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■9月22日(木)-1北海道・東部(以下、道東)を9月22日(木)~10月4日(火)、13日間かけて廻った。北海道は、九州と四国を合わせたよりも広く、今回は、東部(以下、道東)。女満別(めまんべつ)空港という網走に近い空港に関空からの便があるので、それを使用。女満別(めまんべつ)とは、由来はアイヌ語の「メマンペッ」(泉池がある川)の意味。関西空港からの便は、ピーチが乗り入れているので、今回、初めてのピーチを使った。機内持ち込みの荷物は2つで、その重量の合計は7キロまで。スーツケースは、別途料金がかかる。飲み物のサービスがないけれど、2時間くらいなら、これでいいと思う。座席は全部で180席だったが、ほとんど埋まっていた。9月23日(金曜日)が「秋分の日」祝日、3連休だからだろう。女満別空港に無事、着陸。レンタカーを借りた。コンパクトで、信号待ちなどで、長めに止まっていると、エンジンがエンストの如く止まるというエコな車。時代やなあと感心しながら出発した。70代を過ぎて、視力や体力の衰えを感じるが、この先、13日間、頑張れるのだろうか?これは、冒険だと思いながら、網走へと向かっていたら、ザ・北海道な景色があらわれた!■北海道ドライブ旅行■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.10.06
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■6/27(月)この日は、秋田飛行場から大阪に帰る。12時50分発の飛行機だから、「秋田赤レンガ郷土館」を見ることに。旧秋田銀行の本店として明治末期に建てられたもの。赤と白のコントラストが美しいこの建物は、ルネサンス様式を基調とした外観が特徴です。外観はルネッサンス様式、内部はバロックの手法を採り入れており、建物全体が保存、公開されている。外壁の土台は男鹿石の切り石積み、1階が白の磁器タイル張り、2階は赤レンガを小口出しに積み上げて造られています。美しい外観を演出する2階部分の化粧レンガは、はるばる大阪から運ばれてきた高級品。 内側の裏積みレンガは、当時秋田でレンガ積み建築物を一手に引き受けていた楢山愛宕下の「かめ座」で焼かれたものです。3年という長い歳月をかけて丹念に造り上げられたという赤れんが館。明治の職人魂が感じられます。正面入口を入るとそこは旧営業室。52階までの吹き抜けになっていて、忍冬唐草(にんどうからくさ)模様のレリーフ(浮き彫り)が美しい天井には、豪華なシャンデリアがつるされています。漆喰(しっくい)の白い壁に施された数々の装飾は、複雑で華麗なバロック様式を表現。客溜りの床はイギリス製の色タイル、2階への階段は白大理石というこだわりようです。◆旧貴賓室と暖炉(1)◆館内でもっとも贅沢な装飾が施されているこの部屋には、格天井や寄木張の床、けやきの扉には象嵌があしらわれ、柿渋染めのクロスには月桂冠をデザインした模様が手書きされています。▲旧貴賓室▼◆旧頭取室と暖炉(2)◆館内には暖炉が3カ所あり、それぞれ意匠をこらしていますが、この部屋の暖炉は、紅縞石と薄雲石でつくられています真冬の銀行館内を21度に保っていたアメリカ製のラジエーターと暖炉(3)▼▲通路はアーチ型になっていて、優雅な飾りがついている。▼▲腰材には緑色の蛇紋石を使用。秋田の伝統工芸品が展示されているコーナーがあった。♪雨が降っても唐傘などいらぬ、手頃なフキの葉さらりと差し掛けサッサと出て行がえ秋田音頭に歌われるほどフキは秋田の名物。秋田フキは食用にもなるが、蕗刷りという植物性を活かして茎葉の現物を布地に摺り染めにした屏風、衝立(ついたて)、襖(ふすま)などは見事なものである。 蕗刷りは江戸時代後期に藩内外の名士に賛をさせたものが残るというから、古い伝承技術のひとつといえる。レンタカー最後の走りで秋田空港に向かう。それにしても6月だというのに寒い。小雨のため、気温は21度だった。昨年もこうであったか 梅雨寒し はるなプロペラ機に乗って、海外に行きたいなぁ、機内食が食べたいなぁと思っているうちに14:35無事、大阪伊丹空港に着く。16:20無事帰宅した。機内では、ペットボトルの水が出た。「ドライブ・レンタ・カー」1992km、19日間の旅、これにて終了。●6360歩 大阪府・自宅■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2~6/24-2■岩手県:岩手県■6/25■秋田県・仙北市:美しき城下町角館/思い出の潟分校■6/26■秋田県:なまはげの里、男鹿半島■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.21
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■6/26(日)この日は、秋田県の男鹿半島をまわる。小鹿島とも書き、古くからなまはげが有名な所として知られて、なまはげ館が所在する。日本海に突き出た秋田県の男鹿半島。民俗学者の柳田国男は、「男鹿」の地名由来として、「陸(おか)」を挙げた。まるで日本海に浮かぶ「陸」のように見えるからだ。道の駅で「ばばへらアイス」を売っているのを見た。ババヘラは、主に日本の秋田県で露天販売されている氷菓の一種、およびその販売形態。販売員を務める中年以上の女性(ババ)が、金属製の「ヘラ」を用いてコーンへ盛りつけることによる呼び名である。幹線道路そばやイベントの会場近くでしばしば見られる。道路脇に立てられたビーチパラソルを日陰にして腰掛けた販売員が、頬かむりに長袖シャツという姿で、ドラム缶やミルク缶状のステンレス製保冷缶にアイスを収め、それを前に置いて販売している。 夏の秋田の風物詩となっている。「道の駅おが」の入り口のマットには、魚のイラストあるが、これは、ハタハタ。(だろう)♪コラ、秋田名物 八森鰰(はたはた)、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ と「秋田音頭」に歌われているハタハタの子(卵)が「ブリコ」。民謡 秋田音頭にも「男鹿で男鹿ブリコ」と唄われるほど男鹿とは深い関わりをもってきた魚です。 なぜハタハタコではなくブリコ?その昔、はたはたの卵はとても美味しく貴重なものとされ、一般人に捕られるのを嫌がった殿様が「あれはブリの子だ」と偽ったことからブリコとよばれるようになったとか、食べるとブリブリ音がするからとか諸説あるみたいです。ハタハタの語源は、雷の「ゴロゴロ」のような古い擬声語に由来する。秋田県で雷の鳴る11月ごろに獲れるので「カミナリウオ」とも呼ばれる。また、冬の日本海の荒波から「波多波多」とも表記される。秋田弁では「ハダハダ」に近い発音になる。男鹿の水族館は、ハタハタに特化している。入道崎というところに行った。北西端にある入道崎は海食崖の岬で、入道崎の突端に立つ白と黒の二色の「入道崎灯台がある。北緯40度線上の灯台として太平洋側の岩手県普代村にある■陸中黒埼灯台■と対をなす。▼入道崎灯台からの景色▲入道崎灯台からの景色▼「なまはげ館」に行った。国の重要無形民俗文化財にも指定され、男鹿半島の民俗行事としても知られるなまはげの歴史資料などを展示している。 なまはげは、神である。だから、なまはげが来た家は、神としてもてなす。男鹿地方の典型であった曲家民家を再現した伝承館では学習講座としてナマハゲの実演が行われ、家中を暴れまわるナマハゲを間近に見ることができ、その迫力を感じられます。民家は田の字形に部屋があり、観客は、2つの部屋から見ている。亭主が説明をしていよいよ、なまはげが登場。登場には、足踏み〇回など事細かな約束事がある。亭主「なまはげさんのお陰で、米がとれました。 来年もよろしくお願いします。 まずは、食べて、飲んで下さい」的なことを秋田弁で言う。なまはげ「悪い子はいねか。 お前の家の〇〇は、悪いらしいな」と言う。亭主「とんでもございません、いい子でございます」とかばう。私はこれを「なまはげ問答」と名付けた。( ̄ー ̄)次に行ったのが、男鹿半島の付け根にあたる処にある「寒風山」。日本海と男鹿半島を一望できるスポットです。毎日風が強くて、寒風山という名前を実感できます。レンタカーを止めて、展望台に登った。回転展望台は、13分かけてぐるっと一回転し360度の展望が楽しめます。寒風山はほとんどが芝生におおわれ、山頂からは男鹿の街や日本海を見渡せる。草木の手入れや景観を守るための「山焼き」は春の風物詩となっている。秋田名物、きりたんぽを宿で食す。「しったげうめえ」。良い意味でも悪い意味でも「すごい」ときに使う方言。「死ぬほど、死ぬだけ」を語源としているので、「しんたげ」という言い方をする場合もあります。明日は、大阪に帰るという日の宿から見た、秋田市の景色。●5764歩 秋田県・秋田市泊■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2~6/24-2■岩手県:岩手県■6/25■秋田県・仙北市:美しき城下町角館/思い出の潟分校■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.19
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■6/25(土)青森県、岩手県を見て、この日から秋田県:仙北市・角館(かくのだて)に入る。江戸時代初期、元和6年(1620)に芦名氏により大規模な都市計画が実行され、造られた武家屋敷街。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、現在でも青柳家を始めとした武家屋敷がいくつも立ち並んでいる。桜の名所としても有名で、しだれ桜を中心にソメイヨシノとはまた違った桜並木が続いている。▲青柳家:手前の石には、穴があいているが、ここに馬をつないでおく馬繋ぎ石。その奥の四角い石は、馬に乗る時に使った踏み台石。▲貝風呂(青柳家)地元の素焼七輪にほたて貝を乗せ、鍋として塩汁貝焼などの鍋物に用いた。▲石黒家、欄間。▲箱そり:大きいものは馬そり(馬橇、馬ソリ)、小さいものは箱ぞりを利用した。時には、医者に連れて行く病人も運んだようである。▲蔵:腰の部分は、雪で壁が傷まないように、板で囲っている。 屋根の雪の重さに耐えるようにと支えでつっかえている。緑が美しかったが、桜の頃、紅葉の頃・・・。すべてが美しい町。日本一美しい町。小京都というのは、どうなのだろうと思う。小京都ではなく、角館だ。▲どの家も玄関は、ふたつ。正面の屋根がついたのが正式な玄関で、ここが使えるのは、この家の当主と、当主と同格か上の客。それ以外は、左にある玄関を使う。▲この武家屋敷通りの道幅は 六間(10.8m)と広く、この道幅は1620年から変わらず、400年近く経っていることに驚きます。▼■松本家■柴垣で囲まれた屋敷は小さな建物ですが、茅葺き屋根に武家の面影を残しています。この家が武士の家?武士の家の定義は。*門があること。*垣根があること。*屋敷内に祠が祀ってあること。 松本家は、映画「たそがれ清兵衛」撮影場所。▲田町武家屋敷にある蔵をリノベーションしたホテル。武家町を後にして行ったのが、「外町」(とまち)とよばれる町人町。その中で、嘉永6年の創業以来、今も商売をしている安藤醸造 本店。▲ここは、店の商品を作るために必要な水場で大切にしている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆田沢湖で遊覧船に乗ろうとしたが、波が高くて船がでない。そこで行ったのが、「思い出の潟分校」。田沢湖町立生保内小学校潟分校(たざわこちょうりつ おぼないしょうがっこう かたぶんこう)は、秋田県仙北市田沢湖にあった生保内小学校の分校である。「おぼない」というのはアイヌ語で「深い川」を意味する。趣のある木造校舎の見学をすることができる観光施設です。1974年に廃校となった旧田沢湖町立生保内(おぼない)小学校潟分校を修復し、平成16年に一般公開が開始されました。教室で使っていた薪ストーブや分度器廊下、水飲み場、体育館や校庭があり、全て当時のまま残してあるためノスタルジックな雰囲気が漂い、昔の学校生活を思い出させます。校舎も、机も窓枠も、教壇も・・・。すべて木の学校だから100年以上たっても残したいと思うのだ。これがコンクリートだったら、きっとこれだけの愛着はないだろう。●7169歩 秋田県・仙北市泊■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2~6/24-2■岩手県:岩手県■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.14
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■6/24(金)-2毛越寺に続いて、ガイドさんの案内で中尊寺に移動して見て回った。11世紀末、奥州藤原氏初代清衡は、岩手県南部の江刺から平泉へと本拠を移しました。その理由としては、平泉が水陸交通の要衝地であったこと、さまざまな植物が混在する南北自然の交錯点であったことなどが考えられています。さらに、近年判明したことですが、北上川東岸地域に大穀倉地帯が広がっていたことも要因の一つではないかとされています。(▲本堂)平泉に来た清衡は、はじめに塔を建てたとされています。藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。(▲本堂)これが関山中尊寺の始まりです。この塔の建立は、清衡の楽土建設の意思表示であり、また、平泉が東北地方の中心であることを示すものでもありました。事実、清衡の統治範囲は、南は福島県白河関、北は青森県*外が濱*に及ぶものでしたが、白河関が北緯37度、外が濱が41度であるのに対し、中尊寺は北緯39度と、文字通り東北地方の中心に位置していました。北の果の「外が濱」というのは、青森県の緑の部分。下北半島(まさかり形)も含むという説もある。 7月24日放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、2代目「鎌倉殿」が家来に「外が濱に流罪じゃ」と言っていた。中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもの。金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。私は、金色の堂が建っているのかと思って、警備が大変だろうなと思っていた。すると、堂をすっぽりと覆っているではないか!!それを覆堂という。(▲覆堂(おおいどう))建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもの。芭蕉が供の曽良を連れてここに来た。五月雨の降り残してや光堂 芭蕉そしてこう付け加えた。(▲経蔵)かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。 七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。■現代語訳■以前から(その評判を)聞いて驚いていた二堂が開かれていた。経堂には三人(藤原清衡、基衡、秀衡)の像を残していて、光堂には(その)三代の棺を納め、三尊の仏像を安置している。 (光堂をかざっていた)七宝はなくなり、珠宝で飾られた扉は風雨でいたみ、金の柱は霜・雪によって朽ち果て、もう少しで崩れ果てて何もない草むらとなるはずだったところを、(後世の人たちが)四方を新しく囲んで、(屋根)瓦を覆って雨風を防ぐ(ようにしてある)。(新しい壁と屋根が朽ちるまで)しばらくの間昔を思う記念となっているのである。宿で朝食を食べていたら、「こびりの郷」という字が目に入った。「こびり」とは、「こびる」=「小昼」、転じて「おやつ」という意味らしい。●5469歩 岩手県・北上市泊■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■6/22-1■岩手県:盛岡市:中津川エリア:若き日の石川君、賢さんに会う■6/23-1■岩手県・花巻市:賢治誕生の地、「きなきな」、「昭和の小学校」■6/23-2■岩手県・花巻市:高村光太郎と賢治の羅須地人協会■6/24-1■岩手県:平泉、毛越寺(もうつうじ)庭園他■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.13
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■6/24(金)-1この日は、ガイドさんの案内で世界遺産・毛越寺の境内と毛越寺庭園などを見た。 毛越寺・寺伝によれば850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後、大火で焼失して荒廃したが、奥州藤原氏第2代基衡夫妻、および、子の第3代秀衡が壮大な伽藍を再興した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳は『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評された。その浄土庭園は、平安時代末期の遺構として、毛越寺のシンボルとなっており、苑池も橋脚をのこして中島・庭石については旧態をよく示して、平安時代の伽藍形式を示すものとして学術上の価値が高い。こんにち伽藍復原図として知られる図像は、1954年(昭和29年)以来の発掘調査によって検出された考古資料をもとに描かれたものである。 夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉1行目にある「高館」というのが、義経が妻子とともに最期を遂げたといわれている所。(この場所から少し離れた所で毛越寺の飛地境内)▲左の小さい石に芭蕉に句が書いてある。遣水【やりみず】平安時代の寝殿造(しんでんづくり)において、外から引き入れて庭園につくった流れ。寝殿造の庭園では一般に北東から入れ南西に流出させる。平安中期の作庭方法論書『作庭記』では、東より南に迎えて西へ流すのを順流とす、といっている。また、遣水にはかならず板石状の石橋を低く架けるのが普通で、これは庭園の石橋として古い例である。池がつくられないような狭い敷地の場合でも,この遣水だけはつくられた。池の周りに松が植えてあるが、これは藤原氏の建てた建物の礎石の目印に植えた松が大きくなったもの。これはほとんど仙台藩の時代に植えられたもので、樹齢が300年ほどたっているものも多くある。毛越寺のあやめは大泉が池周辺の約30アールのあやめ園に、300種、3万株の花菖蒲が咲き誇り、満開だった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆無量光院跡秀衡は、平治の乱の後にも、敗死した源義朝の子・源義経を庇護下に置いたことがあるが、文治元年(1185年)に義経が源頼朝と対立し、文治三年に再び義経を匿うこととなった。三代秀衡公が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立した寺院跡。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作といわれています。奥州藤原氏の滅亡後、焼失して遺跡のほとんどが水田化、池跡と中島、礎石のみが残っている。三代の栄耀一睡のうちにして、 大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。(「おくのほそ道」より芭蕉)■現代語訳■三代(にわたって栄えた藤原氏)の栄華も一睡の夢のようにして(はかなく消え)、(藤原氏の館の)大門の跡は一里ほどこちらにある。秀衡(の館)の跡は田や野原になっていて、金鶏山だけが(昔の)形を残している。■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■6/22-1■岩手県:盛岡市:中津川エリア:若き日の石川君、賢さんに会う■6/23-1■岩手県・花巻市:賢治誕生の地、「きなきな」、「昭和の小学校」■6/23-2■岩手県・花巻市:高村光太郎と賢治の羅須地人協会■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.12
