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手塚治虫のキャラクターグッズは今日でも大変な人気で、ダントツなのはやはり「アトム」なのだろうけれど、個人的にMizumizuが偏愛するキャラクターは子供時代のレオ。現在、手塚プロダクションは、やたらあちこちの企業とコラボして頻繁に手塚キャラクターグッズを出す。そして、そのたびに転売ヤーが現れて、フリマサイトで上乗せ販売をしている。実際のところは、そんなに儲からないグッズがほとんどなのだが、たまに2倍、3倍の値段で売れたりするせいか、何匹目かのドジョウを狙った転売ヤーは後を絶たず、本当に欲しいファンの怒りの声をSNSなどでよく目にする。「ジャングル大帝」を知らなくても、レオがかわいいと言ってグッズを買っている人も多いようだ。そう、本当にレオはかわいい。これは、いわゆる「ヘソ天」のレオ(講談社 手塚治虫漫画全集「レオちゃん」より)。猫好きがありがたがって拝むポーズだ(笑)。「うちの子」のへそ天写真を喜んでSNSにアップしている猫バカは多いが、手塚治虫は昭和40年代に、もうネコ科小動物のへそ天のかわいさを知っていたということ。ちなみに、この時代にすでに「猫ドア」をつけている家を描いていて、そこから飛び出してくるレオの動的なかわいさも一級品だ。以下は、前掲書の別場面からの抜粋なのだが…左上、上品にお辞儀をするレオは、今でもよく使われているレオの胸キュンポーズの代表例。このページには手塚治虫お得意のカメのモブ(群像)も描かれている。スタンプかなんかで押して描いたんじゃないの? と一瞬思うのだが、よくよく見ると一匹一匹、顔も甲羅模様も違う。カメの模様の多さとは対照的な白い躯体のレオのオシリ(厳密には、オシリではなく腰の一部らしいが)もふっくらと、なにげにセクシー。手塚治虫は「ぬいぐるみはオシリ」と言って、家じゅうのぬいぐるみを後ろ向きにして飾っていたそうだ。さすがは、「変態の格が違う」手塚先生。注:手塚ファンの間では、「手塚先生=ド変態」は定番の賛辞なのだ。こういう、なにげない一コマも、Mizumizuは大好き。いわゆる「ドローイング」を思わせる勢いのあるタッチで、ちゃんとカタチになっているのは、なにげに凄い。レオの黒目の位置、口の開け方、それに「つなをはなせえ」のセリフの「え」が効いている。レオは王子として生まれ、大帝と呼ぶにふさわしい大人に成長していくライオンだ。常に他の動物を従え、リーダーとしてふるまう。その強さ、賢さ、品の良さ、カッコよさが凝縮した一コマ。手塚治虫は自分でもピアノを弾くし、クラシック好きとしても有名だが、「ジャングル大帝」の名シーン、動物たちによるオーケストラシーンにも、その造詣の深さがうかがえるレオのポーズがある。面倒なので、コピぺはしないが、上掲漫画全集の「ジャングル大帝 1」の162ページ。動物たちを声の高い順にグループ分けし、指揮棒を振りながら指示を出し…「はい! コーラス」と言いながら目をつぶって、前かがみになりながら指揮棒を上から下におろす。ちなみに、コーラスといいながら、「ブーーーー」という音(笑)。次に指揮棒を下に向けて左右に素早く振りながら「うまいぞ、その調子」。それから、「はい!」と万歳に近い、のけぞるようなポーズで指揮棒を下から上後方に振り上げる。だんだんノってくる動物たち。そして両手をつかって、別のグループに指示を出す。眼は閉じたままで耳をそばだてている様子。このときはセリフはないが、その無セリフがレオのポーズを引き立てる。この少ないコマ運びの中で、「音楽」ができあがっていく様子がうまく出ている。ここでのレオの一連の動きは、まさに指揮者そのもの。作者がクラシックに詳しいことが、分かる人間には、分かる。指揮者の仕事を細かく観察しているものだなぁ…と感心する。手塚治虫…どんだけお坊ちゃまだったのでしょう。筋金入りですな。ジャングル大帝 1【電子書籍】[ 手塚治虫 ]
2024.01.31
