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随分前から、「言葉を理解するのが困難な子」が増えてきました。一人でテレビを見て、一人でゲームをして、一人でおもちゃで遊んで、お母さんやお父さんからは「ああしなさい」「こうしなさい」という指示命令ばかり受け、学校でも自分の考えを言わせてもらえず、ただ静かに聞いて覚えるだけの生活しか送っていなければ、必然的に、「他者とコミュニケーションする能力」は育ちませんよね。それでも本をいっぱい読んでいるのなら、本を読むことで「コミュニケーションするための言葉」を学ぶことが出来るのですが、残念なことに最近の子は本も読みません。少し昔の子は「マンガ」は読みましたが、最近の子は「マンガ」ではなく「アニメ」ばかりを見ています。ちなみに、「マンガ」は能動的に読まないと理解出来ませんが、「アニメ」は受動的に見ているだけで楽しむことが出来ます。そのため、さらに言葉を学ぶ機会が減ってしまっています。そして、今ではそれが一般的な状態になってしまっています。(英語のアニメを見て英語を覚えるのは難しいですが、英語で書かれたマンガを読んで英語を覚えるのは比較的楽だと思います。)そういう生活をしているためか、最近の子ども達は「自分の言いたいこと」は(テレビのように)一方的に話すのですが、肝心の、その「言いたいこと」がよく分からないのです。相手に理解できる言葉で話すことが出来ないからです。でも、そのような状態の子は、「通じていない」ということも理解できまないようです。「通じていない」ということが理解できているのなら、「通じる言葉」を工夫しようとするのでしょうが、「通じていない」ことも理解できていないので、「相手が無視している」という受け取り方をしてしまうのです。昔、群れて遊んでいた子どもたちはその群れの中で「相手に通じる言葉」を学ぶことが出来ましたが、一人で遊んでいるだけの子にはその学びの場がありません。子ども同士の群れがなくても、親子や家族の対話がいっぱいあれば大丈夫なんですが、最近ではそれも難しい家族が普通になってきてしまっています。言葉が育っていない子どもたちは、気持ちが伝わらなかったり、思い通りにならないことがあるとイライラします。待つことも出来ません。自分の言いたいことは一方的に話しますが、人の言葉には耳を傾けません。「自分との対話」も出来ません。そのため、「それはどういう意味なの」「君は何を言いたいの」と聞いても答えることが出来ません。意味もない知識は山のように持っていますが、その知識の使い方を知りません。みんな、ゲームやテレビといった「現実世界とはつながっていない世界」からの受け売りだからです。教科書で学んだ知識も同じです。テレビやゲームや学校で学んだ「宇宙」という言葉と、満天の星空を見上げて学んだ「宇宙」という言葉は同じではないのです。最近の子は、そんな「空っぽの言葉」ばかりを学んでいるので、自分の心を支えるための「自分の言葉」が育たなくなってしまっているのです。でも、「子どもの心」は「言葉の成長」の成長と共に育つようになっているのです。「心育て」をするためには「言葉育て」をするしかないのです。昨日書いた「感覚育て」もまた「言葉育て」とセットにしないと進みません。「温かい」という感覚は「温かい」という言葉とセットにすることで、その感覚が自分の中に定着して行くからです。そして、その過程で心も育って行くのです。でも、最近の子は「知識としての言葉」はいっぱい持っているのですが、「自分の体験とつながった自分の言葉」を持っていないので、「自分が感じたことや考えたこと」を人に伝えることが出来ないのです。「なんでみんな自分の事を分かってくれないの!」と思っている子は多いと思いますが、だからといって、他の人に伝わるように話すことが出来ないのです。幼い子はそれで「かんしゃく」を起こすのですが、大人になってもそのままの状態の人が多いのです。そのような状態の人は、自分の感覚や、思考を支えてくれる「自分の言葉」を持っていないのです。そしてそれは、「自分の心」を持っていないということでもあるのです。「受動的に周囲に反応するだけの心」は持っているのですが、「能動的に感じ、考え、行動しようとする心」を持っていないのです。「自分の思考や心を支えてくれる自分の言葉」は、学校の授業などでは学ぶことが出来ません。「言葉」は「言葉を持っている人」から受け継ぐしかないのです。だから子ども達を「自分の言葉を持っている人」と出会わせてあげて欲しいのです。そうすれば、お母さんやお父さんが「自分の言葉」を持っていなくても、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来るのです。
2024.06.14
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あと、人の心は「感覚の働き」と密接につながっています。美味しいものを食べると嬉しくなります。心がウキウキします。でも、まずいものを食べると、気分が下がります。イライラしている時でも海や野山に行って自然に触れると心が落ち着きます。子ども達も、狭い部屋の中にいる時はケンカばかりしているのに、家から出て外の風に吹かれたり、森や野原に行くとあまりケンカをしなくなります。美しいものを見ていると心が落ち着きます。かわいいものを見ているとハッピーになります。大好きな人に触れられれば心もからだも緩みますが、大嫌いな人に触れられれば、心もからだも固まります。こういうことは皆さん普通に体験していることだと思いますが、このようなことが起きるのも、「感覚」がちゃんと働いてくれているからなのです。人間だけでなく全ての生き物は「感覚の働き」を通して「自分が生きている世界」とつながっています。生物の内側と外側の境界にあって、中と外のやりとりを行っているのが「感覚の働き」なんです。また、自分の「心」と「からだ」をつないでいるのも感覚の働きです。からだが辛い時には心も辛くなります。心が軽い時にはからだも軽くなります。目を閉じていても動けるのは、「からだの動き」を感覚の働きが心や意識に届けてくれているからです。だから「からだ育て」をする場合にも、「心育て」をする場合にも「感覚の働き」に意識を向けるべきなんです。というか、「心」と「からだ」を別々に育てることは出来ないのです。怒鳴り声ばかり聞いて育った子の感性は鈍くなります。心を守るために感覚を閉ざす癖が付いてしまうからです。でも、感覚を閉ざすことで心が傷つくことを避けることは出来ますが、「心が育つために必要なもの」も入らなくなってしまうため、「心の育ち」も遅れることになります。優しい声を聴いて育った子は、色々なことに興味を示すようになります。心が開くからです。水や風や鳥などの「自然の音」に触れながら育てば豊かな感受性が育つでしょう。日本人の感受性の豊かさは、日本の自然の豊かさとつながっています。機械の音ばかり聞いて育っていれば、心もからだも固くなるでしょう。ビルのような直線ばかりを見て育てば、自然を感じる能力が鈍くなるでしょう。幼い時から「良いもの」をいっぱい見せていると、「良いもの」と「悪いもの」との区別が付くようになります。逆に「悪いもの」ばかり見て育てばその区別が付かなくなります。人間に対しても同じです。実は「感覚を育てること」は「心を育てること」と直結しているのです。ちなみに、モンテッソーリ教育もシュタイナー教育も「感覚育て」を非常に大切にしています。ただ、その感覚の対象が大きく異なります。そのため、「心の育ち」にも違いがあるような気がします。これはあくまでも私個人の印象なんですが、モンテッソーリ教育では「理性的な心」が育つような気がします。シュタイナー教育では「人間的な心」が育つような気がします。
2024.06.13
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昨日、夕方6:00から「たけしの日本教育白書」という番組をやっていました。私も、ちょっと興味があったのでつけてみたのですが、“テーマは品格”などと始まったので、“こりゃ、見る必要ないな”と思ったのですが、せっかくだからと最初の子どもたちのイジメに関する本音トークだけ見てみました。子どもたちは、いじめたことがあるか、いじめられたことがあるか、イジメをどんな風に考えるか、などということを自由に話していました。でも、そこで出てきたのは私達が持っている“可愛い子どもたち”という印象とはまったく違う、ものすごくすさんだ子どもたちの現実でした。タケシも“あれは大人の言葉だよ”などというようなことを言っていました。そして、そのあまりに子どもらしくない言葉に大人たちはオロオロしているようでした。“イジメは楽しい”と語る子ども、それを別室でモニターで見て泣き出す親、私に言わせれば、“何を今さら”と思うのですがそこに子どもと大人の意識の大きなズレがあるのです。確かに昔もイジメはありました。でも、それは特定の強い悪ガキが弱い子どもをなぐったり、こき使ったりするものでした。いわゆる“ガキ大将”というやつです。私が中学の頃にも松田というやつがいて、放課後4,5人くらいの同級生を並ばせてなぐっていました。私は、“こんなの並ばなくってもいいんだよ、帰ろうよ”とみんなを誘うのですが、みんな松田が怖いみたいで、誰も帰りません。また、そういう気の弱いやつだけが並ばされるんです。すると松田は、“ほら、みんな自分の意志で残っているんだから邪魔するな”と言います。(彼は私には手を出さないのです。当時、私は腕力には自信がありましたから・・・)彼はいつも4,5人の不良グループで行動していました。そして、よその中学の不良グループともよくケンカしていたみたいです。昔の“イジメ”はこのようなものが多かったように思います。決まった悪ガキがいて、決まった子をターゲットに弱いものイジメをするという構図です。でも、今の子どもたちのイジメはこれとは全然違うようです。それは、昨日の番組をごらんになった方はお分かりになると思います。(私は、子どもたちの本音トークの後は見ていません。)私のイジメの感覚からすると、現代の子どもたちの“それ”はイジメではないのです。昨日の番組で、“いじめたことがある”と答えた子も別に“いじめっ子”ではありません。ごく、普通の子です。そして、“いじめたことがある子”は同時に、“いじめられたことがある子”でもありました。つまり、決まった“いじめっ子”も、“いじめられっ子”もいないのです。いじめっ子も、いじめられっ子もいないのにただ“イジメ”だけがあるのです。つまり、ギューギューの満員電車の中で誰が押して、誰が押されたのかというようなものです。隣の人がギューッと押してくるので、“押さないでください”というと、“しょうがねーだろ、俺だって押されたんだから”という感じです。満員電車の中では、誰も“自分が押した”という感覚を持っていません。押されたからそれを隣に伝えただけなんです。つまり、加害者の意識を持っている人がいなくて“みんな被害者”の集団なんです。それともう一つ、現代のイジメの大きな特徴は“うざい”、“むかつく”、“くさい”といった、非常に生理的な基準でそのターゲットが決まってしまうことが多いということです。そしてゴミを捨てるような感覚でその対象を排除しようとします。そこに、悪意などないのです。ただ、汚いもの、目障りなもの、臭いものを処分するだけのことなんです。子どもたちのホームレス狩りも同じ動機で実行されます。昨日発言していた子どもも、“だって臭いんだものしょうがないでしょ”というようなことを言っていました。“臭いんだから臭いといって何が悪いの?”ということです。その背景には“匂い”に敏感な子どもが増えていることもあると思います。非常に匂いに神経質なんです。うちの教室にもいます。他の子は気が付かないようなちょっとした匂いにも敏感で、すぐに“くさい くさい”と騒ぎ出すのです。うちの教室ではそれだけで済みますが、学校などでは一人が騒げば、匂いに気付かなかった他の連中までその“遊び”に加わってしまうかも知れません。洗濯物などで、“お父さんは臭いからお父さんのものとは一緒に洗わない”などと言うのは時々聞く話しですが、私が、子どもの頃には匂いでイジメを受けたなどという話しは聞いたことがありません。そもそも、私が子どもの頃には家風呂など持っている家庭は少なく、みんな銭湯に行っていたのです。ですから、せいぜい週に2回程度しかお風呂には入りませんでした。でも、今の子どもたちは毎日、下手をすると一日に二回もお風呂に入っています。それって異常に思えるのですが、私がただ不潔なだけなのでしょうか。でも、毎日お風呂に入っている国など世界中にそれほど多くはないと思うのですがどうなんでしょうか・・・。ちなみに、“どうしていじめるの?”と聞いたとき“臭いから”と答えられたらあなたはどう答えますか。“臭くても我慢しなさい”ですか。これは失礼な話しですよね。それに、これでは“臭い”と言った子が被害者になってしまいますね。“お風呂によく入るように伝えるね”ですか。でも、体臭は人それぞれなのでお風呂に入っていればにおわないというものでもありません。それに、一度“あいつは臭い”ということになってしまうと、実際には匂いがしなくなっても“臭いやつ”という印象は消えません。それに、“あなたは臭いから、ちゃんとお風呂に入ってね”と言われた子どもはどんな気持ちでしょうか。そこにはお風呂にはいることが出来ない色々な家庭の事情もあるかも知れません。それとも単純に、“イジメはよくないからやめなさい”ですか。でも、臭いものを排除するだけのことがなぜイジメなのか子どもには理解できないと思います。最近、おとなも子どもも清潔過敏症の人が増えてきました。素手で、電車のつり革にもさわれない人もいるそうです。そういう子どもが、臭い、汚い(と感じた)子に、“臭い”、“汚い”、“あっち行って”というのは生理的な反応であって、イジメではありません。でも、それは遊びとして伝播します。遊びとして受け取った子は、もちろん自分がその子をいじめているとは思いません。ただの遊びなんです。でも、言われた子はそれを“イジメ”と感じます。それを毎日言われ続けたら、自分の存在自体が否定されているように感じてしまいます。言われる側からするとそれは確かに“イジメ”なんです。どうですか、話しが複雑でしょ。こんな状況に対して、“イジメをやめなさい”といくら言っても全く意味がありません。また、いじめられた子が死んでも、自分のせいだとは思いません。“ああ、やっと臭い(うざい)やつが消えてくれた・・・”、それだけのことです。だから、何事もなかったのようにまた次のターゲットを探すのです。私達は、なにか大きなものを見落としているのではないですか・・・。ちなみに、男の子の“ガキ大将”によるイジメは姿を消しましたが、女の子の“女王様”によるイジメはまだ残っているようです。
2006.11.12
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では、どのようにしたら、形も実体もない「心」というものを育てることが出来るのでしょうか。寝ているだけで、一見何も出来ないように見える赤ちゃんにも「心」はあります。だから驚いたり、怖がったり、喜んだりするのです。プリミティブな形ですが、数の認識や、善悪の認識も出来るそうです。また赤ちゃんは、「快・不快」に敏感です。自分の安心につながるようなことは喜びますが、それを阻害するようなことは嫌います。そんな赤ちゃんは、五感の働きをフル活動させて、自分が生まれてきた世界のことを知り、その世界に適応しようとしています。そして、「自分の心とからだの状態に肯定的に働きかけてくれるもの」を好み、「否定的に働きかけてくるもの」を嫌います。そして、周囲の状況に合わせて自分の心とからだの状態を調整していきます。何か不安や不快を感じた時、赤ちゃんは泣くことで周囲にいる大人にそのことを訴え、その不安や不快を取り除いてもらおうとします。そして、周囲にいる大人達がそのことに気づき、適正な対応をして安心と快を与えようとしていると、赤ちゃんは自分の周囲にいる大人を信じるようになります。周囲にいる大人とつながることに喜びを感じるようにもなります。でもそれを「正当な要求」ではなく「わがまま」と断定して、泣いても泣いても周囲の大人がそれを無視していると、赤ちゃんは次第に大人に助けを求めなくなります。諦めてしまうからです。「諦める」というのは、悲しみや苦しみで心が壊れることを防ぐための命の智恵なんです。問題は、そういう子育てを受けている赤ちゃんは、まだ人生が始まったばかりなのに「諦め」を学習してしまうということなんです。それは「無気力」という状態につながってしまう可能性があります。また、お母さんとの間に信頼関係を築くことも困難になります。学習にも影響してきます。そのことに気づかない人は、赤ちゃんが諦めて泣かなくなると喜びます。だから意図的にそのような子育てをしている人もいます。赤ちゃんがお母さんに助けを求めなくなったら楽だからです。若い頃、何らかの保育に参加したとき、一人の「泣いた子ども」を私が抱いたら、ベテランの保育者から「子どもを抱かないで下さい。他の子も抱いてもらえる思って泣き出しますから」と言われました。この人は「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」をしているのでしょう。諦めることや我慢することを覚えさせる保育をしている保育園もあります。でも、そのような子育てや保育をしていると「無力感」や「否定的な感情」ばかりが育ってしまう可能性が高いのです。そんな「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」を受けた子は、大人に対する信頼感も育ちません。それは学習にも影響するでしょう。成長してからの友人関係や、夫婦関係や、親子関係にも影響するでしょう。でも、諦めさせなくても、赤ちゃんは心とからだが満たされれば泣き止むのです。泣き止まない場合もありますが、その時でも、大人がちゃんと向き合っていれば少なくとも否定的な感情は育たないのです。赤ちゃんのからだはものすごい勢いで育っています。そして「からだの育ち」と同時に「心」もすごい勢いで育っています。でも「からだの育ち」を気にする人は多いですが、「心の育ち」を気にする人は多くありません。目には見えないからなのでしょうか。お母さん自身が自分の心で感じようとしない限り「子どもの心の状態」を知ることは出来ないのです。「心」は「心」でしか見えないのです。だから、子どもの心を育てたいのなら、お母さん自身が「自分の心」とちゃんと向き合う必要があるのです。「自分の心」を否定している人は「子どもの心」も否定してしまうのです。だから「心を否定するような子育て」を受けた人は、自分自身もまた「心を否定する子育て」をしてしまう可能性が高くなるのです。
2024.06.12
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現代人は、あまり「心」について語りません。「様々な能力を育てる」ことをウリにしている幼児教育はいっぱいありますが、「心を育てる」ことをウリにしている幼児教育はあまりありません。幼稚園でも「心育て」を全面に出している所は聞いたことがないし、あったとしても、そんなところは胡散臭くてみんな警戒してしまうでしょう。スポーツが好きな人は「スポーツで心を育てる」などというようなことを言いますが、実際にはそのスポーツで心を壊してしまう人もいっぱいます。「心ある人」が子どもにスポーツを教えれば、「子どもの心育て」に役に立つのかも知れませんが、「心ない人」が、スポーツの指導をしたら「子どもの心の育ち」が阻害されてしまのです。実際、運動部内でのイジメや、暴力行為や、麻薬などの話しは珍しくありません。平気で「根性を育てる(鍛える)」などという人は、「心」について考えた事なんてないのでしょう。つまり、スポーツ活動そのものが「子どもの心」を育てているのではなく、スポーツの指導を通して「指導者の心」が子どもに伝わっているだけのことなんです。そしてこれは「子どもの学び」全てにおいて言えることです。算数の学びを通して、「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。歴史や科学の学びを通して「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。「宗教」を持ち出さなくても、「道徳」を持ち出さなくても、「心」について語らなくても、「心育て」は出来るのです。ただし、それが可能になるためには、先生が「心」についてよく理解している必要があります。逆に「心」のことなんか考えたこともない人が「心育てを目的とした道徳教育」などをすれば、「子どもの心」を育てるどころか逆に「子どもの心の育ち」を阻害してしまうでしょう。シュタイナー教育ではこのような考え方を大切にしていますが、他ではあまり聞いたことがありません。下の子や弱い子に対して暴力的な行為をする子に対して「優しくしなさい」と怒鳴っているお母さんはいっぱいいますが、このようなお母さんは「優しくしなさいと怒鳴れば子どもは優しくなる」と思い込んでいるのでしょうか。人間はみんな「心」を持っていて、「心は大切なものだ」ということを知っているはずなのに、なぜか表だって「心」について語ったり、考えたりしようとしないのです。子育ての相談でも、「言うことを聞かない」、「勉強をしない」、「ゲームを止めない」などの子どもの行動のコントロールの仕方ばかり聞いてきます。そして、「子どもの行動」の背景にある「子どもの心」には目を向けません。でも、アメとムチを使って子どもの行動をコントロール出来るようになっても、子どもの心が育っていなければ、子どもが思春期を迎える頃に子どももお母さんも困ったことになってしまうのです。それは「自立できない」という形で表れます。また、「子どもの心」は「お母さんの心」との触れ合いで育ちます。「心育て」など意識しなくても、子どもはお母さんとの関わり合いを通して、自然と「お母さんの心」を吸収して「自分の心」を育てているのです。それは「言葉の学び」と同じです。実は、「言葉が育つ時期」と「心が育つ時期」は一緒なんです。というか、「言葉育て」は「心育て」でもあるのです。でも、そんな大切な時期に「シネ」「コロスゾ」といいった殺伐とした言葉ばかり学んでいる子ども達がいっぱいいます。そのような状態に「まだ意味が分かっていないのだからいいんじゃないですか」と言う人もいますが、子どもにだって「シネ」「コロスゾ」という言葉と「大好きだよ」「仲良くしようね」という言葉の違いぐらい分かります。そんな「心ある人」との関わり合いを通して「子どもの心」が育つはずの時期に、心を持たないスマホやテレビやゲーム機とばかり関わっていたら「心」が育つわけがないのです。現代人は「心」について考えません。心について語りません。その大きなきっかけになったのが「オーム真理教事件」です。あの事件で人々の「心」に対する扱い方が全く変わってしまいました。公民館などで講座を主催する時でも「子どもの心を育てる」などというようなタイトルは使えなくなりました。私も「タイトルを変えてくれ」と言われたことがあります。あの強烈な事件で、「心について考える=宗教の話」という先入観が定着してしまったのです。そして、みんな「心育て」ではなく「能力育て」の話ばかりするようになりました。でも、「オーム真理教事件で主導的だったのは勉強が出来る高学歴の人が多かった」という事には、目を向けません。
2024.06.11
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「魂」などいうものをテーマにするとなんか怪しいオカルトか宗教の話のように思われてしまうかもしれません。実際、普通の子育てや教育の場で「魂」につて語られることは滅多にありませんよね。シュタイナー教育は別ですけど。でも、「魂」という視点を持たないと「人間の教育」は出来ないのです。実際、「魂」という視点を持たない現代の教育が目指しているのは、「AIのような能力を持った子どもたちを育てること」ですよね。また我が子にそのような能力を望んでいるお母さんたちもいっぱいいます。だから早期教育に熱心だったり、子どもを勉強に追い立てているのでしょう。幼いうちから、子どもをテレビやスマホやタブレットなどに預けてしまっている人が「魂」について考えているとは思えません。そんな現代人が憧れる能力を持ったAIは「魂」というものを持っていません。ですから、自分の感性で「真・善・美」を判断することができません。AIによる判断は100%データに基ずくものであって、自分自身の感性によるものではありません。だから、どんなに高度な能力を持ったAIでも、「人を殺す方法を教えて?」と聞けば、なんの躊躇もなく教えてくれます。相手が子どもであってもです。AIを搭載した戦闘ロボットは、何の躊躇もなく人を殺すでしょう。こういう場合、普通の人間は躊躇しますよね。なぜ躊躇するのですか?それは「私の中のもう一人の自分」が自分の思考や行動を見ているからではありませんか。普通の人は「罰せられるから犯罪を起こさない」のではないですよね。「人を苦しめるようなこと」をすると、「もう一人の自分」が苦しくなるから「犯罪」を起こさないのですよね。その「もう一人の自分」を持っているのは人間だけです。だから監視する人がいなくても自制することが出来るのです。人間以外の動物たちはただ本能のままに行動するだけです。だから、自分と自分が戦うことで心が病むことがないのです。自分で自分を責めて苦しんでいる人がいっぱいいますが、それも「もう一人の自分」がいるから可能なんですよね。皆さんも「意識の主体としての自分」の他に、「自分を見つめるもう一人の自分」を持っていますよね。それを感じることが出来ますよね。中にはその「もう一人の自分」の働きが弱い人もいるかもしれませんが、そのような人はこのような面倒くさいブログは読まないと思います。私は、その「もう一人の自分」を「魂」だと考えています。だから「魂」は当たり前の存在であって、怪しい存在でも、特別な存在でもないのです。話しがオカルト的になったり面倒くさくなるのは、その「魂」が「輪廻」や「霊的な世界」という考え方と繋がるときです。でもそれは検証不能のことなのでここでは扱いません。私は原則として、皆さんが自分でも検証できるようなことしか書かないようにしています。でも今、その「もう一人の自分」の育ちが未熟なまま育っていく子どもたちが多いような気がするのです。そのような状態の人は「匿名」なら好き勝手なことを言ったりやったりしてしまいます。それを止める「もう一人の自分」が目覚めていないからです。子育てや教育を「魂の育ち」という視点から見直してみませんか。そうでないと、人間も社会もどんどん「人間らしさ」を失ってしまうような気がします。というか今もうすでに現在進行形ですけど・・・。
2024.06.10
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今日は、身近にある「ビニール袋」を使って作るものをご紹介します。このような「工作」は、雨で外に出られないような時などに非常に有効な「親子遊び」です。最初にご紹介するのは、牛乳パックの底の部分で出来た小さな箱からストローが飛び足しているだけのものです。このストローを吹くと、なかなかモワモワと何かが膨らんで出てきて「猫」になります。「猫」は台所で普通に使っている薄手のビニール袋で作っています。仕掛けはこうなっています。子どもは大好きです。同じ原理のもので、傘袋と紙コップを使ったものもあります。写真のものは「お化け」になっていますが、絵は何でもいいです。傘袋は雨の時などにスーパーの入り口に置いてありますから、2,3枚多めにもらってきて下さい。また、以下はビニール袋の口の部分に、鯉のぼりの口のように厚紙を丸くして貼ったものです。こうすることで、ぺっちゃんこにして放り投げても、以下の写真のようにパッと膨らんで落ちてきて、しかもちゃんと立ちます。パラシュートと同じ原理です。面白いですよ。袋に動物などの絵を描いておくと楽しいです。耳の部分はセロテープでちょっと細工しています。ちなみに、ビニール袋はそのまま膨らませても楽しい風船になります。普通のゴムの風船よりも、弾ませた時の音も感触も、昔懐かしい紙風船の感じになります。あと、45リットルのゴミ袋を二つつなげて空気を入れると、写真のような大きな風船になります。写真はカラーの袋を使っていますが、普通の白いやつでも同じです。口と口の部分を合わせて、空気がもれないようにしっかりとセロテープで貼ります。そして、角の部分を少し切ってドライヤーで空気を入れます。ドライヤーは「クール」でやって下さい。「ホット」だとビニールが溶けてしまいます。輪ゴムを二本使って口を止めます。子どもが上に乗ることがあるのですが、一本だと飛んでしまうのです。周りに絵を描くと楽しいです。あと、ビニール袋を切って「凧」を作る方法もあります。「グニャグニャ凧」などと言います。幼稚園や色々な所でも作る凧ですから、作り方は、ネットで探せると思います。簡単にできて、よく飛びます。
2014.10.12
