道の駅・宿 0
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西春日井郡豊山町字木戸「萬松山 常安寺」現在は曹洞宗のお寺で、以前掲載した豊山町豊場木戸の『八社神社』の社頭西側に参道が隣接し、伽藍はその奥に広がります。前回も使用した地図、明治時代とほぼ現在の立地の移り変わりを見ていきます。当時の豊場村集落西部の北外れに鎮座し、北側から西にかけては水田の広がる立地。左の地図にも常安寺(黄マーカー)として記されており、この地に古くからあるお寺である事が分かります。上は尾張名所図会の常安寺挿絵。右下が八社神社で左上の伽藍が常安寺になります。八社神社山門左に上に続く参道が伸び、奥で左に折れその先で突き当りとなっています。その右側に常安寺山門が描かれています。周辺環境は住宅地に変貌していますが、参道の位置関係は今もそのまま残っています。上が八社神社脇の参道口。右隅に建つ石標は「三國傳来 根釈迦如来奉安場」と記されています。1916年(大正5)に名古屋出身の実業家の伊藤萬蔵(1833~1927年)氏から寄進されたもの。実業家として財を成し、各地の寺院に多くの寄進を行い財の一部を世に還元した人物。挿絵に描かれた参道口から伽藍を望む事は出来ません、山門に向け進みます。突き当りを左に進むと塀が山門に続き、塀の向こうに伽藍が広がります。参道はこの先で行き止まりとなり、挿絵と全く変わっていません。山門周辺の眺め、門の左右に置かれた解説板が目に入ります。右に「不許葷酒入山門」の石碑と二体のお地蔵さまが安置されています。解説板はお地蔵さまではなく、常安寺寺宝で県の文化財に指定されている鋳造誕生仏についてのもの。鎌倉時代に作られたものと云われその解説は以下。「県指定文化財 鋳造誕生佛高さ13.5㌢、胴の直径2.5㌢、重さ260gの小さな立像。所謂「天上天下唯我独尊」の形をなしている。材質は金・銅で保存状態は良く、光沢のある漆黒色を呈している。豊山町教育委員会」大きなものかと思いきや、ちょっとしたフィギィアと同等のサイズだ。左の解説「三界万霊の碑」解説板の奥に建てられているのがそれです。解説は以下「1834年(天保5)に大洪水があり、大水は西豊場一帯の稲田に集中し大山川の堤防が決壊し、濁水がいつまでも溢れた。西豊場の農民達は稲田の冠水が引くのを待ち切れず、悲愴な決意で各自に鍬や鋤を持ち、大蒲新田の囲い堤を切り崩しました。尾張藩では農民の気持ちを汲みながらも暴挙は許せないとして、その罪を問われた三十七名は投獄され、獄死した者もいた。後世になり有志農民達が、この犠牲者の霊を弔うためにこの碑が建立された。豊山町文化財研究会 2018年」西豊場農民の思い、水没した大蒲新田一帯の農民の思い、裁く立場の思い、苦渋の選択だったのが理解できます。碑には複数の名が刻まれています。山門。重厚な趣の切妻瓦葺の四脚門、近年建て替えたのかとても綺麗な姿です。門から境内の眺め、左に手水舎、本堂、庫裏、明王堂の伽藍。さて境内へ・・・・・視線を感じ山門天井に目をやる。そこには二間に渡り格子天井に絵が描かれています。門の入口側は草花が描かれています。出口側に描かれた龍。この躍動感ある龍が上から睨んでいた、視線の主はこの龍だった。2000年に描かれたもので、上が安?江と読むのか下は観山、安江観山の手によるものか?見事なものだ。これ以上首は曲がらないが、できれば仰向けになって見たいものだ。この龍と対面できただけでも訪れた甲斐があったというもの。あらたな天井画コレクションに加えよう。天井画だけで纏める必要がありそうだ。境内全景、二本の巨樹が聳え立つ広い境内。手水舎両脇にお地蔵さま。後方に聳える巨樹の根元に朽ちた明王像が安置されています。火炎が彫られているが風化と欠落が進み、全体の姿は想像できない。本堂全景、寄棟瓦葺で左の軒下に梵鐘が吊られている。宅地化が進み、本堂後方の森の緑は存在感がある。存在感のある二本目の巨樹。挿絵の同じ位置に木が描かれている、木の種類を見なかっが写真の木肌を見ると楠か?嘗て本堂後方に広がっていた水田は姿を消し、住宅地に変貌を遂げた。棟に乗せられた「萬松山」の山号瓦と梵鐘。常安寺の歴史は古く、812年(弘仁3)に現在の名古屋空港付近にあった岡山に、空海が創建した真言宗の観音寺から始まると云う。平安末期に戦禍で焼失し衰退の道を辿ったが、後にこの地を収めた織田家家臣の溝口富之助が、私財を投じて現在地に常安寺として再建。熱田の円通寺の末寺となり曹洞宗に改宗した。本尊の釈迦牟尼如来は、溝口氏が九州肥後国如来寺から勧請したという釈迦如来立像で、印度から唐を経て伝来したもので、「豊場の寝釈迦」とも呼ばれるそうだ。山門や伽藍が比較的新しいのは天井画の描かれた時期に手が入れられたのかもしれない。境内右の庫裏と棟続きの明王堂。二体の烏瑟沙摩明王像が祀られています。背後の炎で日常生活の不浄を焼き払う功徳があり、トイレの神さまとして知られる。歳と共に妙に手を合わせたくなる。本堂から山門方向の境内の眺め。挿絵には描かれていないが、境内には迦葉水と呼ばれた小池があったともいいます。山門が小さく見えるほど、空に向かって聳える二本の巨樹、常安寺の象徴ともいえる。常安寺駐車場から伽藍の眺め。二本の巨樹と天井絵が印象に残る常安寺です。1/20に周辺の二社を訪れました、当日は時間もなかったので2/24改めて訪れました。狭い道、一方通行の多いこの辺り、巡るにはチャリがいい。萬松山 常安寺宗派 / 曹洞宗創建 / 812年(弘仁3) 開基 / 弘法大師再興 / 溝口富之助再興時期 / 不明本尊 / 釈迦牟尼如来所在地 / 西春日井郡豊山町字木戸76関連記事 / 豊山町豊場木戸 『八社神社』、 豊場中之町『津島社』
2022.03.01
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西願寺六所神社から住宅街を南西方向に10分程。街中に取り残されたように樹々が生い茂る一画が山神社・お福稲荷社・白龍大神の鎮座地。新年最初の5.6㌔の神社巡りもここが最終目的。陽は傾き落ちるばっかりだ。社地北側から山神社・お福稲荷社・白龍大神を眺める。こんもりと盛り上がった社地全体に鬱蒼とした樹々が生い茂る。なんとなく古墳の上に鎮座している?と思うような光景ですが古墳ではないようだ。山神社・お福稲荷社・白龍大神の社頭全景。所在地は北区安井、安土桃山時代に浅野長勝が築城した安井城があったという。長勝は妻の妹婿の杉原道松の娘「寧々」「やや」を養女として迎えた、「寧々」は後の秀吉の正室となり、「やや」は婿養子となった浅野長政の正室となり、戦国の乱世に振り回されながら生きた女性達。このこんもり感は嘗ての安井城の名残、城は長政が津島に移ると共に廃城となった。安井城の現在は遺構も残っていないが社地の南西にあったとされ、この安井城の鬼門を守護するために山神社が祀られていたと云う。末社のお福稲荷社と白龍大神は近代になって祀られたようで、お福稲荷社は戦前まで大変な賑わいを見せていたという。社号標は山神社の下にお福稲荷社、白龍大神とある。この事からも創建時期は山神社が古い事を表しているようでもある。社号標の右にお福稲荷社の鳥居が建つ。鳥居左の山神社解説。「祭神は大山祇神。社伝によれば天正年間(1573~1592)に安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が、安井城を築く際、鬼門(東北)の守護神として勧請。神社南西に位置した安井城は、東西約160㍍・南北約150㍍で当時としては相当な規模の館であった。この辺りは矢田川の堆積地、昭和初期に耕地整理が行われまで、松・榎・椿・竹などが鬱蒼と生い茂っていた。境内にはお福稲荷社(稲荷大明神)、白龍社(龍神)も祀られている。例祭11月7日」鳥居から石段を上り山神社に向かう。正面に加藤五左エ門の石碑と百度石。参道はここから左に向きを変え尾根沿いに西に続く。西陽の差す尾根の先に鳥居と拝所があり、尾根の北斜面にお福稲荷社、南斜面に白龍大神と祀られ、其々に続く参道が別れている。参道脇に昭和8年に建てられたお福稲荷、御山神社、白龍大神の石碑がある。山神社社頭全景。神明鳥居の先に拝所と奥の社殿が見通せる。住宅街という静かな環境にあって、この杜は更に静寂な空間に包まれている。拝所から本殿。さほど広くない尾根の両脇に毬と子を持った狛犬が守護する。覆屋と拝所の屋根が視界を遮り、本殿の全貌は見渡せないが恐らく神明造。まずは山の神に参拝。ご利益は農業、林業、工業、商業、酒造、漁業など幅広い。右手にお福稲荷の社殿が一望できる、参道を戻り右下に続く参道に向かう。山神社との高低差がよく分かる。参道を下りるとそこから拝所まで奉納鳥居が連なる。奉納鳥居を抜けると「お福稲荷」の額が掲げられた明神鳥居が現れる。鳥居左に小さな覆屋、正面に拝所と本殿の伽藍。鳥居をくぐった右側に手摺が続く、参拝後に向かう事にする。上鳥居左の小さな覆屋、そこには座布団の上に艶のあるカーリングのストーンの様な重軽石。願い事をする前に持ち上げた石の重さに対し、願いをした後に持ち上げた石の重みが軽ければ願いは叶う、不思議な石だ。参拝時気付かなかったが、覆屋の右に石の額が置かれていたようです。文字は写真から識別できなかった。下拝所から本殿の眺め、久し振りに鈴を鳴らして参拝。本殿前で赤い前掛けを付けられた狛狐。狐としてはいい体格、やせ細った狐は悲壮感が漂いどうも好きになれない。参拝を済ませ、右に続くスロープを奥に向かいます。その途中側面から本殿を見ると本殿は流造。上奥に進む参道は三面ともコンクリートで囲われ、雰囲気はボブスレーのコースだ。下参道は右手に折れ、目の前に覆屋が現れ、目の前の岩壁に扉。手前に狛狐が守護し右手の狐の後方にも小さな社が祀られている。先程同様、健康的な容姿の狐が守護している。正面の祠、暗くて中は分からない、まるで狐の巣の様相。周辺の岩は人造石か?恐らく石の祠の上に積み上げたものかもしれない。先程お福稲荷は参拝させて頂いた、ここは何だろう、奥の院だろうか。周囲を壁に囲まれ、外界から閉ざされたような不思議な空間だ。さあ南斜面の白龍大神に参拝、一旦尾根に戻る。尾根から南斜面の白龍大神。覆屋の下に流造の社が祀られ、木造鳥居が建つシンプルな社殿。上白龍大神全景。社頭に下る石段途中の南垂れ斜面を社地として切り開き、伽藍が建てられています。白蛇の予感がする趣だ、そもそもこの神社には言い伝えがあるという。嘗ての城跡の上に鎮座する山神社、市街化の流れから見ればただの小高い丘。必然的にこの小山を削る工事が行われたそうだ、その工事の際に逃げ惑う白蛇が現れ、作業員がそれを殺したという。それ以降当事者含め禍に巻き込まれ、白蛇を鎮めるために祀られたのがこの神社だという。こうした話は稀に聞くことがある。事実かどうかはさておき、根底には代々守り継いだ土地が跡形もなく姿を変えてしまう事に対する警鐘から生まれたものかも知れない。街中に不自然に残されたものには何かの謂れがある、なぜそこにあるのかも知る必要があるのかも知れない。下白龍大神本殿全景。水田が広がっていた頃、水を司る龍は必要不可欠な存在。白蛇を鎮めるために祀られた神社、大嫌いな蛇がとぐろを巻いていそうだがそうでもなかった。白龍神社から鳥居をくぐり境内に出る、額は白龍神社。嘗ての城跡の痕跡として街中に残った小高い丘。そこは元々の主以外に狐と龍の住む特別な場所として住宅街に貴重な森を残している。神社から南側のお福市場方向の街並み、見覚えのある街並みが今も残る。ここを歩いて黒川駅に戻るとしよう。今回訪れた個所を地図上に落として見ました、意図せず矢田川の付け替え前を辿るような形になりましたが、多様な変化をもたらした付け替えは切っても切れない。機会があれば嘗ての合流地点に向け歩いて見よう。山神社創建 / 不明、祭神 / 大山祇神お福稲荷社創建 / 不明、祭神 / 倉稲魂命白龍大神創建 / 不明、祭神 / 白龍所在地 / 名古屋市北区安井1-7今回の徒歩ルート関連記事 / 「六所社 」北区金城町 、中切町「神明社」 、『中切天神社』、成願寺町 六所神社
2022.02.26
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守山区は天王社が多く、随分巡っていますが全てを参拝するには程遠い。このあたりになぜ多くの津島信仰の天王社が多いのか理由はよく分からない。天王信仰の総本山津島神社が比較的近く、牛頭天王の御利益が疫病や災い除けと日常に密接する事もあるのだろう。ここから勧請され各地に広まり、街角の小さな社や祠として建てられて行ったのが天王社。津島神社は嘗て神仏習合の影響を受け「津島牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祭神として長く崇敬されていますが。そのあり様を変えるきっかけは近代になってからの事。明治政府の神仏分離令、疫病を防ぐ神として牛頭天王を祭神とし、薬師如来を本地仏とする神社に対して祭神は素戔嗚に変えるか、牛頭天王を社名、祭神から外すように発布した。それは廃仏毀釈につながり、頭を失った石仏など多くの歴史的遺産を失うきっかけのひとつとなりました。(上は平泉寺白山神社)総本社の津島牛頭天王社も例外なく津島神社に改称し、牛頭天王の本地仏薬師如来は討ち捨てられることなく、神宮寺だった宝寿院の本尊として移されます。津島牛頭天王社から勧請され、集落に祀られた社も同様の流れになりますが、必ずしもそうでない場合も見られます。守山区川村町や周辺も天王社が集まり、認識している物だけでも七社は祀られているようです。半日あれば一気に廻れる距離ですが、どこぞへ行きがてら訪れるのでなかなか全て囲えない。今回そのなかで川村町の天王社(赤塗部分)を訪れてきました。ゆとりーとライン川宮駅から東に歩き川村公園の東にある交差点、訪れた時は更地となった角地の一画に取り残された様に瓦葺の覆い屋が川村町の天王社。四方吹き抜けのこの建物、覆屋と云うより祭殿だろうか。ここから北に川嶋神社が鎮座します、祭礼はこちらで行っているのかも知れません。南側から眺めた天王社。綺麗に手入れされた境内、その先に定番ともいえる朱に彩られた覆屋がある。瓦で葺かれ、木鼻も施された切妻の覆屋。その中に朱の鳥居と板宮造りの社が祀られ、これも全体は朱に塗られ守山の天王社の趣そのもの。こちらの天王社がいつ祀られたか。現地や地史など目を通しても分からなかった。航空写真で遡ってみると1945年(昭和20)頃の集落西外れに現在の建屋らしき姿が見て取れ、集落ごとに災い除けの天王社が祀られているのが分かる。人が集まれば神社も自然に生まれ、やれ祭礼だなんだと地域のコミュニティーの場となって行く。嫁入りがあれば菓子も撒かれ、話を聞きつけ集まった子の名も顔も知れ渡る。地域が一体となるいいイベントはあったものだ。当時、水田や田畑が広がっていた一帯も、僅かな年月で水田や田畑から住宅に変わっていき、町の変貌と共にこうしたイベントも見なくなった。推測でしかないけれどこの天王社、遡っても明治あるいは大正くらいまでだろうか。北側から見た天王社、後方が川村公園、少し進めばゆとりーとラインの高架が続く。今はとても見通しがいい、この光景もそんなに長くはないのだろう。2022/2/20川村町 天王社創建 / 不明祭神 / 牛頭天王所在地 / 名古屋市守山区川村町182 公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン川宮駅から東へ徒歩10分程 関連記事 / 「津島神社」津島市神明町 、 福井県勝山市「平泉寺 白山神社」
2022.02.25
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名城3の天王神社から北に5分程に鎮座する『宗像(むなかた)社』に向かう。上の地図の赤のマーカへが『宗像社』左の1891年頃の地図を見る、鎮座地は当時の練兵場の東外れにあたり、天王神社同様に当時から神社があったとは思えない。上は2022/2/12時点の鎮座地の北区名城2周辺の現状。1961年から1972年に建てられた市営城北荘、20棟を超える団地も老朽化が進み、順次解体・撤去・建替が行われ、既に先行、着手した綺麗な7階建ての住宅が出来上がっている。後方は小牧市からこの春この地に移転した名古屋造形大学の新キャンパス、周辺の光景は目まぐるしく変わろうとしている。『宗像社』はその開発工事の真っ只中に鎮座していました。東は防護フェンスが続き、西は新棟。写真中央の建物は城北管理事務所で神社は嘗ての団地内の生活道路沿いに鎮座しています。既に廃社とも聞くが定かではない。神社正面。社地は奥に長く、周囲はフェンスで囲ってある。境内は流造の本殿と常夜灯、桜?の老木が本殿を覆う様に聳えている。側面からの眺め。道路側に扉があり施錠されてはいないが開かなかった。扉右の賽銭箱も生きている、廃社?を感じさせるものは見当たらなかった。立ち枯れた雑草が生い茂る境内からなんとなく人の気配は感じられず、廃社の雰囲気は漂っている。上にも書いたようにそれを伝えるものは見当たらない。屋根には外削ぎの千木、鰹木5本。俗にいう男神を祀るということになる、どうなんだろう。『宗像社』と云えば、福岡県宗像市にある宗像大社が総本社。御神徳は航海の安全や交通安全など司る神様、多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命の宗像三女神を祀る神社。いつ頃鎮座したか詳細は分からない。現在は一時的に周囲が開けていますが、住宅に取り囲まれる様に鎮座する姿を見ると明治以降に人が集中して住むようになってからと考えるのが自然かもしれない。本殿は小さいけれど脇障子や木鼻、虹梁などに彫を施したしっかり作られたもの。よく分からないが、廃社だとすると魂抜きも終え、解体、産業廃棄物の道を辿るのだろうか。解体・再生の道はないのかねぇ。大規模な解体が進むタイミングで今も神社が残っている姿は素直に受け入れにくい。扉は閉じお札の存在か掴めないが、新しい団地に生まれ変わっても残っている事を期待し、今も生きている賽銭箱にお賽銭を投入し次に向かう。宗像社周辺は新たな再生に向け工事が進み視界が広がっています。ポケットの中から語り掛けるお姉さんの声は目の前に見えるあの森に向かえと導いています。宗像社創建 / 不明祭神 / 多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命所在地 / 名古屋市北区名城2丁目4 天王神社から徒歩ルート / 北へ徒歩5分程関連記事 / 『天王神社』北区名城3
2022.02.24
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『中切天神社』を後に15分程東へ向かいます。途中、国道41号線を越え、川中町、成願寺町、安井町と嘗ての矢田川右岸堤防を沿いを歩く。住宅街の中、高校を右手に見ながら進むと市営住宅の先に大きな楠が聳え立つ六所神社の杜が見えてくる。上の地図からも中切の神明社と天神社が矢田川右岸堤防、今回の六所神社(黄色マーカー)もその近くに鎮座している事がよく分かる。左の地図に六所神社が現れるのは1932年頃からでそれ以前に鳥居の印はない、神明社や天神社と少し状況が違うようです。見ての通り川中村は庄内川と矢田川に挟まれ、流れを変える以前は福徳、中切、六所神社が鎮座する成願寺は川中村の南に位置し三郷地区と呼ばれていた。立地から常に氾濫に悩まされていたのは容易に分かる。そうした立地で住まうため水屋造りや輪中など必然的に生まれたものだろう。河原は砂が堆積し河床が上がり堤防はそれに合わせて高さを増す。川と人の鬩ぎあいは終わる事はない。流路を変えた嘗ての矢田川、付け替えが終わった昭和初期の航空写真を見ると河床の痕跡が見て取れ、そこに新しい街の開発が進んでいくのがよく分かり、年と共にその痕跡も薄れてきている。この一帯は矢田川や庄内川の河原で見かける白い砂が堆積したその上に出来た町といっても過言ではない。上六社神社北側の眺め。角の取れた丸石が積まれ、その上に玉垣に囲われた社地が広がる。下社地東側の脇参道の神明鳥居。正参道は更に左に進んだ成願寺公園にある。成願寺公園内の北側が六所神社の社頭。中切の神明社や天神社のような明らかに高く盛られた感じはない。矢田川の堤に鎮座していたとすると、園内からいきなり続くこの参道、南側へ更に伸びていたとは思えない。南側は矢田川河畔に続く河原だったはずだ。公園や境内は目の細かな砂が多く、子供たちが駆け回るには優しい環境かもしれない。そんな中に社頭があるなんて良いんじゃないだろうか。どこに行っても社頭の前は車が行き交い、子供を連れ立って神社探検と思っても目が離せない、ここなら子供も安心して解き放てられる。公園から続く石段、鳥居右に「六所神社」社標が建ち、神明鳥居をくぐった境内左に手水舎、社務所、社殿の伽藍。手水舎、ここも龍はお休みだ。社殿は手前の瓦葺妻入り拝殿と渡殿で本殿に繋がり、南北に長い境内だ。社殿全景。住宅地にあって貴重な杜が残るが、鬱蒼とした薄暗いものではなく、風通しも日差しも入る明るい境内。社殿は近年建て替えられたようで新しく綺麗な外観。拝殿前の狛犬、寄進年度は見ていないがこれも比較的新しい。拝殿額は「六所社」拝殿から本殿方向の眺め、神紋は橘のようだ。脇参道の鳥居とその脇の六所社由緒「所在地 名古屋市北区成願寺町字西浦三六六番地宗教法人設立 昭和二十七年九月二十日本殿並に附属建物 新築工事完工 昭和四十四年一二月二十五日祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月讀命、蛭子命、須佐男命合祀社 津島社、神明社、熊野社、山神社、水明社例大祭 十月十日記事昭和六年矢田川切替工事の為現在地に遷ひ奉る、敷地内坪数476坪昭和二十年五月十四日の大空襲により境内の建物等一切焼失した為、氏子崇敬者度々の努力に依り現在の崇高な社殿が建立された。」六所神社そのものが工事対象にあたり、高く盛られた感がないのは流路を変えてできたこの地に遷座、社殿が新しいのも戦災後に再建されたためだ。それ以前はとなると良く分からない。本殿右の「成願寺町六所社」社標は恐らく遷座前のものだろうか。上外削ぎの千木と5本の鰹木を持つ流造の本殿に妻入りの幣殿が一つになったコンクリート造り。下渡殿から拝殿。拝殿から社頭の成願寺公園の眺め。成願寺町 六所神社創建 / 不明(1969再建)祭神 / 伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月讀命、蛭子命、須佐男命合祀社 / 津島社、神明社、熊野社、山神社、水明社所在地 / 名古屋市北区安井2-14-32関連記事 / 中切天神社中切天神社から徒歩ルート / 東へ15分1㌔
2022.02.21
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近代に再建され、人目を引き付ける伽藍の多かった薬師寺を後にして10分程北の唐招提寺に向かいます。薬師寺西側の通りを真っすぐ進む、やがて道は三叉路となるのでそこを右に進むと左手に唐招提寺南大門に至ります。平城京を支えた日本仏教の6つの宗派(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)、それらを南都六宗と呼ばれます。それら宗派の中心となった寺院を南都七大寺(東大寺・西大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺)と呼びます、この呼称は奈良時代すでにあったそうですが、唐招提寺(律宗)はここに数えられない。薬師寺は歴史もあります、しかし奈良時代からの伽藍は東塔のみでほとんどは中世以降の再建です。それに対し唐招提寺は奈良時代の伽藍を多く留め、薬師寺にはない清楚な印象の寺。上は寛政3年(1791)刊行の大和名所図会の唐招提寺の挿絵。大阪の浮世絵師 竹原春朝斎により江戸時代中期の唐招提寺の伽藍が描かれたもの。伽藍の中核をなす金堂や講堂、左右の鐘楼、鼓楼、右側の東室や礼堂、礼堂右側にある校倉造の経蔵、宝倉など今も現存する。五重塔や西室は残念ながら現存しない。塔のある薬師寺は風景に溶け込む姿が美しく存在感もあるが、三方を森に包まれた唐招提寺は遠景からだと存在感は薄いかもしれない。昭和35年(1960)に再建された南大門、その門に掲げられた扁額「唐招提寺」女性天皇として46・48代と二回即位し、時に女帝とも形容される孝謙天皇(718~770)の揮毫とされる勅額、その筆跡は女帝の印象とは違う女性らしいやさしさが現れているように感じる。重要文化財に指定され、ここに掲げられているのはレプリカ、オリジナルは神宝庫に収蔵されている。南大門から正面に国宝の金堂が一望できる、下は境内から眺める南大門の全景。唐招提寺解説と境内配置。「古都奈良のお寺の中でも、唐招提寺は火災などの被害が比較的少なく、創建当初の建物が多く残る。金堂は奈良時代(780年頃)建立された現存する唯一の本格的な金堂遺構として、寺院建築の研究にも非常に貴重な存在。同様に朝廷から朝集殿を移築した講堂は、現存している平城京建築例。日本人僧侶を教育するために、国内の仏教をさらに広めるため、聖武天皇が唐から招待した中国人僧侶鑑真和上が、唐招提寺を759年に建立。仏教の導入に鑑真は多大な影響を与え、唐招提寺における鑑真の教えは、その過程において重要であった。南大門を通り伽藍に入ると、参拝道が真っ直ぐ金堂に続き、落ち着いた色合いの大きく延びやかな屋根が見えます。均等の取れた美しい軒を支える太い8本の円柱は、アテネのパルテノン神殿に比べられる程。素晴らしい外観とともに、金堂の中には仏教的な宇宙観を表す、廬舎那仏坐像など9体の仏像が安置されている。その中でも1000本の腕を持つ千手観音像は木造のものでは国内最大最古の一つ」1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。廬舎那仏坐像始め9体の仏像は全て国宝に指定されています、本尊は廬舎那仏。参道から眺める金堂と左手の吐水盤。金堂(国宝)解説にあるように奈良時代に建立されたもので、現在の姿は2000年(平成12)~2009年(平成21)にかけて解体修理が行われたもの。寄棟瓦葺きで、大棟左右に国宝の鴟尾が乗る。左の鴟尾は創建当初のもので、右の鴟尾は鎌倉時代のものとされ国宝に指定されている。解体修理の際に国宝の鴟尾は新宝蔵に収蔵され、現在大棟を飾るのはその際に新調されたもの。派手な外観の薬師寺金堂に対し、シックで落ち着いた佇まいのもの。中央に本尊に盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像の並ぶ姿は厳かな雰囲気が漂っている。奈良時代に作られた盧舎那仏、その光背に施された862体(本来は1000体)の化仏は単眼鏡で間近に見ると、これを作った当時の人のエネルギーが伝わってくる。金堂右側の礼堂・東室と左が鼓楼。鼓楼(国宝)鎌倉時代の仁治元年(1240)に作られた入母屋瓦葺の二層構造で、各層に連子窓が付き落ち着いた外観の建物。元は経蔵だったとも云われるようです。現在は鑑真和上が持ち帰った仏舎利を納めた国宝の金亀舎利塔が安置される事から「舎利殿」とも呼ばれるそうです。講堂(国宝)金堂後方の入母屋瓦葺で安定感のある姿の建物、この姿は鎌倉時代に改修を受けたところが大きいといわれます。堂内には本尊の弥勒如来坐像(重文・鎌倉時代)始め、持国天、増長天立像(重文・奈良時代)など多くの仏像を安置する。ここも単眼鏡でじっくり見ているとあっ云う間に時は過ぎていく。左に見えるのは挿絵にも描かれている鐘楼。礼堂(重文・鎌倉時代)入母屋瓦葺の南北に細長い建物で鼓楼に安置された仏舎利を礼拝する礼堂と馬道と呼ばれる通路を挟んで北側が東室が一つになっています。礼堂は鎌倉時代から続く「南無釈迦牟尼仏」を唱える法要が行われ、釈迦如来立像(重文)、日供舎利塔(重文)を安置しているという。嘗ては鐘楼西側にも西室がありましたが現在は残っていない、寛政3年(1791)刊行の大和名所図会の挿絵にその姿は描かれています。江戸時代の嘉永元年(1848)に伽藍西側の戒壇を焼失している事から、西室はこの際に失ったのものかもしれない。解説の中にその部分は語られていない。経蔵(国宝・奈良時代)礼堂右側の南北に寄棟瓦葺の二棟の校倉造りが建つ、右側が経蔵、奥が宝蔵。唐招提寺創建以前の新田部親王(~735)邸の米倉を改造したものとされ、伽藍の中で最古の建造物。校倉造りというと真っ先に正倉院が思い浮びますが、現存するものでは唐招提寺の経蔵が日本最古のものだという。礎石の上に束柱をたて、その上に台輪を組み、校木を組むログハウスのような構造で、ログ(丸太)に対し校木は丸太を等分に割り三角状に加工、底辺を内側にして組み上げているのでログに比べひと手間かかっている。その手間のお陰で内壁は面になり物を保管するには都合がいい。当時そこまでして守りたいものといえば・・・真っ先に食料だろう。食材が海外から潤沢に手に入る現在とは違い、汗を流し耕し育て収穫した食料は何よりも守るものだろう。当たり前の現状は、微妙なバランスのうえには成り立っている、バランスが崩れると結果はすぐに生活に直結する、それだけで収まればいいが・・・宝蔵(国宝・奈良時代)寄棟瓦葺の校倉造で南側の経蔵に比べ若干大きく感じます、唐招提寺創建に合わせて建てられたもの。校木を支える台輪の形状に大切なものを害獣から守りたい智恵が形に表れています。開山堂と芭蕉句碑礼堂と東室の間にある馬道を抜け右に進んだ先に建ち、門に続く石段左脇に芭蕉の句碑が残っています。貞享5年(1688)、鑑真和上坐像を拝した芭蕉が詠んだ句「若葉して御目の雫拭はばや」が刻まれていた。境内にはこうした句碑が立てられ往古から俳人や歌人が唐招提寺を訪れていた。開山堂へは左に上に続く参道を上っていきます。入母屋瓦葺で妻入りの堂の始まりは徳川家歴代の霊殿として元禄時代に建立され、後の明治14年(1881)に鑑真大和上の像を安置するためこの場所に移築されたという。国宝の和上像は開山堂北側に建つ御影堂に移されますが、覚盛上人、聖武天皇、徳川家康の坐像を安置し本願殿として参拝されていた、堂の改修工事の際に鑑真大和上を写した「御身代わり像」が平成25年(2013)に安置されこれにより開山堂として落慶したという。御身代わり像開山堂から一旦右に進み、東室の横に下りて行きます。境内には瓦と土を重ねて造られた土塀が延々と続いています。熱田神宮境内の信長塀の長い版。新宝蔵東室前あたりから左に石畳が続き、その先の新宝蔵に続きます。昭和45年(1970)に新たに建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設。唐招提寺の所蔵する多くの文化財を収蔵しています。ここには金堂に安置されていた木造大日如来坐像や多数の木彫群、南大門の勅額などが収められています。開館日が限定され、訪れた12月21日は残念ながら2022年2月末までの冬季閉館期間で閉館中。新宝蔵から左に進み、突き当りを右に進み鑑真和上御廟へ向かう。唐招提寺境内の北東にあたり、樹々に包まれ静まり返った場所に位置します。突き当りは唐招提寺東側の山門で閉鎖されています。長い土壁の途中にある門から参道が伸び廟に続いています。門をくぐる廟内は一面苔むし、静寂な空間が広がっています。仏教の教えを広めるため、故郷の揚州から命がけともいえる航海を経て遠く離れた異国に立った鑑真はこの地で生涯を終えた。初夏になると廟前に白い可憐な花が咲くそうだ、それは1963年に鑑真の故郷揚州から寄贈された瓊花(ケイカ)、故郷の花に包まれてここに眠っている。次は門から右に続く参道を西に進みます。工事中の御影堂を通り過ぎると開山堂手前に歌碑がある。北原白秋の歌「水楢の柔き嫩葉派はみ眼にして 花よりもなほや白う匂はむ」が彫られていた。開山堂西に建つ社、詳細は分からなかった。社から西側は建物のない広い空間になっていて、以前の食堂はこの辺りにあったのかもしれない。更に西へ進み中興堂先に見える門は唐招提寺本坊。醍醐井戸参道突き当りの右奥に、注連縄の張られた覆屋がある。唐招提寺建立の際に鑑真自ら掘ったとされる醍醐井戸がある。多角形の井戸枠の中には枯れる事無く水が湧いている。ここから参道を左方向に進みます。右側に土壁と門が見えます、奥に建物が見えるが詳細が分からなかった。手前は蓮池とあるがこの時期は枯れ葉が埋め尽くしていた。この辺りも苔が綺麗だ、花ごと落ちるのは椿、花弁が散るのは山茶花という、正直なところ識別は怪しい。この辺りから参道左側がポツンと空いている、この辺りに西室があったと思われます。戒壇僧となるための授戒が行われる場所で。創建時に築かれたとされますが、中世に廃され後に再興されたが嘉永元年(1848)火災により建物は失われた。基壇中央の宝塔は昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模し建てられたもの。これで境内をひと回りしました、ここから左手の金堂方向へ向かい御朱印を手にしたかみさんと合流。目はやや△になっている・・・ような。お待たせです、唐招提寺を後にしよう、その前に南大門左に鎮座する弁天社だけ・・・・挿絵にある五重塔はこの辺り、礎石とか残ってるんじゃ・・・?△△唐招提寺後にしよう。豪華絢爛な薬師寺と閑古素朴な唐招提寺、工事や休館がなければあっという間に陽は傾く。2021/12/21律宗総本山 唐招提寺所在地 / 奈良県奈良市五条町13-46薬師寺本坊から唐招提寺 / 北へ徒歩10分程関連記事 / 法相宗大本山 薬師寺
2022.02.20
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地下鉄名城公園駅付近に行く機会があり、折角来たのだから周辺の五社を歩いて参拝する事にした。グーグル先生の導きによれば以外に駅から近かった、地下鉄2番出口から目的地「天王神社」まで宜しくね。出発してすぐに先生は方位を見失っているようだ、自分の現在地が分からないのか目的地は近いのに自分の現在地と目的地が離れていく、なのに語り掛けるお姉さんの声は堀川に向かえと指示している。「20㍍先左です」・・・本当?右じゃねぇ、もう地図で見るよ、再起動。再起動後覚醒した先生は目的地に向け正しく導き出す。地図上で5分もあれば着くものが倍の時間を費やした、しかし覚醒した彼女のお陰で「天王神社」見付けることが出来た。上が天王神社の社頭です。社頭の前を幾度か行ったり来たり。ポケットの中の彼女は「目的地に着きました」と何度も教えてくれるが鳥居も社号標もなくスルーしていたが、左の城北南集会所の右手の赤い切妻屋根に目が止まり始めてそこが「天王神社」だと悟った。彼女はしっかり導いてくれていた。怪しいおやじがこの前を何度も行き来する姿、傍目には怪しい目で捉えられていたのではないかナ。天王神社は愛知学院大学名城公園キャンパスの一本東の通りで、市営住宅に囲まれた一画に鎮座していました。鳥居も社号標もないのでこの時期の目印は左右に咲く赤い山茶花が目印、右手は公園のようです。南側に建つ市営住宅の住所表示によれば名城3丁目4、道路を隔てた北側り神社鎮座地は名城3丁目3。このあたりはさっぱり来たことがなく、知っている事と云えば高層の住宅が建っている事だけは知ってはいたが以前の状況は分からない。少し前の地図で移り変わりを見ると、上段左が1891年頃の鎮座地、当時は練兵場の東外れで恐らくその頃に神社があったとは思えない。右が1945~50年頃の航空写真、鎮座地の北は住宅が建っているが、このあたりは整備の進む状況に見える。左下は1961~64年頃の航空写真ではここにも多くの住宅が集まっている。この地に人が集まり出したのは1950~60年頃なのかもしれない。因みに市営城北荘住宅が建ち始めたのがこの時期、神社北側の市営住宅一階にある名城保育園が1969年とあった。推測になるけれど恐らくは昭和のこの時期に祀られたのが天王神社かもしれない。社頭南側からの眺め。鳥居や社号標、狛犬など神社の存在が分かるものはない。今こうして写真を見た時、石段左右に建つポールは神社幟のポールだったのかもしれない。南北に長い境内の一番奥に切妻妻入りの覆屋が建つ。境内に由緒書きは見当たらず詳細は分からないが、左脇の賽銭箱の寄贈は昭和中頃のものだった。覆屋の中に納まる銅板葺の流造で、木鼻に彫も施され高欄の擬宝珠や脇障子の付いた立派なものだ。残念ながら社名札はなく、お札も確認できないので天王神社の実感はない。社は傷みもなく綺麗に保たれているようです。覆屋の板塀は一部が外れ傷みが見られ、あまり人の気配を感じない。一帯は集合住宅が集まっている割に人の気配をあまり感じない気がする、計画的な解体建替工事が進められていることもあるのかもしれない。どことなく寂しい佇まいの天王神社。それを払拭するかのように咲く山茶花の色合いが印象に残る。2022/02/12天王神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市北区名城3丁目3-57地下鉄名城公園駅から徒歩ルート / 東へ徒歩5分程 関連記事 / マラソンボランティア説明会帰りの五社巡り
