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国宝に指定されてからは、初めてその姿を見に訪れました。傍らの解説板の内容が下記。------------国宝 多賀城碑(古文書)詳しくは知りたい方はこちらから(QRコード、ホームページ)〔おだずま注 ジャンプ先はこちら(多賀城市サイト)〕多賀城去京一千五百里去蝦夷国界一百廿里去常陸国界四百十二里去下野国界二百七十四里去靺鞨国界三千里西此城神龜元年歲次甲子按察使兼鎮守将軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也天平寶字六年歲次壬寅参議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也天平寶字六年十二月一日 上部に「西」の一字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の一里は約535mです。後半には、神亀元年(724)、大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後の行に碑を建てた年月日が刻まれています。 碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。 碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄2年(1689)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文『おくのほそ道』に書き残しています。 また多賀城碑は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、栃木県大田原市)、多胡碑(たごひ、群馬県高崎市)とともに、 日本三古碑のひとつに数えられています。 多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文として貴重であることから、平成10年6月30日に国の重要文化財、令和6年8月27日に国宝に指定されました。 令和六年八月 多賀城市教育委員会 寸法 高さ248cm (地上部196cm)、最大幅103cm、最大厚さ72cm 石材 花崗質砂岩----------■碑の脇の説明板の中でQRコードから入るサイト(重要文化財多賀城碑) 真偽論争を含む碑の経緯や、歌枕としての整備、全国の古碑などについてわかりやすく記されています。藩政時代に仙台藩や南部藩で行った歌枕の地の整備は、現代でいえばインバウンド誘客の取組でしょうか(おだずま談)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2024.09.16
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-4 大柄沢キリシタン洞窟 1973年(昭和48)8月、山の持ち主Nさんが下刈り作業中に、偶然みつけた。道らしきものが続いていることに気づき、右側が崖になる藪を進んでいくと、山の一部に人工的に色が変化している場所を発見。鶴橋をいれるとぽっかり穴が開き洞窟の入口とわかった。 岩穴は高さ1.3m、底辺1m、奥行き10mほど。奥には細断と思われるものが2段あった。灯火用の金属片を岩に取り付けた跡もあった。 その後訪ねる人もなかったが、NHKで放映することになり、一昨年〔おだずま注、鈴木氏の著書は2020年1月の講演がもと〕、持ち主に無理にお願いしてショベルカーで低木を掃っていただき、入口に辿り着いた。50年近く経た洞窟の入口は土砂が崩落していたが、懐中電灯で照らした洞窟の中は、ロウソクの煤で薄暗く、ミサで使用したのか壊れた皿が散乱していた。〔おだずまコメント。ネットなどで調べると、大柄沢(おおがらさわ)キリシタン洞窟は、大籠教会から西に1.5kmで登米市米川地区にある。登米市の土砂災害危険個所のマップで、国道346号の北側に大柄沢キリシタン洞窟の語がみえる。米川里山だよりのマップ〕4-5 大籠の地名 大籠の地名には殉教地を物語るところがある。シト(使徒)の沢、トキゾー(徒刑場)沢、デス(仏)、ハセバ(架場)など。ハセバは稲を干すハセ掛けのように死体を並べたということ。殉教を「架けた」と表現する地域もあった。 大籠地区自治会協議会は、殉教と製鉄の里として「大籠の旧跡と名所」という地図を製作。この中にキリシタンに関わる史跡は22箇所もある。一部、米川(狼河原)のキリシタン関係の遺跡と後藤壽庵の碑も掲載されている。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.13
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-1 千早東山 新聞報道された大津保村の一部、大籠は多くの殉教者を出した。大籠を巡検した東北大学教授村岡氏がまとめたのが、村岡典嗣『仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡ー伝説と史実』(改造社、1928年)である。村岡氏が情報を得た儒学者の千早多聞は、父親が千早東山といい、人名辞典によると、「磐井郡奥山村の人で、江戸に出て山地蕉窓の養子となり、儒学者として幕府に仕える。安政の頃故郷に戻り隠遁する。」とある。東山は故郷愛が深く村民に非常に慕われ、明治34年に80際で亡くなる。 東山の著書には『大籠往来』と『大籠神明記』、他に『裁増坊物語抄録』がある。この3つを手にした村岡は「これでもう大籠のことはすべてわかったような気がした」と書いている。ただし、『裁増坊物語抄録』は現代人の視点で読むと荒唐無稽と一笑に付されてもやむを得ない。「裁増坊」とは大籠村の百姓で1613年(慶長17)に生まれ、1750年(寛延3)まで地域に生存し、高野山には7度参詣し、93歳から剃髪して裁増坊と称し、130歳まで生きたとある。とすると1792年(元文2)まで生きたことになる。伊達政宗に故郷大籠の地誌などを話したという内容が記されている。村岡氏の論文にはその一部が引用してあるが、栽〔ママ〕増坊は「大籠の地は自然に恵まれ、まるで桃源郷にいるように、心安らかに暮らしている」と話している。現在、大籠に伝わる人名地名などの口伝や伝承に鑑みると、全くの妄想話として切り捨てがたい内容であり、『裁増坊物語抄録』の記述が信頼できるかどうかは別として大きな影響を与えた。 現在大籠の遺跡、遺物として目の当たりにできるのは、大籠の仙人ともいうべき千早東山の故郷愛の記述に基づく作品が、村岡氏によって発掘されたことによる。4-2 石母田文書 その後、村岡氏は大槻文彦著の支倉常長の遣欧使節について書かれている「金城秘韞補遺」に掲載されていた「石母田文書」と出会う。栗原郡高清水町の石母田家に切支丹関係の文書があることを知り、石母田家の家老土田甲平氏を訪ねる。大長持67個に入っていた文書は火災に遭い、小長持に大小23、4束しか残っていなかった。同伴した研究室の大森、重森文学士と共に、二日にわたって調査した結果、キリシタン関係の文書が断片的なものも合わせて約46通見つかった。 石母田家は元和、寛永の頃、仙台藩江戸詰奉行で政宗の右腕と言われた石母田大膳亮宗頼の家である。膨大な文書を前に村岡氏を奮い立たせたのは、大籠で俗称「塔婆」と呼ばれる地域に1640年(寛永17)の殉教後62年後の1701年(元禄14)に建てられたと伝えられる供養塔「元禄の碑」だった。建立者の氏名が1712年(正徳2)大籠村宗門御改帖に記載されていたのである。地域に口伝えで伝わった石碑は単なる供養塔でなく、殉教者の墓石であった。遺跡と文書が一致したことで、口承の碑であっても、信ずべき検証者であることを知った。以上の資料を精査、実地踏査した村岡氏は仙台切支丹史をまとめようとしていると記している。4-3 製鉄とキリシタン 葛西氏滅亡後、旧家臣団は結束して、この地方の特産である砂鉄精錬に注目した。天文年中(1550年頃)まで奥羽地方に鐵の烔屋がなく、千葉土佐・佐藤但馬が備中に行って製鐵法を学んできたが結果がよくなく、1558年(永禄1)、布留大八郎・小八郎兄弟(千松地域に在住し後に姓を千松と改める)を呼び寄せて効率の良い鐵の製錬を行った。その結果、烔屋も増え、はじめは北上川河口(旧追波川)で製錬し、寛永年中(1624年頃から)に飛騨・勘座衛門・駒吉・越中の4人は狼河原に居住して製鐵を行っていた。 大籠では背の沢(千松沢)から烔屋が始まって八人衆と言われる指導者も生まれて次第に量産していく。鉄砲・武器・農具を生産し、問屋に卸していた。『藤沢町史』によると多くは生活必需品である鍬、鎌、鍋、釜、鉄瓶などを生産している。特に農機具は需要が多かったようだ。烔屋八人衆とは、千葉土佐、首藤伊豆、須藤相模、佐藤淡路、佐藤治、佐藤丹波、佐藤肥後、沼倉伊賀である。この中の多くは葛西氏の旧家臣で馬籠の佐藤家の血縁の者だった。千葉土佐を除いた7人はキリシタンとして成敗されている。 「安永風土記書出し」(仙台藩では1773年(安永2)江刺郡から始まった地誌)によると、大籠村の人頭数は114人、保呂波村は151人、藤沢村303人だったので、昭和26年2月の新聞見出し「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「使徒3万人」は信徒の実数ではない。 1612年(慶長17)、家康が初めてキリシタン禁教令を発し、1613年には江戸でキリシタン狩りが始まった。登録されていた3700人のうち1500人が小伝馬町に送られたが、殆どの者は転んだり、取り締りの緩い奥羽地方の金銀山・鉱山に逃亡した。多くがヤマに逃げ込んだのは、家康が金銀を獲得するため、幕府の直轄地として保護政策「御山五十三条之事」をとったことが要因でした。鉱山に入っている者についての取り調べは不問にするという治外法権が認められ、ある意味安住の地になったのが都合よかった。鉱山の生産様式は基本的に採鉱部門と製錬部門に分かれ、例えば採鉱部門は、鉱脈の探索、試掘、開坑、その後鉱石を採取して坑外に運搬するまでの作業があり、大規模な労働力が集まって一つの町が形成される。佐渡鉄山の最盛期には10万人近く集まっていた。このように多くの労働力を調達するため、外来者は条件なしに受け入れた。仙台藩のみでなく、当時の支配者にとって自国の財原となる鉱山経営のために、鉱山技術者の導入も必然だった。なかには、共同体から脱落した者、遁走した武士、水のみ百姓が雇用され、鉱夫たちの階級が自然に形成された。 キリシタン鉱夫は他と違い強い絆が必要だった。それまでも日本のキリシタンの組織として、「組」「結」と呼ばれる組織(コンフェリア)をもっており、フランシスコ会では「帯の組」、イエズス会の場合は「さんたまりやの御組」(マリヤ会)を結成して団結した。鉱山では、それぞれの立場で身の安全を保つ工夫をしていたのだ。 1917年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩の院内鉱山の人々は、他国から入っている者の割合が非常に多かったが、仙台大橋袂の広瀬川殉教碑の殉教者と出身をみても、全員がそれぞれ違う国の出身。また、姓の有無で分かるように武士や農民、身分に関わりなく幾筋にも分かれた坑道に隠れていた。カルワリオ神父が捕縛された颪江(おろせ)鉱山(その後渋民鉱山に改名、現在ダムの一部)は、仙台領と佐竹領の境界付近で、カルワリオ神父が秋田へ向かう布教ルートにある鉱山。この時60余人が生活を共にしていた。神父が懇意にしている居者が、柏峠付近にいたと思われる。 鉄鉱石に恵まれた旧大津保村のたたら製鉄の烔屋跡を流れる川は、いつも赤かったと言われていて、現在も赤く染まった川石があり、流れる水は茶色に染まっている。付近を流れる砂鉄川では川底を掬うといまだに砂鉄が採れる。この地域に他国のキリシタンや宣教師が入り込んでいても不思議ではない。 千松大八郎・小八郎兄弟が切支丹で、表向きは烔工として布教に努めたという説があるが定かではない。千松兄弟のキリシタンに関わる文書はない。炯屋八人衆の千葉土佐の子孫千葉哲夫氏の屋敷続きの畑の中にある墓群の一番奥に二代目千葉土佐の墓石がある。墓碑には「寛永一八年八月七日、栄寿院顕阿広俊道寛居士 八月七日 千葉土佐 九十七」とあり、側面に「父 狼河原村月山之住累徳曰 母 長坂太郎息女也」とあり、墓の裏面に由緒が刻字されてある。「当国御鐵方根元之始也永禄年中、大綱様御用鉄並東照宮権現公御城御用鉄指上候、当国御両御城御用鉄甚御重宝都而御国用不及申鍬打方上分ニ而菊一菊上天下一与銘目御免之上貞山公ヨリ奥州御鉄方長之家也与有御意末世御鉄繁昌之大祖也」と刻まれ、大籠で採れた鉄は、太閤様や東照宮の権現様に奉納し、最高の鉄製品であったと称賛している。初代千葉土佐は、葛西氏滅亡後、初め歌津村に逃げたが、その後東和町東上沢の月山に居住し製鉄に没頭した。この時41歳、二代目土佐は14歳だった。この後二代目土佐は大籠村に転住。千葉家の屋敷墓は、二代目千葉土佐の墓が一番奥にあり、その前方に千葉土佐の子孫の墓が雑然と置かれる。墓の頭部にキリシタンのマーク(一、1、卍、釣り針)があるので、何代かにわたりキリシタンであったことが推測される。二代目千葉土佐の墓石の上部には「一」とある。初代の千葉土佐も製鉄を行っていたが、南蛮流ではなかったようだ。 この地域の鉄で農機具がたくさん作られた。「藤沢町問屋及川勘助の取引」の記録によると、天明8年の8月から9月の生産者は保呂羽の3人で賄い、寛政元年には生産者が6人に増えて、岩屋堂や江刺、最上とも取引をしている。天明と寛政の鍬取引数は、4374枚にも及んだ。多くの工人が大籠に入り製鉄を行ったことを物語る。保呂羽の領主の屋敷墓は、後ろに山を背負った一段高い奥に代々の領主の大きな墓石があり、40センチほど下の段に、取り囲むように小さい墓石がある。この屋敷のご当主によると、先祖がいくつか炯屋を持っており、小さい墓石はそこの工人たちの墓だと考えているということであった。この墓の中にもやはりキリシタンのマークがある。大籠地域の屋敷墓には、墓石の法名の上部にキリシタンのマーク、「卍」「一」「心」を多く見かける。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.10
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大学生のころ、台湾は英語では Formosa と通称するが、もちろん Taiwan や Taiwanese(台湾人)も通用すると学んだ記憶がある。しかし、その後今に至るまで何十年、Formosa の語はしばらく見聞きしなかった。ところが、である。いま、台湾のプロバスケットボールチームが来県して、仙台や南三陸で現地訪問や子どもたちとの交流を図っている。きのう(9月5日)夜には、仙台89ersと国際親善試合をしたというのだ。そして、そのチームの名が Fomosa Dreamers で、現地表記が「福爾摩沙夢想家」だ。Fomosa とは美しいという意味で、チームのカラーは緑。ファンたちは、腕時計や靴下まで緑でそろえるのだという。宮城県も県の色は緑だ(最近はズンダ色とも)。これからも交流を深めていきたい。
2024.09.06
