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本当のことを知ろうとするときに私がやっている方法は、「要素に分けてみる」ということと「視点を変えてみる」ということです。この世界にあるものは全て「つながり」の中で生まれ、「つながり」の中で存在し、「つながり」の中で変化し、「つながり」の中で消えていきます。「生」も「死」も同じです。死んだからといって全てが消えるわけではありません。ただ「自分という存在を支えてくれていた求心力」が消えることで、肉体が、もともとつながっていた「つながりの世界」の中に拡散していくだけのことです。それはつまり、「生まれる前にいたつながりの中に戻っていく」というだけのことです。その「自分という存在を支えてくれていた求心力」を「魂」と呼ぶのかも知れません。それを「命」と呼ぶ人もいますが、「命あるもの」と「命がないもの」の境界は曖昧です。実際、「ご臨終です」と宣言された後でも肉体は生き続けることもありますから。科学的には物質と生命は連続している現象なんです。でも、魂が肉体から抜けてしまったら、もう人間でいることは出来ないのです。そして、その肉体から離れた「魂」がその後どうなるのか、ということにも興味があります。「そのまま消えてしまう」と考える人もいますが、「新しい霊的なつながりの中で霊的なからだを得て霊的な世界で生き続ける」と考える人もいます。まあこれも死んでみれば分かることです。そのような私たちを支えている「つながり」は空気のようなものなので、そのままでは自覚することが困難です。その「つながり」を知るための方法として、私は「要素に分けてみる」ということと「視点を変えてみる」という方法を使っているのです。例えば、皆さんがいつも使っている「湯飲み」を考えてみましょう。陶器製の湯飲みは粘土で作られています。そしてその粘土は、粘土が取れた場所の地質的な個性とつながっています。信楽焼の土と、小鹿田焼(おんたやき)の土は違います。そのため、同じ形状の湯飲みを作り、同じ温度で焼いても同じ風情にはなりません。ちなみに、去年、小鹿田焼(おんたやき)の里まで行ってきたので、名前を挙げさせて頂きました。益子焼きでも、有田焼でも同じです。同じ土を使い同じ窯で焼いても、釉薬や窯の中での置く位置が異なれば同じ風情にはなりません。焼くときに使う薪の種類や、焼く季節も関係してくるでしょう。そして、その土の違いはその土が取れた場所の地質学的な歴史とつながっています。それはつまり、地球の歴史とつながっていると言うことです。皆さんが毎日使っている湯飲みを要素に分けてたどっていくと、地球の歴史や人類の歴史にまでつながっていくのです。面白いでしょ。
2024.11.23
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私は子どもの頃から色々なことに興味を持ち、色々なことをやってきましたが、私の気持ちの中ではみんな同じものです。私はただ「本当のこと」が知りたいだけなんです。物理学に興味を持ったのも、物理学を学ぶと「宇宙の本当のこと」が分かると思ったからです。スピリチャル的なことにも興味がありますが、それは「見えない世界における本当のこと」を知りたいからです。「気質」に興味を持ったのも、「気質」という考え方に「本当のこと」を知る手掛かりがあると感じたからです。高校生の時にデッサンや絵を描くことにはまって「世の中にこんなにも面白いものがあるのか」と感じたのも、そこに、それまで知らなかった「本当のことを見る見方」があったからです。デッサンでまず学んだのは「空間」の捉え方です。それまで「空間」などというものを意識したことなんかありませんでした。もちろん「空間」という言葉は知っていました。これは皆さんも同じでしょう。でも、デッサンではその「三次元世界の空間」をどう認識して、「二次元世界」の中でどう表現するのかということをするのです。でもこれが難しいのです。そもそも、「物」は見えても、その「物」が存在している「器としての空間」は目では見えないですからね。デッサンではその「目には見えないもの」を「目で見えるもの」に変換するのです。テレビなどで見ていると、ただ写真のようにそっくりに描くことが流行りのようですが、あれは単なる「技術」の問題であって「認識」の問題ではありません。そっくりに描くだけなら機械にだって出来てしまいます。というか写真を撮ればいいだけのことです。わざわざ、人間が描く必要も感じません。私が中学生の頃に出会って感動した「相対性理論」も空間を扱っています。そして、空間と一体のものとして時間もあります。物理学は「物の理(ことわり)」と書きますが、実際には「空間と時間の理」だったんです。目に見えている「物」は、目では見ることが出来ない「空間と時間」の一状態に過ぎないのです。それは、般若心経で言われている「色即是空 空即是色」の世界そのままです。相対性理論における有名な「E=mc2(二乗)」という式を見た時にはびっくりしました。Eはエネルギーです。mは質量でcは光の速度です。物質はエネルギーに変換出来るということです。しかも、なんでかそこに光速が関係しているのです。面白いですよね。そしてこの原理を元にして原子爆弾が作られました。「本当のこと」を知るために仏教やキリスト教のことも学びました。中でも仏教における認識論には強く惹かれました。私たちが生きている世界は、私たちとは無関係に存在しているものではなく、私たちの認識が創り出しているというのですから。維摩経というお経があるのですが、これがまた面白いのです。AIは以下のように解説しています。AI による概要詳細大乗仏教経典の『維摩経』には、認識論に関する思想が説かれています。維摩経の認識論思想相反する概念は別々のものではなく、ひとつのものの部分であると説く「不二法門」内容善と悪、生と死、我と無我など二項対立によるものの見方を解体し、ものごとの本質を捉える主張世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと、すべては関係性によって成立しており、実体はない、自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ私がいつも書いているようなことが書かれていますよね。また、気質が違えば物事の認識の仕方も違います。ですから、物理的には同じ場所にいて、同じ体験をしても、本人の意識の中では異なった場所にいて、異なった体験をしているのです。面白いですよね。シュタイナー教育に惹かれたのも「ここには本当のことがある」と感じたからです。これは私の考えですが、シュタイナー教育を知識や方法論として学んでしまったら本質が失われてしまうような気がします。私は、R.シュタイナーは、宇宙の見方、人間の見方、命の見方、成長の見方、見えない世界の見方を提示しようとしたように感じるからです。私にとっては、R.シュタイナーは一つの認識論を提示したように思えるのです。ですから、彼の言葉を「科学的ではない」と言って否定しても意味がないのです。科学は「認識によって生じたもの」を扱うことは出来ますが、「認識そのもの」は扱うことが出来ないからです。それはつまり、この宇宙に「人間とは異なった認識能力」を持った宇宙人がいたら、私たちが知っている科学とは異なった科学を創り出している可能性があるということです。ワクワクしませんか。
2024.11.22
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NHKの「こころ旅」という番組でいつも見ていた火野正平さんが亡くなりました。まだ75才です。テレビで見ていて「元気な人だな」と思っていた人だけに驚きでした。先日、西田 敏行さんも亡くなりました。76才です。西田さんも元気で、亡くなった当日も仕事が入っていたそうです。テレビでは「人生100年」などと言っていますが、私の周辺には100歳まで生きた人はいません。ただ単に、「日本人全体で見たら100歳まで生きる人も珍しくなくなった」というだけのことであって、「100歳まで生きるのが一般的になった」というわけではありません。そして私は火野正平さんや西田 敏行さんの年齢に近い73才です。子ども達には3000才と言っていますが、現世における人間界では73才です。もういつ死んでもおかしくない年齢になってきたわけです。それで、「自分がやりたいこと」を悔いなくやりきるために、少しずつ仕事を減らしています。10年以上続いてきた外遊びの会を去年〆させていただきました。そして、来年の3月で30年くらい続いてきた外遊びの会からも抜けさせていただきます。始めたころには幼児だった子が今では大人に、そして親になっています。ただし、お母さんたちの勉強会は継続します。これもまた「やりたいこと」の一つだからです。私は人が成長していくのを見るのが好きなんです。そんな私は、若い頃から「やりたいことを諦めない生き方」をしてきました。中学生の頃「相対性理論」と出会って感激し「物理学者になりたい」と思いました。そして、高校生の頃も物理学者を目指して勉強していましたが、なぜか高校3年の時に「絵」と出会ってしまい、受験生なのにデッサン教室に通い始めました。その時に感じたのが「世の中にこんなに面白いものがあったんだ」という驚きです。「絵描き」というそれまでに会ったことがない人種との出会いも衝撃的でした。それで短絡的な私は「とりあえずは物理学科に行くけど、卒業したら絵描きになりたい」と決めてしまったのです。そして、大学では卒業に必要な最低単位だけを取るようにして、美術研究所に通いつめました。で、卒業が近くなった時、両親に「ぼくは絵描きになるから就職はしない」と言ったのですが、「せめて5年でいいからボーナスの出るところに勤めてくれ」と母親に懇願され、絵の勉強のために行きたかったヨーロッパに行くためのお金を稼ぐ必要もあったので、そのまま大学の事務職として就職しました。最終的には6年勤め、同僚からは「なんでそんな馬鹿なことをするんだ」と言われ、人事部の部長からは「このままいれば出世するよ」と言われながら退職し、リュック一つを背負って1年間の海外の旅に出たわけです。スペインでは半年間、美術学校に通ったり、絵を描き続けました。そのあと、ヨーロッパの南の方をウロウロしてインドに渡りました。インドで「人間について」学びたいと思っていたからです。ちなみにスペインを選んだのは当時、ご自宅まで通って絵を教えてもらっていた里見勝蔵という絵描きの影響です。里見先生はブラマンクの弟子で佐伯祐三の友人です。たまたまそのお弟子さんの展覧会を見て感激し、「先生は誰ですか?」と聞いたら里見勝蔵だというので、連絡先を教えてもらい押しかけて通うようになったわけです。インドに行きたいと思ったのは藤原 新也という人の「インド放浪」という写真集を見たからです。「この現場を見に行かなければ」と思ったのです。ここから先もまた長い話になるのでこれくらいでやめておきますが、このように私は「やいたいこと」を諦めない生き方をしてきました。子どもと遊ぶのも、シュタイナーや気質の勉強も、造形も、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、古武術、システマ(ロシアの格闘技)なども「からだの学び」も「やりたいこと」だったから始めた活動です。ですから、自分の人生に後悔はありません。でも、まだまだやりたいことがいっぱいあります。昔は「年を取ったら暇になる」と思っていたのですが、なぜか若い頃よりも忙しいのです。それはそれでありがたいことなんですが、もう少し「自分がやりたいことをやるための時間」も欲しくて、少しずつ仕事を減らしています。ご迷惑をおかけする人もいますが、申し訳ないです。
2024.11.21
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先日、「ゆずり葉学舎」(群馬県富岡市にあるオルタナティブスクール)という所で、「竹であれこれ楽器を作ろう」というワークをして来ました。現地は竹林が傍にあるので、竹は必要に応じてすぐに集めることが出来ます。広いし、周りは山や畑だし、多少大きな音を出しても周囲から苦情が来るようなことはありません。ものすごく恵まれた環境です。そんなにも恵まれた環境なのに、それまでは、竹を使った楽器作りや工作をあまりして来なかったようです。竹には非常に大きな可能性があります。楽器だって何十という種類の楽器を作ることが出来ます。(正確に言うと、「音楽を演奏するためのもの」ではなく、「つながりを創り出す音を生み出すもの」ですけど。)オモチャだって何十と作ることが出来ます。もったいないことです。もっと言えば、「土」にも、「水」にも、「火」にも、「風」にも大きな可能性があります。実際、オモチャやゲームもなく、相手をしてくれる大人もいなくて、自然や仲間しか遊ぶ相手がいなかった昔の子ども達は「草木」や、「土」や、「水」や、「火」や、「風」や、「生き物たち」を相手に遊んでいました。それは、見方を変えると「遊びを通してそういうものたちの可能性を探っていた」ということでもあります。それはまた「自分自身の可能性」に気付き、拡げる体験でもありました。今でも昔と同じように草木も、土も、水も、風も普通にあります。火だけは子どもから遠ざけられ、虫は減ってしまいましたが、その他のものは家から出てちょっと歩けば子どもの生活空間の中にいっぱいあります。でも、最近の子はそういうものを相手にして遊ぼうとはしません。大人もまたそういう遊びを伝えないし、そもそも知りません。もったいないことです。最近の子ども達のオモチャやゲームなどの「遊び相手」は、最初から「子どもの遊び相手」として作られているものなので、「遊び方」を自分たちで工夫したり発見したりする必要がありません。便利になったものです。でもその結果、子ども達は「自分自身の可能性に気付き、拡げる体験」をすることが出来なくなりました。もったいないことです。ちなみに「もったいない」という言葉の本来の意味は以下のようなものです。私もこの意味で使っています。<AI による概要>「もったいない」という言葉の本来の意味は、仏教用語の「勿体(物体)」に否定の言葉である「ない」が合わさったもので、「ものが持つ本来の価値をなくしてしまうことが惜しい」という意味です。「勿体」には「重々しい」「威厳」という意味があり、仏教の教えである「すべての物事は互いに関係し合って成り立っており、存在することが当たり前ではない」という思想が込められています。この思想から、日本にはものを尊敬し感謝する精神が根付き、ものを大切にし、無駄にしないという「もったいない」の文化が生まれました。私が茅ヶ崎でやっている、親子で遊び「ポランの広場」(4月以降も参加できる生徒募集中です)という活動では、しょっちゅうお母さんたちに無茶ぶりをしています。いきなり、「歌って」とか「踊って」などと言うこともあります。昨日は、子どもとお母さんが自分たちで作ったものを売り買いして遊ぶ「お店屋さんごっこ」だったんですが、今の時代「自分で工夫して工作をする」という体験がないお母さんの方が多いので、最初はみんな戸惑います。でも、いざ、ちゃんと取り組んでみるとみんな出来てしまうのです。「即興劇なんか出来ない」とうじうじしていたお母さんが素敵な即興劇をやって見せてくれることもあります。やったことがないから「出来ない」と思い込んでいるだけの人が凄く多いのです。子どもも同じです。私は「この子なら出来る」と思うから「やってみない」と誘うのですが、「やったことがないから出来ない」と言って手を出さない子が多いのです。もったいないことです。「人生」とは「自分に与えられた時間」のことです。そして、その「時間」には「やったことがないこと」しか存在していません。毎朝目覚める朝は、みんな「始めての朝」です、「初めての一日」です。そこには可能性がいっぱい溢れているはずなのに、新しいことに挑戦せず、昨日と同じような毎日を過ごすことだけに夢中になっているのはもったいないことです。何もしなくても一生はあっという間に過ぎてしまいます。たとえ失敗しても、色々なことにチャレンジしてみれば色々な発見と、色々な学びと、沢山のつながりを得ることが出来ます。現代人は、子ども達も含めてみんな失敗を恐れていますが、失敗することが問題なのではなく、失敗から学ぼうとしないのが問題なんです。自分の時間、自分の命、自分の一生を無駄にしたくないのなら、やりたいと思ったらチャレンジしてみて下さい。「やりたい」と思ったときがベストチャンスなんですから。
2024.11.20
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昔の人は「失敗は成功の母」というようなことを言いました。それは人間は試行錯誤を通して成長する生き物だからです。ロボットを作る時にはその動かし方において二種類の方法があります。一つは予め必要とされるデータを全て記録しておき、何らかの出来事と遭遇した時にはそのデータ中から適合するデータを選択し、さらにそのデータを元に予めプログラミングされた動きを行うというタイプのものです。このようなロボットの場合は一対一対応で、同じ状況ではいつでも同じ行動をします。そして、全体的な状況を判断することが出来ません。人が前に来たら「こんにちは」と言って握手するようにプログラミングされたロボットは、その相手が握手を拒否しても同じ行動をします。相手や状況に合わせて自分の行動を変化させるということができないのです。ですから同じ間違いを何回も繰り返します。間違いから学習することが出来ないのです。このようなロボットには絶対的な「正解」があり、その正解以外の反応は出来ません。その「正解」以外の行動をするようになった時には、そのロボットは「壊れた」と判断されます。人間でも、時々それに似た状態の人がいます。その「正解」はプログラムを作った人が決めた正解です。そのプログラムを作った人はそのロボットが遭遇するであろう状況を予め想定してプログラムを作ります。でも、どんなに優秀なプログラマーであろうと、そのロボットが遭遇するであろう全ての出来事を正確に予想するなどと言うことは出来ません。それが出来たら神様です。ですから、予めロボットの活動に制限を加えることでそのような不測の事態を避けようとします。それでも万が一、予測不能な出来事が起きたら事故が起きてしまう可能性があるので、すぐに動きを止めます。そのため、ロボットの動きから目を離すことができません。それでいつでも「モニター」をすることになります。工場などで働いているロボットなどにはこのタイプのロボットが多いようです。工場はいつも同じ出来事の繰り返しで動いているわけですから、このタイプのロボットが丁度いいのです。むしろ、ちゃんと同じことをやってくれないと困るのです。お役所の人はよく「前例がありません」という言葉を使うようですが、お役所の人もこのタイプのロボットと似ています。でもそれは、生きている人間を相手にするやり方ではありません。人間を相手にするロボットはこれでは困まるのです。人間の場合は相手がどんな反応をするのか予測が出来ないからです。ですから、人間を相手にするロボットには、相手の状況に合わせて自分の動きを変えていく柔軟さが必要になります。それを「学習型のロボット」といいます。その時に必要なデータは「予めプログラマーが作り与えたデータ」ではなく「自ら学んだデータ」です。その際「失敗」は非常に大切なデータになります。その失敗から学ぶことで、より自由度と精度を上げることが出来るからです。ロボットに卵をつかんで持ち上げさせるという動きをさせるとします。でも、最初は石を持つようにつかんでしまい、割ってしまうでしょう。でも、卵が割れてしまったらロボットはその状態をフィードバックさせて、自分の動きを変えて再挑戦します。それを何回か繰り返して、適切な力加減を学んでいきます。そうすると、もう卵を割らないで持ち上げることが出来るようになります。このタイプのロボットにおいては、「失敗」はデータを集めるために欠かせない大切な行為なんです。そして、失敗から学ぶことで、様々な状況において柔軟に能力を発揮することが出来るようになるのです。でも、予めプログラミングされているロボットの場合は、プログラマーがそのような状況を想定してプログラムを作っているのなら最初から失敗せずに卵を持ち上げることが出来ます。でも、卵以外のものには対処することが出来ません。この両者のタイプのロボットに一つの制限を加えます。それは「失敗を許さない」という制限です。人間の場合なら、「失敗は罪だ」「失敗したらダメな子だ」という価値観を植え込むことでこの制限を掛けることが出来るようになります。そのダメ度度合いを調べるのに最適な方法が「減点法」という方法です。日本の教育では一般的なあれです。すると、失敗の繰り返しによって学んでいる「学習型」のロボットは何にも出来なくなり、無能なままになります。潜在的な能力はあるのですが、その能力が開発されないままになってしまうのです。それに対して、行動パターンが予めプログラミングされているロボットの場合は、失敗しないのでその能力を発揮することが出来ます。ですから、このような制限のある状態ではプログラマーの指示通りに動くロボットが「良いロボット」ということになります。でももし、全てのロボットが最終的にはプログラマーの管理から離れなければならないように運命づけられているのだとしたら、どういうことになるのでしょうか。そして、人間の子どもはみんな親や、先生や、学校から離れて生きていかなければなりません。そんな時、失敗が許されない子育てや教育を受けた子は、身動きが取れなくなってしまうのではないでしょうか。「親ガチャ」という言葉は「失敗が許されない社会」だからこそ生まれた言葉だと思います。失敗が許されない社会では、初期値で結果が決まってしまうのです。
2024.11.19
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人が成長するためには「気付き」が必要です。どんなに多くの知識を学んでも、そこに「気付き」がなければ人は成長しません。逆に、ありふれた日常生活の中ででも「気付き」を得ることが出来る人は成長します。子育てを通して、子どもや、命や、自分や、自然や、社会に対して色々な気付きを得ることが出来る人はどんどん成長していきます。「気付く」ということは「分かっていないということ」を発見するということでもあります。またそれは、「気付いていなかった自分」を発見するということでもあります。そこに発生するのが「問い」であり、そこから思考が始まるのです。もしその人が、実際には何にも知らなくても「全てを知っている」と思い込んでいるのなら、思考は目覚めないのです。そして、人間としての成長も始まりません。それはまた「0(ゼロ)の発見」とつながっています。「存在していないもの」を発見するのです。でもその「0」の発見がなければコンピュータも生まれなかったのです。犬や猿も、そしてコンピュータも、「知らない世界」のことは知りません。唯一人間だけが「知らない世界」が存在していることを知っているのです。だから色々と想像したり、科学という方法を創り出したりしたのです。人類が人間としての思考を始めたのは、そのように「自分たちには知らないことがある」と気付いたからなのです。そして、子どもが人間らしく成長するためにも「自分には知らないことがある」と気付くことが必要なのです。道具を作るための思考力は人間以外の動物も持っています。でも、知らない世界のことを考えるための思考力は人間にしかないのです。ちなみに、簡単な計算なら動物にだって出来ます。暗記も機械の操作も出来ます。だからそういうものは人間を特徴づけるものではないのです。子どもたちは、「知らない世界」が存在していることを知るから、世界の広さを知り、そこから探求が始まるのです。だから子ども達は「自然」や「言葉の世界」と出会う必要があるのです。「自然の不思議」「言葉の世界の不思議」と出会う事で、子ども達は「自分が生まれてきた世界の不思議」と出会う事が出来るのです。気付きが目覚めるのもその結果です。最近の子ども達は「自然」や「言葉の世界」との出会いよりも「映像」との出会いの方が多いです。でも、映像は「不思議」を与えてはくれないのです。ゲームの世界にも不思議は存在していません。そもそも、人間が創り出した世界に不思議は存在していないのです。今この時期の紅葉に満ちた山の中を歩くと沢山の「不思議」と出会う事が出来ます。でも、映像でそのような景色を見ても「不思議」は感じません。当然、気付きも生まれません。なぜかというと、映像では身体感覚に響かないからです。実は、不思議を感じるのは「頭の働き」ではなく「身体感覚」なんです。これは説明が難しいのですが、私が何らかの不思議を感じるときは「からだに響く何か」があるのです。「からだ」というよりも「生命感覚」なのかも知れませんけど。命の不思議、花が咲く不思議、夕日を見て美しいと感じる不思議、赤ちゃんの笑顔に幸せを感じる不思議、こういうものは知識によって生まれるのではなく「身体感覚」や「生命感覚」によって生まれているのです。ですから、「身体感覚」や「生命感覚」が萎えてしまっている人は、そのようなものに触れても不思議を感じないでしょう。そして、「自然」や「言葉の世界」との出会いが、子どもの「身体感覚」や「生命感覚」を目覚めさせてくれるのです。
2024.11.18
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私は子どもの育ちにおける「言葉の学び」の意味と重要性を強く感じています。でも、簡単で便利な生活に浸りきっている現代の子ども達は、ますます「言葉」を失ってしまっています。というか、社会全体から「言葉」が消えつつあるので、子ども達は大人よりも早くその変化に順応しているだけなのだろうと思います。そして、これは日本だけでなく世界中で起きている現象でもあります。そんな現代人は「言葉」より「映像」の方に価値を感じます。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、「まどろっこしい言葉でダラダラ説明しても、実際に見せてしまった方が話が早い」ということなのでしょう。そしてその方が「手っ取り早い」ことを重視する現代人の感性にも合っているのでしょう。名作をダイジェストで読むだけで満足する人達ですから。確かに、映像で見ると分かりやすいです。でも実はそこに非常に大きな落とし穴があるのです。「映像」は「事実」を見せることによって、単に「分かった気」にさせてくれるだけだからです。でも、現実の世界は、「見て分かる」ほど単純なものではないのです。実際、同じ「事実」を見ても、「その事実から何を読み取ることが出来るのか」ということは、その人の「言葉力」によって全く異なっているのです。「言葉」をしっかりと学んだ人は、「見える世界の裏側」を知っているので、「映像」からも多くを知ることが出来るでしょう。でも、「映像」ばかりを見て育った人は、ただ、面白いか面白くないかだけでその映像を判断してしまうのです。図や言葉だけで「ノコギリの使い方」を理解するのはなかなか困難です。でも、映像で見せてしまえば簡単に伝えることが出来ます。そして、子どもはすぐに「分かった気」になります。「やり方動画」を見ただけで自分も出来るようになったと勘違いしてしまう子もいます。でも、「分かった気」になることと、「実際に出来る」ということとは全く別問題です。私は、そういう実例をしょっちゅう見ています。情報を知り、分かった気になるだけでもテストではいい点数をとることができますが、造形などの実際の現場ではそんなもの役に立たないのです。このような時、「知らない」ということを自覚している子は説明に耳を傾けてくれますが、知ったつもりになっている子は耳を傾けてくれません。実際の現場では、ノコギリをひくときの抵抗、自分の手首の緊張、からだの使い方、呼吸など映像化することが出来ない様々な問題が複雑に絡んでいるのです。それらは言葉では説明できますが、映像では映せないのです。おいしいお料理の味も、言葉で説明する以外には伝えようがありません。映像から分かるのは「おいしそう」というだけのことであって、実際の味ではありません。私たちが生きている世界は、「言葉」を使わないことには伝えることも、理解することも出来ない事に満ちているのです。「人の心」もまた然りです。「他の人の心」を理解するためには、「その人の言葉」を聞く以外にないのです。それは決して映像化できないのです。人類は、自分が「生きている世界」を理解するために、言葉を使って哲学や、文学や、科学や、宗教や、様々な学問を創り出してきました。科学実験の映像を見ても、そこには必ず「言葉による解説」がついています。映像だけ見せても、何のことか分からないからです。子ども達は「実験」が好きですが、でも、言葉を失った子ども達は「説明の言葉」には耳を傾けません。だから、科学への興味も理解も深まらないのです。そこにあるのは、「真理を探求するための実験」ではなく、「へーすごい」という面白さを求める「アトラクション」のようなものに過ぎません。でも、「言葉による理解」を得た子は、わざわざ実験などしなくても、日常的な自然現象の中に「不思議」を見ることが出来ます。わざわざ、実験室で「落下の実験」など行わなくても、そんなもの家の中でも森の中でも簡単に見ることが出来るのです。「言葉」で「真理」を語ることは出来ますが、「映像」で真理を語ることは出来ないのです。「映像」はただ「事実」を見せてくれるだけです。そして、そこから「真理」を抽出するためには「言葉」が必要になるのです。毎日、ニュースで世界中の映像を見ていても、その背景にある真理を知るためには「言葉」が必要になるのです。その「言葉」を持たない人達は、「映像」によって簡単にだまされます。今日に話題と関係している記事を見つけました。忍耐力のないクレーマー、モノの価値がわからない客が増加中…いま「お客さんの劣化」が進む「深刻なワケ」こういう現象の背景にも、言葉の劣化の問題があるのです。説明を聞いても「その説明の意味」を理解することが出来ないのです。そのため自分で判断できないのです。