2022.02.19
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名古屋市北区中切町 『中切天神社』前に掲載した中切神明社から東に5分程の住宅街に鎮座する。周辺は北垂れの傾斜地で神社が鎮座する辺りはその高みにあたる。この神社も昭和始めに行われた矢田川の付け替えにより大きく変貌した地域。上は前回も使用した明治中頃と右のほぼ現在の庄内川(上)と矢田川(下)の流路。黄色のマーカーが中切天神社で付け替え前は矢田川右岸に鎮座していた。こうして見ると以前の矢田川堤沿いに歩いてきたのが分かります。天神社西側から北方向の眺め。右が天神社で左の建物は地蔵堂兼社務所のようだ。社殿の建つ高みは北側にある二階建て民家の棟の高さほどもある。堤の名残だろう、そのことは地図からも想像できます。高みの小さな境内には見事な太さの幹を持つ欅?の巨樹が聳え、中切天神社の場所を示している様にも見える。樹齢何年なのか定かではないが、注連縄は巻かれていないがここまで立派な樹となると長い物の予感がする。境内の東側にもイチョウの巨木があり、葉が茂る頃は社殿全体が緑に包まれているのではないか。社頭へは西側の緩い参道を上がっていきます。参道は左に折れ、石段の脇に手水舎がある。鏨跡が残る粗削りな手水鉢。いつごろ寄進されたものかは分からなかった。拝殿全景。南向きで瓦葺妻入りの四方吹き抜け拝殿、額は掛けられていない。右側に天神社社標と二対の常夜灯、天神様の代名詞牛の姿は境内では見受けなかった。拝殿を見上げるとそこにはしっかりと梅の紋がある。参道の中切天神の幟とこの梅紋意外に天神社を肌で感じるものはない。拝殿から本殿の眺め。小ぢんまりとした境内は拝殿と本殿域が占め、広さに余裕は無い。狛犬の先に二つの社が祀られている。この天神社の創建は定かではなく、一説に安食重頼や山田重忠の崇拝されたともいう。特に往古の山田荘地頭の山田重忠(~1221)はいくつもの寺社を建立するほど信心深かったと云われます。だとすれば平安末期から鎌倉初期には神社が存在していた事になります。古くは茄子天神と呼ばれていたともいい、お腹の痛みを抑える御利益があり、お参りの際に茄子をお供えした事からそのように呼ばれたとも聞く。参拝に訪れた際にそうした痕跡は見かけられなかったが、代々この地に住む人の中にはそうした話が語り継がれているのかもしれない。参拝と写真を撮ったりで30分程いたがその間参拝に訪れる方と出逢うことはなかった。本殿域は丸石が積まれ高く盛られた神域を玉垣が囲う。神域の二社は社名札はないが、左の社の透かし彫りに梅の紋が彫られているのでこちらに管原道真が祀られている。右の社の詳細は分からない。本殿域右に一部が欠け落ちた役行者像が安置されていた。こちらも年代まで分からなかった。天神社を東から眺める。嘗ての堤は削られ整地されて宅地に変わり、当時の名残を留めるのが天神社の高みなのかもしれない。長い歴史がありそうですが、鳥居はなく牛もいない。学問の神「菅原道真」を祀る天神社、この時期なら合格祈願に訪れる学生の姿もありそうだ。住宅街に佇む姿は妙に寂しさが漂う。さて、流れを変えた矢田川沿いをもう少し東に向かう事にします。2022/01/05『中切天神社』創建 / 不明祭神 / 管原道真所在地 / 名古屋市北区中切町4中切神明社から徒歩アクセス / 東に5分程関連記事 / 中切町「神明社」
2022.02.15
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法相宗大本山 薬師寺奈良県奈良市西ノ京町に鎮座する法相宗大本山 薬師寺。若い頃、斑鳩の里や薬師寺周辺を徘徊し四季折々の寺社が佇む風景写真を撮っていた時期がある。当時は今のように撮った結果がその場でわからなかった時代、現像の結果次第で再挑戦、精度の悪かった天気予報を信じ雪景色や夕景を期待し下道をひた走る、今思えば随分とアホな事をしていた。あれから何十年ぶりだろう、ましてや薬師寺の伽藍を間近で見るのは初めてかも知れない。名古屋から電車で薬師寺の玄関先西ノ京駅までは約2.5時間程の移動時間、車で訪れる事を思えばとても快適だ。西ノ京駅から薬師寺興楽門までは徒歩2~3分。薬師寺の創建は天武天皇により天武天皇9年(680)に開基、本尊の薬師三尊像は持統天皇により持統天皇11年(697)に開眼され、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)に造営された。後の平城京遷都(710)に伴い遷都後の養老2年(718)にここ西ノ京に移転され約1300年の歴史を持つ。平成10年(1998)、古都奈良の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録され、誰しも一度は耳にしたことはあると思います。興楽門右に法相宗大本山薬師寺の寺号標。「世界遺産古都奈良の文化財薬師寺」の石標と山門額。門前に「国宝東塔 初層特別開扉」の看板。2009年から2020年まで解体大修理の手が入り、塔先端の水煙も新しいものに取り換えられた。解体された部材は13000点にもおよぶと云われ、それらを修理し再び組み上げ、2020年に落慶法要予定でしたが、昨年まで延期されていた。ちなみに東塔は110年振りの大修理だったそうです。今年の1月16日まで綺麗になった塔の姿と初層の内部が公開されていた。かみさんはこうしたものに興味がないと思っていたが今回彼女からのお誘いで訪れた。薬師寺の伽藍は1300年の歴史の中で天災や火災で失い都度再興されましたが、平安京へ遷都以降衰退が進み江戸時代には往時の姿は失われ、薬師寺の復興は長年の悲願でもあった。昭和43年(1968)、法相宗の高田好胤(たかだこういん)館長をはじめとした写経勧進活動により昭和から令和にかけて計画的に再建も進み徐々に往古の姿を取り戻し現在の姿となった。創建当時の姿を残す建造物は東塔が唯一のもので、歴史を感じさせる古びた建物は見当たらない。興楽門をくぐり右側の不動堂。薬師寺「白鳳伽藍」の北西の隅に鎮座し、堂前の大きな不動明王像が安置されている。この前の結界が張られた空間は毎年10月8日、天武天皇を偲ぶ「天武忌」の当日に柴燈大護摩を行う空間。朱に彩られた艶やかな伽藍の中にあって、不動堂と東院堂の落ち着いた姿は目立つ存在かも知れない。食堂文字通りで僧侶の食事の場であり宗教儀礼を行った建物で左右に僧房が連なる。天禄4年(973)に消失し寛弘5年(1005)に再建、その後いつまで存続したか不明。現在の姿は2017年に再建されたもの。ここから奥に見える東僧坊へ。御朱印は東僧坊で頂きますが、中には金堂に安置されている国宝「薬師三尊像」の中央の本尊薬師如来坐像(薬師瑠璃光如来)の台座のレプリカが展示されています。解説は以下「本尊薬師如来坐像は697年に開眼、この台座も同時期のもの。台座には世界各国の文様が集められ、一番上の框にギリシャの葡萄唐草文様、下にペルシャの蓮華文様。腰部各面の中央にインド伝承とされる力神裸像、下框(かまち)に四方四神(東=青龍、西=白虎、南=朱雀、北=玄武)の浮彫が施されている。当時の国際性と東西文化の交流を知る上で貴重。台座は本尊と同様の金銅製で上框、腰部、下框の3つに分け鋳造されている。当初からこの大きさに鋳造されたようですが、腰部の文様の一部と力神を支える塔の一部に不自然な終わり方をしており鋳造後切断されたようだ。台座の中から金銅飾金具・帯状唐草文金具、金銅製懸仏・魚々子地花唐草文銅板の他に飾金具、ガラス、貨幣など発見され、飾金具からは火の影響を受けた痕跡があり、最初から入れられたものか、幾度の火災を受け移されたものか謎は多い」東僧坊北側の鐘楼。吊られている梵鐘は1976年金堂再建時に造られた梵鐘。梵鐘はもうひとつあり、室町時代にできた罅が残る「西ノ京破れ鐘」と呼ばれる梵鐘がある。竜頭を含めると人の背丈を越える高さがある大きな梵鐘は重要文化財に指定され、東塔落慶に合わせ一時的に付け替えられていた。薬師寺縁起に平安時代中期の長保5年(1003)、現在の大和郡山市植槻町にあったとされる建法寺(植槻寺)から薬師寺に移転されたという。上手前から東僧坊、食堂、西僧坊の眺め、後方は金堂。下東僧坊と奥に東塔。広い境内に修学旅行?生の一団が金堂方向に向かっていった。上東塔下金堂ここは廻廊の外側の東院堂に向かう事にする。東塔の東に建つ東院堂。廻廊に囲まれた金堂や塔に人が流れていくが、ここ当院堂は廻廊の外になり、人目を引く朱塗りも施されていないからか意外に足を向ける方は少ないようだ。縁起の内容は「養老年間吉備内親王が元明天皇のため発願建立した。奈良時代は現在地東側の観音池にあり南向きに建てられていた。弘安8年(1285)に再建、後の享保18年(1733)に西向きに替えられた国宝の建造物。奈良時代の諸堂は土間が通例、板床を敷き東院禅堂と呼ばれた事から鎌倉時代には禅の影響を受けていた。東院堂本尊の国宝聖観世音菩薩は白鳳時代(645~710)のものとされる。目に見えないもの、耳に聞こえない音を観し、人々の苦しみ救う仏様として古来より崇敬されている。インドのグプタ王朝(320~550)の影響を受け、姿は端麗で若さの中に気品が漂い「祈りが昇華していく崇高な御姿」で言葉とおりの美しさをもつ。四天王像は正応2年(1289)に京佛師の隆賢と定秀により制作、彩色は永仁4年(1296)に興福寺の絵師観舜と有厳により施された。目に玉眼をはめ、顔の色は中国古来の四方四神の思想に基づき、東=青龍=持国天、南=朱雀=増長天、西=白龍=廣目天、北=玄武=多聞天に色分けされている。」開け放たれた堂内は参道からもよく見通せる、堂内に入れば間近で眺めることが出来る。上東院堂から東塔と西塔の眺め。相輪の上に今回新調された水煙が飾られている。薬師寺1300年の歴史で初めて新調されたという。幾度か火災に見舞われた薬師寺伽藍の中で唯一創建当時の姿を今も残す。近くで見る塔の姿は壮観なものがあるが、少し離れて眺める塔の姿が個人的に一番好きな光景だ。下東院堂右奥に鎮座する龍王社。嘗て金色の「龍神像」を祀っていたが、現在は奈良国立博物館の所蔵。室町時代の秘仏大津皇子坐像がある。龍神信仰に留まらず、大津皇子の霊を鎮める大津龍王宮としても崇められている。創建 / 不明祭神 / 大津皇子例祭 / 龍王社祭(7月26日)上龍王社から見る東塔と西塔。似ているようで高さや彩色の有無など外観に違いがある。下中門享禄元年(1582)の兵火で焼失したが昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興されたもの。両側の二天王像は平成3年(1991)に復元されたもの。上南門から境内に入ると中門左に手水舎と六根清浄と刻まれた手水鉢がある。手水舎から更に左の複数の社が祀られています。上左が平木大明神、右が弁財天社。下重要文化財の若宮社。祭神 / 大津皇子建立 / 不明金堂中門をくぐり白鳳伽藍の中枢に進む、目の前の金堂は龍宮造りと呼ばれるもので、亨禄元年(1528)に消失、慶長5年(1600)仮本堂が建てられ、昭和46年(1971)から5年をかけて復元再建されたもの。二重屋根の各層の下に裳階(もこし)と呼ばれる装飾目的の庇が付き、龍宮城をイメージさせる豪華な外観は龍宮造りと云われる由縁なのかも知れない。東塔(国宝)創建当時からの建造物で解体修理を終え、シックな美しい姿を見せている。一見すると六重の塔?と思いますが、三重塔で金堂同様に三層屋根の下に裳階が入る。一辺が10.51㍍、高さ34.13㍍三重塔としては稀な大きさと高さを誇る。水煙(相輪上端付近の大きな飾)には衣を翻し飛翔する二十四の天人の透かし彫りが施されている。檫管(相輪の芯)には薬師寺創建の縁起が刻文されている。今回の解体修理は近年の調査で心柱脚部の傷みが顕著なため文化庁、奈良県の指導のもと史上初の全面解体修理に至ったようです。解体に伴い東塔の全貌は記録、技術ともに次代に引き継がれていく。この作業中先人達からのタイムカプセルが見つかったという。心柱最丁部から仏舎利(釈迦の遺骨)が見つかり、新たな舎利容器を誂えて元の場所に戻されたという。初層の扉は開け放たれ、基壇から心柱や天井画など内部を間近に見ることが出来た。西塔二つの塔が相似して配置された伽藍は日本最初の様式だと云う。創建当初の塔は享禄元年(1528)に消失、以後西ノ京の風景から西塔の姿は長らく失われていた。昭和56年(1981)東塔に基づいて伝統工法で再建され、西ノ京に二つの塔の姿が蘇った。塔の心礎には平山郁夫画伯の請来された佛舎利が祀られた、内陣に釈迦の生涯の内、後半生の成道・転法輪・涅槃・分舎利を表した塑像群が祀られていたが塔と共に焼失、平成27年(2015)に彫刻家中村晋也氏により現代に蘇った。塔高は36㍍の総檜造りで丹青が施され、東塔にない華やかな姿を見せている。金堂創建当初の金堂も享禄元年(1528)に消失、諸仏は火災に耐え薄黒くなった容姿はかえって輝きを増したという。慶長5年(1600)に本尊の薬師三尊を夜露から凌ぐ仮金堂が建立され、昭和51年(1976)再建されたもの。古代工法に則って再建された白鳳様式の二重二閣で、内陣に佛像、写経を安置する鉄筋コンクリート造り、外陣は樹齢数千年を経た台湾産の桧が用いられた木造建築。瓦などは白鳳時代の出土瓦を再現し鴟尾や風鐸、装飾金具など記録に基づき作られ、天井絵は東塔のそれに倣って復元された。全国から納経された写経は本尊頭上の納経庫に納められ後世に残されている。薬師三尊中央の薬師如来と脇侍の月光菩薩(左)、日光菩薩(右)で薬師三尊という。中央の薬師如来の台座が東僧坊で見たものです。良くぞ焼け残ったものだ、光背などは当時のものだろうか。大講堂学僧が仏教を学ぶ場所で往古の伽藍では金堂よりも大きな規模で大講堂と呼ばれた。亨禄元年(1528)阿弥陀三尊繍仏とともに焼失し、嘉永5年(1852)に再建されたが規模は小さかったようです。現在の建物は平成15年(2003年)に伝統工法で創建当時の規模で復元再建されたもの。裳階付きの屋根を持つ様式は薬師寺独自のもので、幅41㍍、奥行20㍍と伽藍の中では最大の建造物。奈良時代の物とされる本尊の弥勒三尊像(重要文化財)と後堂の仏足石(国宝、奈良時代)は安置し、佛足石は釈尊の足跡を石に刻んだもので、インド鹿野苑より唐長安を経て遣唐使により平城京にもたらされ、万葉仮名による佛足跡歌碑は国宝。平成15年(2003)に中村晋也氏作の釈迦十大弟子が佛足石両側に安置されている。食堂天禄4年(973)に消失、寛弘2年(1005)に再建されたがいつまで存続していたかは分からない。平成29年(2017)に再建され、田淵俊夫氏の阿弥陀三尊浄土図と仏教伝来の道と薬師寺の14場面が納められている。ここから西僧坊へ向かうと東塔の最上部に飾られていた水煙や縁起の刻まれた檫管、塔の部材などが公開されている。創建以来初めて付け替えられた水煙、普段は見上げるしかないが間近に見る機会は二度とない。水煙は銅製透かし彫りの板が十字に四枚組まれ、その一枚〃の各面に衣を翻し飛翔する二十四の天人の透かし彫りが施されている。左水煙に施された天人の透かし彫り。全高は1.8㍍と人の背丈ほどあり、一枚の水煙の重量は100㎏とあり相輪全体でいかほどの重量になるものか、クレーンなどない時代、人の智恵と作ると云う情熱の集大成が相輪なんだろう。右薬師寺創建の縁起が刻まれた檫管。相輪と檫管の解説。11のセクションで構成される相輪、9個の檫管が一つに継がれてあの高さを形作っている。全高は宝珠までが10.3㍍とあった。これで薬師寺白鳳伽藍を見て廻りました、次は興楽門の北側にある玄奘三蔵院伽藍に向かいます。興楽門から右に進むと直ぐ左に写真の山門がある。山門をくぐった広い境内、正面に見えるのが玄奘三蔵院伽藍。右が薬師寺本坊とお写経道場。境内の薬師寺解説。玄奘三蔵院伽藍の特別拝観は平山郁夫氏の大唐西城壁画が公開されていた。上玄奘三蔵院山門全景。玄奘三蔵(602~664)は中国唐代の僧でインド仏教の神髄を求め17年間の旅に出て経典や仏像、佛舎利を携えて帰国したという。般若心経は玄奘三蔵が翻訳し飛鳥時代に日本に伝来した。山門の先に見える玄奘塔の正面に掲げられた「不東」の額は、故・高田好胤和上の染筆で玄奘三蔵の経典を手に入れるまでは東(中国)には帰らない決意を表す言葉だという。法相宗の大本山はここ薬師寺と興福寺、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖(始祖)として仰がれ遺徳顕彰のために平成3年(1991)に建立されたもの。下中央の玄奘塔には大川呈一氏の手による玄奘三蔵訳経像と共に、玄奘三蔵の頂骨が祀られている。伽藍北側の大唐西城壁画殿は平成12年(2000)、平山郁夫画伯の手による7場面13枚、全長49㍍mの大壁画「大唐西城壁画」が納められている。取材、制作含め約20年をかけた大作だ。これで南門以外の白鳳伽藍を間近に見た、更に南の休ヶ岡八幡神社等見所は多いが次に向かうことにする。薬師寺1300年の歴史を誇り、遷都や幾多の禍により伽藍を失い、衰退した伽藍復興に尽力された故・高田好胤和上や多くの方の思いが結実し、一糸纏わぬ白鳳伽藍が西ノ京の風景に姿を見せている。一面に蓮華の咲くころまた訪れてみようか。2021/12/21法相宗大本山 薬師寺所在地 / 奈良県奈良市西ノ京町457公共交通機関 / 近鉄名古屋駅➡大和八木乗り換え➡西ノ京駅降車➡徒歩2~3分 所要時間約2時間半関連記事 / 奈良県「薬師寺 国宝東塔初層特別開扉拝観」へ
2022.02.14
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中之町津島社から徒歩で10分程西の豊場木戸。周囲は住宅が立ち並ぶ、その街並みの中に南と北に二つの杜が見える。南側の杜が今回の目的地「八所神社」でそのすぐ北に寄り添うように萬松山常安寺の杜がある。上は1891年頃の豊場村、現在の豊山町の地図、右はほぼ現在の豊山町。青のマーカーが前回訪れた津島社で黄色のマーカーが「八所神社」当時の地図に既に「八所神社」の鳥居は描かれています。田畑が広がっていた周囲の様相の移り変わりは一目瞭然。「八所神社」社頭住宅地の中でこの杜は一際存在感がある。存在感があるのは鳥居も同様、ご覧のように三叉路の南側に石の神明鳥居が建っている。以前は南に参道が伸び、やがて鳥居の先に道路が整備されこの姿になったのかもしれない。鳥居から南の道路は一直線に県道62号線豊山交番前の交差点まで伸びている。鳥居と社地を分断するかのように公道が横切り、その先に南北に長い境内が広がる。右に八所神社の社号標と常夜灯、その先の神門、蕃塀、社殿と続く。八所神社由緒「祭神 宇麻志麻治命 祭儀 例祭 10月10日 厄除神事 旧暦2月1日 輪くぐり祭 旧暦6月30日夜由緒古書 延喜神名式(約千年前)に尾張春日部郡(豊場郷)に物部神社ありと記されている。この地域は凡そ千五百年前より物部氏一族に依り開拓されたので物部氏の氏神、大和の布留の里(奈良県天理市布留町)にある石上神宮より分神を勧請しここに斎き祀った。社名は物部神社(八所太明神)と呼ばれていたが、明治初年八所神社と定まった。沿革祠宮 松浦家古文書に十八代孫助元徳の時織田信長より社領として田地八町歩の寄進を受ける。十九代惣七郎守範の時、豊臣秀吉同地を没収する。二十代孫右衛門勝信の頃、徳川忠吉が信長の朱印入り神領文を見て改めて二十石を付ける。二十五代勝大夫守安の時、尾張三代藩主徳川綱誠の側室梅津の方、この宮に男児出生を祈願、心願成就の参詣に太刀一振と葵紋章大挑燈一対を奉献とあり、現在当社の社宝となっている」初めて参拝させてもらう者から見るととてもありがたい内容だ。物部神社というと名古屋市東区に鎮座する物部神社がある。往古尾張各地に鎮座した物部神社も合祀され、本社にあたる東区の物部神社だけのようだ。物部神社の名を留めた最後の神社は明治初年に名を消した。上は尾張名所図会の挿絵色付けした部分が現在の八所神社。左の鳥居から参道が続き、神門前で左右に別れ常安寺に続いている。御神木の杉の古木は朽ち果てたと記され、挿絵の神門は現在ないようです。境内の末社や伽藍は当時のまま。境内蕃塀も拝殿も挿絵のまま。境内左に手水舎、手水鉢。龍の姿はなく、甲羅の上に子亀を乗せた大きな亀と鶴が代わりを務めている。「鶴は千年 亀は万年」縁起がいい。石の蕃塀は左右に獅子、中央に虎、指定席には二匹の龍。杉を含む杜が社殿を囲っているが、空を覆うものではなく適度に風が抜け、陽光の届く明るい境内。社殿の左右に境内社が祀られているのも挿絵のまま。拝殿から社殿の眺め。妻入り瓦葺の拝殿。鬼瓦に八所神社、軒丸瓦に八が入る。この拝殿は妻壁から全周にかけて施された彫に見応えある。拝殿前の狛犬。どちらも毬を持つ、年齢は聞き忘れてしまった。拝殿額は「八所神社」妻壁中央に一匹の龍、左右に卯、寅が彫られている。東の平側に子、丑、辰、巳、午・・・十二支が描かれている。ひと回りすると作り手の思いが伝わってくる。拝殿内の梁に前と後ろに八所神社の額が掲げられている。本殿右の境内社。瓦葺の建物は社を祀る覆屋のようだ。覆屋内は左から秋葉社、熊野社、天道社、八幡社、諏訪社の五社相殿。左は御嶽神社。一段高く盛られた本殿域。拝殿の先に祭文殿、そこから透塀が本殿域を囲み、祭文殿と本殿は渡廊で繋がる尾張造りの伽藍。手前に石燈籠が連なりとその先で狛犬が守護する。大きな巻き髪の狛犬は年齢不詳、吽形は何か持っているようですが毬ではないようです。御嶽神社側から見る社殿。本殿は銅板葺の流造、本殿、拝殿ともに彫飾りは意外に少ないように感じます。一部に劣化や破損が見られ、津島社同様に建物が補修の手を求めているようだ。本殿左の眺め。複数の境内社と奥に石標が建っている。板宮造りの境内社。手前から相殿の富士社(木花開哉姫命)・白山社(菊理姫命)、多度社(一目連命)、稲荷社(倉稲魂命)、相殿の御田社(御食津神)・愛宕社(火具都知神)、相殿の須佐之男社(須佐之男命)・八幡社(誉田別命)、相殿の源大夫社(乎止与命)・神明社(天照皇大神)。挿絵の配置と同じですが、境内に分散した社を綺麗に纏められたようです。奥の石標。手前の二つはよく分からないが奥の石標には「天照皇大神宮」と彫られていた、伊勢神宮のことだ。祭文殿を西側からの眺める。物部氏と所縁のある八所神社、僅かな賽銭では追いつかない程老朽化がそこかしこに見られる。境内で見かけた町指定文化財の解説。「作風は室町時代の特徴を示す。狛犬の名称は、その異形の姿が日本では異国の犬、すなわち高麗(こま)の犬と考えられたことに由来する。木造。阿吽の一対。高さ約40㌢。八所神社の社宝。豊山町教育委員会」元は金色に彩色されていたように見えます。どちらも縦に割れ目が入り、にやけ顔の阿形に対し、やや俯いて下を見つめる吽形の姿が妙に物寂しく見える。かみさんの買い物も終わる頃(とうに終わっていた)、角が出てくる前にさっさと戻る事にしよう。2022/01/20豊山町豊場木戸 『八所神社』創建 / 不明祭神 / 宇麻志麻治命境内社 / 秋葉社、熊野社、天道社、八幡社、諏訪社、御嶽神社、富士社、白山社、多度社、稲荷社、御田社、愛宕社、須佐之男社、八幡社、源大夫社、神明社、天照皇大神祭礼 / 例祭10月10日、厄除神事旧暦2月1日、輪くぐり祭旧暦6月30日夜所在地 / 西春日井郡豊山町豊場木戸71-1徒歩ルート / 豊場津島社から西へ10分関連記事 / 豊場中之町『津島社』
2022.02.11
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「但馬一宮 粟鹿神社」出石そばや町角に佇む小さな神社など見所の多い出石町を後に、今回の岡山、鳥取、兵庫の一ノ宮巡りも「但馬國一宮粟鹿神社」の参拝で終わりを迎えます。出石町から粟鹿川左岸に鎮座する「但馬一宮粟鹿神社」までの移動時間はほぼ1時間程。粟鹿山山麗の鎮座地は、周囲に田畑の広がる長閑な山間地。日々時間に追われる生活からかけ離れ、ゆっくりと時間は流れる、携帯なんて切っておけばいい。粟鹿川に架かる趣のある橋を渡ると鳥居が見えてきます。社頭右に広大な無料駐車場があり、右奥に進むと御神木が聳えています。社叢の樹々は伸びやかに上に向かって聳え、濃い緑が社地全体を包み込み、社殿の姿を垣間見ることも出来ない。社頭。右に自然石に粟鹿神社と彫り込んだ社標が立つ。榊が立てられた砂盛の先は石の明神鳥居、参道の先に勅使門と髄神門が見えている。社頭前のマンホール。蓋には鹿と菊と粟?が描かれている。調べて見ると町花が菊だという、上の波の様なデザインは県旗、三角形は町章を表しているようだ、右側のデザインがよく分からなかった、町の木はモクセイです。人によってこのデザインをモクセイとする方もある。自分の目で見る限りどう見てもそれには見えない、粟と鹿で粟鹿郷か粟鹿神社を表しているようにしか見えないのだが。鳥居扁額は「粟鹿神社」石の鳥居は寄進年を見ていない、建てられたのは比較的新しいように見える。上鳥居をくぐった右に礎石が並べられている、鳥居が綺麗なところを見ると過去の鳥居の礎石なのかもしれない。下参道はすぐに広がりを見せ、右手に勅使門、左に随神門が見えてくる。写真には入っていないが左に社務所がある。勅使門その名の通り勅使が神社に参向の際出入りする門。「朝来市指定文化財 粟鹿神社 勅使門勅使が神社参向の時出入りする門、粟鹿神社では4回の参向があった記録が残る。創建年は不詳。桁行3.95㍍、梁間3.3㍍、妻造りの四脚門で建材の大部分は欅。屋根は現在銅板葺だが、以前は檜皮葺。柱は上下に粽(上下の先端をすぼめたもの)を施し、基盤の上に建てられている。柱上の組物は中揃えの三斗組、海老虹梁は唐様式の手法を示す。本柱間の両開きの唐戸は透かし彫りの欄間が付き、羽目板に鳳凰が刻まれている。頭貫に簡素な若草模様が施され、全体的には唐様だが、妻梁を支える本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。度々の災禍も免れたと伝わる数少ない遺構の一つ」シックな佇まいの門は、特に扉を見ていると建立以来の長い年月の経過を感じさせてくれる。今だに欄間など彩色の跡が残り当時は鮮やかな色合いの門だったようだ。随神門勅使門から随神門まで白壁が続き、壁は更に先に伸びている。切妻瓦葺で正面左右に朝来市指定文化財の随神像と裏側に同指定文化財の木造狛犬が安置されている。随神門正面門左に解説が掲げられていて随神像の解説が充実している。「木造著色倚像(一対二体)は随神門に安置される木造著色倚像(阿形)は随神門南東部に安置、総高117.6㌢、像高(座高)82.2㌢の一木造(内刳りなし)、彩色、彫眼。左右に緌を付けた冠をかぶり、口は少し開け顔をやや左に向ける。朱色の袍を着て、表袴をはき5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左に太刀を持つ。木造著色倚像(吽形)は随神門北東部に安置、総高122.1㌢、像高(座高)87.3㌢の一木造(内刳りあり)、彩色、彫眼。左右に緌を付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける。黒色の袍を着て、表袴をはき左腰に太刀を佩く、5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左手に矢を持つ。随神像の制作年代は両像ともに銘文は記されていない。随神像内に収められていた棟札から江戸時代前期、宝暦5年(1755)に修理された記録が残る。さらに棟札の裏に天和3年(1683)に再興の記録が残る。台座は候補で色彩は殆ど剥落、像内に修理時の補材が見られるが像立当初の姿を留めている」残念ながら随神門の解説はない。上木造著色随身倚像(吽形)右手に太刀、左手に矢下木造著色随身倚像(阿形)右手に弓、左手は太刀表情が読み取れないほど退色と剥落は進み修復が待ち望まれる。境内から見た随神門。「粟鹿神社木造著色狛犬像(一対二体)は随神門に安置される狛犬(阿形)は正式には獅子で像高89.4㌢、像長88.3㌢の木造、彩色、彫眼。右足を少し前にして座り、やや左を向き開口する。たてがみは巻髪。狛犬(吽形)は像高97.6㌢、像長85.9㌢の木造、彩色、彫眼。左足を少し前にして座り、口を閉じやや右を向く。頭上に1本の角を出し、たてがみは直毛で房状に表している。狛犬の制作年代は両像とも銘文はない。迫力のある表情や力強さのある作風は鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは制作年代が新しい事を示す。江戸時代前期の制作と推定される。台座は候補で、彩色はほぼ剥落、足先に矢や傷みが見られるものの、力強く迫力がある姿を良く伝えているのは貴重」右狛獅子(吽形)角は欠落したのか原形を失っているように見える。左狛獅子(阿形)どちらも退色は進み、もとの彩色すら想像できない。表面の緑色は周囲の苔かカビをもらったのかもしれない、門含めた修復が望まれる。もっと多くの参拝客が訪れてもいい神社なのに、参拝者が皆無なのは寂しい限り。手水舎手水鉢には絶える事無く清水が注がれていた。右は井戸の名残だろうか。天満宮手水舎の向かい建つ切妻瓦葺の覆殿。鈴は上げられたままだった。「こんな時期もあったね」と語れる日はいつ訪れるのだろう。上天満宮から見る社殿。手前に土俵と社殿左右に境内社、本殿後方に大きな盛り上がりがある。下拝殿右の覆屋には猿田彦神社が祀られている。社殿全景。苔むした狛犬が守護する。粟鹿神社は緑豊かな社叢だけではなく、境内全体に苔が多く自生し緑に溢れている。緑に包まれた静寂な空間に漂う空気は、森林を歩いて感じるものと似て、とても澄んだもののように感じる。狛犬台座に元号が見られ、「和」は読み取れるが上の一文字は分からない。昭和と仮定し、僅か100年程でこの貫禄が備わるのかぁ。拝殿入母屋銅板葺で大きな向拝を持つ。勅使門などの解説にある様に、伽藍は現在に至るまで幾度も災禍にあい再興されている。こうして見る社殿はいつ頃修復されたものか、当社HPや兵庫県神社庁の当社解説など目を通すが定かにはならなかった。wikiによれば本殿は1880年(明治13)に造営されているようだ。神社庁の解説と社頭由緒よれば以下の内容。「和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定し大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である」一体始まりはどこまで遡るのだろう。そもそもの始まりは粟鹿の名に由来する。その昔、粟鹿山の洞穴に一頭の鹿が住んでいたという、ある時粟三束を咥えた鹿が粟鹿郷に現われ、村人に農耕の技術を教えたという、その鹿が祀られたのが当社の始まりと云う。この地の農耕の起源まで遡るようだ。神社に近い粟鹿川の右岸に粟鹿遺跡があります。そこからは縄文時代や弥生時代の出土品が見つかっているそうだ。狩猟生活から定住し農耕に移り変わっていくのが弥生時代、鹿が教えた農耕が始まりとすると・・・弥生時代まで行く事になる。いつまでもここに留まっていると進まない、先に進みます。上1880年(明治13)に建て替えられた流造の本殿。後方の大きな盛り上がりは古墳、丹波一円を征定した日子坐王を埋葬したとも云われるようです。過去に発掘調査はされていないようで、静かに眠らせてあげたい。下本殿から拝殿の眺め。拝殿左から見る社殿と古墳。恰も古墳を御神体として社殿が建てられているように見える。拝殿から左の境内。杉の巨木の先に複数の境内社と山に続く参道があり入口に赤い鳥居がある。杉の巨木の前に神池とその先の境内社は「厳島神社」夫婦杉二本の杉の巨樹は一本の注連縄で結びつき、寄り添うように聳えるその姿からその名が来ているのだろう。不思議な樹で上を見上げると根元は其々一本でありながら途中から複数に幹が別れている。根の周りは一面苔むし鮮やかな緑に覆われている。拝殿左の境内には二社が祀られている。上手前の社は大巳貴神を祀る床浦神社。下奥まった場所に鎮座する社は草野姫命を祀る茗荷神社。稲荷神社茗荷神社の左に朱の鳥居、参道は山を登るように奥に続いています。帰りの時間はとっくに過ぎている、登っていいもんだろうか。「ササッと参拝してくるから」と先の見えない稲荷神社へ登り始める。見えないのは不安だが、登り始めると直ぐに視界が開けた、山の斜面にできた僅かな平坦地に稲荷神社が祀られていた。下稲荷神社参道から下を眺めると茗荷神社がこの様に見える高低差。上社務所随神門の正面にあり、本来は有人なのだろうが当日は無人。御朱印は社務所後方の道路際に建つ宮司宅で頂くことになります。下社務所から境内は奥に伸びている、先に進んでみると、写真の脇参道の鳥居に出た。手前の通りは宮司宅の前に続く通り。既に御朱印を手にしたかみさんの姿が見える、さっさと車に戻って帰途に着くことにしよう。何事もなく無事に家に戻って旅は終わり、まだまだ先は長い。但馬一宮 粟鹿神社創建 / 不明主祭神 / 天美佐利命、日子坐王命、日子穂穂手見尊配祀神 / 阿波奈岐尊、伊弉奈岐尊、天照大御神、籠神、鵜草葺不合尊、月讀尊、素盞嗚尊、豊玉姫尊境内社 / 床浦神社(大己貴神)、稲荷神社(保食神)、厳島神社(市杵島姫命)、茗荷神社(草野姫命)、厳島神社(市杵島姫命)、猿田彦神社(猿田彦神) 所在地 / 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152出石町から車アクセス / 県道10号線➡県道104号線➡国道9号線➡国道427号線➡ 県道275号線で約1時間 関連記事 / 諸杉神社 兵庫県豊岡市出石町 #3 、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3
2022.02.10
