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小学校3年生の時、担任は女性教諭だった。何の学習時間だったのかは覚えていないが、何故だか好きな漬物や佃煮の話しになり、「私はセロリの佃煮が好きです」と話したら、「セロリの佃煮なんてありませんよ!」と担任はきっぱりと言う。「うちでは時々祖母や母が作ってくれて食べます!」と返したものの、信じてはもらえない( ノД`)シクシク…嘘をついているように思われたのが悔しかったこともあり、私は祖母に作ってもらい学校に持って行った。あのセロリの佃煮、祖母はどういう経緯で知ったのだろうか? 今と違って、レシピを伝える媒体はテレビかラジオか新聞、もしくは婦人誌くらい?それとも祖母のオリジナルだったのか。祖母には料理のアレンジ能力があったように思う。嫁入りの際に男衆や女衆を連れて行ったほどのお嬢さまだったから、自分で料理をすることはなかったらしい。父が大学生の時に祖父が病気で亡くなり、そこから女中さんを郷に帰して祖母は料理を作り始めたようだ。それでも元々食べることが好きだったからか、色々とアレンジを加えて好きな味を作り上げていた。反対に母の方はといえば、上に5人もの姉がいたので、実家で料理を手伝わされることもなく、嫁入前の1年間、料理教室に通ったものの、料理や食べること自体にさほど興味が持てなかったようで、決まりきったレシピ以外に冒険はしない。母の料理ははっきり言って、おいしくないことが多かった。春、同じ蕗の煮物を作っても、まったく味が違う。私は母に睨まれながらも、祖母が作ったおかずの方を食べたがったものだ。祖母に顔も体つきも、色々な好みもほぼほぼ似ている私。でも、あの料理のアレンジ能力は・・受け継がなかったかも…。まあ母ほどはひどくないけれど、祖母ほどうまくはない。でもね、おばあちゃん、おばあちゃんの作った薄味の煮物、私も時々真似して作っているよ。ただ、あの味を完全に再現するのは、もう無理かな?だって、おばあちゃんの味を正確に覚えていたはずが‥お別れしてから43年が経ち、徐々に薄れてきてしまっているんだもの(´;ω;`)ウゥゥ
2026年08月06日
回旋複視はどうにか、手術が必要な最悪の状態からは抜け出られそうだ。ガチャガチャに見えていた視界が、なんとか少しのズレで済むようになった(まだ急変の心配はあるが)。ところが・・一難去ったらまた一難(´;ω;`)ウゥゥある朝目覚めたら、右手をグー✊パー✋グー✊パー✋とできなくなった。元々「限局性強皮症」で右手は動かしにくかった。ただ今回は強皮症とは違う。以前、左手に現れ、整形外科で「ばね指」と診断された時とも異なる。朝起きてすぐから、動かしにくい右手を痛みを我慢して動かす。そうすると徐々に少しマシになってくる。ネットで調べると色々な病気や原因が出てくるが、どれも症状がちょっとずつ違う。とにかく整形外科なのか膠原病科なのか、どこにかかればいいいのかを判断するために、しばらく様子をみることにした。 進行が顕著なら#7119に相談する方法もあるが、まずは観察しないと現状がはっきり伝えられない。3日後、痛むのは中指だけだと判った。ただ、第一関節? それとも第二関節? 付け根? その判断がまだできない。とても微妙な痛み方で、時間と共に変わってくる。第一関節なら「へパーデン結節」で、第二関節なら「ブシャール結節」だとネット検索では出る。ところが、これまた日によって、第一関節だったり第二関節だったり。あ~~、整形外科でレントゲンを撮ってもらうしかないのかな?予約を取ろうかな?でも・・こう暑いと予約した日が猛暑日だったりした場合、出掛けるのが辛い。かといって、すでに予約されている他の科の受診日に合わせて取るのは、整形外科は常に混んでいて難しい。あと少し、様子をみよう。 急激に悪化した場合は救急外来と言う手もある(´;ω;`)ウゥゥそれにしても、次から次へと笑ってしまうくらい色々なことが起きるものだ。
2026年08月03日
小学校の夏休みには、けっこうな量の宿題が出た。国語・算数・理科・社会のドリルが全部で7~8冊はあった。年によっては10冊を超えた。プラス、絵日記や朝顔の観察日記。自由課題があったのは何年生からだったか?そして毎年に必ずあったのは「昆虫採集」。セミが一番多かっただろうか? 後は…カブトムシやクワガタも、たくさんいた。 庭に出るだけでもいくらでも捕まえることができた。網で捉えた昆虫は、父に言って腐敗を防ぐため(?)の薬剤を注射器で注入してもらい、箱に納めた。今思うと、なんて残酷なことだったか…。忘れられないことがある。ある時、網で捕まえたセミを父に渡したら、そのセミの眼がマジックか何かで赤く塗られていた。「かわいそうに。このセミはずっと赤い世界を見てきたんだね。逃がしてあげようか」父はそう言って、手放して飛ばした。父は大正生まれ。子供の頃は、母から「お父さんはお忙しいから直接話しかけてはダメ。話がある時はお母さんに言って」そう言われていたので、幼児期は別として、就学した頃からはあまり話しかけないようにしていた。でもこの昆虫採集の時は父に言うしかないので、父が在宅している時に網を持ち出した。あの赤い眼のセミを見た時の父の悲しそうな顔。 何を思っていたのだろうか。子供の頃、私は昆虫が苦手で、カナブンが家の中に入って来ただけで逃げ惑った。カブトムシやクワガタも怖くて触れなかった。網で獲った昆虫は、網のまま父に渡した。でも今は大丈夫。このマンションに住み始めて、家の中に入ってくるコクワガタやカブトムシ、カマキリ、ヤモリ等猫たちが捕まえて死なせてしまわないよう、先に獲って逃がすことをしてきた。夏というより春になるが、芋虫が大好きになり、ベランダの植物に停まっていると観察するようになったし、処分するという人から貰ってきて、箱の中で育てることも幾度もしてきた。私、どうやら動物だけでなく、昆虫も好きみたい(^▽^)ただ・・コックローチだけは・・申し訳ないけれど、好きにはなれない💦💦
2026年07月30日
いつまで使っていたのだろう? 幼少の頃、夏の夜には必ず蚊を避けるための「蚊帳」を寝室に貼った。緑色の大きな網のようなもので、それを部屋の四隅から吊るす。除虫菊の蚊取り線香は点けていたものの、蚊はちょっとした隙間からも入ってくるから必需品だった。子供にとっては、夜になって大人が蚊帳を吊る時間も、楽しみのひとつ(o^―^o)ニコ「おやすみなさい」を言って蚊帳の中に入る時は、一緒に蚊が入ってくることがないように、蚊帳の裾をほんの少しだけ持ち上げて急いでくぐる。それでもたまに蚊は入ってしまい、気付かずに寝ると夜中に「ブ~~~ン」とあの羽音が聞こえてきて、大騒ぎで電気を点け確認したっけ。まだ幼かった頃の私は、蚊帳の天井部分のたわみに乗ってみたくて仕方がなかった。蚊帳を海に見立て、上で泳いでみたかった。実際に挑戦しようとしたけれど、乗ることすらうまくできなかった。家に蚊帳は何帳あったのだろう?祖母の部屋と両親の部屋と、私の部屋、妹の部屋。いえいえ、夏の間、子供たちは親の部屋で一緒に寝たような記憶がある。蚊帳は部屋全体に貼られるので、けっこうサイズが大きく、6畳間や8畳間、それ以上のサイズもあったか。ただ、6畳未満のサイズはなかったのかもしれない。今でも、あの蚊帳を使っている家はあるのだろうか?調べたら、蚊帳の素材は変っても蚊帳自体は販売されているようだ。赤ちゃん用はともかく、一人用のもあるようで、それはテントの様に設置するらしい。でも・・使っている人を、私は一人も知らない💦
2026年07月27日
スイカのジュースがブームになっているそうだ。実は数年前から私はこれが大好きで、時々買っていた。ただ血糖値の問題があって今年は購入に至っていないが…(生のスイカもGI値が高めなので滅多に食べない)。スイカで思い出したことがある。まだアテネの学生だった頃、外国人が多い地区の高級スーパーで「スイカの缶詰め」なるものを見つけた。びっくりした。ミカンや桃やパイナップル、葡萄等の缶詰めはもちろん知っているが、スイカ?!そもそもスイカはあの食感も大事と思われる。缶詰にしたら損なわれてしまうのでは?高かったけれど、どうしても気になって買ってみた。う~~~ん(。´・ω・)? スイカのシロップ漬けだけれど「やっぱりね」の食感(;^ω^)これ、誰が食べたがるのだろう? と正直、思った。スイカはあちこちに名産地があるようだが、母の実家がある奈良県もそうだ。毎年のお盆休みに母は私達姉妹を連れて里帰りをしたが、近所からたくさんのスイカが届けられた。ただ、スイカの種を取る小さなフォークのようなものを渡され、「種は口の中に入れてはいけない」と、食べる前に取るように厳しく言われたのには閉口した。それでも井戸で冷やしたスイカは夏のご馳走だった(o^―^o)ニコスイカ割りもさせてもらえた。奈良では食べた記憶はないが、横浜の地元の八百屋さんには黄色いスイカもあって、それは「クリームスイカ」と名づけられ、その色味がかわいくて好きだった。スイカの缶詰め・・そういえばもう見かけない。やっぱり需要がないんだろうか(・・?
2026年07月24日
もう一年以上前からになるが、私は後頭部の髪の裾を上下3㎝ほど刈り上げている。これは43年来の行きつけ美容院「Salon de Kei」の店長で美容師の恵子さんが、いきなり「後ろ、刈り上げた方が襟元がもたつかずに綺麗なのよ」と一応? 断ってから施したもの。最初はバリカンで剃られて、怖いしびっくりしたが、確かに襟元はすっきりする。内側だけの刈り上げなので、後ろから見られても気づかれることはほぼないし、冬はコートの襟やマフラーで毛が外側に膨れることがなく、夏は後ろの毛が少ない分、汗も髪に纏わりつきにくく、とても楽だ。ちなみに髪の長さはセミロングである。恵子さんはもう83歳なのに、常に若い女性の流行のヘアスタイルも研究しているし、新しいパーマ液やドライヤー、シャンプーなど、ヘアケア商品も仕入れては試している。昨年秋あたりから、齢のせいで、髪が少し薄くなってきた。元々は年齢の割に髪は多めで白髪も少なめ。手入れが簡単な方だったが、さすがに寄る年波には勝てず、急に薄毛が気になり始めてきた。「育毛剤はアルコールを使っている製品が多くて使えないし、どうしたらいいかしら?」と聞いたら、「これ使ってみて」と試供品として新商品のシャンプーを渡してくれた。そのシャンプーで洗うと根元の立ち上がりがとてもいい。その結果、ボリュームが出る。29歳の時から私の髪質を知っていてくれるし、性格も判ってくれているから、シャンプーや肌ケアに時間をかけないズボラさも充分理解してくれている。これからもずっとず~~っと恵子さんに髪をやってもらいたいなあ。元気で長生きしてもらいたい(o^―^o)ニコ 友人でもいてほしい。ちなみに白髪は全体にまばらにあるが、市販のヘアマニキュアを月一で使っているだけ。地肌が痛まないように、ヘアカラーではなくヘアマニキュアを選択している。
2026年07月21日
時々、強炭酸水をネットで注文する。毎日の食事は低Giファーストを徹底し、摂取カロリー計算も大まかではあるが日々やっている。どうしても食べたいスイーツ等がある時は朝食後か昼食後に食べるが、その分、炭水化物は減らす。常にダイエット( ノД`)。でも強炭酸水を買っておくと、お腹がすいて我慢できそうにない時に便利だ。味は全くないが、それでも飲むとお腹は膨れる(;^ω^)たいてい決まった店舗で、特売時に500ml・24本入りを購入。ポイントを使えば24本で1000円ほどと、超お得な商品だ。配達日と時間帯を指定し、当日はチャイムの横に「足が不自由なので鳴らしたら20秒は待って下さい」とのメモを貼る。足だけでなく手も強皮症で少し不自由。なので、届いた段ボールは玄関内の上り框に載せてもらう。わずか15㎝程の段差だが、私の力ではどうやっても持ち上げることはできないのだ。いつもは佐川急便さんの配達なので、どの人が来ても「ここの上までお願いします」と指せば、玄関ドアからほんの2~3歩の距離。すぐに載せてもらえた。ところがだ。 今回の配達は、初めてヤマト運輸さんだった。いつものように「この上までお願いします」と言った。でも、玄関ドアがどうにか閉まる、ギリギリの場所に置かれた。「玄関までなんですよ。すみませんね」と一言。えっ? どうしよう。これでは荷物は框に載せられない。速足で去ったヤマト運輸の人の背中を呆然と見送り、仕方ないのでその場で段ボール箱を開けることにした。開けて2本ずつ取り出して上り框とたたきに置き、まずは段ボールの箱を空にする。その箱を室内に運び、2本ずつ箱の中に戻していく。箱を崩していなければ、上り框の上に載せられた荷物は少しずつ押して行き、定位置に置けるのだが…。全部で24本。いっぺんには移動できないので、休み休みやる。足も腰も痛くなる(´;ω;`)ウゥゥなんだか情けなくなった。やってもらえるものだと思っていたので、この大変さは予想していなかった。しばらくショックだった。 私はもう足を悪くする前のような体ではないのだ。足も手も不自由だ。 そしていつの間にか弱者及び高齢者にもなっていた(´;ω;`)ウゥゥでも、考えたら、これって私の甘えだったんだね。 忙しく走り回る配達員さんにとっては、わずか2~3歩でも、いちいち客のリクエストに応えていたら時間が足りないのだろう。今までの佐川急便の配達員さんが笑顔で応じてくれたのを、当り前だと思っていた自分が情けない。それでも次に強炭酸水を頼むときは、佐川急便さんを指定できる店にしないと・・と思う。もう自分でできないことは、できる範囲に納めないとならないのだ。それが私の現状なのだ、ということを思い知らされた今回の出来事。
2026年07月18日
