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Oct 3, 2024
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昨日は、少しだけ早帰りして、12時前に寝た。3時半に起きれるよう目覚ましも無事にセットして・・。前回酔っぱらって帰って偶然後半開始前に起きられたからよかったものの試合開始前から見たかったので・・。前回の反省で、無事に目覚ましをセットし、無事、三時半に起きられたはずが・・・。なんで、4時半??「あ、目覚まし止めて安心して落ちていたんだ・・。マジかよ・・・。」(ダメな私・・涙)焦ってテレビをつけると前回同様、前半終了直前。スコアーは2:0。ブラジルが勝っている。ワールドカップ南米予選でアルゼンチンに負けていたので今回も拮抗した試合なのかな・・と予想していた自分としては意外なスコアーだった。でも、ハーフタイムの得点シーンのリプレー見て、こんなシュートされちゃあ止められないだろ・・て、納得。後半早々もロナウジーニョの鮮やかなシュート。ブラジルの選手は、パスにしろ、シュートにしろトラップなしのワンタッチでダイレクトなプレー。基本的な技術の違いが改めて良くわかる試合だった。アルゼンチンも世界トップの実力があり、ブラジルとどちらが強いか意見が二分する国なのに・・今日のブラジルなら何処の国が対戦しても子ども扱いだったのでは・・・。3位決定戦も点の取り合いで来年の主催国らしく勝負強さを見せたドイツがヨーロッパでは期待の国に浮上してきた。元々実績も実力もあるが前回は、世代交代の失敗で優勝をのがした。(でも、決勝に残るあたりは流石なのだな・・。)毎回期待させてこける、スペインやオランダに比べると堅いというか・・前評判がいまいちでもゲルマン魂で結果を残す国ドイツ。この国のサッカーが好きかどうかは人それぞれだろうけどね・・。
Jun 30, 2005
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今朝のサッカー、最初からきっちり見ようと思っていたのに・・・。目覚ましをかけわすれて、前半終了5分前。4時半頃、何故か飛び起きられた。(汗)でも、普段どおりだったら試合終了していたんで偶然でもおきられたことに感謝。お酒飲んで帰ってきていたし、寝たの1時過ぎだったし・・。で、焦ってテレビつけたら2:1。「おーーー、誰が点入れて。」ブラジルが勝っているのは予想していたけど・・日本が得点しているなんて・・。「まじまじ」て感じでした。寝ぼけながら得点シーンを見ていたら、俊輔の鮮やかなミドルシュート。やっぱり凄いの・・この試合でこんなシュートを決めれる俊輔。ロナウジーニョとかの体の切れは相変わらす軽快で、点取られても仕方ないかな・・・、って思える切れだったし。後半早々のチャンスが二度程あった後は、中々決定的なシーンがなくて・・うたた寝モード。終了間際の俊輔のFKから、こぼれ玉をダイレクトで決める大黒は、ストライカーだった。こんなフォワードが出てこないといつも得点力不足ですね・・てコメントの繰り返し・もう、そんなの聞き飽きたよ。試合終了直前まで、世界に衝撃のニュースが流れる可能性を感じさせてくれる試合だった。相手は、ブラジル。どんなに体調が悪かろうが王者のプライドがあるチームに最後同点まで追いついて、あわや逆転。同点なら・・いいんだという気分を一瞬でも王者から奪った日本チームに乾杯!!時代がやっと世界に近づいてきた実感をやっと感じさせてくれる試合でした。幼稚園の頃、ペレやベッケンバウワーのポスターを壁に貼り。野球少年達を尻目にサッカーを見ていた自分。高校サッカーしか人気がなかった日本のサッカー。有名なクラブチームの国立の試合でも空席があるありさま。トヨタカップが日本で開催される価値も理解されなかった国が・・。今日の試合は、感慨深い試合でした。一年後に向けて、世界中を驚かせる日本チームにもっともっとなって欲しい。
Jun 23, 2005
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昨日、のんびりと横浜マリノスとFCバルセロナの試合をテレビ観戦していた。FCバロセロナは、私が世界中でもっとも好きなチーム。レアルマドリッドに比べると、世界的に超ーー有名な人は少ないが、見ていて飽きないプレースタイルだ。守備に、若干問題もあるけど・・。親善試合とはいえ、マリノスに3点も点を入れられてしまうんだから・・。でも、バロセロナの得点全てが、世界を感じさせるシュートで、こういうプレーができないとワールドカップ優勝とかは、夢のまた夢。勿論、日本人向きの戦術。戦略で、勝ちをとる試合はできるのだろうけど・・。私もNYで活躍しているヘッドハンター達から見たら、同じ仕事でも質の違うプレーなんだろうな・・。頑張らないと・・。ワールドワイドな人材に相手にされなくなっちゃう。(汗)サッカー同様、これからは世界トップレベルで活躍する日本人も増えるだろうし・・。現に、自分の担当する人の半分近くは、日本人じゃない。
Jun 13, 2005
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お久しぶりです。今晩は、日本がWカップ・ドイツ大会にいけるかの大切な試合。日韓共同開催からあっという間に4年の歳月が流れようとしている。年取るの早いな・・。(汗)まだまだ、日本は安心してワールドカップに出れるレベルまではきていないし・・・。一勝もしていない北朝鮮が相手だけど・・日本には、絶対負けるな・・って言われているだろうから簡単には引き分けすら難しい試合になるんだろうな・・。 ヨーロッパや南米でも確実に出場できると思われた国が予選突破できない事からどんな形でも先ずは参加できるキップを手にして欲しい。重要な試合の日に限って、面談やらセミナーが入る。今日も外資系の大手ソフト会社の中途採用説明会に顔を出さないといかない。途中経過をメールでいれてもらう事になっているけど・・。【日本の勝利を信じて・・。】
Jun 8, 2005
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皆さん、お久しぶりです。今日の私は、ハイテンションなので久々に日記を書いてみようかな・・と。理由は、簡単。サッカーのCLリーグ決勝をLiveでテレビ観戦していつの間にか寝るタイミングを失ってしまいました。いつも通り飲んで終電で帰った私は、ニュースを見ているうちに既に2時前。少し寝ようかな・・とも思っていたんですが日テレでアニメ映画をしていたので3時半からのCLが始まるまでダラダラ・・。試合自体、前半が終わった時点で3対0。ACミラン楽勝の試合だと思って、後半見ないで少しぐらい寝たほうがいいかな・・などと思っているうちに1点また1点・・あれよあれよというまにACミランがまさか3失点。同点にされてしまい・・ここら辺では、完全に真夜中、一人ハイテンション。普段、シャワー浴びて出かける準備の6時少し過ぎに延長終了。無得点のまま決着は、PK戦。こりゃあ、いつもより遅く家を出る事になるのを覚悟して一人一人がPKを蹴るのをガッカリしたり、奇声を上げたりしてみていました。結果は、既に皆さんも知っている通りです。途中で寝てもいいようにビデオ撮りしていましたが、いつの間にか寝るどころの状態ではなくなっていました。年末に録画したPRIDE男祭りの5時間録画したビデオぐらいしか手元になく、泣く泣く上書きしたのですが、今となってはPK戦まできっちり録画できて今日帰った後も見返すだろうという試合を保存できて大満足です。と、まあ、久しぶりの更新にもかかわらず自分の真夜中の行動を書いただけで・・すみません。最近、仕事真面目にしていて、仕事自体は好調なんですが・・皆さんにお話する面白話、全くないんです。私の周りの席は、皆今日の天気のせいか全く社内にいません。銀座とか恵比寿とか適当な地名を行き先ボードに記入して・・・。更新しない私のページを覘きに来て頂いたみなさん、ありがとうございます。
May 26, 2005
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今朝、満員電車で隣に立っている男性が、両手にエメラルドのついた指輪を摘むように持ちながら何やら呪文を唱えていた。大丈夫かよ・・・こいつ??男性が、宝石つきの指輪をつけているのに違和感があって・・思わずちらちらみていると明らかにやば系な動き。世の中、色々狂った事が多いけど・・他の人にとりあえず害を及ぼさないお祈りみたいだったので、「明日は別の車両にしよう・・」と思って駅を降りた。
Apr 26, 2005
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たまには、本業の話でも書いてみよう。最近、この国でもやっと話題になってきた企業買収。「ホリエモン」が国中を刺激してくれるから少しは関心が高まったきた話題だ。私は、仕事柄、水面下で動く企業買収に連動して人材の引抜を依頼される。既に、雑誌やテレビで話題になるずっと前に・・。この情報を基に株式投資とかするとインサイダー取引になって豚箱入りする可能性が大きい。実際、表面化した後の買収される企業に勤める人には様々なタイプがいる。大雑把に分類すると、次の3種類の人種に分かれる。A:目ざとく日頃から自分が勤めている会社の内情に照らし合わせて噂が表面化する前に転職するタイプ。B:倒産したり消滅しても動じないタイプ。C:ただうろたえて何もできないまま時間が過ぎるタイプ。私がターゲットにする人種は、AとBの中に混じっている。Aの人種の中でも、嗅覚が効くタイプは、浮気もするが話は早い。注意しないといけないのは、普段からいつもちょっとした情報で浮き足立つタイプとの区別をつけれないと後で苦労する。Bの人種の中では、腹が据わっているタイプ。大概の企業が求めている人物の可能性が高い。このタイプと近いのが、単なるのんびり屋さん。Cの人達は、一般的な人達なので、普通に転職活動して会社を代わって行く。私が昔勤めていた外資系企業は、会社の中心的な稼ぎ頭の部門を、高く買ってくれる人が現われたという理由でさっさと売り飛ばした。当時の私は、何故。。会社の一番稼ぎ頭の部門を売るんだ??と思っていたが、株主の望む方向ならそれがたとえ、一番の花形部署でも売ってしまう事にビックリしていた。日本は、今までは大概、調子のよくない分野や部門を切り離す形が多かったけどこれからは、株主の圧力を無視できない時代に日本もなるだろう。ちなみに私は、今、世界的なコンピューターメーカーのPC部門の人材を中心に引き抜いている。部門ごと、中国の会社に売られてしまったので・・。あなたは、A、B、Cどのタイプかな?(笑)
Apr 22, 2005
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何年ぶりだろうか・・。東京ドームで野球を観戦するのは。自分の記憶だと、もう、10年近く行っていなかったな。。。ここ数年、サッカー観戦ばかりで、たまにラグビーとかアメフト、アイスホッケーを見に行くパターンになってしまった。子供の頃は、大のジャイアンツファンのおじさん達に何度も連れて行ってもらったのに・・・。市場への行き帰りいつもAMラジオからながれてきた野球中継。私は、小さい頃から野球よりサッカーが好きだった。しかし、時代が時代、巨人軍がV9とかしていたのでそうは言っても野球に無関心では暮らせない。皆が当たり前のように巨人の野球帽を被る中、一人、阪急の帽子を被っていた思い出がある。(小さい頃から皆と同じが嫌だったんだな。。)話は戻ると、昨日、久々に大の阪神ファンの同僚に連れられて東京ドームの巨人vs阪神戦を見に行った。試合展開は、既にご存知だと想うが、序盤は、1対0の拮抗したゲームだったが7回に阪神が大量7点をリード。その裏の回、0点に抑えたので私が暢気に今日は楽勝だよねと隣の席の人に話しかけると、「阪神は何点リードしてもわからない球団なんだよ・・。」と困ったような楽しんでいるような表情で答えた。「そうなんだよね、この球団は・・。」私自身、阪神ファンではないが何故か気になる球団なのだ。阪神ファンじゃないとはいえ、熱狂的な阪神ファンの真っ只中でボーーっとしてられるわけがない。同僚に応援歌を習い、最終打席最後の一人まで声がかれるほどの大声で声援した。いつ以来だろうこんなに長い時間、大声を出したのは・・。
Apr 20, 2005
