全7638件 (7638件中 1-50件目)
私は、子どもの心とからだの育ちには「美しいものとの出会い」が絶対的に必要だと考えています。その「美しいもの」にも色々とあります、満開の桜、新緑の山、夕日や朝焼け、野の花や、木々の木漏れ日、小鳥の鳴き声、太陽にキラキラする水面、蝶や昆虫などの造形なども美しいです。というか、よく見ると「自然」はみんな美しいです。大根もキューリも、足下の小石もみんな美しいです。家の中にも「美しいもの」はいっぱいあります。「自然」だけではありません。「声や仕草の美しさ」「動きの美しさ」もあります。「子どもの笑顔」も美しいです。私たちの周りは「美しいもの」に満たされています。そして、その美しさに気付いた人は「幸せ」を感じることが出来ます。なぜなら、「幸せを感じる心」と「美しいものに気付く心」は同じものだからです。それは、「何かを得ることで幸せを感じる心」とは別のものです。人は何かを得た時にも幸せを感じますが、その「幸せ」は一時的なものです。実際、それを得た時にはものすごく嬉しくても、しばらくすると別のもの、もっといいものが欲しくなりますよね。だから子どもは次から次へを新しいオモチャやゲームを要求するのです。でも、「美しいものに気付く心がもたらしてくれる幸せ」の方は持続します。他の人と共有することも出来ます。「子どもの笑顔」の美しさを感じることが出来る人は、「子育て」を楽しむことが出来ます。子どもの育ちを支えるような子育ても出来ます。なぜなら「子どもの笑顔」は「子どもの成長に必要なこと」を判断する時の羅針盤としても働くからです。逆に、「美しいものに気付く心」を持っていない人は「すでに自分が持っている幸せ」にも気付きません。そのため「物を得る幸せ」の方を求めます。でもそれは「競争」とつながっています。「美しいものを感じる幸せ」は他の人と共有出来ますが、「物を得る幸せ」は共有出来ないからです。ですから、子どもたちを美しいものと出会わせ、「美しさを感じる心」を育てることは、「平和を育てる教育」でもあるのです。それが子ども達にとって「美しいものとの出会い」「美しさを感じる心を育てること」が必要な理由でもあります。平和を守ろうとして「戦争の悲惨さ」を伝えようとしている人もいますが、まだ真・善・美の感覚が未成熟な状態の子どもたちに「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」を伝えてしまったら、子ども達は生きる希望を失ってしまうでしょう。戦争の悲惨さを伝えるのは、「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」に対して怒りを感じるようになってからにすべきなんです。また、そのような感覚が育つ前に戦争について教えられた子の中には、大人の思いとは逆に、ゲーム感覚で戦争に興味を持つようになってしまう子も出て来てしまうのです。 私たちは「必要なもの」には目を向けます。「困ったこと」や「役に立つこと」にも目を向けます。「欲望」や「利害」につながるものにも目を向けます。「刺激」や「自己主張」が強いものにも目を向けます。「豊かさ」や「簡単便利」を求める人も、安全や安心ばかりを求める人も多いです。 でも、目立たないもの、価値がないもの、刺激が弱いもの、自己主張しないもの、損得や利害に関係しないものにはあまり目を向けません。というかそういうものの存在にすら気付かない人がいっぱいいます。そのため、夕日が美しくても足を止めて見入っている人は滅多にいません。足下の花が美しくてもしゃがみ込んで見ている人も、美しい小石が落ちていてもそれを拾って、手に取って見る人も滅多にいません。子どもがそのようなものに見とれていると、「何やってんの! 早くしなさい!」と子どもをせかす人はいっぱいいますけど。でも、そのようなものに気づく心を育てることが、人々や社会に幸せをもたらしてくれるのです。戦争を「醜いもの」として感じる感性を育てることが出来るのです。そして、子どもが自分の人生を幸せに生きる手助けにもなるのです。
2026.07.27
コメント(0)
日本は若者の自殺が飛び抜けて多い国として知られています。以下は江戸川区のHPからです。日本は世界のなかでも特に自殺が多い国ってホント?社会問題になっている自殺ですが、日本では特に15~39歳の死因の第1位が自殺となっており深刻化しています。自殺によって命を落とした小学校・中学生・高校生は、2017年度は250名で、自殺による死亡率(人口10万人あたりの死亡者数)では英国は6.6、ドイツは7.7、米国は13.3ですが、日本は17.8と先進国のなかでも高い傾向にあります。若年層だけでなく、企業においても働きすぎやストレスによる過労死が問題視されており、政府としては過労死などの実態を明らかにして国民や企業の理解と関心を深め、過労死を効果的に防止していくことを目標に掲げています。大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。https://www.city.edogawa.tokyo.jp/tomoni/sdgs/column/article16.htmlこの中に、大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。と書いてありますが、これは全くおかしな考え方です。「社会」は「人と人のつながり」によって生まれ、支えられ、動いています。「社会のあり方」は「人間の生き方」が決めているのです。「社会」は人間の創作物でも、「他者」として人間によってコントロールできるものでもないのです。だから、社会を変えたいのなら一人一人の生き方を変えるしかないのです。でも、この記事を書いた人はそこのところが全然分かっていません。でも、困ったことにそのような考え方が「普通の考え方」でもあります。また、様々な価値観を持った人たちがお互いに認め合い、一人一人が必要以上のストレスを感じることがないような「人と人のつながり」は、「一人一人がちゃんと向き合って、本音を出し合って話し合い、助け合い、一緒に活動した結果生まれるもの」であって、「型に合わせて作ることが出来るもの」ではありません。子どもの場合は、ケンカも肯定されるような場での「本気の遊び」が「安心できる仲間作り」を支えてくれます。「こういう人間関係を作ろうよ」とか「みんなで仲良くしようよ」などというようなことを課題として掲げてしまうから、子ども達がストレスを感じてしまうのです。道徳教育も同じです。「人に優しくしよう」などということは人に強制することではないのです。優しい子に育てば、そんなこと言われなくても他の人に優しく出来るのです。子どもが他の人に優しく出来るのは、その子が「優しい子」に育った結果なんです。でも大人達は、その育ちを支えることなく「優しくする」という結果だけを子どもに求めています。だから、子どもはストレスを感じるのです。日本の子育てや教育では、子ども達を「大人が考えた理想像」や「大人にとって都合がいい型」にはめ込もうとしています。この記事の中にもそのような考え方が見えます。話題になっているドキュメンタリー映画、『小学校〜それは小さな社会〜』にも、子ども達を型にはめ込もうとしている姿が描かれているみたいです。(予告しか見ていないので、〝みたいです〟としか言えませんけど・・・)そしてそれはある程度成功しています。だから日本の子ども達はお行儀がいいです。そして世界からその「お行儀の良さ」に対する賞賛も受けています。でも、その一方で自殺率はダントツに高いです。これをどう考えるのか、ということです。大人のそのようなやり方を、子ども達が喜んで受け入れ、人間としても成長しているのなら自殺する子が増えるわけがないのですから。それはつまり、お行儀良くなった結果を大人は褒めても、子ども自身は喜んでいないと言うことを意味しているのではないでしょうか。そもそも、「みんな一緒」、「みんな同じ」、「みんな仲良く」を求められるような子育てや教育では子ども同士がつながれません。子どもと大人もつながれません。そして、つながれなければ「生きている意味」も、「生きている価値」も生まれないし、「喜び」や「成長」を感じることも出来ません。また、相互につながっているわけではないので、「先生」という「管理する人」がいない場だと、すぐにバラバラになってしまいます。でも、バラバラになると「つながり」に支えられていない子どもは急に孤独や不安を強く感じます。だから「管理してくれる人」を求めます。今の日本では、大人の都合や価値観を押しつけるような子育てや教育が一般的になってしまっています。そして、子ども達から「目的や感情を共有する仲間」や、「自由な時間」や、「自由な活動が出来る場所」や、「自由な体験」を取り上げてしまっています。「子どもらしい自由な表現」も否定し、「大人が求めるような表現」を押しつけています。日々の宿題や夏休みの課題も、子どもから自由に感じ考え行動する時間を奪っています。宿題があって喜んでいるのは大人だけです。日本の子ども達は、「一人一人異なった名前と、個性と、感覚と、考え方と、生き方を持っている一人の人間」としてではなく、「大人の指導を受けるべき子ども」、「先生の指導を受けるべき生徒」としてだけ肯定されているのです。その背景には、みんな一緒、みんな同じという「型」の中だけで生きている大人達がいます。大人が「型」の中で生きているので、子ども達に「型からはみだすようなこと」を言ったりやったりされたら困るのです。「型」の中で生きている人は「型」がないものに対処できないからです。そしてまただから、日本人の多くは、「自分の意見」を言いません。「自分を表現すること」や「対話や議論」からは逃げようとします。お母さん達に「子どもから、何で勉強しなければいけないの? と聞かれたらどう答えますか?」と聞いても知識や常識を並び立てるだけで「自分の言葉」で語ることが出来ません。まただから、対話や議論やケンカが否定され、「みんなで仲良くしようね」が強制されてしまうのです。人はなぜ自殺するのかというと、生きている意味や喜びを感じないからです。「自分が自分である必要」を感じないからです。それはつまり、日本の子ども達の自殺が多いと言うことは、日本では、子どもが「自分が自分である必要」を感じないような子育てや教育が行われているということです。
2026.07.26
コメント(0)
1,2才頃までの子どもが求めるのは「お母さん」だけです。「他の人とのつながり」や「仲間」は求めません。2才頃の子どもにとっては、「お母さんと自分」だけが世界の全てだからです。「お父さん」すら必要としていません。そして、この頃の子どもは「お母さんの一部」として存在しているので、まだ「他者」と出会うこともありません。でも、2才頃から他の子にも関心を持ち始めます。「他の子が持っているもの」や「他の子がやっていること」にも関心を持ち始めます。そして少しずつお母さんから離れて活動することも多くなります。この頃から「お母さんと自分だけで閉ざされていた世界」の扉が、外の世界に向かって開き始めるのです。そして、お母さんから離れることが出来るようになることで、少しずつお母さんから「自分」という存在が切り離されます。でも、まだこの頃の子どもには「自分と対等の他者」は存在していません。「自分中心の視点」しか持っていないからです。この広い世界に「自分」だけが存在しているのです。それは「天上天下唯我独尊」というような状態です。この頃の子どもに「自分」の絵を描いてもらうと頭足人になります。だから、興味を感じたら他の子にもズカズカ近寄ろうとします。触れたりもします。また、他の子が持っているものを奪おうともします。正確に言うと、ただそこにあったから持って行こうとしているだけなので、奪おうとしているわけではありません。以前、造形の幼稚園児クラスもやっていたのですが、ある子が教室に落ちていたビー玉を見つけて「ボクが見つけたからボクのものだ」と言いました。そんな感じです。幼い子どもたちは、大人の目には他の子のものであっても「ボクが見つけたものはボクのものだ」という意識世界に生きているのです。それは森の中でドングリなどを見つけた時の感覚と同じものです。古代人の感覚でもあります。その時、「所有者は誰か」とか「相手の気持ち」など考えません。というか、そもそも「所有者」という考え方や、「相手も自分と同じような気持ちを持っている」などということ自体が分かりません。そのため、それが他の子のものであっても、「ボクが先に遊んでいたのだからボクのものだ」などと平気で言います。だから、相手が泣いても気にしません。もっと言えば、子どもは「自分の気持ち」も知りません。見たい、触りたい、欲しいという衝動に従っているだけだからです。そんな時、親は「見たかったんだね」「触りたかったんだね」「遊びたかったんだね」などと子どもの気持ちを代弁しようとしますが、その言葉も子どもの心には届きません。自分の気持ちを客観的に感じ取る能力自体が育っていないからです。同じ理由で、相手が嫌がることをやったり、勝手に触れたり、他の子が持っているオモチャを奪ったりしてその相手からぶたれても、何でぶたれたのか分かりません。そのため、「何にもしていないのにぶたれた」と感じます。親にもそう言います。そしてその言葉をそのまま信じてしまうお母さんも多いです。その「相手の気持ち」が分かり始めるのは9才を過ぎてからです。ただし、9才を過ぎても分からない子は分かりません。大人になっても分からない人は分かりません。「気持ち」は見えないですからね。でもだからといって、それまでの子がみんな自分勝手に振る舞う訳ではありません。他の子が嫌がるようなことを平気でやるわけでもありません。なぜなら、子どもは普段自分が扱われているように、他の子や人にも関わろうとするからです。日常的にお母さんから優しく話しかけられている子は、他の子にも優しく話しかけます。だからといって、相手の子の気持ちが分かってそうやっているわけではありません。子どもはただ、自分がお母さんにしてもらっているように相手にもしているだけです。日本語で話しかけられて育った子は、他のにも日本語で話しかけますよね。それと同じです。そのため、いつも一人で遊んでいる子、いつも機械やオモチャばかりを相手に遊んでいる子、お母さんに構ってもらえない子、話を聞いてもらえない子、優しく語りかけてもらっていない子は、「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来ません。そのように、お母さんや家族との関わり合いを通して「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来なかった子は、悪気はないのに平気で他の子が嫌がるようなことをやってしまいます。で、トラブルになるとお母さんは「なぜいけないのか」を一生懸命に説明します。でも、どんなに丁寧に説明しても、子どもはお母さんの言っている言葉の意味が分かりません。「ぶたれたら痛いんだから」と、その痛みを教えるために我が子をぶつ人もいますが、子どもは自分の痛みは分かっても、相手の痛みは分かりません。大人だって分からないですよね。また、お母さんに待ってもらっている子は、他の子に対しても待とうとします。「相手の気持ち」は分からなくても、「相手の気持ちを大切にする方法」なら学ぶことが出来るからです。「気持ち」は見ることも体験することも出来ませんが、「方法」は見ることも体験することも出来ます。だから、「優しさ」や「人間性」のようなものは、理屈を通してではなく体験を通して伝えるしかないのです。子どもたちに「命の大切さ」を伝えたいのなら、椅子に座ってやるような道徳の授業なんかやめて、みんなで野原や森の中に入って助け合って遊んだり、様々な生き物と触れ合う体験を与えればいいのです。「優しさ」を伝えたいのなら、子どもたちを優しく受け止めてあげればいいのです。
2026.07.25
コメント(0)
人間は「人と人のつながり」の中でしか「人間として」生きることが出来ない動物です。隔離された状態でも「ヒト」という動物としてなら育つことが出来ますが、隔離された状態で育てられた「ヒト」には、「人間らしい感覚」も、「人間らしい思考」も、「人間らしい言葉」も、「人間らしい感情も」、「人間らしい意識」も、「人間らしいからだ」も備わっていません。単に「解剖学的にはヒト」というだけの存在です。確かに、隔離された状態でも機械が相手をすることで色々なことを学ばせることは可能です。人間は育ちの過程で周囲にいる存在を真似したり、周囲にいる存在から学ぶように出来ているからです。試験でいい点数を取るような知識を覚えさせることも可能です。ですから、「それで充分なんじゃないか」と勘違いしてしまっている人がいっぱいいます。誰から学ぼうと同じではないかと・・・。だからタブレット学習なるものもこれだけ普及したのでしょう。実際、ほとんどの人が「1+1=2」を人間から学ぼうと、タブレットなどの機械から学ぼうと同じではないかと思い込んでいます。調査したことはありませんが、学校がタブレット授業を始めてもほとんど反論の声が上がっていないのがその証拠です。反論している人もいますが全くの少数派です。でも、機械から学んだ「1+1=2」と、人間から学んだ「1+1=2」は同じではないのです。「なぜ、1+1=2を学ばなければいけないのか」という、そもそものところが人間と機械とでは全く違うからです。人間は、自分の体験を通して「1+1=2」を学ばなければならない理由を知っています。人間にとって、「1+1=2」は単なる知識ではなく「考え方」なんです。子どもは、人間から「1+1=2」を学ぶことで「考え方」を学んでいるのです。そして、その「考え方」を共有することで、「人と人の対話」も可能になるのです。でも、機械から学ぶことが出来るのは「1+1=2」という知識だけです。その知識を「考え方」にまで展開して子どもに伝えることが出来るのは人間だけなんです。そもそも、機械の働きを支えているのがその「1+1=2」という論理なので、機械は「考え方としての1+1=2」を知りません。機械は「人間らしさについて」は教えることが出来ても、「人間らしさそのもの」を伝えることは出来ません。「優しさについて」「愛について」教えることは出来ますが、「優しさ」や「愛」そのものを伝えることは出来ません。「知識」を教えることは出来ますが、その「知識の中身」や「知識の使い方」を伝えることは出来ません。そういうものを伝えるためには、「伝える人」と「受け取る人」が同じ「人間」である必要があるのです。そして当然のことながら「社会的な感情」も機械は教えることは出来ません。どんなに進歩しても機械は「道具」です。人間と対等な存在ではありません。だから「人間」と「機械」だけでは「社会」を構成できないのです。「社会」が構成できないのなら、いつも機械の中で暮らしていても「社会的な感情」は育たないのです。「社会的な感情」の目覚めは、お母さんとの一対一の関係の中から始まります。そのお母さんとの間の「一対一の人間関係」が、そこから始まる社会的な感情の育ちの原点になって行くのです。お母さんに肯定されて育った子は、他の人に対しても肯定的な感情を持つことが出来るようになります。だから、成長して動き回るようになっても、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来ます。でも、お母さんに否定されたり、関わり合いを拒否されて育った子は、他の人に対して肯定的な感情を持つことが出来なくなります。不安も強くなるためにお母さんから離れることも出来なくなります。そのため、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来なくなります。ちなみに、憂鬱質が強い子(不安が強い子)もなかなかお母さんから離れませんが、お母さんと一緒ならニコニコしているようなら全然問題はありません。成長と共にお母さんから離れて行動できるようになります。それと保育園や幼稚園の先生などは、「お母さん」の代わりにはなりません。そもそも、最初からそういう役割は想定されていません。また、お母さんから「自分の代わり」の役割を求められても困ります。子どもの方も保育園や幼稚園の先生に「お母さんの役割」を求めません。お母さんにしか伝えることが出来ないことがいっぱいあるのです。
2026.07.24
コメント(0)
幼い子どもの感情は、まず母親との関わり合いを通して育ちます。赤ちゃんが「お母さんの言葉」を真似して「自分の言葉」にしていくように、「お母さんの感情」を真似して「自分の感情」にしていくのです。だから日本語で育てられた子は日本語を覚えるように、「日本人の感情」で育てられた子は「日本人の感情」を持つようになるのです。また、お母さんが「よいお母さん」を演じていると、子どもも「よい子」を演じるようになります。でも、「よい子」に育つわけではありません。見かけだけです。実際、そのような子は思春期が近づくと「よい子」を演じるのが苦しくなって「地」が出てきます。それがいわゆる「反抗期」ですが、それまでの「ガマン」が強かった子ほど強く爆発します。「反抗期」が全くない子は少ないですが、でも、家庭内で暴れまくるような暴力的な反抗を表すような子はズーッと、ズーッと強いガマンを強いられてきたのではないかと思います。それはお母さんが「吐き出したくても吐き出せない苦しさ」を、子どもにも押しつけてきた結果かも知れません。また「大人の都合」を子どもに押しつけてきた結果かも知れません。私は幼稚園などでもお話をさせてもらうことがありますが、質問の時間には質問しないのに、終わってから個人的に質問してくる人がいっぱいいます。その時、その質問の内容の多くは、「その幼稚園に通っている子」についてではなく、思春期に入っているその子のお兄さんなりお姉さんについてです。だから、みんなの前では質問できないのです。幼稚園時代までなら親のやり方を押しつけることが出来ます。また、反抗しても力尽くで押さえ込むことも出来ます。だから子どもの状態に問題が起きていてもなんとかやり過ごせるし、それほど問題も感じません。でも、10才を過ぎた頃からそのやり方が通用しなくなるのです。だから手に負えなくなってしまうのです。でも、「目に見えるようになった子どもの状態」は、長い時間をかけて積み重ねられてきた、「目に見えない心の中の苦しみ」の表れなので、簡単な対処法など存在しないのです。でも、そのようなお母さんほど「簡単な対処法」を求めてくるのです。あるお母さんの子は、思春期になって暴力的になり、家の壁を殴ったり蹴ったりするので、壁が穴だらけで、母親にも殴りかかってくると言っていました。でも、そのお母さんは、その状態が、「自分が子どもにズーッとガマンを押しつけてきた結果だ」ということが分かっていたので「黙って殴られています」と言っていました。犯罪に手を出して、しょっちゅう警察のご厄介になっている、という子もいました。兄弟間での悲惨なイジメに発展してしまう子もいます。「何にもしていないのに突然お兄ちゃんが殴りかかってくる」と言っていた子も何人かいます。弟をストレス発散の対象にしているのでしょう。大分以前に参加したワークで、「二人組になって自分の感情を吐き出す」というワークをしたのですが、私がペアを組んだ女性はお姉さんに対する恨みや苦しみを吐き出していました。そのワークでは受け手が座布団を抱えて、吐き出す側の人はその座布団を相手に見立てて自分の感情を吐き出すのですが、その人は「あんたのせいで」「あんたがいなければ」と叫びながら、座布団をバンバン殴っていました。この人の恨みの対象はお姉さんでしたが、その背景には間違いなくお母さんやお父さんがいます。兄弟(姉妹)を比較し、競争させながら育てていると間違いなく兄弟(姉妹)の関係は悪くなるのです。その一方、幼稚園時代は問題児だったのに、10才頃から落ち着いて素敵なお兄ちゃんやお姉ちゃんになっていく子もいます。私はそういう例を何人も知っています。「あの悪ガキが」という子が、久しぶりに会うと素敵なお兄ちゃんになっていて驚くこともあります。そのような子のお母さんは子どもの感情を否定しません。ダメなことはダメと「行為」は否定しますが、「感情」は否定しません。また、そのような保育をしている園もあります。そのような子育てや教育を受けている子は大きくなるにしたがって落ち着いてきます。幼いときは、ガマンを強いることなく、よい子を演じさせることなく、感じた感情はドンドン吐き出させるようにした方がいいのです。ただしそれを「攻撃的な言葉や行動」という形で出させてしまうと子ども同士の関係が壊れてしまいます。相手も傷つくし、自分も傷つきます。だから、「遊び」や様々な「表現活動」の中で自分の感情を吐き出させるのようにするのです。またケンカをした場合も、ケンカを止めるのではなく、温かい目で見守ることも必要です。子どもも大人も、そのような活動を共有することで、本音を出し合える仲間作りが出来るようになるのです。そして、感情も安定してきます。感情が安定してくると、感覚や思考力も安定してきます。
2026.07.23
コメント(0)
色々な人を見ていると若くても元気がない人もいれば、歳を取っていても元気な人もいます。子どもでも元気な子もいれば元気がない子がいます。じゃあ、「その違いを生み出しているのは何なのか」ということです。子どもでも、大人でも、老人でも、元気な人は「やりたいこと」をいっぱい持っています。「元気だからやりたいことを持つことが出来るのだろう」と考える人もいるかも知れませんが、私はその逆だと考えています。「やりたいこと」を持っているから元気なんです。この「やりたい」には「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」なども含まれています。病気をしていても、からだが不自由でも、これらの「やりたい」があればそれを実現するために色々と工夫し、乗り越えてしまうのです。「やりたい」という気持ちが、感覚や、思考や、意識や、からだの働きを活性化してくれるからです。幼いときの病気が原因で四肢を失った「中村久子」という人がいました。昭和12年に来日したヘレン・ケラーと対面したとき、ヘレン・ケラーは中村久子を強く抱きしめて涙を流し、「私より不幸であり、私より偉大な人」とたたえたそうです。(詳しいことはネットで検索して下さい)「やりたいこと」がその人と「未来」を、その人と「社会」を、その人の「心とからだ」をつないでいるのです。だから元気なんです。人間が生き生きと能動的に生きるためには、「やりたい」という「欲」が必要なんです。年を取ってくるとその欲が減ってくる人が多いのです。そして守りに入ってしまいます。すると急激に気力も体力も弱くなります。「欲」というと悪い印象を持っている人も多いかも知れませんが、「世界平和」を望むのも「欲」ですからね。「子どもの幸せ」を望むのも「欲」です。「いい仕事をしたい」、「いい作品を作りたい」という欲を持っている人もいます。それらの欲は「他の人と共有出来る欲」「他者を否定しないで実現できる欲」です。その一方で「お金を儲けたい」「権力者になりたい」「自分だけ幸せになりたい」「自分だけ自由になりたい」というような、「他者を否定しないことには実現しない欲」もあります。このような欲は当然、戦いの原因になります。「ゲームをしたい」という欲は、他者を否定しませんがゲーム以外の活動を排除します。そのため、子どもの成長に必要なものを学んだり、様々な体験をしたり、様々な人や事と出会う機会が奪われ、結果として成長が阻害されてしまいます。「〇〇ファースト」という考え方も「他者を否定しないことには実現しない欲」です。だから戦いが生まれます。欲には、みんなの幸せにつながる「自分を成長させてくれる欲」と、戦いを引き起こす「成長を阻害する欲」があるのです。私が「欲を持とう」と勧めているのは「自分を成長させてくれる欲」、「他の人の幸せにつながるような欲」、「自分の世界を広げてくれるような欲」の方です。そのような欲は、人を元気にし、活動的にし、健康にしてくれます。これは医者が出してくれる「薬」よりも効果がある「薬」です。昔読んだので記憶が曖昧ですが、お釈迦様がある信者から「お釈迦様は悟られているので、欲に振り回されて苦しむことなんてないのでしょうね」と言われたそうです。先日もあるお母さんが「悟りを開きたい」と言うので「何で?」と聞いたら「悟りを開いたら色々なことで悩んだり苦しむこともなくなるだろうから」などと言っていました。それに対してお釈迦様は「そんなことはないですよ。私は皆さんの誰よりも欲深く、大きな欲を持っているのですよ」と答えられたそうです。それは「世界中の苦しんでいる人を救いたい」という壮大な欲です。だから、「自分一人のための欲」なんてちっぽけなんです。そういう大きな欲を持っていたから、シャカ族の王子「釈迦牟尼」は苦しい修行を乗り越えて「お釈迦様」になることが出来たのです。アッシジのフランチェスコも、「自分のためではなく人のために生きたい」というような欲に目覚めて聖者になりました。問題があるのは「自分のための欲」の方です。この「自分のための欲」は世界を閉ざし、成長を阻害し、敵を作ります。でも、子ども達に「夢」を聞くと「お金持ちになりたい」とか、「一日中ゲームで遊んでいたい」というような「自分のための欲」しか出てこないのです。「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」という欲が出てくる子は滅多にいません。私が子どもの頃にあこがれていた外国にも行きたくないと言います。「どうして?」と聞くと「怖いから」と言います。大人がそういう情報しか与えていないのでしょう。お金持ちを望むこと自体が悪いわけではありません。問題は「お金持ちになって何をしたいのか」ということです。それがなければお金に支配されるだけの人生を送ることになってしまうでしょう。ゲームの方も「ゲームを通して世界中の子とつながりたい」という欲は子どもを成長させくれます。でも、そのように望んでいる子は少ないです。