漫画の神様のエントリーを続けていたら、タイムリーにも、「少女漫画の神様」萩尾望都がアングレーム国際漫画祭にて特別栄誉賞(Fauve d’honneur)を受賞したとのニュースが入ってきた。https://natalie.mu/comic/news/558883萩尾は「漫画に出会うことで私の人生は豊かになり、美しくなり、寛容になりました。この表現の分野が存在すること、読者や編集者、多くの方が支えてくださることに、感謝いたします」とコメント。アングレーム国際漫画祭では、過去につげ義春、浦沢直樹、池上遼一、伊藤潤二、真島ヒロらが特別栄誉賞を受賞している。正直、「今になって?」という気がしないでもないが、手塚治虫の初期作品「地底国の怪人(1948年)」英語版が2014年にアイズナー賞 国際アジア賞を獲ったということもある。これなどは翻訳編集解説を担当したライアン・ホームバーグ氏への評価でもあるから、萩尾望都のフランスでの受賞には、同じような背景があるんだろうと想像する。手塚治虫もそうだが、萩尾望都も作品発表時には必ずしもアンケートでトップを取るというような作家ではなかった。だが、トップを取った漫画の多くが時間がたてば忘れ去られるのとは対照的に、時の経過とともに、「萩尾望都、やっぱり凄いよな。天才」という評価が高まった稀有な存在ではないかと思う。手塚治虫逝去時に発行された朝日ジャーナルの「手塚治虫の世界」で巻頭カラーを飾っているのが萩尾望都の追悼漫画なのだが、その中に「手塚漫画のコマのリズムやメロディ感は先生の音楽好きからきているのかもしれない」という言葉がある。【中古】カルチャー雑誌 ≪諸芸・娯楽≫ 朝日ジャーナル1989/4/20 臨時増刊 手塚治虫の世界この「コマのリズム」「メロディ感」は萩尾望都作品にもぴったり当てはまる。手塚漫画の、主に長編の、ストーリー展開の巧みさを一番に受け継いだのが里中満智子なら、こちらの想像力を刺激するファンタスティックなセリフを含んだ、音楽的なコマ運びを受け継ぎ、独自に進化させたのが萩尾望都だといえるだろう。萩尾望都は、Mizumizuが少女漫画で唯一、豪華本を購入した作家でもある。買ったのは、「ポーの一族 プレミアムエディション」。大判なので、当時の夢幻的な萩尾タッチがかなり忠実に再現されている(やはり、漫画は小さくしてはダメ)。「トーマの心臓」「11人いる!」「残酷な神が支配する」を挙げる人もいるだろうけれど、Mizumizuにとっての萩尾望都最高傑作、および少女漫画の金字塔は、「ポーの一族」。『ポーの一族 プレミアムエディション』上巻 (書籍扱いコミックス単行本) [ 萩尾望都 ]
2024.01.29
手塚治虫はトークが非常にうまく、講演会にも引っ張りだこだった。大人向けの講演会では大人向けに話し、子供向けトークショーでは子供向けに語ることができた。書籍になって残っているものも多い。精神世界では手塚治虫の直弟子といっていい里中満智子氏も、相手によって手塚治虫の何が偉大かを語り分けることができる。漫画家やゲーム開発者など、「描く」ことを生業としたい若者に向かって同氏がよく引き合いに出すのは、手塚治虫が二次元の紙面上にもたらした視覚革命、「映画的構図」の凄さだ。その一例が以下:https://animeanime.jp/article/2015/02/21/22063_2.html「漫画界でいえば手塚治虫と、その次の世代についても同じことが言えます」。手塚治虫の最大の功績は、それまで芝居中継のようだった漫画のコマ割りに対して、映画的な構図を持ち込んだ点にあります。「それまでは定点カメラでしたが、手塚治虫は手持ちカメラを多用して、キャラクターに近寄ったり、俯瞰でとらえたり、キャラクターと一緒に舞台の上をかけまわったりしました」映画的手法と簡単に言うが、映像ならカメラを複数用意してあっちからこっちから撮ればよい話だが、漫画となると、それを一コマ一コマ描いていかなければならない。その難しさは、絵を描いたことのない人間には想像できないかもしれない。Mizumizuが、「すげーな、こりゃ」と思ったのは、低年齢層向けの漫画「レオちゃん」でのコマ運び。ここでは、走ってくるレオをまずは真正面から撮り、次に忍び足になったレオを横(のやや下)からキャッチ。次に少しだけカメラを上にずらしてレオの表情を撮り、だんだんカメラを上げながら、レオの身体の向きをコマごとに変えて撮る。次に怪鳥の脇にカメラを移動させ、近づいてきて止まったレオを斜めから撮っている。最後のコマではレオはおらず、たまごを落とす怪鳥を斜め前少し下からとらえて、落下するたまごの動きを読者が感じ取れるような構図になっている。このページでは、石投げをする類人猿を斜め下からまずとらえ(ふりあげた石がコマの枠を飛び出しているのもの効果的だ)、次は一転して、類人猿の斜め上に設置したカメラでやっつけられた敵と感謝するレオを撮り、そのままレオは移動して、洞窟の奥に設置したカメラに黒く映る。