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最近の私は、ドジばかり・・。ボーーっとして、電車は乗り過ごすし・・。(お酒を飲んで終点まで行ってしまう癖は昔からなのだが・・)数日前に、飲み屋さんで会社の後輩と飲んでいた時、両隣にカップルが座っていて楽しそうに飲んでいた。私と後輩は、元同じチームだったが私が4月の異動で今は隣のチーム同士。昔は、週に2,3度は飲み歩いていた仲だが最近彼とは飲みに行っていなかった。私と彼は、お互いの近況を話しながら、お互いがダメダメな状態だな・・と言い合っていた。ビールを数杯飲んで焼酎をボトル一本空けた頃、事件はおこった。私の足元の棚に、ジャンバーがおいてあることに気がついた。隣のカップルとは少し距離が離れた感じで飲んでいたので私はてっきり前のお客さんの忘れ物だと想い従業員さんに声をかけた。私「すみません。」「はい、少々お待ち下さい。」「はい、なんでしょうか?」私「これ、下の棚においてあったんですが・・前のお客さんの忘れ物だと・・。」「そうですか・・。あ、・・。」(ガッチャーーン)辺りに響き渡るグラスや陶器の割れる音が・・。「すみません。すみません。」私「大丈夫ですよ。」「今直ぐ片付けますから・・。」こんなやり取りが行われている間も、隣のカップルは二人だけの世界に浸っていた。暫くして、連れの後輩が私に後ろを見て見てくださいよという感じのジェスチャーをした。私は、何があったんだろうと振り返ると隣のカップルが何故かごそごそテーブルの下や辺りを見ながら物を探している。後輩「さっきのジャンバー・・。幸喜さん・・・。」私「あ、さっき俺の下にあったやっか・・。」私と後輩は顔を見合わせて・・。私は、隣のカップルに「さっき、棚の下にあったジャンバー、忘れ物だと想って定員さんに渡してしまいましたよ。」と言った。隣のカップルは、ジャンバーが忽然となくなったと想って探していたが、お店で預かっているのがわかるとまた何もなかったかのように飲みだした。私の後輩は、一人爆笑していた。私が、忘れ物と勘違いしてお店の人にジャンバーを渡してしまった事。従業員が、食器を割った事。さっきまで一生懸命探していたジャンバーのありかがわかった瞬間に取りにも行かずに飲み続けたカップル。後輩にしたら、全てがなんだかコミカルな劇のように感じたらしい・・。後輩「久々に、爆笑しましたよ。」私「そうか・・。また、俺はやってしまったよ・・。」私は当然の如くこの後、終点まで電車に揺られたしまった。
Apr 15, 2005
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一年でこの季節だけ、駅までの道を少し遠回りして私は向かう。普段は、少しでも早く駅につかないかな・・と思ったりする自分が、桜が咲き始めて散り行くこの季節だけゆっくりと歩き、そして、何度か立ち止まりその景色を眺めながら駅を目指す。私は、普段からマイペースなのんびり屋なので、散歩したり月を眺めたり、道端の名も知らぬ雑草の花を眺めたりしている。日々の暮らしの中で、磨り減っていく心の栄養を人それぞれ補充する方法は違うだろう。表の顔と裏の顔。立場が違えば、人生観が違えば同じ風景を眺めていても感じるものは別。誰かの為に、何かをしてあげたくても自分が余裕ないと・・・。
Apr 7, 2005
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3月31日、夜の面談も終えて暢気に飲みに出かけようと思っていた私のところに普段あまり会話しない事業部長が近づいて来た。なんか嫌な予感・・・。私の読み通り部長は、「明日から3日間、伊豆で新人研修に参加して欲しい。週末の面談とかは他の人に代わってもらって。」、「え、明日から・・。」。私は、4月1日野球の開幕戦に行こうと思っていた。週末面談だって・・・他の人に代わってもらえなんてて・・。私は、有無を言うまもなく拉致された。仕方なしにバスに揺られて伊豆の奥地は連れられた私は、携帯電話の電波も限りなく圏外状態の研修所に到着していた。こんなの本社のメンバーでしてくれよ・・。話によると、新設部門にいる私の仕事を経験した本社スタッフが誰もいないので現場の人間誰か連れて行け・・となったらしい。それにしても、何で俺??そんな事で私は、新入社員100名と研修所暮らしな日々だった。新人で私がいる部門に配属になるのは、100人中3人ぐらいで大概の新人は自分にはあまり関係ない仕事なので研修終わらないかな・・と顔に出ていた。私も彼らに同感だった。急遽研修に拉致された唯一よかったのは、自分が担当する時間帯以外のんびり温泉に入っていられる事ぐらいだった。私が連れられた研修所には、他の会社の新人や大学のサークルも合宿に来ていて18面あるテニスコートやゴルフ場はいつも人に溢れていた。実際、研修の中で説明できる内容は業界の歴史や現状、一般論ばかりで、具体的な泥臭い現場の事例は正式配属になったメンバーにしか話せない内容ばかりなのである。「偽名で電話をかけたり。同姓同名の間違い電話をひたすら土日する。」等の話は、新人が最初にする具体的な仕事だがせめて研修期間中ぐらい夢を見ていて欲しい・・。現実を知って益々やる気になってくれるような有望な新人が私の部門にも配属される事を期待している。引き続き研修の残る彼らを後に私は新宿のオフィスに戻ってきた。新卒でいきなり私の部門に配属になるメンバーは、運がいいのか悪いのか・・果たしてどちらなんだろう・・。
Apr 5, 2005
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昔、よく「3月3日がひな祭りで女の子の日なら、5月5日は端午の節句で男の子の日。じゃあ、4月4日は、オカマの日か??」と馬鹿な話をした事をふと思い出した。私の周りには、外見から女性になりたい男の人や外見は男性の格好だが、心は女性の人までオカマ(?)&ニューハーフの方が多い。彼らは皆愛らしい人が多く、私は好きだ。(個人的な恋愛感情をもたれるのは勘弁して欲しいが・・。)自分自身、色々悩む事がある分、彼らは人の痛みや悩みにも敏感な人が多いのも私が彼らにひかれる原因なのではないだろうか・・。人は誰しも心の中に闇を抱えている。その闇が、広いか深いかは他に人が評価できる事ではない。これは、幸せについても同じ事だろう。
Apr 4, 2005
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慣れない新人研修を終え、私は露天風呂につかっていた。桜が大分色づいてのんびり最近の事を振り返る時間が持てた。普段の週末は、大概スカウトの電話と平日に会えない人達の面接で過ぎる事が多く、平日でないとあまり余裕がある時間は過ごせない。この数日、研修で一緒だったメンバーの何人かは、来週にはそれぞれの職場に配属になるんだな・・と。自分が、新人だった十数年前の事を思い出していた。私が、新人の頃はまさにバブル終焉、新人研修も派手なところが多く私たちは最初からちやほやされて社会人としてスタートした。自分自身は、海外に遊びに行ってしまっていたので同期の人から聞いた話だが・・。あれから大分年が流れた。気がつけば、40代目前。段々と人生の生き様が顔に出る年になってきた自分がいた。
Apr 3, 2005
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私は、貴女に何をしてあげられるんだろう。私が、貴女にできる事と貴女が望んでいる事は違う。私が、貴女に聞けば何も望んでいないし・・あなたには解決できないから・・とだけ言うだろう。人が、誰かの為に何かをしたいと思う気持ちは自分の欲求を満たす自己満足なのだろうか・・・。自分以外の誰かの事を理解してあげる事は、本当に可能なのだろうか・・。自分の事さえよく理解できない自分がいても、他の人だからこそわかる事もあるんではないだろうか・・。
Apr 2, 2005
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私が海外で色んな体験をした中、頭ではわかっていたつもりが実際異国の地であり、言葉が不自由でやっぱり困ったな・・と思った体験の話をしよう。私が、初めてローマに訪れた時の話だ。到着したその日は、大雨で・・下水とかが整備されていないのかローマの街中はいたるところで雨水が川となり道路は水で覆われていた。やっとの思いで、雨宿りに飛び込んだ場所が、「真実の口」。誰もいないで雨宿りしていた私の横を、土砂降りの中、3人組の観光客が入ってきて騒ぎ出して初めて私は偶然飛び込んだ場所に真実の口があったんだと気がついた。三人組がいなくなった後、私も恐る恐る口に手を入れてみた。「・・・。」一人でする事じゃないか・・。なんもおこらなかった。当たり前である。そうこうしているうちに、雨も止み、私は今日の宿を探し始めていた。そんな折、トレビの泉の前を歩いていると二人組みの青年達に話しかけられた。「君、旅行者?」、「ええ、そうです・・。何か??」、「実は、俺達、ローマに3連泊する予定だったんだけど、急に次の目的地に移動しないといけなくなったんだよ。未だ、宿とっていなかったら俺達が借りた半額でいいから君泊まってくれないかな??」、「半額ですか・・でも、・・・。」私が、不安な顔をしていたのだろう、彼らの一人がたくみに「管理人さんなんて来ないからばれないよ・・それに、ばれたって俺達が正規の料金は三日分払っているんだし・・大丈夫。」私は、この時、いっけん美味しい話に思えるこの話を断るべきだった。ローマ宿泊初日は、無事に何事もなく過ぎて行った。二日目、深い眠りについているとドアをたたく音で眼を覚ました。最初は、無視していたがドアの前に数人の人がいて騒いでいるのがわかったので扉を開けた。「はい、なんでしょうか?」、「お前は、誰だ!!」激しい剣幕で捲し立てられた。明らかに私は不審者扱いしている目をしていた。どうやら近所の部屋の住人達が見慣れないアジア人が昨日から隣の部屋に出入りしているとフロントに密告したらしい・・。私は、事の経緯を大家さんに話した。間髪いれず、彼は「お前とは、契約していない・」私は、既にこの部屋の前の住人から3泊分の料金をもらっているでしょと主張したが、取り付く暇もなかった。当たり前と言えば当たり前の話だが私の長い海外放浪体験の中で、これだけは今、思い出しても下手打ったな。。と思える経験だ。
Apr 1, 2005
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私が、初めて海外一人旅をした時、出会ったシンガポール人のスティワードがマスマンだ。彼からは、シンガポール滞在中大変お世話になり、ビキニの下着までプレゼントされた仲だった。(肉体関係は勿論ないが・・。)私が帰国後も彼が日本へのフライトの旅にステイ先の新高輪プリンスから電話があった。私は、彼の仲間のスッチーと仲良くなれるかも・・と思い毎回遊びに行くのだが激しく彼に邪魔されて一度もスッチーと仲良くなれる機会はなかった。皆で馬鹿騒ぎしてプリンスホテルの従業員からこっぴどく叱られた想い出は数えきれないほどあるが・・。マツマンとは、色んなところにデート(?)した。彼は宗教上、豚肉が食べられないのでよく食事時は材料の話題でお店ともめた思い出がある。そんな彼の一番のお気に入りの場所が、新宿2丁目で私は彼に誘われるままよく遊びに行くようになっていた。最初に、彼が案内してくれたお店は、地下にあるバーだった。何気なく勧められるまま店に入ると中央にバーテンダーさんが数人いるお店で、落ち着いてあたりを見回すとラブラブな男性同士のカップルが数組座っていた。以前から、マスマンは自分の事を女性以上に女性だと思っているのは知っていたが、実際この様な男性カップル専用のお店に来るのは初めてで私は異様な雰囲気にのまれていた。その後も、ことある毎に新宿2丁目にある様々なお店に連れて行かれ何度も彼から抱いて欲しいと誘われる事を繰り返していた。そんな中、私は2丁目で有名なママさんのお店に案内された。その店は、2丁目でも名門?なお店で歴史も古く、ママはかなり業界の顔である事がうかがえた。何回か私がマスマンに誘われて遊びに行った時、ママと話す機会があった。「幸喜君は、何回かうちの店に来てくれているけど、男が好きなの?」、「いいえ、そうではないんですよ。彼が・・。」、「そうなんだ。やっぱりそうだと思っていた。私、このお店以外に秘密の会員制クラブも運営しているのよ。」、「へーー、そうなんですか。どんなクラブなんですか?」、「最初は、相手の男性を探している男のお客さん向けにサービスで始めたんだけど。今は、ありとあらゆる男女間のご希望にこたえる会になっちゃったのよ。例えば、乱交パーティーを主催したり。愛人を紹介したり・・。SM相手を紹介したり・・。でね、幸喜君ならメンバーにしてもいいかな・・って想った訳なのよ。どうかな?興味ある?」、「それは・・・興味あるますけど・・。どうすればメンバーになれるんですか?」、「そうね、一度私の自宅兼オフィスに面接に来てくれる?」、「面接ですか?」、「そう、私が推薦者になってあげるけど・・私の一存だけではメンバーにするか決められないのよ。既にメンバーの他の二人の会員にあってもらって承認が必要なのよ。」、「そんなに会員になるの大変なんですか・・。」、「まあ、そうなのよね、うちの会員である事を知られたくない人も大勢メンバーにはいて・・。」、「わかりました。ママの自宅に昼間伺います。」私は、ママの部屋に自ら進んで行く事の心配よりこの秘密クラブの存在の方が興味をそそられた。
Mar 31, 2005