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名古屋市北区中切町2-21前回掲載した金城の「六所社」そこから中切町の神明社まで北へ10分程進みます。中切神明社は矢田川「右岸」の堤の高台に鎮座する神社…だった。この辺りまで来ると北を流れる矢田川、庄内川の流路抜きに始まらなくなる。という事でひと昔前の地図。左が明治中頃、右がほぼ現在の庄内川(上)と矢田川(下)の流路。中央の黄色のマーカーが中切の神明社で明治の頃は矢田川右岸に鎮座していた事が分かります。一帯は現在の北区福徳町、中切町、成願寺間が庄内川と矢田川に挟まれる地形で古くは川中三郷と云われていた。庄内川と矢田川が合流する一帯は、川底の高さもあって古くから水と鬩ぎあってきた地域。川は時としてそこに住む者に試練を与えるが、見返りとして土壌を豊かにし水は田畑を潤す。そうした立地に生活する上から輪中や石を高く積み上げ家を建てる水屋などが生まれた。その流れを制御する目的から、1930年(昭和5)から1932年(昭和7)にかけて流路を整える付け替え工事が行われた。川に挟まれた集落だった地域は川の外になり、神明社が鎮座地する下中切のある川中村などは左の地図を見れば一目瞭然。過去の立地を伝える町名、川の外になった村は現在も川中町として名が残っている。因みに下中切の由来は水系上流に中切の地名があり、その下にあたるこの地には下が付いたようです。住宅が広がる今の中切町の光景から当時は想像できませんが、昔の流路は庄内用水沿いにあたり、川の中の面影は中切の神明社で見られます。中切神明社北側からの眺め。この盛り上がりはどことなく古墳をイメージしますが、つい最近までこの高みの南側を矢田川が流れていた。社頭はここから南側に進みます。社地西側の緩やかな上り坂を南に進むと、明神鳥居と境内に続く西参道が現れる。ここからでも高台に鎮座する社殿の姿が見られる。社頭は南側になります。中切町の神明社社頭。新年を迎えた社頭には神明社の神社幟がはためいている。参道の先に石の明神鳥居、その先に石の蕃塀が建っている。鳥居から見る境内。松の内(7日)前なので鳥居の前には門松も飾られていた。ここで鳥居の形に視線が行く、上では何気に明神鳥居と書いてはいるが、考えてみればここは神明社なので神明鳥居が定型だろうと思う、神明社=神明鳥居の凝り固まった考えは捨てるべきなのかもしれない。寄進して頂ける方の思いが尊重されるもので、セオリーと思いは無縁のものと思うべきかもしれない。蕃塀から境内の眺め。境内は中央に社殿、左に手水舎、社務所、その先は西の鳥居へ繋がる伽藍。社殿は三方を杜りに囲まれ、特に蕃塀後方の巨樹は高く伸び、枝も四方に広がる立派な樹だ。控え柱のある蕃塀は上に龍、下の両側に獅子、中央には牡丹?の花が彫られている。手水舎と西参道。龍はお休みで長い首にしめ飾りが飾られていた。じゃんじゃん清水を注げるその日を首を長くして待っている、そんな姿だ。手水舎左の石碑は忠魂碑。石段先の拝殿。社殿はコンクリート造りで比較的新しいように見える。境内はとても綺麗に掃き清められていた。石段の先に西陽を受け赤みを増した狛犬が待ち構えている。昭和34年に寄進された新しいものですが、均整の取れた姿をしている。上拝殿に掲げられた額「神明社」下拝殿から本殿方向、神社幕の神紋は五七の桐、正面に鏡も見て取れる。神明社の由緒については定かではないようです。平安末期、土地調査の為に作られた1143年の検注帳が領主の醍醐寺に残っているという。往古はこの地から春日井にかけて安食荘の荘域だったとされ、安食荘の荘司だった安食重頼からも崇敬されていたという話もある。安食重頼はwikiによれば源氏の血を引く1112年(天永3)~1176年(安元2)の武将。創建について地史を見開いても明確な記述など見当たらず、始まりはどこまで遡っていくのか分からない。この地の産土神として古くから今日まで受継がれてきた古社である事に変わりはない。社殿西側からの眺め。神明社とあれば祭神は天照大神。鳥居の形じゃないけれど、凝り固まった視線で神明造りの本殿の千木や鰹木を見る。鰹木は6本の偶数、千木は横にスパッと切られた内削ぎ、女神という事になる。堤防の上に鎮座していたいう名残は後方の街並みと社殿の高さを比較すると感じ取れる。本殿前を守護する狛犬(昭和31年)上本殿左に二社祀られています。西鳥居の幟に秋葉社とある事から、どちらか一方は秋葉社なのかも知れない。境内で由緒書きを見逃したようで、社名札が欲しいところです。下全ての参拝を終え拝殿から南方向を眺める。眼下に続く街並みは庄内川や矢田川の堤から眺めるものに通じるものがある。分からない事ばかりの神明社ですが、狛犬が見つめる先につい最近まで川は流れていた。中切町 神明社創建 / 不明祭神 / 天照大神所在地 / 名古屋市北区中切町2-21徒歩ルート / 六所社から北へ10分程、名城線「黒川」駅から六所社経由30分程関連記事 / 「六所社 」名古屋市北区金城町
2022.02.09
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津島市神明町「津島神社」全国天王総本社として、西の八坂、東の津島として知られる。門前町を西に進むと、朱の東大鳥居が現れる。鳥居の先に朱で彩られた二層の楼門。往古は津島牛頭天王社と称し、今も「お天王さま」として崇敬される神社。社伝によれば540年(欽明天皇元年)鎮座とされ、810年(弘仁元年)に正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇(980~1011)の正歴年中、天王社の号を授かり天王社の本社として全国に約3000社の分社があります。歴史があるだけに当然ながら尾張名所図会にもその姿は残されている。広大な境内に塔頭寺を含め規模の大きな伽藍が描かれています。上は写真の東鳥居を下にして門前町と右脇に宝寿院、上に向け伽藍と参道には多くの参拝者の姿が描かれています。伽藍は挿絵の左に建つ南鳥居から更に左方向に続いていきます。昔も今も津島神社に参拝する参拝客の姿は途絶える事はない。当時と今で大きく違うのは、歩きから車に変った事、東大鳥居周辺は参拝者駐車場となり多くの車が駐車し賑わっている。上は先の挿絵の南門から左の続き。南門前の広い境内に南大鳥居が建ち、現在は鳥居から南門にかけて駐車場となっています。参道を更に南に進めば天王祭で知られる津島湊(天王川公園)も近い。600年以上受け継がれ、昨年は7月24~25日開催予定でしたが中止を余儀なくされたようです。祭りは無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産にも登録され、まきわら船の屋台の上に365個(1年の日数)の提灯、中央の真柱に12個(1年の月数)の提灯をかかげあかりをともし天王川を漕ぎ渡る夏の風物詩。古くは信長もこの天王祭をよく見物した云う。現在は流れは堰き止められ池となったが、挿絵には滔々と流れていた頃の天王川を舟で訪れる姿もある。東大鳥居から太鼓橋を経て国の重要文化財に指定される楼門方向の眺め。入母屋檜皮葺の二層の門で1591年(天正19)秀吉により寄進されたもの。1941年(昭和16)に修復の手が入っている。楼門左の末社。右愛宕社 祭神 迦具土神(防火・火の守護)1760年(宝暦10)建立の銅板葺流造の社で、元は楼門外北側の橋守社と相似して鎮座していたが神厩移転の際現在地に遷座。左橋守社 祭神 猿田彦命(交通安全・導きの神)銅板葺流造の社で、1760年(宝暦10)建立、元は天王川に架かっていた天王橋の守神として橋の袂に祀られていたとされ、橋姫社と称していたという。楼門右に手水舎、手水鉢。(写真は2018年6月撮影)津島神社由緒と境内案内図祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)由緒「津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。大神は国土経営・産業開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起こる災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。社伝によれば当社は欽明天皇元年(西暦540年)のご鎮座で弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正歴年中、天王社の号を賜ったと伝えられ、いわゆる諸国の天王社の本社として全国に約3,000社の御分霊社があります。御鎮座以来、歴代の武門貴賊から篤く尊崇されましたが、殊に戦国時代津島の隣り勝幡城出身の織田氏は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉公を始め豊臣一門は織田氏に続いて社領を寄進し造営を授けるなど尊信し、現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(西暦1591年)秀吉公が寄進され、また愛知県文化財指定の南門は慶長3年(西暦1598年)秀吉公の病気平癒を祈願して秀頼公より寄進になったものであります。又現在の御本殿は慶長10年(西暦1605年)清洲城主松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方の寄進になった建物で重要文化財に指定されております。天保4年尾張藩主徳川義直公は社領として津島向島の地で高1,293石余を寄進し後に将軍家綱公の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。幕府光格天皇以降、朝廷内々のお沙汰を以ってしばしば歴代の主上親王様方のご祈祷を仰付けられ又有栖川宮家のご祈祷所をも仰付けられました。明治6年県社に大正15年国幣小社列せられましたが、終戦後この制度は廃止されました。例祭 6月15日、尾張津島天王祭宵祭(提灯祭)第4土曜日 夜朝祭(車楽船祭) 7月第4日曜日 昼」境内には本殿含め37の摂末社が祀られ、ここに掲載した末社はその一部分にしかすぎません。(今回、写真を整理していて津島神社が未整理で投稿すらしていないことに気付き、2018年の画像を基に投稿しています)上は尾張名所図会の当社記述。津島神社を氏神とする信長から厚遇され、神社神紋紋木瓜紋と織田氏の家紋も同じである事など信長と神社の関りの深さが窺われる。秀吉が1591年(天正19)に寄進した楼門、丸柱や三手先の斗供、垂木など赤く塗られた二層の門は、軒の長さもあり、艶やかでどっしりとした安定感を感じさせる。国の重要文化財に指定されている。楼門から境内の眺め。上は授与所から拝殿方向。下は拝殿から南門方向の眺め。拝殿から本殿方向の眺め。南門、蕃塀、妻入拝殿と平入の祭文殿、それに廻廊が左右に繋がり、渡殿から流れ造りの本殿に続く尾張造。檜皮葺の切妻妻入拝殿は1649年(慶安2)建造とされ県の指定文化財。この先にある祭文殿や渡殿は1823年(文政6)の建造で廻廊は1825年(文政8)の建造で何れも県の指定文化財。本殿は1605年(慶長10)の棟札が残り国の重要文化財に指定されている。上楼門左側の摂末社群、突き当りから南門方向にも複数祀られている。境内にある摂末社の内、ここから南に祀られた摂末社を参拝して行く。下柏樹社 1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災。上瀧之社(左)、祭神は配水の神、弥豆麻岐神を祀る。右は和御魂社、1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命和御魂。1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災下突き当りに鎮座する二社左大蔵社(左) 穀物の守護神大年神を祀る。 右が熱田社、災難除けの神、倭建命を祀る。更に右へと社が続く。上熱田社から南門方向の摂末社、ここからは社名むと祭神のみ記載。左から米之社(宇迦之御御魂神)、児之社(若年神)、大社(大山咋命)、外宮(豊宇気比売命)、船付社(庭高津日神)と南門に向けずらりと鎮座する。下南門から見た摂末社。上摂末社を過ぎるとシックな蕃塀が建つ、檜皮葺で控え柱の付くもので中ほどは透垣になっている。江戸時代後期の建造で県の指定文化財。正面の鳥居は弥五郎殿社。下南門。1598年(慶長3)建造の四脚門で県の指定文化財。秀吉が病に伏した時、秀頼の発願で清洲城主福島正則が建立したとされる。南門から入ると左側に三社祀られています。左から多度社(羽山戸神)、秋津比咩社(速秋津比売命)、内宮(天照大神)。更に左手に朱の鳥居を構える社が摂社の弥五郎殿社。本殿は流造で拝殿・本殿共に1673年(寛文13)の建造でどちらも県の指定文化財。祭神は大穴牟遅命、武内宿禰命。郷土の守護社家堀田一族の堀田弥五郎正奏が造替、津島神社社宝で国の重要文化財の大原真守作の佩刀を寄進するなどから弥五郎殿社と呼称されるそうだ。上拝殿右の社は戸隠社(手力雄命)下弥五郎殿社拝殿から本殿の眺め。上弥五郎殿社から津島神社拝殿方向の眺め。気付かなかったが左の西の廻廊と東の廻廊にまだ多くの摂末社が祀られていた。次回はこの摂末社は忘れずに参拝しよう。下蕃塀から境内方向の眺め。右は旧授与所。ここから南門を出て南大鳥居方向に。神橋から南門境内の眺め。神橋の左に南門参道の手水舎がありその左に石標が立つ。下石標は照魂社とあり、正面の鳥居から先に拝殿と本殿が祀られている。津島照魂社の謂れ「昭和26年10月9日、旧津島町出身の英霊六五八柱を奉斎して遷座され、祖霊社としてお祀りしたのが始まり。昭和29年10月10日現在地に移築し社頭を整備した。昭和51年5月、終戦30周年記念として本殿の修復及び境内整備を行う。昭和54年8月、遺書掲示板を設置し、同年12月には狛犬一対が奉納された。主な大祭(祭典)、御魂祭/7月15日(夜)、10月10日(昼)、月次祭/毎月10日(午前)現在祭神数一一七三柱」郷土のために英霊となられた方々へ、平穏な日々が送れることに感謝するしかない。上照魂社の左に鎮座する菅原社。下参道左に手水鉢と与謝野晶子の歌碑が彫られた碑が建つ。「二もとの銀杏を於きて自らは紅き津しまの神の楼門」上参道入口にある津島市指定先祖の遺産「三つ石」長さ2㍍、1.4㍍、3㍍、直径1㍍ほどの石がトライアングル上に配置されている。この石については何ら伝承がないという。尾張名所図会の神社境内図の現在地と同じ位置に三つ石は描かれている。(下)津島神社は540年(欽明天王元年)に居森の地に鎮座と伝承されており、古代祭禮の場ではないかとも云われる。この三つ石はその一角に置かれていて津島神社の鎮座と関わりがあるのかもしれない。ミステリアスな石だ。写真下鳥居の先、中央に菅原社、左にも小さな社と右側の絵馬掛けの先にも社が祀られています。正面の菅原社1644~1647年の政保年間、津島神主氷室氏の邸内社として京都北野社(北野天満宮)から勧請されたもので1901年(明治34)にこの地に遷座したもの。祭神は菅原道真、例祭は3月25日。左の社は不明。菅原社の右に小さな鳥居を構えて鎮座する社。こちらも少し調べて見るが社名など詳細は分からなかった。ここから南大鳥居方向に進めば疹社と摂社の居森社が鎮座していますが、宝寿院で御朱印の話に盛り上がっているかみさんの元に戻る事にした。2018/6/15津島神社創建 / 540年(欽明天皇元年)祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)摂末社 / 南大鳥居参道沿い、境内廻廊の南、東に本殿含め37社所在地 / 愛知県津島市神明町1公共交通機関アクセス / 名鉄津島線「津島」駅から西に徒歩15分程 関連記事 / 津島市 Vol 4『宝寿院』 余談今回、豊場中之町『津島社』掲載の時に関連記事として津島神社へ飛ばしたかった。しかしさっぱり見当たらず纏めていない事に気付き急遽掲載する事にしました。少し出歩きやすくなったら、見逃した摂末社や新しい御朱印を頂きに行こうと思っています。この際にコロナ直前の京都、奈良などの神社仏閣の写真が多数出てきた。参拝客の映り込みが多く見送っていたのだろう。メジャーな神社仏閣を訪れるにはある意味今がいいのかもしれない…が。
2022.02.08
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西春日井郡豊山町豊場中之町「津島社」2022/1/5実家に寄る前に空港に訪れ、かみさんの買い物中に一人で歩いて参拝してきました。県営名古屋空港から徒歩で西に10分程の位置に鎮座する神社。この辺りは以前から行きたかった場所です。過去に車で訪れた際は、一方通行の狭い道が迷路のように入り組み結局辿り着けなかった。細い路地には幾つか地蔵堂も見かけたが車を停める場所は全くない。歩いて来ればなんら迷う事はない。鳥居右手に曹洞宗医王山長寿寺、左手に新田町公民館と北側の公園が一つの区画に収まっています。神社の社地は南北に長く、境内奥で公園と空間を共にする。社頭から境内の眺め。傾きだした陽射しに白く輝く神明鳥居、社標は目にしなかった。鳥居の右に解説が立てられている。地元豊山町の方々によるもので内容は以下。「津島社 祭神 須佐之男命 由緒 津島神社の分神を祀り天王社と称えた。お天王さまと呼ばれ親しまれている」創建などは地元の方でも分からないようだ。細長い境内を進むと参道左に手水鉢、左は新田児童遊園。かみさまが見護る傍らで子供が戯れる空間だ。切妻瓦葺の妻入り拝殿で四方吹き抜け。三方は杉を含む杜で囲まれているが、陽射しが差し込む明るい境内です。この時期、杉のこの色は見たくない方も多いだろう。拝殿から本殿域。前回の建て替えがいつ頃なのか分かりませんが、妻壁から漏れる陽光が補修を促していいるようだ。本殿域全景。左右に境内社が祀られ、神域は丸い石を高く積み上げ、周囲を透塀で囲まれています。本殿右の板宮造り境内社。社名が記されていたようですが脱色し読み取れません。本殿。遠目には気にならなかったが、近付くと傷みが目に付く。塀は補強が入れられ、腰壁も一部が落ち始め、ヒビも見られる。本殿は鋼板葺の流造で紋は見当たらなかった。透塀の棟瓦に「水」と描かれている、そうさせる訳は参拝に訪れると自ずと分かってくる。境内左の相殿。ここには右から蔵王大権現、洲原神社、御嶽神社が祀られていました。その中の洲原神社は1925年(大正14)に周辺に祀られていた州原社を合祀したと云われるようだ。こちらも角の取れた丸い石を積み上げて台座が作られている。相殿後方に「御嶽神社 誕生講中 昭和三十二年健之」と刻まれている。御嶽講大先達の覚明と晋覚、この辺りでは牛山町出身の覚明系の誕生講が多くみられ、神社の境内で御嶽神社は良く見られます。この碑は1957年と比較的最近建てられたもの。相殿から見る本殿域。創建は冒頭の津島神社の説明でも定かではない。尾張史などから調べて見るも、やはり創建につながる記述は見つけられなかった。上は明治中頃の地図とほぼ現在の地図。大山川左岸に水田が一面に広がり、南に伊勢山、大塚の集落が点在していた。当時の豊場村集落の南に鳥居は記されている。となると新田開発時の集落にまで遡りそうな。上は江戸時代後期の豊場村周辺。尾張史は1844年(天保15)に藩命によって編纂された地誌、当時既に集落の規模は大きく、これだけ集まっていれば当時から火伏の神として祀られていても不思議ではない。結局創建は分からないが、この神社は豊場の発展をずっとここで見て来たようだ。新田児童遊園から社殿全景の眺め。大きな空の下、黄色い花粉をいっぱい付けた杉と公園、そして神社がある。境内から鳥居方向の眺め。社標や狛犬を見かけなかったが、社頭から真っすぐ伸びる路の先に何かあったのか。豊場中之町『津島社』創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 不明社、蔵王大権現、洲原神社、御嶽神社所在地 / 西春日井郡豊山町豊場中之町176県営名古屋空港から徒歩ルート / 西に10分程 関連記事 / 津島神社
2022.02.04
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天満宮から谷山川の下流に向け2分程歩くと、正面に出石町駐車場が現れ、路は左に向きを変えます。正面に谷山川に架かる橋があり、橋の対岸に鳥居が見えます、橋の手前右側には「諸杉神社」の社号標が建っています。社号標も鳥居も苔むし、古くから続く神社のようです。鳥居の先に社殿らしき姿も見え、雨は少し強くなってきましたが、あそこまでなら参拝する時間はあるだろうと橋を渡り向かう事に。石の明神鳥居の先は左に赤い社務所?、右に手水舎、正面が社殿か?参道は中ほどで右にも伸び、手水舎の後方に控え柱らしき姿も見える。鳥居をくぐった左の建物はやはり社務所、「諸杉神社社務所」とあるが無人のようだ。橋から見えていた建物は本殿ではなさそうだ、建物は社名札が見当たらず詳細は不明ですがどちらも注連縄が吊るされ、右側の建物は鈴緒が吊るされGマップにある川下神社かもしれない。境内右手方向は、内町通りからだと樹々の陰になり見通せなかったが、橋を渡り終えると手水舎の横に建つ両部鳥居と諸杉神社の社殿が広がっていた。周囲は杜に包まれ、境内を苔や下草の緑が一面覆い、静かで印象に残る光景が広がっていた。ニノ鳥居となる木造の両部鳥居の右に手水舎、その先が拝殿。雨の中参拝し見て廻るには多少時間が必要、これ以上雨脚が強くならなければいいが。鳥居の額には「諸杉大明神」とある。カメラを上に向けると雨が降り込みひっきりなしにレンズを拭くことになってきた。この辺りに掲げられた諸杉神社由緒。・鎮座地 兵庫県豊岡市出石町内町・御祭神 多遲摩母呂須玖神(但馬諸助神)・多遲摩母呂須玖神は新羅国王子天日槍命の嫡子で、母は多遲摩之俣尾の女 前津見である。 古事記・日本書紀に記される清彦、田道間守の祖で、神功皇后の母、葛城高額比売命の祖である。・創立年月は不詳。 延喜式内の古社で、始め出石川側の出石町水上に鎮座していたが、当國の守護 山名氏の居城を 出石町宮内の比隈山より出石 有子山に移すに及び、当社を城下の現在地に移転された。 累代の出石城主の崇敬厚く、江戸時代小出大和守は長刀を奉献、松平忠徳は社殿を改造し宝駕を具え 華表を建て、治下瑞泉寺主釋大梅に諸杉大明神記を選ばしめた。・寛保二年(1742)仙石政辰は社殿を改築、神供五石八斗を寄進。・宝暦二年神霊を勧進し且つ同僚諸侯及び有名な宗匠に俳句を求め、扁額として拝殿に奉納された。・仙石氏が出石城主の時、在城の年は年首必ず自ら参拝、参勤交代の時は帰城の年早々必ず自ら参拝し た。・明治六年(1873)十月郷社に列せられる。・明治九年(1876)三月二十六日夜、民家より失火し、社殿は悉く類焼。・明治十五年(1882)新に工事を起し、明治十七年(1884)十月十四日現在の本殿、拝殿が竣工。・大正十三年(1924)四月二十一日縣社に列せられる。本殿建物・正面三間 背面二間、側面二間、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、鋼板葺祭礼・例祭(秋祭) 10月中旬境内神社・川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、 稲荷神社いかにも出石、祭神は天日槍命の子「多遅摩母呂須玖神」を祀る、一説によると社名の「諸杉(もろすぎ)」は「母呂須玖」が訛ったものだと云う。手水鉢と龍口。鉢は昭和に入り寄進されたようだ、龍から注がれた清水は鉢を満たす事はない。拝殿全景。拝殿に続く参道を2対の狛犬が守護している。由緒によれば、当初は出石町水上(むながい)に鎮座とある、先に掲載した出石神社から徒歩で南に15分程に鎮座していたようですが、創建は更に遡る事になる。この地に遷座するきっかけとなった、山名祐豊による出石城の築城が1574年(天正2)とされ、この地で5世紀近く継がれて来た神社。手前の狛犬。寄進年度は不明ですが、阿形は苔むし、裏から見ると緑の顎鬚のようで年季を感じさせる趣のある姿。双方とも紅潮し胸は桃色に色付いている。拝殿前の狛犬。こちらも阿形は苔に包まれようとしている。明治の大火によるものなのか、経年劣化なのか一ノ鳥居や狛犬の黒ずみは何かを語っているようだ。寄進年度が分からないので何とも言えないところ。拝殿左に境内社が祀られていたが社名が分からない。こちらの燈籠も赤みを帯びている、石材から由来するものなのか、妙にこの色は気になる。拝殿左に神池があり小さな太鼓橋が架けられている、境内社に厳島神社とあったがその先に社の姿を見かけなかった。参道は本殿脇に続き奥には複数の社が祀られています。本殿を囲む玉垣は赤く塗られていたのか、名残を留めている。後方に見える朱の鳥居は有子山稲荷に続く参道。本殿左の境内社。一社ゝ参拝させて頂くも何れも社名札はなくどれがなにやら…出石の町を散策を始めると賽銭用の小銭入れが軽くなるのが早い。軽い賽銭に対し相変わらず願いだけは重いものがある。1884年(明治17)に再建された本殿。焼失前の姿を再現したものなのかは不明ですが実にいい姿をしている。光物は目に付かないが造りは手が込んでいる。入母屋造りに千鳥破風と唐破風向拝が施され、向拝や虹梁、木鼻などの彫物は見応えがある。破風の毛通しにはくちばしを赤く彩色した鳳凰や向拝には劔を抜き鳥に立ち向かう神の姿、その上で向拝を支える力士の姿が彫られている。これらの彫飾りは丹波柏原藩、現在の兵庫県丹波市の宮大工中井道源(~1698年没)を初代とする中井権次一統の八代目中井権次橘正胤(1854~1928年)の作、再建時期を考えると脂が乗り始めた頃の作品だろう。派手な彩色をせず、目や口にポイントを絞って赤が塗られているあたりとても好感が持てるもの。各部を拡大し撮ってみたが、レンズに雨があたり一枚も掲載できるものがないのが残念。本殿自体は高欄や向拝柱等に朱で塗られていた面影が残り、本来は赤く存在感のあるものなんだろう。あるべき姿を見たいような気もするが、個人的にこの色調がいい。本殿右の境内社。手前に三社、少し奥の一段高い境内に一社祀られていますが何れもどれが何やらでした。狐の姿すら見当たらなかった。とはいえ、僅かな賽銭大きな願い、しっかりお願いして来た。諸杉神社本殿後方から見る社殿。写真を撮るには難があるけれど、雨に霞む山々を背景にそぼ降る雨に打たれ佇む姿は快晴の時には感じえない別の表情を見せてくれる。境内社の脇から有子山稲荷に続く参道に出ることが出来る、参道から諸杉神社の眺め。正面の朱色の鳥居は「稲荷神社」、有子山稲荷は山の上に向かって奉納鳥居が続く石段を上った先。山の上に向かって伸びる石段と鳥居。有子山稲荷、行ってみたかったがこの雨の中では進む気になれなかった。車に戻る事に戻ろう。出石町駐車場から谷山川に架かる有子橋、この朱色の橋が諸杉神社への近道だろう。出石町駐車場付近から眺める出石城、右手に登城橋と登城門。出石城は当初から天守を持たず、有子山の傾斜地を利用し、堀で囲った三ノ丸を築き、下ノ丸、二ノ丸、本丸、稲荷丸と階段状に曲輪を築いたもので、そこに4つの櫓と藩庁や居館が建てられていたとされます。現在は本丸西隅櫓と東隅櫓が復元されています。2021/10/26諸杉(もろすぎ)神社創建 / 不明祭神 / 多遲摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)境内社 / 川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、稲荷神社祭礼 / 例祭(秋祭) 10月中旬所在地 / 兵庫県豊岡市出石町内町28出石町天満宮から徒歩ルート / 内町通りを出石町駐車場方向へ2分程関連記事 / 天満宮 兵庫県豊岡市出石町 #2
2022.02.03
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2022年のスタートはこれまで行きにくかった市内の神社を参拝して廻ってきました。テーマは「地下鉄黒川駅から北に歩いて戻ってくる」黒川駅から北に進み時計回りで黒川駅に戻る5.6㌔の行程。国道41号線周辺は車で廻るには駐車場に苦労するので、これまで敬遠してきた場所。歩いて廻る分には何の支障もない。市営地下鉄名城線「黒川」駅の3番出口から西方向に進み「城見通3」の交差点で右に、後はひたすら真っ直ぐ歩く。目的地の金城町4の「六所社」までゆっくり歩いて25分くらいか。住宅が立ち並ぶ区画が続く一帯に一区画を社地として与えられた「六所社」が現れる。区画の一部に光城学区集会所もあり、この区画は金城町のコミュニティーの場と云っても良さそうだ。明治の頃の周辺の地図を見ると周辺は水田が広がり、黒川樋門から導かれた庄内用水が田畑を潤していた。「黒川樋門」水田が広がる中に集落が点在する地域だったが、昭和に入り急速に区画整理が進み、水田は宅地に変貌していった。六所社から5分も北に進めば用水沿いに「庄内用水緑道」として歩道が整備され、今も緑と水を身近に感じることが出来る。街中にあって、今では六所社の杜は貴重な緑をたたえている。社頭から境内。常夜灯と右に「六所社」の社標、神明鳥居の先には石の蕃塀が見える。境内へは東に鳥居を構えた脇参道がある。社頭左の由緒書き「六所社祭神 伊弉諾神、伊弉冉神、大国霊尊、素盞嗚尊、月夜見尊、蛭子尊祭儀 例大祭10/19、祈年祭1/10、新嘗祭11/10、月次祭毎月10日、天上祭7/10由緒 創立年月日不詳なれど古文書の記録に天文十六年再建と記載があり天文年間以前より御鎮座ありし事は確か」六所社や六社神社(宮)の社名の神社は全国でも見かけます。創建時から六柱を祭神としていた場合、近隣の六つの神社を合祀したなどがあり。こうした社名の神社は市内北部、特に北区にこうした社名を冠する神社が集まっている。金城町の六所社がどちらにあたるのか、由緒にそうした事の言及まで記されていないので定かではない。個人的に田園風景広がる一帯に集落が点在し、人が集まれば拠り所として規模の大小を問わず神は祀られていっただろう。再建が1547年とあるので、現在に至る過程で纏められて行ったのが自然な流れと思います、それくらいの様変わりです。創建となると更に遡る事になるがそうした元号を刻むものは境内では見受けられなかった。参道の左に手水舎、瓦屋根を支える柱は見るからにか細く補強が施されていた。参道に戻ると正面に石造りの蕃塀が構え、手前の高い台座の上に狛犬。1940年(昭和15)に寄進されたもので肉付きの良い姿。控え柱の付く石の蕃塀、下部の両脇に獅子、中央に羊が彫られたもので、上部に二匹の龍も彫り込まれている。1935年(昭和10)の寄進。蕃塀後方から社頭方向、右手は神楽殿だろうか。境内中央に一際大きく育った二本の楠木が空を覆う様に枝を張る。樹高の高さもあり、住宅が広がる一帯にあって遠くからでも六所社の存在が分かる。温暖な地方では楠木の成長は早く、高く伸び枝を張ります、間違ってもシンボルツリーにしてはいけない。木陰の下は心地いいけれど、我が家の桂も巨大化し、今では樹の成長の速さと剪定の鬩ぎあいだ。拝殿全景、シャープでスタイリッシュな外観の木造平入拝殿、その前で狛犬が守護するが顔ぶれを紹介できない。新年早々撮り忘れてしまった。拝殿額「六所社」と拝殿内は五三桐と菊の紋に視線が行く、幣殿から本殿方向の眺め。幣殿奥にも木製と思われる狛犬の姿がある。1547年の棟札が残る年月を積み重ねた神社ながら、近年建て替えられたようで伽藍はとても新しい。拝殿前のとても特徴のある御神木の楠。思わず表情も緩む…マスクしていてよかった。拝殿右側に境内社が複数祀られているが残念ながら個別の社名は分かりません。大正時代の狛犬小さいものですが阿形の表情は猛々しい物がある。祭神の看板が掲げられていて、大日霊尊、伊弉諾神、伊弉冉神、大山祇命、素盞嗚尊、天照大神、猿田彦大神とある。正面から見ると大きめの社と左右に小振りの社の三社の様に見えます。しかし斜めや後方から眺めると後ろに二社が祀られ、この一画に五社が纏められています。どれがどれやら分からない・・・斜めから境内社と本殿の眺め、どちらも神明造で千木は共に内削ぎ。上境内社の東隣に殉国英霊之碑が建てられている。平和な日常の礎となった英霊を祀る。境内社後方。赤い板宮造りの社が二社姿を現す。六所社本殿域内は窺えず状況は分からなかった。六所社社殿全景。市街地にありゆとりのある社地を持つ美しい神社だと思う。この一画だけはゆったりとした時間が流れていた。2022/01/05金城 六所社創建 / 不明(天文十六年再建)祭神 / 祭神 伊弉諾神、伊弉冉神、大国霊尊、素盞嗚尊、月夜見尊、蛭子尊所在地 / 名古屋市北区金城町4-27公共交通機関・徒歩ルート / 市営地下鉄名城線「黒川」降車、北へ徒歩25分 駐車場 / なし(東側に交番がある)関連記事 / 2022年歩き初め、黒川樋門
2022.01.31
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知多四国八十八箇所霊場 八十七番札所 鷲頭山長寿寺前回、高蔵坊稲荷神社で掲載した高蔵坊狐。長寿寺に棲んでいた高蔵坊狐。荒廃の進む寺の住職に変化し、御利益を説いて廻り、寺の修復に繋げたと云う、狐に守られる寺。高蔵坊狐の加護もあり立派な伽藍だ。山号は鷲頭山、寺号は長寿寺と称し、臨済宗永源寺派の寺院。まず目に付くのが山門、新しいものですが二層の入母屋瓦葺で上層に梵鐘が吊られています。駐車場から眺める山門、その先に本堂、右手に庫裏、左手の方型屋根の弘法堂が主な伽藍と一望出来る。山門右方向の眺め。不許葷酒入山門の石標と大きな石碑が目に付く、その先に高蔵坊稲荷神社の鳥居。ここからだと社殿も見えず、随分先に鎮座するような気になる、鳥居から二・三分程で社殿が見えてきます。久野広成歌碑、解説の内容は以下。「刻字」うすもみち せり 廣成わたり鳥一むら わたる 野のはてに みゆる 草やま「読み方」渡り鳥 ひとむら渡る 野のはてに 見ゆる草やま 薄もみじせり広成大高の旧家、久野藤助家六代広成の歌昭和十一年、明治神宮摂歌となったもの。紅葉し始めた野山と、そこを渡りゆく鳥を詠んだもの、広成自慢の作とされる。昭和二十五年、古稀を祝い建立されたもの」山門左に八十七番札所の石標と長寿寺解説。鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。当山はもともと真言宗長祐寺と称したが、1560年(永禄3)鷲津砦の兵火で伽藍を焼失。江戸時代、大高領主の志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰が厚く、その臨終に際しこの地に禅寺の建立を孫忠時に遺命した。1682年(天和2)徳川光友の援助もあり伽藍が竣工した。春日井郡三淵村の臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の「紫金山慈眼寺」を開山した越伝和尚を招聘し中興開山、この時宗派を黄檗宗へ改宗、寺号を長寿寺に改めた。宗派が臨済宗になったのは、元禄四年(1691)の時。本尊は阿弥陀如来で知多四国霊場 八十七番札所。その他に知多西国観音 二十六番札所、知多百観音の一番札所でもある。当寺は志水家の菩提寺として厚遇され、「尾張名所図会」にも挿絵が描かれています。現在の伽藍はコンクリート造りの伽藍で、知多四国霊場の寺院としては半島先端で見かける寺院の姿とはかけ離れた立派な伽藍を持っている。庭園も綺麗に整備されている。1560年(永禄3)、鷲津砦の兵火で焼失1682年(天和2)、徳川光友の援助により再興1888年(明治21)、火災により本堂、庫裡を焼失、この時本尊は偶然寺の付近で東海道本線の工事をしていた作業員らにより運び出され焼失を免れたという。1898年(明治31)、新しい本堂、庫裡が再建された。このとき焼失を免れ残っていた山門(鐘楼門)も、1912年(大正元年)の台風で倒壊し、後に再建される。1945年(昭和20年)3月~5月の名古屋大空襲によって山門その他諸堂や蔵などを焼失。その後長らく再興は進まず焼失したままだったようです。大正、昭和の時期に高蔵坊狐が登場するのかなぁ。1979年(昭和54)、山門その他諸堂が再建され、現在の長寿寺の伽藍が竣工した。山門から境内。寄棟瓦葺で大棟に鴟尾が付く。手水舎は参道左。龍口はあるものの、水は張られていない。鉢の左にお地蔵さん。本殿全景参道脇の赤い樹はオタフクナンテンだろうか、安定感のある本殿の外観に彩りを添えている。山号額と本堂内、本尊は阿弥陀如来。力強い波が描かれた襖絵が目を引く。本堂左に弘法堂。方型の建物で、こちらの参道脇も赤く染まっている。知多四国霊場の87番札所として弘法堂が設けられたのは1804年~1829年にかけてだと云われる。弘法堂に向かう参道脇に二体の地蔵が安置されています。手前は子安地蔵、祠の中はお地蔵様。弘法堂左の古そうな手水鉢、中央に寄進された年月が彫られているがよく分からなかった。かみさんにとって二年がかりの知多四国も八十七番をもってひと廻りを終えることになる。弘法堂から左に参道が続く。右手の小さな祠の中にお地蔵さん。その先は西国三十三霊場石仏群。全工程徒歩で巡りきった意気込みには頭が下がる。お供で廻らさせてもらったが、仕事だったりで自分では20程しか廻っていないだろう。二巡目は全て付き合いたいが、一旦は出口が見えかけたコロナも勢いを増してきました。今年も我慢の年なんだろうか。2021/12/02「鷲頭山 長寿寺」創建 / 不明開山 / 越博紹付、開基 / 長寿院元操尼中興年 / 1689年(元禄2)、 中興 / 中興道雲石梯宗派 / 臨済宗永源寺派本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場 八十七番札所、知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所所在地 / 名古屋市緑区大高町字鷲津山13番地今回歩いたルート / JR共和駅から長寿寺関連記事 / 「高蔵坊稲荷神社」、「紫金山慈眼寺」春日井市鳥居松町 知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」
