道の駅・宿 0
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大分県滞在二日目。 気持ちのいい朝焼けから始まった二日目、本日の予定は温泉地湯布院を目指す。 その前に、折角別府に来たのだから、旅館から歩いて廻れる距離でもある地獄巡りを楽しんでからにしよう。今回はその地獄巡りの際に海地獄で祀られていた白龍稻荷大神と小さな社を取り上げて見ます。名勝海地獄。 茅葺屋根の長屋門が入口。白龍稻荷大神へは地獄巡りの共通観覧券か、個別のチケットを手に入れないと参拝ができません。 海地獄の施設マップ。 これより下に出てくる写真を撮影場所に貼りつけておきます。門をくぐると目の前に蓮池が現れる。 訪れたのが10月27日、水面には季節外れの睡蓮が咲き誇っていた。紅葉に睡蓮、大鬼蓮、温泉地ならではの光景かもしれない。 海地獄園地には青い湯の海地獄と真赤な湯を湛えた赤池の熱泉があり、他に温泉の熱を利用した温室が見所。 海地獄で見かけた覆屋。 地獄を目当てに訪れる人が多いなか、お参りする観光客もなく、園内の片隅にひっそりと祀られていた。中には三体の地蔵が安置されており、穏やかな表情をした左右の地蔵は安政4年(1857)に寄進されたもの。 中央の小さな地蔵の年代は不明で、風化により表情はもはや分からない。こちらは海地獄の展望台入口脇の少し上がった場所に祀られていた小社。 海地獄を見下ろす様に鎮座する社。案内板はなく、地獄を行き交う観光客は通り過ぎて行く。板宮造りの小さな社ですが、榊も供えられており地獄を鎮護する社なのだうか。 地獄を前にすると小さな社は存在感がないかも知れないが、外国から訪れた観光客には「Cool」に映るかも。海地獄。 園内の一番奥にあり、鮮やかなコバルトブルーの熱泉を湛える。今から約1200年前の貞観9年(867)正月、鶴見岳の火山活動に伴い出来た熱泉のひとつが海地獄です。 地下200㍍から湧き出す湯が海のようなブルーに見えることがその名の由縁で、湯温は約98℃と煮えたぎる地獄の熱さ。青い熱泉と白い湯気が一面立ち上る海地獄、湯気の切れ間の先に朱の明神鳥居が垣間見れる。 白い湯けむりの中で朱の鳥居は一段と鮮やかに映る。一ノ鳥居の扁額には「白龍稻荷大神」とある。 朱の鳥居は「Cool」に映るようで、鳥居の前や柱に抱き着いて、記念写真を撮影する人が途切れることはない。神橋前の鳥居。 橋を渡って右側に手水舎がある。手水鉢に注がれる清水は湯だった。 外国人観光客の多くは、鳥居や朱の橋、手水舎まで足を運ぶものの、ここから覆屋へは意外に訪れないようでした。朱の鳥居にはためく赤い幟、その先の朱の覆屋など外国人観光客が好みそうなんだが。 覆屋に足を向けないように見えた。内部には流造の白龍稻荷大神の社と、左脇に白龍稻荷大神と彫られた石標が立ち、更に左に狐と思われる石の立像が建てら、その左に小さな社が祀られていました。 白龍稻荷大神本殿。 家内安全、商売繁盛、交通安全の御利益が得られると云う。大分県神社庁などに目を通したが、白龍稻荷大神の由緒などはよく分からなかった。左に安置された石の立像。狐でいいと思いますが。左の小さな社。 こちらも社名や由緒などよく分からなかった。手水舎から一ノ鳥居と海地獄方向の眺め。 真赤な湯を湛えた赤池。 血の池地獄ではありません、鳥居の鮮やかな朱色とは違い暗い赤。あちらこちらで噴気が上がり、地下では今も盛んに活動している。 噴気で隠れていますが後方に温室があり、そこには色とりどりの熱帯性睡蓮が咲き誇っていた。温泉の熱を利用したもので、あまり見慣れないカラフルな色の睡蓮を見ることが出来た。 睡蓮好きには良い場所かも知れません。白龍稻荷大神について詳細が掴めず、内容が乏しく申し訳ないですが、青や赤の湯の色と白い湯煙に朱の鳥居、そしてこの鮮やかな睡蓮の色。 地獄巡りの中で自然の営みと多彩な色が見られるのが海地獄の様な気がする。別府白龍稻荷大神創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 大分県別府市大字鉄輪(かんなわ)559-1参拝日 / 2022/10/27関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY3
2022.12.22
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名古屋市西区那古野1「中村家と屋根神様」浅間神社の南側の路地を西に向かい、二つ目の交差点を右へ進むと円頓寺商店街に続く路地が伸びている。円頓寺方向の眺め。 その昔は写真の様な町屋が軒を連ねていたのだろう。壁一枚で臨家と接した建物も、新しい建物に置き換わり、今ではその連なりも一部歯抜けになったり、分断された建屋が連なる光景に移り変わっている。 それでも、表通りはコンクリートの四角いビルが立ち並び、見上げるようなビルも聳えているが、一歩入ればこうした街並みが一部に残り、どこかホッとする場所でもある。中央の木造瓦葺の建物が中村家で二階軒下に祀られた屋根神様が今回の目的地。 時間の流れと共に、この区画で唯一残ったのが中村家。那古野1丁目まちづくり研究会による「中村家と屋根神様」の解説。「築200年と云われる旧家・中村家は江戸時代の商家の佇まいを良く残しています。 当家の屋根にある屋根神様はこの地方独特の風習で、津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社を祀り、そのお祀りは今も続けられています。ここは仏教系の秋葉さんで、静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎という寺院が本山です。 鎮火防火の秋葉信仰は静岡県の秋葉神社から起りましたが、明治の神仏分離令で、仏教系の秋葉神社は火の神「火之迦具土神」を祀る様になりました。 中村家の秋葉神社は秋葉三尺坊大権現を祀っています、この神は室町時代以前に秋葉信仰で活躍した修験者の事で、天狗又は烏天狗が白狐に乗る形に象徴化されています。 この辺りは円頓寺筋とつながって、昔はにぎやかな御本坊筋とも云われました。」地方から訪れた人にはとても有難い解説です。二階の軒下に祀られた屋根神様。 今でも現役なのが見て取れます、左右の壁には枠に囲まれた額があり、絵なのか、こて絵だったのか分かりませんが、意匠が施されていたようです。こちらの屋根神様は四角い箱型の中に祀られ、祭礼の時はこの扉が開けられ社の姿が現れる。こんな高い所に祀られているので御世話も大変。 梯子を架けてお世話する事になります。なぜ敢えてこの場に祀る事になったのだろう。 軒が連なる町屋の生活は一度火災が起きればすぐに延焼してしまいます、運命共同体のようなもの。火伏の秋葉さんは必然的に祀りたくなるものです。 見渡せば長屋が連なり地面に社を祀る土地も資金もない、そうした環境下で着目されたのが軒下だったのでしょう。信心深かった当時、町内で祀られた屋根神様を住人が世話するのが自然に受け入れられていたはず。 自然に当番札が作られ、持ち回りで面倒を見る神社当番が生まれ、それと共に住民同士のコミュニケーションができ、町内は上手く回っていたのだろう。こうした屋根神様はこの地域ばかりではなく、小牧や木曽川を越えた岐阜県の街道沿いなどに一部残っていますが、高所の御世話は高齢になると難しくなり、建て替えと共に姿を消しつつあります。海外と違い、日本は古い家屋に価値が生まれないので、家のライフサイクルが短く、築200年の家が残るのは歴史的価値がないかぎり、取り壊されていきます。 古い家屋に対する価値観の違いも屋根神が消えていく要因になっているのでしょう。お洒落な家が立ち並び、住民も変われば、人の繋がりも薄れ神社当番も回らなくなっていくのだろう。 個人宅や公園の片隅に佇む小さな社が、以前は町民で世話した守り神だった事すら風化していくのだろう。こうした光景が見られるのも長くはないのかもしれない。中村家と屋根神様所在地 / 名古屋市西区那古野1-17-5関連記事 / 淺間神社(西区那古野1)、「秋葉山本宮秋葉神社」静岡県浜松市天竜区春野町、熱田区神宮2「補陀山 円通寺」、全国天王総本社『津島神社』(津島市神明町)
2022.12.21
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久し振りの京都。 名古屋から新幹線で一時間もあれば京都の地を踏みしめられる。車で訪れようものなら駐車場に困り、観光名所や食事処は何処に行っても海外旅行者とツアー客で溢れ、 気安く訪れたいと思えないのが京都の個人的な印象かもしれない。しかし瑠璃光院の紅葉を見るためにもここは受け入れるしかない。京都駅から西に徒歩10分程。 東寺に向かう途中、油小路東寺道の交差点の西角で、古い寄進者銘の連なる玉垣に囲まれた「伏見大社御旅所」の前を通りがかる。伏見大社の神様が祭礼の際に臨泊される場所で、普段神様は伏見大社におられるので今は不在。境内は北と南に二つの鳥居があり、写真は南の鳥居から境内を見ています。 境内は落葉した赤いもみじの葉が朝陽を受けて赤い絨毯を敷き詰めたようだ。この時ばかりは朱の鳥居の存在感も薄くするほどだ。境内の伽藍は左の建屋は奉安殿?と奥の赤い建屋は神楽殿、参道中央に神輿台車庫、右に境内社の伽藍。 伏見稲荷はとんでもなく人が集まるが、駅から近い御旅所は誰一人出逢わなかった。意外な穴場かもしれない。境内右に横一列に四つの社が並んでいる。社頭の御旅所解説。「此処は伏見稲荷大社(伏見区)の御旅所です。 この御旅所は、かつて七条油小路と八条坊門猪熊の二か所に分かれてありました。天正年間にこの地に移り現在に至ります。 稲荷祭りでは五基の神輿、田中大神(田中社)、佐多彦大神(中之社)、宇迦之御魂大神(下之社)、大宮能売大神(上之社)、四大神(四之大神)が駐輿し、その間神輿の氏子区域(不動堂、西九条、塩小路、中堂寺、東九条、八条東寺)の巡幸、神楽殿での湯立神事、六斎踊り等々により境内は氏子、参詣者で賑わう。境内社殿、神輿台車庫、神楽殿、奉安殿の整備は平成19年より順次行われ、社殿(下命婦社、上命婦社、御旅殿、大神宮)は平成27年に竣功。 御旅殿を除いた社殿は、神宮遷宮後の古殿舎の使用材が使われている。周囲の石玉垣は明治40年に新設され令和元年に改修されたもの。 所在地京都市南区池ノ内町98祭礼日 菜花祭 4月初巳の日、稲荷祭・神幸祭 4月20日前後近接日曜日、区内巡幸 4月氏子祭の日、還幸祭 5月3日、火焚祭 11月10日」全国津々浦々のお稲荷さんの本店、伏見稲荷大社、その神様が御旅所に訪れるのは神幸祭の時。 天正年間(1573~1592)、下社(七条油小路)、中社・上社(八条坊門猪熊)の御旅所は秀吉により統合され、この地に遷されたもので、旧地は古御旅所と云われ、ここから北西の南区古御旅町に地名として名が残っています。稲荷祭は貞観年間(859~877)から続き、室町時代の1442年には山鉾も登場するなどし、祇園祭に匹敵する祭りだったといいいます。 その祭も応仁・文明の乱(1467~1477)の戦乱で中断、それと共に山鉾も姿を消したそうだ。戦乱後の1476年に神幸が再開され、江戸時代には賀茂祭、祇園祭と共に京の三大祭の一つとして称されたようです。 神輿台車庫に保管されている神輿は、一基の担ぎ手が300人を要する大きなものという、普段はシャッターが下ろされその姿を見る事は出来ない。神楽殿も普段は引き戸が閉じられ祭礼時の賑わいを感じさせない、駅近くにありながら静かさが漂う境内です。赤い絨毯の先の四つの境内社。 正面が稲荷社で祭神は稲荷大神、右の神明造の相殿には左に豊受皇大神、右に天照皇大神が祀られています。稲荷社の左の上命婦社、祭神は上之命婦、その左が下命婦社で下之命婦を祀ります。境内社右から四社の眺め。 2015年(平成27)に手を掛けられただけに、稲荷社始め何れの社も綺麗な状態で、鮮やかな朱塗りは鏡の様に輝いていた。この稲荷社と東寺は空海に纏わる言い伝えも残る。駅からほど近く、本来の静かな京都を感じられる場所かも知れない。 ここから僅かばかり西に歩けばそこは東寺、こんなに落ち着いて参拝や写真に収めるのは難しいのかも。伏見稲荷大社御旅所創建 / 不明、天正年間(1573~1592)遷座所在地 / 京都府京都市南区西九条池ノ内町98境内社 / 稲荷社、神明造の相殿、上命婦社、下命婦社参拝日 / 2022/11/24JR京都駅から目的地まで / 徒歩10分程関連記事 / 京都一泊二日 (東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺)、青春18切符で京都まで VOL1『伏見稲荷大社登頂』
2022.12.20
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津島市神明町「津島神社」全国天王総本社として、西の八坂、東の津島として知られる。門前町を西に進むと、朱の東大鳥居が現れる。鳥居の先に朱で彩られた二層の楼門。往古は津島牛頭天王社と称し、今も「お天王さま」として崇敬される神社。社伝によれば540年(欽明天皇元年)鎮座とされ、810年(弘仁元年)に正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇(980~1011)の正歴年中、天王社の号を授かり天王社の本社として全国に約3000社の分社があります。歴史があるだけに当然ながら尾張名所図会にもその姿は残されている。広大な境内に塔頭寺を含め規模の大きな伽藍が描かれています。上は写真の東鳥居を下にして門前町と右脇に宝寿院、上に向け伽藍と参道には多くの参拝者の姿が描かれています。伽藍は挿絵の左に建つ南鳥居から更に左方向に続いていきます。昔も今も津島神社に参拝する参拝客の姿は途絶える事はない。当時と今で大きく違うのは、歩きから車に変った事、東大鳥居周辺は参拝者駐車場となり多くの車が駐車し賑わっている。上は先の挿絵の南門から左の続き。南門前の広い境内に南大鳥居が建ち、現在は鳥居から南門にかけて駐車場となっています。参道を更に南に進めば天王祭で知られる津島湊(天王川公園)も近い。600年以上受け継がれ、昨年は7月24~25日開催予定でしたが中止を余儀なくされたようです。祭りは無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産にも登録され、まきわら船の屋台の上に365個(1年の日数)の提灯、中央の真柱に12個(1年の月数)の提灯をかかげあかりをともし天王川を漕ぎ渡る夏の風物詩。古くは信長もこの天王祭をよく見物した云う。現在は流れは堰き止められ池となったが、挿絵には滔々と流れていた頃の天王川を舟で訪れる姿もある。東大鳥居から太鼓橋を経て国の重要文化財に指定される楼門方向の眺め。入母屋檜皮葺の二層の門で1591年(天正19)秀吉により寄進されたもの。1941年(昭和16)に修復の手が入っている。楼門左の末社。右愛宕社 祭神 迦具土神(防火・火の守護)1760年(宝暦10)建立の銅板葺流造の社で、元は楼門外北側の橋守社と相似して鎮座していたが神厩移転の際現在地に遷座。左橋守社 祭神 猿田彦命(交通安全・導きの神)銅板葺流造の社で、1760年(宝暦10)建立、元は天王川に架かっていた天王橋の守神として橋の袂に祀られていたとされ、橋姫社と称していたという。楼門右に手水舎、手水鉢。(写真は2018年6月撮影)津島神社由緒と境内案内図祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)由緒「津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。 大神は国土経営・産業開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起こる災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。 社伝によれば当社は欽明天皇元年(西暦540年)のご鎮座で弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正歴年中、天王社の号を賜ったと伝えられ、いわゆる諸国の天王社の本社として全国に約3,000社の御分霊社があります。 御鎮座以来、歴代の武門貴賊から篤く尊崇されましたが、殊に戦国時代津島の隣り勝幡城出身の織田氏は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉公を始め豊臣一門は織田氏に続いて社領を寄進し造営を授けるなど尊信し、現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(西暦1591年)秀吉公が寄進され、また愛知県文化財指定の南門は慶長3年(西暦1598年)秀吉公の病気平癒を祈願して秀頼公より寄進になったものであります。 又現在の御本殿は慶長10年(西暦1605年)清洲城主松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方の寄進になった建物で重要文化財に指定されております。 天保4年尾張藩主徳川義直公は社領として津島向島の地で高1,293石余を寄進し後に将軍家綱公の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。 幕府光格天皇以降、朝廷内々のお沙汰を以ってしばしば歴代の主上親王様方のご祈祷を仰付けられ又有栖川宮家のご祈祷所をも仰付けられました。 明治6年県社に大正15年国幣小社列せられましたが、終戦後この制度は廃止されました。例祭 6月15日、尾張津島天王祭宵祭(提灯祭)第4土曜日 夜朝祭(車楽船祭) 7月第4日曜日 昼」 境内には本殿含め37の摂末社が祀られ、ここに掲載した末社はその一部分にしかすぎません。(今回、写真を整理していて津島神社が未整理で投稿すらしていないことに気付き、2018年の画像を基に投稿しています)上は尾張名所図会の当社記述。津島神社を氏神とする信長から厚遇され、神社神紋紋木瓜紋と織田氏の家紋も同じである事など信長と神社の関りの深さが窺われる。秀吉が1591年(天正19)に寄進した楼門、丸柱や三手先の斗供、垂木など赤く塗られた二層の門は、軒の長さもあり、艶やかでどっしりとした安定感を感じさせる。国の重要文化財に指定されている。楼門から境内の眺め。上は授与所から拝殿方向。下は拝殿から南門方向の眺め。拝殿から本殿方向の眺め。南門、蕃塀、妻入拝殿と平入の祭文殿、それに廻廊が左右に繋がり、渡殿から流れ造りの本殿に続く尾張造。檜皮葺の切妻妻入拝殿は1649年(慶安2)建造とされ県の指定文化財。この先にある祭文殿や渡殿は1823年(文政6)の建造で廻廊は1825年(文政8)の建造で何れも県の指定文化財。本殿は1605年(慶長10)の棟札が残り国の重要文化財に指定されている。上楼門左側の摂末社群、突き当りから南門方向にも複数祀られている。境内にある摂末社の内、ここから南に祀られた摂末社を参拝して行く。下柏樹社 1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災。上瀧之社(左)、祭神は配水の神、弥豆麻岐神を祀る。右は和御魂社、1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命和御魂。1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災下突き当りに鎮座する二社左大蔵社(左) 穀物の守護神大年神を祀る。 右が熱田社、災難除けの神、倭建命を祀る。 更に右へと社が続く。上熱田社から南門方向の摂末社、ここからは社名むと祭神のみ記載。左から米之社(宇迦之御御魂神)、児之社(若年神)、大社(大山咋命)、外宮(豊宇気比売命)、船付社(庭高津日神)と南門に向けずらりと鎮座する。下南門から見た摂末社。上摂末社を過ぎるとシックな蕃塀が建つ、檜皮葺で控え柱の付くもので中ほどは透垣になっている。江戸時代後期の建造で県の指定文化財。正面の鳥居は弥五郎殿社。下南門。1598年(慶長3)建造の四脚門で県の指定文化財。秀吉が病に伏した時、秀頼の発願で清洲城主福島正則が建立したとされる。南門から入ると左側に三社祀られています。左から多度社(羽山戸神)、秋津比咩社(速秋津比売命)、内宮(天照大神)。更に左手に朱の鳥居を構える社が摂社の弥五郎殿社。本殿は流造で拝殿・本殿共に1673年(寛文13)の建造でどちらも県の指定文化財。祭神は大穴牟遅命、武内宿禰命。郷土の守護社家堀田一族の堀田弥五郎正奏が造替、津島神社社宝で国の重要文化財の大原真守作の佩刀を寄進するなどから弥五郎殿社と呼称されるそうだ。上拝殿右の社は戸隠社(手力雄命)下弥五郎殿社拝殿から本殿の眺め。上弥五郎殿社から津島神社拝殿方向の眺め。気付かなかったが左の西の廻廊と東の廻廊にまだ多くの摂末社が祀られていた。次回はこの摂末社は忘れずに参拝しよう。下蕃塀から境内方向の眺め。右は旧授与所。 ここから南門を出て南大鳥居方向に。神橋から南門境内の眺め。上神橋の左に南門参道の手水舎がありその左に石標が立つ。下石標は照魂社とあり、正面の鳥居から先に拝殿と本殿が祀られている。津島照魂社の謂れ「昭和26年10月9日、旧津島町出身の英霊六五八柱を奉斎して遷座され、祖霊社としてお祀りしたのが始まり。昭和29年10月10日現在地に移築し社頭を整備した。昭和51年5月、終戦30周年記念として本殿の修復及び境内整備を行う。昭和54年8月、遺書掲示板を設置し、同年12月には狛犬一対が奉納された。主な大祭(祭典)、御魂祭/7月15日(夜)、10月10日(昼)、月次祭/毎月10日(午前)現在祭神数一一七三柱」郷土のために英霊となられた方々へ、平穏な日々が送れることに感謝するしかない。上照魂社の左に鎮座する菅原社。下参道左に手水鉢と与謝野晶子の歌碑が彫られた碑が建つ。「二もとの銀杏を於きて自らは紅き津しまの神の楼門」上参道入口にある津島市指定先祖の遺産「三つ石」長さ2㍍、1.4㍍、3㍍、直径1㍍ほどの石がトライアングル上に配置されている。この石については何ら伝承がないという。尾張名所図会の神社境内図の現在地と同じ位置に三つ石は描かれている。(下)津島神社は540年(欽明天王元年)に居森の地に鎮座と伝承されており、古代祭禮の場ではないかとも云われる。この三つ石はその一角に置かれていて津島神社の鎮座と関わりがあるのかもしれない。ミステリアスな石だ。 写真下鳥居の先、中央に菅原社、左にも小さな社と右側の絵馬掛けの先にも社が祀られています。 f:id:owari-nagoya55:20220208215159j:plain 正面の菅原社1644~1647年の政保年間、津島神主氷室氏の邸内社として京都北野社(北野天満宮)から勧請されたもので1901年(明治34)にこの地に遷座したもの。祭神は菅原道真、例祭は3月25日。左の社は不明。菅原社の右に小さな鳥居を構えて鎮座する社。こちらも少し調べて見るが社名など詳細は分からなかった。ここから南大鳥居方向に進めば疹社と摂社の居森社が鎮座していますが、宝寿院で御朱印の話に盛り上がっているかみさんの元に戻る事にした。2018/6/15 津島神社創建 / 540年(欽明天皇元年)祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)摂末社 / 南大鳥居参道沿い、境内廻廊の南、東に本殿含め37社所在地 / 愛知県津島市神明町1公共交通機関アクセス / 名鉄津島線「津島」駅から西に徒歩15分程 関連記事 / 津島市 Vol 4『宝寿院』 余談今回、別記事掲載に際し、関連記事としてここに飛ばしたかった。しかしさっぱり見当たらず、纏めていない事に気付き急遽掲載する事にしました。過去の日付でしれっと掲載できません。掲載写真は2018/6/15時点のものです、ご容赦下さい。この際、コロナ直前の京都、奈良などの神社仏閣の写真が多数出てきた。参拝客の映り込みが多く見送っていたのだろう。メジャーな神社仏閣を訪れるには、ある意味今がいいのかもしれない。
2022.12.17
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西寒多神社から車で北西に別府方向へ25分程。 大分市の西、二葉山(八幡柞原山)の山間に豊後國一之宮「柞原八幡宮」が鎮座します。現在地は大きな〇で柞原八幡宮の一之鳥居はここから県道696号線を大分港に下り、海岸線沿いに延びる国道10号線の手前(小さい〇)に一之大鳥居を構え、往古は広大な社地を有していたようです。県道696号線沿いの社頭全景。 鬱蒼とした社叢に包まれ、入口右側には手水舎、その後方に天を突く様な大杉が聳えています。注連縄鳥居の先から長い参道が上に続き杜に消えていきます。長い参道の途中には日暮し門とも形容される、随所に見事な彫刻が施されている南大門が建ち、その手前には国指定天然記念物の大楠が聳えています。手水舎。柞原八幡宮境内配置。 参道は途中で二手に分かれ、右手は楼門、左手を進めば西門に繋がります。おやじ達は矢印のルートを進むことに、理由は、楼門に至る石段が急な事もあり、上りよりは下った方が楽だろう、つまらない理由かもしれない。 尚、参拝当日は修復工事中で社殿の大半は覆いに包まれていました。社頭入口の由緒略記から一部抜粋。 「豊後國一之宮 柞原八幡宮(国指定重要文化財)御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后主な祭典 例大祭(3月15日)、夏越祭(7月14~20日)平安時代の天長4年(827)に宇佐神宮より分霊を勧請、承和3年(836)社殿を造営。 嘉承(1108)、敷地の四至が定められ税を免除。仁平3年、鳥羽法皇により神領を定められた。 元暦元年(1184)、源範頼が平家追討を祈願、頼朝や領主からの崇敬が厚かった。嘉永3年(1850)、八幡造りの本殿を再建。」靑もみじの下、石段を上り始める。石段が続く参道は所々に石畳が現れる。 紅葉や新緑の時期には見応えがありそうです。先に朱の鳥居が見えて来た、社殿も近いか?参道沿いに立つ燈籠の寄進年は天保だけに留まらない。菊の紋が施された朱の明神鳥居。社殿かと思い込んでいた建物は南大門。 この辺りで参道のほゞ中程、社殿はまだ見えても来ない。 南大門の左に聳える大楠、柞原八幡宮の国指定天然記念物で、空に向かって堂々と聳えるその姿に自然への畏敬の念を抱く。 樹齢三千年とも云われ、幹回りは約19㍍、樹高は約30㍍の自生の樹で、幹には空洞も出来ている。柞原八幡宮の広大な社叢にはこうした巨樹が聳え、昔の自然林の姿を留めています。南大門。 別名日暮し門と呼ばれ、元和9年(1623)に再建され、こうしてみる門は明治3年(1870)の建立のもの。参道に対し門が大きく側面の姿は見られなかったが、銅板葺の入母屋屋根で前後に大きな唐破風向拝が付けられている。どっしりとして趣のある門です。向拝の額は「由原八幡宮」と書かれていた、今の柞原の表記は明治に入ってからとされ、明治に再建された当時の呼称の額が掲げられている。 以前は由原宮、八幡由原宮、賀来社などと呼ばれていたという。一見派手さはないけれど、木組みや天井、壁面に施された聖人や龍、花、鳥などの彫りには、当時の匠の拘りが見えてくる。門の内側にも手の込んだ彫が、一之宮の入口を飾るだけに職人の拘りが込められているのだろう。裏側から見る南大門。 放射状に並ぶ垂木や斗供が美しい、日暮し門の名は強ち間違ってはいない。二葉山稲荷神社。 南大門を過ぎた参道左に赤い鳥居を構え、参道の奥の杜の中に社が祀られている。今から500年ほど前に伏見稲荷神社から分霊を勧請したもので、創建当時から霊験あらたかで、開運の守護神として崇敬されていると云います。 以前は本殿域の西宝殿に祀られていたものをこちらに遷座したものと云う。門をくぐると参道は燈籠の前から二手に分かれ、右は楼門へ、左は神門へと続いています。 急な上りの石段を気にしなければ右に進むと、参道脇には古い灯篭が立ち並んでいます。長い参道が続いていますが左を選択します。参道左側の宝物館。 これが見えてくれば社殿は目の前。長い歴史を誇るだけに各時代の有力者の寄進物が数多く残り、それら国指定、県指定の文化財の他に神仏混淆の名残を留める仏像などが収蔵されている。宝物館の前の石段を上ると左側が社務所、右側が西門が現れる。西門全景。 門から先に見える建物は申殿。朱に彩られたこの門、ただ色彩が目立つだけではなく、その内側も見上げてみるといいでしょう。 四方の梁の間には細部まで彫られた透彫りや蟇股の彫刻など細かな仕事が施され、いずれも彩色されていた名残が残る。神殿域は東西に長く、この西門と東門、南側に楼門を持ち、それらは廻廊や塀に繋がり社殿を囲んでいます。楼門。 楼門には左右に廻廊が繋がり、楼門、拝殿、申殿が屋根続き繋がっています。参拝者は靴を脱いで廻廊に上がり、拝殿前まで進み正座して参拝する事になります。 その先の本殿域は参拝当日修復作業の真っ最中、残念ながら本殿方向の絵はありません。特徴のある本殿と左右の東西宝殿や八王子社などが祀られているようですが、ネットに遮られ姿が見られなかったのはとても残念。 いつか遮るものの無い姿を見たいものだ。因みに本殿の建立は嘉永3年(1850)と云われ、本殿は創建以降33年毎に建替され続け、嘉永3年(1850)以降は建替はされなくなり、明治、昭和と一部補修が行われて来たもので、二棟が前後に連結された八幡造り。 八王子社は明和7(1770)の建築とされる一間社流造。東宝殿、西宝殿は何れも宝暦6年(1756)とされ、桁行三間で中央に向拝を持つもののようです。申殿と右の拝殿。 では下足を脱ぎ拝殿から参拝。東廻廊から拝殿、西廻廊の眺め。廻廊には寄進年すら読み取れない奉納額が掛けられている、何れも脱色が著しく全体像が分からない。拝殿から申殿、本殿方向。 柞原八幡宮の始まりは天長4年(827)、延暦寺の金亀和尚が宇佐神宮の参篭に神告を蒙り、柞原山に勧請したのが創設起源とされる。拝殿先には巨大な天狗の面が掛けられていた。 神社と天狗の謂れはよく分からなかったが、神社を包む深い社叢には天狗が住み着いていたとしても不思議ではないか。天狗の鋭い視線を受けながら参拝させて頂く。 今時は眼に見えぬものに恐れ、自らを戒めても、拳を振り上げた不動明王や鋭い視線を送る天狗の面如きでは自らを戒める気持ちにはならないかも知れない。なまはげに恐れ慄く純粋な気持ちは失せ「誰が入っているの?」今どきの子供はいいそうだ。 怖い物の対象が昔と今では随分変っているように思う。東廻廊から見る東門。 ここもまた修復作業中、西門同様手の込んだ意匠が施されているのだろう。社殿南側の楼門と廻廊。 そこから南は急な斜面に石段で繋がり、目の前の楼門は仰ぎ見る様に聳え、木漏れ陽に照らされた緑の樹々と朱の色合いが印象に残る。 社殿の全景は杜と斜面が迫り、捉え難い神社だった。楼門前から下の眺め、足元の石段は短いながら斜度があり、石畳や石段は苔むし油断できない。 大分まで来て転げ落ち「おお痛い」では洒落にもならない。豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮創建 / 天長4年(827)祭神 / 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后境内社 / 二葉山稲荷神社他参拝日 / 2022/10/26所在地 / 大分県大分市上八幡三組西寒多神社から柞原八幡宮 / 約25分前後関連記事 / 豊後一ノ宮 西寒多(ささむた)神社(大分県大分市寒田)
2022.12.16
