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神と共なる愛着心を持て 1960年9月4日(日)前本部教会 この御言は40日伝道期間を終えて帰ってきた隊員たちに語られた この期間に南韓各地400か所に行って伝道し、今は多くの教会が生まれました。それゆえこれから統一信徒は、新しい覚悟を持たなければならない時が来たとみるのです。今協会長も話ましたが、血と汗を流して、その地方なら地方を抱えて、命をかけて戦うことを有難く思うものです。 この世的な愛着心を切る摂理をされる神 皆さんに一言、言いたいことは今から我々は戦わなければならない時が来ましたので、神が願う時期を迎えて、我々はある覚悟をしなければならないということです。個人的な覚悟よりも、天地を代身して天を動かし地を動かすと同時に、人類を動かすという覚悟をしなければならないということを、皆さんはこの伝道期間を通してよくよく体験したと思います。この時代的な基準を我々はまず知りましたので、この時がどんな時かを知らねばなりません。 天は必ず善なる群れを率いる時、平坦な道を行くのではないのです。踏まれるその場で涙と汗と血の祭壇を連ねて、これまでの歴史を抱えて来られたことを、どんな歴史的な史実を見ても、摂理的な路程を観察して見ても、これは否定することができない事実です。 ですから今日のこれまでの歴史、文化を見ても、その環境に遊んで安楽な立場で生きてきた群れによってできたのではなく、踏まれ追われる群れを通して、彼らの涙と汗と血によって成されてきたことをよく知っています。このように個人から家庭を経て、あるいは社会、民族、国家を経て世界を越えて、ひとつの目標に向かって歴史を編んできて、これまでの人類文化は発達してきたのです。 それではこの時はどんな時か? 良心的な者や、あるいは道を究める人や、誰かれを問わず、新しい覚悟をしなければならない時であることがよく分かるのです。この時は自分が暮らす社会に対する愛着心を切ってしまう時が来たのです。神はこの地上に摂理されるにおいて、求道の道を行く数多くの群れに対して、彼らの世の中に対する愛着心を断ち切る道へと追い込まれるのです。家庭から、自身の欲心から、この世にはある欲望の属性が多々ありますが、神はこれを除去する方向へと、率いてこられたことは事実です。 これは単に宗教人のみではありません。宗教なら宗教人を中心として、一つの目的を成すための神のみ旨があったとすれば、最後の終末時代にはどんな世界が来るのか? 必ず全ての人々が愛着心を失ってしまう社会環境へと、神は追い込まれるのです。 終末とはどんな時か? 終末とはどんな時かというならば、自分たちが命をかけるどんな事に対しても、愛着心がだんだん薄れていって、ついには失ってしまう時です。そんな終末時代が、必ず来る時がなければならないのです。これはなぜでしょうか。世の中の愛着心を持っていては、天のみ旨を達成できないからです。 とすれば神は必ず目的を達成し、み旨を果たそうとされるなら、必ず地上の人類、あるいは国家に対する愛着心、民族に対する愛着心、あるいは自分の学問に対する愛着心、さらには家庭に対して、あるいは父子の関係における、各分野、各部署における愛着心を断ち切ってしまわれようと、天は摂理されていることを総括的に見ることができるのです。 さらには現在を総括的に観察して見ると、民主と共産世界が対決しています。こんな思潮が行けば行くほど、民主陣営にある人間自身も民主陣営に対する愛着心を失ってゆくのです。その反面、共産主義者たちも共産主義に対する愛着心を失ってしまう方向へと、必ず世界は動いて行くのです。このように闘争的な現象を経て、人類に対する愛着心を断つ方向へと、これまでの歴史は展開して終末的な路程へと流れていることは事実なのです。 世上に対する愛着心を断ち、神の代身者と因縁を結べ 我々が天の側の立場で観察して見ると、必ず個人から家庭を通して社会と国家を越える世界、天宙の思想圏までもこんな傾向になっていると同時に、さらには宗教や良心にすがっている人々、あるいは求道の人々においても、そんな傾向にと必ず行かざるを得ないのです。ですから今日、既成教会や、全ての宗教を見ると、その人々が必ず新しい宗団に向かう本来のみ旨の時が来ましたので、どの宗派を問わずそこには必ず分裂が起こり、誠心誠意すべてを注いで殉教していった数多くの聖徒たちが、これを排除していかなければならないのです。こんな終末時代が必ず来なければならないのです。 それではどうして神はこんな方向へと行かねばならないのか? 皆さんはこれを知らねばなりません。悪の世の中と善の世の中、悪の世の中で一つの峠を越えるためには、必ず精算しなければなないのです。これを精算する時がいつかといえば、審判時代なのです。その時が審判時代です。我々が世の中の全てのことに愛着心を持って終わりまでしがみついていたら、天の前に大いなる審判の場を越えることができません。ですから天は全部整理させようというのです。ついには自分を信じられず、愛する人までも信じられないという孤独の境地にまで追われ、愛着心を持って世の中に誇る何物もないという立場まで追い込まれるのです。このように追われ、ここにおいて人間の力ではもうダメだと誰もが思う時、再び天を願い、天に対する愛着心を呼び起こす摂理のみ旨があるのです。そのようになるのです。 それでは我々がこの時代において、この時代が審判の時ならば、どのように審判がなされるのか? 御言審判と同時に人格審判があり、人格審判と同時に心情審判があります。原理を学んでいますから、皆さんは良く知っています。ただ名目的に審判するのではありません。火を降り注いでこの地に天変地異を起こし、全てを滅ぼすのではありません。絶対にそうはなりません。必ず審判には、御言審判があり、その次には人格審判があり、そして心情審判があるのです。 キリスト教全体の歴史を照して見て、イエス様までの4千年の間、求めてきたものが何か? 真の真理を求めてきたのです。さらに真理を中心とする、真理化する、神のまえにに立って、神を心から呼び、神が心から話され、神の御言に直接ふれ、神の御言に直接、答えることのできる一人の人格者を捜し求めてこられたのです。 その人格者を立てて、どうするのですか? 神とその人間と一体となって、神の愛を受けたならば、神の前に愛をもって答える立場まで導く神のみ旨があったのです。ですからイエスが来られた後、これまでは御言を中心とする審判歴史なのです。「信ずれば救われ信じなければ救われない」という標語のもとにこれまで来ました。それで御言と実体が必ず伴わなければならないのです。神の真の御言は必ず、実績と実体を残さなければならないのです。これが天理の原則です。 ところでこの地上に万物を造る時、真の息子娘のために造られたのに、真の実体が現れなかったのです。これが堕落ですよ。真の実体を得て神と共に生きることができない世界となったのが、堕落した世界です。これを再び探し求めるためには、再び神が御言を下されて心情と連結しなければなりません。御言を再び立てて、御言を代身した実体を立て、その実体の姿が完結した後に、神の心情を注いで父子の因縁を結ぶのです。これが創造目的であることを、皆さんは良く知っています。 ですから天が今まで、摂理されて来たことは、御言を捜し立てることだったのです。しかしいまだイエスが行かれた後、真の御言は現れないのです。御言とはどんな御言であり御言の目的は何か? これは個人と国を生かすためのものではありません。御言の目的は個人を越え、家庭を越え、社会、国家、世界、さらには無形の世界まで、この天地の理念を蘇生させるためのものです。この目的を達成してこそ成るのです。 なぜそうか? 神はアダムとエバを造られ、祝福されて万物を主管せよとされました。主管する時は外的な面ばかりではありません。内的な面まで主管しなければならない基準があるのです。この話は何の話ですか? 私個人が信じて天国に行くためのものではありません。私個人が信じると同時に、私の家庭が信じ、社会、国家、全世界、さらには天上にいる無数の霊人まで一つになり、神が創造された理念と共に、一体の立場までゆくためのみ旨で、そんな御言を下されたのです。 神の御言を中心として理想世界を成せ こんな面から見るとき、今日のキリスト教はいまだキリスト教の世界観が立っていません。個人は必ず本然の家庭を基盤として、社会理念を経て国民、あるいは世界人類としての関係を離れることはできません。ですから我々の個体を中心として、救援の目的を探す時は過ぎ去ったのです。「天のお父様、お救い下さい」と血と汗を流して祈祷する時は終わったのです。時がそんな時ではありません。 ですから昔、神様はこのような歴史的目的を達成するために、数多くの人間を悪なる存在の懐に抱かせ、そのままに任せ、新しい角度から新しい色あいの姿を求め、個人から、あるいは家庭から社会、国家形態をもって選民という民族をここに立てるために役事されていることは事実です。 それで神の救援の目的は宇宙的な、さらには天宙的な目的達成であります。ですから今日、人間が必要とする御言審判時代に要求するその御言は、やはり天宙の理念を越えることができる御言でなければならないのです。ですから個人が救いを受けようというのではありません。世界観から、天宙観から徹頭徹尾、原則的なその御言を中心として、自分がぶつかる時、いまの自分自身は神の御言のまえに、土くれが光を受けて造られたように、ここに生命が生まれ、感情が生まれ、理念的な方向を捜し求めて行くのです。そんな真の御言を、人間は必要としているのです。 今日このような内容を持つ御言はどこにあるか? ないのです。ですから堕落以後から今まで、聖書の年代を見るとき、幾千年の歴史を経てきていますが、幾千年の歴史路程におきまして神が憤りの言葉を発せられないのです。聖書の御言はイエス様が独身の身で語られたものです。イエスを中心とするその理念は、宇宙の全体のまえに立てるものでなければなりません。しかし個人救援摂理を中心に、今まできたのです。これを分かって下さい。個人救援を過ぎ、家庭救援、家庭救援を過ぎ、社会救援、国家救援まで天は必ず、立てなければならないのです。最小単位として、国家でなければなりません。そうすれば世界的役事をすることができるのです。 ですから今日、キリスト教徒たちは国がない民なのです。求道の道を行く人々は国がない民なのです。ここには国籍もなく、移管される国家もないのです。自分が自分の宗族だとすることのできる民族もないのです。 こんな現世界において、今日この時代はどんな事を要求しているのか? 今日この時代現象において、我々は宗教人のまえに何を要求しているのか? 道の理念を中心に国籍を立てることのきる、道の理念によって国土を確定することのできる、道の理念を中心として民として立てることのできる基準が、神が摂理されたなら必ずなければならないというのです。 こんな現象を収拾するためには、どうしなければならないでしょうか? ひとつの分野を見てみると、百軒あれば百軒の暮らしが全て違うのです。違っていてもある原則的な心情に一致する帰一点がなければなりません。この帰一点を立てるためにキリスト教は、愛というテ-マを掲げたのです。とすればこの愛のまえに、誰が接ぎ木されて、復帰されるのでしょうか? この愛という言葉のまえに、誰でも尊敬することのできる基準を、天は引き上げなくてはなりません。ですからここに新郎新婦という名詞を与え、絶対的基準を立てるために、教会や聖書の中にこれを訓戒されたのですが、今日教会を信じる多くのキリスト教徒は、そんな境地に立っていないので、問題が大きいのです。 こんな摂理されてきましたので、今この時代に神が最後に望まれることは、心情的基盤において、ある個人が信心して天国に行くことを願ってはいないのです。個人を中心とする家庭、家庭を越えて国家、あるいは世界全部が神の心情のまえに一つになる、御言を中心とするそんな世界を慕い求めているのです。これは不可避なことです。 御言を中心として互いに一つになれば理想世界を成せる ですから名目的に信ずる時代は過ぎました。全ての事理は我々の生活的な感情まで、位置と公式的な法度過程を条件として、我々と関係を結んでいる実生活を否定しなかったら信仰観念において、やはり突き上げるものがなければなりません。 それでは今日、聖書において示し、聖書で望んでいる目的はどこにあるのか? 神の目的は何か? 審判の目的はどこにあるのか? 一個人を審判して、救援して、天国を望む目的は絶対いけません。神の善の国を造ることが目的です。全てを滅ぼしてしまうことが神の目的ではありません。神は滅ぼしはしない愛の心情を、持っておられるのです。 それゆえ今日これを収拾するために、この歴史をどんな面へと率いてこられたかといえば、必ず立ち塞がる過程を経なければならないのです。ないと解決できないのです。必ずこれを精算してこそ、新しいことを始められるのです。悪と善が一つ所にありますか?一つ所に同じくはないのです。分けられなければなりません。 それでは今、悪なる世の中から善なる世界へ移行することが神のみ旨であるとして、そこには必ず審判的な条件を提示されるのです。その審判をする時、御言をもってするのです。その御言の目的は、全てが救援です。それは個人の心情に通じ、家庭食口たちの心情に通じ、国民、あるいは国境の異なる民族の心情に通じる、神の側から見ると、一つの心情に通じることのできる基準を持っている、そんな宇宙的な理念を中心として摂理されてこられたのです。 皆さんたち、今日全世界キリスト教徒は誰だと思っているのでしょう? 全世界キリスト教徒は兄弟であり、天の国の民です。兄弟の観念を持っていなかったら、民になることはできません。兄弟の因縁を離れた者は、民になることはできないのです。今日の教会の現象を見ると、互いに引き離しています。兄弟の因縁はみんなどこかへ・・・。 この時は今、どんな時を要求しているのでしょう? 天の国、天国を建設するための新しい時が来ましたので、民の過程を経なければなりません。それでは皆さんは兄弟の時代を迎えていますか? これを各自が反問しなければならない時です。今日我々には今まで歴史的に、あるいは今までの自分の環境的な背景を中心として生きてきた、全ての体制というか、家庭の体制というか、信条というか、この全部が、私をして天のまえに捜し立てる、真の兄弟の因縁を結んでいなかったことを、はっきり知らねばばなりません。兄弟の因縁を結ばなかった者たちが、団結して民として任じても、これは必ず壊れるのです。国を愛するにおいて、兄弟よりもさらに愛さなくてはなりません。こんな路程に、天は追い込むのです。 それで今日の世界キリスト教徒、さらには求道の道を歩む多くの人々は、いま心を同じくして兄弟の因縁を求め「我々の因縁は誰が奪えるか」という道を中心に行かねばなりません。こんな形態が、必ずこの地上に現れなければならないのです。 見てみなさい。キリスト教の初代教会時代には、兄弟が血を流している時には、自分の命を捧げて、死の場もかまわず貫いて行くという因縁を残して、悪の世界に力強く行軍して行ったのです。しかし今日、互いに兄弟の因縁を求めずに争うここには、崩壊です、崩壊。崩壊の一路をたどっているのです。しかし天の時は来たのです。天が要求されることは、天国の民を求めることであり、民は必ず兄弟としての因縁を経ていなければならないのです。これが全て、断たれてしまいました。 神の御言を求めるための愛着心を持て 今日これまで世の中で結んだ因縁を切るということは・・・。天はこれが壊れることを良しとされます。全てのものを壊して、愛着心を無くしてしまうのは、何のためか? これを奪っていって、他の面に愛着心を持つ方向へと行くために、歴史過程を全て率いて、精算されようとされるのです。それで今、この時代においては全ての分野において愛着心を持つことのできない、そんな世界的な現象が現れているのです。 この目的はどのように果たされるのか? 愛着心を全部捨ててしまうのが目的ではありません。良からぬことに対する愛着心を捨てる反面、天を標準とする人々は互いに愛着心を持って、世の中の兄弟以上の兄弟として、世の中の父母以上の父母の因縁をうたうことのできる群れとなるのです。必ずこんな群れにならなかったら滅亡するのです。ですから韓国に統一教会が現れ、数多くの非難の対象になりましたが、滅びないのです。この民族が愛着心を全て切って、我々と肩を並べようにも並べることのできないそんな時が、いつ来るのでしょうか? もしも神の審判をまず受ける民族があったなら、そんな民族がまず受けるのです。しかしながらまず審判を受ける民族の中で、審判を受けない民族は神の愛を受ける民族です。いかに世界が広いといっても、そんな存在が必ず今日の社会、あるいは我々の風習圏内の全体を襲い、そんな社会規定を成す一時が、来ることを願うものです。 皆さん自身の胸に手を当てて、反省してみて下さい。皆さんが命をかける覚悟をして信じる何がありますか? 自分が誠精を尽くして侍るというそんな何かがありますか? 父母が子を殺そうとし、妻子家族が互いに反発し、惨めな現実となっています。今日のこの家庭に対して、自分が愛着心を持てないでしょう。自分が専攻しているある学術的分野においても同じです。 なぜそうですか? 国が滅び、民族が滅びゆく環境においては持つことができないのです。なぜこれが持てないのかというんです。我々が生きているこの実社会、さらには韓国の実態を見るとき、愛着心を持てない民族になっているのです。こうして我々が絶望の中に倒れるのではなく、必ず来なければならないその時が来たことを、我々は肝に銘じなければなりません。 天がこんな場に追い込まれる目的はどこにあるのか? 我々をぶち壊して地獄に放り込むのが目的ではありません。我々をそんな場に立たせ、全てを失い、全てを断ち切り、一片丹心この心を再収拾して、天を望み訴える道を開くのが目的なのです。今日韓民族が、さらにはこの時に行くべき道は、経済にもなく、政治にもなく、文化にもなく、これまでどんな既存宗教にもないのです。 なぜ? 彼らが命をかけ、神のみ旨であるとする、こんな愛着心を持つ宗教の内容がない限り過ぎ去ってしまうのです。こんな時が来ましたので、時を知る青年男女においては鋭利なる視線をもって批判し、分析しなければならないのです。また、哲学も道がありません。今日の環境は政治や、なに、なに、なに、信じられますか? 皆さんに愛着心があるかというのです。愛着心があるとすれば、パン一斤に愛着心があるのです。このような過程で起こることは、今日の唯物史観です。この唯物史観は世界的な舞台に踊り出ています。そんな時を伺っています。しかしこれではダメです。 人間は食べるだけではダメです。どんなに満腹になったとしても心情的天運が、心霊に食い込む思潮の潮流を止めることはできないのです。防ぎ消化する力があれば喜び、でなければ喜びがないのです。ですから今は審判の時が来ましたので、不安と焦燥と恐怖に沈む時であり、自分の心情に何かの愛着心を持つことのできない終末の時なのです。こんな時にあるということを、知らねばなりません。 今日、我々がいま一度、愛着心を持つべきものは、世界人類です。ですから皆さんは、新しい愛着心を起こさせる御言を得て、叫んで行かなければなりません。父母から、一切のもの全てを失いましたから、再び愛着を持つことのできる御言が、必要な時が来たのです。この世界の思潮において、どんな主義も信じられない時代が来ましたので、これ以上の何かを感じて、これに対して自分の命をかけて、死の場に倒れる恨があったとしても、生命以上の愛着心を感じることのできる、御言が必要であり、理念が必要な時が来たのです。こんな境地で皆さんは、自己批判して下さい。自己批判して下さいというのです。 それでは天が全部ぶち壊してしまうのですか? このような時が来ましたので御言を通して個人が生き、個人が生きると同時に民族が生き、民族が生きると同時に世界が生き、世界が生きると同時に神が生き、神様までも幾千年の間の嘆息の恨をのがれ、解放の統治圏を得て、満天下に号令することのできる時を、迎えねばならないのです。ですからぶち壊してしまうことではないのです。このような面において、神があるなら、愛着心を持つことのできる一つの運動が起こらなければならないということは、必然的な事実です。そうではありませんか? 名目的な信仰、いいかげんな時は過ぎました。 最後の歴史的伝統から残ることは天情を中心とした心情のみ 今我々が愛着心を持つ時は、その愛着心を持つことのできる動機となる御言を知らなければなりません。この御言は自我を踏み越えていける御言でなければなりません。この御言は自分が今まで信じていた、観念的な宗教を打破することのできる御言でなければなりません。この御言は今日の時代的な、社会のどんな主義思想の全ての問題をもはね返し、新しい旗を中心に天宙に向かって叫ぶ時、天地が感応することのできる御言でなければならないのです。 ですからこのような内容の御言をもってすれば、今日の論理的な観に立つ世界主義ではダメです。この論理を越えて、心情的な理念を通してくる天宙主義でなければダメです。人間が幸福だという時は、自分が沢山知っているから幸福ではないのであり、自分がある大学の学長になり、総長になって幸福になるのではないのであり、今日自分が一国の何かになって幸福になるのではないのです。とんでもありません。その心情が自分のおかれている環境を越えていって、いかなるものとも取り替えることのできない安定した価値をうたうことのできる立場にあってこそ、幸福になるのです。 神が今まで、苦痛を受けてこられたのは何故でしょうか? 神が今まで苦しみを受け、苦労されたと言う、その原因はどこにあるのか? 心情的価値を今日、創造の世界において、立てることができないということが、神の悲しみであり、苦痛なのです。 歴史を全体的に収拾して、最後に残るものは何であるか? 人類の心情のみが残るのです。これを知らねばなりません。人類の心情が残るといって、その心情とはどんな心情なのか? 堕落した世界でこれまで追われ、破壊されたことではないのです。愛着もないそんな場にとどまる心情ではなく、永遠無窮なるまでこの心を誰も占領することのない、そんな内容の心情でなければならないのです。そんな御言でなければなりません。そうすれれば、個体と全体が一つになるのです。 皆さん、心情的問題においては、価値を超越しているのです。相対的に比較する価値を超越しているのです。どんなに大きく高い神であっても、わが心情を通して現れる時、自身は神の法度に外れることがあったとしても、価値的な面においては相対性を得ているのです。 こんな立場で神を中心として、神を中心に尊敬していって自分が愉しむそんな人間になったとすれば、彼は無限に幸福な者になるのです。宗教の理念はそこまで行かなければなりません。人間の命令を受けて動いていてはダメす。天はこんな標準まで人間を率いるために、いままで摂理されてこられたのです。歴史の伝統から最後に残るものは心情です。何の心情か? 人情ではありません。人情的心情ではなく、天情的心情なのです。 歴史を見てみると、孝子、忠臣、烈女が多くあります。人類に通じる心情的足場はどれほどか学び、どれほどかあるのですが私とは何らの関係もないのです。民族と民族を関係づけることができないのです。これによって解決はできません。ですからこれを処断し、掻きまぜなければなりません。ですから無愛着になる風潮が必ず、世界審判の直前に来るという現象が、起こらざるを得ないのです。これを知らねばなりません。 我々の胸を開いて見れば、アボジを呼び、主を信じるという心情の内情を見てみれば、神の子女であると自ら任じる者があったとして、彼が神の心情問題を知っているのか? 個人に対する神の心情がどうであり、民族に対する神の心情がどうであり、また国家に対する、世界に対する、神の心情がどうなのか? これを知らなかったら、絶対に忠臣、烈女にはなれません。 歴史の目的は人類が共に喜び、心情の安息所を捜し求めることであることを、よくよく知らねばなりません。文化の目的、芸術の目的、宗教の目的、全ての目的は、この基準において、一つの精算をするためのものなのです。ですからこのような観点からこんな内容をもって現れる宗教が何か? 最初に登場する宗教が、キリスト教なのです。 イエスがご自身を新郎であり、あなたたちは新婦であると言われた心情的な基盤は、今日堕落した人間を中心とした新郎新婦の心情ではありません。天情の因縁を求めるために今日の無知なる民のまえに条件を立ててゆくことでした。因縁を結んだ人間を従え、死の敵陣を越え、歴史を押し広げていって、世界に基台を造り、役事されました。 秘められた天情の恨を解くことが真の真理 皆さん新婦を知っていますか? 新婦の立場は、そんなに易しい立場ではありません。今日新婦たる資格者がこの地上にいるとして、この地上で新婦だと自認する人間は・・。 今日のサタン世界、悪なる世の中に、ある忠臣がいたとするならば、数多くの忠臣者の中で、誰とも比較もできない内容と、心情的気概をもった存在でなければなりません。そうでないなら、神が彼を天の忠臣として立てられないのです。なぜ? サタン世界の忠臣者を、天の世界の忠臣に立てられないのです、威信上。標準がこの標準なのです。 「烈女や孝子があったなら、その中である誰々がいたとして、幾千年の間の数多くの孝子をいっぺんに立てていって、天のまえに立てることのできる一人の孝子と比較する時、取り替えることができない!」こんな価値ある孝子が現れる前には、神の息子ではありません。サタンが握り、サタンが押さえるそんな立場にあっては、神が事にあたります。ですからキリスト教の内容に「誰よりも私を愛しなさい」という条件があるのです。皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。 このような心情をもって今日、人類を捜し求めてこられたアボジの心情がどれほどの悲しみであるかを知らねばなりません。知ってみれば千年万年、慟哭したとしてもその心情をお慰めすることがきない恨を抱えてこられたアボジだということを、我々は知らねばなりません。審判のその時を求め、このような恨の心情をお慰めしてあげる一人の息子娘を立て、満宇宙を再び祝福する時が、再臨時代であるというのです。 皆さんは自問自答してみて下さい。天のために涙をどれほど流したか、天のために汗をどれほど流したか、天のために命の血をどれほど流したか? 神のある基準のまえに認定を受けない者が、神の息子娘であると自認するなら盗人が笑います。私はそのように見るのです。今回の伝道期間には、数多くの食口たちが生まれたと思います。今、我々はどのような覚悟をしなければならないか? これがまず我々が考える問題です。 この時はどんな時代か? この時は審判の時として、神が再摂理される御言審判の時代が来たのです。これは原理原則です。数学の公式はどんな国境も超越しています。偉大だという人物の内容を超越しているのです。これはひどく平凡であり、万事同一なのです。 皆さん、公式的な神の心情を知っていますか? 父母が子女を愛するのに二つとなく、一つなのです。心から愛することは二つではなく一つなのです。公式法度のために新しい理想的な、モデルを造らなければならない天的な心情世界の内容を知らなかったのです。「ただ我々が信じて天国に行こう」というならば、どんなに易しいでしょう? 汗を流して皆さんにこんな話もしないのです。人生を捧げ、迫害の道を行って、民族のまえにこんな戦いをしなくともいいのです。 統一の青年たち、さらには我々統一の信徒たちには新しい覚醒の必要な時が来ました。もしも統一教会に入って、こんな内容の全てのことを解決しなかったら、ふろしきをたたんで行けというのです。すでにお話したように天情に秘められた御言を語らず、自分の目に火をつけない内容の御言なら偽りです。偽キリストです。どんなに聖書66巻をマスタ-して、流暢な説教をしたとしても、もつれた死の血を分ける内容がなかったならば、真理ではありません。 変遷の歴史を、革命して行くことも・・・。この泥水での戦いの、血の感情を、新しい血の感情にと変えるごとに、歴史は新しい革命の時となり・・・。我々はこれまで新しい歴史の開門に向かって来たという、歴史的事実を知っています。皆さんの心情に新しい血筋が染みて、新しい血肉が躍動する新しい理念の目的に向かって行く、その位置において価値を誇ることのできる姿を持っているか? わが位置と、わが価値と、わが目的が方向を得ているかということを反問してみる時、深刻だというのです。神は永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の主体であることを明らかに知らねばなりません。皆さん自身も永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の対象体となっているかというのです。 ですから我々はこの町あの村、この教会あの教会、この教派あの教派、数多くの人物を尋ね歩いたが、結局は統一教会というここに来ました。皆さんがこの道まで尋ね来たその額には汗が流れ、その背には跡が残っていることもあり、その歩みには傷があることもあるかも知れませんが、私は歴史の一刻を語らざるを得ないのです。なぜ? 神の汗と涙と血がこれまでこの民族のまえに、今日この世界人類のまえに残っている限り、我々は天の心情をお慰めする孝子、烈女、忠臣にならなければならないからです。それゆえ我々の血をアボジの血に、我々の汗をアボジの汗に、我々の涙をアボジの涙にしなければならないのです。なぜそうか、皆さんはよく知らねばばなりません。 御言のメシヤとして来られたが使命を果たすことができずに行かれたイエス様 天理の御言を立てることが、神の幾千年の歴史でした。ところで御言を心のままに語ることのできない神であったことを、皆さんは知らねばなりません。無念なことです。父なる立場で、子女という名を持っている堕落した人間、因縁から見れば息子ですが、事情から見れば怨讐の立場に立つこれをいかに切り開いてゆくか? ですからみ旨ある良心的人間を動かし、この垣を切り開いて来たのです。わが心情の血をたぎらせてお父様と呼び、息子がお父様と呼ぶその声と、父が息子よと呼ぶその声に、全天地がとけても余る、そんな時が必ず来なければなりません。こうしてこそこの地に審判が終わる時となるのです。 皆さん心からアボジを考える時、慟哭する心情が切実であり、肉身が引き裂かれ踏みつけられる悔しさを意に介さず、涙の垣と涙の海を蹴散らし、目標を果たすという個体になっているか? 反省する時だというのです。私は一時、泣き明かすこともあります。限り無く泣くことがあります。これは私個人の、どんな欲望と目的からでもありません。このような基点を中心として、歴史的な転換点を解決しなければならない時が、必ず審判の時に来ることを知っているからです。どのようにしてか歴史的な曲折を中心として、人類の惨状が生じるかと考える時、天情を代身する真の息子の姿を慕いあえいで慟哭されたという事実を感じるのです。アボジが慕い求めているその声と和して、聞こえるその声のまえに、私はここにいる、と叫ぶことのできるその場が、慕わしかったのです。 数十年の宗教生活を誇るなというのです。アボジが呼ばれるその声のまえに、その心情を思いやって呼ぶ答えのまえに・・・。アボジの事情の全てを引き受けて、責任を担ってゆくという真なる息子娘が、この地上にいるのか? 考えてみて下さい。皆さん自身を中心に考えてみるのです。哀れで無念なる天であったのです。どうすることもできないアボジの心情だったのです。サタン、これはすでに何千年前に審判の供え物に地獄の火と硫黄に消えたのですが、恨を抱えたままの人類歴史だったのです。これを忍んで今まで来たのです。私はアボジで、おまえたちは息子だ、という因縁を残さなかったなら、皆さんは自信を持って生きてはいけません。 復帰の心情を歌っています。今はここにアボジの声が呼んでおられる、その声が必要な時です。この自分自信において慕わしいことは、この世的な何かが慕わしいのではありません。世の中はすでに断ち切られ塞がれる時が来ましたので、今ここにおいて自分の耳があり、目があり、口があり、自分の感情があったとしても、この耳目口や五感を通してくるその感情が、昔の感情を越えることのできる新しい感情を通してこそ成るのです。この感情は天情と共に因縁づけられているという事実を確実に把握して、私はアボジの息子であり、娘ですと言えることを、知らねばなりません。 こんな過程を越えなければならぬ人間ですから、無知なる人間を、落ちて踏まれる哀れな人間を手ぶりで教えることが、救援という盾なのです。比喩と象徴で心情のうちを通過しないまま、今まできた人類を保護するために来たのが、メシヤなのです。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 実体のメシヤ。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 御言のメシヤとして、イエスがこの地上に来て見せてくれたことは御言のメシヤとしての使命を完結しないで、人格基準も完結しないで、心情基準も完結しないまま行かれました。御言のような御言を残したものが、聖書ですよ。これは比喩と象徴です。 個人と世界を越えて神の恨を解怨してあげなければならない統一教会 我々は今ここに、何を求めなければならないでしょうか? 御言と共に、御言通過以後に実体通過時代が来るということを知らねばなりません。これをキリスト教徒たちは今、知らないでいるのです。聖書を読み、研究する目的は実体基準を通過するためなのです。実体の基準を通過しなかったなら、その実体にすがりこの地上でその事情を知らなかったなら、新婦にはなれないのです。ですから地上の人類は主に出会わなければなりません。御言を完全に通過していない我々、実体を完全に通過していない我々、心情を完全に通過していない我々が、そっと見れば、良いことばかり望んでいるのが今日の事情なのです。 おお 、新郎なる主様! 新郎なる主様! 愛の場までゆくには御言を解決しなければなりません。御言をわがものとしたら、御言と一体のイエスを代身した人格者にならなければなりません。これを全て無視して、信じれば天国に行って新婦になるのですか? 行くか行かないか見てみなさい。我々は聖書を研究しています。聖書を研究するにおいて何が問題か? 聖書を読めばみんなヨハネ3章16節のように、誰でもそうなるのですか? とんでもありません。そうではありません。 神様に悲しみがあったならば、最も悲しいことは何か? 神様に十字架の苦痛があったならば、最も大きな苦痛は何か、無念なことな何か? 聖書を全て知っても精算できません。根がありませんよ、根が。いま聖書を尋ねてみても根がないというのです。えらいことですよ。さまよい争い、異端だなんだという王さんたちはうっちゃてしまうだけです。しかしどんなに争っても・・・。枝は枝だけで争い、葉っぱは葉っぱだけで争っていればいいのですか。生命の体液は延びてゆくのです。回るのです。どこを通って? 根を通して。皆さんがこれを知れば・・・。ペテロが十字架に逆さにかけられても「主よ!」と叫んで死んだ、あの主と心情的に通じあう根の内容を、捜しだして因縁を結ばねばなりません。 イエスが十字架の途上において、死の場に行っても「天の父よ、わが思いのままにではなく、父の思いのままになさって下さい」というこの心情から流れ出ていったその事情が何であったか、知らねばなりません。これが分からなければ死ぬのです、死。聖書の未解決の問題を、解決しなければならない時です。そうではありませんか? 解決されなければみな色あせてしまいます。終わりの日が来たのです。いま皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。 それでイエスはこの地上に、新婦を探し求めて来られたのです。反対するイスラエル民族のまえに出て叫ぶ目的は、イエスを信じて天国に行くための、個人の目的ではありません。私を信じ、イスラエルを救うということが目的です。よくよく知らねばなりません。私を信じ、イスラエルを救い、イスラエルを信じ、世界を救おうというのが目的です。イエスは霊界と地上を救うために来られたのです。イエスを信じて自分だけ天国に行くのではありません。不当千万な話です。どこにそんな目的がありますか? 我々がイエスを信じるのも、民族のために信じるのでなければなりません。自分が神を愛するのも、世界のために愛するのでなければなりません。神がおられたなら、そんな信者を慕われることでしょう。同じことでしょう? 皆さん、切り換えて考えてみて下さい。大宇宙の公業を完成しなければならない責任を願い、数多くの民族を動員し、良心的な人間を連結させ、一つの形態をもって善の主権を解放することが神のみ旨であるとして、自分個人のためであってはいけないのです。個人のためのことはぶっ壊すのです。火に投げ込むのです。これは壊さねばなりません。壊さなかったら神が滅ぶのです。自分の一族の、一国のための宗教は壊さねばなりません。これが壊されなかったら、神がいないということです。ですから今日、全世界キリスト教は混乱の時となっているのです。これは人間の力でやることではありません。神が壊されるのです。なぜ? 神の目的と、自分たちの位置と価値が違うからです。統一の理念を我々が叫んで出る時、我々が信じるとは、自分が信じて天国に行くためではないのです。これは断ち切ってしまわねばなりません。もしも自分が信じて民族を救い、その民族が天国に行ったなら、自分が天国ではない地獄に行くだろうかというのです。信仰の方向が逆になったので、曲折が多いのです。これを知らねばなりません。 我々統一の信徒は「私が信じるとはこの民族を救い、私が信じるとはこの人類と世界を救い、さらには神が悲しみの中におられるから、神の悲しみまで解放するためなのだ」というのです。皆さんを知らない人々は「神は何か、全知全能なる神・・・」と言います。これは知らないからです。ここで語る人の本意を知れば、勉強しなければなりません。 「あ、神は悲しげな・・・」皆さんの悲しみはどこから来るのか? 我々の喜怒哀楽は天から来るのです。そのようになっているのです。それで我々は迫害される時、最高に迫害されよというのです。数多くの宗教人の反対を受けるここに、我々は倒れる群れとなってはいけません。大衆に向かって叫ぶ時、ここに燃え立つ一つの炎が、大衆の心を引っくり返す内容を持ったなら、生きるというのです。 ですからこの時代において、天法の御言の時代が来たのです。御言を求める時代が来たのです、御言時代が。御言を探し求めて新婦となれば、主体と対象の姿が同化しなければなりません。新婦となることを願う者は、人格的な基準において、イエスが経てこられた心情に通じる、そんな人格者になってこそ、成るのです。そんな人、いますか? 地上に御言愛着回復運動が起これば人類の生きる道が生じる 霊的な世界においてその心情を尋ね求めてみれば、イエス様が再降臨することを無限に待ち望んでいるのです。これを知らねばなりません。神が2千年の間、待っておられるのです。イエス時代に主がいつ来られるかという時、全て話さなかったでしょう? 彼らは来られるとは知っていても、再臨の理念に対する心情的な基盤ができていなかったので、恨み多き犠牲の歴史をつづり、時と人を立て、世界的に動くことのできる時を願ってこの2千年の間、捜し求めてきたのです。 再臨するという天の心情は、切実だったのですが、来れなかったその事情は何か? 皆さんたちが無知で、さらには無情だからです。主がこの地上に来られるのは、万国を統治するために来るのに、皆さんの信仰観は、自分が救われて天国に行くというのです。そんな狭い心で新婦だというのですか? 常識不足ですよ、常識不足。イエスは万王の王であり、万有の主であり、神の皇太子ですよ。神の王者ですよ、王者。これを知らねばなりません。大統領の息子だといってえらぶっていますが、空前絶後の歴史的な主人公であり、時代的な主人公であり、あるいは未来的な主人公であり、栄光なる立場の主体であり、唯一おわします、絶対者の息子なのです。彼の新婦になるのですよ、新婦。ところがこんなデタラメはないというのです。 イエスが信じるという内容は、皆さん一人を中心に、個人天国のためではありません。信じなさいということは、全天宙に対して訴えた言葉なのです。天宙の心情ふかく染みたイエスの理念を通して、あふれ出たイエスの御言であったことを、知らねばならないのです。こんな境地に立って死亡の世界、罪悪の世界に対して、戦いゆく天の精兵が慕わしいというのです。こんな代表者として、ロ-マ帝国に向かって行ったのが、70門徒の姿だったのです。 皆さん、こういうことです。イエスの聖書の御言を信じて、そんな内容を知って、人格者となって、心情において万民に対してわが血を流し、怨讐までも幸いを祈るお父さんお母さん以上の心を持たねばなりません。常識的に批判するとしても、こんな論点を解明せざるを得ないのです。それでは皆さんはこんな人間になっている? こんな目的を持っている? こんな度量がある? 問題はここにあるのです。ですからこんな立場をきっと貫いて行く群れがあったなら、そんな群れは滅びないというのです。これは仮説ではありますが、こんな内容をもってゆく息子娘があったとしたなら、天は罰っしられますか? 事実がこうです、事実が。 今の時は御言が慕わしくてあえぎ、御言の乏しいことを感じて、あえぎ苦しむ時です。彼らを覚醒させる者は誰か? 終わりの日が来ましたので、末日のまえに待ちくたびれる群れを尋ねる姿は実体であります。主の代身として、くたびれたその内容を解くすべを知り、主の代身として、この環境を収拾する一人の指導者が必要な時が来ました。今日、全世界キリスト教を見やれば、教団は大きく、教会員は多くても、そんな人間を何人も見出せないといっも過言ではありません。私が皆さんに言いたいことは、我々統一信徒はすでに経なければならない歩みを全て経てきました。長老教がどうで、管理教がどうで、新約思潮がどうだという、そんなことは全て知ったという基準で、あえいで来た群れです。 今、皆さんに何が必要ですか? 自分がへばっているこの立場から、再びわき上がって来るものが必要です。これが問題です。御言をもって研究し、研究して疲れている時は、御言によって再びいま一度、御言の自信を得るのです。御言愛着回復運動を提示する、新しぱきが地上に現れない限り、道を塞がれたこの人類が、どこに行くのでしょうか? 今日このように断末魔的先端に立っているこの歴史・・・。御言に疲れ、信仰生活に疲れ、教会生活に疲れた自分をして、疲れた御言と疲れた信仰に新しい感情を起こさせ、より以上の善なる価値によって「お父様、分かりました」と言える、御言に対する愛着心を起こさせる運動が必要な時が来たことを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんたち、このような審判の時において、御言審判、人格審判、心情審判が終わりの日に始まるのです。御言の審判をするためには、御言の心情を起こさせる、御言に対する愛着心を起こさせるところの、一つの御言を立てなかったなら、神は神ではありません。人格審判をするためには、人格審判のある基準を、この地上に立てなければなりません。でなかったならば、これも神ではありません。心情審判をするためには、心情の基準を収拾することのできる、その基準を立てなければなりません。立てなかったならば、全てが滅んでしまいます。このような時と時期を見る時、この時は審判時代なのです。分かりますか? 審判時代ですよ、審判時代。 皆さん、いま皆さんの手に握っているものを放して、「自分が今、持っているものはアボジが一番愛しているものではありませんか?」と聞いてみなければなりません。答えなければならない時です。首をくくって死ぬ恨があったとしても、死ぬ覚悟までして解決しなければならないのです。「その通り」という時代は過ぎました。 キリスト教の生命は天情的な心情基準を立てること 皆さんは今、反省してみる時です。自分が今まで最も愛する・・・。天地運勢に合わせる、そんな観点から見る時、自分自身が愛着心を持っているか?「神様、これをご覧下さい」と言えるものを持っているか?「主よ、これをお受け下さい」と言えるものを持っているかというのです。みんな失ってしまいました。持っているようですが、みんな失ったのです。 ですから終末には最後の精算時代がくるのです。最後の審判時代ですので、御言を中心とする角度で、180度回らなければなりません。こんな現象が起これば国が生きるか教会が生きるか、新しい事が起こるのです。それで審判時代におかれている人類なのです。彼らの心が、どこの誰に誇ることのできる、愛着の足場を得ているか?「どうぞどうぞ連れていって下さい」としなければなりません。主の前に出る時、自分の息子娘が救われ、自分の何かが救われるからですか。思潮がそうなっているのです。 しかしそのような時代が来れば、民族的にそんな思潮が襲いかかり、断ち切られるそんな環境に立つ民族と国家と、世界思潮を代表して苦痛を受ける、そんな一地域や、民が生じるのです。これが今日、世界的に見る時、韓民族ですよ、韓民族。南北に分けられ、父母、妻子が引き裂かれています。心情的な破綻となっているのです。今日韓国の6・25動乱によって経済的破綻となり、理論的破綻となり、政策的破綻となり、宗教的破綻とななっているのです。しかしながらここで、落胆はしないのです。また再び起こる天のみ旨が、この民族のまえにあることは間違いないことを、我々は知るのです。歴史を見ても、腐敗の峠を越えて、新しい歴史が始まるのです。 今日この政権の12年間の腐敗政治によって、新しい青年たちの血が湧きたっているのです。上がってくればここから新しい歴史へとのびて頂上です。種を植え、根がはったので、肥料をやらなくても同じことです。私はここに何か野心を持って話しているのではありません。宗教を愛し、神を愛し、人間を愛し、世界を愛する心を持つ青年男女がいたとしたら、4.19革命当時に流した血を、どこに率いて行くのですか? こんな心を抱き、天の前に祈祷する数百人の若者の血を流しましたが、数百人の父母はさらに痛憤したのです。しかし心からその父母以上にアボジの前に訴えて「この血の代価がどうかこの民族の生命の血の代価に、天倫の法度の時のために、天の愛する気概ある血脈として残りますようにして下さい」という涙あふれる群れがどこにあるかを探す時だというのです。でなければこの民族は峠を越えることができません。このように前進を命じて方向を示し、使命を果たすことのできる新しい門を解放してこそ道は開かれるのです。 今、神の首を抱き、戦う青年男女となるのです。若者はこれを慕っていたのです。行く道もなくへたり、さまよう群れはきっとある時、統一ののろしを必ずあげるのであり、のろしの火に新たなる衝撃を受ける日があり、ここに躊躇することなく方向性を示し、天的な摂理と共に拍車を合わせる心情的内容の、何かを求めなければなりません。これをいかに捜し立てるか? これは人間中心ではありません。天情を代身する心情的な基準をどのように立てるか? これが今日、韓国キリスト教徒の解決すべき問題であり、いわゆる各教派、あるいは宗派、あるいは道を求める数多くの人々の、責任なのです。 皆さんが行くことを知り、我々の位置と目的を知り、我々の価値的なその何かを天を中心として推し量ることを知ったとして、皆さん自身が・・・。ここにおいて我々は地と天を代身する新しい人々を捜し求め、心情から染み出る御言を発表しなければなりません。この御言が歴史的な御言を審判する御言となっているか? これが必要だというのです。そうでなければなりません。盲目的ではありません。盲目。 今日の社会の人々は、文先生といえばアホかバカか未熟者と思っています。しかしそうではありません。こんな道を行くために、誰よりも血と汗を流し、誰よりも頭を使い、誰よりも生死の別れ目の戦いの、いく峠かを越えてきたのです。自身に対する覚悟と、自身に対する信念と、実践的な証しの何かを得て人類に対し、民族に対し、どんな国家、どんな思想に対しても戦いゆく自信を持っているか? このような問題をおいて、無限に苦悩する人間なのです。こうしてこんな立場で、悪評の看板を掲げているのです。 神を動かす天的な信念を持てば祝福が下る 皆さん、皆さんたち! 我々はここにおいてこのような過去、現在、未来の歴史を編んで、抱えて戦ってこられた神がおられるならその神を中心に、過去の血と汗と涙でよられた神の心情が何であり、この時代に涙と汗と血でよられた神のみ旨を実践するその心情が何であり、未来の心情が何であるか反問する時、皆さんは言葉もなく、自分が持っている全てによって証しをしなければならない責任があるということを、皆さんは知らねばなりません。信念なき者を、神は祝福されません。天は自ら助ける者を助けるのです。 イエスはみすぼらしい身なりの、苛立たしい姿で、ガリラヤの海辺の貧しい漁師の師であったかも知れませんが、いかなる祭司、ピラト、その誰にも・・・。天的な信念において、神の心情まで動かすことのできるそんな信念を持っていました。この信念は人類が必要とする信念ですから、信念を通した御言の因縁が残る限り、その御言の目的が中断されるまでは、そのお方と共に関係を結ばねばならないことは必然的な事実です。 ですから今日のキリスト教は、世界的な宗教として発展してきたのです。民族に対して戦うという信念、世界にどんな反対者がいたとしても、これをかき分けてゆくという信念を持たねばなりません。さらには統一の信徒たちは・・・。ここで語る人間は、多くの人間を必要としてはいません。 大砲時代は過ぎました。今は原子砲時代です。み旨のために血と汗を流して、途中で倒れる時、その郡が弾けるというそんな信念を持たねばなりません。こんな自信と信念を持つ皆さんになっているか? これが問題です。こんな境地において、アボジの御言はこうであり、アボジの持つ真理はこうであり、これなくしては世界を救うことができないという御言の内容をもって、信念を持って、被造世界に対し主人として主管せよといわれた、主管の行為を凛々と行うという信念を持たねばなりません。 自信を持って立つ位置をたがわず、その価値に天地が頭を下げる立場に立って、天に対してアボジと叫ぶ息子娘があったなら、「え-い、こいつ奴、おまえはバカげた奴だ」とはならないのです。自分が願う時、追われ迫害されることが有難たいのです。真なるものが、悪口を言われて滅びる法がありません。それはごく小さな事から一から二に、二から四に広がってゆくのです。天は大きく始めるのではなく黙ってするのです。誇ってやるのではなく、静かにやるのです。そうすれば名実共に統一教会が・・・。 統一教会が今まで問題になってきましたが、これからはキリスト教が問題です。申し訳ありませんが。皆さんはよく知っているでしょうが、キリスト教は問題が大きいのです。見ててごらんなさい。どんなにレンガを積み上げ、何かをしても理にかなっていなければダメです。真理は理です。理といって個人生活の理ではないのです。天宙生活の理です。これを知らねばなりません。真理とは、聖書の一節をうまく解釈するという真理ではありません。自慢するなというのです。神と共に生きる生活的な理、ひどく平凡なようで極めて高尚であり、ひどく普遍的なことのようで極めて無限なる価値を持つものが、宇宙的な真理であります。 こんな真理の基準に立って、皆さん自身が民族を生かし、国家を生かすのです。天を動かし、地を動かし、神の心情を占める皆さんにならなければなりません。こんな人間になれば、主がアメリカに行っても、主を引き上げられるのです。アメリカのような国に神が祝福されようとしても、祝福できないのです。なぜ? 天国は力を尽くす者が奪ってゆくからです。こんな人間が何人いるか見てごらんなさい。この世界に大きな祝福の包みがあったとしたなら、抗議をすることができるのです。実際そうです。信じる者に出来ないことはありません。新婦の条件を備え、神が涙し、天上の全てのものが感動する真理の内容を持つある人間がいたとしたら、それを通して主が来られるのです。 そのような人間、アボジのみ手を握り、わがアボジと呼び、躊躇なく進み出てアボジと子女の因縁、父子の因縁を回復して、6千年の間、失われた息子を求める過去の悲しみと苦しみと、悩みに染まる全てのことを解き放ち、アボジの名を呼び、息子だとする場において、心情的因縁を体験する主人公が、この民族のまえにただ3人あったとしても、世界キリスト教は彼らによって、解決されるのです! 私はこのように信じています。また、このように知っているのです。 御言愛着運動を起こしこの民族を覚醒しなければならない統一教会 数多くのキリスト教徒、数多くの求道の徒があるとしても、最後の霊的な世界問題と人間的な最後の心情問題において、解決づける基点は、統一教会でなければ解決できないのです。これを自ら統一しようという我々でなければなりません。そのためには御言審判の過程を経なければならないので、この御言審判を受けるのです。御言を求めて、血の涙の死の峠をも行くのです。御言を求めて、祈祷する時も、誰にも負けぬ祈祷をしなければなりません。歯をかみしめ、ほんとうに顔を突きだして・・・。天理が分からなければ、絶対に止めない、そんな祈祷を・・・。 そんな御言を求め、この地上に真なる信仰生活をする人々がいたら「私が不足なので兄弟よ! その心情的な基準はどうなのか」と叫ばねばならず、自分がこの御言が正しいとして「神様!」という時、神が「おお 」と答えられる、御言の内容を持たなければなりません。わが民族のまえに、皆さんのまえに、信じられぬ真理だなどといって、そんな真理は過ぎ去ったのです。これは過ぎたのです。 皆さん、今日統一教会に入ってきて、何かを感じたものがあるはずです。感じたものがあれば、これを再鑑定するのです。名目的に信じるなというのです。そこに到らなかったならば、世界一周をして再び来なければなりません。それで厳しい命令もするのです。そんな意味で、ここにいる皆さんは御言を聞いていますので・・・。 今日ここで語っている自身におきましても、御言審判の過程を経るために見えざる世界と、見える世界を比較して見る時、見えざる世界におきまして勝利の何かを解決しましたので、見える世界におきましてもこの基準を経てきたのです。霊的完結と肉的完結、無形世界完結と地上世界完結をなさねばならないので、ここに数多くの怨讐が現れたのです。ですから我々は祈祷しなければなりません。24億人類が現れて、統一教会に押しよせる声を聞きたいものです。 こんな観点から皆さんが、天情を代身して現れた人々のまえに誰にも譲歩しない、自分だけが、我々だけがアボジのまえにゆくというその内容を知って行くならば、その因縁を持っていない数多くの人類は必ず動かざるを得ないのです。動かないではいられないのです。動くところの霊的な、全ての内容があるのです。それで神霊というのです。ある人は「神霊」というと妖術めいているので「心霊」と考えますが、そうではありません。位置的な内容を通して・・・。 こうして皆さんは御言と共に・・・。その次には実体通過時代です。ここで語るこの人間も今まで、40年の生涯を戦ってきました。自分が倒れるその瞬間にアボジのまえに、わが情熱を全て注いで、未練の思いが残っていないかを案ずる人間です。この仕事である手段、方法によって自分一個の欲望を満たしたなら、天罰を受けるでしょう。もしもそのようになったら、きっと滅んでしまうでしょう。倭政(日本統治下)から数十年、こんなみ業をなしてきました。行く所で監獄生活をしました。行く所で嘲弄を受けました。しかしながら怨讐は、私にはないのです。 これはなぜでしょうか? 天倫の法度が、御言通過時代の過程を経れば、必ず実体通過過程を経なければならないからです。イエスの十字架の道が残っており、この地上において、恨を残す怨恨の基準が残っているのです。考えて見て下さい。アベルの血が訴え、万王の王たる神の王者が、この地上に涙を流し、血を流して訴えていないでしょうか? いないかというのです。イエスの血の涙が訴えているのです。 この血の涙の訴えを、どこで蕩減するのか? 今日の信徒たちが、今までのキリスト教が、血の戦争により、真の血を連結させるために訴え、蕩減してきたのです。そのためにこの全ての問題を引きずって行く時、皆さんは残された十字架の道を、行かざるを得ないのです。この場で語っているこの立場が、皆さんが見上げれば良さそうな立場に見えるかも知れませんが、この場で私が牢獄の身になったとしても、心理的な変化があってはなりません。こんな信念を持って行くのです。 今日この現実舞台において、我々はサタン世界を解決しなければならない悲運にあるのです。これを解決しなければなりません。今日統一教会がこのような形態となるために、無限の涙を流したことを、皆さんは知らねばなりません。一つの事実にも、血と汗が流れているのです。我々は使っても余るそんな何かによって、神のために働いてきたのではありません。食べずに飢え、追われ、ぼろをまとって震えてきたのです。今日こんな形態を得て、民族問題の提示条件をもって、現れたのです。 そんな時から沈黙を守ってきました。時が、こんな時が来たので、新しい文化においてわが真理を通して、今日知識人が関心を失っているこの民族のまえに、関心を引き起こさなければならず、愛着心を起こす運動を展開しなければなりません。これを実践して国に対する愛着心、あるいは我々の理想世界に対する愛着心を失った群れを激励する時が来たのです。これができなければ祭りをやってでも彼らを目覚めさせ、天が抱ける民族にするという、民族的使命に燃えて、我々は行かなければなりません。 皆さんが御言を通して、今までの既存真理を審判する御言を持つ者として現れるためには、まず信念を持たなければなりません。信念をもったら実践して、背信した怨讐と正面衝突する時、勝手気ままな環境にある彼らに、堂々と教えることのできる、実力をつけなければなりません。これも不足しているなら、真と偽を証明するために血を流し、天のまえに供え物となる信念を持つのです。いま統一信徒たちは、これを持たねばなりません。 神の心情を体恤して神の遺業を相続せよ 生活を動かす御言、生活の実体で感動させる愛、生活にあえぐ心の基台を安息させる心情の主人にならなければなりません。こんな群れとして、天を背景にして、歴史的な過去と現在と未来的な所望の基台の上に、確かな出発から目的まで、変わらざる原則的な路程に向かって行く群れとなったなら、皆さんは絶対に滅びることはありません。こんな観点によって、皆さんは行かなければなりません。ですから今この時は真理審判の時であり、人格審判の時であり、心情審判の時なのです。外的な現象から見る時、摂理的な条件に照らして見ればそうなっているのです。 皆さんがこの御言を携えて戦いゆく時、この御言を叫ぶ時、皆さんは御言の心情、ここで語っている、あるいは我々が語っているこの御言が現れるまで、そこにひそむ曲折の凄じさを感じて、天のまえに感謝する心がこみ上げて、皆さんがこの御言のために行くなら行くことごとに、天が共におられるのです。間違いないことです。天が共におられます。この御言をもって行くことごとに、告げる心に革命が起こるでしょう。良心の革命から、心情の革命をそなえる自身となるのです。こんな自身となるので、ここで語っている人間もまた・・・。 また、堕落した我々後孫を見る時・・・。我々は堕落性を持っています。堕落性の四大条件は何ですか? 驕慢と、時期と、血気と、偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性ですよ。皆さんもこれを、脱がなければなりません。これを脱ぐために今まで、断食をし、叱ってもきたのです。これを脱ぐには復帰路程の審判時代において、いかにしなければなりませんか? 自分自身が御言で武装し、御言の実体にならなければなりません。実体過程を通過するには、必ず堕落性本性を脱がねばなりません。そこには四大条件が残っていますので、これを脱ぐには迫害も受け、試練も受けるのです。今までこのような途上で、皆さんは残ったのです。 そんな立場で見れば、ここに初めてアボジが我々を救うために、苦労をされたことを、感じるのです。そこで初めて、心情を体恤するというのです。聖書を見ても、絶対これは分かりません。祈祷の中で、いくらかは体験できます。実体的にアボジといえる、生活的な感情の中で怨讐のまえに、アボジと呼べる心情が、ここに埋められねばなりません。多くの迫害を受けて戦う路程において、この実体舞台において、皆さんはしっかりやらなければなりません。 ですから皆さん、行って戦うのです。自分一人を救うために、今まではこのように戦ってきたことを知らねばなりません。このように戦ってきたので、神様は私一人を求めるたために6千年の間、苦労されたことを知りましたので、今日捜し求める私として、あるいは真理を代身する姿として、審判の基準を越えてゆく自分にならねばなりません。 今日わが個体を中心に、神のみ旨が完全に終結するのではありません。自分を越えて、民族が残り、自分を越えて世界が残り、自分を越えて宇宙が残るのです。これを知っておられるので、天は今、私を越えて血の汗を流さねばならず、涙を流さねばならず、死の峠を越えることを、考えざるを得ないのです。 アボジと息子娘となる心情的な体恤をした後には、アボジのまえに孝子とならねばなりません。息子娘になるにはまずどうするのでしょう? アボジの遺業を相続しなければならず、アボジの子女を率いる人間にならねばなりません。そうすれば、成るのです。 私個人は縦的な面において、天と私が個体において縦的な関係で、父子の因縁を結んでいますが、私においては縦的関係で一つでなければなりません。兄弟的な関係を中心に民族を通して、今まで広がっていったのです。しかし今、我々においては縦的問題を解決するには、横的問題において兄弟的な路程、兄弟を捜すための苦労が残っているのであり、今日この我々は真の孝子、忠臣、烈女になる責任を感じるのです。ですからアボジの遺業を相続しなければなりません。遺業の相続といって何を相続? 兄弟を救うという偉業を相続しなければなりません。兄弟を救うには、天が越えて行かねばならない地が残り、天が越えて行がねばならない涙の峠が残り、天がかき分けて行がねばならない死の峠が残っているのです。 悔しく憤ろしく、淋しい立場で相続する 今回、40日間にわたって伝道して戦い、帰ってきた統一教会の皆さんは、自らの心情的な体恤を成したと思うのです。また今まで、自分一人を探すために、神様はこのように苦労され、自分一人を立てるために涙の道、血の汗を流す道、死の道をものともせずに、6千年の永き歳月を一日のごとく、不肖なるこの身を救わんがためのアボジの心情がいかなるものであったかを体恤した期間が、あるいは迫害を受ける立場、飢える立場、限りなく切ない立場で、どこの誰をも知らず、草の根を抱いて山川を仰ぎ見て、わずかな風の便りと共にそんな心情にひたり、アボジの姿を慕い、アボジの心情のまえに皆さんは頭を下げ、アボジといえば涙があふれる体恤をした期間が、この40日の期間であったと思うのです。 それではこれで終わるのですか? 我々はこれまで、追われることが沢山ありました。心情、心情、叫んだこの御言を通して心情が何であるかを知り、御言、御言、実体、実体と叫んだその言葉が何であったかを、皆さんは良く分かったことでしょう。 このようにして皆さんは、心情的な面において今一度、アボジのみ旨のまえに真の息子娘として認知を受け、新しい覚悟をしたここにおいて、何をするのか?「今、アボジの息子として、私が立ちましたから、アボジよ祝福して下さい」と祝福を受ける立場に立つ、我々であると見るなら、皆さん自身は祝福により、何を受けるのですか? アボジの偉業を相続しなければなりません。 そのために皆さん自身は、どのようにしなければならないか? 神の内にある、神の中にある喜びと、栄光を相続するのではありません。神の内にある悲しみと、苦痛と悔しさをまず相続しなければなりません。孝子、烈女がどこにいるか? 喜ぶ時、孝子は誰でもなれます。悔しく憤ろしく、淋しく悲しい時、孝子となる息子娘でなければなりません。ならば神の悲しみ以上、アボジの胸の奥にある悲しみを知って血の涙を流さねばなりません。「6千年苦労されたことを、一年間で血を抱いて死なぬ正道となり、いっぺんにこれを蕩減いたしますので、私を送って下さい」こんな信念を持たねばなりません。 我々は今一度、正義の戦いのために行かねばならない、責任があるのです。こんな言葉を与えて皆さんを激励する、皆さんの前に立っているこの人間も、胸が痛むのです。今回の巡回路程で、幼い者たちが血の涙を流して村から村へ追われ、惨めな事情にさらされ、しゃくりあげる涙が落ちるの見るこの先生の心は、痛むのです。心から慟哭したのです。「神様! この道がもし、間違いであり、誤った道であり、自らの思いの何かから出たとしたら、その場で天罰を受けるでしょう」と祈ったのです。天罰を受けるのです。 行かずとしても行かざるを得ず、死んでも行かねばならない使命があることを知り、この民族の凄惨さと、この民族に神の苦労のみ手が秘められていることを知る限り、行かねばならぬみ旨があるのです。どこの誰か、比較する資格と知恵があったなら、こんな道を行くことは願わないのです。しかし行かねばならない事情と、曲折が残っていること見やる時、涙をのんで倒れるたびに天が励まし、追われ打たれるそんな時、天の愛を抱き、今でなければ行く時がないという、責任ある信念をもって誓い行くのです。 私はこの道を覚えるごとに、皆さんが行くことごとに、涙をこぼしたことを知っています。皆さんが行くことごとに、汗を流したことを知っています。皆さんを送って私自身、神のまえに祈祷したことは、「アボジよ、彼らに真の天のみ旨のために流した涙があり、流した汗があり、アベルの血が天宙を代身して善の目標を立てるために嘆息して訴えているからには、彼らの汗と彼らの涙が、必ずこの民族とこの時代のまえに訴える日があることを、我は知るなり」と心から何度も覚悟して、皆さんを送ったのです。 誠心誠意を尽くし、至誠を尽くして流した汗は消え去りはしないのです。心情から切なる思いで民族を愛し、み旨を愛して流した涙は無視されないのです。死ぬ命だ、最後の絶壁だ、門が塞がれたと嘆息するごとに、天は行く道を開いて下さることを知っていますので、皆さんをそんな場に追いやったのです。 我々は持っている物もありません。金もない。勢力もない。この世に親友もいません。父母が反対し、親戚が反対し、兄弟が反対し、既成教会が反対して、全てを失った立場です。この世に対する因縁と、愛着心を全て断ち切って、天運が同時に現れるこの時の運によって初めて、アボジが相応しい姿で立たせて下さったことに感謝し、そんな場に出会うごとに倒れ、落胆する者がないことを願っているのです。 