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■6/23(木)-2岩手県・花巻市にある高村山荘は、彫刻家・詩人である高村光太郎が晩年の7年半を過ごした小屋です。光太郎は、生前ほとんど評価されていなかった賢治の才能に魅了され、手紙などを通じて交流していました。そして賢治が亡くなってからは、「宮沢賢治全集」の編集にも携わりました。こうしたことから宮沢家は、終戦の直前、空襲でアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたのです。昭和20(1945)年~昭和27年迄の7年間というから、62歳~69歳までの7年間ということになる。1952年にこの山荘を離れるまでもっぱら詩作と書に専心し、書のいくつかは同敷地内の高村光太郎記念館に展示されています。山居7年の建物はわずか7.5坪の小屋でしたが、光太郎の没後、敬慕する地元の村人たちにより保存するための套屋が建てられ、後に套屋の外側にさらに鉄骨造りの第2套屋が建てられたことにより現在の形となっています。本当の小屋は、これよりも一回り小さく、この小屋の中にある。光太郎はなぜ、冬には零下20度にまで下がり雪が深いこの地に7年も留まったのか。 それは、光太郎が戦争を賛美する詩を沢山書いたからという自責の念からだ。高村は山のふもとに小さな小屋を建てて、自給自足の生活を送ります。1人山荘で暮らすなかで高村は、戦時中の自身の行いに向き合い、詩を書き続けました。戦後、詩は書きながらも、みずからへの罰として、半世紀以上続けてきた彫刻は絶っていた光太郎。 終戦の7年後の昭和27年に転機が訪れます。きっかけは、太宰治の兄で、当時、青森県知事だった津島文治からの依頼でした。十和田湖を世界的な景勝地にしようと考えた津島は、シンボルとなる像の制作を、高村に託したのです。肺結核を患っていた高村は、血を吐きながら制作に打ち込み、およそ1年かけて乙女の像を完成させました。その3年後、73歳でこの世を去ります。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆次に行ったのが、「羅須地人協会」。「羅須地人協会」とは。1926年、農学校を退職した賢治が農民たちを集めて農業技術や農業芸術論などを講義するために設立。1928年に病気になるまで、賢治はこの建物で自炊生活をしていました。建物は、賢治の祖父、宮沢喜助によって、1904年(明治37年)隠居所として建てられた。木造2階建てで、1階は10畳と8畳の2室、2階は床の間付き8畳の和室となっている。 妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用される。その後、賢治によって1階の10畳を集会場に使える近代的なリビングに改造の上、羅須地人協会として使用されている。賢治の没後、人手に渡って現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、復元整備の上で『賢治先生の家』羅須地人協会として一般に公開されることになった。▲玄関横の黒板には、賢治の筆跡を模した『下ノ 畑ニ 居リマス 賢治』の文字(復元整備の際に弟の清六によって書かれたものが、消えないよう農業高校の生徒によって上書きされ続けている)が記されている。▼■農学校歌■ 宮澤賢治 日ハ君臨シ カガヤキハ 白金ノ雨 ソソギタリ ワレラハ黒キ土ニ俯(ふ)シ マコトノ草ノ タネマケリ 日ハ君臨シ カヾヤキノ 太陽系ハ マヒルナリ ケハシキ旅ノナカニシテ ワレラヒカリノミチヲフム 「新修宮沢賢治全集 第六巻」筑摩書房▲花巻農業高校の敷地内にある深い谷と小さな川▼それに架かる橋の名前は「銀河橋」▲花巻農業高校のマーク■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■6/22-1■岩手県:盛岡市:中津川エリア:若き日の石川君、賢さんに会う■6/23-1■岩手県・花巻市:賢治誕生の地、「きなきな」、「昭和の小学校」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.10
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■6/23(木)-1盛岡から花巻に行った。盛岡と花巻は、北上川でつながっている。花巻は宮沢賢治の生まれた所。いろいろ楽しみだな・・・。ガイドさんとあったのは、■宮沢賢治童話村■宮沢賢治童話村は、今にもジョバンニや又三郎、山猫がでてきそうな賢治童話の世界で楽しく学ぶ「楽習(がくしゅう)」施設。というがよく分からなかった。▲岩手の「鹿踊り」は、賢治もお気に入りだった。▲この博物館の敷地内で象の足跡化石が発見されました。▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■宮沢賢治イートハーブ館■宮沢賢治と作品を愛する方々により発表された賢治に関する様々なジャンルの芸術作品、研究論文を数多く収集した文学館です。分かりやすく整理してあり、誰でも自由に見たり触れたり利用したりできます。とあるが、これまたよく分からない。もっとも、私は、賢治の作品をあまりよく知らない。 詩、「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」、 童話?「よだかの星」を知っているくらい。 まあ、「銀河鉄道の父」は、読んだけどね。▲よだかの星▲どんぐりと山猫▲賢治といえば、この帽子をかぶった姿が代表的。▲賢治のモチーフのこけし。他にも頭がくらくら動くこけしがあったが、これを「キナキナ」とよぶということを「銀河鉄道の父」を読んで知った。「キナキナ」とは主に南部系の工人によって作られる、頭部がくらくらと動く小寸(10cm程度が定寸)のこけしをいう。キナキナは頭部が揺れる様子の擬態語である。産地は、盛岡、花巻を中心とした岩手県、および秋田県の一部を含む。キナキナの作られる一帯は、それを作る工人というよりは、キナキナをおしゃぶりとする習俗をもつ地域に依存するため、その地域を「キナキナ習俗圏」と呼ぶこともある〈木の花 第8号、第9号〉。賢治の妹が死んだとき、賢治の父親は、妹の世話をしてくれていた看護婦に記念にキナキナを渡したという。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「山の駅 昭和の学校」は、花巻の市街地から車で20分ほどの場所にあります。もともとは花巻市立前田小学校の校舎で、テレビドラマのロケ地として使われたこともあったそう。昭和の学校のコンセプトは、名前の通り“昭和”。昭和30年~40年の商店街を再現した校舎は、ノスタルジックな雰囲気です。ここで保存・展示しているアイテムはすべて、校長の照井正勝さんが個人的にコレクションしたもの。25年以上かけて東北各地の古物店や商店などを訪ね歩きコツコツと集めたそうで、その数に圧倒されます。玄関ホールには、かつて“三種の神器”と呼ばれ一般家庭に広く普及した「白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機」戦後にブームとなった三輪自動車なども展示されています。■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■6/22-1■岩手県:盛岡市:中津川エリア:若き日の石川君、賢さんに会う■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.08
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■6/22(水)-2盛岡市には、3本の川がある。左から、雫石川、北上川、中津川。先に、中津川をガイドさんに案内してもらって、夕方、北上川に沿ってあるいた。北上川(きたかみがわ)は、岩手県中央部を北から南に流れ宮城県東部の石巻市で追波湾に注ぐ一級河川。北上川水系の本流であり、流路延長249 km、流域面積10,150 km2は、東北地方の河川の中では最大で、日本全国では4番目の規模である。日本の河川としては勾配がかなり緩いことが特徴である。 川の名前は『日本書紀』に出たが、未だに位置を特定されていない「日高見国」に由来すると言われる。「日高見国の母なる川」という意味で「ひたかみ」と呼ばれたが、のちに転訛して「きたかみ」となり、やがて「北上」と当て字をするようになったと言われている。私が「北上川」で思い出すのは「北上夜曲」。 ♪匂い優しい白百合の 濡れているよなあの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月の夜■北上夜曲 和田 弘とマヒナスターズ&多摩幸子 ■この曲を作ったのは、まだ十代の学生だったそうだ。北上川は一関を通り宮城県の石巻まで流れていきます。北上川には「夕顔瀬橋」「旭橋」「開運橋」「不来方(こずかた)橋」など趣のある橋が並んでいます。不来方(こずかた)橋、開運橋、旭橋を見ながら川辺を歩いた。その中でも特に地元の人たちに愛されているのが「開運橋」です。開運橋は明治23年の鉄道開通に伴って作られました。橋梁建設を議会で否決された当時の岩手県知事・石井省一郎氏は、その必要性を訴え市内の実力者らと私設の橋を建設しました。私設の橋でしたので当初は「橋銭」という通行利用料を徴収していましたが、翌年には市の予算で買収され橋銭は廃止されました。当時の開運橋は土橋であったため、明治29年、同43年の二度の洪水で流失してしまいました。交通の要衝である橋の流失に困った盛岡市は大正6年に永久橋への架け替えを行い、またその老朽化に伴い、昭和28年には自動車が橋いっぱい通っても充分耐えられる強度を持った現在の橋に掛け替えました。川を利用した水運で荷物を運搬していた頃、北上川は、便利な高速道路みたいなものだったのだろう。荷物を積んだり下ろしたりしやすいように、川のそばに敷地がある。「いーはとーぶアベニュー」とは、材木町のメインストリート材木町通りのことを呼んでいます。賢治にゆかりの深い光原社。大正13年(1924)宮沢賢治の生前唯一の童話集[注文の多い料理店]を発刊、社名も賢治の手によって光原社と名づけられました。これは、賢治と創業者が盛岡高等農林学校で先輩、後輩の縁によるものです。方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる ~宮沢賢治 (絶筆 一)稗貫《ひえぬき》郡の十里四方の稲が熟し御祭の三日間は空が晴れ渡ったよやはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 石川啄木▲光原社の庭▼そこここに賢治いるなり梅雨晴れ間 はるな▲時計の上の鳥は「ヨダカ」?▲壁に「雨ニモマケズ」の詩が書いてある。●この日の言葉●おいで(ください)。ところで、盛岡市は、最近、「小京都」の看板を下ろしたそうだ。■小京都の基準■ってなんだろう?●16209歩 岩手県・盛岡泊■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■6/22-1■岩手県:盛岡市:中津川エリア:若き日の石川君、賢さんに会う■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.05
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■6/22(水)-1北上山地を横断して盛岡市に向かう。岩手銀行赤レンガ館の前でガイドさんと待ち合わせ。盛岡は、岩手県中央部の地名。県庁所在地。北上川と雫石川・中津川の合流点に発達。12時半ごろからガイドさんに案内してもらい中津川エリアを歩いた。サケが遡上、産卵する中津川。町の中心とは思えない豊かな自然と歴史ある風景の癒しの空間。盛岡は、石川啄木、宮沢賢治が若き日を過ごした場所。▲そのひとつに、賢治の使った井戸があった。▼ 石っこ賢さんとよばれていた宮沢賢治は、盛岡で下宿して中学に行っていた。盛岡城跡が公園になっている。石垣の石はどうやって運んだのか?昔、城のすぐ近くを川が流れていたとガイドさんの説明があったが、調べてみたら、北上川の古い流れがあるが、「北上川・古川」(黄緑の〇印)だろうか?不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心 (石川啄木『一握の砂』より)啄木が有名な短歌を詠んだのはこのあたりだろうか?■石川くん。■より。(略)きのう少し話題に出した尾崎豊に『十五の夜』という曲があるんだけど、あれは石川くんの歌を意識してるんじゃないかな。尾崎くんに会うことがあったら、きいてみて。じゃあ、また来週。 枡野浩一不来方(こずかた)とは、盛岡の古い言い方。中津川に架かる橋には、慶長の文字がみえる。▼中津川の川べりを歩いていると・・・▲対岸に古い屋敷が見えた。▼岩手県盛岡市の中津川沿いにある江戸時代後期の文化13年(1816年)に創業した紺屋町にある商家「ござ九」。今も、ほうき、熊手など現役で売っている。紺屋町というだけあって、染物屋が今もあった。昔は、中津川を使って染めていたのだろう。川と銀行 木のみどりまちは しずかに たそがるる 賢治岩手銀行赤レンガ館今は、「もりおか・啄木賢治青春館」になっているが、元第九十国立銀行。盛岡信用金庫本店 (旧貯蓄銀行)。とインパクトのある銀行が多い。▲賢治の町だけに、「クラムボン」という名前のカフェを見つけた!!ガイドさんと別れてJR盛岡駅に行った。駅前にこの日の宿があるからだ。駅の広場に啄木の碑。ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな (石川啄木『一握の砂』より) ■石川くん■(略)ローマ字日記の綴りは、けっこうまちがってるみたいだけどさ。東京の言葉をおぼえるのに必死で、そこまで気がまわらなかったんだよね、わかるわかる。わかるよ、石川くん。(石川くんの友人の)金田一くんが、のちに言語学者として大成したのも、きっとふるさとの言葉と格闘してたせいなんだな、わかるわかる。わかるよ、金田一くん。(略)じゃ、またあした。 枡野浩一■6/9~6/20-1 青森県■■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■6/21■岩手県:瀧泉洞/田老(たろう)という地名/浄土ヶ浜■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.03
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■6/21(火)龍泉洞(りゅうせんどう)は、日本の岩手県下閉伊郡岩泉町にある鍾乳洞。岩泉湧窟(いわいずみわっくつ)とも言う。秋芳洞(山口県美祢市)・龍河洞(高知県香美市)と共に「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられる。洞窟の外には美しい川が流れていた。外は26度だが洞窟内は10.4度。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(▲一番上まで津波が来た。)2011年3月11日の東日本大震災のことを学べるということで、岩手県・宮古市・田老(たろう)に行った。「道の駅いわいずみ」で待ち合わせ。ガイドさんの車は、24時間テレビで寄付されたものらしい。田老は何度も津波にあったところで「津波太郎」と呼ばれている。2011年3月11日の東日本大震災の影響に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。高さ10メートルの田老防潮堤を超え、田老の町を飲み込み、甚大な被害を及ぼしました。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災遺構として残されている「たろう観光ホテル」。▲1階と2階の壁が津波で無くなっている。▼田老(たろう)(岩手県宮古市・旧下閉伊郡田老町)の由来●津波の恐ろしさを知る老人は津波が来る前に高台に逃げたが、若者達は高をくくって逃げずに津波にのまれた。そして、村は「老人だけになった」。多老→田老。●田老(たろう): 岩手県宮古市田老。地名の由来は、小平地を表わす平(たいら)が変化したものという。※ 小平地といえば、太郎という地名も同じ意味のようですから、「平」>「太郎」「田老」と転字したのでしょうね。● 「たら(崖・急傾斜地)」+「ふ(~になった所)」の転か。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】●古い田ではなく、「小平地」のこと。太郎と同義。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】★津波が何度も襲い、水田が荒れ果てて「田が老いた」事に由来する。【天災と日本人 - 地震・洪水・噴火の民俗学 畑中章宏 ちくま新書】ガイドさんは、★押しだった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆浄土ヶ浜(じょうどがはま)は、岩手県宮古市にある海岸。国の名勝に指定されている。三陸復興国立公園に属し、三陸を代表する景勝地の1つである。▲浄土ヶ浜ビジターセンターで塩や鉱石を運ぶ牛のことが展示してあった。▼今日の東北弁は「やませ」。■アキラのダンチョネ節■別れ風だよ やませの風だ俺をうらむな 風うらめ忘れまいぞと あとふりむいてダンチョうたえばサ また涙ダンチョネこの日泊まった「国民休暇村・陸中宮古」で「宮古弁講座」があった。●あめる→(共通語)腐る●かれる→(共通語)(虫に)さされる。●かぜ→(共通語)ウニ●くるびーもづ→(共通語)くるみ餅●けけだす→(共通語)思い出す●とつこ→(共通語)(糸が)からまる●13814歩 岩手県・宮古泊■青森県(一部秋田県)2022.6.9~6/20-1■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/20-2■岩手県:塩の道/北山崎断崖クルーズなど■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.30
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■6/20(月)-2青森県・八戸を出て、岩手県北部、国道45号沿いにある■「道の駅のだ」■に一休みするために寄った。そこで私が見たものは、牛の像!!野田村の海岸では、古くから製塩が行われていました。製塩は”直煮(じきに)出し”という大変な重労動で、苦労して作られた塩は大切な商品でした。ここで焚かれた塩は、北上山地を越えて雫石や盛岡近在に運ばれ、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていました。この地方の塩を運ぶ人々は、牛の背につけて運ぶことが多かったので「野田ベコ」と呼ばれ、この塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいます。江戸時代の野田通りの海岸では、塩ばかりでなく、早くから鉄の生産が行われており、中国地方に次ぐ砂鉄の日本の二大産地として鉄山が各所にありました。このため、塩を煮る鉄釜が容易に手に入り、製塩の歴史を画期的なものにしました。岩手県に「釜石」という地名があるが、塩や鉄を精製する時の釜が地名の由来かと調べたら違った。_| ̄|○■釜石(岩手県)の語源■・ アイヌ語「クマ・ウシ(魚の集まる所、魚を干す所)」が転訛したものと言われる。【都市データパック2011年版・東洋経済新報社】・ 「カマ」は「崩壊地形」で、「イシ」は「磯」のこと。「崖の発達した海岸」。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】・ 今の釜石市甲子町あたりの甲子川に「釜淵」と呼ばれる淵があり、そこに大釜ににた大石があった。この「釜淵の釜石」に由来する。他にアイヌ語説もあり、不詳。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】・ 以下のような様々な説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】(1) 釜をつくる石を多く産することから(2) アイヌ語で「クマ・ウシ」(魚を干す場所があるところ)(3) アイヌ語の「カマ・ウシ」(平岩のあるところ)(4) 釜に似た石(5) 鉱山から市内に流れる甲子川の釜状の石(6) 釜渕の釜 今は塩の道ならぬ、鉄道が通っていて、「道の駅」から鉄道の駅まで雨や雪でも濡れずに行ける。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆岩手県田野畑村島越にある鳥越港から観光船に乗った。北山崎断崖クルーズ。2011年の震災の影響なのか、クルーズ乗り場近くの人家は小高い所にあった。車の運転が出来なかったら、生活が大変だろうなと心配になる。船が出発するとすぐ大きな防波堤が見えた。震災後に出来たのだろう。船内放送で岩のことを教えてくれる。船の乗り場でウミネコ用のパンを200円で売っていて、これに夫がまんまと引っ掛かり買ってしまった。これをウミネコ商法という。知らんけど。客は私たち2人と親子づれらしき男女の4人。大きな岩に穴があいているのがあって、その穴の中を小舟で通ることが出来るツアーがあるということだ。ちょうど、そのボートに出会った。こんな時は、なんだかお互い嬉しいのか皆手を振りあった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆宿に向かっていると何だか不思議なものがあったので、引き返して見に行った。■田野畑村・震災遺構:明戸海岸防潮堤■東日本大震災による大津波で破壊された防潮堤が、被災時の状態で保存されています。周囲には、震災前後および決壊の瞬間の写真を載せた解説版や歩道が整備されています。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆この日の宿は「国民宿舎・くろさき荘」で近くに灯台がある。明治元年の戊辰戦争では東北列藩同盟として旧幕府方に与した南部藩は、北航してくる官軍艦船8隻を待ち受けこの砲台から攻撃した。●4757歩 岩手県・普代村・黒崎泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■6/18-1■青森県:下北半島:恐山と尻屋崎・寒立馬■6/18-2■青森県:下北半島は斗南半島ともいう。■6/19■青森県・下北半島:北の防人と六ケ所村の原発■6/20-1■青森県:「戸」のつく地名、ウミネコの島・蕪島、種差海岸■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.29
