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■11月9日(火)土肥港から雨の中、フェリーに乗って静岡市の清水港に向かう。70分の船旅。さらば、伊豆半島・・・。すっきりと晴れていれば、富士山が見えたはずだけれど、今回は、この絵をみて納得する。 将軍職を退きいた徳川慶喜は、慶応4年(1868年)7月19日に水戸を発ち、海路で那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)まで行き、そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、23日に清水港に上陸した。同日夕方には宝台院に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。◎水戸から清水港まで陸路と海路で5日間かかっている。■弥次喜多銅像■十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。東御門の手前、巽櫓をバックに弥次さん(左)喜多さん(右)がベンチ とセットになって佇んでいる絶好の写真スポット。十返舎一九は静岡市出身。駿府城に行ってガイドさんの話を聞いた。▲門の材木の太さよ!!▼本丸跡にある鷹狩り姿の徳川家康公之像。この後、三保の松原へ。ここでもガイドさんの説明を受けた。♪羽 衣♪♪あれ天人は 羽衣の舞を舞い舞い 帰り行く風に袂が ヒラヒラと羽根に朝日が キラキラと松原こえて 大空の霞に消えて 昇り行くあれかくれ行く 松原は三保の浜辺か なつかしや浜の漁師は 安らかに栄え栄えよ いつまでも日本一の 富士山も霞の下に 消えてゆく■三保の松原■三保松原は約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されてきました。三保松原の一角には、天女伝説で知られる羽衣の松があり、毎年10月には松前で三保羽衣薪能が開催されます。また、世界遺産構成資産の一部であり、パワースポットとしても人気の御穂神社や常世神の通り道である「神の道」も付近にあり、ここを歩けば清々しい気持ちになります。■清水はサッカーのまち■今から半世紀前の1956年(昭和31年)、清水市(当時)の江尻小学校に一人の新人教師が着任しました。 「ボールをけってはいけません。」そんな校則がある時代でしたが、放課後、校庭で子供たちにボールをけらせました。そして、この年、全国に先駆けて少年サッカーチームを結成しました。1967年(昭和42年)には、清水市内の各少年団が半年かけて戦う日本初の小学生リーグもスタートしました。(▲道の歩道の境もサッカーボールが!!)新しいものを抵抗なく受け入れる港町の気質に加えて、「サッカーで人間を育てる」という清水の熱い思いが少年サッカーを育てました。 資料提供:NPO法人清水サッカー協会■次郎長富士■旅行けば駿河の国に茶の香り名代なるかや東海道名所古跡の多いところ中でしられる羽衣の松と並んでその名を残す街道一の親分は清水港の次郎長次郎長のゆかりの地をガイドさんに案内してもらった。■清水 次郎長■文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、 広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた 咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した 幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。●山岡鉄舟は、幕末の三舟と言われた。幕末の三舟(さんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。●咸臨丸のことは、今回、はじめて知った。( ;∀;) 朝から雨で富士山は見えなかった。12346歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.10
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■11月8日(月)後半 ■前半は、馬ロックと堂ヶ島・ここ■松崎町は、伊豆半島の南西部に位置する小さな海辺の町。あの大ヒット小説『世界の中心で、愛を叫ぶ』のドラマロケ地としても知られています。そんな松崎町を象徴するのが、蔵の壁などでよく見られる黒と白の幾何学模様「なまこ壁」の建造物。現在190棟余り残っており、昔ながらの風情ある景観を保ち続けています。■「伊豆の長八美術館」(いずのちょうはちびじゅつかん)。■ 松崎町出身の漆喰の名人、入江長八(いりえちょうはち)の※鏝絵(こてえ)作品が展示されています。漆喰とコテを使って仕立てられた独特な絵は、他の美術館にはあまり見られないものです。 ※鏝絵(こてえ)……漆喰を用いて作られたレリーフ。▲あちこちに、鏝絵があった。▼町を歩くと民具を活かして花を飾っていた。なまこ壁の通りを歩いていると、突然、フジバカマの畑に出た。ここは、旅する蝶、アサギマダラのために作った花畑だと偶然居合わせた男性が教えてくれた。数多くの蝶が乱舞していて、思わずシャッターを押したが、花に紛れてアサギマダラは、見えにくい。花びらになつてしまひし秋の蝶 山本静子■岩科(いわしな)学校■国の重要文化財に指定されている岩科学校は、伊豆エリア最古の学校と言われています。外観は「なまこ壁」を利用した社寺風建築ですが、バルコニーを取り入れるなど洋風の要素も入れており 、明治らしい和洋折衷のデザインが特徴的です。正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)の書で、その上の龍は入江長八が棟梁の「のみ」を借りて彫ったと伝えられています。見所はなんといっても2階・西側にある「鶴の間」。白と黒のシンプルな外観からは想像できない、真っ青な空に羽ばたく138羽の鶴を見ることができます。▲窓からビートルズが覗いている家!▲アビーロードもある?!●バス●東海バス - 松崎営業所がバスターミナルとなっている。伊豆急行線 - 伊豆急下田駅へバスで50分伊豆箱根鉄道駿豆線 - 修善寺駅へバスで1時間40分●船舶●松崎港 - 現在は定期旅客航路は開設されていない。沼津港から定期旅客船が出ていたが、2003年に廃止になっている。美しい町なのに観光客が少ないのは、不便な交通のためだ。この日の宿は、土肥(とい)。明日の朝、土肥港からフェリーで清水に渡るからだ。 富士山が見えた!●8563歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.09
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■11月8日(月)11月2日(火)からこちらに来ているが、やっと富士山が見えた!見えた所は、堂ヶ島から近い、黄金崎という見晴らしのいいところ。■黄金崎は■駿河湾と富士山の眺望のすばらしさ、夕陽を浴びて黄金色に輝く美しい岩肌で知られる景勝地です。岬全体が公園になっており、遊歩道、芝生広場、展望台、富士山ビュースポット「富士見の丘」、三島由紀夫の文学碑などがあります。黄金色に輝くこの岩肌は、高温の温泉水や地熱による変質作用で染め上げられたもので、昭和63年には静岡県の天然記念物に指定されました。馬の頭そっくりな奇岩が最近では「馬ロック」の愛称で慕われています。「競馬の必勝祈願で立ち寄った方が大きく当てた」との噂も?馬ロックを描いた絵馬を「こがねすと」で販売しております。「こがねすと」で夕食用にかんてんを買った。このあたりは、ところてんの原料のテングサが採れるところ。江戸時代の伊豆地方では肥料としても用いられてきたが、1822年、伊豆の代官が肥料への使用を禁止したため、食用のみに用いられるようになったと伝えられる。現代では寒天や心太(ところてん)の原料とするほか、寒天質は菌類や細胞などを培養するために使われる培地(寒天培地)のもっとも基本的な素材である。 「銀二貫」という小説は、江戸時代の大坂・天満のカンテン問屋の話。仕入れに伊豆まで行った話を読んだような・・・。もう一度確認のために読んでみよう。 ここの夕日は美しいと聞くが、次の場所、堂ヶ島に急いだ。(▲右が象に似ているから象島)伊豆半島の中でも、景勝地として知られる堂ヶ島。ここに立つと、自然という芸術家がいかに偉大でユニークかがよく分かります。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には天窓洞や三四郎島、トンボロなど目を見張るスポットがいっぱい。海に目を向けると不思議な形をした島や岩が出迎えてくれ、その間を遊覧する船で冒険心にあふれた小さな船旅を楽しむことができます。また、駿河湾に沈む夕陽は言葉を失うほどの美しさです。与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和10年2月23日から3月3日にかけて伊豆周遊の旅をした時に堂ヶ島を訪れて詠んだ歌だということだ。 夫妻は船原峠を越えて西海岸に入り、松崎町から婆裟羅峠を越えて東海岸に向かい各地で多くの歌を詠んだとのこと。▲洞窟に入る船。▼堂ヶ島 天窓洞の 天窓を ひかりてくだる 春の雨かな 与謝野 晶子 富士山見えた! 午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.08
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■11月7日(日)後半■静岡県伊豆市の修善寺地区は夏目漱石、井伏鱒二などの文豪が滞在した温泉街。■踊り子たちは、この土地から天城トンネルを越え、下田へと向かった。修善寺川は桂川の通称で知られ、川沿いには温泉や旅館が並んでいます。和風の町並みは伊豆の小京都と呼ぶに相応しい趣ですが、歴史に関しても京都級。1194年には源頼朝の弟・範頼が自刃に追い込まれ、1204年には頼朝の子・頼家が暗殺されています。また、修善寺に点在する桂谷八十八ヶ所巡礼の札所(石碑)には四国霊場の土が埋まっており、巡ることで功徳を得られます。地域の顔である修禅寺にも必ず立ち寄りましょう。■修禅寺■地名の由来にもなっている古刹「福地山修禅萬安禅寺」▲境内▼修善寺〇(しゅぜんじ)✖しゅうぜんじお寺は、修禅寺(しゅぜんじ)町の名前は修善寺(しゅぜんじ)■「独鈷の湯(とっこのゆ)」■伊豆最古・修善寺温泉の発祥とされているのが「独鈷の湯(とっこのゆ)」です。807年、弘法大師が桂川で病身の父の身体を清める少年の姿に感じ入り、独鈷杵で岩を突いて温泉を噴出させたと伝わっています。のちに病気の父は温泉の力で元気を取り戻し、地域に湯治の文化が根付いたそうです。現在の「独鈷の湯」は桂川中州の岩盤上に設置された東屋の内側で慎ましく湧いています。残念ながら入浴禁止ですが、近づいての見学は可能です。■指月殿(しげつでん)■は、修禅寺の川向かいにある経堂です。非業の死を遂げた源頼家の鎮魂のために北条政子が建立し、修禅寺に寄進したとされ、境内には頼家の墓に加えて、頼家の忠臣たちが眠る十三士の墓が設置されています。堂内には丈六釈迦如来坐像が鎮座しています。これは高さ203cmの木像で、通常は徒手とされる釈迦如来でありながら、右手に蓮の蕾を握っているのが特徴。鎌倉時代の作品で、静岡県の文化財に指定されています。また、政子が寄進した「刺繍釈迦三尊仏」や「宋版一切経」の一部が修禅寺の「瑞宝蔵」に収められています。■桂橋■桂橋は虎渓橋と同じく桂川に掛けられた朱塗りの橋です。桂川を挟んで北側には河原湯という無料の足湯が存在し、寛ぎながら修善寺温泉の象徴・独鈷の湯を望むことができます。南側には竹林の小径があります。これは楓橋の辺りまで続く遊歩道で、両側にある孟宗竹(もうそうちく)の林は京都嵐山さながらの美しさです。■日枝神社は■修禅寺の隣に佇む神社です。弘法大師が創建した山王社で、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。修禅寺の鬼門を守っていましたが、明治期の神仏分離により独立しました。☝古い医院。■漱石 修善寺の大患■夏目漱石は、明治43年(1910)6月、胃潰瘍で長与胃腸病院に入院し7月末に退院、転地療養のため8月6日、伊豆・修善寺の菊屋旅館にやってきた。着いた翌日から体調すぐれず、翌々日からは胃痙攣にしばしば襲われ、「膏汗が顔から背中に出る」(日記・八月十二日)ほど。やがて吐血も加わり、24日には800グラムの大量吐血、人事不省の危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。天城湯ヶ島泊。 今日も富士見えず。●12070歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.04
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■11月7日(日)■伊豆の踊子■天城七里は 白い雨 あなたとあえたは 峠の茶店 わたしゃ踊子 太鼓をさげて湯の町ながす 旅芸人 花もつぼみの 紅椿 この日、宿舎を出る時は、雨が降っていて、「天城七里は白い雨」だったが、いつの間にか止んだ。この日、下田から天城越えをする。「伊豆の踊子」は、天城越えをして、下田に着くので、反対のコースだ。■河津七滝(かわづななだる)■天城トンネルを越える前に、河津七滝(かわずななだる)を通る。 河津には数々の滝が存在します。その中でも特に有名どころになっている七つの滝を「河津七滝」(かわづななだる)と呼んでいます。河津七滝は片道約1時間かけて巡ることが出来る全長850mの遊歩道があり、46mの吊り橋や(▲初景滝の前の踊子像)伊豆の踊り子像が2ヶ所あります。落差22mの釜滝(かまだる)には滝のしぶきが当たるほど近い展望デッキがあります。▲大滝(おおだる)河津七滝中、最大の高さを誇る滝です。 滝の全長30m、幅7m 。▲大滝の近くでみたワサビの販売店。■柱状節理■冷えていく溶岩やマグマ全体が縮むときに5角形や6角形の柱状の割れ目ができます。これを柱状節理(ちゅうじょうせつり)といいます。何度も見かけたが、伊豆で多いのだそうだ。滝へ続く道にあったナチシダ。(▲車一台がやっと通れる天城越えの古道)■天城越え(あまぎごえ)は、■静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある天城峠を越える旅路のこと。伊豆半島を南北に縦断する天城峠越えの道は、天城路(あまぎじ)や、天城街道(あまぎかいどう)ともよばれる。伊豆半島の南に位置する下田と、北に位置する三島を結ぶ街道は下田街道といい、天城越えの天城路は同街道の一部にあたる。伊豆半島の内陸と半島南部の間には天城山の峰々があり、これを越えるのは下田街道の最大の難所であった。(▲下田側のトンネル入り口)1905年(明治38年)に天城山隧道(旧天城トンネル)が開通し、多くの人と物資がこの天城峠を越えて行き来するようになった。天城越えは川端康成の『伊豆の踊子』や、松本清張の『天城越え』などのテーマにもなり、天城山隧道には観光客が訪れる。1970年(昭和45年)に新天城トンネルが開通したため、旧街道の天城山隧道を含む天城路の現在は、「踊子歩道」とよばれる全長約16キロメートル(km)の遊歩道として整備されており、浄蓮の滝や自然休養林の「昭和の森」といった自然を楽しみながら歩くことのできるハイキングコースとなっている。▲私たちは反対側から来たが、観光バスはここに止まる。以前、バスツアーで来た時も、この景色は覚えている。 「伊豆の踊子」は、川端康成の代表作品。 松本清張の「天城越え」は「伊豆の踊子」のパロディだと言われている。■松本清張「天城越え」は■本人が解説するようにあの川端康成の「伊豆の踊子」のパロディである。「伊豆の踊子」の主人公の一高生は、修善寺温泉に泊まり、湯ヶ島温泉に泊まり、それから天城を登る。これに対して「天城越え」の十六歳の少年は、(反対方向に)下田から家出をして天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出る。「伊豆の踊子」のヒロインは、純情可憐な少女に対して、「天城越え」では、あばずれ女だった。■表層だけの美しいストーリーを清張はどうしても許さないのである。■「伊豆の踊子」で表現されているような、純粋で清らかな心など、信用に値しないと言わんばかりである。たしかに、今日の倫理感覚で「伊豆の踊子」を読み直してみると、そこには清張が感じたはずの多くの違和感が残る。覗き、付きまとい(ストーカー行為)、少女趣味、差別意識などなど、今日の法律や倫理意識に触れるようなさまざまな背徳が隠蔽されているのである。清張はこの隠蔽された美意識や倫理観に純文学の虚飾性を感じたのかもしれない。それで「伊豆の踊子」に抵抗し、その実情を暴いてみせたのかも知れない。純文学を代表する川端康成の「伊豆の踊子」をパロディー化することで、それに強く反発したとも思われる。覗き、付きまとい(ストーカー行為)、少女趣味、って・・・。((´∀`))ケラケラ■石川さゆり 天城越え ■石川さゆりの歌は、松本清張の「天城越え」がもとになっているのだろう。■動画 天城越え■☝の動画の中に鼓を打つところがあるが、「すゑひろがりず」を思い出して笑ってしまう。((´∀`))ケラケラこの日、この後、修善寺に行く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.03
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■11月6日(土)後半■11/6・岬巡り・石廊崎■の後、ガイドさんの案内で、下田の町を歩いた。下田湾を背景に、ペリー一行の来航を記念して彼の胸像が建てられています。黒船でやってきたペリー艦隊が、日米下田条約締結の為に了仙寺まで行進したことから名付けられたペリーロード。どこか異国情緒あふれるレトロな雰囲気を醸し出す石畳の小道沿いにはなまこ壁や伊豆石造りの風情ある家並みが続き、小民家風の店やカフェに立ち寄りながらゆったりと散歩を楽しめます。■ マイマイ通り ■伊豆急下田駅より市街地商店街方面に行くメインストリート、その名を”マイマイ通り”といいます。マイマイとはカタツムリのこと。ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したものと考えられています。それにちなんで、道路にカタツムリのような形が!10代の頃のお吉の写真を見たが、この絵とまったく同じで美人だった。今なら、〇〇坂48のセンター間違いない!!山内容堂と勝海舟が会って、そこで脱藩浪人として「指名手配中」だった坂本龍馬が脱藩を許されたというお寺、■宝福寺■明治から続く老舗の酒屋さんが、壁や住宅の一部を利用して見ごたえのある資料館を作っていた。無料だったが、お金をとってもいいと思えた。▲壁のホーローの看板!!瓶が割れないように竹の籠に入れて移動したそうだ。▲道に描かれていた、幕末の撮影風景。写真に左右が逆に映るから、侍の刀は右にさしている。着物の衿も左前に着ている。▲下田で見た椿。葉の先が割れている。1853年、黒船を率いて日本を開国させ、1854年5月25日、下田「了仙寺」にて「下田条約」を締結させたアメリカ海軍の東インド艦隊司令長官、マシュー・カルブレース・ペリー。静かな寺の中に、猿が迷い込んで大騒ぎ!!(左上)この日も富士は見えません。●11658歩。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.02