天と地と人類のために犠牲の道を行かねばならない統一教会 御言により、実体により、心情から傷跡を残す所々に、今日地上の人間は反対していますが、善なる霊界を動員して必ず成就しなければならない、責任を感じなければなりません。皆さんが流れる涙を条件にして、汗のしずくを条件にして、蕩減の善なる闘争歴史をつづってきたことを知っております。人間が反対したとしても霊界の数多くの霊魂は、神を代身して現れた数多くの霊たちは、統一教会側です。皆さんが信じられないならば、祈祷してみなさいというのです。このように皆さんが涙を流すごとに、アボジはその言葉を聞かれ、苦境に陥っている皆さんの側を守られ、知らぬ人間が信じるように告げられ、淋しく追われる場で一人環境を開拓するのに躊躇するたびに、神は保護者を送られ、皆さんの環境を守られることを、私は知っております。 こんな実質的な体験により、そこに湧きあがる新しい決心と、新しい覚悟をもって行かねばなりません。今までは教会のために行きましたが、今からは民族のために、世界のために行く時が来たのです。今までは統一教会が、キリスト教を代身した一教派の看板を掲げ、教会的真理の基盤のもとにやってきました。しかしながら今日、この民族を救うためには、我々でなければならないのです。この民族の生きる道を経て行って、一挙に勝利の王者として登場し、天地のまえに誇ることのできる姿と成らねばならないのです。そのために数多くの涙があるのです。数多くの汗があり、数多くの犠牲があるのです。飢えた体を起こし、飢えた手を取り、新しい覚悟と誓いの手をさっと差しのべ、アボジのまえに行くべき時が来たのです。 いま行く時はアボジの遺業を相続して兄弟を救うため、天宙の怨恨を解くための使命を果たさねばなりません。この使命を今は知りましたので、皆さんは真っすぐに見て、顔を真っすぐに向け、心情を真っすぐに向けなければなりません。誰に向かって? 神に向かって。問題の解決点は、ここにあるのです。 皆さんが5、6月の暑いさ中、伝道地を回って訪問するたびに、汗を流して過ごしました。あるいは環境に追われ、飢える立場で、涙あふれる生活をしました。これは有難たいことです。自分には父母も親友も、師も、どんな環境の私生活もない淋しい心情ばかりでした。よるべなき身でただ神と我・・・。うら悲しい荒れ地のごとき天地のまえに、気を取りなおしてアボジと呼ぶその心と共に、涙あふれるその場に、そよと吹く風のそよぎが自分には親友でした。 東の空に昇る朝陽の光が、わが心情の友であり、もの淋しい地面の土がわが友であり、眺めやる自然がわが友であることを、皆さんが感じたなら、ここに新しい自我を発見し、新しい価値と新しい因縁が躍動する決心を、再度なしたと思うのです。この決心をもって怨恨を解くために、自分自体だけが伏して祈るのではなく、必ずこの民族を抱え、一族を捧げても天を抱え、涙と汗と血を流さねばならぬのです。こんな新しい決心をなしたと見るのです。 いま天の総決算的な条件があったとしたら、これはある聖書の御言の条件ではないのです。この御言を通して神の遺業を相続して、兄弟を代身して、永遠を代身して涙を流す心情の主人になっているか? 一生、汗を流してもいいという、心情の人格者になっているか? でなければ血を流して、供え物になる恨があったとしても行くという、そんな心情の姿になっているか? そんな自分にならねばなりません。 統一教会の信徒たちは胸に手をおいてみる時、心臓の鼓動と脈拍とを感じるたびに、この血はある日ある時に途絶えるのですが、切れるということが誰のためかといえば、自分のためというなら、天宙の恨となるのです。途切れる日が、この血と脈拍が人類と天と地のためだったならば、ここにおいて皆さんが地獄に行くともがいても、自然に天国に行くのです。統一信徒の行くべき人生の目標が、ここにあります。人生の目標はこれです! いつ自分が鎌をふるうかハンマ-をふるうか、血を流し、汗を流して働く場に行かねばなりません。ここにアボジと共に、涙を流し汗を流さねばなりません。この天宙の偉業を成就せずして人類と共に涙し、天と共に成果があがらずに切なく涙する立場にあったならアボジと共に、人類と共に、歴史と共に、血を流してこのみ旨を完結するという決心をする群れがこの民族のまえに、一つの村に一人づつあったなら、滅びることはないのです。そこに加担しないという人は沈むのです。ここで語っている人間が、平安な立場でこんな話をするのではありません。私がそうですから、皆さんもそうでなくてはなりません。このように生き、このように戦っていますから、皆さんもそうです。 宇宙の全ての生命の運勢を懐に入れ、握りしめるのです。こんな心情を懐に抱いたが、放したら天地が滅びるのです。放すなというのです。自分の手が切れたとして放すな! 失ってしまう群れとなっては、ダメです。 血と汗と涙の道を行く心情の主人公になれ こんな観点から見る時、今は皆さん自身に返って反省してみるのです。天がどんな観点で皆さん自身を指導しておられるか、反省してみて下さい。皆さんの心情からある目標に向かって指導されたかを考えてみるのです。皆さんは1年6か月以上、あるいは2年近く心情問題を叫んできました。この時は真理と人格と心情を、いっぺんに神のまえに讒訴の条件として提示する時であることを知りましたから、この基準を完全に終結するために、血と汗と、涙を尽くさねばならぬことを知りましたので、天地の度数に代わるある数の条件を備えて、皆さんを万民のまえに送ったのです。 今から行って皆さんがこんな信念を抱き、天地の大名分を代身する本然の家庭の基準を胸に抱き、皆さんが行って戦う時、行くごとに摂理は、思いもよらぬほど変わるのです。人間ができなければ、霊界が動いてくれるのです。皆さんは今回、多くの証しを立てました。貴重なことも多いでしょう。貴重な便りにも多く出会ったことでしょう。虫けらほどの価値もない自分一個を中心として、理論的な心情にすがって行く時、これが天を通して自身の環境を超えて動いていることを見る時、どれほど恐れ多くも、有難たいことかというのです。 このようにして皆さんが帰ってきましたので、今からは心情の武装、御言の武装、人格の基準を完結させて解決しなければなりません。この時に天のまえに、一つの相続的な権限を得て、信じて祝福すれば祝福された通りになるという信念を持たねばなりません。息子娘の心情を代身する基準に立って、神の偉大さを代身し、サタン世界に向ってやってみるのです。 ある村に入ったなら、我々はその村のために苦労している人間に負けてはダメです。その村に入ったら負けるなというのです。何をする時? 戦う時ではありません。汗を流し涙を流す時において、負けるなというのです。ですから我々は食べなくても決心を持たねばなりません。皆さんは犠牲にならねばなりません。今から3年の間、皆さんは総団結するのです。 最後に言うことは、どうして血と汗と涙が必要かということです。歴史はこれによって戦って来ました。あるいは涙を通して、血を通して編んできたのです。ところで今までのキリスト教は、血を流し涙を流しても悔い改めよ、と叫んできました。イエスの血を中心にして涙を流してきましたが、ここにプラスするに、汗を加えなくてはならないのです。汗を加えるのです。 今回、数多くの人々が210か所に教会を立てましたので、これを我々が責任を持たねばなりません。今こんな足場ができ、そのようにやらねばならない立場にあるのです。皆さん自身を見て下さい。歴史的に見てもそうであり、み旨から見てもそんな立場に立っているのです。それではここに我々の血は何をするのですか? 神の栄光にならなければなりません。皆さんの血は神のものです。 神は我々の血の代価を要求されるのです。人類は涙の代価を要求するのであり、地は汗の代価を要求するというのです。なぜですか? 数多くの人々がこの地上に来て、悪なる世界に汗をいっぱい流しました。人類は今まで悪なる涙を、いっぱい流しました。悪なる血を、いっぱい流しました。ですから蕩減原則によってこの地は、我々善なる人間の汗によって洗わなければならないのです。今日この人類は、善なる人間の涙で洗わなければならないのです。神の前に、我々の血を、お返しするのです。 今から統一教会の生活信条は、天のためにわが血、人類のためにわが涙、地のためにわが汗を流せということでなければなりません。このような生活的感情から「アボジ!」と呼び「私は息子ですからこうであり、あなたはアボジですからこうです」という、そんな父子の因縁がありますから、こうならざるを得ない心情的な基地を立てて、万事は終結するということを知らねばなりません。心情の涙、心情の汗、心情の血を我々が行くことごとに立てることが、今から戦い行く皆さんの義務であり、責任であることをよくよく知らねばなりません。分かりましたか?「ハ-イ」 俗なる群れのまえに、真実をもって行かねばなりません。今は言葉よりも実践をしなければなりません。話す前に、身に染みる心情から涙を流し、彼らを抱え「兄弟よ」「同胞よ」と涙あふれる者にならなければなりません。この民族がこのように惨めで、この民族がこのように頼るところもないことを知る時、自分の体を支えることもできぬほど慟哭する、心情の主人公にならねばなりません。 この民族を握って、行く道が塞がれて振り返りつつ行く道であったとしても、解放の時であることを切実に感じますので、言うに難しく、強調するも困難な言葉を師の口から言うこの苦しみを、皆さんは分かっていると思います。天の栄光を私は願いません。皆さんのために・・・。皆さんが戦い行くに、戦うたびにその涙はアボジの涙として、その汗はアボジの汗として、腹がへれば断食をして、血を干してでも訴えるのです。その姿に天は役事されるのです。 我々の真の同志の姿は惨めです。それでこれまで、統一教会の皆さんはお分かりのように、私は物質を求めませんでした。人間を要求しませんでした。飢えた者を抱え、彼と共に慰める者を求め、哀れな者を抱え、彼と共に愉しむ場を求めました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.21
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怨讐に対するお父様の恨みマタイの福音書二三章一節-一二節、二九節-三九節一九六〇年七月一七日(日)前本部教会 *このみ言は第一次七年路程初めての全国四〇日伝道実施に先立ってなされたみ言 しばらくお話するみ言の題目は’怨讐に対するお父様の恨み’です。’怨讐に対するお父様の恨み’という題目でお話します。 1. 私を中心とした善と悪の闘い 私たちはすべて、私たちが生きているこの地が善なる地になったおらず、地の上に生きる人類も、善なる人類になっていないことを知っています。この世の中が悪なる世の中であるにもかかわらず人間は善を所望とし、今日の不足なることを案じながら、明日の完全なる姿を慕っていることは、皆さんが生活を通してよく知る事実です。 今日、地の上に生きている数多くの人々の中には少しはましな人がいる反面、そうではない人間がおり、少しは忠誠であろうとする人がいる反面、その忠誠の道を妨げようとする人間がいるのです。世の中のこのようなことと同じく私たち自身も、より良くなるという道を行こうとするとき、善なる何かを立てて行こうとするとき、これを妨害する要素が前を遮ることを、皆さんは何度も感じるのです。 自分が善なる人間であると満宇宙の前に、自認することができないことを感じれば感じるほど、自身の環境が悪なる環境であると恨むようになるのです。さらには自分がこんな悪の世の中で生きているので、このような環境に染まって悪なる立場に立つようになったと、一時的な弁明をして生きているのが現実なのです。 それではどうしてこのようになったのか? 自身が善なる人間になっておらず、善と反対の悪なる人間になったのは、環境のためであると恨嘆する原因はどこにあるのか? この原因を追究してみれば、堕落の報応からきた事実であることを否定できないのです。善とか悪という名詞が残っていることも、堕落のゆえであるのです。 世の中の人をおいて見るとき、善なる側の人と悪なる側の人、また善なる人と悪なる人に区分することができます。私個人をおいて見るときにも、ある一方向に自分を引っ張って行くかと思えば、また他の側に自分を引っ張って行くという事実を、私立ちはよく知っているのです。 人間に善なる人間と悪なる人間がいるように、神があるならその神も、善なる神と悪なる神があるのです。これは私たち自身を推し量って見ても、否定することができません。 自分の心は善に向かって行こうとするのに、環境に引かれて悪なる道へ行ってしまう原因は、どこにあるのか? 自分が動機的な主体ではないという事実を認定するなら、ここにはきっと自分以上の原因と動機である力が、作用しているという事実を否定できないのです。春が来れば春の気運が、すべての山河を覆うのと同じです。自分自身が環境による感情に縛られたり、環境による罪のなかに縛られるこれらすべてのことは、自分が直接的な動機になって動いているのではなく、ある動機的な力の下での間接的な動機によって動いているこのなのです。 善を求めてみれば結局、絶対者を立てざるを得ず、悪を糾明してみれば絶対者と反対の神と、出会わざるを得ないのです。それゆえ私たち個体には、重要な責任があるのです。自分が良くなれば善になり、でなければ悪になってしまうのです。自分が良くなれば絶対者を喜ばせるのであり、でなければ悪の怨讐を喜ばせるのです。このような岐路に立つ人間ですから、どんなに微々たる生命だと考える人間であっても、彼は天的な闘いと歴史的な闘いをして生きているのです。 世の中や理念を通して新しい世界に向かって動いてゆくことが、今までの人類歴史なのです。歴史の方向を理想世界に転向させるために展開されてきたことが、文化史の変遷過程なのです。これを見るとき、人間が主体ではなく、人間は第二原因の立場で、第一原因の対象として行動してきたに過ぎなかったという事実を、認定せざるを得ないのです。 キリスト教では人間が、堕落によって罪悪となった世の中に生きているので、このようにならざるを得ないと言うのです。 2. 悪に占領された人間と摂理歴史 善の理念を立ててゆく絶対者、即ち神が存在するなら、その神の前に反対となるものがあるのですが、これが罪であり、鬼神であり、サタンなのです。これは人間の怨讐であると同時に、神の怨讐であると規定せざるを得ないのです。 私たちは神があるということを主張する前に、私たちの周辺に誰がいるかを、まず知らなければなりません。私たちの周辺には神ではなく、神の怨讐である悪神が私たちを取り囲んでいるという事実を知ってこそなのです。 人間が堕落することによって、創造主神は人間を怨讐の懐に渡したのです。であれば人間のために創られたすべての万物も、悪なる怨讐サタンに渡されたのです。本来神は私たちの心の主人であり、私たちの体の主人であり、私たちの生活の主人ですが、我々人間がしかじかの曲折によって神に背反して、神のみ旨とは反対の立場で喘いでいるのです。誰によってこのようになったのか? 神の怨讐である悪神によってこのようになったという事実を、私たちは知らねばなりません。 人間には体があり心があります。さらには心情があります。心情と心と体をもって世界に出てゆくとき、事情が絡みつく生活舞台を離れてなすことはできません。今日私たちが感じ、見て触り、食べて暮らしているこの世の中は誰が占領しているか? 神が主管しているのではなく、神の怨讐サタンが占領しているのです。 ですから神は怨讐サタンが主管している世を取り戻し、本然の状態に回復しようとされるのです。これが復帰摂理です。回復するにはどうしなければならないか? 怨讐を降伏させなければ、回復することができません。これから天上と地上に大きな闘いが起きるのですが、この闘いは神が怨讐、即ち鬼神サタンを屈伏させるために起こる闘いなのです。これが最も大きな闘のです。 歴史路程において人間は部分々々、即ち地域なら地域、宗族なら宗族同士が闘ってきたのです。神はこのような闘いを解決するために、人間を善なる側に率いてきたのです。悪なる側に引かれたならまた引っ張って、個人から世界にまで率いて来たのです。ある時は悪の側が勝ったようですが、結局は善の側へと歴史を率いておられるのです。 今私たちは、大怨讐を知らねばなりません。どんな怨讐が大怨讐か? 歯をむいて報復するぞという、個人の怨讐は何ほどもありません。怨讐の中の大怨讐が誰でしょう? 神の創造の偉業を成そうとするこの世界を破綻させるサタン、鬼神、悪神が正に私たちの大怨讐なのです。彼は全被造世界の怨讐であると同時に、我々人類の怨讐なのです。この怨讐を打つための路程において、人間はこの闘いの材料に使われてきているのです。 闘いはすでに起こっているのです。皆さんが平安に眠っている夜にも、善の神様は怨讐を撃退するために闘っておられるのです。昼も夜も闘っておられるのです。 皆さんは怨讐を打たなければなりません。こんな怨讐が我々の前に命を狙い、理念を破綻させ、歴史的な行路を汚し、我々を悪の罠へと追い込む動きが地上に起こっているのです。ですからある事件が起これば、この事件を中心に右側が生じ、左側が生じるのです。左翼があれば右翼があるのです。前後があり上下があるのです。 サタンが占領している所は、天地の全体です。この地はサタンが占領している場、怨讐が占領している場なのです。本来人間は怨讐に占領されて生きるようにはなっていないのですが、主人の教えを違えたことによって、主人の命令を違えたら死ぬというその道を行って、怨讐の捕虜になったのです。捕虜ですよ。このような宗族として繁殖していったのが、今日の人類なのです。天地に大怨讐があるのであり、これは歴史的な怨讐であり、この時代的な怨讐なのです。また未来の怨讐でもあるのです。これは人類の怨讐であると同時に、万物の怨讐であり、神の怨讐なのです。 3. 善と悪の作戦本部になる人間の心と体 歴史的な戦争、あるいは天宙的な闘争時期が来るとして、その時に先頭に立ってサタンを撲滅させる、屈伏させることのできる義の精兵がいるなら、彼はきっと天の息子・娘に間違いないのです。 宗教や善というものの目的が何でしょうか? 平安に楽に暮らすことではありません。他人が羨むほどに、地で良い暮らしをすることではなく、自分を越えて後孫にまで侵犯して蹂躪する怨讐サタンを撃滅して、地球上から追い出すことです。これが我々人間の目的であり、神の目的であり、全被造世界の目的なのです。また、これが今まで闘ってきた目的なのです。 皆さんの体は、皆さんのものではありません。皆さんが食べるごはんも、皆さんのものではありません。ごはんを食べて動じている皆さんの肉体も、皆さんのものではないというのです。皆さんのものではありません。では誰のものか? 悪魔のものです。 それで神が人間を支配しているこの悪魔を撲滅させるための、基地として立ておかれたものが何かというと良心なのです。良心は時間性を越え、皆さんと闘争しているのです。この社会と闘争しているのです。過去の歴史路程においても闘争してきており、今日この時代にも闘争しているのであり、明日の歴史路程においても闘争しなければならない一線の将兵が、正に皆さんの良心なのです。 私一個体には天の作戦本部もあり、サタンの作戦本部もあるのです。私たちの良心を根拠としているものが天であり、体を根拠としているものがサタンなのです。この良心と体が闘っているのです。それで人間は大声をあげて闘い、倒れては起き上がり、誓ってはまた崩れ、決心してはまた無力な生活を反復しているのです。ここにおいて体を打って、立ち上がれないでいる良心の権限を回復することが、神様が願う最高の目的なのです。 宗教的な言い方をすれば、私たちの心は天国に連なっていて、私たちの体は地獄に連なっているというのです。心を治める神が善神であり、体を治める神が悪神なのです。 なぜ、このようになったのか? 皆さん、一匹の昆虫を見ても相対的な関係で対するときは衝突がないのです。ところが、なぜこのようになったのか? 神が誤って創って、こうなったのではありません。元来は人間の心と体が相対的に無限に授け受け、授け受け、また授け受けするように創られたのです。であるにもかかわらず、与えようとしても受けずに互いに争ってばかりいるのは、堕落の報応なのです。 この争いを誰が整備しなければならないか? 誰が責任を負わなければならないか? 天と人間が合同作戦をして整備しない限り、信仰の目的を達成することはできません。理念や理想といっても、この目的を達成できないのです。それゆえ今日人間は’良心的に生きよ’’善を指向せよ’と主張しているのです。そうではありませんか? この地がサタンの占領圏内にあるので、数多くの民族に分かれたのです。民族と民族間の風習が違い、伝統が異なるのです。この社会はサタンが主管しており、サタンを中心とする伝統と風習が植えつけられているのです。ですからこのサタンどもを、撲滅しなければなりません。 4. 人間の良心と神の摂理 そのために天は時代々々ごとに、人間が新しい良心の衝撃を受けるように役事され、彼らの心と理念を開拓され、革命を通してサタンの勢力を打ち崩してきたのです。ですから今まで、どれほど苦労されたことでしょうか? 私たちが見ることも知ることもない歴史路程において、神は闘ってこられたのです。 人間が地上でどんなに善のために叫んだとしても、百年以上も続けることはできませんが、神は善の世界を成すときまで、怨讐に対して闘いを継続しなければならないのです。しかし神は今まで、怨讐のまえに天の側の精兵を立て、行進命令、出動命令をしてみたことがないのです。今までの歴史路程において、神は新しい理念を立て、人間の心を動かして悪の世の中を征服する精兵を集めてこられたのです。これが今までの歴史です。 それでは、神の怨讐に仇を打つ軍隊があるかというとき、未だにそんな軍隊がないのです。善なる精兵が集め、この善の精兵との合同作戦によって怨讐である悪魔、サタンを捕らえて底無し穴に追い落とすことが神の目的なのです。 私たちはちょっと次元を高めて、考えてみなければなりません。今日普通の人々は日常生活的な感情を通して自分と対立する者、あるいは何代かの先祖から何らの衝突があり、怨恨を結んでいる者を怨讐と思っているのです。しかしそれよりさらに大きな怨讐があるのです。だからこの怨讐を打つまでは、どんな怨讐にも仇を返すなというのです。こんな個人的な怨讐は問題ではありません。個人的な怨讐に仇を返す善なる人が、犠牲にされたのです。ですから耐えることです。 キリスト教では神のみ旨に従い愛を強調して、怨讐のために祈りなさいと言いながら、なぜ終わりの日に審判するという命題を立てるのか? これは怨讐サタンのために祈祷するということではないのです。人間のために祈祷しなさいということです。人間を堕落させた張本人であるサタンのために祈祷しなさいということではなく、この怨讐に籠絡されて悔しい人間のために、祈祷せよということです。でなければ何のために審判という名詞を立てたのか? 神は公義の審判主です。全世界の天の側の善なる精兵たちは一つになり、神の出動命令に従ってこの悪なる世を打ち、サタンを生け捕らなければなりません。その時まで、各自が準備をしなければなりません。神様はその日を迎えるために、六千年という歴史を率いてこられ、未だにその一日を迎えていないことを、皆さんは知らねばなりません。 5. 本来の良心基準をもったなら 人間とは、心と体が離れては存在することができません。私たちの体と心を分析して見るとき、私たちの心が絶対的に天の側に立っているか? 違います。私たちの心はある思想的な、あるいは理念的な環境に左右されるのです。 それでは人間が堕落することによって、まず侵犯を受けたところがどこか? まず侵犯を受けたところは体ではなく、心なのです。自分の心において今まで作用している良心の基準は、アダムとエバが堕落する前の基準なのです。本来の善なる人間、完成した人間が持つべき良心基準ではありません。これが正しいのか、あれが正しいのか判決をつけることができない良心基準なのです。堕落する前の未完成のアダムとエバの良心基準が、今日世界人類の良心と連結されているのです。そうなっているのです。 もしも堕落しなかったなら、この良心基準がどこまで上がったでしょうか? 神について解明する必要がない基準まで上がったのです。神が私たちの主人であることを、自動的に感じる基準まで上がったのです。このような良心基準が完結したら、この良心という種から生まれべきものが何でしょう? それは心情です。愛という言葉です。人間がこのような基準を持ったなら、神の愛を中心に満宇宙を支配するのです。 愛は時間性を超越するのです。空間性を超越するのです。ですから良心作用も、心情に従って動くのです。 ところが人間が堕落することによって、どんな事が起こったのか? 本来、神の立てられた良心の基準、即ち堕落することなく完成したアダムとエバの良心基準を持てなくなったのです。堕落することなく完成したアダムとエバの心情を、人間が持てなくなったのです。もしも神の創造計画どおりアダムとエバが完成して、完成した心情を持つなら、神を忘れるでしょうか? 忘れはしないのです。天使が誰であり、万物が何であるかを知ったのです。 人間は万物の霊長として、心情においても心においても体においても、いかなる不足もなく絶対的な愛の心情と連結されて、絶対者を代身するのに不足がないように創られていたのです。ところが堕落することによって、人間の心の基準は堕落したアダム、堕落したエバの心の基準から出発したのです。ですから皆さんの心では、神があるのかないのか分からないのです。アダムとエバも神が現れて取って食べてはならないと命令されたので、そのとおりに信じてきたのですが、神が現れないので自分たちが勝手に行動して堕落したのです。 私たちの心が体を屈伏させられない原因は、どこにあるのか? 心の基準がサタンに組み敷かれているからです。ですから今日地上に生きている人間たちの心が、体の支配を受けているのです。しかしアダムから本性的に残っている良心基準が、天に向かい、天倫に向かって動いている方向性を失っていないので、これを貫いてきたのです。過去を悔いる瞬間に爆発するのです。’アイゴ-、これでは駄目だ’というとき、爆発するのです。このように隙間があれば爆発してくる心の作用を、皆さんは今まで人生路程において、あるいは時間々々の生活過程において、無数に蹂躪したのです。ですからサタンの僕、サタンの息子・娘だというのです。 もしもこの地上に神のみ旨が完全に成り、私たちの良心が神の創造理念によってさっと充たされる日には、この体のようなものは問題ではないのです。肉体が問題ではないというのです。ところが良心基準が神が立てられた基準ほどになっていないときに堕落して、サタンに組み敷かれてしまったので、今日人間はこの原則の基準まで上がっていないのです。 6. 本然の良心基準を立てる日には サタンは死亡の障壁を立てているのです。その下に組み敷かれているのが、我々の体です。神のまえに怨讐となったサタンは、本来は天使長です。神が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴しているので、サタンは人間の体を足場にして活動しているのです。それでどの宗教も、体を打つのです。ある国家やある主義を征服することが宗教の目的ではなく、体を征服することが宗教の目的なのです。こうして本然の良心基準に帰ろうとするのです。体が要求するすべての条件を無視して、心の門を開いてアダムとエバが堕落しないで上がるべき良心基準に帰ってくるとき、初めてここに平和が始まるのです。 キリスト教の使命が何でしょうか? イエスは語ったのです、天国はわが心にあると。サタンを屈伏させて、安息所を造らなければ地獄です。天国に行くでしょうか? そんな妄想は捨てることです。分かってみれば、信じたという条件だけでは天国に行けないのです。信仰の力をもって天と敵対しているサタン、即ちこの体に克つ勝利者になっているかどうかが問題です。これのみを通過すれば、地獄に行きません。絶対に行かないのです。今日人間が修養だ道徳だといっていますが、それではこの基準に及ばないのです。だからといって人間が、手を挙げて降伏するのですか? 降伏することはできません。なぜ? 神がおられるからです。神がおられるならどのようにしてでも道を貫かねばなりません。これを知らねばなりません。 堕落人間は、世の中に対する欲心の他にはありません。地のみを主管しようとするのです。しかし本来人間は、地だけを主管するように創られてはいないのです。霊界まで主管するように創られました。ところが人間はこれを覚えていないのです。人間を主管する天があるのですが、天の命令を通して直接的に主管することができる橋がないのです。人類の始祖がこれを断ち切ってしまったからです。ところが後孫の中にも、これを連結させる人間が一人もいないのです。本部には作戦参謀部があって、すべての計画をしているのですが、その計画を連絡する電話線が切れているのと同じです。これを知らねばなりせん。 これを引き継ぐ日には、良心のあいている場を充たす力が出てくるのです。神の生命力が流れ込んでくるのです。即ち、堕落しないで完成した本然の良心基準を立てる日には、体は問題ないというのです。肉体の征服は問題ないのです。のみならず、そんな心の基準を立てて、神が知らないとはされない心情の因縁を持たねばなりません。 これが神と人間を父子として因縁づけることなのです。神は父であり、人間は息子という因縁を結ぶことが、最も重要なのです。今日の人間の中で、こんな因縁を結ぶ人がいますか? 一人もいません。 皆さんが今、見て聞いて感じるすべての感情は、神から出ているものではないのです。今日我々が生きて感じるすべての感情は、良心の完成基準で神の心情と連絡して出てくるものではありません。ではないということです。違うのです。ではどこから出てくるものか? 悪神から出てくるものです。悪神が私たちの心を占領しているのです。悪神の血筋が我々の心と、体の細胞にまで連結されているのです。これを知らねばなりません。 怨讐が天にいるのであれば、皆さんの血と肉が怨讐サタンの要素なのです。血と肉が怨讐です。怨讐の血が体に入ってきているのです。これを考えるとき、体に鳥肌が立つのを感じなければなりません。このしわのかたまり、この細胞に大怨讐の血が流れているのです。皆さんの血と肉に、怨讐の根がのびているのです。今まではこのような事実を知らなかったのです。それで人間たちはこんな、しわのかたまりを大事に養っているのです。 そんな内容がありますから、宗教はこの怨讐を捕らえようとするのです。イエスは怨讐は自分の家の中にあると言いました。人間の体を聖殿としているでしょう? この体は聖殿ですから、つまり家です。家の中に怨讐がいるというのですから、体がつまり怨讐になるのです。だからこの体を征服しなければ、神の創造理念を完遂することができません。 それではどんな方法によって、怨讐を征服するのでしょうか? これを知らねばなりません。ある怨讐がいるなら、彼がどのようにして怨讐になったのか、この事情を知らなかったら、彼を征服することはできません。だから知らなければなりません。アダムとエバからどのようにして体が怨讐になり、怨讐サタンが我々の先祖たちを、どのようにして籠絡し、またイエスをどのようにし、自分をどのようにしているかを知らねばなりません。歴史的な怨讐を知らなければなりません。歴史的な怨讐として行動したことを、知らねばなりません。 またこの時代の怨讐が自分を侵犯し、自分を籠絡していることを知らねばなりません。わが命を未来にまで永遠のように、僕にしようとする怨讐であることを知らねばなりません。このような怨讐どもの世界が、地獄なのです。怨讐の奴を知らねばなりません。怨讐を知らずに、怨讐を屈伏させることはできません。まず天上と地上に根づけられた怨讐に対する神の怨恨があるということを知らねばなりません。怨讐に対する神の怨恨が、誰のゆえに生じたのか? 地の上の人間たちのためです。地上に生きているこの群れのためなのです。 7. 人間が最後の安息所とする所 人間は本来、どのような群れであったのでしょう? 神の懐で秘蔵っ子として愛を受ける群れなのです。神の血を受け、神の骨の骨であり、肉の中の肉であり、細胞の中の細胞として、神の愛を受ける人間であったのです。 神が原則を立てておいて満宇宙を創造されたので、この基準を無視する日には、全被造物がみな壊れるのです。これを無視することはできません。人間はこのような基準を中心に、互いに愛し合って暮らすべきなのに、堕落することによってこの基準を放りだし、右手に神を握り、左手に地をつかんでいるのです。こんな人間を率いて、接ぎ木という事をされるのです。これが救援摂理なのです。 堕落が何でしょうか? 神との心情的な因縁に背反したことです。神が願われる良心の基準を完成しないで、背反したことが堕落です。神の理念を立てることなく、背反したことが堕落ということです。焦点は、神の心情基準を失ったことです。 それゆえ神は、人間に訪れて来られるのです。訪れて来られるときは’あなたたちの体を愛しなさい。ある学問や知識を愛しなさい’とはされないのです。’神の愛を求めよ’とされるのです。’神の愛を求めよ’とされるでしょう。これが今まで、神様が修道の道を立ててこられた基準なのです。 このような曲折を知らず、サタンがどのように神のまえに怨讐になったのか、我々の先祖がどんな罪を犯し、神から追い立てられたかを知らないで、どうして怨讐を征服することができるでしょうか? どうして怨讐に対する恨を解くことができるでしょうか? 結ばれたなら、解かなければなりません。結んだものを解くには、反対の方向に通して行くのです。怨讐たちが出て行かなくとも、貫いて行くのです。怨讐の障壁を貫いて行くためのことが、今までの人類歴史なのです。 人間はこれから世界が、一つの世界になるべきことを知り、その道を捜し求めて行っているのですが、良心と心情が統一されなければならないことは、知らないのです。これをどのように連結させなければならないか? 歴史的な思潮を見るとき、人間は一つの世界に向かっているのですが、神が願われる本然の良心と、その良心に吹き込まれようとする本然の心情を知らないのです。 ですからこれを外的に、環境的に、事情的に収拾してゆくものが思想であり、主義なのです。思想や主義は、良心的な感興を起こさせるものです。ところがこの目的が地にあったならば、これはサタンです。 天を通して人間の良心を爆発させ、環境に革命を起こす運動が、この時代に出てこなければならないのです。この一面をもって出たものが、今日の左翼です。唯物史観です。これはこの地上で、ある程度まで勢いを得るのです。しかし天上の因縁を中心とする主義のまえには、手を挙げなければなりません。 人間が最後の安息所とする所は、どのような所か? 心が平安だから幸福だとはしないのです。心の中で、心情の安息所を開拓しなければなりません。ちょっと難しい話です。心が平安な環境を持ち、自分の思い通りに世の中を主管することができる基準を持ったとしても、その心に核心がなければ駄目です。その核心は、心情です。この心情を充たしてこそ、これが万事の動機となり、調和を成すものなのです。 父母が良いわけは何でしょうか? 父母の心と自分の心が同じだからです。心情が一つだからです。離れようにも離れず、環境を越え、時代を越える内容があるから良いというのです。 8. 天国に行ける条件 このような時におかれている私たち、心情を失い、良心の中心をつかむことができず、生活の目標を失った体をもつ私たちは、どうすべきか? いっぺんには駄目です。悪なるものを取り除かなければなりません。取り除くのです。善なる世界に最も近づいている時には良心が問題になるのであって、肉体は問題ではないのです。 ですから宗教においては体を打つのです。ごはんを食べることが何か! 怨讐の腹に勝たねばなりません。肉体を平安にすることは、サタンを安息させることです。この肉体に対して、敵愾心を持たねばなりません。怨讐であるこの体に対して報復する自信のある者であってこそ、そんな自信を持って勝利する者であってこそ、天の精兵になることができるのです。出発基準が成っていなければなりません。大きな善の理念を中心に、体の情欲や食欲など、欲望の一切を自由自在に主管することができる男や女にならない限り、天が立てることができないのです。 宗教でいう終わりの日になると、どのような現象が起こるのか? 誰の命令を受けなくとも、世の万象をみな捨てる場に入るのです。今まで息子だ妻子だ、何だかんだといっていたすべてのもの、全部が夢のようです。こんな心情的な革命が起こらない限り、天国の民にはなれないのです。アイゴ-、わたしの愛する息子・娘、アイゴ-、わたしの愛する夫や妻、アイゴ-、わたしの愛するお母さんお父さん、等々のものがどこから出発しているのか? サタンを根拠として、因縁をもってきたものなのです。 大審判が何でしょうか? サタン世界の舞台を汲み取ってゆくことです。サタン世界との心情の因縁を、断ち切ってしまうことです。それで歴史は、父母と子が背反する思潮へと流れてゆくのです。どんなに抱いて座っていても、分かれて立つのです。兄弟と兄弟が争い、夫婦が争うようになるのです。そのようになるのです。それで終わるのではなく、新しい場を立てなければなりません。天の心情を再び接ぎ木してあげる、そんな事をするのです。 イエスはこの地の上に来て’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。果たしてメシアです。こんな原則的な観によって見るとき、果たしてイエスはメシアなのです。愛の救い主です、愛の救い主。有難いことです。歴史路程において、このような叫びがなかったなら、今日私たちは生きる意味を求めることができません。有難いことです。神を父と呼び、この世の父母を捨てるなら、天の父母を与えるというのです。天の父母を与えることです。皆さんを産んでくれた父母が、本当の父母でしょうか? 私を創り、生命までも吹き込んでくれた父母が、本当の父母です。愛する肉身の父母の代わりに、天の父母を与えるというのです。であれば世の中のものと合同作戦をしては駄目です。この世のことは怨讐です。怨讐! 怨讐だというのです。 ですからイエスが福音を叫んでゆくとき’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。’父、母、あるいは妻や子や姑、その誰よりもわたしを愛しなさい’としたのです。果たしてメシアです。聖書六六巻のすべてが必要ではありません。自分の子よりもさらに神を愛してこそ成るのです。 どのようにすれば天国に行けるのか? 天国に行くことができる条件とは何か? 自分の息子・娘よりも神をより愛すること。夫や妻よりも主をより愛すること。自分の体よりも聖霊をより愛すること。これが三位一体です。 心は体の新郎であり、心情は心の新郎であり、神は私たちの心情の主人であるのです。またイエスは新郎です。聖霊は新婦です。それで心的な型がイエスであり、体的な型が聖霊です。天地を代身して、心情の神を代身して、心的な型であるイエスと、体的な型である聖霊が役事するのです。ですからイエスは心の世界を求める中心なのです。新郎です。私たちが心から慕うものが何でしょう? 新郎です。新郎! 私たちが生じてより、初めであり終わりである革命を提示するために来られたお方が、イエス様です。これを知らねばなりません。 9. 怨讐に仇を返すには このような見地から見るときキリスト教徒、終わりの日に神の前に立つべきキリスト教徒が’神様、私の息子某を連れて来ました。また、誰を連れて来ました’ということは通じないのです。それらはすべてサタンを根拠として出発したので、彼らが愛する一切に神は対することができないのです。サタンが好む舞台から出発したので、怨讐なのです。怨讐! これを考えるときにこれが分かれるのです。今日、歴史の終末まできたのですが、未だに心情の革命を主唱していません。部分的にしてきました。キリスト教から部分的にしてきたのです。イエスを信じる人々は家庭の世話もしないで歩き回っているでしょう?イエスに狂っているというのです。そうでなければです。そうでなければ。 修道の道は、独身生活をするのです。女は女で独身生活をし、男は男で独身生活をするのです。このようにして、まずもって充たすべきものが何か? 心です。心を充たし、天情と因縁を結んだ後に、世の中を見渡さなければなりません。この曲折の動機を解くまでは、神の怨讐に仇を打つことはできません。怨讐は永遠に残ってしまうのです。よくよく知らなければなりません。これは嘘話ではありません。事実です、事実。それでイエスは母親であるマリアに’婦人よ、あなたとわたしは何の関係がありますか?’と言ったのです。この世的な血肉の因縁をもって、対することができないのです。当然です。当然の話ですよ。天を愛さなければならないイスラエル民族、天のみ旨を受けるべきユダヤ教徒は自分の息子・娘よりも、神をより愛したという認定を受けなければなりせん。 サタンの世で持っていた残り物を、神が受け取られるでしょうか? 受け取られないのです。怨讐の手の触れた物を受け取られるでしょうか? 皆さんは知らねばなりません。この体には毒素があるのです。悪の目的を果たそうとするサタンの血肉が、染み込んでいることを知らねばなりません。この目、この体、この耳このすべてがサタンの行楽と、サタンの理念を立ててゆく通路なのです。それで仏教ではこの世の中を遠ざけ、山中に入るのです。しかしそのようにしては駄目なのです。悪と闘って勝利しなければならないのに、闘いもしないのです。キリスト教は世の中にあって、悪と闘って勝とうとします。それゆえこの世的なものと闘い、勝ったとする群れが出てこなければなりません。 怨讐の中の最大の怨讐が、どんな怨讐でしょう? 事業上の怨讐ではありません。最も大きな怨讐は、愛する夫や妻を奪う人間です。これ以上に大きな怨讐はありません。皆さんも知っているでしょうが、本来こんな曲折が起こったのです。こんな先祖からの血肉を受け継いだ我々は、体に対する愛着心を全部捨てなければなりません。飢えてみなければなりません。修道の道は飢える道です。この体が疲労して倒れるまで、労働の場で一途にやってみるのです。むやみと打つのです。 こんな場に出る人間は、父母が来て’やあ、某よ’といっても堂々と越えてゆかなければなりません。愛する妻が過去の因縁を押し立ててきても、断然つらぬいて行くのです。世の中のどんな欲望や、周囲の因縁が襲いかかってきても、貫いて行かなければなりません。であれば神が’おお 、おまえはわが愛する息子だ’とされて再び送られるのです。おまえたちの息子・娘を救い、父母を救い、妻を捜してゆくように再び送られるのです。このようにならなければなりません。 イエス様はこのような使命を果たすために地上に来られ、弟子を立てようとされたのですが、そんな弟子を持てなかったのです。今日まで数千年の間、信じるという信仰者たちは世界的に数え切れないほど多いのですが、このような信者はいなかったのです。 今日統一理念をもってゆく私たちは、何をしなければならないか? 心情的な因縁を回復しなければなりません。目的はこれです。よく食べ楽に生きることは問題ではありません。乞食のじいさんの服を着ても、顔がくしゃくしゃになっても、どのようになったとしても神が’おお わが息子よ、わが息子よ’とされるとき’アボジ!’と駆け寄って慟哭することができなければなりません。こんな心情が皆さんにあるでしょうか? 10. サタン世界で勝利する秘訣 今日人間は父が父なのか、誰が誰なのか分からないのです。何も知らない天地で生きているのです。父を失って見ていないので、その父がこうだと説明してくれる人が出てこなければなりません。父がこれこれだと説明できる内容を持って来る人が、真の牧者です。その姿を望み見るとき、自分もどうすることもできず、自分の心が慕い引かれる血筋の因縁を感じる指導者に出会わなければなりません。皆さん、イエスがこの地上の人間のまえに真の父として来たのですが、そんな因縁を感じる人間がいなかったのです。 それではサタン世界で勝利する秘訣は何でしょうか? 神が私の父であるという事実を解明して、神も涙を流される場まで行くことです。そんな者が、神の息子・娘なのです。神のまえに出て’あなたは歴史路程において数多くの怨讐のまえに籠絡され、苦喪を綴ってこられても、私たちを息子とし娘とするために、血の涙の歴史路程を意に介さず、この時まで耐えてこられた私たちの真のアボジです。あなたの心情はこうであり、あなたの心はこうであり、あなたの体はこのようであることを知りました’とすることができなければなりません。 であれば神様は、大声で慟哭されるのです。神の威信を捨て、神の宝座を考えず、大声で慟哭されるのです。その姿がみすぼらしく、堕落世界ではよれよれの形無しの姿であったとしても、神が威信を捨てて慟哭されるようにできる者であってこそ、神の息子・娘となるのです。 人間は多くの欲心を持っています。私が望むことはそれではありません。皆さんを悪口を言われる場に追い込んでも、死ぬ恨があったとしても、天の息子・娘となることができる因縁を結ぶ場に立てたいのです。ここに入ってみ言を聞けば、即ち神がこうだということを見せてあげたく解明してあげるみ言を聞けば、神を抱えざるを得ない染みる心がわき起こるのです。そんな感じがわき起こってこなければ、この運動は世界的な運動ではありません。行っても壊れてしまうのです。 統一教会を信じてここに来た皆さん! 願わくば皆さんは、このような人間にならなければなりません。そんな人間になっていますか? こんな運動が自分一個を中心に、起こらなければなりません。真の良心を中心に真の道を捜してさまよう人間に、神を解明してあげればわれ知らずに包みこまれて元に帰るのです。帰ることができるのは天的な内容、本然の良心の力です。今皆さんがもっている良心ではなく、本然の良心の力です。この本然の良心の力と、本然の心情が爆発してくる感じを、信仰路程において求められないならば、天国には行けません。神の息子・娘として、立てないのです。 11. 怨讐に仇を返す方法 神の怨讐を打つときは、槍で突いて打つことではありません。どのようにして仇を返すのでしょうか? 絶対者たる神のまえに、サタンを解明しなければなりません。’神様、こうこうでこうではありませんか?’とするとき神が’おう、おう’とされなければなりません。丸ごと讒訴して、サタンを放り捨てるのです。サタンは心情の盗賊です。 それではサタンが、どうして神の大怨讐になったのでしょうか? 人類を奪っていったその日から大怨讐になったのですが、怨讐になった内容が何でしょうか? 神様が創造理念によって永遠に因縁を結ぼうとされた、天的な愛の因縁を奪ったことです。だから大怨讐です。大怨讐ですよ。今この事実を、私たちは知りました。 サタンの役事は自分の体から起こるのです。だから自分の体を征服しなければなりません。これを考えますとき、飢えてぼろをまとい、悪口を言われることが問題ではありません。鉄窓に閉じこめられることが問題ではありません。 死ぬ前に怨讐を打たねばなりません。皆さん、死ぬ前に仇を返さねばなりません。怨讐に仇を返して死ぬのです。真の父母の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐、真の子女の怨讐が天と地に残っているのであって、この怨讐を撲滅させる責任がキリスト教にはあるのです。 怨讐を撲滅させるには、神の心情を誘発させなければなりません。神の心情を誘発しようとすれば、神の事情の内を知らなければなりません。分からなかったので、知らなければなりません。 アダムとエバを創られてあれほど喜ばれた神様なのに、アダムとエバが堕落したときには、あれほど悲しまれた神様であったことを知らねばなりません。アベルとカインを中心に闘った神様、ノアを中心に闘った神様、アブラハム、モ-セ、イエスを中心に数千年間闘って来られた神様であった事実を、知らねばなりません。 そんなお父様であることを知るとき、心情が溢れでるのです。衝撃を受けなければなりません。心に深く衝撃を受けなければなりません。世の中のどんな説教者、どんな師の言葉にも受けたことのない感動を覚えなければなりません。歴史的に、時代的に、未来的に心情の因縁を証してこそ、生きることができるのです。神の大怨讐の仇を打たねばなりません。この地は善なる人々が血を流した地です。怨讐のゆえに血を流した地なのです。 神を代身して皆さんを押し立てた、神の心は凄まじいのです。人間がどうしてこんな道を経て、天に背反した報いを蕩減しなければならないのか? 曲折がこのようになったので、これを解くには反対の道を行かなければならないのです。 皆さん、アボジが恋しくて何度か慟哭したことがありますか? 失ったアボジが泣き叫んでおられるのを捜して、足が折れても意に介さず、山にでも入って喘いでみましたか?アボジが私を慕って慟哭される場があるなら、そこはどこでしょうか? そこを捜し求めて、さまよってみましたか? 今日私たちは全世界のまえに、全天宙のまえに、絶対的な内容を主張して出るとするなら、知ることが何でしょうか? 神は私の父であるということ、父の心情がどうかということを知ったのです。ですから今’お父様は孝子孝女の姿を望み見て、笑い喜ばれるために人間を創られたのに、悲しみが何としたことでしょうか? サタンが何としたことでしょうか? 曲折が何としたことでしょうか? これらのすべてが、息子・娘になれなかった私たちの罪です’と慟哭する群れにならなければなりません。であれば帰ってくるのです。であれば帰るのです。であれば新しくなるのです。 私たちはすべて失ったのです。持っているものは何にもありません。私自身も持っているものはありません。私は名誉も願いません。皆さんの師となることも願わないのです。ただ、倒れるその瞬間に’自分が生きている間、アボジを代身してあれをもう少しやっていれば・・・という後悔を残さない場で、死なせてください’と祈祷するのみです。 寂しい群れを前に立てるとき、天は苦しいのです。心において、心情において、抑えることができない何かが、わき起こってくるのです。私たちは世の中の因縁をはね退け、天情によって背を向けたのです。背を向けた歩みですから、落胆の姿で行くのではなく、力づよく行かなければなりません。 天は何千年も待っておられるのです。今も待っておられるのです。私たちが死亡の谷間を通り過ぎても、待っておられるのです。皆さんが喘いでゆく時ごとに、天は待っておられるのです。この場で叫んでいる人間が、よく知っているのです。終わりであり最後であることを知るものですが、お終いではないのです。絶望したら倒れるのですが、天があることを知っております。 今皆さんは真の父母を抱いて慟哭する群れ、真の父母を求めて喘ぐアボジの手を握り、慟哭する群れにならねばなりません。そうして真の父母の前に立てられた真の子女となると同時に、真なる兄弟を慕う皆さんにならねばなりません。これが皆さんが持つべき内容です。 人間は縦的に父母である神を慕い、その神のまえに必ず孝誠の道を立てなければなりません。しかし、堕落の恨を解くことができない私たちです。孝子が何でしょうか? 蕩児のたとえを、皆さんは知っていますか? 涙をのんで蕩児を待っている父と同じ心で、帰ってくる蕩児の前に駆けよる兄弟がいるなら、父は彼に全体の遺業を残すのです。 12. 神の大怨讐を撲滅させる一つの道 今日私たちは知りました。この世の蕩児たちも、一つの血肉の親族であることを知りました。歴史は流れても、その心情においては死亡の息子・娘を忘れることなく、六千年の曲折を経ても彼らを捨ておかれないお父様です。アボジの心情と恨が彼らに残っているのです。 天に対しようとするとき、溢れる心情に涙が先立つ父母の心情を、皆さんは持たねばなりません。このような心情に燃えてください。真夏の暑さに荷を背負って行く人がいたなら、彼を抱いて慟哭して父の心情、母の心情を感じてみなさい。彼が苦労するのは自分のためだから、自分が荷を背負うとしてごらんなさい。行く道を遮り、兄弟よ! 行く道が残っているならどこへ行くのかと、切ない心情をもって慟哭してごらんなさい。そんな皆さんになったなら、皆さんが行く道には天が共にいてくださるのです。 ここで語る人間にも同伴者がいません。寂しこを歩んできました。恨み多く憤り、痛憤する事実が胸に一杯つまっているのです。しかし天の苦労に比すべくもなく、六千年の間恨を抱いて来られた神のまえに立つべくもない自分であることを感じるのです。しかし責任を担うに不足であることを感じて痛嘆するごとに、天が私を抱いてくださり、励ましてくださることを、また私は知るのです。他人が逃げだす場において、訪ねてくださる神を迎え、その神様がわが息子・娘であると誇ることができる息子・娘になってください。皆さん、神様はそんな場で皆さんを待ち焦がれておられることを、知らねばなりません。 イエス様が十字架で逝かれるとき、弟子たちは十字架が怖くて逃げたのです。しかし、強盗であったとしても、死んだイエスの身の上を哀れに思い、イエスの体に手でふれてみたく、触ってみたい心で一杯になるとき、その強盗は救いを受けるのです。天の血族はここから始まるのです。言葉だけではいけません。言葉の多い人間は沢山います。手段と方法は数千数万とあるのです。しかし真実の中の最高の真実は、愛の心情です。愛の心情には、手段と方法があるべくもないのです。これのみが、神の大怨讐を撲滅させる唯一の道であることを、私たちは知らねばなりません。 神を抱き、その神の心と心情を受けてサタンと対決してゆく者がいるなら、それより優れた人も彼の前には口をつぐむのです。人間が神を知らないときには、サタンが人間を思い通りに蹂躪し、思い通りに支配することができたのですが、天上の心情を通してわき起こる内容をもって現れるとき、億万サタンが降伏するのです。ですから死んでもアボジ、生きてもアボジです。この血がサタンから受けた血であっても、この血が変わり、アボジの血で一杯になるその場を慕って駆けてゆかねばなりません。であればサタンが抜け落ちるのです。 13. 私たちの責任 今私たちは祈祷しなければなりません。皆さんの血肉が今、サタンに属していますか?皆さんの血が流れて肉が落ちるとき、サタンが来てアイゴ-自分の血だ、自分の肉だと叫んで抱きつく者にならないよう、祈祷しなければなりません。血を吐いて倒れるとき、お父様が抱えて泣く者にならなければなりません。 今まで数多くの人々が、地上に来ては行ったのです。また数多くの人々がこの地上で生きています。数多くの人々が修道の道を求めているのですが、今日までこのような息子・娘を迎えなかったのです。ペテロが十字架に逆さに吊るされようと、イエスに背反した罪が引かかっているので、神も取ることができないのです。数多くの人々が刑場の露と消えたのですが、神が送った独り子に背反した罪があるので、その死を蕩減条件として認めるとしても、神のために善の血肉をふりまいて死んだとは認定することができないのです。 皆さん、三千万民族が行く道が分からずに喘いでいるのです。ですから飢えているこの民族のまえに、指導者にならなければなりません。死亡の世界において血と汗を流し、哀願する民族のまえに、鉄の杖をもって死亡の鉄条網を断ち切ってゆき’同志よ、兄弟よ、私がここにいるぞ’と叫ばなければなりません。 そうして父子の因縁を立てておき、兄弟の因縁を立て、宗族と民族を形成して天の民として登場する日、天上の主権は回復されるのであり、天上に染みる心情の怨恨は解怨されるのです。これをよくよく知らねばなりません。 皆さん、着ている物が惜しいですか? 脱いでしまいなさい。宝物を持っていますか?虚空に放り投げてしまいなさい。 これが天のまえに出てゆくときには、サタンの餌になるということを知らねばなりません。善のために血の涙も意に介さない彼らのまえに、一寸の土地、一枚の着物でも提供するために眠らない民族になるなら、この民族は世界を支配するのです。 天はこのような人間を求めているのです。アボジが恋しくて目がどろどろになるほど泣き狂ったとしても、その人間は地獄に行かないのです。飢えて大勢の人に後ろ指をさされ嘲弄されて倒れたとしても、アボジを慕って倒れたなら、その場は空き地にはならないのです。 今日私たちは、時代を創造するために行くのです。天倫の革命の路程に新しい開拓者として行くのです。ですから私たちの体には開拓の血が躍動し、開拓の肉が躍動しなければなりません。眠っているこの民族を抱いて天に向かって祈祷し、飢えるこの民族を慰安する者となるために喘がなければなりません。そのような皆さんになるなら、今日この時代に踏みつけられて追われても、この民族のまえに、人類のまえに必要なその日が、間違いなく来るのです。 私たちはこのような群れが、慕わしいのです。私たちはこのような食口が、慕わしいのです。私たちはこのような人々を糾合するために、すべてのものを犠牲にしなければなりません。こうして父母を知らない者たちに父母を解明してあげ、兄弟の因縁を知らない者たちに今までの通説を破って、霊界と肉界の限界を越えて、真の兄弟の因縁を知らせてあげなければなりません。そうして君が飢えているなら僕は食べず、僕が食べるときは君も食べるという心情が、民族感情以上に、世界のどんな思想や主義の感情以上に強くなるなら、神の解怨歴史は自動的に起こることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 私は皆さんが伝道しようとして罵倒されたと聞けば、一面では憤りもするのですが、心では喜んで祈祷するのです。なぜ? その人はその心に人間の心情ではなく、天の切ない心情と、篤い因縁を結んで帰ってきたからです。これを天のまえに誇る日があるのです。 今日私たちが新しい覚悟の下に、ある情熱をすべて注ぎ、世界人類を代身して天的な恨を一身に背負って一つの爆弾となって地獄に行ってはじけ、血を流したとしても、ここに勝利の塔を立てることができると、私は信じるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.19