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■6/20(月)-1青森県・八戸市の宿から見る朝日。この日もいつもと同じように、宿でビュッフェ形式の朝食の後、レンタカーに乗って出発。青森県のこのあたり、「八戸(はちのへ)」のように「戸」のつく地名が多い。「三戸」、「五戸」、「六戸」、「七戸」、「八戸」。お隣の岩手県には、「一戸」、「二戸」、「九戸」がある。■Q2 青森県には”戸(へ)”の付く地名が多いのですが、いくつまでありますか。■ また、その由来を教えてください。 A2 近世部会調査研究員の中野渡一耕がお答えします。色々な説があります。 青森県にある”戸”の付く地名は、三戸町・五戸町(以上、三戸郡)・六戸町・七戸町(以上、上北郡)・八戸市の5つです。ほか、岩手県には一戸町(二戸郡)、二戸市、九戸町(九戸郡)の3つがあります。四戸(しのへ)は現在はありません。なお、一戸から九戸は地元の人の名字にもなっています。こちらは一から九まですべてそろっています。平安時代後期の奥州藤原時代に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部(ぬかのぶ)郡が置かれました。さらにそのなかを9つの地区に分けたときに、一戸から九戸の地名が付けられました。この場合の”戸”は”部”、つまり、”○○地区”くらいの意味でしょう。”七戸(しちのへ)”なら”第7地区”という意味になります。ほか、”戸(へ)”の意味については、「牧場の木戸のあった場所」、とか、「蝦夷(えみし)平定の際に残した守備兵の駐屯地〔柵戸(きへ)〕」など、いろいろな説があります。■糠部郡についてはここに詳しい。■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■蕪嶋(かぶしま)■種差海岸(たねさしかいがん)の最北に位置し、ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている蕪島(かぶしま)は、ウミネコの繁殖の様子を間近で観察することができる国内唯一の場所。毎年3月上旬頃に蕪島に飛来するウミネコは、4月頃に産卵をはじめ、6月頃にはヒナがかえります。そして、8月頃には蕪島を旅立っていきます。もともとは完全な離島でしたが、昭和17年には旧日本軍により埋め立て工事が行われ、現在のような陸続きとなりました。5月中旬には島に菜の花が咲き乱れ、菜の花の黄色、蕪嶋神社の鳥居の赤、白いウミネコと青空のコントラストが美しい光景を見ることができます。■蕪嶋(かぶしま)神社■弁財天をまつり、商売繁盛、漁業安全の守り神として古くから地元の人々の信仰を集めてきた蕪嶋神社。蕪島の「蕪(かぶ)」と「株」が同じ読みであることから、株価と人望の「かぶ」が上がるご利益があると言われる。蕪島神社に行くためには、ウミネコの糞をよけるための傘が置いてある。令和3年3月13日、蕪嶋神社前へポケモンマンホール『ポケふた』が設置されました。写真撮影スポットとして、多くの方が訪れています。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■種差海岸(たねさしかいがん)■三陸海岸は、岩手県宮古市より南側がリアス式海岸となっているが、当海岸を含む同市より北側は海岸段丘(海成段丘)となっている。国の名勝には、蕪島の南から大久喜(おおくき)に至る延長12キロメートルに及ぶ海岸とその後背地が指定されている。種差海岸駅周辺には天然の芝生におおわれた段丘面が広がり、太平洋の眺望とあわせ開放的な景観となっている。地名の由来には諸説あるが、アイヌ語の「タンネエサシ」(長い岬)から来ているという説が有力視されている。 司馬遼太郎(街道をゆく) - 『陸奥のみち』(1978 年・朝日文庫)で紹介。「どこかの天体から人がきて地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうとおもったりした。」▲種差海岸に咲く花▼これで■6月9日(木)からの青森の旅は終わり、■岩手県へと進む。6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■6/18-1■青森県:下北半島:恐山と尻屋崎・寒立馬■6/18-2■青森県:下北半島は斗南半島ともいう。■6/19■青森県・下北半島:北の防人と六ケ所村の原発■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.23
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■6/19(日)むつ市にある「北洋館」を見に行った。「北洋館」は、大正5年(1916年)に海軍士官の社交場として建てられた石造りの洋館です。現在は貴重な史料展示室として、旧海軍、海上自衛隊などの史料約1,000点を展示しています。大正・昭和期の貴重な洋風建築も見どころです。この建物の石は、近くの釜臥山(かまふせやま)から切り出したものだということを、ここに勤務する自衛隊(?)の人から聞いた。▲出た!!!「天気晴朗なれども波高し」「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」Z旗掲揚とあるが、これは「後がない」という意味だそうだ。アルファベットのZの後はない・・・。「北洋館」から少し移動して、「海望館」へ。「海望館」は、海抜55メートルの高さから目の前に広がる芦崎湾を一望できます。▲海上自衛隊大湊地方隊の停泊している艦艇や、北の防人大湊地区の町並み、自然の防波堤「芦埼」を見ることができます。▼▲数千年かけて出来た自然の防波堤の模型。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■核のゴミの行き先ー忘れられた青森県下北半島■日本では、原発立地県は使用済み核燃料を県外に搬送することを条件に原発を受け入れている。その日本全国の使用済み核燃料を受け入れているのが青森県である。(▲六ケ所原燃PRセンターから見た景色)高度の放射線を発する原発のゴミを受け入れたいという都道府県はどこにもない。青森県も運び込まれた使用済み核燃料を再処理し、再びエネルギー源として使用する建前の下で使用済み核燃料を受け入れている。(▲六ケ所原燃PRセンターから見た景色)もっとも、再処理工場は多くの問題を含み、24回も完成が延期されて稼働が見通せず当面はむつ市などに設立される「中間貯蔵施設」が使用済み核燃料を保管することとなっている。(▲六ケ所原燃PRセンター内)その「中間」貯蔵施設での貯蔵期間は50年とされているが、実際には「最終」処分場になるのではないかと多くの人が不安に思っている。▲「ろっかぽっか」という大浴場を経営しているのも原発関係▼■六ケ所げんねん企画株式会社■■ロザンの楽屋:【原発事故】13兆円賠償命令の報道を見て■■【ルームツアー】少ないエネルギーで気持ちよく暮らす家■建築家 新井かおりさん(AtelierBio)のご自邸です。新井さんは東日本大震災の経験から暮らしの中で使うエネルギーについて考えるようになり、街中で電力の自給を目指し、少ないエネルギーでも気持ちよく快適に暮らせる家をつくりました。▲レンタカーを止めて休んだり、食べられそうな植物があれば、持って帰られないのを残念がったりこの日は、ガイドさんとの待ち合わせがないからのんびりできた。●7086歩 青森県・八戸泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■6/18-1■青森県:下北半島:恐山と尻屋崎・寒立馬■6/18-2■青森県:下北半島は斗南半島ともいう。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.20
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■6/18(土)-2青森県・下北半島は、またの名を鉞(まさかり)半島という。ここまでは、知っていたが、もうひとつの名前は「斗南(となみ)半島」というといのは、こちらに来て初めて知った。下北半島に、斗南藩があったというが、初めて聞いた。■斗南藩について■斗南藩の歴史は、明治になってから始まる。★明治元年(1868)。斗南藩の元の会津藩、戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、松平容保(かたもり)は、明治元年(1868)に23万石の所領を没収されて蟄居の身となった。★明治2年(1869)松平容(かたもり)は、翌明治2年に赦免されたものの、嫡子・容大(かたはる)が陸奥の北郡・三戸郡・二戸郡内にわずか3万石を与えられて斗南藩を立藩した。つまり、斗南藩というのは明治になって生まれた藩なのである。★明治3年(1870)4月から旧藩士らが移住を開始した。★明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、わずか2年足らずで斗南藩は消滅した。会津から下北に移ってきた人々も、廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには、多くが会津に帰郷している。7000石たらずの荒野に藩士とその家族1万7000人が流れこんだため、たちまち飢餓に陥る。疫病の流行、新政府への不満、住民との軋轢など、凄絶な苦難に多くがこの地を去った。子供は朝敵、賊軍と罵られ、いじめに遭っていました。反乱が起きなかったことが不思議なくらいでした。藩は,田名部郊外の妙見平に目をつけて斗南ケ丘(むつ市)と名付け、長屋群を建設して開拓の基地とした。藩士が復興を夢見た斗南ヶ丘にある斗南藩史跡地。200世帯が暮らす街並みであったが今では、かすかに残る土塀跡のみがその当時を伝えます。藩名の由来には諸説ある。同藩出身の柴五郎(後に陸軍大将)によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北極星より南はみな天皇の領土である)からとったものとし、現在はこの説が広く受け入れられている。しかし、実は出典が不明であり、なかには南すなわち憎むべき薩長両藩と斗(闘)うという解釈まである。▲旧斗南藩士の墓地は、史跡地より800mほど進んだ場所にあり過酷な生活に志半ばで亡くなった藩士達が静かに眠っています。◆会津士魂(あいずしこん)今に伝える斗南丘(となみがおか) (下北かるた)●8581歩 青森県・むつ市泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■6/18-1■青森県:下北半島:恐山と尻屋崎・寒立馬■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.16
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■6/18(土)恐山に行く。■恐山は■滋賀の比叡山、和歌山の高野山と並び、「日本三大霊山」に数えられています(諸説あり)。その中でも恐山は、死後の世界や地獄との結びつきが強い山として知られているのです。死者がこの世(此岸)からあの世(彼岸)へ行く途中に渡るといわれる「三途の川」。宇曽利湖から流れる小川が、まるで三途の川のようだといわれたことがきっかけで、この名前で呼ばれるようになりました。三途の川には綺麗な朱色の橋(太鼓橋)がかかっており、これを渡って神聖な恐山へ入山することになります。▲三途の川で身ぐるみ剥がす奪衣婆(だつえば)左とその衣類を受け取る懸衣翁(けんいおう)。▲懸衣翁(けんいおう)は、衣類を傍らの柳の木にかけ、柳の枝の垂れ具合で生前の悪行の軽重を推量する。「賽の河原」というのは、生まれる前や生まれたばかりに亡くなった赤ちゃんが、三途の川を渡る前に小石を積んで行く場所。そうすることによって、両親への供養を行っているのだとか。しかし、積み上げられた小石は何度も何度も鬼によって、崩されてしまいます。それでも亡くなった赤ちゃんの魂は、菩薩様によって供養される、という伝説が残っています。数々の地獄を巡った後、見えてくるのが「極楽浜」です。その美しさや恐山と対照的な景観から、宇曽利湖の砂浜にこの名前がつけられました。豊かな自然に囲まれ、綺麗なコバルトブルーの水を誇る宇曽利湖。ついつい飛び込んでしまいたくなりますが、宇曽利湖の水は強い酸性なのでご注意を。■冷や水を飲んで一服恐山(おやま)参詣(下北かるた)▲紫の印、尻屋崎。尻屋崎周辺の海域は、津軽海峡から太平洋へと潮の流れが変わりやすく、また濃い霧がよく発生するため、海上交通の難所として古くから恐れられ、江戸時代にはここは避けて、下北半島の物資は専ら西廻り航路(北前船)で日本海経由で運ばれた。太平洋経由の江戸から北上する東廻り航路は江戸中期にようやく八戸までの交通が確保されたにすぎなかった。蝦夷地の本格的な開発は、この海域をはじめとする、安全な航路と海洋技術の開発を待たねばならなかった。 ■明治から海峡守る尻屋の灯台(下北かるた)明治9年に尻屋埼灯台ができたが、明治16年から25年の間には16件の海難事故があった。■風雪に耐える岬の寒立馬(かんだちめ)(下北かるた)尻屋埼に生息する寒立馬は、かつては「野放馬」と呼ばれたが、昭和45年(1970年)に尻屋小中学校の岩佐勉校長が年頭の書き初め会で、「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」と詠んで以来、「寒立馬」と呼ぶようになった。「寒立」はカモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉で、冬季、寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子がそれに似ていたことから「寒立馬」と詠んだ。6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.13
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■6/17(金)津軽半島の最北端、竜飛岬→蟹田フェリーターミナル→むつ湾フェリーで、下北半島に渡る。竜飛岬のホテルの朝のテレビでは、北海道の天気ばかり紹介していた。「どさんこワイド!」というテレビ番組があったり、野球は北海道日本ハムファイターズと改めて北海道と青森の距離の近さを知った。「向こうに見える岩が、鯛の形をしているので『鯛島』といいます」という船内放送があった。■鯛島が夕日を泳ぎ村暮れる■下北かるた■下北半島(しもきたはんとう)は、青森県北東部に位置する本州の最北端部の半島。半島全体が下北半島国定公園に指定されており、日本三大霊場に数えられる恐山などがある。旧斗南藩(「北斗以南皆帝州」から命名)にちなみ「斗南半島」とも呼ばれ、形状が「鉞(まさかり)」に似ているので「鉞半島」「まさかり半島」の別名もある。この日は、鉞(まさかり)の歯の部分を行く。フェリーが下北半島の脇野沢港に着いた。車で移動していたら、猿がいた!!■海山の恵み多き脇野沢 北限の猿も群れ遊ぶ(下北かるた)脇野沢港から北上し、佐井へ。天然の良港に恵まれた佐井湊は、鬱蒼と生い茂った豊富な南部檜(ヒバ)による交易により、室町時代から諸国の商船(北前船)で賑わいを見せていました。■古来栄えた佐井の村 北前船の来た湊(下北かるた)佐井から船に乗って、仏ケ浦に行った。仏ヶ浦(ほとけがうら)は、青森県下北半島西岸の下北郡佐井村南部に所在する景勝地。古くは仏宇陀(ほとけうた、ほとけうだ)と称した。国の名勝および天然記念物に指定されている。津軽海峡の荒波と風雪が作り出した荒々しい海岸線には如来の首、五百羅漢など、仏にちなんだ名前がつけけられた岩が集まることから仏ヶ浦と呼ばれる。大正時代にここを訪れた歌人・大町桂月(おおまち・けいげつ)は、「神のわざ 鬼の手つくり 仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」と詠んでいる。■仏ヶ浦は極楽の磯羅漢、如来が立ち並ぶ(下北かるた)船で佐井に帰り、偶然見つけた、■旧三上家住宅へ。■三上剛太郎は、明治38年(1905年)の日露戦争時に軍医として満州へ渡りました。仮包帯所で負傷兵の手当をしていたとき、ロシア兵に囲まれ全滅の危機に瀕した剛太郎は、ジュネーブ条約に基づく赤十字の精神に従い「手縫いの赤十字旗」を包帯所に掲げ、それを見たロシア兵は攻撃の手を止めたと言われています。そうして敵味方問わず多くの兵士を救った剛太郎の功績をたたえ、生家を保存し、展示館としました。晩年は佐井村の村医として村人に慕われた剛太郎が導入した、当時としては貴重なドイツ製レントゲン装置をはじめとする医療機器なども展示されています。その後、最果ての地 本州最北端の地 大間崎へ。■地続きを願って夢の海峡大橋(下北かるた)(▲大間崎から見える北海道)大間町の先端、北緯41度32分、東経140度54分の場所に「ここ本州最北端の地」の碑がそびえ立っている。■弁天島にゴメが舞う津軽海峡大間崎(下北かるた)大間崎と北海道の汐首岬は17.5kmしか離れておらず、弁天島の向こうには渡島連峰を望み見ることができる。マグロの一本釣りをモチーフに造られたモニュメントは絶好の記念撮影ポイント。また、ここより徒歩1分のところには、地元有志により石川啄木の歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の歌碑が建立された。地元では大間崎の沖合いにある弁天島のことを詠んだものと言われている。■つい観ゆる浜辺に咲きしハマナスの花(下北かるた) 朝ドラファンの私にとって、大間といえば「私の太陽」だ。『私の青空』(わたしのあおぞら)は、2000年4月3日-2000年9月30日に放送された連続テレビ小説第62作。ドラマの中で「りんごのふるさと」がよく流れていた。2000年代最初の連続テレビ小説。『連続テレビ小説』で初めてシングルマザーを題材としたことでも話題になった。全156回。脚本は内舘牧子。■りんごのふるさと■作詞・作曲:米山正夫、唄:美空ひばり1 りんごのふるさとは 北国の果て うらうらと山肌に 抱(いだ)かれて夢を見た あの頃の想い出 ああ 今いずこに りんごのふるさとは 北国の果て2 りんごのふるさとは 雪国の果て 晴れた日は 晴れた日は 船が行く日本海 海の色は碧(あお)く ああ 夢は遠く りんごのふるさとは 雪国の果て ああ 津軽の海よ 山よ いつの日もなつかし 津軽のふるさと●6206歩 青森県・大間泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.09
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■6/16日(木)-2強風と濃霧の中、竜飛岬へと向かった。龍飛崎(たっぴざき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある、津軽半島の最北端、津軽海峡に突き出た岬である。津軽国定公園の一部。 名前はアイヌ語のタム・パ(tam-pa 刀の上端)からの転訛(てんか)で、「突き出た地」の意味だという説があり、タムパを"龍が飛ぶ"と当て字したといわれている。表記には「竜/龍」及び「崎/埼/岬」という揺らぎがあり、竜飛埼、龍飛岬(たっぴみさき)などとも言われる。周辺は灯台を中心に遊歩道となっており、天気のよい日には津軽海峡を挟んだ北海道の松前半島や、海峡を行き交う船舶が見渡せる。また、渡り鳥の飛行ルートとしても重要であり、しばしば鳥類研究家が観察している。海から1日中強い風が吹き付ける土地柄で、冬季でも降った雪が風に飛ばされ、深く積雪することは少ない。竜飛崎では、吹き付ける強風を利用して風力発電が行われている。北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19.5キロメートルの距離があり、地下を青函トンネルが通る。青函トンネルの着工開始から完成までの全工程における殉職者34名の碑が建っている。石川さゆりのヒット曲「津軽海峡・冬景色」の歌詞の一節に唄われていることでも知られている。(歌詞の中では竜飛岬と表記されている)、♪津軽海峡・梅雨景色♪ 作詞天地はるな♪大阪発のプロペラ機を降りた時から青森空港霧の中北へ帰る人の群れは誰も無口でスマホばかりいじってる。私は二人レンタカーに乗り迷いそうなカモメ見つけ見つめていました。嗚呼 津軽海峡 梅雨景色国道でありながら車もバイクも通れず、歩行者しか通れないという「階段国道」と呼ばれる区間があります。ニッポンのハテとも呼べる地に、観光名所にもなっているヘンテコな国道があるのです。(▲ホテルの窓から見える集落。)竜飛崎のある竜飛集落は、三厩駅からのバスの終点(正確には集落のある「竜飛漁港」バス停で折り返して、そこからさらに斜面を登って終点に向かう)で、太宰治が紀行『津軽』で、鶏小屋に突っ込んだと思ったら竜飛集落だったと表現した描写で知られる漁村である。「三厩(みんまや)」という地名は、源義経主従3騎が津軽海峡を渡って蝦夷地へ向かったという伝説の土地で,義経の厩 (うまや) であったといわれる三つの海食洞が地名の由来。私は、あまりの強風に吹き飛ばされると思って、ホテルに着いてから部屋に籠った。竜飛では、強風が当たり前だったのだ!!ホテルには、団体客の観光バスが3台とまっていた。 次の日は、フェリーに乗るのに、こんな強風でフェリーは出航するのか、心配になる。それにしても6月だというのに寒い。昨年もこうであったか 梅雨寒し はるな●7227歩 青森県・竜飛岬泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.06
