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2010年04月24日
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ジョン・レノンが子供のころ夢中で読んでいた「不思議の国のアリス」が、今ジョニーデップの主演映画になる位ルイス・キャロルの物語は面白いのか?ビートルズ・ストーリー、きょうは1967年です。「サージェント・ペパーズ」の収録曲でジョンの「不思議の国のアリス」の影響を垣間見ることができます。その中には骨董屋でジョンが買った古いポスターに書いてあった言葉を、そのまま歌詞にした曲もありました。そのポスターには馬のヘンリーの名前もあったそうです。このLPの収録曲の録音は前の年の12月から始まったようですが、いよいよ4月21日に最後の録音が行われました。当時はまだレコード・プレーヤーの手動式もあり、LPレコードの最後まで来ると、自分で針を上げて戻さないといけません。そうしないと、針がぐるぐる回る音だけ聞かされることになるのです。そこでポールのアイデアでそこの部分に2秒程の音が入れられました。ジョンのアイデアは犬にしか聞こえない1万8千サイクルの高周波音を入れるということでした。なんとこの無意味とも思える音の録音が午後7時から午前3時までかかったそうです。(実際、アメリカ盤ではビートルズの考えを知っていたのか、知らなかったのか、この部分はカットされたそうだ。)というわけで僕はこのルイス・キャロルのことを調べてみました。すると前に書いたタイタニックのことに負けないくらい奥が深かったのです。この人の本名はドジスンといってオックスフォードの教授だったそうです。アリスという女の子もおかっぱの実在した女の子がモデルだったのです。そしてアリスの父はヘンリーという名前でした。おかしいのは、ジョンとポールが出会った日みたいに、ちゃんとドジスン先生と同僚、アリスとその姉妹とボート遊びをした1862年7月4日にその物語が生まれたということです。ちなみにビートルズも小さいボートに乗った写真が残っているな。その年アリスが10歳でドジスン先生は30歳です。先生はそのアリスのために歴史に残る名作を作り出したのです。6ヵ月後に「地下の国のアリス」という本にしてアリスにプレゼントしたのでした。そして1867年には、友人のヘンリーとロシア旅行をしているようです。日本ではその年、坂本龍馬が暗殺され、夏目漱石が生まれているようです。ドジスンは吃音だったらしいです。そこで僕は山下清のことを思い出しました。しかしこの人もビートルズと同じようにいろいろな伝説があるようです。そのひとつに1945年に出版されたというフロレンス・ベッカー・レノンによる伝記があったそうです。あんまりこのドジスンさんのことをよく書いてないようでした。ルイス・キャロルのことについてよく知っているだろう人の意見です。僕はこれで今度はジョン・レノンにも言えることだと思いました。『キャロルを知る手掛りとしてキャロルの現存する手紙がありますが、手紙は慎重に読まれなければなりません。ドジソンはからかうのが巧みでした。キャロルがふざけて言ったことを字義通りに真面目に受けとめるという罠に陥っている人もキャロルの伝記を書いた人の中にはいます。家族や大人の友人に宛てた手紙の方にキャロルの性格の機微がより窺われのです。』ビートルズも評論家とか一般の人々が彼らの言動とか、作品をいちいち問題にするのでわざと間違いとかをそのままにしておいたりしていたようです。僕が願うのはそのレノンさんが、ジョン・レノンとはまったく関係ない人であってほしいということです。今日も雨でした。これを菜種梅雨というのでしょうか。
2010年04月21日
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諫早湾干拓の開門に関して、賛成だの反対だのでみなさん、お疲れでしょうが、ひと時僕の「ビートルズ・ストーリー」をお楽しみください。1969年4月11日、ビートルズの19枚目のシングル「ゲット・バック」は発売された。それからわずか3日後にどうしてジョンは20枚目のシングル「ジョンとヨーコのバラード」をポールとふたりきりで録音したのでしょうか?このレコードは「キリストのはりつけ」の歌詞のためにBBCとアメリカのほとんどの放送局で放送禁止になったそうです。1912年4月14日はタイタニックが沈没した日でした。タイタニックの事を調べていくうちにリバプールが母港で、4月10日にサウサンプトンからアメリカに向け処女航海に出た、という事がわかりました。