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2016年04月19日
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カテゴリ: 遠州の報徳運動




2013年2月3日、日光で講演した記録「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者」という小冊子があります。

現在、絶版ですが、何冊か森町の鈴木藤三郎実家で春と秋の「町並みと蔵展」で販売し、収益は藤三郎実家の保全に使ってもらっています。


それから引用します。


遠州七人衆、日光で尊徳先生に面会する
二宮尊徳の嘉永六癸丑年日記帳は4冊あります。江戸逗留中1冊、日光出役中1冊、東郷陣屋2冊で二宮尊徳全集第5巻にあります。嘉永6年(1853)9月4日の項に、遠州七人衆の記事が初めて出てきます。

(略)

遠州からの訪問もまた歴史的な訪問でした。明治の報徳運動中心地として、一世を風靡した遠州地方の報徳運動の中心人物者たちと二宮尊徳との面会でした。この出会いで遠州の報徳が二宮尊徳に公認された活動となり、後の一大普及運動となったのです。
嘉永6年(1853)9月4日に、編集者佐々井信太郎氏が注を入れています。「この一行の往訪こそ静岡県下に報徳の栄える大なる原動力を培ったものである。本文順序に氏名を羅列すれば、内村啓助、岡田佐平治、武田兵左衛門、松井藤太夫、中村常蔵、山中利助、神谷久太郎である。」このうち、山中利助、中村常蔵の2人が鈴木藤三郎の故郷の森町の出身です。

 天保13年(1842)7月二宮先生が低利で金を困った人に貸してくれると聞き、野州桜町陣屋に二宮尊徳を訪ねる(時に庄七54歳)。しかし多忙を理由に面会は拒絶されます。風呂番や雑用をして陣屋に厄介になった。庄七は面会こそできなかったものの、先生の来訪者との対談や門人達への説話を立ち聞きしているうちに、最初金を借りにきたのに、天理・人道から説き、治乱盛衰の根源に及び、難村の復興や困窮した民の救済のため、身を忘れて精力的に実践されている尊徳先生の姿に感動した。ああ、それに比べわが身はどうであろう。私欲に走り、米相場で失敗し、人の金をあてにして、また一山あてようと考える、なんと浅ましいことよと深く心に恥じた。このとき人のため世のため生きようと一大転換 を起したのです。それから仕法の組み立ても真剣に勉強しついに借金も言い出さず、正式な面会もせず、20日余りで郷里に帰った。商売は売って喜び買って喜ぶ双方喜ぶのが極意であると先生の教えを聞いて、米を元値で売る元値商を始めた。それでも空き俵、締縄、米糠、こぼれ米を売って多少の利益があった。これが後に「報徳につき諸品安売り、現金掛け値なし」という報徳商いの始めです。しかし元値商は家人に理解されない。よし、「一家を廃して万家を興さん」と決心し、弟の浅井勇次郎とともに郷里を去った。2人は大阪の河内の杉沢作兵衛を訪ねた。杉沢は自分が苦難した体験から他人の難儀に共感し同情する慈悲心に厚かった。この杉沢氏が「万人講」を組織しており、庄七兄弟 は後に継承者となった。万人講は伊勢・春日・八幡の3社に大灯篭を献じたり、大神楽を奉納し、道路や橋を補修したり、社会奉仕的な内容を持っていた。2人はそうした全国的な結社活動の中で正条植えなど関西の近代的な農法も吸収していった。
三河国藤川宿の主人が極信者の神谷與平治を紹介し下石田村に行った。同地方は天竜川の水害や凶作が重なり疲弊していた。庄七は、救貧の道、復興の法を説き、また農事の近代的手法を紹介した。村人は感激し、下石田報徳社を創立した。報徳社運動はたちまち周辺に広がっていった。掛川の庄屋の岡田佐平治も報徳の教えを聞いて、自分の村でもやってもらおうと庄七を宿舎に訪ねた。佐平治が手土産に菓子折りを差し出すと、庄七は言下に叱責して退けさせたと言われています。佐平次は、庄七の説くところに感動し、兄弟を自宅に招いて3日間にわたり夜を徹して論議した。そして身を修め、家を修め、国を富ますこと、この道に超えるものなしと確信し、嘉永元年(1848)12月牛岡報徳社が結成された。
 嘉永6年(1853)9月13日庄七は遠州の報徳七人衆とともに尊徳先生に面会し、弟子たることを許された。遠州地方に「一家を廃して万家を興さん」と報徳の種を蒔き、育ててやまなかった安居院庄七という人の功績もまた見直されなければならないでしょう。
 日光での遠州七人組の面会を二宮尊徳全集の日誌を見てみましょう。
九月四日曇
一 遠州影森村慶助、倉見村佐平治、氣賀町兵左衛門、同藤太夫、森町常吉、同利助、下石田村久太郎、外に安居院庄七罷出候に付、片岡村仕法帳拝見為致候事
九月五日雨
一 遠州之面々今日も御仕法帳拝見終日罷出中候事
九月六日曇昨夜中禅寺山へ雪降り申候事
一 遠州之面々今日も罷出候に付、日光御神領雛形帳御拝見為致申候処、終日拝見之事
九月七日雨