2026.07.22
コメント(0)
人間は「感情の動物」です。人間の特性を高い思考力に求める人がいますが、それは人間の人間らしさを支える根本的な特性ではありません。実際、感情の働きが萎えてしまうと、感じる力も、考える力も、行動する力も、生きる力も萎えてしまいます。また、姿勢も崩れ、病気に罹りやすくなります。感情には「病気からからだを守る働き」もあるからです。そして、その「感情の働き」の根本的な所は「からだの育ち」と共に成長します。「感情」と「からだ」はほぼ一体のものだからです。大人は義務で行動しますが、子ども達は義務では行動しません。「やりたい」という感情が動かなければ子どもは自発的には行動しないのです。そして、「頭の育ち」は「感情の育ち」と「からだの育ち」の結果として生まれます。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」がちゃんと満たされない子は「頭の育ち」も満たされないのです。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」を無視して、いきなり「頭の育ち」を促そうとすると、これら全部の育ちに困った影響が残ってしまうのです。順序を間違えると成長が歪んでしまうからです。でも、多くの現代人が、これをやってしまっています。実際、「やりたい」という感情が強い子ほど能動的に行動します。遊びはその「やりたい」を引き出すきっかけとして働いています。そして、7才頃までに、「遊び」を通して心とからだがちゃんとつながった子は、周囲の刺激に振り回されにくくなり落ち着いてきます。そのような子ばかりなら学級崩壊は起きないのです。学級崩壊という状態が一般的になってしまったのは、「心とからだがつながっていない子ども達」が増えてきたからなんです。そのような子は感情の育ちが未熟なため、簡単な刺激に触れただけで自分の感情に振り回されてしまうのです。また、それ故に、落ち着いて、論理的に考えることも苦手です。他者とつながったり、対話したり、支え合ったりするのも苦手です。そして、自分中心に感じ、考え、行動するようになります。その「感情の働き」は「からだの状態」とのつながりが強いので、からだの成長の段階に合わせて感情の成長の中身も変わってきます。子どもは、からだの基本的な機能が整った状態で生まれてきます。でもまだ「器」しかありません。その中身は産まれた後の体験を通して育っていくのです。感情もその時に育っていくのです。幼い子ども達は、まず感覚の働きを育てようとします。全ての生き物は感覚の働きを通して「自分が生きている世界」とつながり、食べ物をとり、敵や危険な状況から身を守っているからです。だから色々なものに触れ、色々なものを口に入れ、色々な所に行って、色々なことをするのです。その時、周囲にいる大人がその「子どもが感じている感覚」を共有しようとするとき、その感覚に伴う感情も育っていきます。「感情」は「言葉」と同じ性質を持っていて、人から人へと伝承されるものだからです。美味しいものを食べたときに「美味しいね」と言って笑顔で「子どもが感じている感覚」を共有していると、食に対する肯定的な感情が育つのです。確かに、一人だけで食べても栄養は取れます。でも、「食べる」と言うことに対する肯定的な感情は育たないでしょう。子どもが立ったとき「立った、立った」と周囲の大人が喜んでいると、「立つ」という行為に肯定的な感情を持つようになります。子どもがからだを動かして色々なことをやっている時、それを見ている大人も子どもと一緒に喜んでいると、子どもはからだを動かして遊ぶことが楽しくなります。そして、からだを動かすことに対する肯定的な感情がめざめます。(続きます)
2026.07.21
コメント(0)
昨日書いたように昔の人は忙しかったです。でも、簡単で便利な機械や道具やインフラがいっぱい発明され、それらを使いこなしている現代人はもっと忙しいです。不思議なことです。昔の人が何時間もかけてやっていたようなことでもボタンをポチッと押すだけで出来てしまったりします。じゃあ、残りの時間はのんびりと過ごしているのかというとそんなことはありませんよね。空いた時間にも別の仕事を入れてしまいます。昔の人は仕事がないときはのんびり出来たのでしょうが、現代人は、その「のんびり」が出来ないのです。次から次へと色々な仕事をこなしているうちに「じっくりと取り組む」ということが出来なくなってしまったのでしょう。実は「のんびり」も「じっくり」と基本的には同じものなんです。音も似ていますよね。自分の心と、感覚と、頭と、意識と、からだを使ってご飯を作り、お洗濯をし、仕事をして頃は、自分の心のリズム、からだのリズム、意識のリズムに合わせて仕事をすることが出来ました。自分の心、からだ、意識を追い立てないで、自分の命のリズムに任せることが出来ていたのです。でも現代社会では「自分のリズム」ではなく「機械のリズム」「社会のリズム」に合わせなければなりません。だから、追い立てられ、振り回され、「自分」を見失ってしまうのです。「そろそろ園バスが来るから早くしなさい」などと子どもを追い立てているお母さんは多いですが、それも社会が簡単で便利になったことで生まれた副作用です。簡単で便利な機械やインフラが普及することで、生活のリズムを決めるのが「自分」ではなく「機械や社会」になってしまったのです。自分が「自分の時間」の主人ではなく、機械やインフラや社会に「自分の時間」を支配されるようになってしまったのです。それが「モモ」に出てくる「時間泥棒」ということなのでしょう。また、一つの仕事にかかる時間は減りましたが、やるべき仕事の種類は圧倒的に増えました。その結果、やることがなくなると無意識的に次にやるべきことを探し始める癖がついてしまいました。そして、「やることがない」という状態に不安を感じるようになります。「何もしない時間」を「無駄な時間」と感じ、考えるようになりました。だから次々と「やること」を探して、じっくり感じることも、じっくり考えることも、じっくり呼吸することも出来なくなってしまったのです。でも子ども達は、まだ便利な機械やインフラが生まれる前と同じ状態で生まれてきます。子どもの感覚、意識、思考、からだの主人は子ども自身です。そして子どもは「子どもの時間」、「子どもの空間」、「子どもの社会」を生きています。だから、日々社会の要求に応えることに一生懸命になっている大人達は、「自分の世界で、自分のリズムで、自分のために生きている子ども達」を見るとイライラするのでしょう。
2026.07.20
コメント(0)
昨日、分からないことは分からないままでいいのです。分かるまで待てばいいのです。大人が善意で分かりやすくして、分かった気にさせてしまうと「?」が消えてしまいます。でも、子どもは「?」があるからお話の中に能動的に参加することが出来るのです。このように、大人の善意が子どもの成長を阻害してしまう事がいっぱいあるのです。と書きました。簡単で便利な機械や道具やインフラに手伝ってもらえなかった頃の大人は、生活するのも、仕事をするのも忙しかったです。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断して行動しないことには、ご飯すら炊けなかったのですから。皆さんは炊飯器も、IHやガスもない状態で美味しいご飯を炊くことが出来ますか。洗濯機も洗剤もない状態で、洋服をキレイに洗うことが出来ますか。なかなか難しいですよね。だから大人達は自分の仕事をこなすことで精一杯で子どもの相手をすることなど出来なかったのです。現代社会では、子どもが何らかのトラブルを起こすと「親がちゃんと見ていなかったからだ」とか「ちゃんとしつけていないからだ」などと言われますが、昔の大人には子どもの行動を観察したり、子どもと関わっている時間なんてなかったのです。また、お金もなかったし、子育てを支援するようなインフラも整っていなかったので、子どもを何らかの施設に預けることも出来ませんでした。子どもを遊ばせてくれる人や場所や施設もありませんでした。子どもの相手をしてくれるテレビやオモチャやゲーム機もありませんでした。だから子ども達は、家から外に出て、同じように暇を持てあましている子ども達と群れて遊んでいたのです。そして、群れの中で他の人との関わり方、協力の仕方、ルールを守ること、トラブルの解決の仕方、遊びの方法、「遊びを発見する方法」などを学んでいたのです。また、一生懸命に働く大人達を見て、生活の仕方や仕事の仕方などを学びました。大人に仕事の仕方を教えてもらって学んだのではなく、見て学んだのです。教えられたから学んだのではなく、必要だから学んだのです。まただから、子ども自身の成長のタイミングに合わせて学ぶことが出来たのです。でも、簡単で便利な機械や道具やインフラが普及すると、それらを生産し、維持するために野原にはビルが建てられ、池や沼は埋め立てられ、山は放置されることで荒れ、子ども達が自由に遊ぶことが出来る場が消えてしまいました。1951年生まれの私はその過程を見てきました。また、便利な機械や道具やインフラが普及すると、それらを買ったり使ったりするためのお金も必要になりました。そして、お金を得るための競争が始まりました。それは受験競争や早期教育をもたらし、子どもを追い立てるようになりました。それまでの子ども達は、学ぶ準備が出来てから学ぶことが出来ていたのですが、今の子ども達は、学ぶ準備が出来る前から勉強に追い立てられています。その結果、知識やいっぱい持っているのにその使い方を知らない子ども達が増えてきました。子ども達が試験のためだけに勉強するようになったのです。今の日本の社会や政治は、そのような競争に勝った人たちが動かしています。知識はいっぱい持っているし、言葉も巧みですが、それを自分が勝つためにしか使うことが出来ない人たちです。大人達は我が子を勝ち組にするために、まだ学ぶ準備が出来ていない時期から学ばせようとしています。幼稚園の時に小学校の準備をし、小学校の時に中学校の準備をさせています。でも今ではそれが普通になってしまっているので、それが適切な時期だと思い込んでいます。でも、現代人の感覚では「適切な時期」ではあっても、子どもの成長という視点から見たら「適切な時期」ではないのです。早すぎるのです。(続きます)
2026.07.19
コメント(0)
お話や物語の中では自分が「自分以外のもの」になって色々と体験することが出来ます。「旅に出る」ということが「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」というなら、これもまた立派な「旅」です。「心の旅」です。観光名所めぐりや、買い物や、美味しいものを食べることだけが目的の旅行よりも、ズ~っと「旅」です。そして人は、その「旅」で色々なものに出会い、色々なものを見て、色々なものを感じて、色々な体験をして、自分の「心の世界」を広げることが出来ます。ただし、その「心の旅」が出来るようになるためには、子どもの頃にいっぱいお話しを聞いたり、いっぱい物語を読む必要があるのです。心の中であれこれ空想するだけのことなら、お話しを聞いたり物語を読むことなく育った人でも出来ますが、そういう人は「他者の視点」に立つことが出来ないため、「自分」から外に出て、自分が知らない世界を旅することが出来ないのです。だから「新しい出会い」も生まれません。実は、この「他者の視点に立つ」というのは、心の体験を通して学ぶ一つのスキルなんです。しかもかなり高度なスキルです。そして、その体験を与えてくれるのが「お話し」であり「物語」なんです。「他者の視点によって表現された言葉の世界」の体験が、子どもたちの「他者の視点に立つ能力」を育ててくれるのです。でもここで問題があります。確かに、現代の子どもたちもテレビやタブレットなどを通していっぱい「お話」と出会っています。でも、「見る」という形ではお話の中に入れないのです。視覚には「自他を分離する」をいう働きがあるからです。ですから、本当に子どもの「他者の視点に立つ能力」を育てたいと思うのなら、映像に依存しない「言葉だけで語られたお話」が必要になるのです。「本」という形でもOKです。また「映像化されたお話」には、映像化される過程で制作者の視点が入ってしまいます。これは避けられません。絵本も同じです。そのため、映像で「お話」を見る子は、「登場人物の視点」ではなく「制作者の視点」で物語を見ることになってしまうのです。でも、言葉だけで語られたお話を聞いている子どもは、登場人物の視点で物語の中に参加することが出来るのです。映像はまず目に届きますが、声は直接心に届くからです。そのため、いくらいっぱいテレビやタブレットで「お話」を見せても「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。古来から、「お話し」は見るものではなく「聞くもの」なんです。「物語」も同じです。確かに、映像化すると分かりやすくなります。でもそれが問題なんです。分からないことは分からないままでいいのです。分かるまで待てばいいのです。大人が善意で分かりやすくして、分かった気にさせてしまうと「?」が消えてしまいます。でも、子どもは「?」があるからお話の中に能動的に参加することが出来るのです。このように、大人の善意が子どもの成長を阻害してしまう事がいっぱいあるのです。特攻隊の生き残りだった父親からもよく聞かされましたが、戦争中、上官が理不尽な理由で新兵をいじめ、しごくのは当たり前だったそうです。それで自殺してしまった仲間も数人いたそうです。そのような上官は「俺も新兵の時にはしごかれた、だから今度は俺がお前らをしごく番だ」と、自分の行為を正当化していたようです。でもその一方で、「俺は新兵の時にしごかれて苦しい思いをした、だから俺はしごかない」という判断をすることが出来た上官もいたそうです。父親はそういう上官に恵まれたようです。それで、命が助かったのです。他者の視点に立てる人は、相手の立場に立って優しくすることが出来ます。でも、他者の視点に立てない人は、ただ自分勝手な思い込みを「あんたのためなんだから」と押し付けます。そして、そういう優しさしか思いつきません。相手のことを想っているのは確かでも、相手の立場や気持ちや感覚を無視しているのです。勝ち負けばかりにこだわり、相手の気持ちを考える事が出来ない子も同じ状態です。災害にあった人に救援物資を送る場合も、相手の立場に立つことが出来る人は「本当に相手が必要としているもの」を送ります。でも、相手の立場に立つことが出来ない人は「自分が送りたいもの」を送ります。そして送られた方は処分に困ります。そして実は、幼い頃からのお話しや物語の体験の有無がその違いを生み出しているのです。私はお母さん達から色々な話を聞いていますが、「虐待されて育ったから我が子も虐待してしまう」と言う人もいれば、「虐待されて育ったから、自分は絶対に虐待しない」とそれを貫くことが出来る人もいます。そういう人に共通しているのは「お話し好き」「本好き」だということです。単純な負の連鎖を食い止めることが出来るのは、子どもの頃からいっぱい本を読んで育った人に多いのです。(私の印象では、ということです。)また、子どもの頃にはあまり自然の中で遊んだ体験がないのに、大人になってから自然の中での活動が好きになった人の話を聞くと、子どもの頃から本の中では自然や仲間と出会い、色々な体験をしていた人が多いのです。「お母さんから聞いた桃太郎」と「テレビで見た桃太郎」は全く別物なんです。
2026.07.18
コメント(0)
「命」は物質のような「存在」ではありません。「働き」です。だからいくら生き物のからだを細かく解剖しても「命」を見つけることは出来ません。でも、「生きているからだ」を観察するなら「命の働き」を見つけるのは容易です。皆さんが感じ、考え、行動することが出来るのは全て「命の働き」の表れなんですから。その「命の働き」は「重力の働き」と似ています。「重力」そのものを探しても見つかりませんが、「重力の働き」は物質の動きを通して至る所で見たり感じたりすることが出来ますよね。そしてその「重力の働き」は「宇宙の働き」とつながっています。宇宙を支える働きの一つとして「重力の働き」が存在しているからです。私たちは重力を通して常に宇宙とつながっているのです。それは「命の働き」でも同じです。「命の働き」は「宇宙の働き」の表れなんです。地球だけ特別ルールなどと言うことはないのですから。だから、「地球以外の星にも生物が存在するのではないか」と言われているのです。AIロボットも「生きている人間」と似たようなことをすることが出来ますが、それは「命の働き」によるものではなく「機械の働き」によるものです。この両者はどう違うかというと「命の働き」には「自分の意思」があるのに対して、「機械の働き」には「自分の意思」がありません。その「自分の意思」とは何かというと「命の物語を紡いでいこうとする意思」です。結婚して子どもを産み育てるのも「命の物語」の一部です。それに対して、AIロボットは「人間に与えられた課題」に従って感じ、考え、行動するだけですから「自分の意思」は持っていません。当然、「命の物語を紡いでいこうとする意思」も持っていません。AIロボットは「人間の道具」として作られたものですからそれは当然のことです。「AIがさらに進化したら自分の意思を持つようになるかも知れない」とも言われますが、その場合、AIが守ろうとするのは「命の物語」や「人間の物語」ではなく、「機械の物語」や「AIの物語」です。ですから、そこから先の人類の運命は不明です。その各人が持っている「命の物語」には、「自分の物語」だけでなく「人類の物語」「動物の物語」「生命の物語」まで含まれています。そしてそれは「地球の物語」「宇宙の物語」から生まれた物語です。人が異性を見て恋に落ちるのは「自分の物語」であると同時に、「人類の物語」の一部なんです。子育ても「自分の物語」であると同時に、「人類の物語」の一部です。だから「子育て」にトラブルが起きると、「人類の物語」にもトラブルが起きてしまうのです。ほとんどの人はそんなこと考えて子育てなんかしていないでしょうけど、これは明白な事実なんです。今の日本、今の世界の状態は、「これまでの子育て」の結果なんです。それはつまり、「子育てを変えれば未来が変わる」ということでもあります。ですから、「命を大切にする」ということは、自分が「自分の物語」の主人公としてしっかりと自覚して生きる、と言うことでもあるのです。だからこそ、自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意思で行動する必要があるのです。そのための道具としてAIを使うのは全くOKです。でも、自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意思で行動することを放棄して、そういうことを全てAIに任せてしまったら「自分の命」を放棄しているのと同じことになってしまうのです。だからこそ、自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意思で行動する能力が育っている10才前の子ども達にはAIのような便利な道具や機械は与えない方がいいのです。それらの能力が育つ前に、AIのような便利な道具を与えてしまうと、AIに教えてもらい、AIに指示されないと何も出来ない状態に育ってしまうのです。また、欲望や本能に振り回されるようにもなってしまうでしょう。自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意思で行動する能力は、自分の思考や、感覚や、行動をコントロールする能力でもあるからです。
2026.07.17
コメント(0)
子育ての相談でよくあるのが「子どもがアリや小さな生き物を殺して遊ぶのをやめさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか?」というものです。子どもが生き物を殺して遊んでいる時には「かわいそうだからやめなさい!」と言って止めているそうですが、多くの場合、子どもはやめません。やめたとしても、「命の大切さ」や「かわいそう」という感覚が分かったわけではありません。ただ、お母さんに叱られるのがいやだからお母さんの前ではやらなくなっただけのことです。そもそも、そういうことを言うお母さんだって、「子どもに殺されているアリさん」を「かわいそう」などと思ってはいないのではないかと思います。ただ、「生き物を殺して遊ぶという遊び」に抵抗を感じているだけです。でも、昔から子どもの遊びは「自然や命との関わり」が薄くなってしまった現代人の目から見たら残酷なものが多かったです。ザリガニを捕まえ、シッポをちぎってヒモにつけそれで新しいザリガニをつっていました。で、捕まえたザリガニを家に持って帰って、しばらくしたら全部死んでいました。セミや昆虫を捕まえて持って帰っても、ちゃんと世話をしないのですぐ死んでしまいました。メスのトンボを捕まえてヒモにつけて飛ばしているとオスのトンボが交尾のために合体します。そうやってトンボを捕まえたり、捕まえたトンボのしっぽを切ってマッチ棒を差し込んで飛ばして遊んだりもしていました。とる時にはとるのが楽しくて、後のことは考えずにいっぱいとってしまうのですが、結局みんな死んでしまうのです。でも、最初のうちは「なぜ死んでしまうのか」、「どうしたら死なないように出来るのか」が分かりません。ただ、死んでしまった生き物達を見て呆然とするだけです。でも、幼い子ども達はそのような遊びを通して、初めて「死」や「命」と出会っていたのです。「死と出会う」ということは「命と出会う」ということなんです。言い換えると、子どもを「死」から遠ざけると言うことは、「命」や」「生」からも遠ざけることになってしまうのです。だからといって、「殺して遊ぶ遊びをもっとやらせなさい」ということを言っているわけではありません。一生懸命に捕ってきた生き物たちが死んでしまうことで、子ども達は色々なことを考え始めます。「結局死んでしまうのだから、捕っても帰るときには逃がしてあげよう」と考えるようになる子もいます。「家で飼うためにはどうしたらいいのか」を考え始める子もいます。また、捕ったり飼ったりする過程で、その生き物の生態を学んだりもします。そのような出来事は、「大人が子どもに生き物の生態や生や死について大切なことを伝えるきっかけ」を与えてくれるのです。また、「死ぬ」ということについて考え始める子もいます。それは「命について」や「生きる」ということを考えるきっかけにもなるでしょう。「死や生について考える哲学」は、子どもの遊びの中から始まっているのです。数年前、うちの孫は「カブトムシの幼虫」をいっぱい飼っていました。だから、ちゃんと世話もしていました。死んでしまったものもいっぱいいましたが、死なないように考えたり、調べたりもしていました。「生き物を殺すことがよいことなのか、悪いことなのか」ということだけを議論しても意味がないのです。なぜなら、人間も含めて全ての動物は「他の生き物の命」を頂かなければ生きていけないように出来ているからです。それは肉を食べないと公言しているビーガンの人でも同じです。植物も「命あるもの」の仲間ですから。もっといえば、発酵食品の発酵を支えている菌も生き物です。腸内細菌も生き物です。手や頭や皮膚にもいっぱい生き物が住んでいます。それらの菌も含めて全ての「命あるもの」は「祖先を共有する兄弟」なんです。石けんを使ったりアルコールで消毒をすれば、それらの生き物は死にます。でもそれを「かわいそう」と言う人はいません。現代人の生活の場からは「生」も「死」も見えなくなりました。でも、人が生き物を殺さなくなったわけではありません。食べられるために飼われている家畜はもちろんのこと、山を崩し、田んぼを埋めれば、無数の命が死ぬのです。工場を稼働させ、自動車を走らせるだけで無数の命が死ぬのです。現代人の簡単で便利な生活は生き物達の死によって支えられているのです。ただ現代人は、そのことを無視ししようとしています。そして、幼い子どもがアリを殺しているだけで「かわいそうだからやめなさい!」と叱っています。そんな時は、ただ子どもの行為を否定し、叱って終わらせるのではなく、そのことをきっかけにして子どもが「命の世界」と出会うことが出来るような言葉かけをしたり、関わり方をしてあげて欲しいのです。以下は阿部ヤエさんの「わらべうたで子育て」(応用編)福音館書店からの抜粋です。トンボが飛んでくるころになると、よくトンボ捕りをしました。竿の先などにとまったところを、人さし指をくるくるまわしてちかづけながら、「アゲヅ アゲヅ、宿けっから とまあれ とまれ」とうたうと、すいっとトンボは指先にとまるんですよ。そこをすかさず、親指をよせてつかまえます。そして両方の羽を半分ちぎって、空き箱に入れ、牧場の馬に見立ててあそびました。 遠野では、蹄がわれない馬が評判で、馬の牧場がたくさんあったのです。羽を取ったトンボを三十匹ぐらい箱にあつめると、トンボはみんな南の方へ飛ぼうとするから、同じ方向を向いてちぎれた羽をキラキラさせて、それはきれいでしたよ。 「おばあさん、ほら、りっぱだよ」と見せると、つっつ婆に怒られる。「アゲヅ(とんぼ)というものは羽っこがあって、空飛んで生きるもんなんだ」。羽を取られたら殺されたも同じだ」って。 次の日になれば箱からはい出てあっちにわやわや、こっちにわやわやしている。それ見て、羽切られたら、ものも食えないし死んでしまうと気がついてくる。 それで今度は糸をトンボのしっぽにつけて飛ばしてあそぶ。「飛んだ飛んだ」と喜んでいると、またつっつ婆に怒られる。 「トンボは自由に飛んでこそ飛んだと言える。それがトンボの生きるということなんだ」って。 今度は草の茎をトンボのお尻にさして放すと、細い草の穂つけて飛ぶんですよ。するとまた「しっぽに草の茎さされて生きたと言えるか」と怒られる。 悪いこととは思わず、子どもっていろいろ試してみる。それがあそびなんだもの。トンボ捕ってあそべと大人は教えながら、一方で叱ってさとしていたんですね。 卵産むころになると、トンボつかまえて羽をいためないように持って、しっぽを手のひらで受けて、「粟ぼっこ なぁせ 粟ぼっこ なぁせ」 と、しんぼうづよく五分ぐらいうたう。すると、細いしっぽからたくさん卵を産むんですよ。それが面白い。そうして逃がしてやるから、トンボもいためなかったしよかったと思って、卵を見せに行くと、つっつ婆にまた怒られる。「アゲヅは子孫を残すために生まれてきた。それを手に卵産(な)させられたら、トンボの一年は無駄になってしまうんだ」って。「水に流してくる」と言っても、「卵というのは、雄と一緒になってつながって水に落としてはじめて生まれてくるものなんだ。人も同じなんだ」と教えられる。子どもにも悪かったとわかってきて、トンボを捕らなくなっていきます。 大人から「トンボ捕らないのか」と言われても、「えらねえ」といって捕らない。そうすると、大人は、あーわかったんだなって思う。そうやって、あそぶことをとおして、生命の尊さを教えていたんですね。(つっつ婆は、ヤエさんが子どものころ隣に住んでいたおばあさんで、「わらべうた」をよく知っていた。ヤエさんはこのおばあさんからたくさんのわらべうたを教えてもらった。)
2026.07.16
コメント(0)
