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「オバジC」
という化粧品は、
“おばば”
と “おじじ”
のためにある
と思ってました。
そろそろ 「おじいちゃんの匂い」
がするんじゃないかと
戦々恐々としている、船沢です。 m(_ _)m
さて皆さん、
「年齢」
って、どのように増えると感じていますか?
自分や誰かの年齢が一歳上がるたびに、そのことをどう表現していますか?
「食う」
ものですか?
「取る」
ものですか?
「経る」
ものですか?
「重ねる」
ものですか?
年を「食う」というと、
ただ時間のみを無駄に食い散らかす=“消費する”という、
そんなイメージがあるかと思います。
自分の人生に不満のある人、夢や目標のない人ほど、
この言い回しを使う傾向が高いようです。
同様に、
年を「取る」というと、
「 ジェンガ
(R)
」のブロックを一本一本引き抜いていくような、
あるいは死神から“若さ”を少しずつ抜き取られているような、
そんな気分がつきまとうのではありませんか。
年を「経る」というと、
歳月という名のボーダーラインを大きくまたいでしまい、楽しかった“あのころ”にもう戻れないことに気がついて、
すごく胸が苦しく、悲しい気持ちになると思います。
年を「重ねる」というと、
一年経つごとに、天から鉄板や重石が降ってきて、あなたの頭上にズッシリとのしかかり、
今にも押しつぶされるような気分になるかもしれません。
こんな風に、年のことを考えるたび、
毎日気が滅入ってきて、ぶつくさ文句を言ううちに、やがて 年齢の話題そのものがタブーになっていく
。
俺は年を取らないぞ。俺だけは特別なんだ。
ことに、 “美”
を追求する女性陣は
このことに無関心ではいられないでしょう。
しかし、美しさにすがりつくあまり、
視線が野獣のごとくギラついている女性
におびえている男性たちがいることも
また事実です。
そして誰もが、口をそろえてこういいます。
「ああ、また一年、年を食った。
俺はこのまま、平社員で終わるんだろうか?」「いやだわもう、また誕生日なんて。
彼氏もできないのに、これ以上、年なんて食いたくないわ!」
けれども、 私たちは「現実世界」の「人間」です
。ネバーランドに住んでいる、ピーターパンではないのです。
中つ国のはずれに暮らす、美しく聡明なるエルフの方々とも違うのです。
正直、私だって、老いたくも死にたくもありません。
もし許されるのなら、不老不死の秘術がほしいとか、
仮面ライダーや、サイボーグ009のような
改造人間になりたいとさえ思います。
ですが、「老い」と「死」はどうあがいても不可避です。
そして私たちは知っています。
だからこそ、人は生きていけるのだと。
限りある命だからこそ、人は輝けるのだと。
実りある家族の晩餐を照らす、燭台の上の一本のろうそくのように。
火中に投じることで閃光を放ち燃え上がる、マグネシウムのように。
空気に触れて激しく燃焼する、ナトリウムのように。
そこで、どうせ年齢がかさんでいくのだったら、せめて「表現を変えてみましょうよ」というのが、今回の話です。
たとえば、「年を食う」という表現を、別の表現に変える。
あるいは、「年を食う」という言葉に対する“イメージ”そのものを変える。
まずは、言い方を変えてみましょう。
年を 「取る」
というと、
何だかムシキングカードやポケモンカードがベンダーから出てきて、
それを“取って”集めているような感じがします。
神様のところから、
年に一回だけタダでもらえる 「年齢カード」を引いて、
それをストックしていく
ような感じです。
これを毎年ためていくと、死んだときに、集めた枚数に応じて
「何がもらえるんだろうか」とワクワクしてきませんか?
