起こして貰うのは嫌だし、何か機械的に自分で慣習を改める法はあるまいかと考えた。その頃目覚し時計というものがあると聞いていたが、まだ見た人も少ない。然るに浜松の宮代屋という小間物屋が名古屋から買って来て持っていると聞いたので、無理に七円五十銭かで譲って貰い、いよいよ明治十年一月一日からこの目覚し時計で五時には必ず起きて仕事に着手した。今まで朝寝さえしたことのある私が五時にはキチンと起き、しかも元日から仕事をするので家の人はビックリしている。次に家政経費調べをした これより先、私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己れの身分相当に自分の執る仕事の上に実行してみたいと思った。それにはどうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の四千石の領地興復を命ぜられたとき「決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。この開闢元始の道に基づいて四千石の興復をいたしますから金は決していりませぬ」とお答えをして開墾が出来上がった。これは農業であるが、しかし天下の事業はすべてこの通りでなくてはならぬ。この精神をもって、この法に基づいてどうか自分も実行してみたいと思った。そこで先生の四句の文に従い、あしたには暁星を戴いて起き、終日仕事をして更に夜なべまでして三更深くまでも勤労をし、自分の分を守り、堅く無益の費用を省いて分度を立て、一年の利益があればこれを次年に送り、次年の製品を安く売って、いわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。調査の結果経費の二割を節約した 私の家の経済は養父も別に心得がなかったので、一切不明であった。そこで自分で調査して見ると、家の経費が二百六十円で一ヶ年の売上金額が千三百五十円である。これで計算すると現在の純益歩合が二割五分ということになる。しかし菓子商で二割五分の利益とは少し困難である。確実な計算とすれば二割であろうと思った。そうすれば一ヶ年の得るところ二百余円で五十円ばかりの不足となる。しかし明治十年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず入費も不整頓であるから、これを整頓すればいくらかの節約が出来るに相違ないと思ったので、先生の仕法に基づいた家政経費調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物衣類等経費の項目がおよそ三百余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々より分けて節約の出来る経費がちょうど五十円位あることが解った。次に残した金で商品の価を安くした 明治十年からは新しい人間になった積りである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とす」る主義に則って未明から夜半まで働いた。さてその年の暮れになって計算して見ると一ヶ年の売上金額が千九百円となり、二千円足らずで、経費は予算の通りであったから、節約した五十円の外に計算外の利益五十円を得て、合せて百円の金が残った。そこで翌年はこの金を二百五十円とするには既に内、百円が手元にあるから、差引百五十円を二千円の売上金から残せばよいのである。二千円に対する百五十円といえば、ざっと七分に当る。先ず一割の利益を得ればよいというソロバンが立つ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることが出来る。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズット増加して第二年の終りには三千五百円となった。従来の商いの口銭(こうせん)は単に外々の同業者の振合い見て競争に堪えられる限り一杯の値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちにふえ、売上高が増加したのである。五年間に売上高が十倍になった この筆法で五ヶ年間、商業を続けたところが、第五年目には売上金が一万円、利益は僅かに五分取っても沢山になって来た。資本金も始めは二百六十何円しかなかったのが、五年の終りには千三百何円となった。これで私は荒蕪の力を以て荒地を拓くという主義は何の事業にも応用される、天下これに由りて起らぬ事業なしという先生の説に一点の疑いもなくなった。その後、私はこの五ヶ年間の帳簿とその着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう)の泰斗(たいと)として師事された人であるーの所へ行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い、人にも勧めたけれども君の如くに荒蕪の主義を商業に応用したもののあることを聞かぬ、実に斯道の模範であると激賞された。余が料理屋遊びの拒絶法 五ヶ年の計画が予定通りに済んだので、私は砂糖事業に従事した。しかしこの五ヶ年の間、この主義を実行して行くには多少の障害となるものがあった。私の郷里では青年が料理屋に上るという悪風があって、私も以前には時々その交際をしたこともある。それでいよいよ斯道を聞き、新生涯を開こうとしたとき、どうしてもこの悪風は除かねばならぬと決心した。その中に旧友は例の如く私を誘って料理屋に行こうと言う。一言ではねつけてしまえばそれまでであるが、罵詈(ばり)を受けるであろう。同郷として商売の邪魔にもなろう。さりとてこれに応ずれば当初の決心にそむく、どうしたものであろうかと種々苦心の末、一策を案出した。誘引されるごとに容易に承諾をして行く。そして種々な酒肴を持って来らせ、費用が驚くほどかからせるようにした。鈴木が一緒だと費用が掛かって困るということになり、数回で朋友も私を誘いに来なくなった。またこうして荒蕪の主義を実行するについては、帳簿の記入は綿密にしなくてはならぬ。記録の整頓と、計算の正確とは最も注意して一銭一厘たりと雖も必ずこれを記帳することにした。ところが父は非常に酒がすきなので、私は毎晩晩酌を捧げてはいたが、父は私が一々それを記録するので心持がよくない。こんなことをして飲む酒は甘くない。汝の仕法のようなことをしなくとも渡世は充分に出来ると言って承知してくれぬ。親の言うことも背くにも背かれず、といって一歩でも道に反したなら大害を醸(かも)すであろう。一時親の意を損したとしても永久の計には換えられぬ。また父もたちまちに私の意を呑み込んでくれるであろうと決心して幾回となく報徳の道と仕法とを説明したので、後には父も私の真意を悟ってくれ、喜んで晩酌の杯を取るようになった。3 明治八年正月、藤三郎が実家の太田家で見た二宮先生の本とは『天命十箇条』である。(「荒地開発主義の実行」)日光で遠州七人衆が二宮先生から頂いた「三新田縄索雛形」に、尊徳が天保九年小田原下新田の名主小八に与えた「天命十箇条」が入っている。「天命当時富貴なり。富貴なれば富貴なる処、則ち天性自然なり。天性自然の富貴に随いて、天を頂き、身を慎しみ、分度を守って、驕奢弊風に流れず、又は衣服、飲食、居住に至るまで、万端手軽にいたし、貧賤を恵む、是を道という。此の富貴の道は暫くも離るべからず、離れる時は富貴の道にあらず、富貴の道を勤めずして、富貴の所行に怠れば、果して富貴の道に背く、富貴の道に背けば、富貴を守ること能わず、富貴を守ること能わずして、後悔せざるものは村里に少なし」この後、「天命当時貧賤なり」「天命当時患難なり」など全部で十パターン続く。「天命当時大借なり」では、飲食居住贈答に至るまで節倹し返済すれば、大借の憂いを免がれる。もし免がれがたい時は、田畑家財衣類までも売払い皆済し、祖先の業を勤めるときは、元の如く富貴に至ると「祖先の業」を勤めることを説く。
2021年09月08日
9月4日(土)から森町文化会館の常設展示で「鈴木藤三郎展」が開催中です。9月25日までです。ぜひ静岡県在住の皆様にぜひi御覧いただければと思います。鈴木藤三郎が初代社長をつとめた台湾製糖会社の工場は現在でも保存され、現在学術的にも注目されている。・台湾の製糖工場の保存活用にみられるアダプティブ・リユースの取り組み 西川博美岡山県立大学准教授ほか・台湾における戦前期の製糖工場と社宅街の概要 - 熊本県立大学・製糖鉄道を軸とする製糖産業遺産群の保全と公共空間の創出王新衡 著・台湾糖業公司による製糖工場の活用実態(烏樹林・新営・蒜頭)
2021年09月06日
昨日9月4日(土)から森町文化会館の常設展示で「鈴木藤三郎展」が開催中です。9月25日までです。遠州在住の方や鈴木藤三郎に関心のある方はぜひご覧ください。下の写真は台湾製糖会社設立前の視察の際のもの「技師鳥居信平著述集」においても鳥居信平はが台湾製糖会社に技師として勤め、台湾南部で荒蕪地開拓を行い、100年後の現在でも現地の人々に利用され感謝されている地下ダムを建設したのです。台湾製糖株式会社と鈴木藤三郎初代社長鈴木藤三郎は鳥居信平の故郷袋井市に隣接する森町の出身です。一八五三年遠州地方の代表(遠州報徳七人衆)が日光で二宮尊徳に面会し遠州の報徳が公認され、遠州から三河にかけて報徳が広まりました。藤三郎は一八七六年(明治九)正月に実家で『天命十か条』という本を見つけ、二宮尊徳の報徳の教えを研究し、その「荒地の力をもって荒地を興す」の方法を家業の菓子製造販売業に適用し五年で十倍の売り上げとなったことから「二宮尊徳の報徳主義は人間万物に応用して最も有効に活用できる」と確信します。後に氷砂糖製造法を発明したり、精製糖工場を設立するなど、「発明王」、「砂糖王」と称されました。一八九五年(明治二八)台湾が日本に帰属し、井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾の振興政策として台湾製糖株式会社が設立されます。一九〇〇年(明治三三)創設発起人会が開催され、それに先立って鈴木藤三郎と山本悌二郎による実地調査が行われます。創設発起人会で鈴木藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任されました。工場地は藤三郎らの調査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれました。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則って、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指しました。藤三郎自ら工場建設に従事し、また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行いました。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社でした。『台湾製糖株式会社史』には、次のように記されています。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取(とり)調(しらべ)のため、山本悌二)郎氏を同伴、明治三十三年十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆)、七日台北(たいぺい)に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆(きーるん)出帆、安平(あんぴん)に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆(まとう)付近に置く予定であったが、先ず高雄(かおしゅん)に出た。次いで鳳山(ほうざん)に至り、それより万丹(ばんたん)、東港(とうこう)を経て、糖業地の南端の枋寮(ぼうりょう)に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見(せつこうけん)との間には蕃界(ばんかい)に接して原野があり、石光見より阿緱(あこう)街(現屏東(へいとう)市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港(ありこう)に出で、下淡水(かたんすい)渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮(ばんしょりょう)を過ぎ、山を越え関帝廟(かんていびょう)に出で、台南に帰着したが、この行程に費(つい)した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓(そぶんけい)を経て・・塩水(えんすい)港に出で新営(しんえい)商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四、五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見(せつこうけん)、阿緱(あこう)付近の大原野、即ち現在当社の阿緱び東港両製糖所区域たる万隆(まんりゅう)及び大晌営(だいしょうえい)その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、われわれに驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年十二月二日であった。」工場は最初、総督府の調査に基づいて麻豆付近が考えられていましたが、鈴木、山本の踏査の結果、曾文渓、橋仔頭(きょうしとう)の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定しました。一九〇一年(明治三四)二月一五日建設工事に着手します。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎でした。藤三郎は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼ることなく、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋(じょうせん)氏らを用いて実際の仕事を進めました。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と『台湾製糖株式会社史』」に記されています。「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ、かつその実行を指揮したのは当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌(こんとん)たる時代に斯界(しかい)に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、かつ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習わしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得していた齋藤定雋氏、その他を用いて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」 原料のさとうきびの買入れは、当初から懸念されていました。工場付近には旧来からの現地の人が経営する製糖所が三十数か所あり、その所有者は農民をそそのかし会社にさとうきびを売ることを妨害したりしました。藤三郎は両得農業法を考え、会社も農民も共に利益となることを会社の方針としました。「サトウキビ栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間において二万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、いよいよその真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地においても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったのであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、ひいては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重かつ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」とあります。『台湾製糖株式会社』の結語(三四四頁)には、「当社は明治三十三年、砂糖の輸入防止と、将来自給自足を達成するという国家大局的な立場から日本最初のサトウキビ製糖の大会社として設立された。農事方面では、原料のサトウキビの獲得を安全、有利にするため、土地を社有にし、各製糖所に農場を付設し、サトウキビ農業の進歩改善に努力した。工場方面でも、機械・製糖方法において発明考案を実施し、早くから科学的な工場管理法を実施した」、「創立当初より本島人との間に共存共栄の実を挙げることを大方針とした」とあります。鈴木藤三郎が台湾製糖株式会社に「報徳の精神」「発明考案」という遺伝子をもたらしたのです。
