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何と、小澤さんと水戸室内管弦楽団のモーツァルト新譜が本日発売されました。W.A.モーツァルト:・交響曲第40番ト短調 K.550・管楽器のための協奏交響曲変ホ長調 K.Anh.9(297B)(レヴィン復元版) 工藤重典(フルート) ラデク・バボラーク(ホルン) 宮本文昭(オーボエ) ダーグ・イェンセン(ファゴット) 水戸室内管弦楽団 小澤征爾(指揮) 録音:2004年7月、水戸芸術館 SACD Hybrid 生誕250年を迎えたモーツァルトイヤーで空前の盛り上がりを呈した06年の日本のクラシック音楽界。その最後に待望のビッグタイトルが登場! 小澤征爾初のオール・モーツァルト・アルバムであり、世界に名だたる水戸室内管弦楽団の共演。 楽曲は、後期6大交響曲から誰もが知る「第40番」、カップリングは3月末でオーボエ活動から引退する宮本文昭、「100年に一人の逸材」ベルリン・フィル首席天才ホルン奏者であるラデク・バボラークという世界トップのソリストたちを冠した、「協奏交響曲」。 という売り口上からも気合が感じられます。しかも気になるのが、「モーツァルト・シリーズ1」というタイトル。なに、「1」があるってことは「2」もあるってこと?確か年末に水戸で行ったコンサートでは第41番「ジュピター」も演奏したはず。てことは、シリーズ2はジュピターが来るのでしょうか。 突然の新譜発売でかなり動揺しております。だってサイトウキネンの録音より早いんですもの。とりあえず期待しましょう!(でもちょっと高いなぁ・・・)どこまで続くシリーズ化。ファンはもち期待。
2007年03月21日
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「舞姫」という題名から何を想像するだろうか。 森鴎外の名作では留学先で出会った舞姫との悲恋であった。それに対し川端のは暗鬱で無力感に満ちた不倫だ。女主人公波子が元バレリイナというだけだ。 この作品で波子はバレエを教えているが、自ら踊らない。踊る描写がないのだ。主人公はバレエ公演を見てはいるが、自ら踊ることによって起こる高揚感とか肉体的快感とかいうものが綺麗に退けられている。川端が踊らないから踊り手の気持ちがわかるはずも無い、と言ってしまえば元も子もない。それを補うのが作家の想像力ではなかったか。どうやらこれはもっと別なところに理由がありそうだ。 物語は波子が夫の出張中に元恋人竹原と会う場面から始まる。彼らに果たして肉体関係があったかどうかはうまくぼかされていてわからない(おそらく無いと思う)。今風に言えば「金持ちの親父と結婚したけどぉ、なんか寂しくてぇ、元彼と会ってるのぉ」。今なら全然平気なちょっとした遊びだが、波子はそれだけで胸がドキドキして倒れそうになったり、夫の顔が見れなかったり、不安に慄いたりする。しまいにゃあ、離婚を決意するに至る。まさに時代なのだろうか。この女主人公には全く感情移入できない。身勝手すぎる。勝手に元彼を呼んでおきながら一人で罪の意識を持ったり。ラストでは離婚の決意に呼応するかのように、家族の離散を暗示するところで終わる。 夫の矢木は美術評論家らしい。波子が竹原と会っているのではと訝るものの、表面上は妻を愛している。ほとんど毎晩妻を求めているらしい。が、竹原が矢木のもとを訪れても、門前払いを食らわす。 この作品ではお互いに感情を持ちつつ、何の衝突も無く(波子は矢木に一歩的に罵られはするが)、未解決のまま、無気力にただ時間が流れていく。 子供たち、娘でやはりバレリイナの品子も留学したい弟高男も、親の不倫劇にそれぞれ不快感を持ちながら、結局何もできないままだ。敗戦を機に全てが虚しくなってしまったのか。 そして登場人物たちが踊らないのも、この虚しさゆえと思われる。 ここには家族の崩壊というテエマがある。夫婦の危機がとても冷ややかな視線で描写されている。そしてそれが現実と化している、現在。恐ろしいことだが、敗戦後の民主主義がもたらす日本の家族の危機を、川端はすでに嗅ぎ取っていたのだろうか。 別にバレリイナでなくてもいいような物語だが、音楽ファンにはちょっとうれしい。 作中、自宅のけいこ場からストラヴィンスキイのバレエ曲「ペトルウシュカ」が鳴るのだ。しかもそれは「ストコウスキイ指揮、ヒラデルヒア・オーケストラの演奏、ビクタアのレコオドであった。」とわざわざ書かれている。(19/Apr,7/Nov/1937録音。現在BMG-BVCC1052としてCDに復刻) 突然ストコフスキーが出てきたのでびっくりした。指揮者の名前が小説に出てくる事自体、珍しい。作曲者のストラビンスキイの名前は出てこなくて。。。 続いて矢木に「ニジンスキイの悲劇」と言わせ、戦争の犠牲者としての波子や品子を暗示させているのだけど。 あと、ベエトオベンのスプリング・ソナタに波子の竹原との思い出を重ねたり、この作品は音楽との関わりが(川端の作品としては)多い。 息子高男の父親への尊敬、愛情の示し方がちょい同性愛っぽくて気持ち悪いけど、幼い頃に両親と死に別れた川端が頭で考えて作った人工的な親子関係なのかなと見ると、かわいそうな気もしてくる。 小澤征爾のペトルーシュカの録音は若い頃(69年)ボストン響を振ったもののみ。ちなみにピアノソロはM・ティルソン・トーマス。
2007年03月18日