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕3-2 馬籠地域とキリシタン 調査隊〔当ジャーナル注、村岡典嗣氏の探索と論文(昭和3年)をもとに行われた昭和26年の只野淳氏ほかの探索隊を指すと思われるが、著者の高橋氏たちの最近の探訪かも知れない。〕が最初に入った地域が馬籠である。市明院という寺に切支丹の記述がある文書を見つける。これは、田束山の縁起について書かれた文書の中にあったものである。(田束山については前回記事に記した。)3-3 大柴佐藤家・大東佐藤家 先祖は義経の忠臣の佐藤忠信である。忠信の兄嗣信は屋島の戦いで戦死しており、兄弟の忠死を憐れんで母尼公は、父秀衡から化粧地として賜ったといわれる先祖ゆかりの地、馬籠に「信夫館」を建立し居住した。大柴、大東の佐藤はもともと兄弟である。本家分家の関係ではないが、大柴佐藤家子孫の山内繁氏(気仙沼在住)談では、大柴佐藤家が肝煎りだったので分家が大東のように記載されいてる書物があるが、それは現在の視点の解釈と思うと話している。 1772年(安永9)4月の風土記に、馬籠村肝煎り佐藤善作が「代数有之御百姓書出」として提出した文書があり、そこには「佐藤淡路の子小六郎・小六郎の子寅蔵・寅蔵の子太郎兵衛・太郎兵衛の子善作古切支丹肝煎り」と記載している。事実、1672年(寛文13)8月29日付の「本吉郡馬籠古幾里志丹近親類書付帳」に馬籠村肝煎り寿慶の名で記載されている。 寿慶は転宗を思わせる名だが、僧侶風の名にすることで過去にキリシタンだったことを世間の目からそらす目的であったのか、実際に転宗したのか不明。寿慶の父として十郎左衛門信治佐渡の名も記載されいている。佐藤十郎左衛門信治佐渡は、支倉常長と共にサン・ファン・バウティスタ号に乗ったと言われるが、遣欧使節の委細が書かれた『金城必韞』(大槻磐水、1912年)には、乗船者の中に記載がない。 大柴佐藤の子孫の山内繁氏の母山内むつ氏の著書『年輪』(1973年)に、「ローマから持ってきた宝物の話」として、山間地の馬籠に先祖が700年も住んでいたこと、ローマから持ってきた3つの宝物(金の十字架、香炉、インク壺)が長く伝えられたこと、分家の大東家には入口の分らない屋根裏に隠れキリシタンの部屋が最近まであったこと、が書かれている。 現在米川教会の台座の裏に「佐十」と墨で書いていある木造のキリスト像は、佐藤十郎座衛門のことと思われる。インク壺は大東佐藤の子孫の奥様佐藤かぢ子さんの管轄にあるとのこと。 大東佐藤家は兄の大柴佐藤家から東の方向にあることからそう呼ばれるようになった。肝煎りの大柴は役人の出入りも多く、キリシタンを隠せないので大東に隠したと思われる(山内繁氏談)。隠れ部屋にはフランシスコ・バラヤス神父が隠れていたと考えられる。佐渡の古い墓には頭部に卍のキリシタンマークが付いているが、今は倒れて草むらに覆われている。〔おだずま注、上掲書p170に大東佐藤家の図があり、仏壇の奥に隠れ座敷がある。〕3-4 馬籠小山家 大変古い家で、午王野沢という田束山に登る山道に面した山深いところにある。南蛮鍛冶屋のこの家のお嫁さんの話では、夜口笛を吹くのは幕府の役人の合図だ、日が暮れたら家の灯が外に漏れないように、との言い伝えがあったという。小山家には梵字を模った不動明王の掛図があり、Jesusの「J」が組み込まれている。3-5 三浦家文書 『本吉町小史』によると1632年(寛永9)、馬籠のキリシタンが一斉に捕縛された。村には女性子供しか残らず農業が成り立たないので、領主の三浦下総、佐藤和泉、吉祥寺の住職が、転宗を進めに城下仙台牢を訪ね、許されて帰村した史実が記されている。3-6 ポーポー様の伝承 本吉町林の沢という山奥に、ポーポー様と呼ばれる墓石がある。20年前見に行った時は、頭が欠けて三角の墓石のようだった。現在は墓は倒れて見えない。日付は消えかかっているが、町史によると寛永8年1月24日。『本吉町史』によると地域に伝わる伝承として、昔、林の沢にポーポー様が住んでいた。よそ者である吹雪の晩に太田山から下りてきて某宅に一夜の宿を求めた。村人は天狗にでもさらわれたかと温かく迎えた。ポーポー様はこの地方の言葉がわからないが、病人があると魔法のようにポーポーと息をかけて治してくれた。ポーポー様はこの地で一生を終えた。村人墓を建て病の時は墓にお願いをした。近在では、子どもたちがいまでもポーポーと息をかけてさすってやる習慣がある。ポーポー様は修行者なのか、キリシタン宣教師の落ちのびた姿ではないかともいわれる。墓に釣り針マークがあること、宣教師は他の地方でも十字らしきものを切りマメチョマメチョと言ってまじないをした様相に似ているからということだ。 寛永8年(1631)以前に馬籠付近に滞在の可能性のある宣教師は次のとおり。・ジョアン・ポルロ神父・フランシスコ・バヤラス神父(孫右衛門)・ルイス・カブレラ・ソテロ・ゼロニモ・アンゼリウス・カルワリヨ神父(長崎五郎右衛門) 仙台藩がキリシタンを厳しく取り締まるようになったのは、支倉ら遣欧使節の帰国後で、上記の中で確かに潜入していたのはバラヤス神父と推察される。たしかに、馬籠の逗留したと思われる屋敷や馬籠に通じる道筋の隠れ家と言われる家には、マリア観音に模した仏像や背中に十字の入る像が見つかっている。また、キリシタンの関わりを想起させる、葦原刑場、弥惣峠などの地名も残る。 取り壊されたが、大東佐藤家は地域でバテレン屋敷と呼ばれていた。15年ほど前、子孫の奥様で教師の方に話を聞いたら、中二階の隠れ部屋は小さな集会堂だったということから、バラヤス神父が同宿の半三郎とともに大東佐藤家に逗留して布教したのは確実でないかと思う。 馬籠小山家にも同じような隠れ部屋があった。〔当ジャーナル注。明治8年、津谷、馬籠、山田の3村が統合して御嶽村、そのまま明治22年町村制で御嶽村となり、単独で昭和16年津谷町になる。参考記事として、津谷小学校山田分校廃止裁判(2012年3月1日)〕■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.03
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今日(9月2日)は暑かった。歩いて用務先に行くつもりが汗が噴き出そうなのでバスに切り替え。しかしバス停で待っている間に、まだ朝の7時台だが蒸し暑かった。今年、宮城県には初めて熱中症警戒アラートが出た。仙台で35℃と早朝のニュースが報じていたが、アメダスによると、仙台の最高気温は12:18で32.8℃である。現在17:00時点では、気温は27.8℃、湿度は75%で、時折雨が降る。気温じたいは極端に高くはないが、最近やっと猛暑も和らいだかとの期待に反して9月に入ってもこれか、という憤懣?か。丸森町では現時点で今日の最高気温が、34.7℃(11:52)とのこと。
2024.09.02
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下記文献の記載から、東北のキリシタン聖地とされる地域について記事にさせていただく。歴史を学ぶことの重要さをかみしめながら、今を生きる地域の姿を考えたい(構成と一部見出しは当ジャーナル)。高橋陽子氏は、下掲書巻末の執筆者紹介によると、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員、専門は国語国文学。あとがき(加藤美紀による。同氏は、2023年度まで仙台白百合女子大学カトリック研究所長、2024年度から仙台白百合女子大学学長)によると、東北キリシタン研究会は高橋陽子氏と川上直哉氏(日本基督教団石巻栄光教会牧師、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員)を中心に2016年立ち上げられた。また、髙橋氏は東北キリシタンを祖先に持つと思われる歴史愛好家として紹介されている。■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)1 意気込みをもって探査された驚愕の史実 かつて『宮城県民新聞』が、昭和22年1月1日の第一号から昭和28年まで続き、同年12月から「県政だより」と名称を変更した現在に至る。創刊号には、「県政の基本を確立」の見出しがあり、戦後の立て直しに向かう姿勢が示される。 県史編纂のために宮城県史編纂室という部署を設けて昭和25年10月21日に、執筆分担が決定した記事が掲載されている。昭和26年1月には、年頭の顔合わせが開かれ、「調査に精進して」「光彩ある縣史を作りたい」という見出しで、集まった歴史・文化担当10人の意気込みが感じられる。 歴史担当者は各地域を分担して伝承や文書に関わる家や人を訪ね、次第に隠れキリシタンの存在が明らかになっていく。担当の中心だった只野淳氏の探査の結果が、昭和26年2月11日の地方紙・全国紙に「東北にキリシタン聖地」「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「貴重なキリスト布教の発見」の見出しが語るように驚愕の史実として報道された。 聖地とされた大津保村は、1955年まで東磐井郡にあった村(一関市藤沢町大籠、室根村津谷川、藤沢町保呂羽にあたる)。藤原氏の時代から有力な金の産地で、大籠の地名は、秀衡が大きな籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝えられる。現在も100を超える金山跡がある。古くは本吉郡に属した荘園だった。2 探査の基礎資料 遺跡探査の基礎資料は、村岡典嗣(つねつぐ、東北大学教授)の論文「仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡-傳説と史實」(1928年)。村岡は元岩手県立博物館長菅野義之助氏から大津保村に切支丹の伝承・遺跡が多くあることを聞いて、探訪に出かけた。本吉郡狼河原から始まり、大籠、馬籠を訪問。出会った千早東山によって大籠の切支丹の十分な知識を得たと述べている。中でも「栽増坊物語抄録」(当地の歴史と伝説)には、切支丹について次のように記される。 千松大八郎、小八郎兄弟がこの地に来て、この地の旧家と共に製鉄に従事し仙台領の製鉄の根元となった。兄弟は切支丹で布教に努めたので信者が三万人にも増えた。その後、藩の禁教が厳しくなり刑死してしまった。 村岡は、この伝説が村社である神明神社の縁起「大籠明神由来記」とも重なる部分があり、大八郎が迫害を避けられず、デウス仏を埋めた場所に石の山神を置いて祀った話や、千松神社、大善神、千松屋敷跡、大八郎墓、首塚など物語に登場する遺跡を歩いて確認した。 その後、栗原郡高清水町に仙台藩重臣石母田大膳亮宗頼の家老土田甲平宅を訪ね、『石母田文書』に出会う。切支丹関係の文書が46通みつかり、伝承・遺跡と文書が一致した。3 馬籠地域とキリシタン 馬籠は調査隊が最初に入った地域。藤沢町保呂羽と隣合せの地域である。調査隊は市明院という寺で、田束山の縁起について書かれた文書の中に切支丹の記述をみつけた。〔おだずま注。この調査隊とは昭和26年の只野淳氏ほかの探査のことと思われるが、直近の髙橋氏ほかのチームのことかも知れない。〕3-1 田束山と満海上人 田束山は金が豊富な平泉藤原氏管轄の霊山だった。当時、七堂伽藍70余坊を有する山で多くの僧がいた。龍峯山(たつかねさん)とも表記し、竜神信仰(水の神)として本吉地方の信仰の山でもあった。 『志津川町史』では、834-847年(承和年中)に開創された。秀衡が観音堂を建て、山上には羽黒山清水寺(せいすいじ)、中腹には田束山寂光寺、北峰を幌羽山金峰寺と要所に大伽藍を築いた。清衡の四男本吉四郎高衡がこの山を掌ったとも伝えられる。奥州藤原氏が出羽三山信仰を強化して独自の勢力圏を図ろうとした様相が浮かぶ。弁慶の長刀一振りが寄進されたとも伝えられる。 藤原氏滅亡後、知行地を引き継いだ葛西清重もまた坊僧四十餘宇を建て、家臣の千葉刑部に寺社を掌らしめたと言われるが、葛西氏滅亡後荒廃した。 昭和46年発掘調査で経塚群が発見され、山上の経筒から約800年以前のものと推定され、平安後期には信仰の霊場であったことが確実に。1632年(寛永9)、田束山に僧坊が立ち並び仏教のメッカになっていたところに、寺が邪宗門改めを容赦なく行ったことで、キリシタンの仏閣への反感が爆発して寺院を焼き払った。田束山の大上坊にある大学院その他の房や入谷八幡社もその時焼き打ちにあったと伝えられる。 田束山から尾根続きに南西1キロほどの峰を満海山と呼び、山頂の塚が満海上人の入定の地と伝えられて「満海上人壇」という解説板が建てられている。 伝承では、満海上人は天正年間気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏になったと伝えられる。また別に、馬籠地区にキリシタンが増えて田束山の四八坊の僧侶は切支丹宗門に転じてしまい、天台宗の満海上人は転宗した僧との法問に敗れ、食を絶って入滅したとの伝承もある。さらに、田束山を預かっていた満海上人が修行から山に戻るとキリシタンの暴挙で霊山は壊滅状態になり、自分の力不足を悲観してせめてキリシタンの非道を後世に知らしめる意をもって入定した、など諸説ある。 しかし上人の没年が『気仙沼町史』では1567年(永禄10)になっており、キリシタン一揆は1632年(寛永9)である。没年と一揆の年号が『歌津町史』と『気仙沼市史』〔おだずま注、ママ〕では違う伝承で疑問が残るが、キリシタンが力を見せつけようとした伝承として残されている(「田束山中興満海上人伝、清水浜細浦、市明院誌」)。 田束山の登り口は、(1)樋ノ口地区から。行者の道と言われ、蜘蛛滝、穴滝など修行場。滝の裏に洞窟。登り口の観音堂には慈覚大師作といわれる不動明王。(2)払川ルート(3)小泉ルートの3つがあり、払川ルートは馬籠に通じる。このルートの登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう。 田束山清水寺(せいすいじ)からキリシタン蜂起の際に下げてきたと伝えられる細浦の正音寺に四分五寸の金佛坐像(天竺国の佛工作と言われる)があったが東日本大震災の津波で流失した。 東北キリシタン研究会〔おだずま注、著者の高橋氏が所属しておられる〕が満海上人壇を訪れた。案内板の反対側の小山が壇で、側には送電塔。入滅の後一度も掘り起こしていない当時のままだそうだ。案内板には上人と共に経典なども埋められているとある。 (おだずま注、南三陸町観光協会のパンフレットから)以下は当ジャーナルのコメント。高橋氏の御著作では、田束山の登山ルートのうち、払川ルートは馬籠、平泉に通じるとある。あるサイトでは、登山ルートは、樋の口ルート(行者の滝)、払川・上沢ルート、小泉(気仙沼市本吉町)の3つがあり、徒歩で古来の修行の場や自然を堪能するなら樋の口ルートを、手軽に自動車なら後2者のルート、と案内される。払川ルートは、山頂から南下し満海山を経由して、払川ダムの上流の県道206号(地図アプリでは歌津字払川の地域)に通じるものを指すのだろう。入谷地区から田束山をめざす道が払川を経由していく。払川はかつて街道の交差する宿場として栄えたという。(払川 in 南三陸観光ポータルサイト)(なお、みちのく潮風トレイルは、入谷から払川を経由するルート。)なお、私の場合は、国道45号から歌津IC辺りで県道236号に入り、払川ダムの付近から右折して山に登る道を車で登った。地図アプリでは、この県道236号付近に歌津字上沢(かみさわ)の地域名が見える。「払川・上沢ルート」と称するのは、車で行ける登山道ができる前は、沿岸部から県道236号を通って払川集落までいって上ったからなのか。話を高橋氏著作に戻すが、同書掲載の地図(p167)では、「払川」が田束山の北に記されている。西に牛王野沢(ごおうのさわ)、北に馬籠、と記される。これだと確かに、「払川ルートは馬籠に通じる」、「払川登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう」との記述(p169)とすんなりマッチする。しかし、払川集落からは、県道206号を北上してつづら折りを越えて馬籠(西郡街道、国道346号)に至るものの、かなり迂遠である。南山麓の払川集落とはべつに山の北側に「払川ルート」があったとは考えられないので、地図で山の北にプロットされた「払川」は、キリシタンの馬籠とその影響を受けた田束山僧坊の関係を重視するあまり、著者が誤解されたのではないかと推察する。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.31
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以前から気になっていたこと。栗原市内に栗原(くりばら)という地区名がある(正しくは栗原市栗駒栗原で、この後に(字表記を挟まず)小字名が続く。「栗駒栗原」が大字名)。旧栗駒町尾松地区の一部で、栗原(くりばら)簡易郵便局の名にもなっている(もっとも同郵便局の所在地は栗駒菱沼)。この地区名の経緯、また、改めて現在の市名である栗原の名の由来について、栗原郡教育會編『栗原郡誌』(大正7年初版、平成10年復刻、伊藤真正社発行)をみてみた。1 栗原の名の由来 栗原郡の「栗原」の由来については以下のように書かれている(上巻p8、なお当ジャーナルで旧字体を改めた部分有り)。------------二.栗原郡名の由来古への栗原郡は伊治城地の一部にして和名抄の所謂栗原四郷の地なりしを中世葛岡郡の一部、長岡郡の西一半及び新田郡の全部を合併し、更に近年は新田郡に属する佐沼南北の地を割きて之れを登米郡に又た鬼首村を割きて玉造郡に編入し以て今日に至れるものとす伊治及び栗原の名の始めて史に現はれたるは称徳天皇の神護景雲元年にして続日本紀に 神護景雲元年十月辛卯勅見陸奥所奏即伊治城作了自始至畢不満三旬朕甚嘉馬宜加酬賞式慰匪窮云々 同年十一月乙巳置陸奥國栗原郡本是伊治城也云々とあり、即はち栗原郡は伊治城作了後同城下の地に新たに建置せられたるものに係れり、而して伊治城は現今の富野村城生野に置かれ、同城下の地たる伊治村は古人の新田郡即はち現今の登米郡の西境より北は現今の若柳、西は富野村に達する間、迫川を以つて圍まれたる一帯の平野なりしが如く、(和名抄、郡郷の部に、栗原、清水、仲村、會津の四郷あり、會津はエヅにしてイジの転化せるもの、即はち古への伊治村乃至伊治郷なり)栗原郡は今の尾松村字栗原四辺の地にして後には今の栗原郡南部旧十九邑の地を栗原の荘と称し遂に現今の郡名として伝へられるるに至れり栗原の地名の起原に就きては伊治をコレハルと訓じたるより起れりとなすものと或は夷語より来れるもの等種々の異説あつて定かならず栗原郡旧地考云○ 今も栗原村とて二迫の内にあり 栗原寺の跡もかずかず残りて本堂屋敷、西の坊屋敷などその他彼是と屋敷名は残れり、これぞ古の栗原の里の本居にて四方八面皆此村なりけんを田所も開け戸口も多くなりて姉歯の里などや先づ出来そめけん云々○ 栗原郡と名つけられたるは必ず近きあたりに栗原といふ名たたる所有るに因りて栗原をもて名付けられつらん、元は今の栗原村をさすにやあらん、姉歯の松、栗原寺など今に絶えせぬ名高き所あればなり云々復軒雑纂云○ 留守文書元弘四年二月晦日のもとに陸奥二迫の栗原郷内外栗原並片子澤内云々など見えて当時尚ほ栗原郷の名を存せり云々○ 白河藩の廣瀬蒙齋が陸奥五十四郡考補遺には伊治は訓読「これはる」にて栗原と声近しといへり若しくは伊治城管下の地を郡に建てらるる時、伊治の音読なるに新たに訓を施し声の近きを以て栗原の字に作り新に郡に命名せられしものか云々------------下巻p261では(各地域の地誌の部分)、尾松村の経緯について次のように書かれている。------------明治八年町村分合の際、上下稻屋敷を統一して稻屋敷村及び八幡、櫻田の二村を合して八幡村、菱沼、栗原を合して栗原村と称し、同九年宮城県の管轄に移り、同二十二年市町村制移行に際し、栗原、八幡、稻屋敷の三村を合して旧荘名を襲ぎ、尾松村と称するに至れり------------この後に、安永七年七月書上風土記における各村(稲屋敷、櫻田、八幡、栗原)の記載が紹介されている。いずれも、尾松荘(表記は、尾松荘、尾野松庄、小野松庄、などと異なるが)に属しているとされている。2 行政上の村の推移藩政時代は栗原郡は(本)栗原、一迫、二迫、三迫、佐沼の5区に分割し、このうち二迫には14か村。すなわち、姉歯、泉沢、稲屋敷、鶯沢、片子沢、栗原、桜田、城生野、梨崎、菱沼、文字、八幡、渡丸、富の各村である。 明治8年の統合では次のとおり。 ・富野村 ←富村+城生野村 ・八幡村 ←(合併)桜田村 ・栗原村 ←(合併)菱沼村 ・姉歯村 ←(合併)梨崎村明治22年町村制施行で栗原郡は22町村、かつての二迫地域を中心に記すと次の通り。 ・富野村(単独) ・尾松村 ←稲屋敷村+栗原村+八幡村 ・姫松村 ←王沢村+片子沢村+宝来村 ・沢辺村 ←沢辺村+姉歯村+大堤村小堤昭和の合併により以下となる。 ・築館町(昭和29年) ←築館町+玉沢村+富野村+宮沢村 ・金成町(昭和30年) ←金成村+沢辺村+津久毛村+萩野村 ・栗駒町(同上) ←岩ヶ崎町+栗駒村+尾松村+鳥矢崎村+文字村+姫松村(片子沢、宝来) ・一迫町(同上) ←一迫町+金田村+長崎村+姫松村(王沢)そして、平成17年に栗原市。現在の住所表記については下記記事を参照。■関連する過去の記事(市町村合併後の大字小字の表記) さらば富谷町...そして「字」も(2016年10月9日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)3 (参考)大崎における「大崎」の場合 大崎市古川に大崎の地名があるが、名生館と大崎氏の歴史を踏まえて明治に大崎の村名を採用し、変遷を経て(東大崎村、西大崎村など)、いまでは合併新市も名称も同じで大変に複雑な構造になった。 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。)(過去記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) を参照下さい。)■関連する過去の記事(栗原の名の由来、古代の蝦夷の歴史など) 照明寺と伊治城跡(栗原市)(2024年08月25日) アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)■関連する過去の記事(荒瀬橋) 国道4号荒瀬橋の事故(09年1月14日)■関連する過去の記事(大崎市内の大崎地区について) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.08.27