博士との会話では、レオのかわいい表情のアップ。次のコマでは背面からで、レオと博士が前進していく動きを暗示している。ちなみにここでは背景が真黒。それから、「よし!」「ぼくにまかせてください」と言いながら、拳をにぎって右手を曲げる力強いポーズのレオを、カメラを寄せて撮る(ちょこっと写っているレオの腰のふくらみもGOOD)。このページは離れて小さく撮られたレオが多いから、このポーズは非常に印象的に見えるのだ。次では一転して、かなり上方に置いたカメラで鳥の群れと大きな正方形の「何か」を見せている。これが何かというのは次のページをめくれば分かるという仕掛け。は~、すごい。一コマ一コマを、ここまで変化をつけて見せるって…カメラなら撮ればよいことだが、手で描いているんですからね、これを。どんだけ技量が高いんだ。そしてレオは果てしなくカワイイ。丸みを帯びた身体の線も、よく動く瞳をもつ目も、めちゃくちゃかわいい。それでいて、描くのが速い。線の勢いを見ても、ノンビリ描いた線ではないことが分かる。まさに神の視点、神の技。
2024.01.28
少女漫画の神様が萩尾望都なら、里中満智子は漫画界に君臨する女帝とも言える存在だ。漫画を描くだけではない、漫画家の社会的地位を高める、権利を守るといった社会的な活動でもリーダーシップを発揮している。漫画の文化的価値について、彼女ほど理路整然と語れる才媛はいない。高校生のときにすでにプロデビューし、すぐに売れっ子になるという稀有な才能の持ち主だった故に、「大学」という学歴はないが、これだけアタマのいい人にそんなものは必要ない。実際、大卒ではないが、大学の教授職も務めるというマルチぶりだ。この傑出した才能が、漫画家という職業を選ぶきっかけになったのは、やはり手塚治虫。里中満智子の凄いところは、自分がどのように手塚治虫の影響を受けたか、手塚治虫の何か凄いのかを、筋道立てて語れるところだ。機会があるごとに手塚治虫の偉大さを語る彼女は、藤子不二雄(A&F)と並んで、もっともすぐれた「手塚治虫の教え」の伝道師だ。なかでも、非常にまとまっていて素晴らしいのが以下の手塚るみ子氏との対談。https://www.asahi.co.jp/50th/satonaka.html手塚「里中さんは私の父、手塚治虫のことでいろいろお世話になっています。先日2月9日、父の十七回忌にもご出席頂きました。今日は里中さんから父、手塚治虫のことをお聞かせ頂こうと思います」里中「人生の恩師というと、やっぱり手塚先生が最大の存在です。私は運良く漫画家になりましたが、漫画家になっていなくても私の少女時代にとって一番大きな影響を与えてくれた存在として一生思い続けたと思います」手塚「一番最初にマンガと出会ったのは?」里中「昭和29年、小学校に上がったら毎月一冊少女雑誌を買ってくれることになっていて、選びに行ったんです。それで選んだのがちょうど創刊されたばかりの“なかよし”でした。それは巻頭に手塚先生の作品が載っていて、その絵が気に入ったからです。それがマンガとの最初の出会いです。でその作品が気に入って、貸本屋に行って手塚先生の作品を捜しました。そうしたらありとあらゆる本、というと大げさですが...に掲載されていました。それらをちらほら見ていてすべて気に入ってしまいました。ですから少女雑誌、少年雑誌に関わらず読みました。その中で一番気に入ったのが“鉄腕アトム”でした」手塚「いつぐらいから漫画家になろうと思ったのですか?」里中「小学6年~中学1年の時でした。それも手塚先生がきっかけです。小学4~5年の時に“子供には良い本を与える”という名目で、子供にマンガを読ませないという運動があったんです。悪い本の代表が“鉄腕アトム”でした。その理由が第1にマンガである。第2にロボットが感情を持つなどということはあり得ない。子供の科学の認識を誤る、ということでした。でも科学は想像が大事なのにと思いました。それがなければ飛行機やヘリコプターも世に無かったと思います。また大人達が与える本の中にはくだらない物が多かったんです。私にとって“鉄腕アトム”は心の肥やしでした。漫画家になろうと思ったのは世の中がマンガを滅ぼすと思ったからです。それを止めるにはマンガの味方が一人でも多い方がいいと子供心に思い、漫画家になると宣言しました」手塚「里中さんは16歳でデビューされていますが、実際に憧れの職業に就いてどうでしたか?」