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私が当時いたイベント会社は、殆ど全てのセクションが会社を食い物にしていた。どの会社にも多かれ少なかれそういうタイプは存在するだろうし、あの会社でも真面目に一生懸命働いていたスタッフは大勢いたと思う。私の元に全ての請求書。領収書が流れて来る立場上、その書類から見えてくる各部門の実体が手に取るようにわかった。中には、ストレートに自分で行った風俗店の領収書を落としてくれと依頼してくるものもいた。関西のスタッフで一番多い会社へのたかりは、東京ディズニーランドに研修の名目で出張し、滞在費、入場料、みやげ物代まで請求してくるやからが多かった。先日、お話した資材部の部長は、取引業者に便宜を図る(少し高めに仕入れる)代わりに自分へのバックマージンを要求していた。料飲部の悪餓鬼達は一番巧妙で私を巻き込んだり、専務と常務が争っているのを利用して数々の美味しい汁を啜っていた。(彼らに言わせると、自分達は一番可愛い方だと主張していたが・・。実際はどうなのであろう??)他にも、愛人手当てを捻出する為に新幹線チケットを換金する者や、会社のノベルティーのテレホンカードや金券を横流しする者も続出した。私がいた経理部は、あまりに現金に近すぎて何もできないままだったが・・・。この会社が、幕を閉じるのは時間の問題だった。倉庫でも船内でも高級な酒やブランド品がなくなっていた。
Mar 30, 2005
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私が、経理部に異動になって暫く経った時、事件はおこった。日々、狸と狐の化かしあいみたいな仕事をしていた。私が久しぶりに横浜の港に行って現場の状況を確認した時、現場の上層部を巻き込んだ隠蔽が発覚するのだった・・。連休が調度あけたタイミングで港に着岸した船は慌しかった。以前は、システム部門の担当として船内のレジや機器が通常に動いているかを確認しに行っていたが、経理部に異動になった後は、何より各セクションの売上状況及び船内で不正な操作がされていないか監視しに行かなければならなかった。そんな折、何気に船内にいるお金を管理する女の子との会話の中、連休中の売上を港からタクシーで夜間金庫に運ぶ時、なくしていた事がわかった。そんな大問題が何故??本社に伝っていないんだ・・。そもそもどうしてなくなったりするんだ・・。運んだ時の状況は・・・。私は、こんな大事件が本社に漏らないで運営されるのは、おかしな話だとおもった。経理の鈴木さんが未だ気がついていない。いずればれるはず・・・1000万近いお金がなくしましたで済むはずがない・・。話を丹念に聞いていくと船のサービス部の部長には、この事実は報告済みで部長判断で自分に任せろと言われたそうだ。いくらいい加減な会社でも部長が、もみ消せる話のレベルではない。以前、資材部長のバックマージン着服のタレこみがあった時以来の問題発生だった。私は、経営会議で船の部長を糾弾した。以前から、この部長はお気に入りの女性スタッフと海外のリゾート視察と称して旅行したり好き放題していたので、今回も事件を引き金にいなくなっていただこうと・・。結局、この時間は、部長が飛ばされて幕を閉じるが明らかに部長一人の判断で決まられる事ではない・・。影に、専務と争う、関西本部長兼常務の姿が見え隠れした。
Mar 29, 2005
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ダンボールの山と一人孤独に格闘している日々が続いた。最初は、各会社の代表から契約部門に電話をかける、話をしても契約すら結んでいないのにドンドン現場でクーポンが発券されている状況を説明し、手数料率を決めて契約したい旨を先方に伝えた。相変わらず、社長は、手数料の%に渋く私は、「この紙くず、金に換えたいんですか?それともこのままここに大切に保管しておきたいんですか?」と問い詰めた。社長は、渋々「とにかく現金に換えてくれ!!」とやっとGOサインを出したのである。一枚一枚、発行旅行会社に問い合わせて、勝手に何でも込み込みでいくら・・とか大胆な割引をしている企画もあるんで不当に現場レベルで割り引かれている場合は、正規料金を請求しないといけないなど気の遠くなる作業が続いていた。私が、こうして暗い小部屋で作業している間も日々、船内ではクレジットカードが切られ、クーポンが発行され続けていた。そして、・・船に乗り続けているメンバーは金が貯まり、美味しい思いもしている・・・。そんな毎日が続いて、やっと少しずつ、ダンボールがなくなり、他の人にバトンタッチしても平気な状態になった。そんな折、管理部門の岡さんが私の元に訪ねてきた。「幸喜、お疲れさん。」、「お疲れさんじゃないですよ・・。岡さん。これは、営業部の怠慢と管理部の仕事でしょう・・。全く・・・。俺に押し付けて・・。」、「実は、幸喜を経理部に異動しようという話になって・・。」、「???岡さん、今、なんていいました?経理部に異動?俺、簿記とかわかりませんよ。」、「簿記ぐらい直ぐに覚えられるだろ?社長直轄の仕事もしてもらおうと思っているんで・・。」、「社長直轄??俺に何をやらせようとしているんですか・・・。」、「詳しい内容は、社長と専務を交えて話すよ。」、「俺、船に戻りたいんですよ。それに、システムは・・・。」、「最近、システムは順調じゃないか。宗ちゃん一人で大丈夫だろ?」、「宗さんも、この件は了解済みなんですか??」、「専務の方から話してもらっている。」、「そうですか・・・。」私は、岡さんを含め、3人の管理部に異動になった。総務の仕事は、岡さん。経理は、鈴木さん、アシスタントのヨッシーがしていた。俺には、何をやらせるつもりなんだろう・・。鈴木さんは、戦争経験者で昔で言う軍隊の士官学校出の私には、最初から完全な信用をおいていた。社内では、堅物で話のわからないおじいさんという評判の人物だった。岡さんは、本来船の現場の総責任者になるはずだった人だ。ヨッシーは、20歳の短大卒業したばかりのお嬢さん。普段、関西本社にいる社長と専務、岡さんの4人で話あいをした。話の内容は、金融機関から事業用の資金を追加で融資してもらうという話だった。この話だけ聞くと普通の内容だが、実際は、架空の帳簿を元に、銀行では既に追加融資してもらえない状態だったところをノンバンクや如何わしい金融機関からお金を融資してもらう担当として頑張ってくれということだった。最初は、都銀のお偉いさんに挨拶回り、次第に危険な匂いがぷんぷんする人物に・・・。私が、持参する会社の財務内容の資料は常に、社長によって手を加えられていた。。。
Mar 28, 2005
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私は、今までの人生の大半、恋愛に関しては受身で過ごして来た。海外では、別人の如く、積極的な性格になれる自分が、国内では・・特に日本の女性に関しては常に受身な付き合い方しかして来れなかった。国内でも、自分の事でなければ、積極的にチャンスを作り出せることは過去、私が知人に対する貢献度をみれば一目瞭然だった。今まで年上の女性としか付き合った事がなかった事もこのことに大きな影響を与えていると思う。そんな今までの生き方を変えなければならない女性と私は、出合った。「男性が女性をリードするもの。」とは、私の中でも頭では理解していたが、小さい頃から逞しく生き抜く女性をまじかで見続けているうちに「女性には、なんだかんだいっても男は勝てない。」そう感じるようになっていた。この事が、私にたとえやせ我慢でも男は、女性を守りリードするものだという基本的な事すら避けて生きるようになっていた。私は、今、改めてこの基本的なテーマに向き合って頑張って行こうという気持ちで最近過ごしている。そんな気持ちを感じさせてくれる彼女に素直に感謝している。今の世の中、男と女が逆転するライフスタイルも充分成り立つ事はわかっている。仕事柄、多くの優秀な女性を担当する。しかし、世界中を見回してもやっぱり男に向く事、女に向く事。自然の流れに逆らう事は不自然な事だと私は思う。外側と内側は、往々にして逆である事が世の常だ。外向きに強く打ち出している人が、実は弱虫だったり・・甘えん坊だったり・・。
Mar 27, 2005
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長時間の組事務所監禁プレーから命からがら解放された私に、職場の同僚は無関心だった。個人的には、よく無事に帰れたな・・と思っていたのに、みんなの反応にはビックリした。おいおい、俺が無事に帰ってこれなくてもこんな感じだったんじゃないかな・・・。と思わせる反応だった。私が、がっかりしていると営業部長がニヤニヤしながら近づいて来た。「おい、幸喜君。ちょっといいかな・・??」、「太田部長なんでしょう。」私は、普段接点がない営業部の、それも部長が低姿勢で私に近づいて来た時点で怪しいと思った。案の定、太田部長は・・。「幸喜君に頼みがあるんだよ・・。」、「はい、なんでしょうか?」、「実は・・。こっちの部屋に来てもらえるかな。」、「ええ、いいですよ。」私に、何か無理な事を押し付けられる事は明白だった。「この部屋にあるダンボールなんだと思う??」、「この箱の中身が何かって言う事ですか?」、「そうそう。」、「何でしょうかね・・。書類ですか?」、「そう、中身は、書類なんだけど・・お金に化ける書類なんだよ・・。」、「お金に化ける??」、「実は、この中身は、旅行代理店が発行したクーポン券とクレジット会社に請求する伝票なんだよ。」、「はあ、そうなんですか・・。で、なんでそんな大事な書類をダンボール箱に大事にしまってつんでいるんですか?」、「それが・・・。」太田部長は、言葉を濁した。彼が言うには、各旅行代理店と営業部、クレジットカード会社と営業部がそれぞれ手数料を決めてから発券が行われたり、各店舗で利用できるという仕組みになっており、その取り決めが全くないまま現場では、カードが利用されたり、お金の回収できないクーポン券で船に乗船したり船内で食事をしていただいているらしい・・。そんな状態を今まで営業部は内緒にして・・。どうやら、社長と太田部長の間で値引率大きな開きがあり棚上げにされたまま就航日を迎えてしまったらしい・・。現場ベースでも既にOKが出たとの見解からそのまま素通しだったらしい。この日から私は、日本中の旅行代理店やカード会社の本社との悪戦苦闘が始まるのであった。
Mar 26, 2005
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私は、港を降りてタクシーで新幹線の駅を目指した。新幹線の中でも、これから乗り込む先の事を考えるとブルーな気持ちになっていた。よくわからないうちに私は、かって訪れた懐かしい事務所の前にたどり着いていた。前回もこの事務所に来るのは気が引けたけど・・・今回の方がもっと・・・。なるようになれ・・と勇気を振り絞ってインターフォンを押した。テンションを高めて「○○株式会社の幸喜です・・。」と言った。「おお、待っていたよ。」。待っていなくていいのに・・・。(多分、私はこの時泣き顔だったと思う)時間が過ぎていた分、先方の怒りは若干治まっているように思えた。しかし、私たちが納品した品を広げているうちに怒りは甦ってきてしまった様だった。「これは・・酷いですね。」、「こんなもんを納品するなんてうちを舐めているのか・・。」、(心の中で、好き好んであんた達を舐めるはずないでしょ・・。とつぶやいた。)私は、精一杯冷静に「工場から検品をして、その後、御社に納品する予定が工場から御社に配送されてしまったんです。」と説明した。当然、そんな当たり前の説明をして許してもらえるわけがない。私は、このまま、東京湾にコンクリートづけで沈められるか・・やばい仕事をやらされて裏社会に飲み込まれるのか・・悩んでした。大学校時代の先輩のしごきを思い出していた。しかし、今の状況は、本職の方たち・・・。子供の頃から私の周りには、この業界の方たちが多くいた。年始の挨拶に必ず、祖母に挨拶に皆さん来て頂いていたし、中学時代の友人は数多く本職になっているでも・・。彼らに本気で詰められる場面には直面した事がない。今まで、経験した全ての体験を活用してこの場面を乗り切らなくては・・。長い長い持久戦が始まった、日頃おしゃべりな私は、この時程言葉少なく過ごした時間は記憶にない。
Mar 25, 2005
