おじん0523のヒロ散歩

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2022.03.14
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「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地」二回目の愛車リンちゃんでの散策です。
北条義時 ~ 13人の重臣 ~
1月から大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が始まることで、鎌倉・湘南エリアに注目が集ま
っています。800年以上前、武士による政治が始まろうとした時代に茅ヶ崎ではどんな出来事
があったのか、ゆかりの地とともに振り返ってみましょう。
    【産業振興課観光担当・社会教育課文化財保護担当・文化生涯学習課文化推進担当】


鎌倉時代の幕開けと茅ヶ崎ゆかりの地
平安から鎌倉時代 ー いざ茅ヶ崎
源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げようとした時代、茅ヶ崎市域の支配者は大庭一族でした。一族は

ます。一族のうち、大庭景能(かげよし)は鎌倉幕府の重臣の一人であり、茅ヶ崎にゆかりの深
い武士です。景能や頼朝を中心に、この地で活躍した人物とその伝承を紹介します。


茅ヶ崎ゆかりの人物相関図


茅ヶ崎ゆかりの人物相関図
   大庭景能:源頼朝の重臣 → 丹後局:伝説の女性 ← 北条政子
大庭景能(かげよし)  源頼朝の重臣
  相模国で勢力を拡大した鎌倉権五郎景正の子孫。相模国大庭御厨の一画である懐嶋(現在の
  円蔵、浜之郷、矢畑)を本拠地とした。
丹後局(たんごのつぼね)   伝説の女性
  源頼朝の寵愛を受けて、薩摩の島津氏の祖先となる男子を、懐嶋の大庭景能の桜屋敷(西久
  保)で産んだといわれる。丹後局は伝説上の人物とも考えられている。



今回訪れるのは、A:旧跡懐嶋山の碑(えな塚)、B:旧相模川橋脚、Ⅽ:神明大神宮。
前回は2月24日(木)に、D:鶴嶺八幡宮、E:御霊神社 の2ヶ所を訪れた。


所在地


A:旧跡懐嶋山(かいとうざん)の碑(えな塚)   西久保
    丹後局が鎌倉から逃れて源頼朝の子を出産、子の忠久は島津氏の祖となった伝説も。

   め、比企能員が丹後局を懐嶋郷の領主・大庭景能に預け、丹後局は桜屋敷に移った後、
   無事男子を出産します。ここに、えな(胎盤)を埋めたことから「えな塚」と呼ばれてい
   ます。三郎と名付けられた子は鶴岡八幡宮社前で頼朝と対面。後に忠久と名乗り、薩摩
   を本拠地とした島津氏の祖となったという伝説があります。


B:旧相模川橋脚    下町屋1-551-2
    源義経の亡霊伝説が残る、国史跡・国天然記念物の橋の遺跡。
   源頼朝の家臣である稲毛重盛が、1198年に亡き妻の供養のため、相模川に橋を架けたと
   されています。その落成式に参列した頼朝は、帰途で義経らの亡霊に会い、驚いた馬から
   落下しました。この時の怪我が原因で頼朝は亡くなったといわれています。


Ⅽ:神明大神宮     円蔵2282
    大庭景能が伊勢神宮を勧請し建立、京に向かう源頼朝が宿泊。
   大庭御厨の一画である懐嶋を治めた景能は、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し、神明
   大神宮を建立しました。1190年に京都へ向かう頼朝がここに宿泊しました。大庭氏が滅
   びた後も、地域の人々に尊ばれてきました。館で奏でられた楽人の太鼓の音から、市指定
   重要文化財の円蔵祭囃子が出来たと言われています。


3月6日(日) 13:40
昼食後天気が良いので愛車のリンちゃんで出かけた。
民家の間を抜け、北側からの神明大神宮。


神明大神宮
所在地:神奈川県茅ケ崎市円蔵2282


大河ドラマの放送で「ゆかりの地の幟」が立ち並ぶことを期待したが。
少々盛り上がりに欠けるのでは。


石鳥居と社殿。





口を閉じた狛犬の「吽形像」


口を開いた狛犬の「阿形像」。神明大神宮横には消防の分団。


昨年11月8日(月)に訪れた「​ 懐嶋郷ゆかりの神明大神宮 ​」👈をクリック願います。




拝殿の彫刻


拝殿の扁額「神明大神宮」。


鶴岡八幡宮景能祭之碑
大庭景能は頼朝の命により鶴岡八幡宮の建設を指揮した。


社殿左奥にある「懐嶋館址」の石碑。


懐嶋平権守景能公年譜
保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。   保元物
治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。    源平盛衰記
    八月廿日      頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。    吾妻鏡
    八月廿日      弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。   源平盛衰記
    八月廿四日     頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。     吾妻鏡
    十月九日      景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。          
    十月十一日     景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える
    十月十二日     景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。
    十月十五日     頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。
    十月十七日     景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。
    十月廿三日     景能、頼朝より懐島郷を安堵される。
    十月廿三日     景能、囚人の河村義秀を預かる。
    十一月廿日     景能、頼朝に有常の免罪を願う。
    十二月十二日    頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。
治承五年一月一日(1181)    頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。
    四月一日      頼朝の鶴岡八幡宮参詣につき境内を清掃する。
    五月十三日     鶴岡若宮の新築工事の指図にあたる。
    五月廿四日     小御所、御厨の建設につき指図にあたる。
    七月八日      鶴岡若宮の遷宮の準備を進める。
  ・・・・・後略・・・・・


  ・・・・・前略・・・・・
建久四年八月廿四日(1193) 景能、出家する。
建久五年十二月二日(1194) 景能、鶴岡八幡宮の担当奉行に就任する。
建久六年二月九日 (1195) 頼朝の上洛に伴い、随行を嘆願する。
    三月十日      頼朝の上洛に随行する。
正治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。
建仁元年三月十日 (1201) 景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。
承元四年四月九日 (1210) 景能、死去する。
建暦三年五月二日 (1213) 景兼、和田の乱に加勢し敗死する。
    五月九日      二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。
   平成十四年一月吉日建之
       奉納 阿諏訪 俊男


大庭景能入道像
大庭景能(景義)は小さいころから一貫して源氏側に付いた武将です。弟の大庭景親・
俣野景久も、保元の乱の時は「源義朝(頼朝父)」に仕えていましたが、平治の乱で
為朝が敗北したのちに、平氏方に移った。


吾妻鏡から、
大庭景能は20代前半で歩行困難となっていることから、1180年の石橋山の合戦以降は頼朝側
に付いていますが、多くの戦いには随行せずに鎌倉の留守役を仰せつかっています。
また、建築技術・戦術論にも長けていたようで、頼朝からアドバイスを求められたり、囚人を
預かったり、建物の建築等と、戦以外の場面で貢献していたようです。


本殿裏の狭い場所に石碑が立ち並ぶ。


正面に拝殿、右側に円蔵自治会館、左側に神輿殿。


県道45号線(茅ヶ崎中央通り)の神明大神宮入口交差点。
この交差点を右斜め方向へ進み、神明大神宮へ。


交差点を右に入ると角に「神明大神宮道」の石碑が立つ。



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2022.03.14 03:00:06
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