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ゴールデンウィークの陽気に誘われて、栃木県栃木市にある太平山神社(おおひらさんじんじゃ)(→→→こちら)に参拝してきました。大平山神社の駐車場から見えた関東平野です。関東平野の北縁にある太平山は、標高341メートルの低山でありながら、多分、山頂まで登れば、関東平野が一望できる山です。太平山神社は、平安時代、天長4年(827)、慈覚大師(円仁)により創建されたといわれ、武門をはじめ多くの人から信仰を集め、特に徳川将軍家の信仰が極めてあつかった神社です。瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神を祀っているそうですが、聖徳太子も祀られているんですね。社殿、拝殿も多く立ち並んでいて、沢山の神様が祀られているんでしょうね。こちらが、本殿です。本殿の前にある石を撫でてから皆さん参拝されるようです。この撫で石を撫でることにより災厄を祓い、霊験を得るという信仰があるそうです。霞んでいてわかりにくいですが、本殿の前から正面に、筑波山が望めました。人気ブログランキング北関東の旅、栃木県栃木市太平山神社
2024年05月05日
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久木大池から逗子駅に向かって歩きます。こちらの建物は、久木中学校です。久木神社というこのあたりの鎮守神社になるのでしょう。なかなか大きな神社でした。このトンネルを抜けて逗子駅に向かいます。右から「久木隧道」と記された銘板がありました。隧道(ずいどう)というのはトンネルの古い呼び方だそうです。この久木トンネルは昭和16年(1941年)に開削されたそうです。当時の逗子町久木地区に横須賀海軍工廠のための工員寄宿舎群が大規模に建設されたため、工員の通勤の便を図るため、横須賀線逗子駅への近道として開削されたそうです。古いトンネルなので、幅員は狭く、歩行者用に路側帯がありますが、そこにはみ出して行き違える車も多いかもしれません。トンネルの入口に埋め込まれた銘板には、「皇紀二千六百年 工事請負人 山口清造」と記されています。トンネルを抜けてしばらく歩くと、横須賀線の逗子駅が見えてきました。踏切を渡って、駅の東口にでて、帰りは、総武横須賀線に乗って帰りました。(逗子市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング逗子を歩く(その13) 久木トンネル
2024年04月19日
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久木大池公園に着きました。公園の中の鬱蒼とした木々の中を下って行くと、久木大池が見えてきました。この池は農業用のため池として造られたそうです。以前はこの池から逗子駅にかけての低地には多くの農地が広がっていたんでしょうね。池の周りの森で、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と、四季折々の風景を楽しめる公園になっているんでしょうね。久木大池から流れる久木川沿いにも遊歩道が整備されていました。さらに久木川の下流になりますが、池の大きさから考えるとこの河幅は狭いので、おそらく洪水対策として暗渠がこの下に埋められているのでしょうか。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その12) 久木大池公園
2024年04月18日
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関東の冨士見百景は「鎌倉逗子ハイランド(→→→こちら)」という住宅街の西端にあります。この住宅街の中を通って次の目的地、檜佐木大池公園に向かいます。「鎌倉逗子ハイランド」は昭和30年代、逗子市久木と鎌倉市浄明寺とが接する山上を大規模に宅地開発したところで、見事な桜並木の続く住宅街として有名なようです(→→→こちら)。訪れた3月10日は、まだまだ桜の開花には早い所ですが、中には早咲きの桜がありました。もう花盛りといった感じですね。こちらは赤みが強い桜ですね。寒緋桜かなと思いました。昭和30年代から開発が始まったというこの住宅地、なかなかの豪邸が立ち並んでいました。少子高齢化の現在、この公園で遊ぶ子供の姿はありませんでしたが、でもこの住宅地が開発されて分譲された頃は、この公園で遊ぶ子供たちも多かったんでしょうね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その11) 鎌倉逗子ハイランド
2024年04月17日
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名越切通の道はやはり古くからの道なのでしょうね。道端にこのような小さなお稲荷様が祀られていました。また、可愛いお地蔵様もありました。このようなものに道中の安全を願ったのでしょうね。MoMo太郎も道中の無事を願って手を合わせました。ようやくアスファルト舗装された道に出ました。舗装されていない山道もいいですが、やはりこういう舗装された道に来ると安心しますね。ここから再び富士山が美しく見える絶景スポットに出てきました。平成17年(2005年)に国土交通省関東地方整備局が主催して選定された「関東の冨士見百景」(→→→こちら)だそうです。百景といいながら128ヶ所の映えスポットが選定されているそうです。ここからの富士山も見事ですね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その10) 関東の冨士見百景
2024年04月16日
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ここにも名越切通の説明板がありました。この説明板には、名越切通について、日本語、中国語、英語、そして韓国語で説明されていました。国際的な観光地の鎌倉・逗子のことだけはありますね。また山道をしばらく歩いていくと、名越切通の第三切通に差し掛かりました。この切通を過ぎると道が二つに分かれていましたが、道標の示す大切岸の方へ向かいます。この道を過ぎて歩いていると、きれいな和服姿で草履で歩いている女性に出会い、挨拶されましたが、ちょっと不思議な方でした。平成31年2月1日に建立された新しい名越切通と刻まれた石碑がありました。そして、逗子市側の山の斜面に出ると、ここからは、逗子の町並みが見えました。逗子市教育委員会が設置した「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)(→→→こちら)」の説明板がありました。この切り立ったた断崖が「お猿畠の大切岸」です。長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし、平成14年度(2002年)に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されたそうです。鎌倉では、ここに見られるような「鎌倉石」と呼ばれる凝灰質砂岩の大規模な切出しが行われて丘陵部における平坦地が造成され、同時に切出したこれらの岩を破砕して道路の舗装材に使用したり、切石にして建築物の基礎や側溝の護岸・井戸枠などの建材に使用したりしていたそうです。、しかしながら、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断はしていないようで、「吾妻鏡」の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていることから、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れませんね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その9) お猿畠の大切岸
2024年04月15日
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名越切通にあった道標です。次は、道標に書いてあった「まんだら堂やぐら群」(→→→こちら)に向かいます。また切通しがありました。これが第二切通になります。まんだら堂やぐら群と書いた標識がありました。「やぐら」とは、鎌倉のそこここに見られる、切り立った岩肌にぽっかり空いた洞穴のことで、中世の墳墓だそうです。三方を山に囲まれ平地の少ない鎌倉で、やぐらは平地面積を削らずにできた唯一の墓ということになります。まんだら堂やぐら群は、例年、初夏と秋・冬それぞれ1ヶ月程度の期間の、土・日・月曜日と祝日のみ公開されているようで、訪れた2024年3月10日は公開の碑ではなく、門扉が閉ざされていて中へ入ることはできませんでした。門扉の鉄格子の隙間から中を撮影してみました。奥には150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、おそらく手前の平場には「やぐら堂」と呼ばれる建物が建っていたのでしょう。これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重な遺跡だそうです。やぐらの中に並ぶ五輪塔は火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものなのでしょうね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その8) まんだら堂やぐら群
2024年04月14日
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名越切通に向かって再び山道を歩きました。「名越切通」(→→→こちら)についての説明板がありました。名越切通は鎌倉時代に整備された「鎌倉七口(鎌倉に入るために開削された切通し)」のひとつで、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路として、明治時代まで使われていたもので最も狭い部分の幅は約0.9mになっているそうです。しかし、発掘調査によると、かつては3m近くあったが、地震で崖が崩れて狭まったことがわかっているそうです。現在の名越切通には三ヶ所の切通が残っていて、MoMo太郎が入ってきた逗子市の亀ケ岡団地側に近い方からそれぞれ第一切通、第二切通、第三切通と呼ばれています。こちらはその第一切通になります。「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われているそうです。この第一切通がもっとも大きく深く切り立っています。切通が造られたのは、鎌倉を囲む山の岩盤は柔らかく掘りやすいためだと言われています。切通し露出した岩は、おそらく凝灰質の岩だとおもわれます。鎌倉に分布する地層は、約700万~200万年前に、この海溝よりも陸側の海底斜面に、陸から流れ込んだ土砂や火山噴出物が堆積してできたものです。この地層が、海洋プレートの強い圧力で陸側に押し付けられ、隆起したと考えられています。鎌倉の地層には、砂や泥に、火山灰や火山礫が混じった「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」や「凝灰質泥岩(でいがん)」が広く分布しているそうです。この岩も凝灰質砂岩なのでしょうか。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その7) 名越切通