2024.11.17
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人の「心」は「言葉」で出来ています。ですから、「言葉」が育っていない子は喜怒哀楽などの感情は持っていても「人間らしい心」は未熟なままです。そして、自分の欲望や、目先の損得勘定だけで行動します。「こういうことをしたら、こういう結果になる」というような「原因と結果」を想像する能力も低いです。そして、闇バイトやカスハラなどの様々なニュースを見ていると、そのような状態の人がどんどん増えてきているようです。そのような人に倫理や道徳や善悪を説いても無駄です。それらの概念を理解するための「言葉」が育っていないのですから。罪を犯した人を捕まえて罰則を与えても無駄です。反省するためには自分との対話が必要になるのですが、言葉が育っていない人にはその対話が出来ないのですから。そのような人に罰を与えても逆恨みしたり、「次は捕まらないように気を付けよう」と考えるだけです。ですから、そのような状態の人が「困ったこと」や「犯罪」を繰り返さないようにするためには、「罰」を与えるのではなく「教育」を与える必要があるのです。特に「言葉の教育」です。逆に言えば、そのような状態の人が増えてきたのは、現代人が「言葉の育ち」を大切にしていないからでもあるのです。子育てでは、子どもに対して「お母さんの言うこと」に素直に従うように求めている人が多いです。そのような人は子どもに指示や命令を出しますが、子どもの言葉には耳を傾けません。でもそれは、言葉を持たないペットなどを調教する時に使う方法です。教育でも知識を覚えさせるだけで言葉を育てようとはしていません。そもそも、子どもを椅子に座らせて、講義を聞かせるだけでは「言葉」は育たないのです。そのような状態でも学ぶことが出来るのは「すでに言葉が育っている子」だけです。でも、そのような「言葉が育っている子」にとっては、知識を覚えるように求められるだけの授業は苦痛です。あの授業形態は「子どもの都合」に合わせたものではなく、「大人の都合」に合わせたものなんでしょう。「言葉」は「体験」とセットにして学ぶものです。「言葉」だけでは教えようがないのです。「本」を見せもせず、触れさせもせず、読ませもしないで「本」という言葉を伝えることは出来ないのです。それでも、大人が「ホン」という言葉を使っていれば、「ホン」という「音」は覚えることが出来ます。そして、大人と同じようにその言葉を使うことも出来ます。そのため、「言葉の本質」を知らない大人たちは、それで子どもが「本」を理解したと思い込んでしまうのです。<続きます>
2024.11.16
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私は、よく「物語の大切さ」を書いていますが、その「物語の大切さ」に気付いている人はそれほど多くないように感じています。子どもの育ちには「体験」と「仲間」が必要です。そのことを知っている人は多いです。ですから、それを与えるために活動している人もいっぱいいます。でも、その「体験」と「仲間」が子どもの心とからだの中に吸収され、子どもの心とからだの育ちに肯定的に働きかけるためには、子どもを体験や仲間とつなげるための「物語」が必要になるのです。子どもと世界をつなぐためにも、子どもと自然をつなぐためにも、子どもと命の世界をつなぐためにも「物語」が必要なんです。体験や仲間を与えるだけでは不十分なんです。でも、今の子ども達にはこの「物語」が足りません。今の子ども達の多くは「物語」ではなく「物」だけの世界に生きています。子どもの育ちにおける「時間」「空間」「仲間」という「さんま(三間)」の重要性を説く人は多いですが、それらのものと子どもとをつなぐ「物語」が存在しなければ、時間」も、「空間」も、「仲間」もその意味を失ってしまうのです。犬や猿のような社会性を持った動物たちは、その育ちに「体験」と「仲間」が必要になります。その点では人間と同じです。でも、その育ちに「物語」が必要なのは人間だけです。なぜなら、人間だけが「本能」ではなく「心」で「つながり」を作る生き物だからです。人間は「物語」を介在させないことにはつながり合うことが出来ないのです。私たちの社会では、「お金」や、「宗教」や、「民族」や、「国」や、「思想」や、「遊び」や、「言葉」といった様々なものが「人と人をつなぐもの」として働いていますが、でも、実際には、それらのもの自体には「つなぐ力」はありません。そこに「物語」が介在して初めてそれらが「つなぐもの」として機能するのです。「お金」は「お金の物語」とセットになって、初めてその意味を発揮するのです。実際、その物語を知らない幼い子どもにお金を渡してもオモチャにしかならないですよね。人と人が「お金」でつながり合うためには「お金の物語」が必要になるのです。その「お金の物語」を共有し合うことで「お金」を通してつながり合うことが出来るようになるのです。ですから、「お金が欲しい人」と「お金が欲しくない人」では、「お金」を通してつながり合うことは出来ません。でも、ドングリや小石のような些細なものでも、その「物語」を共有することが出来れば、それらが「つなぐもの」として機能するのです。「物語が人と人をつなぐ」というのはそういうことです。お金だけでなく、他の全てのものにおいても同じです。ドングリやお金は「見えるもの」ですが、「物語」は「見えないもの」であり、目に見えない空気のように存在しているので、気付く人が少ないのです。また、「言葉」が通じるのも「物語」を共有しているからです。「木」という言葉が通じるためには、お互いが同じ「木の物語」を共有している必要があります。「木」を「森や生命の物語」とつなげて理解している人と、「紙や材木の資源としての物語」とつなげて理解している人とでは、「木」という言葉でつながりあうことは出来ないのです。「木を大切にしよう」という言葉の意味も全く異なったものになるでしょう。前者の人は「出来るだけ木を切らないようにしたい」と思うのに対して、後者の人は「切った分だけ植林すれば同じでしょ」と思います。そしてお互いに「こいつは何を言っているんだ」と思うでしょう。大人が子ども達にどんなに「生命を大切にしよう」と訴えても、それは大人の価値観の押し付けに過ぎません。ですから、その価値観でつながり合うことも出来ません。もし本気で、「生命を大切にする子ども達」を育てたいのなら、子ども達に「生命の物語」を伝えるしかないのです。「価値観の押し付け」は逆の結果をもたらすだけです。ただ、誤解されると困るのは、ここで言う「生命の物語を伝える」というのは、「そのような知識を教える」ということではありませんからね。自分たちで種を植え、世話をして、花を咲かせ、また種を収穫して、翌年に育てる。そのような体験とセットにして、子ども達に「生命は繰り返してつながっていくものだという物語」を伝えるのです。生き物を可愛がるだけでなく、死ぬまでちゃんと世話をしてあげる。「ペットが死ぬと子どもがかわいそうだから飼わない」という人が時々いますが、そのような人は子どもに「生命の物語」を伝えることが出来ないでしょう。「死の体験」は、「生命の物語」の根幹です。この事実と向き合わせないままで「生命の物語」を伝えることは出来ません。また、ザリガニや金魚が死んだとき、生ゴミとして捨ててしまうのも避けた方がいいと思います。子どもがこのような体験を通して「生命」と出会ったときに、大人が「生命の物語」を語ってあげることで、子どもはその「生命の物語」に気付き、自分自身の「命の物語」も考えるようになるのです。そして「自分の命」を大切なものとして感じるようになるのです。
2024.11.15
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最初にちょっと告知を入れさせてもらいます。茅ヶ崎で気質と子育ての話をさせていただきます。場所は里山公園で、駅からはちょっと遠くて不便ですが、ご興味のある方は是非どうぞ。詳細は以下のリンク先で見ることが出来ます。https://www.facebook.com/events/508234968746548****************幼い子ども達は「今」「ここ」「自分中心」の世界に生きています。それは「0次元の世界」と言えるかもしれません。やがて、成長と共に「昨日」「今日」「明日」という時間感覚が目覚めます。でも、最初は「明日」と「明後日」や「何日後」の区別がつきません。明日も、一週間後も、一年後も同じです。過去に関しても同じです。違いが分かるのは「今」を基準にして前か後かということだけです。やがて、「一週間前」とか「一週間後」ということも分かるようになりますが、「自分の時間」しか分からないのであれば、それは「点」(0次元)が「線」(一次元)になっただけで、大人が生きている次元には遠く及びません。そんな「自分だけの時間」に生きている子どもには、大人の時間、幼稚園の時間、バスの時間が分からないので、お母さんに「幼稚園バスが来てしまうから速くしなさい」と言われても、お母さんが言っている言葉の意味を理解することが出来ません。大人でもパニックになったり、苦しみに閉じ込められたりしてしまうと、この状態に戻ってしまうことがあります。幼い子どもと同じように「今」「ここ」しか分からなくなってしまうのです。そのため、「そっちへ行ったら危険だよ」という方向にも平気で進んで行ってしまいます。自殺を選んでしまうのも、前後のことが分からなくなってしまうからです。でもさらに成長すると、「自分が生きている時間は自分だけの時間だが、他の人もみんなそれぞれ自分の時間を生きているんだ」ということが分かるようになります。そして「自分の時間」と「他の人の時間」をすり合わせて考えることが出来るようになると、とりあえずは社会生活が営めるようになります。でもこれだけでは二次元です。自分とは直接関わりがない、「今、ここにいない人の時間」も理解出来るようになるとさらに思考の次元が上がります。そのような時間を知るためには「物語との出会い」が必要になります。「ここ」に関しても同じです。幼い子どもには「ここ」しかありません。子どもの姿が見えなくなった時、お母さんが「○○ちゃん、どこにいるの?」と叫ぶと、子どもは「ここだよ」と答えます。それでお母さんは「ここってどこ?」と聞き返すのですが、幼い子どもにはその問いの意味が分かりません。「ここ」はここ以外のどこでもないからです。迷子になった時も、大人は「子どもがどこかに行った」と思いますが、子どもは「自分はズーッとここにいたのに、お母さんがどこかに行った」と思います。また、迷子になったときも自分基準でしか方向を理解していないので、お母さんを探すことが出来ません。子どもが理解出来る方角は「自分の前」「自分の後ろ」「自分の横」という、「自分を基準にした方角」だけです。東西南北や、公園の地図や、太陽の位置などを基準にして方角を理解することが出来ないのです。そして子どもは、常に自分の前方にお母さんを探そうとします。子どもの意識の中には、「自分の目で見えない世界」は存在していないのですから。そのため、後ろに戻ったりはしないのです。だから、とんでもないところに行ってしまうのです。自分の位置を正しく知るためには、「今」「ここ」が分かるだけではダメなんです。その「今」「ここ」と全体の関係を知る必要があるのです。逆に、全体が分かっても「今」「ここ」が分からなければ、自分の位置は分かりません。子どもの成長を考えるときには、「肉体の成長」だけでなくこのような「認識能力の成長」も考える必要があるのです。そしてこれは、リアルな体験を通して身につく感覚なので、その体験をすっ飛ばしていくらお勉強をしても「今」「ここ」の世界からは抜け出せないのです。そのような体験がないまま育った子は、大きくなっても幼い子どものように自分勝手に考え、行動するようになるでしょう。でも、自分勝手にやっているということを自覚することが出来ません。そのため、周囲の大人が叱っても、他の子に文句を言われても「僕は何にもしていないのにみんなが僕のことをいじめる」などとお母さんに訴えたりするのです。教室にもそういう子がいました。みんなから嫌がられ、文句を言われても当然の行動をしているのに、周囲の子がそれに対して文句を言ったり、自分を守るためにその子を排除しようとすると、「僕は何も悪いことをしていないのに」と言い立てるのです。自分の無自覚や不注意でトラブルに遭っても、「自分のせい」とは考えないのです。それは迷子になってしまった子が、「迷子になったのは自分が勝手に歩いたせいではなく、お母さんが自分を置いてどっかに行ってしまったからだ」と考えるのと同じです。また、「今自分がどこにいるのか」が分からないので、叱られても、「叱られた理由」が分かりません。また、「どうしたらいいのか」も分かりません。そのため、自分が悪いのに、叱られたことで逆恨みしてしまうこともあります。
2024.11.14
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幼い子どもは「自分」のことしか分かりません。でも、様々な体験や学びを通して、次第に「相手」のことも分かるようになってきます。これは「肉体の成長」に伴う「生理的な成長」の結果です。そんな時、虐待などを受けているような子は「自分の視点」ではなく「相手(一般的にはお母さん)の視点」を推測して、物事を感じ、考え、行動するようになります。「自分」が「相手」に飲み込まれてしまうのです。そうして子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動することが出来なくなっていきます。この「自分」から「お母さんへ」という視点の変化(視点の移動)は「変化」であって「成長」ではありません。「生理的な成長」の結果、「お母さんの視点」が分かるようになったのですが、「自分の視点」が「お母さんの視点」に飲み込まれてしまうのは「人間としての成長」ではないのです。「自分の視点」も「お母さんの視点」も同時に大切にした上で「さてどうするのか」ということを考えることが出来るようになるのが「人間としての成長」なんです。「自分」を見失ってしまったら「人間としての成長」は止まってしまうのです。そして、それが可能になるためには「視点の上昇」が必要になるのです。それは、「私だけ」という一次元で考えていたのを「私とあなた」という二次元でも考えることが出来るようになるということです。地表にいて見ていた世界を気球などに乗って上から見てみるというようなことです。子育てに苦しんでいるお母さんの多くが、「子どもの幸せのために自分を犠牲にするか」それとも「自分の幸せのために子どもを犠牲にするか」という二者択一で悩んでいます。でも、「自分の幸せ」と「子どもの幸せ」を両立させる方法もあるのです。でも、そのことに気付くためには「人間としての成長」が必要になります。まただから、多くのお母さんが子育てを通して成長していくことが出来るのです。人間として成長して第三の選択肢を見つけ出さないことには、「子ども」か「自分」のどちらかが犠牲になるだけですから。さらに生理的に成長すると9才を過ぎたころから「社会の視点」ということも分かるようになってきます。すると今度は「自分の視点」を捨てて「社会の視点」に合わせて生きるようになる人もいます。そのような人は、テレビや、政治家や、周囲の人たちの意見に洗脳されやすいです。第二次世界大戦が始まり、国が「鬼畜米英」と言ったとき、それまでお手本にしてきた欧米を急に「鬼」と罵るようになった人がいっぱいいましたが、そういう人は「自分の視点」を国や社会に簡単に明け渡してしまったのです。幼いときから「自分の視点」を大切にするような育てられ方をしてこなかった子は、簡単に「視点」を乗っ取られてしまうのです。あなたがもし「子どもの心」に対して、「変化」ではなく「成長」を求めるのなら、子どもが「自分の視点」をしっかりと持つことが出来るように関わる必要があるのです。そのためには、「子どもが感じていること」「子どもが考えていること」「子どもがやりたいこと」を大切にしてあげる必要があります。でも、ただほったらかしておくだけではダメです。色々なことを感じることが出来、色々なことを考えることが出来、色々なやり方を知りそれを試して見ることが出来るような自由な場と、それを共有する仲間が必要になるのです。ゲームしか知らない子に「何をして遊びたい?」と聞いても無意味ですよね。「ここ」しか知らない子に「どっか行きたいところがある?」と聞いても無意味ですよね。そして、そういうことを子どもに問いかける大人との関わりも必要になります。人は問いかけられることで自覚が目覚めるのですから。皆さんは何を感じ、何を考え、自分の人生で何をしたいのですか?その自覚が目覚めないことには「移動」は起きても「成長」は起きないのです。
2024.11.13
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人は皆、「子ども」という状態から人生をはじめます。皆さんも昔は「子ども」でしたよね。「子どものことが理解できない」「子どもなんて嫌いです」などと言っている人は多いですが、そのような人も昔は子どもだったはずです。でも、大人になって子育てを始める時、「子どものことが理解できない」「子どもなんて嫌いです」という状態のままでは、子育てが困難になってしまうのです。それで、子育てのワークでは「自分の子ども時代のことを想い出してみよう」というワークをします。自分の子ども時代に対して肯定的な感情を持っている人は、自分の子どもに対しても肯定的な感情を持ちやすいからです。でも、そのワークをするようになって驚いたのは、なぜか「自分が子どもだった時のこと」を覚えていない人がいっぱいいるのです。単純に覚えていないだけの人もいれば、「思い出そうとすると苦しくなってしまうので、想い出したくありません」と言った人もいます。でも、「自分の中の子ども」を否定している人が、「目の前の子ども」を肯定できるはずがないのです。そのような人は、見かけや実年齢は大人になっていても、「心の中の自分」はまだ「子ども」のままなんです。子どもの時に、「子どもとしての要求」が満たされていないので、心が「大人」へと成長することが出来ていないのです。そのような状態の人を「アダルトチルドレン」と呼ぶようですが、最近はその「アダルトチルドレン」状態の人が多いのです。そのような人にとっては自分の子どもは「ライバル」です。ですから「自分が与えてもらえなかったもの」を子どもに与えようとはしません。むしろ、「自分が受けた苦しみ」と同じものを、子どもにも与えようとします。そのような人は、見かけ上「大人」に変化しただけで、中身が「大人」に成長したわけではないのです。だから、利害を争って子どもと対立してしまうのです。「過去」の上に「今」があり、「今」の上に未来が築かれます。それが「成長」ということです。自然と共に暮らしている人たちの所に行ってそれまでの過去を否定し、いきなり村のインフラを整え、様々な近代的な機器やスマホを与え、近代的な生活が出来るように整えてあげても、それは「変化」であって「成長」ではありませんよね。それと同じです。自己肯定感が低い人は自分の過去を否定しています。そして「違う自分になりたい」と願っています。そして、様々な方法を使って「違う自分」を演じようとします。整形もその方法の一つです。でも、そこで起きていることも「変化」であって「成長」ではありません。もし本当に成長を願うのなら「過去の自分」と「今の自分」を肯定し、受け入れることから始めるしかないのです。「過去の自分」の延長上にしか「未来の自分」を築くことは出来ないのですから。子育てでも、本当に「子どもの成長」を願うのなら、いきなり簡単で便利なおもちゃや電子機器を与えるのではなく、もっと泥や火や仲間や自然と触れあうような原始的な体験を充分に与えるところから始める必要があるのです。文明との出会いは年令に合わせて段階的でいいのです。そしてそれが成長につながるのです。自分の人生をそのような体験から始めることが出来た子は、自分の成長を実感することが出来ます。そして、「成長する喜び」を知り、未来に向かって成長する事が出来るでしょう。それに対して、幼いうちから、簡単で便利なおもちゃや電子機器を与えてもらった子は、「成長する必要」と出会う事が出来ません。その結果、「成長する喜び」ではなく「与えてもらう喜び」だけを求めるようになってしまうのではないかと思うのです。そのような子は変化は求めても成長は求めないのではないかと思うのです。まあ、私の勝手な思い込みかも知れませんけど。
2024.11.12
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「肉体の成長」は外側から見える部分も大きいので、ある程度なら多くの人が認識しています。でも「運動能力」や「からだの使い方」などの成長に関しては、外から見ただけでは分かりません。それを見る能力がある人が見れば、「歩き方」や、「日常の動作」や「からだの使い方」を見ればある程度は分かりますが、そのような能力がない人はそういうものを見ても気づきません。説明されても理解できません。それでも、スポーツや様々な身体的な活動をやらせてみると、その発達状態を知ることが出来ます。でも、「肉体の内側」に隠されている「感覚の成長」や「心の成長」となるとさらに難しくなります。そのため、それを気にする人は多くありません。シュタイナー教育ではそのような成長を大切にしていますが、普通の教育においては、「学力の成長」や「社会性の成長」にのみ力を注いでいます。でも、「感覚」や「心」もまた肉体と同じように成長しているのです。だから「子どもの心」と「大人の心」は違うのです。だから、大人たちは「子どもの言葉の意味」、「やっていることの意味」が分からないのです。ただ、「感覚の成長」の仕方と「心の成長の仕方」は同じではありません。子どものうちは「苦いもの」が苦手です。「うまみ」よりも「あまみ」の方を好みます。でも、成長と共にそういうものを美味しく感じるようになるのです。これは「肉体の成長」に伴う「感覚の変化」です。また「心の育ち」によって目覚める「感覚の成長」もあります。それは「真・善・美」を感じる感覚能力の成長です。これは「変化」ではなく「成長」です。でも、「肉体の成長」は誰にでも起きますが、「心の成長」の方は個人差が大きいので、「真・善・美」の感じ方においても個人差が大きいです。そんなもの感じていないように見える人もいっぱいいます。「心の成長」においても「変化」はあります。「異性に対する意識」「社会に対する意識」などは「肉体の成長」に伴って変化していきます。それに伴い「子どもの心」から「大人の心」へと変化していきます。ただ、その「変化」が単なる「変化」(置き換わり)だけで終わってしまうのか、それとも「成長」につながるのかは人それぞれです。幼い子ども達は「自分のこと」だけを考えています。でもそれは自己中だからではなく、まだ意識の働きが「自分のことしか見えない状態」だからです。でもやがて「他の人」のことも見えるようになってきます。その変化は段階的に訪れ「七・五・三」や九才、14才といった成長の節目ごとに変化していきます。1,2歳の頃は「お母さん」が全てです。でも、3,4歳の頃からそこに「お父さん」が加わります。5,6歳の頃からは「仲間」が加わります。そして、9、10才くらいになると「社会的につながっている人たち」も見えるようになってきます。14才ごろになると、時代や地域に囚われないで古今東西の人たちのことも見えるようになってきます。でも、9,10才以降の「心の成長」は個人差が大きいです。「仲間」だけで終わってしまって「古今東西の人」まで意識できるようになる子は少ないです。意識の視点が水平移動しているだけの子は、自分の感覚で直接体験できる範囲までしか認識できないのです。それはどういうことかと言うと、「お母さん」が「お父さん」に置き換わり、「お母さん」や「お父さん」が「仲間」に置き換わるような変化です。そのような成長をする子にとっては、「お母さん」「お父さん」「仲間」が別個の存在なんです。そのような成長状態の子は、成長しても「お母さん」だけを選んだり、「お父さん」だけを選んだり、「仲間」だけを選んだりします。これは成長というよりも変化に過ぎません。でも、「お母さん」が「お母さんとお父さん」へと変化し、さらに「お母さんとお父さんと仲間達」へと変化する子もいます。「世界」が移動するのではなく広がっていくのです。(表現が難しくて申し訳ありません。)このような成長をしている子は「つながり」を認識することが出来ます。というか、「つながり」の中で育てられているから、このような成長が起きるのでしょう。<明日に続きます>
2024.11.11
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子ども達は日々成長しています。大人になると肉体的な成長は止まりますが、自ら成長を望み、日々努力している人の心は死ぬまで成長することができます。子どもの成長と大人の成長の違いは、「子どもの成長」は「生理的、生物学的なもの」なのでどの子でも自然に発生しますが、「大人の成長」は、「個人の意識の現われとしての精神的なもの」なので、個人差が非常に大きいです。また、大人になっても成長できるかどうかは、子どもの時に自分の成長を実感し、喜ぶことが出来たかどうかにかかっています。でもそのためには、日々の活動を「言われたから」ではなく「自分の意思」で行っている必要があります。「自分の意思」で行ったことだから、成功しても、失敗しても、その結果を自分の成長につなげることが出来るのです。言われたやっているだけなら、それが成功すれば「スキルのアップ」にはつながるかも知れませんが、「心の成長」にはつながらないのです。子どもでも大人でも、「成長することが出来る人」は「(成功しても失敗しても)自分の体験から学ぶことが出来る人」でもあるのです。そして子ども達は、「群れて遊ぶ場」でこのような能力を育てています。でもさらに成長するためには、「他の人の体験」からも学ぶ必要があります。これが出来る子は「自分の体験を超えた学び」をすることが出来るのでいつまでも成長することが出来ます。そのような子は積極的に、他の子や大人がやっていることを観察しようとします。また、本などを読んで学ぼうともします。でもそれが可能になるためには、子どもが「人と人のつながり」の中で生活している必要があります。でもただ「子どもの周囲に大人がいればいい」ということではありません。関わりの質と量が大きく関係しているからです。子どもの周囲に一人しか子どもと関わってくれる大人がいなくても、関わり方次第では素敵な学びをすることが出来ます。でも、いっぱい人がいても、かえってそのことで「自分を守る事」ばかりに熱心になってしまい、成長する意欲が育たなくなってしまう場合もあります。ちなみに子どもは、「自分の言葉に耳を傾けてくれる大人」の言葉には耳を傾けようとしますが、「一方的に言葉を押しつけてくる人」の言葉は拒否しようとします。それは大人でも同じですよね。また、「子どもから学ぼうとしている大人」からは学ぼうとしますが、子どもを否定し、大人と同じように感じ考え、行動することを強制してくる大人からは、逃げようとするばかりで学ぼうとしません。そう思いませんか。皆さんはどちらの子育てをしていますか?