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■11月6日(土)■♪岬めぐり♪ 山本コータロー■♪あなたがいつか 話してくれた岬を僕は たずねて来たふたりで行くと 約束したが今ではそれも かなわないこと岬めぐりの バスは走る窓にひろがる 青い海よ悲しみ深く 胸に沈めたらこの旅終えて 街に帰ろう岬を海からと陸から巡ってきた。■岬・崎(みさき、さき)は、■丘・山などの陸上の先端部が平地・海・湖などへ突き出した地形を示す名称。半島や島の最先端部に多くあらわれる。海岸の岬は夜間・悪天候時の船舶の航行の障害となるため、灯台が設置されることが多い。日本語で岬を表す表現には、崎、埼、碕、角、鼻がある。石廊崎(いろうざき)は静岡県伊豆半島最南端の賀茂郡南伊豆町にある岬である。荒々しい海岸の景色で観光地になっている。太平洋に突き出たこの岬より西は駿河湾及び遠州灘、東は相模灘である。また、太平洋とフィリピン海の境界でもあり、相模灘側が太平洋、駿河湾側がフィリピン海である。岬の先端付近には石室神社、▼海から見た、下の写真は、ここに続いていた。一帯の地質は、海底火山が噴出した溶岩流で、約700万年前の浅海底に噴出したもの。1969年(昭和44年)から石廊崎ジャングルパークという熱帯植物園があったが、施設の老朽化や入場客の減少に伴い、2003年に(平成15年)閉園。最突端には熊野神社の祠(ほこら)がある。2019年(平成31年)4月1日に敷地内の廃墟を解体したうえで『石廊崎オーシャンパーク』。下田の町に帰ってきて、「下田開国博物館」に行った。なまこ壁が堂々とした風格の建物!! 波に千鳥、鶴や亀の鏝絵が素晴らしい!午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.24
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■11月5日(金)下田の歴史的な場所をガイドさんの案内で歩いた。■下田は海の関所だった。■江戸時代の船は、帆船でしたので、風向きが悪いと、途中の港にはいって、風待ちをしなくてはなりませんでした。江戸に向かう船は、波のあらい遠州灘を、無事にのりきって、下田港にはいると、ほっとひと息しました。ところが、相模灘は、遠州灘と風向きが違うことが多いので、下田港で、いく日も、風待ちをすることがありました。下田港は、江戸に出入りする船にとって、たいへんよい風待港でした。やがて、年貢米や特産品を、大阪と江戸に運ぶために、江戸と大坂の間を、回船(定期船)がかようようになりました。1636年(寛永13年)になると、名前も船改番所(御番所)と変わって、江戸に出入りする船は、かならず、下田港にはいって、御番所の調べをうけるようになりました。このころは、とくに江戸を出ていく女の人や子どもと、江戸にはいる武器のとりしまりがきびしかったのです。こうして、御番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をしました。 江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東・西廻海運の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番)と唄われた。東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点。1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港(下田は即時開港)。吉田松陰の米渡航失敗、ロシア使節エフィム・プチャーチン提督乗船のディアナ号遭難、米国領事タウンゼント・ハリスと唐人お吉、商業写真の祖下岡蓮杖など、数々のエピソードを生んだ。南伊豆の観光拠点、静岡県「下田市」。この地は幕末に200年以上続いた鎖国時代から、マシュー・ペリー率いる黒船来航によって開国へと向かう大きな歴史の舞台になった場所であり、また坂本龍馬が脱藩を許され飛躍するきっかけとなった地でもあるのです。(ちなみに、坂本龍馬の元藩主・山之内容堂に龍馬を許してくれと頼んだのは、偶然、下田にいて風待ちをしていた、勝海舟だった!!)■幕末開国の舞台 玉泉寺■嘉永7年(1854年)3月、日米和親条約の締結、同年5月の付録13ヶ条の締結により、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、同年8月玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。(▲壁に煙突を出した跡が残っていた。)境内に星条旗が掲揚され、以来2年10カ月、玉泉寺は幕末開国史の中心舞台となりました。又、それ以前は日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在等、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。境内には、米国黒船乗員5名、露国黒船乗員4名が眠る墓地があります。幕末当時に建立された墓石がそのままに現存しており、条約に則った日本最初の公式外人墓地となります。「松陰とお吉 下田の裏表」川柳中興の祖 井上剣花坊師は、下田に遊び この句を残す■井上剣花坊■ガイドさんと別れて、黒船で湾内一周。最後に、ロープウェイで、寝姿山に登った。見晴らしのいいのを利用して、黒船来航前の1849年英国の測量船マリナ号が入港したのを機に「黒船見張り所」がつくられた。この日の宿は、弓ヶ浜という弧を描いた浜の近くだった。(連泊) この日も富士山は見えなかった。10936歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.23
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■11月4日(木)伊東市にある大室山(おおむろやま)に向かった。■大室山(おおむろやま)■は、静岡県伊東市にある標高580mの火山。独立峰で、700年以上続く山焼きが毎年早春に行われるため一年生植物で覆われてよく目立ち、伊東市のシンボル的存在である。山体は国の天然記念物および富士箱根伊豆国立公園に指定されている。北麓からの大室山登山リフト(有料)に乗れば6分ほどで山頂に着く。火口縁には遊歩道が整備され周遊(お鉢周り)することもできる。かつては徒歩でも登れたが、現在では禁止されている。火口底は長らく観光アーチェリー場として利用されてきた。大室山の山焼きは、700年以上継承されてきた良質のカヤを育てるための行事だった。大室山で採取された茅は、屋根を葺いたり、牛馬の餌、堆肥、炭俵の材料として利用され、地元だけでなく江戸へも出荷された。▲八丁櫓とは、櫓が八本ある高速船のこと。▲その後、城ケ崎海岸へ。■城ケ崎海岸とは■静岡県伊東市の南西に位置する「城ケ崎海岸」。溶岩流と海の侵食作用でできた、断崖絶壁の海岸です。伊東市市街地から車で約30分。壮大な景色が眺められるんですよ。城ケ崎海岸を訪れたらここは外せない!約9kmにわたる城ヶ崎海岸で、最も有名なポイントが「門脇つり橋」です。荒波に削られた海蝕洞の間に長さ48m、海面からの高さ23mの通称「海のつり橋」が架かり、スリルとサスペンスを味わうことができます。まさに数々のサスペンスドラマや特撮ヒーローの撮影地にもなった迫力満点の絶景です。「穴口」という標識あり。道の横に、穴があいていて、海へと続いていた!!この日の宿は、熱川にあった。熱川といえば、私の世代は、■銭の花 細腕繫盛記■。熱川が舞台だ。『細うで繁盛記』は、1970年1月8日から1971年4月1日まで、よみうりテレビで製作され、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。近畿地区では最高視聴率38.0%を記録した。オープニングで「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」という主人公・加代役の新珠三千代のナレーションが入った。正子役の冨士眞奈美は牛乳瓶の底のような近眼鏡をかけ、静岡弁で「ちょっくら! 加代、おみゃーの出る幕じゃあ にゃーズラよ!」「加代!おみゃーの言うとおりにゃさせにゃーで!」「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」というようなセリフを口にして、視聴者に強烈な印象を与えた。本作では「憎まれ役」だが意外にも視聴者の人気を得て、これらをパロディーにしたテレビCMも製作された。冨士がCMの最後ににっこり微笑みながら眼鏡を外すシーンを見て、意外に美人なのがまた話題になった。私の勤めていた会社では、よくパロディをして笑った。かよちゃんという女性が来ると「かよ~」と呼びかけ、儲けた話を聞くと「「細腕繫盛記」やな、いや腕、太いがな・・・」((´∀`))ケラケラと必ず言った。 富士山は今日も見えない。●8032歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.22
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■11月3日(水)ー後半熱海を後に、伊東に向かう。合併で、伊豆の東にあるから市の名前を「伊東」と付けたのかなと思っていたら、「伊東何某」という人物が古くから治めていたかららしい。■湯の町エレジー■♪音が出ます!伊豆の山々 月あわく灯りにむせぶ 湯のけむりああ 初恋の君を尋ねて 今宵またギター妻弾く 旅の鳥「湯の町エレジー」の舞台は、伊東だとどこかで読んだ。ガイドさんと伊東観光番であって、市内を案内してもらった。■伊東観光番■昭和33年(1958)に建てられた静岡県内で最古の交番「旧伊東警察署松原交番」をそのまま利用した観光案内所で、静岡県伊東市渚町にある。施設内には配布用の観光パンフレットが置かれ、ボランティアスタッフが常駐。近隣の観光案内や散策のアドバイスが受けられるほか、予約制で有料の観光ガイドツアーも実施している。▲観光案内書のすぐそばにあった、昭和の流し!!伊東を流れる松川沿いに約1km続く遊歩道。しだれ柳や瀟洒な街灯が続き、「東海館」や「いな葉」といった木造の老舗旅館が建ち並ぶ様子は、まさに温泉情緒たっぷり。春は桜並木も美しくで、四季折々の風情を感じながら散策できる。この松川でタライ競争があるそうだ。■東海館■昭和3年(1928)に創業した、昭和初期の建築様式の面影を色濃く残す木造3階建ての温泉旅館。平成9年(1997)の廃館後は伊東市に寄贈され、その貴重な木造建築を後世に伝えるため、平成13年(2001)、観光・文化施設として新しく生まれ変わった。廊下や階段、客間の入り口、飾り窓などは、随所に職人達の技巧が凝らされており必見。入浴可能日は、 毎週土曜、日曜日と祝祭日である。障子の桟▲マツバ▼帆掛け船▲波に千鳥▲格天井(ごうてんじょう)の大広間▼玄関。松川沿いに下って海岸で出るところ、なぎさ橋際に日本初洋式帆船を建造した三浦按針(英国名ウィリアム・アダムス)の事績を記念した小さな公園「按針メモリアルパーク」があります。公園の中には昭和24年〈1949年〉7月15日に建立除幕されたE・ブランデン碑と按針の胸像(昭和62年〈1987年〉8月10日除幕)と帆船建造400周年に建てられた標柱(平成16年〈2004年〉12月23日除幕)があります。■家康江戸を建てる■を読んで、江戸城の石垣は伊豆の石が使われていると知った。この石も切り出された石で、マークがある。 この日も富士山は見えなかった。●12308歩■熱海■2021.11.3(午前中)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.20
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■11月3日(水)10時にガイドさんと駅前の足湯で待ち合わせ。熱海の名所を案内してもらった。JR熱海駅から徒歩で7分ほどの温泉宿泊施設の「大江戸温泉物語あたみ」の入口付近にトロッコを押す人のレリーフがあった。■人車鉄道■かつての日本には人が自ら車両を押す「人車鉄道」というものもありました。人車はトロッコに2〜4人用の椅子を取り付けた簡易なつくりになっており、これを押し屋が動かしてレールの上を走らせます。人車鉄道は、その多くの路線が静岡県以東の地域に見られました。「豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道」は明治29年、小田原から熱海に敷かれました。その後は人力ではない軽便鉄道になりましたが、大正12年の関東大震災まで温泉地への交通手段として多くの人に利用されたそうです。熱海の街の中には、温泉があちこちにわいている。伊豆に流された源頼朝も熱海に来たのか歌があった。都より巽にあたり出湯あり 名をあづま路の熱海といふ 源頼朝こんなところにも、温泉が・・・。温泉、イチオシの熱海である。熱海に来たら絶対に行くだろう観光名所、熱海の海岸は「金色夜叉」の舞台。■『金色夜叉』(こんじきやしゃ)は、■尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。読売新聞に1897年(明治30年)1月1日 - 1902年(明治35年)5月11日まで連載された。前編、中編、後編、続金色夜叉、続続金色夜叉、新続金色夜叉の6編からなっている。執筆中に作者が死亡したため未完成である。紅葉門下の小栗風葉が1909年(明治42年)に「終編金色夜叉」を書き継いだ。昭和に入って、映画、ドラマ化されるようになった。●ガイドさんの話。●お宮の結婚相手となった金持ちの富山唯継(とみやま ただつぐ)という名前。富の山をただ継ぐ→富山ただ継ぐ→富山唯継・・・バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!!!明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。 その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)です。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となりました。■「金色夜叉」映画とカラオケ■熱海の海岸散歩する寛一お宮の二人連れ共に歩むも今日限り共に語るも今日限り僕が学校終わるまで何故に宮さん待たなんだ夫に不足が出来たのかさもなきゃお金が欲しいのか夫に不足はないけれどあなたを洋行さすが為父母の教えに従って富山一家に嫁(か)しづかん(以下、略)宮さんは、寛一の洋行のために富山と結婚するのか・・・。▲熱海市内に残る和菓子屋。▼ 11月3日(水)は、熱海の後、伊東へと移動した。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.19
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■11月2日(火)富士山が見たい!しかし、関西からは、富士山は見えない。なんせ、富士山の本場、静岡県の西部は、遠江(とおとうみ)の国とよばれる。■「遠淡海」とは■都(当時の奈良)から見て遠くにある淡水湖という意味。静岡県東部は、伊豆の国とよばれ、流刑地となっていたくらい遠いのだ。なら見に行こうというわけで11月2日(火)から11月16日の15日間富士山のまわりを廻ってきた。11月2日(火)新幹線で熱海に。新幹線の途中で富士が見えるのではと思い、進行方向左に座るも富士は見えず。熱海に着いた。レンタカーを借りて、さっそく廻る。■起雲閣■1919年(大正8年)に別荘として築かれ「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸が基となる起雲閣。 1947年(昭和22年)に旅館として生まれ変わり、熱海を代表する宿として数多くの宿泊客を迎え、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など、日本を代表する文豪たちにも愛されてきました。今は熱海市の文化財として一般公開されています。市街地とは思えない緑豊かな庭園。 日本家屋の美しさをとどめる本館(和館)と離れ。日本、中国、欧州などの装飾や様式を融合させた独特の雰囲気を持つ洋館。優美な気品を醸し出すこれらの施設は、歴史的・文化的遺産として未来に継承されます。▲ローマ風呂▲天井のガラスや▼床のタイルも美しい。▲小さな細工も丁寧な仕事。▲手斧(ちょうな)とよばれるもので削っているので荒々しさの残る作りだ。商店街は、少し淋しかった。■熱海で逢ってね■♪熱海で会ってね、それまで待ってねこの町の中に五月みどりの店があった。この歌が流行って頃が熱海が最も栄えていた時期で五月みどりの黄金時代がピッタリ合わさっているのだろう。 この日は、これだけで宿に行った。宿は、斜面に建っていた。熱海で斜面といえば、7月に起きた土砂災害。宿から数百メートルの所だったようだ。そのせいで、風呂の湯など違うところから取っていた。明日は富士が見えるかな・・・。●4465歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.18