九月八日朝晴夕方曇
一 遠州之面々一同罷出終日御仕法帳拝見之事
九月九日晴
一 遠州之面々御仕法帳拝見終日罷出候事
九月十日曇

九月十一日晴
一 遠州之面々今日も御仕法帳拝見之事
九月十二日晴
一 遠州之面々御仕法帳拝見、終日罷在事
九月十三日晴
一 遠州之面々明日出立に付一寸面会及理解候事
九月十四日晴
一 遠州之面々帰国御暇乞罷出る。下新田縄索帳貸渡し申し候
九月十五日朝雨昼晴
一 遠州之面々今朝一同出立之事
この面会にあたって二宮尊徳先生に差し出された資料に「右村惣代連名 〆七人」とあります。「嘉永六年丑年九月」と日付があり、七人とは「太田摂津守領分 遠州佐野郡倉真(くらみ)村 岡田佐平治、近藤縫殿介領分 遠州引佐郡気賀(きが)町 武田兵左衛門、 同じく松井藤太夫、室賀美作(守知行所 遠州佐野郡影森村 岡田啓助、土屋佐渡守知行所遠州周智郡森町 山中利助同じく中村常蔵
遠州長上郡下石田村 神谷久太郎」とある。
「右総代の者、申上げ奉り候。私ども村々報徳善種の通り勤行仕り候訳は、相州大住郡大山麓、密正院にて出生庄七、勇次郎兄弟両人、河内国田口村、杉澤作兵衛と申す人発起これ有り万人講の儀につき、東海道筋たびたび通行これ有り。弘化三午年十一月帰国のみぎり、三州藤川宿菱屋喜兵衛方にて承知致し候には、遠州長上郡下石田村与平治と申す者、日本国中神社仏閣拝礼いたし極信者の由、聞き伝え、右両人与平治方へ立ち寄り、前書万人講の物語これ有り、その翌未年春三月又々伊勢大々御神楽執行に相登られ候節、与平治同道にて参宮御神楽執行仕りの序より旅中共始終御報の道、田畑作り方迄も教諭これ有り、誠に有難き大善道と感服仕り、庄七勇次郎両人を下石田村与平治方へ請待 致し、連中組立て、報徳勤行仕り候儀、是れ実に遠州にて前書村々報徳の道尊敬仕り候発端にござ候。それより追々聞き伝え右両人に随身いたし、書面の人々当時報徳勤行連中にござ候。然るところ、なにとぞ大先生様の御姿一度拝覧仕りたく、連中一同の心願にござ候えども、おびただしきご用にて昼夜ご寸暇これ無き段、恐察仕り、段々延引仕りおり候ところ、当春、成瀧村佐平と申す者、江戸麻布御屋敷御台所まで罷り出、印内村龍法院も罷り出、なおまた気賀町藤太夫罷り出候ところ、天運に相叶い、大先生様に拝顔を得奉り候みぎり、庄七同道にて私共七人惣代として罷り出、村々議定書並びに家政調等ご覧に入れ奉り候あいだ、恐れながらご教諭下し置きなされ候わば、莫大のご仁恵と有難き 仕合せ存じ奉り候以上。」

○遠州の報徳運動の由来
平成24年12月15日、浜松に行って、「浜松報徳社」に建つ安居院庄七と小野江善六の顕彰碑を見てきました。また、タクシーで下石田報徳社跡に建つ石碑を視察しました。浜松市の史跡案内には、石碑の写真と地図で場所が紹介されていますがタクシーの運転手も全く場所が分らず、下石田で降り、探索したものです。下石田報徳社の碑は、道路から見通せない角に設置され、二つの石碑と案内板が建っています。
下石田報徳社の議定書には次のようにある。