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■6/16日(木)朝、8時半、小雨と強風の中、ホテルを出発。青森県は、言わずと知れた林檎の名産地。道路の脇にある畑はりんご園。道路のフェンスに林檎の模様。しばらく行くと、鶴野舞橋に着いた。■鶴の舞橋は■平成6年7月8日、岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に、日本一長い三連太鼓橋「鶴の舞橋」として架けられました。全長300メートルもの三連太鼓橋はぬくもりを感じさせるような優しいアーチをしており、鶴と国際交流の里・鶴田町のシンボルとして、多くの人々に愛されています。岩木山を背景にした舞橋の姿が鶴が空に舞う姿に見えるとも言われ、また、橋を渡ると長生きができるとも言われています。〒038-3542 青森県北津軽郡鶴田町廻堰大沢81-150◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆五所川原市にある太宰治の生家、「斜陽館」に着いた。■太宰治記念館「斜陽館」は、■太宰が生まれる2年前の明治40年(1907)、父・津島源右衛門によって建てられた豪邸です。和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用され、どっしりした重厚感が特徴となっています。国の重要文化財建造物に指定され、明治期の木造建築物としても貴重な建物。☝父と長男だけが座れる畳の部屋。☟父と長男以外は、かまどの近くの囲炉裏の部屋で一段低く、板張りの部屋。太宰はここで、家の商売や自らの立場を感じ、兄弟の間にも存在する身分の差を実感。親代わりの叔母きゑ、子守のタケとの出逢いと別れを経験し、成長していきました。 蔵を利用した資料展示室には、太宰が生前着用していたマントや執筆用具、直筆原稿、書簡などのほか、初版本や外国語の翻訳本も展示されています。ビデオ作品を鑑賞することもでき、「太宰と揺籃の地 津軽」「旧津島邸『斜陽館』復元修復工事記録」を上映。(☝斜陽館の前には、かつて太宰の父の銀行があったそうだ。)斜陽館は幼少期の太宰に出逢える貴重な場所であり、太宰作品にちりばめられた、さまざまな場面を回想することができます。ケヤキの階段。瀟洒な洋間へと続きます。この和洋折衷の建築は名棟梁堀江佐吉の設計とされています。「走れメロス」。☟「産直メロス」( ´艸`)☟湾曲した戸棚の天袋。▲雪の模様の欄間と襖の漢詩。▼左から2枚目の襖の漢詩の最後の行に「斜陽」という文字が見える。 住所:青森県五所川原市金木町朝日山412-1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆五所川原は■ねぷた■でも有名。霧が濃くて何にも見えねぇ~~!!この天気の中を、竜飛岬へと向かう。6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.04
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■6/15日-2(水)秋田県・青森県にまたがる世界遺産・白神山地の秋田県側から十二湖のあるエリアに車で移動。十二湖は、青森県にあり、世界遺産には、含まれていない。■十二湖(じゅうにこ)は、■青森県西津軽郡深浦町にある複数の湖の総称である。白神山地の一角で、津軽国定公園内にある。十二湖という名称は広大なブナの森に点在する33の湖沼が、「大崩(標高694m)から見ると湖沼数が12に見える」ということに由来するとも言われているが、詳しくは分かっていない。ただし、偶然にも面積が10,000m2を超える湖沼数は12となっており、面積が1町歩を超える湖沼数も同じく12となっている。近隣にはブナ林が密集し、それらの水分の含有量が多いため、自然の造った水桶あるいはダムのようであり、しかも自然の浄化装置を持つとでも表現できるほどの水質の良い水が各所で湧き出している。十二湖より北に十三湖があるが、こちらの名前の由来はアイヌ語がもととなった「十三湊」(諸説あり)であり、これらの名称に直接の関連はない。私「池の名前、いろいろあるなぁ・・・。」夫「そうやな、でも十二湖は『湖』やなあ」私「ほんまや!!!」そこで、「池」と「湖」について調べてみた。☟「池とは」:くぼ地に自然に水がたまった所。通常、淡水がたまっている。通常、湖ほどには大きくないものを指す。「湖」の語義。中国において「湖」とは陸地を広く覆う水域を表す言葉であり、特に中国最大の湖であった洞庭湖のことを指して用いられることもある。例えば洞庭湖の南北に位置する地域は湖南省あるいは湖北省と呼ばれている。日本の「みずうみ」は「水海」の意味で、広い水面のことを古くは「み」や「うみ」といった。十二湖のエリアには、「十二湖」というJRの駅がある。私「五能線とあるけど、能は、能代やなぁ。 五はなんやろ・・・?」夫「五所川原かなぁ。」私「それや!!!」こちらでは、線路は見るものの、列車が走っているのを見ることは滅多にない。無人駅はとても淋しい。私たちは、五能線に沿って車で走っているが、その道中は、どこもかしこも道路工事をしている。こちらでは、車は必需品だと思うが車に乗れない交通弱者にとって、公共交通は必要だ。道路工事をする工事費の何分の一でも、バスや列車に使って欲しいと運転できない私は思う。この日は、「不老ふ死温泉」に泊まった。海のそばにある宿で日本海に沈む夕日が美しいので「黄金崎」というらしい。■伊豆にも黄金崎■があったな・・・。●15502歩 青森県・深浦町・不老不死泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.03
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■6/15日(水)青森県と秋田県にまたがる世界自然遺産:白神山地。この日は、主に岳岱(だけだい)自然観察教育林(秋田県)と十二湖(青森県)をまわる。青森県からの道路は、通行止めになっていたから、遠回りして来た。(昨日)宿から少し行くと、●峨瓏(がろう)大滝親水公園●がある。県道317号線沿いの滝の沢地区にある「峨瓏大滝」周辺に整備された親水公園です。峨瓏大滝は落差12メートルで、滝壺前には鳥居と神社があります。江戸時代の旅行家、菅江真澄が訪れた景勝地でもあり、その際に詠んだ和歌の歌碑も設置されています。森林浴にも最適な公園で、夏は水遊び、秋は紅葉というように四季折々違った楽しみ方が出来ます。●岳岱(だけだい)自然観察教育林●「白神山地に行ってみたいけど、本格的な登山はちょっと不安」という方でも、気軽に白神山地のブナ林を体験することが出来るのがこの「岳岱自然観察教育林」です。▲靴の泥を取ってから山に入る。▼約12ヘクタールのブナ原生林の中には、苔むした巨木や巨岩を縫うように遊歩道が整備されています(一部の遊歩道は車椅子の方もご利用いただけます)。林内にある多目的展示施設では、白神山地や岳岱の自然を紹介しており、休憩所として利用することもできます。小さな子どもからご年配の方まで、誰でもブナ原生林の散策を楽しめるのが魅力です。●田苗代(たなしろ)湿原田苗代湿原●では、春から夏にかけてミズバショウやニッコウキスゲなど様々な高山植物が咲き誇り、訪れる人を楽しませてくれます。藤里駒ケ岳(標高1,158m)山頂に住む女神の田んぼだったという言い伝えがあり、豊凶を占う岳参りの場所として昔から尊崇を集めています。湿原内には木道が整備されており、貴重な自然を間近に楽しむことが出来ます。▲今日の秋田弁。♪コラ、秋田名物 コの字づくしをつまんで言うならば(アーソレソレ)坊ッコにガッコ笠ッコに小皿コ 酢コに醤油ッコ■秋田音頭■▲十二湖に移動中、見た道路のサイドにあるのはなんだろう?ここだけでなく、あちこちで見た。私たちが出した答えは、冬の強風を防ぐ防風柵。(?)本当はなんだろう?6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.02
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■6/14日(火)お岩木山日和(⌒∇⌒)朝からガイドさんと待ち合わせ。案内してもらって、弘前の武家町を歩いた。■この武家町はかつては仲町と呼ばれており、■現在は当時の範囲の3分の2にあたる約10.6ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区(古い町並み景観を保護する文化財保護法の制度)に選定されています。仲町の街並みにおける一番の特徴は、やはり生垣が伸びる路地でしょう。色鮮やかな緑色の生垣が延々と連なる光景は、江戸時代から変わらぬ武家町の特徴です。この生垣に使われている植物は、サワラという針葉樹です。サワラの生垣は路地から敷地の内部を見ることはできませんが、内部からは路地を見通すことができる、まさに城門前の武家町のふさわしい、防衛に適した生垣といえるでしょう。また家によっては、生垣ではなく黒板塀で敷地を区切っているところもあります。黒板壁には煤に柿渋を混ぜた渋墨が塗られており、これは防虫や防腐の効果がある上、武家町らしい重厚な雰囲気を醸しています。武家町で見つけた青森の方言「あずましい」は、「気持ちがいい」という意味で北海道でも使われている。青森から北海道に渡った人々が伝えた言葉だろう。弘前といえば、桜で、弘前市も桜推しなのだが、この武家町を見ないのは惜しいと思うくらい美しい町並みだ。ガイドさんと出会った時、その名前で私は「!!」と気が付いた。この人、青森県出身の有名人の〇〇さんと縁があるのでは?と思ったのだ。聞いてみると、「お祖母ちゃん繋がり」とのこと。聞いてみるもんだ・・・。素晴らしいガイドさんだった(⌒∇⌒)ガイドさんと別れた後、石場家住宅を見た。江戸時代中期の建築と推定され、国指定重要文化財に指定されています。現在は酒屋ですが、石場家は代々「清兵衛」を名乗り、藩内のワラエ品と荒物を扱っていました。この地方では、数少ない商家の遺構として貴重な建物です。▲こみせ▲建物の表通りに設けられたひさしを、青森県や秋田県では「こみせ」と呼んでいます。同じものが、新潟県などでは「雁木」と呼ばれており、地方によって呼び名が違います。こみせの空間は、積雪時の貴重な歩行通路となることから、降雪地帯で維持されてきたと考えられます。 お岩木山に見送られ、次の目的地「白神山地」へと向かう。「帰ってこいよ」と岩木山。■帰ってこいよ■♪きっと帰ってくるんだとお岩木やまで手をふればあの娘(こ)は小さくうなずいた茜の空で誓った恋を東京ぐらしで忘れたか帰ってこいよ 帰ってこいよ帰ってこいよ▲マンホールは、林檎模様。真ん中の卍は、江戸時代の弘前藩の紋所で弘前市のマーク。この日、見た青森の言葉、part2。「どさ」「ゆさ」。白神山地は、青森県と秋田県の間にあるので、このままいけばすぐ。しかし、青森側からの道路が土砂崩れのために迂回して秋田県まわり。ということで、この日は、移動日。移動する時、私は、ある地名にビックリしたが、それはまたいつか・・・。5時前に宿の「ゆとりあ藤里」に着く。その日は、洗濯をして旅の汚れを落とす。洗濯代、無料、しかも使い方も丁寧に教えてくれた。私が肉が食べられないというと、すべて魚に替えてくださるなど、細やかな心づかいに感謝。朝食☝●7251歩 秋田県・藤里町泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.25
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■6/13日-2(月)江戸時代に津軽藩の城下町として栄えた弘前。明治時代に入って、外国人教育者や宣教師を積極的に雇い入れたことが1つの契機となって、多くの教会・洋館が建造された。太平洋戦争末期に空襲で焼け野原となった青森市のような戦禍を被らなかったことや、市民の文化財保護意識の高さなどから、そうした建築物の一部は現在も残り、旅行者の目を楽しませてくれる。◆弘前昇天教会は、◆イギリス国教会の伝統を引くプロテスタント系の教会です。1896(明治29)年に弘前で宣教が始まり伝道の講義所として設けられ、1921(大正10)年に宣教師ジェームズ・ガーディナーが設計し、大工の林 緑の手によって現在の聖堂が建築されました。◆旧弘前市立図書館◆設計・施工は堀江佐吉。1906年に日露戦争の戦勝を記念して竣工し、1931年まで図書館として市民に開かれていた。八角形の双塔を有する木造3階建のルネッサンス様式を基調としつつ、和風の建築様式も採用されている。外壁は白、窓の周囲は緑というコントラストが晴天時に映え、弘前公園周縁では随一のランドマーク。県の重要文化財に指定されている。◆旧第五十九銀行本店本館◆堀江佐吉が設計・施工し、1904に竣工した、明治期のルネッサンス風建築様式のものとして、日本でも有数の洋館。防犯・防火を考慮して造られた質実剛健な構造ながらも、「白亜の殿堂」と呼ばれる優美さを併せ持つ。会議室の天井に金唐革紙という壁紙を使うなど、現在でほとんど見られなくなった意匠が随所にあり、国の重要文化財に指定されている。現在は「青森銀行記念館」として一般開放され、1階は当銀行と日本の金融史を通観できる資料室になっており、2階は応接室、会議室、大広間などが復元され、当時の様子を今に伝える。◆カトリック弘前教会◆弘前におけるカトリックの本格的な布教が始まったのは、1878年。函館での布教活動を一段落させた神父が、津軽海峡を渡って一民家を教会としたのが先駆けという。その後、1910年になってドミニコ会のモンダナ神父が教会を設立。オージェ神父が設計し、横山常吉(堀江佐吉の弟)が施工した木造モルタルの平屋建で、ロマネスク風の趣がある。教会としては小規模なものだが、統一感のとれた美しさがある。高さ8mの祭壇は、アムステルダム(オランダ)の聖トマス教会にあった1866年製作のものを、譲り受けたという。弘前に来る前は、アントワープ(ベルギー)で開かれた展覧会で最優秀賞を受賞したというだけあって、美しいステンドグラスとともに一見の価値がある。(津軽三味線やリンゴのステンドグラス。)◆日本基督教団弘前教会◆外国人宣教師J・イングに感化を受け、キリスト教徒となった東奥義塾の学生らは、1875年に弘前教会を創立した。これが東北初のプロテスタント教会となり、後の1906年に竣工した教会が同じ場所にある。これは、明治期に建てたものとしては全国的にも非常に珍しい、双塔木造のゴシック建築物で、両塔の高さは20mもある。ノートルダム聖堂を参考に設計されたという。内部の礼拝堂は意外にも簡素な造りで、畳敷きの床など和洋折衷が特徴となっている。▼教会のステンドグラスと畳敷のベンチ。▲弘前市の中心部、百石町にある「かだれ横丁」。ここは居酒屋やバーやカレー屋さんなどが集まる地元密着型フードコート。「かだれ」とは津軽の言葉で「語れ」という意味。ここでガイドさんと別れた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆旧藤田家別邸◆1873年に弘前に生まれ、日活などの社長を歴任後、日本商工会議所の初代会頭に就任するなど、実業家として大正時代を駆け抜けた藤田謙一。1921年に故郷に別邸を建築し、ほぼ当時の姿で現存する。設計・建築を手がけたのは、青森県で数多くの洋風建築物を生んだ堀江佐吉の息子の金蔵と幸治。木造の2階建てで、八角形の塔屋があることで欧風らしさが醸し出されている。現在、1階は「大正浪漫喫茶室」という名のカフェと藤田謙一資料室として公開され、2階は貸会議室となっている。建物の右手には、総面積約2万平方メートル、東北第2の広さを誇る庭園がある。これは、藤田が東京から庭師を招いて造園させたもので、藤田記念庭園と呼ばれる。名園のほまれ高いので、別邸と合わせて見学したい。●15330歩 弘前泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.23
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■6/13日(月)青森県→秋田県→今、青森県・弘前(ひろさき)。この日、午前中は、ガイドさんの案内で青森県弘前市の弘前城を見る。 弘前城は現存12天守としては最北の城です。津軽氏の居城でした。津軽信枚によって築城された当初は「鷹岡城」と呼ばれていましたが、南光坊天海のアドバイスにしたがって地名を「弘前」に改称し、城名も弘前城となりました。築城当時、天守閣は現在の本丸西南の隅にあり、五層の堂々たる天守がそびえ建っていました。寛永四年(1627年)九月十日、この日の亥の刻(午後十時頃)、天守に雷が落ちました。落雷により天守は炎上し、四層目には火薬を置いていたため大爆発を起こし焼失してしまいました。天守は、土台石垣から南の堀へ落ちて炎上し、火薬が爆破した時には、柱、白壁など遠く半径約十キロメートルあたりまで飛び散ったと伝えられています。この変事は、早速幕府にも報告され、秋田藩主・佐竹義宣は、鉄砲300挺を送って見舞いの使者を来訪させたといいます。(「弘前市史 藩政編」P107~P108弘前市)当時、この天守炎上は、祟りによるものと信じられていました。そこで、信枚はこの祟りから逃れるため、「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」と改称しました。この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。▲石垣の修理中。石垣修理中につき、天守は引っ張って近くに移動。これを曳家といってテレビでも放送されていた。■弘前城 曳家■城の鯱(しゃち)は木で出来ている。冬、雪の重さを考えて、焼き物よりも軽い木を使用している。▲ここは、城主の住まいがあったところ。ここから▼岩木山に向かって、毎朝祈る。明治のはじめに、城の中に桜を植えようという計画があったが「とんでもない!!」と結構多くの元武士の大反対にあった。弘前市は東北地方北部に位置し桜の開花時期が比較的遅く、花見に適した時期がおおむねゴールデンウィークと重なることもあり、弘前さくらまつりには日本全国から観光客が訪れる。▲桜の木と木の間に見えるハート💗は、偶然のたまもの。▲弘前は、どこまでも桜推しだから、スプーンも桜の形!!▼青森といえば林檎であちこちに、林檎が!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.19
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■6/12(日)小坂町(こさかまち)は、秋田県の北東部に位置する町である。鹿角郡に属す。かつては小坂鉱山など鉱山資源で栄え、江戸時代には津軽街道が通る盛岡藩の領地であった。19世紀初頭(江戸時代末期)に小坂鉱山が発見され、金・銀の採掘の鉱山産業地域として町が栄えた。明治時代には銅・亜鉛の採掘も行われ、▲小坂鉱山事務所を始めとして多数の近代建築が建てられ、町は大いに栄えた。第二次世界大戦後は鉱山資源が枯渇し、町は一頃よりも衰退した。近年は明治期の近代建築や十和田湖の観光資源を生かした町づくりを模索している。町の花はアカシア、2005年(平成17年)新町制50周年を記念し制定。ただし、町内に植えられているのはニセアカシアである。その山々は古くから豊富な鉱山資源に恵まれていました。明治~大正期には、日本三大銅山と称えられた小坂鉱山のお膝元で、小坂町は県下第二の都市として発展しました。小坂鉱山の歴史と文化に彩られた小坂町には、数多くの近代化産業遺産があります。▲小坂鉱山事務所と▲芝居小屋・康楽館(どちらも国重要文化財 平成14年指定、近代化産業遺産群 平成19年認定)などの歴史的建造物は、その代表格であり町の主要な観光資源です。これらが建ち並ぶ「明治百年通り」には、ニセアカシアなど絶えず美しい花々が咲いており、フラワーボランティアの会の方々によって献身的に手入れされ、「かおり風景100選」(平成13年)や「美しいまちなみ大賞」(平成 17年)にも選定されています。並木道の所々にベンチがある。ベンチには、藤の花の飾り。1884年(明治17年)9月18日 - 藤田組(後の同和鉱業、現・DOWAホールディングス)が政府から小坂鉱山の払い下げを受け創業する。▲小坂鉱山事務所のバルコニーを飾る細かい細工。▼バルコニーの藤の花は藤田組をあらわしている。▲藤と田の字を組み合わせた模様。▲小坂鉱山事務所は、町のシンボル的な場所で、この日はこの場所で、「アカシア祭」が行われていた。▲芝居小屋。今も毎日のように舞台がかかっている。私たちも建物の見学と舞台の一部を見た。小坂レールパークにあるレトロな列車。▲列車の飾りも藤!!■秋田県・小坂町■小坂町を後に、青森県を目指す。この日の宿は、弘前だけれど、その前に(青森県)盛美館に寄る。盛美館は、庭園を眺めるために建てた和洋折衷洋式の建物です。和洋と洋風、判然と異なった様式が上下に重なる建物は珍しく、我が国では他に例がないといわれています。この建物は建築家西谷市助によって明治41年に建てられました。一階は、純和風の数奇屋造りで、贅を凝らした書院からの眺める景観が素晴らしいです。二階は、ルネッサンス調を漂わせ、漆喰の白壁に、展望室のドーム屋根、尖塔、棟飾りなどが見事です。この建物は、日本庭園と融和した独特の美しさを保ち、本州の最果てに咲いた明治文明開化の面影をしのばせています。■青森県平川市 盛美園■●11254歩 弘前泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.12