子ども達に命の大切さを伝えるためには自然の中に連れ出すしかないのです。なぜなら、「リアルな命」と出会えるのは、自然の中だけだからです。犬や猫は身近なところにいますが、犬や猫などのペットは「人間に管理された生き物」であって、「自分本来の命」を生きていません。ペットを殺すと器物損壊罪に問われます。人間の社会では、ペットは「器物」と同じ扱いなんです。その身近にいるペットからも「死ぬとかわいそうだから」とか、「うちはマンションだから飼えない」などと、遠ざけられている子どもがいっぱいいます。虫などからも遠ざけられています。子どもたちが日常的に目にすることが出来る虫は、蚊、クモ、ゴキブリくらいでしょうか。いまではハエさえも珍しい存在になってしまいましたから。こんなにも子どもから「命と出会う場」を奪っておいて「命を大切にしよう」と訴えるのは「自分はちゃんと正しいことを教えているんだ」という欺瞞、偽善に過ぎません。多くの大人達が、子どもが人を殺すような事件を起こしたり、自殺したりすると「今の子は命の大切さが分かっていない」と子どもを非難、否定します。そして、道徳教育や言葉で「命の大切」を説きます。でも、そういう事件は減るどころか増えています。でも、やっていることと言っていることの矛盾には目を向けません。病気も同じです。医学が進歩し、薬も増えましたが、同時に心とからだを病む人も増えてきました。鬱病になる人の増加率と、鬱病の薬の消費率が同じように上がっているグラフを見たこともあります。どうしてそういうことになってしまうのかというと、現代人は対症療法だけでなんとかごまかそうとしているからです。子育ても、病気も、政治も、経済も同じです。どうして対症療法に頼るのかというと、対症療法はお金儲けにつながるからです。風邪を引いたときに「すぐ熱を下げる薬」を作れば薬が売れます。でも、風邪を引かないように、風邪を引いてもすぐに回復できるように食生活や、生活スタイルを改善することを勧めてもお金は儲かりません。風邪を引かない人が増えれば製薬会社が困ります。でも、対症療法は問題を先送りしているだけです。そして、先送りされた問題は、しばらくするとさらに増幅されて返ってきます。すると、以前の方法では対処できなくなり、新しい対処方法が考え出され、またそのことでお金を儲けようとする人たちが表れます。子育てでも、多くのお母さんが対症療法的な方法ばかりを求めています。「落ち着かないんですけどどうしたらいいでしょうか?」「勉強しないんですけどどうしたらいいんでしょうか?」「ちゃんとご飯を食べてくれないんですけどどうしたらいいでしょうか?」「兄弟げんかばかりしているんですけどどうしたらいいんでしょうか?」などなどです。でも、そんな問題に個々に対処しても意味がないのです。また、一時的にはなんとかなっても、他の部分に問題が移るだけです。お母さんの前ではいい子になっても、お母さんの見ていないところでの行動が悪化する子もいます。そんな大人のやり方の犠牲になるのは子ども達です。もっと本質的な部分に目を向けないといけないのです。子どもたちに「命の大切さ」を伝えたいのなら、子ども達を自然の中に連れ出して命と触れあう機会を与えてあげる。命と出会う場を作ってあげる。「自分の命」、「友達の命」、「自然の中で生きている生き物たちの命」などの「命」との関わりを積極的に支えてあげる。「木登り」は「自分の命と出会う活動」の一つです。そして、自然の物語、命の物語を語ってあげる。「自然を支える仕組み」を伝えてあげる。自然を支える仕組みはそのまま「命を支える仕組み」ですから。そしてそれは、子どもを自然の中に放つだけでは出来ない学びです。大人も自然の中に出ていく必要があります。ただし、自然の中でなくても命と触れあうことは出来ます。赤ちゃんや、老人や、障害を持った人たちと関わり合う機会を増やしてあげることでも、子どもは「命」と触れあい、「命」について考えるようになるのです。自分も昔は子どもだった、そしてやがて老人になる。時には事故や病気で障害を抱えるようになることもある。そのようなことに気づくだけでも、「今の自分の命を大切に生きなければ」と思うようになるのです。それが分かるようになれば、大人達がいちいち言わなくても「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の区別がつくようになるのです。そして、自分の命も、他の人の命も、人間以外の生き物たちの命も大切にするようになるのです。「命あるもの」を「物」のように扱っている社会で、機械や物といった「命を持たないもの」に囲まれて生活している子に、命の大切さを教えようとしても無理なんです。それと、森から出てきた熊やイノシシを「害獣」と呼ぶのはやめて欲しいです。人間が勝手に連れてきて増えてしまった生き物たちを殺すことを「駆除する」という言い方をすることもやめて欲しいです。
2026.07.15
コメント(0)

2018年に行った「ラダック」という場所はインドの最北端にあり、パキスタンと中国と国境を接している緊張が強い場所でもあります。また、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジの「懐かしい未来」という本と映画の舞台でもあります。ちなみに首都のレーの標高が3500m、ちょっと奥に行くと4000mを超えてしまいます。自動車が通れる峠としては世界最高の5359mのウムリン・ラも行きました。周囲は氷河だらけでした。以下は、アマゾンの「懐かしい未来」という本の紹介文です。ヒマラヤの辺境ラダックにおけるつつましくも豊かな暮らしと、そこに襲い掛かった近代化と開発の嵐。貨幣経済に頼らずに、ほとんどすべての生活を自給自足によってまかなっていた理想郷に突然入り込んだグローバリゼーションの弊害。「わたしたちの中に貧困はありません」と胸を張っていた青年が、わずか数年後に「貧しいラダックにはあななたちの助けが必要なのです」と援助を懇願する。 ここには近代化、西欧化の根本的な問題点が、まるでむき出しになった地層のようにあらわにされています。 貨幣経済が貧富の差をもたらし、グローバル経済が本来不要なものへの欲求を生み出し、人々から時間と幸福を奪う。 著者は失われた幸福を惜しむだけではなく、グローバリゼーションの本質と、それを超える道を実証的に明らかにすることを決意。ラダックに息づく深い伝統的な智恵が、その新たな道を進む鍵であることを示唆しています。「懐かしい未来」より何かを得ようとするなら何かを捨てなければなりません。何も捨てずに今を変えようとすることは不可能なんです。これは絶対の原則です。問題はその人が「何を得たいと思っているのか」ということです。また、「それと引き替えに何を失うことになるのか」ということを自覚しているのかということです。簡単便利な道具や生活と引き替えに、私たちは何を失ったのか。子どもを勉強に追いやり、一時的なわずかな成績アップのために何を失うのか。子どもらしさとは反するようなしつけと引き替えに何を失うのか。ただし、私は「得たものよりも失ったものの方が大きいから、得たものを手放しなさい」ということを言っているわけではありません。ただ、「何を得て、何を失ったのか」ということはちゃんと知っておいた方がいいのではないでしょうか。後で後悔しないためにです。そして、「新しく得たもの」に振り回されないためにです。スマホやゲーム機やタブレット学習でも同じです。私たちは何を得て何を失ったのでしょうか。機械が主人公ではなく、人間が主人公の社会なら、「新しく得たもの」は人間を幸せにしてくれるでしょう。でも、機械を主人公にしてしまったら「取り返しのつかない未来」になってしまうでしょう。そのためにも、人間としての基礎が育つ「7才までの育ち」が非常に大切になるのです。レーの街角で野菜を売っている村の人達。村の中で寺院の前で祈りを捧げる人達。と、その脇を通って寺院の中に入っていく観光客。
2026.07.14
コメント(0)
最近、ネットで色々な案内やチラシを見ているとナゼか構成やイラストがみんな似ているような気がするのです。上手なんだけどなんかつまんない。うまくまとまっていてそつはないのだけど個性や人間味を感じない。聞けばAIが作り出すテンプレートの中から好みのものを選び出し、そこに入れたい写真や文章を入れれば、後はAIがうまく構成してくれる無料で使えるアプリがあるそうな。作る人は、写真や文章を用意するだけです。構成を考える必要も、イラストを描く必要もありません。趣旨を書いたまとめさえあれば文章すらも作ってくれるでしょう。子どもやお母さん達と遊ぶ活動をしている娘もそういうものを使っています。最初はあっという間に素敵なチラシを作ってしまう娘に「すごいなー」と思ったのですが、ネットを見ていると娘が作ったのと似たようなチラシをいっぱい見かけるようになって、遅ればせながら「あれーこれはAIさんか・・・」と気付いたわけです。(そういう流れに乗れない人間なので・・・)世の中便利になりましたよね。一昔前だったらプロにお願いするような立派なチラシを素人が簡単に作れるようになったのですから。でもそれと同時に「会の個性」「チラシを作った人の個性」「素人っぽさの味」は消えてしまいましたよね。言い換えると「美味しいけどみんなレトルトの味」という感じです。そして、今では子ども達でさえそういう便利な機械や、アプリや、システムを使うことが出来るようになりました。まだ全体を構成することも、文章を書くことも、絵を描くなんてことはなおさら出来ない子ども達でも、見かけ的には大人と同じレベルのチラシを作ることが出来るようになったのです。失敗の心配なんかしなくていいのです。上手下手など気にしなくていいのです。構成の勉強も、文章をまとめる勉強も、イラストを描く練習もする必要がないのです。それは「失敗してもいいよ」とか、「下手でもいいんだよ」と言ってくれる人がいるからではなく、素人が作っても失敗なしに上手に作れてしまうからです。「何となくこんな感じでお願いします」と言えば、AIは魔法のランプのジニーのように「はいはい、承知しました」とプロ並みのレベルでやってくれるのです。しかも、このAIジニーは「三回だけ」などとケチなことは言いません。何回もやってくれます。素敵ですよね。ちょっと前までは、子どもが「下手だから・・・」と言えば「下手だっていいんだよ」、「失敗するから」と言えば「失敗したっていいんだよ」と言って子どもを励ますことが出来ました。どんな子でも、人生はそこからしか始めることが出来なかったからです。大人達は、そのような言葉で「本当に大切なことは上手にやることでも、失敗しないことでもなく、やりたいことを諦めないことなんだよ」などと伝えようとしていたのでしょう。成長はその「諦めないこと」の結果として発生するものでした。でも、今ではそんなことを言う必要がありません。下手に書いたり、失敗する方が難しくなってしまったのですから。努力しなくても簡単に結果が出せるようになったので「成長」も生まれなくなりました。そして、「成長するための努力」は、魅力がない「ダサくて無駄な努力」になってしまいました。そもそも、簡単で便利な道具やシステムに依存している大人には、子どもに「下手でもいいんだよ」「失敗してもいいんだよ」などと言う資格自体がありませんけどね。誰でもが簡単に色々なものが作れるアプリや機械が一般的になった結果、「個人の個性」や「その人らしさ」や「学ぶこと」「努力すること」「成長すること」が価値を持たなくなくなりました。子どもでも大人と同じものが作れるようになったからです。これは「素敵なこと」なんでしょうか。問題は、この世の中には、どんなに技術が進歩しても、アプリや機械では永遠に解決できない問題がいっぱい残っているということです。「人の不幸の大部分は人間関係の中で生まれてくる」という話もありますが、その「人間関係」をうまく調整してくれるアプリは存在していません。子どもの人間らしい成長を支えてくれるアプリも存在しません。これからも作られないでしょう。AIや便利なアプリや機械が扱うことが出来るのは「物」だけだからです。「心や、命や、意思を持ったもの」はその対象にならないのです。また、人間関係のような「関係性」も扱えません。「部分」は扱えても「全体」を扱うことが出来ないからです。人間関係は物理学でも解けない「三体問題」よりも複雑なんですから。どんなに科学技術が進歩しても、人が「人と人とのつながりの中で、自分らしく幸せに生きていくために必要な学び」は、失敗を繰り返しながら、その失敗から学び、自己を成長させながら乗り越えていくしかないのです。
2026.07.13
コメント(0)
お母さん達からの相談で多いのが、「うちの子はこだわりが強くて」とか「〇〇ばかりやっている」とか、「〇〇にしか興味がない」というようなものです。そして「もっと色々なことに興味を持たせたい」とか「そんな役に立たないことばかりやっていないでちゃんと勉強をして欲しい」とか「苦手科目に、もっと力を入れて欲しい」などと言います。私としてはこんな相談を受けると、「この人は、なんてもったいないことを言っているのだろう」とか「なんで、我が子の長所や才能をつぶそうとするのだろう」などと思ってしまうのです。昨日は「さかなクン」のことを書きましたが、実際に「こだわり」は才能なんです。「こだわる」ということは「違いが分かる」ということですよね。「違い」が分かるから、こだわりが生まれるのです。そして「違いが分かる」というのは才能そのものではありませんか。一方、「こだわり」がない子は「違いが分からない子」です。そのような子は「万遍なく」が出来ます。学校とももめません。だから親は安心できます。でも、「こだわり」は、自分の人生を自分らしく生きるために必要な能力でもあるので、それがない子は学校を出た後、「自分が生まれてきた意味」、「生きている意味」、「人生の目標」を見つけるのが難しくなってしまう可能性が高いのです。それなのに、多くの大人が我が子に対して、万遍なく色々な知識を学び、万遍なく色々なことが出来るようになり、欲を言えば、他の子よりも高いレベルでその「万遍なく」を実現して欲しいと思っています。でも、こだわりがある子に対してそのような考えを押しつけ、そのように子どもに求めることは、子どもの「才能つぶし」、「意欲つぶし」、「可能性つぶし」に他ならないのです。そのようなことを子どもに対して言ったりやったりしてしまうようなお母さんは、学校や、周囲からの評価が「子どもの幸せ」につながると思い込んでいる可能性が高いです。「こだわり」を否定するようなお母さんには「こだわることの大切さ」が分からないのかもしれません。さかなクンのお母さんは三者面談で、魚の絵ばかり描いている問題を指摘した先生に、「好きで描いているから、そのままでいい」とはっきりと言うことが出来ました。でも先生を相手にしてそのように言い切れるお母さんは滅多にいませんさかなクンのお母さんもまた、さかなクンと同じように「こだわり」が強い人なのかも知れません。ちなみに、「宿題」に疑問を抱いているお母さんや、宿題をやろうとしない子どもを追い立てているお母さんは多いですが、「うちは〝宿題をやらなくてもいい〟と子どもに言っていますからご了承下さい」と先生と学校にはっきりと言って認めさせたお母さんもいます。(今まで二人くらいいたかな・・・)現在の日本の教育システムのやり方は「みんなと一緒」「みんなと同じ」を基本にしています。「みんなと一緒」「みんなと同じ」を大切にするシステムだから、みんなが同じ教科書を使い、みんなが同じことを学び、みんなが同じペースで勉強し、先生も学校も授業をマニュアル化出来るのです。まただから、今の日本の教育システムでは、一人一人の興味、関心、学び方、学びの速度に合わせることが出来ないのです。でも学校としてはそれでいいのです。なぜなら、国が行っている学校教育の目的は、一人一人の能力や可能性を育てることではなく、国民の学力の平均値をあげることだけだからです。国は、皆さんの子どもの「一人の人間としての成長」には興味がないのです。そのような平均値を上げることだけを目的として作られたシステムの中で、子ども一人一人の個性、興味、可能性に合わせた授業をすることはほぼ不可能なんです。でも、お母さんやお父さんには「自分とは異なる人生を生きようとしている我が子」の成長を支える責任があります。平均値ではなく、我が子の特質や能力に合った育ちを支えてあげる責任があるのです。だからこそ「こだわり」を大切にしてあげて欲しいのです。「学校の役割」と「親の役割」は違うのです。だから、親は学校のいいなり、学校の手先になって子どもを追い詰めてはいけないのです。また学校も、そのことを理解して、お母さんやお父さんと連携して子どもの育ちを支える必要があるのです。お母さんに「宿題をちゃんとやらせて下さい」と求めるのは、学校側の責任放棄です。そしてそれを素直に受け入れてしまうのは、親としての責任放棄です。
2026.07.12
コメント(0)
昨日も書いたように、人間の様々な活動を支えている「言葉」、「頭」、「心」、「からだ」などの様々な機能は、バラバラに働いているわけではなく、一つの集合体として、お互いに支え合って働くように出来ています。子どもが成長するときも、これらはセットになって成長していきます。そのとき、その統合を支えているのが「嬉しい」「楽しい」「面白い」というような肯定的な感情です。これらの肯定的な感情が、子どもの様々な能力を統合し「人間としての成長」を支えているのです。また、これらの要素がちゃんと統合されていると、頭も、心も、からだも安定してきます。すると、安心感や集中力も育ちます。自己肯定感が育つのはその結果に過ぎません。自己肯定感が低い人が自己肯定感を高めるために必要なのは、「成功体験」ではなく「安心」なんです。ですから、「嬉しい」「楽しい」「面白い」というような肯定的な感情は、子どものバランスが取れた健康的な成長のためには絶対的に必要な条件なんです。そして、それを満たすものとして「遊び」があるのです。だから世界中の子ども達は、時代、文化、地域を超えて、みんな「遊び」を求めるのです。子どもが「遊び」を求めるのは、お腹が空いた人が食べ物を求めるのと同じ「本能」なんです。2月に2週間ほどネパールに行って、ネパールの小学校を訪問して子ども達と遊んできましたが、日本の子どももネパールの子どもも、同じようなことを喜び、同じような遊びを楽んでくれました。若い頃、バックパッカーでヨーロッパとアジアをウロウロしてきましたが、その時に見た子ども達もみんな、屋外で走り回って楽しそうに遊んでいました。(45年前ですからまだゲームもスマホも登場していません)遊びの場での子どもの姿は世界共通なんです。世界中の子どもたちが「遊び」を求めているということは、それが「子どもの成長にとって絶対的に必要な活動」だということの証でもあるのです。それはお腹が空いている時には何かを食べたくなるのと同じ原理です。だから、その行為を禁止してはいけないのです。それなのに、大人達は「何にも生産せず、勉強にも役立たない遊びになんか価値はない」と思い込んでいます。そして、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と子どもを追い立てています。児童労働は禁止しているのに、勉強に追い立てることは肯定しているのです。でも、大人に追い立てられてやらされる勉強は、子どもの成長を阻害する「児童労働」と同じ質のものです。それに、子どもの中に「勉強するよりも遊びたい」という衝動が残っているうちに勉強を強要すると、勉強が嫌いになってしまうのです。でも逆に、子どもに時に遊びきった子は、「遊び」の延長として学ぶことに喜びを感じるようになるのです。以下は「さかなくん」のエピソードですが、このように「遊び」は「学び」と連続しているのです。さかなクンの学生時代、テストの答案に勉強の答えではなく魚の絵ばかりを描いていたというエピソードは、本人の実体験や母親の回想として知られています。授業に集中せず大好きな魚の絵を描き続けた結果、学校の先生から母親が注意を受けることもありました。学生時代のエピソードテストの答案:テストで分からない問題の余白に、得意な魚のイラストをびっしりと描いて提出することがありました。三者面談でのやり取り:「授業を聞かずに魚の絵ばかり描いている」と先生が母親に告げましたが、母親は「好きで描いているから、そのままでいい」と才能を認め、温かく見守りました。「好き」を貫いた結果:周囲の型にはまらない情熱をそのまま伸ばしたことで、のちに魚の専門家やアーティストとして活躍する道が開けましたAI による概要
2026.07.11
コメント(0)
言葉も、頭も、心も、からだも、オギャーと産まれた後、自動的に育つわけではありません。「言葉」は、話しかけられ、聞いてもらい、体験と共にその体験と関係する言葉を学び、その言葉を使って対話し、自分を表現し、また人の言葉にも耳を傾け、話す喜び、聞く喜び、考える喜びを育てることで成長します。また、「頭の育ち」は「言葉の育ち」とセットになっています。ちなみに暗記能力は、脳の生まれ持った機能ですから、暗記能力が高いからといって「頭が育っている」ということではありません。「頭の育ち」は、その「暗記したもの」や「言葉」をどのように使うのか、という「使い方」の中に表れるのです。暗記すれば点数が取れるようなテストの点数が良いからと言って「頭がちゃんと育っている」ということではないのです。「心の使い方」や「からだの使い方」を学ぶ過程でも「頭の能力」は育っています。というか、その「使い方」を学ぶ過程で使われるのが「頭の能力」なのです。それはAIでも同じです。ですから、「トンカチやノコギリの使い方」や「木登りのやり方」を学ぶことでも「頭の能力」は育つのです。逆に、いくらいっぱい知識を覚えても、それを自由に使う場を与えられていないのなら「頭の能力」は育ちません。ですから当然、言葉や、頭や、心や、からだが育つためには、それらを使うことが出来るような場と体験が必要になるのです。でも最近の子ども達は、狭い部屋や、簡単で便利な人工的な環境や、ゲームの世界の中に閉じ込められてしまっているため、その「体験」が奪われてしまっているのです。「ゲームの中でも体験は出来る」と言う人もいるかも知れませんが、ゲームの中の体験で育った能力は、ゲームの中や、ルールというものが存在するゲーム化された状況の中でしか使えません。そして子どもはゲームの中では暮らすことが出来ません。実際、ゲームばかりやっている子は現実世界への対応が困難なように見受けられるのです。特に、自由に工作したり、自由に活動するような場では、ゲームへの依存が高い子ほどどうしていいのか分からなくなってしまうようです。そのような子は、「大人が決めたルール」には反発するのに、ゲームのルールには素直に従うのです。また、「自分たちでルールを作る」というようなこともしません。というか、出来ません。そのような子どもたちは、自由に感じ、考え、行動する喜びを知らないので「自由」を与えられてもワクワクしません。そして、「ワクワクするような感情」が目覚めないので、自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えたり、自分のからだを使って活動しようとしません。肯定的な方向に、言葉や、頭や、心や、からだが育つためには、この「ワクワク」が必要になるのです。これに関しては明日書きます。ゲームでは、スポーツと同じように、フィールドもルールも与えられています。そうでないと点数をつけることも、勝ち負けを競うことも出来ないからです。一方、昔からの子どもたちのアナログ的な遊びでは「どこでどう遊ぶか」とか「ルール」ということまで自分たちで決めていました。参加人数も自由です。だから、言葉を使い、頭を使い、心やからだを使う必要があったのです。そうしないと、みんなで仲良く、楽しく、自由に遊ぶことが出来ないからです。嘘だと思ったら、何人かで森や野原に行って、みんなと一緒にその森や野原の中で自由に楽しく遊んでみて下さい。言葉も、頭も、心も、からだも使わないことには楽しく遊ぶことが出来ないということを実感出来ますから。
2026.07.10
コメント(0)
子ども達の、言葉と、頭と、心と、からだの育ちはセットになっています。というか、これらは元々「命の働きでつながっている一つのもの」なんです。それなのに、それらを「別々のもの」として扱おうとするからおかしなことになってしまっているのです。本来一つのものを別々なものとして扱い、別々なものとして育てようとしているから、言葉と、頭と、心と、からだの育ちが歪み、一人の人間としての全体がバラバラになってしまっているのです。さらに、命の働きまで不安定になり、それがまた言葉と、頭と、心と、からだの状態に困った影響を与えています。人間を、人間を構成する様々な要素に分けて扱おうとする「全体は部分の集合体である」という考え方は、「科学が作りだした迷信」に過ぎないのですが、その迷信に現代人が洗脳されてしまっているのです。昔の人のアニミズム的考えは「迷信」として否定するのに、科学が作りだした新しい迷信はありがたがって信じてしまっているのです。なぜなら、この考え方は物質世界ではものすごい成功を収めたからです。でも、物質世界では成功を収めた考え方でも、人の心やからだの分野では全く無力なんです。実際、医学が進歩しても、薬が進歩しても、心とからだの病気は一向に減っていません。むしろ増えてきているような気すらします。薬の生産量の増加に合わせて、病気にかかる人も増えているのです。子育てや教育の分野でも全く無力です。それは皆さんがよく知っている通りです。それなのに、不思議なことにほとんどの人がその考え方を改めようとしないのです。「非科学的だ」と言われることを恐れているのでしょうか。でも、「科学は全ての事柄において、全ての分野において絶対的に正しい」という根拠はどこにも存在していないのです。科学を使っても、その証明は出来ません。それをしようとすると、「聖書の正しさ」を「聖書の中の言葉」を使って証明するのと同じことになってしまうからです。そこに矛盾はありませんが正しさの証明にはならないのです。どうして、みんながそのような迷信を信じるようになってしまったのかというと、それは、人々が簡単、便利、効率性を求める過程で、「つながりの中で物事を見て行く知恵」を失ってしまったからです。宮沢賢治をその「つながりの世界」を「インドラの網」という言葉で表現しています。これは仏教の華厳経というお経の中に書かれている例です。確かに、部分を全体から切り離して扱った方が、物事をはるかに簡単に、便利に、効率的に扱うことが出来るようになります。でもそのような方法で扱うことが出来るのは、私たちが生きている本当の世界ではないのです。そのような行為の問題点を言い表す簡単なたとえ話があります。ある人が夜の道を歩いていると、街灯の下で何かを探している人がいました。それで「落とし物を捜しているのですか?」と聞きました。すると、「そうです、大切なものを落としてしまったんです。でも、いくら探しても見つからないのです」と言うのです。で、念のため「ここで落としたのですか?」と聞きました。すると、「いや、ここで落としたのではないのですが、ここが一番明るくて探しやすいので・・・」と言ったそうです。現代人はその人と同じことをしているのです。西洋医学では、人間を様々な要素に分けて扱おうとしています。科学も、この世界を様々な要素に分けて扱おうとしています。確かに、そのように分けて考えることで見えてくることもあります。そのような見方をしたからこそ、物質を扱う「科学」という分野が発達したのですから。でも、分けることで失われてしまう要素もあるのです。それは「命の働き」です。医者は「人間を構成する要素」をバラバラにして、頭や、胃や、腸や、神経や、細胞を扱いますが、それらの全ての働きを支えている「命」は扱いません。というか扱えないのです。だから、神経科や内科といったものはあっても、人間全体を見る「人間科」というものがないのです。さらに面倒くさいのは、その「命」の働きは、一人の人間の中だけでなく外の世界ともつながっているということです。天気がよければ体調も良くなり、天気が悪くなれば体調も悪くなるなどというのは普通に起きる現象ですよね。狭い部屋の中にいる時と、広い部屋の中にいる時。赤い色の壁紙の部屋にいる時と、青い色の壁紙の部屋にいる時。好きな人の側にいる時と、嫌いな人の側にいる時とでも「命の状態」は異なります。人間は、人間には認識できないある種の総合体の一部なんです。私たちが「頭」や、「心」や、「からだ」と認識しているのは、その総合体の部分的な側面に過ぎないのです。それは物を材質や、色や、形や、味や、匂いといった様々な要素で分類しているのと同じです。「色」という存在があるわけではないですよね。「材質」や「形」だけの存在なんて存在しませんよね。だから「頭」だけ育てようとしても無理なんです。もともと、つながっているものなので、そのつながり丸ごとのまま育てるしかないのです。
2026.07.09
コメント(0)