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兒神社の手水舎から下に続く道が伸び、徒歩1~2分程で石尊不動明王堂を訪れる事が出来ます。石尊不動明王堂全景。 車でも訪れられそうですが、駐車場へ戻る事を思えば少しは歩かないと。写真は少し明るくしています、実際は生い茂る樹々で昼でも薄暗い印象です。 入口左側に「石尊不動明王」と刻まれた石標が立っています。石尊不動明王は大山の山岳信仰岳の修験の場だったようです。枯れ葉が積もった参道から不動堂の眺め。 参道の左右に無数の風鈴が吊るされ、石尊不動明王のご利益のほどが見て取れます。右側の覆屋には守り本尊が並ぶ。左側には複数の石標と石仏が並ぶ。 写真中央に一つだけ苔生した笠を持つ石碑、寛政時代(1789~1801)の俳匠丹羽鯉圭(丹羽忠次郎氏兼)の句碑で「尊ふとさや石に不動の苔の花 鯉圭敬書」と刻まれている。石標の先には複数の石仏があるが、中でもこの馬頭観音に魅かれた。入母屋瓦葺の石尊不動明王堂。 ここから奥に進むと、滝修行をしたわけではないだろうが、山肌から小さな沢が流れ、下流の大山川に注いでいる。堂の軒下に由緒が掲げられていたが写りが悪く全文読み取れなかった。想像が出来そうな一部だけを抜粋する。 祭神 大山不動明王大山寺創建・・・江岩寺初代秋岩黒江和尚、戌年正月寺社奉行所下賜しせり土地なり例祭 11月18日、毎月18日御尊徳当地域を始め尾張地方の農民の福寿産業・・交通安全安産御守護戦時中の各地から訪れる。これではよく分からない。ここから少し下に臨済宗妙心寺派の洞雲山江岩寺が鎮座します。江岩寺の創建は1571年とされ、嘗て存在し荒廃した正福寺の再興を願い、正親町天皇が寺を建立させたとされる古刹で、正福寺の寺宝が移されている。その江岩寺初代住職により建立されたのが石尊不動明王堂のようだ。東春日井郡誌の大山峰正福寺跡の記述にもこの堂の記述が残り、「兒山の東渓谷に沿いて小宇あり、是往古の正福寺に属し、付近に金剛ヶ瀧、王子ヶ瀧の名残を留めている」とある。この小さな堂は1571年以前の正福寺の時代から、この地に鎮座していた事になる。 外観から及びもつかない歴史があるようです。人気のない境内ですが、堂内は綺麗に保たれ、鈴紐も降ろされていた。 鈴の音がよく響く事。参拝を済ませ堂内を窺ってみた。 真っ暗な堂内はコントラストを変えて見ると幾つもの奉納提灯が現れたが、その先に祀られているであろう大山不動明王の姿は当然見えなかった。堂前から兒神社方向の眺め。大山廃寺跡と江岩寺、日を改めて訪れる必要がありそうだ。石尊不動明王堂創建 / 不明本尊 / 大山不動明王所在地 / 小牧市大字大山字郷島412関連記事 / 兒神社(小牧市大字大山字郷島)参拝日 / 2022/10/05
2022.12.15
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安城市里町森。 「日本のデンマーク・安城」とか学校で教わった気がする、この日は親戚が借りる畑の落花生収穫の手伝いに駆り出された。毎年この時期になると大量の野菜を持ってきてくれるが、今年初めて応援要請をしてきた、そこには「後は宜しく」という意味が込められているのだろうか。 手入れの良い土も高齢の親戚一人が自給で維持するには畑は広すぎ。さりとて自分が?・・・、自家菜園ですら上手く育てられない自分には到底無理だ。 きちんと収穫まで育てられる方々の持つ経験と知識は尊敬に値する。半日近く落花生を掘りだし、落花生の選別と雑草取り、屈んだ状態の作業が続き、一仕事を終えいざ立ち上がろうとしても固まった体は一向に動かなかった。 畑作業から解放され、固まった体をほぐすため、最寄りの神社に参拝し帰ることにした。安城市里町森に鎮座する不乗森(のらずもり)神社。 不乗森神社の遠景。 デンマークと称されるだけに、日頃見慣れた住宅が林立しアスファルトばかりの光景とは程遠く、田畑が広がり解放感のある景色が広がります。祭神は大山咋神を祀り、大山咋神の「咋」は「主」という意味で、山水を司り、大地を支配し万物の成長を守護する御利益があり、広く地主神として崇められている。 広大な田畑が広がるこの地にあって、大山咋神が祀られたのも必然的なのものか。南向きの社頭は左に社標、常夜灯、石の明神鳥居を構え、田畑の中に浮かぶ島の様にこんもりとした杜の奥へ参道が伸びている。 参道の先には朱の合掌鳥居が見えますが、不乗森神社はこの先の神楽殿までに三つの鳥居を構えています。一ノ鳥居の額。参道を進むと左に手水舎、右に国のために亡くなられた方々の慰霊を弔う忠義護邦家の塔が建てられている。 手水舎、手水石。 こちらの龍口は立派なもので、手水石の上に全身が形作られ、恰も今ここにやって来たかのよう。社務所の南外れの水田、そこに立つ鳥居の額には「神殿」とある。 ここから先の水田は神のもの、収穫された米は神様に供えられる。神様もこうして自給している。ニノ鳥居は朱の合掌鳥居。 日吉神社などでお目にかかりますが、身近で見かけることが少ない者から見ると、その姿は個性的な形をしている。二ノ鳥居から右手境内の杜の中に石の明神鳥居があり、こちらを参拝する。 鳥居の先の赤い社は神猿(まさる)神社。合掌鳥居で知られる日吉神社と云えば猿、こちらもこうして神猿(まさる)神社が祀られています。 詳細は不明。キャンプ場で見かける猿は悪戯しかしない厄介者で集団は怖い存在なのだが、なんでも、魔が去るとされ猿は縁起の良いものだとか。参道に戻り三ノ鳥居へ。 参道脇で狛犬が守護する鳥居は明神鳥居。金色に縁どられた額は「不乗森神社」。寄進年未確認の狛犬。切妻瓦葺の神楽殿。 拘った意匠は避けたシンプルなもので神楽殿を一対の狛犬が守護しています。1955年(昭和30)寄進の狛犬。 筋肉もりもりのマッチョな姿をしている。頭部と体の比率に決まりがあるのか定かではないが、これくらいの比率が見ていてもバランスが良く、好きな体形。神楽殿内部。 本殿側に額が掛けられ、他にも1885年(明治18)の鴨緑江大激戦の様子が描かれた奉納額など掛けられていた。川の向こうに見える相手はプーチンか? 拝殿とそれに繋がる透塀、棟飾りには二葉葵の紋が入る。 拝殿前を一対の狛犬が守護…ではなく人の様な像が置かれています。神猿。 神の使いとして烏や鹿などあるが、こちらは猿が使いのようです。阿形、吽形ともに膝を立てリラックスした姿で座り込んでいる。 畑仕事を終え、立ち上がれない自分の姿に見えてならない。拝殿額と内削ぎの千木と鰹木が施された本殿。 本殿は杜に包まれ詳細は不明。不乗森(のらずもり)神社の創立は、第63代冷泉天皇の御代(967~969)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座する日吉大社東本宮の祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎したと伝わる古社。 社頭は、旧鎌倉街道沿いの野路の宿(現在の知立市八ッ橋町)と共に宮橋の里と称する駅次の所在地で、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗る者は下馬して拝礼の後に通行したと云う。故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社と改められた。長い歴史を持つだけに庶民はもとより、武将からの崇敬も厚く、此の地の領主水野右衛門忠政、稲垣信濃守重祥、本多中務大輔忠良、板倉内膳正崇敬等からの尊崇があつく、祈願のため献納された品々は、神宝として保存されていると云う。 社頭の社標は東郷平八郎の執筆によるもの。広い境内には神猿神社の他に、神明社、東日吉社、厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社等境内社も多く祀られています。拝殿左の境内、手前の大きな覆屋は土俵か?その奥に二つの社が祀られています。上右が山神社。下左が神明社、祭神は天照皇大神。上土俵から南に水みくじ下土俵の左に祀られていた朱も鮮やかな不明社。上境内は桜やもみじの樹も見られ、訪れた時(11/12)のもみじは陽光に透かされた緑がとても綺麗な時期でした。下天満社(左)とさざれ石。子安石。 仲睦まじい姿の像だね。拝殿右の境内社。二つの赤い社は右が稲荷社(蒼稲魂命)、左が津島社(須佐之男命)。上切妻瓦葺の東日吉社、棟瓦にも「東日吉」の社名が入っている。 祭神は大山祇命。下その右が入母屋瓦葺の秋葉社。 祭神は火産霊命。 上 その右に厳島社、市杵島姫命を祀る。下 猿田彦命を祭神とする社口社。上 境内右側に安置される幸福釜。古くから伝わる湯立て神事(3月9日)で使われる釜。 この釜で湯を沸かし豊凶を湯占するものらしく、米、麦、綿、豆、粟、文字を紙に書き神前に供へ祝詞を奏上し、その後釜の中に入れて笹でかきまぜる。一般参拝者は、釜の上の御弊を湯にしめし、身の痛い部分につけると癒ると伝わり、安城市の民族無形文化財指定されていると云う。下 その傍らに安置されている三猿。歳を重ねてもこうは出来ないもの、隠れミッキーではないが、境内のあちらこちらに猿をモチーフにした小物が見られる。 境内の右の境内社から脇参道が伸び、ここにも社標が立てられている。 その脇に明治24年に寄進された手水鉢とお休み中の龍がいる。帰りはここから神社を後にしよう。 社頭南に大きな駐車場があり、一ノ鳥居まで近かったのですが、自分のナビは社地東の細い道に誘導し、竹林脇の小さな駐車場まで導いて案内を終えてしまった。駐車場から一ノ鳥居を探し歩いた通りを再び戻る。 社地沿いに宝篋印塔や石塔が並んで安置されているが詳細は分からない。駐車場に戻り、ポンコツナビに帰り道に立ち寄り出来る神社をセットし帰路につく。 「案内を開始します…」と云ってくれるものの、頼むよ、土地勘がないのだから。不乗森神社創建 / 冷泉天皇の御代(967~969)祭神 / 大山咋神境内社 / 神猿神社、天満社、神明社、東日吉社、厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社所在地 / 愛知県安城市里町森38-132参拝日 / 2022/11/12
2022.12.14
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この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪ね、新酒のワインを味わって来た。 歩いて多治見駅に向かう帰り道、街角に祀られた幾つかの祠を見かけました。何れも住宅地の中の狭い範囲に、個人宅の敷地の一角で大切に祀られていました、それら個人で祀りお世話しているものか、町内なのか、どなたを祀っているものか詳細は分かりませんが、今回は多治見の町並に佇む祠を幾つか掲載します。多治見市小田町2、本土神社の北側を東西に延びる通り。 多治見修道院のある東を眺める。 この右側の酒屋の片隅に小さな神社がありました。敷地の一画に四方をフェンスで囲み社地が与えられ、中には社と幟立、常夜灯がある。 社標はなく一見すると社名は分からない。境内に入れられた砂は綺麗に均され、まめに人の手が入っている事を窺わせます。社は東向きに祀られ、通りの東方向を見護るようにも見える。境内全景。 創建時期等は分からないが、常夜灯の寄進年までは読み取れませんが、竿に秋葉神社の銘が刻まれていた。家々が寄り添うように立ち並ぶ通りの守り神だろう。幟立の側面に明治35年(1902)の寄進年が刻まれていた。 古くからこの通りの火伏の神として受け継がれ、これからもこの一画を護り続ける事だろう。秋葉神社所在地 / 多治見市小田町2 ここから西に向かい小田町1の交差点北角にも社が二つ祀られていました。小田町1の不明社、前方に見えている杜は本土神社の杜。 立派な石を積み上げた基壇の上に祀られた二つの社。左の松は御神木だろうか。こちらの二社は南側を向き祀られ、南北の通りの守護しているのかな。社名札がなく、二社の詳細は分かりません。 地元の守り神、その地に住む人が分かっていればいいものかもしれない。基壇にしても社にしても朽ち果てた様子は皆無、今もこの町には必要な存在なのが分かる。小田町1の不明社所在地 / 多治見市小田町1この交差点から左に折れて三叉路まで進みます。多治見簡易裁判所の東側の三叉路の左角、ここにも写真の社が祀られていました。 先程の社同様の基壇が作られ、その上に一社祀られています。個人宅でお世話しているものか否かは定かではありません。本土神社の前を横切る通りに接し、社は南を向いて祀られています。社に対し立派な注連縄、頭を東に、尾は西に向いて飾られ、午後の陽ざしを受け紙垂は白く輝いていた。 社名や由緒は分かりませんが、この社がある事で住民同士のコミュニケーションを図る一翼を担う存在なのかも知れない。こうした社は嘗ての我が町にも祀られていました。 時の移り変わりと共に古くからある家が忽然と更地になり、切り刻まれた土地に斬新な家が増えるにつれ、そうした姿も消えていった。小田町のひとつの区画に、これらの社が今も残るのは、下街道が通る古い街というだけでは無いような気がしてならない。 不明社所在地 / 多治見市小田町1ここから西に進み本土神社の社頭を過ぎ、JR中央線の高架手前で左に進み線路沿いを多治見駅に向かいます。多治見市上野町1。 JRの線路沿いに一つの社と祠が祀られていました。左の祠。 中には「馬頭観世音」と彫られた石碑が安置されています。この碑の年代は分かりませんが、ここから少し南の土岐川沿いには旧下街道が伸びており、対岸の小路町に続いており、鉄道が整備される以前から、人や荷の動きは活発だったと思われ、こうした馬頭碑も祀られていったものと思います。右手の社はGマップでは稲荷堂とありましたが定かな所は分かりませんでした。 ストリートビューの画像(2021)を見る限り、現在の社はその後に建替えられているようで、以前は赤い玉垣と赤い(錆か?)鎖が社を囲んでおり、稲荷の様な、違うような。ここでは不明社としておきます。馬頭観世音石碑と不明社所在地 / 多治見市上野町1今回、多治見市内を歩く機会がありましたが、市内の町角にはこうした祠が多数見られるようで、暖かい日を見て巡るのも楽しそうだ。 それにしても師走の声を聴いた途端のこの寒さ、次第に出不精になってくる。多治見修道院から多治見駅 / 徒歩ルート 参拝日 / 2022/11/03関連記事 / 本土神社 (岐阜県多治見市)
2022.12.11
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春日井市松本町宮下「諸大(もろだい)明神社」 春日井ICから北東約2㌔程の丘陵地に鎮座し、西に大学キャンパス、東の社頭前には県道508号線が走り、周辺は内津川に向けて田畑が広がる中に住宅が点在する。県道から狭い道路を左に入ると右側に「諸大明神社」社標、常夜灯(1906年寄進)、鳥居(1956年寄進)を構えた社頭がある。 鳥居の先の石段の上には綺麗なアイボリーの拝殿らしき姿が見えている。社頭左に神社の解説が掲示されている。その中で目を引いたのが1806年(文化3)に寄進された古い幟旗の画像。 新しい社頭の外観から想像できない、古くからこの地に祀られてきた神社なのが窺われる。鳥居から拝殿?方向を眺める。 石段周辺は樹々が迫り鬱蒼とした雰囲気が漂う。僅かばかりの石段を登り切ると正面に蕃塀が現れ、屋根越しに拝殿?妻壁の彫刻が目に入ってくる。 鬱蒼とした杜に包まれた境内をイメージしたが、木漏れ陽の差し込む比較的明るい境内。境内入口を守護する狛犬(寄進年未確認)。 石段から仰ぎ見る姿が勇ましく見える。境内社殿全景。蕃塀から左の境内に手水石(寄進年未確認)と龍口があるが当日は清水が張られていなかった。蕃塀から眺める社殿。 手前は拝殿ではなく神楽殿の様で、コンクリート造りの靑瓦で葺かれた四方吹き抜けのもの。奥の拝殿とは屋根で繋がり社殿全体はコンクリート造りのようです。 遠目に木彫りの妻壁飾りかと思っていたが、よく見ると美濃志野焼きの陶板で出来ている。 上下二段に分かれ、下に獅子、上に龍が躍動感溢れる姿で描かれている。 拝殿から本殿方向を眺める。 手前の石碑は改築記念碑。こうして見る社殿は1970年(昭和45)に改築されたもので、その際にコンクリート造りを選択したのかもしれない。 拝殿右から回り込んで本殿を窺うが、姿は良く見えなかった。拝殿額は「諸大明神社」 国常立尊、日本武尊、国狹槌尊を祀る。拝殿右から本殿の千木を眺める。1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に記された「諸大明神社」 これによれば1730年(享保15)の棟札が残るとあり、幟旗の1806年(文化3)をさらに遡る。又、冒頭の由緒に依れば養老年間(717~724年)にまで遡る古社のようです。式内社の物部神社、松原神社と推定する書物もあり、往古の篠木庄西部の総氏神と推定されるようです。「庭中に六尺ばかりの大石あり、古気良不動石と名が付く」とありましたが、境内を見渡してみても古気良不動石と思われる大石は見当たらなかった。 唯一の大石と云えば先に挙げた手水石くらいで、ひょっとするとこれが古気良不動石と思いたい。境内社は金刀比羅社、市杵島社、秋葉社、子安社、愛宕社、稲荷社、御嶽社とある。また社頭の解説に当時の御札の版木の写真があり、そこには諸大明神社と式内社物部神社との繋がりを示す「物部神社と記された」御札の版木が残るようです。手水石付近で今では絶滅危惧種とさえ思える二宮金次郎像がある。 その後方は二十二夜塔。境内の二社。 解説に依れば左が神明社、右が八幡社のようだ、東春日井郡誌に書かれている複数の境内社は見当たらなかった。境内はここから右手の西に広がっていたが、祭礼用の空間だろうか、境内社の姿は見られなかった。社叢は昔ながらの照葉樹林が残り、春日井市の保存樹林に指定されている。 こうした濃い森も開発により減りつつある、猪が街に出たくなるのも分からなくない。木漏れ陽に照らされた社殿は神々しい姿を見せる。木造の蕃塀は控柱を持った大きなもので、社頭、境内側どちら側からも見通せず、俗世と神域はこの蕃塀が隔てている。社頭に出て、何気に右に向かってみる。 すぐ先の北側に社叢に隠れる様に常夜灯があり、その奥に複数の社が祀られていました。道路の正面に社が三つ、その間に幾つか石標が祀られています。石標は左は読み取れず中央が氏神、右が山神とある。 三つの社は社名が分からず、間にある石標も文字が分からなかった。複数の社群の先に一社だけ覆屋の下に祀られた社がある、これらが書かれていた境内社だろうか? 何か違うような気もする、杜に続く小道もあり、その先に何かありそうです。日を改めて、山道に踏み込んで見ようと思う、新たな気づきがあれば別途書き起こします。諸大明神社創建 / 不明祭神 / 国常立尊、日本武尊、国狹槌尊境内社 / 神明社、八幡社等参拝日 / 2022/10/23所在地 / 春日井市松本町宮下504関連記事 / 物部神社
2022.12.10
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大分県大分市の南に位置し、本宮山から流れ出た寒多川右岸沿いに鎮座する西寒多神社は旧国幣中社で豊後一之宮。 北側には住宅地が広がり、ナビに任せて走っていくと入り組んだ道へ導き辿り着けなかった。西寒多神社を訪れる際は、寒多川沿いに走れば袋小路に迷い込む事はないかもしれない。 神社のおこりは古く、神功皇后が三韓征伐帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸し、四方の山々を御覧になり、その場に一本の白旗を立てて帰られた事から始まる。人々はそれを敬いその地に瑞垣を結び、聖地として崇めるようになったと云う。 創建は応神天皇の御代、この地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神9年(278)、豊後国に下向し、西寒多山山上に宮殿を建立したと伝わる、古の歴史を持つ古社。西寒多山(本宮山)北嶺を流れる寒多川に架かる萬年橋の前が参拝者駐車場。 橋の先に鳥居の姿が見えている。萬年橋 文久2年(1862)当時、延岡藩領であった寒田村の庄屋らの発起により架けられた橋長22㍍の石造橋で、綺麗な曲線を持つこの橋は昭和55年(1980)に大分県の有形文化財に指定されている。寒多川の川面に写り込んだ萬年橋の姿は趣があって美しいものがあった。萬年橋の上から西寒多神社の境内の眺め。 橋から続く石畳の先に鳥居、左に神楽殿、一段上がって社殿が建っている。参道右の手水舎、すぐ後ろを寒多川が流れ、対岸は田畑が続く。龍口から注がれる清水は手水鉢を潤していた。石の明神鳥居。 社務所は鳥居左に建っている。扁額は「西寒多神社」 「にしかんた」と読むとばかり思っていたが、下の略記を見て「ささむた」と読む事を始めて知る。西寒多(ささむた)神社略記より祭神月読尊、西寒多大神、天忍穂耳命。 相殿応神天皇、神功皇后、武内宿禰。 殿内所在諸神伊弉諾大神 伊弉册大神(縁結びの神)、大直日大神 神直日大神(厄除)、天思兼大神(学問の神)、大歳大神 倉稲魂大神(農耕神)、軻遇突智大神(火の神)、天児屋根命(国土鎮護の神)、経津主神(必勝)。 由緒創祀は応神天皇9年(278)、西寒多山山上に宮殿建立するとあり延喜式内大社として国司・武将からの崇敬され、特に大友能直、宗麟など豊後大友氏の崇敬厚く、応永15年(1408)大友親世により社殿を西寒多山麓の現在地に遷された。 明治4年(1871)国幣中社に列格、豊後国一ノ宮、現在別表神社。西寒多山山上の旧社地は奥宮とされ現在に至り、拝殿右に校倉造りの神庫がありますが、その右側から奥宮に続く参道が付けられています。観音堂。 手水舎を過ぎてた右側に鎮座し、堂内には十一面観世音菩薩が安置されています。昭和41年、火災により御堂と共に像は焼失するも、翌年には氏子により復興されたもので「西寒多観音」として崇敬されている。鬼の歯形石。 その昔、霊山には恐ろしい鬼が住み、鬼は麓に降りてきては村人に悪さばかりしていた。ある時、天照大神を祀る巫女の親子が本宮山にやってきて毎日お祭りをしていました。 霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音で、鬼たちは親子を喰おうとしました。母親は、霊山から本宮山まで一晩で橋が架けられたら食べられましょうと約束をした。 約束を受けた鬼たちは一晩で完成させかけたため、慌てた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴き真似をしたという。すると鬼たちは朝が来たと思い、残念がって歯で石を噛み投げ、霊山から姿を消したという。この石はその名残とされます。 働き者で素直な鬼たち、この地方にはこうした鬼に纏わる昔話は他にも伝わっています。後方に見えているのは合併社。合併社。 御星社・保食社・龍王社・貴船社・歳神社・愛宕社・高尾社・金刀比羅社・天満社・竹内社・九一郎社の十一社を合併した社、右手は日露役記念碑。参道左の神楽殿。一段上の社地に拝殿が建ち、狛犬の左右に廻廊がある。 空を見上げ遠吠えするようなフォルムの狛犬(1930)、いい姿をしている。 拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つもの、黄金色の十六八重菊が輝くが過度な装飾のない落ち着いた佇まいをしている。 額は「鎮国一宮」拝殿内から本殿方向を眺める、額は西寒田神社。 神紋は「西」文字紋。拝殿内の木彫りの狛犬は、肉付きが良く、尾と髪に拘っている。拝殿斜景。幣殿から本殿方向の眺め。本殿の棟には6本の鰹木と外削ぎの乗せ千木、ここまで長い千木は初めて見るもの。廻廊。 手前が東廻廊で奥が西廻廊、10/26の境内の楓は緑から赤へ微妙に紅葉が始まったばかり。拝殿から左に鎮座する正霊殿。拝殿右の神庫。 明治19年(1886)に改築された、入母屋校倉造りで市の有形文化財に指定されています。先人の知恵と技術は明治になっても取り入れられている。神庫右の天神社と大分社。 大分社の祭神は豊門別命、大分の地名の元となった古代豪族大分の君を祀る。二社の創建など詳細は不明。 この辺りから鬱蒼とした山に向けて奥宮参拝道が始まります。神楽殿の後方に鎮座する厳島神社、詳細は不明。 上厳島神社の後方、旧神宮入口から続く参道の両脇に祀られているのが繰生社。 御祭神は繰生青海とその妻をお祀りします。この南側には伊勢社、遥拝所がありますが手振れが酷く写真は掲載できません。下繰生社から先に進むと旧神宮入口に至ります。 ここから左手の境内に戻ります。旧神宮入口から左へ進むと上の写真の土俵に出ます。 その奥には藤棚が広がっています、西寒多神社は藤の花でも知られ、市の名木に指定されているそうで、毎年5月のふじ祭りは花を見に訪れる人で賑わうようです。神社解説に依れば、このふじは地区民が社殿に供える御酒の酒造所を建てる時に植えたものと伝えられているという。 太い幹からは大きく枝を張り、満開の時期はさぞかし見ごたえがあるだろう。この藤や観音堂もそうですが、この神社と氏子の結びつきは強いもの…と願いたい。豊後一ノ宮 西寒多神社創始 / 応神9年(278)祭神 / 西寒多大神境内社 / 合併社、天神社、大分社、厳島神社、繰生社、伊勢社所在地 / 大分県大分市寒田1644番地参拝日 / 2022/10/26関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY1~DAY2
2022.12.09
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既に掲載した小牧市野口の八幡社から山間に車を進める。 小牧とは思えない深い森とカーブが連続する狭い道を上っていきます。やがて道は二手に分かれ、右に進むと広い駐車場で行きどまり。 入口に写真の「兒神社」の石標と「史跡大山廃寺跡」の石標が立っているので目印になるでしょう。この駐車場が今回の目的地「兒神社」の駐車場。石標脇の「史跡大山廃寺跡」の解説板。 「大山廃寺、白鳳時代から中世にかけて存続した山岳寺院跡」。塔跡の礎石や各所に建物跡が残る。 昭和49~53年まで発掘調査が行われ、兒神社境内から平安時代の掘立柱の建物三棟、中世の礎石建物二棟など発見され、塔跡のみの国指定史跡から寺域全体に指定範囲が拡大された。」今回大山廃寺跡の塔跡までは行っていませんが、兒神社とこの史跡は切り離せないので記載しておきます。上は1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に「大山廃寺跡と兒神社」について記載されていたのであげておきます。石標から右に進むと写真の駐車場で道は途絶えます。 兒神社は突き当りの先に鎮座します。訪れたのが10/5という事で、周辺の山々が紅葉するには少し早かった。 代わりと云ってはなんですが、周辺、境内には蚊が多く、二人ともボコボコに刺されました、活動時期に訪れる際は虫除けは必須かもしれない。蚊ごときなら危害はないが、無人の社地は獣に遭遇しそうな雰囲気が漂っている。駐車場から兒神社社殿は目の前。 入口に大山廃寺塔跡、礎石建物跡の道標が立つ。道標から右に進むと目の前に境内と拝殿が見えてくる。 人里離れた山中に鎮座するので荒れた神社をイメージしていた。しかし切妻瓦葺の吹き抜け拝殿や境内は枯葉に埋もれる事もなく、綺麗に手入れされ、人の気配を感じられる神社です。 麓で神社幟を見かけたが、兒神社社頭は麓にあるのだろうか。今更戻るのもなんだ、帰りに寄ってみようと思いつつ、寄り忘れてしまい社頭の光景はなし。拝殿から更に右に進むと石灯籠、その先に神明鳥居が建てられ、両脇に神社幟がはためく。笠木の先端が欠け落ちた神明鳥居(寄進年不明)と燈籠。 鳥居から下を覗くと石段が下に続いてた。鑿跡の残る燈籠の竿には安永(1772~1781年)の文字が刻まれていた。鳥居の前から社殿方向を眺める。 写真の右手が礎石建物跡だと云う。傍らに解説が置かれていたが苔に覆われよく分からない。 位置的に鳥居の西側なのだが、囲われている訳でもなく、「これが礎石だね」と思うものは見つけられなかった。燈籠の先の兒神社社標。 明治18年(1885)と刻まれ、下に右善光寺とある。拝殿から本殿方向の眺め、拝殿とは書いてはみたものの、ひょっとすると神楽殿なのかも。拝殿右手の手水舎。 鋭い爪を持った龍がいるが、その口からは清水は注がれていなかった。この手水舎から下に道が続き、その先の石尊不動明王へ続く。社殿全景。 結構急な石段を上ると右手が社務所、中央が幣殿だろうか。石段の両脇に狛犬の姿がある。狛犬側面。 どちらも口を開け、背中をピンと伸ばし胸を突き出す姿、とても姿勢のいい姿だ。毛並みなどは輪郭として描き、立体的な彫り方はしていない、素朴で好感が持てる。 台座には「〇和11年」と刻まれている、拡大すると昭和と読めなくもない。斜めから見る狛犬。 右の狛犬は姿勢を正しながらも口元がにやけた表情をしているように見える。結構お気に入りの狛犬のひとつになりそうだ。幣殿から本殿方向。 本殿域は白壁で囲われ、本殿は脇障子を持つ流造のように見えます。創建は久寿2年(1155)創建とされ、祭神は天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜。 現在までの沿革は不明。先の解説にある様に、嘗てこの地には「大山峰正福寺」が存在した。 由緒、創建などは不明だが、往時は比叡山と並ぶ寺勢を誇っていたことが伺われる。仁平2年(1152)に比叡山延暦寺の僧兵に攻め込まれ堂宇は悉く焼き尽くされた。 その際、僧1名と2名の子供の修行僧が亡くなった。後に、近衛天皇が病気になり、大山寺の1僧2児を祀れば快癒するとの占いから、当社が創建されたと伝わります。 毎年3月15日に行われた祭礼は、亡くなった二児の没した日だとされる。一部に心霊スポットと捉える向きもあるようですが、そんなことはない。 参拝の折にはここで鎮まる二児を思い手を合わせてもいいのかもしれない。本殿左の境内社。 氏神の石標と社が3社祀られているが何れも社名札がなく詳細は不明。境内社と社殿全景。拝殿瓦。 鬼に菊と右三つ巴の紋が入る。既に過ぎてしまったが、紅葉や境内の桜の樹など、四季それぞれに表情を持つ神社のようだ。兒神社創建 / 創建は久寿2年(1155)祭神 / 天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜境内社 / 不明社3社祭礼 / 1月1日 歳旦祭、4月第1日曜日 稚児祭、10月第2日曜日 例祭所在地 / 小牧市大字大山字郷島412野口八幡社から車アクセス / 野口八幡社から5分 関連記事 / 八幡社(小牧市野口)
2022.12.08
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9月13・14日と長野県安曇の白骨温泉を訪れ、帰りに参拝したのが四柱神社。 松本市のほゞ中央に位置し、松本城や松本美術館もほど近い。社頭前を流れる女鳥羽川、東の袴超山から松本市内を流れ下る、ゴミ一つない河川敷と澄んだ流れはとても羨ましく思う。 橋の前方は四柱神社の大鳥居に続く。女鳥羽川に架かる幸橋から上流側の中の橋を眺める、更に上流は浅間温泉だ。 御幸橋。 大鳥居を過ぎ、この石橋を渡ると境内に至ります。この趣のある石橋は明治天皇が明治13年(1880)6月、信濃地方初の御巡幸の際、行在所(宿泊地)に四柱神社が選ばれ、それに合わせ造られた石橋。 天皇が訪れる当日の午前に完成させたもので、午後に訪れた天皇は竣工したばかりの橋を渡って行在所に向かった。そこから御幸(みゆき)橋と命名されたという。 御幸橋から眺める社殿。 祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱。社名の由来はここから来ている。由緒は1872年(明治5)、筑摩県(長野県)松本に設置された神道中教院が起源で、1874年(明治7)に四柱の神を祀ったことから始まる。・1879年(明治12)、この地に社殿を造営し、村社の四柱神社として遷座。・1888年(明治21)、松本大火で社殿を焼失。・1924年(大正13)、社殿を再建。・1959年(昭和34)、別表神社となる。歴史自体は浅いものですが、松本市内にあって、創建以来地元から崇敬されている神社。 そうした事もあり伽藍に古を感じさせる趣はあまりないかもしれない。御幸橋を渡った左に手水舎。 境内は鳩の楽園のようだ。拝殿。入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つ優美な姿のもの。拝殿右の由緒。 祀られる四柱の御神徳から全ての願いを叶えてくれる「願いごとむすびの神」拝殿前の一対の狛犬は大正13年寄進されたもの。光り輝く飾り金具を多用していない拝殿は、落ち着いた佇まい。 後方にNTTのタワーが聳え立っている。拝殿向拝の彫飾り。 意匠に拘った彫飾りも比較的少ないかも知れない。拝殿から本殿方向の眺め。 惟神(かんながら)、「神の意志に沿い、自身も自然に神の道にある」揮毫は「右大臣???美」と見えるが、1872年神社創建前後に美の付く右大臣は・・・三條實美(実美)だったか?。拝殿右に鎮座する恵比寿神社。その右側にある由緒。祭神は大国主命、事代主命、配祀は保食神。 昭和27年(1952)、島根県出雲大社から大国主命を、美保神社から事代主命を勧請。境内東側の眺め。 右手は松本市招魂殿の鳥居。旧松本市出身戦没者の英霊が鎮まる。西南の役、日清日露戦争で祖国のために亡くなられた旧松本市出身者を護国の神として祀るために創建され、その後の戦争による戦没者も合祀したもの。 現在の社殿は伊勢神宮遷宮の古材を用い、平成27年(2015)に移築再建されたもの。国難に瀕した祖国に住む家族や故郷を命をかけて護るため亡くなった方々、平和ボケした時代に生きる我々をどう見ているだろう、我々にそうした思いが持てるだろうか。 この歳で予備自衛官制度は受けられない、遺憾の意を唱え続け、今の平和が維持し続けられればいいのだが。祈るしかない。社務所全景。 平日でありながら訪れる参拝者は途切れる事はなかった。境内西側の伊勢神宮遥拝所と右に小さな社が祀られています。三峯神社。 詳細は不明。鳥居の先は伊勢神宮。四柱神社御朱印。参拝後は境内の社殿西隣りの蕎麦屋「こばやし本店」で食事も摂る事ができる。あたかも神社直営蕎麦屋のような佇まいですが、どうやら全く関係はないようです。 腰があって歯ごたえも良く、薬味に山葵、ネギ、おろしと付く、個人的にはおろしが一番合っていた。写真はざる2枚重、ペロッと二枚たいらげられる。四柱(よはしら)神社創建 / 1874年(明治7)祭神 / 天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神境内社 / 恵比寿神社、招魂殿、三峯神社所在地 / 長野県松本市大手3-3-20関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ・『下浅間薬師堂』長野県松本市浅間温泉