2021年09月05日
9月4日(土)から9月25日(日)まで森町文化会館の常設展示室で 鈴木藤三郎 の展示 が始まりました。静岡県内にお住まいの方で関心のある方はおいで下さい。館長の村松さんが収集した「乾燥富国論」など貴重な資料も展示されています。
2021年09月04日
いまいち一円会から会報第278号が送られてきた。大変な号数でいつも敬意を表する。2ページ目に「静岡県森町在住」として村松達雄さんの「鈴木藤三郎が残した八つの鳥居」の寄稿文が載っている。明治31年の森町の地図の7鳥居の印⛩に○がふされている。日光市の報徳二宮神社の鳥居について木村浩氏が「今市町郷土地誌」に調査されたものを発表されている。「石鳥居二基 一の鳥居明治二十九年十一月東京鈴木藤三郎氏の寄進なり」とある。森町の人にも貴重な情報なだけでなく、今市一円会報を通じて全国の報徳団体に鈴木藤三郎と森町を知らしめることは喜ばしい。
2021年08月28日
鈴木藤三郎展が浜松いわた信用金庫森町支店で開かれていると連絡があった。「技師鳥居信平著述集」が浜松市立図書館で蔵書となった。鳥居信平は鈴木藤三郎が初代社長を勤めた台湾製糖株式会社に勤務し荒蕪地開拓をして大農場を開き、その水源として開発した地下ダムは100年たった現在でもつかわれ、台湾の現地の人々に役立ち感謝されている。
2021年07月14日
「人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。」「斯民」第2編第10号(明治41年1月7日)<読みやすくするため漢字、ふりがな等改めた>「報徳の精神」 鈴木藤三郎 (同13ページ)(本稿は上野東京音楽学校の講堂に開催せられたる第1回報徳婦人会における鈴木評議員の講演を筆記したるものの概要なり。)私は多年二宮尊徳翁を尊信する者でございます。今日この会を催しますにつきまして幹事諸君から何か話をせよとのお勧めを受けました。けれども私は元来こういう所で皆様にお話をするような身分でもございませぬので、強いてお断りをしておきましたが、どういう間違いかやはり私がお話をするようなことに通知をせられました。実は私もはなはだ迷惑なことで、また私の迷惑よりは聴衆諸君のご迷惑と思います。しかしながらいったんご通知をしたものであるし、簡単でもよいから何か出てご挨拶をするようにということでよんどころなくここへ出ました。それで報徳の精神ということは前席に一木博士から懇々ご演説もございましたが、この二宮翁の教えは偉大なるもので、私のような無学短才の者が、その精神をお話することは固よりできませぬ。ことに私のは、はなはだ卑見であって間違ってもおりましょうが、ただ自分が多年信じておりまして、いささか短かい才をもって研究した。いわゆる自己流の法ではないかと思うことのみをつまみまして少しくお話を申上げます。私は元来不幸に致しまして、若年より全く学問の素養がございませぬ。それで私がお話するのは自分のはなはだ拙い恥ずべきことをお話するのでございますが、私は18歳までは世の中のことは一向念頭にありませぬでした。世の中のことのみならず、自分ということについても何の頓着もない、はなはだ無事なことでございました。然るところ19歳の頃になりまして、どうも一体こうやってボンヤリただ動いておったところで仕方がない。何とか人と生まれたからには、どうか立身出世がしたい。マアこういう無法な考えが起こりました。その時、私は何も立身出世と申しましても、学問もなし知恵もなし。別にエライ者になるということは望みませなんだが、「仕方がない金持にでもなろう。金をこしらえた人は、自由に欲しい物を買い、立派な衣服を着たりいばったりする、どうか富者となりたい」。こういう単純な考えを始めて起こしました。それから富者になるには、何でも自分を土台にして己の益になることならば何でもするがよい。マアこういう単純ないわゆる我利我利亡者の考えで、4,5年の間はそういう滅茶苦茶の考えであちらこちらと飛び回りました。ところが明治8,9年の頃でございました。フトした機会でこの二宮翁の遺教たる報徳教ということを耳にしました。それから段々先輩についてこの報徳の教えを聴いてみました。そうすると私の従来是なりと考えていた主義は、はなはだ人道に背いている。で、まずこの報徳の精神を当時の先輩から聴きますと、「何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤むべきである」。まずちょっと申しますとそういうことでありました。そうすると私がこれまで「何でもすべて自分のために勤めるものである。自分のために働くものである。自分のためにするものである。すべて自己さえよければよい」と思っていたことはちょうど裏になる。けれども一概に私はそれをご尤もであると考えてそうするまでの勇気もありませなんだ。それから段々先輩諸氏につきまして、教えてもらいました。何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならぬのか、その所以が分らない。で段々研究して見ました。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。で、この身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着いたしたのでございます。そのくらいな事では決してこれを解釈した訳ではございませんが、とにかくその当時私が思いましたのは、このごとくであります。それで私は然らば今後どうすればよいか、報徳ということの真の大義をやりたいものである。これはそうなくてはならぬというだけの考えは起こりましたけれども、さてこの報徳の道は前席にお話のあった通り、二宮翁の教えは実行を貴ぶ。ただその道理が分かって、それに感服したからとて、報徳という訳にはいかぬ。どうかそれを己れの身分相応に自分の執る仕事の上に、それを実行して行かねばならぬ。こういうことになって参りました。それで自ら行う時に至ってはどういうことにすればよいか。二宮先生は野州桜町に行かれた時に、小田原侯から用金をお遣わしになって、4千石の領地復興を命ぜられた。その時に二宮先生は「金は要らぬ。金は持っていかなくても、仕事は確かに引き受けてやる」と言われた。そうすると小田原侯が「今まで誰が行っても、しかも金を沢山入れてすら、興らなかったのである。それを金なしに、この荒蕪を興すというは、どういう訳か」とお尋ねになった。その時に二宮先生は「荒地は荒地の力を以て開きます」野州桜町なる4千石の領邑はほとんど荒地になっている。本当の貢のあるのは800俵ほかなかったという。それを興復するのは大事業である。然るに「決して金は要りませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力を以て興します。我が邦(くに)が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が邦は我が邦の力を以て開けたのである。で、この開闢元始の道に基いて、4,000石の興復をいたいますから、金は要りませぬ」というて家財諸道具売払帳という帳面もありますが、それはその時に先生が家財から垣根に至るまで、一切を売却しそれを資本として、あの事業をなされた。それから「荒地は荒地の力を以て開くだけでは分からない。その仕方はどういうふうにするのか」というて尋ねますと、まず始め元資金として仮にここに1円ある。その1円の金をもって、1反歩の荒地を開く。そうすると、たとえばそえから米が2俵取れる。その2俵取れた中の1俵を明年の開墾費に投じて、また1反歩の土地を開く。そうするとその翌年になると2反歩から得るものはすなわち4俵である。4俵得ればその中の2俵を開墾費に充てて、翌年開墾すると、今度は4反歩の開墾ができるというようなことで、いわゆる一木博士のいわれました、推譲を行うのでございます。そうして年々歳々このごとくして行くと、初め1円の金を元としたのも、61年目には非常に大きな開墾ができあがる。私はちょっと数字を記憶しませぬが、ほとんど日本全国の荒地を悉皆(しっかい)開くことができる。こういうことをば、ハッキリと数字に挙げて、教えにやっておったのでございます。私は岡田良一郎先生、その他先輩の方々につきて、そういうものの写本を見せていただき、またお話をも伺いました。それから自分が考えまするに、もし農業が本職ならば、直ちにそれを応用してもできたのでありますが、私は小さい町の町人でございました。別に田地を持ってもおりませず、また農業には少しも経験がありませぬ。これは農業のみではあるまい。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならぬ。この精神をもって、この法に基づいて、どうか自分が実行してみたいという念が、その時に起こりました。その時私は親から受けました所の、小さな駄菓子屋をしておりましたので、まずもってこれに当ててやってみたいと思いまして、それから明治10年1月1日を紀元といたしましてどうか今後この教えに基づいてできる限り世の中に働いて見たいと、こう思いました。それからただいま申した荒地開闢の方法を、まずその小さなる菓子の事業に応用する積りで、10年から14年までに至る5年間の予算を立てました。そうして1月1日から実行いたしました。そのことは細かに申すと長くなりますから申しませぬが、5年の後、すなわち明治14年の大晦日にどうなったかと申しますと、明治9年までは、わずか1年間の売上高が1,350円ほかない。そうして資本金が265円である。然るにその法を自分で極めてやった14年の暮れまでには売上高が1万2千円余円になりました。そうして資本金が1,350円と増加いたしました。それで私はこれはよいと、こう思いましたけれども、これはただ自分の考えから、農業の方で明らかに計算してあることを、こういう仕事の方へ、私が変用したのでございますから、確かなるものではございませぬ。そこで先ずもってこれは先輩に鑑定を請うたがよいと思ったので、5年間の帳面を集めまして、岡田良一郎先生の所へ、年礼に参った時に、その訳を段々お話して、ご覧にいれましたところが、その時に岡田先生から「至極面白い。こういうふうに応用したのは、お前がまずともかくもここでは初めてである。この通りでよいから、折角やるがよい」というて、やや許可を得ました。それから私はその後段々砂糖をやりましたり、いろいろやりました。それですからすべて何事業でも、こういう報徳の心を心としまして、この方法に則りてやりましたならば、大きく申せば天下の事業、すべて成らざるものはないと、大いに私は信念を深くしました。それから世間様ではどう見られるか知りませぬが、私はともかく今日まで30年間、まずその方針で参ったのでございます。これは私自身のはなはだ拙い事をもって、皆さんにご披露するようなことではなはだ恐縮でございますが、私は固より先刻申し上げる通り、何の素養のない者でございますから、ただ自分の工夫の少しばかり履んだことと、その当時考えましたことだけを、かいつまんで申し上げたわけでございます。 で、この報徳は、ひとり事業のみでございませぬ。この精神を天下の政治に用いますれば、国家は富強になり、またこれをいずれの事業にでも用いて、この精神でもって活動しますれば、事として成らざることはないと思います。また一家内においても、この精神をもって行いましたならば一家和合して必ずその治まりはよいと思います。実にこの報徳は万能丸であります。二宮先生がいわれるに「我が道は神儒仏三味一粒丸であるから、この報徳という丸薬を服用する時は、いかなる困難もたちどころに免れる。いかなる貧賎も富貴に転ずる。いかなることでも、この報徳という丸薬を飲めば解決が付く」とこういわれております。但しこの丸薬ははなはだ飲みにくい。至ってまずい薬で、飲む時にはまず己に克って己を虚にして、強い決心をして飲まぬとまずくて飲めぬ。そこでとにかくこの丸薬を飲む人は少ないので困るが、これを飲めばいかなる病根でも絶つということを二宮翁がいわれたことを、先輩から聴いておりますが、どうかこのごとき妙薬でございますから、ご婦人方にも、少し苦いけれども、お用いになることを私はお願いいたしたいのでございます。あまり長くなりますから、これで終わります。(拍手)
2021年07月12日
「日本経済思想史学会第32回大会」共通課題「報徳と協同の思想ー自治・実業・教育ー」課題の提起松野尾 裕(愛媛大学)にテツオ・ナジタ著の『相互扶助の経済』(みすず書房2015年)が紹介されている。報徳を民衆の経済(ordinary economies)という観点で江戸期の無尽講から明治期の報徳運動、戦後の協同組合にいたる200年に及ぶ分析で、英語で著作された本作は今後世界的に報徳を考えるなかで重要な位置づけを示すものと思われる。松野尾氏引用「岡田は報徳運動に、経済的な事業展開のための新たな空間を思い描いていた。また、自由主義的な功利主義が、政治のプロセスを法が管理するという立憲的な公的秩序の思想を前提にしていることをきわめて正確に理解していた。この国家的な公共空間には、既存のリーダーシップや地域社会のやり方にもとづいた地方自治がふくまれるはずである。岡田にとって地方自治とは、村落とその相互扶助組織を意味していた。したがって相互に助け合う人々を主眼にした実践倫理はそのまま存続し、自由主義的な功利主義という近代化概念の枠内で行動するよう人々を力づけると思われた」(p.223)「それは、当時近代化の主流であると考えられていたものから、遠く離れた位置に報徳を置こうとする戦略であった。」(p.224)松野尾氏は二宮尊徳四大門人の富田・斎藤・福住・岡田のなかで、岡田の事業が最も成功したのは「岡田が進めた遠江国報徳社の活動が近代の中にうまく流れ込んだから」とされる。岡田は「最大多数の最大幸福」を説く功利主義を「実利主義」と呼んで「報徳の道、これを演繹すれば実利となり、興国安民の術、公同結社の法、皆なその中に行わる実利の学、帰納すれば皆な報徳の道に入るべし」と説いて、功利主義は報徳と矛盾しないとした。松野尾氏は「岡田のいう報徳は、国制(天皇制国家)の枠内で、それとは別の次元に公的秩序をつくりだす「自治制の機の役割を果たそうとしたのだと考えられる」と結論付ける。💛なぜ日光や相馬など報徳仕法が成功した地域で、報徳運動が衰退し、遠州地方において報徳運動が栄えたのかは問題である。ただまだ研究の視野は遠江国報徳社→大日本報徳社にとどまり、静岡県報徳社事蹟で紹介される遠譲社や報本社の活動までは視野に入っていないようではある。 なぜ静岡県さらに愛知県へと、特に遠州地方で、燎原の火のように熱烈な報徳運動(一種報徳教ともいうべき宗教的熱情をたたえて)が起こったのか? なぜ報徳運動からは天皇制国家に協賛する活動のみが全面に出てきて、軍国主義化に抵抗する考えは出てこなかったのか?それは二宮尊徳の思想そのものに内在するものなのか?という課題について今後の研究がまたれる。
2021年06月21日