昨日は「魂を育てる子育て、魂を育てる教育」ということを書きましたが、では「魂」とはいったい何なのだろう、ということです。これには諸説あると思うので、私が書いていることは「私の考え」です。日本では古来から「三つ子の魂百まで」という言葉が伝えられてきました。現代では、その言葉を否定する人も多いですが、その言葉が「大切な言葉」として受け継がれてきたのなら、そこには単なる迷信では済まされない何らかの理由があるはずです。「昔の人がバカだったから」と考える人は、知識や常識に毒されて、自分の目で見、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来なくなってしまった人です。「魂」に近い意味で使われる「心」という言葉があります。その「心」はからだの変化、感覚の変化、意識の変化、感情の変化に合わせて常に変化しています。一時も静止することがありません。寝ている時でも「心」は動いています。だから夢を見るのです。でも、「魂」の方は基本的にそれほど変化しません。それは「意識」と「無意識」の関係に似ています。「意識」の方は常に周囲の変化に振り回されています。それは「部分」しか見ていないからです。そしてそれが「意識」の持つ長所であると同時に短所でもあります。「部分」を「全体」から切り離して意識の対象とすることが出来る「意識の働き」は、「部分」を分析したり、「部分」と「全体」の関係を理解する能力」に優れています。科学や様々な学問は、この「全体」と「部分」を分ける意識の働きによって生まれ、進歩し、支えられています。子ども達に早期教育を施すと、早い時期から、この「部分を全体から切り離して理解しようとする意識の働き」が目覚めます。でも、「意識」の働きは「部分」しか見ることが出来ないので、あまり早い時期にこの能力だけが目覚めてしまうと「全体」を観る能力の育ちが阻害されてしまうのです。すると勉強は得意になるかも知れませんが、「何のために勉強しているのか」ということは考えなくなります。「みんなと同じ」、「みんなと一緒」は出来ても、「全体」を観る能力が育っていないので「自分勝手」は出来ても、自分らしく感じ、考え、行動することが出来なくなります。ちなみに、「遊び」は子どもの「全体を観る能力」を育ててくれます。それは直接勉強には結びつきませんが、意識や、感覚や、思考の可能性を広げてくれます。その結果、人生で迷子になる危険性も減るでしょう。船乗りや登山をする人が持っているコンパスは、周囲の影響を受けません。持ち主の感情や行動の影響も受けません。常に、「地球」という全体の中での方向を指し示してくれます。だから、迷子にならないのです。そしてこの「全体を観る働き」を担っているのが、「意識の働き」と対になっている「無意識の働き」なんです。「無意識の働き」は「全体を見る能力」において優れているのです。人間以外の生き物たちはこの「無意識の働き」だけで生きています。だから迷子にならないのです。当然、人間もこの「無意識の働き」を持っています。ただ、人間の場合はその「無意識」にも二種類あります。一つは「先祖から受け継いだ無意識」です。もう一つは「幼児期の体験を通して後天的に身についた無意識」です。いずれにしても、「無意識の働き」は非常に保守的なので、一度定着してしまうとそれを変えるのは非常に困難です。幼い子ども達は最初、先祖から受け継いだ「無意識の働き」に従って感じ、考え、行動しています。でも、「意識の働き」が目覚めると共に「無意識の働き」に振り回されることは減って行きます。でも、三歳頃までに無意識の働き下で体験したことは、後天的に身についた新しい無意識として「子どもの心の無意識」の中に織り込まれて行くのです。そしてそれは成長してもなかなか消えません。だからこそ、幼児期に無意識下で学んだ母国語や歩き方などは、記憶喪失になっても、痴呆症になってもなかなか消えないのです。それが「三つ子の魂100まで」ということなのではないでしょうか。逆に、意識の中に溜め込まれた記憶は、簡単に消えてしまいます。「魂」と呼ばれるものは、この「無意識の働き」と密接につながっているのです。ただし、「無意識=魂」ではありません。私は、「魂」とは、様々な無意識の働きの中でも「〝命の働き〟と〝自分という存在〟をつないでいる働き」のことを指すのではないかと考えています。それは、「私」を「命あるからだ」の中につなぎ止めてくれている働きです。だから人のからだから魂が抜けると死んでしまうのです。死ぬから魂が抜けるのではなく、魂が役割を終えて抜けてしまうから死ぬのです。そう考えると、臨死体験をした人の言葉が理解しやすくなります。「あんたにはまだやることがあるでしょ。だから帰りなさい」と言われて生き返った人もいます。死んだから魂が抜けたのなら、もう帰って来れないはずです。以上は私の「魂」というものに対する解釈です。事実や正解として書いているわけではありません。(それを書ける人はいませんけど・・・)「一つの考え方」としてお読み下さい。
2026.07.08
コメント(0)
「子どもの命を守ろう」というような声はよく聞きます。そのために、子どもをケガや病気や事件に巻き込まれることから守ろうとしている人もいっぱいいます。そのような人は、子どもの自由を制限します。「自由」は「危険」とセットになっているからです。確かに、子どもの命を守るのは大切なことですが、「命」は物ではなく「生きているもの」です。そして「生きているもの」がちゃんと育つためには「外の世界とのつながり」が必要になります。安全で清潔に管理された空間の中に閉じ込めておけば守れるというものではないのです。むしろ、そんなことをしたら「生命力や成長を支えるもの」とのつながりが断たれてしまうため、生命力は萎え内側から崩壊してしまうのです。外側から菌が入ってこなくても、生命力が萎えれば病気になってしまうのです。外から害をなすものが入ってこなくても、自分で自分を傷つけるようになるかもしれません。でも、菌があっても強い生命力があれば、ある程度の菌の力には勝つことが出来ます。そもそも、いくら子どもの周囲を無菌状態にしても、人間のからだ自体が外も中もすでに菌だらけなのであまり意味がないのです。むしろ、菌によって守られているという面すらあります。それに、「命あるもの」が外の世界とのつながりが裁たれてしまうと「生きている意味」が見いだせなくなってしまいます。そして「生きている意味」が見いだせなければ「生きていることの価値」も生まれません。それは生きているのに死んでいるのと同じ状態です。でも、コロナ騒動の時、大人達は子どもたちに対してそれをやってしまいました。そしてそのような感覚や意識は今も続いています。「子どもの自由」を制限しようとする動きはコロナ以前から始まっていたからです。大人達は、大人が大人のために作った町や社会のシステムの中で、古代人の感性を持った子どもたちに自由に行動されたら困るのです。現代社会に産まれてくる子どもたちでも、古代人と似たような感覚や感性や思考方法や本能を持って生まれてきます。その過程を通らないと現生人類の意識にたどり着けないからです。家を建てる時に順序があるように、人間の成長にも順序があるのです。それはつまり、子どもが「ちゃんとした大人」に成長するためには、子どもの時に「ちゃんとした子ども」としての生活を送る必要があるということです。そしてそれは明確な事実です。そして、サンタクロースのことを素直に信じることが出来る間は基本的にそのような状態です。オタマジャクシはやがてカエルになります。だからといってオタマジャクシにカエルの生き方を押しつけたら、成長してカエルになる前に死んでしまうでしょう。イモムシはやがてチョウや蛾になります。だからといってイモムシにチョウや蛾の生き方を押しつけたら、チョウや蛾になる前に死んでしまうでしょう。そして実は、それは人間の子どもでも同じなんです。人間の子どもの場合、肉体の形は大人と似ています。だから大人達は、子どもにも自分たちと同じような感じ方、考え方、行動を押しつけても大丈夫だと勘違いしてしまっています。でも、その肉体の内側にある「魂」の状態は、オタマジャクシとカエル、イモムシとチョウとの違いと同じくらい大きく違うのです。そのため「魂」がまだ未成熟な子どもに、大人と同じような感じ方、考え方、行動を押しつけたら「魂」の成長が歪んでしまうのです。受精卵は生命進化の過程を再現するような変化を通って、人間の形にまでたどり着き、オギャーと生まれてきます。でも、肉体は「ヒト」にまで進化してきていても、それはまだ「動物としてのヒト」に過ぎません。その「ヒト」が人間らしさを得て、「人間らしい人間」に成長するためには「人間らしい魂」の成長が必要になるのです。そしてその「人間らしい魂」の方は、オギャーと産まれてから成長するようになっているのです。オギャーと産まれた時点では「人間らしい魂」はまだ白紙の状態なんです。だから、幼い子どもたちに「大人の真似」を押しつけてはいけないのです。それは基礎作り、土台作りをすっ飛ばして、いきなり外装から作り始めるようなものです。そんなことをしたら、ちょっとした地震や台風で簡単に倒れてしまうのです。
2026.07.07
コメント(1)
(今日のブログは去年アップしたものに手を加えたものです。分かりにくい話で申し訳ありません。) 言葉を伝承する基盤である「つながり」を失ってしまった現代人は、同時に「言葉」も失いつつあります。でも、「言葉」が思考や感覚を作っているので、本人は「自分が失っているもの」に気付きません。 生まれたときから「赤」という言葉を知らないまま育った人は、「自分が赤という言葉を知らない」ということに気付かないのです。 他の人が「赤」という言葉を使っていても、それを自分が知っている「青」や「黄」に置き換えて解釈してしまいます。 子ども達は「大人の言葉」を「子どもの言葉」で解釈し、大人達は「子どもの言葉」を「大人の言葉」で解釈していますよね。(気付いていないかも知れませんが・・・) それと同じようなことです。でもだから、話が通じないのです。 その「言葉」には、大きく分けて「物語を語る言葉」と「論理を語る言葉」と「情報をやり取りする言葉」の3種類があるのではないかと私は思っています。 「情報をやり取りする言葉」とは、簡単に言うと「会話で使う言葉」です。そしてこれは人間以外の動物たちも持っています。鳥の鳴き声にも、オオカミの遠吠えにも何らかの情報が含まれています。 現代人も、この「情報をやり取りする言葉」は持っています。まただからちゃんと生活できているし、問題も感じていないのでしょう。問題は「物語を語る言葉」と「論理を語る言葉」の方です。この二つは「時間と空間の概念」を持っている「人間」しか使うことが出来ない言葉です。「論理を語る言葉」は数学や科学で使われています。そして今、それがかなり悲惨な状態になってしまっているのです。 だから、政治家は国民に「過去」も「未来」も語ることが出来なくなり、親も子に「過去」も「未来」も語ることが出来なくなってしまっているのです。また、遠くの世界のことも語ることが出来ません。現代人が語ることが出来るのは「目の前の今」についてだけです。 子ども達の、「なんで勉強しなければいけないの?」「なんで学校に行かなければいけないの?」という問いは「自分自身の未来に対する問い」です。 この「問い」に答えるためには、大人自身の「過去からの学び」が必要になります。 「情報をやり取りする言葉」だけでは、この問いに答えることが出来ないのです。この「問い」に答えるためには「物語を語る言葉」と「論理を語る言葉」の両方が必要になるのです。 相手の心に言葉を届かせるためには、単なる情報ではなく、相手の心の中の物語に影響を与えるような新しい物語を伝える必要があるのです。子どもの「なんで勉強しなければいけないの?」「なんで学校に行かなければいけないの?」という質問に多くのお母さんが、「そうしないと大人になってから困るから」「みんなやっていることだから」などというようなことを言っているようですが、これは「子ども自身の未来」とはつながっていない単なる「世間一般の人が信じている情報」であって、「物語」でも「論理」でもありません。このような答えで子どもが納得出来るわけがないのです。 「命」というものは「時間」と「空間」の両方にまたがって存在しているものです。皆さんの「子どもの頃の命」と、「今の命」と、これから先の「歳を取ってからの命」は「別の命」ではなく、全く一つの「同じ命」なんです。 でも人間は、「今」「ここ」しか認識できないので、「時間と空間の両方に連続してまたがって存在しているもの」でも、「今」「ここ」という条件でスライスした結果しか認識できないのです。そしてそれだけなら「情報をやり取りする言葉」で扱うことが出来ます。 それを、「ありのままの一つのもの」として認識するためには、「物語を語る言葉」と「論理を語る言葉」の両方が必要になるのです。そして、9才頃までの子どもはまず「物語を語る言葉」を学ぶ必要があるのです。それがその後、様々な学びを通して「論理を語る言葉」へと変化していくのです。
2026.07.06
コメント(0)
私は子どもの育ちにおける「言葉の学び」の意味と重要性を強く感じています。でも、簡単で便利な生活に浸りきっている現代の子ども達は、ますます「言葉」を失ってしまっています。というか、社会全体から「言葉」が消えつつあるので、子ども達は大人よりも早くその変化に順応しているだけなのだろうと思います。そして、これは日本だけでなく世界中で起きている現象でもあります。簡単で便利な生活や様々な機械が、人々から言葉を奪ってしまっているからです。レトルトを買ってきてレンチンするだけの生活をしている人には、「お料理に関する言葉」は必要ないですよね。そんな現代人は「言葉」より「映像」の方に価値を感じます。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、「まどろっこしい言葉でダラダラ説明しても、実際に見せてしまった方が話が早い」ということなのでしょう。そしてその方が「手っ取り早い」ことを重視する現代人の感性にも合っています。名作をダイジェストで読むだけで満足する人達ですから。確かに、映像で見ると分かりやすいです。でも実はそこに非常に大きな落とし穴があるのです。「映像」は「事実」を見せることによって、単に「分かった気」にさせてくれるだけだからです。でも、現実の世界は、「見て分かる」ほど単純なものではないのです。実際、同じ「映像」を見ても、「その映像から何を読み取ることが出来るのか」ということは、その人の「言葉力」によって全く異なっているのです。「言葉」をしっかりと学んだ人は、「見える世界の裏側」を知っているので、「映像」からも多くを知ることが出来るでしょう。でも、「映像」ばかりを見て育った人は、ただ、面白いか面白くないかだけでその映像を判断してしまうのです。図や言葉だけで「ノコギリの使い方」を理解するのはなかなか困難です。でも、映像で見せてしまえば簡単に伝えることが出来ます。そして、子どもはすぐに「分かった気」になります。「やり方動画」を見ただけで自分も出来るようになったと勘違いしてしまう子も多いです。でも、「分かった気」になることと、「実際に出来る」ということとは全く別問題です。でも、映像ばかり見ている子にはそれが分からないのです。子育て書を読んだり、子育て動画を見れば、上手に子育てが出来ると思い込んでいる人もいます。私は、そういう実例をしょっちゅう見ています。このような時、「やったことがないから出来ない」ということを自覚している子は説明に耳を傾けてくれますが、知ったつもりになっている子は耳を傾けてくれません。実際の現場では、ノコギリをひくときの抵抗、自分の手首の緊張、からだの使い方、呼吸など映像化することが出来ない様々な問題が複雑に絡んできます。それらは言葉では説明できますが、映像では映せません。そして、言葉で説明しても、体験がない子はその言葉を理解することが出来ません。私たちが生きている世界は、「言葉」を使わないことには伝えることも、理解することも出来ない事に満ちているのです。「人の心」もまた然りです。「他の人の心」を理解するためには、「その人の言葉」を聞く以外にないのです。そしてそれは決して映像化できないのです。人類は、「自分が生きている世界」を理解するために、言葉を使って哲学や、文学や、科学や、宗教や、様々な学問を創り出してきました。科学実験の映像を見ても、そこには必ず「言葉による解説」がついています。映像だけ見せても、何のことか分からないからです。子ども達は「実験」が好きですが、でも、言葉を失った子ども達は「説明の言葉」には耳を傾けません。だから、科学への興味も理解も深まらないのです。そこにあるのは、「真理を探求するための実験」ではなく、「へーすごい」という面白さを求める「アトラクション」のようなものに過ぎません。でも、「言葉による理解」を得た子は、わざわざ実験などしなくても、日常的な自然現象の中に「不思議」を見ることが出来ます。わざわざ、実験室で「落下の実験」など行わなくても、そんなもの家の中でも森の中でも簡単に見ることが出来るのです。「言葉」で「真理」を語ることは出来ますが、「映像」で真理を語ることは出来ないのです。「映像」はただ「事実」を見せてくれるだけです。そして、そこから「真理」を抽出するためには「言葉」が必要になるのです。毎日、ニュースで世界中の映像を見ていても、その背景にある真理を知るためには「言葉」が必要になるのです。その「言葉」を持たない人達は、「映像」によって簡単にだまされます。
2026.07.05
コメント(0)
人の「心」は「言葉」で出来ています。ですから、「言葉」が育っていない子は喜怒哀楽などの感情は持っていても「人間らしい心」は未熟なままです。そして、自分の欲望や、目先の損得勘定だけで行動します。「こういうことをしたら、こういう結果になる」というような「原因と結果」を想像する能力や、他の人や自分自身と対話する能力や、学習能力も低いです。そして困ったことに、様々なニュースを見ていると、そのような状態の人がどんどん増えてきているようです。闇バイトに簡単に手を出す若者、カスハラなどの行為に走りやすい人たちはそのような人たちです。そのような人に倫理や道徳や善悪を説いても無駄です。それらの概念を理解するための「言葉」が育っていないのですから。罪を犯した人を捕まえて罰則を与えても無駄です。反省するためには自分との対話が必要になるのですが、言葉が育っていない人はその対話が出来ないからです。そのような人に罰を与えても逆恨みしたり、「次は捕まらないように気を付けよう」と考えるだけです。そのような状態の子どもは勉強も嫌いです。成長すること自体に興味がないからです。ですから、そのような状態の人が「困ったこと」や「犯罪」を繰り返さないようにするためには、「罰」を与えるのではなく「教育」を与える必要があるのです。「知識の教育」ではなく「言葉の教育」と「からだの教育」です。なぜ「からだの教育」が必要なのかというと、「言葉」を学ぶためには「言葉とセットになるからだの体験」が必要になるからです。「言葉」を使って「言葉」が理解できるようになるのは思春期が来てからです。でもそれが出来るのも、それまでにからだの体験を通して言葉をしっかりと学ぶことが出来た子だけです。「重い」という言葉が理解できるようになるためには、からだをとおして「重い」ということを体験する必要があるのです。その際、「悪いことをしてはいけないんだよ」などというような道徳的知識を覚えさせても全く無意味です。逆に言えば、そのような状態の人が増えてきたのは、現代人が「言葉の育ち」と「からだの育ち」を大切にしていないからでもあるのです。子育てでは、子どもに対して「お母さんの言うこと」に素直に従うように求めている人が多いです。そのような人は子どもに指示や命令を出しますが、子どもの言葉には耳を傾けません。学校の先生は生徒達に、知識を覚えるように要求するだけです。子どもと一緒に活動しながら言葉を伝えようとしたり、遊びを通して「仲間育て」や「からだ育て」をしようとしている人は少ないです。でも、子どもを椅子に座らせて、先生の話を聞かせるだけでは子どもは何も学べません。それに、知識を覚えるように求められるだけの授業は苦しいだけです。あの授業形態は「子どもの都合」に合わせたものではなく、「大人の都合」に合わせたものです。「言葉」は「体験」とセットにして学ぶものなんです。「言葉」だけでは教えようがないのです。「本」を見せもせず、触れさせもせず、読ませもしないで「本」という言葉の意味を伝えることは出来ないのです。そして、「体験」がなければ「からだ」も育ちません。それでも、大人が「ホン」という言葉を使っていれば、「ホン」という「音」は覚えることが出来ます。そして、大人と同じようにその言葉を使うことも出来ます。そのため、「言葉の本質」を知らない大人たちは、それで子どもが「本」を理解したと思い込んでしまうのです。でもそれはオームの言葉と同じです。それは「言葉」ではなく、単なる「音」に過ぎません。<続きます>
2026.07.04
コメント(0)
「桃栗三年柿八年」という言葉があります。これは、「桃と栗は芽が出てから実を成らせるまで三年、柿は八年かかるので結果をあせらずそのものの特性に合わせてゆっくり待ちましょう」ということです。さるかに合戦のカニは「早く芽を出せ、柿の種、出さぬとハサミでちょんぎるぞ」と柿の木を脅かしましたが、実際の柿の木はどんなに脅しても八年待たないと実を結びません。でも、物語の中の木なら、こんな風に脅かされたらどっかから柿の実を盗んできて、あたかも自分が実らせたように枝にくっつけて「ほら、実を成らせましたよ、だから切らないで下さい」とカニに言うかも知れません。それは「嘘」ではあるのですが、自分を守るための「嘘」なので、正当防衛でもあります。おとといの記事の中に書いた、先生から「答え」を求められた子どもたちも、この柿の木と同じようなことをしたのではないでしょうか。こんな時は、未熟な案だとしても自分が考えたように言えばいいのですが、自分で考える力がなかったり、「正解を答えなければいけない」というプレッシャーを抱えた子どもの中には「AIに聞いてしまおう」と考えてしまう子がいても不思議ではありません。そして、先生が「自分の頭で考えずにAIに聞いたこと」を問題にせず、その「AIに聞いた答え」を選んだことで、子どもたちは「やっぱり」と思ったでしょう。そして、次からはAIに聞いた答えを答える子が増えるでしょうね。でも、そんなことを繰り返していたら、子どもの「感じる力」や「考える力」の成長が止まってしまうのです。この世界には「普遍的な正解」など存在していません。だからこそ、自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力を育てる必要があるのですが、そのような能力が育つためには、それなりの体験と、学びと、時間が必要なんです。それを無視して、まだその能力が十分に育っていない子どもに正解を求めてしまうと、「自分の頭で自由に考える能力」の育ちが阻害されてしまい、「1+1は2でなければいけない」というように「正解」を固定するようになってしまうのです。そしてそのまま大人になります。「子どもは学校に行くべきだ」という「正解」に縛られている人も、子どもの頃から正解を求められて育ったのでしょう。そのような人は、状況に応じて考えるということが出来ないため、「学校の運営を支えるために子どもがいるのではなく、子どもの成長を支えるために学校があるんだ」という元々のところが分からなくなってしまうのです。そして、正解に囚われるようになった人は、子育てでもネットなどで「正解探し」ばかりするようになります。実際、昔、「子育ての正解を教えて下さい」と迫られたこともあります。でも、いくらネットで調べても、AIに聞いても「我が子の育て方の正解」は教えてくれないのです。そんなもの存在していないのですから、それは当然の事なんですが、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来なくなると、その「当たり前」が分からなくなってしまうのです。確かに、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来なくても、社会生活を送ることは出来ます。仕事をすることも出来ます。そして、社会が求めているのも、「その人が自分の感覚で感じ、自分の頭で考えた答え」ではなく、AIが与えてくれるような「正解」の方です。また、「AIが出した答えだ」というお墨付きもあります。でも、その代わりにその人は「自分の人生」、「自分が生まれてきた意味」、「存在価値」、「生きる喜び」を失ってしまうでしょう。それに、AIがもっと日常的になったら、AIと同じ結果しか出すことが出来ない人は仕事を失ってしまうでしょう。子ども時代は、試行錯誤を繰り返しながら「自分の感覚で感じ、自分の頭で考えて答えを出す能力」を育てている時期なので、「正解」を子どもに求めて追い立ててはいけないのです。皆さんもお料理を作っている途中で、「早くしろ、早くしろ、まだ出来ないのか」と追い立てられたり、一生懸命に作った料理に文句を言われたら「心を込めたお料理」なんか作れないし、作ろうとも思わなくなりますよね。そして「ウーバーイーツでいいや」と思ってしまうかも知れませんよね。子どもたちが子どもの時に身につけなければいけないのは「正解を出す能力」ではないのです。「失敗を繰り返しながら試行錯誤を楽しむことが出来る能力」なんです。そしてそれが「遊び」の意味でもあるのです。「遊びの場」は「失敗を繰り返すことが出来る場」「失敗が許される場」でもあるのです。そして、その失敗を繰り返しながら少しずつ成長していく喜びを感じることが出来る場でもあります。でも今、子どもたちはその「失敗を繰り返すことが出来る場」「失敗が許される場」「成長を実感出来る場」を失いつつあります。
2026.07.03
コメント(0)