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暑さ厳しい夏の日だったが、栗原市築館の照明寺と伊治城跡を訪れた。まずは、照明(しょうみょう)寺。道路沿いに白い説明板。------------伊治城跡と出土品 伊治城は、古代律令国家が、陸奥国の経営のために設置した城柵の一つである。『続日本紀』により、設置年が神護景雲元年(767)で あることが明らかな数少ない城柵の一つで、その所在地については、江戸時代の中頃から近年に至るまで多くの論考が行われ、その中で築館城生野地区が有力な擬定地であった。 昭和52年から54年まで宮城県多賀城跡調査研究所が、昭和62年からは築館町教育委員会(現 栗原市教育委員会)が、発掘調査を行った。これらの調査の成果により、築館城生野地区が伊治城跡であることが確定され、平成15年8月に政庁と内郭の区域が国指定史跡に指定された。 伊治城跡は、外郭・内郭・政庁の区域を土塁と大溝、築地塀で区画する三重構造であり、外郭は東西700メートル、南北900メートルで不正五角形を呈している。外郭は主に竪穴建物跡が検出される。 内郭は外郭の南東寄りにあり、築地塀で区画される。東西185メートル、南北245メートルで長方形を呈している。掘立柱建物が整然と配され、実務官衙域を構成している。 政庁は内郭の中央部にあり、築地塀で区画される。東西61メー トル、南北61メートルで方形を呈している。内部は北寄りに位置する正殿を中心に西脇殿や前殿、後殿が配され、三時期の変遷が確認されている。二時期目の建物は焼失しており、宝亀11年(780)に起きた、「伊治公呰麻呂の乱」によるものと推定されている。 照明寺の住職であった松森明心師が、大正時代から収集した瓦や土器、石器などの遺物は、「松森コレクション」として研究者により紹介され、伊治城跡が築館城生野地区にあったことがほぼ定説となった。 これらの遺物は、「伊治城跡出土遺物」として、築館町有形文化財 (現栗原市有形文化財)に指定され、栗原市築館出土文化財管理セン ターで保管されている。 また、外郭南東部の竪穴建物跡からは、発射台と発射装置を持った弓の一種である『弩』の発射装置である「機」が出土した。我が国で初めての発見であり、律令軍制や古代兵器の実態を解明する上で大変貴重であることから、宮城県有形文化財に指定された。 令和六年六月 栗原市教育委員会------------次は、伊治城跡だ。国道4号からちょっとだけ入った場所。------------伊治城跡 奈良時代後半の宮城県北部は、中央政府が積極的に進めていた征夷政策(蝦夷を治める政策)に対し蝦夷の抵抗が高まり非常に不安定な地域であった。伊治城は、このような情勢の中で、栗原郡を中心とした宮城県北部における征夷政策の拠点にするため神護景雲元年(767)に設置されたものである。続日本紀や日本後紀には、延暦15年(796)までの伊治城に係わる記事が見られ、なかでも「伊治公呰麻呂の乱」は当時の政府を震憾させる事件として著名である。これは、この地域の大領であった伊治公呰麻呂が宝亀11年(780)に按察使紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯を伊治城で殺害し、さらに多賀城を攻撃し放火するというもので、このことはそれ以後の律令政府と蝦夷の長期にわたる戦争の発端となった。 伊治城跡の発掘調査は昭和52年度から断続的に行われ、城生野大堀の台地北端では外郭北辺の区画施設である大溝と土塁が、唐崎・地蔵堂地区では伊治城の中枢である「政庁」や官衙ブロック(役所の実務を行なう場所)が検出されている。政庁は、東西約55m、南北約60mの広がりをもち、築地塀に囲まれた内部には、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物が配されている。また、調査では呰麻呂の乱によると考えられる火災の跡も確認されている。 栗原市教育委員会------------なお、最後の「栗原市」はシール貼付なので、この説明看板は築館町時代(平成17年まで)の設置なのだろう。■関連する過去の記事 アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2024.08.25
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何度も通っていたはずの平田橋を、足を止めてじっくり眺めたのは初めてのこと。松原街道が梅田川を渡るところが、平田橋。平田五郎が狐に出会ったのは、神谷川ともいわれるが、或いはこの辺りだったか...こんな標識が欄干に取り付けられている。道知るべ石から平田橋を渡る手前(原町三丁目側)にあった。松原町内会の名前がイキですね。橋を渡ってすぐにあった看板。三丁目も五丁目も、単位町内会は同じ原町松原町なのだろうか。■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・今回 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.24
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■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・今回 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)近日中に公開しますコンビニの壁面の案内図を拡大してみました。■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.23
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いつか訪れたいと思っていましたが、念願かない、過日行ってみました。小学校のすぐ脇、昔は小高い場所で背後は清水沼が広がっていたのか、などど想像しながら拝観しました。延慶の碑から平田五郎の伝承をたどってきたのですが、平田氏とともに志田郡堤根から遷宮した神社ということもわかりました。この記事の最後に説明の内容(テキスト)を掲げています。■今回探訪のシリーズ記事・今回 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)近日中に公開します■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)------------平田神社御由来当神社は今より四百年前、後陽成天皇の御代、 即ち慶長八年十月十四日に、藩祖伊達政宗公居城を岩出山より仙台に移すに当たり、仙台藩士平田五郎政高氏共に随い来たり、平田氏の先住地なる志田郡堤根村(現在の古川市堤根) より当時の苦竹村の現在地に遷宮せりとある。御祭神は豊受姫神にして五穀を御授け下されし神、即ち伊勢外宮に祭祀する豊受大神の御分霊にて五穀豊穣の守護神なり。 村民は信仰厚く、正保年間の頃より苦竹村の産土神として崇敬又厚く、遷宮者平田氏の姓を とり平田明神と稱されしも、明治四年国家の崇祀として公認され平田神社と改稱、現在に至る。 又、伝えらるる所によれば、平田五郎政高氏は神霊の御加護の下、不思議の神力を得て度々の合戦に抜群の功あり、勇名天下に轟いたという。 伊達政宗公当苦竹村通過の折は、必ず下馬の上参拝せしと記録されている。境内に秋葉山神社あり、御祭神は火産霊神に して、石碑に明治十一年寅年七月吉日刻とあり。平田神社祭儀 例大祭 四月第三日曜日 種籾祈願祭 二月二三日 新穀感謝祭 十一月二十三日神社境内総坪数 弐百五拾四坪拾弐合石碑 古峯神社・明治二十二年三月十三日 湯殿山・天保四年 慈眼山元亮撰書 原町中建立 蔵王山・弘化四丁末年四月八日 觀世音・嘉永二年三月八日 山神・嘉永三年三月十二日平成十五年一月吉日 平田神社総代会 遷宮四百年記念謹書------------
2024.08.22
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かなり前に、学校給食と「いただきます」の関係について論じたことがある。■関連する過去の記事 「いただきます」について(その2)(合掌と教育)(05年11月24日) 「いただきます」について(05年11月24日)ところで、どうして「いただきます」と言うのか。下記文献にはこう書いていた。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(樽井由紀執筆部分。なお文中の=フリガナはおだずま付記)------------ものを受け取る場面や食事をはじめる際、わたしたちは「いただきます」と言う。この言葉は、頭部(人体の頂=いただき)より上で行われる動作と関わりがある。神聖な存在や目上の人から物を受け取る際、頭を垂れ、両手を差し出す姿が「おしいただく」である。------------奈良県では大晦日の夕方に、餅を頭上に「いただく」しぐさをしながら松明を回すフクマルコッコ(福丸よ来い)の行事がある。また、香川県高松市や徳島県由岐(現美波町)では、鮮魚を頭上で運搬する女性の行商人を「いただきさん」と呼ぶという。頭上運搬の多くは海村で見られ、物を頭に載せた行商人を、瀬戸内海では広くカベリ、徳島でイタダキ、伊予の松前でオタタと呼ぶ。山村では、京都の大原女が有名。同書に掲載された全国マップ(頭上運搬の分布)では、、東北で唯一、石巻市内(渡波あたりか)にドットが表示されている(なお新潟県で2か所。新潟市と上越市あたり)。出所は『民俗学辞典』東京堂出版、1951年、とある。そこで、先日になってやっと某公共施設でこの書籍の現物にあたってみることができた。■柳田國男監修 民俗學辭典 財團法人民俗學研究所編 東京堂出版(なお、奥付には、「民俗学辞典 民俗学研究所編 東京堂出版」とある。昭和26年初版、昭和50年四八版、と表記されている。書籍はどなたかの寄附のようだった)すると、冒頭の写真集の中の1つのページに「第九図 頭上運搬」として、3枚の写真がある。沖縄本島糸満、奄美大島住用村、伊豆式根島だ。また、とじ込み式(袖折り)の地図に「頭上運搬の分布」として全国35カ所が示されている。東北では1 宮城縣牡鹿郡江島だけである。朱色のドットはちゃんと海中(小さな離島なので)に示されている。私が最近読んだ上掲書の方は、ドットが誤りだ。なお、新潟の2か所は次の通り説明されている。4 新潟縣三島郡出雲崎町5 新潟縣直江津市関係する記事(p29、p66、p305)を読んでみたが、今日伝承されているところの大部分は海村で女性がおこなうもの、などと説明されている。上掲書のとおりだ。■関連する過去の記事(江島) 足島の海鳥に危機(2017年1月9日) 江島列島 足島と笠貝島(2016年6月14日) 離島と水道(2016年3月17日) 善知鳥と女川江島(2015年3月13日) 宮城の離島を考える(10年5月13日) マリンパル女川(10年5月6日)■関連する過去の記事(新潟県出雲崎町) 東の妻入りと西の平入り(2022年5月14日)(新潟県出雲崎町)
2024.08.21
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東京駅丸の内南口そば、KITTEの2階3階に、インターメディアテク(東京大学総合研究博物館)があり、1922年アインシュタインが来日した際に乗ったと伝えられるエレベーターが展示されている。以前訪れたときは、同じ場所で存在感を放って展示されていたはずが、今回いってみるとフロアの周囲は企画展示(海の人類史)に占拠され、その片隅に佇んでいるようだった。説明書きには仙台の記載はない。■関連する過去の記事(アインシュタインと仙台・松島) 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日) 松島の世界遺産断念を考える(10年2月18日) アインシュタインと仙台(その7)(07年5月27日) アインシュタインと仙台(その6)(06年8月31日) アインシュタインと仙台(その5)(06年1月15日) アインシュタインと仙台(その4)(06年1月4日) アインシュタインと仙台(その3)(05年12月18日) アインシュタインと仙台(その2)(05年12月17日) アインシュタインと仙台(05年12月14日)
2024.08.20
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奥州市の田んぼアートの大谷翔平を見てきました。物見やぐら(巣伏の戦い跡)に登って眺めます。やぐらの中には、新聞記事の紹介など。ニュースで気になっていた「ホ」の解説も。跡呂井田んぼアート実行委員会の方々の努力に頭が下がります。やぐらの足もとから水沢市街地方向を眺めます。やぐらに登る階段の手前に碑文。次のように書かれています(振り仮名を適宜カッコ表示。また、漢数字をアラビア数字に変更)。------------蝦夷(えみし)の群像「胆沢」は、『続日本紀』宝亀7(776)年「陸奥軍3千人を発し、胆沢の賊を伐(う)つ」と初めて登場する。その後、延暦21(802)年に胆沢城がつくられる平安時代初期にかけ古代東北史の歴史舞台となった。 この胆沢の歴史は、国家支配の拡大という歴史の流れにのみこまれていく蝦夷社会をうつしだす歴史でもあった。 宮城県栗原の蝦夷出身の郡司・伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱(宝亀11年)で伊治城(これはるじょう)と陸奥国府多賀城が焼き落され、9年後の延暦8年には、紀古佐美(きのこさみ)の率いる朝廷軍をアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)が「日上(ひかみ)の湊(みなと)」に敗る「巣伏(すぶせ)の戦い」がおこっている。 そして、延暦13年と20年の2度にわたる坂上田村麻呂とアテルイの「胆沢の戦い」の後、胆沢地方は古代国家の支配に組込まれた。 この延暦21年、アテルイをはじめ多くのエミシたちは、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、アテルイとモレは、河内国椙山(すぎやま)(大阪市枚方市)で処刑された。 胆沢の未来を願ったアテルイとモレ。彼ら「蝦夷の群像」を千年の歴史のなかで見つめ続けてきた北上川とともに、彼らが願った胆沢の未来を、私たちは築いていかなければならない。胆沢の合戦(レリーフ)原画・中一弥(河北新報社 提供)------------■関連する過去の記事 大谷選手ゆかりの学校たち(奥州市)(2024年01月01日)■関連する過去の記事(アテルイ、東北のエミシなど) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日)
2024.08.18