額からは汗はあまり出ないのに、何故か眼の下にたくさんの汗をかく💦右眼より左眼の方がよりたくさんの汗をかくが、サングラス😎の下から、まるで泣いているかのようにしたたり落ちるので、けっこう困る。家では経済面を優先して、眼鏡に装着するタイプの布製眼帯をしているが、これがフレームに着けると思いのほか重くて邪魔な為、外出時は普通の眼帯か貼る眼帯にしてきた。でも、でも、だんだんに暑さが増し、眼の下に汗をかくと眼帯に染み出て、またまた大変なことに(;゚Д゚)ところが、だ!!前回に書いたが、徐々にまっすぐに見る範囲では焦点が合うことも多くなった。これなら眼帯をせずにコンタクトレンズ+サングラス😎で外を歩けるかも、と試しに買い物に出てみる。左右や斜め上や下を見ると、やっぱりズレがかなり気になる。でもこれはプリズムレンズを入れた眼鏡👓での見え方と同じらしい。だとしたら、これに慣れたほうがいいのか?回旋複視になる前の様には(つまり普通には)見えないけれど、あの罹患した当初の、ガチャガチャに景色が大きく崩れて見えた時よりはかなりましな状態。一応は歩ける。仮に手術を受けたとして、以前のような見え方に戻るとは言えないらしいし、場合によっては、やはりプリズムレンズの眼鏡👓をかけることになるというし。結局、コンタクト+😎にしてみた。汗は同じように眼の下から泣いているかのように出てくるが、それでもハンカチで拭えば済む。うん、うん、いいかも。この方が。ただ、まっすぐは焦点が合うように思えるが、時折、瞬きをすると眼を開けた時に、また大きく左右が傾く。まだ日によって見え方がかなり違う。もしかして、この先、あのサイアクな見え方に戻ってしまうこともあるの?まだまだ油断は大敵。用心しながら過ごしていこう。どうかこのまま後戻りはしませんように。
2026年07月15日
無塩の100%人参ジュース、同じく無塩の100%野菜ジュースやトマトジュース。昨今で私がたまに口にすることがあるジュースは、それくらいだろうか。甘い飲み物は血糖値の急上昇(スパイク)が怖いので、極力避けている。私の子供時代、ジュースはまだ珍しいものだった。甘い飲み物は、麦茶に砂糖を加えたものが人気だった・・ように思う。そんな中、忘れられないのがお米屋さんだけで売られていた「タケダ(武田)のプラッシー」。お米屋さんから御用聞きが来たり、電話でお米を注文する時、母が「プラッシーも〇本」と言うのを聞くととても嬉しくて、届くのが楽しみだった。 確かオレンジジュース一種だけだったと記憶する。当時、液体のジュースはまだなかったのか?テレビCMで流れた🎶わたなべの ジュースのもとです もう一杯🎶という歌はメロディーも覚えている。ジュースの素、というのだから粉末のようだが、私自身はこれを飲んだ記憶はない。ジュースが当たり前のように飲めるようになったのは、いつ頃からか。長い事100%果汁のものはなく、100%果汁のジュースが出回るようになったのは、確か、東京ディズニーランドができる少し前だったような・・。と言うのは、オープンしたばかりのDLでは100%果汁ジュースの提供がなく、「子供が行く場所なので、身体にいい100%果汁にしてほしい」という意見がたくさんあったこと。私は小学館の育児月刊誌で、そのことを記事にしたためた覚えがある。糖分やカロリーを気にするようになってからは、ジュースはほぼほぼ飲まなくなった。でも、子供の頃に飲んだ、プラッシーや、親に隠れて駄菓子屋さんで買った、粉末のメロンソーダの味は今でも懐かしく思い出される(o^―^o)ニコそういえば小学校高学年の時に転校してしまった久美子ちゃんへの手紙の中に、粉末ジュースを一杯分入れ、「〇月△日の夕方5時に同時に乾杯しようね」と書いて送ったっけ。久美子ちゃんも、もう72歳か73歳だんだな。どんな人生を歩み、どんな今を過ごしているのかなぁ?ふと思い出した。仲良しだった友達のこと。
2026年07月12日
7月5日の朝日歌壇にこんな短歌が載っていた。スマホより車窓を選ぶ江ノ電の 客は静かな時間を生きる(つくば市・石上徳千代さん。高野公彦・選)以前書いたように私は、乗り物に乗ったら、それが乗り慣れた在来線であっても必ず窓の外を眺める。私にとって乗り物は、イコール、車窓から景色を眺め、それを堪能するものなのだ。江ノ電には、車窓から海岸線がすぐ目の前に望める区間がある。海岸線に並行して電車が走っているのだ。 家から1時間ちょっとで行かれる別世界(o^―^o)ニコ短歌を読み、その世界を頭の中に思い浮かべていたら、急に江ノ電に乗りたくなった。 そう、昨日のこと。昨日の最高気温予報はまだ30度に届くかどうか。でもこの先は真夏日が続くらしい。大好きな湘南モノレールにも乗りたい。回旋複視になってしまって、この春は江の島方面に行かれなかった。「今日しかない!」 思い立ったが吉日で、8時半に出発。横浜駅から東海道線で約15分、大船駅に出、そこから湘南モノレールで15分、江の島へ下る。モノレールは線路の上を走るタイプではなく吊るされたタイプで、それがまた遊園地の乗り物みたいで楽しい(o^―^o)ニコ湘南モノレールからは高低差がある鎌倉山の景色を眺めつつ、海が見えてくる瞬間を待つ。終点が江の島駅。でも江の島に渡ることは最初から諦めていた。エスカーで一区間だけ登った江島神社で降りたとしても、帰りは階段しかない。今の私の眼ではとても無理。湘南モノレール江の島駅から徒歩ですぐの「江ノ電」に乗り、鎌倉方面へ向う。車窓から見える海は思ったよりも波が高く、サーファーがたくさん出ていてご機嫌な景色ヽ(^。^)ノ海岸へ出よう、そう思った。でもどこの? 材木座海岸? 七里ヶ浜? 稲村ケ崎? そうだ! 人が比較的少ないであろう由比ヶ浜がある。鎌倉駅より2駅手前の由比ヶ浜駅で降りて、海岸へ向った。徒歩5分くらいか。砂浜が近付くにつれ、潮の香りが漂ってくる。この香りは、子供の頃に海水浴で毎年行った、千葉の保田海岸を思い出す。砂浜で外国人の子供たちが波と追いかけっこしているのを眺めたり、打ち寄せる波と戯れたり。贅沢な時間を得られた。 来てよかった。 眼が不自由なこともしばし忘れられ、大好きな香りと音に包まれたひととき。こんなことが、至福になる昨今(o^―^o)ニコ
2026年07月09日
とにかく眠いのである。夜中はノンストップで6時間くらい眠り、その後はしばらく考えごとをして眠れないでいるが、やがていつの間にか二度寝に入り、完全に床を離れるまでに計8~9時間は寝ている。なのに、昼間も眠ってしまうΣ(・ω・ノ)ノ!特に通院やウォーキング、買い出しなどで出歩いた日はひどく、帰宅後にバタンQ(って死語?)1時間は眠る。やはり片目を塞いでの生活は、転ばないようにと気を張っている分もあり、疲れがハンパではないようだ。4月15日の夜中2時過ぎに起きた際、突然の発症を知った。その後、一か月検診ではまったく変化なし。プリズム眼鏡を作れる状態にはなってこない。先生から「もっと大きな病院へ行きますか?」と聞かれてしまった。このままなら手術が必用な範囲のようだ。一応、あと一か月様子を見ることになり、迎えた6月。発症からちょうど2か月の15日に、起きたら自分の手と足に両眼の焦点が合っていた。もしかして! と期待を胸に部屋の中を見まわした・・・が、ダメ、やぱり右眼で見える世界は大きく傾いていて、両眼を開けては歩けない。ただ、少しでも変化があるのは、多分、よい兆し。そう信じて、希望を持つことに決めた。複視の場合、何もせずとも元の状態に戻る場合があるそうだから。まだ発症から2か月半。 ネットで回旋複視を検索すると、どこでも「半年ほど様子を見る」とある。ときおり新井薬師さんの「治眼御守」を握りしめ、祈る。今の状態では、とにかく階段やエスカレーターが怖い。これから猛暑となったら、頭がクラクラして足元に気を回せない日もあるだろう。行動範囲が尚更に狭まれる(´;ω;`)ウゥゥでも、大丈夫。 きっと大丈夫。乗り越えられる試練しか与えられないと言うじゃない?だから、 きっと、 大丈夫!ポジティブに考えよう。 どう考えるかは自身の選択。結果はひとつ、だ。
2026年07月06日
ベッドサイドに一輪挿しを置き、そこに八重のくちなしの花を飾っている。花屋で購入した物ではなく(というか、花屋では売っていない)、近所の空き家の庭先に大きな木があって、そこから一輪だけ失敬してきたのだ。落ち込んでいた気分が、たった一輪の花の香りで上向きになる。香りでもアレルギーが出やすい私だが、喘息発作に繋がるのは、花ではジャスミン・ライラック・ストック・一部のユリなど。クチナシや沈丁花・金木犀・薔薇・菊などはまったく問題がない。むしろ調子が良くなる。この差は何なのか? ちなみに母は沈丁花の香りで喘息発作を誘発され、庭の沈丁花は切られてしまったっけ。母の寝室から遠い場所に植え替えればすむのに・・と思ったが、後の祭りだった。7月に入り、今年も折り返し地点。年女のこの2026年に、実は新たな目標がひとつあった。でも1月の突然の母の死と、4月のやはり突発的な回旋複視の発症とで叶わなくなってしまった。まあ、そんなこともあるだろう、と今は心静かに新たな目標を立てている。マスコミ関係の仕事仲間たちは、73歳までにあの世に渡った人がたくさん。それを思うと私もカウントダウンに入っているのかもしれないと思っている。悔いのない日々を送るために新たなる目標を立て、それに向ってPOCO A POCO。叶うも叶わないも、まだ時間があるのかないのかも、そんなことを考える暇もなく、月日は去っていく。近所のスーパーに七夕飾り用の笹が設えられ、願い事を書いた短冊を笹の葉に括れるようになっていた。もちろん用意された短冊用の折り紙の色を選び、今一番の願い事を書く。内容? ・・・それは・・・秘密(´∀`*)ウフフでも、叶うように祈るのも、そのためにできることをするのも、今は楽しい。残り半分になった2026年。 大変だった前半より、笑顔が多い日々としたい(o^―^o)ニコ
2026年07月03日
回旋複視と診断されてすぐに思い立った。「新井薬師さんへお詣りに行こう!」 あまりにもショックで、とにかく何にでも縋りつきたい心境になったのだ(;´・ω・)都内の東西線落合駅近くに住んでいた時、歩20分ほどだったか西武新宿線の中井駅まで散歩したことがある。駅に着き、沿線表を見上げた際に「新井薬師前」という駅名に眼が止まった。当時は気管支喘息を発症して数年後。薬師如来を祭るお寺ならお参りしたいと思い、そのまま電車を待った。行って初めて知ったのだが、新井薬師さんは特に「眼病」にご利益があるらしい。当時は眼に関して特に悩みはなかったので、喘息の「病気平癒」を願ってお参りをしただけだった。その後は、多分、一度だけ初詣に行ったことがあった・・くらいかな?落合から横浜に越したのは、もう32年も前になる。10数年前に祖母からの遺伝性糖尿病が判り、眼科で初めて糖尿病網膜症の検査を受けた。そしてまさかの「疑いあり」。「このまま放置したら失明の可能性がある怖い病気ですよ」と医師に言われ、かなり焦った。そこで思い出したのが、新井薬師さんだ。横浜からは、もう遠い場所となった「新井薬師前駅」。それでも藁にもすがる思いで出かけ、お札を授かった。そして次の眼科での検査日、「糖尿病網膜症」の疑いは消えた。が・・・お礼参りに行っていなかった(;^ω^)なのに今回の「回旋複視」診断で、やっぱり縋ってしまった。我ながら勝手なものだ(;´Д`)診断されて数日後、右眼に貼る眼帯をし、杖を突いて出かけた。東横線に乗り入れている副都心線で新宿三丁目駅まで行き、そこから西武新宿線の新宿駅まで歩く。土地勘が少しはある地域なので、迷うことなく近道を歩けた。ただ、西武新宿線の新井薬師前駅は電車とホームの間が広く空いていた。車内ドア横の取手を左手で掴み、足元に目をやり、ホームに降りるのに冷や汗をかく💦。本当に怖かった。新井薬師さんに着いてお詣りを済ませ、社務所にお守りを授かりに行く。平日の朝早かったからか、社務所に寄ったのは私だけ。ご住職に声をかけられ、回旋複視になったことと、こんな時だけ縋って申し訳ないと謝ったら、「日々の行いをよくしてください。あとは仏様にお任せを」と。ひとつ、なかなか直せないでいる癖を必ず正すと誓い、授かった「治眼御守」を胸に帰路に着く。無神論者の家に生まれ育ち、初詣すら結婚で家を出るまでは行ったことがない私だが、小学生の頃は、毎年の夏休みに母の実家に行き、奈良県の神社仏閣を訪れることが楽しみだった。もし当時、御朱印帳を知っていて集め始めたら、おそらく現在までに300近くは貯まっていたはず。それ程、子供時代とその後に、神社仏閣を訪れてはいる。信心があるかと問われたら、はて(。´・ω・)?と疑う。建物や仏像や、周辺の木立など、環境に魅かれていた部分がとても大きい。ただ、以前にも書いたが、「すべての宗教はひとつ。それは愛と言う名の宗教」。「すべての人の中に、うちなる神(神聖)は存在する」は心から信じている。はてさて、私の回旋複視はどうなるのだろう?神様は、きっと一番よいタイミングで、一番よい方法を示してくださるのだろう。自分で努力してもどうしようもないことなら、甘んじて受け入れる。心静かに、成り行きを見守ろうと思う。追伸:美輪明宏さんが亡くなられ、生前最後のメッセージが所属事務所から発表されました。素晴らしい言葉なので、ここに記しておきたいと思います。ちなみに三輪さんは長崎での被爆者。仏教徒でベジタリアンだと聞いています。こんな世の中を 生き抜く武器は 愛の言葉しかありませんこの世の中のすべての問題を 解く鍵は愛です愛があれば 戦争なんか起こりません
2026年06月30日