2024.11.10
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子どもは何万年も前と変わらない状態で生まれてくる普遍的な存在です。どんなに社会が変化しても、それは変わりません。それはつまり、子どもの心とからだの成長に必要なものも、基本的には何万年前と変わっていないということです。そしてそれはまた、社会が変化したからといって、簡単に「子どもに求めるもの」、「子どもに与えるも」のを変えてはいけないということでもあります。特に、7才前の子どもは「人間社会」に属しているのではなく、人間の命を生み出している「自然」に属しています。そして、自然や神話と共に生きていた古代人と同じような心と、からだと、感覚世界を生きています。だから大人から見たら「訳の分からない存在」なのです。ちなみに、大人でも心やからだは「自然」に属しています。「社会」に属しているのは「意識」や「知識」などの「頭の中味」だけです。その「頭の中味」を支えている「器」の方は「自然」に属しています。そのことを忘れ、「中味」だけを大切にして、「器」をないがしろにすると、「中味」もまた壊れてしまうのです。そしてそれが、現代人が直面している問題です。でも、その問題に気付いている人は多くありません。そんな現代人は、「自然」を「資源」としてしか認識していません。でも、自然の本質的な働きは「生命を育てる」ということなんです。木々も虫たちも動物も人間も自然の働きによって生まれ、自然の働きによって育てられて来ました。それが歴史的な真実です。そのため、人間が自然の働きを否定し破壊してしまったら、その自然によって支えられ、育てられてきた全ての生き物の生命が絶滅の危機にさらされてしまいます。もちろん、その中には「人間」も含まれています。7才までの子どもの成長を支えているのもまたその「自然の働き」です。心の成長も、からだの成長も、感覚の成長も、「人間のからだの中に組み込まれた自然の働き」の結果なのです。そして、その「人間のからだの中に組み込まれた自然の働き」は何万年も前から変わっていません。だからこそ、どんなに社会が効率やスピードを求めても、妊娠期間が短くなったり、3才、5才、7才、9才という成長の節目を早くすることは出来ないのです。また、早くしようとしてもいけないのです。でも、自然から切り離され、自然を感じる力を失ってしまった現代人は、「子どものからだの中で働いている自然の働き」も感じることが出来なくなってしまっています。そして、人工的に管理した状態で、もっと効率的に、もっと早く子どもを育てようとしています。また、現代社会は基本的に大人向けに作られていますから、その社会の中で子ども達が子どもらしく生きることは非常に困難です。家の中でも、家の外でも、子どもが子どもらしく走り回っただけで周囲の大人から苦情が来てしまうことさえあります。その結果、現代の子ども達は「7才まで」という「自然に属する時期」を充実させることが出来ないまま、社会へと押し出されることになってしまっています。でもそれは、子ども達が充分に人間としての心や、からだや、感覚を育てる事が出来なくなってしまっているということを意味しているのです。心や、からだや、感覚は「自然」に属するものだからです。そして、その上に「人間性」というものが育つのです。確かに、現代の子ども達は多くの知識や高い能力を持っています。でもその一方で、「自分の生命を支えている心やからだや感覚の働き」は非常に不安定です。そのため、不安が強く、自己肯定感も低くなり、「一人の自立した人間」として生きるのが困難な状態になってしまっています。子ども達が「自然」に属している時期には、子ども達を無理やり大人の価値観に合わせるように強制してはいけないのです。そうではなく、大人の意識や、社会や、子育ての方を子どもの状態に合わせなければならないのです。そうしないと、「子どもの内側で子どもの成長を支えている自然の働き」が萎えてしまい、子どもは「生きる力」や「成長する意欲」を失ってしまうのです。「子どもに合わせる子育て」をしているなら、発達障害の子も自分の能力に合わせて発達することが出来ます。そんなに慌てなくても、7才を過ぎ、9才を過ぎ、思春期が近くなると子ども達は「社会」というものに興味を持ち始め、自ら大人の価値観を取り入れるようになるのです。それが「子どもの成長を支えている自然の働き」でもあるのです。だから、慌てず、追い立てず、その成長に寄り添って待ってあげることが必要なのです。
2024.11.09
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闇バイトのニュースを見ていても、造形の場で子ども達と接していても、子育ての勉強会などでお母さんたちの話を聞いていても、最近の子ども達や大人たちの「想像力の低下」を強く感じます。(コロナ騒動の時も強く感じました。)そしてその「想像力の低下」は「思考力の低下」や「理解力の低下」とつながっています。そのため、ちょっと考えれば分かるようなことが分からなくなってしまっているのです。というか「考え方」そのものが分からない人も多くなってきました。A>Cで、B>Aなら、B>Cですよね。これを理解するために必要なのは知識ではなく体験なんです。この結果を覚えるだけでも試験には対応できるかも知れませんが、理解できていなければ応用することが出来ません。「どんぐり」という算数の学習法では、絵を描くことでこの体験をさせようとしているようです。「1+1=2」を、実際のミカンや物を使って説明することがありますが、実際の「物」は抽象化できないので、物を使って理解した子は、少数や分数や虚数が出てきた時に戸惑います。それに対して「絵」はそれ自体がもう抽象化されたものなので、算数との相性がいいのです。例えば、1時間+1時間は2時間ですよね。でもこれを「物」を使って説明することは出来ませんよね。「時間」を「物」に置き換えることは出来ないからです。でも、「絵」ならこれが可能になるのです。ちなみに、シュタイナー教育では絵とは異なった方法で体験させようとしています。いずれにしても、体験を通して想像力や思考力や理解力を育てようとしているのです。まただから、シュタイナー教育の授業は遊んでいるように見えるのです。実際、「シュタイナー教育では遊んでばかりいる」と非難する人もいるみたいです。私がやっている様々なワークショップも同じです。言葉で説明するだけでも知識としてなら伝えることが出来ます。でも、いくらいっぱい知識を詰め込んでも、体験が伴っていなければ理解することも、応用することも出来ないのです。でも、多くの人が「勉強とは知識を覚えることだ」と思い込んでしまっています。ワークショップの場でも、私が言った言葉をメモしようとする人がいます。自分自身がそういう学びしかしてこなかったからなのでしょう。でも、知識では子育てが出来ないのです。何十冊、何百冊と子育て書を暗記しても、実際の子育ての場では役に立たないのです。でも、子育て書なんか読んでいなくても、「道具に依存しない遊びが上手な人」は「子育て」も上手なんです。応用力もあります。想像力、思考力、理解力といったようなものが育つためには、「机上の知識」ではなく、「実際の体験」が必要なんです。だからといって、「体験なら何でもいい」ということではありません。「体験の偏り」は想像力や、思考力や、理解力の偏りを生み出してしまうからです。「子ども達の自由意思に基づく、自然の中での仲間と一緒に群れて遊ぶ遊び」では、子どもたちは「バランスの取れた体験」をすることが出来ます。それが、バランスが取れた想像力や、思考力や、理解力の育ちを支えてくれるのです。でも、大人の指導による「○○教室」と呼ばれるような所での「大人によって企画された体験」の場合は、偏っていることが多いです。手取り足取り丁寧に教えてくれればお母さんや子どもの評判はよくなるでしょうが、必然的に体験は偏ります。それは想像力や、思考力や、理解力の偏りとして残っていきます。小さい時からサッカー体験しかない子は、「サッカー思考」をするようになるでしょう。サッカーに関する想像力は育つでしょうが、他のことに対する想像力は育ちません。ゲーム体験しかない子は、「ゲーム思考」をするようになるでしょう。ゲーム的に考え、ゲーム的に理解するようになるでしょう。「闇バイト」に簡単に引っかかってしまうような子も「ゲーム思考」になってしまっているのかもしれません。会社体験しかない男性は、お母さんたちが日常的にどのように生活しているのか、子育てをしているのかを想像することが出来ません。そのため「主婦は三食昼寝付きで楽だな」などと考える男性も多いです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動したことがない子は、そういうことをしている子を見ても「何をしているのか」理解することが出来ません。「やらされる体験」はしていても「自分の意志でやる体験」はしていないからです。大人のために作られた「簡単で便利な生活の体験」しかない子の想像力や、思考力や、理解力も偏っています。それは「大人のために作られた社会」の中では通用しますが、子育てや、自然や、自分の心やからだと向き合う時には通用しません。でも、そのこと自体が理解できないので、思い通りに行かないと「子どもが悪い」「自然が悪い」「からだが悪い」と判断して、一方的に叱ったり、強制したりしようとします。からだの具合が悪くなると薬でなんとかしようとします。そして、さらに状態がこじれます。
2024.11.08
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子どもの育ちには「体験」が不可欠です。その体験とは「自分と出会う体験」「他者と出会う体験」「自然と出会う体験」の三つです。「野球体験」でも、「サッカー体験」でも、「ピアノ体験」でもありません。実際、そのようなものをやったことがない人や、そのようなものがない時代、地域でも、人間として素晴らしい人はいっぱいいるのですから。逆に、そのような能力に優れている人でも人間的には問題を抱えている人もいっぱいいます。「子どもの育ちを支える」という視点で野球や、サッカーや、ピアノを教えている指導者なら、これらの体験をうまくその指導の中に織り込んでいるかも知れませんが、ただ、「勝つための野球」「勝つためのサッカー」「上手になるためのピアノ」にしか興味のない指導者なら、かえって子どもの成長を阻害するような体験しか与えることが出来ないでしょう。そういう点から、「五輪やパラリンピックに出場経験があるアスリートを、学校の教員として採用を促進する」という文科省の方針には反対です。学校は「子どもの成長を支える場」であって、「アスリート養成所」ではないのですから。子育てや教育のことに関して言えば、政治家の発想は的外れのことが多いです。政治家には「競争に勝つことを目的とするような教育」を受けて育った人が多いのでしょうか。それとも、政治家になりたいと思うような人は、もともと「勝ち負け」にしか興味がないのでしょうか。「体験」が子どもの成長を支える働きをするためには、その体験の中に「フィードバック」が存在している必要があります。何かを体験しても、そこに「フィードバック」が存在していないのなら、その体験は「子どもの育ちを支える力」にはならないのです。「高い所から飛び降りてケガをする」、「他の子が嫌がることをして殴られる」などということはよくあることですが、その体験が「子どもの育ちを支える働き」をするためには、「自分が受けた結果は自分がやった事の結果だということに気付く必要がある」ということです。それが、私が言っている「フィードバック」という言葉の意味です。AIもまた、この「フィードバック」を使って学習しています。AIはフィードバック」を通して自分の能力を高めることが出来る能力を持っているシステムなんです。そしてこれは人間のやり方を模倣させたものです。そのため、自分の想い通りに行かないことがあると、簡単に「人のせい」や「何かのせい」にしてしまうような子は、どんな体験を与えても成長することが出来ません。自分の不運や不幸を「○○」のせいにして、「○○ガチャ」と言ってしまうような人も同じです。でも、そのような感覚の人たちが増えてきています。上手く行っても、上手く行かなくても、その結果とどう向き合うのか、その結果から何を学ぶことが出来るのかということが重要なんです。それが「自分体験」ということでもあります。そして、子どもの自由意思に基づく自由な遊びの場ではそういう学びが自然に起きているのです。でも、指示や命令で動かされているばかりの子にとっては、上手く行っても、上手く行かなくても、それは自分の責任ではありません。上手く行けば「指導者ガチャが良かった」、上手く行かなければ「指導者ガチャが悪かった」というだけのことです。ですから、子どもの成長と支えたいと思うのなら、子どもが何かを失敗した時でも一方的に叱ってはいけないのです。「どうして失敗したんだと思う?」と、問いかけた方がいいのです。子どもが成績が悪くて悩んでいるのなら、勉強に追い立てるのではなく、「どうして成績が悪いんだろうね?」と問いかけるだけでいいのです。ただし、成績が悪くても悩んでいない子にはこの問いかけは無意味です。無理やり勉強させても逃げるだけです。そのような子に勉強させたいと思うのなら、「勉強する目的」を見つける手助けをしてあげることです。その時に必要になるのが「他者体験」です。子どもは他者と出会い、つながることで「自分の生き方」を見つけることが出来るのです。自分の部屋にこもって一人でゲームばかりしていたら、「自分体験」も「他者体験」も「自然体験」も出来ないのです。そういう子が「ガチャ」という発想をするのではないかと思います。
2024.11.07
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昔は「遊びの場」や「生活の場」で無料で手に入った「体験」が、今では「○○教室」などという形で有料で買うものになってしまいました。「体験」が有料になったせいで、経済格差がそのまま体験格差につながるようになってしまったのです。その体験格差がまた、「自己肯定感」や「人間関係を築く能力」や「社会とのつながり方」の違いとしても現れるので、「体験格差」は「子どもの自立能力」の育ちにも大きな影響を与えてしまいます。学校から帰ったら「一人で自分の部屋でゲームばかりして育った子」と、「○○教室で色々な大人や仲間と関わりながら育った子」とでは「自立能力の育ち」に大きな違いが出るのは当たり前のことです。なぜなら、「自立」は「他者とのつながり」の中で実現するものだからです。周囲に人がいない状況の中で育っていたら「自立」する必要自体がないのです。でもだからといって「お金で買う体験をいっぱい与えれば子どもはちゃんと育つのか」というと、そういうことでもありません。「お金で買う体験」には「体験の偏り」があるからです。「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」のような「汎用性」がないのです。そして、その「体験の偏り」がその「○○教室」のウリでもあります。特殊化され偏っている体験だからこそ商品として売ることが出来るのです。それに対して、「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」には汎用性があります。でも、汎用性があるがゆえに「何の役に立つのか」が分からないのです。「サッカー教室」に行けばサッカーが上手になります。「ピアノ教室」に行けばピアノが上手になります。「水泳教室」に行けば水泳が上手になります。そして、その対価としてお金を払っているのです。でも、自然の中で自由に仲間と一日中遊んでいても、「社会的に価値がある特別な能力」が育つわけではありません。そのため、お金を出してまで「遊び」を体験させようとする親は少数です。だから、「遊びの大切さ」を知っている人の多くがボランティアで活動しているのです。でも、「遊びの場や生活の場での自由な体験」を通して、子ども達は「偏ったこと」を「偏った形」で教えている「○○教室」では育てることが難しい、より基本的で根底的な能力を育てているのです。それは「人間関係の作り方」、「コミュニケーション能力」、「助け合う能力」、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する能力」などです。また、後から色々なことを学ぶようになった時に、その学習能力の違いとしても現れます。小さい時からお勉強をいっぱいやらされてきた子よりも、小さい時は自然の中で、仲間と一緒に、心やからだを思いっきり使って遊んできた子の方が、中学生以降の学習においては学習能力が高いのです。ただし、学習能力が高いからといって成績がいいとは限りません。「生活の場」や「遊びの場」で育った学習能力は、自分が興味を感じたものにしか発揮されない可能性が高いからです。まただから、お母さんたちの多くが遊ばせるよりも勉強をさせようとするのでしょう。でも、子どもが「自分がやりたいこと」を見つけ、自分らしく生きようとするときには、子どもの頃に生活や遊びの場で育てた能力が役に立つのです。ただし、子どもの頃いっぱい遊んだ子でも、「自分がやりたいこと」を見つけることが出来なかった場合、その能力は発揮されません。ですから、10才ごろから「遊び」とは異なった体験が必要になるのです。それは「自分が生きている世界との出会い」という体験です。
2024.11.06
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昔は、子ども達の周りに普通にあった「お手伝い」や、「群れ遊び」や、「地域活動」や、「自然の中での遊び」といった「体験の場」が、あっという間に消えてしまいました。私は昭和26年生まれですが、子どもの頃はまだこのような「体験の場」が残っていました。でも、高度経済成長と共に急速に消えて行きました。「遊ぶ場」も「一緒に遊ぶ仲間」も消えました、「お手伝い」よりも「お勉強」を求められるようになりました。地域のつながりも弱くなり地域活動も少なくなりました。子ども達が自由に入って遊べる自然も減りましたが、簡単で、便利で、清潔で、強い刺激に満ちた遊び場が増え、そのような遊びの場での遊びに慣れてしまった子どもたち自身が自然の中で遊ぶことを好まなくなりました。また、一人で遊ぶことに慣れてしまった子どもたちは、助け合って一緒に遊ぶということが苦手です。昨日は、娘と仲間たちが「自然の中で自由に遊ぶ場」を企画して、私が民族楽器担当ということでかり出されたのですが、その場に集まった子どもたちはみんなで自由に遊んでいました。でも、そこに集まったのは、お休みの日に「お金をかけて遊ぶ施設」ではなく「自然の中で遊ぶこと」を選ぶようなお母さんやお父さんに育てられている子ども達です。実際、知り合いがいっぱいいました。そんな、「体験の場」が失われた社会でも、子ども達は「体験」を求めます。「体験が自分の成長につながる」ということを本能的に知っているからなのでしょう。親もまた、子どもに色々な体験をしてもらいたいと思っています。そこで、生活の中にあった「体験の場」が消えると共に、それを補うように「○○教室」なるものがいっぱい出来ました。無料だった体験が有料になったのです。私がやっている造形教室もその一つです。私が造形教室を始めたのは、当時5才と3才だった長女と長男に「作る楽しさ」を伝えたいと思ったからです。でも、作るにしても、歌うにしても、踊るにしても、それが楽しい活動になるためには「仲間」が必要になります。そして、周囲にそういう場がなかったので、自分で始めてしまったわけです。三番目の娘が生まれた時は「作る体験だけではだめだ、みんなで群れて遊ぶ体験もさせたい」ということで、「ポランの広場」という親子で一緒に遊ぶ活動を始めました。まだその頃は、私と同じようにそういう場を求めている人が多かったので、いっぱい生徒が集まりました。3月の時点で定員より溢れてしまい、4月以降の生徒の募集を締め切るほどでした。でも、最近では、子どもがまだ小さいうちから保育園を選ぶ人が増えてきたせいか、年々生徒が減ってきています。コロナの頃から特にその傾向が強くなっています。ここ数年は毎年「来年も継続出来るかな・・・」と手伝ってくれている人と話している状態です。(生徒募集中です)その保育園にも色々とあって、うちの活動と似た、子どもの遊びや群れや様々な自然体験を重視している活動をしている所もありますが、新しくできた都市型の保育園では、大人の管理の元、「子どもの自由な体験」よりも「安全の方を重視した活動」をしているところの方が多いような気がします。子どもに自由な体験を与えようと思ったら、当然、危険も増えます。うちの教室でもしょっちゅうノコギリやナイフや彫刻刀でケガをする子がいます。でも、うちの教室に子どもを通わせてくれているお母さんたちはそのことを了解してくれています。でも今、一般的にはそういうお母さんは少ないように感じます。今どきのお母さんの多くは、「自由な体験」よりも「安全」の方を大切にしているような気がします。実際、自由な体験をさせてくれる幼稚園や保育園よりも、安全で、しかも色々なことを教えてくれる保育園や幼稚園の方が人気があるみたいです。子ども達の生活の中から「子ども自身の意志に基づく自由な体験の場」が消えると共に、子ども自身も「子ども自身の意志に基づく自由な体験」を求めなくなりました。最近「教えてもらって当たり前」「手伝ってもらって当たり前」という感覚の子が増えて来ました。うちの教室でもすぐに「先生やって」「先生教えて」と言ってきます。それでも、出来るだけ自分でやらせるようにはしているのですが、どうしても無理なような場合は手伝います。でもそんな時でも、私にやらせるだけで子どもはそれを見て学ぼうとしません。私がやっている間どっかに行ってしまうのです。あと、気になるのは「何を作ったらいいの?」「何をしたらいいの?」といちいち聞いてくる子が多いことです。それで「自分が作りたいものを作りな」と言うのですが、それがないのです。そのような子のために造形関係の本を山のように揃えてあるのですが、最近の子は本を見ようとしません。「何か簡単に出来るものない?」と聞いてくる子も多いです。「ノコギリは疲れるからいやだ」とか、「ホットボンドは火傷するからいやだ」と言うくせに「木工用ボンドはすぐにくっつかないから嫌だ」などとも言います。昔は何週間もかけて大作を作る子が結構いましたが、今では全く少数です。箱や椅子のような立体的なものを作る時には構造を理解しなければならならないのですが、「考える」ということを面倒くさがる子も多いです。というか「考える」ということ自体がどういうことなのか分からないような子が多いのです。体験によって育つはずの想像力が育っていないのでしょう。昨今、闇バイトのニュースがいっぱい流れていますが、捕まっているのは20代の若者ばかりです。そういう若者が増えたのも当然のような気がします。そういう想像力が欠如した若者達に善悪や、倫理や、論理を説いても無駄なのではないかと思うのです。
2024.11.05