2022.01.30
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山神社から県道50号線をJR大高駅方向にへ5分程進む。右手にあった鷲津山の山麗は途切れ平坦な土地になり、そこに二層の山門を構える寺が八十七番札所長寿寺。万願寺の圓通寺で納経を終え、かみさん2年がかりの知多四国八十八箇所霊場巡礼も八十七番札所で終わりを迎える。徒歩ルートの都合から前後した。特徴のある山門東側に朱の鳥居が見えます。かみさんは足早に長寿寺境内に向かい、自分は朱の鳥居を目指す事にしました。とても広い駐車場だ、それもそのはず、ここでは毎月「4」と「9」のつく日にこの場所で地元の生鮮食品を中心に菓子や衣料品などの青空市が開かれるという。訪れたのが2021/12/2なので市開催日ではなかったようだ。ある意味それで正解だったか、駐車場には車一台見当たらなかった。山門前から見る鳥居、見えていた鳥居のその先に幾つも奉納鳥居が連なっている。どうやら稲荷のようだ。鳥居の額には「高蔵坊稲荷」とあり、参道から赤い幟が連なり鷲津山に向け続いている。鳥居右側には看板があるようだ。山の頂まで続いているようだと例の如くかみさんを待たせそうだ。山登りなら途中から引き返そう、まずは向かってみよう。鳥居右の看板は「大高歴史の会」による解説、その内容は以下。「高蔵坊(こうぞんぼう)稲荷鷲津山の麓にある長寿寺の伝説です。昔むかし、寺が傷んできて修理ができず住職の高蔵坊は困っていました。その頃、この山に一匹の狐が住んでおり、住職はこの狐をとても可愛がっていました。いつしか住職の嘆きを知った狐は、ある日突然姿を住職に変え、村々を巡ってこの寺の御利益を説いて廻りました。その結果、各地からお参りの人々がつぎつぎ訪れる様になり寺は立派に修理できたという事です。村人は、その狐を高蔵坊(こうぞんぼう)狐と呼び、ますます可愛がりました。その後村人はお堂を建て、この狐を祀りました。いまも毎年三月第一日曜日、高蔵坊稲荷大祭が行われ、多くの参拝者で賑わいます」創建等の内容ではなく、長寿寺に纏わる昔話。知多半島はごんぎつねの里や、つい最近でも半島に生息する狐の行動範囲について新聞にも掲載されていた。それによれば驚くほど行動範囲は広いようだ。知多を始め、昔は知多の一部で緑豊かだった大高で狐は身近な存在なのかもしれない。参道を登り始める、先は右に曲がり見通しが効かない、なんとなく参道は長そうな予感。登り始めて直ぐ、左に方型のお堂が見えて来た、幟は更に右手奥に続いています。これは稲荷ではなさそうだ、堂の左に手水鉢があるようなので堂に立ち寄ってみた。堂前の手水鉢。残念ながら建物の正体や奉納年度に繋がるものは彫られていなかった。堂には額はなく、堂内を窺うもこの建物が何かは分からなかった。参道に戻り右に少し進むと左側に稲荷鳥居と高蔵坊稲荷の赤い幟が奥へと続いている。下の堂から少し上方斜面に位置し、鳥居の先に社殿も見える、山登りはないようだ。高蔵坊稲荷。切妻瓦葺の妻入り拝殿で軒下に鈴緒が下げられた鈴が吊られている。一時期は鈴緒が上げられているのが当たり前だったが、少しずつこうした光景が戻ってきた。拝殿は木造でさほど年月を重ねて来たとは思えない綺麗な外観。拝殿内には高蔵坊稲荷と高蔵坊大明神の提灯が掛けられていた。奥は見通せたが本殿までは見受けられなかった。高蔵坊稲荷の創建時期は不明。「高蔵坊の昔話」にある住職の高蔵坊や荒廃していた時期がいつを指すものなのか分からない。長寿寺は幾度か伽藍を焼失し再興され、現在の伽藍は先の大戦で焼失後に再建され、1979年(昭和54)に改修を受けたもの。尾張名所図会に長寿寺の伽藍が描かれていますが、そこには高蔵坊稲荷らしき姿は見受けられなかった。山門の位置(赤丸)が当時と変わっていないと仮定すると、高蔵坊稲荷神社は破線の丸あたりになり、鐘楼は描かれていても周辺にらしきものは描かれていない。地図から鳥居の印を探して見ると1968年以降に鳥居が見られても、それ以前の地図からは鳥居は見当たらない。明治以降から昭和初期にかけて建立されたものなのかも知れない。長寿寺で大蔵坊の事を伺えばすっきりするかもしれない。荒廃する寺を救った高蔵坊狐、今も鷲津山に住み寺を見守っているのかも知れない。狐に守られた長寿寺は鉄筋コンクリートの立派な寺として現在も続いている。高蔵坊稲荷神社創建 / 不明祭神 / 高蔵坊大明神所在地 / 名古屋市緑区大高町字鷲津山13番地山神社から徒歩ルート / 県道50号線をJR大高駅方向に約10分関連記事 / 『山神社』名古屋市緑区大高町 、知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」
2022.01.28
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城下街出石町を散策していると小さな神社や祠をそこかしこに目にすると思います。以前掲載した出石町魚屋の國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)から出石町材木方向の天満宮を掲載します。出石町マップに前回掲載した祇園さんと國朝天女稲荷、今回の天満宮の位置関係を表してみました。國朝天女稲荷から天満宮は南に約150㍍程、道の先に見える距離です。その前に國朝天女稲荷の向いに建つ白いレトロな外観の建物に視線が行くと思います。城下街の雰囲気漂う街中に文明開化の香り漂うこの建物は出石明治館。エキゾチックな外観のこの建物は1887年(明治20)に郡役所として建造された木造建築の建物。現在は地元出身で、出石藩の藩政改革や地租改正や気象測候所の創設などに尽力した桜井勉(1843〜1931)をはじめとする郷土の偉人を伝える出石明治館として公開されている。出石の町に唯一残る明治年間の建築物で1983年(昭和58)に保存整備されたものという。古い建築物を伝え残す、辰鼓楼で熱く語りかけてきた地元の方がそうであったように、出石に住む者の郷土の誇りが伝わってくる。天満宮路の先に石の明神鳥居を構え、右手に祠が祀られています。社頭全景。祠後方に境内唯一のもみじの樹。年輪を重ね太く成長した幹は立派なもの。社頭左に由緒書きが立てられています。天満宮由緒「当天満宮は学問の神さまとして有名な九州大宰府天満宮の分社。御祭神は管原道真公。明治の始め「神仏分離」により藩校弘道館正門跡の現在地に祀られたもの。弘道館は維新期の東京大学初代総長加藤弘之博士など多数の人材を輩出した。当地東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もあった。現在もこの付近に弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など学問に所縁のある文雅な遺跡が散在する。毎年7月24・25日、学業成就・家内安全祈願大祭を行っている」神仏分離でこの地に遷座したようですが由緒から創建時期や元々の鎮座地について記されていなかった。兵庫県神社庁など調べて見るも足取りは掴めませんが、出石町材木に鎮座し2世紀ほど、今も町民から崇敬される天満宮。奥に長い社地、間口一杯に建てられた入母屋瓦葺の拝所。後方を谷山川が流れ、その背後の山は出石城のあった有子山が迫っている。拝所に掲げられた「天満宮」の額。拝所内にはいくつかの奉納絵馬が掛けられている。行人包の武将が振りかざす刃を軍配で受け止める武将、描かれているのは川中嶋合戦の謙信と信玄だろうか。奉納年度は記されているも既に消えかけ、推測すらできなかった。拝所内の両脇に長椅子が置かれていたのが印象に残ります。ここで井戸端会議に花を咲かせるのだろうか。いつの間にやら、黒雲が湧きポツン〃と降り出してきた。散策中に急な雨に降られても、天満宮が受け入れてくれそうだ。社頭の祠は弘法堂の様です。中を窺うとカラフルに色付けされた大師像と左にも一体の石像が安置されていました。放射状の赤い線は光背を描いたのだろうか?、供えられた花の陰で姿をよく拝めなかった。こちらの大師像は祇園さんで見かけた弘法大師以上に色使いに拘りを持っている。天満宮全景。本殿を祀る鞘堂は切妻瓦葺の平入で拝殿と一体になっている。参拝時堂内を窺うも本殿の姿は分からなかった。材木の街並みにポツンと鎮座していますが、手入れの行き届いた境内や社殿から人の温もりが伝わってくる天満宮です。天満宮創建 / 不明祭神 / 管原道真所在地 / 兵庫県豊岡市出石町材木25國朝天女稲荷から天満宮徒歩ルート / 南に約150㍍程、徒歩数分本降りになる前に社頭から右の登城橋方向に向かいます。2021/10/26関連記事 / 「呉服神社・八坂神社」、「國朝天女稲荷」、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3
2022.01.23
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相持院から西に10~15分程歩く。周囲は常滑焼の窯元と住居が混在する昔懐かしい町並みが続き、この丘陵を下れば常滑駅も近い。陶郷町1の三叉路に小さな祠が祀られていました。細い道沿いには常滑焼の焼酎瓶だろうか、綺麗に並べ石垣として流用するあたりはいかにも焼物の街だ。周囲には煉瓦煙突が立ち、昭和レトロの懐かしい趣が漂う。陶郷町1の祠。相持院からは右方向から下ってきました。三叉路の角地に石を組んで社地が作られ、木造鳥居の先に常夜灯と堂がある。ここは映画20世紀少年のロケ地だった事を語る案内があるものの、お堂に関して解説板らしきものは見当たらない。気になったので鳥居をくぐり境内へ。堂の中には一体の青面金剛らしき石仏が安置されていました。レンズを近づけ一枚撮ってみたが、像の姿はあるものの、年代までは分からなかった。恐らく石仏は青面金剛像でそれを安置した庚申堂だと思います。何も詳細は分からないけれど、昭和を感じさせる道筋に祀られた堂の佇まいは、映画の1シーンとして撮影したのが分かるような気がする。2021/11/20庚申堂建立 / 不明所在地 / 常滑市陶郷町1相持院から徒歩ルート / 北西に10分程関連記事 / 知多四国六十五番札所 「神護山 相持院」、知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」、 常滑やきもの散歩道Aコース
2022.01.22
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相持院(そうじいん)常滑市千代丘にある曹洞宗の寺。大善院から北に続いた平坦な尾根が下り始めると、その先に見える丘が相持院の杜。参道入口の大きな看板は目印になるでしょう。石段右側に知多四国六十五番札所の石標があり、そこから石段が続きます。「石段はちょっと遠慮したい」そうした方は左の坂を上る事で本堂に辿り着けます。20段ほどの石段の先にどっしりとした佇まいで唐破風の付いた四足門の山門が聳えている。訪れた時期は11月20日、紅葉は早く彩りは今一つ、山門周辺には桜の樹があり、花の時期の山門は別の表情を見せてくれるのでは。この山門がなかなかのもの、彫飾りに手が掛けられていて作り手の気合のようなものが感じられる。木鼻の飾りや龍の透かし彫りがそこかしこに彫られ、枓栱も見応えある門。門の建築時期は古くはないようですが、山門には躍動感あふれる龍が迎えてくれる。作者までは分からないが足を止め見上げてみるのもいいだろう。門から先は再び石段が続く、途中までは数えてみたが…50段はあったような。山門扉に紋があつらえてあるが、りんどうくるまのようですが中央に二の文字が入り馴染みのない紋。境内右手の手水鉢、立派な龍はいるものの、今一つ勢いはない。正面が本堂で大きな香炉が印象に残る。本堂右手に水子地蔵尊を挟む様に願掛六地蔵尊が横一列に祀られています。それぞれの像には悟りを開き成熟していくうえで実践すべき、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの戒めが彫られている。「延命の鐘」100円で突くことが出来、一突きすると寿命が延びるそうだ。吊られている梵鐘は知多半島でも最大級の大きさを誇るそうです。本堂。本堂に続く石段の中ほどに小さな陶製の狛犬が守護していますが色黒なので存在感がない。石段左側の木陰に弘法大師像が安置されている。願掛六地蔵尊、中央の立像が水子地蔵尊。寺に狛犬…?もとは仏教と共に大陸から伝わったもの、寺にだってこうして生息している。色黒の狛犬は耳が垂れ、立派な口髭を蓄え、鋭い牙を持つ、凛々しいと云うより可愛い狛犬。御影石の冷たい質感に対し、陶製の色合いや質感は温もりがある。香炉立派な香炉だ、ここにも竜胆車の紋が入る。両脇には阿吽の龍と中央に大きく口を開けた狛犬がこちらを睨んでいる。納経所はこの右手になります。堂内本尊は1336年~1392年頃に作られたとされる延命地蔵尊。常滑観光協会の相持院解説は以下として紹介されていました。「当院は、草創は不詳だが、南北朝(1336年~1392年)の頃と思われる。伊勢神宮の神宮寺である世義寺(せぎじ)の所領が、当地・世儀であった事から伊勢神宮の内宮・外宮の祭神を祭る神宮社(常滑市栄町)に付属して明治初年まで存続した。当初は真言宗醍醐寺三宝院に属していたが、戦国期・永禄3年(1560年)に曹洞宗・天沢院(常滑市山方)の末寺となった。明治初年、神明社と分離した後、隣寺・宝全寺(64番)と合併し跡地は学校として使われた。明治35年、宝全寺から独立、三度の境内地の変還を経て、昭和23年(1948年)以降、現在地に移転する。以降、本堂・鐘楼・山門等を整備した。就中、鐘楼は北叡山の鐘楼をモデルに建立した。梵鐘は、今なお知多半島随一の大きさである(1.99t)。春は桜やサツキ、夏は緑陰、秋は紅葉と、移り変わる景観の中、柴山清風氏や片岡静観氏等の陶彫が境内に安置され陶都の趣を醸し出している。毎年、二月第一日曜・午後二時半より、節分大般若会(せつぶんだいはんにゃえ)を修行。厄難消滅、開運招福の御祈祷を行っている。」とあった。1903年(明治36)静岡県榛原郡の「西光寺」から寺号を譲り受け再興、その際札所も復活。1921年(大正10)「相持院」へ改称されたようです。その後は解説にあった1948年(昭和23)以降に現在地に移転したようです。山門はじめ鐘楼など新しく見えるのはそうした経緯からの様です。堂内左手に弘法大師像と聖観音像を安置。本尊の前の陶製狛犬は全身白、鬣は金色で背筋を伸ばした凛々しい姿。本堂左の稲荷社。創建等の詳細は不明、二対の狐達も陶製だ。稲荷社の西の路と相持院の境内は常滑「やきもの散歩道」のBコースに含まれることから、参拝目的以外に境内を訪れる人と出逢います。レトロ感漂う常滑の町は映画(20世紀少年)のロケ地になり、相持院山門石段付近でも撮影され映画を見た者の聖地巡礼の場になっているようです。ここから「やきもの散歩道」を歩き常滑中心街に入っていきます。2021/11/20知多四国六十五番札所曹洞宗 神護山 相持院開創 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場65番、常滑郷廿一大師17番、南知多七福神(布袋尊)、くるま六地蔵4番所在地 / 常滑市千代丘4-66大善院から徒歩ルート / 北に10分前後関連記事 / 六十三番札所 『補陀洛山 大善院』、 六十四番札所 『世昌山 宝全寺』、
2022.01.21
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但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。上は出石城下の解説板、今回歩いたルートは点線部分。「出石町は但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍が垂仁天皇3年(BC27年)に渡来、但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。「古事記」「日本書紀」にも記される程の歴史のある町。但馬文化発祥の地として、山名宗全一族の本拠地として二百年間の繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として繁華を極めました。二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河の佇まいなど、 出石が但馬の小京都と呼ばれる由縁」出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。出石町のシンボル「辰鼓楼」出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。八木通りを東から西方向に眺める。出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。写真右手に鳥居が見えます。社頭全景。明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。社頭正面。鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。社頭の解説板、祇園社由緒。「祇園さんは八坂神社の旧称。祭神は建速須佐之男命である。朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」とある。出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。鞘堂前の狛犬。解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。境内から見る「祇園さん」の眺め。切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。創建等は不明。祭神は建速須佐之男命。相殿神は袴幡千々姫命。再建は1917年(大正6)但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。境内左の祠。祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。中には色が塗られた4体の石像が安置されています。何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。「八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)創建 / 不明再建 / 1917年(大正6)祭神 / 建速須佐之男命相殿神 / 袴幡千々姫命例祭 / 7月9日所在地 / 兵庫県豊岡市出石町魚屋43祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。狐の姿は微塵もないが稲荷社か?台座に由緒が掲げられている。國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)「明治9年、出石に大火がありました。約千軒が焼失しています。それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。祭礼は毎年十一月一五日」明治の出石大火はここにも語り継がれていました。この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。女狐にお逢いしたかった。城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。二度と大火は起こさない。但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)創建 / 不明再建 / 不明祭神 / 不明例祭 / 11月15日所在地 / 兵庫県豊岡市出石町魚屋532021/10/26出石神社から出石市営西の丸駐車場 / 兵庫県豊岡市 出石町小人129-19駐車場から祇園さん➡國朝天女稲荷 / 徒歩10分程 関連記事 / 「但馬國一宮出石神社」兵庫県豊岡市出石町、 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3
2022.01.17
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半田市岩滑中町「岩滑 八幡社」境内から西側に続く細い路地を1~2分程進む、右手に石垣が積まれ上には黒い簓子壁が続きます。壁が途切れ右側の視界が広がると正面に常福院本堂が現れます。左に「西山浄土宗 甲城山 常福院」の寺号標が立っている。境内左に「南吉のふるさと 常福院」解説。こちらの寺もまた新美南吉と所縁があり、幼少期の南吉の遊び場だったようです。境内で催される盆踊りで踊ったりしたなじみ深い寺だそうです。本堂の北側は藪で、そこに棲む狸の親子を題材にして童話「ひよりげた」が生まれた。現在も本堂の裏は鬱蒼とした藪が残り名残を留めています。常福院は、永禄年間(1558~70)、家康の叔父で岩滑城主の中山勝時によって創建。浄土宗西山派の寺院で山号は甲城山と号し、境内、西側一帯が岩滑城址だったという。道沿いに続く石垣は周囲に対し明らかに高く、その上に築かれた境内が嘗て城だったと聞くとそんな雰囲気が漂ってくる。上の写真では切れてしまいましたが、本堂右に複数の大きなソテツが植えられています、それは中山家の家老により植えられたものと云われ、市の天然記念物に指定されているそうです。ソテツは寺の庭園で良く見かけると思います、個人的に和の庭に南国情緒満載のソテツはずっと違和感を感じ、ついつい切ってしまった、そんな年代に植えられたものだったとは。そもそも蘇鉄が植えられ始めたのは室町時代のようで、江戸時代にはそれを庭に植えるのがトレンドとなったようです。 違和感あるなぁとずっと思っていたが、古くからの流行だったのか、見方を変えよう。さて本堂は瓦葺の入母屋造りの平入で大きな向拝が付く。本尊は阿弥陀如来で四国直伝弘法大師の23番札所になっている。境内左に小さな堂と地蔵が安置されています。絶妙に石を組み上げて造られた小さな祠、安置されているのは役行者だろうか。こちらは六地蔵。ゴールの矢勝川を目の前に気持ちが途切れたのか、見逃したところの多い常福院だ。JR亀崎駅から13㌔程、当初は軽い足取りだった二人も疲労が足に来ている、体が鈍ってるのを実感する。2021/9/24の矢勝川彼岸花。この時期では花のピークも過ぎているようです。疲れもピークとなり新美南吉記念館で靴を脱いでじっくり休憩を取り家路に着く。巣籠生活が体に及ぼす影響は、体力の衰えとして深刻な影響を与えているのを痛感した13㌔だった。気兼ねなく出歩ける日が早く訪れて欲しいものです。甲城山 常福院宗派 / 西山浄土宗創建 / 永禄年間(1558~70)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 愛知県半田市岩滑中町7-23岩滑八幡社から徒歩ルート / 境内西側より徒歩1~2分JR亀崎駅~名鉄河和線半田口駅 / 当日徒歩ルート関連記事 / 「岩滑 八幡社」半田市岩滑中町、知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く
2022.01.16
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2022/1/9 今年の主要な課題でもある「積極的ボランティア参加」最初のイベント説明会を聞きに白川公園付近を訪れました。説明会終了後、白川公園南側の若宮大通り沿いを歩き「日出(ひので)神社」の前を通りがかり参拝してきました。日頃から車で通りがかる事も多く「ここにも神社があるな」とは思いつつ、なかなか車では訪れにくい場所。若宮大通沿いから見る社頭。いかにも街中の神社。幾度となく車窓からこの神明鳥居を眺めて来たが、意図したわけでもなく訪れる機会を得た。ずっとこちらが正参道と信じ込んできたが、訪れて初めて知ったが正参道は東側にあり、車窓から見えていたこちらは脇参道だった。鳥居右に社標が立っています、歩道を行き交う人はとっても多いが神社を訪れる姿は皆無だった。脇参道から境内へ、右手に手水舎、社殿。北側以外の周囲はビルが取り囲み、この一画だけが時間の流れから取り残された様だ。神域に聳える巨大な銀杏の樹がその歴史を語っているよう。この神社が鎮座する場所は、遥か昔の5世紀から6世紀頃の古墳時代に築かれた古墳「日出神社古墳」の上に鎮座しています。社殿はこんもりと盛られた高みに鎮座し、今の姿から形状は丸い形の円墳の様に見えますが、実は前方後円墳の後円部だといいます。神社が鎮座するお陰で神域部分の後円部は開発を免れたようです。発掘調査もされていないようで、教育委員会の解説も掲げられていなかった。社殿正面全景。左右の燈籠は1880年(明治13)に寄進されたもので、柔らかい曲線を描く竿が印象的。鳥居は神明鳥居で鳥居後方の左右に旧社標が残されています。右に神明社、左に愛宕神社といろいろな事情がありそうだ。境内から拝殿周囲に回り込めず本殿を見ることが出来なかったが、拝殿をこうして見ると後円部の高さがよく分かります。拝所から見上げる社殿。古墳の上に神社が鎮座する姿は特に珍しいものではない。個人的にそれらは代々語り継がれた伝承などから意図して建てたもので、「ここが高いぞ、ここに決めた」的な安直な考えで動くのはおやじくらいなもの…と思いたい。この古墳を守るように鎮座する「日出神社」、その創建がいつ頃か気になるところ。拝殿は切妻平入で手前に狛犬が守護し、拝殿の額は「日出神社」と記されている。石段に続く扉が閉ざされ狛犬の表情などこれ以上寄れなかったが、狛犬の視線は空に向けられているようにも見える。社頭の由緒書きには「もとは愛宕社と称し、1879年(明治12)に日出町38番に鎮座した神明社(旧称天道宮)及び境内の宗像社、白髭社、香良須社合殿の二社を合祀し日出神社に改めた」とあった。更に愛宕神社と神明社(旧称天道宮)は清州(朝日)から遷座したものだと云う。時期は1610年(慶長15)、家康による清州越しだ。清州越し以前の古墳があるこの地は?となると由緒には記されていない。尾張史や尾張名所図会など目を通して見るも由緒にある「清州越し」に結びつく記述は見つからなかった。清州越し以前の古墳の状況は分からない。ただ言えるのは、変貌著しい激変の時代から古墳を守ってきたのがこの神社なのは間違いない。境内左が社務所、こんもりの上の拝殿も十分高いが、境内の樹々は周辺のビルに引けを取らない。日出神社の社殿は1909年(明治42)に改修され、1945年(昭和20)空襲により焼失。1959年(昭和34)に本殿、1970年(昭和45)に拝殿が復興されたもの。境内の燈籠や正参道の狛犬などは空襲を掻い潜ってきた戦争の目撃者と云う事だ。こちらに遷座した頃の愛宕神社の祭神は「愛宕大権現」、それもあの神仏分離により、祭神を「軻具突知命」としています。正参道を守護する狛犬は1922年(大正11)に寄進されたもの、びっくり眼でふくよかな容姿は可愛いものがある。可愛い彼らもここで空襲を実際に経験している、燈籠もそうだったが一部にすすのような黒ずみが見える。欠損はないものの、人の愚かさとそれがもたらす悲惨な結果に驚きを隠せない、そんな眼をしているように見えてならない。境内に「國威宣揚」の石柱もあるが敢えてここには載せません。そうしたものを立てなくてもいい世界でいてほしい、黒ずんだ狛犬は何かを訴えている。正参道入口の由緒書き。「祭神 軻遇突智命、天照大御神、月夜見命、宗像大神、猿田彦命、稚日女命由緒 本神社はもと愛宕社と称し、明治12年日出町鎮座の神明社(旧称天道宮)及び同一境内宗像社、白髭社、香良須社合殿の二社を合祀して日出神社と改めた。愛宕神社は天道宮と共に清州に鎮座したが慶長15年、名古屋城築城の際、現地に移された。例祭 10月15日五柱 社祭神 素戔嗚尊、応神天皇、宗像大神、加茂大神、軻遇突智命吉備 社祭神 吉備真備命日出神社」境内東側から社頭全景。こうして見る日出神社、ビル群の一画にあってタイムマシンの様に昔の面影を留めている。この筋はまず車で通る事はないだけに、この姿を知らないのは当然と云えば当然か、次回大須を徘徊する際はこちらから訪れる事にしよう。2022/01/09 日出神社創建 / 不明(1610年(慶長15)清州より遷座)祭神 / 軻遇突智命、天照大御神、月夜見命、宗像大神、猿田彦命、稚日女命所在地 / 名古屋市中区大須2-3-17公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「大須観音駅」2番出口から徒歩約7分関連記事 / マラソンフェスティバル・ナゴヤボランティア説明会参加へ
2022.01.15
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高讃寺から国道247号線を北上奥条7丁目交差点を左に向かいます。目的地の知多四国六十三番札所 『補陀洛山 大善院』は右手の丘陵地に鎮座します。奥条6丁目の信号を右に進めば丘陵地の南垂れ斜面に鎮座する大善院に至ります。門前から眺める境内、そこには一本の大きな樹が聳えている。大善院のシンボルツリーともいえる。入口に大善院、補陀洛山の石柱門が建つ。山号の補陀洛山(ふだらくせん)遥か南海の果てにあると信じられ、観音様が降臨する伝説の山「補陀洛山」和歌山県の補陀洛寺などは、その補陀洛浄土を目指し二度と戻れぬ補陀落渡海が行われていた。海に接した立地でもない大善院でそうした事実はないだろうが、こうした捨身行は1900年頃まで行われていたという。伽藍は石段正面の本堂、右に大師堂、庫裏、本堂左に赤い幟が山の頂に向かって立ち並ぶ補陀洛山中宮の伽藍。境内に右側が手水舎、清水を注ぐ龍はなく、ここでは亀が清水を注いでいる。遥か遠くからでもその存在を示す大きな樹、「大善院のイブキ」境内を覆い尽くさんばかりの見事な枝振りの大樹。樹齢600年と云われ樹高は15.6㍍で根回りは5㍍を越える見事な樹だ。こうした巨木を間近で見ると、ここには何かの存在を考えたくもなる。イブキの前には小さな社もまつられている。今は勢いのある樹ですが、一時は樹勢が衰え、根接ぎや土壌改良により回復し現在の姿を取り戻したようです。この地のシンボルツリーとして、県指定文化財として大切にされているようだ。本堂知多四国を巡り感じるのが伽藍の維持管理が上手く(けっして実情は違うのだろうが)進んでいる寺とそうでない寺のギャップが大きい事を痛感する。檀家の減小など背景にあるだろう、その中で時流を捉え上手に振舞う寺とそうでない寺で差は歴然としている気がする。従来の寺のイメージから一歩踏み出す柔軟性が寺の存続に影響する時代になったのかもしれない。大善院観音堂(大師堂)の開山は古く、白鳳時代(683年)に遡るとされます。常滑郷南部の阿野村御嶽山一帯に天武天皇勅願寺七堂伽藍、三百坊を有する僧院の本坊として創建されるも、次第に荒廃、養春上人により一坊の本尊十一面観音や不動明王、毘沙門天の三尊を大善院に移したという。知多郷を巡錫した空海上人(弘法大師)も滞在し自作の見護弘法大師を残しているという。また、大善院に隣接する補陀洛山中宮の牛頭天王は、常滑城城主水野家の氏神として崇められていたとされ、常滑城の鬼門を守護して来た。そんな長い歴史を持つ大善院ですが、現状の伽藍全体が本堂同様に劣化が進み痛々しい姿を曝け出している。納経印や御朱印、賽銭で賄えるものではないだいろう、クラウドファンディングも視野に、現況を外に向けて発信する事も選択肢としてあるような気がする。某本山で見かけた高級車で坊を巡る光景はそれはそれで…と感じたりもするが。常滑と云えば名の知れた企業が名を連ねている、利益の僅かでもそうした方向に還元されれば現状の復旧も早いと感じるが…本堂と大師堂の中ほどの厄除大師。大師堂全景。お寺で顔出しパネルは珍しい「大樹(イブキ)の下でほとけさま、知多四国六十三番見守大師と知多四国十四番十一面観音」正面に五鈷杵、左に仏足跡が安置され、正面に弘法大師の姿が見える。後方の厨子の中に見護弘法大師が安置されている。住職が描かれているのか、顔出しパネルから始まり、堂内の絵画や御朱印など絵画に造詣が深く、多くの作品が置かれています。右には法螺貝が幾つか見受けられます、その昔経験したことがあるが素人には簡単に吹けなかった事を思い出す。本堂西側「冬花庵観音堂」寂れた印象のある大善院の中に綺麗な堂が建てられている。京都の日本画家「橋本関雪」の宝塚の旧別邸のアトリエを移築したものという。ここでは絵画展示や演奏会等を開催するスペースとして使用され、お寺と創造の融合が冬花庵?新たな取り組みの一つかもしれない。若い頃JAZZ喫茶が氾濫した時期があった、それもやがて淘汰されそうした機会は減ったように感じる。訪れた時は彫刻家「花井探麗展」が開催されていた。お寺で仏像を眺めながらしっとりとしたJAZZライブ…罰当たりと云われそうだ。冬花庵の右手、本堂の左側に「四国八十八箇所御砂踏霊場」タイルには各霊場の砂が入れられ、ここでお参りすれば八十八箇所全てをここで巡礼できる。今とは違い交通手段も発達していなかった頃、こうした御砂踏霊場は身近に巡礼ができる存在だった。ぐるっと本堂後方まで各霊場の写し仏が安置されています。境内西側の「常滑大善院総鎮守 中の宮」「牛頭天王」の赤い幟が連なり、けっこう急な石段を上った先に鎮座する。上り口に縁起を記した石標があり概要は以下。「補陀洛山 中の宮 御祭神 素戔嗚尊、本地仏 牛頭天王尾張常滑郷瀬木千代之峯の総社で祀られていた。1494年(明応3)高宮(常石神社)、西宮(神明社)、当地奥条の中宮の三社に分祀。中の宮は、常滑城の鬼門除祈願所補陀洛山観蓮寺本坊大善院に鎮守として勧請された。素戔嗚尊は荒ぶる神、神仏同体の牛頭天王と信仰され疾病を祓う。夏の土用は村民あげて、神前の茅の輪くぐりなどの祭が執り行われ、一念信力を結べば夏病みせず除災の利益が得られる」中の宮全景。中央の赤い社が本殿、いかにもの赤一色。1494年(明応3)の勧請以前は栞に記載がなく詳細は分からなかった。陶器のブロックで囲われ、玉垣は常滑らしく常滑焼の焼酎便で作られている。その神域の左右には複数の石碑が祀られています。左側に役行者、神変大菩薩像、白山妙理大権現。役行者のご利益の一つ縁結びにあやかってか、中央に赤いハートがある、そこに向かって賽銭を投げ入れ上手く入れば願いは叶う?よく作法が分からなかったが試しに硬貨を投げて見る、見事にハートの外へ意外に難しい。既婚者の願いは叶わないようだ。縁を結びたい方、念を込めて挑戦してみてはどうだろう、かわいい中の宮の御朱印も頂けるようです。右に天照皇大神宮、春日大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神の石碑が祀られています。赤く塗られた鳥居、2020年に素木の鳥居を改めて赤く塗装したものだそうだ、この年境内は一新され現在の姿になっているようです。ここから南を眺めると奥条の町が一望できる。禍から町を守護する中の宮だ。2021/11/20知多四国六十三番札所真言宗 補陀洛山 大善院創建 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市奥条5-20高讃寺から徒歩ルート / 国道247号線を北上、奥条7丁目交差点で左へ、所要時間約40分関連記事 / 御嶽山 高讃寺、知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」、補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社最後の目的地知多四国六十六番札所 神護山 相持院へは大善院東の丘陵地を上り、「とこなめ陶の森資料館」を右手に見ながら尾根沿いを歩けば15分程で到着です。