森町の友人が「6月12日13日」開催の「日本経済思想史学会第32回大会」の資料をお送ってくれた。青山学院大学の落合功氏が「鈴木藤三郎と岡田良一郎」について講演している。鈴木藤三郎については、その思想の学問的研究はほとんどされておらず、静岡県内は別として全国的にはほどんど無名に近い。学問的対象となって研究が進むことを期待したい。レジュメより鈴木藤三郎 安政2年(1855) 古着屋平助の子として生まれる。 その後、菓子商伊三郎の養子 氷砂糖製造、精製糖生産を実現、日本精製糖会社設立(砂糖王) 明治36年、37年、衆議院議員 実業家、発明家 醬油醸造業、製塩業などにおいても重要な発明(特許159) 家を相続したころ(明治7年)尊徳思想に傾倒明治39年、相馬家の倉庫に二宮尊徳の遺著一万巻、筆生20名、3年→今市町報徳二宮神社に奉納 鈴木藤三郎と岡田良一郎 同じ遠州出身 報徳思想を具体化する実業家 ところが 鈴木藤三郎、氷砂糖工場への融資依頼、岡田良一郎、拒否 岡田良一郎、遠江国報徳社を組織 森町(鈴木藤三郎の故郷)、遠江国報徳社から分離、報本社を設立(明治28年) 森町で報徳思想を学んだ鈴木藤三郎は自ずと岡田良一郎の思想と異なる。 鈴木藤三郎と岡田良一郎の思想と行動の違いを、報徳思想の「正統か否か」ではなく、「どういう意味の違いか」を検討する。 鈴木藤三郎の思想と行動「私の如き浅学のものには、詳細に了知することも、説明することも、固より難事でありますから、それからの事は学者先生がたの任務として、私は自分丈の卑見を以て、ごく、簡単に実用的に解釈をしたのであります。」鈴木藤三郎「職務本位」(『報徳の研究』1907年)→尊徳の思想・言説を忠実に解釈するのではなく、実用的に解釈(読み替え)鈴木藤三郎の職分、誠心、勤労、分度、推譲「人は職務を本位となし、一生懸命に、職務の為めに誠心を本とし、勤労を主とせねばならぬ。又分度を立て推譲の要としなければならぬ。」 →分度、推譲の理解鈴木藤三郎の「分度」「凡そ事業を経営するもの。分度を確立せざれば、独立自営の体を為す能はず、たとえ誠心、勤労以て業を励みその得る所多きも、みだりにこれを私消し、または他方の用途に使用するあらば、本業の発展得て望むべからず。これにおいてか、、分度を確立し、純益の全部あるいは幾分を度外となし、職業の根本を培養するの資に供するは、最も肝要にして、これ即ち、斯道における積極的に事業を発展せしむるの原則にして、先哲未発の要法なり。然るに世間往々この分度の法を以て保守消極の制なりと誤認するもの少なからずと雖も、元来報徳の教において分度の制を尊ぶ所以は事業をして積極的に発達せしめんが為めに外ならず」(鈴木藤三郎「報徳実業論」『報徳の神髄』1908年)→利益をどう出すか。つまり、利益となるものを全て配分したり、贅沢に他に使えば何も残らない。 利益を精査し、さらに事業の糧に資するよう投下、さらに事業が発展する。 分度とは限界を定めるという理解ではなく、むしろ事業を積極的に次の段階に発達するために資金を見出す法として理解すべき鈴木藤三郎の「推譲」「いずれの事業と雖も報徳の教えに従い、本主体用の趣旨に則り純益を制し、度外の財を推してこれを事業の根本に譲らば、何の業か発達せざるものあらんや。農業において、度外の財を肥培その他に推譲して、年々止まざるときは、人工を以て天然に勝ち、地質変換の如きも、また容易の業ならん。工業において度外の財を機械の改良発明の資とし、または職工の訓練奨励に推譲し、商業において商品売価の低廉または買客の便利に推譲し、かくて年々歳々絶えずこれを実行するときは発展の大なる真に計り知るべからざるものあらん。これ事業は事業の力を以て発展せしめるものにして、要は推譲にあるなり・・・親しくその事業を観察したるとき、彼らが成功の要は悉く推譲にあることを発見せり。(鈴木藤三郎「報徳実業論」『報徳の神髄』1908年)「事業の根本に推譲」することが肝要。「世間のいわゆる、単に勤倹貯蓄と称するが如き、消極の主義と、もとより同日の論にあらざるなり」と、節約するだけの意味ではない(貯蓄するという消極的な意味ではなく、次の発展のための事業への投資)【その1】(鈴木藤三郎が好んで使う言葉)「荒地を開くに荒地の力を以てす」【その2】(鈴木藤三郎の実体験)創業期 菓子の売上高、1,350円(262円残額→50円残額→212円予算) 翌年 2,000円売上高(70円残高) 利益を2割ではなく、1割5分→1割へ 売上高、3,500円→5年後1万2,000円労働 決められた時間だけ勤務するのではなく、約束以上のことをしたりすることが「推譲」(略)終わりに1,近代以降、尊徳思想を教条主義的に受け止めるのではなく、読み替えつつ自身の実践理論に位置付ける。→鈴木藤三郎、岡田良一郎「財本徳末論」(一時的)2,鈴木藤三郎、岡田良一郎 熱心な報徳思想家「推譲」理念の理解の相違鈴木藤三郎→「糖業ハ糖業ノ力ヲ以て開クノ大道ナリト信ズ」(協同というより、国益=輸入防遏、殖産興業)岡田良一郎→担保の必要、「報徳ノ道ニ在テハ、貯蓄ト云ハズシテ推譲ト云フ」推譲=貯蓄→社会貢献、殖産興業など(社会への協同「常の道(子孫へ、明日に譲る)」相互扶助的な組合とも若干異なる)(「信用組合(利益目的)」と報徳社の関係も)財本徳末論(1881年)→貯蓄(信用組合を推進、1892年)→柳田国男と論争(1906-10ごろ)→社会貢献、公益💛鈴木藤三郎の「報徳実業論」などに基づいた研究がやっと出てきた、体系的な鈴木藤三郎研究が進むことを期待します(^^)
2021年06月21日
「銃眼のある工場」より 山田克郎(昭和17年10月1日)吉川長三郎の死 藤三郎には、醤油会社がつぶれたことよりも、もっと不幸なことが起こった。 それは永年苦労を共にし、藤三郎も最もよい片腕として働いていた、吉川が死んだことが起こった。 吉川は静岡県に藤三郎がつくった百町歩にもあまる、鈴木農場の監督に行っていて、脳出血で倒れたのであった。 その電報が藤三郎の所へもたされた時、藤三郎は醤油会社のことで、客と重要な話をしている時であったが、「・・・・・・。」無言のまま、電報を握りしめて、顔がまっさおになってしまった。「すぐに自動車のしたくをしてやれ!」と、家の者に言いつけると、客との挨拶も忘れて、家をとびだした。 藤三郎は、いま吉川に死んでもらいたくなかった。こんな、会社のつぶれかかっている時に、会社のことを心配しながら死んでもらいたくなかった。もっと、会社の勢いのいい時に、安心して死んでもらいたかった。「死ぬなよ。」「死んじゃいけないぞ!」と、藤三郎は汽車の中で叫びつづけ、汽車の走るのが、のろくてしかたがなかった。 彼が、農場へ駆けつけると、吉川は、何本も注射をうったあとで、こんこんと死のような眠りをつづけていた。「どうですか、容体は?」と、藤三郎は医者にたずねた。「そうですね、もはや、手のつくしようがないと思われますね。」「そうですか。」藤三郎の両眼から、涙がしたたり落ちた。彼は、それをこぶしでぬぐって、「長三郎。」と、ベッドに近づいて、低い声で呼んだ。 すると、死から呼びさまませられたように、吉川は急に両眼をみひらいて「社長ですか?・・・・・・」と弱々しく笑ってみせた。「いまね、夢を見ていたんです。良い夢でしたよ。明るい光が、靄(もや)のようにあたりいっぱいにけぶっているんです。花も咲いているようでしたね、ひどくすがすがしていい気持ちなんです。ああ、自分は極楽へきたんだな、と、ぼんやりたたずんであたりを見回していると、その靄のようにこめた明るい光の向こうから、長三郎、長三郎と呼ぶ声がするんです。その声がいかにも清らかで、鳥のさえずるような声なのです。 あ、仏様が呼んでいらっしゃるのだ、と思って、ふっと目がさめると、社長、あなたでしたよ。」「そうか、それアせっかく極楽へ行った夢を見ている所を、じゃまをしてすまなかった。―気分はどうだ、悪いか?」「いや、とてもいいんですよ、社長、すみませんが、今日は一日ここにいてくれませんか。私の生命も、きっと今日かぎりだと思いますよ。」「バカなことを言うものじゃない。おまえは私より年が若いんだから、死ぬのは私が先だよ。-それよりね、長三郎、今日は私のことを社長というのはよしておくれ。昔のように、おじさんと呼んでくれ。私も毎日毎日いそがしくて、お前とはいつでも顔を合わせていながら、ゆっくり話をしたこともなかった。今日は、ひさしぶりに、ゆっくり話をしようじゃないか。」「そうですか、私はまた、おじさんがすぐに東京に帰られるのではないかと、心配でたまらなかったのです。今日、一日でもゆっくりしてくだされば、うれしいですね。」 吉川は、たった一日の病気ですっかり顔がやせて、暗い影が頬におちていた。それは、そこに死がやどっているようにも思われるほどであった。「おじさん。」しばらく眼をつぶっていたのち、吉川が呼んだ。「なんだ。」「私は、死んでいく前に、おじさんにお願いがあるのですが。」「なんだ。なんでも言ってくれ。」「おじさんは、あまり人を怒りすぎますよ。もうすこし、会社の人に怒らないようにしてください。」「そうか、それは、私も気づいてはいるんだが・・・・・」「台湾にいた時は、みんなの気持ちがぴったり一緒になって、はりきっていたからいいのですが、東京ではだめですね。」「ありがとう。今度から、よく気をつけよう。」 藤三郎は、よく会社の者を𠮟った。しかし、それは吉川の言うとおり、台湾にいた時は、藤三郎は会社の人と一緒に寝起きして、共に銃をとって現地武装集団と戦い、お互いにこの工場を守っているのだという、はりきった気があったし、また工場の者も藤三郎の気質をよくのみこんでいるので、𠮟られても誰も怨む者はなかったが、東京へ帰ってきてからの、製塩会社や、醤油会社のように、大きな会社で、社長と社員の間がはっきり区別されている所では、あまり藤三郎が𠮟りつけると、社員は藤三郎から離れてしまうのだった。 藤三郎は、一つの者を見ると、すぐにそれをどういうふうに取り扱えばいいかということが、ピンと頭にひびいてくるほど鋭い頭脳を持っているので、社員のやっていることを見ると、はがゆくてならないのであった。社員としては一生懸命にやっていることでも、藤三郎にはそのやり方に心がこもっていないように見えるので、はげしく怒ってしまう。叱られる者は、こんなに一生懸命にやっているのだから、そんなに怒らなくてもいいのに、と、うらめしく思う そうした時に、いつでもかげに回って、社員をなぐさめ、藤三郎への怨みをなくさせるのは、吉川であった。 社員たちにとっては、藤三郎は雷親父で、吉川は優しい、母親であった。 藤三郎も、自分のその欠点は知っていた。いま、吉川が病の床で、しみじみ自分を諌めてくれるのを、有難く聞いた。そして、こんなに良い人間が、死んでゆくのかと思うと、吉川をしっかりとつかんでいる死というものが、憎くてたまらなかった。 吉川は、寝たまま、じっと、天井を見上げていたが、「ねえ、おじさん。台湾にいた時は楽しかったですねえ。」「そうだなあ、あの頃が、一番楽しかった。」「私もそう思います。いろいろ苦しいこともありましたが、また、海岸ですもうをとったり、酔っぱらって、汽車の中で寝てしまったり、原住民たちが電灯にびっくりしてしまって・・・・・・。」「そうだ、あの時は、おかしかったナア。」 ふたりは、声をあわせて笑った。吉川はすぐには死ぬとは思われないほど、元気に見えた。 初めて、森町の、あの富士山の見える山で、駿河湾を眺めながら、若い長三郎が藤三郎の仕事の、片腕となることを誓った時のこと、工場を東京へ移して、火事にあったこと、そして工場がどん底に落ちた時のこと、そんないろいろのことが、なつかしくふたりの頭によみがえった。 考えると、二十年という長い年月を、あれからふたりは、仕事をいっしょにやってきたのだ。そして吉川は、藤三郎に誓ったとおり、良き片腕として働いて、いま、死んでゆくのだ。「しかしね、おじさん、私は死んでゆくことを少しも、残念には思っていませんよ。初めて、おじさんの仕事を一緒にやろうという時、おじさんから戒められたことがありますね。砂糖事業は、誰がやってもこれまでうまくゆかない。それをやろうというのだから、固い石を握りこぶしでうちわってゆく気持ちでやらなければいけない。お国のために、死んだ気になってやらなければいけないのだと・・・・・・。」「あの時、お前は、僕も男ですから、やると言ったら必ずやります。と言ったなあ。あの言葉を聞いて涙が出るほどうれしかった。私も、ひとりきりで困っていた時だからな。」「あの時、お互いに誓ったように、とうとう日本に砂糖ができるようにしたのは、私たちですからね、それを考えると、私はいつでも、楽に死ねますよ。お国のために、自分でできるだけのことはしたのだ、と思いましてね。」「そうだ、それが、私たちの最も大きい幸福だね。私たちはこの世に生れて、動物や虫のように、何もしないで死んでゆくのではなく、国家のためにつくし、また、世の中の人にも、自分でできるだけのことをして死んでゆくのだからね・・・・・・。」 吉川は、自分で言ったとおり、その夜のうちに、急に悪くなって死んでしまった。 藤三郎は、ひとり別室に座って、涙をながしていた。💛Mさん、Tさん、ご配慮ありがとうございます。Mさんが森町の全小学校・中学校に寄付してくださっていて、Tさんが袋井市の全小学校・中学校に寄付してくださるのはありがたいことです。T先生のお礼のメールに「多くの資料が一つにまとめられているので非常に貴重な本に仕上がったと感じております」とありました。またO先生からも「この度は御労作『技師鳥居信平著述集』を御恵贈たまわり、有難うございます。学術的価値の高い資料集ですが何よりも郷里の出身人物の足跡をたどりながら歴史的視野を広げられ、それを基に市民への啓蒙活動を行われている点は大いに評価したいと存じます。」とお礼のはがきをいただきました。この本は資料集という意味合いでは、I先生の「図書として永遠に存在する」(p.221)ものです。現在、「技師青山士著述集」の準備作業に入っていますが、『技師鳥居信平著述集』の211ページに掲げたI先生の遠州報徳の流れの図にあります遠州出身の技術者三人「鳥居信平、青山士、鈴木藤三郎」について「資料で読む 〇〇著述集」として出版できれば、本プロジェクト事業は一応達成しましょうか?そういう意味で遠州のそれぞれの地元だけでなく、遠州全体で三人を顕彰いただけることはありがたいことです。本プロジェクト事業は鈴木藤三郎が「報徳の精神」で話した「既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。」にかなうことになりましょうか。今後とも「郷里の出身人物の足跡をたどりながら歴史的視野を広げられ、それを基に市民への啓蒙活動を行われ」(O先生)るようにどうぞよろしくお願いいたします。
2021年05月16日
「何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならぬのか・・・・・・人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。・・・・・・人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。で、この身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着したす。」(「報徳の精神」鈴木藤三郎)💛神奈川県内の図書館で「技師鳥居信平著述集」を初めて蔵書としていただいたのは大和市立図書館でした。大和市1件資料で読む 技師鳥居信平著述集二宮尊徳の会2021.4
2021年05月15日