ウグイスの声が4月末から窓辺に届いている。毎年、ほぼこの時季に啼き始め、昨今の猛暑酷暑もなんのその。 秋風が吹くころまで美しい声を届けてくれる。そしてホトトギスも、同じくらいの時季から独特のおしゃべりを囀っている。不思議なことに両方が同時間帯に啼くことはなく、役割分担があるかのように時間帯や天候によっても、かわりばんこに歌声を届けてくれる。今朝は小鳥の啼き声ではなく、横浜港から船の汽笛が朝一番に届いた。週に1回くらいは聞こえるだろうか? 警笛の時もある。最寄り駅から歩6分(私の足ではもう少しかかる)と近いのに、この環境はありがたい。車の音や人の声はさほど届かないので、朝からゆったりとした気分でいられ、仕事や読書が捗る。穏やかに眼ざめ、穏やかに一日のスタートを切り、その日の最後まで穏やかに過ごしたい。そんな当たり前のことを、とても贅沢だと今は思う。少しだけ回旋複視の眼に変化が表れてきた。右眼で見える角度が、少しずつ違ってきている。その為に今まで以上に疲れるのだが、そして、まだ何とも判断できないが、良い方向に向かっているのだと思いたい。あと数日で、今年も半分過ぎることになる。どんな真夏になるのか。その先はどんな秋を迎えるのか。今よりも優しい日々がそこにありますように・・。
2026年06月27日
片眼を塞いだままの生活は辛いが、なんとか読書は続けたい。右眼をつむり左眼だけで少しずつ読もうと決め、眼が疲れない程度に進めている。サイモン・ヴァン・ブーイ著 (寺尾まち子訳)の「83歳、もふもふのネズミを拾う。そして人生が変わる。」(角川文庫)を開いた。夫を亡くし、一人息子まで彼岸の向こうに送り、ひとりぼっちで生まれ故郷に戻って来た主人公・ヘレン。もうこの世に未練はなく、早く夫や息子のいる場所へ旅立ちたいと思うだけの日々だった。ところが思いがけない日がやってくる。息子との想い出がある玩具と全く同じものをゴミ捨て場で見つけ、思わず拾って帰ったら、そこに隠れていたのが・・グレーのハツカネズミだった。ヘレンは高齢になって引退するまでは心臓外科医だった。ハツカネズミは言わずと知れた、実験に使われる動物である。愛情を感じたわけではなく、それでも日々気にしていくうちに、その愛らしさに心惹かれていく。83歳の、もう終わりを待つだけだった人生が大きく変わっていく。 明るい方へと・・・。ほんわかと温かい気持ちになれる本📖(o^―^o)。ハツカネズミ・・私も飼ったことがあった。結婚してすぐの頃。新居である自由が丘の賃貸アパートは、もちろんペット不可だったが、小さなネズミは鳴かないし、臭いも掃除さえ怠らなければ全くしない(と言っていい範囲)。何故飼うことになったのか、どこで手に入れたのか、すっかり忘れてしまったが、「バタータ」と名づけて世話をした。 真っ白で、きれいなコだった。懐くことはなかったように思う。それでもケージの掃除や餌やりの際に掌に載せても嚙まれたりはしなかったし、家で原稿を書く際の休憩時間を、バタータを見て過ごし・・・やっぱり癒されていたのかな? 家に生き物がいるということだけで生活にリズムが生まれたし、やっぱり楽しかった。バタータは2年くらいで、その生涯を終えた。亡骸は実家の庭に埋めたっけ・・。バタータが、物語の中のハツカネズミとリンクした。前にも書いたように、寝る前に必ず、今まで関わってきた動物たちの名前を声に出して呼んでいる。もちろん、バタータの名前もそこにある。来世で一緒になるコたちの中に、バタータも入っているのよね?(o^―^o)小さいけれど、短い期間だったけれど、確かに私の人生の中に存在した「たいせつな命」。
2026年06月24日
実はこの文章を、書いては消し、書いては消し、していた。アップするのも辛かったのだ。目が覚めると不安な思いが押し寄せてきて、大声で「わぁ~~!!」と叫びたくなる。まあ実際には肺活量が少なくて大声は出せず、「わ~っ!」くらいだが。発病して1か月と少し経った時、掛かりつけの眼科で経過観察の検診を受けた。と言っても視力検査とは異なり、見え方は患者本人にしか判らない。眼鏡を作る時のように色々なレンズを試してみて「まだ歪んで見えます」とか「先程のよりはマシです」などと伝える。プリズムレンズを使った眼鏡で矯正が可能か否か、検査技師さんが探るのだ。何度も何度もレンズを替え、それでも全く焦点が合わない状態なのを見て、医師が言った。「もっと大きな病院へ行きますか?」。つまり、早々に回旋複視の手術ができる専門知識のある病院へ通った方がいいのでは? ということだ。事前にネットで調べていた。回旋複視の手術ができる病院は東大病院や横浜市大病院など大学病院で、しかも医師が限られる。後で判ったことだが、横浜市大病院にも現在はこの手術ができる医師はいないようだ。掛かりつけ医の言葉で目の前が真っ暗になった。 私の症状はそれほど重いのだ。手術の方法はと言うと、麻酔をかけ、医師が患者と会話しながら眼の筋肉を結んで調節していくらしい。医師は患者がどのように見えているかは判らないので、聞きながら加減をしていく。1~2時間はかかり、それでも完全に元の様に治るとは限らない。場合によっては全身麻酔が必要となることもあり、その場合はもっと限られた医師が手術をするそうで、現在受けられる病院は、中国地方だったり、東北だったり、通うのが大変な場所の大学病院らしい。もちろん、放っておいても失明するわけではない。ずっと右目を塞いで生きていくことはできる。ただ、実際になってみて解かったのだが、塞いだ右目も光は拾う。耳に例えて言うなら、片方の聴力が無くなって片耳だけで生活する状態になった時、聞えないほうの耳に常に耳鳴りが聞こえている…と言ったような具合だろうか。つまり、塞いだ眼も余計な見え方をしているため、とにかく日々、疲れる。足が不自由で杖を突いている上にこの眼では、階段やエスカレーターの下りは何度も踏み外しそうになって、かなり怖い(´;ω;`)ウゥゥ。とてもこのままの状態で生きていくのは難しいし、この先も慣れるとは思えない。もちろん右目を塞がずに両目を開けることは、絶対に無理。左目は普通に水平に見えているのに、右目は15度くらい傾いて見えるので、歩くこともできない。先生が「どうしましょう?」と聞いたので、迷った末にこう答えた。「先生に判断を委ねます。私は素人なので、先生が長年の経験から、どうするのがいいかを決めてください」。優秀な医大を卒業し、その大学の病院で眼科医として長年勤めた後に、地元で開業したという先生。回旋複視の患者を多く診てはいないかもしれないが、幾例かの経験はあるはずだ。先生はしばらく考えて、こう応えた。「あと、一か月、様子をみてみましょうか」。~続く~
2026年06月21日
突然に回旋複視となり「どうして貴女って次々と珍しい病気になるの?」と友人に言われた(^▽^;)確かに限局性強皮症だの回旋複視だの、今までに一度も聞いたことがない病気になって、いちばん驚いているのは、私自身だろう。 まったく、いったい、どうして(。´・ω・)?どちらも原因が判っていない病気。 気を付けようにもどうしようもなかった。先日、「やっぱり言ってきたかあ」と思うことがあった。 やたらと霊障説を説きたがる知人女性がいて、「先祖供養がちゃんとなされていないんじゃない?武士の家系だから、ご先祖さんの中には人を斬った人もいるはずだし、水子もきっといるわね」。水子に関しては、ほぼほぼすべての人の先祖にいるはず。生れてくる前に亡くなったり、生まれて一年もしないうちに亡くなった子供は、栄養状態がよくなかったり医療が発展していなかった戦前や戦後しばらくまで、当たり前のようにどこの地域にもいた。若い頃の私なら「霊障のせい」と言われて、真に受けてしまったかもしれない。いや、実際、真に受けてしまった時期はあった(;´Д`)。あれはテレビに「霊が見える」「霊を感じる」と言う人がやたらと出演し、ブームのようになった時。私は「霊媒体質だ」と真言宗の僧侶に言われ、その体質を変えるべく修行に通った。本当に霊媒体質かどうかは今となっては定かではないが、その時は完全に真に受けていた。月に2度くらいの修行で半年くらいで終わったか。ちなみにお金は一切かかっていない。何年か経ってから、パニック障碍が日本でも認知され、私の数々の病状がそれにあたっていたので、もしかしたら霊媒体質は少しはあったかもしれないが、パニック障碍による病状だけだった可能性もある(。´・ω・)?自身が、霊媒体質から解放されたと思われた以降のこと。同じく霊媒体質だと言っていた、負けず嫌いの知人の一人が、突然にこんなことを言い出した。「私ね、お葬式の花輪が出ている家の前を通ると、亡くなった人のその原因が判るの。例えば脳梗塞で亡くなったなら、私の頭がガンガンとひどく痛くなったりするの」。彼女は自分の10代の娘にもその霊媒体質は受け継がれていて、娘と共に同じ体験をするのだそうだ。私には彼女のように、亡くなった人の具体的な苦しみまでは判らない。「それは大変ね。なるべく告別式がある家には近づかないようにしないとね」私はそう言って、彼女の苦労を慰めた。ところがだ。 ある日、二人で連なって歩いていたら、曲がり角の先で告別式の花環を見つけてしまった。通りがかった近所の主婦らしき二人連れが話す声が届く。「前立腺がんだったんですって、ここのご主人。 まだ若いのにお気の毒にね」。聞いていた霊媒体質の彼女が、「ああ、それで」と納得顔でうなずく。そして、私の顔を見て、こう言い放った・・・。「どうりで昨日の晩から、私の前立腺が痛んだわけだわ」Σ(・ω・ノ)ノ!
2026年06月18日
かなり大きな声でカラスが啼いている。何だろう? と窓の向こうを見た。ベランダから見える12世帯だけの高級低層マンション。その屋上フェンスの外側に一羽のカラスがいて、何か大きなものを突いている(ように見える)。大きな獲物・・まさか子猫?!・・そうだったら助けなきゃ。でもこの辺の地域猫はすべて不妊去勢手術を終え、残らず里親に引き取られて行った。そもそもカラスが猫を襲うのは子猫の眼が光るから、いたずらをするのだ。眼が開くのは生後10日くらいから左右少しずつなので、その頃にはカラスが咥えて運べる大きさを越える。なので屋上にまで運べるとは思えない。 あっ! と気づく。 獲物なら啼いて仲間に知らせたりせず、自分だけで食べるだろう。奪い合いは見たことが幾度もあるが、分け合って食べる姿は見かけない。ほっと一安心。では、この騒ぎは何なのか? 目を凝らして見ていると、獲物らしきものの羽根が拡げられた。あれは・・カラスだ! ということは、獲物ではなくて、つがいの片割れか仲間?突いても動かないところを見ると、瀕死なのか、すでに死んでいるのか。その後、カラスは長いこと何度も啼いて仲間に何かを知らせ、でも仲間らしきカラスは来ず、やがて諦めたのか飛び去っていった。気になった。でもよそのマンションに勝手には入れない。時々、ベランダから覗くだけ。数時間後にカラスは戻ってきた。また突いている。でも、やっぱり動かないので、今度こそは諦めたようだった。鳥のことは全く詳しくない。飼ったことはなく、以前に書いたダレハネちゃんとしか交流をもったことはない。それでも気にはなる。 生活圏にいる鳥のこと。あれから数日経ったが、そして今も屋上の動かないカラスはそのままだが、もう、仲間のカラスが傍にやって来ることはないようだ。
2026年06月15日
以前から不思議に思っていることがある。サスペンスドラマ内ではよくあるシーンだが、実際の事件でも犯人を目撃した人に対し、警察は人相の聞き取りをして「モンタージュ写真」や「似顔絵イラスト」を作成するらしい。でも、ちょっと見ただけ、数分会っただけの人の顔を、覚えているものだろうか?大きなほくろがあるとか目を引く特徴がある場合は、それは記憶に残るかもしれないけれど‥。例えばもう引退した有名歌手の顔とか、そうでなくても、ごく最近もテレビに出ていたアーチストの顔など具体的に「眉はどんな形でした? 目はどんな感じ?」などど聞かれても私は答えられない。それどころか、よく知っている友人の顔でも「眉はどんな感じ?」などと聞かれたら考えこんでしまう。高校の修学旅行で山陰から北九州を廻った際、付いてくれたバスガイドの女性は「私の特技は、一度見たら、顔と名前を覚えられることです」と言い、実際に最初の自己紹介で、ほぼほぼ40数人いる生徒の顔と名前を覚えていた。仕事柄、客の顔をすぐに覚えられる人は確かにいる。そういう人は接客業に向いているのだろう。そういえば行きつけの美容院の店主も、すぐに私の顔を覚えてくれたし、髪質まで前年はこうだった、と比べて言える。 凄いと感心(^▽^)/その店主に「私は顔を覚えられないんだ」と言うと、不思議な顔をされた。彼女は誰しもが、自身と同じように一度見たら大抵はその特徴を捉えられるのだと思っていたそうだ。う~~む、世の中の何割の人が、できるのだろう?瞬時にその特徴を掴めるのだろうか?街中で挨拶されて、すぐに誰だったか思いだぜずにいて、相手から「〇〇病院の看護師です」と名乗られたりする。お世話になっているのに看護師の制服を着ていないと判らないなんて、申し訳ない。どうすれば覚えられるのかなあ?ちなみに声だったら、比較的、特徴を覚えられる。また、例えば歌詞を見て、作詞者の見当がつくこともある。得手不得手の範囲なのかな? 興味の範囲なのかな?私にとっては不思議な・・こと。
2026年06月12日
関東地方も7日に梅雨入り☔となった。平年並み。 久しく聞いていなかったような、この「平年並み」という言葉。ちょっとホッとしたのは、私だけ?雨のシーズンを鬱陶しいとは思わないが、足が不自由な身では出歩くのに注意が必要となってしまう。眼も悪くなった今では、尚更。よほどの大雨の日は、病院の予約日でもキャンセル&延期をするしかない。子供の頃、晴れてほしい時に「てるてる坊主」を作ったのを思い出す。楽しみにしている学校行事(遠足など)の前夜、予報で明日は雨と聞くと、てるてる坊主の出番となった。あの頃は何で作ったんだっけ? 使い古した白いハンカチ? 中味は「鼻紙」と呼ばれたティシュー?最後に作ったのは何歳ぐらいの時だったのだろう?社会人になってからは、ごく稀にプライベートな旅行の前日などに作ったと思う。ただ…忘れられない「てるてる坊主」の想い出がある。あれは30代後半だったと思う。どこかの病院の待合室にあった絵本に魅かれた。内容はと言えば… 主人公の女の子が「てるてる坊主」を作って軒下に吊るした。それでも翌日は雨。 またその翌日も雨。 幾日も降り続く。女の子はどうしたか?童謡の「てるてる坊主」の歌詞のように、首をちょん切ろうとはしなかった。それどころか、軒に吊るした「てるてる坊主」を外し、自分の布団に寝かせたのだ。そうして、毎日頑張ってくれていた「てるてる坊主さん」をいたわり、ありがとうを告げる。ゆっくり休んでね‥と話しかけながら。こんな優しい人でいたいな。そう思った絵本。私に子供がいたら、きっと買い与えていただろう。最後のページには、晴れ渡った空と、布団の中にいた「てるてる坊主」が少女と共に笑顔になった絵があった。検索したが、作家もタイトルも判らない。どなたかその絵本に覚えはないかしら?もう一度、見てみたいな。 あの時感じた温かい気持ちを、もう一度味わいたいな。