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■2021.4/8(木)南九州17日間の旅のラストランの日。岬馬(みさきうま)を見に、串間市・都井(とい)岬に向かったら、道路工事で迂回することになった。 _| ̄|○ 日本に存在する8種の在来馬の中でも、時代を経て再び野生化した貴重な存在として唯一、国の天然記念物に指定されている都井岬の「御崎馬(みさきうま)」。宮崎県の最南端・串間市にある都井岬は、550ヘクタールの広大な敷地で人間の手を借りずに生きる御崎馬の姿が見られる場所だ。ほとんど人の手が入っていない岬の敷地内には、野生の猿やソテツの自生地、絶滅危惧種の草花なども見られる。草原の向こうには、どこまでも続く日向灘が広がる。江戸時代から続く武士の馬が野生化して生息している都井岬にたつ、都井岬灯台。都井岬灯台は、灯台としては九州で初めて国の登録有形文化財に指定されたほか、九州で唯一、内部を常時公開している灯台。 都井岬から移動して、旧吉松家住宅でガイドさんに約1時間案内してもらった。。■旧吉松家住宅(きゅうよしまつけじゅうたく)は、■宮崎県串間市にある建築物。主屋など各建築物は1919年(大正8年)に上棟した。屋敷全体の構成がすべて現存している点が評価され、2008年(平成20年)12月2日には重要文化財に指定された。 瓦屋にも建てた大工の考えから、遠近法が取り入れられた。瓦が下の方が小さく、上にいくほど大きくなっている。木造一部2階建ての主屋は大規模な近代和風建築であり、随所に洗練された意匠が凝らされている。この黒い床柱は、この家で最も高い材のひとつ。正面玄関の上には、吉松家の家紋「輪違い」。▲向かい合う鶴と地模様が亀。「鶴亀」のめでたい模様!!!あちこちに襖(ふすま)があって、それぞれデザインが異なっています。取っ手部分、よく見ると、十字架? 隠れキリシタンと関係が?? ガイドの方曰く、よくわかっていないそうです。●玄関板戸絵1921(大正10)年から1922(大正11年)にかけて、鹿児島在住の画家・今井玉芳によって描かれた。 旧吉松家の裏手にある愛宕山の竹林がモチーフになっており、三方全面に春の竹林の風景が描かれており、その中で雀の遊ぶ姿が見られる。「『胸中に成竹(せいちく)あり』絵師が竹の絵を描く時、その胸の中に、描き上がった絵が既にある。(略)」あきない世傳 金と銀(十) 合流篇 (時代小説文庫) [ 高田郁 ]手前と向こう、2か所から降りられる階段がついた2階。旧吉松家を出て、志布志港に行く途中で車をとめたダグリ岬の国民宿舎の駐車場わきにある山頭火の碑。志布志へ一里の秋の風ふくこころしずかに山のおきふし海は果てなく島が一つ志布志には、昭和5年に来ている。山頭火は、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった。この地は、ぎりぎり、日記に残っていたのか・・・。近くに小さな展望台のようなものがあって、登ってみると、志布志港が見え、停泊している「さんふらわー」も見えた!!「志布志へ一里の秋の風ふく」という山頭火の句の通り、ここから一里=約4キロで志布志港。17:00ごろ、(さんふらわあ・きりしま)に乗船。■「さんふらわー」の新型コロナウイルス感染症の対応■■船室は往きと同じ和室だった。■17:55の出航。夕食、入浴などの後、就寝。 ◎走行距離:99km ●6893歩■2021.4/9(金)朝、大阪港着。■英国南部ドライブ・ラストラン■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.15
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■2021.4/7(水)■鵜戸神宮(うどじんぐう)■、■油津(あぶらつ)■の後、飫肥(おび)へ。(☚日南市地図)日南市の中心に位置する飫肥(おび)は、明治初期までの280年間、飫肥(おび)藩・伊東氏の城下町として栄えた場所。江戸時代の武家屋敷や商人町が今なお、多く残る美しい歴史の町。ガイドさんは、コロナ禍で休みなので、この地区をふたりで廻った。その美しい町並みから「九州の小京都」と呼ばれる飫肥(おび)地区。 飫肥(おび)藩・伊東氏の城下町として栄え、今でも武家屋敷が点在する貴重な地域として九州で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されました。●まずは、飫肥(おび)城大手門。1871年(明治 4 年)に取り壊された後、1978年(昭和 53 年)、樹齢 100 年の飫肥 杉を使用して復元された。●飫肥城(入城無料)の中にある、飫肥藩ゆかりの資料が約 220 点展示保管されている飫肥城歴史資料館。主な展示品は、甲冑、 刀剣、武具など。場内には、他にも樹齢 100 年以上の飫肥(おび)杉を使った武家屋敷松尾の丸もある。▲飫肥(おび)城の空堀。▲塀の裏につっかえがしてある。これははじめて見たが、何の効果があるのだろう。▼▲ガイドさんがいたら、「このつっかえ棒は何のためですか?」と聞けたのに・・・。●旧本丸跡へ続く石段。まっすぐに伸びる飫肥(おび)杉が印象的。■飫肥(おび)■●地区内には飫肥城跡のほか、五百禩(いおし)神社、振徳堂(藩校)、小村寿太郎生家などがある。豫章館(よしょうかん)は、宮崎県日南市にある市指定の文化財の歴史的建造物である。最後の藩主伊東祐帰(すけより)が住んだ邸宅である。( ▲豫章館の庭。)豫章館の名は邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで名付けられた。 大手門前に位置して薬医門と屋根付きの堀に囲まれた屋数は飫肥藩で最も格式が高い。( ▲豫章館の庭。)屋敷は母屋と雑舎、蔵二棟に加えて御数寄屋が作られている。母屋はL字型に6部屋を配置しており、そこへ千鳥破風の屋根を構えた玄関は、主玄関と脇玄関があり、主玄関の入り口には「庵木瓜紋」と呼ばれる伊東家の家紋が、屋根瓦には「庵木瓜紋」に加えて「月星九曜紋」がある。( ▲豫章館の庭。)屋敷の屋根は、茅葺きとなっており、下屋根は飫肥(おび)瓦で、台風時の強風や豪雨に備えて漆喰で止めた瓦葺きとなっている。 建物は良質な飫肥(おび)杉で作られており、特に前庭に面する廊下の柾目板には樹齢数百年のものが使われている。飫肥(おび)は高温多雨な環境のため床下が高くとられている 。▲明治の外交官、小村寿太郎の生家があって記念館になっていた。●飫肥城から城下町へ向かう途中の後町通りの水路を気持ちよさそうに泳ぐ錦鯉たち。飫肥(おび)城下町は碁盤目状の屋敷割となっており、それに沿って作成された水路は、かつて防火用水、生活用雑水等に使用された綺麗な流れだった。風呂を沸かすために使用されたとも言われているそうです。その後年代を重ねていくうちに水路は崩れてしまったそうですがここ近年修復を希望する声が高まった事によって水路の修復を行う事で城下町にふさわしい水路が蘇り鯉を泳がせている。▲参勤交代の時、大坂ー伏見間に使った御座船。▼朝鮮通信使の場合、大坂に到着すると、木津川の河口部で外洋船から川御座船に乗り換え、土佐堀川を経て難波橋を目指した。(▲大阪の土佐堀川、堂島川と橋。)飫肥(おび)藩の参勤交代も同じようなコースだったのだろう。▲宿で泊まる最後の日。宿の部屋から見た景色。この日、コロナの影響で宿泊客は5人。夕食と朝食がバイキング出来なくなり、和定食になった。大阪のコロナ感染者総数は、878人と、急激に増加している。(1年前のきょう4/7、大阪の感染者は、53人だった)。ちょうど1年前に、初めての「緊急事態宣言」が、出されている。 ◎走行距離:64km ●12613歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.13
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■2021.4/7(水) ■鵜戸神宮■の後、日南市・油津(あぶらつ)へ。■宮崎県日南市油津(あぶらつ)■宮崎県日南市は50年以上にわたってプロ野球の広島東洋カープが春と秋のキャンプ地として選んでいます。練習に使用するのが天福(てんぷく)球場で最寄の駅がJR油津(あぶらつ)駅。その駅がなんとカープ一色になっています。広島県人にも負けない日南市民のカープ愛がJR九州に駅舎を塗り替えさせたのです。●油津の繁栄を物語る建物が国登録有形文化財の「油津赤レンガ館」です。大正時代から昭和初期にかけて飫肥(おび)杉とマグロ景気で賑わった油津の象徴で、飫肥(おび)杉を取り扱う木材商が大正11年(1922年)に倉庫として使うためになんと22万個もの煉瓦を使用して建てたものです。▲油津駅前の「マグロ」と▼橋に描かれたマグロ。▲「マグロ通り」という名前の通りもある。●赤レンガ館のすぐ近く、油津港に通じる国道220号線に面して建つのが「杉村金物本店」です。昭和7年(1932年)に杉村金物商店が建てた木造3階建の店舗兼用住宅で、1階が店舗、2・3階が住居となっています。この建物で目を引くのが銅板張りの外壁。現代建築ではあまり見ることがない意匠で迫力ある雰囲気を漂わせるおススメの見学スポットです。●「杉村金物本店」から数分歩くと「堀川運河」にたどり着きます。江戸時代、飫肥(おび)藩が飫肥(おび)杉の運搬を効率的に行うために造った運河で、平成16年(2004年)2月に運河関連では全国初の登録文化財に登録されました。運河は、延長1450メートル、川幅22~36メートルそして水深6メートルと大きな規模で、自然の川のようにも感じます。重機のない江戸時代にこれだけの運河を造ったということに当時の人々の苦労がしのばれます。運河で材木を筏にして運んでいたので、▼筏通りという名前の通りがある。油津では昭和 63 年 (1988) に堀川運河を考える会が発足し、埋立が決定していた運河の保存を求めて堀川運河まつりが開始された。その後、堀川運河保存の機運が高まり、平成5年 (1993) には、堀川運河が運輸省の「歴史的港湾環境創造事業」の指定を受け、埋立から一転して整備されることになった。●堀川運河には通称「乙姫橋」と呼ばれる石造りの堀川橋がかかっています。飫肥(おび)の石工 石井文吉の手によって明治32年(1899年)に着工、明治36年(1903年)に完成したアーチ状の石橋で平成11年(1999年)に有形文化財に登録されました。●ここは映画寅さんシリーズ■第45作「寅次郎の青春」■でロケ地にもなった油津の人気スポットのひとつです。橋のたもとにある堀川資料館の二階は映画の写真や出演者のサイン、ポスター等が展示されています。そして堀川橋が良く見えるおススメの場所です。 宮崎県日南市。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.12
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■2021.4/7(水)♪鵜戸(うど)さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日 参りゃとにかく帰りの節は つけておくれよ青島へ♪鵜戸さん良いとこ一度はおいで 一目千里の灘がある 行こか参ろか七坂越えて 鵜戸神社は結び神♪鵜戸さん参りに結うたる髪も 馬にゆられてみだれ髪 音に名高い背平の峠 坂は七坂七曲り■鵜戸神宮で♪「シャンシャン馬道中」■♪音が出ます!!宮崎の風物詩「シャンシャン馬」の風習は、江戸時代の中期から明治の終わり頃まで行われていた。シャンシャン馬再現鵜戸さん詣りは、七浦七峠と呼ばれる険しくつらい路を、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって、鵜戸神宮へ向かい、宮詣りをして家路につくという旅であった。 ♪鵜戸さん参りは春三月よというが、私たちが行ったのは4月7日。歌の中の三月というのは旧暦なので今の4月だ。♪参りゃとにかく帰りの節は つけておくれよ青島へ歌では、青島は、帰りに寄るもの。私たちは、■前の日に行った■けど・・・。_| ̄|○古い石段。▼真ん中がへこんでいる。▲江戸時代、大坂の商人が寄進した灯篭。▼細かい模様が彫ってあった。鵜戸神宮の神使「ウサギ」。鵜戸神宮の神使は、なんと「ウサギ」。鵜戸神宮の「鵜」が「卯」から「兎」へと転じたとも。毎月最初の卯の日は縁日祭が行われています。「運玉」投げ。100円の初穂料で挑戦できます。運玉は1回につき5個。1954年までは、素焼きの玉ではなく、お金を投げ入れていたとか。▲「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。日南市にある鵜戸神宮は、平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。☚日南市の地図。さて、次に行こう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.10
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みなぎれる朝開の海に橋ありて 青島に渡る人 多く見ゆ (土屋文明) ■2021.4/6(火)宮崎県の有名な観光地、青島に行った。小さな島をガイドさんの案内で廻った。まもなく80歳というガイドさんいわく「昔は、宮崎は、観光客が多かったんですが、今は、沖縄にとられて・・・。」宮崎の道路にはヤシの木?が並木道になっていて、外国みたいと感じたのだろう、昭和30年代から40年代は・・・。当時は、庶民にとって外国は、夢のまた夢。「外国みたい」な宮崎が新婚旅行のメッカだったのを私は知っている世代だ。磯の千鳥は なきなき渡る むこう青島 月あかり (野口雨情)●ようやく本殿へ。ここは、古事記などで有名な神話「海幸山幸兄弟」伝説の舞台。山幸彦と豊玉姫のロマンスの地でもあることから、縁結びの神が宿ると言われています。●亜熱帯の樹木が鬱蒼と繁り、ジャングルに迷い込んだような錯覚を一瞬起こしますが大丈夫。突き進んでいくと、最強の縁結びパワースポット「本宮」にたどりつきます。●島の中央にあるこの辺りは、弥生式土器や勾玉などが出土しており、古代祭祀が行われていたと伝わる正真正銘のパワースポットです。神の御座所に素焼きの皿を、願い事を呟きながら投げ入れ、入ると願いが叶い、割れると開運厄除けになるという「天の平瓮(あめのひらか)」。(▲鬼の洗濯板)●青島は周囲約1.5kmの小さな島ですので、時間のある方は、ぜひ島を一周してみてください。ここには宮崎県内でも珍しい亜熱帯性植物群落で、国の特別天然記念物に指定されています。樹齢300年を超えるビロウ樹が島を覆うように生い繁る雰囲気は南国そのもの。木陰には涼しい風が入り、夏でも気持ちよく過ごすことができますよ。浮ぶ青島 びろう樹のかげで とろり見ましようか異国の夢を (西条八十) ビロン葉に冬んねえ国ん風が吹く (詠み人知らず)果てしなく平行に続く見事な景観に、これが本当に天然物なのかと驚かされます。▲「自然が作った奇跡」を間近で見られるチャンスです!▼ガイドさんは、「古事記」に詳しい人で声色まで使って古い言葉で語ってくれて面白かった。なんでも奈良であった「古事記大会?」みたいなのにご夫婦で出たというから、納得。 面白かったので帰ってから、■YouTube:中田敦彦・古事記■を見た。♪音が出ます!■あおしまを歩こう■青島から出てから、近くにある県立青島亜熱帯植物園に行った。人気観光地、青島の西岸に位置する宮交ボタニックガーデン青島。外苑には青島に自生するビロウをはじめ、フェニックス、女王ヤシ、ナツメヤシの他、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの色鮮やかな南国の木や花々を眺めることができます。▲絆の木・アコウ。▼ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ 金子兜太園内にある碑。▲ホテルに大浴場がなかったので、帰りにここで入浴して帰った。 ◎走行距離:109km ●9479歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.08
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■2021.4/5(月)美々津(みみつ)千軒とうたわれた重伝建の町をガイドさんの案内で回った。この日は、ビックリするほど風が強く、マスクごしのガイドさんの声が風に消されて聞き取りにくかった。●宮崎県日向市の南端に位置する「美々津」は日向灘に面する港町で、神武天皇が東征する際に出港した場所として伝説が残っています。江戸時代は近畿地方を結ぶ海の玄関口として繁栄し、美々津千軒といわれるほど白壁の町家が軒を連ねていました。鉄道の開業に伴い廻船業は衰退し、歴史から忘れられた港町は今も静かな佇まいを残しています。江戸期の町家が残り国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。●美々津の街並みを歩いていて目を惹くのが、白壁の商家が立ち並ぶ静かな町に溶け込むように建つ洋風建物です。これは昭和初期に建築された木造二階建ての旧郵便局舎で日本の伝統的建物の中にあっても違和感のない建物です。●町家の玄関横に「バンコ」と呼ばれる折りたたみ式の縁台が設えてあります。バンコ」はポルトガル語でベンチを意味する「banco」に由来しています。●美々津の町を散策していて気づくのが各家統一された木製の郵便受けです。どの郵便受けにも神武天皇が使用したと伝わる古船が描かれていています。美々津には「耳川」が流れている。「耳川」と言う名前から「美々津」という地名になったのではと調べたが何処にもかいていなかった。_| ̄|○耳川に橋がかかるまでは、渡し船があった。(ここに車を止めるようにとガイドさんに教えてもらって止めた所。)また耳川の上流から高瀬舟で材木や炭などを運んでここまで来た。車を置いた駐車場は、高瀬舟や渡し船で賑わっていた場所だ。かつての賑わいがしのばれる通り。▼その通りの家には、当時の大工さんの心意気の飾りが。▲共同井戸。どちらの井戸も屋根がかけられ、近くに水の神様を祀っている。▼▲電器屋さんの看板が渋い!! 墓がならんでそこまで波がおしよせて 山頭火昭和5年10月27日、山頭火が美々津に来たーーー!!当時この地は墓地で、すぐ近くまで波がおしよせており、その情景を詠んだものと思われる。塀の左には、下町があった。下町は、船乗りや船大工の集住していた町だったが、明治30年代の数度の津波によって道路や家屋が流失。■美々津■▲消防自動車の格納庫。▲月曜日は、資料館なども休み。▼まちは静かだった。この町は、秋月藩の殿さまが参勤交代の際に、ここから大坂経由で江戸に行ったそうだ。また、廃藩置県の際、数年だけ美々津県の県庁があった。明治初期において、美々津には、宮崎県北部地域の中心地になりうる立地条件が備わっていたことを示しています。■美々津■この後、細島・馬ヶ背を目指す。■日向岬・馬ケ背■日豊海岸国定公園の南端に位置し、柱状節理のリアス式の海岸線は、非常に見応えがあり、そのスケールは福井県の「東尋坊」に勝るとも劣らない。細い道を歩いて行くと▲日本一の高さ70mにも及ぶ、馬ヶ背展望所からの断崖絶壁は、圧巻。▼馬ヶ背の断崖絶壁が属する日向岬の柱状節理は、2018年(平成30年)2月13日に国指定の天然記念物に指定されている。 ▲これほどの柱状節理はなかなか見たことがない。 ◎走行距離:198km ●9931歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.07