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根がバカなせいか、論理的思考とかロジカルシンキングとかって本を見ると、つい買ってしまう。気がつくと本棚には似たような書籍が並んでいる。しかもどれも「積ん読」だ。身についたという実感も当然ない。 昨夜部屋の整理をしていたら、思いがけず古いコピーが出てきた。おそらく15年以上前のものだと思う。某社に数学者の広中平祐氏が講演されたときの筆記録だ。小澤さんがアメリカに初めて行ったときケネディー空港で出迎えてくれたのが広中氏だった。そのあたりの話は以前このブログでも紹介した本「やわらかな心をもつ」にも出てくる。 で読み返してみると、話があっちに飛びこっちに戻りして面白い。そして中程にこんな話をしている。 講演のお題が「人材育成について」なのに話がまとまらなくなってきた先生は、「矛盾してもいい」という考え方を紹介する。 例として、マーク・トゥエインは「天才というのは矛盾に満ち満ちている。石頭だけが一貫している」と言っている。また、エマソン「コンステンシー(一貫性)はスモールマインドが吐き出す毒である」という。グレートマインド=偉大な人とすると、スモールマインド=ケチな精神の人ということだろう。すなわち、「スモールマインドで論理一貫ということばかり考えている人は毒みたいなものだという言い方をしています。だから少々矛盾しているのは、天才とまでいかなくても、スモールマインドよりはちょっと離れていることになるわけで非常にいいわけです。」 なーんだ話が矛盾してるヤツは天才ってこと?なんて思うのは早計。この先、話は人口知能を研究している人の話になる。そのなかのキーワードは「ダイナミック」「新陳代謝」。変化していくことのほうが大事で、少々矛盾しててもいいんだと。「曖昧さ」「柔軟性」も大事だと。そこに論理的な一貫性を求めるのはダイナミックスにおいても柔軟性においても「毒」なのではないか、というわけだ。 なるほど、突拍子もないことを思いつくヤツって論理性ないよなぁと妙に納得した。しかし近頃ではだいぶ考え方にダイナミクスも柔軟性も欠けてきている。このままじゃ中途半端な石頭になりつつあるなぁ。DS買って脳を鍛えるトレーニングでもするか。(苦笑)
2007年03月13日
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川端康成は大学浪人の頃、初めて読んだ。横浜の自宅から高田馬場の予備校までの通学時間の暇つぶしのはずだった。宮沢賢治を一通り読み終え、その次に川端作品(新潮文庫)を全部読んだ(その前に買わないといけなかったけど)。 あの頃は時間があった。体力もあった。浪人のくせに自由だった。午前だけのコースだったので、午後は東京中を歩き回った。中古レコードと古本屋巡りだ。今でも妙な場所を詳しかったりする。 先日からまた川端を読み返している。あの頃読んだのとは随分感じが違う。若く紅顔の青年はまだ幼かった(笑)。読み返して、その面白さに今頃目覚めた気分だ。 「川のある下町の話」は今なら昼メロに載せてもいいくらいではないか。恋愛物で話の展開が速いからだ。医者の卵で美青年の栗田義三と彼を愛する3人の若い女たちの愛の行方を柱に、彼らに絡む人たちを活き活きと描いている。登場人物は皆明るく、悪人が一人もいない。まるでおとぎ話か牧歌のような清らかさだ。そして皆お互いを愛している。まるで自分の孤独を埋め合わせようとするかのように。 これに音楽を付けるとしたら、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」がぴったりかもしれない。いやいや、「ダフクロ」には海賊が出てきてクロエをさらうじゃないいかという人もあろう。が、こいつらも牧神の影を見ただけで慌てて退散してしまう、憎めなさがある。 読者は義三が3人の女性のうち誰を選ぶのか、わくわくしながらも叙情的な筆致に次第に酔っていくだろう。まるでラヴェルの魔術的なオーケストレーションに酔うかのように。 こう紹介するとハッピイエンドの恋愛喜劇を想像すると思う。実は私も筋立てをすっかり忘れていたので、どうなるのか楽しみにしていた。ところが、物語の3/4までの幸福な予感がまるで嘘のような、呆然とする幕切れが最後の最後に待っている。それまでじっと潜んでいた魔物が最後にぬっと現れて、あっという間に登場人物やストオリイの全てをも飲み込んでしまうかのように。 これが川端文学なのだ。そして振り返ってみると、ふさ子という女主人公の異常な眼の力、桃子の天使のような優しさ、民子の男勝りな気丈さがそれぞれに背負っている孤独の影や無力を感じさせる。苦労人の割りに情けなく、優柔不断な主人公の義三もなにか無力感に悩んでいる。そしてそれぞれの孤独や無力が最後の悲劇を呼び込んだとしか思えない。 決して幸福には終わらない愛の行方はひょっとすると川端の「愛への不信」なのかもしれない。そしてこのブラックホールに飲み込まれるような終わり方に、武満徹の「ノヴェンバーステップス」のラストを聞いた気がした。 そう言えば作中、「日本の好もしいかすりの織物をひろげるような」と形容されたヴァイオリン曲があった。義三が桃子に尋ねると「バルトオクよ」と答える。いったい何という曲なのだろうか。ラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」。小澤征爾=ボストン響(75年)の演奏で。繊細さとダイナミックスの織り成す感覚美の世界をご堪能ください。
2007年03月11日
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