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■6月19日(水)■3日目国民休暇村近所の朝の散歩1時間、朝食を終えて、8:45休暇村から、室蘭に向かって出発。苫小牧西インターから高速道に入り、室蘭インターで下りて、白鳥大橋を渡り、1時間ちょっとで指定の場所でガイドさんにあった室蘭見学(有料)。■地名の旅:室蘭■地名の発祥の地は今の崎守町(元室蘭)である。アイヌ語のモルエラニで、小さい下り道、小走りに走る道などの意味をもつ。**運上屋**がエトモに移ると共に地名も室蘭に移動した。**運上屋**蝦夷地(えぞち)における場所請負人(ばしょうけおいにん)の交易場の経営拠点。北海道の近代史を考えるうえで「炭鉄港」というキーワードがある。「炭」=石炭を生み出した空知(夕張)と「鉄」の室蘭、それを積みだした「港」。室蘭は、鉄を生み出し、運び出す港として大いに栄えた。■明治3年に明治新政府の命を受けた人物が■44戸51人を引き連れ室蘭に入植しました。山の急斜面が海岸に迫り絶壁をなす地形では、農業は厳しく、室蘭港の対岸に鋳物場が建てられ、鍋や釜を製造。このことが、鉄のまち室蘭の原点です。絵鞆半島の外側は断崖絶壁が約14 km連なる風光明媚な景勝地になっており、NHKのテレビ番組『ブラタモリ』でも紹介された。かつては人口18万人以上を有し、人口密度も北海道内で最も高かったが、基幹産業ともいうべき日本製鉄(旧・新日鐵住金)や日本製鋼所等での大規模な合理化のほか、比較的地価の安い周辺都市である登別市や伊達市への転出、苫小牧市の発展や札幌市への一極集中化などに押されている。住民基本台帳による最大人口は、1969年(昭和44年)7月の183,605人であり、以後は人口減少が続いている。2005年(平成17年)の国勢調査では58年ぶりに人口が10万人を割った。室蘭に和人が住み着いたのは1600年頃の慶長年間にアイヌとの商取引のために松前藩が「エトモ場所」を設置したことによる。松前藩は蝦夷地を数十場所に分割して主な家臣に知行地(支配地)として分け与えた。室蘭地方は総称して「モロラン場所」と呼ばれていた。■チキウ岬灯台■チキウ岬は、北海道室蘭市の太平洋に面する岬。(灯台のそばには、家が建っていて、家族が住んでいた。)名前はアイヌ語の「ポロ・チケプ」(親である・断崖)に由来しており、それが訛り、転化して一般的に地球岬(ちきゅうみさき)と呼ばれている。■ブラタモリ室蘭5■鉄と石炭を積みだす港として大いに栄えた室蘭を後にして次へと向かった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.13
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■6月18日(火)■2日目この日は、宿の近くの支笏湖の周りを散策した。■支笏湖■アイヌ語シコット(大きな凹みにある湖)がその語源。和名で死骨湖と考えたこともあったらしいがエンギが悪いというので支笏湖にしたという。「北海道 地名の旅 アイヌ語地名解」北海道の地名の殆どは、アイヌがつけた古い地名が主体となっているので、それが永い年月の間に意訳、音訳、転訛などの変遷を経て現在に至っているが、極力その源にさかのぼって調査解説を試みてあり、それに加えて簡単な風土記を添えてある。支笏湖(しこつこ)は、北海道千歳市にある淡水湖。支笏洞爺国立公園に属し、日本最北の不凍湖となっている。この日は、風が強くグラスボートもお休みなので、湖の周りをドライブしたり散策して過ごした。支笏湖は、透明度の高さで有名な摩周湖やバイカル湖に匹敵する透明度を有している。環境省の湖沼水質調査では何度も日本一に認定されている。支笏湖の面積は、琵琶湖の9分の1だけれど、深さがあるので、貯水量は、4分の3。支笏湖は巨大な水瓶だ!!湖の北西には、北海道三大秘湖の一つであるオコタンペ湖がある。 水中遊覧船乗り場からは歩いて1~2分の場所にある山線鉄橋周辺。山線鉄橋とは、1908(明治41)年~1951(昭和26)年に支笏湖から苫小牧の製紙工場まで木材を運搬していた軽便(けいべん)鉄道の線路跡の鉄橋。現在は人道橋として活用されています。橋の下は千歳川が流れていて、ちょうど湖から川へと水が流れ出る部分にあたる。ここで、俳優の本木雅弘がお茶のCMの撮影があったという。 支笏湖もいいが、泊っている■国民休暇村:支笏湖■の敷地が広くて美しい。鳥の餌や水場があって、あちこちで鳥の鳴き声が聞こえる。これまで、いろんな休暇村に泊まったが、間違いなく、ここが一番いい。次の日、朝の散歩会(有料)でも、ガイド付きで、ゆっくりと廻った。草木や鳥などの豊富な知識で、有料の値打ちがあった。おすすめ!!。■走行距離:38km■歩行数:4633歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.08
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(▲目玉焼きの形が北海道(^▽^)/)6月17日(月)から7月4日(木)までの18日間、北海道をドライブ旅行してきた。北海道は、今回で4度目。■会社から■と■2008年冬■■2015年9月■4回行ってもまだ回り切れていない。■北海道、でっかいどう。■おまけに植物もでっかい。イタドリも北海道では、オオイタドリという品種になり、フキも■秋田フキ■という品種になる。今回の旅行でまわれたのは、緑の範囲。今回の旅行で感じたキーワードは・・・。「アイヌ」、「開拓」、「屯田兵」、「地名」、「地形」、「ブラタモリ」、「石炭」、「鰊(ニシン)」、「鉄道」、「寒い」、「今じゃさびれて」・・・。どこに行っても、このキーワードが複数思い浮かんだ。■6月17日(月)■1日目移動日。関空から、新千歳空港。レンタカーで、この日の宿へ。強い風が吹いて寒かった。■走行距離は、31KM。■歩数:3942歩「支笏湖休暇村」泊敷地がきれい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.06
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■12月13日(木)この日は、帰る日だが、午前中に来間島(くりまじま)に行った。3日目には、レンタカーで行ったがこの日はバス。来間島(くりまじま)には、来間島(くりまじま)憲法という景観条例がある。■屋敷内の景観維持の義務■ 三条 住民は、集落の景観を美しく保つために以下の努力をしなくてはならない。 一、屋敷内の庭にブーゲンビリアの花を一本以上植える。 二、屋敷内の庭にハイビスカスの花を一本以上植える。 三、屋敷内の庭に花を植える。(以下略)そのせいか、花が沢山咲いていた。(宮古空港)沖縄の方言で「美しい」とか「きれい」を意味する言葉は「ちゅら」。■美ら海水族館■ちゅら海などと使うのだが、宮古島の方言で、『美しい島』のことを『美ぎ島(かぎすま)』という。来間島(くりまじま)は、『美ぎ島(かぎすま)』を目指しているのだろう。一概に沖縄といっても広いので言葉もまったく違う。今は、テレビなどで、その言葉の違いもなくなっているのは、方言好きな私は寂しい気がする。■池間島■、■伊良部島(いらぶじま)■、■下地島(しもじしま)■、■来間島(くりまじま)■、そして宮古島。この五つの島は橋で結ばれ、その橋で、水道や電気が送られる。橋は、たんなく橋ではなく、ライフライン。1時40分、宮古空港発、関空に着いたのは2時間後。♪ざわわ、ざわわ~・・・と風に揺れるサトウキビ畑。来間島(くりまじま)にて。2014年2月に■八重山諸島■2018年1月■沖縄■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.29
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■12月12日(水)■3日目、午前中■午後から、宮古島市亜熱帯植物園に行った。■宮古島市亜熱帯植物園は、■約1600種に及ぶ様々な種類の樹木が植栽され、亜熱帯の雰囲気を醸し出している。園内にはデイゴ並木やフクギの並木道があり、デイゴの開花する4月頃には、赤い花咲く、花の散歩道となっている。 (▲「ゆかぁまち」とは、宮古島の方言で「ゆっくりしてね」という意味。)園内には樹木だけではなく、多数の草花も栽培されていて、1年中彩り鮮やかな空間を楽しむことが出来る県内でも最大規模の人工熱帯植物園である。 (↑サンシンの棹の材料。)↑これぞ、亜熱帯という木が・・・。↓ハイビスカスやブーゲンビリアは一年中見ることができる。 デイゴの並木道の近くに、日本軍の 地下壕があった。地下ダム資料館に行ってきた。宮古島には、川がなく、水を通す地層のために宮古島には、本土のようなダムがない。しかし、代わりに「地下ダム」がある。■地下ダムとは・・・■水を通さない壁を地下に作って、地下水の流れをせきとめ、地下水を貯める施設のことです。●地下ダムの効果●(1)地下水位をせきあげ、地下水量を増加させる。 (2)海岸部では、海水の地下水への進入を防ぎ、地下水の塩水化を防止する。 ●地下ダムの特徴●(1)土地の水没がない。地表部は今までどおり使える。 (2)決壊災害がない。ダムが壊れて家屋が流出することもない。 (3)地下水の流動が比較的遅いために長期間安定取水が可能。 (4)地下水のため年中水温が安定している。 地下ダムの出来るまでは、井戸水だよりだった。宮古島では、「井戸」のことを「ガー」とよばれ、大切に守られた。■命の水・ガー■川がなく、降雨も不安定な島で、人々の生活を支えたのは島のところどころで湧き出る地下水でした。島に降った水は、地表を通って琉球石灰岩の層にしみ込み、その後、海に向かって流れていきます。そのため、海の近くでは、表面に表れた琉球石灰岩の層から、水が押し出され、湧き水が発生することがありました。この湧き水(自然の洞井、掘り井戸の両方を含める)のことを、宮古島では古くから「ガー」と呼んでいます。「ガー」は、人々が頭上に水がめをのせて行き交い、時には立ち止まって交流する生活の場であるとともに、飲料水や生活用水、かんがい用水の全てをまかなう「命の水」でした。古い集落は、島の中心部よりも、海岸近くの「ガー」のある場所に残されています。地下ダムが出来た今も水は貴重品で、「おみずやさん」を見かけた。■八重山諸島:古井戸の記憶■■地球を救う127の方法・水■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.25
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■12月12日(水)この日は、一日、自由行動の日。(▲レンタカーのナンバーは「わ」と「れ」。)風も強く、ドライブには、不向きの天候だが、予約してあったレンタカーを借る。■来間大橋(くりまおおはし)は、■沖縄県宮古島市南西部に位置し宮古島と来間島とを結ぶ全長1,690mの橋。1995年3月13日に開通した。 現在は宮古島市道来間大橋線の一部となっているが、もともとは農道として整備された橋で、農道橋として日本最長であった。また、2005年に古宇利大橋に抜かれるまでは、1992年2月開通の池間大橋を抜いて沖縄県内最長の橋であった。現在では、宮古諸島では伊良部大橋に次ぐ2番目の長さとなっている。 車道の下には、宮古島の地下ダムから灌漑用水や電気を送るパイプラインが付設され、来間島の農業を支えている。 橋からは、エメラルドグリーンの海や、宮古島側に広がる与那覇前浜の白砂のビーチを見渡すことができる。(▲東平安名崎にて。)また、この橋は、全日本トライアスロン宮古島大会のバイクコースの一部となっている。 また、来間(くりま)大橋を渡って宮古島に戻る。(10:00)与那覇前浜(よなはまえはま)に寄る。■与那覇前浜は■宮古島の南西の端にある白砂の海岸で、延長は7 kmに及ぶ。 地元(特に与那覇地区)では単に前浜(まいぱま、まいばま)と呼ばれていたが、近年はビーチを付して前浜ビーチと呼ばれることが多い。 平良方言では「マイ」は「前」だけでなく「南」をも意味する語であり、この海浜は与那覇地区の前方かつ南方にあることから、前浜と名付けられたと考えられている。またまた出た!!「はま」が「ぱま」。は行が、ぱ行になるこちらの方言。ところで、沖縄では、「与那」という地名や姓をよく耳にする。・与那覇湾(宮古島市)・与那浜(宮古島)昔、ジャイアンツの選手に「与那嶺」という人がいた。沖縄の方言でヨナ(ユニ)は砂をあらわし、これらの地域は砂地の土地という特徴が共通します。なるほど・・・。と納得。与那覇前浜の後、強風で少し不安だったが、「伊良部大橋」を渡り、伊良部島へ。東岸を北進。 ますます強風が加速。■[伊良部島]巨大な鳥の展望台■フナウサギバナタ展望施設「フナウサギバナタ」に寄る。「フナウサギバナタ」は方言で、「船を見送る岬」という意味になります。現地にある由来が記された看板によると、「昔、沖縄本島などに旅立つ人や出兵兵士を見送った処からきています。又、松の木などの木材を、この場所から海に落とし帆船で運んでいたということで「木ーうるすバナタ」とも称しています。島からの旅立ちに、多くの人がいろんな思い出手を振っていた所です。」と書かれています。「白鳥崎」でも、強風が吹きまくる。同じ道路を戻り、ようやく、伊良部大橋を渡り、宮古島に戻る。■人頭税石(じんとうぜいせき、にんとうぜいせき)は、■沖縄県宮古島平良字荷川取にある高さ143cmほどの石柱。他に「賦測石」(ふばかりいし、ぶばかりいし)などの呼び方がある。なお、史跡などの文化財の指定は受けていない。人頭税の対象は15歳から50歳までとされたが、戸籍が整っていなかった宮古島では、人頭税石と同じ背の高さになると適齢に達したとみなされて課税されたと伝えられている。この伝承は、大正時代に宮古島を訪れた民俗学者・柳田國男が、著書『海南小記』に書き記したことから全国に広まり有名になった。 ■砂山ビーチは■宮古島の西海岸にあるビーチで、隆起したサンゴの天然アーチが特徴的です。市街地から車で約4kmと立地も良く、サラサラとした真っ白な砂と、コバルトブルーの海が美しい景色だと観光客からの絶賛の声!この後、昼食。昼から植物園などにいく。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.24
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■12月11日(火)午前中、伊良部島、下地島に行った後、宮古島に戻り、昼食。その後、東平安名岬(ひがしへんなざき)に行った。■保良から東平安名崎に向かう一帯には■かつていくつかの集落があったことが御嶽の存在で確認できるといいます。それらの集落は、大津波や別の何らかの理由、風土病、流行病などで滅んでいったと考えられています。■東平安名岬(ひがしへんなざき)■東平安名岬(ひがしへんなざき)は、沖縄県宮古島市城辺字保良に位置し、太平洋及び東シナ海に面する岬。*二つの海がぶつかるといえば、太平洋とタスマン海がぶつかるニュージーランドの■レインガ岬■は、雄大だった。宮古島の南東端で、同島を代表する観光地。東平安名崎とも書く。 主に沖縄方言で東のことを「あがり(太陽が上がる)」と呼ぶことから、「あがりへんなざき」とも読む。また、宮古方言では「あがりぴゃうなざき」と呼ばれている岬の先端に平安名埼灯台(海抜43メートル、光達18海里、1967年(昭和42年)初点灯)が設置されている。この灯台は参観灯台で、内部を見学し、上に登ることができる。灯台の上からだと周囲320度が海なので水平線が丸く見える。東平安名崎には、伝説の美女、マムヤの墓がある。 昔、東平安名崎の近くの保良(ぼら)村に大変美しく機織りの上手なマムヤという娘がいました。マムヤは体からニフニリ(香草)の芳しい香りが立ち上っていたといいます。彼女を妻にしたいという役人たちがたくさん求婚しましたが、マムヤは一向に首を縦に振りませんでした。しかしどんなに断っても男たちがひっきりなしに訪れるので、とうとうマムヤは姿を消してしまいました。マムヤは岬の下の洞窟に身を潜めて、ひっそりと機織りを続けていました。しかし機を織る音を聞いた野城按司(あじ:按司とは豪族のこと)がマムヤを見つけてしまいました。按司とサンゴの石垣積みと芭蕉の糸を紡ぐ勝負をして負けたマムヤは、野城按司の妻となって暮らすことになりました。けれども実はその按司には妻も子もいたのです。本妻の嫌がらせに耐え切れなくなったマムヤは、いったい自分と妻とどちらが大切なのかと按司に詰め寄りました。按司は「フスユスバイ(糞尿)の臭いがしても、子供のいる妻のほうだ」と答えました。マムヤは絶望のあまり東平安名崎の断崖絶壁から身を投げてしまいました。マムヤの母親は美しさ故に苦しんだ娘のことを思い、村の娘がマムヤのような辛さを味わうことがないようにと神に祈りました。それ以後、保良村には美しい娘は全く生まれなくなったということです。「パナリ」とは、「はなれ」の沖縄方言。☝パナリ。実際には、こう見える。波が円形になっているのは、海中の岩に当たっているため。■パナリ■地質学の専門家である安谷屋さんは「(かつて)陸地があったことは間違いない」と断言します。■沖縄の方言:方角■【東】を【あがり】(太陽が上がる方向だから)【西】を【いり】(太陽が入る方向)地名に「西表(いりおもて)島」がある。【南】を【ぱい】本土でも、「南風」と書いて、「はえ」とよんでいるから、昔は、当たり前に使われていたのだろう。■九州:九十九島せんぺいと島の名前■【北】を【にし】なぜ、北をニシと呼ぶのかは諸説あるそうですが、「イニシエ(昔)」が省略されたとの説があります。「イニシエの人が居た方角」との意味で、古代の日本では西方(アジア)から民族が移り住んだため西をニシと呼び、沖縄では、北方(日本本土など)から民族が移り住んだため北をニシと呼ぶというものです。 宮古島では東をアガル、西をイル、南をパイ、北をニシと呼びます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.23