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■2021.4/4(日)■霧島神宮■社殿は鹿児島藩主島津吉貴の寄進で、正徳5年(1715年)に建立された。社殿はいずれも朱塗りの華麗なものである。特に本殿は内部も豪華に装飾され、柱、梁、長押などはすべて朱漆塗りとした上に要所を彩色文様や鍍金の飾り金具で装飾し、壁には極彩色の浮き彫りを施した羽目板を配するなど、贅をこらしている。神社建築で、外部だけでなく内部までこのように装飾をこらしたものは珍しく、「西の日光」と言う別名を持つ。もともと霧島山一帯が霧島神宮の境内であったが、明治4年(1871年)の廃藩置県の際に霧島山の頂上に沿って県境が引かれ、宮崎県内は神宮境内から外された。明治15年(1882年)にはさらに7810ヘクタールが削減され、昭和21年(1946年)の日本国憲法制定による宗教法人化で山林の大部分は日本国に譲渡された。その後、祭典行事に必要な789ヘクタールが神宮へ返還されている。■映画、美しい夏キリシマ■の舞台は宮崎県だったので霧島神宮は宮崎県というイメージがあった。■霧島神宮■二の鳥居の表参道を抜けると桜島が臨める展望所に出ます。ここでは「招霊(おがたま)木」と「さざれ石」の2つのパワースポットを見ることができます。売店近くにある「招霊木」は、神霊を招く木として植えられ、昔はこの小枝を使って神事を行っていたと言い伝えられています。一方、「さざれ石」は、岐阜県から奉納された小さな石が集まった国歌「君が代」にも出てくる有名な石。よく見ると、賽銭の下には小石が溶けた石灰岩が集結しています。二の鳥居の右下にひっそりと鎮座しているので、見逃さないで。森の参道を抜けると視界が開け、鮮やかな朱色の社殿が視界いっぱいに現れます。社殿の前庭にある高さ約37m、南九州のスギの先祖ともいわれている樹齢800年の御神木に手を合わせ、パワーをいただきます。次に御神木の裏手にまわって上を見上げ、烏帽子を冠った神職が手を合わせた姿をした木のコブを探してみましょう。▲社殿の左手から裏へまわって旧参道のスギに囲まれた「山神社」へ。坂本龍馬と妻おりょうが参拝したのもこの道。▼さらに階段を上ると、小さな石の祠の山神社がひっそりと祀られています。▲霧島神社の駐車場横にある池、これは温泉だ!!♪花は霧島たばこは国分燃えてあがるは おはらはぁ桜島。霧島といえばキリシマツツジ。 霧島は霧にかくれて赤とんぼ 山頭火▲宿を出た時は、雨がひどくて、車の走行も危ぶまれるような天気だったがなんということでしょう!!雨があがった!!!新緑が目にしみるようにきれいだ!そんな中、高千穂河原(たかちほがわら)に向かう。高千穂河原(たかちほがわら)は、元霧島神宮のあったところ。霧島神宮は、ずーーと昔から同じ所にあったと思っていたのにビックリだ!!高千穂河原(たかちほがわら)は、鹿児島県霧島市に所在する霧島山の中岳と御鉢との谷間にある地名である。 古くは瀬多尾越と呼ばれており、中世にはこの場所に霧島神宮があったが、御鉢の噴火による焼失後の現在は古宮址が残されている。霧島神宮は古くは高千穂峰と御鉢の間の「背門丘(せたお)(背門丘・瀬戸尾)」にあったが、御鉢の噴火によってたびたび焼失したため天暦年間に性空によって高千穂河原に移された。しかしながらここも1234年1月18日(文暦元年12月28日)の御鉢の噴火によって焼失してしまった。霧島神宮は後に別の場所で再建され、高千穂河原には社殿の跡地が残るのみとなった。◎つまり、さっき見てきた華麗なる霧島神社は、788年の噴火まであった本宮と1235年の噴火で焼失した古宮の後にできた3代目というわけだ!よっ、三代目!!と声をかけてあげよう。◎▲今も続く火山活動に避難壕がある。どっか温泉でも入ろうと車で移動していたら、丸尾の滝という滝にであった。丸尾温泉から霧島神宮に向かう国道223号の道沿いにある高さ23メートル、幅16メートルの豪壮華麗な滝です。近くの栄之尾温泉、硫黄谷温泉の温泉水を集めて流れる珍しい「湯の滝」。このあたりは温泉だらけで、坂本龍馬夫婦が新婚旅行に来たという。霧島神宮に参り、温泉で疲れをいやしたのだろう。私たち70代夫婦も温泉でゆったりしたが、私が風邪ひいた・・。喉が痛くて、咳が出る。おまけに、ちょっと熱があるかも・・・。このコロナの時期、風邪ひいたらまずいわ。( ;∀;)翌日、喉の痛みをとる薬(シュシュと喉にスプレーするタイプ)と熱さまシート購入。 ◎走行距離:49km ●7164歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.03
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■2021.4/3(土)(▲落差、低っ!!)7:30~8:00朝食バイキング。9時すぎ、車で出発。朝の天気は、晴れたり曇ったりで、悪くはない。今日泊まるホテルの夕食は無いので、夕食用に、途中で近くのスーパーで、食材を仕入れる。曽木(そぎ)の滝の幅210mは、滝幅で日本一の滝公園へ。「曽木の滝」がある「曽木の滝公園」は、鹿児島県の最北部、宮崎・熊本両県との県境に位置する伊佐市にあり、JR鹿児島中央駅から車で約90分です。九州新幹線の停車駅でもあるJR出水(いずみ)駅からなら車で約40分で行くことができます。■曽木(そぎ)の滝■伊佐市は九州山地に囲まれた盆地になっており、そこを流れる川内(せんだい)川とその支流が一大瀑布・曽木の滝となって「鶴田ダム」に注ぎ込みます。曽木の滝一帯は「曽木の滝公園」としてきれいに整備され、園内に飲食店や土産物屋、レンタサイクルもあるので、多くの観光客で賑わいます。春はサクラやツツジ、秋はイチョウやモミジも楽しめますし、梅雨時季から夏にかけては滝の水量が増すので迫力満点ですよ」 ちなみに、2014年に放送されたNHKの連続テレビ小説『花子とアン』で有名な女流歌人・柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)もこの地を訪れ、歌を詠んだそうで、展望所に歌碑が建てられています。滝幅210メートル、高さ12メートルの壮大なスケールを誇り、「東洋のナイアガラ」とも呼ばれる曽木の滝。千畳岩の岩肌を削るように流れ落ちる水流とその轟音は、訪れる人々を釘付けにするほど豪快。▲島津攻めの帰路、肥後へ向かう途次に豊臣秀吉もその雄大な景観を楽しんだといわれる。この付近は、江戸時代に水運による米の輸送を行っており、その水路を開くために大規模な川浚えを行った歴史があります。またその当時の川浚え唄は今でも伝えられています。この川をどうやって船を通したのだろう・・・。この川を利用して古くから水力発電がおこなわれている。えびの高原に向かうが、いままで曇っていた天気が、だんだん霧雨に代わる。この日の行程を諦めて、早めにホテルに行く。■滝を見に行く。■この日もホテルのお菓子は、「ぼっけもん」。写真、使いまわし(^▽^)/大阪のコロナ感染者総数は、666人と、増加傾向は変わらず。 ◎走行距離:109km ●6363歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.28
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■2021.4/2(金)■出水麓(いずみふもと)■●出水は肥後との国境という地理的環境から、鹿児島藩で最大の麓集落として整備されました。町の整備に尽力したのが、寛永6(1629)年に当地に入った地頭の山田昌厳(しょうがん)で、以後20~30年かけて現在見られる町並みが整えられました。●武家住宅の中には門扉のない石柱門を設けたり、魔除けの石敢當(せっかんとう)を残すものもありました。また、敷地を囲む生垣の代わりに切石積みの石垣とした家もあります。出水麓は石造構造物の豊かな町でもあるのです。●【1】出水はもともと丘陵地帯で、土地を整地したのち道を掘り下げて集落が築かれました。道は大雨の際には排水溝を兼ね、屋敷を守りました。【2】道の両側に腕木門を構えた武家屋敷が並びます。【3】土留めの石垣の上に生垣をつくります。表通りからは中をうかがいにくく、敷地内からは往来が見やすい、防衛に配慮した構造です。●町の南、現在小学校のある場所には、かつて御仮屋がありました。御仮屋とは藩主が領地巡回の折に滞在した施設のこと。現在、入口の門が残っています。その前の道は仮屋馬場といい、馬術などの鍛錬の場として使われました。▲味のある風情の家は、蕎麦屋さんだそうだ。▲囲炉裏▼囲炉裏の横には、逃げることのできる作りになっていた。▼▲家の中で弓の稽古が出来るようにこの部分だけ天井が高くなっていた。 ▲この家の石垣は、石が切られ整然としている。大河ドラマ「西郷どん」でも使われた場所。▼こちらは、川から拾ってきた石で出来た塀。 武家屋敷は、基本的な一区画が900坪になっている。山林=竹林や林に300坪、畑に300坪、屋敷に300坪の900坪。写真は、竹林や林部分。屋敷群のあちこちに西郷隆盛や坂本龍馬ら維新の偉人をかたどったシラス(火山灰)製の砂像を展示。 ■肥後の国の石工、岩永三五郎は、■嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。薩摩藩の内情を知りすぎたので、薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。この出水麓は、薩摩と肥後のさかいの町だ。出水麓(いずみふもと)を出てしばらく行くと、▲特攻碑公園というのがあった。▲歩哨が見張る場所。▲防空壕入り口。ほかに3か所あったが、爆撃により2か所は潰され、2か所残っている。鹿児島は、沖縄に飛び立つ兵隊が多くいたのであちこちに、第二次世界大戦の跡が残っている。 日本の「公害」を紐解く上で、避けて通れないのが熊本県水俣市で起こった「水俣病」の集団発生である。1956(昭和31)年に公式発見されたこの公害は、今も「水俣病」であると認められることを望む患者が後を絶たないなど、60年以上経っても、本当の収束には至っていない。そんな■水俣病資料館■に行った。(▲広大な埋め立て地)汚れた海は、1982~85年に鋼板を設け、90年に埋め立てが完成した。しかし、鋼板の耐用年数は約50年とされていた。熊本県は、腐食の進行が想定より遅いとして少なくとも2050年ごろまで性能を維持できるとしているが、その後の方針は決まっていない。元国立水俣病総合研究センター国際・総合研究部長で、今も水俣で水銀の研究を続ける赤木洋勝さん(75)は、大きな地震で埋め立て地が液状化し、水銀を含む水が地表に噴き出すことを懸念する。「単に水銀を集めて囲っただけの場所。汚染が残ったまま条約の地をアピールするのはちぐはぐだ」と話す。熊本学園大の中地重晴教授(環境化学)は、750億円かければ、埋め立て地の水銀汚泥を掘り起こし浄化することができる、との試算を2014年に発表した。鋼板や護岸はいずれ更新しなければならず、この先、大地震や大津波に襲われるかもしれない。ずっと未来まで鋼板や護岸をつくり続けるのか・・・。水俣病の解決はまだなされていない。◎「会社ゆきさん」という言葉に現在の原発で働く人と重なる。■水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったのか。■■水俣病の発生・症候■ ◎走行距離:72km ●8750歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.27
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■2021.4/1(木)入来麓(いりきふもと)をガイドさんの案内で廻った。薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の行政区画に分けて統治。武士団を鹿児島市内の本城に集結させず、領地内に分散して統治し、その統治の中心を麓と呼びました。入来は、鎌倉時代に地頭職であった関東の渋谷氏がこの地に入り「入来院」と名乗って支配した荘園でした。 昭和4年アメリカのエール大学の教授朝河貫一氏により入来院家に伝わる「入来院家文書」が翻訳され、『入来文書』として刊行されたことによって有名になりました。現在の入来麓武家屋敷の町並みは中世から江戸期にかけて出来たもので、特徴は樋脇川の石を使用した玉石垣とその石垣の上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣。入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡・文化財が残っています。 近世になって整備された街路と地割が旧態をとどめ、屋敷割りもよく残っていて歴史的価値が高いとされています。また現在はほとんどの屋敷跡に民家があり生活感もあります。立派な長屋門などは残っていませんが、門から敷地をのぞくと玄関までの折れ曲がったアプローチや古木、石倉など当時の面影がしのばれます。入来麓は薩摩藩麓の一つで中世の名残を残す町並みとしてよく保存されていることから、2003年12月に鹿児島県では知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群に次いで国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されました。▲分限者(ぶげんしゃ)=金持ちの証、べんがらの壁と壁の隠し釘の飾り▼▲二棟ある家の間には、繋いである部分がある。▼▲繋ぎの部分を家の中から見ると☝のように見える。▲この地区にも「石敢當(せっかんとう)」があった。▲山城への道は、敵が来た時に通れないように細くなっている。♪一夫關に当るや 萬夫も開くなしとはこういうことを言うのだ。ここの郷土資料展示室で■西郷札■を見た!!明治10年の西南戦争の際、熊本で敗れ宮崎に逃れた薩摩軍団が戦費調達のため発行した軍票を西郷札。札の多くは明治政府に没収され、廃棄処分にされたことから現存するものは少なく、通貨コレクターの間では垂涎の的であり、高額で取引される。■西郷札。■より。まさか、ここで見ることが出来るとは・・・。この後、川内原発(せんだいげんぱつ)を見に行った。 ◎走行距離:126km ●7254歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.24
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■2021.3/31(水) この日も黄砂の中を出発。後ろの山は開聞岳(かいもんだけ)。■番所鼻自然公園■東シナ海に浮かぶ日本百名山「薩摩富士」(黄砂で見えない)と岩礁の曲線美数十万年前の火山活動とその後の浸食で形成された天然の岩礁で,自然にできた「海の池」。その中には「竜宮城への入り口」があったと伝説が残ります。干潮時には歩いてぐるっと回れる「海の上のさんぽ道」となりますが,満潮や高波の時は歩くことができませんのでご注意ください。日本地図作成のため全国を実測した伊能忠敬が「天下の絶景」と絶賛した景勝地。伊能忠敬がここ番所鼻を測量で訪れたのは1810年,66歳の頃でした。この地に立つ石碑は,これを記念して昭和31年に建立されたもので,当時の首相・鳩山一郎氏の書による「伊能忠敬先生絶賛の地」と文字が刻まれています。◎「番所鼻」の「鼻」とは岬のこと。一般に、自然地名の「岬」と呼ばれる陸地の突出部は、5万分の1地形図では「崎:1659例、岬:241例、鼻:1055例、崎鼻:145例」と四種類の名をつけて区別されています。「鼻」は西日本に多い。■鼻にまつわるトリビア■「番所鼻」から少し行ったところにある■釜蓋神社■釜の蓋を頭に載せて祈願するユニークな「釜蓋願掛け」や素焼きの釜蓋を投げる「釜蓋投げ」は,勝負事や開運・開拓・厄除け・武運長久にご利益があるとされています。岩礁と海に囲まれた神社の裏「希望の岬」からは,薩摩富士こと開聞岳と夕陽を眺める絶景ビュースポットとして人気です。薩摩富士こと開聞岳は、黄砂で見えない・・・。_| ̄|○▲窯の蓋としゃもじがベンチとテーブルになっている。▲願掛け▼「窯蓋神社」を出て次の目的地へ。カーナビの道案内は、グネグネしている!!ナビの指示どおりに行くと、鹿児島県南さつま市坊津町秋目にある■鑑真記念館■唐の高僧で奈良唐招提寺の開祖である鑑真は、聖武天皇の招きにより日本に渡航しようとしましたが、当時の渡来は困難を極め、5度の渡航失敗や度重なる困難の末、両目を失明しました。天平勝宝5年(753年)ついに上陸を果たし、日本に仏教の戒律や薬学の知識などを伝えました。■万世特攻平和祈念館■は、3月31日まで休館。次の日に行ってみた。■南さつま市・万世特攻平和祈念館■昭和18年夏から19年末にかけて吹上浜に建設されたのが、陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」。この飛行場はわずか4ヶ月しか使われませんでしたが、17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員が“祖国のため”を合言葉に、ここから沖縄の空へと飛び立っていきました。「万世飛行場」跡地に、恒久の平和を祈念するよう建てられたのが当祈念館です。館内には、吹上浜沖から引き揚げられた、日本にただ一機の「零式水上偵察機」や、死を間近に控えた隊員たちが肉親・愛する人達へ宛てた最期のメッセージ、“至純の心”を綴った「血書」、遺品、遺影などを多数展示しています。 ◎走行距離:112km ●5796歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.23
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■2021.3/30(火) ▲(ビフォー)朝、道が現れる前の島。♪海が割れるのよ 道ができるのよ島と陸とが つながるの■珍島(ちんどん)物語■か!!(音が出ます)!!ある季節のある時間になると、指宿の浜から、知林ヶ島に続く道ができる。(アフター!!道が出来た!!)■知林ヶ島は、■鹿児島湾(錦江湾)に浮かぶ、周囲約3km、面積約60ヘクタール、最高点約90mの美しい無人島です。3月から10月にかけての大潮又は中潮の干潮時には、長さ約800mの砂州(砂の道)が出現して陸続きとなり、歩いて渡ることができます。一帯は、霧島屋久国立公園に属している他、知林ヶ島は環境省の「かおり風景100選」にも認定され、多くの方々が砂州を歩いて渡り、潮のかおりを満喫しています。(▲たくさんの人が巡礼のように歩いていた。)知林ヶ島は、鹿児島湾(錦江湾)の入り口に位置しており、東シナ海から鹿児島湾内に侵入してくる温暖な黒潮の流れと、鹿児島湾内を流れて東シナ海に向かうやや冷たい流れのちょうど境目に位置しています。このため、島の南北からの海流がちょうどぶつかりあい、砂れきが海流の境目にたい積することで、知林ヶ島と田良岬の間に、砂州が形成されるものと考えられています。■イギリスの線と・マイケルズ・マウント■も陸と島が繋がる。夫が知林ヶ島にいた方からもらった■目八葵貝(モクハチアオイガイ)■。砂の道にはたくさんの貝殻が落ちています。その中の一つ「目八葵貝(モクハチアオイガイ)」この貝は2つを合わすとハートの形に。。。知林ヶ島に道が出来るのは、昼からなので、その間に出かけた。黄砂で濃霧のようになっている。■「フラワーパークかごしま」■鹿児島県薩摩半島の最南端、長崎鼻の近くに位置する「フラワーパークかごしま」は、天然の松林に囲まれた地形を生かした、世界各地の植物が楽しめる植物公園。36.5haの広大な敷地には、開聞岳を背景とした花広場や、錦江湾を一望できる展望回廊、両サイドに壁がないウインドスルーの屋内庭園、ヨーロッパ風の西洋庭園などがある。▲オオタニワタリ(大谷渡)別名・茶筅シダ。真ん中が茶筅のようになっている。てんぷらやおひたしにして食べることができるそうだ。見るたびに食べたいと思い唾が出る。( ´∀` )次に向かったのは、日本最南端の駅。▲JR西大山▼▲開聞岳が黄砂で・・・。( ;∀;)▼指宿(いぶづき)に行ったら必訪の「砂むし風呂」へ。専用の浴衣を着て砂の上に寝転び、係の人に上から砂をかけてもらい顔以外はすべて埋めてもらう。「10分待って下さい」と言われたけど5分で出た。「砂蒸し風呂」専門の所に行ったけど、宿にもあった。 ◎走行距離:39km ●16627歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.22