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私はよく「子どもを待ってあげて下さい」ということを言っています。でも、待つためには信じる必要があるのです。信じることが出来ないから待てないのですから。でも一般的に、人が何かを信じるためには何か「根拠」が必要になります。これは宗教でも同じで、神を信じるためには「聖書」という根拠が、仏を信じるためには「お経」(仏典)という根拠が必要になります。でも、「幼い子どもの成長を信じる根拠」などどこにも存在していません。だから、お母さんは子どもの成長に不安を感じ、「自分がちゃんと仕付けないと」と頑張ってしまうのでしょう。また、待てなくなってしまうのもそのためでしょう。でも、待つために根拠が必要になるのは大人の話です。実際、幼い子ども達は何にも根拠がないのに「お母さん」を信じているのですから。幼い子ども達は、本能的に「お母さんは私を守ってくれる」「私を愛してくれる」ということを100%信じているのです。そしてそれはお母さん自身も感じているはずです。だからそれを利用して子どもをコントロールしようとしたりする人もいるのです。ではどうして、幼い子ども達は何の根拠もないのにお母さんを信じることが出来るのでしょうか。大人は何かを信じる時には根拠を求めるのでしょうか。これは大人と子どもとでは「世界とのつながり方」が違うからなのです。大人は意識と知識で世界とつながっています。だから、何かを信じるためには意識や知識を納得させるだけの根拠が必要になるのです。でも、幼い子ども達は、命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっています。そして、命の働きや、感覚や、からだの働きには「疑う」という機能がないのです。ファンタジーが生まれてくるのもそのためです。お風呂に入って「あーあったかい」と感じている時に、「これは本当に温かいのだろうか?」などと疑う人はいませんよね。「百聞は一見にしかず」ということわざもありますが、情報を聞くだけでは信じることが出来なくても、実際に見てしまえば信じるのです。そして子ども達が、人を信頼し、人と人のつながりに身を任せることが出来るようになるのは、子ども達が、この命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっている間だけなんです。モラルの基本が育つのもこの頃です。(7歳前後)でも、大人達がこの時期の子どもに知的な勉強を押しつけてしまうと、「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまうのです。なぜなら、一般的に「知的な学び」は、部分を全体から切り離すことで成り立っているからです。その結果、根拠がないと信じることが出来なくなってしまうのです。「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまった子は、「自分」を信じることも出来なくなります。その結果自己肯定感も低くなります。よく「根拠がない自信が大切だ」と言われますが、根拠がなくても自信を持つことが出来るようになるためには「つながりを感じる能力」が必要になるのです。「支えられている」という感覚があるから自分に自信を持つことが出来るのです。
2024.06.03
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人は「肉体」という形でこの世界に存在していますが、「肉体」として存在しているだけでは何も出来ません。それはただの「肉の塊」に過ぎないからです。その「肉の塊」がこの世界とつながり、この世界の中で生き生きと生き、この世界の中で幸せを得るために一番必要なのは「感覚の働き」です。それは全ての生き物において同じです。感覚の働きがなければ敵から逃げることも、食べ物を見つけることも、食べる事も、吸収することも、生殖することも出来ませんからね。その感覚の働きが全て消えた状態を「死」と言います。死んでも肉体は残りますが、もう何も出来ません。そして、その「感覚の働き」にも色々とあります。心を持たない生き物たちは「肉体を維持するための感覚」しか持っていません。原始的な生き物はその「からだの感覚」に従って生きています。それらの生き物の行動は全て反射です。でも、脳を持っているもう少し高等な生き物になると、「からだの感覚」以外の感覚も持っています。それは、他者との関係性を感じるための感覚能力です。特に群れを作る生き物たちは、この「他者との関係性を感じるための感覚能力」がなければ「群れ」を維持することが出来ません。いわゆる「五感」(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)と呼ばれるものは、直接自分自身に伝わってきた感覚を感じるためのものですが、その「他者との関係性を感じるための感覚能力」は、肉体に備わった五感の働きとは別のものです。それは「心の感覚」とも呼べるものです。時間や空間を感じる能力も「心の感覚」です。ただし、その生き物たちの「心」は、「心の原点」ではあっても、私たち人間の「心」と同じものではありません。それは一般的に「本能」と呼ばれているものです。でも実は「本能」も「心」の一部なんです。私たち人間にも本能がありますよね。お腹が空いている時に美味しいものを見ればヨダレが出てそこから意識が離れなくなります。また、大好きな異性が近寄ってきたらドキドキします。その反応自体は本能なんですが、本能も「心」の一部なので私たちはその「本能の反応」を「心の反応」として感じるのです。本能が動けば「心」も動くのです。でも、「人間の心」は人間以外の動物たちの「心」とは少し異なっています。人間以外の動物たちの心を支配しているのは主に本能ですが、「人間の心」には本能以外の要素が含まれているからです。私はそれが「魂」と呼ばれるものなのではないかと思っています。その「魂の働き」が育っている人は、本能に振り回されません。でも、人間でも「魂の働き」が育っていない人は本能に振り回されやすいです。精神的な自立も困難になります。「真・善・美」と呼ばれるものを感じるのも「魂の働き」です。「本能」は「生存に必要なもの」ですが「魂」は「成長に必要なもの」なんです。動物たちは感覚と本能にだけ従って生きています。犬や猿やイルカなどは「心」を持っていると言われていますが、そんな彼らでも、基本的には本能に従って生きているだけで「心の成長」を求めません。「心の成長」を求めるのは「魂の働き」に目覚めた人間だけなんです。問題は、「からだの感覚」や「本能」はほぼ「生まれつき」ですが、「魂の働き」や「魂の感覚」は生まれつきではないということです。そのため、「魂の働き」や「魂の感覚」が育たないまま、肉体だけが成長してしまう人もいます。そのような人は本能に従って生きています。そして、利害損得ばかりを求め、心の成長を求めません。「真・善・美」などというものにも興味がありません。でも実は、人間はみんな「魂の働き」や「魂の感覚」といったものを持って生まれてきているのです。でも、生まれたばかりの時にはそれは深いところに眠ったままなんです。それはどういうことかというと、例えば、「性欲」と呼ばれるものは生まれたばかりの赤ちゃんのからだの中にも本能として組み込まれています。でも、思春期にならないと目覚めないですよね。それと似ています。ただ「性欲」の方は肉体の成長と共に自然に目覚めますが、「魂」の方は子どもの周囲にいる大人が目覚めさせてあげないと目覚めないのです。子どもの成長における「7才まで」という時期は、その眠った状態の魂の働きを目覚めさせる時期でもあるのです。だから、7才前の子どもには美しいものを見せ、美しい音を聴かせ、心に響く物語を聞かせ、人とつながる喜び、学ぶ喜びを伝え、「生まれた来たこと」と「自分の成長」を喜ぶ心を育ててあげる必要があるのです。そのような体験が子どもの「魂の働き」や「魂の感覚」を目覚めさせてくれるのです。この「魂の目覚め」があるから、子どもは思春期が来た時に自立して生きていくことが出来るようになるのです。
2024.06.09
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四つの気質の関係は以下の図のようになっています。胆汁質と粘液質は男性的で安定しているという点では似ています。違いは、胆汁質の人の「気」は上半身に偏りやすく、粘液質の人の「気」は下半身に偏りやすいということです。よく「欧米の人は日本人に比べ、上半身の腕力は強いが足腰は弱い」というようなことを聞きますが、そういうこともこのことと関係しています。それはまた、武術やノコギリなどの道具の使い方にも表れています。上半身型の人(胆汁が強い人)は上半身を使うのが得意です。ですから、粘液質が強い日本人が使うノコギリは腰で引いて切るように出来ていますが、胆汁質が強い欧米の人が使うノコギリは上半身で押して切るように出来ています。上半身型の人は押して力を出すのが得意で、下半身型の人は引いて力を出すのが得意なんです。格闘技でも、レスリングやボクシングといった欧米発祥の格闘技では上半身の力を多く使いますが、相撲のような日本の格闘技は腰の力を多く使うように出来ています。お相撲さんは腕力も強いですが、それ以上に足腰が強くなければ相撲は負けてしまうのです。レスリングは転んでもOKですが、相撲では転んだら負けですから。また、欧米の「剣」は腕や上半身で振りますが、日本の「刀」は腰と腹で振ります。合気道や古武術のようなものでは、「いかに腕の力を使わないようにするか」というような、欧米的な格闘技ではあり得ないような考え方をしています。上半身の力を使うためには腕の力も必要ですが、下半身の力を使う時には、腕の力は逆に邪魔になってしまうからです。また、胆汁質の人が怒りっぽいのも、粘液質の人が滅多に怒らないのもこのせいです。「気」が上がりやすい人は怒りっぽいのです。踊りもまた違います。欧米の踊りはピョンピョン跳ねますが、日本の踊りでは腰をしっかりと落として、あまり上下動させません。ただこの「気」の状態はからだが変わることで変わってしまうこともあります。粘液質が強い人でも、上半身を鍛えることで気が上がりやすくなり「胆汁質」を強めることが出来ます。胆汁質が強く怒りっぽい人でも、下半身を鍛えることで気が下がり、粘液質的に感情が安定してきます。年を取って下半身が萎えてくると、気が上がりやすくなり、怒りっぽくなることもあります。そんな時はお散歩などをいっぱいするように勧めて上げることで、「怒りっぽい」という状態を和らげることが出来ます。また、現代人は昔の日本人と違って足腰を使わない生活をしているので、気が上がりやすくなってしまっています。そのため、イライラしやすくなってしまっています。多血、胆汁系の人は足腰を使わなくてもあまり問題はありませんが、粘液、憂鬱系の人は足腰をいっぱい使わないと不安定になりやすいのです。そういう視点で考えると、日本人は「楽で簡単便利な生活」には向いていない民族なのかも知れません。気質は「からだの状態」とつながっているので、「からだ」を変えたり、「からだの使い方」を変えることで(本質的な気質が変わるわけではないのですが)その状態を調整することが出来るのです。
2017.02.21
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今日で、この面倒くさい話を終わりにします。私はこういうことを考えるのが好きなんですが、でも多分、そんな人間は少ない思うので・・・。*********生き物にとって「感覚」は、常に周囲の状況を感じ、その場、その時に最適な反応や、最適な行動をするためのものです。これは植物でも、昆虫でも、動物でも、人間でも同じです。そのため、常に自分の「外側の世界」に向けられています。「疲労感」や「空腹感」のように、「自分の内側」を感じる感覚もありますが、でもそれらは自分を「他者」として感じる感覚ではありません。そして、人間は「他者」として認識出来る対象しか意識化することができません。「他者」でないものは、見えても見えず、聞こえても聞こえず、感じても感じないのです。それは目の中の「盲点」と同じです。脳には見えているのですが、意識化出来ないのです。だから、「相手のこと」は分かるのに「自分のこと」は分からないのです。それは、月や太陽が動いていることは認識出来ても、自分が乗っている地球が動いていることは認識出来ないのと同じです。そして、「自分のこと」が分からないのですから、「自分」を変えることも出来ません。多くの人が「自分」を変えたいと思っていますが、でも、「知らないもの」を変えることなど出来ないのです。それにしても人間は不思議な生き物です。自然界には無数の種類の生き物がいますが、「自分で自分を変えたい」などと思っている生き物は人間だけです。それは、人間だけが「意識」という不思議な働きを持っているからです。この「意識」の働きがあるから、人は「自分」というものを認識することが出来るのです。そしてその働きによって、「自分の心」「自分のからだ」「自分の記憶」「自分の生命」「自分のプライド」といった「自分の・・・」というものを持つようになったのです。だから「自分を変えたい」などと思うのですが、でも実は、この「自分」という意識が人間の全ての「心の苦しみ」の原因でもあるのです。「自分」という意識が、「自分」と「他者」を分離し、対立や、戦いや、競争の原因にもなっています。「自分」を守るために他者をやっつけたり、競争に勝とうとするのですが、相手も同じことをしているわけですから、相手にしたことは自分に返ってくるのです。でも、本当は「自分」というものは実在していないのです。それは意識の働きが作り出した錯覚に過ぎません。それは、「意識」という「鏡」に写った像のようなものです。みんなが一人一個ずつ「鏡」を持っていて、それぞれが、そこに写っているものを「これが自分だ」と言い合っているのです。よく、「死ぬときには何も持って行けないんだよ」などと言いますが、「鏡」に写っているだけのものを持っていくことが出来ないのは当然のことです。それなのに、人は常に「自分」を基準にして、考えたり、感じたり、行動しています。そして、「自分」は常に変わることがない存在だ」と思い込んでいます。それは「地球」を基準にして星の動きを観察しているようなものです。確かに、地球上の人間が地球を見れば静止しています。それと同じように、「自分」という意識から観た「自分」もいつまでも変わりません。でも実は、客観的な視点では「自分」は常に変化しているのです。「昨日の自分」と「今日の自分」は同じではないのです。「心」の状態も、「からだ」の状態も異なります。「細胞」も日々入れ替わっています。絶対だと思い込んでいる「記憶」すら日々変わっています。実は、人間の記憶は簡単に変わってしまうのです。でも、どういうわけだか、本人にはその変わったことが認識出来ない仕組みになっているのです。「意識」すら消えたり現れたりしています。でも人間は、「意識」が表れているときしか自分を意識出来ませんから、「意識」が消えている時間がいっぱいあるのにもかかわらず、「意識」が消えている時間を意識することが出来ないのです。それはCMを勝手にスキップして再生するビデオのようなものです。私は子どもの頃3年間ぐらい柔道の道場に通っていたのですが、時々5段以上の人が来て指導してくれました。そうすると、不思議なことが起きるのです。立って歩いていたはずなのに、気付くと畳の上に倒れているのです。いつ倒されたのかが分からないのです。意識の隙間を狙われたのでしょう。でも、初段とか三段ぐらいの人ではそういうことは起きませんでした。倒される瞬間の記憶があるのです。ですから、頑張って練習して上達すれば抵抗することも、反撃することも出来るでしょう。でも、知らないうちに倒されてしまうのは、単に技術が上達するだけでは解決出来ない問題です。人間の「意識」は自分に取っては絶対ですが、でも、あまりそれに依存しすぎると足をすくわれます。地球が動いていることを知るためには星の観察をして、その動きの合理的な仕組みを考える必要があります。見たまま、感じたままを信じるのではなく、他者との関係性の中でそれを理解するのです。相手の状態を「自分の状態の鏡」として理解してみるのです。子どもがイライラしているのは、お母さんがイライラしているからかも知れないのです。その繰り返しの中で、「自分のこと」が分かってくるのです。すると、「自分」が変わっていくのです。
2015.07.03
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現代人は昔の人が大切に考えていた「母性」や「父性」といった考え方や、「三つ子の魂百まで」という考え方を、「科学的根拠がない神話や迷信」として否定しています。でも、何にでも「科学的根拠」を黄門さまの印籠のように振りかざすのは非科学的です。コロナの問題でもテレビでは科学的データを元に色々なことを言っていますが、実際には、科学的データは科学的なものではありません。実は、科学的であるかどうかは、テータの取り方の問題であって、その結果得られたデータそのものは科学とは無関係な非常に人間的なものなんです。さらに、データの取り方は科学的であっても、そのデータを取ろうとする意図は人間的なものです。何人コロナに感染するかを富岳でシミュレーションしても、富岳にそのようなシミュレーションをさせようとする意図自体が人間的なものですよね。また、富岳にシミュレーションさせるためには様々な初期値を入れなければなりませんが、どういう初期値を入れるのかも非科学的な方法で人間が判断しています。だから同じ富岳を使っても、違う条件でシミュレーションさせれば簡単に結果は違ってきてしまうのです。より現実に近い条件を設定すれば、結果も現実に近づきますが、でも、「実際には何が起きるのか分からない」というのが現実の世界でもあります。だから、無数の条件を入力して予想させる天気予報ですら確率でしか予想出来ないのです。国立競技場の富岳を使った「コロナ感染予測」なんてちゃんちゃらおかしいです。また、科学的な方法で得られたデータだとしても、そのデータを解釈し運用するのは人間です。科学的な方法で「コップには半分水が入っている」ということが分かったとしても、それを「まだ半分残っている」とか「もう半分しか残っていない」と判断するのは非科学的な人間の心なんです。でも、科学を信仰し、自分の頭で考えることを放棄してしまっている人達は「これはスーパーコンピュータ富岳がシミュレートした結果だ」と言われると、そう言う人達の意図を予想せずに「ははー」と恐れ入ってしまうのです。全く非科学的なことです。で「母性」と「父性」に戻りますが、「母性」と「父性」の存在を科学的に証明できないのは当たり前のことです。「意識の存在」「命の存在」「心の存在」「音楽の存在」だって科学的には証明できないのですから。もっと言えば「自分という存在」の存在証明だって科学的には出来ないのです。じゃあ、「自分」や、意識や、命や、心や、音楽は存在していないのかというと、そんなことはありませんよね。科学的な方法ではそれらの存在証明は出来なくても、自分自身の感覚や感性では明らかにその存在を認識できているのですから。そして私たちの心、やからだや、生き方にとって大事なのは、「科学的に証明された事実」ではなく、「自分の感覚や感性で感じた事実」の方ですよね。私は、そもそも「母性と父性の存在」を科学的な方法で確認しようとしたところに、そういうものを否定したいという社会的意図を感じます。それは、人間を「無機的な社会機構を維持運営するための単なる労働力」として使おうとする政治的な意図です。労働力に性別はいらないのです。でも実は、「母性」や「父性」は迷信でも神話でもないのです。ただし、その定義は曖昧です。状態も人それぞれです。ましてや「母親とはこうあるべきだ」「父親とはこうあるべきだ」という社会的価値観とは全く無関係です。気付いている人は少ないかも知れませんが、「母親とはこうあるべきだ、父親とはこうあるべきだ」ということを信じる価値観と、「母性も父性も迷信だ」という価値観とは同じ種類のものなんです。否定派と肯定派は時として同じ思考方法を採るのです。だから対立するのです。現実は、否定も肯定も出来ないもっと曖昧なものなんです。母性とか父性といったものは「音楽」のように感じることは出来ても、その存在を証明することは出来ません。また、音楽にも色々とあるように、母性や父性にも色々とあります。優しい母性もあれば強い母性もあります。また、強い父性もあれば優しい父性もあります。大事なのは子どもを産み育てるときには、この母性と父性の両方が必要だと言うことです。だから人間は「つがい」を作るのです。皆さんだって、「子ども」や「子育て」に対する意識や、感覚や、認識が、自分のパートナーとは異なっていることぐらい経験的に知っていますよね。そして、この「違っている」ということが大事なんです。また、「10ヶ月以上自分のからだの一部として自分のお腹の中にいた我が子」に対して母親が持つ感情と、その経過をただ見ていただけの父親が、我が子に対して持つ感情が同じ訳がないのです。皆さんは「自分が一生懸命に創ったもの」と「お店で買ってきたもの」に同じような愛着を感じますか。普通は同じようには感じませんよね。また子どもにしても、10ヶ月以上、お母さんの温かいお腹の中で守られ、お母さんの声を聞き、お母さんが食べた栄養をもらい、お母さんと感情を共有し、お母さんのからだから産まれてきた子が、産まれてから初めて出会ったお父さんに対しても、お母さんに対するのと同じ感情を持つと思いますか。だから子どもは、母親には父親とは違うものを求めるのです。そして、母親も子どもにたいして父親とは違うものを求め、そして与えようとするのです。楽しく遊んでいるときにはお父さんでもOKですが、お腹がすいたり、悲しかったり、痛かったり、怖かったりしたときにはお母さんの方に行きますよね。子どもはお母さんには安心と安全と衣食を求めます。そして、2才頃まではお母さんがいればお父さんはいなくても子どもは満足しています。でも、2才頃になって社会性が目覚め始めると、お父さんに遊び相手を求め始めます。3才頃になるとお母さんでは物足りなくなってきます。大人の価値観では女性も男性も同じかも知れませんが、子どもにとってはお母さんとお父さんは全く違う存在なんです。だから違うものを求めるのです。それに応えようとする気持ちから生まれるのが母性であり、父性なんです。どうして子どもはそういうものを求めるのかというと、子どもの成長には母性と父性の両方が必要だからです。母性や父性はお母さんやお父さんが予め持っていたものではなく、子どもによって引き出されたものなんです。だから、脳の中を調べて科学的にその存在を証明しようとしても無理なんです。まただから、母性にも父性にも正解がないのです。親子の形に合わせて母性も父性も形を変えるのです。
2021.07.14
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子どもを自立した人間に育てるために必要なものは「自信」と「安心」です。 子どもの頃(14才まで)に、この二つの「しん」を育てることが、子どもの「人間としての芯(しん)」を創ることになるのです。その「人間としての芯」がしっかりとしているから、自立出来るのです。逆に言うと、なかなか自立出来ない人は自分の中に「芯」がないのです。この「芯」とは「心の芯」「からだの芯」「精神の芯」「感覚の芯」「思想の芯」などで、それらはお互いにつながっています。心に「芯」が通っている人は、からだにも「芯」が通っていると言うことです。ちなみに「芯」とは「しっかりと筋が通った基準」というようなものです。数学や物理学で言うところの「座標軸」のようなものです。「自信」と「安心」はその「座標軸」を育てる働きをするのです。では、でのようにしたらその子どもたちの「自信」と「安心」を育てることが出来るのかということです。この二つの原理はある意味で相反する要素を含んでいます。「自信」を得るためには、「不安」や「危険」を乗り越える必要があります。つまり、子どもの「自信」というものを育てようと思うのなら「不安」や「危険」をあまり取り除かない方がいいということです。でも、ただ「不安」や「危険」なだけでは子どもは逃げるばかりです。そこで「安心」が必要になるのです。きちんと見守ってもらっているという「安心」が子どものチャレンジ精神を支えているのです。ですから、子どもの育ちにはこの両方が必要になるのです。実は、この「自信」と「安心」は、それぞれ「父性」と「母性」の要素でもあるのです。つまり、父性的な働きかけが子どもの「自信」を育て、母性的な働きかけが「安心」を育てるということです。でも、お父さんが子育てに参加しない子育てでは、子どもは危険や困難から遠ざけられるばかりになってしまいます。女性は、安全、安心を与えようとするあまり、子どもの周囲から危険や困難を取り除いてしまうからです。その結果、子どもは檻の中に閉じこめられたような状態になり、自信を育てることが出来るような体験をすることが出来ないまま成長することになってしまいます。そして、「自信」が育っていかないので、自立を支えてくれるような「安心」も育っていかないのです。子どもが幼い頃には「安心」はお母さんから与えてもらいますが、成長するに従って「自信」が「安心」の基盤になっていくからです。成長するに従い「守ってもらう安心」から、「自分で問題を解決することが出来る安心」へと移行して行かないと自立することが出来ないのです。ちなみに、学校の勉強でいい成績を取って自信をつけても、その自信は社会に出たら通用しません。「村一番の神童」と呼ばれていても、神童ばかりが集まるような学校に行ったら、その自信はすぐに消えます。評価によって付けた自信はその評価を与えた場所から離れたら消えてしまうのです。そして今、子どもたちは、家庭でも、学校でも、社会でも、「安心」を奪われてしまっています。だから新しいことにチャレンジしません。お母さんも安心を求めて、子どもを狭い世界に閉じ込めようとしています。お父さんも子どもを外に連れ出しません。外の世界と出合わせないことで安心を確保しようとしているのです。でもその結果、狭い世界の中にいることが心地よくなってしまった子は、外の世界に魅力を感じなくなります。また、外の世界に不安を感じるようにもなります。そして、外の世界に出ていかなくなります。でも、子どもはやがて社会に出て行かなければなりません。その時急に、外の世界に出ていく自信が育っていないことに気付くのです。で、そのまま外の世界に出ていくことが出来ない子が増えています。
2022.11.25
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昔は「結婚」を前提として付き合ってから結婚するのが普通でしたが、最近は「お友達」として付き合っていて、「出来ちゃったから」結婚する人たちが増えてきています。また、そうでなくても「お友達」という関係の延長で夫婦になる人も増えています。そのような二人は、昔の夫婦と違って、仲が良くて、それはそれでほほえましいです。そのような人たちは当然、仲の良い「友達」のような夫婦関係を作ります。そして、家事も仕事も対等に分け合って生活しています。そこには「妻の役割」も「夫の役割」も存在していません。でも、奥さんの方が妊娠するとその「友達関係」は崩れます。女の人は妊娠すると、必然的に妊娠と出産と子育てという「母親としての役割」を引き受けなければならなくなってしまうからです。これは現代人がどんなに「男女平等」を謳っても、平等には訪れません。男女平等は「観念」であって、「現実」ではないからです。その時、夫の方が「父親」という役割を引き受けてくれるなら、家の中がちゃんとまとまります。自然界では、「0」(ゼロ)の状態から、「+」(プラス)が発生したら、同時に「-」も発生してバランスを取るように出来ています。ですから、人間の本能としては、「妻」が「母親」になったら、「夫」は「家族」を守るために、「父親」になっていたのです。本来、それが動物にとっての「オス」の役割なのです。でも、観念的な世界に生きている最近の男性は「父親という役割」が理解できません。また、「役割を引き受ける」ということに対しても抵抗感があります。これは女性も同じなのですが、女性の場合はそんなもの知らなくても、たとえ抵抗感があっても、自然の強制によって「母親」にならざるおえないのです。そして、痛みとか、時間とか、労働とか、心とかにおいて多くの犠牲を強いられるのです。それを喜びと共に受け入れる人もいっぱいいますが、そのリアルな世界の現実に、「こんなはずではなかった」と、「母親になった現実」を受け入れようとしない人もいっぱいいます。そのような人は、「母親の役割」を拒否します。そして、預けるか、捨てるか、殺します。祖父母に預けっぱなしの人もいるかも知れません。一緒に生活したとしても、世話をするだけで、「母親」として関わろうとはしません。それは「ペット」の飼育と同じです。もしくは子どもが幼稚園に上がるまでは“我慢して”「お母さんとしての役割」を引き受けていますが、子どもが幼稚園に行くようになったら“自由になった”と、「自分の生活」を優先させているお母さんもいます。そのようなお母さんは、子どもを色々な塾や教室に通わせて、自分は送り向かいだけをしています。「役割を引き受ける」と言うことは、何らかの犠牲を必要とします。それは、幼稚園の役員でも、仲間内の役割でも、「大人」という役割でも同じです。また、何らかの職業に就くということも、「役割」を引き受けることです。その「役割」を引き受けた人は、その「役割」によって、自分の時間と労働と自由を束縛されることになります。思考や感覚も束縛されます。「役割を引き受ける」ということはそのような「犠牲」を必要とするのです。でも、この時、能動的にその役割を引き受ける人はそれを「犠牲」とは感じません。なぜなら、能動的に関わる人たちはその「役割」から多くのものを学び、「人と人のつながり」という宝物を手に入れることが出来るからです。でも最近は、「母親という役割」、「父親という役割」だけでなく、「職業という役割」まで拒否する人たちも増えてきたようです。そのような人たちは、会社に行っていないでフリーな時には元気なのですが、会社に行くと「鬱」になるのです。そういう新しい形の「鬱病?」が増えているそうです。お母さん達もまた「役割」を引き受けようとはしません。それで幼稚園でも小学校でも役員決めで先生が困ってしまうのです。幼稚園などの活動でも、また共同保育などの活動でも、誰かが必ず何らかの「役割」を引き受けなければなりません。誰かが「役割」を引き受けてくれないことには、グループがまとまって活動することが出来ないからです。でも、その「役割」を引き受けようとする人は少ないので、結局いつも押しつけ合ったり、同じような人が「役割」を引き受けることになります。でも、それで他の人は感謝しているのかというと、文句や要求を言うばかりで協力的ではありません。「役割」を引き受けることから逃げる人は、要求するばかりなんです。これは、大人だけの問題ではありません。子どもたちでも同じなんです。今の子どもたちは「役割」を引き受けることを嫌がるのです。「自分だけ損をしている」と感じるようです。それで、罰ゲームのような形で「役割」が押しつけられます。遊びの中でも「役割」を引き受けない子がいます。コメントに書いて下さった、さちこさんのお子さんのように、鬼ごっこで遊んでいるのに、「鬼」を引き受けることを拒否する子も珍しくありません。逆に、鬼ばかりやりたがる子もいます。でも、そのような子どもたちに役割を強制しても無駄です。「役割」というものの大切さが分かっていないからです。役割は「押しつけるもの」ではなく、「引き受けるもの」なんです。そうでないと、その役割を通して成長することが出来ないからです。ではどうしたらいいのかというと、家庭の中でお手伝いなどの役割を作ったり、お母さんが幼稚園などの役割を引き受けて「役割を引き受けることの大切さ」を伝えていくようにした方がいいと思います。また、スポーツクラブでも、ボーイスカウトでも、遊びの会でも、多くの大人達によって支えられている何らかの活動に参加させるのもいいと思います。「役割を引き受ける」ということは社会的なことなので、基本的には社会の中で学んでいくことなのです。ですから、お母さんが子どもを自分のテリトリーの中に囲っている限り、子どもは役割を引き受けることが出来るようにはなりません。父親が「父親としての役割」を引き受けていない家庭の子に、そのような子が多いような気がするのですが気のせいでしょうか。**************************「父親の役割と母親の役割」という私の講座があります。2月13日(日)13:30~15:30会場は横浜の「Umiのいえ」というところです。詳しくは「Umiのいえ」のホームページをご覧になって下さい。
