道の駅・宿 0
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名古屋市西区上名古屋2「和徳稲荷社」 東隣に宗像神社と社地を共にし、この辺りでは桜の名所として知られる稲荷社。地下鉄鶴舞線の浄心から東に位置しアクセスは容易な場所。 桜の時期に訪れた経験はないけれど、ライトアップされた桜と朱の稲荷鳥居の味のある写真が撮れるスポットのようだ。 覚えておきたいと思うがカメラマンが一杯いると思うと引いてしまう。上は弁天通りの浄心東から北に一本入った先の宗像神社社頭全景。 和徳稲荷社は赤い幟が立ち並ぶ社地西側に鎮座します。宗像神社で纏めれば良かったが写真も増えてしまい二回に分け掲載する事にします。 和徳稲荷社社頭。 桜の神社と云うだけあって境内の杜は桜が目に付く。右に和徳稲荷社の社標が立ち、朱の鳥居の前に稲荷の代名詞狛狐が守護する。境内は実に多くの奉納幟と鳥居が立ち並び相当なご利益がありそうだ。 鳥居をくぐると参道は一旦二手に別れ、奥にあるニノ鳥居で再び合流する。出入口を分けたとは思えないが、参道中央に聳える桜の古木がこうさせたのかもしれない。一ノ鳥居の額。 桜が満開ともなれば華やかな光景が広がるのだろう。来年の桜の時期に訪れて見たいところ。鳥居右側の社標。 寄進年は昭和14年3月とあった。後方の宗像神社の常夜灯など安政7年(1860)の元号が見られたが、和徳稲荷社ではそこまで古い元号は見られなかった。 宗像神社は初代尾張藩主徳川義直(1601年~1650年)により名古屋城内に勧請した三社のひとつ、御深井弁天とも呼ばれ後にこの地に遷座した。ここ和徳稲荷社が宗像神社と共に時を刻んできたものか、創建等の詳細とは出会えなかった。一ノ鳥居前の狛狐(寄進年未確認) 参道を二手に分ける奉納鳥居。 どごぞの稲荷を思い浮かべる趣がある。一ノ鳥居のシックな額に対し、こちらは朱一色。拝所手前の手水鉢。 境内ではこの鉢が一番年季を感じさせるものかもしれない。ニノ鳥居から拝所、本殿方向の眺め。 拝所中央に大きな提灯が吊られている。朱と白で塗り分けられた拝所から本殿方向の眺め。拝所に置かれている重軽石、宝珠を模ったものか? この種の形状なら持つことに躊躇いはない、作法は御存知の通り。願いは「家族全員が健やかに暮らせ、この国が平穏であるように」……? 若干軽く感じたが、それは重さに慣れというのかナ。僅かな賽銭ながら、どこぞの利権にまみれた輩と違い、かみさまは金額で忖度はしない。 拝所に掲げられていた社殿改築の履歴。 昭和60年(1985)、改築。平成6年(1994)、大改修。 平成16年(2004)、稲荷鳥居改修。多くの寄進者に支えられ和徳稲荷は成り立っている。本殿域全景。 ここにも狛狐。社頭のものと比べ黒ずんだ風貌は年季を感じさせる。(年代未確認)本殿は銅板葺の流造、棟には外削ぎの乗せ千木と二本の鰹木が施されている。 由緒は不明ですが、訪れた者へ公平に御利益を与えてくれる和徳稲荷。和徳稲荷社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命(名古屋市史より)所在地 / 名古屋市西区上名古屋2-7関連記事 / 興西寺 名古屋市西区城西興西寺から徒歩アクセス / 北西に徒歩5分前後公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」駅降車、北東に徒歩5分程参拝日 / 2022/08/26
2022.09.09
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中村区日比津町3 水神社2022/09/02。 強い勢力で方向の定まらぬ台風11号、遠く離れていても猫の目の様に空模様が豹変し安定しない。外出したくとも躊躇する毎日が続き万歩計も数値が伸びていない。 業を煮やして折りたたみ傘を忍ばせ地下鉄で中村区を訪れる事にした。地下鉄東山線「本陣」駅1番口。 台風の影響から晴れ間と雨雲が入り混じる空模様、降られたら退散しよう。さて今回は目の前の本陣通りを西に向かい庄内川方向に歩こうと思う。 最初の目的地は西に向かって徒歩で約20分程の「水神社」上の地図、左は1920年頃(大正9)、右がほぼ現在の目的地周辺。 当時の地図上では水神社の鳥居の印は見られなかった。当時の日比津周辺は集落が点在し、その周囲は田畑が広がり、小さな水路が張りめぐらされた長閑な環境だったのが窺える、恐らく窓を開け放てばいい風が入ってきただろう。 鎮座地は日比津集落の西外れに鎮座している。田畑を耕すうえで水は不可欠、水神社の創建は不明ですが、祭祀の動機は豊作と集落を水害の禍から守るために祀られたのだろう。 それから僅か1世紀ほどで田畑は消え、一面住宅が連なる変貌を遂げた。田畑を潤した用水は埋め立て、或いは暗渠となり歩いていても見かけなかった。水神社全景。 交差点の角に社地があり、社頭は概ね南向きで周囲は住宅街が広がる。小さな神社ですが、右に水神社の社標、神明鳥居を構え、高く聳える樹々の杜を持つ。 現状を見るかぎり住宅街の水神社、多少違和感がある。1920年の地図上で見ると左の道路、以前は水路だったようだ。 田畑を潤す水路脇に佇む水神社、なるほどのシチュエーション。社頭から境内全景。 社標の寄進年は1927年(昭和2)、石の神明鳥居も同じ年に寄進されたものだった。その先は切妻瓦葺で四方吹き抜けの拝殿?神楽殿?が建っている。 長かった夏休みも終わり、授業を終えた子供らの集会場となっているようだ。神社の境内に子供の姿があると、その寺社が身近な存在として感じられ好きな光景だ。 敷居の高い寺社はどうも魅かれない。社殿全景。 後方に一段高く盛られ、玉垣で囲われた本殿域がある。本殿域の左右に大きな神木が聳え、天気の影響もあるが木陰となり、ここからでは本殿域の様子は窺がう事はできない。本殿域には板宮造りの社が三社祀られているようだ。本殿域全景。 何れも社名札はなく、本殿両脇の二社も詳細は分からなかった。水神社の祭神も罔象女神なのか、或いは龍や蛇なのか、それも定かではない。 ただ、社頭の幟台の寄進が1994年(平成6)と新しいものだったので、神社を取巻く環境は大きく変わっても、地元では今も厚く崇敬されている様子、氏子の皆さんに出会えれば教えて頂けるだろう。 境内で遊ぶ次の世代に伝えるためにも社名札はあっても良いかもしれない。 当地を訪れたよそ者から見れば、背後に庄内川を抱え、水神神社は川を鎮めるために祭祀?と感じてしまうが、ほんの少し前のこの地を知るとそればかりではないようだ。水神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明社2社所在地 / 名古屋市中村区日比津町3-13参拝日 / 2022/09/02公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線「本陣」駅降車、本陣通りを西へ徒歩20分前後
2022.09.08
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白川郷其の2前回掲載した白川村萩町「秋葉神社」から東に進み、萩町内を南北に貫くメインストリートを右に進みます。 目指す白川八幡神社はそこから少し先の左側に鎮座します。若かった頃、この白川八幡社には思い出があり、たまたま社頭の前を通りかかった時の事。 小汚い恰好でテントとシュラフを持った見慣れぬ若造に「神酒飲んできな」と声掛けをしてもらい、祭の輪に加わり白濁した酒を振舞ってもらった事は今も忘れられない。口にしたどぶの味は格別のものだった、それが人生初の「どぶ」との出会い。 以来、白川郷や荘川は自分にとって特別な場所となり足繫く訪れたものです。 始めて毛鉤で岩魚を手にしたのが庄川、カヌーに乗ったのもここだった。 今は自信がないが山菜の事を教えてもらったのもこの地域、何か故郷に来たような親近感を覚える。 メインストリートを右に曲がると大きな杉の木立が見える、そこが白川八幡社社叢。 酷道156号線も随分と楽に走れるようになりました。当時、車で通れたこの通りは通行規制となり、今は庄川左岸を迂回する様になった。 1995年に世界遺産登録以降訪れる観光客も増え、人の少なかった山間の里は観光地に様相を変えた。 白川八幡社社頭全景。 鳥居を挟む様に杉の巨木が聳え、その先に境内が広がる、右手の樹の陰に自然石から彫られた社号標が立っている。左に自然石の手水鉢があり、ここで清めます。緑豊かなこの地らしい趣のある鉢。 水は絶え間なく流れ、水は苔を育み鉢全体を包み込みそこには次の芽吹きを育む、水はまさに生命の源。白川八幡神社一ノ鳥居。 素木の木造明神鳥居で控え柱の付く両部鳥居。人を魅了する華やかさはないけれど、変に飾らない姿は日本人の持つ美観の原点だと勝手に決め込んでいる。境内からニノ鳥居と拝殿、右の茅葺屋根は釈迦堂。 どぶろく祭りの時には人で溢れる境内、普段の八幡神社は静かさに包まれ、訪れる観光客も少ないようだ。境内左手に手水舎、左の建物は「どぶろく祭りの館」 内部は人形や模型が展示され、どぶろく祭を再現する展示施設。その後方に入母屋妻入りの白川村招魂社が鎮座する。ニノ鳥居は石造の明神鳥居。 拝殿までは常夜灯二対と一対の狛犬が守護する。伽藍は正面の拝殿と奥に鞘殿、右に茅葺屋根の釈迦堂と神楽殿、拝殿左に白川村招魂社、その前にどぶろく祭りの館が主なもの。 笠木の上に願掛け石は乗せられておらず綺麗なものです、この風習いつ頃から広まったものかずっと気になっています。おやじの地元でそれすると褒められることは絶対ない。鳥居をくぐって拝殿全景。拝殿前を守護する伏せ耳の狛犬。 見事な岩を台座にしたもので、狛犬の足元まで苔が覆い始めている。拝殿は唐破風向拝を持つ入母屋造で。 銅板葺の屋根で、素木と漆喰の木造拝殿、華美な彫飾りや飾り金具のない落ち着いた外観。軒先には雪囲いのシートを掛けるレールが付けられ、雪深い土地柄ならではの工夫が見られる。社殿全景。 鞘殿は山の傾斜を生かし、拝殿より少し高い位置に建てられている。雪囲いの白いカーテンは此処に吊られていた。白川八幡神社由緒「勧請年代は不詳。 口碑に依れば和銅年間(708~715年)の創立と伝わる。故に境内の老杉を以て推定される。 古代白川郷は43ヵ村あり、その総社として崇敬されてきた。祭神は応神天皇を奉斎、産土信仰と伴に萩町・戸ヶ野・島集落の氏神として崇敬され今日に至る。 往昔依り秋の豊作を喜び新穀で神酒を造り、神に捧げ神を敬い自然を愛し、人々相互に秋の豊穣を喜び祝い、伝統の獅子舞等により神幸祭が催されます。 例祭、どふろく祭は毎年10月14日、15日両日行われる。」岐阜県神社庁の解説「当神社旧位置は北方150間(約270㍍)を離る山越地内なり。 東方山腹険阻にして冬季降雪多く雪崩の為押潰され現位置に移転し、元禄年間(1688~1704)に社僧仙光院を置く。旧位置は田に変更開墾し、仙光院抱と定む。 隣接地の民家の姓を神田と称し現存す。神社初代は和銅年間(708年~714年)なりと口碑に傳ふるも其の間の経歴不明なり。 往古白川郷六厩以北越中の国境十九里小白川に至る43ヶ村の大社なり。明治四年(1872)旧筑摩縣時代に六厩以北中野まで18ヶ村を荘川村と尾神以北小白川まで23ヶ村を白川村と改称せらる。当神社を白川荘川両村の郷社に列せられる」とあった。拝所全景、神社幕の紋は16菊の中に橘が入る。額は「八幡宮」 由緒と神社庁の由緒から創立は和銅年間(708~715年)。 祭神は応神天皇。神社は自然災害で被災し現在地に遷座しており、旧社地は現在の神田家あたりのようだが名残は見られなかった。 寛永12年(1636)には社殿が再建される、以後の補修・再建の履歴は分からなかった。拝殿奥の覆殿。 外見から本殿の様子はさっぱり分からない、雪深い土地柄なのが分かる。右手の切妻の小さな建物は放水銃が収められ、不測の事態に備えている。白川村招魂社全景。 拝殿同様の雪囲いが付けられている。 額には「白川村 自治功労者 戦没者 白川村招魂社」とある。 護国の英霊、氏子の祖霊をお祀りしたもの。拝殿から右の少し離れた所に入母屋造で茅葺屋根の堂がある。 世界遺産構成要素の建築物の一つで、周囲の景観と茅葺屋根の堂は日本の里山の原風景の趣がある。こちらの素木の建物は釈迦堂で正面は格子戸になっている、神仏習合の名残を留めるもの。 釈迦堂内部。 正面に扉があり、その奥に阿弥陀如来、釈迦如来、日光菩薩、月光菩薩の4体が安置されているようだ。堂の解説。「寛永4年(1627)8月12日、萩原町城主「山下氏勝」が病気平癒のお礼に寄進した御堂。 氏勝が徳川家康の命により、名古屋城築城の大役を受けた折、諸国の優れた彫刻家に彫らせた「弥陀、釈迦、日輪、月輪」の4体の仏像を安置する」 神楽殿後方斜面の招魂碑。神楽殿全景。由緒抜粋。「 由緒 元禄年間に社僧、仙光院を置き白川八幡神社を守護してきた。どぶろく祭由来。 昔秘境白川郷は交通の便が悪く、僻地につき娯楽は全くなく、郷民の楽しみとしてどぶろくを自由に造り、これを唯一の楽しみとして男も女も歌ったりさわいだものであります。時代も変わり明治29年(1896)、酒造法施行に伴い、神社に於てのみ濁り酒の製造が180liter以下に許された。 その後、昭和37年(1962)酒税法の一部改正に伴い石数制限が解かれ今日に至る。どぶろくの許可については以下の制限がある。1.祭礼用である事。2.境台の持ち出し販売はしない事。」記載にある神仏習合時の別当寺「仙光院」のその後は掴めず、Wiki情報では延享5年(1748)に内ヶ戸から移された明善寺が務めたようだ。 さて、どぶろく祭は白川八幡神社では10月14日・15日ですが、郷内の白川八幡宮(10月14~15日)、鳩谷八幡神社(10月16~17日、飯島八幡神社(10月18~19日)と行われ、郷の五穀豊穰、家内安全、里の平和を山の神に祈願する。2年続けて神事のみで振る舞いは見送られて来たこの祭り。 今年開催されるのかとても気になる、……飲みに行きたい。「僻地につき娯楽は全くなく、郷民の楽しみ…」分かるような気がする。 神楽殿から釈迦堂、拝殿、鞘殿、白川村招魂社の眺め。 狛犬が見守る境内。今は静寂に包まれているが、間もなくどぶろく祭りが行われれば、境内は振る舞い酒を求める人で賑やかな事だろう。ニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め。 さて境内を後にして中心街に向かう事にする。 北にある展望台は絶景スポットとしてとても人気はある、秋の訪れを感じる白川郷、時間にゆとりがあれば白川八幡神社訪れて見てはどうだろう、奮発した賽銭はどぶになってまた戻ってる。白川八幡神社創建 / 和銅年間(708~715年)祭神 / 八幡神(応神天皇)境内社 / 白川村招魂社、釈迦堂祭礼 / どぶろく祭 10月14日・15日所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町559参拝日 / 2022/08/22萩町秋葉神社から徒歩ルート / 秋葉神社から東に進みメイン通りを右へ、徒歩5分程関連記事 / 白川村萩町「秋葉神社」
2022.09.06
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名古屋市西区枇杷島2「中島黒體龍王大神社」 先に記載した「子安地蔵尊」から北の庄内川左岸堤防上に鎮座する神社。上 これまで枇杷島周辺に鎮座し参拝した寺社を地図に落としたもの。左が昭和7年、右がほぼ現在のもので、中島黒體龍王大神社は赤のマーカー。 この神社は中島と呼ばれていた庄内川の中州に鎮座していたと云う。現在の地図では既に中洲の面影はないが、左の昭和初期の地図では中洲が描かれている。 枇杷島橋は大正初期、既に現在の場所に架け替えられ、以前の橋は中島黒體龍王大神社の少し上流側に架けられていたが既に姿は見られない。流程が長く幾つもの支流が流れ込む庄内川、川幅は広いが中洲がある事で川幅は狭まり、尚且つ上下流で大きく流れを変えるため水害が多く、古くから川と鬩ぎあって来たところ。 水害の一つの要因となる中洲は昭和25年から33年にかけて掘削・撤去され、地図上から姿を消す事になります。下は尾張名所図会の挿絵に描かれた中島(手前)の様子。庄内川を挟み現在の清州と対岸の西区を繋ぐ美濃路は橋がなく渡しで行き来していた。 そこに橋を架ける上で中島は重要な役割を果たした。当時、既に中島には集落が出来ていたが、美濃路を結ぶ要衝ながら渡しを使い行き来していた、中島があった事で二つの橋を架け対岸に渡る事が出来るようになった。 1622年(元和8)、中島を中継とし挿絵にある大小二つの橋が架けられ、容易に庄内川を越えられるようになり、それにより中島には茶屋などが建てられ賑わいを見せた。尾張名所図会には「国中第一の大橋で、東西に二橋を架け、大橋は長さ七十二間(約130㍍)、小橋二十七間(約48㍍)、杭・桁・梁・高欄其他に至るまでみな桧材を用い、結構の善美で見るものを驚せ、両橋の間に中島があり南北六町(約600㍍)ばかり川中へ墾出す」とある。 多少盛り気味とも思える内容ですが、当時の技術では庄内川の川幅を一つの橋で架ける事は難しく、中島が無ければどうだったか。中島黒体龍王神社は中島守護をもたらす龍神が鎮座する神社。 由緒によれば面白い話が伝わっている。「当社は中島黒體龍王大神社と称し、祭神は黒體龍王大神を祀る。 位置は愛知県西春日井郡西枇杷島町大字下小田井字中島。御光明帝(1633~54)の慶安年間(1648~1652)に当時枇杷の洲と呼ばれていた此の地で立穀豊穂の祈願が行われていた頃の事。 夢枕に御神体が現われ「龍神となってこの地を守る」とお告げがあり、村人はそれを喜びこの神社を建て370年以上の歴史があると云う。一方で当地には御嶽黒沢口を開いた覚明行者と龍にまつわる話もあるようです。 寛政元年(1789)この地を訪れた覚明行者(1718~1786)は大雨で橋が流され、川の畔で思案に暮れていたところ、金色の大蛇が現れ覚明行者を対岸に運んだと云う。巡行を終えた覚明は、帰途に里人と共に神社を改修した、今を去る事237年前である。そんな龍に纏わる話があるようで、大きな川にはこうした龍や蛇はそこかしこに生息し、庄内川堤には他に何体も龍が鎮まっています。上子安地蔵尊堂から改修された堤の上に鎮座する中島黒體龍王大神社。 神社は1953年(昭和28)に中島から庄内川左岸堤防上に遷座しますが、2019年(令和元年)堤防補修・改修工事に伴い、少し下流の現在地に再移転しました。 黒で塗られた綺麗な外観や境内はそうした事もある。西側から見る神社全景。 左は庄内川、右が枇杷島の街並み。堤防から神社、上流の眺め。 草木が茂っていた堤防は改修・舗装され名鉄名古屋本線の橋梁まで伸び、車の乗り入れができない事もあり、ランニングコースとして利用する姿も見える。 ここから下流の枇杷島橋は橋梁嵩上げ、4車線化、橋桁削減に向け、新たな橋の建設工事が進められています。今後も新幹線の橋梁架け替え、やがては名鉄の橋梁架け替えなどこの地域は変貌し続けるようです。 社頭の「黒體龍王大神」の石標(1944年)、石の神明鳥居(2019年)の前に由緒書き、燈籠(1957年)、参道左側に手水舎、境内社、拝殿に続く。由緒記。 昭和19年、大出水で中島に鎮座した神殿の一部を流出、社地を南100㍍の地に遷座。昭和25年、神殿を造営。 昭和28年、名古屋市西区東枇杷島町の庄内川左岸堤防に遷座。令和元年現在地に遷座。 国家の康安、家内息災、商業繁盛の加護が得られる。由緒側面の水見杭の解説。 「寛永3年(1626)尾張藩が枇杷島橋下流袂に設置した水斗杭で、管理は枇杷島橋々守当町川口惣七家が務めた」尾張藩により寛政10年(1797)に設置された水見杭は堤防法面に2本立てられ、川底から堤防天端までの水位を測り水位の上昇に応じ枇杷島村村民が尾張藩に報告していたという。 最悪の水位となった場合、橋の保護、城下への浸水被害を避けるため、下小田井側の堤防を切り被害の最小化を図ったようです。鳥居から社殿全景。手水舎。 手水鉢に清水を注ぐのは立派な髭を持った青い龍。手水舎右の境内社。船玉稲荷大明神と白頭金體龍王。年行事 元旦祭 1月1日 午前零時節分祭 2月3日 午前10時 春季大祭 4月24日 午前10時秋季大祭 10月24日 午前10時拝殿額「黒龍神社」拝所右の重軽石。 最初にこの🐍を持ち上げ重さを感じ取り、座布団の上に戻す。願いをこめながら🐍を良く撫で持ち上げた時、軽く感じれば願いが叶うもの。 石とはいえこの手の重軽石は…触れないこの重軽石の右側に扉があり、拝殿内に入る事が出来ます。拝殿中央の社の前に鏡があり、神前幕の上で口を開げてとぐろを巻く巨大な黒體龍の姿がある。 左右にも社があり、右の社の上には金色の龍、左の社には青い龍の姿、龍の巣窟だ。其々の社に木札が掛けられているが榊の陰となり読み取れなかった。 幕に描かれた神紋も初めて見るもの、神職の方がお見えであれば伺いたかった。 拝殿天井絵。 格子天井の中央に縦6面、横4面を使って躍動感溢れた二頭の龍が描かれている。顔料の種類は不明ですが、令和の龍に相応しい描き方で、特に鱗の描写が素晴らしい。 これから時を重ね趣が増していく事だろう。拝所前、ここにも飛び立たんとする龍の姿がある。参拝を済ませ境内から架け替えが進む枇杷島橋の眺め。中島黒體龍王大神社創建 / 慶安年間(1648~1652)祭神 / 黒體龍王大神境内社 / 船玉稲荷大明神、白頭金體龍王所在地 / 名古屋市西区枇杷島2-24参拝日 / 2022/07/27関連記事 / 西区枇杷島2「子安地蔵尊堂」
2022.09.05
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前回掲載した「湯の街通り界隈」の高札から阿多野川を渡り交差点を直進します。 直進とは云うものの微妙な上り坂が続きます。交差点の前方に杉の杜が見つかれば目的地の森 水無八幡神社です。 後はあの巨木の杜を目指せば辿り着けるはずです。緑豊かな下呂とは云っても旅館や民家が立ち並ぶ市街にあって貴重な存在かも知れない。 歩いて行くと決めた今夜の宿、ここはその道程の途中に鎮座する神社、参拝しないのも失礼だ。 杜を目指して進むと社殿の建つ境内に至ります。社頭はその下の松原通りに接しており、そこには石の明神鳥居を構え、その先の石段から社殿に続く。 前の通りを左進めばチャップリン像に続きます。 社頭全景。 右手に「水無八幡神社」社標と左に「下呂 田の神祭国重要無形民俗文化財指定」の石標。その後方の常夜灯脇に一対の狛犬が石段入口を守護する。石段前の狛犬(年齢不明)。 なかなかバランスの良い姿をしている。鳥居扁額「水無八幡神社」 杉の巨木の社叢は県の天然記念物に指定されていると云う。上鳥居脇の森八幡神社文化財解説。 「木造神像国指定重要文化財 昭和15年10月21日指定 本神社の収蔵庫には10体の木造神像が保管されています。神像は像高30~60㌢で平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠により彫られました。 神像は風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重なもの。下田の神祭の起源は定かではないようですが一説には400年~500年前に遡るとされ、飛騨路に春を告げる祭りとして毎年2月14日に行われる森 水無八幡神社の例祭。 稲の豊作を前もって祝う予祝という、田楽芸能の様式が継承されている。踊り子と呼ばれる4人の若者が色鮮やかな花笠をかぶり舞を披露することから、「花笠祭」とも云われる。」上は「斐太後風土記下巻」に描かれていた田の神祭の様子。 花笠祭と呼ばれる由縁が見て取れ、近隣の各組から選出された踊り子は、下呂温泉合掌村の池で禊を行った後、踊りながら森 水無八幡神社までやってくるそうだ。石段を登り切ると社殿が広がり、境内には何本もの杉の巨木が聳え、夏の陽ざしを遮り心地よい木陰を作ってくれている。 下呂市街、散策していても以外に木陰が少なく涼を求めるには絶好。境内左の手水舎と少し強面の龍。 社殿を守護する狛犬(年齢不明)。 境内左側の杉の巨木と「古代樹 樹齢二千有余年 周廻四十五尺」と刻まれた石柱。下呂之大杉の由来 「この地に樹齢2千有余年、周囲13㍍の巨大な杉の老木が茂っていた。記録によると、安政6年(1859)1月20日、湯之島下町より出火、折りからの強風にあおられ飛び火し、2番杉は途中で焼き折れ、拝殿、神輿堂を焼失したが、大杉は真頭を焼失するに留まり生き残った。 昭和3年(1928)、国の天然記念物に指定され、近隣に比類なき巨木「下呂の大杉」と親しまれていた。ところが、昭和27年(1952)5月8日、又もや湯之島下町より出火、5月特有の北風にあおられて大杉に飛び火し、巨大な煙突の如く燃え上がり、惜しくも上部を焼失してしまった。 そのため国の指定は解除されたが、焼け残った基部約10㍍は、岐阜県の天然記念物に指定されていた。度重なる火災にあい「火伏せの大杉」と崇められていたものの、内部は畳が6枚程敷ける空洞であった。 しかし外壁にあたる幹の一部と、地上5㍍程から出て高さ12㍍程にのびた一の枝は青々と茂り生き永らえていた。枝とはいえ直径50㌢をこす太さであった。 しかるに、平成2年(1990)8月9日、補強工事を目前にして腐食が進み、突如倒壊してしまった。現在、大杉の立っていた跡に二世の若木が植えられている」左側に嘗ての大杉の姿が添えられている、巨木が多い境内にあって杜の主らしい風格が漂う存在だったようだ。これが二世の若木。 傍らに「天然記念物下呂之大杉跡」の石柱が立てられています。話は脱線しますが、二度の大火に見舞われたこの杜は概ね杉が主となっています。 青々とした緑の杜は枯れ葉と違い燃え難いイメージがありますが、樹脂を多く含む針葉樹は生木でも燃えやすいのでキャンプの際は要注意です。 逆に燃え難いとされるのがイチョウ、寺社の境内で見る機会が多いのもそうした性質と食べられ事から植えられることが多いようです。収蔵庫。 境内左にあり、この中に社頭の解説にあった重要文化財の10体の木造神像や棟札が保管されている。森 水無神社拝殿全景。 境内の伽藍は正面の拝殿、幣殿、本殿の他、本殿右に稲荷社、その右に入母屋校倉造の社が主な伽藍。 水無神社と云うとここから高山方面に車で小一時間程の飛騨國一之宮のイメージがあるが、下呂で水無神社に出会うとは。飛騨國一之宮の水無神社から勧請されたものと思われますが、境内で由緒を見かけなかっ事からさだかではない。 斐太後風土記に森水無神社について記述があったので一部を引用させてもらいます。・益田郡下呂郷森町八幡宮の古昔は道祖神の社だった、後世湯之島村の山の上の稲荷社の鎮座する当地に遷し祀った。 ・往古は松森水無八幡宮とも呼ばれ、境内1反6畝歩の境内除地、境外田畑3反7畝14歩の境外除地を有した・祭禮は毎年正月14日で是を田神祭と云う。 ・下呂郷、湯之島、森村、小川、少ヶ野、門原の五村の氏神。・別当は森村の禅寺泰心寺で、森村に移り住み昔大名だったとされる田口玄蕃掾が古くから神事を司っていた。 それ以外としては以下が分かった。1868年(明治元年)村社に列し、森区の氏神となる。 1907年(明治40)、神饌幣帛料の供進指定を受ける。1909年(同42)近隣の11社を合併合祀した。 創建に繋がる明確な記述は見つけられなかった。拝殿額「八幡神社」。 社標は水無八幡神社、解説は森八幡神社、Gマップでは森水無神社、どうしたものか、取り敢えずここでは森(町の)水無八幡神社としておこう。幣殿の奥に輝く鏡、その奥に本殿の姿が見えるが細かなところまでは分からなかった。 参拝を済ませ社殿側面に回り込んで見よう。祭神 / 須佐之男命、猿田彦、応神天皇、御食津神、倉稲魂命、事解男命、早玉男命、大山祇神、火産霊神、大己貴命、埴山姫命、興津彦命の12柱。拝殿右側の社は稲荷社のようだ。 小さな狐が複数安置されている。稲荷社の左側見る本殿。 本来なら雪深い土地柄、本殿を露わにすることはないのだろう。本殿は覆殿の中に収まっているようでここでも全貌は見られなかった。稲荷社の右に「金比羅様の願い石」 小さな石が置かれ、それで下の大きな岩を叩いた時の音が「金金」と聞こえれば願いが叶う。※夢夢疑う勿れ金比羅様の願い石の右に建つ校倉造の立派な社、残念ながら社名札も扁額もなく詳細は分からない。 左は金比羅様の願い石だけに、これは金比羅神社か?この後方にも樹齢を重ねた杉の巨木が聳えている。この社の右に大きなシャッターを供えた蔵?がある、神輿を納める堂だろうか?堂の右は脇参道で明神鳥居と小さな狛犬が守護していた。 森の水無八幡神社、大きな杉の杜に包まれた境内は散策する者に心地いい日陰を提供してくれる。森 水無八幡神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命、猿田彦、応神天皇、御食津神、倉稲魂命、事解男命、早玉男命、大山祇神、火産霊神、大己貴命、埴山姫命、興津彦命所在地 / 岐阜県下呂市森1321参拝日 / 2022/06/28高札場から森 水無八幡神社徒歩ルート / 徒歩10分程関連記事 / 下呂温泉「湯の街通り界隈」、 飛騨一ノ宮 水無神社
2022.09.04
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以前掲載した八幡社から西へ5分程。 庄内川堤防の一部を切り取り小さな堂が建てられています。そこが今回の目的地「子安地蔵尊堂」です。上は周辺の寺社、赤いマークが子安地蔵尊堂。 ここから北は庄内川が流れ、堤防沿いに県道106号線が伸びています。子安地蔵尊堂全景。 庄内川の堤防法面の一部を堂の敷地として与えられています。左右、後方をコンクリート擁壁で囲まれ、敷地自体が堤防の一部となっています。 左に子安地蔵尊の石標があり、その奥に比較的新しい切妻瓦葺の堂が建っている。境内は綺麗に清掃され、お地蔵様が安置される堂内も良く手入れされている。 後方左の堤防上の建物は中島黒體龍王大神社。堂内には一体のお地蔵様が安置され、背後に由緒が掲げられている。堂内に子安地蔵尊移転新築の沿革が掲げられていた。 「平成27年度枇杷島橋上流左岸の堤防拡張工事により、昭和28年8月8日に改築された地蔵堂の移転が余儀なくされ、南へ約19㍍の当位置(西区枇杷島2丁目2411番の河川占用許可地)に地蔵堂を新たに建立する。平成28年3月27日、「清音寺」住職により新地蔵堂の落成法要と町内会記念行事として新築を祝う。」これによれば現在地の北側に鎮座していたと伝え、現在堤防上に鎮座する中島黒體龍王大神社の東付近に祀られていたようで、堤防上から住民により近い堤防下に移されたようだ。上は忘れもしない平成12年(2000)9月11~12日の東海豪雨の時の当地の写真、そこに子安地蔵尊と堤沿いの神社を表してみた、黄色は既に訪れたもので赤が子安地蔵尊。 堤防沿いに続く県道106号線は水没しその水面は越水寸前まで迫っている。沿革にあった左岸の堤防拡張工事はこの事象が決定的となったと云ってもいい。尾張枇杷島子安地蔵大菩薩由緒は以下のようだ。 「寛永年間(1624~1644)、尾張徳川藩の重臣の夢枕に地蔵菩薩が現れ、地蔵菩薩を建立するようお告げがあり、祀られたのが始まり。この地に鎮座し参百有余年を経て、この間数々の不思議な瑞祥が起った事から人々から敬われた。 特に子供に関する願い事は何でも成就して頂け「安産・母乳・子供の夜泣き、よだれ・寝小便」等に関する願いに霊験あらたか。昭和20年(1945)3月25日当地一帯は空襲に見舞われ、一帯は焦土と化したが地蔵尊とその堂だけは無傷で残り、周辺の町民から吉兆として喜ばれた。昭和28年8月8日改築」終戦迫る絶望と不安の最中、この地蔵は住民の地元復興に向けた希望になっただろう。 お地蔵さんの表情は実に優しい表情でにこやかな笑みを浮かべたもの。悩みがあれば一人で考え込まず、雑念を払って手を合わせると出口も見えてくるものだ。 出口を開けれるのは水晶玉ではない、自分の行動しだい。 子安地蔵尊。 由緒からすればこのお地蔵様は寛永年間(1624~1644)に奉納されたもの。左手にそっと抱きかかえる子の姿がある、親として育児に悩んだ時期は経験している。 当時は苦痛だったが振り返って見れば僅かな期間だった、子育ても長く苦しいようだが巣立って見れば短くもあり、それを上回る喜びも与えてくれる。育児に悩んだらそっと抱いてやろう。夜泣が止まず夜中に町内を車でひと回りした事もある、当時このお地蔵さんを知っていれば相談にきていたかもしれない。 子育て以外にも地元に住む人々の多様な悩みを4世紀に渡り聞き入れて来たお地蔵様です。子安地蔵尊堂と庄内川法面。 庄内川堤防南側の法面の小さな堂の中から住民を見守り、庄内川の氾濫を鎮める様に佇むお地蔵様だ。子安地蔵尊建立 / 寛永年間(1624~1644)安置仏 / 子安地蔵菩薩所在地 / 名古屋市西区枇杷島2-24-15八幡神社より徒歩 / 美濃路沿いに西に向かい徒歩5分参拝日 / 2022/07/27関連記事 / 八幡社 名古屋市西区枇杷島3
2022.09.03