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■6/11-2奥入瀬渓谷を歩いたり車で通ったりして、十和田湖に着いた。子ノ口(ねのくち)にある食堂でランチを済ませた。十和田湖は、青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。日本の湖沼としては、最大水深は326.8mで第3位、面積では12番目。東岸には奥入瀬川があり、北東に約14kmにわたり奥入瀬渓流が延びる。約20km北には八甲田山が位置する。江戸時代より郡の境界が不明確で、明治維新後も十和田湖面上の青森県と秋田県との境界は長らく決まっていなかった。2008年8月29日に青森市で開かれた北海道・北東北知事サミットにおいて、青森・秋田両県と沿岸の関係市町が、湖面の境界線を青森県6:秋田県4という割合で県境を画定することで最終合意した。同年11月14日に確定し、12月25日に官報告示された。これにより、1871年の廃藩置県以来、137年目にして県境が決定した。湖畔には1953年(昭和28年)に建てられた高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」があり、台座には国立公園化の実現に寄与した大町桂月、武田千代三郎、小笠原新一の功績が刻まれている。十和田湖の観光は団体旅行客が主力であったが、観光が個人客に中心にシフトするにつれてホテル等の施設が対応できないまま陳腐化。2010年代に入ると東日本大震災などによる宿泊客の落ち込みもあり、休屋地区の宿泊、売店、食堂など施設の約1/3は営業できない状態となった。休業中の宿泊施設は解体されるものもあったが、放置状態となり劣化、景観上から問題となるものもあった。2020年には国有地内の破綻した旧十和田観光ホテルが、環境省の代執行により解体されている。観光船に乗って、十和田湖巡りをした。▲小さな島に神社を祀ってあるのが見える。観光船を降りてから、木道を歩いて、「乙女の像」を見に行く。「乙女の像」の近くに、修学旅行らしき、賑やかな集団がいた。今時の乙女たちは、賑やかで、楽しくて、屈託がない。この日の夕食に、■いぶりがっこ■と■きりたんぽ鍋■を食す。美味(⌒∇⌒)▲「じょっぱり」。津軽弁で頑固者のこと。●14061歩 十和田湖畔泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.11
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■6/11(土)♪緑の中を走る、白いレンタカー・・・。この日は、奥入瀬渓流をレンタカーと一部分、歩く。青森県と秋田県にまたがる周囲44㎞の十和田湖。その湖から流れ出る唯一の川が奥入瀬川(おいらせがわ)で、上流部14㎞は、特に「奥入瀬(おいらせ)渓流」と呼ばれています。明治41年、初めてこの地を訪れた文人・大町桂月は、その景観の美しさに感動し、「住まば日の本、遊ばば十和田、歩きゃ奥入瀬三里半」(大町桂月)と残した。 奥入瀬渓流は∪字形をした渓谷で、谷底の平坦部が比較的広く、湿った環境を好む植物が広く分布しています。谷底が広いので、車道と歩道が分かれて安全に散策できるのがいい。この上の写真には、左にバスが写っていて、その下に歩道がある。十和田湖という大きな湖を源とするこの川は、水量が安定し洪水も少ないのが特徴です。そのため土がよく肥えており、トチノキ、カツラ、サワグルミといった林が流れの両側に広く見られます。シダ類が繁茂する小径をさらに進むと「石ケ戸(イシゲト)」。地図によれば、焼山からの距離は5.3㎞。「石ケ戸」とは、この地方の方言で「岩屋」を意味するとか。なるほど、遊歩道の脇の大きな平岩が、カツラの巨木に支えられて石室のようになっています。ここは女盗賊の根城だったという伝説もあります。ここに車を止めて、雲居の滝まで歩いた。ところどころに横たわる倒木には幼樹が根付き、生命の再生を目のあたりに感じます。銚子大滝の名前の由来は、現地の案内看板によると十和田湖を巨大な銚子(とっくり) に見立てた場合、ご覧のように銚子大滝付近が注ぎ口にあたるという事からきているそうです。「子ノ口」に到着。右が十和田湖、左が子ノ口。奥入瀬渓流は、ここからはじまる。奥入瀬渓谷は、これまで見た景色の中でいちばん美しい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.09
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■6/10(金)青森市にある■棟方志功記念館■に行った。少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した(友人たちとの会話の中で「大きくなったらお前は何になりたいか」の問いに「私だったら絵描きになりたい」という趣旨であった、ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある)棟方志功は、版木を彫りながら、ベートーベンの「喜びの歌」や民謡の鼻歌を歌いながら掘っていた。見た瞬間に掘るというやり方や速さは天才的で、鼻歌を歌う呑気なおじさんと大違い。■八甲田山雪中行軍遭難資料館■に行った。 八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。▲「八甲田山雪中行軍遭難資料館」の敷地にある遭難した兵士の墓。●行軍の目的。冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。●1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。●「天は我らを見捨てたらしい」小原伍長の証言によれば、「天は我らを見捨てたらしい」というような言葉を神成が吐いたとされる。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの将兵が、この一言により箍(たが)が外れ、矛盾脱衣を始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「いかだを作って川下りをして帰るぞ」と叫び、樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出した。●現地に来て分かったこと★アイヌの活躍。勇敢で雪山の知識もあるアイヌが6人、捜索隊に加わった。2月11日~4月19日まで捜索。その結果、67日間の捜索活動で遺体11体と多数の遺品を発見した。4月になり、アイヌの労働の季節になったので、弘前の軍隊の見学と市内の見物の後、北海道に帰った。★雪中行軍絵柄掛け布団。☝明治天皇は、遭難事件を悼(いた)まれて、掛け布団に雪中行軍の様子を御自ら考案されて織り込まれたものを毎年冬になるとご愛用されていたそうです。「八甲田山雪中行軍遭難資料館」から少し離れた所に、奇跡的に助かった、後藤伍長の発見場所があり、銅像がたっているというので見に行った。新緑の山道の脇には、白樺に似た美しい林があった。坂道の途中に「ケッパレ」の文字。「がんばれ」の東北弁。後藤伍長、発見いたしました!!この場所で、立ったまま、気を失っていたという。この後、八甲田山のロープウエイに乗って山頂に行く。八甲田山は、東北地方の脊梁奥羽山脈の北端に位置する。ロープウエイに乗って山頂に行くと・・・▲6月というのに、残雪がすごい!!▼6月でもこうだから、真冬の八甲田、考えただけでも恐ろしい!!■青森市・三内丸山遺跡■●6706歩 八甲田泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.08
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■6月9日(木)空路、青森市に着いた。「青森」という地名は、江戸時代前期の寛永元年(1624年)に弘前藩が現在の青森市の場所に港町の建設を始めた時に名付けられたもので、現在の青森市本町付近に海上からの目印になる「青い森」(現在は消失)があったことが由来とされている。青森空港でレンタカーを借り、「三内丸山遺跡」を見に行った。「三内丸山遺跡」の読み方を、青森に来るまで、「さんだい」と読んでいた。「内」を境内のように「だい」と読み、「さんだい」と読むのだと・・・。ところが、「さんない」とルビがふってあるので、納得のいかない私は、「誤字だ!」と決めつけていた。何回も「さんない」とかいてあるので、「さんない」と「さんだい」の両方があるのだと勝手に決めていた。( ;∀;)三内丸山遺跡をガイドさんの案内で廻った。■三内丸山遺跡は、■今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。●大型掘立柱建物跡●地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。●大型竪穴建物跡●長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。●遺跡の終焉の謎●これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらい。栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。三内丸山遺跡の後、宿に荷物を置いてから、近くの■青函連絡船 メモリアルシップ 八甲田丸■を見に行った。青森市に位置している青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸は、青森市のシンボルである青函連絡船の歴代55隻中、23年7か月間と最も長い間就航していた八甲田丸をほぼ就航当時の状態に、係留保存した施設になります。1908年から1988年までの80年間で青森と函館を結ぶ連絡船として、1億6千万人の乗客と2億5千万トンもの貨物を運びました。連絡船は、青函トンネルができるまでは青森と函館を結ぶ大動脈でした。▲列車をそのまま船に引き込み海を渡るアイデアがユニークです。船内は、青函鉄道連絡船記念館として当時の風俗を表す展示場になってます。籠や木箱に入っているりんごが当時をあらわしている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆青森市文化観光交流施設「ねぶたの家 ワ・ラッセ」は、ねぶた祭の歴史や魅力を余すことなく紹介し、ねぶたのすべてを1年を通して体感することができる施設。そこで見つけた、青森の言葉を見てけじゃ( ´艸`)●10993歩 青森市泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.04
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(▲赤レンガのレトロな建物「ランプ」)(2020年に書いていたblogで、アップしていなかったから、今日、アップしよう。)外出もままならない状態なので、過去の写真の整理をしている。この写真は、■2016年■に行った岡山県津山市。撮っていた写真の「安田橋」をもとに調べてみるといろいろ分かって楽しい。■安田橋■安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。鳥取で三ヵ月ばかり働いて津山へ帰り、三円の借金を大村先生の実家へ返済、金物の行商をはじめた。(略)心機一転、牛乳商売を思い立ち、津山で初めて乳業を開始した。当時はバケツのようなもので一軒々々くばり、先方のウツワに一合とか二合という必要に応じて、わけて歩いたようだ。これで一応成功、中鉄布設の期成会をつくったり、町会議員になったり美作銀行の発起人、美作製紙の支配人など大いに活躍、さらに児童の通学の便をはかるため、いまの児童公園前に「安田橋」をかけ、鶴山公園に杉二千本を寄贈、戦争で供出されたが鶴山公園に牧原六郎左ヱ門と井汲唯一の顕彰碑をつくるなど、社会奉仕活動をした。■安田橋(文:『作州からみた明治百年上』より)■橋に歴史あり。(■私は肉は食べないが、ハンバーグやコロッケは食べる)■江戸時代には、仏教の影響により肉食が禁止されていたが、近江彦根藩(滋賀県)と津山藩のみ薬として食べる「養生食」として肉食が認められていた。「養生喰い」とは、「薬として食べる」という意味。そのせいか、津山はいまもホルモン料理が有名だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.06.27
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■4月15(金)-2兵庫県・丹波篠山市→鳥取市→鳥取県・倉吉市→琴浦町・光(みつ)→大山町・所子(ところご)→鳥取県・米子市→岡山県津山市院庄。津山市観光ボランティアガイドさんに津山市の重伝建地区を案内してもらう。ガイドさんの背中の大の字のような印は、津山市の市章で旧津山藩の槍印。参勤交代に親藩松平家の威勢を示したもので、昭和7年に、これをかたちどって市章に制定した。俗に「剣大(けんだい)」という。江戸時代、戦国武将・森蘭丸の弟・森忠政によって築かれた津山城と、その城下町、津山。市内を東西に貫流する、岡山三大河川の一つ「吉井川」北側に津山城下町は整備されました。(▲牛や馬をつなぐ輪。)大きな戦禍にも見舞われなかったこともあり、津山市の中心部には、近世から近代にかけて築かれた建造物や工作物などの町並みが今も残っています。出雲往来を軸とした江戸時代以降の地割り、軒先がそろった町家群、敵の襲来を防御する枡形、各宗派の寺院建築群など、市内中心部の東西2つの地区に伝統的建造物(約390件)が軒を連ねる歴史的町並みを見ることができます。(▲薬屋)往時の歴史的風致をよく形成し、まちづくり協議会を主体とした地域をあげての保存活動が評価され、平成25年に津山城の東側の「城東地区」が、令和2年には城の西側にある「城西地区」が「重要伝統的建造物群保存地区」(以下、重伝建地区)に選定されました。津山市は2地区の重伝建地区を有するまちです(全国で15番目)。(▲左・町屋の瓦と右・津山城の瓦)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆城東地区をガイドさんに案内してもらった後、城西地区の作州民芸館と翁橋(おきなばし)に行った。■●作州民芸館●■明治42年に土居銀行として建立され、その後、昭和5年に中国銀行へと変遷しました。その後、建物は日本塩回送会社、吉井川漁業組合等に所有権が移りましたが、平成4年に津山市が取得し、作州民芸館として活用することになりました。作州地方の民芸品や郷土玩具が展示されています。この建築は、ルネッサンス調の意匠を基本にまとめられており、玄関の両翼を少し張り出して厳格な左右対称の正面性の強い特徴となっております。外壁は多様なモチーフを用いてあります。(▲2階の折り上げ格天井)●翁橋(おきなばし)●津山市中心西部を流れる藺田川[いだがわ]に架かる橋長・幅員ともに約10mの小規模な鉄筋コンクリート造T型桁橋。江戸時代には、城下町の西の入り口として橋の東詰に大番所が設けられていた。大正15年(1926)に現在の形となり、四隅に位置する万成石[まんなりいし]製の大型の欄干親柱には、当時盛行したアールデコ的デザインが施されている。大正ロマンを感じさせるルネサンス調のデザインで厳格な左右対称が特徴となった建物。橋名は、藺田川が一時期「翁川」と呼ばれていたことから命名されたといわれている。江戸時代には茅橋あるいは久蔵橋とも呼ばれていました。 出雲往来。いわゆる出雲街道。※「出雲街道」の呼び名は通称で、本来「街道」とは五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)のことを指す。旧出雲街道にかかる橋で、現在のところ登録文化財として指定されている岡山県唯一の橋です。 津山を流れる吉井川は高瀬舟で有名。■高瀬舟は、■すでに室町時代には岡山県下の川を運行し、鉄道が通じるまでは重要な交通路の役割を果たしていました。吉井川では津山~西大寺がメインルートでしたが、本川では鏡野町湯指まで登っていました。また、県下で最も大型で、江戸初期の豪商・角倉了以が17世紀初め、この高瀬舟を見本にして、京都の大堰川をはじめとする河川開発を行って、舟運を開いた話で有名です。■曳舟の道■4月11日に出発した時は、まだ桜が残っていたのに、この日、4月15日は、葉桜がきれいだ。まさに、 「世の中は三日見ぬ間の桜かな」でどんどん変わって行く。 全走行距離は、725㎞の■「ドライブ・マイ・カー」■の旅はこれにて、お仕舞。●9012歩。■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■■山陰(鳥取)紀行:倉吉淀屋■■山陰(鳥取)紀行:光(みつ)の鏝絵と所子の重伝建■■山陰(鳥取)紀行:米子観光■■山陰(鳥取)紀行:岡山県・津山市:桜ほろちる院庄と津山高校■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.23
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■4月15(金)兵庫県・丹波篠山市→鳥取市→鳥取県・倉吉市→琴浦町・光(みつ)→大山町・所子(ところご)→鳥取県・米子市。帰りの道で岡山県・津山の佐楽(さくら)神社に寄る。 「忠義ざくら」桜ほろ散る 院の庄遠き昔を 偲(しの)ぶれば幹をけずりて 高徳(たかのり)が書いた至誠の 詩(うた)がたみ大君(きみ)のみ心 安かれと闇(やみ)にまぎれて ただひとり刻む忠節 筆の跡めぐる懐古に 涙わく天莫空勾践(てんこうせんをむなしゅうするなかれ)時非無范蠡(ときにはんれいなきにしもあらず)風にさらされ 雨に濡(ぬ)れ文字はいつしか 消えたれどつきぬ誉(ほまれ)の 物語永久(とわ)に輝く 花のかげ「忠義ざくら」という古い歌を父が時々歌っていた。元々は軍歌として作州で広く知られていたもので、昭和戦前期にキングレコードから『忠義ざくら』として発売された。内容は、児島高徳(備後三郎)の誠忠を歌ったもの。「児島高徳」は大正から昭和初期にかけて文部省唱歌だった。明治45年生まれで、大正時代に子供時代を過ごした父は、この歌の教育を受けたのだろう。(▲児島高徳(たかのり)■船坂峠で奪還に失敗した高徳は■諦めきれないまませめて志だけでも天皇の耳に入れたいと、日が暮れて一人ご在所に忍び込むものの、警備がことのほか厳しく天皇の寝所に近づくことは叶わない。思いあぐねた結果、囚われの身の天皇を少しでもお慰さめしようと、館の庭に植えられた桜の木に、あの有名な10字の詩を彫り残し立ち去ったのである。 『天莫空勾践。 時非無范蠡。』(天、コウセンを空しくするなかれ、時にハンレイの無きにしも非ず) ●意味●(天は勾践(こうせん)を見捨てません、時が来れば范蠡(はんれい)のような忠臣が出て助けてくれます。)翌朝、夜中に賊の侵入を知った衛士が騒ぐ中、天皇は桜の木に刻まれた10字の詩を見て、一人静かにほほ笑んだと伝えられている地が院庄館である。 ■院庄(いんのしょう)■岡山県津山市神戸(じんご)にある館跡。津山盆地の西端、吉井川左岸の微高地に所在し、鎌倉時代から室町時代にかけての美作(みまさか)守護職の館(平城)があったところで、現在は明治時代に建てられた作楽(さくら)神社の境内になっている。発掘調査で、館の規模は東西200m、南北150mほどと推測され、(▲土塁)東・北・西側に残っている土塁は、最初の館の構築から少し後に築かれた往時の土塁を踏襲したもので、中には井戸、掘立柱建物があったことが判明した。青磁、白磁、墨書磁器、備前焼なども出土している。1922年(大正11)に国の史跡に指定された。(▲ぐるりと堀がめぐらせてある。)慶長8年(1603)美作18万石の藩主森忠政は、初代藩主としてこの地に到着し、ここに築城を考えてました。ところが、藩主夫人の兄と重臣の意見が合わず果し合いになり、2人とも亡くなってしまったので、鶴山に変更したそうです。また藩主夫人の兄・名護屋九右衛門は出雲阿国と浮名を流してたので、阿国は郷里に帰る途中お墓参りをして涙したとあります。院庄 六百年の涙雨 井上剣花坊■井上剣花坊・静岡県・下田にて■■井上剣花坊・生地の山口県・萩にて■ 備前の国児島郡林(現在の倉敷市林)で生まれたとされる児島高徳だが、南北朝時代を題材にした軍記物語「太平記」にしか登場しない人物であることから、その実在を疑問視する声も一部にはあるようだ。しかし幕末から明治に入ると、天皇に対する忠臣として教科書や文部省唱歌などに取り上げられ、その肖像は当時の二円札に用いられるほどに持て囃された。これは多分に皇国史観を教える手段として、この伝承が使われたとも言われている。岡山県立津山中学校・高等学校は、岡山県津山市椿高下に所在する公立中学校・高等学校。併設型中高一貫校。旧津山中学校は、明治28年に岡山県津山尋常中学校として開校。本館は明治33年に建設されました。屋根部分は寄せ棟造りで、桟瓦ぶき、正面中央にある台形の塔屋にある時計台が印象的で、カーブを描く窓が異国情緒を醸し出しています。ルネサンス様式を基調にした優美なデザインの建物です。明治時代の旧制中学の数少ない遺構であり、意匠的にも優れているため、平成7年に国の重要文化財に指定されました。当時の学校建築の趣をよく残すことから、 NHKの連続テレビ小説「あぐり」で、第一岡山高等女学校のシーンの撮影に使用された。 NHKの連続テレビ小説「カーネーション」では、小原糸子が通う泉州高等女学校のシーンの撮影に使用された。1903年(明治36年)に皇太子(のちの大正天皇)の津山行啓があった際には、同館2階右翼を貴賓室とし、休息された(『津山高校百年史』より)。昭和天皇も津山に行幸(2度)の折、立ち寄ったことでも知られる。稲葉浩志(ミュージシャン・B'z、ボーカル担当)の母校だ。■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■■山陰(鳥取)紀行:倉吉淀屋■■山陰(鳥取)紀行:光(みつ)の鏝絵と所子の重伝建■■山陰(鳥取)紀行:米子観光■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.19