2026年06月09日
朝5時台には、もうジョギングの若者やワンコ🐕🐶の散歩に出ている人を多く見かける。ジョギングをしている人は、どの人もおしゃれ。ウエアに気を遣っていることが判る。でも・・ワンコの場合は・・まちまち。特に大型犬と一緒の人は、汚れてもいいような服装も目立つ。そこで思い出したことがある。 もう30数年も昔のこと。アテネ時代の後輩に降りかかった事件(?)で、彼女には当時高校生の一人娘がいた。何らかの縁でハスキー犬を飼うことになった犬好きな一家。ハスキーはたいていが人懐っこくてかわいい。 ただ・・体はデカい。 なので散歩に連れて行くと、身長148cmで瘦せ型の彼女はグイグイ引っ張られ、時に怖い思いをするらしい。ある日、彼女は娘が中学の体育の授業時に履いていたジャージを身に着け、リードを握り、ワンコの散歩に出た。途中、急な坂道を下っていた時のこと。坂下に友達でも見つけたのだろうか? ワンコはいきなり猛ダッシュをかけたという。彼女は焦った。でもハスキーの力は強い。あっと言う間に引っ張られ、前のめりになって転び・・そこからが悲劇だった💦転んだにも関わらず、ワンコは止まってはくれず、彼女はズルズルと坂道の傾斜を滑ち落ちていく。残念なことに、娘のジャージは彼女には少しサイズが大きかった。いつの間にかジャージは地面に置いていかれ、中味だけが坂を下った。つまり・・・脱げた。しかも運悪く、その日履いていたパンティはウエストのゴムが緩かった。「仰向けでなかったからまだよかった」と彼女は言ったが、下半身セミヌードになって坂を下る。それでもワンコのリードを放さなかったのは、さすがだと褒めてあげたい(^▽^;)💦結果・・通りがかった男性は眼を反らしたのかどうか、哀れ彼女はなんとか立ち上がり、泥を払う間もなく半分脱げたパンティを履き直し、ジャージを拾いに戻ったという。この話、あまりにもおかしかったので、葉書にしたため、当時はまだ放送されていた「笑っていいとも!」の視聴者参加コーナー宛に送った。見事にTOP採用され、私はタモリさんがムンクの叫びポーズを取っているイラスト付きの、赤いTシャツをゲットしたのだった(⌒∇⌒)
2026年06月06日
奇しくも横浜開港記念日だった昨日(6月2日)の朝刊で、作詞家・橋本淳さんの訃報を知った。「奇しくも」というのは、いしだあゆみさん歌唱「ブルー・ライト・ヨコハマ」の作詞をした人だからだ。この歌がリリースされたのは、1968年12月25日だったそうで、私は中三だった。当時20歳だったあゆみさんが、軽いステップを踏みながら、🎵街の灯りが とてもきれいね ヨコハマ ブルー・ライト・ヨコハマ🎵と歌う姿は、とてもチャーミングで、どこかアンニュイで、大人の女性の香りを感じた。ちなみにあゆみさんはフィギュアスケートの選手でもあったので、ステップも優雅だった。我が実家は横浜市でも北部、つまり東京都区内に近く、都内に勤める人が断然多いベッドタウンなため、横浜の観光地を歩くことは日常ではなかった。それでも周りは皆「横浜」の雰囲気が大好きで、横浜市民であることに誇りを持っていたように思う。中高生時代のデートはといえば、横浜の観光地が多かった(もしくは江の島まで足を延ばすか…)。6月2日の開港記念日は、市立の小中学校はお休み。6月は祝日がないので、それもとても嬉しかった(^▽^)祖母と横浜高島屋に行き、最上階のレストランで食事をしたりしたっけヽ(^。^)ノ今は港で花火大会が行われ、昨夜も雨の中、華やかな音が我が部屋にも届いていた。そして6月、は・・・私にとっては祖母と父の命日がある特別な月でもある。5月の爽やかな日々を堪能し、本格的に蒸し暑くなる前に、ふたりとも彼岸の向こうに渡った。よかったね。春の空気に包まれたまま旅立てて。今でもそう思う。祖母も父も、暑いのは異様なくらい苦手だったもの。子供時代は梅雨も、その後に続く暑い夏も、私は決して嫌いではなかった。1か月以上もある夏休みはやっぱり嬉しかったし、梅雨の雨続きの日も、それなりに趣きがあって好きだった。夏が異様な暑さを抱えるようになってからだ。6月の声を聞くと「ああ、もう大好きな春が終ってしまった」と落ち込んでしまうのは。今年はとくに酷い。原因はもちろん、この眼の病気。ウォーキングはなんとしても続けたい。歩くことが好きだし、何より14年前にいきなり歩行困難になってからは、また歩けなくなることが怖いのだ。歩き出すと1万歩は軽く越える。それは苦痛ではなく、ひたすら楽しい。でも、この夏はどうなる?去年も猛暑日が続いたが、横浜駅まで出て、冷房が利いている地下街を西から東へと歩きまわった。それだけで8000歩は超えた。今年もそうするしかないと思うのだが、眼が不自由で階段やエスカレーターの下りが怖い。幾度も踏み外しそうになって、そのたびに冷や汗をかく。でも、歩けなくなってしまう不安を思えば、細心の注意を払って歩くしかない。大好きな、おばあちゃん、お父さん、そして神様。どうか力を貸してください。これから来る長くて暑い夏を、乗り切らせてください。夏を嫌いにならないように、楽しむことを許してください。
2026年06月03日
ヤマアジサイがブームになっていると聞く。私が初めてヤマアジサイを知ったのは、10数年前のことだった。テレビニュース内で「横浜市金沢区にある瀬戸神社では、宮司さんの奥様が趣味で集めているヤマアジサイが見頃を迎えている」との説明付き映像が流れ、その可憐さにいっぺんに心魅かれた。どうしても実物を見てみたいと、すぐに場所を検索し、京急・金沢文庫駅隣の「金沢八景駅」から歩いて数分にある瀬戸神社に向った。山に自生するという小ぶりの紫陽花はたくさんの種類があり、どれも趣きがあって美しい。花の色も形状も、今まで見てきて知ってる「紫陽花」とは異なる美しさを纏っている。着物の絵柄にしたり、帯にも素敵だな・・。とにかく可憐で品がいい。亡くなった祖母が見たら、絶対にしばらくは花の前に佇むだろうな‥すぐにそう思った。祖母は超お嬢さま育ちだったが、大ぶりで派手な花より、小さくて可憐な花を好んだ。花の中に物語を感じるらしく、自作のそれを即興で話してもくれた。おばあちゃんなら、どの花をいちばんに選ぶだろう? と考えながら、ゆっくりと境内を歩くひと時。以降、瀬戸神社にはほぼ毎年、ヤマアジサイを見に行っている(大船フラワーセンターでの自生あじさいの展示も素晴らしいが、期間が約5日間のみと限られ私には難しい)。今年は眼が不自由で足元もおぼつかないが、なんとか体調の良い日を選んで出かけた(o^―^o)ニコこの「ヤマアジサイ行」には、おまけがある(o^―^o)ニコ金沢八景駅には京急電鉄だけでなく、シーサイドラインが新杉田駅まで出ているのだ。シーサイドラインは、短い区間ではあるが海の上を走る。しかも無人運転の時がけっこうあって、その際は運転席に座ることが可能(^。^)ノ一台遅らせてでも、この先頭席に座る。座って、流れゆく景色を眺める。海が大好きな私には、とても楽しい特別な時間。もう来年のことは考えまい。今年も来られた。 今年も行かれた。それだけで充分だと思おう。 ・・満足、満足😋😋
2026年05月30日
「お米券=5,000円分から手数料を引いて4,400円分を配布」。当初はそのような内容で表示されていた。市のHPでは。でも「手数料を引かれるのは納得がいかない。もったいない」と評判がよくなかったせいか、いつの間にか変わり、5,000円分の「電子マネー」もしくは「商品券」を選ぶようにと葉書が届いた。ただし手続きをするには葉書にあるQRコードをスマホで読み込まないとならない。右手が少し不自由で、しかも今は回旋複視で眼も見えにくい。とてもQRコードにアクセスできず、仕方なく総合庁舎内の「特設コーナー」へ行くハメに(´;ω;`)ウッ…これはスマホを持っていない高齢者等や、私の様にQRコードを読み込めない人のための相談セクション。どの区も日々かなり混んでいるとのことで、受け付け開始日より2週間ほど経ってから行った。平日の9時からの受付開始で、8時45分着。混雑していた期間はさすがに過ぎたようで、2番めだった。タブレットを持った係員が私の葉書のQRコードを読みこみ、生年月日を入力するように告げる。私の指がなかなか画面の数字にあたらないのを見て、口頭で言ってくれれば代わりに打つと言う。お願いして生年月日を入れたら・・「完了」をクリックして、終わり。たったそれだけのことで、出掛けるハメになったのかぁ。まあ、私は総合庁舎へは行きやすい場所に住んでいるからいいものの、区内でも遠くの人には面倒だろう。QRコード・・今や商業施設内のレストランやカフェでの注文は、ほぼこれに変りつつある。友人と入ったタイ料理の店やベジタリアンレストランでも同じ。友人もQRコードは苦手で、結局店員さんを呼ぶ。隣の席の30代くらいのカップルは、店員さんに「あの~、まだ注文が入っていませんが?」と言われ、「入店すぐにオーダーしましたけれど」と応えていた。何かが間違っていたようで、結局、通っていないことを知らないまま、10分以上待たされたようだった(^▽^;)ところで、このQRコードからの注文、若者は当たり前のように便利に使っていると思っていたが、テレビニュース内で道行く人にインタビューしているのを聞くと、「ギガ使って、電池を減らして、それで注文するのは納得がいかない。こちらは客なのに‥」とのこと。ちょっとホッとした。だよね。当たり前のように便利だと思われているこのシステム。当たり前になるにはまだ時間がかかるようだ。スーパーのセルフレジが使えなくて、買い物に出ることを億劫がる高齢者がけっこうな数いると聞く。できないことで気後れしてしまったり、自信喪失してしまう人もいるらしい。若い頃のように、すぐには新しいことについていかれない。でも若者にはそれが理解しにくいのだろう。思えば、留守電を家に入れたのも、ファックスを引いたのも、私は他の同年代の人よりかなり早かった。フリーランスだからなのだけれど、アメリカ人から「あなたは先進的だ」と言われたことさえあったな(;^ω^)でも今では社会の新しい常識らしきものに、すっかり出遅れてしまっている。これから先も、もっと驚くようなことが当たり前になってくるのかな?それでもしょげることなく、できること、できないことを認識して、生きていくしかない。
2026年05月27日
一日24時間のうち、寝ている時間以外は常に右目を塞いでいる。左目は普通に見えるが、右目は見るものすべてが結構な角度で左下がり⤵。両眼を開けると、目まいがするくらいグシャグシャと世界は傾ぎ、数歩歩くこともできない。寝る時はもちろんコンタクトも眼鏡も外して裸眼。夜中に目覚めたり完全に起床する時は、その状態で両眼を開けるわけだが、すぐに「右目レンズに眼帯を装着してある」眼鏡をかけないと、トイレにも行けない。この瞬間、自分が今、回旋複視になっていることを思い出す。思い知らされて、一気に落ち込む。どうしようもなく、このまま消えてしまいたいと思う時もある。なんて弱いんだ。たかだか片方の眼が不自由になっただけで、左目はちゃんと見えているのに…。右目だって、強度の斜視になっただけで、視力はちゃんとあるというのに。まあ、両目で見て視力が1,0になるよう調性してあるから、片目だけでは0,6くらいしか見えていないし、利き目は右目なので、利き目ではない左目で見ると焦点がずれ、ピッチャーからカップに飲み物を注ごうとすると、的が定まらずにこぼれたりは常(´;ω;`)ウッ…右目を塞いでいても光は拾うから、右目をぎゅっと硬くつむらない限り、見える世界は不安定。辛い…。慣れるしかない、と思うものの、一か月以上経ってもまだ慣れない。仕方ないよね。72年間も利き目の右目をメインに両眼で生きてきたんだもの。それにしても、長く生きていると、思いがけないことにぶち当たる(´;ω;`)ウッ…29歳の秋、突然の呼吸困難で気管支喘息を発症したと知る。その前にパニック障碍。これは発症時期が定かでない。もしかして10代終りか?56歳秋に、祖母からの遺伝性糖尿病と判明。軽い薬の服用で済んではいるが…。58歳の秋には、起きたら右足が床に着かず、その日から歩行困難となった。整形外科で見放されて、東洋医学の脊椎矯正師さんに8か月かかったが歩けるようにしてもらえた。67歳の初秋には気づいたら右手が不自由になっていて膠原病の「限局性強皮症」が見つかり、一昨年の70歳の秋は、いつものようにウォーキングをしていて転び、右手首骨折。生れて初めて全身麻酔での手術を経験した。そして今回・・。年女で、しかも魚座はとてもluckyな年だと言われていたのに、である。この先、どんなことが待ち受けているのだろうか?何が起きても、それは受け入れるしかないとは思うものの、いつものような楽観的な見方ができない。もしかして、すぐ先に今生の終りがあるのだろうか。マスコミに長くいた仲間たちは、74歳の壁を越えられずに逝った人がとても多い。来年の3月で73歳を迎える私だから、もしかしたら同じようにカウント段階に入っているのかもしれない。あの世に行くことはかまわない。怖いのは自分の足で歩けなくなったり、誰かの世話を受けなければ生きていかれない状態になること。それでも・・・それが運命なら受け入れるしかないんだろうな。ひどくネガティブな気分になっている。 大好きな5月だというのに、情けない(´;ω;`)ウゥゥ
