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2016年07月11日
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カテゴリ: 遠州の報徳運動
静岡県報徳社事蹟
(一)二宮尊徳小伝
○一六歳で孤児となる
尊徳は通称を金次郎といいます。相模国(さがみのくに)(神奈川県)足柄上郡栢山(かやま)村(小田原市)の人で、父を利右衛門(りえもん)といい、母よしは近隣(旧曽我別所村)の川久保太兵衛の娘でした。尊徳は天明七年(一七八七)七月二三日に生れます。友吉(後の三郎左衛門)と富次郎の二人の弟がありました。父母は三人を養育しました。
寛政三年(一七九一)尊徳五歳のとき、酒匂川の洪水で大口堤が破れ、数か村が流されました。父利右衛門の田畑もまたその被害をこうむり、すべて不毛の地に化しました。家が貧しいところへ、加えてこの水害にあったので、困難はいよいよ迫りました。そこで利右衛門は朝早く起き、夜は遅く寝て、専ら力を開拓に尽し、三人の子どもを養いました。後に病気にかかりました。家産を尽くし、一生懸命その回復を求めますが、寛政一二年(一八〇〇)ついに亡くなりました。母子の嘆き悲しみははなはだしく、村人はみなこれを見て、もらい泣きしました。
当時、尊徳一四歳で弟はまだ幼少だったために困窮はいよいよ極まりました。尊徳は朝早く起き、遠くの山に入り、柴をかったり、まきを切って、これを小田原の町に売りに行きます。夜は縄をない、わらじを作って僅かな時を惜しんで、労働し心を尽くして、母の心を安らかにし、二弟を養う事に励みます。尊徳はたきぎを採りにいく往き返りにも儒教の経典の一つである「大学」の書物をふところにし、途中歩きながら暗誦します。これが尊徳が聖賢を学んだ始めです。
享和二年(一八〇二)四月、母も病気にな
りました。尊徳は大いに嘆き、日夜帯をとかず看護に力を尽くますが、その努力もついに空しく母は亡くなりました。その時、尊徳は一六歳でした。家財田畑はすでになく、残ったものはただ空屋だけでした。二人の弟を慰め、悲んでなすところを知りません。親族は相談し、二人の弟を母の生家に預け、尊徳を近親の万兵衛の家に寄食させました。万兵衛は、本来大変物惜しみする性質で慈愛の心に乏しく、このため尊徳の困難や苦しみは倍加しました。尊徳は日夜、農事を勤め、さらに幼くして貧困に陥ったことを嘆きました。「天下で憐れむべきものは、ただ貧乏である。私がもし家を興すことができたら、ひろく貧しい人々を救う方法を設けよう」尊徳は、刻苦勉励し、昼は家業に勤め、夜は縄ないなどを行い、暇があれば読書・算数を学びました。