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子ども達は「見て」学び、「やって」学び、「聞いて」学びます。見なければやってみたいと思いません。やってみなければ聞きたいと思いません。そして、聞きたいと思ったことでないと、いくらいっぱい聞かされても身に付きません。子どもを育てる働きもしません。それが「子どもの育ちには多様な体験が必要だ」という理由でもあります。多様な体験が「学びに対する必要性」を与えてくれるのです。でも、現代の子ども達は「見る機会」を奪われてしまっています。「やってみる機会」も与えられていません。だから聞きたいと思わないのですが、大人たちはそんな子どもたちを椅子に座らせ、いっぱい話を聞かせ、それを覚えるように強制しています。そして、テストで、ちゃんと覚えたかどうかのチェックをしています。大人たちはその結果で子どもを叱ったり褒めたりしています。子ども同士を比較し、競争させ、覚えることに追い立てています。だから子どもたちは仕方なくそれを覚えるのですが、当然のことながら、自分自身の体験や必要性とは全く関係がない「試験のためだけに覚えた知識」には「子どもの心やからだや知性を育てる力」がありません。年齢が上がれば「器としての肉体」の方は成長するのですが、肝心のその「中味」が成長しないのです。それが現代の子ども達が置かれて状況です。それに対して、昔の子ども達には家庭の中や、仲間の中や、地域の中に「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」がありました。そして子どもたちは、そこで色々なものを見て、色々なことをやって、色々なことを体験することが出来ました。聞けば教えてくれる先輩や大人もいました。だから「学ぶ理由」や「学ぶ必要性」を感じることが出来たし、学んだことが子どもの成長につながったのです。でも今、そういう「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」に恵まれている子は少ないです。家族同士のつながりでさえも希薄になってしまいました。昔は「お手伝い」という「体験の場」がありましたが、最近の子にはそれすらありません。多くの子は学校で先生の指示に従って「みんな一緒」、「みんな同じ」を強要されるばかりで「つながりの中での自由な体験」は与えられていません。学校から帰ったら一人で遊んでいます。一人で遊んでいたら当然「好きなこと」や「出来ること」しかしません。そのため意識も、心の世界も、出来る事も、好奇心も、知識も広がりません。youtubeやネットの中では「自分が知らないこと」と出会うことが出来ますが、見たいものしか見ようとしません。また見ることは出来ても体験をすることが出来ません。そんな状況の中で育っている子ども達に、「学校や家庭ではできない体験」を与えてくれるのが「○○教室」という習い事です。学校とは異なった色々な人間体験も出来ます。「みんな一緒」「みんな同じ」を求められている学校で「仲間」を作るのはなかなか困難だと思いますが、最初から趣味や目的を共有して活動している「○○教室」では「仲間づくり」もしやすいでしょう。特に、スポーツ系の習い事では子どもだけでなく親同士のつながりも生まれやすいです。「お休みの日に一緒にバーベキューでもしようか」などという流れにもつながることがあります。また、自分で選んだ「○○教室」なら、自分の意思で見ようともするし、やりたいとも思うし、分からない所は聞きたいとも思うでしょう。またそのことが、子ども自身の心とからだの育ちにも肯定的に働きかけるでしょう。だから、「○○教室」に通っている子と、そうでない子との間に「体験格差」なるものが生まれ、それが「子どもの生きる力の違い」にも影響してくることがあると思います。また、体験の多い子の方が自己肯定感も高くなるのではないかと思います。ただし、「○○教室」に通うためには「お金」が必要になります。そのため「経済格差」がそのまま「体験格差」につながりやすいのです。それが、「体験格差」という本の中で今井悠介が言いたかったことのようです。ただし、学校でも「○○教室」でも同じなんですが、その指導が子どもの育ちに肯定的に働きかけるか、否定的に働きかけるかは、その指導者次第です。問題が多い指導者に指導されたら、○○教室に通うことでかえって子どもの成長が阻害されてしまう可能性すらあります。それが「肯定的な体験」なら子どもの肯定的な側面が育つのですが、「否定的な体験」なら否定的な側面が育ってしまうのです。ですから、ただ「体験が多ければいい」という単純な話しではないのです。また、お金がかかるが故に、親もまた、子どもに対してその投資に対する見返りや成果を求めます。高い月謝を払っているのに、子どもがちゃんと練習していないとイライラします。親子の関係にも影響してきます。親は「お金」を払うことで「親としての役割」を果たしているかのような錯覚に陥りやすいです。そのため、親と子をつなぐものが「お金」だけになってしまう可能性もあります。それに対して、昔の家庭の中や、仲間の中や、地域の中にあった「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」には、先輩や仲間はいましたが「行動を強制するような指導者」はいませんでした。やるのもやらないのも自分の意思で決めることが出来たのです。また、自分で「自分に合った体験」を選ぶことも出来ました。「木登り教室」に通ったら木登りしか出来ませんが、遊びの場では、木登りでも、コマ回しでも、「自分がやりたいこと」を自由に体験することが出来たのです。どういう体験が出来るのか出来ないのかを決めるのは「お金」ではなく「自分自身の意志」だったのです。そういう場が消えてしまったので「○○教室に」という話しになるのでしょうが、でも、「○○教室」では偏った体験しか出来ないのです。
2024.11.04
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桜を育てる時には、桜の特性を知り、その特性に合わせる必要があります。人間の都合に合わせるのではなく、育てようとする桜の特性に合わせるのです。そうでないと、どんなに立派な桜の木を育てようとしても失敗します。これは「育てる」ということにおける大原則です。草や木だけでなく、犬や猫や象などを育てる時も同じです。そして当然、人間を育てる時も同じです。でもみんな、人間を育てる時にはこの原則を無視してしまいます。そして、親の都合、社会の都合に合わせて子どもを育てようとしています。それは多分、子どもと大人は違う感覚、違う思考、違う意識、違うからだを持った別の生き物だということに気付かないからなのでしょう。「違っていること」は分かっているのですが、それは単に「子どもがまだ未熟だからだ」というように理解してしまっているのです。「同じ人間だし、自分も昔子どもだったので何でも分かっている」と思い込んでしまっているのでしょう。人はみな自分を物差しにして外の世界のことを見て判断しています。でも、その「自分という物差しを測る物差し」は持っていません。そのため、成長に伴う「自分から見た世界の変化」は分かっても、「自分自身の変化」は分からないのです。そのため、「子どもと大人の違い」を、「質の違い」ではなく、「量の違い」として理解してしまっているのでしょう。確かに、「量の違い」だけなら、「まだ子どもが知らないこと」をいっぱい覚えさせれば大人と同じようになるでしょう。風船が小さいのなら、空気を入れるだけで大きくなります。でも、人間の場合はそうはならないのです。子どもはその成長の過程において成長に必要なもの、見たいこと、やりたいことも変化しています。3才児と5才児とでは、「成長に必要なもの、見たいこと、やりたいこと」が異なるのです。5才児と7才児も、7才児と9才児も異なります。だから、子育てや子どもの教育においても、その年齢に合わせて、「子どもの成長に必要なもの」を与えてあげる必要があるのです。大人の都合に合わせて子育てや教育をするのではなく、子どもの都合に合わせて子育てや教育をするのです。でも、そんな事を言うと「そんなことをしたら子どもに振り回されてしまう」と言う人もいるかも知れませんが、それは大丈夫なんです。子どもの各年齢の特性に合わせて、環境を整え、大人と子どもが一緒に生活をして、子どもと子どもが一緒に遊んでいれば、子どもは自分の成長状態に合わせて、自分で勝手に「自分の成長に必要なもの」を吸収していくからです。子どもも大人も同じ人間であるからこそそういう仕組みが働くのです。人間が象を育てる時には象の特性をよく調べなくてはいけません。でも、象が象を育てる時にはそんなことする必要はないのです。他の象との関わり合いさえ保っていれば、子どもの成長に任せているだけで小象はちゃんと大人の象になるからです。でも、人間は、自ら手本を見せることなく、大人の都合、社会に都合に合わせて子どもを育て、教育しようとしています。「大人と子どものつながり」を作ろうとせず、「子どもと子どものつながり」も消してしまいました。だから子どもはその成長において迷子になってしまっているのです。
2024.11.02
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小学校の低学年ぐらいまでなら、子どもの勉強に付き合っているお母さんは多いですよね。幼稚園ごろから子どもの知育教育に熱心なお母さんも結構いますよね。でも、お母さんは勉強を教えない方がいいですよ。「勉強が出来る子」に育てたいのでしょうが、結果は「勉強が嫌いな子」に育つだけですから。そして、「勉強が嫌いな子」は中学生頃から急に失速し始めます。また、勉強を教えようとするお母さんは、当然、子どもよりも自分の方がよく分かっている、自分の方が賢いと思い込んでいます。そのため、常に「上から目線」で教えようとします。子どもがなかなか理解出来ないと「なんでこんなことも分からないの」などとイライラしたり、叱ったりもします。そして「親子の関係」も悪くなります。そもそも、「子どもよりもお母さんの方が賢い」というのは大きな勘違いなんです。お母さんはただ「正解を知っているだけ」だからです。「どうしてそうなるのか」を理解しているわけではないのです。(もちろん全員がそうだというわけではありませんが、そういうお母さんの方が圧倒的に多いです。)「1+1=2」ということを知っているから、「そんなの当たり前でしょ」と言うのです。そして、子どもがなかなか分からないと、ミカンなどを持ってきて実際にやって見せて教えようとします。でも、「1+1=2」を理解しているお母さんはそんなこと言わないと思います。でもそのようなお母さんは少ないです。数学的な「1」と、「ミカン1個」は全く別のものです。これが同じものだと思い込んでしまった子は、分数や、小数点や、虚数が出て来ると途方にくれます。お母さんは、自分が知識として知っていることを子どもにも覚えさせようとします。でも子どもは「覚えようとする」のではなく「理解しようとしている」のです。お母さんは「1+1=2」を覚えさせようとしますが、子どもは「1+1=2」を理解しようとしているのです。だから手間がかかるのだし、お母さんと話が合わないのです。実は、お母さんよりも子どもの方がズーッと頭を使っているのです。そのことは知っておいた方がいいと思います。子どもが生きているファンタジーの世界も、子どもが自分の頭で自分が生まれてきた世界を理解しようとした結果です。ですから、大人がやっている空想とは全く別のものです。子ども達がお話しや、物語や、絵本が大好きなのは、そのような物語を聞くことが、「自分が生まれてきた世界」を理解する手助けになるからです。その際、ネコが長靴を履いていても、ウサギが人間の言葉を話していてもそれは大した問題ではありません。大事なのはそのようなお話しを通して、自分が生まれてきた世界が「つながり」によって支えられていることを知ることだからです。でも、頭を使わなくなって久しいお母さんはそのことに気付きません。そして、覚えるように強制するだけで、理解する手出すけを与えようとはしません。その結果、子どもは「考える楽しさ」「理解する楽しさ」「知る楽しさ」「想像する楽しさ」を体験することなく、暗記だけで対応するようになります。確かに、小学校のうちは「暗記に頼った勉強法」が有効です。暗記するだけで簡単に成績を上げることが出来ます。そのため、この勉強法の問題点に気づかないのでしょう。でも、暗記は楽しくありません。ただの作業です。いくらいっぱい覚えても、子どもの成長を支える働きもしません。また、知識をいくらいっぱい覚えても、理解する能力が育っていない子は、その知識を使いこなすことが出来ません。何か問題が起きても、ネットなどで知識を探すばかりで、自分の頭で考えようとしなくなります。こういう状態の子は闇バイトなどでもすぐに騙されてしまうでしょうね。また、子育てでも苦労します。子育ては、どんなにいっぱい知識を持っていても、ほとんど役に立たないからです。「1+1=2」を知っていても子育てには役に立ちませんが、「1+1=2」を理解している人はそれを子育てにも応用できるのです。子どもが何か問題行動をした時、子どもの立場に立って「なんでだろう?」と考えることが出来る人は、子育てを楽しむことが出来ます。でも、ネットなどですぐに対処法を探すような人は子育てを楽しむことが出来ません。子どもが「1+1=2」が分からない時、知識を教えるのではなく、子どもの視点に立って一緒に考えることが出来る人は、子どもの学びを支えることが出来ます。<続きます>
2024.11.01
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昨日は、ただ話しが長くなるのでこのくらいでこの話しは止めておきますが、「中身から始める方法」にも短所があります。「形から始める方法」にも長所があります。大切なのは、「いずれの方法を採るにしても、その短所と長所のことをちゃんと理解した上で、状況に応じて自由に考えた方がいいですよ」ということです。と書きましたが、実は子どもの成長には「中身」も「形」(型)も両方必要なのです。ただし、学ぶ順序に気を付ける必要があります。9才、10才頃までは中味を充実させた方がいいです。その頃までは形や型に囚われないで自由に学び、自由に遊び、自由に踊り、自由に作り、自由に動くことで、「学ぶって楽しい」「遊ぶって楽しい」「踊るって楽しい」「作るって楽しい」「動くって楽しい」ということをからだに浸みこませる必要があるからです。これが「生きるって楽しい」という感情と「前向きに生きるための意志」を育ててくれるでしょう。でもその頃から、子ども達はもっと上を目指すために「形(型)」に興味を示し始めます。自由なやり方、楽しいだけのやり方だけではどうしても限界があるからです。そのため、この頃になると、先人たちが学んできたこと、やってきたことにも興味を示し始めます。そしてそこに形や型を探ろうとするのです。ただ自由に描いてきただけの子が、「セザンヌの描き方」「ルーベンスの描き方」「クレーの描き方」に興味を示し始め、真似をし始めるのです。9才、10才ごろになると、抽象化する能力が目覚め始めるので、そういうものが見えるようになってくるからです。子ども達に「形」(型)を教えるのはその頃からでいいのです。でも、いつまでも「形」(型)にこだわっていたら、自由になれません。自分らしさを発揮できません。それで、成長が一段落した20才ごろから、子ども達はそれまで学んできた「形」や「型」を自ら壊し始めるのです。(ただし、言葉や、生活の場での形や型は幼い頃から学んでおく必要があります。遊びの場における遊び方やルールも形や型の仲間です。その形や型が学べなかった子は仲間ともつながることが出来なくなります。形や型は「他者とつながるための言語」でもあるからです。)でも、壊しても感覚やからだの中に染み付いた形や型は抜けません。だからこそ、先人が築いてきたものを土台にして、「自分らしい表現」「自分らしい生き方」が出来るようになるのです。その形(型)学べなかった子は、自分勝手に考え、行動する事になるでしょう。多くの一流の絵描きたちが「子どもの自由な表現」を褒めます。棟方志功も、私が絵を学んだ里見勝蔵も、子どもの絵を褒めていました。でも美術館には、棟方志功の絵も里見勝蔵の絵もありますが、「子どもの絵」はありません。美術館に絵が飾られるような人が褒めているのに、その人達が褒めている「子どもの絵」は飾られていないのです。なんでだか分かりますか。それは、子どもの絵には命の輝きと、常識にとらわれない自由さと、その子らしさはありますが、人類がこれまでに発見し、積み上げてきたものがないからです。子どもの絵のすばらしさは、自然のすばらしさと同じなんです。自然の中で咲いている花の美しさと同じなんです。絵描きはその自然の素晴らしさに驚きあこがれ、それを自分なりの解釈で絵にしようとします。その絵の中には、その絵を描いた人の生き方や、感覚や、心も表現されています。そしてそれが、絵を見る人の生き方や、感覚や、心に響くのです。でも自然はただそこにあるだけです。その「ただそこにあるだけ」のものの中に隠された「真実」や「美」を読み解き、自分のものとして表現するためには何らかの訓練が必要になるのです。形や型の学びはその時に必要になるのです。茶道には細かい型の決まりがあります。でも、それを究めた千利休は茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべしと言いました。論語を書いた孔子は70才を超えて「心の思うところに従えども矩を踰(こ)えず」と言いました。それは、徹底して形や型を学んだ結果としてたどり着いた、形も型もない自由な境地です。不自由になるためでなく、自由になるために形や型を学ぶのです。
2024.10.31
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欧米では「民主主義」という形を0から創り出しました。中身の発達が形を創り出したのです。そのため、必要に応じて自分たちの判断でその形を変えることが出来ます。でも、日本における民主主義は、明治に入って欧米の形をそのまま取り入れ、それに合わせて国の在り方を変えようとしてきました。日本では中身よりも形の方が先にあったのです。それは「民主主義」という形だけでなく、日本の文化の多くがこのような形で中国などから入ってきました。でも、その対応には二通りの形がありました。形の方が先にあっても、その形の中に中味が入っていく過程で、その中身に合わせて形を自由に変化させるやり方と、形を固定して中味の方を無理やり形に合わせようとするやり方の二つです。そして日本人は「形の中に中味が入っていく過程で、その中身に合わせて形を自由に変化させるやり方」が得意です。ですから、中国などから入った文化を独自な形で進化させ、長い時間をかけて日本独自の文化に作りあげました。漢字は中国から入ってきましたが、それを日本の言葉に合わせて躊躇なく形を変え「ひらがな」を創り出しました。それに対して韓国では、漢字を否定して、自分たちの言葉を扱うための全く新しい文字を創り出しました。でもその一方で、どこまでも形にこだわろうとする人たちもいます。特に支配階級の人にその傾向が強いような気がします。なぜなら、支配階級の人にとっては「形」こそが既得権そのものだからです。実際、中国語(漢文)は支配階級の教養としてズーッと受け継がれてきました。その背景には儒教の影響が大きいような気がします。幕末から明治にかけて欧米に渡って民主主義の形を学んできた人たちは、日本にその形を伝えるだけでなく、その形の中に自分たちの居場所を作りました。ですから、形の維持が自分たちの権力の維持にもつながったのです。明治維新は、300年続いた「徳川幕府を中心とした形」を、地方の支配階級の人たちが、それ以前にあった「天皇を中心にした形」に戻そうとする運動でした。つまり、明治維新は「支配階級同士の形の奪い合い」であって、民衆が革命を起こして「民衆のための新しい形」を創りあげようとしたわけではありません。明治維新によって、日本はまた「天皇を中心にした国」に戻りましたが、その「天皇」という存在もまた形式的なものです。確かに、形式的には「天皇」が中心なのですが、それはあくまでも「形」の話なので、天皇その人が政治の中心にいて、政治を動かしていたわけではありません。天皇はあくまでも御旗であって、天皇個人に強い発言権はなかったのです。それは今でも同じです。その結果、戦争を始めたのは天皇以外の人たちなのに、その責任だけは天皇に負わされました。欧米人の感覚からしたら、「一番偉い人の命令で国民が動いた」と理解するのは当然だからです。でも日本では一番偉い人はただ「形を整える」ためだけにいる場合が多いのです。「何かあったら責任を取らせるための存在」ということです。これはアメリカの大統領の権力と、日本の総理大臣の権力の違いを見ても明らかです。石破さんは、形式的には自民党のトップですが、どうやら実質的な権力は他の人が握っているようです。日本の社会には「形式的な責任者」や「隠れた支配者」はいても、「支配権を持った責任者」」は存在していないのです。そしてその「隠れた支配者」は、形の中に得た自分たちの既得権を維持するために、形を変えることには抵抗します。だからいつまで経っても変わらないのです。そのやり方が失敗しても、「形式的な責任者」を取り替えるだけで済ませてしまうからです。形優先の考え方は責任の所在を曖昧にする隠れ蓑にしやすいのです。そして新しいことをやろうとすると「前例がありません」と言って拒否します。それがいわゆる「お役所仕事」と呼ばれるものです。校則も「大人の権威」「教師の権威」「学校の形」を守るためのものです。子どもの意見に合わせたものではありません。そのため、時代や、社会や、子どもが変わっても、その変化に合わせて校則を変えるなどと言うことはしません。教育先進国と呼ばれるフィンランドに教育視察に行くお役人や、学校関係者は結構いるみたいです。で、以前その実態について書いた記事を読んだことがあるのですが、日本から視察に来た人の多くは、パンフレットをもらって簡単な説明を聞き、設備や制度などの箱物(形)を見るだけで帰ってしまうそうです。自分から質問はしないし、実際にその場で活動している人たちの話も聞こうとしないそうです。箱物(形)にしか興味がないのでしょう。ただ話しが長くなるのでこのくらいでこの話しは止めておきますが、「中身から始める方法」にも短所があります。「形から始める方法」にも長所があります。大切なのは、「いずれの方法を採るにしても、その短所と長所のことをちゃんと理解した上で、状況に応じて自由に考えた方がいいですよ」ということです。
2024.10.30
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今、テレビでは選挙の話題でもちきりですが、NHKのサイトではこの「選挙の争点」を以下のようにまとめていました。今回の衆議院選挙で重要な論点となる政策や課題。「改正政治資金規正法」「政策活動費」「物価高の現状」「金融政策」「少子化対策」「防衛力強化・防衛増税」「憲法改正」「緊急事態条項」「女性・女系天皇」「選択的夫婦別姓」今の日本人は、このようなことにしか関心がないのでしょうか。実際、選挙に関するテレビのニュースを見ていても、「子育て」や「教育」に関する問題は全く存在しないかのようにスルーしています。でも、「子育ての在り方」や「教育の在り方」は、国家の根幹や人類の未来につながる非常に大切なことなのです。これは誰も否定できない事実なんです。戦争を起こすのも人間、そして、平和を創り出すのも人間です。それはつまり「どういう人間を育てるのか」ということが人類の未来を決めてしまうということなんです。ですから、世界の平和を願うのなら「世界平和」や「戦争反対」を叫ぶだけでなく、子育てや教育の在り方についてもっと議論すべきなんです。でも、そういう視点から子育てや教育について発言している人をテレビでは見たことがありません。また、今、学校に行けない子、学校に行かない子が増えています。学校に行っていても、学校が楽しい場ではなくなってしまっています。これは先生たちも同じで、先生たちも苦しんでいます。登校拒否する先生もいます。うちの子が小学生の頃、「職員室登校」をしている先生がいました。職員室までは行けるのですが、自分のクラスには行けないのです。「保健室登校」の先生版です。そんなこんなで、今、私の周囲には「子どもが生き生きするような学校(場)を作りたい」と言っている人がいっぱいいます。実際に、学校を作ろうとしている友人もいます。そのような問題を扱った映画もあって、色々な所で自主上映会が行われています。でも、なぜか私はそういう活動や映画にかすかな違和感を感じていたのです。最近、その違和感の正体が分かってきました。それは、そのような場や映画では、「学校について」の議論はあっても「子どもの成長」や「教育について」の議論があまりないからです。「学校ありき」から話が始まってしまっているのです。「学校」は教育の「入れ物」です。「中身」ではありません。確かに「入れ物の形」は「中身の質」に大きな影響を与えています。「入れ物」が歪めば「中身」も歪みます。「入れ物」ばかり立派でも、中味と合っていなければ中身は歪んだり腐ったりしてしまいます。だから「学校という入れ物」について議論するのは的外れではないのですが、「学校」から話が始まってしまうと「本当の問題」が見えなくなってしまうのではないかと思うのです。私は、まず「子どもの育ちを支えるためにはどういう教育が必要なのか」という議論が先にあって、「学校の形」は、その議論に合わせてその後考えればいいことなのではないかと思うのです。その結果「学校なんかなくてもいい」という結論があってもいいと思います。私は、教育の問題はまず「人間とはどういう存在なのか」という議論から始まるべきなのではないかと思っています。「学校の形」や「教育の形」を考える前に、「その対象となる子どもをどう理解するのか」、「人間という存在をどう理解するのか」ということを考える必要があるのではないのかということです。子どもや人間についての本質的な理解がないまま、「教育の方法」や「学校の形」を考えても意味がないような気がするのです。幸せに生きることが出来るような子どもを育てるための子育てに必要なのは、「子どもの成長を支えるような子育て」であって、「お母さんの都合や、子どもの要求に応えるような子育て」ではないのです。でも、そのような子育てを行うためには、子どもという存在、人間という存在に関する理解が必要になるのです。それは教育に関しても同じです。今の子ども達の状態や要求に合わせて学校(入れ物」を作っても、社会の変化に合わせて子どもの状態は変化します。その際、「入れ物の形」から考えた教育では、子どものその変化に対応できないのではないかと思うのです。実際、私が子どもの頃は「今の学校の形」が十分機能していました。一クラス50人いましたが、崩壊している学級などありませんでした。学校に行けない子も全く少数でした。多くの子が喜んで学校に行っていました。今、学校は様々な困難を抱えていますが、それは学校が変わったからではなく子どもが変わったからです。学校がその子どもの変化に対応できていないのです。だから今の子どもの状態に合わせて新しい学校を作ろうとするのでしょうが、「子ども」や「人間」について深く理解し、その視点に立って「教育の在り方」に関する議論をしないまま、今の子どもに合わせて学校の形だけを整えてしまうと、またすぐに子どもに合わなくなってしまうのではないかと思うのです。子どもは常に変化していますから。人類何万年という歴史の中で、「学校」というシステムが出来たのはつい最近のことです。日本も、明治になるまで、「子どもを育てる場」はありましたが、今のような「学校」はありませんでした。ネイティブアメリカンの人たちは高い精神性を持っていますが、それは学校教育で育てたものではありません。「人と人のつながり」によって育ったものです。なぜそう思うのかと言うと、日本でも同じだったからです。学校が存在していなくても、「人と人のつながり」があれば子どもは育つのです。そして、そこが教育の原点なんです。でも、近代社会を維持する能力を育てるためにはやはり「学校」というシステムが必要です。でも、「学び」の基本は「人と人のつながり」なんです。これは時代を超えて変わらないのです。だから、「学校の形」から考えるのではなく、「人と人のつながりをどのように実現していくのか」というところから「学校」を考えた方がいいのではないかと思うのです。もしかしたら「学校」という形をとる必要もないかも知れません。「人と人のつながり」がある場なら、子どもにとっては「学校」として機能するのですから。
