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空海を調べていくとこの法について記載してあります。その修行法については、そこに書かれてあるのですがその意味するところは、驚異的な記憶力
2017.01.30
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お経を読むという作業はは、わたしは、声の瞑想では無いかと思っています。単調なお経を読んでいくと、間違いなく途中で別の事を考え出します。(時間を作り出している)それに気づいて、また読経に戻ると言う作業は座禅で行う、覚即という作業とそっくり同じと見ています。読経という今の瞬間をはなれ、心がさまようそれに気づいて、今に戻る。全く同じな様に見えます。ここで陥りやすい罠は、無駄なことを考えないようにしようとか、無になろうと思うことが罠ではないかと思われるのです。そうすればするほど、余計に出てきてしまいます。この気づくと言う行為こそが、最も大切な、気づくことがポイント、気づけば気づくほどポイントが貯まっていくくらいの気持ちが大切なのでは無いかと思っています。瞑想において気づき、これはよく聞かれる言葉です。しかし、思った以上にこの行為には広い、重要な意味があるように思えるのです。
2017.01.28
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薬物による幻覚症状というものは、よく知られているものです。この現象をよくよく観てみると私たちは、外界からの刺激によって、体内の受容体、つまり眼、耳、鼻、舌、触覚を通して知覚というものが、反応していると考えがちですがよくよく観ると幻覚とか夢が勝手に知覚を翻弄する具合をみるとこの知覚というものは、基本的には体内、つまり内側から得られるものであって外界からの情報は、ただ見るとか聞くとか嗅ぐとかの手引きをしているだけのように見えてしまう点です。ですから、今観ている世界というものは、実は自分のこころが映し出しているものに過ぎないと言う事に、気がつき、また驚かされるのです。
2017.01.28
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チベットの僧で、マシューと呼ばれる方がおられた様です。その方の瞑想中の脳を測定したところ、とんでもなく幸せな状態であったそうです。僧マシューは、瞑想中、他者への愛と思いやりを抱いていると言うことでした。とのことです。
2017.01.15
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認知行動療法の基礎と展開7(「マインドフルネス認知療法」)https://www.youtube.com/watch?v=Rk2V6GAwidoこの講義は非常に参考になります。熊野氏の講義です。
2017.01.06
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見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。この中の見られたもののみと言う部分見たと認識したその瞬間のみ有るとみえてしまいます。つまり見たと気づいていること実は気づいていると言う事は、一瞬であり、よく言われる今この瞬間の事を指している様に思えます。見たという瞬間の認識以外のものは、有るとは言えない事なります。まさかなんですが....
2017.01.03
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見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。リンゴを見たとします。その時はリンゴが有るばかばかしく思われるかもしれませんが、これは前も書いた月の話と同じだとみえるのです。ひっくり返すと見てないときには、有るとは言えないそんな馬鹿な、ほら有るでは無いかとこれだけだとそうかも知れないがと言えるかも知れませんが現在の量子力学においては、この観ていない時は有るとは言えないと言う構造になっている様なのですけど認識しなければ、実体は無いと言われている様に、わたしには思えます。しかし、いつ見てもリンゴがみえるなら、それは確固たる実体があるように思えてしまう。当たり前のことですが、これが我々の普通の認識です。いや、当たり前すぎてその認識すら考えたことも無いはずです。しかし、この構造が正しいとするなら、実体というものが非常にあやふやなことに成ってしまうはずです。(しかしどうもそうらしいのです。)この構造がただしいなら、実体を形成するのは自分しか無い事になります。世界を作り出しているのは、自分......だだよく考えてみると、何かが有ると言う事は、自分の脳の中というか、心の中にしかないこのことは、前に何度も書いています。実体が無いなら、このリンゴは何なのかと言うと、言ってみればわたしという心のスクリーンに映ったものでしかない事になります。さて、実はこの世界観は、どうも穴が見つからないのです。
2017.01.03
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バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうと。バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤさん、まさに、あなたにとって見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です。これは何をいっているのかについて
2017.01.03
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