  下石田村報徳連中議定下書(現代語訳)
「三河の藤川宿菱屋長右衛門方で談話した時、長右衛門が言うには、遠州浜松に住む下石田村に神谷与平次という信仰に厚い者がいる。我らを定宿にし、よく知っている方ですから、立ち寄られて相談されたら、あなた様のご志願が成就し、遠州方面に広めるようになるでしょうと話した。そこで二先生は神谷与平次方を尋ねていき、志願の旨を話し、二宮金次郎様がお始めになった報徳の説明をした。よくよく聴聞し、人道の大本であると感服した。そこで両人にお伴して、伊勢太神宮の神楽を執行に行き、神前で報徳の善非、当村で取り行ってよいか、くじを願ったところ、奇なるかな、善なるかな、大吉のみくじが出て、いよいよ決心憤発し、帰路共に説明を聞いて、再度私宅へ同伴され、自ら親しい者 を招いて説明されたところ、一同恐れ服して報徳の心の不動の者たちが結集して、報徳の教えに随従する義定書を差出して、天道人道の正理・大本に基いて本業余行怠慢無く勤め、驕奢弊風を省いて余財を積み立て、報徳善種金と名付け、窮民を救助すると発願し、弘化4年から安政三年まですでに十か年に及んで、ますます人心は厚くし、いよいよもって有難い次第、子々孫々に至るまで忘れてはならない。」(「静岡県史資料編15」980~983頁)
遠州七人衆が日光を訪ねたのは次の経緯からと言われています。嘉永5年(1852)の暮、佐野郡成滝村の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会うことができず、やっと明けて正月7日、3度目で尊徳先生に面会することができた。その時尊徳先生は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう取り次ぐことを、佐兵衛に指示した。喜び勇んで遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせた。
 1853年春の報徳大参会は山名郡高部村(現袋井市)の高山藤左衛門方で開かれた。ここで遠州報徳連中419人の総代として日光にいる尊徳のところに誰が行くかが議せられ、7人が選ばれた。佐野郡影森村内田啓助、倉真村岡田佐平治、気賀郡竹田兵左衛門、同町松井藤太夫、森町村中村常蔵、同村山中里助、下石田村神谷久太郎の7人である。同年8月10日一行は安居院庄七に連れられ出発した。一行は二手に分かれ、佐平治、里助、常蔵、久太郎の4人は、途中十日市場にある安居院家を訪れたり、曽比村(現小田原市)の剣持広吉のところで報徳の資料を写したりして、尊徳のいる桜秀坊を訪ねたのは9月に入ってからだった。9月4日一行は揃って桜秀坊を訪ねたが、尊徳は多忙のため会えな い。やむなく一行は仕法書を写しつつ逗留を続けた。待つこと1週間以上に及び13日にやっと面会することができた。庄七にとっても尊徳に直接会うのは初めてであり、一行の感慨はひとしおでありましたでしょう。

「森町史」の資料編4の「三才報徳現量鏡」には「『報徳安楽談』と『御教諭書』は富田高慶先生のお手元から下し置かれ」とあります。これで遠州の報徳が正式に認可されたのです。
 安居院庄七がなくなった後、小田原から福山瀧助が報徳の教えを遠州・三河地方に広く説いて報徳結社が続々誕生していきますが、「福山先生一代記」には次のようにあります。
「ここにおいて遠江の有志相謀りこの年八月十日供して野州に至りけるその人々は倉見村の岡田佐平治、影森村の内山啓助、下石田村の神谷久太郎、気賀町の竹田兵左衛門、松井藤太夫、森町の山中里助、中村常蔵以上七氏なりき。(この時安居院先生はまず往きて相模国蓑毛村なる生家にありしかば人々訪い参らせて同行せしとぞ)かくて一行は日光に着し、二宮先生の旅館たる桜秀坊に至り刺を通じけるに御用多なりと五日間待たしめらる。人々倦み疲れけるに第六日に至り、一行を引見し、遠江の事何くれとなく問いたまい深く将来を奨励し給いける。されど既往の成事については一言だも賞賛したまわず、これ既往の成事は承認を得て為したるものにあらざるが故なりとぞ。かくて数日の後、帰国の御暇 申上げければ報徳安楽談1巻、三新田縄索雛形1巻を賜り、外に金十五両わらじ銭として賜りける。(この賜金は一行の人々は強いて辞し去りけるとぞ。)」つまり、「森町史」の『御教諭書』とは「三新田縄索雛形一巻」のことです。

(略)

遠州報徳は 安居院庄七 →(遠州七人衆) 神谷与平次 (浜松 第1館) 小野江善六 ※(山中利助の弟)

                     → 岡田佐平治  (掛川 第3館)

                     → 山中利助 ※ (森町)


                     → 伊藤七郎平 (磐田 第2館) ※(山中利助の弟)  

と伝わっており、遠州七人衆は安居院庄七から報徳を直接教わったのです。

遠州国第一館は浜松で、二宮尊徳からたまわった御教諭書は浜松に保存されていましたが、第二次大戦の浜松大空襲で焼失したようです。

安居院庄七なき後、指導者を小田原に求め、福山瀧助が遠州に来ますが、瀧助の伝えたのは、無利息貸付法で

行政式仕法を期待した岡田佐平治は失望し、森町の山中利助を紹介します。

山中利助は瀧助を歓迎し、瀧助は無利息貸付法を中心とする報徳の教えを遠州だけでなく、三河国まで広く伝えます。

山中利助・小野江善六・伊藤七郎平は森町出身で報徳三兄弟と呼ばれました。

伊藤七郎平は岡田佐平治の娘婿でもあり、遠州国報徳社の副社長を勤めました。

浜松こそが、遠州報徳の発祥の地なのです。





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最終更新日  2016年04月19日 22時55分03秒


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