里中「自分の作品が初めて印刷された時に、お金があったら町中の本を買い占めたいと思ったぐらい、私はなんてヘタなんだろうと思いました。アマチュアの時はいくらでもやり直しが出来るのですが、プロになってしまうと自分の作品に責任が生じてしまいます。ですからプロになってからが苦しかったですね。でも好きなことだと苦労を苦労とは思えないんですね。それで18歳の時に出版社のパーティーで手塚治虫先生のお姿を垣間見ました」手塚「その時に初めの出会いだったのですね」里中「出会いではなくて一方的に見ただけです(笑)」手塚「初めて言葉を交わして覚えていらっしゃることはありますか?」里中「思ったよりも少し高い声をしていらっしゃるなという感じだけで、返事が出来るようになったのはそれから2年位してからです(笑)」里中「一番私が思い出に残っているのは、3時間ほど先生と二人っきりで過ごせたことです。それは大阪でのサイン会に行く時の新幹線の中でです。先生はいろいろなお話をしてくださる方で、その時は先生が新婚の時のお話ですとか...」手塚「そんなプライベートな話を...」里中「その他にもいろいろなお話をされていて、その内に“僕が本当に描きたい物は真のエロティシズムなんだ”と仰ったんです。でそれまで疑問に思っていた手塚作品の底に流れる微妙なエロティシズムの謎が解けました。それで“いつ頃描いてくださるんですか?”と聞いたら“そのうちね”と仰ったのでずっと楽しみにしていたんです」里中「先生がありとあらゆるテーマでマンガを描いていたので、後に続く作家はどんなテーマ、ジャンルで描いても良いんだと、当たり前のように思っています。良くアメリカの人に“なぜ50年ぐらいの間にマンガ文化が進んだんだ?”と聞かれます。それで説明しているのが面倒なので“我が国には手塚治虫がいたからだ”と答えています」今では、想像もできない話だが、「教育熱心な親」が漫画を燃やす…なんてことが本当に起こった時代があるのだ。里中氏のように、漫画が世間から糾弾され、憎まれていた時代のあることを知っている漫画家の証言は貴重だ。どんなテーマで漫画を描いてもいいという「自由」の根底にあるのが手塚治虫だというのも、慧眼としか言えない。皆が当たり前のこととして享受している権利は、実は手塚治虫のような先達が世間の矢面に立ち、それでも描くことをやめなかったからこそ得られたもの。こうした視点をキチンと指摘できる存在のあることは、手塚治虫という個人にとっても、漫画界全体にとっても、日本の文化にとっても、とてつもなく大きい。
2024.01.26
やはり焼失していたか…「誰かが持ち出してくれたかもしれない」――その希望は、読売新聞の「輪島出身の永井豪さんが義援金2000万円…焼失した原画「自分が生きていれば復活できる」という記事を見て打ち砕かれた。輪島の朝市一帯を襲った火災によって永井豪記念館が焼失。直筆原稿など計11作品109点、フィギュアなど立体物25点も焼失したとみられるとのこと。永井氏自身は「自分が生きていれば、(描き直すことで)復活させることができると思っている」と非常に前向きに語っている。本人が一番残念だろうに、永井豪は本当によくできた人だなぁ。確かに失われた作品を作った本人が存命だというのは非常に幸運なことではあるが、いくら本人とはいえ、30代に描いたものと70代で描き直したものは、同じではない。技術的に見ても、同一人物とはいえないぐらい違ってしまっているだろう。作品というのは、それが絵であれ文であれ、「その時」の作者を映すもので、その時描いたものは、その時にしか描けないものなのだ。それは手塚治虫の「新宝島」復刻版にも見える話だ。優れた漫画家の直筆原稿は、いまや日本を代表する芸術作品と言っていい、従ってその保存は個人や市町村レベルではなく、国が行うべきだという立場のMizumizuからすれば、今回の永井豪氏の原画焼失は、「こういうことが起こるからこそ」の事例になってしまった。永井豪氏の「人となり」は、今回の震災についてのコメントにもよくあらわれていると思うが、Mizumizuが氏の、さわやかで、しかも志の高い「人となり」に触れたのは、有名な「ブラック・ジャック創作秘話」を読んだ時だ。この「手塚先生の凄い一面」を知りたい方は、「ブラック・ジャック創作秘話」を読んでいただくとして、永井豪は「自分にとっての手塚治虫」を、次のようにまとめている。