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名古屋から高速で2時間30分程、岐阜県大野郡白川村萩町の白川郷を訪れた。 昔は御母衣ダム沿いのくねくね道を延々と走ったものですが、今は東海北陸自動車道が伸び、白川郷ICを降り10分もあれば村営せせらぎ公園駐車場に入れる、9時少し前に到着。8時頃には入りたかったが、そもそも1時間程寝過ごしてしまったのが大きな誤算だった。 白川郷は宿泊者以外の見学を8:00~17:00に制限されています。早めに着いて写真を撮りたかったが、既に多くの人波が出来ていた。 聞いた話では町全体が見学施設の様に思われ、プライベート空間や畑まで立ち入られ困惑しているそうだ。そうしたこともあり、入口に「立ち入り禁止」表示の看板が立つ光景が目立った。山々に包まれた庄川沿いの僅かに開けた土地に茅葺の合掌造り集落が立ち並ぶ、その光景は日本の原風景そのもの、美しい景観を見せてくれる。 この集落は1976年に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、後の1995年に五箇山と共に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、ユネスコの世界文化遺産に登録以降、長閑な山村は観光地へ変貌した。 この集落の合掌造り家屋の多くは、概ね江戸時代末期から明治時代末期までに建てられたもので、集落には後に建てられた合掌造り以外の家屋もあります。街中と違うのは隣家と隔てる壁はない、訪れた者からみると見学施設とプライベートの境界が掴めず、結果的に「立ち入り禁止」看板になるのだろう。 合掌造りの家屋全てが公開されている訳ではなく、住民が生活する家屋である事を忘れたくない。 その昔、富山から五箇山、白川郷の庄川沿いを何度か走ったことがあります。 庄川沿いに作られたくねくね道、そんな光景ばかりが延々と続く。そんな光景も一気に視界が開け、目の前に現れた朝もやに包まれた合掌集落の光景、今だに記憶に残る。 当時は町内を走るメインストリートはマイカー乗り入れ規制などなかった。今や高速のトンネルを抜ければそこは白川郷、便利になったものだ。 道路が便利すぎる故に、ドライブの印象は以前の線から点になってしまった気がする。上のマップは白川郷の観光マップ。 村営せせらぎ公園駐車場から最初の目的地「秋葉神社」を〇で囲んで見ました。 村営せせらぎ公園駐車場の東を流れる庄川に架かる「であい橋」 ここを渡った左側に「秋葉神社」が鎮座します、そこから先は合掌集落に繋がります。ここんところ局所的に豪雨が多かったが、当日の庄川は澄み渡り穏やかな表情を見せています。 今は分からないが以前は大きな岩魚が良く釣れた川、相変わらず綺麗な流れです。「であい橋」を渡り切ると左に覆殿と鳥居が見えてきます。 多くの観光客は足を止める事無く、鳥居をくぐり集落に向かう人が大半かも知れない。「であい橋」から秋葉神社覆殿の眺め。 銅板で葺かれた入母屋造で妻入りのもの、集落の火伏を担う神様です。ここから一旦社頭に向かいそこから参拝する事にします。 右の茅葺屋根の建物の詳細は不明。茅葺屋根の妻切りの合掌造りのこの建物、解説とかはないけれど神社の直ぐ脇に建っている事から、祭礼で使用する祭具の保管庫かもしれない。 こんな小さな建物でも、大きな合掌家屋同様に棟の向きは同じ方向を向き作られている。神社社頭。 石の神明鳥居と常夜灯その先が覆殿。その先は切れ落ちて下には庄川が流れている。 集落の西外れに鎮座する神社で見据える先は合掌集落。左右の常夜灯とその先の覆殿全景。 せせらぎ公園駐車場から合掌集落を訪れると最初に秋葉神社の社頭を通る事になります。見向きもされないのは寂しい限り。妻側の軒下に架けられた扁額「秋葉神社」 新たに寄進されたものか質感が新しい。最新の消化施設が設置されていても、茅葺の集落にとって拠り所になるのはこの神社だ。拝所脇の秋葉神社由来。「この地区一帯は火災になりやすい茅葺屋根の合掌家屋が点在する世界遺産り萩町合掌集落です。 江戸時代、度重なる火災と特に天明3~7年(1783~1787)の大飢饉のうえ、悪病が流行し、荻町村(萩町合掌集落)で230名もの人々が亡くなりました。この苦境を乗り超えようと相談の結果、小神堂を建立し、火伏せ神を祀り平和を祈りました。 大正時代に神域を改修し秋葉神社と改め現在に至る」合掌集落に住む住人からは今も崇敬され続ける秋葉神社です。萩町 秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神?所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町441駐車場から秋葉神社 / 徒歩5分程参拝日 / 2022/8/22関連記事 / 白川郷散策の拠点に最適「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」社頭から集落に向け進む。 集落にはこうした水辺が点在し、田畑を潤す水路も張り巡らされ、流れの中をよく見るとそこには悠々と泳ぐ鱒の姿も見られる。綺麗な流れに蓋は不要だね。周辺にはススキや萩、コスモスも咲き始め、秋が近づいている事を感じさせる。 暑いとはいえ名古屋とは違う暑さだね。
2022.08.31
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敬老パスも有効に使わないといけないが、先日利用回数の通知(必要なんだろうか?)が届いた。 それなりに負担金を払っていながら全く元が取れていない。それが理由でもないが地下鉄で名城公園付近を彷徨ってみた。地下鉄名城公園駅2番出口から新愛知県体育館建設に向け工事の進む名城公園を横目に西に向かう。 やがて堀川に架かる中土戸橋を渡り、更に西へ。道路前方に玉垣と鳥居が見えてくる「武島天神社」です。 この社頭を通り過ぎ西側で右折します。武島天神社の玉垣の先に「上宿山神社」が。 ここで左に進み再び西へ。今回の目的地「興西寺」も近いはず。 秀吉さんが「興西寺あっち」と指さして教えてくれる。長瀬美之翁「豊臣秀吉像」秀吉さんから二つ目の交差点を左に曲がると「興西寺」だ。 どうかすると方向感覚を失くすグーグル先生よりよほど秀吉さんの方が正しい。門前から境内の眺め。 軒先の反りが翼を広げる鳥のようだ、街中の寺としては風格のある立派な寺だ。門前に解説。「深井丸と号し、真宗。寺伝よれば、応永17年(1411)海部郡甚目寺町に創建。 後に富田町供米田より、名古屋城築城にのため北鷹匠町へ遷り、更に正保2年(1645)藩祖義直よりこの地を賜り移建された。元禄12年(1699)藩主綱誠の薨去以来、徳川家代々の位牌を安置する。 また葵の紋を許された」『尾張志 興西寺』 「上宿五平蔵町にありて、三河の針崎村勝鬘寺の末寺なり。はじめ真言宗にて、浄蓮坊と名づけ永禄元年(1558)の開基。 海東郡供米田村(現在の豊治村)にありしを、天正年中(1573~1592)に今の宗に改め、興西寺と改号しを寛永年中(1624~1644)北鷹匠町に移し、是より先に、元和年中(1615~1624)、今の御深井のうち紅葉柵の辺に移り、寛永年中に北鷹匠町に移しよし、寺傳又は町方府志寺にはいるは誤りなるべし、御城御造営の後、御構のうちへうつしべきはあるべからず。 慶安年中(1648年~1652年)に再び今の地に移せり。本堂阿弥陀の木像を安置し、泰心院君(三代藩主綱誠)御逝去の後、御家代々の御位牌と御免許になりて安置し奉る。 御寺の外にては此寺のみにて外に例なし。鐘楼 鐘は安永四年(1775)に鋳すと銘に見えたり」寺伝は 「開基は敏達天皇の単子難波親王の後裔、楠木正成の男正儀の子正元の長子正徳。元中2年(1385)甚目寺村の郷士吉川利忠の養嗣となり、同9年に真言宗甚目寺の浄海上人に就き剃髪す。 応永17年(1411)甚目寺に浮徳坊という坊舎を建立。永正8年(1511)、坊舎を冨田の庄熊井田に移したとき姓を貝沼と改む。 永禄元年(1558)に坊舎を再建。天正11年(1583)に改宗して浄蓮坊と改号。 慶長10年(1605)、愛智郡名護屋村御深井紅葉矢来の内に移り、堂宇を建亡す。慶長14年(1609)名古屋城築城のため、北鷹匠町に易地を得て移った。 翌年に大谷派に属し寺号を興西寺に改号。元和3年(1617)に藩主より深井丸という山号を賜わり、三ッ葵の紋章を差許さる。 以後、当寺を上宿御坊という。正保2年(1645)、藩主義直より斎藤美濃守下屋敷であった五平蔵町の現在地に易地を授かり移転。 元禄12年(1699)藩主綱誠逝去後、徳川家歴代の位牌を安置することになった。明治24年(1891)10月28日濃尾震災で堂宇が被災、大破。 昭和20年(1945)5月14日戦災に罹り伽藍を焼失。宝物に、木造阿弼陀如来立像(伝、傅教大師作)、木造大日如来坐像(伝、弘法大師作)、薬師如来書像(伝、恵心僧都筆)など」 清州越しに伴いこの地に移った寺のようで、現在の伽藍は平成20年(2008)に再建。地史や寺伝にもあるように、徳川家とは縁が深いお寺。 参道脇の灯籠は大正11年(1922)寄進のもので、竿に滑らかな膨らみを持たせたもの。本堂は木造瓦葺の入母屋造で大きな向拝が付く。 大棟には深井丸、軒丸瓦には葵の紋が入る。平成に入り建替えられた事もあり至って綺麗な状態の建物。 少し離れて眺めた方が軒先に向けて反る曲線が強調されて綺麗かも知れない。当日(8/26)は本堂の扉は閉ざされ、内部を拝観する事は出来なかった。向拝左の鉢に睡蓮が植えられ中ではメダカの姿が見られた。 炎天下にあって睡蓮鉢は涼し気で妙に嬉しいものがある。左には年季の入った石灯籠が立つ。 寄進年度は見ていないが燈籠脇に「尾張徳川藩拝領灯籠」とあった。絶妙なバランスで立つシンプルな姿の燈籠。この反対側に舟形の手水鉢がある。 水質はともかく、水が張られている。水の張られていない鉢はただの石、味気ないものだ。本堂右の唐破風の付いたこの建物、用途はよく分からないが、奥で本堂に繋がっているような気がする。 破風の鬼には葵の紋が入っていた。本堂軒下の半鐘、頭に付く竜頭の龍が半鐘に噛みついている様に見える。 いつ頃鋳造されたものかは不明、いまどき銅の工芸品をじっくり見ようものなら不審者に思われかねない。 妙な雰囲気になってくる時代になったものだ。おまわりさんによる早い摘発を期待したい、「心の中にいるもう一人の自分のいいなりになっている事がどれだけ後に後悔するのか」罪は償ってもらわねば。向拝柱の木鼻に施された獅子と獏。 往時の伽藍の姿は見付けられなかったが、歴史はあっても近代化した街並みと調和する様にビル化する寺院も多い中、今も寺の佇まいを留めていた。興西寺宗派 / 真宗大谷派山号 / 深井丸創建 / 応永17年(1411)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 名古屋市西区城西4-15-24参拝日 / 2022/8/26公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」駅降車、徒歩で西へ15分前後関連記事 / 武島天神社、上宿山神社
2022.08.30
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名古屋市西区枇杷島 八幡社 双頭の龍が鎮まる男女稲荷神社から南に徒歩10分、美濃路から少し北に入った場所に八幡社が鎮座します。社地の周囲は住宅街で北に小学校、西の家並みの間から名鉄名古屋本線の高架が見える。 周辺の道は車で通れない細い路地となっていて、小学校付近はともかく美濃路側から車で八幡社を訪れようとするのはやめた方がいいでしょう。美濃路から北側に伸びる細い路地を進むと前方に社頭が現れます。 ここで視野は開け、八幡社の境内が広がります。社頭は石の神明鳥居と左に八幡社由緒書き、右に社標が立っている。由緒 八幡社祭神 誉田別尊、神功皇后、武内宿禰 創建 享禄2年(1529)元来、もっと北に鎮座する。 慶長17年(1612)に現在地へ遷座した。境内社に津島神社(除災・招福)、秋葉神社(火災除)、洲原神社(五穀豊穣)。 古来、「鷹八幡」と通称され江戸時代には年貢が免除(除地)された。神明社 庄内川堤防の上にあり、慶長7年(1602)に創建。天照皇大神を祭神とし、治水の守護神。白山社 もともとは国鉄東海道本線の敷地な鎮座していた、今は神明社に合祀。男女稲荷神社 ここが八幡社の旧神域とされる。年間行事 八幡社「月次祭」 毎月1日梵天祭 6月下旬または7月上旬、宵祭・本祭・稚児行列 天王祭 7月中旬 宵祭・本祭(神明社にて)茅輪くぐり 7月下旬、(神明社神前にて) 元旦祭 「鷹八幡社」全神域、12月31日(お祓いの儀式・除夜祭) 元旦 新春「初参り」の接待厄除け 2月初旬 初午祭 3月(稲荷社にて)堤防に鎮座する神明社の詳細が分からなかったが、創建や合祀について情報を得ることが出来た、加筆しなければ。鳥居から先は四対の常夜灯、左に手水舎があり、正面の拝殿前を狛犬が守護する。 境内右に社務所、集会場が建つ。手水舎・手水鉢。 残念ながら龍は不在。 1918年(大正7)寄進の子持ち、毬持ちの狛犬。 狛犬も人件費の安かった大陸にデータだけ提供、そして作られる味気ない容姿のものばかり。この時代の狛犬だと、石工の味があり、そうして出来たものは妙な彩色をしなくても風格はある。 もともとは仏教と共に大陸から伝来したものとはいえ、国や地域により独自に進化するものだと思う、どこに行っても個性のないコピーばかり、技術の継承においてもどうだったんだろう。 近頃は伝統的な世界に若い世代、特に女性の姿を良く見かける、頑張ってほしいものです。拝殿前景。 瓦葺の切妻木造拝殿で軒瓦などに右三つ巴の紋が入り、燈籠にもその紋が刻まれている。右三つ巴が神紋だろうか。拝殿妻壁の彫飾り。 正面の龍、妻飾りの波や鳥などの彫に手が掛けられている。拝殿ないから本殿の眺め、左側には金色に輝く狛犬が一対と左右に獅子頭が置かれている。 拝殿からは幣殿は渡廊で結ばれているようです。上 拝殿左の境内社「秋葉神社」下 拝殿右の境内社「洲原神社」と「津島神社」左の樹は高野槇、その他に広い境内には大きな楠木が聳えている。幣殿は神明造で8本の鰹木と内削ぎの千木が付く。 幣殿前の個性的な狛犬、垂れ耳で尾っぽは九尾の狐の様に広がったデザイン。口に小さな玉を咥えているように見えた。寄進年代は不明。 相棒の写真はピントが合わずこの方のみ。本殿域全景。 右が「洲原神社」、左は「津島神社」本殿は銅葺の流造で千木が外削ぎ、鰹木は5本。 本殿前にも小さな狛犬が守護する、これが精一杯寄ったものですが、尻尾や鬣のデザインは拝殿前のものとは違うもの。寄進年代は不明。社殿全景。 社務所から幣殿は屋根で結ばれていて、北側からなら車で入れそうですが参拝者が利用していいか、それは分からない。拝殿から境内東方向の眺め。 玉垣で囲われた楠木の御神木、その先に忠魂碑が立っています。社務所西側から本殿後方へ、ここから北は小学校となり、車が通れる幅員のある道もここまで。 後方から本殿の眺め。幣殿までは三つ巴の紋の向きが右三つ巴だったものが、本殿大棟や飾り金具は逆になっている。 理由はよく分からない。 社頭から南の美濃街道を眺める。 狭い路地は進入禁止でも一方通行でもないようです、この先にコイン駐車場があります。入り込むか、駐車場に停めるかは貴方次第。八幡社祭神 / 誉田別尊、神功皇后、武内宿禰創建 / 享禄2年(1529)遷座 / 慶長17年(1612)境内社 / 津島神社、秋葉神社、洲原神社所在地 / 名古屋市西区枇杷島3-9参拝日 / 2022/07/27公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」駅から西へ25分程関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4、「男女守稲荷神社、白要・白王両龍王」西区枇杷島5男女守稲荷神社から徒歩ルート / 南へ徒歩10分程
2022.08.28
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尾張旭市狩宿町。 町名から受ける由来はこの辺り「昔は御狩場だったのか」と誰しも思うだろう。あながち間違ってはいないようでした。 尾張藩祖の徳川義直が狩場に向かう際の宿があったとされ、それが由来とも。また、室町時代に拳母(現在の豊田市)の若林から狩宿姓の武者が移り住みそれが地名となったとか。 町名の由来は諸説あるようですが定かではないようです。山ノ神社から東へ、三郷橋から瀬戸川を越え、10分も歩けば南側の住宅街にこんもりと茂った白山神社の杜が見えるはずです。 社頭は杜の南側になり、石の神明鳥居、右に社標が建てられています。社頭から境内の全景。 拝殿はコンクリート造りの新しいもののようです。社頭の右側に御嶽神社や小さな社、常夜灯と石標が立っている。狩宿「白山神社」の創建は定かではないようですが、当神社には市指定文化財の「陶製狛犬」があるといい、その銘文に1751年(寛延4)に地域村民から奉納された記録が残るようです。上がその狩宿白山神社の陶製狛犬(尾張旭市指定文化財第13号)、尾張旭市HPより画像をお借りしました。 約300年を経て今も艶やかに輝く陶製狛犬は、阿形の高さ32.2㌢幅16.8㌢、吽形の高さ32.9㌢幅15.2㌢で少し耳垂れ、阿形・吽形共に二本の角を持つ個性的な表情の狛犬です。 背中には村民が奉納したとされる銘文が書かれています。 この狛犬、噂では一旦は神社から持ち出され一時行方知れずだったという、経緯は分からないがその後神社に戻され大切に保管されている。境内左の手水鉢、舟の形を意識して彫られたものだろうか。 残念ながら清水は満たされていなかった。拝殿前景。 ニノ鳥居の先に常夜灯、その先に小型の狛犬が拝殿を守護する。狩宿白山神社の創建年代は定かではないが、陶製狛犬が1751年(寛延4)の奉納である事から更に創建は遡っていく。 社伝では1574年(天正2)、浅井紋助源為頼が社殿を造営、その後の1673年(寛文13)に再建されたと伝わるのだとか。コンクリート造りの白い拝殿と狛犬。 拝殿の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されている。祭神は菊理媛命だろうか。良く見る姿の狛犬。 奉納年度は見忘れました。 拝殿額と拝殿内部から幣殿方向の眺め。社務所付近から社殿全景。 幣殿から先の本殿までは渡廊で結ばれている様に見えるが、本殿域の様子は窺がいづらい。本殿域。 本殿は神明造で拝殿同様に6本の鰹木と内削ぎの千木が施されている。こうして見ると本殿域には他にも社があるようだ。 拝殿から社頭の眺め。 長い夏休みも間もなく終わり、子供達は宿題に追われているのだろう、絶好の遊び場となりそうな境内に子供達の姿はない。上 狩宿郷庫(尾張旭市有形民俗文化財)白山神社社頭前に建つ土蔵。 江戸時代末期から明治初期の建造物とされ、狩宿郷の共同倉庫として共有道具や祭礼道具の保管庫として使用された。この地方ではこうした郷庫が作られていたそうですが、現存するものは少ないそうで、この郷庫も平成元年に失火で一部が焼け落ち修復されたもの。 建物は瓦葺の切妻平入の土蔵造りで内部は中二階もあるという。狩宿 「白山神社」創建 / (伝)1574年(天正2)祭神 / 菊理媛命境内社 / 御嶽神社、不明社所在地 / 尾張旭市狩宿町3-143公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「三郷」駅から南東に徒歩20分強参拝日 / 2022/07/20関連記事 / 井田「八幡神社」、 山ノ神社・八幡神社・天道神社、
2022.08.25
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柯柄(えがら)八幡神社の参拝を終え、高山線で下呂までやってきた。写真上段は下呂駅前に掲げられている観光マップ。 下段は下呂大橋から飛騨川上流の眺め、河原に見える噴泉地。以前は全裸で入浴が出来、山からの帰りはここで汗を流すのが楽しみだった。 それも世の流れと共に水着着用になり、マナーの悪さから今では足湯に変ってしまったようだ。下呂温泉の歴史は古い。 1728年(享保13)、幕府直轄領である飛騨国代官となった長谷川忠崇が編纂した地誌飛州志に「天暦年中(947~957年)この地の山中に、温泉湧出せり、地名を湯ガ峰という」という記載がある。古くは室町時代の僧・万里集九の『梅花無尽蔵』に優れた温泉地として「湯島(下呂)、草津、有馬」で既に書き残されていた。 また、江戸時代の儒学者・林羅山が「我が国には多くの温泉がある、最も著名なのが、有馬、草津、湯島(下呂)である、有馬、草津は広く世の知るところ、湯島は古来の霊湯なことを知る者は少ない。 だが入湯者はその験を得ざることなし」と書き残したという。それにより下呂温泉が草津、有馬と並び「日本三大名湯」として、1000年の歴史を誇る名湯として広く知られるようになったようだ。 街中で見かけるマンホールには白鷺がデザインされています。下呂の温泉街から少し登ると温泉寺が鎮座します。 そこには「白鷺伝説」が伝わり、「薬師如来が傷ついた一羽の白鷺に姿を変え、飛騨川でその傷を癒し、源泉のありかを村人に知らせた」と温泉発見にまつわる話が今も残る。白鷺はこの地のシンボルだ。下呂大橋を渡り左に進みます。 下呂温泉街の北の入り口で、その道路脇に大きな樹の姿が見えてきます。あの杜が今回の目的地「若宮八幡神社」、中根山(下呂富士)の麓にある湯之島の氏神様です。社頭は通り沿いにあり、この大きな杉並木と玉垣が目印。 何度も通っている道筋で神社の存在も知ってはいたが、駐車場もなく訪れるのは今回初めて。社頭から境内の眺め。 鳥居と右に「若宮八幡神社」の社標、その先に一対の狛犬が守護する。手水舎は左側にある、後方には中根山(下呂富士)が迫っている。石の明神鳥居の扁額も若宮八幡神社と彫られている。 参道中央に♡型の赤い茅の輪があり、その先に入母屋造の拝殿が見える。境内から社頭の眺め。 温泉街の北外れに鎮座する事もあり訪れる参拝者は少ないようだ。清水が絶え間なく注がれる手水鉢。拝殿全景、左には社務所。神輿の保管庫がある。 赤い♡の茅の輪、若い観光客をターゲットにしたスポットやグルメが増えてきたが、この茅の輪もその一環だろうか。当神社の鳥居始め常夜灯、狛犬等の寄進物は昭和に寄進されたものが多い。 岐阜神社庁を調べて見たが掲載されておらず、若宮八幡神社の由緒については定かにはならなかった。ただ、「飛州志」の中でこの地域に鎮座する若宮宮の一社として「益田郡湯島村若宮宮」として記述があったが、祭神の記述にとどまり創建時期は記されていなかった。 それによれば祭神は「應神帝仁徳帝」とあり、仁徳天皇とその父応神天皇が祭神のようだ。1728年(享保13)に編纂された「飛州志」に記述が残る事から享保以前に創建されているようだ。拝殿前の子持ち、毬持ちの狛犬。 社殿全景。 入母屋銅板葺の拝殿は幣殿と繋がりその先に鞘殿に続くようだ。左側が社務所で境内の左に若宮稲荷が祀られています。「湯之島五ヵ所まいり」 「輪をくぐって祓い清め良縁安産健康を授かりましょう」とある、お求めの方は是非一度。帰りにはおがわや酒店に寄ってみよう、更にご利益アップのアイテムが手に入る。 お酒大好き派は有料で利き酒や角打ちも出来る。拝殿額は「若宮神社」拝殿右からの眺め。鞘殿?だろうか、樹々に包まれ良く見えなかった。社務所。 若宮八幡神社は夏に行われる下呂温泉龍神火祭りの道行の出発地点とか、今は閑散とした境内ですが祭りのときは多くの人で賑わうという。若宮稲荷。 参道は石の明神鳥居の先にある覆屋に続く。鳥居扁額。渡廊の先に赤い玉垣に囲われた覆屋が見える。覆屋全景。 内部に祀られる本殿は檜皮葺の流造のようだ。使いの狛狐の姿は見られない。覆屋の額、・・・・若宮稲荷と書いてあるの? いやいや「福〇神社」或いは「稲荷神社」・・・・覆屋内、目立たなかったが本殿の左右と前にちゃんと狐が守護している。 若宮稲荷も詳細は分からなかった。 彼女と下呂温泉に訪れ、この赤い茅の輪を「くぐろう」なんて云われた時は潔く腹を括ろう。 さて本日はここまで、ウエルカムビール飲み放題のホテルに向かうか。若宮八幡神社創建 / 不明祭神 / 仁徳天皇、応神天皇若宮稲荷創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 岐阜県下呂市湯之島309参拝日/ 2022/06/28高山本線下呂駅から徒歩ルート / 下呂大橋を経由15分前後関連記事 / 「柯柄(えがら)八幡神社」岐阜県下呂市金山町 岐阜県下呂市 温泉寺 GoToトラベルで「下呂」
2022.08.23
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6/3枇杷島4の「神明社」周辺を徘徊しましたが、日を改めて7/27再度枇杷島を訪れた。 名古屋市西区枇杷島「男女守稲荷神社、白要・白王両龍王」枇杷島4の「神明社」から徒歩で10分もあれば辿り着ける距離に鎮座します。当神社の駐車場は左右に空き地はあるものの、参拝者駐車場として利用していいものか定かではなかった。 住宅街の道路北側に鳥居を構え、南向きにた社頭がある。南北に長い社地で間口は広くはないが奥には住宅街にあって貴重な緑の杜を持つ。男女守稲荷神社社頭から境内全景。 石の明神鳥居と右側に「男女(なんにょ)守稲荷神社」の社標(1935年健之)が立ち、右側の駐車場側にも白い明神鳥居が建てられている。まずは「男女守稲荷神社」へ。 鳥居をくぐり参道を進むと左手に手水鉢、赤い鳥居の先には狛狐、正面の拝所から本殿の姿が見える。 右の献灯台の寄進は1932年(昭和7)に寄進されたものだった?ように思う。境内で見られる寄進物の多くは昭和に入って寄進されたものが多かった。手水鉢。 寄進年度は不明。 朱も鮮やかな鳥居の扁額は「男女守稲荷神社」 この神社の創建時期や社名の由来については定かではない。男女の縁を守る稲荷さん? そんな安直な由来から来ているとは思えない。 なぜそう感じるかと云うと、境内に縁結び的な雰囲気はあまりない。男女守稲荷神社の右後方に同神社の奥宮とされる白要・白王両龍王が祀られている。 農耕神の稲荷神と奥宮に祀られる雨を掌る龍神様、二神でひとつと捉えると男女の関係とも似ている、それにあやかって付いた社名か? 拝所前に稲荷神の使い狛狐。 肉付きの良い姿は狐と云うより犬に近いフォルムかもしれない。 拝所から神明造の本殿方向の眺め。 本殿前にも一対の狛狐が守護している。本殿域は朱に塗られた玉垣で囲われ、白要・白王両龍王の鳥居から白の玉垣に変る。 本殿域には大きな榎が聳え立っている。本殿域の榎の巨木は大きく枝を張り、男女守稲荷神社の本殿域全体を濃い緑で包んでいる。 住宅街のシンボルツリーとも云える立派な榎は保存樹に指定されている。こうした巨木には昔から何かが宿ると云われる、それが後方の龍神なのか?本殿域の狛狐。 拝所前の狛狐に比べると尾は長くややスリムで狐らしいフォルムのもの。本殿。 6本の鰹木と内削ぎの千木、セオリーから見れば女神が祀られている事になる。後方に見えているのが奥宮とされる白要・白王両龍王の本殿。赤い「男女守稲荷神社」と奥宮の白い「白要・白王両龍王」全景。白要・白王両龍王の鳥居扁額。拝所から本殿域全景。 白要・白王両龍王。白要・白王の二柱の龍王は後奈良天皇の天文年間(1532~1555年)に琵琶里の守護神として八幡社の跡地に鎮座されたと伝わる。 祭神は頭が二つある二頭龍王が鎮まっていたとされ、明治13.14年それを知らずにこの地の開墾をした人々が大変な神罰を受けたとされる。 それは子供達が竹や木の枝など折っても同様に神罰が下され、人々から恐れられ立ち入る者もなく荒れ果てて行ったと云う。そんな状態でも「御神酒」を供え、病気の平癒やその他の願をかけると不思議に願いを叶えてくれると云う。 そんな霊験あらたかな二頭龍王が鎮まるこの地、男女守稲荷神社の奥宮として祀られたのが現在の白要・白王両龍王だとされます。そもそも男女守稲荷神社の社地は現在枇杷島3に鎮座する八幡社が鎮座していた場所と云う。 八幡社の創建は1529年とされ、現在の枇杷島3に遷座したのが1612年(慶長17年)とされます。白要・白王両龍王が天文年間(1532~1555年)に琵琶里の守護神としてが祀られたとされる事から、八幡社にもともと祀られていた事になります。 八幡社遷座時、そこに鎮まっていた二頭龍王だけは神罰を恐れ動かせなかったのかもしれない。やがて時と共に人々の記憶から存在が忘れ去られ、再び目覚めたのが明治の開墾という事なんだろう。男女守稲荷神社の創建時期は不明、ひょっとすると八幡社に祀られていたものか、1612年(慶長17年)以降新たに祀られたものか確かな記述は見当たらなかった。 白要・白王両龍王を奥宮とする事から見て、男女守稲荷神社がその後に創建と云うのもしっくりこない。白要・白王両龍王の右に昭和13年に建てられた成耕記念碑がある。 今は二頭龍王も鎮まり、「御神酒」を供えてくれる参拝者の願いを叶えてくれているのだろう。ここは賽銭よりもなによりお酒が一番のようだ。男女守稲荷神社創建 / 不明祭神 / 不明白要・白王両龍王創建 / 天文年間(1532~1555年)祭神 / 二頭龍王所在地 / 名古屋市西区枇杷島5-8-3参拝日 / 2022/07/27公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」駅下車、徒歩で西へ25分程関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4神明社からアクセス / 南西に徒歩10分程
2022.08.22
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尾張旭市井田「八幡神社」から徒歩で東に10分程に鎮座する「山ノ神社・八幡神社・天道神社」 地図によれば山ノ神神社とあったが、ここでは社標の「山ノ神社・八幡神社・天道神社」として記載します。「山ノ神社・八幡神社・天道神社」社頭は南側の通りに面し、社頭の前は小学校。 住宅地の一画に玉垣で囲われた社地がある、社地の周囲は楠木や松、杉などが聳え杜を形造っています。社頭右側に「あがたぎの森」解説板。 「ここ瀬戸川には「あがたぎの森」と呼ばれるこんもりとした小さな森があった。昔〃「あがたぬし」という人がこの森に降りてきて、村の先祖になったという。 村人は、森の木を大事にしていたが、時にそっと伐採する者がいた。すると伐採した人の顔にはできものがいっぱいできてしまったと云う。 「これは、あがたぬし様のお叱り、早く謝りにいかなくては」村人は急ぎ御神酒を捧げお参りをしてできものを治してもらったと云う。 村の子におできが出来ると「あがたぎの森」にお参りするとすぐに治ったと云い、村人は感謝し以前にもまして森を大切にした」現在でもできものの神様として地元では知られていると云い、ここで云う森は向かいにある小学校の南(下川原公園の北西付近)にあったとされる。 1977年(昭和52)、土地区画整理事業に伴い、森にあった「あがたぎ」を「縣ノ神」として石碑にし、ここ「山の神神社」移し祀った。上の左は1891年頃の当地で右がほぼ現在。 地図だけ見れば「あがたぎの森」は見つけられなかった。「あがた」は縣とも書けもする、縣大神? できものを治す能力があるのだからそれとは違うようで、あがたぎの正体は分からない。できものに御利益が得られる神社で個人的に知る神社として尾張旭市渋川町3の「直會(なおらい)神社」が思い浮かぶ、祭神は神直日神と大直日神を祀り、腫物、吹出物などに霊験あらたかな神社だ。 あがたぎの森からこの地に降りたったとされる村の先祖「あがたぬし」の正体は気になるところ。社頭の右外れに写真の石碑が建てられている。 1977年(昭和52)森にあった「あがたぎ」を「縣ノ神」として祭祀したもの。ここ数年、休火山状態のできものがある、ここはしっかりお願いしておこう。ここから更に右は山の神公園となっていて子供達の憩いの場になっている。社頭に戻り、鳥居から境内を眺めをる。 右の社標には「山ノ神社・八幡神社・天道神社」と刻まれている。石の明神鳥居と常夜灯は1937年(昭和12)寄進のもの。 当初この森が「あがたぎの森」として護られ、創建された神社かと早合点したが、この杜は神社の社叢という事です。境内全景。 左が手水舎、その奥に境内社、拝殿、神庫、社務所の伽藍。この神社の由緒・創建について地史、村絵図などに目を通してみたが確かなものはには出逢えなかった。 そんな中で尾張旭市と澁川神社HPで山ノ神社について以下の様に紹介されていた。尾張旭市HP「明徳年中(1390~1394年)に、城主だった浅井氏が崇敬したという言い伝えがありますが、創建年代はよくわかっていません。 山神社の境内には「縣ノ神」の石碑があります。三郷地区には、「あがたぬし」の伝説が残っています。 また、「あがたぎ」と呼ばれ、できものの神様として知られていた場所が、今の三郷小学校の南東100㍍のあたりにありました。」祭神には言及されていませんが、浅井氏が崇敬したと伝わる事から、八幡神社を祀ったのが始まりかと思われます。澁川神社HP「市内瀬戸川町に、山ノ神社があります。 樹木にかこまれた静かなたたずまいの神社です。創建は明らかではないが、明徳年中(1390~1394年)に祀ったという言い伝えがあります。 祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)外1柱である。明治時代以降、この山ノ神社はこの地区の氏神的存在として処遇されています」 やっと祭神の一柱に辿り着いた。手水舎後方の境内社。 左から天神社、御嶽神社、天王社。拝殿はコンクリート造りで手前で狛犬が守護している。 鎮座地は江戸時代は瀬戸川村で、隣接した井田村、狩宿村あり、1878年(明治11)に三村が合併し「三郷村」として成立、合併を経て現在の尾張旭市瀬戸川町になる。古来より村の移り変わりを見守ってきた古社だ。拝殿は低目の石垣の上に建てられ玉垣が全周を囲み、本殿域は高い白壁で囲われ、周囲の樹々もあって本殿の姿は窺えなかった。 現在の社殿はいつ頃手が掛けられたのか定かではないけれど、寄進物に昭和の元号が多いのでそのあたりに再建されたものか。 拝殿前の狛犬(年代未確認)も新しいようだ。 筋骨隆々とした姿の狛犬です。拝殿から本殿方向の眺め。 祭神は大山祇命、他の一社については本殿域に本殿を持つものか、合祀されているのか分からなかった。境内西側に注連縄で巻かれた夫婦の樹。 楠木と銀杏、それぞれ違うものが寄り添う姿を夫婦になぞらえたものだろう。山ノ神社・八幡神社・天道神社創建 / 明徳年中(1390~1394年)祭神 / 大山祇命 境内社 / 天神社、御嶽神社、天王社所在地 / 尾張旭市瀬戸川町1参拝日 / 2022/07/20公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「三郷」駅下車南へ徒歩10分関連記事 / 井田「八幡神社」、「直會神社」、澁川神社
2022.08.19