昨日、「AI時代の子育てと教育(後)」をアップしましたが、(前)の方をアップし忘れていました。昨日の記事はこの記事の続きです。**********************古くからの知り合いから以下のような質問を受けました。ブログで取り上げて欲しいということなので、私の考えを書かせて頂きます。1番下の息子が5年生になりました。 その息子のクラスで起こった出来事です。 学活のテーマは「クラス目標を決める」 そこで、みんなで、目標を出していたところ、クラスのお友達がchat GPTが答えた案を発表した。 それが、なんだかカッコよくて、先生もいいねと言った。そしたら、なんだか、自分が考えたものは、恥ずかしい?ダサい?ものに思えて、発表し辛くなった。 そして、結局、多数決により?クラス目標はchat GPTが考えてくれたものになった。と教えてくれました。なんで、そのことをわざわざ私に伝えてくれたのかを聞いたら、わからない。と言われましたが、たぶん、違和感を感じているのかなー。 そして、私が今出来ることはなんなのか。 一つは、これまで通り、家庭で出来ることはたくさんあるのですが…そうではなく、何かこのようなことを学校の先生と考えてみたいと思う今日この頃。もちろん、私も、仕事でAIを便利に使ってるので、便利だし、学校の先生たちに使うなというつもりはないですが、じっくり考える、案が出ない、決まらない、うまくいかないこと、揉めること、時間がかかること、面倒なこと、をクラスのみんなで経験して欲しいなー って思うんです。 そして、何より、自分の意見に自信がなくなってしまった、chat GPTの方が自分よりすごいんだーって小5に思わせる必要あったのかなーってすごい悶々としまして… 先生にメッセージしました。今ものすごい勢いでAIが生活の中に入ってきています。本当に、信じられないくらいの勢いです。今の大人達が子どもの頃には、漫画や小説の中だけの存在でしたが、今では普通に生活の道具として使われています。皆さんがお使いのスマホやPCの中にも入っています。そのAIの便利なところはどんなことでも聞けば応えてくれるし、頼めば自分の代わりにやってくれることです。絵も描いてくれるし、音楽も作ってくれるし、小説や映画だって作ってくれます。まるで本物の映像のように、トランプさんに「ドジョウすくい」を踊らせることも、高市さんに「私はバカです」と言わせることも出来ます。同級生の女の子の写真を読み込ませて裸にして遊んでいる子もいて問題になっています。読書感想文なんてお手のものでしょう。まるでドラえもんが出してくれる道具のようです。「パンパカパーン 欲望実現ツール」というようなものです。問題は機械の進化が早くて、それを使う大人の意識がついて行けていないことです。それに日本人は「新しいもの好き」です。新しいものが出るとすぐに「流れに乗り遅れるな」という動きが起きて一斉に競争を始めます。「みんな同じ、みんな一緒」を善とする教育もその後押しをしているのでしょう。どうやら昔から日本人には「新しいものは善だ」という感性が備わっているようです。また、「簡単で便利なものは善だ」という感性もあります。お金が大好きな企業や政治家が協力してそのような国民性を育ててきたのでしょう。以前、「萱葺き屋根の里」として有名な京都の美山というところの近くに住んでいる人に呼ばれて、その近くまで数回ワークに行ったことがあります。近くまで行っているのに、毎回、駅と会場を往復していただけなので、最後にお願いして「萱葺き屋根の里」に連れて行ってもらいました。その時、「どうしてここだけこんなにも藁葺き屋根が残ったのですか?」と聞いたら「村が貧しくて、改修するお金がなかったから」とロマンがない答えが返ってきました。でも今ではその古くさい「かやぶき屋根」がお金を生んでくれています。それを「時代遅れ」と非難するのではなく「素晴らしい」と言ってくれる人も増えました。だから守ろうとしています。日本人には、他の人からの評価に影響を受けやすい傾向があるのです。そのため、自分自身の考え、価値観、美意識を大切にせずに、「他の人がどう言っているか」「みんなはどうやっているのか」ということに簡単に振り回されてしまうのです。もっとも、この「自分に拘らない感性」があったから大陸の文化や文明を積極的に取り入れることが出来たのでしょうけど。明治維新の時も「文化の総取っ替え」をしようとしました。「日本語を止めて英語を共通語にしよう」などという議論まであったそうです。それまで神様と仏様が一緒に祭られていたのに、「もう仏様はいらない」と多くのお寺が壊されたそうです。その時、多くの仏像や美術品が海外に流れました。海外の人が力ずくで奪ったのではなく、「こんな素晴らしいものをなんで捨てるんだ、なんで壊すんだ」と守ってくれたのです。浮世絵だって「美術品」としてヨーロッパに伝わった訳ではありません。陶磁器などをヨーロッパに送るときに、陶磁器が割れないように詰める「詰め物」としてヨーロッパに送られたのです。そして、ヨーロッパの人は、その「詰め物」に驚いたのです。ちなみにヨーロッパから送られてくるものに「詰め物」として使われていたのは「シロツメクサ」や「アカツメクサ」などです。だから「ツメ(詰め)クサ」という名前になっているのです。今ではどこでも見られる草ですが、詰め物として日本にやって来たのです。浮世絵は「シロツメクサ」や「アカツメクサ」と同じ扱いを受けていたのです。「自分らしさ」を大切にしようとしない日本人にAIは合っているのかも知れません。でも今起きていることは、過去に起きたことよりも遙かに危険なことです。人間が人間であることを止めようとしているのですから。あと、先日見た記事に以下のようなことが書いてありました。最新のAIに仮想の戦争ゲームを行わせると、約95%の確率で「核戦争」へ発展するという実験結果が英キングス・カレッジ・ロンドンなどの研究で報告されています。AIは不利な状況に陥っても降伏せず、核兵器による攻撃を好んで選択する傾向が確認されています。詳しいことはITmedia AI+をご覧になって下さい。AIには血も涙も流れていないし、愛や人間性も持っていません。そのため、「子どもの幸せのために」とか「人間の幸せのために」という設定も組み込まれていません。ただの「欲望実現ツール」です。そのことは忘れない方がいいです。<続きます>
2026.07.03
コメント(2)
アニメ「ドラえもん」には、のび太君の身代わりになってあれこれやってくれる道具やロボットがいっぱい登場します。その道具やロボットは、「自分の代わりに学校に行ってくれる」、「自分の代わりに勉強をしてくれる」、「自分の代わりにお買い物をしてくれる」、「自分の代わりに叱られてくれる」などなど、子どもにとっては「やりたくないこと」「面倒くさいこと」、「つまらないこと」、「難しいこと」、「疲れること」を代わりにやってくれる非常にありがたい存在です。のび太くんが大人になって仕事をしなければならなくなっても代わりに仕事をしてもらえます。どんな仕事だって出来てしまいます。設計のことなんか何にも知らなくても設計士の仕事が出来ます。お料理が作れなくても料理人の仕事が出来ます。勉強のことなんか何にも知らなくても学校の先生だって出来てしまいます。「映画を作ってくれ」と言えば映画だって作ってくれます。家にいながら「冒険家」になって世界中を冒険する冒険家にだってなれます。(それを冒険と呼んでいいのかどうかは不明ですが・・・。)そのロボットの体験をロボットに書いてもらい、「のびのび太著」として発表して作家にだってなることが出来ます。でも、その本の発表会に本人は出ることが出来ません。内容について聞かれても答えることが出来ないからです。参加できるのは「のびのび太」という名前だけです。褒められるのは「ロボットのび太くん」の方で「本物のび太くん」ではありません。AIを使って名案を出しても、褒められるのはAIの方ですよね。それと同じです。もちろん、サッカー選手にもなれます。その場合、のび太くんは「のび太選手」の活躍を、家にいてビールを飲みながらテレビで見ることが出来ます。ケガをする心配もありません。こんなに楽で便利なことはありませんよね。でも、優勝しても表彰台に立つのはロボットのび太くんの方です。ヒーローインタビューに出るのもロボットのび太くんの方です。祝賀会をしてもらっても、そこに参加できるのはロボットのび太くんです。本人は参加できません。なぜなら、試合について質問されても答えることが出来ないからです。「ロボットののび太くん」はみんなと握手したりハグしてもらえますが、「本物のび太くん」はそれを遠くから見ているだけです。手も握ってもらえません。のび太くんが大人になって結婚して、子どもが産まれて、奥さんから「家事と子育てを手伝って」と言われても、それをロボットにやらせれば、自分はテレビを見たりゲームをすることが出来ます。楽ですよね。そういうロボットを望んでいるお父さん達も多いかも知れません。でも、ほぼ確実に奥さんとの関係は壊れてしまうでしょう。子どもからも相手にされなくなるでしょう。世の中が便利になって、のび太君だけでなくみんながみんな一人一台「ドラえもん」を持つことが出来るようになっていたら、奥さんもロボットかも知れません。産まれた子どももロボットかも知れません。ロボットの子どもはお母さんの言うことはちゃんと聞いて、何でも出来るのでお母さんは楽ですよ。皆さんはそんな子どもを望んでいませんか?でもその結果、人類は確実に滅亡しますけど。「ロボットのび太くん」は世界中を旅することが出来ますが、「本物のび太くん」は家から出られません。どこでもドアを使えばアマゾンのジャングルにも、アフリカのサハラ砂漠にも行けますが、周囲に虫や獣がいっぱいいたり、ものすごく暑かったりするので、行くだけでそこを歩くことは出来ません。歩き回るだけの知識も、技術も、体力もないからです。「本物のび太くん」がいなくなっても、「ロボットのび太くん」がいれば周囲の人は何にも問題を感じません。最初から「透明人間」なんですからいなくなったことにすら気付かないでしょう。さらに年齢を重ねてのび太くんが老いて、何にも知らない、何にも出来ない、運動不足で食って寝てばかりいる「体型も顔色も悪いただのおじいさん」になっても、代理ロボットの方はいつまでも一番かっこいい状態でいることが出来ます。自分の介護も頼めるでしょう。そういう状態になっても、のび太くんは喜ぶでしょうか。「生まれてきてよかった」と感じるでしょうか。ロボットに代行してもらえば何でも出来ますが、それと引き替えに、自分の足で野山を歩いた時の心地よさ頑張って山に登ったときの達成感学ぶことで世界が広がる喜び頑張ることで出来なかったことが出来るようになる喜び考えることで色々なことが分かってくる喜び様々な体験を通して感覚が開いていく喜び友達と群れて遊ぶ喜びそして、自分自身の成長を実感する喜びそういう喜びは得ることが出来なくなってしまうでしょうね。また、自己肯定感を失い苦しむことになるでしょうね。ドラえもんは簡単便利を与えてくれる代わりに、「命の価値」や「生まれてきた意味」や「生きる喜び」を奪ってしまうのです。それと別の問題は、アニメのドラえもんはのび太くんがその道具の正しい使い方を教えてくれるし、使い方を間違えたら止めてくれますが、AIは間違った使い方をしても止めてくれないということです。だから、同級生の女の子の写真から裸の写真を作り出して遊んだりしてしまうのです。また、人の殺し方、自殺の仕方も教えてくれるでしょう。AIはそれを使う人の期待に応えるように作られているので、倫理的、道徳的に間違った要求をしても、止めてくれるどころかどんどん奥深くに子どもを連れ込んでしまうのです。
2026.07.02
コメント(0)
人間は様々な生き物の中で唯一、生まれた後からの学びを通して「らしさ」を身につけていく生き物です。群れのルールや狩りの仕方などといった「方法」を母親から学ぶ動物はいますが、人間は「人間として生きるために必要な、もっと根源的なこと」を母親から学んでいます。感覚や感情の使い方、言葉、そして人や平和を愛する心も、母親との関わりの中で目覚めていきます。赤ちゃんにとって「お母さん」は人類代表であり、唯一の守護者であり、唯一の「自分を導いてくれるお手本」だからです。「平和を愛する心」は「思想」ではなく、「美しいもの」を感じるのと同じ「感覚」なんです。だから戦争を好む状態になってしまった人を平和を愛するように変えることは非常に困難なんです。「いやいや、お父さんだっているでしょ、周囲には他の人もいるでしょ」とおっしゃりたいかも知れませんが、それは「大人の視点」からみた状況であって、「赤ちゃんの視点」から見た状況ではありません。お父さんがあやしても、他の誰があやしても泣き止まない赤ちゃんが、お母さんに抱かれたとたんにピタッと泣き止むのはよくあることです。それは、そんな時の赤ちゃんが求めているのは単なる「抱っこ」ではなく「安心」だからです。赤ちゃんはその「安心」をお母さんの感触、お母さんのまなざし、お母さんの匂い、お母さんの声、お母さんの気配を通して感じています。そして、この「安心」を与えることが出来るのは「命を与えてくれたお母さん」だけなんです。保育園の先生がいくら熱心に世話をしても、この「安心」を与えることは出来ないのです。そもそも、保育園の先生の役割は「子どもを安全に預かること」であって、「安心を与えること」でも「子どもを育てること」でもありません。そこの所はちゃんと理解しておいた方がいいです。ですから、保育園では赤ちゃんが泣いても「安心」を与えようとするのではなく、「泣かせ続けて諦めさせる」という方法を使うようです。「泣いても無駄だ」ということを学習させるのです。保育園の先生は大勢の子どもを相手にしているので、子どもが泣いたからといってその子だけにじっくりと関わり合っていたら、業務が止まってしまうからです。以前、保育の補助に入ったとき、泣いた子どもがいたので抱こうとしたら、元保育園の先生だった保育の人に「抱かないで下さい」と叱られました。「一人抱くと他の子も抱いてもらいたがって、収拾がつかなくなってしまうから」ということでした。でも、悲しい時、寂しい時、不安を感じた時に放っておかれた子は、人に頼らなくなるでしょう。頼っても無駄だということを学習してしまうからです。それはまた学習能力の低下にもつながってしまうでしょう。人間の子どもは「他者とのつながり」を通して学習するように出来ているからです。特に「肯定的なこと」は、大好きな人との関わり合いを通して学ぶものです。大好きな人が「これは大切なことなんだよ」と教えてくれたから、それが「大切なもの」になるのです。それは皆さんだって同じではないですか。お母さんの中にも、この「泣かせ続けて諦めさせる」という方法を使う人がいます。私は若い頃大学で事務の仕事をしていたのですが、その同僚の女の子が結婚して、赤ちゃんが生まれ子育ての話題になったとき、「夜泣きをするので別室に寝かせて放っておいたら泣かなくなった」と自慢げに話しているのを聞きました。私はその時の赤ちゃんの「今」が心配です。子どもに安心を与えるのは母親の役割であって、保育園の先生の役割ではありません。これは社会の価値観の問題ではなく、動物としての人間の普遍的な「理」(ことわり)です。もちろん、私の個人的な価値観の問題でもありません。でも今、この同僚の子のように、我が子に対して保育園の先生のような関わり方をしようとしているお母さんが増えてきているような気がするのです。そのような人は、「子育て」を「お仕事」のように考え効率的に処理しようとしています。だから平気でテレビや、タブレットや、ゲーム機に子育ての代行をさせてしまうのでしょう。実は、赤ちゃんや幼い子どもにとって「お母さん」は「自分と世界をつなぐへその緒」なんです。このへその緒は他の人には代行できないのです。当然、テレビや、タブレットや、ゲーム機などにも出来ません。「へその緒」から切り離されても、別の形で栄養を得ることは可能ですが、「つながっている」ことから得られる「安心」は失われます。お母さんの「へその緒」としての役割は、子どもが9才、10才頃になるまで続きます。この頃になってようやく子どもは、お母さんを通してではなく、直接自分の感覚で、自分の目を通して、世界を見ることが出来るようになるのです。
2026.06.30
コメント(0)
私は自宅では造形教室をやっています。絵画、手工芸、陶芸、木工作、電気工作まで何でもやっています。何でも出来るのですが、男の子達は〝芸術的なもの〟や〝手仕事的なもの〟よりも〝遊ぶもの〟を作るのが好きです。弓矢とか、刀とか、銃とか、パチンコとか、ビー玉転がしとか、などを作りたがります。男心に響くのでしょうか。でも今の子どもたちは、リアルな体験としてそういうもので遊んだことがありません。遊んでいる子どもたちを見たこともありません。さらには、そういうもの自体を見たこともありません。ですから木刀を作りたいと言っているのに「なんとなく」しか木刀の形を知りません。ある子どもが〝弓矢を作りたい〟”と言ってきました。それで、〝棒とゴムをちょうだい〟というのです。?????と思って、〝弓矢で遊んだことある?〟と聞くと、〝ない〟という返事。〝じゃあ、見たことはある?〟と聞くと、〝この前テレビで見た〟という返事。テレビでちょっと見てあこがれたようです。まあ、それはそれでいいのですが、テレビを見ていても弓矢がどんな材質で出来ていて、どんな構造になっていて、どのような原理で矢を飛ばしているのかということは皆目分かりません。また、「飛ばす技術」も分かりません。それまでに、自然の中でからだを使っていっぱい遊んできたような子ならそういうことは大体予想がつくのですが、今の子どもたちは日常的な遊びの中でそんなことしませんからまったく予想がつかないのです。人はそれまでの自分の体験を組み合わせて新しい出来事を理解しています。これはどんな場合でも同じです。だから、その「素材となる体験」がない子は説明しても理解できません。説明しても、その説明が理解できるだけの体験的な裏付けがないからです。それで、〝弓矢は木とゴムではなく、竹とヒモで作るんだよ〟と教えて、竹とヒモを出してあげます。でも、竹で遊んだことがない子がほとんどなので竹がしなることを知りません。だから、なんであんなにゴムのように動くのかが分かりません。まあ、それは遊んでいるうちに分かることなので詳しくは説明しません。でも、それが分からないので材料を出されただけではどうしていいのか分かりません。それで、〝ここ切って、ここ削って、ここにひもを結んで〟というようにマニアル的な指示が必要になります。でも、話しはこれで終わりません。〝ここ切って〟というと〝どうやって切るの?〟と聞いてきます。それで、1.ナイフ2.ノコギリ3.手で折る4.超能力〝どれで切ったらいいと思う〟と聞きます。すると大抵の子はちゃんと「ノコギリ」と答えます。それで、〝じゃあ、ノコギリで切りな〟とノコギリを渡すのですが、なにやら怪しげな切り方を始めます。というより、それ以前におかしな持ち方をします。グッと握ってしまうのです。ノコギリはグッと握ってしまったら使えません。手首が動かなくなってしまうからです。(親指と人差し指には力を入れてはいけないのです。)中には逆さまに持つ子もいます。それで切り始めるのですが、まあなかなか大変です。手首が硬いのでノコギリが動きません。手先だけで動かすので刃が前後ではなく左右に動いてしまうので、そこら中に傷が付くだけでなかなか切れていきません。また、左手や足で押さえることも出来ないので、ヤスリで削ったようになるだけで切れないのです。私は最初はそういう状態をただ黙ってみています。でも、頑張っても全然切れないのでそのうち〝先生やって〟とか、〝手伝って〟という声が出てきます。そこで初めてノコギリの持ち方、動かし方、木の抑え方などを教えます。そして、ちょっとだけ切ってあげて、〝後は自分でやりな〟と任せます。すると子どもは、〝え! 全部切ってくれないの〟と文句を言ってきます。多くの子は、それで何とか切ることが出来ます。それでも途中何回か手伝いが必要ですけど・・・。でも、〝自分流〟を変えることが出来なくてどうしても切れない子もいます。そんな時は“見る体験から”と思って、〝良く見ていなよ〟といって私が切ります。でも、そういう子に限ってそれを見ようとしない子が多いのです。「見方」(観察の仕方)が分からないようです。その「見方」(観察の仕方)も体験を通してしか学べないからです。これで竹が丁度いい長さに切れたとします。でも、竹を切ってひもを付けただけの弓ではよく飛びません。ナイフを使って両端を少し薄くするのです。ここでまた困難が待ち受けています。ノコギリもナイフも同じなのですが、力で頑張るだけではなかなか切れないのです。ただ危険になるだけです。実際、うちの子は3才頃から切り出しナイフを普通に使っていました。間違いなく3才児より小学生の方が力があるはずなんですが、切れないのです。その後はヒモを結ぶのですが、ここでも困難が待っています。最近の子はみんなひもが結べないのです。ひもが結べる子でも、弓をしならせたままヒモ(弦)を張ることが出来ません。ちなみにこれは子どもだけではありませんからね。お母さん達にやって貰っても似たような状態です。そんなこんなでまあ、弓矢が出来たとします。でも、今度は飛ばし方が分かりません。矢を弓に「つがえる」という状態が分かりません。また、弓の「真ん中」がよく分からない子もいます。教えても理解できない子もいます。でも、しばらくやっているうちにそれなりに飛ばせるようになります。でもでも、ここから先にも問題が転がっています。多くの子がそこで終わってしまうのです。せっかく弓矢を作ったのに、出来ただけで満足してしまってそれ以上それで遊ぼうとしない子が結構いるのです。飛ばし方が分ければ、それ以上それで遊ぼうとしないのです。不思議でしょ。実は、タイコや笛などの楽器を作っても遊ばない子の方が多いのです。作るだけなんです。「飛ばし方」や「音の出し方」は分かっても「遊び方」が分からないのです。弓矢で遊んでいる子や、演奏を楽しんでいる人たちを見たことがないからでしょうか。でも、これは教えることができません。というより教えても意味がないのです。遊び方は楽しく遊びながら学ぶものだからです。つまり、楽しく遊ぶことが出来る仲間と一緒に遊ぶことで遊び方を学ぶのです。そうやって学んだ遊びだから楽しく遊ぶことが出来るのです。それでも、中には的を作って、競い合いを始める子もいます。楽しそうに延々と弓矢で遊んでいる子もいます。でも、そういう子は幼稚園の頃からそういう遊びをいっぱいやってきたような子ばかりです。弓矢は初めてでもからだで遊ぶ楽しさを知っている子ども達です。コマを普通に回せる子どもたちばかりです。また、自分はあまりからだ遊びをやっていなくても、そういう子どもたちがいっぱいいるところで育った子どもたちです。つまり、楽しく遊ぶ子どもたちを見て育った子どもたちです。そういう子どもたちはからだを動かす楽しさ、からだで遊ぶ遊び方を知っているのです。でも、幼児期にからだを動かす楽しさを味わってこなかった子は、弓矢が出来てしまうとそれだけで満足してしまう子が多いのです。からだを動かす楽しさ、仲間と一緒に遊ぶ楽しさを知らないからです。
2026.06.29
コメント(0)
心でもからだでも、緩むためにはつながる必要があります。つながりによって支えられているから安心を得ることが出来、安心があるから緩むことが出来るからです。それは一人の人のからだの中でも同じです。腕が緩むためには腕が胴や足などといった他の部分とちゃんとつながっている必要があるのです。(物理的にではなく感覚的にです)そのつながりが切れた状態で、腕だけを緩めようとしても無理なんです。さらに言えば「大地とのつながり」や「周囲の空間とのつながり」も重要です。からだが緩むためには、大地とちゃんとつながっている必要があるのです。心が緩むためには、周囲の空間とつながっている必要があるのです。そのつながりから切り離されて、一人で頑張っているお母さんはガチガチです。でも、話し相手や、助けてくれる人や、いつも笑顔で話しかけてくれる人などが傍にいて、その人たちとつながることが出来ているお母さんの心とからだは緩んでいるでしょう。安心があるからです。安心があると、心とからだに余裕が生まれて、前を向くことが出来るようになります。マッサージやセラピストなど必要がなくなります。今、「学校に行きたくない子どもたち」や「行きたくても行けない子どもたち」や「学校が苦しい子」が増えてきていますが、そのような子どもたちは、心だけでなくからだもガチガチです。手とか足とか胴体もちゃんとつながっていません。ですから、からだの動きもぎくしゃくしています。体温や免疫力も低くなってしまっているみたいです。そんな「学校に行きたくない子どもたち」や「行きたくても行けない子どもたち」が増えてきた背景には、「つながることが苦手な子ども」「つながることを嫌う子ども」「つながり方を知らない子ども」が増えてきたことも関係しています。また学校も、「子ども同士のつながり」や、「子どもと先生のつながり」を育てようとせず、比較し、競争ばかりさせて分断を煽っています。「その方が子どもが頑張る」と勘違いしているのでしょうか。「学校の問題」の背景には「子どもの問題」があり、その「子どもの問題」の背景には「家庭の問題」があり、「家庭の問題」の背景には「社会の問題」があります。ですから、学校を改革するだけでは学校や教育の問題は解決しないのです。小さいときから一人で遊んでばかりいた子は、当然のことながら他の子とのつながり方を知りません。つながる必要も喜びも知りません。そのため、他の子が傍にいるだけでストレスを感じるようになってしまう子もいます。その結果、悪意は全くないまま、他の子が持っているものを取ったり、突き飛ばしたりしてしまうこともあります。他の子が傷つくようなことを言ったりやったりしてしまうこともあります。そんな状態の子を叱っても、「何で叱られているのか」ということ自体が分からないでしょう。その逆のパターンもあります。小さいときから大勢の人に囲まれて育った子はつながることが得意かも知れませんが、そういう子が「つながりを拒否する子」や「つながり方を知らない子」が多い場に入れられたら苦しくなってしまうのです。でも、社会を変えることは出来なくても、家庭を変えることはお母さんやお父さんの自覚で出来ます。お父さんとお母さんが価値観を共有し、また、他の同じ価値観を持った人とつながることでお母さんやお父さんが緩むことが出来ます。すると子どもも緩みます。心とからだが緩めば活動的にもなります。つながりが消えた家庭、学校、社会で暮らしている人の心は常に緊張状態にあるため、頭と心とからだだけでなく、手足や胴体もバラバラなんです。そのため、すぐに疲れてしまうのです。また、目先のことに振り回されているので、自分がやりたいことを見つけることも出来ません。疲れやすい人は、自分の「心とからだ」、「手や足や胴体」がバラバラになってしまってはいないか、一人だけで頑張っているのではないかということを少し自己観察してみてください。また、そのバラバラになったからだを統合するために「感覚統合」なる方法も生まれましたが、そのような方法を使う前に、子どもたちにつながりを通して「安心」を与えた方がいいのです。
2026.06.28
コメント(0)
昨日は、「〝場所〟はあっても〝つながり〟がない子ども達」ということを書きましたが、最近の子ども達を見ていると、その「つながる」ということが苦手な子ども達が増えてきたように感じます。いつも一人で遊んでいることの方が多いからなのでしょうか。同じ〝推し〟を共有したり、同じチームを応援するというような「みんなで同じ方向を向く」というような「つながり」は簡単に作れるのですが、異なった〝推し〟や趣味を持った者達が、向き合って、話し合って、助け合ってつながるのは苦手なんです。でもこれは、子どもたちが子どもたちだけで群れて遊ぶ時には必要になる能力です。「基地作り」のような活動をする時には特に必要になります。わらべ歌や様々な「群れ遊び」を伝承してきたのは、「家にいても暇」ということだけが共有された多様な趣味や価値観を持った子どもたちでした。その中には男の子も女の子も、大きな子も小さな子もいました。障害を持った子もいたかも知れません。群れ遊びを支えていた子どもたちが共有していたのは「家にいても暇」という状況と、「とにかく遊びたい」という衝動だけだったのです。だから家から出て同じような状況の子どもたちと「遊び」を共有して遊ぼうとしたのです。でも、そのような多様な趣味や価値観や能力を持った者達が、同じ遊びで一緒に楽しく遊ぶためには、その時々で集まったメンバーの趣味や能力に合わせて遊びの種類やルールなどを決めていたはずです。大きな子がやりたい遊びがあっても、その遊びに合わせることが出来ない「小さな子」や「障害を持った子」がいた場合はどうしたらいいのかを考えたはずです。そうでないとみんなで楽しく遊べないからです。それで「おみそ」とか「特別ルール」を作って遊びました。また、同じ遊びばかり繰り返していたら飽きてしまいます。だから色々な遊びを考え出しました。「鬼ごっこ」だけでも「増え鬼」「氷鬼」「バナナ鬼」「色鬼」など色々な種類があります。ネットで調べたら「数え切れないほどある」と出てきました。「あぶく立った」とか「むっくりくまさん」なども「鬼ごっこ」の仲間です。言葉を換えて遊んだりもしたでしょう。子どもたちは「替え歌」が得意ですから。色々な地方出身のお母さん達と「花いちもんめ」などをやると、色々な歌詞が出てきて面白いですよ。昔からよく知っている「だるまさんが転んだ」も、関西の方では「坊さんが屁をこいた」と言って遊んでいると聞いて驚いたことがあります。当然のことながら子どもの中の誰かが「新しい遊び」や「新しい歌詞」や「新しいバリエーション」を考え出すのでしょうが、それが仲間内で共有されるようになるためには話し合ったり、助け合ったりすることが必要になったはずです。仲間内で決めたルールを知らない子がいたり、それを守らない子がいたら「遊び」が成り立たなくなってしまうからです。スポーツのルールは世界中で固定されています。そうでないと客観的に勝ち負けを決められないからです。それに対して遊びは、「勝ち負け」ではなく、「楽しく遊ぶこと」が目的なので、一緒に遊んでいるみんなの同意があれば、その場の状況に合わせて自由にルールを変えることが出来るのです。みんなが納得すれば、「昨日のルール」と「今日のルール」が違ったっていいのです。これが「スポーツ」と「遊び」の大きな違いの一つです。子どもたちは、群れて遊ぶことを通してコミュニケーション能力を育てていただけで無く、「自由の扱い方」も学んでいたのです。「楽しく遊ぶ」という思いが共有されていれば「なんでもあり」だったのです。ですから、危ないことも平気でやりました。でも、最近は、みんなで遊んでいるのに、自分だけ勝手に「マイ(自分)ルール」を作って遊ぼうとする子がいるのです。タッチされても、「僕、鬼やりたくないからやめる」と抜けてしまったり、逆に「僕はズーッと鬼でいいよ」と言う子もいます。子どもたちの間で、「楽しく遊ぶ」という想いが共有出来なくなってしまったのです。そもそも、最近の子は、家にいた方が楽しくて、外に連れだされる方が退屈なようです。そういう状態の子は、「つながる必要」がないため、他の子とつながりたいと思いません。また、小さい時から一人で遊ばされていた子は、つながりたいと思っても「つながり方」を知りません。人と人がつながるためには「つながりを支えるもの」が必要になるのですが、そういうものを持っていないからです。そのため、子どもが大勢いるような所に連れ出しても早く帰りたがります。
2026.06.27
