おじん0523のヒロ散歩

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2022.03.26
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カテゴリ: ヒロ散歩
成願寺の向かい側にある実相寺へ。

3月13日(日) 15:52
浄土宗実相寺
所在地:静岡県伊豆の国市原木154


道路沿いに建つ寺号標石「浄土宗 実相寺」


実相寺の本堂


境内に建つ「狩野川台風洪水之碑」。
碑の側面には、狩野川台風の際に浸水した洪水の水位が示されていた。
 「昭和三十三年九月二十六日天城山に七百ミリ以上の雨が降り、いたる所で狩野川の
 堤防は決壊し八百六十人もの尊い人命が奪われた。当地の浸水位はこの碑の高さで

 を建立す」と。


境内から振り返り「六地蔵」を見る。


実相寺本堂
仁安2年(1167年) 840年昔、「俊乗坊重源」が源平の争乱で東大寺が「平重衡」の放火で消失
し「源頼朝」の発願で再建費用の調達の為にこの地に来たとき、住民の要望に答えて「小松院」
と称する真言宗の寺院を建立した。
その後、明徳3年(1392年)室町幕府三代将軍「義満」の時、「実蓮社相誉真阿至誠不脱上人」が
浄土宗に改宗し、「実相寺」と改め、現在に至っている。
現在の本堂は、昭和63年4月「落成」した。


本堂の扁額「名號山」


本堂の花頭窓と小さな梵鐘


當山 浄誉代」と。


本堂屋根に「静」


屋根飾り


15:55
成願寺本堂後方の山は、日守山。
実相寺の境内に建つ六地蔵。時間も4時になりこの後ホテルへ向かうことに。



国道136号(下田街道)を南下、四日町交差点。
ここを左折すると「韮山時代劇場 1.7km」「韮山反射炉 3.9km」「江川邸 2.2km」。


南北に伊豆箱根鉄道駿豆線、国道136号(下田街道)が走り、狩野川が流れ、駿豆線の
原木駅、韮山駅、伊豆長岡駅を中心に「北条氏ゆかりの地」の史跡が点在する。


パンフレットの、「北条義時ゆかりの地を巡る」。
  「伊豆の国市 北条家 歴史散策マップ」


「伊豆の国市 北条家 歴史散策マップ」で紹介されている、
  ー 北条家ゆかりの地を巡る ー
       政子コース


「伊豆の国市 北条家 歴史散策マップ」で紹介されている、
  ー 北条家ゆかりの地を巡る ー
       義時コース


ピンクの「政子コース」。
ホテルへの途中にあるピンクエリアを訪れることに。


16:20
国道136号(下田街道)沿いに「願成就院」の案内板があり、右折。
正面参道奥に、「願成就院の山門」が見える。
最初この寺号標石「國寶旗挙不動尊 願成就院」の手前に車を停める。


参道脇に大きな石碑が建っていたが判読できず。


山門左側に駐車場を見つけ「国指定史跡 願成就院跡」の石碑横に車を移動。


国指定史跡 願成就院跡  (昭和四十八年二月二十四日 指定)
願成就院は鎌倉時代初期、北条時政によって創建された寺院てす。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』
文治五年(1189) 六月六日条には、源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立された、と書か
れています。
また、大御堂に安置されている国宝の仏像群のうち、四体から胎内銘札がみつかっていますが、
そこには北条時政と仏師運慶の名前をみることができます。
時政の死後も、子の義時、孫の泰時によって、「南新御堂」や「北塔」などの建立があり、伽
藍が整えられていきました。
当時の願成就院の姿は、発掘調査によって明らかになっています。昭和三十六年から現在まで、
境内やその周辺二十ヶ所以上で発掘調査が行われ、建物の礎石や雨落ち溝の一部がみつかって
います。とくにこの一帯は、発掘調査によって、基壇や大量の瓦がみつかっている場所で、承
元元年(1207)に時政が建立した「南塔」の遺構と推定されています。また、周辺の地形測量に
よって広大な池の存在も想定されています。
鎌倉時代の願成就院は、西側の守山を背景にして、池の周囲に堂や塔が建ちならぶ「臨池伽藍」
と呼ばれる様式の寺院でした。臨池伽藍は、浄土の世界を御堂や庭園の姿であらわす、当時を
代表する寺院様式です。
                         文化庁 伊豆の国市


ウメに花が満開に


ズームアップ。


願成就院山門前に「北条義時ゆかりの地」の幟が立つ。
右側の塀奥には、守山八幡宮の鳥居が建つ。


高野山真言宗 天守君山 願成就院
所在地:静岡県伊豆の国市寺家(じけ)83-1


北条時政公開基 奥州征討戦勝祈願 願成就院
天守君山 願成就院(高野山真言宗)の創建について
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と近年発見された国立歴史民俗博物館本『転法輪抄』の
『伊豆堂供養表白』により、願成就院が北条時政によって造営され、文治五年(1189)六
月六日に立柱上棟の法要が営まれて、本尊阿弥陀三尊と不動・多聞(毘沙門天)の形像が
安置され、源頼朝と後白河法皇の長寿と天下泰平、そして北条氏の繁栄と奥州藤原氏征
討の成功を祈っていることが明白になった。今日大御堂にお祀りする国宝の運慶作5躯
の仏像は正に創建時の形像である。伽藍の営作は、ニ代義時、三代泰時までの40年間に
及び北条氏の氏寺として栄えた。前面に池が広がる浄土様式の庭園をもつ大規模な臨池
伽藍寺院であり平泉の毛越寺を模したと言われている。昭和48年に守山(後山)東斜面と
境内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されている。
                            伊豆の国市


山門左側に多くの石碑が並んでいた。


山門を潜ると参道左側に多くの無縁仏か


山門を入ると正面に大御堂
参道の両側に巨大な石灯籠が建つ


その左側石燈籠には「源頼朝公旗揚七百八十年記念 昭和三十四年一月十日」。


参道左側に「六地蔵」、「北條時政公 御墓」の案内。


六地蔵の廻りに、多くの赤白のおみくじだるま。


正面に「鐘楼」、左に「北條時政公御墓」


北條時政公御墓


碑には、北條時政公 没八〇〇年忌供養として造立
北條時政公(1138年生、1215年没 享年七十八歳)は、願成就院の創健者で、今日
に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地、伊豆国北條に居館
を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。
1160年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。激
動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。1180年8月
17日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。
以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその
立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、
北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人で
ある。                         現住 祥道


柵に囲まれた、「 北條時政公御墓」


北條時政は、 1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方(後妻)と共謀して将軍源実朝を亡きもの
にして
娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、子の北条義時と娘の北条政子に
よって
出家させられ、伊豆国追放となった。
伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではないが、1215年(建保3年)1月6日、 北条の
地で亡くなったのだと。



北條時政公御墓をズームアップ


大御堂への参道、
参道に願成就院の看板犬の秋田犬「ロッキー」が横たわる。


大御堂の扁額「大御堂」。


参道右側に「弘法大師御像」が立つ


石碑には「運慶謹作仏像五体 附五輪塔形本札四枚
        国宝指定記念之碑
           平成二十五年六月十九日 指定」 


写真は「大人の休日 俱楽部 2022年2月号の記事」から、
大御堂に運慶作の仏像が並ぶ。中央が「阿弥陀如来坐像」左が「不動明王・矜羯羅(こんがら)
童子・制吒迦(せいたか)童子三尊立像」右が「毘沙門天立像」で国宝。



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2022.03.26 15:20:09
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