2022.12.05
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大分県臼杵市深田にある深田の里、その東外れに紫曇山 満月(ガツ)寺は鎮座します。里の中ほどは臼杵石仏公園として整備され、そこから西を眺めると臼杵石仏群と日吉神社が一望できます。 この公園の東、満月寺本堂の正面に臼杵石仏蓮畑があり、シーズンには一面見事な蓮の花が咲き誇るようです、訪れたのが10月26日という事もあり、この時期の蓮田は葉は枯れて寂しいものがある。公園中ほどにこの公園の成り立ちが記されていました。「現在の石仏公園一帯は、12世紀末臼杵摩崖仏が彫られたのと時期を同じくして創建され、摩崖仏を本尊とする満月寺の寺院跡とされる。 一帯からは柱列跡、工房跡、井戸跡などの遺構や、国産を始め中国、朝鮮で焼かれた瓦・土器、鉄の精錬に使用する用品や廃棄物などの遺物が出土している。当時作られた寺院では、敷地の中に大きな池を作り、西側に阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂を設ける形式が全国的に流行し、阿弥陀如来のいる極楽を再現したこの形式は浄土式庭園と呼ばれる。 発掘調査から見つかった水面を池と見立てると、西側に阿弥陀堂(ホキ第二群)を配置する事になり、満月寺も浄土式庭園の形式を持った寺院と思われる。」解説には臼杵摩崖仏群、満月寺の伽藍と室町当時の池が描かれている、公園はほゞ池だった事が分かります。 里には民家が点在しますが、何れも中央の平坦な場所を避け、山の麓に建てられています。上の室町時代の池の規模を見るとそれも頷ける。蓮の咲き誇る池の対岸からこちらを見据える摩崖仏の姿は正しく極楽に見えた事だろう。現世に戻り、公園から臼杵摩崖仏の守護寺「紫曇山 満月寺」を眺める。 この時期はさすがに蓮も枯れ果てコスモスが咲き乱れていた。紫曇山 満月寺本堂全景。 山門はなく、本堂正面に一対の石の仁王像が安置されています。満月寺は「臼杵八ヶ所霊場の第一番札所」でもあります。 手入れの行き届いた庭園は気持ちが良いものです。以前から野晒しだったのか、はたまた門に納められていたのかは定かではないけれど、フォルムは仁王像に見えますが、既に風化も進み細部の意匠は見て取れません。 特に像の鼻の部分は原形すら残っていません。なんでも、この鼻を削り飲む事で病が癒えるとされ、長い年月で削られ現在の姿になったようです。木原石仏解説。「凝灰岩製の仁王像は膝から下が地中に埋没しており、全体像は知り得ない。阿形、吽形共に鼻が欠損しているのは病気回復に対する信仰によって無削られた事に依る。 制作時期は鎌倉後期から室町時代前期に作られたものと考察される。」本堂右手の庭園。 奥の岩稜にも摩崖仏らしき姿と五重塔が見える。右は県指定文化財「五重塔」と左は特別史跡「観音石仏」 五重塔は「正和4年(1315)の銘文が刻まれ、阿闍梨隆尊が先師尊全及び、自分の亡き父母のために造立、作者は日秀という阿闍梨であるとわかりました。基礎石の4面には宝篋印塔のものに類似した袼狭間が刻まれている。」観音石仏。「地元に伝わる真名野長者伝説では、真名野長者夫妻が亡き娘の菩提を弔うため、蓮城法師に依頼し臼杵摩崖仏を彫らせたとされますが、伝説と摩崖仏造立年代が異なっているため、この像も真名野長者夫妻像、蓮城法師像と伝わるが、実際は満月寺の僧侶増ではないかと推測される」 右の二体が真名野長者夫妻像と伝わり、左の一体が蓮城法師像。境内にあった「満月寺の遺構と石造物」解説。「現在の満月寺(昭和25年創建)の西側、南側に接する場所の発掘調査で新旧二時期の礎石跡が見つかりました。 東西約11㍍、南北約11㍍の鎌倉時代初めの礎石と、それに重なる室町時代の礎石建物の跡。江戸時代に書かれた「寺社考畧畧」、そこに「本坊釈迦堂は、7間(約12.6㍍)4面で礎石は二重になっている」と記されている事から、満月寺が廃寺となる江戸時代初めまで「釈迦堂」として残されていた。 摩崖仏群から見て東に位置するこの建物は、中世の満月寺を構成する伽藍の中でも重要な施設と思われる。建物跡の南側には「木原石仏」と呼ばれる一対の「仁王像」が建立されています。 その周囲には宝篋印塔(日吉塔)や観音石仏、五重塔などの石造物が建てられています。」 本堂。 軒丸瓦や鬼瓦には左三つ巴の紋が入る。軒下には縁起がいいとされるツバメの巣がいくつも掛けられていた、深田の里はツバメ達にとっても極楽のようだ。満月(がつ)寺本尊は釈迦如来。 創建は不明、解説によると現在の満月寺の創建は1950年(昭和25)の様です。本堂左から奥に進むと右手に鐘楼。 手前に解説板らしき木札が立っていたが破損がひどく内容は読み取れなかった。賽銭を供えれば自由に鐘を突く事が出来ます。 更に奥に進みます。特別史跡臼杵摩崖仏「日吉塔」解説から抜粋。・宝篋印塔としては日本最大の高さを誇る。 ・臼杵摩崖仏を本尊とする中世寺院満月寺の守護社で古園石仏の上に鎮座する日吉社からこの名が来ている。・13世紀後半に製作された4.44㍍の石塔は、満月寺整備の一環で経典を納め寺の鎮護のため建てられたと思われ、建立以来この位置から動かされていないという。宝篋印塔を先に進むと突き当りに石仏が祀られている。 顔の一部は欠け落ち、中央の像は一度は二つに割れてしまったようです。手前の二体は1727年(享保12)に作られたもの。 この先の公園が往古には大きな池だったとは、解説で知らされるまでは想像すらできなかった。現世と極楽の狭間にあった池がいつ埋められた?、それは少し気にはなる。摩崖仏に見守られ、陽光が燦燦と降り注ぐ深田の里は、温もりを感じる特別な空間です。 風もなく温かい陽射しの下では猫も…伸びる。深田の里、日常を忘れるには良い場所だ。紫曇山 満月(ガツ)寺宗派 / 高野山真言宗創建 / 現在の満月寺 (昭和25年)本尊 / 釈迦如来所在地 / 大分県臼杵市深田963関連記事 / 臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏
2022.12.04
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名古屋市西区那古野1-6「金刀比羅神社」 江川線円頓寺交差点から五条橋方向にアーケードを持つ円頓寺商店街。一時期の賑わいを思えば、店舗の歯抜けやシャッターを下げたままの店舗も目立ち、やや寂しい感じは漂うが、今も約30店舗が軒を連ね、明治から続く老舗店もあれば、若い年代をターゲットにした新しい店舗もオープンし、時代に合わせて形態を変えようとしている。 名古屋の商店街でも最も古い一つといわれ、こうして眺める通りには昭和の香りが漂っています。「商店街の歴史は、江戸時代の名古屋城築城まで遡り、運送の要として作られた堀川を利用する人々がこの地で遊ぶようになったこと、寺社がこの地に移転し門前町として賑わうようになったこと、美濃路街道がそばを通り多くの人が行き交ったこと、これらさまざまな要因から発展していったと言われています。」 円頓寺商店街HPから抜粋。大阪の商店街の様な賑わいが訪れるとうれしいものだ。円頓寺商店街の中ほどの三叉路の角、間口が狭く奥に長い社地に金刀比羅神社は鎮座します。 周辺の都市化に伴い、社地は削られ現在の姿になった様ですが、小さいながら赤〇に金の紋と鮮やかな朱色の社殿は商店街を歩いていても存在感があります。金刀比羅神社の間口は狭いながら、「塩町・伊藤萬蔵」寄進の石鳥居を構え、常夜灯の陰に社標が立てられています。 この手狭な社地に社務所、手水舎、拝殿、本殿の伽藍が押し込まれています。ここは名古屋弁で書かれたおみくじで知られ、それ目当てに訪れる参拝客も多い。社頭の金刀比羅神社解説。 「大国主命を主祭神とし、須佐之男命、加具土命を配祀して祭る。名古屋城築城当時より城内三の丸に重臣大道寺氏邸に祀られていたが、安政6年(1859)この地に遷座。 毎年10月10日は大祭が行われる」「名古屋市史」に金刀比羅神社について記述があり、解説と同じ内容のものでした。 他の地史については眼を通してはいない。金刀比羅神社例大祭には花車神明社山車巡行が行われ、神社の前でからくりが奉納される。 鳥居から拝殿方向の眺め、右手は社務所、手水舎。 堀川を行き交う舟の往来で賑わった土地柄、金刀比羅神社が祀られる動機としては不思議ではない。コンパクトに纏められた手水舎、手水鉢。 商店街にある神社、龍は今日も営業中、結ばれた針金の目的は…… 手水鉢の上方の由緒。 残念ながらほとんどよく分からない、明治12、大正2、昭和?、昭和?とあるが、再建、遷座の履歴と思われます。明治12年は再造営の行われた年、明治から戦後の短い期間に、目まぐるしい動きがあった事が感じられます。鈴をならして参拝。 大物主命、加具土命、須佐之男命をお祀りする金刀比羅神社、賽銭の多い少ないで忖度はない、拝めば何でも聞いてくれるはず。拝殿額は「金刀比羅宮」拝殿内から本殿方向の眺め。 中には円頓寺商店街の神輿が保管され、本殿前で金色の可愛い狛犬が守護している。赤い金刀比羅神社の全景、本殿の棟には三本の鰹木が飾られています。 円頓寺商店街の通りは金刀比羅神社、円頓寺、慶栄寺の山門が接しており、通りはこれらの門前町の様相ですが、華やかな赤い金刀比羅神社は商店街の顔と云ってもいい。・・・大阪の様に朝っぱらから一杯ひっかけられると毎日参拝に訪れるやも金刀比羅神社創建 / 安政6年(1859)三の丸より遷座祭神 / 大物主命、須佐之男命、加具土命所在地 / 名古屋市西区那古野1-6-16屋根神さま(西区那古野1-35)から徒歩ルート / 円頓寺商店街金刀比羅神社まで徒歩2~3分関連記事 / 屋根神さま(西区那古野1-35)、花車神明社参拝日 / 2022/10/12
2022.12.03
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前回の臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏からの続きとなります。 今回は深田の里の臼杵石仏群に挟まれるように鎮座する日吉神社。マップの赤丸エリアが日吉神社の鎮座地。 社頭は臼杵石仏公園の西に位置し、参道は古園石仏に続く歩道を横切り、苔むした石段が鬱蒼とした森の中に消えていきます。臼杵石仏公園から日吉神社の杜。 右はホキ石仏第2群の覆屋、鳥居左方向に進むと古園石仏に続きます。日吉神社は集落、雨、学問を司る守護神として祀られた古社で、祭神は大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神(みくまりじ)を祭祀します。神社だけであれば観覧券なしで参拝は出来るようです。往古は「山王社」とも「山王宮」とも呼ばれ、鳥居の先に見える小倉山満月寺の鎮守として創建されたと云う。 この古びた石の明神鳥居(1785年寄進)は、額が掛けられているものの、大半は欠損し「宮」しか残っていません。鳥居が寄進された天明5年当時に山王宮と呼ばれていた頃の名残なのでしょう。鳥居からは、杜の中に続く苔生した石段を上り進めます。 日吉神社はこの石段を上り詰めた小高い頂、山王山石仏の直上あたりに鎮座します。ここからは足元の滑りやすい石段が続き、鬱蒼とした杜に包まれた静寂が漂う神域に入っていきます。最初の石段を直登すると参道は左に続き、写真の様な上りやすい石段に変わります。 上り始めて5分程、ここを上り切れば境内が広がります。ニノ鳥居(寄進年未確認)も石の明神鳥居。 境内にはこの他に同様の鳥居が更に二つ建てられています。日吉神社や満月寺の創建時期については、天正年間(1573~1592)に大友義鎮(宗麟)の破却により、寺や石仏、神社に関する記録を焼失し定かではないとされます。 過去の修復履歴は不明で、現在の伽藍は右手の切妻瓦葺の平入拝殿と本殿に続く渡廊の伽藍で、拝殿左には土俵が設けられています。沿革は1873年(明治6)村社、1884年(明治17)深田村字山神に鎮座した大山祇神を合祀、1885年(明治18)本村字観音寺に鎮座した菅原神、水分命を合祀。ニノ鳥居手前左側に草木に包まれた手水鉢(寄進年未確認)と後方は石灯籠の竿だろうか。日吉社の杜はイチイカシやコジイなど実を付ける樹を主とした森林で、地域古来の植生を残す自然林で学術的に貴重な森で、県の天然記念物に指定されている。 天に向かって聳え、広く枝を張る姿に自然の力強い生命力を感じます。今時のグルメな熊や猪はこれらの実はお口に合わないかも知れない。社殿全景。 華美な意匠のない素朴なもので、樹々に包まれた環境なので湿気が多く、風の通りも良くないせいか社殿の傷みが目立った。後方の本殿は外削ぎの千木に5本?の鰹木が施された一間社流造。 拝殿右に日吉社由来が掲げられていた・・・が写真に収めるも読み取れない、想像を交えメモを取るしかない。 「日吉社由来祭神 大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神(みくまりじ) 由緒当神社はその昔、小倉山満月寺の鎮守の社として創祀されたと云われる。 天正年中(1573~1592)に大友義鎮(宗麟)の破却により、記録滅失し、寺院、石仏共々その創立は不詳。大山咋神は村藩(?)の守護神、大山祇神は山林・国土を守護、菅原神は広く学問の神として知られ、水分神は雨水を分配し五穀豊穣をなす灌漑を司る神である。」拝殿から本殿。 内部には山王宮の日吉神社と記された額が掛けられていた。鈴の音が静けさに包まれた境内に良く響く、下で待つかみさんの到着した合図でもある。本殿全景。 脇障子には手間をかけた彫刻が施されていました。本殿前には白い狛犬の姿がある。本殿前の狛犬。 白ではなく全身朱だったのか?斑に剥離した色合いから元の色合いは想像できない。耳垂れで犬らしい体形をしており、目と口周りに金色で塗られていた名残が見られました。 素材は木か?拝殿左の土俵。境内の二つの鳥居と間に石の祠が祀られていた。 境内にはこの祠以外に、本殿の両脇にこうした石の祠が祀られています。ふたつの鳥居の先が気になるがここまでにしておこう。本殿左の三つの石の祠、詳細は不明。本殿右に点在する祠の数々、詳細は不明。何れも苔むし、祀られてからどれだけの年月を重ねてきたのだろう。中央の三つの祠。 左の祠には石像が祀られていて、像容は仏と云うより武士の様にも見えるがよく分からない。参道を上り切った鳥居を二ノ鳥居と書かせてもらいましたが、深田の里入口の国道502号線脇の稲田の中にポツンと立っていた「深田鳥居」が実は一ノ鳥居なのかもしれません。 柱の太さが印象的な石の明神鳥居は柱の下部は埋もれ、当日は稲田にテントが張られ、発掘調査?が行われていたので写真は撮れませんでしたが、市のHPに写真と解説が掲載されていたので下に載せておきます。随分と時間を取ってしまったのでそろそろ下に降りる事にします。日吉神社創建 / 不明祭神 / 大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神所在地 / 大分県臼杵市深田218関連記事 / 臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏参拝日 / 2022/10/26
2022.12.02
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名古屋市西区那古野1-35「屋根神さま」 既に掲載した那古野1-33の屋根神さま、そこから四間道を北に150㍍も進むと左の古美術商の二階軒下にも小さな屋根神が祀られています。目の前に円頓寺商店街のアーケードも見えてきた。地球堂美術。 四間道の軒を連ねた瓦葺の長屋も建替や取壊しに依り歯抜けが増えて来たように思う。 普段は扉は閉じられているが、毎月1日と15日には紫の幕が張られ、「熱田神宮」「秋葉神社」「津島神社」の提灯を吊るすのが良く見る光景。神様を祀る土地の余裕が無かったため、二階の軒下に祀られるようになったのが始まりと云われ、普段の御世話は「神様当番」により梯子を架けて行われるのが習わし。 それも、時代の移り変わりと共に組への参加辞退、高齢化により一階に降ろされたりと姿を変えつつあり、こうした光景は消えゆくものなのかも知れない。この屋根神さまがいつ頃祀られたものかは定かではないけれど、概ね明治初期から昭和初期に広まり、空襲による焼失などもあり、昭和中頃には廃れていったようです。 幸運にも戦災を免れた屋根神さまも、建物の老朽化で古い家屋は取り壊し、新しいものを作る、そんな時代の流れの中で居場所は減っていったようです。この屋根神さまの御世話は個人なのか、町内なのか分からないけれど、社の中にはお札の姿が見られ今も現役の様です。 こうした屋根神さまが地域住民の結びつきを強くしていたのは間違いなく、屋根神さまが残る地域ではご近所さんの結びつきは強い事だろう。高い塀で囲われた一見綺麗な街並み、表札もなくお隣との接点を持たない個のあつまる空虚な街。 おかしな世の中になってきたもんだ。屋根神さま(西区那古野1-35)創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区那古野1-35-3西区那古野1-33屋根神さまから徒歩ルート / 四間道を北に150㍍参拝日 / 2022/10/12関連記事 / 西区那古野1-33「屋根神さま」
2022.11.29
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岐阜県高山市荘川町一色。 御母衣 電源神社から南へ15分程走った荘川地内に白山神社が鎮座する。周囲を山に囲まれ、庄川と一色川などの支流が作った扇状地に稲田が広がり隠れ里の趣がある。 川に沿って走る国道158号線は、高速が出来る以前は高山に通じる唯一の道、今ほど整備も進んでおらず、冬季の峠越えは気の抜けない道だった。 鎮座地は国道158号線の一色口バス停前の庄川に架かる橋を渡り、惣則公民館を過ぎた右側に写真の社頭が現れます。社頭は左に「村社 白山神社」の社号標が立ち、細い参道の先に明神鳥居があり、その先に高山市指定史跡の茅葺拝殿が佇んでいます。緑豊かな山々に包まれ、稲田の広がる長閑な山村の景観…だった。 スキーや登山、釣りなど地内の民宿にはお世話になっていた。鶏ちゃんの美味しさに目覚めたのもここ、山菜の知識を教えてもらったのもここ、色々と教えてもらった。 東海北陸自動車道の開通により白川郷や高山へ容易に訪れる事が出来る様になった反面、山や渓流の様相は変わり、町内には無機質な橋脚が聳え随分と表情を変えていた。鳥居(1972年寄進)の前方にこんもりとした白山神社の杜。 車の乗り入れは、社号標から先の細い脇道(畦道?)から境内に入れます、この参道から進むのはお勧めしません。鳥居扁額は「白山神社」。一色白山神社について調べて見ると、一色の地名の由来を知る事になった。 明治6年に完成した飛騨の各群の産物や土地の概要が纏められた斐太後風土記、その中の大野郡白川郷一色村の頁で以下の記述が見られた。「文明年中(1469~1487年)一色左京大夫義直の一族たる、一色式部義当、浪人と成り、当村に来り、住居して農家となれり。 一色義当住居の村ゆえ、後に一色村と称せしとなり」と記されていた、室町時代から戦国時代の守護大名一色義直の末裔が住み着いた事から一色になったと云う。面白いのは水産物、川が育む魚の中でも岩魚は当時から漁獲量が突出していた。 思えば、奇異な視線で見られていたフライ、初めて岩魚を手にしたのもここだった。懐かしいけれど、訛った体に川を釣り遡る脚力もない、今はこうして寺社を回るのが分相応だろう。拝殿前の狛犬。 随分と黒ずんでいるが、それが逞しい筋肉を強調するようにも見える。手水鉢(寄進年不明)茅葺屋根の拝殿は四方が吹き抜けのもの。 周囲の景観に茅葺の屋根の拝殿が溶け込んでいる。以前はこうした茅葺が普通だったのだろう、現在の一色では貴重な存在だ。拝殿内には奉納額が多数架けられている。明和や安永、文政などの古い奉納年のものから、起源2600年記念(1940)で奉納されたものなどがあり、 絵柄も多様で、この白山神社が古くから産土神として崇敬されている事を物語っている。幣殿、本殿の全景。 小高く盛られた高みに石垣が積まれ社殿が建てられている。佇まいから古墳の上に建てられた様に見えなくもない。岐阜県神社庁の一色白山神社解説は以下。「創立不詳。往古より社地を字神田、御手洗と称し、古墳形岩石山口に鎮座して御母衣、森茂、白山と共に白川白山三社の一なりと称せられ、黒谷、三尾河白山と共に分祀創立せりとも里伝に云へり。 中古元久二年(1205)七月十七日再建。以来造営屡々にして歴代国主代官郡代等越前支配に赴く途中当村三島家に宿泊して、必ず社参を例とし、社殿の造替神宝什器の寄進あり。 天正二年(1574)安永四年(1857)九月等の再営記録あり。現拝殿は安永四年(1857)の改築にして当國では久津八幡山王一宮の拝殿に次ぐ可き古建築様式を表せり。 明治維新村社に列し、同三十三年飛騨東照宮の本殿を模して改築せり。様式は入母屋造千鳥唐破風造にして東照宮及上枝の新宮と共に飛騨の三本殿の一なり。祭礼9月3日」とあった。 黒谷、三尾河の白山社は158号線を庄川上流に少し遡れば国道沿いに鎮座しているだけに、これは参拝しておくべきだったか。 祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、菊理姫命、大己貴命。今回感じた事ですが、岐阜県神社庁は主要な神社の概説がWEB上で公開されていて有難く感じた。 それに対してどこぞは・・・もう少しなんとかならんかなぁ。境内左に境内社が祀られています。 後方は宝物庫だろうか。境内のこれは一対の狛犬? 苔を纏い、風雪で風化したこの姿からは全く想像できないがここでは狛犬としておこう。 この境内社は社名札はなく、詳細は不明。 荘川村史を探しに古本屋巡りでもしてみるか。今回、一泊二日のキャンプ泊で白川郷から荘川まで巡ってきて、世界遺産となった白川郷と高速以外は昔の静かな山間集落の面影が残っており、再び訪れて見たいと思う。一色白山神社創建 / 不明祭神 / 伊邪那岐命、伊邪那美命、菊理姫命、大己貴命境内社 / 不明社2社所在地 / 岐阜県高山市荘川町一色26参拝日 / 2022/08/23御母衣電源神社から一色白山神社 / 国道156号線を南下15分前後関連記事 / 御母衣 電源神社、白川郷散策の拠点に最適「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」
2022.11.27
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前回掲載した臼杵石仏(ホキ石仏第2群から第1群)からの続きになります。 今回は山王石仏から古園石仏となります。ホキ石仏第1群から山王山石仏までは100㍍の緩やかな上り坂。 前方を見上げると木々の間から山王山石仏の覆屋は見える距離、時間にして2~3分程の距離です。上は観光マップ、3.4に向けて山道は左に大きく弧を描き、曲がり切った山の斜面に山王山石仏の覆屋があります。山王山石仏覆屋。 手前右に山の頂に続く石段が伸びています、これは日吉社へ続いています。山王山石仏覆屋全景。 覆屋は山の斜面の巨岩に彫られた摩崖仏全体を包み込む様に建てられている。臼杵石仏の中にあって唯一石段を上って拝む場所、歩道から摩崖仏は仰ぎ見る視線になる。 覆屋内は中央に大きな釈迦如来坐像、脇尊として小さな如来坐像が彫られている。 平安後期にかけて造形されたものとされます。二体の脇尊は隠れ地蔵とも呼ばれるそうです、理由は定かではないけれど、覆屋に続く急な石段の下から見上げる摩崖仏に二体の像の姿は拝めない、そんなとこから来ているのかもしれない。 中央の釈迦如来坐像。向かって左の阿弥陀如来坐像。向かって右の薬師如来坐像。 三像は何れもやや幼い表情で、薄っすらと紅が引かれ、僅かに笑みを浮かべている様にも見えてくる。見え方は捉える者の心情で変ってくるものかもしれない。 彫り込まれた岩肌に残る鑿跡には、情熱とか薄ぺらな言葉では形容しがたいものを感じる。 山王山石仏から先に向かうと日吉神社の明神鳥居が現れます。 ここから手前の臼杵石仏公園、その先の満月寺など深田の里が良く見える。左に視線を向けるとその先にホキ石仏第2群の覆屋の全容が一望。鳥居から山の頂に向け苔むした長い石段が続き、その先に日吉神社が鎮座します。 こちらは後程参拝する事にして山王山石仏に向かおう。鳥居から山王山石仏の覆屋は直ぐ先です。 覆屋手前に臼杵古園石仏の石標があり、その後方から岩盤が覆屋に向け露出している。石標と古園石仏保存修理工事概要。 この古園石仏はもともと仏像下半分に岩がなかった事もあり、地下水が常に浸みだす湿潤な状態だったと云う。これに依る苔の繁殖が風化を速めた要因の一つとされる。 1991年から1993年の3ヵ年で摩崖仏の保存修理が施され、龕部全体に樹脂を浸透させ石質硬化が図られ、苔の除去、地下水排水、割落した仏像片の復位などが行われた。並行して1992年から2年がかりで覆殿が建設され、現在の姿に至っている。修復が施される前の古園石仏の姿。 崩れ落ちた頭部が置かれている姿は痛々しいものがある。観光センター前の祠に安置されていた石仏の頭部、この姿を現しているのだろう。石標を過ぎると最初に見えるのが国宝の金剛力士像。 右の像は増高が257㌢、左の象は249㌢と大きなもので、右の像は金剛力士と識別できる。左にあると云う金剛力士像は、自分の目には識別できず姿が分からなかった。 右側の金剛力士像。(阿形) 見あげる姿は左手に金剛杵を握りしめ、腕を大きく挙げ怒りに満ち溢れた表情だ。その怒りは今の時代を生きる者に対し向けられているのかもしれない。金剛力士像。(吽形)解説に依ればこの二体の金剛力士像は、古園石仏と同時期に彫刻されたもので、参道の山門の仁王として作られたものではないかとされる。 思いをもって彫られた像も復元保存工事が施されたとはいえ、自然の力を抑え込むことは出来ないようです。覆屋に入ります。古園石仏解説。 臼杵石仏の象徴と云える大日如来坐像と左右其々6体の石仏が彫られている。覆屋右から奥にかけての眺め。一際大きな大日如来坐像。 置かれていた像頭は復位に依りあるべき姿を取り戻した。大日如来。 薄目を開けこちらを見つめる無表情な顔から窺えないが、なにか言いたげにも見える。覆屋左から右にかけての眺め。 欠損が多い摩崖仏、長い年月で失ったものは大きいが良くぞここまで。覆屋には書置きですが限定御朱印など無人販売されていた。 摩崖仏が見つめる前で愚かな行為はないだろうが、巷で見かける無人販売、消えて行ってしまうのだろうか。臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏参拝日 / 2022/10/26所在地 / 大分県臼杵市大字深田804-1関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY1~DAY2、臼杵石仏(ホキ石仏第2群から第1群)
2022.11.26