「観音経の話」(澤木興道師)より(第一講)いったい観音というのはどんなものか。 二宮金次郎は14歳のときに観音経を二度開いて頭にピンと来て、一生の生活をそれで発明した。だから我々からみると、二宮尊徳の一生は観音さんが二宮尊徳となって働いているということに見える。それはどういうわけか。これが世を救うところの観音。世を救う仏さま、慈悲をもって世を救う菩薩の姿であるからである。救うということはいったいどういうことか。餅をついて人に食わすことか、貧乏人に金をやることか。仏教でいう救うということは「如実に自心を知る」というところから出発する。本当に自分を知らなければならぬ。 二宮金次郎は14歳のときに(観音経)普門品(ふもんぼん)を聞いて悟った。そこで寺の和尚が「お前は普門品を一遍聞いて悟った。これからどれだけ偉くなるかも知れない。わしの寺を譲るから養子になれ」と言ったが、二宮金次郎は「私は坊主になろうと思って悟ったのではありません。私は百姓だ。百姓をしてこの観音経を実行するのだ」と言った。二宮尊徳が一代をなしたのは決して自分のためではない。人のためである。自分はどうでもよい。わしも若い時には偉い者になろうと思ってずいぶん勉強した。その時は夜も寝ないで本を読んだものであるが、あの本を読んでビックリした。学問のために寝食を忘れる者ありといえども、救済のため寝食を忘れる者は珍しいということが書いてある。二宮尊徳の一生というものは人のためばかりである。まさしく観音示現の姿である。わしは二宮観音があってもよいと思う。村の人夫に草鞋(わらじ)を作ってやったり、桜町の再興をやったり、確かに観音さんである。(第五講)二宮金次郎と観音経というものには切っても切れぬ深い因縁がある。二宮翁は子どもの時に早く父親に別れ、母親は病身、兄弟もたくさんある。それを引き受けて途方に暮れてしまった。食べるものもない。どうしようかという時代、13であったか、14であったか隣村の外れの観音堂に足を運んだことがある。すると一人の旅の僧がお経をあげておった。「ただいまおあげになったお経は何でございますか」と尋ねた。旅の僧は「これは観音経ぢゃ」「観音経ーしかし、いつもお寺の和尚さんがよんでおるのと今日のでは違っておりますが、どういうものでしょうか」とまた尋ねた。「それはいつも聞くのは音読で『爾時無尽意菩薩』(にじむじんにぼさ)と読むからで、今日のは『その時、無尽意菩薩は』と読んだからであるー今日の言葉でいえば国訳でよんだからーお前さんがふだん聞いたのと違うのであろう」と言った。そこで二宮翁は「誠にすみませんが、もう一遍お経をあげてもらえますまいか」といくらか金を包んで、そうしてお上げして。もう一遍お経を聞かせてもらった。それが二宮翁の人格を転換させた。金次郎はその足で先祖のお墓にまいって、生きた者にいうかのように何かを物語っておった。その時、金次郎が何を言うたかは誰にもわかっておらぬが、ここに「いかんがしてこの娑婆(しゃば)世界に遊び、いかんがして衆生のために法を説く。方便(ほうべん)の力そのこといかん」の秘訣があると思う。すなわち、まさに童男童女(どうなんどうにょ)の身をもって得度すべき者には、すなわち童男童女の身を現じてしかもために法を説く。まさに百姓の身をもって得度すべき者には、すなわち百姓の身を現じてしかもために法を説く。商人の身をもって得度すべき者には、すなわち商人の身を現じてしかもために法を説く。こういうような理屈で、二宮翁の小さい時の頭にピシピシと現実の問題として入ったものだろうと思われる。 檀那(だんな)寺の和尚が、お前のように立派に観音経の分かる者はいない。わしの弟子になってこの寺の後をついでくれ。ところが金次郎は首をふった。「私は百姓だから、一生を百姓で通します」後の偉大な二宮翁の一生を決定したのである。翁の一生は百姓であって坊主、坊主であって百姓。「いかんがしてこの娑婆(しゃば)世界に遊び」すっかり生活がつかまれておるわけである。💛鈴木藤三郎は二宮尊徳が国訳観音経を聴いて悟ったことから、毎朝どんなに忙しくても国訳観音経を唱えるのを日課としていたという。五郎 お父さん、観音経(かんのんぎょう)では、どこが一番ありがたいと思おもいますか?藤三郎 それは観世音菩薩が、仏身(ぶっしん)を以て得度すべき者ものには、即ち仏身を現(げん)じて説法(せっぽう)し、童男(どうなん)童女(どうにょ)を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広く現じてこれを済度(さいど)する無礙(むげ)自在身(じざいしん)を持っておられる所だな
2021年05月15日
●社友鈴木氏の世界一周〔「報徳」第40号p33(明治29年9月発刊)〕 東京深川小名木川通りなる株式会社日本製糖会社重役鈴木藤三郎氏は遠州周智郡森町の人にして元森町報徳社副社長兼遠江国州立報徳社幹事(1)なりしが(氏の立志等に就ては本誌第四号雑録欄に掲げあり)氏は今回同会社の業務を帯び製糖器械購入及斯業拡張の為め米国を始めとして欧州諸国並に亞細亞あじあ各国製糖業視察として本年七月十四日出帆のパルモラル号に乗船し米国桑港さんふらんしすこへ向け出発されたる(2)が、氏は単独旅行にして米国より英、仏、独、伊、露の各国へ経て印度、支那、朝鮮等諸州の斯業を巡視し上海に出て台湾に到り内地に入り帰京する筈にて其日数は大凡おおよそ百五六十日間を費し本年十二月下旬帰京せらるる予定なり(3)と。且氏が出発前に於て東京会社員は勿論知己親友諸氏は去る六月廿日を以て江東中村楼にて盛大なる送別の宴を開きぬ。又同月十九日氏は墓参を兼ね暇乞いとまごひの為め郷里森町に帰省せしにより、同町有志者及び報徳社員諸氏は同報徳館内に於て送別宴会を催し、参会者三百余名あり。頗る盛宴にてありし(4)と。(1)明治29年時点で鈴木藤三郎は、元森町報徳社副社長兼遠江国州立報徳社幹事であったことがわかる。いわゆる重任である。「元」とあるのは、前年明治28年12月、森町報徳社は遠江国報徳社から無利息貸付の扱いについて意見を異にして傘下報徳社25社とともに脱退し、「報徳報本社」を名乗っていたからである。明治28年11月18日の同設立協議会では、社長新村里三郎、副社長多米八郎とあり、鈴木藤三郎の名前はない。そこで「元森町報徳社副社長」としたものであろう。この時、祝辞を述べたのは、水野東運、吉岡報徳社吉岡啓二社長、平島報徳社幹事三浦慶明、川野村報徳社副社長宮脇弥惣治とごく限られており、徹底的に遠江国報徳社から無視されていることが分る。(2) 藤三郎は明治29年(1896)7月14日、横浜から太平洋汽船会社のベルジック号で出発した。第一集p53-74にこの米欧旅行の概要を紹介した。また、鈴木藤三郎の業務日誌といえる「米欧旅行日記」については第3集史料集に登載した。(3)鈴木藤三郎は、明治29年(1896)7月14日に海外の精製糖業視察と機械購入のため、米国に向けて横浜を出帆し、7月31日にサンフランシスコに着いた。8月29日に米国を去って、9月4日にロンドンに着いた。英国内地の視察を終って、11月8日に大陸に渡り、フランス・ドイツの両国を回って、12月17日に再びロンドンに帰った。それまでの調査によって最も優秀な工場を選抜して、競争入札の方法で精製糖機械の購入した。そして明治30年(1897)2月9日にこの使命を果しロンドンを去り、3月14日シンガポールに到着し、原料糖の産地のジャヴァ島内を視察し、4月23日台湾に寄り、5月8日に帰京するまで、約11か月にわたって地球を完全に一周した。 したがってイタリア、ロシア、インド、朝鮮は寄っていない。またこの当初の12月下旬帰国予定からすると4ヶ月以上も世界の製糖業視察を行ったことになる。この旅行で鈴木藤三郎は日本糖業界における第一人者として認知されたといってよい。この視察旅行の知見と最新技術の習得は、後に台湾製糖株式会社の初代社長として製糖工場建設のときも設計図から社長自ら引き、設置する諸器械も決定するというもので、外国人の専門家の助言指導等を受けることなかった。「台湾製糖株式会社史」においても「工場の設計設備に、最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏だった。氏は我が国における新式糖業のなお渾沌たる時代に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界の最高権威者と称せられた人である。(略)1888年(明治21年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中の一小図版を参考として設計図を作成し、当時のならわしだった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るがごとき策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏その他を用い、実際の仕事を進めたが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」(第1集p94-95)と感嘆している。当時常識だった御雇い外国人による近代産業の受容というのは一線を画しており、日本人だけで独力で発明・工夫改良によって産業を発展させるという日本における産業振興の方法の先駆けとして称揚するに価する。(4)鈴木藤三郎が長期にわたる単独(通訳なし)の世界旅行をなすにあたり、一旦墓参りのため故郷の森町に帰り、明治28年6月19日、報本社の報徳館で盛大な送別会を開いていたのである。💛きのう、仕事の帰り、センターによると追加の「技師鳥居信平著述」数十冊届いていた。先に400冊送ってもらっていたのが、すべてはけて中国・九州地方の図書館あての本が不足して追加で送ってくれるよう頼んでいた。 また小田原図書館などのあて先不明で返送のスマートレターが3個センターに届いていた。 図書館の建て替えなどで旧の住所になければ、現在の郵便局はすぐに返送手続きとなる。 トラブル防止のためでやむをえないのであろうが、個人あてだと転送先にとどけてくれるのに、あてさきに図書館名が明記されているから転送してくれればと思いながら、図書館の宛先をインターネットで調べて、新しいスマートメールに住所を書いて中身をつめかえて発送する。 きのう笠木シヅ子さんの買い物ブギ(https://www.youtube.com/watch?v=Q_tHACJ12kw)をユーチューブで見ていたらこんな文句があったなあ。 わてほんまによう言わんわはあ、わてほんまによう言わんわ
2021年05月11日
『二宮尊徳と日本近代産業の先駆者』の表紙は、鈴木藤三郎が「至誠・勤勉・分度・推譲」の掛け軸を見て深く思いを巡らせている、藤三郎の自画像です。「至誠・勤勉・分度・推譲」は、二宮尊徳の高弟富田高慶が『報徳論』の序文で整理した報徳の四大原理です。掛け軸には横に「報徳」と大書してあり、「誠心を本となし、勤勉を主となし、分度を体となし、推譲を用となす」と書いてあります。至誠であって一生懸命働き、生活に一定の限度を設ければ余剰(よじょう)が生じます。その余剰を推(お)し譲る、これが報徳です。推譲には「自譲」と「他譲」があります。「自譲」は自分の老後や子や孫のために譲るもので、誰でも行うことができる。これに対し「他譲」は、社会のため、後世のために譲るもので、報徳の教えがなくては、了解しがたいのです。報徳の教えを学ぶ意義はここにあります。そしてそれぞれが「報徳」を自らの生活に生かす、たゆまぬ実践が必要となります。岸右衛門も尊徳先生の説かれる報徳を了解するのに七、八年かかり、鈴木藤三郎も数年間、一心に研究して了解したのです。彼らは、その生涯をかけて、自らがつかみとった『報徳の精神』を実生活で実践し続けたのです。 二宮尊徳は、「原一変して田となり、田一変して稲となる。」「それもと一円不徳なり。不徳転変して聖賢となる。」(全集一巻三九三・二八ページ)と記しています。佐々井典比古先生は、これを引用されて、「われわれが、どんなにひどい物的・心的荒廃に直面しよとも、たじろぐ必要はない。『荒地は一変して田となり、不徳は転変して聖賢となる』―われわれに限りない勇気と希望を与える」とおっしゃっています。(『報徳の裾野』二一九ページ)報徳とは、精神変革、転変の思想なのです。
2021年04月19日
「駿河土産」より抜粋南方なる一丘に馬をつなぐ。小林ありて林外に一亭あり、林中に小神祠を置き、そのかたわらに古石碣(いしぶみ)あり、『柾薗貞純親王塔』と鐫(せん)す。更にそのかたわら近くに一碑を建て、鈴木氏その由来を書してこれに刻す。白石氏そを写し取れるに曰く、『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』2012年12月27日 裾野市桃園神社にて「黎明日本の一開拓者」「明治35年(1902)に、父(藤三郎)は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(今の裾野駅)から北へはいった所で、前に奔巌を噛むという形容詞そのままの黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、遥かに富士を仰いだ眺望絶佳の仙境である。この農場の面積は、約百町歩にわたる大農場であってその中に16町歩の茶園を主として、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、桜桃、柑橘、びわ、栗等)、蔬菜園12町歩、山林約50町歩であって、また牧畜部には乳牛60頭、種牛1頭、馬11頭、鶏500羽等が飼育されていた。11戸の常農家族が農場内に住まい、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いた。 父は既に商業、工業、植民地農業に応用し、非常な効果をあげた報徳の仕法を、ここで内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳流の経営の規範を完成して、二宮翁の遺徳に報いたいという念願を起したものであろうと思われる。」桃園神社の前が定輪寺がある。定輪寺は、弘法大師空海が開創したとされ、清和天皇の第2皇子貞純親王が桃園山定輪寺と名付け、当初は真言宗の寺であったが、永享12年(1440年)に曹洞宗に改宗した。寺は室町時代の連歌師宗祇と深い縁があり、箱根湯本で客死した連歌師宗祇の墓や句碑が置かれ、直筆の写経も伝わっている。 「東照宮御実紀巻一」に「かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」 桃園親王とは 首途(かどで)八幡宮の説明に次のようにある。「今出川通智恵光院を北へ入った西陣の一角に首途八幡宮がある。もとの名を「内野八幡宮」といい、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる。大内裏(御所)の北東(鬼門)に位置したことから王城鎮護の社とされた。この地は清和天皇の第六皇子であった貞純親王の邸宅・桃園宮の旧跡。邸宅は広く、庭園は池と築山を中心に周辺に桃の木が植えられ、春になると一斉に桃の花咲き、桃花祭が執り行われた桃園だったことから、貞純親王は桃園親王とも呼ばれていた。」 貞観15年(873年)? - 延喜16年5月7日(916年6月10日))は、日本の平安時代前期の皇族。桃園親王とも呼ばれる。清和天皇の第六皇子で母は棟貞王の娘。王子に源経基、経生王がいる。経基王、経生王は共に源姓を賜り臣籍降下している。清和源氏の祖とされている。ほか、兄弟に貞保親王がいる。 清和源氏とは、第56代陽成天皇の6番目の息子であった貞純親王から、源氏の姓を賜っている。系統的には、この貞純親王(さだすみしんのう)→ 源経基(みなもとつねもと)から、武家として流れを汲んでいるようである。
2021年04月03日