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私は、沈んだ気持ちを奮い立たせて組事務所に納品にいった。約束の時間は、とうに過ぎていた。「○○株式会社です。」、「ああ、待っていたよ。」、「こんなに遅くなってすみません。」、「全くだよ。会長が未だか未だかで・・俺達もイライラしっぱなしだったよ。」、「そうですよね・・。申し訳ございません。」、「で、ジャンパーはどんな具合よ。こんなに待たせて仕上がりが悪かったら、俺はいいけど・・・会長は・・許さないと思うよ・・・。」。そんな事言ったって・・俺がデザインとか立ち会った訳じゃないし・・色使いとか・・多分、ここの人(特に会長の)の言いなりだったんだろ・・その上、ケチつけられちゃったら・・。「早速、広げて見せてくれよ。」、「はい、わかりました。」私は、この部屋から無事に帰る事だけを願って慎重に行動した。実際、仕上がりは、納得してもらえるもので、それぞれが少年のようにジャンパーを羽織ながらはしゃいでいた。肝心なのは・・・会長がどう思うかだ・・。周りの若い衆も会長が羽織った金のスタジャンは、やっぱり違いますね・・とおべっかを使っていた。私は、会長の一言を待っていた。「ご苦労。また、何かおそろいのものを作る時は、おたくに頼むよ。」私は、会長からありがたい様なありがたくないような言葉をいただいて無事に暗闇に一箇所だけ浮かび上がる事務所の明かりを背に駅を目指した。この話は、続編があり会長が最後に私に言った言葉通り今度は、おそろいのTシャツを発注いただいた。どのお客様にも細心の注意を払って商品を作り納品しなくてはいけないのだが特にこのお客だけはいわくつきだから慎重になるべき相手なハズなのに・・。私は、オーダーTシャツの発注を受けているとも知らずに神戸に出張したりチャータークルーズに同行しながら沖縄や北海道、伊豆諸島を動きまわっていた。そんな折、一本の電話が私宛に入った。電話の相手は、本社の事務の子だった。「幸喜さんですか?」、「そうだよ。何かあった?」、「今、○○組から電話があって。。幸喜に事務所まで来るようにとの伝言を受けたんです。先方は、豪い剣幕でしたよ!!」、「○○組から・・豪い剣幕??」(何か俺やったかな・・・?スタジャンの件じゃないだろうし・・なんだろう??)私には、全く心当たりがなかった。それも、そのはずである他部門が受けてやっている仕事のクレームが前回納品した時、渡した私の名刺にかかってきたのだから・・・。私は、気楽に太平洋の洋上で空と海をみつめていた時の出来事だった。私は、恐る恐る○○組に電話した。先方は、凄い剣幕で今すぐ謝りにこんかい・・と捲し立てている。何があったかすらわからないまま担当者は別にいるのでその者を向かわせますといっても取り入ってくれない。私がいくら船に乗っていて行きたくても(行きたい訳はないが・・)行けないんですと説明しても、「お前がこないと話しにならない・・。」というばかり・・。何で俺なんだ・・と電話を切った後、大海原に向かった叫んだ。トップデッキには誰も人がいなかったが私の叫び声は、外にいる他のデッキの人に聞こえてしまっていた。「幸喜、いきなり大声で叫んだりするなよ・・。」何人かの同僚に注意をうけた。先方の専務(若頭?)は、とにかくお前がこい、じかに自分の目で自分達の仕事振りを見てみろ・・。私は、直ぐにはいけない旨を相手に再度伝え、船が着岸した後、そちらに伺いますとだけ約束した電話を切った。気分を鎮めて本社に電話を入れた。いつもつかみ所のない溝ちゃんや高橋さんが会社にはいた。「何があったんですか?高橋さん。」、「多分だけど、仕上がったTシャツを検品しないで先方の事務所に工場から直送してしまって、品物の中に、仕上がりが思わしくないものがあったんだと思う・・。」、「それって・・溝ちゃんや高橋さんのセクションの仕事じゃん・・。頼みますよ・・・泣きたいな・・。」、「俺達も困っているんだよ・・。こっちの事務所に一度納品してもらうつもりだったので・・。幸喜、悪いな・・。」、「高橋さん・・それだけですか・・俺が無事に帰ってこれなかったら・・。」、「大丈夫、お前なら生きて帰ってこれるよ・・。」、「何の励ましにもなりませんよ・・。折角、デッキで気分よく日光浴していたのに・・青い空、青い海を見てもグレーにしか見えない気分です。ましてや、後、数時間は港につかないし、その後も新幹線乗り継いで横浜行かないと行かないし・・。勘弁してくださいよ。」今、こうして日記を書いていることで無事に生きて帰ってきたことは間違いないが・・・。
Mar 24, 2005
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黒ちゃんのお父様は、とても雰囲気のある男でした。私に、一人娘の黒ちゃんをどう育てて彼女の将来の夢をどう支援していきたいかなどのお話を伺いました。多分、数分の事だったと思いますが私の中では数時間に感じました。別れ際に、お父さんから「○○が東京に行って時はよろしく!」と挨拶されたのを今でも覚えています。私の中では、よろしくって・・言われても・・・。そんなこんなで、東京本社に数日ぶりに戻った私に、商品企画部(旧バイヤー部門)のメンバーが話しかけてきた。「お久しぶり、溝ちゃん。」、「おお、幸喜。神戸はどうだった?」、「色々ありましたよ・・。」、「そうなんだ。調度今、横浜の○○組のスタジャンができたところなんだよ。」、「ああ、そういえば発注もらったって言っていたよね。」、「それがさ、会長のだけ金なんだよ。どうおもうよ・・。」、「どうおもうったつて・・。センスとかですか??」、「そうそう。まあ、とりあえず検品して幸喜届けてくれるよな?」、「え、俺ですか??できればあそこの事務所に行きたくないんですが・・。」、「そういうなよ。船が港に入るから横浜行くだろ。」、「確かに行きますけどね・・。」私は、しぶしぶ溝ちゃんの提案をのみ込んだ。花束の件以来、できればあそこの仕事にはかかわりたくなかった。少し離れた会議室から溝ちゃんの叫び声が・・・。何があったんだ・・。私は、恐る恐る会議室を覘いた。溝ちゃんは、会長用の金のスタジャンを手にして固まっていた。私は、溝ちゃんに「どうしたですか?」と聞いた。溝ちゃんは、「刺繍の部分、よく見てみろよ・・。」、私は、溝ちゃんに言われるまま溝ちゃんが指差した場所を眺めた。「あああああああああ。これは・・・。他のは、どうなんですか?」、「会長のだけなんだよ・・。どうしよう・・。」。それから溝ちゃんは各方面に電話しまくり私は、会長のスタジャンだけないまま横浜に向かえない状態だった。話の経緯は、スタジャン自体は、仙台の近くの工場で作らせていて、今から再度送らせても明日になるとのことだ。私は、急遽仙台に向かい、新幹線の改札を出ないでとんぼ返り、刺繍工場にそのまま直行して横浜を目指した。当然、約束の時間はとうに過ぎていた。私は、夕日が沈みきった横浜の埠頭の端にある組事務所に一人乗り込んでいった・・・。
Mar 23, 2005
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ここは何処??私は、やらかしてしまった・・という感覚に包まれていた。関東圏の人でないしゃべり方の車掌を捕まえて「ここは何処ですか?」と聞くのが精一杯だった。車掌さんは、親切に「もう直ぐ、金沢ですよ。」。「金沢??石川県の」の金沢?」、車掌さんは「はい、そうですよ。」嫌な不安感は、確信に変わった。「私は、熊谷に帰りたいんですが・・。」。車掌は、私を哀れみの目でみつめながら「熊谷に行くには、・・・。先ず、長野まで行って、長野新幹線に乗るのが一番ですよ。」、「え、長野・・。じゃあ、長野には・・。」、「金沢についたら、長野行きの電車に乗って・・終点が長野です。」。その電車の終着駅でも長野なのかよ・・・。私は、心の中でつぶやいた。私のその時の、所持金は5000円ちょっと。私は、正直に車掌さんにその事を話した。車掌さんも困った人だな・・なんで、こんなところまで乗り越すんだよ・・と呆れ顔だった。車掌さんが提案してきた「長野から熊谷まで5150円だから金沢から長野まではこの書類を見せればお金要らないから・・。」、「ありがとうございます。」私は、言われるままににが野を目指した。やっとの事で、長野に着いた私は、新幹線の乗り換え窓口で親切な車掌さんにもらった紙を提示して、熊谷までのキップを買った。残金は、数枚の10円玉と・・・。座席について周りを見回すと東京に今から出かける集団がハイテンションで盛り上がっていた。私は、車内で缶ジュースを買うお金も持ち合わせていなかった。一人ぼんやり・・あのまま、マスターと一夜を過ごせばよかったのかな・・少なくともこんな事になるなら都内で朝を迎えた方が・・。この話には、未だ続きがあり、あまりのショックから私は、熊谷を通り過ぎて最初のスタート地点、上野に意識を失ったまま戻ってしまった・・。有り金がない私は、熊谷から上野間の新幹線代も払えない・・。再び、上野駅の新幹線ホームで駅員さんに乗り越し証明を書いてもらった・・・。長い長い帰宅だった。金曜の夜に上野を出てから土曜日の夕方、やっと私は自宅の駅に着いた。
Mar 22, 2005
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マッチーが、このバーを知ったのは、奥様が未だ学生の頃からここのマスターの追っかけで当時のマスターはかなりのもて男だったみたいだ。歌舞伎業界を含め多くの人脈を感じさせる男だった。私とマッチー以外のお客も上場企業の社長婦人や有名クラブのママとその大切な人・・という二組だった。マッチーは、マスターとゴルフの打ち合わせと歌舞伎の舞台の話を暫くしていた。私は、勧められるままにジンをロックで飲んでいた。店に入って暫くした時、マスターはマッチーに今日の若いお連れはどんな関係の方なんですか?と質問してきた。マッチーは、業界の右も左もわからない私に業界のイロハや親切にしていただいて、入社早々結果が出せたのは幸喜さんのお陰なんだよ・・と紹介してくれた。マスターは、「お若いのにマッチーに指導するなんて・・。」と妖しく微笑んだ。マッチーが、幸喜さんは自衛隊出身だと言った瞬間、マスターの瞳はより一層輝きを増したのは気のせいだと私は思いたかったが、時間が経つにしたがってマッチーをそっちのけで私と会話する時間が長くなった。私がマスターの熱い視線を無視しようと必死だった横でマッチーは、英国紳士張りに他のお客さんとそつのない会話を楽しんだ。終電がなくなろうとした時間になって私は、そろそろお先に失礼しますと言った。マスターは、もう少しでお店を閉めるから朝まで飲みに付き合って欲しいとつぶやいた。私は、「・・・・。やっぱり・・今日は帰ります。」。マスターは、私に「いくじなし・・。」と意味深な言葉を投げかけた。私は、今日一日のお礼をマッチーに言って、JRの駅に駆けていった。やっとの事で新橋から上野に着いた私は、迷わず「能登号」に乗り込んだ。終電ではなかったが能登号の方が停まる駅が少なく早く駅に着ける。私は、酒に酔っていたのか、マスターの誘いを断った安堵感からか眠りに落ちていた。次に、私の意識が戻ったのは二人の関東訛りでない車掌の声だった。辺りを見回すと、旅行者ばかりだった・・スーツ姿でこの電車に乗っているのは私だけ・・。窓から外の風景を眺めると松林・・そして、海。何で・・・海が見えるんだ??私は、自分の置かれた状況を徐々に掴みだしていた。ここは何処??
Mar 21, 2005
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私が嘗て自分の意思とは別に一番遠くまで電車に乗ったのは金沢までだった。当時私は、埼玉県の熊谷という場所に住んでいた。上野から新幹線に乗れば、大宮の次に停まる駅だ。私は、提携先の会社の新人、マッチーとの初仕事を無事に終えて祝杯をあげていた。マッチーは、私が生涯で尊敬する「かっこいい生き方をしている男」と認めている2人の内の一人だ。(もう一人は、客船の会社で知り合った中野さん。有名なバーテンダーさん)。マッチーは、新人とはいえ当時既に60代の男だった。人材業界としては、全くの新人だったが以前の仕事はイギリスの自動車会社の日本法人のトップをしていて、親会社がアメリカの会社に買収されてしまい、アメリカの会社にも日本法人があったのでマッチーの部下を有無を言わさずクビにしろという仕事を終えての転職だった。マッチーは、イギリスに顔がきくトップクラスの日本人で会社としては、マッチーの人脈だけは欲しかったみたいで残留を求められていた。マッチーは、日本の上流社会でも認知されている男だった。この日、私はマッチーの接待を受けていた。銀座の有名な画廊で待ち合わせ、そこの支配人と雑談をした後、戦争で3軒だけ焼けなかったビルの一つである銀座の会員制クラブに案内された。ここのフロントでは、メンバーとビジターの名前を記入する用紙があり、私はゴルフクラブかよ・・と内心思った。エレベータの表示は、時計の振り子みたいで歴史を感じ、案内されたフロアーの壁面には厳しい方の肖像がが掲げられていた。天井は、凄く高く古きよき時代を感じさせる空間だった。事前予約がなかったにもかかわらず、マッチーは、フロントの支配人と一言三言会話して料理を用意するのでそれまで少しだけ待って欲しいといわれた。30そこそこの男と60過ぎの男の二人で呼ばれるのを待った。周りを見回すと、如何にも育ちのいい集団が食事や会話を楽しんでいたり、落ち着いた雰囲気の家族が優雅な時間を過ごしていた。日本にもやっぱりこんな場所があって・・こんな生活をしている人がいたんだな・・と改めて感じた。高校の同級生や世界中の王侯貴族と遊んだ時以来、自分がこの空間に不釣合いな人に思えた。マッチーは、この業界に入ったばかりの新人である自分が、初月から2人契約できたのは私のお陰だと一方的に感謝していた。コースの食事を食べた後、横のバーで何杯か酒を飲んだ私を、マッチーは老舗のクラブに案内してくれた。それも、2軒も。多分、座っただけで何万円という場所だったと思う。そして、最後に案内されたのが銀座で40年、有名クラブのママたちが常連さんやキーマンをお店帰りや出勤前に案内する一軒のバーに招待してくれた。バーのマスターは、70歳をとうに超えているにもかかわらず艶っぽい男だった。初対面の私は、あった瞬間に寒気がした・・・。彼の目は、私を狙っていた。
Mar 20, 2005