2022.01.12
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圓通寺から県道23号線沿いを北に向かい20分程歩く。目の前に名古屋高速が見えるこの辺りまで来れば、それまでの大府市から名古屋市に入る。ここから更に知多四国八十七番札所長寿寺に向け真っ直ぐ歩いていきます。やがて道は県道50号線に出会うので左に進み、県道沿いにJR大高駅方向へ。丸根砦跡付近の道路左側に真新しい「山神社」の社標が見えてきます。県道から少し中に入れば鳥居を構えた小さな山神社の社地が見えてきます。社頭全景。左側は東海道線の高架が延々と伸び、鳥居は誰も来ることのできない高架に向かって建っています。鳥居から奥は社を覆う様に小さな杜に包まれ、二本柱で控え柱のない簡素な手水舎があるだけのこぢんまりとした小さな神社です。鳥居からみた境内。正面の覆屋に本殿が祀られ、本殿域はブロックで囲まれています。手水舎左に由緒書きもあるようです。手水鉢は1960年(昭和35)と刻まれている。通り沿いの社標も新しかった、意外に新しく造営されたものか。その考えは傍らにある由緒書きを見て改める事になる。「山神社一般には「山の神さん」と親しみを込めて呼ばれています。祭神は大山祇命。この地方では冬は山にいて、春になると里へ降りて田畑を支配する神、ひいては生活全般の神とも云われています。緑区の山神社では唯一独立した社叢を有し、更に祠は鞘堂に覆われた珍しいものです。当社の創建は不明ですが、江戸時代初めの1660年代の記録に記載があるので、それ以前から存在していたと思われます。祭事は12月に例祭、その前夜には提灯祭りが行われています。なお、東海道線が高架になる前にはこの社の前の道は「山神踏切り」を通って大高のまちに通じていました。大高歴史の会」小さな神社でありながら、地元の方により立派な由緒が残され語り繋がれている。分からないものはどこまでいっても分からない、知り得た事を記すだけでも語り部となって行く。山や森が消え、田畑は消えて家が建ち並ぶ、便利で綺麗な街になって行く。そんな世界に鬱蒼とした小さな藪や朽ちかけた社があれば、それは奇異な視線を浴び、肝試しの舞台になりやがては消えていく。小さな神社が消えていく背景に、先人の思いを語り継ぐ語り部を失ってしまうのがひとつの要因かもしれない。意味もなく祀られたものはないだけに、手書きでもなんでも伝承していく事が、その地に住む者へのメッセージになる事もある。石垣で高く盛られた神域、覆屋の中に萱葺屋根の社が祀られていました。鰹木は6本、千木は内削ぎの神明造のようです。祭神の大山祇命は男神とされます、鰹木の数や削ぎの向きから男神か女神を識別するのはやはり無理があるようです。社頭の前に万里の長城の様に伸びる高架が立ちはだかり、昔は参道が続いていたのだろう。今は神社までの道筋は寸断され、忘れ去られた様にポツンと鎮座しています。何度か歩いていながら見逃してきた山の神様、やっと出会うことが出来たそんな気がした。こんな住宅街に山の神様があるの? いつかはそんな事になってしまうのかもしれない。2021/12/02山神社創建 / 不明祭神 / 大山祇命所在地 / 名古屋市緑区大高町西丸根 関連記事 / 知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」 、丸根砦跡
2022.01.11
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岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」も最終日昨日は鳥取砂丘から県境を越え兵庫県の城崎温泉に宿を取る。降りしきる雨の中、外湯めぐりと美味しい晩御飯で一夜を過ごす。止む気配がなかった雨も明け方には上がったが、今一つ回復していない。早朝にホテルを発ち、城崎温泉から10分程の「玄武洞」を訪れました。自然が作り出したダイナミックな柱状節理の露頭とそれを生活に取り込んだ結果造られた洞窟を見てから最終日最初の神社「但馬國一宮出石神社」に向かいました。「玄武洞」からは円山川を遡り(南下)ながら、但馬の小京都と呼ばれる出石市に鎮座する「出石神社」まで小一時間程の移動時間。豊岡盆地東の山裾に位置し、周囲はコウノトリを育む田畑が広がる。その中に島の様に出石神社の社叢はが見えてくる。一ノ鳥居前の参拝者駐車場に車を停め社頭を眺める。当日はウオーキングイベントでもあったのか、境内は人で賑わっていた。しばらく待って静かさを取り戻した参道を歩き出す。一ノ鳥居から真っすぐ続く参道の先に狛犬が守護するニノ鳥居とその先の神門がはっきり見えてくる。参道脇は杉の巨木が立ち並び、境内は緑の絨毯を敷いたかのように苔が自生している。とても趣のある神社だ、周辺では但馬の国の一宮として親しみを込め一宮(いっきゅうさん)と呼ばれている神社。ニノ鳥居前の狛犬。参道を横切る車道沿いに建ち年代は分からない。どちらも口を閉じでいるように見えるが向かって右が恐らく阿形、開いた下顎が欠落しているのか?なんだか左の吽形にくらべ不自然な頭の形に思える。鳥居前に由緒があったが脱色が進み残念ながら読み取れなかった。石の明神鳥居だった一ノ鳥居に対し、ニノ鳥居は木造の両部鳥居、重厚で姿のいい鳥居だ。その先には朱で塗られた神門と外玉垣が続く。大きな注連縄が吊るされ、その上の額はシンプルに「一宮」神門右に手水舎、龍口から注がれる清水はセンサー付きの自動制御。「近づいて御覧、清水注いでやっから」龍の仕事は開店休業ではない。境内から神門の全景、苔が綺麗な神社の印象を持ちました。緑の苔と神門の白、朱色のコントラストが鮮やか。訪れたのが10月26日、この時期だと境内のもみじは一部が色づき始めたくらい。神門、切妻銅板葺の八脚門。柱や梁、垂木など朱が塗られ、彫が施された蟇股にも彩色が施されている。外観の印象に華美さは感じられない。神門左に柱が二つ。奈良・平安時代の伽藍は現在より遥かに大きな規模を誇ったようで、一ノ鳥居は狭間坂(出石町片間)に、ニノ鳥居は西方向に流れる出石川付近に建っていたと云う。出石川改修工事で古い鳥居の遺物や古銭が掘り出され、この柱はその一部、地表に露出していなかった事もあり遥か昔のものとは思えないもの。往古は東西に長い社地を誇っていたようで、国司や都の人たちが国府に着くとこの鳥居をくぐり出石神社に参向したという。因みに発見された場所の地名は出石町鳥居として今も残っている。その後方に由緒。「但馬は古代日本において他に類を見ない祭祀伝承を有している。御祭神は新羅の国の王子天日槍命と伊豆志八前大神(八種の神宝)。命は日本に渡来後、泥水が充満する但馬の有様を見て、円山川河口を切り開き泥水を日本海に流し肥沃な平野をもたらした。鉄の文化を大陸から伝え国土開発の祖神として関係業界から崇敬されている。神社西方700㍍に鳥居という地名が残る、昭和八年河川工事で鳥居両柱の木口とその下から開元通宝等の古銭が出土。平安時代すでに国内第一の霊社と云われた。尚、天日槍命の子孫として多遅間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后がある」神社の創立年代はあきらかではないようで、社伝の一宮縁起に谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったとされ、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたとされる。天日槍命(あめのひぼこのみこと)は古事記、日本書紀ともに新羅(朝鮮半島南東部)国王の王子とされ、日本に渡来されたとし、その痕跡は上記の播磨国風土記等からもうかがうことができる。新羅(しらぎ)の国より持参したとされる八種の神宝は、古事記に珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記され、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)として、また天日槍命を祭神として斎祀している。現在の社殿は1914年(大正三)に再建されたものとされ、神門と入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿と祝詞殿、その先は透塀に囲まれた流造の本殿が主な伽藍で拝殿軒下に狛犬が見える。軒下の狛犬は年代が不明ですが、木造で以前は鮮やかに彩色されていた様子が窺われます。大きな鈴が付けられ、角を持つ狛犬は色褪せたお互いの姿を見たくないのか下を向き、なぜか表情は冴えないようだ。「なにか思う事でもあるのか?元気出せ!」拝殿左から本殿方向の眺め。入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿、左に祝詞殿があり後方に流造の本殿の伽藍。本殿右からの眺め。透かし塀に囲われた神域と鰹木が5本で外削ぎの千木が付く本殿の眺め。本殿右側に朱色と素木の覆屋がある。境内にはこのほか市杵島比売神社、菅原神社などが祀られている。右側の赤い覆屋が天日槍の妃神を祀る夢見稲荷社、左が比売社で宇賀能魂を祀る。覆屋の後方の社叢の中に玉垣で囲われ、こんもりと盛られた一画がある。禁足地。その昔は天日槍廟所と称されていたようで、玉垣を越え禁足地に立ち入ると良くない事が起こるとか。神門をくぐった境内右手方向に絵馬堂があり休憩所としても利用されている。その隣には手押しポンプが展示されている、大正の頃から神美村(かみよしむら)宮内地区で消火活動の前線で活躍してきた物らしく、平成に入り修理・復元されたものらしい。神門左の社務所、当日は御祈祷も重なりお忙しい中で御朱印を書いて頂いた。拝殿前から神門方向の眺め。神門の棟の直線に対し、門の先に見えるニノ鳥居の島木と笠木の緩やかな曲線が強調される。イベントであれほどいた参拝客も立ち去り、境内を静寂が包み込む。しっとりとして落ち着いた佇まいで苔の緑が印象に残る出石神社、そんな印象を受けた。2021/10/26「但馬國一宮出石神社」建立 / 不明(現社殿1914年の造営)主祭神 / 伊豆志八前大神、出石八前大神、天日槍命境内社 / 夢見稲荷社、比売社、市杵島比売神社、菅原神社、所在地 / 兵庫県豊岡市出石町宮内99城崎温泉から玄武洞経由出石神社 / 車で40分程関連記事 / 「玄武洞(げんぶどう)公園・成田不動尊」兵庫県豊岡市、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3
2022.01.10
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半田市岩滑中町「岩滑 八幡社」岩滑と書いて「やなべ」と読むそうで、岩滑八幡社はここ「やなべ」の氏神様。前回記載した「新美南吉生家と秋葉社」から目と鼻の先に社頭がある。社頭から八幡社拝殿方向を眺める。右に「村社 八幡社」の社号標、左に由緒書きがあり、石の神明鳥居から奥に参道が続きます。「八幡社」祭神 應神天皇、田心姫命 、湍津姫命、市杵島姫命、境内社 神明社(天照皇大神)祭典 祈年祭2月、例祭4月、神明社祭9月、新嘗祭11月下旬、月次祭毎月15日」参道を進むと石の神明鳥居のニノ鳥居、そこから先の境内は左右に広がり、鳥居正面の拝殿と右に小さな社殿があり、その右が社務所の伽藍、更に右に稲荷鳥居があります。ニノ鳥居左の「岩滑地区祭礼」解説岩滑地区の春の八幡社祭礼に義烈組八幡車、西組御福車の二輛が曳きだされる。祭り前日の朝、八幡神社前に曳きだされ、神楽を奉納してから秋葉社、山の神社、高山社へ奉納を終えると岩滑の町内に曳き回される。宵宮では山車に提灯を灯し巫女の舞い「八幡車、御福車」が奉納された後、再び夜の町を曳き回す。本祭りの当日も同様に巫女の舞が奉納され、他に祝い込みなどが行われる。天明(1781~1788)以前から山車の曳き回しが行われていたが、現在の山車は大正年間に造り変えられたもので出羽看龍・新美常次郎らの彫刻が施されている。左が義烈組八幡車、建造は寛永五年(1852)、大正七年(1918)に改造。右は西組御福車で建造は寛永二年(1849)、大正八年(1919)に改造。何れも市の指定有形文化財(山車)に指定されるもので、岩滑の町が先人から綿々と受け継いできたもの。広い境内の左に二輛を保管する背の高い保管庫が併設されています。祭りの華ともいえる山車、半田の町に多く受け継がれてきた背景を知る由はないけれど、市内全域には今も30輌を越える山車が存在し、次の世代に受け継がれている。見る者は「伝統」や「習わし」で形容しがちですが、そこには「重荷」や「煩わしさ」も存在する。繋がる土地柄に改めて感心する。八幡社と新美南吉戦国時代の岩滑の領主中山氏が應神天皇を祀り八幡社としたが元々は神明社だったという。その名残が境内の神明鳥居と拝殿横の小さな社殿「神明社」として残る。新美南吉は生家と離れを行き来するのに八幡社の境内を通るのが日課だったようです。八幡社の四月の祭礼で山車が曳かれる情景は南吉の作品にも描かれているという。左の入母屋瓦葺の建物が八幡社拝殿、右の社務所との間に小さな神明社が鎮座します。狛犬が横並びで建っているのもそのため。八幡社の棟札で最古のものは1616年(元和2)まで遡るとされます。社務所右に豐川吒枳尼眞天。行儀よく横一列に並ぶ狛犬。その先に八幡車と御福車の収納庫がある。神明社1618年(元和4)の棟札が残るとされる。狛犬がいなければ神明社の存在に気付かないかも知れない。社殿左からの眺め、八幡社本殿の姿は杜が囲い見届ける事は出来ません。左に境内社が祀られています。境内社全景。ここからだと八幡社本殿が僅かに見ることが出来る。左が知立神社、右は熱田神社。「岩滑地区祭礼」解説にあった秋葉社はともかく、他の山の神社、高山社の所在がよく分からなかった。てっきりここかに祀られているものと思っていたが…本殿域だろうか。明治中頃の岩滑、集落は町になり水田も随分宅地化され光景は変わって来たけれど、新美南吉のふるさとの面影や古来から受け継がれて来た山車は今も残っている。2021/9/24岩滑 八幡社創建 / 不明祭神 / 應神天皇、田心姫命 、湍津姫命、市杵島姫命、境内社 / 神明社(天照皇大神)、知立神社、熱田神社、豐川吒枳尼眞天祭典 祈年祭2月、例祭4月、神明社祭9月、新嘗祭11月下旬、月次祭毎月15日所在地 / 半田市岩滑中町7-80関連記事 / 「新美南吉生家と秋葉社」半田市岩滑中町
2022.01.07
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地蔵寺から北西方向へ。歩道のない県道248号線沿いを歩く。県道は一部歩道はあるものの、大半は歩道がなく車道を歩く事になり車には要注意。末広交差点から10分程進んだ田畑の広がる県道沿いに小さな地蔵堂が立っていた。中には風化により表情の読み取れない地蔵さんが祀られていた。ここまで来れば前方に伊勢湾岸道の高架も見えてきます、万願寺の「圓通寺」は高架橋手前の小高い丘に鎮座します。県道から右に入り丘に続く坂を上ると鐘楼堂の屋根が見えてくる。丘の頂まで来ると境内が広がり、鐘楼堂の先に寄棟瓦葺の弘法堂も見える。地蔵寺から30分程かかっただろうか。瑞木山圓通寺知多四国霊場八十八番札所の八十八番、寺の片隅に満願霊場の石標が建つ。知多四国霊場八十八カ所巡礼もここで終わりを迎える。ルートの関係で八十七番札所が残っているが、先に納経とした。訪れた12/2、圓通寺は写真のように本堂の修復工事中。それにより弘法堂までの参道以外は立ち入り制限がかかっていました。遮るものなく工事中の姿を見る機会は多くはない、丁度瓦を葺いている光景を見ることが出来た。屋根のみならず木造の真新しい部材が輝いていた、次の二巡目には工事も終わり新しくなった姿を見られるだろう。こうして補修が円滑に進む寺院もあれば、苦慮する寺院もあり、その差を目の当たりにするのが知多四国巡りでもある。圓通寺の開創は729年(天平元年)、行基菩薩により馬頭観音、子安観音の両本尊を刻まれたことに始まると伝えれる曹洞宗の寺。開創以来法相宗、真言宗、臨済宗と幾度も改宗し現在は曹洞宗。応時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に見舞われ、衰退していくが、1348年(享和4)夢窓国師が中興開山、1593年(文禄2)昌山秀繁和尚が中興開基、1810年(文化7)の知多新四国開創に伴い、満願霊場88番札所に列する古刹。周辺の田畑や民家を見下ろす丘の上に建つ入母屋瓦葺の鐘楼堂。遮るもののないこの環境でこの梵鐘の音はさぞかし遠くまで聞こえる事だろう。鋳造年等は不明。上鐘楼堂の奥に石の社の鎮守社と石仏群。下弘法堂は本堂の左に位置する寄棟瓦葺で向拝が付く。堂前に白と紫(知多西国三十三所霊場)の幟が立ち並んでいます。圓通寺の本尊の馬頭観音立像は平安時代の物と云われ、脇侍の不動明王立像や毘沙門天立像など多くの文化財を保有する。弘法堂右の阿弥陀如来立像。弘法堂全景。88番。外陣に重軽石、重軽菩薩などがあり、内陣には弘法大師、毘沙門天、馬頭観音が祀られ、堂前の五色の紐は弘法大師と繋がっている。堂に掲げられた額は色褪せてはいるが辛うじて瑞木山の山号が読み取れる。外陣天井には草花の絵が描かれているようですが、退色と破損も酷い。いつ頃描かれたものかは不明ですが、白一色で描かれた花の絵柄など、このまま朽ちていく前に修復の手が入るといいのだが。内陣の弘法大師。調整もこれが限界、馬頭観音と脇侍の不動明王や毘沙門天が浮かび上がってきた。外陣に置かれた「尾州瑞木山圓通寺観音縁起」かみさんは既にお参りを終え納経印を頂きに納経所に向かったようです。自分も遅ればせながらお参りさせて頂いて八十七番札所に向かいます。工事が落ち着いて境内がすっきりしてから改めて再訪しよう。2021/12/02慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く知多四国霊場 八十八番札所「瑞木山圓通寺」開創年 / 729年(天平元年)開創 / 行基中興年 / 1348年(享和4)中興開山 / 夢窓国師宗派 / 曹洞宗本尊 / 馬頭観世音菩薩札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番所在地 / 大府市共和町小佛67地蔵寺から徒歩ルート / 県道248号線➡末広交差点右➡県道23号線徒歩30分強関連記事 / 「延命山地蔵寺」知多四国五番札 大府市長草町 、 知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」
2022.01.02
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東郷池沿いの宮戸弁天から、山間地の上り坂を車で10分程走ると伯耆(ほうき)一ノ宮倭文(しとり)神社の社頭駐車場に到着。時間は9:00を少し回っていた。社頭では神職の方が参拝者を迎えるため参道を掃き清めるそんなタイミング、一番乗りだ。ここまで上ってきた道も社頭で行き止まり、道の正面に社号標が見える。駐車場はこの辺りと、社頭左に2台ほど停められる。安産岩社頭に続く道の手前に大きな岩があり、その上に石の社が祀られています。その右手には更に古そうな社が祀られていた。謂れはその昔難産に苦しむ一人の妊婦が一之宮に願いをかけ日参したという。満願の日、下照姫命の霊夢を感じ参拝、その帰りに参道脇の岩で安産できたという。以来この岩は安産岩と呼ばれるようになった。上夫婦岩安産岩から社頭に向かう道沿いの左に二つの岩。湯梨浜町文化財ガイドブックには以下のように紹介されていた。「二つの岩は右の岩が女性、左の岩が男性を表わしているという。一説によるとここで、夫婦の契りをかわし、安産岩で安産を願い、倭文神社でおはらいを受けるという、一連の夫婦和合から出生までの経過をたどることができると伝承されている」下倭文神社社頭右に古い手水鉢、社号標、参道は緩やかに右に曲がる石段が続く。スロープもあり車椅子の方に対する配慮もされている。今は使われていない手水鉢、蓋がされ苔に覆われようとしている。正面に刻まれた元号は宝暦(1751~1764年)とあり辰の字も見える、宝暦十年(1760年)に寄進されたもののようだ。社号標は「国幣小社 倭文神社」社頭から続く石段の勾配は緩く、緩やかに右に曲がりその先の鳥居へ続き、その先に趣のある随神門がある。鳥居石の明神鳥居で額は「伯耆一ノ宮倭文神社」柱には一宮大明神、享保12年(1727)の元号が見られ、手水鉢より少し古い。古くから神仏習合し「一宮大明神」や「倭文大明神」など呼ばれていた名残がここに残っています。鳥居は苔むしてはいるが、目立った罅もなく300年間風雪に耐えて来たとは思えない。随神門と参道を守護する狛犬。狛犬の寄進年は見ていないが、目や口など彩色された今時の姿をしている。随神門4本の棟持ち柱を持つ切妻の三間一戸の八脚門で、遠目に見ると素木の外観は人目を引く彩色もなく、一見地味に見える。ところが間近に来ると、部材の至る所に繊細な彫が施され、興味の有る無しに関わらず訪れた者は必ず足を止め見上げる事だろう。虹梁やらなにから見ての通りの彫が施され、雲の中で蠢く龍もいる。棟梁や建立年度など分からなかったけれど、こうした彫は本殿も同様。本殿の再建が1818年(文化15)と云われ、同時期あるいは1872年に造られたものだろう。手先が不器用な自分からすれば、人の手によりこうした形にできる技術は神業その物。見入ってやらなければ失礼と云うものだ。随神門から鳥居の眺め。社地は鬱蒼とした社叢に包まれている。参道の由緒書き(一部抜粋)伯耆(ほうき)国一ノ宮 倭文(しとり)神社通称 伯耆一ノ宮【祭神】 健葉槌命(主神)、下照姫命、外五柱(事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命)【例祭日】 5月1日【由緒】伯耆國一ノ宮として御冠山の中腹に鎮座、安産の神として広く信仰されてきた。創立年代は不明、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命がこの地に移住、安産の復旧に努めた。創建当時この地の主産業が倭文(しずおり)の織物であった、倭文部の祖神健葉槌命に下照姫命加え祭神としたもの。織物はその後姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬されている。参道には安産岩もある。延喜式神明帳には倭文神社の名が残り、神階は幾度も昇進、正一位伯州一宮大明神の額が残る。往古の社殿は広大で千石の御朱印地を有したが戦国時代に荒廃、1554年(天文23)守護大名尼子晴久が社殿を造営し神領70石を寄進、後に神領は中絶、1570年(元亀元年)羽衣石城主の南条宗勝が復旧。その後も盛衰を経て明治以降県社であったが1938年(昭和13)国幣小社となる。【安産岩】昔難産に苦しむ妊婦が一之宮に願いをかけ日参したという。満願の日、下照姫命の霊夢を感じ参拝、その帰りに参道脇の岩で安産できた、以来安産岩と呼ばれるようになった。【下照姫命着船の地】羽合町宇野と泊村字谷の中間の御崎に出雲から着船されたとされる。下照姫命は舟から降り、化粧を直すのに使った化粧水と呼ばれる水が伝えられている。【国宝】伯耆一ノ宮経塚出土品【史跡】伯耆一ノ宮経塚湯梨浜町文化財ガイドブックにはこうも書いてあった。「記録的な初見は808年(大同3)に編纂された「大同類聚方」によると「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也・・・」と記載されている事から少なくとも平安時代初期には既に祭られていた事が窺えます」とあった。更に「940年(天慶3)以前は波波伎神社(伯耆神)が上位に列していた事から、どちらが伯耆国一宮かは不明だった。境内から発掘された伯耆一宮経塚の出土品の銘文(山陰道伯耆國河村東郷御坐一宮大明神)から、1103年(康和5)時点で倭文神社が伯耆国一宮だったことが明確となり、少なくとも平安時代後期には倭文神社が伯耆国一宮だった事が改めて判明しました(逆に言えば当初の伯耆国一宮は波波伎神社で何らかの理由から倭文神社に変更になったとも言えます)」ここに出てくる波波伎神社は東郷池西方の倉吉市に鎮座し、ここから車で30分もあれば行ける。とはいえ、伯耆国一宮参拝すら予定外で訪れた、二日目の大命題「鳥取砂丘を雨が降り出す前に見終わる事」を思うともうこれ以上西には向かえない。次のお楽しみとしておこう。参道を進むと正面に社殿と左に手水舎が見えてくる。訪れたのが2021/10/25、流行病も下火?と錯覚していた時期だった。倭文神社拝殿全景、玉垣前には個性的な狛犬が守護している。写真では大きさが伝わらないかも知れないが、小さなものではない。後ろ足を立て、頭を下げて耳を伏せた前屈みの態勢は今にも飛び掛からんばかりのもの。年代や石工等不明ですが、石の風合いから容姿には貫禄すら漂う。拝殿は平入の入母屋造りで大棟後方右側に神饌所(?)が付く特徴のあるもの、そこから渡廊と流造の本殿に繋がっていきます。倭文神社は1521~28年(大永年中)戦禍に巻き込まれ焼失、1600年(慶長5)にも焼失しているそうで、1625年(寛永2)に社殿再興、現在の社殿は1818年(文化15)造営とされ、1872年(明治5)随神門も造営された。祭神は先の通り健葉槌命(主神)、下照姫命、外五柱(事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命)。下照姫命が湯梨浜町宇野に降り立ち、御冠山中腹に祭られるようになったのが始まりと伝えられ、下照姫命が安産普及に尽力を尽くした神という事から、安産に御利益があり、一時期に於ては主神とされた頃もあったようです。社殿全景、この位置でも本殿の姿は見ることが出来ません。上左側から見る拝殿。下拝殿から本殿の眺め。三間社流造の本殿は3本の鰹木、外削ぎの千木が付き、光物の少ない素木の外観は随神門同様落ち着いた外観。虹梁、木鼻、妻壁等は随神門で見たあの彫が施されています。朝もやに包まれているようですが、落ち葉焚きの煙が漂い絵がぼんやりしてしまった。上本殿後方で見かけた石塔、年代は不明。下社務所。受付前の時間でしたが快く御朱印を頂けました。社務所から随神門方向に少し戻った左側に燈籠があり、山中に続く道が伸びています。「境内から発掘された伯耆一宮経塚」とはこの山道を5分程登ったところで発掘された。上り口に「伯耆一ノ宮経塚」の解説板があり、それが目印。最初は石段が付いていますが、すぐに下の様に階段のない地山の坂に変わります。枯れ葉が積もり気を抜くと滑りやすい道です。「伯耆一ノ宮経塚」参道から続く山道を5分程上った小高い尾根の頂にポッカリと開いた窪み、周囲は注連縄で結界が張られたその場所が経塚。伯耆国一ノ宮経塚は1935年(昭和10)に国指定史跡に指定されています。高く聳える樹々が経塚の周囲を取り囲み、境内以上に静けさが漂う。上「伯耆一ノ宮経塚」この地は古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と伝えられていた場所。「元旦の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。経塚の築造は平安後期、神仏混合の時代で伯耆一ノ宮にも神宮寺が幾つか建立されていたという。経塚の発掘は1915年(大正4)に行われ、伝承に従い地元の人々により発掘が進められた。そこから直径16㍍、高さ1.6㍍の経塚が発掘され、経筒には1103年(康和5)の銘と共に京尊という僧が、何れ弥勒菩薩が出現するので、それまで功徳を積んでおく必要性を説いています。石棺は長さ1.2㍍、幅0.9㍍、高さ0.5㍍の安山岩製で棺内には出土品と共に荒砂が敷き詰められていたといいます。経筒以外の出土品は観音菩薩立像(白鳳時代)、千手観音菩薩立像(平安時代)、弥勒菩薩立像(平安時代)の他に銅鏡、瑠璃玉、短刀、銅銭等が発見され、何れも1953年(昭和28)に国宝に指定されています。下経塚の右にはそれを見守る様に石仏が安置されていた。色々な言い伝えがあるけれど、頭から「ナイナイ」と決めつけられないようだ。東郷池を渡る白蛇や町史にあった「境内は蛇が多く、倒壊した御神木の中は空洞で、蛇の巣・・・」など「ナイナイ」では決めつけられないかもしれない。空を覆う黒雲や鬱蒼とした社叢など雰囲気は整っているようだ。今にも泣きそうな空模様、龍が下りてくる前に鳥取砂丘に向かう事にする。計画外で訪れた伯耆国一ノ宮 倭文神社、静かな杜に包まれた本殿や随神門、それらに施された彫も見事、一ノ宮の風格漂う神社でした。2021/10/25伯耆国一ノ宮 倭文神社創建 / 不明祭神 / 健葉槌命(主神)、下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754宮戸弁天から車アクセス / 県道234号線を南下10分程関連記事 / 鳥取県「宮戸弁天」、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day2
2022.01.01
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2021/9/24、久し振りの知多四国巡礼と見頃の過ぎた?曼殊沙華の群落を写真に収める目的でこの地を訪れました。札所巡りも光照寺で一区切り、次の目的地矢勝川に向け光照寺から西に向かい、阿久比川を越え県道264号線をひたすら北上します。やがて歩道脇に「南吉童話の径」の看板があり、そこから細い路地が左に伸びています。光照寺から概ね40分程。今回はこの通りに残る南吉生家とその前に鎮座する秋葉神社を取り上げます。この周辺には南吉生家の他、所縁のある寺社が集まっていて、その先は彼岸花で知られる矢勝川に続きます、なかなかスイ〃とは進めない。この辺りの通りの細い道筋は亀崎から半島西側の大野を結んでいた大野街道。写真は県道から大野街道に入ったすぐ右にあるのが「新美南吉生家」街道沿いには簓子塀の建物はところどころに点在しています。切妻、瓦葺で簓子壁のレトロな建物。ここが童話「ごんぎつね」などの作者新美南吉の生家。本名は新美正八、1913年(大正2)に父渡辺多蔵、母りゑの次男としてここで生まれました。正八を生んだ4年後母親は他界し、その2年後父親が再婚、継母志んとの間に異母兄弟が生まれた。街道沿いから見る生家は平屋の様に見えますが奥は二層構造で北垂れの斜面を利用した造り。街道側の右の間口が父親が営んでいた畳屋、左が志んの営んでいた下駄屋と生活必需品をターゲットにした多角経営をしていたようだ。やがて母りゑの実家の跡継ぎが不在のため正八は新美家に養子に出されることになったが、当時は跡継ぎとなる長男の養子縁組は禁止されていた時代だった。りゑの実家の跡継ぎ問題を解決するため取られた大人の都合は、幼い正八にとって衝撃的なものだったに違いない。正八八歳の時だと云う。新美家を継いだ正八は、1932年この地を題材にした代表作「ごん狐」を世に送り出す事になる。イベントで何度か生家の内部を見学する機会があったが、自分の幼い頃に見た事のある懐かしい展示品が置かれていたのを覚えています。この生家は後に償却され一時人手に渡っていたそうで、地元の生んだ著名な作家の生家を保存するため市が買い戻し、復元されたものという。入場は無料ですが内部の見学は建物左に掲示された連絡先に確認が必要。生家の左には「新美南吉生い立ちの地」の石標が建ち、ここと写真の県道265号線沿いに建つ「新美南吉資料館」や「童話の森」など童話の舞台となった一帯の観光の中心になっている。新美南吉生家の西側で道は二手に別れ、その角に秋葉三尺坊が祀られていました。先を急ぎスルーしようとしたが、通りすがりに常夜灯の元号を見て参拝する事にした。お洒落な住宅街の片隅に玉垣に囲まれ、社地が与えられている。玉垣も社も綺麗なため戦後の街角に祀られた火伏の神、・・・と思っていた。右手の常夜灯には大きく「文化五年」と刻まれていた。当時とまではいかないけれど、明治中頃の当地の地図が上。残念ながら鳥居の印は掲載されていないけれど、当時の岩滑集落東端に位置し周囲は水田が広がっていた。社は集落入口に鎮座している事が分かる。今では引いた写真も撮りにくい程お洒落な家が立ち並んでいる。矢勝川両岸は今も当時の面影が残るが、堤から少し離れた地域の移り変わりは驚くほど。ごん狐の舞台となったこの地も姿を変えようとしている。常夜灯左手の小さな解説板には秋葉社の由緒が語られていた。火伏の神秋葉三尺坊権現を信仰する秋葉講の信者により1808年(文化5)に建立した常夜灯。今から二世紀前の先人たちの思いから勧請されたもの。現在は電球ですが1955年(昭和30)頃までは講中の家々が交代で灯明を灯していたという。石段は岩滑の子供に達がヨモギの葉を潰し団子にする「草つき遊び」などの場だったようだ。新美南吉の小説にも登場するらしく、幼い頃の正八もこの常夜灯は遊びの場だったようだ。正八が八歳の時、ここで遊んでいると継母志んに呼ばれ、そのまま隣村の母の実家新美家に養子に出されたという。自分自身も幼い頃に両親の離婚、再婚を経験しているだけに、八歳の正八の心情は察するに余りある。29歳の若さで他界した新美南吉、幼い頃の遊び場となった舞台の一つが今も生家の傍に残っている。秋葉社の二股を左に進むと直ぐに八幡社の社頭、その前の路面に案内プレートがある。目的地は矢勝川、進路は八幡社を経て写真の常福院方向に向かう事にした。2021/9/24新美南吉生家所在地 / 半田市岩滑中町1-83秋葉社創建 / 不明常夜灯 / 1808年(文化5)祭神 / 秋葉三尺坊権現所在地 / 半田市岩滑中町2(新美南吉生家の斜め向かい)関連記事 / 知多四国八十八箇所十八番「光照寺」、知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩くアクセス / 光照寺から県道261号線➡国道247号線➡県道264号線徒歩約40分
2021.12.31