2026年05月24日
このところ強い危機感が気持ちを泡立てている。殺傷能力のある武器を輸出できるよう、憲法が変ったことだ。戦争をしている国には輸出しないと定めるも、例外もあるとの模様。殺傷能力のある武器を戦争以外の何に使う?もし「メイド イン ジャパン」の武器が戦争に使われたら、それはもう日本は参戦したことになる。自らの手を汚さなくても。総理は「強い日本を通り戻す」と言ったが、はて「強い日本」とは?まさか隣国を次々と支配下に置いて、偉ぶっていた過去の日本ではあるまい。原爆を投下され、戦争に強かった日本は初めて惨敗を味わった。でも、ようやくそこで反省と共に学べたはずではなかったのか? 戦争の愚かさを。「もう絶対に戦争はしない」と誓ったのは、わずか80年前。ホルムズ海峡に自衛隊を派遣せずに済んだのも、「日本にはこういう憲法があり、無理なのです」と言えたから。トランプ氏も一応は納得を示した形となった。私は「NO!」と言えることこそ、本当に強い日本ではないのか? そう思う。インドの独立を非暴力・不服従で成し遂げたガンジー氏のように。甘い考えだと言う人もいるだろう。守ってもらわないと、攻めてこられた時に無残に大敗するだけだと。ただ、どこの国もがそう思うことで武器を捨てられず、平和な世界、平和な地球は遠ざかっていく。戦争を完全に放棄する国になることは、ひどく難しいかもしれないが、ならばこそ、日本はここで本当の意味での「強い国」になってもいいのではないか?私は戦争を知らない。でも戦争の悲惨さはたくさんの本や先達たちの話しで知っている。日本は今、怖い方向へ舵をとっていないか?そう思うと、気持ちが塞ぐ。国民が関与できない場所で、怖い方向へ舵とりがなされていることへの大きな危惧が、今、ある。
2026年05月21日
一年でいちばん好きな季節。新緑の5月。コロナ以前は、よくGWが明けた頃に2泊3日か3泊4日で大好きな京都(時には奈良や滋賀も)へ行った。京都が好きなのは、コンパクトな中にまるでテーマパークのように色々な神社仏閣があるから。そして中心部から1時間ほどで高雄山方面や反対側の比叡山方面の山々へも行かれるから。新緑や紅葉の季節は、ほんとうにどこも爽やかで美しい。私はどちらかというと、観光地から少し外れた場所で、のんびり景色を楽しむ旅が好きだ。・・京都に行きたいなぁ。・・今なら青もみじ。九条駅近くの東福寺もいいし、嵐山の常寂光寺やその周辺がいい。もみじに限らないなら、東寺の立体曼荼羅はまた見たい。あのお堂に入った瞬間の、なんともいえない空気感は別世界だ。本当にそこに宇宙があるかのよう。円安が続いていてインバンドの観光客が増え、新幹線も京都市内の在来線も、やたらと混んでいるらしい。ホテルも、私がよく行っていた時期は、朝食付きで5,000円ほどのビジネスホテルがたくさんあった。お気に入りは渡月橋がどの部屋からも見られるエレベーターもない小さなビジネスホテルや、烏丸線の九条駅から歩10分ほどの所にある、元学生寮をリノベーションしたビジネスホテル。そこはピタパン等のバイキング朝食がとにかく素晴らしくて、サラダには湯葉チップもかけ放題で(o^―^o)ニコでも・・検索したら、値段はいきなり数倍に上がっていて、食事もバイキングではなくなっていた(´;ω;`)ウゥゥリーズナブルなホテルだと、一日動いて翌日はダウンするタイプの私には、とても助かっていた。朝ご飯を7時に食べ、すぐに出かけて夕方の4時前にホテルに戻る。夕食は外で買ってきたサラダや京都のおばんざいだけで済ませて、7時にはもう布団の中。・・もう気軽には行かれないのかな?・・この足と、この眼では。でも美しい景色は地元で見つけることも、できる。大好きな生まれ故郷「横浜」で、行ったことのない地域もまだまだある。今後は体力や脚力、そして眼などの状態と相談しながら、もっともっと探してみよう。身体の調子には個人差がある。私の今の状態に合う無理のない範囲での小さな旅を、もっともっと見つけてみよう(o^―^o)ニコ今なら、まだ間に合うから。
2026年05月18日
60代前半のある人が、SNSにこんなことを書いていた。「日本には“通名”という、自国での名前とは違う日本名を名乗っている外国人がけっこうな数いる。役所に登録すれば法的効力を持つ名前ではあるが、そんなことは他のアジアの国では滅多にみられないこと。どうして堂々と自国の名前を名乗らないのか?」と。在日の韓国人が「通名」で日本人のような名前を名乗っていることに不信感があるようだ。びっくりした。と同時に、学校で教わらなかったから仕方がないのか? とも思う。ただ「知らない」に留まらず、それが根深い差別に繋がっているようで悲しくなった。1910年(明治43年)、日本は当時の「大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)」を植民地支配した。そして「朝鮮」と名づけ、何十万人もの人を日本に強制連行し、創氏改名=生まれ育った国での名前を捨てさせ、日本名を名乗る=ように強制。その上、言葉も日本語を話すように強要した。朝鮮の植民地支配は35年後の1945年8月15日、終戦の日まで続いた。日本は第二次世界大戦に負け、植民地支配もそこで終了。その後に日本政府は朝鮮半島に帰りたいと希望する人たちを送る船を幾度か出したが、35年も経っていたため、帰りたくてももう家がなかったり、日本語しか話せない二世たちは、帰っても働き口などあるはずもない。そうして帰れなかった人たちが日本に残って結婚し、生まれた子供たちが三世、四世、となっているのだ。彼らの中には成人するまで自分が日本人ではないことを知らなかった、という人も少なくない。大人になって、いきなり親から「あなたは日本人じゃない。本当の名前は私達が付けた〇〇だ」と言われても、生まれてからずっと名乗ってきた名前にしか馴染みは持てないだろう。そして何より、自国の名前を名乗った時の日本人の反応・・それはほぼ差別だった。以前にも書いたが、ある在日韓国人の俳優は、私にこう打ち明けてくれた。「私は在日であることをカミングアウトしてもいいと思う。でも私の親戚だと言っている人たちまで、本当は日本国籍ではないことが周りの人に解ってしまう。そうすれば、いじめに遭う。だから今は隠しておくしかない」と。差別は醜い。特に自分ではどうしようもないことでの差別は卑怯すぎる。ただそういう自分の中にまったく何の差別もないかと問えば、否定しきれない部分はある。どこかで職業とか学歴とか家柄とかを聞いた時、安心したり不安を感じたりする場面がないとは言い切れない。もし自分の中の差別に気づいたら、自分を恥じよう。そして努めて排除しよう。自分の醜さを、サイアクな部分を。すべての人の中に「神聖」を見ることができれば、差別はなくなる。なくなる、と信じていきたい。
2026年05月15日
多分、月刊だったと思うが『合唱界』という雑誌を買っていた時期があった。・・・現在(5月2日~)来日公演を展開しているウイーン少年合唱団。1926年に初めて海外公演を行ってから今年で100周年。記念の年になるという。私が中高校生当時の『合唱界』でも、もちろんウイーン少年合唱団は毎回トップを飾っていて、美しくてかわいい少年の姿を見ているだけで、少女たちの胸はときめいたものだ(o^―^o)ニコ。ウイーン少年合唱団は常に100人の団員がいて、25人ずつ4つのグループに分かれ、1つのグループが公演に出ている際、残り3つは合唱団内の学校で勉強をしている。1つのグループの年間公演スケジュールは11週間。少年たちは完全な寮生活で、声変りを迎えるか14歳になっての退団まで、そこで育つ。とても規律の厳しい団体で、勉強がおろそかになったら、それだけで退団させられるとも書いてあった。彼らは皆、歌を除いても優秀な、選ばれた子供たちだったのだ。ただ…私はやっぱりアウトローな性格(^▽^;)当時はまだフランス語に興味はなかったが、フランスの合唱団『パリ木の十字架少年合唱団』のほうに強く魅かれていた。ウイーン少年合唱団のように、常に美しく揃った佇まいを見せてはいない。反対に、列からはみ出たり、服を着崩している子がいたり、自由きままな気風が見られて私はそこにかわいらしさや、少年の伸びやかな美しさを感じていた。通称『パリ木』のグラビア写真が載ると、お気に入りの少年の姿を切り抜き、下敷きの中に挟んだ。特別な推しがいたわけではなく、笑顔が魅力的な少年を選んだ。今ももちろん『パリ木』は健在。コロナ前には来日公演を行ったが、その後は確か来ていない。雑誌『合唱界』は・・と調べると、季刊であるようだが現存しているようだ、内容は判らない。地元の本屋さんがとうとう一軒もなくなってしまい、気軽に雑誌コーナーを覗くことがなくなった。今度、横浜駅か渋谷駅に出たら、探してみようかな?『パリ木』の記事が載っていたら、もちろんあの頃とはメンバーが変ってはいるが、また購入したいと思うかもしれない(^▽^)天使の歌声は、今もきっと変わりはないし、かわいさも、きっと。
2026年05月12日
やはり眼のせいなのか、疲れが溜まっていてダウン気味。今日はセヴァに関しての大好きな言葉があるので、ここに記しておこうと思う。奉仕の大波が国々を覆い、皆をその情熱のなかに巻き込めば、世界にはびこる憎しみ、恨み、そして貪欲の山々を拭い去ることができる。あなたの心を調整し、同朋の悲哀と歓喜を自分のものと感じ、共鳴できるようにしなさい。この世を愛で満たしなさい。~サティア・サイ~この教えは、ヒンドゥー教や仏教といったインド哲学だけでなく、マザー・テレサやナイチンゲールの信条…、キリスト教の教えでもあるように思われます。
2026年05月09日
「水辛子(みずがらし)」とは何のことかご存知だろうか?20代前半、新婚だった頃、夫に連れられて山梨県の大月市に日帰りで出かけた。なんでも「水辛子を採りに行くんだ」とのことで、それは何? と聞いたがすぐには教えてもらえなかった。現地は山葵田(わさびだ)がある地域で、山葵の傍にやはり水に浸かっているような状態でそれはあった。「あ! クレソン」知っていた。スーパーではまだ珍しい存在ではあったが、私はその味が好きで、たまに買っていた。夫はその山葵田の持ち主に断って、クレソンを収獲した。山葵田の主人は、この水辛子が都会では「クレソン」と呼ばれてけっこうな金額で売られていることを知らなかった。山葵はとてもきれいな水が常に流れている場所で造る。その地域は古くからの大きな日本家屋がたくさんあって、出掛けたその日は4月下旬だったため、あちこちの家の庭で鯉のぼりが青空に泳いでいた。のどかで美しい光景だった。静かな山間の村を歩いて、山葵田でクレソンを採って、その後は・・どこに寄ったのだろうか?もう遠い記憶になってしまい、定かではない。鯉のぼりに関しては、妹とふたり姉妹だったから、実家に鯉のぼりはなかった。ただ、大人になってからは、男の子の猫のたちの為に玩具菓子の「鯉のぼり」を買って、ベランダに泳がせていた。ぼら太郎、五朗、そして光稀(こうき)。男の子の猫は、どの子もワンコのように甘えん坊で、呼んだら跳んでくるタイプだった(^▽^)すべてのコが、それぞれに個性的でかわいかった。こちらは忘れられない、たくさんの想い出がある。出会えて、私の元に来てくれて、ほんとうにありがとう。今でも毎晩、ベッドに入る前にすべてのコの名前を呼んで「おやすみ」を言っている。今はもう鯉のぼりは飾らないけれど、この時季、金太郎の小さな人形はお供えのようにして置いている。そして、来世でまたこのコたちに会えることを、信じている。
2026年05月06日
インドの哲学者であり宗教指導者である人の教えを学ぶため、最初は都内渋谷区にある施設(インド人宅)に月に2回ほど通った。30代の終り頃。41歳で横浜に戻ってからは、日曜に市内にあるインターンナショナルスクールの教室を借りて集う場所に行った。教えの中で、集会の会場費など資金が必要な場合は、次のような集め方を推奨している。「誰もいない部屋の中に鍵がかかる箱を置き、一人ずつその部屋に入って払えるお金を入れる。参加者全員が一周して、その後に箱を開けて金額を見、足りなければもう一周するか、残りを皆で分けて払う」こうすることで、お金をたくさん持っている人と、生活が苦しくて払えない人との間に差は生まれにくい。お金の有る無しでその人の価値が決まるわけでなく、出せる人が出すようにするのだ。献金やお布施や賽銭を受け取らないのも、こういう理由からだった。経済状態で人を区別しない。そして「神聖」については、こう語られた。「人は皆、自分自身の中に真理を持っている。神は自分の中に存在する。真実はよそに求めずとも、最初から自身の中にある。…あなたは神そのものであり、私もまた神である」自分を見つめ、本当にたいせつなものは何か? 必要なものはなにか? を見極める。自分自身を高めてゆき、最善の自分になることを目指して日々生きていくことが人生の目標であって、仕事で成功することや、裕福な暮らしをすることではない。幸せは、真理は、自分の中にある。そして自分自身の中に神がいるように、相手の中にも神が存在することを常に意識する。自身も相手も誰もが神であることを理解すれば、そこに差別は生まれない。妬みも嫉みも育たない。またまた眼からうろこ、だった。そういう目線から「神様」を考えたことはなかった。自分の目標とするものが見えた。迷うより、闇雲に祈るより、まずは自身を顧みよう。そして身近な奉仕を考えよう。行おう。そう思えて、嬉しかった。~これは私の解釈で、正確ではない部分もあるかと思います💦~私、元々、ボランティアの星と言われる「魚座」の生まれだもん(o^―^o)ニコできることから行っていこう。そう思えた。~同じcategory内の、次に続く~