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神戸支社に勤務していた一人の女性、「黒ちゃん」について話そう。黒ちゃんは、美人でスポーツ万能、その上愛想がいい女の子だった。私が、神戸支社によるといつも話をしていた子で素敵な子だった。私以外のスタッフは何故か黒ちゃんの事を黒川さんと呼んでいた。あの料飲部の悪餓鬼軍団でさえ、「黒川さん」と呼んでいた。私は、かなり黒ちゃんと親しく、黒ちゃんの夢は、東京に出て歌手を目指すというのでその時は応援するよと軽く口約束をしていた。そんなある日、私が神戸支社に遊びに行くと、いつものように黒ちゃんがいて彼女が珍しく真面目な顔で「今度家に遊びに来る??」といいだした。私は、折角のめったにない誘いなんで「是非、遊びに行かせてよ・・。」と即答した。暫くして、悪餓鬼軍団が何処からかオフィスに戻ってきた。「こんにちは・・。山川さん、中川さん。」、「おお、幸喜来てたんか。」、「はい、調度さっきの船で・・。」私たちは、雑談を暫くした。そんな他愛もない会話の中で私が「今度、黒ちゃんの家に遊びに行く約束したんです。」というと一瞬みんなの顔がゆがんだように見えた。山川さんが一呼吸おいて私に話しかけた「幸喜、黒ちゃんじゃなく。黒川さんて呼んだ方がいいぞ。それに、彼女の家・・・本当に遊びに行くのか??」、いつも悪戯好きで肝っ玉の据わった山川さんが何か意味ありげに私につぶやいた。私は、危険な匂いを感じ取ったが既に黒ちゃんには約束した後だったので・・・。黒ちゃんに言われた住所に到着した時、私は山川さんが何を伝えたかったのかやっと悟った。厳しい門には、大きな看板がかかっていた。そこには、はっきりと「黒川組」と力強い字で書かれていたのは言うまでもない・・。幸喜危うし・・・。
Mar 19, 2005
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表面上は、上手く滑り出したかに見える就航式も裏ではこのありさま。今後の対策を立てないとならない状態で招待客を乗せた神戸行きのクルーズが始まろうとしていた。私は、引き続き船に乗って船内のPOSレジの運用を見守った。各スペースで始めて実戦のサービスを行なう者たちは混乱を続けた。船酔いして戦力にならないスタッフが続出した。そんなこんなで神戸に辿り着いた私は、神戸支社に顔を出した。神戸支社には立ち上げ準備室時代東京にあった料飲部が全員移っていて悪餓鬼軍団の溜まり場だった。当然の如く、山川さん、中川さんがニヤニヤしながら事務所にはいた。「さっき、港で見かけたんで支社に寄らせていただきました。」、「おお、幸喜。今日は、こっちに泊まりだろ??」、「はい、そのつもりです。どこか案内してくださいよ・・・。」、「わかった、わかった。チョットそこで待っていてくれ。」無事に船が神戸の港を出て数時間が経っていた、次に横浜に入るまでに船内で非常事態が起こらない限り、陸ではどうにもできないことが多いので私たちは安心して三宮の街に繰り出した。一軒目は、中華レストランに案内してもらった。料飲部のメンバーは一癖も二癖もある人しかいなく私は、紹興酒を2本飲まされていた。ふらふらになりながら、二軒目は北野のスポーツバーに案内された。北野には、同じ系列のスポーツバーが二軒あり両方のオーナーが今の楽天イーグルスGMのマーティーだった。へべれけになりながら山川さんの自宅に泊まる事に・・。朝、起きると何故か山川さんの家の玄関に工事のパイロンや腕が左右に揺れる交通標識のお兄さんがいた。私は、途中から記憶がなく全ては私の仕業という事になっていた。本当の事かは未だにわからない。数日間、神戸で過ごした私は、港についた船に乗り込んで横浜を目指した。私が、地上にいるうちに船内のスタッフは大分現場になれていた。私は、中野さんを探しに船内を散歩していた。開店前のバーに一人黙々と準備する中野さんの顔をみた。「中野さん、お久しぶりです。今日、乗っていますから仕事あけたら少し飲みましょうよ。お客さんがいなくなった後見計らってきます。」、「ああ、わかった。」私は、真夜中の2時過ぎメインバーを訪ねた。中野さんが一人残って後片付けを終えようとしていた。「中野さん、そろそろいいですかね・・。」私は、中野さんと時間を忘れて話した。関西支社の様子や、船内の実情、中野さんのお子さんの夢、船の揺れが心地よく、人生最期の職場に中野さんが選んだ事が正解だったと感じた時間だった。あの時、あの瞬間、私は、世界をあてどなく旅していた事も、獣医になりたかった自分も、自衛隊にいた自分も忘れて「今を堪能していた。」東京の事務所では、横浜港を仕切るドンからお揃いのスタジャンを幹部連中分依頼されている仕事が進んでいるとも知らずに私は太平洋の大海原に抱かれていた。見渡す限りの満天の星空、地平線から顔を出す朝日、クリームソーダーの様なエメラルドの海。偶然、友人から勧められたこのバイトにめぐり合った私は幸せ者だった。
Mar 18, 2005
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溝ちゃんは、少し沈黙して話し始めた。「実は・・横浜の港を仕切っているあの人からお花をもらったらしいんだよ。」、「ああ、あの人ね。どの港も仕切っている人に話しつけないと役所だけだと運行許可でないもんね・・。で??」、「いや・・実は今朝ほど事務所の方から会長からの花届いていますか?って電話あったんだけど先方が手配した花屋さんに何かトラブルがあって未だ届いていないんだよ。」、「え、マジで・・。だってもう直ぐ始まるオープニングセレモニーに会長来るんでしょ??」、「そりゃそうだよ・・。だって彼の晴れ舞台だもん。色んな方面に睨みをきかせる意味でも・・参加するでしょ。」、「で、どういう状況なの?担当の女の子は完全にびびっちゃって、海外に売り飛ばされるか拉致されるイメージで泣いてへたりこんじゃっている。担当の花屋は、無理っぽい・・。」、「そうなんだ・・。とりあえず船に戻って対策を考えようよ。」私と溝ちゃんは、船に戻った。いくつもの花束が続々と運び込まれていた。「溝ちゃん、時間ないからここにいる花屋さんに相談してみようよ。」、「そうだな・・。」。私は、近くに搬入している花屋さんたちに片っ端から相談した。しかし、・・どの花屋さんも時間的に無理ですと答えるばかり・・。その時、私はあるアイデアを思いつく(たいした事ではないのだが・・。)。一番りっぱな花束にさしてある宛名札をぬいて、ひとりの花屋さんに尋ねた。「この名前書く板なら直ぐにもってこれますよね??」花屋さんは、「その札だけなら・・。じゃあ、今から言う会社名と名前を書いて至急ここに届けさせてください。」、「わかりました。」周りにいた、溝ちゃんや他のスタッフは唖然としていたが、あの人の花束が届いていない事実が本人に伝われば、担当の花屋の運命がどうなるかぐらいの騒ぎではない・・。機嫌を損ねた会長が今後の船の運航にどんな圧力をかけてくるかわからない・・。他のお得意様には泣いてもらおう、どうせバイト一人の首が飛ぶ程度でこの話は収まるだろう。「後から、俺が社長に怒られておきますよ。」一旦、この件が片付いたと思った直後私は、船内の受付に呼び出された。一難さってまた一難かよ・・。私が、受付に辿り着くとカウンターの裏手にある司令室に富士通のメンバーと数人が・・。彼らは、絶望感に包まれた表情をしていた。「どうしたんですか?」私は、尋ねた。「データの送信が船舶中の一時間では技術的に無理な事がわかったんだよ。」、「え、何でですか・・・?事前に何度もシュミレートしていたんですよね?」、「確かに手順や機械自体は正常に動いている、でも、船舶電話の送信速度では船が停泊中に全てのデータが送れないんだよ。」、他の人が重い口を開いた。「フロッピーで毎回対応するしかないな・・。」(現在の携帯通信の技術が当時あれば訳もない事だったと思う。しかし、この話は、バブルが崩壊した直後、携帯電話すらやっと小型のアナログタイプが出始めた時代だった。)おいおい、天下の富士通がそんな初歩的な計算間違いするんかよ・・・。私は、大学の単位でコンピュータ関連の単位をどのようにしてとったかすら思い出せない人間だ。そんな私からすれば日本を代表するコンピュータメーカーのひとつが・・・。今回は、全ての乗船客が招待なので船内での買い物だけ対応して神戸でまた陸のデータを届ければいいけど・・。いつまでもこんな事やっていくんか・・・。私が、この現実に巻き込まれていた頃、無事に華々しくオープニングセレモニーが執り行われて、横浜の影のドンも上機嫌で船を後にしていた。機嫌によくなった彼が、私たちに良かれと思って仕事をくれることになった。その仕事こそ、私が彼の事務所に監禁される事の発端だったのだ。
Mar 17, 2005
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就航前夜、思わぬ事態が発覚した。船内に寿司屋さんやレストランが数箇所あるにもかかわらず、お役所から船内で食べ物を出してよい免許を誰も申請していなかった・・。そんな、馬鹿な・・と思う話がゴロゴロ転がっていた会社なのだ。現場の判断では間に合わない。本社の社長に報告した。社長は、自分の贔屓にしている国会議員に電話を入れる・・・。「明日、船が就航なんです。今日、免許を発行してください。」、「今日・・・??」無事に免許は一日で発行された。私は、この件でいくらの金が動いたか、社長が議員に何をねだられたかは知らない。そんなこんなで、外向きには、全国のニュースでも取り上げられる何事も順調にスタートしたかの就航日だった。処女航海は、横浜~神戸。佐世保でセレモニーと着岸したままの船上パーティーが華やかに行なわれている影で引き続き横浜でお客を乗せるまでに全ての確認作業が洋上で行なわれていく。私たちが、世界中から集めたグッズ、寝ずに練習したサービスをひろめる日が目前にせまっている事を肌で感じた。佐世保から遠く離れた東京では、いくつもの問題が発生していた。部屋で使う、化粧品をフランスから輸入したが、国内では認められていない成分が含まれているとの税関からの報告で船内に持ち込めない事態が・・。タイから輸入した泥人形が日本の風土に合わず、ひびが入ってしまってとてもお土産物として販売できない。(この時、バイヤーから聞いた話では、既にタイの製造工場には東京ドーム3杯分ぐらいの量を発注していたらしい・・。)何もかもが不完全のまま船は、横浜を目指していた。私は、佐世保からシステムの洋上確認の為、乗船していた。他のサービス部門の仲間達が何度も何度も流れを確認している中、トップデッキから太平洋を眺めていた。時折、厨房付近に顔を出して料飲部の方々と雑談したり、お気に入りの女の子が配属になった部門をようもないのに覘きに行ったりしていた。私が、唯一のんびりできた最後の時間だった。私の担当するシステム部門は、船内にある全ての(船を運航する以外)メカを無事に作動される役目と地上のデータを着岸時に全て吸い上げる役目がメインの仕事だった。横浜までのテスト走行で船内の機械は順調に動いていた。横浜について一時間以内に地上のデータを吸い上げて、船内のデータを本社に引き取ってもらえればOK。この時、私は、当時の通信技術では私たちの構想が根底から無理な事を知らなかった・・・。ひと時ののんびりした時間を久しぶりに過ごした私は、やる気満々で横浜の地に足をつけた。久しぶりだな・・横浜。私を出迎える本社のスタッフの顔が曇っている様に感じたのは気のせいだろうか・・。大桟橋にある仮設事務所に案内された。バイヤー部門の溝ちゃんが私に話しかけてきた。「幸喜、厄介な事が起きているんだよ・・・。実は・・・。」この事態に首を突っ込んだ私が、港の外れの「ある組織の事務所に監禁される事態」への序章になるなんて・・・。
Mar 16, 2005
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あと数日に、就航日がせまった日、料飲部のメンバーも佐世保入りした。久しぶりに見る悪餓鬼軍団とのご対面。私は、忙しくシステム関連の仕事をしていた。目ざとく山川さんが私をみつけた。「幸喜、幸喜!」私を呼びつける山川さんの声が船内に響いた。私は、聞こえないふりをしたかったけどそれが無理な事を一番よく知っていた。「はい、なんでしょう?」、「いやあ・・。少し時間あるだろ??」私は、忙しかったが彼が拗ねるとややこしいので思わず「はい、大丈夫です。」と答えた。山川さんは、船の外に出て少し話をしないかと言い出した。私は、彼に言われるまま船の外に出て、暫く二人で歩いた。山川さんが、真面目な顔で私をみつめた。(何かやばい、胸騒ぎがした。)「幸喜、お前自衛隊出身だからアメリカの海軍と仲いいよな?」、「???自衛隊にいましたが・・海軍とは・・。」、「普通の人より顔がきくだろ?」、「・・・何を俺にやらせようとしているんですか・・。」山川さんは、にっこりとして「あそこの隊員さんがかぶっている帽子が欲しいんだよ。」、「帽子ですか??」なんであんな帽子が欲しいんだよ・・。私は心の中でつぶやいた。しかし、少年のような目をしている山川さんは、私が当然もらってきてくれるものと信じていた。「ただでもらうの無理だったら。買ってきてもいいから。」。私は、山川さんのお願いを叶えるために隣接する米軍基地のゲートに向かった。入り口には、屈強な黒人兵が二人立っていてとてもキャップをくれと話しかける雰囲気ではなかった。私は、困り果てていた。なんかキャップを入手する方法は、ないかな・・・。辺りを観察した。すると、船の中から数人が私服で遊びに出る風景が目に入った。こいつらに交渉しよう。米軍の敷地から出たところで私は、彼らに声をかけた。「すみません、ちょっといいですか?」、「なに??」、「実は、あなたたちが普段かぶっている船のキャップが欲しいんです。」、「ああ、あれね。ごめん、あれは、非売品なんだよ。皆、自分の分しか持っていないと思うよ。」、「そうなんですか・・。」、「中には、二個持っている人もいるかもよ・・。」、「ありがとう。」私は、根気よく同じ行動を繰り返した。一時間ぐらい経った頃だっただろうか、私はやっと二個持っている人を見つけた。最初、売ってくれと話をつけたが、何故か彼はただで私に帽子をくれた。とっくの昔に自分の仕事に戻った山川さんにキャップをプレゼントした。「山川さん、これ・・。」、「え、幸喜、本当に??」、「ええ、日頃色々面倒みていただいている山川さんの頼みですから・・。あれから一時間ぐらいかかりましたよ。最初は簡単に船内の売店で売っているものだと軽く約束しましたが・・。」、「で、いくら?」、「いいえ、お金はいりません。」、「貸しいちですよ。(笑)」私は、この事件をきっかけにより困難なミッションを山川さんから言われるようになったのは言うまでもない。(涙)