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イエス様はすべてのものを残して逝かれたヨハネの福音書 一六章二五節から三三節 一七章 一節から二六節一九六〇年六月五日(日) 前本部教会 皆さんとしばらく考えるみ言の題目は’イエス様はすべてのものを残して逝かれた’です。’すべてのものを残して逝かれたイエス様’、こんな内容でお話します。 1. 一つの目的に向かって動くすべての存在物 この地の上でどんなに成功した人間であるとしても、その人にはまた他の希望が残っているということを、私たちは知っています。なぜ、なのでしょうか? 天と地のすべての根本真理を定め、天地を創った絶対的な主人公がいるならば、その主人公まで動かすことができる基準を完結したとするある聖賢・賢哲も、また他のどのような人間もいないからです。即ち、どんなに成功したいう人であっても、新しい何かを希望としているという事実を推し量り、このように言うことができるのです。 歴史路程において、時代々々ごとに、その時代の人々を指導する指導者が必ず必要でした。ところが時代々々、あるいは世紀々々ごとに、指導者を送って経倫して摂理の目標を成してゆくべき責任ある神であるにもかかわらず、そのような指導者を送らないならば、その神に対して人間を愛する神、人間に対して摂理なさる神であると、言うことができないのです。 今日までの歴史路程において、自分がこれこれの人間になり、これこれの成功を収めたと自信を持って語ることができる人間は、多くはないのです。成功して自分一代で名声を轟かせたい心を持たない者はいないのですが、自分が考え、計画した通りに成っていった人間は、多くはないのです。それでも歴史路程において、新しい革命の旗を掲げてその時代を率いた人物の中には、その時代の環境にのり、その時代の思潮の力によって、自分でも知らぬ間に世紀的な使命を成していった人が多いことを、我々は知らねばなりません。 こんな見地から、どんなに確固たる自信と信念をもって目的を達成しようと行動を開始する人間がいたとして、我々はそれが思い通りには成らないということを、断言できるのです。ですから我々の運命や人生行路は、自ら計画してゆくことだけではなく、ある大きな流れと力に和して行くという事実を、否定できないのです。 こんな立場から流れてゆく歴史であり、こんな立場から自身の解決点を捜すために喘いでいる我々であることを、否定できないのです。また、世界がある所に向かって動いているならば、ある一時に向かって動いていることを、否定できないのです。言い換えれば、すべての存在物はこんな一時と、一つの場所、一つの環境を希望として行くのであり、この時とこの環境を収拾して人類歴史の目的を終結させる、その何かを慕って行っているのです。これは普遍的な常識を持つ人であるならば、誰もが理解できることです。 それでは今はいかなる時であり、社会はどのような環境にあるのか? そしてこの時と環境を、誰が支配して率いて行くのか? 民主と共産が対決しているこの時は、どのような時と環境を造成しようというのでしょうか? また、時と環境を造成していって、いかなる指導者を迎えようというのか? これが現代インテリ階級の知性人が苦悶すべき、重大な問題材料なのです。 いずれこのような過程を、必然的に経て行く歴史路程なのです。なぜ、そうなのか? これは人間は知らないのですが、一つの目的観を立て、歴史を動かしている主人公があるからなのです。もしもそのような主人公がないなら、歴史は希望とする一時と環境に向かって、そして理念の中心に向かって流れることはないのです。 今までは民族感情がそれぞれに求め、歴史的な背景も求め、生活の形態までもが全部求めたのです。しかし歴史の流れに従って人類はこのようなことを超越して、従来に持っていた頑固な基盤を壊して、時代的なすべての組織を革命するある思潮に襲われてゆくのです。これは外的には人間が歴史をつづって行くのですが、その背後にある絶対的な存在の目的観があるからなのです。それゆえ人間は自分も知らずに、絶対的な目的観に率いられて行くのです。このような立場におかれている我々なのです。 2. 最後に残る主義 今日人類は、このような時を捜し求めているのです。また平和な環境を求めているのです。これを捜し立てた後に、人類を永遠の心情世界へと導く一人の主人公を求めなければなりません。それに向かって歴史が流れて行くということを、よくよく知らねばなりません。実際に歴史はこのように流れているのです。それでは、この被造世界がなぜ、このようになっているのか? この地の道人や偉人たちは大部分、この世界を手中に置いて一時を迎えて主導しようと考えたのですが、彼らは一つの部類や一つの民族、限られた範囲でのみ実践するだけで、世界的な立場でその目的を達成できなかったからです。 神がおられるなら、このような大目的は必ず成就しなければなりません。もしも世界的な大目的を成就する時が来ないならば、神はいないということです。時を動かし、環境を動かして、一人の人間をして天倫を中心に、全人類を統治させなければなりません。そうでなければ、神が創造したこの世界は、不完全な状態に留まってしまうのです。 創造の理念や何やらいうことも、あるべくもないのです。また、人間をして万物の霊長として、すべての万物の主管者だという話も、偽りとなってしまうのです。それゆえ最後にはこのような一人のお方を立て、歴史を整理し、時代を整理し、環境を整理して、人格を再び得るようにする時が、きっと来なければならないのです。 こんな見地から観察して見れば、どんな宗教や主義が世界的になるかならないか、大体分かるのです。このように見るとき、キリスト教は特出した位置にいるのです。皆さんは生まれてみれば、韓国人として生まれたのです。韓国人として生まれたことを、ひどく不幸なことと考える人がいるかも知れませんが、私はそうは思わないのです。なぜ? 一つの目的と一時と、一つの環境を捜し立てようとされる神がいる限り、どこであっても同じだからです。ですから自分が韓国に生まれたからと、嘆く必要はありません。韓国の状況が自分の心と事情と生活感情に合わないと、嘆息することはありません。韓国に指導者がいないと、嘆くことはありません。ただ案じることは、その一時を迎えるとき、その時に対することができる自分になっているかということです。またそんな環境を迎えるとき、その環境に和することができる自分になっているか、世界的なある新しい主人公が現れるとき、そのお方と心情が通じる自分になっているかとうことです。このようなことが、問題なのです。 これから歴史は氏族主義を越え、民族主義を越え、国家主義を越え、いかなる主義や思潮を越えて、心情の帰一点に向かって流れてゆくのです。皆さんの心もそうなのです。宗族が違い、血族が違っても、心情は同じなのです。父母が子女を愛し、子女が父母に従う心、夫婦が互いに愛する心、兄弟の間の互いの為にという心は、みな同じなのです。それでこのような心は、歴史的ないかなるものも革命できないのです。数千年の歴史過程を経てきても、原則的なこの基準だけは、永遠に本体に向かって駆けているのです。 それでは最後に残り得る歴史的な一つの主義があるとしたら、どのような主義でしょうか? それは父母以上の心情を持って、万民に対することができる主義です。このような心情を持つ主義が出てくるなら、世界は一つになるのです。青春の男女が互いに思慕する力よりも強い心情が、この地上のある一つの所から出るなら、世界は統一されるのです。死の場において倒れてゆく愛する兄弟を見て、死線を越えても救いたいという心情以上の心情が、この世界的な思潮のまえに登場するなら、世界統一は問題ないのです。その他のどんな学説やどんな主義、どんな人格であっても駄目です。 それゆえ宗教という名を持つある団体、ある教派を分析して見れば、心情を無視する宗教は歴史路程に残らないのです。キリスト教は創造主に対して、絶対者に対して父とし、万民に対してもイエスを迎える新婦であると言うのです。それでは果たしてこの地上に、父の愛があり、新婦の愛があるでしょうか? ないのです。これが登場する日には、世界は統一されるのです。罪悪の歴史はこれによってのみ、終結するのです。これを皆さんは知らねばなりません。 3. 善なる人を犠牲にさせて摂理なさる理由 それでは神様はどうして、歴史路程においてご自身の名を呼ぶ数多くの人々を、悪党どものまえに犠牲にさせ、虐殺させて摂理なさるのか? その理由が何でしょうか? それは愛することができる環境になっていないからです。結論はこれです。何ゆえにこのように苦労させるのか? 愛することができる状態になっていないからです。イエスが新郎であるとしても、新婦として愛することができる人がなく、神が父であるとしても、息子・娘として愛することができる人がいないからなのです。神の息子となれる者、神の娘となれる者、神の家庭で食口となれる者、神の福を受ける者がこの地上にいないのです。そんな人間が、この地上に登場しなければなりません。 発電所で生じる電気は、電線さえあれば何千里までも伝達されるのです。発電されるには、授け受けなければなりません。プラスとマイナスの電気が互いに授け受ければ、灯がともるのです。天と地も新しい理念を中心に、互いに授け受ける心情的な基準が立つべきなのに、それができないことが恨であるのです。 どんな億万長者であっても、自分がとても愛する者が一人もいなかったら、持っている物は何の価値もないのです。神がこの地をサタンのまえに渡しておいたのは、愛する息子・娘を捜し求めるためであったのです。 それではイエス様は、地上にいかなるものを持って来られたのか? 心情的な主義と理念を持って地上に来られたのです。でなければ救い主になることはできません。救い主ではありません。たとえ救い主になっても、外的な物を救う救い主にはなるかも知れませんが、心情を基盤として生命を連結してゆく救い主にはなれません。真の救い主は、心情的な内容を持つお方でなければならないのです。我々は救い主が、こんな立場のお方であることを感じてこそなのです。 今日の現実を越えて、我々人類の先祖の時代を、再び一度回想してみるのです。今日我々が一つの所、一つの環境、一つの中心存在を待ち焦がれていることは、我々が堕落の後孫であるからです。もしも堕落という名詞をつけられる前、即ち、我々の先祖アダムとエバが堕落する前に、神が立てた一時を成したらどうでしょうか? 考えてみてください。神はある一時にこれこれの環境を成して、これこれの指導者を立てるという目的があったのです。堕落しないアダムとエバが、神の祝福を成していって、満宇宙を支配することができる一時を迎えたなら、このように多くの犠牲を払うことはなかったのです。 この一時を迎えて、万物を指揮して創造された環境全体がこの号令に動くならば、今日皆さんには嘆息という言葉があっでしょうか? これもみな堕落の応報なのです。それだけではありません。我々人類の先祖アダムとエバが、神様が立てた一つの環境と時を迎えて、支配することができる代表者になったなら、今日この世界はアダム主義の世界になったのです。心情を中心にあなたとわたしは兄弟、とする一つの心情世界ができたのです。 人間始祖によって堕落という二文字が造られたその日から、人間はどさっと落ちたのです。どれくらい落ちたのか? 液もないほどに落ちたのです。内を見ても死んでおり、外を見てもみな死んだのです。神がこれ以上かき回して捜せないほどに落ちたのです。 こんな人間に薬を与え、注射して再び生かそうというのです。救援が何か? 落ちて死ぬものを再び生かすことです。薬を与えるなり注射するなり、冷水をかけるなり、いかようにしてでも再び生かすということです。これが救援摂理です。それでは生かしてどうするのか? 一時を神と、一つの環境を神と、主導的な行事を神と共にしようとされるのです。神様がこのような摂理をされないなら、人類は哀れになるのです。これに対するもう少し具体的な歴史的な事実については、皆さんがここに来て勉強すれば分かるのです。 4. 時と環境と主権を回復すべき人間 本来、神様は人間にある一時から永遠の時を許され、一つの環境から永遠の勝利の環境まで許されたのであり、一つの責任的な権限、即ち、永遠の責任的な権限まで許されたのです。しかし人間が堕落することによって、これをすべて失ったのです。神が立てようとされた時を失い、神が得て与えようとされた環境を失い、神が立てられた万物を主管する権限を失ったのです。これを再び捜し求めることが、今までの人類歴史なのです。 ところが、この堕落した人間を誰が率いているのか? 怨讐が率いているのです。彼らが神の息子・娘であるにもかかわらず、怨讐が反対方向に引っぱって行っているのです。このように反対方向に引かれてゆく彼らの良心が動かされないように、今まで六千年の間苦労して来られたお方が神であり、この地に来ては行った聖賢・賢哲であり、生命的な摂理の基盤を築くために骨折った、先祖たちであったのです。 しかし人類は時を失い、環境を失い、万物を主管する主人公の立場を喪失したまま、頼るところもなく風が吹けば吹かれるまま、水が流れれば流れるままにこっちに押され、あっちに押されて漂う浮草のように、今まで彷徨してきたのです。 今、彷徨を終えてどこへ行くべきでしょうか? 神様が本来はアダムとエバに与えたその祝福を、捜し求めて行かなければなりません。神様が喜んで’ほうれ! おまえのものだ’と祝福してあげられるその環境を、捜し求めなければならないのです。その次にここに’おまえはわたしの息子・娘だから、天上天下のすべてのものを主管せよ’という権限を相続しなければなりません。そんな場に向かって、世界人類は行っているのです。 この地の上のある人が得た知識が多く、手腕が優れ、すべての事を自分の思い通りにできる背後の条件を完備しているとしても、時を迎えず、環境を得なかったなら、志を成すことはできません。このような見地から見るとき、今の時とはどのような時か? 全世界が一つに向かって行く時です。この世界は一つの環境を描いて行っているのです。 人間は本来、堕落することなく時と環境を得て、神の祝福を成す真の先祖になるはずでした。ところがそうならずに堕落した先祖になったので、万民のまえに堕落していない善の先祖が登場しなければならないのです。彼は天にある霊人たちにもアボジであり、地に生きる人々にもアボジとなるお方なのです。このようなお方をキリスト教では、再臨のイエスだとしています。こんな事実を、よくよく知らねばなりません。 子羊の宴が何か? このお方が父として来られ、母を立てる宴なのです。キリスト教の真理が、正にこれなのです。キリスト教の中心はイエスであり、イエスの中心は愛です。聖書の中心も愛です。愛の中心は新郎・新婦であり、新郎・新婦の中心は子羊の宴なのです。それでは子羊の宴の中心のみ旨が、何でしょう? 本来神が許された時と環境を得ていって、天と地を相続することができる真の先祖として、祝福を受けることです。アダムとエバがこれを成せなかったので、再び回復して取り戻さなければならないのです。 世界人類は人間先祖の堕落によって、堕落した父母と、堕落した兄弟と、堕落した夫婦の情を断ち切れないまま、喘いで来ているのです。もしも人間が堕落しない真の父母と、情的な因縁を結んだなら、兄弟が兄弟を憎むことはなく、人間が人間を恐れることはなかったのです。神という一つの根から生まれた血肉ですから、小さな葉っぱのような部分であっても、これが全体の木との因縁を離れることがないのと同じなのです。 5. 神のまえに連れ子になった人間 ところで怨痛で憤ろしいことが何でしょうか? 我々が連れ子になったことです。養子になったことです。養子と実子は違います。パウロはロマ書八章で’私たちは天に対し、主に対しアバ父よ、と呼ぶことのできる養子になることを待ち望んでいる’としました。養子は血が異なるのです。血が違います。ですから神のみ旨は歴史的な終末時代に、堕落の因縁を精算して、新しい一時と新しい環境を迎え、再創造目的を成すということです。この創造目的を成すためには、時と環境が成ったとしても、その時と環境を支配することのできる主人公がなければ駄目です。それで神が最大の精力を注いで千辛万苦、終わりにこのような主人公として創られたのが、正に我々の祖先なのです。 神は早くアダムをこのような祖先にすべく創られたのです。しかしアダムがそんな主人公にならなかったのです。これが堕落です。堕落してその資格を失い、故郷(環境)を失ったので、再び捜し立てなければならないのです。それで神様は六千年の間、岩場の道を歩まれて千辛万苦、どん底の乞食のような群れから引っ張りあげる摂理をされるのです。死ねば当然のように地獄に行く群れを、まず訪ねて来られるのです。 神様は僕たちを送り、サタン側にいる人々をご自身の僕として選び立てる時代が、旧約時代です。息子を送ってサタン世界にいる人々をして、息子の因縁を結ばせる時代が新約時代であり、最後に父母の資格を持つ真の息子・娘を立て、祝福する時代がこれから来る再臨主の時代なのです。 皆さん、天国に行くのですか? そんなことは言わないでください。主様の祝福を受けましたか? 主様の祝福を受けなければ、天国には行けません。行けないのです。これはここで語る人の言葉ではありません。天理原則がこのようになっているのです。アダムとエバに時と環境を許された神様は、たとえ人間が誤って堕落しても、終わりの日に備えて一時を準備しておられれるのです。終わりの日に対備して、一つの環境を開拓して来ておられるのです。ですから我々は、感謝しなければなりません。 一に最も近いものが二です。今までは二つの思潮が互いに闘って、その何かに向かって流れて来たのです。今一つの時が近づいたので、終わりの日なのです。終わりの日です。世界は東西が互いに通じて、民族を超越して一つの理念の世界、一つの心情的な因縁の足場に向かって行っているのです。それでこれからは、心情主義を叫ぶ時代になるのです。世界主義ではありません。人間主義を過ぎて、心情主義なのです。 時を失った人間ですから、神は救援歴史をなさるのです。救援歴史は、再創造の歴史です。壊れたので、再び造らなければならないということです。アダムとエバが堕落しなかったなら、一つの根に連結されたのですが、堕落して数多くの罪悪の曲折を持つ人間を繁殖したので、この繁殖した人間たちを一つの根に接ぎ木しようというのです。聖書に出てくる偽オリブの木と真のオリブの木の比喩と、ぶどうの木の比喩のように、接ぎ木するということです。このように接ぎ木の幹として、この地上に来たお方が、イエスなのです。歴史はこのように、帰ってゆくことなのです。 今のこの時代は環境を得なければならない時、世界万民が終わりの日であるとする時、世界が一つにならなければならない時なのです。ですから今日世界主義だ、何の時代だという言葉が台頭するのです。神は今までこのようなことを、準備して来られたのです。 神様がこのような時を成すために、六千年の間苦労されて来たのですが、いつの時であっても神を絶対的に信じる群れがあるなら、そんな時と環境を開拓して、そんな主人公を送ろうとされたのです。それゆえイスラエル民族を選ばれて、彼らをして悪なる世の中と接することなく、わたしの言葉に従えとされたのです。アブラハムを選ばれた後、二千年の間苦労してイスラエル民族を立ておかれ、ここに主人公として送られてお方が誰かといえば、メシアイエス様です。救い主です。 それではイエスはどのような使命を持って、この地上に来られたのか? 神様がエデンの園で人間に許された、本然の時を持って来られたのです。また、何を準備するために来られたのか? 堕落していない息子・娘として成すすべての国家と民族を準備する万王の王として来られたのです。言葉だけではなく、全天地をその掌中において準備するために来られたのです。これを準備するのに神様は、四千年の間苦労されたのです。イエス様はこの地上に現れて物心がつくころから、パリサイ人やサドカイ人や祭司長たちに対して、’わたしに従え’とされたのです。そのときに彼らが’はい’と従わなければならなかったのです。ところが、そのようにしたでしょうか? 6. イエス様を迫害したイスラエル民族 選ばれたイスラエル民族は、二千年の間このように待ち焦がれたメシアが来たのですから、そのメシアを中心に鉄石のように団結しなければなりませんした。彼が東に行けば東に行き、西に行けば西に行き、四肢が落ちても共に落ち、首を括るなら共に括らなければならなかったのです。そのために四千年の間準備した、イスラエル民族ではなかったでしょうか? ところが、約束された一時を迎えたこの民族は、この主人公にどのように対したのですか? ’やあ、あなたが何か’こんなふうに対したのです。 天の時を迎えて三〇年の準備期間を経たイエスは、心中にきっとこの時が民族を救う時と考え、神が許された時を抱えて行ったのですが、四千年の間苦労して選んだ地の上のイスラエル民族は、このような天の時を知らなかったのです。誰が知っていたでしょうか?誰も知らなかったのです。時を知らなかったイスラエル民族ですから、地獄行きです。当然、審判を受けなければなりません。それでイエスの怨讐となったのです。 環境を準備するために神様が四千年の間、数多くの先知者たちを送り、彼らが血を流し裂かれて築いた善の功績を尊ぶべきイスラエル民族、時を得て来た主人公を尊ぶべきイスラエル民族、来られた主人公のまえに環境の土台となるべきイスラエル民族が、むしろイエス様に背反して十字架に釘打ったので、世界各所で死ぬほど苦労しなければならないのです。イエスは天的な時を迎えるために心情的に準備し、その環境を慕って夜も昼も心を砕いたのに、彼が準備した時を知って迎えるために現れた群れが、どこにあったでしょうか? イエスが捜し求め、イエスの環境となるべき神殿が、どこにあったでしょうか? むしろイエスを見て、バアルの神がついているとしたのです。こんなユダヤ教が未だに地上に残っていることは、怨痛なことです。神は四千年の間、多くの苦労をして固くかたく約束したメシアを送ったのに、このように反対されるとは! イエスは天の立場から見るとき、天の時をもって来た方であり、天の背景をもつ方であり、天の主権をもつ王者であり、天の皇太子なのです。天の背景をもって地上を治すために来たイエスを迎えるべきイスラエル民族、時を迎て環境を持つべきイスラエル民族は、むしろイエスが立てる時を崩し、環境を開拓しようとすることを妨げるのに汲々としていたのです。このような罪を犯した我々の先祖たちです。 イエスが死のうとして来たの? であればイエスを送るのに、なぜ四千年もかかったのですか? なぜ善なる先祖を死なせて、このようなことをするのかというのです。イエスは仕方なく敗軍の将になったのです。それで死んで再び生き返って、秘密のうちに弟子たちを訪ね、天のみ旨を成してくれることを頼んでいったのです。これが正に、キリスト教の出発点なのです。イエスは敗軍の将です。地上に来たが時を失った敗者であり、環境を失った敗者です。時を成し、環境を開拓すべき使命のあるイエスのまえに、死とは何としたことでしょうか? その時を所望として、その環境を所望として、この時とこの環境を成す使命を任されて果たすためのものが、使徒以後のキリスト教史なのです。よくよく知らねばなりません。よくよく。イエスはすべてを残して逝かれたのです。もしもイエスがこの地上で時を迎え環境を迎え、皇太子として登場したなら、天地はすべて彼の手の下で治されるのです。ところがそのようになったでしょうか? なっていないのです。 イエスは満宇宙を統治すべき、我々の真の祖先として来られたのです。イエスはアダム以後四千年が過ぎた後に、この地上に来た歴史的な祖先です。失われたものを逆に捜し立てるので、真の祖先なのです。第一アダムが失敗して堕落した祖先となったので、第二アダムとして来たイエスは、天上と地上のすべての法を一つの場に置いて、時と環境を整理した後に、天の主管国家を立て、この地上の人々を指揮しなければなりません。このようになったなら、今日我々は堕落した世の中に生きてはいなかったのです。ではそのようにしたでしょうか? しなかったのです。 ですからイエスは逝かれ、再び来るゆえに耐えて待てとされたのです。福を受けて平安に暮らせとはされなかったのです。十字架を負い、わたしについてきなさいとされたのです。この道を行くときは、家の中の食口が怨讐だとされたのです。命を得ようとする者は失い、失おうとする者は得るとされたのです。キリスト教徒たちは歴史のわき道で追われ者になってきた群れだったのです。歴史の路地裏で密かに約束してきた群れです。神様はこの群れを収拾して、第二イスラエルを造られたのです。ですからキリスト教には、第二イスラエルの使命があるのです。 それではキリスト教徒が成すべき使命が何でしょうか? 主がこの地上に来られて、時を失ったので時を求めなければなりません。我々の祖先のイスラエル民族が時を失ったので、時を求めなければなりません。環境を失ったので、環境を求めなければなりません。時と環境を得ていって’主人公よ、どうぞおいでください’という懇切な心を持たねばなりません。これが終わりの日の聖徒たちの、重要な問題なのです。 7. 願われた時と環境を残して逝ったイエス イエスは逝かれました。どのように逝かれたのか? 使命をもって来たが、すべてのことを残して逝ったのです。残して逝ったのです。イエスが求めたその時を残して、イエスが見たかったその環境を残して、イエスが行使しようとしたその主権を残して逝ったのです。それゆえイエス様は’こうでも一つになり、ああでも一つになれ。時が来ればあなたたちに比喩で話さないで、明らかに話すであろう’とされました。イエスは時を語らなかったのです。なぜ? 怨讐のまえにご自身が万王の王であると語れば、ロ-マ帝国の植民地であるイスラエルが耐えられないからです。それでイエスは時が切迫していることを感じても語ることができず、環境を築くために闘わねばならなかったのですが、そうはできなかったのです。 これがメシアを願った我々がすべき行動でしょうか? 昔も今も、同じことです。 第一イスラエルが世界的な使命の足場を壊したことによって、イエスが時を残して逝かれて二千年が過ぎた今日こそ、あのお方が希望として残した時が訪れて来るのです。それでは、第二イスラエルの立場の世界キリスト教徒は、どのようにすべきか? 知らなければなりません。再び来られるイエスは、昔のユダヤ教に訪れては来ないのです。そうでしょうか? そうではないのです。ユダヤ教は怨讐です。彼らがイエスを捕らえて殺したのではありませんか? 皆さんたち、イエスの心情を一度考えてみてください。時を求めてどれほど心痛めたことでしょうか? ヨセフとマリアの家庭で育ったとき、何度も天倫のすべてを語りたかったのです。マリアは処女懐胎してイエスを生んだ後、乳を飲ませて養うときにはそれでも神の息子と知り、神が選んだ貴公子と思っていたのですが、日がたてばたつほどその心が色あせて、イエスに普通の子と同じように接したのです。イエスは滅多に自分自身の事情を話すお方ではありませんでした。イエスはヨセフ家庭で食べる物も食べず、着る物も着ないで、心情の王者としておられたのです。しかしその心の奥深くには、時を慕う心情があったのです。 イエスは神が許された一時のために準備し、神が許された一つの環境のために、内的にも外的にも、または人格的な分野においても、得るべきものはみな得て自分みずから神、あるいは万民のまえに現れる時を待ち焦がれていたのです。そうか、そうではないか、考えてみてください。十二才の時、父母も知らない間に神殿を訪れたイエスだったのです。しかしエルサレムの多くの人々のまえに証しなければならな彼の兄弟たちまでが、からかって嘲笑したのでした。 イエスは今日の人々が考えるような、仮想的で歴史型の人格者ではありません。聖書にも大食いでぶどう酒を楽しむ人、病人の友、罪人や取税人の友だとありますが、ありうることでしょうか? なぜ、そうなのかというのです。これを考えるとき、皆さんは慟哭しなければなりません。イエスがどうして、罪人と取税人の親友になったのでしょうか? 彼らの親友になりたかったイエスではありません。どうしようもなかったからです。 イエス様は祭司長たちがご自分の前に膝を屈して’あなたは万王の王であり、我々の指導者です’と頭を下げて敬礼することを、どれほど待ち焦がれたことでしょう? しかし彼らはむしろ後ろ指を差したのです。モ-セの律法を蹂躪し、神殿を汚す者と非難したのです。それで仕方なく罪人の友になり、取税人の友になったのです。四千年の間に成した祭壇が崩され、どうすることもできなくて、そうなったのです。その当時の祭司長は大審判の時、一番に呼ばれて審判を受けなければなりません。そうでしょうか、そうではありませんか? 今まで、人々はイエスを盲目的に信じてきたのです、盲目的に。’イエスが我々のために死んでくれたので、我々は信じるだけで救われる’という簡単で、たやすい話です。しかし、イエスは福音のみ言を伝えるとき、食べず着なかったのです。切っぱ詰まればいちじくの実を取って食べようとして、いちじくの木を呪ったでしょう? 平安に太平楽に、腹が満ちるイエスではなかったのです。とんでもない話です。神の息子の身の上が、このようにがた落ちになってしまって・・・。 本来、イエスはエルサレムの城の前でピラトとカヤパの頭を踏みつけ’おまえたちよ’と叫んでみたかったのです。であればイスラエルが団結して、殺されようとする時に暴動でも起こさなければならなかったのです。’バラバを解き放つことを願うか、イエスを解き放つことを願うか’と問うてぶるぶる震えていたピラトの前で、祭司長の全部がイエスを中心に一つになったならば、六〇万を率いたモ-セに神様が権能の鞭を与えて役事されたように、イエスのまえにも神の役事があったのです。 時を失ったイエスだったのです。また、環境を失ったイエスだったのです。いる所がなく、この家あの家と転々として、マクダラのマリアのような寡婦の家を訪ねたのでした。今日のような自由な時にそうだったのではなく、二千年前にそうだったというのです。女人が三〇〇デナリもする香油をイエスの足に塗り、頭の毛を洗ってくれたのです。このような事が、許されるでしょうか? とんでもない事です。イエス様はどれほど気の毒なことでしょうか? こんな場まで追われたイエスの心情が、どうだったでしょうか。 ’四千年の歴史が蹂躪されていったのだ。ここが神様が苦労され、数多くの先知者たちが血を流して築いた歴史的な土台が崩れた場なのだ’ということを考えるとき、呪咀したい心が染みたのですが、口を閉じるイエスだったのです。呪咀するなら四千年の間苦労した神の苦労が絶たれてしまうので、自分のために準備された土台が崩れても、自分が責任を負うと口を閉じたのです。イエスは悲しく難しいとき、独りカンラン山をさまよって祈祷し、ゲッセマネの園をさまよって祈祷されたのです。皆さん、これが神の息子のすることでしょうか? イエス様は人間の幸福を約束する新しい人生観と宇宙観を、その時代に鉄石のように立てるべきだったのですが、そのようにしたでしょうか? イエスの人格観がどうだったかはっきる言えますか? 漠然としているのです。自分がこれこれの理念を持って、この地を支配するとされたでしょうか? 時と環境を整理して、これこれの支配をしたでしょうか? やってみなかってのです。敗北者として、消えていったイエスなのです。 イエスはこの地上に来て三年間、み言を語りました。しかしそのみ言の中の一つも、成してはみなかったのです。三年の間、率いていった弟子たちがどうなったでしょうか? 終いにはみな不信したのです。三年間すべての誠精をつくし、血肉をけずって喜怒哀楽を共にし、導いた弟子がこの様です。先生は先生なりに、弟子は弟子なりに行くというふうだったのです。結局、イエスはすべてを残して逝ったのです。 8. 終わりの日の聖徒の姿勢 イエスはあの世に行ってもこの地を見つめ’この歴史的な終末に、わたしが対したい一人の人よ現れよ、一つの家庭が現れよ、一つの社会が現れよ、一つの民族が現れよ、一つの主義よ現れよ’と祈祷しておられるのです。これは天にあっても目的を果たそうとされているからです。 キリスト教を中心とする理念は、民主陣営を造成したのです。これはその反対である外的な唯物論と闘っています。どのようになるのか心配ですか、皆さんたち? 今皆さんは世界の運命と世の中の決判をかけて、悲しんでいるよりもイエスが歴史的に残して逝ったその時を、身につけなければなりません。皆さん、これは重要なことです。イエスは’時は至るが、今がその時’とされたのです。即ち、望みの時と至る時があるのですが、至る時が、望みの時として残されたのです。望みの時が終わりにきたので、今がその時であると言うことができなかったイエスの心情の苦喪を、知らねばなりません。 今もその時と同じです。’時は至るのだが、今がその時だ’と言われた’その時’が正に今なのです。これは矛盾する言葉ではありません。イエスが残して逝ったみ言を成す時です。今の時は心の時、天の時です。成す時とは、この世の中で成す時を言うのです。これが一つの拍子に、ぴたりと合わなければなりません。イエスは心の内に時を抱いて来られたが、心に抱いた時を伝えるところがなく、持って逝かれたのです。この心の時が来ることを苦待し、祈祷しているのですが、その日が正に再臨の日なのです。 ですから今日ここに集まった皆さんたち、心の時のために準備しなければなりません。新郎である主様の心を知らねばなりません。主様の心を知るのです。しかし聖書をどんなに見ても、主様の心情がどうかは分かりません。どんなに聖書に能通しても、分からないのです。心の問題です。心が懇切でなければなりません。イエスは’あなたがわたしのうちにおり、わたしがあなたのうちにいる’と語られました。イエスが皆さんを訪ねて来るとき、皆さんの心の門を開いて訪ねて来るのです。それゆえ皆さんは、心の時を迎えなければなりません。そして心の聖殿を成さねばなりません。心の時と、心の聖殿を成した完成した人間として、聖殿の主人役をしなければなりません。これが再臨思想です。皆さんたち、問題はここにあるのです。 それでは、心の時を迎えるために皆さんはどうしなければならないか? イエス様は皆さんの兄弟を越え、民族を越え、世界を越えて新しい世界を慕ったように、皆さんも慕わなければなりません。イエスが来られる時に自分の心は個人的に、イエスと聖霊がいつでも訪ねてくる土台がなければなりません。でなければ主様が自分を訪ねてきても、再び行ってしまうのです。ですから来られた主様に対し’一度来たら行くことはできない’という世界的な土台がなければなりません。 皆さんが世界的な土台を成すには、どうしなければならないか? 信じる心が懇切でなければなりません。イエスの名においては、世の中の物質が問題ではなく、自分の名誉が問題ではない、という心を持たねばなりません。分かりますか? イエスの名において、通じぬところはないという心情的な立場に立たねばなりません。そうなっていますか? ごらんなさい。牧師同士がいがみ合って吠えつき、長老と教職者たちは互いに争い、兄弟は兄弟同士で喧嘩しています。これでいいのでしょうか? イエスは遠からず行かなければならない立場の時、弟子たちを呼んで、一つになりなさいとされたのです。わたしがあなたたちを慕うように、あなたたちもわたしを慕い、あなたたち同士も慕いなさいとされたのです。 イエスは時と環境を残して逝かれました。環境の中に弟子たちを残して逝かれました。イエス様が生前に語ってあげられなかった弟子たちはなく、打ち明けて語ってあげられる弟子たちの姿を、見ることなく逝かれたのです。こんな教会を見ることなく逝くと同時にこんな社会、国家、世界を立てることなく逝かれたのです。 9. 主様を迎えることができる者 それでは、皆さんはどんな圏内でイエスを迎える群れになるのか? 個人的に訪れる主に出会うのですか? 家庭的に訪れる主に出会うのですか? 社会的に訪れる主に出会うのですか? 国家的に、世界的に訪れる主に出会うのですか? 皆さんはどの分野の主に出会うとするのですか? 皆さん、主が天から雲にのって、鳴り物入りで来ると思いますか? 絶対にそうではありません。これをよくよく知りたければここに来なさい。絶対にそうではないことを、説明してあげます。そんな妄想は信じないことです。今キリスト教は、我々統一教会を異端視しています。よろしいです。異端(二タン)でも三タンでも、一度ぶつかって闘ってみろというのです。どっちが潰れるか。自信があるから、こんなことを言うのです。自信があるから・・・。 それでは、世界的な時を迎えるために来る主、世界的な環境を支配するために来る主を迎えるには、皆さんはどんな資格者にならねばならないか? ’主よ、どうぞここにおいでください’といえば’ようし’とされ’あなたがおられるに相応しい家がここにあります’と言える自分にならなければなりません。そのようにできますか? ええ? できるの? ’主よ、あなたがこの地上に成そうとされた時と環境を、個人から民の全体に至るまで残して逝かれたので、今あなたが留まることができる個人と民がここにございます’と主の前に紹介できますか? こんな言葉を言うには言ってもやれなければなりません。 イスラエル民族を指導した祭司長たちのなかに’主よ! どうか、おいでください! あなたが率いるべきものがここにございます’と言った人間がいましたか? いなかったのです。イエスを生かしておけば全部がイエスのまえに屈したものを、目をむいてイエスを、そのままにはしておかなかったのです。 しかし彼のまえに、すべてのものを紹介しなければなりません。紹介すると同時に、渡さなければなりません。’主よ、この家も、この教会も、この世界も私のものではないので、あなたのものとしてお取りください’としなければなりません。 ごらんなさい。教派間に熾烈な闘いがあります。各教会ごとに、時に至ろうとしているのです。各教会ごとに、主に対する観点が違います。ところでどのようにイエスが来られるのか? 来ても引き返してしまいます。どこに来ることができますか? 教派ごとに時が違い、環境が違い、指導理念が違います。これがイエスの教会ですか? これがイエスが留まる聖殿ですか? イエスに従う者のために準備した教会がこうですから、問題が大きいのです。ですから終わりの日には、誰の言葉も聞くなと言われたのです。ここに来て語っている人間の言葉も、信じるなというのです。どんなに血の汗を流して話しても、聞くなというのです。どれが偽か真か、分からないのです。自分の父母も信ぜず、兄弟も信じないで、誰を信じるというのでしょうか? 今の時は心の審判から、自らが勝利しなければなりません。心の審判。心から審判してそれしきの者なら、切って捨てなければなりません。心は分かるのです。すべての面において、心の審判をしなければなりません。これが駄目なら終わりの日には、頭に油を塗って密室に入って祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れている人も多いのですが、何が終わりの日に神が準備したものか? どこが主が臨まれる環境の基台か? どのようなものが、主の理念世界を建設する民であるのか? 祈祷してみましたか? 死の穴かどうかも分からないで、口を開けて喘いで、騒いでいるのです。どんな網にかかっているか、分かっているのでしょうか? 10. 終わりの日に起こる事 韓国にある四二の教派の中で、四一教派は反キリストです。ですから皆さんは心の時を成すことができる教派、心が安息する所を訪ねなければなりません。神と共に生き共に死ぬ(同生同死)ことができ、共に苦しみ共に楽しむ(同苦同楽)ことができる礼拝堂を訪ねなければなりません。ここにそんな所がなかったら、風呂敷をくるんで行きなさい。止めはしません。みな行けというのです。心の門を開いて’心の時が成る所がここなのだ!アボジに侍ることができる心の環境がここなのだ! ここだけがアボジの心情を中心に一つになれる所だ’とすることができる所を、訪ねなければなりません。 それではこのような時と環境と基準を造っておいて、何をしようというのでしょうか?世界を統一するというのです。終わりの日には、統一が成るのです。我々統一教会が、統一するというのではありません。誰が統一するにしても世界は一つの理念に向かって、一つの時に向かって、一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と、一つにならねばなりません。もしも教派が一つになれる環境ができなければ、一つにすることができる、時の開拓者が出なければなりません。時の開拓者が。 今の時はしっかりと心を引き締めるべき時だと強調する群れが、どこの教派であっても出なければなりません。時に対して強調する群れが。今は数多くの人々が、終わりの日だとしています。ですから今、キリスト教には混乱が起こっているのです。時の証し人が出るのです。環境の証し人が出るのです。’あ、私が一番だ’という指導者たち、代表者たちが出るのです。互いが主であると騒ぐのです。こんな群れが互いにぶつかって、ここに残らなければなりません。既成教会はこのままでは、残ることができません。 新しい歴史は、新しいところから起こって、連結されてゆくのです。今青年たちは、各教派の殻を破らなければなりません。破らなければ神が打つのです。だから自分たち同士で争うのです。争っていないでしょうか? 天が打つのです。時がこのような時になっているのです。’打て! 近い所から打て’争いは神が愛される教派から起こるのです。神が極めて愛する人々から起こるのです。それゆえ既成教会に、争いが起こっていないでしょうか? それだけではありません。どのようになっているかというと、牧師たちと青年たちが争っています。今の時は青年たちが、開放される時です。天地の運勢は青年たちの胸々を動かして、過去の仮面を脱いで、新しい理念世界へと越えるようにさせているのです。ですから教会は堂会(牧師長老からなる最高機関)の教会ではありません。我々の教会です。我々の教会。そんな時が来たのです。そうかそうでないか、見ててみなさい。 教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、このように三度だけ分かれたら神は離れるのです。天理の原則がそうなのです。それで家庭的に集まるのです。恩恵のある人は家庭的に集まります。教会に行かないのです。家庭で伏して祈祷します。そうなるかならないか、見ててみなさい。教団で叫んでいた、昔の祭司長の立場に立ちやすい時なのです。 そんなふうですから今日我々は、心の門を開き、体の門を開き、生活の門を開き、国家の門を開き、主義の門までも開かなければなりません。この門は私から世界にまで、開かれなければなりません。それゆえ世界に訪ねて来られる主が、個人にまで訪ねて来る因縁を造成する教会が出てこなければなりません。そして皆さんは世界に来る主が、いつでも自分を訪ねて来るように、完全に開放れた道を築いておく群れにならねばなりません。そうすれば皆さんが主に出会うのです。それでは、どのような門まで開くのか? 心情の門まで開かねばなりません。皆さん、心情が何か分かりますか? 主が最も好まれることを共に良しとし、そこに拍子を合わせ、主が求めることに応えてあげることです。こんな心情の門まで、開かねばなりません。 このようなことを考えてみるとき、今天におられる主の心情が、どれほど切ないでしょうか? 地を見つめる主の心情が、どれほどもどかしいでしょうか? この地にそんな人がいますか? 今日キリスト教が第二イスラエルの形態はもっていても、その中に神の祝福と相続権を受けられる選ばれた人がいないのです。韓国の民がどれほど哀れな境地にいても、イエスが手をのべて祝福してくださる群れになるなら、この国家は世界を支配するようになるのです。また神が祝福してくれなくても、どこの国家よりも忠誠をつくせば、天が与えて下さらなかった福も奪ってくるのです。天国は襲うものが奪ってゆく、とあります。アメリカの神様? どこかの先進国の神様? そうではありません。 我々は心血を注いで、今まで人類がしたことのない誠精をつくさねばなりません。これが自分一代で駄目なら二代三代、何代かかっても忠誠をつくす、世界的な忠誠の宗族になると考えなければなりません。こんな人々が多ければその民族は、救援を受けるのです。そうなるでしょうか? そうではないでしょうか? ええ? 11. 過去を振り返らない信仰 今日皆さんは、統一教会の名のもとに集まりました。我々が心情世界を、開放するのです。主義や思想すべてのものを全部、開いておくのです。開いておいて、訪ねてみるのです。訪ねてみれば自分の心がおける所であり、体が安息できる基であり、間違いなく神の息子・娘になることができると考えられる所を発見するなら、首を切られてもそこに行くのです。そこが最後の所です。今日皆さんが統一教会に来て、こんな因縁が骨肉に染みないなら、行きなさい。みな行ってしまえというのです。 このような群れになるために、このような因縁を結ぶために、この時代における謀略や迫害を受けても、叫んでいるのです。この世の人々はここで語る人間が、自分だけがいけないと思っているのです。しかしこの人間は人生行路において、誰よりも多くの苦労をしたのです。もの凄い風にも、もまれてみました。切ない心情で闘ってもみました。これを見てもあれを見ても、このようにせざるを得ないので、この事をしているのです。過ぎゆく言葉の端に笑われ、籠絡の言葉に左右される、そんな遊び事(み旨)ではありません。 皆さん、イエスはすべてのものを残して逝ったのです。今我々はイエスの時を、自分一身で取り入れてあげるのです。イエスの環境を、自分一身の環境において収拾して捧げるのです。さらにはイエスがペテロに、ご自身のすべての権限を相続させたかった、それ以上の祝福を受けることができる息子・娘になるのです。であれは我々によって、天国の門は開くのです。さらには時を迎えられなかったキリスト教が、我々によって時を迎えることができ、神に侍る環境を成すことができなかったキリスト教が、我々によって神に侍る環境を成すのであり、神が宣布できなかったことを、我々によって宣布できるようになるのです。 我々は誠精をつくしてみるのです。誠精をつくして、後ろを振り返えらないのです。イエスはそうでした。三三年の人生を生きて、遠からぬ死を見つめ、ゲッセマネの園で祈祷したイエスは、自分の人生を振り返ってみたいのですが、一度も振り返っては見なかったのです。それでイエスは’わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)’と祈祷されたのです。 イエスは過去を振り返る者を、咎めました。皆さんもある誠精をすべてつくすなら、これを知ってくれないと恨まないでください。私は誰かが知るなら気掛かりです。知るなら心配です。心をつくし、精神をつくし、忠誠をつくしたなら、血を流して倒れる恨があったとしても・・・。知ってくれる人間がいないと、嘆息しないでください。来られる主のまえに、わが忠誠の節義を立てて差し上げるために倒れる群れがあったなら、主は涙を浮かべて立ててくださるのです。 皆さんはイエスをどれほど愛し、イエスが慕い待ち焦がれたその時をどれほど欣慕し、イエスが開拓したその環境を、この時代に開拓してみると、どれほど心を砕いてみましたか? 皆さん、よくよく知らねばなりません。もしも天の祝福を受けたなら、これは自分のものではありません。万民のために祝福してくださったのです。自分に福を与え、自分に祝福をしたことは、すべての民を生かすためであったという心を持たねばなりません。こんな立場で皆さんが心情を開き、心を開いて生活しなければなりません。 イエスを信じるのに、皮膚の色が問題ではありません。東西洋のどの民族、宗族が問題ではありません。血の色が問題でありません。今までの環境的、感情的、観念的な一切を越えて、すべてのことを忘れ、イエスが希望とした愛の心情と、イエスが求めた生活的な感情を持たねばなりません。それでこそ皆さんが、世界的に来られる主に対することができるのです。来られる主は、世界的な主様であるからです。 今や時は近づいているのです。世界的に訪れるこの天地の運勢の時を収拾することができる群れを、天は願っているのです。我々はこの時を収拾する群れになるのです。また我々は、この環境を建設する群れになるのです。そうしてそのまえに忠臣となり、孝子孝女となる群れにならなければなりません。すべてをそのまま捧げる群れになるなら、残して逝かれた主が訪ねて来るとき、そんな人間に背を向けることはないのです。必ず訪ねて来ることに、間違いありません。これをよくよく知ってくれるよう、望みます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.19
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一つになろうとされるお父様エペソ人への手紙 四章:一節から一六節一九六〇年五月二九日(日)前本部教会 皆さんと共に考えてみる題目は’一つのなろうとされるお父様’です。’一つになろうとされるお父様’、こんな題目でしばらくお話します。 地の上に生きている数多くの人間は、自分みずからを信じ、自分自身の価値を満天下に誇るには不足であることを、皆よく知っているのです。自身を信じられない場において、信じられる他の何かを捜し求めてさまよっているのです。私自身の価値を忘れたまま、他の所に私と因縁を持てる何かがないかと、求めてさまよっている我々なのです。 自分が自分を百%信じることができ、自分の価値を満天下に晴々と誇ることができると同時に、満宇宙を創造された神のまえに行って’あなたが捜しておられる価値が、これであることを知りましたのでお受けください’とすることのできる人間がいたなら、彼は人生の最高の成功者でないはずがないのです。 1. 葛藤を起こしている心と体 今までの歴史上に、偉人や聖賢・賢哲が多く来ては行ったのですが、自分を信じて自分の価値を満天下のまえに公開して、’私のように生きよ’と自分に叫んでゆく人間はいないのです。 我々は善なる目的、より大きな目的に向かって行くことを望みます。自分が楽しんでいる現実の生活環境を無視してでも、心はその所に向かって駆けようとしていることを、皆さんは体恤するのです。また皆さんは、皆さんが留まっているその環境が、永遠なる安息所ではないという事実を、自らの良心の作用を通してよく知るのです。この良心は、留まっているその場が喜ばしい場ではないので、私をして行けと促し、ある目的と価値に至っていない自分自身であることを、暴露させるのです。このような事実を、我々は生活の中で切々と感じなければなりません。 心がある目的地に向かって行けと命令するとき、体が行かなかったなら、彼は善悪の闘いにおいて敗北者であり、天や人間の世において絶たれる者になるのです。反面、この命令に従って行動し、自身の環境を踏み越えて行く者は、歴史上において何かを貢献することのできる人であり、全体を摂理される天のまえに、何かを残してゆく人間であることに間違いありません。 行けと促すこの心は、時間がたっても変わることを知らず、環境が変わっても変わることを知らないのです。しかし安息の基台を得て満天下のまえに、あなたは安息の王者であると誇ることができますか、と誰かが問うてみるとき、誰もがそうではないと答え、嘆息する他はないというのです。 それではこれが、天を動機として創られた人間の運命なのでしょうか? 違います。ですから我々人類は、より高い良心の追求に従ってゆくために、時代と世紀を経て、闘いの歴史路程をたどって来たのです。しかしこれを解決することができないまま、今も目的の世界に向かって行っているのです。 皆さんが一日の仕事を終えて家に帰って、一日の日課を反省する時に、心から満足して微笑み’天よ、地よ、万民よ、私のこの喜ばしい心情を手本にしてください’とするでしょうか? 本来、我々の心はこんな場にあることを望んでいるのですが、今日我々がそんな場にはいないので、これが嘆きであり、不幸であり、恨みであるのです。心は自己の生命と全体的な問題を解決することを待ち焦がれているのに、内的なある内容の条件も解決できない体をそれでも率い、生の運命を経てゆく悲しくも哀れな、人間の姿なのです。 我々の体と心がこんな立場ですから、ある大きな目的に向かって行けと、催促と刺激を受けるたびに、体はここに抗うのです。このように抵抗するその何かに対して、対決する自己の立場を明らかにし、この問題を解決してゆくべきであるのですが、人生のすべての問題は解決不可能、という結論を下す他はないのです。 2. 堕落人間と修道の道 これらのすべてが、どうしてこのようになったのでしょうか? 人間が自ら善によって出発したのではなく、善なる目的に向かって行く過程で、悪を動機として始まったので、この悪をはね退けてゆかなければならないのです。このような道を行くのが我々人間なのです。我々はこんな道を造っておいた、堕落した祖先の血肉を受けて生まれた後孫であることを、よくよく知らねばなりません。 どんなに優れていると、満天下に自己の栄光を誇る人間であったとしても、やはり堕落の血統を受け継ぐ後孫であり、嘆息の他はない宗族であることに間違いないのです。こんな自分ゆえにこれ以上恥ずかしいことはなく、これ以上に体面が立たないことがないのです。しかしこんな自分であることを切実に感じ、自分自身を無慈悲に打つとき、ここから新しい心情革命が芽生えるのです。天はこのような者を求めているのです。 もしも本来から人間がそんな自体であったなら、人間にとって無頓着な神とは見えなかったのです。本来からこんな自体になっていたら、歴史路程において多くの生命が血を流して行けば、善の目的を追求してゆく善なる神であることを、明らかに見るのです。しかし、そうではなかったのです。 我々は嘆息圏内に入っていても、善を指向する動機を持っているのです。大宇宙を創造した絶対者がいるなら、この絶対者は我々が寝ていても覚めても、食べても休んでも、いかなる瞬間も休むことなく、我々の心と良心を通して、その所に向かって行くよう促しているという事実を、知らねばなりません。ですから良心的なものは、価値があるということです。自身の環境がどんなに満足だとしても、心に何かわだかまりがあり、悲しみが染みることを感じる瞬間は、本然の動きが催促している瞬間であることを忘れてはなりません。このようなことを感じて自分自身の解決のために喘ぎ、喘いで求めてゆくのが、宗教の道なのです。 宗教の道を行く人々は、その時代の先頭に立つ人々ではありません。ある思潮の流行に未練を感じる人々ではありません。ある思潮を革命するために、その先端に立つ勇者でもありません。その人々は時代の流れに後れ、時代が流れてゆく方向を拒否して、背を向ける人々に間違いないのです。ですから今まで、宗教人は社会と離れ、政治と離れ、生活理念から離れよと勧めてきた理由が、ここにあるのです。勇断を下してこの社会環境や生活環境を離れた人々、またここに心情的な相反する思いと悲哀を感じ、これを否定して背を向けて行く人々が、修道の道を行く人々なのです。 それでは道の人とは、いかなる者か。豪華絢爛たる栄光の場に留まっていたとしても、その場において涙を流すことのできる者です。道を知る者の心情とは、いかなるものか?どんなに大きな権勢を持って、天下を動かすことのできる環境にあったとしても、その深い心情において、人知れぬ涙を流すことのできる心情です。どんな社会や団体を問わず、そんな心情を持っていない人は、真の道人や宗教人とはいえないのです。 神を信じて主に従う信徒であるなら、自分がどんな栄光の座にあったとしても、その場を最高の満足と安息の基台として喜びを感じるのではなく、その場を経ていって人知れぬ涙を流すのでなければなりません。そんな者でなければ、修道の道を行く人間とはいえないのです。 ところがこんな道を行くべき人々が行かずに、宗教が押され追われてきたのです。これはなぜ、そうなのでしょうか? 罪悪の場を離れ、本然の場に帰らなければならない運命におかれている人間であり、正しく行かず、反対に帰ってこなければならない運命におかれている人間ですからそうなのです。それではなぜ、帰らなければならない運命におかれているのか? 堕落したからです。堕落によって転がり落ちた世の中になったので、反対に捜し求めて、上がってこなければならないのです。 歴史を尊重する民族は、自国の国民性を保つことができるのです。歴史的な心情を基準として団結する民族は、それ以上の心情を持つ主義でなければ、何をもってしても屈伏させることができません。歴史を尊び、節義を守ってきた聖人・賢哲、あるいは忠臣たちがいたとして、それ以上の心情を持つ者でなければ、彼らを屈伏させることはできないのです。ですから時代が妨げるなら、その妨げるものを断ち切った後でこそ、他のある基準に接ぎ木されるようになるのです。これは我々が社会発展過程において、常に見ることなのです。 3. 誰も侵犯できない良心の領域 それでは今から我々は、何をしなければならないのか? 歴代の忠臣の基準を越え、孝子孝女の基準を越えなければなりません。またこれを越えても行く目的があるのです。現在とかけ離れた環境を提示するとしても、これは今この世界において、未来の世界へと我々を引き渡すためのものなのです。これが神のプログラムです。忠臣の中の忠臣であり、孝子の中の孝子を造るためなのです。たとえ地の上において捨てられ、排斥されたとしても、彼らが主管し、彼らが享受することができる一時が来たならば、それがキリスト教でいう、主が地上に再び来て建設される地上天国なのです。 世の中には家庭のための忠誠をつくす人、社会のたまに忠誠をつくす人、国家のために忠誠をつくす人もいます。国家のために忠誠をつくす人は、国家理念を後代に残すにおいて、一つの伝統の条件を立てることができるのです。しかしこの地とこの世界のすべてのものはどうせ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるために、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王であり、主人の中の主人であり、万有の父である神のまえに忠臣となり、孝子となれと宗教では教えているのです。これが宗教の道理です。 それではどうして神は信じる人々に向かって、この世の中を捨てよされるのか? この世の中はどうせ過ぎ去ってしまう世の中だからです。永遠のものではないので、捨てなさいというのです。未来にわたって永遠に愛する心情を持っておられる神であるがゆえに、たとえその時代には捨てられても、未来には孝子であり忠臣として、その価値を高く賞賛される群れが、キリスト教的に見れば山羊と羊の中で、羊に相当する群れなのです。だから我々は世の中の基準を越えなければなりません。この理念に向かって忠誠をつくし、この理念に向かって駆け行く者たちが、道を信じる人々なのです。ですから道人たちはこれから、こんな世界に駆けて行くにおいて、先鋒者にならねばなりません。でなれば彼らは滅びるのです。滅びです。どんなに何がどうだこうだといっても、滅びるのです。今日の世界は、このような運命におかれているのです。 皆さん自身は個々人として出発したのですが、全体の世界を抱えて、この個人と世界が連結されて、初めであり終わりであるとする世界が来なければなりません。即ち皆さんの本当の良心が成ることを願うのに対して、この世界が’果たしてその通りだ’とする場まで行かなければならないのです。 力は目的に向かって動いてゆくのです。自然界を見ても、目的もなく動いている存在物はありません。極めて小さな科学作用にしても、目的のために動いているのです。ところで誰も侵犯することのできない良心の力が、目的なしに動いているかというと、そんなことはないのです。良心にも必ず目的があるのです。 わが心の良心の主人公と共に愉むことができ、安息することができ、踊りをおどることができる栄光なる環境、これが人間が捜し求める天国です。天国がある地域に別にあるのではありません。このようにならない人間は、天国ができても逃げ出すのです。そうなるのです。 神は六千年という永い歳月、離れていった人間たちを抱えて来られたのです。人間のようなものはすでに千万べん殺しても余りあるのです。殺すだけでなくガソリンをかけて、痕かたもなしに燃やしてしまうのです。しかし神はこのような人間を捜し求めて来られたのです。その求めてきた目的が、何でしょうか? 罪人である人間と、一つになることです。極めて善なる立場で、極めて悪なる者に対して’心情で、心で、体で、環境で、理念で一つになってあげたい’というのが神の心情なのです。皆さんは神の心情がどうであるかを、知らねばなりません。考えて見てください。万物をさっと創っておいて、むやみに罰だけ与えて審判だけする神であるなら、必要ありません。そんな神様ではないというのです。 ですから皆さんは、ここから解決していかなければなりません。自分が信じる神は、どのような神であるのか? 罪に対して審判だけする神ではなく、審判する前に、懇切なる心情を持つお方です。もしもそうではない立場で神が審判するなら、抗議するというのです。罪だけを審判する神であるなら、抗議するのです。しかし、抗議はできないのです。なぜ? 神様は人間の罪を千万べん越えて、越えることのできる心情をもって審判されるがゆえに、人間は審判を受けても抗議はできないのです。神は皆さんが観念的に知っている、そんなお方ではありません。 4. 神を新たに認識しなければならない時 今まで我々は神を求めるのに、儀式の神を求めていたのです。み言の神を求めていたのです。関係の神を求めていたのです。しかし、動機の神は知らなかったのです。聖書のみ言を見ても、堕落以後に生まれた関係の神は知っているのです。神様が我々の先祖たちにどのように対され、堕落した後孫がどのように対したかは、知っているのです。しかし、堕落することを防がなかった神の事情は知らないのです。神様が堕落したアダムとエバを追われる他はなかった動機は知らないのです。動機を知らないので、解決する法がありません。世の中の事もそうです。ある問題があるとき、その動機から知って解決すれば、後患がないのです。 我々が聖書六六巻にみな通じても、聖書の中に潜んでいる動機の神と、過程の神と、結果の神を知らなければ役に立たないのです。過程の神は歴史路程に現れているので知ることができるのです。四千年の間、千辛万苦してイスラエル民族を率いて、メシアの足場を立てるのにどんなに苦心されたでしょうか? これはあえて推し量ることができます。しかし我々が過程の神を知るにしても、はっきりとは知ることができません。動機を知らずに、分かったとはいえないのです。 それでは結果の神は、どのようなものでしょうか? どのように審判されるのか? 皆さんが今、神の心情がどうだかも知らないで喜んでいるのですか? 駄目です。動機のない結果は、あり得ないのです。すべてのことは動機を経て、過程を経て、結果が出るのです。これが自然科学の現象です。人間がこのように造ったのではありませんか。天理原則がこのようになっており、神の法度がこのようになているという話です。突然変異ということはないのです。ないというのです。秩序的なのです。動機を中心にして原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が、創造理念世界です。 皆さん、成功する人々が心にかたい覚悟なしに成功できますか? 心の動機を中心にして、環境を開拓して、変わることなくこれを信じて行くなら、目的地に到達するのです。我々一個人が成功するにもそうであるのに、大天地を創造なさる神が目的を成すのに、このようにされないでしょうか? やはり同じだというのです。 皆さんは歴史的な神ではなく、創造的な神を訪ねてみましたか? この時代に皆さんが信じる神ではなく、創造の動機を持たれた神、審判を受けるべき世界をおいて摂理する神ではなく、審判した後ですべての人類を抱いて、栄光の中で万民と共に喜びと幸福のうちに生きる神を知ってみましたか? 知らなかったのです。一人の人間が成功するときにおいても、過去と現在と未来を離れてはないのです。過去も天理原則とその源泉が同じであってこそ、これが歴史的な伝統として立つのであり、またその人の業績を歴史と共に未来にまでも誇れるのであって、その動機において脱線するときは、いつかは審判を受けるのです。ですから今日、我々が知るべきことが何でしょう。動機の神なのです。 それではこの動機の神を、どのように知るべきか。堕落した立場に留まっている我々に神はどう対して来られたのか。神は歴史過程において、堕落している我々を、動機の心情によって対され、未来の心情をもって対してくださるのです。地の上に生きる人間たちは神を知らないので、神は人間たちを捨てられなかったのです。六千年が過ぎる今まで、人間たちは神を知らないでいるので、神は創造当時から人間を、息子・娘として対されたのです。このような心で天理法度を立てたので、この被造世界をぶち壊すことができないのです。壊れたものを再びくっ付け合わせるのが、救援摂理です。穴があいて壊れたものを継ぎ合わせるという話です。継ぎ合わせるときは、動機から過程を経て、目的としたその完結体として因縁を結び、継ぎ合わせなければなりません。それまでは全宇宙被造万象のまえに、完成品として出すことができません。道理がそうではありませんか? 我々は再認識しなければなりません。再覚醒しなければなりません。さらには青年たちはしっかりとした決心をしなければなりません。歴史路程において我々は闘って、勝利しなればなりません。宗教の道を行く皆さんは、何かに利用されているな、と感じてみたことがありますか? ここで叫んでいる人間は、切実に感じてみたのです。自分が今、神に利用されているか? 人間に利用されているか? 教派に利用されているか? 歴史のまえに利用されているか? 立てられたある神学体系に利用されているか? どちらでしょうか? 解明しなければなりません。これを解明した冊子を私は見たことがありません。これを解明するために泣き叫ぶ学者にも、出会ったことがありません。 この民族はこの世的には、世界のまえに押し出すことができる希望の条件が一つもない惨めで哀れな民族です。私が願うことは、世界が目覚めずに眠っているこの時に、我々の民族が再覚醒するということです。我々は歴史を再鑑定し、時代を再鑑定し、信仰を再鑑定して、神を捜し求めて行かなければなりません。 人間や何かの機関や、教派に利用される人間は滅んでゆくのですが、神に利用される人間は滅びないのです。何の話か、分かりますか? 人間世界のある欲望をかけたものに利用されるなら滅びるのですが、世の中で追われ、地において排斥されても、天に利用されるなら、滅びるようでも滅びることはないのです。志のある青年たちであるなら、どちらを取るか冷静に考えなければなりません。それゆえいつかの時には、自分の父母、兄弟も批判してみなければなりません。その実であるからです。何の話か、分かりますか? 5. 人間の堕落によって不自由になった神 イエス様以後に動いておられる神を知ることは簡単です。イエス様は四千年の神の心情を通して来られたのです。皆さん、これを知らなければなりません。イエスを送るとき、イエスと共に来られた神、イエスは逝ってもイエスの十字架と共におられた神、人間はイエスを十字架につけて殺したとしても、その人間を捨てたまわず後孫までも抱えて来られた神を、皆さんは考えてみましたか? これを解明することができる何かを得なければ、皆さんは新婦になる夢も見るなというのです。 我々はみ言のイエスを知りました。ここで語る人間の話も、無条件に信じなさいというのではありません。道理に合っていて、心に革新的で劇的な何かが触れ、今の自分をぶち壊して新しい何かを建設させる可能性があるなら、これを掴んで信じるというのです。イエスを信じる人は、こんな境地を通過しなければなりません。 皆さん、我々は背負っている人間です。神は堕落した人間を抱えて、無限なる努力をされたのです。皆さんが想像することもできない、無限なる努力をされたのです。これに報いるには、二七億人類をいっぺんに祭物に捧げてもお返しできないのです。心情に釘を打たれても苦労される神であることを、知らねばなりません。神は無知な人間たちに対して摂理されるにおいて、動機と過程と目的をもって対されたのです。対されるときは、十字路の交通巡査のように’こっちに行け、あっちに行け’というやり方ではないのです。 聖書の中には、神が義人に対して命令される内容のみ言がありますが、神はそのことの何千倍の過程を経ていって、命令されたのです。私はこのようなことを知って、とても聖書を見ることができないことがありました。涙が先にたって見ることができないのです。人間に対してこのようにせよ、とされるとき平安な場で、このようにせよとされたのではありません。神におかれてはその場を何百ぺんも通過して、そのみ言をされたのです。一度ぐらいやってみて、やれというのではありません。何百ぺん何千ベんやってみて、やりなさいとされたのです。サタンとの闘いに勝つならこれこれのことを保障するという基準を立てておいて、初めて神は我々人間に対して、やれと言われるのです。こんな神様なのです。 聖書で死ねとされることも、神が死の苦喪を経た後にこそ、言われたことなのです。このように語ることができる主人公になったゆえに、そうされるのです。そうではない立場で、万人が苦痛の中にあるときも、栄光の宝座に座って号令する神であるなら、サタンが讒訴するのです。サタンが讒訴しないということは、神の心情的な悲しみが、サタン世界のあらゆるものより大きいからです。永遠の天理原則と、永遠の心情をもっておられるので、サタンが讒訴できないのです。原理は壊すことができません。不可侵なのです。神は原理的な心情によって、堕落した今日まで抱いて来られたのです。分かりますか? 神は誰の神でしょうか? また堕落した宗族は誰でしょうか? その神は堕落の宗族のアボジなのです。万有のアボジとされたのです。この父は、恨を持つアボジです。神は罪を犯して監獄に引かれてゆく、息子の後について行く父になったのです。自由なる神として知っていたのですが、その心にはどうにもならない手錠が掛けられているのです。永い歳月を一日のように、息子の死と、息子の疼きを案じる心でついて来られた神であることを、皆さんは知らねばなりません。 ’恨み多いことです。どうしてあなたは堕落した祖先の父になったのですか。あなたがお気の毒です’と祈祷しなければなりません。子供である心が爆発してわき起こって訴える息子・娘がいたなら、神は彼を抱いて慟哭されるのです。神は喜びの中で我々に会うとされるのではありません。鉄窓に閉じ込められ、引き裂かれ折られたアボジを抱いて’アボジ、どんなに苦労されましたか。あなたが私のアボジであることが恨みです’と慟哭する息子・娘を求めてさまようのです。こんなお方が、神様なのです。 すべての人は勝手にゆき、時代は流れても、父なる神が子に対する一片丹心は、誰も侵犯することができません。事態が複雑で、環境が複雑であるほど、神はより心配されるのです。六千年前には、我々の先祖個人に対して切ながられたのですが、世界人類が死亡の沼で喘いでいるこの時において、最も凄まじい心情で切なく思う神であることを、知らねばなりません。ですから皆さんは、どうしようもない罪人なのです。不孝きわまりない者どもです。 6. 救援摂理をして来られた神の心情 一国の君王に反対すれば逆族であり、父母に反対すれば不孝者とされるのに、万主の主であり、全天宙のアボジに対して、我々は幾たび逆族となったことか! 幾たび不孝者となったことか! 各自一度、考えてごらんなさい。ですから修道の道を行けば行くほど、服を脱いで打ち、それでも不足なら刃で体を裂き、首を絞首台にのせても不足としなければなりません。これが神に対して負う、息子の持つべき心情なのです。 イエスがそうでした。他の人を手本にすることはありません。イエスは万人のまえに現れるときは堂々とした姿でしたが、独りあるときは歴史的な深い涙を流したお方でした。悲しい涙を流した主人公でした。涙を流すときも王者でした。聖書にはこんな内容は現れていないのです。彼の心を誰が知るでしょうか? 知る人はなかったのです。私が今日、統一教会の信徒たちに願うことは聖書に現れたイエスではなく、三位神と呼ばれる神ではなく、それ以前の動機の神を知れということです。であればイエスが分かるのです。 イエスは自ら、喜ばしい場を避けたのです。自ら自分の家を捨てて出たのです。このようにすることが、良いからではありません。アボジに対して泣きたくても泣くことができない環境であり、アボジを知ってあげたくても知ってあげることができない環境であったので、そうする他なかったのです。イスラエル民族が嫌で、イエスが寂しい山の中で祈祷したと思いますか? 違うのです。イエスはイスラエル民族を抱え、神の心情を吐露し、共に泣きたい心情に染みていたのです。ところが分かってくれる者がいなかったのです。 皆さんが先祖の血肉を受け継いだとして、この細胞の一つにも恥ずべき罪状がかかっているのです。今日自分が何か、ああだこうだとしても、そうはできないのです。行けば行くほど涙を流さなければならず、アボジのまえに顔もあげることができない、歴史的な罪人なのです。 神は心情をもって私たちを捜し求めて来られたのです。心情で求めてきたのです。皆さん、わたしはあなたの父であり、あなたはわたしの息子に間違いないという心情で、求めて来られたのです。その次に、事情をもって求めて来られたのです。罪人たる者を救わなければならないという事情をもって、求めて来られたのです。その次には、希望をもて求めて来られたのです。これがいわゆる、信仰、希望、愛というものです。 聖書を見ると、聖霊の九つの実がのっています。愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠誠、柔和、自制、この九つの実の骨子が何であるか? 愛と寛容と忠誠です。 神の摂理をすべて探って見れば、み旨によって人間を捜し求めて来られたことを知るのです。何のみ旨? 罪人を救い、息子を造り、その息子に天と地をすべて与えるというみ旨です。こんな希望を持って求めておられるのです。アダムとエバを創り、神様は万物を主管せよと祝福されたのです。ところが主管してみましたか? 堕落することによって、主管してみなかったのです。それで神様は、人間を再びその場に立たせようとされるのです。こんな希望を持って求め、こんな心情を持って捜して来られたのです。 人間が罪を犯したとして’や、こいつ、なぜ罪を犯したのか’とのみされる神ではありません。罪を犯す事情をよく知る神であるのです。ご自身の事情を考えもせず、人間の事情を知ろうとされる神なのです。悲しむ者には悲しい事情をもって訪ねて来られ、苦しむ者には苦しみの事情をもって訪ねて来られ、悔しく痛憤する者には悔しく痛憤する事情をもって訪ねて来られるのです。皆さんは神と、どの程度に事情を通じてみましたか? 神は我々の生活環境の中にも、このように訪ねて来られるのです。それだけでなく、心情をもって訪ねて来られるのです。