鈴木藤三郎氏は明治10年、21歳のとき、氷砂糖の製造法の研究を始め、明治16年製造法を発見、17年森町に工場を建設、21年工場を東京に移した。後に製糖事業を兼ね、大日本製糖会社に発展、更に台湾製糖会社を設立、製糖業の第一人者であった。
明治32年「鈴木農場」となったこの農場の主体は、茶園と果樹林で、山林の手入れ育成にも工夫をこらし(*)、乳牛を導入して酪農経営も行うなど、地方の営農に改善をもたらした。
「鈴木氏まず『平生造林の事につきて常に考えつつあれど』と、極めて遠慮深く口を切りつゝ『造林事業をなさんには、伐採期となりて、全体を皆伐するは然るべからず。皆伐すれば、その跡はもとの赭山(あかやま)、されば伐木の跡には、必ず補植をなし、一区一区と漸次に伐るべきものと覚ゆ』(中川氏の手帳による)
◎『植継ぎさえなしおかば、永代にわたりて立派なる財産たるべし。この村の山林にも、伐採期となりて、悉皆伐り出し、それを金にして、各戸に分かつをやめ、その幾分を補植費に残しておかば万全の策ならん』と。鈴木氏の所見、皆同感なりしが如し。中川望氏も、西个谷氏に勧めて『今のうちに村人に説き勧め、鈴木氏の意見にあるごとき仕組とし、方法を変更してはいかん』と説く。西个谷氏うながいつ、さなりさなりという。」
鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全… 2022年08月03日
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「日本醤油醸造会社の出現と解散に思う」 2022年07月23日