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乙川八幡神社を後に西方向へ徒歩で5~10分程の所に知多四国八十八箇所十八番「光照寺」は鎮座します。道のりは相変わらず見通しの効かない狭い道ばかり。上は光照寺南側の鐘楼門前の通りの写真。境内入口脇で見かけた「知多四国霊場道標」、☞十九番「光照院」までは十三丁と彫られています。1丁が約110㍍なので約1.43㌔、20分程の道のりか。鐘楼門、入母屋瓦葺の四脚二層の門。道路から見る門は、見る者に覆いかぶさってくるようでもある。鐘楼門正面。扉の様に見える袖壁が四脚其々に付けられ、軒先の深い屋根は鳥が羽を広げたよう。石段から境内の眺め、目の前に本堂は見えています。境内から見た鐘楼門、45度方向に付けられた袖壁が重心の高い門を支えているのがよく分かる。無骨な鉄骨に比べると遥かに違和感もなく寺の佇まいに調和している。過去に大きな地震も経験しているだけに学びの形だろう。本堂全景。庫裏、納経所は右手になります。光照寺は1324年(興国3)源 親房の建立とされるようです。その昔海岸線がもっと近かった頃は、過去記載した乙川八幡社付近の海岸に鎮座していたという。沿革は1324年(興国3)源 親房により建立。1555年(弘治元年)天誉白応和尚により復興再建。1781~1788年の天明年間に自然災害で伽藍を失う。1811年(文化8)堂宇建立。1980年(昭和55)庫裏改修、2003年(平成15)に本堂改修宗派は時宗で本尊は阿弥陀如来。本堂は入母屋瓦葺平入で大きな向拝が付き、深い軒の下に縁が付く。本堂、賽銭箱に三つ引きの紋が入る。本堂左から廻廊が続き観音堂と繋がっているようです。観音堂としては立派な方型の二層屋根の造り。1808年(文化5)、十四世 覚阿是興上人の時、紀州徳川家の支援によりこの地に移転した。1811年(文化8)、廓山和尚により本堂はじめ庫裏等が建立されますが、この時観音堂は塔として建てたかったようですが、当時寺格の高くない寺に塔の建立は許されなかった。塔の建立を捨てきれず、当時尾張徳川家の付家老だった成瀬隼人正家に懇願、「ひさしをつければ塔にあらず」の言葉をもらい建立が許されたのが観音堂だという。観音堂正面の眺め、二層方形屋根の観音堂で約束通りに大きな向拝が付けられています。改修履歴は不明で、現在の姿は1811年以降大きな改修を受けていないのか、軒などに傷みが見られます。観音堂向拝から内陣の眺め。外陣には大きな奉納額や提灯が吊るされ、内陣中央の厨子に本尊の秘仏十一面観音像が安置されている。この本尊はその昔、亀崎沖で漁師の網にかかったものと云われ、それをここに安置したという話が残るそうです。正直理解に苦しむ話ですが、こうした言い伝えは各地で耳にします。そうした数だけ戦禍や自然災害が起きていたのだろう、素直に解釈して「昔の海や川には沢山の仏像が流れていた」という事だろう。弘法大師像は内陣左に安置されています。観音堂左の不明社、ここでは氏子社としておきます。鐘楼門に続く境内南側に二つの祠があります。右の地蔵堂は「清水次郎長地蔵尊」、左が六地蔵堂。清水次郎長所縁の地蔵尊とされ、以前は亀崎街道の県道沿い安置されていたそうで、時代の流れで居場所を失い光照寺に安置されたようです。勝負事に御利益があるとされ勝軍地蔵、心願成就地蔵とも呼ばれるそうです。そもそも「亀崎に清水の次郎長さん?」となるだろうが、その昔の亀崎は海運業が盛んで舟の往来も多かった。講談にも取り上げられる話で、八尾ケ嶽惣七の四股名の相撲取り、穂北の久六は博打が好きで十手持ちでもあった。次郎長からも情けをかけてもらうなど親交があり世話になるも、ついにはその道にどっぷりと浸かっていき博徒として子分を持つほどの頭角を現していったという。悪行の数々を働き、次郎長からも行いを改める様に再三警告を受けていた、久六は次郎長の名声や警告を嫉み、次郎長に有らぬ疑いをかけ捕縛を画策したという。幸運にも逃げきった次郎長は、大政、森の石松、八五郎の子分を呼び、亀崎巡業に訪れていた久六を誘い出し、亀崎街道の現在の乙川駅付近で久六やその子分を襲撃、次郎長により右腕を切り落とされた久六は虫の息となった。見かねた村人が久六を取板の上に乗せ光照寺に運びそこで息絶えたと云う。1859年(安政6)のことだという。この地蔵は久六打ちを前に、次郎長が成功を祈った地蔵され、以来勝負事に御利益あるとされ参拝者が訪れるのだそうだ。六地蔵堂に安置されている地蔵達、どれだけの年月を重ねてきたものか、一部に表情は消えかけようとするものも安置されていました。地蔵堂から山門方向眺め、地蔵堂の左が手水舎。参拝を終え西側から光照寺を眺める。成瀬隼人正家の粋な計らいで形になった二層の観音堂と鐘楼門が印象に残る寺だ。2021/9/24乙川の清き流れに佛を映せば胸の垢や落ちなん開運山 光照寺宗派 / 時宗創建 / 1342年(興国3)建立 / 源 親房本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場十八番札所 / 知多西国霊場三十二番札所所在地 / 半田市乙川高良町120(乙川八幡神社から徒歩約10分程)関連記事 / 乙川八幡神社(入水上神社) / 知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く
2021.12.28
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今回は知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」から次の札所への移動中、常滑市西阿野半月で見かけた「七社神社」を掲載します。車道沿いの「⇦七社神社」看板に導かれ細い路地を進み社頭に向かいます。社頭全景右に「村社式外七社神社」の社号標、左に由緒書き。一の鳥居から少し先に二の鳥居が見えます、そこから先の参道は鬱蒼とした森の中に石段の参道が続きます。まずはこの辺りの地名「西阿野」について、西があれば東もあるのだろう、地図を見ていても見つからない、1970年に刊行された尾張国地名考の「西阿野村」を見ていると、「後世西の字を冠に置るは、郡内に同名出来たればればなり」とあった。知多郡内に「阿野」の地名が二つ存在する事になり識別化のため、西を冠したのが当地で、東を冠する阿野は現在の豊明市内に存在していました、傍にはないはずです。社頭の由緒書き常滑市西阿野字半月263番地 七社神社祭神天照大神(天照皇大神宮)・伊邪那美命(熊野權現)・譽田和氣気命(岩清水八幡宮) ・ 廣国押建金日命(藏王權現)・天児屋根命(春日大神)・菊理姫命(白山神社)・菅原道真公(天満宮) 主なる祭典例祭4月15日・祈年祭2月25日・新嘗祭11月25日・月次祭毎月1日往古七社明神と称してた、1824年(文政7)七社明神に昇格、明治維新の際七社神社に決定。1872年(明治5)9月村社に列挌、同40年12月神饌幣帛供進神社に指定される。以来氏子の尊敬篤く今日に至るニノ鳥居綺麗な外観は近年建替えられたようです。鳥居の左に手水舎があります。手水舎、鉢は龍不在で清水は満たされていなかった。訪れたのは2021/11/20、彩りの寂しくなった参道に椿の赤が彩りを添えていました。最後の石段を上り切ると境内のようです。境内全景。鬱蒼とした樹々が開け、広く明るい境内が広がります。二段に石垣が積まれ、その上に社殿、右側に境内社が纏められているようです。境内左に社務所があり、参拝中写真左方向から車が入ってきて社務所に出入りされていました。車で乗り入れ可能なようですが、参拝者駐車場の表記はなかった事だけは書き留めておきます。切妻平入の瓦葺拝殿、石段脇に狛犬が建てられ、狛犬後方の左右にも社標が建っていました。年季のはいった風貌の狛犬、1922年(大正11)の寄進の様です。拝殿全景。素木で人目を引き付けるような飾りや彩色はなく、落ち着いた佇まいをしています。拝殿から本殿方向の眺め。殿内を見渡し、外部の瓦も見渡したけれど神紋は分からなかった。拝殿右の境内社。境内社上段左が知立社と山神社、右が天神社、秋葉神社下段左が塩窯神社、厳島神社、右が金刀比羅社、白山社本殿(左)の右が天王山津島神社、猿田彦神社。何れも流造。西阿野を見下ろす丘の頂に鎮座する七社神社社殿全景。さて、1824年(文政7)七社明神に昇格まではともかく、この神社の創建は?となると辿り着けなかった。「七社神社」創建 / 不明祭神 / 天照大神・伊邪那美命・譽田和氣気命・ 廣国押建金日命・天児屋根命・菊理姫命・菅原道真公境内社 / 天王山津島神社・猿田彦神社・知立社・山神社・天神社・秋葉神社・塩窯神社・厳島神社、金刀比羅社、白山社所在地 / 常滑市西阿野半月263 洞雲寺から徒歩ルート / 東へ15分前後 関連記事 / 知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」 / 知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.27
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大府市長草町本郷40「延命山地蔵寺」以前掲載した長草天神社から随分と歩いただろうか…なんて嘘ばっかりです。天神社から徒歩10秒もあれば五番札到着。何せ天神社境内から地蔵寺山門前の石段にショートカットできてしまう。なので知多四国巡りのかみさんの御供で来ているおやじには有難い立地条件である反面、ついつい「いい加減に合流して次行くよ」なる。上は長草天神社西側から見た地蔵寺伽藍。目の前の壁が本来あるべき姿ではないのは一目瞭然。天神社境内からショートカットするとこんな感じで目の前が地蔵寺山門です。山門から地蔵寺本堂の眺め。入母屋瓦葺で平入屋根で軒先の反りが綺麗な本堂だと思います。地蔵寺の始まりは1573年(天正元年)当時地頭だった市村伝四郎が地蔵堂を建立したことに始まるといいます。3年後横須賀の長源寺から教岩和尚を迎え開創、大阪冬の陣の1614年(慶長19)日山天朔和尚が伽藍を整え開山した、曹洞宗のお寺で本尊は延命地蔵大菩薩。現在の本堂は2004年(平成16)改修後の姿。本堂山号額は「延命山」東に隣接する長草天神社とは江戸末期まで敷地を共にしていたが、神仏分離によりあの壁が造られたもの。本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子の作と伝わるそうだ。境内右の庫裏、納経所。境内左の眺め。左に手水舎、右の寄棟の建物が弘法堂です。手水舎地蔵寺本堂西側に巨大な修業大師像がそびえ立つ。寄棟瓦葺の本堂とその右には1939年(昭和14)に、紀元2600年の記念として奉納された高さ3.5㍍の大きな大師像が奉納され、納経に訪れた巡礼者を見守る様に聳えています。長草天神との繋がりを示すかのように軒丸瓦などに寺紋の梅鉢紋が施されている。そんな顔しなくても……今日はまだ飲んでないし、至って素面なんで、受け入れて欲しいものだ。弘法堂右に二体の石仏。写真は切れてしまったが左のお地蔵さんはお洒落なニットの帽子がとても似合っていた。本堂左の寄棟瓦葺の弘法堂。賽銭箱も梅鉢紋が入る。額は「願王閣」、外陣右に賓頭盧尊者、内陣中央に本尊の地蔵菩薩、左に弘法大師が祀られます。ろくどう(六道)の のうか(能化)をちかう みほとけの りやく(利益)ながくさ このぢぞうじ2021/12/02「延命山地蔵寺」勧請 / 1573年(天正元年)開創年 / 1575年(天正3)開創 / 教岩玄相和尚宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40関連記事 / 『長草天神社』大府市長草町 /知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」2月24日直前の日曜日「どぶろく祭り」の時に再び訪れようと思います。どぶは旨い。「次行くよ!」…ハイ!
2021.12.23
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常滑市井戸田町 洞雲寺宝全寺で納経を済ませ一路南下、洞雲寺へは県道34号線を左に進みます。その先の奥条4丁目信号で右に向かい阿野町3丁目交差点から左に進めば洞雲寺着です。所要時間ほゞ30分でした。阿野町3丁目交差点から左に進むと道路左側に小高い丘と森が見えてきます。失敗談。写真に矢印を付けておきますが、看板があり、私らはそちらを進んでいきました。後になって分かりますが、×を付けた細い道を進むと洞雲寺の駐車場と観音堂には出れますが、山門は左に進んだ右側です。右に続く細い道、その途中に石段があるのでこちらを上ります。上境内は左に観音堂と正面に稲荷鳥居があり、樹々に包まれた先の石段を下りると本堂に続きます。駐車場は右方向になります。下知多四国第六十二番札所洞雲寺観音堂。道路から見えていた丘の上に鎮座する入母屋瓦葺平入の観音堂。観音堂外陣。鰐口下に見える石の地蔵は「願掛け抱き地蔵」と呼ばれるそうで、願掛けをして地蔵さんを持ち上げた時、その重みが軽く感じれば願いが叶うという。重軽石の地蔵版。賽銭箱の上にある木彫りの手は祈願用で、これを持ち撫でるとご利益があるのだという。外陣天井を見上げると無数の千社札。壁面に巡礼奉納額が掛けられていましたが、年代は読み取れない。内陣左から弘法大師像、中央に聖観世音菩薩、右側に薬師如来像が安置されています。聖観世音菩薩は33年毎に御開帳されるそうで、前回は2019年に御開帳されたようです。上観音堂正面から境内の眺め、正面には忠魂碑。参道の両脇の鉢は蓮が植えられていて、時期になると綺麗な花を咲かせるようで、洞雲寺には双頭蓮と呼ばれる一本の茎から二つの花を咲かせる珍しい蓮があるという。100年に一度とか50年に一度あらわれるとか言われるようで極めて稀な事象とされ、吉祥、瑞兆の花とされ良い事が起こる前兆とされる有難い蓮なんだそうだ。蓮を生けた鉢は本堂前にも無数見られ、実際に見てはいませんがそれらの鉢に花が咲けば見ごたえがあるやも。下本堂に向かう石段の右に鎮座する稲荷大明神。役行者像稲荷社の向かいにオールステンレス製の祠に安置されていて、風化により像容や年代は窺い知れない。上本殿に続く石段、周囲にもみじもあり紅葉が綺麗かもしれない。11月の終わりに訪れましたが、この時期の紅葉はまだ色づき始めた頃でした。下本堂前の境内から石段の眺め。石段左右に祠があり、手前の祠が地蔵尊、奥は青面金剛明王像が安置されています。上洞雲寺本堂全景、寄棟瓦葺の平入。洞雲寺は正式名を御嶽山洞雲寺で、由緒沿革によると開山は1555年(弘治元年)に善海法師により開かれたという。白鳳年間、聖武天皇の勅願を受け、行基菩薩が天竺の香木から聖観世音菩薩像を刻み、御嶽山に安置、七堂伽藍、三百の坊を有する「御嶽三百坊」を建立したとされます。しかし、1537年(天文六)の兵火によりこの伽藍は数百年間にわたって信仰、文化の中心地であった御嶽山の伽藍坊舎はことごとく焼き払われたとされます。諸堂の焼失から難を逃れるため、仏像は池に沈められ、田畑に埋められたと伝わるようです。時は流れ御嶽池の改浚の折、本尊の阿弥陀如来(平安末期作)が池中から発見され、信仰の場として寺院を建立したのが御嶽山洞雲寺の始まりという。下本尊の「阿弥陀如来坐像」は常滑市文化財に指定されるもので行基作。右本堂前のおもてなし観音三十三の姿にかえられる観音様、生きとし生けるものを導く姿を「おもてなし」というようだ。左見上げて如来上半身だけの観音像はあまり見たことがない。これら何れも近年に建立されたもののようです。本堂山号額と堂内。本尊の像高は88㌢で榧(かや)材の一木造で現状は生漆塗りとのこと。極楽浄土から来迎する姿ではなく、悩みを紐解く瞑想の姿で、顔立ちは優しさが漂い、衣は十世紀風の古様を示し、平安末期と推測され昭和44年に常滑市指定文化財になったようです。堂内に安置されている像各々に銘板が付けられ、そうした銘板は境内の祠などにも及んでいる、馴染みのない者には有難い。左、賓頭盧頗羅堕尊者と右が俵子、色々と見どころの多いお寺です。洞雲寺の寧護大師。ガラスの箱に入れられた猫の置物、ではなく猫の姿をされた弘法大師なんだそうだ。この像は裏と表ともに猫の姿が描かれ、写真の三鈷杵を持つ側が弘法大師を表現し、裏側は数珠を持つ私達が猫として描かれている。寧護とは安らぎを守るの意味らしく、猫だけに鰹節のパックをお供えするのが習わしの様です。こちらの像も平成に入って奉納されたものという。寧護大師をお目当てに訪れる方や、専用の御朱印もあるようで、寧護大師は集客に一役買っているようだ。こちらが洞雲寺の玄関となる石柱門、ここから先の境内に数台は駐車はできるようですが法要に訪れた方用と割り切った方がいいかな。という事で冒頭に戻って、右の細い道から境内に入ったので裏から入り、表から寺を後にすることになりました。2021/11/25御嶽山 洞雲寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1555年(弘治元年)善海法師により創建本尊 / 阿弥陀如来座像札所 / 知多四国八十八箇所六十二番、知多西国三十三所霊場十三番、法然上人知多二十五霊場十二番 宝全寺から洞雲寺徒歩ルート / 約30分程所在地 / 常滑市井戸田町2-37関連記事 / 知多新四国八十八箇所霊場 六十四番札所 『世昌山 宝全寺』、知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.20
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二泊三日で岡山、鳥取、兵庫の一ノ宮巡り。道の駅神話の里白うさぎで車中泊し迎えた二日目。まだ薄暗い空ですが水平線を見れば徐々に陽が昇ってきています。二日目は、道の駅から徒歩10分程西にある気田岬を目指します。淹れたての暖かいコーヒーで体を温め二日目が始まる。道の駅駐車場の国道9号線。そこには白兎海岸に向かう観光用なのだろう、立派な木造の歩道橋が架かり海岸まで容易に行くことが出来ます。歩道橋から白兎海岸の眺め(3枚貼り付け)右方向は鳥取砂丘方向、左が目的地の気田岬。海岸は一面砂浜でサーフィンや釣りをする姿も見られます。岬の右に見える小さな島が淤岐之島、白うさぎが流れ着いたとされる神話の始まりの地とされます。この海岸は白兎神と和邇族(大陸からの海洋民族など諸説あり)との戦の場とも云われています。小さな湾の小さな砂浜は色々な神話の舞台となった。水平線の先は大陸。神話だけにとどまらず、意図して海を越え訪れる者から見れば、こうした場所は上陸に最適なロケーション。歩道橋から海岸線を西に進むと道沿いに案内板。恋島は大国主が八神姫にプロポーズした場所とされ、砂浜にある小さな岩で神楽岩とも呼ばれているそうだ。目と鼻の先の海面に見える岩礁帯と小さな島が淤岐之島。白兎の丘へは国道沿いに左に進み、白兎トンネルの手前から気田岬を上っていきます。上の案内板付近に神話「因幡の白兎」の解説板、舞台となった淤岐之島に向け閉立てられている。息子達が子供の頃に誰しも一度は読み聞かせた事があると思います。その時期も過去の事となると話の全容は怪しくなってくる。恋島(神楽岩)白兎海岸。遠目に見ると淤岐之島を望む砂浜に燈籠建てられ趣がある光景だわいとなる。見るべきところは実は燈籠の礎石になっている岩のようです。島とあるが、砂浜に岩盤の一部が露出した岩の集まり。この場が大国主命が八上姫にプロポーズした場所とされ、燈籠は1858年(安政5年6月)に、一番高い神楽岩の上に地元の若衆により建立されたもの。冬の日本海の荒波や風雪に耐え、今も姿を留めている。淤岐之島。気多岬の目の前の沖にある神話の舞台となった島。白兎はここに流れ着いた、陸は目と鼻の先。この小さな島には東西に通じる洞窟が出来ているといい、島の高さは約10㍍程。上部に僅かな平坦地があり、頂上には黒松や植物も自生し鳥居が建てられています。この島は鳥取池田藩主の遊覧所があった所と言われ、この島蔭は昔の漁夫の唯一の避難所だったといいます。沿岸の漁夫は、このあたりを「神が下」と呼んでいたようで、島の上に天邪鬼(あまんじゃく)の塚があるとされこのように呼んだようです。岬と島の間の波間には水深の浅い岩礁帯があり、それがワニの背に例えられているという。その気になればワニを騙さなくても陸に上がれる?そんな距離感です。猪だって海を渡る、うさぎだって…それでは神話にはならないか。気多岬の山陰に祀られた小さな神社「白兎 川下神社」古来「氣多ノ前神ヶ岩」に鎮座されたもの。天正九年秀吉の鳥取城攻めで秀吉の軍勢により焼失。白兎神社と共に1764年(宝暦14)に再興、1912年(大正元年)白兎神社に合祀した。祭神は豊玉比売で海を守り、婦人病の守護神とし崇敬され、平成21年の台風で被災し現在の場所に遷座。白兎川下神社の屋根に飾られた千木と鰹木は見慣れた形とは少し違う。こうした形の呼称を知らないが、以前見かけた穂高造の鰹木に似てなくもない。棟に沿って伸びる千木は一説には舟の舵を表しているとも聞いた気がする。山奥の穂高神社とは違い、ここは目の前は海、そして和邇族、海洋民族の香りが漂ってくるような。白兎 川下神社由緒 「川下神社は古来気田ノ前神ヶ岩に鎮座されたもの。白兎神社と共に、宝暦14年(1765年)に再興。大正元年に合祀した祭神の綿津見大神の娘豊玉比売は神ヶ岩に庵を結び鵜の羽を敷き鵜草葦不合の命を生み龍神となり海に入っていった、依ってここに祀ったと伝わる。海を守り婦人病の守護神として広く知られる。平成21年の台風で被災し現在の場所となる。祭典は8月1日」白兎 川下神社創建 / 不明祭神 / 豊玉比売所在地 / 鳥取県鳥取市白兎気多岬白兎川下神社から国道に出てトンネル右手を上っていきます。この先に気多岬東屋や更に上ると白兎の丘に続きます。気多岬東屋から淤岐之島の眺め。入口から2~3分の岬中腹にあり、東屋の外観は特段見所がある訳ではない。しかし東屋内から望む淤岐之島(おきのしま)は「因幡の白兎」の舞台が一望でき、鰐の背中とされる岩礁帯を見下ろせます。浜から見る島の姿とはまた違う姿を見せてくれる。こうして窓枠から眺める淤岐之島の姿は額に入れられた一枚の絵のようでもあり、朝な夕な光景は移り変わっていくのだろう。淤岐之島。東西に繋がる岩窟は見て取れないけれど、荒々しい自然が創り出した岩の島。島には鳥居以外になにもない、ここに辿り着いたら目の前の陸に上がりたくもなるだろう。岬から島までは白波が立つほどの浅い岩礁が続き、ひょっとすると鰐すら近寄れない水深です。「白兎の丘」気多岬東屋から岬頂上の丘へは二つの歩道がありますが、訪れた際は東屋から先に続く歩道は閉鎖され、東屋手前に上に続く坂を上っていきました。丘には展望台があり西側の眺望が望めます。白兎神上陸の地としてカップル向きの撮影スポットが建てられています。西側の眺め。眼下に小沢見の集落とその先の岬の「大崎城址」が望め、東方向を眺めると遠く鳥取砂丘が見通せます。サーフィンに適しているのだろう、この時期でも波に乗る姿も見られる。夏の澄み切った青い海もこの頃になると沈んだ色なり、冬の訪れを感じさせる。東側の白兎海岸と道の駅方向の眺め。大きな浜ではないけれど消波ブロックがある訳でもなく自然の姿をそのまま留めています。道の駅と丘はこれくらいの距離感、ゆっくり往復しても1時間はかかりません。白兎神社参拝の際は恋島・白兎川下神社・淤岐之島まで歩いて見るのもいい。関連記事 / 『白兎神社』鳥取県、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day2、 穂高神社奥宮
2021.12.19
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乙川八幡神社(入水上神社)以前掲載した香取神社から南に約10分程の所に鎮座します。かつて入水上神社と呼ばれ、入水上八幡宮、八幡宮と改称し、1880年(明治13)に現在の八幡神社となったようです。鳥居左に神馬像と境内へ繋がるスロープがある。ここは祭礼で曳き回される山車が乗り入れるためのもの。短いながら傾斜があり、山車の出入りには酷な坂で曳き回しの見所となっているようです。朱塗りの両部鳥居はニノ鳥居で、ここから南に続く参道に石の明神鳥居がある。鳥居右に社号標があり手水舎は左にあるようです。左のスロープ沿いに手水舎がある、祭礼の事を考えての配置だろう。どう見ても鳥居側から利用するように配置されていないようです。拝殿全景。瓦葺の入母屋平入のコンクリート造りの拝殿。拝殿左には社務所、神馬像や多賀社が祀られています。右手には境内社が纏められていました。八幡神社の創建は定かではないようですが、「奉再建入水上社一宇」と記された棟札が残り、そこには1522年(大永2)と記されていると云う。古くは航路安全祈願、現在は交通安全祈願の御利益があり、また合祀に予母都事解之男命を祀っている事から悪縁切りにも御利益があるとされ、崇敬されている。八幡神社は指定文化財が多く、覆殿の中にある三間社流造の本殿はじめ棟札や祭礼絵図、社地絵図など有形文化財に、絵馬が有形民俗文化財と半田市の指定を受けている。また、毎年3月下旬の土曜・日曜に行われる乙川祭礼行事では、八幡神社から若宮神社へ御神体が移動する「神輿渡御」の際には4輛の山車が警護のため曳き回されるそうで、無形民俗文化財に指定されている。拝殿から幣殿の眺め。主祭神は応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命。速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀。拝殿右に境内社と注連縄が掛けられた大きな岩が安置されている。解説によれば「御祭神の神功皇后が子安・安産の神さまで、その御神徳と岩田帯にあやかり、この岩を撫でる事で御利益がある」という。正面に結界が張られた一画と手前の石の社は猿田彦神社。奥には境内社七社が祀られている。七社全景。流造、神明造、板宮造りと造りは様々。右から伏見稲荷大社、松尾大社。その左に熱田太神宮社と……白猫に山祇社。右から秋葉神社、天満神社、金毘羅社と並ぶ。上は境内社横から覆殿と拝殿方向の眺め。本殿は見て取れない。下はニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め、社頭には入水上神社と刻まれた社号標と狛犬がいる。鳥居扁額は「八幡社」とあった。山車はこの参道を経て、八幡神社と若宮神社を曳き回される。拝殿左斜めから社殿全体の眺め。再建時期が違うのか、幣殿は木造の入母屋平入でその先の切妻の覆殿と並んでいます。境内飛騨の端に脇参道があり、絵馬掛けと多賀社が祀られています。ニノ鳥居前の参道左に格納庫。3月の春の乙川祭礼は無形民族文化財に指定され、地域で組織される浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛の山車が、ここ乙川八幡神社に集結し、御神体を載せた神輿が若宮神社まで移動する際の守護として巡行されるそうです。この格納庫に保管される山車は源氏車と呼ばれ、1852年(嘉永5)岸幕善次郎によって建造または改修を受け、今日に至るまで幾度かの補修を受け引き継がれている。下はニノ鳥居脇に掲げられていた「乙川祭礼行事」解説。半田市内の祭礼の中では古い由緒来歴を持つと云う。「乙川祭礼行事」、一度は目にして見たいものです。2021/9/24乙川八幡神社(入水上神社)創建 / 不明祭神 / 主 応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命。合 速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀境内社 / 猿田彦神社、伏見稲荷大社、松尾大社、熱田太神宮社、山祇社、秋葉神社、天満神社、金毘羅社、多賀社所在地 / 半田市乙川殿町97関連記事 / 『香取神社』半田市乙川北側町、知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く
2021.12.16
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2019年秋から巡り始めたかみさんの知多四国八十八箇所霊場巡り。残りも5番と87、88番札所を残すのみ。終わりが見えてくると年内に一巡しておきたくなるもので、12月2日万願寺を目指し出かけてきました。万願寺でゴールと行きたいところですが、JR共和駅からスタートするとロスが大きい。それは諦め、五番札所地蔵寺を目指す、今回は地蔵寺に隣接する『長草天神社』を掲載します。長草天神社JR共和駅から南西に進み県道243号線沿いを20分程歩くと長草天神社到着。社頭全景。石の明神鳥居があり、鳥居を一歩くぐった左に手水舎と社号標。手水舎と時代に振り回された象徴「村社 天神社」の社号標。管が付けられた龍口も時代を象徴する光景かも知れない。鳥居の額はシックなものです。参道からすぐに石段が始まり、目と鼻の先の境内に続いています。天神社だけに石段を昇り始めた中ほどに大きな撫で牛が出迎えてくれる。石段左の由緒書き「御祭神 管原道真公例祭日 2月25日直前日曜日御由緒鎌倉時代英比ノ庄(大府市は当時英比ノ庄に属す)の地頭藤田民部は家人の藤次藤左衛門等をこの地に入墾させ、明応三年(1494)六月十九日地頭の邸内に祀られていた菅原道真公を産土神として迎えられたのが当時の創建と云われている。御祭神が丈道の大祖であることから、学問の神として合格祈願に詣でる人は遠近を問わず、御神徳はきわめてあらたか。大府市無形民俗文化財(平成14年指定)どぶろく祭り特殊神事として知られる「どぶろく祭り」は本社創建の際、藤田民部が寄進した御供田一反歩の収穫米をもって「どぶろく」を醸し、正月二十五日(現在は2月24日直前日曜日)に神前に供え、社頭で氏子、参拝者に振舞ったのが始まり。諸事情によって寛文五年(1665)より三年間中断したところ悪病が流行し、多くが病死し村は衰退した。これは神酒醸造を中止したからだと、寛文八年(1668)より再開したところ凶事凶作もなく平和な村になったと云う。その後この神事は如何なる年でも継承され現在に至る」創建から500年以上も風化することなくこの地で受け継がれている神事。境内左には「長草天神社どぶろく酒造所」として醸造専用の建物も建てられている。境内は右に社務所、その手前に梅の樹と歌碑が建つ。「こち(東風)ふかば 匂ひおこせよ 梅の花あるじなしとて 春なわすれそ」藤原時平一派の策略にはめられた道真は京から太宰府に流される時、手をかけていた梅を前に詠んだ有名な和歌。石段脇の樹齢を重ねた楠の樹。長草天神社拝殿全景。入母屋瓦葺の平入で軒唐破風付きの拝殿に見えましたが、横から見ると拝殿と幣殿、本殿が一体となる権現造なのがよく分かる。社殿の壁面は木を多用し、見た目に温もりを感じる。拝殿左の建屋は長草天神社どぶろく酒造所。拝殿前の狛犬。御影石の産地岡崎も近いこともありお馴染みの容姿。寄進されたのは比較的新しいようです。参拝を終え、拝殿から唐破風を見上げる。瓦や破風飾りなどいたる所に梅鉢紋が施され、温もりのあるシックな外観に金色の飾り金具が輝きアクセントになっている。拝殿内は窓が少なく薄暗いけれど、コンクリートにはないディテールや温もりが溢れている。余談になりますが最近在来工法で寺を再建する光景に出くわした。そこでおじさん達に交じり一人の若い女性の姿を見て、伝統技術を受け継ぐ若い世代がいる事に関心した。遷宮にしても建て替えにしても、伝統的な技術を次の世代に継承するのに一役買っている。社殿左からの眺め。この辺りの境内は広々とした余裕のある空間がある。境内の杜は主に楠木が主のようで、それら見事な枝ぶりのものばかり。拝殿左に境内社が纏められ、更に左の建物が長草天神社どぶろく酒造所。本殿は透かし塀もあり、全体を窺うことは出来なかった。垂木や隅木にも梅紋の入った飾り金具が施され、コンクリートではあまり意味のない技術かもしれない。本殿左にも撫で牛。天神様と牛「天神様と牛を結び逸話は数多くある。社頭に牛の像があるのも天神様のお使いとして信仰され、心願成就、病の平癒など祈願し牛を撫でる風習がある。謂れは一般的に道真公が丑年の丑の刻生まれとされ、牛を大切されたという」道真が丑年なのは知ってはいたが、真意のほどは定かではないようですが、丑の刻(午前1~3時)生まれだと云うのは今更ながら知らなかった。その左に境内社が二社祀られています。そこを守護するのが石柱の台座に乗せられ、小粒ながらしっかり角を持つ可愛い狛犬。相方も一緒に載せたかったが、色が飛んでしまい吽形のみとなってしまった。右手が津島社祭神は建速須佐之男命。左手が五社神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社の五社相殿。祭神は天照皇大御神、豊受大御神、大山祇大神、大名持大神、少名彦大神、火産霊大神、猿田彦大神。長草天神社どぶろく酒造所6つの酒元組により、輪番でどぶろくを醸造し「とぶろく祭」当日に1年の無病息災を祈願し参拝客に振る舞われるそうだ。…これは機会があれば来るしかないナ。その西は隣接する地蔵寺。江戸末期まで同じ敷地内にあり、境内西側から地蔵寺山門前に繋がっている。今頃かみさんはこちらで納経を済ませている頃だろう。境内西側に清祓所と鷽替之碑鷽替(うそかえ)とは、天満宮の特殊神事のひとつ、野鳥の鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年の災厄・凶事などを嘘とし、新しい年が吉となるように祈念する神事。実物の鷽が見ると「ウソ!」と思うかもしれないがデホルメされた鷽の石像。そろそろかみさんの元に行かねば。まだこの下に狛犬が見える、待たせついでに行ってみよう。境内南側は一段下がって県道249号線沿いに小さな神域があり、奥に狛犬が見えます。入口左に手水鉢がありました、元号は文化(1804~1818年)と刻まれていた。先に進むと上の境内から見えていた狛犬とその先に……?この先は参道入口の楠木の巨木と撫で牛に繋がっている。この狛犬はそれらを守護しているのかな?境内から地蔵寺山門前の石段に繋がる脇参道。ここから地蔵寺に向かいます、随分待たせてしまった。長草天神社創建 / 1494年(明応3)祭神 / 管原道真、菅原雅規境内社 / 津島神社、五社宮(神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社所在地 / 大府市長草町本郷44公共交通機関アクセス / JR東海道本線「共和」駅から徒歩20分程関連記事 / 知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」
2021.12.15