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利府街道(県道8号仙台松島線)を岩切から利府町に入って間もない辺りにある碑の説明板が、いつの間にか、新しくなっていました(以前の説明板の画像は末尾掲出の過去記事に)。過去に記事を書いた頃は、神谷沢の浜街道で神谷川に架かる土橋と三原良吉氏著作にあることから(末尾掲出の過去記事参照)、平田橋は神谷沢のこの碑の辺りだろうと思っていました。私が図書館で町史などを調べると、伝説の紹介はあっても橋の記載はなかったのでした(2015年3月現地探索?した過去記事あり)。しかし最近、利府町のボランティアサークルの方々(りふdeおは梨)が作った絵本『平田五郎』を手にしました。町のことを知り、足で調べて、子どもたちに読み聞かせる素晴らしい取組に敬服しますが、仙台市宮城野区原町の平田神社が関係するということです。たしかに、原町の松原街道(国道45号から利府街道ガス局交差点方面に出る旧道。坂下交差点を経由しない近道ルート)で梅田川を渡るのが、平田橋です。さて、新しい説明板の内容を、以下にテキスト文で示します(振り仮名は適宜当ジャーナルで括弧書き追記)。------------延慶の碑(えんきょうのひ)- Enkyou's monument -鎌倉時代、延慶3年(1310年)に建てられた石陣で、板碑(いたび)と呼ばれるものです。高さ約1.4m、幅約1.25mの砂岩の巨石に「大日如来」を意味する「ア」という梵字(古代インドのサンスクリット語)が彫られています。その下には「延慶三年二月二七日敬白」と刻まれています。板碑は、鎌倉時代に北関東地方に始まり、室町時代にかけて県内でも盛んに建てられました。梵字によって自分が信じる仏様を現し、それを敬うことにより、親や先祖のあの世での往生を願いました。この碑には、平田五郎という人にまつわる伝説があり、昔から「力試石(ちからだめしいし)」とも呼ばれています。The stone monument was built in the 3rd year of Enkyo (1310) during the Kamakura period, and is called an "Itabi".The Sanskrit character "A" (ancient Indian Sanskrit word), which means "Vairocana", is carved on a giant sandstone with a height of about 1.4m and a width of about 1.25m. There are words "February 27th, the 3rd year of Enkyo (1310)", "Sincerely" engraved in the lower part of it."Itabi" began in the Northern Kanto region during the Kamakura period, and was also actively buift throughout the prefecture until the Muromachi period.The Sanskrit characters represent the Buddha they believe in, and by respecting them, they wished their parents and ancestors to remain peacefully after their death.There is a legend about a man named Goro Hirata who use this monument to test his strength by lift it up, and that is the reason it has long been called the "Chikara Dameshi Ishi" (strength test stone).「延慶の碑」にまつわる力試し伝説江戸時代の初め、平田五郎という男がいました。五郎は伊達政宗に仕え二百石を拝領し、利府本郷(利府、館、大町の辺り)に住んでいました。ある日仕事から帰る途中、神谷沢にある神谷川の土橋で、きつねが落としていった玉を拾いました。その夜、五郎の前にきつねがあらわれ、「あの玉がないと仲間のところに戻れません。玉を返していただければ、そのかわりに怪力を身につけて差し上げます。」と懇願されました。五郎はきつねが可哀そうになり、玉を返してあげました。翌日、五郎は試しにこの延慶の碑を持ち上げると、まるでわら束を持ち上げるかのように軽々と持ち上げることができました。そのことがあってから、人々はこの碑を「力試石」と呼ぶようになりました。令和5年8月 利府町教育委員会------------■関連する過去の記事 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)
2024.08.17
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戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・続編予定中1 町村合併 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)2 米川新聞 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。 3 沼倉たまきの生涯(1896-1990) 米川新聞の編集発行人であった。 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。5 キリスト教に関する記事 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。------------ 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。------------ 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。------------ 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事------------ 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。------------ (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという------------(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。------------ 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。------------ この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。------------ 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。------------ この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。------------ 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。------------ 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。6 カトリック布教からみた米川新聞の評価 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。------------〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」------------ 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ) 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。■関連する過去の記事(登米市関係) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.16
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盆の供え物に、キュウリで馬を、ナスで牛を模して造られる「精霊馬」がある。祖先が現世には馬で早く帰来し、来世には牛でゆっくり戻るようにとの思いが込められたとされる。近年、従来の素朴な牛馬ではない工夫がされて、ネットで公開されている。キュウリやナスをカットし組み合わせて、車やバイクや飛行機にするなど。祖先の乗り物という意識は保持されつつ、ネット画像を見て、自分の考えや思いを反映したアートをさらに画像にアップするという、お盆を巡る現代の民俗のあり方と言えよう。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(堀田奈穂執筆部分)同書によると、山形県遊佐町では、精霊馬の代わりに、家の軒先に自動車などの模型を吊るす風習がある。キュウリなどの野菜ではなく、模型なのだ。故人が好きだった車種にしたり、先祖の人数が多いとバス、さらには飛行機にする家庭もある。野菜でアート化するケースと同様に、故人への思いと供養の気持ちが反映されている。ところで冒頭の画像のキュウリとナスは、お盆に実家でもらった野菜です。盆が開ければ、秋が来る、はずの東北もまだまだ暑い日が続くよう。
2024.08.15
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仙台・宮城では、県北をケンポク、南北をナンポクと呼ぶ人が多い。宮城固有の地域名である仙北(宮城県の仙台市以北の主に内陸部)も、センポクの読みが主流だ。以前から書いている話題だが、いつも通って見慣れている看板を、「証拠」とばかりに撮りましたよ。当ジャーナルの研究課題(?)の一つですが、今回は写真だけで失礼します。■関連する過去の記事 なすびも。やはり「けんぽく」だ(2016年6月17日) 地下鉄東西線乗りました(2015年12月6日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月26日)
2024.08.14
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ある本を読んでいたら、こんなことが書かれている。------------現在の視点から見れば、「写真を撮る」とは文字通り自ら撮影することを指す。しかし、〔中略〕幕末から明治初年においては「撮影される、あるいは肖像写真を依頼する」ことを指した。写真を制作する行為は、一般からかけ離れた専門的なものだったのである。------------保阪正康ほか『世界から見た20世紀の日本』山川出版社、2016年(三井圭司執筆部分、写真史概説:明治から大正の写真を支えた技術)何年か前だが、新型コロナのワクチンを「打つ」という表現に最初は戸惑った。打つのは医療関係者であり、一般人は「自分の腕に打ってもらう」はずなのだ。覚せい剤常用者じゃあるまいし。とはいえ、「皆さん打ってもらってください」「俺はもう打ってもらった」「勧奨されても打ってもらいたくない」などの語法は面倒でもあり、「打ってください」「もう打ったよ」「打ちたくない」と、自動詞的な言い方が定着した。明治の写真の場合は、誰でもカメラで手軽に撮影できる現代と違い、被写体側はまさに撮影してもらうのであり、撮影するのは装置と知識を備えた写真師に限られた。それでも被写体側を主語にして「撮る」という言い方だったという。他人に注射されるワクチンなのに自分を主語に「打つ」というのと、似ている。予防接種法をみよう。予防接種とは、ワクチンを人体に注射又は接種することと定義される(第2条)。そして、例えば定期接種であれば、市町村長が予防接種を行わなければならない(第5条)。他方で、打たれる側の一般人についての表現をみると、例えば定期接種の一部について「対象者は、これらの予防接種を受けるよう努めなければならない」とされる(努力義務、第9条)。さらにややこしいが、対象者が16歳未満などの場合は「保護者は、その者に〔中略〕予防接種を受けさせるため必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とされ(第9条)、いずれにしても、予防接種を実施するのは市町村長、一般人は接種を受ける、という構図だ。では、接種の現場に関連する公的な表現はどうか。厚生労働省の手引きでは、被接種者、接種実施医療機関等、などの用語が使われている。あくまで接種するのは医療従事者であり、一般人は接種を受ける側である。ワクチンの準備、回数の確認、予診、注射、経過観察など予防接種を提供する側が主語になるのは当然である。おそらく、「打つ」の用語法は、俗な言い方として始まって定着してきた。新型コロナ以前にも、季節性インフルエンザや子宮頸がんワクチンをめぐっても、(被接種者を主語として)「打つ」「打たない」語法はあったのだろう。言葉の厳密さを気にする度合いは各人の感覚によるが、それでも一般に通用している意味はわきまえた方がいい。写真を撮る、ワクチンを打つ、などの「自動詞か他動詞(受け身・使役)か問題」に関しては、私がたまに気になるのは、次のような言葉だ。・使用者・労働者=被用者 労働する側であり、雇用される側、なので納得できる。・雇用者これはちょっと微妙。本来は雇用する側(雇用主)を意味しそうだが、雇用された人を意味する場合がある。例えば、労働力調査(総務省統計局)では、「就業者」の内訳として、「自営業主・家族従業者」と並んで「雇用者」がある。簡単にいえばサラリーマン(死語か)だろう。また、今では「(非)正規雇用者」の語さえ通じているように思う。用語法の変化の背景には、雇用される側に立って、その主体性を重んじる風潮があるのかもしれない。昔なら労使二元構造を前提に被用者固有の課題を認識し、その地位向上がテーマだったが、今や一緒により良い「雇用」の実現、より良い労働環境の整備、生産性の向上、さらに少子化や人的資源経営にも立ち向かって行きましょう、ということ。やや考えすぎだが。生活保護の「被保護者(世帯)」、児童福祉における「要措置児童」などの他動詞受け身形の言い方も、変わっていくのだろうか。
2024.08.10
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雄藩という語は、解説によると2通りの使われ方があり、ひとつは江戸時代の規模の大きい大名、具体的には加賀、薩摩、仙台など。もうひとつは、藩政改革に成功して幕末に勢力を発揮した薩長土肥などを指していう、と解説にある。当ジャーナル編集長はかねてから、仙台の人が雄藩(東北の雄県)と自称する意識構造を気にしつつ、他地域と異なる仙台の(守旧的・閉鎖的・排外的ともいえそうな)文化特性を多角的に研究してきた(と胸を張るほどのものではありませんが)。雄藩の語に関しては、一般には幕末・維新の歴史を彩る西南などの諸藩をいうと思うが、仙台では大藩伊達藩の誇りを今なお称揚して、或いは維新の「主役」だった薩長への忌避感もあってか、400年前の三大外様大名の存在感を現在に投影して、東北の雄県などと言って見せる。しかしながら経済産業や人材育成の面でどれだけ「威光」に劣らない努力をしてきているのかが実は大事なのだが。■過去の記事 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日)ところで、下記書籍を読んでいた。幕末史の見方が、ちょっと前までの通り一遍の倒幕史観から、実証的研究を経てだいぶ変わっていることが面白かった。「雄藩」の語はたしかに公武合体や攘夷を唱えて動いた諸藩を指して記述のなかにさも自然に登場する。ただし、その路線は一致していたわけではなく、各藩の立場は極めて多様でかつ時点を追って変わっていく。また、列藩同盟の内部の対立なども新たな視点で捉えられそうだ。歴史は奥が深い。すべての歴史とは現代史である、とはクローチェの言だったと思うが(磯田道史が書いていた)、現在にいきる我々がよく学び直そう。■文献 小林和幸編著『明治史研究の最前線』筑摩書房、2020年■関連する過去の記事(仙台・宮城の県民性や歴史認識などに関しては、下記以外もあります。フリーページ記事リストをご覧ください。) 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日) 三柄大名(07年8月17日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)
2024.08.02
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中央最低賃金審議会の小委員会が全国平均50円の引き上げを決めたと、各メディアが報じている。今後、都道府県ごとの審議会で決定されることになる。ところで、都道府県を3つにグループ分けして、都市部から順にAランク、Bランク、Cランクと説明されている。法令上そうなのか調べていないが、この呼称はまさにランク付けのようで如何なものか。賃金の高い東京が労働面で上位ランクだ、と国民に意識づけては地方創生にも反する。考えすぎだろうか。価値観や序列を想起する「ランク」をやめて「グループ」と呼んではどうか。そう思ってネットみたら、読売新聞は「小委員会は例年、47都道府県を経済情勢などに応じて、上位からA(東京など6都府県)、B(京都など28道府県)、C(沖縄など13県)の3グループに分け、目安額を提示している..」と報じていた。
2024.07.25
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7月23日河北新報夕刊の河北抄に、ドラマ『タイム・トラベラー』のことが書かれている。NHK総合TVで放送された少年ドラマシリーズの第一作。1972年だ。理科実験室でラベンダーの香りを嗅ぐやつだ。原作はご存じ筒井康隆の『時をかける少女』。また、少年ドラマシリーズは傑作ぞろいだとして、光瀬龍の『夕ばえ作戦』、眉村卓の『なぞの転校生』の名が登場する。せんだいメディアテークのライブラリーで借りられるという内容の記事だ。それぞれ断片的にだが、覚えている。なぞの転校生は「岩田君..」のセリフだ。夕ばえ作戦では、ずうとるび山田隆夫が「砂塚殿!」と呼ばれたりする。そして、原作の光瀬龍が同郷出身の作家と知った。■関連する過去の記事 奥州藤原氏17万騎消滅の謎(08年4月29日)=光瀬龍の文章