2024年04月13日
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披露山公園の次は名越切通に向かいます。今度はまた山を下りますが、その道の途中からも江の島と富士山の姿が望めます。逗子市と鎌倉市の丘陵に広がる住宅団地です。こういう山を切り開いた所に住むには、坂道の上り下りで足腰が鍛えられていいかもしれませんね。披露山公園から下ってきた道です。本当はこちらが披露山公園の一般向けの入口なんですね。いったん下ってきましたが、また登り坂が始まりました。なかなかのきれいな住宅街の中を歩きました。住宅街の道、碁盤の目のようになっていのですが、ちょっと道が合っているかどうかよくわからなかったので、住宅案内図で行き先を確認しました。そして、住宅街が終わるところで、国指定史跡名越切通(→→→こちら)の入口になります。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その6) 住宅街の中を歩く
2024年04月12日
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逗子にある披露山の山頂(標高92m)に向かって山道を歩いて行きました。今回はこのような山道を歩くと想定してトレッキングシューズを履いてきて正解でした。山道の途中で振り返ると逗子海岸が眼下に広がり、山道を登ってきた甲斐がありました。「披露山」には、古墳時代末期ごろからは古東海道が通り、古くから交通の要衝で、鎌倉時代には有力御家人が別邸を構えたと言われています。また、その名前の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの説があるそうです(→→→こちら)。しかし、手下の武士たちに山道を登らせて、山の上に呼んで、貢ぎ物をみんなに見せるとは、源頼朝もとんだパワハラ野郎ですよね。そして、山頂近くまで登ると、駐車場があり、次回来る時はクルマで来ようと思いました。山頂は披露山公園(→→→こちら)として整備され、逗子市全景、江の島、相模湾の海岸線、富士山などを一望できる公園となっています。これが披露山公園の案内図です。ここでは、ニホンザルを飼育している猿舎、ミニ動物園、展望台そしてレストハウスなどの施設が揃っていますよ。披露山公園は、戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた鉄筋コンクリート製の円形砲座3基と、同じく鉄筋コンクリート製の半地下式の指揮所があったそうです。そして、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用されて、指揮所跡にはレストハウスが設けられているそうです。手前の円形の花壇と奥に見える展望台がその砲台の跡に設けられたものでしよう。こちらは砲台跡に設けられた猿舎です。ニホンザルが飼育されていました。仮に将来、この猿舎を廃止することになったら、ここで飼われていたサルは山に戻しても生きていけないでしょうし、別の動物園の猿舎へ譲渡したとしても、譲渡先のニホンザルのグループの仲間に入れてもらえるかどうか難しいでしょうね。展望台からは相模湾の眺望を満喫できます。江の島と富士山です。折角の眺め、もっと上手く撮影できるようになりたいです。こちらがミニ動物園。カメ達がのんびりと日向ぼっこしていました。こちらはモルモット。クジャクも飼われていました。どの動物の写真も雑な撮影ですみません。こちらが指揮所跡にできたレストハウスです。さて、披露山公園の駐車場にあったこの石碑は、「尾崎行雄記念碑」です。碑文は「 人生の本舞台は常に将来にあり」と記されています。この碑文、10代、20代の若い人なら心に響くかもしれませんね。こちらには尾崎行雄(→→→こちら)記念碑についての説明が書かれていました。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄は、昭和2年(1927年)70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えます。そして、終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れたのだとか。昭和29年10月に、この地で95歳の天寿を全うしたそうです。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その5) 披露山公園
2024年04月11日
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逗子海岸を西の端まで歩くと、山の斜面に建てられたお寺があります。その下にある小さな公園にあった「蘆花之故地」という木製の記念碑がありました。揮毫は、字が薄くなり見えにくくなっていましたが。文学博士藤原楚水という方のようでした。記念碑の裏面には、徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてりました。明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて蘆花は逗子に居住し、「不如帰」、「青山白雲」、「自然と人生」、「思ひ出の記」等の作品を書いたそうです。不如帰(帰るに如しかず)つまり「かえりたい」と書いて「ホトトギス」と読むのは、古代中国の蜀の望帝・杜宇が、家来の妻と不貞を働いたために退位させられます。望帝は不徳を恥じ国を逃れたものの、その後復位を望みますが叶わずに亡くなり、ホトトギスに姿を変えて「不如帰(かえりたい)」と泣いたという故事に由来するそうです。それから、「ホトトギス」が望郷の念を募らせる鳥となったようで、蘆花の小説「不如帰」も海軍少尉の武男とその妻で結核で亡くなった浪子の物語ですから、不如帰というタイトルは、上手くつけられたものですね。石段を登っていくと、斜面にあったお寺は「浪子不動高養寺」(→→→こちら)というそうです。高養寺は、元々は「白滝不動」「小滝不動」「浪切不動」と呼ばれていた漁師の守護仏であっそうですが、明治時代、逗子が徳冨蘆花の小説「不如帰」(→→→こちら)の舞台となり、ヒロインの「浪子」から「浪子不動」と呼ばれるようになったそうです。「高養寺」という名称も、昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めたそうです。境内の隅に二つの説明板がありました。MoMo太郎と同じ駅からハイキングの参加者のお姉さんが熱心に読まれていました。「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」の説明がありました。浪子不動の下にある海岸は、7000年前の縄文時代から少しずつ波によって岩盤が削られ、こうしてできた海底の岩礁が地震で隆起したものらしいです。そして、MoMo太郎は見落としていたのですが、この「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」によれば、徳富蘆花の兄蘇峰の筆で不如帰と刻まれた石柱が葛ヶ浜の隆起海食台の上に立っているそうです。その「不如帰の碑」の写真はこのリンク先(→→→こちら)を見て下さい。この石碑は海中に建てられていますが、干潮時には碑の傍まで歩いていくことができるそうです。そして、つぎの目的地の披露山公園に向かって、この山道を登って行きます。註)下に添付しているGoogleの地図では、この山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。また名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その4) 「蘆花之故地の碑」と浪子不動
2024年04月10日
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逗子海岸にやって来ました。富士山が見えるなかなかの映えスポットです。訪れた時期は3月10日で、富士山はまだ雪に覆われていましたが、逗子からこんなに近くに富士山が見えるとは思ってもみなかったです。逗子海岸には「太陽の季節」文学記念碑がありました。作家であり政治家でもあった石原慎太郎(1932-2022)が昭和30年(1955年)に発表したデビュー作「太陽の季節」の芥川賞受賞50周年を記念して立てられたもので、岡本太郎制作の「若い太陽」のオブジェが付けられた碑には「太陽の季節ここに始まる」と刻まれています。「太陽の季節」(→→→こちら)は、昭和31年(1956年)には日活から映画化され、この逗子市や三浦市で撮影されていました。また作者の石原慎太郎も逗子に居住していたそうですね。逗子海岸(→→→こちら)は遠浅の海岸で逗子海水浴場としても知られていますが、まだここで泳ぐには早すぎるようでした。でも、多くの人がウインド・サーフィンを楽しんでいました。また、沖合にはヨットも出ていて、マリンスポーツのメッカなんですね。波も穏やかですね。細砂で、貝殻や砂利や泥が少ない砂浜の波打ち際は散歩にも最適ですね。ちなみに足腰を鍛えたい方は、乾いた砂浜を歩かれた方が、いいかも。足が砂にめり込んで、結構、脚にきますよ。大型犬を連れて散歩されている姿も、なんとなく優雅な感じがしますね。しかし、このワンちゃん達が砂浜でオシッコやウンチするとしたら、砂浜で海水浴して砂遊びというのもなんとなく衛生的には問題があるのかな?【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その3) 「太陽の季節」記念文学碑と逗子海岸
2024年04月08日