2024.10.29
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私が子どもの頃(昭和20~30年代)は、凧や、水鉄砲や、竹とんぼなどの遊び道具を作るときにはまず材料探しから始めました。そして、材料に合わせて構造やデザインを考え、自分で測って、自分でノコギリやナイフなどを使って作りました。ですからそこには上手下手がありました。小さい子たちは上手に出来ないので、一生懸命に大きい子のやり方を観察しました。そして工夫しました。でも、自分で考え、自分で工夫し、自分で作ったものですから、うまくできた時にはすごく嬉しくなりました。そしてその過程で多くのことを学びました。自然の見分け方、自然とのかかわり方、自分の意識や、感覚や、頭や、からだの使い方も学ぶことが出来ました。目の前の現実に即した考え方も学ぶことが出来ました。また、仲間とのつながりも作ることが出来ました。でもそのような体験や学びの場は、高度経済成長の頃に「子どもの群れ」が消滅した時点で消えていきました。代わりに現れたのが「プラモデル」という、材料も作り方もキットになった工作です。プラモデルでは材料を集める手間も必要ないし、デザインを考える必要もないし、長さを測ったり、ナイフやノコギリを使って切ったりする必要もありません。ケガをする可能性もなければ、マニュアル通りに造ればだれでもお店で売っているようなかっこいいものを作ることが出来ました。自然の中に出ていく必要もなくなりました。自分の部屋の中だけで工作が出来るようになったのです。出来たものを見せ合う仲間はいたかもしれませんが、一緒に造る仲間は必要がなくなりました。その時点で「工夫したり、考えたり、測ったりする能力」や「道具を使いこなす能力」は必要がなくなりました。新しく必要になったのは「マニュアルを理解する能力」と「お金」です。プラモデルでは、正解というかゴールが決まっているので最後までちゃんとやり遂げれば達成感を得ることが出来ます。ジグソーパズルと同じです。また、お店で売っているものと同じような「かっこいいもの」を手に入れることが出来ます。ただ、自然の中に入って材料を取ってくるような工作はAIロボットには出来ませんが、材料とマニュアルを与えられ、組み立てるだけならロボットでも出来ます。実際、自動車などはロボットが組み立てているのですから。でも次第に、「マニュアルを理解して組み立てる」という作業にも困難を感じる子どもたちが増えてきました。「作る」という体験が乏しい子は、マニュアルを読み解くことが出来ないからです。実は、マニュアルを理解するのにも体験が必要なんです。実際、プラモデルにはまった世代は、「自分の手で作る」という文化に触れて育った子ども達なんです。その後は、「買ってすぐに遊べるオモチャ」が普及しました。百均に行けば、凧や弓矢など、昔の子ども達が手作りしていたオモチャを簡単に手に入れることが出来ます。でも、今の子はそのような「アナログオモチャ」にはあまり興味を示しません。買ってもらっても遊び方が分からないからです。最近の子が欲しがるのは、「自分がそれを使って遊ぶオモチャ」ではなく「遊び方を指示してくれるデジタル的なオモチャ」の方です。とうとう、遊びの主人公が子どもではなく機械になってしまったのです。そこで必要になるのは「お金」だけです。そのような流れの中で、「自分の手で何かを作りあげる」ということに喜びを感じない子ども達や、手を使うことを「面倒くさい」と感じる子ども達や、考えたり工夫することを億劫がる子ども達が増えてきました。最近の子ども達はこのような状態です。このような状態の子は、他の子が作ったものを見て「僕も作りたい」ではなく「僕も欲しい」と言います。私が見本で作ったものを置いておくと「これちょうだい」などと平気でいいます。そんな時は、「あげないよ、自分で作るんだよ」というのですが。「じゃあ、いらない」と言うだけで作ろうとはしません。この影響は勉強にも出ています。あれこれ工夫しながら勉強すると勉強が楽しくなります。でも、工夫する能力が低下した子どもは学ぶことを楽しめないため、暗記するだけで対応しようとします。でも、暗記だけでなんとかなるのは小学生のうちだけです。
2024.10.28
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人類は、不便や危険だけでなく、自分で感じ、自分で考え、自分で行動する事を嫌い、機械や様々道具などを使って、「どのようにしたら簡単に、努力せず、楽に結果を得ることが出来るようになるのか」かということを色々と考え、研究してきました。その願いを実現するための機械も発明してきました。人々が追い求めたのは、「生活の場における安全、簡単、便利」だけでなく「戦争における安全、簡単、便利」も追い求めました。というか、戦争におけるそのような研究の方が生活の場における研究よりも先にありました。コンピュータも戦争に勝つために開発されました。「生活のための発明」が戦争にも応用されたのではなく、「戦争のための発明」が生活の場に応用されたのです。その結果、世の中はどんどん簡単で、便利で、安全になりました。今では、お料理の仕方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。昔はお金を稼ぐためには汗水垂らして働く必要がありましたが、いまでは、自分の部屋の中でイスに座ったまま、ゲーム感覚でお金を稼ぐことまで出来るようになりました。でも、便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の能力や機能は低下するのです。人間のからだは必要に応じて成長するように出来ているからです。考える必要がない生活、考える必要がない遊び、考える必要がない勉強を繰り返していたら考える能力は育たないのです。感じる必要がない生活、感じる必要がない遊び、感じる必要がない勉強を繰り返していたら感じる能力は育たないのです。自分の意志で行動する必要がない生活、機械や道具に頼りからだを使わない遊び、からだとのつながりを失った勉強ばかりしていたら、能動的にからだを動かす能力は育たないのです。その結果、暗記するだけの勉強をしてきた子は、善悪の判断をすることも出来なくなるでしょう。簡単で便利な生活や遊びしか知らない子は、自分が生きている世界の現実を知らないまま成長するでしょう。そのため、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で行動する事が出来なくなってしまった子は、簡単に、嘘の情報に騙されてしまうのです。いくら「嘘の情報に騙されないで」と言っても、相手はその裏をかいてくるのですから、結局は引っかかってしまうのです。
2024.10.27
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ここのところ、テレビのニュースを見るたびに「闇バイト」のことが話題になっています。そして、「安全なバイト」と「危険なバイト」をどう見分けたらいいのかということをコメンテーターの人が語っています。でも、いくら「見分け方」を教えてあげても、「闇バイト」を企画する人は、その「見分け方」の裏をかいて「安全なバイト」と見せかけるように工夫するので、「見分け方」をいくら教えても意味がないのです。むしろ、その「見分け方」を信じることで「闇バイト」の世界に取り込まれてしまう可能性だってあるのです。「闇バイト」を企画するような人は、「短期間で、苦労せず、楽に、簡単に高額なお金を手に入れたい」というような考え方をする人の取り込み方をよく知っているからです。だから、どんなに「気をつけて」とテレビで訴えても、そのような安易な考え方が消えない限り、遅かれ早かれ引っかかってしまうのです。でも今、ゲーム感覚で「短期間で、苦労せず、楽に、簡単に高額なお金を手に入れたい」と考えるような若者が増えているような気がするのです。そしてそれが可能だと思い込んでいる若者も多いような気がします。昔の人は、「お金とは、コツコツと汗水たらし、努力して、苦労して手に入れるもの」だと思っていましたが、今時の若者はもっとスマートに、簡単に、楽をして、高額なお金を手に入れたいと思っているのです。そしてそれが可能だと思い込んでいます。その背景にはネットやテレビなどの影響もあります。実際、ゲーム感覚でお金を転がして大金を手にする人もいます。また、そういう人がテレビで取り上げられたりもします。子ども達に人気の職業に「ユーチューバー」がありますが、動画の画面からは分からないユーチューバーの苦労までは知りません。体験がないので想像のしようがないからです。そして、一部の成功したユーチューバーだけがかっこよくネットやニュースなどで取り上げられています。「ぼく、ゲームが好きだからゲームクリエイターになる」と言う子もいますが、ゲームで遊ぶのとゲームを作るのは全くの別の世界だということを知りません。実際にやってみた体験が乏しいので「空想」と「現実」の違いが分からないのです。造形の場でも、とてもその子には出来ないようなことでも「大丈夫、ぼく、作り方知っているから」などと簡単に言って、ちょっと始めてから「思い通りに行かない現実」に突き当たって諦めてしまう子が多いのです。でも、「闇バイト」の方は、「これはまずいぞ」と気付いた時にはもう抜け出せないのです。今では、ネットの操作に詳しければ、誰でもが簡単にゲーム感覚で「闇バイト」を企画することが出来てしまいます。小学生だって「闇バイト」を企画して実行犯を募集することができてしまうのです。そして、「短期間で、苦労せず、楽に、簡単に高額なお金を手に入れたい」という人が、「短期間で、苦労せず、楽に、簡単に高額なお金を手に入れたい」という人に餌をちらつけせて実行犯に仕立て上げるのです。「短期間で、苦労せず、楽に、簡単に高額なお金を手に入れたい」と考える人間がいる限り、闇バイトは消えないし、それに引っかかる人も消えないのです。また、それを見破る能力を育てるためには、「知識を覚えるような教育」ではなく、「実際の体験を通して学ぶ教育」が必要になるのです。「実際の体験を通して学ぶ教育」を受けた子は、「空想」と「現実」の違いを知っているので、闇バイトの募集文面を見ても「これはおかしい」と気付くのではないかと思うのです。
2024.10.26
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昨日は、群馬の上州福島という所に向かうため上信電鉄というローカルな電車に乗ったのですが、私が座っている席の前にお母さんと2,3才の子が座っていました。そして、子どもが「お腹が空いた」と言ったみたいで、お母さんが子どもにおにぎりを食べさせていました。子どもは口を開けたまま座っています。そして、お母さんがその口におにぎりを運んであげているのです。子どもは手も何も動かさず、大人しく口を開けて待っています。まるで小鳥の餌やりのようでした。(小鳥よりも大人しかったですけど・・・)ちなみに、お人形相手に「お母さんごっこ」をやっている子ども達も、お人形相手に同じようなことをしています。そして、このような風景は日常的によく見かけます。その度に私は、「なんで手に渡して自分で食べさせないのだろう」「なんで自分でやらせないのだろう」と思うのです。お人形は動けないので100%世話をしてあげる必要がありますが、人間の子どもは自分で動くことが出来るのですから。確かに子どもは食べるのが下手です。ボロボロこぼすし、手も汚いし、遊びながら食べます。また、いつまでも食べ終わりません。とても「お行儀よく」なんて食べられません。でも、お母さんがお口に運んであげる食べさせ方なら、子どもは口を開けておとなしく待っています。ボロボロこぼすこともないし、汚れた手で食べたりすることもないし、食べ物で汚れた手であちこち触ることもないでしょう。さらに、子どもの世話をすることでお母さんの母性本能も満たされるし、「自分の存在価値」を創り出すことも出来ます。「子ども想いの優しいお母さん」を演じることも出来ます。「ちゃんとできない子どもが引き起こすトラブル」を減らすことも出来ます。お母さんにとっては「いいことずくめ」です。でも、お母さんにとっては「いいことずくめ」なんですが、「子どもの自立」という点から見たら、このような子育ては「困ったことずくめ」なんです。なぜなら、お人形扱いされている子どもには「成長する必要」が発生しないからです。成長欲求も目覚めないでしょう。自分でやるよりも世話を受けている方が楽なんですから。お人形は100%受け身です。自分からは動きません。それは当然なんですが、人間の子どもはそれでは困るのです。なぜなら、人間の子どもはやがてお母さんから離れていく必要があるからです。でも、何でもかんでもお母さんにやってもらっていた子どもは、お母さんから離れる時期が来ても離れることが出来なくなってしまうのです。「お母さんから離れたら、自分一人では何にも出来ない」ということを知っているからです。そのような状態の子は、仲間と遊び、仲間との関わり合いを通して色々なことを学ぶことが必要な年齢になってもお母さんから離れることが出来ないのです。何んでかんでもやってもらっているうちに、お母さんがいないと何も出来ない状態に育ってしまうからです。お母さんが「自分」の一部になってしまうのです。それはいわゆる「共依存」という関係です。そして、お母さんと共依存の関係になってしまった子は、この頃からお母さんを自分の家来のように支配し始めます。それまでは一方的にお母さんの世話を受けていただけなんですが、その頃から、積極的に「自分にはできないこと」をお母さんにやらせようとし始めるのです。お母さんにやらせることで自己実現をしようとするのです。中身が育っていなくても、子どもの成長は自動的に次の段階に入ってしまうのです。でもその要求をお母さんが拒否したり、子どもの期待通りにできないと、暴れたり暴力的になったりしまう子もいます。また、やってもらっても感謝しません。だってお母さんは自分の召使なんですから。そういう親子関係が出来上がってしまうのです。でも当然のことながら、お母さんは子どもの召使ではありません。子どもの成長を支えるためのサポーターであり、子どもと生活を共にし、色々なことを伝え、一緒に色々なことを学び、一緒に育つ仲間のはずです。子どもがお母さんを召使い扱いし始める頃になって、それまでの子育てを反省する人もいますが、でもお母さんが反省しても、子どもの方はそう簡単に変わりません。また、子どもの自立を支えるような子育てをするためには、お母さん自身が精神的に自立している必要もあります。お母さんが自立しているから、子どもも自立することが出来るのです。それまでの子育てが間違っていたと気付いても、精神的に自立していないお母さんは子どもの要求に逆らえないのです。精神的に自立していないお母さんは、「自分の価値観に合わせた子育て」が出来ないので、「子どもの要求に合わせた子育て」をすることで安心しようとするのでしょうか。
2024.10.25
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自己を表現しないと「自分」と出会えません。それは「自分を写す鏡」がないと、自分の顔すら分からないのと同じです。「自分が表現したこと」は「自分の姿を写す鏡」でもあるのです。でも同時に、「自分」を知るためには、周囲にも「自分を表現する人」がいる必要があります。自分だけが自分を表現しても、周囲に「比較する対象」がいなければ、「自分の表現の特色」、つまり、その人の個性が分からないからです。自分が描いた絵の特色を知るためには、自分の周囲に「絵を描く人」が何人もいる必要があると言うことです。ピカソの絵の特徴を知るためには、様々な絵描きの絵と並べてみる必要があると言うことです。だから、気質のワークをする場合はある程度の人数が必要になるのです。でも、多くの日本人は「自分」を表現しようとしません。だから、「自分が知っている自分」は存在していますが、「他者から見た自分」がどのような存在なのかが分からないのです。自分の能力や可能性も分かりません。それがどんな事でも、考えるだけで実際にやってみようとしない限り、その活動に対する自分の能力や可能性は分からないのです。そこにあるのは、せっかく与えられた「自分の命」を無駄に過ごしている空しさと、孤独感と、不安だけです。まただから、「他者の目」が気になるのです。そして、人と違うことはやろうとしないのです。そして「空気」と同化しようとするのです。そんな、みんなが空気と化している社会で、一人だけ自己を主張したら「面倒くさいやつ」だと思われ、非難や否定をされると思っているのでしょう。「自分が知っている自分」は「自分の中にしか存在していない自分」です。その「自分の中にしか存在していない自分」は、直接社会とつながっていないため、何ら社会的な活動が出来ません。でも、他の人は「その人の中にしかいない自分」ではなく、目に見え、手で触れることが出来る「その人」そのものの社会的な活動(表現)を通して「その人」のことを知り、その人のことを評価しようとします。その時、「他者の反応は自分の鏡」ということを知っている人は、積極的に色々な活動を通して「自分」を表現し、そしてその反応や結果を通して学び成長していくでしょう。また、「自分の表現」に対する相手の反応を通して「他者の目から見た自分」のことを知ることが出来るでしょう。自分の能力や可能性のことも知ることが出来るでしょう。もし、自分の人生を自分らしく生きたいと願うのなら自分を表現することから逃げない方がいいのです。自分らしく生きるためには、まず「自分には何が出来て、何が出来ないか」を知る必要があります。また、「何をやっていると楽しくて、何をやっていると苦しいのか」も知る必要があります。でも、それは「心の中」ではなく「社会の中」で、実際に自分を表現しようとしない限り知ることは出来ないのです。命も人生も、「心の中」ではなく、「肉体が存在している世界」に存在しているのではないのですから。
2024.10.24
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気質の講座を長いことやってきていますが、その受講生がよく言うのが「他の人の気質は分かるようになったけど、自分の気質がいつまで経っても分からない」ということです。気質に関する本を読むと、胆汁質、多血質、粘液質、憂鬱質の、四つの気質の特徴が書いてありますが、その特徴を手掛かりにして他の人の気質は分かるのですが、自分で自分の気質を探ろうとすると、その四つの気質の特徴全てが自分の中にあることに気付いてしまうからです。それで、分かんなくなってしまうのです。実際、人はみな四つの気質すべてを持っています。それが普通の状態なんです。でも、だから、自分で自分の中を探れば四つともすべて見つかってしまうのです。そして、分からなくなります。でも、その気質の状態に偏りがあるのです。その「偏り」に応じて「あの人は○○質」と言っているのですが、その偏りは「癖」のようなものなので自分では気付かないのです。人はみな「歩き方の癖」を持っていますが、でも、その癖は周囲の人には見えても、自分では見えないのです。それが「癖」というものの特徴でもあります。そしてその「癖」に当たる部分が「その人の気質」なんです。人はみな四つの気質を持っています。でも、全体として胆汁質が強い人や、全体として多血質が強い人がいるのです。その中間状態の人もいます。それが「癖」です。それは平均気温が低い北海道にも四季があり、高い九州にも四季があるようなものです。その平均気温が「癖」に相当します。でもその平均気温が高いのか低いのかは色々調べたり、実際に自分が住んでいる所とは違う所に住んでみなければ分かりませんよね。人は「変化するもの」は認識することが出来るのですが、「変化しないもの」は認識できないからです。北海道に行っても九州に行っても四季はあります、でも「南国の春」と「北国の春」は同じ「春」でも全く異なっていますよね。でも、その違いは体験しなければ分からないのです。だからいくら自分で自分の中を探っても分からないのです。気質のワークで「自分はどういう人だと思いますか」という自己評価を聞くことがあります。その時、そのワークの参加者がお互いによく知っているメンバーだと、面白いことが起きるのです。周囲の人も、本人の自己評価通りに感じていることもありますが、時々、全く正反対な事もあるのです。自分に厳しい人は、自分の事を「自分はダメな人間だ」と評価します。でも、周囲の人は「あの人はスゴイ人だ」と評価している場合が多いのです。逆に、「自分はいい人だ」と思い込んでいる人の評価が悪いこともあります。色々なことにチャレンジしている人が「自分は不器用で」などと言うと、周囲の人が「エー」という反応を示すこともあります。長年このような気質のワークをやっていると、いかに「自己評価」が当てにならないのかがよく分かるのです。皆さんも「自分が気付いていない自分の能力や魅力」を持っているのかも知れませんよ。その逆もあるかも知れません。そういうことは、みんながいる場で「自分」を表現してみないことには分からないのです。ちなみに憂鬱質や胆汁質の人は「正解」を求める傾向があります。そのため、自分や他の人に厳しい評価を与えることが多いです。でも、粘液質の人は「正解」を決めません。「多血質」の人は自分が正解だと思っています。
2024.10.23
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昨日、お母さん達から聞いた話では、「スマホで樂天ブログを見ようとすると広告がしつこくて見にくい」という状態のようです。で、そのような状態の人は、同じ内容をアメバブログの方にも「森の声」で上げているのでアメバの方を試してみて下さい。https://ameblo.jp/morinoinochiです。**********************子ども達に工作を教えていると、やってみる前から「出来ない出来ない」と防御線を張る子がいっぱいいます。これはお母さんたちでも同じで、「絵を描きます」「自己表現ワークをします」と言うと「出来ない出来ない」と言って逃げようとするお母さんがいっぱいいます。でも実際には、やってみたら出来ちゃう子やお母さんがいっぱいいるのです。というか、チャレンジしたお母さんはみんな出来てしまいます。もともと最初から、「誰でも出来るようなこと」しか求めていませんから。中にはその逆に、絶対できないようなことを「やりたい」と言って来る子もいます。そういう子は「自分自身の体験に裏付けされない情報」ばかりいっぱい持っている子です。ノコギリも曳けないような子が、どこかで見た複雑な構造の椅子を作りたいなどと言うこともあります。そういう子に「どうやって作るかわかる?」と聞くと「分かんない」と答えます。「作り方が分からない」ということは自覚しているのです。でも、「先生が教えてくれれば出来る」などと言うのです。ノコギリも曳けない子が・・・。体験よりも先に情報(知識)が先に入ってしまうとこのような状態になってしまうのです。子育てでもこういう思い込みで子育てを始める人も多いと思います。そういう人は、正しい情報があれば「素敵な子育て」が出来て「素敵な子ども」が育つと思い込んでいるのです。街中で困った行動をしている子を見ると「親のしつけがなっていない」などと簡単に親を非難する人も同じです。自分ではやったこともない癖に・・・。今、子育てで苦しんでいる人も、結婚前、子どもが生まれる前は「子育てなんて簡単だ」なんて思っていたのではないですか。でも、そういう人に限って、いざ「本当の子育て」が始まると「情報や思い込みと現実の違い」に出会って立ち往生してしまうのです。そして、他の「問題を解決してくれるような情報」を探そうとするのですが、そんなもの存在していません。さらに、そのような人は、情報ばかり探して目の前にいる我が子と向き合おうとしないので、情報を探しているうちに状態はますます悪化していきます。木が切れないのなら情報を探すよりも先にノコギリを手に取って試してみることです。実際にやってみることで「自分にとって何が問題なのか」が分かるのですから。やってみて出来なかった時に最初にやるべき事は「どうして出来ないのか」をよく考えることです。技術不足なら何回も繰り返してやってみるしかありません。力が足らないのなら筋力をつけるしかありません。そうやって何回も繰り返してやってみてもうまく行かないのなら、何か勘違いしているのです。そこで初めて情報(知識)が必要になるのです。情報を探すのは、努力や工夫だけでは先に進めなくなった時でいいのです。それに、実際の体験があるから情報を選択することも出来るし、また学んだ情報が身に着くのです。また、やってみる前から「出来ない 出来ない」と言う子も「まずやってみる」という体験が少ない子なんだろうと思います。「実際にやってみる」という体験から逃げていたら、いつまで経っても自分を前に進めることが出来ません。そして、自己肯定感が低くなるばかりです。「逃げない覚悟を決める」それだけで自己肯定感は上がるし、成長も始まるのです。ただし、やりたくないことは拒否してOKです。それもまた自己表現だし。覚悟のいることです。
2024.10.22
