坂名の由来については,あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』),かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』),などの諸説がある。 江戸時代,坂周辺は武家地であった。 この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ,江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。と書かれていました。
新宿区指定史跡
所在地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂・鼠坂上
指定年月日 昭和六十年十一月一日
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(一六七二)二月三日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
事件の発端は、寛文八年(一六六八)三月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文十二年(一六七二)二月三日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢四十二名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり六年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。
平成三年一月
東京都新宿区教育委員会
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