仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.08.18
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カテゴリ: 東北
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すぐ向かいには日本式のお墓が並んでいた。霧雨の夏の朝だったが、伝書館前の美しい庭園、金属製のミニピラミッド、などなど、破格の伝説をたたえる場にしては、ずいぶんと静かで安らかな空間であった。

伝承館にお邪魔し、係の方から説明書をいただく。何かの本のコピーだ。以下に紹介する。


ゴルゴダの丘で磔刑に処されたはずのキリストが、実は秘かに日本に渡り、このみちのくの山村で長寿を全うしたと言われたのは昭和10年、それも茨城県の磯原町(現北茨城市)から突然に降ってわいたような話なのである。
武内宿禰の末えいである武(ママ)内巨麿氏が、古代史研究家鳥谷幡山氏外数名とともにこの村を訪ね、
「キリストがこの村に住んでいた」
という子文書が、竹(ママ)内家の文庫から発見されたというのだった。
当時村長を務めていた佐々木伝次郎氏の案内で、小高い竹やぶの中にあった土まんじゅうを二つ見つけて、向かって右側が「十来塚」と呼ぶキリストの墓で、左側が弟イスキリの「十代墓」と呼ぶ墓だということになった。


キリストは地中海の沿岸ユダヤに生を受け、エジプトに父母と共に住み、その後再び帰ってナザレの片田舎で成長したが、21歳の時に行方不明となり33歳の時に忽然と現れ、天国を語り、神の実在を説いたのであるが、もちろん聖書にもその行方不明の11年間の行動は何も載っていない。ところが発見されたというキリストの遺言書にはその間の消息が鮮明に書かれている。
すなわち、キリストが日本へ初めて来たのは11代垂仁天皇の御代で日本海沿岸の橋立の港に上陸し、越中の国に至り、当時この地におられた尊き方の御弟子となり、日本の言葉や文学を習いさまざまの修行を重ねていた。
かくて11年の修行を終えたキリストは33歳になって日本を去り、モナコに上陸してユダヤに帰ったが、帰国してからのキリストはパプテスマのヨハネや周囲の人々に神国日本の尊さを語り続けた。

しかしながら、キリストの教えは当時のユダヤ教の長老達の容けうるところとならず、またパリサイの学者等の反対にあい、遂にローマの兵に捕らえられ磔刑に処せられることとなった。
しかるに遺言書によれば、十字架にのぼったのは弟のイスキリで、兄の身代わりとなって果てたと言われており磔刑のとき「神よ何ぞ吾れを捨て給うや」と聖書にあるまじき悲痛な声を発したのは、キリストではなく、弟のイスキリであった。十字架の磔刑を逃れたキリストは、弟子達数人とシベリヤへ走って足跡をくらました。

シベリヤの広野に出たキリストは、艱難辛苦して各地を遍歴し、4年目の2月26日アラスカから舟に乗り今の青森県八戸港に上陸し、再渡来したキリストは十来太郎大天空とその名を改め、陸奥の国戸来村(ヘライ)に住居を定め、ミユ子と称する日本婦人をめとり三女を育てた。



さらにこの解説書には「ユダヤに縁りの風俗習慣」なるページもある。


(キリストの行脚)
遺言書によると戸来村に居を定めたキリストは、布教に努めることもなかったが、日本の各地を遍歴行脚して、言語・風俗・人情などを視察するかたわら、庶民救済に努力されたという。その当時のキリストは禿頭白髪、赤ら顔の鼻高であり、ヒダの多いオーバーを着けていたので、人々に天狗として畏敬されたという。

戸来(ヘライ)はヘブライをもじったものと言われるように、ユダヤに縁りのありげな風習や習慣が今なお多く残っている。
例えば、父親をアヤ又はダダ、母親をアパ又はガガ、そして子供が生まれ初めて戸外に出すとき、この額に墨で十字を書き入れること、或いは、足にシビレをきらしたとき、人さし指にツバをつけ額に十字を書く、これを三回繰り返すとシビレが直るという習慣など、現在80歳をこす古老達が子どものとき、すでにその時の年寄り達から受け継いだものだという。
(ナニャドヤラ(盆踊り・唄))
村には古くから伝わる盆踊り・唄がある。お盆とそして続いて訪れる鎮守のお祭りには、この唄がうたわれ踊られる。
  ナニャドヤラー

  ナニャドヤラー
まったく日本語らしならぬ歌詞であるが、これを米国シヤトルに住む神学博士川守田英二氏(岩手県一戸町出身)は日本に帰った折これを伝え聞き、次のように翻訳している。
  お前に聖名をほめ讃えん
  お前に毛人を掃蕩して
  お前に聖名をほめ讃えん
(十来塚と十代墓)
106歳の長寿を全うしてこの村で没したと言われるキリストは、その遺言により、西方およそ16キロの地にそびえ立つ標高1159mの戸来岳で風葬し、4年後に白骨を埋葬したという。
それは、部落を見下ろす小高い丘の上にあり、こんもりと盛り上がった二つの塚にはそれぞれ真白な十字架が立てられている。
向かって右側がキリストの墓といわれ、日本名十来太郎大天空と呼ばれたところから「十来塚」、左側がキリストが磔刑を脱する時に携えていた弟イスキリの耳と聖母マリアの頭髪を葬ったといわれる「十代墓」である。
(ダビデと十字)
キリストの墓にある、沢口家の家紋は、ダビデ(ユダヤの王)の星形であり、それも古い戸ぶくろに、うちつけられている。



■関連する過去の記事
新郷村とキリスト伝説を考える (2010年12月12日)
大石神ピラミッドと新郷村の旅 (2012年8月19日)





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最終更新日  2012.08.19 10:04:02
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