「4歳の時、初めて読んだ『ロストワールド』以来、全部好き」「僕は手塚先生の孫弟子だと思っています」「作風だけじゃなく生涯現役だったその姿勢もまねたいものです」。かつて一世を風靡した一流漫画家のほとんどが、「手塚作品を読んで漫画家を志した」と言っている。個人的には、永井豪までが、とは思わなかった。というのは、Mizumizuは永井豪作品をよく知らないのだ。漫画はまったく読んだことがない。アニメで作品やキャラクターを知っているだけで、そもそも絵柄をまったく受け付けられない。これはほとんど「生理的にダメ」の域の話で、永井氏には何の責任もない。あの絵がイイ、あの絵があったればこそ、というファンが多かったからこそ、記念館までできる漫画家になったのだ。漫画というのは、実はこれがネックだと思っている。どんなにうまい歌手でも受け付けない声質だと、聞く気になれない。それに似て、どれほど発行部数をのばしていようが、漫画通が「天才だ、天才だ」と称賛していようが、絵がダメだと読む気になれない。だが、そういう自分の好みとは別に、「国が原画を保存するに値する漫画家」は、いる。Mizumizuにとって永井豪が、まさにそれなのだ。追記:その後のニュースで永井豪の原画・フィギュアとも焼失していなかったと報道がありました。https://article.auone.jp/detail/1/5/9/266_9_r_20240125_1706185991840223奇跡!石川県輪島の永井豪記念館「原画およびフィギュアは消失せず現存」永井豪氏が発表「建設時の耐火対策が奏功」
2024.01.25
今度はこのような記事が出た。手塚治虫『新選組』なぜドラマ化? 萩尾望都も影響を受けた、知られざる“時代劇短編”の内容秋田書店の『手塚治虫全史』の解説によると、『新選組』は手塚が正統派の時代劇を意図して描いた作品なのだという。連載が始まった1963年は、新選組の前身である浪士組結成からちょうど100年目であったが、当時は今のような新選組の人気も知名度はなかった。そのせいか、雑誌では思ったような人気を得ることができず、打ち切りに追い込まれた不遇の作品であったとされる。だが、漫画好きの間では当時から評価が高かったようだ。漫画界の巨匠・萩尾望都も高校2年生の時にお年玉で『新選組』の単行本を買って深い感銘を受け、漫画家を志すきっかけになったと語っている。2022年に山崎潤子が手塚治虫公式サイト「虫ん坊」で行ったインタビューで、萩尾が当時の衝撃を語っている。いくつか印象的なコメントを引用しておこう。「そのときの自分の心情に何かこう、ストーリーがフィットしたのでしょうね。ものすごくのめり込んでしまって、1週間くらいずっーと、この漫画のことを考えていた」「進路やら何やらで、悩んでいた(注略)そんなときに、『新選組』に出会って、頭から離れなくなった。そして『こんなにもひとつの物語が人にショックを与えるものなのか』と感動しました」「人間には『やられたことをやり返す』という癖があるんです。だから、私も誰かにショックを与えたいと思ったわけです(笑)」萩尾望都はMizumizuが最も偉大だと思う少女漫画家だ。もちろん、ほかにも偉大な少女漫画家はいる(それについてはまた後日)。だが、萩尾望都は、その抒情性、幻想性、哲学性で少女漫画を芸術の域にまで高めた第一人者。独特のストーリー展開と作画の美麗さは、他者の追随を許さない。いつしか彼女が「少女漫画の神様」と称えられるようになったというのは、Mizumizuにとってはわが意を得たりといったところなのだ。萩尾望都が『新選組』を読んで漫画家を志したという話をMizumizuが知ったのは、浦沢直樹が自作『PLUTO』のアニメ配信にあわせて手塚治虫の天才ぶりについて萩尾望都らのゲストとともに語っている番組を見てのことで、ごく最近の出来事だ。萩尾望都は番組中、「(手塚先生)のセリフでこちらの妄想がぐるぐる広がっていく。でも、そのセリフって実はたった2行なんですよね」といったような発言をし、その発言にかぶせるように映ったのは『新選組』の一コマ。まさに2行だけのセリフだった。この発言にMizumizuは、文字どおり「ショック」を受けた。というのは、ストーリーが追うのが面白くて読んでいた漫画の、たった2行のセリフが、例えは悪いが「原爆の熱線」のように強烈に心に焼き付き、時間がたってストーリーを忘れても、そのセリフだけがいつまでも消えずに、やがてもとの作品の展開を離れた、妄想の別のストーリーを自分の中で作ってしまうという経験を、たった2度だけしたことがあるのだ。