Mar 15, 2005
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就航日が近づいても依然として船は完成しなかった。あの佐世保のバーで聞いた男達の言葉が甦ってきた。「あの船間に合わないぜ・・。」突貫工事の最中、船内のサービススタッフは、現場研修を行なっていた。私も長崎入りして各スペースのシステム周りの動作確認をしていた。普段つるんでいる料飲部のメンバーとは離れ、私は、同じ島のバイヤー部門のものたちと行動する機会が多くなっていた。輸入雑貨担当のお嬢様や幻の酒を探している金ちゃん、ブティツク担当の高橋さん達の名前と顔が一致するようにやっとなっていた。そんな折、私は高橋さんから船内に貴金属を搬入するのだがお役所検査前に扉に鍵をかけられないのでショップの中に泊り込んでくれと頼まれた。私は、埃まみれになりながら船内のブティツクになる予定のスペースに毛布に包まれながら数日間過ごすはめになった。同じ頃、船内サービス組みは、鬼軍曹のもと引き続き研修を行なっていたが、教官たちが泊まる豪華な宿舎とは別に彼らは船底のスペースで寝泊りするようになっていた。私が、短い研修で仲良くなった数人の男どもが夜中に貴金属番をしている私のもとに遊びに来た。「幸喜、久しぶり。本社はどうよ?あんな研修させるところと契約して本社とかは何とも思っていないのかよ??」、「それが、当初の計画だとサービス部の部長はホテル出身の岡さんがなる予定だったんだけど。社長の鶴の一声で、就航後も的場が部長に居座るらしいよ。」、「そうなんだ・・。あいつがサービス部の部長かよ・・。じゃあ、あいつに媚売っているやつらがマネージャーだな。」そんな会話をしていた。彼らの話によると厳しい研修で連帯意識が芽生え何組かのカップルが誕生しているとの事だった。「お前らは、どうなんだよ?美味しい思いしているんか?」、「・・・。」。彼らの一人が口を開いた。「俺はこないだ大変だったよ・・。」、何でも彼の話なら一日に7~8人の女の子が彼の部屋に相談(?)にきたらしい。やっぱり・・・こいつら美味しい思いしているんだ。私は、無事に研修を終えサービス部配属になった彼らをうらやんだ。数日後に就航日を控えたある日、船内の人事が発表になった。そこには、準備室時代から全てのお酒関連の統括マネージャー候補としてスカウトされた「世界の中野さん」が、いちバーテンダーとして書かれていた。馬鹿には物の価値がわからないんだな・・。諦めざる終えなかった。そんな人事発表をみていた中野さんに私は話しかけた。「中野さん、あの発表おかしいですよね??」、「しかたないよ。発表は発表だから・・。俺は、マネージャーになりたかったからこの話を受けたんじゃないよ、幸喜。海が好きで人生の最期を好きなバーテンダーという職業と共に送れると思ったからここの話を受けたんだよ。だから、お酒部門の統括マネージャーであるかないかは大きな問題じゃないんだよ。」私は、中野さんの本心と同時に悔しさを知っていた。何もない時代から一緒に彼の夢を聞いていた私だから・・。みんなの予想通り、研修会社の教官に気に入られている多くの女性がマネージャーとして選ばれた。表向きの理由は、いくらでもつくが単に彼らの好みの女性だった。その後、彼らが研修と称して海外旅行に行ったり、ディズニーランド研修に何度も行くのを私は知っていた。
Mar 14, 2005
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私が、鬼軍曹に楯突いている頃、他のメンバーは研修場所に集合していた。当時、今ほど携帯電話が普及はしていなかった時代だが既に多くの人が携帯をもっていた。私以外のメンバーは、教官達から携帯電話を没収されていた。外部との連絡を遮断して徹底的に彼らが正しいと信じるサービス研修を行なわれた。数名のものが馬鹿らしくなって研修終了時に辞め、数名のものが教官連中に取り入って後の幹部候補になっていった。私は、システム設置の仕事が終わって数日ずれて研修に参加したが既に空港で研修所まで一緒に和気藹々と移動した仲間はいなかった。形ばかりに教官の言いなりになっているふりをしているものたちから、私が留守の間に行なわれた研修内容を聞いていた私は、鬼軍曹に煙たがられながらも残りの数日を皆と過ごした。当然、鬼軍曹は、自分に楯突いた私の研修での評価を最低ランクの落第点とした。私は、本社に戻り自分が参加した回の研修生達の評価順位を見せてもらった。悪巧みコンビの山川課長と中川主任が私を呼んだ。「幸喜、ちょっとこいよ。」、私は、あの二人に呼ばれるとろくな事がないことを学習していた。「なんですか??」、「いやあ、面白い資料があってさ・・いいからこっちにこいよ。」、「はいはい。」私がのこのこ二人のもとに赴くと、彼らは全てのバイトの写真入の資料をニヤニヤしながらみていた。その中には、私の資料もあって・・。「幸喜、この何々さんって実物どんな感じだったの??」、「研修殆ど参加していないんで私に聞かれても・・。」、「役にたたないな・・。何の為に、お前を研修に参加させたんだよ・・。」、そんな事言われても、あんたら二人のお姉ちゃん探しの指令なんて受けていないジャン。私は、心でつぶやいた。「幸喜の研修のランク、最低だ。お前、むこうで何していたんだ??」(二人は私をみてニヤニヤしていた。)、「いや・・・研修の教官連中に楯突いたから当然の結果ですよ。」、「じゃあ、俺達料飲部にきなよ。」、「そんな事言ったって・・・。ホテルで働いたことある訳じゃないんで・・。」、「大丈夫、大丈夫。俺達がついているんだから・・。」(あなたたち二人と一緒だからやばいんですよ・・。)私は、船に乗り続けるサービス部の配属でなく、本社システム部配属になった事は言うまでもない。当時のこの会社は、地上勤務でも家に帰る時間はなく、近所に会社が借りてくれたウィークリーマンションに仮眠をとりにもどるくらいしかできなかった。私の船内ハーレムプランは、鬼軍曹に楯突いた瞬間に消えていたのである。
Mar 13, 2005
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私が、バイト先に選んだイベント会社は当時東京と神戸あわせて正社員は20名程だった。豪華客船のビジネスを立ち上げる事で急激にスタッフの募集をした。準備室のメンバーは、1年前から集められていたが船内のサービススタッフは、3ヶ月前から関東・関西で形ばかりの面接が繰り返されていて、就航時には、アルバイトを含めたスタッフ数が500人に膨らんでいた。私は、アルバイトにもかかわらず本社でシステムの研修とかを受けていたので他の船内スタッフが長崎の奥地にある研修所(青少年の家のような場所)で洗脳教育を受けている事を知らなかった。研修は、100人規模で関東・関西50人ずつ参加していた。私は、素敵な研修が行なわれていると勝手に思っていたので早く自分も研修に参加できないかな・・っと思っていた。本社の手伝いをしている内に、船内のサービススタッフじゃなく地上に残って俺達と仕事しようよと声をかけてもらってはいたが、私は船に乗り続けて資金を貯める計画だったので、ありがたい誘いを断り最終研修メンバーとして長崎に飛んだ。空港からバスに揺られて1時間以上たった時、国旗を掲げた如何にも研修施設という建物に到着した。研修生がつくなり、体育館みたいなホールに集められた。そこに現われたのが、軍隊の鬼軍曹みたいな眼光鋭いオヤジと脇を固めるプロレスラーのような2メートル近い男達だった。私は、勝手いた組織の匂いを直ぐに感じた。「こいつらは、やばい。本社は、こいつらに新人研修を依頼しているんか・・。」私は、本社から船に設置のシステム関係の立会いも命じられていたので、ホールでの説明後、その旨を伝えに鬼軍曹のもとを訪ねた。「すみません、的場教官。」、「なんだ?質問か?各部屋に荷物を置いたら直ぐに研修開始だぞ。お前らみたいな素人を一週間かそこらでみられるレベルのサービススタッフに仕上げないといけないんだから・・。」、「実は、本社から船内のコンピュータの設置の立会いもするように言われてきたんです・・。」、「そんな事は、何も聞いていないぞ・。ここに来るものは全て私の指示した研修に従ってもらう。社長からも全面的な許可は得ている。」、「そんな事いわれましても・・私が立ち会わないとメーカーの人も困るんです。」、「俺に逆らうなら船には乗せない。研修も参加しなくてよい。」私は、鬼軍曹に逆らってしまった・・この事が、就航後大変な事態に巻き込まれるきっかけになってしまうのだ。
Mar 12, 2005
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書類を出した数日後に一本の電話がかかってきた。「もしもし、幸喜さんですか?」、「はい、そうです。」、「私は、○○客船株式会社の岡です。今、幸喜さんは、失礼ですが無職ですよね?」、「はい。」、「乗船スタッフの研修は、2月からなんだけど・・。幸喜さん、理系の学校出ているよね。富士通に研修行ってくれない?」、「富士通に研修ですか??」、「そうそう。バイト代もちゃんと出すから・・。2月まで無職でも仕方ないでしょ?」、「そうですが・・。私が研修行って何とかなるものなんですか?」随分、いい加減な会社だな・・、社員でもない俺に研修とか行かせて大丈夫なのかよ??「わかりました。岡さんですよね?富士通に研修行かせて下さい。」、「そうですか・・じゃあ、研修に行ってもらう前に一度日本橋の本社に来ていただけますか?」、「わかりました。」私は、日本橋の当時船会社の中にあった準備室に訪ねた。暫く待っていると岡さんらしき長身の紳士が現われた。「こんにちは。」岡さんは、かなり如才ない物腰が柔らかい男性だった。簡単に電話で聞いた話が繰り返された。当時、携帯電話が肩から提げる箱型の時代、船の中の顧客情報を、船舶電話でデータ送信して地上のオフィスとやりとりする構想をこの会社は試してみようというタイミングだった。今でこそ、こんなに携帯電話も普及しているが・・。数日間の研修を終えて私は、船を作っている佐世保に飛んだ。プレス発表は既に行なわれていて船の就航日は決まっていた。夜、街にバーに飲みに行くと、うちの船を作っている人達らしい男性が数人飲んでいた。「あの船、間に合わないよ・・な・・・。」私は、耳を疑った。「え、今、あの人達、船が就航日までに間に合わないって言ったよな・・。」一旦、東京に帰った私はいつの間にか毎日日本橋の本社に通うようになっていた。最初に座った席の隣は、中野さんというおじさんだった。後から知った事だがこの中野さん、世界的なバーテンダーさんだった。いつもお酒の本を見ながら各店舗のメニューを作っていた。私の座っている周りの席の人達は、中野さん以外見かけたことがなかった。船内の店舗に商品を揃えるバイヤー部門の島に私は座っていた。国内の酒蔵をまわって幻の名酒を確保しようとしている金ちゃんや、アジアの島々を奥地まで行って買い付ける溝ちゃんに、ファッション業界出身の高橋さんの顔を見たのは私が佐世保の研修に出発する数日前だった。余談だが、別の島には、船内のレストラン等で出される食材の調達や食器を揃える料飲部があった。そこのメンバーは、世界中の一流レストランで働いていた人達が集まっていた。料飲部の課長、山川さんは高校時代柔道のインターハイに出ていた曲者だった。普段は、にこにこしているのに一旦仕事モードにはいるとまさに鬼軍曹だった。山川さんの部下の中川さんは、大阪いちの悪で当時彼が真ん中に写っている写真集が何冊も出ていた。私自身、関東ではかなり暴力の中枢の学校に通っていたと思うが、中川さんから聞く話は、明らかに全てが犯罪だった。そんな中川さんが、従順に従う山川さんこそ料飲部のドンだった。ある日、彼がさりげなく書いていた発注書の合計数字をみて私は驚いた。「一億円超えているジャン。」こんな額の発注を自分の判断で任されているんかこのおっちゃん・・。私と山川さん、中川さんは、その後。次々、事件に巻き込まれていく事になる。ちなみに、私の直属の上司は、コンピュータエンジニアの宗ちゃんだった。彼は、私とは、正反対の人物だった。宗ちゃんとバイヤーの高橋さんは高校時代からの友人で関東の田舎ではそこそこ有名な族だったらしい。ここは、本当に会社なの???このメンバーと一年間一日も休まず走り抜けた懐かしい思い出は私の宝物だ。
Mar 11, 2005