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大分空港から休憩を含み車で南下する事約90分程。 大分県臼杵市大字深田の「臼杵石仏」に到着。臼杵川右岸にあたり、平野の南東外れに位置し、周囲を小高い山々に囲まれた長閑な風情が漂う里山。街には西深田川はじめ幾筋かの小さな流れがあり、錦鯉が優雅に泳ぐ静かな環境。 駐車場から臼杵石仏へは写真右の観光センターの前を5分も歩けば辿り着く。上は臼杵大仏と周辺の観光マップ。 この山間に臼杵大仏の他、日吉神社や満月寺等もあり見所は多く、摩崖仏だけを巡れば1周約30分とある。今回はマップの赤丸エリアの1と2、マップに記されていないけれど、2から右の山肌にある重要文化財「五輪塔」までを掲載。 国宝の臼杵石仏は右側の小高い山の岩肌に4郡に渡り摩崖仏が彫られ、その数は約60体にのぼるという。駐車場から徒歩5分もあれば最初の摩崖仏に辿り着けます、後は整備された参拝路を巡っていきます。上観光センター前の小さな祠、中には石仏の頭部が安置されている。下ここから少し先に架かる石橋を渡り、鑑賞券を買い求めホキ石仏を巡っていく。 「ホキ」とは「がけ」という意味らしく「がけ石仏」という感じなんだろう。透き通った流れの中には色鮮やかな錦鯉が悠然と泳ぐ姿がある。券売所からは緩やかな上りが続く。 入口付近に国宝臼杵石仏の石標と「国宝・特別史跡臼杵摩崖仏と満月寺・日吉社」の解説。「臼杵摩崖仏(深田・中尾石仏群)は、ホキ石仏第一群、第二群、山王山石仏、古園石仏の4群に分かれた61体の仏像。 平安末期から鎌倉末期(12~14世紀)に造立された。ここに多くの摩崖仏が彫られた背景は「臼杵荘」と呼ばれた一帯が、藤原氏の流れをくむ九条家の所領だった事に関係がある。 ホキ石仏第一群、第二群、古園石仏は京都・奈良の仏師により製作され、九条家が天台宗総本山比叡山延暦寺と深い関係があり、一流の仏師が臼杵に派遣され摩崖仏が造営された。 同時期に摩崖仏を本尊とする天台宗満月寺が建立され、その記録は寺社考にも記録が残る。山王山石仏の直上には満月寺の鎮護社として日吉社が同時期に建立され、天台宗の広がりとともに延暦寺の鎮護社「日吉社」も全国に建てられるようになった。 山岳信仰の神「大山咋神」などを主祭神とすることから「山王社」とも称され、深田の里入口の「深田鳥居」の額束の上部に一部風化して読めないが「■王」と刻まれている事から日吉社の鳥居であったと推定される。摩崖仏と満月寺、日吉社は臼杵荘が仏の力で護られ、ここに住む人々の極楽往生を願って作られた。」 「深田鳥居」は深田の里入口の国道502号線脇の一面稲田の中にポツンと立っています。 柱の太さが印象的な石の明神鳥居で、柱の下部は埋もれているのだろう、訪れた当日は稲田にテントが張られ発掘調査?が行われていた。(駐車場なし)上 解説脇の香炉で焚かれた煙の先は深田の里が広がる。下 右手に日吉神社の鳥居とその先に古園石仏の覆屋。そこからスロープを進み、正面に現れる覆屋が「ホキ石仏第2群」、マップの1に当たります。 すべての摩崖仏はこうした覆屋で囲まれています。 上 臼杵摩崖仏ホキ石仏第2群保存修理工事概要。摩崖仏は阿蘇溶結凝灰岩に高肉彫りで刻まれています。 彫刻しやすい反面、もろく風化しやすい性質の為、母岩の亀裂に依り多くの仏像は割れ落ち、一部は原形を留めていなかった。昭和58年から4年の保存修理を受け今の姿を留めています。 「臼杵市はこの摩崖仏を後世に伝えるため保存管理に努力しています。」と書いてあるように、当日も二人の学芸員?に依り摩崖仏の保存管理をする姿が見られた。下 ホキ石仏第二群第二龕解説。九品の阿弥陀像を解説脇から全体を眺める。 良くある輪郭だけの平面的な摩崖仏ではなく、一体〃立体的に削り出されたもの。いずれも表情豊かで、心にやすらぎをあたえてくれる像容で、一体〃彩色も施されていた痕跡が残っています。 中央の阿弥陀坐像と左右に阿弥陀立像各四体が刻まれ九品の阿弥陀を形作っている。両脇に多聞天と菩薩像らしき姿があるけれど何れも傷みがひどい。阿弥陀坐像を正面から眺める。 母岩には大きな亀裂が入り、欠損が目立つが、これでも母岩にボルトを打ち込み固定し、欠損部分は接合、風化した表面は樹脂で保護した結果によるもの。 長い年月で逸失したものを敢えて復元し、在りし日の姿に戻すのもいい、そうして見栄えが良くなったものは何か違う物になっている気がしてならない。それらをしなかった事に賛同する。そうした試みは3D画像や3Dプリンターに任せておけばいいと思う。 ホキ石仏第二群第一龕解説。 覆屋の左部分に当たる。正面全体像。 中央の阿弥陀如来坐像は古園石仏、山王山の三尊像と共に臼杵磨崖仏を象徴する石仏。脇侍は観音菩薩(右)と去勢菩薩(左)、阿弥陀如像と共に顔立ちや表情がとても美しいと感じる。 天眼鏡があるとその表情が良く伝わってくる。観音菩薩。元は全身鮮やかに彩色されていたのだろう、年月と共に退色している、思いをもって作られたものは色褪せても美しい。阿弥陀如来。 去勢菩薩。 何れもふくよかで実に穏やかな表情を見せてくれる。なんだかねぇと感じる事ばかりの昨今、心の乱れが表情にも表れてくることがある、そんな日常を癒してくれて、あるべき姿に戻してくれるものがここにはある。ホキ石仏第一群覆屋全景。 マップの2に当たり、第二群から2~3分上った場所にあります。こちらも第二群同様の保存修理が3年に及び行われ、更に1990年から2年をかけて摩崖仏をこの立派な覆屋で覆った。ホキ石仏第一群第一龕解説。第二群より更に亀裂、崩落が多いが欠落部分の貼り付けなど行われ、形を保っている。 左から薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像。阿弥陀如来坐像。釈迦如来坐像。薬師如来坐像。ホキ石仏第一群第二龕解説。第一龕(左)と第二龕(右)中央の阿弥陀如来坐像を中心に薬師如来坐像(左)、釈迦如来坐像(右)の三像が彫られている。ホキ石仏第一群第三龕解説。第三龕正面全体像。 中央に金剛界大日如来坐像、右に釈迦如来坐像、左に阿弥陀如来如来坐像が並び、その左右に勢至観音菩薩立像・観音菩薩立像が彫られている。欠損部分は逸失してしまったようだ。ホキ石仏第一群第四龕正面全体像と解説。中央の地蔵菩薩坐像と左右に十王立像が配されている。 何れも鮮やかな彩色が良く残っている。1周30分とあったがここまでに既に20分を費やした。 山王石仏に向かう事にしよう。歩き出してすぐ、右の山肌に続く道の入口に重要文化財五輪塔の案内があり寄り道。 細い山道を5分程道なり進んだ突き当りに写真の覆屋がある。マップには五輪塔は示されていないが、位置的にはホキ石仏第一群の上の斜面になるのか?。 五輪塔解説によれば 「大小2基とも五輪塔である。大きい方は151㌢あり、空輪、風輪の一部を欠損しているが、粗削りで素朴ながら重量感がある。 嘉応弍年(1170)の刻銘が残る。小さい方は104㌢あり承安二年(1172)の刻銘が残り、如法経(法華経)を納める目的で建立された。」 それぞれ塔の側面に梵字が刻まれているが内容までは分からない。右隅の石が何なのかは案内はなかった。五輪塔から戻り、看板の矢印に従い山王石仏へ、100㍍とある。 今回はここまで、次回「#2 山王石仏から古園石仏」へ続く。臼杵石仏(ホキ石仏第2群から第1群)参拝日 / 2022/10/26所在地 / 大分県臼杵市大字深田804-1関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY1~DAY2
2022.11.23
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この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪れ、半日程葡萄畑の下で新酒のワインを味わって来た。 多治見駅に向かう帰り道「金幣社 本土神社」を参拝してきました。多治見駅から北東方向へ徒歩約15分程、多治見簡易裁判所の西隣りに鎮座します。 周辺は南を流れる土岐川に向け緩やかに傾斜が続く一帯で、そこに石垣を積み社地が作られています。社地東側で小規模な参拝者駐車場を見かけました。社頭全景。 南側の車道が走り、一段上がった所に境内が広がる。右手に二つの社号標が立っています。 手前に本土神社(昭和6)、その奥に金弊社本土神社(昭和54)と彫られた社号標が見られます。金弊社は岐阜県独自の社格制度、金幣社、銀幣社、白幣社、無格社で別けたもの、過去にも柯柄八幡神社(銀幣)、村國眞墨田神社(金幣)など岐阜の神社を訪れると見かけます。 背景には組織と社格の違いによる金銭が絡み、組織に属さない神社も現れている。社頭左の本土神社由緒。「主祭神 猿田彦命配祀神 庭津日命 境内社(祭神) 神明神社(天照皇大神)、八王子神社(五男三女神)、北野神社(菅原道真)、稲荷神社(倉稲魂命)、荒神神社(火牟須火命)、出雲神社(大国主命)、金刀比羅神社(大物主命)」石の明神鳥居(明治41)と本土神社と刻まれた額。 社名の本土は「ほんど」と読むようです。旧地名なのか、それ以外なのか謂れを調べてみるも分からなかった。上境内右に忠魂碑。下多治見市指定文化財の「宝篋印塔」 市内上野町の御嶽神社境内から移されたもので銘文はなく、隅飾の垂直に立つ突起の形状が室町初期に流行った造形らしい。梵字が彫られているが今も読み取れない、恐らく虚空菩薩?だろうか、解説は梵字としかなかった。境内左の手水舎。 鉢は昭和9年のもの、パイプを差し込まれた龍口に物悲しさを感じる。参道から拝殿方向の眺め。 参道は拝殿前から左にも別れ境内社に繋がっています。拝殿前を二対の狛犬が守護、入母屋銅葺屋根の拝殿は千鳥破風、唐破風向拝が付き立派な佇まいだ。岐阜県神社庁 由緒由来 「天つ神の本源は天照大神をお祀りする伊勢の皇大神宮であり、これに対し奉り地祇の本源は猿田彦大神を神代ながら祀い奉る総本宮伊勢の国一宮椿大神社猿田彦大神を本土神社にご分霊として奉斎されています。その創建年月日は詳かではありませんが、元徳2年、今から約七百年前に奉修覆御殿一守と云う棟札が現存しているところより推察しますと、創建はそれ以前であることが證されますが、私共の遠い祖先の代からこの地の守神として今日に至っています。この地は鎌倉時代に至って土岐氏の一族が長瀬郷に居住し就中長瀬入道頼氏は神仏に対する信仰の念極めて厚き武将で、本土神社を修覆し社家を置いて祭祀を司らしめられたことが虎渓山の古文暦、長福寺の由来記などで窺知することが出来るが当時の社は東西55間(約100㍍)南北50間と云う崇巌な社であったようでありますが、天正11年土岐氏は織田氏に亡ぼされ同時に社家が絶えたので本社に関する詳細の記録は此の時烟滅したものと思われる。創立年紀不詳なれども、元徳二年奉修復御殿壱宇と云ふ棟札あり。按ずるに創建は夫れ以前なるべし。土岐頼貞長瀬郷に居舘を構ふや本神社の社殿を修復。四十余枚の棟札を存す。近郷の総社なり。明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に列す。祭礼10月15日近い日曜日」定かな所では元徳2年(1330)の棟札だろう、wikiなどが云う長元3年(1030年)まで遡るのかは椿大社社伝に記録が残るかだろう。拝殿前の狛犬1、大正7年(1918)に寄進されたもの。こちらは寄進を見忘れましたが、風貌だけ捉え年代を想像すれば、素朴な外観の狛犬1には及ばないだろう。唐破風向拝、飾り金具には五七桐が施され、神社幕にも大きな紋がはいる。拝殿斜めから社殿全景、と捉えたいところですが、拝殿から奥の幣殿や本殿などは見通せない。拝殿脇の由緒略記。「当本土神社にお祭りする、猿田彦の神は今から六百有余年前既にこの地に鎮座され、私共の遠い祖先の代からの守り神として今日に至っております。猿田彦神は神話に伝わる、天孫瓊々杵尊の降臨に際し、高千穂の峯に御先導申上げた神として有名であります。 御神徳については古くから霊験あらたかな土地の守護神として崇敬され当神社の社名も、これに由来されるものといわれております。また災難や迷いを除き開運とみちびきの神としてもひろく知られております。」社名の本土の由来は「土地の守護神」から来ているようだ。拝殿。拝殿左の境内社から本殿方向を眺める…本殿などの姿はさっぱり見えません。拝殿左の境内社。 右から北野神社、稲荷神社、荒神神社、出雲神社、金刀比羅神社の五社相殿。両脇に小さな石標が安置され、一部に氏神と彫られている物もある。 市街化に伴いここに移されたものか?由緒にあった神明神社、八王子神社はここには祀られていなかった、本殿域に祀られているのかもしれない。本土神社創建 / 不明祭神 / 猿田彦命、庭津火命境内社 / 北野神社、稲荷神社、荒神神社、出雲神社、金刀比羅神社、神明神社、八王子神社所在地 / 岐阜県多治見市小田町1-20公共交通機関 / JR中央線「多治見」駅降車徒歩15分参拝日 / 2022/11/03関連記事 / 柯柄八幡神社、岐阜県各務原市「村國眞墨田神社」、椿大神社(『皇大神宮別宮と一之宮』一泊二日紀伊長島御朱印ツアーday1)
2022.11.22
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春日井市大泉寺町の八幡社から車で北に15分程の小牧市野口の八幡社を訪れた。 というか、小牧ワイナリーを訪れた際、ワイナリー入口に鎮座していたので立ち寄ったのが正直なところ。尾張三山の一つ尾張白山の南の裾野にあたり、小牧市北東部の丘陵地帯で、古くは春日部郡篠木荘野口村と呼ばれ、中腹の大山、野口一帯は古くから人が居住し6~7世紀に作られたとされる複数の古墳が点在する。地内を東西に流れる大山川は、新川となり伊勢湾に注いでいる。社頭は大山川右岸沿いを走る県道178号線の八幡社南交差点角にあたり、信号と並ぶように石の明神鳥居が立っている。 参道先の杜の入口には赤い両部鳥居を構えている。訪れた10/5、社頭には八幡神社の神社幟が立てられていた。両部鳥居から社殿方向の眺め。 左に手水舎があり境内は二段に作られている。龍はお休み。 石段の先に白い拝殿が見える。10月とはいえ、杜の中に入ると未だに蚊が襲ってきた。石段右脇に小さな社が祀られ、その先の境内に白い拝殿。石段脇の社は厳島社。 広島県の世界文化遺産に指定されている厳島神社が総本社。宗像三女神を祭神とし、その中の市杵島姫命は神仏習合時には仏教の女神弁才天と同一視される。 八幡神社の由緒含め、水の神様がいつ頃この地に祀られたのかそれを伝えるものはなにも見当たらなかった。八幡神社社殿全景。 一段上がった先が本殿域で左右に境内社と神楽殿が主な伽藍。本殿域左の眺め、左の建物は祭器庫か? ここから本殿にかけてこんもりと盛られた社地の上に建てられている。幣殿前に一枚の貼り紙があり、記載されたURLにアクセスすると以下の八幡神社概説に辿り着いた。 内容は以下。「祭神 応神天皇、天照大神、日本武尊。 由緒 貞観15年(873)創建と伝えられますが、定かではありません。本殿は前方後円墳の上に鎮座しています。 江戸時代までの祀職は、鵜飼家により襲職されていました。年中祭事 1月1日歳旦祭、3月第3日曜日祈年祭(第3日曜日が15日の場合翌週)、10月第2日曜日例祭、11月23日直前日曜日新嘗祭。境内には尾張白山社の遥拝所もあります」と説明されていた。 出土品等の紹介こそなかったが、このこんもりとした盛り上がりは前方後円墳の痕跡のようだ。大山、野口古墳群では主に横穴式の石室を持つ古墳が点在し、須恵器など出土しているという。 八幡社本殿が建つこの場所もその中の一つのようです。 本殿域左の境内社。 奥から秋葉社、手前が津島社。幣殿全景。 切妻瓦葺で本殿を囲む様に白壁で繋がる。本殿域を守護する狛犬は昭和15年(1940)寄進のもの、胸板の厚い逞しい容姿をしている。 幣殿から本殿域の眺め。 大正12年(1923)に出版された東春日井郡誌、そこに八幡社について記されていた。「篠岡村大字野口字惣門2207番 社格 村社祭神 応神天皇、日本武尊、天照大神 例祭日 陰暦8月22日由緒 社伝明らかならず、然れども此地お猿堂、車道等の名称残りて、古くは、社殿など荘厳なりし由言い伝えり。 蓋し車道は、往古の祭礼に山車を引ける道路にして、お猿堂とは、神苑の一隅ならん。古来より、延喜式内小口神社は此社なる由口碑に伝たえり。 小口神社は延喜式に、山田郡小口神社、國帳に従三位小口天神又尾張國内神名牒山田郡二十四座の中、従三位上小口天神とあり。」とあった。「延喜式内小口神社は此社なる」は定かにはならなかった、一部に弘化2年(1846)の村絵図に描かれているとの事なので絵図を物色する事にした。 いずれにせよ、伽藍の新しさから想像できない長い歴史を持ち、古くから野口集落の氏神として受け継がれて来た神社のようです。古墳上に建つ本殿、後方全景。 こうして見ると古墳だったとは思えない。 本殿右に境内社と神楽殿?左から山神社、御嶽神社、役行者。 それらの後方にある社が分からなかった、ここでは不明社としておきます。「境内に尾張白山社の遥拝所」とあったが、それがこの社にあたるのかもしれない。神社北側から社叢の眺め、少し離れて見れば古墳らしさが漂うか。 この野口一帯は古墳だけでなく、大山廃寺跡など古来の遺構や古刹が残り、神仏習合時は一帯が隆盛を誇ったのだろう。「荘厳なりし由言い伝え」とはそうした姿を形容したのかも知れない。尾張三山周辺、寺社や古墳巡りとウォーキングにも退屈しない場所かも知れない。 野口 八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇、天照大神、日本武尊境内社 / 厳島神社、津島社、秋葉社、山神社、御嶽神社、不明社例祭 / 10月第2日曜日所在地 / 小牧市野口2207大泉寺町八幡社🚗野口 八幡社 / 北へ15分程参拝日 / 2022/10/05関連記事 / 八幡社(春日井市大泉寺町)
2022.11.21
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名古屋の古い町割りの通りを歩いていると、軒下に祀られた大小様々な祠を見かける事があります。 専修寺から四間道方向に向け少し歩いた西区那古野1-33。狭い路地の一画、軒下に立派な唐破風の覆屋が見えてきます。四間道の屋根神さまと云えば必ず取り上げられる知られた存在。 軒を連ねる重層長屋の軒下に建てられた立派な覆屋が視界に入ってきます。視界に入らなかったとしても、白い「子守地蔵尊」の幟は嫌でも目に入ってくるでしょう。 路地の正面はお洒落な飲食店が多い四間道。那古野1-33「屋根神」 銅葺葺の唐破風の下には、造までは良く見えないが立派な社が祀られている。 名古屋市博物館の屋根神さまの概説は以下。「民家の屋根に設けられた小さな祠は「屋根神様」などと呼ばれ、名古屋市域で多くみられる。 「軒の神様」、単に「神様」などと呼ばれることもある。場合によっては軒下や台の上などで祀られ、このような信仰の形は全国的にみても珍しい。 昭和50年から51年にかけて行った屋根神の実態調査によると、分布は千種区2、東区36、北区6、西区129、中村区26、中区9、昭和区4、瑞穂区4、熱田区12、中川区16、市外10と圧倒的に西区が多い。屋根神のはじまりは明治初期からで、昭和初期に広まったと考えられている。 屋根神には津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀られることが多く、住居が密集した下町で祀られる。特に火事の被害は深刻な問題であり、火難除けで有名な秋葉神社が祀られた。 また、疫病を防ぐ天王信仰で有名な津島神社が屋根神の信仰に結びついたのは、人口の多い町では伝染病もまた深刻な問題であったためである。火難や疫病除けの信仰に熱田神宮の信仰も加わり、屋根神は様々な性格を持つ神様としてまつられたのである」調査から既に半世紀を経て、建物の建替や屋根神を維持する組への加入者減少などを背景にその数は更に減少している事だろう。 幸いにも四間道周辺の狭い範囲には、今も複数の屋根神が残っています。那古野1-33の屋根神さまはその中でも規模の大きな部類に入ると思われます。 覆屋の木鼻や梁の透彫り、兎毛通の彫など、手の込んだ意匠が施されている。祭神は津島神社、熱田神宮、秋葉神社。 屋根神創建 / 不明祭神 / 津島神社、熱田神宮、秋葉神社所在地 / 名古屋市西区那古野1-33屋根神さま右脇の白い幟の先には細い路地があり、突き当りの小さな堂が「子守地蔵尊」堂は瓦葺の小さなものですが、町内会と子守地蔵尊運営委員会が組織され綺麗に管理されています。堂には立派な額「地蔵尊」と紫も鮮やかな幕が架けられ「子守地蔵尊」の提灯が吊るされている。内部には以前は金色に光り輝いていただろう厨子が安置され、開けられた厨子の中に一体の地蔵が安置されていました。 写真ではよく分からないけれど、地蔵の顔は筆で目と眉が描かれ、やさしい表情が窺える。子守地蔵の由来は定かではないけれど、祠の前の解説には以下の様に記されていた。「地蔵尊研究家の調査から宝永7年(1710)の作とされる。其の後事故に依り地中に埋もれ、約120年前現在の御堂の20㍍南に井戸を掘っていた際に発見された。 御佛の御名にあやかり子守地蔵尊と呼ばれ近隣の信仰を得て居ります。明治28年(1895)現在御堂が再建され今日に至る。 大祭 8/23~24子守地蔵尊運営委員会」とある。 解説を見て井戸を探して見たが見つける事は出来なかった。子守地蔵尊所在地 / 西区那古野1-34 屋根神さまから四間道に出る。 屋根神誕生のきっかけにもなった、家屋が密集するこれまでの道幅に比較すると広々とした道幅で、東側には蔵が連なっている。一度火の手が上がれば延焼は免れない、密集地の四間(約7㍍)の道幅は、そこで延焼を食い止めるバッファーの役割を持つ、云わば100㍍道路のミニチュアでもある。 屋根神さま(那古野1-33)と子守地蔵尊参拝日 / 2022/10/12専修寺から徒歩ルート / 南東へ2分関連記事 / 専修寺 名古屋別院(名古屋市西区那古野1)
2022.11.20
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御母衣白山神社白山神社を後にして荘川方向に15分程南下します。 国道156号線尾神橋を渡り、湖岸を少し走る、やがて左手に大きな待避所が現れます。御母衣電源神社は待避所から国道を挟んだ山の斜面に鎮座します。待避所から眺める神社全景。 山の斜面の森を一部伐採、造成し社地が作られている。国道沿いに鳥居はなく、奥まった場所に鎮座する神社は注意していないと見逃すかもしれない。 唯一の目印は「御母衣電源神社」の木製の社標だけかもしれない。この待避所の東側のすぐ下は御母衣湖の湖面が迫っています。上は昭和22年米軍が撮影した御母衣ダム建設前の当地の航空写真。 星印の左の沢が尾神郷川、御母衣電源神社の鎮座地は☆のあたりと思われます。社名からして御母衣ダム建設に伴い創建された神社なのは間違いない。 御母衣ダムは昭和32年(1957)に着工され、昭和36年(1961)に運転開始した岩を積み上げたロックフィルダム。このダムが発電した電気は関西圏へ送電され使用されています。 米軍の航空写真に湖底に沈む前の集落の姿が残っていた、関西の発展に寄与できたのも、遠く離れた場所で故郷を失う村々の協力なくして成立しなかっただろう。ダムと云うとコンクリートをイメージするけれど、白川郷から庄川を遡ってくると、岩を積み上げた壁が立ち塞がるように聳えている、現代のピラミッドと云っても良いかもしれない。この神社の由来は建設に伴う犠牲者を鎮めるためのものか、このダムと湖の鎮守として祀られたものかは定かではない。社頭の右に社標が立ち、斜面に沿って石段が続き、鳥居と社殿に繋がる。社標の寄進年は昭和38年(1963)とある。 後に出てくる狛犬も同一寄進年、つまり運転開始後に建立されたものと思われます。苔むした石段上ると石の明神鳥居、その先に一対の狛犬と覆殿がある。覆殿と狛犬全景。 覆殿前を守護する狛犬。 昭和に入って寄進されたものながら、立地もあってか体は赤茶け、苔生し始めている。境内全景。 右の阿形の狛犬の先に石標が立てられていた。角の取れた丸い石には水神と彫られていた。 同時期に祀られたものか、湖底に沈んだ村からここに移されたものか定かではない。水神から境内の眺め。 周囲を取り囲む薄暗い森の中にあって、境内には陽光が良く届く。伽藍は眼下の御母衣湖を向いて建てられ、狛犬達の見つめる先は湖底に沈んだ村を見つめている様に見えてくる。鳥居の先の眼下には御母衣湖が見通せる。 御母衣 電源神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 岐阜県高山市荘川町海上参拝日 / 2022/08/23御母衣白山神社から御母衣電源神社 / 国道156号線を南下15分前後関連記事 / 御母衣 白山神社 (岐阜県大野郡白川村御母衣)、総社穴馬神社
2022.11.17
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名古屋市西区那古野1 淺間神社社地の北側を左に折れ、二筋目を右に進んだ左に鎮座する「専修寺名古屋別院」上はこれまで巡ってきた近隣の社寺、赤で示したのが専修寺。落ち着いた佇まいの薬医門とそれに連なる塀を構え、右手に「真宗高田派愛知別院」の寺標(1936)が立つ。薬井門正面から本堂の眺め、左には鐘楼がある。門の右手の解説。「真宗高田派 専修寺名古屋別院明暦3年(1657)当地に建立。 当初信行院と称したが、宝暦4年(1754)専修寺愛知別院と改めた。荘厳な威容を誇っていた本堂は戦災で焼失、山門・鐘楼は創建当時のものを今に残している。 大晦日の除夜の鐘は近隣の人々によってつかれ、その昔は界隈に響きわたる。」山門と鐘楼に比べ本堂が新しく感じるのも戦災後に再建されたからか。 尾張名所図会に往時の高田本坊の姿が描かれていた。描かれた当時と現在の山門、鐘楼の位置に違いはあるものの、規模の大きな伽藍だったのが偲ばれる。 この辺りは清州越し後に整った地域、後に東区の徳川園建立(1695)の替地として充てられたされ、解説からすると僅かな期間で伽藍は移されているようです。真宗高田派本山の別院解説によれば「替地町西側に在り。 境内516坪75、 徳川時代年貢1反77、三重県一身田町専修寺別院なり。元臨光山信行院と号し、皆戸町に在り。 正保4年(1647)専称院義起玄怒(元禄5年5月没)の創建なり。明暦3年(1657)今の地に移す」 と紹介されています。専修寺HPでは以下の様にも記されていた。「神社誌、府誌では元正万寺町、東本願寺順正寺と号した。 明暦3年に此の地に移り、臨光山信行院と号した。享保9年(1724)火災に依り一時は無住となる。 後の元文年中(1736~1741)に再興、歓喜心院宮円猷上人の許可を得て、高田本坊と称した。万延(1860~1861)の頃、専忠義宜は在職17年の長きに亘り本坊興隆に尽くし、明治初年に書院、庫裡を建立し、下野高田山の一光三尊仏の出開帳を行い未曾有の参詣であった。 本尊阿弥陀如来立像は恵心僧都作と伝えられる。その後、昭和20年(1945)1月、戦災により山門、鐘楼堂、土藏、水屋を残し焼失。昭和27年(1952)10月、本堂、庫裡が再建された」と記されている。専修寺の落ち着いた佇まいの薬井門は、円頓寺商店街に続くこの筋の顔と云ってもいいだろう。 木鼻など人目を引く彫飾りはないが、妻壁には巧みな彫りが施されていた。 本堂全景。 境内は正面の本殿と左に寺務所、庫裡。境内左に手水舎と鐘楼。シルエットになってしまったが、入母屋瓦葺の鐘楼。門に対してこちらは各所に彫飾りが施されている。 梵鐘は戦時中に供出され、現在見るものは昭和36年(1961)に再鋳されたもの。毎年周辺住民によりつかれる除夜の鐘が名古屋の玄関口に鳴り響くという。本堂は瓦葺の切妻、軒先に向拝が付くシンプルな外観。向拝の木鼻の象と軒先で躍動感のある唐獅子が跳ねている。専修寺 名古屋別院宗派 / 真宗高田派山号 / 高田山創建 / 正保4年(1647)開山 / 専称院義起玄怒本尊 / 阿弥陀如来立像所在地 / 名古屋市西区那古野1-20-5公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」降車北に10分程関連記事 / 淺間神社淺間神社から徒歩ルート / 移動時間徒歩5分
2022.11.14
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「御母衣白山神社」白川村平瀬集落を抜け、車で国道156号線を荘川方向に約5分弱。 国道右手に一棟の合掌家屋が見えてきます。国道沿いに建つ一軒の合掌家屋は重要文化財「旧遠山家住宅」、先程「白川郷で合掌家屋は沢山見てきたここはスルー」と言わずに立ち寄って見るといいかもしれない。 今回掲載の「御母衣白山神社」は国道を挟んで向かいに鎮座します。写真は遠山家から国道156号線荘川方向の眺め、車は国道沿いに駐車スペースがあります。 国道を挟んで向かいに白山神社の社頭が見えています。 国道から眺める社頭。 角の取れた石を積み上げ石垣が作られ、そこに燈籠と明神鳥居、右手に社務所?が設けられている。社殿は山の急斜面に付けられた石段の上にあるようで、国道から社殿の場所は見えない。 この石段に魅かれ立ち寄ったようなものだ、この石段を見てかみさんは「パス」、一人で見極めてくるかぁ鳥居左には桜の古木があり、春には芽吹きの緑と桜の花の色合いが綺麗だろう。 樹々に包まれた小山の頂に向け続く急傾斜の石段は苔むし、朝露で足元が滑りやすい、手摺もなく一度踏み外せはただでは済まない。 灯籠脇の素朴な手水鉢。鳥居前まで来ると石段の先に建つ拝殿の姿が見えてくる。 先が見えるとたいして長くないと思え、何段か数えて見るか、そんな余裕も生まれる。石段脇に二つの解説板。 白川村教育委員会が設置したもので「御母衣白山神社社叢」について解説している。「白川村指定史跡・天然記念物 御母衣白山神社社叢当白山神社は稗田、平瀬、木谷、保木脇などと並んで白川村の白山信仰に関わる神社。 白川街道を見下ろす独立した「氏神山」と称する小高い山全体が社叢となっている。山頂部に建つ社殿の傍らには複数の板石状の立石があり、この付近からは中世の遺物と想定される陶器片が採集されている。 特に社叢の植生に特徴があり、頂部の高野槇は白山神社の御神木で、楓やシデの仲間以外にブナやとちの木の巨木が見られ、冷温帯落葉広葉樹林を残している。 低木には石楠花、ユキツバキの群落があり、本社叢の植生が日本海側の冷温帯植生の博物館と云えるほど貴重なもの」右石段脇の御母衣由来の解説。「その昔、泰澄大師(加賀國白山を開山)という高僧が白山を開きこの村に来られたが、故あって、また白山を越え国元へ帰られました。 その折り大切な衣を忘れて行かれたため、後に大師の母親がこの地を訪れ衣を持ち帰られたという事から御母衣と呼ぶようになったと伝えられる」馴染み深い御母衣ですが由来はここで初めて知らされた。 それにしても自分が忘れた衣を母親を取りに向かわせるとは、どうなんだ。左 緑濃い夏とはいえ、朝方の杜はうっすらもやがかかり気持ちのいいものだ。ヘビが嫌いな自分だが、こうした時は存在を忘れ、出会うまでは足取りは軽い。足取りは軽いはず、登り始めて直ぐに強烈な傾斜に気持ちが折れ数えていた石段の数も分からなくなる、途中で一息入れてゆっくり確実に登る、下を振り返ってはいけない。 拝殿は目の前だ。多数の岩が組まれた境内、向かい合う様に狛犬がそこで待っているが、息が…切れる。 こんな事で今更一之宮登拝はないだろう、かみさんが正解だ。お待たせ。 やっと頂に到着。山自体は岩山ではない、石垣の岩もこの狛犬も全て人があげたんだろう。 解説にあるように境内には複数の立石があり、古くから山を崇拝する儀式の場でその対象は目の前に聳える白山だろう。それがいつ頃なのかは定かではないが、泰澄大師が衣を忘れる以前からかもしれない。境内は狭く、とても全景は捉えきれない。 静かな杜に鈴の音が良く響く、車で待つかみさんへ無事辿り着いた合図でもある。 拝殿から本殿の眺め、祭神は白山比咩大神。 神社創建がいつ頃か調べてはいないが、ここから中世の遺物が見つかっている事から、この小さな山は神の宿る山として、祭祀形態はともかく、それ以前から特別の場所なのだろう。拝殿から左の本殿側に回り込む。 本殿を収める覆屋は山の傾斜にコンクリートの長い柱を立て、それを土台にして宙に浮く様に建てられている。覆屋の小さな棟の両端に内削ぎの千木が見える。 右手の立石も以前から建てられたものだろう、人々に石を建てさせたものとは、やはり白山なんだろうか。さてかみさんの所に戻ろう。 頂から見下ろす石段はこんな感じ、スキーに行ってもこの絵面の斜度はお目にかかれない。踏み外さないようにゆっくり確実に下界に戻ろう。 庄川一帯は自然と謎に満ちている。帰雲城や新種の化石が発見され、カタクリや巨大水芭蕉の群生、大きな岩魚や猿、熊も見られる(た)。 自分の中では故郷的な場所の一つ。御母衣 白山神社創建 / 不明祭神 / 白山比咩大神所在地 / 岐阜県大野郡白川村御母衣20参拝日 / 2022/08/23平瀬八幡神社から御母衣白山神社 / 国道156号線を南下5分前後関連記事 / 平瀬 八幡神社と白山神社(大野郡白川村平瀬)
2022.11.11
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春日井市大泉寺町「八幡社」 「大泉寺町御嶽神社」の前を南北に続く下街道、街道を挟んだ東側に鎮座するのが「八幡社」既に参拝した御嶽神社、天王社ともに駐車場はありません。 街道の道幅は狭く、生活道路でもあり路駐は避けたい、八幡社には小さな駐車場があり地元に迷惑をかける事はないかもしれない。街道沿いに社頭を構える八幡社。 社地は国道155線から北側に緩やかな丘陵地が続き、丘陵地のほぼ頂にあたり、これより北側は大学のキャンパスと接している。郊外の神社らしく南北に緑豊かな社叢と広々とした社地を持っている。 後で分かった事ですが街道沿いのこの参道、実は脇参道のようで南側に杉並木が続く長い正参道がある。西参道の石の明神鳥居。 参道は左に折れ、その先が伽藍が広がる。額は「八幡社」鳥居をくぐって伽藍を見渡す。 長い正参道から境内に至ると最初に現れるのは石の蕃塀で控え柱を持つ立派なものだ。正参道を歩いて見る。傾斜をそのまま利用しているので社殿へはこの石段を上ります。石段から南は趣のある杉並木が残され社頭に至るのだが、社頭から南は企業の敷地のようで一般道に接していないようだ。 脇参道が実質的な正参道のようだ、境内に戻ろう。 境内全景。 境内は二段となっていて、下の段に手水舎、一段上がって中央に社殿、右側に社務所を持つ立派な伽藍を持っている。手水鉢から拝殿方向を眺める。 黒光りした龍はいるがお休みしているようだ。拝殿全景。自分と同い年の狛犬、筋肉モリモリ逞しい姿をしている。石段を上がって拝殿正面の全景。 近年建て替えられたのだろう、コンクリート造りの綺麗な外観。南向きに建つ拝殿から本殿がひとつながりで蕃塀もあり典型的な尾張造り。境内右の西向きに建てられた社務所。 この建屋の左から本殿域右の境内に繋がっている。境内左に東向きに板宮造りの境内社が並ぶ。 参道はじめ多くの燈籠その他が寄進されていますが、手前の八幡型は昭和に入って寄進されたものが多く、数は少ないが正参道の西の屋型の燈籠や百度石などはそれ以前に寄進されたものと思われます。手水舎脇に昭和62年(1987)の八幡社改築碑を見かけたが、この八幡社の創建等詳細はよく分からないが、冒頭の明治24年(1891)当時地図にも示されている事から、江戸時代にまで遡ると思われます。 江戸時代のこの辺りは尾張国春日井郡大泉寺新田村、幾つかの地史から春日井郡で調べて見たが大泉寺の記述は見つかるが八幡社に繋がる記述は見つからなかった。一説に天正9年(1581)の創建、昭和40年代当地へ移築改修とも云われるが、明治の地図には既に鳥居が記されている事、昭和初めの寄進物の数々、昭和62年(1987)の八幡社改築碑などから見るとそれはどうだろうか。 これだけしっかり整備されている八幡社だけに、運よく宮司とお会いできればスッキリする話だと思う。 ここでは創建不明としておきます。左から秋葉社、金比羅神社、津島神社。拝殿前を守護する整った容姿の狛犬は昭和3年(1928)に寄進されたもの。 拝殿唐破風向拝など所々に施された金色の飾り金具が嫌みのないアクセントになっている。社殿外周はぐるっとひと回りする事ができる。 銅板葺の本殿は5本の鰹木と外削ぎの乗せ千木が施され、屋根の連なりと曲線が綺麗。社殿側面全景。 周囲を高い塀が取り囲み、本殿域を見通す事は出来なかった。本殿域右に燈籠が立っていて、石段が杜に続く、その先の高みに冨士淺間大神祈祷神璽の社。拝殿前から南の参道方向の眺め。 創建は不明ですが、綺麗に手入れされた境内と伽藍は大泉寺町の住民から古くから崇敬され続けてきた氏神様。大泉寺町 八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇所在地 / 春日井市大泉寺町70-2公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」降車、バス又は徒歩で約40分参拝日 / 2022/10/05関連記事 / 天王社 (春日井市大泉寺町)、御嶽神社(春日井市大泉寺町)