鈴木藤三郎と藤田組創始者藤田伝三郎との接点はあるのか?台湾製糖株式会社の株主として同じく500株所有している。台湾製糖株式会社の株主としての接点はある。五百株 大阪 藤田伝三郎五百株 東京 ロベルト ウオルカー アルウヰン五百株 同 鈴木藤三郎台湾製糖株式会社の株主として同じく500株所有している。1897(明治30年)藤田伝三郎、久原庄三郎らと北浜銀行設立、初代頭取は久原庄三郎、二代は渡辺洪基、三代は原敬。実質の経営は岩下清周があたった。1910(明治43年)日本醤油醸造株式会社、工場焼失により倒産。1913(大正2年)鈴木藤三郎死去1914(大正3年)生駒トンネル貫通。ゴシップ新聞が大阪電気軌道・大林組への北浜銀行の融資が不良債権化していると書きたて二回の取り付け騒ぎを起こして、日銀が特別融資して救済に乗り出した。岩下は私財を提供して回復に努力したが、結局辞任し、旧鈴木農場へ隠居した。岩下清周1. 生い立ち岩下清周は 1857(安政 4)年 5 月、信州松代藩士岩下左源太の次男として生まれた。3 歳の時実父を亡くし、叔父章五郎の養子となった。しかし、この養父も岩下が 17 の時に亡くなっている。松代は真田幸村、佐久間象山、勝海舟らを排出した土地柄である。岩下は藩の士官学校の生徒となり、練兵術やフランス語を学んだ。1874(明治 7)年、18 歳の時上京し、築地英学塾に入学して、英国人宣教師ウィリアムスから英語を学んだ。さらに、1876(明治 9)年東京商法講習所が開設されると、岩下は同所に入学し商業学を学ぶことになった。同講習所の初代所長は矢野二郎であった。『岩下清周傅』によれば、東京商法講習所の看板を発見し、そに他府県人からは東京在籍者より授業料を高く取ると書いてある。それはどのような理由からかと、自ら同所を訪ねたことがきっかけで、矢野二郎の知遇を得たとある。岩下は、矢野の全面的な援助により、商法講習所に入学することになった。翌年、三菱商学校が開校すると、商法講習所の卒業を待たず転校、矢野の下を去った。しかし、三菱商学校を修了後一時母校の英語教師につくなど、三井物産入社まで引き続き矢野の世話を受けていた。2. 三井物産時代岩下は 1878(明治 11)年三井物産に入社した。当時の物産は益田孝社長の下、政商的な商売から近代的商社への改革を進めているところであった。海外貿易の発展のため、学卒者の採用と従業員研修制度の充実に力を入れていた。入社後約 1年半の国内勤務を経験した後、岩下は 1880(明治 13)年 6 月ニューヨーク支店勤務となった。同支店は海外荷為替取業務が主たる機能であった。 しかし、同年横浜正金銀行が設立され、荷為替取扱業務が同行に継承されると、ニューヨーク支店の存在意義は低下し、翌年以降は開店休業状態となった。岩下は、1882(明治15)年春突然帰国し、貿易拡張の必要性を本社に説くという行動に出た。重役らの同情は得たものの会社の方針として採用されるところとはならず、岩下が再渡米してまもなく同支店は閉鎖となった。このあと岩下はパリ支店に移り、1883(明治 16)年春支店長となった。パリ支店の営業状態もニューヨークと同様のものであった。だが、岩下はパリの地で多くの日本人と接触することになった。とりわけ、当時のパリ支店長宅はあたかも日本人クラブのようで、岩下は後に創設される日本人会(会長原敬)の役員になったりもしていたという。岩下はここで、伊藤博文、山県有朋、西郷従道、品川弥二郎、西園寺公望、桂太郎、寺内正毅、山本権兵衛、斉藤實ら、時の政界の実力者と面識を得た。普仏戦争におけるフランスの敗因が兵器の不足にあったのを知った岩下は、兵器の自国生産を持論とするようになっていた。1885(明治 18)年春突然帰国した岩下は、陸海軍省に兵器自国生産を進言した。当時の日本の技術力や軍関係の資金力では実現は難しいとしてこの進言は却下された。落胆のうちにパリに戻った岩下は、シンジケート団による外資の導入などを盛り込んだ計画を策定し、再び帰国して軍当局に進言したが、これも容れられることがなかった。岩下は再度の渡仏を断り、しばらくして、三井物産を退職した。それと同じ年(1888 年)、パリ支店は閉鎖となった。国も会社も岩下の理想と考える工業化推進策や新しい産業金融政策の支援者とはならなかった。3. 自営事業と三井銀行時代 三井物産を辞した岩下は、物産社長の益田孝や矢野二郎の支援を受けて、1889(明治 22)年品川電灯を創立した。益田は電灯事業の将来性を買っていた。遊郭という電灯の有力な需要者も近隣にあった。同社の資本金は 5 万円、益田孝、平林平九郎、鳥山利定らが株主となった。しかし開業後まもなく原因不明の出火、これが経営に大きな打撃となり、同社の経営は断念され東京電灯に合併されることになった。1890(明治 23)年、桂太郎の実弟桂二郎と杉村二郎が創立した関東石材会社が経営難に陥るなか、岩下は同社の取締役に就任した。岩下は技術面、営業面で相当の工夫と努力をしたが、同社の経営改善は進まなかった。1891(明治 24)年の秋、同社を辞した。その同じ年、岩下は矢野二郎の勧めで三井銀行に入行した。三井銀行は松方正義の幣制改革の下で多額の不良債権を発生させ、整理が進まぬまま明治 23 年不況によってさらなる経営難に呻吟していた。抜本改革を決意した同行は、井上馨の進言を得て外部から人材を導入し改革を進めることになった。この改革を強力に進める人材として、福沢諭吉の甥で、山陽鉄道の社長をしていた中上川彦次郎を招いた。岩下の入行したのは、中上川の改革が進められている最中で、不良債権の整理や銀行業務の近代化、三井資本の工業化・事業の多角化が目指されていた。中上川はこの改革の推進のため、専門経営者となるべき慶應義塾出身者をはじめとする学卒者を多数採用した。岩下は、その中の一人であった。中上川の改革が進められるなか、三井改革の一環として大阪支店長の高橋義雄が三井呉服店のてこ入れのため異動することになった。空席となった同ポストには東京本社の岩下清周が就任することになった。1895(明治 28)年のことである。当時は日清戦後の企業勃興期であり、産業界の資金需要旺盛な時期であった。岩下は積極的な貸し出し方針を採った。すなわち、川崎造船所の松方幸次郎、その取引先の津田勝五郎、藤田組の藤田伝三郎などへ積極的な融資をした。北浜の株式市場、堂島の米穀取引所への金融なども始めた。以上はいずれも大阪支店の分限をはるかに越えたものであった。岩下の行う証券・商品取引所関係への融資は、工業会社のみが同行の貸出の対象と考えていた中上川の方針に、実質的に違背するものであった。中上川は、この時三井内部において、益田孝や井上馨らと改革方針を巡って激しく対立していた。そのさなか岩下によって実施された、井上と親しい間柄である藤田自身やその紹介による株式所関係者への破格の融資は、中上川と岩下の対立を決定的なものにしていった。岩下は大阪支店長から横浜支店長への転任を命じられた。岩下はこれを断って、当時大阪財界の巨頭であった藤田伝三郎の後援で新銀行設立に動くことになった。4. 北浜銀行の設立と岩下の企業者活動北浜銀行は 1897(明治 30)年 3 月営業を開始した。頭取には藤田伝三郎の実兄で藤田組役員の久原庄三郎、取締役には平野紡績社長金沢仁兵衛、川崎造船所社長松方幸次郎、西成鉄道監査役鷲尾久太郎らが就き、岩下は常務取締役として出発した。また、監査役には大阪株式取引所(以下「大株」という)監査役の阿部彦太郎(旧米穀問屋)、大株理事坂上真二郎(株式仲買人)、大株理事の磯野小右衛門(大阪米会所初代頭取)ら 3 名が就任した。役員は藤田伝三郎関係の大阪財界人および大株関係者など、いずれも岩下の三井銀行時代の取引先およびその関係者である。北浜銀行は資本金 300 万円、筆頭株主は 1790 株を保有する藤田伝三郎で、1000 株以上保有者 2 名、500 株以上保有者 6 名など 100 株以上保有者 142 名で以上が全 6 万株中の 53%、99 株以下所有者が 1354 人で全体の 47%を占めるという具合で、経営権を左右するような決定的大株主あるいは勢力も存在していなかった。これが岩下の行ったリスク受容度を越えた奔放な融資活動に、ブレーキがかからなかった組織的要因の一つとなっていく。1903(明治 36)年 1 月、岩下清周は北浜銀行の頭取に就任した。これ以降、第 2 表に示す多数の企業と、融資活動、企業設立、役員就任などを通じて関係を深めていくわけだが、主な業種は電気鉄道、ガス、電気で、それ以外の製造業は少数である。第 2 表の企業と岩下との関係を『岩下清周傅』により簡単に見ていこう。西成鉄道とは、北浜銀行第 2 位の株主鷲尾久太郎が、西成鉄道株の思惑買に失敗した折、決済資金を用立てるためにその株を買い取り、以後、岩下が同社の社長として経営に参加したという関係である。箕面有馬電気鉄道は、阪鶴鉄道の株主を中心として設立計画が持ち上がったが、日露戦後恐慌により半数近くの株式の払込みがなく失権となった。そのため会社の設立が危うくなったところへ、岩下の友人である同社専務小林一三のために北『機関銀行』銀行を設立」を目的とするというもので、藤田伝三郎の存在なしにはあり得なかったものである。頭取は藤田の実兄、役員の多くが大株関係者という陣容であった。岩下の地位という観点から企業創設活動を見ると、井上・益田らのリーダーシップが存在するケースでは西成鉄道、日本醤油醸造、豊田式織機がある。同僚と同等の地位で関与しているのは大阪瓦斯や広島瓦斯・広島電気軌道である。また、岩下が相対的に優位な立場にあるものとしては箕面有馬電気軌道、大阪電気軌道、電気信託、日本興業、和泉紡績がある。第 2 表にある関係会社を見るとき、岩下が多くの企業に対して設立当初から関与していることがわかる。岩下と関係する事業会社とは、当初より、株式保有や設立関係者への資金供与によって強い結びつきを持ち、北浜銀行はそれらの企業への長期固定的な融資や、社債発行への保証などの形でのハイリスクな信用供与を行っていった。西成鉄道との関係は「①経営難を理由に関与を深め、・・・」のケースである。西成鉄道は、1893(明治 26)年、大阪府西成郡商人江川常太郎らによって計画された臨港鉄道計画であった。1898(明治 31)年に国鉄大阪駅から大阪湾の安治川口まで、1905(明治 38)年には安治川口から天保山まで路線延長されたが、東海道線と大阪港とを結ぶ小貨物鉄道であった。政府は敷設当初より、軍事的重要性を指摘し、同鉄道の国有化をほのめかしていた。同社監査役に鷲尾久太郎がいた。北浜銀行の取締役、第 2 位株主でもあった。その鷲尾が、国有化の噂を聞きつけ、親戚や株式仲買人らと諮り、大阪株式所を舞台に同社株の思惑買いに出た。西成鉄道の資本金は 1897(明治 30)年に 55万円の増資をして 165 万円となり、1899 年までに全額払い込みが終わっていた。同年 11 月開幕の第 14 議会において、私設鉄道国有法案や私設鉄道買収法案が提出されたが成立に至らなかった。国有化期待から、1900(明治 33)年 2 月には70 円まで上昇した西成株も、法案不成立が望み薄となるや忽ち大暴落し、同年中に 33.5 円まで下がった。1899 年 11 月以来株を買い占めていた鷲尾の購入株数は1 万株を超えた。だが、払込期限までに資金のやり繰りがつかず、北浜銀行に救済を求めてきた。北浜銀行の役員らは鷲尾救済を決め、鷲尾家所有の動産不動産全部を抵当として多額の融資を実施した。その額約 84 万円に上り、1902(明治35)年頃、その貸金の整理のため西成株 1 万 5 千を北浜銀行が保有することになった。もし西成株と鷲尾家の動産不動産が貸金 84 万円の抵当として減価著しいとなれば、この貸付は北浜銀行に多額の不良債権を発生させることになる。減価が取るに足らないものであったとすれば、北浜銀行にとっては、いずれは国有化されるという見通しをもっていた同社株式を大量に保有することは悪い話ではなかったかも知れない。北浜銀行はその後も西成株を買い増ししており、鷲尾の西成鉄道乗っ取りを阻止したとの評判は、乗っ取りを利用したと修正されるべきとの疑念も浮上する。北浜銀行は、他の国有化見込みの鉄道株も買い入れており、むしろ同行が鷲尾の持つ西成株の買入れに積極的であった可能性が高い。もしそうだとすれば、株式購入を目的としたリスクの高い資金を融資したうえ、株の仕手戦の末席に陣取るというような、通常銀行がとるとは考えられない異常な行動との見方もできよう。岩下の第 2 表に見る広範な事業会社への関与を支えた、北浜銀行の資金源泉・経営的基盤はどのようなものであったのだろうか。北浜銀行の資金の大部分は資本金であるが、その他に借入金も高い比重を占めていた。1909(明治 42)年以降になると、資金的にかなりの窮境にあったものと見られ、定期預金が急増し、「他店より借」の比重が異常に高まっている。これはなりふり構わずに集めた高利資金と、為替尻の大幅な借越を利用して、資金的な逼迫を打開しようとしたものと見られる。資金繰りはかなり困難であったのだろう、1907(明治 40)年には、公称資本金の 1000 万円への増資を決定している。しかし、払い込みが進まず、大量の失権株を生じ、偽装払い込みを行なわざるを得なくなった。『岩下清周傅』では、このことが北浜銀行の破綻の原因の一つとなったとある。払い込みは第 2 回、第 3 回と行われたが、毎回失権株を生じていた。資金源泉は逼迫しているにもかかわらず、北浜銀行の貸出金は増加を続けた。これは、岩下の関係会社への貸付の不良債権化とその累積の指標である。また、同行の貸付金・当座預金貸越の担保品構成は、1906(明治 39)年 6 月期以降、株券の比重が急増し、その他の項目の比重が低下している。とりわけ、国債や不動産の比重の低下が著しい。このような経営難のなかにあっても、北浜銀行は証券業務、とりわけ公社債の募集・引受・受託業務を継続していた。5. 北浜銀行の破綻1914(大正 3)年 3 月、新聞が北浜銀行の内情を暴露した。預金者らは同行に殺到し取り付け騒ぎとなった。地方の銀行は為替尻の回収に急ぎだし、大口預金者の取り付けも始まった。同行は、所有株券や公債類を担保に日本銀行より融通を受けつつ、その場その場を切り抜けて来たが、ついに収拾かなわず破綻した。経営責任をとって岩下清周は頭取を辞任した。破綻の直接の引き金は才賀電気商会の救済及び大阪電気軌道優先株発行の失敗にあった。さきに、日本興業と電気信託とは才賀電気商会の救済のために設立された会社だということを述べた。才賀電気商会は、80 社を超える電力・電鉄事業を支配して、電気王といわれた才賀藤吉の経営する企業である。岩下は福沢桃介とともに電力事業への投資をもくろむインベストメント・トラストのような企業の設立を企画していた。北浜銀行の口座貸越担保中の株券の割合が 7 割を占め、他店借りが 180 万円を超えてピークに達した時期である。北浜自身の資金繰りが非常に厳しい状態にあった。才賀電気商会は明治 43 年恐慌のあおりを受け、1912(明治 45)年 9 月、1000 万円の負債を抱えて倒産の危機にあった。福沢が電気信託から手を引いたため、岩下は自らが社長となり、専務の速水太郎に大林芳五郎、郷誠之助、志方勢七、山本丈太郎、松方幸次郎らを加えて開業した。業務はもっぱら才賀商会の救済であった。才賀に対する融資の大部分が株式担保によるもであった。融資実施後も才賀の経営はいっこうに改善することはなかった。それは徐々に電気信託の能力を越えるものとなっていった。大林芳五郎の判断によれば、事態は、「才賀商会の窮境が導火線となって北銀に波及する」というところまで来ていた。電気信託の仕事を引き継ぐため、1913(大正 2)年、 日本興業が設立された。同社の経営陣は社長が岩下、速水が専務でその他の陣容も電気信託と同様のものであった。同社は、才賀電気商会の営業及び資産・負債を引き継ぐことになり、「株金は発起人において一時取り替え払い込み」を行い、別途社債を発行することになった。債権者には日本興業の株券か社債を交付して、それに応じない場合担保品を処分することにした。また、大口債務に対しては 2 年間の据え置き後 5 年以内に償還することにした。岩下は、才賀商会の破綻が北浜銀行の破綻へと波及するかも知れないとの予見をもっていた。それゆえ、才賀の経営危機は岩下にとって放置できるものではなく、岩下グループにとっても最重要事項であった。しかし、才賀救済の努力には北浜銀行がさきに破綻にしたことで終止符が打たれた。北浜銀行破綻時の負債額は、総計 765 万円を超えるものであった。これまで見てきたように、不良債権が累積した原因は、岩下の放漫な貸出政策にあった。北浜銀行の破綻直前の株主は、第 1 位には 7000 株の藤田組と大林芳五郎、次に 5300 株の谷口房蔵、第 4 位が岩下清周の 4720 株となっている。北浜銀行は取引所の「機関銀行」として設立され、取引所関係の預金取り扱いや決済資金を提供してきた。しかし、それらの役割は少しずつ後退して、破綻直前には、岩下の関係企業や北浜銀行大株主の経営する事業会社への大口融資が太宗を占め、それらがまた不良債権化し、同行の体力を弱めることとなったのである。北浜銀行は片岡直輝、永田仁介、土井道夫らの手で整理が付けられ、1914(大正 3)年 12 月営業再開した。整理の過程で、岩下のリスク管理能力の欠如や決算操作や各種粉飾を重ねる乱脈経営などが明らかとなった。岩下は、大株仲買人らの投機筋と親密な結びつき、北浜銀行を舞台に、彼らの思惑に先導された投融資を重ねた。それらのハイリスク投資が不良債権化しても、損切りができずハイリターンをねらってどこまでも救済にこだわるという、投機家的思想が岩下を支配していたように思われる。そう考えると、北浜銀行が行った大阪電気軌道や箕面有馬電気軌道などへの融資が、この投機的発想から出たものだということになり、岩下の企業家的側面の評価をいっそう難しくしている。💛鈴木藤三郎と岩下清周とのかかわりは未明の部分が多い。専門的な研究が必要となろうが、今のところそうした作業に従事する研究者が見当たらない