2010.11.22
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今、子ども達と遊んでいて非常に気になるのは、自分がやりたいことばかりやって、「役割」を交代しない子が非常に多いということです。縄跳びをしていても、ヒモを回す役割を交代しようとしません。それで「交代してあげて」というのですが、「だって飛んでる方が楽しんだもん」というような答えが返ってきます。鬼ごっこをしていても、鬼を交代しません。捕まったら「ぼくやめる」と言って抜けてしまったり、捕まりそうになると「タンマ」といってバリアーを張る子がいっぱいいて、最初に鬼をやった子が、いつまで経っても「鬼」のままです。逆に、「鬼」が好きな子がいて、「ぼく、ずーっと鬼でいいよ」などと言う子もいます。でもそれでは「鬼ごっこ」ではありません。昨日も、同じようなことで子ども達の遊び場を作ろうとしているお母さん達から相談を受けました。幼稚園児や小学生が混ざって鬼ごっこをしている時、小学生達が小さい子に「鬼」を押しつけ、自分たちは逃げるばかりで鬼を交代しないというのです。そして、捕まりそうになると「タンマ」と言い、捕まってしまったら「おれ、鬼やりたくないからやめた」と言って抜けてしまうというのです。私の体験としても、遊びの場などで同じような体験がよくあります。そして、ルールを守らない子どもに注意しても、「だって楽しんだからいいでしょ」とか、「何をしてもぼくの自由でしょ」などというようなことを言う子も少なくありません。でも、子ども達のこのような状態は、子ども達の責任ではありません。「役割を交代する」とか「ルールを守る」ことによって生まれる楽しい遊びを体験することなく、7才を過ぎてしまっているだけのことだからです。また、現代社会では、子ども達はあまりお手伝いをしませんから、家庭の中でも「役割」の体験がありません。「○○ちゃんはこれを洗っておいてね」というお手伝いも、「洗う」という役割を引き受けることなのです。でも、子ども達がこのままの状態で大人になってしまったら、あきらかに社会全体が非常に困ったことになってしまいます。というか、もうそういう大人がいっぱいいます。そのような人は、誰かが企画してくれれば喜んで参加します。でも、いつまで「お客さん」のままで、「美味しいところ」だけを味わってさっさと帰ってしまいます。市民講座を企画している公民館などの人に話を聞いても、公民館が企画して、責任を持ってやっている時には大勢参加してくれるのに、「そろそろ私たちは手助けをする側に回りますから、皆さんが中心になって企画して運営して下さい」と役割を受け渡そうとすると、パッとみんな消えてしまうというのです。意識の高い有志が集まって、仲間作りのための企画を立てても、「お客さん」としては大勢来てくれるのですが、みんな「お客以上」の立場にはなろうとしません。そしていつまでも企画してくれる人に、「オンブ」と「抱っこ」を求めます。そのくせ、何かあると責任だけはしっかりと追求してきます。幼稚園や学校などの役員も同じです。みんな「役割」から逃げようとするのです。それで、そんな状態に耐えられない責任感の強い人が、いつもその「役割」を引き受けることになります。だからといって、役割から逃げ回っている人たちは役員を引き受けてくれた人に感謝せず、ワガママばかり言って、素直に役員の言うことを聞きません。今、「鬼ごっこ」で遊んでいるのに、「鬼」という役割を引き受けない子ども達と同じような大人がいっぱいいるのです。このような大人は、自分の権利と自由はしっかりと主張します。そして、「義務を引き受けない自由」までもあると思い込んでいます。そんな自由まで認めてしまったら社会が崩壊してしまうのですが、そんなことには関心がありません。さらに問題は、夫婦関係や子育てという場でも、お互いのパートナーに対してその「権利と自由」を求めている人が多いということです。夫婦が役割を引き受け合わず、お互いに義務を押しつけ合う関係になってしまっているのです。先日、一才前後の幼児の兄弟が、車の中に放置されたまま死んでしまった事故がありましたが、奥さんが一人乗せ、ご主人が一人乗せ、お互いに相手が子どもを保育園まで連れて行ってくれるだろうと思い込み、そのまま放置してしまったそうです。こんな時、どちらかが「今日は私が連れて行くね」と役割を引き受けていたなら、こういう事故は起きなかったのです。また、子どもに対しても、平気で「個人の自由と権利」を求めるようなお母さんもいます。そのようなお母さんは自分の時間や自由を得るために、子どもを放置したり、テレビやゲーム機やおもちゃに子育てをさせたり、幼いうちから子どもを保育園などに預けようとします。経済的な理由などで、しょうがなくて子どもを保育園に預けるなら、それはしょうがないことです。子どもは寂しい思いをするかも知れませんが、少し大きくなれば、「自分を育てるためにお母さんは頑張ってくれたんだ」と理解し、受け入れてくれるでしょう。でも、最近は、自分の時間や自由を得るために子どもを保育園に預けようとするお母さんも多いようなのです。そのような人は、「仕事をするから子どもを預ける」のではなく、「子どもを預けたいから仕事をする」という逆の論理を使います。当然、そのようなお母さんは子どもと一緒の時にも積極的に関わろうとはしないでしょう。そして、「衣食住の世話をして、ケガや病気をしないように見張っていれば、母親としての責任は果たしている」と思い込んでいるでしょう。また、その問題点を指摘したとしても、実際問題として「それ以外に何をしたらいいのか」ということが分からないと思います。そのようなお母さん達でも子どもを愛していないわけではないのです。ほとんどのお母さんは子どもを愛しています。でも、「ペットの世話」と、「人間の子どもの育て方」の違いが分からないのです。これは知識の問題ではなく、感覚や体験の問題だからです。いっぱい本を読んでも、いっぱい色々な講座に参加しても、一般的にそのような方法で得られるのは「知識」ばかりです。でも、世の中には自分で体験しなければ分からないこともいっぱいあるのです。そして、子育てでは必要になるのは、「知識」よりもそっちの方なのです。だから人は、知識によってではなく、自分が育てられたように子どもを育てようとしてしまうのです。そして、「分かっているけど出来ない」ということで、自己嫌悪に陥ります。(だから私は講演ではなく、ワークショップという形で実際に体験することを重視しています。)子どもは「つながり」の中で育ちます。そして、「つながり」の中でないと育ちません。それは「つながり」の中で育った人には当然のことです。だから、「つながり」の中で育った人は、我が子ともつながろうとします。そして「つながり」の中に「幸せ」を感じます。そのような体験の中で、子どもも「つながること」の喜びを体験します。またそのような人は、「役割」を単なる「義務」や、「退屈」なことや、「嫌なこと」とは考えません。役割を引き受けることによってしか体験することが出来ない楽しい世界があることを知っているからです。鬼ごっこでは、「逃げる側」はただ反射的に逃げ回るだけです。でも、「鬼」は色々考え、工夫します。そうしないと捕まえることが出来ないからです。そして、工夫と努力の結果誰かを捕まえると、工夫と努力が報われた喜びを得ることが出来ます。「鬼の役割」ではそれが面白いのです。でも、そのためには一生懸命に「鬼」をやる必要があります。嫌々やっていたり、逃げる時と同じようにただ追いかけているだけでは誰も捕まえることが出来ないのです。その結果、「鬼の喜び」を体験することが出来ません。だから、鬼をやりたがりません。一生懸命にやるから楽しくなるのです。でも、「一生懸命にやって楽しかった」という記憶がないから一生懸命に取り組みません。だから、楽しくありません。だから、一生懸命にやりません。また、今の子達は一生懸命に何かに取り組むことが出来るほどの体力と気力を持っていません。普段から「からだを使った遊び」をしていないからです。そのため、走り回るとすぐに疲れてしまうのです。子ども達が「鬼」をやりたがらないのは、「鬼は走り続けなければならないから」ということも大きな理由だと思います。今、子ども達は、こんな困った悪循環に陥ってしまっています。
2013.03.21
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最初にちょっとご連絡。20日(月)の気質の講座は保育を用意しました。(別室保育)保育が必要な方はお早めにご連絡下さい。先着でお受けします。(定員7,8名です)///////////////////////////昨日のブログに対して“フリーバード”さんから、「生の美学」を伝えなければ、日本は滅びるでしょう。というコメントを頂きました。どうもフリーバードさんには次の手を読まれているような気がします・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今朝、“生命の大切さを伝える”というキーワードでネットを検索していて、「兵庫県立教育研修所 心の教育総合センター」の「命の大切さ」を実感させる教育プログラムというHPを見つけました。すごく細かく、研修プログラムが用意されていて、これだけのプログラムを作るのは大変だったろうなと思います。全部を見ていないのでそうはっきりとは言えませんけど、微に入り細に入りよく考えられているように感じました。ご苦労様です。でも、申し訳ありませんがこのプログラムを実施してもその苦労に見合うほどの成果は上がらないと思います。なぜなら、今の現状を分析して、その問題に対処するためにこのようなプログラムが構築されているからです。私が、何を問題にしているのかお分かりになりますか。普通は、トラブルが起きたらそのトラブルを解析して対処法を考えますよね。ここでもそれと同じ手法が使われているわけです。ですから、常識的に考えると、このように考えることの何が問題なのかは分かりません。でも、“対処法”というものは、最初からそのトラブルを前提としているのです。つまり、その対処法で対応していても、そのトラブルの原因も発生も消えないのです。ただ、トラブルが起きたときに多少は解決が早くなるというだけなんです。つまり、“風邪を引いたら風邪薬を飲んで、暖かくして早く寝なさい”ということを忠実に守ったとしても、風邪を引かないようにはならないということです。ただ、こじらせないで、早く治るというだけのことです。風邪を引かないようにする方法と、風邪を治す方法は同じではないのです。医者もそれが分かっていません。私達が今ここで問題にしなければならないのは“風邪を引かないようにすること”なんです。それが問われているのです。じゃあ、どうしたらいいのか。その答えは一つではありません。風邪の場合でも、からだを鍛える、食を整える、生活のリズムを整える、ストレスをためない、からだを冷やさないなどなど色々な方法があります。さらに、風邪を引かないようにするためにはその方法以上に自分の(子どもの)からだとの対話能力が必要になるのです。そして、このからだとの対話能力は指導、管理できないのです。ここで、この“からだ”を“心”に置き換えてみると“いじめ”や“自殺”の問題に対しても同じことが言えます。問題を解析して、対処を考えることはある程度頭のいい人なら誰でもできます。でも、問題が起きないようにするために必要なのは“頭”ではなく、心やからだとの対話能力なんです。(もちろん、頭も必要ですけど・・・。)頭から出たことは、相手の頭に届きます。心から出たことは、相手の心に届きます。からだから出たことは、相手のからだに届きます。魂から出たことは、相手の魂に届きます。そして、当然“いじめ”とか“自殺”の問題は、子どもたちの“心”、“からだ”、“魂”に届かなければ意味がないのです。だとすると、大人の側も頭ではなく、自分の“心・からだ・魂”を使って子どもたちに働きかける必要があるのです。そして、そのようなものはその人の生き方とつながっているので、どんな素晴らしい教育プログラムを作っても、それだけで問題が解決することなどあり得ないのです。でも、これは文科省の指導ではできません。まず、本人の自覚が一番大切だからです。ですから、文科省がどうにかしようなどと考えない方がいいのです。一番確かなのは、先生達にゆとりを持たせ、現場に任せることです。事件は現場で起きているからです。現場の状況によって必要なことが全く違うのです。そして、文科省は(しゃしゃり出ないで)現場の補助に徹する必要があります。そうすれば、少しずつ何かが変わるかも知れません。一番悪いパターンは、研修プログラムを作って、先生達を今よりも忙しくしてしまうことです。今、世の中全体がイジメへの対処法を求めています。それがより事態を悪化させてしまわないように願います。
2006.11.14
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今朝、6:30頃にアップしようとしたらサイトがメンテナンス中で、しかも今朝は7:00前に出なければならなかったので、今頃のアップになってしまいました。*******************************音楽の世界には「絶対音階」と「相対音階」という二つの音階があります。絶対音階を聞き分けることが出来る能力を「絶対音感」と言いますが、その絶対音感を持っている人たちは、鳥の声や、人の声や、何かを叩く音といった楽器でないものの音まで、すべて正確に「ドレミ」の音階で聞くことが出来るそうです。その絶対音階では「“ド”は何ヘルツ」というように音の高さが物理的に固定されています。そして、西洋の楽器の音階は全てこの「絶対音階」で作られています。ですから、ピアノの“ド”も、フルートの“ド”も、クラリネットの“ド”もみんな同じ高さの音になっています。また、アメリカの“ド”も、日本の“ド”も、ピッタリと同じ高さになっています。そのように音の高さが固定されているからこそ、色々な楽器で一つの曲を演奏するような合奏や、大勢が様々なパートを歌うようなコーラスができるわけです。それに対して、東洋の楽器には物理的に決められた音の高さがありません。同じ楽器であっても、楽器一つ一つが異なった音の高さを持っているのです。確かに、一つ一つの楽器には音階があるのですが、それが別の楽器の音階とは同じではないのです。それを相対音階といいます。ですから、笛と太鼓というような全く異なったもの同士なら一緒に演奏できますが、いくつもの笛で同じ曲を演奏するということができません。私はよくオカリナを作ったり、竹で笛を作ったりします。そして当然の事ながら、その笛にも「ドレミファ」の音階があります。そうでないと演奏することが出来ないからです。でも、あるオカリナの“ド”と、別のオカリナの“ド”は同じではありません。絶対音階で作られているピアノに合わせると、あるオカリナの“ド”はピアノの“レ”だったり、別のオカリナの“ド”は、ピアノの“ミ”だったりします。それでも、単独でならちゃんと演奏は出来るのです。それは普通の人の耳は、絶対音階ではなく、相対音階で音を認識するように出来ているからです。ただ合奏が出来ないだけです。そして、そのような違いは音楽の世界だけにあるのではありません。人間の認識にはこのように物事を絶対的な基準に合わせて認識する働きと、相対的な基準に合わせて認識する二種類の認識システムがあるのです。ちなみに、「相対的な基準に合わせて似て認識する」ということは「パターンや関係性によって認識する」ということでもあります。そして、脳の進化においては相対的に認識する機能の方が後から生まれたようです。物事を相対的に認識することが出来るようになったから、「意味」というものが分かるようになったのです。つまり、「音の位置」を確認するためには「絶対音階」が必要なのですが、「音の意味」を感じるためには「相対音階」が必要だということです。その相対的な認識は「パターン認識」(関係性の認識)でもあります。どんな大きさでも、どんな色でも、石の形やちょっとした葉っぱの形などにもハートを発見することが出来るのは、その能力のおかげです。また、昼間に見た色を夜に見ても同じ色と認識できるのも、その相対的な認識能力のお陰です。ちなみに、「だまし絵」はその能力の特性を逆手にとった遊びです。でも、絶対的な認識しかできないと、大きさや色や材質が異なったものは「別のもの」として認識してしまいます。つまり「融通が利かない」のです。ですから、「絶対音感」はかっこいいのですが、不便でもあるのです。知的な障害を持っている人たちもまた、相対的な認識が苦手で、融通が利きません。ですからいつも同じ基準を使って話をしてあげないと混乱してしまいます。「水道の水」を使って「水」の説明をしても、それは「雨の水」とは同じではないのです。特に、自閉症の子に強くこのような傾向を見ることが出来ます。そして、西洋は物事を絶対的に認識し、東洋は相対的に認識しようとする傾向があります。だから、西洋では科学が生まれ、東洋では真理に関する深い思索が生まれたのです。西洋では「絶対的なものさし」を使って世界を認識しようとし、東洋では「関係性のパターン」によって世界を認識しようとしたのです。これはどちらが正しいと言うことではなく、物事にはこの二つの側面があるということに過ぎません。その違いが音楽の世界にも現れているのです。ただ問題は、西洋の世界が「絶対の基準」と思い込んでいたものが、実は相対的な存在だったということなんです。西洋の音階でも実は時代によって音の高さが変わっていたようなのです。それが「時代の気分」を表していたのでしょう。物理的に“ドが何ヘルツ”と決められたのはつい最近のようです。また、“何ヘルツ”と言い表したとしても、地球上と宇宙船の中とでは同じ音にはなりません。パトカーに乗っている人にはあのピーポーピーポーという音の高さは一定ですが、通行人には車の速さや、自分との位置関係で音の高さは変わってしまいます。キリスト教を信じている人たちには「キリスト教の神」は絶対的な存在です。でも、宗教学の立場から見たら、キリスト教の神も相対的な存在でしかありません。欧米の人たちが「絶対の基準」にしてきたものは「人間が作ったもの」だったので、宇宙や自然という視点で見たら、少しも絶対的なものではなかったのです。(障害を持っている子の基準はもっと自然に近くて、もっと普遍的です。)実は、そのことが現代の様々な文明の問題の背景にあるのです。人間が、人間が作った「人間だけにしか価値がない基準」を絶対視して、「自分たちを支えてくれている自然」を作り替えようとしてしまっため、「自然」に歪みが生じてしまっているのです。でも、その反省がありません。そして、相変わらず「科学」や「人間」を絶対的な基準に据えて物事を考えています。だから「自然と共に」という生き方が出来ないのです。子育てでも「大人」を基準に考えてはいけないのです。大切なのは、大人と子どもの関係性の中にこそあるのです。昨日の朝日新聞に、子どもによるライターを使った火の事故が多いので、ライターの販売を規制するという記事が出ていました。現在出回っている9割ぐらいがその規制に引っかかって販売できなくなるそうです。でも、悪いのはライターなのでしょうか。そんな根拠どこにあるのでしょうか。確かに、「ライターが悪い」と定義してしまえば話は簡単になります。排除するだけですから。でも、そんな定義をしてしまったらライターを通しての大人と子どもの関係性が消えてしまいます。同じような理由でナイフも禁止されました。公園の遊具でも危険性を感じるような遊具は撤去されています。「ナイフは危険」というような絶対的な定義を作ってしまえば、誰も反対できなくなります。でもそれでは、昔の子どもたちがナイフの使い方を通して学んできたことを学ぶことができなくなります。イジメも同じです。イジメを子ども同士の関係性の現れとして見ないで「悪」として排除しようとするだけでは本質的な問題は何にも解決しないのです。でも、「絶対」を主張する人たちはそれをすぐに「善悪」の問題につなげて議論しようとするのです。「絶対」を裏付ける根拠がないので、善悪の問題にすり替えてしまうのです。そして、それに異を唱える人たちは「悪」にされてしまいます。でも、この世界には、「絶対の善」も「絶対の悪」もないのです。それを決める「絶対の基準」がないのですから。大切なことは「関わり方」を学ぶことであって、それを「悪」として排除することではないのです。人間は排除することが不可能な存在の上に浮かんでいる泡に過ぎないのですから。
2010.11.07
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空想と想像はあまり区別されないで同じような意味で使われることが多いかも知れませんが、実際には基本的な意味が全然違います。空想は自分の心の現れであり、脳が勝手に創り出すものです。それは夢と同じです。ですから、現実の世界に存在しているような論理や物理法則は無視されます。魔法のほうきに乗って飛ぶことも、お姫様に変身することも出来ます。それはシャガールの絵のような世界です。原因が分からない不安に囚われているような人や、自己肯定感の低い人は空想の世界に囚われている人でもあります。そのような状態の人は、客観的に考えることが出来ないので、苦しみから抜け出す方法を見つけることが出来ないのです。それに対して、想像の方は身体的な体験が基になっています。「水の中に入ったときのことを想像してごらん」と言われたとき、水の中の体験がある人はそれを想像できますが、体験がない人は想像できません。スポーツ選手が行うイメージトレーニングも想像です。いつも大車輪をやっている人は、大車輪をやっているときの状態をイメージすることが出来ます。それが想像です。でも、大車輪をやったことがない人はその状態をイメージすることが出来ません。当然、イメージトレーニングも出来ません。ちなみに、「イメージ」という言葉は想像の「像」のことです。造形的な活動をするときも、結果を想像しながら作ります。結果を想像しながら作るから、次どうしたらいいのかが分かるのです。でも、想像できない子は、どうしていいのか分かりません。そのため一つ作業が終わるたびに、「次どうするの」と聞いてきます。椅子を作るときも、足を一本切っただけで、「次どうするの」と聞いてきます。それで、「椅子の脚は何本?」と聞くと、「四本」と答えます。そこで、「じゃあ、どうしたらいいんだろうね」と聞くと、「あと三本切るの?」と気付きます。誘導されれば気付くのですが、想像しながら作っていないので、自分では次が見えないのです。だから誰かに依存しないとどうしていいのか分からないのです。昨日も、教室の子がカッターナイフをとんでもない持ち方で持って木を削ろうとしていました。どう見ても、手を切ってしまう予感しか感じないような持ち方です。その子は、「こう持ったら手を切ってしまう」とか、「こう持てばちゃんと切れる」という想像が出来ないのです。そんな時、「まだ体験が少ないからしょうがない」と考える人も多いかも知れませんが、でも、想像力のある子は、初めて使うものでも、なんとなく使い方が分かるものなんです。なぜなら、想像力がある子は観察力も高いからです。実は、観察力も想像力とつながっているのです。想像力のない子は「ちゃんと観察しなさい」と言われても、「ただ見ているだけ」しか出来ないのです。ただ見ているだけでは表面しか見えません。でも、想像力を使って観察することが出来る子は、内側まで見ることが出来るのです。想像力のない子は扇風機を見てもクルクル回る羽根と外形的なデザインしか見ることが出来ません。でも、想像力のある子は、その羽根を回しているモーターまで見ることが出来るのです。近年、子どもたちの科学離れが問題になっています。それで、方々で子どもたちに科学に対する興味を持ってもらおうと様々な実験イベントが開かれています。デンジロウ先生のような人も活躍しています。コンピュータやロボットを作る教室もあります。でも、実験をしたり、コンピュータやロボットを作るのと、本来の科学は別物です。科学の本体は目には見えない世界に存在しているからです。それは想像することによってしか知り得ない世界なんです。真偽のほどは不明ですが、ニュートンはリンゴが落ちてくるのを見て「万有引力」の発想を得たと言われています。でも、引力そのものは目で見ることは出来ません。どんなに一生懸命に見ていても引力そのものは見えないのです。そこで必要になるのが「想像力」なんです。目では見ることが出来ない世界の真実を見るためには想像力が必要なのです。想像力が乏しい人は戦争が起きてから戦争の悲惨さに気付くでしょう。戦争が起きる前に戦争の悲惨さに気付くためには想像力が必要なのです。でも、今の子どもたちは、その想像力が育ちにくい環境で育っています。子どもだけでなく、社会全体が目先の利害ばかりに囚われて、全体を見る「想像力」を失っています。ちなみに、これは気質も関係しています。胆汁質と粘液質の人は、比較的、想像するのが得意です。多血質と憂鬱質の人は、比較的、空想するのが得意です。でも、育てられ方や子どもの時の遊びの影響も大きいので、実際にはこの限りではありません。*******************今日は、家庭のオーブンで焼ける粘土です。焼き上がりは本物の粘土よりもちょっと軽く、安っぽいですが、造形で遊ぶには十分だと思います。油粘土で作ったものは固まりません。紙粘土は壊れやすいし、軽くて安っぽいです。でも、オーブン粘土も一応「焼き物」なので、それなりにちゃんとしたものが作れます。コート剤を塗ればちゃんと使えるコップやお茶碗も作れます。白っぽいやつ、赤っぽいやつ、黒っぽいやつがありますが、組み合わせて模様を作ることも出来ます。ペンダントや動物も作れます。赤っぽいやつはテラコッタのような状態に焼き上がります。親子で遊んでも、大人の趣味としても、充分に使えます。オーブン陶土「紅陶」 400g あす楽対象[メール便不可](陶芸 オーブン陶芸)オーブン陶土「黒木節」 400g あす楽対象[メール便不可](陶芸 オーブン陶芸)オーブン陶土「工作用」 400g あす楽対象[メール便不可](陶芸 オーブン陶芸)オーブン陶土 コート剤YU 100CC 27051
2017.06.27
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子どもと大人の価値観は異なります。子どもが喜ぶことと、大人が喜ぶことも異なります。子どもが望んでいることと、大人が望んでいることも異なります。子どもが求めていることと、大人が求めていることも異なります。子どもが楽しいと感じることと、大人が「楽しい」と感じることも異なります。子どもが生きている物語と、大人が生きている物語も異なります。子どもが見ている世界と、大人が見ている世界は同じではありません。子どもが感じている味と、大人が感じている味は同じではありません。子どもが聞いている音と、大人が聞いている音は同じではありません。でも、大人はそのことを知らないか、「まだ子どもで無知で未熟だからそういう状態なんだ」と、一方的に決めつけ、「子どもが大切にしていること」を否定し、「大人が大切にしていること」を押しつけています。そして、子どもの考え方や価値観は間違っていると思い込んでいるので、子どもが、子どもの考え方や、価値観や、感覚で行動すると、大人はそれを否定したり叱ったりしています。現代社会や、都市や、生活空間は、大人が大人の価値観だけに基づいて作ったものです。そこに子どもの価値観など少しも考慮されていません。そのため、現代の子どもは、大人が大人のために作った空間の中で、常に大人に監視されながら生きざるおえなくなってしまっています。大人のための空間の中では、子どもに「子どもらしい行動」をされたら、大人が困るからです。そんな子どもたちが子どもらしさを発揮出来るのは、「子供用」として与えられた小さな空間か、ゲームの中だけです。でも、子どもの頃に「子どもらしさ」を否定されて育った人は、大人になっても「自分」を肯定出来なくなってしまうのです。なぜなら、子どもも大人になれば価値観は変わるのですが、「否定された記憶」の方は子どもの頃のまま消えないからです。その結果、「子ども」を否定する社会では、「自分を否定する大人」ばかりになってしまうのです。そして、そのような状態の人は積極的に子どもを否定します。自分を肯定出来ない人は他者も肯定出来ないからです。確かに、最初に書いたように、「子どもの価値観」や「子どもが求めるもの」は大人のそれとは異なります。でも、同じものもあるのです。それは「幸せを求める心」です。子どもも「幸せ」を求めています。大人も「幸せ」を求めています。そしてその幸せは、「共に」という「つながり」のあるところにしかやってきません。「幸せ」は一人では実現することが出来ない状態だからです。どんなにお金を持っていても、どんなに毎日美味しいものを食べていても、孤独な状態の人の所には「幸せ」は訪れないのです。お母さんが子どもと一緒の状態に幸せを感じているとき、子どももお母さんと一緒の状態に幸せを感じているのです。子どもがニコッとしたときにお母さんもニコッと返してあげる。そんな時に、子どももお母さんも幸せを感じることが出来るのです。自分一人でどんなに頑張っても「幸せ」はやってこないのです。