わたしに背反しても、わたしはあなたの父という心で、六千年という永い歳月を求めて来たのです。 それでは神の最後の目的が何でしょうか? あなたがわたし、わたしがあなたになることです。イエス様も語られるに’その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがわたしにおり、また、わたしがあなたにおることが、わかるであろう(ヨハネ一四:二〇)’とされました。目的は一つになることです。何によって一つになるのか? 心情によって一つになり、心情と希望によって一つになることです。そのために神は求めておられるのです。 7. 神の最後の目的 ところで地の上には現在、三〇億に近い数多くの人間が暮らしていますが、神の事情を知る人間が一人もいないのです。皆さんは神のみ旨が何か、知っていますか? 神の希望が何か、知っている? 信じて天国に行くことが希望ですか? とんでもない考えです。ここで叫んでいる人間は、そんな神は信じません。罪悪に腐った体を天国に送る、そんな神を信じるの? それなら矛盾した神です。罪を犯した人間を許して天国に送るの? そんな天理原則が、どこにあるかというのです。今まで、天国に行った人間はいません。みな楽園の他には、行っていないのです。 一つとなった者と幸福に生き、一つとなった者と共に永遠無窮に天上天下を動かすことが神の考えです。それゆえ神は一つとなる者を求めておられるのです。どんなに説教をうまくやり、何をどうやったとしても、神と一つになっていなければ、すべてが偽りです。偽り。事実の通りに行う人たちが、偽ものよりも劣って見えるときが多いのです。俳優たちをごらんなさい。全部偽ものです。全部にせですが、事実よりもうまくやってのけるのです。問題はここにあるのです。 聖書が必要なのではありません。そのお方の事情と自分の事情が一つになって、そのお方の心が向かうところに自分の心も向かい、そのお方の抱く心情を自分が抱くことができなければなりません。神はそんな人間を求めているのです。一つになる人間を求めているのです。ですから歴史上の闘いは、人間同士が一つになるための闘いではなく、神が人間と一つになるための闘いなのです。歴史路程において、数多くの悲惨な決闘劇が演じられましたが、これは人間が神を求めるための闘いではなく、神が人間を求めるための闘いであることを、よくよく知らねばなりません。 これから神様が、公義の審判主として現れるとき、神はどのようになさるのか。’わたしはあなたのための心情をつくしたが、あなたはわたしのために、どれほどの心情をつくしたか。わたしはあなたの事情をみな知ってあげたが、あなたはわたしの事情をどれほど知っているか。わたしはあなたのために死ねよ生きよとしたが、あなたはわたしのみ旨をどれほど考えたか?’とされるのです。これによって問題を解決しようとされるのです。聖書のみ言に、これこれの肉を食べるなとありますが、一片を食べたから地獄に行くというのではないのです。心情の世界は法度を超越しているのです。 我々が公義の審判台の前に立てばサタンが讒訴します。法廷に一度行って見なさい。この世の法廷にも判事がおり、検事がおり、弁護士がおり、囚人がいます。公義の審判台もこれと同じ様子なのです。検事のようなサタンが皆さんを讒訴するのです。イエス様は皆さんの弁護士です。皆さんが過去にどんな事をしても、これを弁明してくださるために汗を流すのです。しかしもともと六千年の罪悪史をもつ人間ですから、弁明しようにも弁明のしようがないのです。たやすくできることではありません。恥ずべき罪状があまりに大きいのです。 サタンに引かれる条件のみなのに、これをどうするのでしょうか? これを精算してくれる一人の人が現れることを、アボジは待ち焦がれておられるのです。主はあの世に行って、これをおいて祈祷されているのです。これしきの地上で、幾らかが倒れるのを心配することではありません。天倫の大道を立てることを案じておられる主であるのです。皆さん一人ぐらい地獄に行っても、神が滅びる? 違います。救援は個人のことであり、天倫の大道は万人のことですから、一人の人間を犠牲にする恨があったとしても、大道は立てなければなりません。それでイエス様は、祈祷されておられるのです。 皆さん、聖書を見るとき、あるいは祈祷するときはどのようにしますか。神のみ旨が何であり、神の事情が何であり、神の心情がどうであるかを知って、神が最も悲しかった一つを掴んで一生の間、泣いてみるのです。そうすれば天国に行きます。他の何かをどうだこうだという必要はありません。神が最も悔しいことが、何でしょうか? 最も悲しいことが、何でしょうか? 最も喜ばしいことが、何でしょうか? 聖書を見ても喜ばしいことはありません。悲しみだけです。排斥され、追われたので、嬉しい時があったでしょうか。アボジの日の中で、最も悲しかったことが何でしょうか。問題はここにあります。これを解決すればいいのです。親友も相手方の悲しみを知って、心情が通じてこそ、本当の親友です。孝子も誰でもみなやれる立場であっては、孝子とは言えません。忠臣も同じです。これを知らねばなりません。神の六千年の歩みの骨子が何かを知らねばなりません。 8. 父の栄光をもって来られる再臨主 神は心情と事情と希望を抱いて、人間に対して勧告されるのです。神が我々の心情を百%知り、事情を百%知り、希望を百%知っておられるのですが、語ることはないのです。これが神の事情なのです。なぜ、語ることがないのでしょうか? これを話してしまったら、サタンが先に知ってしまうからです。 ある金持ちが、まだ未熟で幼い何にも知らない世間知らずの息子に’何の宝物はここにあり、何の宝物はそこにある’として、主人に背く僕や怨讐がいるところで相続させたなら、彼らは息子が持つままに、そっとしておくでしょうか? サタンがそんな立場です。神がすべて語ったなら、神の息子・娘がする前に、サタンがまず知ってみなやってしまうのです。 なぜそうなのか? 神は堕落した世の中と離れているのです。この地は誰が支配しているのか。サタンが支配しているのです。空中の権勢を握るサタンが、地まで支配しているのです。それでこの地の上には、怨讐がいっぱいです。神が息子・娘に命令することを、息子・娘がやる前に怨讐たちが知ってまずやった後で、これをもって要求するなら聞かなければならないのです。公義の法度を持っているので、仕方がないのです。怨讐であったとしても、これがやれという命令に符合しているなら、認めなければなりません。 ですから聖書は、秘事となっているのです。秘密です。悔しくも憤ろしいことです。聖書の難問題を抱えて’お父様、どうしてこのようになったのですか’と祈祷をするとき、ここで語る人間はこんなことを感じたのです。’お父様、あなたはどうして、万民を救わなければならないお父様になったのですか’と訴えたら、神は’おまえの事情よりも、もっと痛ましいわたしの事情があるからだ’というのです。 このようなことを知るとき、皆さんは厚かましいのです。信じるだけで天国に行くのですか? 厚かましいです。皆さんは一つになろうとされる神に侍ったことがありますか?アボジと一つになるために、闘ったことがありますか? 一度もないのです。一度もないなら、皆さんは反論することができません。しかし天は我々と一つになるために、どれほど苦労されたでしょうか? 皆さんはこれを知らねばなりません。 見てみなさい。神はイスラエル民族に、み旨で一つになれと勧告されたのです。であれば四千年の間準備したあなたたちイスラエル民族は、世界を支配するという希望を与えたのです。アブラハムを祝福して’あなたの後孫は天の星のように、海辺の砂のように生みふえて、地に満るであろう’とされたのです。希望をもって求めて来られたのです。 その次にイエス時代には、事情をもって訪ねて来られたのです。旧約時代には国がないイスラエル民族のまえに世界の中心、即ち祭司長王国がなるという希望を与えたのです。希望をもって行く息子・娘に、神はまた事情をもって訪ねて来られたのです。事情は誰が持って来たのか? イエスが持って来たのです。皆さんの事情を弁護するために来られたのです。事情を弁護することが終わったら、何をするのか? 心情を糾合するのです。そのために、再臨主が来るのです。その標準は愛です。最もお終いは、愛なのです。 それでは我々自身はどんな立場にいるのか? 心情と事情と希望、このすべてのものを知る場にいるのか? 知らない場にいるのです。白紙です。何にも知りません。何にも知らないもののために、このように苦労される神様なのです。この神を我々は今まで、知らなかったのです。しかし神は心情をもって一から世界まで、全歴史を率いてついには、父として全体を愛することができる時のために、心を砕いておられるのです。 旧約時代は僕を送って希望を抱かせ、新約時代は息子を送って事情が通じるようにされたのです。これから再び来る主は、アボジの心情を持って来られるのです。アボジの栄光によって来るというのです。アボジの栄光によって来て、心情の基準を立てる時が終わりの日です。心情の条件を地上と天上にまで立て、次にはこれを満宇宙のまえに公布しなければなりません。あなたはわたしの永遠不変の息子・娘であるという、式をするのです。これが子羊の宴です。 皆さん、終わりの日にはどのようにしなければならないか? キリスト教では希望を抱いて、忍耐せよというのです。耐えられなければ天上の大道を壊してしまうので、耐えよというのです。イエスやステパン、あるいは十二使徒をごらんなさい。裂かれていろんな目にあったのですが、耐えたのです。希望の一日を望みとして耐えたのです。その人々が我々の先祖です。希望を持って耐えよ。明日をおいて耐えよ。事情を知るなら忠誠をつくせ。あなたのために主はこのように死なれたので、死ぬほど忠誠をつくせ。これがキリスト教精神です。忠誠が何でしょうか? 忠の字は中心の心です。中に心であり、誠の字は言葉を成すという意味です。天のまえには弁明ということはありません。死ねといえば死ななければなりません。綿を背負って火に入れといえば、入らなければなりません。 9. 混沌とした世の中を愛で収拾される神 ’愛せよ、忠誠であれ、懇切であれ’とされるのです。これは神の心情と愛と希望を連結させるためです。しかし我々には未だに、希望の時が来ていないのです。わが心情の君が来ていないのです。私の事情を知ってくれる者が来ていないのです。その時代が、そのお方が来ていないので、来るその時までイエスと聖霊は涙ながらに’お父様、耐える息子・娘を哀れにおぼしめしください、忠誠をつくす息子・娘を覚えてください。心情を注いで思慕する息子・娘を覚えてください’と祈祷しておられるのです。この因縁を歴史的に収拾するときまで、心情の荷を背負っておられるイエスと聖霊なのです。 こうして世界的な時が来れば、一つになるための役事をなさるのです。アブラハムからヤコブの家庭、モ-セの民族、イエスの世界、全天宙まで一つにするための役事をなさるのです。この被造世界を一つにするために求めておられる神ゆえに、歴史も一つの世界に向かって流れていることを、皆さんは知らねばなりません。 こんな歴史的な見地から今日、異口同音に終わりの日であると言うのです。もしも誤れば、今にも滅亡する危機に瀕しているのです。しかし、天があるのです。判決は善と悪、最後の二つが互いに衝突して起こるのです。これが歴史的な闘いです。ごらんなさい。歴史を明らかにして見れば、神様はアダムとエバが堕落した後、カインとアベルを立て、堕落したアダムとエバの家庭を収拾しようとされたのです。 収拾するときは、どのようにするのか? 神が愛する人間を愛しなさいというのです。愛を通した心情、愛を通した事情、愛を通した因縁ということです。即ち、心情を通した愛であり、心情を通した事情であり、心情を通した理念です。このような心でアダムとエバの代身、カインとアベルを求めたのでした。カインがアベルを愛するということです。接ぎ木です。ここから接ぎ木ということが起こるのです。ここで一つに帰結しなければならなかったのですが、カインがアベルを石で打ち殺したのです。戦争の歴史はここに始まったのです。 10. 中心人物たちを通した摂理歴史 ですから今までの歴史は、善なる人々が悪なる人々に殺される歴史だったのです。普遍的にも二人の人間が互いに偉いと主張するとき、まず主張する人間が悪い人間です。八〇%はそうです。善が先に悪を打つ法はありません。韓国の歴史を見ても、奸臣が忠臣を打っても、忠臣が奸臣を打つことはないのです。 このような闘いは、どこから起こってきたのか? アダム家庭から起こったのです。カインが神の愛を受けるには、神が愛するアベルに接ぎ木しなければなりません。絶対服従せよということです。であれば神に背反したサタンを、屈伏させることができるのです。人間に全宇宙を主管せよと祝福されたのですが、人間が堕落して血筋に二つの因縁が生じたので、この法度に従って世界は二つの方向に起こってゆくのです。 こうして神が愛することができる個人を捜し立てたのが、アブラハムです。アベルを立てたら良かったのですがアベルが殺されたので、この代を受け継いで神が愛することができる完全な実体として一人の人を捜し立てたのが、心情と事情と希望を代身する信仰の祖アブラハムであったのです。万天下の人類は神が最も愛するアブラハムに、すべて服従するということが神の摂理なのです。神が愛する人の前に屈伏すれば救いを受けるのであって、でなければ地獄に行くというのです。それでアブラハムを立てて、アブラハムの家庭からアブラハムと一つになれというのです。一つにならなければ怨讐です。アブラハムが割礼を受けて神の息子になったのであって、受けない人間は全部が怨讐です。 モ-セ時代には、モ-セの言葉に絶対服従しなければなりません。優れても劣っても、モ-セにすべてが服従しなければなりません。接ぎ木するには心情が同じでなければならず、事情が同じであり、本質的な所望が同じでなければなりません。モ-セが死ねといえば死ぬという心、生きるなら生きるという心、何をやれと言えばやるという心、またはこんな心情をもって、事情を経て、所望の土台まで伸びて行ったなら、滅びることはなかったのです。ところがモ-セに反旗を掲げたイスラエル民族は、どうなったでしょうか? 四千年の間苦労して選んだイスラエル民族のまえに、イエスが来たのです。イエスは国家と民族を神のまえに、心情によって接ぎ木しようと来たのです。イスラエル民族を所望的な基準まで接ぎ木しておいたので、心情を通していって神の心情おく深く接ぎ木しようとしたのです。ところが事情も通じることなしに逝かれたのです。 人間は堕落して他の血を受けたので、偽オリブの木です。それでイエス様の骨髄のように応じて和し、あなたはわたしの血肉であるとされる、直系に因縁を結ぶ一人の息子が出てこなければなりません。であれば息子を立ててすべての人類は、この息子のまえに無条件に服従しなければなりません。真のオリブの木に接ぎ木されたなら、偽オリブの木は切り捨てなければなりません。 完全な木になるには、三つ以上のものがなければなりません。こんな立場のイエス様を中心とする三弟子、その中で誰かが劣っていて、彼らにみ言を語られなかったのですか?違います。時を見て心情の深い、天の悲劇を話そうとされたのですが、彼らがそこまでになっていないので話さなかったのです。それで’わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない(ヨハネ一六:一二)’と言われたのです。気の毒なイエス様です。神の生命、神の愛、神の全体理念を三弟子を通して現そうとされたのに、彼らが堪えられなかったのです。 ですからイスラエル民族は、主権のない民族になってしまったのです。これはイエス様を捕らえて殺した罪によるものです。もしもイスラエル民族がイエス様を万王の王として侍り、絶対従順であったなら、世界はきっと神が征服したのです。モ-セの後継者がカナン七族を打って降伏させたように、征服したのです。問題ないというのです。そのようになったら二千年間、選んだイスラエル民族が、イエスを信じる後代のキリスト教徒が、虐殺されたでしょうか? とんでもないことです。イエスを殺したので、報いを受けなければならないのです。自分の先祖の罪が、三、四代にまで及ぶというのですから、みな報いを受けなければなりません。これを四千年以内に蕩減しなければなりません。モ-セもエジプトで四代目に出たのです。すべての事は、天地の法度を中心に動いて行くのです。 このような歴史を経て今まで来たのですが、心情的に事情的に所望的に、神と接ぎ木された人間がこの地の上にいないのです。ですからアボジは歴史をおいて、一ぺんに息子として対することができないのです。なぜ? 堕落して落ちてしまったからです。本来の創造理念に、神が闘うということがどこにあるでしょうか? 神はこんな理念は立てなかったのです。だから僕たちをして闘わせるのです。人間が堕落して僕の立場に落ちたので、ここにおいて闘って勝って、事情を通じることができる息子の立場に引き上げるために、役事してこられたのです。折って接ぎ木しなければならないので、この心情を接ぎ木するためのものが、再臨役事なのです。’主よおいでください’という懇切な心情が、天上、地上を貫かなければなりません。このような心があれば、天の側になるのです。こんな一時に向かって、神は今まで役事されているのです。 11. 終わりの日に父のまえに立てる息子・娘 終わりの日とは、いかなる時か? 天が六千年の間、全力を注いできたこの地に向かって、一撃を加える時です。最大の誠精をつくすべき時です。息子と僕が共になる時です。息子と僕が同じ場で闘うのです。それのみならず、アボジまで力を合わせるのです。父と息子と僕が、いっぺんに出てくる時が、終わりの日です。アボジも出て、息子も出て、僕も出るので、天国生活を整える時です。神様は本来アダムとエバを子女として、天使長を僕として創られました。アボジを中心に息子・娘と僕が平面的に立つことができる世界的な環境の時を、天は今まで求めて来られたのです。 それで終わりの日には’私はアブラハムだ’という人間も出るのです。皆さんがパゴタ公園のような所に行って、探って見てください。そこでどんなことを言うか。みな動機があることなのです。’私はパウルだ、私はイエスだ、私は神だ、私は何々だ’と叫んでいる人間が出るのです。これはなぜそうなるのか。僕と息子とアボジが出会う、世紀末的な時、総精算する時だからです。葉っぱと枝と幹が、一っぺんに接ぎ木されて生かされるということです。幹のアボジ、枝の息子、葉っぱの僕が一っぺんに現れるのです。世界の思潮はこのようになってゆくのです。心情を中心に接ぎ木された人々を、この世の中の主人公として立てるための事が、終わりの日の神の役事です。 今日世界を担う者は共産主義者でもなく、民主主義者でもありません。神の心情と事情と所願に一致して、接ぎ木されて生きる群れです。これが聖書の骨子です。歴史の最後の終着地は、こんな所として現れなければなりません。 今日まで、道人たちは踏みつけられてきました。ある時は上流階級が世に出、軍閥時代には中流階級が世に出ました。今の時は労働者と農民の時です。会社にも労組があって、労働者たちが巾をきかせています。みな世に出、成功してみたのですが、修道の道を行く人はひどく惨めに、上流階級の人間にも、中流階級の人間にも、下層階級の人間にまで、あれはイエスかぶれだと迫害ばかりされたのです。しかし神の心情と事情と希望に接ぎ木された息子・娘がいるなら、ここに消え去ることなく、彼らが天と地を支配するのです。道人たちが支配する時が来るのです。それでこそ公平な神様なのです。その一時を望み見て、神は永い歳月を準備して来られたのです。 こうして神様は、どうなさるのか? 僕を立て、息子・娘を立て、アボジとして彼らを懐に抱いて過ぎた日を思って歴史的な涙を流し、溢れる希望の心、切ない事情の心、寂しい心情をすべて解き放つのです。息子を抱き、娘を抱いて、僕を立てるその瞬間、初めて歴史を振り返ってハッハッハと笑うことのできる神の姿を、我々は慕わねばなりません。 サタンよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 悪党どもよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 公義の審判の前に追われて行くのだ。六千年の間一つになるための苦労された神を、終わりの日には一度、知ってあげなければなりません。六千年目に一度でも知ってあげる神様なのです。’あなたは私のアボジであり、私はあなたの息子・娘です。このように苦労されたアボジ、恐れ多いばかりです。私のためにこのように苦労されたことを知りました。昔に逝った先祖たち、アブラハム、モ-セ、イエス様が苦労したのも、私のためでした’と涙して、体ごと駆り立てる過程を経なければなりません。 ’私には心情の主人公に、侍ることができる心情がありません。これが恋しいのです。事情を抱いておられるその主人の事情を知らないので、どうしたら良いのですか。あなたはこれを好まれますか? あなたが好まれるものを持ってきました’としてみましたか?’アボジ、これを差し上げたいのです。アボジ、これを召し上がってください’という心がわいてこなければなりません。’あなたのみ旨が韓国の民を救うということですか?これが願いです。であるなら自分が死んでも、食べる物を食べなくても、この民族を救うアボジのまえに捧げます’としなければなりません。 世界人類のみならず、天上の数千万の霊人たちまで救援するために、我々は耐えるにも無限に耐え、事情を抱くにも無限に抱いてゆかねばなりません。心情を抱くにも無限に切ない心情を抱いてゆかねばなりません。心情をつくし、心をつくし、体をつくしてこの世界に向かって行く皆さんにならねばなりません。お父様がこのように求めておられることを知るとき、涙ながらに罪責感と恐れ多い心に染みるなら、審判の峠を越えることができるのです。 悔い改めで始まったキリスト教ですが、最高の罪人です。事情を知らず、み旨を知らず心情を知らなかった罪を、悔い改めなければなりません。勝利のその一日のために、六千年の間一つになるために闘って来たアボジと息子・娘の因縁を結び、あるいは僕の因縁を結ばなければなりません。そのようになれば’六千年の間積んできた摂理歴史を今、わたしの代身、あなたがたに任せる。すべてのものを、一挙に精算するのだ。首を切るなら切り、腹を裂くなら裂け’とされるのです。神が打つべきことを、我々が代身して打ち、すべてのことを代身して精算せよというのです。これが審判です。 心情を準備するキリスト教徒、事情を解決するために行く聖徒たち、その日の希望を満天下に伝えなければならないキリスト教徒なのです。今は心情をつくし、事情をつくし、み旨をつくさなければなりません。このような何かがあれば、一つになるために訪ねて来られるアボジのまえに出て、息子の認定を受け、娘の認定を受け、越えてゆくことができるということを、皆さんはよくよく知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.18
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「天は心情によって侍る者の場」 1960年2月14日(日)前本部教会 今日は「天は心情によって侍る者の場」という題目でお話します。 1. 天国と堕落人間 天国という所は心情を通じてでなければ行けないことを、皆さんは知っています。天国は全体を主管する本然の国であり、本性の国であるというのです。その国はある事情をもってしては、所有することができないのです。深く染みる心情の因縁をもってこそ、所有することができる国なのです。ですからキリスト教は究極的に、事情を通した教会ではなく、心情を通した教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をうたうことのできる基盤を築く時、地に対して摂理される天の目的があったのです。 堕落が何であるか。神の事情を言わなかったことではなく、心情を言わなかったことが堕落なのです。堕落した人間を捜し求める神は、失った息子娘を求める心情を持っておられますが、その心情を分かちあう人間がいませんので、その人間を捜し立てる役事をされますが、これが救援歴史であり、その人々を捜し立てるために送られた方が救い主であることを、皆さんはよくよく知らなければなりません。 我々は天国を所望する前に、神の心情を願わなければならず、また神の心情を願う前にわが一身はどのように生きるべきかを、考えなければなりません。皆さん自身はまず、侍る心情を持たなければなりません。高く尊いものに対しては、頭を下げて慕うことが人間の本性なのです。人間は堕落しているとはいえ、高く尊い天の心情に対して、侍りたいということが、我々の造られた人間としての本然の心情なのです。ですから心情が通じる侍る生活をしてみない者は、天国とは何らの関係もないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 ところで侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経たのちに、侍る生活が必要になります。侍るための準備の過程を経て、侍る生活をなしたのちに行くところが天国なのです。心情により侍った者が行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を賛揚して、高く現れる世界が天国なのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。我々はこのような目的の世界に向かって行く過程を経なければならない運命があるのです。 堕落の血統を受けて生まれてのち、今日まで全世界の人類が心情を尽くして天に侍る一日があったか。ないのです。堕落しなかった我々の先祖、アダムとエバは創造理念を通じて誇り、心情の因縁を立てて神様に侍ってみる時間がなかったのです。 神の恨が何であるか。心情を中心として、神様に侍らなければならないない人間が、侍ることのない立場に落ちてしまったことであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られなかったことです。信じる者がいないことが恨ではありません。心情を通じて神に侍り、心情を通じて神に対する人間がいないことが、天と地の恨であることを皆さんはよくよく知らねばなりません。 堕落した人間は捜し求めているのです。何を捜しているのでしょう? 天を捜し求めているのです。しかしながら心に染みる喜びを感じ、そこが永遠に自分が住む天であり、わが心情が永遠にとどまることのできる地であり、自分の生活舞台だと誇ることのできる天と地を求めた人間が、歴史路程においていましたか? 一人もいないのです。 2. 子羊の婚姻を通して見る神と人類の所望 我々が信じている救世主イエスも、この地上に来られ、心情を通じることのできる環境で、神様に侍ってはみなかったのです。全ての万物は、神の息子娘の心情の喜びを感じて和動する場で、主人と共に心情の因縁を持つために造られたのです。しかし人間の堕落により、そんな場で因縁を結べなかったのです。このような地上に心情を通じることにできる環境を造るために来られたメシヤも、心情の基台を得て、天に侍る生活をすることなく行かれたという事実を、我々は知らねばなりません。 イエスが言われるに、ご自身は新郎であり、我々に対しては新婦であるとされました。また、神様は父であり、我々は子女であるとされました。心情の因縁の基台とは何であるか。父子の因縁であり、夫婦の因縁であります。またこれを基盤として結ばれた兄弟の因縁、同胞の因縁であります。 それでは天地万物を造られた神様のまえに、世界人類はどんな存在を立てなければならないのでしょうか。復帰摂理をされてこられた神は、この地上にどんな人間を立てなければならないのでしょうか。心情の因縁を得て横的には世界に通じ、縦的には神に通じ、横的には現実に通じ、縦的には過去と未来に通じる心情の基台を成して、その中において真の息子・娘、真の新郎・新婦を立てなければなりません。このようにして天は、心情が連結された場において、神様に侍る息子娘、一つの家庭を慕っておられることを我々は知らねばなりません。 イエスは終わりの日が、喜びの日であると同時に悲しみの日となるであろうと予告されました。心情が通じる人間には、喜びの贈り物を受ける日であり、心情が通じない人間には、悲しみの贈り物を受けなければならない日であるというのです。 イエスは来られるに、新郎として来ようとしました。子羊の婚姻は、新郎・新婦が相逢うことを言うのです。神の摂理は、この一日のために始まったのです。摂理のみ旨に従う信徒たちもまた、この一日を願って闘ってきたのです。摂理の目的、摂理のみ旨に従い、信仰生活をしてきたただ一つの目的は、何であるか。新郎・新婦の因縁が結ばれるその一時、天と人間、そして人間と万物の間に切れていた因縁が、神の心情に対することのできる息子娘を中心として、再び結ばれるこの瞬間を迎えるためであることを我々は知らねばなりません。 我々は侍ることを苦待してきました。誰に侍ることを願うのか。来られる主に侍り、さらにその主が侍るアボジに侍って生きることを願うのです。これが我々人類の所望なのです。救援ということも、この基準に通じなかったらダメなのです。 3. 新郎に侍るための準備と礼物 ですからこれまでの歴史は、主様に侍るその一日のための、準備をする歴史なのです。来られる主様を慕うことも、侍ることのできる内容を知るための準備であり、慕わしい天のみ旨を知って、そのお方と共に生活できるその日のための準備であることを知らねばなりません。 キリスト教は今まで、2千年の間、準備して来ました。新婦として、侍る生活をするための準備をしてきたのです。それでは準備をするといって、どんな準備をしてきたのでしょう。み言の準備でもなく、信仰の準備でもなく、生活の準備でもないのです。心情を通じることのできる準備をしなければならないのです。 新婦を慕って2千年の間、求めて来た新郎の心情を、皆さんは知らねばなりません。私一人を新婦として迎えるための天の慕う心、私一人を立て、新婦としてつくるための天の苦労と滲む心がどれほど大きいか、皆さん、感じてみましたか? 外観は見すぼらしく微々たる存在であっても、天は思慕し、慕わしいのです。うわべではなく真心から、形式ではなく真情から、ある方式ではなく真なる心情をもって、我々を慕ってこられたのです。ですから今日まで、摂理歴史路程は慕わしい心情によって連結されてきたことを、我々は知らねばなりません。 我々が新郎に侍るための準備をする前に、天は何千回、何万回、その準備をされたことを我々は知らねばなりません。我々が準備する前に、まず天が我々のために準備されたのです。今日、新郎を迎えようとする皆さんは、身に染みる心で準備する自身であるか、自ら反省しなければならないのです。慕わしい主様、心情に染みるほど慕わしい主様に侍ることのできる、その一日のために準備する我々の態度、今日のキリスト教信者たちの態度は、どのようでなければならないかということを、皆さんは考えてみなければならないのです。 主様に出会いたいという心が強ければ強いほど、天に対する慕わしい染みるような心情が強ければ強いほど、皆さんは上を見やって来られる主に出会うことを願うよりも、後ろを振り返って、来られるために闘い、我々を準備させて来られた主の為に泣くことを知る人間にならなければなりません。私一人を捜し立てるために、苦労してあえぎ来られた6千年、サタンと闘われた6千年、傷もなく善なる天が、凶悪なるサタンの讒訴を受けてきた6千年、傷もなく善なるその体に、サタンの矢を受けてきた6千年、どの時代どの時期にも、天は悲しみに会わなかった日はなかったのです。このような悲しみの心情を抱き、抱いて来られても、天は何ほどでもない我々を、心情で和することのできる姿の勇士として立てるために捜し求め、慕い来られたことを皆さんは感じなければなりません。 このような天のまえに出て行くために、皆さんが準備した礼物が何でしょうか? 6千年の間、摂理されて残ったキリスト教信者たちが準備した礼物が何ですか? 何を持ってきましたか? 天は苦待されて来ました。世のどんな値打ちのある金銀財宝や、真珠を欲しておられるのではなく、心情、心情、心情に染まり、全てのものを抱いて愛し、天と共に生活する人間を求めて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。 こんな心情に染みて準備した自身になっているとするなら、皆さんの目と耳と口と体はどうでなけばならないのか。心情を通して見て、心情を通して聞き、心情を通して語り、心情を通して行動しなければならないのです。心情を通した因縁を得て生きなければならないのです。心情が通じる目をもって、主様と共に見て侍ることができるその一時、心情が通じる耳をもって、主様と共に楽しむことができるその一時、心情を通じて語り、心情を通じて行動して生きるその一時を、天は慕いつつ6千年の間、捜し求めて来られたのです。 皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と心情の因縁を持っていますか? この目は見るに心情による因縁をもって万物を見なければならず、この耳は聞くに心情による因縁をもって叫ぶ声を聞かなければならず、この口は心情が通じる言葉を発しなければならず、この体は心情が通じるところの生活をしなければならないのですが、いまだ侍る場に入る前の準備過程にいる我々なのです。それゆえ皆さんが得ている心情的な準備は、どの程度かということを考えざるを得ないのです。 天は願っておられます。心情が通じる一つのみ手に、万物が慰撫されることを願っておられるのです。心情が通じる子女によって、全ての息子娘が抱かれることを望んでおられるのです。心情が通じるところの新婦たちによって、神の主管が成されることを苦待されておられるのです。心情が通じる息子娘たちのまえに、この世界が主管されることを苦待されておられるのです。これを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、えらいことなのです。 このような神の所願が、わが一身のみならず、世界と天宙まで連結されていることを考える時、私は主のものであり、アボジのものであることを否定できないのです。ですからわが心もアボジのものであり、わが心情もアボジのものであり、私の意識と直観と感覚器官一切までもアボジのものであり、自分が感じ意識する全体が心情を通じるところのアボジのものであるという観が、決定ずけられなければならないのです。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有できないことを、よくよく知らねばなりません。 これらを考える時、皆さん、我々は恋い慕わなければなりません。我々は捜しまわらなければなりません。我々はこんな事実を知って、全力を尽くして天の所願を成すために訴えなければならないのです。死の道がどんなに恐ろしくとも、笑って越える強烈なる心情をもってゆくなら、信念をもって屈伏させる自体とならなければならないのです。 4. イエスの事情と心情と恨 イエス様が死の峠を越えることができた力は、どこから来たのか。その力の中心は、何であったのか。それはただ一つ、心情であったことを皆さんは知らねばなりません。4千年の間、準備してきた心情の歴史を受け継いだイエスは、30余年の人生の間「恨多き4千年の歴史よ過ぎ去れ、神に侍ることのできる所望の一日よ来い」と心中から、心中から叫んで生きたのです。彼はまた、求めさまよいました。4千年の間、心情をつくして準備された新婦を求めてさまよったのです。 イスラエル選民を立てられた天の悲しみは、何であったのか。教団がないことではありません。パリサイ教とサドカイ教がないことではありません。(録音中断)哀れなイエスのために、4千年の間準備した新婦はどこ行ったのか? いなかったのです。いないのです。人類の歴史的な悲しみは、ここから始まったのです。イエスには心情を通じることのできる新婦がいないのです。汗を流しても、その汗を拭うハンカチ一枚ぬってくれる新婦がなく、誰かがぬったハンカチで汗を拭い、着るものもイエスが誰であるかも知らないサタン世界の人々が作った着物を着たのであり、食べるものもサタン世界の聖別されていない婦人たちがつくったごはんを食べて暮らしたのです。住む所もないのです。無念なことです。憤りを覚える事実です。 イスラエル選民を立て、準備されたのは何のためであったのか。メシヤ、すなわち新郎たるイエスが来られる時、新婦を立てるためであったのです。ですから一枚のハンカチも一さじのごはんも、一枚の着物も、一つの部屋も、一杯の水も、全てが心情が通じなくてはイエスの前に出すこともできないにもかかわらず、イエスはこのような場に一時も居ることがないまま、この地上から亡くなられたのです。悲痛といって、これ以上の悲痛がどこにありましょうか。痛憤なることがあるといって、これ以上の痛憤なることがどこにありましょうか。 神の4千年の歴史がはずれた基準がどこからでしょうか。心情を通じるイエスの真の新婦がいなかったことから、はずれた歴史となったことを、皆さんは知らねばなりません。 私は一時、こんな祈祷をしました。「イエスがこの地に来られる時、私はそのお方に侍り、サタン世界の誰もが歩むことができなこを歩みたいのです」という祈祷をしたのです。サタン世界の人々が手で作ったものであって、心情が込められた種を植えて取り入れて作った着物を、心情の準備をした一枚の着物を、この地上のどこの誰が作ったでしょうか? 作ってはみなかったのです。そのようで福が受けられるでしょうか? イエスが主であるとして、4千年準備した主であるとして、ユダヤの神殿は心情が通じる神殿になっていなければなりません。その神殿はイエスのものであり、その民族はまたイエスのものであり、その民もイエスのものなのです。教会の何か祭司長、書記官のものではなくて、全てイエスのものなのです。ところが彼らが、イエスの怨讐になってしまったのです。こんな悲痛なる事実を、皆さんは知らねばなりません。今日、皆さんが侍っているイエスの行路には、このような曲折があったということを、はっきりと知らねばなりません。 来られたみ旨を果たせずして、心情の相対を慕い、恨を残したまま天と地の因縁を抱えて死んで往かれても祈祷されたイエスの心を、誰が知っていたか。悔しい曲折を抱えたまま、死の峠を越えて復活されましたが、その曲折を知る者はいなかったのです。知っている人間がいないのに、どのように解くのでしょう。解こうにも解けないのです。人間に対して結んだ曲折を、人間が知らないので、解こうにも解くことができないのです。こんな心情をもって復活されましたので、マクダラのマリヤが復活したイエスの前で「主よ!」とすがりつこうとする時、触ってはならない、と遮られたのです。 イエスがこのように行かれ、2千年が経過した今日まで、彼の心情を知る者は誰か。 変貌山上の、彼の心情を知る者は誰か? 皆さん、真の牧者と偽りの牧者は、何によって判別されますか? 心情に染まった天の心心情に貫かれ、心情に染まった天倫の心情に貫かれた内容を持っていない者は、真の牧者ではないのです。 キリスト教は分散し、争っています。キリスト教はだんだん衰退しています。なぜ、そうなのでしょう? 心情が薄れているからです。人間がダメで、下らなくてそうなったのではないのです。優れていてもそうでなくても、知識があるかないかを問わず、持つべき心情を失ってしまったからであることを、皆さんは知らねばなりません。主様は心情の行路を経て来られ、今来られる時も心情の行路に従って来られるということを、皆さんは知らねばなりません。 5. 天が求めて来られたことと新婦の道 それでは来られる主に侍るための準備過程において、6千年の間、信仰生活をしている数多くの人類は、どんな道を築かなければならないか。どんなに億千万円を積んだとしても、天はこれを取られないのです。どんなに豪華絢爛たる文化を築いたとしても、天はこれをそのまま取られないのです。人間がある金力をもって「これが天のものだ」としても天はこれを取ることができないのです。天は何から得ようとされるのか。天はどんな物質からも、得ようとはされないのです。天が得たいとされるのは、心情なのです。心情の主導的な権限であり、生命の源泉であるのです。違いますか? 天は何を捜し求めるために、さまよい悶えて来られたのですか。お金を求めるために?人間を捜すために? とんでもない話です。準備された心情の持ち主を捜すために、心情を通じて侍るために準備された者を求めるために、天は6千年の間、身もだえてこられたことを、皆さんは知らねばなりません。 新婦が何でしょうか? 新婦は新郎のために、新郎が考える一切を備えた一人の完全な対象として現れる人間をいうのです。その新婦は実体として、体と心がなければならず、そこに対応する環境が造られていなければなりません。それゆえ新婦は、自分に属していることも、自分のものということができないのです。自分のものだと心のままに処分できないのです。今このような路程にあるキリスト教の思想は、新郎・新婦の思想をいうのです。新郎に侍るために準備された処女のように、もてる誠精を尽くして、またその体に染みる情熱の血と共に煮えたつ時に、初めてその新婦となることができるのです。また、一番目であり最後だという立場で求めてゆくのが、新婦が行く道なのです。 その心情のまえには、新婦の全てのものが支配されるのです。ですからその心情を明らかにしてゆく時は、自分の所有も自身のものではないのです。その場にゆくためには、自身が尊重され、自身が尊く思うほどに準備をしなければなりません。一時、一時間といえど、そのお方に侍るために万般の準備が必要なのです。 今日、信仰する全世界キリスト教徒は、目を覚まさなければならない時が来たのです。 心情を通じて侍るための準備過程にある新婦として、ユダヤ教徒たちは何を準備したのか。もしもイエス様当時に、イスラエル民族の中にこのような心情を知って準備した者がいたならば、イエスを飼い葉桶に寝かせることもなかったのです。知ってみれば、悔しくも悲痛なことです。救世主が、30余年の大工生活とはどうしたことでしょうか? 天の息子であると証しした東方の博士はどこに行ったのか。洗礼ヨハネの家庭はどこに行ったか。アンナはどこに行って、マリヤとヨセフがどこに行って、天の息子イエスが乞食の中の乞食の王になったというのですか? このお方のために、このお方の安息地のために、このお方の平和のために、血を流す場に行く恨があったとしても責任を負うように彼らを選び立てられて、息子を送られた天のみ旨を、どこの誰も理解できなかったのです。証しをした者が、全て失敗してしまったのです。そのようにすることが、神の所願であるはずがないのです。 もしも東方の博士がイエス様に侍ったなら、彼らはイエス様の弟子になったのです。「あなた様は尊い体ですから、あなた様の生活的なことは私が責任を持ちます。地上の悲しいことは、全て私が責任を持ちます。お金がなくて心配されるなら、これも私が責任を持ち、生活に必要な全てのものは私が責任を持ちます」という人間がいますか? ヨセフとマリヤもイエスを疑い、イエスの弟たちも嘲笑ったのです。兄さんに会ってどうしてここにいるかと、エルサレムに上ってきた弟たちまで嘲笑ったのです。(ヨハネ7:3-5)これはどうしたことでしょうか? ここに集まった皆さん、我々はイエスの時代を思って泣くことを知らねばなりません。いや、イエスを地上に送る前に血と汗と涙を流して苦労された神様を思えば、泣かずにはおれません。さらにはアダムとエバに望みをかけたが、真にその苦痛を受けられた神様、堕落したアダムとエバを眺めるしかない切ない神様の心情を思って泣かねばなりません。 神様がこの世界を創造するために苦労された時代から、アダムとエバが堕落した後の4千年の間、悲しみの峠また峠、イエス様の30余年の悲しみの峠また峠、イエス様以後に聖霊が降臨してからの2千年間の悲しみの峠また峠を代身して涙を流し「先祖たちの不忠を許して下さり、先祖たちの不足を許して下さり、先祖たちの罪悪を許して下さい」ということのできる姿、「我々の先祖たちは来られたお方をこのように扱いましたが、私は絶対にこのようには扱いません」といって食べる物も食べず、着る物も着ないで、自分一身はどんな損害と被害をものともせずに身悶えする一つの姿、一つの群れが地上に現れることを、私は願っているのです。 このような者がいるとすれば、神様が抱えて慟哭されるのです。イエスも抱えて慟哭されるのです。聖霊も抱えて慟哭されるのです。三位神はむろんのこと、今まで往かれた歴代の先知先烈たちも彼を抱えて慟哭するのです。ところでこの地上に涙で証しされた者がいるか。この地上において神様の涙をもって証しすることのできる、天の心情を代身した姿をもった者がいるか。神様が、イエスが、あるいは聖霊が、心情の準備をなした者であると、涙で証しする人間がいるか。歴史的な先祖たちが「我々もできなかったことを、その時彼らはやった」と涙を流すほどに準備した人間がいたか。いないとしたなら、滅びねばなりません。滅びねばならないのです。必ず滅びなければならないというのです。 歴史を支配するのは、ある文化ではありません。ある思想でもありません。思想を動かされる天と共に動くことのできる心情の基準が立たない限り、歴史は方向をもって行くことはできないのです。人間はこれが分からないのです。 最後に人類のまえに残るものがある文明でもなく、ある形式的な宗教団体でもなく、自身の主観的なある主義を主張する人間でもありません。言葉で説明することができない心情を通したことだけが残るのです。 心情こそは、万宇宙と取り替えることもできないのです。議論に先立ち、このような感情を感じることのできる人格の主人公がこの地上に現れれば、地上は収拾されるのです。こんな使命者として来られるお方が、再臨主なのです。 6. 最後に人類のまえに残るものが何か 皆さん、我々は再びいま一度、考えてみなければなりません。いつ涙がにじむ心情でハンカチ一枚作ってみましたか? ここにいる婦人たち、作ってみましたか? 針を持って「この針が真の心情に通じる聖徒のみ手を経ていたら良いのに。悲痛なことだ」として、「アボジよ、私に針を作る技術があれば、私の手によって真心のこもった針を作ってハンカチを作ったら良いのにそうはできないので、作られた針でも心情を尽くしてハンカチを作ります。お受け下さい」とその針に糸を通してひと針ひと針すすむごとに、心情がにじむ中に「この針の動きに歴史的な婦人たちの怨恨が解かれますように、新郎たるイエスの慕う心が解怨されますように」としてみましたか? 世の中では百年も共に生きられない自分の新郎のために、いろいろ尽くすのです。あらゆることをやるのです。新郎だから何だからというのです。笑いごとではありません。 それでは新婦として準備する者とは、どんな者ですか? 彼がおかれている環境がたとえ限られた環境であり、その体は一個体であるとしても、彼がとどまる環境は世界が連なり、天と地が連なっているのであり彼が立っている場は神様を代身した立場であり、イエスを代身した立場であることを知らねばなりません。こんな心情に染まり「主が来られる時、私は差し上げる物もありません。持っている物もないのです。準備する何物もないこの不肖なる体は、心情がにじむ一片のハンカチなど、主に代わる新郎の前に差し上げたいのです」としたならば、全てをあげることよりも、さらに天地が喜ばれることを皆さんは知らねばなりません。こんな人間を、天は求めておられるのです。 新婦とは、どのような新婦でなけばなりませんか? 豪華絢爛たる主の栄光を願う新婦ではなく、主によって天国に行こうという新婦でもなく、「私が地獄で善の足場になりますから、私を足場にしてこの地上に天国の心情を与えて下さい」という新婦、このような新婦が必要なのです。 このように見る時、全世界キリスト教徒は地獄に行かなければなりません。天国とは何の天国、地獄に行かなければなりませんよ。 皆さんたち、我々は礼物を捧げなければなりません。馬小屋に生まれた哀れなイエスのまえにも、参席した東方の三博士が、黄金と乳香と没薬を礼物としたように、皆さんは来られる新郎のまえに捧げる何かの礼物を持っていますか?「お父様! 私には何にもありません。差し上げたい心は切実なのですが、捧げたい心は懇切なのですが、何にもないのです。それで私が食べる一椀のごはんでも、私が食べる前にまず差し上げます。一枚のみすぼらしい着物であっても、私が着る前にまず着て下さい。穴蔵住まいではありますが、私が住む前にまず、お住まい下さい」と言うことのできる心情のみを、天は必要とされるのです。このような心情で見やる物質は、億千万の価値に代わるのであり、この心情で慕う世界は、本然の世界に代わるのであり、この心情で慕う時、主様はその場に現れるのです。 皆さんの中に、私は今まで十数年の間イエスを信じてきたので、他の者は皆な地獄に行っても、私はきっと天国に行って救援を受けるだろうと自任する人はいますか? いるならば、そうする前に彼はまず悲しまなければなりません。主様の心情を知らないことを、悲しまなければなりません。心情を通じてこそ、侍るべき主様がこの地上の来られても、その主様が留まる環境がないということを、悲しまなければなりません。主様のまえに差し上げる物を持っていないことを、悲しまなければなりません。目にする万象全体が悲しみの象徴物となって、悲しからざる物がないゆえに、我々はそんな立場に立っていないのです。 しかし神様を心配する心が先だっていますので、主をこれをご覧になり、その心情のまえに世界を失い、地を失う恨があったとしても、おまえだけは失うことができないと探されたことを、よくよく知らねばなりません。そんな人間は天が引っくり返っても、おまえだけはサタン世界に二人といないとして探されたのです。主の再臨が2千年も延長されたのは、歴史路程にこんな一人の人間がいなかったからです。 皆さん! 我々は心から泣かなければなりません。心情から泣かなければなりません。後ろを見ても涙であり、前を見ても涙であり、左右を見ても涙であり、上下を見ても涙なのです。罪ある自身のために苦労された神様を考えて、自分が体の中にあるのか体の外にあるのか分からないくらい、自分の存在意識を失う立場で食べることを忘れ、着ることを忘れ、威信と境遇を忘れ、天のまえに恐れ多くも伏して慟哭する時があってこそであります。これが新婦の路程に入っての初段階であることを、皆さんは知らねばなりません。このような心に染まり、このような心情と一体になった信仰の衝撃を受けない者は、来られる主様と何らの関係もないのです。 7. 主様のまえに新婦たる者の生活態度 我々は振り返って、涙あふれる道を行かねばなりません。この地上の救い主であり、天の皇太子であるイエス、万王の王であるイエスはこの地上に来られ、このような道を行かれました。4千年の間、準備された新婦の基台はどこへ行ったのでしょう。新婦と共に幸福の歌をうたい、万宇宙を和動させ、天の栄光を歌わなければならないイエスが、苦しみの十字架を背負って死に往かれたことを見られ、嘆かれる天の悔しさを我々は知らねばなりません。彼はその道を行かれ、食べることを着ることもならず、父なし子として兄弟からお兄さんとも呼ばれず、近所、親戚から後ろ指をさされたのです。思いは同じであり、恵まれた生活環境を慕う心情は同じですから、彼の悲しみは誰よりも深く、苦痛もまた誰よりも多く感じたのです。教会から追われ、祭司長からも追われたイエスが、カンラン山の麓を通るたびに涙が前を覆ったことを、皆さんは知らねばなりません。 このように哀れなイエスであったことを、皆さんは知らねばなりません。30余年の人生の路程を行かれたイエスの哀れな姿に比べれば、皆さんの環境はどれほどか素晴らしいのです。皆さんはどれほどか、多くのものを持っているでしょう。皆さんは悔しければその悔しさを表すことができ、喜べばその喜びを表現することができるのです。しかし虚飾と外飾を知らぬイエスは、悔しい事情を一度も表すことがなかったのです。これが悲しみの中の悲しみなのです。いつ喜びの表情をしてみたでしょうか。してみなかったことを、皆さんは知らねばなりません。 今、皆さんはごはんを食べる時も、新郎に代わって食べなければばりません。父母が愛する子女を他郷に送っておいて、一椀のごはんを食べる前にまず子女を思うのと同じく、皆さんは一椀のごはんをおいて「主よ、このような食卓を前にしてみましたか?」とするのであり、一枚の着物を着る時も「主よ、こんな着物を着てみましたか?」とするのであり、ある楽しい場を持った時にも「主よ、こんな場に行ってみましたか?」としなければならないのです。 皆さんが侍る新郎は、こんな環境にあったことがなかったので、新婦になろうとする者は、主様の生活的な感情に和して、深い心情の因縁を持つ覚悟をしなければなりません。これが問題です。こんな人間には指導者が必要ないのです。聖書も問題ではありません。聖書は手紙でしょう。心情的な人格者を育てるために残された手紙であることを、よくよく知らねばなりません。 我々は心情がゆく場で一つの物を見ても主様を考え、涙がにじむ心で、その物を使う前に「主よ」ごはんを食べる前にも「主よ!」、着物を着る前にも「主よ!」布団に入る前にも「主よ!」としなければならないのです。こんな新婦がいたとしたならば、新郎はその新婦を探し求めるのです。 天国はどんなところか? 準備したことを誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それではその天国はどんな者が行くところか。主を信じて福を受けるために、福をまえに立ててゆく者が行くところですか? 違いますよ。天国は侍るために、心情的に準備した生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活をして喜んでゆく者が行くところです。ここに復活があるのです。 侍るために準備をした後に、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためです。侍る生活をするためなのです。侍る生活は、どのようにするのですか? 皆さん、環境をふり返って見なさい。生活の内幕は現れてはいないのです。どのように生活するかということが、今我々が侍る生活において考えてみなければならない重大な問題なのです。 主に対する時は、どのように対するかという準備をしなければなりません。主に侍る準備の生活をしなければなりません。侍る時は、天上に行って侍るのではなく、この地上で侍る者にならなければなりません。皆さん、主様に侍ってみましたか? 主様の顔はどんなで、主様の体はどんなで、主様の鼻はどんなで、主様の笑った目はどんなで、主様の声はどんなで、話される主様の口はどんなで、主様の手と態度はどんなだか知ってる? 8. 心情の世界 心情を先だたせてゆくところには、人々を引きつける調和の法度があるのです。子女を慕う父母の心情は、距離と空間を超越して、子女の境遇がどうかということを認識できるのです。これは自然現象なので、超自然的に起きるのです。心情に染まればこのようになるのです。このような心情は天宙を包括しても残るのです。こんな心情にはイエスも引きつけられるのです。こんな心情に染まってみれば、関係がない主様のようであっても関係あるものとなり、因縁がないような主様が、因縁を持って現れることを皆さんは知らねばなりません。とすれば主に出会う時に、主がどのようになされるのか、分かるのではありませんか? ですから準備していって、侍る生活はこれこのようだと、知らねばならないのです。 今日、新郎が新婦を捜し求めるための、書簡体として書かれた聖書のみ言は、暗号が多いのです。なぜ、暗号で語られるのか? 心情の神様であるからです。聖書は誰も解けないのです。解けませんよ。新郎・新婦だけが解けるのです。心情を通して侍る準備をした者だけが解けるのであって、そうではない人間には解けないのです。ここにある暗号の全体が、何でしょう? 新郎が来ることができる門を開く秘訣であって、その秘訣が何か。心情なのです。父母の心情は幼子を抱え、乳を飲ませた時でも、その子が頭に白髪をいただく時になっても同じなのです。その心情には、違いがないのです。 ですから我々は聖書にひそむ全ての心情の根源を明らかにしなければならないのです。これを知る時には、博学者が必要ではなくなります。彼らがどんなに解釈しても、学説は過ぎ去り、終わったのです。心情は論理で支配できないのです。理論では体恤することができません。体系によって方向をつかむことはできないのです。なぜ? 心情は天倫と共に、自然と共に流れているからです。 聖書など勉強しなくても、知ることができ、感じることができる心情の流れと感じを得て解釈するまでは、分からないのです。博学者が主張する現代の神学思潮も過ぎ去りました。しかし心情の世界は、過ぎ去る法がないのです。これがいわゆるアルパとオメガ、すなわち最初と最後であり、初めと終わりなのです。 心情には過ぎ去る条件がないというのです。心情があるところには、主様も過ぎ去れません。神様も過ぎ去れません。聖霊も過ぎ去れません。歴史的な哲人も過ぎ去れないというのです。ですからこのような心情的な因縁をもった民族であるほど、滅びないというのです。滅びないのです。民族精神が、国のための心情の線に近く染みるほど、その国は滅びないのです。これが分裂して分散する時には、天倫が過ぎ去って滅びるのです。 一片丹心の動機となるものが、心情なのです。一片丹心、これは結果なのです。一片丹心という名詞を立てる前に心情、この心情をもつ者であるなら、彼が天と離れた地上にあったとしても、天国にいるというのです。不幸な立場におかれているようであっても、幸福な立場にいるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 我々がこんな心情を持つ過程にいるとして、どうしなければならないでしょうか? 皆さんがアブラハムの前に出てゆく時「アブラハムよ、おまえはこれこれをせよ」と言える資格者にならなければなりません。本人はあの世のアブラハムに直接命令もするのです。モ-セに命令もするのです。12使徒にも命令するのです。心情世界において反応するなら、4先年前のアブラハムをこの心情世界に追い込み、命令するというのです。モ-セもそうであり、使徒たちもやはり同じだというのです。 使徒がどんなに素晴らしいとしても、彼らはお使いなのです。使徒に対して、新婦であるとすることはできません。使徒と新婦、どっちが高いでしょうか。新婦が高いのです。使徒が新婦の前に、頭を下げなければなりません。 9. 天国は心情で侍る生活をする者が行く所 歴史上の使徒パウロ! もちろん素晴らしいです。しかし今日では、この使徒パウロまでも「どりゃ!」と言える、新婦の心情に通じる一人の人格者が来なければなりません。地上において過去に往かれた人々に対して命令することができ、地上において心情の因縁を持った者を支配することができ、未来に心情の因縁を立てられる資格者ならば、堂々と新婦となるに不足がないのです。我々は地上においてこのようなクリスチャン、このような神の息子娘に出会わなければなりません。 アブラハムの心情を語れば、アブラハムの心情を感じることができ、モ-セの心情を語れば、モ-セの心情を知ることができ、イエスの心情を語れば、イエスの心情を知ることができ、神様の心情を語れば、時代的な神様の心情を反映して感じることを知る一人の姿がこの地上に現れない限り、主様の再臨は不可能なのです。不可能ですよ。 主様がこの地上に来られる目的は何であるか? 地上に天国を成すためです。天国はどんな所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所であって、侍るための準備と侍る生活を、満宇宙に永遠に誇ることのできる世界が天国なのです。 天国に行ったなら、何をするのか知っていますか? そこが遊びに行く所でしょうか。とんでもありません。遊びに行くなら、遊びに行く過去の準備と条件と、生活的な条件がなければなりません。ところがこれが何にも分からないで、福を受けようと祈祷ばかりしています。神霊なる人々が、骨の折れる主な原因がここにあるのです。どんなに恩恵を受けようとする人も、7年を越えるので骨が折れるのです。無条件に福を受けようとするのは、真の信仰ではありません。 皆さんはこのような立場に行くなら、どのようにしなければならないか。今日この地上にいる27億人類は、6千年の間に広がったアダムの後孫です。ですから皆さんにはこの27億の人類を抱え、慟哭することのできる心の基準が立っていなければなりません。でなかったら皆さんは、この世界と絶対に因縁を持てないのです。哀れな乞食を見て胸が痛んで耐えられず、着る物もない人を見て自分がちゃんと着ていることに耐えられず、食べられないことを見れば自分も食べず、自分一身だけが平安な立場におれないという心を、皆さんは持たなければなりません。 10. 心情の主人公にならなければならない我々 現在の人類の心情は、6千年の歴史の反映です。ですから時代的な義憤を抱き、心を高めて慟哭する生活過程を経て、歴史的な心情に相対する動機を求めているのです。 聖書には詳しくは書かれていませんが、イエスはイスラエル民族を見やり、多くの涙を流したのです。哀れなイスラエル民族、その中においても苦痛を受けている彼らを哀れに思ったのです。これを条件にして世界万民まで哀れに思ったイエスだったのです。天はこういう人を立てて役事されるのです。 モ-セも怨讐を哀れに思う心よりも、サタン圏内にいるイスラエル民族を哀れに思う心が強かったので、怨讐のまえに打たれているイスラエル人の味方をして、エジプト人を打ち殺したのです。憎くて打ったのではなく、イスラエルを愛する心が先に立ったのです。モ-セはイスラエルを愛する心が、エジプトを憎む心よりも上になる基準で打ったので、引っ掛からないのです。天は愛する心が先に立ったある行動をしたとしても、天はこれを罪とはされないのです。ある人間を殺しても、心情が先に立っていたなら天法に引っ掛からないのです。サタンも讒訴できないのです。 エジプトからカナンの福地への復帰路程において、イスラエル民族は40年の荒野流浪をして残った群れがカナンの地に入る時、神様は彼らにカナン7族を全て殺せと言われました。掃討せよと言われたでしょう。こんな神様なのです。神が約束したカナンの地を愛し、神に侍りたいという心が強く、神のまえに出て行く道を塞いで反対する群れを打つなら、滅びなかったのです。審判することのできる資格者は、このような者なのです。神はこのような者を苦待されているのです。 終末が来たことを我々は知っています。今は終末であると言っています。であればこの終末に残ることのできる群れ、審判することのできる群れはどんな群れか、当然、心情の主人公です。 天の怨讐であり、6千年、我々の先祖を蹂躪してきたサタン。彼らに対して神はどれほど憤り、どれほど悔しかったでしょうか? こみあげる身にしみる心情を中心に、「許せない」と打つ時、サタンも「その通りだ」と言うのです。こんな心情を持ってみない者は公義の法度のまえに立つことができないのです。 我々が追われる場において、抱えて行かなければならないものはただ一つです。家庭から迫害され、兄弟から追われ、国から追われても、失ってはならないただ一つが、心情です。歴史が忘れてしまった心情、時代が忘れてしまった心情、地が忘れてしまった心情が天の心情なのです。この心情が立てられる日、天とこの世が分けられるのです。この心情を抱えて喜ぶ日、この世に悲しみと苦痛が終わるのです。この心情を抱えて「お父様!」「息子よ!」という日、この心情を抱えて「新郎よ!」「新婦よ!」という日には、この世に天国の門が開くのです。ここから永世極楽の世界が建設されるということを、我々はよくよく知らねばなりません。 天国という所は、心情を通じて侍る者たちが入る所であり、心情を中心とした侍る生活を通じて、サタンを打って越える者が入る所であることを、よくよく知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.17