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■2021.3/29(月) じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子■知覧麓の武士屋敷を見て回った後、■「富屋食堂」という昔の食堂が「ホタル館」という名前になって残っているのを見た。ここは、昭和17年に軍用となり、10~20代の特攻隊員らが足しげく通った所。■ホタル館 富屋食堂■ホタル館は,第二次世界大戦末期に陸軍の指定食堂だった富屋食堂を,当時の場所に忠実に再現した資料館です。ここでは,息詰まる戦況下で特攻隊員をあたたかく迎え「特攻の母」として慕われた鳥浜トメさんの生涯(2階)と,その特攻隊員とのふれあいの遺品や写真など(1階)を展示しています。今は「ホタル館」という名前がついている。名称は隊員が「ホタルになって帰ってきます」と出撃したことに由来する。そこで私は、冒頭の俳句を思い出した。▲映画「ホタル」の監督・降旗康夫氏の碑▼知覧特攻平和祈念館前。■蛍が成虫になり、■光を放つようになってからの寿命は、1週間から2週間ほどと言われています。闇の中、はかない光を放ちながら周囲を照らし、短い一生を終える蛍は、ただそのためだけにこの世に生まれてきたのだろうか、なんだか損な役回りを持っています。だからこそ、作者は「じゃんけんで負けて」蛍に生まれたと表現しています。 裏を返せば、今ここに在るのは、じゃんけんの勝ち負けのような「偶然」にすぎないことをテーマにしています。「偶然」に誕生した生命というものは、蛍が放つ光のように、いつ消えてもおかしくないほど危なっかしいもの。人として生まれようが、蛍として生まれようが、生き続けることは決して当たり前のことではなく、偶然の連続なのかもしれない…といった命のはかなさと大切さを物語っています。 生きて人生を長らえていれば、夫となり父親になり孫を愛したであろう若者が、何者にもならないうちに死ななければならなかった哀しみ・・・。偶然生まれてきた時代の不運に蛍のような短い人生を「仕方がない」と諦めたのだろうか・・・。この後、■「知覧特攻平和祈念館」■に行った。ここでガイドをしてくれたのは、7歳の時、父親が戦死したという80代後半の男性。父親を亡くし、家計の苦労をしながら大きくなったと話してくれた。その不運が80代半ばを過ぎてもなお戦争の悲哀を訴えていくエネルギーになっているように思った。■「知覧特攻平和祈念館」のまわりは、茶畑が広がっていた。ここ知覧は、お茶で有名。スーパーに寄ってお土産にお茶を購入。この日の宿は指宿(いぶすき)の「国民休暇村指宿」で、連泊する。修学旅行の生徒たちで満員の宿。私たちも、浴場の時間制限などがあったけれど、よかったね、学生諸君。よかったね、宿の皆さん。(南九州市・知覧)この日、大阪のコロナ感染者総数は、215名だった。 ◎走行距離:82km ●11075歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.21
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■2021.3/29(月)♪薩摩京都の名のある知覧浮世忘れた夢の里知覧節という歌があるということは、今回の旅行ではじめて知った。また、歌われた知覧(ちらん)は、特攻隊基地のあったところということしか知らなかった。知覧麓(ちらんふもと)は、南九州市にあって石垣と緑の生垣がる美しい町。麓と呼ばれる外城の武家屋敷群が数多く残っている地区をガイドさんの説明を聞きながら歩いた。■門1■▲家の格によって門の形が違う。▼■門2■▲家の格によって門の形が違う。▼■門3■男性のみ入ることが出来る「男玄関」。▲当時、高価だった紅がらで塗った壁は、分限者(ぶげんしゃ)=金持ちのみが出来たこと。▼武家屋敷群があり、7つの庭園が国の名勝に指定され公開されています。庭園は7つのうち6つが枯山水式庭園(水を使わず砂や石で風景を表現する庭園方式)です。▲水を使った庭園、知覧武家屋敷唯一の池泉様式「森重堅庭園」。名勝に指定された理由のひとつに「琉球の影響」がある。▲石垣の端っこが、上がっているのは、琉球の影響ということだ。▲屋敷の一画に母ヶ岳を借景とする美しく優雅な庭園が造られています。(右の山から生垣に続くライン)▲石垣の右半分は、麓川から拾ってきた石で造り、隣の左半分は、加工した石で造っている。当然、加工した石垣の方が高くつくので、武士の階級が上ということだ。あちこで石敢當(せっかんとう)を見た。■石敢當(せっかんとう)1■■石敢當(せっけんとう)2■平山亮一庭園の玄関のすぐ脇で、細長い手水鉢(ちょうずばち)のようなものを発見!実はこれ、「太刀洗(たちあらい)」といって、血で汚れた刀を洗うための水溜めなんです。▲猪の目。日本古来から伝わる文様で、獣の目力で魔除けの意味。▼金具にも飾り模様として猪の目が使われていた。石敢當(せっかんとう)にしろ、猪の目にしろ、昔の人の平穏無事への願いを感じる。麓川に掛けられた石積アーチ橋の矢櫃橋。大河ドラマ「西郷どん」では、知覧麓で多くの撮影があった。●佐多姓が多いのは、鹿児島が「佐多」姓のはじまりだから。鎌倉時代の文保2年(1318年)3月15日、島津宗家4代当主忠宗の三男・忠光が大隅国の佐多(現・鹿児島県南大隅町)を与えられたことにより、「佐多氏」を称したのが始まりである。忠光はさらに、文和2年(1358年)に足利尊氏により薩摩国知覧(現・鹿児島県南九州市知覧町)を与えられている。■薩摩の小京都:知覧麓(ちらんふもと)■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.19
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■2021.3/28(日)▲城山公園展望台より鹿児島市内をのぞむ。天気予報通り、朝から、雨が降り続き午前中の城山地区のガイドはキャンセルになったので午前中は自分たちだけで廻った。鹿児島県歴史資料館(黎明館)をみたが、薩摩ステューデントのことなどが良くわかって、よかった。午後からは、雨は、ほぼ上がり、ひいおじいさんが西南戦争に参加したというガイドさんの案内で、西郷隆盛の生家跡の加治屋町を廻った。▲宿で何回か出された「ぼっけもん」西郷のお菓子。「ぼっけもん」とは、大胆な人、乱暴な者を意味する鹿児島弁。 「ぼっけえ」という方言が岡山にあるが、「すごく。とても。」という意味。大阪では、「ぼっこな」という言い方がある。今では死語になっているような言葉だが・・・。西郷隆盛の生家跡・左は川。■郷中(ごじゅう)教育■小稚児(こちご、6-10歳)長稚児(おせちご、11-15歳)二才(にせ、15-25歳)長老(おせんし、妻帯した先輩)の4つのグループに編成したもの。■「おせ」■という言葉は、「おとな」という意味で、鳥取、兵庫、愛媛、岡山でも使われる。▲大山巌は、お互いに、戦った身という間を乗り越え▼捨松と結婚する。捨松は、幼い頃にアメリカに留学し、日本語がたどたどしかったので、二人があった時は、フランス語で会話していたという。捨松という名前は本名ではなく、彼女がアメリカに行く際、母親が「お前のことは、捨てて待つ」といって付けた名前。「田原坂(たばるざか)」♪雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ 田原坂右手(めて)に血刀左手(ゆんで)に手綱、馬上豊かな 美少年「田原坂」のモデルは、村田新八だそうだ。大久保利通像は、彼の生家を向いて立っている。鹿児島市内を案内してくれたガイドさんが「鹿児島市には、古い建物が残っていないでしょう?沢山、戦争をしましたから・・・」と言った。●薩英戦争生麦事件が原因で起きたイギリスと薩摩藩の戦争。 ●廃仏毀釈 廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。 ●西南戦争政府軍と西郷軍の戦。●太平洋戦争甲突川は、ドラマで西郷隆盛が魚を捕っていた川だ。▲九州では、「佐多岬(さたみさき)」と「さだ」と濁らないが、ここでも「はまさき」とにごらない。▲広い道のことを「馬場」といい細い道を「小路(しゅっ)」という。「猫の薬師小路(ねこんくそしゅっ)」▲上の地図の縦の茶色い線が「猫の薬師小路(ねこんくそしゅっ)」天を敬い人を愛すること。「敬天愛人」という西郷隆盛の書から町で見かけた高校の看板。▼「けいあい幼稚園」▲この歌は、子どもの頃、よく歌った。鹿児島中央駅に向かう途中で見た、素敵ビル!!調べたら、「日本瓦斯本社ビル」で1931(昭和6)年建築。アールデコ様式だ。設計は「様式建築の名手」と異名を持つ渡辺節(わたなべせつ)。 ◎14km ●12313歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.17
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■2021.3.27(土)午前中は■「かごでん」■で鹿児島市内を見た後、石橋記念公園・石橋記念館に向かった。■石橋記念公園・石橋記念館■鹿児島市の中心を流れる甲突川には、江戸末期、肥後の名石工「岩永三五郎」指導のもと建造された5つのアーチ石橋(玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋)が架けられていました。なかでも「西田橋」は、城下の表玄関として豪華に建造され、あの「篤姫」もお輿入れの時渡ったといわれます。約150年の間現役の橋として県民に親しまれてきましたが、1993年8月6日の集中豪雨により、2橋が流失してしまいました。残った「西田橋」など3橋を移設・復元し、併せて石橋の架橋技術や当時の歴史をわかりやすく伝える「石橋記念館」を整備した公園です。橋下の「水の流れ」では、安心・安全で「古き良き時代」の川遊び体験ができます。また「水遊びスポット」、子どもたちの学習の場、観光や憩いの場所として親しまれています。隣接する祇園之洲公園には三五郎像や、世界近代化遺産候補の薩英戦争(祇園之洲)砲台跡などもあり、石橋記念公園とともに憩いのスポットとなっています。■「岩永三五郎■石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後国に返した。最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。同地には現在でも墓が存在する。▲鹿児島市では、丸に十の字をよく見る。(公園にて)♪見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー 帆が見えた♪竹にスズメは 仙台さんの御紋 丸に十の字は オハラハー 薩摩様■福岡県八女の石橋■ 石橋公園を見た後、 「西郷(せご)どん」のロケ地にもなった『仙巌園(別名:磯庭園)』へ。ここは、ボランティアガイドさんに説明を聞きながら歩いた。薩摩藩主、島津家の別邸として築かれました。2015年には「明治日本の産業革命遺産」として園一帯が世界文化遺産に登録されています。別邸ですが、一時、29代・島津忠義の頃には、本邸として使用され、「迎賓館」の役割も兼ねていました。御殿の様子から、この地を700年もの間治めてきた島津家の栄華、当時の暮らしぶりに触れることができます。錦江湾と桜島が借景の庭園とはスケールがでかい!!▲日本初のガス灯実験仙巌園にある鶴の姿の灯籠。▲獅子乗大石灯籠。近くのスタバでお茶。ここも丸に十の字。スターバックスコーヒー 鹿児島仙巌園店レトロな白い洋館の建物で、実は歴史的にも貴重。島津家ゆかりの登録有形文化財「旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所」をリノベーションした建物なんです。仙巌園から歩いて、『異人館』へ仙巌園から、徒歩数分の所に『異人館(旧鹿児島紡績所技師館)』があります。こちらも足をのばして訪れてみたい場所です。異人館(旧鹿児島紡績所技師館)『異人館』もまた、レトロモダンな雰囲気を楽しめる建物。日本で初期の洋風木造建築で、海外の雰囲気漂うコロニアル様式。建築好きさんにはたまりませんね。ちなみに、なぜ“異人”の館なのか――。それは幕末、鹿児島紡績工場がこの地につくられ、その操業を指導するイギリス人技師の宿舎であったからだそうですよ。 ◎28km ●11512歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.16
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■2021.3.27(土)6:00起床。桜島が噴煙を上げているのを、ホテルの宿泊者から教えてもらい、びっくりする。ホテルのフロントから、昨夜、深夜に爆発音があったと聞いた。噴火の規模については、大規模なものから小規模なものまで様々であるが、 固形物が噴出場所から水平若しくは垂直距離概ね 100~300m の範囲を超すものを噴火として記録する。2020年の噴火回数は221回。車から、北上する噴煙を上げるヤマを見ながら、桜島フェリーターミナルへ。15分おきに出るフェリーの、7:45出発の便に乗り、8:00鹿児島港フェリーターミナルに到着。鹿児島中央駅前から10時発の観光レトロ電車「かごでん」に乗る。(土日祝日のみ運行。)鹿児島市電運行100周年を記念して運行が開始した、大正時代から昭和30年代まで運行していた木製電車をイメージした観光レトロ電車「かごでん」に乗る。車内ではボランティアガイドによる観光案内を聞くことができます。1.土曜日、日曜日、祝日は、10:00※鹿児島中央駅前では、出発時間の15分前から整理券を配布いたします。■観光レトロ電車「かごでん」HP■鹿児島中央駅から生まれた約35,000平方メートルの市電の芝生軌道、緑のじゅうたんは、ヒートアイランド現象の緩和や延線騒音の低減をはじめ、都市景観の向上、うるおいと安らぎの空間の創出に大きく寄与しています。砕石の上に透水シートおよび保水シートを敷き、その上に火山噴出物の一種であるシラスを原材料として使用した保水性の高いブロックを置き、それを包み込むように緑化土壌を敷きならしたもの。維持管理軌道敷内の芝生を効率的に維持管理するため、廃車となった車輛を改造した芝生軌道用芝刈等装置(芝刈・散水電車)を開発し、平成22年度より運行しています。「かごでん」出発の鹿児島中央駅前には、立派な銅像がある。■薩摩スチューデント、西へ■坂本龍馬が西郷隆盛と歴史的対面を果たしていた幕末、若き侍たちが荒れ狂う波涛の海を命をかけて渡った。薩摩藩の命で西を目指したのは俊英十五人と秘密使節四人の十九人。海外列強の前に日本の将来を按じた薩摩藩は、新しい時代を担う者を育てるべく彼らを海外に派遣した。海外渡航禁止の時代、まさにその行為は命がけであった。当時、まだスエズ運河は工事中で、運河の部分は陸路で行った。薩摩スチューデントの中には、五代友厚もいたが、鹿児島ではあまり知られていない存在だった。 ところが朝ドラ「あさが来た」でおでぃーん(ディーン・フジオカ)様が演じた五代で一躍有名になったそうだ。(次の日のガイド氏談。)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.14
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■2021.3.26(金)鹿児島県・大隅半島から桜島へ。♪燃えて上がるは オハラハー 桜島 (ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)♪この地去っても 夢路に通う 磯の浜風 オハラハー 桜島<鹿児島おはら節・唄ばやし>♪♪道端大根 引かずばどすかい 好いたすさまの 袖引かずばどすかい桜島は、鹿児島県を代表するスポットだ。1914年(大正3年)の噴火により、桜島は、大隅半島とくっついた!もはや、島ではなくなったのだ!■有村溶岩展望所■有村地区の大正溶岩原の直中に設けられた展望台が「有村溶岩展望所」。ここではゴツゴツとした溶岩による奇観を見ることができます。溶岩原の上に繁殖したクロマツも必見。自然が織りなす非日常的な雰囲気を楽しみましょう。そして、目の前に広がる桜島南岳も堪能。(灰がたまって靴の形が残っている。)ただし、風向きによっては降灰を浴びることもあるので注意してくださいね。(注)火山の噴火後、真っ先に生えるのが、イタドリだそうだ。イタドリの根の張り方が、溶岩を壊して、他の植物が生えることが出来るのだそうだ。▲有名な■平野国臣の歌■「有村溶岩展望所」を降りて「黒神埋没鳥居」を観に行く。■黒神埋没鳥居■桜島で起こった大正時代の大噴火のすごさを伝えるシンボルのひとつが、「黒神埋没鳥居」。もともと3mあった鳥居なのですが、噴火による火山灰で鳥居が埋没してしまい、先端の笠木部分しか見ることができません。わずか1日の火山灰でこのような姿になったのですから驚きです。鳥居の先には腹五社神社の社殿もありますよ。隣には、奇跡的に生き残ったアコウの老樹がひっそりとたたずんでいます。<基本情報>住所:鹿児島市黒神町(黒神中学校横)■湯の平展望所■「湯之平展望所」は標高373m、登山が禁止されている桜島で一般の人が行ける最高標高地点。御岳(北岳)の西側斜面4合目に位置し、眼前に御岳の勇壮な山容を望めます。展望所の一角には記念撮影ポイントが設けられていますから、桜島御岳を背景に記念写真を撮っておきましょう。<基本情報>住所:鹿児島市桜島小池町1025中 午後から、ボランティアガイドと合流。■松本清張小説「西郷札」■ガイドさんに「西郷札」はどこに行ったら見られますか?」と聞いてみた。鹿児島に来たら、西南戦争に軍用金として発行された「西郷札」をみたいと思っていたのだ。ガイドさんは、分からないと答えた。西郷札を見ることは出来ないのか・・・。_| ̄|○ガイドさんの案内で「月読神社」に行った。「月読神社」は、桜島の地名の語源となった「このはなさくや姫」を祀ってある。元は、違う場所にあったが、大正3年(1914年)の噴火で神社は埋まりここに移されたそうだ。▲世界一大きい桜島大根を見た!▲桜島で食事をしたら皿に桜島大根の絵が!!街路樹に椿。椿油で島おこしをするのだそうだ。椿は、噴火の灰に強いという。そういえば、「アンコ椿は恋の花」の大島も火山の島だ!!▲島のファミリーマートの看板は、茶色。だから桜島では、ファミリーマートを「ふぁみま」と言わないで「ちゃみま」というそうだ。最後にガイドさんが案内してくれたのは、100mの足湯。■「桜島」溶岩なぎさ公園足湯 ■全長約100m!活火山の麓にある日本最大級の足湯 桜島フェリーターミナルから徒歩8分の海辺にある「桜島」溶岩なぎさ公園。公園内には全長約100mと日本最大級の足湯があり、地下1,000mより湧出する天然温泉は、赤褐色の湯となっています。<基本情報>住所:鹿児島市桜島横山町1722-3電話番号:099-298-5111(観光交流センター) ◎81Km ●10273歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.13