2017.01.28
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英語の格言に、 “Work hard,play hard.” というものがあります。意味は、「良く学び、よく遊べ」ということです。現代人は、「学ぶこと」と「遊ぶこと」は対立する活動だと思い込んでいます。そのため、勉強や仕事で、楽しくなるような工夫をしても、「勉強は遊びじゃない」とか「仕事は遊びじゃない」などと言われます。憂鬱質が強い日本人には、「○○を楽しんでやる」という考え方自体が不謹慎なもののように思えてしまうのでしょうか。苦しみながらやる方が高貴な感じがするのでしょうか。まあ、大人が個人的な趣味でこのような感覚で勉強や、仕事や、何らかの活動をするのならそれもまたいいですが、でも、多血質が強い時期の子どもには、この考え方は通用しません。多血質が強い時期の子どもには、「楽しくないこと」からは逃げようとする本能があるからです。実は、「学ぶこと」と「遊ぶこと」は対立するどころか、補う合う関係になっているのです。特に子どもにおいてはそうですが、大人でも同じです。「学んだこと」が身になるためには「遊び」が必要なんです。「遊んだこと」が身になるためにも「学び」が必要なんです。そうでないと、学べば学ぶほど、頭も、心も、からだも固くなり、不自由になるだけです。いくら遊んでも、気晴らしや、時間つぶし的な楽しさしか得ることが出来ないため、「遊び」が「成長」に繋がらなくなります。また、子どもの場合は「学び」と「遊び」が分離していないので、「学び」もまた「遊び」の形で行われます。子どもはお話を聞いて学び、色々な体験をして学び、ケンカして学び、ケガをして学び、工作をして学び、仲間と遊んで学び、大人と関わることで学んでいます。ですから、「多様な学び」を子どもに与えたいと思うのなら「多様な遊び」や「多様な体験」が必要になるのです。「遊び」と切り離した、いわゆる「お勉強」的な学びは、子どもの頭や、心や、からだを固くするばかりです。自然や森の中だけの学びだけでなく、室内でも学びも必要です。一人だけの活動での学びだけでなく、仲間との関わり合いによる学びも必要です。子ども同士の中での学びだけでなく、大人との関わり合いによる学びも必要です。見て聞いて体験する学びだけでなく、言葉による学びも必要です。実際にやってみる体験だけでなく、イメージによる体験も必要です。このような多様な体験や学びが、子どもの「自由に考え、自由に生きる力」を育ててくれるのです。子どもの成長に必要なのは、単に「生きる力」を育てることではなく、「自由に考え、自由に生きる力」を育てることなんです。その「自由」の中で「自分らしさ」が育っていくのです。「自分らしさ」が育つためには「自由」が必要なんです。「自由」につながらない「生きる力」は、単なる「頑張る力」にしかなりません。
2018.03.31
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人には2種類のタイプがあるような気がします。真っ白いキャンバスを「自由に描いていいよ」と与えられた時、どうしていいのか分からずそれを苦痛に感じる人と、「やったー」と喜ぶ人です。前者は、マニュアルを求めたり、他の人の絵を真似するでしょう。でも、それでは「自分の絵」が描けないので、人真似をして一見「上手な絵」が描けても、いつまでも絵を描くことに喜びを感じることが出来ません。自己肯定感も持てません。ただ辛い作業になるばかりです。それなら、後者の人なら喜びと自己肯定感を持つことが出来るのかというと、そこに現実的な問題があります。日本の社会では、「自分らしい絵」を描く人より、「上手な絵」を描く人の方が評価されるからです。そのため、自分らしい絵を描こうとする人は否定、非難されます。そして、絵を描くことに自信と喜びを失っていきます。それでも私は、「上手な絵」を描くことより「自分らしい絵」を描くことを勧めます。なぜなら、それこそが自分が生まれてきた意味であり、生きている証だからです。そして私はそれが「命を大切にする」ということなのではないかと思っています。世間一般的に「命を大切にしよう」と言うときには、「死ぬな」「殺すな」というようなことばかりが言われます。でも、本当の意味で「命を大切にする」ということは、「死ぬな」「殺すな」ではなく、「しっかりと生きろ」「共に生きろ」ということなのではないでしょうか。私は、教師やマスコミが「しっかりと生きる」とか「共に生きる」という視点を抜きに、「命の大切さ」を説くことに非常に強い違和感を感じるのです。それは、「中味」よりも「容器」や「ラベル」を大切にする考え方です。でも、教師もマスコミもそのような視点からしか「命の大切さ」を扱いません。自分たち自身が「命」を大切にしていないことが明らかになったり、話が深入りすることを恐れているからでしょうか。そのような視点で見ていくと、現代社会は「命を大切にしない社会」です。「しっかりと生きる」とか「共に生きる」ということが大切にされていない社会です。子ども達は「子どもらしさ」を奪われ、ゲーム機を与えられ去勢されています。生き物たちも「生きる場」としての自然を失い、自分らしく生きることが困難になっています。だから、本来は山で暮らしている熊が人里に降りてきてトラブルを起こしたり、世界中の生き物たちがどんどん死に絶えているのです。直接的に殺してはいなくても、生きることが困難な状態に追い込んでいるのなら、それは殺しているのと同じなのに、そこは保護活動を行うなどのきれい事で何とか誤魔化します。自殺に関しても、子どもや多くの人を自殺に追い込むような学校や社会の状況の方は問題化せずに、「いのちの電話」などを開設したり、「自殺を止めよう」というスローガンだけは積極的に流します。そして、何の恥じらいもなく「命を大切にしよう」などと言います。そこには見栄や体裁ばかりを気にした「きれい事」があるばかりです。
2013.10.02
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昨日は夜にブログを更新したのでまだご覧になっていない方は昨日のからお読み下さい。さて、子育てや教育の場では子どもたちに良いものだけを与え、悪いものは排除しようとしています。それはある意味で当然のことです。問題は、何を「良いもの」として何を「悪いもの」としているのかと言うことなんです。それが間違っていたら、「良いもの」を与えているつもりで「悪いもの」を与えていたり、「悪いもの」を排除しているつもりで「良いもの」を排除してしまうことになってしまいます。すると、大人の善意が却って子どもの育ちを阻害することになってしまいます。そして、実際そのような押しつけを方々で見聞きするのです。そのような時によく使われるのが「あなたのためなんだから」という言葉です。子どもが言うことを聞かない時、“どうしてこんなことやらなければいけないの”と聞いてきた時などにこの言葉はよく使われます。すると子どもは反論出来なくなります。でも、自我の働きが弱い思春期前の子どもは自分の生理的、感情的衝動を抑えたり、コントロールすることが出来ません。それで結果として大人の言うことをやらないという事になってしまいます。というより、出来ないのですが、それを大人は「反抗」と受け取ります。そして、“あんたのためにこんなに心配して言ってあげているのに”と怒ります。そして、子どもは“ぼくはダメな子、悪い子なんだ”と思い込むようになります。この世の中には絶対的に「良いこと」も、絶対的に「悪いこと」もありません。ただその時間や状況において「適切なこと」と「不適切なこと」があるばかりです。オタマジャクシに“ジャンプしろ”と命令することは不適切なことです。でも、カエルをジャンプさせるのは適切と言えるかどうかはともかくとして、少なくとも「不適切」なことではありません。ましてやオタマジャクシやカエルが命令に従わないで、ジャンプしないとしても「悪いオタマジャクシ」でも、「悪いカエル」でもありません。子どもがタバコを吸うことは「悪いこと」だと言われています。ただし、ここでは「子どもが」という前提があります。つまり、「タバコを吸うことが悪いこと」なんではなく、「子どもがタバコを吸うことが悪いこと」なんです。また、大人であっても周りの迷惑になるような状況でタバコを吸うことは悪いことです。この場合の「悪い」という言葉は「適切ではない」というだけの意味に過ぎません。「善」と「悪」を対比させた時の「悪」ではないのです。「人を殺す」という事でさえそうです。一般的には「人を殺すことは悪いことだ」と言います。でも、その一方で戦争では正義の名の下に人を殺しています。するとそのようなニュースを聞いて子どもは混乱します。「生命を大切にしよう」と家庭や学校で教えているのに、畜産などの現場では動物たちの生命はただの商品としてしか扱われていません。現実の社会では「良いこと」と「悪いこと」は固定していないのです。それが固定しているのは宗教の中だけです。「子どもに良い環境を与える」「悪い環境を与える」という場合の「悪い」という言葉は、「善」と「悪」を対比させた時の「悪」とはその意味内容において全く別のものです。子どもが言うことを聞かない時に「全くあんたは悪い子だ」などと言いますが、これは実際には「困った子だ」程度の意味なんですが、言われた子どもは「僕は悪い子なんだ」と善悪の価値観で自分を否定してしまいます。子どもにはその行為がその状況において適切かどうかの判断はできません。子どもは関係性で物事を見ることが出来ないからです。子どもは「悪い」という言葉を聞いた時には「善悪」の「悪」を思い浮かべるのです。子どもは「善」と「悪」は分かるのです。子どもというものは大人が思っている以上に、宗教的であり、哲学的な存在なのです。だから、子どもに「悪いこと」と教えたことは大人もやってはいけないのです。子どもに「良いこと」と教えたことは大人もやらなければいけないのです。それが出来ない時にはそのような言葉を使わないことです。子どもがケンカをしている時に“ケンカは悪いことだから止めなさい”とは言ってはいけないのです。そうでないと子どもは“悪いことをしている僕は悪い子なんだ”と感じてしまいます。そんな時は、“ケガをするからやめなさい”とか、“みんなが迷惑をするからやめなさい”と言えばいいのです。でも、どうもしつけ絵本などを見ていると大人達は子どもの困った行動を子どもに「悪いこと」として教えているように感じるのです。「手を洗わないことは悪いこと」、「歯を磨かないのは悪いこと」、「ケンカをするのは悪いこと」などというようにです。どうしてこのように「悪いこと」という言葉を使うのかというと、「悪いこと」という言葉を聞くと子どもが反論してこないからです。上に書いたように子どもにも善悪は分かるからです。「手を洗わないと病気になるからちゃんと洗おうね」と言っても、子どもは「病気」と「手を洗う」事の因果関係が分からないので納得出来ません。それで「ぼく病気になってもいいよ」などと言ったりします。でも、こんな時「手を洗わないのは悪い子なんだよ」と言えば反論しません。反論したらもっと悪い子になってしまうからです。こんな時はただ「ご飯の前には手を洗おうね」「お散歩から帰ってきたら手を洗おうね」と言えばいいのです。このように、生活の流れの中に組み込んであげるだけです。「手を洗うのは良いこと」とか「洗わないのは悪いこと」などという表現を使うことは適切ではないのです。人間は「良い」「悪い」という言葉を使うと判断が停止してしまうのです。それは人間の精神の根元的なところに宗教的な働きが存在しているからなのです。だから古来から善悪の判定は神様の仕事だったのです。それが近代では人間がその判定を行うようになってきました。だから、もっともっと慎重にならなくてはいけないのです。単に、状況に合わないだけの行動なのに、「あんたのやったことは悪いことだ」と言われたら反論出来ません。また、言っている方は自分が「善」になった気分になって自分が言っていることが適切なことなのかどうかということを考えなくなります。大人が“言いつけを守らないのは悪い子だ”、“お母さんの言う通りにしないのは悪い子だ”と言う時、大人は神の役割を騙っていることになるのです。ケンカや戦争の時に双方が「自分こそが善である」と主張するのも同じです。善と悪の戦いは話し合いでは解決出来ないのです。でも、単に「適切ではないというだけのことなんだ」という視点を持てば話し合いの可能性が生まれます。思いつくままに書いたので話が整理されていませんが、時間がないのでこのままアップします。読みにくいかも知れませんが辛抱してください。
2009.03.31
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私は、人間にとって一番本質的な「幸せ」とは、「つながる幸せ」と「成長する幸せ」の二つなのではないかと思っています。子どもにとって「遊び」はこの二つの「幸せ」を満たしてくれます。お母さんと遊べば、お母さんとつながることが出来ます。仲間と遊べば、仲間とつながることが出来ます。そして、遊びを通して成長する事が出来ます。子どもにとっての遊びは、単なる「消費行動」ではなく、自分自身の成長とつながる「創造行動」だからです。コマ回しでも、竹馬でも、縄跳びでも、基地作りでも、成長する事によって更に楽しく遊べるようになるのです。子どもは遊びを通して、仲間とのつながりや、自分自身の成長を楽しんでいるのです。そしてそのことに幸せを感じているのです。だから、いっぱい遊んでいる子は満たされた顔をしているのです。でも、近年、ゲームのように他者とつながらなくても、遊びを通して成長しなくても、お金さえあれば楽しく遊べる遊びが増えて来ました。その遊びでは、頑張って努力して成長しなくても、お金さえ払えば高い能力を得ることが出来ます。ゲームの世界では「自分の成長」をお金で買うことが出来るのです。でも、その成長はゲームの中でしか有効ではありません。「オンラインでもつながりは作れる」という意見もあるかも知れませんが、顔を見せないオンライン上でのつながりは、「見かけのつながり」であって「本当のつながり」ではありません。それは、仮面舞踏会のようなものです。仮面舞踏会では、一緒に踊ったり、話したりしても本当のことは話さないものです。仮面舞踏会は、現実世界から切り離された状況の中で、ただその時だけを楽しむための場だからです。ゲームの世界も同じです。ゲームの世界の中にいると現実世界を忘れさせてくれるから楽しいのです。でもだから、そればかりに浸っていると現実世界を生きる能力を育てることが出来なくなったり、現実世界を生きる楽しさが分からなくなってしまうのです。「他者とつながる能力」も「成長する能力」も育たなくなります。「つながる幸せ」は「横の世界」とつなげてくれます。人だけでなく、様々な文化や、自然や、生き物や、草花ともつなげてくれます。それは、「つながりの中の自分」への気付きにつながります。「成長する幸せ」は「縦の世界」とつなげてくれます。そして、自分の可能性や、自分の価値や、自分が生まれてきた意味とも出会わせてくれます。「個としての自分」への気付きにつながります。この二つの「幸せ」を求める衝動によって、人間は人間らしさに目覚め、様々な文化や文明を築き上げてきたのです。ですから、このいずれの「幸せ」が失われても、人は虚無感と不安を感じるようになります。「成長する幸せ」を失うと、生きる意味や目的を失います。すると、その代償として、「お金を得ること」や「競争に勝つこと」に、自分の価値や幸せを求めるようになります。でも、お金を得たり、競争に勝つことによって得ることが出来る幸せは一時的なものです。また、その幸せはすぐに「得たものを失うかも知れない不安」に移行します。さらに、仲間ではなく敵を作ったり、妬みや恨みを買うことにもなります。一方、「成長する喜び」を知っている人は、一生成長を求めます。そして、「敵」ではなく「仲間」が増えていきます。子どもは自分の成長を感じた時、幸せと喜びを感じます。だから、お母さんに「ママ見て!」と見せに来るのです。学校の勉強がつまらないのは、学校の勉強が子どもの成長につながっていないからです。「つながる喜び」を知っている人は、活動的に自分の世界を広げようとします。相手に勝とするのではなく、相手を支えようとします。だから「仲間」が増えます。仲間が増えれば安心も、自己肯定感も増えます。人間だけでなく、群れて生活する動物たちも「つながる喜び」は知っています。仲間と一緒に居ると安心します。でも、「成長する喜び」を知っているのは人間だけです。人間だけが、「見えない世界とのつながり」を感じることが出来るからこそ、成長する事を喜ぶことが出来るのです。「成長する」ということは「出来なかったこと」が出来るようになることだけではありません。「分からなかったこと」が分かるようになる、「見えなかったもの」が見えるようになる、「聞こえなかったもの」が聞こえるようになる、「感じることが出来なかったもの」を感じることが出来るようになることが「成長」の本質なんです。「出来なかったこと」が出来るようになるののはその結果に過ぎません。
2023.05.03
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心とからだの不自由をもたらす「支配」と「被支配」の関係は、「自分」と「他者」の間だけで起きるわけではありません。わかりやすい例としては、私たちは「常識」にも支配されています。疑うことも出来ない状態で支配されているからこその「常識」なんです。でも、その本人はそのことを知りません。対人関係で何かトラブルがあると「相手の方が非常識だから」と考えるだけです。でもその相手も、「自分の常識」に従っているだけなのかも知れません。「自分の常識」は「他人の非常識」であることも多いのですから。でも、「常識」に支配されているばかりでその「常識」を疑わないような人は科学者にはなることが出来ません。「なんでリンゴが落ちてくるのだろう?」という言葉に、「何言っているの。そんなの常識だろ」としか返せないような人は科学者には向いていないのです。詩人にも、アーティストにも、教育者にも向いていません。というか、自分の人生を「自分自身のもの」として生きることも困難でしょう。また、「大人の常識」に支配されている人は子育ても苦労します。「子どもの常識」と「大人の常識」は全く異なるのですが、「大人の常識」に支配されている人はそれが分からず、子どもに対しても「大人の常識」をそのまま押しつけようとするからです。でも、子どもには「大人の常識」は通用しないので、大人が伝えたいことが伝わりません。すると、子育てが「勝つか負けるか」の戦いになってしまいます。でも、この戦いは、子どもの心も、お母さんの心も傷つけます。どちらも悪くないのですが、「大人の常識」に支配されている人にはそれが分からないのです。また、人間は「感覚」や「思い込み」にも支配されています。ゴキブリを見るとギャーギャー言って逃げ惑う人も多いですが、本当は、逃げ回る必要があるのはゴキブリの方であって、人間は逃げ回る必要などないのです。「ゴキブリ」という言葉を聞いただけで嫌悪感を感じてしまうので「G」と略したり「茶色いあれ」と言い表したりする人もいますが、そのような人は「ゴキブリ」に感覚を支配されているのです。不潔だからといって、「電車のつり革」や、「道ばたに咲いている草や花」にすら触ることが出来ないような人も、「感覚」や「思い込み」に支配されています。「電車のつり革」も「道ばたに咲いている草や花」も、何にも攻撃して来るわけではないのに、恐れているのです。それどころか、幼い時からそういう雑菌と触れあうことで免疫力が育っていくのです。最近のテレビを見ていると、生活の回りのもの全てを除菌しないと、すぐにでも病気になってしまうように言い立てていますが、それは、不安を煽って支配しようとしているのです。商品を買わせるための支配です。でも、それに支配されて「除菌宗教」にはまってしまうと、子どもの免疫機能が育ちにくくなり、からだは弱くなります。様々なことに対して不安が強くなり、積極的に活動できなくなります。子どもの「子どもらしさ」を否定して回らなければならなくなります。この「不安を煽る」というのは、人を支配しようとする人がよく使う手です。「ミサイルが飛んでくるかも」と言い立てて不安を煽っている人もいます。そのくせ、役にも立たないような情報しか流しません。本当に危険ならば不安を煽るのではなく、もっと具体的に対処法を考え、伝えるべきです。原発に落ちた場合のことも真剣に考えるべきです。でも、それをしないということは単に不安を煽るのが目的としか思えません。お母さん達も、「勉強しないと・・・」とか「歯を磨かないと・・・」と言って子どもを脅していますよね。意識していないかも知れませんが、それは、子どもを支配しようとする行為に他なりません。ただし、「歯を磨かなくてもいい」ということを言いたいわけではありませんからね。「不安を煽って子どもを追い立てないようにして下さい」ということです。何かに支配されている人ほど、自分よりも下位の相手に対しては、この手を使おうとするのです。支配されている人ほど支配したがるのです。子どもには大人の常識は理解出来ませんから、お母さんがお母さんの常識で子どもを支配しようとしても子どもは言うことを聞きません。怒鳴っても、叩いても言うことを聞きません。反抗しているのではなく、出来ないのです。それで、「叩いても無駄だ」ということを知っている人は、不安を煽るようなことを言って、言うことを聞かせようとします。「力」や「威嚇」ではなく「不安」で支配しようとするのです。比較的、学歴が高い人ほどこの方法を使っているような気がします。でも、この手を使うと、子どもの心の中に「不安」が定着してしまい、大人になっても「不安」に支配されるようになります。そして、我が子に対しても同じ事を繰り返します。ちなみに「不安」と「心配」は違いますからね。私は心配性ではありますが、不安を感じたりはしません。色々心配だから「雨が降ったらどうしよう」などと色々なことを考え、色々なことを準備するのです。でも、不安に囚われているだけの人は、実際には何もしません。「心配」は人を考えることや行動に向かわせますが、「不安」は人の心やからだをただ固めてしまうだけです。不安から抜け出せない人は「何か」に支配されているのです。その「何か」に気付けば、不安も消えるのです。「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花(ススキ)」の句の通りです。
2024.05.15
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私たちは日常的に「感じる」とか「感覚」という言葉を使っていますが、その意味と役割と働きについて知っている人はほとんどいないと思います。だから、これほど早期教育や知育教育がもてはやされているのでしょう。そこに気づいたのが教育者としてはモンテッソーリとシュタイナーの二人でした。でも、二人はその感覚の捉え方においては全く異なっています。簡単に言うとモンテッソーリは感覚を「関わり合いによって育てるもの」と考え、シュタイナーは「環境の中で育つもの」と考えていたと言うことです。ただしこれは「極端に言うと」ということであって、その境界は曖昧です。環境を整えるのも間接的な「関わり合い」ですし、「関わり合い」もまた「環境」の一部ですから。そしてモンテッソーリは「関わり合いの方法」を創り出しました。それが「モンテッソーリメソッド」と呼ばれるものです。でも、シュタイナーはそのような具体的な方法を創ることはしませんでした。そのかわり、子どもの感覚が育つための環境をどのような視点に立って整えたらいいのかという思想を創りました。その「環境」の中には、大人の話し方や、立ち居振る舞いや、生き方や、住環境までも含まれます。だから「方法化」することが困難なんです。そのためモンテッソーリ教育では「大人が子どもを教育する」という立場を取りますが、シュタイナー教育では「大人は子どもの育ちの導き手」ではあっても、「教える」という立場の存在ではないようです。ですから、一般的にシュタイナー教育の先生は教えません。自分で気づくように環境や体験を整えるだけです。(ここに書いたことは学者でもない素人の私が、個人的な学びによって感じた感覚なので、もし専門に勉強なさっている方で、「ここは間違っている」という点がありましたらご指摘下さると嬉しいです。)そのためこの両者は同じように「感覚」に着目して、「子どもの感覚育て」を大きな柱にしているのですが、結果として子どもの中に育っていく感覚の質が異なっているような気がします。モンテッソーリ教育で育つ「感覚」は「外部を感じ取る感覚」がメインになると思います。そして一般的には「感覚」とはこのような認識で受け止められています。普通、「もっとちゃんと感じなさい」と言うときには、外部を感じる感覚を指しています。それは音であり、色であり、変化であり、動きであり、味やにおいや気配などです。ところが、(私が理解している)シュタイナー教育では、「(自分の)内部を感じる感覚」が育つような気がします。それは、快・不快の感覚であり、真・善・美の感覚です。「赤」と「青」を見分ける感覚ではなく、「赤」を味わい、「青」を味わう感覚です。「色」を見分けるのはそれほど難しくありませんが「音」を聞き分けるのはなかなか難しいものです。大人でも出来ません。違う「音」を並べてもらえば「違う」ということは分かりますが、時と場所を変えて聞かされると、比較できないために区別が困難になるのです。(本当は「色」も難しいのですが、色には「名前」があるので認識しやすいのです。)そんな時、自分の感覚やからだに響く感覚を味わうことが出来る人は、自分の感覚やからだが物差しになって、違う場所で聞いた音の違いを感じ分けることが可能になります。それはある意味で、「絶対感覚」というようなものだと思います。それに対してモンテッソーリ教育で育つのは「相対感覚」というようなものだと思います。ただし、この両者に好みの違いはありますが、優劣はありません。人間の生命や生活にとっては両方共が必要な感覚です。音楽の世界でも「相対音感」と「絶対音感」は両方共に必要なものです。ただ、芸術家などは「絶対感覚」がないと活動が出来ないと思います。でも、社会活動に必要なのは「絶対感覚」ではなく「相対感覚」のような気がします。心が病んでしまった人に対しては、シュタイナー的な「絶対感覚」を目覚めさせることが治癒につながります。「絶対感覚」が目覚めることで「自分」というものをはっきりと認識することが出来るようになるからです。心が病んでいる人でも「赤」と「青」を見分けることは出来ます。でも、赤い色を見て「赤」を味わい、「青い色」を見て「青」を味わい、その感じを言い表すのは困難なような気がします。そこには「自分との対話」が必要だからです。ですから、シュタイナー教育では「治療教育」というものに非常に力を入れています。この能力は社会生活には必要ありませんが、自分の生命を自分の意志で生きるためには必要な感覚だと思います。でも、現代社会ではこの感覚が完全に忘れられてしまっています。だから、心を病む人が増えているような気がするのです。ただし、しつこいようですが、私は「どちらが正しい」とか「どちらの方が良い」ということを言っているわけではありません。それよりも、物事を二つ以上の視点から複眼的に見ることの方が大切な気がします。どちらか一つだけに偏ると、「自由」を失い、長所も短所に変わってしまうものです。かといって、いわゆる「いいとこ取り」という考え方で、自分の立場をはっきりとさせないまま行うと、両方とも台無しになります。「自分の好み」に合わせただけの「いいとこ取り」は、「複眼」ではなく「単眼」だからです。
2012.03.15