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■12月11日(火)「伊良部大橋」を渡り、伊良部島へ。■伊良部大橋は■2015年、沖縄県の宮古島と伊良部島を結ぶ橋として開通しました。それまではフェリーでしか渡れなかったので、陸路ができ便利になりました。全長3,540メートルで、無料で渡ることができます。この橋のおかげで、宮古島の中心・平良地区から伊良部島で人気の高いビーチなどにあっという間に行けるようになりました。青い空とエメラルドグリーンの海にはさまれ、絶景の中を進みます。夕陽も幻想的です。3,540メートル=さんごのしまの覚えやすい語呂合わせがユニーク。橋は、平坦ぐではなく中間にフェリーが通れるように高さが設けられています。そのため車を走らせていると、徐々に上っていく感覚がまるで飛行機で離陸するように感じられます。 ■下地島(しもじしま)■面積9.54km2、周囲17.5 km、人口48人。島の南側は単調な海岸で、西側は険しい海食崖が続く。北海岸は下地島空港の滑走路が海に突出し、小さな入り江がある。 ■下地島空港■日本国内でのパイロット養成の需要に応えるための訓練飛行場として開設された。橋のように見えるのは、島が小さいために、海に作っている滑走路。今は、ほとんど使われていない。■通り池・下地島■下地島北部の海岸近くにある大小2つの円形の池で、海側(南側)の池が直径75メートル、水深45メートル、陸側(北側)の池が直径55メートル、水深25メートルである。地上からは2つの池が並んでいるように見えるが、これらは地下部分でつながっており、さらに海側の池は洞穴で海とも通じている。「通り池」という名は、このような池の構造に由来する。伊良部島の西側に下地島が隣接し、両島は幅約40mから100mの入江(水路)で隔てられているが、幅が狭いため航空写真などではあたかも間に川が流れるひとつの島のように見える。この入江にはマングローブがあり、ノコギリガザミなどカニ漁が行われている。写真:川のように見えるが海峡。右が伊良部島、左が下地島。伊良部大橋を通って、宮古島に帰る。市街地でランチ。ここで、水を売っている店を見た。「シー・ブリーズ・カジュアル(ホテル)」・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.22
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■12月10日(月) 10:15全日空便・直行便で、13:00宮古空港着。今回の一行は、42名、バスに乗り込む。曇り空の中、池間大橋を通って、池間島へ。馬蹄型をした面積2.83km2、周囲10.1kmの島で、621人、380世帯(住民基本台帳、2016年1月1日時点)が居住している。 1992年(平成4年)2月12日、池間島と宮古島北端の世渡崎とを結ぶ池間大橋(全長1,425m)が開通し、宮古島と道路で結ばれた。1992年(平成4年)に池間大橋が完成し、宮古島からの新たな観光ルートとなったことにより、近年では観光も主要産業となっている。 池間大橋の近くで「サトウキビジュース」の生絞りを販売していた。サトウキビは、沖縄の言葉で、「ウージ」。■島唄■♪音が出ます!にも「ウージ」という歌詞が出てくる。注文を受けてから、目の前で絞る。飲んだら、甘い!!!もっとほのかな甘みかと思っていたが、人工的なほどの強い甘味にビックリした。昔、家でサトウキビを作っていて、夏になるとかじっていたが、こんなに甘くはなかった・・・。■サトウキビは、■茎の隨を生食したり、搾った汁を製糖その他食品化学工業や工業用エタノール製造の原料とするなど多様な利用方法がある。■燃料■砂糖やラム製造時にサトウキビの絞りかす(バガス)が濃縮・蒸留の燃料としても利用されてきたが、廃糖蜜や搾りかすを原料にバイオ燃料開発も行われている。 宮古島市、伊江村においてバイオマス燃料に対する実証実験が行われており、この実験結果次第で、自動車用燃料におけるアルコール比率の規制緩和が期待される。 ■酒類原料■絞り汁や廃糖蜜が蒸留酒の原料として用いられる。■家畜の餌■葉っぱなどは、家畜の餌になる。■西平安名崎(にしへんなざき)■宮古島の東端には東平安名岬があるが、地元ではともに「ピャウナザキ」と呼ばれていたとされる。(出た!!「ピ」!)1644年の『正保国絵図』や1647年の『宮古八重山両島絵図帳』では、西平安名岬は「ひゃんな崎」、東平安名岬は「百名崎」と記されている。「西平安名崎」という名称が用いられた初期の史料としては、1923年(大正12年)発行の『宮古郡島地図』が挙げられる。主に沖縄方言で西のことを「いり(太陽が入る)」と呼ぶことから「いりへんなざき」とも読む(原音としては「いりひゃんなざち」が近い)と言われているが、元来は宮古ことばで北の平安名を意味する「にすへんな」と呼ばれており、後に訛って「にしへんな」となった。そこに漢字を当てた際「西平安名」としてしまい、そこから「いりへんな」と呼ばれるようになったという説もある。つまり、「西平安名崎」ではなく、「北平安名崎」で、発音が、「にすへんなざき」。北→にす→にし→西となった。■島尻マングローブ林■宮古島の島尻マングローブ林は、 宮古島で最大のマングローブの群生地です。マングローブは、川と海が繋がり、海水と淡水が混じり合う泥土にはえる植物群の総称のことで、 「海の森」とも呼ばれています。■マングローブの役割■近年、世界各地でマングローブの破壊が問題になっている。東南アジアでは、木炭の材料とするための伐採と、海岸沿いの湿地を日本向けのウシエビ(ブラックタイガー)やバナメイエビなどのエビ養殖場とするための開発が主な原因となっている。また、家畜の飼料とするための伐採も行われている。そのため、あちこちでマングローブが消滅しつつある。 ●二酸化炭素の削減熱帯雨林の破壊が地球温暖化とのかかわりで問題になったように、マングローブの破壊も同様な問題として注目されるようになった。●海水の浄化マングローブが海の水質浄化にはたす役割が大きいことが知られるようになり、世界の湿地帯の価値の見直しとも連動し、その意味でも注目を受けつつある。 ●津波の軽減。2004年のスマトラ島沖地震以降、マングローブによる津波被害の軽減の効果が指摘された。マングローブが自然の防波堤となることで、津波の人への被害の原因となる漂流物体が食い止められるというものである。シー・ブリーズ・カジュアル(ホテル)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.17
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■12月10日(月)~12月13日(木)、3泊4日で宮古島に行ってきた。大阪から飛行機で2時間40分(帰りは2時間)沖縄本島から40分かかる宮古島は、川がない。宮古島の地質は、上から島尻マージ(赤土)、琉球石灰岩、島尻層泥岩からなる。雨が降っても、透水性の琉球石灰岩で、地表に水がとどまらず、井戸を掘っても水が出ない。水は、とても貴重なもの。宮古の市街地には水のみを売る店があった。本土では、旅館といえば、大浴場だけれど、宮古では、3日間の滞在のうち、無料で使用できるのは、1回のみ。後は、大浴場を使うときには、1500円程度の使用料を払うことになっている。洗濯などには、多くの水が使われるのでホテルでは、シーツの交換を不要という人には、ホテル内で使える金券を渡している。シーツを替えないことによって、*ホテルの従業員の仕事の負担が減る。*客は、その分、一部屋、一泊1000円の金券がもらえる。*島全体でも水資源の節約になる。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」。もちろん、私たちもこれで金券、2000円分をゲット。お土産を買った。■宮古・名前の由来■「宮古(ミヤコ)」という地名は、元は「ミヤク」であったと考えられている。 池間島(字池間・字前里)・狩俣地区(字狩俣)に残された600年以上の歴史を持つアヤグ(宮古方言での詩歌のこと)によると、ミヤクとは「人(自分自身)の住んでいる所(地域・集落)」という意味である。この場合、言葉の由来は言葉の音によって「ミ(自分)」「ヤ(住んでいる)」「ク(場所・村)」の意味に分けられる。 後述にあるように「麻姑山」と琉球王国時代には呼ばれており、約400年前にさかのぼる宮古上布は苧麻からつくられていることから、麻織物で築いた評判を由来とし、麻姑(mako)から宮古(mjɑːku [宮古方言])と推移したとする説もある。16世紀頃から、宮古島に住んでいた人々は、自らの住んでいるところをミヤクまたはヒサラ(またはピサラ、平良。なだらかの意か)と呼ぶようになり、一時期は「ひさら島」とも呼んだ。*宮古は、ヒサラともピサラとも言われていた。ここでも、「ピ」が!!シー・ブリーズ・カジュアル(ホテル)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.15
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■2018.10月22日(月)~10月23日10月22日の朝、宿の国民休暇村・志賀島(しかのしま)をチェックアウトした後、周りを散策。休暇村の辺りはイノシシが出ると聞いていた。土を掘り返したところが沢山あったが、全てイノシシの仕業だと朝の散歩の時、休暇村の職員さんに教えてもらった。海からの風が強いのか、木の枝が一方に寄っている。季節外れの桜が咲いていた。■「2018年は台風が多く、■強風や塩害の影響で葉っぱが落ちてしまったことで、芽を眠らせる物質が供給されなくなって、その後も、気温の高い日が続いたため、季節外れの開花につながったとみられている。九州旅行の、お土産に買ったのは、■八女で買った■八女茶。■生月島(いきつきしま)■のオオバエ灯台へ近くの無人販売で、買ったサツマイモ5袋。お土産は、どちらも、食べたり飲んだりして、消えてなくなるもの。残るものは、いらない。焼き物で有名な有田に行ったが、食器は買わなかった。家に十分すぎるほどあるから・・・。■志賀島■をぐるっと一周し、金印公園や蒙古塚に寄った後、一路、新門司港へ。名門大洋フェリー「ふくおかⅡ」17:00出航。さよなら、九州、・・。(’-’;)/^^^ 船に乗って、夜ご飯は、バイキング。ひと眠りしたら、朝もバイキングで、あっという間に大阪に着いた。九州、大阪間は、飛行機でヨーロッパに行くのと同じくらいの時間だが、個室でお茶を飲んだり、テレビを見たり、食事をしたりで、楽だ。15日間のあっという間の旅行だった。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.25
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■2018.10.20(土)~10月21日(日)■国民休暇村・志賀島(しかのしま)■に2泊した。志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 砂州により本土と陸続きになった*陸繋島*。全国的にも非常に珍しい。規模は小さいが半島の定義を満たしている。 博多湾を望むように伸びる海の中道の先端にある志賀島。四方を白い海岸線に縁取られた緑の小島の趣です。海水浴場の目の前にある休暇村は、玄界灘に沈む美しい夕日が自慢で、全室オーシャンビュー。玄界灘を一望しながら、くつろげます。また、温泉館「金印の湯」で玄界灘に沈む夕日を眺めながら「源泉かけ流し」の温泉に入れば、日々の疲れがたちどころにとれていくようです。島の南部と西部は博多湾に接し、北部と東部は玄界灘に接する。北部から東部にかけての沿岸は岩場がある。(▲*陸繋島*の沖津島)北西部の60mほど沖合いには沖津島という小島があり陸繋島となっている。 (▲*陸繋島*の沖津島)■*陸繋島(りくけいとう)*とは■砂州によって大陸や大きな島と陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい、波の静かな部分ができる。ここには沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。この砂州のことは陸繋砂州(りくけいさす)あるいはトンボロ(tombolo)という。 ■万葉の歌■「 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすがの山と見つつ偲はむ 」 (巻16・3862)この歌碑は、志賀島の北端国民休暇村の南側に広がる玄界灘を望む丘の上に建てられている。 奈良時代に、大宰府が対馬に食料を送る船の舵取りとなった宗形部津麻呂に代わって出航し、途中の暴風雨により帰らぬ人となった志賀の荒雄にまつわる歌であり、荒雄を失った妻子の心の痛みを山上憶良が詠んだとも伝えられる。 志賀の山の木をひどく切ってくれるな。 荒雄ゆかりの山と、見ながら思い出しましょうとの解釈や、 荒雄はきっとかえって来るだろう。 志賀の山の木が切られて様子が変わっていたら、 荒雄は戸惑うに違いないから、ひどく木を伐らないでください、との解釈もある。 「大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづきあはめやも」(巻16・3869) ☆歌意は《たとえ大小の船を出して大勢の人々が海中に潜ったとしても、志賀の海人の荒雄にめぐり会えるだろうか、おそらく会えないだろう。》■荒雄とは■?-? 奈良時代の漁師。筑前(ちくぜん)(福岡県)の人。神亀(じんき)年間(724-729)友人の宗形部津麻呂(むなかたべの-つまろ)にかわって,対馬(つしま)(長崎県)に防人(さきもり)の食糧をはこぶ船のかじ取りをし,暴風雨にあい遭難死した。これをかなしんで妻子ら(一説には山上憶良がよんだ歌10首が「万葉集」巻16におさめられている。 『志賀の浦に漁する海人明け来れば 浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ』しかのうらに いざりするあま あけくれば うらみこぐらし かじのおときこゆ この歌は、万葉集( 巻十五・三六六四 )で、博多湾の志賀の浦で漁 ( いざり ) をする海人 ( あま ) が、夜が明けてくると海岸沿いに舟を漕いで家に向かって急いでいるらしい、櫓の音が聞こえるという意味である。今の自分たちの境遇を思い、望郷の念を歌っているものである。この歌碑は、志賀島潮見公園の突端にある。万葉集で志賀島を歌ったものは、全部で16首になる。■首切塚(蒙古塚)■1274年(文永11年)、文永の役にて撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、うち220人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。■金印公園■国宝にも指定されている「漢委奴国王((かんのわのなのこくおう)」の金印。この金印が志賀島で発見されたことを記念してつくられた公園です。展望広場には、金印をかたどった石のモニュメントと実物大の金印のレプリカを配置。 能古島や博多湾が一望できる志賀島の小高い丘の上にあり、海に沈む夕日などの美しい景色が楽しめます。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.24