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■4月14(木)この日は、大山町の隣、鳥取県・米子市をガイドさんの案内で歩く。米子市(よなごし)は、鳥取県の西部に位置する市である。●後藤家●江戸時代、藩の米や、鉄の回漕の特権を与えられた廻船問屋だった「後藤家」。現在でも加茂川の京橋のたもと、その立派な邸宅が残されています。切妻屋根に本瓦、千本格子に家紋入の白壁……重厚な造りが当時の姿のまま保存されています。江戸時代に、木造平屋建てで本瓦葺屋根の民家はこの地方ではこの後藤家だけでした。全国でも数少ない、貴重な文化遺産となっており、圧倒的な存在感で、後藤家の往時の繁栄を今に伝えています。明治の初期までは、北側道路に面した敷地に数多くの蔵や付属建物も残されていたそうです。現在では母屋と一番蔵、二番蔵、味噌蔵だけが残されています。(建物内部は一般公開はしていません。)昔は、道の部分は、堀だったので、はしけが直接蔵に着いた。(▲雨が強く降っていたので、写真が曇っている。)近くに「後藤駅」という駅があるが、鉄道の敷設に尽力した米子の豪商・後藤快五郎に由来する駅名である。▲車の通っている道は、堀だった。●鹿島家●その鹿島家の中庭には、米子城修理の際、当家が拠出した費用の代わりに受け取られた鯱が、ある。江戸時代後期、嘉永5年に米子城の石垣を含む小天守閣の解体修理がなされた際、鳥取池田藩の命により富豪の鹿島本家・分家が、費用七千両を肩代わりし、その功労の対価として四重櫓に飾られていた鯱が鹿島両家に下贈された。鹿島家は同家の『永代記録第一』によれば、初代は岡山商人の高林三郎左衛門常吉である。米子へ小間物行商に来ているうち立町に定住することにし、親類の六兵衛も一緒に住んだという。このあたりは、今も鹿島家の土地だ。●坂口合名会社●(米子市尾高町66)米子の中心街の裏手、古い町並みが続く一角に2階建て石造の洋風建築が建っています。この建物は米子を基盤とした地方財閥坂口家の中核会社の建物として昭和6年に建てられました。▲坂口家江戸時代に米子で木綿商を営んでいた坂口家は、明治期になると醤油醸造や製糸業、石油卸、林業等の多角化を図り、やがて銀行経営や電力事業、倉庫海運までを手掛ける地方財閥に成長します。後身の坂口合名会社に引き継がれて今尚現存するこの建物は、近代の米子発展の基となった旧坂口商店本社として建てられたものです。主要な通りから一段奥まった狭い街路に面します。元々この一帯は坂口家の本家が置かれていた場所で、この建物も坂口家の敷地の一角に建てられていました。正面にジャイアントオーダー風の付柱を飾る石張りの重厚な建物。当時の銀行建物に類した意匠です。米子に残る近代建築の中で、竣工以来現在まで同一用途で使われている数少ない建物です。近代の米子が商業都市として発展する基礎を築いた坂口財閥の隆盛を伝える遺構として貴重なものとなっています。(▲雨が写ってる!!)●岡本一銭屋●岡本一銭屋は明治から続く駄菓子屋さんです。名物おばあさんが切り盛りされ、米子の子どもが集まってきます。ちびまる子ちゃんの世界、三丁目の夕日の世界の駄菓子屋さんです。■動画:岡本一銭屋■♪音が出ます!!町の中には、江戸時代、明治、大正、昭和(戦前)の建物が混在していた。■看板建築■旧理容館(米子市西倉吉町)看板建築とは、関東大震災の復興期にある昭和初期、東京で数多く建てられた商店建築。木造の店舗併用住宅で、建物正面が洋風に装飾されているのが特徴だ。裏側は和風建築なのだが、正面は西洋建築風でそれが1枚の看板板を取り付けたかのような趣であることから、看板建築と呼ばれるようになった。「かっぱのコンちゃん一家」は米子市尾高町の旧加茂川添いにあります。 「カッパロード」には他にもいくつもカッパ像があります。旧加茂川、天神橋横から出航し中海へ。船上からは米子城跡、米子市街、大山(国立公園)が眺められます。また、サンセットクルーズもあり、中海の夕陽を満喫できます。要予約。雨のため、乗らなかった。この日は、朝から雨。日吉津(ひえづ)のイオンモールで時間を潰す。この建物、右側は、太陽電気を作る壁になっていて、▼左側には、気温を下げるために芝生が植えてあった。時代やなぁ・・・。●7740歩■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■■山陰(鳥取)紀行:倉吉淀屋■■山陰(鳥取)紀行:光(みつ)の鏝絵と所子の重伝建■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.16
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■4月13(水)-3兵庫県・丹波篠山市→鳥取市→鳥取県・倉吉市→この日は、琴浦町、大山町とまわる。■琴浦町・光(みつ)の鏝絵■蔵がお洒落をしている町!!江戸末期から昭和初期に庶民の建築文化として全国的に流行していたといわれ、左官職人が漆喰壁に、鏝で福神や動物、植物などの浮き彫り模様を塗り、絵画的、装飾的に付けたものを言います。蔵にもよく見られるので、「蔵飾り」とも呼ばれています。●打ち出の小槌●戦後、昭和三十年頃から建てられている蔵には、縁起を祝う意味で、「鶴・亀・鯉・松竹梅・巾着・打出の小槌、瑞雲・立浪」などが、それぞれの家の好みによって取り付けられており、この頃から荒壁で済ませてきた蔵にも鏝絵を付け始めています。●鯉の滝登り●中国では、「龍門の滝」を登ることに成功した魚だけが龍に変身できるという言い伝えがあります。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■大山町所子伝統的建造物群保存地区■所子集落は、中国地方最高峰・大山の北麓に広がる扇状台地上に形成された農村です。集落内を通る大山参詣道(坊領道)沿いには、門脇家住宅(重要文化財)、南門脇家住宅(県指定保護文化財)、東門脇家住宅・美甘家住宅(国登録有形文化財)をはじめ、近世から昭和初期に建てられた建築物が多く残り、集落内を流れる用水の音色と相まって風情ある町並みを醸し出しています。●力石●自治会館の前に残された力石。力石は16貫(60キロ)を基準としてあり、所子の力石には、16貫目と22貫目(82.5キロ)の重量を示す文字が彫られている。●サイノカミさん。サイノカミは、災いや悪病が村に入るのを防ぎ、また良縁をもたらす神などとして信仰されました。このサイノカミは男女の双神像です。所子では、現在も12月14日の深夜に、しめ縄を替えて藁馬を供え、付近の木に藁の大草履を吊るして祀ります。地区内には大山から日本海へ流れる阿弥陀川から引いた水路が流れ、集落の端には六地蔵やカミ、シモの墓地のほか、家屋群の周辺には圃場整備がされていない水田が広がる。●駒繋ぎ石●牛や馬を繋ぐ石。●シモの六地蔵●シモの六地蔵は宝永7年(1710)の建立で、以前はサイノカミさんの近くにあったそうです。埋葬墓地の入り口に置かれています。●門・長屋門●敷地の入り口には、木柱にしめ縄を張る鏑木門、表門のほかに、門と長屋が合わさった長屋門と呼ぶべき独特の建物が見られます。●屋敷林・生垣●屋敷周りには塀のほかに、風除け、防火、目隠しなどの役割で常緑樹が植えられています。集落南側のカミの家屋郡では、生垣、屋敷林が多く見られます。鳥取県内で国の「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に指定されるのは■倉吉市打吹玉川地区(平成10年指定)■と大山町所子地区(平成25年指定)の2地区。■アクセス■観光客は私たちだけで、偶然出会った、村の女性が家の前を流れる水路の思い出話をしてくれたりと、のんびりまわれた。●10446歩■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■■山陰(鳥取)紀行:倉吉淀屋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.13
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■4/13-2大阪市内を流れる土佐堀川に■「淀屋橋」■と■「常安橋」■という橋があるが、これらは、江戸時代の大坂の豪商、「淀屋」に由来する。「天下の台所 大坂」の土台を築いた淀屋。その総資産は約20億両(現在の貨幣価値に換算すると約200兆円)。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展することに大きく寄与した。(▲大阪・淀屋橋横にある淀屋の碑)栄華を極めた淀屋だったが、江戸幕府によって全財産を没収されます。闕所(けっしょ)=所払いを言い渡され、その場所で商売をすることも叶わず、広大な店も莫大な財産もすべて取り上げられます。 淀屋はもう終わりかと思われましたが、実は鳥取県倉吉市にひっそりと暖簾分けをした「倉吉淀屋」があったのでした。四代、淀屋重當(よどやじゅうとう、しげまさ) 寛永11年(1634年) - 元禄10年(1697年)が、闕所処分とされる事を予想し、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾分けをした。▲淀屋が闕所(けっしょ)=所払いとなった理由。▲淀屋が倉吉の地を選んだ理由。この屋敷は、倉吉の「淀屋」。暖簾分けをしてできた倉吉淀屋は、倉吉を代表する商家となります。そのきっかけとなったのが稲扱千刃でした。爆発的なヒット商品となった稲扱千刃を製造販売し、倉吉絣とともに売り出して、着々と発展していきます。淀屋が暖簾分けをしてできた倉吉淀屋は、倉吉を代表する商家となります。倉吉淀屋の4代目 牧田五郎右衛門の頃には、もともと淀屋があった大坂の土地を買い戻すまでに至りました。 中は大部分が修復されていますが、一部当時の姿を残す柱などがあります。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲■淀屋橋■橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った(後の堂島米市場)。2008年には、「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリート橋としては珍しく重要文化財に指定された。■淀屋橋■▲■常安橋■■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.09
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■4月13日(水)鳥取県倉吉市をガイドさんの案内で歩いた。かつて倉吉盆地には伯耆国の国府があり、古代にはこの地方の中心地の一つだった。土地の歴史は古く、奈良時代には伯耆[ほうき]国の主邑[しゅゆう]、政[まつりごと]の中心だっ。国庁や国分寺が置かれ、国司として万葉の歌人・山上憶良や大伴旅人らが赴任している。■町紋■倉吉の町には、それぞれの「町紋」を持っている町がある。祭礼や共同作業、消防作業などの時、他町と区別する目印として用いられた。江戸時代の町が中心だが、明治・大正時代に成立した町にもみられる。町紋の由来は伝わっていないが、町の成立に関すると思われるものもある。(倉吉市新町 駐車場の看板より)本町通りにはクラシカルな、アールデコの西洋建築も点在。こちらは日本産業貯蓄銀行倉吉支店として昭和6年(1931年)に建てられた、倉吉初の鉄筋コンクリート造りの建物。現在は弓道体験場として利用されています。細長い町屋の作りが弓道にぴったり。■白壁倶楽部■明治41年(1908年)建築の擬洋風建築が目を引く、旧国立第三銀行倉吉支店。旧街道「倉吉往来」に面した角地に佇み、周囲の古い商家とも美しく馴染んでいます。平成8年(1996年)に国の登録有形文化財に指定。鳥取県第一号の国登録有形文化財である明治時代築の元銀行の建物を利用したレストラン。江戸時代、鉄と木綿は鳥取藩の二大特産物であり、鉄は日野郡、ついで河村郡(小鴨川,国府川流域周辺)の生産が多いとされていた。倉吉のマンホールには、稲扱千歯(稲扱千刃)(いなこきせんば)のギザギザ模様がある。赤い石州瓦(せきしゅうがわら)は、島根県の石見地方で生産されている粘土瓦のこと。焼成温度が1200℃以上と高いため凍害に強く、日本海側の豪雪地帯や北海道などの寒冷地方でシェアが高い。独特の赤褐色で知られ、赤い屋根の町並みや集落を山陰地方では至るところで見ることができる。この色は、同じ島根県の出雲地方で産出される含鉄土石「来待石」を釉薬に使用することに起因する。屋根の上にある石は、冬に西から吹いてくる強い季節風から瓦を守るためだそうだ。 ■舟運■ 天神川流域の舟運は、市町村史等によると以下のような特徴があった。〇 天神川水系の舟運は江戸時代以前~明治末頃にかけて見られた。江戸時代は年貢米の輸送路として、明治初期には河川交通として利用されていた。倉吉地方の年貢米は高瀬舟で橋津(東郷池方面)に回送され、橋津から鳥取あるいは大阪へ送られていた。〇 舟運は天神川においては河口から若宮(三徳川の合流点付近)まで上がっており、小鴨川では国府・上古川(8.0km 反土橋付近)まで往来していたとされる。〇 橋梁の数が少ないため、所々に渡しがあった。町に流れているのは、玉川という。玉川は小鴨川に続き、天神川へと続く。この屋敷は、倉吉の「淀屋」。江戸時代からの繁栄を示す、2階建ての立派な町屋となっている倉吉淀屋。■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.04
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■4月12日(火)-2兵庫県・丹波篠山市、鳥取市の次に行ったのは、鳥取市・鹿野町。鹿野(しかの)町は、JR山陰本線浜村駅より車で約15分、鳥取市街からは車で約30分という位置にあります。鹿野をガイドさんの案内で歩いた。城下町の中央を鹿野往来が通っています。四百年流れつづける水路。鹿野城主亀井茲矩により造られた水路が、町の中を縦横無尽に流れています。取水は東の水谷川、西の河内川から引き込み、当時のまま今なお流れ続けています。▲馬や牛をつなぐために使用したとされる「牛つなぎ石」。現在では、藩政時代に設置させれたと言われるものが7個あり、当時、因幡・伯耆の中心地で、交通・商業の要衝の地であったことがうかがえます。■格子戸に、掛けられているのは、「鹿野すげがさ」。■▲鹿野城の堀。鹿野城は現在、天守などの建物はなく石垣などの遺構が残されています。天正九年(1544)出雲の尼子勢出身の亀井武蔵守茲矩が鹿野城主となり、父子二代でこの城を拠点に三七年間統治しました。元和三年(1617)二代目政矩は津和野へ移封、城は寛永五年(1628)焼失し、石垣は正保元年(1644)取り壊されました。戦国時代、下剋上の世にあって一貫して主君尼子氏のために命を掛けて戦った武将が山中鹿之介(幸盛)です。願わくば我に七難八苦を与えたまえ大きな仕事を成し遂げるためには、望んで苦しいことに立ち向かうべきだという考え。天才的なセンスをもっていた鹿之介だが、日々の鍛錬を欠かさなかった。鹿之介は、中国地方の有力者毛利氏との争いに敗れた尼子氏を再興するため、近畿、中国地方の各地で転戦しますが、ついには播磨の国の上月城に追い詰められ、捕われの身となり、備中高梁川の渡し場で斬殺されました。鹿野城主となった茲矩は、家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿之介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、霊を慰めるため寺と墓を建てました。寺の名は鹿之介の別名・幸盛(ゆきもり)から「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。 戦国時代、山陰地方を治めていた尼子氏には、「楠木正成にも勝る」と謳われた武将がいた。その勇猛さと才智を頼山陽や勝海舟にも激賞された山中鹿之助幸盛は、天文十四年(一五四五年)、出雲国富田に生まれた。幼少期を山野で過ごした鹿之助は、三日月の前立てと鹿の双角を備えた兜を被り、一騎打ちに抜群の強さを発揮した。しかし尼子氏は幾多の戦いを繰り返した後、強敵毛利元就の軍門に下ってしまう。野に下った鹿之助だけは、百回打ちのめされても千回挫折を味わっても、尼子家再興を諦めなかった。この日泊まったホテルの窓から見えたのは倉吉駅。●9894歩■4/11:山陰(鳥取紀行)の前に丹波篠山・篠山城■■4/11-2:山陰(鳥取紀行):重伝建・丹波篠山城下町■■4/12:山陰(鳥取紀行):鳥取城と仁風閣■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.25
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■4月12日(火)兵庫県・丹波篠山から鳥取県・鳥取市へ。この日は、鳥取城跡と仁風閣をガイドさんと廻った。▲■天球丸巻石垣(てんきゅうまるまきいしがき)1807(文化4)年頃に背後の石垣が孕(はら)み出し、その崩落を防止するため築かれた球面石垣。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが主で、城郭の補強に用いられるのは、きわめて珍しい例である。▲■姫路城の弟城■二ノ丸三階櫓は、山陰地方では初めての層塔型(そうとうがた)の櫓とされた。姫路城の大天守が築かれてから約10年後、同じ職人たちによって再整備された鳥取二ノ丸城のは、「姫路城の弟城」といえるもの。山上の丸の石垣は、高石垣を築くのではなく2段・3段の石垣を築き上げていく手法であるため、その大部分が宮部時代に築かれたものではないかという説がある。石垣を注意深く観察すれば「野面積み→打ち込みハギ→切り込みハギ」と推移した石垣築造技術の変遷を確認することができる。また、二の丸御三階櫓の背後の山腹には、江戸期の改築時の石切場の遺構もある。城の上から、白亜の西洋館が見える。これは、「仁風閣(じんふうかく)」という建物。■仁風閣(じんふうかく)は、■鳥取県鳥取市にある西洋館。中国地方屈指の明治洋風建築として名高く、国の重要文化財に指定されている。木造2階建て白亜塗りのフレンチルネッサンス様式で、1・2階共にベランダが設けられており、ガラス張りの2階バルコニーからは、市指定名勝である池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。館正面右の螺旋階段は支柱を用いない、ケヤキの厚板で支えられた独特の構造をしており、外にあるのはこれの角尖塔である。旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸という名目であったが、当初より皇族の宿泊を意図して設計・建築されたとされる。完成同年に行われた皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の御宿所として利用され、館名は、これに随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したもので、同人の筆による額が現存する。明治以降は鳥取市の所有となり、迎賓館や公会堂として利用された。1943年の鳥取地震で損傷し、この際の修復でスレート屋根が瓦葺に変えられた。1949年から鳥取県立科学博物館として、1972年に現在の鳥取県立博物館が完成するまで利用された。1973年国の重要文化財に指定された際に3年をかけて修復が行われている。この部屋には、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が座った椅子が置いてある。体が弱かったので、疲れると長椅子に横になっていたという。鳥取市のガイドさんのジャンパーの絵は、砂丘は分かるけど、あとは、なんだろう??■山陰(鳥取紀行)の前に丹波篠山・篠山城■■山陰(鳥取紀行):重伝建・丹波篠山城下町■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.22
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■4月11日(月)-2(▲丹波篠山市をあらわすデザイン。松、城の石垣、ササユリ。)(▲町人のエリア)篠山城(ささやまじょう)の後、平成16年(2004)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された「篠山の町並み」を歩いた。まず、御徒町(おかちまち)から歩く。西新町の武家町は、主に篠山城の外堀に面した上級武士の屋敷群と、その一本西に通る御徒士町(おかちまち)通りに沿った下級武士の屋敷群から構成されている。(徒歩(かち)たちのエリア。馬に乗れず、歩く=徒歩ので徒歩。下級武士のこと。)御徒士町通りはその名の通りかつて徒士(かち)たちが住んでいた通りであり、現在も茅葺入母屋屋根の主屋や土蔵、土塀に門などを持つ武家屋敷が連続して建ち並び、良好な武家町景観を保っている。一般的な屋敷の敷地は間口8間に奥行き25間。広々とした道路に向けて門があり、門から2間ほど後退したところに主屋がある。さらに主屋の奥には庭園や土蔵、竹やぶなどが配されている。▲道と塀の間に6尺(1.8m)幅の犬走(いぬばしり)と呼ばれる空き地があります。これは、天保元(1830)年の大火の後、延焼を防ぐために通りの幅を広くしたことによります。▲この橋を渡ると商家エリアになる。橋の向かって右には、牢屋があったそうだ!!旧商家町は、篠山城跡の南東に位置する小川町と河原町付近。江戸末期から昭和初めの町家や土蔵が立ち並び、妻入の中二階建て、桟瓦葺、白壁に出格子の西坂家や川端家などの家々がある。▲この家の市松模様のガラス戸が大好きになった♥■丹波篠山には、「「日本六古窯(にほんろっこよう)」のひとつ、丹波焼がある。■「日本六古窯」は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの産地(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。丹波焼、または立杭焼ともいう。王地山焼きの焼き物の展もしていた。■王地山焼は、■江戸時代末期、文政年間(1818〜30)、当時の篠山藩主であった青山忠裕(あおやまただやす)がこの王地山の地に築いた藩窯です。当時、大名たちの間では、茶器を焼く藩窯を持つことが流行していました。また、藩主の社交や藩内の産業育成などが開窯の背景であったと考えられています。篠山藩や地元の豪商などの保護もあり、嘉永年間(1848~54)の最盛期には幾多の気品ある作品が焼かれていましたが、明治2年(1869)廃藩置県を目前にして廃窯の運命となりました。▲休憩用にベンチの屋根が焼き物の窯の屋根風になっていた。▲階段は、陶器の割れたものをアクセントに!4月11日は、桜はまだ残っているし、柳の緑は、目に痛いほどの色だった。突然、風が吹いてきて、桜の花びらが舞い始めた。映画のワンシーンのような春の風景に、ガイド氏もシャッターを切っていた。ゆく春を丹波の人と惜しみけり はるな行く春を近江の人と惜しみける 芭蕉 (元歌)琵琶湖のある近江の国の春の美しさを近江の人たちと過ごし、行く春を近江の人たちと惜しんだのである。鳥取泊。この宿は、部屋が広く、パソコンが出来るスペースも広くとってあってよかった。●9233歩■2022.4.11(月)丹波篠山:篠山城■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.19
