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それは自分という物の上でしか存在できない、あくまでも主観的なものにならざるをえない認識するから存在するような物になる。世界は、その個人の中で閉じているといえる。認識する各個人、各個人がひとつの宇宙を持っていることになってくる茶碗がひとつある、それを見ている私と、それを見ているもう一人の人同じ茶碗でも、それを認識している人が異なるので、異なった世界を各個人が有していることになる。大乗仏教では、無数の仏がいるという、もし世界がこうであるなら、各個人しか仏になりようが無い、他人と称する物は、自分が他人と認識したものであり完全なる実態では無いことになる。まぼろしのような物と言えるのでは無いかとなる。世界のは無数の仏がいることになる。それに気がつくか、どうだかだけどつらいことが起こる、悲しいことが起こる、不安なことが起こるそれも突き詰めれば、わたしがそう判断しているからそうなる世界を作っているのは、自分自身だからこの世界は美しい そのように見ればそのように見える。世界は醜くく醜悪、そのように見ればそうなる。みんなが幸せになるように、みんなはだれもが仏となることができるはずだから
2014.01.25
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それは生命の危険があるものです。病人、老人、死人は生命にとって非常に危険な物なので強調して記憶されてしまう。それが記憶としてよみがえるから、苦しむと言えると思います。
2014.01.19
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お釈迦様が門を出て行ったとき、みた病人、老人、死人というものは人にとって危険なものです。このような生命を脅かす事象は、脳は優先的に記憶し、かつそれを強調して記憶するようになります。ですからこの脳の仕組みこそが、人を苦しめている本体と思えます。苦しめているということは、その記憶を強調してよみがえらせることでありそれを無くしてしまえば良いことになります。病人が老人が死人があることをそれをあるがままに見ることができれば良いということです。それを見ている自分がその事実を強調して思い出すから、苦しみが始まると見ています。よくよく考えてみれば、上記の問題も地球の裏側の事例であるのと、目の前で起こる事例で受ける印象は、まったく違ってきます。つまり自分がそれをどのように認識しているかという、この自分というフィルターで認識せざる得ないことから、生じています。認識するということは、この呪縛から逃れられないのです。同じ物を見ていても、見ている人が違えば、まったく同じとは言えないのです。わたしはこのように考えています。
2014.01.19
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こころが存在していることは誰でも知っているだろうでもなぜ人は心を知ることができるのだろうか?こころでこころを観ることから、こころがあることを知ることになるそれはなにか?こころを知ると、そのこころを知っている自分を知る事となるこれは無限に連続できることに気がついてくるこの事は、こころが無限を理解することにつながる無限を知る事ができれば、それは有限を比較として知る事となる。無限に続く物を理解できるから、有限である自分の命の短さを知る事になるのではないか?
2014.01.05
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