2024.07.24
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今日も猛暑だった。仙台は35.5度で2日連続の猛暑日。夕方のTVニュースで、先週の19日、熊本県人吉市の中学校で体育教師が生徒にプールサイドを素足で5周走らせて、足の裏に水膨れが生じて病院を受診した生徒もいたという。このニュースでは、プールサイドがどれほど熱くなるのか、都内北区の小学校で調べてみたら、気温より10度以上も高い46.1度にもなっていた、と解説が続く。その学校では、プールサイドに散水したり、実際に教員が歩いて確認するなど対策をしているというのだが、その学校の名が、第四岩淵小学校と出ていた。そこで、当ジャーナルがこれまで深く考究してきた(?)懸案課題だ。第何が先か、地名が先か。その違いはなぜ。■関連する過去の記事 長井線の踏切たち(2016年5月4日)=踏切やトンネルの場合 山形県の小学校名を考える(北部、南部など)(2013年7月7日) 第一田名部小学校、第一川内小学校、第一田名部街道踏切(2013年7月5日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日)(方位と地域の語順) むつ市立第三田名部小学校(2011年8月21日)北区立の小学校名を北区公式サイトでみたら、「地名等+序数」の語順となる校名が以下。・王子第一小学校、王子第二小学校、王子第三小学校、王子第五小学校(なお、別に王子小学校がある。)・滝野川第二小学校、滝野川第三小学校、滝野川第四小学校、滝野川第五小学校(なお別に滝野川小学校がある。)序数が地名の前に来るのは、第四岩淵小学校だけのようだ。(なお、別に岩淵小学校がある。第二岩淵小学校、第三岩淵小学校は、統合で校名が消えたようだ。)序数ではなく方角で区別するパターンだが、「西浮間小学校」と「赤羽台西小学校」の2つがあり、順序が相違しているのが興味深い。区立中学校は11あるが、序数つきのものはない。ひょっとしたら東京は序数が先のケースが多いのかもしれない。荒川区には、第二峡田(はけた)小学校(第三、第四、第五、第七、第九も)、第二瑞光小学校(第三も)、第一日暮里小学校(第二、第三、第六も)がある。逆に、尾久第六小学校の例もあるのだが。区立中学校では、南千住第二中学校が序数付きの唯一。中学校は比較的新しく、明治の古くからある小学校に往時の命名法が残ったのだろうか。全部調べたわけではないが、他の区では、江戸川区で、第二葛西小学校(第三、第四、第五、第六、第七も)の例があるが、同区内でも、小松川第二小学校、大杉第二小学校、二之江第二小学校、南葛西第二小学校、篠崎第二小学校、南小岩第二小学校のように(それぞれ第三なども続く場合あり)、序数が地域名の後に来る事例が多い。墨田区は、区立小学校で序数があるものは、第三吾嬬小学校(第四も)、第一寺島小学校(第二、第三も)で、逆に序数が先に立つ校名はない。ただし、区立中学校だと、吾嬬第二中学校の一例だけになる。同じ吾嬬なのに、順序が逆なのだ。品川区には、第一日野小学校(第三、第四も)、第二延山小学校がある。もっとも、逆パターンの大井第一小学校、城南第二小学校もある。
2024.07.23
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7月21日は日本三景の日だそうだ。松島町観光協会のサイトによると、松島町、宮津市、廿日市市で構成する日本三景観光連絡協議会が、2007年7月の総会で決定した。7月21日は、林羅山の三男林春斎(林鵞峰)が「日本国事跡考」(1643年)の中で、松島、天橋立、厳島(宮島)を三処奇観と記し、その後日本三景と呼ばれるようになった。この林春斎の誕生日が1618年7月21日である。過去の記事で林春斎のことや往時の観光地認識などを記した。 日本三景の成立(その1)(2014年8月24日)しかし、記念日があるとは知らなかった。今日がその日だ。偶然だろうか、私も松島にいた。■関連する過去の記事(日本三景松島) 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日) 久々に登る 春の大高森(2015年5月7日) 日本三景の成立(その1)(2014年8月24日) 東宮浜を探訪する(2010年10月12日) 多聞山から偉観松島を眺める(10年10月11日) 双観山から見た松島(10年9月27日) 扇谷山から幽観の松島を望む(10年9月19日) 伊保石公園を散策する(10年6月6日) 番ケ森山に登る(10年3月7日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日)
2024.07.21
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考えたこともない視点に、引き寄せられる。神戸新聞NEXT(電子版)で、記事をみた。(2024年7月17日 <+967 災害と女性>震災死者、女性なぜ多い 阪神・淡路 語られぬ性差)概要はこうだ。阪神・淡路大震災で女性が千人多く亡くなっている。震災の死者6434人のうち兵庫県内は6402人。(性別不明9人を除き)男性2713人に対して女性3680人で、967人も多い。神戸の女性団体が2005年、震災10年を機にまとめた冊子には、このことが指摘されている。震災から来年で30年になるが男女の死者数の差は広く議論されてこなかった。神戸市内6区の死亡率は、千人当たり女性5.0、男性3.7である。60歳以上では、女性11.3、男性8.8と差が開く。人口差だけでは説明できない。徳島大学西村明儒教授(法医学)は、死因に多い窒息死に男女の体力差は影響しにくいことから、1人暮らしの高齢女性や母子家庭世帯など、弱い家に住まざるを得なかった人たちに被害が集中した結果とも考えられる、という。東日本大震災でも女性が男性を千人ほど上回っている。大阪公立大の宮野道雄客員教授(地域防災)は、災害と性差の研究を続けている。昭和南海地震(1946年)、伊勢湾台風(1959年)とも女性の死亡率が高く、年代別にみると死亡率の差が阪神・淡路の10倍に達する年代も。小さな子を連れて逃げ遅れた母親の役割意識が影響した可能性がある。(記事の要点は以上)「弱い家に住まざるを得ない」、「役割意識」がキーワードか。防災を考えるとは、すなわち経済、地域、文化を考えることだと思い知らされる。
2024.07.18
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雄大なる東北の分水嶺が、宮城と山形の県境近く、国道47号からちょっとだけ入った場所で、険しい山や渓谷の中でもなく、意外なほど行きやすい。そして鉄道駅に隣接しているという驚き。初めて探訪した。堺田駅前の数台分の駐車場に停めると、すぐ分水嶺がある。------------■石碑の記載 日本海 太平洋 Sea of Japan Pacific Ocean 102.6km 116.2km 最上石------------分水嶺(水路)を挟んで上の石碑の反対側には四阿があり、歩いて回って行けるようになっている。そちらから撮ったのが次の一枚。(石碑の背面が写っている)石碑の前に戻り、案内看板を読む。------------■案内板の説明(南側=駅側) 平坦地にある分水嶺(日本海~太平洋) 田園空間博物館 山形県最上町 分水嶺 標高338m 山形県最上郡最上町大字堺田 東北地方の背骨とも言える奥羽山脈は、日本海と太平洋を分ける大分水嶺でもある。降った雨が日本海の水になるか、太平洋の水なるか〔おだずま注:ママ。「になるか」の誤りか〕の境目のことを大分水界というが、それが山脈の尾根にある場合、大分水嶺と呼ぶ。 水にとっては重大な岐路なのだが、それが意外と身近なところに、目立たない形でひっそり存在してたりするというのは何か示唆的でありロマンを感じる。〔左側の図〕 駅前広場にある用水路。北から流れてきた水がつきあたりで西と東に分かれている。 水の分れる様が見える大分水嶺は全国的にも珍しい。 同じ流れも西の水はやがて日本海に、東の水は太平洋に注ぎ込み、大海原でいつの日か出会うのである。〔右側の地図〕 重要文化財 旧有路家住宅 封人の家〔おだずま注:イラストは芭蕉と曾良か〕------------------------■案内板の説明(北側=分水嶺側) 平坦地にある分水嶺(日本海~太平洋) 田園空間博物館 山形県最上町 最上町堺田地区分水嶺から海に至る河川ルート〔丸い部分に地図。この後にここだけの画像を示す。〕 太平洋側 河川名 延長(km) 累計(km) 大谷川支流 1.0 1.0 大谷川 10.3 11.3 江合川 84.8 96.1 旧北上川 20.1 116.2 計 116.2(km) 日本海側 河川名 延長(km) 累計(km) 芦ヶ沢川 1.4 1.4 明神川 5.4 6.8 最上小国川 34.4 41.2 最上川 61.4 102.6 計 102.6(km)〔分水嶺から東西に分かれる河川ルートを模式図にした説明がある〕------------上のうち、丸い部分(河川全体図)を大きくして掲げる。南北が通常とは逆なのは、案内板を見る人の立場に立つためだろう。酒田と石巻という二大港町の強い縁を、あらためて感じる。説明板の前にはモニュメントがある。(画の手前が駐車場)------------■モニュメントの前の石碑 最上ロータリークラブ 創立四十周年記念事業 「分水嶺モニュメント」 東北芸術工科大学 平成二十一年卒業 館 四季菜 氏 作------------さて、駐車場の南側端には、駅舎を背にして看板。------------■駐車場の駅側にある看板 ようこそ「山峡の道」へ 松尾芭蕉ゆかりの地、堺田に訪れた旅人に心から歓迎の挨拶をおくります 『汽車は県境を越えたところにある堺田という高原の小駅につくと、しばらく停車した。がらんとしたホームに降りると、掲示板で、そこは封人(関守)の家が残っている集落だとわかる。』 ー藤沢周平随筆集「山峡の道」よりー ここ分水嶺(奥羽山脈)に位置する県境の駅周辺の散策で、しばし、旅の疲れに心を癒し、新しい旅立ちに、悠々の思いに耽るひと時となりますよう祈ります。 最上町堺田集落------------そして、最後に駅です。■関連する過去の記事 見える分水嶺 堺田峠(2012年6月26日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日) 仙台・宮城と山形を結ぶ街道に思う(05年11月29日)■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 中山平温泉駅(陸羽東線)(2024年07月03日) 一栗中学校跡(大崎市岩出山)(2024年07月02日) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2024.07.06
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はじめて訪れました。歩いてR47から信号を駅前への道に分け入ると、「鳴子の米プロジェクトむすびや」を左にみて(早朝なので閉店)、程なくして駅前に。倉加踏切を渡るのかどうか迷ったが、直進で駅前に出るのでした。駅舎の待合室には、ノートがあり、斉藤ブラザーズにdoomされた、という方の手記がありました。OH!バンデスで見ました、仙庄館や「むすびや」を訪問する回でしたね。■TAXIめしリターンズ(ミヤギテレビ)■関連する過去の記事 角田の双子はプロレスで凱旋(2023年04月16日) 大相撲入門 がんばれ斉藤兄弟!(09年09月04日) a half of twins = a twin ?(09年8月29日)(角田出身の双子が大相撲入入門)ホームで一枚。初夏の早朝のホームは爽快です。655発の新庄発鳴子温泉行きがやってきて、乗りこみます。トンネルをいくつか抜けて、左手には鳴子の中心部(江合川)を見下ろします。702鳴子温泉駅着。鳴子温泉駅前をぶらぶら探訪。下駄をはいた温泉客が歩いていました。駅に戻り、730発新庄行き。来るときと同じ運転士さんでした。面白かったのは、最初のトンネルを抜けて右手に鳴子峡の大橋がみえます、減速しますのでご覧ください、と運転士さんの丁寧なアナウンス。数名の乗客がみな右側に移動。ちょっとだけ乗ったのですが、陸羽東線の味わい深いミニトリップでした。■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 一栗中学校跡(大崎市岩出山)(2024年07月02日) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2024.07.03
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あ・ら・伊達な道の駅(株式会社池月道の駅)は年間273万人の入込客(宮城県観光統計概要、令和4年)で、国道47号を往き交う車はみんな停車するのではないかと思わせる抜群の集客力だ。ところで、施設の奥側の広い駐車場の周囲に、標柱がいくつか建っている。一栗中学校の跡地なのだ。そして、道の駅に隣接して一栗体育館。おそらく校舎は解体したが、比較的新しくまだまだ使える学校体育館を残して地域の施設に転用したのだろう。最後の画像(体育館入口)の上部には、校章らしきものが。開校昭和22年4月1日閉校平成8年3月31日卒業生3778名旧岩出山町域では、岩出山、一栗、真山の3中学校があったが、平成8年に現在の岩出山中学校の1校に統合された。なお、小学校は平成29年度まで5校あった。岩出山(平成30年3月児童数253人)、西大崎(47人)、池月(47人)、上野目(45人)、真山(48人)の5校が144年の歴史を閉じて、平成30年4月に新制岩出山小学校となった。■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2024.07.02
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小牛田駅で改札を出て、駅舎から外に出ようとするところに、「小牛田駅の駅名由来」があった。こう書いてあった。------------ かつてこの地域は小田郡に属し「小さな小田」という意味の「小小田(こおだ)」と呼ばれていました。藩政時代になって、隣村・牛飼村の頭文字を入れて小牛田と読ませるようになったのではないかといわれています。 また、小塩村(現在の田尻町子塩)と牛飼村の間が開発され、そこにできた新しい村に双方の頭文字を採用し、江合川を挟んだ北側を北小牛田、南側を南小牛田と呼んだという説もあります。 慶長6年(1601)に書かれた伊達政宗の黒印状に「こご田」という地名が表記されていることから、室町時代末期、この地方一帯を支配していた大崎氏の時代には、すでに地名として成立していたものと推察されています。 この地名の由来を受けて、明治23年(1890)4月16日、東北本線が当地に開通した時、小牛田駅が開業しました。◆参考資料◆◆「小牛田町史」------------■関連する過去の記事 小牛田の名の由来(2016年1月27日) ゆとり~と小牛田(2015年4月15日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日)
2024.06.23
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東大崎駅に降り立ち、名生館遺跡などを眺めて、畑の中道を歩き、水田の中の県道を進んできたミニトリップは、いよいよ渋川を橋で渡り西古川地区に入る。最初の交差点に公共的施設がある。看板をとりあえず読んでみると、大崎市農村環境改善センター、ふるかわ西部福祉センター、西部デイサービスセンター、西部在宅介護支援センター、西部指定居宅介護支援事業所、西部ホームヘルパーステーション、大崎市社会福祉協議会。町場に入って進むと右手に西古川小学校。既に昨年春閉校したのだが、日本語学校の施設として再活用されるのだそうだ。その先に、踏切。北田街道踏切とある。今回のトリップでは3度、陸羽東線を踏切で渡ることになる。踏切を渡った先を左折して線路沿いに歩くように進むと、児童遊園などを過ぎて、西古川駅の前に出た。仙台鉄道の名残をゆっくり探す時間がなかったのだが、とりあえず説明看板があった。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.22
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名生館遺跡のある民家の集積地区(名生舘、名生北舘)から、西古川駅方面に歩く。南に向かって歩くのだが、さっそく右手(西側)の畑地は昭和の小字。「戦中地名」(下記の過去記事を参照下さい)の一帯に立って気持ちが昂ぶる。(写真1)少し進んで(上の画像の先に見える)辻を過ぎるとその左手(東側)は、畑が広がるが、小字は躍進だ。しばらく進んでいくと、大字は古川斎下となり、民家の集積地に入る。なお、この集落の東側が、(大字は古川大崎)奉公だ。交差点にはマグマという名の店がインパクトある。(写真2)更に進むと陸羽東線をわたる斎下踏切。(写真3)線路を渡って進むと、写真4の止まれの赤い標識で、県道(162号、清水下狼塚線)に合流する。(写真4)その後、しばらく水田のなかを進んだ後、西古川地区に入る。(次回記事へつづく)以下は今回の探訪エリア。上記の写真撮影地点を黄色い丸で示しています。この周辺の小字には、戦中地名が随所に見えて地図好きの心を掻き立てます...■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.19