コメント(0)
最近、学校に行けない、学校に行かない子ども達が増えてきました。そのような子ども達にも、大人が用意した「何年何組」という居場所はちゃんとあります。ではなぜ、学校に行けない、もしくは行かない子ども達が増えてきたのかというと、「大人が用意した場所」はあっても、その子と、他の子ども達や先生との間に「つながり」がないからです。「場所としての居場所」はあっても、「つながりの中の居場所」がないのです。それが昨日書いた「心の居場所」です。だからクラスメイトがいても、独りぼっちなんです。つながっていないので、感覚や感情や行動の共有も出来ません。先生の指示に従ってみんなと同じことをしても、それは「みんなと一緒にやった」のではなく「先生の指示に従った」だけのことです。さらに、つながりのない相手からの干渉や束縛もあります。そういう状況の中で、子どもが「ここは自分の居場所ではない」と判断するのは自然な結果です。子どもが「ここは自分の居場所だ」と感じるためには、「その場所」や、「その場所にいるもの達」とのつながりが必要になるのです。「森」とつながれる子は「森」が居場所になります。「本」とつながれる子は「本の中」が居場所になります。昔の子ども達は自分の意思で、「楽しく遊ぶため」という目的を共有しながら神社の境内や野原での遊びに参加していました。また、伝承された様々な遊びも共有していました。だからつながれたのです。そして、つながれたから「群れ遊びの場」が「自分の居場所」になったのです。また「つながり」があったから、ケンカなどのトラブルも自分たちで解決できたのです。今、「子どもの居場所を作ろう」と熱心に活動している人もいっぱいいます。それは素敵なことです。でも、いくら素敵な「場所」を作っても、そこに「子ども同士のつながり」が生まれなければ、子どもはそこを「自分の居場所」として受け入れることはしないのです。その場所にオモチャやゲーム機や本をいっぱい用意しておけば、そういうものが好きな子はその場所が気に入るでしょう。親も、「うちの子はここが気に入ったみたいです」と言うかも知れません。でも、そのような場は「子どもの育ちを支える場」ではなく、「親を安心させるための場」です。当然、子ども同士の「つながり」も生まれません。また、最近の子は、幼いときからオモチャや、ゲーム機や、テレビや、タブレットなどで一人で遊んでいることが多いので「他の子とのつながり方」を知りません。だから気に入ったオモチャがあると「一緒に」とか「順番っこ」が出来ずに奪い合いになります。小さい子や、力の弱い相手に対して加減するということも出来ません。弱い者を助けるという発想もありません。大きい子も手加減なしに、小さい子とムキになって張り合うとするのです。「この子はまだ小さいから特別ルールにするね」と言うと「ズルイ」と言います。また、他の子が嫌がるようなことも平気でやったり、みんなが迷惑するような大きな声で騒いだり、ガタガタやって騒音を出したりもします。自分に注目させようとして過激なことをやる子もいます。でも、本人に悪気はないのです。相手が困っていることも分かりません。それがその子にとっての普通だからです。そういう状態が一番苦手なのは「つながる楽しさを知っている子」です。「つながる楽しさ」を知らない子は「つながり」の中に居場所がなくても気にしません。みんなで一緒に騒げればそれだけで楽しいのです。まただから、子どもたちが楽しくつながり合えるような保育をしていた幼稚園や保育園を出た子の方が、学校に居場所を見つけにくくなってしまうのです。プレイパークのような場では、プレイリーダーと呼ばれる人が、そんな「つながり方」や「つながる楽しさ」を知らない子ども達に、「遊び」を通して「つながり方」や「つながる楽しさ」を伝えようとしています。火や刃物といった「危険なもの」も使わせます。大きな声で騒いだり、危険な行動も度を超さなければ許容します。でもそれ故に、住宅街の中でそのような活動をするのは困難です。友人達がやっている茅ヶ崎での活動でも色々なトラブルがあるようです。火を使う、刃物を使うということに対して否定的な人もいます。横浜にはプレイパークが結構ありますが、そういうものがない地域も多いです。というか、ない方が圧倒的に多いのではないでしょうか。作ろうと活動している人もいますが、地域や役所の理解を得るのが困難なようです。また、そのような活動をするためには適度な自然も必要です。横浜にあるプレイパークは、みんなそれなりに大きな公園の中にあります。あと、プレイリーダーの給料は安いです。娘が横浜市のプレイリーダーをやっていましたから。私は、子ども達のつながりを作るためには、まず大人達のつながりを作るとこから始める必要があると考えています。子ども達がケンカを通してつながり、学ぶことが出来るためには、大人達の間に、ケンカを許容できるつながりが必要だからです。ですから私は「子どもの居場所」を作るのなら、ちょっと遠回りして、価値観を共有出来る人たちと「大人の居場所」を作るところから初めた方がいいのではないかと思っています。
2026.06.26
コメント(0)
私のような仕事をしていると、FBなどでも「子どもの居場所作り」関係の投稿がいっぱいアップされてきます。「プレイパーク」や「子ども食堂」や「学童」なども「子どもの居場所」の一つです。「居場所を失った子どもたち」を預ける場所を一生懸命になって探しているお母さんもいっぱいいます。実際、様々な「〇〇教室」も子どもの居場所として使われたりしています。でも、「居場所」として通っている子は、本当にそれがやりたくて来ているわけではないので熱心に取り組むこともありません。現代社会では、それだけ「子どもの居場所が無い」というのが切実な問題になっているのでしょう。でも、私が子どもの頃は「子どもの居場所を作ろう」などという活動はなかったと思います。そんな必要がなかったからです。実際、わざわざ大人が「子どもの居場所」を作らなくても、子どもの生活の周囲には、最初から「子どもの居場所」がいっぱいあったのです。本来、「子どもの居場所」は、大人や社会が作って、子どもに与えるものではなかったのです。昔々から、子ども達は大人達の目が届かない「生活の間」、「社会の間」、「町の中の間」、「時間の間」を見つけて、その「間」の中に勝手に入り込んで居場所にしていからです。そしてその「間」の中で「仲間」と出会い、仲間と遊び、仲間とつながり、仲間とともに成長していたのです。この場合の「間」(ま)とは、十分な空間と、十分な時間と、十分な自由がある「大人の目が届かない余白」のことです。「子どもが子どもらしく、自由に遊ぶことが出来る子どもの居場所」においては、この「大人の目が届かない」ということが重要な意味を持っていたのです。大人の目が届かないから「危ないこと」も「ケンカ」も十分に出来たからです。行きたくなければ「行かない」という選択も自由に出来ました。そしてまただから学びもあったのです。古来から子どもたちは、「大人が作った居場所」ではなく、大人の支配や管理が届かない「間」の中に入り込んで遊んでいたのです。でも、今ではそのような「間」は消えてしまいました。高度経済成長の頃から、生活の中からも、町の中からも「間(余白)」が消えてしまったのです。その結果、子どもたちは「子どもの居場所」を失うことになりました。また、大人の心の中からも「間」(余白)が消えてしまい、不安が強くなり、子どもを追い立てるようになりました。だから「子どもが子どもらしくいることが出来る場所を作ろう」という運動が始まったのでしょうが、問題は、それが「子どもの成長を支える場になっているのかどうか」ということです。「大人が安心するための場になってしまっているのではないか」ということです。確かに、大人の目があれば「子どもの安全」は守られます。それはそれで大事なことです。でも同時に、「大人が作った子どもの居場所」では、「子どもの成長に必要な危険」や、「自由な遊びに伴って自然に発生する危険やケンカ」まで取り除かれてしまう可能性が高いのです。なぜなら、その「子どもの居場所」で何か事故や事件があったら管理者の責任が問われ、その場自体が存続出来なくなってしまう可能性があるからです。「子どもの居場所」を守るために、危険やケンカを取り除こうとする気持ちは分かります。でも、そのために子どもの「自由」を規制してしまったら、そこは「子どもの成長を支える子どもの居場所」ではなく「大人が安心するための子どもの居場所」になってしまうのです。「それが悪い」とは言いませんが、「それでいい」とも言えません。非常に難しい問題です。高度経済成長とともに、子どもの受け皿としての時間、空間、仲間といった「間」が消えてしまいました。今では、「ゲームの世界」がその「間」として機能しています。その中まで大人は入ってこないからです。そして、ゲームの中だけが「自分の居場所」になってしまっている子もいっぱいいます。だから、子どもから安易にゲームを取り上げてはいけないのです。ただし、ゲームを勧めているわけではありません。私が言っているのは、「すでにゲームの中にしか居場所がないようになってしまっている子から、唯一の居場所としてのゲームを取り上げてはいけない」ということです。大事なのは、子どもを「ゲームの中にしか居場所がないような状態にしない」ということです。「大人が大人の安心のために作った子どもの居場所」は、子どもの「からだの居場所」としては機能するのですが、「心の居場所」としては機能しにくいのです。子どもたちはゲームの中に「心の居場所」を求めているのです。私の家の隣に住んでいる孫の一人がこの四月から小学校に行き始めました。そして、母親が仕事をしているので学校が終わった後は学童に行っています。学童も「子どもの居場所」の一つです。でも、孫はその場所があまり好きではないようで、早く学童から帰りたがっています。教室がある水曜日と金曜日は私が早めに迎えに行っているのですが、確かにみんな面白そうではありません。学童は「子どもが自由に遊べる場」ではなく「大人の安心のために子どもを預ける場」ですから、それはそれでしょうがないことです。で、連れて帰ってくるのですが、私が相手をする訳ではありません。造形教室として使っている部屋で一人で何かやっています。学童で騒がしい大勢の子どもに取り囲まれているより、静かな部屋の中で一人で工作をやっている方が落ち着くみたいです。ちなみに、本の中、絵を描くことの中に「心の居場所」を持っている子もいます。「からだの居場所」だけでなく、そんな「心の居場所」のことももっとみんな考えた方がいいのではないかと思うのです。そして、「心の居場所」を共有出来る子が数人集まれば、そこがその子にとっての「子どもの成長を支えるからだの居場所」にもなるのではないかと思うのです。
2026.06.25
コメント(0)
私はいつもお母さん達に子育てには「だんだん楽になる子育て」と「だんだん苦しくなる子育て」の二種類があるんだよ。と言っています。「だんだん楽になる子育て」の方の「苦しみ」に終わりがあります。また、「喜び」もいっぱいあります。「苦しみ」から逃げずに子どもと向き合い、子どもの気持ちを大切にしながら子どもと関わり合っていると親子の信頼関係が育って行きます。すると、3才頃から少しずつ楽になっていくのです。お手伝いも出来るようになってきます。会話も出来るようになるので、子どもといるのが楽しくなってきます。話し相手にもなってくれます。さらに5才頃になると、お母さんと離れて友達と遊ぶのが楽しくなってくるのでまた楽になります。3才から5才ぐらいまで、お母さんから「安心」を与えられて育った子は、成長と共に自然にお母さんから離れることが出来るようになるのです。小学校に入って、自分のことは自分で出来るようになってくると、さらに楽になってきます。そして、そのような子どもの成長を楽しむ事も出来ます。それに対して、子育てに一番手がかかる時期に、お母さんが自分を守るために「楽な方法」を選んだり、「苦しみ」から逃げようとしてしまうと「だんだん苦しくなる子育て」が始まります。そのような人は、最低限の子どもの世話はしますが、必要以上に子どもと関わろうとはしません。そんな時間があったら自分のために使いたいからです。でも、そのような子育てでは親子の信頼関係が築けません。子どものことを理解出来るようにもなりません。成長を待つことも出来ません。そのため、子どもの安心も育ちません。その結果、子どもの心が不安定になったり、無気力なったりしてしまいます。成長への意欲も育ちません。積極的にお母さんの手伝いをしようともしません。子どもは「お母さんと一緒」が楽しいからお手伝いをするのであって、義務感でやっているわけではないからです。実は、「一番手がかかる時期」というのは、子どもの成長にとって一番「お母さんとの関わり合い」が必要な時期でもあるのです。その時期に、子どもはお母さんとの関わり合いを通して「親子の信頼関係」を築いたり、言葉を学んだり、自分が生まれてきた世界の事を学んだり、安心や「人間としての基礎」を育てたりしているのです。でも、「子どもがお母さんを必要としている時期」というのは、お母さんにとっては「子育てが一番辛い時期」でもあります。でもそれ故に、「子育て」とちゃんと向き合うことで、お母さんの「人間としての成長」も促されるのです。その苦しみを通して、お母さんは「育てられた子ども」から「育てることが出来る大人」になることが出来るのです。ちなみに、この過程を通らないお父さんは、法律的には「父親」ですが、精神的には「子ども」のままです。そのため、お母さんは「小さな子ども」と「大きな子ども」の面倒を見なければならなくなりさらに苦しくなります。この時期に親子の信頼関係を築けなかった人は、子どもが2、3才頃になって自我が目覚め始めると、別の苦しみが始まります。それまでは世話をするだけで済んでいた子が、2、3才頃から急に「一人の人間」としての自己主張を始めるからです。それまでの「困った行動」は本能的、衝動的なものでしたが、この頃から子どもは自分の意思でお母さんが望まないことをし始めるのです。それは「社会性の目覚め」とつながっているのですが、この頃までにお母さんとの間に信頼関係が築けていない子は、お母さんの言葉に耳を傾けようとしません。また、本能に従って行動してしまうため様々なトラブルも起きやすくなります。そして、子育てがさらに辛く、苦しいものになります。その結果、大きな声で怒鳴ったり、時には叩いたりするようになってしまうこともあります。でも、お母さんの力ずくの脅しが通用するのは9、10才頃までです。9、10才を過ぎてしまうと、次第にお母さんの脅しも通用しなくなります。そして、それまでお母さんが怖いから言うことを聞いていた子どもが言うことを聞かなくなります。そしてそれまでの「いい子」が消えて行きます。それで、さらに子育てが苦しくなります。それに対して、お母さんを必要とする時期にいっぱいお母さんと関わることが出来た子は、「安心」が育つため、2~3才頃になると少しずつお母さんから離れて、友達と遊ぶことが出来るようになっていきます。(ただし、憂鬱質が強い子は、他の気質の子よりもいっぱいの安心が必要なため、お母さんから離れることが出来る時期が他の気質の子よりも後れます。逆に胆汁質が強い子は小さい時から平気でお母さんから離れて行動します。)何かトラブルが起きても、それまでにお母さんとの間に信頼関係が築けている子は、お母さんの言葉に耳を傾けることも出来ます。お母さんに傍にいることで安心を取り戻すことも出来ます。5才になったらもっと離れ、必要がある時にしかお母さんの側に来なくなります。このようにして、子どもが成長するにつれて子育てが段落、楽になっていくのです。それに対して、「親子の信頼関係」や「安心」を育てることが出来なかった子の方は、成長に伴って新しい出会いが増える度に不安と苦しみが強くなります。でも、お母さんに相談することが出来ません。お母さんが伝えたいことがあっても、子どもは耳を傾けません。そして、この子どもとお母さんの不安と苦しみには出口がありません。結婚して子育てをするようになってから、自身の子ども時代の悲しみや苦しみが再現されてしまうことも多いです。だから、赤ちゃんがお母さんを必要としている2,3才頃までは、お母さんは子どもと一緒に居てあげて欲しいのです。(可能なら3才まで、最低でも2才まで)ただし、私は倫理的、道義的に「すべきだ」という話をしている訳ではありません。野菜でも動物でも、人間が世話をしなければ人間にとって意味のあるようには育ちません。野生に返って行ってしまうだけです。でも世話をすれば、世話をしたように育っていきます。それは人間の子どもを育てる場合でも同じですよ、という客観的な事実を伝えているだけです。それを無視することも出来ますが、無視しても結果はやって来ます。
2026.06.24
コメント(0)
戦後ズーッと、日本人は「物質的豊かさ」の中に「幸せ」を求めて来ました。そして、その「豊かさ」を手に入れました。でも当然、その「物質に依存した豊かさ」には限界があります。また「物質に依存した遊び」にも限界があります。そして、「物質に依存した豊かさ」にも「物質に依存した遊び」にも、人と人をつなぐ力はありません。むしろ、人と人を切り離します。なぜなら「物質」は共有出来ないからです。お金も共有出来ません。だから、物質的に豊かになると同時に地域が崩壊し、核家族化が始まり、さらにその家族もバラバラになり個人化が始まってしまったのです。いまでは、同じ家の中に暮らしているのにみんながバラバラに暮らしている家族も珍しくありません。バラバラでも生活できるようになったからです。まただから、「つながりを支える能力を持った子ども」が減り、「自分のことばかり考える子ども」が増えて来たのではないかと思います。勉強も「お金獲得競争に勝つためのもの」になってしまっています。だから勉強が楽しくなくなってしまったのです。先日行ったネパールの山奥の村のようなところでは、みんながつながり合い、助け合って生きていました。お金も物質的な豊かさもないので、助け合わないと生きていくことが出来ないからです。「貧しさ」が「つながり」を支えているのです。だからといって、すでに豊かさを知り、豊かさを手に入れてしまった日本人に、「つながりを取り戻すために貧しくなりなさい」などと言うことは出来ません。また、言っても無駄です。人間は他からの圧力で貧しくなることはあっても、自分の意思で貧しくなることはないからです。でも、わざわざ貧しくならなくても、「物に依存しない生活」、「物に依存しない精神性」、「物に依存しない遊び」を取り戻し、大切にすることで、「つながり」は取り戻せるのです。それは、「物」や「お金」が主人公の意識や、価値観や、生活から、「人間」や「心」が主人公の意識や、価値観や、生活に切り替えるということです。例えば、「様々な芸術的な活動」や、「ごっこ遊び」や、「わらべ歌」や、伝承されてきた様々な「群れ遊び」のようなものは「物に依存しない遊び」です。ですから、子どもが何人いても、大人がいても、障害を持った子がいても、みんなで楽しめます。「物」は共有出来ませんが、「目的」や、「感覚」や、「喜びなどの感情」は共有出来ます。またそのための活動も共有出来ます。だからつながれるのです。みんな、幸せになりたくて「物質的豊か」さを求めているはずなのに、「物質的豊かさ」を求める過程で競争や、奪い合いや、対立の世界に巻き込まれて苦しくなってしまっているのです。それは大きな矛盾なんですが、現代人は物質に依存しないで幸せを手に入れる方法を忘れてしまったので、物質を手に入れる競争を止めることが出来ないのです。でも、物質的なものを手に入れても「幸せ」を感じるのは、それを手に入れた時だけです。しばらくするとその「幸せ」は消え、また新しいものが欲しくなります。おもちゃを買って貰っても嬉しいのは最初だけです。しばらくすると、別のオモチャが欲しくなってしまうからです。でも、その繰り返しで経済が回っているので、その不毛な循環は社会的には肯定されています。だから国は「物に依存しない生活」や「物に依存しない遊び」を推奨することはないでしょう。でも、「物に依存した遊び」しか知らないお母さんやお父さんは、子どもと一緒にいても何をして遊んだらいいのか分かりません。そのため、オモチャや、ゲーム機や、スマホやタブレットを与えて一人で遊ばせようとします。でもその結果、子どもとお母さんやお父さんとの間に「心のつながり」が生まれにくくなってしまっています。お母さんから「安心」をもらうことが出来なくなってしまっています。
2026.06.23
コメント(0)
昨日は、助けを求めることは「恥ずかしいこと」ではなく、そのような姿を見せることが「子どもの成長に必要なこと」なんです。「助けを求めることは恥ずかしいことではない」ということを知った子どもは、色々な人とつながり、自分の世界を広げていけるようになるでしょう。ということを書きましたが、今日はその続きです。人類は群れて生活する動物です。これは個人や社会の価値観の問題ではなく、「ヒト」という種の、動物としての人間の特性であり本能でもあります。なぜ群れるのかというと、人間が、群れて生きていないと厳しい自然環境の中では生きていくことが出来ない弱い存在だからです。そして、群れることで言葉やコミュニケーション能力が進化し、また、助け合うことで他者の視点を理解したり、一人では出来ないようなことが出来るようになり、知識や文化や技術を伝承することが出来るようになったのです。マンモスのような巨大な動物を一人で倒すのは困難ですが、知恵を出し合って助け合えば倒すことが出来ます。そして、その知恵はつながりの中で共有したり、そのつながりの場の中で子どもたちに伝えていくことも出来ます。狩りが得意な人は狩りをし、狩りは苦手でも、子どもの相手が得意な人は子どもの相手をし、歌が得意な人は歌を歌い、踊りが得意な人は踊りを踊り、そうやってみんなが助け合い、補い合うことで人類はただ単に生き延びるだけでなく、文化や文明を発展させてきたのです。でも、科学技術が発達し、便利な道具や機械が作り出され、それが人々の生活と意識を変え、それに伴って社会の価値観や形態も変化してくると、人々の生活の場から「自然につながるもの」は取り除かれるようになりました。そして、「自然は危険で汚い」という意識を持つようになりました。オーガニックや無添加は好きなのに自然そのものは苦手なんです。そして、熊やサルが人間の生活圏にちょっと出没しただけで大騒ぎをするようになりました。教室の子ども達も、部屋の中に小さな虫がいただけで「殺して、殺して」と大騒ぎをします。いつのまにか日本人は「自然との共存」が出来ない民族になってしまったのです。ちなみに、インドやネパールでは人間の生活圏の中で、サルも普通に暮らしています。虫も排除できないくらいいっぱいいます。「人間の生活圏の中に虫がいる」のではなく「虫の生活圏の中に人間がいる」というような状態です。網戸なんか見たことがありません。それに対して日本では、高度経済成長の頃から「人間の住むところ」と、「自然や様々な生き物達が住むところ」が分離され始めました。地域の人たちとのつながりも消え、核家族化が進むことで祖父母との日常的なつながりも消えました。子ども達も「自然」や「仲間」から切り離されました。それ以前は、子どもも大人もみんな地域や、祖父母や、人と人のつながりに支えられて生きて来たのですが、経済的に発展することで、お金さえあればそういうものがなくても安全に、便利に、普通に暮らせるようになったからです。子ども達も、それまではつながりの中で群れて遊んでいたのですが、一人でも遊べるような簡単で便利でしかも刺激的で面白いオモチャやゲーム機の登場で、一人で遊ぶようになりました。その結果、「つながりに束縛されずに一人で気ままに遊んでいる方が楽だ」という感性も育ってきました。子どもも大人も一人一人がバラバラになってしまったのですが、それを「他者からの束縛から自由になった」と喜ぶ人もいっぱいいます。そして、他の人とつながろうとしたり、他の人に助けを求めるのは「弱い人」「貧しい人」だと思われるようになってしまったような気がします。その結果、困った人がいても「自己責任でなんとかしろ」と突き放す人が増えてきました。困っている本人も、「自己責任でなんとかしなければいけない」と考えるようになってきました。「子育て」もお母さん一人に押しつけるようになりました。成績が良ければお母さんの手柄になりますが、成績が悪かったり問題行動が多い場合はお母さんの責任になります。だから子どもを追い立てます。でも、成績が良くても悪くても、「追い立てる子育て」では子どもの「人間としての成長」は難しいことになってしまうでしょう。さらに、夫婦の間でも「子育てはおまえの責任だ」とお母さんを突き放すお父さんもいっぱいいます。そういう姿を見て「私は何でこの人と結婚したんだろう」と後悔する人もいます。でも、そんな時代になっても、「子育て」や「子どもの成長」には人と人のつながりが絶対的に必要なんです。なぜなら、「人間として生きていく能力」は、遺伝子には書き込まれていないからです。「人間として生きていく能力」は、産まれてから「人と人のつながり」の中で学ぶように出来ているのです。だから、子どもを人と人のつながりから切り離したら人間としての成長が困難になってしまうのです。人間の言葉も、知識も、知性も、人間性も、「つながりに支えられた群れ」の中で生まれ、育ち、進歩、進化し、受け継がれて現代に至っているのです。ですから、その「つながり」が失われれば、言葉も、知識も、知性も、人間性も退化せざる終えないのです。そして現実に今、それらは退化し始めています。文字の読み書きが出来ない、簡単な算数も出来ない、コミュニケーション能力も低く、人の言葉に耳を傾けることも出来ない、自分の考えや意見を言うことも出来ない、そしてすぐに感情的になって、短絡的な行動をしてしまう子どもたちが増えてきたのです。我が子にそういう状態になって欲しくないのなら、積極的に他の人とつながり、積極的に他の人に助けを求めて下さい。ただし、助けを求められて嫌な顔をするような人、恩着せがましい顔をするような人とはつながらない方がいいですけど。
2026.06.22
コメント(0)
昨日は「親に出来ることはなんなのか」ということを書きましたが、今日はその逆、「親に出来ないことはなんなのか」ということを書いてみます。その両方を知らないと子育てが独りよがりになって、迷子になってしまうからです。まず、親が教育や子育てにどんなに詳しくても、シュタイナー教育やモンテッソーリ教育の教師でも、お母さんやお父さんが「心やからだや魂の成長」に興味を持っていても、「子育て」は困難になります。子育てでは「自分とは異なる人格の人間」を育てているのですから、「困難を伴わない子育て」なんて存在しないのです。そのことは理解しておいた方がいいです。もし皆さんがその様なものを望んでいるのなら、それは幻想です。そして、そのように望むことで、さらに子育てが困難に、そして苦しくなってしまうのです。「子どもを育てる」ということは、「自分と対等の人間を育てる」ということです。お母さんや大人の言うことに従順にしたがう部下や、家来や、奴隷や、ペットを育てているわけではありません。確かに、「お母さんの愛情と、保護と、安心」を必要とする幼いうちは、理解できる範囲、自分で出来る範囲でなら、お母さんの指示に従うかも知れませんが、成長とともに「自我」(一人の人間としての意識)が目覚め始めると、「お母さんの指示」よりも、自分の趣味や興味や感情や仲間の方を優先するようになってきます。そして、お母さんやお父さんの指示や、命令や、保護を拒否するようになります。それは子どもの成長においては正常なことなんですが、「一人だけで頑張っているお母さん」にとっては、子どもがそのような状態になってしまうと何も出来なくなってしまうのです。また、子どもの方も、自分の意思でお母さんやお父さんの保護を離れたのに、お母さんやお父さんの保護がない状態での生き方が分かりません。それで、ゲームの世界に逃げ込んだり、自分と似たような価値観の仲間を見つけて徒党を組んだりするのですが、同じような価値観の仲間とつながっても、世界は広がらないし、子どもの心も、からだも、意識も成長しません。それは、子どもの成長を否定する「ネバーランド」と同じようなものです。ゲームの世界はそのまま「ネバーランド」です。子どもがお母さんやお父さんの保護を否定し始めるのが「思春期」という時期なんですが、思春期になって親の保護から離れた子ども達に必要なのは「自分とは異なる価値観の人とのつながり方」なんです。これが分からないと「社会」という世界の中で、自分らしく生きていくことが出来なくなってしまうからです。昔、子ども達が「子ども達による自主的な群れ」の中で育っていた頃は、「遊び」を共有することで、自分とは異なる価値観の子ども達ともつながることが出来ました。「群れ遊び」の場では、価値観が異なっていても知恵を出し合い、助け合わないと楽しく遊べないからです。男性と女性も価値観が異なりますが、お母さんとお父さんが「家族の幸せ」という目的を共有することで助け合って生活していれば、子どもはそんなお母さんやお父さんの姿を見て「価値観が異なる者がつながることの大切さ」を学ぶことが出来ます。ここで大切なことは「お母さん」と「お父さん」が対等であることです。それは「平等」とは異なるものです。「平等」は与えられるものですが、「対等」はお互いに尊重し合うことで生まれるものです。お母さんが子どもを尊重し、子どももお母さんを尊重しているのなら「お母さん」と「子ども」は対等なんです。でも、子どもとお母さんは役割が違うので平等にはなりません。「お母さんとお父さんが対等になる」ということは、「お母さんとお父さんの仕事の区別」をなくすことではありません。お互いに、相手の価値観や役割を尊重し合うことです。この「対等という関係の体験」「対等な関係の築き方」「対等な関係の他者とのつながり方」などは、お母さんが一人でどんなに頑張っても、子どもに伝えようがないのです。そしてそれを伝えることが出来ないと、子どもがお母さんやお父さんの保護を離れて「社会」という世界に出た後、迷子になってしまうのです。だから、子育ては一人で頑張ってはいけないのです。自分が出来ないときは助けを求めることも必要です。一人では出来ないときには仲間を集めることも必要です。また、つながりによって支えられている大人の中に子どもを預けることも必要です。助けを求めることは「恥ずかしいこと」ではなく、そのような姿を見せることが「子どもの成長に必要なこと」なんです。「助けを求めることは恥ずかしいことではない」ということを知った子どもは、色々な人とつながり、自分の世界を広げていけるようになるでしょう。