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「本能」とは、その種を存続させるために働いている「生命の智恵」です。ですから、その「本能」を失えば、その種は「らしさ」を失い、途絶えます。それは、人間が「人間としての本能」を失えば、「人間らしさ」を失い、「人間」という種は途絶えてしまう、ということです。またそれ故に、「生命」を持たない機械には「本能」はありません。そして、一般的に「性欲」などの、「○○欲」と呼ばれるものも「本能の一部」です。一般的には悪者扱いされることもある「性欲」ですが、全ての人がこれを失い、聖人のようになったら人類は滅亡します。「無欲な聖人」は、時に一つの「理想」のように語られることもありますが、みんなが聖人になったら人類は滅びてしまうのです。人類を支えているのは「欲に支配されている多くの凡人」なのです。「食欲」、「支配欲」、「物欲」といったものもよく悪者扱いされますが、これらもまた人類が「人間」として存続するために必要な本能です。人々がこの本能を失ったら、社会は崩壊します。ここで問題になるのは、「○○欲」の是非ではなく、その使い方であって、その存在ではないということです。若い男性がセクシーな女性を見てムラムラするのは正常なのです。問題はその「本能」を暴走させずに「理性」で抑えることが出来るかどうか、ということの方です。ですから、子どもの教育においても「理性を育てる」ということは非常に重要な課題になります。「性欲」そのものを失ってしまったら、子作りも困難になるし、男女の愛情も消え、「家族」というものも成り立たなくなるでしょう。でも最近、性欲が弱い若者が増えてきているようです。セックスに興味がないとか、さらには「気持ちが悪い」という感性の若者までいるようです。夫婦なのに、最初からセックスをしない夫婦も増えてきているようです。その場合は単なる同居人です。そして、セックスは嫌いなのに、子どもは欲しいといって人工授精を希望する人もいるようです。「子ども」が「夫婦の愛の結晶」ではなくなって来つつあるのです。本来、「本能」と「理性」は「エンジン(アクセル)」と「ブレーキ」のような関係になっています。そして当然のことながら、「ブレーキ」が弱い自動車は暴走してしまうため非常に危険です。その時に必要な対応は、「ブレーキ性能」を高めることであって、「エンジンの出力」を下げることではありません。でも、多くの人が、事故の直接の原因になった「エンジン」の出力を弱める方にばかり意識を向けています。なぜなら、新しく「ブレーキ機能」を育てるよりも、今すでに存在している「エンジンの機能」を下げる方が簡単だからです。そして、「ブレーキ機能」には目を向けません。確かに、エンジンの機能を押さえて動かなくしてしまえば事故は起きなくなります。でもそれでは、自動車の存在意義まで消えてしまいます。でも、それと同じようなことをみんなやってしまっています。子ども達が荒れてケンカが増えているとき、みんなを仲良くするのは難しいですが、鎮静剤を与えて、無気力にしてしまえば、ケンカは起きなくなります。実際、アメリカなどでは問題児対応に薬を使うのは珍しくないようです。でもそれは、教育放棄でもあります。「子どものケンカ」は子どもの能動性や本能の表れですから、それ自体は否定するべきことではありません。大切なのは、「仲直りの能力」を育ててあげることの方です。「仲直りが出来る能力」を持った子同士のケンカなら、放っておいても問題はありません。でも、すぐに「相手の責任を問う社会」では、問題の本質を考えるより、問題が起きないように押さえてしまう必要があります。保育所のような「子どもを預かるような場」でも、「子どものため」と色々な体験をさせようとすると、当然危険も増えます。その時、「多少のケガなら子どもだからしょうがない」と笑っていてくれる親ばかりならいいのですが、ちょっとのケガでも保育者の責任を問う親が多ければ、子どもを檻の中に閉じ込めて、何も体験させないようにせざる終えなくなるでしょう。その結果、子どもは自分で自分の身を守る能力を育てる事が出来なくなり、更に危険な状態になります。このような子は「ブレーキ性能」も、「エンジン性能」も育たないままになります。エンジンを働かせることが出来ない状況で育てば、ブレーキ性能も育たないのです。ただ問題は、思春期頃までは親や大人の力によって、エンジンが動くことを押さえることが出来るのですが、思春期頃になり、生命エネルギーが高まると、急にエンジンの出力が高まり、大人が押さえることが出来なくなってしまうということです。すると、「ブレーキ機能」が未成熟なまま、エンジンだけが動き出すことになります。
2014.07.10
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最近の子は「考えること」を楽しめないようです。というか、「考える方法」自体を知らないようです。ですから、ちょっと考えれば分かるようなことでも平気でスルーしてしまいます。安易な気持ちで「闇バイト」に手を出してしまう子や、スマホを見ながら歩いたり自転車に乗っている子も同じ状態なのでしょう。ちょっと考えれば分かることなのに、それをしないで事故や事件に遭ってから「自分がやった事の意味」に気付くのです。でもそれでは手遅れなんです。造形などの場でも、ちょっと見ただけで難しそうだと手を出そうとしません。手を出してもすぐに行き詰まり、自分の頭で考えようとせず、やってみようともせず、〝出来ない〟〝わかんない〟〝先生やって〟などと言い出します。手順を教えてあげれば出来るのですが、考えようとしないのでその手順を自分で見つけ出すことが出来ないのです。また、うちの教室では組み立てるだけのキットではなく、素材そのものを与えているので、手順を教えても手順通りには出来ないことも多いです。竹で水鉄砲を作る場合は、水鉄砲に丁度いい太さ、形、長さの竹を選ぶ所から始めなければなりません。昔の子はみんなそれをやっていたわけです。でも、おもちゃ屋さんで売っている水鉄砲でしか遊んだことがない子にそんなこと分かりません。それはそれでしょうがないので、ある程度私が選んで与えます。そして、水鉄砲の仕組み、原理、作る時の注意点を教えます。でも、ほとんどの子がこれだけでは作り始めません。そして、「作り方教えて」と聞いてきます。多くの子が、仕組みや原理ではなく、手順を教えてもらいたがるのです。今、仕組みや原理には興味がない子が本当に多いのです。自分の頭で考えようとしていないから仕組みや原理には興味がないのでしょう。まただから、自分の頭で考えることが出来ないのです。それで、「いやだから、今説明したよね。(見本を見せて)こういう仕組みになっているんだから、同じように作ればいいんだよ」と言うのですが、すると見本と同じ長さ、同じ形で作ろうとするのです。これは子どもだけではありません。お母さん達もまた同じです。多くのお母さんが、子育てやしつけのハウツーばかり聞いてくるのです。でも、子どもは規格品ではありません。一人一人感覚も、心も、からだも、気質も違います。子どもはみんな「神様の特注品」なんです。だからこそ、「子どもに合わせた子育て」や「子どもに合わせた教育」が必要になるのです。子育てや教育においてはハウツーやマニュアルは役に立たないのです。でも、多くのお母さん達がその「役にも立たないハウツーやマニュアル」ばかりを求めています。「大人に合わせた子育て」や「大人に合わせた教育」を子どもに押しつけています。ただし、「子どもに合わせる」と言っても、子どもをお客さんにしたり、子どもの言いなりになるわけではありません、また、子ども自身もそんなこと求めていません。「子どもの要求」に合わせるのではなく、子どもの「命の働き」や「成長の状態」に合わせるのです。でもそれをするためには、子どもの「命の働き」や「成長の状態」に意識を向け、その場の状況や子どもの状態に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考える必要があるのです。具体的には子どもをオモチャやテレビやスマホやゲーム機に任せるようなことをせず、子どもと一緒に、手や、感覚や、からだや、頭を使うようなアナログ的な生活を楽しむようにしていれば、自然と「子どもの命の働きや成長の状態」が見えてくるのです。などというようなことを言うと、「私は子どもの犠牲になりたくない」などと言う人がいますが、それは逆なんです。子どもと一緒にそのような生活を楽しむようにしていると、子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力が育って行くので子育てがどんどん楽に、そして楽しくなっていくのです。そして、子どもはやがて社会に出て自立して生きていくことが出来ます。でも、子どもをオモチャやテレビやスマホやゲーム機に任せ、ハウツーやマニュアルだけで育てていると子どもは「子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力」を育てることが出来なくなってしまうためいつまで経っても自立できず、時には色々な問題を起こし、いつまで経っても子どもから自由になることが出来なくなってしまうのです。そして今、そのような子育てを受けたであろう若者達が増えて来ています。
2024.05.24
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昨日、車を運転しながらニュースを聞いていたら「すすきの」での猟奇的な事件の裁判のことが流れていました。そこで語られていたのは「歪んだ家族関係」と、犯行を起こした当事者の娘「田村瑠奈」の異常な支配欲です。YAHOOニュースの記事によると、その「田村瑠奈」は以下のように育てられたそうです。そもそも幼少期から両親は一人娘である瑠奈被告に対し、一切叱ることもなく溺愛し、成人してもすべて娘の言いなりとなっていた。でも、このような「溺愛する子育て」をしている人はいっぱいいますよね。「お母さんに命令し、王様や王女様のように振る舞っている子ども」も時々見かけます。でもそういう子に限って、お母さんがいない時にはビクビクしています。ニュースでは「田村瑠奈」の異常性ばかりが語られていましたが、でも私は、その異常性の中に「田村瑠奈の子どもの頃の寂しさ」を強く感じてしまいました。子どものルナちゃんは、寂しくて、寂しくて、どうしようもなかったのではないかと思ったのです。でも、お父さんもお母さんもその寂しさが分からなかったのでしょうね。「子どもの要求に従い、子どもの好きにさせていれば子どもも喜び、子どものためにもなる」と思い込んでいたのでしょうか。でも、そのような子育てをしているお母さんやお父さんは、子どもの目には「自分」というものを持たない「カオナシ」という妖怪と同じです。人格を持たない「子どもの言いなりになるナニーロボット」と同じと言ってもいいかも知れません。確かに子どもは、自分の欲望や要求が満たされれば一時的には喜びます。それを見た親は、子どもが荒れた時はまた子どもの欲望や要求を満たしてあげることで子どもの気持ちを静めようとします。でもそれは「本当に子どもが求めているもの」ではないのです。子どもが本当に求めているのは「お母さんやお父さんとの心が通った関わり合い」なんです。そのため、お母さんやお父さんがしっかりと「子ども」と向き合わずに、子どもの欲望や要求を満たしてあげることばかりに夢中になっていると、子どもはそんな勘違いしている親にいらつき、無理難題を要求したり、家庭内暴力を起こすことでなんとか自分の方に振り向かせようとするのです。買って欲しいと言って買ってもらったものでも平気で捨てたりもします。また、そのような子育てを受けていると、子どもは「心の成長に必要なもの」を得ることが出来なくなってしまので「心の成長」が止まってしまいます。幼い子どもの心のまま体だけが大きくなってしまうのです。子どもが本当に欲しいのは「物」でも「従属」でもないのです。ゲームなどでもありません。本当に欲しいものが満たされないから、その「代わり」を求めているのです。でも、「代わり」では心が満たされません。だから、どんどん欲望や要求がエスカレートしていってしまうのです。そして、子どもの頃には家族内で収まっていた「欲求不満による問題行動」は、子どもの成長と共に社会的な犯罪行為へと移行して行きます。万引きやイジメという形で表れる子もいます。SNSなどで「イイネ」をもらうために過激なことをしてしまう子もいます。自己肯定感が低くなり、自傷という形で自分に向けてしまう子もいます。「悪人」として産まれる子はこの世に一人もいないのです。親や周囲の人にちゃんと受け止めてもらえないから、他の人を困らせて喜ぶ悪人に育ってしまうのです。そんな子どもの要求は本当にシンプルです。難しいことなんか何にもありません。一緒にいてくれる。一緒に笑ってくれる。手をつないで歩いてくれる。ご飯を一緒に食べてくれる。ちゃんと目を見て、顔を見て話してくれる。色々なことを教えてくれる。話を聞いてくれる。待ってくれる。一緒にいる時間を楽しんでくれる。「子どもとして」ではなく「人間として」大切にしてくれる。間違ったことや危ないことをした時にはちゃんと叱ってくれる。お母さんの身勝手を押しつけるような叱り方は子どもも嫌いですが、子どもの安全や成長を守るために叱るのなら、その時は泣いたり暴れたりしてもそのことでお母さんを嫌いになることはないのです。むしろ信頼するようになるのです。いつもでなくてもいういのです。こういうことの大切さを知って、可能な範囲でこういうことを心がけていれば、子どもは心が満たされて自立できるように育って行くのです。
2024.06.06
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「楽しい」というのは「感情」です。 「感情」ですから、楽しいときには笑顔が出ます。 からだも緩みます。 からだを動かしたくなります。 話もしたくなります。 その「楽しい」に似た言葉としてしか、「面白い」とか、「嬉しい」という言葉があります。 これらの言葉の境界は曖昧ですが、漠然とした違いはあります。 「楽しい」ときは無方向に感覚が開いています。 ですから、「楽しい」時には食べるものも美味しくなり、友達などに対しても肯定的に関わることができます。 というか、友達などと遊んでいるときに、この「楽しい」という感情が生まれます。 それに対して、「面白い」というときには、特定の対象に感覚が向けられています。 ですから、その対象に対しては感覚が開いていますが、他の対象に対しては感覚が閉ざされています。 また、「感情」は「からだ」との繋がりが強いですが、「面白い」は「からだ」よりも「頭の働き」との繋がりが大きいような気がします。 そのため、「楽しい」時にはからだを動かしたくなりますが、「面白い」というときにはからだの動きが止まります。 パズル等を解いているときには、「面白い」のであって「楽しい」のではありません。 ゲームで遊んでいるときも同じです。 だから、ゲームで遊んでいるとき、子どもたちはからだを固めているのです。 またそのため、シュタイナー的にいうと、ゲームは「子どもから遠ざけるべき知的な遊び」に分類されます。 昔の子どもの遊びは、基本的に「楽しいもの」が中心でした。 でも、現代の子どもの遊びは「面白いもの」が中心になってきています。 あと、「嬉しい」ですが、これも「楽しい」「面白い」とは異なった状態です。 「楽しい」は能動的なかかわり合いで発生する連続的な感情ですが、「嬉しい」は何かを受け取ったような状況で発生する一時的な感情です。 「プレゼントをもらって嬉しい」とか、「コマが回せるようになって嬉しい」等と使われています。 「嬉しい」も「楽しい」と同じ「感情」ですから、嬉しいときには表情やからだの状態に表れます。
2017.11.03
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マシュマロさんが私達はここでどう生きるかを、「自由意志」を与えられ、自ら考えることができるんですね。 と書いて下さいました。人間は「心」があるから苦しいのです。でも、その「心」があるから人間だけが自分で考えて物事を決めることが出来る「自由意思」を持つことができるのです。そして、その「心」があるから「からだとの対話」が可能になり、より高度なからだの使い方が出来るようになったのです。猿や犬などに芸を覚えさせる時には手本を見せたり、叱ることと褒めることを使い分けてくり返し訓練させる必要があります。その時、調教する人は必ず必要です。どんなに賢い猿や犬でも、自分一人で芸の訓練などしません。でも、人間だけが(自分の中で納得していれば)、自分一人で繰り返し練習することが出来ます。それはつまり、人間だけが「自分で自分を成長させることが出来る能力」を持っているということです。それを可能にしているのが「心」なのです。「心の中での対話」が、「自分にとっての意味」を確認させ意識を持続させることで、「自分」の心の状態や活動をコントロールし続けることが出来るのです。「もう疲れたからやめようかな」と考えた時、「いやいやもう少し頑張ろう」と言う「もう一人の自分」との対話があるから、頑張り続けることが出来るのです。ちなみに「もう疲れたからやめようかな」というのは「からだからの声」です。ですから、動物たちは素直にこの声に従います。それに対して、「いやいやもう少し頑張ろう」というのは、成長を望む「心からの声」です。人間にとってはこれもまた本能です。7歳前の子どもたちは主に「からだからの声」で考え、行動しています。だから楽しければ頑張りますが、楽しくなければ我慢してまで頑張ろうとはしません。でも、7歳までの子どもにとっては成長そのものが楽しいことなので、子どもの笑顔を物差しにして子育てをしていれば、子どもはちゃんと育ちます。でも、「我慢しなさい」「頑張りなさい」「反省しなさい」などという言葉は通じません。まだ「からだからの声」しか存在していないので、対話することが出来ないからです。でも、7歳を過ぎるころから少しずつ「楽しくなくても頑張らなければ」という意識が目覚め始めます。成長を支える働きが、からだによる本能的衝動から、客観的、理性的な意識の目覚めによる「自覚的な行為」へと移行し始めるからです。そして、自分の成長を見守る「もう一人の自分の声」を聞くことが出来るようになります。それと共に「からだの声」に支配されにくくなってきます。そこで「対話」が始まるのです。大人は、この二つの声の対話によって生活しています。私たちは、「まだ眠いな」というからだからの声と、「いやいやもう起きてお弁当を作らねば」という理性的な声との対話によって生活しているのです。でも、苦しみに捉われている人の場合、厄介なことに「もう一人の声」がその対話に介入してきます。その声は「だからあんたはだめなんだ」と言ってきます。そして、「からだからの声」を一方的に否定します。でも、人間は「からだからの声」を否定してしまったら感覚が働かなくなり動けなくなってしまうのです。それでも、からだを「理性的な意識の働き」によって道具や奴隷のように使い、何とか「お弁当」を作ります。でも、感覚が閉ざされているので楽しくもないし、疲れます。そこでまたもう一人の自分が「だからあんたはだめなんだ」と、ダメ出しを言ってきます。でも実は、この「第三の自分」は「本当の自分」ではないのです。これはお母さんやお父さんや先生の意識を心の中に取り入れてしまったことによって生まれた「擬似的な自分」なのです。それで、苦しくなってしまうのですが、なかなかこの「擬似的な自分」を排除することは出来ません。その苦しみは、「客観的、理性的な意識による自分」と「擬似的な自分」との戦いによって生まれています。「これでいいんだ」「これがわたしだ」という「自分を肯定しようとする自分」と、「そんな状態でいいの」「だからだめなんだ」という「自分を否定しようとする自分」が戦っているのです。でも、この戦いは決着付きません。なぜなら「からだの声」を無視しているからです。お母さんたちが子どもを否定するとき、それは子どもが「からだの声」に素直に行動している時です。つまり、もともと否定されていたのは「からだの声」なのです。あなたが嫌いだったわけでも、あなたを非難、否定していたのでもなく、あなたを突き動かしていた「からだからの声」を否定していたのです。それは、そのような大人は自分に対しても「からだからの声」を否定して生活しているからです。でも、子どもは「自分そのもの」が否定されたと感じてしまいます。ご飯をぐちゃぐちゃにしてしまうのも、おしっこを漏らしてしまうのも、幼稚園に行けなくなるもの、勉強から逃げだすのも、金切り声を上げるのも、お店の中で走り回るのも、みんな「からだの声」に素直に従った結果に過ぎないのです。その「からだの声」に耳を傾けないまま、自分を肯定しようとしても無理なんです。ですから、大人に否定されてしまった「からだの声」にもう一度耳を傾け、肯定してあげることが、「擬似的な自分」を消しさる一番有効な方法なのです。幼い頃大人に否定されたものを自分でも否定したまま、その否定した相手と戦っても無意味なんです。*********************************<告知です>二つありますいずれもお問い合わせ、お申込みは<篠>までお願いします。★3月31日(土) 10:00~11:45 (写真入りチラシ) 「親子で遊ぼう」 私が主催している「ポランの広場」という教室でやっている 遊びなどをご紹介します。 わらべうた、からだで遊ぶ、布やロープで遊ぶなどです。 ポランの卒業生も参加OKです。対 象: 2才から5才くらいまでの20組の親子 兄弟ならこれより小さい子、大きい子が一緒でもOKです。参加費: 1500円(子どもの人数にかかわらず) (ポランの広場の卒業生は1000円です。)備 考: 子どもは裸足でお願いします。お母さんはご随意に。 飛んだり跳ねたりゴロゴロするかもしれませんので、 子どももお母さんも動きやすい服装でおいで下さい。 スカート不可です。会 場: 茅ヶ崎市勤労市民会館5F 「A研修室」 JR茅ケ崎駅北口から徒歩5分です。 お申し込みいただいた方には詳しい場所をお教えします。***************************★「お母さんたちの自分育て教室」12回連続講座お母さんたちの「自分育て教室」を月一回のペースで12回連続で行います。その12回の内訳は 気質の学び 6回 / 表現ワーク 3回 / 心と体のセルケア 3回です。気質の時は連続して参加してほしいですが、表現ワークと、セルフケアの時は単発参加もOKです。ただし、連続して参加してくださっている方より参加費がちょっとだけ高くなります。参加費は基本1500円で参加して下さったときにお支払いいただきます。でも、最初に6回分まとめてお支払いいただけるなら7200円(1200円/回×6回)にします。第一回目は4月16日(月) 10:00~11:50 です。基本的に月曜日にします。会場は上と同じ勤労市民会館ですが、部屋は3Fの「B研修室」です。それと原則として子どもの同伴はできません。子どもはお母さんが何かやろうとすると邪魔をするという本能がありますから。ただし、1歳半頃までなら同伴可です。その頃までならまだお母さんの邪魔に入らないと思います。詳しことは篠までお問い合わせください。
2012.02.13
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いい意味でも、悪い意味でも、日本人には「今」が全てです。それは最近になって始まったことではなく、昔からそうなのだろうと思います。つまり、日本はそういう文化の国なのではないか、ということです。だからどんな自然災害に見舞われても、過去に囚われることなく「今」を生き延びることだけに集中することが出来るのでしょう。それが日本人の強さでもあります。でも日本人は、台風や津波などの自然による災害だけでなく「人間による困った出来事」に対しても、「自然災害」と同じように受け止めてしまう傾向があります。それは、「起きちゃったことはしょうがないじゃないか」「嫌なことは忘れよう」という論理です。(日本人はこの考え方を、戦争中日本が侵略した国に対してまで求めています。)そして、「自然災害」と同じように受け流し、「今」を生き延びることだけに集中します。ですから、次回同じようなことが起きたときの対応として身を守ることだけは考えますが、その災害自体が起きないように工夫することはしません。「○○事故が起きたら私はこう逃げる、こう身を守る」ということは考えても、その事故自体が二度と起きないように考えることはしないのです。なぜなら、「原因」を究明することは、「責任」を究明することでもあり、それは仲間の輪(和)を乱す行為だからです。日本人は責任を取らない民族ですから、責任をはっきりとさせるような「原因究明」にも消極的なんです。そして、いつまでも原因や責任にこだわっていると「野暮なやつだ」と言われます。ただこれは、いい悪いの話ではなく、「日本はそういう文化の国だ」ということです。だから日本は主義主張の対立によって分裂することもなかったのです。でも、人々が自然と共に素朴な生活をしていた時にはそれでも良かったのですが、近代国家としてはそれでは困るのです。日本語の時制は非常にあいまいです。欧米の言葉では、その出来事が過去から未来への時間軸の中で、「いつ、どのように起きたのか」また「起きるのか」と言うことを明確に表現させます。だから、出来事を原因と結果のつながりの中で、一つの論理として構成することが出来ます。そしてそこが、日本人が英語を学ぶときに障害になる点です。日本人は出来事を原因と結果のつながりの中で理解しようとする癖がないので、「時制」というものをどのように使ったらいいのかがよく分からないのです。また以前、韓国人の友人から「韓国語には主語不明な受け身的な表現はない」というようなことを聞いたことがあります。日本語では「僕はいじめられた」と言います。でも、韓国語では「彼が僕をいじめた」と表現するらしいのです。「彼が僕をいじめた」と言われたら「いつ」「どこで」「どのように」「原因は」と聞きたくなります。でも、ただ単純に「僕はいじめられた」と言われたら、「そう苦しかったよね」と共感したくなります。その違いは大きいです。このような表現の違いだけで判断するのは早急なのですが、韓国人は事実を伝えようとし、日本人は共感を求めようとしているのかも知れません。ただ、韓国語に関しては不明なのですが、日本語には「共感を求める表現」が多いということは事実だと思います。その出来事自体は「過去」に起きたことなのですが、求めている共感は「今」の感情に対してなのです。だから、過去の出来事に対する詳細な説明は必要がないのです。日本人にとっては、「誰が、いつ、どのような原因で僕をいじめたのか」が問題なのではなく、その結果としての僕の悲しみや苦しみに対して共感して欲しいだけなのです。ちなみにこれは憂鬱質の特徴の一つでもあります。日本には「文化としての哲学」が生まれませんでした。それも、その日本語の特徴や日本人の精神性によるものでしょう。確かに日本にも道元や空海や鈴木大拙や西田幾多郎のような偉大な哲学者もいました。でも、彼らはみんな外国語(中国語や英語)に非常に堪能でした。というか、外国語を学ぶことで、同時に日本語にはない「時制の使い方」や、「因果関係に基づく論理」の使い方を学んでいたのでしょう。ただし、その際必要になるのは「会話能力」ではなく「読み書き能力」の方です。でも、現代人は「読み書き能力」よりも、お手軽な「会話能力」の方ばかりを求めています。
2012.12.18
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「子育てなんて簡単だ」と思っている人は子どものことを知らない人です。そして、子育てに関わったことのないほとんどの人が「子どもとはどういう生き物であるか」ということを知りません。これはどんなことにおいても同じなんですが、「体験を通して学ぶ能力」のある人は、「見た感じ」や「知識」と、「現実」は全く異なるものであることをよく知っています。でも、その能力がない人は、見た目が簡単そうであったり、やり方を知っていれば自分も簡単に出来ると錯覚しています。私は自宅では子どもの造形教室をやっているのですが、最初来たばかりの子は自分は何でも出来ると思い込んでいます。面白いことに、やったことがない子に限って「何でも出来る」と思い込んでいるのです。トンカチでも、ノコギリでも「こうやってやるんだよ」と教えてあげると、「そんなの簡単だよ」と言います。「じゃあ、やってごらん」とやらせると、トンカチはクギに当たりません。当たっても曲がるばかりで入っていきません。ノコギリは動きません。動いても線の通りに切れません。それにものすごく疲れます。その現実に出会うと、「簡単だよ」と言っていた子に限って「ぼく出来ない」と簡単に諦めてしまいます。一見、トンカチはカナヅチを振り下ろすだけ、ノコギリは前後に動かすだけなので簡単に見えるのですが、でも実際にそのことが簡単に出来るためには木の特性を知り、トンカチやノコギリを使う技術を身につけている必要があるのです。これはコマ回しであろうと、竹馬であろうと、お料理であろうと、お手玉であろうとみんな同じです。それらが簡単に出来るようになるためには繰り返しの訓練が必要なのです。繰り返して練習したから簡単に出来るようになったのです。でも、今の子どもたちはその「繰り返して練習する」という体験をしていません。今時のおもちゃは、練習などしなくても出来るようになっています。だから、ちょっとやってできないとすぐに諦めてしまいます。学校などでは鉄棒や縄跳びなどで練習はするのでしょうが、基本的に量を繰り返すだけで、体験から学ぶという練習方法ではやっていないと思います。だから、慣れることで出来るようにはなるのですが、応用が利かないのです。以前、竹馬に乗ろうとして倒れてしまった子が、「これ変だ、立たないよ」と言ってきたことがありました。凧を作った時に、ただヒモを持って立って、「せんせい、飛ばないんだけど」と言った子もいました。ここまで極端な子は多くありませんが、でも、今では「やり方を教えてもらえば、どんなことでも簡単に出来る」と思い込んでいる子は普通の子です。今ほとんど子のが、「知っている」ということと「出来る」ということの違いが分からなくなってしまっているのです。だから、自分はやったこともない癖に、頑張っている子が失敗するのを見て「下手くそだな」と平気で言うのです。これは戦後教育の最大の失敗なのですが、教科書から学ぶことばかりを教えて、体験から学ぶことを教えてこなかったのです。だから、今の子は自学自習が出来ず、そして知識と現実がつながらないのです。そしてだから、社会に出てから学校で学んだことが少しも役に立たないのです。そして、このような教育を受けた子どもたちが親になっています。そして「子育て」という現実と向き合わなければなりません。そのような「現実と向き合う」という体験自体が生まれて初めての人も多いのではないでしょうか。確かに「子育て書」という教科書は山ほど出ています。ネットでも「子育ての知識」は溢れています。でも、どんなに山ほど知識を蓄えても、学校教育だけからしか学んでこなかった人は、その知識の使い方を知りません。学校では「知識の使い方」など教えてくれないからです。さらに、現実の子どもはそんな知識など無関係に生きています。知識は「現実」から抽出するのですが、知識に合わせて現実があるわけではないからです。まず、始めて親になった人はその現実に愕然とします。思い通りにならないのです。「育児書」には「何時間おきに何ccのミルクを与えてください」と書いてあっても、そんなに飲まない子もいれば、足らないで泣く子もいます。また、お母さんには理解できない理由で泣き続けたりもします。ただし、このようなことは我が子の癖や特徴を知って、それに合わせる技術を修得すれば対処することも出来ます。ここまでは会社の仕事でも同じです。新入社員は、会社に入って実技指導を受けていく過程で、知識と現実の違いをたたき込まれます。でも、子育てにおいてはその「実技指導」をしてくれる人がいません。もっとやっかいなのは、子どもはお母さんの努力を否定したり、お母さんがやろうとしていることの邪魔ばかりをしてくるということです。これがお母さんを苦しめる最大の原因です。これは子育てをしたことがない人には分かりません。お掃除をしてゴミをゴミ箱に入れると、次の瞬間子どもはそのゴミ箱をひっくり返します。ホウキでゴミを集めていると、その真ん中に入り込んで転がって遊び出します。食卓を綺麗に拭いたら、直後に食べ物をひっくり返します。ドロンコで洋服が汚れたから着替えさせると、直後にまた汚します。その直後にご主人が帰ってきて、「少しは掃除ぐらいやれよ、どうせ暇なんだから」と言います。駅で切符を買おうとして手を離すと、どっかに行ってしまいます。買い物をしている隙にも消えてしまいます。また、勝手に商品をいじってしまいます。静かにしていて欲しいところに来ると泣き出します。さらに、新聞や本を読もうとすると、それまで一人で遊んでいたのに、急にまとわりついてきて読ませてくれません。お料理やお洗濯などをしようとすると、ワザと邪魔しようとしているとしか思えないように、泣き出したりまとわりついてきます。挨拶させようと思ってもしないし、謝らせようと思っても謝りません。会社などでは努力は肯定され、評価されます。だから頑張る張り合いもあるのです。でも、子育てではどんなに努力しても子どもはそれを簡単に否定し、周囲もその努力を評価してくれません。周囲が評価するのは「お母さんの努力」ではなく、「結果としての子ども」だけです。子育てでは、どんなに頑張っても、その頑張りが「結果」として残らないのです。このような状態が毎日続いていたら、お母さんは生きているのが虚しくなってしまいます。まるで、地獄の賽の河原で石を積んでいる子どものようです。子どもは一生懸命に石を積み上げようとします、でも、積み上げるたびに鬼がそれを壊します。それが永遠に続くのです。でも、実はこの苦しみにも原因があります。それは子どもを思い通りに育てようと思うから苦しくなるのです。子どもは決して思い通りには育たない生き物なんです。犬や猫は思い通りに調教することが出来るかも知れません。でも、人間の子どもはその「思い通りにしようとする意志」そのものに反発するように出来ているのです。それが「人間の子どもの特性」なんです。なぜなら、大人の「思い通りにしようとする意志」を受け入れてしまったら、子どもは「自分の意志」を育てることが出来なくなってしまうからです。人間にとって「意志」は「生きる力」そのものです。ですから、幼い子どもは徹底して自分の「意志」を守ろうとするのです。それがまた「自分の生命」を守ることにもなるのです。でも、多くの大人がその「子どもの意志」を「大人の意志」で押しつぶそうとしています。そこで押しつぶされてしまった子は「従順な子」になります。でも、人間として自立することが出来なくなり、思春期が来る頃から様々なトラブルが発生します。子どもが頑張って、押しつぶされない時には子育てが子どもと親の戦いの場になります。そして、子どもは思春期が来たら親を捨ててしまいます。それもそれで一つの自立の形ではありますが、ちょっと寂しいです。
