おじん0523のヒロ散歩

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2022.09.04
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茅ヶ崎住民になって半世紀、戦前製糸工場があったことを知った写真展。
係の方に「純水館」の名前の由来を聞くが明確な説明はなかった。

8月27日(土) 13:15
関東大震災による茅ヶ崎純水館の被害状況。
写真は「倒壊した茅ヶ崎純水館」 名取龍彦氏提供。
『シルクの里 小諸 純水館ものがたり』 平成19年3月 
                 編著者:純水館研究所 101頁より。


倒壊した茅ヶ崎純水館
屋根が崩れ落ち倒壊している工場。この被害で喜代野夫人と男性工員の2名が圧死した。
後の説明文では3名とあるが。


茅ヶ崎純水館と関東大震災
被害状況
1)22棟の工場、附属建物が全壊、7棟の附属建物が半壊。従業員の犠牲者は3名(男
 子2名、女子1名)が亡くなった。館主宅も全壊し、房全の妻きよのも犠牲となる。
2)横浜へ出荷していた434貫の生糸が焼失(1貫=3.75kg)、工場にあった2千貫を
 超える繭が役に立たなくなり、被害額は29万円(現在の価値で約7.5億円程度か?)
 にのぼった。(純水館の繭需要量は年間65,000貫)
3)秋に予定されていた皇太子殿下(後の昭和天皇)ご成婚に向けた御慶典の繰糸中で
 あったが、納入繭の85%の繰糸が終わったところで震災が起こり、工場全壊で
 ストップ。残りの繭は小諸の純水館で繰糸した。
【市内の被害】
  住宅3426戸(全壊2112戸、半壊1207戸)、死者は156名(男65名、女性91名)。


産業医高橋誠一(南湖院副院長)の動向
1)関東大震災当時(39歳)、純水館の工場医の嘱託として工場衛生を担当し、また
 純水館内に診療所を設置し従業員の診療を担当する責任者であった。
2)工場は全部倒壊し、男の従業員が圧死。館長の住宅も完全に倒壊し、館長夫人が
 圧死された。
3)十数人の女工の負傷者も出て実に悲惨なものであり、蒸気鉄管の下敷きとなり、
 骨に達する背部の大やけどをした重傷者もあった。
4)早速倒壊されなかった繭置小屋を救急病室とし、全てが全快するまで治療を続け
 ることができた。
【南湖院】
  本館である愛光室が全焼したが、入院患者全部が無事であったことは不幸中の
  幸いであった。
【インフラ】
  汽車は不通となり、電信電話も止まり徒歩旅行と自転車の利用ぐらいのもので
  あった。
【家屋倒壊と圧死者】
  瓦葺の屋根の重かった高級別荘家屋は、ほとんど全部倒壊したと言ってもよい。
  だから茅ヶ崎は圧死者も多かった。私たちは死体の検死にせわしく、圧死者全
  部を検死して歩くのに幾日もかかった。実に悲惨きわまるものであった。
写真左:就職当時の南湖院職員(明治42年11月)土岐美也・高橋誠一
写真右:南湖院職員(昭和12年) 高田畊庵・高橋誠一


房全の死と工場閉鎖
震災後、房全や従業員、関係者の必死の努力により工場を再建し、大正13年春から
操業を再開したが、昭和4年の世界恐慌や昭和10年秋の房全の病死により、昭和12
年には工場を閉鎖せざるを得なかった。(負債額百四十万円。現在の価値で36億円
程度か?)。
房全の死後7年目に発行された「房全追懐録」に綴られた多くの知人、恩師、政財界
人、業界人、親戚、家族等の言葉からは、房全の経営者としての優れた才覚以上に、
神のような慈悲深さと共に従業員への教育と愛情、茅ヶ崎町の発展に対する多大な
る貢献など、房全の人間性がひしひしと伝わってくるものがある。



1)「本村の相模鉄道の線路を前に見晴らしよく富士の姿も眺められる小山家の墓地
 に納まった」と記録にあるので、北茅ヶ崎駅東側の海前寺と円蔵寺の共同墓地の
 全ての墓碑を調べたが、小山姓のお墓は見当たらなかった。
2)名取龍彦氏に伺った所、海前寺の過去帳にも記録が無く、小諸の小山家の菩提寺
 にも記録が無かったとのことであるが、菩提寺の海応院に房全のお墓を発見した
 とのこと。太平洋戦争が激しくなる前に、茅ヶ崎から小諸へ改葬したのではない
 かとのこと。
3)墓碑には中央に房全「義光院大機房全居士」、右側に震災で亡くなられたきよの
 夫人「清光院徳質慧明大姉」、左側に後妻のけいこ夫人「清心院感恩慈恵大姉」
 の名前が並んでいる。


純水館記念碑(歴史掲示板)



純水館記念碑(歴史掲示板)の設置イメージ
設置場所のご提案経緯
この3カ所から検討されたようだ。


純水館記念碑(歴史掲示板)
最終的な設置イメージ

建設の趣旨にご賛同頂き、一口千円以上のご寄付を頂戴した皆様にお渡しします。
純水館の歴史を、是非ご一緒に宣伝して下さい。


この日の目的「一口千円」を寄付して名前入りで領収証代わりに頂きました。
有村会長から「 記念碑は秋から冬に除幕式を行います のでその時お会いしましょう」と。


写真は1923(大正12)年、皇太子ご成婚に際し「純水館」が選ばれて生糸を献上した際に記念
として撮影されたもの。右端のモーニング姿の男性が館主。


13:45
写真展から出、エメロードからかつてあった北側の純水館方向。
かつては工場のエントツが聳えていたのであろう。


純水館の跡地への途中にある稲荷社。


正一位左近稲荷大明神
所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町7-27
商店街の9名?が世話をしており、年一度伏見稲荷へ参拝していると。


稲荷社は両側後方をビルで囲まれている。


間口2間ほどの敷地に鎮座している稲荷社。


正一位左近稲荷大明神 縁起
稲荷信仰は、和銅四年(711年)如月(ニ月)初午の日に、稲荷大神が伏見の稲荷山に御
鎮座になったことにはじまります。
当左近稲荷大明神は、茅ヶ崎駅開設に伴い、この地域の人々の流入がはじまり、商業
を営む方々などにより、商売繁盛・五穀豊穣・学業成就など諸願成就の神として祀ら
れました。
左近稲荷講中では、毎年初午に合わせ、講中の代表者が、京都の伏見稲荷大社に詣で、
祈祷を承け新しい神符を頂き、御社に納め奉り、講中のみならず、多くの市民の方々
がご利益を授かリますよう、ご奉仕に努めております。
             参拝の作法 二拝 二拍手 一拝


社殿
お稲荷さんの1位は「京都の伏見稲荷」、2位は「愛知の豊川稲荷」で3位は各地で名乗りを上
げていると。関東では「笠間稲荷」等々 と。


内陣


ヤマダ電機の西側から東方向を見る、この辺りがかつての工場跡地。
関係者はこの道を「純水館通り」と呼んでほしいと。


右側(南側)にイトーヨーカドー、左側(北側)にヤマダ電機が建っている。
私が茅ヶ崎市民になったころは、イトーヨーカドーの敷地には「熊沢味噌」「市役所」
が建っていた。昭和の雰囲気があった光景が今では懐かしい。


ヤマダ電機、イトーヨーカードーの間の「純水館通り」を進み東側から西側を望む。


左前方が記念碑設置場所予定地。


南方向に茅ヶ崎駅。


国道1号に沿った角地に、小公園がある。


この芝生の一角に記念碑が建てられる。
国道1号(旧東海道)の北側に茅ヶ崎市役所がある。かつてのこの辺りは松並木であった。


小公園の西側から。


今年の秋から冬に記念碑が建てられる。


国道1号(旧東海道)の一里塚交差点。                                     


交差点角に現存する「一里塚」。


茅ヶ崎一里塚
   昭和三十六年八月十五日
   茅ヶ崎市史跡指定
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年慶長六年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し以後江戸を中心と
した交通網の整備にとりかかりました。
慶長九年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約四キロ)ごとに塚を築き、客人の目安にしま
した。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から十四番目にあたり
ます。かつては道の両側にありました。
       茅ヶ崎市教育委員会


ユリが咲く


ズームアップ。


13:55
国道1号(旧東海道)の一里塚交差点。
交差点の北東角から撮影、南東の方向に一里塚があり茅ヶ崎駅へ。
この日はこの後 「レ・フレール&神奈川フィルハーモニー管弦楽団 ジョイント・コンサート」
を聴きに市民文化会館へ向かった。


また一つ茅ヶ崎の歴史を知った日でした。

                                        END





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最終更新日  2022.12.18 19:58:36
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