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さて、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のスタートです。まずは逗子と言えば海。逗子海岸に向かって歩きます。逗子駅から「逗子銀座通り」という通りを歩いていきました。銀座という名前の付く商店街って全国にあるんですね。この川を渡ります。田越川という川でした。この河口が逗子海岸になります。赤く塗られたこの橋は冨士見橋というそうです。京都の五条大橋を模して架けられたのだとか(→→→こちら)かってここには養神亭(→→→こちら)という旅館があり、養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味だったそうです。なかなか有名な旅館だったらしく、ここで、徳冨蘆花が「不如帰」という作品を執筆したり、大正天皇の病状の悪化が伝えられると、発足したばかりの若槻内閣の閣僚が養神亭に宿泊し、その結果養神亭に内閣を引越しさせることを閣議決定したそうです。また、冨士見橋からは文字通り富士山が見えたそうです。その養神亭は、現在は廃業しており、その跡地には渚マリーナというヨット、モーターボートなどのプレジャーボート類を係留・保管する施設になっています。このマリーナは、2006年神奈川県が行う不法係留船対策の一環として整備されたそうです。このクレーンを使って船が田越川に降ろされて、いまから出港しようというところでしょうか。マリーナの向こうには富士山の姿が見えています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その2) 逗子海岸へ向かって
2024年04月07日
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2024年3月10日、やって来ました高輪ゲートウエイ駅。令和2年(2020年)3月14日に開業した新しい駅です。この駅で降りて、そして、京浜急行の泉岳寺駅へ行きました。泉岳寺駅は、昭和43年(1968年)開業の駅で、都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、京急本線の東京都側の終点になります。ここから京浜急行の三崎口行特急に乗りました。ここで昭和5年(1930年)開業の金沢文庫駅で、逗子・葉山行の逗子線の急行に乗り換えました。そして京浜急行逗子線の終着駅、逗子・葉山駅にやって来ました。令和2年(2020年)3月14日に駅名を「新逗子」から「逗子・葉山」に改称されたためため、旧駅名の「新逗子」が副駅名として添えられています。ちなみにこの駅も開業は昭和5年(1930年)になっています。ところで、逗子の「逗」のしんにょうの点の数が一点ではなく二点になっていますね。「しんにょう」にはこのように「一点しんにょう」と「二点しんにょう」というものが二つあるそうです。それは、戦前の印刷文字では,点二つの「しんにゅう」が一般的でした。戦後,昭和21年に「当用漢字表」が内閣告示として実施され,一般社会で用いる漢字の範囲として1850字が定められます。さらに,昭和24年に「当用漢字字体表」が定められ,当用漢字表の1850字の字体が決定されました。その際,「しんにゅう」の漢字は,点一つに統一されたのです。一方,当用漢字表に入っていない漢字の印刷文字は,原則として点二つのまま用いられてきたからだそうです。(→→→こちらさて、その後日本語のワードプロセッサー(ワープロ)が開発され普及しはじめると。ワープロなどの情報機器にはJISコードの漢字が搭載されました。このJISでは当用漢字以外は印刷物に使われている印刷文字を優先して採用しているため、例えば「二点しんにょう」の「辻」がパソコンでは入力出来るのですが。「一点しんにょう」のは異字体としてしか入力できません。全国の「一点しんにょう」の辻さんお困りかもしれませんね。こちら逗子・葉山駅の南出口です。円形の屋根がちょっと凝っていますね。逗子までやってきたのは、JR東日本が催行している、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」に参加するためなので、京浜急行の逗子・葉山駅からJRの逗子駅に行って、参加の登録をしました。ちなみにJRの逗子駅の開業は、明治22年(1889年)です。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その1) 高輪ゲートウェイ駅から逗子葉山駅へ
2024年04月06日
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土浦城の本丸と二の丸の一部が亀城公園(きじょうこうえん)として整備されています。このように園内には堀も残されています。芝生の広場もあり、ゲートボールを楽しむ人たちのもいました。江戸時代の頃の庭園の跡なのでしょうか、池もあり、噴水や四阿も整備されていました。また、この銅像は、明治から昭和期の実業家、政治家であった原脩次郎拓(→→→こちら)という方の銅像でした。この方は京都府の出身でしたが、妻の実家のある茨城県から衆議院議員に立候補し拓務大臣、鉄道大臣を務めた方だそうです。こちらの石碑らしいものは、土浦出身の劇作家、随筆家である高田保(→→→こちら)の句碑だそうです。作品は青空文庫にも収録されています(→→→こちら)写真では上手く撮影できませんでしたが、「あの花も この花もみな 春の風」という句が刻まれているそうです。こちらの石塔は、「忠魂」と刻まれているところを見ると戦没者の慰霊塔でしょう。こちらの建物は隣接して建てられている土浦市立博物館(→→→こちら)です。ちなみに、亀城公園へ自動車で行った場合は、この博物館の駐車場に止めると便利でした。人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その2)
2024年03月31日
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2023年の「魅力度ランキング」最下位の茨城県にある土浦市にやって来ました。ちなみに茨城県は、民間調査会社「ブランド総合研究所」が、2009年にランキングの発表を始めてから、最下位となるのは12度目となるそうです。さて、土浦市ですが、江戸時代は土浦藩の城下町として栄え、近代になっては、南に隣接する稲敷郡阿見町に海軍の飛行場があったことから、海軍の町として栄え、戦後は、土浦駅西口(市中心部)に京成百貨店、丸井、西友、イトーヨーカドーなどの百貨店や大型店舗が立地するなど商都として発展を遂げていましたが、筑波研究学園都市の開発などでそれらの商業施設は、土浦駅前から相次いで撤退しています。それでも、茨城県南地域の行政の中心的な役割を担っている町ではあります。ということで土浦城址にやってきました。土浦城跡及び櫓門が茨城県指定史跡となっています。お堀も残っていて、本格的な城址の雰囲気ですね。土浦城は、霞ヶ浦近くの低地に位置し、水を何重にもめぐらせた平城であったため水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)とも呼ばれており、本丸と二の丸の一部を整備した公園は亀城公園として整備されています。そして、土浦城址の亀城公園は入場無料です。こちらが亀城公園内にあった土浦城の説明板です。本丸跡になります。こちらは東櫓といって、土浦城に残る遺構の一つとして復元整備されたものです。亀城公園に隣接する土浦市立博物館(→→→こちら)の別館ということで、中を見学するには入館料が必要となります。こちらも復元整備された西櫓です。東櫓も西櫓も、土塁の上に建っているのが特徴です。昭和24年(1949年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、昭和25年(1950年)に復元するという条件つきで解体されたました。そして、ようやく平成4年(1992年)に保管されていた部材を用いて復元されたそうです。こちらは太鼓櫓門、関東で唯一の現存する櫓門といわれています。二階には太鼓を置き、時を知らせたことから太鼓櫓門と呼ばれています。太鼓櫓門の前にあった「土浦城址」の石碑です。【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その1)
2024年03月30日
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北関東エリアの栃木、群馬で路線を展開している東武鉄道。この東武を利用して帰ることにしました。ということで、JR宇都宮駅から東武宇都宮駅へバスで移動しました。慣れない土地で路線バスに乗ったのですが、乗車する時、交通系ICカードが使えないと思って整理券を取ったのですが、なんとICカードが使えました。それでICカードの読み取り機にタッチして乗車し、降りる時にICカードで支払い整理券を料金箱に入れたら、運転手さんから「カードの時は整理券は要らないんで、これから整理券は取らないようにしなさい」と言われました。親切な運転手さんです。こちらが東武百貨店宇都宮店です。デパートがあるとなんか都会を感じますね。百貨店から駅に直結する通路もあると思ったのですが、宇都宮一の繁華街、オリオン通り(→→→こちら)を経由して東武宇都宮駅に行くことにしました。こういうアーケードのある大きな商店街があると、宇都宮も都会なんですね。そして、東武宇都宮駅の東口にやってきました。東武宇都宮駅の駅名標、栃木の名産品、イチゴを連想させる赤色になっいてますね。以前は伊勢崎線浅草駅 - 東武宇都宮駅間直通の準急や急行が運行されていたそうですが、今は廃止され、主に日光線南栗橋駅・新栃木駅と東武宇都宮駅間で運転される普通列車だけになりました。新栃木で特急列車に乗り換えても浅草までは2時間近くかかるので、東京方面に行くのには特急料金不要のJR快速電車を使った方が便利で早いようですね。この東武20400型電車の各駅停車、南栗橋行に乘り東京へ帰りました。(宇都宮市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その18) 東武鉄道で帰りました
2024年03月08日
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田川を渡り、今は栃木県道125号氏家宇都宮線となっていますが、かっては国道4号線、つまり奥州街道に至りました。そこにあったのが、この大谷石の外壁と漆喰を使った外観、また商家を特徴付けるような格子のある歴史のありそうな建物です。国指定重要文化財の旧篠原家住宅(→→→こちら)だそうです。入館料は一般で100円でしたので、入館しようと思いましたが、残念ながら訪れた日は11月24日で、祝日の翌日の金曜日だったため閉館しており見学はできませんでした。篠原家は宇都宮城下の博労町(現在地)に江戸時代末期に創業した醤油醸造業を営む商家だったそうです。さらに明治期に入ると肥料業を、また太平洋戦争後には倉庫業などを営んだ宇都宮有数の豪商だったそうで、1924年(大正13年)時点では、田畑111町歩(≒110 ha)、小作人150人を抱えていたそうです。旧篠原家住宅から、5分も歩かないうちに、JRの宇都宮駅が見えてきました。宇都宮駅西口のペデストリアンデッキに建つ餃子像(→→→こちら)です。その餃子像の近くにあったモニュメントです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その17) 旧篠原住宅と宇都宮駅西口