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■2021年3月25日志布志港から車で鹿屋に。■海上自衛隊鹿屋航空基地史料館■海軍鹿屋航空隊が開隊してから現在の海上自衛隊鹿屋航空隊基地に至るまでの歴史をを紹介する資料館に。敷地に入ると軍用ヘリコプターや飛行艇・飛行機が館前の芝生公園に展示されています。その後、佐多岬を目指す。■佐多岬公園■ 北緯31度線上に位置する本土最南端の岬。インドのニューデリーやエジプトのカイロなどと同じ北緯31度線上。南端の断崖から50m沖の大輪島に日本最古の灯台の1つ「佐多岬灯台」。この灯台はイギリス人の設計で明治4年完成後、昭和20年の空襲で焼失。昭和25年復旧し現在にいたります。また 霧島錦江湾国立公園に含まれ、天気が良ければ屋久島や種子島を望むこともできます。北緯31度線モニュメントは高さ4.7m、幅5m、奥行き3m。正面には、「31°LINE SATA」「本土最南端 佐多岬」の文字と北緯31度線が引かれている世界地図が刻まれています。佐多岬にある「御崎神社」は縁結びの神様として人気があります。佐多岬は、「さたみさき」と読む。決して「さだみさき」ではない。九州は、基本、濁らないのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.12
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■2021年3月24日(水)2021年3月24日(水)から4月9日までの17日間、大阪港からフェリーで南九州に行ってきた。九州へは、過去にも2回行ったことがあるがいずれもフェリーを利用。■2015年 別府港に着き、そこから九州の中央部分を旅した。■■2018年 門司港から九州北部旅行。■今回は、■太平洋を通る航路。■さんふらわー 17:55 発 翌朝 08:55 着。今回は、和室だった。過去のフェリー泊(ブログに記載のみ。)■2007年 フェリーで四国に渡り、しまなみ海道に。■■2015年 別府港に着き、そこから九州の中央部分を旅した。■■2015年 ノルウェイのオスロから北欧 デンマーク・コペンハーゲンへ■■2018年 門司港から九州北部旅行。■■2019年 ギリシャ・アテネからクレタ島へ■■2020年 門司港着→山口県と津和野(島根県)を廻る。■▲■湖水地方のフェリー。■▲イギリス・ストラトフォード・アポン・エイヴォン▼フェリーのトリビアフェリーといえば、車を積む大きな船と思いがちだけど、昨年、イギリスの■ストラトフォード・アポン・エイヴォン■で小さな川に「フェリー」の文字が・・・。フェリー(英語: ferry)とは、日常の交通手段として使われる(観光客専用ではない)客船・貨客船の事である。英語では渡し船やフェリーなど含めてferryであるが、日本語では渡し船とフェリーは明確に区分される。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.10
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■2020.11.29(日)■100年の時を超え大正ロマンあふれる門司港駅が復活!■駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定された門司港駅。老朽化への対応や耐震補強を行うため、2012年に保存修理工事が始まり、翌2013年から、駅舎を素屋根(囲い)で覆っての解体・修理・補強・組み立て工事が行われました。約6年の歳月を経たその工事も2019年に完了。大正時代の創建時の姿が甦りました。[注]現役の駅舎で国の重要文化財に指定されているのは、現在、門司港駅と東京駅の2つだけです。門司港駅の保存修理工事は、創建時(大正3年)の姿に復原することを基本方針としました。外壁は石貼り風にモルタルを塗り、屋根には天然の石盤をふきました。また、失われた屋根まわりの飾りを復原し、昭和4年に設置された正面車寄せのひさしは取り除いています。なお、正面の大時計は大正7年に取り付けられたものですが、その歴史的価値から残すこととなりました。▲旧一等二等待合室。▲旧一等二等の待合室説明と▼一等2等待合室の暖炉。▲旧三等待合室。入り口が美しい▼こちらも暖炉がついている。旧三等待合室は、スターバックスカフェになっている。2階には、貴賓室がある。天井は、最も格式の高い天井様式、格天井(ごうてんじょう)。2階にあるレストランで、お茶をした。高い!!( ;∀;)その後、5時発のフェリーに乗り、夕食のバイキング、風呂・・・。瀬戸内は波静かなり秋夕焼(ゆやけ) はるな翌朝まだ暗いうちに大阪港に着いた。●24km ●8136歩■「「Go To キャンペーン」を利用して旅行に行ってきた。■今回の山口行は、出発前から、(コロナ禍の第3派)の拡大が、ジワジワと報道され始めていて、不安な旅立ちでもあった。旅の経過とともに、輪をかけたコロナ感染者拡大の情報が、テレビに溢れかえり・・・ほとんど感染者の出たことのなかった山口県でも、岩国市でクラスターが発生するなど、緊張感も感じていたが・・・危惧したことは、起きなかったのは、幸運だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.29
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■2020.11.29(日)下関市の港の近くにレトロな建物がある。そのひとつ、旧秋田商会ビルに行った。■旧秋田商会ビル■1905(明治38)年に設立された秋田商会は、木材業や海運業を手がける会社として、下関の発展の牽引役となりました。同ビルは1915(大正4)年の竣工。その大きな特徴は、屋上に庭園を備えていることです。鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階には建物の約3分の2を占める広い事務室と応接室、小室、階段室が設けられました。事務所が洋風の建築である一方、2・3階の住居には書院造が取り入れられていて、和洋折衷のユニークな造りが特徴です。なんといっても珍しいのは、屋上に茶室のような離れ座敷があること。建物の周囲には樹木を植え、今から100年以上も前に屋上庭園をつくっていたのです。また2・3階の書院造は重厚さがあり素晴らしく、3階は大広間が設けられています。さらに最新鋭の設備も随所に取り入れられました。和風のシャンデリアを自在に上げ下げできる装置、トイレや浴室の華やかなタイル、料理や荷物を運べる小型のエレベーター(ダムウエーター)などを見ると、秋田氏に“新しいもの好き”な一面があったことが伺えます。ダムウエーターは屋上まで届くように設置されているので、屋上から景色を見渡しながらたびたび宴会を開催していたようです。屋上へのらせん階段。使用禁止になっている。▲屋上の緑は植え込み。▼茶室も造っている。▲凝ったデザインの玄関。▲裏口は、パリのメトロでみかけるアールデコ風の飾りがついている。埋め立て前は、このあたりまで海があった。この建物の丸い屋根の部分は、灯台として使われていたそうだ。▲旧秋田商会ビルの隣の建物は、郵便局。同社の創業者・秋田寅之介夫は、港のすぐ前にビルを構えることで、当時中国などの連絡に重きを置いていた。そして、郵便局の近くにビルを置くことで郵便で全国の様子をいち早く知り商売に生かした。■下関南部(なべ)郵便局■旧秋田商会ビルの向かい側に建つ「下関南部(なべ)町郵便局」は、現役の郵便局舎としては日本最古の建物です。明治33(1900)年に建てられ、平成13(2001)年に国の登録有形文化財に登録されました。レンガ造りのしっかりしたたたずまいと、落ち着いた色調が素敵な建物です。現役の郵便局である一方、中庭にはカフェがある。。▲正面の丸ポストも現役。なんと、旧赤間関局の郵便用具職人が丸ポストの生みの親というからさらにびっくり。金子みすゞは、下関に住んでいたので、この郵便局から雑誌社に詩を送ったのではないだろうか。旧秋田商会ビルから道を隔てて旧英国領事館もある。地図で「唐戸」というのが沢山あるが、かつて唐の船が行き交っていた名残りだろうか。かつては、この近くに下関駅があって、九州への連絡船に乗り換える人で賑わっていた。もちろん、汽車に乗って商売人が来たので、秋田商会は、この地にビルを作ったわけだ。海底トンネルを通って、福岡県へ。■山口県のおすすめスポット■■下関は戦いのまちだった。■■平家を弔う赤間神社と松本清張の文学碑■■下関ふく物語■■絶景・角島大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.28
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■2020.11.28(土)この日は、下関市の長府という歴史のある地区に行って、ガイドさんと1時間ほど町を廻った。(☚横枕小路)■下関市にある城下町・長府は、■大化の改新後に長門国に国府が置かれ、「長府」と呼ばれるようになったと『日本書紀』にも記されている歴史ある町です。●このように「府」がつく地名は、歴史的に中心地であった。それなにに「府」を嫌って「都」にしたいといっていた大阪維新の会って歴史を学べと言いたい。平成25年度には「都市景観大賞」で大賞(国土交通大臣賞)も受賞した美しい町並み。■長府観光■城下町として知られる長府のなかで、その面影をもっとも残す通り。散策していると、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような雰囲気に浸ることができます。合戦に備えた配慮がされており、武家屋敷の土塀は防壁として築かれているほか、路地はT字になった部分が多く迷路のように作られています。●横枕小路●武家屋敷が建つ古江小路と並んで、歴史を感じさせる通りが横枕小路です。学問の神様としても有名な「乃木神社」の横を東西に抜ける細道で、道幅が狭いため車は通行できません。長府を代表する練塀(ねりべい)と呼ばれる塀が続く道は樹葉に覆われており、まるで江戸時代へと繋がるタイムトンネルのよう。▲長府中学校門から毛利邸へ抜ける高低のある通りを「切り通し」と呼び古江小路とともに練塀の多くある地域です。▼▲あっちも▼こっちも絵になる風景・・・。長府はもっと取り上げられるべき町だと思う。功山寺近くにも絵になる風景が・・・。●功山寺●維新回天の旗揚げが行われた寺。鎌倉期創建の禅寺で長府毛利家の菩提寺。幕末に高杉晋作が維新回天の旗揚げをした場所として知られる。純唐様建築の美しさを保つ無彩色の仏殿は国宝に指定されている。●長府毛利邸●1903年に、長府毛利家の第14代当主・毛利元敏公によって建てられた邸宅。明治天皇もご宿泊され、一部の部屋は当時のまま残されています。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園が魅力で、新緑や紅葉の季節になると一段と見ごたえを増します。四季折々の山野草が生けられた母屋では、セルフサービスの緑茶で一息つくことができます。城下町・長府のほぼ中心に位置しているため、散策途中の休憩に最適です。●乃木神社●明治天皇の崩御の際に殉死した軍人・乃木希典(のぎまれすけ)を、文武両道の神として祀る神社。1920年1月30日に創建され、学問の神様としても知られています。(▲「乃木の誉」というお酒)1859年に長府に転居した彼は、西郷隆盛による西南の役で官軍として参戦するなど、多くの武功をあげました。▲乃木家の井戸と碑▼境内には、彼が幼少時代に育った家が復元されているほか、夫婦の銅像も建てられています。▲ 乃木さんが休めをして小鳥来る ガイドさんの知人の句古い町の中を「壇具川」という川が流れている。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う「壇ノ浦」裏は近いが、壇ノ浦と壇具川になにかゆかりがあるのだろうか?左に関門大橋を見ながらこの日の宿へ向かう。▲宿からの眺め。●69Km ●7919歩■山口県のおすすめスポット■■下関は戦いのまちだった。■■平家を弔う赤間神社と松本清張の文学碑■■下関ふく物語■■絶景・角島大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.27
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■2020.11.27山口市から美祢市に行って秋芳洞と秋吉台を見る。■秋芳洞■は、山口県の中央部・美祢市にあります。周囲は「秋吉台」と呼ばれるカルスト台地で、数々の洞窟や鍾乳洞があり、その中で一番大きい観光洞窟が「秋芳洞」。その規模は東洋でも屈指と言われ、観光洞では日本一の規模を誇っています。昭和天皇がまだ東宮だったころにご訪問され、それをきっかけに宮内庁が「秋芳洞」と命名され、今に至っているそうです。10kmほどもある洞内のうち、1kmほどのコースを様々な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が彩っているようすを見学することができます。秋芳洞から秋吉台まで車で移動。広大な秋吉台をガイドさんの案内で1時間コースのカルスト台地を歩いた。■秋吉台■秋吉台(あきよしだい)は、美祢市の中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。1955年に国定公園(秋吉台国定公園)に、1964年に特別天然記念物に指定されています。▲草木が生えていないのは、毎年野焼きをするから。野焼きをしないと左の中のように木が生えて森になるという。雨水が石灰岩の割れ目に沿って集中的に地下に浸透する過程で周囲の石灰岩を溶かすため、地表にはドリーネ(doline: 擂鉢穴・落込穴; 語源はスロベニア語の谷、米語ではほかにsinkhole)と呼ぶすり鉢型の窪地が多数形成される。ドリーネでは、野菜などが作られるがこれを「ドリーネ耕作」という。(▲ドリーネ耕作の跡。)明治・大正時代になると、秋吉台上にたくさんあるドリーネの底は、農業に利用されるようになり、ドリーネを耕すことからドリーネ耕作と呼ばれた。昭和20年代の後半までは、ドリーネの積極的な利用がありましたが、合理的な現代農業の発展で、生産性の低い秋吉台のドリーネ耕作は衰退の一途をたどり、現在ではほとんど見ることができなくなっています。■ドリーネ耕作■ ドリーネ耕作は水はけが良くゴボウやサトイモの栽培に適した場所。だからこのあたりは、ゴボウ料理が名物だそうだ。秋吉台の中の道を通って、「別府弁天池」。■「別府弁天池」は、■全国的にも有名な景勝地である秋吉台や秋芳洞の麓、別府厳島神社の境内にひっそりと佇む湧水。環境庁が指定する“日本名水百選”にも選ばれています。南国の海のようなコバルトブルーとか、宝石のようなエメラルドグリーンとも呼ばれる美しさ!その神秘的な色合いに、思わず誰もが見入ってしまうに違いありません。その美しさをカメラに収めようと、多くの人がスマホを持って撮影しています。何故青いの?この青さの秘密は、石灰岩で構成されたこの地特有のカルスト地形にあります。「別府弁天池」では、カルシウム分を含んだ透明度の高い水が湧き出ています。その湧水が太陽光に照らされ、青色の光のみが反射することにより、このような神秘的なブルーに見えます。池が最も美しく見える天候は、光が反射しやすい晴れです。しかし時間帯によっては池に木の影が不要に映り込みすぎるので、薄曇りの天候も良いです。風は強過ぎず無風状態の方が、池の表面が波立たず、より美しく見えます。湧水を飲むことも出来、専用の給水所も設置されています。「1杯飲めば1年、2杯飲めば2年長生き」と長寿が保たれ、財宝が授かるとも言い伝えられるパワースポットでもあります。▲宿の窓から見た、山口市の景色。この日も山口市に泊まる(連泊)。●89Km ●12602歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.25
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■2020.11.26(木)■下松市・笠戸島■から山口市にやってきた。五重塔などがある香山公園の前のインフォメーションセンターでガイドさんと待ち合わせして公園の中を案内してもらった。山口市は山口県のほぼ中央に位置し、豊かな自然や歴史が共存する文化都市です。室町時代に大内弘世がここ山口市を大内氏の本拠としたことで発展し、その後の大内義興・義隆の頃には西国一の大名として栄華を極めました。また幕末には萩市から山口市に藩庁が移され、明治維新の中心的役割を果たします。維新の志士や文化人も入浴した「湯田温泉」。穏やかな瀬戸内海、癒しの森。山口市には歴史遺産や自然が数多く残り、観光都市としての発展も期待されています。■国宝 瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔■全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。ちなみに、日本三名塔の他2基は、奈良県の法隆寺と京都府の醍醐寺にある五重塔です。▲「雪吊り」は積雪で木の枝が折れるのを守るための対策。▼■枕流亭(ちんりゅうてい)■香山公園内にあります。幕末薩長連合を推進するために、慶応3年(1867)9月薩摩藩の重臣小松帯刀、西郷隆盛らが続々と山口にやってきました。当時道場門前にあった安部半助方の枕流亭の2階で会見し、盟約がなって、幕府を倒す連合討幕軍の結成を誓いました。枕流亭は、その後2、3度移築され、近年修理されてこの地に移されました。 「沈流」とは、「漱石沈流」のうちの半分の言葉。■夏目漱石■漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。▲グレイヘアが素敵な人(左)発見!!!●香山墓地(毛利家墓所)幕末の藩主、毛利本家の歴代諸霊のお墓があります。(15代毛利元昭・夫人美佐子/13代毛利敬親・夫人妙子/14代毛利元徳・夫人安子)●鴬張りの石畳通路に立ち石段に向かって手を叩くとあら不思議、美しい音が反響します。●雪舟像水墨画家、雪舟の銅像があります。雪舟は明において禅学・画技を収めて帰国後、応仁の乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護のもと、山口天花にある「雲谷庵」を拠点に過ごしました。この香山公園から車で少し行ったところに、■雪舟と重森三玲の庭■を見ることができる寺がある。■常栄寺 雪舟庭■庭園は、今から約500年前、妙喜寺の時代に、大内政弘が別荘として、画僧雪舟に築庭させたものと伝えられ、現在国の史跡及び名勝に指定されています。庭園は本堂の北面にあり、内庭は約30アールの広さで、東、西、北の三方が山林となっています。近年この山林も指定地域に含まれました。本堂南側には重森三玲(しげもりみれい)による枯山水庭園が作られている。本堂南側には、昭和43年に重森三玲(72歳)によって作庭された「南溟庭(なんめいてい)」がある。雪舟より良い庭園を造られては困るというころで、「上手に下手な庭を造ってもらいたい」と依頼された。庭園は雪舟が中国へ往復した海をイメージしたとされ、石はX字状に配置し有機的に線で結ばれる。(▲雪舟筆塚など)室町時代の作庭家・雪舟と、昭和の作庭家・重森三玲の両庭園を一度に観賞できる夢のような日本庭園。●88Km ●7476歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.23