2022.11.10
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中橋から西を見る。 アスファルトとコンクリートばかりの一帯に大きな楠木が聳える一画があります。中橋の屋根神さまから淺間神社は目と鼻の先。この杜の主が淺間神社。淺間神社は四間道の南の玄関口に東向きに社頭を構えて鎮座します。 グレー一色で変化のない地面、こうした遊び心は歩いていても楽しみがある。 社頭左に社号標、二つの解説板、石の神明鳥居(大正12寄進)を構え、縦に長い社地に作られた石畳の参道の奥にニノ鳥居を構えています。社頭の解説板。上「淺間(せんげん)神社由緒記当神社の創建は江戸時代の「尾張誌」に正保四年(1647)にこの地移せりと記す。 御祭神本殿祭神 木花開耶媛命、 五穀豊穣、町内安全、子孫繁栄 境内社富士光稲荷社 祭神 宇迦之御魂之大神 日常生活守護 恵比寿社 祭神 恵比寿様 商売繁盛天満宮社 祭神 管原道真公 学問成就 秋葉社 祭神 迦具土之命 鎮火・防火津島社 祭神 建速須佐之男命 除災招福 」下(一部省略)「浅間神社境内に樹齢300年を超す楠木や欅が7本あり、市の保存樹に指定。 毎年10月1日、2日に大祭が行われる。」 上は社頭右にあった「四間道町並み保存地区」解説板。 中橋の袂で見かけた「龍神」と称する不明社、これを見ていて発見があった。町並みイラストの中で、中橋の袂の社は町並み保存地区5「屋根神」と記されていた。 Gマップのモヤ〃したものが少しスッキリした。反面あの朽かた、河村さん、クラウドファンディングを呼びかけるなり知恵を絞ればなんとかなるのでは? また脱線した、淺間神社に戻ろう。鳥居をくぐり境内を進むと二対の狛犬ある。手前の色白で薄笑いを浮かべる狛犬は小さいながら角と宝珠の付いたもの。参道左、イチョウの樹の下に手水舎、手水鉢。大正11年(1922)寄進の毬と子を持つ狛犬、こちらは風格を感じる。 ニノ鳥居前から社殿の眺め。 参道右に社務所、神楽殿と続き、正面の拝殿と左右の境内社が主な伽藍。 拝殿内から本殿方向を眺める。本殿前の神鏡が鈍く輝き、五七の桐が神紋のようだ。 創建は地史に目を通すも定かにはならない、由緒記の「正保四年(1647)にこの地移せり」は場所が記されていない、尾張誌に正保四年、廣井村の河原からこの地に移されたまでは分かった、後はそれ以前の絵図から探すだけなんだが…見つけきれていません。拝殿右の境内社。上 浅間八大龍王神、黒っぽい岩が御神体のようだ。下 手前の二つの社は手前が恵比寿社、天満宮の相殿、後方が秋葉社。正面奥が津島社。拝殿左の冨士光稲荷。 本殿右の太い幹は御神木イチョウ、今頃は黄色に色付いてきた事だろう。上欅の木の下から拝殿を見上げる。下神明造の本殿の上はイチョウが覆う。千木は内削ぎ、鰹木も施されているが数は不明。入母屋銅板葺の神楽殿、社務所とは渡廊で繋がっている。 境内で見かける寄進物の多くは大正末期のものが多く、この時期に修復を受けていると思われます。社頭を横切り四間道を目指す観光客は多いが浅間神社に参拝に訪れる方は少ないようだ。 名古屋城築城は1610年、清州越しが整ったのは1613年とされる。淺間神社が廣井村の河原からこの地に移されたのが1647年、それ以前の沿革が知りたいものだ。上は尾張名所図会の中橋裏の四間道の挿絵。 左上に五条橋が描かれ、右手が中橋となる、交差点の角に塀に囲まれた淺間神社が描かれている。堀川沿いに立ち並ぶ蔵の姿は今も当時の面影が残る。淺間神社創建 / 不明祭神 / 木花開耶媛命境内社 / 富士光稲荷社、恵比寿社、天満宮社、秋葉社、津島社 所在地 / 名古屋市西区那古野1-1-29-3公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から徒歩5分関連記事 / 中橋の袂で佇む屋根神さま (西区那古野1)
2022.11.09
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中橋の袂で佇む屋根神さま (西区那古野1)白山神社(中区丸の内1)から堀川沿いに5分程遡ると堀川に架かる中橋に出る。 そこから中橋を渡り四間道方向に向かいます。堀川は名古屋城下と熱田の海を結ぶ運河として、家康が1610年(慶長15)福島正則に命じ開削されたもの。 当時は堀川七橋と呼ばれた五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋が架けられ、中橋はそのなかの一つ。写真は堀川上流の五条橋方向の眺め。 随分と水質は良くなり一見綺麗に見える堀川なんだけど、よく見れば相変わらずでもある。中橋。 上流に架かる五条橋と下流の伝馬橋の間に架かる事から中橋と付けられ、現在の中橋は1917年(大正6)に架けられたもので、堀川に現存する橋の中では最古の部類に入る。現在は下流に桜橋(1937年)が架けられているので桜橋と五条橋の間に架かる中橋とでもいうのか。 中橋の袂に朽ちた小さな覆い屋が立てられている。Gマップで調べて見るとこの小さな社は「龍神」とある。 赤い覆屋の下に赤い台座の上に祀られたこの社、社名札はなく龍神を思わせるものは何も見られなかった。むしろ、地に降ろされた屋根神さまの印象が強い、右手の解説にこの社について何も記されていない。美濃路見取絵図(1806)の堀川と中橋。 左が名古屋城で当時の絵図には中橋の辺りにそれらしき姿は見つけられず、地史など目を通すも社について記したものに出会えず龍神様の実感はない。中橋上流の五条橋の袂にも見るからに屋根神さまが祀られています。 この付近の四間道は軒下に社を祀る屋根神さまが見られる町。この小さな社も、以前は近隣の屋根に祀られ、中橋の袂に移されたもののような気がしてならない。 ここでは「中橋の袂で佇む屋根神さま」としておこう。 不明社全景。社の上を覆う朽ちた覆屋の下には茅葺の神明造の社が収められている。 内削ぎの千木と鰹木も付くが台座を含め全体に傷みが進んでいる。名古屋の観光名所四間道と妙に綺麗な看板のイメージに対し、横を流れる堀川と朽ちた不明社の姿は今一つ。 円安を追い風に好業績を続け内部留保に精を出す企業の中から、一社でも地元に手を差し伸べれば一瞬で見違えるのだがねぇ。中橋の袂に佇む屋根神さまを側面から眺める。 思いがあって建てられた社、倒壊しそうな外観は背中を支える者が現れるのを待っているようでもある。「中橋の袂で佇む屋根神さま」社名・創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区那古野1-37関連記事 / 白山神社(中区丸の内1)白山神社から徒歩ルート / 堀川沿いに北上、中橋を渡り右側、所要時間5分程
2022.11.08
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先に記載した「波多神社」社地の南に隣接する「上波田阿弥陀堂」 小さな規模の堂の外観と結びつかない立派な山門を構えています。旧西光寺山門。 元は波田地区の中心役枠割を担った若澤寺の山門と伝わります。明治初期の廃仏毀釈で廃絶した若澤寺の伽藍は周辺の寺に移築され、この山門もこの付近に建っていた若澤寺末寺の西光寺の山門として移築されたものだという。茅葺屋根で銅板で覆われた朱の仁王門。 左右の間には鎌倉時代末の元亨年間(1321~1324)に造立されたされたされる二体の仁王像を安置します。それらは長野県宝にも指定されている。山門は仁王像の他に左右の壁に掛けられた大きな草鞋にも目が行くはずです。山門の前の石碑、なんとなく道祖神の様に見えますが、風化も進み何が彫られていたのか掴み切れない。県宝金剛力士像解説。「 指定内容。この像は阿弥陀堂前にある仁王門に納められている。 仁王門、仁王像共に元は西光寺に造立されたもので、二体とも桧材を用いた寄木造の立像。座高は阿形256㌢、吽形が260㌢で彩色が施されていたが、現在は剥落している。 両像の大きさや構造はほゞ同じで、肉取りが見事で力が充実した像である。腰下の裳の衣分を軽やかにしており、この像の特色となっている。 胎内の墨書銘に元享2年(1322)大檀那源重久仏師善光寺妙海の造立とある。 昔から幼児に仁王像の股をくぐらせると、はしかが軽く済み、丈夫に育つとされ、地元高齢者が中心となり毎年4月に「股くぐり祭」が行われ、親子連れで賑わう。」右側には仁王尊とまたくぐりの解説がある。 「長野県県宝に指定される木造金剛力士像には古くから言い伝えがある。それは子供がこの仁王像の股をくぐるとはしかが軽く済み、丈夫に育つというもの。 江戸時代に書かれた古文書にも「仁王尊股下をこぐり候えばハシカ軽しと申し候(万延2年永代記録帳)」との記述がある。現在は毎年4月中旬に地元の方々が中心となり「仁王尊股くぐり祭」が開催され、無病息災と健やかな成長を願って多くの子供達が仁王尊の股をくぐっています。 また、股くぐり祭では向かって右側の阿形像の股をくぐります。」左右の壁に掛けられた大きな草鞋。左右の間に安置されるのは県宝の仁王像。 山門正面には上波田阿弥陀堂。 阿弥陀堂左に「若返り地蔵尊」が安置されている。右手に重要文化財「田村堂」と「水沢不動尊」の祠がある。 参道左手には在りし日の若澤寺へと導いた丁石や石仏が安置されている。参道に入り右手に最初に見えてくるのが田村堂。 かつて「信濃日光」と称された若澤寺の諸堂の一つで、当初は厨子として若澤寺建物のなかで収められていました。 江戸時代、新しい厨子が作られると、田村将軍を祀る田村堂として建物の外に置かれるようになり、江戸時代末期の絵図「水沢山若澤寺一山之略絵図」にも、境内の最上段(赤丸部分)に田村麻呂神司と描かれています。 若澤寺はここから南に2㌔程山に入った水沢山に鎮座していた。寺伝には天平勝宝年間に行基の草創とされ、大同年中に田村将軍により再興された真言宗の古刹で本尊はは千手観音菩薩。 江戸時代末期には末寺四寺、寺域周囲三里半を持ち金堂・中堂救世殿など七堂伽藍が建ち並んだ。現在の若澤寺跡には石垣や石仏などの遺構が残るという。堂の内部には県宝の杮葺きの厨子が祀られ、輪違紋や花狭間など手の込んだ装飾が施されている。 若澤寺が明治初年に取り壊された際、この地に移され昭和28年(1953)に重要文化財の指定を受け、昭和40年(1965)に解体修理を受けたといい、今も厨子内部には田村将軍の座像が収められている。「水沢不動尊」祠。 祠の左右には2体の石仏が立てられ、祠の内部にはおっかない形相で剣を持った不動さんの姿がある。 上波田阿弥陀堂の額には「水沢若澤寺遺物保存」と記されている。 正面には若澤寺塔頭寺院の西光寺にあったとされる木造阿弥陀如来坐像の姿は見られるが額に書かれた「不動明王画?、仁王尊、由村堂」は確認できなかった。 阿弥陀堂左の「若返り地蔵尊」祈るたびに若返りと健康長寿を保つことが出来るという有難いお地蔵さん。上波田阿弥陀堂周辺の指定文化財の案内板。若澤寺丁石解説。 全部で17基の丁石があり、そのうちの10基が松本市重要文化財に指定されている。これらの丁石や石仏など江戸時代末期の地元の村人や近隣の村人が施主だという。 仁王門の前の一丁(推定)から始まり若澤寺の十八丁まで丁石が立てられていたそうですが、それらは移動されたもの、不明となったものなどあり全ては確認されていないようです。 機会があれば若澤寺跡まで歩いて見たい。旧西光寺山門所在地 / 長野県松本市波田上波田4575-2関連記事 / 波多神社(長野県松本市波田)
2022.11.05
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阿禮神社から北の梓川方向に向かい、泡の湯を目指す。 ここまで来ると宿の到着時間も見えてきます、チェックインにはまだ早く、時間調整で松本市波田の波多神社に参拝する事にした。国道158号線から南に一本入ると収穫時期を迎えた稲田が広がる。 田んぼから波多神社・旧西光寺山門のある小高い山を眺める。国道から細い道を分け入り、赤い山門のある波多神社駐車場に辿り着く。 駐車場は右手にあります。 駐車場付近にあった上波田地区の歴史。「室町時代、小笠原氏が波多山城と西光寺内城を構築、城下にあたる上波田地区は街割りがなされ、旧野麦街道沿いに城下町が広がっていた。 江戸時代になると上波田村は若澤寺を中心として栄えた。当時、この寺は水沢地籍にあって「信濃日光」と称され、景観や寺観の壮大さは近在に留まらず全国からも参拝者が訪れた。 明治4年(1871)、若澤寺は松本藩の廃仏毀釈により取り壊され、建物も周辺の寺に移され、現在は石垣などを残すのみ。上波田地区にある国重要文化財「田村堂」・県宝「仁王尊」も若澤寺の遺物で上波田地区を語る上で若澤寺は切り離せない存在。 江戸時代に繁栄したこの地区では、若澤寺への参拝の通行の他、飛騨に通じる「野麦街道(現国道158号)が整備され、町の中心は国道沿いにへと移り、旧野麦街道沿いの集落として上波田地区には古い街並みが残されている。」往時の信濃日光は廃仏毀釈に翻弄された地区なのかもしれない。 今は静かで長閑な山間集落の印象でしかない。上駐車場から望む波多神社。下「波多神社。所在地 長野県松本市波田字上波田青木原 由緒康治2年(1143)、紀州牟婁郡有馬より熊野大権現二柱の神「家津御子大神」と「事解男大神」を勧請合祀。時代は平安末の鳥羽院政期に相当する。 「尊卑文脈」によれば、清和源氏 源 頼清嫡孫に村上判官代 源 為国の弟 源 盛国は、号を畠判官代と名乗り筑摩群畠郷の領主で、青木原に初めて熊野権現を勧請したとされる。波多神社境内南側のコナラの大木は樹齢800年を越え、特別天然記念物として松本市文化財に指定。 「地元文書」には波多神社に熊野権現四柱の神を勧請し、六柱の祭神を祀ったのは室町時代の永正17年(1520)庚辰弥生廿八日辰剋。祭主は小笠原氏の四天王 櫛置紀伊守政盛。 神主は36世森井仙大夫 藤原利久。願主は畑里中。 大工は木曽宮越 川原地 藤内。この時現社殿が建築され、その後修復を受けて来た。御祭神(六柱)家津御子大神、伊弉諾大神、速玉男大神、熊野牟須美大神、事解男大神、天照皇大神。境内摂社(末社)北側社 : 神明社、八王子社、山の神、天神社南側社 : 水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神」 創建は定かではないようですが、奈良時代初期の神亀5年(725)に勧請されたとも云われます。 波多神社社頭全景。 正面に社殿、右に社務所、鳥居をくぐった右に手水舎が主な伽藍。社殿は見上げるばかりの杉の樹が包み込んでいる。波多神社鳥居扁額。 判官代は畠、神社は波多、所在地は波田、繋がりがありそうだ。境内右側に手水舎。拝殿は木造切妻の平入で正面の1間に唐破風向拝が施され、外壁は板張り。 拝殿右に渡廊が接続し社務所に繋がり、左に末社が祀られている。年代不明の狛犬。拝殿左の鳥居には「末社」の額が架けられている。 由緒に依れば南側には水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神の四社となっているのだが…ここから本殿域を一周。 本殿は流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。本殿域は砦の石積みの様に石が積まれその上に瑞垣が取り囲む。 雪深い場所だろうが特別に雪囲いらしき養生はされていない、この杜か雪囲いの役割をしているのだろうか。上本殿後方の杜の中に小さな覆屋があり、中の石標に「摩利支天」と刻まれていた。下北側に小さな鞘殿があり、石の明神鳥居と常夜灯を構えている。 由緒では神明社、八王子社、山の神、天神社が祀られているはず。足元のガサガサが気になりこれ以上は進まなかった。何気に立ち寄った波多神社、長い歴史を持った波田地区の氏神様だ。波多神社創建 / 752年(神亀5年)祭神 / 家津御子大神、伊弉諾大神、速玉男大神、熊野牟須美大神、事解男大神、天照皇大神境内社 / 神明社、八王子社、山の神、天神社、水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神所在地 / 長野県松本市波田4751阿禮神社から車アクセス / アルプスグリーン道路経由県道25号で移動時間約40分関連記事 / 元秘湯を守る会「白骨温泉 泡の湯」へ、阿禮神社(塩尻市塩尻町)
2022.11.04
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「平瀬八幡神社」白川村萩町から国道156号線を平瀬方向に車で約30分。 白川郷散策の拠点とした白川郷ひらせ温泉キャンプサイトで一夜を過ごす。二日目は帰路となる荘川方向に向かう。 その前に平瀬集落の「平瀬八幡神社」に参拝。平瀬八幡神社 キャンプ場から車で5分程の平瀬集落のほぼ中央の小高い山の頂に鎮座します。以前は平瀬集落の中央を国道156号線が通っていました。 今は集落の西外れに新道が作られ、若かりし頃の面影はなくなってしまった。旧平瀬温泉共同浴場があった場所の南側に平瀬八幡神社の鳥居が立っています。 現在は浴場も解体され広い駐車スペースに変っています、かつての浴場を探し徘徊しても見つからなかったはずです。その広場に当時の記憶にない社が鎮座していました。 今から40年程遡るが、旧平瀬温泉へは釣や登山の帰りに良く利用させて頂いた…見覚えがない。 小さな狛犬が守護する銅板葺の一間社流造。豪雪地帯故に周囲は透明な樹脂板が張られている。 西側を向き鎮座する社、その先には霊峰白山がある、社名は分からないが白山神社なのかもしれない。社右側に小さな解説板が立っている。 解説には以下の様に書かれていた。「平瀬温泉子宝の湯 天保12年(1841)、高山地役人の土屋秀世と山崎弘奏の両名は群代小野朝右ェ門の命により白山雷鳥を捕獲せんと登山した紀行の中で、大白川温泉につかり疲れを癒したと記されている。天保以前から里人らに夏季を中心に親しまれていたようである。 この温泉は大正3年8月、平瀬の里人の奉仕により本格的な改修を行い、温泉と登山の宣伝につとめた。その後、昭和36年大白川ダム工事用道路の開通を経て現在に至る。 約14㌔先の大白川ダムの畔から引湯している。平瀬温泉は特に子宝の湯として、胃腸病や神経痛、リュウマチに著しい効果があるとして近郷にも名が知られる」 社の解説ではなかった。当時独身だった身に「子宝」は無縁だけれど、山の疲れを癒してくれたのは良く覚えている。 大白川温泉のあるダム湖畔まで車で行けますが、がけ崩れで通行不能になる事が多く、う回路もないので運が悪いと孤立する立地条件です、天候の悪い時に気安く立ち入らない方がいい道の印象があります。湖畔からは白山登山道の入口にもなっていて、今頃は山々の樹々が錦に染まっているのだろう。 狛犬(寄進年不明) 垂れ耳の小さな狛犬ですが、大笑いでもしているように大きく開いた口は愛嬌がある。額は見当たらない。 平瀬温泉散策マップによれば白山神社とあるが詳細はよく分からなかった。平瀬地区にはこれ以外にも白山神社が鎮座しておりキャンプ場から歩いて巡ってもいいかもしれない。白山神社創建 / 不明祭神 / 白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)所在地 / 岐阜県大野郡白川村平瀬 平瀬八幡神社白山神社の向かいに北向きに白い明神鳥居が立っている。 境内へは緩やかな丘に続く石段を登っていきます。八幡神社鳥居、額は「八幡神社」参道から鳥居(1989年寄進)の眺め。 正面が白山神社。参道から眺める社殿。 社叢は主に杉で形成されているようだ。石段を登り切ると境内を守護する様に狛犬(1982)が現れる。 境内右端に神酒殿。 ここはどぶろく祭りで振舞う「どぶろく」の製造施設。毎年1月頃から新酒殿で仕込まれた「どぶろく」は、各場所毎に微妙に味を変え、祭り当日に振舞われます。 毎年9/25・26日、五穀豊穰、家内安全、里の平和を山の神に祈願する「どぶろく祭」を皮切りに、平瀬八幡神社以外の村内4神社も同様に行われていきます。10/14・15は白川八幡神社、同16・17日は鳩谷八幡神社、同18・19日に飯島八幡神社と次々に開かれていきます。 その神事はどぶろくの振舞いの他に御神幸、獅子舞、白川郷で受け継がれて来た民謡や舞踊なども奉納されます。境内右の手水舎、手水鉢。 龍口から注がれるはずの清水は止められ、鉢の内部は干上がって錆で赤く変色していた。口を開けて佇む龍の姿は哀愁が漂う。馬狩大窪神社、平瀬神社合祀記念碑。 平成2年(1990)6月とある。馬狩大窪神社は全く知らない、ここから庄川左岸を下流に向かうと鳩谷ダムがあります。 その西山麗辺りに社名の地域がありますがそこからこちらに合祀されたものか?合祀記念碑。「昭和30年(1955)、関西電力鳩谷発電所大牧ダム築堤に伴い、大字大牧部落は全戸移転のため、祖先より氏神と崇敬し心のふるさととして親しみ仕へ奉る鎮守の社「大牧八幡神社」は氏子の縁も深く、当神社に合併、合祀した。 ここに10年祭を記念し当時の大牧八幡神社氏子代表者を記名し之を建てる。昭和41年10月 馬狩八幡神社氏子一同」岐阜県神社庁の平瀬八幡神社概説は以下。 「当神社勧請年代未詳。古来当区の産土神なり。平成2年3月7日、白川村大字馬狩字カクラゴ308八幡神社と合併。 該社は明治18年10月同村大牧鎮座八幡神社より分祀産土神として奉祭す。大正7年10月23日現在社殿新築」とあった。大牧ダムとは鳩谷ダムの事で湖底に沈んだ集落の氏神をこちらに合祀したという。 都市の快適な生活も、ダム建設でふるさとを失う人々の協力の上に成り立っている。九頭龍湖の湖畔にも故郷を追われた神社を合祀した「穴馬神社」があるけれど、そこにもこうした故郷を語り継ぐ碑が立てられていたのを思い出す。 庄川にも幾つもダムが存在するけれど、生まれ育った故郷を立ち退く代償は単に金銭でクリアできるものではないと思う。境内は東西に長く、広い境内を持っている。 写真は南側にある建物で社務所だろうか?平瀬八幡神社拝殿。 大きな唐破風向拝を持つ銅葺屋根の入母屋造りで千鳥破風を設けた堂々とした佇まい。軒から下は白山神社同様に透明のパネルで囲われている。拝殿額は「八幡神社」とある。 鈴紐は普通に下ろされており、思いっきり鳴らせられる。そろそろ龍にも仕事をさせる時期が来ている。拝殿側面から覆殿方向の眺め。 拝殿、幣殿、覆殿は屋根が繋がり、覆殿には5本?の鰹木と外削ぎの乗せ千木が施されている。こうして見ると複雑な屋根の形をしている。 覆殿横まで回り込んで見たが、覆殿の板塀に遮られ本殿の姿は見る事は出来なかった。 神社庁概説に「大正7年社殿新築」とあったが、平成元年(1989)に社殿造営が行われたようだ。平瀬 八幡神社創建 / 不明祭神 / 品陀和気命(応神天皇)参拝日 / 2022/08/22所在地 / 岐阜県大野郡白川村平瀬16関連記事 / 「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」、白川郷「弘法堂・和田家」、穴馬神社村営せせらぎ公園 駐車場から移動ルート / 国道156号線を荘川方面へ約30分
2022.11.02
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花車 神明社(中村区名駅5)から堀川に架かる錦橋を渡り、北の桜橋方向の丸の内1丁目の白山神社へ。 名古屋市中区丸の内1丁目「白山神社」鎮座地周辺。 写真は桜通りから東方向のもの。桜通り周囲のオフィスビルが立ち並ぶ一帯に赤い幟と小さな神明鳥居の姿がある。上は明治31年(1891)の当地と、現在の比較。 当時は社頭から西の堀川に架かる桜橋は存在せず、昭和12年(1937)になって架けられています。 ビジネス街の歩道沿いに間口の狭い社地が与えられ、木造の神明鳥居と真新しい綺麗な玉垣が社地を囲む。ビルの森の中の僅かな隙間で、時の流れから取り残された様にポツンと白山神社が鎮座しています。社頭左の白山神社解説板、内容は以下。「祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)。 元白山権現と称した。創建は明らかではないが、加賀国(石川県)の白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)を勧請したのが始まりといわれる。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(廣井八幡宮)の境内続きの末社であった。慶長の検地の際、境内が二分された。 延宝5年(1677)、広井八幡宮の祭礼の初めより、八幡宮の御旅所として神輿の渡御(とぎょ)があった。昭和12年(1937)、桜通りの開地により境内地は大幅に減少した。 昭和39年(1964)、現在地に移る。」白玉稲荷大明神説板、内容は以下。「山城国伏見より勧請御祭神 宇迦之御魂神。 御由緒 創建年月不詳御神徳 護国豊穣、商売繁盛、産業興隆、家内安全、芸能上達。」白山神社鳥居扁額。 三方は見上げるばかりのビルの森に囲まれ、いかにもビジネス街の神社の様相。参道に左の手水鉢。 今から約300年ほど前の寛延3年(1750)に寄進された鉢。名古屋城築城にあわせ堀川が開削されたのが1610年頃とされるので、既に水運が盛んになり四間道が整備された後に寄進された鉢。 立派な髭を持つ龍口から清水は注がれていなかった。ビルの谷間の奥まった場所に妻入りの拝殿と平入の幣殿が建ち、その奥に外削ぎの千木と三本の鰹木が施された本殿が僅かに見通す事が出来る。 参道左には境内末社が連なり、右側に赤い幟と奉納鳥居が連なる「白玉稲荷社」が鎮座しています。白山神社の由緒に依れば「祭神は菊理媛命神、創建は明らかではない。加賀国石川郷の白山比咩神社から勧請された。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。慶長17年(1612)の検地の際二分された。 延宝5年(1677)8月より泥江縣神社祭礼の御旅所として御輿の渡御があった。元禄13年(1700)、享保9年(1724)、弘化2年(1845)の大火で焼失。 修造遷宮は14回余りを数える。明治初年に村社に列せられる。 昭和12年(1937)桜通り開通に伴い境内地はさらに減少。昭和39年(1964)に現在地に遷座する。 伝説として文禄年中(1592~1596)、秀吉の朝鮮征伐の際、軍船を造船するため、境内の楠を伐採させたところ、多くの人夫が負傷したので造船を中止、用材を社司に寄付した。社司はその用材の一部で地蔵菩薩像を一体作り広井の極楽寺に安置した。 その地蔵は「枕返しの地蔵」と呼ばれるようになったと云う。また、元禄(1688~1703)の頃、尾張藩の御殿女中愛玩の猫が行方不明になり、所要の帰路に参詣祈願の後、城中へ戻ったところ猫は戻っていたと云う。 以来現在まで特殊信仰として犬猫の紛失祈願に参詣する人が多い」冒頭の地図で泥江縣神社北側、現在の鎮座地西に鳥居(黄色丸)が描かれている、これが元の白山神社鎮座地で桜通りのど真ん中に鎮座していたのが分かる。 都市化に伴い、このビルの狭間に落ち着いたという事だろう。手水鉢の先に安置されている「白山神社 自然石」 解説は以下。「この石は元から境内にあったもの。いつ頃かは定かではありませんが氏子始め御神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護する不思議な力があると信じられている。 お参りの際は石に軽く手を当て心を込めてご祈願しお参り下さい。」参道左の境内社。 左から・秋葉宮、金毘羅宮 御祭神 火之迦具土神、大国主命 御神徳 鎮火、防火、鉱工業発展、刃物農機具業繁盛、航海安全、海難救済、福徳。・山神宮 御祭神 大山津見神 御神徳 山の安全・神明宮 御祭神 天照大神 御神徳 国家安泰、五穀豊穣、養蚕織物業繁盛。・松尾宮 御祭神 大山咋神 御神徳 酒造繁盛、土木建築業繁盛。・恵比寿宮 大国宮、御祭神 事代主命、大国主命、御神徳 商売繁盛、豊漁祈願、航海安全、海難救済、福徳。・御由緒 創建年月日不詳。拝殿側から見る境内社。 拝殿前の狛犬。 寄進年は昭和47年(1972)と比較的新しい。このデザインが定番のひとつなのか定かではないが、個人的に自由なデザインで「いいね」を付けたいくらいだ。 つぶらな眼でにこやかに微笑み、子供がおねだりでもする姿にも見え、とてもユーモラス。双方が口を開けどちらが吽形が分かりませんが、左の狛犬は銭、右は前脚を合わせ鈴を握りしめた意匠のもの。白玉稲荷社鳥居から本殿の眺め。 拝殿から社頭方向の眺め、空は狭いが南には真っすぐ伸びる中ノ町通りが一望できる。 白山神社創建 / 不明祭神 / 菊理媛命境内社 / 白玉稲荷社、秋葉宮、金毘羅宮、山神宮、神明宮、松尾宮、恵比寿宮、大国宮、神事 / 歳旦祭 1月1日、稲荷社 初牛祭 旧ニノ午、例大祭 10月12日、大祓式 12月30日、月次祭 毎月15日所在地 / 名古屋市中区丸の内1-15-18公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から東へ徒歩5分程関連記事 / 花車 神明社 (中村区名駅5)花車神明社から白山社徒歩アクセス / 堀川を渡り北へ徒歩10分程
2022.10.29
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春日井市大泉寺町で見かけた「御嶽神社」に参拝させてもらいました。 今回はその道すがらで見かけた「天王社」を掲載します。名古屋から車だと国道19号線「春日井インター東」で豊田・瀬戸方向に右折、国道155号線を東進します。目的地「天王社」は「大泉寺町」交差点の南角に鎮座しています。 交差する通りは下街道でセンターラインのない対面通行の細い道です。その下街道に入るためこの交差点で左折したのですが、その際角っこに覆屋を見かけ日を改めて訪れてきました。大泉寺町交差点角に鎮座する「天王社」全景。 右手の道路は155号線「春日井インター東」、手前の通りが下街道で二つが交わる辻にあたります。覆屋の左に隣接するのは大泉寺消防器具庫。 郊外にでると、こうした消防施設や集会所に併設し、天王社や津島社、秋葉社が祀られている姿を目にします。コンクリの保管庫と一体となる様に建てられた覆屋は、北側と東側が吹き抜けのもので、中に東を向いて祀られた社の姿がある。 妻入りの覆屋、軒下にステンレスの額縁に天王社と刻まれた石板が組まれた洗練された意匠の扁額が掛けられている。覆屋。 扁額と社全景。赤い屋根の板宮造りの社で手前の枡に賽銭を入れ、参拝。 …下の息子の資格取得、受かりますように…、今日ばかりは神に縋りたい。ん?専門が違うか。 社頭には年月を経た石灯籠二基と石の幟立てが立っている。 手前の燈籠の寄進年は分からなかったが、もう一方は安政3年(1856)としっかりと読み取れた。安政3年(1856)寄進の常夜灯。 反対側には「金毘羅大権現」と彫られていた。海や川が近い訳でもないが、下街道を行き交う者の旅の安全を願い村が祀ったものなんだろう。 金刀比羅宮と天王社(津島神社)の二社が祀られているのか、ある時から天王社だけに変ったものか定かではないがこの場では「天王社」と表記します。いずれにせよ、下街道沿いに安政の頃より祀られて来た大泉寺集落の氏神さまのようです。天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 春日井市大泉寺町942参拝日 / 2022/10/23車アクセス / 名古屋から国道19号線「春日井インター東」右折「大泉寺町」交差点角。 周辺に駐車余地はありません、御嶽神社付近の八幡社参拝駐車場があるので合わせて参拝がお勧め。関連記事 / 御嶽神社(春日井市大泉寺町)