2021年03月06日
「台湾に地下ダムをつくった日本人技師鳥居信平の著述集を出版したい」プロジェクトの目標金額を達成したので、ご報告させていただきます。皆様のご支援、ご協力によりプロジェクトが成功しましたこと、感謝申し上げます。支援者数:47人💛令和の47士みたい。感謝申し上げます。2月末でプロジェクトは終了し、3月には印刷し、4月には支援者のお手元に「資料で読む 技師鳥居信平著述集」をお届けいたします。以前、北海道に住む友人に クラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と札幌農学校の生徒たちに別れを告げた島松の駅逓あとに案内してもらったことがあります。そこには資料館があり、案内してくださったのは「元土木屋です」というボランティアの方で詳しく教えてくださいました。その折に、札幌農学校2期生で内村鑑三や新渡戸稲造らと同期生だった広井勇(ひろい・いさみ)について「広井先生は 広井公式と呼ばれるものを作られて現在でもつかわれている偉大なエンジニアですが、新渡戸らに比べて知られていなくて」と嘆かれていたことが印象的でした。そこでまとまたのが「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 広井勇と青山士」です。放送大学のIは、広井山脈ともいわれる広井勇とその教え子につながる青山士、八田與一に連なるエンジニアを尊敬されていて、第4集から生まれた本を「エンジニア・シリーズ」と呼んでくださいました。鳥居は広井山脈とは関係はなく、忠犬ハチ公の飼い主でもある東京帝国大学上野英三郎教授の教え子ですが、台湾に地下ダムをつくって大型機械を用いて荒蕪地を開拓し、その環境にやさしい地下ダムは現在でも利用され現地の人々に感謝されています。エンジニア自身の書いた論考やインタビュー記事を時系列にそって順序正しく並べる方法(これはカーライルの「クロムウェルの手紙と演説(クロムウェル伝)」にならった手法です)で編集されたエンジニア・シリーズはおそらくは今後の日本の技術者の再発見、再評価へとつながるものと思います。本プロジェクトは鳥居の軌跡と関係の深い静岡県、徳島県の地方紙、朝日新聞の地方版でも記事となり、クラウドファンディングならではの広報によって静岡ー徳島ー台湾をつなぐものとなりました。おそらく新しく生まれ出るこの本は、この本自体が使命をもってこの本自体の運命を切り開くことでしょう。編集にたずさわった者として、クラウドファンディングの目標を達成できたこと、そして支援してくださった方に感謝します。また今後この本に触れられるであろう次の世代の方々への贈り物となることを感謝します。「わたくしたちは前の世代から多くの恩恵を受けて今ここにこうして幸せにしていられる。 そうであれば、わたくしたちもまた何か良いものを次の世代に残さなければならない。」これが鈴木藤三郎が感得した「報徳の精神」というものです。
2021年02月18日
「瑞 竹 林」 文:利純英 今から述べるこの「瑞竹」は、そこら辺の竹林に生えている普通の麻竹とは違ういわれがあった。のちこの麻竹は「瑞竹」と命名されるが、日本統治時代台湾の製糖会社内で麻竹を植えていたのは南投の竹山製糖所だけだった。麻竹は当時屏東製糖会社の工場の中庭で大切に保育され、こんもりと生い茂っていた。麻竹は、日本の東宮皇太子が屏東製糖会社の工場を見学するとき、臨時の休憩所として設備された囲いの柱にこの麻竹を使用した。今から82年前のことだった。神化されたこの麻竹の由来をたどってみることにした。 1922年日本の宮内省は、当時東宮皇太子であった昭和天皇裕仁の台湾巡視のプロジェクトを練っていた。宮内省は、台湾の製糖所見学をスケジュールの一つとしてもりこんだ。だがどの製糖所にするかは慎重な態度で臨んだ。宮内省は、中部の製糖所を選んだのに対して、台湾総統府と台湾製糖会社は台湾南部の屏東製糖所を選んだ。南部は高温多湿、マラリヤ、デング熱、チブス等、悪疫のもっとも多き地方であった。このことが東宮皇太子の耳に入り「屏東が如何に酷熱の地と雖も、そこには多くの人々が作業に従事、努力しているのであろう。見学するならば、一番暑い、一番南のその工場を是非選定すべし」と、屏東製糖所を選んだ。賀来総務長官が下見検分のために屏東へ派遣された。そして更に上原元帥、西園八郎なども予め検分に屏東へ赴いた。台湾の4月末と言えばもう気温が高く、工場の中は大変暑く、特に4階にある砂糖を結晶させる結晶室の室温は著しく高く、50℃を超えていた。宮内省は、始め虎尾、蒜頭、阿緱の3ヶ所に白羽の矢をたてた。ところが虎尾、蒜頭は交通が不便ばかりではなく治安にも問題があったので、最後に屏東製糖所が選ばれたと言う説になっている。各製糖会社はそれとは知らず、みな競って歓迎の準備におうわらわだった。当時の台湾製糖会社の総務、営業部長筧干城夫は、のち、台湾製糖会社最後の日本人社長になるが、その時は4番目ポジションの総務、営業部長にいて歓迎の総元締めに任命された。営業部長筧干城夫は、粗相のないように全力投球でこれにあたった。筧部長は、165cmの小柄、体重が50kg前後で痩せていて、顔は細長く父は岡山県津山藩士の出、東京帝国大学法科のエリートだった。そしてまたスポーツマンでもあった。卒業後まったく畑違いの道を選び、台湾製糖株式会社に入社すべくテストを受けた。テストにはソロバンの技能と簿記の能力が試された。ソロバンは小学校以来さわったことがなかったので苦戦、思いもよらないことになった。試験官からもう一度珠算を身につけてから出直すように言われた。練習に練習をかさね、再びこれにアタックし見事に入社をはたした。入社後、本社の命を受け筧干城夫は暫く台湾のあらゆる製糖会社を見てまわった。その後、橋仔頭製糖所に派遣された。給与は学校の教員よりも少ない40円だった。その後、農務課の各部所を転々として仕事を覚えて行った。今度は工場の作業員を命ぜられた。これも同様に工場の各部所を転々と廻され仕事を覚えて行った。そして工場長に任命され、やがて台北製糖所長に任命された。その時、筧干城夫は若干27才の若者で、破格の昇進だった。古今を通じて27才で所長のポストに座った例はない。その後、屏東製糖所所長に昇進した。筧干城夫は戦後まで屏東に住んでいた。1946年その年、アメリカの引き揚げ船を待つため、高雄港の倉庫のコンクリート床でゴロ寝し、苦しい日々を過ごした。屏東製糖所と旗尾製糖所の日本人社員を日本に連れ帰る責任者であったため、心身ともに疲労し、体重は30キロまでに落ち込んだ。広島県大竹港に上陸、予告なしでやっと辿り着いたのが逗子に住んでいる娘の家に突然闖入した。娘はその日、半狂、半幽霊姿の父が玄関に飛び込んできた姿を未だにゾーとする表情で語るのだった。筧部長に大変信用された一人の台湾人がいた。それは唐栄鉄工所のオーナー唐栄だった。荒れ狂うクーリと呼ばれていた男達を束ね、顎でしごくエビス顔の唐栄を何時も褒め称えていた。長男の唐傳宗は父を後盾に唐栄鉄工所を創設した。正直で一点張りの唐栄は、筧部長に見込まれ、屏東製糖所と東港製糖所の請け負いの仕事を一手に任されていた。一切のプレゼントを断る筧部長が喜んで唐栄から貰う品があった。年に一度だけ旧正月に赤茶色の台湾餅一片を勝手口に本人自身か長男の唐傳宗が届ける。甜餅は筧部長の大好物であった。唐栄の立派な館は今も屏東川のほとりに立っている。唐栄死去のあと本人の墓には筧部長から送られた石碑が建っていた。外省人を嫌う唐栄親子の会社は、その後政府の手によって潰された。筧部長の子息は筆者の兄とは屏東小学校のクラスメートで、日本でも有名な建築博士で戦後何度か屏東製糖所を訪れていた。1923年つまり大正12年4月22日、裕仁皇太子一行が屏東製糖所に姿を現した。その日のために工場の従業員は純白でマッサラなユニフォームが一人一人に配られた。こうべを垂れ、頭を上げて皇太子を直視することは許されなかった。社内には皇太子の休息に当てるため、臨時に竹と茅、甘蔗の葉などで組み立てた仮便殿を作った。クーラーのなかった時代暑さをしのぐのには格好の良い場所だった。ここで台湾製糖会社社長を初め社員3名だけが謁見を許された。NO4のポストにいた筧干城夫は仮便殿の入口で監視の目を光らせていた。一説では柵内で休息中皇太子の目にとまった竹材から新芽が生えていた。皇太子はこれに近寄り暫く手を触れ眺めていた。屏東製糖所はこれは良き祥瑞の兆と思った。皇太子が去るとこの発芽したばかりの竹を切り取り工場事務所の庭に移植し柵を作り大切に育て「瑞竹」と命名した。やがて竹は生い茂り林となり、何時しか瑞竹林と呼ぶようになった。筧干城夫は後、次のように語っていた。竹は台湾の中部、台中県竹山鎮竹山村の麻竹林の中から特選した竹材で闇夜にランタンの淡い光を頼りに切り出したのを柱とし、仮休所を急造した。当時、突然宮中に不幸があり、予定のスケジュールが10日ばかり俄かに延期された。やむなく、その竹材を蓆に包み、陽光を避け、倉庫に置き、時々冷水を吹きかけ、竹の美わしき自然の緑を保たせるよう大切に取り扱った。間もなく4月22日行啓と確定、到着の当日には、その節の芽9つは約2-3センチ程にのびてきた。殿下の一行には、伏見宮博恭王殿下の外、牧野宮内大臣、珍田東宮太夫、西園寺從がいた。筧干城夫と高校時代の親しき寮友、白根宮相秘書官が随伴していた。筧干城夫は白根に、核発芽部分を指示し瑞祥を語った。白根は遠慮もなく殿下の近くにすすみ、その芽を不思議そうに見つめるので竹の由来を説明した。植物学者の殿下は、直ちに竹に近寄り、その芽に手を触れられて、山本社長からもことの一抹をきいた。その殿下と社長と白根の傍らで、様子を見ていた筧干城夫は、そのご平山専務と共に社内全員の苦心、協力を得て、発芽部分に土を与え根を張らせ、更に地上に下し、完全に活着させたのであった。日程が延期されたこと、日陰にて手厚く注水保護したこと、白根秘書官を介して殿下が手を触れたこと、更に鶴の一声にて実現したことが、目に見えなぬ要因となり瑞竹の誕生をみた。皇太子の御臨を記念して屏東製糖所は、毎年4月22日にはこの瑞竹林の前でセレモニーを行った。そのご、屏東市民や小中学校の生徒を動員しセレモニーを挙行、そして阿緱神社の神主を招きお払いなどをした。ある高校の教諭がこの日を記念する歌を作詞作曲した。歌詞は次のようになっていたと思う。「時は大正12年、4月の22日こそ、あまつ日御子いでまし、おでまし、目出度し目出度し、お目出度し」 参加した人たちには紙袋に入った白と赤の福饅頭が配られ喜ばれた。特に発育盛りの小中学校生にとっては。瑞竹林のものがたりは初等、中等の教科書に記載され、各種の機会に喧伝され、瑞竹は日本全国にその名が知られるようになった。昔屏東は高雄よりも発達していた。台湾製糖株式会社は明治42年西暦1909年に阿緱製糖所を建設した。甘蔗処理能力は3千トン、当時は、台湾一ばかりではなくアジア最大の工場であった。その後、瑞竹は台湾神社に匹敵するまでになった。瑞竹は日本の多くの高官が台湾を訪問した際にはわざわざ南下して瑞竹を参拝する。その数、年間万人を超えた。多くの皇族の姿も見えた。特記すべきことは、朝鮮の皇帝李王垠殿下が1935年1月26日瑞竹を参拝した。屏東製糖所に二人の皇帝が足を運んだことは前代未聞になった。戦後筧干城夫は、蒋介石総統から瑞竹杖が贈呈された。「瑞」は蒋総統の兄弟姉妹6人全員の氏名に冠した瑞-瑞元、瑞春、瑞蓮、瑞妹菊、瑞春、瑞候に縁があった。台湾引き揚げに際し蒋総統は、筧干城夫に対し、名所古跡の一つである瑞竹林の護持を将来に向かって確約した。そのご20年間確約を実行した経緯があった。屏東製糖所は1945年6月30日アルコール工場と砂糖工場が米軍の空爆で爆破され、2年後に復工、製糖が再開された。筆者は最近製糖所を訪れた。瑞竹林は、すっかり荒れ果て、誰もかえり見ない無惨な姿に変わり、昔の面影などは見当たらなかった。近年、国民党に変わって民進党が与党になった。台湾製糖公司は社長に呉乃仁を任命した。呉は立て続けに製糖所を閉鎖した。砂糖王国を誇り、多くの人々を養ってきた台湾製糖にピリオドをうち幕がおりた。42ヶ所あった製糖所も今はわずか3-4ヶ所となった。破壊はやすし、建設はむずかし、40 年間製糖人のはしくれとして製糖に従事した筆者はこのことを思うと、胸にじんと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。☆利純英氏から大量に送っていただいた橋仔頭糖廠の大量の写真の中で私を喜ばせた一つは、鈴木藤三郎氏の写真である。なんと台湾製糖初代社長として、その写真がきちんと残っていて公開されていた。わたし自身が「報徳記を読む会」で、今市の報徳二宮神社に奉納されている報徳全書が、鈴木藤三郎の寄進だと知って、感銘を受けたほどであるから、現代日本ではほとんど忘れられた人物なのである。鈴木藤三郎は「報徳社徒」と名乗って二宮本家に伝わった1万巻の日記、手紙、仕法書を3年近い年月をかけ、20人の書生を雇い、2,500冊にして奉納した。この鈴木藤三郎という人物を顕彰したいと願って「報徳社徒鈴木藤三郎という人」を作成して関係者に配った。それだけに台湾の橋仔頭製糖所跡に鈴木藤三郎の写真が大事に保管されていることは嬉しく有り難いことである。
2021年02月11日