2026年05月03日
回旋複視になり、両眼を開けて物を見ることは不可能だ。何故なら、左目は水平に物をとらえるが、右目の視界は大きく左に傾いている。仕方なく右目をつむって歩くが、ひどく疲れる。しかも、ウインクをしているように見えるらしく、知的障碍児の施設前で、普段から時々会う10歳くらいのかわいい男の子が、私に向ってウインクを投げた💦 抱きしめたいくらい、かわいかったけれど(;^ω^)今までは、外出時はコンタクトレンズで、家や眼科受診の際は眼鏡にしていた(受診では裸眼になる必要がある)。ただ、視力が両目共に0.01以下なので、眼鏡は高額なレンズを使ってもかなり分厚い。しかも遠近両用なので、足元がクリアには見えておらず、歩行が不安定だ。仕方ない。 左目はコンタクトを入れ、右目には眼帯をしよう。そう思って、まずは昔ながらの眼帯をドラッグストアで購入。でも、やっぱり邪魔くさい。 最近は眼帯をしている人をあまり見ないので、何かしらの方法が存在するはず。ネットで検索してみる。 すると「貼る眼帯」や「眼鏡に着ける眼帯」がヒットした。貼る眼帯は眼を覆うように粘着テープが周りを取り囲んだ眼帯。でも、これって皮膚が弱くて、かぶれやすい私に合うかなぁ?ものは試しだ。ドラッグストアと百均で一箱ずつ買ってみる。まずはドラッグストアで買った金額が高い方。10枚入りで税込みだと500円ちよっと。でも案の定、瞼と眼の下は貼ったとたんに痛痒くなってしまう。百均の方は3枚入りで110円。こちらは眼がしらと目尻だけに粘着剤が着いていて、ドラッグストアのよりはいい。ただ、眼の下に汗を搔きやすい私だから、この先、暑くなったら使えるかどうか判らない。ネットで「眼鏡に着ける眼帯」も買ってみた(こちらはネットでないと買えないらしい)。町中で時々、就学前から小学校低学年くらいの子供が着けているのを見かけるが、それの大人バージョンらしい。 ちなみに子供の場合は斜視を治すために使っていることが多いようだ。ただ・・やっぱり眼鏡の片方を覆うので、なんとも仰々しい。黒・白・青の3色があり、黒が一般的のようだが、私はパステルカラーの服を着ることが多いので、眼科へ眼鏡姿で行く時のことも考え、白を注文。ところが届いたのは白と言うよりシルバーグレーのような色で黒の縁取り、付けるとウルトラマンのようだ💦💦まあ、眼鏡をかけての外出は眼科だけに留めたいので、こちらはほぼほぼ家で使うことにして、外出時は、左目にコンタクト、右目は貼る眼帯と普通の眼帯をその時々の肌の調子で決めることにした。友人たちが心配してメールや電話をしょちゅうくれる。ありがたい。中には願掛けに自身が信仰しているお寺さんへ参ってくれた人もいる<(_ _)> 確かに落ち込んでしまう時もあるが、嘆いてもどうしようもない。とにかく現状を受け入れ、今できることをやっていこう。有難いことに、秋や冬の寒い時季だと気分も塞ぎがちになるが、春はお陽様の力でなんとか明るくなれる。It's all right(It's Alright) 大丈夫。なんとかなる!いちばん好きな季節だもの。 落ち込んでいたら、もったいない(o^―^o)ニコ
2026年04月30日
マンションの、並びの部屋に独りで住んでいる女性Oさん。あれは2021年の春だったか、急に我が家のブレーカーが落ちて幾つかの家電が使えなくなり、配電盤に手が届かずに(脚が不自由で脚立に乗れない)ひどく困り、顔見知りの彼女にSOSを出した。日曜の朝で管理人はいないし…。 Oさんは同じ棟の友人男性を呼んできてくれ、事態は解決に💦たまたま前日に名古屋の友人が送ってくれた「きしめん」が24束もあり、お礼に5束渡すと、「こんなことしちゃダメ。却って友達を失くすわよ」と言ったので、真面目な人だな、と感じたっけ。私はたいてい買い物は開店直後のスーパーを数件はしごするが、帰宅する頃によく会うのが彼女だった。彼女は10時過ぎから10時半の間に買い物に出ることが多いようだった。「最近、定年退職して暇だから、よかったらお茶のみに来ない?」と誘われたことがあったが、その日は用事があって断り、その後も廊下での立ち話以上の付き合いはしなかった。何故なら、彼女は自分のお気に入りをやたら薦めてくるタイプだったから。「どこのスーパーに行ってたの? あら、そこより〇〇の方が鮮度がいいから替えなさいよ」とか、家電量販店も、私が時々利用する店よりライバル店の方が駅から近いから「替えなさいよ」と言うし💦それでも時間がある時はマンションの廊下で、地元のことやマンション内のことなど、色々と話した。最後に会ったのはいつだったか? 確か昨年の暮れにはすれ違って会釈を交わしたが‥。ある朝、彼女の部屋の新聞受けに新聞が入っていないことに気づいた。それがずっと続いて、ああ、紙の媒体はやめたんだな、と思った。3月はそんな状態だったが、4月の回覧板に彼女の部屋を飛ばすように指示が出ていてあれ? 引っ越したの? だから新聞をやめた? と不思議な気がした。何故なら、彼女の性格なら引っ越す時に挨拶をしないなんて考えられなかったから。マンション内の顔見知りの人に会った。Oさんのこともよく知っていると思われる人。聞いてみた。 あの彼女、引っ越したのかな? と。すると意外な答えが返ってきた。「先月、施設に入ったらしいのよ。お姉さんと弟さんが来て、付き添ったみたい」ん? 何かの病気? 施設って??「認知症みたい。まったく解らなかったわねえ」。認知症? だって、まだ60代半ば。 あんなに真面目で気が強くて、よくおしゃべりする女性が?俄かには信じられない。 そして、60代半ばの彼女でも、急にそんなことが起きてしまうのだ、と怖くなった。しかもかなりのスピードで症状が進行してしまったということだろう。今、どの施設でどんな暮らしをしているのだろう・・。認知症になっても、最後までプライドと羞恥心は残ると聞く。辛いだろうな。 せめて本人の気持ちが穏やかでありますように。この先の人生が、優しい日々でありますように。。。。彼女のいなくなった部屋には、甥御さんが引き継いで住むそうだ。
2026年04月27日
画面を見るのがしんどいのですが、少しずつ書いて保存し、アップしていきます。あと半年も続くのだもの。 この状態に慣れないとね(;^ω^)先日、朝の6時過ぎにゴミ出しに出た時のこと。(ちなみに、うちのマンションは24時間いつでもゴミを出せるようになっている)マンションのスロープをゴミ置き場まで下っていたら、傍の側溝で一羽のカラスが何かをつついていた。「カラスさん、おはよ。離れて歩くから通らせてね」と声に出して言い、歩いていったら…突然、後頭部にバサッ!っと衝撃が走ったΣ(・ω・ノ)ノ!「えっ?」と顔を上げると、頭を越してカラスが大きく羽ばたき、通りの向こうに飛んでいく‥。蹴られたんだ。 初めてのことに唖然( ゚Д゚)巣作りの時季だと知っているから刺激しないようにしたつもりなのに、話しかけたのがダメだったの?それとも言葉が解らないカラスさんだった?渋谷のマンションに住んでいた20代の時、屋上でカラスに餌をあげていた。4階建てマンションで、1階はローソン、2階から4階までが住居、各5世帯。3階だけ大家さんが2部屋分を使って住んでいたので計14世帯。ある時、屋上で出会ったのは、羽根がタレていて、あまり上手に飛べないカラスさん。「ダレハネちゃん」と名づけ、大家さんにも断って、時々、牛脂などの余り物を与えていたのだが、カラスは頭がいいというのは本当で、言葉をちゃんと理解するようだった。「明日は夕方じゃなくてお昼頃にあげるからね」と言えば、正午前に待っていた。前のお宅に救急車が停まった日は、ダレハネちゃんにこう伝えた。「おじいちゃんが運ばれたの。カラスさんが家の上を飛ぶと縁起が悪いって言うから、今日は違うルートで帰ってね」。ダレハネちゃんは、前の家の上は飛ばず、後ろの方向に去って行ったっけ。ダレハネちゃんのことがあったから、うちのマンションで出会ったカラスさんにも話しかけたのにな。却って怖がらせたのかな?蹴られた後頭部は、怪我はなく、痛みもほぼほぼなかった。加減してくれたのかなぁ? まさかね。脚が悪くて、その上、眼帯までしている私に少しは手加減してくれたのだろうか?ま、いい方に考えよう💦💦
2026年04月24日
脳神経外科での結果報告と今後の治療の相談のために、眼科へ行ってきた。 脳に異常がなかったことを告げると、前回とは異なる先生(前回は院長で今回は副院長)曰く、「まだ先週に症状が出たばかりですよね。様子見となるので一か月後にまた来てください」「様子見って、どのくらいの期間でしょうか?」と問うと、「半年が目安です。ただほとんど変化がない場合は、早めに治療法を決める場合もあります」ネットで調べたところ、私の見え方は物が左右や上下にダブって見えるのではなく、片方の目では水平に見えているのに、もう片方が斜めに見えている「回旋」タイプ。先生もそれに間違いはないと言う。回旋タイプはプリズム眼鏡では調整が利かず、手術となるらしい。眼の手術は怖いが、プリズム眼鏡はけっこう見づらいし、片方だけレンズが厚くなったりで見栄えも悪いようだ。急に元に戻る人もいるため、半年の様子見期間を置いて、それでだめなら手術。ただ、その手術ができる病院は東大や横浜国大など、限られているらしい…。あ~~、手術は怖いが、それよりもこれからの半年間のことが思いやられる。酷暑が予想されるこの夏、眼帯をしたまま日々過ごすしかないのかぁ(´;ω;`)ウッ…眼鏡にしてもコンタクトにしても、片目だけで見ると視力は0.6とか0.7。もっと出そうと思えば出るのだが、眼に負担がかかるために両目で見て1.0までに抑えてある。パソコンはもちろん、スーパーで値段を見たり、成分表のチェックをしたりができなくなった(´;ω;`)ウゥゥ数字の「5」と「6」、「3」と「8」、「1」と「7」など、区別がつかないものもいっぱい(*´Д`*)ま、でも仕方ない。慣れるしかない。嘆いても現状は変らない。 眼科からの帰り道『満ちてゆく』(藤井風)のフレーズが頭の中を巡った。🎵変わりゆくものは しかたがないねと手を放す、軽くなる、満ちてゆく🎵手を放す=どうしようもないものへの執着を手放す軽くなる=気持ちが軽くなって楽になる満ちてゆく=軽くなった心に穏やかな想いが満ちてゆく(私の解釈です)とにかく前向きに考えよう。このくらいでヘコタレる私ではない・・はず。
2026年04月21日
水曜日の未明、起きたら家の中の物がすべて大きくブレて二重に見える。脳の異常か? と怖くなり、でも頭痛や吐き気やめまいはなく、5時くらいまで様子を見て♯7119へ電話。 この番号は救急車を呼ぶ必要があるか否か迷った時や、病院の何科にかかったらいいのか、その科がある病院は近所にあるか、あったらどこか、ないならどこまで行けばあるか、を教えてくれる。緊急性はないけれど、今日中に脳神経外科と眼科を受診するように言われて、いくつかの病院を教えてもらえた。脳神経外科はかかりつけの病院にあるので、8時半の予約受付が開く時間を待って電話。今日はもう予約がいっぱいだが、明日の9時半なら予約が取れるとのこと。そこで予約を入れ、当日は地元でお世話になっている眼科に行った。ここは予約制ではない。眼圧検査や、その他もろもろの検査を経て「緑内障もないし、白内障はわずかにあるが、問題ではない。他の病気も見つからない。脳神経外科で異常がなければ、複視だと思われる」とのこと。「複視」?? 初めて聞く単語。で、検索して、どうやら自分のは、複視の中でも「両眼性複視」の症状だと納得した。そして翌木曜日、脳神経外科で検査を受け、脳に異常はないので複視だろう。眼科の範囲になるとの診断。というわけで・・今も両眼で見ると、部屋が傾いて二重に見える。ときたま、突然治る人もいるため、まずは一週間様子をみるように言われ、来週、また眼科を受診することになっている。突然治ることがなければ、見え方の矯正をするためのプリズム眼鏡を造ることになるそうだ。片目をつぶり、少しずつこれを書いているが、かなり疲れる。書いては保存し、時間をおいて、また書いて、の繰り返し。眼鏡が出来上がり、それに慣れるまでは、💻も📚も少しずつしか見られない(´;ω;`)ウゥゥでも、脳に異常があって手術が必要にならなくて、それだけでもよかった(o^―^o)ニコそれにしても、世の中には知らない病気が色々あるんだなあ(´;ω;`)ウゥゥ
2026年04月18日
未明のいきなりな視神経トラブルで、両目で物をみることが不自由に(´;ω;`)ウゥゥ今日は眼科検診。明日は脳神経科検診。眼科の範囲ですめばいいなあ。落ち着いたらまたアップします。
2026年04月15日