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■2020.11.26(木)夕べ泊まったところは、山口県下松市笠戸島。今日は、これから山口市に行く。が、その前に、笠戸島をちょっと見ていこう。★笠戸島は下松市の南海上に位置し、大島半島とともに笠戸湾を形づくっている。入り江が多く、古くから良港として知られていたことから平清盛が厳島神社を宮島に置くかこの笠戸島に置くか悩んだという話も残されている。★江戸時代には徳山湾や笠戸湾は毛利藩の三白政策(米・塩・紙)により積荷を運ぶ船で賑わいを見せ、笠戸島の入り江にも風待ち・潮待ちの船が並んだ。笠戸島から見る瀬戸内海の島々の間に沈む夕日の美しさは、西日本有数の名所として知られています。瀬戸内海国立公園にある笠戸島は、「七浦七岬」と呼ばれる変化にとんだ海岸線と豊かな自然に恵まれた島。■笠戸島の浦地名■●本浦(ほんうら)●東風浦(こちうら)●垰ノ浦(たおのうら)●大浦●深浦●小深浦●江の浦●沖浦■笠戸島の岬地名■(鼻、埼を含む。)●瀬戸岬●鎌石岬●はなぐり岬●小城(こじょう)岬●大城(おおじょう)岬●火振岬(ひびりみさき)●赤鼻●カツネ埼■写真:はなぐりの地名■「はなぐり海岸」というところに着た時、夫が「はなぐりって何?」と私に聞いた。「はなぐりというのは、牛の鼻にあけた穴のこと」と私。「でもなんで、ここを『はなぐり海岸』言うんやろう?」と夫。「きっと、この辺りの岩に穴があいていて、それをはなぐりに見立てたんと違う?」と私。帰って調べたら、私の推理が当たっていた!!▲本当にはなぐりのような奇岩があったのだ。 その他、島の下に「火振岬(ひぶりみさき)」という名前の岬がある。この岬から火を振って通信の狼煙をあげていたのではないだろうか。 また、「垰ノ浦(たおのうら)」という地名も珍しい。「垰(たお)」とは、峠のこと。■峠は、中国地方で垰あるいは乢とも書き、■「たお」「とう」「たわ」「たわげ」などと呼ぶ地方があり、地名などにも見られる(岡山県久米南町安ケ乢など)。子どもの頃住んでいた岡山県にも「垰」とかいて「たわ」と読む地名があった。ここ笠戸島も中国地方なので「たお」なのか。ここは、この島の峠なのかも・・・と考えるのが楽しい。■笠戸島のある下松市(くだまつ)の地名は、■七星降臨伝説。はるか昔、この地の松に大星が降ったことから「星が降(くだ)った松」が「下松(くだまつ)」になったという伝説が残っている。■笠戸島■地名の由来「広島県宮島町(厳島)の明神が笠を置いた」という伝説があることから。海の上を歩く海上遊歩道を歩いていくと・・・。魚!!ヒラメの供養塔だそうだ。ここ笠戸島では、ヒラメの養殖が盛んで、昨日の宿の夕食はヒラメのお刺身が出た。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.21
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■2020.11.25(水)岩国市の宇野千代の生家を後に、柳井市に向かった。柳井市でも観光ガイドさんに市内を案内してもらった。■柳井市は■山口県の南東部、岩国市と徳山市の中間にある、南北32km、東西20kmの小都市です。古くは室町時代から、柳井川の河口に開けた港を中心に港町として栄え、江戸時代には、西日本一帯を交易圏とする山陽道屈指の商都にまでなった歴史があります。当時の栄華を今に伝える、土蔵造りの建物が多数現存しており、「白壁の町並み」として、市民や観光客から親しまれているほか、今も四国松山とはフェリー航路で結ばれているなど、「港町・柳井」は健在です。江戸時代に「岩国藩のお納戸」と言われていた、当時の商家や町家が残る約200mにわたる白壁の町並みをゆったり散策。当時の豪商の屋敷「商家博物館むろやの園」や重要文化財の「国森家住宅」、「国木田独歩旧宅」など見どころがいっぱい。柳井白壁の町並みは約200mくらいが歴史的建造物群保存地区ですが、路地に入って柳井川の方へ行っても、とても良い雰囲気です。白壁の町並みの軒先には金魚ちょうちんが飾られて独特の風情です。(▲ガイドさんの制服にも金魚。)柳井はあまり観光地化していないので、観光客向けの店などは比較的少ないと思いますが、現在もこの街に暮らす住民の努力で、町並みを守り続けていることは素晴らしいと思います。中には通りの白壁だけを残して、内部に自宅を構えるなど、町並み保存の為の苦労が伺えます。白壁ふれあい広場 → しらかべ学遊館 → やない西蔵 → 甘露醤油資料館(佐川醤油蔵)→ 重要文化財 国森家住宅(有料)月曜休館 → 町並み資料館 →商家博物館 むろやの園(有料)水曜日休館 → 柳と井戸(湘江庵)→ 帰路(同じ道を戻ります)→ 白壁ふれあい広場(観光バス駐車場)■柳井ガイド2時間コース■▲軒先の金魚のちょうちん。▲柳井の地名の元になった場所。▼(▲屋根の渦巻きのマークは水を表し、火災を防ぎたいという思いがあらわされている。)■元禄の大火■元禄期(1700年頃)から70年の間に、柳井の町は100軒以上の家屋を焼失する大火に4回みまわれています。(▲💗マークは、「猪の目」という意味で魔除け。■猪の目■)特に明和5年(1768)の大火では、古市、金屋町などの180軒が焼失しており、これを契機として町のあちこちに火伏地蔵や愛宕権現が建立されます。宝来橋のたもとにある愛宕権現もこの頃のものと思われます。(▲防水用・消火用水の蓋)▲「消」という字は、消火用の井戸が二掘あるという意味。▲この町には珍しい洋館が残っていた。■柳井・瀬戸内の海運が造った白壁の町並み■笠戸大橋を渡って、笠戸島へ。笠戸島にある国民宿舎から見える夕日がきれいだった。▲ヒラメの刺身。●71Km ●6021歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.18
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■2020.11.25(水)「宇野千代生家」 は明治期の建物で、1974年 (昭和49年) には宇野千代本人により、ほぼ昔のままに修復されました。約300坪の敷地内の広い庭には千代の好んだモミジが多数植えられ、新緑や紅葉は格別の美しさです。また小説「薄墨の桜」のモデルになった、岐阜県根尾村(現、本巣市)の樹齢1500年の老樹「薄墨桜」に由来する「薄墨桜」3本が春を彩ります。2007年 (平成19年) には国の登録有形文化財に指定され、現在、NPO法人「宇野千代生家」により一般公開されています。生家の前の道路は旧街道 (山陽道) で、狭くカーブが多い道です。宇野千代がなんで有名かというと、何度も結婚離婚を繰り返したこと、しかも有名人と、ではないだろうか?■尾崎士郎■1926年(大正15年) - 尾崎士郎と正式に結婚。千代と尾崎士郎は、大森新井宿の下宿屋など大森近郊を転々としたあと、東京府荏原郡馬込町1578番地に居を構えた。大正12年5月のことである。馬込での最初の家は、百姓家の不要になった納屋。二、三年経って、隣地の丘に10坪ほどの赤い洋館を建てた。尾崎を慕って集まる客は多く、文学談義にふけりつつ酒が入ると唄になる。千代はそれを聞きながら嫌な顔ひとつ見せずに酒食のもてなしに励んだのである。吉屋信子が洋館を見て、金ピカのベッドを千代に贈ったという。■梶井基次郎■1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。宇野千代は「報知新聞」に、昭和4年12月21日から翌5年5月22日まで150回にわたって、足立源一郎の挿画で新聞小説『罌粟はなぜ紅い』を連載した。千代は尾崎士郎との別居生活の中、昭和4年10月から12月にかけて、妹の勝子とともに神戸にいたのだが、大阪住まいの梶井基次郎とはその折に何度か会っている。小説の題名は、千代から相談を受けた梶井がつけたのだという。小説中にガス中毒の場面がある。■東郷青児■1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚。千代はその写実をより深めようと、当時情死未遂事件で騒がれた東郷青児の許を訪れるのだが、そのまま同棲することになった。昭和5年のことであり、二人はその翌年、東京世田谷の借地に「コルビジェ風」の洋館を建てて新しい生活を始めたのである。昭和6年5月、千代の短編を集め、青児が装幀し挿絵を描いた豪華限定本『大人の絵本』が白水社から刊行された。■東郷青児ゆかりの「喫茶ソワレ」■■北原武夫■宇野千代と北原武夫は昭和14年4月1日、画家の藤田嗣治と作家の吉屋信子の媒酌で結婚し、帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。このとき千代42歳、北原32歳であった。招待状を受け取った人の中には「エイプリル・フールじゃないのか」「どうせ直ぐ別れるよ」などと言うものもおり、騒がしかった。▲原稿を書いたといわれる机。■NHK美の壺にも出たという。■▲「ソロバン橋ひいふうみい」とあるのが、ソロバン橋とは錦帯橋のこと。錦帯橋を作り替えた時、橋に使用していた材を市民に販売した。▼の腰掛もその時の材を利用したもの。紅葉の美しい広い庭は、京都を旅行した際に感銘を受けた庭を参考に作ったという。庭の中には、仏の像もある。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.16
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■2020.11.24(火)■島根県・津和野■から山口県・岩国に。岩国といえば、錦帯橋。錦帯橋の近くの待ち合わせの河原の駐車場に行きガイドさんの案内で市内を廻った。■錦帯橋は■国指定の名勝であり、日本を代表する木造橋です。延宝元(1673)年、岩国3代領主の吉川広嘉(きっかわひろよし)が現在の橋の原型となる木造橋を架けましたが、錦川の洪水によりすぐに流失しました。しかし、改良を加えて翌延宝2(1674)年に再建された橋は、昭和25(1950)年9月の台風29号(キジア台風)による洪水で流失するまでの276年間威容を保ちました。流失後、市民の強い要望により、昭和28(1953)年に再度、木の橋として再建されました。平成14(2002)年からは、劣化した木造部分を架け替える「平成の架け替え事業」も行い、平成16(2004)年3月、さらに檜の装いを新たに完成しました。木造部分の掛け替えは、旧錦帯橋でも江戸時代からほぼ橋大工の代替わりで行われていた定期的な伝統事業です。橋の長さは、橋面に沿って210メートル、直線で 193.3メートル、幅は5メートル、橋台の高さは6.6メートル。巻きガネとカスガイを使った「木組みの技法」で造られています。反り橋の構造は精巧かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ちどころがないと言われています。春は桜、夏は鵜飼いや花火の夜景、秋は城山の自然林の紅葉、冬は雪化粧と、「錦」の名の通り、四季折々の色彩豊かな景観が楽しめます。■錦帯橋■【名前の由来】創建当時は「錦帯橋」という名は付いていなかった 「大橋」と呼ばれることが多く、吉川広嘉が幕府から名前の記載を求められた際にも「岩国大橋」と書いたと言われています。他にも「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」など、複数の呼び名がありました。「錦帯橋」という呼び名が広まったのは、安永年間(1772~1780)頃で、公式名称に認定されたのは、明治維新後のことです。橋げたを置くために、しっかりした石を置いている。石が動かないように、とめているがこれは、■「ちきり」とか「ちきりしめ」という。■と富山県を旅行した時に聞いた。▲錦帯橋と岩国城。ゴンドラに乗って、城山に行く。吉香公園前の山麓駅から、標高約200メートルの城山の尾根の山頂駅までを約3分で結びます。吉香公園、錦川と錦帯橋、旧城下町から、遠くは岩国錦帯橋空港、瀬戸内海の島々までの眺望が楽しめます。移動中は定員30名のゴンドラ内で、音声ガイドで簡単に岩国の歴史を紹介しています■岩国城は、■初代岩国領主吉川広家(きっかわひろいえ)によって慶長13(1608)年に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山に位置していました。三層四階の桃山風南蛮造りでしたが、築城後7年で一国一城制により取り壊されました。現在の天守は、昭和37(1962)年に再建されたものです。桃山南蛮造りの天守閣内に、錦帯橋の精密模型、写真、武具や甲冑などを展示しています。天守閣は展望台になっていて、岩国市街の眺望を楽しむことができます。天守閣からは吉香公園、城下町、錦帯橋から岩国市内一面、岩国航空基地、岩国錦帯橋空港、瀬戸内海の島々や四国、宮島までが一望できます。■大釣井(おおつるい)■歩いて行くと、途中にこのような大きな井戸が出てきた。大釣井(おおつるい)という井戸で築城と同時に築かれ、非常時における武器弾薬の保管の他に脱出口の役目もあったと伝えられている。「城と井戸と抜け穴」という取り合わせはどこでも共通のものだ。▲古い邸宅もあって▼▲錦帯橋だけでなく、水と緑の広い公園が町中にあるのも岩国の魅力だ。▼●120Km ●7979歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.13
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■2020.11.23(月祝)2時に津和野駅で観光ガイドさんと待ち合わせ。案内してもらって約2時間、津和野の町を歩いた。津和野町(つわのちょう)は、島根県の南西に位置する町。山間の小さな盆地に広がる町並みは小京都の代表格として知られている。また毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。(▲あちこちつわぶきをみた。堀の中にもつわぶきが植えられていた。)島根県の南西部、山口県との県境に位置する津和野町は、「つわぶきの生い茂る野」がその地名のいわれと伝えられています。鎌倉時代末期に津和野盆地を一望する霊亀山(れいきさん)に城が築かれると、山陰と山陽を結ぶ街道の要衝となり、江戸時代には和紙を中心とする産業で栄えました。まずは駅から徒歩10分ほどの旧武家屋敷や旧藩校が並ぶ「殿町通り」へ。(▲マンホールのふたも鯉とつわぶき。)この通り沿いにある堀割(用水路)を泳ぐ鯉は、津和野の代名詞的な光景です。江戸時代の初め、津和野藩初代藩主・坂崎直盛によって建設された堀割で、水路に発生する蚊の幼虫を駆除するために、疫病対策として鯉が泳がされたのだそうです。■殿町通り■なまこ壁や白い土塀など、江戸時代の風情を感じさせる建物が残っている殿町通り。川から引き込んだ水が流れる掘割には、たくさんの錦鯉が泳いでいます。5~6月には掘割に花菖蒲が咲き、夜間のライトアップも行われて幻想的な雰囲気に変わります。(▲今に残る古い屋敷▼屋根は石州瓦で葺かれている。)■石州瓦(せきしゅうがわら)は、■島根県の石見地方で生産されている粘土瓦のこと。三州瓦、淡路瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。独特の赤褐色で知られ、赤い屋根の町並みや集落を山陰地方では至るところで見ることができる。この色は、同じ島根県の出雲地方で産出される含鉄土石「来待石」を釉薬に使用することに起因する。(▲「鯉の米屋」。家の中に水路があって鯉が泳いでいた。▼)(▲昔、この水路の水を利用して、水車を廻し、米を搗いていたそうだ。)(町のシンボルは、鯉で、タクシーも、「KOIKOIタクシー」で「鯉鯉」。)(▲川べりの広場にある鷺舞の像。)本来は、カササギであったが京都ではカササギは飛来してこないため、その存在を知らず、鷺(さぎ)の一種であろうと笠を被った白鷺をカササギに見立てたものとされている。(▲鷺舞の近くの柳のある風景。川辺の柳は絵になる。)「この景色、いいですね~。」と私。 「『男はつらいよ。』の山田洋次監督も、ここが気に入られていましたよ。」とガイド氏。 ●93Km ●9819歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.11
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■2020.11.23(月・祝日)■乙女峠 マリア聖堂■島根県津和野町は、山陰の小京都と呼ばれる風光明媚な美しい町です。森鴎外の故郷であり、安野光雅美術館、津和野城跡、SLやまぐち号、銘菓「源氏巻」など沢山の名所や名物があります。そんな歴史・文化の宝庫津和野に、幕末から明治にかけキリシタンの迫害の歴史があったことをご存知ですか?津和野駅の裏手の乙女峠に、キリシタン殉教史跡であるマリア聖堂がひっそりと木々に囲まれ佇んでいます。津和野町のキリシタン殉教史跡「乙女峠」は、峠ではありません。駐車場に車を停めてから、確かに軽くせせらぎが脇を流れる坂道を登ります。ちょっと軽めのトレッキングかハイキングといった感じでしょうか・・。峠でもないのに、なぜ「乙女峠」なんでしょうか? 実は、島根県出身で、長崎に投下された原爆が原因で亡くなった医学博士永井隆氏の絶筆『乙女峠』が由来と言われています。『乙女峠』は、慶応3(1867)年「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件で、津和野に配流されたキリシタン守山甚三郎等の物語です。この乙女峠は、春の桜が美しいと言われています。毎年5月3日には、「乙女峠まつり」が開催されます。津和野の城下町にある津和野カトリック教会から約2km離れた乙女峠まで、聖母マリア像を中心に信者の方々の行列が続くそうです。現在は跡形もありませんが、弾圧があった当時、そこには廃寺となった光琳寺がありました。この光琳寺がキリシタンの収容施設となりました。浦上四番崩れで弾圧され、流罪になったキリシタンはおよそ3400人と言われています。信徒の中心人物を最初は114名、津和野、萩、福山に移送されることが決まりました。配流はその後も続き、鹿児島や名古屋など20カ所が流刑地に選ばれました。最終的に津和野へは153名が流刑されたのです。キリシタンたちは、流刑地で厳しい拷問を受けました。津和野に流刑されたキリシタンのうち37名が命を落としました。(▲ステンドグラスには、拷問が描かれている。)▲萩でも多くの信者が命を落とした。この時代、森鴎外は、津和野にいたのだが、この事件には、まったく触れていないそうだ。■萩でもキリスト教徒の悲しい歴史が・・・。■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.09