2010.06.24
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現代人に求められているのは、生活の役には立たないような多くの知識と、お金や情報などを使いこなす能力であって、特別な立場の人間以外「何かを創造する能力」は求められていません。実際、家庭でも学校でもそのようなものを育てようなどとはしていません。また、育て方も分かりません。それにそんなものを育てようとしていたら、競争社会では落ちこぼれてしまいます。「何かを創造する能力」は他の人と比較することが出来ません。点数を付けることも、言葉で教えることもできません。塾に通わせても、お金をかけて教育しても育てることは出来ません。昔の人は必要に迫られて、「創造する能力」を身につけましたが、何でも便利なものが揃ってしまっている現代では「創造する喜び」を体験する以外に「創造する能力」を育てようがないのです。そしてそのためには、急がせない、束縛しない、比較しない、評価しない関わりと、素朴で刺激が少ない生活と、創造を楽しむ大人達に囲まれていることが必要です。子どもは楽しそうに創造している大人を見て創造することにあこがれ、楽しそうに消費している大人を見て消費することにあこがれるのです。そして、創造を喜ぶことができる人は消費に依存しません。逆に、消費に依存している人は自分で創造しようとはしません。また、自分で創ることに意味や喜びを感じることもできません。つまり、「何かを創造する能力は」近代社会が目指してきた方向とは全く異なる方向に存在しているのです。そしてまた、人類がこれから大量生産、大量消費から脱却して目指すべき方向に存在しています。でも、その近代社会も実際には少数の「創造する人達」によって支えられています。そういう人達がいるから毎日のように新製品が生まれたり、私たちはファッションや音楽を楽しむことが出来るわけです。ただ、現代社会ではそのような人は少数だけいればOKです。残りの人はその少数の人達が創ったものを買うお金を持っていればいいのです。現代社会は、少数の人達が創造したものを機械などで大量生産して、マスメディアで宣伝して、様々な媒体を通して消費者に買ってもらうことで成り立っているからです。ですからむしろ、近代社会の「大量生産」と「大量消費」のシステムを支えるためには、「創造する人」は少数でなければ困るのです。みんなが自分でファッションを考え、自分で音楽を作り、自分で野菜を育て、自分でお料理を創作するような社会になったら、近代的な経済システムは崩壊してしまうのです。画家は絵を買わないし、農家は他の農家から野菜を買ったりはしないのです。近代社会を維持するためには、「創造する人」ではなく、大量の「消費する人」が必要なのです。でも、昨日の話とのつながりで言うと、その状態が長く続くと社会全体の活力が失われ、次第に内部から崩壊していきます。人は消費するだけでは「生きている喜び」を得ることが出来ないからです。でも、一度「大量生産」と「大量消費」に基づく社会の形ができあがってしまうと、人はその形を維持することだけに一生懸命になります。消費することに依存している人間は消費することだけが喜びになってしまうからです。だから、学校教育では子どもたちの「創造する能力」を育てるようなカリキュラムが全く存在していないのです。そういうことは「一部の専門家の仕事だ」というように位置づけているのだと思います。そして、買い物をするために必要なお金を稼ぐための能力ばかりを育てようとしています。今や、そのような価値観は日本人の多くに浸透しています。そして、「どれだけお金を稼ぐことが出来るか」、「どれだけお金を使うことが出来るのか」ということがその人の社会的ステイタスを計る物差しにもなっています。子どもたちもまた、「○○のカード(ゲーム)持っている?」「ぼく貯金が○○円あるんだ」「○○買ってもらったんだ」「この前、ディズニーランドに行ったんだ」「うちなんかバリに行って来たんだ」というような「お金に関係するような話題」で盛り上がるばかりで、昔の子どもたちのように群れて遊ぼうとはしません。それは、遊びを知らないからだけではなく、遊びを創造することができないからでもあるのです。遊び上手な子は、遊びをいっぱい知っている子ではありません。遊びを創り出すことが出来る子が「遊び上手な子」なんです。これは大人でも同じです。遊びをいっぱい知っている大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのではなく、遊びを創り出すことができる大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのです。でも、保育園や幼稚園の先生ですらそのことを知らない人がいっぱいいます。私が公民館などの企画で親子遊びの講座をやる時にも、よく担当の人から「どのような遊びをするのか教えてください」というメールが来ます。でも、「遊び」には決まった形などありません。形をなぞるのは「作業」であって遊びではありません。講習会で教えることが出来るのは「遊びの標本」であって、「遊びの楽しさ」ではありません。大人は「標本」でもいいのですが、子どもは「標本」は嫌います。生命が宿っていないからです。だから講習会などで学んできた遊びを、子どもたちに遊ばせようとしてもそっぽを向かれてしまうのです。「遊び」というものは、それ自体がもともと「創造的な活動」なのです。遊びが楽しいのはそれが創造的だからです。だから形にはこだわらないのです。常識にとらわれる人間には創造は出来ないのです。(でも、常識を知らない人間も創造は出来ません。)だからいつの時代でも芸術家は常識にとらわれないのです。
2011.11.05
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私は若い頃、ある先生から「従因向果 従果向因」という言葉を学びました。「従因向果」とは、「こうすればこうなる」というように、「原因」から「結果」をたどっていく考え方です。科学はこの考え方で応用されています。でも、最先端の科学の現場ではその逆の考え方が使われています。それは、「こうなってしまった原因は何だろう」というように、「結果」から「原因」をたどっていく考え方です。それが「従果向因」です。同じ「科学」でも、「応用の場」と「研究の場」では異なった考え方を使っているのです。そして、ものごとを正しく考えたり、正しく行動するためにはこの両方の考え方が必要になります。自分の手とアイデアで何かを創り出そうとしているときには、この両方の考え方が必要になります。例えばですが、「イス」を作りたいと思ったときには、まずそのデザインを考えます。つまり「結果」をイメージするわけです。そして、その「結果」を得るためにはどういう材料で、どういう手順で作ったらいいのか、ということを逆算していきます。頭の中で時間を逆に回していくのです。従果向因です。そして、必要な材料を集め、イメージで得た手順に従って作り始めます。従因向果です。でも、初めて作るデザインのイスならば、ほとんどの場合、途中で修正が必要になります。「こうやればこうなるはずだ」と考えてやっても、現実がその通りになるとは限らないからです。そこで、その問題の原因を考えます。それも従果向因です。ですから、子どもたちに自分の手とアイデアで何かを創り出すという体験を与えることは、子どもたちの「考える力」を育てることになります。これはどんなに多くの知識を覚えても得ることが出来ない能力です。また、学校の成績が良いからといって「考える力」があるとは限りません。そして、この能力があると、子育ても楽になります。でも、現代の子どもたちでそのような学びが出来ている子は全く少数です。ちなみに、一般的な学校の工作では、課題も、材料も、手順も、結果も決められているので、「従因向果」的な考え方は必要になりますが、「従果向因」の思考は必要ありません。考え方が一歩通行なのです。そして、「従因向果」的な考え方しか出来ない子は、「こうすればこうなるはずだ」というような「思い込み的な考え方」にはまりやすくなります。子育てでも、「子育て書」を読み、その手順に従って子育てをします。でも、子どもは「子育て書」の通りには育ちません。その時、その「結果」から「原因」を探り(従果向因)、原因を修正出来れば、結果もまた変わってくるのですが、多くの人が、それでもまた同じ事を繰り返そうとします。「結果から原因を考える」という考え方が出来ないからです。子どもに「早くしなさい」と言っても早くしません。「約束」をさせても「約束」は守られません。そんなことは毎日繰り返されてよく分かっているはずのことなのですが、それでも、多くのお母さんがその原因を考えず、毎日毎日同じ事ばかりを繰り返して、心とからだを疲弊させています。うちの教室でも、何かを作っていて思い通りにいかない結果になってしまった子に、「どうしてそうなってしまったか考えて見て」と言っても、ほとんどの子が、ただ「分かんない」というばかりです。今、「結果から原因を考える」という考え方が出来ない子が非常に多いのです。ただ、少数ですがそれが出来る子もいます。特に、3、4才頃から「自分の手とアイデアで何かを作る」という遊びをいっぱいしてきた子に、そのようなことが得意な子が多いような気がします。「ものの考え方」の基本は、7才前の時期に「心とからだの体験」を通して育って行くものだからです。7才前の子どもたちに必要なのは、「知識」ではなく「体験」なんです。それは「どういう体験をしたのか」ということが、そのまま、「どういう考え方を身につけるのか」ということにつながってしまうからです。また、「物語」(お話)が好きな子も考えることが得意なような気がします。「物語」の中では、時間は自由に流れています。 昔々ある所に、痩せてみすぼらしい乞食が一人で暮らしていました。 でもこの男は、元は召使いがいっぱいいる大きなお城の王子さまだったのです。 じゃあどうして、その王子様が貧しい乞食になってしまったのかをお話ししましょう。というように物語の世界では時間を自由自在に扱うことが出来るのです。(だから魔法が存在出来るのです。)そして「物語」を楽しむことがそのまま「考え方」の訓練になっているのです。ちなみに「昔話」や「神話」の世界は、「従果向因」的に、「結果を説明するための物語」になっていることが多いような気がします。逆に、創作物語は「原因」から始まり、「最後にならないと結果が見えない物語」になっていることが多いような気がします。「従因向果 従果向因」という考え方の他にも、「内側から見る、外側から見る」という考え方や、「別の視点や、別の方向や、別の次元から見てみる」というものがありますが、これらの考え方は「物語の世界」の中でしか学ぶことが出来ません。でも、現代の子育てや教育では、その「物語の体験」も大切にされていません。
2016.12.26
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子どもは精神的、経済的に自立した大人になるためには非常に多くのものを学び、育てなければ成りません。ちなみに「精神的、経済的に自立する能力を育てる」ということは、単に「一人で生きていくための能力を育てる」ということではありません。「みんなで生きていくための能力」を育てることもその中に含まれています。なぜなら、人間は、本来的に助け合って生きるようにデザインされている動物だからです。ですから、「助け合い、支え合う能力」が育たないことには、どんなに高い知能や、様々な能力を獲得しても「人間」としては不完全なんです。その能力がなくても、現代社会ではお金さえあれば生きていくことが出来ますが、でもそのような人が増えてしまったら、昨日も書いたネアンデルタール人のように人類もまた滅亡していくでしょう。また、こんなにも簡単便利になった社会でも、その社会を維持運営し、動かしている人達は、お互いに助け合って仕事をしています。それは政治の世界でも、会社でも同じです。自分のことだけしか考えていなくても生活や仕事が出来るのは消費の末端にいる人だけです。でもそのような人は、消耗品と同じような扱いを受けています。実は、こんなにも機械文明が進んでも、その文明を支えているコアの部分は人間の人間としての能力に支えられているのです。だから、科学や欲望の暴走が抑えられているのです。でも、現在の子育てや学校教育の現場では、その能力を育てる意識が完全に欠落してしまっています。昔は、「遊びの場」で子どもたちはそのような能力を育てていましたが、そのような「遊びの場」も消えてしまいました。昔は、家族も助け合って生活していましたが、それも崩壊寸前です。お父さんはお金を儲けるために会社に行き(時にはお母さんも)、家にいるお母さんは一人で家事をして、子どもは一人でテレビを見たり、ゲームをして遊んでいます。子育ても、お母さんが一人で頑張っています。家族が、「血」と「お金」と「家」だけでつながっているのです。家族の中にすら「人間としての人間らしいつながり」がなくなりつつあるのです。そういう状況で育っていたら、「助け合い、支え合う能力」は育ちようがありません。「心」も育ちにくくなります。「心」はみんな持っています。赤ちゃんも赤ちゃん特有の心を持っています。重度の障害を持っていて身動きが取れないような状態の子でも、他の子と同じような心を持っています。でも、その育ちの状態は人それぞれです。豊かに育っている子もいれば、そうでない子もいます。豊かに育っている子は「他の子の心」も肯定出来ます。そして助け合うことも出来ます。でも、そうでない子は、「自分の心」だけを大切にしようとします。そして、感情に振り回されています。これは大人でも同じです。実は私たちは「心」と簡単に一言で言ってしまいますが、実際には「心」は非常に複雑な構造になっているのです。それが分からないと「心が育つとはどういうことなのか」ということも分からないのです。そんなこと知らなくても、命の働きに即して、大人がそれを支えるように関わってあげていれば「子どもの心」は自然に育つのですが、現代社会ではそれが困難なので、「心についての学び」が必要になるのです。
2018.12.11
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最近のネット記事を読んでいると「辛いんです、この辛さを分かって下さい」という文章をよく見かけます。子育てに苦しんでいる人でも、性差別や、人種差別に苦しんでいる人でも、貧困やイジメに苦しんでいる人でも、人とつながれないで苦しんでいる人でも同じです。でも、はっきり言います。どんなに辛さや苦しさを訴えても、その辛さや苦しさは当事者にしか分かりません。「どう辛いのか」「どう苦しいのか」を説明したとしても、全く異なった立場にいる人に当事者が感じていることをそのまま伝えることは不可能なんです。どんなにまずい料理を食べて「このまずさを分かって下さい」と、その料理を食べたことがない人に訴えてもムリですよね。その逆も同じです。どんなに美味しい料理を食べて「このおいしさを分かって下さい」と言っても、実際に食べないことには分からないのです。食べたとしても味覚は人それぞれですから、分かるかどうかは不明です。ある人にとっては「まずい」ものでも、それを「美味しい」と感じる人だっているかも知れないのですから。人に見られることを嫌がる人もいれば、人に見られて喜ぶ人もいるのです。ホームレスになって苦しんでいる人もいれば、望んでホームレスになる人もいるのです。ただ、苦しい時には「苦しい」と、辛い時には「辛い」と声を上げることは非常に大切です。黙って一人で我慢しているだけではもっと辛く苦しくなってしまうし、そのような人を抱えている社会もおかしくなってしまいますから。私が問題視しているのは「辛いんです、分かって下さい。」と、一方的にその問題を相手に丸投げしてしまう人です。そのような人は、責任や解決方法も相手に丸投げしてしまいます。でもそれは、自分の人生を他者に預けてしまうのと同じ事なんです。でもその一方で、「自分が苦しかったから」と同じような問題で苦しんでいる人を手助けする活動を始める人もいます。「受け取る側」から「与える側」になることが出来る人です。そのような人は「苦しみ」が消えていなくても、苦しみに押しつぶされずにそれを背負って自分の人生を歩いて行くことが出来るでしょう。大事なのは「苦しみ」を取り去ることではなく、その苦しみを抱えたままでも前に進むことなんです。前に進み続けていればやがて状況は変わるのです。でも、「苦しいんです助けて下さい」とその場から動こうとしなければ、状況はいつまで経っても変わりません。私は「幸せを求めているだけの人」は幸せになることが出来ないと考えています。そのような人は「ないもの探し」ばかりしているのですから。それに、「幸せになりたい」という発想自体が「自分は不幸だ」という前提から始まっています。でも、「ないもの」ではなく「すでに持っているものに気付き、感謝し、喜ぶことが出来る人は幸せな人です。そのような人は「与える人」になることが出来ます。天国と地獄の違いを言い表した昔話があります。ある人が地獄と天国の見学に行きました。案内役の霊が「あそこが地獄だよ」と指し示した方を見ると、テーブルの上にはごちそうが並んでいます。それで、「これが地獄?」って思ったのですが、近寄ってみるとみんな怒鳴り、怒り、苦しんでいます。それはみんなが長い箸を持っているのですが、箸が長すぎて食べ物を自分の口に運ぶことが出来ないからです。それで食べ物はいっぱいあるのにみんなが飢えて苦しんでいるのです。次に、天国に行きました。天国でもやはり同じようにごちそうが並び、みんなが長い箸を持っています。でも、みんな嬉しそうです。どうしてなのかとよく見ると、地獄ではみんな箸で取ったものを自分の口に運ぼうとしているのに、天国では隣の人や前の人の口に運んでいるのです。そうやってお互いに食べさせ合っているので、長い箸でもみんなお腹いっぱい食べることが出来ているのです。昔の人は天国と地獄の違いをこのように言い表したのですが、私もその通りだと思います。でも、今の日本の状況はこのいずれでもありません。昔の人はこんな時代が来るなんて思いもよらなかったのでしょう。今の日本では、自分で箸を持つことさえしないで、(赤ちゃんのように)ただ口を開けて待っているだけの人がいっぱいいるのです。「お腹が空いた 苦しいよ」と言いながら、誰かが口に食べ物を運んでくれるのを待っているのですが、みんながその状態なのでいくら待っても食べ物をもらえません。それで、「みんな薄情だ」「弱者に優しくない社会だ」「誰も私を助けてくれない」と嘆き悲しんでいるのです。時々、天国にいるような人が来て食べ物を口に運んでくれるのですが、「それはやだ」、「肉をもっとくれ」、「味付けがまずい」、「なんでもっと早く取ってくれないんだ」と言うばかりで、自分は相手の口に食べ物を運ぼうとはしません。時には「あんたじゃだめだ」とその相手を追い出して、文句を言いながら別の人を待つこともあります。それで、その善良な人も諦めてしまうのですが、でも、口を開けているだけの人は、「私には食べる権利があり、これは正当な要求」だと言うばかりで、自分には何の問題もないと思っています。天国のように、お互いに食べさせ合えばいいのですが、自分が食べさせても、相手が自分に食べさせてくれるかどうかを疑っているので、「損をしたくない」と、自分からは動かないのです。また、「飢えているのは自分だけだ」と思い込んでいる人もいっぱいいます。そして、自分は食べないでも他の人のために一生懸命に食べ物を運んでくれる善良な人を待ち続けているのです。また、「あなたのことを信用できない」、「人を受け入れるのが怖い」と言って、そのような人に対してさえ口を開けない人もいっぱいいます。それでいながら飢えに苦しんでいるのです。そのような人が少数のうちは善良な人にも対処できたのですが、現代ではあまりにもそのような人が増えてしまったので、みんなが飢えている社会になってしまっているのです。これは、昔の人も想定しなかった新しい形の地獄です。「依存地獄」とでもいうのでしょうか。この「依存地獄」から脱却するためには、「自分がして欲しいこと」を積極的に他の人にしてあげることです。それだけです。そうすれば巡り巡ってそれが自分の所に帰ってくるのです。よしんば帰ってこなくても誰かが喜んでいるのですから、それでいいのです。
2024.05.19
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最初に告知を入れさせて頂きます。テーマを変えながら毎月横浜の「Umiの家」で私の講座を開いています。9月と10月の予定は以下の通りですが、「室内遊び」の参加者がまだちょっとしかいません。親子でのからだ遊びや、誰でも出来る簡単な工作をします。親子の信頼関係作りは一緒に遊ぶことから始まります。一緒に遊ぶことで我が子を理解する手助けにもなります。幼稚園に入る頃になり仲間と遊ぶようになってくると、子どもは次第にお母さんとは遊ばなくなります。子どもがお母さんと遊んでくれるうちにいっぱい遊びましょうね。ご都合の良い方はご検討下さい。9/15(木)「親子で楽しめる室内遊び」 10:30~詳細・申し込みページhttps://coubic.com/uminoie/17728410/27(木)「シュタイナーの気質のお話」 10:30~詳細・申し込みページhttps://coubic.com/uminoie/185912********************多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つの気質は、それぞれ春・夏・秋・冬の四つの季節に例えられます。春は、大地や、種や、木の中といった「内側の世界」に隠れていたエネルギーが、「外側の世界」に現れてくる季節です。春の働きが「眠っていたもの」に刺激を与え、目を覚まさせるのです。その結果、世界は多様性に溢れます。春には夏の強さも、秋の実りも、冬の静けさもありませんが、多様性をもたらす春は「春の役割」としては完全です。夏は「春に目覚めたもの」が自分の可能性をどんどん広げていく季節です。そこには意志の強さがあります。春のデリケートさも、秋の内面的な充実も、冬の穏やかさもありませんが、「夏の役割」としては完全です。秋は「春に目覚め、夏に成長したもの」が、冬という「眠りの季節」を迎えるために、また、「内側の世界」に還っていく季節です。秋は、春が「外側の世界」に出したものをまた「内側の世界」に還し、夏が太陽から得たエネルギーを種の中に閉じ込める働きをしています。そのため春や夏からは理解されません。その意味を理解しているのは冬だけです。それは、アクセルにはブレーキのやっていることの意味が理解出来ないと同じです。でも、この秋の働きがあるから生命は冬を乗り越え、春を迎えることが出来るのです。夏からいきなり冬になったら、植物や動物は非常に困った事になってしまうのです。春に生まれた花は、夏にはエネルギーをいっぱい溜め込んだ実になり、秋には来年のための種になります。動物たちは、いっぱい食べて冬を乗り切る準備を始めます。そして冬は生命を「内側の世界」の中で守り、暖めてくれます。冬は能動的には何もしませんが生命を守ってくれているのです。冬の働きは暖かい布団のようなものです。ちなみに、冬が世界を寒くしているのではありませんからね。それは濡れ衣です。むしろ、冬は寒さから生命を守る働きをしているのです。それが冬の役割です。その布団をはがして、「さあ起きなさい」と促すのが春の役割です。この四つの長所を全部備えた季節など存在しないのです。四つの気質全部が、他の気質を基準にした判断では不完全なものになってしまいますが、それぞれの役割においては完全なんです。*********************11月3日(木)「文化の日」に、茅ヶ崎駅近辺で気質の一日ワークをやります。時間は10:00~16:00です。参加費は4000円です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
2016.09.07
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現代人は、「遊び」には無関心だったり否定的なのに、「スポーツ」には強い関心もあり、また積極的に子ども達にやらせようともしています。でも、子どもの育ちには「スポーツ」よりも圧倒的に「遊び」の方が必要なのです。とはいっても、「遊び」と「スポーツ」は時としてよく似ています。実際、見ただけではその違いが分かりにくい場合もあります。羽子板は「遊び」ですが、バトミントンは「スポーツ」です。でも、そのバトミントンでも友達同士や親子でやるときには「遊び」になります。子どもがお父さんとやるキャッチボールは「遊び」ですが、スポーツチームでやるキャッチボールは「野球」」というスポーツの一部です。「ゆうびんやさん おはいんなさい」と歌いながらやっている縄跳びは「遊び」ですが、「スポーツ」としての縄跳びもあります。やっていることは似ています。でも、遊んでいるときには笑顔がありますが、スポーツの時には笑顔がありません。どんな種目でも、笑いながらプレーしている試合など見たことがありません。「遊び」と「スポーツ」の違いは「やっていることの違い」というより、「取り組む意識の違い」なんです。私は若い頃スペインに半年ほどいましたが、どこの公園でも子ども達がサッカーで遊んでいました。色々な年齢の子が、ゴールもない普通の公園や広場で、子ども達だけで、ルールにも束縛されずに、自由にボールを追いかけ回しているのですから、これは「スポーツ」ではなく「遊び」です。実際、子ども達も笑顔でボールを追いかけ回していました。そこには「仲間で遊ぶ楽しさ」があるばかりで、勝ち負けにこだわる「スポーツの必死さ」も、大人の評価も、点数もありません。確かにコマ回しや、相撲や、メンコのような「遊び」の場でも、子ども達は必死になって勝とうとします。でも、「遊び」において大切なのは、ただ単純に「勝つこと」ではなく、「勝ったり負けたりを楽しむこと」なんです。だからそれを点数化して競ってしまうと別のものになってしまうのです。「スポーツ」では常に勝てるのは素晴らしいことですが、「遊び」では逆に常に勝ててしまったら楽しくないのです。また、そんなに強かったらだれも遊んでくれないでしょう。「遊び」とは「仲間と仲間をつなぐもの」として存在しているのです。だからそこには「勝ち負けを楽しむ心」と「笑顔」があるのです。それに対して、「スポーツ」が目指しているのは「相手を倒すことによって得られる記録」であって、「仲間とのつながり」でも、「喜び」や「楽しさ」でもありません。また、スポーツにおける「負け」は、心に否定的な影響を与えます。でも「遊び」では、「負け」は逆にやる気を起こさせます。だから「勝ったり負けたり」しながら「もう一回 もう一回」と延々と遊ぶことが出来るのです。それは、スポーツの試合では「やり直し」は出来ませんが、「遊び」ではやり直しが出来るからです。そして、その繰り返しが、工夫し努力することを喜びにかえる体験になっているのです。このように、やっていることは似ていても、その機能は全く異なるのです。スポーツが目指しているのは「記録」です。でも、子どもは「記録」などには全く関心がありません。「記録」が欲しいのは大人だけです。子どもにとって一番大切なのは「仲間とつながることが出来るか」ということと、「楽しいか 楽しくないか」ということだけなんです。そして、子どもの育ちにはこっち方が圧倒的に大切なんです。でも、最近の子ども達はその「仲間と仲間をつなぐ遊び」をよく知りません。仲間と群れて遊ぶ体験が少ないからです。そのため「遊び」の場でも勝ち負けにこだわります。だから楽しくならないのです。羽子板は羽根を突き合って、ラリーを楽しむ遊びです。ですから、形式的には対戦しているのですが、相手もまた仲間なんです。でも、子どもと羽子板をするとわざと打ち返せないような玉(羽根)を返してくるのです。そして、「勝った 勝った」と言います。テニスのようなスポーツではそれでもいいのでしょうが、コートもネットもルールもない羽子板でそれをやられると「やったもん勝ち」になってしまい、全く面白くなくなります。また、そのような子はコマ回しでも「ぼく出来ないからやらない」と言ってやりません。一見して出来そうな時は参加するのですが、「失敗」や「勝ったり負けたり」を楽しむという感覚がないため、出来ないようなことには手を出さないのです。そして、挑戦しないからいつまで経っても出来るようになりません。ちなみに「スポーツ」でも、あまり大人による評価をせず、勝つことを求めず、楽しむことを目的とするなら「遊び」になります。そして子ども達は自由になります。そのスポーツが好きにもなります。遊びだから色々と楽しむ工夫もします。失敗も許されるので、自由なチャレンジも出来ます。そのような根底があって、後にそこから本格的なスポーツに入っていった子は、小さいときから追い立てられながらスポーツをやってきた子よりも伸びるのではないでしょうか。中南米やスペインなどのサッカーが強いのは小さいときからサッカー教室で学んだからではなく、私がスペインで見てきたように、野原や公園でただボールを追い回して遊んでいたからなのではないでしょうか。
