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2016年08月12日
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
鈴木鉄工部の併設、人材を育成。
藤三郎は明治二四年(一八九一)から、小名木川の宅地の一隅に小鉄工所を設け、最初は五人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。鉄工部ができてから新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになり、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をし、砂糖精製機械を完成することができた。鈴木鉄工部は明治二四年に、三千円の資本で創立された当時、三間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と二馬力のエンジンを備えたばかりだった。藤三郎は約二十年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地三千五百坪、従業員四百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。鈴木鉄工所には二つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にする。この二つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んだ。    
実業家として、発明家として
明治三五年裾野桃園に鈴木農場を開く。現在の不二聖心女子学院の不二農園である。明治三六年日本精製糖株式会社社長。衆議院議員。福島県小名浜に鈴木製塩所。明治三九年周智農林学校を設立する。
1 国府犀東の「駿河みやげ」に、鈴木農場の概要と入手の経緯についての記載がある。
「鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか四名が共同して、明治六年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治三二年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという」とある。
藤三郎は明治三六年(一九〇一)三月の第八回衆議院総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となる。その議会で井上純太郎と知合い、井上から「日本の塩は輸入塩にけ落とされかかっている。三割くらい製塩費を軽減できなければ、わが国の製塩業は全滅する。いい方法を考えてください」と依頼される。井上の依頼を受け、製塩方法を研究し、明治三七年風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置を発明する。翌年、海水を蒸発させるため、気圧を低くすると低温でも蒸発する理論を応用した低圧蒸発缶、管内の自動掃除装置など製塩に関する発明だけでも三三件の特許をとる。明治三八年福島県いわき市小名浜に鈴木製塩所を新設する。この試験工場は独力で資本金四〇万円を投じて建設し、改良に加え完成したのは、明治四二年だった。「なぜ大胆に一事業のため四〇万円の試験費を投じたか」の質問に対し「私が事業を創始するには、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の歌に、世の中に人の捨てざるなきものを拾ひ集めて民に与へんというのがある。私はこれにならって、世の中の人の捨てざるなき業を開きはじめて国に報いんと詠んだことがある。世人の捨てない事業を開拓し改良して、少しで国家に益したい」と答えている。発明によってまだ世に現れていない新事業を開き、社会を豊かにしようとの志である。
また藤三郎は、福川泉吾と協力し、明治三九年に森町に私立周智農林学校を創立した。

1 「特殊なる私立周智農林学校」で、山崎徳吉校長が創設の経緯について述べている。「本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が創設したもので、福川鈴木両氏は誠実熱心な報徳実行の人で、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守って共に今日にいたったものである。福川氏はかつて思われた。二宮先生の教えに、『人は言う。我が道は積財を勤めると、積財を勤めるのではない、世を救い世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない』と。そしてこれを鈴木藤三郎氏に相談して、まずその最初の事業としてここに本校の創設を見るに至った。本校開校式における鈴木氏の言葉に言う。『本校の設立は主として福川老人の力による。福川老人は私のためには無二の恩人である。私が昔、起業の際に福川氏が力を貸し、導きを受けたことは大変多かった。福川氏は先見の明識がある人で、維新の始め生糸・製茶の貿易に従い、後に山林経営の必要を観破し、今やまた我が周智郡の発展のために農林学校の設立の必要を感じられ、私に相談を賜わって、ついに本校の開設を見るに至ったのである』。「農業者の現在は、祖先伝来の耕作の方法を踏襲して進化の大法を知らない。ただ無意識にスキとクワをふるって、科学がどういうものかを理解していない者がほとんどである。農業を根本的に改良発展させようとするならば、かならず農家の子弟に農業教育を受けさせ、学理を研究させると共に、これを実地に応用させ、農業の本当の面白さを理解させなければならない。これが私たちが本校の設立を計画した理由である。世に私立学校の数は少なくないが、農林業に関するものはその数は極めて稀である。特に本校のような目的の下に創設されたものは、全国唯一本校があるだけである。」





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最終更新日  2016年08月12日 00時23分54秒


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