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館踏切を渡って歩いていくと、分かれ道があり、右に石碑、左には「国指定遺跡 名生館官衙遺跡」と書かれた黄色い誘導サインがある。まず、石碑から。古川市道館線の改修の記念碑だ。以下に記すが、苔むして読めない部分があり、私の転記(下記)も間違っている可能性がある。------------記念碑古川市道館線改修記念誌当名生舘線は東は国道石巻酒田線に連なり西は旧国道羽後■道に通じる往時よりの要路であったがその規■極めて狭■且つ紆余曲折甚しく道路としての機能を充分発揮し得ず(略)地方の住民は世の文化に浴すること少なくその進展を阻害(略)こと著しいものがあった茲に故福田卯平氏より道路改修の勧議があり部落民一同之を■とし昭和三十一年三月市当局へ請願の運びとなる市亦之を了とし来地踏査等の結果翌三十二年三月遂に失対事業として之を採択するに至る茲に於て部落民その共同■作による収益金弐拾数万円を(略)福田氏の後継者笠原常治氏当の盡力による土地買収を完了し同年七月着工越えて三十三年四月十日待望の竣工を見る今や面目一新せる当道路に立■之が将来に■す経済的■化的恩恵を思う時この事業遂行に絶大な協力援助(略)か■■部落民及び関係者並に後援者各位に対し深甚なる敬意を表する茲に概況を録しその功績を讃え永く後世に伝える昭和三十三年八月選並書 大坂敏雄名生舘部落人名大場虎造 髙城惣三郎 福田丑治 大場はる 舘野忠 笠原直治 笠原忠吉 笠原良助 笠原長右ェ門 笠原勉 笠原伊三郎 笠原吉壽 三浦昭二 門脇縫治 菅原きくの 笠原哲 大坂敏雄 髙橋盛 笠原長造 三浦新三 寺山芳■世話人笠原常治 笠原三郎 三浦義一 渡辺伊興■ 笠原良夫 佐々木文夫区長佐々木永吉岩出山町飯川石店刻------------黄色い誘導サインは次の画像。これに従い官衙遺跡の方に道を進んでいく。民家の間をすり抜けるように出ると、畑地が開けた場所に出る。ここに、官衙遺跡を示す説明板。城内地区なのだそうだ。------------国指定史跡 名生館(みょうだて)官衙遺跡 ー城内地区ー正殿跡発掘状況(西から)政庁推定復元図(南東から)政庁と同時期の竪穴住居跡(小舘地区)から出土した土器 この地域の土器とともに、関東地方や東北北部地域の特徴を持つ土器が認められます。このことから、様々な地域の人々が官衙の造営に関わっていたと考えられます。政庁の正殿に葺かれた瓦(8世紀初頭頃) 名生館官衙遺跡は、7世紀末から9世紀代に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査では、多数の掘立柱建物跡や竪穴住居跡などが発見されています。城内地区では、周囲に板塀をめぐらした東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設がおかれ、瓦葺の正殿や、南北にならぶ2棟の脇殿などが建てられていたことが判明しています。 城内地区の政庁は、正殿に葺かれた瓦の特徴から8世紀初頭頃のものと推定されることから和銅6(713)年にこの地域に成立した丹取(にとり)郡の郡衙(郡役所)の中心施設と考えられます。昭和62年8月17年(ママ) 指定 大崎市教育委員会------------大崎市教委と記されているので、説明板は2006年合併後の設置なのだろう。説明板のある地点から更に道を先に進むと、こんな感じの風景。上の画の奥の樹木の辺りで角を左折(西に)して進んで舗装道路に出たあたりで、西方向を望んだのが次の画像。今度はその辺りから振り返って東を望む。さっきの樹木がみえる。画像の右端に上記の解説看板が小さく見える(城内地区)。道を南に進むと、また集落にもどり、辻のそばに名生城の跡の解説がある。------------名生城(みょうじょう)跡 名生城跡は標高約43mの青木原台地東端部に立地しています。文献史料での初見は14世紀中頃で、その後は4代大崎満持(みつもち)の子の持直(もちなお)が城主であったとされます。また、11代大崎義直(よしなお)が家督を相続する以前は名生城主であったといわれます。12代大崎義隆(よしたか)が本拠の中新田城から名生城に写るのは文献から16世紀後半頃と考えられ、大崎市最後の拠点となります。 大崎合戦の遠因となった際には、大崎市家臣の氏家隆継(たかつぐ)や伊場野惣八郎が名生城を占拠して籠城したといわれます。さらに葛西・大崎一揆では、蒲生氏郷の討伐軍が名生城に立て籠った一揆勢を鎮圧した後、城に数ヶ月間籠城しています。氏郷が出城した後は伊達氏家臣の高城宗綱や宮沢元実などが城番として常駐していましたが、間もなく奥州再仕置により廃城になったものと考えられ、文献にも名生城に関する記事がみられなくなります。 名生城の範囲は東西約400m、南北約850mとなります。北と東が段丘崖で下方に渋井川が貫流し、南が沢を利用した堀で、西は堀や土塁によって遮蔽されます。文献では北館、内館、大館(城内)、軍場(軍評定)、二ノ構、三ノ構が記され、小字名には小館があります。発掘調査や地表に残る堀跡や土塁などから概ね9つの曲輪(くるわ)に分かれるものと推測されます。城内地区では、内部を区画する大堀跡や総柱構造の大型建物跡と3棟の付属建物跡を発見しています。内館地区で炭化した米や麦、雑穀類が出土したことから穀物を入れた倉庫群の存在が予測されます。また、小館地区の南辺で東西方向に延びる高さ約2.5mの土塁跡を調査しています。さらに城への出入り口は、土塁の食い違いが見られる南と西に想定されています。令和元年10月 大崎市教育委員会------------さらに、名生館官衙遺跡を説明する新しめの看板も。------------国指定史跡 名生館官衙遺跡昭和62(1987)年8月17日指定 名生館官衙遺跡は奈良・平安時代に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。発掘調査では、政庁と呼ばれる官衙の中心となる建物が時期によりその形を変えながら建てる場所を移動するなど、官衙全体の改修が行われていることが分かっています。【城内(じょうない)地区の政庁の時期】8世紀初頭頃 政庁の大きさは東西53m、南北61mで、周囲に板塀をめぐらし、瓦葺きの正殿や、南北に2棟の脇殿が建てられています。この時期は、正殿に葺かれた瓦の特徴から8世紀初頭頃のものと推定されることから、和銅6(713)年に成立した丹取郡の郡役所であったと考えられます。【小館(こだて)地区南東部の政庁の時期】8世紀代 政庁は昭和40年代の土取り工事により構造などは不明ですが、工事で大量の瓦が出土したことから、瓦葺きの建物があったと考えられます。この時期は櫓を伴う外郭施設が造られることが特徴で、多賀城などと同様な城柵(蝦夷に対する役所)としての構造となります。出土した瓦の特徴から8世紀代のものと推定されることから、この時期は神亀5(728)年頃に丹取郡を改めて成立した玉造郡の郡役所や、天平9(737)年に多賀城とともに文献に記述される玉造柵(たまつくりのさく)と考えられます。【小館地区南西部の政庁の時期】9世紀代 政庁の大きさは東西57m、南北58mで、周囲に回廊をめぐらし、その中に正殿と2棟の脇殿が「品字型」に建てられています。この時期の遺物に、「玉厨(たまくりや)(玉造郡の厨房ー食堂ーの意味)」と墨で書かれる土器があり、櫓を伴う外郭施設が認められなくなることから、玉造郡の郡役所であったと考えられます。【市指定文化財 伏見廃寺跡】 遺跡の南約1kmには、付属寺院と考えられる伏見廃寺跡があります。①名生館官衙遺跡全体図②城内地区政庁模式図③小館地区南西部政庁模式図④墨書土師器坏「玉造」(東北歴史博物館提供)------------上の画像のうち、地図部分を拡大してみる。この地図でいうと、青い文字の「小館地区南西政庁」とされた地区の踏切から道を進んで、「城内地区説明版(ママ)」の赤い地点に出て、さらに北に進んで、左折(西へ)、また左折(南へ)と長方形を描くように歩いたのだった。画像の撮影地点などは次のとおり。より広域の地図が次の画像。ここには、銃初稔、弥栄、躍進、昭和、交合、信念などの「戦中地名」が見えて(下記の関連過去記事を参照下さい)、地図好きの心が躍る。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.18
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過日のこと、陸羽東線に乗り東大崎駅で降りてみた。無人駅なので運転士さんに下車証明を書いてもらうのだった。東大崎驛開設記念碑がある。画像の奥に左右に伸びる線路がある。宅地が集積するエリア。大きな給水塔の角を曲がって進むと、名生城への道を示す標識。「名生館官衙遺跡 国指定遺跡」はこの道を左折だ。ちょっと進むと、大崎神社。お参りした。名生館遺跡に向かって道を進むと、何とも風情のある踏切が出迎えてくれた。その名も館踏切。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.14
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国道346号は何度も通っているのに、じつは品井沼駅前や元禄潜穴の穴頭などのある幡谷地区の中心部は、今回はじめて訪れた。根廻の旧山線鉄道橋跡(元禄潜穴穴尻)から、ずり出し穴、旧山線の根廻トンネル、大菅踏切を経て、穴頭の位置に品井沼干拓資料館。交番、第五小学校(どんぐりころころの碑)、くぬぎ台団地などをみて回って、集落を抜けて県道大和竹谷線に沿って東北本線を渡り(第二上竹谷踏切)、吉田川沿いに下って二子屋橋で渡河し鹿島台に出たのだった。最初の写真は、根廻児童公園(おまん地蔵)付近の標識。ずり出し穴から町道を北上してすぐの場所。車を寄せて撮ってみた。悲話の伝わるおまん地蔵を、次回はお参りしたい。根廻トンネルや大菅踏切を経て、幡谷の住宅集積地に入る手前に、品井沼開拓資料館。元禄潜穴の穴頭(入口)の直上部の丘にあたる。普段閉まっていて事前に連絡して見学する方式のようだった。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.12
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元禄潜穴のずり出し穴(竪穴)10か所のうち、第6ずり出し穴が町指定文化財として保存されている。東北本線の貨物列車が過ぎていく。画像の左手に、後に紹介する説明版2つが並ぶ。国道346号を根廻交差点北から分岐して、旧山線橋梁跡から東北本線と並走する町道(旧山線跡)が、根廻トンネル、大菅踏切(新線と旧山線の分岐)を経て松島第五小学校や品井沼駅に向かっていくが、この町道沿い東側にある。(下の画像は、後出の現地説明版から地図部分)説明板がある。(なお、地図部分は拡大して上に掲示。想像図は読み出しメモの後に拡大掲示しました。)------------町指定文化財「品井沼潜穴」元禄排水路とずり出し穴 品井沼はかつて東西5.6km、南北3km、面積にして80km2におよぶ大きな沼でした。この水を松島湾に流すために掘られたのが「品井沼潜穴」です。 江戸時代、元禄6年(1693)から5年間にわたって工事が行われました。当時はトンネルをまっすぐに掘るのは難しく、「ずり出し穴」という竪穴をいくつも掘って、その間を繋げる形をとりました。 ずり出し穴をどのように掘ったのかは、くわしく分かっていませんが当時の技術を考えると、下の図のようだったのではないでしょうか。「のみ」と「かなづち」で堀り進めた土を背負って運び、ずり出し穴の下からはクレーンのような「神楽算」(かぐらさん)という道具で引き上げたと考えられます。 機械もない時代の苦労がしのばれます。穴頭(あながしら)など他の遺構もぜひご覧ください。北部平堀(ひらぼり)(品井沼から穴頭まで) 長さ1,754m元禄潜穴 長さ2,578m南部平堀(穴尻から松島湾まで) 長さ3,065m松島町教育委員会お問い合わせ 022-354-5714------------もう一つの看板は、おそらく上記の町教委の説明板より少し新しいと思われるもの。------------③元禄潜穴 -ずりだし穴(現在地)- 元禄潜穴は、品井沼の排水を目的として元禄年間に多くの人々の力で掘られたトンネルです。工事の方法や使われた道具、その費用について記録は残っていませんが、縦穴(ずりだし穴)10箇所、横穴21箇所の工事をおこなった記録があります。品井沼と松島湾の高低差が1メートルくらいしかなく、トンネルの長さが2578メートルあるため、まず縦穴を掘り、縦穴と縦穴の間に横穴(潜穴)を掘る方法が考えられています。元禄年間の工事や後の改修工事では現在のような安全な作業ができなかったので、多くの犠牲者があったようです。(元禄潜穴工事内容)①北部平堀(品井沼から穴頭まで) 長さ1754m、幅27m、深さ2m②潜穴(穴頭から穴尻まで) 長さ2578m、幅3.6m、高さ2.4m(2連)③南部平堀(穴尻から松島湾まで) 長さ3065m、幅18m、深さ2m④縦穴(ずり出し穴) 10箇所設置者 元禄潜穴地区県営地域用水環境整備事業推進委員会/宮城県仙台地方振興事務所/松島町【この看板は、平成18年度地域産業振興事務所(体験観光支援事業)により設置されました。】(水土里ネットのイラストと説明)------------(関連サイト)・地域用水整備事業「元禄潜穴」(宮城県)・江戸時代の偉業「元禄潜穴第6ずり出し穴」(松島観光ナビ)・品井沼干拓の歴史(松島町)■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.11
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国道346号沿い、お馴染み。よく駐車して休息するが、思い立って写真を撮ってみた。(関連サイト)・明治潜穴公園(松島観光協会)・品井沼干拓を後世に伝える「明治潜穴公園」(松島観光ナビ)■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.10
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ふれあい広場から潜穴の出口を見下ろす。高城川の上を走るのは国道346号だ。この画像の中央あたりに小さく明治潜穴復旧記念碑が見える。その先(右手、松島方面)で、川沿いに下りていくように国道の旧道が分岐していく。現在位置は、Bのふれあい広場。歩道から穴尻を眺める。画像の上の方に、ふれあい広場。国道は画像の右方に走る。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.09
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国道346号(佐沼街道)が松島町根廻(仙台北ICの付近)で国道45号から別れて鹿島台、涌谷に向かっていく。この根廻交差点から500m進むと国道左側に狭い道が分岐する。この道に入って250mほど先の左手に小さな広場。その下には高城川が流れる。元禄潜穴の穴尻の場所だ。広場の奥には、穴尻を示す標識(上の画像でも奥に写っている)。穴尻のようすは崖を降りないと観察できないようなので控えた。広場の(道からみて)左手に立派な高い石碑がある(最初の画の中心やや左)。東宮殿下一分間停車記念の碑だ。その内容を紹介したのだろう比較的最近の看板(画像の中央)があるので、読む(一部、数字をアラビアに)。------------東宮殿下一分間停車記念の碑明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の感情が根強く残っていた。 明治41年10月に東宮殿下(後の大正天皇)が、奥州地方を行啓なされるということを知り、鹿島台村長鎌田三之助氏は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方の視察を切望した。 ところが、東宮殿下自らご台覧との報告を受け、鎌田村長はじめ工事続行派は大喜び、明治41年10月13日午後3時40分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召し列車が一分間停車し、ご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に停車することは絶対にあり得ないことであった。 東宮殿下よりのお言葉 「天下の大工事である。中途挫折のことなく竣工せしめよ」 これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。 この石碑は、東宮殿下がご台覧された記念として昭和8年9月、品井沼水害予防組合により建立された。 平成21年11月 農村景観・自然環境保全再生パイロット事業 特定非営利活動法人あぐりねっと21 ねまわりコミュニティ推進委員会写真 行啓品井沼工事(明治41年10月3日)「宮城県の百年」より写真(おだずま注:記念碑の前に立ち並ぶ人たち)「松島町史」より写真(同:穴尻の工事の様子か)松島町幡谷戸石家所蔵------------この広場のある場所から道をさらに進むと、道は東北本線に突き当たって直角に右折(北へ)し、本線をオーバーパスする国道高架橋をくぐって、本線と並走して伸びていく。これは旧東北本線(山線。利府ー品井沼)のルートだ。また、高架橋ができる前は、ここまで来た町道がそのまま踏切で本線を渡ったのだろう。線路の奥にはやはり寸断された町道が見え、この道は明治潜穴ふれあい広場に近い辺りで国道346現道に合流するのだ。思えばここは、藩政時代、明治、そして昭和と、時空を超えて先人が残してくれた壮大なプロジェクトの集結点だ。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.05