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■2018.10.21(日)観光ガイドさん(男)の案内で、■筑前の小京都 秋月 ■を歩いた。■筑前の小京都 秋月 ■城下町の景観が守られてきた「秋月(あきづき)」。福岡県朝倉市の中心地から北へ約7キロ、のどかな山間の盆地に秋月城の城下町があります。 約800年のさまざまな歴史と、山々の自然が調和した美しい景観はまさに“筑前の小京都”。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定され、城址や武家屋敷などが大切に残されています。76■眼鏡橋■江戸時代後期、月橋に架かる木橋が洪水によって何度も流失したことから、「流されない橋」を望む声が月島の人々の間に上がりました。そこで1805年に長崎の石工により、石橋を架ける工事が行われるも完成間近に崩壊。その後工事は慎重に再開され、ようやく1810年にオランダ風アーチ橋が完成しました。石橋はそのアーチ形の姿から眼鏡橋と名付けられます。現在では周囲の秋月の自然景観と見事に調和した秋月の人気観光スポットとして、多くの人々が見学に訪れる場所となっています。■臼井 六郎(うすい ろくろう、1857年頃 - 1917年11月)は、■江戸時代末期(幕末)から大正にかけての人物。元秋月藩の武士で、日本史上最後の仇討をしたことで知られる。明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。 「男はつらいよ 寅次郎紙風船」の舞台になっている秋月。この川の畔をを寅さんが歩いたそうだ。▲苔むした古い寺と石の仏。▼村のあちこちを流れる小川の音が心地よい。▲武士がこの道を通って登城したという。桜の頃は、大賑わいだそうだ。■秋月城:瓦坂■瓦坂は、かつて秋月城の前面のお堀に造られた大手門(表門)に続く坂道で、 当時はこの奥に 黒門 があったが、 現在は黒門は移築していて、瓦坂から少し離れた所にあります。 この瓦坂は、名前の通り瓦を縦に並べて坂を造ったもので、 土の流れを防ぐ為にこのように造られたものである。 秋月城に行く前に、ガイドさんが「うちで、お茶を飲んでいきましょう。」と言って自分の家に案内してくれた。80代の夫婦二人暮らしで、部屋にカフェを作って誰でも入れるようにしていた。 抹茶とお菓子と楽しい話で、思わぬおもてなしに感激!!筑前の小京都 秋月。秋の紅葉と春の桜が有名だそうだ。また行きたい、その時は、ガイドさんご夫婦にお礼を言いたい。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.23
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■2018.10.20(土)■唐津■に行った。唐津という地名は、大昔から使われていたかと思えば、さにあらず。■松浦・唐津地名考■この「唐津」の地名は11世紀後半以前に「神集島」及び対岸の「唐坊」(唐津市湊)が1つの大きな中国人居留地並びに重要渡海拠点としての形を形成していたことにより、「唐人津(とうじんのつ)」的な「施設」を呼称する意味合いが「唐津」と呼称されるようになったと考えられています。この「唐津」という地名が施設的な呼称から「松浦」に代わる地名的な呼称へと転化するのは、あとの15、16世紀になってからのことです。■唐津城■唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、慶長7年 (1602年)から7か年の歳月を費やして同13年に完成したと言われています。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。城は、本丸、二の丸、三の丸、外曲輪に分かれており、現在の天守閣は、昭和41年に完成したもので、展示室、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望できます。また、唐津城は、別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。お城へは、有料のエレベーターを使用。■虹の松原■虹の松原は、国の特別名勝であり、日本三大松原のひとつにも数えられている景勝地です。もともとは唐津城を築城した寺沢広高が、防風や防潮のためにクロマツを植えたのが始まりと伝えられています。現在は約100万本のクロマツが群生しており、鏡山展望台から全体を見下ろすのが唐津観光の定番です。しかし、中を歩くのも良いですよ。市民ボランティアによって自然のままの姿が守られているため、神秘的な空間が広がります。この日の宿は、志賀島にある国民休暇村。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.22
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■2018.10.20(土)波戸(はと)岬のホテルに泊まった翌日■名護屋城■に行った。 案内所で、「無料ガイドさんがいますけど、いかがですか?」と聞かれた。「無料???」このガイドさん(女性)は、研修を受けて、10月からガイドデビュー。ま2時間コースでお願いした。■名護屋城は、■佐賀県玄界灘に突き出した波戸岬にある城です。天正13年(1585年)に中国地方の毛利輝元、天正15年(1587年)に豊臣秀吉は九州平定(薩摩の島津義久)をすると、天正18年(1590年)には、奥州の伊達政宗、関東の北条氏を制し、織田信長も夢見た天下統一を成し遂げました。長く続いた戦国時代が終焉を迎え、秀吉は朝廷との関係を強め、内大臣、関白、太政大臣(太閤)までに昇進したのです。せっかく平和な世の中が訪れると思われたのもつかの間。秀吉は国内だけでは満足せず、7年にも及ぶ大陸への『文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)』を起こそうと計画を練ったのです。その唐入りの為、朝鮮に渡る最前線の城として、適切な場所を探させていました。そして、出身の名古屋と同じ名称のこの名護屋にある小高い山が「勝男山」と言う事で縁起が良いと選ばれ、この地に城を築く事になったのです。ガイドさんは、1時間かけて、講習会に参加して、ガイド免許を習得したと言ってただけあって、熱心だった。私は、お礼に、「二の丸、三の丸、本丸などお城には丸がつくのは、なぜかというのが■日本人のお名前:丸■であるから、調べてみて」と教えてあげた。■佐賀県立名護屋城博物館■名護屋城跡と全国の大名の陣屋の広大な遺跡の保存整備事業の中核施設として、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を調査・研究・展示紹介しています。 名護屋城博物館の常設展示では、原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史をメインテーマとした展示を行っています。名護屋城博物館前に立つトルハルバンは、 韓国済州道独特の伝統的な石人像です。朝鮮半島本土のチャンスンと同様に、邪悪なものを避ける一種の守護神として建てられていました。頭巾型の頭とユニークな顔立ち、上半身の腕と手以外が省略された姿は、石チャンスンなどの石像とよく関連付けられています。また、胸の前に手を置く様子は韓国本土の石仏と類似しており、その影響を受けたことが考えられます。「トルハルバン」の名称は、「石のおじいさん」という意味の済州道の方言であり、1970年代に付けられました。それ以前は「ウソンモク」「ポクスモリ」などと呼ばれていたそうです。(現地案内板より)前の日、浜辺で見たのも「トルハルバン」だったのだ。ここは、朝鮮半島に近いから、古くから行き来があったのを今に引き継いでいる。呼子大橋を渡って、加部島へ。この近くは、昔からクジラ漁が盛んで、クジラのオブジェが・・・。■松浦佐用姫■537年、新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。 遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾ふりしより 負へる山の名 万葉集には、大伴旅人が詠んだとされる歌がある。同様の伝説は大陸にもある。北部九州と大陸の交流をうかがわせる。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.19
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■2018.10.19(金)平戸島から焼き物で有名な有田に向かう。有田観光協会で、ガイドさん(男性)と落ち合い、うちの車に3人乗って出発!有田といえば焼き物、焼き物といえば有田・・・。というわけで、あちらこちらに陶器が・・・。 佐賀県の有田町は、陶器市に100万人以上が訪ねる焼き物の町です。日本の磁器が生まれた地であり、江戸時代には、はるかヨーロッパでもブームとなりました。なぜ有田に、このような優れた磁器が生まれたのでしょうか?■ブラタモリ■■陶石の採掘場:泉山磁石場■有田焼の原料となる陶石の採掘場。およそ400年前の16世紀後半、秀吉が朝鮮に出兵した際、日本につれて帰って来た朝鮮の陶工たちが発見したのが泉山磁石場でした。江戸時代初期の1616年(元和2年)、朝鮮人陶工・李参平により発見され、日本で初めての陶磁器が誕生しました。現在、採掘はほとんど行われていませんが、掘り続けられた山の姿は奇観です。■泉山を見つけた李参平■〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山1-5■佐賀県有田町の陶山神社(とうざんじんじゃ)は■陶祖の李参平(りさんぺい)を祀った神社で、大鳥居や、狛犬、大水瓶、灯篭、お守りなどが磁器でつくられています。陶山神社の参道には線路が通っていて、JR長崎本線・佐世保線の普通列車や特急列車が通過します。町のシンボルの陶山神社から有田の町が一望でき、桜や紅葉の名所としても親しまれています。また、境内を列車が走る珍百景の神社として知られ、遮断機のない踏切を渡って参拝するデンジャラスな体験ができます!★登り窯を作るためのちょうどいい傾斜地があった。★陶石を砕くための水車が必要でその川があったなど偶然、有田には、焼き物を作る条件が全て揃っていたということだ。■大公孫樹(オオイチョウ) (口屋番所跡)■泉山弁財天神社境内にあるおそらく日本一であろうと思われるのイチョウの巨木。樹齢約1000年、高さ40m、根回り12m、枝張り東西31m。11月中旬~下旬頃は巨木全体の葉が黄色に色づき、訪れた人を圧倒させます。1926年(大正15年)、国の天然記念物に指定されています。(▲町の木は、イチョウ。)また、大公孫樹下にある口屋番所跡では江戸時代に佐賀藩の役人が常駐し、陶石ややきものの持ち出しなどに対し、厳しい取締りを行っていました。 ■トンバイ塀■焼き物の町、有田を歩いていると、時折、赤茶色の壁に出会う。「トンバイ塀」だ。登窯の内壁に使われた耐火レンガ(トンバイ)の廃材を赤土で固めたもので、江戸時代から建てられている。今は少なくなってしまったが、町の中心部である内山地区の裏通り(泉山大公孫樹付近から大樽の有田陶磁美術館周辺)で見ることができる。現存する中で最も古いものは、17世紀はじめに創業した辻精磁社にあるもので、1830年頃に建てられたといわれている。かつては町並みを流れる川沿いに窯元が多く立ち並び、窯元を囲むようにトンバイ塀が築かれていた。塀を建てることで、陶工の技術の漏洩を防ぐ意味もあったと考えられている。焼き物の町、有田を象徴する風景である。道端の古い仏に、まちの歴史を感じた。 かつては、まちに活気があり、このまちにも芝居小屋や映画館があった。こうして、隆盛を極めた有田だが、今は、少し下火のようだ。(▲堂々たる店構え。)昔は、結婚式の引き出物など、食器が使われた。しかも、少なくても5枚がセット。結婚式や法事など、家で食事を出したりすることが多かったので、沢山の食器が必要だった。物のなかった時代も過ぎ、最近は、食器の好みも結構うるさい(私も。)みんな、食器を持っているし、家で結婚式や法事をしないし、食事も、和洋中などいろいろ。そんなわけで、有田の食器も昔よりは少なくなったとはいえ、今も多くの観光客が有田に来ているという。ガイドさんによる2時間の有田散策の後、車で今日のホテルまで移動。途中、美しい棚田で寄り道。この日は、この近くで泊まった。岬の店で、サザエのツボ焼きを食す。浜辺にたつ像は、韓国の人形。朝鮮半島に近いことが分かる。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.18
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■2018.10.18(木)■生月(いきつき)島から■平戸島にある切支丹資料館、紐差教会の後、ガイドさん(男性)と落ち合った。このガイドさんは、3歳まで平戸島でその後は、大阪!!人生のほとんどは、大阪で暮らしている。■地名:平戸(ひらど)■古代はひら(庇羅・庇良)と呼ばれていた。地名の由来は,ひらの島と本土との門(と)から来た説や,島の形が伝説の鳥「鸞」らんの飛ぶ姿に似ており「ひらんど」に転訛した説などがある。遣唐使,松浦党,南蛮貿易,キリシタン等歴史豊かな町である。【ひらど】 平戸の■戸とは、■渡(わたし)という特定施設ではなく、船着場のある一つの集落を意味していたものと考えます。(私もこれに一票!!)室戸(むろと)など「戸」がつく地名には港が絡んでいる。「津」と同じように使われている。■寺院と教会の見える風景■平戸市の代表的な景観になっている寺院と教会の見える風景は、平戸市の市街地近くの高台にある「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」と、周囲の寺院が織りなす西洋と東洋が融合した空間です。海岸通りから続く石畳の坂道を上ると、ザビエル記念教会の緑色の尖塔と十字架が望め、 その下に正宗寺・光明寺・瑞雲寺のかわら屋根が見えます。異国との交流があった平戸の歴史を感じさせるスポットです。■平戸ザビエル記念教会■長崎県の観光名所のひとつで、正式名称は"平戸ザビエル記念教会"です。末広設計事務所設計で1931年に竣工、建坪396平方メートル、鉄筋コンクリート造りで重層屋根構成の建築物です。中央の鋭く天に突き立てるような巨大な尖塔とそのまわりを囲む小尖塔はあたかもシンデレラ城のようなドイツ式ゴシックの特徴を持っています。内部は深い縦長の構造になっていて、アーケード型の柱の上部に白い装飾帯があり、ステンドグラスの柔らかな光が神聖な雰囲気を醸し出しています。教会は、左右対称に作られるものだが、この「平戸ザビエル記念教会」は、左右対称ではない。建設費が足りなくなったのだそうだ。歩いていると、ガードレールにオ人形が・・・。目についた立派なバナナの木。温暖化で実がなるようになったのだそうだ。古いまち並みを生かしたまちづくりに力を入れている。冷房の室外機には、木で囲いをし、看板なども昔風のものを使っている。コーラの自販機もまち並みにマッチしている。ふるさと納税で作ったという、まちなみにあうような色の、ホース格納庫。♪赤い花ならマンジュシャカ、オランダ屋敷に雨が降る、 濡れて泣いてるじゃがたらお春、未練な出船のあゝ鐘が鳴る。ララ、鐘が鳴るこの歌、昔聞いたことがあるけど、平戸の話とは・・・。イタリア人と日本人のハーフとして生まれ、日本にいられなかった、「じゃがたらお春」の故郷恋しという手紙が悲しい・・・。小さな島なのに、お城まである平戸島。まだまだ見ていない所がいっぱいだ。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.17
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■2018.10.18(木)■生月(いきつき)島から■生月大橋を通って平戸島へ。平戸島にある切支丹資料館に行った。■平戸島:切支丹資料館■平戸島の中央、根獅子の浜に隣接する資料館。1550年(天文19)のザビエルによるキリスト教平戸布教以降、後続の宣教師による布教活動が行なわれ、根獅子では住民すべてが信者となったと伝えられています。しかし禁教と激しい弾圧の時代を迎え、人々はその信仰を守るために、秘密の組織をつくり、仏教や神道を隠れ蓑として、納戸に深くしまわれた聖画などを中心とする礼拝を行ないました。明治以降カトリック信者に戻る人々とこれまでの信仰を守る人々にわかれ、後者がかくれキリシタンと称されています。根獅子では長らくその信仰が守られて来ましたが1992年に終焉を迎えました。多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀る*おろくにん様*などの聖地に取り囲まれるかたちで資料館が建てられており、納戸神や紙の十字架マブリ(お守り)などが展示され、密やかに守り抜かれた信仰の歴史を伝えています。*■おろくにん様■*■カトリック紐差教会■大規模な天主堂で、旧浦上天主堂が原爆によって倒壊した後は、日本最大の天主堂といわれた。外部はロマネスク様式で、内部にはアーチと美しいステンドグラスがはめ込まれ、鉄川与助(設計者)の特徴である花柄の模様が豊かに飾られている。キリスト教の空間に日本の仏教的な空間が入り混じり、変化のある雰囲気を見せている。もちろん見学に行くことは構わないが、観光施設ではないのでちょっと気を使ってほしい。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.16
