おじん0523のヒロ散歩

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2022.03.22
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カテゴリ: ヒロ散歩
​江川家菩提寺の日蓮宗本立寺の参拝後、前回見落とした香山寺の近くにある「山木皇大神社」を
訪れた。

3月13日(日) 13:30
香山寺の手前の路地を左折し「山木皇大神社(やまきこうたいじんじゃ)」へ。
所在地:静岡県伊豆の国市韮山山木1072
皇大神社は、山木地区の鎮守である。明治13年(1880)、山木地区の神明宮・天神社などが合祀
されて成立した神社である。
毎年年末には、江川家から供え餅と注連縄飾りが納められている。

一の鳥居下にある駐車場。





境内から山木地区を見下ろす。左方向に「香山寺」がある。


山木皇大神社は山の傾斜地に存在し、「手水舎」「二の石鳥居」「社殿」。


屋根を塗装したのか真新しい「拝殿」
本殿に平兼隆、天照大神、相殿に菅原道真・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。
平兼隆とは山木兼隆(やまきかねたか)のこと。
治承4年(1180)8月、頼朝は 以仁王の令旨を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。三島大社の祭礼
のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討た
れた(山木館襲撃)。


隙間から、内陣を覗く。


右隣に「境内社」。
境内社に、来宮神社・八牧別所幣座神社・滝山明神・山木稲荷がある。



信仰深い人がおられるようでワンカップがひとつ供えられていた。


来宮神社の御札には・・・・その縁起が書かれていたが。


拝殿前を見下ろす。


社殿の左側に「山木神社」。
山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の山木大火で堂社を焼失し、皇大(こう
たい)神社に合祀されたのだと。


社殿を見下ろす。



香山寺本堂への参道右側にある「山木兼隆の供養塔」。
800回忌を記念して建てられたものだそうで、それからまた月日が流れ今年で842回忌という
ことに。「山木兼隆供養塔」は五輪塔。


香山寺(山木兼隆供養塔) 
山木兼隆は平氏の一族で、伊豆に流人として暮らしていましたが、京都の政変により伊豆国の
目代(国を治める長官の代官)として取り立てられました。そのため、治承四年(1180)の源頼朝
の旗揚げでは最初の標的とされ、滅ぼされました。その日は三島大社の祭礼で、頼朝たちは祭
りで行きかう人々にまぎれ、また山木館の守りが手薄になる機会を狙ったとも言われています。
禅宗に改宗後、「香山寺殿興峯兼隆大禅定門」と法名を授けられました。山木兼隆供養塔は、
この地で減ぼされた兼隆を偲び、平成2年に建立されました。
                             伊豆の国市


山木兼隆供養塔の五輪塔。
右側に「香山寺殿興峰兼隆大禪定門追善菩提供養塔  建長○○書」。


13:54
山木皇大神社から蛭ヶ島公園へ移動。
所在地:静岡県伊豆の国市四日町12
天気が良ければこの方向に富士山が見えるのだが。駐車場は無料。


蛭ヶ島公園(ひるがしまこうえん)
源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。その後20年間流人として過ごし
ました。ここ蛭ヶ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられています。公園内には、江戸時代
に伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山冨南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念
する「蛭島碑記」(市指定文化財)があります。また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が
寄り添うプロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が建てられました。
                            伊豆の国市


駐車場脇に「静岡県へようこそ」


こちらは「ようこそ 伊豆の国市へ ここは蛭ヶ島公園です」。


道路沿いに建つ大きな「石碑」、「韮山史跡・観光総合案内図」。


大きな石碑には、
「遺蹟 永暦元年(一一六〇)源頼朝公配流の地 蛭ヶ小島」。
1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の
命乞いで、翌年、伊豆国のここ蛭ヶ小島に流罪となった。
伊豆国で約20年間を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、ついに源氏再興の兵を挙げたのだ。


蛭ヶ島公園の北側にある道路。
直進した西方向に伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅がある。
歩道にタイルが埋め込まれている。以下はそのタイルの一部です。
この辺りの田畑にはイチゴ栽培の温室が多かった。


源平のおもな合戦(1180~1185)
 【一ノ谷の戦い】 京に上ろうとする平氏を義経らが打ち破った戦い。
 【屋島の戦い】  屋島で体勢を立て直そうとした平氏を襲撃。
 【壇ノ浦の戦い】 源平最後の大決戦 清盛の妻二位尼は8才の安徳天皇を抱き海中へ飛び
          込み自害しました。
平家の滅亡(へいけのめつぼう)
 1185年(元暦二年)、源平最後の決戦、壇の浦の戦いで平家軍は壊滅。平家は滅亡します。

弟 義経との再会(おとうとよしつねとのさいかい)
富士川を平家が敗走したのち、黄瀬川に陣をはる頼朝の元にはるばる奥州から弟の義経がかけ
つけました。父義朝が平治の乱で討死した時、義経はまだ2歳の幼児でした。


以下二枚の写真は 、旧東海道の弥次喜多道中で訪れた時の写真(2019年1月16日撮影)。
八幡神社にある「対面石」
所在地:静岡県駿東郡清水町八幡39
向かい合って二つの石が置かれている。


対面石
治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝
はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語
り合い、懐旧の涙にくれたという。
この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。
またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらへ捨
てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあ
っていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。
                    清水町教育委員会


韮山名物
” いちごの電照栽培 ” 冬の夜景は見事です。


富士川の対陣(ふじかわのたいじん)
頼朝追討の平家軍は、平維盛を大将軍として京を出発し、富士川の西岸に布陣していましたが、
水鳥の羽音を夜襲と思いにげてしまいました。


西方向から、蛭ヶ島公園を望む。


蛭ヶ島公園に立つ「蛭ヶ島の夫婦」。


富士山に向って立つ夫婦。


蛭ヶ島の夫婦(ふたり)
治承元年(1177年)
源頼朝(31才)二人はこの地で北条政子(21才)結ばれる。
日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である。
        平成十五年 秋 吉日  
           像・寄贈者 佐藤美智子
        題字・韮山町長  渡辺解太郎
             制作者 山田 収


蛭ヶ島公園にある「蛭ヶ島茶屋」
店内では軽食もとれ、無料休憩所になっている。
営業時間:10:00 ~ 15:00  営業時間は変更される場合があると。


店先には「本日の献立」
  椎茸そば          600円   カレーライス(サラダ付き)  650円
  山菜そば、うどん  各 550円   おにぎりセット       350円
  ざるそば、うどん  各 550円   みそおでん         250円
  成願餅         150円   コーヒー          300円
成願餅とは、頼朝に餅売り媼が献上したといわれる餅である。
既に時間は14時で、見学後遅い昼食をとることに。


蛭ヶ島茶屋の裏に「遠藤韮城」の句碑。
碑には「ふるさとは富士の全き良夜かな」と刻まれている。


頼朝と政子(梛(なぎ)の葉の縁結び)
伊豆国に流罪となった源頼朝と北条政子は、変らぬ愛の証として、伊豆山神社の御神木の葉を
持っていたといわれている。それが「椰の葉」。政子は、椰の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛
を祈ったといわれている。「椰の葉」は、横に裂けないことから「愛のお守り」として、また、
「家族平穏のお守り」として功徳があると。


頼朝と政子(梛の葉の縁結び)
北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の源頼朝
と21歳の北条政子は恋に落ちました。
源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆
国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山木館を脱出
し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。
当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も
北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と
相会することができたのです。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめで
たく夫婦になることができました。

近世中期の投節のひとつに
『こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を。』という歌があります。
「今度、おいでになるときには、伊豆のお山のなぎの葉を持ってきて下さいね」という願いの
うちに「それをお守りにしたいから。」との意がこめられています、女の方から男に言った言
葉です。
当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、願いごとがかなう(結ばれる)
とされていました。
「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。
源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の
葉は、当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。
梛を鏡の裏のお守りとすることは、寛永の頃から享保の頃まで流行したようです。


公園内にはいろんな石碑が建つ。


秋山富南の顕彰碑


公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は市指定文化財。
平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ヶ小島に配流さ
れました。
1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間
をこの地で過ごしたとされています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思
われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣、
天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。
当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田
の中の微高地8田島)であったと考えられます。 他にも蛭ヶ小島と称する中州がある中で一番
小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと思われます。


蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、伊豆の国市四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝
配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手
和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつが、この
蛭ヶ島であったことが想像される。
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承四年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉
幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
しかし、『吾妻鏡』治承四年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条
時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約十七年間を、
ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世
に伝承すべく、寛政二年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶
が建立したもので、伊豆の国市の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い
碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った萩原正夫が、明治二十六年に建立したもの
である。                         伊豆の国市


公園の東側に立つ、「民族資料館」
建物は、18世紀初期頃の創建と推定される庶民農家で、住宅としては県内最古。県指定文化財。

伊豆の国市 歴史民俗資料館
   静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅
この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが十八世
紀中頃以前に建造されたものと推定される。
軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となっ
て上までのびている。この型式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する
庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。
昭和五十年一月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和五十二年十二月二十日、
静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮
山町歴史民俗資料館として昭和五十四年三月三十日解体、移築復元したものである。
        平成十七年四月一日
                 文  化  庁
                 静岡県教育委員会
                 伊豆の国市教育委員会


畳を敷かない板の間だけの広間・座敷を見る。


県指定文化財 旧上野家住宅について
一、この建物は間口11.9m、奥行5.9m、建物面積は65.7㎡(19.9坪)です。
ニ、広い「土間」を左にとり、右側に「ひろま」「ざしき」「なんど」の3間を配しており、
  この型式を「広間3間取型式」といい、口伊豆地方に多い型式です。建物の総面積に比し、
  「土間」や「ひろま」を広く取っているのは、民家が単なる「住まい」という単一目的だけ
  のものではなく、「生産」という大きな役割を果たす場所でもあったからです。
三、建物の材料は松・けやき・杉の他、竹、茅等を使っており、これらはすべて近くの山野で
  入手できる材料ばかりです。また柱等の表面仕上げは鉋(かんな)を用いず、手斧(ちょうな)
  等を使用した荒仕上げがふつうでした。
四、「土間」と「ひろま」の中央境の柱が大黒(柱)、また「ひろま」と各部屋の中央境の柱が
  小黒(柱)です。それぞれの柱は梁を抜けて棟を支えています。このような柱を棟持柱とい
  い、平屋建てで使われるのはたいへん古い型式です。尚、各間柱や梁の間隔は寸法が一定
  せず、不揃いのことも古い民家の特徴といえます。
五、当時の一般農家には天井がなく、また部屋に畳を敷くこともなく、このような板の間に、
  必要により、ゴザやムシロを敷いて起居したようです。
六、「いろり」は単に煮物や暖を採るだけのものではなく、生木等を燃やすことによって出る煙
  が、木材や屋根茅にしみ込み、虫害や腐蝕を防止する役目をしました。またテレビやラジ
  オのなかった時代における一家団らんの場所としても、たいへん親しみ深い場所でした。
  尚、「いろり」には一家の者の座る場所がハッキリと定まっており、それぞれの場所に名
  前がつけられていました。
七、広い「土間」の入り口に近く、「わら叩きの台石」があるのも農家の特徴でした。雨の日
  や、夜の仕事に縄やぞうりを作る「わら」を打った場所です。
八、この建物を復元するにあたり、「わら縄」はすべて手ないのものとし、また、新しく補て
  んした材料も近在古民家の古材を使用し、昭和五十三年の焼印を打ち区別してあります。
  その他、屋根棟の(瓦)覆いを「口伊豆型」にあらためるとともに、やぐら煙出し(あげおむ
  し)は後世の改造になるもののため、移築の際、撤去しております。
                          伊豆の国市教育委員会


土間にあった懐かしい農機具。脱穀機、木臼。


天井のない藁葺き屋根裏を見上げる。


柱、梁の木々は煙で黒くなり。


遅い昼食をとりに、「蛭ヶ島茶屋」へ。


茶屋内へ入るが既に閉店したと。
山菜そば(550円)、成願餅(150円)を決めていたのだが、残念!
壁面に「源氏節」の歌詞。


小高い所に立つ「蛭ヶ島の夫婦」を後方から、天気が良いと富士山が見えるのだが。


14:15
蛭ヶ島公園を後にし、近くの「大河ドラマ館」へ向かう。



                                                                                                      ー 続く ー​





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最終更新日  2022.03.22 03:00:06
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