ジョンとヨーコのことを歌ったその曲は出だしがサウサンプトンから始まるのです。タイタニックの進水した日を知り僕は確信したのです。1911年の5月31日。「ジョンとヨーコのバラード」の発売日の5月30日と1日しか違わなかったのです。加えてもっとよく調べると、もともとのタイタニックの主任設計技師が船の所有社と折り合いが悪く辞任したため、新しく主任設計技師になった人が、ジョンが死んだ歳とひとつしか違わない39歳で、タイタニックと運命を共にしていたのです。タイタニックの事を調べると1冊の本ができるくらいに面白いです。 その事故で唯一生き残った日本人が、YMOの細野晴臣さんの祖父だったという事も思い出しました。そしてその事故の後、犠牲者に対する鎮魂を込めたポストカードが作られています。きっとジョンもそれを見たんだと思います。それには沈み行くタイタニックと十字架を背にしたキリストが書いてあったのです。聴くと単調なこのジョンの曲はタイタニックのように奥が深かったのです。バラードもバラッドも意味は大体同じらしいそうです。中村さんの本によると、バラッドとはイギリス系民謡の中で最も重要なんだそうで「物語り歌」。つまりストーリーを持った歌であり、曲よりも歌詞に重要性がある。そしてバラッドには「ハングマン」というカテゴリがあってそれは歌詞が「絞首刑に処せられる父と娘の会話」から成り立っているそうです。ちなみにハングマンとは、死刑執行人の意味らしい。ジョンはヨーコとの結婚の喜びに、処女航海で沈んでしまったタイタニックの物語を織り込ませたのではないでしょうか?ジョンは結婚の喜びをいち早くみんなに知らせたいと思うのと同時に、イギリス・リバプールの名誉でもあったタイタニックの進水日と合わせたかったのではないでしょうか?そのころビートルズは別行動が多かったですが、それでもリーダーのジョンは他のメンバーの事も考えていたのでしょう。その日11テイク録音したそうですが、4回目のテイクの前にジョンはポールに、「もうちょっと速めにやろうぜ、リンゴ」と呼びかけると、ポールは「OK、ジョージ」と言ったそうです。
2010年04月14日
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「瞑想により、すべての人間が幸福になれる。世界平和は、世界中の一人一人が内面から平和になったときに初めて確立されます。政治の局面は常に変化しています。それ自体が常に変化しているものが、永遠のものを確立することはできません。」ビートルズの音楽にも影響を与えたマハリシはそう言ったそうです。彼らがまだ下積み時代の1959年、彼はアメリカで記者会見を開くまでに有名になっていました。2008年の2月には1990年に移住したオランダで91歳で亡くなったそうです。ビートルズと極めて近い考え方のマハリシと行動を共にした事は、富と名声を手に入れても常に理想を追い求めていた彼らには自然なことだったのでしょう。しかし1968年の4月12日、20代だったジョン・レノンはポール、リンゴに続きインドを離れたのです。まるで神様のようだとマハリシの事をみんなそう思っていたのでしょうか?マハリシも普通の人間と何も変わらなかったのです。しかしビートルズにとっては却ってプラスになったのかもしれません。草木が生い茂った自然の中で彼らは何十曲もの新曲を作り出す事ができたのです。ジョンが言う「ジャングル・ジム」とは1980年のインタビューのことだから、ジョンが何か記憶違いをしているのではないかと思いました。しかしそれは僕の考えすぎのようでした。ジャングル・ジムは確かにいたのです。最後にポールとリンゴに至っては、今でもマハリシの意志を継ぐ人たちとの交流があるようです。
2010年04月12日
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そんな協会があったなんて知らなかった。http://www.aprilfool.jp/きょうのビートルズは1969年4月1日です。この日ハネムーンを終えヨーコとロンドンに戻ったジョン・レノンは、ヒースロー空港に降り立ったとき、どんぐりを持っていたそうです。緑でエコ活動♪どんぐりがなります♪♪ウバメガシ 樹高80cm前後 ポット苗 どんぐりの木♪生垣・庭木に!トトロのお腹にはどんぐりが!となりのトトロ ころころ大トトロホルダータカラトミー ポキポキどんぐり
2010年04月01日
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