2015.01.09
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昨日は憂鬱質は「守り、伝える」ことを大切にしたい気質です。憂鬱質は変化を望まない、保守的な気質なのです。と書きましたが、気質はこのように「役割」として存在しています。これはいつも言っていることですが、気質は「性格分類」ではなく、自分が存在する世界での「役割」なんです。それが理解出来ないと気質本来の姿は見えてきません。ですから「気質」は偶然生まれたものではありません。また、人間だけのものでもありません。この世に存在するもの全てには役割があり、その役割は四つの気質の組み合わせとして理解することが出来ると言うことです。だからこそみんな必要だし、みんな大切なんです。子育てで「気質を大切にする」ということは、その子の「この世界における役割を大切にしてあげる」ということに他なりません。胆汁質の子には胆汁質の役割があります。その役割を肯定的に果たすことが出来るように子どもを育ててあげることが「気質を大切にした子育て」なんです。それは最近流行の「個性を大切にした子育て」とは違います。自分の役割を自覚出来る子は自分の存在価値と生きる意味を知っています。ですから、自分の人生を前向きに生きることが出来ます。でも、個性を大切にされてもそれだけでは人生を前向きに生きるだけの意味が生まれません。ただし、この「役割」は押しつけるものではありません。自分で気付くものです。大人はそのことに気付くように子どもと関わるのです。「目」を持っていて、いつも何かを見ていても、「目の役割」について気付く人は多くありません。そのことに気付くためには気付いている人との関わりが必要なのです。その役割を昔の人は「地・水・火・風」の四つの要素で表しました。「地・水・火・風」を物質として理解してしまうと非科学的な話になってしまいますが、これはこの世界における四つの役割を表しているのです。「地」の役割は、固め、定着させ、安定させる働きです。これがないと宇宙も地球も存在することが出来ません。人間の社会も存在出来ません。「地」がないと全てが流れてしまうか、すぐに拡散してしまうのです。でも、これだけでは何も起きません。成長も変化も起きません。「水」の役割で一番特徴的なことは循環することです。そして循環するために「流れ」を作ります。それが「川」です。川は「循環の一部」として存在しているのです。その川は遠目には動きがないように見えます。でも、その中の水にはいつも動きがあります。その中には、さらに無数の流れと渦があり、魚や岩や舟などを運んでいます。そして、海に行き着き、さらに太陽の熱で空に上がり、雲となり、山々に降り注ぎ、そしてまた川になります。水は循環を維持するのが役割ですから、風や火と違って途中で消えたりはしません。水が循環することをやめたら、全ての生命は死にます。「恒常性」と呼ばれるものは「水」の働きです。でも、人にはその全体は見えません。人が見ることが出来るのは目の前に変化せずに流れる川だけです。でも、川と水は同じものではありません。その理解がないと水(粘液質)のことが理解出来ません。水は世界中を循環しているので、世界中のことを知っています。でも、水はただそれを見ながら流れているだけです。誰かが聞けば答えますが、聞かれなければ語りません。「火」はエネルギーです。「火」がなければ水の循環も起きません。また、地底のマグマの対流も起きないので、地球はただの石っころになって、地場が消え、紫外線が降り注ぎ、生き物は死滅します。太古、地球が生まれた時には「地」と「火」しかありませんでした。「水」も「風」もありませんでした。空気も水も無かったからです。その太古の地球では、「火」が風のように吹き荒れ変化を起こし、どろどろに溶けた「地」が水のように流れ、循環していました。それはつまり、空気も水も無くても、ちゃんと「風の働き」と「水の働き」は存在していたと言うことです。そして、「火」は生命の中に取り込まれました。石炭も石油も木も、私たちの身の回りにあって火を付けて燃える物は、その大部分が生命に由来する物ばかりです。でも、ちゃんとした「水」や「風」(空気)が生まれるまでは恒常性も、多様性も生まれませんでした。そして、地中から吹き出したガスにより、「水」と「風」(空気)は同時に生まれました。そして、その「水」と「風」を地上に留めたのが「地」の働きであり、「水」の循環や「風」を引き起こしているのが「火」の働きです。「風」はいつも動いています。というか「動いている空気」がそのまま風なんです。「止まっている風」など存在していません。空気も水と同じように流れますが、川のように決まった道筋はなく、また循環もしません。また、水は途中で消えることはありませんが、風は突然消えてしまいます。「風」は気まぐれなんです。そして、「風」が動けば「物」が動きます。逆に「物」が動いても「風」は起きます。「風」は変化を引き起こすと共に、変化が「風」を引き起こすのです。「風」は「変化」なんです。ですから、「風」がないと変化が起きません。多様性も生まれません。多様性が生まれなければ生命も生まれません。ただ、「風」は気まぐれです。「水」のように積極的に人の役に立つ存在ではありません。でも、風が動かなくなった時、人々は息苦しくなり、動く気力が萎えていきます。「風」はあまり役には立ちませんが実は「生命」を支えているのです。「呼吸」という「風」がその象徴です。地球における風も同じ役割を果たしています。風が「地球の呼吸」を支えているのです。雲はその中を流れるばかりです。「風」はあらゆる所に入り込み生命のないものに生命を与えることが出来ます。「どのように生きるのか」という事を考える時には「地」や「水」や「火」の働きが必要ですが、でも、「風」がないことにはその「生命の力」そのものが萎えてしまうのです。人は生活の中から喜びが消えると、生命力が萎えてしまいます。生きる気力を失ってしまうのです。それを支えるのが「風」の役割です。
2009.08.03
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「子どもの感覚」と「大人の感覚」は大きく異なります。「子どもにとっての色」と「大人にとっての色」は同じではありません。「子どもにとっての音」と「大人にとっての音」も同じではありません。多分、五感の働き全てにおいて、「子どもが感じている世界」と「大人が感じている世界」は異なるのではないかと思います。大人になると、子どもの頃の感覚が分からなくなってしまうので、子どもが感じている世界が分からなってしまうのです。だから、「なんでそんなこと気にするの」「なんでそんなものを怖がるの」と簡単に子どもの感覚を否定してしまうのです。どうしてその違いが存在しているのかというと、子どもの感覚には、まだ「刺激を分析したり、自分を守るフィルター」が付いていないからです。だから感覚刺激がダイレクトに「心」や「からだ」の中に入ってきてしまうのです。その「刺激を分析したり、自分を守るフィルター」とは、「意識の働き」であったり、「自我の働き」であったりします。大人になると、外部からの感覚刺激は、この「意識の働き」や「自我の働き」によって、分類され、調整され、整理されて、それから意識や、心や、からだに認識されているのです。ですから、大人は「見えているまま」に見ているわけでも、「聞こえているまま」に聞いているのでもないのです。例えば、エンジン音やクラクションの音を聞けば、大人は無意識的にその音源としての「車」をイメージします。つまり、エンジン音やクラクションの音をそのまま「音」として聞いているわけではなく「車の属性の一つ」として聞いているわけです。車に詳しい人なら、エンジン音を聞いただけで車種や車の状態が分かるかも知れません。でも、「車の音」だと判断した途端、それ以外の音は自動的に除外されてしまいます。実際には、カーステレオを鳴らしている自動車からの音は「エンジン音+カーステレオの音」なんですが、大人はそれを無意識的に分離して(選択的に)別々に聞くことが出来るのです。でも、機械にはそんな能力がないので、マイクで録音すると全部の音を拾ってしまいます。幼い子どもも周囲が騒がしいと、お母さんや先生の言葉を聞き取れなくなります。そんな時、お母さんは「ちゃんと聞きなさい」と言いますが、そんなこと言われても出来ないものは出来ないのです。ですから、子どもに何かを伝えたいのなら、静かな環境の中で、静かな言葉で伝えた方がいいのです。ちなみに、自閉症の子は特にこれが苦手です。あと、この時期は「色水遊び」や、「色遊び」をすることが多いのですが、私が「色」の準備をしていると「わたしピンクがいい」「ぼく青がいい」「わたしは赤」などと子どもが寄ってきます。お絵描きの絵の具を用意している時も同じです。だから、「いろんな色があった方が楽しいよ」と言うのですが、中には、それでも単色にこだわる子もいます。緑の色画用紙に、緑のペンやクレヨンで絵を描いて、緑の折り紙を貼り付けるような子もいます。だから、何が描いてあるのかはっきりしなくなってしまうのですが、本人は緑以外の色を使おうとしないのです。これは大人には理解しがたい感覚ですよね。また、何でもかんでも「赤」一色で描いてしまう子も、「黒」しか使わない子もいます。大人にとって「色」は「物の属性」に過ぎません。「物から分離して色だけが存在している」という状況を想像できません。「赤い色」は、「リンゴ」や「折り紙」や「お花」の属性としてしか認識出来ません。でも、子どもたちにとっては、「音」の時と同じように、「色」は単なる「物の属性」ではないのです。「色」は「音」と同じように、それ自体で一つの存在なんです。子どもにとって「色」は、それほどリアルな存在なんです。だから大好きな色があれば、その色の中に浸りたがるのです。「音」に浸ることが出来るように、「色」に浸ることも出来るのです。大好きな色の中に浸っていると落ち着くのです。子どもにとって、「色」は食べ物と似たような存在なのかも知れません。子どもは大好きな食べ物なら、毎食でも食べたがりますよね。あんな感じです。因みに「色」には、感情やからだの働きを活性化させる働きがあります。また、「命の働き」に働きかけて、「命の状態」を調整する働きもあります。(「形」は思考や意思の働きに影響を与えます。)ですから、「色の趣味」は、その人の「心や命の状態」の表れでもあるのです。「気質の状態」ともつながっています。子どもは素直に、「自分の心や生命の状態」に合わせて色を選んでいるだけなんです。だから、子どもに、大人の価値観だけで「空は青でしょ」「リンゴは赤でしょ」などと、「大人の色」を押しつけてはいけないのです。
2017.04.21
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憂鬱質の人は不安が強いです。自分に対して自信もありません。感覚が過敏です。特に「音」には過剰に反応します。「新しいこと」をやりたがりません。「新しいこと」をやらなければいけないときは、予め色々な情報を得たり、色々なことを考えて準備しようとします。そして、「新しいこと」をやる時、「新しい場所」に行くとき、「新しい人」と会うときは過度に緊張します。「表面的な世界」や「見かけ」を信じません。そして、「本当はどうなんだろう」とか「裏側はどうなっているんだろう」ということが気になります。成功したときのイメージはせずに、失敗したときのことばかりをイメージします。成功したときのことは覚えていないのに、失敗したときのことはよく覚えています。また「人の心」に敏感です。常に人の心を探ろうとします。これもまた危険を避けるためかも知れません。何かあるとすぐに心の中で「自分との対話」を始めます。と、憂鬱質の特徴について色々書くと、いいところなんて何にもないように思えますが、でも、これが憂鬱質の能力なんです。これらの能力は自分の身を守るために必要な能力でもあるからです。まただから、憂鬱質の人の言葉に耳を傾けると、将来起きるかも知れない危険性に対応することが出来るのです。多血質は目先の事にしか興味がありません。胆汁質は自分のやりたいことにしか興味がありません。粘液質は広く全体を見ていますが見ているだけであれこれ予想はしません。そんな中で憂鬱質の人は唯一「起こるかも知れない危険」を察知する能力が高いのです。安全に満たされた現代社会の中ではこの能力はあまり必要はありませんが、人間がまだ危険だらけの自然の中で暮らしていたときには、これは非常に役に立った能力だと思います。他の気質の人よりも先に、害を及ぼす動物や、様々な災害の予感を感じ、みんなに警告をしたでしょう。「見えないもの」と対話する能力も高く、シャーマン的な能力にも優れているので、色々な相談にも乗っていたでしょう。人間が安全に、幸せに生きるためには四つの気質全部が必要なんです。憂鬱質は「安全担当」のきしつです。必要がない気質なんて存在していないのです。<続きます>これから愛知と岐阜に行かなければならないので(泊まりです)、この続きは明日宿で書きます。
2021.06.26
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若者による「遊び半分の迷惑行為」が増えて来ました。遊び感覚で犯罪行為をする若者も多いです。遊び感覚でイジメや万引きをする子ども達もいます。先日、テレビを見ていたら、自分たちで騒ぎを起こして、自分たちで警察を呼んで、やって来た警察から逃げるのをゲームとして楽しむ若者のことをニュースで流していました。危険な行為や迷惑行為や犯罪行為を起こして、それを動画にとってSNSにアップする若者も多いです。全く意味不明です。スマホを見ながら歩いたり自転車に乗っている人も普通に見かけます。自転車で迷惑行為をする人、自動車で迷惑行為をする人のニュースも後を絶ちません。大人でもカスハラ行為をする人が増えて問題になっています。また、飲食店などに大量に予約を入れて武断でキャンセルする人もいるようです。これも遊びなんでしょうか。20年くらい前から「モンスター○○」と呼ばれる人たちが増えて来たことも若者達のこのような状態に関係しているのかも知れません。一般的にこのような状態は「モラルの低下」という言葉で表現されるのかも知れません。ではその「モラル」とは一体何なんでしょうか。「モラル」は明文化されていません。感覚的なものです。他者に期待することは出来ても強制することは出来ません。「社会を共有している仲間達に対する自発的な思いやり」のようなものです。ですから、「人と人のつながり」の中で育った子は、自然とモラルも育ちます。家族がつながり合い、共に助け合って生活しているのなら、子どもも自然と「家族内のモラル」を守るようになるでしょう。でも、家族もバラバラ、他の子や他の大人とのつながりも希薄な状態で育っている子に「モラル」を求めても無駄なんです。道徳教育は全く無意味です。でも困ったことに、現代社会ではそういう状態で育っている子が多いのです。若者達のモラルの低下はその結果に過ぎません。それはそういう社会や家族を作っている大人の問題なのですが、問題行動を起こして非難されるのは子ども達です。でも、そういう子ども達は、非難されても何で非難されているのか分からりません。
2024.06.01
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今日から15日(木)までキャンプに行ってきます。可能な範囲でメールでの更新も試みてみますが、初めてのことなのでうまくいくかどうか分かりません。電波が届くかどうかも分かりません。また、短くもなると思います。ご了承下さい。********************「共に生きる」ということは管理するのでも、無視するのでもなく、「助け合い、支え合いながら生きる」ということです。群れ遊びをしている時の子どもたちはそのような状態です。だから、楽しいのです。そして、だから「仲間意識」や「一体感」や「絆」といったものが生まれるのです。実は、人間の「人間らしさ」の全ては、「共に」というつながりの中で受け継ぎ、受け渡し、育つように出来ているのです。だから子どもたちは「共に」を求め「共に」を喜ぶのです。それが「遊びの本能」であり、その本能が群れを支えています。でも、テレビやゲームはその「共に」という欲求を満たしてくれません。競争や戦いは「共に」という価値観を破壊します。虐待が子どもの心とからだの成長に悪い影響を与えるのも、その「共に」が否定されるからです。虐待には暴力などを振るう攻撃的な虐待と、「ネグレクト」といった子どもを無視する非攻撃的な虐待があります。そして、一般的には、ぶったり、たたいたり、ののしったりするような「攻撃的な虐待」の方が「ひどいこと」のように思われていますが、本などを読むと「ネグレクト」を受けた人の方が治療が難しいとも書いてあります。確かに暴力は良くないことですが、子どもにしてみればそれもまたお母さんやお父さんとの関わり合いであり、何かを共有する出来事でもあります。ですから、悲しく苦しい出来事と共にでも、そこで何らかの「人間性」を学ぶことも出来ます。怒りや、悲しみや、暴力もまた「人間性」の一部だからです。そして、たとえそれが「負の人間性」であっても、その「人間性」をきっかけにして「正の人間性」へと変換することは可能です。怒りがあるからこそ目覚める喜びがあります。悲しみがあるからこそ感じる幸せがあります。暴力があるからこそ平和のありがたさも分かります。幼い頃に虐待を受けた人でも、「自分はその苦しさを繰り返したくない」と気づき、頑張っている人はみんなこの「攻撃的な虐待」を受けた人なのではないでしょうか。でも、ネグレクトのような「無関心」という虐待は、「負の人間性」すら与えてくれません。存在自体を否定されてしまうからです。「あんたなんか生まなきゃ良かった」と言うお母さんは、「子どもが生まれてきてしまった事実」は受け入れています。否定は肯定なんです。「お化けなんかいない」と強く言う人は、「お化け」を信じている人です。でも、子どものことに無関心なお母さんは、「子どもが生まれてきてしまった事実」すら受け入れていません。目の前に「子ども」がいても、お母さんの意識の中には「子ども」はいないのです。それでも、食事を作らない、着替えをさせないというような「積極的なネグレクト」は、周囲の人にも分かりますが、一番やっかいなのは、「母親としての仕事はちゃんとやっていながら、子どもの心やからだのことに関しては全く関心が無い」というネグレクトです。そのような人は、子育てを単なる「お仕事」として割り切ってしまっています。そうして、工場などで組み立て作業をするのと同じ感覚で子どもの世話をしています。子育ては単なる「お仕事」なんです。ですから、「やるべきこと」はちゃんとやります。でも、「からだ」は動かしても「心」までは動かしません。世間一般的にはこれは「虐待」ではありませんが、でも、私には非常に深刻な「虐待」としか思えないのです。「共に」がないからです。普通の「虐待」は子どもの心やからだに「傷」を作ります。そして子どもは一生苦しみます。でも、この「虐待」を受けた子は、その苦しむ「心」すら育ちません。そのため、「苦しみ」に鈍感な人間になってしまいます。これは多分、お勉強ばかりやってきた高学歴の人に多いのではないかと思います。この虐待は目に見えないので、取り組みようがありません。でも、この虐待が増えたら確実に社会は崩壊します。では「どうしたらいいのか」ということですが、幼稚園や学校などにおいて積極的に芸術的、創造的な活動を行うことで、それを目に見える形に変換することが出来ます。そして「心」を育てたり、「心の傷」を癒したりすることが出来ます。人間にとって、「芸術」は単なる趣味ではないのです。ということで、話題を「芸術」に変えていきます。(多分・・・)
2012.08.13
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私たちの世界は「繰り返すもの」と「繰り返さないもの」の組み合わせで出来ています。一日の流れや一年の流れは、毎日そして毎年繰り返されています。月の満ち欠けも繰り返しです。人の一生は「わたし」にとってはたった一回限りですが、「生命の連鎖」という視点から見たら「生まれて・生きて・死んで」の繰り返しです。「流行は繰り返す」という言葉通り流行もまた繰り返します。お湯を沸かす時、ヤカンの中のお湯は循環しています。その「循環」もまた繰り返しです。そして、毎日の生活も繰り返しです。そして、昔の人はその繰り返しの中に「死と再生」を感じ、大いなる不思議と安心を感じました。そして同時にその繰り返しを支えている「大いなる働き」に対しては、神の力を感じました。毎日朝が来る不思議と安心。毎年春が来る不思議と安心。同じような毎日がちゃんと繰り返されることの不思議と安心。だから人々は朝、お日様に手を合わせ、春、大地に感謝したのです。クリスマスが冬至の日に設定されたのもそのためです。人々がまだその繰り返しに不思議と安心を感じていた時代には、人々の幸せもまた「繰り返し」の中にありました。毎日朝が来る幸せ、毎日家族で食卓を囲むことが出来る幸せ、毎日健康で働くことが出来る幸せ、自分の生命を自分の子どもたちに受け渡すことが出来る幸せ、人々はそういう「ささやかなもの」の中に「幸せ」を感じたのです。でも、この世界は毎日、そして毎年繰り返しながらも繰り返すことのない流れの中を流れているのも事実です。宇宙の歴史、地球の歴史、人類の進化、そういうものは繰り返しません。宇宙には始まりがあり終わりがあります。地球の歴史や人類の進化にも始まりと終わりがあります。そこには「死と再生の繰り返し」は存在しません。そして、文明にも繰り返しはありません。始まりから終わりまで一直線に進んでいくのが「文明」の宿命です。なぜなら、「繰り返し」は自然が生みだしているのに対して、「文明」は人の意識が作りだすものだからです。自然は繰り返しますが、人の意識は繰り返さないのです。「繰り返し」の中に不思議と、安心と、幸せを感じていた時代の人々は、それをもたらす「自然」に対して畏れと感謝の心を持っていました。でも、人間の力だけを信じ、自然を管理したり、排除しようと考えている人たちは、自然に対して畏れと感謝の心を持っていません。そして、自然が作り出す「繰り返し」を受け入れようとはしません。むしろ、その繰り返しに逆らい、いつまでもベストな状態をキープしようとしています。それはエアコンによって一年中家の中の気温を一定にしておくようなものです。そのような人たちにとっては自然は管理するものであって、従うものではないのです。ですから「地球を守ろう」などということを平気で言うのです。でもそれは、子宮の中の胎児が「お母さんを守ろう」と言っているようなものです。私たちは地球に守られているのです。私たちが地球を守っているのではありません。そこを勘違いしていると、取り返しが付かないことになってしまいます。今、私たちに必要なのは地球を守ることではなく、自然や地球への畏れと感謝を想い出すことなんです。そうでないと、数量的なつじつま合わせを行うばかりで、本質的な崩壊は進むばかりです。自然に対して、畏れと不思議を感じなくなった私たちは、今度は「繰り返されるもの」ではなく人工的に作られた「繰り返されないもの」の中に幸せを求めるようになりました。それが、お金や、権力や、便利や、贅沢というようなものです。長生きも同じです。文明とはそのようなものです。だから最後には滅亡するのです。繰り返すものは永遠に続きますが、繰り返さないものには必ず限界が存在するのです。老人が死ななくなったら、地球上に人間が溢れてしまいます。経済がどこまでも発展したら、地球は死にます。これは当然の帰結です。でも、政治家もマスコミもそのことを指摘しません。昔の人にとっては、親になって、子どもを育てて、おばあちゃんになって、孫の世話をして、みんなに看取られながら死ぬのが一つの幸せの形でした。そこには老いること、死ぬことを「仕方がないこと」として受け入れる心もありました。それが「自然の働き」だからです。そうやって生命が繰り返されてきたことを知っていたのです。そこで大切なことは、「生命が受け継がれること」、「心や、大切なことや、生活が受け継がれること」であって、自分の若さや、スタイルや、財産や、権力や、自由を維持することではありませんでした。そんなものには終わりがあるということを知っていたからです。でも、受け継がれていくものには終わりがないのです。昔の人はその「終わりがない流れ」の一部として生きていたのです。でも、現代人はそのような「繰り返し」や「終わりがない流れ」を受け入れることを拒否しています。そして、「次世代に受け継ぐ」ことを考えずに、「自分の幸せ」だけを求めています。結婚して子どもが産まれても、どうやって結婚前の「自由な自分」を維持できるのか、ということばかりに夢中になって、子どもに「大切なこと」を伝えようとしていないお母さんはいっぱいいます。でも、人生は短いのです。どんなに自分のために生きても、すぐに年を老い、全てを失ってしまうのです。その時に、人のために生きた人、大切なことを次世代に受け渡した人は、何も失うことがないのです。「真理」は繰り返しの中にこそあって、一回きりの出来事の中にはないのです。そういうことを来年60才になる身として、強く感じるのです。
2010.09.28
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私は30年以上まえ、長女が5才、長男が3才の頃に自宅で子どものための造形教室を始めました。それは、「この時期の子どもには、色々なことをイメージし、そのイメージを手と頭とからだを使って形にする行為」が必要だと思ったからです。この時期の子ども達は、そのような活動を通して「意識やイメージや思考や感覚といった子どもの内側」と、「子どもが生きている現実世界」という外側がつながるようになるのです。またそのことで、「論理的に考える能力」や「自分自身の存在感」(自己肯定感)も育って行きます。その頃は、ゲーム機がどんどん普及する時期でもありましたが、あえて、時代の流れとは逆行するようなことを始めたわけです。最近の子ども達は自己肯定感が低いと言われますが、「自己肯定感」は「他者とのリアルなつながり」の中で育って行くものです。そのため、「リアルなつながり」から切り離された状態で育っている子は「自己肯定感」を育てようがないのです。そして、「色々なことをイメージし、そのイメージを手と頭とからだを使って形にする行為」を子ども達に体験させたいと思ったので、うちの教室ではその時々で「オススメ」という形で色々な提案はしましたが、実際に何を作るのかは子ども自身に決めさせました。造形関係の本もいっぱい揃えました。子どもを「お客さん」にしてしまったら意味がないからです。「お客さん」になってしまったら、選択するだけで能動的に感じ、考え、行動しなくなってしまいます。その結果、マニュアルに従った作業は出来ても、自分の頭で考え、イメージし、手やからだを使って創造することが出来なくなってしまうのです。ですから、うちの教室では決まったテーマを与えずに自由に感じ、考え、創ることを大切にしました。能動性を目覚めさせるためには「自由」が必要だからです。それで、「オススメ」を積極的に受け入れてくれて新しいことに挑戦しようとする子もいれば、自分のテーマが決まっていて、いつもそのテーマを追求している子もいました。教室を始めた当時は、かなり個性的な子ども達もいっぱいいました。作品もユニークでした。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子ども達もいました。でも今では、子どもに「オススメ」を提示しても、ちょっと面倒くさそうなテーマだとすぐに却下されてしまいます。そして「他になにか簡単に出来るものない?」と聞いてきます。最近は、「頭や手やからだも使わなくても簡単に出来るもの」ばかりをやりたがる子が多いのです。また、自分の頭で考えたり、見本を見て理解することをしようとせず、教えてもらうことばかり求めてくる子も多いです。そういう子はすぐに「次はどうするの?」と繰り返し聞いてきます。イスを作っているのに、足を一本切るたびに「次はどうするの?」と聞いてきたりします。見本が置いてあっても見本を見ません。見ても分からないようです。教室には暇つぶし用の知恵の輪も置いてあるのですが、全然試行錯誤せず、持った途端に「どうやって外すの」と聞いてくる子も多いです。それでいて、「木で自分が入れるような大きな家を作りたい」とか、「ラジコンが作りたい」とか、「折りたたみが出来る椅子が作りたい」などと、突拍子もないことを言うのです。ちなみに、「木で自分が入れるような大きな家を作りたい」と言う子には「大工さんに弟子入りしな」と言い、「ラジコンが作りたい」と言う子には「お店に行ってキットを買ってきな」と言い、「折りたたみが出来る椅子が作りたい」と言う子には「設計図を書いてみな」と言いました。特に、いつもゲームで遊んでいるような子にその傾向が強いです。現実と非現実の違いがよく分かっていないのでしょう。そういう子は、「頭や手やからだを使うような面倒くさいテーマ」には取り組みません。取り組んでもすぐに疲れてしまいます。20年以上前にやった作品展の写真です。