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金山町内の筋骨巡りの際立ち寄った柯柄(えがら)八幡神社。 町内を通り過ぎ国道41号線の「十王坂」交差点を直進した右側に鎮座する朱色の両部鳥居が印象に残るこの地区の氏神様である。 社頭の前の通りは下呂バスが運行され、目の前に「八幡神社前」バス停がある。バス停の前に朱も鮮やかな両部鳥居を構え、右側に「銀幣柯柄八幡神社」の社号標が立つ。 鳥居から先は杉の木立沿いに緩やかな勾配を持つ参道が続く。 奥にばかり視線が行って気が付かなかったが、参道は道路を隔てて先に伸びているようで、左右で狛犬が守護していた。社頭の由緒書き 祭神 八幡大神、応神天皇相殿 白山大神、菊理媛神、伊邪那美命、伊邪那岐命、 相殿 柯柄天神、菅原道真由緒 「901年(縁起年間)、この地の氏神として八幡大菩薩、白山大権現が祀られていた。1411年(応永18)飛騨の乱がおき、飛騨の國氏姉小路伊綱を誅伐するため、将軍足利義持の命を受けた源高員が諸勢を催し、濃飛の国境である当村で一泊した。 その際、高員が里長に「当村の氏神如何」と尋ね、里長が「八幡宮なり」と答えると、高員は「八幡大神源氏累代の守護神なり」我は鎌倉荏柄天神の氏子なり怨敵退散のため、荏柄天神を勧請し戦勝を祈願された。無事平定し帰陣の際、再び当地に滞留し、別当里長に褒賞を与えられ以後荏柄正八幡宮と称え、八幡大神、白山大神、柯柄天神の三神を守護神として祀る様に言い残し鎌倉に戻っていったという。 翌年2月、鎌倉から梅桜の寄進を受け御神木として崇め奉られた。この後、社殿を改築荏柄天神の分霊を合祀し柯柄正八幡宮と改められた。 明治初年柯柄八幡神社に改め1961年(昭和36)銀幣社となる。境内社 柯柄稲荷神社、古峯神社、津島神社、庚申様 祭杞 例祭4月」一ノ鳥居。 木造の両部鳥居で笠木の緩やかな反りが美しい。柱は丸柱、控え柱は八角柱が使われ手間が掛けられた美しい姿をしている。額は「柯柄 正八幡宮」鳥居をくぐったすぐ左に小さい社が祀られていたが詳細は分からなかった。 後方の案内板は当社文化財を紹介するもの。「柯柄八幡神社の文化財 金山町指定重要文化財(指定昭和48年)・社叢(天然記念物) 境内の面積5,500㎡、老杉、欅など43本が立ち並ぶ。中には目通り4㍍以上のものもあり森厳さを保つ神域。・狛犬(彫刻) 応永18年(1411)、荏柄八幡宮となる以前から神殿に安置されている木製の狛犬で鎌倉時代(12世紀末)の作と推定される。・黒獅子頭(工芸品)「お宝獅子」とも云われ高さ17㌢、黒色の獅子頭としては最も形態で慶長年間(16世紀末)作と推定される。・高杯(工芸品) 神前に供える供物器で、7個あり、内3個に正徳3年(1713)の年号が入る。・智拳院跡(史跡) 智拳院は、修験者別当大日坊の後、戦乱の為しばらく中断していたが、鎌倉生まれの修験者で真言宗の山伏晋覚院泰響法師が当地を訪れ、元亀3年(1573)別当となり、修験道場を開いて以後、明治7年(1875)まで9代300年に渡り、当神社の社職を務めた別当の住居と祈念所なっていた。・宝筐印塔(史跡) 別当代々の墓は神社左の坂道を10㍍程登った所にあり、中央石垣に江戸時代初期の宝筐印塔(96.5㌢)が安置されている。」参道右の庚申塔と後方に「居ながらに聞くや四郡のほととぎす」と刻まれた句碑が立つ。 (四群とは武儀、益田、郡上、加茂を指す)緩やかに登る参道はニノ鳥居、拝殿に続く。 右手に手水舎と力石が置かれている。 手水舎と力石。 力石は江戸時代から鳥居前あって、祭休日に村の若者が集い力比べを行ったもので、明治末期まで行われたという。龍口 青々とした体に鋭い爪を持ち厳つい表情。上 境内左で見かけた二つの倉庫?、智拳院跡附宝筐印塔の柱が立っていたが宝筐印塔はこの中?下 手前が社務所、奥の建物も祭礼で用いる神具の保管庫か。参道中ほどの石段の先にニノ鳥居、石造の明神鳥居があり、左右で狛犬が守護している。ニノ鳥居と拝殿。 境内は山の傾斜に合わせ何段かに分かれている。ニノ鳥居前の狛犬。石造の額は「柯柄正八幡宮」鳥居をくぐると境内は広がり、訪れた時には夏の風物詩「茅の輪」が立てられていた。 木陰を出ると強烈に暑い(当たり前だろ!)、しかし湿度が若干低いのか、木陰に入ると心地よさすら感じるところは名古屋とは少し違う。一段上がった境内に入母屋瓦葺の四方吹き抜けの拝殿が建つ。素木造りでシンプルな拝殿、それに合わせる様に柯柄正八幡宮の額が掛けられている。 拝殿内壁の全周に百人一首の奉納額が飾られている。一部の額には安政(1854~1860年)の頃奉納された額も見られ、古くからこの地の住民から崇敬されているのがよく分かる。 拝殿後方の深い杜からウグイスの鳴き声が聞こえてくる。携帯で録音してみたが…、人の聴覚には及ばなかった。 神紋は並び矢のようだ。柯柄八幡神社伽藍全景。 拝殿後方で境内は一段上がり、そこに幣殿が建ち、その先に本殿がある。左右に二対の狛犬が守護する幣殿へ続く石段。 その両脇には立派な幹回りの杉の神木が聳えている。年号を見忘れましたが二対の狛犬は小振りで比較的新しい。 手前の狛犬の視線はやや下向きで拝殿方向から訪れる参拝者を見据えているようだ。幣殿。 瓦葺の木造切妻造で平側に向拝が付く。幣殿内にも古びた柯柄正八幡宮と記された黒漆塗りの額が掛けられていて、本殿方向に階段が続いています。 その中ほどに一対の狛犬が見える。質感はいかにも木、頭には角を持つ様だ、解説にあった鎌倉時代(12世紀末)から安置されてきた木製の狛犬とはこの事だろうか。幣殿左からの眺め。 赤い鳥居は柯柄稲荷神社のものだろう。鳥居の先に二つの社が祀られていた。 社頭の解説では境内には柯柄稲荷神社、古峯神社、津島神社とあったが全て社名札がなくよく分からない。台座の脇に小さな狐の姿が見られるのでどちらかが柯柄稲荷神社だろう。柯柄稲荷神社から右手を眺めると柯柄八幡神社の本殿の姿が望める。 銅板葺の三間社流造の三社相殿。朱が塗られていた感じはなく素木?、木鼻や妻壁に彫飾りも施されているが、派手な飾り金具もなく、落ち着いた佇まいだ。全ての参拝を終え、神社を後にしよう。 熱い陽射しが降り注ぐ社頭。 影をトレースしながら飛騨金屋駅に向かおう。飛騨金山で長い歴史を持ち、古くから人々に崇敬されてきた柯柄八幡神社、赤い両部鳥居が印象的な居心地のいい神社。柯柄八幡神社創建 / 901年(延喜年間)祭神 / 応神天皇、菊理媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、菅原道真境内社 / 柯柄稲荷神社、白山神社、津島神社参拝日 / 2022/6/29所在地 / 岐阜県下呂市金山町金山字神戸平2490飛騨金山駅から徒歩ルート / 南西へ15分程関連記事 / 岐阜県下呂市金山町「筋骨巡り」
2022.08.18
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宇都宮市大谷町の「大谷元観音」からエアコンの効いたバスに揺られて約25分程、最終目的地「下野國一之宮 宇都宮二荒山神社」へ。 これまでの長閑な景色から一変した見慣れた都会の光景が広がる。この日は明日から二荒山神社参道で開催されるFIBA3×3宇都宮オープンの会場準備やそれを知らせるポップがあちらこちらで貼られ街は盛り上がりを見せていた。二荒山神社社頭の前を県道10号が横切っているが、県道を越えた南に鎮座する二荒山神社摂社「下之宮」社頭。 ここも会場設営の為の資材スペースとして使われ、参拝や写真を撮れる雰囲気ではなかった。それでもまだ開催当日でなくて良かったのかも知れない。二荒山神社社頭は客席も組まれ、設営でてんてこまい。 資材や人でごっちゃごちゃ。社頭の社号標は「式内大社二荒山神社」、その先に巨大な両部鳥居。 参道は封鎖され、左のビルの脇から正面の石段に向かう。鳥居付近の雑踏に対し石段から先の境内は人気もなく静かさに包まれていた。 石段から神門を望む。石段や石垣にはこの地の自然がもたらす大谷石がふんだんに使われている。 石段中程は踊り場を挟んで左右に境内社が祀られている。 上は左側の境内社。上右は剣宮、祭神は素戔嗚尊をお祀りする、例祭日6月15日。左は十二社、祭神は国常立神、国狭槌神、豊斟渟神、泥土煮神、沙土煮神、大戸之道神、大苫邊神、面足神、惶根神、伊弉諾神、伊弉冉尊、天照皇大神、天忍穂耳神、彦火瓊々杵、彦火々出見神、鵜茅葺不合神をお祀りする。例祭日9月15日。小さな社に16柱、超過密だ。下管原神社、祭神は菅原道真をお祀りする、例祭日8月4日。管原神社左に筆塚(右)と針霊碑。踊り場右の境内社。上 左が松尾神社、祭神は大山咋神、中津嶋姫命、例祭日1月15日。 中央が荒神社、祭神は素戔嗚命、例祭日6月15日。下 奥から石段側の眺め、手前は水神社、祭神は罔象女神。石段先の神門。 切妻銅板葺で軒側に唐破風が付く。門柱は丸柱で前後に角柱の控柱が其々2本付けられた四脚門で彫飾りなどは少ない。神門から拝殿の眺め。 下野國一之宮二荒山神社の創建は過去幾度かの火災で記録を焼失しており定かではない部分も多い。社記には仁徳天皇の御代に毛野國が上下二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野國の国造に任ぜられ、この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりという。その後承和5年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられる歴史のある神社。 この地の祖神、総氏神さまとして人々から広く親しまれている。この神社、鳩にも親しまれているようで、人慣れした鳩がとても多く、近寄っても逃げやしない。拝殿全景。銅板葺の入母屋造りで大きな向拝を持っている。 手前には大きく勇猛な姿の狛犬が守護している。境内は右側に神楽殿、左側に社務所が建ち、本殿の左右に境内社がある。拝殿前の狛犬と拝殿。 拝殿内には「延喜式内二荒山神社」と記された大きな扁額が掛けられている。祭神は豊城入彦命、相殿神に大物主命、事代主命を祀る。拝殿右の市神社と須賀神社の相殿。 創建時期など詳細は不明。市神社 祭神は大市姫命、例祭日6月15日、初市祭1月11日、花市祭2月1日。 須賀神社 祭神は素戔嗚尊、例祭日6月15日、夏祭(天王祭)7月15~20日。寄進年代を見忘れた狛犬。 阿形、吽形ともに口の開き具合に差がなく、平面的に刻まれた感の強いもの。その愛嬌のある顔は二荒山神社で一番印象に残るもの。拝所の額、シンプルだ。 内部を一枚撮ってPCで補正して見ると、金色の飾り金具を多用した本殿らしき姿が現れた。拝殿から本殿方向の眺め。 二荒山神社の社殿は、かつては20年毎に建替えられていたと云われ、戦国時代以降は戦火や失火により幾たびか焼失に見舞われたとされ、現在の社殿は明治10年(1877年)に明治新政府により仮社殿として再建されたものと云う。 境内の眺め(拝殿から手水舎、神門)。上 神門から続く廻廊。下 境内右側に神楽殿が建つ。神楽殿から左の眺め。上、前田雀郎句碑、境内にはこうした句碑や歌碑が複数立てられている。下、神馬像から市神社、須賀神社の相殿方向を眺める。拝殿左の女体宮と十社方向。 ここからだと神明造りの本殿の姿が見渡せ、棟には9本の鰹木と外削ぎの千木が見て取れた。本殿左の女体宮。 内削ぎ千木で鰹木は5本、祭神は三穂津姫命、例祭日10月22日。十社。 祭神は素戔嗚尊、天兒屋命、味耜高彦根命、武甕槌命、豊城入彦命、大山咋命、事代主命、下照姫命、譽田別尊、日本武尊の県内式内社の神10柱を祀る。初辰稲荷神社(左)と明神の井(右)。明神の井。 『宇都宮の名所七木七水八河原の一つで由緒深い「明神の井」をこのたび復興致しました。この井戸にまつわる伝承は数多く残され、明治天皇が明治四十二年十一月那須野ヶ原大演習の折、当地に行幸があり、この井水を以て湯茶を献ったと伝えられている。 この井戸水は御神水で霊水であり、御手水や神棚に供える御水に、また書道等の技芸の水に使用すると上達すると言う信仰があり、持ち帰えると御神徳を得られる』奉納鳥居が連なる参道の先の拝殿、安置された鏡が放つ光は社頭からも見て取れる。 天井一杯に奉納提灯が吊るされている。初辰稲荷神社。 祭神は倉稲魂命、例祭 陰暦2月初牛日、月次祭毎月初牛日。ここ初辰稲荷神社で参拝は最後と思い込み、ここから左方向に進まなかった、これが失敗。 今、境内マップを眺めて見ると、この左方向の少し離れた所に東照宮が祀られていたようです。下に宇都宮二荒山神社の境内マップを載せておこう。参拝を忘れていたのは図の赤の5番、家康様に拝むのを忘れたようだ。境内で見かけた由緒。 これで二泊三日の下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」巡りもコンプリートとなります。 全国の東照宮を巡りたい自分にとってここでの取りこぼしは痛い、長い?人生、再び訪れる事も有ろう、東照宮はその時のお楽しみ残しておこう。下野國一之宮 宇都宮 二荒山神社創建 / 不明祭神 / 豊城入彦命相殿神 / 大物主命、事代主命境内・境外社 / 添付マップ参拝日 / 2022/5/12所在地 / 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1公共交通機関アクセス / JR「宇都宮」駅からバス「馬場町」停降車関連記事 / 大谷元観音、全国一ノ宮巡り 栃木県 day3、
2022.08.17
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大谷元観音先に掲載した「大山阿夫利神社」から姿川沿いに下る事数分。 道すがら、左に知名度の高い「大谷観音」が見えている、残された時間に余裕もなく宇都宮に向かう「大谷観音前」バス停を目指す。バス停手前の県道沿いで見かけた「大谷元観音」、古びた寄棟の小さな観音堂だ。 ここもスルーか?先にバス停に着いたかみさんから「バスがくるまであと5分」の連絡が入る。 道路の見通しが良くバスが来れば走れば間に合う、少しだけ立ち寄ってみた。観音堂向拝からの眺め。 向拝柱の上の木鼻や梁には手の込んだ彫が施され、塗られた朱も色褪せ趣のある佇まい。額には「元観世音」とあり「昭和14年11月27日」とある。 再建されていない限り1939年頃に建てられたものだろうか?ほぼ1世紀、大きな補修の手が入れなければ古色蒼然としたこの佇まいも理解できるが、無数に貼られた千社札は「いやいや、もっと古くから鎮座してます」と云っているようだ。 残念ながら大谷元観音には概説もなく、後日地元の資料など見たがこの疑問を解決するものは見つからなかった。参拝を終え堂内を窺ってみた。 正面に黄金色に輝く観音像と右に黒塗りの厨子が安置されていた。左側に「・銭・福」と書かれた額がある、ここから疑問の解決につながるかも知れない。堂右奥の光景。 右手の大谷石の岩壁に寄り添うよう一枚の石標があり、「銭洗観音」と刻まれ、左に観音像と蛙の像が置かれていた。しかし肝心の銭を洗う場所は見当たらなかった。 堂の裏は大谷石の岩壁、そこに開いた穴の中に祠らしき姿と窪みに複数の観音像が安置されていた。写真右の大きな石碑は県道開通記念碑。大谷元観音の鎮座地を1909年と現在で比較してみました。 現在の地図上に大谷元観音は記されていないので、遡っても同じだろうが、大谷資料館と大山阿夫利神社、大谷元観音を落として見ました。大谷資料館から徒歩でも10分少々、周辺には大谷寺や平和観音等のメジャーな見所もあり時間をかけて巡って見る価値がありそうだ。 大谷元観音開基 / 不明本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 栃木県宇都宮市大谷町参拝日 / 2022/05/12関連記事 / 「大谷資料館」栃木県宇都宮市大谷町、全国一ノ宮巡り 栃木県 day3、下は県道沿いからちらっと姿を見せた「平和観音」県道からも石段が続き拝めそうです。 平和観音大谷寺にあり、高さ約27㍍の大谷石の石造観音菩薩立像です。先の大戦による戦没者を弔い、世界平和を祈念するとともに、大谷観音のお前立として昭和23年から6年をかけて彫られた観音像。残念ながら県道の先からバスがやって来た。 もう一時間なんとかしたかった、最終日ここまでそれほど時間のロスはなかったはずだが、最終目的地もある、ここまでです。
2022.08.15
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三重県四日市市諏訪栄町「諏訪神社」鵜森神社から近鉄四日市駅方向の「諏訪神社」へ。上中央通りから一番街商店街方向の眺め。 諏訪神社は小入道くんが描かれたアーケード入口から商店街を抜けた先に鎮座します。下商店街は日中は人通りは少なく閑散とした状態ですが、夜に訪れると楽しそうな店が軒を連ねる。 駅から近い事もあり、仕事帰りに一杯ひっかけるには良い場所かもしれない。商店街を抜けた先が諏訪公園、社頭へは公園前を右に進み、左右に続く旧東海道を左に進んだすぐ左。旧東海道沿いの諏訪神社社頭。 左に縣社諏訪神社社号標(1917年寄進)、左右の常夜灯(1844年寄進)、中央に銅板で包まれた神明鳥居がある。社頭にはもう一つ鳥居があったようだ。 常夜灯後方に見える石造の柱は三輪鳥居の脇鳥居の様に見える、同様の柱は右側にもある。上左右に立つ石柱の上部に円形の穴が開けられており、左右の穴に丸木を通すものかもしれない。 大正時代に作られたこの脇柱、「鳥居があったようだ」ではなく立派な冠木門だろう。下社頭付近に諏訪神社例大祭「四日市祭」の様子を描いた解説が掲げられていた。 この祭りの起源は定かではないようですが、祭礼で使用する大山車に延宝7年(1679)の記録があり起源は更に遡るようだ。永く受け継がれたこの祭りは空襲により大山車などを焼失、昭和から平成始めの衰退期を経て1997年(平成9)に再興された。 祭の様子は版画として刷られ、訪れた見物客の土産として売られていたようだ。掲示されている版画は1900年(明治33)に刷られたもので、大入道やからくり人形、鯨船や鯨の張りぼてを担ぐ人の姿など描かれ、とても盛大で活気に満ちた祭りだったのが伝わってきます。 上の冠木門の構造はそうした祭礼を考慮した上での構造なのかもしれない。鳥居脇の神社概説。「 伊勢国四日市産土神祭神 建御名方神、八重事代主命 鎮座 建仁二年(1202)壬戌七月二十七日歳旦祭 一月一日 祈年祭 二月十七日夏越大祓 六月三十日 例大祭 十月第一日曜と前日(四日市祭)新嘗祭 十一月二十三日 大祓 十二月三十一日月次祭 毎月一日・十五日境内社 山津見神社 祭神 大山祇命、他十柱鎮座 明治四十一年二月一日 例大祭 八月第一日曜と前日政成稲荷神社 祭神 倉稲魂命、他二柱鎮座 万延元年(1860)二月十二日例大祭 四月九日天神社 祭神 管原道真公 鎮座 宝永年間(1704~1711)以前 」上一ノ鳥居。1940年(昭和15)に新たに建てられたもの、全体が銅板で覆われた神明鳥居。 左右の柱の根元に石標があり、左に「百拝石」、右に「紀元二千六百年十一月 新田町」と刻まれた小さな石標がある。下鳥居から神橋、拝殿方向を眺める。 百拝石から拝殿までお百度詣りするための起点として立てられている。新橋を渡ると左右に大きな神木の楠木が聳え、境内は左右に広がる。 この楠木は「市の樹木」にも指定されていると云う。狛犬。 1856年(安政三)に寄進されたもので、横に並ぶ5基の灯篭の中には1850年(嘉永三)と刻まれたものもあつた。阿形後方の神馬像は1935年(昭和10)の寄進で、戦時中の金属供出令によって神馬から弾丸に姿を変えたようだ。現在の像は2002年(平成14)新たに再建されたもの。上 左右に広い境内、その左側に写真の社務所があり、現在の建物は1959年(昭和34)に建てられたもの。瓦葺の入り組んだ屋根構造の入母屋造。下 境内右手が政成稲荷神社、山津見神社等の摂・末社が鎮座しています。手水舎。 境内右手にあり、手水石に「明治十二年(1879)一月魚屋中」と刻まれていた。拝殿と境内社の天神社の鳥居。 拝殿は瓦葺の入母屋の平入りで唐破風向拝を持つもので、現在の社殿は1951年(昭和26)に再建されたもの。向拝の鬼の紋は梶?だろうか。 建物は目立つ飾りは少ないけれど、蟇股などに梶?の透彫りが入れられるなど拘りが見られた。諏訪神社は鎌倉時代に信州諏訪大社の分霊をこの地に勧請したのが始まりで、四日市の歴史とともに歩んできた総産土神で、祭神は建御名方命と八重事代主命の2柱をお祀りする。 この拝殿から本殿にかけては深い杜に包まれよく分からなかったが、後方の諏訪公園側の社叢から僅かに流造の本殿と外削ぎの千木と鰹木の一部を見ることが出来た。本殿も拝殿と同時期に再建されたようです。諏訪神社は創建が古いだけに伊勢参宮名所図会や東海道名所図絵など多くに記録が残ります。 また江戸時代以後、四日市は東海道五十三次の宿駅として賑わい、社頭が旧東海道に面していたこともあって、多くの旅人が諏訪神社に参拝したと云われています。浜田・四日市の総産土神として人々の崇敬を集め、地域の移り変わりを見守ってきた古社。拝殿右の天神社鳥居。 奥に小さな二つの社が祀られていますが、拝所から先の立ち入りは禁止となっていました。左の社は戎(えびす)祠 1865年(慶応元年)、事代主神社を勧請したのが起りとされます。右の社が天神社。 勧請された時期や由緒の詳細は不明。戦災で焼失した旧社の棟札に「奉遷宮天満宮 宝永五戊子年(1708)四月吉日」と記録があったと云い、焼失以前はここに社殿があったそうだ、現在の社殿は1930年(昭和5)に奉納されたもの。境内右側の山津見神社。 石の神明鳥居(1891)の先は神池があり石橋の先が山津見神社。鳥居脇の「堅磐橋」と刻まれた石柱。 「明治四十年(1907)八月十二日起工 九月二十五日落之 以賽三十七八年役之戦功 石工生川卯吉」「奉献 三重軍人義会 四日市支部」とあり、年代から察するに堅磐橋は日露戦争の戦果を記念して架けられたものか。堅磐橋から山津見神社拝殿全景。 橋を渡ると境内は左右に広がりがあり、そこに山津見神社と政成稲荷社の社殿や伊勢神宮遥拝所などが纏められている。山津見神社から政成稲荷社方向の眺め。 手前は山乃神。山津見神社。 明治の合祀令により1908年(明治41)に氏子域の旧四日市・旧浜田地区に祀られていた48の社を移転・合祀をするため山津見神社として建てられたもの。社号は合祀した大半が山祇の神だった事からこの社号になったとの事。 その他に神明社、津島社、八幡社、稲荷社、秋葉社、金刀比羅社、霊符社等の神々も合祀されているそうだ。祭神 大山祇命、天照大神、素盞鳴命、大物主命、応神天皇、倉稲魂命、大宮能売命、猿田彦命、大市比売命、加具都知命、国常立尊下 内部には複数の諏訪神輿が保管されていた。四日市諏訪栄町の有志商店が中心となりこの神輿が作られたと云い、写真中央の神輿は1984年(昭和59)に完成したもの。 本殿などは外から窺うことは出来なかった。伊勢神宮遥拝所。 堅磐橋を渡った右側の石鳥居の先に石柱(1963)が立つ。この先にある伊勢神宮をここから遥拝します。政成稲荷社 祭神は倉稲魂命、大宮能売命、猿田彦命創建は1853年(嘉永6)で伏見稲荷神社から分祀した屋敷神と祀られていたが、1860年(万延元年)に「正一位政成大明神」として当社境内に移遷したものとされる。 この稲荷は昭和の戦災において、周囲の堀や建物が全焼したにもかかわらず、当社の本殿は全く被災しなかったと云う。不思議な何かを持っている稲荷社。政成稲荷社拝殿全景。 拝殿を守護する狛狐は左が巻子、右は宝珠を口にしたもの。災難よけ、万願成就の福徳稲荷大明神「まさなりさま」として崇敬されていると云う。上 政成稲荷社の左に明治神宮遥拝所。石柱は1936年(昭和9)に寄進されもので、この場所から明治神宮を遥拝します。下 遥拝所から更に左に進むと西参道の鳥居がある、社号標は明治25年(1892)の寄進で「縣社 諏方神社」とある。何の抵抗もなく「スワ」と読んでしまうが、よく見ると「訪」ではなく諏「方」、ごんべんが無い。 諏訪の略表記でこのように書くらしい。始めて知ったかもしれない。この鳥居から西は諏訪公園となる。左 園内北側に聳えるのは「誓之御柱」明治政府の政治基本方針(五箇条の御誓文)を基に1934年(昭和9)に建立されたのだとか。右 諏訪公園園内には1929年(昭和4)に図書館(現在は諏訪公園交流館で登録有形文化財)として建てられた赤レンガ造りのレトロな建物が残っています。 青々とした芝生や噴水、ベンチもあり憩いの場的存在だろう、ところが今一つ残念な点が。・何故だか異様にカラスが多く、鳩の如く園内を闊歩する姿はヒッチコックの世界観があった。・憩いの場なんだろう、ビール缶や炭酸飲料の容器、コンビニの袋などが散乱していた。・芝生にペットの・・・公園は元は諏訪神社の社地だったと云う、杜で区切られているとはいっても手入れされた境内と公園で見かけた光景のギャップが大きかった、たまたまそうだったと思いたい。「諏訪神社」創建 / 建仁二年(1202)壬戌七月二十七日祭神 / 建御名方神、八重事代主命境内社 / 戎祠、天神社、山津見神社、政成稲荷社所在地 / 三重県四日市市諏訪栄町22-38参拝日 / 2022/06/10公共交通機関アクセス / 近鉄四日市駅から東へ徒歩10分程鵜森神社から徒歩 / 北に15分程関連記事 / 「鵜森神社」四日市市浜田町
2022.08.11
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尾張旭市井田町 井田「八幡神社」 名鉄瀬戸線「三郷」駅から県道75号線を矢田川方向の南に向かう事10分程。県道沿いに玉垣で囲われた神社が現れます、歩道沿いに社号標が立っていますが、社頭は更に南にあります。写真は県道沿いの歩道から三郷方向の眺め。井田「八幡神社」社頭。 社地の南側に明神鳥居があり、そこから奥の拝殿に向かい長い参道が伸びています。周囲は住宅が広がり、神社の杜は今では貴重な存在かもしれない。鳥居左に旧社号標(昭和13年寄進)と玉垣造営竣工碑が立っていて碑文は以下。「井田八幡神社は、明徳年中(1390~1394年)にこの地の城主だった浅井氏が勧請創建したと伝えられる。 祭神は応神天皇(誉田別命=ほんだわけのみこと)を祀る。八百万の神の中では最も広く人々に信仰され、安産の神として知られる。 平成7年10月吉日」尾張旭市「歴史の散歩道ーふるさと尾張旭史跡めぐりー」で井田「八幡神社」について以下の様に紹介されていた。「井田八幡神社は、明徳年中(1390~1394年)にこの地の城主だった浅井氏に勧請創建されたものとの言い伝えが残っています。 江戸時代には、井田村・瀬戸川村の両村の氏神として崇敬を集めていました。井田八幡神社には、江戸時代中後期に作られた瀬戸焼の陶製狛犬(市指定文化財)3対が所蔵されています。 一般的に、狛犬は木や石で造られますが瀬戸を中心とした東海地方では、陶器の狛犬がみられます。一般的な狛犬は、神域を守る霊獣として境内におかれるものが多いですが、陶製狛犬は、村落の神社や一族の氏神に一族繁栄、商売繁盛、家内安全などが祈願されて奉納されたもののようです。毎年、7月第1日曜日に開催される百灯明祭には、提灯に飾られた山車とともに井田地区の打ちはやし(市指定文化財)やみさと会のざい踊り(市指定文化財)が奉納されます」とあった。併せて文化財の指定を受けた3対の狛犬についても紹介されていたので掲載しておきます。 ここに出てくる浅井氏の城とは、当地から南西10分程に位置する八反田公園にあったとされる井田城を指し、浅井玄蕃允が城主だったとされる。発掘調査で遺構や出土品が発見されているという、現在は園内に城址の碑が立てられています。石の明神鳥居、額は八幡宮。 伽藍全景。左が社務所(無人)でその奥に手水舎、境内社、正面の拝殿から奥にかけて社殿が続く。拝殿右側に造営記念碑が立てられ、後方に写真の皇紀2600年記念碑、御嶽神社と霊神碑がある。 玉垣の柱の傍に小さな陶製の狛犬が置かれている。手水舎と深い緑色の体で立派な髭を持つ龍口。入母屋瓦葺で長く突き出た唐破風向拝が特徴的な拝殿。 後方の幣殿と繋がっているのか今一つ分からなかった。拝殿前を一対の狛犬が守護する。寄進されたのは比較的新しい様で、毬と子を持ったよく見かける姿のもの。拝殿正面。 向拝柱から先には進めず、手前の柵から参拝となります。二つの鈴があるがそこに鈴紐はない。社殿全体は比較的最近補修の手が入った様で傷みの少ない綺麗な外観を保っている。 拝殿左から境内社と社殿全景。 本殿域は高い塀で囲われ、本殿や本殿域の様子は見て取れなかったが、本殿は流造の様に見えました。手前の覆屋には板宮造りの社が4社祀られ、左から津島神社、北野天満宮、熱田神宮、秋葉神社と祀られている。 神社を中心に西の井田村、東の瀬戸川村の両村の氏神様として崇敬されてきただけに、こちらを参拝すればすべてが揃っている。境内社の前に置かれた陶製の小さな狛犬。 小粒な体で精一杯守護する狛犬は目鼻立ちが個性的で、存在感は拝殿前の面々や文化財の指定を受けた3対の狛犬に劣る事はない。拝殿から社頭の眺め。 強い陽射しに濃い緑、夏の神社の光景だ。因みに参拝者駐車場は見かけませんでした。井田「八幡神社」創建 / 明徳年中(1390~1394年)祭神 / 応神天皇境内社 / 御嶽神社、津島神社、北野天満宮、熱田神宮、秋葉神社所在地 / 尾張旭市井田町1丁目218参拝日 / 2022/07/20公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「三郷」駅下車南へ徒歩10分
2022.08.10
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涼しかった大谷資料館を後に、炎天下を宇都宮へのバス移動のため大谷街道沿いの大谷景観公園方向を目指す。 姿川を渡り川沿いを下り、街道沿いのバス停を目指す。写真は街道沿いの大谷景観公園。 姿川左岸沿いに大谷石の切り立った岩壁が露出し、至る所に自然なのか人工的に作られたものか定かではないが祠の様に幾つもの穴が開いている。街道側にも同様に大谷石の切り立った岩壁が続いています。 ここにもバス停はあるが過ぎ去った後、一駅先まで歩く事にした。大谷景観公園を過ぎ、街道沿いを歩いていると写真の「大山阿夫利神社」の前を通りかかり立ち寄ってみました。 大谷石の岩壁に寄り添うよう鎮座する神社は、左右に神明鳥居が立ち、左の鳥居から山肌に延びる参道があり、奥に力石と刻まれた石標と小さな社が見えてはいるが立ち入り禁止。右手の「大山阿夫利神社」は参拝できます。この神社、玉垣から始まり全てが大谷石で作られているように見える。 小さな境内には年輪を重ねたイチョウの樹が聳え、大谷石の岩壁を背にして建つ本殿を覆わんばかり。調べて見たがそもそもが大谷石採掘の安全祈願の為、明治頃に創建されたものだと云う。 石を生業として発展した地域だけに、採掘に伴い山の禍を鎮めるため神を祀るのは自然の流れだろう。社全景。 社手前を守護する狛犬は阿形の顔が一部欠落してしまったようだ。奥の社は岩壁からそのまま削り出した?と感じるほど岩壁に寄り添い建てられている。 社は全て大谷石で作られた流造。社右の岩壁にプレートが埋め込まれていたようだ、現地では存在に気付かず見落としていたが、写真を整理している今漸く気が付いた。 精一杯拡大すると文字が刻まれているようですが、携帯の画像では内容を読み取る事は出来なかった、恐らく由緒が記されているものと思う。社を守護する狛犬。 吽形は原形を保っているものの、右の阿形の顔は鼻から下顎部分が剥落したのだろう、痛々しいものがある。社殿は扉が開放され、正面に天照皇大神宮のお札が納められている。 その後方に大山阿夫利神社祈祷御札が納められていた。大山阿夫利神社 神奈川県丹沢山系の東端に突出した独立峰大山に鎮座する関東総鎮護大山阿夫利神社。古くから霊山として篤く信仰をされ、江戸時代には多くの人々が来山したと云う。 当時はお伊勢詣りを筆頭に寺社に参拝することが庶民の流行だったこともあり、江戸の町から近い距離にある大山は手軽に参拝できるレジャーの一つとして賑わったそうだ。祭神は大山祗大神(山神)、高龗神(龍神)、大雷神(雷神)を祀る歴史のある神社。大谷石石材業者が共同で大山阿夫利神社から大山祗大神を勧請、祭祀したのが「大谷阿夫利神社」の始まり。 大谷石は古くから大規模に採掘が続けら、埋蔵量は約6億tとも云われ、約200箇所あった採掘口は現在採掘が続くのは6箇所とされ、年間約1万トンが出荷されていると云う。往時は採掘された大谷石が街道を経て運ばれたのだろうが、今はその姿を見かけることがなかった。 子供の頃は大谷石は塀などで結構身近に見られたものだが、建物が和風から洋風に移り変わり、あまり見かけなくなった気がするが、ここでは蔵や離れなど大谷石が身近に使われていた。当初は露天掘りから始まった採掘、周囲にはその結果特異な景観が至る所に残っている。 それこそ機械化される前、人の手で切り出された痕跡がそこかしこに残っている。この地の安全や産業、地域の繁栄を願い祀られた「大山阿夫利神社」、普段は参拝客もなく寂れた印象を受けますが毎年10月25日には「山神祭」が行われ賑わうと云う。大山 阿夫利神社創建 / 不明主祭神 / 大山祗大神祭礼 / 10月25日「山神祭」所在地 / 栃木県宇都宮市大谷町1220-8参拝日 / 2022/05/12大谷資料館から徒歩ルート / 所要時間10分程公共交通機関 / 栃木県庁前からバス、大谷観音前バス停まで約30分関連記事 / 「大谷資料館」栃木県宇都宮市大谷町
2022.08.09
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名古屋市西区の枇杷島から上更東周辺の寺社を巡る移動途中の西区名西1で見かけた小さな観音堂。 今回はそちらを掲載します。上は上更東周辺の地図。 左上段が明治21年、右が昭和7年。下段左は昭和22年、右がほぼ現在で年代毎の地域の移り変わり、赤が観音堂の場所になります。観音堂の場所を見ていくと、明治の頃は美濃街道南側の集落の外れに位置している。 昭和に入り観音堂の辺りに東西に線路が敷かれているのが分かります。これは名鉄名古屋本線。 現在の名鉄名古屋本線は1941年(昭和16)に新名古屋地下トンネルの完成と共に、枇杷島橋を越え南に曲がりトンネルを通過し地下駅の名鉄名古屋駅に繋がる様に変わりました。それ以前は押切まで東進し、そこから南下、名古屋駅方向に向かっていました。 今でいう東枇杷島駅は現在の枇杷島公園の北側にあり、現在の駅は新名古屋地下トンネル完成と共に西に移転されたもの。路線変更に伴いそれまでの線路は撤去され、更地の状態から順次宅地化されていく様子が見て取れます。 西区名西1の『観音堂』はかつての線路付近に建てられています。西区名西1の『観音堂』の通り。 北側のグループホームの敷地の一部が観音堂の敷地として与えられているようです。こうして見るとその存在に気付く事はなく、車は到底通れないし近くに駐車余地もない。 歩いて訪れるしかない。路地を奥に進むと漸く堂の姿が見えてきます。 瓦葺で方型の小さな堂の露盤の上には大きな宝珠が乗せられている。堂の瓦を見る限り比較的新しいもので、この辺りの移り変わりを見る限りこの観音堂は昭和に入って建てられたものかもしれない。 手前に石柱が立っているが角の取れたその姿は少し年季が入っているようにも見える、用途は分からない。堂正面の眺め、内部には二体の石像が安置されているようです。 手前の石柱正面に延命地蔵大菩薩と刻まれていた。この石柱の奥に置かれているのは燈籠の火袋ではなかろうか? ひょっとしてこの石柱は常夜灯の竿かもしれない?石柱全周を見渡していないので寄進年度は不明ですが、堂の造られた年代より古そうだ。堂内には南無観世音菩薩、南無地蔵菩薩の提灯が吊るされている。 堂内は綺麗に保たれ、左右に一羽〃願いを込めて折られた千羽鶴が奉納されています。延命地蔵という事であれば、ここは二人分健やかに過ごせるようにお願いしておこう。二体の石像。 左は観音菩薩、右が延命地蔵、地蔵さんの表情はよく分からないが、観音様の表情はこちらを見て優しく微笑んでいる様に見えてくる。ここしばらく、かみさんが体調を崩していたが、願をかけた事もあってか、コロナでもなく、夏風邪でもなく要因がはっきりし、適切な薬のお陰でいつもの元気を取り戻した。 病は気からとも云う様に、原因が分からないのが一番宜しくない。掛かりつけ医ですら適切な診断が出来なくなってきた現状、なんでもかんでも「解熱剤服用し自宅療養」では済まない。 発熱の要因はコロナや風邪だけではない。「何回同じこと繰り返してんの、薬壺貸そうか?」、観音様の笑みは呆れ果て微笑んでいるように見えてくる。 後日談二人分しか願を掛けなかったせいか、地方に住む次男はMAX39℃の熱と喉の痛み、典型的な症状でBA5に感染、自宅療養していた。 やる事は解熱剤服用し、自治体から支給される軽食とひたすら安静にするのみ。長らくの療養期間を経て後遺症もなく明日から出社予定となった。 もはやいつ誰が感染してもおかしくない。 観音堂建立 / 不明堂内安置 / 延命地蔵菩薩、観世音菩薩所在地 / 名古屋市西区名西1-20参拝日 / 2022/6/3関連記事 / 名古屋市西区栄生1の不明社