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■2018.10.18(木)平戸大橋を渡り、平戸島へ。生月大橋を渡り、生月島へ。■生月(いきつき)島■荒海の中遣唐使船が「やっと行き着いた島」に由来するとの伝承もある。キリシタンの島として知られ江戸期からのオラショ(祈りの言葉)が残る。江戸期には捕鯨が盛んで当地出身力士が生月鯨太左衛門を名乗ったという。今は生月大橋により平戸島に繋がっている。【いきつき】平戸島は本土と生月(いきつき)島は、平戸島と橋でつながっているが橋が出来るまでは、大変だったのだろう。■生月(いきつき)島:塩俵の断崖■■「塩俵の断崖」は■玄海灘の荒波に洗われてできた、雄大な亀の甲模様の玄武岩の柱状節理であり、生月島西海岸を代表する景勝地です。この柱状節理は新第三紀(約2500万年前~500万年前)にできた溶岩台地です。柱状節理は溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く、 玄武岩の柱はほぼ垂直で、さらに水平に亀裂が生じて蜂の巣状の俵を重ねた様になるようです。ここ「塩俵の断崖」の柱状節理は県内でも代表的なもので、南北に約500m の長さがあり、海面からの高さも20m もあります。■ 生月島の最北端にある大碆(大バエ)鼻と断崖の上に立つ大碆(大バエ)灯台■生月島の最北端部は高さ100mの断崖になっており、大碆(おおばえ)断崖といいます。その断崖の上に白亜の大碆(おおばえ)灯台が建っています。 この一帯は大碆(おおばえ)鼻と言いますが、地図などでは大バエ鼻と漢字でなくカタカナで表現しているようなので、以後カタカナで表現します。この大バエ灯台は展望台も兼ねている珍しい灯台です。灯台のプレートには「大碆鼻 北東方照射灯 初点平成14年3月」と書いてありましたが、 北東方照射灯がそうだと思います。この灯台そのものは昭和33年に初点灯しました。灯台の位置に立ち下の海を見ると目もくらむ高さです。この大バエ断崖の高さは100mもあり灯台からは壱岐、対馬を望むことができ、 視界いっぱいに水平線が広がる景色はすばらしいです。まさに360度の展望が楽しめます。灯台から岬の陸部分はなだらかな草原になっており8月には「はまゆう」の群生をみることもでがでるようです。 オオバエ灯台へ近くの無人販売で、サツマイモ5袋買う。ひとつ100円で安いし帰って食べたら美味しかった。生月島の景色を眺めながらドライブしていたら、棚田が・・・。▲そして、何?何?この石垣??▼どうやら、牛の放牧をしていて、石垣はその囲いと後で知った。■イギリスのダートムーアで出会った牛や馬■(▲生月大橋)橋が出来て便利になったとはいえ、生月大橋、歩く人は使えないのではないだろうか。ホテルから平戸大橋が見えた。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.15
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■2018.10.17(水)日本本土最西端:神崎鼻県道から海に向かって5分ほど入ると小さな漁村に至る。漁村内を標識に従って複雑に進むと、トイレのある神崎鼻の駐車場に出る。防波堤の向こうは東シナ海である。この地は本土最西端の地で、岬の先の最西端地のモニュメントに向かって山沿い海沿いの遊歩道があり、モニュメントの場所で出会う。平戸島が沖合に見えるが、ここが本土最西端であると思えば感無量である。■地名考古学のすすめ:岬の種類■一般に、自然地名の「岬」と呼ばれる陸地の突出部は、5万分の1地形図では「崎:1659例、岬:241例、鼻:1055例、崎鼻:145例」と四種類の名をつけて区別されています。あまり知られていないこの区分は、命名年代の違いによったものです。様々な角度から検討すると、岬だけは命名年代、というより「崎から岬」に当て字を替えた時代を、近世から近代に想定したい地名ですので、とりあえず、ここでは除外します。四種類の名をふくむ広義の岬に、「鼻」がどの程度の割合で使われたかを、県別の百分率で表わすと、面白いデータが得られます。1.大分県 67.8% 2.愛媛県 61.9% 3.香川県 61.4% 4.広島県 60.5%5.岡山県 58.3% 6.島根県 58.0% 7.福岡県 46 % 8.宮崎県 43.6% 鼻の使用率が高い上位8県のうち、島根・宮崎県をのぞく6県が瀬戸内海に面している事実が浮上します。山口県は10位の42.1%です。 考古学上で、瀬戸内海が活気づくのは、弥生時代以降ですから、「鼻」地名群の命名年代は、「弥生時代」と考えられそうです。てっぺん好きなので、■ジョン・オ・グローツ(英: John o' Groats)■■イギリス本土最西端の地の果て「ランズ・エンド(Land's End)」■にも行った。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.14
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■2018.10.17(水)九十九島クルーズに乗ろうとして、お土産屋さんで見つけた!!「九十九島せんぺい」!!!九州などでは煎餅を「せんべい」でなく「せんぺい」と半濁音で発音する人もいる。二○加煎餅、九十九島せんぺい、湯せんぺいといった例がある。場合によっては醤油味・塩味を「せんべい」、甘いものを「せんぺい」と呼び分ける例もある。 へえ~!へえ~!!■九十九島■クルーズに行った。佐世保港外から北へ、平戸までの約25kmの海域には、複雑に入り組んだリアス海岸と208の島々が織りなす美しい自然景観が広がっています。人が住む有人島は4島、他はすべて無人島で、ほぼ全域が1955年に西海国立公園に指定され、288.5kmに及ぶ海岸線の80%以上が自然海岸のまま保全されています。■九十九島の伝説■陸に近く島々が密集した九十九島は、古くから人々の生活の場でもあり、土地の人々の言い伝えが残っています。 昔、平戸の殿様が釣りのじゃまになった木を切ろうとして降りおろした「斧」を落としてしまったという由来をもつ「斧(よき)落とし」、神功皇后ご愛用の木枕が嵐で船から投げ出され流れついたと言い伝えられる「枕(まくら)島(じま)」、七郎神社の祭典日にたくさんの神々が集められ、松の木に次々と馬の鞍を掛けられたという「鞍(くら)掛(かけ)島(しま)」、平家の落人伝説が残る「松浦(まつら)島(じま)」など、島のひとつひとつに名前があり、今も語り継がれるその由来や伝説、また、日本地図を著した伊能忠敬の測量や勝海舟による海軍演習などの史実に、この地域の長い歴史や風土が感じられます。★珍しい名前の島★★グァタグァン島★干潮時の「潟が干上がる」様を「潟が干」(ガタガカン)と呼ぶうちに、なまってついた名前と言われています。★御飯島(おっぱんじま)★「御飯」と書いて「ごはん」ではなく「おっぱん」と読むと、仏壇に供える御飯のことになります。炊きあがった御飯を金色の器に山盛りにし、まずは一番に仏前に供えます。「おっぱん」で通じる地方も多いようですが、「御仏飯(おぶっぱん)」が一般的な言い方でしょう。「おっぱん」勤めていた会社でよく聞いた。★長南風(ながはえ)島★■はえ(南風)■ 山陰、西九州地方でよく用いられ、南風のこと。 南風(はえ)が吹くと雨が降り海が荒れ出航不能となり、南風の時化が治まる迄風待ちして待機するとのことです。 北原白秋が「思ひ出」の中のTONKA JHONの悲哀として「南風(ハエ)が吹けば菜の花畑のあかるい空に」と歌っていますし、 俳句にも、「川がりは先凉みとれはへの風」(毛吹草-五・夏) とあるそうです。(白秋は九州の人)南風(はえ) - 沖縄県島尻郡南風原町の地名。南風(はえ) - 長崎県佐世保市の地名。南風崎(はえのさき)など。南西諸島(沖縄)では南のことを〈ハエ〉という。■また、それの関連で「南の島」を「南(ぱい)ぬ島」という。■沖縄の言葉だと思っていた「南風(はえ)」が九州でふつうに使われているのにびっくりした。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.12
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■2018.10.16(火)■神ノ島教会■の後、「軍艦島」へ。軍艦島に行くとき、神ノ島教会が見える。今や、廃墟として有名な軍艦島は、今回の九州旅行の目玉だった。しかし、今年の台風で上陸が無理となり、海から見るだけのツアーとなった。(小学生と同じ船になって賑やかな船旅。)■軍艦島■小さな海底炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期の昭和35年(1960)年には約5300人もの人が住み、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に達し、島内には小中学校や病院など生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていました。端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化を支えましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより昭和49(1974)年に閉山、島は無人となりました。平成21(2009)年4月には一般の方の上陸が可能となり、現在では多くの方が軍艦島上陸ツアーに参加して、軍艦島を訪れています。上陸ツアーでは、主力坑だった第2竪坑跡や、端島炭坑の中枢であったレンガ造りの総合事務所、大正5(1916)年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造の7階建て30号アパートなどを見学通路からご覧いただけます。(▲高島に上陸して、軍艦島の模型を見ながら話を聞いた。上の写真には、プールがうつっている。)平成27(2015)年7月5日世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」として正式登録されました。※ 軍艦島へ上陸するには各船会社が運航している軍艦島上陸ツアーに参加する必要があります。ただし、天候等により上陸できない場合があります。乗船に関する予約・お問い合わせ等は、各船会社までお問い合わせください。病院、学校、映画館となんでもある軍艦島だが、火葬場がなく、近くの無人島まで行っていた。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.11
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■2018.10.16(火)■カトリック神ノ島教会■長崎港の入口にあたる神ノ島は1960年代に海面埋め立てで九州本土と繋がるまでは離島であった。 (▲崖の上の神ノ島教会。)幕末のプティジャン神父による「隠れキリシタンの発見」の後、神の島で水方を務めていた西政吉が大浦のプティジャン神父を訪ね、神の島にも潜伏キリシタンが多くいることを打ち明け、その後神の島の隠れキリシタンはカトリック教会に復帰していく。当時、全島民が潜伏キリシタンであったとする説もある。 1876年(明治9年)に、パリ外国宣教会のブレール神父が神ノ島に着任し、仮教会が設けられ、1881年(明治14年)に、後任のラゲ神父により現在地に木造の教会堂が建築された。現存の煉瓦造りの教会堂は、1892年(明治25年)に当地に来住したデュラン神父が私財を投じ設計・建築したもので、1897年(明治30年)に竣工した。当初は漆喰塗りであったが、のち石灰・セメント塗りに改装され、現在の白い外観になっている。 長崎港を発着する船から教会の姿を見ることができるため、長崎港のランドマークの1つとなっている。 「神ノ島教会」の向かいにある■「岬のマリア像」。■昭和24年に聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念し、世界平和と航海安全を祈って建てられました。その後、風雨による傷みが激しく、現在のマリア像は昭和58年に再建されたものです。▲マリア像のあるところから「神ノ島教会」を見る。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.10
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■2018.10.15(月)この日も、ガイドさんと一緒に長崎をさるく。まず、「グラバー園」へ。「グラバー邸ではないんですか?」■そもそも「グラバー園」とは、■(▲グラバー園へは、エスカレーターで。)「長崎市に点在していた外国人居住邸宅を一堂に会した施設」のことで、<元々この土地にあった建物>に<ほかの場所から移築した建物>を加え、昭和49(1974)年に開園しました。<元々この土地にあった建物>▲旧グラバー住宅(世界遺産・国指定重要文化財)・旧リンガー住宅(国指定重要文化財)・旧オルト住宅(国指定重要文化財)▲リンガーが、人力車で通るために整備した道のだとか。ちょこっとアスファルトが残っています!日本最古級のアスファルト道路。白い大きな船が見える。■大浦天主堂は■長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者天守堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。■二十六聖人■信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。 大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる。▲旧羅典神学校(きゅうらてんしんがっこう)は、長崎県長崎市にある歴史的建造物。国の重要文化財。 キリスト教(カトリック)のパリ外国宣教会宣教師ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)により日本人司祭育成を目的として設立された長崎公教神学校の校舎兼宿舎として、1875年(明治8年)に大浦天主堂敷地内に建設された西洋館である。 ▲この石の流しのようなもので、学生たちは、朝、顔を洗った。 ▲蝶々夫人を演じる三浦環の像。「蝶々夫人」は、長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。三浦環の代名詞のように言われている。▲ガイドさん(女性)は活水高校出身だった。▼▲電車の通る道は、かつて川だったところ。▼名残りに「石橋」という停留所が!この後、出島へ。ここでもガイドさんに案内してもらい2時間まわった。この日は、6時間のガイドさんつきのさるく。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.09
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■2018.10.14(日)■この日の続き■■平和の像■1955年(昭和30年)の被爆10周年に向けた記念行事の一貫として長崎市が建設を計画し、1951年(昭和26年)に着工、1955年の8月8日に完成した。■ひとりごと■そんな中で、何も彼も いやになりました。原子野に きつ立する 巨大な平和像それはいい それはいいけどそのお金で 何とかならなかったのかしら“石の像は食えぬし、腹の足しにならぬ”さもしいと いって下さいますな原爆後十年を ぎりぎりに生きる被災者の 偽わらぬ心境です。8月8日、自宅にいると、平和祈念像除幕式の拡声機の音がお祭り騒ぎのように聞こえた。自殺を考えていた須磨子さんは原稿用紙に詩を一気に書き付けた。それがこの投稿だった。反響は大きく、詩人として世に出るきっかけとなった。戦後10年たった昭和30年に完成した平和の像。戦後は終わったように考えるなというおもいなのだろう。▲防空壕が残っている。▼ここは、囚人の鑑別所跡で、この中の囚人たちはすべて亡くなった。70年以上たった今も、昨日のことにように語り継がれるのはいいことだ。ここがかつて、何万の生き物が住む海だったことは、忘れ去られえている。■大漁■ 排水機のスイッチが入れられ、万歳の声やら喜びの声が機械場をゆるがせたる時、 今、干拓されんとす、湖の底にいる魚や貝を思う。 私たちの食べる米を得るために、数多くの魚や貝が死んでいった。「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。このウエットティッシュは、郵便局でもらった。(^▽^)/■眼鏡橋■眼鏡橋は、長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球王国だった天女橋を除くと、日本初の石造りアーチ橋である。1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定された。水面に映しだされた姿が眼鏡のように見えるところからこの名がある。1634年(寛永11年)、中国から来日して興福寺の2代目住職となった黙子如定によって架けられた。黙子は中島川の氾濫のたびに橋が流失されるのを見かねて、中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたといわれている。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた。「PONTE」フランス語で「橋」という名のカフェがすぐそばにあった。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.06