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松平東照宮からあやめ恋路を『高月院』に向け歩いてきました。紅葉のトンネルも間もなく終わり視界も広がってきます。あやめ恋路出口の駐車場から望む高月院山門。高麗門の山門は1641年(寛永18)家光によって伽藍全て再建された当時のまま。左手に「法然上人三河二十五霊場、第一番高月院」の石標、右に「愛知高原国定公園」の碑が建つ。門前に掲げられた高月院解説と「高月院」の山門額。この辺りから城壁のように続く室町塀、松平郷方向を眺める。松平村史には「秋には紅葉、茸狩りに適す」と記されるほど、松平郷は昔から紅葉とキノコが知られているようです。現在もシイタケがこの地の特産品というのも頷けるものがある。山門から境内の眺め、三段で造られた境内、正面に中門、右手に庫裏に続く赤い通用門も見て取れる。直角に近い石垣が積まれた光景はやはり城のイメージ。参道から山門。2本の本柱に各々控え柱が付き、切妻瓦葺の屋根が付く。門からは白壁が続き、まるで城郭のよう。この石垣も再建当時のものだろうか。石垣の上には枝垂れ桜の古木などがあり、春は参道を彩るだろう。参道左の本松山三十三観音堂と百度石。ここから本堂へは中門の石段を経て結構な距離があり、それを百度…観音堂右手のモダンな作りの手水舎。中門全景。石段左には仏足石と葵の紋の入った小さな観音像が安置されています。お釈迦様の足跡とされる仏足石、大きさは様々のようでこちらの足跡は大きい。中門。シンプルな瓦葺の四脚門で両側に壁が続く。門から見る本堂。境内にも枝垂桜があり、紅葉だけではなさそうです。これは春に訪れる必要がありそうだ。中門扉の掲示物は是非とも読んでみたい、色々と取り組む住職の人となりが伝わってくる。本堂山号額。本尊は安阿彌定朝作と伝わる阿弥陀如来立像。高月院は草創期の松平氏と結びつき、14世紀後半から15世紀末にかけ浄土宗を西三河に定着させた鎮西派寺院、隣松寺(豊田市)、信光明寺(岡崎市)、大樹寺(岡崎市)などの一つ。開創時期や松平氏縁故など共通点も多いようですが、高月院は他寺院に比べ開創時期の経緯がやや不明瞭とされるようです。創建は1367年(貞治6年)、当時松平郷を治めた在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(足助重正)が開山。開創当時は寂静寺と号し、応安(1368年~1375年)の頃に松平親氏の歸依により現在の「本松山 高月院」に改め菩提寺として本尊や堂宇が整えられました。また親氏は、高月院から少し上の観音山の岩洞に観音像を勧請し、七日間天を仰いで祈ったとされる『親氏公行場跡』も現存します。親氏、松平氏第2代泰親の埋葬に伴い、高月院境内に廟塔が建立され、天文年間(1532年~1555年)には松平氏第四代親忠の五男(超誉)が住職となるなど強く結びつき、第五代長親が土地を寄進し、松平氏の始祖親氏、2代泰親、後に5代長親の母閑照院殿の廟として整えられた。天下統一を成し遂げた徳川家康は、1602年(慶長7)に上洛の途上に高月院の祖廟を参詣したとされ、その後も1641年(寛永18)には家光によって伽藍全て再建されるなど、江戸幕府により明治維新まで厚遇されていた。伽藍全景。入母屋瓦葺で平入の向拝が付く本堂、当初瓦葺ではなかったようですが、幾度となく補修の手が入る中で現在の姿になって行ったようです。写真の奥が庫裏になり、トーク好きな住職が御朱印を書いてくれます。鐘楼と中門、この梵鐘の音が松平郷に時を刻み、一日は朝6:15の鐘の音から始まる。中門全景。左に元信公(家康)手植えの枝垂れ桜、他にも宗家公手植えの松など徳川の息吹が漂っている。通用門と左に供養塔。松平弁才天本堂左にある宝物庫の横に鎮座、詳細は不明。松平氏墓所。本堂の左にあり、家康の祖先松平氏の墓所。中央に始祖親氏、右に泰親、左に5代長親の母、閑照院殿の墓塔があり、下に歴代住職と松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。墓塔の宝篋印塔は一部欠損しているが、室町時代のもので文政年間、明治中期に補修の手が掛けられている。因みに廟の左にふるさと小径があり、それを進み、突き当りを左の山手方向に進むと親氏公行場跡方面に続きます。高月院東の小高い丘から見る伽藍全景。そこから左に目をやれば山門が見下ろせる。柿が実り、紅葉が色を添える里山らしい光景が見られる。手前のビオトープではハッチョウトンボも見られるそうで、メダカも放たれているようです。悲しいかな持ち帰る輩がいる様で貼り紙が張られていた。ここにきてあるべき姿を見るから価値がある、メダカはデリケート、捕まえても酸素の行き届かない移動中に死なせてしまうだけ。熱田神宮の北外れにめだかの学校があるけれど、ここで群れて泳ぐ生徒の姿を見た事がない。高月院山号 / 本松山宗旨 / 浄土宗宗派 / 鎮西派白旗流本尊 / 阿弥陀如来創建 / 1367年(貞治6年・正平22年)開基 / 在原信重開山 / 見誉寛立中興 / 超誉存牛 本誉尊太(第15世)所在地 / 豊田市松平町寒ケ入44関連記事 / 松平東照宮 ・ 松平郷「あやめ恋路から高月院へ」・『親氏公行場跡』 松平郷 ・大樹寺
2021.12.14
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守山区川北町市内から庄内川を越え春日井にアクセスする松川橋。夕陽の庄内川を撮りに堤防に出る一心でゆとりーとライン「川村」駅から堤防に向かって歩いていました。道は堤防で行き止まり、何気に右手に瓦葺の建物が視界に入ってきました。以前からこの辺りに神社はない認識でいましたが、意外にもそこで神社を見付けました。いつから鎮座するのか過去(明治)の地図を見るも記されていなかった。当時は川村の中で庄内川に最も近い集落、1978年守山区大字北・大字大森垣外の一部から川北町として成立したようです。地図で云えばゆとりーとライン「川村」駅から県道30号線を越え、堤防に向かう住宅街の交差点角になります。色々と調べて見るも手掛かりはなく、こうして天王社と書いてはいますが、正直自信はありません。これがその全景で、三方吹き抜けで奥が壁、最初は正直分かりませんでした。それも正面に来てそれが覆屋だと分かります。壁だと思っていたいたのは実は社の台座、その上に真赤な社と素木の社の二社が祀られていました。覆屋東側から見た全景。覆屋の中の台座の上には真赤な社と小さな鳥居。守山で赤い社となれば「天王社」だろうと根拠もなく決めていますが、近くの村合町に鎮座する神明社には同様の外観で津島社があったりします。社名札はなく、扉も閉じられ御札から判断もできません。左にも社があり、こちらも社名札はなく詳細は分かりません。堤防も近く災いも多かった地域柄、集落の守り神として祀られたものでしょう。ここまで上げるかと思うくらいの高さに板宮造りの社が祀られています。境内も覆屋も綺麗に手入れされ、川北町の守り神として崇められているようです。詳細は分からずじまいですが、ひょっとして近くの川嶋神社に伺えばすっきりするのかもしれない。何れにしても自分では無いと思っていた地域で神社を見付けたのは新たな発見だった。(グーグルマップには既に記されていました)分からない事ばかりですが、この場では「川北町の天王社」とさせてもらいます。……ひょっとするとこの東の川上町にも神社が祀られているのかもしれない。「住宅街の森には神社か古墳あり」も通じなくなってきた。そういえば夕陽〃、美味しい時間は過ぎてしまったか。2021/12/1川北町の天王社と不明社祭神 / 不明創建 / 不明所在地 / 名古屋市守山区川北町328公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン「川村」駅降車徒歩2分関連記事 / 守山区史跡散策路 14 川嶋神社 守山区村合町『新明社』
2021.12.10
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白兎神社は、鳥取県北部の日本海に面した白兎の身干山の麓に鎮座し、鳥取市内から車で30分程。白兎神社の参拝者駐車場は国道9号線沿いの道の駅「神話の里白うさぎ」、今日はこちらの道の駅で車中泊させてもらいます。白兎は神話「因幡の白兎」の舞台となった場所で、日本最古の恋物語の地として広く知られています。それを裏付けるように神社周辺や白兎地区には神話の舞台が点在し、白兎神が流れ着いた淤岐之島、気多之前と呼ばれ白兎神が鰐に皮を剥がれ上陸した岬や白兎神が傷口を洗った不増不減池などの「白兎の神跡」を見ることができます。道の駅「神話の里白うさぎ」は正にその真っただ中に建っています。白兎神社の由緒となる「因幡の兎」は「古事記」にも記された神話。因幡の國八上の郷に美しい姫(八上姫)がいると伝え聞いた八十神達は、八上姫を射止めようと貢物を用意しそれらの貢物すべてを弟の大穴牟遅神(大国主命)に持たせ、先に因幡の国の八上姫のもとに向かったという。途中の海岸で皮を剥がれ傷ついた白ウサギが泣いていたが、八十神達はこれに誤った治し方を教え嘲笑っていった、そんな白ウサギに大国主命は訳を聞き、「水門へ行き水で傷口を洗い、ガマの花を下に敷き詰め、その上で養生すれば快復する」と導き、それに従った白ウサギは見事に完治したという。白ウサギは助けてくれた大国主命に「八上姫は、きっと優しい大国主命の妻になりたいと言われる」と予言したいう。八上姫は八十神達の申し出を悉く断ったが、大国主命の申し出は予言通り受け入れられたという。参道にはそんな神話を想像させる美しい八上姫の砂像が作られていた、ここは縁結びの聖地なのだ。道の駅左の駐車場に白兎神社の社頭がある。左右に社標と右にピンクのポストがある。右後方が白兎神社の樹叢、樹々は日本海から吹き付ける風で見慣れた杜の姿とは少し様相が違って見えます。緩やかに続く参道は杜の中に続いて行きます。日暮れ間近になると参拝者も少なく、参道途中で授与所の方とすれ違う、御朱印は諦めかな。一ノ鳥居額「白兎神社」上鳥居右のピンクのポストと後方に「恋人の聖地で縁結び」の看板、いかにもの演出だ。下白兎神社と社叢の解説。「因幡の白兎」で有名な白兎神を祀り、社叢は季節風を黒松が遮り、日本海岸の原始林の姿を留める」解説板から身干山を眺める、手前の丘には国学者北里闌の歌碑が立っている。「鰐の背に 似たる岩みゆ 蒲ならぬ 波の花散る 気田の岬に」丘の下に「北里翁歌碑」の石標。参道途中の覆屋に展示されている砂像。八上姫に求婚する大国主命の姿と傍らで成り行きを見守るうさぎが描かれている。そもそもこの白うさぎ、淤岐ノ島に流れ着き、島から気田岬に渡ろうと思うあまり、海の鰐を騙して、その背を踏んでに岬に降りたとうとした。降りたとうとする直前、よせばいいものを騙したことを鰐に告げたもんだから、怒りの余り鰐は兎の毛を剥ぎ取ってしまった事に始まっている。ある意味自業自得。白兎神社の社叢は国の天然記念物に指定され、白兎海岸沿いの丘にあり海から吹き付ける風で幹や枝が風下側に傾いた特徴のある森と日本海海岸地方の植物分布を残し、特にハマナスが自生する南限としても知られているようです。石畳が敷き詰められた参道はニノ鳥居へと続きます。参道沿いはこうした常夜灯?が一定間隔で立てられ、それら一つ〃に表情や姿の違う兎の像が乗せられています。そこには白い石にピンクの文字で縁と書かれた「結び石」が無数に乗せられています。「結び石」は社務所で頂けるようで、兎に乗せるだけで願いが叶う。難易度は高ですが鳥居に向け「結び石」を投げて鳥居に乗れば願いが叶うとも云われるようで、そうした事もあり写真のニノ鳥居には多くの「結び石」が乗っかっている、乗らなかったことを考えると御利益が同じならば……。ニノ鳥居からは平坦な参道となり、左に手水舎が見えてくる、船を模った手水石に智慧袋から清水が注がれ、上には白兎が乗る。静まり返った境内に水音だけが聞こえる。参道を隔てた向かいが御身洗池、不増不減の池と云われたりもする。自然の偶然が生んだ不思議な場所。鳥取砂丘の西端にあたり、池の底の岩盤と砂の微妙な境界により四季を通じて減りもせず、増えもしない事からこの名が付いたそうです。白兎は導き通りこの水で体を洗い、周辺に自生する蒲の花を下に敷き詰め養生したという。塩水よりは確実にいいだろうが……、過度な潔癖症のご時世にあってどうなんだろう。下世話な話はともかく、ブラタモリで仕組みを教えてくれない時代にあって、ここは不思議な場所だった事だろう、それは今も水が蓄えられ変わる事はない。御身洗池からすぐ左に社殿が見えてきます。切妻妻入りの拝殿に、同様の拝所が付きそこには大きな注連縄と額が掛けられています。この左手に社務所があります。拝殿前の狛犬は前屈みで、尾をピンと立てた姿はいつでも飛び掛かれる隙のないもの。年代は見なかったけれど勇猛な姿と「凱旋記念」と刻まれた台座から想像はできそうです。この後方にある常夜灯には寛政の文字が刻まれていた。境内右に白兎神社の由緒書き。御祭神 白兎神を主神として保食神を合祀。鎮座地 鳥取市白兎603番地例祭 4月17日御輿途御行事あり白兎神社は古事記、日本書紀に記されている由緒明らかな所謂「因幡の白兎」で有名な神社。……中略日本医療の発祥の地であり、古来病気傷病に霊験あらたかな神様で、大国主命と八上姫の縁を取り持った結びの神様でもある。神紋は亀甲に剣花角大きな注連縄は、出雲神社の注連縄を納める「飯南町しめ縄クラブ」の方々により2014年に奉納されたものだという。参拝を済ませ社殿をひと回り。社殿全景、本殿のある境内は一段高く盛られ、更に石垣を積み本殿域が作られています。白兎神社本殿創建は不明で現在の社殿は明治の頃に再建されたもの。拝殿は幣殿と一体となり大社造りの本殿と繋がり、外削ぎの千木に2本の鰹木が付く。主祭神は白兎神皮膚病・傷病・病気平癒、医療、縁結びに御利益がある。豊玉比売縁結び、安産、育児、海上安全にご利益がある。 もとは気多ノ前の神ヶ岩にある川下神社の豊玉比売が、大正元年に白兎神社へ合祀されたもの。保食神農業守護、漁業守護、開運招福、災難厄除け、航海安全、縁結び、子宝、安産、出世、家内安全など。特に人目を引く意匠が施されている社殿ではないけれど、本殿を支える菊座石は見ておきたい。本殿を支える土台石に二十八弁の菊の紋章が施され、こうした菊座石は全国的に珍しいと云う。「神社創建と皇室が何らかの関係があったものと云われる」と書かれている。本殿を支える土台石。真横からでは分かり難いけれど少し見下ろすと確かに菊の紋章が見て取れる、これが皇室とどのようなかかわりがあるのかは定かではないようだ。身干山を前にして佇む白兎神社。社務所前から眺めた社殿。おみくじの結び所もハート型、白兎神社の御神徳を表している。ニノ鳥居から一ノ鳥居、その先に白兎海岸が望める。そこには先の写真のように大国主命が八上姫に求婚したとされる恋島がある。2021/10/24白兎神社創建 / 不明 秀吉の鳥取攻めで社殿を焼失、後の慶長年間に再興され、寛文、安永、明治と再建。祭神 / 白兎神合祀 / 豊玉比売、保食神所在地 / 鳥取県鳥取市白兎603鳥取東照宮からのルート / 国道9号線で25分程関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1、鳥取東照宮
2021.12.09
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半田市乙川北側町2「香取神社」知多四国八十八番外奥之院の海蔵寺から南西の若宮神社を経て、社頭から右に進んだ左側に鎮座する。今回訪れた中で一番魅かれた神社かもしれない。上は先に掲載した海蔵寺、若宮神社と香取神社の位置関係。明治の地図には香取神社を示す印は表されていなかったが、若宮神社から徒歩で2~3分ほどの西山神楽車の山車蔵の左に鎮座しています。御神木は推定樹齢450年とされるイブキの樹、幹はうねる様に上に伸び枝葉は社殿を覆わんばかり。社殿は石垣が積まれ一段高く盛られ本殿域に周囲を玉垣と神門で囲み、覆殿の中に本殿が祀られているようで、手水舎は写真右側の常夜灯の横にあります。鹿取神社総本社は千葉県の香取市に鎮座する下総国の一之宮「香取神社」で全国に400社近くあるそうですが、この地方ではあまり馴染みがないかもしれない。小社ですが歴史は古く、由緒書きは以下「香取神社 本宮千葉県佐原市明徳時代(1390年頃)毘沙門として創建、明治8年頃に現社名に改称された。祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)毘沙門さん 明徳時代の御祭神で福の神、戦の神の御神徳が有名」とある。どこから勧請されたものかは記されていないけれど、祭神の経津主大神(伊波比主命)は出雲の国譲りの神話に登場する神様。天上界を治めていた天照大神は自分の息子が地上世界を治めるのが相応しいと考え、古代日本の荒ぶる地上世界(葦原中国)を治めていた出雲の国の大国主神のもとへ何度か遣いを下ろすも取り込まれ戻ってこない。満を持して遣わされたのが経津主大神と武甕槌大神の二神で、それにより大国主神は地上世界を天照大神に譲り、その見返りに大国主神のために出雲大社が建てられた。そうした武徳から平和・外交の祖神として、勝運、交通安全、家内安全、災難除け、産業指導、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として広く崇敬されている。桟瓦葺の玉垣に囲まれた香取神社、鳥居や狛犬はなく小さな社殿かもしれない。いつも感じるけれど、格式も敷居も高い大きな神社より、街角のこうした身近にある神社の方が妙に魅かれる。綺麗な街並みの中にポツンと荒廃した小さな神社の姿を見かけると、街並みも色あせて見えたりもします。町の守護神として住民の方々からどれだけ崇敬されているかがよく分かります。失くした町に住む者がこうして綺麗に維持された神社を見ると、地元の結びつきの強さみたいなものが感じられ時に羨ましく思ったりもします。半田に山車や祭りが受け継がれているのも、そうしたものが住民同士の結びつきを繋ぐ役割を持っているのでしょう。香取神社由緒書き。神門の軒下の透かし彫りはうずらとあわ?社殿の斜景、町の神社らしくこぢんまりと纏まっています。西山山車保管庫の右に方型の小さな地蔵堂がありました。詳細は不明。香取神社境内全景。右手が西山山車保管庫、中に保管されている西山神楽車は建造は天保年間(1830~1844)とされ、明治、昭和と修理され今に引き継がれている。香取神社創建 / 明徳年間祭神 / 経津主大神(伊波比主命)所在地 / 半田市乙川北側町2-1若宮神社から徒歩ルート / 南へ2~3分関連記事 / 若宮神社
2021.12.08
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知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所「世昌山 宝全寺」かみさんの知多四国88カ所巡礼もゴールが見え始め、年内にコンプリートに向けラストスパートがかかった様です。11/20、この日は「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」の納経を目指します。 名鉄常滑駅から県道252号線を南下し大落川に架かる「いちば橋」、その手前で上流に向かいます。いつもの事ですが、道は狭くて対面通行なので大型車で分け入るのは躊躇する場所です。大落川沿いの情緒ある道筋を数分歩き、正面に小さな橋が見えればその左が「知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所宝全寺」です。寺の前の道筋は常滑街道でその街道に面し玉垣と石柱門が建っています。お寺に玉垣というのも何となく神仏習合の名残を感じます。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 曹洞宗「世昌山 宝全寺」全景。正面から撮りたいところですが、何せ狭い道なので斜景が精一杯。写真右手に参拝者向けの駐車場があるようですが、駐車場は2~3台で一杯になりそうです。石柱門から境内の伽藍を見ていきます。下は本堂脇に掲げられていた案内図、手作り感満載ですがとても分かりやすいものです。参道左から三十三観音堂と十王堂、秋葉三尺坊大権現堂と並び、弘法堂とその右に三宝荒神様を祀る小さな祠があり正面に金毘羅堂と続き、正面には本堂、参道入口右に地蔵堂と手水舎の伽藍。上は三十三観音堂と十王堂、堂正面に三十三観音と十王の説明が貼られていて、写真に収めてみましたがラミネートに外光が反射し内容が読み取れなかったのが残念。堂内は左に左に十王が並び、中央に弥勒菩薩と釈迦如来の姿、右に三十三観音が安置されています。この右に秋葉三尺坊大権現堂がありますが、単独の写真を撮り忘れていました。その右がむくり屋根の向拝を持つ寄棟瓦葺の弘法堂。右の小さな祠が三宝荒神様で更に右が金毘羅堂。左の金毘羅堂と本堂。何れも瓦葺で金毘羅堂は切妻妻入りでむくり屋根の向拝が付く。本堂は寄棟の平入で納経所は本堂右にあります、右手から続く参道は庫裏に続きます。訪れた時はこちらの住職は体調を崩されているようで本堂は施錠され、手書きの解説や納経印は御自身でと書かれた貼り紙が至る所に張り出されています。かみさんの話では、納経印を自分で押してきたが綺麗に押せなかったと残念がっていました。手作り感満載の案内図は詳細に描かれ、初めて訪れた者にはとても分かりやすいものです。案内図を見ていくと神仏習合を強く意識させる内容です。こうした経緯など伺うことができるよう、早く全快される事をお祈りします。参道入口の地蔵堂と手水舎。鉢の年代は見ていませんが佇まいに年月を感じさせるものがある。地蔵堂内に安置されている「いぼ取り、がん封じ地蔵」この二体のお地蔵様は近隣の墓地で六地蔵として祀られていた内の二体だと云います。中央の納骨萬灵塔にはそこで収められていたお骨が納骨されているそうです。このお地蔵様がいつから「いぼ取り、がん封じ地蔵」に御利益があると云われるようになったのかは定かではないようです。既に奉納されている小石を持ち帰り、患部をこするとご利益を得ることができ、治れば借りた石を倍にしてお返しするものらしい。こうした悩みを持つ方には御利益があり、遠方から訪れる方もあるという。足元の二体のお地蔵様には文政、天保の元号が見える、かれこれ2世紀ほど前に彫られたものです。宝全寺 本堂全景。創建は1573年(天正元年)と云われる曹洞宗のお寺で本尊は 十一面観世音菩薩。住職の体調が優れず本堂は施錠され直接拝むことは叶いませんが、ガラス越しに写った写真には左に弘法大師、中央に十一面観世音菩薩、右に閻魔大王の姿が見える。本堂左の金毘羅堂。堂前を守護する小さな狛犬と、その右に薬師如来像が安置されています。小さな狛犬は何気に表情も可愛いく見えてくる。賓頭盧様は風貌から察するには随分と願いを聞いてきたのだろう。堂内には十一面観音、弘法大師、菅原道真、弁財天、大黒天、秋葉大権現など祀るようです。向拝先端の瓦にご注目、左右には訪れた者を眺めるように天狗瓦が乗っています。左の天狗の鼻をよく見ると、高いはずの天狗の鼻が折れています、これは伊勢湾台風により被害を受け折れてしまったものらしい、右に比べると座り込んだ姿は表情も冴えないようだ。三宝荒神様の祠と左にお地蔵様。祠内に安置されている三宝荒神の姿は鋭い目つきなのは見て取れますが、全体のシルエットや彫られている文字など風化により読めなかった。金毘羅堂から三十三観音堂方向を眺める。中央の白壁が見えている建物が秋葉三尺坊大権現堂。狭い境内に神と仏がギュッと凝縮されている、そんな印象が残る宝全寺です。2021/11/20知多新四国八十八箇所霊場 六十四番札所世昌山 宝全寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1573年(天正元年)開創 / 雲騰龍吟大和尚開基 / 伊藤嘉蔵本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市本町2-248関連記事 / 知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.05
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2019年秋から巡り始めたかみさんの知多四国八十八箇所霊場巡り、残りは5番と87、88番札所を残すのみ。なんとか年内に一巡しておきたいと思うのは人情だよね、天候を見ながら昨日ならいいだろうという事で廻ってきました。本来なら88番札所でゴールとしたいけれど残った札所を考えると効率が悪い、万願寺でゴールは諦めてJR共和駅に降り立ち歩きだす、まずは五番札所地蔵寺を目指す。ルートは上の様なルートで途中には寺社や城址がありますがいつも足手纏いになるので極力スルーした。長草天神社共和駅から南西に進み県道243号線沿いに20分程で長草天神社到着。天神社だけに鳥居をくぐると左右に大きな撫で牛が出迎えてくれる。創建が1494年(明応3)とされ、地頭・藤田民部の邸に祀られていた菅原道真を産土神として迎えたのが始まりとされるようです。かつて英比(あぐい)ノ庄に属し、道真の孫の菅原雅規(英比丸)も祭神として祀られている。菅原道真を祀ることから、合格祈願に訪れる若い参拝者は多いと云う。長草天神社では室町時代から500年以上続く「とぶろく祭」が今も引き継がれ、大府市無形民俗文化財にも指定されているそうで、毎年2月25日の直前の日曜日に開催されるそうです。地頭の藤田民部が寄進した田の収穫米でどぶろくを造り、氏子や参拝者に振る舞ったのがとぶろく祭の起源とされています。境内左にどぶろく酒造所があり、6つの酒元組が輪番でどぶろくを醸造、「とぶろく祭」当日に1年の無病息災を祈願し参拝客に振る舞われるそうだ。…これは機会があれば来るしかないナ。その他境内には道真が大宰府から流される時に詠んだとされる歌碑や鷽替之碑などがある。西に隣接する地蔵寺とは江戸末期まで同じ敷地内にあり、境内西側から地蔵寺山門前に繋がっている。長草天神社創建 / 1494年(明応3)祭神 / 管原道真、菅原雅規境内社 / 津島神社、五社宮(神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社所在地 / 大府市長草町本郷44延命山地蔵寺1573年(天正元年)に地頭・市村伝四郎が地蔵堂を建立したのが始まりとされ、1575年(天正3)に、東海市横須賀の長源寺から教岩和尚を迎えて開創されたと云われます。東に隣接する長草天神社とは江戸末期まで同じ敷地内にあり、神仏分離により敷地が分けられましたが、山門左から長草天神社に繋がっています。本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子作と伝えられ、本堂左には寄棟瓦葺の弘法堂、その右には1939年(昭和14)に、紀元2600年の記念として高さ3.5㍍の大きな大師像が安置され、納経に訪れた巡礼者を見守る様に聳えていました。「延命山地蔵寺」勧請 / 1573年(天正元年)開創年 / 1575年(天正3)開創 / 教岩玄相和尚宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40番地地蔵寺から県道248号線沿いを西に、末広交差点で右に進み県道23号線を北上します。県道は一部歩道はあるものの、大半は歩道がなく車道を歩くので車には要注意。沿道には既に菜の花が咲き、一方では秋の実りサツマイモの収穫となんだか妙な季節感。県道沿いの田畑が広がる風景の中に小さな地蔵堂が立っていた、右手の森には神社でもあるのだろうか。瑞木山圓通寺地蔵寺から30分程で圓通寺に到着。知多四国霊場八十八番札所の八十八番札所、寺の片隅に満願霊場の石標が建つ。かみさんの知多四国霊場八十八カ所巡礼もここで終わりを迎える。この後伺う八十七番札所が残っているが、ルートの関係で先に納経とした。圓通寺は現在本堂の修復工事(新築?)中。境内をぐるっと見て廻りたいところですが弘法堂までの参道以外は立ち入り制限がかかっています。工事中の姿を遮るものなく見る機会はさほどなく、丁度瓦を葺いている光景を見ることが出来た。建替なのだろう、屋根のみならず木造の真新しい素材が輝いていた、二巡目には工事も終わり新しくなった姿を見られるだろう。建物の維持管理が円滑に進む寺院もあれば、それに苦慮する寺院もありその差を目の当たりにするのが知多四国巡りでもある。729年(天平元年)、行基菩薩により開創されたと伝えれる曹洞宗の寺。応時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に襲われ、衰退していくが、1348年(享和4)夢窓国師が中興開山、宗派は開創以来、法相宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗と改宗されてきたようです。弘法堂は本堂の左に位置し寄棟瓦葺。堂内には弘法大師、毘沙門天、馬頭観音が祀られ、堂前の五色の紐は中の弘法大師と繋がっている。御詠歌 慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く「瑞木山圓通寺」開創年 / 729年(天平元年)開創 / 行基中興年 / 1348年(享和4)中興開山 / 夢窓国師宗派 / 曹洞宗本尊 / 馬頭観世音菩薩札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番所在地 / 大府市共和町小仏67番地JR東海道本線「共和駅」より、徒歩約15分「山神社」圓通寺から県道23号線、県道50号線沿いに30分程歩く。丸根砦跡の南を走る県道50号線(師崎街道)の道路際に真新しい「山神社」の社標があり、その奥の杜に社地を構える小さな神社が「山神社」緑区の山神社としては唯一独立した社叢を持つ神社だと云う。覆屋の中に祀られている本殿の創建は定かではないようですが、1650年代(江戸時代初め)の記録には既に記載が残ると云われている。祭神は大山祇命東海道線の高架が万里の長城の様に社頭の前を遮り、忘れ去られた様にポツンと鎮座していますが、以前は社頭前に踏切があり、大高の町に通じ人の往来は多かったのだろう。山神社創建 / 不明祭神 / 大山祇命所在地 / 名古屋市緑区大高町西丸根関連記事 / 丸根砦跡「山神社」から大高駅方向に向け県道50号線沿いに5分程歩くと右側に「長寿寺」が鎮座します。知多四国霊場八十七番札所で山号は鷲頭山、寺号は長寿寺と称し臨済宗永源寺派の寺院。本尊は阿弥陀如来で知多四国霊場 八十七番札所。その他に知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所でもある。コンクリート造りの伽藍で知多四国八十八箇所霊場の寺院としては半島先端で見かける寺院の姿とはかけ離れた立派で庭も綺麗に整備されている。本堂手前の右に方型屋根の弘法堂があります。鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。当山はもともと真言宗長祐寺と称したが、1560年(永禄3)鷲津砦の兵火で伽藍を焼失。江戸時代、大高領主の志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰が厚く、その臨終に際しこの地に禅寺の建立を孫忠時に遺命した。1682年(天和2)徳川光友の援助もあり伽藍が竣工し、春日井郡三淵村の臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の「紫金山慈眼寺」を開山した越伝和尚を招聘し中興開山、この時宗派を黄檗宗へ改宗、寺名も祖母の法名に因み「長寿寺」に改め、現在の宗派になったのが1691年(元禄4)石梯道雲和尚の時される。志水家の菩提寺として厚遇され、「尾張名所図会」にも挿絵が描かれています。特徴のある山門東側に高蔵坊稲荷神社の鳥居があります。この神社には昔話として「むかし〃寺が傷んできて修理もできず住職の高蔵坊は困っていた、その頃この山に一匹の狐が住んでいて、住職はこの狐をとても可愛がっていたという。住職の嘆きを知った狐は、住職の姿に変化し村々を巡りこの寺の御利益を説いて廻ったという。その結果、お参りの人々が訪れる様になり、寺は立派に修理できた」村人はその狐を高蔵坊狐と呼び一層可愛がったそうで、後に村人は、お堂を建てこの狐を祀ったのが高蔵坊稲荷神社だという。「鷲頭山 長寿寺」創建 / 不明開山 / 越博紹付、開基 / 長寿院元操尼中興年 / 1689年(元禄2)、 中興 / 中興道雲石梯宗派 / 臨済宗永源寺派本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場 八十七番札所、知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所所在地 / 名古屋市緑区大高町字鷲津山13番地関連記事 / 「紫金山慈眼寺」春日井市鳥居松町一巡目最後の87番の納経を終え、2年がかりでかみさんが巡った知多四国霊場八十八カ所霊場、ひとまず一巡を終えた。この間、会社の都合で一緒に納経したのは数えるほどしかないけれど、二巡目は足かせも外れ全て一緒に周れるはずだ。実際に歩いて見ての感想。大勢で歩くイベントならともかく、歩道が未整備だったりして、歩く横を吹っ飛んでいく車が多く、そこを延々歩くのは注意が必要。総歩行距離約7.5㌖ 総歩行数18,000歩、前日の天気の影響で多少風は強かったが思ったほど寒くもなく快適に歩けました。帰る前に情熱餃子鳴海店で遅いランチの満足ランチ800円なりとビールで喉を潤し、大高駅から家路に着く。所在地 / 名古屋市緑区鳴海町下汐田74今回の徒歩ルート / JR共和駅からJR大高まで徒歩7.3㌖・90分下はJR大高駅で見かけた史跡散策路のマップ、見所の多い町です。
2021.12.04
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鳥取市上町の市内中心地。県庁や鳥取県警が置かれる地域で、樗谿公園の東端に「鳥取東照宮」は鎮座する。樗谿公園内の鳥取市歴史博物館第二駐車場に車を入れ、鳥取東照宮へは右手方向に歩いて行きます。この樗谿公園は鳥取城跡の東にあたり、鳥取藩主池田光仲が造営した因幡東照宮(樗谿神社)の社叢の一画にあり、鳥取東照宮の表参道に隣接して整備された公園。園内は芝生が植えられ、綺麗に整備された園内にはもみじや梅などの樹々が植えられ、表参道に添いに流れる樗谿川は保護活動によりホタルも舞うそうだ。訪れた時は園内のもみじが色づき始めていました。駐車場から鳥居までは徒歩で2~3分、木造の両部鳥居の前へ。参道はこの先で二手に別れ右に進むと太閤ヶ原に続く自然歩道、東照宮へは左に進みます。額には東照宮と記されている。明治時代から2011年までの一時期は樗谿神社とも呼ばれていたようです。別れ道の案内板、ここでは樗谿神社に向かいます。深い森に包まれた静かな自然歩道はウオーキングする方も多いけれど、黄色の看板には要注意。左に進み樗谿川を渡った正面に鳥取東照宮権現茶屋、東照宮の御朱印はこちらで頂けます。東照宮へは右手の神門をくぐり石畳の参道を更に進みます。門の前にはポニーが散歩していまし、東照宮に向かう参道左に公園があり、そこで飼育されているポニーのようです。城門の様な瓦葺の重厚な佇まいの神門から石畳は東照宮随神門まで続きます。右手の樗谿川にはこうした錦鯉が悠然と泳ぐ池があり、夏の夜には蛍の舞う姿が見られる。参道を進むと正面に手水舎と左に随神門。上随神門の手前に掲げられていた解説、随分と長いが内容は以下。「重要文化財樗谿神社本殿・唐門・拝殿及び幣殿指定年月日 昭和二七年七月一九日樗谿神社は、慶安三年(一六五〇年)鳥取藩主池田光仲によって、日光東照宮の分霊を勧請して造営され、因幡の東照宮とも呼ばれる。池田氏は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、特に池田輝政(光仲の祖父)は、徳川家康の信任がことのほか厚く、関ヶ原の合戦での行賞により姫路城守として播磨国(現在の兵庫県南部)五十二万石を所領とした。輝政は将軍家康のために西国大名を押さえ「西国将軍」とも呼ばれた人物で、家康の娘・督姫を継室に迎えている。池田光仲は、輝政と督姫の孫で、徳川家康にとって曾孫に当たる。このように徳川将軍家と深いつながりを持つ初代鳥取藩主池田光仲が藩主として行った大事業の一つが、曽祖父家康の霊を祀る日光東照宮の分社樗谿神社の造営であった。この造営には、日光東照宮を手がけた幕府お抱えの棟梁・木原木工允藤原義久らがあたり、完成後は神領五〇〇石を寄進され、藩内最高の社格として位置づけられた。神社本殿は入母屋造、檜皮葺きで周囲に玉石垣を巡らし、本殿前には唐門の中門を配している。拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きである。用材は総ケヤキ造りで、一部に彩色は見られるものの白木のままで、随所に桃山風の飾金具が見られる。権現造ではないものの桃山期の手法をよく残す江戸時代初め頃の代表的な神社建築である。また、社宝には狩野探幽の『三十六歌仙額』、『太刀』四振(いずれも県指定保護文化財)などがある。平成十五年五月 鳥取県教育委員会」下は随神門左の「日本遺産 因幡の麒麟獅子舞」の解説と右に「国重要文化財鳥取東照宮」の解説東照宮創建時の祭礼より姿を現したで麒麟の顔を持つ獅子舞で幸せを呼ぶ存在として、因幡地方で受け継がれてきているものだそうだ。随神門前景。意外なほどシックな門で光り輝くのは東照宮と書かれた額くらいなものです。その先に社殿が広がっています。随神門の額。随神門から先の参道には20基の石灯籠が奉納されています。これらは鳥取藩主池田光仲の家老や重臣14名により奉納されたものと云う。地方には徳川家への忠誠の証としてこうした東照宮が建てられ、鳥取藩の東照宮がここになります。入口の解説にあったように、日光東照宮を手がけた棟梁・木原木工允藤原義久があたり、拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きの総ケヤキ造りで素木造りと云っても良いかもしれません。鳥取東照宮は因幡東照宮(いなばとうしょうぐう)と呼ばれ、1874年(明治7)から2011年(平成23)までは樗谿神社(おうちだにじんじゃ)と称されていた。2011年(平成23)、本来の名称が「因幡東照宮」だった事から現在の鳥取東照宮へ改称されたもの。では参拝させてもらおう。拝殿正面の神社幕、扉、蟇股などいたる所に葵の紋が施され、さり気無く金色の飾り金具が飾られています。絢爛豪華な日光東照宮と比較すると全く派手さはなく、本来家康が望んでいた姿なのかもしれない。社殿全景。入母屋平入の拝殿と幣殿は一体で唐門と玉垣で囲われた本殿域に流造の本殿が鎮座します。拝殿側面の眺め。本殿域全景。周囲の玉垣は朱に塗られていたのか、至る所にその痕跡が残っています。重要文化財の唐門前の石灯籠は光仲の子、池田新五郎が奉納したものとされる。上唐門から正面全景。下本殿どちらも当然葵の紋が入っていて、本殿桁に左甚五郎の手による鷹の彫飾りがあるそうだ。彩色されていないと案内にありますが、劣化の影響でそう見えるだけかもしれませんが、唐門や向拝柱の表面には朱の様な赤みが見られる。拝殿正面の眺め。緑青の深い緑色の飾り金具、以前は金箔貼られ輝いていたのか?素木に緑青の緑は個人的にあっていると思いますが、そろそろ補修の手が必要な時期に近づいているのかも知れない。拝殿右から社殿側面の眺め。境内右に「探幽の井戸」解説の内容は以下「樗谿神社には歌は京都青蓮院二十九世門主尊純親王、絵は狩野探幽の手になる三十六歌仙の額と鷹の絵の額がある。慶安三年(一六五〇)四月創建された東照宮(樗谿神社の称は明治七年に定められた)の拝殿を飾るため鳥取藩主池田光仲が青蓮院門跡に所望して求めたものである。三十六歌仙の額は同年五月八日にできている(華頂要略、門主傅) 狩野探幽(一六〇二~一六七四)ははやくから徳川家康に厚遇され、家康の没後元和三年(一六一七)より幕府に仕え奥絵師となった。江戸時代の狩野派はこの探幽によって基礎が固まったのである。狩野探幽がこの地にきた資料はないが三十六歌仙の額と鷹の絵の額があることから、この井戸を「探幽の井戸」として今に伝えられたものであろう。」この井戸が創建当時からあったものなのか定かではないけれど、要するに探幽の名を付けた井戸という事だろう。探幽の井戸を覗かして頂き、再び拝殿から石段を下り東照宮を後にする。樗谿公園内ではクマ出没やクマ目撃情報の案内を見かけました、念のためクマ除け鈴があるとお守りくらいにはなるかもしれません。(…と云うか常につけるべきものになってきたのか?)2021/10/24「鳥取東照宮」創建 / 1650年(慶安3)主祭神 / 東照大権現配神 / 池田忠継、忠雄、光仲、慶徳所在地 / 鳥取県鳥取市上町87関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1