それが、手塚治虫と萩尾望都の漫画。もう両作品とも題名すら覚えていないが、2つとも読み切りだった(と思う)。手塚作品を読んだのはラーメン屋(苦笑)。大人向けのコミック雑誌で、今なら、いわゆる「手塚ノワール」に分類されるだろう救いのない結末だった(と思う)。おそらくどーしようもない悪女だった(と思う)女主人公が、風にさらされながら、つぶやく。「寒いわ。吹き飛ばされそう」そこで物語は唐突に終わっていた。萩尾作品のほうは、妄想でストーリーを違って解釈している可能性は高いが、いわゆる「サイコパス」の少女の罪と罰を幻想的に描いた作品だった(と思う)。もちろんサイコパスなんて言葉が世間一般に知られるより、ずっとずっと前のことだ。「罪ってなに? 私だけが悪いんじゃないわ」このたった2行のセリフ。いや、実は、本当はもうちょっと違う言い回しだったかもれない。自らの悪行をそうと認識できない少女のたどる、幸福とはほど遠い人生の結末。身勝手な主人公なのだから、ある意味勧善懲悪的なカタルシスを得ることも可能なはず。あるいは、「何言ってんだよ、コイツ」と単純に読み捨て、そのまま忘れる人も多いだろう短編。だが、Mizumizuがこの2作品の「たった2行のセリフ」から受け取ったものは、そのどちらでもなかった。作品に忍ばせてある世の中の不条理に視点を向けて考えたとき、認めたくない共感が自分の中に広がっているのに気づく。そう、誰しもが自分の中に強烈な悪をもっている。そして、生きている限り逃れられない「孤独」というものが、この世にはあることに気づく。それが人間ではないか。両作品の両主人公の強烈な「孤独」が、このたった2行のセリフとなって、こちらの心に突き刺さったのだ。萩尾作品のこのセリフのあるページの絵はうっすらと記憶によみがえることがあって、Mizumizuはごく稀にだが、唐突に、「罪って何? 私だけが悪いんじゃないわ」とつぶやきたくなるときがある。おそらくそれは、何らかの妄想の世界に入っているときなのだろう。萩尾望都が手塚作品から受けた自らの感動を、「ショック」と表現しているのも秀逸だと思った。手塚作品には単なる「感動」という言葉では表現しきれないものがあるのだ。浦沢直樹は『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を読んで、「この得体の知れない切なさは何だろうと」と思ったことが『PLUTO』を描くきっかになったと話していた。手塚治虫が出たおかげで、多くの才能が漫画界に集まった。彼らは漫画を描くだけでなく、折に触れて多くのことを語り出した。手塚治虫の名声を高めたのは、こうした後進の天才たちの証言があったからという側面も大きい。そこは見逃してはいけない点だ。手塚作品を読んで、妄想が広がる――それは、分野の違うクリエーターにとっては、自分の手で「手塚作品を舞台化したい」「手塚作品をドラマ化したい」「手塚作品を実写映画にしたい」「手塚作品をアニメ化したい」という野望につながるのかもしれない。…その多くは、残念ながら失敗している、のだが。上記の手塚・萩尾2作品のタイトルをご存知の方、ぜひご教示ください。メールアドレスはmizumizu4329あっとまーく(変換してください)gmail.com2024年2月4日追記:読者よりメールいただき、くだんの手塚作品は『人間昆虫記』ではないかと。単行本で確認したところ、確かに同作品のラストシーンでしたが、セリフは記憶と若干異なっており「私…さみしいわ。…ふきとばされそう」でした。コマの構図はだいぶ記憶とは違い、雑誌で見た時は、背景はなく、女主人の上半身のアップで体を抱くようにしながら風に髪をなびかせていた…と思っていたのが、単行本では、かなり写実的なギリシア神殿のコリント式円柱の間にたたずむ主人公の全身を俯瞰でとらえたシーンになっていました。記憶違いなのか、単行本化する時に描き替えたのかは、分からず。
2024.01.21