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新しい日一九六〇年二月七日(日)前本部教会 この時間、しばらくお話するみ言の題目は「新しい日」です。「新しい日」という題目で、しばらくの間お話します。 1. アダムとエバに対する神の所望 神様が天地万物を創る瞬間は、新しい瞬間だったのです。創られた万物も、新しい万物でした。創る瞬間もそうですが、創られた万物も新しいものであると同時に、新しいものを望み見る神の心も、新しい心であったことを、皆さんは悟らねばなりません。 新しい万物を創るそのエデン、新しい万物と共に永遠の楽園を享受すべき主人公アダムとエバ、そのアダムとエバを立てておかれ、新しい心情的な理念を抱いて望み見る神様、この神にはいかなる瞬間いかなる一時も、貴からざる時はなかったのです。アダムとエバが挙動するその瞬間々々は、言葉にもならない深刻な瞬間であり、口にも言えない貴い因縁の時であったことを、我々はこの時間に再び回想してみなければなりません。 成長するアダムとエバは日がたつにつれ、理知と知能が明るくなり、神の本性を代身するに不足がなかったのです。彼らは神によって創られた新しい世界に対して、神の心情を代身して見ることができ、聞くことができ、触れることのできる資格者であることに間違いなかったのです。 神はアダムとエバを見つめ、彼らの動きが神自身の動きとなり、彼らが言う言葉が神自身の言葉となり、また彼らが聞き、見て感じるすべてのものが、神自身が聞いて見て感じるものになることを願ったのです。このような関係と因縁圏内にあるアダムとエバは、神が心から慕う、神の全体を代身した存在であることに間違いないことを、皆さんは知っています。 アダムとエバのために創られた万物を抱いて神は、アダムとエバを立ててどんな一日を待ち焦がれ、慕っておられたのか? 六日目までに万物の創造を終え、アダムとエバを完成した姿に創造しなかったときには、きっとアダムとエバと神との間には、何かが残っているのです。神が望んだことは、創っておいた状態のアダムとエバでもなく、彼らが成長した姿を望み見るその期間でもなく、アダムとエバを通して求め成そうとされる一日があることを知らねばなりません。この一日を迎えるその瞬間、神も喜ばれるのであり、アダムとエバも喜び、万物も喜び、万物もその日を苦待し、人間もその日を苦待し、神もその日を待ち焦がれているに違いないのです。 その日こそは万象が喜ぶ日であり、その日こそは神が創造の歴史を終えて喜び、最高の笑いを笑う日であり、最高の踊りを踊る日であり、天地が生まれて初めて最高の自由と幸福にひたり、万象が引っくり返って和動する日なのです。ところがこんな日、こんな一時こんな瞬間は、神の心中に望みの時、望みの瞬間としてはりついたまま、今日まで未完の理想として残っているのです。このように神は悔しい場におられるという事実を、我々は知らねばなりません。 どうしてこのようになったのでしょうか? 堕落という悲しい場面に落ちてこのようになったことを、我々は肝に銘じなければなりません。堕落! この堕落ということが、新しい万物も天が立てた法度から絶たれ、新しい人間も神の法度から絶たれ、新しい天地もその法度から絶たれ、新しい神の理念から絶たれてしまった事実を、我々は悲しく思わねばなりません。堕落の因縁を結んできた歴史、堕落の血統を受けている私なのです。これを本然の新しい園のアダムとして、新しい園の万物として、新しい園の神として創るためには、どう処理するのか? これが神の苦喪であり、人類の苦喪であり、歴史の苦喪であり、万物の苦喪であることを、我々は知らねばなりません。 2. 人間の堕落と、新しい一日を迎えるための歴史 神が堕落した人類を捨てることができない因縁を持っていることを、皆さんはよく知っています。永遠の因縁を中心に人間を創った原理的な内容があるゆえに、神は堕落した人類を捨てようにも捨てられないまま、この日この時まで抱えて来られたのです。 人々は俗に、人間は万物の霊長だと言っています。すべての万物は人間のためにあり、この世界も人間のものだと言っているのです。しかし今日人間が、新しい何かを持っていると誇っていても、いくら人間的な権限を誇ったとしても、これは堕落世界の僕の身の上を免れない場であるということを知らねばなりません。 言い換えれば、堕落人間は神が創られた新しい理念の世界、新しい理念の園、新しい理念の心情を持つ人間と、この万物とは何らの因縁も、何らの関係もないということを、我々はよくよく知らねばなりません。 それゆえ堕落した人間たちは、争いの歴史を経てきているのです。苦痛に満ち、悲しい生活のうちに喘いで希望と願望、理念と理想を捜し求めてさまよっているのです。その願いが何であり、その理想が何でしょう? その目標が何でしょう? それは他でもない、新しい一日だけなのです。新しい一日だけだということを、皆さんがよくよく知らねばなりません。堕落した人間が新しい一日を迎え、この万物が新しい一時を持ち、この天地が新しい一日を迎えるなかで、神に侍る新しい日を愉むことができなければなりません。 歴史路程に数多くの先知聖賢と、義人たちが来ては行ったのですが、’私は新しい日を迎え、新しい天のみ旨を立て、新しい一日を間違いなく立てたのだ’と叫んで行った人間はいないのです。イエス様も新しい一日を所望としながら、死んで逝かれたのです。神も我々に約束されるに、終わりの日が来るとされたのです。自分の心の動きをみても、今日の私を拒否して、新しい一日の私を求めてさまよっていることを、否定できないのです。 堕落した人類は、新しい日を求めてまよっているのです。堕落の血統を持つ今日の我々も、新しい生を求め、新しい一時を求めてさまよっているのです。自分も分からないその何かが、我々の感情を動かして今日のこの時にも、私をこんな方向へと催促していることを否定できないのです。 この新しい一日が天地の間に成るならば、神は我々のもの、世界は我々のもの、人類は我々のもの、万物は我々のものなのです。神を通して因縁づけられた天上天下のすべての被造万物は、私のものになるのです。それで人間はこの一日を迎えることができる世界的な理念を求めて、喘いでいるのです。世界を支配して、世界を主管しようとする理念を抱いてその主義を主張してゆく人間であるなら、この理念を拒否して、この心情的な要求を拒否する者は一人もいません。聖賢君子、聖人賢哲たちが我々よりも前に、このような希望を持ってこの道を開拓したのです。 その後に付いてゆく我々も、やはり同じなのです。それゆえ我々はこんな一日、神は私のもの、世界は私のもの、人類は私のもの、存在する一切が私のものとなる一時を慕いつつ、苦待していることを我々は知らねばなりません。 3. 新しい一日を立てるために開拓者として闘われる神 神はこのような歴史的な一時、歴史的な一日、新しい一日を立てるために今まで、闘いに闘いを続けておられるのです。今この時間にも我々の目前で闘っておられるアボジであることを、知らねばなりません。神は歴史路程において闘って来たのであり、今日この時間にも我々のまえに、新しい一日の開拓者として闘っておられるという事実を、知らねばなりませせん。 神は新しい一日を、待ち焦がれて来たのです。新しい日を立てるために闘っておられるのです。人間が闘って勝利したとしても、堕落人間の勝利が何ほどか。堕落した人間をして建設させても何ほどか。ですから堕落と何らの関係もない神が、堕落した人間のまえで闘ってこられ、堕落しなかったという勝利の基準を立て、堕落していない血族を残すために苦労して来られたことを知らねばなりません。時代々々が過ぎるにつれ、個人を過ぎ、家庭を過ぎて民族、あるいは部族を過ぎ、国家を過ぎて世界まで来たのです。 人間は自分が先頭になって闘うと思っているのですが、これは違うのです。堕落した人間だけで闘って行ったら、理想や理念というものが成る一日が来ることはないのです。これを知る神は今まで六千年という永い歳月を経てきて、我々の先祖からまず開拓して来たのです。我々の先祖が動きだす前に、我々の先祖が開拓する前に、神がまず開拓者になっていたことを、皆さんは知らねばなりません。神が開拓者になって苦労された土台の上に人間を立て、闘って来た歴史であることを知らねばなりません。 歴史上に大きな戦争が何度あったでしょうか? この大戦争が起こる前に、神がまず大戦争をされ、この戦争で勝利した足場の上に人間を立て、戦争をしてしてきたことを知らねばません。 今日、肉身を持つ我々人間は、肉のみの人間として知っているのです。しかし宗教人たちは、悪神がいると同時に、善神がいるということも知っているのです。善なる神がおられ、悪なるサタンがいるということも知っているのです。サタンは人類を支配しているのです。サタンは人類を自分の所有物としてきたのです。サタンは我々の血統まで、我々の心情まで蹂躪して、自分と因縁を結んでしまったのです。 こうして人間によって支配されるべきこの世界が、サタンが支配する世界になり、人間によって造られるべきこの世界の歴史が、サタンによって造られる歴史になってしまったので、すべてのものがサタンと因縁を持っているのです。今日人間たちは、これを知らないでいるのです。 歴史の起源はある民族でもなく、ある部族や氏族でもなく、個人が提唱する主義や思潮でもありません。この歴史はただ一つ、善なる神が開拓者となって、悪なるサタン世界と闘ってきた闘争史であることを知らねばなりません。これに由来して、歴史は善と悪が対立してからみ合って来たという事実を、我々は正しく知らねばなりません。 4. 天とサタンが闘う根本目的とその終結時期 それでは天の願いが何でしょう。失ったエデンを再び捜し求めることです。天の願いが何でしょう。創った園が死亡の恐怖を感じることなく、怨讐の侵略を受けない安息の園になることです。これが天が闘って捜し求める、所望の目的地であるのです。それゆえ歴史は一つの世界に向かって行き、一つの理念世界を指向して行っているのです。今日世界には主義や思想が現れ、動いていっています。しかしこれによって、世界は終わることはないのです。動いている主義と思想が、新しい主義、新しい思想のようであっても、これは堕落の限界を越えられない主義であり、思想なのです。ですから皆さんの心が動いていても、これは悪の血統の因縁によって動いている心であるとをを知らねばなりません。皆さんの心情や、愛も同じことです。 それでは主義と思想は、どこに根拠をおくべきでしょうか? 生活的な感情を、永遠なる理念と接続させることができる縦的なものを、基盤にしなければなりません。そのようにできない主義と思想は、ある一時に悲しみと共に消え去ってしまうのです。それゆえ天は人間の心と人間の心情を革命するために、人類歴史を動かしてきたのです。 神がこの世の人間たちを訪れてくるときは、どのように訪れるのか。人間の心情の中心に向かって攻撃戦を開始されるのです。サタンに支配され、サタンに占領されているこの人間を、サタン世界と断ち切って、悪の本性を廃して本性的に悪を嫌い、善を好むようにするこの心情基準を成すために、天は開拓してきたことを皆さんは知らねばなりません。 今までの修道の観念は、心情的な基準になっていませんでした。この道の主義と思想は良心的な基準にまでなっていないので、歴史的な心情、民族的な心情、天倫的な心情、骨髄に流れている父母が子を愛する心情、夫婦同士が愛する心情、兄弟同士が愛する心情、こんな心情問題を完全に解決できないでいることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。この心情の基準が成っていないので、人類は争うのです。この心情の基準ができていないので、兄弟間に分裂が生じるのです。神とサタンは何ゆえに六千年の間、闘ってきたのか? 我々の心情を互いに占領するために闘ってきたことを、皆さんは知らねばなりません。 それではこの心情基準は、いつ掴むことができるのか? この世界の終末と共に、サタン世界がことごとく占領されなければならないのです。これが神が堕落した人間を求めて立てようとされる新しい日であることを、知らねばなりません。堕落した人間たちが、心情世界を占領してきた群れをおいて、天が心情的に占領されたと叫ぶことのできるその一時、その一日が、人間が求める日であり、神がその一日を人間のまえに教え示すための、闘いの勇者として、全体に責任を持つ開拓者として、我々の先祖のときから今まで世を率いてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 神の苦労が終わる時は、いつでしょうか? 神の闘いが終わる時は、いつでしょうか?神の心情は一つです。子が父母を、父母が子を愛するその心情は一つです。誰も占領することができない心情です。神がそうであり、神の子女がそうであるとするその一日が、神が求めておられる新しい日であることを、知らねばなりません。 堕落した人間も、父母たる者が子を愛する心は、二つではありません。これは絶対の中の絶対です。これは存在意識を越えて存在して動いているのです。これは満宇宙のいかなる原動力や、どんな存在物の主管圏内に留まることなく、超越しているのです。愛は理念を超越しているのです。この基準は神の価値までも超越することができるのです。こんな基準が成る日には、悪に対して審判主の立場にある神も、審判主ではないという場に入られるということを、皆さんが知らねばなりません。 ですから神は道の基準を立て、良心の道理を立て、人間世界に倫理を立て、この一つの目的を望み見ているのです。このサタン世界は主義の闘い、あるいは革命的な思潮を開拓してきたのです。ですから宗教の歴史は変遷の歴史であり、我々の生活の歴史、我々の闘いの歴史は変遷してきているのです。 心情はアルパでありオメガです。初めであり終わりです。真のというものは、初めと終わりが同じことです。初めは大きいのに、終わりに小さくなるのは偽ものです。初めよりも終わりが大きいのが、善なるものです。善は滅びる法がないので、小さなものから大きいものに、即ち、小さな善から神と共に大きな善へと発展してゆくことであることを、皆さんは知らねばなりません。 悪は大きくても小さくなるのです。悪は大きなこの天地を持っていても、だんだん奪われてゆくのです。悪の歴史は失われる歴史であり、善の歴史は求めてゆく歴史です。このような原則を見るとき、神が主管するある修道、ある宗教があるなら、それは日がたてばたつほど拡大してゆかなければなりません。日がたてばたつほど、主義や思想をひとまとめにさらって、一つの世界に向かってゆくに間違いないと、結論を下すことができるのです。 5. 歴史が変遷する理由と闘争歴史の終着点 こんな原則の下に判断してみるときに、今日キリスト教は世界的な宗教になっており、キリスト教徒は世界の思潮を動かす人々になっているでしょう? 善は善なるものとしてきているのですが、善の目的地を捜すことができないでいるのです。善は善としての歴史は経てきたのですが、善の価値がこうであり、善はこれだ、アボジを求める善はこれだ、永遠なる善の主体が持つべきものはこれだ、ということを明示できないのです。イエスはこれに対して、終わりの日には新郎・新婦が出会わなければならないと、象徴的に語られました。 我々は最高の善を指向して来ました。行動にも善であり、語るのも善であり、生活にも善であり、自分の観念と主義の全体が善となることを望み、私は望んでいます。主義でのみ主張する善は退き、行動でのみ誇る善は退くのであって、これを越えて神の愛を指向する善が、人類が捜し求める最後の終着点であり、この善が、神が善の環境を開拓してこられた最後の終着点であることを、我々は知らねばなりません。 善の中心がこうですから、イエス様は語られました。誰に対して孝をつくし、誰を愛するかを教えてくれたのです。自分を愛しなさいとは言われませんでした。’心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な、第一のいましめである(マタイ二二:三七)’とされました。それゆえこのような原則的な内容を持たない宗教は、いつかは屈伏させられるのです。こんな内容を持たない主義と思想は屈伏させられてしまうのです。世界はこんな終末的な舞台に、ゆき着いているのです。 それゆえ神がおられるなら、神も知、情、意を内包する主人公を求めるのです。知と意は相対的ですが、情は絶対的です。世の中でどんなに素晴らしい人格の持主、名望の高い人がいたとしても、心情的な面においてある基準にまで至っていなかったら、不幸な者であるのです。これは否定できないことです。 神は望んでおられるのです。神は求めておられるのです。人類も望み見、また求めているその基準は、神と同じ点なのです。この基準は分かれた人間と神が、出会うことのできる点なのです。神が心情の園で初めて安息できる位置を掴むことができる点は、この点なのです。この点は、果たして何であるか? 新しい息子・娘を立てて、永遠に永遠に愛するわが息子、わが娘とすることのできる心です。神が人間を愛さずにはいられない心、神の骨髄に流れる心は、誰もが占領できないものなのです。どんなに悪なるサタンの権勢であっても、主人が二人はいないこの道理を、皆さんはよくよく知らねばなりません。 私は神のまえに数多くのキリスト教を代身して、祈祷する時がありました。’神様、どんなに名のあるキリスト教徒が多く、栄華なる環境を誇る教会と教派が多いとしても、私はそのようなことを願いません’と。神もそんなことを願われないことを知っているのでこんな祈祷をするのです。天は求めておられるのですが、ある教会を求めているのではありません。 父母は自分の息子が青年の時は息子を預け、他の若者を愛するのです。愛するのですが若者全体を直接、愛することはできません。それゆえ誰かの由縁で、誰かによって愛するのです。息子という存在を根拠として、愛の因縁を結んでゆくのです。 6. 神が人間を間接的に愛する他なかった理由 このように神も、人間を愛したい心が懇切だったのです。それで愛されてきたのです。愛するときは歴史的に愛し、あるいは社会的に愛し、あるいは家庭的に愛したのです。保護してくださり、サタンを分別して愛してきたのです。このように愛してきたのですが、人間に対して’おまえはわが息子であり、わが娘だ’と抱いて愛してみなかったことを、知らねばなりません。 皆さんは復帰ということを知っています。神の歴史は、復帰歴史であるとしています。復帰歴史ですから、根源から下ってくるのではなく、上がってゆく歴史です。神は愛してきたのです。子女として愛さなければならない人間ですが、堕落のゆえに僕のように愛するときがあったのです。さらに言えば、民のように愛するときがあったのです。これがイスラエルの歴史です。僕のように、民のように愛したので、息子のように娘のように愛することができる一日を求めなければなりません。これがキリスト教の歴史です。 イエスと聖霊は来たのです。誰として来たのか? イエスは愛する息子として、聖霊は愛する娘として来たのです。今日キリスト教徒たちは、これをよく知りません。聖霊が何でしょうか。聖霊は母の神です。母の神が聖霊です。イエスは息子であり、聖霊は娘、これが人間の標本です。人間はイエスと聖霊を標本として、彼らと因縁を結んで天の息子・娘となることができるのです。天の息子・娘になるのです。 自分が息子・娘になるのですから、有難いことです。有難うございますと、何度でも感謝しなければなりません。ところが息子・娘として認定されるのはいいのですが、神の恨が残っていることを、私は知っているのです。神様はただ息子・娘として祝福してあげる息子・娘よりも、懐に抱いて秘蔵っことして愛する息子・娘を、求めておられることを知らねばなりません。万物に対して誇る息子・娘よりも、懐に抱いて頬をつけ、唇を合わせて愛することができる息子・娘、この上なく愛する息子・娘、骨髄に染みて心情から愛することができる息子・娘を、求めておられるのです。 神はイエスを立てて、新郎と新婦という目標の下に、人類を導こうとされたのです。それゆえ復活したイエスを、マクダラのマリアが抱きつこうとしたとき、遮ったのです。それは神が求めている日が、遠かったからです。神が願われる息子・娘は、子羊の婚姻の日に新郎・新婦として祝福して、その日から抱いて愛することができる息子・娘であったのです。ところが歴史上の誰もが、六千年前から今日この時まで、アボジの懐に抱かれ、血肉のように心情から育てることのできる、息子・娘になっていないのです。 今日キリスト教徒が越えなければならない峠は、どんな峠か。主に会うための世界的なゴルゴダです。主に会うための世界的なゴルゴダを、越えねばなりません。この峠を越えて復活圏内に入るには、主にどのように対するのか。’あなたは歴史的な神の息子です。あなたは時代的な神の息子です。あなたは未来的な神の息子です’と認めることができなければなりません。 7. 神の究極的な願い 我々はみ言を通して、イエスが歴史的な神の息子であることを知りました。このイエスは堕落前の善の姿として神の懐で育つアダムのように、堕落の恨のない場で育つ息子でなければならないのですが、そんなイエスだったでしょうか? そうではなかったのです。恨み多い四千年の歴史を抱え、この歴史的な悲しい場面と闘う闘いの責任者として、一生を送ったお方がイエスだったのです。 天は待ち焦がれているのです。イエスが新婦を迎えるその日が、神の解怨が成る日であったのですが、これがないのです。神もまた願っておられるのです。私はあるときにこれを知って、無限に悲しかったのです。歴史的な闘いの舞台に一人の救い主としてイエスを送ったのであって、救世主が必要ない善の園、堕落の因縁がない園の王者として送らなかったことを知ったのです。堕落していない世界、サタンの讒訴と非難を受けない善の園、サタンの非難、嘲笑、サタンの讒訴を受けずに自由に行動できる王者としては生まれなかったことを知ったのです。 今日キリスト教徒は、イエスのこんな事情を夢にも知らないのです。ただイエスだけ迎えればいいのです。違います。イエスに出会うにはどうするのでしょう。イエスに出会うには、神の愛を歌わなければなりません。神の愛。神は何を慕っておられるのか。堕落による恨を脱いで、安息できる自由の新天地を迎え、すべての心配を忘れて愛することができる、幼いときから抱いて愛することができるそんな息子・娘を慕っておられるのです。 イエスがこの地に来て行ったのですが、こんな息子・娘がこの地上にいたでしょうか?いないのです。もしもこんな息子・娘がこの地上にいて神が彼を死なすなら、神も讒訴されるのです。こんな息子・娘を殺す者はいないのです。神がイエスを死の場に置かざるを得なかったのは、彼がこんな息子・娘を持てなかったからです。彼は自分を救世主として対さない堕落した世界で、闘いの王者、メシアの基準を持ったのです。もしもサタンの侵犯を受けない永遠の善の園で、神が抱いて愛することができる息子・娘がいるとして、彼をサタン世界に放って死なすなら、天理原則は根本から崩れるのです。 ですからイエスが人類のまえに表していない分野があったということを、我々は知らねばなりません。私はこの分野が明らかになることを願うものです。神の願いも当然そうであってこそ、論理的に合うのです。堕落したがために、我々にイエスが必要なのです。でなければイエスが必要ありません。ところがイエスが必要な立場で救援を受けるなら、その場は養子の場です。養子。ロマ書に、養子となることを願うとあります。直系の子女ではない、養子なのです。 イエス様も新郎・新婦を得たならば、神の懐に安らぐのです。安らぐときは、そのようにできる条件を持たなければなりません。もしもイエスが勝利して、新郎・新婦を得て、地上天国を成して、神が愛することができる息子・娘を持ったなら、即ちエデンの園での堕落していない基準で息子・娘を持ったなら、どのようになったでしょうか。これを考えて見ましたか? 今日初めて来た人は’あ、これは異端の言葉だ’とするでしょう。よろしいです。この基準に向かって、我々は越えて行かねばなりません。私は皆さんに対してこれを待ち焦がれているのです。私が祈祷する目標があるならこれです。このようなことのために祈祷するのです。 8. 人類が行くべき最後の目的地 皆さん、我々はその日を思慕しているのです。一時を求めるために闘っているのです。この目標に向かって数十年、寂しこを歩んで、この目的に向かって迫害の道も歩み、この日を成就するために、連続する試練の場も躊躇することなく行くのです。我々はこの目標に向かって行ってこそなのです。 第一イスラエルは滅んでしまったので、イエスを主とするキリスト教が、第二イスラエルです。今日キリスト教徒が、第二イスラエルの民なのです。キリスト教は第二イスラエルです。ところがこの第二イスラエルが責任を果たさないので’主に侍って生きる第三イスラエルを、神が抱いて愛することができる息子・娘を、この地上に送ってください’と祈祷しなければなりません。祈祷する事は、これ以外にありません。自分の息子・娘に福をください、自分の国を愛してください、この世界がどうだという祈祷はしないでください。この世界はみな滅びるのです。一度は審判台の前に、立たねばなりません。 神も捜し求めておられます。人間も求めているのです。皆さんや私が、慕って求める所がどこでしょう? 自分が誠精を注ぐべき、誠精の根源地がどこか? 誠精をつくすべき王宮がどこか? 誠精をつくすには、イエスを通さなければなりません。イエス様を通して、堕落する前のアダムの心情を代身して、堕落しない息子・娘が神のまえに誠精をつくすその基準まで、行かねばなりません。これが堕落した人類が行くべき最後の目的です。 我々は忠誠を成したイエスよりも、さらに忠誠をつくさねばなりません。イエスは罪悪に対して闘い、サタンに対して闘うにおいて、一面では刃を突きつけて怨讐と闘い、また他の面では神を慰める立場だったのです。しかし我々は闘わない立場、即ち闘いをすべて終えて、不安と恐怖を感じない平和と自由の環境で、自由の天地で神のまえに忠誠をつくさなければなりません。神はそんな姿を慕っているのです。イエスもそれに向かって二千年の間、闘ってきたのです。聖霊もそれに向かって、その日を希望として闘っているのです。我々はその一時、その一日に向かって行くのです。行くときは死んでではなく、生きて行くなら、どれほどの栄光でしょうか? その一日は、心情がからみついている瞬間であり、神が喜びに慟哭する時であり、神の喜びと、神の悲しみが一ぺんに溢れでる時なのです。今まで六千年の間に積まれた悲しみの荷がはじける時なのです。その瞬間は歴史的に、最も悲しい瞬間になるのです。歴史と共に神は、ありったけの悲しい路程を歩んできたのですが、その瞬間には歴史のすべての悲しみを、一挙に泣いて叫ぶのです。同時にその瞬間から、喜びの涙を流し始める瞬間なのです。その日は悲劇と喜劇が交差する瞬間です。これを象徴して人間世界に反映して現れるのが、神の悲しみを受け継ぐ宗子(本家の長男)、神の喜びを受け継ぐ宗子とに分かれるのです。これが審判です、審判。 神が今まで人間を抱えて悲しんだ歴史は終結し、人間に対して所望とされた喜びの日が始まるのです。神のうちに体恤された悲しみは悪なる宗子に残し、善なる心と喜びに泣くその声は、善なる宗子に残すのです。 世界は心情において分かれる日が来るのです。これが天が人間のまえに立てる、審判の日なのです。この日の審判を避けるために、先知先烈たちが善の闘いをした血のにじむ歴史路程があったということを、知らねばなりません。これを大切に、これを高く、これを立てるために、闘ってきたことを知らねばなりません。 皆さん、その日は近づいているのです。皆さんが眠る時間にも近づいており、闘う瞬間にも近づいているのです。何かを考える時間にも近づいており、皆さんが子供を抱いて愛するその瞬間にも、近づいているのです。いかなる瞬間、いかなる刹那も止むことなく、我々の心に向かって肉薄しているのです。我々の生活に侵犯してきているのです。我々が眺めている世界に向かって、攻撃しているのです。その一日を心から生活において、家庭で、社会で、国家で、世界で、両手を挙げて歓迎する一人の王者がいないのです。天はこんな者を求めておられるのです。 9. 天が求めている人間と新しい一日 皆さん、皆さんはどのような生活観を持っていますか? どのような主義を持っていますか? どのような世界観を持っていますか? 皆さんが持つべき世界観は、それではありません。天は新しい理念にもとずく世界観、この理念を中心とする世界観、社会観、家庭観を持って、この理念を中心とする人格者を願っておられるのです。それゆえ自分一身からこのような人格を得て、家庭、社会、国家、世界の門を開き’神様おいでください’とできる者になるなら、審判台を越えるのです。何の話か、理解できますか? イエスが主張した主義がこれであり、神が求めておられることがこれなのです。こんな世界観なのです。このような人格を得て’アボジよ、私が死亡の世界の門を開けますからおいでください。この死亡の社会の門を開けるので、アボジよ、おいでください。死亡の家庭の門を開るので、アボジよ、おいでください。死亡の実体の門を開けますから、おいでください’とすることのできる一人の王者を、神は求めておられるのです。 皆さん、地の上でこんな人間に会って見ましたか? 来ては行ったイエスがこのような事をされたのです。イエス様は神の国を語ったのです。誰でも天におられるわが父のみ旨の通りにする者なら、わたしの兄弟、姉妹、母であるとされたのです。家の中の食口も、そうでなければ怨讐だとされたのです。異なるということです。彼は徹頭徹尾なるお方です。’わたしの手に釘打ってもわたしは死ない。釘打たれて死ぬわたしではない’とされたのです。死なない自分があったのです。それゆえ我々も、このように徹頭徹尾なる宇宙観を基盤にした世界理念を得て、死亡の環境にあっても’天よ、この世界の門を開き、この民族とこの社会の門も開いたので、おいでください’とすれば神様も’どうれ’とされないはずがないのです。 それゆえ死亡の波が揺れるこの地上で、自分の心の門を開き、家庭の門を開き、社会の門、世界の門を開いて’アボジ、おいでください’とする者にならねばなりません。審判の日が来る前に、審判を通り越す息子・娘が出なければなりません。そんな存在が出てこそ世の中は滅びないのであって、出なればみな滅んでしまうのです。 人間は人生観を持っています。世界観を持っています。しかし私は心情を通した宇宙観を持つことを願っています。人間は理論的なことだけでは、安楽にはなれません。人間は理論だけで、動いているのではありません。これを知らねばなりません。天宙観を持てば言わなくても、対すればみな通じるのです。 今日人間のまえに、君が誰で僕が誰と言わなくても、この世で最も近い兄弟や父母のように、誰よりも近くなることができる心情が、刺激されるその何かが必要なのです。これがあれば兄弟を捨ててそっちに行き、父母を捨ててそっちに行き、国家を捨ててそっちに行き、世界を捨ててそっちに行くのです。これは論理的な限界の人格、空想し想像して成る人格ではありません。自然的であり、自動的であって、天倫に通じることができる人格なのです。天情が動き、人情的なすべてのものを自動的に支配する心情的な人格がこの地上に現れたなら、世界はじっと放っておいても統一するのです。天はこんな一日を待ち焦がれているのです。 こんな刺激を起こさせるには、どうしなければならないか? 堕落していないとき、神が抱いて愛されたそんな息子・娘が、この地上に現れなければなりません。サタンを壊滅させて、サタンの讒訴や悪の侵犯がない、恐怖と不安を感じない幸福の園で、その場は永遠無窮に太平であり、永遠無窮に自由であり、どこに行ってどのように抱いて愛して、どうして誰がどうだということのない、自由の天地の園において、神が抱いて愛することのできる息子・娘が現れなければなりません。であればこの世界は、一瞬の間に統一が成るのです。私はこのような事を考えるごとに’アボジ、どれほど慕わしいでしょうか?’としないわけにはいかないのです。 10. 新しい一日を迎えるための我々の責任 この慕わしい心は、創世以前からお父様が慕っておられた心なのです。そうじゃありませんか? アダムとエバを生む以前から待ち焦がれた心、万物を創る以前からあった心なのです。この心情を満たすために、天地を創造されたのです。しかし神は無限に哀れなお方です。罪悪の子を抱いて愛する息子とする他はない、たまらない立場の神様、罪悪なる息子・娘が生きているこの地上に来て、引き裂かれ、傷を負い、追われる神であることを皆さんは考えなければなりません。 神の心情は引き裂かれているのです。神は慟哭されているのです。神の心情にはズタズタに裂かれた傷痕があるのです。民族が倒れ、新しい民族が興るときごとに、歴史のどの一頁にも心情の曲折が染みていることを、皆さんは知らねばなりません。 神は堕落の歴史路程において、このような心情を抱いて来られたので、皆さんはこんな伝統的な心情を抱く神と、心情的に結びつかなければなりません。であるなら無限に悲しかった神を知り、無限に苦しかった神を知らねばなりません。無限に憤り、悔しかった神を知らねばなりません。 それでは誰のゆえに、神がそうなのでしょうか? 人類のゆえに、我々のゆえに、この世界のゆえにです。ですから地上に生きる我々は、神の恨を解いてあげなければなりません。神の悲しみと苦痛が終わらない限り、悲しみの歴史を抱える神であることを知るなら’アボジよ、あなたの悲しみを私に分け与えてください’とする息子・娘にならなければなりません。与えてくれなければ奪ってでも、負うのです。 奪ってでも神の悲しみを負う息子・娘にならねばなりません。お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の悔しさが私の悔しさだとする息子・娘が、この地上に出なければなりません。どころがこんな息子・娘が、何人いるでしょうか。イエス様を信じて天国に行くの? イエス様を信じて平安になるの? こんな人間は天の逆族です。やるべき事をみなやってこそ、天国に行くのです。やる事をみなやってこそ、福を受けるのです。やるべき事もやらないで、天国に行って福を受けるの? そんな人間は強盗です。これを知るべきです。 今皆さんは神の悲しみを引き受ける、王者にならなければなりません。イエスはそんな王者だったのです。死を独り引き受ける王者だったので、救世主になったのです。死によって倒れたのですが、復活の権限によって生き返ったので、死亡圏を支配することができる王者になったのです。イエスは隠れた涙を多く流しました。皆さん、聖書にはこれがわずかしか記録されていないのです。自分の涙、血、感情、ここにはイエスのすべての五感の感情が、こり固まっていることを知らねばなりません。イエスと共に泣いた者、イエスと共に苦痛を受けた者、イエスと共なる感情に浸ってみた者、そのような者でなければなりません。皆さんは統一教会を訪ねて来たのですが、過去のそんな習慣的な信仰を持っていては駄目です。統一教会の信仰はそんな信仰と、根本的に違うのです。 11. サタンが最も恐れる人 サタンが最も恐れる者とは、どのような者か。霊と肉を合わせて、神が負う十字架を代身して負う者です。神の愛を受けようという者は、サタンが笑うのです。’神様、私があなたの十字架を背負います’という者は、サタンが最も恐れるというのです。’神様、私が悔しさを担います’とするとき、サタンは逃げ出すのです。 ですから終わりの日の聖徒には、必ず艱難が来るのです。神が耐えてこられた峠ごとの曲折を初めとして、悔しさと背反と排斥と迫害と死と、歴史上の血のにじむすべての痕跡が、皆さんを襲うのです。しかし天に対する一片丹心、’わたしの思いのままにではなく父のみ旨の通りになさってください’というこの心情を、誰が支配できるでしょうか? アボジと私との心情的な因縁を、誰が断ち切れるでしょうか? サタンの権勢ですか?とても駄目です。死亡の権限も、とても駄目です。この心情を何が支配できるか! これを捜し求める路程において、どんな困難も耐えて越えてゆく基準を持つ者であってこそ、最後の審判台を越えることができるのです。そんな者だけが、神が求め、人類が求めている新しい一日を迎えられるということを、よくよく知らねばなりません。 愛と絶対的な善は、永遠です。初めと終わりが同じなのです。ところがアボジから恩恵を受け、喜んで踊りを踊って誓う瞬間に、変わってしまう者はサタン側です。我々は’アボジと共に、心情的に結ばれた心を誰が占領できるか。サタン世界の死亡圏よ来い、サタン世界の血の曲折よ来い、サタン世界の何であっても来い、世紀末的な恐怖や七年の大艱難、全部いっぺんに押しかけて来い。私は占領されない。そんなものでは私を占領することはできない’とする基準、心情的にアボジを呼ぶことができる勝利の礎を、持たなければなりません。 こうして’サタン世界でこのようなみ旨のために闘って来たアボジよ! この死亡の世界でいつの日に、こんな息子・娘に会い、慰められてみましたか? 慰労されなかった神様! 今日、私が慰めて差し上げます’としなればなりません。このような者は新しい時代、新しい日に神の息子・娘になるのであり、世界を遺業として受けることができる堂々たる資格者であることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.17
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天の心情を誰が知っていたか 一九六〇年一月十七日(日)前本部教会 今日、皆さんにお話しするみ言の題目は’天の心情を誰が知っていたか’です。このような題目でお話しします。 1. 堕落した人間を見やる神の心情 万物を創られる前に、すでに神には創造されようとする心情があったのです。この心情は創造理想として、これを実現するために神は創造の計画を立てられ、万物を創り始めたのです。 神の願いはこの心情が通じることのできる創造理想の世界、創造理想の人間、創造理想の万物であったのです。ところがこのような理想の世界、理想の人間、理想の万物にならなかったことが、神の恨であるのです。 なぜ、このようになったのか? 皆さんが知っての通り、堕落したがためです。永遠無窮に神の心情を中心にして、創造理念と共に動じてゆくべきであった創造物は、善の起源を求められないまま今日まで、天と人間、天と被造物とが各々かけ離れた動きをしてきたのです。本来は神のみ手を経る因縁を持っており、神の心情の対象として切っても切れない因縁を持っている万物と人間であるのですが、今日では神のみ手が我々の体にも心にも及ぶことなく、神の心情もまた万物にも我々の身にも留まることがないのです。このように嘆かわしいことになったのは、堕落の結果であることを我々はよく知っています。 堕落した人間を見るその日から、神は堕落した世界を見なければならず、堕落した人間に対するその日から、神様が苦待された創造理想世界は、心のおく深くに秘めておく他はなかったのです。理想はあっても、この理想を実現することができず、万物に対する度にこの理想を成したい心は動くのですが、この理想の心を表現することができない天であったことを、皆さんが知ってこそです。神が創られた万物であるのに、神のものではなく、神が愛すべき子女であるのに、神が愛することができる子女ではないのです。それゆえこの地を見やる天は喜びの天ではなかったのです。悲しみの中の悲しみを感じる天であり、苦しみの中の苦しみを感じる天であったことを、我々は知らねばなりません。 神は本来人間をして、ご自身の直系子女という名分を得させるべく創られた因縁を放棄することができないので、再び求める歴史、即ち救援歴史、再創造の歴史を開始されたのです。失った者を捜し求めるための歴史路程において、神は多くの悲しみを綴って来られたのであり、この悲しい心に同情する一人の人間がいなかった神の心情を、皆さんは知らねばなりません。このような中で天は悲しみの心情を抱き、堕落した人類の後について来たのです。先に立つことなく、後について来たのです。死刑囚の父母が刑場に引かれる息子の後をついて行くのと同じく、神は死の手に引かれてゆく人類、宇宙的な死刑囚のような人類の後について来たことを、我々は知らねばなりません。 神様はご自身の思いのままに主管して愛しても余りあるこの人類を、サタンの掌中に置き、サタンのまえに蹂躪され、引き裂かれる祭物の立場におく度に、無限の苦痛を感じたのです。個人をこんな立場におくとき、個人的な十字架の苦しみを感じ、家庭や民族、あるいは国家をこんな立場におくとき、ここに相応する十字架の苦痛を感じざるを得なかった天であったのです。これを我々は念頭に入れておいてこそなのです。 2. 人間に対して抱いている神の心情と所望 それではどうして神が、こんな事情におかれるようになったのか? 人間が堕落したからです。神はいかなるお方か? 人類の真の祖先です。私とは切っても切れない、私の本質と因縁を持つ父なのです。このアボジがこんな事情にあるという事実を、我々は知らなかったのです。天は人間がこんな立場を破壊し、再びアボジと呼ぶことができるその日が来ることを望み、また願っておられるということを、知らねばなりません。天のみ旨を知って天を求め、天が動いている方向に従って修道の道を開拓してきた人々も、この一日を待ち焦がれてきたのです。 ですからこの日は、アボジが苦待される日であり、息子・娘も苦待する一日なのです。この日は失われた息子が死亡の鎖を切って、解放の姿として再び帰り、アボジと呼ぶことのできる日です。本然の園において創られた、その本然の真の息子・娘として、本然の心情でそんなアボジを呼ぶことができる日なのです。この一日が人類が願い、神が願う日であることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 このような心を抱き、天は歴史路程に対して来たのです。罪人の中の罪人たる人間に対するときもこのような心が消えることなく、死にゆく息子・娘に対される場であっても、この心は消えることがなかったのです。またこのようなことを嘆き、善の方向を求めてさまよう数多くの道人たちが動じる場にも、神は離れることがなかったのです。一人の罪人から、善に向かい義にもえて泣き叫ぶ一つの命に至るまで、いかなる環境、いかなる時代を問わず、天は同じ心情を持って対してきたという事実を、知らねばなりません。 このように善なる神であり、このように我々を愛されている神である故に、人間が罪の中に囚われているとしても’わが息子よ、娘よ’という思いが消えることはなかったのです。この感情が消えることがないので、彼らに対されるとき、天は無限の苦痛を感じざるを得ないということを、知らねばなりません。悪なる息子・娘を見やって苦しみを感じる神は、善を求めてゆく息子・娘がいるならば、彼らにわが苦しみを解いてくれと、求めざるを得ない立場です。これが天の心情なのです。それが故に善を指向して修道の道を行く数多くの人々が、罪人を抱いて倒れていった事実を、我々は歴史路程を通して知っているのです。 それではどうして天はこんな作戦を指示されるのか? 天は死にゆく息子・娘に対しても、息子・娘という感情を失うことがない故に、やや善なる息子・娘を動員して彼らを救いたく、助けたいのです。これがアボジの心なのです。ですから天は、六千年という永い歳月を罪人たちのために、悪なる群れを救うために、善なる息子・娘を死の場に押しやることも意に介さなかったことを、我々は知らねばなりません。 我々が信じる神は、誰なのでしょうか? 我々の父なのです。我々のアボジはどのようなお方か? 神は父母の神ですから、死亡の絆に捕らわれた息子・娘を見やるとき、彼らを助けたいのです。それでアボジに従う息子・娘を犠牲にしても意に介さず、歴史を率いて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。この心が摂理歴史を率いる本心なのです。 ところがアダム以後六千年の歴史が過ぎ去りましたが、罪悪に染まる人類がいつ、こんなアボジを呼び、いつこんな事をされているアボジを思い、感謝したでしょうか? そんな者が何人いるでしょうか? いないと言って、過言ではないのです。 どうして天はアダム家庭に対するとき、無限に悲しい心情で対されたのでしょうか?アベルに対する心とカインに対する心が、どうして違うのでしょうか? 本心からわき起こる心情においては、それもこれもみな息子・娘の立場ですから、差別の心情で対しなければならない天の事情があったのです。このように切ない立場の天であったのですから、アベルの供え物は受け、自分の供え物は受け取られないとカインがアベルを撃ち殺したことは、神を打つことよりも憤ろしい事実であったのです。 こうして人類の歴史は、神の心情と因縁を結ぶことなく始まったのです。神の真の心情のまえに反旗を掲げ、背反と怨恨と不満を吐きだし始めたのが、カインの歴史なのです。こうして神の心情に対する心情の歴史は絶たれ、背反の歴史の代を重ねてきた世界が、今日の天地であることを我々は知らねばなりません。 背反することによって堕落の心情を重ねたカインの歴史を、我々は無限に嘆かざるを得ません。神と父子の因縁を結んで、神の心情の歴史が展開すべきなのに、そうではなく背反の心情、反逆の心情が代を重ねてきたが故に人類歴史路程において、神の心情の歴史が現れることはなかったのです。神が愛することができる息子・娘が、地上に現れなかったのです。 我々は恨を抱かねばなりません。自分の体に走る心臓の鼓動の音を聞くとき、我々は恨を抱かねばなりません。この脈拍はどこから出発してきたのか? カインの心臓からなのです。カインの心臓の音が、今皆さんの体の中で響いているのです。さらにはカインの血と因縁を持ち、善に相反することを楽しんでいる立場で、サタンの血が駆けめぐる自身であることを、我々は知らねばなりません。 3. 神が嘆く原因と人間の責任 天が今まで、嘆く原因がどこにあるのか? 心情の起源を同じくし、天と共に生活し、共に万物を主管すべき人間であり、直系の子女の立場にあるべき人間であるにもかかわらず、そうはならない立場に立ったのです。その反面、サタンと同行し、サタンを中心に生活し、サタンを中心に世界を主管しているのです。この世界は悪を中心に、悪の事情に通じ、悪の心情と結託して成っている世界であって、善を中心に善の事情に通じ、善の心情と結託して成っている世界ではないのです。 ですから善を指向して良心の清い人間であるなら、誰もがこの世の中は嫌だという感じを抱くのです。この世の中が自分の本心とは、逆になっているからです。世の中がこうですから、天は見えないところで歴史路程を通して’道’を立て、人類を率いて引っ張っているのです。この中で代表的なものが、キリスト教です。 我々人類が感じ、見て感覚する一切のものは、神によるものではないのです。認識を徹底させなければなりません。神によってすることではありません。自分が好むものは、誰によるものであるのか? サタンによるものなのです。これを知る人間がどれほどいるでしょうか? 人類はどんな人間になるべきか? 差しあたって好み、喜ぶすべてのものは善の神様、我々のアボジを起源として成っているものではなく、サタンの舞台で成っているものであることを知って、この楽しみの場を蹴とばし、喜びの場を跳ね退けて行かなければなりません。このような運命におかれているので、修道(道)というものは、サタンの舞台から離れようとするのです。自分が暮らしているこの家庭から離れ、この社会から離れ、この世界から離れようとするのです。離れてどこへ行くのか? 新しいところです。サタンと因縁をもって動いているこの世界ではなく、神と因縁をもって動いている世界なのです。そこが人間が望む本然の世界です。 皆さんは今まで、勝手に生きてきました。今まではこれが良い、あれは悪いといって、良い悪いを分けて生きてきたのですが、皆さんが好むそのすべてのものは、天を起源としていないということを、よくよく知らねばなりません。 これはむしろ神を悲しくさせる材料なのです。これを怨讐視して、打ってゆく者になるまでは、本然の世界に入ることはできせん。この世の中にこのような息子・娘を立てようとする天と、鉄壁にようにこれを塞いできたサタンとの闘いが、今までの歴史路程なのです。 皆さんがのらくら寝ているその家庭が、自分が留まる家庭ではないことを知らねばなりません。自身が動いているこの社会が、我々が望む社会ではないことを知り、二つの目で見るこの地区が、我々の理想とする地区ではないことを知らねばなりません。この被造世界が自分のものになっていないことを知るのです。’私のものなのに怨讐のものになっている。本来は私のものであったものを、怨讐に奪われたのだ’という心情に染みて嘆き、泣き叫ぶ群れが、地球上にどっと溢れてこなればなりません。 このような群れが出てくるまでは、歴史の恨を解く道がないのであり、歴史の恨を解くまでは、希望と愛と理想を成す神の愛の心情と、因縁を持つことができないのです。ですから世界を大審判するというのです。憤りを解いた後に、願った心情の世界を成すというのです。これが地上天国なのです。 4. ノアを中心に摂理される神の心情 ご覧なさい。カインだけが神に背反したのではありません。天はカイン以後一六〇〇年目にノアを立て、苦労されることを意に介さなかったのです。天に対してきたノアも、天のみ旨を受けることを意に介さなかったのです。ところが神はノアを知るのに、ノアは神の本当の心情を知らなかったのです。神はアベルとカインを知るのに、アベルとカインは神の心情を知らなかったように、ノアも神の心情を知らなかったのです。また、その当時の人々も、神を主とするノアの心情を知らなかったのです。 皆さんはこれを知らねばなりません。神はノアをよく知っていたのです。よく知って、ノアが神の心情を代身して神の恨を解いてあげるなら、このときに喜びの息子として、み旨を抱いてノアを見つめる神であったのです。福があるというなら、これ以上の福がどこにあるでしょう? 祝福があるというなら、これ以上の祝福がどこにあるでしょう? 栄光があるというなら、これ以上の栄光がどこにあるでしょうか? 天はこのような心情でノアを見つめていたのに、従うノアはこんな神の心情を知らなかったのです。 復帰摂理路程において、神はこんな事柄を重ねて綴ってきたのです。皆さん、知らなくても付いてきたノアが、どれほど哀れでしょうか? 分からない立場でもノアを抱きしめてきた神が、またどれほど哀れでしょうか? 分からなくても神のみ旨の為に生きると、喘ぐノアだったのです。天はこんなノアがご自身の心情を知ってくれることを願ったのですが、ノアはその心情を知らなかったのです。知らぬノアの心情も不安だったのですが、神の心情はさらに不安だったのです。ノアも神を知らないのですが、ノアと共に動くノアの友達も、ノアを知らなかったのです。神様はこのように知らない息子・娘を抱えて、その苦喪がどれほど大きかったかを、我々はよくよく知らねばなりません。 ノアが一二〇年間苦労した後に神は洪水審判をされたのですが、その後に残ったものがノアの八人の食口でした。ここに神は何を待ち望んでいたのか? 堕落しない天の食口として、天の家庭として神をアボジとして侍って愉むことを苦待したのですが、ノア自身がこれをよくよく知らなかったのです。自身は本然のアダムの資格を復帰すべき立場でありアダム家庭によって結ばれた恨を蕩減復帰すべき立場として呼ばれた自身の八人の食口だということを、ノア自身が知らなかったのです。ノアが知らないと同時に、ノアの息子・娘も知らなかったのです。ハムもノアを知らなかったのです。憤ろしく悲しいことが何でしょう? 他人が知らないことに耐えることであって、死ぬなら共に死に、喜ぶなら共に喜び、悲しむなら共に悲しむべき食口が、知ってくれなかったのです。これが天の悲しみだったのです。 このために天の歴史は延長されたのです。世の中の人間が知らなくて延長されたのではありません。知らなければならない群れが知ってくれないので、天の歴史は悲しみが加重されていったということを、よくよく知らねばなりません。ノアのまえにハムがそうであり、モ-セのまえに民族がそうであり、イエスのまえに使徒たちがそうだったのです。歴史はこのように下ってきたのです。知ってくれることを願って育て養った群れが、分かってくれなかったので、天のみ旨は壊され、引き裂かれて下ってきたのです。 5. アブラハム家庭を通した神の摂理と教訓 神がアブラハムを召命されて、カルデアのウルを離れよとされたとき、アブラハムは神の召命に応えて離れたのです。故郷を捨てて離れたのです。なぜ? そこはアブラハムが棲む世ではなかったからです。この世は恨みを受けるべき世、呪咀されるべき世でした。どんなに愛する父母や親戚たちが暮らしている地であっても、この地は天の人間が住む地ではないので、神はアブラハムを寂しい荒れはてた荒野へと押し出したのです。’カルデアのウルを離れよ’とされたのです。 アブラハムは今日皆さんが聞いている内容を知らない立場で、この罪悪の世を蹴とばして無条件で出発したのです。神様に祭物を捧げるときも、内容も知らないで祭物を捧げたのです。イサクを殺そうとしたときも、その命令の意味も分からないで、無条件に従ったのです。このように知らない立場で、天のみ旨を受けていった我々の先祖たちの歴史であったことを、知らねばなりません。責任を負う人々は知らなくても、天を尊ぶために重要視していったのです。これを知る家庭は、多くはなかったのです。 アブラハムからイサクを経て、ヤコブ時代になって、ヤコブが十二子息を連れてラバンの家から帰った目的が何であったか? この一代で、天的な家庭の基盤を造るためだったのです。天の祝福を慕い、自分の兄をだます事までやったヤコブでしたが、彼の息子・娘はこのような父を知らなかったのです。彼らはヤコブが愛するヨセフとベニヤミンを妬み憎んだのです。これが起源となり、条件となってイスラエル十二支派が、十支派の型と二支派の型に分かれる動機になったのでした。 このように歴史路程において天を尊ぶ責任者は、天のみ旨が貴いということを知って、これに従って動いてきたのですが、その責任者を知るべき食口が分かってあげないので、天の歴史を台無しにしてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 アダムとエバとその子女を復帰するための神のみ旨を、アダムの息子が背反するのか!ノアを通して成そうとしたみ旨を、その息子ハムが背反するのか! ヤコブを通して成そうとしたみ旨を、ヤコブの息子が背反するのか! サタン世界にいる者たちが背反して、知らないでいるのは当然かもしれません。しかし天に従う指導者の元で、あるいは父母の元にいる子女たちが従って来なかったので、築いてきた先祖の功績が蹂躪されて下ってきた歴史的な事実を、我々はよくよく知らねばなりません。怨讐がどこにいるのか? 門の外にいるのではありせん。イエス様は語られました。自分の家の食口が怨讐であると。このみ言は、信じない者、背反する者、天と関係ない位置で行動する者が怨讐だという意味です。 神は知らないで従うノア、アブラハム、ヤコブのような先祖たちを率いて来たのです。天は知らない者たちを立て、懇切なる心情を知ってくれることを願ったのです。どうしてこのような先祖たちを、指導者に立てたのか? 皆さんは原理を学んでよく知っているのです。しかしこれを我々の先祖たちは知らなかったのです。知らないで従ってきても、天はみ旨のまえに背反するとき、彼らを打つのです。容赦する法がないのです。 6. モ-セとイスラエル民族を中心とした摂理 ヤコブ時代を過ぎて、モ-セ時代も同じだったのです。モ-セを立てて、彼を長子イスラエルの指導者として立てようとされた天の心情を、モ-セ自身も知らなかったのです。パロ宮中、怨讐の宮中に送り、豪華絢爛たる環境で育った理由を知らなかったのです。 しかし民族精神を失うことなく、モ-セは自身のまえに豪華絢爛たる栄光が幾重にもあればあるほど、それが自身の生きる世ではないという信念が、積もっていったのです。 アブラハムもこんな信念の下に天のまえに立ち、ノアもそうであり、ヤコブもそうだったのです。モ-セもそんな立場であったのです。どんなに豪華絢爛たるパロ宮中であったとしても、怨讐の宮中だという心が、鉄石のごとく固かったのです。四〇年をパロ宮中で暮らしたモ-セは、いかなる日とて幸福な日は、一日としてなかったのです。自身の民族が悲嘆の中にいることを見つめるときに、死の恨があったとしても、引き裂かれる恨があったとしても、恐怖が襲ってきても、民族を救いたく、民族に同情する者として、民族の為に死ぬという心情が先立ったので、イスラエル民族に向かって帰っていったのです。 このようなモ-セの気概を、誰が知っていたでしょうか? イスラエル民族を愛する心を持つモ-セであることを、このときイスラエル民族の中で誰が知っていたでしょうか? もしもこのときイスラエル民族が、こんな志操を持って天を擁護し、選民を救うという心情を持ったモ-セと一つになっていたなら、天の歴史は延長されなかったのです。 しかしモ-セがイスラエル民族のまえに現れ、新しい信念のみ言、新しいみ旨を語るとき、背反することを事としたイスラエル民族だったのです。この群れが互いに争うのを見やるとき、モ-セの義侠心は燃えたのです。互いに団結して怨讐と戦わねばならない立場なのにこれを知らず、同族同士が互いに争ったので、これを見る彼の心情は切なかったのです。盛んに民族愛に燃えているときに、怨讐の国のエジプト人と同族のイスラエル人が争うのを見たモ-セは、その場でエジプト人を打ち殺したのです。イスラエル民族全体がこの時モ-セの側になって一つに団結したら、神の摂理はこの時から始まったのです。 四〇年の延長はなかったのです。民族を伴って行かなければならないモ-セは、民族の背反によって、ミデアン荒野四〇年という延長の道を、歩まざるを得なかったのです。パロ宮中で苦役を受け、イスラエル民族を奪って荒野に率いて行くモ-セと、彼に従って行くイスラエル民族は、さらに惨めな人々だったのです。 今はある主権、ある価値、ある社会的な背景が目的ではなく、ある環境やある社会を建設することが目的ではありません。神が願うことが何であるかを、知ることが目的です。 神が願う所がどこでしょうか? 神が願う地がどこでしょうか? 神も行きたく、人類も行きたい所が、どこでしょうか? そこが目的地です。 であればイスラエル民族が団結して’神が願う所がどこでしょうか?’とモ-セの後に従って、生死をものともせずにカナンの地へと駆けて行くなら、彼らは荒野で倒れることはなかったのです。神のみ旨を知らず、導かれるままに行くモ-セに対される天は、いかなる瞬間も休む間もなく、たとえモ-セが眠っている瞬間であっても、気づかって民族を見つめておられたことを、知らねばなりません。 どうなるか分からない場にモ-セを押しやって導いた天の心情も切なかったのですが、切ない場にいるそのモ-セを、イスラエル民族が分かってくれないことがさらに憤ろしいのです。ですからこの民族は、審判を受ける他はなかったのです。審判はこんな場面で起こることなのです。こうしてモ-セはみ旨を成すことなく、彼の後継者がカナン復帰のみ旨を成したのでした。 7. イエス様を中心とした神の摂理と福音の中心内容 モ-セもそうだったのですが、さらにはイエス様の時代を回想してみてください。イエス様は何故にこの地上に来られたのか? 四千年の歴史路程に来ては行った信仰の先祖たちは、知らない中で神を信じ、知らない中で天を所望として従って来たのですが、イエス様は哀れなイスラエル選民のまえに、天の心情を告げるために、追われても率いてきたお方です。この四千年の間、知らない者たちを導いてきた天の心情は、どれほど憤ろしく切なかったことでしょうか? 天はこの心情を抱えて何にも知らないイスラエル民族のまえに、メシアが来ると数千年の間、準備させてきたのでした。彼が来る日には天の心情を知るように、神の内的心情を預告させたので、イスラエル民族は知らない中でメシアを望んでいたのでした。こんな民族が、メシアを否定したのです。もしもメシアを望んでいないイスラエル民族であったなら、審判を受けることはなかったのです。 天はイスラエル民族に、知らない彼らを導く苦喪を打ち明け、わたしは誰であり、あなたがたは誰という事情を、分かち合いたかったのです。この事情を分かち合うために、四千年目に天の召命を受けたメシアが、イエスだったのです。イエス様によって歴史は照らされ、イエス様によって心情は明らかにされ、イエス様によって新しい世界は展開したのに、もしもそのときイスラエル民族がイエス様のまえに帰依し、イエス様が死ねば共に死に、生きるなら共に生きる団結する民族になっていたなら、今日この世界は原爆の恐怖におびえる世にはならなかったのです。 イエス様はこの地上に何を持って来たのか? 新しい宣布をするためのみ言を持って来たのです。新しい宣布の内容が何であるか? ’わたしはあなたがたの父である’ということです。さらには’あなたがたはわたしの民’ということです。イエス様はこのように宣布する内容を持って来られました。さらには、良いという名詞をすべて許すために来たのです。罪人であった人間が神の民になることができ、罪人であった人間が神の息子・娘になることができ、罪人であった人間が神の新婦になることができ、罪人であった人間が神を代身することができること以上に、良い知らせがどこにあるでしょうか? 持って来られた福音の、中心内容がこれなのです。 イエス様は宣布しようと来られました。四千年の間、恨を抱いて悲しんできた神の切ない心情を、宣布するために来たのです。しかしイエス様は追われたのです。草が茂るベッッサイダの野原に五千人の群衆を集め、食べる物がなく、神に哀願の祈祷を捧げたイエスだったのです。準備した聖殿は数多くあったのですが、その所が安息の居場所とならず、体をのべる所とてなかったイエスだったのです。 公然と設けられた宮殿の祭壇で神を呼び、議論すべきイエス様が、キャベツ畑の畦道で訴えるイエス様になったのは、これは何としたことか? 四千年の間準備したエルサレムの聖殿は、誰のためのものであったのか? 神の事情を告げ、心情の因縁を宣布するその主人公を迎えるために準備した、エルサレムの聖殿であったのです。しかしこれはイエス様の前には、なくなってしまったのです。平安なる場において、天のすべての事情を宣布しなければならないイエス様が、ゲッセマネの園が何としたことか? そこまではそれでもいいのです。終いには十字架の道、ゴルゴダの道とは、これは何としたことか? 彼は信じる者を慕ったのです。ユダヤの民を捜し求めたのです。信じる者を捜し、信じてくれる者を捜し、分かってくれる者を捜したが、信じる者も求められず、信じてくれる者も求められず、分かってくれる者も求められなかったのです。さらには愛する者を求めたのに、それもまた求められず、イエス様は仕方なく十字架を背負って、この地上から追放される悲しい身となってしまったのです。 悔しい天の心情を宣布するために来られたイエス様、天が約束された天的な福を与えるために来られたイエス様、選ばれたイスラエル、苦労したイスラエル、悔しかったイスラエルのすべての願いを成就させて、世界のまえに誇れる祭司長国家を成すために来られたイエス様を追い出したために、今日イスラエル民族は、このように悲惨になってしまったのです。みなイエス様を殺した、罪の代価なのです。当然、受けなければなりません。 8. イエス様はどのようなお方として来られ彼の目的は何であったか? それでは来られたイエス様は、どのようなお方であったか? 彼は無形のアボジを代身する実体のアボジだったのです。実体のアボジ。彼は我々のアボジなのです。死んでも我々のアボジ、生きても我々のアボジなのです。人生を捧げて侍るべきアボジ、永世の国でも侍るべきアボジなのです。ところがこの父は息子・娘に会って、一度も息子よと呼んでみず、一度も娘よと呼んでみないまま、息子から追われ、娘から追われ、終いには槍で突かれて死んでいったのです。悲痛なる事の中で、これ以上に悲痛なる事がどこにあるでしょうか? ですからイエス様は地上の来て’わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれには堪えられない(ヨハネ十六:十二)’とされたのです。彼は父として、子女に言うことも言えなかったのであり、新郎として新婦に言うことも言えなかったのであり、万王の王として言いたいことも言えなかったのです。その当時のロ-マの法に引っ掛からない程度のことしか言えなかったのです。それがイエス様が言いたかった言葉でしょうか? 違います。違うのです。怨讐の地でイエス様が自身の心情をすべて打ち明けたら、その場で捕まるのです。そんな状況だったのです。サタンが主管するこの世界においては反動分子であり、反逆者になってしまうのです。それゆえ天は極めて小さいが、このような事情を預告する一つの国家形態を造っておいて、こんな話をしなければならないイエス様を送られたのです。 祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどんなみ言をされても一言も聞きもらすことなく実践したなら、イエス様のみ言を中心にした理想世界は始ったのです。しかしイエス様はこのような環境を持てなかったのです。祭司長、律法学者は、行く所ことごとくイエス様の怨讐になったのです。捕らえようとしたのです。こんな局面ですから、イエス様は自分が誰であり、あなたがたは誰かということも話さずに逝かれる他なかったのです。これはどんなにか不幸なことでしょうか。 天は四千年の間苦労したご自身の事情を知らしめるために、事情を解いて手に手を重ね’アボジ!’’わが息子・娘よ!’とする一日を見るためにイエス様を送ったのですが、送ったことが恨になったまま、キリスト教二千年の歴史を成した来たことを私は知っております。 今日堕落した人間の中で善を望み、良心の指向する方向に従おうと喘ぐ人々は、何を願うべきか? ’神がおられるなら、神よ、あなたの事情を知らせてください’としなければなりまん。先祖たちが寂しこ、死の道を行き、血を流す道をものともせずに行ったのは、何のためか? 神の事情がそうであったからです。 神の事情を知ったら、次に何をすべきか? 神の心情を知らねばなりません。すでにお話した、父子の心情です。これを知ってこそ、神が私の父であり、私は父の息子・娘となることができるのです。天地が崩れる恨があっても、これだけは変わりません。これが解決されて初めて、所願とするその基準が立つのです。この瞬間、天地の逆転が正に回転するというのです。このようになる時が、終わりの日なのです。 このように知らない人類、知らない先祖たちを指導してきたことが、神の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。神はこれを知ってくれる人間が出てくることを待っていたのです。こうしイエス様がこれを知り、これを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をしなければなりません。何を宣布するのか? 天国建設の青写真を宣布するのです。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、このサタンを撃破して、新しい本然の園を建設する内容を宣布するのです。その宣布文はこの聖書には載っていません。みな捨てられたのです。ですから二千年の歴史路程は、しどろもどろの歴史であったのです。 9. 再び来られる主の使命と信仰の目的 この世界を率いてゆく主人が誰か? 民主主義でもなく、共産主義でもありません。よくよく知らねばなりません。この世界の主人が誰かといえば、神の独り子である万王の王なのです。このお方が主管される世界ですから、死亡の世界に留まっている数多くの人類は’おいでください、メシアよ’というのです。 このお方が再び来られたら、何をされるのか? アダム以後六千年の間に積まれた神の憤る心と、恨み多い心を隅々まであらわにし、先祖の恨を明らかにし、従い尊ぶべき人物たちが背反したことを明らかにし、からんだ曲折を残す過去の傷痕の歴史路程を、再び反復することのないようにすることです。これを成すために、これを宣布するために来られるお方が、主様なのです。このお方はサタンを糾明して審判台にのせ、人類を糾明して審判することができる原則を立てておき、その次に天国の法度を宣布されるのです。わたしが求める息子・娘はこのような息子・娘、わたしが求めるその息子・娘が暮らす家庭はこのような家庭、わたしが建設する社会はこのような社会、わたしが成すべき国はこのような国であると宣布し、その統治圏内に世界を引き入れ、天と地が一つに和する基台を造った後に、神の国を宣布することです。 今日我々が信じている聖書のみ言、六千年の摂理を支えてきた聖書のみ言があるとしても、これは怨讐の国でなされたみ言ですから、心をゆるして語った言葉は一つもないのです。