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どうにか日本に生還した私は、成田についた瞬間、また海外に出かけたくなっていた。あんなに帰国を望んでいた私は何処に・・・。私は、2年ぶりの日本を眺めた。自分の人生で、ぽっかりと空いた二年間。総理大臣が何人も代わっていた事は、大使館に寄った時みる日本の新聞で知っていたが、日本でおこっていた事は殆ど知らない期間だった。最近、過去のヒットソングとかを年代別に紹介する番組を見たとき、凄く流行った曲だと紹介されたが自分の記憶にない歌が何曲かあった。その時、改めて、自分が日本にいなかった数年が甦ってきた。しかたなく、実家の屋根裏部屋で生活することになった。この部屋は、私が生まれる前(昭和30年代)で時間が止まっていた。舟木和夫が学生服で表紙を飾っている明星が無造作に転がっていた。今ならお宝鑑定団に持ち込んでいくらかの値がつくか知りたいものばかりが埃をかぶって置かれている部屋で私はこれからの人生をどうしようかと考えていた。予定通り、ニュージーランドに行って牧場で働こうか・・。そんな時、偶然大学校時代の友人から電話が入った。「久しぶり・・幸喜。日本に戻ってきたんだって?今、何しているの?無職でプラプラしているんだよね??いいバイトあるから俺と一緒にしようよ。」。「相変わらずお前はいきなり、自分の事だけ言うね・・。」この台詞は、普段私自身が言われる事が多い台詞なんだが、こいつを含めて数人私にしゃべらす隙を与えない友がいる。「で、どんなバイトなんだよ・・。」、「帰国したばかりで住む場所もないお前にぴったりのバイトだよ。その会社は、船のスタッフを探しているんだ。」、「船の仕事?俺、船操縦できないよ、4級小型の免許は持っているけど・・。」、「豪華客船の船の中で働く仕事だよ・・。船に乗り続ければ金も貯まるし宿もいらないだろ。お前にぴったりだろ。」、「ああ、そうだな・・で、お前もそのバイトするの??」、「赤坂のTBSホールで何日かに分けて、説明会があるから先ずはそれに参加するんだよ。勿論、俺も行くよ。」、「そうなんだ・・じゃあ、その話にのるよ。で、いつ行けばいいの?」、「今、売っているフロムエーに載っているからそれをみて行ける日を決めようよ。」、「わかった。」、「ところで、お前、スーツとか持っているの??後、写真付の履歴書とかいるよ。」、「そうなんだ・・。今、俺、金ないんだよね。」、「親にでも借りてスーツぐらい買えよ。直ぐにバイト代で返せるって言えば貸してくれるだろ??」、「お前、そんな事言ったって、二年間も遊びほうけた息子に帰国早々ほいほい金かしてくれる訳じゃない。」私は、彼のアドバイスに従って生まれて初めてスーツを買い(成人式には、大学校の制服で参加したのでスーツを持っていなかった。)、写真屋さんで履歴書用の写真を撮った。説明会当日、私が赤坂につくと待ち合わせ時間になっても友人は現れなかった。私は、彼の実家に電話した。彼の母親が電話に出た。「○○さんのお宅ですか?△△君いますか?大学校時代同期だった、幸喜です。」、「ああ、幸喜君。懐かしいわね・・昔、何度か遊びに来てくれて。」、「△△いますか?」、「ええ、いるわよ。ちょっと待ってね。△△呼んでくるから・・。あ、そうそう、うちの△△、4月から行く予定だった会社から直ぐにでも来てくれって言われちゃったのよ。」、「え、あ。そうですか・・おめでとうございます。よかったですね。」、「本当によかったわよ・・。ちょっと待っててね・・。」。私は、彼の母親との会話で彼の状況がわかった事を悟った。彼が電話口に出た。「おお、幸喜。うちの母親から聞いた?昨日の夜、内定もらった会社から電話あってさ、俺は新卒扱いで今度の四月から入社だと思っていたんだけど直ぐに来れるなら来てよて話になっちゃつたんだよ。ごめん、なわけで説明会行かなかったんだ。結構、時間も遅かったしお前に言えなかったんだよ。」、「そうなんだ、まあ、仕方ないね。おめでとう。俺は、スーツも買って履歴書も作ったから説明会に参加してくるよ。」、「幸喜は、お金貯まったらまた海外に行くんだろ?お前にはピッタリのバイトだと思うよ。」、「そうだな、頑張って受かるように行って来るよ。ありがとう、いいバイト先紹介してくれて。」私は、一人熱気で溢れかえるTBSホールの中に飲み込まれた。説明会は、20回ぐらい行なわれて常に満杯。会場に来ている99%が正社員希望。バイト希望の私は、場違いな雰囲気だった。当時は、既にバブルがはじけた後だったが、日本中がその事を認められないでこれからの日本人は今まで働きすぎだった分を取り返そうと余暇を楽しむ時代になると多くの人が信じていた。女性の大半は、嘗てスチュワーデスに憧れ、JALやANAを受けたが合格できなかった人だった。熱気に包まれた説明会が終わりに近づいた時、司会の男性が「この後、短い時間ですが個別面談に入ります。」と告げた。説明会場の外にでるといくつもの長いテーブルに面接官が並んで座っていた。面接官ごとに長い列ができ、やっと自分の番がまわってきた。昔、受験の時、以来の面接に緊張していた。そんな私をよそに、前のおじさんは、「正社員希望ですか?それともアルバイト希望ですか?」と質問してきた。私は、「アルバイト希望です。」と答えた。「アルバイト希望者は、こちらの箱に履歴書を入れて帰っていいですよ。」、「???」。履歴書を箱に入れて帰っていい・・・。なんなんだよ・・。私は、数秒立ちすくんでいた。やっとの想いで「面接とかしないんですか?」と聞き返した。「アルバイト希望は、全員合格だと思いますよ。後から電話連絡あると思うんで連絡まっていてください。」と言われた。「たったそれだけかい・・。」私は、赤坂を後にした。
Mar 10, 2005
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後一歩で日本に、たどり着くところまできたが、ホノルルから成田は非常に遠かった。片道切符の料金だけを残していたが、日々の宿泊代や生活費が底をつきていた。ハワイでの2週間の生活は、私の財布の空っぽにしていた。水飲んで暮らすわけにはいなかない。私は、日々、ハワイ大学のキャンパスの木陰で昼寝をして過ごしていた。日に何回か市内の旅行カウンターに行って空席がないか確認する事の繰り返しに飽きていた。ふと私は、自分の置かれた状況を考えてみた。「ここは、ハワイ、日本人観光客が大勢溢れ返っている。これを利用しない手はない。」先ずは、一番日本人がいるワイキキとアラモアナショッピングセンターに出かけてみよう。ひとなっつこい外見の私は、ブラブラしているだけで何人かに声をかけられるが今回は日々の生活がかかっているから暢気に声をかけられるのを待っている場合ではない。私は、今の仕事につながる原点は、この時の体験がもとになっていると思う。誰に声をかけるか、どんな話をすればその日のご飯や宿にありつけるか。失敗すれば、宿も飯にもありつけない。私は、用心深くターゲットを選び、その日のご飯にありついた。こんな日が何日続いただろう・・私がいつもの様に、旅行カウンターに行くと成田行きの空席が一つ取れた。「あああ、これでやっと日本に帰れる・・。」
Mar 9, 2005
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ホノルルに着いた私は、バスに乗ってワイキキビーチを目指した。南米での体験やサンフランシスコでの地震が嘘のように感じられる風景が目の前に広がっていた。ビーチは、日本からの観光客でごった返していた。私は、一時、ワイキキの浜辺に腰を下ろしていたがこの島に2件あるユースを目指した。私が、訪れたのはハワイ大学近くにあるユースで、世界中のユースホテルの中で運営が表彰されたところだった。私は、ユースホテルのシステムをよく理解しないまま数日が過ぎた。このユースは、日系のおばちゃんが管理していた。後で、大変な説教を受けた時、このおばちゃんが日本語をしゃべれると知る事になる・・・。朝、決まった時間に起きだして皆で掃除をするが、私はこのユースに住み着いていた日本人から掃除を手伝うと宿泊代が安くなるんだけど、掃除するかしないかは自由なんだよと聞いていた。この日本人からの情報が真っ赤な嘘で私は、3日目にこのおばちゃんから日本語でどなり散らされる結果となる。朝、私ともう一人の日本人は、おばちゃんにたたき起こされた。「あんたらみたいな、日本人がいるから私たち日系人は色々言われるんだよ・・。」えらい剣幕で私たちを捲し立てた。怒りが治まったおばちゃん曰く、基本は全員で掃除するシステムでよりによって日本人の私たちだけ皆が一生懸命掃除している中、のうのうと寝ていた事に怒りが爆発したらしい。私は、大学校時代、心底掃除を叩き込まれたので掃除をするのが得意だ。すきかどうかは別だが・・。私は、危なくこのユースをたたき出されるはめになる水際で助かった。「もう、延泊させないよ!!」そうおばちゃんに言われた。「それは、勘弁してください。私は、もう殆どお金がないんでこんなに物価の高いハワイでは、ここに泊まるぐらいしかないんです・・。」おばちゃんは、「じゃあ、明日から皆と同じ様に朝掃除するか?」、「はい、掃除します。」次の朝から私は人が代わったかのごとく一生懸命掃除をした。数日たった時、私はおばちゃんに呼び止められた「あなたのこと、誤解していた。ここ数日間、一番一生懸命掃除していたね。このユースは、世界的にも表彰されるユースなのよ。今まで利用した人が、頑張ってきた証なの。」私は、誤解が解けた事で安堵感に包まれた。後から聞いた話だが、ワイキキビーチに近いもう一つのユースは、酒も飲めるし掃除もなし毎日ドンちゃん騒ぎで何でもありありだったらしい・・。何で俺は、こっちのユースを選ばなかったんだ・・と思ったのは後の祭りだった。元々、ハワイ観光をする気が、全くない私は毎日旅行会社のカウンターで日本行きの空席を探していた。ホノルルと成田の座席は日本からの団体旅行で埋められていて中々取れなかった。お金が殆どない状態で楽園での生活も2週間過ぎようとしていた・・。そこで、私がとった行動とは・・・。
Mar 8, 2005
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コロンビアから命からがら脱出した私は、サンフランシスコを目指した。夜遅くにやっとサンフランシスコまで乗り継いで戻れた私は安堵感に包まれながら空港の座席の下で寝袋で寝ていた。「ド・・・ン!!」何が起こった??私は、やっとの思いで南米を脱出したにもかかわらずサンフランシスコでも大きな地震に襲われた。生憎、空港は被害が少なく私は命拾いをした。命なんて惜しくないといきがって旅していたが、やっぱり命は惜しいと思った瞬間、内乱に地震・・。このままでは、確実に今までのラッキーだった旅が、最後の最後でアンラッキーな旅に・・私の頭にはそんな想いが駆け巡った。一刻も早く日本に帰らなければ・・。しかし、地震直後の空港は、混乱していて簡単に日本行きのチケットは取れない。やっと一席押さえられたのが、ホノルル行きだった。私は、少しでも日本に近づきたかったのでその飛行機に飛び乗った。
Mar 7, 2005
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私は、小さい頃からいくつかの武道を無理やり習わされていた。だから喧嘩とかはめったにした事がない。小学生時代は、女の子とおままごとをして遊ぶ方が多かった。ある時、学校で一番でかい男に因縁をつけられた。私が無視しているといきなりむなぐらを掴まれた。道場では、いつも喧嘩に武道を使ってはいけないと教えられていたので、その時もできればややこしい争い事に私は巻き込まれたくなかった。そんな私の気持ちをよそに彼は私に喧嘩をふっかけてきた。しかたなく、彼と喧嘩をしていると担任の先生が授業をしにきた。彼は、「放課後この続きは・・」と言ったが担任の先生は「そのまま続けろ!!」と言った。先生は、クラス中の机を前に寄せて二人がトコトン喧嘩できるスペースを作ってくれた。仕方なしに、私たちは二人がボロボロになるまで殴り続けた。昼過ぎになり疲れ切った私たちは、動きを止めていると先生が蹴り飛ばしてきた。「どっちかが死ぬまでトコトンやれよ・・・中途半端な事するなよ・・」(今思えばむちゃくちゃなこという担任だったな・・。)そんなこんなで二人の喧嘩は終わった。私は、体中痛めたまま家に帰った。調度その頃、一本の電話が鳴った。「○○さんのお宅ですか?」、「はい。」、「お母さんいますか?」、私の家は両親が店に行っていて不在だった。「今、お店でいません。」と私は答えた。「お母さんに連絡して至急、校長室に来るように」と言われた。私は、何がなんだかわからなかったがこの話を母親にしてはいけないと思った。一人で学校に行くと校長室には、担任の先生と喧嘩した相手の子供とそいつの母親がいた。担任の先生がえらくしょんぼりしているように思えた。私が喧嘩した相手はPTA会長の息子で、学校としてはかなりややこしい事がおこってしまったらしい・・・。担任は、自分の身を庇う事ばかり繰り返していた。私は、両親が共働きであるからこんな凶暴な子供に育ってしまうと罵られた。私の中の何かが弾けた。「こいつら皆口ばかりで信用ならない。」担任も所詮、教師になりたての熱血ぶりだったがいざややこしい事に巻き込まれれば身の保身しかしない。私は、学校も教師も信頼しなくなっていた・・・。そのままの気持ちを胸に私は、暴力の楽園に入学した。
Mar 6, 2005