大阪新報 1912.5.27 (明治45)北海の一大富源鈴木藤三郎氏述月曜講壇左に掲ぐるは鈴木藤三郎氏北海道視察所感の一部なり予は明治四十四年十二月厳寒を冒して北海道に赴き同地の漁業家が如何なる方法を以て其漁獲物を処分しつつあるかを調査したり、其結果、予は北海道に於ける水産業が猶極めて幼稚の域に在ることを看取し、且つ本邦の他の如何なる生産業にも譲らざる驚くべき一大利源が北海の沿岸全部に亘りて空しく閑却せられつつあるを発見し、頗る奇異の感に打たれざるを得ざりき、特に左に掲ぐる四項の如きは予の最も怪訝に堪えざりし所なり。第一、魚類は栄養価に富む食料品として需要の多大なること今更論ずる迄も無き所なるが、別て獣肉の高価なる東洋においては食膳の珍味として魚類の尊重せらるること、欧米諸国に超ゆるものあり故に如何に一時に多大の漁獲あるとするも、其処分方法にして完全ならば多々益益販路に苦しまざる可きは何人も疑を容れざる所なり。然るに北海の漁獲物は唯其一少部分が食料品に当てらるるのみにして、其の大部分は魚粕に製造せられつつあるなり。内地の一部には貧困にして食を動物性栄養品に採るの資力に乏しく、顔面皆菜色を呈しつつある一面に於て最も蛋白質及び脂肪分に富める生魚が人間の食料ならぬ植物の肥料に製造せられつつあるの有様なるを見たる時、予は第一に奇異の感に打たれざるを得ざりしなり。是れ豈厚生利用の道を誤れるものにあらずや。天下産業の進歩発達に意を注ぐ志士仁人少からずと雖も、一人の起って之が救済の衝に当らんとする者なきは実に照代の一大恨事と云わざる可らず第二、適当なる生魚処分の案出せられざる今日、漁獲物の大部分を肥料に製造する亦已むを得ざるに出づ可しとするも、之れを煮熟するに当りて生じたる液汁の大部分を悉く地に委して顧ざるは、是れ予が奇異に感じたる第二の現象なり。凡そ製造業なるものは粗なる原料に加工して比較的精なる物品を製出するを以て目的として精製の工程中に生じたる残物を以て槽粕又は副産物と為し肥料其他比較的劣等なる用途に充当せらるるを以て常態と為す然るに此の魚粕製造業に至りては最初より粕を製造するを以て目的となし、其原料中に包有する滋養分と美味とが浸出して濃厚となれる液汁を放棄するに至りては是実に天下の奇観と謂わざるを得ず、予を以て之を見るに右の液汁は精にして残れる固形物は粕なり。然るに北海の漁業家は精を捨てて粕を尊重し而も天下挙て之を怪しむ者なきに至りては予は其余りに不合理なるに呆然たらざるを得ざるなり。茲に於てか液汁利用の道自ら起らざるを得ず。第三、元来塩分は肉質の香味を毀損するものなるが故に総じて塩蔵品の味は乾製品に比して一段劣等の地位にあるは争う可らざる事実なり。殊に塩鮭及び塩鱒の如き、一定の時日を経過するときは俗に「油焼け」と称して一種異様の悪色を魚相に与え、価格の如きも肥料に比して遥に下位に在るの奇観を呈すること稀なりとせず。又鱈の如きも塩鱈と開鱈とは其の価格に著しき差異あるを以て近時或る漁業会社は北海より塩鱈を輸入し房州に於て塩分を除去したる上、開鱈に製造して広く市場に之を販売しつつあるのみならず、農商務省亦此事業を奨励して右の開鱈一尾につき何銭の補助を与えつつありと云うに至りては、予は其余りに迂遠極まるに喫驚せざるを得ざるなり。若し人あり、人工乾燥装置を其漁□地たる北海に持ち行き、直接に開鱈又は塩鮭、塩鱒の製造を開始するに於て其利益果して如何ぞや。第四、前述の如く乾製品及魚粕の製造は云う迄もなく乾燥を以て生命と為す。乾燥若し不充分ならんには、独り製品又は肥料としての価値を損するのみならず惹いて腐敗を招くこと多きは、何人も能く知る所なり、然るに北海の漁業者は此の重要条件たる乾燥は不確定なる天日に委任して顧みず。故に豊猟の時、若し不幸にして雨天ならんには其大部分は腐敗し、又雨天ならずとも日光に拠る乾燥は著しく長時日を要し且つ干場として広き地面を要するの不利なるのみならず、乾燥も亦極めて不充分且つ不平均なるを免れず。而して国家之が為め失う所年々幾百万円なるを知らざるなり。然るに漁業家は恬として此の欠陥を救わんとするの意志なく、天下挙げて亦此の損失を防ぐに力を致すものなきは、是れ予が奇異に感じたる第四の点なり。以上述ぶる所の四点は予が親しく北海の水産業を視察して最も痛切に感じたる不思議の現象なり。然るに此の不思議の存する所は即ち北海に一大遺利の存する所以にして、予は予の専門に属する機械の販路を開拓せんが為めに北海に旅行して計らずも驚くべき一大富源が此の未開の地に横たわれるを発見したり若し漁獲したる水産物に対し出来得る丈け之を乾燥して食料の方面に向け、尚お残余あるときは之を魚粕に製造し短時間に能く其水分を除去して品質優良の肥料と為し、而して魚粕製造の際生じたる魚肉精分の浸出液は別に之を利用するの道を講ずるに在り。而して右の計画を実行するに当りては予は多くの文明的利器を応用するの必要なるを認めたり。
2021年02月06日
最近、10・10・10の法則というのを知った。藤井寛の「10・10・10の法則」はすごく身にしみる、人は身にしみないと身につかない。往々にして人は失ってから、そのことに気づく。先人の行いを学ぶということは失う前に、切に受け止めて身につけることにあるのかもしれない。10・10・10の法則帝国ホテルの元社長、藤居寛さんの言葉である。『信用』、すなわち 『ブランド』 を構築するには10年かかる。 しかし、その 『信用』・『ブランド』 を失うのは、たった10秒。そして、その失った 『信用』 を取り戻すには再度10年の年月が必要。〇スージー・ウェルチの10-10-10 はまた全く別である。 3つの時系列(短期・中期・長期)をもって事業のゆくすえを判断しなさいという。最初の10は今から10分後、次の10は今から10ヶ月後をそして最後の10は今から10年後の自分を表す。何か重大な判断をしなければならない時には、常に口の中で「10-10-10」(テン・テン・テン)とつぶやく。そのことで、自分が下そうとしている判断が短期的(10分後)、中期的(10ヶ月後)、長期的(10年後)視点から見て、どのような結果を生むかを判断しなさいという使い方をする。これはもっと大きく、100年後、自分の下そうとしている判断と行動が100年後(自分の死後)どのような結果を生むだろうかと想像し、行動しなさいというふうにもっと拡張できるかもしれない。10-10-10-100 鈴木藤三郎の生涯は、最後の醬油醸造業で大きく失敗し、世から非難され忘れ去られていった。しかしその報徳全書や「報徳の精神」は現在でもこれから100年後も生きて日本にそして世界に大きな意義を持つとわたくしは考える。鈴木藤三郎の「報徳の精神」とは「人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けている。だからその恩に報いなければならない。それが人の道である。既に受けている恩恵に報いるということをもって、生涯勤めなければならない。これがすなわち報徳である。・・・・・・身分の上下を問わず、この報徳は人間の道である。」鈴木藤三郎は「どうかそれを自分の身分相応に自分の執る仕事の上に、それを実行して行かなければならない」と思い、「荒地開闢の方法を、まずその小さい菓子の事業に応用」した。すると5年後には売り上げが約10倍、資本が約5倍になった。「これは先輩に鑑定を請うたがよいと思ったので、5年間の帳面を集めて、岡田良一郎先生の所へ、年礼に参った時に、その訳を段々お話して、ご覧にいれましたところ、岡田先生から「至極面白い。こういうふうに応用したのは、お前がまずともかくもここでは初めてである。」と認可を得た。「すべて何の事業でも、こういう報徳の心を心として、この方法に則ってやったならば、大きく申せば天下の事業、すべて成らざるものはないと、大いに私は信念を深くしました。」「この報徳は、ひとり事業のみでない。この精神を天下の政治に用いれば、国家は富強になり、またこれをいずれの事業にでも用いて、この精神でもって活動すれば、事として成らざることはないと思います。」と確信した。鈴木藤三郎が感得した「報徳の精神」をそれぞれの人がそれぞれの事業に応用して、実践し実験して検証してみれば、それぞれの人の生涯の宝になるであろうと思う。
2021年02月06日
「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 218~219ページこの明治35年(1902年)に、藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(今の裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹(あしたか)、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。この経営には長男の嘉一郎が当った。この農場の面積は、約百町歩にわたる大農場であって、その中に16町歩を茶園を主として、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。また、牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住んでいて、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。 藤三郎は、すでに商業に、工業に、植民地農業に応用して、非常な効果をあげた報徳の仕法を、ここで内地農業に応用して、わが国の全産業に対する報徳流の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起したのであった。この12月12日に、五女ちかが生まれた。※不二農園の歴史裾野市の桃園地区に広がる不二農園は不二聖心女子学院のキャンパスと一体をなし、その歴史は、明治の初期、禄を離れた江戸幕府旗本7名が官有地払い下げを受け、農場を開墾し茶を捲いたことから始まる。その後、明治の頃、遠州森町生まれの実業家で、後に大日本精糖会社を設立した製糖業の第一人者、鈴木藤三郎氏に引き取られ、「鈴木農場」として茶のほか、果樹、酪農、造林にも手を広げた。さらに、大正初期、当時北浜銀行の頭取で関西財界の有力者であった岩下清周氏がこの農場を受け継ぎ、「不二農園」と改め、氏は近代農業に取り組む一方、私財を投じて地域の子供たちのために温情舎小学校(不二聖心の前身)を同地に設立した。その志は、長男でカトリックの司祭でもあった岩下壮一氏(当時、神山復生病院院長、温情舎小学校校長)に受け継がれ、戦後昭和20年、岩下家より、約21万坪におよぶ同農園が聖心女子学院に寄付され、今日にいたっている。(同年、温情舎小学校の経営も移譲された)※ 駿河みやげ《下》(国府犀東 斯民第1編第12号明治40年3月23日号現代語訳して抜粋)◎佐野の駅に着く。停車場の薄暗い中に鈴木氏の家の者が出迎えていた。出口に行くと手に手にチョウチンをかかげる。みな鈴木農場と筆太にしるしてある。人力車にのせられ闇の中を行く。◎渓谷にかかる橋を渡る。東側にとうとうと水の響きがあって、暗黒の中に真白いものがしきりにおどる。上に洋館らしいものが明りを点じてとてもにぎやかだ。白いのは佐野の五竜の滝で、洋館は五竜の滝のホテルであろう。左の方の高いところに2階屋の明りがきらめいているのが見える。鈴木氏の別荘である桃園荘はこれであろう。◎道は橋より左に折れて、急な流れの音を左側に聞きながら、人力車は坂道の下に来る。・・・坂を登ってなかばにあたる。右に離して門を設けているが戸はない。前に植えられた木立を縫ってまず玄関に入る。鈴木氏が出迎えて『さぞ寒かったでしょう』と言う。その声は例のとおり朗々としている。◎招かれて二階に登る。欄の外にガラス戸を立てて閉めきって展望に便利である。北東南の三面は皆開いていたが暗い夜なのでどうしよう。8畳と14畳の2室、前者の東ヒサシに額が飾ってあって、『桃園』の二字が書かれている。山岡鉄舟の筆である。後ろの額には竹を描かれている。三幅対の大きな南朝三名臣の絵もあった。画業で有名な菊池氏の子孫が描いている。床の間の左側に白衣観音の古像がる。古色蒼然として由緒があるような木像である。つくづくと見ると鎌倉の禅寺で見た所と、彫刻の技法がとても似ている。運慶の作であろうかと推察される。◎座が定まって話が始まる。主人も客も皆話好きである。何かと話をする中、鈴木氏が観音像を座上に引き出してくる。空ぼりの像の裏に署名があり、寿永二年運慶作としるす。鈴木氏は「もとは箱根権現にあったものと伝えられています」と言う。なつかしい観音様かな。昔、曽我五郎が幼時にかばわれたお寺にあった仏像である。虎の御前が冥福を祈った寺の仏像である。作の運慶というまでもなく、人を非常に懐かしい気持ちにさせるが、それよりも一たび700年前の鎌倉時代を目前にホウフツとさせるのは、さすがに芸術の力である。・・・◎旅の服装をぬいで、和服に着がえて浴室に入る。順番に入浴をおえて広間に並ぶ。配膳は規則正しくならべられて、鈴木父子が座を並べてきちんと座っている。酒を勧められても杯を傾ける者はない。腹がへっているから2椀・3椀とご飯をいただく。・・・◎コウコウとして朝の光は欄の東にみちる。板戸のすき間から金線のようにさして、枕もとの観音像を薄暗い中に現前させる。寝すごしたと起き出す。板戸をあけれ、部屋はまさにあさひと向かい合って、箱根の連山や、伊豆につらなる峰々は霞を帯びて、沐浴したばかりの美しい人にも似ている。建物の下に滝の流れは、急流ちょなって水の声が石にほえる。我を忘れてしばらく物思いにふける。明治40年1月4日である。◎一人起き二人起き、さながら旅館にいるようである。本当に報徳旅行の一行7人とはよくも言ったものだ。顔を洗い口をすすいで、まずえんの下に出る。庭ゲタをひっかけて庭を歩く。鈴木氏が客に応接していたが、少しして客が去ると、同じように庭に来て『こちらへ来なさい』と導いて、建物の北側に小さな谷を作ってあるを指さし、そこの三重の小さな滝の流れの上にカヤ葺きのアズマヤがあるを見なさいと言う。西に小さな滝を見下しながら、その上に小さな丘の頂きが重なっている。竹林が茂った上に、富士の頂きに真白い雪をいだいたのが、鈴木氏の園中をのぞきこんで風情で『諸君おはよう』といわんばかりである。◎導かれて養鶏の小屋に行く。鉄網を張った中に西洋種の肥えた鶏が羽も美しく、ヒナを引きつれてその中に遊ぶ様子は、とてものどかである。がちょうの一隊、あひるの一隊が、そのあたりに分列式を挙げてわたしを迎える。再び庭に来ると、そこにも、ねぐらを設けてある。日もあがったがまだ起き出してこない。・・・鈴木氏の長男が『鶏)は十分にねむらしたほうが、発育にはよいのです。早く起こして寒さにあわせるのよくありません』と言う。用意は極めて周到で、鶏を養うことは孫を愛するようである。(略)◎農場の主任らしい人が、静かに農場の説明が始める。まずこの地はどこかと聞くと、静岡県駿東郡富岡村字桃園という。それから反別などを語るのを記すと、 総反別 78町9反1畝13歩 内 田 8畝11歩 畑 14町7反9畝21歩 郡村宅地 1反19歩 山林 63町9反2畝22歩この買入価格は1万8千円で、その後開墾などに要した経費を合せると、3万1千円に及ぶとの事である。(相田氏の手帳による)◎鈴木氏が語るところによると、この地はもとは幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃から開墾し始めたものであるが、黒田氏はその後東宮武官として長く在職したが、他の人々はいずれも零落したため、ようやく黒田氏の補助によってこの地の開墾を経営していたが、次第に困窮して事業はますますふるわない。そうかといってこの地面を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところ、明治32年に駿東郡長の交渉もあって、鈴木氏がついにこの地を買い入れて、開墾に従事することとなったという。◎小作人は今10戸を数え、農事の忙しい時には、他から雇いいれること、常に10人。小作人には、まず4間半に2間の家屋を建築し、無料で貸与し、鋤鍬の類を給与する。農場の中の5町歩ばかりには、リンゴ、ブドウ、桃、柿等の果樹を栽培する。野菜は小山の富士紡績会社に交渉して、職工の副食に提供している。会社でも新鮮な野菜を得られる道も開けたといって大変喜んでいるという。製茶については、年1千貫目を生産し、一農場でこのくらいの額を生産するものは、今日非常にまれだとという。現在、牛ごやを建築中で、ここに放牛をし、さらには肥料をこれにあてようという計画であるという。養鶏数百羽、その他アヒル、ガチョウなどいる。これを鈴木農場における事業の一端とする。(略)◎農場を望めば、茶畑が続き、茶畑が連なって、上に富士の霊山が厳然としている。丘の下に滝の流れが崖に迫って急な流れを激しくさせる。再び馬にのって農場に向う。途中、鈴木氏がその馬をとめて下方を指さして、『定輪寺の旧地域は、昔、この辺まで及んだが、今はすべて農場の中に入る』といって、一山を隔てる寺を指さして教える。・・・◎馬隊の先に立てよという。わたしたちの馬の一群は先に立って農場をめぐる。一つ小屋があった。四面ガラス戸で、時を報じる鐘をそこの尖頭にかけてある。牛小屋をめぐって、そこで休憩する。農場監視の場所であるとか。茶畑の間を行く。黄牛斑牛そこらに遊んで、桃林に牛を放つ趣きがある。ずっと行くと土地はますます高くなっていて、裾野になっている。農場の一番高いところにあたる。桜の木一列で土地の境界とする。以前この地を経営した静岡武士が武士の誇りとして植えたものであろう。右に大野が原を望む。茶褐色で林の木は薄黒い。上に富士山がすぐ近くに直立して手でさわれるような気持ちがする。馬に乗って引き返す。◎昼飯をおえ、汽車の発着の時刻も迫っていたので、慌てて暇を告げ出発する。鈴木氏は馬に乗り、鞭を横にたずさえて送る。私の馬はその後に従って、走るのがとてもはやい。心もとなき馬術なので、数回跳ね落とされそうになった。馬は一散に駆け出して停車場が近づく。一行は皆列って汽車は出発に間にあった。『サヨナラ』の一声、汽車は音を立てて走りさった。
2021年02月04日