○「小を積んで大とする」の道理で家を興す


○小田原藩家老服部家の家政を再興する
当時、小田原の大久保侯の家老、服部十郎兵衛の家が衰退し、百計を尽くしたが、回復できません。ある人が言いました。「二宮金次郎という者は極貧の家に生れ、早くから父母に離れ、田畑はすべて他人のものとなり、親類の救助によって成人し、辛苦を尽し、家を再興した。人となりは他人を憐れみ、身の苦労を憂いとしない。天性非凡の性質です。この人に頼れば必ず再興できるでしょう。」服部氏は喜んで回復の事を委託しました。尊徳は一生懸命勤め励んで、収入を計算して分度を設定し、支出を制限し、家計を節約し、負債の返済につとめて五年たたないうちに、借金を返済し、さらに余剰の財産を生じさせます。服部家は喜びました。尊徳は永続の方法を教示し、さらに少しの報酬も受けることなく、ひょうぜんとしてわが家に帰りました。
○小田原侯から与えられた試練
当時、大久保忠真侯は天下の老中として、善政を行い万民を安らかにするため才徳ある人物を登用しようとしていました。大久保侯は民間に非凡の二宮という者があると聞かれ用いようとされましたが、当時の小田原の藩風は、賢愚によらず士民の階級があり容易に登用できません。そこで尊徳に功績を挙げさせ、その後に用いるのがよいと考えられました。宇津家の領地四千石の三村は土地がやせ、田畑は荒れ、人民の衰貧は極まり、収納はわずか八百俵に過ぎなかったのです。宇津家の困難は極度に達し、大久保侯はこれを憂え、群臣中から適材者を選び経費を下し興復の事業を命じましたが、一人として成功しません。大久保侯は二宮にこれを再興させれば必ず成功しよう。その後に登用すれば群臣も服さない者はないだろうと、尊徳に同地の興復を命じました。尊徳は「私のような者がどうしてこのような大業ができましょう。君命は重いのですが、私はその任ではありません」と辞退しますが、大久保侯は聴かれません。
○徹底したフィールド・ワークと「荒地の力をもって荒地を興す」
尊徳は大久保侯に言います。「しばしば君命があり、お断りすることができません。やむを得なければ、かの地に行き、土地や人民の衰廃の状況と再復が成るか成らないか筋道を視察し、その後に命令をお受けするかどうかを決めたいと思います。」
大久保侯は喜んで視察を命じられました。文政四年(一八二一)尊徳は下野国の桜町に行き、戸ごとにその貧富を視察し、田野に行ってその土壌が肥えているかやせているか調査し、人民が勤労か怠惰かを観察し、水利の難易を計測し、遠く昔の資料を探り、近く現在の風俗を観察し、数十日で小田原に帰って復命して言いました。「土地はやせ、人民の無頼怠惰も極まっています。ですからこれを振るい起こすには、仁政をもってし、村民が長年そまった汚俗をあらため、専ら力を農業に尽すときは、再興の道がないわけではありません。しかしこれまで殿様は彼の地の再復を命ずるのに多くの財を下されました。だから事業が成功しなかったのです。今後一金も費やすことなく回復するしかありません」大久保侯「廃亡を挙げるのに財を用いてもなお興すことができない。今、財を用いないでどうしてこれを挙げることができるのか」
尊徳「財をお下しになるから、役人・村民共に財に心を奪われ、互いに財を手に入れようと願い、このため弊害を来してついに成功しないのです。財がなくてこれを挙げる道は、昔からの我が国の開拓の方法、一鍬より起こすことにあります。荒地を開くに荒地の力をもってし、衰貧を救うに衰貧の力をもってし、小を積んで大をなし、人々に独立、自営の精神を奮い起させて再興させ、加えるに仁政をもって援助すれば、財なくして廃村を興すことができましょう。宇津家の領地は四千石の名はありますが、その納めるところの租税はわずか八百俵です。これは四千石の虚名があって、実は八百俵の禄に止まります。ですから八百俵をもって再復の分限と定め、その余を分度外とし、困難に処して困難の中に施行し、鋭意人民を援助して、根本的に風俗を改善し、漸次に荒地を開拓するならば、十年たたないうちに必ず成功を報告できましょう。」
 大久保侯は喜んで興復をすべて尊徳に委任しました。文政五年(一八二二)尊徳はすべて家財を売払い、桜町に行って旧陣屋が大破していたのを修理し移住しました。尊徳は廃村の興復の計画を立て、明け方から夜に至るまで日々巡回し、戸ごとに人民の艱苦・風俗の良否を観察し、農耕の勤労・怠惰をわきまえ、田畑の境界を見分け、土地が肥えているかやせているか、灌漑が便利か考え、風雨・寒暑でも巡視を一日も怠らず、三か村四千石の地のすべてを胸中に収めました。その後に、善人を表彰し、悪人をさとし善に導き、貧窮者を救助し、専ら農業に出精する道を教えます。荒地を開拓し、諸民の生活を安定する良法を行い、自ら困難に処し、衣類は木綿(もめん)の服を分度とし、食事は一汁のほかを求めず、率先して民衆の模範となり、貧民を援助し千慮万計することは一々挙げることができません。尊徳の至誠が天の感ずるところとなったのでしょうか、経営八年に及んで民心は一変し、長い間染まった汚俗が洗われ、純朴実直に風化させるにいたりました。尊徳は人民の永続の道を計り、昔の四千石の村をその地に相当の租税二千石の年貢をもって定額として、宇津家の分度を確立します。宇津家が復興して喜んだだけでなく、村民もまた年貢が減じた仁恵に感動し、耕作に力を尽くしました。尊徳の積年の苦労により全所領が旧復し、里に破壊の家がなく、田に草の繁ったものがなくなりました。五穀が実り、境界は正しく、道路は平らかで、水路の浅さ深さもよく、その景観を改めるに至りました。尊徳の功績は四方にとどろき、桜町と境界を接する他国の人民は争って衰村を再興する方法を求めるものが続きました。このように経営に苦心し自ら得たところの開拓法を行い、また無利息貸付法を奨励すると同時に、報徳日課積金等を行わせ、大いに徳化をしきます。天保二年(一八三一)小田原藩主は褒賞を与えて、尊徳の名前は四方に伝わりました。
○多くの大名からも頼りにされた尊徳
天保三年(一八三二)に川副氏のために青木村の興復の事業に従い、ほどなく成功したことから、遠近でその徳業を慕うものが多く、その教えをこうものが常に門前に満ちました。天保五年(一八三四)に谷田部侯もまたこれに託して興復を企てました。天保六年(一八三五)大久保侯は尊徳に手書を与え、「報徳」の名を与えました。大久保侯は天保六年二月尊徳を江戸に召しその功労を賞するとともに、駿府・相模・伊豆三州の飢民救助を託しました。尊徳は小田原藩の米蔵を開いて人民を救助し、飢え死を免れたものが多かったのです。天保八年(一八二七)に下館侯はまた民政を尊徳に託しました。天保一一年(一八四一)に尊徳は伊豆韮山の代官江川氏に招かれて、多田家の仕法を行いました。門人は常に百余人を下りませんでした。その他、尊徳の教えを求め、身を修め、家をととのえ、もしくは村里の興復に従事し、公私の利益を計ろうとするものは枚挙することができません。