2022.08.06
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「鵜森神社」は近鉄四日市駅から南に徒歩5分程の鵜の森公園内に鎮座する神社。上近鉄の高架と下を走る「四日市あすなろう鉄道」 四日市から二駅先の日永から八王寺線と内部線の二手に別れ、西日野、内部までを結ぶ。762 ㎜のナローゲージ(狭いレール幅)の特殊狭軌鉄道で、車体の鮮やかな緑が印象的な可愛い車両が走る。 写真は262F型、毎時3本程しか運行されていないようで、踏切が降りるのはある意味運がいい。下この踏切から先の突き当りが鵜森神社。鵜森神社社頭。 神明鳥居から先のこんもりとした社叢は嘗ての浜田城跡、神社はその中に鎮座します。敷地周辺は緑豊かな鵜の森公園として整備され憩いの場になっている。社頭前には複数の常夜灯と狛犬。鳥居をくぐった左の冠木門と浜田城址の碑、16間四方白星兜鉢についての解説。 「田原藤太秀郷(藤原秀郷)所縁のあるものとして奉納されたと云われ、現在は鵜森神社で社宝として保存されている。鉢は16枚の鉄板を矧ぎ合わせ半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板を被せた形跡が残る。 かつての保管箱には「松平相模守 栗田右衛門尉寄進 万治二年一月吉日」と銘があり、袱紗の端には「因幡国住人淵源三郎」という縫文字もあったと云われ、鎌倉時代の特色が強く表されている作品。 浜田城は室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美作守忠秀が築いたもの。後に藤綱、元網らが当地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城」鳥居の右が社号標、その奥が社務所。鳥居から真っすぐ続く参道左側に手水舎。参道沿いに鵜の森公園解説や四日市の名所案内がズラリと掲げられている。こちらはムカデ退治の伝説や浜田城滅亡の経緯など概説が掲示されていた。藤原秀郷(田原藤太、俵藤太)は三上山で巨大ムカデを退治した、平安時代中期の武将。 後の室町時代に俵藤太絵巻としてその時の様子が描かれている。大ムカデを退治した秀郷はその褒美に兜を賜ったと伝わると云います。 それがこの神社の社宝としてに保管されている十六間四方白星兜鉢とされ、国の重要文化財に指定されている。神社由緒によると鵜森神社の鎮座地は浜田城の旧跡で、文明年代(1400年代)より浜田城主の田原家が代々崇敬した社。 元は、江田川、江田町等の旧地名に由来し江田神社とも、神社周辺が海鵜の生息地で鵜森大明神とも称し、それが社号となったと伝わる。地名の「鵜の森」に「の」が入ったのは、昭和の新町名制度に伴い読みやすくするため挿入されたらしい。 城跡は、1927年(昭和2)に市によって買収され、鵜の森公園に整備され、1964年(昭和31)浜田城跡として市の指定記念物に指定されました。境内は現在鳥居が立つ東側を除き、ほぼ全周を壕と土塁で囲まれ伽藍が配置され、昭和後期から平成にかけ稲荷社や社務所等配置を変えられているようです。境内右の田原稲荷大明神と左に鵜森神社拝殿・本殿。境内左に二棟の倉庫と左側に鵜森神社資料館。参道左側には皇大神宮遥拝所。鵜森神社拝殿・本殿。 切妻瓦葺で軒唐破風が付くもので、現在の社殿は1990年(平成2)に再建されたもので。左三つ巴が神紋。祭神 / 天照大御神、建速素佐之男命、菅原道真、旧鵜森大明神 / 田原藤太秀郷(タワラノトウダヒデサト)創建 / 不明(慶長以降~万治以前鵜森大明神として始まる)旧御霊社 / 初代浜田城主忠秀以下四代の霊。1837年(天保8)別社として創建、1909年(明治42)合祀。軒の瓦には神紋の左三つ巴が入る。 鵜森神社扁額、鈴は鈴紐が外されていた。上 拝殿左の由緒と吊灯籠。下 拝殿から本殿方向の眺め。左に「八十万」と書かれた提灯が吊るされています、これは田原家の紋所で先代赤堀上野介の軍容は常に八十万騎の勢いがある事を世間に知らしめるために用いたとされている。境内右側の田原稲荷大明神。 鳥居左脇から鵜の森公園西側につながっている。田原稲荷大明神拝殿・本殿。 浜田家の鬼門除けの鎮守と言い伝えられ、田原家と深い関係があることから、1995年(平成7)に田原稲荷大明神に改称されたそうだ。過去境内にあった稲荷社、菅原社、御霊社の中では最も古いとされる。 祭神 / 猿田彦命、保食神、大宮能賣命田原稲荷大明神扁額、こちらも鈴はあるが鈴紐は外されていた。上 田原稲荷大明神の右側の庖丁塚。役割を終えた包丁の供養塔。下 境内左側の土塁の名残、浜田城の遺構は少なく、こうした土塁が残るのみ。鳥居に戻り左側の冠木門方向に進むと二つの石碑がある。 上が鵜森神苑の石碑。下が浜田城址の碑。鵜の森公園から冠木門の眺め。 門自体は城や神社と所縁はなく、105年に渡って栄えた城を後世に継承するため有志により建てられたもの。浜田城は、室町時代の1470年(文明2)、赤堀城主田原孫太郎景信の三男、田原美作守忠秀によって築かれ、紀伊守藤綱・遠江守元綱・与右衛門重綱まで四代の居城。 本家の赤堀家を含め赤堀三家の祖先は、田原藤太秀郷であるとされ、田原孫太郎景信が応永年間(1394~1428)上野国赤堀庄から伊勢国栗原の地に移り、ここに築城して地名を赤堀と改めたと伝わる。その後、長子盛宗を羽津に、次子秀宗を本家赤堀に、三子忠秀を浜田に配し、赤堀三家がこの地を支配するようになりました。 初代城主美作守忠秀は、現在の鵜の森に築城しそれまで浜田城の西方を南北に通っていた東海道を城の東側に移し交通の便を図りました。また、市場の整備も行うなど殖産振興にも努めた結果、16世紀半ばには市場も整い、毎月4日、14日、24日に定期的に市が開かれるまでに栄え、以来これが「四日市」と称され、地名の起源ともなったという四日市繁栄の開拓者とされる。 1575年(天正3)織田信長の武将瀧川一益の浜田城を攻めで105年にわたる浜田城は幕を閉じ、浜田家は滅亡の道を辿ったが、この地の礎を築いた浜田氏は今も地元から慕われている。田原稲荷大明神から西に進んだ先の鵜の森公園から浜田城址の眺め。 市内にあって緑豊かな樹々が生い茂り住民の憩いの場になっている。鵜森神社創建 / 不明祭神 / 天照大御神、建速素佐之男命、菅原道真、田原藤太秀郷、初代浜田城主忠秀以下四代の霊田原稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 猿田彦命、保食神、大宮能賣命浜田城址築城 / 1470年(文明2)城主 / 田原美作守忠秀所在地 / 三重県四日市市浜田町15-18公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋線「四日市」駅から南に徒歩5分程訪問日 / 2022/06/10関連記事 / 三重県四日市市西町「延命地蔵堂」
2022.07.30
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以前掲載した「平安山正信寺、津島神社」から国道22号線を西に少し歩き「上更東」交差点を左に進みます。一つ目の交差点を過ぎた右側に民家と工場があります。 歩道沿いに玉垣があり、民家と工場の僅かな空間に小さな覆屋が建てられています。西区栄生1の不明社。 覆屋が少し奥に建つので通りからだとこの玉垣が目印となる。この神社、不明社としたけれど、どなたかに聞ければ分かったのかもしれないが、炎天下に外を徘徊するのは自分だけ。 現地や自宅でも色々調べて見たが結局社名や沿革など分からなかった。境内左の皇紀2600年記念碑(1938年(昭和13)健之) 神武天皇の即位(紀元前660とされる)から2600年にあたる1940年(昭和15)、当時は長引く日中戦争と資源確保のため、翌年の太平洋戦争に突き進もうとしていた時期。そうした戦時下で国民は資源不足の統制下におかれ、全てにおいて軍事が最優先されていた。 「贅沢は敵、欲しがりません勝つまでは」等のスローガンのもと、根底にあったであろう国民の閉塞感を一時的に開放し、戦争に対する国威発揚を図るために各地で行われた国家規模の式典。軍事輸送最優先もこの時ばかりは、国民の移動自粛が解かれ、明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮など皇室に関係する神社や各地の式典への観光が許されたとされる。 皇紀2600年記念碑もその一環で各地に建てられ、この碑もその一つ。この神社の創建はいつ頃か、左下が1932年(昭和7)頃の鎮座地。 地図だけでを見れば周辺に民家は少なく、それ以前は田畑が広がっている。そして昭和13年と刻まれた皇紀2600年記念碑から大正末期から昭和初期に祀られたものかもしれない。 西区は屋根神様が多く、住宅事情から地上に祀られた社もある、こちらは周辺の移り変わりの過程からみると屋根神様ではないのかも知れない。覆屋としたものの、これは覆屋ではないようで、拝所又は祭礼時の御供を置くための神饌所の様にも見えます。 境内入口の扉に神紋はないものかと見渡して見るも、特に社名に繋がるものはなかった。本殿は銅板葺の流造のようで擬宝珠の付いた高欄が付き、両脇の脇障子に繋がっている。 木鼻や蟇股に飾りが施され、小さいながら手の込んだ本殿です。供えられた榊は鮮やかな緑をしており、手間がかかる事が多いけれど、地域または個人で大切に護られているのがよく分かる。 記念碑(1938年(昭和13)が健之された時期からでも約100年、約2世代に渡って継がれて来た神様。賽銭を投入、どなたか分からないが「万事平穏」で拝んでみる。 通りすがりに訪れた参拝者には詳細は分からないが、それでいいのかも知れない。不明社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区栄生1-16-2最寄りの神社 / 「平安山正信寺、津島神社」そこからの徒歩ルート / 国道22号線を西に徒歩5分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅から徒歩20分程
2022.07.29
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栃木県日光市今市『追分地蔵尊』 鬼怒川公園駅から東武鬼怒川線で約35分程の移動時間でここ今市駅に到着。ここからJR日光線に乗り換えのため市街を歩く。上は東武鉄道下今市駅の駅舎。 日光山への表玄関であり、裳階屋根のレトロな外観は好感が持てる。この駅には登録有形文化財の跨線橋やSL展示館と転車台(全国一ノ宮巡り栃木県day2)があり、跨線橋を渡れば無料で見学でき、運が良ければSL「大樹」を間近で見る事が出来る。 この地は日光街道、日光例弊使(れいへいし)街道、会津西街道の分岐点にあたり、室町時代末期には「今村」と呼ばれる小さなだったという。江戸時代には日光山の寺領になったのを期に毎月定例日に「市」が開らかれた事から、「今市」といわれ今市宿としても賑わったと云われ、当時は上町・中町・下町とあり、下今市の下はそこから来ているという。周辺で見かけたマンホール。 中央は旧市章で周囲に市の花「カタクリ」、市の木「スギ」、市の鳥「カワセミ」が描かれていた。どれも豊かな自然が残る日光を象徴するもの。下今市駅からJR今市駅に移動の際見かけた「今市追分地蔵尊」の案内板。 さほど遠回りでもないので日光街道、日光例弊使街道の分岐を見がてら道草してみた。下今市駅から徒歩5分程、今市追分地蔵に到着。 写真は追分地蔵右手の日光例幣使街道。左手に国道121号線、旧日光街道が続き、その分岐に鎮座するのが今市追分地蔵。 国道を行き交う車は多いが例幣使街道を行き交う車は以外に少なく、杉並木の続く道には街道の面影が強く残る。この街道は江戸時代、家康没後東照宮に幣帛を奉献する勅使(日光例幣使)が通った脇街道。追分地蔵尊。 その名の通り街道と街道の分かれ道にあることから追分地蔵尊と呼ばれ、地元では古くから崇められ、吉宗の日光社参時にはこの地に祀られていたともされる。堂内に安置される石造りの座像のお地蔵様は日光市の有形文化財に指定され、像高は2.9㍍あると云う立派なもの。 堂は銅板葺の入母屋平入の大棟から直角に棟が接続し軒唐破風が付く手の込んだ屋根構造で地蔵を安置する堂としては立派なもの。 今市追分地蔵尊制作年代は鎌倉時代から室町時代とも云われ定かではなく、丸彫り坐像の石地蔵として東日本有数のものだと云う。 地蔵は一般的に錫杖と宝珠を持つ姿を見かけるが、こちらの地蔵様は左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせ、他の指は伸ばす法界定印(ほっかいじょういん)の手印を結んでいる。解説によれば1673年(延宝元年)の頃、日光憾満ヶ淵から流されここに来たものとされ、一時期(1886年頃)に於て近隣の如来寺に移されたと伝わるがその後再びこの地に戻されたと云う。一方で以下の様な伝説が伝わる。 「昔、大谷川の川原で石切り職人が仕事をしていると、ふと触れた石の肌から血が流れだした。不思議に思い何度か叩くと、どんどん紅の血潮がほとばしり、驚いた石切り職人は人を呼び懸命に彫り出したという。 それは坐像の地蔵尊でその評判は近郷にまで広まった。一先ず地蔵尊は追分に安置したが、野天に曝すのは恐れ多いと二日かけて如来寺に移された。 以降、町の人達の参詣が絶えることがなかったとされるが、やがて妙な噂がたつようになったと云う。夜遅く地蔵の前を通りかかるとすすりなく声が聞こえ、夜中になると町の中に火柱が立ち、火柱は場所を変え多くの人々に目撃されたと云う。 以降、地蔵尊の怪として地蔵様に近づくものはいなくなり、町の長老達の協議で「あの地蔵は日光憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されてきたものだ、日光が恋しくて不思議な現象を起こすに違いない、元の様に小倉町の日光が望める所に安置するのが良かろう」となり、ここに移されたと云う。それ以降不思議な現象はなくなり、再び参詣者で賑わう様になったそうだ。」 日光憾満ヶ淵から今市に流れ着いた地蔵様、日光が見えるこの追分はお気に入りのようだ。流れ着いた頃は一人ぼっちだった地蔵様だが、今では多くの仲間も増え寂しい事はないだろう。 堂の左側の二十三夜尊(左)、くさ地蔵尊(右)がある。二十三夜尊は月待講の一つで、くさ地蔵尊は子どもの皮膚病を治してくれる地蔵様だと云う。 僅かな時間でしたが、お地蔵様を拝みに訪れる参拝客は一人、また一人と後を絶たなかった。 今市追分地蔵尊所在地 / 栃木県日光市今市117東武鉄道下今市駅から徒歩 / 追分地蔵尊まで徒歩5分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day3、藤原町護国神社、鬼怒川温泉神社
2022.07.28
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北区下飯田町「屋根神」 昔の人はよく言ったもので「向こう三軒両隣」や「遠くの親戚よりも近くの他人」など近隣との結びつきを表す言葉があった、近頃はあまり耳にする事はなくなった気がする。 良くも悪くも壁一枚で繋がった昔の長屋スタイルが今も残っていた。「生活音が筒抜け」でプライバシーがないとされてしまうが、それが日常の事。 それ故に互いの事情がよく分かり、お出かけの声掛けや消耗品の貸し借り、時に犬・猫の餌やり、夫婦喧嘩の仲裁など、困ったときには助け合う文化があった。我家の近隣はそうした言葉も死語に近くなった。 古い家は解体され細かく分けて分譲され、高い壁で家を取り囲み、あっという間に家が建つ。施工業者や引っ越し業者が挨拶に訪れ、気が付けば知らぬ間に営みが始まっている。 表札もなく、顔も知らないなんてことは珍しくない。世の中変わったもので、壁をもって周囲との関りを避け、町内の子供会にも加わらない。 来るべき災害が訪れた場合、隣の世帯人員も分からない。希薄になったものだと実感するのが我が町の現状。 上は北区下飯田町で見かけた街並み。 良くも悪くも壁一枚で繋がった昔の長屋の街並みが今も残っていた。「生活音が筒抜け」でプライバシーがないとされてしまうが、それが日常の事。 それ故に互いの事情がよく分かり、お出かけの声掛けや犬・猫の餌やり、消耗品の貸し借り、時に夫婦喧嘩の仲裁など、困ったときには助け合う文化があった。昔の面影が残るこの街並みにはそうした文化も残っていそうだ、よく見ると軒下に小さな祠が祀られていた。 「屋根神様」と呼ばれ、愛知県や岐阜県などこの地方独特の祭祀形態で、戦禍を免れた旧街道沿いの街並みで見かける身近な神様。こうした神様は個人が祀り、地域で「神様当番」を決めてみんなで面倒を見る事が多く、玄関先に当番札が掲げられている光景も目にすることがある。 壁一枚で軒を連ねる街並みはある意味運命共同体、どこかで火を出せば他人ごとではない。そうした事もあり屋根神様の多くは秋葉神社、熱田神宮、津島神社が祀られることが多いようだ。そうした屋根神様も老朽化した建物の建替や、分譲住宅の建築に伴い、運が良ければ新たな家屋にも祀られたり、地上に降ろされ引き続き地域に受け継がれ残るものもあるが、一方で廃社の道を辿り数は減少傾向だと云います。 これも地域の結びつきが薄くなってきた表れなのかもしれない。ここ下飯田町の屋根神様の今がどうなのかは定かではないが、屋根の朽ち方を見ると少し痛々しい。 寄り添うように軒を連ねる街並みにあって火難や疫病から難を逃れたいのは誰しも願う事だ そこに熱田さんも加わえ三社を祀り、地域の禍い除けとして盤石の護りを築いたものだろう。この屋根神様が祀られるようになったのはいつ頃かとなりますが、それは集落の形成を見て行けば概ね分かるかもしれない。 上は明治、大正、昭和、ほぼ現在の集落が町に発展していく様子。右上の1920年(大正)頃に大きな集落は記されていない、左下の1947年(昭和)に入り急速に住居が広がっている事から祀られたのは大正末期から昭和に入った頃だろう。 屋根神様の多くはこの時期に祀られたものが多く、集落の発展の過程とともに祀られたもの。こうして高い場所に祀られた社は梯子をかけて世話する事になり、住民の高齢化に伴い世話も行き届かなくなるもの。 今も御札が納められているものなのか外観からは分からないが、天王祭の時期に訪れると今日とは違った光景が見られるのかも知れない。梅雨は明けたはずなのに降り続く長雨、通りに人影はなく妙に景色も沈んでいる。 そろそろかみさんの診断も済む頃だ、病院に戻る事にしよう。北区下飯田町「屋根神」創建 / 不明祭神 / 迦具土神、熱田大神、建速須佐之男命所在地 / 名古屋市北区下飯田町3-18参拝日 / 2022/7/19公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「平安通」駅降車徒歩5分程
2022.07.25
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名古屋市西区則武新町「津島神社」 国道22号線沿いの「西区1丁目」交差点角に鎮座します。遠目に見ると「正信寺」の立派な本堂が目立ち、津島神社の存在感はあまり感じられない。神社はこの「正信寺」境内に鎮座しています。東側から「正信寺」境内の眺め。 右手が「津島神社」社頭で、常夜灯の右に社標と少し奥に鳥居がある。左手は「正信寺」入口で左側に寺号標がある。 入口は分かれ、寺と神社を分けているが、同じ敷地を共にし両社を隔てるものはありません。南側の弘法堂から境内の眺め。堂内は左に弘法大師、右に観音菩薩像が安置されている。入母屋瓦葺の本堂。宗派は真宗高田派、平安山 正信寺。上は1893年(明治23)とほぼ現在との比較。 赤いラベルが正信寺・津島神社の位置で当時はまだ名古屋区平野町。当時は美濃路が主要道でラベル付近に集落はあるが寺社の印は記されていおらず、ここに寺社の印が現れるのは昭和に入ってから。 印だけで創建の推測にはならないが、津島社には明治、大正に寄進された手水鉢や幟立てなどがあり、江戸時代まで遡りそうだ。 本堂の山号額。 開け放たれた扉の先から元気な子供達の声が聞こえてくる、とても開放的な印象のお寺だ。「ご自由に」と書かれ、開け放たれると逆に入りづらいものがある。本尊は阿弥陀如来。 開山・開基等の詳細はよく分からなかった。平安山 正信寺宗派 / 真宗高田派本尊 / 阿弥陀如来右手の津島社参道、常夜灯前の旗立ては1912年(明治45)寄進のもの。石の神明鳥の先が社殿。 右手前の建物は舞殿か、祭殿かな。津島神社では毎年5月第4土曜・日曜日、大きな太鼓と鉦を鳴り響かせ三台の石取山車が神社に集まり、町を曳き回す石取祭が行われると云う、その際はこの引き戸も開け放たられるのかな。参道の先には赤い前掛けを付けた2対の狛犬が守護する。 手前の手水鉢は1925年(大正14)寄進のもの。2対の狛犬は手前が2005年(平成17)玉垣の先の一対は不明。 赤い前掛けが目をひくものの風貌は見慣れたものだ。阿形の先に大きな忠魂碑が立ち、右奥に境内社が祀られている。 正面の本殿域は透塀に囲われ、その先に流造の社が見えるが、賽銭箱がここにあるのでここで参拝。玉垣の中の狛犬。 年代は分からないが、手前に比較すると風貌に個性が感じられる。津島神社の創建時期は不明。 少なくとも平野町の前進となった尾張国愛知郡押切村の頃、美濃路の南に集落が生成され始め、それとと共に祀られたものだろう。祭神は須佐之男命。忠魂碑右の境内社。 板宮造りの三社相殿の様ですが社名札は見当たらず、正信寺、津島神社ともに境内で由緒らしきものが掲げられていなかった。22号線の歩道側から見た境内社と津島神社本殿。 すっきりしない事ばかりで、地史など見る必要がありそうですが、正信寺住職を訪ねるとすっきりするかもしれない。 津島神社祭神 / 須佐之男命創建 / 不明境内社 / 相殿不明社所在地 / 名古屋市西区則武新町1-21-12公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」から西に徒歩約20分程関連記事 / 『八坂神社』名古屋市西区八坂町八坂神社から徒歩 / 南へ10分程
2022.07.24
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栃木県の下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を二泊三日で訪れ、最終日の三日目は鬼怒川温泉から始まる。上は鬼怒川温泉の「くろがね橋」から鬼怒川上流の眺め。 この地を訪れたのが2022/5/12、周囲の樹々は新緑が鮮やかで、鬼怒川の水も澄み清涼感漂う時期を迎えていた。 朝が早いのは毎度の事。 食事前の時間を利用し宿から徒歩5分程西にある鬼怒川温泉ロープウェイ付近に鎮座する藤原町護国神社と鬼怒川温泉神社を訪れた。上は朝の爽やかな空気に包まれた社頭と右のロープウェイ麓駅。 朝6:00だったが、行き交う人や車もなく町はまだ静かなものだった。社頭の大きな明神鳥居から一段高い境内の正面が藤原町護国神社で右側に鬼怒川温泉神社が横並びに鎮座しています。 所在地で云うと日光市鬼怒川温泉滝になります。現在の日光市は1960年、当時の今市市、旧日光市の2つの市と足尾町、藤原町、栗山村の3つの町村が合併したもので、当地は以前の塩谷郡藤原町大字滝になる事から社名に藤原が付きます。一ノ鳥居をくぐり参道の左に社務所と手水舎があり、石段の先にはニノ鳥居を構えています。 時間が時間なので授与所はクローズ、当神社の神職が常駐なのか、祭礼時のみなのかは不明。手水舎の左奥を眺めると複数の石碑が立っていた。 右は「大山 石尊山」、中央が「湯殿山」、奥は「男体山?」と彫られ、自然への畏敬の念が窺われる。ニノ鳥居。 その先に茅の輪が準備されています、早いものでそんな時期も近づいてきた。(5/12時点)ニノ鳥居から先の境内は右手に広がり、鬼怒川温泉神社に続く石段と神楽殿がある。 藤原町護国神社。創建は1956年(昭和28) 祭神は地元藤原町から出征した日清・日露・太平洋戦争により亡くなられた英霊256柱をお祀りする。例祭は4月18日、8月10日(追悼式) 御神徳は家内安全、良縁、厄祓石段上で社殿を守護する狛犬。訪れた当時、拝殿の二つの鈴紐は降ろされ、鈴を鳴らし参拝する事が出来た。温泉寺から眺める社殿。 拝殿は入母屋銅板葺の平入で、拝殿後方の急峻な斜面に本殿?がある。由緒によれば拝殿先には流造の幣殿、本殿とあったがよく分からなかった。社殿右に星 藤太翁の胸像がある。 栃木県議会第28代副議長や藤原村村長を務め、地元の鉄道、道路整備、温泉発掘、旅館経営など鬼怒川温泉街の発展に尽力した方と云う。鬼怒川温泉神社。 創建は定かではなく、万病を癒す鬼怒川温泉の効力を神格化し祀られたようだ。由緒は以下。祭神 / 大己貴命(おおあなむちのみこと)、少名彦命(すくなひこのみこと)例祭 / 4月吉日御神徳 / 家内安全、身体健全、勝運本殿 / 流造の銅板葺「湯薬の神は湯の神、出湯の神」ともいい、温泉の霊力を神格化し崇敬され温泉神社が建立された。 鬼怒川温泉宿地の温泉神社を現地に遷座(温泉の守護神を祀る)祭神は医療・禁厭の神とされ、温泉には不病を癒す効能がある為、全国より大勢の人々が欲湯を楽しむ」石段左の常夜灯には「温泉大権現」と彫られている。拝殿正面。 寝ぼけ眼には朝陽を浴びた朱色と新緑が鮮やかに飛び込んでくる。石段右に由緒沿革の掲示板。 鬼怒川温泉神社の右の鬼怒川温泉ロープウェイで山頂に行くと、そこにも「温泉神社」「双龍門」が祀られているようですが、当神社との繋がりはここには記されていなかった。拝殿扁額と拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。 拝殿は入母屋銅板葺の平入で拝殿後方は直ぐ石垣となっていて、本殿は拝殿内のこの先に祀られているようだ。社殿は嵩上げされた上に建てられ、下は倉庫のような造りだ。 ゆとりのある境内にあって、この嵩上げは何か意味があったのだろう。 そろそろ朝食の時間も近い、ホテルに戻ろう。境内を見渡すと桜の樹が沢山植えられていて、花の咲く頃に訪れると鮮やかな桜色に染まるのではないだろうか。 清々しい一日の始まりだ。藤原町護国神社創建 / 1956年(昭和28)祭神 / 藤原町出征戦没者256柱例祭 / 4月18日、8月10日(追悼式)鬼怒川温泉神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少名彦命例祭 / 4月吉日参拝日 / 2022/5/12所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝 公共交通機関アクセス / 東部鬼怒川線「鬼怒川公園」から滝見橋経由徒歩15分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day3
2022.07.23
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先回掲載した備後國一ノ宮吉備津神社 #1「厳島神社」からの引き続きとなります。 今回は胡神社から先の吉備津神社。参道の先の石の明神鳥居とその先の随神門。 参道はまっすぐに続き正面に見える石段へ続きます。社頭右に「国幣小社吉備津神社」の社号標、左手に由緒書きが掲げられています。 扁額は緑青で見えにくいけれど「吉備津一宮」と記されています。柱には慶安元年(1648)の銘が刻まれていた。社頭の由緒書き「備後國一宮 吉備津神社由緒当社は吉備開拓の恩恵神 吉備国の総祖神 大吉備津彦を奉斎し 霊験あらたかにして光輝き 国家安寧 護国豊穣 交通安全 延命長寿 開拓招福の守護神として備後國一宮・一宮さんと親しまれ広くそのご神威を仰がれている。例祭 市立大祭 (11月23日及びそれに近い日曜を含む3~5日間)」 とある。吉備津神社境内。 虎睡山東麓斜面に伽藍が広がり、多くの境内社と本殿裏山には吉備津神社裏山遺跡も発掘されている。図でお分かりの様に随神門から一直線に伽藍が配されていますが、随神門を二つ構えているのは珍しいかもしれない。吉備津神社下随神門。 入母屋瓦葺の八脚門で、鎌倉時代の「一遍上人絵伝」では楼門として描かれており、室町時代の「備後一宮大明神絵図」では八脚門に描かれ、現在の門は後者を建替えたものされる。 当社には上随神門、下随神門の二つあり其々に随神が安置されている。その理由が社伝に記されている。 10月の神無月は全国の神〃が出雲に集まる、しかしここの大吉備津彦命のだけが欠席したという。そこで出雲から2人の使者が吉備津神社に派遣されたが、歓待を受けそのまま吉備津神社の門守として仕えた事から上下に随神門が作られたいう。下の随神門をくぐると視界は一気に広がり、イチョウの巨木が聳える広大な駐車場が現れる。後方の山は虎睡山。 このイチョウの巨木、樹高は22㍍で幹回りは6㍍を越え樹齢は300年とも云われるが、木の勢いは衰える事無く丸い樹形の立派なもので、駐車中の車と比較するとその大きさが想像できるのでは。実を付けるのか定かではないが、仮に実を付けたとすると凄い量の銀杏だろうし、広い駐車場は黄色の落ち葉で染まるのではないかな。参道右の桜山神社。 注連縄柱の先に瓦葺の平入拝殿と瓦葺の入母屋平入の本殿の伽藍。境内左に見頃を過ぎた桜とその奥に桃太郎の像が立てられている。 備前国一ノ宮「吉備津彦神社」境内の桃太郎のセメント像は色合い、シルエット共にシュールだったが、こちらは安心して見られる。1488年(長享2)頃、桜山城に創建されたが、1765年(明和2)の暴風で倒壊、現社殿は1911年(明治44)桜山城跡から移築・再建されたものという。拝殿前を守護する狛犬は双方玉持ちで表情は随分とやんちゃな顔つきに見える。 拝殿から本殿は渡廊で結ばれている。明治に移築されたこともあり伽藍全体傷みは少ないようだ。 本殿は入母屋瓦葺の平入で向拝が付く。 祭神は桜山茲俊命、他23柱。鎌倉時代末期元弘元年(1331)後醍醐天皇が討幕を計画し失敗、笠置山に逃れて兵を募った時に、楠正成に呼応して桜山四郎入道慈俊も挙兵、備後一之宮に拠って一時は備後半国を従えました。 しかし、同年九月に笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城、楠正成は戦死した。桜山方の見方は離散し慈俊は一族郎党二三人とともに、翌二年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝わる。一説によれば桜山茲俊は吉備津神社を崇敬していたと云う、その社殿の荒廃が進み、幾度か再建を志すが財政が伴わず念願は叶わなかっという。 後醍醐天皇に協力したのも根底には吉備津神社再興の目論見があったと云う。彼らが自刃前に神社を焼き払ったのは、再興を願っての事だっという。上随神門に続く石段脇の手水舎。 龍口の奥には水神が祀られている。石段の中ほどに、左右に境内社が祀られています。上左が大山祇神社で手前は神馬舎。下右側が秋葉神社と四所神社の相殿。上随神門。 下随神門と造はほぼ同じで、手前の間に安置される随神は出雲から遣い。親近感が沸く表情だね。門をくぐって裏の間に………解説とかなかったような気がするが、不思議なものが安置されていた。門をくぐって右が社務所、随分立派なものだ。 こちら方向に進むと境内社が複数祀られている。門の正面が神楽殿。1673年(寛文13)に建てられ、入母屋瓦葺で四方は吹き抜けのもの。 屋根は銅板が葺かれているが以前は檜皮葺だったという。境内はここから二段に造営され、石段の先が拝殿になります。 この日はタイミングが悪く、祭礼に向け幕やテントを張る工事の真っ最中で、ここから先は気が引ける状態だった。取り敢えず内部の写真だけ撮影し、作業の妨げになるのでやむなく右側から回り込み本殿に向かう。境内右側の境内社。右が彰徳宮、祖神社、白髪神社の三社を祀る覆殿。その左の覆屋は吉備津天満宮。 祭神は菅原道真。内部には願いが記された無数の絵馬で一杯だ。吉備津天満宮左側にも境内社が続く。上厩戸皇子神社。 祭神は聖徳太子。下右、武内神社。祭神は武内宿弥。左、疱瘡神社。祭神は少名彦名命。突き当りの山の斜面の先に祀られているのは十麻里二柱神社(とまりふたはしらじんじゃ) 祭神は吉備津彦命、その親族12柱が祀られている。旅人の安全と交通安全に御利益があるという、まだ先は長い、帰途無事に戻れるように。吉備津神社本殿。眼にも鮮やかな朱で彩られた本殿は江戸時代の1648年(慶安元年)に初代福山藩主水野勝成による造営された入母屋桧皮葺で大きな千鳥破風と唐破風向拝の付く豪華な造りだ。(国重要文化財)創建は806年(大同元年)で主祭神は大吉備津彦命。相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命。一宮さんの名で親しまれ、備後國一宮として現在も崇敬されている。旧国幣小社、現在は別表神社。一年の2月と9月に正中の光という、不思議な現象が起こると云う。ご神体が朝日を反射し正中を貫き、ここまで見て来た拝殿、神楽殿、上随身門、下随身門の建造物の中をすり抜けて石鳥居付近まで照らし出すという。その時期の日の出の方角と伽藍位置を織り込んで設計されたという事、昔の人は凄い事を考えるものだ。本殿前には2対の狛犬が守護する。 備前焼の狛犬は妙に痛々しい姿、表情は冴えないようだ。下はやんちゃそうな風貌だ、何れも寄進年度を見忘れた。本殿の千鳥破風と唐破風向拝で額には「虎睡山」とある。 鮮やかな朱色が唯々鮮やか。公孫樹乳房神。 祭神 / 乳房神下、吉備津神社本殿裏山遺跡解説。吉備津神社本殿裏山で焼失した建物が見つかり、平安時代の瓦や土器などの出土品が多数発見されたという。 そのきっかけは1985年の大雨による土砂崩れでその際偶然に発見されたと云う。鎌倉時代に描かれた「一遍上人絵伝」では本殿の背後に多宝塔が描かれていて、前進的な建物の可能性が強いと云う。神社の伽藍は現在より更に広大なものだったと見られている。多理比理神社。 右側の石碑に記された由緒は以下。「御祭神 多理比理神(息長帯姫神(姉)・息長日子王(弟))由緒 古事記に記載してある右の神々を祀ると見るのが至当。 延喜式神名帳に記載してある神社(式内社)二千八百六十一社の一つで、西暦七百年代には既にかなりの伝統を有していた備南随一の神社」とあり、かなりの古社のようだ。十二神社。 鳥居扁額には大名持神社とあるが、大己貴神を祀る十二神社でいいようだ。 祭神 / 大吉備津彦命の一族12柱と大名持神。干支の石像が参道両側に並んでおり厄除け、縁結び、そして大願成就として知られる。 三日、七日、二十一日の期間に願(がん)かけすると道が開けるとされる。この右手に吉備津稲荷神社もあるが、この一画は時間の都合で鳥居から先には進まなかった。多理比理神社から左手に下りていくと左手に二社。左が山雷神社で祭神は雷神。右が真名井神社、祭神は御井神、前にあるのは井戸。更に先に進むと大山祇神社が鎮座する。 石段左側に見えていた社です。祭神 / 大山祇神その右に神馬舎。 ここから上随神門に続く石段を下り境内を後にする。境内から下随神門、御池方向の眺め。 かみさんは既に車に向かったようです。・・・・広島焼き間に合うか。備後國一ノ宮吉備津神社創建 / 806年(大同元年)祭神 / 主祭神は大吉備津彦命。相殿神 / 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命境内社 / 桜山神社、大山祇神社、秋葉神社、四所神社、彰徳宮、祖神社、白髪神社、吉備津天満宮、厩戸皇子神社、武内神社、疱瘡神社、十麻里二柱神社、公孫樹乳房神、多理比理神社、十二神社、吉備津稲荷神社、山雷神社、真名井神社、大山祇神社所在地 / 広島県福山市新市町宮内400公共交通機関アクセス / JR福塩線新市駅から徒歩30分ほど参拝日 / 2022/04/20関連記事 / 備前国一ノ宮「吉備津彦神社」、備後國一ノ宮吉備津神社 #1 境外社「厳島神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.07.20