昨日、このような記事が出た。日本漫画の貴重な原画の散逸や劣化を防ぐため、文化庁は月内に、国内を代表する漫画家が保有する原画などの実態調査や、保存方法の研究に着手することを決めた。最初に「あしたのジョー」などの作品で知られる、ちばてつやさん(85)の協力を得て調査研究を始め、他の著名な漫画家に対象を順次広げていく。今回は3月まで、ちばさんから原画などを借りて実施する。目録作成や保管状態の確認・改善を進めるほか、将来的なデジタル活用を想定し、資料の一部の数十点を対象に写真撮影や画像保存の手法を検証する。日本の漫画資料をめぐっては、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の原画が海外で高値で落札されるなど、国内外で価値が高まる一方、作者や遺族が個人的に保存しているケースが多く、散逸や海外流出の恐れが指摘されている。政府は喫緊の課題として、国による原画収集も含めた保存体制の整備を早急に進める方針だ。Mizumizuとしては、「ああ、ようやく」といった気分。というのは、世界を席巻しているといっていい、日本の漫画の影響力を見、そのルーツを鑑みるにつけ、いま真に残すべき芸術は、主に戦後の漫画原画ではないかと思うようになったからだ。その筆頭に挙げられるのはもちろん手塚治虫だろう。実はMizumizuは現在、手塚治虫にドはまり中。そのきっかけについては後日また書くことにして、手塚治虫のペンタッチの美しさに驚愕したのは、丸善 丸のノ内本店の「手塚治虫書店」コーナーに展示してあるアトムの原画を見たときだ。手塚治虫の作品展は没後すぐに美術館で行われたし、その後も多くはないが実施されている。そういった展覧会に足を運ばなかったことを後悔した(なので、2023年10月のブラック・ジャック展には行った→そして思った以上に見ごたえのある原稿をしげしげ見すぎて脱水状態になった)。里中満智子氏のように、こうした漫画家の原画の価値を訴え、その傷みやすさから国家による保存を訴えてきた漫画家もいるが、国の動きは鈍かった。それがここにきて、急展開を見せた背景には、記事にもあるように、パリで手塚漫画の原画が高額落札されたことがあるだろう。リアルタイムで報じられた記事はこちら。Une planche d'"Astro Boy" d'Osamu Tezuka fait exploser les enchères à Paris.La planche, rarissime, a été vendue 269 400 euros, soit cinq fois son montant estimé.Une planche rarissime du dessinateur de manga japonais Osamu Tezuka, représentant son célèbre petit robot "Astro Boy", a été vendue aux enchères au prix record de 269 400 euros, soit cinq fois le montant estimé, samedi à Paris, a indiqué la maison Artcurial. "C'est un record mondial pour cet artiste, dont il existe très peu de références sur le marché", a indiqué à l'AFP Eric Leroy, expert en bande dessinée chez Artcurial. Cette planche à l'encre de Chine et aquarelle, de 35 sur 25 cm, est issue du tome 4 de la série, publié en France chez Kana. Elle était estimée entre 40000 et 60000 euros. Datant de 1956-57 dans le magazine Schônen, elle était qualifiée de "pièce de musée" par la maison de ventes. "En 25 ans, c'est la première fois que j'ai (à la vente) une planche de Tezuka, le Hergé de la BD japonaise. Je n'aurais jamais cru en avoir une", a ajouté M. Leroy, selon qui "la rareté et le caractère exceptionnel" de cette