天保一三年(一八四二)七月尊徳は幕府に登用され、八月普請役格に任命され、印旛沼の開さくを命ぜられました。そこで尊徳は意見を上申しましたが、その計画は凡人と異なっていたため、ついに用いられませんでした。
弘化元年(一八四四)に尊徳は日光神領荒蕪地開拓方を命ぜられました。これより先、中村侯相馬藩は一時非常に苛酷な年貢を収めさせたことから、住民は次第に衰貧に陥り、死亡・離散がひどく、田畑は荒れ果て、収納は三分の二を減じ、上下とも窮乏がはなはだしく、君臣はこれを嘆き、鋭意衰廃を興そうとしましたがどうにもできません。二宮という者が不世出の才徳を抱いて衰廃した村を救助し農業を勧める方法を行い、功績を挙げていると聞いて、尊徳に頼って興復を企てようと、藩士を選んでその教えを受けさせました。尊徳は相馬家の以前の一八〇年間の収納額を精査して藩の分度を定めます。また為政鑑(いせいかがみ)三巻を著し、これを藩侯に提出し、大いに同家のため興復に全力をあげて努力し、専ら人民を大事にする道を施し、善を賞し不善を改めさせます。また無利息金貸付の方法を行い、衰貧を挙げ、勧業永安の道をもって導き、相馬仕法を実施し、十数年で領内の旧来の怠惰な風俗が一変し、人心は農業に勤めるようになり、廃地も開けて、村里の面目を一新し、興復の効果を収めるにいたります。当時諸侯の中で、尊徳によって民治の政治を改めたものも少なくありませんが、治世よろしきをえて、実効を治めたものは相馬をもって第一とします。
○尊徳は生涯最期の日まで働いた
尊徳は日光神領の開拓の命令に接すると、力を尽すと同時に、富国方法書六〇巻を著し、幕府に提出します。嘉永七年(一八五四)日光神領開拓のため、下野国今市の官舎に移り、日光奉行に属し、同地興復に従事しましたが、病にかかって没します。享年七〇歳。時に安政三年(一八五六)一〇月二〇日でした。
尊徳の一生の事績は門人富田高慶著『報徳記』に詳しく書いてあります。直接間接にこれに教えを受けたものは、その遺教を奉じて、その地で会を設け、社を結んで、報徳の名を大いに起こすにいたりました。明治二四年(一八九一)尊徳の国家に対する功績が天聴に達し従四位が追贈され、その偉大な徳が表彰されました。また多くの人々の欽慕によって栃木県の日光今市及び小田原に報徳二宮神社が創設されました。その遺徳は偉大です。





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最終更新日  2016年07月11日 02時32分39秒


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