おじいちゃん、おばあちゃん、 めっちゃお得
ですよね。葬儀に参列者がいっぱい来て、大きなお墓まで建ててもらえた人は、
きっとゴールドカードやレアカードを手に入れた人かもしれません。
年を 「経る」
というと、
人生の道路や航海図の上に、子午線や日付変更線みたいなのがあって、
それをまたいでいるような感じがします。
まるで、人生という冒険の目的地で得られる 「財宝」を目当てに、
航海を続けている海賊
のような気分です。
そう考えると、 「人生の“海賊王”」を目指してみたくなりませんか?
新しい国や、未開の地へと足を踏み入れるのが、
そして仲間と出会い、旅をするのが、何だかとても楽しくなります。
そしたら、今わの際には、子供や孫にこう言ってやりましょう。
「おれの財宝? 欲しけりゃくれてやる。
……探せ! この世のすべてをそこに置いてきた!!」
年を 「重ねる」
というと、
自分の人生が真っ白な原稿用紙につむがれて、
ペーパートレーの中に折り重なっていくような感じがします。
そう、あなたは 自分の人生をプロデュースするクリエイター
。
いつくるか分からない“締め切り”と斗いながら、毎年一枚、
神様兼編集者に原稿を渡していく
のです。
人によって、シーズンによって、びっしり書き込まれた原稿もあれば、
白紙の中央にどーんと一行、大きいコピーを書いただけのものもあります。
文字の代わりに、絵や五線譜を描いている人もいます。
筆やサインペン、クレヨン、デザインマーカーを使った人もいるでしょう。
さらに、途中で紙の色や質感が違う人もいます。
いずれにしても、オチはまだ見えてきません。
……なんだか、大作を書き上げてみようという気がしてきませんか?
いつの日か、最後の一枚が投じられ、原稿がトレーの中を満たしたとき、
あなたの物語はどれほどの厚みを持つのでしょう。
その原稿に目を通した読者は、学び、胸打たれ、感動し、励まされ、
エンディングのラストシーン
に涙してくれるでしょうか。
――別の言い方というのは、まあこんな感じです。
言葉自体は元からあるものですが、その定義が違います。
同じ言葉でも、こうして再定義すると、
何だかとても美しいもののように思えてきませんか?
このことを踏まえて考えると、
年を 「食う」
ということは、
暴飲暴食で大量の“まずい時間”を食いつぶすだけの
「 大食家
(グラトン)」 であってはならない
わけです。
どのみち、毎年食べなくてはならないのですから、
どうせだったら、おいしいものを食べましょう。
成功者というのは、人生において“おいしい時間”ばかりを食べてきた、
まさしく 時間の「美食家
(グルメ) 」
であるともいえます。
特に アンドリュー・カーネギー
や ナポレオン・ヒル
、 松下幸之助
なんかは、
“おいしい時間”をたらふく平らげた「 美味しんぼ
(グルマン)」です。
時間の味わい方に関していうなら、 北大路魯山人
といい勝負です。
だから時間は、お茶漬けや重湯(おもゆ)のように
サラサラと流し込んではダメ
なのですよ。
また、 おなかが膨れるほどに詰め込んでもダメ
なのです。
少し歯ごたえのあるものを、ゆっくりと、よくかんで、
じっくり味わいましょう。かみしめているうちに、やがて、
じんわりと素材の甘みや旨みが引き出されてきます。
そうです。
正しい「年の食い方」とは、
ゆっくりと味わうように年齢を経ていく
ものなのです。
どんなに生き急いでも、
夢を哀れみ、肩を抱きしめてくれる人が
そばにいるとは限りません。
スローなブギを求めるなら、
等しく流れる歳月を、ともに分かち合える人がいなくては。
それは親友でも、伴侶でも、家族でもいいのです。
どのみち年を取るのなら、
日ごとに刻まれゆくシワにおびえるのではなく、美しくゆっくりと年を重ねていきたい。
最近は、そんな風に思うのです。
そうは言っても、やはり気になります、アンチエイジング。
今回はXデーを祝っていただきどうもありがとうございました。うちの家族も祝ってくれましたよ。
てなわけで、今回はこんなところで。それでは。 m(_ _)m