œuvre expliquent le montant de la vente. L'acheteur est "un collectionneur européen qui en rêvait depuis longtemps". "Astro Boy est une œuvre emblématique, qui a bercé l'enfance de toute une génération de collectionneurs", a souligné l'expert. "Astro Boy" (ou en français "Astro, le petit robot") est l'œuvre la plus connue d'Osamu Tezuka (1928-1989) et un classique du manga. Créée au début des années 50, cette série a pour héros un petit robot redresseur de torts au physique d'enfant, grands yeux rieurs, houppette brune et bottines rouges capables de se transformer en réacteurs.La planche, qui comporte six cases, le met en scène en train de combattre un méchant. Astro a fait l'objet de plusieurs séries de dessins animés à la télévision, dont l'une a été diffusée dans le monde entier dans les années 80.La planche de Tezuka a donné lieu à la plus haute enchère de la vente. Parmi les autres lots cédés samedi figurait une planche d'Albert Uderzo extraite de La galère d'Obélix, partie au prix de 123500 euros (elle était estimée entre 100000 et 130000 euros). (訳したい人はDeepLで検索してコピペして訳してください。まぁまぁの訳が出ます――ちなみに、Hergéとは、ベルギーの漫画家。彼の作品「タンタン アメリカへ」の扉絵は2012年に133万8509.2ユーロという破格の値段で落札されている)。どうしても日本という国は「海外で評価」されないと、自国芸術の価値が分からないようだ。漫画は大衆のための娯楽であって芸術ではないと言う関係者もいるが、ホンモノの芸術はそうやって大衆の中から生まれるのだ。権力による保護もなく、ただ、名もない人々がひとり、またひとりと評価し、観客(読者)が集まり、名声が広がるうち、レベルが上がり、やがて作者自身も気づかなかった高みへと昇る。日本の漫画がまさにそれ。そして、その種をまいたのが、もう30年以上も前に亡くなった一人の超人的な漫画家、天才の名をほしいままにする「手塚治虫」なのだ。手塚治虫没後の回顧展にも行かなかったことが示すように、Mizumizuは決して同時代的な意味で手塚治虫の熱心な読者ではなかった。むしろ、Mizumizuが読んでいた作家や漫画家が「手塚治虫、手塚治虫」というので、「凄い人なんだなあ」と読むともしれず知っていたという感じ。それがコロナ禍もあって外出ができにくくなり、読み始めてどんどんハマってしまった。なにしろ図書館にかなりの蔵書があるので手が出しやすい。読んでいて単純におもしろい、深い、ということもあるが、「なぜ自分は手塚漫画にハマるのか」を追求するのも実はなかなかに楽しかった。手塚治虫研究、手塚治虫関連本はMizumizuが知らなかっただけで実に多いし、図書館でも借りることができる。そういった周辺本を読んでみると、「なぜ」の答えも少しずつ見えてきた。それについても書いてみようかと思う。
2024.01.19
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