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2021年09月08日
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
9月4日から森町文化会館で「鈴木藤三郎展」が開催中です。

「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」でも「大日本報徳学友会報」に掲載された鈴木藤三郎の半生を資料として掲載しています。

 鈴木藤三郎
(一)鈴木藤三郎君立志画談 ・・・・・・・・ 106
(二)米欧旅行帰国後の鈴木藤三郎  ・・・・ 125


鈴木藤三郎君立志画談 山田露洲生
(大日本報徳学友会報第三一、三三、三四、三八、四〇回(一九〇四年十二月~〇五年九月)収録)
第一期の一 生年より明治九年に至るまで
森町年表・報徳・鈴木藤三郎関連 | GAIA - 楽天ブログ
▲諸言 鈴木君は日本の実業家、殊に糖業界の偉人とし衆議院議員として最も有名な方で、報徳界のためには始終尽力され、昨年遠江国報徳社で特別精業善行者の賞与式を行ったときには特別賞を贈られた方である。この画談に用いる材料は君が自筆の歴史画で自ら半生の経歴を描かれたもので、他に得べからざるの好材料である。殊に君は深く二宮先生を尊信し、報徳の訓言を服膺して成功され、常に「余の今日ある、報徳の教えを守り、実業に応用したことによる」と公言され、また将来の日本はおおいに実業的大和魂を養成しなければならない、実業的大和魂とは、報徳心をもって実業に応用するにほかならないのであると言われている。その言や服膺するべく、その行いや模範とするに適する、しかもその材料はただ一つの経歴画である。