2024年03月07日
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清巌寺から田川に架かる幸橋にやってきました。幸橋の欄干には、宇都宮の風物を紹介したレリーフが設置されていました。【梵天祭】:田川は、古来から洪水により数多くの水害が発生しました。昭和30年ごろまでは、夏になると水神様に対する信仰と感謝から、人々が梵天をかつぎ裸で川に入り、もみ渡る光景が見られました。【初市風景】:宇都宮市場は、古くから上河原にありました。江戸時代、奥州大名の参勤交代の通行に支障があるとして、寛永11年(1635年)より、年一回の初市に限ってこの地で催すこととなり、現在に至っています。川沿いの遊歩道を上流に向かってしばらく歩くと、県庁前通りの「東橋」がありました。さらに上流に歩くと、さっき訪れた宇都宮タワーが見えました。遊歩道沿いには、しだれ桜が植えられているようで、桜の季節には楽しめそうですね。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その16) 宇都宮市内を流れる田川
2024年03月06日
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押しボタン式信号機に気が付かなくて、ずっと信号が変わるのを待っていました。そして、山門を改修中のこのお寺にやって来ました。寺号碑には「浄土宗 清巌寺(せいがんじ)」(→→→こちら)と記されていました。清巌寺は建保3年(1215)に宇都宮家5代当主で鎌倉幕府の有力御家人だった宇都宮頼綱が開創した浄土宗の寺院ということです。宇都宮頼綱は1205年(元久2年)に幕府より謀反の嫌疑を受け、これを機に熊谷で隠居生活を送っていた時に熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めにより浄土宗の開祖である法然(→→→こちら)に帰依、1208年(承元2年)に出家した。さらには、京に住んで証空にも師事し、幕府から罪が許された後の1215年(建保3年)に自領である宇都宮の宿郷町に当寺の起源となった念仏堂を建立したそうです。その後、天正元年(1573)に当時の宇都宮家中で大きな力を持っていた芳賀高継が、兄である芳賀高照の菩提を弔うため念仏堂を現在の宇都宮市大通り五丁目に移し、本格的な寺院「芳宮山 高照院 清巌寺」として中興開山しています。この大きな仏像は子育地蔵尊だそうです。正徳4年(1714)に清巌寺九世の教円が衆生救済のために建立したものです。中門には山号の「芳宮山」と記された扁額がありました。こちらが、本尊である阿弥陀如来が安置されている本堂です。この「第3飛行隊戦友之碑」は旧日本軍の陸軍航空輸送部第3飛行隊(→→→こちら)の事績を残したものです。この部隊は宇都宮にあった雀宮飛行場を基地として、戦闘機の内外地への補給空輸を任務としていたようです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その15) 清巌寺
2024年03月05日
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宇都宮と言えば、「餃子の町」、今年の2月6日に公表された総務省の家計調査の結果では、1年間の1世帯あたりの餃子の購入額の結果は、1位 浜松市 4041円2位 宮崎市 3497円3位 宇都宮市 3200円4位 京都市 2661円5位 大津市 2489円となっています。ちなみにこの購入金額は「家計調査 家計収支編 第4-1表 都市階級・地方・都道府県庁所在市別1世帯当たり支出金額,購入数量及び平均価格」(→→→こちら)の二人以上の世帯の集計結果になっています。つまり、単身世帯の購入金額は評価されていない結果であることに注意が必要です。また、スーパーや惣菜店で売られている持ち帰り餃子だけで専門店で食べる餃子をはじめ飲食店のテイクアウトや冷凍餃子が含まれないません。また、自宅の手作り餃子も評価されていません。したがって家計調査の調査結果は、餃子を愛する宇都宮市民にとっては順位はどうでもいいと思っているかもしれませんね。そんな餃子の町を象徴するのが、この宇都宮の中心部にある「宮島町通り」です。昔から餃子店が立ち並ぶこの通りが2018年4月から『餃子通り』と命名されています。休日には餃子を目当てに宇都宮内外から多くの方で賑わうそうです。MoMo太郎もここで食べようと思いましたが、どの店も満員、行列が長くて、時間の都合もありここでの餃子は諦めました。餃子通りの中ほどには、こんなモニュメントもありました。宇都宮で餃子を食べるのにお勧めは、馬場通りに面したMEGAドン・キホーテ ラパーク宇都宮地下1階にある来らっせ 本店(→→→こちら)です。ここでは宇都宮餃子の人気店が一堂に会して出店しているので、人気店の餃子を一度に味わうことができます。さて、餃子と一緒に食べることも多いラーメンですが、出前も含め去年1年間にかけた外食費用では、同様に「家計調査 家計収支編 第4-1表 都市階級・地方・都道府県庁所在市別1世帯当たり支出金額,購入数量及び平均価格」によれば、1位 山形市 1万7593円2位 新潟市 1万5224円3位 仙台市 1万3074円4位 宇都宮市 1万2035円5位 富山市 1万2017円となっています。ということで、1位の山形市では、「ラーメンの聖地」を宣言し、「山ラー」の文字がデザインされた特製ののぼりやポスターを作ったり、市内のラーメン店の情報をまとめたポータルサイトを開設したりしてPRしているそうです。ただし、これも二人以上世帯を対象にした調査結果で、外食が多くなる単身世帯も含めた結果である「家計調査 家計収支編 第11表 都市階級・地方・都道府県庁所在市別1世帯当たり年間の品目別支出金額」においては、1位 仙台市 1万6341円2位 福島市 1万4306円3位 相模原市 1万4284円4位 山形市 1万3522円5位 新潟市 1万562円という結果で、ラーメンの聖地は仙台市ではないかと思う次第です。また、2人以上の世帯を集計した結果では100世帯当たりの購入頻度も集計されています。支出金額をこの購入頻度で割り算して、1回当たりのラーメンへの支出額を推計してみました。 支出金額 購入頻度 1回当たり支出額1位 山形市 1万7593円 1406 1251(円/回)2位 新潟市 1万5224円 1393 1093(円/回)3位 仙台市 1万3074円 1177 1111(円/回)4位 宇都宮市 1万2035円 1038 1159(円/回)5位 富山市 1万2017円 954 1260(円/回)ということで、山形市民の方は平均すると、1回で1200円以上は気前よく使っているというところでしょうか。加えて、ラーメンといえば、家庭で調理するために購入する、中華麺、カップ麺、即席麺もあるので、これらについても、二人以上の世帯を集計した結果によれば、中華麺は1位 盛岡市 6488円2位 山形市 6325円3位 秋田市 6309円4位 青森市 6114円5位 金沢市 5479円カップ麺1位 青森市 8361円2位 仙台市 7864円3位 大阪市 7484円4位 福島市 7065円5位 富山市 6912円即席麺1位 鳥取市 3518円2位 高知市 3216円3位 熊本市 3214円4位 山口市 3087円5位 佐賀市 3024円ということで、外食では気前よくお金を使ってラーメンを食べ、また家庭で本格的なラーメンを食べるための中華麺も購入していますが、手軽に食べられるカップ麺や即席麺は食べない家庭が多いというのが、山形市民のラーメン生活というところでしょうか。しかし、ラーメンの聖地と名乗るなら、外食の中華そば、中華麺、カップ麺、そして即席麺の4冠を達成して欲しいですね。ところで、「さくらんぼ」、「ラ・フランス」、「いも煮」、「米沢牛」、「玉こんにゃく」、「日本そば」等、他にも美味しいものが沢山ある山形県、ラーメンばかりをそんなに食べる必要もないのでしょうね。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その14) 宇都宮は餃子の町
2024年03月04日
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宇都宮の繁華街、馬場通りに面して、大きな鳥居があります。社号碑には、二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)(→→→こちら)とありますが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれるようです。式内大社とあるので、延長5年(927年)にまとめられた全国の神社一覧「延喜式」に載せられていた古くからの神社だとわかります。宇都宮市の中心部にある明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する神社ですので、この石段を登ってお参りします。95段ある石段を登り切ったところにある神門です。こちらが拝殿になります。扁額には延喜式内と書かれていて、この神社の由緒を示しています。宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄してきたんですね。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その13) 宇都宮二荒山神社
2024年03月03日