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左右に住宅の立ち並ぶ旧線ルートを進み、健康館デイサービスセンター(前回記事)を過ぎて再び田中川を架橋で渡ると、大字初原から大字高城に入る。(写真1)旧線ルートは画像の先に伸びていく。この先道狭し、車幅1.5m以上の車は通り抜けできません、と立て看板がある。(写真2)もう少し進むと、画像右手の県道(利府街道)が迫ってくる。県道の信号のある丁字路のちょっと先で合流する形だ。さらに少し先に、松島第二小学校のための歩道橋がある。その上から撮影すると(写真3)、コンビニの裏手が旧線ルートの名残だろう。(写真3)画像の手前から奥(愛宕駅下トンネル)に向けて、敷地境界が緩やかに左カーブしていく。おそらく、このコンビニ敷地の塀に沿って立ち並ぶ戸建て住宅の列が、旧線の路盤だったろう。(写真4)住宅の列の北側(コンビニと逆側)の道から愛宕駅下トンネル方向を撮影。右手前の住宅(列の最後)の先が更地(駐車場)で、一軒の平屋があり、その先にトンネル。こんなルートで山線が走ったのだろう。(写真5)トンネルをくぐった先には宅地が集積するが、クランクのようにルートが続いていく。おそらく、道の左側の住宅の列が旧線の路盤でないか。愛宕駅東側の住宅の集積地を抜け出て、仙台松島道路(三陸道)の高架下を過ぎるあたりで、クランクをするが(路盤跡が住宅の列と化した区間から路盤自体が道路になった区間に戻るからだろう)、その後は、現在の東北本線と人工河川高城川に挟まれる形で、旧ルートの道は北進する。品井沼駅まで海線と山線が並行して走っていたという名残で、じっさいに歩いていると感激する。愛宕駅下トンネルから約1kmで、旧ルートは現東北本線と一緒に高城川を越河する(写真6)。この小さな橋は、山線時代の橋脚を使っているようだ(写真7)。近くには、元禄潜穴の穴尻と東宮殿下一分間停車の記念碑がある。(写真6)高城川をわたる小さい橋。画の奥にR346跨線橋が見える。(写真7)橋を渡った後に仙台方をふりかえる。画像の奥は仙台方。旧山線の橋脚が残る。東北本線の下り貨物列車が通過する。橋の下は高城川で、この画像の左方向(下流)すぐ近くに、元禄潜穴の穴尻と一分間停車記念の碑。(写真8)この撮影地点は、おそらく国道346号の旧道が東北本線を踏切で渡る地点だったのだろう。北の方角を望むと、現在の国道346号の跨線橋をくぐって、本線と寄り添うように山線ルートが生活道路として品井沼方面に伸びていく。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.03
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初原浄水場を過ぎ、県道9号(大和松島線)を交差してさらに進むと、大字初原の田園地帯を進む生活道路になり、車も通っている。(写真1)画像の右側は県道8号(仙台松島線)沿いの住宅。この画像のほぼ中央、わかりにくいが仙台松島道路の高架があり走るトラックが見える。(写真2)この先で田中川を渡ると、道の両側に住宅が建ち並ぶ地区に入る。進んでいくと住宅の玄関はみな道路側にあるので、1962年の山線廃線の跡に宅地化されたのだろうか、などと思い巡らしながら歩く。しばらく進むと、旧松島駅舎を活用した(現)松島町健康館デイサービスセンターがある。建物の正面と駐車場は県道8号側だが(写真3)、旧線側(写真4)にはかつてのホーム跡が残っている。(写真3)松島町健康館デイサービスセンター(写真4)その建物の裏手は、かつては松島駅ホームの名残り(ほかの方のブログなどから)。じつは、この健康館にお邪魔した。旧駅舎の跡や解説コーナーがないかと思ったのだが、ちょうど朝のデイサービスの集合時間だった。訳を話すと、たまにそういう人が見えるのですよ、時間によっては施設の中を案内できるので改めて連絡ください、とスタッフの方から話をいただいたが、まったく利用者の皆さんの感染予防が一番で、大事な時間に連絡もなく訪問する方が悪い。申し訳なく思ったが、御配慮に従い、体温測定と記帳を済ませ、館内には立ち入らず、入口すぐに掲示されたワープロ打ち2枚の説明書き(写真5)と関係記事が載った河北新報(現物、写真6)を読ませてもらった(感謝)。まず掲示の説明書きは次の通り(おだずま一部着色、また数字をアラビアに。なお、2か所の塩「竃」は原文ママ)。------------松島町の鉄道施設と概略明治16年7月 日本鉄道株式会社設立 東北地方の鉄道が順次開設 20年12月 塩竃線が開設 20~22年 松島村の鉄道施設が着工・完成 23年4月 東北本線 仙台~石越まで開通、松島駅が営業開始 11月 東北本線 仙台~一関間開通 39年9月 鉄道国有法が施行 全国の鉄道が国有鉄道になった 9月10日 根廻鉄橋が高城川開削によって架替工事着工 40年4月14日 根廻鉄橋が完成。工事費1万円(鉄道負担5千円、品井沼水害予防組合5千円負担) 41年10月3日 大正天皇根廻鉄橋上に1分間停車、明治潜穴工事を視察し激励大正13年2月 松島電車株式会社設立。旧松島駅から五大堂間営業(初原~松島海岸)昭和2年4月18日 宮城電気鉄道会社本塩竃~松島間開通。松島海岸公園駅が開業 3年11月23日 仙石線。仙台~石巻間開通 7年7月16日 東北本線 幡谷信号所として開所 12月26日 幡谷信号所が品井沼駅になり営業開始 13年2月 松島電車 初原~松島間の営業停止 19年 宮城電気鉄道が国有化され松島海岸駅に改称(仙石線) 東北本線(海線)が輸送力増強で複線化工事施工。(敗戦で工事中止) 28年9月 東北本線の複線化工事再開〔2枚目〕 29年 品井沼~小牛田間の吉田川・鳴瀬川橋梁工事開始 11月 東北本線 岩切駅から分岐し陸前山王~品井沼駅間開通(海線) 32年10月22日 東北本線 品井沼~鹿島台間の複線開通 37年 東北本線に愛宕駅新設、山線が廃止。山線の旧松島駅と町内の鉄道敷地が松島町に譲渡され町の基幹道路として整備された。 38年4月 旧松島駅舎に松島町国民健康保険診療所を開設 8月10日 品井沼~一関間の複線化完成 43年8月1日 東北本線の複線化・電化の全通化が青森で挙行 61年8月 阿部医師の逝去で診療所閉院 62年4月 国有鉄道が分割・民営化され現在のJRが発足平成2年6月 初原診療所の廃止(おだずま注:昭和38年4月の診療所開設では「初原」の語はない。) 5年6月10日 旧初原診療所が健康館になった〔1行空け〕平成23年3月11日 東日本大震災発生。鉄道施設も大津波で大被害、交通機関が寸断され東北本線・仙石線も地震直後に全面運休になった。 4月5日 東北本線 仙台~松島間運行再開 4月21日 東北本線 仙台~一関間運行再開 5月28日 仙石線 仙台~高城駅(おだずま注:原文ママ)間運行開始------------そして、河北新報夕刊(2021年9月6日)の現物が配架されている。------------いぎなり仙台まちかどブラ昭和健康館デイサービスセンター(宮城県松島町)東北線の旧駅舎内部を改装三角屋根 人集まる拠点〔写真 上 松島駅舎の面影を残す町健康館デイサービスセンター 下 施設の裏側にある線路跡の道路〕 宮城県松島町の初原地区にある町健康館デイサービスセンターは、JR東北線の旧松島駅舎だ。木造平屋で膨らみのある三角屋根が当時の姿をしのばせる。 かつて東北線の利府ー品井沼間は山側を抜けるルートだった。旧駅舎には商店や映画館、ホテルが立ち並んでいたという。 近くの会社員(おだずま注:氏名略)さん(78)は「列車に乗るのが小さな頃の楽しみだった。記者は急な坂を苦労して上って行った」と振り返る。 海沿いを走る現在のルートは、急勾配を避けて輸送力を増強するため194(昭和19)年に開業。山側ルートは62年、現在の松島駅の誕生を機に廃止された。 旧駅舎は町国民保険診療所などとして使われた後、町が内部を改装し、健康館とした。施設の裏にあった線路の跡地は道路として使われている。 運営管理者の(おだずま注:同上)さん(58)は「センター利用者は70~90代で駅舎を使っていた人も多い。年に何人かの鉄道ファンが写真を撮影しに来る」と話す。駅は廃止後もかつてのように人が集まる拠点となっている。(高橋公彦)メモ JR東北線の山側ルートは1890年に開業した。旧松島駅舎は明治初期ごろに建設されたとされる。松島町健康館デイサービスセンターは新型コロナウイルス感染拡大を受け、施設内部の見学を受け入れていない。松島町初原石清水1の1。------------(写真5)(写真6)松島第二小学校の公式サイトには、地域の自慢として、旧駅舎を活用した健康館の内部の様子が紹介されています(記事)。最後に今回の探訪マップです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.02
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東北本線の旧線(山線、利府-品井沼)の跡を訪ねる編集長の散策。利府町の赤沼信号場跡(松島海岸IC付近)まで記しました。続編として、同IC以北を順次記していきます。なお、タイトルを「利府線」から「東北本線旧線」といたしました。順序はこれまで同様、利府方から松島(品井沼)方に向けて進んでいきます。旧線ルートは松島海岸IC西側にあるが、正確な位置は、高速道やインター進入路で新たに側道となっている部分もあると思われる。(写真1、2、3)(写真1)旧線ルート(付け替えた可能性あり)は県道144号(赤沼松島線、松島海岸に降りる道)を横切って仙台松島道路(三陸道)の西側堤下を進む。(写真2)この先で県道8号(仙台松島線、利府街道)をくぐる。昔は踏切だったのだろうか。細い道だがセンターラインの痕跡があるのは、自転車道として位置付けていたからか。(写真3)道路と水路を一体として通すカルバート橋。珍しいと思う。カルバート橋のちょっと先、路傍左手の川の堰に、なにやら標識が建っている。(写真4)上流端 高城川水系 二級河川 田中川 と書いているようだ。旧線ルートはこの先愛宕まで、この田中川と付き合いながら進んでいくのだ。さて、この先は長い区間にわたり、県道8号(利府街道)の西側を並行して松島町初原へ伸びていく。利府街道を車で走っていてもよくわかるお馴染みの道(写真5、6、7)。(写真5)ハッキリと残る旧道ルート。画像の奥の高架は仙台松島道路。(写真6)ゴルフ場入口の標識は利府街道の車中から認識できるランドマーク。(写真7)旧線ルートの長くて気持ち良い里の小径も、この先で一度途切れる。左(西)から迫ってくる仙台松島道路(三陸道)の堤で消されているのだ。旧線の本来のルートはいったん仙台松島道路(三陸道)で消されるので県道仙台松島線(利府街道)を歩かねばならないが、ほどなくして小径は復活し、細い道となって初原浄水場の西を回るように進む(写真8、9、10、11)。私(編集長)は単に小径を歩いて想像するだけなのだが、詳しい方のブログなどでは、渡河する際の橋台跡や銘板から鉄道橋の跡であることを確認されている。写真11撮影地点付近で田中川を渡る橋もそうだ。(写真8)仙台松島道路(画像の左)が県道仙台松島線(右)に迫った区間が過ぎると旧線ルートと思われる道が復活する。車はブロックされている。(写真9)こんな感じで道が続く。画像の右側奥(北)に浄水場施設。(写真10)この画像だけは振り返って撮影(品井沼方の進行方向に対して右後方。東の方角)。初原浄水場。小高い場所(画像の奥、県道仙台松島線に近い方)には、お馴染みの鉄さびた給水塔。(写真11)浄水場を過ぎると、右手(東)に田中川が流れる。この先で宮城県道9号(大和松島線)と交差する。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.01
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地すべり、宅地被害、活断層などに関する基礎知識の整理。下記文献から。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年■関連する過去の記事 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日)=上掲書に基づく記事1 土砂災害・地すべり、土石流、崖崩れ、のこと・(おだずま記載:土砂災害防止法第2条の定義)「土砂災害」とは、(1)急傾斜地の崩壊(傾斜度30度以上の土地が崩壊する自然現象)(2)土石流(山腹が崩壊して生じた土石等又は渓流の土石等が水と一体となって流下する自然現象)若しくは(3)地滑り(土地の一部が地下水等に起因して滑る自然現象又はこれに伴って移動する自然現象)(→(1)(2)(3)を「急傾斜地の崩壊等」と総称)又は(4)河道閉塞による湛たん水(土石等が河道を閉塞したことによって水がたまる自然現象)を発生原因として国民の生命又は身体に生ずる被害をいう・日本では、崖崩れが多い(地すべり、土石流の合計より多い)2 崖崩れ・崖(急斜面)が浅く崩れる現象。自然斜面のほか人工的に作られた(切土盛土)斜面を含む。・地質との結びつきは、地すべりほど強くない・各県が把握する急傾斜地崩壊危険個所がひとつの指標。約33万カ所(平成15年)・県別は広島県が圧倒的に多く、山口、大分、島根、兵庫と続く・西日本に多いのは、地質(素因)と降雨(誘因)によると考えられる・地質は、中国地方と兵庫には花崗岩がひろく分布。風化して真砂(マサ)となる。家の裏手に砂の崖ができるのが一般的。雨が浸水して容易に崩壊・また、大分県には火山岩・火山噴出物が広く分布し、割れ目や脆い岩石の崖が多い・南九州には、シラス(姶良カルデラ噴出の火砕流堆積物)やボラ(降下した火山灰)。シラスは真砂(マサ)によく似るが、斜面上のボラがシラスの上を滑るタイプの崖崩れ(ボラすべり)も・さらに最近の異常な集中豪雨が多数の崖崩れの主因に3 地すべりと地質・地すべりは、専門家によって微妙に定義が異なるが、日本では、重力によって斜面が比較的ゆっくり塊となって滑る現象(マスムーブメント)とするコンセンサス・特定地域に発生する傾向。地質(岩石の種類や地質構造)と深い関係があることがわかっている・小出博の三分類=(1)第三紀層地すべり 新潟・北陸等 (2)破砕帯地すべり 中央構造線・御荷鉾帯・三波川帯 (3)温泉地すべり 火山地帯・この分類の長所は、山地斜面で粘土が形成されやすい条件を端的に表現していること・一方、地すべりは発生後に傷跡を残す(地すべり地形)4 浅層崩壊と深層崩壊・自然状態の斜面は、土壌直下の地山は強く風化しているため、強度的には土壌と同様に見えることが多い(強風化部と呼ぶ)・大雨や地震で強風化部の下底をすべり面にして崩落することが多く、浅層崩壊とよぶ。通常2m以下。また、「崩壊の免疫性」がある(崩れるべきものが一度落ちると、しばらく発生しない)・深層崩壊は、もともとは2010年頃に国交省と砂防学会が行政的に使いだした用語。以前「山崩れ」「大規模崩壊」「山腹崩壊」「崩壊性地すべり」と呼んでいたもの・現在のコンセンサスは、すべり面が強風化層(ママ。おだずま注:強風化部と同義か)より深く地山を巻き込んだ崩壊の総称・深層崩壊は、素因(地山の弱層、割れ目、地下水が貯まりやすいなど)と誘因(浅層崩壊に比べてより強い豪雨や地震動が必要)による。したがって、浅層崩壊より稀だが、崩壊土砂量が多いので土砂ダムを造ったり土石流が大規模化する・他方で、深層崩壊に至る準備期間で、斜面のたわみ、頂上の尾根筋の凹みなど不安定化のサインとなる微地形(重力性斜面変形)が多数報告される5 土砂災害関連の法律・主に下記4つで、それぞれの時代の災害と人間の関係を反映(1)砂防法(明治30)=はげ山の土砂流出が問題(2)地すべり等防止法(昭和33)=昭和32年集中豪雨で熊本、長崎、新潟の地すべり災害が契機(3)急傾斜地法(昭和44)=郊外ニュータウンの崖崩れ、また、昭和42年集中豪雨で神戸、呉、長崎等で多くの崖崩れ・(1)(2)(3)を土砂三法とよび、公共事業として施設を作るための法律・(4)土砂災害防止法(平成13)=都市計画が事実上失敗したことを受けて、リスク調査と居住規制を含む法律。ハードからソフトへの流れ6 宅地と法律・宅地造成等規制法(昭和57)は、昭和36年集中豪雨で神奈川県、兵庫県の宅地造成地で多発した崖崩れに対処するもの・しかし、(豪雨災害のみならず)1995年兵庫県南部地震以降、地震活発期にはいり、想定していなかった宅地の谷埋め盛土の地すべりが地震で多発した・そこで、2006年(平成18、宅地耐震化元年)、谷埋め盛土地すべり災害の軽減を目的とした規制と対策を柱に、宅造法の改正が行われ、同時に宅地盛土の耐震化推進事業の創設と耐震化対象の減税措置も導入された・しかし、これは、盛土宅地に住む住民の自己責任を公共が半分助けるという基本精神である・では、住民に土地を売った者の責任はどうなるのか。そのため、1999年(平成11)住宅の品質確保等の促進に関する法律(品確法)が制定。瑕疵担保を10年の長期に設定(特例で20年)・だが、地盤の不具合が明らかになるのは相当の年数経過後で、10年なら運がいい方だ7 活断層・地殻には多くの割れ目があり、通常は固着するが、力が加わると固着が取れる(破壊する)。このずれた割れ目が断層で、ずれの向きで正断層、逆断層、(右左)横ずれ断層に分類される・地下深部で地震を発生させたのを震源断層、地表までずれが到達したものを地表地震断層とよぶ・断層のうち、過去数十万年以内に繰り返し活動しているものが活断層・活断層は、一定間隔で繰り返し活動し、原則として同じ向きにずれる・これは、活動のエンジンであるプレート運動の向きや速さが過去数十万年単位ではほとんど変わらないから・ずれの平均的な速さは断層ごとに異なり、断層の活動度の指標とされる・活断層による地表の食い違い(変位)が繰り返され、変位の累積が記録されると、さまざまな断層変位地形となる。これら地形を手掛かりに調査した結果、現在日本では2000以上もの活断層が見つかっている・しかし、変位地形が浸食・堆積作用で不明瞭となる場合もあり、地下に隠れている活断層も沢山あると考えられる8 土石流のしくみ・土石流は、斜面や河床の土砂が水と混合して流動し、谷に沿って流下する現象・巨大な岩や流木を含み、打撃力が大きく深刻な災害を起こす・沢筋の土砂を削るため流れが黒く濁る。そのため「蛇抜け」とも呼ばれる・土砂割合が高く密度が高いことから、慣性力が強く作用し直進性が顕著でなかなか停止しない。「鉄砲水」とも・発生形態から、土石流には3つの原因(1)渓流に堆積している砂礫が大雨で流動化(2)斜面崩壊や地すべりの崩壊土砂が、地下水や表面水により流動化(3)河道閉塞を起こした天然ダムが、水位上昇で決壊し土砂とともに流下・このうち(1)(2)が同時に起こることも。始まりは小規模な浅層崩壊でも、渓床の堆積物を取り込んで推進力と体積を増やし成長する・土石流防止方法の代表は、コンクリート製砂防ダムだが、高コスト。そこで、土石流の底面から水だけを抜き土砂を止める対策工法(底面水抜きスクリーン)も考案されている・しかし最も効果的な対策は、土石流の通り道である扇状地(土石流堆)に住むリスクを理解することだ