2021.12.02
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前回掲載した松平郷の「八幡神社・松平東照宮」そこから最深部に鎮座する徳川菩提寺「高月院」、今回は高月院から更に山道を登った先で見かけた『親氏公行場跡』を掲載する事にします。髙月院(後日掲載)の境内から北に続く細い人道を進むと車道に出るので、そこを右に上っていきます周囲は山の斜面を耕作した長閑な山村の趣が漂います。東照宮から親氏公行場跡の入口までの約1㌔、道草無しで徒歩30分程でしょうか。まだまだ等高線の間隔も広いので上りと云ってもさほどのことはない。髙月院の境内から上る事20分程。六所山南西にあたり、道の正面に古びた神明鳥居が現れます。鳥居の右に小さな道先案内板がありますが、神社を指し示すものではなく「親氏公行場跡と展望所」へ導いています。道の先には更に車道が横切っているようで、この鳥居の社殿は中央の杜の中かと思い鳥居をくぐり参道を進みました。枯れ葉が覆う少し荒れた参道はすぐに急な坂となり上の写真の様にガードレールが見えてきます。「ありゃ、ないじゃん」、車道からの眺め。何さ、鳥居くぐらなくても道なり進み上の道で左に行けば上らなくても良かったんじゃないの。すると社殿は何処ヨと道の先を見ると・・・その先には今来た参道よりもっと過酷な山道が森の中に続いています。入口付近の案内板には親氏公行場跡はこの先と導いているが、神社を指し示すものではない。550㍍かぁ、どうしても神社が気になり、かみさんにはここで待ってもらい一人で上ってみました。落葉樹と熊笹が生い茂る荒れた細い参道?獣道?、足元は枯れ葉で滑りやすく足元は要注意。こうした道はついつい良からぬ事を想像してしまう。足元の長い物やら道の先に猪や熊がいるんじゃない?、足元も道の先にも気を使わなくては安心できない、坂道以上に気を使う。ささやかでも安心の拠り所となる熊除け鈴は必需品か? 写真の撮影データから入口から下の写真撮影まで1.5分、この先550㍍にしては近く、実感は長く感じる。狭い山道から視界が開け、広くて平坦な空間が現れます。そこは正面に山肌から露出した巨岩が屏風の様に並び、幾つかの石の社と岩の下に建つ社が視界に入る。更に右側に写真の建物があります。拝殿なのか覆殿なのか、格子から内部を窺うも暗くて詳細は不明でした。鳥居の先の社殿はこの建物と岩の下に建つ覆屋がそれにあたるのか?額も神社の名が彫られた石標も見当たらなかった。自宅に戻ってから、三河物語や松平郷村史など見ていたがどうもはっきりしない。岩の前に清水と彫られた手水鉢があり、寄進された年度が彫られていないか探してみたが分からなかった。左の石標も正面に文字が刻まれているようですが読み取れず年代はイメージすらできない。この場所が徳川家の根源となる松平親氏が行を行った場所という。雰囲気は行をするにはいい場所かも知れないナとは思う。今とは違い道が整備されていない当時は険しい道だった事だろう。親氏の素性は諸説あるようで三河物語や松平郷村史でも違うようだ、三河物語では「親氏の先祖は八幡太郎義家の流れで、上野国新田郡徳河の郷に代々定住し徳河殿と申す。足利高氏に打ち負け、徳河郷を離れ全国を流浪し、親氏は時宗の僧侶となり、徳阿弥と称し当地に辿り着いた・・・・・」片や松平村史では僧侶としては記されず、徳翁斎信武と名乗りこの地に辿り着いた親氏は、松平太郎左衛門信重の連歌興行の折に筆役としてそつなく務め、それを気に入られ「見納めの井戸」で摘んでいたあやめを差し出した水姫の婿に見染められた。など記述のされかたが違うようだ。更に松平村史に親氏公行場跡と思われる記述も現れた。内容は「高月院の後山を登ること四十五町、屏風を立てたる如き嶮山あり。観音山と称す。山の中腹に大岩石あり。松平親氏公観音を岩洞に勧請し、其ノ岩上に直立して七日間天に祈りし所なりと云ふ」ものです。記述にある屏風の様な岩を背にするこの場所が行場で、岩の下の覆屋には松平親氏公観音が祀られている。そう感じさせる程雰囲気は似ている。一つ腑に落ちない、「高月院の後山を登ること四十五町」…?昔の距離感なのでなんともいえないけれど、高月院からグーグル先生によれば1㌔も満たない、気にしない方がよさそうだ。松平村史に記された「岩上に直立して七日間天に祈り…」の場所がここである事には間違いなさそうです。ところで本題のあの鳥居は?ここに鳥居の社殿があったと思いたいが修験道のようなこの道が万人が訪れる神社参道なのだろうかと思うと腑に落ちない。そういえば、八幡社・松平東照宮の栞には1916年(大正5)に松平郷内の三社を合併とあった。推測でしかないけれど、この鳥居はその合祀された神社の名残なのかもしれない。社殿のあった場所となると……やはりここなのかな?その根拠になるものがこの空間にあったのかもしれない、けれど自分には鳥居以外に神社の痕跡を見付けられなかった。下で待つかみさんの事を思うとこれ以上は時間を費やせない、岩の前で手を合わせこの場を立ち去りました。2021/11/18親氏公行場跡所在地 / 豊田市松平町藤伝田高月院から徒歩ルート / 約15分八幡社・松平東照宮から高月院まで徒歩ルート / 10分程関連記事 / 松平郷の紅葉、松平東照宮
2021.11.29
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半田市乙川若宮町。以前掲載した海潮院から西に40分程歩き、乙川幼稚園北側に知多新四国八十八箇所霊場番外の「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」があります。清涼山 海蔵寺入口。山門はなく参道右に禁葷酒入界内の石標が建っています。正面には本堂が見えている、今日は餃子もビールも口にしてはいないので大丈夫。海蔵寺境内の全景。参道左の宝篋印塔の先に本堂、右に庫裏・納経所、本堂左は手前から鐘楼、手水舎、弘法堂の伽藍。中庭に聳えるイチョウの樹が印象的で、これらが黄葉し境内を黄に染める頃に訪れると海蔵寺の別の一面を見られるのでは。境内に車が止まっていますが法要に訪れた方の専用駐車場と理解した方がいいかもしれません。参道左の宝篋印塔方向の眺め。右手に聖観世音菩薩像、奥の樹々に覆われた一画に鐘楼が建っています。更にその後方に広々とした海蔵寺参拝者駐車場があり、駐車に困る事はなさそうです。とはいえ、この辺りの道は幅員の狭い個所も多く、今日は歩きですが、自分なら軽でくるかな。瓦葺の切妻屋根の鐘楼。本堂と庫裏方向の眺め。イチョウの樹の大きなこと。海蔵寺本堂全景。比較的新しいように見えます、過去この地は大きな地震(昭和19・20年の東南海・三河地震)に見舞われ、海蔵寺の庫裏を始め大きな被害を受けたそうです、こうして見る姿はその後再興されたもの。新しいとはいえ、正面から見る入母屋瓦葺の本堂の姿は安定感があり落ち着いた佇まいのもの。本堂の額と堂内。海蔵寺の創建は1489年(長享3)と云われ、開山は月洲用敦大和尚、開基は華草栄香大和尚とされます。本尊は釈迦如来で宗派は曹洞宗。知多四国霊場は弘法大師上陸の地でもあるこの地方で、大師と所縁のある88ヶ寺の札所と番外10ヶ寺で成り立っています。海蔵寺は1909年(明治42)に高野山奥の院として番外に加えられ、直伝弘法霊場二十二番札所、東海薬師霊場四十六番札所でもあります。本堂左の弘法堂全景。左に手水舎とその左にも大きなイチョウの樹が聳えている。切妻瓦葺の手水舎、訪れた時は秋の実り銀杏が一杯。龍はまだお休みの様です。弘法堂入口右の石標には「この寺に大師法来の法衣あり」と刻まれています。その由縁は海蔵寺第二世、田翁和尚は予知能力に長けた方で、遠く離れた高野山の火災を予知し、祈祷しながら庭に水を撒き高野山の火を消したそうです。そうした功績から高野山より「蓮糸の法衣」を授かり、それは寺宝として現在も受け継がれているそうです。御詠歌 奥の院高野の山に変らねば 真心こめて頼め諸人2021/9/24「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」宗派 / 曹洞宗創建 / 1489年(長享3)開山 / 月洲用敦大和尚開基 / 華草栄香大和尚本尊 / 釈迦如来札所 / 知多新四国八十八箇所霊場番外、直伝弘法霊場二十二番札所、東海薬師霊場四十六番札所所在地 / 半田市乙川若宮町二十五番地亀崎 海潮院から徒歩ルート / 概ね40~45分程度関連記事 / 「知多新四国霊場 五十四番札所 亀嶺山 海潮院」半田市亀崎
2021.11.28
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鳥取県鳥取市国府町の因幡国庁跡などが点在する山裾に大きな社叢を持つ「因幡國一ノ宮宇倍神社」街中の大きな一ノ鳥居から続く石畳の参道は杜に続き、社殿は町を見下ろす高みに鎮座する。住宅街に一ノ鳥居があり、そこから続く石畳は狛犬が守護する石段に続きます。石段付近は駐車場になっていて、駐車場はここ以外にも右手の坂を上がりきった所、一の鳥居から2~3分離れた場所の3か所が用意されているようです。石段は比較的緩やかでここまでの段数はありません。右に「國弊中社宇部神社」の社号標。石段前を守護する狛犬。そこから一の鳥居方向の眺め。石段を上ると境内は杜に包まれ既に灯篭には灯が灯っています。参道はここから左に続きます。正面にニノ鳥居とその先に石段が続く。ニノ鳥居の額「因幡一宮宇倍神社」鳥居右には県指定無形文化財の「宇部神社獅子舞」と同有形民俗文化財「宇部神社御幸祭祭具」の解説。参道の石段は大きく三つに分かれていて、最初の石段を上ると常夜灯が並び、参道左側に素朴な形をした天保14年(1844)と刻まれた灯篭がある。杜に包まれた参道の先に境内が見えてきた。「頑張ろう日本 丑の歩み着実に 疫病退散」の大きな幕、毎年こうした世相を表す幕が張られるようです。次々に変異を繰り返す見えない脅威、委縮しなくてもいい世の中が訪れる様、個人でやれることを実践する以外に動いていかないのかも知れない、牛の歩みの様に。正面に拝殿の全景が見えてくる、境内は拝殿右に神饌所、手前右に真新しい参集殿と授与所。境内左脇に手水、社務所、拝殿の左に双履石、国府神社が鎮座している。上が手水鉢、訪れた時は整備中、手前に仮設の手水が用意されていた。この水は七宝水(しっぽうすい)と呼ばれ七つのご利益を授かる事ができるそうで、平安時代には百人一首にも詠まれ、病や延命長寿の霊験があらたかで他には飲用すれば美人になるという不思議な水。下が社務所。宇倍神社の創建は古く、648年(文化4)の創建だという、幾度か盛衰に伴う再建や兵火に見舞われ、1581年の羽柴秀吉の鳥取城攻めで社殿全てを焼失。現在の社殿は、1898年(明治31)に完成しました。入母屋造妻入の向拝屋根を持つ拝殿と切妻造妻入の幣殿、その先の本殿は1898年のもので三間社流造の正面に縋破風向拝が付き、斜めから見る姿は優美なものがある。祭神は武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)で第十二代景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳天皇の5朝に仕えたとされ、信じられない程長命の方。歴史上最初の大臣と云われ、そうした事から長寿の神、子供の神、大臣の神とされ、端午の節句の武者幟でもお馴染み。1899年(明治32)には全国の神社としては初めて、祭神の武内宿禰命と社殿が五円紙幣にデザインとして採用され、その後も大正、昭和と紙幣の図柄として取り上げられ、お金に縁がある事から商売繁盛の神様としても崇敬されているそうです。石段脇に右近のたちばな、 左近のさくらがありますが樹齢はそれほどでもないようです。当日は早目の七五三の御祈祷を受けに訪れる客も多かった、本来はもっと参拝客で賑わうはずの神社。多いとはいえ、まだまだこうして写真が撮れるのだから参拝客は少ないのかもしれません。上は社殿全景で下が流造本殿。本殿後方の小高い場所の頂が武内宿禰命の昇天の地とされる双履石がある。社殿域は一段高く石垣が一段高く積まれ、周囲を玉垣で囲い門の目の前が拝殿。向拝柱の像の木鼻彫刻と拝殿額、幣殿には個性的なユニコーンの様な狛犬も見えていましたが参拝者も多くこれより下が撮れなかったのが残念。取り敢えず参拝させてもらいました。拝殿左側には、「福徳亀」と呼ばれる亀に似た石があり、撫でると願いが叶うと信じられている。右には金色に輝く飛翔の鳥、これも撫でると願いが叶うのか?苔むした檜皮屋根の神門と拝殿脇の由緒書き。栞のフォントは老眼の始まった自分にはつらいけれど、こうした解説が多数掲げられているはありがたい。神饌所「宇部神社は平安時代には鳥取県で唯一の名神大社、因幡國一ノ宮として崇敬され、明治4年に国幣中社に列せられた」双履石本殿左に頂に続く石段があります、これを上りきり奥に進むと玉垣に囲まれた石「双履石」に続きます。解説は以下「武内宿禰命第十二代景行天皇から仁徳天皇までの五朝にお仕えされ、大臣の祖として日本の国造りに御活躍の後、仁徳天皇五十五年春三月、この亀金の岡に双履を遺し360余歳でお隠れになりました。その石を双履石と称し命御昇天の霊石として今に伝わる当社の原点です」ここは日本一長寿の神さま御昇天の地で宇部神社発祥の地という事の様です。であるならば、この石段を上り岡に向かうしかない。最初の石段を上りきると右方向に僅かばかりの石段があり、その先に玉垣が見えている。少しばかり歩きを覚悟していたが意外に近かった、丁度本殿の斜め後方あたり。双履石周辺は樹々に包まれ薄暗く、玉垣の中には二つの石があります。薄暗い杜に木漏れ日で照らし出される双履石を見ると特別な空間なのが感じ取れます。双履石から右手を眺めると本殿を良く見渡す事ができる。入口から双履石は見通せないので遠いと思って諦めずに最初の石段を上ってみて下さい。国府神社双履石入口の左から奥に続く参道があります。ここも境内から見通せない位置なので見落としがちになる。奥に続く参道には常夜灯とその先で苔むした狛犬が拝殿を守護しています。国府神社正面全景。瓦葺の妻入りで向拝を持ち、シックな外観の拝殿。元々は宮下神社と称して、建御雷神と宇迦之御魂命を祀っていたそうです。1918年(大正7)、近隣の坂折神社(日本武尊)、小早神社(速佐須良比咩神)、下山神社(武内宿禰命)、白山神社(伊弉諾尊、菊理姫命)、上神社(武甕槌命)、安田神社(土御祖神、奧津彦命、奧津姫命)の6社を合祀し国府神社に改称したようです。この辺りの境内は苔が多く、地面は苔のカーペットを敷き詰めたよう。足に伝わる石段の固い感触から苔のふんわりした優しい感触が伝わってくる。上拝殿前の苔むした狛犬。大きなものではないが随分古そうで、阿形の足元に寄り添う子の姿が妙に魅かれる。下拝殿に掲げられている額、拝殿のシックな外観にマッチした違和感のない意匠のもの。祭神は以下。建御雷神、日本武尊、速佐須良比咩神、武内宿禰命、伊弉諾尊、菊理姫命、土御祖神、奧津彦命、奧津姫命、宇迦之御魂命の10柱が祀られています。ここに男女の神が10柱、狭いような賑やかな様な。創建等は不明ですが、現在の社殿は恐らく宇部神社と同時期に再建されたものかと。拝殿左から本殿後方に回り込め、そこから社殿が一望できます。周囲にはもみじも多く、訪れた時にはまだ青々としていましたが、今頃は鮮やかに色づいている事でしょう。長い歴史を持つ因幡一宮宇部神社、杜に包まれ落ち着いた佇まいの社殿は一ノ宮の風格が漂う、個人的には双履石と国府神社の雰囲気が印象に残ります。「因幡國一ノ宮宇倍神社」創建 / 648年(文化4)主祭神 / 武内宿禰命境内社 / 国府神社所在地 / 鳥取県鳥取市国府町宮下651駐車場 / 鳥取県鳥取市国府町宮下1008
2021.11.27
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2021/11/18名古屋からでもひとっ走り、豊田市松平町の松平東照宮へ参拝。この辺り一帯は松平郷と呼ばれ、今からおよそ六百年前、この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地がこの地。松平東照宮へは国道脇の駐車場か、山中に続く道路を奥に進むと東照宮脇の駐車場までスムーズにアクセスできます。国道脇の駐車場から10分も歩けば東照宮に辿り着ける距離です。この時期は山々の紅葉を見がてら歩くのもいいかもしれない。(写真は松平郷 入口広場 駐車場)駐車場から続く歩道沿いに建つ「笠掛けのかえでと見納めの井戸」その昔、親氏が高月院を訪れる際にこのかえでに笠を掛け休息をした場所と云い、その時にあやめを摘んでいた水姫は井戸の水にあやめを添えて親氏に差し出した出逢いの場とされる。(現在の井戸は水害により土砂で埋まり復元されたもの)松平東照宮はこの井戸の正面に社頭を構えている。松平東照宮の社頭と西側は堀が築かれ、色付いた落ち葉が水面に浮かび、周囲の紅葉が映り込み秋らしい趣のある光景を魅せている。これらは関ケ原の合戦の後、松平太郎左衛門家九代尚栄によって築かれたそうだ。松平東照宮社頭。石の明神鳥居、境内に入り左に手水舎、社務所、社殿、松平郷館、更に右に産八幡の宮が主な伽藍。額は「東照宮」落葉が盛んなイチョウ、境内や手水舎を黄に染めている。手水舎左に由緒書き。「八幡神社、松平東照宮祭神 誉田別命(八幡様)、徳川家康、松平親氏、他六柱。例祭 4月17日より前の土曜(試薬祭、お水取り)、日曜(例祭・御輿渡御)由緒 当社の歴史は古く、松平家氏神として若宮八幡を奉祀。1619年(元和5)久能山東照宮から家康の分霊を勧請合祀、以降「松平の権現様」、「松平東照宮」と称す。立身出世の神、政治の守神、安産の神、厄除けの神として崇敬されている」こちらの鉢は面白い。この形は盥を模しているようで、盥に清水は満たされていない。その下に視線を向ければ空の盥を苦悶の表情で支える力士がいる。これで水が張られたら支えられるの?松平郷開拓領主は、後宇多天皇(在位1274〜1287年)に仕えた公家の在原信盛と言い、この地に入郷したのは弘安年間(1278〜1287年)とされ、現在の松平東照宮境内に屋敷を構えたとされます。 信盛の子信重は、開拓を進め道を作り交通の便を図り、後に諸国を流浪しこの地に辿り着いた徳阿弥は信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称し、徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏の始まり。ここ松平町は正にここから付いている町名。松平郷最奥部の松平氏の菩提寺高月院には松平氏の墓所があり、松平親氏、二代泰親、四代親忠夫夫人の宝篋印塔が祀られています。松平東照宮拝殿全景。入母屋造、平入の瓦葺の拝殿は東照宮の名から受ける華やかなイメージとは随分違う。煌びやかな社殿より落ち着いた佇まいの外観は松平郷の杜に溶け込みこの方がいいのかもしれない。松平東照宮の前進は八幡宮と称し、松平家の館の一角に祀られていた屋敷神。この松平郷には松平太郎左衛門家が大正初期までこの地に居住していたという。1619年(元和5)家康を合祀後は松平東照宮とも呼ばれ、1916年(大正5)に松平郷内の三社を合併、昭和初期に松平家の館跡へ境内を拡張、現在の社殿を新築、旧社殿(産八幡の宮)は奥宮とし、1965年(昭和40)に松平親氏を合祀、それまでの八幡神社から松平神社に改められ、1983年(昭和58)昔からの呼称である「八幡神社・松平東照宮」に改称されたそうだ。狛犬、マスク着用は宣言解除も変わらない。禍は過ぎ去ったような風潮だけれど見習わなくてはね。拝殿と幣殿の扁額は「松平東照宮」拝殿の外部には至る所に葵の紋が彫り込まれている。松平東照宮の売りは近年描かれた拝殿格天井絵、拝殿前からも見ることが出来るが、拝観料200円で拝殿内を拝観出来るのでそちらがお勧め、写真撮影もOKだ。108枚の天井絵は、白梅や紅梅など見慣れたものからアロエや朴葉など松平郷で見られる草花が色鮮やかに描かれ、仰いで鑑賞するのもいいが、仰向けに鑑賞するのが一番か。2015年、豊田市出身の漆芸家安藤則義氏の手によるもの、これから時を重ね後世に繋いでいくのだろう。上幣殿から本殿方向。下拝殿内から社頭の眺め。拝殿右からの眺め、鮮やかな紅葉とはいかないようだ。周囲の樹々もあり社殿全景の撮りどころは見つからない。本殿は流造で脇障子が付き、細部には彫も施されているが、光物は控えめで黄金色に輝く葵の紋に東照宮らしさが漂う。社殿全景。平入拝殿と切妻妻入の幣殿が連なり右に本殿。拝殿から右方向に参道が続き正面に社殿が二つ視界に入ってくる。これが奥宮、参道を右に進むとその脇の小さな堂(二の井戸、三の井戸)の先の神門に向かう。産八幡の宮と産湯井戸に続く神門。神門前の「産湯井戸の由来」1542年(天文11)岡崎城で生まれた家康、この井戸の水が産湯として竹筒に詰められ早馬で届けられたそうだ。一の井戸、二の井戸とあったようにここには七つの井戸があったそうで、産湯井戸はその中でも最も古い物だという。門の左に「徳川家康産湯井戸」の札、門の扉には当然・・・・・境内正面の産八幡の宮、入母屋瓦葺の平入で棟瓦には当然・・・・・右手の斜面に市杵嶋社(弁天様)が祀られている。その手前の玉垣で囲われた一画が産湯の井戸。石の切妻屋根で覆われ、井戸に下る入口は扉で塞がれている。汲み上げるイメージの井戸ではなく、石段を下りて湧き出る水を汲み取るようです。玉垣の紋にも当然・・・・・この水は水位で農作の吉凶を占い、御神水は健康長寿、出世開運、厄除け、安産に御利益があるそうで遠方からも訪れるそうで、この水は社務所で頂けるようです。奥宮は新しく拡張された東照宮に対し、苔むして松平郷の時の積み重ねを感じる趣が漂う。2021/11/18「八幡神社・松平東照宮」創建 / 1619年(元和5)祭神 / 誉田別命(八幡様)、徳川家康、松平親氏、他六柱所在地 / 豊田市松平町赤原13関連記事 / 松平郷の紅葉
2021.11.24
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2021/11/20知多四国八十八箇所霊場を巡りに常滑方向に出かけてきました。今回は六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所を巡る約10㌔のルート。この二年程はまともに歩かなかったこともあり多少不安な距離。当日は快晴、この日を逃すと気温は下がり天気も崩れる予報だった。常滑駅から歩き始め、県道252号線を南下し大落川に架かるいちば橋の手前で上流に向かいます。歩きなので苦にはなりませんが、大型の四駆などで踏み入れてはいけない場所です。情緒のある大落川沿いの道筋を数分歩き、小さな橋が見えればその左が「知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所宝全寺」、常滑街道沿いに玉垣と石柱門が建っています。お寺に玉垣というのは何となく神仏習合の名残を感じます。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 世昌山 宝全寺創建は1573年(天正元年)と云われる曹洞宗のお寺。伽藍は正面に寄棟瓦葺の本堂、境内右側にいぼ取り、がん封じに御利益があると云う地蔵尊を安置する小堂、左に三十三観音堂と十王堂、秋葉三尺坊大権現堂、むくり屋根の向拝を持つ弘法堂、その奥に天狗瓦の乗った金毘羅堂、左に三宝荒神様を祀る小さな祠と、さほど広くない境内に盛りだくさんの堂が並んでいます。現在こちらの住職は体調を崩されているようで本堂は施錠され、手書きの解説だけが至る所に張り出されています、かみさんの話では納経印も自分で押してきたそうだ。車の場合、石柱門の右に駐車場が用意されています。とはいっても周辺の路地は狭く、譲る気持ちが無ければ車で訪れるのは避けた方がいいかもしれない。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 世昌山 宝全寺創建 / 創建は1573年(天正元年)宗派 / 曹洞宗所在地 / 常滑市本町2-248次は宝全寺から右に、常滑街道を少し南下して知多四国八十八箇所霊場六十二番札所 洞雲寺に向かいました。宝全寺から少し歩くと橋の袂に「陶と灯の記念碑」とからくり時計が現れます。このあたりからほぼ20分程歩き、道路左側に樹々の生い茂る小高い丘が洞雲寺です。入口は丘の手前を左に進むと石柱門と奥に本堂が見えます。こちらのお寺、猫の姿をした「ねこ大師」で知られる様になりそれを拝みに訪れる方も多いようです。弘法堂は本堂の正面にある丘の頂です。頂きには右に弘法堂、左に稲荷大明神、忠魂碑などがあります。西山浄土宗の洞雲寺は1555年(弘治元年)善海法師の創建で本尊は阿弥陀如来座像。この像は織田と今川の兵火から逃れるために池や田畑に埋められたものらしく、後に池を改浚の際に見つけられたものでこれを本尊として創建されたのが洞雲寺だという。この木造の阿弥陀如来座像は常滑市の指定有形文化財に指定されているそうです。訪れる参拝客が多い印象を受けました、駐車場も完備しアクセスしやすく、ねこ大師の効果もあるのかもしれない。知多四国八十八箇所霊場六十二番札所御嶽山 洞雲寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1555年(弘治元年)開基 / 善海法師本尊 / 阿弥陀如来座像所在地 / 常滑市井戸田町2-37次の目的地は知多新四国八十八箇所霊場六十一番札所 天台宗 御嶽山 高讃寺を目指しましたが、洞雲寺から20分程歩いたところで七社神社に出会い。ここで少しコースアウト。常滑市西阿野半月263に鎮座する「七社神社」細い路地は真っすぐに小高い丘に続き、社頭からは石段が伸びる。社頭には「村社式外七社神社」の社号標と由緒書きがあり、内容は以下。「七社神社祭神 天照大神(天照皇大神宮)、伊邪那美命(熊野權現)、譽田和氣気命(岩清水八幡宮)、廣国押建金日命(藏王權現)、天児屋根命(春日大神)、菊理姫命(白山神社)、菅原道真公(天満宮)例祭 4月15日、祈年祭 2月25日、新嘗祭 11月25日 月次祭 毎月1日境内社:天王山津島神社、猿田彦神社、塩窯神社、厳島神社、金刀比羅社、白山社、山神社他 由緒:往当社は往古七所明神と唱せしが1824年(文政7)七社明神に昇格、明治維新の際七社神社に決定、1872年(明治5)村社に列挌、1889年(明治40)神饌幣帛供進神社に指定された」とある。石段の先には境内が広がり一段高く石垣が積まれた神域が作られ、社殿と境内社が祀られていた。七社神社創建 / 不明祭神 / 天照大神、伊邪那美命、譽田和氣気命、廣国押建金日命、天児屋根命、菊理姫命、菅原道真公境内社 / 秋葉社、天神社、知立社、山神社、白山社、金刀比羅社、厳島社、塩窯社、猿田彦社、天王山津島社所在地 / 常滑市西阿野半月263今日は御供で来ているのでゆっくりする余裕もなく、参拝を済ませ失礼したが改めて参拝に訪れよう。ここから5分も東に歩けば六十一番札所御嶽山 高讃寺です。七社神社から東に進み国道247号線を越えれば六十一番札所 天台宗 御嶽山 高讃寺の駐車場です。石柱門から長い参道を進むと中ほどに仁王門、そこから更に先に本堂、弘法堂などの伽藍が広がる。高讃寺の創建は古く、684年(白鳳12)天武天皇の勅願寺として行基により創建されと伝わり、最盛期には七堂伽藍、300坊を越え知多三山の一つに数えられという。戦国時代には織田信秀と今川義元の兵火で伽藍の大半を焼失、その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火による焼失を経て、現在の姿となります。参道途中の仁王門の仁王像は度重なる兵火を避けため池に沈められ、後に引き上げられたものだと云いいます。余談 こちらの住職の口からも「今年は紅葉が宜しくない」と云われていた。知多四国八十八箇所霊場六十一番札所天台宗 御嶽山 高讃寺創建 / 684年(白鳳12)開山 / 天武天皇開基 / 行基本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 常滑市西阿野字阿野峪71-1ここから国道247号線沿いに約40分程北上します。道は地味にアップダウンし、今回歩いた中で一番長い移動時間。奥条7丁目交差点で左に向かい、目的地の知多四国六十三番札所 真言宗 大善院は右手の丘陵地です。丘陵地の南垂れの斜面に鎮座する大善院。境内で聳える大きな樹はイブキの樹、大善院のシンボルツリー。入口に大善院、補陀洛山の石柱門が建つ、伽藍は石段正面の本堂、右に大師堂、庫裏、本堂左に赤い幟が山の頂に向かって立ち並ぶ補陀洛山中宮の伽藍。大善院の歴史も古く684年(白鳳12)御嶽山三百坊が滅亡の時に本尊の十一面観音と不動明王、毘沙門天の三尊を大善院に移し奉安したそうです。往時には六坊あったと云われ、大善院は本坊として常滑城の鬼門を守護して来た。左の補陀洛山中宮の牛頭天王は常滑城城主水野家の氏神として崇敬されていたという。本堂は方型の瓦葺……こちらのお寺も檀家減少の逆風を受けているのだろう、痛々しい姿を曝け出している。一般参拝客がもたらす収入は、朽ち果てる速さに追いつくことが出来ないのだろう。こうした寺社は幾つも目にしてきたけれど、情報発信や積極的なアクションが遅れると荒廃の道を辿る。常滑と云えば名の知られた企業が名を連ねている、利益の僅かでもそうした方向に還元されれば復旧も早いと思うのですが。知多四国六十三番札所 真言宗 補陀洛山 大善院創建 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市奥条5-20最後の目的地知多四国六十六番札所 曹洞宗 神護山 相持院へは大善院の丘陵地を上り、「とこなめ陶の森資料館」を右手に見ながら尾根沿いを歩けば15分程で到着です。大善院から北に続いた平坦な尾根が下り始めると、その先に見える丘が相持院の杜。南側に知多四国六十五番札所の石標があり、そこから石段が上に続きます。途中の山門は樹々に包まれ全体を望めなかったが唐破風と枓栱や木鼻等の彫は見応えがありました。参道は常滑「やきもの散歩道」のBコースに含まれることから頻繁に人と出逢います。石段を上り詰めると境内で正面に本堂、右手に納経所、庫裏、鐘楼堂、本堂左に稲荷社の伽藍。神仏習合の香り漂うお寺です。草創は不明、1560年(永禄3)、現在地から西500m程に鎮座する神明社の近くに曹洞宗・天沢院の末寺として鎮座していたそうだ。廃仏毀釈の中で一時は世昌山 宝全寺に統合、1903年(明治36)西光寺として復興を遂げ、1921年(大正10)に相持院と寺号を改め、伽藍を整備したという。樹々に包まれた境内の右に建つ鐘楼堂の梵鐘は「延命長寿の梵鐘」と呼ばれ知多半島最大のものだという。知多四国六十五番札所曹洞宗 神護山 相持院開創 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 延命地蔵大菩薩所在地 / 常滑市千代丘4-66参拝を済ませ境内左手から更に北へ、やきもの散歩道の案内板があるように常滑の街中も近づいてきた。そろそろ遅い昼食を摂りに西方向の常滑駅方向へ。写真上は相持院から15分程西に歩いた住宅地の中で見かけた小さな祠。祠の中には青面金剛らしき石像が安置されていたが詳細は分からなかった。この辺りは過去に映画のロケ地として取り上げられ、昭和を感じさせる懐かしい情景が保存されています。この祠からでんでん坂方向の古窯庵で蕎麦を食べに向かいました。でんでん坂を上がり切った突き当りにある「古窯庵」古民家をリノベした落ち着いた佇まいの外観、店内も梁剥き出しの天井のないジャズの流れる落ち着いたもので、座敷とテーブル席が用意されている。ここで粗挽き細うちせいろ(880円)と天ぷら盛り合わせを昼食とした。新そばの粗挽き細うちせいろは細うちとあるが、さほど驚くような細さではないものの、蕎麦の風味が口の中で広がり、妙にこだわって敷居も価格も高い蕎麦屋よりは良心的かもしれない。出汁が自分には少し辛かったかな、蕎麦湯と合わせて丁度いい加減、美味しく頂けました。古窯庵 常滑所在地 / 常滑市栄町4-87これで今日の知多四国巡りは終了、電車に乗って家路に向かおう。歩行数は約19,000歩、歩行距離は13.4km、歩行時間は3.12時間。高讃寺から大善院の約3㌔の道のりは見るものも少なく一番足に来た、鈍ってるネ。今回のルートはこちら。
2021.11.23
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