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そろそろ次の目的地に向かうために、八幡山公園を下って行きます。八幡山公園の庭園の景色もなかなかいいですね。公園を出ると、八幡山の下を抜ける塙田トンネルの出入り口がありました。「トンネル」といっても豚(トン)は、寝ていません。という親父ギャグを思い出しました。トンネルの出口の交差点にあったのはCRT栃木放送というAM波のラジオ局でした。栃木県には、漫才師「U字工事」が出演しているバラエティー番組をはじめ栃木県の話題などを放送するとちぎテレビ、というテレビ局。そしてエフエム栃木(Radio Berry)といったFM波のラジオ局があります。ちなみに、北関東三県では、群馬県には、群馬テレビ、エフエム群馬というテレビ局とFM局があります。茨城県では茨城放送というAM局しかありません。ということで、放送網の充実度では、栃木県が一枚上手ですね。さらに南向かって歩くと、高層ビルがありました。栃木県庁です。栃木県庁は地上15階 地下2の建物です(→→→こちら)。ちなみに、群馬県庁は地上33階、地下3階(→→→こちら)です。また、茨城県庁は地上25階・地下2階(→→→こちら)になりますむ。県庁の建物が高いからといっていいわけではありませんが、それにしても大きな建物で快適に県庁職員のみなさんが仕事されているんでしょうね。県庁から南へ5分も歩くと賑やかな宇都宮の中心街、馬場通りに出ました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その12) 放送局と県庁舎
2024年03月02日
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宇都宮タワーから見えた吊橋です。この橋は、アドベンチャーブリッジ(→→→こちら)と言い、日本一のモノストーム式鋼吊床版橋(補剛桁吊床版橋) だそうです。ちなみにモノストームとは、橋の下に張られている耐風索(ワイヤー)が1本であることを意味しているそうです。中央部が垂れ下がる形状は吊床版橋特有のものでしょうね。橋長は152.0m(支間長 150.0m)。高さは、約30m(市道908号線より地上高さ25m)幅員は1.5m(中央部)~4m(両端)だそうです。橋の上からは、確かに高い感じがしますね。橋から南東側には、JR宇都宮駅西側の住宅街が見えます。橋を渡り切って振り返ると、宇都宮タワーの姿が。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その11) アドベンチャーブリッジ
2024年03月01日
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宇都宮タワー(→→→こちら)に登ってみることにしました。宇都宮タワー、正式名称は八幡山公園展望塔、詳細はこの看板に書いてありましたが、宇都宮タワーの高さは89m、展望台の高さは30mです。しかし、八幡山丘陵の標高158m地点に立地しているので合わせると247mになるそうです。公園の中にあるので、展望塔というが本来の目的のような正式名称ですが、実は、かつての東京タワーと同じテレビ塔として建てられたそうです。早速、タワーに登りました。入場料はお安い。高校生以上 190円、小中学生 50円です。加えて幼児、宇都宮市内に住む小中高生と、市内の小中高校へ通う方は無料ということです。しかし、老人には割引がなくて残念かも。手軽に日本一広い関東平野が一望できるのはいいですね。ちなみに、こういう所にある望遠鏡も無料で使えるのもありがたいです。ガラス越しに撮影しているので、反射した影が映って見にくいのが申し訳ないです。眼下に見える青い吊り橋、ちょっと面白そうなので後で行ってみることにします。こちらは宇都宮競輪、周長500mと長いバンクを採用しています(400mが一般的)、そのため直線距離は長めの設計(63.3m)で、カントはかなり緩い設計(25°47´44″)になってます。こういう場合は、先行選手が不利で、競輪で最も有利ポジションである番手選手も3番手以降の選手に捲られやすい特徴(交わしの交わし)がありますよ。実力・ポジション的有利不利ではなく、地元選手や本場成績の良し悪しに注目して予想するといいそうです。遥かに見える山は、足尾山地、赤城山などだと思います。こちらの方には、多分、筑波山のある方向だと思います。関東平野の広さを感じますね。こちらの方は東京スカイツリーが見えるらしいですが、よくわかりませんでした。そして、宇都宮の市街地もよく見えますね。東北新幹線の高架橋が見えました。実は、宇都宮タワーが出来るまで、宇都宮周囲はTVの電波は東京タワーから受信していまたのですが、市街地に高層ビルが建設され、さらに東北新幹線の開通による高架の建設で受信状況が悪化することが懸念されたことから、中継局として宇都宮タワーが昭和55年(1980)に完成したとのことです。ズームして新幹線を撮影しようと思いましたが、なかなか新幹線やってこなかったので諦めました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その10) 宇都宮タワー
2024年02月29日
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次に八幡山公園(→→→こちら)に向かって、八幡山公園通りの緩やかな坂道を歩いてゆきます。途中八幡山の下を抜ける塙田トンネルが分岐していました。そして、ここから八幡山公園の入口になります。右手に見える赤い鳥居は八幡山の由来となった塙田八幡宮(→→→こちら)の鳥居です。こちらが八幡山公園の案内図です。宇都宮市の中心市街地に近いこの公園は、自然の丘陵を活かした園内に様々な施設があり、その中には宇都宮競輪場(→→→こちら)もありました。そして、この東京タワーによく似た「宇都宮タワー」(八幡山公園展望塔)もありました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その9) 八幡山公園
2024年02月28日
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宇都宮の町を西に向かって歩いて、市内を流れる田川を渡ります。田川にかかる橋の上から、東北の方角を見ると、「あれ! 東京タワー??」田川から1kmも歩かないうちに、朱塗りの大きな赤門が見えてきます。戦国大名でもあった宇都宮氏が治めた城下町であっただけに、宇都宮の町には寺院や神社が多いですね。考えてみれば、「宇都宮」氏という名前も「宮」が入っているので、元々は奥州を見据える要衝の地・宇都宮にある下野一ノ宮二荒山神社の社務職だったようです。といことで、浄土宗慈光寺(じこうじ)(→→→こちら)という寺号碑が建立されています。この立派な赤門、元あった赤門は、第二次世界大戦の時に空襲で焼失して、平成20年(2008年)に復興されたものだそうで、そのことを示す石柱も建てられていました。本堂はこの階段の上にあるので、登ってみました。石段に覆いかぶさるように伸びた大木の枝を材木で支えているんですね。こちらが慈光寺の本堂です。この慈光寺は、永正13年 (1516年)に、下野国の戦国大名であり下野宇都宮氏第17代当主である宇都宮成綱(→→→こちら)が開基したそうです。ちなみに、慈光寺は宇都宮氏の本拠である宇都宮城から北東(鬼門)の方角に位置しており、鬼門除けの役割を担っていたのだとか。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その8) 慈光寺(じこうじ)
2024年02月27日
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下野国(現在の栃木県)を22代・500年にわたり治めた宇都宮氏にゆかり寺、「河北禪林 神護山 興禅寺」(→→→こちら)の山門にやって来ました。この寺名は、宇都宮で最初の禅寺であることから、「興禅寺」となり、山号は、「神護山」、寺域を「河北禪林」と定められたそうです。山門の扁額には寺域の「河北禪林」文字が記されていました。こちらは中門(ちゅうもん)です。この興禅寺、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、赤穂浪士の討ち入りと並ぶ江戸三大仇討とも言われていた浄瑠璃坂の仇討(→→→こちら)の発端となった宇都宮興禅寺刃傷事件の起こった場所でもあります。この石像は、縛られた子供の足元でネズミがいるというので、禅僧でもあった雪舟(→→→こちら)の逸話、絵ばっかりを描いて、お経の勉強をしない幼い日の雪舟を仏堂の柱に縛りつけてお仕置きをしたところ、雪舟は床に落ちた涙を足の親指につけ、床にネズミを描いた。を示しているんでしょうかね。本堂の前にあった、宇都宮8代城主 宇都宮貞綱公・9代城主公綱公墓碑と記された石柱。この二基のお墓が宇都宮貞綱公と宇都宮公剛公の墓碑になります。こちらの興禅寺開山由来によると、興禅寺は宇都宮氏8代目当主である宇都宮貞綱が、かつて黒羽雲巌寺で第五世住職をしていた真空妙応禅師のために、1314年(正和3年)、地蔵堂があったこの地に寺院を建立して興禅寺としたのが始まりです。宇都宮貞綱はの元寇の弘安の役に、山陽、山陰の6万もの御家人を率い総大将として九州に出陣した武将で、鎌倉幕府の引付衆(→→→こちら)の一人に任じられたそうです。また、宇都宮公綱は宇都宮貞綱の次男で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれたそうです。室町時代には宇都宮氏の興隆とともに隆盛を誇りましたが、第22代当主宇都宮国綱が豊臣秀吉によって領地を剥奪されたのに伴い、この寺も一時廃寺となりました。その後、江戸時代に入って奥平家昌が宇都宮城主となるとその勧請を受けて復興されたそうです。こちらは本堂、寺額には山名の「神護山」と書かれていました。興禅寺の門前には、「北河原興禅寺開基宇都宮貞綱公」という看板があり、宇都宮貞綱の銅像が建てられていました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その7) 興禅寺(こうぜんじ)
2024年02月26日
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宇都宮にある寺院も少し訪ねてみました。こちらは「光明山 花蔵院 遍照密寺」(→→→こちら)の山門になります。花蔵院は真言宗智山派のお寺ですので、お約束の弘法大師の像があります。弘法大師とともに一歩一歩「同行二人」(→→→こちら)孤独な人生の旅路を歩いて行きましょう。こちらのご本尊は、大日如来です。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その6) 花蔵院(けぞういん)
2024年02月25日
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宇都宮駅東公園を抜けると大きな校門のある学校がありました。校名は「栃木県立宇都宮農業高等学校」(→→→こちら)でしたが、明治28年(1895)4月、当時北関東地域では初となる栃木県簡易農学校として開校。全国の農業系高等学校では4番目に古い学校になるそうです。広いグランドがあって、なかなか教育環境のいい学校ではないでしょうか。この伝統ある農業高校、今は「栃木県立宇都宮柏揚高等学校」(→→→こちら)という名前に変わっています。校名の「柏楊」(→→→こちら)とは、ポプラの木のことです。ポプラの木、この広いキャンパスのどこかにあるんでしょうね。高校で馬術部があるのは、珍しいのでは?意外とセレブのご子弟が通われていたりして。専門性のある教育をする学校らしく測量士補試験(→→→こちら)の合格者も数多く出しているんですね。国家試験の測量士補試験、合格率が30%前後だそうです。測量士補とは、測量士の補佐を行う技術者になりますが、測量士補の資格があると、土地家屋調査士の試験のうち測量に関する試験が免除されるそうです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その5) 宇都宮柏陽高校