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三重県四日市市西町「延命地蔵堂」過去に掲載した四日市市久保田の「窪田神社」から三滝川右岸堤防を30分程下流に向かいます。 ここまでは国道477号線沿いに歩く場面が多いので車には注意したい。近鉄名古屋線の橋脚をくぐり、その先の歩道橋を上ると堤防沿いに一本の巨樹が聳えています。 最近はでかい樹を見るとなんでも楠に見えてくる。傍でじっくりと見ていないのではっきりしませんが、立派な幹は艶々で楠ではなさそう。 保存樹リストには載っていなかったが威風堂々した立派な樹だ。四日市市西町の「延命地蔵堂」は右の堤防道路の右に見える杜の中に佇んでいる。「延命地蔵堂」は赤のラベルの位置。 残念ながら地図に記されていないのでいつ頃祀られたものなのかは推測が出来ません。地蔵堂の前の通りは三滝川沿いに東西に延びる「菰野道」と呼ばれる旧街道。 かつての東海道四日市宿の陣屋があった四日市市北町交差点から始まり、西方の菰野町菰野に至る約11㌔の街道で、そのほとんどは三滝川と金渓川沿いに続いています。四日市側から「菰野道」、菰野側からは「四日市道」と呼ばれていたようです。「延命地蔵堂」全景。 瓦葺の方型の堂は地蔵堂としてみれば立派なもので、手入れも行き届き地元で大切に守られているのが窺われる。右側の建物は西町会館、住民のコミュニティーの場となり人の往来も多いだろう。堂前には二つの手水鉢が置かれており、樹々の間に隠れるように龍がいる。 生憎お休みの様です。拝所から堂内の眺め。 軒下に吊るされた鰐口は小さいがいい音色をしていた。ここ何年か鰐口にしても鈴にしても満足に鳴らしたことがなかった、久し振りかもしれない。 もう紐は巻き上げておく必要はないように思うし、龍に仕事をさせる時期に来ていると思うのだが…堂内は中央に金色に輝く厨子の中に一体、両脇に二体の三体の延命地蔵が安置されています。中央の延命地蔵顔王大菩薩像。 厨子の中に納められ像の大きさや表情などは読み取れないが彫は浅く、年代は古そうな感じがします。左右の地蔵も赤い帽子と前掛けが付けられ、綺麗な羽織が掛けられ姿は拝めない。 僅かに顔が見えるが、穏やかで優しそうな表情をされているようだ。延命地蔵の御顔の様に穏やかな人生を歩みたいものだ…家族分賽銭奮発、合掌。延命地蔵建立 / 不明本尊 / 延命地蔵顔王大菩薩所在地 / 三重県四日市市西町12−12参拝日 / 2022/06/10関連記事 / 「窪田神社」
2022.07.19
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名古屋市西区八坂町 先回掲載した榎白山神社、その社頭の前を東西に延びる美濃路を西に向かう事10分程。美濃路沿いの住宅と商店街連なる一画に『八坂神社』の社頭が現れます。 通りから少し奥まった位置に神明鳥居を構え、その先に拝殿か神楽殿らしき建物が見える。上は使い回している枇杷島周辺の新旧の地図。 左上に続く道が美濃路で庄内川に向かって続いています。 鳥居の先の正面にコンクリートの壁のような建物は商業施設。この神社は初めて訪れましたが、古社でありながら神社より、例大祭として行われる提灯祭りが有名なようで、そちらを取り上げた記事が多いのに驚きます。 祭りの際はこの参道は吊るされた奉納提灯で埋め尽くされ、氏子はじめ近隣、遠方から山笠提灯、大提灯を見に訪れるようです。神職は常駐ではないようで、広い境内は静まり返っていました。社頭から続く参道は左右に建物が迫り狭い印象を受けますが、鳥居を過ぎると左右に広い境内が広がります。 その広い境内の右に複数の収蔵庫が建てられ、ここに祭で使用する提灯が保管されているのでしょう。収蔵庫から西の境内全景。 手前は四方吹き抜けの切妻瓦葺の拝殿?で鬼瓦には「水」の文字と波が施されている。その先に本殿域が続き、右手に境内社が祀られている。 杜の樹々は本殿域に集中し、提灯祭りが行われることもあり、拝殿から東側の境内に木陰はない。妻壁や蟇股にも波。 火の禍から逃れたい現れですが、その思いは昔も今も変わらない。 拝殿から幣殿の眺め。 八坂神社について幾つかの記録を見付けた。神社由来は以下「八坂神社の歴史は古く、文治元年(1185)、平家の武者が現在地の北方約100㍍の村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建て、建速素之男命を祀ったのが初めとされる。 後の慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路と云われた現在の八坂通りの両脇に商い店が集まり町屋が形成され、一緒に祀る様になる。幾度か修復を受け、元禄15年(1702)に現在地に造営正遷宮を行い、この頃から祭りも盛大に執り行われる様になった。 この祭礼は長寿延命、豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様としても有名。祭礼は従来の6月14・15日を、平成7年から5月第三土曜日・日曜日と改めた。 初日は午前10時から神事が行われ、その後、山笠提灯、大提灯等各種提灯を掲げて献灯をする。夕方には全提灯一斉に火が入り、祭は最高潮に達して壮観である。 山笠提灯は元禄15年(1702)からと云われ、現在の山笠は文化11年(1814)作とされる。高さは20㍍あり、最上段は縦に5個で「五穀」を表し、その下に5段構えに880個の提灯を掲げ「米」を表し、米寿にも肖るとされる、大提灯は高さ5㍍、周囲は10㍍あるもの。 祭礼二日目は御神葭船流しが行われる。 この神事は諸々の禍事、罪とがを葭に托し、これを御神船(長さ1.8㍍、巾0.6㍍)に積み氏子大勢がお見送りする中、町内の惣兵衛川にお流しする儀式をもって祭りを終える。」とある。また別の記録によれば「東向きの社は当初南向きであったが、この神社の前の美濃路は新川の刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて通る道筋でもあり、神社の前を通るたびに鳥居前で落馬した。 人々はこれを神の祟りとして、神社の向きを東向きに作り替えると罪人は落馬しなくなったと云う」また、「もとは牛頭天王宮、あるいは天王社と呼ばれていた」などが見つかったが、これらは由緒に書かれていない事から、興味深い話と受け止めて下さい。八坂神社幣殿、本殿方向の眺め。 七本の鰹木、外削ぎの千木が付く神明造。社殿の左右に境内社3社が祀られています。 大きな御神木の木陰に祀られた二社は右側が祖霊社、左が神明社。幣殿、本殿側面。 本殿は覆殿の中に納められている様に見える。社殿正面全景、玉垣内には一対の狛犬と銅製燈籠が立てられ、それらの年代等は見る事は出来なかった。 参拝はここからとなります。神域を守護する狛犬と燈籠。 吽形の左目や全体の黒ずみは何かを物語っていそうだ。 この規模の伽藍で立派な銅製の燈籠は珍しいかもしれない。幣殿に掲げられた「八坂神社」の額。幣殿左の境内社は秋葉神社。 玉垣の扉が閉じられている理由は中央の注意書きが原因なのかナ。子供の頃こうした神社で遊ばせてもらったものですが、流石に燈籠は登らなかったが、今や管理責任を強く問われる世の中になりリスク回避の結果なのかな。秋葉社全景。 これら境内社の創建時期などは定かではない。八坂神社創建 / 不明(元禄15年当地に遷宮)祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、神明社、祖霊社例大祭 / 5月第三土曜日・日曜日(山笠提灯、大提灯等見応えあり)所在地 / 名古屋市西区八坂町1-20公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅降車西へ徒歩約20分榎木白山社から徒歩ルート / 西へ10分程参拝日 / 2022/06/03関連記事 / 西区押切町「榎白山神社」
2022.07.17
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素戔嗚神社から車で10分程北上した福山市新市町、ここに鎮座するのが備後國一ノ宮吉備津神社。 二日にわたって訪れてきた愛媛・広島一ノ宮巡りもここで終わりを迎える。駐車場は随神門の左にも広い参拝者駐車場がありますが、敢えて御池の畔にある駐車場に車を停める。 上は駐車場脇の境内マップ。神社は虎睡山東麓斜面に広い社地を持ち、多くの摂末社が祀られている。 今回は鳥居前の御池の畔に鎮座する厳島神社と胡神社を掲載します。駐車場付近の御池と桜山城跡の解説。「桜山城跡を含む吉備津神社境内周辺は『太平記』によると、鎌倉時代末期元弘元年(1331)後醍醐天皇が討幕を計画したが失敗、笠置山に逃れて兵を募った時に、楠正成に呼応して桜山四郎入道慈俊も挙兵、備後一之宮に拠って一時は備後半国を従えました。 しかし、同年九月に笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城、楠正成は戦死した。桜山方の見方は離散し慈俊は一族郎党二三人とともに、翌二年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝わる。1934年(昭和9)三月一三日に史跡一宮(桜山慈俊挙兵伝説地)として国の史跡に指定。 桜山慈俊挙兵の地とされる桜山城跡は、吉備津神社南側の標高81㍍の低丘陵頂部全体を空堀で区切って城郭としたもので、中央に長さ約50㍍の主郭、その東・西・北三方の尾根上に一段下げて曲輪を配置、各曲輪の規模大きくはないが、かなりの比高を持ち、盛土と削平により壁面を切り立たせた賢固なもので、実戦的な色彩が強い城郭。また、これらの曲輪群の西側は尾根を空堀で分断し、東・西ともその外側に平坦地を続け、更にもう一重空堀を巡らせ守りを固くしている。 西側に延びる尾根続きの標高156㍍のところに鳶尾山城跡がある。この地は、吉備津神社と門前町を中核として、輪倉の谷から御池を堀とし、三方を山に囲まれ一方に開けた「城郭都市一宮」が考えられる」御池中央には長い太鼓橋が対岸の鳥居に向かい架けられている。御池南側から石造の太鼓橋をとその先の鳥居の眺め。石の明神鳥居のピンク色の額には「厳島神社」、右に「美嶋紅垣祠」、左に「眉目秀麗神」の石標が立ち、正面の大きな石標に「厳島神社」とある。 赤い社殿の厳島神社は島の様に見えますが陸続きになっています。駐車場(写真左)から橋を渡ることなく厳島神社へ参拝できますが、やはり入口から参拝したいもの。 初めて訪れた者から見ると最初から陸続きなんだナと思いますがどうもそうではないようです。上は江戸時代後期の代表的漢詩人であり備後国神辺で私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた儒学者菅茶山とその一族が収集した資料群の一つ「黄葉夕陽文庫」に「備後國一宮社」の挿絵。 下に御池が描かれ中央に太鼓橋、その先に厳島神社の社殿が描かれています、こうして見ると今も当時と変わりはないように見えます。しかしよく見ると社殿は陸続きではなく小島であったのが見て取れます、小島の上に架かる小さな橋(現在も残る)の右手が駐車場になるので、埋め立てられ陸続きになったようです。 また、小橋の先に小さな社も描かれています。もう少し調べて見ると、室町時代当時と思われる御池の様子を江戸時代の初めに描いた絵図を見付けました。 絵図には御池と当時の吉備津神社全体が描かれており、上は御池全体を切り取ったもの。当時の御池には4つの小島が存在していたようで、それらは太鼓橋で結ばれ、右手の小島に建つ多宝塔に繋がっている光景が描かれていました。 塔のあった小島は現在埋め立てられ「福山市交流館あびき」の東側、塔畑荒神社が祀られているあたりかと。厳島神社を島と見なしても御池の3つの島は全て姿を消してしまい、現在でも大きな池ですが当時は今の倍の大きさはあったようです。厳島神社正面全景。 赤い透塀に囲われた本殿域、その右の小さな覆屋は幸神社、左側の厳島神社の石標の付近に水神と五穀神が祀られている。透塀は近年補修の手が入れられたのか朱が鮮やかだ。 塀の四隅に「鳩」。当初本物が羽を休めていると思い込んでいたが、近づいても逃げる気配がない、よく見れば鳩の飾り瓦だ、飛び立つわけがない。備後國一ノ宮吉備津神社境外社「厳島神社」 社頭左の石標に以下が記されていた。祭神は多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命。 美人で名高い三姉妹、特に市寸島比売命を別名弁天様とも言う 眉目秀麗神、美嶋紅垣祠、ピンクの扁額、鮮やかな朱色と小ぢんまりとした社殿。 美人で名高い三姉妹に相応しい。厳島神社の創建は定かではないが、室町時代(1336年~1573年)とされる絵図に記されている事からかなり古そうだ。本殿は瓦葺の流造で棟瓦には波が描かれている。両サイドには美人を怒らした時の・・・社殿左。 社標の影に水神社と左が五穀神、御池の水がらみという事でしょうか。厳島神社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命参拝日 / 2022/04/20所在地 / 広島県福山市新市町419素戔嗚神社から車 / 北方向に10分程公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩30分ほど関連記事 / 備後國一ノ宮 素戔嗚神社、御池から吉備津神社への参道方向へ。 県道26号線を挟んですぐの道路脇に瓦葺の覆屋の胡神社が鎮座しています。蟇股に金色に輝く鯛を持つ小さな恵比寿さんと小槌を持った大黒さまが施されています。 由緒等掲示されていなかったので詳細は分かりません。そして拝所前には大きな額の中でにこやかに微笑む恵比寿さんと大黒さま。 なんだか目が△になる事ばかり起る世の中、眉間にしわを寄せていても何も変わらない。せめて笑顔だけは忘れたくないものだ。胡神社創建 / 不明祭神 / 不明広島県福山市新市町350-2今日帰らなければならないのに道草ばかり、かみさんは既に参道の遥か先。 この後広島焼きも食べなければ、急いで追いつかねば。
2022.07.14
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「日光の二社一寺」 二荒山神社、輪王寺と参拝、最後の日光東照宮に参拝。かみさんの思いで始めた全国一ノ宮巡り、ボチボチ各地を巡り始め、その際には各地の東照宮もルートに入れて欲しいと要望していた。 よもや大元の日光東照宮にこれ程早く訪れるとは思ってもいなかった。いつ来ても道は混み、人出も多い、そんなイメージが付き纏う日光、訪れるタイミングを見計らっていたが、海外からの団体客が途絶えたこの時期はいいタイミングだったのかも知れない。日光東照宮参道。上いかにも東照宮らしい金色に輝く葵の紋が入った立派な社標。 「東照宮」の揮毫は渋沢栄一の手によるもので、1924年(大正13)に建立したもの。下大きな石の明神鳥居とその先に鮮やかな表門が見えてくる。 この石鳥居、筑前福岡藩初代藩主の黒田長政が奉納したもので、鳥居の石材は福岡から運ばれて来たという。東照宮創建の翌年の1618年(元和4)に造営されたもので、笠木までの高さは9.2㍍と見上げるばかり大きさで、扁額の「東照大権現」は後水尾天皇の勅筆で額の大きさは畳1枚分もあるという。 さすが徳川家康、境内は全国各地の大名から寄進されたもので溢れている。五重塔。石鳥居をくぐった左に聳える絢爛豪華な五重塔。 1650年(慶安3)に若狭小浜藩の初代藩主・酒井忠勝が寄進したが、1815年(文化12)に焼失。この塔は、1818年(文政元年)に若狭小浜藩10代藩主・酒井忠進により寄進されたもの。 五重塔特別拝観期間中は東京スカイツリーと塔が印刷されたクリアファイルが漏れなく付いて来た。最新技術を結集したスカイツリーと五重塔、縁がなさそうですが縁がある。 この塔の建つ標高が634㍍だという、スカイツリーと同じ高さ。そして五重塔の免振構造がスカイツリーにも生かされていると云う、拝観券を買って初層をぐるっと見て廻ると最後に心柱を見ることが出来る。そもそも神社に五重塔となるかも知れないがそうした事はどうでもよくなる。 唯々この美しさに見入るだけ・・・・・言葉がない。 また、初層4面の蟇股には十二支の彫刻が配されています。上は塔の東側(入口)の彫飾り。下は西側。上は塔の南側の彫飾り。下は北側。 上入口に掲げられた五重塔の解説。下中央が心柱。表門。日光東照宮は1617年(元和3)徳川初代将軍徳川家康を祭神として建立された神社。 現在の絢爛豪華な社殿のほとんどは鎮座から20年後の1636年(寛永13)に徳川家光により建替えられたものという。この八脚門もその一つで、1636年(元和3)に家光により創建された門で、左右の間に仁王像が配されるため、仁王門とも呼ばれています。法眼康音作の仁王像、その高さは4㍍もあるという。 明治政府の神仏分離令に伴い仁王像は大猷院に遷されていたが、1897年(明治30)、再び表門に戻されたという。獏に、獅子、牡丹・・・・・首が疲れる。裏側の間には金色の獅子、吽形には大きな角がある。 東照宮の建物は一棟一棟が呆れるほどの技術と惜しげもなく手間が注がれ、時間が過ぎるのが早い。表門をくぐって正面と左右に現れるのが三神庫。 表門の右側から下神庫(修復作業中)で正面が中神庫、上神庫の三棟が配されている。下神庫、中神庫には祭礼で使用する裝束や祭具を収蔵、上神庫には御神宝が収蔵されているという。 中神庫は入母屋造り、他の二棟は切妻造で何れも校倉造。 下は中神庫から神神庫、中鳥居、御水舎方向の眺め。上神庫(側面)妻壁の「想像の象」 日光東照宮の伽藍のほとんどが1636年(寛永13)年に建替えられたもので、妻壁に彫られた二頭の象は狩野探幽の下絵によるものとされます。象が大陸から献上された記録は遡ると幾度かあるが、探幽の生没年(1602~1674)の間に象は献上されていません。 探幽が生まれた1602年(慶長7)に家康に象が献上された記録があるそうです。象の寿命を約60年と想定した時、探幽に象を見る機会が全くなかったかと云うとそうでもないのかもしれない。 この向かいに三猿で知られる神厩舎があり、人波が途切れる事はありませんが「想像の象」は以外に立ち止まって見上げる人は少ないかも知れない。 上神庫正面からの眺め。神厩舎。 表門をくぐった左にあり、東照宮の煌びやかな伽藍の中にあって素木造りの厩舎。長押(なげし)上に8面に渡り猿の彫刻が施され、左から右に人の一生を風刺したものという。母猿と子猿の彫物で、母親が手をかざして眺める先は子猿の将来を見ていると云う。上見ざる、聞かざる、言わざる。 幼い頃は周囲からの影響を受けやすい、世の中の悪い事は見聞きせず、悪い言葉は使わせない。この時期に良い物を身に着ける事は、人生に訪れる悪いものに対しても正しい行いが出来る。下孤独に耐えつつも将来を考え、やがて立ち上がり独り立ちする。上二匹の猿が上を見上げる様が描かれ、希望を持って上を見上げる青年期を描いたもの。 下右の木の上と左の岩の上に正面を向いた二匹の猿。 岩の上には下を向いた猿、何があったか分からないが仲間を思いやっている光景だろうか。左の一面は正面を向き坐っているのが結婚の意志を固めた姿で、左はそこに至っていない姿という。 中央の一面は青い部分は人生の荒波で、二人で協力すれば乗り切る事ができる。右の一面はお腹の大きい猿が描かれ、二人が平穏な家庭を築けば、やがて子宝に恵まれ親となる。 そして最初の面に戻り、それを繰り返し受け継がれていく。猿が描かれた長押の高さは、独り立ちすると一段高くなる。 構造上からだろうが、なにか人生の階段を表しているかのように思える。 ニノ鳥居と陽明門。 正面に陽明門、石段の左右が太鼓楼と鐘楼。団体客の記念撮影スポット、人波が途切れる事はない。 この時は小学生の修学旅行が多かった、コロナ禍で見送られてきた大切なイベントも動く様になってきた。御水舎。水盤は1618年(元和4)肥前佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の寄進されたもので、御水舎自体は1636年(寛永13)に建てられたもの。 正面の唐破風下の虹梁に波が描かれ飛龍の透かし彫りが施されている。経蔵。陽明門に続く石段左にある方型の経を収蔵する建物で1620年(元和6)に建てられたもの。 二層に見えるが下の屋根は裳階で内部に回転式の輪蔵が収められているというが非公開。嘸かし大きく煌びやかな物なんだろう。鼓楼と鐘楼。 陽明門の前に対称に建てられ、陽明門に向かって右が鐘楼、左が鼓楼。袴腰が施され、どちらも似てはいますが施されている彫飾りは其々に特徴を持たせている。 目の前に陽明門があり人波をやり過ごすのにここをじっくり見るか、鼓楼から奥に進むと本地堂があるので、鳴竜の天井画や拍子木の音が天井に反響し恰も龍が鳴き声を上げる様が体感するのもいい。 陽明門。上 唐破風下の「東照大権現」は後水尾天皇の宸筆によるもの。日暮門の別名があるように、細部を見ていれば日も暮れてしまう、カメラのバッテリーやメモリーも切れてしまう。下西廻廊の透かし彫り、こちらも一面〃見ていると時間はあっという間に過ぎていく。表には随神、門の中の間二面に雲竜図が描かれ、裏には黄金色の獅子が守護する。中の間の天井絵。唐獅子。門の全てに故事逸話や聖人賢人、子供の遊び、霊獣、植物、鳥類、人物、雲、波、虫等の彫刻が施され、家康の干支の虎も至る所で見られる。 当時の職人の最高の技と素材が注ぎこまれている。上「魔除の逆柱」胡粉と呼ばれる貝殻を焼き、すり潰した白色の顔料で塗られた柱には、ぐり紋が施されていますが、門をくぐった左側に意図的に上下逆に紋を施してあります。 完成したものは次に崩壊が始まる「満つれば欠ける」の諺から、あえて逆にして完成させていないという。陽明門を支える16本の柱のうち3本が逆柱になっています。手前と奥では紋の上下の向きが揃っていませんよね。下陽明門の逆柱を探し求める人波と正面に見えているのが神輿舎。神輿舎。3基の神輿を収蔵する建物で春秋の渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる。 少し屈んで天井を見上げると、そこには天女が描かれています。狩野派の絵師が描いたこの天女は日本一美人の天女といわれるという。本殿唐門。 陽明門の先に建つ門で黒漆と胡粉の白のコントラストが美しい唐門。細かな装飾と金の飾り金具は陽明門とは違った落ち着いた豪華さがある。 天下統一を成し遂げた者のみ許されたものだろう。1636年(寛永13)の造営以来屋根の葺き替えを除き当時の姿を伝えている。 主祭神は徳川家康公、相殿に豊臣秀吉公、源頼朝を祀り、この門から先は幕臣、大名等限られた者のみが通ることのできた門。陽明門と大きさを比較するとひと回り小ぶりな門ですが、そこに施された彫飾りの数は陽明門を凌ぐと云う。 中国の八仙人や竹林の七賢などの賢人が描かれ大陸の香りが強く漂う外観。後方が拝殿と本殿。神楽殿。 陽明門をくぐり右側に建つ建物で内部は二間に別れ神楽を舞う舞台と後方に装束を改める装束の間の二つに分かれていると云う。上祈祷殿。 1635年(寛永12)に建てられた入母屋、銅瓦葺きの建物は当初は護摩堂として建てられたようですが、廃仏毀釈により仏教色の強い建物は取り壊しの運命にあったといい、上社社務所とすることで取壊しわ免れたと云う。 現在は結婚式や初宮詣、七五三、家内安全、商売繁盛などのご祈祷を行う祈祷殿として存続している。下拝殿、石の間、本殿からなる権現造の伽藍で1636年(寛永13)に造営されたもの。 祈祷殿から左に進むと拝観でき内部撮影は禁じられていた。拝殿内はの格子天井には龍の絵が 拝殿左右には「将軍着座の間」に「法親王着座の間」があり、高い天井に描かれた葵の紋の下は将軍以外は着座が許されず、高い天井構造や床には忍びなどが潜めないような構造が施されているという。 庶民には落ち着くことが出来ない空間だ。祈祷殿の右から奥社に続く入口に建つ坂下門。 その昔ここから先は将軍以外立ち入ることが出来なかった。門の入口には二羽の鶴、格子天井に牡丹、そして門をくぐって上を見上げると・・・そこには透かし彫りの二羽の雀が蟇股に彫られています。 有名な眠り猫は坂下門の手前にある潜り門の蟇股にあり、訪れた時には「眠り猫↑」表示されています。坂下門の前で眠り猫を探す子らも見られましたが、彼らは表示を見逃したのかも知れません。 ここから先は杉木立の中、奥社に続く207段の石畳と階段が上に伸びています。階段は一段毎に一枚石が用いられ、傾斜部分の石柵は笠、柱、土台一枚の石から削り出されています。 上石段を上り詰めた先に銅製の明神鳥居が現れる。 当初は石鳥居でしたが慶安年間に地震で倒壊、1650年(慶安3)に徳川5代将軍綱吉により銅製に建替えられたもので、扁額の文字は後水尾天皇の宸筆によるもの。下鳥居右側の銅板で包まれた銅神庫。 嘗ては家康所縁の甲冑、刀剣や書状等が保管されていたとされ宝蔵とも呼ばれたそうだ。所蔵されていたものは現在東照宮宝物館に移され保管されている。神社東照宮にあって神仏習合の名残は多くみられるが、銅神庫壁面に施された輪宝にもそうした名残が色濃く残っている。奥社に続く石段脇の狛犬。 松平右衛門大夫正綱、秋元但馬守奏朝による寄進で、家康の遺臣であり寛永建替の際に造営奉行を務めた事から特に奉納が許されたという。小振りながら骨太で吽形には大きな角を持つもの。奥社拝殿。 参道を上り詰めた先にあり、拝殿、鋳抜門、御宝塔からなり、1617年(元和3)に二代将軍秀忠が、駿河・久能山から日光に改葬し創建した家康の廟。当初は質素な堂だったが、三代将軍家光による寛永の建替えで煌びやかな伽藍に建て替えられた。 この拝殿は1617年(元和3)の創建で、1636年(寛永13)に再建されたもの。銅瓦葺の入母屋造で平側の前後に唐破風が付き、煌びやかな伽藍の中にあって奥社は創建当初の落ち着いた雰囲気が漂う。拝殿の奥には鋳抜門と神となった家康を祀る宝塔がある。 拝殿右から鋳抜き門方向の眺め。鋳抜き門 創建当初は石造りであったとされ、地震で倒壊後、1650年(慶安3)唐銅製の鋳抜き門に再建されたと云う。扉以外は一つの鋳型で作られている事から鋳抜き門と呼ばれる。時の将軍以外立ち入れなかった奥社、こうして拝観できるようになったのは1965年(昭和40)以降からという。 門の前には銅製の狛犬が守護する。奥社宝塔。 8角5段の石の基盤上に更に3段の青銅で鋳造し、その上に宝塔が立てられていて、創建当初は木造で、その後石造に改められたが、1683年(天和3)の地震で倒壊後、鋳工椎名伊豫が制作したものが現在の唐銅製の宝塔。 唐銅製とは金・銀・銅の合金を指し、宝塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶の三具足が揃えられている。墓所はぐるっと一周でき、御神木の叶杉や鋳抜き門、拝殿後方等見渡す事が出来る。 これで日光東照宮の最深部まで参拝してきました。次は一旦、大鳥居まで戻りそこから左に進み御仮殿に向かいます。大鳥居の左から奥に続く参道がありそちらを進むと御仮殿に至ります。 御仮殿は本社を修理する際に御祭神を一時的にお移しするための御殿で、1639年(寛永16)に建立されたもの。創建以来19回ほど御仮殿に遷宮し、その間の神事は全てこの御仮殿で執り行なわれています。 江戸時代の終焉とともにその後は使われていないと云う。仮社殿は修理が終わると取り壊されるのが一般的ですが、日光東照宮では本社の修理が頻繁に行われるため取り壊すことなく常設されていると云う。 伽藍は入口に銅製鳥居と周囲を掖門が付いた透塀が取り囲み、拝殿、相の間、本殿の権現造りの伽藍。とても仮とは思えない立派な伽藍。 絶大な力を象徴する豪華絢爛な東照宮と大猷院、そんな中にも平穏な世を願う思いや驕りを戒める家康や家光の遺訓が随所に込められ、今を生きる者に共感を与えてくれるものがある。「人の一生は重荷を負て 遠き道をゆくが如しいそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なしこころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし 堪忍は無事長久の基いかりは敵とおもへ 勝事ばかり知りてまくる事を知らざれば害其身にいたるおのれを責て人をせむるな 及ばざるは過たるよりまされり」日光東照宮所在地 / 栃木県日光市山内2301公共交通機関アクセス / 浅草 ~ 東武日光線関連記事 / 日光山輪王寺と大猷(たいゆう)院廟、全国一ノ宮巡り 栃木県 day2
2022.07.13
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三重県四日市市伊倉。 既に掲載した窪田神社から南西に10分程の住宅地の広がる一画に「井具羅神社」が鎮座する。社頭に続く道は御覧の様に右に畑、左に幼稚園と挟まれるように社地かある。 南側の通りから眺める社頭は、狭い通りの先に鳥居があり神社の存在は分かり難いかもしれない。上は前回使用した1898年(明治31)の当地の地図とほぼ現在の地図。 北を流れる三滝川の南に広がる水田地帯に伊倉村の集落があり、村の西外れに鎮座しているのが分かります。現在の伊倉は1889年(明治22)に赤堀村、中川原村、芝田村、伊倉村、久保田村、大井手村、松本村の7ヶ村が合併して三重郡常磐村になったという。 石垣井堰の解説にあった「常磐のまち」はこの常磐村を指しているのだろう。その後1941年(昭和16)に四日市市に編入され常磐村は廃止、常盤地区と呼ぶ様だ。伊倉に鎮座する井具羅神社、伊倉が転じ井具羅神社になったのか、井具羅神社から転じ伊倉となったのか定かではないけれど何か関連がありそうです。 狭い通りを抜けると境内が広がり、その入口に白い狛犬が安置されている。 左の阿形は葉に遮られ顔を見せてくれていない。社頭全景。 神明鳥居の先に広がる境内は左側が公園にもなっているようです。隣が幼稚園という事もあり子供達の活気のある声が良く聞こえてくる。境内に入り左の建屋は井戸の様に見えますが、全周玉垣で囲われた手水舎のようです。 ここに来るまで目にしなかった井具羅神社の社標もここに立っていた。左に案内板もある。囲われた手水舎の中の手水鉢、余程古い物かと屈んで側面を眺めるもそんな感じでもないようだ。 脇に立つ案内板は「井具羅神社由緒」 内容は以下。「神社は伊勢国三重郡大字伊倉村字川嵜にある。 祭神は「健速須佐之男命」。勧請年月日は不詳だが古来より現在の東隣の巨大老松の中にあった。 明治2年(1869)11月井具羅神社と改称。明治6年(1873)3月20日に伊倉村村社となる。 明治21年(1888)町村制公布、明治22年(1889)4月1日、伊倉村は中川原村、久保田村等7ヶ村連合で常盤村へ。 後に明治政府の一村一社の令により明治40年(1907)9月26日、三重郡大字伊倉字浄裕の無格社山神社、祭神は「大山津見神」を合祀、井具羅神社と単稱とした。明治40年(1888)町12月12日、赤堀村の八阪神社(常盤村村社)に合祀された。 以後氏子は遠離につき参詣が遠のき、敬神の念が次第に薄らいだ。昭和2年(1927)3月12日、この地に井具羅神社を新築、八阪神社から分祀し現在に至る」八阪神社はここから赤堀方向へ歩いて30分程の位置になる。 由緒にある「東隣の巨大老松」は何処を見渡しても名残らしきものは見当たらなかった。身近にあってなんぼの集落の守り神、分祀した動機はよく分かる。拝殿。 切妻瓦葺のシンプルな趣が漂う。昭和2年(1927)に新築とあるので建物は綺麗、手入れされた境内と相まって心地いい環境です。 子供らを遊ばせるにはいい空間か。伽藍全景。 拝殿から本殿は壁でぐるっと囲われ本殿域の様子は窺うことが出来ない。本殿。 棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。ひと昔前は田んぼが広がっていた伊倉、今はその姿はなく、舗装された道路と住宅が広がるベッドタウンに変貌したようだ。 この陽ざしを受けていると、水の張られた田んぼの光景が妙に恋しくなる。井具羅神社創建 / 不明祭神 / 健速須佐之男命、大山津見神所在地 / 三重県四日市市伊倉2-8-5参拝日 / 2022/06/10窪田神社より徒歩ルート / 南へ10分 関連記事 / 「窪田神社」三重県四日市市久保田