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■4月11日(月)4月11日(月)~15日(金)までの5日間、鳥取県を廻ってきた。鳥取に行く前に、途中丹波篠山市に寄ってきた。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ旧丹波国。この丹波国に属していた地域の内、京都府と兵庫県にまたがる7つの市町(福知山市、綾部市、亀岡市、南丹市、京丹波町、丹波篠山市、丹波市)。■その一つが、丹波篠山。■丹波篠山市(兵庫県)は、自然豊かな地域であるとともに、古来京都への交通の要として栄えてきた歴史があるため、町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残しています。 盆地特有の寒暖差が丹波黒大豆の栽培に適しており、近年、観光と農業を組み合わせた観光農業にも力を注いでいます。観光名所は篠山城跡とその城下町が賑わいをみせており、古民家を改装したカフェやレストランが増えています。冬場はイノシシのぼたん鍋が全国的にも有名。 また、「日本六古窯」のひとつ「丹波焼」のふるさとであり、伝統工芸も盛んに行われています。■「丹波」の語源■「丹波の国」の語源には、いくつかの説があります。その中の一つに、「赤米(古代米)の稲穂が波をうっているように実る国」という解釈があり、もしそうであれば、とても豊かな国であったのだろうと思われます。■天下普請で築かれた堅城■関ヶ原の合戦後、篠山領は前田茂勝、ついで松井松平康重が封じられ丹波八上城に拠っていました。 大坂城の豊臣秀頼の存在を警戒する徳川家康は、慶長14年(1609)、浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・ 福島正則ら豊臣恩顧の大名を動員して新たに篠山城を築いたのです。いわゆる天下普請とよばれるもので、 総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が手がけました。15ヶ国、20の大名の夫役、 総勢8万人の労力による大工事で、わずか6ヶ月という短期間で完成しました。▲石垣のあちこちに、符号が!▼城の名手藤堂高虎が手がけた、この城は、堀の石垣の下に犬走(いぬばしり)という部分がある。これは、堀を掘った時に出た土を積んだところだという。また、ここに石垣の材を置くのに使ったともいう。(ガイド氏の説明)城は、籠城のためには、2本はいるそうだが、この城にも数か所の井戸があった。■デカンショ節■が全国に普及したのは、ある偶然の出会いが元となりました。1898年、千葉県館山の江戸屋旅館での篠山出身者と旧制一高(現東京大学)の学生たちとの出会いです。旧篠山藩青山家は教育に大変熱心で、廃藩後、郷土の若者を年々東京に遊学させ、多くの秀才を育てたことは有名です。遊学生たちは夏になると房州八幡(はちまん)浜を避暑地と定めてやってきました。そして1898年の夏、江戸屋2階で青山忠充(ただこと)ほか篠山出身の若者たちが元気よく唄っていたのが郷土の盆踊り唄でした。ちょうど下の階に居合わせた一高水泳部員がこれを聞き、豪放で野性味あふれる歌詞とリズムに感動し、意気投合しました。彼らは東京に帰ってからも自由奔放にこれを唄いまくり、たちまち多くの学生、若者が共鳴を受けて愛唱するようになりました。この出会いが元となり「丹波篠山 山家(やまが)の猿が 花のお江戸で芝居する」というデカンショ節の一節とともに丹波篠山の地名は一気に全国に広がりました。デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ 丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ 花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ 酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ 灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ 猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ 文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ (この順番ではない時もある。) この後、町を歩く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.18
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■11月16日(火)富士紀行最後の日は、有名な柿田川に行く。柿田川は富士山周辺で降った雨や雪溶け水が、溶岩のなかを通り、その溶岩の南端である清水町で地上に湧き出た地下水が柿田川のもとになっています。地名大好きな私は、柿田川の住所に注目した。■静岡県駿東郡清水町伏見■清水町って、やはり富士の清らかな水っていう意味からではないのか?!また、伏見とは、伏水、つまり、その土地に水が潜んでいるという意味ではないか!!京都の伏見で日本酒が有名なのは、やはり名水があったから!!■柿田川の名称の由来■柿田川は古くは「泉川」と称されていました。「駿河国新風土記」(1800)によると「泉川は伏見八幡の南窪より湧出し即大川となる・・」また、「駿河志科」(1861)によると前記に加筆して、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから『カキダ』といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記しています。柿田川は、一目見ればその透明感に圧倒される美しい川です。富士山周辺に降った雨や雪が、数千年前の富士山噴火で流失した溶岩のなかを通り、その溶岩の南端である清水町にて地上に湧き出た地下水が柿田川のもととなっています。国土交通省が行った分析によると、富士山周辺に降った雨や雪が、柿田川の湧き水になって地上に現れるまで、26~28年の年月がかかるそうです。このように長い時間をかけて作り出された美しい自然を満喫できる公園ですが、市街地に位置しており、駐車場も広いため、手軽に訪問できるのもポイントです。年間をとおして川の水温が15度に保たれていることもあり、夏でもひんやりしています。時間は、ゆっくり見てまわって約1.5時間あれば、十分楽しむことができます。◆地底から水が湧き出ている「湧き間」駐車場から順路にそって歩いて行く道は、木の板で整備されています。周囲にはたくさんの緑があり、深呼吸がしたくなるような雰囲気です。しばらく行くと、「湧き間」と呼ばれる湧水ポイントが現れます。かつて製紙会社が使用していたとされる井戸の跡から、こんこんと水が湧いています。◆縁結びのご利益も「貴船神社」公園内には貴船神社もあります。これは、京都貴船神社本宮の分社です。とても小さな神社ですが、敷地内の木には、真っ白なサワガニが生息していたりと、その雰囲気は特別です。◆コバルトブルーとはこのこと「湧水第2展望台」ここにはデッキが用意されており、下を覗くと、コバルトブルーの湧き水を見ることができます。どのくらいの深さがあるのか、水が透明すぎて、距離感が分からなくなりそうです。ここは人気のポイントですので、誰も人がいないときに見たいという方は、早朝のお散歩がおすすめです。第二展望台から見える湧き間は特に美しく、公園一のパワースポットともいわれています。◆湧き水が作り出す別世界「湧水第1展望台」こちらからは第2展望台より、スケールが大きな景色を見ることができます。左を見ても、右を見ても湧き水と森、といった風景です。大地から湧き出る水に押されて、砂は水中でさらさらと絶えず動いており、まるで生き物が生息しているかのような動きです。柿田川を見た後、三嶋大社に行った。■三嶋大社■社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。(▲舞殿)当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。著名な老木として、神門内にキンモクセイ(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木・巨木である。「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている。▲展示されている瓦の大きさに圧倒された。11月2日~16日まで15日間の旅行も、これにて終わり。●エネオスで、レンタカーに給油。●トヨタレンタカー 三島新幹線口店で、レンタカーを返却。●11/2~16の全走行距離は、758㎞だった。●駅のドトールで、お茶しながら、時間待ち。●JR新幹線ひかり517号・岡山行の三島発が、15:46。新大阪着17:57。往きは、(熱海まで)「こだま」で3時間。復路は(三島から)「ひかり」で2時間だった。●11871歩毎度のことながら旅行中に親切にしていただいた、ガイドさんに感謝いたします。(-人-)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.27
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■11月15日(月)後半 ■前半■江川家を見た後、源頼朝(みなもとよりとも)配流(はいる)の地、蛭ヶ小島に移動。■1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝。■翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、3月11日、伊豆国流罪となった。『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。洪水等で変遷した狩野川の中洲の説や、湿田のなかに島状にある微高地であると考えられる。また、中洲の中でも小さい島であったことより、蛭ヶ小島と呼ばれるようになったとも考えられている。のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごしたとされている。その間には北条政子と結婚している。ただ、実際がどうだったのかは不明で、近年では流されたのは伊東という説もある。(☚■伊東にて■)頼朝は祐親の監視下に置かれて伊東に住んでいたのだという。伊豆国流罪となった頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に、(☚■伊東にて■祐親の三女・八重姫と結ばれ、やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられた。しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。この話は、■コメントでも教えてもらった。■蛭ヶ小島のガイドさんも、頼朝がモテていた話をしてくれた(o^―^o)史跡は旧韮山町が「蛭ヶ島公園」として整備し、公園内には「蛭島碑記」の石碑のほか、富士山に向かって立つ頼朝と政子の像がある。■水に落ちた犬は討て■というけれど、まさか、助けた頼朝に討たれるとは・・・あの時、助けなければよかった・・・と平家は思っただろう。 来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しみだ!!願成就院(がんじょうじゅいん)に移動。■願成就院(がんじょうじゅいん)■は、静岡県伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。 仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。■松本清張の「小説日本芸譚」■によると、●運慶の父康慶までは、いや、彼自身が中年過ぎまでは、彼らは奈良仏師という名で京都三条仏所派からは地方作家として一段低く見られていた。それが鎌倉幕府の援助の下に運慶が一門を率いて活動し、遂には主流となって三条派を衰微させ、この京の七条に仏所を構えてからは、完全に相手を蹴落としたのであった。三条派を衰退させたきっかけが、この寺だったのだろうか?『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。 ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。(▲朝、ホテルの窓から見た富士。) ♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとけるとけて流れてノーエ とけて流れてノーエとけてサイサイ 流れて三島に届く源兵衛川は、市街地を通り中郷温水池(ため池)まで流れている全長約1.5kmの農業用水路。三島駅前の市立公園「楽寿園」に湧き出す富士山の伏流水が源流です。川のなかには飛び石状の散策路が配されていて、水のせせらぎに寄り添って散策することが出来るのです。喧騒を離れたこの水辺で、透明な水の美しさ、さやさやと流れるせせらぎの音を間近に感じながらの散策は、しばし、日常を忘れさせ、いつしか「源兵衛川ワールド」へと引き込まれていくのです。<川の上を流れるレストラン>を謳う「dilettante cafe(ディレッタント カフェ)」。源兵衛川を望みながら食事が出来る唯一と言っていいレストランです。源兵衛川は、1960年代から、都市化・工業化の進展や生活環境の変化に伴う湧水の減少が進み、渇水期には家庭雑排水の垂れ流しやゴミの放置により水辺環境が悪化し、汚れた川のシンボルになってしまいました。そこで、ふるさとの原風景・原体験を取り戻そうと多くの市民が立ち上がり、協力し合いながら源兵衛川の水辺環境の再生に努力しました。その結果、ゲンジボタル、カワセミ等が自生するようになり、都市中心部を流れる河川としては、他に類をみないほどの豊かな生態系をもつ水辺自然空間が再生・復活しました。まさに、富士の白雪が水の都・三島を作ったと言える。 富士日和●9580歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.25
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■11月15日(月)♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける 「ノーエ節」この日も、富士が美しい!!「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された韮山反射炉を見に行った。それが、「ノーエ節」と何の関係があるねん!と思われた方、それがあるんですよ♪ 韮山代官、江川英龍は、幕末という激動の時代を生きた中で、沢山のことをやってのけた偉人。まず韮山反射炉のお話。■韮山(にらやま)反射炉■★韮山反射炉を息子と完成させる。幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。★「気を付け!」「回れ、右」の号令を決める。英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる「気をつけ」や「右向け右」や「回れ右」等の掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである。(▲自宅)静岡県伊豆の国市韮山に建つ静岡県立韮山高等学校の学祖とされる(参考:静岡県立韮山高等学校)。★パン祖。国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン(堅パンに近いもの)を焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている。★農兵の日本最古の軍歌「農兵節」一般的に、日本で最初の軍歌と言えば「宮さん宮さん」ですが、幕末に韮山代官の江川英龍が農兵(※長州の奇兵隊よりも先に始めた徴兵。後の屯田兵に相当する。)の練兵時に当時の神奈川民謡を行軍歌として歌わせたと伝えられるので、譜の現存するものとしては最古の軍歌では?と、考察致しました。(▲江川邸・桝形 ここで農兵の訓練もしたそうだ。)三島の伝統郷土民謡 農兵節江戸時代の末期、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が現在の三島市役所で農兵の訓練を行った故事にあやかり、富士の白雪ノーエと三島の情景を歌にし、舞を振り付け現在に至っています。エンドレスに歌が続き、行軍歌に最適なわけですね■動画:農兵節(ノーエ節)・野毛節(野毛山節)【日本最古の軍歌?】■野毛の山からノーエ野毛の山からノーエ野毛のサイサイ山から異人館を見ればお鉄砲担いでノーエお鉄砲担いでノーエお鉄砲サイサイ担いで小隊進め天満橋からノーエ天満橋からノーエ天満サイサイ橋から城の馬場を見ればお鉄砲担いでノーエお鉄砲担いでノーエお鉄砲サイサイ担いで小隊進めオッピコヒャラリコノーエオッピコヒャラリコノーエチーチがタイタイトトチチオッピコヒャラリコノーエ■農兵節(のうへいぶし)■は静岡県三島市などで歌われ、全国的にもよく知られる民謡。これらの中で、幕末に始まる横浜市の「野毛節」が元祖とも言われている。しかし、三島の農兵節はこれ以前に江川英龍による農兵訓練用行進曲として始まったとも言われ、定かではない。●元来は歌いつがれた盆歌であるが韮山代官江川太郎左衛門担庵がジョン万次郎らの勧めで、メロディがスペイン風の行進曲に似ていることもあって農兵訓練の軍歌に定めたという。「農兵節考」。●農兵の資格は17歳から45歳までの男で頑強で力のある人間。●農兵にダルマと呼ばれる服を着せて、銃を持たせ、6か月間様式軍隊訓練をさせる。江戸市中に六つの屯所を設けてそこに寄宿させる。 私が「農兵節」を知ったのは、手塚治虫の■「陽だまりの樹六」■を読んで。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.24
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■11月14日(日)■箱根 駒ヶ岳ロープウェーは■駒ヶ岳山頂へ行く唯一の交通手段。箱根芦ノ湖畔の箱根園から箱根駒ヶ岳山頂まで全長1,800mを片道7分で結びます。(島のように見えるのが、恩賜公園)芦ノ湖を中心に箱庭のような箱根の全景が広がり、北に雄大な富士山が、また遠く駿河湾から伊豆半島、伊豆七島、湘南海岸、房総半島まで大パノラマが展開されています。同索道は箱根火山の中央火口丘である標高1,327mの駒ヶ岳の頂上部と芦ノ湖畔の箱根園と結び、山頂部は箱根周辺の市街地や富士山などを見渡せるなど展望に優れ多くの観光客が訪れる。(当日は、風が強く、この坂道は、こたえた。)また、箱根神社元宮などもある。駒ヶ岳を降りると、船に乗った。芦ノ湖の眺めを楽しみながら箱根の関所跡の港に着いた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされた。箱根関所を設置した地点は、東北に屏風山があり、西南に芦ノ湖があり、中央に東海道が通った。道の両側には縦64メートル、横13メートルの空き地があった。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていた。そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。(▲遠見番所に続く急な坂・階段)(▲遠見番所からは、芦ノ湖がよく見える。▼)箱根関所の番士貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。日曜日だったので、反対の車線は大混雑だった。●8852歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.23
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■11月13日(土)富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪に代わりがあるじゃなし解けて流れりゃ みな同じいやいや、違いますから!!先斗町の雪は、解ければ、ただの水。しかし、富士の高嶺に降る雪は、解けて、長い年月をかけて、伏流水となり、泉となって湧き出す。その水は、聖なる水となっている。■忍野八海(おしのはっかい)■かつては忍野村域にあった忍野湖が干上がって盆地になり、富士山や近くの火山山麓の伏流水を水源とする湧水の出口が池として残ったのが忍野八海である。平地となったこの一帯は米の産地となり、湧泉の水は飲料水や農業用水として活用された。「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきており(多数ある湧泉のうち8つに限ったのは、8を尊ぶ仏教的思想に基づく、富士講では忍野八海のことを、元(小)八海、内八海、根元八海、富士外八海などと呼んでいる。古くから富士修験の霊場とされ、行者たちは富士登拝の前に池でみそぎを行なったとされるが、1843年に各池に守護神の「八大竜王」が祀られ、出口池を一番霊場、菖蒲池を八番霊場とする巡礼路が整備された。忍野八海はその特異な自然現象から、訪れる観光客も多く、富士山周辺でも人気の観光地として知られる。周囲は観光用の商店や施設などが建ち並び観光地化が進んでいる。忍野八海の観光化は、茅葺屋根と富士山を背景とした田園風景を売りに1960年から始まった。1965年ごろから観光地として注目されるようになり、1985年の名水百選選定で観光地化が進んだ。 忍野八海地区からは見える富士を忍野富士と呼ぶ。冬季には池より朝霧が立ち込めることもある。最も深い「湧池」を中心にして7つの池を巡る観光客が多く、一つだけ離れた位置にある「出口池」までを巡る者は少ない。また、あまり目立たない「鏡池」「菖蒲池」などを省く観光客もおり、そちらも比較的に人出が少ない。▲澄み切った水▼忍野八海に心を残し、富士山を眺めながら次の目的地に移動。移動しながら、時々車をとめて、富士を飽かず眺める。ナビは、時々、「山梨県」、「静岡県」、「神奈川県」に入りることを告げる。「三国峠」という名前がピッタリの地だ。神奈川県立・恩賜(おんし)箱根公園に着いた。■神奈川県立・恩賜(おんし)箱根公園■ ここは「塔ヶ島」と呼ばれ、芦ノ湖に突出した半島のかたちをなしています。 宮内庁はここに皇族の避暑と外国からの賓客のために離宮の造営を計画しました。明治17年、当時笹の密集していた塔ヶ島を中心に163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりました。明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、大正12年の関東大震災・昭和5年の北伊豆地震と続いた災害によって倒壊してしまいました。その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって再建計画は打ち切られてしまいました。そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は神奈川県に御下賜され、神奈川県はここを整備しその年の5月5日「恩賜箱根公園」として一般に開放いたしました。 ●6913歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.20
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■11月12日(金)昨日の夕方は、雲一つない富士山を一日堪能したが、朝、富士山は帽子をかぶったように雲が山頂を大きく覆っていた。富士五湖のひとつ河口湖に向かう。車のナビが、「山梨県に入ります」と告げてきた。河口湖に着いて、ロープウェイに乗って、山頂に登った。■河口湖は■富士五湖のうち、もっとも早く観光開発された。平成になってから温泉が掘削され、富士河口湖温泉郷として東岸に温泉街が形成されている。湖畔にはオルゴールの森、天上山へのアクセスとなる〜河口湖〜 富士山パノラマロープウェイ、河口湖遊覧船、河口湖猿まわし劇場、キャンプ場、そして多くのホテル・旅館、飲食店、物産店などがある。その後、かつて、富士登山の町として、全国の人が集まった、富士吉田市に行った。御師の家は、個人の住宅でありながら、夏の登拝シーズンは富士講の信仰者を迎え入れ、宿坊として、また祈祷などの信仰の案内までも請けおっていた。御師とは、そもそも祈祷師のことで、家々の主が今でいう神官の役割を果たしながら、富士山をお守りする聖域の町を担っていたのだ。旧戸川住宅の表通りから奥まった屋敷までは、「タツミチ」と呼ぶ細長い引きこみ道が通じていた。これは、御師町が成立した当初の古い“本御師”の家の特徴だという。これに対し、表通りに面した“町御師”もある。さらに中門をくぐると、「ヤーナ川(間の川)」という禊ぎのための小川が今も音をたて流れている。ここには、かつて小さな滝が造られ、宿泊する富士講が、到着や出発の際に水垢離(みずごり)を行う禊場(みそぎば)になっていた。最盛期には、御師町の両側八十六軒連なったという御師住宅のなかで、この「旧外川家住宅」は、二百四十年という歴史を今まで長えられてきた。『富士講の信者はみな白い“行衣”を着てます。これが富士山への旅支度ですね。旅支度というのは、天国へ行ってくるということです。いろいろ苦難の道があるだろうけど、それを乗り越えて神様のいる極楽浄土へ行って仏になってくる、と。富士山に登るってことは、それだけの覚悟のことだったわけです』▲戸川家でもらった、富士山の折り紙。富士講信徒は、富士山に複数回登るのが普通。そして目標は、33回富士山に登って満願成就をお祝いする事だった。33回登ったという石碑などがあちこちにあった。▲町で見た建物に、「不二」の印▼■北口本宮富士浅間神社■北口本宮冨士浅間神社の参道に一歩足を踏み入れると、からだ中に清々しい気が満ちわたる。参道の両側には、樹齢百年以上の杉が、まさに天を突くがごとく伸び、 さらにその足元に風雪に削られ苔むした石灯籠が並ぶ。気高き社へ人々をいざなう巨大な生きた回廊のようだ。広い境内を隅々まで見て歩けば、それこそ八百万の神々さまが集結している。おそらくこの配置にも意味があるのだろう。本殿に祀られるのは、もちろん浅間神社の神さまの三神。まず、富士山の神様の「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」。そして、夫神様の「彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)」、父神様で全て山々の神である「大山祗命(オオヤマヅミノミコト)」。本殿の裏に回れば日本神話の始まりである大黒さんと恵比寿さんが祀られている。西宮には、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」。また東宮には、河口湖産屋ヶ崎で祀られていた「彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)」。富士山の巡礼で構成資産を巡ると日本古来のたくさんの神さまに出会える。さて、そんな神々さまが座す一番奥の場所、本殿に向かって右手奥に小さいながら趣きのある鳥居がある。ここが吉田口登山道の起点となる「登山門」だ。▲巨大な鳥居。▲樹齢千年の御神木「富士太郎杉」▲イチョウの巨木▼ここから、車を置いてある所まで、ガイドさんの車で送ってもらった。感謝(-人-)「ホテルルートイン河口湖」の夕食で、ほうとうを食した。ほうとう(餺飥)は、山梨県を中心とした地域で作られる郷土料理。2007年には農林水産省により各地に伝わるふるさとの味の中から決める「農山漁村の郷土料理百選」の中の1つに選ばれている。かつて山梨では「ほうとうをうてないと嫁に出せない」と言う文化もあった。 また山梨県東部の郡内地方では、山間部であるため寒冷な気候で平坦地に乏しく、富士北麓では富士山の伏流水の季節変動が激しく、水利に乏しい溶岩台地が広がっているため、全般的に米の栽培が困難であった。一方、麦は富士北麓では流水を用いた「水掛麦」(水を畑の畝間に流すことで冬季の凍結を防ぐ栽培方法)による栽培が行われており、ほうとうなどの粉食料理が根付いた。富士北麓の郡内地方にはほうとうと同一の粉食文化の起源を持つ郷土料理である「吉田のうどん」が存在する。日常食としての「ほうとう」は麺よりも野菜の量が多く、対して小麦粉を消費する「ウドン」は特別な日(モノビ)や来客時に振舞われる贅沢な料理であると意識されており、両者の区別は明確であった。●9249歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.18
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■11月11日(木)後半■間の宿(あいのしゅく)■を後に、田子の浦にやってきた。田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部赤人(約:田子の浦を通って(視界の開けたところまで)出て見ると、真っ白に、富士山の高いところに雪が降り積もっていることだよ。)山部赤人の富士山を詠んだ歌の碑があった。山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は反歌田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 山部赤人のこの歌を習ったのは、高校の時で、この時はじめて、長歌と反歌というのがあると習った。この時の先生は、50代くらいの女性で、当時の私は、大変な年寄りと思っていたが、今の私よりも随分若い。先生は、「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「から」という意味です」と言ったが、50年以上前のことなのに、昨日のことのように思い出す。最近のことは、すぐ忘れるが・・・。山部赤人は柿本人麻呂と共に、「山柿の門」と称えられている。「山」は、「山上憶良」という説もあるが・・・。■『山部赤人がこの歌を読んだ背景』■国守として東国に赴任することになった山部赤人は、一族郎党を引き連れて奈良の都から旅を続けていた。これまでは陸路であったが駿河の国、田子の浦からは海路をとり、さらに東を目指す。一行のほとんどの人間にとって初めての船旅ではあるが幸いにも海は穏やかで、時折り快い風が皆の間を吹き抜けて行く。陸に目を向ければ、さほど遠からぬ所に富士の山がくっきりとその美しいなだらかな稜線を見せているのも他では見られぬ珍しい光景である。山部赤人の碑の近くに船の形をした、ディアナ号の学習施設があった。■ロシアの最新鋭船・ディアナ号津波の悲劇■嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。言葉も分からない、寸法を測る単位も違う、日本の船大工が、ロシア人と協力して作り上げた船は戸田(へだ)で造られたので「ヘダ号」と名付けられた。この日は、「国民休暇村・富士」に宿泊。コロナ禍とは思えないほど、混雑していた。また、近くにあるキャンプサイトも沢山のテントが・・・。部屋からも田貫湖と富士山が良く見え、暮れ行く富士、夕焼けの富士が見えた。朝から富士三昧の一日だった。ここまでクリアに見える日は、年間そう多くないとガイドさんが言っていた。富士三昧の一日。ホテルの部屋から。●8692歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.17
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■11月11日(木)朝、起きたら、これまでで最高の天気。よって、今日の富士のくっきりと美しいこと。昔の旅人は、この富士に、どれだけ励まされただろう。見つつ行け 旅に病むとも 秋の不二 夏目漱石旅人を 迎える富士の 峰白し 天地はるなこの日は、東海道の岩淵(富士市)という地区をガイドさんの案内で歩く。富士山に向かってあるくので、どこから見ても、くっきりと富士山が見えた。富士三昧!ところで、「間の宿(あいのしゅく)」というのをご存じだろうか?(▲東海道・一里塚)■間の宿(あいのしゅく。)は、■日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。宿泊は禁止されていた。宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間の宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。■岩淵宿(東海道・間宿)概要: ■岩淵宿は東海道の蒲原宿と吉原宿にある宿で、正式な宿場町ではなく、ある種利用者の利便の為設けられた間宿とされます。(▲ここに渡しがあった。)この地は富士川の川越を控えている事もあり、洪水など水量が増すと川止めとなり必然的に岩淵宿が利用される事になります。又、甲斐国(現在の山梨県)と東海道を結ぶ身延道が交差する交通の要衝であった為、江戸時代中期以降、大幅に広がった久遠寺(山梨県身延町)参りの参拝者達も利用したと思われます。岩淵村の名主であった常盤家は、岩淵間宿の小休本陣や富士川の渡船役を勤めた家柄で、現在でも当時の屋敷が残され当時の宿場町の名残が見られます。現在の常盤家住宅主屋は江戸時代末期の安政元年(1854)に発生した安政大地震で大破後に再建されたもので木造平屋建、切妻、桟瓦葺き、桁行8間、張間5間半、建築面積249㎡、東海道に残る数少ない本陣建築の遺構として貴重で、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成10年(1998)に国登録有形文化財に登録されています。岩淵宿はずれにある一里塚は江戸から37里目のもので、東海道に残された数少ない一里塚として貴重な事から昭和61年(1986)に静岡県指定史跡に指定されています。■榎(えのき)■漢字の「榎(エノキ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字である。夏は、木の下で涼をとり、実が甘くて美味しいので、お腹のすいた旅人が食べたかもしれない。榎の名前の由来には諸説あり断定不可能だが、①信長、家康、秀忠、家光のうちの誰かが、(マツ以外の)「余の木(ヨノキ)」または「良い木(ヨイキ)」を一里塚に植えるよう命じ、これに応じる形で植えられたのがこの木であったため(ヨノキ)・(ヨイキ)が転じてエノキとなった。②縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった。③秋にできる朱色の実は小鳥や森の生き物に人気が高く、「餌の木」からエノキとなった。などの説がある。 「夏の炎天には私も学校の帰途(かえりみち)井戸の水で車力や馬方と共に手拭てぬぐいを絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。」■日和下駄 永井荷風■私も、子どもの頃、エノキの実を食べた。 尚、間の宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。間の宿のなかには立場が発展したものもある。(▲富士川岸に建つ、角倉了以を讃える碑)富士川(ふじかわ)は急流で難所も多かったが、内陸の甲斐南部と駿河との交通路として、駿州往還とともに古くから水運が利用された。 江戸時代の1602年に駿河国と甲斐国(現在の富士川町)との間に富士川渡船が開始されたという。江戸期には甲斐が幕府直轄の天領であったため、慶長12年(1607年)の角倉了以らによる開削事業により運行の安全が確保されて、江戸への廻米輸送を中心に水運が発達した。廻送された廻米は駿河国岩渕(現在の静岡県富士市)の河岸で陸揚げされ、カントクと呼ばれる馬力により蒲原へ運ばれそこからさらに清水港へ集められた後大型船で江戸へ廻送された。また、上荷には塩や海産物など内陸の甲斐で産しない商品を中心に輸送が行われ、身延詣の旅人にも利用された。富士川沿いの沼久保地区に残る江戸時代から明治にかけての帳簿が記されている『松井文書』によると、河岸から積み出されるものは半紙やその材料となる三椏の他、煙草など多岐に渡り、到着したものは甲州より運ばれたものであった。●(川の増水で渡れない時は、)宿役人から書付一札を貰ったと日記に記しています。きっと天候や道中の困難による延泊を照明してもらって、あとで届けるのです。「下級武士の食日記」より後半に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.16
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■11月10日(水)後半 ■前半■■人質時代の家康が学問した、清見寺(せいけんじ)■に行き、ガイドさんの案内で寺の中を見て回った。清見寺(せいけんじ))は、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。富士山、三保の松原、清見寺を3点セットで描くことを雪舟が始めたという。寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。■清見寺■欄間が特徴的だった。▲▲折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)=高貴な人をもてなす天井。▲玉座の間。寺の名前の由来は、この近くの海、清見潟。 この後、明治、大正、昭和と活動した政治家、西園寺公望(さいおんじきんもち)の冬の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)に行った。ここにも、ガイドさんが常駐していて、達者な語り口でガイドしてくれた。■清見寺古写真に見る昭和初期の清見潟とその周辺■清見潟あたりは、明治末期からは海岸保養地として別荘も建てられ、西園寺公望(さいおんじきんもち)の坐漁荘(ざぎょそう)は有名であった。清水港の拡張と整備、沿岸の埋立てにより往時のおもかげは失われ、興津埠頭(ふとう)はコンテナ基地となり人工海岸となった。■坐漁荘(ざぎょそう)は、■元老であった公爵・西園寺公望が1920年(大正9年)に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡県静岡市清水区)に建てた別邸。建設費用は西園寺の実弟住友友純の住友家が全額負担し、同年12月に西園寺に提供された。別荘は後に「坐漁荘」と名付けられたが、これは太公望呂尚が「茅に坐して漁した」という故事にちなむものである。西園寺は一年の四分の三をここで暮らし、夏には御殿場の別荘に避暑に訪れ、東京府東京市神田区駿河台の本邸に入るのは東京に政治的用事があるときだけだった。(▲浴室に続く床は、滑らないように工夫して、しかも美しく作ってある。)門は瀟洒な編み竹扉で、小料理屋と間違えられたこともあったという。一階には八畳間が二つ並んでおり、西園寺はそこで生活していた。二階は客間として用いられた。一見質素な作りであったが、木材は上質であり、外壁はヒノキの皮で葺かれていた。(▲西園寺公は、竹が大好きだったそうで、あちこちに竹の素材の物があった。)西園寺が最後の元老である重要人物だったため、大正から昭和にかけて激動する日本の政治の数々の局面でクローズアップされた舞台となった。当時の日本政界の中枢人物による興津の坐漁荘詣でが頻繁に行われた。建屋の老朽化が著しくなった1968年(昭和43年)に、博物館明治村への移築話が纏まり、1970年(昭和45年)に明治村での移設公開が始まった。その後、2003年(平成15年)には登録有形文化財に登録され、2012年5月23日より建物保存のため大規模工事が行われた。2017年(平成29年)2月には、数寄屋造住宅の貴重な現存例として、重要文化財に指定された。現在、静岡市清水区興津清見寺町115番地に存在するものは2004年(平成16年)に復元されたものであり、興津坐漁荘の名称で一般に公開されている。【格言など】これで日本も滅びるのや,今から覚悟を固めておくことどすな(軍部の台頭に怒って) 富士、よく見えた。●10960歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.13
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■11月10日(水)日本平から、富士山を眺めた。日本平は駿河湾の沿岸近くにある有度山(うどやま)の山頂とその一帯で、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈(南アルプス)も望め、眼下には清水区の街並みと清水港が広がる。ここから、久能山東照宮に行く。日本平山頂西側にある日本平駅から日本平ロープウェイで約5分(日本平山頂には、公設・静岡鉄道私有のものを含め、一般車・観光バス向けの無料駐車場が多数用意され、ロープウェイ運行時間内は自由に利用できる)。葵の紋つき、駕籠のようなロープウェイ。久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。ロープウェイで行くから、しんどくないだろうというのは、間違いだった。ロープウェイの駅から、階段が続く、続く・・・。この神社に勤める人は、ロープウェイを使わず、ここまで石段で登り降りる!死んでまうやろーー!!_| ̄|○■久能山東照宮■江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、▲薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存は無い)、楼門が増築された。(▲五重の塔の跡)造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.11
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