2024年02月24日
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鬼怒通りから、わき道に入って、公園にやってきました。駅東公園(→→→こちら)という公園です。この公園は、駅東土地区画整理事業により整備した公園だそうです。プールも配置されています。訪れたのは2023年11月24日だったので、プールは営業していませんでした。しかし、このように見事なイチョウの紅葉も楽しめて、なかなか魅力的な散歩道になっています。また公園の一角には、国鉄EF57形電気機関車(→→→こちら)が保管されています。このEFF57形電気機関車は鉄道省(日本国有鉄道の前身)が太平洋戦争前に製造した最後の旅客用電気機関車であり、上野 - 黒磯間の東北本線や日光線の旅客列車の牽引に従事していたそうです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その4) 宇都宮駅東公園の電気機関車
2024年02月23日
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鬼怒通りは、栃木県道64号宇都宮向田線のうち宇都宮市東宿郷 - 道場宿町の間の愛称になります。名前の通り、この道路の先は鬼怒川を渡っています。余り見られない黄色の矢印信号(→→→こちら)です。この信号は、矢印が示した方向に向けて、路面電車は進むことができる、という意味です。したがって、この信号の表示は、路面電車の宇都宮ライトレールは直進はできて、また、青色の矢印で、車両(自動車)は直進と左折ができますが、右折はできないということになりますね。これは栃木県の運転免許試験には必ず出そうな問題かも。宇都宮ライトレールのこの区間は併用軌道、つまり道路上に線路が設置された区間になっています。この先は、鬼怒通りが国道4号と立体交差しています。ということで、宇都宮ライトレールの車両、急な勾配をスイスイと登っていきました。坂道を登り切ってしまいました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その3) 鬼怒通りを走る宇都宮ライトレール
2024年02月22日
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宇都宮駅東口にあった石像です。この姿かたちからみるとお相撲さんの石像のようですね。台座に記された名称は、「日下開山 初代横綱 明石志賀之助」(→→→こちら)とありました。明石志賀之助は、下野国宇都宮出身で、江戸時代前期に存在した力士とされ、最強の力士に与えられる称号である「日下開山(ひのしたかいざん)」を受けたとされているそうで、現在、日本相撲協会では、明石志賀之助を大相撲の初代横綱として認定しているようです(→→→こちら)。また、この明石志賀之助は身長221センチ、体重225キロの巨漢だったと伝わっており、この石像もむ台座を除いた高さが志賀之助の身長と同じ221センチあるそうです。そして、東に向かう宇都宮ライトレールが走る鬼怒通りに沿って、MoMo太郎も歩いて行きました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その2) 初代横綱明石志賀之助
2024年02月21日
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赤羽駅から宇都宮線(東北本線)のE231系に乗って、宇都宮駅にやって来ました。宇都宮駅東口からみた駅舎です。宇都宮といえば、去年の8月26日から運行を始めた、宇都宮ライトレール(→→→こちら)(が話題ですね。下の写真が宇都宮ライトレール(以下LRT(Light Rail Trainの頭字語)と表記します)の車両、宇都宮ライトレールHU300形電車(→→→こちら)です。黄色が印象的ですね。ということで、LRTの宇都宮東口駅に行ってみました。時刻表を見てみると、結構頻繁に運行しているみたいですね。LRTの車両は超低床型で、乗り降りが楽そうですね。北関東というと群馬県、栃木県。そして茨城県となりますが、2023年10月1日の推計人口によりそれぞれの県庁所在地の人口を調べてみると、(→→→こちら)群馬県前橋市 326,904人(全国31位)栃木県宇都宮市 513,257人(全国17位)茨城県水戸市 268,231人(全国38位)参考として、全国1位は神奈川県横浜市の3,771,766人、東京都新宿区は353,615人で全国27位になります。しかし、単純に人口で比べても、面積が広ければ人口も多いわけで、都市としての集積度は人口密度も見るべきです。そこで、面積と人口密度を見ると群馬県前橋市 面積 311.59Km2(全国35位) 人口密度 1,049.15人/km2(全国25位)栃木県宇都宮市 面積 416.85km2(全国28位) 人口密度 1,231.28人/km2(全国20位)茨城県水戸市 面積 217.32km2(全国41位) 人口密度 1,234.27人/km2(全国19位)ということで、都市としての実力にはそれほど大差はないと思われますが、広い地域に沢山の人が散らばっているというのが、今回訪れた宇都宮市。だからこそLRTが必要だっんですかね。ということで、今のところ多くの人が利用しているみたいですね。ほぼ満員で出発するみたいです。ここから、終点の芳賀・高根沢工業団地駅に向かって行きます。ちなみに宇都宮駅東口から終点芳賀・高根沢工業団地までの所要時間は48分、運賃は大人400円です。いつも利用する都電に比べれば割高な感じもしますが、そこは地方都市で利用者も少なく、路線も新設なのでこのあたりは仕方ないのでしょうね。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その1) 宇都宮のLRT
2024年02月20日
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群馬県桐生市にある富士山(ふじやま)登山を終えて、帰宅します。上毛電鉄が国道122号を横断する踏切を越えます。この先、線路は県庁のある中央前橋駅まで続きます。国道122号を歩いて行くと、門柱に「群馬県衛生所」と「醫(医)学校」という看板のある、白い洋館の建物がありました。この建物は、桐生明治館(→→→こちら)と呼ばれる建物で、明治初期(1878年)の擬洋風建築として。「旧群馬県衛生所」の名称で、重要文化財に指定されているそうです。「擬洋風建築」(→→→こちら)というのは、大工や左官職人らが日本の技術を基に設計・施工し、見た目は西洋風建築物でシンメトリーになっている特徴の西洋風の建物だそうです。明治11年(1878)、前橋市に「衛生所兼医学校」として建設された建物だそうですが、明治12年(1879)に 衛生所が廃止。、そして明治14年(1881)には医学校も廃止され、その後県立女学校、師範学校付属小学校、群馬県農会などに転用されていたそうです。昭和3年(1928)に「相生村役場」として現在の地に移築されたそうです。現在は、明治期のピアノやオルガン、洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されているほか、喫茶室も併設されています。ちなみに入場料は高校生以上150円、小・中学生は50円です。それを払うのが惜しい人は、10月28日の群馬県民の日に行くと無料で入館できます。そして、こちらの相老駅(→→→こちら)から東武鉄道で家に帰ることにします。この駅は、わたらせ渓谷鐵道(旧国鉄足尾線)と東武鉄道の駅になります。写真の右側のホームがわたらせ渓谷鐵道の下り、大間々・足尾・間藤方面行き乗り場で左側の島式ホームが東武鉄道のホームになります。相老という駅名は、駅の所在地である旧相生村の地名をそのまま使用すると兵庫県の相生駅と重なることと、共に老いるという考えから「生」を「老」に変更したそうです。個人的には「上州相生」とかいう駅名で、生き生きした活力ある街という風にしてもらいたかったですね。この特急「リバティりょうもう」号で東京方面に帰ります。やっぱり群馬県、栃木県のエリアへはこの東武鉄道の利用が便利だと思います。リバティ (Revaty)という愛称の東武500系電車は、東武の特急車両として平成29年(2017)年4月から使われている新型の列車です。ちなみに、この前面を貫通形として分割・併合を行えるようになっています。したがって6両編成から途中の駅で車両を切り離して3両編成で運行することもできるそうです。始発は隣の赤城駅で、乗客も少なかったことから車内も撮影してみました。天井部は隅田川や鬼怒川などをイメージした波型のデザインとしいるそうです。ちなみに社内の自動放送のアナウンスは女子鉄アナウンサーの久野知美(→→→こちら)さんが担当しているんだとか。(富士山(群馬県))【了】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その4) 桐生明治館(旧群馬県衛生所)と相老駅
2024年02月17日
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標高160メートルの富士山登山をはじめます。ちなみに、駅からの高さは約40メートルということなので、かなり初心者向けの山だと思われます。登山道は最初はこんな感じで整備されていました。一合目の目印となる石柱がありました。いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつということで、このような石碑を建立しているのでしょう。いよいよ九合目です。登山道の途中からは、桐生市の町並みも見えました。正面に見える山は群馬県太田市の八王子丘陵です。山頂にある浅間大神を祀る祠です。周りはこのような木立に囲まれていて、いい眺めではありませんでしたが、木立の間からは渡良瀬川の流れが見えました。祠の向こう側に行くと、こちらは展望台になっていてね桐生市や太田市の町並みを眺めることができました。下山して、今登ったばかりの富士山を眺めてみました。ちなみにこの富士山、足尾山地の吾妻山南西支脈から渡良瀬川の断層によって切り離されて孤立した低山となったのだと思われます。こちらは、本物の富士山。新幹線の車窓から撮影したものです。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その3) 富士山頂