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気質の勉強会では「木を描く」というワークをします。「木」を見て描くのではなく「自分の心の中の木」を描きます。すると、「木」の形には正解がないため、その「木」の色や、形や、大きさや、描き方の中にその人の心やからだの状態が素直に表れてくるのです。大きさは自由です。大きく描きたいのなら画用紙をつなげて大きな木を描きます。高い木を描きたいのなら高くつなげ、横に広がった木を描きたいのなら横につなげます。画用紙の形や大きさに絵を合わせるのではなく、画用紙の方を描きたい木に合わせるのです。また、全体を描く必要もありません。木らしい形を描く必要もありません。なにしろ「実際には存在していない心の中の木」を描いているのですから。あと、「命の流れに沿って描いてください」という指示を出します。根っこは上から下へと伸びます。下から上に伸びていく根っこなど存在しないのですから。「幹は下から上に向かって描いてください。枝は幹から伸びるように描いてください。」とも言います。みんな、本当の木が成長する時には当たり前のことばかりです。でも、そういう指示を出さないとみんな「輪郭線」から描き始めてしまうのです。画用紙の形や大きさに合わせて、頭の中でイメージした「木の輪郭線」をまず描いて、それを塗り始めるのです。でも、輪郭線を描いた時点で、その絵はもう終わってしまっているのです。その人の、ありのままの心やからだの状態も現れなくなります。無意識の中に隠れている「自分が知らない自分」とも出会えなくなります。可能性も消えます。「その輪郭線を描いた時点で頭の中にあった木の姿」が、その先、色を塗っていくときの「正解」になってしまうからです。そもそも、「先ず輪郭線が出来てから生長する木」など存在しません。私がこのワークで描いてほしいのは「頭の中の木」ではなく、「心やからだの中の木」なのです。そしてそれがどんな木なのかは自分自身でも分かりません。だから、大きさに制限を決めず、木になり切って木を描いてもらうために命の流れに従って描いてもらっているのです。そして、そのように描いてもらうとすごく面白いことが起きるのです。最後に感想を聴くと、「自分でもこんな絵を描くとは思っていなかった」と言う人が多いのです。土曜日にもこのワークをしたのですが、そのワークに出た人も同じような事を言ってました。頭で絵の形を決め、輪郭線から描き始めたらこんな言葉は出ないのです。頭で絵の形を決め、輪郭線から描き始めるような描き方をする人は、最初に描こうとした「頭の中の木」と「実際に描かれた木」を比べて、「こんな風にしか描けなかった」と自己否定を始めるでしょう。とにかく「頭の中の木は理想的な正解」なんですから、それを目指すことは可能でも、それを超えることは出来ないのです。そしてこれは子育てでも、自分自身の生き方でも同じなのではないかと思うのです。「理想の子育て」という輪郭線を作ってから子育てをすると、子育ては苦しくなるばかりです。「理想のお母さん」という輪郭線を持ってしまっても、子育ては苦しくなります。そして、「お母さんが作った輪郭線」に合わせるように強制されてしまう子どもも苦しくなります。自分らしさを失ってしまいます。私は今様々な活動をしていますが、最初からこのような活動をしようと思っていたわけではありません。やりたいことをやりたいようにやっていたら、こうなってしまったというだけです。年齢を重ねないと見えてこない世界、出来ないことがあります。体験を重ねないと見えてこない世界、出来ないことがあります。それを、まだ始める前に頭の中で「自分の人生や子育ての輪郭線」を作ってしまったら、後は塗り絵のような人生や子育てを行うだけになってしまうのです。塗り絵で大切になるのは「いかに上手に塗るか」ということだけですが、でも、塗り絵は一人だけで描いていますが、実際の人生では多くの人との関わり合いの中でしか塗って行けないので、思い通りに塗れないのです。青で塗りたいと思っても青がない場合もあるのです。また、自分の意図とは異なる方向に輪郭線が勝手に変化してしまうこともあります。表現ワークが苦手な人も、まず輪郭線を作ろうとします。そしてそれに合わせて表現しようとします。でもその結果、嘘っぽくなってしまいます。また、その表現行為を通して学ぶことも成長することも出来なくなります。子どもの絵が素晴らしいのは感じたままに描いているからです。大人の絵がつまらないのは、上手に描こうとしてしまっているからです。上手に描こうとすること自体が「輪郭線」になってしまうのです。
2024.10.21
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「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われています。実際、お母さんの子宮の中の胎児は受精卵から魚のような形になり、両生類、爬虫類、哺乳類のような形態を通って人間の形になり生まれてきます。ただし、過去に起きたことをそのままに繰り返すわけではありません。見かけ的には魚のような形をしていても、遺伝子は一貫して魚ではなく人間だからです。ただ、「お母さんの子宮の中の豆粒のような受精卵が、いきなり人間の形になって、それが大きくなって産まれてくる」ということではないということです。(昔の人はそう思ったそうですが・・・)そして実は、それは子どもの「心や知性の成長」においても同じなんです。「大人の心や知性」の状態を未熟なものにしたのが「子どもの心や知性」ではないのです。成長とは「未熟から成熟へ」という過程ではないのです。そこがちゃんと分かっていないから大人たちは、子ども達を「未熟な存在」として馬鹿にしてしまうのでしょう。人類は魚や、両生類や、原始的な哺乳類という過程を通って人間になったのですが、「魚」やそれらの生き物は、「人間を未熟な状態にしたもの」ではありませんよね。また、「オタマジャクシ」は「カエルの子ども」ですが、でも、「オタマジャクシ」は「未熟なカエル」ではないですよね。オタマジャクシはその状態ですでに完璧な生命体なんです。そうでなければ、大人のカエルとは異なった環境の中で生きられないのですから。「イモムシ」はチョウやガの子どもですが羽もないし足の数も違います。見た目はまるで全く異なった生き物のようですよね。食べるものも生態も異なっています。でも、時間がたてばやがてサナギになり、羽が生えた状態で生まれ変わります。そんなイモムシが、ちゃんとしたチョウやガになるためには、イモムシの時にはちゃんとしたイモムシである必要があるのです。チョウやガになった時のことなど考えずに、イモムシの時にはイモムシとして満たされた生活をしているから、りっぱなチョウやガになることができるのです。これは人間でも同じで、子どもの時に、大人の真似をさせられずに「子ども」として満たされた生活をしているから、ちゃんとした大人に育つことが出来るのです。問題は、カエルやチョウと違って人間の子ども達は見かけは大人とそう変わらないので、多くの大人が「大人の真似をさせれば出来るだろう」と勘違いしてしまっていることです。でも、見かけは似ていても中身は大人とは大きく異なっているので大人と同じ事は出来ないのです。褒めても、叱っても、叩いても、大人と同じ事は出来ないのです。同じ人間ではあっても子どもと大人はまだ別の生き物だからです。7才前(大まかに言ってということです)の子どもは歯が抜けてもまた生えて来る能力を持っていますが、皆さんはそんな能力持っていませんよね。赤ちゃんと大人は骨の数も違うのです。「子ども」は、「大人」とは異なった感覚、思考、能力、生態、からだを持った「子ども」という完全な生き物なんです。だから子どもたちに大人の真似をさせてはいけないのです。時期が来たら、勝手に子どもの方から大人の真似をするようになるのです。だから、もし我が子に「立派な大人に育ってほしい」と願うのならば、大人たちは子どもたちの手本になるような生き方をしている必要があるのです。私が考える教育の在り方は、自分らしく成長したいと願う子どもたちをサポートすることです。子どもを大人化することでも、みんなと同じにすることでもありません。 <子どもの心> 「おたまじゃくしはカエルの子ども」 でも、 おたまじゃくしにゃ手もない、足もない だからといって、 出来損ないのカエルじゃないよ。 おたまじゃくしは、オタマジャクシ。 やがてカエルになるけれど 今は、カエルじゃなくて「オタマジャクシ」 無理矢理、陸にひっぱり揚げて ジャンプの練習なんかさせないで!
2024.10.20
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群馬で10月24日から始まるワークの告知です。まだ空きがあります。今回は「表現」をテーマにします。日本人は「自分を表現すること」から逃げようとします。でも、そのことが「生きる苦しみ」、「子育ての苦しみ」を創り出していることには気付いていません。「自分探し」をしている人は多いですが、自分でいくら「自分」の中を探っても、「自分」が見つかるわけがないのです。なぜなら「自分」は「他者との関わり合い」の中で発見するものだからです。でもそのためには、まず「自分」を表現することから始める必要があるのです。表現しないことには「関わり合い」が発生しないからです。「本当の自分」に気付き「新しい自分」を生きたいと願うのなら、「自分」を表現することから逃げてはいけないのです。お申し込みは以下のサイトから出来ます。篠先生の親の土台を育てるワークSeason2Event by ゆずり葉学舎 and 村西 有希 on 木曜日, 10月 24 2024******************子どもの成長には、3才、5才、7才とか9才、14才というような「節目」があります。(ただし、この年齢は「その前後」ということで、固定された年齢ではありません。)さらに大きくなっても節目は「死」が訪れるまで時々やってきます。(20才を過ぎると「成長の節目というより、老化の節目になりますけど・・・)そして、その節目ごとに「からだの状態」だけでなく「心の状態」も、「意識の状態」も、「感覚の状態」も変化します。その結果として「子どもが生きている世界」も変化します。「視点の位置」が変化するからです。大雑把に言ってしまえば「子どもの視点」から「大人の視点」に変化するのです。でも、子ども本人にその自覚はありません。人はみな「自分」を基準にして周囲の人や状況を判断するのですが、そのため、その基準である「自分」が変化していることには気づかないのです。その結果、子どもは「自分の周囲の風景」が突然変わったように感じるのです。大きかった世界がどんどん小さくなっていきます。それまでは表側しか見えなかったので大人に教えられるままに信じていたのに、9才頃から大人の世界の裏側が見えるようになることで、それまで疑ったことがないことを疑い始めます。大人に対する不信感も生まれます。また、大人の世界が見えるようになることで、「大人の世界から見た自分」も見えるようになります。そして「ちっぽけな自分」にも気付き「孤独」を感じ始めます。そしてもがき始めます。それが10才~14才前後に起きる変化です。「自分中心の世界」に生きていた子どもが、いきなり「大勢の中のたった一人」になってしまうのです。世界の裏と表がひっくり返るのです。でも、それは子どもの目に映る世界の変化であって、実際に子どもの周囲の風景が変化したわけではありません。その時、その変化を「自由になった」「可能性が広がった」と感じ喜ぶ子もいますが、急に孤独と不安を感じ始める子もいます。またこの頃にはホルモンの状態も大きく変わるので、心とからだの状態が不安定になります。暴力的になる子もいます。でも、そのような状態の子どもの視点を想像出来ない大人は、そのような子どもを「大人の力」で押さえ込もうとします。それでも、幼い時からリアルな世界で様々な体験をしてきた子は、自分の可能性が広がったことを感じるでしょう。でも、幼い頃から仮想空間の中だけで遊んで来た子は、新しく見えるようになった現実の世界に戸惑ってしまうのです。そして、ゲームの中では無敵でも、現実の世界の中では無力な自分にも気付くのです。その時、現実の世界の中に自分の可能性を見つけようとする子もいますが、仮想空間の中に逃げ込もうとする子もいます。思春期の頃にゲームの中にしか自分の居場所がない子はなかなか難しいことになってしまうかも知れません。
2024.10.19
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私たちの活動は、「意識」と「無意識」という二つの心の働きによって支えられています。人間以外の生き物たちはみな「無意識」の働きだけで生きていますが、人間だけが「意識」という働きを獲得したのです。私たちが自分を「自分」として認識することが出来るのは「意識の働き」のおかげです。自由に感じたり考えたりすることが出来るのも「意識の働き」のおかげです。意識の働きが働いていない時には無意識的反射だけで動いています。周囲の世界を認識できるのも、目的に合わせて記憶や、からだや、感覚を操ることが出来るのも「意識の働き」のおかげです。そして、それ以外の活動の全てを支えてくれているのが「無意識の働き」です。道を歩いているような時、人は手や、足や、からだの動きや、体重移動のことを特に意識しなくてもちゃんと歩くことが出来ますよね。スマホを見ながらでも歩くことが出来ますよね。それは「無意識の働き」がからだの動きを自動的に調節してくれているからです。そして、その「無意識の働き」が、私たちの日常生活のほとんど全てを支えてくれています。私たちが意識できるのはその中のほんのちょっとだけです。でも人は無意識の働きが行っていることを自覚することが出来ません。それが「無意識の働き」の最大の特徴でもあります。悩みや苦しみから抜け出すことが出来ない人にはその人固有の「思考の癖」があるのです。でも、その「思考の癖」は無意識的なものなので自覚することが出来ません。自覚することが出来ないので修正することも出来ません。そのため、どんなに一生懸命に考えても、結局いつもと同じところをグルグル回るだけになってしまうのです。その無限ループから抜け出すためには、「無意識的な思考の意識化」が必要になるのですが、これは指導者がいないと出来ません。自己流でやってしまうと、また同じ思考回路にはまってしまうからです。太極拳や武術のようなものを学んでいると、その「自分では自覚できない無意識的な感覚やからだの使い方の癖」を指摘されます。でも、何遍指摘されても、自分自身で自覚できるようにならないと直りません。そのため、太極拳や武術のような活動をyoutubeを見て自己流で学んでも決して上達しません。自分の癖が改善されないからです。自分の姿勢や歩き方の癖すら知らない人が太極拳や武術の形だけ覚えても意味がないのです。そんな無意識の働きを確認する簡単な方法があります。自転車や自動車を運転している時、別に動かそうと思っていなくても、手は勝手に動いているはずです。まっすぐに走っている時でも、手は勝手に動いています。そもそも、自転車では手の動きを固定したら倒れてしまいますからね。そういう「手の動き」を自動車や自転車に乗りながら観察してみてください。無意識の働きによる「自分の意識とはつながらないからだの動き」を観察することが出来て面白いですよ。この無意識の世界は層状になっていて、そこにはその人個人の歴史だけでなく、人類の歴史、生命の歴史まで含まれています。「真っ暗な闇が怖い」というのは、その人が生まれる前の記憶によるものなんです。でも、この「意識」と「無意識」の話をするのが今日のテーマではありません。今日のテーマは「子ども達の意思の働きを育てるにはどうしたらいいのか」ということです。「意思の働き」とは、「何かをやり遂げようとする心の働き」のことです。だから、自分の人生を「自分のもの」として能動的に生きるためには必要なことなんです。そして、その「意志の働き」の中身は「そのことを意識し続ける能力」のことでもあります。またそれは、観察力や姿勢にも表れてきます。「意志が強い」ということは、ただ単純に「戦いに強い」とか、「頑張り屋さん」とか、「頑固」ということではないのです。「自分がやるべきこと」を忘れることなく意識し続けられた結果が「意志の強さ」となって表れているのです。ですから「意思の働き」を育てるためには「意識の働き」を育てる必要があるのです。でもそのためには、子どもの周囲から強い刺激を排除する必要があるのです。子どもの周囲に強い刺激があると、人間としての「意識の働き」の方ではなく、「動物的な本能」(無意識)の方が発動されてしまい「無意識的な反射に基づく活動」の方が引き出されてしまうからです。「楽しいこと」が向こうからやってくるような状況では、「楽しいことを探す能力」は育たないのです。そして、その「楽しいこと」を探そうとする時に「意識の働き」が働いているのです。「意識」が働かないことには「楽しいこと探し」は出来ないからです。そのため、意識の働きが育っていない子はすぐに「たいくつだー」といいます。そして、すぐに「たいくつだー」と言うような子は意志の働きも弱いです。そのため、ゲームにも簡単に依存してしまいまいます。そして、抜け出せなくなります。
2024.10.18
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思春期を過ぎて、価値観や判断の基準が「自分」ではなく「社会」になっていくとき、自分の中にしっかりとした羅針盤が育っていない子は、大人になってから迷子になってしまいます。自己肯定感が低い人もそのような人です。そもそも「自分で自分を否定する」なんておかしなことなんです。否定しているのは誰なんですか?否定されているのは誰なんですか?そのような状態の人は「私」が統一されていないのです。自分自身の価値観や視点がしっかりと育っていないので、他者の価値観や視点を基準にして自分の状態を評価してしまっているのです。そのため、「二人の自分」に振り回されてしまい、「私は私」という生き方が出来なくなってしまっているのです。だから身動きがとれなくなってしまうのだし、自己肯定感も低くなってしまうのです。でも、子どもの頃に「人間を超えた普遍的な世界」と出会っている人はそのような状態にならないような気がするのです。普遍的な世界と出会った人は、他者の価値観や視点に振り回されなくなるからです。(私にはそう思えるということです。)宗教にもそのような働きがあります。でも今、宗教を信じる人はどんどん減ってきています。それに宗教もまた変化します。信じている人にとっては普遍的であっても信じていない人にとっては「他者の価値観や視点」の一つに過ぎません。それに対して、昨日書いた「形の世界」や「数の世界」は人間を超えた世界とつながっている普遍的な世界です。そこには「自然の考え方」や「宇宙の考え方」が含まれています。「形の世界」や「数の世界」だけではありません。「色の世界」や「音の世界」や「動きの世界」もまた宇宙の根源とつながった普遍的なものです。そのため「色の世界」で遊ぶことが出来る人。「音の世界」で遊ぶことが出来る人。「動きの世界」で遊ぶことが出来る人は、それほど「自分の生き方」で迷うことはないのではないかと思うのです。ただしこれも私の思い込みであって根拠はありません。皆さんの考えも聞いてみたいです。シュタイナー教育では「濡らし絵」のような「色の世界と出会う活動」を取り入れています。その「濡らし絵」を普通のお絵描きで描く絵と同じようなものと考えている人がいますが、「お絵かきの絵」は自己表現ですが、濡らし絵の絵は、「色との対話」の結果であって自己表現ではありません。だから自由に描くのではなく、対話の作法にのっとって描く必要があるのです。(そのため、対話が苦手な子は「自己表現としてのお絵かき」は好きでも、「濡らし絵」のような活動は苦手なのではないかと思います。)音や動きに対しても同じだと思います。シュタイナー教育ではまず「聴く」というところから入っているのです。「色を聴く」「音を聴く」「動きを聴く」といったような感じです。そして自分の本源的な所(魂?)と対話して、そこで感じたことを形として現わしていくいくのです。(と私は理解しています。違っていたら誰か指摘してください。)ただし、シュタイナー教育を受けなくても、お習字や茶道や武道などでも同じような学びをすることが出来ます。(指導者の考え方にもよりますけど・・・)別に、シュタイナー教育だけが唯一の方法ではないのです。同じような効果を得る方法は世界中にあるのです。まただから、シュタイナー教育を受けていなくても素晴らしい人間は世界中にいるのです。そもそも、R.シュタイナー自身がシュタイナー教育を受けていないのですから。自然の中に入ったら、「何をして遊ぼうか」と考える前に、「自然の声に耳を傾ける」、色とりどりの落ち葉があったらその色や形を味わってみる。草や木の匂いを嗅いでみる。自然の中で遊んだり、その草や木や落ち葉で何かを作ろうとするのはその次の段階です。鉛筆でも筆でも構いませんが、長く丁寧に一本の水平線や垂直線を書いてみてください。難しいでしょ。「聴く」という作業をしないとまっすぐな線を描くことは出来ないのです。〇も同じです。丁寧に、満月のようなまん丸を描いてみてください。私が言っている所の「聴く」ということの意味がお分かりになるのではないかと思います。太極拳の動きでも同じです。動きを聴くことが出来ない人はダンスのような太極拳は出来るかも知れませんが、気が巡るような動きは出来ないのです。
2024.10.17
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思春期前の子どもの世界は自由です。子ども自身の工夫や努力で何とでもなる世界です。だから子どもたちは遊びを通して、工夫すること、努力することを学ぶことが出来るのです。でも、大人の世界は自由ではありません。様々なルールによって束縛されています。だから不自由なんですが、でもだから大きな社会を維持することが出来るのです。思春期前の子ども達は「直接知っている仲間によって作られる小さな社会」には属していますが、「会ったこともない人も含まれる大きな社会」には属していません。(そういう自覚がないと言うことです)だから「仲間のルール」は理解できても「社会のルール」は理解できないのです。その結果、大人が大切にしている「社会のルール」よりも「仲間のルール」の方切にします。その「社会のルール」の中には、お金の価値、法律、時間の感覚、空間の感覚、社会構造に対する感覚などがあります。これらは大人にとっては大切なものですが、思春期前の子どもにとっては理解できないものばかりです。いくら丁寧に説明しても理解できません。これは「知識の問題」ではなく「発達段階の問題」だからです。子ども達が属している社会は「よく知っている仲間達」だけで構成されています。だから「固定されたルール」など必要がないのです。その場その場の状況に合わせてみんなで考えて工夫すれば上手く行くのです。でも、大人の世界を構成しているのは「知っている人」だけではありません。見も知らない「地球の裏側の人」まで含まれています。知らない人までも含めたみんなが幸せに共存するためには、みんなが守るべき「形」が必要になるのです。SDGsと呼ばれるものもその「形」の一つです。また、大人たちは「過去から受け継いだ形」を守ろうとしています。「国」や「文化」といったものもその「形」の一部です。「言葉」や「精神性」や「生活スタイル」も「守り伝えるべき大切な形」です。でも、子ども達にはそんなこと関係ないことです。むしろその形を壊すことを楽しもうとします。「言葉」も子ども達にとっては「守るべきもの」ではなく「遊び道具の一つ」に過ぎません。だから勝手に言葉を作り変えて遊んだりします。替え歌を作って遊ぶのも大好きです。そうやって言葉に対する感性を育てているのでしょうが、でも、大人たちがそれをやりだしたら文化や文明は崩壊します。バベルの塔の再来になってしまいます。実は、人間社会だけでなく、私たちが生きている世界は「形」によって支えられているのです。自然も宇宙も「形」によって支えられているのです。物理法則は、「物質世界を支配している形」を数字を使って表しているのです。思春期前の子どもの心はその「形」から自由ですが、大人になるに従って、社会を安定させるための「形」を大切にするようになるのです。校則もその一つです。子どもはそれを「束縛」と考えますが、大人は「学校を混乱させないために必要なもの」として考えています。このような点において、思春期前の子どもが生きている世界と、思春期以降の子どもが生きている世界は大きく異なっているのです。それなのに、思春期が来ると子ども自身が望んでいなくても、自動的に「生きている世界」が切り替わってしまうのです。そのため、子ども時代に「自分だけで決めることが出来る子どもの論理」しか学べなかった子は、思春期ごろから混乱し始めるのです。「みんなで決める、もしくは最初から与えられている形によって支えられている世界」での生き方が分からないからです。だからといって、思春期前の子どもに大人の論理を伝えても理解することが出来ません。そこで大人達は「しつけ」という形で「大人の論理」を伝えようとしてきました。「しつけ」とは、生活の場の中で「言葉の使い方」や「立ち居振る舞い」などにおける「形」を伝えることです。大人の言うことを聞くように訓練することではありません。でも、現代社会ではその「形を伝える仕付け」はほぼ崩壊しています。お母さん自身も「形」を受け継いでいないからです。また、「子どもを自由にさせることが子どものためになる」と思い込んでいるお母さんもいっぱいいます。でも、「自分勝手が許される子育て」を受けた子は、思春期以降に訪れる世界を生きていくのが困難になってしまうでしょう。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、ここで「形を学ぶ」ということの意味が発生するのです。本来の「しつけ」では、「社会を支えている形」を伝えようとしています。その「形」には様々なものがありますが、なかでも普遍的なものとして「数学が表している形の世界」があります。それを扱っているのが「数学」という学問です。実は、数学は「世界の形」を表現するための世界共通の方法なんです。もっといえば宇宙共通の方法なんです。宇宙人がやってきてコミュニケーションを取ろうと思ったら、日本語も英語も通用しませんが、数学なら通用するのです。すごいでしょ。数学とはそういう学問なんです。ですから、数学を学ぶということは、「自分の論理、人間の論理を超えた世界」のことを学ぶということでもあるのです。また、数字の世界は人間の都合に合わせて変化しないため、変化に対して混乱しやすい自閉症スペクトル傾向の子の中には数学にはまる子がいるのです。また、幾何学などで扱っている「形の世界」も数字で表すことが出来ます。でも、思春期前の抽象的な思考が苦手な時期の子ども達は、「実体が存在しない数字の世界」よりも、幾何学のような「目で見える形」で表された方が理解しやすいです。ですから、子ども達にとっては、幾何学的な法則や形を学ぶということも、思春期以降に「これから自分が生きていく大人の世界」を理解する手助けになるのです。「数字の世界」を理解する時にも手助けになります。それが、「物事を客観的に考える時の物差し(羅針盤)を手に入れることが出来る」ということでもあるのです。とは言っても子ども達に幾何学を教えなさいという事ではありません。幾何学を教えなくても、子ども達が大好きな「手仕事」や「折り紙」や「工作」のような活動の中にはもうすでには幾何学的な要素が充分に含まれているからです。基地作りでも同じです。ですから、子ども達も楽しめるようなそのような活動を通して、人間世界を超えた普遍的な世界の表れである「形や数字の世界」と出会わせてあげればいいのです。以下の写真の上二つは「糸かけ曼荼羅」と呼ばれているものですが、このような活動もまた形や数字の世界への入り口になるのです。そしてそれがまた思春期以降に自分の生き方を見つける時の羅針盤になって行くのです。精神を育てるためには精神論は全く無意味なんです。むしろこのような活動の方が子どもの精神を育ててくれるのです。