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私は、海外で色んな体験をしている割に、恋愛経験は全くといってないに等しい。初心者マークなのだ。周りの友人が「元カノがさ・・・。」とか「前の彼氏は・・。」と話す事を耳にするたびに私はそんな枕詞で話す事はないな・・と常々感じている。そんな私が、今、「モテモテの女性と付き合いだした。」彼女は、多くの男性から日々色んな誘いを受けて、その事を私に正直に話してくれる。男心としては、複雑な気分になる時もあるが、私はそんな彼女が好きだ。多分、何も話さないでお互い付き合いという付き合い方もあるんだろうか・・。私と彼女は、まるで男と女が逆転しているように思えるときがある。(私が世界中で男性からアプローチを受ける理由もこのことに少なからず影響されているんだろう。)普通、二人が始めて出会った日とか男の私が忘れていても女性の彼女はきっちり覚えているものだと思う。しかし、私たちは全く逆のだ。二回目に逢った時、彼女が「初めて会ったのいつだっけ・・?」と聞いてきたので最初は私の事を試しているのかな・・??と思った。が、彼女はすっかり忘れていたので私に聞いたみたいだ。「おいおい、俺ってそんな感じかよ・・。」(内心、ガックし・・。)彼女からすれば、彼氏は私一人らしいが、彼女とデートしたりしたい男性は凄い数いて、お食事ぐらいは・・ていう相手は毎日いるみたいだ。こんな恋愛初心者の私にお付き合いが勤まるか不安なんだが今は頑張ってみようと思っている。
Mar 5, 2005
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美女を求めてコロンビアに向かった私は、美女との出会いと引き換えに自分の命を差し出さなくてはいけないはめになりそうだった。当時のコロンビアは、アメリカと激しく戦闘していた。国と国との戦争ではなく、麻薬王に牛耳られていたコロンビア政府が何の役にもたたないのに腹を立てて裏で麻薬組織撲滅に乗り出していた。昼間から待ちのいたるところで戦闘があり、私は自分の命をこの土地で終わりにしていいものか考えていた。南米は、世界中どの土地より躍動感に満ちて楽しい場所だ。この旅を出る時、二度と日本の地を踏まないかもとおぼろげに思っていた私だが実際20代前半で死ぬのは正直嫌だった。ニュージーランドにも行っていないし、ここは一旦日本に帰ろう。私は、そう決断した。
Mar 4, 2005
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リオでの生活を満喫していた私の周りには、数人の日本人が何人かいた。一人は、NYでバイトしてお金が貯まるとブラジルに戻るというサイクルを繰り返していた。ビザの関係で3ヶ月に一度国外に出国しなくてはならなく、彼曰く「NYで1ヶ月バイトしたらリオで3ヶ月遊んで暮らせる。一年頑張れば3年暮らせる。」とよく口癖のように言っていた。もう一人は、ブラジルとアルゼンチン、ブラジルとコロンビアなど隣接の国にビザが切れる前に出かけて再入国する人だった。私は、彼らから多くの情報を得ていた。アルゼンチンの南端から南極を目指す旅もあるし、エクアドルからガラパゴス島を目指すのも楽しそうだ。3C(コスタリカ、コロンビア、チリ)と呼ばれる国は中南米でも特に美人が多いと聞くから是非訪ねてみたい。キューバやイースター島にも行ってみたいし・・・。マヤ遺跡などもいいな・・。イグアスの滝も見てみたい。考えただけでやはり中南米は、私の血が滾る国ばかり・・。私は、ブラジルの次に訪問する国で迷っていた。サッカー大好きな私は、次の訪問国をアルゼンチンに決めていた。ブエノスアイレスは、南米のパリとか言われるぐらいで(確か??)ヨーロッパの影響を色濃く感じさせる街並みだった。個人的には、イギリスとのフォークランド紛争を戦った国というイメージを持っているレベルで、ブラジルのサッカーに比べると本来華麗なテクニックをもっているくせに強かなダーティーイメージのサッカーだ。ペレに魅了された少年だった私は、マラドーナには憧れなかった。ブラジル同様、地元でサッカー観戦したり数日過ごした私は、美女の待つコロンビアに向かった。この選択が人生でもっとも過酷な体験への序章とは・・・。
Mar 3, 2005
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ブラジルに着いて数日が過ぎた。旅人としては、まさにスリル満点なこの国も、生活して生きて行くには厳しい現実がある。そんな厳しい現実があるからこそ日々準備した蓄えを年に一度のカーニバルに爆発するのだろう。サッカーで世界トップの選手を目指すのも、危険な取引で一攫千金を夢見るのも日本では想像できない貧困と隣り合わせだからに違いない。私は、この旅を終えてもいいな・・と思い始めていた。この先、旅人としていくら世界をまわっても楽しいけど何か意味があるのだろうか・・という想いが脳裏を離れなくなっていた。元々、ニュージーランドに直行する予定が大分寄り道しただけの旅。私は、そろそろ次の冒険に心が奪われていっている自分を感じた。南米を最後に一旦この旅を終えよう。 南米全般に言える事だが、多少喧嘩が強かったり武道の心得があってもこの土地で物取りに遭遇したら素直にしたがった方がいいと私は思う。ヨーロッパの泥棒さんや物取りは以外に鮮やかな手口(?)で金目のものだけ奪ってくれるが南米とかの物取りは抵抗してめんどくさいぐらいなら殺してからブツをいただこうと考えるみたいだ。よく聞く噂話では指輪をとるのがめんどくさくて手首ごと切り落としたとかいう話は随分当時聞いた。皆さんも中途半端な自信は命を落としかねないと心に留めて置いてくださいね。
Mar 2, 2005
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今日は、普段と違うテーマについて書いてみよう。正直、恋愛という分野に関してはかなり奥手で40年近くある私の人生でもっとも経験が浅い分野だ。私の恋愛話など誰も興味がないだろうし・・また、私自身、片手でたりる数の恋愛しか経験してこなかった。この日記を読んでいる方から言わせれば、世界中で色んな女性とエッチな(時として、男性とも)体験をしてき続けた私だが事、「恋愛」と構えて考えるとお付き合いした女性は何人もいない。小さい頃から、年上の女性に何故か憧れる私がいた。自分で、恋愛感情をはっきり意識できたのは、多分、中一の時だと思う。小学校の時、単純に気になる同級生とかはいたがとても恋愛と呼べる感情だったとは思えない。私の初恋は、小学校時代からずっと同じクラスにいた学園のアイドルの2こ上のお姉さんだった。皆は、私と仲がいい同級生狙いで何かと私にあいつとは付き合っているのか?と聞いてきた。私は、彼女のお姉さんに憧れていて彼女の事を一度も恋愛の対象と思った事がなかった。随分後に、お互いが大学生ぐらいになった時、彼女が東大生のかっこいい彼氏がいる事を聞いたときも私は、数年あっていない彼女のお姉さんが今何しているかしか興味がなかったのを覚えている。2つ上の学年の彼女が進学する高校に絶対合格するぞーーとか思っていた自分が懐かしい。当然、当時の私は自分の想いを告白する勇気もなかったし、日頃から弟のように接してもらっていたから彼女からすれば恋愛対象外だったと思う。同じ高校に通うという私の小さな夢は、東京都の試験制度の変更とエリア変更でもろくも崩れ去った。その後、私は男だけの学校生活が7年続く間、段々と女性と普通に話すことすら自然に出来なくなっていた。大学に入って、何回目かの合コンの時、私は隣に座った女性から「幸喜さんは、あまり女性と話すのが得意じゃないんですね・・。」、私は小さい頃から自分のしゃべりには自信があった男で、お笑い芸人になるとかそういうものではないが常に周りの人を楽しませる話を出来るタイプの男と思っていた。そんな私が、正面から言われたた・・・。その後、自分のトラウマの如く、対女性との会話がぎこちなく感じられた。海外で日本語を話さない自分だけが女性に対して自然に振舞えるような気がした。その後、日本に帰国しても私は年上女性で相手から告白された人と数人付き合ったが自分からは告白できない男として生活していた。そんなある時、私は一人の女性に出会った。初めて、自分から告白した唯一の女性だった。彼女と過ごした3年間で私の内面は色々変わった。そして、彼女と別れて数年誰にも恋をしない自分がいた。「あなたは、恋愛を何年休んでいますか??」たしかこんなタイトルのドラマがあった気がするが・・。私は、数年ぶりの恋をした。今回は、初めての年下の女性。今までずっと年上女性としか付き合ってこなかった私が・・。ある意味、自分も随分歳をとってしまったのかもしれない。本人は全く自覚ないのが一番問題だ。
Mar 1, 2005
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ブラジル初日から夜のリオの街に繰り出した。日本人の経営する宿に入り浸っている数人の日本人が夜の街に繰り出そうと誘ってきた。私は、結構臆病な性格なので「今日はよしておくよ」と答えたが彼らは、許さなかった。「のり、悪いな・・ここは、リオだよ。楽しまなくっちゃ・・。」後から思えば私は既に、リオの空気にのまれていた。「そうだよね・・。」彼らの後をついて飲み屋に入っていった。店の中は、若者でごった返していて凄いパワーを感じた。彼らの話なら気に入った女の子がいたらバンバン声かければいいんだよという。私は、パーティーでも最初からガンガン見知らぬ人に声をかけるタイプでないので彼らの行動を暫く観察していた。そんな私にも数人の人達が声をかけてきた。私は、徐々に店の雰囲気に溶け込んでいった。彼らの話によるとブラジルの女の子達は、中学生になるかならないかぐらいから恋を楽しんでいるので気が合えば簡単にその日のうちにエッチできるんだよ・・と私に教えてくれた。ただ一点注意する事があるとも言われた。私は、「それは何?病気??」、「病気もそうだけど・・。」彼は「同じ女の子と二日続けてダンスしたりエッチしちゃダメだよ。それがどんなに気に入った子でも」。彼が言った意味が最初わからなかったが後に私にも理解できた。感情を前面に出すお国柄、恋愛もある意味、情熱的で気性も激しい。二日続けて一緒にいれば、もうそれは立派なカップルなのだ。男の方は、いちにどエッチしただけで・・。とか軽い感覚でいるととんでもない事件に巻き込まれる。最近の日本を見ていると大分、当時のブラジルみたいな感覚になってきたように思うが、やはり熱いお国柄。甘く見ていると命を落としかねない。
Feb 28, 2005
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私は、以前エジプトで知り合った世界中を10年以上かけて旅し続けいている人から南米対策の情報を得ていた。早速、彼から聞いた日本人が経営する宿に向かった。どの国でも初日は緊張するその国の風土や風習など何も知らないので自分では悪気がなくても色んな事件を引き起こすきっかけを作ってしまいがちだからだ。私みたいに興味にまかせて行き当たりばったりな旅じゃなければ、事前にその国の風習や宗教上の問題など頭に詰め込んで対応できるんだけど・・・。以前私は、旅先で高校の地理の地図帳を持ち歩いている一人の男に出会った。世界全体が載っているページを開いて目をつぶり上からペンを落とす。そして、印が出来た場所が次の旅先と決める男だった。自分自身、行き当たりばったりな旅をしていたが陸つながりな場所を選んだりぐらいはしていた。彼の方法に従うと地球の端から端まで一気に移動しないといけない可能性もある。それにともなう財力や時間的な余裕が普通の人にはない。そんなこんなで、一日目の宿を確保した私は大概初日は現地に慣れる意味でおとなしく暮らすはず・・・。しかし、ブラジルでの初日は違っていた。
Feb 27, 2005
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この海外放浪記も最終章の情熱大陸「南米編」について書いてみよう。私が世界中を旅して一番生きている事を実感したのが南米での旅である。生きるか死ぬか、そんな感覚で暮らすのは、のんびりリゾートで暮らすのとはまた別の生き方である。以前、東ヨーロッパを旅した時、物価が安くても物がない国が多かった経験からすれば南米は大概の国で豊富な食材に恵まれている。私が主に滞在した国は、ブラジル・アルゼンチン・コロンビアだ。ブラジルは、なんと言ってもリオのカーニバルやアマゾン川など私が子供の頃から憧れていた国である。昔、日本人が大量に移民して大変苦労した人達がいる国でもあるが、正直わたしの世代ではそんな大変な時代の感覚はない。開放的で、今を生きる国、それがブラジルである。私が、最初に向かった先は、リオデジャネイロ。私が訪れた時は、カーニバルの時期ではなかったが街の持つパワーを凄く感じた。南米のどの町でも底辺のスラム地区は必ずある。路上で寝ている子供とかも大勢いる。しかし、この国には、日本が勝手ぎらぎらしていた時代の香りが今の残っていた。私は、個人的に日本が多分好きだと思う。世界中の素敵な出会い、色んな国・民族とのふれあいで改めて自分の育った国に関心をもったといったところだろうか。しかし、人間はないものねだりなのだろうか・・成田に降り立って帰国の手続きをし、到着ロビーを歩いている瞬間にまた外の国に行きたくなる。
Feb 26, 2005
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