2024年02月16日
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全長157.280mの上毛電気鉄道渡良瀬川橋梁です。この橋は2007年(平成19年)に国登録有形文化財になっています(→→→こちら)渡良瀬川を渡ったところにある富士山の最寄り駅のこの駅で降りました。桐生市にある富士山は「ふじやま」(→→→こちら)と読むようです。富士山(ふじやま)は、いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつなるそうです。ということで群馬県にいわゆる世界遺産となった富士山(ふじさん)はないので間違わないようにしないと。駅の前からすぐに富士山の登山口になっていました。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その2) 富士山下駅
2024年02月15日
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さて、桐生駅まで戻ったMoMo太郎ですが、桐生市に富士山があると聞き行ってみることにしました。こちらの上毛電気鉄道の西桐生駅(→→→こちら)から上毛電気鉄道に乗って出発です。駅前には遠足帰りの小学生たちが整列していました。シブイ字体の西桐生駅の看板。昭和3年に建てられた駅舎の中は、昭和の雰囲気を伝えていますね。しかも、交通系ICカードお断り、いつもニコニコ現金払いの上毛電鉄。駅名標です。こちらが上毛電鉄の車両です。上毛電気鉄道700型電車と呼ばれている型式ですが、元は京王電鉄の3000系電車を譲り受けたものです。上毛電鉄ではデコトレイン(→→→こちら)と呼んでいる飾りつけのある列車を走らせています。車内は海なし県の群馬県を走る水族館ということで、いろんなお魚が泳いでいました。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その1) 上毛電気鉄道
2024年02月14日
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こちらの新川公園は、もともとは新川球場という野球場であったそうです。公園入口には、「新川球場を偲ぶ」と題された記念碑が建立されていました。碑文にある稲川東一郎(→→→こちら)というのは、群馬県立桐生高等学校の監督だった方で、桐生高校は甲子園に26回出場の強豪校です。また新川球場は、終戦から3か月後の1945年11月24日にプロ野球東西対抗第2戦が開催された野球場でもあり、「日本野球聖地・名所150選」(→→→こちら)に選定されています。また、球場としての歴史は古く、1927年に、桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)が第13回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に初出場したことを契機に、桐生市では野球熱が盛り上がり、桐生中学の劣悪な練習環境を改善しようという機運が生まれた。 そこで、堀祐平が桐生中の甲子園初出場を記念して私財を投じて野球場を作ったことに始まるそうです。1987年に老朽化から解体。跡地を公園として整備して、新川公園となった後も、一面芝生の公園で、かって野球場だった面影を残しています。こちらのライオンの銅像は桐生市に県内初のライオンズクラブが設立されたことを記念するものだそうです。この新川公園の近くにあるのが、群馬県立桐生高等学校(→→→こちら)です。各界に有名な卒業生を送り出しているようですが、甲子園出場26回を誇る野球の名門校だったので、プロ野球選手も数多く輩出しているそうです。そして、JR桐生駅に戻ってきました。初めて訪れた群馬県桐生市、結構魅力的な街でした。(桐生市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その12) 新川公園と桐生高校
2024年02月13日
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桐生市本町通の町並みです。桐生のメインストリートで、人通りも多い場所にあるのが根精大明神という神社がありました。ご利益は「家内和合」、「商売繁盛」、「子孫繁栄」、「根性振興」、「子授安産」、「ボケ封じ」だそうです。の御神体を見ると、ご利益がありそうな気もしますね。こちらの南欧を思わせる建物は、桐生市指定重要文化財の桐生倶楽部会館(→→→こちら)です。大正8年(1919)12月に竣工したものだそうです。この建物の持ち主は、一般社団法人桐生倶楽部(→→→こちら)。明治38年に誕生した産業人の社交機関「桐生懇和会」が大正7年に発展改組 して現在に至っています。当時桐生町と周辺町村の有力者が桐生倶楽部のもとで協力して、鉄道や銀行の誘致、電話設置等に尽力、桐生町発展の基礎をつくったそうです。織物の町、桐生を今に伝える建物としてこちらの桐生織物記念館(→→→こちら)もありました。こちらの建物は国登録有形文化財で昭和9年(1934)に竣工したもです。この建物が建てられた昭和10年前後には、大陸に輸出販路を築くのが早かったこと、人絹や絹洋服地などの新製品を創り出したこと、などの理由により桐生の織物産業は全盛期を迎えたそうです。こちらの建物は、貸事務所や貸室(会議室・催事等)などに用いられているほか、桐生織物販売場や織物資料展示室があります(→→→こちら)。また、こちらの資料展示室では1300年余の伝統を誇る桐生織物の伝統的な技術、技法などを学ぶことができました。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その11) 桐生倶楽部と桐生織物記念館
2024年02月12日
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桐生の町のメインストーリート、本町通りを桐生天満宮から南に向かって歩いていくと、「坂口安吾 千日往還の碑」がありました。坂口安吾(→→→こちら)というのは、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人だそうです。坂口は1952年(昭和27年)から3年ほど、桐生市本町2丁目の書上文左衛門邸で暮らしたそうです。書上(かきあげ)家というのは桐生の名家だそうで、書上という名前も小説家が住むにはふさわしそうな名前ですね。そして坂口安吾48歳の1955年(昭和30年)2月17日、突如脳内出血のためこの桐生の地で亡くなったそうです。さらに南に向かって歩いて行くと、渋い店構えの酒屋さんがありました。このあたりは、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区(→→→こちら)として織物関係の蔵や町屋、ノコギリ屋根工場など歴史的な建造物が残っているそうです。この酒屋さんの横にあるのが有鄰館(→→→こちら)という施設です。桐生市指定重要文化財旧矢野蔵群(有鄰館)附祠社(→→→こちら)だそうです。この説明看板によれば、旧矢野蔵群(有鄰館)は、享保2年(1717年)に現在の矢野園の創業者である近江の商人初代矢野久左衛門が来住し、二代目久左衛門が寛延2年(1749年)現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく寄与してきた矢野本店の蔵群だそうです。この蔵群は酒・醤油・味噌などの醸造業が営まれていたころの建物で、古いものは天保14年(1843年)、敷地内には合計11棟あり、ビール蔵を除いた建物が桐生市指定重要文化財になっているんだそうです。確かに、歴史を感じる蔵が立ち並んでいますね。こちらは今でも人が住んでそうな建物ですね。煉瓦造りの蔵、煉瓦蔵という大きな建物です。こちらは重要文化財には指定されていませんが、ビール蔵と呼ばれる施設だそうです。「桐生からくり人形芝居館」(→→→こちら)という施設が併設されていて、桐生からくり人形芝居が毎月第一、第三土曜日に定期上演されているようで、入場無料で見物できるようでした。桐生からくり人形芝居は、各町会が昭和36年(1961年)までに6回、天満宮の御開帳時に上演していた「からくり人形芝居」を復活させて、上演しています。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その10) 「坂口安吾 千日往還の碑」と「有鄰館」
2024年02月11日
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次に群馬大学桐生キャンパスの近くにある桐生天満宮(→→→こちら)です。関東五大天神で桐生広域総鎮守と言われいますが、関東五大天神ってどこなんでしょうか?こちらが一の鳥居となります。信号機も傍に建っているのはなんか面白かったです。一の鳥居から長い参道が続きその先に二の鳥居が見えます。こちらが神門、桐生門と呼ばれています。この神門をくぐると、こちらが拝殿となってます。景行天皇の時代に、当地で有力な土師部の遠祖にして、菅原道真公の御祖先にも当たる天穂日命 (アメノホヒノミコト)が御祭神でありましたが、観応年間(1350年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称され、菅原道真も御祭神として祀られるようになったそうです。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた桐生天満。なかなか風格のある神社です。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その9) 桐生天満宮
2024年02月10日
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群馬大学理工学部のキャンパスが桐生市にあります。群馬大学って前橋、太田、そして桐生と別れてキャンパスがあるんですね(→→→こちら)。群馬大学理工学部の前身である桐生高等染織学校が桐生市に設立された経緯があって、ここに理工学部のキャンパスがあるんですね。この校門の前にあったのが、工学部守衛所。歴史を感じさせる木造の建築物ですね。そして、こちら旧桐生高等染織学校正門も残されていて、その中にある洋風の建築物は群馬大学同窓記念会館(→→→こちら)だそうです。桐生高等染織学校の校舎として、大正5年(1916年)に竣工となったこの建物は、その当時の本館の一部とそれに附随する講堂を昭和47年度に移設(曳家)したものだそうです。こちらの説明によれば、群馬大学同窓記念会館は、工学部守衛所、旧桐生高等染織学校正門とともに平成10年に国の登録有形文化財に登録されているそうです。そして、NHKドラマ「花子とアン」をはじめとする映画やテレビのロケ地にも使われているそうです(→→→こちら)。行幸記念碑が建立されているということは、前身の桐生高等染織学校は戦前の日本の基幹産業であった繊維産業を支える教育機関として、天皇陛下も訪れるような学校だったということですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その8) 群馬大学工学部同窓記念会館