2024.10.16
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いつも書いているように、「自然の中での仲間との自由で自発的な遊び」は子どもの能動性を育ててくれます。でも実はそれだけでは十分ではないのです。確かに「遊び」は、「自分に与えられた状況の中で自分の意思で自由に感じ、考え、行動する能動性」を育ててくれます。工夫する能力も育つでしょう。でもその主体はあくまでも「自分自身」です。幼いうちはそれだけで十分なんですが、思春期を迎えるころになるとそれだけでは能動的に生きるのが困難になってしまうのです。以前から疑問に感じていたことがあるのです。それは、子どもの頃は自然の中で、仲間と、自由に遊んで育った子が必ずしも「幸せな大人」になってはいないからです。森の幼稚園の人たちが言うような理想的な子ども時代を過ごしたはずなのに、大人になってもその頃と同じような充実感を持って生きている大人の人は多くないような気がするのです。実際、100年前の子ども達はほとんど全員「森の幼稚園状態」で子ども時代を過ごしていたはずです。食べ物も自然なものばかり、電磁波なんて飛び交っていませんでした。簡単で便利な機械などもありませんでした。自然派の人から見たら理想的な状態ですよね。それでも実際には、自分に自信がなく、自己肯定感も低く、社会の中でどう生きていいのか分からない大人の人がいっぱいいたのです。そのような人の苦悩は様々な文学作品の中で描かれています。そのような人は、個人的には高い能力を持っているのですが、大人の社会の中でもその能力を生かすような生き方が出来ていないのです。その背景には「子どもが生きている世界」と「大人が生きている世界」の違いがあります。思春期前の子ども達は、「自分」を主人公にして「外側の世界」だけを相手に生きています。だから話が簡単なんです。でも、思春期ごろから子どもの内側の世界が広がり、子どもは「自分の心の世界」とも向き合って生きなければならなくなるのです。その「心の中の世界」は、子ども達がそれまで生きてきた「外側にある世界」よりもはるかに大きく複雑です。その時、必要になるのが真・善・美に対する感覚なんです。<続きます>
2024.10.15
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赤ちゃんは、大人が教えなくても歩くようになります。話すようにもなります。それは、赤ちゃんには「お母さんや大好きな人と話したい」、「大好きな人と同じように歩きたい」という欲求があるからです。オオカミに育てられた子どもは四つ足で歩いていたそうですから、「人間だから立って歩くようになる」というわけではないのです。自分にとって大切な人が立って歩いているのを見て、「自分も立って歩きたい」という欲求が目覚めるのです。また、大好きな人たちに話しかけられるから、自分もまた「大好きな人に話しかけたい」という欲求が目覚めるのです。だから、お母さんが日本語で話しかけていたら、子どもも日本語を話すようになるのです。英語で話しかけていれば英語を話すようになるのです。それはつまり、お母さんが話しかけないと、「子どもは言葉を話すようにはならない」ということでもあります。「言葉を話す必要性」が発生しないからです。テレビなどをいっぱい見せていても、テレビは話しかけてくれません。だから「言葉を話す必要性」も生まれません。赤ちゃんにとって、テレビから流れてくる言葉はただの「音」であって「言葉」ではないからです。でも、その単なる「音」でもいつも聞いていると覚えます。そして、「音」を発っするようになります。それは、テレビから流れてくる音楽をすぐに覚えて自分でも歌うようになるのと同じです。でもそれは、子どもにとっては「言葉」ではなく「音」に過ぎないのです。大人の方が勝手にその「音」を「言葉」として受け取ってしまっているだけです。幼い子どもはよく「うんこ」などと叫びます。また、ゲームなどをやっている子は、簡単に「しね」という言葉も使います。子ども自身にとってそれは「音」であって、「言葉」ではないのですが、大人はそれを言葉として聞いて右往左往します。その大人とのやり取りの中で多少はその音に「言葉としての要素」も加わるのですが、そのように覚えた言葉では、「自分が感じたこと」、「自分が考えたこと」、「自分がやりたいこと」、「相手に伝えたいこと」を相手に伝わるように話すことが出来ないのです。「話しかけられる」という体験を通して覚えた言葉ではないからです。そのような言葉しか知らない子は、言いたいことは一方的に言うのですが、相手に伝わるように話すことが出来ません。また、相手の言葉に耳を傾けることも出来ません。そういう必要性がない状態で育ったからです。最初書いたように、幼い子どもはお母さんやみんなが歩いているのを見て自分も歩きたいと思います。そして歩こうとします。それが本能だからです。でも、最初はうまく歩けません。まっすぐにも歩けないし、歩こうともしません。興味に従ってあっちに行ったり、こっちに行ったりしてしまいます。それで、危険や面倒くささを感じたお母さんは子どもをベビーカーの中に閉じ込めます。また、近くの所に行く時も、歩くのではなく自転車などを使ってしまいます。歩きたい盛りの子どもは、最初は嫌がるでしょうが次第にその状態に慣れてしまいます。すると「歩く必要性」が消え、歩くことに楽しさを感じなくなります。そうなると、「自分で歩いてもいいよ」と言っても、自分の足で歩かなくなります。ハサミなども、みんなが使っているのを見て自分も使いたくなった時が「学び時」なんです。でもそれを、「危ない」「まだ早い」と言って取り上げていて、子どもが大きくなってから「ハサミを使ってもいいよ」と言っても、ハサミを使おうとはしなくなってしまうのです。必要性が消えてしまうからです。また使おうと思っても使えないので面倒くさくなります。学校の勉強も、子ども自身が求めたものではありません。授業では、理由も分からないまま椅子に座らせられ、おしゃべりも禁止され、「子どもが求めていないもの」や「子どもには理解できないこと」や「子どもの生活には関係がないこと」を一方的に押し付けられ、「覚えろ」と要求されています。それらは、子どもには興味も必要もないものばかりです。そのため、放っておいたら勉強しようとしません。でもそれでは困る先生たちは、テストという「勉強する目的(必要性)」を子ども達に与えます。そして子どもたちに「テストのために」勉強するように追い立てます。お母さん達も同じです。でも、「テストのための勉強」は、学校以外の場では全く役に立ちません。社会に出てからも役に立ちません。特に子育ての場では全く役に立ちません。学校で教えていることも、もともとは必要があって生まれたものです。「1+1=2」ということも、生活したり、様々な活動をするために必要があるから教科書に載っているのです。本来、「1+1=2」は「生活で必要になる考え方」であって、テストのための知識ではないのです。だから「1+1=2」という考え方が必要になるような体験や活動をさせれば、子どもは「1+1=2」という式を学んだ時にすぐに納得するのです。知識よりも先に体験を与えるのです。体験をさせずに知識だけを覚えさせようとするから子どもは勉強が嫌いになってしまうのです。これは国語・算数・理科・社会の全ての学びにおいて同じです。昔の人は「よく遊び、よく学べ」と言いましたが、この順序が大切なんです。「よく学べ、よく遊べ」ではダメなんです。そして、子どもの成長にとって、7才前という時期は「遊びのための期間」なんです。子ども達は、この時期の多様な遊びを通して様々な必要性に目覚めるのです。
2024.10.14
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私は造形に関して色々なことを子どもたちに教えていますが、子ども達には「教えなくても他の子がやっているのを見て、真似して出来るようになる子」と、「教えてあげれば出来るようになる子」と、「教えても出来ない子」がいます。そしてこれは、子どもの「能動性の育ちの状態」を反映している結果でもあります。能動性が育っている子は、自分が興味を感じたことに対しては、誰かに教えてもらわなくても、自分で見て、聞いて、真似して出来るようになってしまいます。つまり、「独学能力」に優れているということです。この「独学能力」は「自由な遊び」の体験を通して育っているのではないかと思いますが、ある程度の才能も必要です。「そのことに強い興味を感じる」ということ自体が才能の現われでもあるからです。音楽はみんな聞きますが、その「音楽」に強く興味を持つ子もいれば、全然興味を持たない子もいますよね。お母さんがお料理を作るのを見て強く「お料理」に興味を持つ子もいれば、全く興味を持たない子もいますよね。同じ体験をしてもそのことに強く興味を持つ子と、そうでない子がいるのです。そんな時、「興味を持つことが出来る子」はそのことに対して何らかの才能を持っている可能性が高いのです。お母さんや周囲の大人がその才能に気付き、「そのこと」との出会いの機会を増やしてあげれば、子どもは見て学び、真似して学び、自ら進んで学ぼうとするでしょう。その過程で能動性も育って行くでしょう。問題は(本当は問題ではないのですが)、そういう子は「大人が学ばせたいと思うこと」には興味を示さないということです。勉強にも興味を示さないかもしれません。それでお母さんは「○○なんかばかりしていないで、勉強をしなさい!」と子どもを追い立てようとします。でも、「追い立てられてやった勉強」は身につきません。子どもの成長にもつながりません。確かに、子どもの趣味や興味に任せていたら学校の成績は伸びないかも知れません。それでも、好きなことをやることで「能動性」は育つのです。(ただし、中毒性の高いものは別です)そしてその「能動性」は、必要に迫られれば他の分野でも生かすことが出来ます。押しつけられて学んだことは応用できませんが、自分の好きなことをやる過程で育った能動性は他の分野でも生かすことが出来るのです。「きく」という能力に優れた日本人は、見て学び、真似して学び、やって学ぶ能力に優れています。だから、中国や欧米の文化や技術を効率よく学び、取り入れることが出来たのです。ただし、見ることが出来ないような「新しいこと」を創造するのはあまり得意ではありません。でも、今の時代、上に書いたような「教えなくても他の子がやっているのを見て、真似して出来るようになる子」は少ないです。一番多いのが「教えてあげれば出来るようになる子」と「教えても出来ない子」です。そして後者の子が年々増えてきています。「教えてあげれば出来るようになる子」は。まず教えてもらおうとします。自分からは動き出しません。「教えて」と言いながらこちらの言葉には耳を傾けずに自分勝手に全く別のことを始める子もいますが、そのような子は教えても出来ません。だから「いいよ、好きにやりな」と言いますが、ちょっとやると分かんない、出来ない、飽きた、やめる」などと言いだします。そんな、素直に教えてくれるのを待っているような子は、自分の頭で考えようとしません。そのため、「教えてもらったこと」は出来ても、「教えてもらったこと」以上のことは出来ません。椅子を作るときにも、足を一本切るごとに「次はどうするの」と聞いてきます。能動的に向き合っていないので、「自分が作っているもの」をイメージできないのでしょう。そういう子どもたちは大人が手取り足取り教えれば出来るのですが、「出来る」というだけで楽しんでもいないし、そのことから学んでもいません。「笛が作りたい」「木琴が作りたい」「太鼓が作りたい」という子がいると、作り方を教え、手助けして作らせるのですが、出来上がっても「出来た」といって、吹きもせず、叩きもしないで脇に置いてしまい「さあ、次は何をやろうかな」などと言います。それがすごく悲しいです。家に帰ってその笛や太鼓が評判がいいと、次回来た時に「また作りたい」などというので、材料を与えて、「この間作ったばかりだから、今度は自分一人でやりな」と言うと、「分かんない、出来ない、覚えていない」などと言います。教えてもらって作ることが出来ても、能動的に取り組んでいない子は何にも学んでいないのです。だから、本当は見せるだけで教えない方がいいのです。
2024.10.13
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今、テレビで「手を使わないで履ける靴」のCMがしょっちゅう流れています。それは、現代人の「手を使わないで靴が履けるなんて便利だ、嬉しい」という感性に沿って開発された靴なんでしょう。現代社会は「手を使わなくて便利」「歩かなくて便利」「しゃがまなくて便利」「自分の感覚で感じなくて便利」「自分の頭で考えなくて便利」「自分のからだを使わなくて便利」「待たなくて便利」という価値観や感性に支配されています。そして企業はその価値観や感性に従って商品を開発し、そしてその願いを叶えるような商品が続々と開発されています。まだ実用化はしていませんが、SF映画のように脳に直接記憶を埋め込む研究をしている人までいます。それが可能になったら「勉強する必要」もなくなって便利になります。わざわざ毎日学校に行って時間を奪われ、心と、からだを拘束されなくても、簡単に知識を得ることが出来るのですから。そして、多くの人がその流れを「社会の進歩だ」と言って歓迎しています。その流れの中で最初に書いた「手を使わないで履ける靴」も「こんなすごいものが出来たよ」と宣伝しているのです。でも、「何かを得れば、その代償として何かを失う」というのは世の常なんです。とくにそれが欲望に基づく欲求の場合は、その代償は大きいです。映画マトリクスのように、「頭を使わなくても頭が良くなるような方法」や、「感覚を使って色々な活動をしなくても感覚が育つような方法」や、「からだを使ってトレーニングしなくても色々なことが出来るからだを育てることが出来る方法」や、「様々な体験を通して心を育てるようなことをしなくても簡単に心が育つような方法」が発明されても、それで「めでたしめでたし」にはならないのです。なぜならその代償として、「学ぶ楽しさ」「体験する楽しさ」「成長する楽しさ」「生きる楽しさ」また、「自分の頭を使って考える楽しさ」、「自分の感覚を使って感じる楽しさ」、「自分のからだを使って色々なことをやる楽しさ」が失われてしまうからです。人は「努力の結果」として知識や能力を得るから人間として成長することが出来るのです。また「成長すること」が喜びにつながるのです。努力せずに結果だけ得られても人間としての成長にはつながらないのです。また、その能力の使い道も分からないでしょう。また最大の問題として、「簡単で便利な生活は、子どもの能動性の育ち」を阻害してしまうということです。能動性を働かせる必要がない生活をしていたら、能動性が育つわけがないのです。その結果、どんなに素晴らしい肉体と運動神経を得ても、それを使おうとはしないでしょう。「からだを使ってやりたいこと」がないのですから。私がブルースリーと同じ身体能力を得ても、ブルースリーのように生きたいとは思いません。戦うこと自体に興味がないのですから。どんなにいっぱい知識を得ても、自分の趣味や興味に従って自分で努力して得た知識ではないので、使い道も価値も分かりません。中でも「成長する楽しさ」が失われてしまうのは、大きな問題になってくるでしょう。高機能なコンピューターが内蔵されたパワースーツのようなものを身にまとって「何でもできる万能人間」になったとしても、能動性が失われてしまったら「何にも出来ない無能な人間」と同じなんです。問題は無能な人は何にも出来ませんが、この万能な人は何でもできるので、心が欲望に支配されてしまったら社会に対する危険度がマックスになってしまうということです。まだそういう技術は実現されていませんからそれほど心配する必要はありませんが、そういう方向を目指して社会は動き、科学者が色々な研究をしているのは事実です。その流れの中で、「学ぶ喜び、考える喜び、からだを動かす喜び、感覚を働かせる喜び、成長する喜び、仲間と遊ぶ喜び、手と頭を使って工夫する喜びを知らない子ども」が大量生産されています。その結果、「能動性を失った子ども達」が増えています。でも、多くの大人たちが心配しているのは「学校に行っているかどうか」、「ちゃんと勉強しているか」、「成績はどうか」、「お母さんや先生の言うことをちゃんと聞くか」というようなことばかりです。そして子ども達が退屈しないように様々な「刺激のあるもの」や「色々なことが簡単に出来るような便利なもの」を与えています。
2024.10.12
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「創造的に生きる」ということは、「人と違う生き方をする」ということではありません。「創造的」ということは「個性的」ということでもありません。「創造性を育てる」ということは、「他の子とは違う特別なことが出来る能力を育てる」ということではありません。(私の解釈では、ということですけどね)実は、「創造的に生きる」ということは「能動的に生きる」ということと同じことなんです。それはつまり、「能動的に取り組むこと」がそのまま「創造的な行為」であるということです。自分の意思で能動的に遊んでいる子は全て「創造的な行為をしている」ということでもあります。ただし、ゲームのような「中毒性のある遊び」は、いくら夢中になって遊んでいても「創造的な行為」とは言いにくいです。あれは「依存」であって、「自分の意思に基ずく能動的な行為」ではないからです。依存状態になってしまっている子は、あの刺激がないと不安になってしまうのです。実際、日常的にゲームのような中毒性のある遊びで遊んでいる子ほど、ゲーム以外の活動に対しては消極的です。能動的に取り組もうとしません。スマホ依存の子も同じです。「簡単便利」に依存している大人も同じです。当然、そういう状態の子は創造的な活動も苦手です。そして今、そういう子が呆れるくらい多いのです。自分で出来る能力があるのに、自分ではやろうとせずに人にやってもらおうとするのです。すでに知っていることや、やったことがあることなら取り組むのですが、ちょっとでも自分が知らない新しい要素が入ってくるとどうしていいのか分からないくなってしまうのです。そんな時はちょっと考えて、工夫して、応用すれば、ほとんどの場合「すでに自分が持っている能力」で何とかなるのですが、「何かに依存した遊び」や「簡単で便利なものに依存した生活に浸っている子」ほど、その「ちょっと」が出来ないのです。「考える能力」がないわけではないのです。「それをやる能力」がないわけでもないのです。でも、能動性が育っていないため、その能力を役に立てることが出来ないのです。そのため、前に進むことが出来ないのです。子どもを追い立てて勉強させてどんなに成績がよくなっても、その結果どんなに良い学校に入れても、「自分の意思に基づく能動性の育ち」が阻害されてしまった子は、社会に出た後に困った状態になってしまうのです。これは、子育ての場においても問題になってきます。子育ての場においては毎日が「新しいこと」の連続です。ですから、その「新しいこと」に能動的に取り組むことが出来る人は「子育て」を楽しむことが出来ます。そして創造的に子育てをすることが出来ます。そういう意味では、「子育て」は芸術的な行為と同じなんです。でも、能動的に取り組もうとしない人ほど、「子育て」が「困難で苦しいもの」になっていきます。そしてそういう人たちが増えています。
2024.10.11
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教室のお母さんから『創造性』『オリジナルを生み出す能力』というのはどうしたら強くなるのか、今度話したいです。というコメントを頂いたので、今日は「創造性」ということについて、私なりの考えを書かせていただきます。Googleで「創造性とは」と調べたら、AIが以下のようにまとめてくれました。創造性とは、独自性や斬新さ、生産性が高い発想を生み出す能力です。既存の知識や情報を組み合わせ、独自の視点や考え方を取り入れながら、新しい価値を生み出すことを指します。創造性は、想像力や発想力と混同されがちですが、それぞれ異なる概念です。想像力:現実にはない物事や、相手の立場、顧客のニーズなどを頭の中で思い描く能力発想力:新しいアイデアを生み出す能力まあ、「創造性」という言葉の意味はこのようなことのようです。でも、意味が分かったからといって創造的になることが出来るわけではありません。子どもの創造性を育てることが出来るわけでもありません。「創造性」とは「独自性や斬新さ、生産性が高い発想」に基づく活動ですが、だからといって「独自性や斬新さ、生産性が高い発想」に囚われた活動は創造的ではありません。「自由」を失ってしまっているからです。「創造的である」ためには「自由」が必要なんです。その「自由」とは、「束縛がない自由」のことではなく、「主体的に感じ、考え、行動することが出来る自由」のことです。ですから「創造的な活動」に囚われていたら創造的な活動は出来ないのです。ピカソは絵の世界に新しい表現を創造しましたが、それは自分の意思で主体的に感じ、考え、行動し、探求した結果であって、「他の人とは異なった新しい表現」を創り出そうとし生まれた結果ではありません。ピカソの真似をして描いても、そこには自由も創造性もありません。個性的であるから、独自性があるから創造的なのではないのです。表面的にはみんなと同じようなことをやっていても、自分の意思で主体的に感じ、考え、行動した結果なら十分に創造的な活動なんです。またそのためには周囲の人や過去の人から多くのことを学ぶ必要があります。ピカソが創り出した新しい表現は、若い頃に学んだアカデミックな学びの上に創造されたものです。彼が勝手に、でたらめに作り出した表現ではありません。一回も絵を見たことがない、一回も絵を学んだことがない人に自由に絵を描かせたら「個性的な絵」を描くでしょう。でもそれは「個性的」ではあっても「創造的」ではないのです。創造的であるためには「過去とのつながり」が必要になるのです。単に「他の人と違っている」だけではだめなんです。全ての生き物の命を支えている「命の働き」は創造的に働いて命を支えています。そこで起きているのは「死と再生」です。毎日、古い細胞が死に、毎日新しい細胞が創られているのです。命の働きは「死」と「誕生」の繰り返しによって支えられているのです。人間の創造的な活動においても、「創造」は「破壊」とセットになっているのです。また「新しい細胞」は「古い細胞」の単なるコピーではなく、時間的な延長の上に新しく作られています。だから成長や老化という変化が起きるのです。「古い価値」の上にしか「新しい価値」は生まれないのです。だからといって、「古い価値」に囚われていても「新しい価値」は生まれません。だから「古い価値を大切にしながらも、古い価値に囚われない心の自由」が必要になるのです。子どもの教育において創造性を育てるために必要なのも同じようなことです。思春期前に、「昔の人が考えたこと」、「昔の人の技術」をまず学ぶ必要があるのです。そして、思春期が来たら「じゃあ君だったらどう考える?」「どうやる?」と問いかけるのです。最初から「自由にやってもいいよ」と言って、自由にやらせてしまったら創造的な能力は育たないのです。ただ自分勝手に表現したり活動するようになるだけのことです。だからといって、学んだことを「唯一の正解」として固定してしまっても創造的な能力は育ちません。「過去の価値」の延長にありながらも、「過去の価値」に囚われずに新しい価値を創り出すのが「創造的な行為」なんです。そのためには幼いうちはまずちゃんとした基礎を学ばせる必要があります。そして、思春期が近づいて来たら「基礎に囚われていたら出来ないような課題」を与えます。そしてそれまでに学んだ基礎を一回解体(破壊)させます。そして、自分の感覚や感性や思考形態に合わせて、それまでに学んだ基礎を新しく再構成させます。そうすることで子ども達の創造的な能力が育つのではないかと思うのです。ただ問題は、思春期前にただ真面目に基礎だけを学んできたような子は「基礎に囚われていたら出来ないような課題」が与えられたとき、それを乗り越えることが出来ないということです。そこで必要になるのが、もう一つの「学び」なんです。それは「自然の中での仲間との自由な遊びの場でしか学ぶことが出来ない学び」です。子どもの創造的な能力を育てるためにはこの「相反する両方の学び」が必要なんです。基礎を学ばずにただ自由に育っただけの子は、「個性的な表現や活動」は出来るようになるかも知れませんが、創造的な表現や活動が出来るようにはならないのです。逆に、幼い頃から自由に遊ばずにただ真面目に基礎を学んだだけの子は、「常識的な表現や活動」は出来るようになるでしょうが創造的な表現や活動は出来ないでしょう。だから昔の人も言ったように、「いっぱい遊んでいっぱい学ぶ」ことが必要なんです。「遊び」と「学び」、子どもの創造性の育ちのためにはこの「相反する両方の学び」が必要なんです。