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■2018.10.14(日)■カトリック浦上教会(浦上天主堂)■■現在の天主堂は昭和34(1959)年に再建されました。■旧天主堂は、明治28(1895)年に起工し、大正14(1925)年に完成するまで、30年の歳月をかけて建てられました。当時は赤レンガ造りの、東洋一といわれた大きな教会でした。原爆の日、一瞬のうちに爆風で崩壊、火災で屋根と床の可燃物は焼失しました。聖堂、司祭館などは堂壁の一部を残して敷地内にあった聖人像などの石像もほとんどが大破しました。■拷問石■境内の一角には、浦上四番崩れの際に山口県萩市に配流された信徒らが正座させられて棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。拷問石の上には太めの茎で編んだ葦簀(よしず)が敷かれ、その上に信徒が座らせられて拷問、説諭を受けた。 拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年にカトリック萩教会に譲渡された。天主堂の遺壁の一部は原爆落下中心地に移設されています。また、長崎原爆資料館に被爆当時の南側入口の再現造型や被爆した像など(実物)が展示されています。原爆落下中心地の碑は、その上空約500メートルで原子爆弾が炸裂したことを示しています。一瞬の光と共に建物は焼き尽くされ、約15万人の人が被爆しました。後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て『麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟』と詠んでいる。■日本二十六聖人殉教地(西坂公園)■豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。 私が思うのは、なぜキリスト教信者は、棄教しなかったのか?ということ。キリスト教、捨てればすむ話なのに・・・。「キリスト教を信じているのか?」聞かれれば、「めっそうもないことでございます、お代官様m(_ _"m)」と言い「この踏み絵踏め!」と言われれば、さっさと踏む。それだけの柔軟さがないとこの時代は無理でしよう。 殺されるのにキリスト教を辞めないのは、狂信的で、反対だったらオーム。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.05
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■2018.10.13(土)■塩田津■嬉野市塩田(しおた)町は佐賀県南西部に位置し、多良岳(たらだけ)山系のすそ野に広がるまち。三方を山に囲まれ、まちの中央部を塩田川が流れています。有明海へ注ぐこの川は干満の差を利用して船が行き来し、川港となったまちは「塩田津」と呼ばれて発展していきます。(▲ここに船をつなぐ。)天草からの陶石がここで荷揚げされて有田町や伊万里市、波佐見町(長崎県)へ、帰りの船には米や やきものなどが積まれ、大川市を経て大阪などへ運ばれていったといいます。「塩田津」には廻船問屋や商家が立ち並び、周辺には和紙や鍛冶、石工の職人たちが住み、まちは大変賑わいました。■タナジ■川に面する家々の裏側に「タナジ」と呼ばれる階段がついています。昔は水が綺麗で、川で野菜などを洗ったそうです。「川と生きたまち」らしさ、「石工職人のまち」らしさを感じさせます。◎ガイド氏は、「「タナジ」とは、棚路と書くのではないかと思っています」とのことだが、なるほどと思った。「町並み交流集会所」の裏は御蔵浜と呼ばれ、荷揚げ場でした。建物は昭和20年代初期の旧検量所です。建物脇に計量器があり、船から荷を積みかえた車が荷を積んだまま計量できるようになっていました。昔ながらの道という風情を感じさせますが、ここ塩田津を通る長崎街道は大変広いのです。なぜ、こんなに広いのでしょう?明治時代、もともとは狭い道だったのですが、家々を後方に引き下げて道を拡張したからです。祐徳稲荷神社付近から武雄市まで線路をつくり、荷台に車をつけて馬に引かせた馬鉄が通り、その後、軽便鉄道が走っていました。また、大正4年に県下で最初の電車が塩田から嬉野まで開通しました。やがて車の時代になり、船による運搬や軽便鉄道の運行もだんだん減っていきました。塩田川の氾濫で水びたしにならないように、最近の家は地面を少し高くするそうだ。塩田津の後、車で宿に向かっていると、突然、海が見えた。有明海だ!!■ラムサール条約■2015年5月29日、ウルグアイで開催された「ラムサール条約」の第12回締約国会議で、九州有明海にある2カ所の干潟を含む国内の4カ所の湿地が、条約登録湿地として認められました。有明海は、日本の干潟の約4割に相当する広大な干潟を擁した、多くの渡り鳥が飛来する自然豊かな場所です。また、ノリ養殖やムツゴロウ、ワラスボなどの特産種の漁業も盛んで、身近な海として人々の生活を支えてきました。(▲干潟用の足袋、ガタ足袋を干してある。)干潟を身近なものに感じ、目を向けてもらうための鹿島市での取り組みの一つ「ガタリンピック」。観光とは縁遠いと思われていた干潟を巧みに利用した干潟を丸ごと体感する運動会。今や海外でも同様のイベントが行なわれている。泥んこになった後は、ここで体を洗う。 ■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.03
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■2018.10.13(土)■古賀政男(作曲家)1904年、福岡県生まれ。明治大学在学中に「明治大学マンドリン倶楽部」創設に携わる。在学中に音楽家を目指し、1931年、マンドリン倶楽部の定期演奏会にて「影を慕いて」を発表。その後、藤山一郎と出会い、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ」など数々のヒット曲を生み出す。1958年に日本作曲家協会を立ち上げ初代会長に就任。 日本レコード大賞を制定するなど、音楽界の発展に尽力した。1964年、「柔」で第7回日本レコード大賞・大賞を受賞。1974年JASRAC会長に就任。1978年に73歳で死去。同年、国民栄誉賞を受賞。そんな古賀政男の記念館、古賀政男記念館・生家が福岡県にあるので行ってきた。調べてみたら、流石、大物・古賀政男、大物作詞家・西城八十と組んだものが多数あった。♪西城八十とのコンビ作品♪♪サーカスの唄♪(1933年)♪誰か故郷を想わざる♪(1940年)♪ゲイシャ・ワルツ♪(1952年)♪りんどう峠♪(1955年)などなど・・・。生まれる前の曲もあるが、知っている。また代表作の「影を慕いて」は作詞も古賀政男!!古賀政男記念館の後、肥前浜宿という重要伝統的建造物群保存地区(略して重伝建)に行き、ガイドさん(男性)の案内で2時間コースで廻った。(▲家の軒を飾るもの。火事がありませんようにと水の模様だそうだ。)■継場(つぎば)■江戸時代の肥前浜宿は、多良海道(たらかいどう:佐賀県と長崎県を結ぶ交通ルート)の宿場町として栄えていました。継場では、人馬の継立て(つぎたて:宿ごとに飛脚や馬を新しく変えること)や、宿場から宿場まで荷物や物資の輸送を行っていました。そのため、馬をつないだ鉄の輪や帳場(ちょうば:宿場で勘定をする場所)、人足の控え場などが残されています。現在は修復されて、肥前浜宿の観光案内所として活用されています。場所は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている酒蔵通り(浜中町八本木宿)の入り口にあり、肥前浜宿を観光する際の拠点になっています。継場の建物は国の登録有形文化財に指定されています。■肥前浜宿・茅葺の町並み■浜川右岸に広がる町並みです。江戸時代から商人や船乗り、鍛冶屋や大工などが暮らし、とてもにぎわっていました。有明海に近いために現在も多くの漁師が生活しており、細い路地沿いには茅葺きの民家が密集していることが特徴です。すぐ近くの「肥前浜宿・酒蔵通り」と共に、歴史的に価値のある地域として国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。浜川の右岸に大きな木が残っていた。この木を残してという活動が実ったのだそうだ。左の木は「エノキ」で右の木が「ムク」!!エノキの実も、ムクの実も私が私が小さい頃食べていたのだが、もう50年以上食べていない。食べたい、食べたいと私が言うので、ガイドさんがムクの実を採ってくれた。甘ーーーーい!!!■少年に枇杷熟れ桑熟れ椋熟れてとどめにムベの熟れゐし昭和■ 大野展男ビワは毎年、よく食べるが、ムクは50年以上ぶり。なんでこんなに美味しい実のなる木をもっと植えないのだろう・・・。■肥前浜宿■■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.02
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■2018.10.12(金)■上陽の石橋■上陽町地区には13の石橋が現存しています。これらは建築技術や機材、資材が現在よりも恵まれていなかった明治から大正時代にかけて建築されたもので、周囲の豊かな自然と溶けこみ、美しい景観を作り出しています。中でも有名なのは、アーチが1連から4連までの石橋群。特に「1連の洗玉橋」、「2連の寄口橋」、「3連の大瀬橋」、「4連の宮ヶ原橋」の4つの橋は、あわせて「ひふみよ橋」の名称で親しまれています。■洗玉橋 (せんぎょくばし)■ -名匠「橋本勘五郎」により造られた石橋-上陽町の「ひふみよ橋」の中で最初にかけられた一連式アーチ型の眼鏡橋。明治23(1890)年、上陽町を襲った3度の大洪水により星野川に架かった木造りの橋は全て流されてしまいました。「大洪水でも流されない石造りの橋を造ってほしい」との住民からの強い要望と222名の寄付があり、「橋本勘五郎」や彼の息子、「萩本卯作」といった弟子達により明治26(1893)年に建築されました。「橋本勘五郎」は当時のアーチ型石橋作りの名匠であり、熊本県の国指定無形文化財である「通潤橋」や「万世橋」、「浅草橋」、「江戸橋」、「京橋」などをてがけました。■■寄口橋 (よりぐちばし)■■ -桜・清流・石橋の共演-上陽町の「ひふみよ橋」の一つである二連式アーチ型の眼鏡橋。八女市長野地区の石工「山下佐太郎」、上陽町北川内藤木の大工「小川弥四郎」によって大正9(1920)年に建築され、当時のアーチ型石橋作りの名匠「橋本勘五郎」がてがけたとされる「皇居の奥二重橋」を再現しようとしたものと伝えられています。■■■大瀬橋 (だいぜばし)■■■-橋本勘五郎の弟子がてがけた石橋-上陽町の「ひふみよ橋」の一つである三連式アーチ型の眼鏡橋。大正6(1917)年に架設されたと伝えられ、「荻本卯作」「川口竹次郎」などの建築に携わった大工・石工達の名前がアーチの頂上真ん中付近に刻銘されています。 「荻元卯作」は、当時のアーチ型石橋作りの名匠「橋本勘五郎」の弟子であり、大瀬橋から北300mにある「鮎帰橋(あゆがえりばし)」や、寄口橋から北300mにある「枕橋(まくらばし)」といった様々な石橋の建築に携わっています。■■■■宮ケ原橋 (みやがはるばし) ■■■■-上陽町・旧八女地域の境にある橋- 上陽町の「ひふみよ橋」の一つである四連式アーチ型の眼鏡橋。大正11(1922)年に「豊島虎次郎」により建築され、旧八女地域から上陽町に入る際、清流星野川の風景とともに、最初に目に映ってくる眼鏡橋です。「ひふみよ橋」コンプリート!!!!八女の中心から少し離れたところに、黒木地区があり、そこをガイドしてもらいながら廻った。ガイドをしてくださったのは、熱心に町作りを考えている方で、感心した。忙しいのに、感謝m(_ _"m)▲八女の郊外にある黒木の大藤は、樹齢600年!!▼▲黒木の町に水を取り込むところにも案内してもらった。▲ここに木製の古い橋が架かっていたが台風で流されたそうだ。▲軒下の材を縄で巻いている家があった。▼▲黒木の町のあちこちに、外壁の下の部分に石をまいている家があった。壁の保護だそうだ。▼棚田もきれいだ。もちろん、棚田も石を積んで出来ている。流石、茶所、茶畑が!!八女では町のあちこちに石の文化を見ることが出来る。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.01
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■2018.10.11(木)■八女市は■福岡県の南部、福岡市から南へ約50kmに位置し、北は久留米市、広川町、西は筑後市、南は熊本県、東は大分県に接しています。八女に行ったら、■ふるカフェ系 はるさんの休日■に出ていたカフェに行こうと思っていた。■ふるカフェ系 はるさんの休日福岡八女 茶どころ芸どころの記憶を今に 「AOアオ」渡部豪太さん演じる古民家好きのカフェブロガー・ハルさんと地元の人たちで作るドラマ。今回は福岡県八女市の“ふるカフェ”。八女は日本有数の茶どころで、豪華なつくりの古民家が並ぶ。「芸があるカフェ」と聞いて訪ねたところ、そこはこの町にあった芸者さんの事務所だった建物。ここで、一度途絶えてしまった紅茶栽培を復活させた人や、古民家を再生させて若者を呼び込んでいる人たちに出会う。極上の抹茶パフェにメロメロ!■AOアオカフェblog」■■ふるカフェ系 はるさんの休日のカフェ■室内の写真は撮ることが出来なかったので外からのみ。カフェでお茶の後、八女の町を散策。この日はガイドさんなしで歩いたけどいい町だった。▲市内の豪商「堺屋」▼句碑は、この家の敷地にある。同じ石を分け合った夫婦句碑。碑文はともに二人の絶句で代表作。秀野の句は直筆、健吉の句も原稿等から一字づつ選び出されました。夫婦句碑ということで桜御影石を同じ大きさで真っ二つに割り、その二つの石を噛み合わせた珍しい形。■こぶし咲く昨日の今日となりしかな■山本健吉 かつて健吉がいみじくも思索した中世の茶人の心の根底にあった「一期一会」の心構えに立脚した辞世の句であった。■蝉時雨 子は担送車に 追ひつけず 石橋秀野■ 担送車とは救急車のこと。 病がいよいよ悪化したのであろう。 救急車で搬送されてゆく秀野、そして子供がその救急車を必死で追いかけてゆく。しかし、救急車に追いつけるわけもなく、子供の姿はみるみる遠ざかってゆく。 「おかあさ~ん」と泣き叫びながら、必死で追いかけてゆくわが子の姿を救急車の中から見守っている作者。あるいは救急車の中で横たわり、遠ざかってゆくわが子の泣き声だけが聞こえているのかもしれない。 子の声が小さくなればなるほど、その隙間を覆うように蝉時雨が大きくなり、蝉時雨の大きな音だけに包まれてゆく。観光案内所の向かいの八女伝統工芸館は、かつて駅だった所。廃線になった矢部線の跡が屋内に残っている。▲八女茶の町らしくお菓子の名前が「茶の実」。茶飲みのシャレ?▲ガラス戸がレトロな家。当時はとてもハイカラだっただろうな・・・。▲十字路の特等席の老舗の八百屋さん。▲道に古瓦を模様のように敷いている!!▲レトロなガラス障子。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.29