2022.10.28
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塩尻市塩尻町「阿禮神社」 弥彦神社から国道153号線を塩尻市内に向け10分程。国道から右に逸れるとそこは旧中山道、右手前方に見えるのが「阿禮(あれい)神社」の杜。「延喜式神名帳」にも記された古社。 阿禮神社のもとは、五百砥(いおと)山に社があったものを、仁寿2年(852)に柿沢の神明平(ここから東に車で10分程)に奥社として新たに社が建てられた。その後の寛保3年(1743)、現在地に里宮として建立されたのが阿禮神社。住宅が点々と立ち並ぶ中山道沿いに杉の巨木を主とした社叢がある。 社頭右側に「式内大宮 阿礼神社」の社標は立っているが、鳥居は参道から随分先に入った所に立てられている。社頭左に中山道の道標と塩尻宿周辺の観光マップが掲げられていた。阿禮神社の鎮座地を〇で囲ってみました。 阿禮神社参拝は予定外、宿で飲むお酒を買うため近くに立ち寄り、かみさんが品定めしている間にささっと参拝に訪れた。こうしてマップをみると周辺には道祖神や寺社があり、旅館のチェックインさえ気にしなければじっくり巡ってみたいところ。社頭から東側の鳥居が立つ境内の眺め。 社地は東西に長く、広大な境内の奥に社殿があるようだ。参道に入るとすぐ右側に手水鉢、奥の入母屋造の建物は「和魂神社」手水鉢には龍の姿は見られない、後方に井戸らしき姿があり龍はそこにいた。 右手奥に注連縄が張られた小さな石の祠が祀られている、水神か?和魂神社と忠魂碑。石の明神鳥居の先に伽藍が広がる。 参道沿いの常夜灯は古いようですが年代を確認していません。境内の「阿礼神社縁起」 当神社は平安朝時代、醍醐天皇の御代延長5年(927)に延喜式神明帳登載の由緒ある古社。以下は神社必勝祈願の神様の栞より「御祭神 素戔嗚命 天津神(阿礼ノ神)、相殿 大己貴命 国ッ神(大宮ノ神)、相殿 誉田別尊 応神(八幡ノ神)当社は古来より武運長久をもって篤く崇敬され、特に戦へと向かう武将たちが必勝祈願の祈りを捧げてきた。 古くは平城天皇の御世延歴年間(782~802)に蝦夷征伐に向かう初代征蝦夷大将軍坂上田村麻呂が必勝祈願をしたと伝わる。治承4年(1181)には木曽義仲が当社参拝し必勝祈願をした後、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵を要請したとも伝わる。 また、300年にわたりこの地を所領としていた小笠原氏が、天文19年(1551)、甲斐の武田信玄に追われ代々の領地を失った際にも、小笠原長時の子・貞慶が武田氏滅亡に乗じ阿禮神社域にあった八幡宮で挙兵し、かつての諸豪族と共に念願の旧領回復を果たした。 以後、現在に至るまで塩尻地区の氏神として、必勝祈願、無事長寿祈願の神様として尊崇を集めている。」以下は神社栞には「もとは五百渡(いおと)山に社があったのを養老年間(西暦700年末期頃)に柿沢の明神平に新たな社殿(奥社)を建て遷した。 さらに貞享4年(1687)に現在の地に里宮として新たに社殿を建て遷した。本殿は三間流造で間に五百渡の社を遥拝するための扉口を設けた独特の社殿である」 例大祭は、別名塩尻祭りと呼ばれ毎年七月の第二日曜日と前日の土曜日に行われる遷座祭。偶然立ち寄った神社ですが、長い歴史と由緒を持つ神社だ。 伽藍は境内東に纏められ、左に社務所と中央に拝殿、幣殿、本殿と並び、拝殿左右には複数の境内社が祀られている。拝殿に向け参道を進むと左に阿禮天神の大きな石標がある。拝殿全景、入母屋瓦葺の妻入りで唐破風向拝が付き、左右に廻廊が繋がる。 拝殿前には2対の狛犬が守護しますがそれらは個性的なものです。 手前の狛犬(吽形)手前の狛犬(阿形) 肉付きは良く、体格に対し少し短い脚はとても骨太、何より印象に残るのは大きな目と歯並び。今まさに歯肉炎で抜けようとしている自分の歯と同じだ、何年か先の自分を見る様で何か気持ちがひとつになったような気がする。 それだけに妙に愛おしくなる風貌だ。奥の狛犬…でいいのかな。 こちらは哀愁すら漂う姿だ、何れも寄進年を見ていないが、外観からは相当の年月を感じさせる風貌をしている。吽形の輪郭が綺麗に残る丸い顔とドングリ眼が尚更哀愁を誘う。 一体何が起きた?拝殿。 向拝柱の梁の蟇股や組物は意匠は少ないが、太くてどっしりした印象を持つ。薄暗い拝殿内は額に彫られた金色の阿禮大明神の文字と金色の幣帛だけが浮かびあがって見えている。拝所に掲げられた額「延喜式内 阿禮神社」、額の周囲の彫物は龍か?山形の下に並び鷹の紋が神紋だろうか、右側にも阿禮神社の額が架けられている。 覆殿に収められた本殿は三間社流造だと云われるが、外周からは全く見る事は出来なかった。拝殿左には稲荷社、子安社、金平羅社、津島社、秋葉社、山神社など境内社群が祀られている。 更に左に向かうと左側に冠木門を構えた脇参道があった。 境内の脇参道は幾つあるのかナ。南に2カ所と西に正参道、東のここと4カ所か?拝殿右側の境内社に向かう。拝殿右側の境内社、良く見れは左側にも小さな相殿があるが、何れも社名札はなく詳細は不明。境内南側に小さな鳥居がある。上鳥居の先は玉垣で囲われた一画があり中には大きな岩が安置されていた。下更に奥に進むと石の祠群が祀られていたが社名は不明。上忠魂碑下和魂神社 これで一通りすべての参拝は終えた、見計らった様にかみさんから「そろ〃行くよ」との連絡が入る。駆け足で参拝し写真に収めただけですが、阿禮神社里宮と塩尻宿に阿禮神社奥社、もう一度訪れたいところです。 時期は…いつがいいだろう? 電車と徒歩もありかな?阿禮神社里宮建立 / 貞享4年(1687)祭神 / 須佐之男命、大己貴命、誉田別天皇境内社 / 稲荷社、子安社、金平羅社、津島社、秋葉社、山神社など例祭(塩尻祭り) / 毎年7月、第二週の土・日曜日所在地 / 長野県塩尻市塩尻町433-1参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 信濃國二之宮「矢彦神社」矢彦神社から車アクセス / 国道153号線を塩尻方向へ10分程公共交通機関 / JR塩尻下車東へ徒歩で40分程
2022.10.27
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先に掲載した中村区名駅5の「天王社」から南へ徒歩5分程の神明社へ。上は1898年頃の中村区名駅5丁目周辺とほぼ現在の地図を比較したもの。 目的地の神明社は当時既に鳥居の印があり、古くからこの地に鎮座しているのが窺われます。名駅は目と鼻の先の立地にありながら、東に堀川が流れ、静かな下町の趣が漂う通り。この通りを北上すると四間道に続き、一本東には美濃路が南北に続く。 ビルが聳え、車が溢れる味気ない色合いの名古屋の玄関口にあって、ここには嬉しい樹々の緑がある。 名駅5の神明社の杜だ。 普段はこんな静かな佇まいですが、名古屋まつりの行われる10月の第2土曜~日曜日には一転して多くの人で賑わいます。 先の天王社で見かけた「紅葉狩車格納庫」の紅葉狩車や二福神車(旧下花車町)、唐子車(旧内屋敷町)の3輌の山車が曳行され、からくり奉納を行い、その後、市内の各区で受け継がれて来た山車と共に勢揃い、名古屋まつりに花を添えます。訪れたのが10/12、名古屋まつり直前。 当日は山車揃えが見られるかと調べてみたが、今年は中止とあった。因みに当日に山車揃えで巡行が予定されていた山車が以下の名古屋祭りサイトで紹介されていました。 名古屋まつり まつり行列 山車揃え中村区、中区、東区で代々受け継がれる山車、それらが秋空の下で勢揃いする姿を来年は見たいものです。社頭全景。 社地にはこの正参道の他にも東側の脇参道にも鳥居を構えている。とても名駅とは思えない豊かな杜が残され、真夏には心地いい日陰を提供してくれそうだ。ほゞ南向きに社頭を構え、神明鳥居と社号標「村社 神明社」が立ち、右手に乃木稀典像が立てられている。 神明社が鎮座する名駅5丁目はかつて花車町と呼ばれていた、1878年(明治11)に成立、1977年(昭和52)に名駅5丁目になり町名としては姿を消した。 花車町の由来は「大須観音に馬の塔(飾り立てた馬を寺社に奉納する行事)を供出した際に、花車(山車)の飾りを用意したことによる」という、地名はそれが由来のようで、神明社を花車神明社とも呼ばれるようです。参道から拝殿方向の眺め。 右手の覆屋は「天光龍王辯戝天」で後方に椋の巨木の切株が神木として祀られている。今は右手に玉垣で囲われた銀杏の樹が高く聳えている。参道右の手水舎と手水鉢(明治26)。 後ろの岩からいきなり龍らしき頭部が現れている、とても個性的なデザインだ。「天光龍王辯戝天」 覆屋妻壁に額が架けられ、幕の紋はシダだろうか見慣れないものだ。なにか・・・いる。そうだわな、いるよなぁ。 もう少し可愛いデザインにはならんのかい、リアルさはあまり求めていない。覆屋の下には木造鳥居とその先に流造の社が祀られている。 創建等の詳細は不明。拝殿に続く参道左には社務所と右に境内社があります。拝殿正面からの眺め。 鎮座などの詳細は不明ですが「尾張志」「尾張年中行事絵抄」に記述も見られ、1663年(寛文3)社殿修築とされ、創建となると更に遡るのだろう。元はここから堀川を越え、少し高みに鎮座する泥江(ひじえ)縣神社の境内社とも云われるようです。 往古の廣井村は、現在の堀川を越えた東辺りまであったとされ、城下町として整備されて行く過程で、この辺りの廣井村の氏神となっていった様です。 神明社は過去に元禄の大火(1700)や享保の大火(1724)で焼失、その都度氏子の支援に依り再建され、現在の伽藍は昭和29年(1954)、本殿と拝殿と手が掛けられています。 拝殿の左右に複数の境内社が祀られている。拝殿前で守護する狛犬。 1954年(昭和29)健之のもので胸板の厚い骨太な印象の姿で、阿形吽形が見つめ合うものではなく、それぞれが社頭を向き、視線を合わせない配置になっている。拝殿に貼られていた神明社栞り「所在地 中村区名駅5丁目13番6号(旧町名中村区花車町2丁目1番地)神社名 神明社(旧社格村社指定、現社格8級社) 祭神 天照大御神例大祭 10月第2土曜日・日曜日 由緒もとは廣井村四間道と称し勧請年月不詳。 廣井村新明記によると「寛文3年(1663)修造とあり、これより先の修造履歴は分からないがそれ以前より斎祀されていた。貞享元年(1684)修造。 元禄13年(1700)類焼、同14年再建。宝永8年(1711)修造。 享保9年(1724)類焼、同年9月最造。明治元年(1868)村社に列せられる。 同26年(1893)修造遷宮。同40年(1907)神饌幣帛料供進指定神社となり祭禮毎に山車4輌が引き出され極めて盛大。 昭和8年(1933)隣接地買収し造営する計画あるも戦争に伴い見送られ、幸い当神社は戦禍を免れる。昭和29年(1954)、本殿改築、拝殿新築等造営移築工事、同31年8級社に昇級。 同33年社務所増修築、現本殿、祭文殿、拝殿、神楽殿、手水舎井戸屋形、社務所、斎館、神饌所、境内等整備。境内末社及び神祠。稲荷社 由緒不詳 祭神 倉稲御魂命。秋葉社 由緒不詳 祭神 火之加具土神。津島社 由緒不詳 祭神 須佐之男命。宗像社 由緒 氏神神明宮、辯才天社は慶長15年(1610)、藤田民部、百姓屋敷検地の際社内除地とされ、清州遷府以前は八幡宮を氏神とした言い伝えがある。これは廣井村が堀川の東上原にあった時の事、その後、船の入江開墾し居住を西に移し、神明宮を氏神とし、祭事は正月、9月に執行されてきた。三社宮 祭神名不詳、花車町字鎌倉の地主神と云われ、神明社のシンボルと云うべき樹齢800年の椋木は枯れてしまうが、切株に手を触れ祈念すると願いが叶う。大聖不動明王(坤現(こんげん)不動) 昭和54年正面参道敷石中央に天から突然天下り、氏子始め神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護するとお告げがあり、その時参拝していた参拝者が金縛りにあい動けなくなった。(世に云う不動金縛り)依って即時現在の位置に奉斎されたもの。氏子区域西、名古屋駅前より東へ堀川に至り、南北は桜通り、広小路西通りを含めその周辺の25町内、凡そ1000世帯。 氏子の上花車に紅葉狩車、下花車に二輻神車、内屋敷に唐子車の3輌があり、名古屋市文化財に指定され、例大祭に曳き出される。」拝殿左に鳥居が二つ並び、右手の鳥居から本殿方向を進むと三社宮に至ります。 一対の狛犬が守護する先には三つの社が祀られています。ここの狛犬は年代を見忘れたが、外観がとても痛々しい。 吽形は台座の一部は欠落し体の一部に大きく罅が入り、阿形に至っては足から胸にかけて一部が欠け落ちている。小振りで可愛い顔つきだけに、その姿は尚更痛々しく感じる。本殿左に並ぶように祀られている三社は左から三社宮、秋葉社、右に津島社が整然と祀られている。 この辺りの神域はイチョウの樹々が空を覆い、境内の中でも特に厳粛な雰囲気が漂う。訪れたこの時期、参道に立派な銀杏で黄色に染まり、特有の香りが漂っていた。この辺りは特に緑に溢れ、本殿の全容も良く見える場所。 上は拝殿、下が本殿の千木と鰹木、どちらも千木は内削ぎで鰹木は6本。本殿は神明造で銅葺屋根で、本殿前の銅製常夜灯がなかなか立派なもの。 その先に小さな木造狛犬が本殿を守護する姿がある。木造ならでは、滑らかな毛並みの表現と木目の美しさ、彫の深い顔が強く印象に残ります。拝殿左のもう一つの鳥居。 その先に小さな泉があり、中央の小島に「宗像社」が祀られています。祭神は田心姫命を祀ります。 鳥居の先に小さな手水鉢があり、正面に明暦2年(1656)の文字が刻まれている。外観は見ての通り、鉢の表面が水の鉄分で赤く染まり、この神社の歴史を物語っています。 灯篭など寄進年を見て行く中で、自分が目にしたものでは一番古いもの。この神社の創建時期は定かではないが、少なくとも慶長時代には既に祀られていたかもしれない。拝殿右側に「倉玉稲荷神社」の赤い鳥居が連なります。 この先の拝所にもなにか…いるようだ。ここは稲荷だ、あれではないだろう? 良かった、これは宝珠の重軽石だ、表面は艶々だ。 これならやれる、早速持って見るか、いつも思うが二回目は必ず軽く感じる、これは慣れかな。大きなイチョウの樹の傍らに祀られる本殿は流造でこちらの参道も銀杏に埋もれている。 手間がかかるのが難点だが、酒のつまみには最高だよね。境内西側の神楽殿。 銅葺屋根の入母屋造り。その左に白い幟が立ち並ぶ。 「大聖不動明王 坤現(こんげん)不動」この神社には不思議な話が伝わります。 それは「参拝に訪れた方が突然参道で金縛りにあい、足元に不動明王の姿が現れたされる。住民はその敷石を不動明王の化身として祀った」これがこの神社の起こりの様で昭和54年(1979)の事だと云う。 玉垣の中に社はなく、台座の上に不動明王が現れた敷石が祀られている。この境内には不動明王だけでなく境内には人慣れした猫が多く見られ、境内のお気に入りの場所でくつろぐ姿を見ることができる。 ここが名駅5丁目とは思えないほっこりとする空間がここにはある。参拝を終え、社地沿いに西に進むと社地の角に小さな社「津島社」が祀られています。 祭神は素戔嗚尊で、社を護るのは先程見かけた猫のようだ。手元までは来てくれるのだが…触らせてはくれない、顔なじみになる必要があるか。 今度はおやつを持ってくるかナ、お見送りありがとう。花車 神明社 創建 / 不明祭神 / 天照大神境内社 稲荷社 / 倉稲魂命、秋葉社 / 火之迦具土神、津島社 / 須佐之男命、宗像社 / 田心姫命、三社宮 / 祭神不明、天光龍神社 / 御神木椋の木霊神、大聖不動明王(坤現不動)所在地 / 名古屋市中村区名駅5-13-6参拝日 / 2022/10/12公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「国際センター」駅降車3番出口から、天王社経由南へ徒歩5分関連記事 / 天王社(名古屋市中村区名駅5)
2022.10.24
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先日「AJUワインフェスタin多治見修道院」のチケット購入のため下街道を少し利用させてもらいました。 その道中の春日井市大泉寺町で見かけた「御嶽神社」に参拝させてもらいました。今回はそちらを掲載します。所在地で云えば春日井市大泉寺町にあたり、国道19号線の1本東の大泉町交差点から左折、南北に続くセンターラインのない対面通行の細い道を北に向かって進みます。 この道はかつての下街道で「御嶽神社」はその街道沿いに社頭を構えています。御嶽神社は下街道の西側に明神鳥居と社標を構え、社頭から緩やかな登りの参道が上に続きます。 参拝者駐車場はなく、路駐も迷惑になります、付近の八幡社に参拝駐車場があるのでそちらに停める事をお勧めします。石の明神鳥居から登りの長い参道が続きます。 社頭の先にある境内の拝殿はここからでは見通しは利かない。長い参道を上り切る頃、正面に拝殿が見えてきます。 左側は鬱蒼とした社叢が迫り、御嶽神社らしい雰囲気が漂います。参道脇の色付き始めた柿の実に秋の訪れを実感する。参道右側の手水鉢。 水源が無いのでどうしてもこうなるか。御嶽社拝殿全景。 小高い丘陵地の頂に設けられた御嶽神社、いかにも御嶽神社らしい。社叢の陰になり写真では分かり辛いけれど拝殿後方には複数の霊神碑が立てられています。拝殿は基礎の上建てられた瓦葺で切妻妻入りで四方吹き抜けのもの。 御嶽神社は身近な所では春日井、小牧など、神社の片隅に祀られている光景を目にする。それらに対し、鳥居や拝殿を備える大泉寺町の御嶽神社の規模はかなり大きな規模と云える。 御嶽講は過去にも書いている様に霊峰御嶽山を根源とした山岳信仰。天明5年(1785)に春日井市牛山で生まれた覚明行者が御嶽黒沢口を開き、これにより庶民が登拝できるようになり、寛政4年(1792)武蔵国の普寛行者が王滝口を開き、登拝者は増加していき御嶽教は各地に広まっていった。 この春日井は覚明行者生誕の地として多くの講があったが、現在は後継者の減少もあり往時の勢いが衰えているようです。上は明治24年頃の大泉寺町周辺の地図、既に鳥居の印があり創建は更に遡るようです。 往時は社頭の前を続く下街道を、白装束に金剛杖を持った御嶽詣の集団行き交ったのだろう。拝殿から本殿の眺め。 手入れの良い拝殿内にはこの拝殿新築に寄与した福寿講講員の名が記され、今も多くの講員が支えている事を示していた。創建は一部に明治44年(1911)ともあるが詳細は定かではなく、祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命。 智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭を司る霊妙神として祀られています。本殿は石の玉垣が取り囲み、その神域に石を積み重ねた基壇の上に流造の社が祀られている。 静まり返った社叢に包まれて佇む社は霊峰御嶽の雰囲気が漂う。本殿斜景。 本殿域の左右には多くの霊神碑が立ち並んでいる。廿一夜塔(月待塔)。 特定の月齢の夜に講員が集まり、神仏と共に飲食や経を唱え時間を共にする宗教行事の一つ。主に女人講とされ、集落に住む女性達の交流の場となっていたようだ。本殿右側の霊神碑群。鳥居の寄進年は不明、社標は明治?らしき元号が見て取れた。御嶽神社(大泉寺町)創建 / 不明祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命所在地 / 春日井市大泉寺町133-87境内社 / なし公共機関アクセス / JR中央線「神領」降車、バス又は徒歩で約40分マイカー / 専用参拝者駐車場なし、付近に八幡社参拝駐車場あり参拝日 / 2022/10/05関連記事 / 今年は開催「AJUワインフェスタin多治見修道院」
2022.10.23
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白川郷萩町の荻町城跡展望台を後に再び集落に戻り「49番札所弘法堂・和田家」方向に向かいます。マップ上では展望台の直ぐ近くに位置しますが、展望台から和田家までは来た道を一旦戻り、そこから右に進んでいきます、移動時間は10分程。和田家北側から荻町城跡展望台の眺め。 頂の左側が荻町城跡になります。萩町を見通せ、山の西側、南側の斜面は切れ落ち、こうして見ると山城を築くのに都合はいい。緑の稲田の中に常夜灯を構えた小さな堂がある。 茅葺ではないものの、切妻造の棟の向きは周囲の合掌造り同様に妻側は南北を向いて建てられている。観光マップによれば「49番札所弘法堂」とあったので向かってみる事にする。弘法堂全景。 「白川郷の湯」の右あたりから稲田に続く小道(あぜ道?)を進む。社標などは見当たらず、竿に膨らみを持たせた安定感のある常夜灯はあるが、弘法堂と云われても実感ははないかもしれない。弘法堂正面全景。 額はなく、内部に弘法大師の姿がある事から弘法堂で間違いなさそうです。中央に如来像、左に真赤な迦楼羅炎のお不動さまの姿がある。 観光マップに49番札所弘法堂とあるが、由緒について全く情報が得られなかった。49番札所は「新四国飛騨八十八霊場」を指しているようで、この霊場がいつ頃開かれ、札所全容などの情報は分からなかった。弘法堂所在地 / 白川村荻町和田家全景。白川村に残された合掌造りの中では規模が大きく、周囲の田畑や水路などがあり趣のある建物かも知れない。 町内を南北に延びる白川街道沿いのためか、訪れる観光客は多い。和田家は番所の役人を勤める傍ら、煙硝や生糸を生産、内部は1階の一部と2階が公開されている。 文政年間(1818~1829)に和田家次男の佐治衛門が分家したのが先に掲載した神田家。和田家所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町山越997和田家の前には水場があり、訪れた8/22には水面に赤や白の睡蓮が咲き誇っていた。 ここで一先ず白川郷観光を終え少し遅めの昼食を摂る。和田家から少し北にある合掌造りの「お食事処いろり」 こちらも街道沿いのためタイミングが悪いと待ちができやすいようだ。朴葉味噌定食 山にきたら朴葉味噌は外せないだろう、少し辛めの味噌が白飯に良く合う。他にニジマスの甘煮、味付豆腐、蕎麦も付く。 昼にしてはボリュームがあるが、キャンプ場に向かいテント設営すれば多少は腹ごなしできるか。 お食事処いろり所在地 / 大野郡白川村荻町374-1見所の多い白川郷、一日だけでも表情を変えていく合掌村、今回はそのごく一部の表情でしかない。 今頃は合掌集落は紅葉に包まれているだろう。次回は紅葉と雪が見られるときに訪れて見たいものです。 さてキャンプ場に向かう事にしよう。白川郷 「弘法堂・和田家」所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町1116天狗堂から徒歩ルート / 南に向かい約10分参拝日 / 2022/08/22関連記事 / 白川郷「荻町城跡・天狗堂」
2022.10.22
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9/27 LOVEあいちキャンペーン企画「奥三河旧田口線廃線と湯谷温泉和会席&日帰り入浴」で旧三河大草駅跡を訪れた際に参拝した新城市富保宮前の貴船神社を掲載します。信長・家康連合軍と武田勝頼が戦った設楽原決戦場も近い。 この時期、貴船神社が鎮座する周辺の集落では、あぜ道や堤に彼岸花の群落がそこかしこで見られる。社殿は県道32号線の道路脇にあり、道路からでも存在は直ぐに分かるが、それが神社だと知るには道路から一歩入らないと分からないかも知れない。道路から北に入ってみる社頭全景。 石の明神鳥居と古びた燈籠があってようやく神社だと分かる。社頭は県道からの脇道に面し、南東を向いて社頭があります。 鳥居に額や社標もなく、由緒もなく詳細は分からなかった、G先生によれば貴船神社とあった。帰宅してからこの辺りの地史で大正15年(1926)出版の「南設楽郡誌」に目をやると村社の項目で貴船神社の記述を見つけた。 「貴船神社、長篠村大字富保、闇龗命、境内無格社、八幡社、若宮社、熊野社」とあった、うーん歴史はともかく社名も祭神もスッキリするはずだった。 ところがその隣に同所在地で「貴船神社、長篠村大字富保、闇龗命、境内無格社、秋葉社、金刀比羅社」 と併記されており、これはどうしたもんだか… 因みに棟札が残り、貞享5年(1668)2月に社殿再建とあるようでかなりの古くからこの地の氏神として崇敬されてきている神社のようで、村社に列格されたのは明治5年(1872)のようでこれ以上は分からなかった。境内右側の少し離れた場所で山を背にして建つ覆屋。中には二つの社が祀られている。 詳細は分からない、境内無格社の三社と思われる。貴船神社社殿全景(写真は二枚張り合わせ) 貴船神社となれば、京都の貴船神社から勧請されたもの、いつ頃、誰がと知りたくもなる。伽藍は左に切妻平入の拝殿?から渡廊を経て右側の鞘殿に一体となっています。 本殿を収める切妻平入の鞘殿は随分大きく、本殿の姿も見たいところです。拝殿右に見えている山が旧三河大草駅のある場所になります。渡廊から本殿方向の眺め。 蟇股に見える白いものは彫飾り?、本殿は朱塗りの流造のように見え、大振りな本殿の様相。参拝を済ませ県道側を覗いて見るとツアーバスがお出迎え、慌てて鳥居の寄進年を撮りバスに乗り込み貴船神社を後にした。 急いで鳥居を撮った事もあり、寄進年を撮った写真はフォーカスが追従せずさっぱり読み取れなかった。旧三河大草駅含め、もう一度訪れる事になりそうです。貴船神社創建 / 不明祭神 / 闇龗(くらおかみ)命境内社 / 八幡社、若宮社、熊野社又は秋葉社、金刀比羅社所在地 / 新城市富保宮前参拝日 / 2022/09/27車アクセス / 東名新城ICから国道151号線を北上、長篠交差点左折、県道32号線宮前地区まで10分程関連記事 / 「奥三河旧田口線三河大草駅跡と湯谷温泉和会席&日帰り入浴」
2022.10.21
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2022/10/01日泰寺の「日・タイ文化フェスティバル2022」のイベントを楽しんできた。 覚王山日泰寺は、日本で唯一お釈迦様の御真骨が眠る場所、イベントは日本とタイの友好の象徴として開かれたもの。 普段は我々おっさん、おばさんのテリトリーだが、この日ばかりは飲食ブースもある事から普段の年代層から打ってかわって随分若い年代層が多かった。 名古屋市千種区山門町2丁目。 南北に続く日泰寺参道の中ほどで右に入ると写真の屋根神様が祀られている。しばらくご無沙汰していましたが、久し振り参拝させてもらいました。 消えていったり、世話する人が無く朽ち果てて行く屋根神様がある中、山門町のこの屋根神様は今も守り継がれている。以前写真に収めてから随分年月が過ぎ、調べて見ると前回取り上げたのが2018年の事。 朽ちるどころか以前のままの状態で保たれている。左から秋葉神社、熱田神宮、津嶋神社のお札が納められ、いつもこの状態ではない。 普段は覆屋の扉が閉じられ、提灯は片付けられ、社の下の沿革も裏返されていたりする事もある中で、今日はドレスアップしてお出迎えしてくれている。境内に向かう人波は途絶える事はないけれど、ドレスアップした屋根神様に目を止める人は少ない。 日泰寺を訪れた際に立ち寄って見てはどうだろう。 2022/10/01公共交通機関アクセス / 市営地下鉄覚王山駅から徒歩、日泰寺参道を直進約5分関連記事 / 覚王山参道脇の屋根神
2022.10.18
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台風11号の影響で猫の目の様に変わる空模様、雨が降ったら即退散と決めていたが良く持っているものだ。 とはいえ、次の目的地「白山神社・津島神社・白山龍神社」の参拝をもって本陣に向かう事にする。定徳寺から東へ向かい徒歩3~5分程の移動時間、所在地は日比津町1にあたります。Gマップで神社は日比津町1となりますが、現地を訪れると鳥居と常夜灯を構えた写真の社頭は日比津町2となり、社殿のある区画から更に一つ南の区画になります。 参道両脇を民家に挟まれ、その間に明神鳥居と常夜灯を連ねた参道が奥に伸びている。街中にあって長い参道の神社で写真は一ノ鳥居。 一筋先の車道から見る拝殿方向の参道。 地図を遡っていくと周辺の車道は大正から昭和初期に随分と新たに作られたように見える。明治初期以前は日比津村集落の北外れの神社参道に横切る道もなく、神社に続く今ほど長い参道もなかったように思われます。 この車道から見る参道に鳥居はなく、右に明治37年(1904)健之の「郷社白山社」の社号標が立つのみ。参道脇の白山社沿革。「当町は大正10年名古屋市に合併したるも、消防自動車の入る道もなし依って、地主の申し合わせに依り土地整理組合の認可を得て、経費は上地所有者の負担にて着手起工、昭和4年11月竣工、昭和25年11月旧面積131町歩728名完成後、面積112町歩経費全133万円、完成記念として此の角地112坪神社境内に無償編入したり」南の参道はひょっとしてここにある無償編入された部分なんだろうか? 一ノ鳥居のある参道の樹々は一回り背丈が小さい気もしてくる、一ノ鳥居や常夜灯の寄進年を見ていなかったのは失敗だった。社号標から先の参道。 両脇に御大典記念石標と常夜灯、その先にニノ鳥居を構えている。ニノ鳥居は随分と奥まった位置に建てられているが、一ノ鳥居とニノ鳥居どちらが新しいのやら、こちらも寄進年を見ていないので長い参道の理由は分からないまま。 この神社、境内に大小多くの常夜灯が立てられていたのが印象に残る。参道を抜けると右側に躍動感のある神馬像。 参道左側の手水舎。 大きく開けた龍の口から清水は注がれていなかった。拝殿全景。 拝殿右が社務所で、その間を参道が奥に続き白山龍神社に続く。拝殿左にも参道が続き、奥には鳥居を構えた津島神社が鎮座する。シックな色合いの木造瓦葺の切妻・妻入りの四方吹き抜け拝殿で、緑青に包まれた飾り金具や吊燈籠など落ち着いた佇まいの拝殿外観に調和している。境内の由緒。 建立 年月不詳、祭神 菊理姫神、祭日 10月4日。建立年月日は不詳ですが尾張誌に「白山ノ社村ノ本居神」と記録がある。 元禄(1688~1704年)以後の棟札12枚が残る事から、それ以前の建立で日比津町開墾当時、加賀國石川郡白山比咩津神社から分霊・勧請し日比津町の産土神として祀られた。 明治5年郷社に列せられ、大正6年供進社に指定される。菊理姫神は、国生み、神生みを行なった神代7代の最後の神、伊邪那岐命、伊邪那美命の仲介を行った神として伝わる事から縁を結ぶ神として知られるが、歯痛を治める御神徳も得られるとあり広く崇敬されている。拝殿前の狛犬。拝殿妻壁には雲間に蠢く龍の姿が見られ、全ての軒丸瓦には「白」が入れられている。 吊提灯に入る紋はイチョウか? 黒光りする木鼻の獅子。拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。 幣殿前の狛犬(年代不明)は小振りなものだが阿形吽形ともに凛々しい姿をしている。拝殿(上)と幣殿(下)全景。 周囲を玉垣で囲われ、本殿域と一体となる。上本殿域、後方の白い幟は白山龍神社。下幣殿から本殿の眺め。 本殿は銅板葺の流造だろうか、本殿の右脇に社の棟が見えていたが詳細は分からなかった。破風の拝紋には桐紋が施されていた。 白山龍神社。 本殿域後方に鎮座し切妻の覆屋の中に社が祀られている。白山神社祭神の菊理姫神は龍神との所縁もある事から祀られているのか、由緒詳細は分からない。白山龍神社から社頭方向の眺め。幣殿屋根に飾られた鯱と跳ね獅子。本殿左の津島神社。拝所から本殿域の眺め。 津島神社の由緒についても詳細は不明。消防車も入らない狭い通りに密集した集落、その禍除けとして重要な存在なのは間違いない。境内西側の三本のイチョウ。 右の樹の幹には乳らしき姿もあり御神木の雰囲気が漂う。拝殿からニノ鳥居方向を眺める。 境内はイチョウの樹が多く見え、これから秋が深まり色付いていくと境内の趣は違うものになるだろう。それにして多くの常夜灯の一つでひと回りしておくべきだった。 今回外堀通り北側に鎮座する寺社の一部を巡ってみました、まだ〃訪れたいところは多い。けれど雨には降られたくないのでここまでとして帰途に着こう。白山神社創建 / 不明祭神 / 菊理姫神津島神社創建 / 不明祭神 / 不明 白山龍神社創建 / 不明祭神 / 不明 所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-1-25定徳寺から徒歩ルート / 北東へ5分程(一ノ鳥居)参拝日 / 2022/09/02関連記事 / 長秋山 定徳寺 #2 (妙龍大善神・稲荷社)