2022.07.12
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名古屋市西区押切町「白山神社」 前回訪れた児玉白山社から南に徒歩10分程の旧美濃路沿いに鎮座する神社。周囲の通りには嘗ての街道の趣を漂わせている。白山神社社頭。 訪れたのは6月3日、境内の杜に植えられた桜の樹も青々と茂り、境内は緑に覆われていた。社頭に一際大きな「白山神社」の社標が目に付く、街道沿いは橋の欄干をイメージさせる玉垣が社地を囲んでいる。 右手の案内板は美濃路を語るもの。境内から玉垣の眺め。 注連縄の巻かれた榎と境内社、奥に手水舎、境内社。社頭左に「名古屋十名所」の社標。 なんでも、1924年(大正13)に新愛知新聞社が、名所として選出した10名所の一つにここ白山神社が数えられているという。因みに10名所は名古屋城、熱田神宮、笠寺観音、圓頓寺、久屋金刀比羅、山田元大将之社、天理教々務支庁、闇ノ森八幡社、櫻田勝景とここ榎白山神社。 社地を取り囲む玉垣には権現橋と刻まれている。 嘗て児玉の町あたりから笈瀬川が流れ、白山神社の脇を流れていたと云う、そこに架けられていたのがこの権現橋。川は都市化に伴い埋め立てられ既に姿はありませんが、過去を伝える意味もあり玉垣として再利用したものでしょう。美濃路「美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ脇街道として発達。 その経路は宮の宿で東海道から別れ、名古屋、清州、稲葉、萩原、起の各宿場を経て美濃国の墨俣、大垣を経由し垂井宿で中山道と合流した。その距離57㌖と云われ、五街道と共に道中奉行管轄の主要街道、大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などの他多くの庶民も往来し街道は賑わった。立て場・白山神社界隈 白山神社の前は立て場と云って、人夫が杖を立てて休息する所から来ており、宿と宿の中間にあり旅人のための茶店等が作られた。白山神社は「尾張名所図会」にも記され、「社内に榎木一株あり、是即ち白山の神木なれば、榎権現の称ここに起る」と記録が残る。 神社西側の笈瀬川には権現橋という石橋があった。現在は川も橋もないが、嘗ての橋の欄干は白山神社の垣根の一部に使われている」 記録には俗に抜の権現と称され、文禄年中の建立。別当は榎本山福満寺と称し紀伊国高野山金剛三昧院の末寺で鰐口には正長2年(1429)と記されているとあった。 挿絵には当時の美濃街道沿いに玉垣が築かれ、右側には東向きに鳥居も描かれているが、名の由来となった肝心の榎木は朽ちた株として描かれている。常夜灯。 1856年(安政3)寄進のもの。末社 田道間守社。 祭神 菓祖 / 田道間守、薬祖 / 大己貴命例祭 / 四月一七日お菓子と薬の神様を祀る社は、外削ぎ千木に三本の鰹木が施されている。 詳細は分からないが挿絵には描かれていない。枝葉が茂る榎木と由来。 略記に榎木について伝承が記されているが、この樹は村人が雉を埋め、そこから芽吹いたのがこの榎木だという。ただ、挿絵で朽木として描かれているので現在の榎木が何代目なのか、樹齢などは語られていない。手水舎、手水鉢。 流れる水と緑の苔にシダ、緑豊かな白山を連想させる。手水舎左に小さながたいの狛犬が守護する境内社。 年代不明の愛嬌ある顔つき。左から天神社、金刀比羅社、戸隠社の三社が祀られている。白山神社の石の明神鳥居、参道の随分先に立っており、社頭からの鳥居は樹々の葉に隠れてしまう。 帰り際にもう一度正面から撮るつもりでいたが、忘れていた。 鳥居前の狛犬。鳥居から拝殿に続く参道。 この辺りにも狛犬が隠れている。鳥居前に比べると少し怖げな狛犬だ。右手に赤毛の神馬、拝殿前にも狛犬の姿がある。境内には紫陽花が多く植えられ、丁度見頃に近づいていた。拝殿、本殿はコンクリート造り。 黒ずみの残る狛犬にコンクリートの社殿、空襲で焼けているようだ。上拝殿前の狛犬、個性派が揃っている。下拝殿から本殿方向の眺め、鰐口は見当たらず。 👏👏。祭神は菊理姫命、天照皇大神、豊受大神。 戦国時代、桶狭間の戦いを前にした信長が戦勝祈願に訪れたとも云われる歴史のある神社だ。神馬の後方に置かれた手水鉢、そこには1739年(元文4)と刻まれていた。本殿右側に鎮座する少将稲荷社。 創建等の詳細は不明。上拝殿、幣殿の眺め。 少将稲荷社の東は脇参道がある、挿絵にあった鳥居はにこに立っていたのかナ。下少将稲荷社から見る本殿。美濃路沿いに鎮座する白山神社、社殿に長い歴史を偲ばせる趣はないかもしれないが、信長も訪れたとされ、お菓子や薬の祖神を祀り、個性的な面構えの狛犬にも出会う事が出来る。榎白山神社創建 / 1429年(正長2)祭神 / 菊理姫命、天照皇大神、豊受大神、少将稲荷社境内社 / 田道間守社、天神社、金刀比羅社、戸隠社、所在地 / 名古屋市西区押切町2-5-2児玉白山社から徒歩ルート / 南に徒歩10分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅降車徒歩約15分関連記事 / 児玉白山社、加賀國一之宮白山比咩神社
2022.07.11
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愛媛県・広島県の一之宮巡り二日目。 鞆の浦から次の目的地「備後國一ノ宮の素戔嗚神社」へは県道22号線で福山方向に向かい、芦田川の左岸を遡る約1時間の移動時間だった。素戔嗚神社の駐車場は社頭前と社務所後方の二か所に無料駐車場が用意されています。 私達は社務所後方の駐車場に駐車、社地北側の銀山街道(旧山陽道)沿いを社頭まで歩く事にした。素戔嗚神社西門 (相方城移築門) 素戔嗚神社南西の芦田川右岸に聳える城山に、嘗て存在した相方城から城門2棟と櫓1棟が素戔嗚神社に移築されたと云う。戦国時代の山城の城門としては最古級とされる城門2棟は、神社北門、西門として移築されこうして現存するが、櫓は1970年代の火災で焼失したと云う。 街道沿いに小さな堀が続き右手が境内。素戔嗚神社北門 (相方城移築門) 切妻の薬井門で建築年代は不明という、建築様式と部材の風化具合から16世紀末から17世紀初めではないかと云われている。北門の前に安置されている狛犬は躍動感があり、阿形は球の上で逆立ち、吽形は二本足で立ちあがった姿。街道沿いの社頭右に「縣社」「式内社」の石標。 素戔嗚神社社頭。 石の明神鳥居と左に由緒書き、参道の先に随神門と遥か先に神楽殿が小さく見える。右手が参拝者駐車場。社頭の素戔嗚神社由緒、内容は以下。 「式内社・備後一宮 素戔嗚神社、茅の輪くぐり発祥の地御祭神 / 本殿 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八王子 天満宮 / 管原道真公蘇民神社 / 蘇民将来 疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神疫隈の郷(江ノ隈の里) この付近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。 「江」は入江であり、「隈」はかたすみとも読め、江ノ隈の読みから穴の海の入江であったことが伺われる。奈良時代は古山陽道がこの辺りを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えた。 茅の輪神事 備後の國の風土記に疫隈の国社。昔、北海に坐します武塔神…南海に出てまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき。 兄の蘇民将来甚く貧しく、弟の巨旦将来富て屋倉一百ありき…即ち、詔詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。 現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。素戔嗚尊は武塔天神或いは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。 本社は備後三祇園社の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり、祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した」鳥居の額は「素戔嗚神社」、相変わらず笠木の上には石ころが乗っかっている。石の明神鳥居の先には注連柱鳥居が立ち、その先に随神門と神楽殿が見通せる。 注連柱に刻まれた八紘一宇、武運長久。寄進年は見ていないけれど、日本に勢いのあった頃に寄進されたものだろう。1820年(文政3)に寄進された狛犬。 垂れ耳のドングリ眼で尾は九尾狐のように彫り出されている。随神門。1764年(明和元年)に当時戸手村だった庄屋により奉納されたもので、櫛岩間戸尊(左)と豊岩間戸命(右)の門守が安置されている。境内は正面に神楽殿、拝殿、本殿、拝殿左に蘇民神社、疱瘡神社、拝殿右の正面が社務所、天満宮が主な伽藍。 境内は幅・奥行ともにゆとりがあり解放感がある。参道右の手水舎。 鉢の側面には一面に大きな龍が施された大きなもので、その鉢を下で支える邪鬼の表情がいかにも辛そうな表情をしています。北門から見る神楽殿と社殿。 素戔嗚神社の創建は天武天皇の御代(673~686年)頃の創建とされ、「延喜式神名帳」には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記された古社。神仏習合により牛頭天王を祭神とした「早苗山 天竜院天王寺」とも呼ばれたが、明治に入り明治政府が発布した神仏分離令により祭神は素盞嗚尊になり現在の素盞嗚神社に改められた。 地元では親しみを込め天王さん、祇園さんと呼ばれていると云う。訪れた4月20日はこの時期にしては強烈な陽射しが降り注ぎ、広い境内に参拝で訪れていたのは我が家だけだった。神楽殿。 入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、内部天井は防鳥ネットが張られ、その先には複数の奉納絵馬が掛けられているのだが上手く撮れず載せられなかったのが残念。右手の社務所と天満宮。素戔嗚神社拝殿。 注連柱の両脇で毬を持った狛犬が本殿域を守護している。1909年(明治42)寄進の狛犬で、耳は横に、尾はピンと上に立てた姿で頭が小さく俊敏そうな姿。 入母屋瓦葺の拝殿は建立年代不明ですが、全体は派手な飾りを避け落ち着いたもの。向拝の鬼瓦には五瓜に桔梗?の紋が施され、兎毛通には羽を広げた鳥の姿が彫られていた。 その下には上を向いた姿の龍が彫られている。拝殿、幣殿、本殿方向の眺め。上備後國一ノ宮 素戔嗚神社社殿の眺め。 社殿を遮るものが無く全体が良く見通せる。本殿は入母屋檜皮葺の平入で大棟から大きな破風が付き、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が乗せられている。 社地周囲の杜は樹々が生い茂っているが、境内に樹々が少ないので真夏の炎天下は木陰が恋しくなる。本殿の鰹木と乗せ千木。 派手な彩色や光物もなく、個人的にはこの落ち着いた佇まいに魅かれるものがある。拝殿左に鎮座する蘇民神社と疱瘡神社の相殿。 向かって左に蘇民神社、右が疱瘡(ほうそう)神社。 「茅の輪くぐり」発祥の地 蘇民神社 「備後風土記によれば、昔、素戔嗚尊がこの地を訪れた時、一夜の宿を求め大きな屋敷を構え栄えていた弟の巨旦将来を訪ねたが断られた。 次に兄の蘇民将来を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し暖かくもてなした。歳を経て、蘇民将来は素戔嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びる事が出来ました。 この伝承が基となり、素戔嗚尊をお祀りする神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われる様になりました」とある。一説によればこの社地は茅の輪を授かる機会を逸し病にかかり途絶えた巨旦将来の屋敷だと云う。 また由緒にある「疫隈國社」とは蘇民神社を指すと云う話もあるようだ。疱瘡神社。 疱瘡と聞くと疫病神のイメージが先に来ていい印象はないけれど、全国各地に祀られている事から単にそうとも言えないようです。疱瘡とは天然痘を指すようですが、広い意味で伝染病を指し、記録に残るものでは天平の疫病大流行や戦国時代にも大流行しています。 周囲を海で囲われた島国の住民は大陸から持ち込まれる疫病に対し免疫は脆弱です。昔は感染すれば処置も出来ず、江戸時代に緒方春朔が行う種痘まで打つ手はなかった。 それまでは自然治癒するのを待つか、天に祈るしかなく。禍をもたらす疱瘡神ですが、時にその禍を持ち去ってくれる事もあるようで疫病退散を祈願し祀られたようです。 素戔嗚尊から茅の輪が授けられなかった巨旦将来、案外天然痘に伝染したのかも知れない。因みに疱瘡神は赤が苦手だという、何年か前に着た赤いチャンチャンコや赤丸神事の赤の意味にはそうした意味合いもあるのだろう。 天満宮。 向拝下に吊るされた提灯と賽銭箱に梅紋の入り一目でそれと分かる。入母屋瓦葺で向拝が設けられている。「元は戸手祇園社(早苗山天王寺)の本地堂(観音堂)。1748年(縁起5)に再建されたもので、明治の神仏分離令の際、須弥壇等を撤去、神座を作り天満宮として取壊しを免れた。 現存する本地堂は、全国的にも二十例しかなく、広島県内でも二例だと云う。又、全国の祇園社で本地堂が現存するのは素戔嗚神社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態を留めている。 18世紀初期の三間堂の寺院建築様式が良く残っている建物で、素戔嗚神社本地堂として福山市の重要文化財の指定を受けている」祭神 / 菅原道真毎年7月15日には祇園祭が3日間行われるという、その最終日はけんか神輿が行われます。境内北側に神輿の収納庫があり、祇園祭にはこの静かな境内は人で埋まるのだと云う。 ガラスの反射で良く見えなかったが、少なくとも3基の神輿が保管されているようだ。備後國一ノ宮、それは素戔嗚神社だけではありません、二社が一ノ宮を称しています。 それも、ここから車で10分程西の神谷川上流に鎮座する吉備津神社も備後國一ノ宮です。一ノ宮の御朱印全制覇を目指すかみさんにとって、「一ノ宮一つでいいんじゃない」となるんだろう。 備前、備中、備後として考えれば備後の一ノ宮は吉備津神社、二つあるのには大人の事情があるのだろう。備後國一ノ宮 素戔嗚神社創建 / 天武天皇年間(673~ 686)祭神 / 素盞嗚尊、櫛稲田姫命、八王子天満宮 / 菅原道真公蘇民神社 / 蘇民将来疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神参拝日 / 2022/04/20所在地 / 広島県福山市新市町大字戸手1-1公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩5分ほど関連記事 / 鞆の浦に鎮座する「住吉神社と胡神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.07.07
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三重県四日市市久保田「窪田神社」 近鉄名古屋線四日市駅から徒歩30分程西の三滝川右岸堤防の手前に鎮座する。三滝川。(久保田橋下流から上流の眺め) 西方の御在所から湧き出た水は窪田神社の背後を流れ、四日市市内を経て四日市港に流れ下る2級河川とか。堤から川面を眺めると以外に澄んだ流れ、神社に向かう前に河原に下りて涼んで見た。 四日市はどうしても過去のイメージが付きまとうが、こうして見る空も水も青々として今では四日市港から三滝川を遡上するアユの姿も見られると云う。過去の負のイメージは微塵も感じさせない。 この写真の堰堤、御存知の方も多いと思いますが、風船のように内部に空気満たし堰を形作るもの。こうして溜められた水は導水口から取り込まれ田畑を潤し、町内に流され涼感を与えてくれる。上は1898年頃の久保田橋界隈(左)とほぼ現在。 当時は久保田橋もなく、三滝川右岸の久保田集落と左岸の野田集落以外は田んぼの広がる一帯。先程の堰から取り込まれた水はこれらの水田を潤す事になる。 随分と寄り道してしまったが窪田神社の話に戻そう。上の地図に窪田神社の位置をマーキングしてみた、明治31年の地図にも鳥居の印を見ることが出来た。 三滝川右岸堤防道路。 なんとこれで国道(477号線)なんだと云う。窪田神社は右手側道の横になります。側道を下りた久保田町。 柳通りから北に入った道路に面し窪田神社の社頭がある。堤防と柳通りの間に鎮座し、社殿は大きな樹が聳えた杜に包まれている。 駐車場は見当たらなかった。社頭から境内の全景。 社標としては立てられていないが、右の幟立てに「窪田神社」と刻まれていた。常夜灯の先に石の神明鳥居、その先が拝殿、本殿の伽藍。境内右に手水石。拝殿正面全景。 切妻瓦葺で軒先を長くして向拝を設けている。神紋は鳥居に刻まれていた左巴の紋だろう。社殿全景、といきたいところですが左右に樹々が迫り本殿の姿まで入り切らない。 窪田神社の創建等の詳細は定かではなく、一説によれば1926年(大正15)に四日市市赤堀の八坂神社から分祠したとある。地図が発行された明治31年には既に鳥居の印、境内の燈籠の1854年(嘉永7)などから八坂神社から分祀されたことは事実だと思いますが、それ以前から存在し江戸時代まで遡る神社のようです。 それは何だとなるが分からない。拝殿横から本殿域。 神明造の本殿は鰹木5本、千木は外削ぎで、本殿域には燈籠、狛犬が安置されているようだ。祭神は健速須佐之命の一柱とされるようです、分祀年度や地図の履歴から一柱ではないような気がする。社地左側から社殿の眺め。 左手に澄んだ小さな流れが続き、そこには小魚も泳いでいる。右手の看板が神社の由緒?と期待したがそれは外れだった。三滝川「石垣井堰」からの取水口「農業用水に供するため、三滝川に堰を造り、そこから左岸の野田側と右岸の久保田側に水を取り入れている。 ここで取水した水は、久保田と芝田の田を灌漑している。この堰は「石垣井堰」と呼ばれ、河川改修に伴う井堰を造り替える工事が、2000年(平成12)から始まり、2003年(平成15)に完成した。 現在久保田、野田の自治会が維持管理している。堰はゴム堰で、いわば風船を膨らませた形で川に堰を造り取水している。 表面水、伏流水両方の水を取り入れているが、きれいな水が流れ込んでおり、上流部では源氏ボタルのえさにもなるカワニナが生息している。この川の流末は阿瀬知川になっている」市内を歩いていると阿瀬知川を至る所で見かける。 街で見かける淀んだ汚い水ではなく、三滝川の澄んだ水が導かれ適度の流れを持つもので、横を歩いていても酷暑が続く毎日ですが、見た目体感ともに涼やかだ。淀んだ汚い川には蓋を被せ暗渠にして見えなくする手法より、川を綺麗にして絶え間なく水を流してやる前向きな取り組みだと思う。 子供の頃身近にあった川も今や三面コンクリートになり、遠ざけられ危ないものの様に扱われている。親水の中から学ぶ事は多いのだが・・・学ばせるより排除する方が容易だし金を生まない事もあるんだろうね。 ひょっとすると四日市市内に蛍が飛び交うのも夢ではないのかもしれないね。窪田神社創建 / 不明祭神 / 健速須佐之命所在地 / 三重県四日市市久保田2-17-18公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋線四日市駅西に徒歩30分程訪問日 / 2022/06/10関連記事 / 四日市来来憲の大とんてき
2022.07.06
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「二社一寺」 よく聞くWordですが、その内訳は輪王寺、二荒山神社、東照宮を指します。どうしても日光と云えば「東照宮」となりますが歴史的に云えば東照宮は一番新しい。 栃木DAY2の始まりは日光二社一寺の中心的存在の日光山輪王寺を訪れます。 幸運にも宿泊場所が輪王寺、二荒山神社、東照宮の目の前だったので朝一番に神橋から輪王寺に向かう。 旧日光街道から東照宮へはこの橋を渡っていく事になる。この橋を渡るには神橋渡橋受付を介さねばならないが、web情報では8:00からとあったが当日だけかもしれないが8:30入場開始で入場クローズ。 目的地輪王寺は既に8:00から拝観窓口が開いているが、日光入口の神橋渡受付が寺社より遅れて始まるのは何か噛み合っていない。神橋渡は諦め輪王寺に向かう。上神橋から国道の渡った先にある輪王寺に続く参道。下深沙王堂 神橋を渡った国道沿いに聳える太郎杉、その脇に鎮座する。深沙大王は毘沙門天の化身とも言われ、勝道上人が日光入山の際、大谷川に足を止められた時に対岸に深沙大王が現れ助けてくれたという。 現在の社は1978年(昭和53)に再建されたもの。上観光バスが連なって走り去る国道を渡り「世界遺産日光の社寺」の石碑から輪王寺に続く石段を上り始める、ここを道なりに進めば輪王寺本堂にあたる「三仏堂」に続きます。下長い石段の途中で見かけた社。 詳細は分からなかった。上重要文化財 東照宮御旅所。 解説によれば「本殿、拝殿、神饌所が重要文化財に指定。 日光東照宮春季例大祭(5月18日)と秋季大祭中の10月17日に百物揃千人武者行列と称される神輿渡御があり、三品立七十五膳と呼ばれる豪華な神饌が供えられ、拝殿で八乙女の舞、本殿前の石畳上では東遊の舞が奉納される祭典が行われる」左の入母屋造の唐破風が付いた建物が本殿、中央の建物が拝殿で1617年(元和3)に造営されたもの。 1636年(寛永13)に3代将軍家光によって社殿の改修を受けたという。下日光開山勝道上人像 日光山は766年(天平神護2)、勝道上人(しょうどうしょうにん)に開山以来、平安時代には空海、円仁ら名だたる高僧が来山したと伝えられる。鎌倉時代には源頼朝の寄進などを受け、江戸時代になると家康を祀る東照宮や、三代将軍家光の大猷院廟が建立されるなど一大霊場として栄え、日光二社一寺の中核をなす寺院。 勝道上人像から左手に進むと輪王寺本堂(三仏堂)に繋がる。日光山輪王寺本堂。 訪れた時はバスを連ね修学旅行で訪れた生徒の列が多かった、長い期間封印されてきて久し振りの光景が戻ってきた。ここは集合写真の撮影スポット、長い列ができていれば黒門や宝物殿と逍遥園を拝観しタイミングを見計らうのもあり。 これでインバウンド観光が増えてくれば日光は人で溢れるのだろう、いいタイミングで日光を訪れたのかもしれない。本堂(三仏堂)の右前の一際大きな樹は金剛桜と呼ばれる樹齢500年の桜の古木。日光山輪王寺本堂(三仏堂)。 輪王寺は天台宗の寺院で三仏堂、大護摩堂、大猷院、慈眼堂、常行堂、中禅寺、四本龍寺等とその他のお堂や本坊、支院を含め日光山輪王寺と総称しています。本堂(三仏堂)は木造建築物では東日本最大級(間口33㍍、奥行22㍍、高さ26㍍)とされ、国の重要文化財の指定を受けている。 輪王寺の長い歴史の中で過去幾度か本堂は場所を変えているという。始まりは瀧尾神社付近に創建され、江戸時代に新宮(二荒山神社)、1881年(明治14)に現在の地に移築されてきました。 朱で彩られた荘厳な建物の内陣には高さが7㍍を越える日光三所権現の本地仏「千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音」の三体の大仏と東照宮創建後は東照三所権現の本地仏「薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来」の懸仏が安置されていて、そのことが「日光山全体の総本堂」と呼ばれる由縁。銅瓦葺で入母屋裳階付の巨大な建物は1645年に徳川家光により建替が行われ、その後も幾度か修復を受け近年では2007年~2018年にかけて大規模な修理が行われたという。上本堂左の鐘楼。 三角コーンが立てられ近寄りがたく梵鐘は見られなかった。下相輪塔。 本堂と大護摩堂の間にある青銅製の供養塔。1643年(寛永20)、徳川三代将軍家光の発願により建立されたもので東照宮の鬼門除けとして建てられたという。 13.2㍍の塔の内部に1000部に及ぶ云われる経典が納めらていると云う。後方の建物は大護摩堂。 堂の内陣には、平安中期の作とされる本尊「五大明王」や「七福神」や「十二天」等30体の仏像や祖師像が祀られている。大護摩堂左の光明院稲荷。 鎌倉時代中期(仁治元年)、日光山総本坊として光明院を創建、その鎮守として建立された稲荷社。光明院は戦国時代衰退、江戸時代に入り再興されたが明治の神仏分離の混乱で焼失したという。 学業成就、家業繁栄の守護神として崇敬されている。ここから左は東照宮に続く参道。東照宮参道。 本来の姿ではないだろう、東照宮方向を見渡しても人波は皆無。杉木立の続く参道はかえって厳粛な雰囲気が漂う。 ここ東照宮社頭から左に進み、二荒山神社方向の大猷院へ向かう。常行堂。 二荒山神社社頭の左に鎮座する方型造りの朱塗りの堂。嘉祥元年(848年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって、比叡山延暦寺の常行堂(にない堂)に模して建立されたと云う。 右隣の唐様の法華堂とは歩廊で繋がっていて、こうした構造は延暦寺常行堂と輪王寺が代表的なものと云う。常行堂の本尊は平安時代末期に作られた宝冠阿弥陀如来(国重要文化財)で、宝冠を頂き孔雀に乗った像要で、周囲に配された法・利・因・語の四菩薩も孔雀に乗った姿。 拝観は無料で内陣まで見ることが出来る。常行堂と法華堂を結ぶ歩廊。 朱で塗られた歩廊と屋根の銅瓦と黒漆、彩色された彫飾りの鮮やかな色合いが美しい。緩やかに曲線を描く唐破風も優雅なものだ。 常行堂と法華堂の目立つ建物を結ぶこの歩廊も見所の一つかも知れない。法華堂(法華三昧堂)。 現在の建物は江戸初期の1649年(慶安2)に再建されたもので歩廊を含め国指定重要文化財。本尊は普賢菩薩で、脇侍に鬼子母神、十羅刹女が祀られていますが非公開となっています。 朱で彩られた建物はそれ自体が派手、手挟にはこれでもかと言わんばかりに鮮やかに彩色された彫が施されている。延暦寺常行堂を真似たとされるが、派手さは延暦寺にはない物かも知れない。日光廟大猷院。 1651年(慶安4)に48歳で亡くなった徳川三代将軍家光の廟所。大猷院は後光明天皇から賜った家光の諡号から来ている。 伽藍は後方の大国山の斜面を生かし複数の門をくぐりながら拝殿、本殿に続き、墓所のある皇嘉門に至る。家光の遺言は家綱に受継がれ、東照大権現(徳川家康)を凌ぐ派手な建物の建造を戒めたとされますが、建立された拝殿などは黒漆が塗られ、その上に金箔を押した極彩色に彩られたもので、その姿から金閣殿とも呼ばれると云う。まず最初に現れるのが仁王門(国指定重要文化財)。 左右の袖塀には密迹金剛力士と那羅延金剛力士の阿吽の仁王像が安置され、ここから先に邪悪なものが入り込まないように立ちふさがっている。切妻銅瓦葺きの八脚門で1653年(承応2)に建てられたもの。 鮮やかな朱が目に飛び込んでくるが、梁から屋根にかけて塗られた黒漆と金箔で彩られた全体の外観は以外に落ち着いた佇まい。上宝庫。仁王門をくぐると左手にあり、江戸時代初期の1653年(承応2)に建てられ、国の重要文化財にしていされている。 入母屋銅瓦葺きの平入で、正面に施された向拝の蟇股や斗供には鮮やかな彩色が施されています。大猷院で受け継がれて来た宝物を保管する為のもので、そうした性格の建物だからか定かではないが校倉造で作られています。下龍光院続く参道(立入禁止)に建ち並ぶ石灯籠。 大猷院には300基を超える燈籠があるという、それらは182家の大名からの奉納されたもので、多くが1653年(承応2)の奉納と云う。龍光院前に建ち並ぶ灯籠は10万石以下の大名から奉納されたものばかり、彼らはこの先の二天門から先に立ち入る事すらできなかったという。 境内の高さは格の高さでもあるようだ。因みに東照宮を越えてはならない家光の遺言に対し、燈籠の数では東照宮の倍を超えるという。御水屋。仁王門と二天門の間にあり1653年(承応2)に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。 切妻銅瓦葺きで唐破風が付く、屋根を支える柱は三本柱の四つ脚。下水屋の天井には江戸初期の狩野派の絵師狩野安信の手による墨絵の雲龍が一面に描かれている。 別名鏡龍や水飲み龍とも呼ばれるようで、手水鉢の水面に天井の龍が映し出されたその姿からその名が来ていると云う。現在は御覧の通り劣化が著しく図柄は分かり難い状態で、水面に龍が映し出される姿を見たいものです。二天門。1653年(承応2)の建立とされる入母屋銅瓦葺の八脚楼門で前後の屋根に唐破風が施されている。 朱を基調として、上層は黒漆に金箔、組物は極彩色で彩られていて、東照宮の陽明門より重厚感が漂うが派手〃には変わりないか。正面に掲げられた金色に輝く「大猷院」の扁額は後水尾天皇宸筆のもの。 二天門の名から分かるように、両脇の間に持国天(左)、増長天(右)の二天が安置されています。二天門裏側。裏側の間には風神と雷神像のレプリカが安置されています。 オリジナルは修復され輪王寺宝物殿で一般公開されています。風神と雷神像はもとは東照宮の陽明門に安置されていたという。 明治政府による神仏分離に伴い、仏式の色合いが強い大猷院は輪王寺に組み込まれ、風神と雷神は二天門に遷されたと云う。二体の険しい顔はもの言いたげな表情にも見えてくる。二天門から石段を進むと境内が広がり、左右対称に立つ鐘楼に視線が行く。 左側が「太鼓楼」、右が「鐘楼」で入母屋銅瓦葺で袴腰が施されている。夜叉門。鼓楼と鐘楼の先に一段高く石垣が積まれた境内に建つ門で仁王門と同様の作りの八脚門。 門の左右は回廊で繋がれ、名の通り四体の夜叉が安置されている。正面の間に安置されている毘陀羅、阿跋摩羅。 間の壁面は金色に輝く牡丹の花が彫られている。極彩色の妻飾りとキンピカの組物に木鼻飾り。 二天門から先に立ち入りが許されなかった小大名から見たら何と思う事か。格差の違いは今も同じか。後方には烏摩勤伽、犍陀羅を安置する。 こちらも牡丹で埋め尽くされている、そうした事から夜叉門は牡丹門とも呼ばれるそうだ。唐門。境内は一段上に上がり瑞垣に囲われた入口に建つ。 後方に拝殿、相の間、本殿と伽藍が続く。手前に立ち並ぶ銅燈籠、ここまで来ると燈籠は更に立派なものになる、ここは徳川御三家から奉納されたものばかり。上向唐門の正面。 辰年生まれの家光という事で破風の下には黒漆地に金の波が描かれ、中央に玉を握りしめた白龍が彫られている。「青海波に玉取りの白龍」と呼ぶそうだ。更に上には羽を広げた二羽の白い鶴が彫られている。下裏側も同様に白龍と鶴が施されている、細かく彫り込まれた飾りはこれに留まらい。 こちらの白龍は金地に靑の波が描かれていた。上大猷院拝殿から本殿方向の眺め。 拝殿は内部の拝観ができ解説もしてもらえる、内部の写真撮影はNG。内部は狩野探幽の手によって描かれた唐獅子の障壁画や格子天井には狩野一門による140枚の龍の絵が描かれている。 その他にも家光が着用した甲冑なども公開されていた。興味深い話が聞けたのだが思い出せない、解説の録音は許してくれるのか聞けばよかった。 金色のこの空間は歴代の将軍が参詣するための建物、そこに座り内部を見られるちょっとした将軍気分が味わえる。下本殿(金閣殿)から拝殿方向の眺め。 東照宮と同様の権現造ですが東照宮に比べ落ち着いた佇まいに見えてくるから不思議だ。皇嘉門。 本殿域右の斜面に立つ大陸の香りが漂う門。シックな白漆喰と上層や扉の煌びやかさから「龍宮門」とも呼ばれるという。 家光の廟所に続く門で、一般公開されているのはここまで。この右手の最上段に最後の門となる鋳抜門があり、その先に家光の眠る宝塔が立てられている。 祖父家康を凌ぐ派手な建物の建造を戒めた遺言は伽藍を見る限り受け継がれた様にも見える。 東照宮の主家康の遺言は「臨終したら体は久能山へ納め、葬礼は増上寺で行い、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌以後に日光山に小堂を建て勧請せよ」だったと伝わる。家康の思い描いた小堂が東照宮だったのだろうか、それ次第で大猷院もまた別の姿になっていたのだろう。東照宮の胡粉の白と金を基調とする分かりやすい装飾に対し、黒漆と金を基調にした大猷院は落ち着いた印象を受ける。 身分制度の底辺の者の視点でこれらを見た時控え目と云われてもどうなんだろう。日光山輪王寺宗派 / 天台宗山号 / 日光山創建 / 766年(天平神護2)開基 / 勝道上人本尊 / 阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音大猷(たいゆう)院廟建立 / 1653年(承応2)所在地 / 栃木県日光市山内2300関連記事 / 『比叡山延暦寺』弾丸ツアー、日光二荒山神社本社、
2022.07.05