これをよくよく知らねばなりません。天国に通じる理想的な言葉はサタンが讒訴するので、呪咀する立場でされたみ言です。’讒訴するおまえの権限が何であり、おまえが讒訴する理由が何か?’とサタンを踏みつけ、勝利的な基盤の上でされたみ言は、一言もないのです。これを信じているのです。 キリスト教信徒はこの聖書を信じているのです。聖書を読み、聖書を学ぶ目的は、聖書の句節を離れたところにあるのではありません。イエスの行跡を知ることが目的ではありません。良くても悪くても、イエスがなぜ来たが行ったか、こんなことを知らなくても聖書の中に隠されている、聖書を通して表れようとしていることが何であるかを、知らねばならないのです。神を’わたしの父’といえば神も’おまえはわが娘であり、わが息子’とされる心情の場に立って、怨讐もいかなる者も、これに手出しはせさないという覚悟と信念で、天をアボジと侍って生きる人間がいるなら、彼は聖書の完成者なのです。このようになれば、聖書の一節も知らなくてもいいのです。 こんな心情の場まで行こうとするなら、我々は知らねばなりません。我々のアボジはこんな信念を持って人間を創り、堕落した人間のゆえにこのように苦労され、イエス様をこの地上に送られてから今まで二千年の間、こんな歴史的な心情を抱いてきたことを、知らねばなりません。こんな神を知り、この神は時代的な私を中心に何かを成すために、心情を注いでおられることを知らねばなりません。 歴史を抱えてくる間、アボジは我々の先祖に使いをさせるとき、僕として使いをさせ、息子として使いをさせたことがないのです。僕として闘わせ、民として仇を返しても、息子として立て、怨讐に仇を返してはみなかったのです。それで息子を立て、怨讐に仇を打つ日が審判の日なのです。 我々は知らねばなりません。何を知るのか? 神の事情を知らねばなりません。この事情を知って何をするのか? 神の心情を知らねばなりません。神の心情を知って何をするのか? その次には、わたしのアボジだとしなければなりません。わたしのアボジ、我々のアボジ。 我々がこのように学び、聞き、侍る生活をするのは、何のためか? 六千年の間、人類が喘いできた目的が何か? それは聖書に流れている神の事情を知り、神の心情を知るためです。民族や国家は言うまでもなく、個々人を父母の心情で対し、傷を負い、蹂躪され排斥され、引き裂かれてきたこの神が、私のアボジであることを知るためです。 イエス様は祈祷されました。ゴルゴダに登る前にすでに倒れることを知り、ゲッセマネの園で夜を明かして祈祷されたのです。’わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)’と。これは’あなたがわたしを送られたのは、父の基準を立てるためであり、わたしが地に生まれたのはアダムの基準を立てるためであったのに、父を証さなければならない立場で、このように倒れることはできません’という意味です。これがイエス様の心情であることを、知らねばなりません。天地が崩れる恨があったとしても、アボジが送られたイエス様、息子の基準を得なければならないイエスだったので、天上に対して、アボジに対して、このみ旨に背反することはできなかったのです。 10. 神が求められる息子・娘 イエス様は息子として来たが、息子として逝ったのです。息子として逝ったが、息子として復活したのです。皆さん神の息子として、あるいは娘として生まれ、神の息子としてあるいは娘として生きましたか? 悔い改めなければなりません。ある家の息子として生まれたら、死んでもその家の息子であり、生きてもその家の息子です。ある家の娘として生まれたら、死んでもその家の娘であり、生きてもその家の娘です。この因縁を誰が否定できるでしょうか? 神は求めておられるのです。天上の法度を立てて、叫んでおられるのです。わが息子と呼べる群れを求めておられるのです。生きているときもわが息子と呼べる息子を求めておられるのです。息子だけではありません。わが娘よと呼べる娘、生きているときもわが娘と呼べる娘、死ぬときもわが息子・娘と呼べる息子・娘を、求めておられるのです。 イエス様は息子として来たが息子として死に、娘として来て娘として死ぬものがいなかったのです。それゆえ新婦を捜し求めるのです。このような天の心情を知らねばなりません。息子として来たが、死に逝くイエス様のまえに立つ新婦を求められなかったので、娘として生まれ、娘として死ぬ新婦を求め’おう、わが息子・娘よ’と本然の園でアダムとエバを創り、手をおいて祝福するその喜びの心情を、神は再び求めておられるのです。恨の心情を蕩減してなくし、善の心情に連結させ、相続させることができる息子・娘がいなければなりません。この息子・娘はサタン世界の恐怖の雰囲気の中ではなく、サタンが讒訴してはならない息子・娘なのです。 天地のどこへ行っても、自由自在に活動できる息子・娘を持つことが神の願いであり、神が摂理される目的なのです。このために全世界のキリスト教信徒を立て、その日を預告させてきたことを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 11. キリスト教徒に対する神の所望 全世界のキリスト教徒は、イスラエルのこのような背反の歴史を知っています。イエス様を怨讐に渡した、このような惨めな歴史を歩んできたことを知っています。こんな歴史が民族層を過ぎて今日、世界的な層へと登場したのが、キリスト教徒なのです。ではこのキリスト教徒は、どのようにしなければならないか? 兄弟同士が争っていたら滅びるのです。ですから教派と教派が争うのを見やり、彼らを棒で打ち下ろし、無知な羊を死に追いやる群れと闘い、天を代身して闘う勇士が現れるのを、神は願っているのです。 イスラエルを籠絡し、天に背反したすべての祭司長、律法学者、パリサイ人がその職責をすべて精算して、イスラエル民族をイエス様のまえに屈伏させたなら、神はみ旨を立てることができるのです。 歴史がこのように血にまみれ、悲しみとなって引きつがれてきたことを知る我々は、団結しなればなりません。団結。君も団結、僕も団結。洋の東西を問わず、国家民族を問わず、すべてが団結しなければなりません。これがみ旨を抱く人々が肝に銘ずべき、一つの標語なのです。団結するときは生活統一、行動統一、理念統一、心情統一が成されなければなりません。黒人が問題ではありません。白人が問題ではありません。イエスの血潮が通っている人間、心情がわき起こってアボジと叫びたい人間は、すべて団結しなければなりません。このような運動を全世界のキリスト教徒のまえに、宣布すべき時が近づいてきたことを、我々は知らねばなりません。 天はこのようになることを願っているのです。全世界のキリスト教徒が滅んだイスラエルの代身、第二のイスラエルとして登場して、怨讐たちと闘うことを願っているのです。そんな日が来るのですが、その日がイエス再臨の日であり、この闘いに責任を持って来るお方が、再臨のイエス様なのです。 人間が知らない間に導いて来られた神は六千年の間、独り苦労されて今日、全世界をキリスト教圏内に追い込み、このような環境を造っておかれたのです。これを見渡すとき、我々は恐れ多い心を持たねばなりません。誰のために? 無知なる民の為に、何も言えない恨多いこの群れの為に、天はこのように苦労されたのです。皆さんは恐れ多い心で望み見なければなりません。 今、残ることが何か? 先祖たちも知らなかった神の心情を、我々が知ることです。神の心情を、誰が知っていたか? 神の心情を、誰が知ろう! 選民権を誇り、四千年の摂理の曲折を抱えてきたイスラエル民族が知っていたか? 二千年の間イエス様を信じてきたキリスト教徒、あるいはこの時代の全世界のキリスト教徒が知っていたか? 知らなかったのです。 神は求めておられます。誰を? アボジの心を知り、天地が変わろうとも決して変わることのない心情を持つ、アボジと息子・娘の因縁を結ぶことのできる人間を求めておられるのです。全世界のキリスト教徒がみな知らなくても、知ってくれる息子・娘が一人でも出てくるなら、問題は収拾されるのです。先祖たちも神の心情を知らなかったのです。さかのぼって振り返って見るとき、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブとモ-セもそうだったのです。すべてが知らない中で環境を開拓していったので、知らせるためにイエス様は来られたのです。それゆえ、また来なければなりません。 ここに集う皆さん、皆さんはどのように考えていますか? 神は誰なのか、分かっているでしょうか? 神が我々のアボジであることを、知っているでしょうか? 皆さんの心と体はサタン世界にからまれているのですが、これを解脱して神のまえに立つ息子・娘の威信を得ているでしょうか? 一歩進んで天は要求されているのです。私でも息子になることができる息子、私でも娘になることができる娘を、願っておられるのです。この息子・娘が、皆さんを通して出てくることを願っておられるのです。ですから皆さんには、私でも息子・娘になることができる息子・娘を、天のまえに得てさし上げる責任があるのです。このような責任を担う者は歴史的な解怨を成就することができる者、神の直系子女という名分を受けるに不足のない者たちです。 12. 神の息子娘の威信を立てるべき我々の責任 私は言いたいのです。今までこれを知らせるために来た歴史が、どんな歴史であったかを。血に染まる歴史であったことを、知らねばなりません。涙が数千万べん流されたみ言であることを知らねばなりません。自分が立っているこの地を求めるため、この人類を求めるためだったのです。この人類の背には、先祖の血の跡がこり固まっているのです。この人類の額、あるいは裾には先祖の血の涙が残っているのです。これを見ることのできる人間にならねばなりません。 先祖たちは当然、涙を流して死なねばならなかったのであり、私でも神の息子であり、生きても神の息子であり、死んで復活しても息子であったその息子の、涙と血の跡が皆さんの体に染みていることを知らねばなりません。教えることを願ったイエスの心情を、この時代に生きる我々が知る権限を与えられたなら、この栄光を何によって報いるのか? 神様は知らせるために六千年の間苦労され、イエス様を送り、先祖たちを犠牲にしてきたのも、無意味で無価値で無感覚なだけの人類を集め、知らせようとする一言は、数千万の善なる人々の首をくくり、血を流す祭壇のみ言であることを知らねばなりません。 我々は学びました。我々は分かったと自認しています。分かったら宣布すべき責任があるのです。知らせるこの一言のみ言には、刑場に消えた数千数万の善なる人々に知らせることができなかった神の曲折があることを、知らねばなりません。皆さんが創造原理から復帰原理までの全体のみ言を受けるとき、このみ言の一言々々には血の涙がこり固まっているのです。これを求めるために苦労した人間はさしおいて、歴代の先祖たちの血の涙と溜め息が、切々とからんでいることを知らねばなりません これを求めてどんな道も甘受してゆく人間がいるなら、彼が歩む路程には一言のみ言を求めるにも血の涙の事由が宿り、呪咀と恨みが溢れる歩みを、ものともせずに行ったことを知らねばなりません。この一言のみ言の下には、血の涙がこり固まり、死の呻き声が私を催促していることを感じる者なら、歴史的な神の心情と事情を知り、神が所願として求める息子の面目を得るのです。このようになれば六千年の後に生まれた息子であったも、心情を中心にすれば六千年前の私であり、心情を中心にすれば四千年前の私であり、心情を中心にすれば二千年前のイエス様と、同じことになるのです。 皆さん、我々はこのみ言を通過しなければなりません。み言を越えてゆくには血潮が飛び、涙の道が塞ぐのです。これをものともせずに行かねばなりません。このみ言を越え、実体に侍るには、傷を負い、十字架に架けられて死ぬ境地の実体を迎える悲壮な覚悟を、皆さんは持たなければなりません。このみ言を抱いてゆく場で、天の背反者とされ、良からぬ烙印を押されたとしても、あるいは背反されて露のように消える恨があったとしても’自分は血潮がこり固まるこのみ言と共に死ぬのだ’とする気概を持つ人間にならねばなりません。 復帰というのですが、何を復帰するのですか? み言を失ったことが堕落ですから、み言を求めなければなりません。み言を求めた後に、何をしなければならないのでしょう?み言を求めた後には、実体を復帰しなければなりません。実体に侍るには事情が通じなければなりません。事情が通じるにはどうするのか。心情が連結されなければなりません。 今までの救援摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。ですから人類は真理のみ言を求めてさまよったのです。真理を求めた後には、実体を通過しなければなりません。この実体を通過しない恨が残っているので、この地上に実体の主人公である一人のお方が来るのを願ったいるのです。これが再臨思想なのです。実体通過の恩賜を受けた後に、何をするのでしょう? 新婦の装いをして、新郎・新婦の因縁を結び、心情の門を通過して行ってこそ、神の相続者になることができるのです。み言をもっては相続できません。身体だけをもっては相続できません。実体がみ言の化身になって、神の心情を通過したという合格証を受けてこそ、天上天下の大主宰たる神の息子・娘になることができるのです。 13. 神の心情を知る者となれ 皆さん、我々はよくよく聞きました。我々はよくよく学んだのです。み言が根づよくのびる所に、生命が躍動するということを知りました。み言が自分の体をかすめて過ぎるとき、歓喜と解放感が押し寄せることを知ったのです。しかし、それだけで満足しては駄目です。このみ言の後ろには血の涙の跡があることを知り、悲しみの声を聞くことができなければなりません。これを知り、またこのように行く恨があったとしても、感謝して恐れ多い心が先立つ場であってこそ、神のまえに立つことができる息子・娘になるのです。 皆さん、六千年の間、人間は神の心情を少しも知りませんでした。しかし天が喜ぶ一時があるとして、その一時はどのような時か? 心情によって神を知らせ時です。善なる人々を通して、死亡の世界の人間を生かそうとされる神の心情を知り、その心情を解怨するために神の代身、生かす責任を負って闘い、神の心情を宣布する人間がいたとしたら、天はすべてのものを惜しげなく、その人間のまえに渡されるのです。惜しまれることはないのです。 今、我々は持っているのです。我々は誇っているのです。我々は残しているのです。何を? 我々の名誉を残すためではなく、我々の家門を誇るためではなく、我々の何かを立てるためではありません。ただ一つ、我々が誇るものが何でしょうか? 神の心情です。その次に誇るものが、何でしょうか? 神は我々のアボジでり、私は神の息子・娘であるということです。個人がそうであり、家庭がそうであり、民族、世界がそうであり、天上天下がそうだというとき、神の願いは成就するのであり、神の恨は解かれるのです。神の天地創造の理念は完成するのです こんな責任が皆さん各自にあることを知り、神の心情が分からないなら、皆さんが生きている間に知らねばなりません。自分から、あるいはそっと神の愛の心情を存じあげ、真の息子・娘と言うこともなく消えてゆく皆さんになるなら、皆さんに天国が問題ではありません。天上の皇国で、天の貴族になることに間違いないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.16
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再臨期における洗礼ヨハネ的使命の生活と我々の覚悟一九六〇年一月六日(水)前本部教会*本み言はこの部分から録音されている *婦人たちが天の足場になってきたのです。こんな理由からイエスを信奉する婦人たちが、今まで信仰生活をする過程で多くが犠牲になってきました。のみならず、天に近づいて接近してゆく最後の瞬間まで、婦人たちが開拓してきたのです。それでキリスト教は、婦人の宗教なのです。男性たちは天使長と同じです。男性たちは婦人たちを棒で打ってきたのですが、結果的には従ったのです。 1. キリスト教を通した復帰摂理の様相 全世界のキリスト教徒を比率で計ってみると、五分の三以上が婦人たちなのです。この婦人たちが今まで天的な使命を遂行してきたのです。天も婦人たちを相対として多くの役事をされてきました。役事するときも、賢い優れた婦人を立ててするのではなく、最も底から、乞食の場から復帰歴史を始めてきたのです。哀れな女性たちから始めて橋を掛け、その人々が使命を果たせば、また時々ごとに他の人を立て、だんだん橋を掛けてきたのです。このようにして最後には、女性を代表して世界的に押し出しても遜色ない最高の母になるそんな場まで、復帰摂理をしてきたのです。女性たちはこんな路程を経て行かねばならないのです。これが天的な摂理の、原則になっているのです。ですから皆さんは知らないでしょうが、全世界に広がる婦人たちを通してこのような役事が展開されたのです。 こんな摂理的な内容があるので、新しい使命を帯びる教派、即ち特別な教派は女性が使命を帯びてくるのです。こんな教派は新しい時代の特異な使命の足場を築くために役事するのです。この韓国の国土を中心にある天的な摂理があるなら、この国土において内的使命を成す運動が始まらなければなりません。その中で外的使命は男性たちが責任を負い、内的な使命は女性たちが責任を負わねばなりません。内的使命は女性たちが成し、外的使命は男性たちがやるということです。 堕落した形を見れば、エバがアダムを主管したのですから、復帰路程では婦人がアダムを代身して内的使命に責任を負い、アダムがエバの主管を受けた故に、男性たちは復帰路程において外的使命を担い、堕落したときの基準を捜し求めてゆくのです。 2. 再臨時代の神霊役事 ですからこの韓国の教団においては、神霊なる役事が起こらなければなりません。韓国キリスト教の歴史が約八〇年になるのですが今から約六〇年前から神霊役事が始まったのです。このようにして解放まで継続されたのです。そして解放直後に全国的に’聖霊降臨四〇周年復興会’を一か月か、四〇日間かやったでしょう。憶えていますか? 今から五〇年ないし六〇余年のすべて、宗教界を中心にしてこのように神霊役事の基盤を築いてきたのです。こうしてこれが左右に分かれ、内的から外的に分かれていって、神霊役事が展開されたのです。ここに特別な祈祷をする婦人たちに、イエス様が直接現れて指導されたのです。 今から約四〇年前、「あのチョンチャンロ(鄭錫天長老)お母さんが入神して啓示を受けたのは今から何年前ですか?」「・・・・」「ですから三七年前でしょう?」それで恩賜をうける動機は、四〇年前からこんな役事があったのです。天的な女性を代表して、韓国の女性を代表して、天と連絡する使命をする人がいなければならないのです。現れる一人のお方が現れるには、その一人の人を立てるために、三人を立てて役事するのです。 この時代にこんな使命を帯びた三人の女性が、韓国河山を中心に役事してきたのです。この女性たちを中心に、恩恵に浴することができる人々が相当に多かったのです。このような人々を収拾していって、一人の人物を立てて新しい時代、即ち再臨時代の新しい歴史を預告してきたのです。のみならず、聖書の未知の事実を解明したのです。解明するときは堕落問題とか、イエス様がこの地上に救い主として来た目的等、聖書において最も未知の骨子となる問題等の、輪郭を解明してきたのです。そして天はここに水を注ぐとか、聖霊の火を下して、糾合運動をしてきたのです。この運動をするとき、知恵があれば壊れなかったのです。 ところがこんな神霊なる集団の中には、天が’踊れ’といえばその通りに踊りを踊る集団があったのです。エデンの園で裸で暮らしていたので、事実がそうなので、そんな命令をしたのです。’おまえは裸になって踊りを踊れ’というのです。天が命令するのですから、踊らないでしょうか? 戸をぴったり閉めて一人で踊るのはかまいませんが、数百人が伏せって祈祷していたのが、踊れと言われればどうしたでしょうか? 何人かは裸になって踊りを踊ることもしたのです。それでそんな噂が生まれたのです。神霊なる恩恵を受けて直接的に役事する過程では、必ずこんな事があるのであって、こんな命令をするときには、理由があるのです。この命令を知恵で消化して、処していかなければなりません。 なぜこんな命令をするのかということを、解明する天的な条件を立てなければなりません。これはサタンを屈伏させるための、一つの作戦なのですが、これを知らないで受けた通りに動いていった多くの聖徒たちは、ここでやられてしまったのです。天的に指導する天の原則的な内容を知らないで動いた結果、今まで神霊なる集団が良からぬ結果となって壊れていったのです。 今から約四〇年前に、特別な恩賜を受けて役事をした集団があったのですが、これがチョルサン(平安北道)の新主派です、新主派。新主とは新主人をいうのですが、これは婦人を見て主様だというのです。なぜそうなのでしょう? 夫婦、即ち新郎・新婦は一体です。創造理念から見るとき、夫婦は一つの体になるように創られたので、一体理念を中心に役事するのです。新郎・新婦の場は創造理念が成る場ですから、この最高の基準を中心に教えてくれたのです。それで新郎・新婦であると教え、主の妻だと教えたのです。一つの体であると教えたのです。’あなたはわたしであり、わたしはあなた’と、’あなたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちに’というのです。一つの体だということです。 3. 新主派を中心とした天の摂理 天は縦的であり、地は横的です。縦的な存在が地上に下ってくれば、主様は男になるのです。男である主様は即ち天であり、地は婦人であり、夫婦は一つの体ですから、地において主様という者がいるのです。分かりますか? それで婦人であっても、主様という人が多いのです。これを理解しておかなければなりません。 こんな役事をしてゆくにおいて、彼らの息子娘が良く敬うなら、失敗しないのです。こんな天的な責任を負って使命を果たす婦人を、その直系の息子娘が敬わなかったら、嫁が敬わなければなりません。その母が死ねといえば死に、裸になって踊れといえば踊らなければなりません。事実、母が踊れといえば三人が裸になって、踊らなければならないのです。これが何でしょうか? 母を中心にして三人が一つになって、天の命令に服従して、従わなければならないという意味です。嫁であれ息子であれ娘であれ、すべてが一つになって天と地を敬うなら、壊れることはないのです。 ところが知ってみれば、チョルサンの新主派を率いた人の息子が、ここにいるチョン長老なのです。そしてその娘はチョンソクオン(鄭錫温)氏です。み旨は直系へと流れてゆくので、息子を中心にして嫁にみ旨があるのです。このような事はお母さんが話さないので知らないでしょうが、天的な流れがこうなのです。だから息子と嫁が至誠をつくして母よりもさらに忠誠をなせば、絶対に壊れないのです。ところが責任を果たさなかったと見るのです。(チョン長老に’やらなかったでしょう’と問うてみれば長老も’はい’と答える)そうなれば必ずその嫁や息子を打つのです。一人が祭物にならねばなりません。 (チョン長老に、そんな事があったかと問えば、夫人が死んだと答える)嫁がまず死んだのです。嫁がまず死に、その次に母までが死んだのです。天はこのように役事されるのです。それでもチョン長老が生き残ったのは、アダムを復帰しなければならないみ旨があるからです。それで残っているのです。アダムは打つことがありません。アダムの役事があるので残っているのです。このような事を、皆さんは知らねばなりません。 彼らが責任を果たさなければ彼らの使命は、彼らに誠を尽くして侍る信徒に移されるのです。鄭氏の家門の天的な功績が大きいので、天は彼らを愛され、恩賜を与えられたにもかかわらず、その息子娘がみ旨を尊ばなければ、彼に従った信徒たちに受け継がれるのです。このようになれば、丸ごと移されるのです。これが一代で駄目なら、三代までゆくのです。それでこの使命を受け継いだ人が誰かというと、この母に至誠を尽くして侍った一人の婦人でした。それが許氏夫人です。 この夫人は生活のすべてを、主様を中心にしてきたのです。そのようにすれば天は、一番最初に罪を脱ぐ方法を教え、その次に生活する方式を教え、また次には主様が来た後に子女を育てる方式を教えたのです。順序がこうなのです。この許氏夫人は主様に侍って生活する法度と、全体的な規範例を立てて準備したのです。ところがこれは解放される約七年前から、準備しなければならなかったのです。(先生がチョンソクチョン長老に、母親がいつ死んだかと問えば、解放直前と答える)元来は解放される七年前から、このような準備をして来なければならないのです。許氏夫人は解放前からこんな準備をしなければなりません。(許氏がいつからこんな準備をしたかと問うと、解放される三年前からと答える)原則は七年前から、こんな準備をして来なければなりません。 このようになれば、韓国を中心にして再臨理念が出発するようになっていたのです。ですから七年前から準備して、役事を下して来なければならなかったのです。こうしてこれを受け継いで、新しい役事をして行かなければなりません。そのときは一段階落ちるのです。自分が主様だと証しするのではなく、主様の新婦だとして主様を産むというのです。腹中を通して、主様が産まれるというのです。これは復帰ですから、こうなるのです。これがマリア的な使命です。一番目(金氏)はエバ的な使命であり、その次(許氏)はマリア的な使命です。 マリア的な使命ですから、許氏夫人はイエスを産んで育てる体験をするのです。イエス様が産まれて過ごした、すべての事を体験するのです。イエス様が三〇余年を過ごされたのですが、この地上でみ旨を成すことなく逝かれたので、そのすべての恨を解くための一切の準備をしなければならないのです。それで許氏夫人は着物も作って、みな準備したのです。こうして主様は韓国に来られるのであり、幼な子として産まれるというのです。そしてこのように生活しなければならないということを、全部教えてあげたのです。このような歴史は、絶対になくてはならないのです。これからは、先生に責任があります。ここにいるチョン長老の母がなす使命と、許氏夫人の使命に対するすべての事、今まで異端だと踏みつけられ、サタンに蹂躪されたこのすべての事を先生が全部みな明らかにして、天的な歴史として残しておかなければなりません。 4. 再臨役事の始まりとその準備 許氏夫人は主様が来れば侍る生活的な、すべての準備をしたのです。またイエス様が地上に来て三三年間生きて、み旨を成せずに願わざる十字架につけられたので、これを復帰するための準備をしたのです。そして再び来る主様は、韓国の人として来られるとしたのです。そのお方の身長がどれくらいで、体格がどうかということまで啓示を受けて、着物から寝具に至るまで一切を準備したのです。元来このようなことをすべて、準備しなければならないのです。これを準備する者が地上にいないので、主様を送れないのです。 昔イスラエル民族が、主様が寝る部屋一間準備しないで、イエス様は飼葉桶に寝かせられたのです。このような恨を抱く天ですから、神は選んだ人を立てて生活的なすべてのもの、即ち着る着物、おられる部屋、家庭の器物一切を準備させたのです。この時代に文化生活をする東西洋の、誰もが持てないような最高の水準で、すべての物を準備させたのです。イエス様当時、一二〇門徒がこれをしなかった恨を残したので、世界的な使命を負って来られる主様の舞台を準備するためには、少なくとも一二〇〇名以上の教徒たちが動員されなければならないのです。(先生が腹中教徒がみんなで何名かと問い、チョンチュンソクが約三〇〇名と返事する)元来は一二〇〇名以上が動員されて、その準備をすべきなのです。こんな教派を中心にして、動いて行かねばならないのです。 韓国がアダム型の国家として、復帰されなければなりません。日本はエバ国家であり、韓国はアダム国家です。アダムがエバに主管されて、アダム国家になるべきこの国家は、この方式の通りに日本に三六年間支配されたのです。元来は四〇年の苦難の期間です。韓国という国家が、四〇年目に出てきたのです。日帝治下三六年ですが、軍政時代の四年があって、四〇年の苦難期間を経ていって、韓国は解放と共に復帰されたアダム国家として現れたのです。こうして解放されるや、再臨役事が始まったのです。 天的に見るとき、一人の婦人が蘇生役事の使命を成し、また一人の婦人が中間的な責任を成したので、新しいものが出て来なければなりません。皆さん、ノアが鳩を飛ばすとき第一次、二次は同じ鳩でしたが、三次には他の鳩を飛ばしたのです。一次大戦、二次大戦は国を中心に起こったのですが、三次大戦は他のことを中心に起こるのです。これは即ち直系系統が責任を果たさなければ、代わって必ず一時的に蕩減条件を立てて、いっぺんに越えて行くということです。ですから解放の鐘の音と共に、こんな使命を成す人が出てこなければなりません。女性としての、こんな人が出てこなければなりません。三代に渡ってするのです。ですから許氏夫人の他にこんな使命を成す婦人が、また一人いなければならないのです。分かりますか? このように下って来るのです。 先生はすでに、このような天的な使命があることを知って、解放直後からこの事に責任を負ってきたのです。その前には、親友たちも先生が何をやるのか知らなかったのです。それは信仰生活を良くやる一青年、と思っていたのです。先生と共にいた妹たちも知りませんでした。父母も知らず、誰も分かりません。こんな中で、私は解放の鐘の音と共に、新しい道へ出て行ったのです。 婦人もそうですが、男性の側でもこのような事をしなければなりません。男たちもこのおばさんたちに対備して、神霊役事をしなければなりません。男性は東側であり、婦人は西側です。ですから西側であるチョルサンでは婦人たちが神霊役事をして、東側のウオンサンを中心として、男性たちの神霊の役事が起こったのです。ここにファンククジュウ、イヨンド、ペクナンジュウ、等が神霊役事をしたのです。このとき、このような外的な形態を基盤とした神霊役事に責任を負ってきた方が、イヨンド牧師でした。彼は韓国教界で神霊なる役事をしたのですが、異端として追われ、三三才で死んだのです。この方がみ旨を果たすことなく死んだので、この方の代を継ぐ方がなければなりません。この三代を経て、必ずこのような方がなければならないのです。こんな責任を負う一人の方がいるのですが、これを皆さんに話していないのです。 5. 再臨期における先生を中心とした役事とその過程 それでは先生はどうしなければならないか? この方たちに会わなければなりません。それで先生は解放直後、神霊なる人に会おうとしたのです。最も信じがたいことを言う人間に会わなければならないのです。どんな人間に会わなければならないか。自分が主様だと言う人に会わねばならず、’私は主様の一番の新婦’という人に会わねばならず、さらには’私はエホバの夫人’と言う人に会わねばなりません。先生がこんな神霊なる人を求めて、韓国の教界を捜したがいないのです。 ところが救援船という信仰団体に、キムエグンという方がいるのですが、この人が堕落問題について原則的なことは知らないのですが、果実を取って食べたことが堕落ではないか、という程度は知っているのです。これ以外は知らないのです。それでこの方に会ったのです。天的な使命を受け継いだこの男性は、洗礼ヨハネ的な使命を帯びた人でした。 洗礼ヨハネはイエスのまえに、サタンを防ぎ止めるべき者です。洗礼ヨハネという存在は、堕落したアダムが生き返った存在、即ちサタンの支配を受けて落ちたのが、再び復活した形態、サタンを屈伏させなければならないアダム型であるということです。洗礼ヨハネはこんなアダム、生き返ったアダムということです。サタンを屈伏させるべきアダム型です。洗礼ヨハネがサタンに勝ったことを受け継いだイエスは、サタンの侵犯、サタンの試みを受けてはならなかったのです。イエスはこんな場で祝福を受け、サタンの讒訴を受けない場で、み旨を成そうとしたのです。ところが洗礼ヨハネが責任を担わないので、洗礼ヨハネが崩れたので、サタンがイエスのまえに現れるようになったのです。このようになったので、イエスは洗礼ヨハネの代身、昔アダムを手折ったサタンと歴史的な対決をすべく行ったのが、四〇日断食期間の闘いでした。分かりますか? 先生は二十歳を過ぎてから、こんな人に会わなければならないことを知っていました。どんな道を通っても、一度は会わねばならない人であることを知っていたのですが、すぐには会えませんでした。そうしていたところが、解放の鐘の音と共にこの方に会ったのです。それで洗礼ヨハネがイエスに祝福を与えたように、この方も先生に祝福をみなしたのです。自分が想像もしない言葉で、祝福したのです。 その時は先生は何にも知らない食口の様子で、彼を訪ねたのです。洗礼を受けようと、洗礼ヨハネを訪ねたイエスと同じように。こうして彼のすべての基盤をそのまま相続しなければならないのですが、そうするためには信奉者として認定される苦労の過程を経なければなりません。ですから、六か月の間いたのです。六か月の間、涙も沢山流しました。ここにいる我々の食口の中で、知る人がいるかも知れません。彼に従う主な弟子の全部を先生に相続させるべき天的な使命が彼にあったが故に、先生は内的に主な人の前にこんな話をし、また自分が直接話さなくても天が彼らに、文先生に従えと命令したのです。であるにもかかわらず、彼らは悟らなかったのです。’我々が侍っている先生がこれこれのお方であるのに、天が我々の先生を捨てて、何ものでもないあの文先生に従えとは何ということか’というのです。 神が何度も教えてくれたのです。期間をおいて役事したのですが、それでも彼らは悟らなかったのです。それで先生は’今や祝福を受けたのだから、この基準をもって神霊なる役事をする婦人を訪ねなければならない’と考えたのです。’わたしはエホバの夫人だ。誰でもわたしに屈伏すれば救われる’という夫人を捜したのです。このお方は復活したエバですから、堕落直後のエバを代身した役事をするので、両方の役事をする人だったのです。ある時は神が入って役事し、またある時はサタンが入って役事する、緩衝形の実体です。こんな婦人に会って、実体で対決して挫かなければならないのです。 それでこんな婦人がいるかどうか、各方面に噂になっている道を捜して、この婦人に会ったのです。他人が信じない、他人が知らない事を言う婦人に会って、とても嬉しかったのです。この婦人は、先生よりも歳が上だったのです。母のような使命をする方ですよ。復帰歴史がこうです。先生は平壌へ行ってこの方に会い、誠精を尽くして侍ったのです。こんな先生ですから、皆さんが先生に侍らなかったら天法に引っ掛かるのです。天的な使命を負う天のプロが、どのように入ってどのように帰結するかをみな知っていた先生は、何にも知らない三尺の童子のような様子で、このおばあさんが死ぬる時まで誠精を込めて侍ったのです。このおばあさんの下着まで洗ったのです。 先生が平壌に行っている時に侍ったこのおばあさんは、もの心もなしにああしろこうしろと言うのです。良い物があれば、全部持って来いというのです。これはそうなのです。蕩減復帰時代ですから、これからの万物復帰を真似るのです。先生はこんな人間に、神のように侍ったのです。その所に集まる食口たちは、このおばあさんが相手にしてくれないので、先生に会いに集まったのです。しかしながら先生は、このおばあさんに至誠を尽くして侍ったのです。なぜ、侍るのか? 天のものは天のものとして、サタンのものはサタンのものとして、分けておかなければならないからです。ここに分けておかなかったら、復帰の基準を立てることができないので、絶対服従して侍るのです。皆さん、天がサタンを捕まえるために、どのようにするか知ってますか? サタンに服従して捕まえてくるのです。今までこのようにして来たのです。これを知らねばなりません。十八か月以上、二一か月以上こんな期間をおいて、従順の期間を経なければなりません。であればそれだけの祝福をされるのです。 このおばあさんに二つの役事をするのですが、必ずサタンがまず役事するのです。天が先に現れることはないのです。それで、ここに行ったとき、怨讐視するのです。しかし先生はすでにそうなることを知っていたので、相手になりません。終いまで頭を下げていたのです。踏みつけ、責められても、三度以上従順にしていればサタンが踏みつけません。むしろ事実を、証ししなければなりません。このときに、奪ってこなければなりません。虐げられても従順に侍れば、天のはしの天使長が祝福するのです。であれば’正しくやった’と上がってくるのです。蕩減復帰原則の通りに何、何をしていって段階的に上がるのです。こうしているとついには、この人は天上天下の誰々だと証しするのです。ここからは小突くのです。’仕えよ!’というのです。こうなるとこのおばあさんは’いきなりこれは、どうしたことか?’というのです。(場内拍手) 6. 統一教会が現れるようになった霊的基盤 このおばあさんはこれから天が祝福される子女が、自分の息子・娘なのですが、これがそうではなかったのです。このおばあさんは息子・娘の数も多かったのです。アダムからノアのときまでの十代の型、元来家庭的な出発をしたならこの十代型を持たなければなりません。このおばあさんはそのために、天は自分の十人の息子・娘をとても愛すると言うのです。私は見ていてじっと我慢したのです。しかしこのおばあさんが祝福をするときまでは、このおばあさんの息子・娘にまで侍らねばなりません。これに耐えて、母のように侍らねばなりません。それで’おばあさんの言われることは正しいことです。この息子娘は、神様がとても愛される息子・娘です’としてきたのです。 このようにしてお終いに祝福を受けた後で’私は誰々である。このときは誰々であるから、復帰の恨を解く天のみ旨のまえに屈伏せよ’と言ったのです。 自分の思い通りに主管して、ああしろこうしろと言ってきた若い青年が、このように現れれば、これは何としたことでしょう?’わたしはエホバの婦人なのだから’としてきた場なのに、屈伏しなければならないとしたら、気がおかしくなるのです。ここでこのおばあさんが従順であったら、先生も苦労しないのです。従順でなければならないのですが、これが大変なのです。ここに天命なら天命が、みな崩れてしまったのです。屈伏しないで反対したこの時から、このおばあさんは精神が異常になったのです。天の福をみな奪ってサタンはサタンなりに、ポキンと割れたのです。このようにして、割れ始めたのです。こうして、天の強盗という名札がついたのです。 このようにして今、内外の祝福基準を得たので、どこに行っても闘うことができるのです。この基準が成るまで、内外の霊的な試験は言うことができません。どのような試験まであるかというと、四〇日の試験期間があったのです。この時は霊界のすべての霊人たちが全部、このおばあさんの側になって押し寄せたのです。イエス様までが先生のところに来て’このおばあさんはエホバの夫人であり、神が愛する娘だから、どうか侍らねばなりません’と乞うのです。しかしながら先生は天理の原則をもって、彼らと闘ったのです。先生は独り四〇日間、今まで来ては行った数多くの霊界の道人たち、イエスと神まで全部が動員された、全霊界と闘ったのです。戦場の天地にすることはできないので、天は四〇日の期間が満ちれば、初めて判定を下さなければならないのです。 天理の原則、これがなければ天地が滅ぶのです。先生が求めて行くこの道は、間違いありません。先生は最後の決戦において、勝利したという判決を受けたのです。イエス以下数多くの霊人たちが逆族として追い、反対した文という人間の主張が、復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣中の秘訣であるという判決を受けていって、勝利の基準を立てたのです。何の話か分かりますか。先生はこんな判決を受けるためにイエス様とも闘い、神とも闘ったのです。このようにして、統一教会が生まれたのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。 こんな原則的な基準で歴史的な帰結をつけ、天地のすべての基準を終結させなければならない責任があったが故に、先生はこんな内容を誰にも言わなかったのです。このおばあさんにも話をせず、食口たちにも話をしなかったのです。こんな役事をしてきたのです。また、これを展開させるための複雑な内容もあったのです。先生が二七才で平壌に行き、今話したこんな歴史を経て、この道を行っているのです。今まで来るに、皆さんに話していない内的な苦喪が、すべてを語れないほどに多いのです。これはここにいる近い食口たちも知りません。食口たちが見るに、先生が平安に見えるかも知れません。皆さんは自分の思い通りに話すことができ、自分たちの事情をみな天のまえに告げることができるのですが、先生はあれこれできない秘密の内容を持って、今まで来たのです。皆さんも先生を知りません。皆さんが先生について知っているようですが、事実はよく知りません。知らない事が多いから、皆さんが先生のまえに頭を下げるのです。 良心の基準がある基準を越えた人は、分かるかも知れません。ですから全世界の数多くの霊通する人たちが、この世の中でこのみ旨の証しをしなかったら、天法に引っ掛かります。首が掛かります。霊界に行っているイエスにも通じる人なら、このみ旨を証しなさいというのです。今皆さんは、世界的に神霊なる人を多く見るのです。そして数千数万の群衆を率いる人も、沢山見るのです。皆さんには彼らと、すべての人々にこのみ旨を一日も早く、知らなければならない責任があるのです。 ご覧なさい。一年が流れれば、天的にどうなるのでしょうか? 天はこのように見ているのです。人間の死亡率が一年に平均、百人に一人だとします。では三千万人なら一年にあの世に、霊界に行く人間が三〇万人になるのです。二八億なら二千八百万です。そうでしょう? 二千八百万人という人間が地上を離れ、どこに行くのですか? 天上に行くのではなく、地獄に行くのです。天はこのように計算しているのです。ですからどれほど性急で、どれほど切ないことでしょうか? 7. 天の祝福を受けるには 復帰歴史を中心に見るとき、既成教会が解放直後にみ旨を受け入れて、この若者の後に従ったなら、韓国はこのように惨めにはならなかったのです。であれば三八度線が立ち塞がることはなかったのです。三八度線がなければ国際情勢はこのようにはならなかったのです。そしてソ連もきっとなかったのです。一九五一年四月にトル-マン大統領がマッカ-サ-将軍を解任させてより、韓国は押され始めたのです。もしもこの時、マッカ-サ-将軍の言う通りにしていたら、この年の九月に韓国は蘇満国境で戦ったのです。このようになれば、日本が受ける祝福を韓国が全部受けるのです。じっと座っていても生きていける国になったのです。ところが紆余曲折の末に、今のように複雑な世界になったのです。 これから世界情勢は、我々の動きと対比して行くのです。世界情勢がどんなに大きく変わっても、我々の動きと対比しているのです。皆さんはこれに対して具体的な内容を知らないでしょう。復帰歴史はこのようになって行くのです。ですからこの時代に生きる皆さんにはどんな使命があるかを知って、覚醒しなければなりません。四〇年前から韓国に運勢を引き入れるために、み旨を受けてきた洗礼ヨハネ的な使命を帯びた男性たち、あるいは女性たち、ほぼ六〇年前から天の祝福を受けて、復帰的な新婦の使命を成してきた人たちが、先生に会わなければならなかったことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 男性たち、女性たち、皆さんは私と解決しなければならない事が残っています。今も残っているのです。だから正面から入ってくるサタンの役事を、皆さんが防ぐのであった、先生にまで残しては駄目です。男でも女でも同じです。生死の決断をしても、皆さんが防がなければなりません。神の六千年の願いは、復帰の使命を負って来るアダムを勝利するアダムにすることです。即ち失敗したアダムを、勝利するアダムに造っておくことです。だから皆さんは百回死ぬ恨があっても、一生においてサタンを屈伏させて、勝利の判決をつけなければなりません。 皆さんは、家庭においては家庭的なアダムであり、社会においては社会的なアダムであり、国家においては国家的なアダムです。各自の分野において、サタンを屈伏させなければならないアダム的な立場であり、エバ的な立場であることを、よくよく知らねばなりません。サタンを屈伏させて勝利した者であってこそ、天の祝福を受けることができるのです。聖婚式をすることができるのです。原則がこうなっているでしょう? サタンを屈伏させない者が、どうして天の祝福を受けることができるでしょうか? これが復帰歴史の要点です。 こんな話は今、皆さんに初めてするのですが、先生はこのような歴史的な因縁を持って皆さんに対してきたのです。皆さんが知らないなかで、皆さんに対して多くの期待を抱いてきたのですが、皆さんに沢山だまされ、欺かれたことを知らねばなりません。今皆さんはある力を尽くして、サタンを屈伏させる先鋒者になれねばなりません。 8. 終わりの日の聖徒の責任 四〇数を中心にアダムが失敗したこと、洗礼ヨハネが失敗したこと、そしてイエス様が成せなかったことを内外から終結させるべき、蘇生、長成を経て完成的な基準を越えなければならないこの時は、真に緊張する時なのです。今皆さんは’個人的なサタンよ来い、家庭的なサタンよ来い、社会的なサタンよ来い、国家的なサタンよ来い、世界的なサタンよ来い’として闘わなければなりません。皆さんが知らない間に、先生がこのように闘ったのですから、皆さんもこんな道を行かねばなりません。行くときは先生のように四〇年ではありません。しばらくです。しばらくの間です。 ですから皆さんは周囲のすべての事を収拾して、この闘いの場に出て行く装備を持たねばなりません。また闘って勝利した基準を立てねばなりません。先生にはこのような人間を集めて天的な、新しい理想的な家庭を造らなければならない責任があります。今までは先生が皆さんの事をやったのですが、今や皆さんの事は、皆さん自身がしなければなりません。天が協助しなくても皆さんの事は皆さん自身がやり、皆さんの事のみならず、皆さんの子孫の事にまで責任を負わなければなりません。それでこそ復帰歴史は展開されて行くのです。分かりますか? このようにしなればなりません。 内的にこんな役事をしていって、外的にはこれに合わせるための証し的な役事をするのです。それで縦的に三数が、横的に起こらなければなりません。学んだでしょう? 縦的歴史が横的に起こるのです。縦的な数が横的に起こるので、三代の歴史が必要です。ですから先生の時代に、先生を証しする三代の女性と、三代の男性が必ずなければならないのです。これがノアの代の八人の食口と同じことです。何の話か、分かりますか? このように合わせてゆくのです。 このような形態が家庭的な形態を経て、世界的な形態で起こらねばならないのです。これを一時に横的に、世界型に合わせるために、天は準備しておられるのです。国家的にもこうであり、世界的にもそうなのです。世界的に七千名以上の神霊なる人がでて’あなたが主様だ’というのです。こんな人々は、イエスを信じる人だけではありません。三大宗教の理念圏内にいる人々は、全部がその中に属して入るのです。今のこの時は道(修道)の混乱時代です。自分が一番だという人間が、世界的に七千名以上いるのです。 これが外的な世界形態ですが、内的な形態においては、この韓国に少なくても天的な使命を持つ人間が、七〇名以上いなければなりません。七〇名以上の人間がでるために、三数を中心に三×七=二一、二一数形態として起こらなければなりません。これが外的な復帰歴史に橋を掛けるためであって、中心を無視して自分たちが中心だとしたなら、彼らはみな偽キリストです。偽キリストだということです。 このようなことを代表して現れたのが、三中心人物です。彼らが責任を果たさなければ責任者を切り捨てるのです。こうして教員たちが全部、転じてしまったのです。また教会が三分したのです。初めに二つに分かれ、二つがまた分かれて、そうしたら三千万は家庭単位に分散します。復帰は父母時代、夫婦時代、子女の時代を経て復帰するのであって、三千万はすべて家庭単位に落ちてしまうのです。それゆえこれからの教会は全部家庭形態に分散するのです。そうなれば終わりの日です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.16
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すべては善悪の戦場を越えなければ 一九五九年十二月六日(日)前本部教会 この時間は’すべては善悪の戦場を越えなければ’もう一度いうと’すべては善悪の戦場を越えなければ’このような題目をもって、お話します。 1. 堕落人間の実像と堕落圏を逃れ得る条件 我々は堕落した祖先の後孫であることを知っています。ここに堕落したという言葉を認めるならば、自分自身がある栄光の条件や、価値的な何かの条件を持っていたとしても、それもやはり堕落圏内に属するものと知らねばなりません。我々自身が心で、あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望にあふれる所望を持っていたとしても、これもやはり堕落圏内の所望であり、堕落圏内の幸福なのです。生活を営んでいる我々自体も、やはり堕落圏内に留まっている自体であることを否定できません。我々の生命がそうであり、我々の理念と幸福の要素がそんな立場におかれているので、この環境においてそのままであったなら、堕落の恨を脱ぎ捨てることはできないのです。このままの私で幸福な世界、あるいは理想世界の’私’であると自任することはできないのです。これは明らかな事実です。 それゆえ人間は誰かれなく、老若男女を問わず、彷徨しまた彷徨しつつ、歴史を綴ってきたのです。ときにはこっちに追われ、ときにはあっちに追われ、引き裂かれ、踏みつけられ、血に染まる悲惨な歴史路程を経てきたのです。 かように歩んできた人類の行路、あるいは歴史の流れは、どこへ行くためにこのように流れているのか? 一言ゆえに堕落した、この恨多い歴史と世界を越えるためなのです。 皆さんがどんなに幸福らしく暮らしていると自負しても、堕落圏内で暮らしているのです。本来の命は、このように生きることを願っていないのです。ですからこの世界で生きている人間も被造万物も、どうしたらこの世界を越えることができるかと、この苦痛圏内で命を懸けて闘っているのです。これが今日、世界で起きている現象であることを、我々はよくよく知らねばなりまん。 人間に幸福があり、ある理想があり、真の生命の喜びがあるとして、それはいつ成るのでしょうか? 今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて’私は果たして天と地のまえに自信ある生命、永遠なる生命を得たのであり、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った’とすることのできる一日を迎えて後でこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、我々は言わざるを得ないのです。 この堕落のどん底を埋め、踏み越えるべき運命におかれている人間ですから、皆さんの心はこの時間も駆けているのです。この時間、皆さんの家庭も駆けており、この民族も駆けているのであり、今日我々が生きているこの世界と天宙までも、駆けているのです。ところで、どこへ向かって駆けているのか。恨み多い堕落圏を蹴とばして越えるために、駆けている我々であることを忘れてはなりません。 神がおられるとしたなら、神の目的は何であり、善があるとしたなら、善の目的は何でしょうか? 歴史上の善なる人々がこの地上に来て、犠牲になっていった目的が何でしょう? 駆けているこの人類がこの峠を早く越えるためであることを、我々は否定することができません。人間にこの峠を越えさせようと、神様は善なる個人を送られ、善なる環境を開拓させ、善なる国家形態を得て、善なる世界へと率いる摂理をされているのです。 このように見るとき、今日の世界は最後の判決を下して越えるべき運命に処しているのです。世界がそうであり、この国がそうであり、我々の家庭がそうであり、我々自身がそうなのです。またこれと共に、天も再び越えるべき運命の時であることを、我々は知らねばなりません。 それでは越えるときはどのようにして越えるのか? 笑って越えることはできません。もつれた紐を切ってこそ、越えることができるのです。それも一っぺんに越えることはできません。一人づつ越えるのです。このように越えた自分たちが集まって群れをつくり、一つの家庭を、一つの民族を、一つの国家形態を、一つの世界を立てなければ駄目なのです。これが結論です。 ここに来た皆さんは、自分に誇る何かがありますか? 命を懸けて闘う何かを持っていますか? すべてが堕落圏内のものですから、誇る自身の価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を負わなければならないのです。各自のものが大きければ大きいほど、大きく掛かる立場に立つというのです。ですから修道の道を行く人々は、みな切り捨ててゆくのです。彼らの目的が国を救い、世界を救うことであるにもかかわらず、彼らはどうして個人を切り捨て、国家を切り捨て、世界を切り捨ててゆくのか。これが修道の道を行く人々の矛盾した行路なのです。彼らは越えるべき一時があることを知るので、ただその目的のために行くのです。 越えてゆくときは、打って越えて行かなければなりません。なぜ? この世の中は精算すべき世の中ですから、善なる立場で打たねばなりません。従って修道の道は、打ってゆく道です。 終わりの日は、我々の目的が近づくのです。最後の審判の一日が近づいて来るので、この一瞬間を迎えるべき我々は、いかなる立場に立たなければならないか? 人の世で誇る愛、誇る命、誇る理念に対して、堂々と笑いとばして行けないとしたなら、新しい勝利の勇者として、サタンの権勢を蹴とばして越えては行けないことを、皆さんは知らねばなりません。歴史はそこに向かって行っているのです。それゆえ我々もこれを越えなければならず、我々の家庭も越え、この社会、国、この世界、天上の数多くの霊人までも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神も越えなければならないのです。 2. 善悪の闘いの条件が残っているすべての存在 堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しむなら同じように苦しみ、人間が悔しいなら同じように悔しいのです。境遇と立場は違っても内的な心情は同じですから、天も越え、地も越えなければならないのです。このような運命にある人類と天が、これを越えるための合同作戦によって喘ぎ苦しんできたのが、今日我々の信仰路程なのです。合同作戦を広げるための土台が、今日の宗教なのです。ですから今日の宗教人たちは、この作戦で勝利すべき責任を負っているのです。 それではアダムが堕落して以後、この終わりの日まではいかなる期間か? この期間は我々が望む期間ではありません。この期間を早く早く短縮させ、解決しなければなりません。なくていい期間です。それゆえ良心のある者は誰かれを問わず、このような世の中がどうか過ぎ去ることを願っているのです。この暗黒の世界、恐怖に襲われるなかで喘いでいるこの世の中が、どうか過ぎ去ることを二七億人類は誰もが待ち焦がれているのです。人類のみがそうではなく、天もそうなのです。天も苦待し、人類も苦待しているので、この世界を精算して越えてゆくことが道(修道)です。早く勝って越えてゆくことが、今日宗教がなすべきことであり、これに妨害となる何かがあるなら、宗教人はこれを攻撃し、打ち破ることを断行してこそ成るのです。我々がこのような責任を負っているのです。 今日我々は五感を通してこの世界の万象を見渡し、我々が生きている社会の現象を見渡していますが、この見える万物を見渡すとき、我々は何を感じなければならないか? いかなる存在も、善悪の戦場であることを感じるのです。善と悪の闘いの路程を経るということを、感じなければなりません。 神はこの地と天を求めることを願うのですが、地はこのままでは求られません。なぜ?一大精算をしなければならないからです。この地上の人類は神のまえに、いっぺんに相続したいのですが、このままではできません。なぜ? 汚れたからです。だから精算しなければなりません。この地に誇る草の一株も、善悪の闘いの場であることを知らねばなりません。また、皆さんが着ている着物一つにも、善悪の闘いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、またこの地の小さな物の一つにも、神とサタンが対決するその日から、善悪の戦場において所有が左右されてきたということを、皆さんは知らねばなりません。 旧約時代には、神様は祭物を通して、物質をおいて闘われたのです。この物質は万物を代身したものです。万物が戦場になった日から、神様はこの万物を抱え、サタンの讒訴を受けることのない一日を所願とされたのですが、未だにその日を迎えていないのです。 その次に、人間を戦場として闘ったのですが、この代表者が神の息子イエスだったのです。イエスをおいて、神はサタンと闘ったのです。ここにおいて勝利して、イエスを天の側に引き込むとき、神はサタンの讒訴を受けざるを得ないのです。このように万物から今日までの人類全体は、善悪の戦場で左右されてきたことを、我々は知らねばなりません。 今日我々の体もそうであり、我々の心もそうであり、我々の心情もそうなのです。今どんなに素晴らしい何かを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴する条件があるのです。我々自身の体と心が、どんなに貴いとしても、これはあくまでサタンが讒訴する戦場におかれているということを、知らねばなりません。 ここに徹頭徹尾なる観を立て、目に見える万象には今この時間も、善悪の闘いが起こっていることを、知らねばなりません。我々が握っている一つの物件にも、善悪の闘いの条件があり、今この時間にも闘っているのです。 それでは神の願いが、何でしょうか? 創られた被造万物のすべてが、このような闘いの条件に掛かっているので、全体を越えてサタンが讒訴せずに背を向ける一日を見ることです。これが神様が闘ってこられた目的であるにもかかわらず、神は未だにその日を見ることができないのです。 3. 神の願いと復帰の原則 皆さんは地上において、天を代身する責任を負っているのです。このような責任を背負う我々は、どのようにすべきか? 善悪の条件に掛かっている万物を率いて、サタンの要素を押し退け、神のまえにお返ししなければなりません。人間復帰の前に、万物復帰をしなければなりません。神様は人間を創る前に、まず万物を創られたのです。それゆえ自分自体がでる前に、自分にある全部をサタンのまえにおいて闘って勝利して、取った万物を神の前に立てなければならないのです。ですから世界は物質をもって闘ってきたのです。 今日修道を信じ、キリスト教を主としたすべての民主陣営は、サタンと闘って、この世界のすべての経済力を天の側に返さなければならないのです。原則がそうです。天の側に回さなければなりません。でなければ、サタンに飲み込まれてしまいます。サタンに引っ張られてしまいます。では経済力を天の側に回すには、どうするのでしょうか。善なる人に分配しなければなりません。 物質を天の側に向けるには、サタンが関係するすべての条件を切らねばなりません。その次には、自分の体を向けなければなりませんが、この体は心を主としてこそ、回るのです。この心が神の心に似せても、本然の心情を通じることができる基準が立っていなかったら、体を回すことはできません。サタンが体を握っているので、心を中心としてこの体を回すことができる者にならねばなりません。 今、人々は理念を中心にして人間を奪うための闘い、肉体を奪うための闘いをしているのです。この理念は精神を象徴しているのであり、心の世界を象徴しているのです。皆さんには全世界を抱えたい心があります。こんな心、即ち理念を中心に人間を奪う闘いをしているのです。 このようなとき、我々がサタンから体を奪ってくるためには、どうすべきか? サタンが持っていない理念を持って、現れなければなりません。変わる過程においては、どこまでもサタンが侵犯するのです。変化発展して、他の形態を得ようとすることは変わることですから、サタンが干渉するのです。変わってゆく過程においては、どのようなものにもサタンの侵犯を受けるのです。ですから今日の社会において、ある善悪の基準を定めなければなりません。ところがこの善悪の基準は、各国家や民族ごとに違うのです。それでこの善悪の基準は、永遠に変わらぬ主権時代を迎えるためにしきりに変わってゆくのです。 今我々人間がサタン世界にある体を奪って、天のまえに返すためにはどうしなければならないか? 変わろうにも変わることができない、動揺しようにも動揺することができない、永遠なる一つの理念を掴まなければなりません。であれば悪なる世界にこの理念を立て、人間を奪ってくることができるのです。ところが今、世界には変わらざる一つの理念がありません。それゆえ変わる心の本質を、動いているこの心を変わらない理念に接ぎ木するまでは、この肉体が向きを変えられないのです。なぜ? この肉体をサタンが支配しているからです。サタンが侵犯している場は、変わる可能性がある場です。変わる場にはサタンが侵犯する条件があるというのです。 もしも良心が思慕する理念が、天地が変わっても変わることのない理念であるなら、心は回るのです。心は回るでしょう。そのようになるのです。 今日人類が物質を天の側に引き入れるには、どのようにしなければならないか? 民主主義陣営に変わることのない理念があって、世界がこの理念を中心に回れば、可能です。そんなときには我々の肉体も、天のまえに求めてゆくのです。 今までの人類は、物質を懸けて闘ってきました。肉体を懸けて、天地を代身する良心を追求する人々が闘ってきました。ところが次には、変わらぬ心を中心に、変わらぬ神の心情に通じる心情を持つなら、最後の決判が下るのです。 物質を求め、体を求め、心を求め、その次には心情を求めるなら、この地はすべての事が解決されるのです。皆さんがどんなに素晴らしいといっても、こんな条件が掛かっているのです。間違いなく。 ですから世界を支配することができる主義がでてきたとしても、人間がこの主義を中心に死の場を体恤することができる心、世界まで左右する理念ですら支配できない心情が凝結する一つの場所を持っていない限り、闘いは終わらないのです。善悪の闘いは終わらないのです。また、我々がサタンから物質を奪って神のまえに返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければならないのですが、この心を返すためには、どんなに変わらぬ理念があったとしても、それで良しとしていては駄目なのです。 この理念のおく深くひそむ心情問題に入って、心情が通じる場に立てば、神が私であり私が神であり、神のものが私のものであり、私のものが神のものになるのです。この心情を連結させるとき、今まで捧げた物質、体、心が全部一つに統一されて、神のまえに最高のものとして決定されるのです。そのために祭物を捧げるのです。 4. 私の怨讐が何であり、善悪はどのように区別するのか 皆さんは怨讐を持っています。皆さんのまえに見える物質が怨讐であり、皆さんの体が怨讐です。これらがサタンの祭物になる条件なのです。 罪とは何でしょうか? サタンが侵犯することができる条件を提示することです。皆さんの心が往ったり来たりすることも怨讐です。一度善であるなら、善でなければなりません。ところが悪なる場に入る人間は、心がしきりに背くのです。行かなければならないのに、行こうとしても日に何度も変わるのです。 善と悪の区別はすぐにつくのです。悪なる場にいるなら、心がしきりにその場を離れようとするのです。日に何度も変わることが悪です。変わる世界で変わり切れないのが、天のまえに近いのです。ですから変わるこの心、この怨讐を追い出さなければなりません。変わり得る理念なら、その理念も打ち破らなければなりません。 ある宗族を中心として、ある民族を中心として、ある宗教を中心としてきたのですが、これが本然の良心と心情を糾合してきた天倫、あるいは自然の軌道による変わらぬ形態として動くことができるときこそ、初めて人類は理想世界へと入るのです。 言い換えれば、物質が怨讐です。この肉体が怨讐です。この心が怨讐であり、この心情が怨讐です。なぜ子供は父母が好きなのか。子供に対する父母の心が、変わらないからです。死んでも変わらないから、良いのです。天をなぜ、良いというのか。いかなる曲折にも天は変わらないがゆえに、良いというのです。変わらないということは、最後に現れます。父母もそうではないでしょうか? だから変わらないというもの、変わらない自体が現れなければなりません。 皆さんが持っているすべてのものは、怨讐世界の利用道具です。ですから修道人は物質を打ち、肉体を打ち、自分の欲望を打ち、自分の心情を打つのです。これが何であるかは知らなくても、いつかより大きな物、より大きな善の肉体、より大きな善の良心、より大きな善の心情を求めるという目的があるので、道人たちはそれに向かって駆けているのです。これを我々は、蕩減復帰歴史というのです。 5. 人類がすべき最後のこと それでは最後の日、終わりの日というこの時に、我々はどのようにしなければならないか? 精算するところへ行かねばなりません。’物質よ、わがまえに現れて権限を振るってみよ、私と闘おう’と一時に捨て切ってしまう自分にならねばなりません。そうすれば体を復帰することができるのです。そうすれば体が留まるのです。天地が変わっても、この肉体が変わることのない理念に染みて、心のまえに屈伏しなければなりません。神の心情と人類が持つ根本的な心情が、通じることのできる変わらぬ心情の一つの核心が起こるなら、サタンは風呂敷をくるんで行くのです。風呂敷をくるんで行くというのです。 事実今、情的な出発地が準備されているのです。