生死を彷徨うほどの喘息発作が続いた30代。もう神にでも仏にでも縋りつきたかった。キリスト教も仏教もほんの少しずつではあるが学んだ。どちらもそれぞれに心に響くものがあり、自分はどちらを信じたらいいんだろう? と迷った。富士山を静岡側から登るか、山梨側から登るかは違っても、目的地はひとつ。頂上である。でもその頂上となるものが自己の幸福(病気平癒)なのか、それとも他にあるのか、それすらも解らずにいた。そんな時に知ったのが「すべての宗教はひとつ。それは愛という名の宗教」と唱えるインドの哲学者・宗教指導者の存在だ。観音様を信仰する年上の友人女性から聞いて、その教えを伝える日本での集会に参加した。まず驚いたのが、そこでは献金・お布施・賽銭などと呼ばれる金銭が全く要求されなかったこと。ただの一円も必要ではなかった。その受け皿すらなかった。これはどの宗教でもあり得なかったこと。そこでは「祈る唇より差し出す手の方がより尊い」と教え、祈りを捧げることより、金銭を提供するより、「奉仕=SEVA(セヴァ)」をすることが、我が神に近づく一番の道だと説いていた。ただ、奉仕することに優越感を持ったり、奉仕対象の相手を見下したりすることは醜いことであり、真の奉仕とは、心の底から突き動かされて行うもの。奉仕することそのものに喜びを感じるものである、と。集会にはキリスト教の神父や牧師、仏教の僧侶や尼僧がその服装のままに参加していて、私服ではあったが神職(神主等)の人もいたようだった。ヒンドゥー教徒の在日インド人もかなりの人数が集い、その話に耳を傾けていた。感動した。なんて美しい光景なのだろう。異なる神や仏を信じる者が一堂に会し、共に相手の宗教を尊重し、同じ目標を分かち合う。皆で話を聞き、インドの神々を賛美する「バジャン」を歌い、それで集会は終わった。「HELP EVER HURT NEVER」常に助け、決して傷つけない。奉仕も、決められた場所に行ってするものではなく、必要と思われる時に、いつでも自ら動いて行う。すでに教えに従っている人たちは、それぞれに身近な老人ホームや養護施設に出かけていたり、もっと身近な、近所の一人暮らしの高齢者の力になったり、介助や介護を行ったり、それぞれに、できることを見返りを求めず(無料で)率先して行っていた。その宗教哲学者の存在はやがて有名になり、仲間が増え、日本の各界の著名人も、大勢が参加するようになっていった。~同じcategoryの、次に続く~
2026年04月12日
現在の私からは想像できないかもしれないが、馬飛びが得意だった。身長も低ければ、体重もかなり軽かった幼少期。馬飛びは、3人が横に並んだ状態でくっついていても、その上を軽々と飛ぶことができた。それなのに・・何故か跳び箱は苦手だった・・。台の上に飛び乗る所まではできるのだが、上で止まってしまって越えられない。「馬飛びの要領でやればできる」と担任の先生は言うが、台は硬くてコツが掴めない。そんな状態が何年生になるまで続いただろうか。覚えているのは、妹の担任だったか、違うクラスの先生だったかが、跳び箱の事故に遭ったこと。飛び損ねたのが原因で箱ごと崩れ落ちたとかで、首の骨を折ったと聞いた。それで寝たきりになってしまった・・と記憶は定かではないが、そんな怖い話。3年下の妹が就学した以降の話しだから、私はもう4年生以上。尚更、怖くなって飛べなくなった。ただ、いつのことだったかは定かではないが、やがて跳び箱を飛べた日が来た。何かしらのきっかけで低い段を飛び越えることができ、その後、順々に高さを増していくことで、確かけっこうな高さまで一気にクリアできた。鉄棒も、逆上がりは早くからできたし、鉄棒にセーターを巻き付け、そこに片膝、その後は両膝をかけてクルクルと周り続ける遊びも、お気に入りだった。それはまだ小3くらいのこと。今は小学校も門が高くなり、校庭すら覗けないようになってしまっているが、たまに公園に設置されている鉄棒を見ると、やってみたくなっては「無理、無理」と自分に言い聞かせる。多分・・子供時代の運動神経は鈍くなかったんだよね?鈍い、と自分で枷をかけるようになってしまったのは、何時からで、何故?なんて、今更の疑問(;^ω^)
2026年04月09日
電話番号案内104が3月いっぱいで終了となった。電話帳もしかり。もうNTTからの配布はない。どちらも昔は本当によくお世話になった。学生時代は友達や好きな人の住所を手に入れると、どちらかで電話番号を調べた。反対に電話番号だけを知った場合も、電話帳で住所を引いた。実際には電話をかけることはできなくても、番号を知っているだけで嬉しかった。住所を知った時は、年賀状を出すなどして何とか繋がろうと思ったりもした。以前に書いたが、憧れた歌手「可愛和美」さんの電話番号を104で調べてかけたことから、その後に親しくなり、ある意味、今の仕事の近道を探せたとも言える経緯もある。大人になってからは仕事で取材先を調べることも増え、フリーランスとしてはとても助かった。未明にいきなりぎっくり腰になり、その日の取材に行かれなくなりそうだった時、電話帳で見つけた24時間いつでも来てくれるという整体師に電話をした。40代後半の頃。まだ夜明け前なのに本当に駆けつけてくれ、しかも約1時間半で治してもらえた時は、ただただ感謝だった。58歳で突然歩けなくなった際にも、その人の仲間に助けてもらえた。有難い縁を繋いでもらえた。今はネットで検索すれば、色々な情報が手に入る。確かに104も電話帳も、もう需要はほぼなくなった。でもネットにはインチキな情報もあり、電話帳の方が比較的安心なような気はする。次に配布されるまで電話帳に残るわけだら、怪しい広告はほぼなかったように思う。いろいろなものが変っていく。当り前だったものが、ことが、気が付いたら変っている。便利になったといえばそれまでだが、よく考えると却って不便になったものもあるだろう。変っていくことに、ついて行けない部分があるのは仕方ないけれど、昔、まだ若かった頃、高齢者が「何のことかさっぱり解らない」「ついて行かれない」と言っていたその意味が、ようやく自分のこととして理解できるようになった。あの頃、生意気を言って、冷たい態度を取ってしまったこと、幾度かあったように思う。ごめんなさい。…と言っても、もうその人たちは彼岸の向こうに旅立ってしまったあとだけれど…。今、生意気な態度を取られることもあって、身に染みている💦
2026年04月06日
色々な意見がメールで届いた。その中で気になったのが「ちゃんとお寺さんでお位牌を供養しないとバチが当たる」というもの。心配くださっているのは、とてもありがたい。心から気遣ってくださる方の存在はありがたい。でも・・バチが当たる、って・・?私は争いごとが大嫌いなので、穏やかにお窺いの文章を送ると、「貴女が癌になるとか、交通事故に遭うとか、貴女の大事な人がそういう目に遭うとか…」どうやら、そういうことらしい。でもこういう考えって、社会的に問題になっている某新興宗教と、結果的には同じじゃないかな?「先祖供養ができていないから、貴女の息子さんは難病にかかったのです」。「先祖に水子がいますね。その供養がなされていないから、娘さんに子供が授からないのです」などと言って、供養のための壺だの仏具だのを高額で買わせる‥。もちろん、心配してメールをくだっさった方にはそういう下心はないと解かっている。でもね、と反論したくなる。 私の祖母は私の幸せを常に祈ってくれていた人だ。自分の命と引き換えに私の病いが治るなら、喜んで命さえ差し出すような愛し方をしてくれた人。祖父は父が大学生の時に病気で亡くなったけれど、やはり家族愛の深い人だったと聞いている。父に関しては、葬儀に住職を呼ばなかったので、位牌に魂を入れる儀式は行われていないし、母もまた同じ。つまり位牌から魂を抜く必要があるのは、祖父母だけらしいが、で、いったいどちらがどんなバチを孫の私に当てるというの?それとも釈尊や大日如来がバチを・・? それこそバチ当たりな考えだと思う。あの世にまでお金は持って行けない。そして、あの世にお金を送ることもできない。お布施で数十万、もしくは百の単位のお金を支払うことが、供養になるとは思えない。お金は現世限りのもの。それだけのお金があれば、現世で今苦しんでいる人や動物に少しは援助ができるだろう。そして祖父母はきっと、自分たちの供養よりもそちらを望むはず。愛をもって私なりのお位牌供養をするということは、そういうことだ。私を心から案じてくださるかた、どうか解ってほしい。もしかしたら、今後、癌になったり、交通事故に遭ったり、何かしら悪いことが降りかかるかもしれない。でも、それは「バチ」が当たったのではなく、そういう運命だったのだと思う。そもそも(誰しも)が、常に温泉につかっているように、のほほんと穏やかに生きていかれる方が珍しいのだ。もし何かしら思いがけない目に遭うことがあっても、それは甘んじて受け入れるしかない。
2026年04月03日
このパソコンが置いてあるデスクから見える位置に、大きなソメイヨシノの木がある。マンション内には他にもソメイヨシノが10本ほど植えられた通称「桜山」もあり、ありがたいことに居ながらにしてお花見が可能🌸🌸(⌒∇⌒)🌸🌸ちなみに今朝の段階で、窓の外のほうは満開。桜山は6分咲きくらいだが、今日中には満開と言われる8分咲きになるだろう。気になることがある。 桜山のソメイヨシノは、植えられてから約50年が経つらしい。各地で次々とソメイヨシノがおよそ50~60年と考えられる「寿命」を迎えている。地元の駅傍のソメイヨシノ数本も老木となり、危険だからと伐採された。その後に植えられたのはソメイヨシノではなく、寿命が長い「ジンダイアケボノ」。ソメイヨシノより少しピンク色は濃く、グラデーションもあって、なかなか美しい。物心ついた時から、桜といえばソメイヨシノだった。幼稚園や小学校、中学校の入園式・入学式にも校庭のソメイヨシノが迎えてくれた。あの最初は白っぽく、咲き進むに従って中心の桃色が少しずつ濃くなる様子は、奥ゆかしくて、日本人の好みに合うように思う。一本だけの大きな木も、桜並木も、どちらも趣があった。その風景が昨今、少しずつ変わろうとしている。 あちこちで伐採が聞かれる。ソメイヨシノの白っぽさが好き。できるなら、この風景を毎年の春に見続けていたい。 ただ、ジンダイアケボノも美しい。ソメイヨシノと比べる必要はなく、これはこれで素晴らしく美しい。やがてこのジンダイアケボノが、日本の代表的な桜となる時が来るのだろうか?想像の中でゆっくりと見まわしてみる。大好きな場所の桜並木。 車窓から見る桜の木々。私が今まで見てきた「色」より、少し濃いピンクに染まった街を、村を、想像してみる。未だ見たことのない新たなる日本の風景が、そこには拡がるけれど、希望に満ちた景色であることに、間違いはないだろう。きな臭いニュースが途絶えない今、願うことはひとつだけ。🌸を愛でられる平和な日々が永遠に続きますように。
2026年03月30日
透明な、コーラの瓶を模した高さ15cmくらいのプラスチックケースの中に、頭に葡萄の房を載せ、葡萄の形をした服を着た、二頭身の女性の人形が入っている。買ったのは、高校生の時だった。「made in 香港」の文字があるから輸入品。私にとっては高額だった記憶がぼんやりとある。たしか今のそごう横浜店あたりに当時あった高級スーパー「UNION」近辺の雑貨店で売られていたもの。高校生の時、この高級スーパーUNIONの紙袋を通学カバンに合わせて持つのが、横浜女子のトレンドだった。もちろん通学カバンはマチを細く縫い合わせてあって、教科書やノートはほとんど入らない。成績のよい子でも、そういう持ち方をしていたので、違う私はおそらく「ダサい」子だっただろう。見た目は真面目な少女だった。 でも考えていることは人とは異なることが多く、クラスでは浮いていた。何かのテストで「精神年齢が高い」と出たが、それはちょっと違うかも(・・?とにかく変わりものだったのだ。 皆と同じ考えや感覚をなかなか持てない子供。後に「お母さんと仲が悪いのが原因ね。皆と違う」と言われたのは、この性格からだろう。ひとりでいるのが好きだった。だから珍しい海外のお菓子が置いてあるUNIONへも、時々ひとりで行っていた。皆とは違う感覚で、UNION近辺の雰囲気を楽しんでいた。UNION傍で見つけたこのおしゃれな人形を、私はとても大切にしていた。何故こんなにも魅かれたのか。 葡萄と薔薇のモチーフは10代始めから大好きだったが、その葡萄の人形だったからか?自分の部屋の本棚の、いちばん目立つところに飾って、よく眺めていた。「断捨離」を始めて、こんなふうに最期まで大事に持っていたいと思うようなものは別に分けている。もう新しく何かが欲しいとは思わなくなった。 物欲が本当になくなった。ただ、見たり触ったりすると当時の想いが蘇るような品物は、やっぱり捨てずにいたいと願う。優しい想いに浸れるから。静かにほほ笑むことができるから。時には熱い想いが沸き上がるから。せめて中くらいの大きさの段ボール一箱に納められるよう、選んでいこうと思いながら、手放せないものを、またひとつ、またひとつ、と、サイドによけて、しまう💦
2026年03月27日
もう35年は昔のことになるだろうか。取材で真言宗の僧侶と知り合い、その後に友達となった。何かの折に祖母の戒名の話しになり、とてもきれいな名前なのだとその戒名を告げると、「おばあさんは仏教徒だったの?」と聞かれる。「否」と応えると、「その戒名は格が高すぎる。あの世に行った時、却って苦しむと僧侶なら本来は考えます。もしかして寺に言われるままにお金で買ったのでは?」と聞かれ、ハッとした。そうだと聞いていた。 祖父母の分は、まだ父母が若かった頃に言われたままの額を払ったと。 信者なら朝の読経など、日々のお勤めは欠かさないはず。でも我が家は無神論者の家庭で、仏壇にご本尊の像すらなく、当時は祖父の写真とお位牌があるのみ。その祖父の写真やお位牌に手を合わせることも、たまにしかないことだった。ただ、先祖代々400年もの長きに渡っての菩提寺なのだ。お付き合いの一環として住職の求めるままに払ったらしい。父母の時は知らないが、祖母は確か30万円だったと本人が言っていた。今から50年以上も前のこと。今回、母が妹の家に世話になる際に持って行った小さめの仏壇を「仏壇じまい」する。そもそも妹の嫁ぎ先は神道だし、私の家に運ばれても置き場所がなく、私も仏教徒ではないので困るから。仏壇じまいには、中にあるご本尊や位牌から魂を抜く「閉眼」が必要で、これまた彦根の菩提寺まで運ばないとならないようだが、妹がネットで調べて「仏壇そのものには魂が宿っていないから、粗大ごみに出せるらしい」と言ってきた。昔なら庭で燃やすこともできただろうが、このご時世では無理。私はそれでいいと応じたのだが「でも、お位牌はお寺に持って行くらしいよ」と言われて驚いている。まさか妹がそんなことにこだわるなんて‥。ちなみに妹の嫁ぎ先に神棚はないし、本人たちは無宗教のようだ。そもそも戒名とはあの世での名前だというが、信心の度合で「格」が決まるのは良しとして、お金で買える仕組みがあるって・・・どういうこと?(。´・ω・)?関西出身の友人僧侶曰く、同和地区の人の戒名は末に「畜男」「畜女」とついているそうだ。今はさすがに違うようだが、つい数十年前までは死んでまで差別を受けていたらしい。なんというひどい仕打ちだ。私はこういうのはとにかく許せない😡仏教の、本来の教えは素晴らしいと思う。自我や執着を捨て、慈悲の心を持ち、人々に奉仕し、よりよい自分になるための修行を積む。・・だが、この「戒名」と仏教の教えとの関係は? 戒名の位が高いと閉眼供養にかかる費用(お布施)も、普通の戒名の10倍はすると聞く。そもそも、魂は四十九日を経てあの世の入り口に辿り着くと言っているではないか?位牌や遺骨に魂が宿っているって・・いったいどれだけ魂は分かれて存在するのだ?!私はある高僧が言った「思うことがいちばんの供養です」を信じてる。魂は瞬間移動して、思ってくれる人や自身が思う人の傍に行かれると言う。それを信じている。「葬式仏教」と日本のお寺さんを揶揄する言葉は昔からある。私は独自の考えで、独自の方法で、愛情を持ってお位牌じまいをしたいと考えている。