▲鈴木君はいずれの人か 君はこの会社を経営されるために東京小名木川治兵衛新田に家をかまえておられるが、元は東海道鉄道袋井停車場より三里ばかり北へ入りこみたる、森町といえる小さな町の、とある菓子屋の養子であるが、実は同町太田平助といえるものの二男である。太田氏には二人の子どもがあったが、鈴木氏には一人の子どももなかったから、極めて幼年のときに貰われ、鈴木氏の家で生長したのである。実家も豊かな家ではないが、養家もまた細い資本で営業する菓子屋のことであるから、君は少年の折より菓子製造に販売にできる限りの働きをなして養父母を助けられ、父の没後にはその業をついで営業されたのである。君は養父母によく孝養を尽されたと聞いているが、これは君の天性にも出たるものであるが、また生母の賢たる感化にもよるだろうと信ずる。これは君の成功談には直接関係はないようであるが、母の感化が少年子弟には偉大の関係がある故に、ちょっと話しておこうと思う。君が鈴木氏に養われてのち、実家は不幸が打続き、父も病没し、兄もまた早世され、老いた母はひとりわびしく暮らすこととなった、人々その不幸を憐れみ、殊に旦那(だんな)寺の和尚(おしょう)来たり、君を貰い返してはいかんとすすめるも母は義を守りて許さないだけでなく、ある日、君を膝下に招き、事の始終を語り、かつ父在世の日、汝をば鈴木家の養子として遣わし、汝は養父母の丹精によりかく生長したものなれば、その恩義は生みの父母に異ならない、ひたすら心を尽くし養父母に孝養せよと深く諭されました。君はその教えを聞き、母の意中を察し、これより一層孝養を尽されたと聞いております。実に母の高義は感ずるに余りある次第で、この母にしてこの子ありと言わなければならない。
 遠州の国には嘉永の初年、相模の人、安居院義道先生が始めて報徳の教えを伝えられ、それ以来各地に行われ、この森の地も早くより信ずるものの多い所で、報徳の参会なども古くより行われておったから、君もいつとはなしにその教えの感化を受け、報徳の談話をも聞き、報徳書をも読まれるようになった。君一日報徳四要の文といって、故富田高慶翁のものとされる、以誠心為本。以勤労為主。以立分度為体。以推譲為用。(誠心をもって本と為す、勤労をもって主となす、分度を立てるをもって体となす、推譲をもって用となす)のいう語を見て、非常に深く感じられ、昼は家業に従事し、夜は孤灯の下に報徳書をひもとき、もって精神の修養につとめられた。これ実に明治初年の頃の事で、君が今日あるその原因は全くこの時代の精神修養にあったので、恐らくは君は成功の秘訣はこの以誠心為本。以勤労為主。の二句にありと、感じ、この語を実際に活用し、現実になしたならば天下何事か成らざらんと大決心をされたのであろう。報徳の四要を誦する人は多いけれども、君のごとく実際に活用する人の少なきは歎ずべきの至りであると言わなければならない。君の言われるとおり将来の日本は実業的大和魂の振起を要する場合であるから、諸子もまた君のごとく、現実にこの語を活用されることを二宮先生在天の霊はご希望をされているであろうと思う。
1 「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎(「斯民」第一編第九号(明治三九年一二月二三日)二五頁)
 子供の時から報徳という語は聞いていましたが、私はただ身代を殖やした人たちが、破れわらじを履き、けちな事をして金をためるのを報徳というのだとばかり思っていました。
報徳に入るの発端 私は養子ですが、一九歳の年になるまで、いわゆる生活の問題については何という考えもなく、無事に働いて日を暮らせばそれで善いくらいに思っていましたが、ふとこれではならぬという気になって、何でも一つ金を儲けることだと、親の家は以前から菓子製造業であったけれども、自分はその頃流行の製茶の商売に手を出し、その年から二三になる頃(明治八年)まで働いていました。然るに二三歳の正月ですが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思っていろいろ質問をしたことでした。
天命十箇条 この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でした。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになりました。このころの郷里森町の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でした。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席していましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものは、かつて想像していたものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め、説を聴いてあるきました。
岡田佐平治翁と報徳の伝播 その頃、倉真村の岡田さんは、今の良一郎君の父君、岡田佐平治翁が盛んに道を説いておられる頃でしたが、そのお話が聴きたいにも、何分私などにはよいツテがないために、お目にかかることができなかったのですが、明治一〇年かと思います。浜松の玄忠寺に報徳の会が毎月一度ずつ開かれまして、これへ岡田翁が出られますので、幸いのことと存じ、森町から浜松までは七里ありますが、会日には必ずこれへ出席していました。
徹夜の研究 しかし月に僅か一回くらいの事では修行が進まぬと思っていましたところ、その後見付町の金剛寺で、今の岡田良一郎さんが、青年を集めて報徳研究会というのを催されたので、喜んでこれへも出席しました。ごく熱心になる者ばかり一〇名ほどの会でしたが、毎に徹夜をして議論をしたものです。見付へは森町から三里ありますが、毎月二〇日の会日には、特に朝起をしまして、およそ午後の四時頃までに一日の用を果し、それからテクテクと出かけるのです。夜どおし難問の研究をしまして夜が明けると、金剛寺の和尚が看経を読むその声を聞いてからいつも家路につくのであります。それから引佐郡井平村の松島授三郎氏、この人も有名な報徳の先生ですが、ここへも何遍か行っては話を承りました。
論客とあだ名せらるる所以 元来私は物に熱しやすき性質ですから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風ですから、人によるといやがります。熱心なのは良いが、ああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名を貰っていたのです。
腑に落ちざる投機につきての説諭 かつて相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でした。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのです。ある時二日ばかりの大会をした後、なお四、五日新村氏に逗留している間の事です。森町の報徳社員のうち某々の二名が、報徳では厳禁とする投機に手を出して、正に破産しかかっているので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでしたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席にいますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の二人は心服したようですが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのです」渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかです、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。
困った求道者 渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしばしばこんな議論を先輩に対していたしたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でした。