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■2018.10.10(水)■関門トンネルを歩いて、門司から下関へ。■そして、門司に帰った。かつて九州の玄関として栄えた門司には数多くの歴史的な建物が残っている。JR門司港駅周辺地域に残る外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテル・商業施設などを大正レトロ調に整備した観光スポットで、国土交通省の都市景観100選を受賞している。対岸の下関市唐戸や巌流島等との周遊ルートとして多くの観光客で賑わう。 2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として日本遺産に認定されたが多くが「門司港レトロ」のスポットにある。 門司のまちをガイドさんの案内で歩く。今回の九州旅行は、ほとんど毎日、ガイドさんに案内をしてもらって歩いたが、門司はその最初。観光案内所にもなっている◆北九州市旧門司三井倶楽部◆でガイドさん(女性)と待ち合わせ。「海峡トンネルを歩いてきました」と言うと「小学校の時、遠足で行きました」とガイドさん。流石!!地元あるある?!ガイドさんもblog持ちだったので、お互いに名刺交換代わりにブログの交換をした。ヽ(゜∀゜)メ(゜∀゜)ノ◆北九州市旧門司三井倶楽部は、◆福岡県北九州市門司区港町にある歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。 山あいの門司区谷町より門司港レトロ地区に移築された。 1921年(大正10年)に三井物産門司支店の社交クラブとして建築。接客用の洋風の本館と、それと接続する和風の付属屋・倉庫からなる。 本館は木造2階建で、アインシュタインが1922年(大正11年)に宿泊した2階の部屋が当時の状態で「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されている。 また、門司区小森江が出生地とされる林芙美子にちなみ、林芙美子資料室(2階)がある。■秋の陽に芙美子は今日もペンを執る■☝こんな句を見つけた!!◆北九州市旧門司税関は◆福岡県北九州市門司区の門司港地区にある歴史的建造物を復元した建築物。 1912年(明治45年)3月、前々年に焼失した門司税関の2代目の庁舎として建設、1927年(昭和2年)西海岸に3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成するまで使用された。 歴史的意義を踏まえ、門司港レトロ事業の一環として修復されることとなったが、傷みがひどく、過去の写真などを元に1991年(平成3年)から4年の歳月をかけて外観が復元された。◆門司港駅は、◆福岡県北九州市門司区西海岸一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。同線の起点駅。 関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった。駅舎は重要文化財に指定されている。 ▲現役で活躍している門司港駅のレトロさよ♪▼(▲かつては駅から海峡連絡船へと続く通路があったとガイドさんから聞いた。)◆バナナの叩き売りは、◆かつて露天商、的屋が行う、独特の口上を述べながら客を引き寄せてバナナを露天で売る手法。いわゆる啖呵売のひとつとして有名である。大正時代初期に福岡県北九州市門司区の門司港周辺で行われたのが元祖。 門司港がバナナの叩き売りが有名なのは、バナナを神戸に運ぶ過程で悪くなったバナナをいち早く捌くため。また、当時、鉄道の九州の玄関口が門司港だった事。バナナだけでなくて物資を運ぶためには、当時鉄道が主で、九州の玄関口が門司港だったため。■バナナの叩き売り■「窓を開ければ港が見える。遥か彼方を眺むれば、武蔵小次郎の決闘で、今も伝わる巌流島。つくよつくよと何がつく。門司の港に船がつく。お寺の坊さん鐘を突く、私は貴方にしがみつく、はなれられないこのおいしいバナナ1000円で、どうだ~~」「買う!!!」(*^▽^*)門司の後、小倉にある■松本清張記念館■に行った。 1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。 40歳過ぎてからの作家生活となった。それまでは、働きながら小倉の小さな家の一室で本を読んでいた。沢山の本が入った押し入れの前で本を読む本格的な作家になる前の松本清張の写真があった。■松本清張作品■読みたい。 自叙伝的小説『半生の記』 小説『時間の習俗』 戦い続けた男の素顔 宮部みゆきオリジナルセレクション (新潮文庫)読み直したい「点と線」■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.28
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10月9日(火)から10月23日(火)の15日間、九州に行ってきた。前回九州に行ったのは■九州旅行2015.10.1~10.11■の11日間。その時に行かなかった所を中心に車で廻った。■2018.10.9(火)大阪南港発新門司港行きの船が港を離れたのは夕方の5時。ほどなく夕焼けを見た。ベッドにテレビ、水道のある個室で簡単な夕食を済ませ、四国と本州を結ぶ橋を見て、風呂に入ってテレビを見て・・・。ウトウトしたら夜明けの5時前にもうすぐ、新門司港に着くという船内放送。■2018.10.10(水)門司といえば、下関、下関といえば門司。このふたつの町は、関門海峡で隔てられている。そして、その関門海峡を繋ぐ橋と海底トンネルで繋がっている。関門海峡(かんもんかいきょう)は本州の山口県下関市と九州の福岡県北九州市を隔てる海峡。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を取ったものである。穴戸海峡(あなとかいきょう)、馬関海峡(ばかんかいきょう)、下関海峡とも称された。本州と九州を隔てる水路を大瀬戸といい、彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸または小門海峡(おどかいきょう)という。大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦と和布刈の間は早鞆の瀬戸という。 一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。歩行者・自転車・50cc以下の原動機付自転車が利用できる幅4メートル・長さ約780メートルのトンネルで、徒歩で約15分ほどで関門海峡の海底を通り抜けることができる。両端とも国道2号に接続していないが、車道の直下に位置している関係上、人道も国道2号に指定されている(国道2号車道に対する自転車歩行者道の扱い)。後に下関側・門司側とも抗口の右側の部分に国道標識が取り付けられた。 地上と地下の人道トンネルの間は、下関側・門司側とも専用エレベーターを利用する。なお、エレベーターとは別に保守・非常避難用の階段が設けられており、間寛平がアースマラソンで通行した際にはこの階段を使用した。 通行料金は徒歩は無料で、自転車と原動機付自転車は下関側の人道出入口に設置されたポスト状の料金箱に現金又は回数券を投入する。監視カメラが設置されており、乗車して通行すると、トンネル内の拡声器で注意される。人道トンネルの内面は、壁に海藻や魚、天井に朝・昼・夕・夜の空が描かれている。日常の移動手段としてだけではなく、雨・日焼け対策が不要なジョギング・ウォーキングコースとして利用されているほか、下関と門司港を結ぶ観光周遊ルートとしての広報もなされている。両側の入り口には、関門の観光マップや通行記念スタンプも設置されていて、旅行の記念に押す人も多い。門司側から歩いて海底トンネルを渡り、下関に着いた。みもすそ川公園は、関門トンネルを上がってすぐにある。■みもすそ川公園■みもすそ川公園(みもすそがわこうえん)は、山口県下関市にある都市公園(街区公園)。源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦に面し、国道9号と関門海峡に挟まれて立地する。 ●御裳川(みもすそがわ)碑●御裳川はこの場所で関門海峡に注ぐ小河川だったが、現在の河口は公園と国道の下に隠れている。●源義経と平知盛像義経●義経は八艘跳び、知盛は錨を担いだ姿で、両雄が対峙する位置関係に設置。碇知盛平知盛は、自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。 ●松本清張文学碑●作家・松本清張が、幼少時の一時期に下関市に住んでいたことを記念したもの。自叙伝的小説『半生の記』の一節が刻まれている。 中央に開いた穴からは、関門海峡を挟んだ対岸にある和布刈神社(小説『時間の習俗』の舞台)が望める趣向となっている。見ていない・・・。残念。。・゚(´□`)゚・。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.27
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■4月2日、3日と滋賀県に行ってきた。■■4月3日(火)■石山寺(いしやまでら)■は、京都府の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。春になるとソメイヨシノ、シダレザクラ、ヤマザクラ等約600本のサクラが境内に咲き誇る。花の寺とも呼ばれ、梅・桜・ツツジ・花菖蒲・紅葉などが四季折々で咲き誇り、訪れる人を楽しませる。この日は、ツツジが満開だった。■東大門(重文) - 参道入口の門の仁王像。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立だが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。●くぐり岩●このあたりの岩は全部大理石である。岩の中をくぐることが出来る。この池は、天平時代のものである。●石山寺本堂●紫式部が源氏物語を書いたお堂。 石山寺縁起絵巻第四巻第一段には、紫式部が源氏物語の成就を願って石山寺に籠もり、とっさに浮かんだ情景を経典の裏に書き記したとあります。奈良時代に東大寺の開祖良弁上人が如意輪観音を安置する草庵を建立したのが始まりで、平安時代に観音信仰が盛んになると本堂の前面に礼堂を設けるようになりました。 観音様は華厳経典で補陀落山上に住まうとされていることから、本堂は山の高いところに造られるため、その前に建てられる礼堂は京都清水寺のように懸造(かけづくり)になることが多いのです。この本堂も礼堂部は懸造であり、相の間で正堂と繋がっています。平安時代中期にはすでに礼堂が存在していたようですが、現在の礼堂は桃山時代に淀君が寄進し、全体の屋根を架け替えて改築されました。■●経蔵(重文)■●経蔵(重文)経蔵は、本堂北東の一段高くなったところ、三十八所権現社本殿の背後に建つ高床の校倉で、かつては国宝淳祐内供筆聖教(しゅんにゅうないぐひつしょうぎょう)や重要文化財石山寺一切経(いっさいきょう)・校倉聖教(あぜくらしょうぎょう)等を収蔵した建物である。 建築年代は明確ではないが、木鼻(きばな)の意匠や校木(あぜぎ)の断面形状、垂木(たるき)や桁の反り増しの形状などから、16世紀後期頃の建立と考えられる。 ●石山貝塚●貝塚とは縄文時代に人々が食べた貝の殻が捨てられて堆積したもの。現在の石山寺の前あたりには、東西約20メートル、南北約50メートルにわたり貝層が堆積し、淡水産貝塚では日本最大の規模。貝層からは人骨や動物の骨など豊富な遺物が出土。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.06
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4月2日、3日と滋賀県に行ってきた。■4月2日(月)海なし県の離島■沖島(おきしま)■に行ってきた。これまでも数回いっているが、今回は島の桜を見ようというもの。沖島へ行く定期船の着く港、堀切港には、「あかこんバス」も発着している。そこから船に乗って沖島へ。沖島は淡水湖の中に人が住む島としては国内唯一で世界的にも非常に珍しいとされています。島内は、道が狭く車が一台もないので、消防自動車ではなく消防艇だ!! そして、自転車と3輪自転車の多いこと!!(▲狭い平地なので、家が密集している。)沖島に本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。昭和3年に沖島にランプが灯り、昭和23年に湖底ケーブルによる送電が始まりました。水道は昭和35年に上水道敷設が行われ、昭和55年に簡易水道が設備され、昭和57年には下水道が完備されました。 以前は、島には井戸が無く、早朝に琵琶湖から水がめに水を汲んでおき、それを生活用水として活用していました。■沖島小学校■明治の学制発布により西福寺内に開設されたのが始まりで、明治42年に旧校舎地に移転、平成7年には現在の地に新築移転されました。小学校の給食はスクールボートに積み込み当番児童がリヤカーを使って学校まで運びます。中学生は昭和39年に分校が本校に統合されてからは、スクールボートで通学しています。 (▲学校の前にあったヨシ船)■沖島小学校の生徒が作った■長さ約4メートルのヨシを、穂先が互い違いになるように束ね、直径約65センチの太い胴体部分を作ったヨシ船。島の中を歩くと、昔の酢などを入れる容器が捨ててあった。この古いタイルの流しも素敵で欲しい♪もっと島の古いものが見たいと思ったが古いものを集めた「沖島資料館」は休みだった。_| ̄|○堀切港の近くには、春の花が満開。桜以外にも沢山の「花見」をした。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.04
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(▲天井を見る。)3泊4日で沖縄に行った。ホテルは、連泊をせずに、一日づつ変わったので、その都度、シーツを洗濯してもらうのは、水が貴重な沖縄では、とても恐縮する。3泊目の「ANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート 」(長っ!!)は、宇宙船を思わす、近未来的な内装だった。■ANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート ■ところで、こんな大きな施設だと、維持費がかかって仕方がないのではないかと心配する。どんな人が沖縄に訪れるのだろう?■大得意のひとつが修学旅行生。高等学校の公立・私立を問わず東京や近畿が長く主流だったが、近年は、自然体験や太平洋戦争の追体験を目的として、北海道・広島・長崎・沖縄などを目的地として選択する学校が多い。■修学旅行:行き先ナンバー1の沖縄■「ANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート 」にも、東京の高校生が修学旅行で来ていた。 ■プロ野球関係のキャンプにも沖縄が使われている。■2018年も沖縄各地で各プロ野球チームの春季キャンプがスタートします。沖縄でのプロ野球キャンプは、昭和54年(1979)に日本ハムファイターズ投手陣が、名護市(なごし)で初めてキャンプを実施したのが始まり。今年は9球団が来沖し、温暖な沖縄で体力づくりに励みます。これも、ホテルの中をうつしたのだけれど、何かに似てる・・・。そうだ!飛行機の中だ!!■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■■美ら海水族館■■古宇利大橋■■2018年1月19日(金)■世界遺産:首里城(沖縄県・那覇)■■戦争の悲惨さを今に伝える「ひめゆりの塔」■■ANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.06
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■2018年1月19日(金)ひめゆりの少女 十六歳の戦場 [ 宮城喜久子 ]沖縄戦開始の日の夜、「赤十字看護婦の歌」を歌いつつ陸軍野戦病院へと出発したひめゆり学徒隊。16歳の少女は、そこで何を見、何を体験し、何を感じ、何を思ったかー。砲弾の下の3ヵ月、生と死の境界線上で書き続けた「日記」をもとに戦後50年のいま伝えるひめゆり学徒隊の真実。【目次】(「BOOK」データベースより) 沖縄戦のはじまった日/“軍国少女”の日々/父の反対、母の涙を振り切って/戦場へ、夜の行進/約半数が死亡した学徒隊/陸軍病院での壕掘り/三角兵舎での卒業式/砲弾の下の決死の水汲み作業/トラックでの食糧集め/ふえつづける負傷兵〔ほか〕 「ひめゆりの塔」に行った。かつて、沖縄の美ら海は血に染まっていた。1945年3月26日からおよそ90日間。非戦闘員であるはずの「ひめゆり学園」の320余名は日米両軍が激突する戦場へ動員され、13歳~19歳までの227名が死亡した。ひめゆりの塔のある場所は、“人間が人間でなくなっていく”戦場でのむごい体験の舞台になった。(▲ひめゆりの塔の横に作られた碑。)ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。 最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。このことを聞いて、日本兵の無責任ぶりに、腹が立った。兵隊でもない女学生をさんざん危険なところに連れまわし、負けるとなると、勝手に解散・・・。日本兵のトップは、自決するのだが、自決する前に、アメリカ軍のところまで白旗を持って進んで、「どうか、女学生の命は助けてください」というべきだろう。そうすれば、その後、アメリカ軍によって殺されても、犬死にはならなかったのに・・・。自決なんて、自己満足以外のなにものでもない。あと、一年早く戦争が終わっていたら、ひめゆりの少女たちは、結婚し、母になり、祖母になり・・・と女の一生を生きることができただろうに・・・。花を供えて、無念のうちに散ったひめゆりたちに祈った。「ひめゆりの塔」の前に、水鉢がある。水鉢の下の方を見ると、植物が緑の葉をつけていた。これを見て、ひめゆりの女学生たちがどれだけ、生きたかったことかと思い、涙がでた。「ひめゆりの塔」の近くにある横断歩道は、幅が広い。修学旅行生が、並んで、一時にわたるためだ。■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■■美ら海水族館■■古宇利大橋■■2018年1月19日(金)■世界遺産:首里城(沖縄県・那覇)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.03