2022.10.17
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名古屋市中村区名駅5 天王社名古屋の玄関、名古屋駅から地下鉄桜通線に乗り一駅先の「国際センター」駅で降車、3番出口から地上に出る。 そこは桜通りと江川線が交差する泥江(ひじえ)町交差点。今回訪れる天王社はここから南の1ブロック先を左に入ると鳥居が見えてくる。徒歩1~2分で辿り着く。江川線沿いは花車ビルをはじめオフィスビルが林立し、上を見上げると名古屋高速の高架が空を覆い視界の狭い空間が広がり、偉大なる田舎と呼ばれた名古屋も息の詰まる都会になってきた。 上は明治頃の名駅5付近とほぼ現在の地図を並べて見ました。 中央の堀川を境にして右と左で町割は見事に違う。名古屋城を中心とした当初の町割と後に発展していった町の違いがよく分かる。 1898年当時にしてここから西の庄内川に向け水田が広がり、その中に集落が点在する土地柄だった。明治生まれの曾祖母が生前良く言っていたが、水が湧く湿地帯が多く、夜道を歩いていると狐や狸が道を謀ってきて「もう信じらんない!サイアク~」そんな世界だったという。 今や方向を謀るのは狐や狸ではなく、どれもこれも個性のないビルが林立する森かも知れない。 昔の人はとにかく良く歩いたものだ。車や地下鉄で最寄り迄、なんて選択肢はなかった時代、それに比べなんとひ弱な自分、歳と共につくづく感じる。泥江(ひじえ)町交差点から1ブロック先で左に入り、花車ビルの東側の通りに出る。 一本中に入るだけで随分と見通しも利き、周囲は静かになる。名駅5の天王社全景。 交差点の角地一画にある駐車場の一角に天王社は鎮座します。周囲を石垣と玉垣で囲われた小さな社地、西を向いて石の神明鳥居が立つが、社標はなく天王社かい?と思えてくる。 樹々に包まれ、高い位置に祀られた社の趣は御嶽神社にも見えてくる。後方の紅葉と書かれたシャッターがある建物は「名古屋市指定文化財 紅葉狩車格納庫」 ここを調べて見るとこの社が天王社である事が定かになった。社頭全景。 良くぞ開発から免れたものだ、旧広井村から花車町へ変わり、この地に居住する住民から護り継がれて来た結果だろう。紅葉狩車格納庫と隣り合っていればこの先も鎮座し続けられるだろう。 この天王社の詳細は分かりません、鳥居の寄進年は1934年(昭和9)、これを以て地図に記されていない天王社の創建時期と推測するには無理がありそうです。 それは1610年(慶長15)名古屋城築城に伴い掘削された堀川にあり、堀川により水運が発達し四間道をはじめ堀川沿いには商人の住居や土蔵が立ち並び住居が軒を連ねるようになります。住居が密集すると様々な災い除けのため、社が祀られていくのは自然な事です。 街道沿いや四間道沿いの住居の軒下に屋根神様が祀られていきます。そうした屋根神様も時代と共に地に降ろされたり、住居の一角に社地を与えられ祀られますが、それらはまだいい方で、住居の建替えと共に姿を消していきました、これも自然な事です。 こちらの天王社もそうした流れからここに移された可能性はあります、それが鳥居寄進年の1934年なのかもしれない。すぐ東の四間道沿いは景観保全に積極的で、かつての面影を残すためそうしたことから通りには今も屋根神様が残っています。上 千種区山門町の日泰寺参道にある屋根神様(2022/10/01、日・タイ文化フェスティバルの際に参拝)屋根神様には写真の様に津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀られる場合が多く、こうした提灯が吊るされている光景が見られます。鳥居をくぐって天王社境内の全景。 岩が高く組まれその最上段に社が祀られています。では早速参拝……ん? 賽銭箱が見当たらない。台の上にその理由は書かれていた、敢えて文字に起こそう。「おさい銭が再三盗難にあっています 『罪人を作らない』為、おさい銭を遠慮致します。あなた様の清らかな参拝は三社の神様に通じていると思います」悲しい内容だ、一度の事ではないだろう。 防犯カメラを投資し愚かな行為を取り締まる解決策もあるなか、街中の小さな神社が選んだ、人を責めず仕組みを変える究極の選択だろう。龍口や蛇口、排水桝・・・金目のものはなんでも盗んで行く、貧しい国になったものだ。 岸田さん! 政権与党! 先生方! ここまで追い込まれている今の日本の現実どう考えている? 気を取り直し、ささやかな賽銭を置き、三社に参拝させてもらおう。 天王社東に隣接する紅葉狩車山車蔵。 個人的にこの辺りとは縁がなく、紅葉狩車が曳航される花車神明社祭は知らない。「名古屋の文化財から祭りの概要を見る。この山車は、那古野神社の天王祭に周辺の町から曳き出された山車で、1818~1830年(文政年間)に作られたといわれている。山車に用いられる水引幕、大幕も製作当初のままである。人形は、能の紅葉狩を写したもので、大将維盛・鬼女・従者の三体からなっている。」とあった。那古野神社(中区丸の内2)の前身は三の丸天王社で、1818~1830年(文政年間)には祭礼で曳き出されていたと云う。 往時の天王祭ではこの町内(旧広井村)から9輌の山車が天王社のだんじりに対する献灯車として参加していたと伝わる。 現在、この町内には紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車が受け継がれ、他は各地に転売されるなどされているとの事。 明治時代に入り三の丸天王社の城外移転に伴い祭礼は衰退し、献灯車としての役割も無くなり、山車は地元の祭で巡行されるようになったと云う。1955年(昭和30)、名古屋まつりに山車が巡行されるようになると、 資金面で年に2回の巡行は難しくなり、名古屋まつりと同じ10月に行われる花車神明社(同町)の祭例に山車を巡行するようになったと云う。 格納されている紅葉狩車のからくりは、女人形の優しい顔が一瞬で鬼の形相に早変わりするらしい。まるでかみさんを怒らせた時の様だ。天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市中村区名駅5-9-10参拝日 / 2022/10/12公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「国際センター」駅降車、3番出口から南へ徒歩1~2分関連記事 / 覚王山参道脇の屋根神
2022.10.16
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既に掲載した信濃國 二之宮「小野神社」ひとつの社叢を共にする小野神社と矢彦神社、今回は辰野町の飛地となる境内に鎮座する「信濃國二之宮 矢彦神社」を掲載。 両社は細い水路で塩尻市と辰野町の飛地境界を設け、一つの社地を共有する。小野神社から一旦国道153号線を南に向かい、矢彦神社の赤い鳥居を通り過ぎ、北上する際見かけた矢彦神社の手水舎に向かう。 走行中に見えていた光景、左に手水舎と古びた石の神明鳥居、そこから石畳の参道が杜に続く。石垣の中ほどから引かれた清水が絶えることなく手水鉢に注がれている。 この清水は長野県の「ふるさとの水20撰」にも選ばれ、長野県の代表的湧水リストにも名を連ねている御手洗の奥の境内には小さな泉もあり水の豊かさを感じられる。矢彦神社由緒。 信濃国二ノ宮矢彦神社御祭神 正殿 大己貴命、事代主命 副殿 建御名方命、八坂刀賣命 南殿 天香語山命、熟穂屋姫命 北殿 神倭磐余彦天皇、譽田別天皇 明治宮 明治天皇御由緒 当神社の社伝によると、矢彦神社は1400年ほど前に創建されたとされる信濃国二ノ宮であり、上伊那郡54か村の総鎮守である。遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命を従えこの地に立ち寄ったと伝えられる。 古くから皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばあった。欽明天皇の御代、大己貴命、事代主命を正殿に、建御名方命、八坂刀賣命を副殿にお祀りし、矢彦神社の形が整う。 例祭日は毎年八朔(旧8月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)と云われた。天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造営、御柱祭とが7年毎の式年祭と定められた、白鳳2年(674)の事である。 安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造営、以後約700年にわたり宮材を木曽山林から出材されることになる。以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(武田信玄)、勝頼をはじめ徳川幕府の崇敬厚く再三社殿が造営された。 慶安2年(1649)徳川家光から神領高10石及び附属山林諸役免除の公丈御朱印状を献納される。明治天皇の御代、明治5年(1872)社格が郷社となり、明治14年(1881)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜る。 明治27年(1894)、明治遥拝殿を創建、明治天皇の生祠明治宮は、我国でも初めてのもの。明治33年(1900)、社格は郷社から県社に昇格。 御造営材の御下賜は昭和7年(1932)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称された。昭和11年(1936)、巣山沢御料地を御造営材供給の備林として24町歩余の山林御下賜の天恩を受ける。例大祭 9月朔日(現在は10月第一日曜)式年御柱大祭 毎卯酉年5月 鳥居をくぐった左手の境内社。 社名札等見当たらず詳細は不明。左脇の社叢には小さな泉があり、泉中央に小さな石の祠をお祀りした小島が浮かんでいる。 右手後方は御柱と矢彦神社神楽殿。社叢の中の小島と祠。参道を進み神楽殿へ。 神楽殿の左がニ之御柱、右は一之御柱。諏訪信仰の一角をなし、諏訪大社に次ぐ「信濃国二之宮」の風格ある佇まいで、社叢を共にする矢彦神社は上伊那郡の総鎮守、隣の小野神社は東筑摩の総鎮守と呼ばれる歴史のある神社です。国道153号線沿いの矢彦神社東参道鳥居。 先程くぐった鳥居は神明鳥居だったが、こちらは朱の明神鳥居。境内から見える山を越えれば諏訪大社。神楽殿正面からの眺め。 小野神社でも書いたように、社叢は針葉樹と落葉広葉樹が大部分を占め、これらの老木が茂った典型的な混交林で灌木や草本類も多く樹木合わせて150種類に及ぶ。中部地方の植生は古い時代にはこうした混交林で覆われていたが、やがて人工が加わり姿は一変した。 この社叢は古来の平地林の様子を留め、36,326㎡に及ぶ広さも貴重な事から長野県天然記念物に指定されている。大きな神楽殿が小さく見えてしまう程の立派な御神木が聳えている。神楽殿。 社伝によると「天保13年(1842)に完成されたとされ、弘化3年(1846)の「普請諸入用調帳」も残されていることから、このころ建築されたと考えられます。さらに、この「調帳」から立川和四郎冨昌の請負であることが判明しています。 建物は梁間3間、桁行4間の木造切妻造妻入りで、銅板葺です。柱はすべて丸柱で、身舎外側の四方に浜縁と擬宝珠高覧を廻し、正面のみに階を備えています。手前2間は、舞人が舞を舞うところで吹放となっており、奥2間は楽奏室で、周囲には格子がはめ込まれています。」神楽殿に架けられている矢彦神社の額は、周囲に手の込んだ龍の彫が施された重厚なもの。神楽殿内部に架けられている奉納額。 ほゞ顔料は退色し全体の描写もよく分からず奉納年度は定かではない。上は明治15年(1882)、下は昭和62年(1987)に奉納されたもの。神楽殿から東参道を眺める、境内を左に進めば小野神社。ニ之御柱。神楽殿と勅使殿。擬宝珠高覧。 小さな体でよくぞここまで登るものだ、豊かな杜は小さな命も育む。勅使殿。 神楽殿後方に建ち、建築年代は定かではなく、17世紀後期と推定されます。木造切妻平屋建ての銅板葺四脚門に似ていますが、内部は高床式の板張床を設け正面には両開きの扉が付き、左右の下部は板壁になっています。 シンプルな外見ですが細やかな彫や透かし彫りも施されています。欽明天皇の大御代奉幣の典の折に、天武天皇の大御代勅使高根使主が参向し建立されたとされる。拝殿。 派手に光り輝く飾り金具はなく、落ち着いた外観ですが、木組みや各部に手の込んだ彫飾りが施され、 幕には左三つ巴の紋が入る。神社HPによれば 拝殿左右の廻廊と共に、安永9年(1780)に初代立川和四郎冨棟が請け負っていることが、残された請負証文で明らかとなっています。社伝によると天明2年(1782)に完成したとされています。 拝殿は梁間2間桁行1間の木造切妻造平入りの総ケヤキ造りで、屋根は銅板葺きです。この建物は大きな屋根を支えるための組物や、多数の斗の積み重ねと彫刻によって美観と豪壮な雰囲気をかもしだしています。 左右廻廊は、木造切妻造平屋建てで、拝殿の左右に配されています。両廻廊ともに4間左右に広がったのち、正面に向かって折れています。 建物外面は連子格子および板壁とし、内面は開放されています。拝殿前の狛犬と拝殿唐破風。年代不明の狛犬。拝殿の巧みな斗組や見事な彫物は視線を釘付けにする。拝所の格子天井全面にデフォルメされた龍が描かれ、周囲の透かし彫りにも龍が彫られている。 二枚の額が掲げられているが、随神?が描かれていたのだろうか、脱色し輪郭がうっすらと見える。大きな鏡が輝く内陣。 拝所同様に内部も細かな彫飾りが施されている。正面、左右に面格子が組まれているが、以外に外光が入らず良く見えなかった。 拝殿と廻廊。拝殿両脇の脇障子の彫物は水面と蓑亀、竹が彫られている。拝殿の木目が綺麗な象と獅子の木鼻に大きな屋根を支える斗組。本殿域には手前に流造の社四棟(南殿、副殿、正殿、北殿)がある。 その四棟後方にも三棟が建てられ、中央のやや大きめの流造の社が明治宮だろうか。 上は四之御柱。板塀が囲う本殿域の外周は、小野神社同様御柱を立てるための道が付けられ一周する事も可能。 ここまで来たものの、高い板塀に遮られた本殿域は見渡せなかった。拝殿を後に小野神社境内に向かう。左は矢彦神社宝蔵、右側が小野神社の宝蔵。 かつては1郷であった村も毛利秀頼と石川数正の領地争いの結果、秀吉の裁定で2つに分けられ、同じ社叢に2つの神社が祀られる形になったが、両社を隔てるものは細い流れだけです。 両社ともに静かで落ち着いた居心地のいい神社です。当神社は神職常駐ではないので御朱印は電話で連絡した後に頂くことになります。 電話番号 / 0266(46)2064信濃國二之宮 矢彦神社創建 / (伝)欽明天皇年間(539~571)祭神 / 大己貴命、事代主命、建御名方命、八坂刀賣命、天香語山命、熟穂屋姫命、神倭磐余彦天皇、譽田別天皇、明治天皇境内社 / 不明社2社所在地 / 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢3267公共交通機関アクセス / JR中央線「小野」駅降車、北へ徒歩15分程参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ、 、信濃國二之宮「矢彦神社・小野神社」
2022.10.15
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白川郷萩町の神田家から北方向に15分程前回掲載した神田家を後に北方向にある高台に向け15分程歩きます。 萩町の平坦な道は町外れから緩やかな上り坂となり見上げる高さの高台を目指します。長い坂も終わりを迎えると目の前に駐車場が広がります、そこから左を眺めると萩町の眺望が開けます。 駐車場脇にある細い道を直進する広い空間が現れ写真の世界遺産記念碑が立っています。合掌集落を見渡せるこの場所に集落の解説が記されたプレートが立てられています。 その中で「成長著しかった日本の国にあって、この美しい環境を守ってきた住民の努力・・・」の一文は響いてくるものがある。快適性や対候性を求めがちになるなか、伝統的なこの街並みを維持できのも町全体の協調性あって可能になったもの。個が集まった都会ではあり得ないものだ。記念碑周辺から望む萩町集落。 右の流れは庄川、中央の直線が白川街道、この先の上流は御母衣ダムを経て荘川村に続きます。展望台から今回、白川郷を訪れた場所を丸で囲ってみました。 集落を一望できるビューポイントです、この展望台から東には山が迫り、等高線沿いにくねくね道の国道360号線が続き天生峠を越えると飛騨古川方面に至ります。 昔は細くて急登の続く峠越えの印象でしたが紅葉の時期には見事な紅葉が見られました、降雪時は恐怖の道も時が経ち少しは良くなっているかな?訪れた8/22集落の稲は鮮やかな緑色に染まっていた、今頃は黄金色…いや既に刈り取りは終わっているかナ。恐らく周囲の山々は秋の装いになっていることだろう。荻町城は世界遺産白川郷合掌集落を見下ろす台地先端に築城されていた。 このあたりは庄川と宮谷、牛首谷から流れる渓流がひとつとなる地点で、標高540㍍の緩やかな台地にあり集落からの比高は約60㍍程になります。戦国時代の白川は内島氏が支配し、謎の多い帰雲城を居城としたと云う。 帰雲城の守りを固めるため、庄川沿いに南北続く白川街道上の南側に日崎城、新渕城、牧戸城を配し、北側に荻町城を築城し西の馬刈峠、東の牛首峠の監視行っていた。 この荻町城の城主は内島氏の家臣の一人山下氏で氏頼、氏規、時慶の3代が荻町城主として入れ置かれました。荻町城跡。 城は台地続きを切断する堀切と土塁を構え、その内側が城域とされました。現在は駐車場から右手方向の細い道を進み萩町を望める場所に立つ世界遺産記念碑に向かう途中で土塁の遺構が見られます。 城とは言っても曲輪は単郭の小規模な山城だったようで、曲輪内から掘立柱の一部遺構が見つかるなど、居住施設ではなく、簡単な建物であったと云われ、主に櫓から街道を監視する事に重きを置いたものとされます。それだけにここから望む白川郷の眺望は抜群です。天狗堂。 その一画に鎮座する城山天狗堂。もともとはここから庄川の上流に位置する平瀬集落に鎮座していた社を、1998年(平成10)に旧平瀬温泉神社からこちらに遷座したもの。 今回平瀬周辺でキャンプ泊をしたけれど、若い頃に何度か訪れた平瀬温泉共同浴場を求め彷徨ったが既に姿はなく空き地となり、代わりに少し離れた場所で新たにできた道の駅に隣接する小奇麗な「しらみずの湯」に置き換わっていた。因みに平瀬温泉が無くなったのは2005年の事だと云う。 昔は山籠もりの小汚い恰好で訪れても抵抗のなかった浴場で、仕事を終えた地元の人とも気軽に会話できるいい雰囲気の共同浴場だったのだが・・・寂しい限り、どんだけ歳食ったんだ。城山天狗堂。 荻町城跡に鎮座する流造の社殿、素木の素朴なもので派手な飾りはなく周囲の風景に溶け込む様に鎮座している。訪れる人は町の展望に視線が行きがち、こちらにも立ち寄って見てはどうだろうか。 祭神、由緒等の詳細は調べきれていませんが、平瀬から遷座するくらいの神社、立ち寄って手を合わせても損はないだろう。天狗堂妻壁の彫飾りと本殿正面の眺め。 海外から訪れる観光客は普段気にもしない些細なものに興味を持つて訪れる人もいる。自分が見落としているのかもしれないが、この神社の解説が見当たらなかったように思う。 海外から訪れるであろう世界遺産白川郷、安い円で賽銭を奮発してくれように。荻町城跡・天狗堂城山天狗堂創建・祭神 / 不明遷座 / 旧平瀬温泉神社より1998年(平成10)遷座所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町1116神田家から徒歩ルート / 北に向かい約15分参拝日 / 2022/08/22関連記事 / 白川郷「龍神さまと神田家」、白川郷散策の拠点に最適「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」
2022.10.12
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長秋山 定徳寺 #2の今回は定徳寺番神堂裏手の妙龍大善神・稲荷社を掲載します。天満宮の右側から番神堂の奥に続く参道。 その先に朱の明神鳥居が立ち、その前を一対の狛狐が守護しています。妙龍大善神・稲荷社へはこの鳥居をくぐり番神堂の裏に続くコンクリートの参道を進みます。番神堂の裏側で参道は二手に別れ正面の石の明神鳥居の先の社が妙龍大善神になります。 まず最初に、この神社について詳細を記したものに全く出会えず、見た事のみをお伝えしまう。妙龍大善神社頭全景。 右手の社標には「妙龍大善神」と刻まれていた。左は社標、1930年(昭和5)の寄進。右の鳥居も同一寄進年でこれより遡る寄進物は見られなかった。「妙龍大善神」本殿全景。 板宮造りの小社で縁起や創建に繋がるものは何も見付けられなかった。妙龍と云う龍が存在しそれを祀つたものなのか、僧侶妙龍が関係するものか分からない事ばかりだ。 とはいえお参りされている痕跡もあり、地元では知られた存在なのだろう。 「妙龍大善神」 創建・祭神 / 不明どれたけ悪足掻きしようが情報が得られそうではない、右手参道を奥に進みます。「妙龍大善神」に続く参道には朱の鳥居が幾つも立ち並ぶ。参道は三方に別れ中央の参道先に鳥居と覆屋が見えます。 鳥居手前を狛狐が守護している事からこちらが稲荷社となる。右の鳥居は番神堂から渡廊を経た先に立ち、覆屋の正面に位置する事から本来はこちらが正参道にあたるのかも。 取り敢えず写真左の鳥居から覆屋へ。鳥居前の狛狐、寄進年度未確認。中央の鳥居から覆屋の眺め。 右手に手水鉢があったが年号は読み取れなかった。上 覆屋全景。下 番神堂から稲荷社に繋がる渡廊。覆屋は切妻妻入りで向拝が付くもので、その前に小さな狛狐の姿がある。こちらの狛狐も寄進年度は不明、ガリガリに痩せ細った悲壮感漂う体ではないが目力がないか。覆屋に架けられた「福綠尊天」、額からして福禄寿を祀るお稲荷さんなのか。 本殿は福禄寿の他にも祀られているようで、三つの唐破風向拝が付き其々に扉が付いていた。倉稲魂命も祀られていると思われます。 稲荷社は小高い小山の上に建てられ、鳥居の左から後方に回り込むことが出来ます。上回り込んで覆屋を見ると二階建てになっていて、二階部分が先程の「福綠尊天」、下側が祠となっている。下置かれた手水鉢はいい感じで苔むし年代すら読み取れない。一階部分の祠。 一対の狛狐の先に稲荷にはつきものの四角い狐穴があり、上には小さな社が祀られている。ここの狛狐は多少痩せ気味のフォルムで目つきも鋭く狐らしい風貌。 右の狐だけ体の一部が欠け落ちている、何がこうさせたのかな。良く見れば玉垣の隙間から立派な耳をした小さな金色狐がこちらを見つめていた。 この社、二階本殿の奥宮なんだろうか。 妙龍大善神・稲荷社の縁起や創建時期は分からない。 尾張名所図会の定徳寺に結天神は見られたが、妙龍大善神・稲荷社の記述は見られなかった。編纂以降に創建されたものか。 定徳寺境内にある事から住職にお会いできれば縁起など教えて頂けるかもしれない。 妙龍大善神創建・祭神 / 不明福綠尊天稲荷社創建 / 不明祭神 / 福禄寿、倉稲魂命所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-16-8 (定徳寺境内)関連記事 / 長秋山 定徳寺 #1
2022.10.10
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伊北ICで高速を下り、国道153号線を北上し信濃國二之宮に参拝。 矢彦神社と小野神社の鎮座地の小野は、塩尻市と辰野町の飛地が隣り合い、社叢を共有する二つの信濃国二之宮が鎮座します。 古くは1つの神社だったとも云われ、小野盆地において飯田城主の毛利秀頼と松本城主石川数正の領地争いがあり、1591年(天正19)秀吉の裁定により、盆地を流れる唐沢川を境に北小野村、南小野村に分けられたことに始まる。社地は北小野(塩尻)の地籍であったが、裁定により境内は二分され、社叢南半分の矢彦神社が南小野(辰野)の氏神で社地は辰野の飛地という扱いになり現在に至っている。国道153号線を矢彦神社・小野神社の鎮座する塩尻方面に向け走っていると、国道を跨ぐように大鳥居が建っていますが、そこから少し塩尻側に行ったあたりが境になります。 JR小野駅北側辺りが辰野町と塩尻市の境で、Gマップで辰野町と検索すると矢彦神社の社地が辰野町の飛地になっている事が分かります。 秀吉が定めた境となる唐沢川を上の地図で示します、この小さな川で北小野村、南小野村に分断されます。現在は地図上で塩尻にある辰野町の飛地である矢彦神社と塩尻市の小野神社、祭礼等は旧北小野村、南小野村共に手を取り合い開催されるようです。 また現在は両小野として塩尻市と辰野町が共同し「組合立」の学校が立てられるなど、戦国時代の境界を感じさせない。伊北ICから国道を北上、大鳥居をくぐりしばらく走ると前方に写真の手水舎と鳥居が見えてきます。 この鳥居が辰野町の飛地に鎮座する矢彦神社の東参道。駐車場へはそのまま社叢沿いの国道を走っていきます。 すぐに左側に朱の明神鳥居が現れます、矢彦神社正参道。 ここは走り抜けます。左側に石の明神鳥居が現れます、こちらが信濃国二ノ宮小野神社の社頭になります。 ここも走り抜けます。 国道をもう少し進むと左側に社叢の切れ目が見えてくるのでそこで左折です。左折の目印は国道の案内標識、縄鳥居の前を通り過ぎた左側に駐車場はあります。社叢から見えた縄鳥居、物好きは国道から正参道に向かいます。宮前地内を通る国道153号線、辰野町方向の眺め。 右手が矢彦神社・小野神社の境内。写真は国道153号線沿いの両社の社頭、国道沿いに社地を囲う玉垣が延びる。 社地中央に小さな水路があり、それを境にして両社が隔てられ、境界を示す石標が立てられている。両社を隔てるものはその水路だけで、水路の意味を知らなければ「大きな神社だこと」で終わるかもしれない。 国道を挟んだ門前町は初期中山道、伊那街道の宿場町小野宿でその面影を感じさせる光景が残る。小野神社境内には立派な土俵があり、北小野村、南小野村合同で相撲が奉納される。 両社には御柱が奉納されているが、地元の方の話によれば「来年がその年に当たるが、コロナ禍や担い手不足でどうなるかねぇ」との話だった。小野神社社頭。 国道沿いに石の明神鳥居を構え、左側に手水舎、右に社号標が立ちます。社頭の手水舎、手水鉢。 絶え間なく注がれる清水ですが飲用は出来ません。社頭の小野神社解説の数々。上小野・矢彦神社社叢は針葉樹と落葉広葉樹が大部分を占め、これらの老木が茂った典型的な混交林で灌木や草本類も多く樹木合わせて150種類に及ぶ。 中部地方の植生は古い時代にはこうした混交林で覆われていたが、やがて人工が加わり姿は一変した。この社叢は古来の平地林の様子を留め、36,326㎡に及ぶ広さも貴重なもの。 そうした事から社叢は長野県天然記念物に指定されている。下小野神社社殿解説。 本殿二棟、八幡宮本殿、勅使殿は寛文12年(1672)4月の類火により焼失、松本藩主水野忠直により同年9月までに再建された。本殿に見られる全体の形が直材に近い海老虹梁、勅使殿の渦が付く上向きの拳鼻など、県内にある寛文期の建築物に共通するもので、造営は水野家大工頭の中村四郎右衛門らによるもの。 本殿の木鼻は扁平の象鼻で、眼頭に当たる部分にも突起を付ける独特の形である。本殿向拝の蟇股内部には水野家家紋の花沢潟の彫が入れられている。左 市有形文化財「小野神社の梵鐘」永禄7年(1564)、武田勝頼が戦勝祈願し鳬氏に命じ鋳造し小野神社に寄進したもの。 江戸時代以前の鐘としては優れた出来栄えと云う。(資料館で展示) 右長野県宝 銅造千手観音坐像御正体残闕 総高18.7㌢、像高16.1㌢、製作年代は鎌倉時代に遡るとも。要所を抑えた無駄のない簡潔な仕上げで頭体部及び一鋳した蓮華座を含めバランスが良く安定感がある。 (資料館で展示) 平安時代後期におこった本地垂迹説にもとづく神仏混淆の信濃における信仰の歴史を知る上で貴重である。境内の資料館にはこれらの他に、室町時代前期の鐸鉾などが所蔵されている。 鳥居扁額「小野神社」上資料館 開館日に制限があるようで、この内部に梵鐘などが保存されている。下宝形屋根の薬師殿。 後方の建物は額殿。上 屋根付きの相撲土俵。 旧北小野村、南小野村合同で相撲が奉納される。下 左の建物が宝蔵。右が「ニノ御柱」、石の玉垣で囲われた二本の杉が「夫婦杉」諏訪大社も近い事もあり、小野神社、矢彦神社共に御柱が立てられている。 小野神社の御柱祭は、諏訪大社の御柱祭の翌年の卯の年と酉の年の7年目(6年毎)開催されます。駐車場付近で名古屋から小野に嫁いでこられた地元の方に声掛けを頂いた。 その方の話によれば「人を見たけりゃ諏訪御柱 綺羅を見たければ小野御柱」、「来年がその年に当たるが、コロナ禍や担い手不足でどうなるかねぇ」との話だった。 名古屋ナンバーの車を見かけて親近感を持って声掛けをして頂いたようだ。今でこそ高速でひとっ走りだが、彼女の年代の頃となると電車に揺られ嫁いできたかナ?境内は緑濃い社叢に包まれ、その多くは自然林である故に県の天然記念物に指定されているそうだ。 社頭の前を国道が横切り結構交通量がある、車の騒音が気になりそうだが、社叢のお陰で境内は静寂そのもの。常夜灯の先に佇む一対の狛犬。 骨太な体格で目と鼻の大きさが印象に残る。神楽殿。 拝殿に続く参道の右側にあり、切妻妻入りの神楽殿と奥の平入の建物は渡廊で一体となっている。参道左側の御鉾社。 四方を木の玉垣に囲われた一画がそれにあたるようで、解説によれば「伝 古代祭祀遺跡」とあったが、玉垣内にこれといった痕跡は見当たらなかった。自分には後方の広葉樹の緑と空に向け聳える杉の樹の息吹が強く印象に残った。上御鉾社の右に一部欠損した石の社。 「おぼこさま」と彫られた石標はこちらを指すものか定かにはならなかった。下 御鉾社の左にも石の社が祀られていたがこちらも定かにはならなかった。夫婦杉の左の小さな覆屋。 「中央御玉命 御厩?社」・・・とあるような、覆屋内には小さな社が祀られ、妻側の棟から鈴が吊るされていた。参道左の境内摂社。 左から天満社、宗像社、子安社、稲荷社と並ぶ。参道先の拝殿が大きく見えて来た、いよいよ参拝。 その前に左にも一社あるようだ。玉垣で囲まれたこの建物、解説もなく詳細は分からないが「神庫」とある。 神宝を納めるという事?小野神社拝殿全景。 切妻屋根の拝殿の平側に向拝が付き、内削ぎの千木が付く、拝殿大棟にも6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。現在は銅葺屋根ですが、往古は杮葺き屋根だったという。拝殿右から向拝と拝殿、廻廊の眺め。 正面、斜めと見渡すが安定感のあるシンプルな外観で光り輝く飾り金具も見られない。拝殿向拝の額と本殿方向の眺め。 全体の造りと色が落ち着いたものだけに、額の金色と神社幕の紫がアクセントになり上品な印象を受ける。祭神は建御名方命。 拝殿の先の本殿域には正面に勅使殿があり、その後方に左から副本殿、本殿、八幡宮本殿の三つの社が祀られています。恐らく諏訪大社同様に副本殿、本殿の2棟で交互に神宝を移すものかと思います。 まずは参拝を済ませ、玉垣沿いに社殿左側に向かう。 玉垣沿いから拝殿、社殿の眺め。本殿域全景。 中央が拝殿正面に当たる勅使殿。勅使殿の奥に並ぶ左から副本殿、中央が本殿、八幡宮本殿で、解説にあった寛文12年(1672)4月の類火により焼失、同年9月には松本藩主水野忠直により再建された。 境内解説から、手前の勅使殿は御門屋造りと称する様で、奥の三殿は寛文12年(1672)造営の一間社流造。注連縄が左の福本殿に張られていないので、現在副本殿は空きという事か?玉垣沿いに御柱を運び入れるための道が付けられている。 その左側に小さな泉があり、中央の小島に石の祠が祀られていたが🐍の予感がして近寄れなかった。そそくさとこの場を後に参道に戻る事にした。参道に戻り一安心、そこから社頭方向を眺める。 境内の整然と聳える大木が自然林とはとても思えない。 境内摂社あたりに「夫婦杉」二本の杉の巨木が寄り添うように聳える。 次は再び薬師堂方向へ。 薬師堂右側の境内に細い流れの水路があります。 この水路を上流に沿って進むと一つの石標があります。そこには「社地境界標」と刻まれている。 上の写真でこの水路を境に左が塩尻市の小野神社、右が辰野町の矢彦神社の社地として区切られている。この水路を跨げば辰野町の矢彦神社境内になり、そのまま社殿に至ります。もの好きは国道に戻り矢彦神社社頭に向かいます。信濃國二之宮 小野神社創建 / 不明、(寛文12(1672年)焼失、同年再建)祭神 / 建御名方命 境内社 / 八幡宮、稲荷社、子安社、宗像社、天神社、御厩社、御鉾社所在地 / 長野県塩尻市北小野175-1公共交通機関アクセス / JR中央線「小野」駅降車、北へ徒歩15分程参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ
2022.10.06
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諏訪神社から東へ徒歩で10分程、日比津公園の東に鎮座する「長秋山定徳寺」へ。 所在地は中村区日比津町1になります。この地にはかつて栗山城が築城されていたとされる場所で、今回「長秋山定徳寺」を訪れ、城の痕跡も探して見たがそれらしい遺構は皆無だった。 定徳寺境内には天満宮、妙龍大善神、稲荷社など鎮座し、今回は定徳寺と天満宮を取り上げ、二回に分けて掲載。定徳寺薬井門前に写真の名古屋市教育委員会の解説板がある。内容は以下。 「長秋山(ちょうしゅうざん)と号し、日蓮宗。延文5年(1360年)、僧日悚の創建。 明徳年間(1390~94)の頃、当寺第二世日就により諸堂が整えられた。当寺第25世日潤は道徳才学兼備、和歌、茶道をよくし、その高徳は四方にきこえたと伝えられ、天保8年(1837年)に身延山久遠寺の第60世貫主となった。」 尾張名所図会の定徳寺に目を通すと内容は符合、境内の日潤碑、結天神の記述は解説では省略されているようだ。伽藍の挿絵が見たかったが残念ながら描かれていなかった。薬井門の左は駐車場のようだ、右側に「傅教大師御自作 日蓮上人御開眼 三十番神鎮座」の石柱が立つ。薬井門は緩やかな曲線の壁と一体となっている。 参道の先に見えているのは番神堂。伽藍は参道右側に本堂、庫裏、寺務所が連なっています。薬井門に架けられている山号額「長秋山」薬井門から境内の眺め。 参道左に鐘楼、その奥の番神堂左に地蔵堂と天満宮の覆屋があります。正面の番神堂と手前の庫裏と本堂。 庭は入念に手入れされ、当日も庭師の方の手が入っていた。定徳寺は神仏混淆の寺、正面の番神堂には複数の神像が祀られ、奥に安置された厨子が50年に一度開帳されるという。 因みに次回の御開帳は2047年、かみさんはともかく、自分が訪れる確率はかなり低いだろう。鐘楼。 入母屋瓦葺で見た目は普通だが柱と梁に免震装置が施されていた。 梵鐘。 かなり大きな物でさぞかし好い音色だろう。一回りしたいところですが、当日それが出来る状況ではなかった。参道右側の本堂。 架けられた額には…達筆すぎて読めないのがまた悲しい。何でもスマホの時代、QRの様に翳して読み取れる時代は訪れないのかね。番神堂。 傅教大師御自作という天照大神像などが安置されている。番神堂を守護する狛犬は大正2年(1913)に寄進されたもの。 架けられた額…達筆すぎて読めないのがまたゝ悲しい。番神堂左の覆屋と地蔵堂。 右の天満宮の前には赤い前掛けを付けられた撫で牛が安置されている。昭和4年(1929)に建てられた天満宮縁起。 「当寺祀る天満宮は宗祖日蓮上人の開眼。元来、尊像は城西児玉町観音寺に祭祀されていた、安政3年(1857)、当山27世住職の霊夢から当境内に遷座し勧請。以来多くの人々から崇敬されている。昭和4年春」 一部読み取りが出来ず一部抜粋。城西(西区名西2)からこちらに遷座したようで、尾張名所図会(1838)の「境内に結天神あり」とはこの天満宮なのだろう。 撫で牛…だろう。 往古から多くの願いを聞き入れて来たであろう風貌。覆屋向拝下に掛けられた額には流れるような美しい筆致で「天満宮」と書き上げられている。覆屋内の社。 社の全体像は分からないが向拝などに梅紋が入れられている。先程の石像は道真と所縁の深い撫で牛で間違いないようだ。 それにしてもこの社、道真一人を祀るには扉が多い様な。天満宮の右隣りの地蔵堂。 それぞれに銘板が架けられていたが調整してみるも文字は読み取れなかった。二体の像は口元に笑みを浮かべた表情をしている。制作年代は不明。天満宮の右側から番神堂の奥に続く参道が伸びています、その先には朱の明神鳥居が立ち、その前を一対の狛狐が守護しています。 また、鳥居左には脇参道があり南側の道路と繋がっています。定徳寺南側から番神堂全景の眺め、境内の朱の鳥居は目立つ存在かもしれない。 ここからすぐ南の交差点角には、以前、日比津の「秋葉社」で見かけた「南無妙法蓮華経」と刻まれた髭題目が立てられています。定徳寺宗派 / 日蓮宗山号 / 長秋山創建 / 延文5年(1360年)開山 / 明徳年間(1390~94)本尊 / 釈迦如来境内社 / 天満宮所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-16-8参拝日 / 2022/09/02関連記事 / 諏訪神社(中村区諏訪町3)、秋葉社 (中村区日比津2)諏訪神社から東へ / 徒歩10分程
2022.10.05
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「萬松山 観音寺」を後に一路北に向かい、東山通りを越え日吉神社に向かいます。上は昭和43年(左)と右がほぼ現在の上社。 日吉神社は赤のマーカーになります、明治、大正の地図の方が周辺の変貌ぶりはよく分かるかもしれないが、この当時でさえ山が切り開かれ急速に宅地化が進む周辺の様子が見られ昔の面影が残る。地下鉄東山線の高架沿いに日吉神社の鎮座する上社駅方向を眺める。 下の流れは植田川、地下鉄はこの辺りは上を通る。名東区上社2に鎮座する日吉神社社地。 写真は南東側角から社地東側と南側の眺め、正参道は左に進みます。日吉神社東参道の鳥居。 寄進されたのが最近なのだろう、緑の杜を背景に白い姿が浮き立っている。 明神鳥居の笠木上部に三角形の屋根が付く鳥居、山王鳥居と呼ばれ、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表し山王信仰の象徴とされる。この山王鳥居は社地西側の西参道にも立っています。 京から見て表鬼門にあたる比叡山の東山麗に鎮座する日吉大社、これから紅葉が深まっていくと綺麗な神社ですが、こちらが朱の山王鳥居で知られます。日吉神社周辺には往古、藤森と下社の二つの城がありました、それらの鬼門、裏鬼門除けとして建てられた?そんな気にすらなってくる。南側の正参道社頭。 上社のなだらかな丘陵地、宅地開発で住宅地となった現在でも緑濃い社叢を残している。社頭から参道。 左に由緒、右に社標が立てられ、石の明神鳥居から社殿へは石畳の敷かれた参道を進む。由緒「当神社の創建年代は詳かではない。 祭神は大山咋神、大己貴神、元官幣大社日吉神社の分霊を勧請して土地開拓守護神とした。元禄7年(1694)上社村覚に「氏神山王権現森村より西北に当り云く」とあり既に鎮座していた。 明治44年(1911)当村八郎に鎮座の元官幣中社貴船神社の分霊である罔象女神を本社に合祀。昭和40年氏子の奉賛により社殿改造を行い社頭の面目を一新。 古来よりこの地域の氏神と尊崇され「日吉山王さん」と親しまれ、農工商の恵みの神として神徳あらたか。 上社鎮護 日吉神社」名東区史跡散策路の概説は以下。 「江戸時代は山王権現と呼ばれた。区画整理により周りの環境が変わった中で、境内はかつての丘陵地の姿を残しています」古くから上社の変貌を見続けて来たこの地の氏神様。往古から上社の丘の頂に鎮座する日吉山王さん。 石の明神鳥居は昭和38年(1963)に寄進されたもの。常夜灯の立ち並ぶ石畳の先にはニノ鳥居を構えている。ニノ鳥居は朱の両部鳥居。 いつ見ても優雅な姿だ、鳥居額束はあるが神額は架けられていなかった。ニノ鳥居前を守護する狛犬。 鳥居の先の石段を上ると社殿が見えてくる。 西参道から見る社殿全景。 南側一面に石垣が積まれ、さながら城か館のような佇まい。東参道から見る社殿全景。 境内は石畳が敷かれ、中央の石段以外にスロープが用意され足が不自由な方でも家族と共に参拝が出来る。石段を上った左に手水舎があるが・・・お休みだ。拝殿全景。 切妻瓦葺の平入拝殿で派手な意匠はなく、木の温もり漂う落ち着いた佇まいのもの。Wikiによると「1813年(文化10年) - 刀比羅社を勧請。1865年(慶応1年) - 御嶽社を勧請。1865年(明治1年) - 神仏判然令で日吉社と改称。1878年(明治11年) - 大山祇社が境内に移された。1909年(明治42年) - 下の森(愛知県愛知郡猪高村大字上社字八郎84)にあった貴船明神(現存の貴船神社とは異なり、現存しない)の罔象女神が合祀される。1965年(昭和40年) - 日吉神社と改称。」とあったが・・・ここは由緒書きを尊重した方がよさそうだ。拝殿前の狛犬も明神鳥居と同時期の昭和38年(1963)に寄進されたもの。拝殿。 光り輝く鈴、鈴紐は下ろされていなかった。拝殿幕の神紋、こちらも日吉大社と同じ二葉葵のようだ。 境内のお願い…ではなく、左の滲んでしまった解説、徳川家家紋として知られるけれど、意外に実際の二葉葵は見ることが少ない。写真が入ると「あぁあれかぁ」となるのだが。拝殿から幣殿本殿方向の眺め。拝殿左の「奥の院 御嶽山ゆかりの霊場」の解説。「御嶽信仰の歴史は平安時代に起った民間信仰と山岳信仰が結びついたもので江戸時代に広く庶民に浸透していった。 かって日吉神社「奥の院」の頂からは鬼門、丑寅の方向に霊峰御嶽を望むことが出来た。言い伝えでは氏子中による御嶽信仰の始まりは日吉神社創建当時、江戸時代初期の事。 「伊勢に七度、熊野に三度、日吉御嶽百度詣り」という言葉が残ると云う。中略奥の院までの石段は48段、四苦八苦で階段を登ると頂には氏子中を守り続ける「霊神碑」と「神石」が坐す。 「神石」は御嶽山頂の御嶽神社から拝受されたもので、先人達が担いでこの地にもたらしたもので「勇者の碑」とも呼ばれる。神石は「足の碑」、「勤勉の碑」と呼ばれ崇められ、石に触れ記念する事で御嶽明神と信仰を守り続けた先人からの加護があると信じられている。 並んで坐する「霊神碑」は「神石」を持ち帰った先人達のもの。日吉神社の社格は高く、社郷の鎮守社で、祭神大己貴神、命がけで氏子中の安寧を願った先人達の魂に溢れた霊験あらたかな神社である。」 奥の院へはこの解説板の左にある赤い鳥居から上っていきます。 その前に写真の境内社を参拝。 玉垣に囲われ、一面石畳が敷かれた一画。 左から金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社、御嶽神社の4社が整然と祀られている。Wiki情報の1813年(文化10年)に勧請された「刀比羅社」がこの金刀比羅宮にあたるのだろう。 御嶽神社の勧請は1865年(慶応1年)、大山祇神社の遷座は1878年(明治11年)でいいのだろう。報國殿の建立は定かにはならない、境内社後方に石標が立てられていたがそこに何か書かれているのかも知れない。 因みに手前の燈籠は昭和42年(1967)の寄進。奥の院へ続く朱塗りの鳥居。 四苦八苦の石段が始まる。奉納鳥居の手前に大正3年(1914)の石標が立っていた。 四苦八苦の石段には手摺も設置されている。石段を上りたくない向きには、右からも奥の院に続く参道が用意されている。奥の院境内。 斜面の頂にあり、ここから北側は高層住宅と樹々が覆い眺望は遮られているが、宅地化前は北側に御嶽山が望めただろう。鍬神社。 小さな切妻の覆屋の中には社と金属と木製の鍬の先端が安置されていた。鍬神社右に不動明王。 年代は不明ですが頭部から上は欠け落ちていた。鍬神社左の「神石」 往古の先人達が人力で持ち帰った御嶽の岩。こちらに触れると知恵と勇気、健脚の神徳に授かれるという。左は「刀利天宮」で右側に霊神碑が立ち並ぶ。右川の境内にも山丸三の紋が刻まれた複数の霊神碑が立てられている。奥の院から南の眺め。 南の遠景は…地下鉄と高速の高架が横切り眺望は望めないが、眼下に日吉神社の伽藍が良く見下ろせる。奥の院参道から見る本殿域。 銅葺屋根の流造で外削ぎの乗せ千木に3本の鰹木が施されている。本殿前で陶器製だろうか、小さな狛犬が守護しているが姿を見せてはくれなかった。日吉神社創建 / 不明祭神 / 大己貴神、罔象女神、大山咋神境内社 / 金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社、御嶽神社、鍬神社、刀利天宮祭礼 / 7月天王祭本祭、10月15日秋の大祭所在地 / 名古屋市名東区上社2丁目45-1参拝日 / 2022/09/08公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線上社駅から徒歩5分観音寺から徒歩ルート / 北へ徒歩10分関連記事 / 萬松山 観音寺 (名東区上社3)『貴舩神社』名東区一社3丁目、白い矢伝説の伝わる『貴舩社』
2022.10.04
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大江戸温泉下呂新館で快適な一夜を明かす。 既に朝風呂、朝食を済ませチェックアウトを待つばかり。部屋から望む縄文橋もこれで見納めとなる。 歩いてここまでやってきたものの、帰りは下りだがどうするか?昨日スルーした愛宕神社や山王坊をお参りしながら腹ごなしに歩いて下りる事にした。 高野山真言宗 弘法山(飛騨信貴山) 山王坊 以前記載した内容と重複しますが記載しておきたいと思います。「石標に「東海圏新西国 第二番札所」とある。 昭和43年8月、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれ、41号線を走行中の観光バス2台が飛騨川の濁流に転落、多くの方がなくなった「飛騨川バス転落事故」。 事故現場の国道を走行していると「天心白菊の塔」が立ち、事故の事実を伝えてきた。その塔も今年、上流の「道の駅美濃白川」に移転されたようだ。 この事故を契機に国の国道の整備・点検・管理体制の見直しにつながった。それでもこの国道や鉄道は常に災害のリスクが伴う、安全で快適が当たり前のように錯覚してしまう昨今、こうした碑は風化させたり撤去してはいけない。 この観音霊場は犠牲者の慰霊と供養を弔う目的で事故後設けられた33の霊場で山王坊はその一つ」入口から山王坊へ続く参道。 参道沿いには昨日見た祠が先に続く。この地方では大師信仰の中心的存在なのか四国八十八ヶ所の祠がずらり勢揃い。山王坊の狛虎? これは犬や獅子ではなく紛れもなく虎でいいだろう。山号の信貴山から受ける印象は、奈良県生駒市に鎮座する信貴山朝護孫子寺が思い浮かぶ。 虎の寺として知られ、阪神ファンが必勝祈願に訪れるという、ここにも立派な狛虎が寄進されていた。虎だけを捉えると、ここ高野山真言宗の山王坊と信貴山真言宗の護孫子寺の繋がりがありそうだが定かではない。狛虎から石段を上ると左側に鐘楼がある。 架けられた額には「飛騨信貴山 昭和廿九年」と刻まれてていた。 七福神 七病難封じ祈願の寺として病気封じのほうろく灸を行っているようだ。 斐太後風土記に目を通してみたが寺の沿革は見当たらなかった。境内右に円形に配置された七福神や白寿観世音菩薩等の像が境内に安置されていました。 ここを更に進むと身代り大師を経て、再び寺標があった入口に戻ります。山王坊本堂全景。 伽藍は本堂と右の庫裏で鬱蒼とした森に埋もれる様に鎮座している。沿革についてWikiと山王坊HPで食い違いが見られ困惑している。 Wiki「1937年(昭和12)、下呂水明館創業者の滝多賀男が建立を志し、中呂の大前家旧家を下呂に移し1939年(昭和14)に本堂、庫裡を建立。 寺格は美濃市上有知村向山にあった1685年(貞享2)建立の寺から移された」とあった。山王坊HP「1200年前、弘法大師空海によって開かれた密教であり、現世利益を大切にして人々の幸福を神仏に祈る宗旨であります。 当飛騨信貴山山王坊の本山は、和歌山県高野山金剛峯寺であり、御本尊は毘沙門天王様です。当寺は鎌倉時代に建立されました。 そして1992年(平成4)に、それまで雨漏りのしていた本堂を、多くの方々のご助力によって修理することが出来、その年の11月15日に落慶法要を行い、現在の当寺の姿となりました。毘沙門天王様は、福徳・財宝を司り、夜叉・羅刹の統領として、災いをなす暗黒界を治める仏天様ですので、殊に古来より商売繁盛・病魔降伏の守護神として人々を守り、当寺は、中部地方の毘沙門天王信仰の中心となっております。」ここでは山王坊HPの内容を尊重させてもらいます。 毘沙門天は聖徳太子が物部守屋討伐のため祈願した時、虎を供にした毘沙門天が現れ、物部守屋を討伐したとされる。謙信が毘沙門天を崇め、自らを化身と称したのもそうしたことからだろう。堂内外陣の格子天井には梵字と三鈷杵が書かれている。 内陣の中央に本尊の毘沙門天王像が安置されています。毘沙門天の鎧・兜はあらゆる魔を砕き、災いから守って頂けることを象徴するとされる。 右手の如意宝珠の棒は心ある者に金銀財宝を授け、家内安全・商売繁盛・病魔退散の守護を象徴するとされます。左手の宝塔は福を満し、信じる者の願いを叶える福徳の象徴という。鐘楼脇に掲げてあった「ほうろく灸」 弘法大師秘伝とされるこのお灸、効能はストレスや自律神経失調、ホルモンバランス調整などに効果があり、身体健康・病気平癒・無病息災の願いを込め祈願して頂けると云い、過去にテレビでも紹介された程知られるようです。また、この寺は檀家を持たない祈祷寺で、人生を全うする過程で誰しも必ず直面する色々な悩みがある、これらを祈祷により和らげてくれるのがこのお寺のようです。 悩みを持ち訪れる者を受け入れる姿は、開け放たれた無人の本堂からも窺えるような気がする。檀家を持ち葬儀や供養を行う寺と比較すると、境内の様子は少し違うかも知れない。山王坊宗派 / 高野山真言宗山号 / 飛騨信貴山(弘法山)開基 / 不明本尊 / 毘沙門天毎月縁日 / 3日毘沙門天、7日七福神、18日聖観世音、21日弘法大師、28日不動明王年中行事 / 正月三ヶ日 初詣 初護摩祈祷、2月3日 厄除大祈願星祭、北斗護摩祈祷修法、7月第1日曜 秘仏・毘沙門尊天御開帳会、11月第2日曜 毘沙門天王入仏記念祭、七福神祭所在地 / 岐阜県下呂市森2318-3飛騨信貴山HP狛虎から先に進んだ本殿裏に鎮座する楠公社と右に忠魂碑。 鎌倉時代から南北朝時代の武将楠木正成を祀る。創建など詳細は不明。 社後方の石標は回天と刻まれている。回天とは先の大戦で敗戦が濃厚となった時代、人が魚雷と一体となり敵目がけ突撃していった人間魚雷の事。 自らの命と引き換えに父や母、親族を護るため突撃していった回天特別攻撃隊を伝えるもの。楠公社と共にあるのも意味あっての事だろう。地勢的な危うさ、きな臭い香りが漂う昨今にあって、平和に慣れてしまった感は否めない、二度と同じことは繰り返してはならないが、家族を護るための弾の込め方くらいは知っておくべき時代かも。楠公社から左に進んだ谷への降り口付近にある櫛塚。 詳細は不明。櫛塚の後方から下りの山路が付けられていて、愛宕神社を経て下呂温泉合掌村方向に繋がっています。 怪しい道ですが大丈夫。平和の塔。 下呂市は2004年(平成16)非核平和都市宣言を発した町。回天碑やこの塔が宣言と関連するものなのか定かではないが、下呂温泉街から東を眺めると山中に手を合わせる様に聳え立つ白い塔は良く目立つ。道なりに下って行くと目の前に現れるのが愛宕神社。 周囲は杉木立に囲まれ、山肌を切り開いて覆屋が建てられている。昨日道路際から見た強烈な上りの参道はここに続いていた。覆屋には7体の観音像と山神が祀られている。 あたご夢くじ、おみくじは三本の授かり棒に結ぶことでなんでも願いが叶うという。Gマップで「山の神」のマーカーがありますが、恐らくここを示したいのだと思います。 山神はマップ上の「愛宕神社」にあります。みくじは引かなかったが、参拝をさせて頂き愛宕社から下っていきます。 途中から愛宕社を見上げる。道は格段に良くなり手摺も用意されていますが転けるとまずい下り坂。下を眺めれば愛宕社の神明鳥居と眼下に下呂温泉合掌村が間近に見える。 車道まであと少し。やっと車道まで下りて来た。 車道に掲げられていた愛宕様の案内板。愛宕神社創建 / 不明祭神 / 不明合祀 / 山の神所在地 / 岐阜県下呂市森ここまで来れば後の下りは楽なものだ。飛騨高椅神社 道路沿いから眺めただけですが、1974年(昭和49)に建立された神社のようです。飛騨高椅神社創建 / 1974年(昭和49)祭神 / 盤鹿六雁之命、櫛八玉之神、山陰中納言藤原政朝所在地 / 岐阜県下呂市森(下呂温泉合掌村内)さてこれで帰るばっかりだが、その前にクーポンで酒を買っていこう。 昨日通り過ぎた湯の街通り沿いの柏屋酒店まで戻って買い出しだ。柏屋酒店 テレビの「なんということでしょう」のフレーズで知られた番組の舞台となった店。酒の種類も豊富で何回か利用させてもらった事がある。所在地 / 岐阜県下呂市湯之島745-1毎度〃出かければおやじの空のリュックは酒と特産品でずっしり重くなる。 酒も纏めないとなぁ…当たりと外れが分からなくなる。今回の二本はどちらも地元で手に入るもの、どぶは何度か飲んだことがあり外さないが、左の久寿玉原酒超辛口は初めてだったが美味しく飲める当たりのお酒だった。 さて買う物は買った、後はビールを飲みながら電車に揺られて帰るとするか。訪問日 / 2022/06/29大江戸温泉下呂新館⇒下呂駅 / 徒歩ルート関連記事 / 大江戸温泉物語 下呂新館、岐阜県下呂市徘徊 水無八幡神社⇒浄観堂⇒山王坊
2022.10.03
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白川郷其の5天龍宮から北に徒歩5分ほど先にある神田家に向かう。上が神田家までのルート。 天龍宮から明善寺に戻って北進するも良し、直進し小さな沢に出会ったら沢沿いを下って行くも良し、小さな集落なので遠回りしても僅かなもの。合掌集落と田んぼ、稲穂はお辞儀をする時期を迎えていた。 間もなく収穫の時期を迎える。 神田家入口の眺め。白川郷地内の集落は見学可能な施設には案内板や行き先表示が整備され、メジャーな施設を巡る分には迷う事はない。 裏を返せばそうした表示や屋号が無ければ無断で立ち入りれないと思っていた方が賢明。見学施設とプライベートエリアの境界が保たれないのだろう、立ち入り禁止看板が目に付く。 看板は田んぼのあぜ道まで置かれていたりする。神田家全景。 四層構造の合掌造りで一階は居住空間、中二階には寝室、2~3階は御蚕様の作業場、4階は物置スペースとして使われていた。神田家は白川郷で名主や関守を歴任した和田家から文政年間(1818~1829)に和田家次男の佐治衛門が分家した事に始まる。 白川八幡神社の神田だったこの場所に屋敷を構えたことから、神田を苗字として吉右衛門を代々襲名したと云う。この建物は江戸時代後期に石川県の宮大工により、10年の歳月をかけて建てられた木造家屋で、当時の人の英知を結集して建てられたもので、後にこの地を訪れたドイツ人建築家ブルーメ・タウトに云わせると「合理的、論理的で独特の構造」と高く評価したという。 築後200年とは思えない誇るべき建造物。神田家玄関の左に鎮座する小さな鞘殿「龍神さま」 神田家受付の方にお聞きしたところ、神田家建築時にこの地にあった龍神さまをここに移設したという。なので200年前からこの辺りに祀られていた事になる。 入母屋銅板葺の妻入の鞘殿。 床は束で高く上げられ積雪を考慮しているようだ。扉は開け放ち風を取り込み、日々開け閉めされているのだろう。中には流造の社が祀られ扉も開けられていた。 そこには光り輝く鏡と天照皇大神の御札が見て取れる。神田家解説では龍神さまとお聞きしたが・・・神田家玄関先から眺める龍神さま、一説には白蛇が祀られていると云う。 右手に小さな池があり、それとなく龍神さまらしい佇まいがある。池と云っても止水の濁った水ではなく、常に水が流れ込み澄んだ水を湛えている。 集落には森がもたらす恵みの水が流れ、澄んだ流れには鱒や鯉が放たれ暑いときには涼を与え、田を潤している。神田家入口の案内板。 入館料400円で最上階まで見学できる。 囲炉裏端。 合掌家屋の中心的空間「おえ」ここで年中火を焚く事で建物全体が燻され防虫・防腐・防水性を高め、時に明かりともなる。 なので家中が黒光し落ち着いた色合いに包まれている。床はピカピカに磨き上げられ、開け放たれた扉から涼しい風が通り抜けていく。 夏でもエアコンはいらず、冬もこの囲炉裏がある事から以外に暖かい。やさしい色合いでゆらゆら燃える炎。 毎日がキャンプ気分か。焔硝土。 江戸時代、この地では一階床下を利用して、人尿や蚕糞、野草などを配合し、微生物のはたらきを利用し火薬の原料となる焔硝(硝石)がつくられていた。全ての材料は自給でき、今でいえば廃棄物をリサイクルし貴重な現金収入を得ていた。 建物もそうだが、廃棄物を利用し、エコな生活スタイルを実践してきたのが合掌集落かもしれない。陸の孤島ともいえる山深い集落だからこそ、生活する上の知恵が醸成されるのかも知れない。明治時代から昭和40年まで実際に使われていた☎。 物を大切に使い込んでいくのもエコのひとつ。話は脱線して。 15年以上使い込んだ斜めドラム式洗濯機の水位センサーが寿命を迎え、水位が分からなくなったようだ。センサーを代えれば復活するのだが・・・部品が手に入らない。 部品一つ如きで一式代えなければならない、部品に互換性を持たせることは出来ないのかね。火見窓。 中二階から囲炉裏を確認するための覗き窓。年中、囲炉裏の火を絶やせないので、火に弱い茅葺屋根の集落を守る意味からも必要な窓なんだろう。家屋内は昼でも暗く、小さな明りが灯されている。 上は二階、下は三階から外の眺め。 主に養蚕の作業場となるスペース。こちらの床も黒光りして暗い室内に外光を取り込んでいる。最上階。 暗さにも慣れて来たぞ、窓は遂に一つとなった。煙抜きの窓から眺める外の景色は結構下にある。 暗さに慣れてくると、普段の生活で昼間の様に明るい照明は過度に明るすぎるのかと感じてくる。こうした小さな照明で事足りる部屋もある様に思える。 神田家を後に北に向かう、写真のムクゲが咲き誇る合掌家屋は白川村消防団 中部分団第四班後方の合掌家屋。ここから更に北に向かいます。龍神さまと神田家龍神様創建 / 不明祭神 / 天照皇大神神田家建築年度 / 文政年間(1818~1829)所在地 / 岐阜県大野郡白川村萩町796営業時間9:00~17:00定休日 / 水曜日定休(水曜日が祝日の場合は営業)入館料 / 大人400円、小人200円訪問日 / 2022/08/22関連記事 / 白川郷 「天龍宮」天龍宮から神田家まで徒歩ルート / 北方向へ徒歩5分
2022.09.28
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外堀通りに面した八幡社から北西方向に5分程、諏訪公園が次の目的地「諏訪神社」になります。本陣の八幡社からだと諏訪小学校の北西方向に位置し、5分程で移動できる距離にあります。 上の地図は明治(左上)・大正(右上)・昭和12(左下)・昭和43(右下)と年代別に諏訪神社が鎮座する周辺の移り変わりを並べて見ました、右下に諏訪町が現れてきます。1947年(昭和22)に日比津町の一部、字中諏訪野から現在の諏訪町に独立、町名が示す様に諏訪神社が鎮座する事に由来するようです。 諏訪神社が地図上に現れるのは大正に入ってからの事。大正以前は本陣の八幡社は鎮座するが、日比津集落の西に広がる田んぼの中に諏訪神社の鳥居は見られない。 諏訪神社の創建は調べて見たが、尾張史に僅かに記録されてははいたが定かではなく、地図や寄進物の年代を見る限り、明治以前に遡るものは見受けられなかった。 日比津には嘗て二つの城が築かれていたという、日比津城、栗山城の二つで、何れの城も信濃出身の野尻藤松により築城されたとされ、栗山城址とされる大円寺には野尻藤松のお墓も残る。 そうした背景もあり日比津に諏訪信仰が広まり、後に諏訪神社が祀られたのかもしれない。諏訪神社が鎮座する諏訪公園の眺め。 公園敷地の東半分が社地で、境内は楠木の杜に包まれている。この杜の南側に鳥居を構えた社頭がある。 大きく枝を張る楠木は成長が早い樹なので、この巨木が神社の歴史を物語るかと云うと一概に言い切れないものがある。1920年(昭和20)頃の航空写真に田畑の真んに中残るこの杜は写っていたが、当時に比べると枝振りは今ほどでもないように見られる、周囲は田んぼから住宅街に変っても神社のお陰でこの杜は残った。社頭全景。 石の神明鳥居と右に「諏訪神社」の社標。大きく成長した楠、手前の樹が一番幹廻りは長いようだ、樹齢が何年なのか知りたいものだ。 社標の寄進は1931年(昭和6)だった。拝殿。切妻瓦葺でシンプルな四方吹き抜けの妻入り拝殿。拝殿鬼瓦(経ノ巻鬼瓦)と社殿を覆う楠木。 雨雲が来たかと思えば急に晴れ間が広がる、透かして見る葉の色はいつも綺麗なものだ。社殿東側から諏訪公園方向の眺め。拝殿から本殿域を眺める。 諏訪大社を本宮とする諏訪神社だけに祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)だろう。拝殿と本殿は玉垣でつながり、本殿域前に一対の狛犬の姿がある。本殿域は高く積まれ石垣の上で周囲は透塀で囲まれ、棟門と一体となる。本殿域を守護する狛犬。 彼らの寄進も1931年(昭和6)とあった。やや垂れ耳で子持ち、毬持ちの狛犬は、鬣が立体的に彫られた筋骨隆々とした姿のもの。棟門の軒下に額が掲げられていたが脱色し読めなかった。 本殿域には本殿に左右の二社の三社が祀られているようだ。諏訪社と左右の社。 どちらも板宮造りで何れも社名札は無く詳細は分からなかった。しかし本殿域始や境内全体は綺麗に手入れされ、今も地元から大切にされている。伽藍後方から樹々に包まれた広い境内と社頭方向の眺め。 参拝に訪れた時にも神社当番の方だろうか、境内の掃除に余念がなかった。歴史の深い浅いは神社の評価には繋がらない、どれだけ地域から親しまれているかだと思う。 自分が住む町の近くに小さな祠があります、誰からも手をかけてもらえず朽ち果てる一方。そんな祠でも時に拝みに訪れる姿を見かけると、DIYで勝手に補修していいものなら手を入れたいぐらいだ、なにぶん所有者を誰も知らないのが寂しいところだ。 諏訪神社創建 / 不明祭神 / 建御名方神境内社 / 不明社二社参拝日 / 2022/09/02所在地 / 名古屋市中村区諏訪町3-2-6関連記事 / 「八幡社・津島神社・御嶽神社」八幡社・津島神社・御嶽神社から徒歩アクセス / 北西の諏訪公園方向へ5分程公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線「本陣」駅から外堀通りを西へ、「諏訪小学校南西」交差点で右折、所要時間20分程
2022.09.27
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