ところが本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるので、このサタンの血統を絶つために天を求めてゆくのです。こうしてどこへ行って帰結されるのか。心情に入って帰結されるのです。理念が最高に追求する目的が何でしょう。理念を立てる目的が何でしょう。神の愛を実践するためです。それゆえこれが今日、全世界にひろがる良心的な人、信仰を持つ人々が歩むべき、最後の勝敗を分ける道なのです。 こんな境地から神を見やるとき、神は気の毒です。六千年間闘って来られましたが、今日神の心情を踏み越えることができる一人の人間がいますか? いません。神は真に哀れです。六千年間、一つの肉身を求めて来られたのですが、神の心情を踏み越える肉身がどこにあるでしょうか? 神は哀れです。理念を立てるために苦労されたのですが、神の心情を中心にする理念はないのです。ですから今日この世界が、こんな姿になったのです。 理念と我々の肉身と万物が、神の心情に接ぎ木されていって整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されるのです。ですから皆さんは物質を見やるとき、’歴史的な数多くの善なる人々の血を籠絡したこの物質よ’と怨痛なる心を持たねばなりません。自分の肉身を見やるときには’天の呻吟をもたらすこの肉身よ’心の動きを探ってみるとき’神の心情に背く心よ’という恨めしさを感じなければなりません。今がそうでなければならない時です。そのようにできる所が神の最後の目的地ですから、そこでは二人の主人に仕えることはできません。 このようなことを我々が認定するなら、ある理念圏内に入るときには物質も問題ではなく、死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。このような理念が、真の理念なのです。ある理想主義があるなら、この主義のためなら’物質が問題ではなく、億千万金の宝華が問題ではない。この肉身一つ死ぬことぐらい問題にもならない’とすることのできる主義でなければなりません。 この理念のために死ぬとしても、悔しく憤ることなく喜んで’当然のこと’とすることができる理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきことは、このためです。彼らがイエスを抱える瞬間は、ただイエスのみです。何ものも意に介さないのです。イエスを抱えて行く道では、死も意に介さないのです。問題ないというのです。 イエス様が立てておかれた理想は、良心の理念です。今はこの良心の理念を越えて、心情の基準を立てなければなりません。ですからイエス様は’わたしは新郎であり、あなたたちは新婦’とされ、良心の橋を架けて心情に世界にまで連結しようとされたのです。 終わりの日とはいかなる日か? 神の息子イエスと、人間の心情が連結される時です。だから全人類は、イエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエス様は’あなたたちは神の息子であり、わたしはあなたたちの新郎であり、あなたたちはわたしの新婦’とされるのです。なぜ、そうなのか。新婦を捜し求めるときは、これが世界のどんなものよりも勝っている時だからです。今日の理念は世界を抱くためのものであって、心情は神と全体を抱くためのものです。理念というものは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を抱くものです。だから心情世界において、初めて統一が起こるのです。 このような観点から、今日我々は修道を終結させて、越えてゆかなければなりません。歴史の流れを見、論理的な推理をしてみれば必ずそうあるべきであって、このような立場で全体を代表して現れたものが、キリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教なのです。しかしこのキリスト教が再び一段階、革命すべき問題があります。キリスト教が良心的な基準にのみ喘いでいるなら、滅びるのです。キリスト教が神の愛、神の心情を標榜して動いてゆかないなら、今日民主陣営が行く道を失うのです。それで我々統一教会はこのような面に指向して行くのです。 心情を通した真理においては神のまえに全体が子女であり、全体が新郎・新婦であり、全体が兄弟姉妹なのです。このような圏内に入るとき、我々は食口という名詞を立てることができるのです。このような一食口には、億千万金を与えても取り替えることができない価値があることを知り、またこの価値を貴く思わなければなりません。今日のどんな主義や金銀財宝を与えても、取り替えられない価値として知らねばなりません。 我々はこのような価値を知る人間が慕わしく、修道の道を行くのです。神様もこのような価値を知り、慕って生きる園を創るために苦労して来られたのが、六千年の復帰歴史なのです。 我々は嘆息しなければなりません。我々は天に対して’お父様! お父様が与えたい万物を与えてください、お父様が与えたい体を与えてください、お父様が与えたい心を与えてください、お父様のみに対することができる心情を与えてください’と祈祷しているのですが、考えてみればお父様が与えられたのに、我々が失い、また失ってきたのです。これが堕落です。ですから我々は善の物質を回復しなければならず、善の理念を回復し、善の心情を回復しなければなりません。これが人類がすべき最後のことなのです。歴史は善の物質、善の理念、善の心情のある所に向かって行くのです。数多くの民族が引き裂かれ倒れる恨があったとしても、民族を越え、国家を越えて、そこに流れてゆくのです。 6. 終わりの日に持つべき人生観、生活観、宇宙観 現在を見渡してみると、二つの理念がぶつかっています。ここにおいて一つが壊れる日には、どうなるのでしょうか? ’この物質はわたしのもの。この世界、人類がわたしのもの。この理念がわたしのもの。この心情がわたしのものだ’とすることができる主人公が現れなければなりません。このすべてを自身のものとして所有できる資格者、人類を籠絡したサタン、我々の良心と体と、我々の物質を籠絡したサタンに対して’この野郎’と怒鳴りつけ、審判することができる人間が現れなければなりません。こんな人間が、どのような人間か? キリスト教でいう再臨時代に、審判の場を逃れられる人間であり、最初の復活に参与する栄光を占める人間です。皆さんにこのような腹がありますか? ここでいう腹とは、拳を突いて語る腹のことではありません。歴史と共に、過去・現在・未来を通した摂理路程において、サタンが讒訴するすべての条件を蹴とばしてゆく権限を意味するのです。 神様は地上で’サタンに対するすべての物質を取りだせ’とすることができる息子・娘が出てくることを六千年の間、待ち焦がれておられるのです。’未来世界は我々のものであり、私のもの’とする群れが出なければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神の願いなのです。万物を創られたのは’これは私のものだ’とすることできる観が立つ真の息子・娘のためであったのです。ですから我々には、宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に、宇宙観が必要です。世界観が必要です。この世界観が何でしょうか? ’この世界が私の世界だ’という観です。本来の人間はこのようになっているのです。 こんな観点から、人間はすべて世界主義者です。劣っていても優れてもすべて’私の世界だ’というのです。ところが私の世界だと主張できる条件を持っていないので駄目なのですが、この条件を得て天上に行って訴えたら、いくらでも求められのです。この天地は私のものとする主義が、皆さんが持つべき主義です。その次には、この世界に広がっているすべての人類は、一つの兄弟だという観がなければなりません。それでこそ、神が父の役目を果たせるのです。兄弟、この兄弟という観念を持って’この地上の理念は我々の家の理念であり、我々の心情は父母の心情だ’とすることができれば、世界は一つです。宗族を超越して一つになるのです。このような世界を立てられなかったなら、どんな政治、どんな理念も役に立ちません。 今日アメリカがどんなに経済力を誇っていても、ご覧なさい。彼らが風呂敷をひろげて全人類に分けてあげなければなりません。天運がこのように動いていることを、その人々は知らないのです。ですからアメリカが、これをやらなかったら駄目です。神の代身、倉庫にあるものを分けてあげるのです。このような心を持たなかったら、悪く言われるのです。アメリカが今、そうでしょう。 このような見地から今日、我々が世の中を見渡すとき、この世の中は二つに分かれて進行していることを知るのです。それで今日はどのような様相を呈しているのか。人間の世で尊いという家庭基準が壊れているのであって、先進国家がよりはなはだしいのです。まず間違いないのです。彼らが父母が分かりますか、兄弟が分かりますか、夫婦が分かりますか、子女が分かりますか? みな壊れてしまったのです。天運がこのように行っているのです。これをそのままにしていたら、離れることができないからです。このようなことを見るとき、世の中は終わりなのです。 それではここに、この世の中は滅んでしまうのか。違います。ここに新しい過程を経て収拾するところが現れてこなければなりません。であれば生存するのです。この世界は物質を越え、宗族を越え、五色人種を超越して’私のものであると同時にあなたのもの’という世界です。このような理念の動きが起こってこそ、世界は一つところへと収拾されてゆくのです。このような世界で我々は一つの兄弟となり、一人のアボジを中心とする父子の関係を成すことができるのです。神と人間がこのような関係で、神のものであり自分のもの、自分のものであり神のもの、神の喜びが自分の喜びになる時が地上に起こってくるまでは、物質に対する闘いも、肉身の闘いも、主義の闘いも、喘ぐ心情の闘いも解決することはできません。これを知らねばなりません。 このような観点から、いま一度過去を振り返って見てください。我々が何を中心にして生きてきたのか。これが物質であるなら、物質が受けるなら受ける準備をしなければなりません。これがこの肉身であるなら、この肉身が排斥されるなら排斥されなければなりません。我々がこの地上のある理念を持っているとして、この理念が砕かれるなら我々も砕かれるのです。日本を見てください。帝国主義が砕かれたので、全部が砕かれたのです。今日人間におきまして、愛が砕かれるときはすべてのものがみな砕かれ、みな失って喘ぎ苦しむ人間になってしまうのです。 哀れな人間が誰であるかといえば、すべてのものを失って’自分のもの’を持たないで喘いでいる人間です。本来、人々は全天宙を’自分のもの’とすることができたのです。それゆえ万物を失い、この地も失い、それらを’自分のもの’とし、心情世界やその理念も’自分のもの’とすることができる位置を失った人間が哀れな人間なのです。乞食はなぜ哀れですか? 自分を維持する所がなく、自分のものを残すことができないので、哀れなのです。 7. 我々の欲望と神の愛 今日我々人間はいかなる欲望を抱いて、運命的な復帰の道を行っているのか。すべてのものを自分のものにするために、行っているのです。’この天地がわがもの、この天と地にある人類がわが兄弟よ、地の上の理念が正にわが理念であり、主権者や企業主のものではなく、わがもの’。その次には’神もわがもの’とする場にも行くのです。それでは皆さんの欲望は、どこまで行けば止むのか。神もわがものとして、神だけを抱えてどうするのか。神の心中の愛も’わがもの’とすることができる場まで行くなら、すべてのことが終わるのです。 皆さん! 神の愛がどんなものか分かるの? 言葉ではそれらしいのですが、事実もそうなのです。人間が万物の霊長になることができる権限が何でしょうか? ’神様、おいでください’というとき’おう、行こう’と来られるように、神を呼び出すことができる主人公になることです。これは神の心情を自分のものとするなら、可能なのです。’神様行きます’とするとき’おう、来い’とされるのは何ゆえでしょうか? 皆さんそうではありませんか。心情が一つになり、互いに慕うときには、来るなといっても付いて来るのです。神様も人間にこのような標準で対し、求めておられるのです。’地の上で暮らしている人間たちよ、数千年前から喘いでいるこの恨を、おまえたちが解いてくれることが何だろうか。わたしの心情全体をおまえたちが占め、万物の主人となることができる姿になるとき、わたしに結ばれた恨をすべて忘れるのだ’とされることが、神の愛なのです。 聖書に’わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしがあなたがたのうちにいる’とあるみ言は、どんな意味か。人間の欲望というものは、この土くれを思いのままにしてみても満足しないのです。今日、フルシチョフやアイゼンハワ-大統領などという人たちがこの世の中を膝元に置いて’やあ、おまえたち、これをやれ’というとき’はい、やります’とするようにしたら、平安になれるでしょうか? 安らかではないのです。人間は最後に神様が’良く闘った、このようにやれ’とされて喜ぶように創られたのです。 神様は我々が、神の愛を独占する王者になることを、望んでおられるのです。ここに万事が解決されるのです。我々がその場に入って、六千年の恨み多い天に対し’アボジ’と呼ぶ一言に、神の六千年間に結ばれたすべての恨が、みな解かれてゆくのです。 そのようになれば、キリスト教は新しい次元に飛躍するのです。二千年前に来られたイエス様が、あなたがたは物を握って闘い、体を握って闘うが、そうではない。このすべてのものを捨て、わたしを信じなさい、とされました。あなたがたは、わたしイエスの新婦になることを信じなさい、とされたことは有難いことです。天的な心情の因縁を結びなさい、とされたことなのです。であれば、再び訪ねて来られるのです。そのようになれば、また神も人類を訪ねて来られるのです。 人間が神を求めてゆくとき、どのようにする人間が善なる人か。大きなことを考えてゆく人です。愛国者なら自分の家庭を捨て、自分の肉体を犠牲にしても、三千万民族を考えなければなりません。三千万民族を自分の肉体や、自分に属している何よりもさらに考える人間が、愛国者であり忠臣です。心情的にこのように考えなければなりません。忠臣烈女、孝子孝女が全部、このコ-スをたどるのです。 最後に、このすべてのサタン世界の条件までも精算できる一つの基準が何か。どんなに優れた人でもなく、人格者でもありません。ある権勢を持つ主権者も、この基準になることはできません。神も身じろぎもできない愛です。この愛を持つ人が全体の中心であり、全時代史の中心であることを、皆さんは知らねばなりません。 8. 主が迎えることができる者 今日我々は少なくとも、少ない三千万民族だとは限らないのです。百万信徒にすぎないキリスト教徒だとは限らないのです。世界に数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人が多いのですが、統一教会員が多いとは限らないのです。 天が願う歴史的な心情をもって、すべてのサタンの要素を絶つことができる人格者に、まずならなければなりません。こうして審判の基準を立てておいて、それ以外には許すことができないとする者になってこそ、六千年の間闘って来られた神の代身、この地上の事を整理する代表者として立つことができるのです。 神様はすべてを失ったのです。万物も失ってしまい、愛する息子・娘も失ってしまい、切ない愛の心情も踏みつけられたのです。神がそうなのですから、人間がどうしてそんな道を行かないでいられるでしょうか。ここに誰が打つのでもなく、自分自身が打たなければなりません。’天に背反したこの体を捨てて当然’と果敢に断ち切る存在でこそ、怨讐圏内に因縁のあるすべての恨み多いことを、踏み越えて行けるのです。これができない人は主様を迎えようにも、どうにもならないのです。ここで語る人の言葉に、間違いありません。事実がそうだというのです。 このような心情をもってゆく人々には、心と肉体と物質が自動的に付いてくるのです。ですからこんな心情を持つ国があり、民族があったなら、世界の物質はすべて彼らによって料理されるのです。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決づけられ、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうなら一度やってみますか? ここに立って語る人間もこのような事を知っているので、こんな事をやっているのです。 それではその方法に入るには、どのようにするのか? これが我々のやる事です。我々はサタンの条件物になっている自身であることを、知らねばなりません。我々が財布に数千万ウオンの大金を入れていても、これがサタンが付いてくる餌であることを、知らねばなりません。ですから、このようになっているので・・・。 今我々は団結しなければなりません。団結しなければ。神様は愛する息子・娘の手を経て、すべてのものが現れてくることを願っておられるのです。私の考えはそうです。そうだというのではなく、そのようだというのです。誤解してはいけません。サタンに籠絡された万物を、ノアの箱舟を通して、神が愛することができる聖別された物として繁殖させようとしたのが、神の心であったのです。 だから我々は神のものとして、神の情に通じることができる物質を造らなければなりません。神の情が通じる万物の基盤を、造らなければなりません。堕落した人間の嘆きが何でしょうか? 万物の嘆きが何でしょうか? 神の情的な感情を感じられない段階におかれているがゆえに、嘆息するのです。この肉身が今サタン世界におかれているがゆえに、神の情的な感じに付いてゆけないのです。心もそうであり、全部がそうなのです。 9. 物質の割礼、体の割礼、心の割礼、心情の割礼 ですから私はこんな生活をしているのです。ある食べ物を出されても、むやみには食べないのです。皆さんは知らないでしょう。ここには必ずある理由があるのです。イスラエル民族がカナンの地に入るとき、万物の割礼をして、体の割礼をして、心の割礼をしたのです。物質の割礼、体の割礼、心の割礼したのですが、私はここに心情の割礼までするのです。 皆さん、今日世の中の人間がみな何でしょうか? 神を求めてゆくとき、必要なものを勇断をもって実行しなかったら、主様に出会うことはできません。絶対に会えません。息子・娘であれ、何々というものまでも自分の手で断ち切っていってこそ、その後に神の愛が連結されて入ってくるのです。このような観点から、皆さんの心がそのように動いてゆく所があったなら、行って抱きしめなければなりません。首を抜かれても落ちてはなりません。落ちたら自分だけが犠牲になるのです。ですから必ずこんな覚悟をもって動かなければなりません。終わりの日であるこの時、この時代にこのような動きが、この地球上に現れなければならないのです。 世の中にこれを模範とする動きが現れる前に、神を中心にして、理念を中心にして、食口という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉が、ここに出るのです。分かりますか? ここに物質をもって、食口の威信を籠絡したら駄目です。自分の一家庭のある事情を中心に、我々食口の因縁を蹂躪する人間は、不合格者です。ある理念や思想観念、ある信仰観念を中心に、我々の理念を測る人間も、不合格者です。ある情的な感情を中心に、実践することを躊躇する人間も、不合格者です。この言葉が合っているか合っていないか、見ていてみなさい。 堕落した以後、我々人間には恨めしい運命の道があることを、知らねばなりません。愛する食口に出会うためには、数千万金を一朝一夕に使い果たしたとしても’あなたに出会ったので、どんなに良かったでしょうか’という心を持たねばなりません。この肉体が疲れ、苦痛を受けることがあっても’愛する兄弟一人を捜し求めるためなら、どんな所でもかまわず行かねば’という心を持たねばなりません。このような理念を抱き、イエスのように地上でみ旨を成就できずに逝く恨があったとしても、この理念だけの為に行くという人間は、必ず神の愛に接するのです。 理念を中心に物質を捨てる人間は、神の息子としての肉身を占める権限を受け、肉身を占める理念も地を中心とする理念であれば、捨てて行く人間は神の心情が待っているのです。このように、一段階、一段階、連結されて上ってゆくのです。イエス様は万王の王としてこの地上に来られ、理念も捨て、命までも捨てて行かれたのですが、その上に心情があることを知っておられたので、神に対して’アボジ’と呼ぶことができたのです。我々も同じなのです。 このような観点から我々は今、判決を下さなければなりません。自分がどんな場に立っていて、私はどんな存在であり、どれほどの価値的な場に立っているのか? 自明な事実です。皆さん自身がこの道を行くにおいて、ある世の中の物質をおいて躊躇するか、あるいは自身の家庭や、自身の国家的な立場で躊躇するか、これまでの主義や理念、あるいは信仰的な観念のゆえに躊躇するかしては駄目です。これは問題にもなりません。さらには愛の問題、即ち情的な問題までも、自信をもって越えて行かなければなりません。見事に越えて行く衝撃的な事を、終わりの日には必ず求めなければなりません。 10. 善悪の戦場を越えるには 歴史の流れは不義を許さないのです。それで修道(道)は良心を通して、善であれと教えるのです。善は命令するに、’自分の体を犠牲にして、おまえのすべてのものを他に与えよ、頭を下げて他を受けよ、民族を受け、世界を受け、人類を受けて神を受けよ、そして自分の体を神様に預けよ’とするのです。このようにすれば、どのようになるのか。最後にはどうなるのか。神の愛を自分に与えるのです。善が目的もなしに命令するでしょうか? このようにすれば、神の愛を自分に与えるのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。 世の中でどんなに反旗を掲げたとしても、神の愛を侵犯することはできません。神の愛の世界は、侵犯する場がありません。サタン世界は侵犯することができても、神の愛を中心とするところは侵犯できません。これがお終いであり、永遠であり、変わらない基準だからです。ですからこの基準の上に出発することができる真の息子・娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならねばなりません。それでこそ全世界は善悪の戦場を越えることができるのです。 それではこんな場に出てゆけない我々は、どうしなければならないか。我々が見るときも善と悪が闘い、聞くときも、食べるときも、話すときも、動くときも、全部が善悪が対立して闘っているのです。それゆえ我々は善悪を選んで’私はこのように行かねばならない’神の心情に立脚して、神の変わらぬ理念を通して見るとき、’このように行かねばなない’という観を立てなければなりません。こんな宇宙観を立てて、心情を通して左右を分けて行くとき、皆さんはこの戦場を越えることができるのです。 それでイエス様も、神の愛が染みる十字架を受けて行かれたのです。神の愛。皆さん、故郷を捜して行く人が、父母と争って行って良いでしょうか? 父母の愛が恋しくて行く人は喜悦に溢れ、希望に溢れるのです。イエスが十字架上で、誰を恨んで切なく逝かれたでしょうか? アボジの愛の懐に行く場ですから、イエスは怨讐に対して福を願われたのです。今日皆さんはこのような場を、取り戻さなければなりません。ですから堕落した人類は、復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこのような条件を精算しなければなりませんが、そのようにできる自分であるか、自問自答してみてください。 11. 我々の責任と祝福の基準 神の願いが何でしょうか。我々人間が、お父様が案じることのない場で、お父様のものとして貴く思う物質を造り、お父様が愛することのできる肉身を造り、お父様が愛することのできる理念を持つことです。物質を復帰して、肉身を復帰して、理念を復帰して、天のまえに現れるなら、神様は取ることができるのです。それで人類は理念を追求しているのです。イエス様がわたしは新郎であり、あなたがたは新婦という理念を中心に、生死の境を越えてゆかれたので、このお方と共にすべてを捨てて、死の峠を越える覚悟をする者がいるなら、その前に主様は愛の主人公として現れるのです。 終わりの日には、そこが恋しくてまた恋しく、見たくてまた見たく、行きたくてまた行きたくなければなりません。億千万金があったとしても、それが問題ではないのです。今地上でどんなに富貴栄華を享受していても、これを蹴とばして捨てて行くように率いる教団を、今日人類は迎えてこそなのです。もしも統一教会がこの路程を行かないなら、また他の所へでも行かなければなりません。ここが最後ではありません。風呂敷を包んで、また行かなければならないのです。 今日我々が、自身を籠絡する物質の権限を嘲笑い、自身を打っている肉体的なすべての条件を嘲笑い、自分を縛ったいるすべての条件を、心情のまえに屈伏させる自分にならなかったなら、この峠を越えられません。越えられないのです。絶対に越えられません。 ’私は誰のために教会に行く、私は愛する息子・娘のために教会に行く。あるいは愛する夫のために、妻のために教会に行く’という者たちはみな越えられません。誰のために行くかといえば、神のために行くのです。神を自分のものとして所有するために、神の愛を自分の愛として求めるために、教会に行くのです。 ですから聖書には、気概を持てとあるのです。こうして神のまえに祝福を受ける過程を経てゆけば、その次は無事太平です。そのときはこの天地にサタンが一杯いても、そんな人間は支配できないのです。そんな時が来るのです。外的にそんな時代が来れば、ここに内的に合わせなければならない時代が、必ず来るのです。 だから今日我々は恨み多い過去を再び嘲笑い、この時代を蹴とばして神様が愛することのできる土くれ、神様が抱いて愛することのできる万物、神様が愛することのできる兄弟姉妹、神の愛を歌う息子娘を抱くことができる、その一つの所に向かって駆けて行かなければなりません。そこまで我々が行かない限り、この地上の悲惨な歴史は終わらないのです。 今日我々はこの争いの世界が、どうか過ぎ去ることを願っています。人類はこの争いの世界が過ぎて平和の世界、愛の世界、善の世界が来ることを願っているのです。この一つの世界を指向するのが神の目的ですから、この時が目の前に近づいているこの時、我々が理念的なすべてのものを一代で精算して、内的な準備をして越える者にならなければ、審判主であられる神の息子として立つことはできません。皆さんは審判の時が来る前に、審判を受けていって、神の仕事をすることができる資格者にならねばなりません。こうして審判の時になれば神の代身、審判の行使をしなければなりません。これが聖書で言う、祝福の基準なのです。 今日我々が行く道は、こんな道です。神を我々のものとし、神の心情を我々の心情として、この地と宇宙を我々のものとして、造らなければならないのです。天と地の心情に背信したのですから、食べることも忘れ、いつどんな所でもこのみ旨を成すためには、責任を持って行くという心情に染みる人間になってこそ、このすべての恨み多い善悪の戦場を越えることができるのです。そのような者がこの恨み多い戦場を、まず越える資格者になるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.15
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天国を捜して成そうとする悲しい父と息子・娘一九五九年五月一七日(日)前本部教会 皆さんに暫くの間、お話する題目は’天国を捜てし成そうとする悲しい父と息子・娘’です。こんな題目で、暫くの間お話します。 人間が善なる目的を追求する理由 人間始祖が失楽園の悲しみを体恤したその日から、今まですべての人間たちには心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあるようになり、その悲しみは全世界と天まで連なっているという事実を、皆さんは知っています。 一つの目的を追求すべき我々人間が、二つの目的に対している立場に立つことによって一人の主人公に対すべき人間が、神の他にサタンに対している立場に立つようになったのです。ですから堕落した我々人間は、二つの目的の世界に対している立場に立っているということを、生活を通して体恤するのであり、これは誰もが否定することができない現実なのです。 人間を創造された神のみ旨から見れば、人間は一人の主人公を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在なのですが、堕落したその日から二人の主人に対し、二つの目的の理念を望み見る人間になってしまったのです。 このようになることによって、善悪は自分一個体の環境圏のみならず、全世界にまで因縁をもつということを、皆さんは知っています。さらには地のみならず、天にまでこんな因縁が及んでいるという事実を、我々は知っています。 今我々は目的の世界に向かって 行かざるを得ない運命におかれているのであり、その何かは分からないが、自分の良心がある方向性を指向して、自分を催促しているということを、拒否しようにも拒否できないのです。ですから今日我々人間は、現実的な社会の矛盾に対するとき、世界の複雑なる実情を超越する新しい理念の世界を、心から追求せざるを得ないのです。 それでは自分をしてこのような心情を感じさせ、自分自身も知らないある感触を通して自分の心を、そんな一つの方向へと率いている動機は、どこから始まっているのでしょうか? それは一つの目的と、一つの理念を持つ、一人の主人から始まっているのです。そうしてこのかたは、一つの理念を持って、一つの目的を指向してゆく人間と、一つの世界を再創建するために、皆さんの生活環境に干渉して率いているということを知ってこそなのです。 今日人間は、新しい文化世界を創建していっています。のみならず、この文化世界を創建していって、この文化に通じることができる心の世界の理念まで指向しているのです。これを拒否できない立場に立っている自身であることを知るなら、皆さんは平安なる一日を持つことができないのです。 なぜならば、我々の祖先が失楽園の恨を抱いたその日から、その悲しみの感情は我々にまで連結されているからなのです。こんなどえらい事実は、歴史的にも実証されている事実なのです。我々の心情を通して、生活的に体恤するこの事実を、どうして拒否することができるでしょうか? このような事をおいて深刻に考え、み旨を抱く人間がいるとしたなら、彼はこの恨となる悲しい曲折の因縁を解くために、天地に向かって両手を広げ、訴え喘ぐ立場を免れようにも、免れることができないのです。 それゆえ皆さんは、今日の我々がこのような姿になるために、どのような目的と理念を持って、どのような中心に向かって生活する開拓者の立場に立つかということを、再びふり返って考えるべき時がきたことを、知らねばなりません。天はこのような時代を創るために、このようなみ旨を立てるために、歴史路程を経えきて良心を基盤にして、善を指向し、善の理念を捜し求めてゆく摂理を、我々の先祖たちを抱えてされてきたことを、知らねばなりません。 従って皆さんの心情が善を指向させるために、ある衝撃を感じる瞬間があるならば、その瞬間は崇高な瞬間なのです。崇高な瞬間ですよ。歴代の我々の先祖たちが皆さんを立てて、全人類が願う善なる目的の方向へと行くように、催促している瞬間なのです。さらには天が、自身を立てようとされる瞬間であることに、間違いないのです。 人間の心情が善を指向するように衝撃を感じる瞬間は ですから真の理念、真の心情のみ旨に向かって良心が動く人間がいるとして、彼はこれをどのように収拾して、自身の心の中心として、体の中心として、生活の中心として、理念の中心として、あるいは目的の中心として立てるために喘いでいるかということを、反省してみなくてはならないのです。 このような境地から人間がそれ自体を批判し、自身を中心に因縁のある世界を批判し、さらにはこれらのすべてのものが、見えざる無形の創造主と因縁を持つということを案じる心情を抱いて喘ぐとしたら、我々人間の心情に結ばれた恨の峠は、きっと歴史路程のある一時に消え去るのです。天がこのような問題を解決できないなら、天としての責任を果たさないのです。 それゆえ天は、このような事をある一時に、ある一人の人間、ある一つの集まり、ある一つの国家に預告させ、摂理されてこられないはずがなく、またこのような歴史の痕跡を残されぬはずがないのです。 我々がこのような痕跡を捜して追求してみるとき、この恨の歴史を精算する事は、ある論理的な方便や、理論的な形式によってはできないのです。それで心の世界を捜し求め、善の理念を追求して、さらには霊的な世界、即ち超自然的な次元の感情を引き出す方法を捜し求めて、人間と因縁を結ばなければならないので、宗教というものが現れるようになったのです。 宗教を通して我々が感じなければならないことは一つの目的、一つの理念、一つの中心が、歴史の始まりから終末時代まで、変わってはならないということです。一貫した思想によって流れなければなりません。なぜ、そうなのでしょうか? 皆さんは善悪の基準、言い換えれば善なる民族、善なる人間、善なる事は、何を基準として判断するのか? 始まりと終わりが統一しているのが天であり、善であるのですからそれを基準として判断するのです。真の善、真の天というならば、昔であれ今であれ、その目的、その理念、その方向が変わることはないのです。ですから宗教が一つの理念を立てるなら、歴史の変遷はあったとしても、その理念は変わることなく、うまずたゆまずに行くのです。 神の実存体が現れれば 人間の悲しみは、堕落によってもたらされたのです。さらには神の悲しみも、人間の堕落によってもたらされたとして、この悲しみを解怨する一日を預告するあるみ旨がなければならず、これを実践する方便がなければならず、これを解決することができるある人間がいなければならないことは、間違いないのです。 この事を担い、この事に責任を持つために送られたかたが、宗教的に見れば修道(道)の責任を負う者なのです。 全世界的なある修道の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教的にいうとイエスの降臨というのです。 このような中心存在が、天上の悲しみと地上の悲しみを解怨するために、この地上に現れるなら、絶対に栄光にみちた姿として現れることはないのです。なぜならば、神の実存体が現れるにおいては、歴史の過程を否定することができず、時代性を度外視することができないからです。 天が悲しい過程を経る歴史があるので、イエス様が天宙の理念を代身する理念の主体として、目的の主体として、生命の主体としてこの地の上の現れるためには、このような過程を経なければならないのです。 実存するということは、因縁の過程を経なければなりません。それでこそ実存の土台を持つことができるのです。ですからイエス様も、歴史的に因縁づけられたその悲しい心情を、体恤しなければならなかったのです。人間を代表して、そんな心情を体恤する反面、天を代身して神の悲しい心情まで体恤しなければならなかったのです。 人倫的に見る観と、宗教的に見る観は違うのです。人間たちが見るときには、自分を否定して全体を代身して、大衆の苦痛を背負うという人間を、善なる人として仰ぎ敬うのですが、宗教的に見るときにはそうでないのです。人間的な悲しみを代身すると同時に、天倫の悲しみを代身する立場でなければならないのです。 それは堕落によってたがえ、絡みついたその怨恨の曲折を解くべき人間が、必ず持つべき天的な要求であり、全人類の要求であることを、我々は知ってこそなのです。 このような怨恨を解怨して、堕落によってたがえた曲折を打破するために来られたかたがイエス様であるなら、彼は四千年の人類歴史路程において、どこの誰も体恤することがなかった神の悲しい心情を、感じる道を行かねばなりませんでした。それでイエス様は、四千年の歴史路程に現れたどのような主義よりも、神の心情の奥深く染みている悲しみの感情を、体恤しなければならなかったのです。もしも地の上の人間の中に、天の悲しい心情を体恤した者がいたとして、彼は涙なしに地を見やることができないのです。天と地まで悲しみに染みて、嘆息し、慟哭する境地にぶつかってしまうのです。イエス様はこのような心情を感じられたのです。 これが誰のゆえであったのか。初めは天のゆえであり、天が人間のために彼をこの地上に送らたのに、その次には人間のためであったと見ることができるのです。ですから天の悲しみを抱き、人間を抱いて泣かなければならなかったイエス様であり、人間の悲しい心情をにぎって天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエス様であったのです。 神の悲しい心情を一掃したという一時、即ち神の心中に染みている悲しみを解消させる一時が訪れてこない限り、人類の平和も成せず、天的な一つの理念も、この地の上に結実の一時を迎えられないということを、皆さんは知らねばなりません。 こんな曲折に処している皆さん、こんな曲折に染みて喘いでいる今日の人類が今、新しい覚醒をしなければならない時が来たのです。わき起こる警鐘の音に、我々は時が来たことを知るのです。 今日この時は、歴史上に恐ろしい時が多かったとしても、これ以上に恐ろしい時がなかったのであり、悲しい時があったとしても、これ以上に悲しい時がなかったといえる、そんな時なのです。なぜならば、父母が子女を知らず、子女が父母を知らない時であるからです。このように貴い天的な因縁を、自分勝手に放棄して、破綻させてしまった彼らが、どこに行って自身の悲しみを慰められるかと考えるなら、これ以上の悲しみはないというのです。 今日の人間がおかれた状況と我々が取るべき方向と態度 悲しみがわが心に染みているのですが、また一面では恐怖の世界が、自分に襲いかかっているのです。このような状態で喘いでいる自分一自体において、安定した心情の園がどこにあり、安息と自由の園がどこにあるのか? これがこの時代の人類、この時代に生きている我々が解決しなければならない切迫した、かつ重大な問題であらざるを得ないのです。 皆さんはこのような圏内に、おかれているのです。このような皆さんであることを、再認識すべき時が来たのです。それゆえ今、右手を挙げて’天よ、私たちの手を握ってください’と力をつくして叫び、左手を挙げ’人類よ、私と共に前進するのだ’と叫ばなければならない時が来たのです。ところがこんな衝撃を、心から感じようにも感じることがなく、こんな刺激を受けようにも受けることがないこの地の上で、どうするのか? 人間は今まで自分たちだけで捜して見て、争い、いろんな事をやってきたのですが、これを解決することができず、その結果は絶望と、死亡と、滅亡の他はないのです。我々人間の努力に対する報いがないということを、理解する時がきたのです。 天があるとするなら、人類は歴史的な努力を注ぎ、ある一分野において天と因縁を結ぶという信念を持って、天を求めてゆかなければなりません。このような日が個人から芽生えたなら、個人が蘇生するようになるのです。このような日を捜してさまようある集い、あるいは民族、国家、世界があるとして、その集まり、あるいは民族、国家、世界には、この新しい因縁の世界を捜し求めてゆく動機と、理念がないとすることはきないのです。 もしも天があって、このような世界性を望み見ておられるという事実を知るなら、我々はより多くの恐怖を感じるのです。心的な世界において、自分も分からない恐怖の刺激が日がたてばたつほど、時代が切迫すればするほど、よりましてくるのです。 それゆえこの世界、この方向をこのままで行ったなら、駄目なのです。この道を行けば生命に脅威を感じ、生死の脅威を感じることは、間違いないのです。この道は本然の心情を持つ人間が行く道ではないことを再認識して、帰ってくることができる環境を捜して見る、余裕の心情なりと持たねばなりません。今まで皆さんが地の上で、天のまえに忠誠をなしたそれ以上に忠誠をなし、苦難を受けた以上の苦難を受け、いかなる情熱を注いだ以上の、情熱を注がなければなりません。 本然の私 ある善の主体、ある善の目的体、理念の世界がその心に染みていって、皆さんが感じないとしても感じざるを得ず、喘ぐまいとしても喘いでしまうのです。そんな姿になっているなら、皆さんはある目的世界を捜し求めて行く動機を持っていることに、間違いないのです。 今まで自分が持っているある合理的な論理を通して立てた主観や認識を通して、自分の思い通りに立てた観念で、自分の全人生を委ねて生活し、安堵感を感じる人間がいたとしたら、彼はその学んだ知識が自分を、自縄自縛してしまう結果になることに間違ないのです。 皆さんの心の底をさらけだして考えてみるとき、このような感情の流れを否定することができない一つの真理体であり、実存体である事実を知ったなら、この姿は宇宙的な姿であり、宇宙的な証拠物であり、歴史的な証拠物、理念の証拠物であり、一人の主体に対する対象的な存在であることは、確かな事実なのです。 今天があるとして、我々は主体たる天の対象である自分の個体を、一〇〇%信任してくれるその一日を捜し求めなければなりません。この目的に対し、一〇〇%の信念を持って捜し求めて行かなければなりません。また、一〇〇%の信念を持って突進することができる、方向性を持っていなければなりません。これがこの時代に生きる人類が解決すべき、最後の重大な問題なのです。 このような悲しみの環境を越えなければならない人間ですから、神はこれを解決するある条件を、立ててこられたことに間違いないのです。であれば神は歴史路程において、どのように摂理されてきたのか。人間始祖が堕落したのは、神を信じなかったためであったという事実を、皆さんはよく知っています。信じなかったので、堕落したのです。さらにいえば、神を愛さなかったからです。そして神に侍らなかったが故に、堕落したのです。これがキリスト教でいう信仰の三大要素、即ち、信仰、希望、愛を象徴しているのです。 信仰者たちの希望の標準 我々の最後の希望が何であるか? 神に侍ることです。人間が必ず求めなければならないことが、天的な因縁を回復することです。解怨される一つの歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとして、この条件は何を通して我々に訪れてくるのか? 過去の我々の先祖たちが信じず、愛さず、侍らなかったがゆえに、信仰の運動を提示して、愛の運動を提示してきたという事実を、我々は知っています。このようなことを通して、我々に訪れてくるのです。 イエス様が来る前までは、信仰の基台を築くために喘ぎ、イエス様がこの地上に来られて人類を愛するために闘われたのですが、そのみ旨を成すことなく、新郎・新婦の因縁のみを立てて逝かれたのです。ですから人類を抱いて愛することができる、愛の主人公が来なければなりません。 それではその主人公を迎えるその日以後からは、どのようにしなければならないのか?生活の中で、そのお方に侍って生きなければなりません。これが地上天国なのです。このように無限に侍って生きる、このような天国世界において生きることが、信仰者たちの希望であり、標準なのです。歴史の摂理路程も、このような方向へと動いて行っているのです。 ですから天が悲しみに染みている人間を捜し求めているなら、逆説的な要素と逆理的な条件を通し、勝利的で法度的な条件を捜し立てなければならないのです。ここに天の曲折があるのです。人間の悲しみも大きいのですが、天の染みいる悲しみがさらに大きいのであって、人間はこんな天の悲しみを知らないでいるのです。無知なる人間のまえに法度を立て、勝利的な過程を経ていって訪ねて来る天の悲しみを、知る人間がいないのです。 それでイエス以後、これまでの歴史は信義の歴史です。人類の歴史は信仰の一つの基準を造成して、またこの基準を高め、善の実績を積んできたということを、我々は知っています。イエス様が愛の一つの中心としてこの地に来られたのですが、来られた目的をすべて遂行することができずに逝かれたので、これからの信義の時代から、侍義の時代へと移っていかなければなりません。 ですから天は悲しみの環境の中におかれている私一個体を、救援するために再び訪ね来られるのです。 人間が神と因縁を結べる条件-信仰と実践 歴史的には何を通して天が人間を訪ねて来られるかというと、信仰という条件をもって訪ねて来られるのです。天は人間をしてこの信仰の条件を立てさせる反面、人間に対して何を要求されているのか? 実践を要求されるのです。天と自分が因縁をもち、悲しみの感情を除去することができる一つの足場を立てるためには、信仰を中心にして一つの実践的な行路がなければなりません。そうしてこそ、歴史的な因縁を立てることができるというのです。 なぜならば、私という存在は私個人のために生きるのではなく、私を否定して、天が行く方向に従うべき運命におかれているからなのです。天は我々個人をまとめて、世界と天宙のための方向へと、その方向性を得てゆくのであって、善の方向性というものは、私を中心にしてはいないのです。善の標準は、私を中心にしてはいません。これは国家が対象になり、天が対象になっているからです。ですから天は信仰と実践を強調して、人類に対して摂理してきたのです。 今日まで信仰と実践を強調してきた六千年歴史、この六千年の歴史を検討してみれば、言葉にもならない悲しみの歴史です。しかし今日皆さんは、人類の悲しみよりも、人類を抱えて来られた天の悲しみが、さらに大きいという事実を知らなかったなら、天的な因縁を結ぶことはできません。今まで、これを知る群れがなかったのです。 我々は人間たちが、天を追放し、先知先烈たちを殺した歴史的な先例を持つという事実を、知らなければなりません。 天は人間が無限に信じて実践して、ご自身を求めてくれることを願っておられるのですが、人間には神に対する心情がなく、信仰を持って実践して実行することができる足場を持っていないのです。 また信仰の足場があったとしても、人間は天の悲しみと伴なる感情を通した信仰、感情に通じることができる心情を持って実践してこそ、天の信仰と人間の信仰が互いにぶつかりあって、人間のすべての悲しみを解怨できるようになるのです。ところが我々人間が、そんな境地に立っていないということなのです。 今日皆さんが新しい理念に向かってゆき、新しいみ旨を指向してゆくにおいて、自らの信仰に自信がありますか? 自信がないというのです。この自信と共に、歴史的な因縁を拒否する自分の生命体を得ていないならば、歴史的な因縁の環境を開拓しなければならない実践路程が残っているのです。たとえ信仰していることを実践する資格があったとしても、天情の悲しみを体恤し、神の信仰に心を奪われ、神の実践に心を奪われる感情が先に立たなかったならば、皆さんは神様が捜し成そうとされる天国とは、何らの関係がないのです。何らの関係もないというのです。 人間同士の信義も、悲しい面と喜ばしい面が相対的な関係を結んでこそ、これが長く維持できるのであり、その信義を基盤として約束したことをどこまでも実践できるのです。天に対する信仰路程においても、実践路程においても、他なりません。天の喜ばしい面と悲しい面を感じていって、信じて実行できなければなりません。それゆえ喜びの自我になるには、悲しみの自我をまず、捜し求めなければなりません。 ですから信仰の主人公として来られたイエス様は、万民を代身して信仰の中心となる心情をもって、真の信仰者の姿をもって、天のまえに現れようとされたのです。そして天はイエスが万民を代身して、ご自身と信仰の因縁を結び、そのイエスが万民とも因縁を結ぶことを願ったのですが、願った通りにはならなかったのです。言い換えれば、イエス様と天は因縁を結んだのですが、人間との間には所願とされたその因縁を結ばないままに、今まで過ぎてきたのです。 それで今までの聖徒たちは信仰を立て、実践してきたとしても、信仰と実践が自身において完成したとする日を、迎えてはいないのです。 真の信仰と実践 天国とは、真の信仰とは’これこれである’と解釈することができ、真の実践とは’これこれである’と解釈できるところです。ですから今日人間が、このような真の信仰と、実践を成事させるための路程において、天が受ける苦難と悲しみの感情を体恤するにおいて、その感情の限界を分析して同感する場に立っていなかったなら、彼は未だに天国理念の世界においては、両手を挙げて歓迎することができない立場であることを、知らねばなりません。 ですからイエス様が歩まれたその跡は、貴重なものなのです。イエス様はご自身の一言のみ言が立てば、天が立つのであり、そのみ言を実行すれば、天のみ旨が実行されることを知っていたのです。ここに基準を合わせて生きてゆかれるイエス様にあっては、人間を案じる心が大きく、天を案じる心が大きく、天と地の悲しみを体恤する感情が大きいのです。 聖書の中にはイエス様が喜びにあふれ、踊りをおどってみ言を語る句節はありません。なぜ? 神様も未だに喜びの園で、子女である人間に語られていないがゆえに、イエス様は心中に喜びがあったとしても、天と地を越える喜びの感情で、自由にみ言を語ることができなかったのです。 イエス様のみ言は、喜びの感情で伝えることのできるみ言でなければならないのに、語られるご自身は悲しみの感情を通してされるということを、知らねばなりません。従って皆さんは今こんな感情に染みて、み言の尊厳性を悟らなければなりません。 イエス様と自分が歴史性を超越して関係を結び、現実の生の理念圏内において、因縁を結ぶみ言になっていないなら、そのみ言は天のみ言ではありません。 信仰者の本質と神の願い 皆さん! 今皆さんに真理の道を求め、信仰路程を復活させようという切なる心情があるなら、イエス様が悲しみの感情によって語られた信仰観念の最後の限界線がどこかを知り、その限界線を越えなければなりません。イエス様は天宙の悲しみを解怨しなければならず、人類の悲しみを解怨しなければならない中間的な責任者であったので、彼の心は推し量ることもできない悲しい心情だったのです。人類の悲しみが百なら百、千なら千の心情を感じて、さらには神の千万までの悲しみを感じたのでした。ですからすべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れるみ言に対して、人間の信仰の基準が立ってこそ、神と人間との間の塞がれていた因縁が、再び結ばれるのです。このような基準を立てることが、信仰者の本質であるといえるのです。 ですからキリスト教は、笑いの宗教ではありません。涙の宗教なのです。従って我々がイエス様についての、一つことを知ってみれば胸がつまり、二つことを知ってみればわれ知らず慟哭し、知って知って、また知ってみるなら自分自らが祭物になるべき立場であることを、感じないとしても感じざるを得ないのです。こんな感情からの信仰、こんな感情からの実践をするなら、死せる人間を生かせるようになるのです。 天のまえにどれほど素晴らしい功績を立てたとしても、その功績の結果は自身によって成されたものではないのです。それは天によって成されたものなのです。 それでは摂理の糸口は、どこから始まるのか? 人間の心が天の悲しみと通じるその瞬間に、新しい摂理歴史は開拓され、積まれてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 神は人間に対して、信仰と実践の路程を歩むことを促され、六千年の長い歴史路程を経てこられたのです。全人類に対して、このような存在になることを懇切に願われているのです。全人類のまえに神ご自身を、一〇〇%立ててさしあげる実体を願っているのです。 天は限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまう一つの存在を、捜し求めておられるのです。天の標準がそうなのです。信仰という言葉が必要なく、実践という言葉が必要ない、そんな存在を捜し求めているのです。イエス様を通して与えたみ言を立て、実践の名詞を立てることのみならず、天の感動を引き起こす存在を求めてこられたのです。ところがこのような天が、人間に求められるその限界線を越えて、実践したという人は一人もいないのです。 神が求めている人 今日キリスト教の数多くの信者がいるとしても、このような心情の限界線を越えて、実践路程を誇ることができる一人の天的な子女が、どこにいるでしょうか? 天的な子女がどこにいるでしょうか? 問題はここにあるのです。今日皆さんは信仰の名詞を、夢にまで立てなければならず、どのような一つの事実においても、時代性と歴史性を超越して、永遠から永遠にまで自由自在にわがものと思って愉み、わがものとして応じることができなければなりません。神様が人間に対して、信仰の基となる道を立てたという、そんな内容がなければならないのです。 世の中の信義の法度を忘れてしまう一つの存在、実践の価値を忘れてしまい、実行の価値よりも貴く思うそんな境地で天のみ旨に染みるとき、天は初めて’わが息子よ、わが娘よ’とされるのです。ですから真の息子と娘を求められないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみです。この人類を息子・娘として対することができないのが、天の悲しみだというのです。 今日絶対者をおいて、神と呼ぶ言葉を持っているのですが、神はこのようであると紹介するとき、真の感情が通じないのです。皆さんは感情を離れた言葉はあり得ないことを知っていす。それでは言葉が通じ、感情によって接することができる神は、どこにいるのでしょうか? 皆さんがこの信仰の路程を行くにおきまして、切実なる心情をもってこんな問題にぶつかり、信仰という名詞と実践という名詞を越えて、アボジに心奪われてわれ知らず、自身の細胞と自身の心情が動じ、アボジを呼ぶのでなければなりません。天はきっとこんな叫びが、生理的な状態として留まる一つの存在を、捜し求めておられるのです。 今日の人類が泣かねばならぬことがあるとしたら、人類自体が責任を負っていないことをおいて悲しみ、泣かなければなりません。六千年の間、天を悲しませた逆族であり、背反者である我々の先祖たちに対して、悲しまなければなりません。さらには今日の自分一個体をおいて、悲しまければなりません。 今日の信仰的な観点から、我々自身がある限界圏内においてさまよっても来なかったかを、考えてもみないで動いて行くなら、このような我々に対して天は’その通りだ’とされるか’悲しい’とされるか? その心情は四千年を過ぎ、六千年の歴史の因縁を加えた悲しみでいっぱいなのです。そして皆さんは、天が皆さんに対して嘆息される立場におられることを、自認しなればなりません。 人間が堕落することによって信仰を失い、愛を失い、侍る生活を失う心情に、流れこむものが何であったか。悲しい心情であったのです。何だか分からない悲しい感情でした。ですから皆さんも信仰生活におきまして、自分も分からないうちに悲しい感情が芽生え、ある意識的な基準を立てないにもかかわらず、生活的な分野におきまして、周囲の環境から悲しみが訪れてくる時があるのですが、天が訪ねてくる時間であると知るのです。このような時間に、その悲しみの実体を抱え、涙の因縁を結ぶことがあったなら、彼は蘇生することができる人間なのです。 このような因縁を結ばなければならない人間なのですが、堕落した人間が天に対して、立体的に対することができないので、平面的な主人公としてこの地上にイエス様を送られたのです。堕落した人間には、実体の主様としてのイエス様が必要であったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。 四千年の悲しみの歴史路程において、追われこずかれたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱いたイエス様を抱えて慟哭することができたなら、この民族は今日世界のまえに名を挙げる民族になったのです。であれば民族を失い、主権を失い、国土を失い、流浪する民族にはならなかったのです。そんな民族にはならなかったのです。そうではないでしょうか? 喜びよりも悲しみがより大きかったイエス様の生涯 統一教会は本来、険しこを行くためのものではなかったのです。私は皆さんが統一教会に入ってくるのを見やるとき、歓迎する心よりも案じる心が先立つのです。そんな心で見やるのです。歓迎するよりも、躊躇する心で見やっているのです。 こんな天の内容と天の実情、即ち我々人間に対して求めておられる天の事情が、このように懇切であることを感じる人間であるほど、自分を捜し立てることができず、自分を否定する他はなくなるのです。 自分の意識と、自分の主観からは批判することができない境地に、自分も知らずに引かれてゆくある存在になったなら、こんな境地の悲しみを感じる反面、主体的な立場で天を安心させ、慰労することができる一部分を任され、連結づけるその場においてのみ、この道を行くことができるのです。このようになれば、この道を行けるのです。 平安な道を行くことを願う人は、この道は行かないでください。私が歩んでみるに、この歩みには親友がいない寂しい歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を通じ合えない歩みであり、維持することができない歩みであり、信じられない歩みであることを知るのです。歩んでみれば、こんな曲折を経てこられたイエス様の心情を、深くくみ取ることができるのです。 私が今、イエス様を紹介するなら、まず悲しみの面のイエス様を紹介したいのです。めしを食べる時も忘れ、眠る時も忘れ、悲しい胸を抱えてこの村、あの村へと追われ追われたイエス様、その時代のどこの誰が彼の心情を知り、親友となった人がいたでしょうか? 天は悲しい天であったのです。天を代身しようとした先知者も悲しい祭物であったのですが、イエス様まで死んでしまったので、み旨を抱いておられた天、その天は悲しい天であったのです。 この天が、誰であったのか? 知ってみればアボジであったのです。神と我々人間の関係を知ってみれば、父と子の関係でした。我々人類は、アボジの悲しみを知ることのない存在になっていたのです。ところで人間が知らないアボジの、その悲しい心情を知ってあげるべき責任は、神ご自身にあるのではありません。それは人間にあるのです。それでこれを遂行するために先知者が来て、イエス様が来られたのです。 イエス様は悲しみの王者 天は今まで待ち焦がれ、求めて来られたのです。イエスが行った悲しい信仰の路程、イエスが闘った悲しい信仰の闘い、その闘いを今日子女の名分を持とうとする者は、代身して闘って勝利しなければならないのです。 人類は未だに地上に喜びの一日を持ってはみず、栄光の一日を持っていないのです。このような事情をおいて、悲しみの感情に動かされて天を呼ぶとき、われ知らず天があることを知るのです。 私が知るところ、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。この事実を皆さんは知らねばなりません。聖書には何か所しか表されていませんが、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。山川を眺めて責任感を感じたお方であり、散らばる民族を眺めるときにも責任感を感じたお方であり、無限なる天に対しても責任感を感じたお方であったのです。責任を背負って実践することができない分野があることを見やれば、さらに悲しみの心情を抱き、その他また天を慰労しなければならない立場で、慰労してさしあげられない悲しみ、人間を救援すべき救世主の責任を担うことができずに加わる悲しみ等、彼は本当に悲しみの王者であったのです。 我々が信じているイエス様は、ある万王の王、栄光の王者、勝利の王者であるよりも悲しみの王者であることを、我々は感じてみなければなりません。 こんな事を言えば、キリスト教の異端者として烙印を押されるかも知れませんが、知ってみればそうだというのです。’イエス様は万民のまえに、歴史のまえに初めて現れた、天の悲しみの心情に通じる王者であったのだ!’と感激がわき起こる瞬間を経てこそ、皆さんがこのお方と因縁を結ぶようになるのです。また、それのみなのです。イエス様は苦痛の王者であったのです。 イエス様の深い心情と事情 天に背反し、天に対して呪咀する先鋒に立つ者たちは誰だったのか? 彼らは信じ従うように立てられたユダヤ教徒であり、イスラエル民族だったのです。天はイエスを捕らえて殺すために四千年間準備して、イスラエル民族を立てる道理が万に一つもないのです。 これを見るとき、イエス様はすべてに勝利してゆかれたお方ではありません。完全な勝利ではなかったのです。皆さんたち、考えてみてもそうではありませんか? イエス様が十字架に逝かれたことが完全な勝利なら、受難の一日はそれ以上に喜ばしいことがないのであり、十字架に逝かれたその瞬間が、最後の勝利の瞬間であり、万民万象を動員して喜ぶ瞬間であることに間違いないはずですが、喜びの瞬間ではないことは誰もが知っているのです。ですからマクダラのマリアが歓喜の心で迎えようとするとき、イエス様は来るなとさえぎられたのです。イエス様は愛する弟子と共に喜びに染みて、天のまえに栄光をお返しできなかったのです。それはできなかったのです。であるがゆえに悲しみを抱くイエスであり、哀痛なる死であり、悲しみを抱えて成した復活であったことを、我々は知らねばなりません。 我々は天の悲しい心情を体恤して自身の身のおきどころも知らず、生活の方便も忘れ、行く家々の門前で睨みつけられ、この村あの村へとさまよつつ追われていったその憔悴したイエス様の、同志にならなければならないのです。 イエス様は民族のまえに追われ、教団のまえに追われ、親戚に追われ、愛する弟子たちにまでも追われたのです。このように、悲しみの中の悲しみを感じられたイエス様だったのですが、天の心情を抱き、世界人類に自身のすべてを与えるという心を持った、また人を信じようという心を持ったお方だったのです。 イエス様は悲しみの感情で通じることができる人類に対する因縁が、過去と現在と未来にまで連なることができないので、自身の心中に抱いたその懇切なる願い、懇切なる心、懇切なる事情を、人類のまえにすべて知らせてゆけなかったのです。皆さんはこれを知ってこそであります。 今日終わりの日にある聖徒たちは、み言をつかんだというそれだけで自身が天の王者のまえに立つことができる約束の新婦だと、自認しないでください。そのようにはなっていないのです。知ってみれば、そうはなっていないのです。 それゆえ今皆さんは’アボジよ! 私たちはみ言が恐ろしく、私たちの行いが不足なのです’という恐れ多い心に染みて、アボジと呼ぶまえに涙が先にたち、アボジと考えれば胸がつまって堪らない心情が伴わなければなりません。自分が千万べん祭物となっても、歴史を率いて苦労されたアボジのまえに、自身を立てて何かを期待することができないことを、知らねばなりません。 こうしてこの心が、天に向かって行っても行っても不足であり、行っても行っても恐れ多く、行っても行っても心苦しい心情に染みて、悲しみの涙を流す場であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の新婦になることができるのです。 我々がこのような境地に入るならイエス様が’狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない(マタイ八:二〇)’また’カペナウムよ、まえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう(マタイ十一:二三)’と言われたみ言を理解するようになるのです。 こんな心情に通じてみ言を明らかにしてみるとき、このみ言がイエス様のみ言としてではなく、皆さん自身のみ言として、骨肉に染みなければなりません。こうして皆さんが、新しい理念、新しい覚悟、新しい決心をもって、新しい目的の時代を指向しなければならず、このような衝撃の姿として周囲の環境を開拓する、信義の子女にならなければなりません。 であってこそ、本質世界を通したイエス様のまえに、新婦として立つことができる一つの対象となり、信仰者であるといえる存在になるという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。 我々を捜し求めるイエス様は、信仰の重要性を強調なさる一方、何を語られたかといえば、神は愛であるとされたのです。愛なる神、慈悲の神、義の神、等々神のいろんな面を語られたのですが、神のすべての面を代表する結論として’神は愛である’という定義を立てて我々を指導されたのです。即ち、真の愛を求めてさまよう神であることを、知らせてくださったのです。 わたしをより愛せよという言葉の意味 ’何よりもわたしをより愛せよ’というこの言葉は、何の意味か? わたしがあなたを信じ、あなたを愛するということであり、また天は我々に、このように対されているということです。天は我々を愛するに、時間を惜しまれないのです。 今日宗教界に責任者たちがいるとして、喘いでいる羊の群れを見て、自身の骨肉に染みて彼らの生命を抱え、涙を流して慟哭することができる心がなかったならば、彼らは天法に引っ掛かる牧者になってしまうのです。天法に引っ掛かるのです。そうではない牧者がいたなら、彼は死んだ牧者なのです。 神がなさることは言葉よりもまず、心情が先に立つことが特徴なのです。心情に染みて自分も知らずに溢れてくる言葉のまえに、サタンは屈伏してしまうのです。悪はそうしたところから屈伏してゆくのです。でなければどんなに良いことを言っても、悪は屈伏しません。染みる心情が発露されて、人間の生命が生死の岐路に立つことに憤り、これを自分一身の苦痛として感じるのみならず、自分の身の上を助けずに体を投げ出し、彼らを救うために抱きしめたい染みる心情が先だってこそ、ここから救援が始まるのです。 イエス様は十字架を背負ってゆかれるとき、愛せよという言葉を残して、行かれたのです。十字架上にあっても、天を離れて怨讐のまえにゆく彼らを恨むことなく、呪咀されなかったのです。 