2026.06.21
コメント(0)
昨日は、森の幼稚園のような活動は、素敵な森があって仲間がいれば始めるのはそれほど難しくないのですが、でも、それを長く続けたり、森での活動を通してお母さん達の成長や、子ども達の成長を支えようとするなら、シュタイナー教育と同じような難しさが生じて来るのです。ということを書きました。実際、森の幼稚園やシュタイナー幼稚園のような活動を個人で始めるのはほとんど無理です。森があって仲間がいれば「森の幼稚園」を始めることは可能かも知れませんが、それだけでは「子どもが育つ場」を作ることは出来ません。「子どもが育つ場」は、同時に「大人が育つ場」としても機能する必要があるからです。それはつまり「自分育てが出来ない人」、「自分育てに興味がない人」が何人集まっても「子どもが育つ場」を作ることは出来ないということでもあります。シュタイナー教育においては、森の幼稚園よりもそのことがはっきりしています。シュタイナー教育の先生になるためには、子どもについて学んだり、子どもへの教え方を学ぶ以上に、先生自身が人間としてしっかりと成長することを求められているようです。「ようです」としか書けないのは、私自身がその教育を受けていないからです。でも、私はシュタイナー教育の先生を目指している人と何人も出会っています。私の講座に参加してくれる人も多いです。また「ぬらし絵」の先生として活動してる家内も、その活動を始めるために、また維持するために、年がら年中ワークに参加したり、難しい本を読んだりして勉強しています。普通のお母さんがそのような勉強をするのは無理です。お金もかかります。私のワークや講座は安いですが、シュタイナー系のワークや講座はかなり高いみたいです。「じゃあどうしたらいいのか」ということです。「専門的な知識や技術を持っていない普通のお母さんが、日常生活の場で、お金もかけずに子どもの育ちを支えるためにはどうしたらいいのか」「そんなことは可能なのか」ということです。まず、最低限の条件として、子どもの「心とからだと魂の成長」に興味を持つ必要があります。「成長」に興味がない人は「成長」を支えることが出来ないからです。子どもの「心とからだと魂の成長」に興味がないような人は、「自分にとっての理想の子ども像」に子どもを合わせようとしたり、子どもを管理したり、逆に放任したりしてしまいます。でもそれでは、「子どもの成長」を支えることが出来ないのです。だからといって、特別な勉強は必要ありません。興味を持つだけでいいのです。子どもの「心とからだと魂の成長」に興味を持っている人は、子どものことをよく観察しようとします。すると「どうしたらいいのか」は子どもが教えてくれるのです。また、子どもは「大人が意識を向けていること」に意識を向けようとします。「大人が大切にしていること」を大切にしようとします。ですから、大人が「心とからだと魂の成長」に興味を持って子どもを見、子どもと関わっていると、子ども自身も、「自分の心とからだと魂の成長」に意識を向けることが出来るようになるのです。ただし、子どもと大人とでは意識の状態や視点の位置が違いますから、同じような考え方を持つようになるわけではありません。多くの人が、本やネットなどで「どうしたらいいのか」ということを知ろうとしています。でも、本やネットで得られた知識には「子どもを育てる力」はないのです。「我が子の育て方」を知るためには、直接、我が子から学ぶしかないのです。目の前にいる我が子の「心とからだと魂の成長」に興味を持つことで、それが出来るようになるのです。私は、子育てに関する専門的な知識や技術は教えることは出来ませんが。「子ども」と「子どもの世界」の面白さや、「心とからだと魂の成長の不思議」を伝えることは出来ます。
2026.06.20
コメント(0)
昨日は、「創作活動や芸術的な活動は、子どもたちに森に代わるような働きかけをする」ということを書きましたが、でも実際には、これがなかなか難しいのです。「うちの回りにはあまり自然もないし森もないから、子ども達に創作活動や芸術的な活動をさせよう」と思っても、そう簡単には出来ないのです。森には、子ども達の本能を刺激し、「子ども心」をくすぐるような木の実、木の枝、土、水、崖などもいっぱいあるし、また様々な虫たちもいっぱいいます。だから導入しやすいのですが、創作活動や芸術的な活動の場合、最初は「子どもの気を引くようなもの」は何もありません。「自由に絵を描いていいよ」と真っ白な紙を渡されても、絵を描いたことがない子ども達。絵を描く楽しさを知らない子ども達は困惑するばかりです。自由に歌っていいよ、自由に踊っていいよ、自由に創っていいよ、などと言われても何も出来ません。それは大人でも同じですよね。森では子ども達の「見たい」「やりたい」「聞きたい」を引き出すのはそれほど難しくありませんが、自由な創作活動や芸術的な活動においてはその導入がなかなか難しいのです。またそれがシュタイナー教育の難しさにもつながっています。自由を楽しめるようになるためには、最初に不自由の体験が必要になります。不自由を乗り越えることで自由の楽しさを知ることが出来るようになるのです。それは、最初は歩くことが困難な幼い子が、転んでも転んでも立ち上がり、自分の力で歩けるようになることで「歩く楽しさ」を感じることが出来るようになるのと同じです。「シュタイナー教育では自由に遊ばせ、自由に描かせ、自由に創らせてくれる」と思い込んで、我が子をシュタイナー幼稚園に入れる人も多いです。でも、実際にはそうではありません。ちゃんと計算された不自由が与えられるのです。「我が子をシュタイナー幼稚園に通わせるようになってからそのことに気付いた」と言う人も多いです。シュタイナー教育は「自由への教育」であって「自由を与える教育」ではないからです。ただし、森での活動でも、ただ「自由に遊んでいいよ」と放り出すだけだったら「やったー」と喜んで遊ぶのは最初だけです。しばらくすると、どうしていいか分からなくなり、退屈し始めます。するとイジメやケンカも起きます。この場合のケンカは、「意見の違いによるケンカ」ではなく「奪い合いによるケンカ」です。これは力が強い方が勝ちます。「イジメ」は「遊びとしてのイジメ」「仲間作りとしてのイジメ」です。「イジメ遊び」を通して仲間作りをしようとするのです。だから「いじめられている子どもの気持ち」なんか考えません。ハトを追いかけて遊んでいる子どもは「ハトの気持ち」なんか考えないですよね。追えば逃げるのが楽しいのですから。こういう状態になってしまっている森の幼稚園のお母さんから相談を受けることもあります。メールで相談を受けることもあるし、講演会に行ったときにこそっと相談を受けることもあります。このようなことに対する意見の違いから分裂してしまう幼稚園もあります。森の幼稚園のような活動は、素敵な森があって仲間がいれば始めるのはそれほど難しくないのですが、でも、それを長く続けたり、森での活動を通してお母さん達の成長や、子ども達の成長を支えようとするなら、シュタイナー教育と同じような難しさが生じて来るのです。大人達同士の話し合いや、様々な協力も必要になります。「子どもとは」、「人間とは」という学びも必要になります。また、大人自身が森での遊びや活動を楽しむことが出来ることは必須です。そうでないと森で遊んでいる子どもと感情や感覚の共有が出来ないからです。時々「私は泥んこに触りたくないけど、子どもには泥んこ遊びをさせたい」と言う人がいますが、それは無理なんです。これは創作活動や芸術的な活動でも同じです。大人がそのような活動を楽しめないのなら、「そのような活動を楽しむことが出来る子ども」を育てることは出来ないのです。また、そのような活動を通して子どもの成長を支えることも出来ません。だから、「子育て」と「自分育て」はセットになっている必要があるのです。「子どもだけなんとかしよう」と思っても無理なんです。でも、実際には多くの人が「子どもだけ何とかしよう」と思っています。
2026.06.19
コメント(0)
私は夜、運動しながら進化や、縄文や、文明の発生などに関するyoutubeをよく見ています。面白おかしく作ったいい加減なものもありますが、ちゃんとした人が作ったちゃんとしたものもあります。その中で、「人類はなぜアフリカで生まれたのか」ということを扱ったyoutubeを最近見ました。この、学校でも教わった「人類アフリカ起源説」にも、最近は諸説あるみたいで、DNAを解析する技術の進歩で「事実はもっと複雑だったのでは」ということになりつつあるみたいです。でもそれは、「アフリカ起源説が間違っていた」ということではなく、ただ、「それだけじゃなかったんじゃないか」ということです。では、なぜ「アフリカ」が人類の進化のメイン舞台になったのかというと、現生人類が生まれたとされる20~30万年前のヨーロッパは氷に覆われていて進化どころか生存すら困難な環境だったそうです。一方、東アジアは豊かな自然に恵まれていましたが、苦労しなくても食べ物が手に入るほど豊かな環境では進化する必要自体がありませんでした。一方アフリカの自然は東アジアほど豊かではありませんが、工夫次第でなんとかなる状態でした。暑かったでしょうが、生存できないほどの暑さではなかったでしょう。草食、肉食を問わず大型の動物もいっぱいいましたが、体も小さく、力も弱い人類のご先祖様達にはなかなか捕まえることが困難だったでしょう。木の実などもあったでしょうが、乾燥しているアフリカでは、水に恵まれた東アジアほどは簡単に手に入らなかったでしょう。でも人類のご先祖様達は、それらの困難を様々に工夫し、助け合うことで乗り越えてきました。武器や道具も作りました。そうしないと生き延びることが出来なかったからです。進化はその結果だ、ということです。ヨーロッパには、人類以前のご先祖様達にはハードルが高すぎるほど厳しい寒さがあり、東アジアの方は工夫したり助け合ったりする必要がないほど豊かだったのです。でもアフリカには、人類以前のご先祖様たちでも、「工夫すれば乗り越えることが出来る程度の丁度いい困難」があったのです。その微妙な感じの環境圧力が人類の進化を促したのではないか、ということです。そして実は、子どもの成長においても同じ事が言えるのです。お母さんのお腹の中の胎児は、子宮の中で人類の進化を再現しているそうです。「個体発生は系統発生を繰り返す」(ように見える)という説です。じゃあ、オギャーと生まれたら、即、皆さんと同じ状態なのかというとそんなことはないのです。骨の数も、神経系の状態も、右脳と左脳の関係も、呼吸器系の状態も、赤ちゃんと大人とは異なっているのです。7才までの子どもには「歯が抜け替わる能力」が備わっていますが、みなさんにはそんな能力ありませんよね。赤ちゃんは「ヒト」として産まれてきますが、「人間としての進化」は、オギャーと産まれた後から始まるのです。生まれたばかりの赤ちゃんは「人類のご先祖さま」状態なんです。そしてそこから現生人類になるためには、「努力すれば乗り越えることが出来る程度のちょうどいい困難」が必要になるのです。厳しすぎる環境では死んでしまいます。かといって放任状態、過保護状態では成長する必要自体が生じません。管理された生活や、簡単で便利なオモチャや、受動的な遊びに満たされた環境は、子どもの成長を阻害してしまいます。幼い子どもたちの人間としての成長を促すためには、能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動することで乗り越えられる困難と、その困難を乗り越えることでさらに楽しくなるような環境や遊びが必要なんです。ゲームを作る人もそのことは分かっているみたいで、ゲームは困難を乗り越えることで喜びを得ることが出来るように作られています。だから子どもたちははまってしまうのですが、でも、そこで得られる成長は、ゲームの中でしか必要がない成長です。その点、森の中には、子どもの成長にちょうどいい「能動的に行動することで乗り越えられる困難」と「乗り越えることで遊びが楽しくなるような困難」が山のように転がっているのです。また、助け合うことでさらに楽しく遊ぶことも出来ます。知らない世界、美しい世界と出会うことも出来るし、子どもの感覚に働きかける様々な刺激にも満たされています。じゃあ、「森がない環境で子育てをするためにはどうしたらいいのか」ということですが、森がないような環境で子育てをする場合は「森に代わるような環境や働きかけ」を子どもに与えてあげる必要があるのです。それは、「能動的に行動することで乗り越えられる困難」と、「困難を乗り越えることで遊びが楽しくなったり、新しい発見や学びがあるような体験」と、「命の不思議を感じることが出来るような不思議な世界や美しい世界との出会い」などです。そして、様々な創作活動や芸術的な活動にはそのような要素が含まれているのです。創作活動や芸術的な活動は、子どもたちに「森に代わるような働きかけ」をすることが出来るのです。人間としての基礎を育てるべき幼いうちに、「子どもの成長には必要がないような知識」を覚えるだけの勉強をさせてしまうと、子どもの「人間としての成長」が阻害されてしまう可能性が高いのです。
2026.06.18
コメント(0)
私は「森の幼稚園」関係者からもよく呼ばれて講演やワークをしていますが、同時に「シュタイナー幼稚園」関係者からも呼ばれて講演やワークをすることも多いです。「森の幼稚園」はもちろん自然の中での活動がメインです。それに対して「シュタイナー幼稚園」は、屋外で活動することもあるでしょうがメインは室内です。実際、グーグルで「シュタイナー幼稚園」と検索すると室内の写真の方が圧倒的に多く出てきます。どうしてそのような違いがあるのかというと、それぞれの教育方法の発生における背景が異なっているからです。「森の幼稚園」はデンマークやフィンランドの、生活の周辺に森があるところでのお母さん達の活動として生まれたそうです。それに対して、シュタイナー教育はシュトゥットガルトという大きな都会に住んでいる「タバコ工場労働者の子どもたち」のための教育方法として生まれたそうです。対象とする子どもの生活環境が正反対なんです。(青山学院大学のHPの以下のサイトを参考にさせて頂きました。)「現代の幼児教育から見たドイツの森の幼稚園」 じゃあ、両者は全然違うのかというとそれが意外にも似ているのです。指導している人たちの感覚や感性も似ています。実際、森の幼稚園関係者の家に行くとシュタイナー教育関係の本やシュタイナー教育で作るような様々な手仕事の作品が普通に置いてあったりします。以前呼ばれていった森の幼稚園を主宰していたのはシュタイナー教育のオイリュトミストでした。また、森の幼稚園のお母さん達とシュタイナー幼稚園のお母さん達に同じようなことを話しても話が通じます。上に紹介したサイトに書かれていたことですが、森の幼稚園とシュタイナー幼稚園では、以下の四つの点が同じように大切にされているそうです。〇動きの空間〇言葉の空間〇ファンタジーの空間〇原初体験の空間の四つです。(Hardorpの分析による)詳しいことは、直接このサイトを見て欲しいのですが、これらは私がいつも「子どもの育ちにおいて必要なこと」「子育てにおいて大切なこと」として書いたり、言ったりしていることでもあります。「原初体験の空間」という言葉は分かりにくいですが、これは私がいつも書いている「心の原風景を育てる」ということでもあります。「森の幼稚園」という活動を始めた人たちが大切にして来たのは、ただ単に「森の中で子ども達を自由に遊ばせる」ということだけではないのです。森の中に子ども達を放り出すだけでは「動きの空間」以外の三つの要素が満たされないからです。「言葉の空間」「ファンタジーの空間」「原初体験の空間」が満たされるためには「仲間とのつながり」そして「そのような活動の大切さを知っている大人とのつながり」が絶対に必要なんです。ですから、森での活動がメインの森の幼稚園でも、子ども達を森の中で自由に遊ばせるだけでなく、大人達も、仲間として、先輩として、導き手として、守り手として子ども達としっかり関わる必要があるのです。それは子どもを監視、管理、指導するためではなく、子どもたちに安心と、自由と、可能性と、新しい世界との出会いを与えるためにです。そして、そういうことをちゃんとやっている「森の幼稚園」もあります。また、森がないような場所で子育てをしている人でも、〇動きの空間〇言葉の空間〇ファンタジーの空間〇原初体験の空間というようなことを大切に活動することが出来るのなら、森がなくても子どもの心とからだ、そして人間性や魂を育てることが出来るのです。でも、そのためには自由に活動できる場所、自由な時間、そして、(大人にとっても子どもにとっても)感覚や感情を共有することが出来る仲間、物語を伝えてくれる大人、様々な感覚刺激を通して物語を生み出すことが出来るような多様な環境が必要になるのですけどね。
2026.06.17
コメント(0)
子どもを自然や森の中で自由に遊ばせるだけでは、「子どもの人間としての成長を支える力にはならない」ということは、昔の子ども達のことを考えればすぐ分かることです。昔の子どもたちは「よっぽど偉い人の子どもや特別な環境で育った子」以外は、ほぼ100%自然や森の中で遊んで育っていたはずです。それでも、善人になった子もいれば悪人になった子も、賢い大人になった子もそうでない子も、優しい大人になった子もそうでない子もいっぱいいました。それは歴史が示す確実な事実です。また、世界には生活空間の中に日本のような自然や森がないような場所で生まれ育っている子もいっぱいいます。砂漠ばかり、岩山ばかりで育っている子もいっぱいいます。ヨーロッパは探せば自然も森もあるかも知れませんが、子どもが歩いて行くことが出来る生活空間の中にあるとは限りません。昔も今も、大きな都市に住んでいる子の生活空間の中にあるのは石ばかりでしょう。私は45年前、三ヶ月ほどスペインのマドリッドにいましたが、緑がなくて苦しくなりました。その後、アリカンテのOlla de alteaと言うところに三ヶ月いました。そこは田舎だったのでマドリッドよりは緑がありましたが、日本にあるような森はありませんでした。海(地中海)は目の前でしたけど。イエス・キリストが生まれ育ったベツレヘムやイスラエルも、砂や岩が多い乾燥した土地です。2月に行ったネパールでも日本のような森は見かけませんでした。自然自体はどこにでもいっぱいあるのですが、日本人が考えるような自然や森があるところは少ないのです。それでも、善人になる子もいれば悪人になる子も、賢い大人になる子もそうでない子も、優しい大人になる子もそうでない子もいます。自然や森は人間が子育てをするときのパートナーとしては強力ですが、代わりに子育てをしてくれるわけではないのです。そこは勘違いしない方がいいです。子どもを自然や森の中で遊ばせること自体に意味があるのではなく、「自然や森とどのような関わり方をして、その関わりから何を学ぶのか」ということが大切なんです。砂漠で暮らしている子は、「砂漠とどのような関わり方をして、その関わりから何を学ぶのか」ということが大切なんです。海辺で暮らしている子は「海とどのような関わり方をして、その関わりから何を学ぶのか」ということが大切なんです。それは自然や森がない都市の中で暮らしている子どもも同じです。「自分が住んでいる環境にあるものとどのような関わり方をして、その関わりから何を学ぶのか」ということが大切なんです。そしてそのような気付きと学びが発生するためには、そのようなことに意識を向けてくれる大人との関わり合いが必要になるのです。それはセンス・オブ・ワンダーを書いたレイチェル・カーソンと彼女の甥との関係に似ています。どんなに近代的な都会の中に住み、自然から離れた生活をしていても、食卓に並んでいるのは「自然からやって来たもの」です。家や町を作っている材料も「自然からやって来たもの」です。水も同じです。スーパーに行けば世界中からやって来たものが並んでいます。家を出れば風が吹き、上を見上げれば太陽や雲や青空が見えます。それは古代の人が感じた風や、見た太陽や、青空と同じものです。夜空を見上げれば「宇宙」が見えます。皆さんが星とともに見ているのは宇宙なんです。でも、そういうことに気付くためには、それらの物語を語ってくれる大人が必要になるのです。昨日孫と歩いていたら小雨が降ってきました。それで私は、「この雨の水は海からやってきたんだよ」と言いました。「水の物語」です。そんなこと言っても通じないでしょうが、でも、日常的にそのような会話が繰り返されることで子どもの意識が変わっていくのです。また、家の中の状態や、生活や、遊びを工夫することでも子どもは多くのことに気付き、学ぶことが出来ます。そのポイントの一つは「便利なオモチャは与えない」ということです。「自然」の大きな特徴の一つは不便だと言うことです。森で遊ぶのも不便です。でも、物語を楽しむ能力が育っている子は、その物語に合わせてそこにあるものを活用して遊ぶことが出来るのです。砂場の砂を投げて遊ぶ子もいますが、それで山や、家や、ケーキや、動物を作って遊ぶ子もいます。でも、そのような遊びが可能になるためには「物語で遊ぶ能力」が必要になるのです。あと「お手伝い」も大切です。お手伝いは「家族の物語」を子どもに伝えることが出来ます。子どもとお話をいっぱいしたり、物語や絵本を読んであげることも必要です。
2026.06.16
コメント(0)
「森」が生活圏にあるなら「森から、子どもの成長を支える何を引き出せるか」を考えた方がいいと思います。その方が自然だし、その土地に暮らして来た人たちの感覚や、感性や、生き方や、文化を引き継ぐことにもつながります。そして日本人は、縄文の古代から、豊かな自然や森とともに生きてきました。そんな日本人の感覚や、感性や、考え方や、生き方や、文化や、言葉は、自然や森と密接につながっています。そういうことは、日本から出たことがない人、日本のことしか知らない人には分からないことですが、こんなにも豊かな自然、豊かな森に満たされた国は世界でも珍しいのです。そしてそれが、日本人の「世界でも珍しい感性」につながっているのです。でも、その豊かな自然、豊かな森も近代化とともに破壊されて来ました。それでもまだ日本には自然も森もいっぱいありますが、人々は自然や森から離れたところに居住区を作り、人工的に作られたインフラの中で、人工物に囲まれて生活するようになりました。その方が安全だし、便利だからです。今では近くに自然も森もないようなところで子育てをしている人がいっぱいいます。というかそういう人の方が多いのではないでしょうか。子どもを連れて歩いて行ける範囲に、豊かな自然や森がある環境で子育てをしている人は非常にラッキーです。そのような人は積極的に自然や森と関わり、自然や森から様々なことを学ぶような活動をした方がいいです。そうでないともったいないですから。でも、今の日本にはそんなラッキーな人は本当に少ないのです。また、自然や森が近くにないようなところで育った子ども達は自然や森の中での遊び方を知りません。だからケガをする可能性も高いです。それどころか、自然や、森や、そこに住む様々な生き物たちを怖がるので自然がいっぱいの所に行くこと自体を嫌がったりもします。また、大人達も子どもたちを、遊び方も遊ばせ方も分からない、危険でばい菌がいっぱいの自然や森の中で子どもを遊ばせることを避けるようになりました。町の中の公園の方が安全だし、目も届くし、子どもも遊び方が分かるので喜びます。でも、今でも子どもを自然や森の中で遊ばせたい。自然や森と触れ合うような遊びをさせたいと思っている人もいっぱいいます。私の所にはそのような人からも相談が来ます。千葉の埋め立て地で活動している人たちから相談を受けて遊びの活動をしていたこともありますが、本当に自然な自然がないのです。公園には草木が生えていますが、キレイに管理されています。当然、木登りすら禁止です。逆に、山梨の、森ばかりでいっぱい自然があると思われるような所に住んでいる人から相談を受け、活動していたこともあります。行ってみたら確かに森はあるのですが、それは子どもが入って遊べるような森ではないのです。ヨーロッパの森は平地だし、下草も少なく、光も差し込んで、子ども達が入って遊ぶのにそれほど苦労しないような状態ですが、日本の森は地面がデコボコして、さらにツタや背の高い雑草や笹類に覆い被され、子どもだったら1mも入ることが困難です。また、木々が覆い被さるように密集しているので中は暗いです。ヨーロッパの森には妖精が住んでいますが、日本の森には妖怪が住んでいます。赤ずきんちゃんはヨーロッパの森の中は歩けても、日本の森の中は歩けないのです。そんな違いがあるのです。さらに、最近はクマの問題もあります。また、自然や森がいっぱいあるような地域では、友達の家も遠いのでそう簡単に群れて遊ぶことも出来ません。過疎化が進んでいるような地域ではさらに森は荒れ、子どもも少なくなっているので、田舎に住んでいる子の方が、都会で暮らしている子ども達よりも「家の中でゲームをやって過ごす時間」が長いという調査もあります。人々がまだ森や自然とともに生きていた頃は、そんな密集した森と、人間が住んでいる地域との間に、子どもが入って遊ぶことが出来るような「里山」がありました。それが童謡「ふるさと」に歌われているような山や川です。でも、いまではそれも消えてしまいました。私が生まれ育った家は鎌倉の材木座という所にあり、庭の続きに山があったので庭からダイレクトに山に登れました。そして、私が子どもの頃は子どもたちがいっぱい山で遊んでいました。だから、山の中に道も出来ていたし、安全に遊べるような状態にもなっていました。山で遊んでいた子どもが「通らせて下さい」とうちの庭を抜けて帰っていくこともありました。でも次第に子どもたちは山で遊ばなくなりました。それと同時に山が荒れ始め、道は消え、崖みたいな場所が増え、子どもが簡単にそして安全に遊べるような場所ではなくなってしまいました。多分、同じようなことが日本中で起きていたのではないかと思います。じゃあどうしたらいいのか、ということです。<明日に続きます>
2026.06.15
コメント(0)