2024.05.17
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私は、自宅では自由に色々なものを作る造形教室をやっています。「自由」ですから、「作りたいもの」を決めるのは子ども自身です。そして、その参考になるような色々なお手本や本をいっぱい揃えています。教室を始めた30年くらい前にはそれでうまく行っていました。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子どももいました。でもいつのまにか、その自由をもてあましてしまう子ども達が増えて来ました。「自由に創っていいんだよ」と言っても、「わかんない」と言うのです。そして「なに、作ったらいいの?」と聞いてきます。そのくせ、色々なお手本を見せたり提案をしてもことごとく却下します。そして「たいくつだー」と言いながらブラブラしていたり、友だちとおしゃべりをしています。でも、そういう子ども達でもアニメやゲームの話になると盛り上がります。最近、そういう子が多いのです。そのような状態の子が増えるのは9才、10才頃からです。1,2年生の子は素直にこちらの提案を受け入れてくれます。でも、9才、10才頃から自分で決めたがるようになるのです。それ自体は成長に伴う自然な変化なんですが、最近の子は自分で決めたくても決められない子が多いのです。こちらの提案に対して「それは嫌だ」とは言うのですが「じゃあ何がやりたいの?」と聞いても「わかんない」という答えしか返ってこないのです。9才、10才頃から子ども達は「社会」というものに意識を向け始めます。少しずつ「自分の将来」のことも考え始めます。それまでの「夢」は単に想像するだけのものでしたが、この頃から「将来の目標」が「夢」になっていくのです。そして、「アンパンマンになりたい」などという非現実的な夢はいつのまにか消えて行きます。そんな時、「やりたいこと」を見つけられた子は子は、生き生きとしています。でも、それを見つけられない子は無気力になっていきます。9才頃までは楽しければそれだけで満たされていました。でも、9才を過ぎる頃から楽しいだけでは満たされなくなっていくのです。達成感や充実感が欲しくなるのです。まただから、現実の世界の中でそれを見つけることが出来ない子はゲームにのめり込んでいくのです。ゲームの中で達成感や充実感を得ようとするのです。そして、ますます「現実の世界」への興味を失っていきます。ゲームしか「やりたいこと」がなくなってしまった子は、「動くもの」には意識を向けることが出来ても「動かないもの」に意識を向けることが困難なようです。そういう子は、見て感じたり、見て理解する能力も低いです。本来はその頃から社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事に意識が向いていって、「自分の将来につながるような目標探し」が始まるのですが、家庭や学校に閉じ込められてしまっている現代の子ども達には、社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う機会がありません。それでも、本をいっぱい読んでいるような子は、本の中で社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う事が出来ますが、最近の子は幼い時から文字は読めても、本を読むことを楽しむことが出来ません。だから、その時期の子ども達を家庭や、学校や、テレビや、スマホや、ゲームの中に閉じ込めてはいけないのです。「9才の危機」を迎えた子ども達を生き生きとさせるためには、色々な所につれて行き、色々な大人や世界と出会わせ、色々な体験をさせてあげる必要があるのです。
2024.05.23
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人間の子どもは「何も知らない」「何も出来ない状態」で産まれてきます。でも、非常に高度な「見て学び、やって学ぶ能力」を持っているので、最初は何も知らない、何も出来ない状態でも大丈夫なんです。まただから、人間は自分が置かれた環境に適応して、多様な言語や、多様な技術や、多様な身体能力を身につけることが出来るのです。そのため、子ども達は周囲にいる人たちから貪欲に学ぼうとしています。大人が教えたから学ぶのではなく、自分の中で必要性を感じたから学ぶのです。言葉の学習でも、日常生活の中で言葉が使われていなかったり、積極的に子どもに話しかけていなければ、「お勉強」として言葉を教えても、子どもは「自分の言葉として使える言葉」を学ぶことは出来ないのです。「お勉強」という形で学ぶことが出来るのは「知識としての言葉」だけです。そして、学校で教えているのもこの「知識としての言葉」です。でも、「知識としての言葉」は、自分自身の思考のための道具としては使えないのです。また、他者との対話でも使えません。そして、「知的な学習」はその子の「言葉の能力」と密接につながっています。そのため、「未熟な言葉」しか持っていない子は「未熟な学び」しか出来ないのです。これはもう確認された事実なんです。学びの基礎となるのは言語能力――「3歳までの子育て」が大切なわけだから、子どもの知的な能力の育ちを支えたいのなら、幼いうちから「お勉強」をさせるのではなく、色々なことについて、色々な体験をしながら、いっぱい色々なお話をした方が効果的なんです。知識を覚えさせるよりも前に「言葉を使う能力」を育てる必要があるのです。(発話が遅いからといって知的な育ちが遅れているということではありません。自分からは話さなくても、こちらが言っていることが理解出来ているのなら大丈夫です。)小さい時はテレビに任せ、ちょっと大きくなったらyoutubeやゲームに任せていては、いくら塾に通わせて勉強させても「知的な育ち」は期待できないのです。そんな「子どもの学び」は「必要に応じて」が原則です。そしてその「子どもにとって必要なこと」は、子どもの成長に伴って変化していきます。赤ちゃんのうちはお母さんからいっぱい学ぼうとします。それが、「生存のためにお母さんを必要とする赤ちゃんという時期」に必要なことだからです。そして「お母さんから学んだこと」が、子どもの「人間としての基礎」になります。3才頃までに「お母さんから学んだ言葉」や「お母さんと一緒に体験した」ことが、子どもの思考や感性の土台になっていくのです。「三つ子の魂百まで」は迷信ではないのです。その次の段階として、社会性が育ち始め、仲間と群れて遊ぶようになってくると、子どもは仲間や年上の子から学ぼうとします。親ではなく、仲間や先輩がお手本になってくるのです。9才頃からは、仲間だけでなく大人や社会の影響を強く受けるようになってきます。ただし、大人や社会とのつながりがある子の場合ですけど。「伝記や物語などの本の中の人物」からも影響を受けるようになってきます。ただし、本を読むのが好きな子の場合ですけど。子どもの成長と共に「必要なもの」が変わってくるので、それに応じて子どもが積極的に学ぼうとする対象も変わってくるのです。でも、いつも一人で遊んでいて、仲間との関わりがない状態で育っている子は、当然のことながら仲間から学ぶことが出来ません。大人や社会とのつながりがなく本も読まない子は、大人や社会から学ぶことが出来ません。そして「お母さんから受け継いだもの」だけで生きていかなければならなくなります。でも、今、それすらもない子が増えて来ています。
2024.06.07
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自己肯定感が低い人は「出来ること」より「出来ないこと」を探す方が得意です。いつでも子どもの「出来ないこと」、自分の「出来ないこと」ばかり探して、自分がまるで悲劇のヒロインであるかのように悲しみます。でも、実際にはそのような子や人を見ていても、決して能力的に劣っているわけではありません。ただ共通してあるのは「社交性が乏しい」ということぐらいで、他の能力に関してはむしろ高い場合も多いのです。でも、いつでも「出来ないこと」ばかり探しているのです。もしかしたらこの「社交性が乏しい」ということと、「自己肯定感が低い」ということはつながっているのかも知れません。社交性の乏しい人は他の人とのつながり方がよく分かりません。そのような人は「自分の心」にばかりこだわる癖があるので、他の人に心を開くことがなかなか出来ないのです。そのため受け入れてもらっているのに、その受け入れられていることを感じることができません。また、感じたとしても、そのことで「相手に迷惑を掛けているのではないか」、「期待を裏切ってしまうのではないか」と苦痛になります。そして、必要以上に相手の期待に応えようと頑張ってしまうか、苦しいので相手から離れていきます。最初のうちは相手に合わせようと頑張っていて、途中で苦しくなって離れていってしまうことも多く、そのような場合その相手は「なぜ????」「理解不能」と感じます。そのような人は、素直に「出来ないこと」を「出来ません」と言うことが出来ません。「知らないこと」を「知りません」と言うことが出来ません。相手の期待を裏切ってしまうことを恐れているからです。相手の期待を裏切ってしまったら自分の評価が下がってしまいます。さらには、「出来ること」でさえ、「出来ます」とは言いません。「出来ます」と言ったら「じゃあやって下さい」と言われるかも知れません。でも、それで失敗してしまったら自分の評価が下がってしまいます。実際には、誰もあなたを評価などしようとは思っていないのですが、いつでも相手からの評価を気にしてしまうのです。だから、必然的に他の人との親しい関係を築くことが出来ないのです。でも、そこに大きな勘違いがあります。人は、「出来ないこと」は「出来ません」と言い、「出来ること」は「出来ます」と言ってちゃんと行動してくれる人を「素敵な人」と評価するものなのです。たとえ失敗してもチャレンジする人を信頼するものなのです。むしろ、期待に合わせようとするばかりで、自分の意志で積極的に動こうとはしない人の評価は下がってしまうのです。つまり、自己肯定感の低い人は、相手の評価を得たいがために、自分の評価を下げるようなことばかりを繰り返してしまうのです。だからいつまで経ってもその状態から抜け出すことが出来ないのです。また、「自分の子ども」も、「他の人が自分を評価する時の判断材料」と考えていますから、子どもにも「期待に応えること」を強く要求してしまいます。結果、子どものありのままの状態を受け入れることが出来ずに、「理想という型」にはめ込もうとして子どもを追い立てることになります。その時、待つことが出来ません。待っていたら子どもは自分で自分の型を作ってしまうので、お母さんが期待する「理想の型」からどんどん離れていってしまうからです。でも、待ってあげてください。それは子どものためであると同時に、あなたのために必要なことだからです。子どもを待つことが出来るようになった時、あなたは他の人の評価を気にすることがなくなるでしょう。
2010.03.08
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昨日、マシュマロさんから森へ行こうさんは、幼稚園に対する考えはどのようなものがありますか?というご質問を頂いたのでそれにお答えします。ただし、私の性格上、簡単にはお話しできないので、長い話におつき合い下さい。私は若い頃おもちゃ作家で有名な和久洋三氏の研究会に参加していました。その研究会には幼稚園の先生や、おもちゃ作家や、様々な形で子どもと関わっている人や、また関わろうと思っている人たちが参加していました。その研究会では子どものこと、幼児教育のこと、子どもの成長、子どもとの関わり方などをみんなで勉強したり、話し合ったりしていました。この会は和久さんの人柄もあってか、特に特定の思想や、視点や、方法にとらわれることなく自由に色々な視点から様々な学びをすることが出来ました。私はそれ以前には特に幼児教育について学んだことはなかったのですが、その研究会で異なる立場に立つ三つの幼児教育の方法について学ぶことが出来ました。その三つとはF.フレーベル、M.モンテッソーリ、R.シュタイナーが始めた幼児教育です。ちなみに「幼稚園」(キンダーガーデン)という言葉を作ったのはフレーベルです。この三人の他にも幼児教育の先駆者はいたようですが、今現在も世界中の幼児教育の分野で大きな影響力を持っているのはこの三人なのではないかと思います。和久さん自身はフレーベルが大好きでした。茅ヶ崎のモンテッソーリ幼稚園の園長先生もメンバーとして参加していました。また、同じく茅ヶ崎に住んでいて、シュタイナーが大好きでいつもシュタイナーについて熱く語る人もいました。私はこの彼を通してシュタイナーについて知り、非常に強く共感しました。もう30年近く昔の話です。この三人の思想には共通する点と、異なる点があります。共通する点があるからこそ、それぞれの思想が大好きな人が一緒に話し合い、学ぶことが出来たのです。でも、異なる点があるからこそ、それぞれの思想は異なる教育方法として受け継がれてきているのです。共通する点とは、●子どもの立場に立って考える●子どもを急がせない●宗教的な心を大切にする●大人の要求を押しつけるのではなく、子ども理解から子どもとの関わり方を考えるなどです。異なる点とは、この三人の個性に起因するもので、その大きな特徴を私の主観で大まかに分類してしまうと、フレーベルの考え方は「宗教的・文学的」で、モンテッソーリの考え方は「科学的・論理的」で、シュタイナーの考え方は「芸術的・直感的」です。子どもとの関わり方の態度としてはフレーベルでは「導くように」、モンテッソーリでは「客観的に」、シュタイナーでは「共感的に」というような印象があります。ただし、これは「私の個人的な印象に従って特徴を誇張して表現すると」ということであって、実際にはそれぞれの要素はいずれの教育方法の中にも存在しています。だから、どれが良くて、どれが悪いと言うことではありません。「科学と芸術と宗教とどれが正しい」と問うことに意味がないのと同じです。単純にその考え方が自分に合うか合わないかということに過ぎません。いずれにしても、それぞれがきちんとした「教育哲学」を持っています。教育に於いてはその「哲学」が大切なのです。ただ、フレーベルとモンテッソーリは基本的に幼児教育しかその対象としませんでしたが、シュタイナーは医学、農業、治療教育、芸術、建築などの様々な分野でその哲学を展開しています。また、シュタイナーは「人類の精神の進化」という視点から「幼児」という存在の意味を捉え、その視点から幼児教育を考えているので、幼児教育だけでなく、大人になるまでの教育、大人になってからの教育も扱っています。つまり、フレーベルやモンテソーリは「子どものこと」だけを考えたのですが、シュタイナーは「人類のこと」を考えたのです。ですから、シュタイナー教育について学ぶためには、子どものことだけでなく人類の精神についても学ぶことが必要になります。その結果、非常に大きな視点から「教育の意味や方法」について考えることが出来るようになります。ただ問題としては、精神世界や普遍的なことにばかり興味を持ち、すぐ目の前の子どもや、現実が見えなくなってしまう人も多くいるように感じることです。「普遍」と「現実」がつながらないのです。そのため、せっかくの「学び」を実際の子どもとの関わりの場で生かすことが出来ない人も多くいるように感じます。「普遍」と「現実」をつなぐのは「芸術的直感」なのですが、その「芸術的直感」を学ぶのはなかなか困難なようです。また、あまりに普遍的なことを求めているので、現実の問題としては非常に難解な事になっています。実際、シュタイナー教育を選んでいる人たちですら、ほとんどの人がR.シュタイナーの思想をよく知りません。また、シュタイナーが「精神の世界」と、「物質の世界」をつなげて説明しているので、オカルト的と感じる人も多くいます。それらがシュタイナー教育の長所でもあり、短所でもあります。明日はこのような視点を基準にして、私たちの周りにある一般的な幼稚園のことを考えてみたいと思います。以下は、ウィキペディアからの抜粋ですが、F.フレーベル、M.モンテッソーリ、R.シュタイナーの簡単な紹介です。F.フレーベル(1782年4月21日 - 1852年6月21日)彼はまずロマン主義の立場から、子供の本質を神的なものとして捉え、この児童観に基づいて受動的、追随的な教育を主張した。園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。また、彼は人間の発達の連続性を主張し、この立場から子供の共感的理解と、それに基づく教育を擁護し、早教育に反対した。神を不断の創造者として捉えた彼は、神的本質を有する子供は不断に創造すべきものと考えた。この立場から、彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。M.モンテッソーリ(1870年8月31日 - 1952年5月6日)イタリア初の女性医師 [編集]19世紀、ローマ大学医学部に女性として初めて入学。(中略)卒業後も女性が医師になることに封建的な医学界で、なかなか職が見つからず、医学とかけ離れた状況にあったローマ大学付属の精神病院にようやく職を得た。当時の精神病院の患者たちは鉄格子に囲まれた暗い部屋に監禁され、治療らしい治療が行われない劣悪な環境下にあった。医師として絶望的と言えるこの職場で、マリアは知的障害があるとされる幼児が床に落ちたパン屑でしきりに遊ぶ姿に目を留めた。幼児の様子を注意深く観察するうちに、何ら知的な進歩はないと見放されていた彼らが感覚的な刺激を求めることを認め、指先を動かすような玩具を次々と与え、彼らの治療を試みた。この試みは感覚を刺激することによって、知的障害児であっても知能の向上が見られるという確信を彼女にもたらし、他の障害児たちにも同様の教育を施した。マリアが彼らに知能テストを受けさせると、彼らの知能が当時の健常児たちの知能を上回るという結果が得られ、イタリア教育界、医学界に衝撃を与えることとなった。1907年、障害児の治療教育で一通りの成果を挙げた感覚教育法を、マリアはローマの貧困家庭の子供たちに応用する機会を得る。ここにおいても知能向上で著しい結果を得、この方法をさらに追究するため、医師を辞め[1]、ローマ大学に再入学した。再入学したローマ大学では主に哲学を学び、その後、南フランス・アヴェロンで発見された野生児の教育に着手し、感覚教育の先駆者であったジャン・イタールの著書の研究を進め、知的・発達障害者教育の先駆者エドワード・セガン医師に学んだ。さらに、生理学、精神医学の研究にも没頭。のちにモンテッソーリ教育と呼ばれる独自の幼児教育法を確立する。R.シュタイナー(1861年2月27日 - 1925年3月30日)概略 [編集]シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた[1]。1900年代からは神秘的な結社神智学協会に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同協会を脱退し、自ら「アントロポゾフィー協会(人智学協会)」を設立した。「アントロポゾフィー(人智学)」という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。中でも教育の分野において、ヴァルドルフ教育学およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が特に世界で展開され、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心にして、彼の教育思想を広める活動を行っている。
2010.05.14
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(今日のブログは以前書いたものですが、朝、今日のブログ書いていたら、昔書いたこの文章に似てしまったのでそのまま載せてしまうことにしました。)人間は「つながり」の中で成長します。言葉も、歩き方も、感じ方も、考え方も全て他の人との「つながり」を通してしか学ぶことが出来ません。どんなに高価な知育玩具を与えても大人との人間らしい関わり合いがなければ子どもの知能は成長しません。そして、その「つながり」には大きく分けて二種類あります。大人も含めた異年齢による「縦のつながり」と、同年齢による「横のつながり」です。異年齢のつながりは新しい世界、異質な世界との出会いをもたらしてくれます。子どもが大人の考え方や、学問などと出会うのもこの「縦のつながり」を通してです。また、様々な年齢の人と出会うことで人生や、生き方ということを考えるきっかけにもなります。世話をされたり、世話をしたりすることで優しさを学ぶことも出来ます。また、考え方、感じ方、心の使い方、からだの使い方、価値観などを学ぶのもこの「縦のつながり」を通してです。つまり、いわゆる「人間性」と呼ばれるもののほとんど全てを子どもはこの「縦のつながり」を通して学んでいるわけです。子どもは人生の最初、この縦のつながりのなかに生まれてきます。3才くらいまでの子どもにとってはお母さんやお父さんとの縦のつながりが全てです。そのつながりのなかで子どもは歩き方や、言葉や、コミュニケーションの方法や、心やからだの使い方の基礎を学んでいます。でも、3才前後から仲間との横のつながりを求めるようになります。それはこの頃から社会性を育てるための本能が働きだすからです。でも、横のつながりは縦のつながりと違って、何か「共有するもの」を必要とします。それは例えば「言葉」を含めた様々なコミュニケーション能力や、常識や、知識や、技術や、趣味や、価値観などです。それは大人でも同じですよね。そして、そういうものは主に「縦のつながり」を通して学んだものです。つまりそれは、3歳までに「縦のつながり」によって身につけたものを共有する形で「横のつながり」が生まれるということです。ですから、お母さんやお父さんなどとよく森の中で遊んでいた子どもは仲間とも森の中で遊ぶことを喜びます。だからそういう仲間が集まります。でも、小さい時から家の中ばかりで遊んでいた子は家の中で遊びたがります。だからそういう仲間が集まります。「仲間を作りたい」というのは子どもの本能なのですが、実際にどういう仲間作りをするのかということにおいては、それまでの親と子の縦のつながりが非常に大きく影響しているのです。 ですから、逆に言うと生活の中でのお母さんやお父さんとの縦のつながりがしっかりとしていない子は、仲間と共有するものを持つことが出来なくなるため、横の繋がりも作ることが困難になってしまうということです。織物と同じように、「縦糸」がしっかりと通っていなければ、しっかりとした「横糸」は通せないのです。そして、「横のつながり」を作ることができない子は、孤独になり、相手を否定することで自分の居場所を作ろうとしたり、様々な攻撃的な関わり方によって仲間とつながろうとします。また、時には空想や読書の中に逃避してしまう子もいます。成長しつつある子どもにとって一番苦しいのは「孤独」だからです。だから必死になって「孤独」から逃げようとするのです。でもだから余計につながることが難しくなってしまうのです。ただし、障害を持っている子の場合は生まれつきこの「縦のつながり」が作りにくいようです。そのため、結果として友だちに攻撃したりするような問題行動が多くなってしまうのですが、そんな時は“優しくしなさい”と叱っても無駄です。トラブルは「横のつながり」の中に現れていますが、もともとの原因は「縦のつながり」の中にあるからです。これは障害のある子でも、ない子でも同じです。こんな時はまず、大人とのしっかりとした「縦のつながり」を育てることをまず一番大切に考えなければなりません。それはなかなか困難な作業ですが、子どもを否定せず、ゆっくりと見守りながら「縦のつながり」を育てていくのです。あきらめてしまったらそこで止まってしまいます。これは障害の有無とは関係がありません。そして、「縦のつながり」がしっかりとしてくれば「横のつながり」も落ち着いてきます。この時、「横のつながり」の中だけでトラブルを解決させようとしても無駄です。また無理に“ゴメンナサイ”を言わせても無意味です。“ゴメンナサイ”は大人同士の関係改善のための言葉です。ただし、ここで間違えないで欲しいのは、「縦の繋がり」とは、単なる「しつけ」のことではないということです。現代の「しつけ」はただ子どもの行動に規制をかけることだけが目的になってしまっています。昔のしつけには精神的なものを伝える意味もあったのですが、その“精神的なもの”に価値を感じなくなってしまった現代人はただ子どもの行動だけを制御しようとしています。そしてそれは結果として動物を調教する方法と似た方法になってしまっています。アメとムチを使った大人の権力による押しつけです。でも、そんな方法ではいくら一生懸命にしつけても子どもが人間らしく成長することはありません。そして、しつけに熱心になればなるほど、子どもはペットのように大人に依存するようになってしまいます。そして、思春期が来たとき“自立出来ない自分”に苦悩することになります。それが「縦のつながり」であろうと、「横のつながり」であろうと、「つながり」に必要なのは「お互いを認め合う双方向的な関わり」なのです。この双方向的な関わりがあるから大人から子どもへと大切なことが伝わり、また、仲間同士もしっかりとつながり、子どもは安定するのです。子どもが安定出来ないようなものは「つながり」ではないのです。さらに「縦のつながり」においては「あこがれ」や「尊敬」や「信頼」の有無も大切な要素になります。例えば、小さな子は何でも出来るお兄ちゃんやお姉ちゃんに憧れを抱いています。だから、そこに「縦のつながり」が生まれるわけです。自分のことを大切にしてくれる大人に対しては尊敬や信頼が生まれます。だからそこにも「つながり」が生まれます。「つながり」は共有するものであって、一方的に押し付けることはできないのです。このようなことは学校でも同じです。先生と生徒が信頼関係によってしっかりとつながっているクラスでは、「横のつながり」もしっかりとしています。逆に、先生と生徒がつながっていないクラスでは生徒は乱れ、学力は低下し、イジメなども多発します。先生と生徒の間に信頼関係のないクラスで道徳教育などやっても全く無意味です。“生命を大切にしよう”、“友だちを大切にしよう”と訴えても、先生と生徒の間に信頼関係のないクラスではその言葉に何の説得力もありません。ですから、イジメを子どものせいにばかりしてはいけないのです。以前、学級崩壊しているクラスを見学したことがありますが、先生と生徒が全くつながっていませんでした。先生は生徒の細かいところばかり見て注意するばかりです。生徒もまた先生など見ていません。それに対して、先生と生徒が信頼し合っているクラスでは道徳教育などしなくても助け合うのです。それは先生が大切にしている価値観をみんなで共有することが出来るからです。みんなで同じ価値観を共有するから横につながることが出来るのです。そしてその価値観は「縦のつながり」を通して子どもたちに届くのです。ですから、学校における最高の道徳教育とは、先生が生徒との間に信頼を築くことに他ならなりません。また、そのためには校長が一人一人の先生との間に信頼を築くことも必要になるでしょう。実際、現在(2012年)高三の娘が小学校3,4年の時の先生は子どもたちとしっかりつながっていました。だから子ども達もまたつながっていて、休み時間にはいつもクラス全員で遊んでいたようです。そのつながりは中学に入っても、高校に入っても消えていません。政治の世界でもまた、国民と政治家がしっかりとつながっていれば社会は安定するでしょう。でも、政治家が国民をバカにして、国民が政治家を信用しない国では、社会が混乱するばかりです。子どもたちはこのような縦と横のつながりに支えられて成長していきます。そして、そのつながりの中で自由に生きることが出来るようになります。人は一人では生きていくことが出来ないので、「つながりの中での生き方」を学ばないことには、自由に生きることが出来ないのです。、でも、現代人はそのことを忘れてしまっています。そして、まだ一人では生きることが出来ない状態の子どもを縦横のつながりから切り離し、“自由に生きなさい”、“早く自立しなさい”と言って追い立てています。それは、現代人が誰からも束縛されていない状態を「自由である」、「自立している」ことだと思いこんでいるからなのでしょう。でも、実際にはそれは自由でも自立でもなく、ただ単に「つながりから切り離された状態」に過ぎないのです。そして、「つながりから切り離された子ども」は「つながりのなかでの生き方」を学ぶことが出来ないまま、一生「孤独」という束縛に縛られ、不自由に生きることになります。
2022.12.31
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