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■2020.11.23■太鼓谷稲成神社■太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されておりましたが、廃藩後は広く一般庶民も参拝できるようになりました。■太鼓谷稲成神社HP■「太皷谷稲成神社」の“太皷谷”は、津和野城の城山の一角で江戸時代には時刻を知らせる太鼓(太皷)が鳴り響いた谷間であることから名付けられました。(▲■本宮(もとみや)■)また津和野城の東北、陰陽道の鬼門に位置し、古くから神聖な場所とされていました。朱色の“千本鳥居”を通り抜けて、石段を上がりきると、正面に“神門”右手に“手水舎”。左手側には、山陰の小京都と呼ばれる津和野の眺望が広がります。津和野川や山口線の線路、津和野の町並みの一つの特徴である赤味を帯びたオレンジ色の屋根が、その景観をグッと引き締めています。島根県内の神社では“出雲大社”に続いて参拝者数が多い津和野の「太皷谷稲成神社」。歴史と伝統のある情緒豊かな津和野の景観も一望出来ます。また反対に“千本鳥居”や各社殿を、津和野の町から眺めるのもオススメです。赤や白の幟が立てられていた。その中の1本は、農産物品評会。▲普通の3倍くらいあるブロッコリー。▼色がきれいなジャガイモなどが展示してあった。この後、津和野城跡に登った。■リフトで登る城跡■太皷谷稲成神社へ車で上る途中に、津和野城跡へいくことができる津和野城跡観光リフトがあります。津和野城址へは徒歩でも登れますが、やはりそこは城塞だっただけあって、簡単に攻め入ることができなかった当時を咸じずにはいられないような急勾配で、大人で40分くらいかかります。そんな時に便利なこのリフト。スキー場のリフトのように高速ではないので、まわりの景色をゆっくりと楽しむことができます。手すりにつかまって後ろを振り返れば、津和野の赤い瓦の町並みとが広がり、目の前には「青野山」。最近の乗り物では味わえない開放感とちょっぴりのスリルを楽しんでくださいね。■津和野城跡■標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城跡で、津和野の町を展望するのに最適の場所です。城跡の石垣が朝霧に浮かぶ姿は、まるで「天空の城」です。紅葉の時期もおすすめです。太皷谷稲成神社の参道からリフトを降りて徒歩20分で頂上に到達します。現在は建造物は何もありませんが、石垣はほぼ完全な形で保存されており、石組の堅固さ雄大さは比類のないものです。吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間の後は、明治維新まで亀井氏が11代225年にわたり城主として 在城しました。貞享3年(1686)に落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体されました。▲途中までこんな道があるので歩きやすかった。なだらかな青野山の山すそに広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望でき、さだまさしの「案山子」の風景だ。この城跡からのイメージで作詞したという。「案山子」 さだまさし♪元気でいるか 街には慣れたか友達出来たか 寂しかないか お金はあるか今度いつ帰る城跡から見下せば 蒼く細い河橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突この町を綿菓子に染め抜いた雪が消えればお前がここを出てから初めての春(略)山の麓煙吐いて列車が走る凩が雑木林を転げ落ちて来る銀色の毛布つけた田圃にぽつり置き去られて雪をかぶった 案山子がひとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.08
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■2020.11.22(日)明治の文豪・森鴎外の生誕地、島根県津和野町に建つ資料館のそばの生家。資料館には、『舞姫』や『高瀬舟』を始め、多くの作品を著した森鴎外ゆかりの品々や、直筆原稿など貴重な資料が一般公開されている。軍医と文学者というふたつの人生を生きた鴎外の、10歳の上京から60歳で生涯を閉じるまでを豊富な資料で紹介するほか、多感な時期を過ごした津和野時代を振り返る構成になっている。■鴎外は■藩医家の嫡男として、幼いころから論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。鉄道のなかった時代、江戸時代と同じに、津和野から瀬戸内海の地方まで歩いていき、そこから船で大阪まで。そこから歩くというコース。または、◎山口県瀬戸内海の町から船で神戸に。神戸、横浜間は、郵便汽船に便乗して横浜へ。横浜から東京は、汽車。というてがあったようだ。■西郷札より。■◎島根県の南西に位置する町、津和野から参勤交代で江戸へ行く場合。一行は周防(今の山口)に出て船に乗る。瀬戸内海を家紋をつけた帆をはらませ、海上百七十里を走って大坂の川口に着く。伏見までは川船、ここから京都、大津・・・と東海道を下った。三月半ばに出立して、江戸に着いたのは四月初めだった。江戸時代の交通。■白梅の香:松本清張■■父の帽子■ 次に行ったのは、津和野が生んだ画家、安野光雅美術館。■安野光雅美術館■ 国際アンデルセン賞を受賞した津和野町出身の画家・安野光雅の作品を収納する美術館です。 2つある展示室では、絵本だけでなく風景画や本の装丁、ポスター、エッセイなど幅広い分野で活躍する安野光雅の作品を約120点展示しています。美術館では、安野さんの自宅アトリエ(再現)やプラネタリウムのほか、昭和初期の小学校教室を再現した「昔の教室」や図書室があります。 なおプラネタリウムでは安野さんがふるさと津和野に対する思いを語っており、上映プログラムでは、津和野の四季折々の星座や安野さんの絵本「天動説の絵本」を鑑賞する事が出来ます。安野光雅美術館は、SLのある津和野駅の前。この日も、津和野駅はSLの到着に賑わっていた。津和野駅の開業は、1922年(大正11年)と遅い。駅の辺りは田んぼで、駅を作るために地上げをした。そのため、駅のあたりがちょっと高くなっているそうだ。●89Km ●7006歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.07
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■2020.11.22■山口県萩から■島根県・津和野へ。この日は、山口県から、島根県・津和野市にある堀家に行った。津和野というとよく山口県と間違われるのだそうだが、島根県の南西に位置する町。れっきとした、島根県だ。昔から萩、津和野は行き来していたのか、津和野、萩行間のバスも出ている。堀家は代々、鉱山経営を家業としてきた家である。江戸時代には大森銀山代官の下で、笹ヶ谷を中心とした天領を支配し、地元の笹ヶ谷鉱山をはじめ近隣の鉱山の多くを経営した。長い白壁の続く壮大な屋敷は天明8年(1788)、本邸の門は享保18年(1733)の建築である。庭園は鉱山王と呼ばれた十五代堀藤十郎が、明治30年(1897)庭師を大阪から招いて作庭したものである。裏山である緑山を借景として取り入れ、池を中心に石灯籠、庭石が見事な配置の妙をみせている。また、池泉の護岸石組や岩島などは、明治期のものとしては技術的にすぐれたものである。イロハカエデを主体とする植栽も見事なもので、紅葉のころは麓から山頂まで3段階に分かれて色が変わる三段染めが見られる。全体の構成は明治の自然主義的意匠となっており、旧家の山荘の庭園にふさわしい落ちついた雰囲気がよく出ている。■しまね観光ナビ■▲堀家にて。▼堀家の後、行ったのが、畑迫病院。▲■【畑迫病院とは・・・】■▼畑迫病院は明治25年(1892)、畑迫村の実業家堀礼造によって創設された私立病院で昭和59年(1984)に閉院しました。畑迫病院跡は堀氏関連の重要な福祉医療施設の遺跡であり、その敷地は近代病院造園の遺構として貴重であることから、 平成17年(2005)に国指定名勝旧堀氏庭園の一部として文化財指定され、平成28年(2016)11月旧畑迫病院として開館しました。 畑迫病院を利用し"医食同源”をテーマとしたレストラン「糧(かて)」がある。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.04
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■2020.11.21(土)山口県の萩市街地は、橋本川と阿武川によって形成されたデルタ地帯。すぐそばには日本海もあることから水に囲まれた「水の都」と呼ばれている。■萩百景遊覧船■萩城跡そばにある水路を「萩八景遊覧船」に乗って水上散歩。城下町のシンボルとも言える白壁も、いつもと違う角度で見たら新鮮です。萩八景遊覧船は、そんな水の都・萩を水の上から堪能できる遊覧船です。スタート地点は、萩城跡のそばにある指月橋。萩城跡の水路を通過すると、橋本川に差し掛かります。松並木をくぐるようにしながら先へ進みます。思った以上に大きな橋本川。船と出会う。かつては、このあたりは、渡し舟が出ていたという、案内があった。お城の石垣を見ながら船は進む。堤防があり、ここを出ると日本海だ。(萩にて)今回の旅行で、是非、確認したいと思うことがあった。それは、2018年の九州旅行でみた■長崎カトリック浦上教会■で知ったことだった。(▲萩にて・「殉教ス」の文字が)浦上教会の境内の一角には、浦上四番崩れの際に山口県萩市に配流された信徒らが正座させられて棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。(■長崎にある拷問石■花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。拷問石の上には太めの茎で編んだ葦簀(よしず)が敷かれ、その上に信徒が座らせられて拷問、説諭を受けた。(▲萩にて)拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年にカトリック萩教会に譲渡された。という話を知ったからだ。(萩にて)そんな悲しいことがあったなんてと思いながらも長崎のキリスト教徒たちが、拷問を受けたのは、萩のどのあたりだったのだろうかと思っていた。これを知ることが、「聞いた話」から、「本当にあった話」になると思ったのだ。(萩にて)キリシタンの迫害は、江戸時代と思いきや、明治になっても大掛かりに行われていたのがよく分かった。(萩にて)(萩にて)▲藩校 明倫館▼■山口県のおすすめスポット■■萩:夏ミカンと浜崎地区の御船蔵■■吉田松陰と萩の町並み■3連休で萩の宿はなかなか取れなかった。やっととれたところは、大浴場なし、素泊まり、エレベーターなし・・・。コロナ禍とはいえ、「Go To キャンペーン」もあって観光地は混雑している。●14Km ●6782歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.02
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■2020.11.21(土)この日は、朝早く起きて、ガイドさんと待ち合わせている松陰神社へ。9:30分からガイドスタート。松陰神社内には、有名な「松下村塾」があった。幕末の指導者を指導した吉田松陰は、30(満29)歳という若さで処刑されているが、彼の弟子たちが幕末、明治を指導した。■ロザンの部屋■で、宇治原氏は、日本で一番尊敬する歴史上の人物に吉田松陰をあげている。その理由が、深いい~~!!!ちなみに■第一位は、毛利元就。■その理由もこれまた、深いい~~!!「吉田松陰て満29歳で死去したのに、肖像画が60歳くらいに見えるのはなんでなん」という動画のコメントがあるが、当時は、少し老けて描くのがお約束だったそうだ。(ガイドさん)松陰神社を後に、ガイドさんの車に乗せてもらい、少し離れた山の中腹にある、松陰の生家跡へ。総理大臣時に小泉純一郎が ここに訪ねてきたことがある。「こんにちは、小泉純一郎です。松陰先生いらっしゃいますか。」とこの敷地の入り口にあたるところでパフォーマンスをしたそうだ。生家跡の近くには、一族のお墓が。☟松陰の墓もボランティアが守っている。この後、ガイドさんの車で萩の古い町並みに戻る。インスタ映えする、萩の町、ってインスタやってないんですけど・・・。ぴえん。夏ミカンの枝が見える塀が続いている。コスプレ、ちゃう、和装の若い人もあちこちに。古い町並みの萩には、着物姿の若者が似合う。萩で吉田松陰の次に人気があるのは、26歳で病死した高杉晋作。 西へ行く 人を慕いて東行く心の底を神ぞ知るらん 東行西行法師を尊敬していた高杉晋作は、みずからを、「東行」と名乗った。 おもしろきこともなき世を面白く 東行下の句は、功山寺挙兵の際に、高杉晋作を匿っていた福岡の勤王女流歌人・野村望東尼が付け加えた歌とされいる。コロナでなかったら、観光客がすごいんだろうな・・・。 あちこちに萩焼の店を見た。■一楽二萩三唐津■歴史の中で茶の湯と特に深い関係を築いてきた焼き物があります。茶の湯の中心で、茶人の間でも存在感を放っていた焼き物です。茶道の世界では、古くから茶人の抹茶茶碗の好みの順位、もしくは格付けとして「一楽二萩三唐津(いちらく にはぎ さんからつ)」と言われてきました。これは、1位: 楽焼 (京都)2位: 萩焼 (山口県萩市)3位: 唐津焼 (佐賀県唐津市)を意味します。 萩焼は1604年に藩主・毛利輝元の命で、慶長の役の際、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)・李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされ、400年以上の歴史があります。■2020年11月20日 萩の夏ミカンと浜崎(はまさき)地区の萩藩御船蔵■■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.12.29
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■2020.11.20(金)■青海島(おおみじま)■の後、萩に行った。萩のあちこちに見える、古い屋敷と塀越しの夏蜜柑のは、いとおかし。■萩の夏ミカン■毛利藩の政治経済の中心地として栄えた萩でしたが、1863年風雲急変を告げる幕末の政治事情から藩主は萩から山口に移り、藩経済に依存していた萩は侍の流出により大打撃を受けました。そして新政府樹立後の士族の給禄奉還が萩の経済的陥没に追い討ちをかけ、やがて明治9年の萩の乱が勃発することとなりました。萩の乱は首謀者の前原一誠の逮捕で鎮圧されましたが、萩の政治的、経済的打撃と萩士族の失意ははかり知れないものがあったようです。 このようなとき、新政府の要職を歴任した小幡高政が母親の看病の為、小倉県令の職を辞し萩に帰り、廃屋同然となった広大な萩の土地に生気を取り戻すため、夏みかんを栽植しようと発想しました。そして明治9年種子を蒔き、翌明治10年苗木10,000本を接木し、明治11年苗木を士族に頒布しました。史料によると小幡高政の言葉として「明治9年、夏橙ヲ萩ノ物産トスルコトヲ主唱シ、同志を募リテソノ栽培ヲ奨励ス。ソノ団結ヲ耐久社トイフ。」とあります。山口県のガードレールが黄色いのは、夏蜜柑色にしているからだそうだ。ガイドさんの制服が黄色なのも、このせいなのか、聞くのを忘れた。萩の古い建物が残る「浜崎地区」に向かった。(▲萩藩御船倉。)「浜崎」は、「はまさき」と濁らない。山崎など、濁るのと濁らない読み方があるが、これは、兵庫県・姫路市くらいから西が濁らないのだそうだ。(NHKの「日本人のお名前」)。そういえば、姫路の西、龍野市の少し山奥に入ったところに「山崎」という地区があるが、「やまさき」と言っていた。ガイドさんの案内でまず行ったのが、萩藩御船倉。ここは、昔、お殿様の船をしまっていた倉との事。殿さまは、ここから船に乗って行ってたそうだ。藩主の御座船を格納した場所。現在船倉は一棟しかないが、天保年間(1830~44)の「八江萩名所図画」では四棟が描かれている。明治初年と昭和25年に取り壊された。今では陸地に倉庫のように建っているが、元々倉の中まで水を引いて、大型船が自由に出入り出来た。■萩市浜崎(はまさき)■浜崎は萩城築城以前から漁村であり、海上交易の中継点であったと思われる。城下町成立後は漁港でであるとともに、商港として萩城下の海に開かれた玄関口となった。浜崎新丁は毛利氏の萩入城以後新たに開かれた地で、元禄元年(1688)から同5年の間に開かれたと云われる。1652年に浜崎の商人が商売のために大坂に向かった時のこと。その途中で難風に遭い住吉宮を勧進すると祈ったところその商人は助かった。帰国後、この話を申し出ると勧進が許可され、この地に住吉神社が建てられたとのことだ。住吉神社の鳥居の前に、井上剣花坊の川柳が!!この人は、萩の人だったのか。■道頓堀の雨に別れて以来なり■という、川柳の明治、大正、昭和史を読んだが、剣花坊の名前は何回も出てきた。また、まだ作家ではなく、川柳を愉しんでいた吉川英治とも知り合いだったそうだ。萩の市内から少し離れた所の高台にある、萩反射炉跡に行ってきた。●58Km ●10266歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.12.28
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■2020.11.20(金)仙崎港から鯨の形の遊覧船に乗った。仙崎周辺、特に仙崎の向かいの青海島(おおみじま)は、かつては、鯨漁が盛んだった。金子みすゞにも鯨をうたったものがある。船の中でアナウンスを聞きながら、窓から奇岩を見る。1時間で港に帰り、仙崎の目と鼻の先の「青海島(おおみじま)」に橋を渡って行った。この島は、捕鯨の島だった。ガイドさんの案内で、「長門くじら資料館」を見、島を歩いた。島の「通(かよい)」地区は、その地形から、鯨を追い込むのに適していて、かつては鯨漁で大いに賑わっていたようだ。古式捕鯨では、「鯨一頭捕れば七浦うるおう」といったが、金子みすゞの時代はもう終わっていたようだ。みすゞの詩の一節に、「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」とある。くじら資料館のうしろ、小高い山手に 鯨墓があった。そこには、捕るつもりのなかった、鯨の胎児や子ども鯨の墓だという説明だった。 ◎鯨法会◎ 鯨法会は春のくれ、 海に飛魚採れるころ。 浜のお寺で鳴る鐘が、 ゆれて水面をわたるとき、 村の漁師が羽織着て、 浜のお寺へいそぐとき、 沖で鯨の子がひとり、 その鳴る鐘をききながら、 死んだ父さま、母さまを、 こいし、こいしと泣いてます。 海のおもてを、鐘の音は、 海のどこまで、ひびくやら。島の「通(かよい)」地区に金子みすゞの父親が生まれたというところがあった。彼は、ここで生まれ、仙崎で本屋をやっていた。■仙崎・金子みすゞのふるさと■父は、みすゞが3歳の時に亡くなったが、仙崎からこちらの親族の家に遊びに来ていたという。▲「かたばみ」と「鯨法会」いう詩は、下のお寺がモデルといわれている。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.12.19
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