おじん0523のヒロ散歩

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2020.05.03
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カテゴリ: 東海道53次
護念山心光寺(矢印)を出て旧東海道を進む。


3/21(土) 7:41
曳山蔵「天神町」


最盛期には約30基が巡行したが、現在は16基


正面上に「東海道五十三次 水口宿」の看板
右下に「天神町」の石柱


天神町から路地に入り南下して「水口城跡」へ向かう


飛び出し坊やならぬ飛び出し足軽?


西水口交差点の角にある『藤栄(ふじさか)神社』



藤栄神社
所在地:滋賀県甲賀市水口町梅が丘2-26


つぼみも膨らみ赤みを帯びてきた桜


彼岸桜
・バラ科
・「暑さ寒さも彼岸まで」
   少し寒さがやわらいでくる3月中旬頃から、ソメイヨシノなどの桜に先がけて咲く。
・長野県高遠町で大規模に植栽されている。
・彼岸桜の別名  「小彼岸(こひがん)」、「小彼岸桜(こひがんざくら)」


つぼみも膨らみ開花


ズームアップ



当社は旧水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明を祭神に文政12年(1829)藩によっ
て創建され、近世は嘉明大明神社と呼ばれた。当社には豊臣秀吉より拝領と伝えられる刀剣や、 
高麗鞍など旧藩主家伝来の遺宝が数多く伝えられ、水口藩政時代を知る上で重要である。なお、
社号標石は領界標石を転用したもので巌谷一六の書


右側の石柱は「天満宮??」



鳥居があるので藤栄神社への参道か


水口中央公民館前にある「甲賀市市民憲章」。
甲賀市誕生:平成16年(2004)10月1日 5町が合併して誕生した。
        水口町・土山町・甲賀町・甲南町・信楽町


7:50
水口城跡
所在地:滋賀県甲賀市水口町本丸4-80


駐車場の案内だが、今回は歩いてきているので


お城の北東方向から、桜が咲いていたら最高であったのだが


史跡 水口城跡


滋賀県指定史跡『水口城跡 【別名・碧水城】』
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに街並が形成されていましたが、
天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展をみせまし
た。関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そし
て家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています


水口城本丸平面図  -将軍家宿館時代-
寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。こ
れが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりま
した。城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられまし
た。その建物構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものでした


その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和2年(1682)には加藤明友が
入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。
維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和
47年(1972)滋賀県の史跡に指定されました。平成3年(1991)出丸の部分に矢倉が復元され、
「水口城資料館」として開館いたしました


城門に「臨時休館のお知らせ」
新型コロナウイルス感染拡大防止のため3月24日(火)までの間、休館とさせていただきます。
現在でも休館中


隅櫓の南東方向から


つぼみはまだ固く


登城して記念スタンプをもらいたかったが。
また残念ながら水口城は、何故か日本百名城、続日本百名城に認定されていない


食堂の窓に貼られていたポスター


水口の「名物かんぴょう」
当時は多くの農家でかんぴょうが作られ、青空の下、白いかんぴょうが干される風景は初夏の
風物詩となっていました。水口のかんぴょうは「東海道五十三次・水口」に描かれたことから
全国に知られるようになったといわれています


8:01
旧東海道へ戻る「小坂町」


旧東海道江戸方は前方(北側)で、京へはここを左方向へ進む


先程の角の北側にある神社
所在地:滋賀県甲賀市水口町城内5-1


8:03
旧東海道はこの先を右へ進む、弥次さんが石碑を撮影


前方は江戸方面
小坂町にある「水口石」
東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られ
た大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、
巨大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった


8:05
旧東海道の南側に『吉富大明神』
所在地:滋賀県甲賀市水口町城内6-6
敷地内に『百間長屋跡』の看板


北邸(きたやしき)町に百間長屋がありました。百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約
180メートル)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。南側(郭内)に玄関が
あり、東海道に面した北側は出入り口がなく、町場とは自由に往来ができませんでした。これは
敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。長屋には往来に向って小
さな高窓があり、これを与力窓といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来す
る物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらってそれを
引き上げる方法で買い物をしました。明治初期の絵地図によると21軒が明記されています


街道の北側に『浄土宗 真徳寺』
所在地:滋賀県甲賀市水口町城内3-22


街道脇に立っている案内板


真徳寺 表門
この門は、もと水口城内に所在した家臣屋敷の長屋門を移したものである。
石高80~60石程度の中士の格式をあらわすもので、一部に改造が見られるものの、旧城下に残る
数少ない遺構である


真徳寺表門


真徳寺表門
当寺の表門は、もと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築したもの
である。寺院の表門に改めた際、かなりの手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷
遺構の一つとして貴重である。なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巌谷一六
の先祖の墓碑が伝えられる


本堂の扁額


山門を入り右側にある太鼓


同山門の左側に地蔵堂



                                水口宿~石部宿ー続く





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最終更新日  2020.05.03 03:00:04
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