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■2018年1月19日(金)■前日、きれいな夕日を見た■のに、この日は、雨。雨の中、■世界遺産:首里城■を見に行く。 ◎守礼門◎緩やかな坂道を登っていくと、まず最初に見えてくる守礼門。 尚清王時代(1527~1555)に創建。 守礼(しゅれい)とは、「礼節を重んじる」という意味で、門扉の上には「守禮之邦(しゅれいのくに)」と書かれています。 沖縄戦で焼失し、1958年に復元され今に至ります。1972年には沖縄県指定有形文化財に指定され有名になり、その後二千円札紙幣の絵柄にもなりました。◎歓会門(かんかいもん)◎守礼門を過ぎると、歓会門が見えてくる。琉球王朝時代、首里城には中国皇帝の使い「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、この門には、一行を歓迎するという意味を込めて名前がつけられた。ほかの建造物同様、沖縄戦で焼失したが、1974(昭和49)年に復元されました。■首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、■ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。 門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像があるが、これは魔除けの意味で置かれている。◎首里城正殿(しゅりじょうせいでん)◎ 門をくぐると「御庭(うなー)」と呼ばれる中庭広場の空間が広がっている。ここは年間を通じて様々な儀式が行われた場所である。首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城は文化芸術の中心でもあったのである。(▲首里城から町並みを見る。首里城は、高台にあるため港の方まで良く見える。昔、貿易をしていたので、貿易港の管理をするのに都合が良かった。)1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。高台は、水の便が悪いものだが、首里城の場合、琉球石灰岩が地中に浸透させて蓄えた水が、泥岩と琉球石灰岩の境目が露出していて、豊富な湧水が得られる。■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■■美ら海水族館■■古宇利大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.01
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■2018年1月18日(木)晴れ美ら海水族館を見た後、■古宇利大橋を渡り、古宇利島へ。■■古宇利(こうり)島■沖縄本島北部、屋我地島の北に位置する古宇利島(こうりじま)は今帰仁村に属する有人島。358人(H21・5・31住民登録。) 面積3.13km²、周囲7.9kmでほぼ円形の形をした隆起サンゴ礁の小島。名護市街から58号線を北上、110号線を左折。橋を渡りながら奥武島と屋我地島を越えると古宇利島に渡る古宇利大橋がみえてくる。 平成17年2月8日に開通した古宇利大橋は、今帰仁村の古宇利島と名護市の屋我地(やがじ)島を結ぶ橋。無料で通行できる橋で全長は1960mある。橋を使って、電線と水道管が島に送られているそうだ。沖縄では、どこにいても海が近い。なのに、なぜ、潮のかおりがしないのか・・・。という話を添乗員さんがしてくれた。それは、サンゴがいるから。海の匂いは、貝の死骸、魚の死骸などの腐った匂いだそうだ。ところが、沖縄はサンゴがいて、海を掃除してくれる。だから沖縄では、潮のかおりがしないのだそうだ。へえ~~!!サンゴには消臭効果があるということで、浜辺でサンゴを探した。ここ、古宇利島の名物にウニがあったが乱獲のため激減、禁漁になっている。■古宇利大橋の楽しみ方■島からホテルに向かうとき、美しい夕焼けをみた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.30
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■2018年1月18日(木)晴れついて翌日、「沖縄美ら海水族館」へ。■沖縄美(ちゅ)ら海水族館■沖縄本土復帰記念事業として1975年(昭和50年)に本部町で開催された沖縄国際海洋博覧会において、海洋生物園が出展された。その後、博覧会跡地に国営沖縄海洋博覧会記念公園を整備するにあたり、博覧会施設を受け継いで1979年(昭和54年)8月に開館した。開館当時、水量1,100トンの水槽は世界最大であった。バブル崩壊後の1991年(平成3年)頃から入館者数が減少し始めたことに加え、短期間の博覧会用に建設した施設のため老朽化が著しくなってきたことから、内閣府沖縄総合事務局が主体となって新館を建設し、旧来の水族館を2002年(平成14年)8月31日に閉館、沖縄本土復帰30周年に合わせて同年11月1日に新館を開館させた。旧館閉館前の1年間の入館者数は43万人強であったが、新館開館後の1年間のそれは275万人に激増した。「沖縄国際海洋博覧会」を開催しようと言った人、誰だ!何百億円、いや兆規模のお金を使って、年間入館者数が43万人って、責任者出てこい!!沖縄にも仕事をというのは、よく分かるが、こういうハコモノを作るのは、もうやめにしませんか。大阪万博も賛成だという人を知らない。パリは撤退して正解。水族館の1階から2階を貫く「黒潮の海」水槽は、長さ35m×幅27m、深さ10m、水量7,500m3で世界でも有数の大きさを誇る。観客と大水槽を隔てるアクリルパネルは高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cm、パネル総重量は135トンあり、ギネスブック公認の世界最大のアクリルパネルとなっていたが、2008年(平成20年)10月にオープンしたドバイ水族館のアクリルパネルに記録を更新された。美ら海とは、大きな水族館が近くにあるかどうかで決まるのではなく、魚の種類の多さ、数の多さ、海の多様性など生き物の豊かさで決まる。僕がうまれたこの島の海を僕はどれくらい知ってるんだろう。汚れてくサンゴも減ってゆく魚もどうしたらいいのかわからない■島人(しまんちゅ)ぬ宝■■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.29
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■2018年1月18日(木)沖縄2日目、■森のガラス館■に行った。琉球ガラスがお土産に有名だが、太平洋戦争後の資源難のため、沖縄にあるアメリカ軍基地で捨てられたコーラやビール,ペリエなどのの空き瓶を溶かして再利用したことから始まる品であるということをバスの添乗員さんから聞いた。 1975年の沖縄海洋博覧会をきっかけに観光土産品としての需要が伸び始め、琉球ガラスの生産額も増えた。各工房もただ生産するだけではなく、製作風景を見せるスタイルになり、工房でのガラスの作り方など直接説明しながら商品を売り出した。 「森のガラス館」もそんな工房を兼ねた店だ。■「琉球ガラス」は、■現在の沖縄地方には、アジアとの貿易を通じて比較的早くガラス製品がもたらされていたと考えられている。また、その製造は明治時代中期には始まっていたとされる。琉球ガラスは、戦後に雑多な瓶を溶かして再生されたガラスを使用して作成されたことから、厚手の赤色や緑色などの多彩な色合いとなり、再生の過程で混入する気泡と相まって独特の味わいをもつガラス製品となった。 そんな、素朴なガラスを世に知らしめたのは、民藝運動で陶芸家の濱田庄司。■琉球ガラスと民藝の出会い■琉球ガラスと民藝の出会いは、濱田庄司を通じて、でした。沖縄のガラス工房が再生ガラスでアメリカ人を相手に商売をしていた頃、民藝運動家で、益子の陶芸家の濱田庄司が沖縄を度々訪れており、その際、再生ガラスに目を留めたそうです。その後、濱田庄司が本土に沖縄のガラスの良さを伝えたこともあって、本土にも琉球ガラスが知れ渡ることになりました。■『民藝』のある暮らしをはじめませんか? ■ 最近は、再生ガラスで作る商品は少なくなって、効率のよいガラスを使うというが、濱田庄司が好きだった沖縄ガラスは、もっと武骨なものだと思う。環境問題の点からも再生ガラスが好ましい。 このように、ガラスの破片を売っているのも好ましい。■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2018.01.25
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■2018年1月18日(木)■沖縄バスツアー■2日目。日本最大級の蝶・オオゴマダラが舞う蝶々ハウス、■「琉宮城蝶々園■に行った。約500坪の広大な敷地の蝶々園内にある蝶々ハウス。温度と湿度が一定に管理されたビニールハウスの中に、目玉のオオゴマダラをはじめ、リュウキュウアサギマダラやアオスジアゲハなど常時約15種類以上の蝶々たちが優雅に舞う。中でも、本土ではなかなか見られない日本最大の蝶「オオゴマダラ」の美しさはこの上ないほど。ブーケンビリアをはじめとした鮮やかな花々が咲き誇るハウス内に蝶々が乱舞する光景はとってもファンタジー!蝶々の種類や数は、季節によって変動するので1年中様々な蝶々を観察することができるのも魅力。■オオゴマダラとは■全長約13センチの大きな羽と白黒模様が特長のオオゴマダラ。大きな羽をつかってふわふわと空中を舞う姿が風に舞う新聞のように見えることから「シンブンチョウ」とも呼ばれている。日本国内では、沖縄諸島や先島諸島に主に生息している。人懐っこい蝶々として知られているオオゴマダラは、人を怖がったりせずむしろ近寄ってきてくれる蝶々です。赤色を好む性質もあり、赤い服を着ていくと止まってくれるかも?ハウス内のいたるところにおいてある、造花で作られたブーケ。そこには、たくさんの蝶がとまっている。造花なのになんで? 実はこのブーケには、オオゴマダラのオスが好む物質「パラベン」がふりかけられている!ブーケと同じくパラベンが存分にふりかけられている帽子です。さらにオオゴマダラの好む赤色をしているので効果は2倍かも?パラベンの入った整髪料をふりかけて琉宮園を訪れたらオオゴマダラをひとり占めできちゃうかもしれませんよ!オオゴマダラは大きさだけでなく、黄金色に光る神々しい蛹(さなぎ)でも有名です。実物をみると想像以上の輝きに驚く人も多いのだとか。金箔をまとったかのような輝きの正体は、殻の内部にみちた黄色の体液。実際の抜け殻は無色透明ですが「構造色」と呼ばれる、実際に色がついていないものに色がついているかのように見える現象から黄金色に見えるそうです。■琉宮城蝶々園を徹底取材!■■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.22
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1月17日(水)~20日(土)の3泊4日で沖縄ツアーに行ってきた。17日の朝は冷たい雨の中を出発。沖縄に着いても雨、翌日も雨のち晴れ、3日目も一日雨、最後の日だけ晴れという天候に恵まれない旅行となった。バスの中で添乗員さんが「沖縄は、小さな島で川の長さが短く、すぐ海に流れこみます。おまけにサンゴ礁の台地で土壌は保水力が低く、昔は水不足に悩んでいました。今は、ダムが出来て、水不足は解消されましたが、屋根の上のタンクは、水をためるためのもので、昔の名残です」という説明だった。言われて見ると、本当!あっちの屋根に、こっちの屋根に給水タンクが取り付けられている。川の長さが短いとか、保水力のない地層の代わりに、沖縄は雨が多い。それを利用しようとしているのか、海洋博公園の道路には雨水のマンホール(?)が!!「水は天からもらい水」というわけだ。以前、八重山諸島に行ったときに、「雨垂(あまだ)い水(みじ)や醤油(そーゆ)使(じげ)」という言葉を知った。雨水を醤油のように(大切に)使えという意味。■八重山諸島:古井戸の記憶■ 島人は、木の幹をつたって流れる雨水を水瓶にたくわえたりしながら暮らしたという。(3泊とも違うホテルだったので、シーツの洗濯がもったいない!)1泊目のホテルは、大浴場が有料(1000円)だった。これも、水を大切にする心がけだ。■那覇市のサイト■に雨水の効果が書かれていた。雨水・井戸利用施設設置の補助・・・雨水・井戸水を利用しよう! 雨水や井戸水を利用すると、色々なメリット(効果)があります。雨水・井戸水利用施設の導入を一度考えてみませんか?■メリット■1.上水道や下水道の使用量が減ります。2.都市型洪水の軽減(全面をアスファルトやコンクリートに覆われた都市は、大雨などの際 に、 雨水が側溝や河川に一斉に流れ込むため、都市型の洪水がおきる危険性があります)3.大規模災害への備え(地震などで、水道管が損壊するなどした際には、雨水や井戸水が、 トイレなどの雑排水に役立ちます) 4.干ばつ・断水への備え(ここ20数年、断水はありませんが、沖縄県は、台風が来ず・雨が降 らない状況などが長く続けば、いつでも断水になる状況となっています。また、観光客も増え続けており、水の使用は年々増えていく状況にあります) 5.本島北部の自然を守る(沖縄本島の水資源の殆どは、本島北部のダムで賄われています。雨水・井戸水を使うことは、北部での水資源開発による自然破壊を防ぎ、そこに住む動植物 を守ります)6.地盤沈下や都市部の気温上昇(ヒートアイランド現象)を防ぐ(雨水浸透施設は、雨水を地下に浸透させる施設で、地下水を増やしたり、地盤沈下防ぐなどの効果が見込まれます) ■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.21
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■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉の仙人風呂■を見た後、熊野本宮大社へ。■熊野って何県?■「熊野」は、和歌山県南部~三重県南部の地域を指します。和歌山県南部に「熊野三山」と呼ばれる三つの大きな神社があり、(▲熊野本宮大社の敷地内にある熊野古道。)熊野三山へお参りするための道を熊野古道といいます。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。■熊野本宮大社の歴史■三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。■八咫烏(やたがらす)■八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。■八咫烏(やたがらす)ポスト■当社の社務所前にある、多羅葉たらようのご神木の下に、黒い八咫烏ポストが設置されています。黒は全ての色を合わせた尊い色であり、神の遣いである八咫烏の色、本宮の大地を象徴する神聖な色でもあります。また多羅葉の木は、葉の裏に爪などで文字を書いていたことが葉書の語源となり「葉書の木」「手紙の木」とも呼ばれています。■2018年1月5日(金)雨■闘鶏神社■■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉の仙人風呂■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.15
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■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉・仙人風呂■へ。写真の川の上の方が白くなっているのは、湯けむり。「仙人風呂」は「千人」は入れるところからきたといわれている。■川湯温泉・仙人風呂■「川底を掘ればたちどころにお湯が湧く!」大塔川をせきとめた野趣あふれる大露天風呂!川湯温泉街の前を流れる熊野川の支流・大塔川は、73度ほどの温泉(アルカリ性単純温泉)が湧き出る。毎冬、熊野本宮観光協会などが川の一部をせき止めるなどして「千人が入れるほど」という巨大な湯船(長さ約40メートル、奥行き約15メートル、深さ約60センチ)を開設。川の水で40度ほどに湯温を調節し、野趣あふれる温泉が楽しめる。■仙人風呂■■場所:川湯温泉 (大塔川) ■期間:12月~2月末日 ■入浴時間 6時半~22時(22時に施錠いたします。) ■入浴料:無料 (感謝の募金箱あり)■駐車場:無料 約40台(仙人風呂より下流約100m)■更衣室:男女別の簡易更衣場があります。 ■水着などの着用が必要でシャンプー、せっけんなどの使用は不可。河原の石ころを眺めながら歩いていたら、こんな石が!!。ひとつの石が、4~5個に割れている。次に川が増水したら、この石も離れ離れになるのだろうな・・・。仙人風呂の真ん前に、「亀屋」という古い建物があった。鄙びた温泉宿という感じが素敵だったので帰ってから調べてみた。■亀屋旅館■創業江戸末期(150年)。古きよき有形文化財。(▲家の前にある石は亀の甲羅に似ている。)平成20年3月に、国の有形文化財に登録された本館建物は、昭和初期に建てられた木造2階建ての和風建築です。 楓を使用した階段の踏み板等、今では珍しい木材も使用されています。軒先の縁側等、故郷の懐かしさをどこかで感じていただけたらと思います。■亀屋旅館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.14
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■2018年1月6日(土)■1日目:闘鶏神社■紀伊半島バスツアー、2日目、熊野大社本宮を目指す。途中、トイレ休憩に止まった近くに日置川が流れていて、「近露(ちかつゆ)大橋」という橋がかかっていた。ふと見ると、親柱になにか乗っている。さっそく行って見ると、河童。反対がわには親子の河童が。帰ってから調べると、河童伝説があった。■近露(ちかつゆ)の河童■この里にヤシキと呼ばれている旧家があるが昔、この家の馬を川原へつないでおいたところ河童が出てきて、綱を自分の身体にしばりつけ馬を川の中へ引っぱりこもうとした。馬はびっくりして急に走り出し、河童を引きずったまま厩(うまや)に逃げ帰った。家のものがそれを知って、河童をつかまえたが河童は「これからは悪いことをしないから許してほしい」といって、しきりに謝った。そこで「松ノ木淵の松が天に届くまで、橋谷の枝垂れ松が地に届くまで、そして下宮の狛犬が腐るまで再び出て来ない」ということをきつく約束させて、放してやった。下宮の狛犬は、その当時ヤシキの先祖が作り、神社へ献じたものだと伝えられている。明治のころまで子供たちが川で泳ぐ際、河童が出て来て尻を抜かれないようにと、時々この狛犬がまだ腐っていないか見に行ったものだという。この狛犬は、現在近野神社に移され保管されている。一方、橋谷の枝垂れ松と松ノ木淵の松は枯れて今はない。』この橋は河童だったが、熊野古道にある「牛馬童子」にちなんで■バスで通過した橋の親柱■には「牛馬童子」が!バスの中から見たので写真は撮れなかった。残念。■岡山県津山市■は、河童を町のシンボルにしているのでマンホールのふたにも河童が描かれている。河童は人々に近い存在だった。■河童のクゥと夏休み■■荒川アンダーザブリッジ■■昔語り:ごんご■▲津山市の道端にある河童像。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.09
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■2018年1月5日(金)雨ミステリーツアーということで、行先はわからないまま1泊2日のバスツアーに参加した。途中で紀伊半島と行先判明。1日目に行った先は「闘鶏(とうけい)神社」。■闘鶏(とうけい)神社■時は12世紀、平安時代末期。世に源平合戦と呼ばれる5年にわたる戦乱の時期。瀬戸内海を統括していた熊野水軍の領主・熊野別当湛増(武蔵坊弁慶の父)が、平氏、源氏のどちらからも応援を頼まれる。当時、彼は平氏派だったが、世の情勢を鑑みるにどちらの味方をするか決めかね、神前で紅白の鶏を戦わせ神意を問うた。赤旗の平家、白旗の源氏。その結果はなんと、7度の戦い全てに白い鶏が勝利。結果、湛増は熊野水軍を率いて壇ノ浦の戦いに赴き、源氏を勝利に導きました。というのが、この神社の名前の由来です。現存する社殿は近世の再建に係る6棟が揃って遺存するもので、仮庵山を背に北面して建ち、東より西へ西殿、本殿、上殿、下殿、八百萬殿の6棟が横一列に並ぶ。建立年代は、本殿は寛文元年(1661年)、上殿は推定で江戸時代前期、西殿は元文2年(1737年)、他3棟は延享5年(1748年)である。本殿と上殿は一間社春日造かつ奥行二間とする、いわゆる熊野造である。構成や配置、各建物の形式は熊野三山の社殿と類似しており、熊野との強い関係性を示す。本殿と上殿は、田辺地方における数少ない17世紀中期以前に遡る貴重な神社建築例である。各棟ともに細部には地域的特色を備え、近世における当地方の神社建築の展開を考えるうえでも貴重な遺構とされる。これらの社殿は国の重要文化財に指定されている。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。■闘鶏神社■1月2日、■勧進帳■という弁慶が活躍する歌舞伎を見たが、この日も弁慶に関係のある神社だ。ホテルはオーシャンビュー。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.08
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■11月22日(水)観光ボランティアガイド氏の案内で■鳥取県・智頭(ちづ)町■をまわった。智頭町(ちづちょう)は、鳥取県の南東部に位置し、鳥取藩の宿場町「智頭宿」で知られる町である。面積の93%を山林が占めている。■町の木:スギ■ 町の花:ドウダンツツジ 。円はカタカナの「チ」かな? ★智頭は杉の産地ということで各家の軒に杉玉を下げている。またそれぞれの家の屋号が分かりやすいようにしてあった。この家は「砂や」という屋号。 ■智頭宿■智頭宿は、上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。江戸時代には、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、制札場が置かれていた要所です。 ■石谷家住宅■【国指定重要文化財】重厚な大門で人々を出迎え、3000坪という広大な敷地に部屋数が40以上ある邸宅、7棟の蔵、美しい日本庭園を持つ「石谷家住宅」。■智頭消防団本町分団屯所■国登録有形文化財石谷家住宅すぐ対面に水色のペンキを塗った古びた木造二階建ての切り妻破風で切り上げた建築が建っている。 その上に火の見櫓を置き、昭和16年に建てられた本町消防屯所。昭和23年に復元され、町のシンボルになっている。 ■塩屋出店■【国登録有形文化財】商家風町屋の伝統的建造物で、広い床の間、庭園に面した長い縁側、その縁側にズラリとはめ込まれた昔のままのガラス戸、階高が低く丸みを帯びた舟底天井の2階座敷など、和風建築の魅力にあふれています。 ■西河克己映画記念館■【国登録有形文化財】西河克己映画記念館は、旧塩屋出店の洋館として昭和5年頃裏庭に建てられたものといわれており、その後、子ども達の文化育成のために教会として利用されました。★部屋には、西河克己監督の作品のポスターがずらり。「絶唱」、「潮騒」、「伊豆の踊子」、「霧の旗」・・・等々、山口百恵主演の文芸作品が多い。「絶唱」は舟木一夫のもあって、舟木版は、智頭で撮影されたという。■「絶唱」動画音が出ます!!■は舟木一夫の歌が大ヒットしたが、作詞は西条八十だったんだ・・・。私は、1958年版、小林旭と浅丘ルリ子バージョンを子どもの頃見た。古いカメラなどもあって、楽しめた。 町の中にある「備前街道」。 備前街道筋。 ここが「備前街道」と「智頭往来」の交わる所。画面、上に行けば「智頭往来」、右に曲がれば「備前街道」。昔は賑わっていたことがしのばれる。 秋も終わりの 智頭宿を2時間でまわったが、まだ見落としている所も多い。■智頭宿みどころ■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.11.25
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■11月21日(火)秋深し武蔵の里の水車小屋 天地 はるな剣豪、宮本武蔵の生誕の地といわれる岡山県・大原町に行った。写真は、武蔵の生家といわれる家の近くの川にある水車小屋。 吉川英冶の「宮本武蔵」が大河ドラマなどで放送され、大原の里は賑わったそうだ。武蔵の銅像、宮本武蔵顕彰武蔵武道館、宮本武蔵駅、宮本武蔵生家跡、武蔵資料館、武蔵の里五輪坊・・・。と武蔵のてんこ盛り。 吉川英治の小説「宮本武蔵」は読んでいないけれど、「宮本武蔵」を原作にした■漫画・バガボンド■を読んでいる。「バガボンド」の意味は、漂流者だ。 宮本武蔵といえば、二刀流の剣の達人。しかし、それだけではなく、彼は、書や絵を描くこと庭を造ることにも、才能を発揮したマルチな才人。さぞかし、若い頃から、もてはやされていたのかと思いきや、生まれ故郷を追われるように全国を漂流するのだ。▲子供時代の武蔵(真ん中)と幼馴染。 武蔵は、子どもの頃、父親にも村人にも疎まれた。(▲鎌坂峠を通って村を出た。) 立身出世を望んで、参加した関が原の戦いでは、負けた西軍についていたので、追われることになる。 久しぶりに帰った故郷でも、残党狩りという名目で村人達から非情な迫害を受ける。(東軍として参戦したという説もある。)そんな中で武蔵は呟く。 「この世に生まれて・・・17年生きた。 何のために?」 「この先になにがある? 知るか・・・。 憎まれ、追われ、斬って、斬って斬りまくって、斬り死にするだろう。」 誰からも必要とされず、石を投げられる武蔵。10代の武蔵の強さは、負のエネルギーから来るものだ。そんな武蔵も今は、村の宝として■武蔵神社■に祀られている。(▲水車小屋の近くの「讃甘(さのも)神社」。武蔵が幼年の頃よく遊んだ場所の一つで、お祭りの太鼓の左右の音が等しい事から二刀流を考えたと言われている場所。)武蔵は、生誕天正12年(1584年)? といわれる。 天正10年(1582年)に生まれといわれる。同じ頃生まれたのが石川 丈山 天正11年(1583年) 。武蔵は、庭造りに才能を発揮したし、石川丈山も武士をすて、文化人となり庭造りに才能を見せた。石川丈山が詩仙道や■蓮華寺■を作ったことは有名。関ケ原の戦いに参加した宮本武蔵に対して石川丈山は大坂夏の陣に参加している。武蔵は吉岡一門とのたたかいで有名だが、その舞台となったのが一条寺。武士をやめ文化人として生きた石川丈山の住まいも■一条寺■。あまりにも共通点の多いふたりは、もし知り合っていて友だちだったらと妄想が止まらない。▲水車小屋の近くの碑。■宮本武蔵■ ■石川丈山■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.11.24
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■7月13(木)福井県一の大河「九頭竜川」の河口に位置する坂井市三国町の三國湊は、千年以上昔の文献にも「三国」という地名の記述があるほど昔から栄え、歴史がある町です。■ 三國湊の歴史と概要■ ■旧森田銀行■◎旧岸名家◎岸名家は、江戸時代から明治にかけて三國湊の商業の中心であった北前船交易において、材木商を営んでいた三国湊を代表する豪商の一つ。その家が今でも残っており、建物内を見学することができます。主屋は、妻入屋根の正面に平入り下屋がつく「かぐら建て」と呼ばれる三国独特の建築様式が特徴です。入り口部のある土間は、かつて店だったところ。右手には帳場がそのまま残っています。土間から建物の奥へと続く細長い通路は、昔は大八車が材木を積んで行き来した通路。今はトイレのところで通路は途絶えていますが、昔は更に奥まで伸びていて、家の裏にあった船着場まで続いていたそうです。*時間:09:00~17:00 15~30分程度 (施設スタッフから詳しい説明を聞くことができます) *料金:100円(マチノクラとのセット割引入場券あり。*休み:12/29~1/3 *訪問時期:通年 *アクセス:〔 車 〕・県道7号三国東尋坊芦原線の「今新」交差点を三国駅方面へ。 すぐ右手に見える銀行を右折、すぐ。 〔 公共交通 〕・えちぜん鉄道三国駅から徒歩約6分*問合せ先:旧岸名家 (0776)82-0947 ■問合せ先:旧岸名家 (0776)82-0947 [ボランティアガイド]TEL:0776-82-8552(三国湊町家館内)時:09:00~17:00休:年末年始(12/29~1/3) ¥:1,500円 (ガイドの際の入館料や交通費等は別途)■絶対に外れない!金沢■■7月10日(月)■金沢にし茶屋街■■金沢:板葺き石置き屋根、芭蕉・・・。■■金沢:雑貨&カフェKUPPI ■■千里浜なぎさドライブウェイ■■7月11日(火)■千枚田■■平家の末裔の館:時国家■■禄剛埼灯台(ろっこうさきとうだい)■■7月12日(水)■能登島■■7月13(木)■旧森田銀行本店■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.07.24
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■7月13(木)江戸時代から明治時代にかけ、日本有数の港町として栄えた三国湊は、福井随一の観光スポット。北前船で栄えた港町だ。■旧森田銀行本店森田家も三国湊を代表する豪商の一つ。森田家は明治の中頃まで廻船業を営んでいましたが、海運の衰退をいち早く察知し、金融業へと転換を図りました。銀行は大いに成長し、1920年(大正9年)、この建物が新しい本店として建てられました。外観は西洋風のデザイン。中に入ると、その豪華さに目を見張ります。内観は豪華な漆喰や象嵌(ぞうがん)細工が施され、当時の隆盛ぶりが見て取れます。大きな吹き抜けの空間は窓を開けるためのものがそうだ。近所にアカンサスがあった。 天井の漆喰、(アカンサス)カウンターのケヤキの一枚板、重厚な金庫の扉、窓枠や壁に施されたきれいな象嵌(ぞうがん)など、派手な贅沢さではなく、品の良い優美さが感じ取れます。 この建物は、森田銀行と合併した福井銀行の支店として近年まで営業されていましたが、現在は有形文化財に登録され、館内を無料で見学することができます。その森田家が創業した森田銀行の本店として大正9年に建設されたこの建物は、外観は西欧の古典的なデザイン、福井県内最古の鉄筋コンクリート建築物で、国登録有形文化財の指定を受けています。(▲大理石と思ったが大理石風にしている柱だった。)平成 5年(1993 )に取り壊し寸前 までいった。住民から取り壊し反対の声が上がり、平成 6年( 1994)10 月に建物は 贈与、土地買収で三国町の所有となった。三国町は建物の内外を綿密な調査による復元改修を行い、オープンギャラリ ーとして平成 11 年( 1999 )に一般公開 している。 設計は横浜市開港記念会館や長崎県庁も手がけた山田七五郎氏によるもので、建物の 建物の 外観は西欧の古典主義的なデザイン、内部は豪華な漆喰模様がなされ、細部のデザインや技術へのこだわりは建築思想の質の高さが表れている。県内に現存する鉄筋コンクリート造の最古のものであり、平成9年(1997)、国登録有形文化財に指定された。 ■時間:09:00~17:00 15~30分程度 (施設スタッフから詳しい説明を聞くことができます) ■料金:入場無料 ■休み:12/29~1/3 ■訪問時期:通年。1階ホール(事務所跡)では不定期でいろいろな展示が行われています。■アクセス〔 車 〕・県道7号三国東尋坊芦原線の「今新」交差点を三国駅方面へ。 すぐ右手に見える銀行を右折、すぐ。 〔 公共交通 〕・えちぜん鉄道三国駅から徒歩約7分 ■問合せ先:旧森田銀行本店 (0776)82-0299 [ボランティアガイド]TEL:0776-82-8552(三国湊町家館内)時:09:00~17:00休:年末年始(12/29~1/3) ¥:1,500円 (ガイドの際の入館料や交通費等は別途)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.07.22
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