「報徳記を読む」第3集 序文に代えて二〇一五年九月十一日銀座並木通りの『梅の花』で今野華都子先生にお会いできた。本集に先生の仙台講演記録を収録する許可をいただくためである。(略)『報徳記』八巻を一年余りかけ会員で読了し、二〇〇九年八月二日「今市見学会」を実施し、「いまいち一円会」会長、前会長に案内頂いた。その際、報徳二宮神社の宝物館二階で鈴木藤三郎先生が二宮尊徳の遺著約一万巻を筆記させ二五〇〇冊に編集し奉納した「報徳全書」を見学し感動し、鈴木藤三郎という人を顕彰したいと思った。見学会終了後、川崎の日航ホテルで編者とS君とで今野先生にお会いし懇談した。その日、編者は神奈川県立川崎図書館で『黎明日本の一開拓者』を借り、先生に「鈴木藤三郎に関する本がありました」とお話しすると「見せてください」とその本をめくられた。「その本の最後に鈴木藤三郎が庭先で観音様を見て感動する場面があります。観音様は鈴木藤三郎の成功も失敗もそれでよいとされるため、示現されたのではないでしょうか」と編者が申し上げると「私もそう思います」と言われ、その時「鈴木藤三郎氏顕彰本」を刊行しようと決意し、わずか数週間で『報徳社徒鈴木藤三郎という人』という冊子を作成した。これが本会の刊行の最初である。今野華都子先生は本会の刊行事業のきっかけを与えてくださった。感謝の心をこめて、本集を今野先生に捧げ、序文に代える。「報徳記を読む」第3集は絶版である。今野先生の最初の講演記録を収録した本集はそれだけでも価値がある。いつの日か重版を出せればいいな。
2021年01月12日
今朝は夢見がとても殺伐としてよくなかった。鈴木藤三郎は「報徳にしたがって成功し報徳に反して失敗した」といっている。成功も失敗も鈴木藤三郎の生涯は後世の報徳を学ぶ者にとって、よきお手本である。二宮先生は青木村で舘野勘右エ門らに諭された「新たに水路を開くことは、非常に困難な事業だ。それより古い水路に修理を加えたほうがよい。川の水が注がれるならば土地は開けるだろう。費用が用意できてから、新しい水路を造成しても遅いといえまい。論語にいう。『高きに登るに必ず卑(ひく)きよりする』と。また『速やかならんと欲するなかれ、小利を視ることなかれ』と。大工事に急ならんと欲するよりは、現在の畑で雑穀を収穫すれば生活することができよう。」また二宮先生は亡くなるとき弟子たちに遺言を残されている。安政3年12月晦日の日記「畢(おわり) 先生は病にふされ、門弟を呼んで言われた。鳥のまさに死なんとする、その鳴くやかなし。人のまさに死なんとする、その言や善し慎めや、慎めや小子速やかならんと欲することなかれ速やかならんと欲する時は大事を乱す勤めよや小子倦(う)むことなかれ」
2020年12月29日
「継子 (つぎこ)」とは、 鬼滅の刃 で 柱 が育てる剣士のことで相当優秀でないとなれない。2020年12月24日、「資料で読む 技師鳥居信平著述集」のクラウドファウンディングについて静岡新聞の取材を受けた。そのときに、報徳二宮神社の宝物館で鈴木藤三郎が寄進した2500冊に及ぶ報徳全書を見て、この人を顕彰したいと思った。記者の方に「鬼滅の刃 の 継子 って知っていますか?」と尋ねると「ああ、柱が育てる・・・」と微笑まれた。「今、私たちの事業を継承する 継子 を育てようとしているんですよ」というと少し笑われた。「鈴木藤三郎の残念だったことは 継子 が育てられなかったことでしょうか。」とその時話したのだが、今朝朝のサイクリングで途中マックに寄ってコーヒーを飲みながら考えたことは、そうではない。私たちこそが、鈴木藤三郎の継子であり、その「報徳の精神」を次の時代の 継子たちに伝えようとしているのだと。煉獄杏二郎は死ぬ直前に 炭治郎たち少年三人に「みんな俺の継子だ。」「そして今度は君たちが柱となるのだ」と後を託す。私たちもまた、あの宝物館で鈴木藤三郎から「俺の継子だ」とあとを託されたに違いない。そういう思いがわいてきた(^^)
2020年12月27日
今回のクラウドファウンディングに賛同された方とその金額を見ていると、つくづくとこれまでのわたくし自身の人生の様相があらわれるものだと感嘆する。ほとんどが5000円以上の大口で、一週間たたないうちに、目標金額の半分以上達成した。I先生、K先生のは別格で、このお二人が応援してくださるなら、まっすぐに進んで間違いないと信じる。そして森町のMさんが指し示した道、このクラウドファウンディングが成功すれば鈴木藤三郎の生家の保全にクラウドファウンディングを活用したい、にまっすぐに結びついているように思える。以前、「報徳記」全巻を読了後読書会の仲間と今市の報徳二宮神社を読了記念に参拝したおり、宝物館で鈴木藤三郎が奉納した2500冊の報徳全書を見て感動した。そのとき「この人を顕彰したいものだ」と思った。人は多くの思いをいだき、そして思いの多くは思っただけで消えていく。今市視察の数日後、川崎の日航ホテルで、私とS君とでいっしょに、I先生を、おもてなしした際に、その前に県立川崎図書館で鈴木藤三郎の伝記「黎明日本の一開拓者」を読んでその最後の場面に感動していたのだが、藤三郎が死ぬ前に庭先に観音さまが出現する場面があり、わたくしは先生に「私は藤三郎が本当に観音様を見たと思います、そして観音様は藤三郎の成功も失敗もそれでよしとされたのだと思います」と申し上げると、先生は「私にその本をかしてください」といわれ、パラパラとめくられて「私もそう思います」とおっしゃった。そのときにわたくしは、「鈴木藤三郎を顕彰しよう、世に知らしめよう」と心に決めた。それ以来その気持ちは全く変わらない。だから、今回のクラウドファウンディングの成功は、鈴木藤三郎氏の顕彰に結び付けられていて、I先生とK先生のお二人が是とされているから、大成功疑いなしだ。そして今回のクラウドファウンディングの成功の背景には、森町の鈴木藤三郎氏顕彰会の固い結束と支援が大きくはたらいている。「広井勇と青山士」「八田與一と青山士」を技術者シリーズと名付けられたのは放送大学I先生であり、「技師鳥居信平著述集」はその3集という位置づけでもある。いわゆる評論ではなく、技術者本人の論述を収集したこれらの本は、時間の容赦のない流れのなかを生き抜いて、次の世代に引き継げるものと信じる。現在、徳島県で核となる人脈を模索ちゅうで、いまのところ、やれどもやれども、さぐれどもさぐれども、からぶりだが、かならずや固い岩盤ともいえる支援者にあえるものと信じてとりくんでいる。かすかに黎明がみえてきた。クラウドファウンディングはまことに学びそのものです。皆様、今後ともよろしくお願いします。〇鈴木藤三郎35藤三郎は、この損失の責を一身に負って、私財40万円を投じた福島県小名浜の鈴木製塩所を会社に提供して、その損失を補うことにした。次に自分は、社長の地位を退いて一技師長の立場となった。そして、田島信夫が推されて社長となった。しかし、その後1か月もたたないうちに、尼崎工場で生産費節約のために、醤油に甘味をつけるのにサッカリンを使用したことが発覚して、大問題になった。それが、新聞紙上に発表されたのは、明治42年(1909)11月3日だった。「不正醤油検挙 大阪警察部は三四日前、某署より提出の小分醤油を分析せしに多量のサッカリンを検出したれば、直ちに取調べたるに、日本醤油会社より発売の品なること判明したり。本部にては、小売業者の所為ならずやと各方面を取調べたるに同様サッカリンを検出したれば、今は猶予ならずと一日の夜より二日朝に掛け、西区幸町通二丁目の貯蔵倉庫及び横堀七丁目の大阪出張所に臨検し、合計千六百余樽此代金約一万円を押収して悉く封を施し引揚げ、目下専ら分析試験中なり。2日の午後には日本醤油会社尼崎工場の星野技師が、目下同工場で醸造中の醤油全部にサッカリンを混入したことを自白した。警視庁は、東京工場の製品にもサッカリンが混入されていないかと調査したけれども、関東では、そうしたものは一樽も発見されなかった。」サッカリンは、有毒物ではなかったが、砂糖消費税の関係から、商品としての飲食物に、これを使用することを禁じた法律があるので、事が重大になった。このサッカリン問題をひき起したことは、藤三郎一代の事業上の最大の失策だった。畠山一清氏は、サッカリン事件の真相を次のように記している。「早造りでつくった醤油は、ヨーロッパへどんどん輸出されていった。だが、思いがけない事故が飛び込んできた。積荷をして、船がインド洋を通ると、突然、醤油ダルがバーン、バーンとみんな爆発してしまうではないか。これにはさすがの鈴木社長もおどろいた。よく調べると、3か月では、完全発酵しないことがわかった。つまり、部分醗酵のまま船に積み込むため、インド洋の熱気を受けると、急に完全発酵の状態に成って、爆発してしまうのである。たいへんな誤算だ。 ともかく、インド洋上での醗酵はとめなくてはならない。そこで考えついたのが、サッカリンを入れて醗酵を抑えることだった。これで醗酵の抑制に成功。ヤレ、ひと安心と思った途端、こんどは、サッカリンの使用をめぐって、とんでもない刑事事件が持ち上がってしまった。サッカリンは毒ではない。だが、これを毒にしてしまったのが、鈴木社長その人なのである。鈴木社長が製糖会社時代に、砂糖業界擁護のために、毒だということにして、サッカリン禁止法という法律をでっちあげてしまった。それがいま、みずからつくった法律にしばられることになったわけだ。会社は、警察官や税務署員の臨検などで、上を下への大さわぎ。何千石もの醤油が、夜を徹して川に廃棄された。ために尼崎の川の水が真っ赤になったほどである。 この事件があって、半年もたたないうち、1万数千坪もある尼崎の醤油工場は失火で全焼してしまった。そして、これが致命的な打撃となって会社はつぶれ、もはや、再起の望みも断たれてしまった。」
2020年12月17日
2020年12月02日
2020年11月30日
・報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っている。・鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっている。私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっている。私は、金もうけ優先の企業経営は考えたことがない。まず、国家、社会のためになる製品をつくり、株主の利益、社員の生活向上を願うことを第一条件としてきた。それが結局、会社自体の繁栄につながる大きな要素だと信じる。・就職してちょうど1年目、私の月給は倍の100円になった。当時、100円の月給とりなどそうザラにはいなかった。少なくとも勤続10年くらいの人でなければもらえなかった。それがもらえたのだから、うれしさよりも先に、ビックリしてしまった。 私は社長のあたたかい心にすっかり感動し、ホロリと嬉し涙を流してしまった。就職たった1年で、どうして月給が倍増になったのだろうか。始めはどうしても分からなかった。まさか倍増になろうとは考えてもみなかった。私は、すぐ社長にお礼を述べ、ついでに倍額の理由をお尋ねした。社長は、こうした私の窮状に同情して、月給を上げてくれた。私は深く社長に感謝した。・私が最もおカネが欲しいときに、月給を一挙に倍増してくれるとは、全く敬服のほかはない。この腹の太さ、タイミングの妙、まさに経営者たるもの、大いに見習うべきことではないだろうか。「熱と誠」畠山一誠(荏原ポンプ創設者)著学校を卒業し、最初に就職したのが鈴木鉄工所という小さな会社だった。ここに就職するまでは、「寄らば大樹のかげ」ときめていた私ではあったが、縁あって就職した以上、思いきり働いてみようという気になった。鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っているのである。趣旨はまことに立派である。しかしそれを実践するとなると、大変難しいことなのである。早い話が、報徳の教えを立派に遂行するには、まず「我」を滅却しなければならないのだ。(略)思えば鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっているのである。氏は、新入社員がはいってくると、まず応接間へ連れて行く。そこには50号ほどの油絵が、立派な額に入れてかけてある。堂々たる紳士が、燕尾服の上に坊主の袈裟をかけた、一見奇妙な絵だ。その絵の前で、氏は、「これはオレが60歳になったときの姿だ。いま51歳だから、もう10年もすると、この姿になり、郷土遠州の地に報徳寺を建てて、報徳教を伝道する。世間には坊主や、牧師、神主の数は多いが、はたして、人のご厄介にならずに世の中を救い、人を助けている人がいるだろうか。人のご厄介になっているものが、人を救うことはできるはずがない。オレは、60歳まで事業をやって、カネをもうけ、人のご厄介にならぬだけの貯えを残したうえで、報徳宗の坊主になり、世の中を救うつもりだ。そのとき、こういう姿になるのだ・・・」と話すのであった。なみなみならぬ決意である。私は、目の前の絵もさることながら、この話に強く感銘を受けたのである。 私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。私は、金もうけ優先の企業経営は考えたことがない。まず、国家、社会のためになる製品をつくり、株主の利益、社員の生活向上を願うことを第一条件としてきた。それが結局、会社自体の繁栄につながる大きな要素だと信じるからである。 (略) 鈴木鉄工所の勤務は朝7時から午後5時まで。10時間勤務だった。7時にはちゃんと、社長の前にある出勤簿に判を押さなければならない。少しでも遅れると、社長はご機嫌斜め。5時の退社時間カッキリに帰ってしまうようでは、これもダメ。時間前に出社して5時半頃退社するようでなければ、社長はうるさいのである。 (畠山氏は当時小石川に住み、伝通院の始発電車に乗るため、朝4時くらいに家を出て、会社まで3時間ほどかかった。そのうえ当時の小名木川は煤煙がひどく、いっそ会社を辞めようと考えたこともあったという。しかし、月がたつと苦にならなくなった)鈴木社長の報徳精神が身についてきたからではなかったろうか。 特に私の場合は、技師長としての重責がある。人よりも多く働かねばならない。よほどの事情がない限り、休んだり、遅刻したり、早退したりはしなかった。 就職してちょうど1年目、私の月給は倍の100円になった。当時、100円の月給とりなどそうザラにはいなかった。少なくとも勤続10年くらいの人でなければもらえなかった。それがもらえたのだから、うれしさよりも先に、ビックリしてしまった。 私は社長のあたたかい心にすっかり感動し、ホロリと嬉し涙を流してしまった。 それにしても、就職たった1年で、どうして月給が倍増になったのだろうか。始めはどうしても分からなかった。私自身は、大いにハッスルして仕事をしていたつもりだから、1年たてば、少しは月給が上がるだろう、とは思っていたが、まさか倍増になろうとは考えてもみなかった。私は、すぐ社長にお礼を述べ、ついでに倍額の理由をお尋ねした。実は、社長の厚い情が秘められていたのだった。それには、当時の私の「家庭の事情」を書かねばならない。 親孝行をしようと思った父親は、私が大学卒業の翌年の暮れ、郷里金沢で病死してしまった。涙のかわくいとまもなく、その10日目に、今度は相続者である長兄が急死するという悲運に見舞われた。 長兄と私は年が十も違っていたので、家のことはすべて長兄が面倒をみていた。だが、この悲運を境に、それまで全くのフルーランサーで気楽な身分であった、私はいきなり二重の重荷を背負わなければならなくなった。 私は金沢へ帰り、家を整理して老母を連れ、また、長兄が住んでいた名古屋に立ち寄り、ここも整理して兄嫁と家族を連れて東京へ戻った。 広い世間には、私のような経験をなさった方もいると思うが、こんなとき、早速困るのが生活費だ。口では、家族を安心させるようなことを言っても、本心は、心細くてどうしようもない。何とかしなければと、心はあせるが、アテはない。20代の私に貯えがあるはずもないし、まして売り食いできるような品物もない。すっかり憂鬱になってしまった。 社長は、こうした私の窮状に同情して、月給を上げてくれたのであった。(略)私は深く社長に感謝した。(略) しかし、いくら大人物の鈴木社長でも、意味もなく、月給を上げたりするはずがない。少々自慢をさせていただくなら、私という男が、鈴木社長にとって、手離すことのできない社員だったからだと思う。 それにしても、私が最もおカネが欲しいときに、月給を一挙に倍増してくれるとは、全く敬服のほかはない。この腹の太さ、タイミングの妙、まさに経営者たるもの、大いに見習うべきことではないだろうか。
2020年11月27日
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