おじん0523のヒロ散歩

おじん0523のヒロ散歩

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

オジン0523

オジン0523

カレンダー

コメント新着

フリーページ

2020.06.11
XML
カテゴリ: 東海道53次
天気も最高、いよいよゴールも近くになる。

3/23(月) 12:34
三条神宮通交差点から北側に朱色の『平安神宮 大鳥居』が建つ。
いつもは人通りも多いのであろうが。今年は新型コロナウイルスの関係で少ない。
神宮通交差点を渡り南側へ移動


交差点を渡り『三条通の案内図』
今日は左上から日ノ岡峠を越え、蹴上インクライン経由で歩いてきた


案内図の左から右側へ向かって歩くが、ゴールの『三条大橋』まで後約1.0km、15分


12:37

正面に『坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡』と刻まれている


石柱横の説明板
当地は青蓮院(しょうれんいん)の旧境内で、その塔頭金蔵寺(たっちゅうこんぞうじ)跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の
結婚式をしました。龍馬とお龍の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろ
に聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍は、1906年まで生きていました。
一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の
媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検
討からお龍の話こそ信用すべきだと思われます。
この地が選ばれたのは、お龍の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。
この縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。

龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を
楽しむいとまもなく、お龍を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍の重要史蹟として、ここに建碑します。
       歴史地理史学者 中村武生


12:38



橋のたもとに『史跡 三条白川橋道標』
道標は読めず『・・・・・・』、観光案内板には『明智光秀の塚』徒歩2分と


明智光秀の塚へ行くために、白川の柳並木を進む、前方の橋は『土居ノ内橋』


白川のささ波と柳風景に情緒がある


振り返り、白川橋手前の『土居ノ内橋』


12:40
前方には街角に、和菓子屋の『餅寅』
所在地:京都府京都市東山区白川筋三条下る梅宮町475
「三条下る」と珍しい住所


店の角に建つ道標「東梅宮」、正面は「?????」。
← (20m)「明智光秀の塚」、↑ (250m先を左折)「知恩院」


角を曲がるとすぐに『明智光秀の塚』
今年はNHKの大河ドラマが「麒麟が来る」のため説明板を新しくしたのか


真新しい『明智光秀の塚』
天保10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、
自害させました。しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきた羽柴秀吉と、13日に
山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そして
その途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打
たせたといわれています。
光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが、吉田兼見という公家が記した日記
『兼見卿記』によると、光秀の首は15日までに発見されています。18日からは、粟田口(左京
区)で重臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、22、23日には近くに埋め、塚を
築いたことも記されています


実際、『雍州府志』や『都名所図会』など、江戸時代の京都について記した地誌類には、その
塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。多くの書物に記され
ていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。
その後、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(1770~80ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆がこ
の地に移されてきました。以来、この地が、明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀
の首もここに埋められたと伝えられています。
また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります


子孫が解き明かす「明智光秀の実像」
天下の謀反人と言われた光秀の子孫は、姓を明田と変えて生き延びていた。
明智光秀の真実を400年の時を経て末裔が語った


先程の『餅寅』
NHKに便乗して「光秀饅頭」を販売、右の橋は『一本橋』


餅寅の店内
桔梗印の焼印が押された光秀饅頭は、一個170円。黒糖と抹茶味の二種類。
ここのお店のご主人が光秀公の首塚を管理していると


白川の『一本橋』に立つ振り袖姿の女性
所在地:京都府京都市東山区梅宮町478
別名は行者橋。天台宗の修行のうちでも随一の荒行とされる、千日回峰行を終えた
行者が、入洛する際最初にわたる橋であることから命名。人ひとりがやっと通れる
ほどの幅狭の石橋である


橋の上から白川の下流側


同場所から上流側、柳が風にあおられる風情


川には魚がいるのか、水源は琵琶湖疎水からの水?


向かい側の『餅寅』


12:47
白川筋から旧東海道(三条通り)へ戻り、三条大橋へ進む
前方に地下鉄「東山駅」、「東山三条交差点」


東山三条交差点の手前の南側に『古川町商店街』


12:49
旧東海道(三条通り=府道143号線)と東大路通りが交差する「東山三条交差点」


東山三条交差点を直進して府道37号線へ
街道の右側に『本山要法寺 奉門』


『本山要法寺 奉門』をズームアップ
所在地:京都府京都市左京区法皇寺町448-2


街道右側に『まつひろ商店 かばん店』『茶懐石 辻留』
手前の『まつひろ商店 かばん店』には、可愛いいがま口が豊富にあると


二軒の間には地蔵尊が建つ
『茶懐石 辻留』の建物は傾いているのか? 茶懐石は出張専門と
京都駅でも販売しており、旬の食材を活かした辻留弁当 5,400円 でお土産にも


12:54
左は『花見小路通り』


12:57
三条京阪交差点
地下鉄は「三条京阪駅」、三条大橋も見えてくる


三条大橋交差点の手前に『高山彦九郎 皇居望拝之像』
所在地:京都府京都市東山区大橋町


12:59
三条大橋交差点へ到着


三条大橋交差点から振り返る。マラソンランナーならコースに向ってお辞儀をするが


高山彦九郎 皇居望拝之像
この場所は、通称 ”土下座像” と呼ばれていて格好の待合場所になっている。
像は川端通三条の南東角に昔からある像で、大柄の武士が御所の方角に向かい遙拝している。
高山彦九郎は、18世紀後半の尊王思想家で今の群馬県太田市に生まれた。幕末の思想家・吉田
松陰らに影響を与えたといわれる。また戦前の修身教育で二宮尊徳らと共に取り上げられた。
他にもいろんな石碑、説明板があったがゴールの安堵感から未撮影


13:00
川端通りの三条大橋交差点を渡りゴール。
弥次さんの道案内でどうにか到達することが出来たが、ここまでは延べ日数32日目、25ヶ月で
の達成となった


交差点を渡ると『花の回廊』の石碑
所在地:京都府京都市東山区大橋町


「花の回廊」整備について
平安建都1200年を契機に着手した「京の川づくり」の一環として、鴨川東岸三条~七条間に、
「花の回廊」を京都市とともに整備しました。「花の回廊」は、鴨川の川面を眺めながら四季
折々の花や木を楽しめる、水と緑の散策路となっています。
また、散策路には、京都を代表する鴨川が、私たちの共有財産として後世の人々にも広く親しま
れるよう、公募した俳句・短歌の碑も設置しました。山紫水明の歴史都市・京都の象徴として、
いつまでも美しく愛される鴨川であることを、皆様とともに祈念します   平成11年6月


俳句と短歌の碑
「我が心 きよめ流るる 鴨川の 優しき母の まなざしに・・」  堀井 由紀子
「かもがわに どこからきたの ゆりかもめ」    


歌川広重の保永堂版『東海道五拾三次 京師 三条大橋』


快晴の鴨川に架かる三条大橋


今日は月曜日だが、新型コロナウイルスの関係で観光客が少ない


弥次さんが袋井宿の『どまん中茶屋』で購入したタオルを借り記念写真



                                                                                            大津宿~三条大橋ー続く





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.06.11 03:00:06
コメント(1) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: