おじん0523のヒロ散歩

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2022.09.03
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以前からタウンニュースに記載されていた「純水館」の写真展が開催されていると。
純水館とは???
今も史跡として姿を残す、かつて群馬県富岡に設立された「富岡製糸場」。2014年に世界遺産
登録されたこともあり全国的に広く知られた存在だが、ここ茅ヶ崎にも “世界屈指” とまで言わ
れる製糸工場があったことは地元・茅ヶ崎市民にすらあまり知られていないという。
生まれ育った我妻に聞いても「知らない」と。私も茅ヶ崎の住民になって半世紀になるが、タウ
ンニュースでその存在を知り関心を持った。
ブログの一部記事・写真は「とことこ湘南」より引用させていただいております。

タウンニュース 茅ヶ崎版 8月26日(金)より。 
「純水館」写真展 好評博す
記念碑設置へ向け支援も


場   所:茅ヶ崎ショッピングセンター。入場無料。
会場では記念碑の製作費として1口千円から支援も募る。 有村幸三委員長は「今後も純水館の
認識度を上げる活動がしたい」と話す。


8月27日(土) 13:00
茅ヶ崎駅北口からエメロードを走り展示会場の「茅ヶ崎ショッピングセンター」へ。
所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町2-30
前回の東京オリンピックの年に開店した茅ヶ崎では一番昭和を感じさせるショピングモール。
入店しているお店の多くは老舗で三代目が頑張っていると。


茅ヶ崎ショッピングセンター前から北方向を望む。
妻からは「お惣菜、魚が新鮮でおいしい」と。


茅ヶ崎ショッピングセンターの中にはチケット売り場がある。



1階2階で同時に展示実施しており、絵画や手作り作品展などを市民の皆さんに開放している。


正面に「多目的ふれあい広場」、今日の目的地は右側。


目的地の、「純水館」写真展。
右側に受付があり記帳して、この後担当者、有村会長から説明を受ける。


受付で、写真撮影の許可を得て撮影。一部個人の写真は禁止。

純水館の跡地に建設された、現在のヤマダデンキLABI茅ヶ崎店の母体であります、
㈱山田ホールディングス様のご厚意により、敷地北側の小公園内に歴史掲示板を設置
させて頂けることになりました。
あなたは、知っていましたか?
大正から昭和初期にかけて、 世界屈指の高品質な生糸 を作る 「純水館茅ヶ崎製糸所」
が駅北口にあったことを!


純水館講演会実行委員会後援団体一覧
茅ヶ崎市教育委員会
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会
茅ヶ崎郷土会
「山田耕筰」と「赤とんぼ」を愛する会
茅ヶ崎観光協会
茅ヶ崎商工会議所
音貞オッペケ祭実行委員会
茅ヶ崎市文化団体協議会
茅ヶ崎ロータリークラブ
とことこ湘南
こども応援丸
茅ヶ崎民話の会
茅ヶ崎青年会議所
茅ヶ崎市まちぢから協議会連絡会
タウンニュース社
茅ヶ崎純水館研究会
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館友の会(事務局団体)


操業時の茅ヶ崎工場。
純水館があったのは茅ケ崎駅北口、現ヤマダ電機付近。敷地は6314.27㎡と、元町のエリアか
ら郵便局のある一帯にまで及んでいたと広大な物であったが、現在は建物は完全に逸失してい
る上、歴史的な資料は殆ど残っていないとされていた。
工場の北側には旧東海道の松並木が続く。


工場の煙突にはカタカナで「ジュンスイカン」と書かれている。
純水館は大正6(1917)年創業。元は長野県小諸で製糸工場を営んでいた房全が茅ヶ崎にやって
きたそもそものきっかけは、自身と妻・喜代野、長男、義母と一族が茅ヶ崎のサナトリウム・
南湖院に入院したことだったという。
当時の茅ヶ崎は、
 (1)積極的に工場誘致を行っていたこと
 (2)輸出の窓口となる横浜港が近いこと
 (3)競合となる大規模な製糸工場がなかったこと
 (4)周辺が養蚕地帯であったこと
 (5)工場に欠かせない良い工業用水が確保できたこと
など、条件がそろっていたことから工場の建設を決意。工場で働く女工も集団で長野から茅ヶ
崎へと移ってきたとある。


純水館操業当時の茅ヶ崎駅北口の地図と年表。


純水館茅ヶ崎製糸所・小山房全関連年表
明治15.8.17  工藤房次郎誕生(丸子町・工藤善助次男、後小山房全)
明治20      小山喜代野誕生
明治23      純水館設立(小諸・小山久左衛門)
明治26.5     松林村に島崎製糸場・山本製糸場・森製糸場設立
明治28.2     茅ヶ崎停車場設置嘆願書を提出(茅ヶ崎・鶴嶺村等連署)
明治29.2     九代目市川團十郎、小和田海岸に別荘敷地を購入
明治30.6     九代目市川團十郎別荘孤松庵の上棟式
明治31.6.15  東海道線茅ヶ崎駅開設
明治32.6     海水浴客のために旅館茅ヶ崎館開業
明治32.8     小出村に平本製糸場開業
明治32.10.12  高田畊安、結核療養所南湖院が認可
明治33      小諸純水館は横浜渋澤商店経由で生糸を海外へ輸出
明治34.2     南湖院、測候所開設
明治36.9.13  九代目市川團十郎、孤松庵で没
明治39      房全が東京蚕糸講習所製糸科卒業
明治40      房全と喜代野が結婚
明治41.2.4    国木田独歩、南湖院に入院
明治41.6.23  国木田独歩、南湖院で没
明治41.10.1  茅ヶ崎・鶴嶺・松林の3カ村合併 → 茅ヶ崎町成立
明治の終り頃  房全、喜代野、梅路(喜代野母)、邦太郎(喜代野弟)、南湖院へ入院
大正元     平塚雷鳥が奥村博史と共に南湖院に来る
大正3.3     小出村に山本製糸場開業
大正3      小諸純水館が茅ヶ崎駅前に繭購入所を設置
大正5      茅ヶ崎に1万坪の工場建設
大正6.2.5    純水館茅ヶ崎製糸所操業開始(館主 小山房全)

純水館茅ヶ崎製糸所・小山房全関連年表
大正6.12.18  相模鉄道株式会社創立(社長:岡崎久次郎)
大正10      高橋誠一が純水館の嘱託医になる
大正12.2     ニューヨーク市で開催された第2回国際絹物展覧会に出品。訪問団長は
        房全実父の工藤善助。「Special Double Grand Extra」の格付けを獲得。
        (世界1、2位の高品質)
大正12.7     皇太子殿下御慶典(後昭和天皇のご成婚)の献上繰糸を全国で唯一、純
        水館が指定され繰糸開始。
大正12.7     茅ヶ崎駅南口が開設。
大正12.9.1    関東大震災発生。納入繭の85%の繰糸終了時点で工場全壊。喜代野夫人
        と男性工員の2名が圧死。残りの繭は小諸純水館で繰糸。秋の皇太子の
        ご成婚は翌年1月に延期。
大正12      小出村の山本製糸場が震災被害のために廃業。
大正13.3     純水館茅ヶ崎製糸所が繰糸を再開
昭和6.10.1    房全が神奈川県製糸同業組合長に就任
昭和7      房全が発起人となり茅ヶ崎信用組合設立
昭和10.3     高橋誠一が恵泉幼稚園を設立。
昭和10.9.15  房全死去(気管支喘息、心臓弁膜症、53歳)
昭和10      東洋陶器株式会社茅ヶ崎工場設立
昭和12.5.6    純水館茅ヶ崎製糸所廃業
昭和13.6     東海電極製造株式会社茅ヶ崎工場設立
昭和14      東洋カーボン株式会社設立
昭和14.9     株式会社日東製作所茅ヶ崎工場設立 
                    出典:茅ヶ崎市史5概説編
                       文化資料館叢書30


小山房全  1882(明治15)年 ~ 1935(昭和10)年


純水館操業当時の茅ヶ崎駅北口の地図。


明治○○の茅ヶ崎駅周辺家並図。
黄色矢印部分が「東海道一里塚」、赤矢印「茅ヶ崎駅」。


ー 茅ヶ崎駅周辺地図 ー
大正末期 新町(○○新栄町)周辺状況
大正6年頃は、一里塚から西側の旧東海道南側が純水館製糸工場。
隣接して「町役場」「イトウショウ油工場」がある。周りには麦畑、芋畑、桑畑が広がる。

当時、横浜で高級生糸を取り扱っていた渋澤商店 (渋沢栄一の従兄が経営) の取引先ごとの価
格表には、他の製紙工場が14中(デニール=太さ)で30円、50円という金額が並ぶ中、純水館
は300円と一際高値で買い取られている。
更には大正12(1923)年の皇太子(昭和天皇)のご成婚、昭和3(1928)年の昭和天皇御大典(即位
礼)の2度に渡り、全国の養蚕家からの献上繭の繰糸を数多の製糸工場の中から抜擢され、任さ
れていたという記録も残り、優れた製糸技術が高く評価されていたことが伺える。
主な輸出先だったアメリカでは「Special Doble Grand Extra」と格付けられ、アメリカで1、
2を争う規模の絹物会社の社長・チャールス・チニーが「フランスと遜色ない程の高級な生糸
を日本でも作り出せる事には驚いた」(概略)と、称賛する言葉を残している。
「当時フランスは高品質の生糸生産国として知られていました。日本の中でも質の高い糸が評価
されていた純水館は、“世界屈指の繰糸技術を持っていた”と言っても過言ではないでしょう」
(名取氏)


純水館の敷地。
現在の地図と合わせて位置確認。


タウンニュースの連載 vol.6
「真逆の発想 御法川(みのりがわ)多条繰糸機 その1」ちがさき純水館物語。
湯で煮た繭から糸を取り出すのが製糸工場です。大正時代の終わり頃から繰糸(生糸生産)機の
技術革新が起きます。2枚とも純水館の写真です。左が高品質生糸の生産を可能にした御法川
多条機糸機で、立って作業する立繰機です。右が従来の繰糸機で、座って作業する座繰機です。
広く使われていたのは、一人が4本の繰糸を担当する・・・・・(後略)。


御法川式多条繰糸機    大正末~昭和30年代
長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産
1907(明治40)年に御法川直三郎が開発した、従来とは全く逆の発想による画期的な繰糸機
です。蚕が糸を吐くような低速で糸を巻き取れば、繭糸の品質を損なわない生糸ができるので
は、というのが彼の発想の根源でした。速度を従来の1/5とする代わりに条数※は5倍の20条
に増やし、立って繰糸をしました。浮繰りから沈繰※に変え、接緒は機械式の回転接緒は機械
式の回転接緒器を導入しました。片倉製糸紡績(株)でいち早く実用化され、その生糸はアメ
リカで絶賛されました。多条繰糸機は、わが国独自の開発技術として世界に普及し、その革新
的な技術は自動繰糸機へとつながっていきます。
 ※沈繰:繭が水中に沈下するように煮繭し、繰糸する方法。


大正時代の女工というと「女工哀史」「あゝ野麦峠」のイメージもあるが、前述の例にも見ら
れる通り、純水館では女工らを手厚く扱い、房全が教育に高い関心があったことから月1度は
有名な講師を招いて裁縫などの講義を開き、寄宿舎には雑誌・新聞や新刊本を揃えた図書室を
設置、野球やテニスの時間も設けるなど「人材を育てる事」を大切に運営されていた。まかな
い所での食事も評判で、小山夫妻も一緒に同じ献立を食べていたという。
このことは大正13年6月15日の横浜貿易新報(現神奈川新聞)に「藤澤茅ヶ崎方面 純水館の近況
絲も造るが人間も造る」という見出しで記事にもなっている。

大正6年2月4日 相州茅ヶ崎町純水館女工江之島遊覧記
純水館慰安会団員三百五十名


『震災追善碑』の碑文調査


本村・海前時にある純水館の『震災追善碑』の碑文を調査した。岐阜県古川町出身の天木栄一
郎氏が、当工場在勤中、大正12年9月1日の未曽有の大地震による工場が全壊によりお亡くなり
になった。当時380名余りの在勤者の中で不幸にしてお一方のみ犠牲になられた。(市史では
3名となっている ※1) 前途有望な青年の天災による死は誠に残念なことである。行年23歳。
大正14年3月21日 純水館茅ヶ崎製糸所建立。


後日その碑がある海前寺を訪れた。
国道1号(旧東海道)沿いに建つ寺標石「曹洞宗 海前寺」。


曹洞宗海前寺山門
所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目21-34


山門横に立つ仁王像。


左側の仁王像。


山門左側に六地蔵。


山門を入り本堂を下方から見上げる。
本堂前には徳川将軍の菩提に奉納された大きな石燈籠が建つ。


山門を入り左側の壁際にある「震災追善碑」。
以前来た時は判読できなかった。


石碑には「震災追善碑」と。
説明文が無いので純水館との関係が解らなかった。


天木栄一郎氏者岐阜縣古川町之人也當工場在勤中大正十二年九月一日際・・・中略・・
大正十四年三月廿一日純水館茅ヶ崎製糸所建之
よく見ると「純水館茅ヶ崎製糸所」と刻まれていた。前回訪れた時は「純水館」は?。


『純水館 茅ヶ崎製糸工場』の写真展にあった碑文。


震災追善碑の傍に鐘楼。左手前に石碑。


その石碑には「故茅ヶ崎驛長中島熊吉郎碑」。


裏面には、
盛徳院仁譲義博居士 大正五年七月六日歿
美徳院恭譲明博大姉 大正七年十二月二十七日歿
          大正六年七月六日 茅ヶ崎町友人建之


墓地の西側に歴代住職の墓地。


當山歴住和尚眞位墓誌
開山   冷室長厳大和尚   慶長五年???
二世   松?雪大和尚    正保?年???
 ・
 ・
二十四世 瑞巌喜芳大和尚   令和元年十二月四日寂赤間喜芳九十才 


歴代住職の墓地から本堂を望む。



                                      ー 続く ー







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最終更新日  2022.09.03 03:00:07
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