2024.05.28
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下記文献を読んで、現代の宅地災害の歴史において、東北の事例が「わが国で初めて」の意味を持つ場合が何度かあると知った。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年同書は、日本の宅地災害や地すべりを、近現代の都市の形成過程と併せて検証していく。特に、丘陵地に形成された谷埋め盛土が、1970年代終わりごろから各地で地震で地すべりを起こすようになったが、危険性の認識とリスク誕生の過程が、従来の崖崩れや地すべり災害と本質的に異なり、人為的に生み出された都市の宅地災害だと論じている。以下に災害史上「初めて」の意義を持つ東北の事例について、読書メモを記す。(なお、小見出しなどは、おだずま再構成)1 1968年十勝沖地震 =剣吉中学校の被害(1)歴史的意義・丘陵の宅地開発は東京23区や阪神間以外でも、1950年代後半から始まり、60年代には尾根を削った土砂で谷を埋める大規模な造成が行われた・当時から地質学者や地形学者は危険性を指摘したが列島開発ブームで省みられなかった・そうした中、十勝沖地震で、谷埋め盛土地すべりで最初の犠牲者が発生。谷埋め盛土の危険性が証明された(2)概要・青森県南部町(旧名河町)剣吉中学校の生徒4名が、避難途中の校舎玄関前通路で、崩落した谷埋め盛土に級友40名とともに巻き込まれた・剣吉中学校の校舎は、背後から続く谷を埋めた盛土を跨ぐように建てられていた(おだずま注:地すべり後の写真では、2本の尾根筋に直交するように校舎が乗っかっている。尾根の間の盛土が崩れて校舎前の校庭や入口の方に流出したようだ)・しかし農業地帯であったためか、後の都市で頻発する宅地盛土災害を結びつけて考える専門家は少なかった2 1978年6月12日宮城県沖地震 =戦後初の都市型地震災害(1)歴史的意義・マグニチュード7.4・M7クラスの地震は明治以降11回もあるが、マグニチュードの割に被害が極めて大きくなった・仙台都市圏が戦後発展したためである・すなわち、日本において、現代化された大都市がまとまった被害を受けた最初の事例として意味を持つ(2)概要・死者28、負傷者11,028、建物損壊179,225棟だが、家屋全壊率は0.3%と低い・大規模火災もなく、都市震災としては中程度以下・その理由は仙台中心部の地盤が比較的良いこと・しかし、特に注目されたのが宅地造成地の斜面崩壊(谷埋め盛土地すべり)とブロック塀倒壊・その後の都市地震災害に出現する定番の被害となる(3)谷埋め盛土・仙台市緑ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷、白石市寿山第四団地など・地質学者や地形学者の懸念が的中したが、不思議なことに当時は、仙台の古い(昭和43年新都市計画法施行以前)盛土に限定した災害として処理された・宅造法(昭37)以前や新都市計画法(昭43、開発許可制度)の後は、被害のあった造成地の割合は減っているが(おだずま注:著者は造成地件数より個々の盛土の面積や数ごとに比較すべきとする)、それでも全体の2割以上ある・盛土地すべりは他の都市では起きにくいとする議論があった。一片の真実としては、仙台の丘陵の基盤をなす第三紀層の砂岩、泥岩が削られて盛土に使われたため、乾湿の繰り返しで砂や泥に分解するスレーキング現象を起こすということはある。また、仙台では動くべき盛土はあらかた動いたから将来は安全、との解説も・しかし、そのような都合の良い理屈(ノーマルシーバイアス)は、1995年阪神・淡路大震災や2011年東日本大震災で崩れた3 2003年三陸南地震、2008年岩手・宮城内陸地震 =築館の地すべり(1)歴史的意義・2003年は気仙沼沖深さ70km震源の深い地震、2008年は栗駒山麓断層運動(逆断層)による震源深さ8kmの浅い地震、と性質は異なる・しかし、特徴は宮城県築館町(現栗原市)で2回とも発生した谷埋め盛土の地すべり・すべり面角度10度と極めて緩い・このため詳しく調査され、谷埋め盛土のメカニズムに重要な情報が得られた。後にローラースライダーモデルと呼ばれる(2)概要・1970年代の農地改良事業で、いく筋かの谷埋め盛土がほぼ平行に形成されていた・斜面造成の目的は、畑地とも宅地転用とも言われているが、実際に造成後も利用されることなく維持管理はされていなかった・盛土材料は、尾根部の鬼首カルデラ起源の軽石流堆積物で、多孔質な軽石を含み比重が軽く、盛土に向かない(有効上載圧を上げにくい、地下水たまりやすい、などで液状化しやすい)・さらに、旧谷底の地盤は特に弱い(N値測定不能=打撃せず自沈する状況)・以上から、盛土底面付近での液状化で、極めて低角度でも滑ったと思われる(3)補足・問題の地区で多くの谷筋が埋められたが、2003年地震で谷埋めA(盛土4m)が崩壊して流動化した土砂が水田に流入した。2008年には谷埋めB(盛土6m)が崩壊(Aは対策済み)した・更に別の斜面谷埋めC(盛土8m)は、崩壊せず。これは、底面付近の地盤は液状化で抵抗が失われるが、盛土の厚さによって側部の抵抗が大きかったためと考えられる4 2011年東北地方太平洋沖地震(おだずま注:フロンティア事例というよりは、過去の教訓が生きなかった事例という位置づけ。そのため簡潔に整理)(1)概要・1978年時点で判明していた事実と本質的に同じ。例えば緑ヶ丘4丁目の地すべりは1978年とほぼ同じ範囲と深さ・しかし他方で、1978年に崩れなかった盛土でも地すべりがあった。例えば折立5丁目は明瞭な移動体を持った典型的な地すべり(後のボーリング調査で盛土に地下水が貯まっていたことがわかったので、対策が可能であったかもしれない)・盛土材料が問題を悪化させたケースも。1978年地震の地すべり盛土を、7から10年後に再調査したところ、(常識では盛土は時間経過で圧密し強度は増すが、逆に)N値が当時と同水準か低下する傾向。これは災害復旧時に盛土材とした泥岩・左岸のブロック(掘削岩塊)のスレーキングが原因と考えられる。この状態で2011年を迎えたのだ(スレーキングは上述2(3)参照。岩石が湿潤と乾燥の繰り返しで分解していく現象。通常は地表で起きるが地下水の上下によって地下でも起こりうる)(2)対策工事の効果と限界・緑ヶ丘地区では、1978年の地すべりが顕著に発生。宮城県によって地すべり対策工事が行われた。谷埋め盛土地すべりに対するものとしては全国初で、兵庫県南部地震までおそらく全国唯一の場所だった・対策工事は、集水井戸による地下水排除と何列もの鋼管杭の抑止効果を組み合わせたもので、地すべり対策としては例外的に入念・しかし、なぜか1丁目と3丁目の地すべり地区のみ行われた・2011年には1丁目の谷埋め盛土は無被害だったが(効果あったか)、3丁目は(1978年のような盛土全体の地すべりは防げたが)杭を起点に浅い滑りがあり、住宅基礎の亀裂や傾きが発生した・4丁目は対策工事が行われないまま(道路と水道のみ補修)、2011年にほぼ同様に再現され激しい被害となった。地下水位も非常に高く(地震直後に自噴したほど)、大きく動いた。地震後1年間緩慢な地すべりが続いた。再建できず集団移転を選択することに■関連する記事 地すべり、宅地災害、土砂災害などの基礎知識(2024年05月28日)
2024.05.28
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前回は赤沼信号場跡について記した。前回の探訪の後に、付近を通った際にまた現場を歩いてみた。田んぼの畔にニョキッとコンクリートの四角いものが、2つほど。用地界標だろう。国鉄を示すエの文字がハッキリわかる。(1枚目は松島方から利府方を望む。画像左手が仙台松島道路、奥が仙台方面。2枚目は拡大。)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.26
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松島第五小学校の入口に、どんぐりころころの碑。青木存義(ながよし)を顕彰する碑です。(学校敷地の外から写真を撮っております。)碑には、どんぐりころころ(青木存義作詞、梁田貞作曲)の歌詞。そして後半に青木存義先生略歴があります。以下の通り(一部漢数字をアラビアに)。------------青木存義先生略歴正三位勲四等文学博士青木存義先生は当町の名門青木存頼殿の三男として明治12年松島町幡谷のこの地に生まれる明治39年東京帝国大学国文学部を卒業し東京音楽学校教授文部省図書編集課長を経て新潟高等学校長拝命昭和10年4月没す享年57歳先生は文部省在職中の大正年間に「どんぐりころころ」「菊の花」「さくら」など文部省唱歌を数多く作られた殊にどんぐりころころは先生がふるさとこの地での幼き日を偲び作詞されたもので広く全国の幼児や児童に親しまれ現在も愛唱されているこのたび松島町及び幡谷上竹谷地区どんぐりころころ碑建設委員会を設けて先生のご功績を顕彰しここに記念碑を建立してその遺徳を後世に伝える昭和62年3月3日撰並書 松島町長武山仁治------------松島町公式サイトに説明があります。
2024.05.25
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前回では(利府方から)旧線ルートをたどって、葉山団地南入口の交差点まで来た。更に松島方(北東)に進む。(写真1)奥が松島方。画の左に県道8号(利府街道)、右手は仙台松島道路(三陸道)。旧線路は現在の砂利道になっているが、三陸道の築堤で微妙にずれているようにも思われる。しばらく行くと、旧ルートの砂利道は明らかに幅が広くなって、県道8号(利府街道)の丁字路から高速道をくぐって浜田に向かう町道と直交する。交差点の先もしばらく幅が広い区間となる。赤沼信号場の跡だろう。(写真2)奥が松島方。撮影に立った地点あたりから松島方に100mほどか、現道が広くなっている。(写真3)少し進んでから、振り返って利府方を望む。旧信号場の中央部に立っていると思われる。(写真4)これは信号場施設の名残か。写真3のトラクタの辺りから利府方を望んでいる。旧線の西側に立っている。(写真5)写真4撮影地点に近い現道の中央には、石が露出。信号場の施設の基礎か。画の奥が三陸道(か左が石巻方面)。このような石が幾つかあった。赤沼信号場跡から更に先に(北東)進むと、砂利道は県道8号(利府街道)の丁字路(名取商店)から来る狭い道と交差し、その先(大一木材)で見えなくなる。仙台松島道路(三陸道)松島海岸ICを造ったためだ。(写真6)この画の先(松島方)で旧線ルートは一度わからなくなっている。ICの退出路や周辺の水路付け替えなどで消えたようだ。今回探訪のマップと撮影地点です。黄色矢印の先端が撮影ポイント(矢印と撮影の方角は関係ありません。撮影方向は文中に説明しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.18
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前回に続く探訪記です。現在の道路は、仙台松島道路(三陸道)の東側から直角に折れて三陸道をくぐって西側に出て、ふたたび北東(松島方)を向いて進んでいく。クランクのような形になっているが、旧線ルートはこのクランクを挟んだ前後の区間では、道路築堤の下に消えたと思われる。(写真1)仙台松島道路(左側、奥が石巻方面)をくぐる手前。(写真2)西側に出て、数十メートルは高速道側道のように続くが(新設道路だろう)、その先は旧線跡で両側が石積みの擁壁になっている。いい感じのルートだ。(写真3)振り返ってみた。鉄道を土砂から守るために、しっかり石垣を作った昔の人たちの思いが伝わってくるようだ。手前が松島方、奥が利府方。画の奥に仙台松島道路の法面が見える。(写真4)石垣に守られた林間のルートから、開けたところに出る。利府街道が見えてくる。旧線跡は県道8号(利府街道)の葉山団地南入口の交差点(コンビニのあるところ)のすぐ傍に出て、さらに利府街道と並走するように伸びていく。(写真5)交差点東側(コンビニと向い合せ)にある染殿神社。往時はこの神社の下、県道との間を山線の機関車が走ったのだろう。(写真6)染殿神社の下から、松島方を望む。画の左は県道8号(利府街道)で、出っ張っているのはバス停。右手から奥にかけて仙台松島道路(三陸道)がみえる。今回の探訪マップと撮影地点(黄色矢印の先端)です。なお、撮影方角は矢印と関係ありません。文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.17
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前回利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)に続き、春日PA脇からさらに松島方に旧線ルートを進む。ルートは直進となり、さらに北に100mも行くと、利府街道から高速道をアンダーバスしてきた小道と交わって先に真っすぐ延びていく。今では、ひっそりとした森の中の交差点だ。(写真1)松島方を望む。少し先で旧ルート活用の現在の道路が左折するようにも見えるが(電柱がある地点)、旧ルートは直進している。かつては、鉄路が電柱の地点で東西方向(画の横方向)の道と交差したと思われる。右手は山林に駆け上がる林道に続くが、辻の傍には水道の弁室がある。(写真2)交差点付近(やや松島方)から左手(ルートの西側)の畑を眺めると、自然養蜂の箱らしきものが見えた。上の山間の辻を過ぎるとルートはきれいに直進(写真3)、その後右にカーブするが(写真4)、左手(西)はすぐ三陸道なので、高速道が旧線ルートを切ったため新たに側道を作っているようにも思われた。現道はしばらく高速道の東を進んでいく。(写真3)松島方を望む。気持ちよくまっすぐ伸びていく。左手にお馴染みになった水道管の標識。(写真4)この先の右カーブの折れ方は鉄道としては唐突に見えるので、旧線は直進したが三陸道で消失し、現在の道路は右に折れて側道として造ったのかも知れない。(写真5)ちょっと進むとまた丁字路に出くわす。探訪者は画の右手奥に側道を進む。(写真6)さらに松島方に向けて、道を進む。左手(西)は仙台松島道路(三陸道)。この現在の道が旧鉄路だったのか、あるいは高速道築堤で消失したか、よくわからないが、写真5の辺りは新造道路だが、この画のあたりは鉄道路盤跡の雰囲気が残っているように感じられる。上記の探訪マップと写真撮影ポイントです。黄色の矢印の先端が撮影ポイントですが、矢印が撮影方向を示すものではありません(撮影方向は文中に説明)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.15
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廃線ルート探訪の続きです。利府中ICのやや北にある隧道から、さらに北に歩を進めます。築堤された路盤のルートはやがて里山に入っていき、竹藪を回るように緩やかに弧を描く。(写真1)しばらく進むと、町道を横切って進む。この町道は、利府街道の春日公民館前交差点(信号)から、山を登って塩竈市の清水沢浄水場や伊保石公園に続く道で、結構車が通るのだが、このクロスポイントにはもちろん信号はない。(写真2)旧線ルートは町道(左が春日、右が塩竈市方面)をクロスして奥に進み右に弧を描く。廃線ルートは緩やかにカーブしながら三陸道(仙台松島道路)の高架下を抜けていく。というより、利府線ルート跡の生活道路の上に高速道が建設された、が正しいだろう。(写真3)旧線は奥(北東)が松島方。高速道は左が石巻方面。仙台松島道路の東側に出ると、旧線ルートは逆に左方向に弧を描き始め、ルート東側に建設された三陸道(上り線)春日PAへ登る取付道路の分岐点を過ぎ、PA施設全体を包み込むように左カーブしながら進む(写真5)。(写真4)春日PAから少し北の地点。このような標識がルート上の随所にあった。県営水道事業が七ケ宿ダムから松島まで運ぶ送水管を、旧利府線ルートを利用して埋設したのだろう。(写真5)北東方向にルートの先を望む。この地点の左手(ルートの西側)はPA施設がある。次は今回記事のマップと撮影ポイントです(赤矢印の先端が撮影した地点。撮影方向は記事本文中に記しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.12
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