2023年07月31日
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カテゴリ: 催事
 大正4 1915年、釧路郡釧路町は国勢調査で5975戸 2万8964人を記録する。翌年、市民の人口数は3万205人に。
 人口の受け入れ。その配置が当然、課題となった。<産業基盤>偏重から<都市基盤>整備が問われる時代を迎えていた。
 言葉を代えると居住者の<野放図>な選択から、<引き出し>を用意する整理。その転換点に釧路町は当面していたと言ってよい。

 郷土を学ぶ地域学セミナー10thは「昭和初期の橋南の地図散歩」。
 豊富な資料に、担当の大島研志さんが入力した解説情報を示して、釧路川左岸の<昭和ロマン>が提示された。
 1)幣舞橋、特に釧路川埋立前の河幅、2)博済病院跡の移転過程、3)昭和初期の市民生活を支える外部サービスの誕生

 行政資料に「樽函若者、釧路怪童」と記載される人口急増期。そこをどのように受け入れてゆくか。
 1)行政区域の人口が3万人から5万人に拡大。
それは軌道交通を通じ、木材・石炭・酪製品を中心市街の隣接地に集積すること。
 2)その軌道交通周辺は泥炭湿地におおわれ、居住地化には投資が不可欠で地域の力量を超えるものであった。
 3)世に<三大プロジェクト>が不可欠。
 A)釧路川切換え、新水路開削、B)上水道整備、C)幣舞橋永久橋化。

 A)は大正10年に着手、B)は昭和2年10月通水式、C)は昭和3年11月渡橋式。因みにA)は昭和6年9月、併行して進行中の釧網本線の開通式前日に通水式挙行。

 幣舞橋 博済病院跡 春採湖周辺 大島研志さん「昭和初期の橋南の地図散歩」230731





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最終更新日  2023年08月01日 05時53分35秒コメント(0) | コメントを書く
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