2024.10.10
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日本語と英語は全く違う言葉です。でもそれは、「本のことを英語ではBOOKと言う、海のことを英語ではSEAと言う」というレベルの話ではありません。「文法」、つまり基本的な構造が全く違うのです。また「音」も違います。それぞれの国の言葉にはそれぞれ固有の音があるのです。その「文法」の違いは、「感覚や頭の使い方の違い」でもあります。「音の違い」は「喉や口やからだの使い方の違い」であると同時に「感性の違い」でもあります。また、「使われている語彙の違い」が、「その言葉を使う人が生きている世界の違い」を創り出しています。「自由」という言葉が存在している社会と、「自由」という言葉が存在していない社会に生きている人とでは全く異なった世界に生きているのです。「愛」という言葉が存在していない社会に生きている人は、「愛」という概念も感覚も理解できないのです。そもそもが、「主語を必要としない言葉」によって支えられている社会と、「主語を必要とする言葉」によって支えられている社会は全く異なっているのです。また先日アメリカに住んでいた人から聞いたのですが、アメリカ人は「トンネルを抜けると雪国だった」というような、「視点が固定されていない表現」を理解出来ないようです。気質のワークでは「幸せ」と「HAPPY」の違いを体感してもらいますが、「幸せ」という日本語が意味することと、「HAPPY」という英語が意味することは違うのです。ですから、「言葉」は単なる「道具」ではないのです。「言葉」は「言葉を使う人そのもの」なんです。そのため、子どもの成長においては「言葉の学び」がその子の「頭の使い方」、「感覚の使い方」、「心の使い方」、「からだの使い方」の育ちと密接につながっているのです。だから「英語が話せると便利だから」とか、「バイリンガルはかっこいいから」とか、「小さい時から学ばせると発音がよくなるから」などというような安易な理由だけで、幼いうちから子どもに英語を学ばせることには慎重になった方がいいのです。頭や感覚の使い方が不安定になってしまう恐れがあるからです。またそれは、精神的な不安定さとつながってしまうかもしれません。私は語学の専門家ではありませんが、同じような事を言っている専門家もいます。ただし、母国語は母国語としてしっかりと伝えながら、「言葉の世界」に興味を持たせ「世界には色々な言葉があるんだよ」ということを伝えるために「遊び」のような形で体験させる程度なら問題はないと思います。それで、9才を過ぎた頃から子ども自身が興味を持って、自分の意思で学び始めるのなら全然OKです。私が言っているのは、「母国語を習得すべき時期に、中途半端に別の言葉を学ばせると脳が混乱してしまいますよ」ということです。以前、子どもに色がついたビニール袋を渡すとき「何色がいい?」と聞いたら、「purple」(パープル)と答えた子がいました。それで、「ごめんね、先生、英語が分からないんだ、日本語で言ってくれる」と言ったら、子どもは「分かんない」と答えました。アメリカに移住するのならともかく、日本で生活するのならこれはおかしいのです。また「言葉の違い」は、「言葉の役割」の違いでもあります。さらにそれは、「社会構造や社会的価値観の違い」でもあります。「社会構造や社会的な価値観」が違うから「言葉の役割」も違うのです。それはつまり、「日本のことしか知らない子どもが日本で学んだ英語」は「英語を母国語として生活している人たちの英語」とは異なるということでもあります。英語をぺらぺら話している子どもを見ると「すごい」と思いますが、欧米的な「自分の考えをしっかりと持ち、その考えをはっきりと言い、自分の意思で行動する感性や能動性」も育っていなければ、それは単なる「芸」に過ぎません。逆に、日本語しか知らなくても「自分の考えをしっかりと持ち、その考えをはっきりと言い、自分の意思で行動する感性や能動性」が育っている子は、欧米の人と対等にやり取りできます。皆さんだったら、「発音はよくても自分の考えを持っていない人」と、「発音は悪いけどしっかりと自分の考えを持っている人」と、どちらの人と話がしたいですか。今の時代高機能な翻訳機があるので、英語が話せなくても、発音が悪くても、それは大した問題にはならないのです。
2024.10.09
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昨日はそれが聴覚以外の感覚であっても、感覚に意識を向ける時には「きく」という状態になるのです。そしてそういう言葉を持っている日本人は「聴く能力」に優れた民族です。日本人が大好きな「和」は聴く力によって支えられています。でもその一方で、「話す能力」は低いですけど・・・。と書きましたが、「聞く(聴く)能力」も「話す能力」も「人と人との密接なつながり合い」の中でしか育ちません。それは「言葉」というものがもともと「人と人との密接なつながり合い」を支えるために生まれたものだからです。しかもその「人と人との密接なつながり合いを支えるために必要な言葉」は、「声によって伝えられる言葉」であって、「文字によって伝えられる言葉」ではありません。「文字による言葉」は「自分とは密接なつながりがない人」、もしくは「密接につながる事が出来ない状態の人」に情報を送り届けるための道具です。だから言葉でなくて絵文字でもいいのです。そのため、「人と人との密接なつながり合い」を失ってしまった現代日本の中で、家庭の中のお手伝いもせず、機械や物だけを相手に遊んでいる現代の子ども達は、「聞く(聴く)能力」も「話す能力」も育つことなく成長せざる終えなくなってしまっています。特に、子ども達の「聴く能力」の低下は悲しいくらいです。「話す能力」も低いですが言葉を話すだけなら出来ます。その内容はともかくとして、お母さんも日常的に子どもに話しかけていますからね。それに、テレビやユーチューブでも、人が話しているのを見ています。だから、そのような体験を通してそれなりに言葉を話すことは出来るようになるのです。でも、言葉が一方的で、相手が理解出来るように話すことが出来ないのです。お母さんもテレビもユーチューブもそのような言葉しか話していませんからね。相手が理解出来るように話すためには「聴く能力」が必要なんですけど、その能力は誰かに聞いてもらうことを通してしか育たないのです。でも、お母さんもテレビもユーチューブも子どもの話を聞いてくれません。だから話すことは出来ても話しが一方的になってしまうのです。子ども同士を話し合わせようとしても「話し合い」ではなく「言い合い」になってしまいます。そんな「話す能力」の成長は子どもと接していれば分かります。だから、子どもの言葉の成長が遅いとみんな心配します。小さいうちから難しい言葉を使って上手にお話しが出来ていると「賢い子だ」などと褒められたりもします。でも、「聴く能力」の育ちは、ただ子どもと接しているだけでは分かりません。だから、そのままにされてしまうのです。じゃあ、どうしたらいいのかと言うことですが、子どもの「聴く能力の状態」は、何かを共有しながら一緒に遊んだり、活動したりしていると分かります。「聴く能力」の高い子は言われなくても、その場の状況に合った行為をすることが出来るからです。一方、色々なことを知っていておしゃべり上手でも、「その場の状況に合った行為」が出来ない子は「聴く力」が弱い子です。クラスにそういう子が多いと、簡単に学級は崩壊します。
2024.10.08
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昨日は、その「人間の目では見えないもの」も機械で観測すれば少しは分かりますが、でも、その機械を使っても分からないこともあります。と書きましたが、私たちが日常的に行っている「味わう」という行為も、人間にしか出来ません。機械は、食べ物の味を科学的に分析することは出来ます。でも、その味を味わうことは出来ないのです。色や形でも同じです。分光器を使えば「これは赤、これは青」と調べることは出来ます。でも、分光器はその色を味わうことは出来ません。その、私たちにとっては当たり前の「味わう」という能力は人間だけが持っている能力なのです。まただから、人間は様々な芸術的な活動を楽しむことが出来るのです。人は「真・善・美」と呼ばれるものですら味わうことが出来ます。簡単に言うと「心に働きかけて来るもの」は全て味わうことが出来るのです。そして頭は「心が味わったこと」を元に色々な判断を下しているのです。判断自体は「頭」が行っていても、その判断のための材料を提供しているのは「心」なんです。美味しいものを食べて「美味しい」と味わっているのは口でも、からだでも、頭でもなく、「心」なんです。だから同じワインでも「これは500円のワインだよ」と言われて飲んだ場合と、「これは10万円だよ」と言われて飲んだ場合とでは味が違うのです。美しいものを見て「美しい」と感じているのも「心」です。だからこそ、子どもに豊かな人生を生きることを望むのなら、子どもの心を育ててあげる必要があるのです。でも、「心」は見えません。触れることも出来ません。ですから、そんなものをどうやって育てたらいいのかなど分かりませんよね。そこで大切になるのが「きく(聞く・聴く・利く)」という能力を育ててあげることなんです。聴覚だけでなく、視覚も、触覚も、嗅覚も、味覚も、それが「心とのつながり」を得るためには「きく」という働きが必要になるからです。お酒の味を見る時に「利き酒」をしますよね。味も「きく」ものなんです。「聞香」という言葉もあるそうです。これは、文字どおり「香りをきく」という行為です。「目利き」という言葉もありますよね。それが聴覚以外の感覚であっても、感覚に意識を向ける時には「きく」という状態になるのです。そしてそういう言葉を持っている日本人は「聴く能力」に優れた民族です。日本人が大好きな「和」は聴く力によって支えられています。でもその一方で、「話す能力」は低いですけど・・・。ただし、いずれの場合も、意識を向けて問いかけないことにはきこえません。ですから、子どもに言葉を伝えたいのなら、一方的に言葉を浴びせても無駄なんです。子どもの意識をまずこちらに向けさせ、能動的に聴く体勢を整えてから語りかける必要があるのです。そんな時は、子どもに問いかけ、子どもの言葉に耳を傾けることから始めると、子どもはお母さんの言葉にも耳を傾けるようになります。また、不思議なことに、問いかけると、耳には聞こえない音でも聞こえて来るのです。幼い子ども達はいつもそういうことをしています。青い空を見ながら「あなたの音を聴かせて」と耳を澄ませていると、空の音が聞こえてくるのです。花や木を見ながら「あなたの音を聴かせて」と耳を澄ませていると、花や木の音が聞こえてくるのです。赤い色を見ながらその赤が発している音を聴こうとしてみてください。心の中で色々な音を出してみて、目で見ている赤と共鳴する音を探せばいいのです。是非、試してみて下さい。ただし、その「音」に客観性はありません。同じ木を見て感じた音でも一人一人違うのです。だから科学としては扱われないし、「そんなもの存在しない」と言う人もいるのです。でも、それは同じものを食べた時でも、一人一人感じている味が違うのと同じことですから当たり前のことなんです。実は、「心」もまた音で出来ているのです。だから「言葉」や「音楽」が心に深く働きかけることが出来るのです。文字を読む時も、脳は一度目で見た情報を頭の中で「音」に変換して理解しているそうです。頭の中で、「音」に変換して頭の中で聴かないと理解することが出来ないからです。「音に包まれる」という表現がありますが、「音」は耳だけではなく心やからだ全体で聴くことが出来ます。さらには、「耳で聞くことが出来ない音」でも「心」で聞くことが出来ます。普段自覚していませんが、人は色や形にも「音」を感じています。そしてその逆に「音」に「色」や「形」を感じることも出来ます。実際、女性の甲高い声を「黄色い声」などと言うことがありますよね。また、音や音楽を聴いて、その音や音楽を絵に描いてみようとするワークも出来ます。その逆に、絵を見てそこから感じた音を、実際の音として表現することも出来ます。「音が創り出している世界」は「目で見えるものが創り出している世界」よりもはるかに大きくて深いのです。また、気質の違いは「その人が発している音」(波動)の違いとしても感じることが出来ます。人はみんな「その人固有の音」を発しているのです。「ド」の人もいれば「ラ」の人もいるのです。まただから「音」や「音楽」は人の心やからだに深く影響を与えることが出来るのです。また、心が短調の状態の時には、短調の曲を聴きたくなります。長調の状態の時には「長調の曲」を聴きたくなります。でも現代人は、「音の世界の豊かさ」を忘れ、「目で見えるものが創り出している世界」だけがこの世界の全てだと思い込んでいます。ちなみに話が飛躍してしまいますが、父性的な働きは「視覚的な要素」が強いです。それに対して母性的な働きは「音を感じる働き」とのつながりが強いような気がします。
2024.10.07
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今、キャンプに来ているのですが、昨日は出発前に記事を書いて、キャンプ場に着いてから見直して投稿しようと思っていたのですが、結構な雨の中、あれこれやっているうちに忘れてしまいました。ということで、昨日書いたものを投稿します。それにしても、日ごろの行いが悪いのか、最近はキャンプごとに雨です。**************この世界は「人間の目で見えるもの」と「人間の目では見えないもの」で構成されています。そして、私たちは「人間の目で見えるもの」しか見ていませんが、実際には「人間の目に見える世界」は、私たちが生きている世界のほんの一部で、その他の世界のほとんど大部分は「人間の目では見えないもの」です。その「人間の目では見えないもの」も機械で観測すれば少しは分かりますが、でも、その機械を使っても分からないこともあります。私たちは自然や宇宙の中で暮らしていますが、自然や宇宙の外には出ることが出来ないからです。内側の状態を観測することで、自然の外、宇宙の外を推測することは出来ますが、永遠に推測以上のことは出来ません。そして、目では見えないもの、機械でも観測できないものは身近な所にもあります。それは「三体問題」のように、「複雑につながり合い、お互いに影響し合って変化し続けている現象」です。私たちにとって最も身近な「人間関係」などもそのようなものです。天気予報も同じです。まただから、人間には未来を予想することは出来ても、予測することは出来ないのです。でも人は、「この世界は目で見えるもの、観測できるものだけで構成されている」と思い込んでいます。「目では見ることが出来ないものの存在」に気付かないからです。見えないですからね。「時間」も見えません。時間をはかる時計は見えてもそれは「時間」そのものではありません。「光」も見えません。目に見えている光は、何かにぶつかって反射し、私たちの目に飛び込んできたものだけです。光そのものが見えたら、世界は光にあふれているので、他に何も見えなくなってしまいます。「空間」も見えません。絵描きや建築家は「空間を観る訓練」をしますが、それでも「見えるもの」を手掛かりにして見えない空間を観ようとしているだけです。素人や子どもたちが描く絵は二次元(平面的)ですが、空間を観ることが出来る絵描きは、それを「本当にそこにあるように」描くことが出来ます。写真は、「そこにあるもの」をそっくりに写すことは出来ますが、カメラと対象の間に存在している空間を写すことは出来ません。私たちを地球に留めてくれている「重力」も見えません。科学は重力を間接的には観察することが出来ますが、重力そのものを直接観測することは出来ません。味覚、聴覚、触覚、嗅覚で感じるものも目で見ることが出来ません。機械でわかるのは数字だけです。共感覚を持っている人はそういうものも多少は見ることが出来るようですが、全てではありません。すべてが見えたら脳がパンクしてしまいます。私たちは、そんな「目では見ることが出来ないもの」「機械でも観測できないもの」に囲まれて生きているのです。そして、味覚、聴覚、触覚、嗅覚、その他の感覚といったような視覚以外の感覚が、それらを感じ、私たちと世界のつながりを支えてくれています。中でも耳(聴覚)の働きは大きいです。人は音を聴くことで、目では見ることが出来ないものまで観ることが出来るからです。それが観音様の「観音」の意味です。<続きます>
2024.10.05
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私たちは二つの世界に属して生きています。一つは「人間が創り出した世界」。これは「社会」と呼ばれるものです。文化や文明もまた「人間が創り出した世界」に属しています。もう一つは、その「人間を創り出した世界」です。これは「自然」と呼ばれています。「人間が創り出した世界」は「人間を創り出した世界」の中に創られています。ですから、「人間を創り出した世界」が揺れれば「人間が創り出した世界」も揺れます。「人間を創り出した世界」が崩壊すれば「人間が創り出した世界」も崩壊します。人間にとっては、「人間を創り出した世界」と「人間が創り出した世界」は運命共同体なんです。ですから、人間が「人間を創り出した世界」を破壊するということは自殺行為なんです。でも、人間たちはそのことを忘れ、自然を資源としか見なくなりました。人間以外の生き物や草や木を「命を共有する仲間」とは考えなくなりました。本来の仏教ではそういうことも大切にしたのですが、西洋で生まれたキリスト教は「人間」と「自然」を分離しました。でもそのおかげで科学が生まれ、人間たちは簡単で便利な生活を享受できるようになりました。仏教もまた「人間が創り出した世界」の広がりにつれて、「人間を超えた世界とのつながり」を説かなくなり「人間のためだけのもの」になりました。でもそれと同時に、自然を資源としか見ない考え方によって自然は破壊され、自然界の秩序が崩れ始めました。そのため、自然界は新しい秩序を創り出すためにこれまでの秩序をリセットし始めました。そして、その自然の中に暮らしている人間もその流れに巻き込まれています。というか元々の原因を創り出したのは人間なんですから、「個」としては被害者であっても「種」としては加害者なんです。そして人間は、同じようなことを「子ども」という自然に対しても行ってきました。子どもを、「自分と対等の仲間」としてではなく、「大人の管理下、支配下にあって、大人の指示に従うべき存在」として考えるようになってきたのです。でも、子どもの成長を支えているのは「人間を創り出した世界」の働きです。命もからだも「人間が創り出した世界」に属しています。でも人間はそのことを忘れ、自然を破壊してきたのと同じ様に、「自然現象としての子どもの成長」や「自然現象としての命やからだの働き」を、人工的にコントロールしようとし始めました。そして「子どもの成長」も、「私たちの命やからだの状態」も、その秩序を失い非常に不安定な状態になってしまいました。ちなみに「命やからだの状態」が不安定になれば「心の状態」も不安的になります。「命やからだの状態」が狂えば、「心の状態」も狂います。「外なる自然」の崩壊は、人間の社会を外側から破壊してきます。この場合は、科学の力である程度は抵抗できます。でも、「子どもの成長」や「命やからだ」といった「内なる自然」の崩壊は、人間の社会を内側から崩し始めます。そして、この場合、科学は無力です。
2024.10.04
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子育てには正解がありません。ある意味で、どのように子育てをするのかは自由です。でも、自由ほどやっかいなものはありません。どっちの方向に行ったらいいのか、何をしたらいいのかを全て自分で決めなければならないのですから。でもそれ故に、自由に生きるためにはそのための「地図」と「羅針盤」が必要になります。「地図」と「羅針盤」がなければ「今、自分がいるところ」が分かりません。今自分がどっちに進んでいるのかも分かりません。「地図」と「羅針盤」がなければ、行きたいところがあってもたどり着けないのです。それでも運が良ければ楽園にたどり着けるかも知れませんが、そういう幸運は滅多にないと思います。そのため、自分自身の「地図」と「羅針盤」を持っていない人は周囲の人が言っていることや、やっていることを羅針盤にしようとします。みんなが右を向けば自分も右を向くのです。そうすれば迷子にならないと思い込んでいるからです。でも人は一人一人異なった人生を生きています。「やりたいこと」や「向かいたい方向」も一人一人違います。だから、他の人を羅針盤にして生きていると「自分の人生」においては迷子になってしまうのです。しかも、その「自分が羅針盤にしている相手」も迷子になっている可能性があります。もしそうだとしたら、知らないうちに迷路にはまり込んで抜け出せなくなってしまう危険性もあります。そんな風に迷子にならないためには、「自分が今いる場所の地図」と「自分が進みたい方向を指し示してくれる羅針盤」が必要になります。その「地図」は他の誰かに与えてもらうものではありません。「自分自身の生き方」が「自分が今いる場所」を作り出しているからです。だから、「自分は何を大切にして生きているのか」ということを、自分自身に問いかけて自覚する必要があるのです。これがはっきりとしていないと、自分が生きている場所の地図が見えて来ないのです。そして、周囲に振り回されて迷子になってしまうのです。ただし、特に行きたいところがないのなら、迷子になっていても「みんなと一緒」にいることは出来るので、それだけで満足することが出来るかも知れません。それもまた、「幸せな生き方」の一つなのでしょう。ただし、子育てにおいては状況がちょっと異なってきます。子どもは「みんなと一緒」も好きですが、大人以上に「自分らしさ」にこだわろうとするからです。子どもは常に「自分」を主張し、その「自分」を肯定してもらおうとするのです。だから子育てが「面倒くさいもの」になってしまうのです。兄弟がいると、お母さんに対して一人一人がみんな「他の兄弟とは違う自分」を主張し、「自分」を認めてもらおうとします。「お兄ちゃんがミカンを選んだなら僕もミカンでいい」というようにはならないのです。だから「子どもの欲求に合わせた子育て」をしていると、一人目の時はなんとか出来ても、二人目が生まれた時点で子育てが破綻してしまうのです。最初の子にスマホを与えたら、当然のことながら二番目の子もスマホを欲しがります。そして与えざるおえなくなります。その結果、兄弟は関わり合うことなく、一緒に遊ぶことなく育って行くことになります。それを避けるためには、お母さんが「みんなで共有出来る地図」を与えてあげる必要があるのです。その地図はお母さんの趣味や興味や生き方で決めてしまっていいのです。というかそれ以外の地図は作りようがありません。うちは家内も私も「自然」が好きだったので「自然」が家族みんなで共有出来る地図になりました。その地図の中で何をするのか、何をしたいのかは一人一人違いますが、でも、地図を共有しているので助け合うことも、話し合う事も出来ます。長女の家族は「音楽」が家族共有の地図になっています。お父さんお母さんは合唱、長女はギター、次女はピアノ、三女はまだ不明という感じです。そしてその地図の上でどちらに進んだらいいのかは、子ども達の笑顔が教えてくれます。子ども達の笑顔は、子育てにおける最高の羅針盤なんです。ですから、子育てに迷ったら子どもの笑顔が増える方向に進んでいけばいいのです。ただし、「子どもの笑顔を増やす」ということは「子どもを喜ばせる」ということとは違いますからね。「羅針盤」になるのは、安心と自信に満たされた時に子どもの内側から出てくる笑顔です。
2024.10.03
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