おじん0523のヒロ散歩

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2020.05.13
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カテゴリ: 東海道53次


所在地:滋賀県湖南市石部中央2丁目1-2
歌川広重の保永堂版「石部」


3/21(土) 13:30
交差点の角には広場がありいろんな説明板が立っていた


石部宿 石部城跡
亨禄年間(1528~1531)に築城され、城主は石部久綱。佐々木承禎と織田信長の戦いで、信長の
家臣佐久間信盛に攻め込まれ、元亀元年(1570)に落城し、三年後の天正元年(1573)に廃城した。
貞亨元年(1684)城跡の北側に建立されていた菩提寺を移転し、現在の善隆寺として一部石垣が残
っている(ここより南へ約100メートル行ったあたり)。石部氏は約40年間城主であった


石部宿 高札場跡
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目
のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道113号線(とんや道)と旧東海道の交差点の道路
の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。約80cm程度の石垣の上にたってい
た。元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された


石部宿 お半長右衛門
京都の帯屋の主、長右衛門がお伊勢参りに行く途中で宿泊した石部宿の旅籠(出刃屋)で、丁稚
の長吉に言い寄られるお半をかくまったことから二人は結ばれることとなった。
しかし、妻のいる長右衛門との道ならぬ恋に苦しんだお半は死を選び、遺書を見た長右衛門もお
半の後を追い心中を遂げる。この石部宿に伝わる悲恋の民話の舞台となった旅籠は、問屋場より
西の方角にあったと言われている


石部宿 安民米倉庫(あんみんまいそうこ)
明治13年に服部善七氏により、安民米(救済米)制度が創設されました。
植付時に百姓は食べるものが無く、安民米を一農家に一俵ずつ貸与、収穫時に年貢として五升を
おさめ、その五升は教育費に充てられました。現在は、雨山文化運動公園内にある宿場の里に安
民米倉庫が再現されています


右側の壁面にはタイル絵が三枚


東海道五十三次「石部」 田楽茶屋にて  歌川(安藤)広重
芭蕉句「都つじいけて その陰に 干鱈さく女」


東寺 長壽寺
長壽寺は僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子降誕により子安地蔵尊を安置する
国宝寺院です


西寺 常楽寺
千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です


石部中央交差点の北方向、旧東海道は左方向へ進む


石部中央交差点を横切るとここにも説明板が立っていた。

石部宿 問屋場跡
石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務)を行なうところを問屋と呼び、
いつも役人が3名~5名程在中し人馬の継立をする必要な仕事を分担して賑わっていました。
場所は、石部中央の信号から北へ百メートル程の砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角
あたりに移ったと言われています


石部宿 常盤館跡
石部中央道の辺広場より南へ約五十メートル行った殿城道あたりにあった。二階建てのかなり大
きな建物であり、席は前列の左右が一等席、その後ろが二等席で中央が桝席になり、一番後は三
等席で、その他は桟敷席になっていた。二階は特等席であった。中央に廻り舞台が設置されてお
り、このような規模の芝居小屋はこの付近にはなく、遠方から観客が集まったと伝えられる。大
正8年に火災により焼失し、その為に当館の資料はなにも残っていない


石部中央交差点を振り返る


旧東海道 石部宿    ~ 東海道第五十一番目の宿場町 ~
この辺りには寺院・神社が多い


愛宕神社は「鎮火」の神様
現在、石部には15か所の「愛宕さん」があります。
昔、「石部宿」では何度か大きな火事が起こり、二度と大火を出さないようにとの願いから愛宕
信仰を強くしたのだと言われています。毎年7月23日にはお祭りが行われますが、その由来は愛
宕神社の御神体である「将軍地蔵」さまの命日が7月23日であることからきています


石部宿 三大寺本陣跡
参勤交代の制が定められる7年前の寛永5年(1628)より、明治3年(1870)までの242年間営業した。
幕末の図面によれば、間口18間半(約33.5m)、奥行き東方29間(約52.5m)、西方20間(約36m)で
あり、建坪数は小島本陣より少ないが、畳敷き室数では変わらず、収容数は同等であったと考えら
れる。焼失・再建を繰り返し営業した


13:36
左に「いしべ宿駅」、無料休憩所になっている


中に入り見学


この後、右方向へ進む


いしべ宿駅を振り返る


街道左側に『明治天皇聖跡』お石柱、右側に『小島本陣跡』の立札


東海道五十三次 石部 目川ノ里
五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅篭、二百余軒の商家で栄えた所です


石部宿 小島本陣跡
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の
旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊し
た小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小
島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました


旧東海道を進む、古民家の二階は「虫籠窓(むしこまど)」


街道左側に『真宗大谷派 浄現寺』


街道を振り返る、浄現寺は街道から離れているのでスルーすることに


13:42
浄土真宗本願寺派 平野山明清寺


明清寺の太鼓楼、山門
所在地:滋賀県湖南市15


鐘楼と本堂


明清寺から旧東海道へ戻る


旧東海道に戻り直ぐ左側に『浄土宗 真明寺』
この辺りはお寺が多く隣接している


真明寺山門
所在地:滋賀県湖南市石部西1丁目5-23


本 堂
本堂には「甲賀組第一部法然上人二十五霊場  第十六番」


本堂の扁額「青木山」


本堂前から石段を登り


鐘楼の後方(東側)には「明清寺」「浄現寺」の本堂が建つ


真明寺の境内に、芭蕉句碑
 「都つしいけ亭 曽能蔭尓 干鱈さく女   者世越」
石碑は寛政8年(1796)7月石部躑躅社中が建立。躑躅社は句の「つつじ」からつけた名称と考え
られる。真明寺には芭蕉の位牌も残っている。


句意:山から手折ってきたのであろうか、つつじを井戸端の手桶に、こぼれるばかりに生けて
   ある。その花の影で女は食膳の用意であろうか、白い干鱈をさいている。
   「者世越」は「はせを」と読み「芭蕉」のこと。
松尾芭蕉(1654~1694)が近江を始めて旅した旅行記『野ざらし紀行』で、貞享2年(1685)に
湖南市石部に立ち寄った時の句。手折ってきたつつじの下で、活き活きと働く女を見事に切り
取って見せている


街道に戻り進むと旧東海道は右方向へ


13:53
角に『田楽茶屋』
所在地:滋賀県湖南市石部西1丁目8-19
現在の田楽茶屋は、浮世絵師の歌川(安藤)広重「東海道五拾三次」で石部の田楽茶屋が描かれて
おり、それを元で再現した


石部宿 田楽茶屋
石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。
歌川広重が天保3年~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は
石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒
の代表的な田楽茶屋があり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました


昼も過ぎ、休憩も兼ね昼食を摂ることに。
3/21 本日の御食事    ¥800
 ・鶏肉とキャベツのクリーム煮
 ・パイナップルと生野菜のサラダ
 ・春雨のピリ辛炒め       


湖南市石部の伝統・郷土食復活『芋つぶし』


田楽と喫茶


本日の御食事『鶏肉とキャベツのクリーム煮』を注文する


14:00
店内から旧東海道を振り返る



                                水口宿~石部宿-続く












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最終更新日  2020.05.13 03:00:05
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