積極分度 平岩氏は私がこの問題を解くため既に三年かかっていると聞いて、「それならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人も共にこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのです。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経(へ)尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際にいながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を承認されたのです。このとおり、私は理論は盛んに求めていましたが、いまだ実行には着手してはいません。もっとも製茶の職業だけは怠らずかせいでいましたが。元来この商売は報徳とは縁の遠い楽な仕事でして一季出盛りの時の外は随分朝寝もいたします。養父は報徳の教えは聴いた人ではないが、菓子製造の職業には、なかなか熱心勤勉な方で朝早く一仕事してからまだ私が寝ていますと、枕元へ参られまして「何だ朝寝の報徳というのがあるか」と怒鳴ります。私も理論に馳せるくらいですから、なかなか口は達者なもので、即座にこう答えるのです。「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがある、諺にも寝勘弁というではありませんか。まず一通り将来の計画を立てて、段々に実行に着手するのです。今は年の半ばですから、明年の一年一日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代りに来年からは、あまり働き過ぎるなどと、ご心配をなさらぬようにして下さい」と申しました。こう申しましたのが明治九年の八月頃です。一夜明けた初春からは今までの茶業もやめよう、あくまでかの菜の葉主義をもって学び得た理論を実施に施すには、やはり家の世業によるに限ると思いまして、明治一〇年の一月から向う五ヶ年を一期とし、かの「荒地の力を以て荒地を開く」という理を自分の考え通りに解釈して、これを自分の事業に用いんものといよいよ躬行の計画を立てたのです。
2 余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法
(大日本醤油醸造会社長鈴木藤三郎「実業日本」一一(二〇))
十年の元旦から生れ返って大奮発 私はふとした機会で報徳教を耳にすることになった。そうすると私が今まで是(ぜ)であると信じていた考えは甚だ人道にそむいているということが解ったので、爾来四、五年間は必死になって報徳を研究した。元来私は物に熱しやすい性質であったから、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、どこでもうるさく尋ね、時には議論さえしたことも少なくない。報徳主義の人には謙譲の美徳を尊敬して、人と議論するなどということは少しもない。それを私が目上の人であろうが、さしつかえがあるにも係らずにやるので、自然私のことを『論客』とあだ名されるようになった。当時私は製茶の販売をやっていたので、相当に稼いでいたが、出盛りの時以外は用もないので朝寝をすることがある。養父は報徳主義を聴いた人ではないが職業には熱心勤勉な方で、朝早く一仕事してからも未だ私が寝ているのを見、私の枕元へ来て『何だ、朝寝の報徳というがあるか』と責める。私も理論を研究している時である。なかなか口は達者なもので、即座に「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがあります。大工が板を削る前には必ずかんなを磨いてからかかる、床屋が顔を剃るにも必ずその前にかみそりを磨きます。それが物の順序です。諺にも寝勘弁というではありませんか。一通り将来の新計画を立てて段々に実行に着手する。私は大工がかんなを磨き、床屋がかみそりを磨いているのと同じく、今は実行に着手する準備です。今は年の半ばですから、明年の一月一日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは容赦して下さい。その代り来年からは余り働き過ぎるな、などとご心配をなさらないようにして下さい」と言った。
先ず買って来たのは目覚し時計 報徳の教えを聞いてから職業の大切なこと、人間に尊卑の区別あるは誠心のいかんによるので、その執る職業には少しも関係せぬことを悟ったので、今まで独立してやっていた製茶事業をやめて再び家業の菓子製造業に従事することにした。そして第一に朝は五時に起きることに決めた。しかし困ったことには今までは朝寝の癖がついたので、なかなか目がさめない。人に起こして貰うのは嫌だし、何か機械的に自分で慣習を改める法はあるまいかと考えた。その頃目覚し時計というものがあると聞いていたが、まだ見た人も少ない。然るに浜松の宮代屋という小間物屋が名古屋から買って来て持っていると聞いたので、無理に七円五十銭かで譲って貰い、いよいよ明治十年一月一日からこの目覚し時計で五時には必ず起きて仕事に着手した。今まで朝寝さえしたことのある私が五時にはキチンと起き、しかも元日から仕事をするので家の人はビックリしている。