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長野県飯田市座光寺市場2516 元善光寺から県道229号線を1~2分程西に向かう、県道沿いに麻積(おみ)神社の大きな石鳥居が目に止まる。県道沿いの鳥居から北西に見える社叢に向かい参道がまっ直ぐに続いていきます。 参道は車の往来がある生活道路も兼ねている。駐車場はこの参道突き当りの左と右上に無料の参拝者駐車場が用意されています。 麻積(おみ)神社の鎮座地は、南の天竜川から北は標高1270㍍の座光寺富士までの細長い座光寺地区のほぼ中央に位置します。 麻積(おみ)の由来は、飯田市松尾から松川町一帯にかけて麻の栽培に適した場所で「麻を績」からきているそうです。麻積神社鳥居の扁額 。 内大臣三条實美の揮毫によるもの。この石鳥居は1888年(明治21)に建てられたもので、使用された石材は上郷姫宮と高森町大島山の石材から作られ、高さは5.6㍍、笠の長さは9㍍余りで飯田・下伊那地区では最大の石鳥居という。上駐車場から望む麻積神社社頭。下座光寺周辺観光マップ。 社地には麻績学校第一次校地校舎や麻績の里舞台桜、神社後方には400年程以前に築城された南本城跡などがあり、このマップから左に進むと石塚第一、第二古墳などが点在する。旧学校大石垣館か砦をイメージさせる長く続く石垣。 1898年(明治31)に麻績学校校舎拡張に伴い作られたもので、以前は傾斜地にクヌギの木が生えた子供の遊び場だったという。石段左の大きな枝振りの樹は麻積の里舞台桜。 その先に麻積神社ニノ鳥居。上「麻績の里 舞台桜」シダレザクラの一本桜で、この時期は濃い緑の葉が生い茂っている、花の時期にはライトアップもされると云う。 樹齢は定かではないようで350年~400年と推定され、5~10弁の花が交じり合って咲く「半八重枝垂れ紅彼岸桜」と呼ばれ、市の天然記念物に指定されていという。下旧座光寺麻績学校校舎(長野県指定有形文化財)1873年(明治6)には麻績神社境内に建てられたもので、舞台校舎と呼ばれていた。 飯田や下伊那では人形芝居や歌舞伎が盛んな地で、入母屋瓦葺二階建ての建物は学校と舞台の2つの機能を持ち一階が歌舞伎舞台として作られたもの。ニノ鳥居と石段右の手水鉢。ニノ鳥居をくぐると正面の石段と左右に参道が伸び、左の参道を進むと南本城に続く。 ここから右に進むと二つの神霊碑がある。鳥居左に琴平大神と秋葉大神の大きな石標がある。秋葉大神石標の側面には切り出した時の鑿跡が残っていた。石段を上り詰めた先の狛犬は昭和3年寄進のもの。 深い社叢を持っているが社殿周辺は開けて明るい、ある意味容赦なく陽射しが差し込む。 境内は社務所から拝殿に続き、左に島三社と境内社が主な伽藍。拝殿全景、切妻平入の瓦葺の建物で創建年代は不明。 伝承では天正年間(1573年~1593年)より以前の開創とも伝わり、天正年間以前は八幡社、天和2年(1682)に大宮社の社殿が建立されたという。呼称も八幡社、大宮大明神社(江戸後期からは諏訪大明神)と呼ばれたそうですが、1867年(明治6)から「麻績神社」と呼ばれるようになったと云います。 参道は二つに分かれ拝殿に続く。向かって左が麻積諏訪社、左に麻積八幡宮とあった。 参拝を終え内部を窺うも本殿の姿は望めず、拝殿の先にある鞘堂も見通せなかった。祭神は八幡宮の祭神で産土神の誉田別命と、諏訪社祭神の建御名方命を祀る。拝殿左の島三社拝殿。 切妻瓦葺の妻入り拝殿で吹き抜けの外陣と内陣に分かれている。妻壁や木鼻などに彫が施され、頭貫には見事な龍が描かれている。 扁額の島の文字も個性的なもの、島で良いのか今一つ自信が無いがここは島としておこう。外陣には奉納された弓が飾れていた。 内陣左に掲げられている扁額「島大明神社」から調べて見たが創建祭神などの詳細は分からなかった。地史を調べるしかなさそうだ。 島三社拝殿左奥に7社を祀る覆屋がある。左から受持神、伊雑皇社、秋葉社、社宮司社、子安社、疱瘡神社、浅間社の7社で、境内に舞台校舎が建設される以前は、そこに「九つの境内社」が祀られていたそうです。 これがそれにあたるのかは定かではないが、この一帯にはこの七社の他に複数の社が祀られています。 覆屋左脇に境内社が二社。 その前にも一社祀られている。間違っても触れたくない絶妙なバランスの石灯籠。 竿に当たる部分に文字が刻まれていたが元治の元号(1864~1865)以外は読み取れなかった。この社も詳細は分からなかった。 後方は島三社拝殿、その横にも一社祀られているがこちらも詳細は分からない。上絶妙なバランスの石灯籠の左側にも・・・・・下ニノ鳥居から右に祀られていた神霊碑。麻積神社境内から南の眺め。 眼下には氏子の住む座光寺地区が広がり、その先には天竜川と南アルプスの山並みが連なる。神社入口の南本城遊歩道の案内板。 駐車場から往復1時間程の距離にあり、車輪や土塁、空堀などが残っているという。麻積(おみ)績社創建 / 不明祭神 / 建御名方命、誉田別命境内社 / 受持神、伊雑皇社、秋葉社、社宮司社、子安社、疱瘡神社、浅間社、島三社、琴平大神、秋葉大神所在地 / 長野県飯田市座光寺市場2516参拝日 / 2022/5/25元善光寺駐車場から車アクセス / 所要時間2分程関連記事 / 妙琴公園キャンプ場、元善光寺御開帳
2022.07.04
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児玉 「白山社」 御嶽神社を後にして、東に向かい国道22号線を越え15分程の西区児玉の白山社に向かう。上は、6月3日に枇杷島を訪れ参拝した神社を落として見ました。 この日の陽差しは夏モードに変わっていない体に堪えるばかり、気持ちが萎えてしまった。見ての通り、足取りは既に地下鉄浄心駅を目指しています。白山社が鎮座する児玉町、名古屋城の北西に位置し、西春日井郡児玉村から名古屋市編入後西区児玉町になった。 一帯はつい最近までは田畑が広がり、メリヤス生産が盛んだったようですが、今は住宅街に変貌しそうした名残を感じる事はない。丹羽長秀邸跡。 白山社の社頭の南にあたり、曹洞宗薬師寺の前に石碑が立つ。丹羽長秀は丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれ、織田信長その後の豊臣秀吉に仕えた織田四天王の一人、そんな彼を語る解説板は見当たらなかった。白山社社頭。 社号標、常夜灯は1912年(大正元年)寄進の物。参道は駐車場になっていますが参拝者用のものではなさそう、周辺の道は狭く駐車余地はないので車で訪れると厄介かもしれない。参道を抜けた右側の石標。 1852年(嘉永5)の年号が見える。神明鳥居(明治37)から境内。 社地は南北に長く、拝殿と幣殿、本殿が主要な伽藍のようです。街並みの中に緑の杜を持ち、街中でよく見かける佇まい。 社地を取り囲むように児玉白山稲荷大明神の赤い幟と児玉白山社の白い幟がはためいていた。境内右の手水舎。 綺麗に掃き清められた境内は氏子から大切にされているのが伝わってくる。境内の杜は手前のイチョウと奥の楠の木が主に形造っている。 拝殿は瓦葺の切妻で四方吹き抜けのもので大きな白山社の額が目に入る。拝殿前の狛犬。 毬持ちの阿形と子持ちの吽形、その後方に白山常夜灯、児宮堂の石標があるが何れも寄進年を確認し忘れていた。拝殿は装飾を押さえたシンプルな外観、それだけに金色で書かれた「白山社」の額が強調される。 神門は左三つ巴か。拝殿前の縁起。「白山社(児玉の鎮守・産土神) 創建(勧請) 不詳(1700年代)伊弉諾命、伊弉冉命、天照大神、大物主命」 ・・・とある、幟の児玉白山稲荷大明神は境内社かな。これだけ教えて頂けるだけでもありがたいものだが、白山比咩神社のHPで児玉白山社の記述が見つかった、そこには以下の記述があった。「御祭神 伊弉册尊他11柱、氏子数2,388世帯。創祀は不詳であるが、安永2年(1773)の木札があり、大正12年の報告文書に「祭神伊弉冊尊ニシテ加賀白山御分家トナリ云伝フ。」とある。「尾張徇行記」(150年前)には「白山社内一畝御除地、観音寺ノ支配ナリ」とだけ書かれている。明治時代、児玉には白山社の他に五社あったが、大正7年に合祀され、祭神は11柱あります。現在の本社末社は昭和24年に改築、拝殿は大正6年に改築されたものである。現在は児玉学区に唯一の氏神様であり、宮司はじめ氏子総代31名で秋の例大祭他、九の祭事と月次祭の行事を町内一帯となり行っております」児玉の市街化に伴い白山社に纏められ、その中の一つが稲荷社なのだろう。 それにしても稲荷社の社殿が見当たらない。 拝殿右の奥に境内末社が三社。 金毘羅社、神明社、秋葉社とある。稲荷社に拘るつもりはないが拝殿左奥も見たが稲荷社は見当たらなかった。社地西側からぐるっとひと回り。北側から本殿、拝殿方向の眺め。 本殿は神明造で鰹木は6本、千木は水平に切られている。拝殿右の境内末社。 奥から金毘羅社、神明社、秋葉社が祀られている。縁起の4柱と末社を合わせても11柱には及ばないが本殿域に祀られているのかナ。 それにしても綺麗に手入れされ、参拝に訪れても気持ちがいい。 ひと回りして社頭に戻る際に鳥居東で見かけた覆屋。これが稲荷社?と期待するがこちらは名古屋市指定史跡「しゃんしゃん馬・碑」由緒と覆屋。「昔、戦国時代に白山社東に児玉と云う姫の家があり、他の娘と一緒に押切へお針の稽古に行く途中、走ってきた馬に突き当たったのがもとで死んでしまった。 しかし連れの娘たちはその馬の姿が見えなかった。その後児玉村から徴発された馬が戦死したという知らせがあったので、あれはその馬の霊が帰ってきたのだということになって碑を建てて馬の霊を祭ったという。※歯痛がなおると言い伝えがあり、お参りすると、身体健全を、見守って頂けます。 児玉白山社氏子総代会」碑の建てられた通りはとても細く、入り組んでいます。 不思議な話ですが、帰ってきた馬はともかく、車で訪れるのはお勧めしません。歯に御利益があるのであればお参りしておこう。覆屋の中の祠。 子安地蔵が安置され元文元年八月一五日日、丙辰(1736)と刻まれていると云う。当時の念仏講中で創建され、今も大切に受け継がれている。 穏やかな表情をした子安地蔵。覆屋左手に役行者。 像の裏側には嘉永七年(1854)と刻まれていると云う。由来は定かではないようですが、毎月二十四日には地蔵尊と共にお祭りが行われると云う。児玉白山社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾命、伊弉冉命、天照大神、大物主命他境内社(確認したもの) / 金毘羅社、神明社、秋葉社所在地 / 名古屋市西区児玉3-19-6関連記事 / 西区枇杷島4 御嶽神社、加賀國一之宮白山比咩神社徒歩ルート / 御嶽神社から東に向かい国道22号線を越え15分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」下車、西に15分程
2022.07.01
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岐阜県瑞浪市明世町戸狩「津島神社」先回掲載した水の木 秌(秋)葉神社から下街道(赤線)を西に進むとすぐ先で県道352号線に合流します。 水の木津島神社と塚の地蔵堂はその三叉路に鎮座しています。水の木津島神社。 下街道と岩屋不動尊に続く三叉路の角に鎮座する小さな石の社。この向かいに「塚の地蔵堂」があるので見落としやすいかもしれない。 背後にある建物の敷地の一部が神社の社地に与えられているようだ。石の祠には「津島神社 戸狩」と書かれた葦簀がかけられている。 この祠が立つ辺りから西側が戸狩集落で、津島神社祠は集落の東外れに位置し、集落に立ち入る禍いをここで鎮めている。 創建時期は不明。道路を挟んで津島神社の向かいに塚の地蔵堂がある。 後方は県道352号線が東西に延び、瓦葺の堂は県道からでもそれと分かる。堂の右に手水鉢も置かれている。堂内。 中央にベストを着せられた一体の地蔵さん。着ぶくれしているせいか像長と頭部の大きさに対し妙に胴が太く見える。手前にも黒光りした地蔵さんとその両脇にもこけしのように小さな地蔵さまが安置されている。 日々お参りに訪れる方がいるのだろう、両脇に供えられた生花は新しいもの。瑞浪市のMAPに目を通しこの地蔵さんの謂れを調べてみた。 「昔から地蔵尊は少年の形となって現れ、人間を救済するとも言われ、特に子どもの安全を守ってくれるものとして地蔵信仰が盛んになった。ここの地蔵尊もそんな願いによって建立されたと伝えられている」 この地蔵さんの情報はここまでしか書かれていなかった。塚の地蔵とあり、古墳を連想させるがそれ程盛られているわけでもない。 ここ瑞浪は土岐川沿いに古くから人が居住し多くの古墳が残り、ここ戸狩にも古墳が残っているものの古墳とは関係なさそうだ。いつ頃安置されたものか定かではないが、鼻を除いて表情は読み取れなくなっている。 お地蔵さまには「子安地蔵」、「身代わり地蔵」、集落や村の境界や辻を守る「道祖神」などありますが、像の背後の額に謂れが書かれているのかもしれない。地元の方に尋ねるしかなさそうです。酔い覚ましで歩いてきた下街道もここをお参りしてひとまず瑞浪駅に向かう事にします。 まだ〃一帯にある寺社の一部を参拝したにすぎません。時間はかかるだろうがゆっくり回っていきたい。水の木 津島神社創建 / 不明祭神 / 素盞嗚命所在地 / 岐阜県瑞浪市明世町戸狩853-3塚の地蔵堂建立 / 不明祭神 / 地蔵菩薩所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1168-1公共交通機関アクセス / JR中央線「瑞浪」駅から北西に徒歩10分程参拝日 / 2022/04/30関連記事 / 水の木 秌葉神社 、「小左衛門 春のお披露目会」
2022.06.30
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二泊三日で訪れた栃木県一之宮巡り初日、華厳神社から東照宮方向へ小一時間のバス移動。 西参道入口で降車、「良い縁坂」の微妙にきつい坂を上っていく。 今日の最終目的地「下野國一之宮二荒山神社」に向かう。良い縁坂を上り詰めるとそこが二荒山神社の社頭。 右には金色に輝く左巴紋が施された大きな社号標「下野國一之宮二荒山神社」その先の明神鳥居から始まるなだらかな石段はその先の神門に続く。 左の参道を進むと徳川三代将軍「家光公」の廟所がある日光大猷院。ここは既に拝観終了、明日参拝とする。社頭付近の由緒。「御祭神 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神) 御鎮座 太古より二荒山(男体山)始め、日光連山八峯を二荒山の大神と崇め奈良時代の末に創建。延喜式名神大社に列し関東総鎮守・下野國一之宮として朝野衆庶の崇敬を集めている。御祭典 弥生祭(例大祭) 四月一三日より一七日まで(本社)、男体山登拝講社大祭 七月三十一日より八月七日まで(中宮祠)御社殿 本社・別宮(日光市山内鎮座)世界遺産登録二十三棟、中宮祠(男体山登拝口鎮座)、奥宮(男体山登山頂鎮座)、その他境内及び日光連山山頂に摂末社が多数鎮座御境内 日光連山主峯男体山始め八峯に亘り、華厳滝、いろは坂等が含まれる。日光国立公園の中枢をなし、広さは3,400㌶に及ぶ」社頭右に「むすび大国」 「大国様が座っている袋には、むすびの宝がいっぱい!大国様と大きな袋に触れて、良い縁を結んでください」とある。男女、友人、家族、健康、仕事、学業等幅広い縁が結ばれる、らしい。 ここはひとつお願いしておくか・・・。実はこの大黒様は二荒山神社新宮のオープニングにすぎなかった、小銭だけはしっかり用意しておくといいかもしれない。西参道鳥居に掲げられた額。杉木立に包まれた参道と神門。縁結びの御神木。 杉の巨木に楢の木が共生したもの。すぎとならに肖って「すぎなら一緒に!」という事で多少訛りがあるが縁結びの御利益があるという。神門。 瓦葺で妻切りの木造四脚門。1977年(昭和52)に建立された真新しい門。まずは境内を左から伽藍を見て行きます。 境内左の手水舎。手水舎後方の神楽殿。 毎年4月2日、国の興隆を祈願し神楽が奉奏される。神門中央は拝殿、その右に社務所と続く。社務所と拝殿(左)更に右に鳥居と楼門があり、その先は東照宮方面へ続く。鳥居から境内全景。楼門。 こちらの楼門も1978年(昭和53)建立と新しい物。二荒山神社新宮 拝殿。勝道上人が767年(神護景雲元年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まり、782年(延暦元年)奥宮、784年(延暦3)中宮祠と神宮寺の中禅寺を建立した。 祭神 / 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神) 重要文化財 / 本殿、拝殿、日枝社、朋友神社、神輿舎、大国殿、銅燈籠(化灯籠)等 祭典 / 例祭 (弥生祭)四月一三日より一七日本社、 男体登拝大祭 七月三十一日~八月八日中宮祠瓦葺の入母屋平入拝殿で内部は外陣と内陣に分かれているようです。 拝殿は、1619年(元和5)に建立され、1645年(正保2)に本殿移転に伴い再建されたという。 外観は鮮やかな朱塗りですが以外に装飾は少なく、本殿と比較するとシンプルな建物。拝殿内の眺め、金色の左巴紋が入る大きな賽銭箱。拝殿左の神輿舎方向から本殿の眺め。 化灯籠(手前)は鎌倉時代の1292年(正応5)鹿沼勝綱の寄進とされる青銅製の燈籠。江戸時代に夜警が燈籠の炎を亡霊の炎と見誤り刀で切りつけた刀傷が残る。 後方は透塀で囲まれた本殿。入母屋に千鳥破風、唐破風向拝が付くもので八棟造と呼ぶようだ。 拝殿同様1619年(元和5)に造営され、1645年(正保2)に僅かに移転された。掖門側から本殿の眺め。 栃木県日光市の世界遺産「日光の社寺」で現存最古の建造物とされ、2020年に7年をかけた大規模修理を終えたばかり。黒漆塗りの屋根や弁柄漆塗りの柱、彫刻など鮮やかだ。 今回の修理は銅瓦、垂木、錺金具など全て取り外し修理する大掛かりなものだったようです。訪れた時は神輿舎がシートで覆われ補修作業の真っ最中、伽藍は何れも綺麗な状態が維持管理できるようだ、流石世界文化遺産。ここから更に奥の「良い縁鳥居」方向に進む。鳥居をくぐり少し斜面を登ると本殿が見渡せる。 国重要文化財の本殿は徳川2代将軍秀忠が造営したもので、東照宮と見紛うばかりの華やかな本殿です。日枝神社。 848年(嘉祥元年)により創建され、現在の建物は1644年(寛永21)頃再建。祭神は山の神、健康の神とされる大山昨命、京都日吉大社から分祀されたものという。 訪れた時は各所の賽銭箱の回収に追われていた、参拝中にこうした光景を見たのは初めて。せめて参拝者が去ってからにはならないものか、妙に冷めた気分になった。・・・健康を祈願して賽銭投入。上「良い縁鳥居」ここから少し登ると本殿が見渡せるのでお勧めはここまでか?下鳥居から先は左に参道が続き、恒霊神社や七福神の石像が安置される賽銭、御朱印スポットだ。右、恵比寿神、左、福禄寿。上大黒様。下弁才天、特別朱印スタンプ7枚組で1,000円。日光連山遥拝所。 男体山と奥白根(左)手前の山並みは古賀志山日光連山の男体山奥宮、女峰山神社、太郎山神社、大真名子山神社、小真名子山神社、赤薙山神社、前白根山神社、奥白根山神社磐座として集約され、足腰が弱くてもここで参拝すれば登拝しなくても大丈夫。 男体山頂には大きな剣が立てられている。若子神社遥拝所。 御祭神は下照姫命。二荒霊泉鳥居。 本殿背後の恒霊山から湧出する「薬師の霊水」と滝尾神社の畔から湧出する「酒の泉」が引き込まれ、酒の泉で酒を仕込むと味がよくなる事から、毎年春と秋には全国各地の酒造所から仕込みの種水を汲んでいくそうだ。 境内右手に並んでいた酒樽はそうした酒造所から奉納されたもの。 古くから若返りの水、美人の水と呼ばれる「美容と愛情のパワースポット」のようだ。 霊泉不動明王、ここまで色々像を見てきたが一番御利益がありそうな趣だ。桧皮葺流造の朋友神社。 夕陽に照らされ朱色が鮮やか、向拝柱の脇にいるのは蛙か。知恵と医学の神・少彦名命を祀る。 二荒山神社の主祭神大己貴命の二本統治を助けた神とされている。創建時期は不明、手水鉢に1753年(宝暦3)の年号が刻まれている。 鳥居の前は狛犬? 蛙の様に見えなくもない。失礼しましたね。 この個性的な狛犬、右は無病息災、左の狛犬は知恵の狛犬と呼ぶようで1832年(天保3)寄進されたもの。 大国殿建立1745年(延享2)の方型檜皮葺の建物。 格子天井に絵が描かれているが、博物館的要素が強い。殿内に展示されている「宝刀 大太刀 太郎丸」 個人的に見るものはこの二つくらいか、刀身に穴が開くほどに眺めさせていただいた。神門から鳥居、良い縁坂方向の眺め。 左右の杉の巨木は右が親子杉、左が夫婦杉。初日はこれまで、今日の宿までは良い縁坂を下り10分程、あと一頑張りだ。 下野國一之宮 日光二荒山神社本社創建 / 767年(神護景雲元年)祭神 / 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神)境内社 / 日枝神社、朋友神社、恒霊神社、大国殿、滝尾社遥拝所、日光連山遥拝所、若子神社遥拝所所在地 / 栃木県日光市山内2307参拝日 / 2022/05/10華厳神社から日光二荒山神社 / 公共交通機関アクセス関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day1、下野國一之宮 二荒山神社中宮祠、「華厳神社」
2022.06.29
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広島県福山市鞆町。 陸奥稲荷神社を後に潮の香漂う鞆の港沿いを左に見える常夜灯方向に進む。港の船着き場に鳥居も社標もない小さな神社が鎮座する。 港の通り沿いに唐突に小さな狛犬が神社を守護している。神域は石垣が積まれ玉垣に囲われているが、通りと社地の区切りがないので、社頭前を通り過ぎる車や観光客など、小さな狛犬に息抜きする暇はないだろう。 出勤や登校時の通りすがりに何気に手を合わせて行ける日常生活に密着した身近な神社の姿。鳥居はないと書きましたが、過去には鳥居があったようで、阿形の狛犬の前に置かれた笠木はそれを物語ります。 こうなった経緯は分からないが社地と道路の区切りがないだけに鳥居は建てにくいだろう。 働き者の小さな狛犬。 尾をピンと上に立て、大きな球に両前脚を乗せた姿。台座には1877年(明治10)と刻まれていた。本殿は銅葺屋根の入母屋平入で向拝が付く。 社名札はないものの本殿前に嘗ての鳥居に掲げられた扁額が立てかけられていた。そこには「住吉大明神、蛭子神社」と刻まれていた、二社相殿のようだ。鞆ノ津の力石。 尾道の住吉神社で見かけた力石、ここ鞆の住吉神社本殿域にも安置されていた。力石は重要民俗文化財に、玉垣の黒いプレートから神社が伝統的建造物(89)に指定されているのが分かる。 こうした黒いプレートは鞆の町を歩いているとそこかしこで見かける事になります。 神社の創建由緒等、広島県沼隈郡誌(大正12年発行)の頁をめくって見た。 社名の記述はあったものの欲しい情報は得られなかった、狛犬が寄進された1877年(明治10)が一番古い物か。福山観光協会の紹介では「現在の社は鞆の名士、林家が建立した」とあった、創建は江戸時代まで遡るようです。住吉神社、蛭子神社創建 / 不明祭神 / 住吉三神、所在地 / 広島県福山市鞆町鞆865陸奥稲荷神社から徒歩 / 港沿いに5分程住吉神社から雁木が続く港沿いに進むと焼き板塀の黒と白壁のコントラストが新鮮な蔵が現れる。 なんでもドラマのロケとして使われた場所らしく、ここだけにとどまらず鞆の町にはこうしたロケ地が各所に点在するようです。 この案内板の先にも一社祀られています。胡神社。 鳥居の痕跡は見当たらず、こちらも住吉神社と同じ佇まい。町内の氏神さまのようで、西町氏子中と刻まれた玉垣が誇らし気だ。胡神社の本殿は銅板葺の流造。 通りと社地を隔てるものはなく、住民にとっては身近な神社だ。この神社も伝統的建造物(121)に指定されているようです。 玉垣の前の狛犬は、大きさ・容姿ともに住吉神社の狛犬とよく似ています。同時期に寄進されたものだろうか。 このちびっこい狛犬、神社を守護しながら路上駐車にも気を配らなければならないようだ。胡神社の創建についても広島県沼隈郡誌に名はあるがそれ以上のものは得られなかった。 胡神社について以下の記述を見付けた。 「江戸時代前期の古史にも記述がある神社で西町の氏神様として崇敬されている。港を生業とした商人たちの商売繁盛を祈願して祀られたもの」どうもスッキリしない、伝統的建造物としてシリアル番号が打たれているので指定内容等問い合わせしています、そこで教えて頂いた内容は後日加筆しておこう。胡神社創建 / 不明祭神 / ゑびす所在地 / 広島県福山市鞆町鞆859住吉神社から徒歩 / 港沿いに1分程 上は鞆の町なかの人一人通るのがやっとの狭い路地で見かけた神社。鳥居には1862年(文久2)と記されていたが詳細は不明、この神社に至っては所在地すら思い出せない。 昔の風情が残る歴史の町鞆は見所満載、朝陽や夕陽を浴びると全く違った表情を見せてくれるだろう。各所に案内板やマップが整備されていますが、マップにも記されない小さな神社含め全てを訪れるには一日では到底足りないだろう。 滞在最終日、まだ一之宮を二社参拝する予定だ、そろそろ鞆の町を後にしよう。訪問日 / 2022/04/20関連記事 / 「陸奥稲荷神社」広島県福山市鞆町、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.06.28
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名古屋市西区枇杷島3の秋葉神社から北に進み、幼稚園南の筋を左に進むと左側に石鳥居が立っています。 神社である事に違いはないのでしょうが社号標などがなく社名は分からない。グーグル先生に聞けば「神社」としか表記されずつれない返事だった。通りから神社の眺め。 住宅街の路地左側に石鳥居が立てられています。「神社」全景。 石の神明鳥居があり、そこから右の境内に小さな山が築かれその頂に流造の社が祀られています。鳥居正面の石標には「四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所御砂」と刻まれ、社号標ではなかった。 社地が民家の敷地の中にあり、ずかずか立ち入るのは気が咎め社頭から眺めさせて頂きました。弘法大師と所縁のある西国遍路。 歳と共に足腰は衰え、遠く離れた西国霊場を踏みしめる事は出来なくなるものだ。ここは各霊場の御砂と本尊又は掛け軸を纏め、地方にいてもここで拝む事で巡礼したと同等の御利益を得る事が出来る御砂踏み道場とみえる。右手の小山は御嶽神社でいいだろう。 麓から頂にかけて複数の行者像と霊神碑が安置され、山丸三の紋が見られる。右側には1930年(昭和5)に寄進された「御嶽開山覚明霊神 150年祭記念」の石標が立つ。 霊峰御嶽は覚明霊神が行者として1782年(天明2)に黒沢口登山道を開き、後の1792年(寛政4)に普寛行者が王滝口登山道を開いた山、それにより御嶽信仰や講が全国に広まり一般にも登拝が浸透していった。 講は大きく分けて開山した覚明系と普寛系の二つに分かれ、宮丸講、福寿講、心願講、日出講などの講社に分かれていくようです。覚明霊神の俗名は丹羽仁右衛門、1719年(享保4)、現在の春日井市牛山町で生を受けます。 春日井市牛山町の天神社には覚明霊神の像をはじめ生誕地の石標と顕彰碑などが見られます。また、ここから南に鎮座する清恩寺には覚明行者が剃髪した「覚明行者剃髪道場舊跡」の石標もあるようで、枇杷島と御嶽開山の祖覚明霊神は所縁の深い土地柄。 生誕地の春日井や周辺で御嶽神社をよく見かけるのもそうした事もあるのだろう。御嶽神社本殿。 左右に小さな狛犬がいますがこれ以上寄れず寄進年度や表情などは分からなかった。山岳信仰では宗教観を絵に表した曼荼羅が描かれます。 御嶽なら御嶽山曼荼羅、白山なら白山曼荼羅、冨士なら・・・・曼荼羅は多い。実際に御山に登拝し、目の前の雲海に後光のさす姿が現れれば神仏の存在を感じたに違いない。 難しい言葉や文字で見た事もない宗教観を語られてもわからない、絵や自然がもたらすそうした事象は何より神仏の存在を受け入れやすい、山に登るとなんとなくそんな気にさせるシチュエーションに出会った事はないだろうか。枇杷島の御嶽神社全景。 岩の積まれた小高い御山は、里と山に生まれ山に戻る故郷の霊峰御嶽を繋ぐ扉なのかも知れない。御嶽神社から西に進んだ三叉路の角に延命地蔵尊が祀られていた。詳細は分からないが堂内に二体のお地蔵さまが安置されていました。 左のお地蔵さまは表情も読み取れず古さを感じる、ここは二人分の賽銭を奮発しお互いの無病息災をお願いしておこう。延命地蔵尊から御嶽神社方向の眺め。上は今回枇杷島を訪れ参拝した三社を地図に落として見ました。「御嶽神社」創建 / 不明祭神 / 不明参拝日 / 2022/06/03所在地 / 名古屋市西区枇杷島4-6-17公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」降車、西に30分前後(神明社👉秋葉神社経由)関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4、「秋葉神社」名古屋市西区枇杷島
2022.06.25
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5月24日~25日 長野県飯田市の元善光寺の御開帳を見に車を走らせました。 前日は近くの妙琴キャンプ場で昨年の乗鞍以来となる久し振りのキャンプ泊を楽しみ朝一番で参拝に訪れた。 日帰りで全然行って帰れる距離なんですが、軽にキャンプ用品一式積み込んでどんな感じか試してみようという目的もあった。軽で車中泊は流石にきつい、コンパクトで快適にキャンプが出来ればキャンプで遠征も出来る。 肥大化した用品の中で何がダイエットできるのか不用品チェックも兼ねていた。快適なキャンプを楽しみ朝一番に撤収、キャンプ場から東に20分程の元善光寺へ。元善光寺無料駐車場には9:00を少し回ったころに到着、元善光寺の拝観時間が9:00からなので丁度いい感じ。 既に参拝者の車が見られましたが、余裕で正面駐車場に駐車できました。ここに至る途中で複数の観光バスに遭遇、嫌な予感がしたが見事に外れた。 団体客がいない分落ち着いて参拝できる。駐車場から境内に続く石段。 まず目にするのが立葵の紋で、良く知られる長野市の善光寺の紋と似ているが元善光寺の立葵は丸で囲まれています。 この紋は善光寺、元善光寺を開いた飛鳥時代の人物「本多善光」の家紋。元善光寺の栞の縁起には以下のように書かれています。 「お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現された阿弥陀如来様は、今からおよそ千四百年前、欽明天皇の御代に百済国から日本へ渡ってこられました。 しかし、物部氏と蘇我氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。 その後、推古天皇十年(602年)に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御誓願を残されました。 善光公は山中にて授かった霊木をもとにして自ら一刀三札の、御本尊様と同じ大きさの御尊像を彫られたのが元善光寺の御本尊となりました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。 御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。」 約1,400年前の出来事、お告げでこの地に持参した阿弥陀三尊像は自宅の一室に臼を台座として置き、そこに阿弥陀三尊像をお祀りしていたという。やがて再びのお告げから本尊は善光寺に移され、本尊を失った台座の臼からは不思議な光が放たれていたとされる、「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺創建時に霊宝として今も受け継がれています。 ここは善光寺の発祥の地。長野市の善光寺御開帳は全国的な知名度も高く、満員電車に乗っているようで何ともならない程混みます。 それと比較すると元善光寺の御開帳にあの混雑は見られない。「一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは片参り」の由来には、ほかの意味も込められているような気がしてならない。 石段右の元善光寺の寺標。 善光寺発祥の地ながら至って質素な大きさのもの。境内へ続く石段は御開帳の幟がはためき、その先には山門が見えている。山門。 小高い丘陵地の中ほどに築かれた石垣と瓦葺の薬医門の佇まいはどこか城門に通じるものがある。「定額山 元善光寺 境内図」 山門左に矢場があり、山門をくぐり一段上がった境内左から客殿、本堂、裏門とあり、更に上には宝物殿、平和殿、稲荷閣の伽藍。善光寺と比較するとコンパクトな伽藍。山門から矢場方向の眺め。矢場。1906年(明治39)に境内を整備し造られ、現在の建物は2016年(平成28)に射場を改修、2018年(平成30)に的場を更新したようです。 元善光寺で3月の春分の日と9月の秋分の日の年に2回、射会が開催されるという。山門右には複数の供養塔がある。山門扉に御開帳のポスター。 期間・令和4年4月3日~6月29日行事日程・開闢大法要4月3日・中日大法要5月1日、結願大法要6月29日 蓮華座の上で光り輝く「座光の臼」が描かれている。御開帳とは 七年に一度秘蔵の仏像を納めた厨子や仏舎利の扉を開け、帳を上げて法会を行うもので、元善光寺の御開帳は長野善光寺と同じく七年毎に一度行われ、丑年と未年に行われます。往古の御開帳は今の様に明確に定まっていなかったようです。 現在は十二支を丑年で二つに分けると裏は未年、「丑に引かれて善光寺参り」で覚えておくといいかもしれない。元善光寺の御本尊様「一光三尊阿弥陀如来」は、一つの光背の中に中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三体の仏様が並ぶもので、善光寺仏独特の形をしています。 御開帳となった前立本尊の手に金糸が結ばれ、五色の綱となり回向柱に繋がっています。回向柱に触れる事で直接仏と繋がり御利益を授かるとされています。 元善光寺本堂、正面には回向柱が立っています。回向柱から続く五色の綱はここから本堂の本尊の手に繋がります。 長野善光寺の御開帳では回向柱へもなかなか辿り着けなかった記憶もあるが・・・回向柱に触れる前の消毒、触った後にも消毒、禍で学んだ新しい手水の習慣だ。 時間も早い事もあるのだろう、同じ善光寺とは思えない御開帳の光景だった。 上本堂左の「元善光寺宝物の紹介。・「座光の臼」・涅槃像、元善光寺には二体の涅槃像が安置され一体は飯田市の文化財に指定。・薬師三尊像、薬師如来と脇侍の日光菩薩、月光菩薩の三像はこの地域では最大の物。・他に仏像、仏画など80点程が宝物殿に収蔵。下伊那出身の日夏耿之介の歌碑。「花散る夕 心経を誦して 俟ち給へ」「魚一寸 草三寸のかすみかな」境内にはこの句碑はじめ、裏門付近には芭蕉の句碑など複数見られる。境内右の鐘楼と手前に手水鉢。 梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれ、元々の梵鐘は戦時中に供出されたという。敗戦後の昭和25年に平和を祈願し新たに鋳造されたものがこの「平和の鐘」 二度と同じ道を歩まないように後に語り継ぐ思いが込められた梵鐘ともいえる。・・・・・きな臭い世の中になったものだ。 鐘楼の建立年度は不明ですが、格子天井には龍が描かれ鋭い目つきで下を睨んでいます。手水鉢。 鉢一杯にガラス玉が敷き詰められ陽ざしを受けて光り輝く光景は実に綺麗。映えが必須ともいえる昨今、花手水とは一味違う映えを求めて訪れるのはどうだろう。 映え後方の仲睦まじい道祖神。上裏門横に芭蕉の句碑、「うらやまし 浮世の北の 山桜」 車もない時代、よくぞ全国各地歩いて廻ったものだ。下本堂脇の元善光寺由来。 手前の馬頭観音は1838年(天保8)に寄進されたもののようだ。棟の鬼瓦に輝く寺紋は善光寺同様の立葵。元善光寺は1788年(天明8)火災に見舞われ、現在の建物は後に再建されたもののようです。 入母屋瓦葺の妻入り本堂で垂木など部分的に補修の手が入れられている。奥に写り込んでいるのは客殿。五色の綱に導かれ本堂に進む。本堂に掲げられた額「元善光寺」外陣でまず目にするのは大きく赤い奉納提灯、その先の内陣入口に掲げられた額には「本多善光誕生霊地」とある。本堂内で参拝と御朱印を頂き、外陣右側のびんずる尊者像の横から戒壇巡りへ。 ソーシャルティスタンスを取るのが目的だろう、入口に用意された砂時計の砂が落ち切ってから戒壇に下りていくルール。明るい世界から徐々に暗闇に包まれた仏の胎内に入っていきます、一寸先も見えなくなり頼りは手摺のみ。 暗闇の中、極楽往生・開運の錠前を探し求め手探りで前に進む、仏と深い縁を結ぶため本尊直下にある錠前に触れる、目的はただそれだけだ。長い暗闇の先の前方に外光が差し込み、少しずつ現実世界に立ち戻る。 戒壇巡りは明日をも知れぬ今を生きていく縮図そのものかもしれない。長野善光寺の戒壇巡りでは、暗闇に怯える息子達を導くのが精一杯、錠前に触れることすら出来なかったが今回はしっかりと錠前に触れることが出来た。 ここ元善光寺の戒壇巡りにお布施は不要、有難いことだ。 暗闇から眩いばかりの境内に舞い戻る。 まだ本堂後方に宝物殿、平和殿などありますが次の目的地に向かうため今回は拝観は見送りました、栞によれば平和殿(拝観料500円)では西国三十三番の札所の観音像や霊場の御砂踏みが出来るらしい。 元善光寺御開帳は6月29日まで。 元善光寺宗派 / 天台宗山号 / 定額山創建 / 伝・ 602年(推古天皇10年)開基 / 本多善光本尊 / 善光寺如来境内社 / 稲荷閣所在地 / 長野県飯田市座光寺2638参拝日 / 2022/05/25車アクセス / 中央自動車道飯田ICから20分関連記事 / 妙琴公園キャンプ場
