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カテゴリ: 読書
本章は、辰王の系譜が朝鮮半島でどのように「百済」という国家に受け継がれ、そして倭国へと繋がっていったかを見ていく。
◆百済建国(4世紀)
4世紀前半、馬韓地域に百済が建国された。王家の出自は扶余氏であり、高句麗から分かれた集団――つまり扶余族の流れを引く。国号は「百済」だが、一時期「南夫余」を称し、都も「夫余」と呼ぶなど、扶余族としての自覚が強かった。


Wikipediaより引用


◆百済王=辰王の継承者
百済王は二重の正統性を持っていた。一つは扶余族としての血統であり、高句麗・夫余との同族意識である。もう一つは辰王の継承者としての正統性であり、馬韓地域の伝統的権威、「不得自立為王」の原則に連なるものだ。つまり百済王は、扶余族の血と辰王の権威を同時に持つ存在となったのである。





◆5世紀の百済と倭国――左賢王コンキの登場
5世紀、倭の五王の時代には、高句麗の南下圧力に共同で対抗するため、倭国と百済の同盟が強化されていった。とりわけ重要なのが458年、『宋書』百済伝の記述である。百済の蓋鹵王が宋に上表文を提出し、11名の百済将軍が宋から将軍号を認められたが、そのうち「征虜将軍」を授かった左賢王・余昆(よこん)が登場する。仲島岳氏は、この「左賢王余昆」こそが後に倭国に来る昆支であり、単なる王族ではなく「将軍」の称号を持つ軍事的地位も備えた人物だったと指摘する。
そして461年、左賢王・コンキが倭国に来る。崇神王朝の血を引く倭国王家への「入婿」として、辰王の血が倭国に流入し始めたのである。
後の章(石渡説の核心)で詳述する 昆支の来倭は、辰王の血の倭国への流入の始まりでもあった。そして仲島氏が指摘する「左賢王」という地位が、その軍事的・政治的重みを物語っている。
◆5世紀末〜6世紀の倭国
辰王の血は、段階的に倭国へ流入していった。第一段階は461年の昆支の来倭であり、百済王族(左賢王)の倭国王家への入婿という「血」レベルでの統合の始まりだった。第二段階は5世紀後半から6世紀にかけての、昆支系(応神系)による倭国掌握であり、倭の五王「武」=昆支として倭国王家と百済王家が融合していく過程である。そして第三段階は6世紀の欽明・蘇我系の台頭であり、昆支の子孫が倭国の中心へと進出し「百済化」が進行して、531年のクーデター(辛亥の役)に至ることになる。





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Last updated  Aug 10, 2026 09:13:38 AM
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