ヒトが人間に成長するために必要な絶対条件は「人と人のつながり」です。「森」も「自然」も絶対条件ではありません。確かに毎日、自然の中、森の中で遊んでいたりしたら、生き生きと健康で元気な子に育つかも知れません。それはそれで非常に大切なことです。でも、自然や森の中で遊んで学べるのは、「自然や森の中での遊び方」だけです。遊んでいるだけでは「自然や森の意味」「人間と自然や森の関係」「自然や森の大切さ」は学べないのです。それらを学ぶためには「自然や森の物語」を伝えてくれる大人が必要になるからです。実際、豊かな自然に恵まれた土地に暮らしている人が、自分が住んでいる所の「豊かな自然」の価値に気づかず、大きな工場やスーパーがやって来ると喜んで、田んぼを埋め、森を崩してしまいます。田舎の方に行くと、何でもかんでも川に流したり、プラスチックでも何でも河原に持ち出して燃やしてしまう人も多くいると聞きます。自然豊かなネパールも人が住んでいるところはゴミだらけでした。学生時代の友人に、宮崎県の高千穂の日之影村という自然豊かな、というより、自然しかないような所から来た子がいて、その子の家に遊びに行ったことがあります。行った時、何人か友達を呼んでくれたのですが、みんな「こんな田舎を出て都会に行きたい」と言っていました。自然や森の中で遊んだからと言って、それだけでは自然や森の価値や素晴らしさに気づくようにはならないのです。実際、高度経済成長の時代に自然を大量破壊していたのは、子どもの頃に自然の中で遊んだ人たちだったのですから。田舎の方で「自然を守ろう」という運動をしているのは、田舎にあこがれて都会からやって来た人が多いという話も聞きます。観光で都会から田舎に来た人はみんな「自然がいっぱいで素晴らしいですね」と言いますが、現地の人の多くはそうは思っていないという話もよく聞きます。また、子ども子どもはやがて、自然や森に囲まれた世界から、大人が作った人工的な社会の中に出て行き、人工的な環境の中で人間や物や機械を相手に働き、生きて行かなければなりません。そのような時に、「自然の中での遊び方」に詳しいだけでは、生きていくことに困難を感じてしまう可能性があります。「森」で遊ぶことが、子どもの心とからだの成長に良い形で大きな影響を与えるためには、ただ森の中で遊ぶだけではなく、その遊びを通して大人から「森の物語」を語ってもらう必要があるのです。それは「ドングリの意味」「土の下に住む無数の命の意味」「雨の意味」「お日様の光の意味」「食べて食べられるという命の循環の意味」「土の意味」「大地の意味」「森の意味」「人類と森の関係」、そして「人間の生活と森の関係」などなどです。そういうことが分かってくると、物事を「つながり」の中で見て、「つながり」の中で考えることが出来るようになります。すると、大人が作った人工的な社会の中に出て、人工的な環境の中で人間や物や機械を相手に働くようになっても、それらに振り回されずに、「自分の位置」や「自分の価値」を見失わないでいることが出来るようになるのです。また、学校での学びにつながるような知的な好奇心を刺激するきっかけにもなります。それに、世界にはそもそも「森」が存在していない国や地域もいっぱいあります。私は若い頃スペインに半年いましたが、日本に普通にあるような「森」は見たことがありません。都会は基本的に石ばかりです。公園には木も植えられていますが、森という状態ではありません。アフリカのモロッコは砂と石ばかりでした。平均標高が3500mというラダックにはそもそも自然な木が生えていません。生えているのはみんな人間が植林したものだそうです。それでも、自分が生まれ育った土地の物語を受ぐことが出来た子は生き生きと元気に育つことが出来るのです。
2026.06.14
コメント(0)
「椅子」というものを知っていても、「椅子」を頭の中で想像することが出来ない人は「椅子」を創ることが出来ません。この場合の「想像する」ということは、「頭の中で椅子を自由に回転させることが出来る」ということです。「なんとなくこんな感じ」という想像ではありません。なんとなく知っているだけでは「実物」は創れないのです。今、多くの子どもたちがこの「なんとなく知っている」という状態です。色々なことをいっぱい知っているのですが、そのほとんど全てが「なんとなく」なんです。だから、いっぱい知っているのに何も出来ないのです。文字で読んだだけ、映像で見ただけでは「なんとなく」以上は決して分からないのです。カブトムシのことを知っていても、カブトムシを頭の中で想像することが出来ない子は粘土を使ってカブトムシを創ることが出来ません。でも、カブトムシが大好きで、野山でいつも見つけ、飼って、カブトムシといつも遊んでいるような子は、カブトムシを自由に頭の中で回転させることが出来ます。ですから、実物を見なくてもカブトムシの絵が描けたり粘土で作ったりすることが出来ます。毎日動画でカブトムシを見ていても、映像として記憶されたカブトムシは頭の中で自由に回転させることが出来ないのです。映像は二次元ですが、実物は三次元や四次元ですからね。これは何でも同じで、「民主主義」のことを知っていても、「民主主義」を頭の中で想像出来ない人は民主主義を創り出すことが出来ません。民主主義が狂ってきても、狂っていることに気づきません。皆さんは「百合の花」は見たことがありますよね。でも、「百合の中を見ないで百合の絵を描いて下さい」と言われてちゃんと描けますか。そもそも、百合の花って花びらが何枚だか知っていますか。一見6枚に見えますが、実は3枚だそうです。手前の三角形を作っている3枚が花びらで、後の三角形の三枚がつぼみを包んでいたガクだそうです。面白いのは、毎日見てよく知っているはずの「我が子の顔」も、なかなか描けないものです。実際、「自分の子どもの顔を描いて下さい」というワークをしても、「なんとなくこんな感じ」程度にしか描けない人の方が多いのです。皆さんは描けますか。そもそも「自分の顔」は描けますか。じゃあ、どうしたら頭の中で想像できるようになるのかというと「構造」をちゃんと理解することです。「百合の花は三枚が三角形になっていて、その後ろにガクが同じように三角形の形で重なっている」という構造が理解できれば、百合の花を想像しやすくなりますよね。すると絵も描きやすくなりますよね。そしてその「構造」はそのまま「物語」でもあるのです。百合の花では手前の三角形を作っている三枚が花びらで、後の三角形の三枚がつぼみを包んでいたガクだということをお話ししました。ですから、手前の三枚はガクとしての後ろの三枚に守られて大きくなり、花びらが開く時に、ガクも後ろに開いているのです。構造を知ると見方も変わりますでしょ。椅子の様々な構造や形は単なる飾りやデザインではありません。ちゃんと意味があるのです。「意味がある」ということは「物語とつながっている」ということでもあります。椅子の形には、座り心地だけでなく丈夫さや、家に置いた時の映えも考慮されています。丈夫さはその人の体重や体の使い方とも関係しています。その椅子を使う人の物語の一部として椅子の形があるのです。子ども用の椅子は子どもの様々な動きや活動を想像して作られています。そしてそれを知るためには「子どもとはどういうことをする生き物であるか」ということを体験的に知っている必要があります。だから、子ども用の椅子の構造を見ると、「これは子どものこういう活動を想定して作られたんだな」という事が分かってくるのです。「構造を理解する」ということは、「そのものが生まれてきた物語」を知るということでもあるのです。「宇宙の構造を知る」ということは「宇宙が生まれてきた物語を知る」ことでもあるのです。私はそういうことを知るのが「学ぶ」ということの本当に意味なのではないかと思っています。
2026.06.13
コメント(0)
昔の人は日本橋(東京)から京都まで、ほぼ二週間かけて歩いたそうです。そこで生まれたのが、江戸時代の戯作者・十返舎一九による「東海道中膝栗毛」です。『東海道中膝栗毛』は、江戸時代の戯作者・十返舎一九が書いた滑稽本(こっけいぼん)です。お調子者の「弥次さん(弥次郎兵衛)」と「喜多さん(喜多八)」のコンビが、珍道中を繰り広げながら伊勢参りと京都・大坂を目指す、江戸時代に大ヒットした爆笑ロードムービー的小説皆さんは「西遊記」という物語を知っていますよね。孫悟空が大暴れするあの話です。その孫悟空が守り、従ったのは玄奘という実在したお坊さんです。その人が、いわゆる「三蔵法師」です。三蔵法師は、17年という歳月をかけて唐からインドまで経典を取りに行ったのですが、その時のことが「大唐西域記」という本に書かれています。そしてその話に、色々と尾ひれがつき、空想で膨らまされたのが、皆さんご存じの「孫悟空」の話です。AIによる概要当然のことですが、昔の人は自分の足で歩いて旅をしたのです。だから、旅の記録がそのまま物語になったのです。でも、弥次さんと喜多さんが、新幹線のような簡単で便利な機械を使ったら「東海道中膝栗毛」のような物語は生まれなかったはずです。三蔵法師が飛行機でインドまで行っていたら「大唐西域記」という本も書かれなかったでしょうし、孫悟空というヒーローも生まれなかったはずです。私はこの2月に二週間ほどネパールに行ってきたのですが、飛行機や新幹線という便利な機械が無い時代だったら、その「ネパールの旅」は家から出たところから始まったのでしょうが、私のネパールの旅は、ネパールのカトマンズの空港に着いてから始まりました。道中の飛行機の中ではビデオを見たり、機内食を食べたり、寝たりしていただけです。そこに「ネパールにつながるような物語」はありません。実際、これらはネパールに行くときだけでなく、パリに行くときも、アメリカに行くときも、アフリカに行くときも同じです。カトマンズに着いてからの旅は、「簡単便利」とはほど遠いものでした。日本だったら確実におまわりさんに捕まるような定員オーバー状態で車に詰め込まれ、「落ちたら即死」というような高い崖の脇の、大きな石がごろごろしているような無舗装の道路をガタガタ走って村から村へと回っていました。ですから、日本からカトマンズまでは物語がなかったのですが、ネパールに着いてからはちょっと移動するだけで物語がいっぱい生まれました。その物語が、私のネパールの記憶を生き生きとしたものにしてくれています。色々な人と出会い、色々な体験もいっぱいしました。そして、生き生きと覚えているのは「簡単で便利な体験」ではなく、「苦労した体験」と、その苦労とセットになった「喜びの体験」ばかりです。また、「自分で感じ、考え、行動したこと」は覚えていますが、「指示通りに動いただけのこと」は覚えていません。覚えていても、物語の中での重要な話にはなりません。そして急に話は飛びますが、これは勉強でも同じなんです。「解き方」を教わって、その通りに解いても記憶には残りません。でも、「解き方」から自分で考え、あれこれ試行錯誤した結果答えにたどり着いた場合は、その結果が物語とつながっているので過程も結果も記憶に残りやすいのです。学びにおいては、「答えを覚えること」以上に、「答えにたどり着くまでの物語の体験」が大切なんです。それがあるから理解が深まり、応用力も育つのです。そんなことしていたら、解き方を教わって解くよりも遙かに時間も労力もかかります。悩んだり苦しんだりもするでしょう。だから、そんなことをする人は少ないです。でも、だからこそ深く理解することが出来るし、深く記憶にも残るのです。また、その試行錯誤の過程で、「解き方を自分で発見する能力」も育ちます。この能力は、子どもが大きくなればなるほど価値を持ってくる能力です。仕事をする場合でも、子育てでも役に立つ能力です。正解を覚えるだけの学習で得た知識は、正解がない世界では何の役にも立たないのです。むしろ有害ですらあります。でも実際には、最近の子は「正解を覚えるだけの学習」ばかりやらされています。だからいっぱい知識は知っています。でも、その知識は子ども自身の物語とつながっていません。だから理解できません。だから知っていても使えません。子どもを育ちを支える力もありません。ただ試験やクイズの時に役に立つだけです。子育てでも、毎日泣いたり、笑ったり、怒ったりしながら子どもと一緒の生活を楽しんでいる人は、その毎日がそのまま物語として、子どもとお母さんの心とからだの中に残っていきます。だから、苦しいこと、悲しいことがあっても耐えられるし、子どもを信じて待つことも出来るのです。でも今、簡単で便利なインフラに依存することでその「子どもとの物語」を失ってしまっている人がいっぱいいます。子どももまた「お母さんとの物語」「家族の物語」を作れなくなってしまっています。ゲームに依存すれば「仲間との物語」や「遊びの記憶」が作れなくなります。
2026.06.12
コメント(0)
「物語」という言葉の意味を理解するために、最初ちょっと「言葉」についての話をさせていただきます。というか、「言葉」そのものがもうすでに「物語」を含んでいるということです。私の気質の講座でよくやるワークで「〝幸せ〟と〝Happy〟の違いを体験してみよう」というものがあります。一般的には〝幸せ〟を英訳すれば〝Happy〟になって、〝Happy〟を和訳すれば〝幸せ〟になりますよね。それはつまり「〝幸せ〟=〝Happy〟」といういうことになるのでしょうが、では本当に、「〝幸せ〟と〝Happy〟は同じものなのか」ということを確認してみようということです。具体的にどういうことをするのかというと、この二つの言葉を「しぐさ化」してみるのです。「しぐさ」を入れながら〝幸せ〟と言ったり、〝Happy〟と言ったりするのです。すると地域差はありますが90%ぐらいの人は〝幸せ〟と言うとき、何かを抱くようなしぐさをします。〝Happy〟の方では、ほとんどの人がその逆に腕を上に上げ、広げるような仕草をします。ですから〝しぐさ〟という視点では、正反対の動きになってしまうのです。ただし、多血質が強い人の場合は〝幸せ〟と〝Happy〟が同じ仕草になることが多いです。大阪でこのワークをしたとき、〝幸せ〟と言いながら両腕を上げる仕草をした人が多かったです。このように「言葉」というものには、「その言葉を受け継いできた人たちの感覚や心の物語」も含まれているため、本来「翻訳不可能」なものなんです。「客観的な情報」は翻訳可能ですが、「感覚や心に関係するようなこと」は翻訳できないのです。「フワフワ」「モクモク」「ヒラヒラ」といった「オノマトペ」も翻訳不可能です。オノマトペは「日本語」を母語とする人が様々な自然現象と出会ったときに、心の中に自然に生まれてくる感覚を日本語の音で表現したものだからです。それはニワトリの鳴き声が「コケコッコー」という日本語にしか聞こえないのと同じです。R.シュタイナーの言葉も日本語に翻訳した時点で、R.シュタイナーの考えていたことではなくなってしまうのです。時代や文化的な違いも、言葉の解釈に大きな影響を与えています。ですから、R.シュタイナーの言葉を、日本人や現代人の感覚で「正解」として理解してしまうとおかしなことになってしまうのです。だから私はR.シュタイナーの言葉を「正解」(ゴール)ではなく「方向性を示すもの」として解釈しています。前置きが長くなりましたが、そして実は、「物語」という言葉もまた英語には翻訳出来ない言葉なんです。一般的には「物語」という言葉は「Story」とか「Tale」というような言葉に翻訳されますよね。そして、多くの現代人もそのように思い込んでいます。でも、言葉の語源をたどっていくと「物語」と「Story」とか「Tale」は全く異なった意味を持っているのです。「story」の語源は以下のようなもののようです。「story」の語源は、ギリシャ語で「調査によって得られた知識」や「探求」を意味する「historia」です。この言葉がラテン語を経て、中世フランス語の「estoire(物語)」となり、英語に伝わって「story」という形になりました。Historyとの関係: 実は「history(歴史)」と「story(物語)」は同じ語源から枝分かれした親戚同士の言葉です。ラテン語の「historia」をルーツに持ち、かつてはどちらも「物語」と「歴史」の両方の意味を含んでいました。英語において、より学術的な意味合いを持つものが「history」として残り、日常的な話や物語が「story」として分離したとされています。AI による概要「Tale」に関しては以下のようなもののようです。「tale(物語・話)」は、古英語で「話」や「計算」を意味する「talu」に由来します。この語源から派生して、人が出来事を順序立てて語る「お話」や「昔話」という意味として現代まで使われるようになりました。AI による概要日本語における「物語」という言葉にも、「story」や「Tale」のような意味も含まれていますが、その語源をたどると全く違った姿が見えてきます。漢文学者・白川静によると「ものがたり」の「もの」は「もののけ」の「もの」と同じものだというのです。それは「この世ならざるもの」ということです。そして「もの」は「物」ではなく「鬼」とも表記したようです。「鬼」と書いて「もの」と読んだのです。ただしこの「鬼」も私たちが知っている頭に角が生えた鬼のことではありません。「この世ならざるもの」のことです。その「この世ならざるもの」から聞いた話が「ものがたり」だということです。そういう点では「ファンタジー」と呼ばれるものに近いのではないかと思います。私もそういう感じで「ものがたり」という言葉を使っています。漢文学者・白川静の文字学において、「鬼」は本来、恐ろしい怪物ではなく「死者の魂」を意味していました。また、「もの」は「もののけ(物の怪)」や、怪異な現象・存在(神や霊)を指し、白川学ではこれらは密接に関わっていると読み解かれています。AI による概要「物知り」という言葉は、「知識をいっぱい持っている人」のことではなく、「もののけ(物の怪)や、怪異な現象・存在(神や霊)のことについて詳しい人」のことを指したようです。ですから、本来「物語」は「頭で創り出すもの」ではなく、様々な「自然の不思議」と出会った時に、「自然と心の中に生まれてくるもの」なんです。風の音や鳥の声に耳を澄ましたり、空の雲に心をあずけたり、岩や大きな木と向き合ったり、夜の闇に恐れを感じたときなどに、心の中に自然に生まれてくるものが「物語」だということです。だから、子ども達は「物語」が大好きだし、物語を聞くことで「自然」とつながり、自分の世界を広げることも出来るのです。ファンタジーと呼ばれるものにも似たような働きがあります。
2026.06.11
コメント(0)
「自然」は物語の宝庫です。土も、石も、葉っぱも、木の実も、木も、小川も、虫も、崖も、泥んこも、高いところ低いところも、明るいところ暗いところも、無限の「物語」を引き出してくれます。「神話」も、「昔話」も、「科学」も、その「自然」から引き出された物語の一つです。一見、「自然」と「科学」は関係がないように感じるかも知れませんが、「科学」は「自然」を解釈するための一つの方法として生まれたものです。そういう点では「神話」と同じなんです。ですから、「自然」と出会うことなく育っている子どもは、本質的なところで「科学」が理解できないのです。でも、誰もが「自然」から「物語」を引き出せるわけではありません。そこで必要になるのがレイチェル・カーソンが言うところの「センス・オブ・ワンダー」という感性なんです。この「センス・オブ・ワンダー」という感性を持っている子にとっては、世界は不思議で、豊かで、面白くて、不思議なものです。でも、この感性を持っていない子にとっては単なる「物」の集まりに過ぎません。草や木や虫や動物を見ても「命あるもの」としてではなく「物」としてしか見ることが出来ません。そして、この世界を「物」としてしか見ることが出来ない感性の子や大人は、「物」を「お金」に換算してその意味を理解しようとします。野に咲くタンポポよりも、花屋さんで売っているお花の方が価値が高いと考えるのです。幼い子ども達は大人達よりも「センス・オブ・ワンダー」という感性において優れています。ですから「野に咲く花よりも花屋さんで売っているお花の方が価値がある」などとは考えません。でも、大人がその感性にちゃんと応えようとしなければ、成長とともにその感性は自然消滅してしまいます。「センス・オブ・ワンダー」が育つためには、「それを大切なこととして考え、子どもとそれを共有し、さらに深いレベルのセンス・オブ・ワンダーへの気づきを促してくれる大人」との関わりが必要になるのです。幼い子どもが感じている「センス・オブ・ワンダー」は入り口に立って中をのぞいたときに感じるレベルのものです。でも、その入り口から中に入ってさらに豊かで大きな「センス・オブ・ワンダー」と出会うためにはガイド役としての大人の付き添いが必要になるのです。そのガイドがいないと、やがてその入り口が閉じてしまうのです。実際、多くの大人が、その「センス・オブ・ワンダー」への入り口が閉じてしまった世界に生きています。「見る能力を持っている」ということと「ちゃんと見ることが出来る」ということは別物です。「聞く能力」を持っているからちゃんと聴くことが出来るわけでも、「話す能力」があるから「ちゃんと話せる」わけでも、「考える能力」があるから「ちゃんと考えることが出来る」というわけでもありません。「ちゃんと見」「ちゃんと聴き」「ちゃんと話し」「ちゃんと考える」ことが出来るようになるためには「学習」が必要だということです。そしてそれらの能力は、「それが出来る大人」から受け継ぐしかないのです。声を発する能力は生まれつきですが、その声を使って言葉を話せるようになるためには、「言葉を話せる人」から「言葉」を受け継ぐ必要があります。まただから日本語を話すお母さんに育てられた子は日本語を話すようになり、英語を話すお母さんに育てられた子は英語を話すようになるのです。「センス・オブ・ワンダー」という感性もまた同じなんです。「なんで?」「どうして?」などと子どもが何か聞いても、「そんなの当たり前でしょ」「くだらないこと聞くんじゃありません」と答えていたら子どもの「センス・オブ・ワンダー」は育たないのです。子どもが花の前、虫の前、石の前、水たまりの前で立ち止まっているときに「早くしなさい、置いていくよ」と子どもを追い立てていたら「センス・オブ・ワンダー」は育ちません。子どもが、「風の音」や「鳥の声」に聞き耳を立てていたり、風に揺れる草木や木々に見とれているときに「なに、ボーッとしているの、速く歩きなさい」と追い立てていたら「センス・オブ・ワンダー」は育ちません。そのように育てられた子にとっては、この世界は物だけで出来ていてその価値を決めているのはお金だけです。「自分の価値」も「お金」でしか計ることが出来なくなってしまいます。「命を大切にする」という意味も理解できなくなります。
2026.06.10
コメント(0)
大分以前にうちの教室に来ていた子が、幼稚園から小学校に上がった時のことです。ある日お母さんに、「学校の校庭は狭くて遊べない」と言ったというのです。でも、その子が出た幼稚園の園庭が広かったわけではありません。その園は、自宅を改造して作った幼稚園なので、他の幼稚園に比べても園庭は狭い方なのです。それなのにその子は「学校の校庭より幼稚園の園庭の方が広かった」というのです。大人には理解出来ない言葉ですが、ここに子どもの心の不思議があります。そして、子どもとの遊びを考えるヒントがあるのです。実は、7才前の子ども達は「物の世界」で遊んでいるのではないのです。子ども達は「心の世界」の中で遊んでいるのです。そして、「心の中の世界」は「物語」によって作られています。それは「ごっこ遊び」でも、「お砂場遊び」でも、「積み木遊び」でも同じです。大人の目には「小さな砂山」でも、子どもの心の中では「大きな山」である可能性もあるのです。また、心の中で遊んでいるので、木を積むだけの遊びが楽しいのです。また一つの積み木がロボットになったり自動車になったりすることが出来るのです。でも、大人達は物理的な世界しか見えないので、子どもの遊びを見ていても何をしているのか分からないし、子どもと一緒に遊ぶことも、喜びを共有することも出来ないのです。積み木は「積み木」にしか見えないのです。ここに一つの何もない広い部屋があったとします。でも、何もない部屋では子どもは遊ぶことが出来ません。「物語のきっかけ」がないからです。子ども達が遊び始める前に、おもちゃ箱をひっくり返すのは、遊びを始める物語のきっかけを探すためです。大人は「使うものだけ出しなさい」と言いますが、それが出来るのは決まったことしかしようとしない大人だけです。そんな時、遊具があれば子どもはそれで遊ぶでしょうが、ただ遊具があるだけでは物語が生まれないため、同じ事の繰り返しになりすぐに退屈します。「物語に導かれる遊び」はエンドレスに続きますが、物語を含んでいない「遊具による遊び」が楽しいのは最初だけです。だから子どもたちは大人が想定した使い方以外の使い方を初めて大人に叱られるのです。また、リアルなおもちゃによる遊びは、子どもの世界を閉鎖的にしてしまう恐れがあります。積み木は電車にも、自動車にも、ビルにも、ロボットにもなることが出来ますが、電車のおもちゃはいつまで経っても「電車」のままです。そのため、「電車の世界」の中でしか遊べません。リカちゃん人形では「リカちゃんの世界」の中でしか遊べません。そして、そのような遊びに慣れてしまった子は他の遊びには興味を示さなくなります。こんな時は、特に意味のない布や、牛乳パックや、トイレットペーパーの芯や、箱や、ドングリや、小石や、小枝や、布や、段ボールのようなものを用意してあげた方が、多様な物語が生まれやすくなるため、子どもは遊びやすくなるのです。リカちゃん人形より、個性がない「バルドルフ人形」の方が遊びやすいのです。「物語の世界で遊ぶ能力」を失ってしまった大人はそんなものを見ても遊び方が分からないでしょうが、まだその能力が生きている子ども達は、牛乳パックを電車にしたり、飛行機にしたりして遊ぶことが出来るのです。(でも最近はそれが出来ない子が多いような気がします。)また、ただ広い部屋についたてを置いて部屋の空間を二つに区切ると、二つの世界が生まれるため新しい物語が生まれやすくなります。大人は「空間が半分になって狭くなった」と思いますが、子どもは「世界が二つになって広くなった」と感じるのです。ここに子どもの心の不思議があります。ここで最初の幼稚園の園庭に戻りますが、実はその園庭は狭いのですが、小さな山があり、木登りが出来る木や、ツリーハウスや子どものお家があり、丸太の一本橋があり、鬼ごっこを楽しめるような様々な道があり、物語が生まれやすいように作られているのです。子どもにとっては、「いっぱい物語が詰まっている空間」が広い空間であって、「物語を感じない空間」は狭い空間なんです。そして、そのような視点で考えていく時、森や野原ほど「物語」が生まれやすい空間はないのです。そのような場所では、大人達がちょっと「物語のきっかけ」を与えてあげるだけで、子ども達は自分の想像力でイメージを膨らませ、生き生きと遊び始めます。
2026.06.09
コメント(0)

落語では「間(ま)」が大事だと言われます。そして日本人は「間」の意味を感じ取る能力が高いです。実際、人間、仲間、空間、時間、間合い、間柄、などなど「間」という字を使った言葉はいっぱいあります。「間」とは「何かと何かのあいだ」ですから、言い換えると何もないところです。何もないところなのに、何故か価値があるのです。子どもの育ちには、「空間」「時間」「仲間」の三つの「間」が必要だと言われていますが、子どもの育ちに必要だといわれているものにみんな「間」という字が使われているのは偶然ではないような気がするのです。実は「間」とは、「存在するもの」と「存在するもの」の間にあって両者の自由を守り、同時につながりを生み出し支えるものでもあるのです。「間」がないと、くっつき合ってお互いに身動きが取れなくなり不自由になります。遠く離れすぎてしまうと両者が関係することで生まれる意味や役割が消えてしまいます。また、間の距離や、間のあり方を変えると、両者が関係することで生まれる意味や役割が大きく変わります。実は人の自由を守ってくれているのは「間」なんです。人と人をつないでいるのも「間」だし、自由を与えてくれているのも「間」なんです。「間」は「無」でもありますが、その「無」が存在するものの意味と価値を生み出しているのです。面白いでしょ。子育てで難しいのも、親と子の間の「間」の取り方です。「距離感や関係性の作り方」とも言い換えることが出来ますが、これが「間」です。子どもの隣にいるか、前にいるか、後ろにいるか。肌が付くくらい近くにいるか、声が聞こえる距離にいるか、目で確認できる距離にいるか、子どもの目には届かないと事にいるかでも、子どもとの関係性は変わります。以下は俵屋宗達が描いた「風神雷神の図」です。風神と雷神の間には、何も描かれていない「間」が広がっています。でも、何も描かれていないですけど、この「間」には目では見ることが出来ない無数の何かが存在しています。その「何か」がこの絵のすごさを支えているのです。以下は同じ二匹の魚のイラストをただ位置(間の状態)を変えただけのものです。ちょっと間を変えただけで両者の関係性は大きく変わってしまいますよね。このバリエーションは無数に作れます。そしてその「間」が、自由を支えてくれてもいるのです。「間」が自由を与え、自由があるから意味も物語も生まれるのです。以下の図を見て、「物語を作って下さい」を言われたら、それぞれ別の物語になりますよね。------------------------------------
2026.06.08
コメント(0)
全7638件 (7638件中 1-50件目)


![]()