おじん0523のヒロ散歩

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2022.08.25
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散策
銚子ノ井の後は、安養院の近くにあるまだ参拝していない「大寶寺」へ向かう。

8月8日(月) 12:40
県道311号線(鎌倉葉山線)、長勝寺前の横須賀線踏切。
ここを左折すると緩い坂を下り水道路交差点へ。
鎌倉市内の水道路は、若宮大路を横切り水道路交差点からここ長勝寺前で県道バス通りと合流
して名越のトンネルまで至る。しかし現在は、水源の水質の悪化や施設の老朽化により平成27
年2月に役目を終了して廃止されている。


上りの横須賀線が通過。


踏切を渡り県道311号線を鎌倉方面へ進み、途中交差点を右折して山側の住宅街へ。



12:50
日蓮宗 大寶寺(だいほうじ)
所在地:神奈川県鎌倉市大町3丁目6-22


大寶寺(だいほうじ)
このあたり一帯は、御家人・佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、兄の源義家とともに奥羽の
戦乱「後三年の役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来、佐竹氏の屋敷となったと伝えら
れています。
応永六年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家し多福寺を建立した後、文安元年(1444)
日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大寶寺となりました。境内
には、義光が信仰した多福明神社があります。
また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。

  ● 山号寺号:多福山大寶寺(たふくざんだいほうじ)
  ● 建  立:応永6年 (1399)
  ● 開  基:佐竹義盛
写真は、「子育鬼子母神」。
佐竹義盛は南北朝時代から室町時代にかけての武将である。





側面には「高祖日蓮大菩薩五百五十遺謹報恩塔」。


山門前にフヨウに覆われた「佐竹屋敷跡」の碑。
此所ハ佐竹四郎秀義以降 代々ノ屋舗蹟ト云フ 昔當所ニ佐竹氏ノ霊社アリシガ 後
年村内天王社ニ合祀ス 後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ 其ノ形 扇ノ地紙ニ似テ 中ニ三本
ノ畦(アゼ)アリ 左右ヲ合テ五本骨ノ如シ
         昭和七年七月 建  鎌倉町青年団


左の門柱に「日蓮宗 大寶寺」。


今月の聖語
  日蓮が色心
  仏になりしかば
  父母の身も
  また仏になりぬ
     日蓮聖人御遺文 「孟蘭盆御書」  日蓮宗


山門を入ると左に古井戸。


境内に入ると正面の一段高い所に新しい鳥居。


佐竹氏の守護神社の多福明神社。
多福稲荷大明神は、新羅三郎義光の守護神。後三年の役に勝利を収めることができたのは、
多福稲荷大明神の御加護があったからとして義光が勧請したものと伝えられている。
一時、八雲神社に合祀されたが、1499年(明応8年)、妙法寺の日證により、大寶寺に再勧請
された。
大町の八雲神社は、「​ 鎌倉の古刹 ​」👈 をクリック願います。


鳥居の扁額「多福稲荷」。


石燈籠の奥に社。


新羅三郎義光守護神 大多福稲荷大明神
人皇第七十三代堀河天皇のご御代奥州地方は清原の家衡・武衡・眞衡一族の隔執の為非常に乱
れた。
當時陸奥守である八幡太郎義家は之を平定しようとする家衡・武衡等金沢柵に立ちこもりて降
参せず官軍苦戦に陥った。                  (後三年の役)
京都に居た弟の新羅三郎義光は兄義家も苦境を授けんと官を辞して従軍し善戦善勝三年にして
之を鎮圧する。                       (後三年の役)
此の間日頃信仰していた御守護神の霊顕あらたかで或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火と
なって奇瑞を顕す。三浦平次郎為次鎌倉権五郎景政など當時の勇士である。
後義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を
勧請する。其の後八雲神社に合祀したので、毎年七月七日には門前に神輿を据えて古式に則る
祭式を行い神霊を慰めてから町内の御渡を行うを例とする(相模風土記)。
1499年(明應八年) 松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に迹再勧請し大多福稲荷大明神と
稱する。
毎年二月には大祭を嚴修して神霊を法楽し世界平和國運隆昌を祈願する所以なり。
   奉 納
        六浦 駒形泰亮


大寶寺の境内を見下ろす。右側に庫裡、寺務所が建つ。


佐竹氏十一代目の義盛が屋敷を寺とし、新羅三郎義光が守護神としていた多福明神にちなんで
「多福寺」としたのが大寶寺のはじまり。
後に多福寺は廃寺となったが、1444年(文安元年)、日出によって日蓮宗の寺に改められ「大寶
寺」となった。日出は本覚寺の開山でもある。


多福稲荷と大寶寺の本堂の間には宝篋印塔や多層塔、石塔、仏像がいくつか置かれている。


本堂右前には子ども用の遊具。


本堂の扁額「多福山」。


左右に配置された天水盤には佐竹氏の家紋である「五本骨扇に月丸」の寺紋がついている。


本堂右手前に多くの石塔が建つ。一段高い所の、
右側に「報國殉難戦死者之霊」
中央に「放果萬霊」
左側に「大震火災横死者之霊」。


本堂の裏には「納骨堂」「動物納骨堂」、墓地が広がる。


墓地の裏には山が迫る。


境内に咲く白いサルスベリ。


ズームアップ。蕾もまだありそうだ。


大寶寺の裏山にある「源義光の墓」
源義光(1045~1127)は、源頼義の三男で、滋賀県大津市にある三井寺(園城寺)内にある新羅
大明神の社前にて元服したため、「新羅三郎義光」とも云われています。兄には、前九年、後
三年の役で活躍をした「源義家(八幡太郎義家)」がいます。
武勇・智謀にも長けている義光は、また笙(雅楽で用いられる管楽器)の名手である。
写真はネットから。


大寶寺、多福稲荷を後にする。


大寶寺からバス道の県道311号線(鎌倉葉山線)へ戻り右折し鎌倉駅方面へ進む。

13:00
安養院(あんよういん)
所在地:神奈川県鎌倉市大町3丁目1-22
県道311号線(鎌倉葉山線)沿いにあるお寺である。


各寺への道案内。


門前に建つ寺標「坂東第三番田代観音 安養院」。


安養院の山門。


安養院(あんよういん)
尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園
山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って
安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。
延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂
を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。
  ● 宗  派:浄土宗
  ● 山号寺号:祇園山安養院田代寺
  ● 建  立:嘉禄元年 (1225)
  ● 開  山:願行上人
  ● 開  基:北条政子
写真は、オオムラサキツツジ。


境内は撮影禁止となっている。


正面に本堂が建つ。


山門を入ると左側に「日限地蔵」
日限地蔵は日を限ってお参りをすると願いが叶うとされる御地蔵様です。鎌倉時代末期から
南北朝時代に造立されたとされています。
古い時代には子安地蔵として信仰されていたと伝わっており、日限の御利益の他に、子授け
・安産・育児の御利益もあるといわれています。


13:05
安養院の境内は撮影禁止となっているので門前で引返す。県道311号線(鎌倉葉山線)を西へ進
むと前方にお寺。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2022.08.30 11:49:33
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