調査の結果経費の二割を節約した 私の家の経済は養父も別に心得がなかったので、一切不明であった。そこで自分で調査して見ると、家の経費が二百六十円で一ヶ年の売上金額が千三百五十円である。これで計算すると現在の純益歩合が二割五分ということになる。しかし菓子商で二割五分の利益とは少し困難である。確実な計算とすれば二割であろうと思った。そうすれば一ヶ年の得るところ二百余円で五十円ばかりの不足となる。しかし明治十年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず入費も不整頓であるから、これを整頓すればいくらかの節約が出来るに相違ないと思ったので、先生の仕法に基づいた家政経費調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物衣類等経費の項目がおよそ三百余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々より分けて節約の出来る経費がちょうど五十円位あることが解った。
次に残した金で商品の価を安くした 明治十年からは新しい人間になった積りである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とす」る主義に則って未明から夜半まで働いた。さてその年の暮れになって計算して見ると一ヶ年の売上金額が千九百円となり、二千円足らずで、経費は予算の通りであったから、節約した五十円の外に計算外の利益五十円を得て、合せて百円の金が残った。そこで翌年はこの金を二百五十円とするには既に内、百円が手元にあるから、差引百五十円を二千円の売上金から残せばよいのである。二千円に対する百五十円といえば、ざっと七分に当る。先ず一割の利益を得ればよいというソロバンが立つ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることが出来る。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズット増加して第二年の終りには三千五百円となった。従来の商いの口銭(こうせん)は単に外々の同業者の振合い見て競争に堪えられる限り一杯の値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちにふえ、売上高が増加したのである。
五年間に売上高が十倍になった この筆法で五ヶ年間、商業を続けたところが、第五年目には売上金が一万円、利益は僅かに五分取っても沢山になって来た。資本金も始めは二百六十何円しかなかったのが、五年の終りには千三百何円となった。これで私は荒蕪の力を以て荒地を拓くという主義は何の事業にも応用される、天下これに由りて起らぬ事業なしという先生の説に一点の疑いもなくなった。その後、私はこの五ヶ年間の帳簿とその着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう)の泰斗(たいと)として師事された人であるーの所へ行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い、人にも勧めたけれども君の如くに荒蕪の主義を商業に応用したもののあることを聞かぬ、実に斯道の模範であると激賞された。
余が料理屋遊びの拒絶法 五ヶ年の計画が予定通りに済んだので、私は砂糖事業に従事した。しかしこの五ヶ年の間、この主義を実行して行くには多少の障害となるものがあった。私の郷里では青年が料理屋に上るという悪風があって、私も以前には時々その交際をしたこともある。それでいよいよ斯道を聞き、新生涯を開こうとしたとき、どうしてもこの悪風は除かねばならぬと決心した。その中に旧友は例の如く私を誘って料理屋に行こうと言う。一言ではねつけてしまえばそれまでであるが、罵詈(ばり)を受けるであろう。同郷として商売の邪魔にもなろう。さりとてこれに応ずれば当初の決心にそむく、どうしたものであろうかと種々苦心の末、一策を案出した。誘引されるごとに容易に承諾をして行く。そして種々な酒肴を持って来らせ、費用が驚くほどかからせるようにした。鈴木が一緒だと費用が掛かって困るということになり、数回で朋友も私を誘いに来なくなった。またこうして荒蕪の主義を実行するについては、帳簿の記入は綿密にしなくてはならぬ。記録の整頓と、計算の正確とは最も注意して一銭一厘たりと雖も必ずこれを記帳することにした。ところが父は非常に酒がすきなので、私は毎晩晩酌を捧げてはいたが、父は私が一々それを記録するので心持がよくない。こんなことをして飲む酒は甘くない。汝の仕法のようなことをしなくとも渡世は充分に出来ると言って承知してくれぬ。親の言うことも背くにも背かれず、といって一歩でも道に反したなら大害を醸(かも)すであろう。一時親の意を損したとしても永久の計には換えられぬ。また父もたちまちに私の意を呑み込んでくれるであろうと決心して幾回となく報徳の道と仕法とを説明したので、後には父も私の真意を悟ってくれ、喜んで晩酌の杯を取るようになった。
3 明治八年正月、藤三郎が実家の太田家で見た二宮先生の本とは『天命十箇条』である。(「荒地開発主義の実行」)日光で遠州七人衆が二宮先生から頂いた「三新田縄索雛形」に、尊徳が天保九年小田原下新田の名主小八に与えた「天命十箇条」が入っている。「天命当時富貴なり。富貴なれば富貴なる処、則ち天性自然なり。天性自然の富貴に随いて、天を頂き、身を慎しみ、分度を守って、驕奢弊風に流れず、又は衣服、飲食、居住に至るまで、万端手軽にいたし、貧賤を恵む、是を道という。此の富貴の道は暫くも離るべからず、離れる時は富貴の道にあらず、富貴の道を勤めずして、富貴の所行に怠れば、果して富貴の道に背く、富貴の道に背けば、富貴を守ること能わず、富貴を守ること能わずして、後悔せざるものは村里に少なし」この後、「天命当時貧賤なり」「天命当時患難なり」など全部で十パターン続く。「天命当時大借なり」では、飲食居住贈答に至るまで節倹し返済すれば、大借の憂いを免がれる。もし免がれがたい時は、田畑家財衣類までも売払い皆済し、祖先の業を勤めるときは、元の如く富貴に至ると「祖先の業」を勤めることを説く。





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最終更新日  2021年09月08日 04時38分34秒


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