2024年02月09日
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こちらは、旧桐生市立北中学校です。「旧」というのは、2009年4月に桐生市立東中学校・桐生市立北中学校・桐生市立菱中学校の3中学校が統合して桐生市立清流中学校(→→→こちら)として開校したからです。この廃校跡、ロケ地として利用があるようです(→→→こちら)。地方の中学が舞台などのドラマには適しているかもしれませんね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その7) 閉校された中学校
2024年02月08日
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動物園にならんでアースケア桐生が岡遊園地があります。こちらも「アースケア」(→→→こちら)という会社がネーミングライツで支援しているそうです。そして入園料は無料となっています。入園料は無料ですが、園内のアトラクションを利用する場合は、料金が必要です。このスカイヘリを利用する時は、大人は一回、200円となります。また中学生以下は100円です。そして2歳未満のお子様は無料になります。そのほかのアトラクションも大体大人は200円、中学生以下は100円と低めの料金設定でした。メリーゴーランドも人気ですね。アドベンチャーシップ。こちらは絶叫系ですかね。サイクリングしながら空中を進むサイクルモノレール。なんか気持ちよさそうですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その6) アースケア桐生が岡遊園地
2024年02月07日
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地球上に誕生した小さなバクテリアのようなものから進化して様々な生物が生まれていったという進化論を信じるならば、動物園にいる動物も野山に繁っている植物も、もとをたどれば、みんな私たち人間とは祖先が同じ親戚同士ということになりますね。ということで、動物園にいる私たち生き物の仲間を見ましょう。これはカピバラ(→→→こちら)。一応こんな図体でもネズミの仲間だそうです。こちらはミーアキャット(→→→こちら)。キャットといいながらネコではなくマングースの仲間らしい。こちらはニホンザル(→→→こちら)。どこの動物園でもサル山で飼われていることが多いですね。子供達には人気があるみたいです。こちらはクモザル(→→→こちら)。尻尾で物を掴んだり木にぶら下がったりできみたいです。こちらは室内で飼われているレッサーパンダ―(→→→こちら)です。パンダという名前はジャイアントパンダよりもレッサーパンダに先につけられたものであり、ネパールの言葉で「ニガラポンヤ(竹を食べる者)」がその語源とされているんだとか。ちなみに、桐生が岡動物園に並んで桐生が岡遊園地(→→→こちら)というのもあり、そこの観覧車も見えました。檻で見にくいですが、ライオン(→→→こちら)もいます。群れで生活するネコというのがも意外と珍しいですね。こちらはホオジロカンムリヅル(→→→こちら)です。フラミンゴ(→→→こちら)です。こちらの動物園には何種類かのフラミンゴがいるみたいです(→→→こちら)。フンボルトペンギン(→→→こちら)もいました。野生種は絶滅が危惧されているそうですが、日本の動物園では繁殖に成功して、数は増えているんだとか。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その5) 私たちはいきもの
2024年02月06日
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西宮神社から坂道を登って行くとプロペラ式の飛行機とヘリコプターが展示されている公園に出ました。こういう形の飛行機を見ると、すぐ旧日本軍のものと思ってしまいますが、説明板によると、ノースアメリカンT-6型という二人乗りの中型練習機だそうで、昭和13年にアメリカのノースアメリカ社で製作され、昭和29年から日本の航空自衛隊で練習機として使用されていたものだそうです。こちらは特に説明もありませんでしたが、ヘリコプターも展示されていました。そして、ここが桐生が岡公園(→→→こちら)という桐生市立の総合公園で、動物園と遊園地があります。公園の入り口に設置されていた女神像です。台座には「平和」という文字が刻まれていました。こちらが桐生が岡動物園の南門となります。ちなみに、入場料は無料です。ということで中を見学させていただきました。こちらが園内の案内図で、動物園の名前が「山田製作所桐生が岡動物園」(→→→こちら)となっていました。飼育されている動物も多そうですが、これが無料なのは、(1)ふるさと納税の寄付金を活用している。(2)「山田製作所」という企業をつけてネーミングライツスポンサーの利用している。(3)売店やアトラクションの売り上げ金を利用している。ということで、頑張ってこれからも無料で子供たちが楽しめる動物園であって欲しいですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その4) 桐生が岡動物園
2024年02月05日
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桐生市の吾妻山の東南麓に沿っている山手通りに面したところにある美和神社(→→→こちら)です。美和神社は平安中期にまとめられた延喜式神名帳に記載がある延喜式内社です。延喜式内社は上野国(群馬県)には十二社あるそうです。そのうちの一つがこの美和神社ということで、平安時代にはすでに朝廷からその存在を認められた格式と歴史のある神社です。旧社格は郷社(→→→こちら)となっています。社伝によると美和神社は「崇神天皇の御代に大和国の御諸山から勧請された」と伝わっているそうで、大和国の御諸山とは奈良県桜井市にある三輪山のことを指すそうなので、この三輪山を神体山としているのが奈良県にある大神神社に因んで、石柱にも。三輪大明神と刻まれていました。こちらが拝殿ですが、御祭神は大神神社と同じ、大物主命(オオモノヌシノミコト)=大国主命(オオクニヌシノミコト)ということになりますね。扁額にも、延喜式内と記されていました。この美和神社の境内社に桐生西宮神社(→→→こちら)があります。明治34年(1901年)に、えびす総本社である兵庫県西宮市の西宮神社(→→→こちら)から分霊勧請された神社で、関東で唯一の直系分社であることから「関東一社」と称されているそうです。桐生は織物で栄えた町です。そのため全国各地から技術を持った人たちが集まってきました。そして、その人達の間で福の神信仰、えびす様信仰が盛んになったことから、福の神「ゑびす様」の総本社、西宮神社から分霊勧請できたそうです。それだけゑびす信仰が盛んな土地ですから、毎年11月19日から20日にかけて桐生ゑびす講が開催されるそうです。社号碑にも「関東一円桐生西宮神社」と刻まれていました。この石段を登り、桐生西宮神社にお参りさせていただきました。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その3) 美和神社と西宮神社
2024年02月04日
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西桐生駅から水道山公園へ向かってこの坂道を登っていきます。まだ、始まったばかりでこの坂道はちょっとキツイ。こちらの建物が水道山記念館です。入口の脇にあった水道山記念館(→→→こちら)の説明です。水道山という名称の山があるわけではなく、群馬県桐生市にある雷電山・小曾根山・金毘羅山の総称だそうです。桐生市に、渡良瀬川左岸一帯を水源地とすることに決定した水道が整備されることになり。この水道山に高区・低区配水池が新設され、高区からは山手方面に、低区から平地の市街地に通水することとして、1932年(昭和7年)4月から給水が始まったそうです。この水道山記念館は、桐生市水道課(現在の桐生市水道局)の配水事務所として1932年(昭和7年)に建設された建物で、昭和47年には配水事務所としての役割を終了しました。その後昭和60年~昭和61年に改修工事を行い、名称を「桐生市水道山記念館」と改め展示室・会議室として利用されているそうです。水道山記念館から、山沿いの道を少し歩き、この坂道を下って、次の目的地になる美和神社・西宮神社に向かいます。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その2) 水道山記念館
2024年02月03日
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北関東三県の茨城県、群馬県、そして栃木県を廻る旅を続けています。今回は令和5年10月下旬の晴れた日に群馬県桐生市にやって来ました。隣の岩宿駅は群馬県みどり市ですが、小俣駅は栃木県足利市になります。ということで群馬県最東端の駅になります。両毛線を走るのはこのE221系(→→→こちら)です。このタイプの車両もかっては東海道線、高崎線そして東北線で走っていましたが、今はこちら両毛線に転用されてきたんでしょうね。桐生駅構内に置いてあった、駅ピアノです。ハラミちゃん(→→→こちら)もここで弾いたりするんですかね。桐生駅北口からスタートしました。駅前にある末広通りです。なかなか賑やかな商店街のようです。そして、しばらく歩くと上毛電気鉄道の西桐生駅に着きました。昭和3年(1928)の開業当時のままだそうで、土木学会選奨土木遺産になってます。ちょっとオシャレな洋風建築の駅舎が、よくテレビや映画のロケにも使われているそうです。看板のフォントがシブイですね。駅舎の中です。ちなみにICカードは使えません。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その1) 西桐生駅まで
2024年02月02日
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