2022.06.23
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瑞浪市寺河戸町「秋葉神社」 金刀比羅神社から下街道を西に進んだ三叉路の突き当りに鎮座する。秋葉神社全景。 左の秋葉常夜灯が鎮座地の目印になるのでは。常夜灯は石垣が三段に積まれ、その上に台石が乗せられ、その上に常夜灯が乗っています。 くびれた竿から宝珠まで高さはそれほどでもないが、下からの全高は見上げる高さ。境内の大半はこの常夜灯が占めている、右に寄進者の名が刻まれた石標があり、秋葉神社はその奥に祀られています。注連縄が張られた切妻の赤い屋根の小さな社。 賽銭箱はなく扉の前に。境内は清掃され、社も傷んだところもなく綺麗に保たれ、町内の方々の目が行き届いているようです。 祭神の秋葉三尺大権現は本地観世音菩薩が俗界の世界に現れた姿とされ、修験を積み自在に空を飛ぶ技を会得、秋葉山へは白狐に乗り飛来し鎮座したという。 後に圓通寺で火を操る奥義を会得した事から火伏の神として広く崇敬されている。人は火を自在に扱う事を覚え、それにより進歩してきた。 反面、当時の建物は茅葺や木造なので容易く火災に繋がり、火は有難いものであり恐怖そのものだったに違いない。そうした事もあり火伏の神を祀る秋葉さんは人の集まる集落や寺の鎮護社などに祀られ、火伏と五穀豊穣など人々に浸透し崇敬されたのだろう。 秋葉さんは集落の消防施設的な位置付けもあったのかもしれない。ここ寺河戸町も下街道を挟み多くの民家が連なり、火災に対する意識は強いのだろう。常夜灯。 竿には1903年(明治36)建之と刻まれていた。冒頭から秋葉と記載していますが、竿には「秌」葉神社と彫られています。 秌葉神社の創建は分からない。旧字体の秌が新漢字の秋に切り替わり始めた(1950年頃?)から竿に残る1903年くらいだろうか? それともさらに遡るのか?何れにしても100年以上も前から地域で受け継がれてきた秌葉神社。 火袋に灯される明りは電灯に変わり、夜の下街道でその存在を示すのだろう。秋葉神社の南側は県道352号線の「水の木」交差点に繋がります。 名古屋方面から車の場合「水の木」交差点を左折すれば社頭に出ますが駐車余地はありません。下街道は車を諦め自分の足で廻るのが一番。上は下街道周辺の地図にこれまで訪れた所をマーカーに落として見ました。 まだまだ多くの寺社があり先は長い。 水の木 秌葉神社創建 / 不明(常夜灯は1903年(明治36)寄進)祭神 / 秋葉三尺大権現参拝日 / 2022/04/30所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1258-1公共交通機関アクセス / JR中央線瑞浪駅下車 北東に徒歩5分関連記事 / 「金刀比羅宮」瑞浪市寺河戸
2022.06.22
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「華厳神社」 日光二荒山神社中宮祠の参拝を終え、中禅寺湖沿いに続く国道120号線を大鳥居方向に歩く。目的地の華厳神社と華厳滝観瀑台までは約20分ほど。国道沿いの「日光自然博物館」の看板とツキノワグマのモニュメントが現れれば目的地は近い。 ・周辺のクマ目撃情報 周辺のマップ。ここから余談になるけれど、標高1,269㍍に水を湛える中禅寺湖は日本一標高の高い湖とされる。 山を登る方だと素直に受け入れにくくないかい、霊峰御嶽の二の池は2,900㍍付近、みくりが池ですら2,400㍍はあるだろう。今更だけど湖の定義を環境省のHPで調べて見た。(1)湖沼及び河川の定義 「湖沼」及び「河川」は、法令上の定義が置かれている例はない、我が国では一般には以下の意に解されている。ⅱ湖沼:「みずうみ」(四面を陸地でかこまれて中に水をたたえたもの。池・沼などより大きく中央部に沿岸植物の侵入を許さない深度(5~10 メートル以上)を持つもの) ・・・・・。とあった。ニノ池は水深が足りないの? 水深のあるみくりが池は?火山湖だから・・・・・。 因みに成立要因の頁には下の記載も。「人工湖は河川を堰き止めることにより造成したダム貯水池等や造成池に用水等を導入したため池等に区分される。 人口のダム湖は池?・・・・・黒部池、中禅寺湖にも中禅寺ダムがあったりするが・・・・「法令上の定義が置かれていない」カオスな世界だ。華厳第二駐車場付近で見かけた花。 クリンソウの葉に似ているが花の付き方が違うような、調べて見たが分からなかった。綺麗な花だ。「華厳神社」 華厳第二駐車場の西外れに鎮座し、真新しい赤い玉垣は駐車場からもよく目立つ。それもそのはず「華厳神社」の創建は2020年6月、二荒山神社の末社として神霊が祀られ新たに創建されたばかり。 日光二荒山神社の境内地は華厳の滝、いろは坂、日光連山を含む約3,400㌶と広大。華厳滝観瀑台エレベーターや駐車場といった人が集まる場所でもあり、この一画に新たに末社が創建されても何ら違和感はない。 新に参拝客を呼び込むには絶好のロケーションで御朱印(中宮にて頂ける)もある、なかなか上手くできている。華厳神社全景。 令和に入り創建された新しい神社だけにピカピカです。神社後方の断崖の先が華厳の滝の滝口になる。華厳神社御祭神 / 二荒山大神、華厳滝大神、水の神御利益 / 開運・悩み解消例祭日 / 6月21日午前10時「華厳とは、ヤシオの華が岩壁美しく咲き誇る様をいい、そこから流れ落ちる滝を「華厳の滝」と云う様になった。(一説には「華厳経」から名付けられたとも云われる) 古くより、この地域は二荒山神社の御神域として守られております。令和を寿ぎ、華厳の滝と並び神宿る滝と称え神社を創建。 神域である清浄なる滝を拝し幸運をお祈りください」因みにヤシオとは、春頃になると華厳の滝周辺などで白やピンクの花を付けるヤシオツツジというツツジの事。 ここから有料の華厳滝エレベーターで降下、長いトンネルを抜けると絶景が広がる。観瀑台の右側は柱状節理の断崖が迫る、そこはイワツバメの天国でもある。滝口。ここから一気に97㍍の高さを流れ落ちる。 滝口右側に一株のヤシオの姿があるが、時期が早いのか滝全体にヤシオのピンクは目立たなかった。中禅寺湖から中禅寺ダムを経て唯一流れ出る川の名はここまでが大尻川、滝から下流は大谷川、更に下流で鬼怒川に名を変える。 ダムで水量調整された滝とも云え、観瀑台には滝から流れ落ちる毎分流量が表示されています。巨大な岩盤から流れ落ちる滝、そればかりか岩盤の隙間からも湧き出している。 遥か昔、深刻な干ばつに見舞われた事があったという、その時日光開山の祖とされる勝道上人が江尻滝で雨乞いを祈願し雨を降らしたと云う、それが華厳の滝だとも云われるようです。 勝道上人が初めて滝と出会った時、自然が作り出した圧倒的な光景に神の存在を感じたのも分かるような気がしてくる。二荒山神社末社「華厳神社」創建 / 2020年祭神 / 二荒山大神、華厳滝大神、水の神所在地 / 栃木県日光市中宮祠2479-2参拝日 / 2022/05/25関連記事 / 二荒山神社中宮祠日光二荒山神社 中宮祠から徒歩ルート / 国道120号線沿いに華厳滝観瀑台方面へ20分程
2022.06.19
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愛媛・広島を一泊二日の車中泊で訪れた最終日。 阿伏兎観音から県道47号線を鞆の浦方面に向け走らせる、広島県営鞆町鍛冶駐車場までの移動時間は15分程。瀬戸内海国立公園鞆の浦。 鞆の浦はいろは丸事件でもよく知られ、歴史好き、ドラマ好きには魅力的な町だろう、寺社好きにとってもそれは同じ。観光案内に紹介される知名度の高い寺社以外にも小さな町内の狭い路地には多くの神社が鎮座する。 今回掲載する陸奥稲荷神社もその一つ。鞆と云えばやはり鞆の港に立つ常夜灯か、駐車場から海岸沿いを南下し港に向かう。 途中には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際に宿舎となった対潮楼やいろは丸事件の際に紀州藩が宿舎として使用した圓福寺などが鎮座している。写真は圓福寺が鎮座する岬の西側にある大波止から鞆の浦と常夜灯の眺め。 写真は大波止から船番所、圓福寺方向の眺め、岬の先端に見える赤い鳥居が穴葉稲荷、陸奥稲荷神社の鎮座地。 圓福寺が鎮座する岬は往古は大可島と呼ばれた小島で、鞆の浦を行き交う舟や鞆の港に出入りする舟の監視が効く立地から村上水軍の砦が築かれ、大可島城も築かれた。現在は陸続きとなった大可島に嘗ての面影を感じる事は少ないかもしれない。水産加工場の敷地を通り抜けると正面に赤い鳥居が立てられている。 社頭には稲荷神の使い狛狐が一対、鳥居に額はあるが文字は退色し読み取れなかった。護岸沿いに奥に長い境内で、左側にも鳥居が二つあり、その先に社殿、更に奥に進むと鳥居を構えた境内社が祀られています。この神社の創建等詳細を調べて見たが定かにはならなかった。 狛狐の台座に刻まれた「明治10年(1877)玉光講」が創建に繋がる唯一のものだった。境内に入ると赤い鳥居が二つ並んでいます。 Gマップでは穴葉神社とあったが裏付けが見つからずここでは不明社としておきます。鳥居の先の二社は屋根の傷みは少ないけれど躯体は朽ち果てお札は納められていない。 既に廃社されたものだろうか。その右にも赤い鳥居がある。 鳥居の柱にはロープが張られ、綺麗に積まれた石垣の上にはあるべきはずの社の姿がない。石標や玉垣などに神社を特定するものは刻まれておらず、社が祀られていたであろう台座の正面に稲荷玉が見られるので恐らく稲荷社・・・だった?陸奥稲荷神社全景。 入母屋妻入り鞘堂に切妻の拝所が付くもので、建替られたのは比較的新しいように見受けられます。拝所や鞘堂の内部の様子は窺えなかったが拝所の鬼瓦に稲荷玉が施されている事から陸奥稲荷神社で間違いないだろう。 稲荷神は五穀豊穣の神として崇められ農耕のイメージが強いけれど、商工業や航海の安全なども司る事から港を見守るこの場所に祀られたものかもしれない。地元からは「あなばさん」と呼ばれて大切にされているようで、社殿改修に伴い寄進された方々の家紋が天井に描かれているという。 広島県沼隈郡誌から穴葉神社と陸奥稲荷神社を調べて見たが創建や祭神など記されていなかった。狛狐の台座か明治初期だった事を思うと遡っても江戸時代までだろうか。 陸奥稲荷神社の右の不明社。 三社相殿の社が左右に祀られているが、社名札はなく扉は閉ざされ今もお札が祀られているのか外観からは分からなかった。中央の銅板葺の小さな社、そこには小さな狛狐が安置されていた。 陸奥稲荷神社含めて祭神は宇迦之御魂大神と思われます。この一画には何匹の狐が住んでいるのだろうか? 境内はここで終わり、この先は岩礁帯になる。陸奥稲荷神社常夜灯の火袋から淀姫神社方向の眺め。 鞆の港に出入りする舟が良く見える、現在の舟に風待ち潮待ちは無縁だ。陸奥稲荷神社創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神境内社 / 不明社複数所在地 / 広島県福山市鞆町参拝日 / 2022/04/20阿伏兎観音から広島県営鞆町鍛冶駐車場 / 県道47号線を鞆の浦方面に15分程鞆町鍛冶駐車場から陸奥稲荷神社まで徒歩ルート / 15分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2、海潮山 磐台寺「阿伏兎観音堂」
2022.06.18
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名古屋市西区枇杷島4の神明社から東に5分程。 白菊公園の西の住宅街、建物に挟まれた奥まった場所にひっそりと「秋葉神社」が佇む。道筋に掲げられた「秋葉神社 白川二部町内会」の看板を見逃すと恐らく気が付かないだろう。秋葉神社正面の眺め。 社は左の民家の奥まった場所に祀られているようだ。近付いて見て初めて分かる、身の丈程の高さに櫓が組まれ、その上に覆屋が設けられている。覆屋を支える高さのある櫓の下はかがり火台が置かれるなど、奥行きを有効に生かすための策なのかもしれない。 入口の扉は施錠されていないものの気が引ける雰囲気がある。精一杯寄った社は鰹木が4本、内削ぎの千木が付く神明造のように見えます。 社名札は見当たらないが「秋葉神社」とあるので火之迦具土大神を祀るものと思われます。いつ頃祀られたものか調べて見るも定かにはならない。 左が明治26年頃の枇杷島周辺、美濃路沿いに集落が連なり、秋葉神社の鎮座地は美濃路の北外れにあたり、当時まだ町割りもされていない事から遡っても大正、昭和に入ってからかもしれない。 何れの時期にしても、ここに集落が集まりだし火伏の神が必要だったのだろう。高い場所に祀られた社ですが綺麗に手入れされ、今も町内で神社当番を回しているのだろう。白菊公園付近で見かけた白菊町の謂れ。 過去に瑞穂区『嶋川稲荷』で白菊の琵琶と枇杷島の由来について触れたことがあります。「藤原師長は1138年(保延4)藤原頼長の次男として生を受け、保元の乱のあと土佐に配流された 後に白河院政のもとで太政大臣、従一位となるも、1179年(治承3)平清盛のクーデターで当地に配流された配流後の龍泉寺で理覚と改め出家、仏門に入る。 箏、琵琶の演奏に優れた才能を発揮、彼の琵琶は「白菊の琵琶」と呼ばれ、1181年(治承5)清盛の死後、京へ召還となります師長に仕えた村長の横江氏の娘に白菊の琵琶を形見として残します 娘は現在の枇杷島まで師長を見送り、悲しみから琵琶と共に身を投じました。それと共に師宣の琵琶は幻の琵琶となります。(後に白菊の琵琶は宮内庁所蔵と判明) 1192年(建久3)55歳死去。法名は理覚、号は妙音院。妙音通、師長町、枇杷島の町名や神社から南の山崎川に架かる「師長小橋」などこれらは藤原師長にちなんだものと云われます。」 この地が分かれの場となった場所と言い、一部に残る白菊の名はこの白菊の琵琶から来ているもの。「秋葉社」創建 / 不明祭神 / 火之迦具土大神参拝日 / 2022/06/03所在地 / 名古屋市西区枇杷島3-17-18公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」降車西に徒歩25分前後関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4、瑞穂区§2『嶋川稲荷』、「秋葉山本宮秋葉神社」
2022.06.17
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岐阜県瑞浪市寺河戸町「金刀比羅宮」 耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程歩いた右側の個人住宅の一画と思われる片隅に鎮座する。金刀比羅宮と刻まれた常夜灯が立てられ、縦長の敷地に縦に4社の石祠が祀られていました。 それらに合わせる様に奥に長い覆屋が建てられている。詳細を語る看板などは見当たらなかった。 4つの祠が綺麗に一直線に祀られている。山里で海の神様金刀比羅宮が祀られるのは特に珍しい事ではないかもしれない。 祭神の御神徳が開拓の守護、五穀豊穣、農業、漁業の守護、航海安全、厄除開運、勝利祈願など幅広い。漁業や航海は場違いな印象を持つけれど、目の前は土岐川が流れているので何ら不自然でもない。 祀られた動機がそれらの一部、或いは全ての守護を祈願して祀ったものか分からないがここに必要だったのだろう。さて、金刀比羅宮の祠はどれ?、一つずつ見て廻る。 先頭は小さな狐が安置されているので稲荷社で良いだろう、二番目の祠は文字も確認できず不明。三番目の石標は二十二或いは二十三と刻まれているように見える月待塔か? 下に大神と読めるので月待講の二十三大神かもしれない。最後尾の一際大きな石標が金刀比羅宮となります。金刀比羅宮がいつから祀られたのか定かにはならなかった。 当日健之年度まで見ておらず、今になってコントラストを変え何とか明治廿弐まで読めるようになった。明治12だとすると1789年、随分古いものです。 その年に讃岐國金刀比羅神社より勧請された、ともいえないので江戸時代にまで遡るのだろうか。 我が町では家すら継がれることなく一代で廃屋になっていく、今ではアライグマや韓国イタチが世帯主となっている。 金刀比羅宮が地域で護られてきたものか、個人なのか定かではないけれど、何代に渡って綿々と継がれきた。今の姿を見るとこれからも先人の思いは継がれていくのだろう。 我家はどうなることだろう・・・見てるかい息子達金刀比羅宮創建 / 不明祭神 / 大名持命境内社 / 稲荷社、二十三大神、不明社参拝日 / 2022/04/30所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1262徒歩ルート / 耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程関連記事 / 耳ノ木神社
2022.06.11
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栃木県日光市中宮祠 下野國一之宮 二荒山神社東武日光駅から湯元温泉行のバスでザ・リッツ・カールトン日光バス停で降車。 中禅寺湖から流れ出た大谷川に架かる二荒橋を渡り、国道120号線を左に折れ下野國一之宮二荒山神社中宮祠を目指す。社頭までバスで訪れるなら二荒山神社中宮祠停が便利。 国道120号線を跨いで建つ二荒山神社中宮祠の大鳥居。 後方の綺麗な稜線を見せる山は標高2,486㍍の男体山。穏やかな表情を見せているが中禅寺湖の生みの親はこの男体山。 訪れたのは2022/5/10、周囲の山〃はやっと新緑が芽生えだした頃。巫女石大鳥居の脇に一本の松の老木があり、幹の周囲は玉垣で囲われています。 巫女石(左)はその内側に安置されている。この地は平安時代より霊峰男体山登拝の霊場として開け、明治以前まで厳しい掟があった。 馬返しから先は牛馬は禁則、女人禁制の結界で、掟を破った者はもれなく御山の罰が下されたと云う。キュッとくびれたウエストを持つこの岩は神に仕える巫女さん。 女人禁制の男体山、神に使える身なので登拝しても大丈夫と登拝を試み、山の神の罰が下って岩(巫女石)に変えられた姿だという。これと同じように牛馬禁則の掟に従わず牛を引いて結界を越えた者がいた。 掟を破った彼?は二荒山神社中宮祠の神門をくぐった左側で伏せ牛の形をした岩(牛岩)に姿を変えられたという。グレーな幕引きしかできない、岩に変えたい人物が沢山いる昨今、何と云う厳格な対応だろう。 今は二荒山神社で登山届を出し参拝すれば岩(石)に変えられることもない。周辺のマップ 大鳥居の位置は赤丸、目指す二荒山神社中宮祠は点線の赤枠。縁熊 国道沿いの大きな樹の下に置かれ、二荒山神社の御神木で作られた熊。この熊の手を思いを込めて握ると千里の恋も叶うそうだ。 神社までは中禅寺湖湖畔をフラ〃しながら20分程。 やがて右手に鳥居が現れる、脇参道で神門の先の境内に繋がっています。 社頭はここから左の国道沿い、もう少しで到着です。下野國一之宮 二荒山神社中宮祠社頭。 大きな明神鳥居と右に大きな社標が立つ、周辺は参拝者駐車場で車でのアクセスも容易。鳥居右の水神の碑。 1921年(大正10)建立で中宮祠湖の水神に感謝と湖上の安全を祈願して建立された。祭神 / 水波能売神神徳 / 湖上安全、開運、晴雨祈願 二荒山神社中宮祠境内マップ。 神門から直線上に拝殿、本殿と続き、稲荷社、山霊宮、登山口となる登拝門が主な伽藍のようだ。登拝門から男体山山頂の奥宮へは山支度が必要。 日光二荒山神社は山頂の奥宮、中禅寺湖畔の中宮祠、東照宮の西に鎮座する本社の三社で構成されています。下野國の一之宮はここ二荒山神社と宇都宮の二荒山神社の二社があり、識別化のために日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社として区別している。鳥居から先は石段が神門に続く。朱で彩られた八脚神門。正面に伽藍が広がる。境内は大きく四段に分かれているようで、神門のある境内は右に進むと牛石や宝物館。 一段上がると手水舎と稲荷社、最上段に社殿の伽藍。牛石。掟を守らなかった結果の姿。一段上がった境内右手の手水舎。左手に稲荷神社と金色のモニュメント。 願い叶えマス。 中禅寺湖は元々殺生禁止の霊場で魚は住んでいなかったという。明治に入り宗教戒律が解かれ、中禅寺湖に魚の放流が許可され、二代目宮司自らも放流を行ったと云う。 その由来を伝えるためこの碑が立てられたという。黄金色の鱒は触れると願いが叶うという。 中禅寺湖はフライフィッシングの聖地と云われた時期もあり、今も多くの釣り客が訪れます、二匹のアルビノの鱒に釣果を祈願するのもいいのかも。稲荷神社。 二荒山神社末社で1863年(文久3)京都伏見稲荷大社から宇迦之御魂大神を分霊、地元氏子から崇敬されている。3月28日の例祭は福引大会など神振行事が斎行され賑わうという。 五穀豊穣、延命長寿、産業振興、商売繁盛、家内安全を司る。稲荷神社本殿。 本殿とそれを守護する狛狐も大きな覆屋の下に祀られている。神門は左三つ巴だろうか。中門は透塀と一体となり、門前で大きな狛犬が守護する。 分厚い胸板で彫の深い逞しい姿の狛犬。重要文化財中門。 屋根は滑らかな曲線を持つ平唐門。中門蟇股の透彫りは鯉がモチーフになっている。蟇股には鮮やかに彩色された鯉は裏と表で真鯉と緋鯉に分けられていた。 緋鯉の顔つきは妙に愛嬌のあるもの。 拝殿・本殿全景。中門からは拝殿まで屋根が付けら入母屋瓦葺の拝殿軒下まで続く、向拝はないが雨天時に濡れる事はなさそう。 拝殿は1701年(元禄14)の建立で総弁柄塗り。拝殿額は中宮祠。 下は拝所から拝殿内を眺める。中宮祠由緒。 ・二荒山神社は神鎮まる御山として信仰される霊峰男体山(二荒山)を御神体とする。 ・782年(天応2)男体山山頂に祀られたのが始まり。 ・祭神は二荒山大神で主祭神 大己貴命、妃神 田心姫命、御子神 味耜高彦根命の親子三神を祀る。 ・男体山山頂の奥宮、中禅寺湖湖畔に中宮祠、東照宮西奥の本社の三社が鎮座。 ・二荒を「にこう」と音読みしたことが日光の語源。 ・境内地は華厳の滝、いろは坂、日光連山が含まれ約3,400㌶に及ぶ。 ・本殿と拝殿ともに1701年(元禄14)に建立国の重要文化財に指定。 ・主祭神大己貴命は大黒様として親しまれ境内には所縁のある七福神が祀られている。 ・登拝道は登拝門から山頂まで片道約6㌖あり、4月25日~11月11日まで。 ・宝物館には日本最大級の太刀「袮々切丸」など多数の刀剣類、南北朝時代の神輿、男体山山頂遺跡の出土品を展示。拝殿左の神楽殿から本殿方向に鎮座する山霊宮。 覆屋後方に聳える巨木は御神木のいちい、栃木県の天然記念物で、県の名木百選に指定されている。いちいの巨木は登拝門脇にも聳え樹齢は1100年を超えるとも。上山霊宮。 比較的近年に建てられたもので、男体山はじめ日光連山の信仰に貢献された方々を祀るもの。下七福神(福禄寿) 幸運と子孫繁栄、金運にも恵まれ長生きできると云われる。山霊宮から見る本殿域。 一段高く石垣を積み本殿域が作られ、周囲は透かし塀で囲われ薬井門に繋がっている。ここから見る本殿は反りの強い瓦葺の流造。神楽殿。 拝殿左に建ち、山霊宮から全体が眺められる。神楽殿は大国殿とも呼ばれるようで、毎朝大黒様に八乙女神楽が奉奏されるという。 2016年、学生の授業の一環で3.5年をかけ天井画を描き奉納された、彼らにとって後世に残る素晴らしい経験になった事と思う。拝殿右の登拝門の眺め。奥宮登拝口ここから霊峰男体山(標高2,486㍍)の頂に鎮座する奥宮へ繋がる。 古くより、霊峰二荒山(ふたらさん)として神の鎮まる山として尊崇され、御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様。ここから奥宮は山支度の装備でしか辿り着けません。 周辺には石楠花の名残がチラホラ見られ下界とは季節感が随分違う。重要文化財の鳥居は1769年(明和6)寄進のもの。登拝門。 ここから先は修験の道に表情が変わる。登拝者を見守る狛犬。 苔を纏い、中門の狛犬に通じる風貌の持ち主ですが昭和生まれ。鳥居付近から見る三間社流造の本殿。社務所。 御朱印、登山届はこちら。社務所付近の手水鉢、奥宮への登拝はここで清める事から始まる。下野國一之宮 二荒山神社中宮祠創建 / 782年(天応2)祭神 / 大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の親子三神境内社 / 稲荷神社、山霊宮参拝日 / 2022/05/10所在地 / 栃木県日光市中宮祠2484公共交通機関アクセス / 東武日光駅から湯元温泉行のバスでザ・リッツ・カールトン日光バス停降車徒西へ徒歩20分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day1
2022.06.10
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広島県福山市沼隈町能登原阿伏兎『海潮山 磐台寺』「道の駅 アリストぬまくま」で車中泊、迎えた二日目は県道47号線を10分程南下した阿伏兎観音に向かう。阿伏兎観音無料駐車場の目の前は阿伏兎の瀬戸と呼ばれる水道。 遥か先に広島県福山市の沼隈半島と田島を結ぶ全長832㍍の内海大橋が望める。狭い水道は干潮の潮止まりだったのかもしれないが実に穏やかな表情をしていた。 阿伏兎ノ瀬戸阿伏兎岬と田島の間の水道で幅は約500㍍、長さ約1㌔に渡り急激に海が狭められ、干満差が大きく満潮時には左方向、干潮時は右方向に潮流が生まれ速い潮の流れは美味しい魚を育む事にもなる。 動力のない昔の船は潮任せ、風任せで自然を利用し航海していた、潮や風が動いていない時は港でその時を待つ潮待ちを行っていた。駐車場背後の阿伏兎山は海に向かって急激に切れ落ち、露出した岩は海岸にまで達している。 ここから阿伏兎山森林自然公園の散策路入口があり、阿伏兎灯台や展望台に繋がるようですが、入口のルート案内の状況を見ると整備状況はいいとは言えないかも知れない。 この駐車場まではトモテツバスが繋がっていますが、ダイヤを見ると本数は少なく車で訪れるのがいいかも知れない。旅館を通り過ぎた先にも4台ほどの駐車場はあるが、歩く時間は2~3分程しか変わらないだろう。駐車場から『海潮山磐台寺』へは海岸沿いの車道を5分程歩いていけば突きあたりが目的地。道沿いの1795年(寛政7)の銘のある宝篋印塔と右に薬師如来坐像。『臨済宗妙心寺派 阿伏兎観音 磐台寺』 拝観時間は朝8:00から石段左の境内マップ 阿伏兎山が切り立った海岸に切れ落ち、伽藍はその僅かな空間に作られています。白壁の右は切れ落ちた海岸になっている、奥行きはあるが細長い境内。拝観料100円を納め境内へ。磐台寺境内。 正面の朱の建物が観音堂で左手の廻廊と結ばれている。左手の客殿全体がフレームに入らないほど境内は狭い。海潮山磐台寺客殿。 磐台寺は臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は木造薬師如来。備後七ヶ所巡禮の瀬戸内三十三観音霊場第24番、備後西国三十三観音霊場第4番札所でもある。暦応年間(1338~1342)覚叟建智が開いたと伝えられ、一時衰退し建物は荒廃したという。 元亀年間(1570~1573)、毛利輝元により観音堂と共に再建されたとされる。入母屋瓦葺で内部は仏間を中央に左右に書院と奥の間を配した方丈建築。 後方の社は鳳凰稲荷、ここから左に参道が続く。阿伏兎 名勝 鞆公園内 大正14年10月8日指定 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を集めて来た。 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願し岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基。 後に毛利輝元が再興、福山藩主水野勝種によって伽藍が整えられた。観音堂と客殿は室町時代の建築様式で知られる。 本尊の十一面観音は小授け・安産・航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、眼下に広がる燧灘の展望も素晴らしい。 観音堂を支える石垣はまるで城壁。もともとの岩盤に石を積み上げたものですが、境内側と海側の積み方の巧みさには目を見張る。白鳳稲荷。 銅板葺の流造で外削ぎの乗せ千木と三本の鰹木が乗る。佇まいは稲荷を感じさせない。手前に手水鉢、地蔵菩薩。 ここから廻廊を経て観音堂に続く。 廻廊から観音堂(大悲閣) 阿伏兎岬先端部の岩上に石が積まれその上に観音堂と廻廊が建つ。境内側は大小様々の石が積まれた乱積みだったが、海側の石積みは成形された岩が巧みに積まれたもの。 仰ぎ見る巨岩の上に建つ観音堂は一見すると方型の様に見えるが、小さな大棟を持った瓦葺の寄棟造。大棟には鯱が乗せられている。 廻り縁はあるものの高さは低く怖そうな予感がする。廻廊から海の眺めは絶景だが、下は垂直に切れ落ちている。観音堂廻り縁、ここからは土足厳禁。 なんですが写真の縁側の傾斜を見て欲しい、僅かに外に向け傾斜している。多くの参拝客が訪れ縁側の表面はツルツルに磨き込まれ、高所恐怖症でなくても立って歩くのは引けてしまう。 左は断崖、立ったまま眼下を覗き見ると体が吸い込まれるようでもある。廻り縁から見る燧灘と手前に足摺山の石塔。観音堂から望む足摺山の石塔、こちらも巨岩の上に立てられている。観音堂内。 本尊は天正年間(1573~1592年)に阿伏兎沖の海中で、鞆津江の浦の漁師三山次郎右衛門の網にかかり引き上げられた観世音菩薩の石像。堂の格天井には天井絵が描かれている。 小授け・安産のご利益がある事からユニークな形の絵馬には母ならではの願いが書かれていた。廻り縁から阿伏兎ノ瀬戸方向と精一杯下を覗いてみる、・・・・怖いかも。 今は阿伏兎灯台が岬の高みに立っているが、往古の海を行き交う船にとって、断崖の頂に建つ朱塗りの堂は絶好の山たて(道標)になったことだろう。 磐台寺と観音堂の全景を撮影するには内海大橋を渡り、田島側から撮るしかないのだろう。廻廊を下り右手の石段から足摺山の石塔に向かう。廻廊降り口は鐘楼になっていて、梵鐘の鋳造年度は1984年(昭和59)と新しいものだった、その先に六地蔵が祀られている。 断崖沿いに鎖が張られた歩道があり、突き当りが足摺山。足摺山石塔。下には1903年(明治36)に鞆の石工により彫られた千手観世音菩薩坐像が安置されている。 力こぶを見せつける様な姿は印象的だ。ここから眺める観音堂が境内で一番綺麗に見える場所かも知れない。 航海の安全を祈願する、その思いから建てられた観音堂、どれだけの岩が積まれたのか分からないが思いを持った時の人の作り出すものには目を見張るばかりだ。 ・・・・角っこは宙に浮いていたのねぇ、積まなかったのには意味があるのだろう。 広島県沼隈郡誌によると現在の観音堂は1738年(元文3)、鞆奉行加藤杢兵衛忠保が藩命により改築し、その後幾度が補修が行われた。観音堂の天井絵は松林により描かれたとあった。 また面白い記述として観音堂の沖を往来する船舶は海上安全を祈願し賽銭を投じていたという。 今から200年ほど前、晩年の歌川広重が六十余州名所図会に描いた備後阿武門観音堂。 朝が迫る阿伏兎観音を描いたものだろう、観音堂の上には落ち行く月が描かれている。この絵を見る限り当時は舞台造りだったのが分かる。 広重は船から眺めた観音堂の姿を描いたのだろう。写真などない時代、見事に特徴が描かれている。境内の端っこでひっそり安置されている十一面観世音菩薩立像。 網にかかった石像はこんな姿をしているのだろうか、実に穏やかな表情をしている。磐台寺を後にする際に写真に残しておきたかった表情です。海潮山 磐台寺宗派 / 臨済宗妙心寺派開基 / 花山法皇本尊 / 十一面観音創建 / 986年(寛和2)所在地 / 福山市沼隈町能登原阿伏兎1427-1参拝日 / 2022/04/20道の駅アリストぬまくま👉磐台寺無料駐車場関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島、 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.06.09
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