2026年03月24日
今の子は・・どうなのだろう? 小学校や中学校では、卒業前にサイン帳なるものがクラスメイト間に回った。15×20センチくらいの横型のノートで、40~50ページはあっただろうか。ひとり1ページ、サインだけでなく、思うことを文章やイラスト、漫画などで自由に書きあった。忘れない。片想いの男子にサイン帳を差し出し「書いてくれる?」と聞いて、OKを貰った時の喜び(o^―^o)ニコ卒業した後も、何度も開いては彼の顔を思い出しながら字面をなぞったっけ。両想いにはなれなかったけれど、自分のために時間を割いて書いてくれたことだけでも嬉しかった。実は、卒業式の想い出は・・ほとんどない。小学校の時は「仰げば尊し」を歌ったことと、泣きながら校門をくぐったものの、上履きを持ち帰るのを忘れたことに気づき、昇降口に戻ったことくらい(;^ω^)中学では式には出たものの、それ以外はまったく記憶になく、高校に至っては卒業式をボイコットした💦あの頃は、それがかっこいいことと思われていて、感謝したい先生もいず、式を無視したっけ。アテネ・フランセに関しては、卒業生は2万人に1人という難関。現役東大仏文学科生でも卒業できず、仕方なくパリに渡ってソルボンヌ大を受ける人までいたくらいだった。この時季になると「想い出の卒業ソング」を特集した📺番組もあるが、はて? 私ににとっては、何?ユーミンとは同い年なので「卒業写真」はまだリリースされていなかったし、卒業の想い出の歌って・・ないかも💦💦大人になってからは、タッキー&翼の「卒業~さよならは明日のために~」が歌番組で流れた時、うつくしいメロディーに魅かれて、初めて「アイドル」のシングルCDを買ったっけ。卒業。 私の頃は、ソメイヨシノは入学式の花だったし、今とはちょっと感覚が違う。それでも、ひとつのことに区切りがつき、新たなステージに進むことの喜びは毎回毎回訪れた。いずれ今生を卒業する日がくる。卒業式に自分自身は出られないが、微笑みながら穏やかにその日を迎えたいと願う。って最近、死をとても意識してしまっている。 あまり良いことではないなあ。春だもの。いちばん好きな季節だもの。前向きな気持ちでいよう。 歌詞に「春」が出てくる好きなメロディーのこの歌を口ずさみながら。 ♪七色の谷を越えて 流れて行く 風のリボン輪になって 輪になって 駆けて行ったよ春よ 春よ と 駆けて行ったよ♪『花の街』江間章子作詞 団伊玖磨作曲ちなみにこの詩は終戦後すぐの東京の焼け野原を目の当たりにし、「夏の思い出」で有名な江間章子さんが、再び花が咲く美しい街になることを願って書いたもの。「輪になって 輪になって」は、人々の絆や平和への希望を願った表現だそうだ。世の中から一刻も早く戦争がなくなり、本当の春が来ますように…。
2026年03月21日
母の遺品整理や、あれやこれやの必要事項に関して、妹とのメール往復が続いている。その中で驚いたのは、私が「友人や、友人のまた友人にアドバイスを求めるつもり」と書いた時の反応。怒りが読み取れる文面で、内容は「その人に何も関係ないことを聞くのはいかがなものか?相談されても迷惑なだけではないか?」というものだった。驚いた。私とは違う意見があったり、もしかしてその道に詳しい人だったりすることもあり、迷った時、私は何かと友人たちに意見を求めるメールをしている。まったく知らない事柄ならば「ごめんね。そっちは得意ジャンルじゃないわ」とか、「う~~ん、私は解らないけれど、詳しい人がいるから聞いてみようか?」と相手も応えてくれる。金銭が絡む問題だったり、ひどく面倒なことだったりする場合は別だが、こういう相談ってしないもの?私の所には、猫やマスコミに関する質問や相談がよく来るが、それは友人のそのまた友人からのことも多い。お役に立てるなら、いくらでも力になりたいから「電話番号を教えてもいいよ」などと伝えている。思い出した。私がこんなふうに人に頼ったり頼られたりするようになったのは、30代になった頃からだった。それまでは、頼られたら力になろうと努力したが、自分から他人に頼ることはできないでいた。「甘えべた」・・そう言われてきた。祖母には甘えられたが母に甘えられなかった幼少期が影響していると、心療内科医は分析している。以前に書いたが、友人の純アリスこと三浦雅璃子ちゃんが私のそんな内面に気づいてくれ、彼女に友人として心を開き、甘えさせてもらえたことで、私は少しずつ変っていけたのだ。取材で初対面の人に深いところまで聞き込む習慣ができたことも、関係しているかもしれないが・・。ハッと気づいた。 妹も甘えることを知らずに育ったのではないか?母と私よりは密接に過ごしてきただろうが、母に甘えてはこられなかったのでは?妹のことを知らずにきすぎた。友人は頼っていいんだよ。 迷惑なら、そう言ってくれる、もしくは言葉を選んで、やんわりと断わってくれるはず。そのことを告げていいものかどうか、気の強い彼女の性格を思い、悩んでいる。
2026年03月18日
よくぞここまで生きてこられたと思う。幾つもの持病を抱え、脚も手も少し不自由で、喘息発作では生死を彷徨ったこともあるというのに。50代の頃は保護して我が家にいる猫たちをすべて自分で看取り、その後に1年間くらいは好きな国に旅をする、それさえできたら、もう今生は終わってもいいと常に神様に伝えてきた。祈っていた。最後の猫・光稀までのすべての🐱を、自宅で、この眼で、この手で、看取り送ることができた。これは決して当たり前のことではなく、それだけで神様には本当に感謝している。その後に脚が不自由となり、海外への一人旅は断念せざるを得なくなったが、国内の行きたい所へは、ほぼほぼ足を運べた。72歳の明日を無事に迎えられたら、その後は何を目標にしよう?自分の足で歩き、自分の口で食べられて、穏やかに日々を過ごし、時々は誰かの役に立てたら・・。それだけで充分(o^―^o)ニコ71歳最後の今日の24時間を、穏やかに、心健やかに、過ごし、明日を迎えられたら。それだけで感謝(⌒∇⌒)後は「おまけの人生」と思う。新たに何を学び、これまでの何を学び続けたら、自分の魂をよりよい方向に育てていかれるか、それを日々、自分自身に問いかけて実行に移していこう。
2026年03月15日
「女の子がズボンを履くなんて、はしたない」そう母から言われ続けてきた。その私が初めて「ズボン」を履いたのは、アテネ・フランセ時代。彼から「ジーパンを履かない女は嫌いだ」と言われた19歳の時(;^ω^)。当時、ジーパンと言えば「パンタロン」。あの膝から裾に向ってラッパのように広がったスタイルだ。あの頃のフォークソングのジャケ写を見ると、多くのシンガー達が履いていたのが判る。Bonneのバイトで溜まったお金で、パンタロンのジーンズを探した。見つけたのは、裾に大きく赤い薔薇が刺繍されたもの(;´∀`)ズボンを履いたことがなかった私にとって、その女性らしさが、どうにか妥協できる範囲だった。彼がそれを見て何と言ったかは覚えていない。でもしばらくはそれを履いて学校に通い、バイトにも通っていた。母は当然、渋い顔をしたが、もう怯まなかった。ファッションの流行は20年くらいで再び巡ってくると言われるが、パンタロンのジーンズだけは、あの後、全く見かけない。昔はタッパがなければ似合わないと言われたパンタロンだが、今は男女共に背の高い人は増えている。なのに、何故(。´・ω・)??ジーンズのパンタロン・・身長が低かったり、脚が短かったりすると、購入先で裾詰めを依頼した際に、ばっさりとその分の布を切られた💦その結果、パンタロンのはずがストレートパンツになってしまったりする人もいたっけ(;^ω^)かっこよく履くには、それなりのスタイルが必要だったけれど、私の薔薇パンタロンは、それも計算されていたのか、身長152センチの私にも「パンタロン」であった。彼と別れてからは、またミニスカート派に戻り、ズボンを履かなくなった。ジーンズを履くと、腰より足の付け根の太さの方が目立ち、似合わないことを自覚していたからだ。身長が低いとバランス的に膝下やロングのスカートも似合わない。動きやすいミニにして、ずっとずっと50歳近くまで過ごしていたような・・・。今はもう脚が不自由で杖も突いているので、ほぼほぼズボンの生活。ロングスカートは裾を踏んで転んでしまうのが怖いし、ミニはさすがに似合わない💦おしゃれに気を使えなくなった。ただ、アウターは、お気に入りの猫のベストとかアシンメトリーなブラウス等を今も着用。色もできるだけきれいなものを選んでいる。高齢になったら尚更、身の回りに気をつけないと、人生が楽しくなくなる。田村セツコさんのように、ずっとチロリアンが似合うような個性があったらよかったのにな。でも元々、機能性を鑑みてファッションを選ぶタイプで、センスはさほどよくないのだもの。大事に大事にしているお気に入りアイテムを、今後もうまく使いまわそう。って、お気に入りの猫ベストや猫セーターは、もう40年近くも着まわしている(^-^;
2026年03月12日
30代半ば、両親と母のすぐ上の姉との計4名で「沖縄7島巡り」の旅をした。発端は、母のすぐ上の姉(五女)が市役所勤めでの定年を迎え、旅行に出たいと言い出したこと。旅の経験がほぼなく、できれば沖縄に行ってみたいとのことで、父がツアーを探し、本島ではなく、宮古島、石垣島、西表島など7島を巡る旅に決めた。ただ、2人部屋2つ or 4人部屋1つしか用意ができないそうで、私に白羽の矢が当たったのだ。私はといえば、イリオモテヤマネコがいる西表島に行ってみたかったので、即OK(o^―^o)ニコ仕事を前倒しにし、猫たちのシッターも2人に頼んで準備万端。旅は3泊4日だったか4泊5日だったか忘れたが(;^ω^)、伯母さんには数日前に横浜に来てもらい、横浜見学を終えてから、羽田空港で私と合流し、沖縄ツアーに出掛けた。けっこうな金額のツアーだったので、他の乗客も初老の夫婦や、中高年の兄弟姉妹が多かった。伯母さんは私が子供の頃に毎年奈良の母方の実家に行った際、いつもかわいがってくれた人。当時、母の実家には母の両親の他、長女と、五女、私の母より8歳下の長男の5人が住んでいたか…。否、もう一人、伯母さんの中に、許婚を戦争で亡くして嫁に行けなかった人がいた(のちに後妻の口があり、嫁いだが・・)。五女の伯母さんは婚期に相手が見つからず、仕方なく伝手を頼って市役所務めとなったようだった。伯母さんはずっと、家と職場の市役所しか知らない生活をしてきていた。そういう時代。職場は何課かは知らないが、年上の男性ばかりの中で事務員をしていたらしい。最初に驚かされたのは、旅の最初の食事をとったレストランでのこと。おしぼりが入っているビニール袋を、大きな音を立てて、パン! っと割ったのだΣ(・ω・ノ)ノ!周りの人たちが驚いて伯母さんを見る。 伯母さんはと言えば、そのことに反対に驚いていた。市役所の仲間は、必ずそうやっておしぼりの袋を破くのだと言った。それがさも常識であるかのように。今思うと、田舎のおじさんあるある・・・だったのかも💦その伯母さんがホテルの部屋で私と二人きりになった際、恥ずかしそうに言った言葉が忘れられない。「順子ちゃん・・男の人って、ええもん?」「ええもん? って、どういう意味?」「・・私、一度も付き合ったことないんや・・」。「片想いをしたことは? 学校や近所に憧れの男性がいた、とかは?」「それも・・・ないのん」そうか、好きな人に憧れて、手紙を渡そうかどうしようかと悩んだこともないんだ。好きな人に告白されたり告白したりして、両想いになったことがなくて、手を繋いだりしたこともなくて‥。伯母さんは、婚期を逃して役所勤めをして、55歳? 60歳? の定年を迎えるまで、旅に出たこともなければ、楽しい想いをしたことが全くなかったのだろうか?時代が違うから、とは言えない。戦争があったから、とも言い切れない。そんな人生もあるのだ。紆余曲折はあったものの、想いを叶え、好きなように自由に生きてこられた私とはまったく異なる人生。同じ「期待されない子供」であった母の人生とも、また違う人生。運命をそのまま受け入れることが当たり前だった時代だったのかもしれない。五女として、やはり「また女の子?」と喜ばれずに生まれ育って‥楽しいことってどれくらいあったのかな?その伯母は、晩年、認知症を患い、施設に入居してしまった。そして、施設の中で最期を迎えた。私のことも忘れてしまったようだった。美人ではなかったが、母よりずっと優しくて、人の話をきちんと聞く耳を持っていて、何事も決して否定せず、ニコニコと常に笑顔でいた叔母さんの顔が浮かぶ。・・・来世では、楽しいことがいっぱいありますように・・・。
2026年03月09日
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