自分自身の痛む心情よりも、彼らに対する哀れみの心が先だつゆえに、怨讐のまえにでて行く彼らを防ぎ、手をのべて怨讐のために、祈祷することができたのです。このような祈祷のまえにのみ、サタンは屈伏するのです。 ですから天のために生きようとし、天のまえに行こうとする人間ならば、自分が食べている物が他よりも良いときには、呵責を覚えなければなりません。着る物、暮らすこと、見る物自体をおいて、呵責の心を先だててゆく人間がいるとしたなら、彼は飢える法がなく、追われる法がなく、迫害される法がないのです。たとえサタン世界では追われることがあっても、天の心情を求める群れのまえには、追われる法がないというのです。 それで天は、我々人間に対して’わたしを愛しなさい’とされたのです。その愛は今日皆さんの感情から感じるそんな愛の心情や、限界のある愛ではありません。六千年の悲しみを、解怨することができる愛でなければなりません。それはエデンの園において、アダムを追放しなければならなかったその悲しみの心情、さらには地獄に行った命まで哀れに思い、慟哭する心情を持つ愛であるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 神の愛は、当然罰を受けるべき罪人であったとしても、サタンと天のまえにおかれた条件の法度があるので、この法度の条件を実践させるために、彼を打って悲しませ、捨ててまた抱えてこられるのです。 イスラエルの歴史を見るとき、反逆するイスラエル民族はどこの誰よりも、神のまえに背信者であり、背反者たちであったのです。しかし天は彼らを捨てても取り、再び捨てたが取ってこられたのです。取った個人を捨てて再び取り、ここに繁殖した家庭を取られたがまた捨て、一家庭を立てて天のまえに数百、数千、数万家庭を取られたが捨て、また取っては捨て、イスラエル民族を立てて今日、第二イスラエル民族型である世界キリスト教を展開させてきたのです。言い換えれば、第二イスラエルということができる世界キリスト教を、立ててきたのです。 神の愛の世界と因縁を結べる出発点 ここにいる信者たちは、サタンに対してまでも未練を持つ神の心情と、サタンまでも許すことができる法度を考え、摂理して闘ってこられた神の心情を、知らねばなりまねん。このような神であることを、我々は知らねばなりません。 こんな心情を持つ神であることを知り、今日皆さんは天に背反した罪と、自身の不足なることと、違えた過去の生活を振り返り、愛する心のみならず無条件で仕えたい心、無条件で為になりたい心が、起こってこなければなりません。このような瞬間から、皆さんは天の愛する人間なのです。父母も忘れ、父母も記憶しないほどに動いてゆく、そんな境地が天の立場なのです。 堕落した人類の父母も子供の過ちを忘れようとするのに、まして天情を代身しなければならない我々は、もっとそうであるべきではないでしょうか? 今皆さんはこんな心情が動き、こんなアボジであることを体恤して、そのアボジを無限に尊敬し、無限に侍らなければなりません。こうして自分自体をすべて奪われ、また誰が自分のすべてを奪ったとしても’私は感謝します’とする心情にとらえられなければなりません。正にこんな時が、神の愛の世界と因縁を結ぶことができる出発点であることを、よくよく知らねばなりません。 ですからイエス様は愛を強調され、愛の主体としての使命を完遂しようとしたのです。それで彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活であったのです。与えられずに喘ぐイエス様でした。彼は自身の命を与えようとし、自身のみ言を与えようとし、自身の栄光を与えようとし、自身の宝座まで与えようとされたのです。しかし自身のすべてのものを与えても受けようとしないので、ついには自身の体、自身の血と肉までも人類の為に投じて逝かれたのです。 これが愛を標榜し、実践したイエス様の生活であったのです。我々もこんな愛を追求してゆく自身であるならば、永く信じてきた人を見れば自ら頭を下げ、天のまえに苦労した人を見れば、自ら仕えたいとしなければなりません。皆さんの信仰生活におきまして、このような心情がないとしたならば、天的な愛の因縁は断たれてしまうのです。 人間が今まで持ってきた愛は、永遠なる愛ではないので、人々は愛という名詞をかけ、その永遠の愛を捜し求めるために、死ぬことを覚悟して喘いでいるのす。人間的な愛が、天的な愛の因縁にぶつかって愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権限を決定する価値のある、甘美さを感じるのです。天的な愛に接続するその瞬間は、すべてのものを失っても未練がないのです。このような世界は、妄想的ではありません。ある架空的な空想の世界ではなく、実存的な実相の世界なのです。 こんな感情が今日人類の心情のうちに、大宇宙圏内にあるのです。我々が知ることのない天情の世界において、人類に向かって流れこむ感情があるのです。これを皆さんが否定してはなりません。イエス様は愛の神髄を教えるために来られました。これを教え、神の愛を立てるためには、人類を代身して数千年の間苦労された天に仕えるという心に、染みなければならなかったのです。 今までの信仰の世界がこうだったのです。初めは信仰の世界であり、二番目は愛の世界です。愛の世界は新郎・新婦の世界を言います。今これからの時代がどんな時代かといえば、侍る時代です。ところで信仰の過程を通り、愛の過程を通過してこそ、侍る時代に入るのです。これを今日のキリスト教徒は、よくよく知らねばなりません。 今まで信仰のみによって救援を受けると主張する人は多かったのですが、愛によって救援を受けると主張する人はいませんでした。使途パウロが言うに、’信仰と希望と愛の三つが常にあるが、このなかでの一番は愛’としました。信仰によって行くところはありません。それゆえ今日の統一勇士たちは、信仰の論理を主張し、信仰によって救援を受けると主張することよりも、愛することによって救援を受けるという標語をもって、行かなければなりません。 世界を動かすことができる主人公 愛は自分個人を愛することではなく、民族を越え、世界と天を愛することにまで及ぶ心情です。自分に熱があり、力があり、生きている限り誠精をつくしたく、叫びたい心であり、世界を越えて天と因縁を結びたい心です。 このような愛を実践するために、今日も逆境、明日も逆境が迫ってきても、与えまた与え、仕えてもまた仕えなければならなかったイエス様の、三〇余年の人生だったのです。イエス様はパリサイ人に’偽善なる墓に似た者たちよ’と咎められ、呪咀されたことさえあったのですが、限りなく為に与え、限りなく受け与えたいのに、彼らがその心を分からないので、こんなみ言をされたのです。 今日我々は、為に生きる人を捜すことができません。真に為に生きる人を捜すことができません。この韓民族は、為に生きる民族になっていないのです。為に生きるいかなる理念も持っていません。過去のこの民族の為にとする理念を持たず、現在のこの民族の為にとすることのできる理念を持たず、未来のこの民族の為にとすることのできる理念を持っていないので、為に与える天の摂理のみ旨とは、相反することを我々は知らねばなりません。 皆さん自体もそうです。自動的な発露として、過去と現在と未来の為という心が現れてこなければなりません。自分が成功し、名を挙げようとする等、自分を中心にすることは堕落の道です。堕落の道がこのようであるのです。どんな主権者の立場に立つとしても、彼は高く上げられる者ではなく、三千万なら三千万全体の為に、与えるべき者なのです。 この民族すべてが、ごはん一杯食べるにも三千万の血と肉を食べる心情になり、着物一つ着るにもこんな心情が伴うならば、この民族は滅びないのです。今日キリスト教が強調すべきことが、このことです。このような個人、このような牧者、このようなキリスト教が出てきてこそ、民族が生きるのです。 今このような悲哀と曲折の、嘆息圏内にある現実を見やる我々は、覚醒しなければなりません。 天が提示された愛の標語を、実践することができるその一人の人が、何であるのか? 肉が裂かれ、血を流しても為に福を願い、与えたい心が全宇宙にぎゅっと満ち溢れ、神様までもとらえることができる心を持つ一つの存在が現れるなら、彼は世界を動かすことができる主人公になるのです。そのようになれば、心情世界の理念を捜し立ててきた天までも、その人を抱き抱えなければならないと、決断する他ないのです。 それゆえ天は皆さんの信仰路程において、重要な一面である愛という名詞を立てたのです。罪悪なる世の中にも、愛を捜し求めてゆくときには心情がなければなりません。そんな心情に染みてゆこうとする何かがなかったならば、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。 それでは天の嘆息を解怨するために、立てられた目標が何であったか? 失われた天国の復帰です。失われた真の息子・娘、永遠に抱いて愛することができる息子・娘を捜し求めることです。生活的な面において神を失うことなく、永遠に同居することができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような、本然の人間として復帰することであることを、皆さんは知らねばなりません。 天が成そうとされた目標 堕落した人間が信仰路程をすべて経た後に審判の時を越え、天国に入ることができる姿となってアボジの子女として現れるには、まず本然のアダムとエバの型を持った立場で、信じるという言葉が必要なく、悲しみの境地を越えて愛するという言葉、侍るという言葉を言わなくても、感情から体から、行動的にも、また生活全体、理想全体がこのような面において、自動的に動いてゆかなければならないのです。 ある法度的な条項によるとか、命令系統に従って動いてゆくことよりも、我々の心情の法度を先に立て、我々の良心作用がある論理、ある最高の法規を越えてゆく所であってこそ、天的な因縁が完成する世界なのです。天的な心情にとらえられ、動かないとしても動かずにはいられず、行わないとしても行わずにはいられず、愛さないとしても愛さずにはいられず、為にならないとしても為にしないではいられない、こんな崇高なる姿にならなければなりません。キリスト教徒には、これが最高の信仰の標準なのです。今日これが、現実に現れなければなりません。 皆さんがこのような者に出会うその瞬間、マクダラのマリアが復活されたイエス様に抱きつこうとしたとき、イエス様が避けたその心情を体恤することができるのです。今皆さんは’ようし、死の道も行くぞ’という心で、難しい峠を越え、実践の道を経て愛の心情を抱いて行かねばなりません。喘ぎ追われてもこの峠を越え、復活の恩賜に感謝し、天のまえに栄光をお返しする瞬間、愛の心情を抱いて侍る栄光圏に入ってこそ、ここから天国生活が展開するのです。 今日皆さんにおいて、天国という名詞が観念的な名詞として残っているのです。この観念的な名詞が自分にとって、いつ生活的な名詞として転換されるかが問題です。天があるなら、この転換点を成すことができる一点を捜し立てられるのです。この時を、いわゆる終わりの日というのです。 このような境地で、天は我々を捜し求めてこられました。それでは今日、皆さん自身をおいて、反省してみてください。皆さんは天を信じていると、天を愛しているということを基盤にして、信仰の源泉である神を自分に隷属させようとし、大実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代身する小さな存在として立てようとし、宇宙的な愛の主人公を、自分の愛の心情圏内に捜し立てようとし、為なる主人公である神に対して、自分のための友にしてしまおうとした過去を自ら嘆き、悲しい心情に染みなければなりません。 こうして復活の瞬間を迎えて’アボジよ! 私のアボジよ!’と呼ぶことのみならず、アボジのまえに自分の体が溶かされるのでなければなりません。さらにパウロが三層の天に入って体恤したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのか、分からない境地に出会ってこそ、天的な基準の生活に越えたと私は見るのであり、またそのように知っているのです。 このような境地を捜してさまよう天であることを知るときに、その天がおられる所はどこであり、その天はどのような天なのか。それは我々の国、永遠なる私の国であるのみならず、私が暮らす所なのです。そしてその神は、私のアボジなのです。こんなアボジを、こんな国、こんな生活舞台を知らないで喘いでいる人間たちが、この事実を知らなければなりません。こうして神様に歓喜の歌を歌ってあげ、サタンに対しては激憤して打ち滅ぼすと出て行くその時が、正に審判の日なのです。 ですから皆さんがサタンを打ち滅ぼし’主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください’とできる姿で現れてこそ、イエス様が皆さんを抱くことができるのです。 イエス様はどうして、マクダラのマリアを歓待なさらなかったのか。サタンとの闘いに勝利しなければならない路程が残っているのに、彼女はこの路程を経ていなかったからです。勝利の路程を経ていないマクダラのマリアは、復活されたイエス様のまえに立つことができないのです。 サタンとの闘いで勝利した場に入って、天に対して’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめれば、全宇宙を所有するのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのアボジを信じるほどにならなければなりません。そんな境地でアボジを思い、アボジを信じるとき、自分という感情がなくなるのです。 今わがアボジを怨讐視してきたサタンに対して憤慨心を抱き、彼に審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れ’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめる人にならねばなりません。こんな場で、喜びと悲しみに染みて泣く信仰者であってこそ、天国生活の理念時代に入ることができると、私は断言したいのです。 このような世界において、侍る生活をしなければならない我々なのです。希望の天国は迎えても、侍り実践して生活することができる天国は、迎えていないのです。即ち、生活的な主体の神を知らないのです。 神と一体となる信仰生活をすべき我々 天は預告されました。’あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう(ヨハネ十四:二〇)’とされたのです。これは否定的なみ言ではありません。 観念上では神の実存を知っており、対象的な信仰の主体としておられる神は知っていても、直接的にわが良心の主体であり、わが体の主体であり、わが生活の主体であり、わが生活圏内に訪ねてこられる主体としての神が、実存されておられる事実を知らなかったのです。 なぜ、そのようになったのでしょうか? 信仰の限界線を越えたことがなく、また愛の心情に触れたことがなかったからです。こうして復帰すべき使命を背負う終わりの日の聖徒たちは、こんな事実を知ってどんな犠牲、どんな困難、どんな迫害があったとしても、天情の悲しみと天宙の恨みを解いてさしあげるという心情に染みて、天の旗を上げてゆく群れにならなければなりません。 そんな群れがある民族のまえに現れたなら、その民族には善なる心が主導する時代が来ることは間違いないのです。今日この世界は知的なことを追求し、真理的なことを追求する世界です。真理を動かしてゆく動機は、体です。体を動かすことができる動機は、心です。心を動かすことができる実体は何であるか、詳しくは分からなくても、霊的なものです。ですから真理のみによっては、万事を解決できないのです。ですから未来には我々の心を一つの方向へと指向させ、心情の動きを一つところに指向させ、霊的な感情までも一つところに指向させることができる世界が、来ることに間違いありません。 こんな理念の世界が来ると信じ、このような世界を捜し求めてゆく今日の我々は、観念的なことに囚われて生きては駄目です。実際の生活において天に対し、歌うことのできる勝利の勇士にならねばなりません。こんな人間が、この地上に現れなければなりません。 もしもこんな信仰をすると考える人間がいるとして、彼は夢の中でもこれを考えなければなりません。また可能性があり、天があるとして実際に一度それを現実に見てみたい、懇切な心を持ってこそ、天のまえに近づくことができるのです。こんな懇切な心を持つのみならず、時間性を超越して、生活的な面で六千年前に人間が、エデンで歌った歌を今日の歌として歌うのでなければならず、その時の感情を今日の感情として生き、堕落した後で感じた悲しい感情を、今日になっては喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、侍る主体であると同時に、歴史的な解怨の主体なのです。 このような存在があってこそ、皆さんは彼と関係を結んで勝利的な存在となり、天と地の悲しみを解くことのできる存在となるのです。こんな関係のうちに皆さんが、悲しみと苦難の心情を持つ神様が、永遠なる私のアボジであり、私の国、私の家の主人たるお方であることを実感するのであり、また皆さんは新郎たるお方の悲しみの、すべてを解怨してさしあげる真の息子・娘になるのです。 今日我々がこのような道を捜し求めて見れば、アボジが悲しみのアボジであることを知りました。その悲しみのアボジの息子・娘は、どうしなければならないかを知りました。天国を回復するために、悲しみの場で闘っておられる天の憤りを知りました。天の悔しさを知りました。 それゆえ皆さんは怨讐に対して、憤りと悔しさと、敵愾心を抱かなければなりません。こうしてどんな民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべての事に責任を負い、自分に勝利したという一つの基準が、皆さんの心に、体に、生活的な分野において確固として立つことによって、勝利の歴史が起こらねばなりません。こうしてこそ皆さんが実体をもって、復活圏内に入ることができるのです。即ち、実体をもって天国復帰の園に入って、皆さんが神に対してアボジだとし、神は皆さんに対して、息子・娘だとすることができる境地に入るというのです。 神の願い-天国復帰 このような境地で心情の世界を求める皆さんは、自身のために信じては駄目なのです。天国に行くという観念、自分が何かになるという観念を捨てるのです。 イエス様は自分自身が、天国に行くと考えなかったのです。自身は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰観念を持ったのです。これは架空の話ではありません。事実がそうなのです。 自分が行うことは自分のために行うことではなく、人類のためにやる、世界のためにやる、アボジを代身してやるという信仰、これはどれほど痛快でしょうか。 自分が愛するということは自分一身を愛することではなく、民族をおいて愛するのだ、人類をおいて愛するのだ、神をおいて愛するのだ、天と地をおいて為にするということです。それゆえ我々の侍ることも人類をおいて侍り、天をおいて侍らなければなりません。また侍って感謝する心、信じて実践するという心を持たねばなりません。 心で愛して体で仕え、心で侍って生活において感謝して、自分を越えて信じ、自分を越えて愛し、自分を越えて侍るという観念を持って、皆さんの信仰行路を歩んで行くなら、ここには絶対にサタンが侵犯しないのです。サタンの誘惑の手がどれほど強くても、こんな信仰者には触れることができないのです。 それでは天の願いが、何でしょうか。失われた天国を回復することです。失われた父母を回復することです。失われた子女を回復することです。今我々は自分の国、自分の民、自分の父母を求めなければなりません。こうして真の父母の真の子女になって、六千年のすべての怨恨を忘れ、サタンを押し退けて勝利の条件、愛の条件を誇ることができなければなりません。それでこそ悲しみの歴史を経てきた神のまえに、真の息子・娘になるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.14
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信仰者の態度一九五九年三月二九日(日)前本部教会この時間に話すみ言の題目は’信仰者の態度’です。’信仰者の態度’という題目で、しばらくの間お話しします。 信仰の本質世界 皆さんは今まで、信じていると自任しています。我々は現実の国を所望として歩んでいるのではなく、永遠なる国を所望としてきたのです。皆さんはこの国を見たこともなく、行ったこともありません。み言を聞いて、そのようだと信じてきただけです。 でありますから信仰の本質が、現実のすべての条件と妥当性を得ているものと見ることはできません。大きく無限なる天が、我々が想像もつかない永遠の理念の登山として存在し、私という存在と相反的な関係を結び、常に自分の理念を再築してこそ、信仰の道を続けることができると、真の信仰生活をしようとする人々は感じているものと見るのです。ですから我々が所望とするその国は、夢や想像、あるいはどんな知恵ぶかい推測をもってしても、論理的に説明することができないことを、我々は知っています。ですからこの世界が、我々には必要なのです。 この世界は我々が考える理想の、無限なる世界であり、我々が考える理想の、幸福と愛と理念の世界なのです。この世界が、我々が願う信仰の国、我々が生きたい信仰の天国なのです。この世界の本質を通して、信仰する人間を地を中心に見れば、哀れといえば極めて哀れであり、寂しいといえば極めて寂しく、悲痛といえば極めて悲痛な人間であると見ることができるのです。 しかしこのような場にあっても天の心情を体恤して、その心情圏内で狂わしい衝撃と、刺激を感じる者があったなら、地の上のいかなる迫害、苦痛、死の道が横たわっていたとしても、その人間が行く道を立ち塞ごうにも塞ぐことができないことを、我々はまず考えなければなりません。 真なる信仰者の生活 このような心情が心を激動させ、その心が体を促して四肢を動かすことによって、自分も知らないうちに無限の境地に向かって歩んでゆく生活の、一片々々を体恤しようと努力することが、正に今日俗世に暮らしている信仰者の生活であると、私は言いたいのです。 このような感触と、このような衝撃の生活をすることができ、遠くにある理念を実際生活の力として現すことができ、さらにはその力の衝撃によって、周囲から襲いかかる死の波濤まで押し退けることができる心的基盤を築くなら、天がこのような人間に対して、真の信仰者として認めてくださると、私は見るのです。 皆さんは、我々がある立場で天に向って叫んでゆくとき、ここにおいて自我の認識を通して感じることが、どんな主義や思想によって感じるその何かよりもさらに大きく、これが心的、あるいは肉的、または生活環境の核心的な光の価値として現れるということを、考えざるを得ないのです。 このような重要な決定的な立場で、勝利の一路を経てゆくことが、信仰生活であると見るのです。ですからこの道には迫害が加重されて、悲しみが加重され、十字架の道、あるいは死の道が加重されてくることを、我々は歴史路程を通してよく知るところです。このような歴史と伝統があるゆえに、今日皆さんもこのような歴史的な信仰路程に、背反してはならない立場におかれているのです。ですから今日我々は、正しい信仰の態度をとることが、何よりも貴いとうことを強調せざるを得ないのです。 難しい信仰の道を凛々しく越えるためには このように歩む信仰の難しこ、迫害の道、死の道を凛々と越えてゆくためには、まず感じなければならないことがあります。今日皆さんの一自体が生まれたことも、自分が生まれたいと望んで生まれたのではありません。このような国に生まれたくて、このような国の民として、このように不自由な環境に生まれたいという意識があって、生まれたのではありません。皆さんも知らないうちに、ある動きに襲われてこの地に生まれ、このような事をしているということを、否定することができないのです。自身にこのような動機を与え、このような過程を経させ、このような結果の姿として現れたということを再び考えてみるとき、この私という存在は、私自らが誇る自分ではなく、私には歴史に入り、全体に入り、あるいは未来に入り、理念的な圏内において誇りたいという何かがあるということを、我々は忘れてはならないのです。 それゆえ今、皆さんがこんな信念と感じを持たなかったなら、皆さんの信仰の道には今日自身が考えるよりも、複雑な事が起こるようになり、悲しい事が及んできて、難しい事が及んできて、無念なる死までが押し寄せ、天倫の因縁を破る信仰者の態度を取りやすくなり、天に背反しやすい立場に立ってしまうということを、知らねばなりません。 ですから皆さんは神の理念に対する染みる心情を抱かなければならず、自分の生活をこの理念によって観察しなければなりません。無限なる信仰世界の理念と因縁を結んで、自身は宇宙的な因縁を輝かすための、一つの祭物であるということを感じて生きなければなりません。このような理念が心から消えることなく、こんな感じが心の中から離れることのない信仰生活をする限り、この地の上にあえて皆さんを侵犯したり、屈伏させたりする存在はないのです。 我々の先祖たちは、このような因縁を多く感じたということを知らねばなりません。ヤコブがイスラエルの祝福を受けて始まったこの民族は、神の選民という理念を持っていました。この選民意識がユダヤ民族史をつくり、復帰摂理歴史を継承させ、新しい福地の園を建設する路程において、希望の基台になっているということを我々は知っています。単にこの民族のみならず、民族を率いた民族の指導者も同じであったのです。 アダム以後一六〇〇年の間、天を捨てた人類のまえに、再び新しい約束の因縁を結ばせるために、ノアを捜し立てたのです。彼はその時代の人々が仰ぎ見る人間ではなかったのです。彼らが見るには何ということもない存在でした。しかしこのような自身を選んで、千秋の恨を解こうとされた天の心情を知るノアですから、ノアは天のみ旨、天の命令を抱いて一二〇年間、すべての困難を克服してきたのです。ノアは天が立ててくださり、呼んで命令されたその因縁が貴重であることを知るとき、その内容が大きければ大きいほど、天との因縁が大きいことを知るようになったのです。歳月が過ぎ去るにつれ、自分を召命された神の内的心情のみ旨が、どれほど大きかったかということを深く感じたのであり、何にも認めてはくれないで多くの人間が、嘲り排斥したのですが、ノアは一二〇年間箱舟を造る生活を捨てなかったことを、皆さんは知らねばなりません。 中心人物たちの心の持ち方と生活 彼の同族たち、彼の近親者等、すべての人間が背反したのですが、ただ彼だけは神のみ旨に背反しないという、鉄石のような信念を持っていた原因はどこにあったのか。ではあっても自分を捜し求められた天の因縁が、自分の兄弟を捨てることよりもさらに大きく、自分の親戚を捨てることよりもさらに大きく、自分の生活を捨てることよりもさらに大きいという事実を知ったのでした。それで天が許されたそのみ旨のまえに、哀れな事情が及ぶなら、頭を下げて涙でその因縁に染みた心情を抱き、無限の世界を慕ったのでした。これを皆さんは忘れてはなりません。 ノアのみならず、アブラハムやモ-セもやはり同じだったのです。豪華絢爛たるパロ宮中は、モ-セには栄華を歌う、最大の自由気ままな環境だったのですが、彼は神の摂理のみ手が歴史的な因縁を通して、先祖たちの骨髄を通して、自身の骨肉に及んでいることを考え、これらをすべて捨てたのです。パロ宮中においてエジプトのすべての文化に通じ、怨讐の国のすべてを知れば知るほど、彼は内的にイスラエル選民の歴史的な因縁を知らないことを悲しんだのです。民族が民族の切なさを知らないことを、悲しんだのです。気ままな環境がどんなに良いとしても、選民の後孫であるというこの因縁に染みてゆくとき、彼はパロ宮中を敵対視して、エジプトの民を怨讐としていったのでした。このような事実を、我々は知らねばなりません。 このようにモ-セはパロ宮中を後にして、天と因縁のある群れであるイスラエル民族を訪ねていったのでした。み旨を知ったモ-セはこのような心情を抱いて生きていたのですが、このみ旨を知らないユダヤの民はこのようなモ-セを知らず、ここに歴史的な悲しみと嘆息が染みこんだということを、我々は再び考えてみなければなりません。 民族を訪ね求めたモ-セは、民族さえもが自分を捨て、ミデヤンの荒野で四〇年の間、牧者生活をするようになったのです。モ-セはこのような道を歩んでも、天の選民である気概と志操を持ち、この体が倒れる恨があったとしても、自身が抱く信念を誰かに残しておきたい心が懇切であったのです。であればあるほど彼は、パロの虐政の下に呻吟するイスラエル民族を考え、涙した事実を知らねばなりません。 また彼はイスラエル民族が眠りこけ、無知のなかにあったのですが、目をあげ、祝福の地カナンを望み見て眠ることなく、心情の血と油をしぼって民族のために祈祷し、民族に対する悔しい心情をもって、天のまえに痛悔する生活をしたのです。このような生活をしたモ-セであったので、その時代の主人的な責任を負い、天の代表者になることができたのです。天はこのような因縁の歴史を再び捜し立てるために、因縁の要素を再び得るために、倒れゆくイスラエル民族のまえにモ-セを押し立てた事実を、皆さんは歴史を通して知っているのです。 イエス様が地上において感じたことと覚悟 彼だけではなく、それ以外の多くの先知先烈たちが歩んだ歩みも同じだったのです。アダムとエバの堕落以後四千年目に、堕落したアダムのすべてのあやまちをその体に担い、天の悲しみと、万民の悲しみと、全万象の悲しみをその体に負い、天の嘆息と悲しみをもよおすすべての暗闇の条件の数々を独り担い、これを打破するために来られた第二の人類祖先であるイエス・キリストを、我々は回想して見るのです。 イエス様は地上に、いかなるお方として来られたのか。彼は四千年の歴史を遡り、犯罪による恐怖を感じることなく、罪による悲しみを感じることのない人間、即ち神様が善の感触と善の心情に染みて創られた本然のアダムとエバを、その心に憧憬されたのです。イエス様には人類の真の善の祖先にならなければならないアダムとエバの姿を代身、復帰するための歴史的な因縁と、神の創造の理念を代身して来たという信念が、社会のどんな環境よりも、生きてゆく自身のいかなる心的動向よりも大きいということを、我々は否定することができません。 それゆえ彼に哀しみがあったとしても、その哀しみは天と因縁を結ぶ哀しみでした。イエス様は自身の哀しみを通して神の哀しみを推し量るとき、自身の哀しみは哀しみとして考えることができないのです。また、彼自身がある所望や理念に染みるときごとに、人類のまえにその所望と理念を伝えなければならないという、責任感を感じたのです。 彼は神が願う所望を成してあげ、先祖たちの堕落によるすべての罪状を蕩減すべき主人としての、責任を負う自身であることを感じていたのです。このようなことを感じれば感じるほど、彼は堕落したアダムを恨むまえに、堕落した後孫を恨むまえに、さらには天使長を恨むまえに、その恨みに染まる心があればあるほど、一歩進んで創世以後四千年の哀しい復帰摂理において、神と自分との関係が父と息子であるという、神と切っても切れない自分自身であるということを感じたのです。天は父であり、地は母であり、自分自身は天と地を代身する息子として生まれた、ということを感じるようになったのです。イエス様はこのような悲壮な場において感じる、その因縁の衝撃によって天を望み見るとき、神の性相が、地を望み見るときに地の性相が、万民を望み見るときに万民の性相が、自身と永遠の因縁を結んでいる事実を感じざるを得なかったことを、我々は悟らなければなりません。 ところでこんな場で、彼の心に染みたことが何であったのか。喜びの因縁ではなく、悲しみの因縁を感じたということです。元来、人間は喜びの因縁を持って、永遠なる理念の園を建設して、天と父子の関係を結ばなければならなかったのです。こうして彼自身の一切の条件が、父の喜びの条件を刺激させ、その喜びの心情を歌わなければならないのに、喜びの因縁を結ばないで悲しみの因縁を結んでしまったのです。このような事実を感ずれば感ずるほど悲しみ、慟哭せざるを得なかったイエス様の心情を、皆さんは知らなければならないのです。 このような立場に立っていたイエス様は、四千年の間の自身の先祖たちが結ぶ因縁が、喜びの因縁ではなく悲しみの因縁であることを知っていたので、誰よりも悲しい世界の主人公になるべきことを、悲しいときごとに覚悟し、難しいときごとに覚悟したのでした。このようなイエス様であったことを、我々は知らねばなりません。 天倫の喜びの祭壇を持つことができなかった民族と、ユダヤ教を見やるイエス様の悲しみは大きかったのです。教団を知れば知るほど悲しく、民族を知れば知るほど悲しく、自身の宗族、自身の事情を知るほどに悲しかったのです。このように知れば知るほど、それが喜びの条件にならないで、悲しみの条件になったのでした。しかしイエス様は悲しみの連なる歴史に責任を負われていたので、その心情には言うに言えない悲しみを感じ、切なさを抱いてゆかれたことを、我々は知らねばなりません。彼の心は無限に栄光なる善の因縁の世界を慕っていたのですが、彼が生きている現実は、嘆きの他はない悲しみの世界だったのです。このように二つの交差点に立つイエス様の心情を知る人間は、誰もいなかったのです。 信仰者の正しい態度 このイエス様が今日我々が信じているイエス様であり、この信仰を立てるために人生を捧げたお方であることを、歴史以来の信仰者たちの中にも、知る者がいなかったのです。このようなイエス様を抱えて泣く者が、この地の上にいなかったということです。このように推し量ってみるとき、イエス様のその悲しみに止めどもなく泣く心が、皆さんの生活のうちにたちこめ、皆さん自体に押し寄せて動かされる感じがなかったなら、天国に向かって行く信仰者であると見ることはできません。私はそう感じているのです。 それゆえ今我々がこの哀れな民族を見やるとき、この民族の運命に対して悲しむことを知り、天を求める教団が散々に分かれて互いに争っていることを見やるとき、皆さんは自身と切っても切れない因縁を持つ立場でこれを見やり、イエスと同じ心で歴史を代身し、現時代を代身し、未来の後孫を代身して悲しんでこそ、皆さんの後孫に、イスラエルに許された祝福を受けるその因縁の条件を、地上に残すことができるということを、知らねばなりません。 このような観点から正しい信仰者の態度とは、自分ということをみな無くすことです。死の峠までも越えてこそ、天と喜びの因縁を結び、消えゆくその時に’父よ、イエス様のようにすべて成しました’とすることができ、今まで結んできた悲しみと怨恨の因縁を終結させ、喜びによって結ばれた因縁を歌う瞬間を持つことができなければなりません。 このような者たちが所有するものが永遠の国であり、このような者たちが暮らす所が天の国であり、このような者たちを捜し求めることが神のみ旨であることを、我々は知らねばなりません。 統一教会を訪ねて入ってきた皆さんを見れば、哀れな思いがすることがあります。皆さんが統一教会を訪ねて入ってくるとき、その何であるかは分かりませんが、因縁が結ばれていたからです。足を回しても何か未練を持たせる因縁が、皆さんを引きつけたのです。自分も知らないうちに結ばれた、行こうにも行くことができない因縁が、自分による因縁でなければ誰による因縁なのか。血の涙の歴史を解怨するために立てた先祖たちの功績の基台が、我々の背後にあったからであることを知らねばなりません。ですからこのような感触を心中に感じるたびに自分の存在意識さえ忘れ、倒れても天に向かって’アボジ!’と呼びたい心が爆発しなければなりません。このような心を持って、最後に悲しみによる因縁の歴史の峠を越え、喜びの世界と因縁を結ぶとき、初めて主を迎えられる資格者になると見なければなりません。 皆さんもそうであれば、私もやはり同じなのです。なぜか分かりませんが、耐えようにも耐えることができない切なさが、込み上げて染みるのはどうしてでしょうか。自分も分からない歴史的な、恨の因縁があるからなのです。自分も知らない天的な因縁と、地的な因縁と、人的な因縁が、今日の私と因縁を持っているからなのです。我々はこれを知らなければ駄目なのです。それではここにおいて、天が願うことが何か? 地の上の悲しみの因縁を、すべて蕩減することができる人間が現れることです。彼は’神よ! 天の悲しみの因縁を、私がすべて蕩減しますから、悲しみの因縁の歴史の主人になることができるように、導いてください。悲しみの因縁の世界で残り、この世界で天が要求する姿になり、民族になるようにしてください’とすることができる人間です。皆さんがこのような心を持ったとしたならば、数多くの十字架が今日の我々の心にぶつかってきたとしても、それで終わりではないことを、知らねばなりません。 イエス様が’すべて終わった’とされたのは、いかなる意味であったのか。天の悲しみを蕩減する路程において、自分一身の死を通して、ある限界だけはみな成したということです。即ち、イエス様はご自身が死んだなら、言うに言えない悲しみが神の心中までも連結され、従う群れに悲惨な死の道が残ったとしても、霊的救援の基台が成るということを知っておられたので、自分が死ぬことぐらいは凛として越えてゆかれたのです。 真なる信仰の道 このような感じが皆さんの心にわき起こるなら、たとえ持つものがなくても天地を所有するのであり、たとえ同志がいなくても天地が同志として現れるのです。ですから真の信仰の道は因縁の歴史を引き継ぐのであり、天との因縁の塔を積んでゆくということを、皆さんが感じてこそ成るのです。 この世の親友とも、会って別れるときは名ごり惜しく悲しいのに、まして天を中心とする因縁の路程が絶たれるその瞬間はどのようでしょうか。歴史的な悲しみの瞬間であり、天地の悲しみの瞬間であり、人類と天上の悲しみの瞬間であることを、皆さんは感じてみなければなりません。 これを感じる者がいたとしたなら、行けども行けども不足なることを、感じぬとしても感じざるを得ず、溢れ出る涙を耐えんとしても、耐えることができないのです。また、皆さんが原理を通して学んだように、今日我々の個体が立つ位置は、天と地と、あの世にいる霊人たちの一人まで、解怨成就しなければならない場であるのです。このような宇宙史的な運命の、祭壇におかれている皆さんなのです。このように祭物たる自身の立場が、悲しいといえば無限に悲しいのです。しかしこのような祭物を見やる数多くの霊人たちの悲しみ、祭物を見やる数多くの民族の悲しみ、祭物を見やる天と地の数多くの存在たちの悲しみが、皆さんの悲しみよりもさらに大きいという事実を知るなら、皆さんは天に向かって行く路程において、落胆しようにも落胆することができず、嘆息しようにも嘆息することができないのです。 わが心に感じるこのような感触、わが心に因縁づけられたこの衝撃が、ある永遠の理念にまで因縁を結ぶために動いているという事実を知り、必ずこのような理念を成就させ、この世界で生きるようになることを願う心が、我々にあることを否定できないのです。従って霊があるとするなら、その霊が愉んで生きることができるその世界まで、我々が建設しなければなりません。今日この地の上に因縁を持つその幅と高さによって、その世界を所有することができる権限が左右されるのです。このような事実を考えるとき、皆さんはこのように動いても、あのように動いても、あるいは嬉しい時や悲しい時も、罪人であるという心情を禁じようにも禁じる道理がないのです。このようなことが、天を求めて行く信仰者の道であると、私は見るのです。 ですから、四〇年この道を歩んでいる私もやはり、覚悟してこの道を行くとき’天よ!私は天を求めて行きますから、今日天と約束したこの因縁を死のその時まで、捨てないようにしてください。天がなくなり、地がなくなり、この体が消える恨があったとしても、この因縁に従って生き、この因縁に従って死ねる人間となるようにしてください’と祈祷したのでした。従って皆さんもこのような歴史の渦中で、一つの時代を生きていって困難にぶつかり、十字架が迫り、迫害が加わるそんな瞬間々々に、天と約束した自身を慕い、そんな環境にあっても天のまえに涙ながらに頭を垂れ、自身の未熟さと自身の不完全と、自身の無気力とを嘆息して、天を抱えて泣かなければなりません。これが天を求める者の歩みであると見るのです。 皆さんは先生が持つすべてのものが、先生のものであると考えないでください。私のすべてのものを、皆さんのものとして結んであげたいのです。神は天が持っているすべてのものを、歴史的であり、時代的であり、未来的なものとして残しておかれたいのです。 ところが我々はこのような心情を通して、因縁づけられている民族であることを、宗族であることを、個人であることを忘れたなら駄目です。私が語る神が偽りではなく、私が願う理念が偽りではなかったとしたら、皆さんが天のみ旨を否定するほどに、審判の条件に引っ掛からないかと案じるのです。イエス様はこのような心情を持っておられたので、死んでも行き、生きても行かねばならなかったのです。イエス様はこのような場におられたので、万民が同情するようになったことを、皆さんは知らねばなりせん。 先生の考え 私が知るところでは、皆さんが私に従おうとし、師として侍り、誠精を尽くそうとしているのですが、その侍ることを受けるのに躊躇している師であることを、皆さんは知らねばなりません。なぜならば、天がこの地の上において、そんな一日を迎えていないのであり、私がまずアボジのまえに心から誠心を注いで毎日々々、敬礼を捧げていない、侍ってもいないからです。このように喜びをもって天に対することができない自身であることをあまりによく知っているので、皆さんの誠心を拒否することも多く、天のまえに泣き叫ぶ切ない心情を知られないように、ふり捨ててしまうような立場を取るときも多いのです。これは私のある欲望を満たすためにそうなのではなく、因縁の世界の怨恨を考え、現実世界の万象を見渡すとき、そうせざるを得ない事情があるからなのです。それで皆さんがこんな様子、あるいはあんな姿を見やるたびに、ここに芽ぶく天の悲しみを案じる心情を持つ者たちになってくれることを願うのです。 我々が天と出会って良かったなら、良かったことだけで終わることではないのです。天の悲しみがあるとしたなら、その悲しみが今日で終わることではありません。ですから我々に希望があり、喜びがあるとしたら、それは言うこともできない大きな喜びであり、地の上に悲しみがあるとしたら、それは言うこともできない大きな悲しみなのです。このような地の悲しみを解怨し、アボジの悲しみを慰めるなら、地の喜びを歌い、アボジの心情にはりついた喜びを表すことができる主人公たちが、いつの日にかこの地の上に現れるのです。皆さんはこのような心情を持って、このような主人公たちに会うことができる因縁を無視してはいけないのです。私が皆さんを無視することはなく、皆さんもやはり私を無視することはないのです。皆さん同士は、涙と悲しみの六千年の歴史を経て出会った人たちなのです。 天は天の親友を待ち焦がれ、天の家庭を待ち焦がれ、天の民族を待ち焦がれ、天の国を待ち焦がれているのです。それゆえ天の国を苦待する民族にならなかったなら、その民族は消えるのであり、天の民族を願う家庭にならなかったら、その家庭は消えるのであり、天の家庭を苦待する個人にならなかったら、その個人も行く所がなく消え去ってしまうのです。 神の息子・娘として決定され得る場 自分を越え、家庭を越え、民族を越え、国家的な一つの基準を立てておいて、その理念圏内において悲しみを蕩減できることを、知らねばなりません。そうしてこそ、国家形態の理念を捜し立てるために六千年の間苦労されたアボジ、悲しい因縁を越える国家を所望されてきた、アボジを慰めることができる資格者になるということを、皆さんは知らねばなりません。そんな場で初めて天の息子・娘が決定されるのであり、そんな場で初めて天と地の因縁が回復されるのであり、そんな場で初めて喜びの歴史が起こるということを、皆さんは知らねばなりません。 いかなる民族も主権がなくなれば、来ては行く人間が籠絡し、過ぎ行く人までも嘲笑うのですが、主権が立つその日からは、誰もが勝手に通り過ぎることはできず、勝手に籠絡することもできないのです。ところが今日、地上に広がるキリスト教徒たちは神の国の民になっていないのです。天の主権のある天の民になっていないのです。天の民であるとしても、その民を率いることができる主権を持たなければ、その民族は蹂躪され、見捨てられるということを知らねばなりません。 ですから神様は、イスラエル民族六〇万大衆を中心に、エジプトに天国の主権を回復しようとはされないのです。天の主権の国を所望して、六〇万大衆を因縁の地カナンに向かって荒野へと押し出した原因は、どこにあったのか? あれやこれやの迫害を受け、死の峠を経ていっても、天が直接動くことのできる一つの主権国家を立てなければならなかったからです。このように死亡の波濤が襲いかかる荒野へと、イスラエル民族を押し出した天の心情を、我々は知らねばなりません。どんな民族であっても、国家形態を得て神に侍ることができる主権を回復しなかったなら、その民族は滅びる他はなく、蹂躪される他はないのです。 このような観点から天の摂理を見てみるとき、世界に広がっているキリスト教徒たちは自分の教派の為とする時ではないのです。選民主義的な思想を越えて、天民主義的な思想を、天の思想として知らなければなりません。その国の民である威信と気概を持って、天的な因縁と、地的な因縁と、歴史的な因縁と、人間的な因縁を結び、天を中心として団結することができる祭壇が現れなければなりません。このような祭壇が現れない限り、地上に天国を実現するということは、夢に過ぎないことなのです。 皆さん各自々々には、数多くの怨讐たちが住んでいた歴史的な因縁があり、籠絡された先知先烈たちの因縁が染みており、サタンによって悲しみとなった骨髄に染みる歴史の因縁が、染みこんでいることを知らねばなりません。たとえ出会うのは一個人であり、対するのは単なる一人間ではあっても、天の因縁と天の事情が絡みあっているかも知れないのです。この一面においては、宇宙史的な因縁が結ばれているということを、知らねばなりません。 六千年の間、天は主権を求めてさまよい、一つの主義を求めてさまよい、一つの因縁を求めてさまよい、真の心情を持つ同志を求めてさまよったのです。すべてのことは、出発から終結まで、こんな歴史的な因縁を拒否することができないのです。こんな統合的な因縁の歴史過程を相続し、相い逢って生きてゆく信仰生活であるとして、どんなに同志に欠けたところがあり、どんなに食口に不足なるところがあり、どんなに親友が皆さんに刺激を与えたとしても、どのように天と因縁を結ぶかを願う心以上の憤る心を持ち、この因縁を捨てるときに感じる悲しみ以上の、大きな悲しみがどこにあるでしょうか。 国の為に自分一身を返り見ずに忠誠をつくす人間を忠臣といい、家庭と親族の為に自分一身を捨てて孝誠をつくす人間を孝子といい、家庭を抱えて自分一身を返り見ずに祭物となって生きる女性を、烈女ということを皆さんは知っています。 それでは今日、因縁の歴史を見渡してみれば、天は新郎であり、我々は新婦という因縁を結んでいるのです。我々の視線を通して見やるこの因縁、この相対的な因縁には歴史的な視線が注視しているのであり、歴史的な、泣き叫ぶ声がこだましていることを、知らねばなりません。 こんな因縁の心情を感じ、アボジを呼ぶ瞬間、この自我の意識が入り込んでくるとき、この私は今日の私であっても、この地の上に限定された私ではなく、永遠なる世界の理念圏内で保障される私なのです。このような私を、天は完成した者であると命名されるのです。私が知るところ真の信仰者の態度とは、何よりもこのような因縁の心情を感じなければならないのです。皆さんが受けた正にその恩賜も、今日の喜びの因縁が及ぼす恩賜ではなく、歴史的な因縁を受け継ぐ恩賜であることを、知らねばなりません。 天が安心して命令されるためには 今日自分に天の為に忠誠をつくす心があるとしたならば、その心のまえにまず頭を下げることを知らねばなりません。この心は、私から始まるものではありません。わが心から自動的に生じるものではなく、ある真理を通して、ある事情を通して、天と地に結ばれた因縁を通して、生じるものなのです。このことを知り、心に感じることを大切に考えなければなりません。心に決心したことを大切に考えなければならず、心に誓ったことを大切に考えなければなりません。この決心、この誓い、この心情を感じる衝撃を、その日で終結させてしまっては駄目です。歴史と共に終結させ、歴史と共に解決させなければなりません。ここに天の恩賜が共にあるのです。こんな因縁を持っているがゆえに、決心したこの決心が、歴史とともに消えてしまってはならず、あるいは誓ったその盟誓も、歴史の解決点と共に消えてはならないことを、皆さんは知らねばなりません。 このような責任的な使命を感じる者がいてこそ、天は安心して、命令されると見るのです。我々が悲しみに染まっているとしても、今まで天の因縁を日に何度となく捨ててしまう心を持っている、邪悪なる人間に対される天の悲しみが、どれほどに大きいことか。天はこのような人間をおいて、その心を推し量られていることを感じなければなりません。 分かれようにも分かれることのできない因縁であり、逃れようにも逃れることのできない因縁なのです。天国に行っても逃れられず、地獄に行っても逃れることができない因縁なのです。それゆえ地獄に行って、苦痛を覚えるのです。 本然の因縁の中で生きるべき我々 皆さんに会う時間が短くても、天のまえに恩賜を受けることが一か月、二か月、あるいは一年、二年、三年、四年の歴史を持っていても、皆さんがその期間ほどに恩賜を受けるものとのみ、考えてはなりません。’私は天の恩賜を受けること六千年にもなりました’という感情を感じなければなりません。このような心がわき起これば、皆さんは天に対して恐れ多いのです。千万べん死すべきこの一身を、捜し立てるための苦労は天がされているのに、喜ぶべき自分がする、そんな邪悪な皆さんになってはなりません。 ですから本然の因縁で生き、本然の因縁で泣き、本然の因縁で死ぬ群れ、その群れが歴史の主人であり、時代の主人であり、未来の開拓者であることを知らねばなりません。天はこのような者たちを集めるために、このような者たちを呼ぶために、このような者たちを立てるために、因縁を結ぶ役事を放棄されることなく、摂理されておられる事実を忘れてはなりません。審判があるとするなら、この因縁を捨てる者以上に恐ろしい審判を受ける者はいないのです。 皆さんが統一教会を考える心がありますか? そんな人間はここにあるこの建物を考える者でもなく、世の中のいかなる真理を信じる者でもなく、ここの集まっているこの群れを考える者でもありません。これを越えて、神と因縁づけられた統一教会を意識するものであり、こんな統一教会の真理に自ら従い、こんな因縁によって集まった統一教会食口の感情に通じる人間が、正に統一教会の食口なのです。より多くのみ言を聞くことはありません。 神が待ち焦がれる人間 その次に、信仰者の態度はどのようでなければならないか? 待ち焦がれる心情がなければなりません。因縁を持っているがゆえに、苦待せずとも苦待せざるを得ないことを、皆さんは知らねばなりません。それでは、天は何を苦待されているのか? 信仰者を苦待されているのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれているのです。私も信仰者になることを苦待しているのではなく、生活の中において実践する者になることを、苦待しているのです。所望の国を苦待することではなく、その国において生活することができる人間を苦待しているのです。 今日我々は、信仰という名詞をおいて苦待しているのですが、このような段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。即ち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。このように生活して愉しみ、歌うことができ、栄光をお返しする信仰生活をしなければなりません。天はそれを苦待されているのです。 歴史過程の数多くの我々の先祖たちのまえに、信仰という名詞を立てておいて、神様が彼らに苦待されたことが、何であったのか? その場において闘う信仰者としての、それ自体ではなく、終わりの日まで残ってアボジと共に生きる人間を、苦待されたということを皆さんは知らねばなりません。天が我々を苦待されたことを、知らねばなりません。 神様が苦待されていることは、信仰のために喜んで消えてゆく私、信仰のために死んだが復活することができる私、死亡圏を脱して生命圏内において、復活の価値を歌うことができ、永遠なる世界において神をアボジと呼んで生きる、そんな私を苦待しておられるのです。これを考えますとき天が苦待する私、その私を慕い、その私を捜し求めるために、その私に出会うために、身悶える皆さんにならねばなりません。 今日皆さんがここに立っていますが、皆さんは天が苦待するその私ではないことを、よく知っているのです。天が捜している、私ではないということです。ですから皆さんに天を考える心があり、天の為という心があり、天との因縁があるとしたなら、本然の私を苦待する懇切なる心が、自身の生活標準として立っていなければなりません。 このような私を捜すときには、その私を誇り、私の価値を歌い、そんな私を求めるアボジに侍って生きることができるのです。このような私を苦待する、皆さんにならねばなりません。この心情を失ったならば、信仰の道を行くことはできないのです。 信仰者の一番標準になる本然の私 人間は自分を中心に始め、自分を中心に解決づけ、自分を中心に批判してゆく道が、最も効果的な道なのです。ですから皆さんは天が求める相対的な私を追求することよりも、相対的な私の価値を追求するその心に加えて、直接的な因縁を持つ自分を追求しなければなりません。そんな私を捜し求めるために泣き、闘う衝撃が私から始まり、私自身を深く感動させなければなりません。こうしてこの感動した私と、所望の私が因縁を結ぶ感じを持ってこそ、信仰の行路を無難に突破することができることを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんが従っているこの先生は、今日の人間に対して、限りなく悲しんでいるのです。今日に処する因縁を内的に無限に呪咀したい一面、所望とするその私に対しては歌いたいのです。 皆さんもそのような心を、時間々々を通して、人生を通して感じることを知らねばなりません。対人関係において、教会関係において、いかなる環境や身の上も意に介さず、そんな私を捜し求める一歩ごとに如何にして背くことができ、如何にして呪うことができ、如何にして躊躇して、眺めてばかりいるのかという心を持たねばなりません。このような路程において後退する者であるなら、その私を所有することはできないのです。そのようになれば私はその時間から、嘆息するようになるのです。今までしてきたような生活を続けるなら、嘆息と、自暴自棄と、自滅的な状態に陥ってしまうのであり、無能力で無気力な自分自体を嘆息する他はないということを、皆さんは認識しなければなりません。 ですから理想的な信仰者に最も近い標準は、その所望の私を求め、苦待することです。従って皆さんがいつかその日に、その私に出会うかという心情に染みているなら、天を望み見るのであり、その私を求めるために闘うのです。 神のまえに立つには 神様が創造理念を立てて望まれた一自体の姿が、歴史過程を通して所望の姿として現れても、実質的な姿としては現れなかったのです。神様がどのように六千年の歴史路程を耐え、闘ってくることができたかといえば、所望のその日を苦待する心が、所望とする人間を苦待する心があったからなのです。このような心が強かったがゆえに、あっちに行き、こっちに行っても、いつかはその実際的な姿に出会う日があることを知られるがゆえに、天は今まで耐えてこられたことを、我々は知っているのです。 イエス様が十字架を越えて復活の恩賜を受けても、その日を誇ることなく’再び来る’という所望のその日を立てて、行かれたのです。以後’再び来る’とされた一日を慕って二千年の間、闘っておられるのです。天もこのように行かれるなら、地の上の今日の我々も、このような道を行かなければなりません。さらには我々はこの地上に創りおかれた本性の姿、その私を立てるために、天の苦労の歴史があったということを知る群れにならねばならず、天の体面と威信を案じる心がなければなりません。歴史的な所望のその日を、歌ってゆくことを知らねばなりません。即ち、栄光によって来られる復活の主様に出会う私は、どのようにするかということを考えて、その私に対する確固とした基準を持って、これを求める日までどんな事が生じても行くという、このような決意と誓いがなければなりません。そうでなかったならば、今日までの信仰生活がむしろ、私を蹂躪する生活であったことを、否定することができなくなるのです。 イエス以後二千年の歴史過程を経てきて、天は再び来る所望のその日を望み見て、耐えておられるのです。歴史行路の足跡がこのようなものであることを考えますとき、地の上において私が食口のために奉仕し、私が食口を訪ね励ますこれらすべてのことは、当然至極のことです。新郎たる主人公を迎えるその日を求めるために、これは新婦として持つべき一つの装いのものであり、一つの装飾品であることを知り、これを感謝して、これを愉し、アボジのまえに涙を流すのでなければなりません。 天の世界は遠く、無限の世界です。その世界において、一つの存在は無限なる存在だという心を持って天に染みて訴える場に行くときに、イエス様は私を求められるのであり、希望をもって捜し求める私を、歓待されるのです。このような時間が、皆さんの霊的な体験の時間であり、霊的な面において、イエスと出会う時間なのです。ですから逢いたいという心が、皆さんに染みることを願うものです。この心がない者は、アボジのまえに立つ第二の自我を求めることはできず、さらにはアボジのまえに立つことができないという結論に至るということを、よくよく知らねばなりません。 信仰をするのに忍耐が必要な理由 その次に、耐えることを知る者にならねばなりません。神も耐えてこられたのです。エデンで罪を犯したその日から、この日までの歴史路程は忍耐の路程であることを、否定する者がいないのです。民族に対される神の足跡を探って見ても、耐えて涙する道であり、耐えて血を流す道であることを、我々は知っています。さらにはキリスト教の歴史をご覧なさい。死の祭物として消えたとしても、天は耐えてこられたのです。 また、天が選んだイスラエル民族は長い歴史を経てきて、世界のいかなる民族のまえに現れるときも、蹂躪されないことがなく、追われない時代がなかったのです。それではこの民族の神であり、この民の神であるにもかかわらず、今まで耐えてこられたことは何故であったのか。耐えられずに堕落した人間になってしまったので、耐える者が勝利の一日を立てるときまで、神も耐えんとしても耐えざるを得ない、運命におかれているのです。耐えられずにみ旨を破ってしまったので、耐える一自体を捜すまでは、神の心情が解怨されることがないのです。即ち、耐えて神の心情を解怨してさしあげ、耐えて民族を解怨し宇宙を解怨し、幸福の一日を希望とし、闘いの道、迫害の道、死の道であっても越えてゆく個人と、家庭と民族と、国家に出会うまでは、耐えてこられる歴史を終結させることなく、審判の行使をすることができないことを、皆さんは知らねばなりません。 このように六千年の間耐えてこられ、憤りの心に染みていても、審判の権限があっても審判をされることなく、耐えておられるアボジの悔しさと、アボジの悲痛と、アボジの怨痛とがあるゆえに、耐えることによって出発し、耐えることによって終わりを結ばなければなりません。 キリスト教には審判という名詞がありますが、この審判とは何であるのか。天が耐えてこられた歴史を、終結させることができる一時であるのです。天はそんな一時を待ち焦がれ、耐えてこられたのです。これは神ご自身が解くことではなく、人間を通して解かれるのです。審判の権限を持って審判台に出て、怨讐を審判することができるキリスト教にならなければなりません。そして我々には、六千年を耐えられた神のその忍耐が、後押しとならなければなりません。 歴史路程において耐えられたアボジの心情を体恤して、また受け継いで’お父様! 耐える心情を解き放ち、私によって解怨成就してください’とする覚悟を持ってゆく者にならなければなりません。六千年の間、天はみ旨を立て、先烈たちに対して時代々々、また世紀々々を経てきて、言うこともならない凄まじい闘いの歴史を経て、耐えてこられたのです。このように耐えてこられた神の心情に、皆さんの全体の心をすべて合わせ、耐えても残る余裕の心を持って現れなければなりません。でなければ神の忍耐の基準を越えることなく、それによって解怨の基準を立て、審判を催促することができないのです。 天は終わりの日に、七年の大艱難があることを、我々に預告されました。そして聖徒たちのためにされるみ言が、終末には選ばれた者も迷惑になるというのです。また、終わりの日には、この艱難の中で終わりまで耐える者が救援を受ける、とされたことを皆さんはよく知っています。 忍耐の終着地 それではこの、耐えることの終着地はどこか? 忍耐の終着地がどこか? 皆さんはこの終着地を探って、さまよって来たのです。これがアダム家庭だったのですか? そこでもありません。ノア家庭だったのですか? そこでもありません。歴代の先知者たちだったのですか? そこでもありません。今日わが一自体にも、やはり忍耐の歴史が残っており、この社会にも忍耐の歴史が残っており、自分以後の後孫にも忍耐の歴史が残ることを考えるとき、自分は忍耐の王者としての資格を得て、アボジのまえに現れなければなりません。六千年を耐えてこられたアボジをお慰めするという心を持って、天のまえに行くと考えもする者たちが、地の上になければなりません。 皆さんに忍耐があったとして、この忍耐が歴史的な忍耐の終着点とは、遠い距離にあることを悟るのです。今日我々の教会と因縁のある人々が’弱り果てて行けない’というのです。’統一教会は良いのだが、難しくて行けない’という言葉を聞くのですが、この言葉をいう人間は、幸福な者です。地を見渡せば幸福な者かも知れませんが、天を見渡せば哀れな者です。そうなのです。果たして行くのが難しいのです。行く道は涙の道です。見ては泣き、感じては泣き、闘っては泣く涙の道です。涙が止む時がいつかと思えば、ないのです。涙がさらに続かなければならない、即ち、さらに涙を苦待される天の心情があることを知って、天が凄絶なる姿である我々を待っておられることを知るとき、私が耐えたその事実も、天のまえには面目がありません。 先生は解放以後今日に至るまで、今だに自分の忍耐の限界を考えてみません。また、終わりを願ってもみません。終わりを願うその時間から、自分を探ってみるのであり、その時間から恐ろしさを感じるようになるということを、皆さんは信仰生活において感じなければならないのです。 耐えるアボジ、そのアボジがわがアボジであり、耐えるそのお方が、私と永遠に共に生きる私のアボジであり、耐えるお方が自分が侍る新郎であると、皆さんは心の奥く深く考えてみたことがありませか? これがないというのです。天のまえにで喜んで栄光を受ける者がいます。彼を見やって羨むことよりも、耐える場において堂々と、耐える場において泰然自若としていなければなりません。天のまえに耐える姿として現れる者が、今日のこの混乱した歴史において、忍耐の歴史過程において、幸福らしい者よりも貴い者であることを感じる皆さんでなければなりません。このような心情で、今日のこの混乱した時代を越えてゆくことを知らない者は、天に対する背反者になってしまうのです。 皆さんに、物質による苦痛がありますか? これを耐えなければなりません。知識による苦痛がありますか? これも耐えなければなりません。わが一身に対する心情の苦痛がありすか? これも耐えなければなりません。忍耐の六千年の歴史に背反するそんな者にならないために、耐えて耐えて、また耐えなければなりません。滅びることを知りましたので、残ることが天の歴史であり、倒れることを知りましたので、蘇生してゆくことが天の歴史なのです。 皆さんは死六臣(朝鮮王朝世祖の時に処刑された六人の忠臣)をよく知っています。この民族の魂が砕かれようとするとき、民族精神が濁ろうとするとき、再び民族を新しい希望によって率いていった基が何であったか。それは我々が知っているソンサムムン(成三問)を始めとする六死臣があったからです。忍耐の道も、死の道もどんな苦痛の場でも、過酷な刃も耐えたその基台があったので、我々の民族精神を支えたということを、知らねばなりません。 それでは今日我々の伝統的な、天的な精神を受け継ぐ者が誰か。忍耐の祭壇を高々と受ける者です。忍耐の祭壇を受け、天に向かって苦待する群れがそれであることを、皆さんが知らねばなりません。 このような心が架空的で空想的ではなく、実際的な感情、実際的な触覚によって感じなければなりません。その感じることは、自分が耐えると約束して誓ったことなど問題にならないと笑う、そんな余裕が皆さんの腹中から、細胞まで動かさなければなりません。こんな衝撃がないとしたなら、残る苦難の数々をどのように埋めるのか。民族が越えるべき苦難の峠を、どのように越えてゆくのか。世界が越えるべき苦難の峠を、どのように越えてゆくのか。天が越えるべきこの峠を、どのように越えてゆくのか。苦難の城を築き、死の城を築いて耐える過程を経た後に、福地が現れてこないならば、神の忍耐もいつの日にか終わりを見るのです。 真なる指導者をどこに見いだすのか 今日我々は、信仰者であるといっています。この天の理念を捜し求めていると自任しています。明日の命を歌い、明日の所望を求め、明日の希望を基準にして、明日の国と明日の民、明日の民族、明日の家庭、明日の自分を求めているのです。これが信仰の道であって、この明日の自分とは未だに距離が残っているのです。この私は今日にあるのではありません。ここに求めるなら、全部が落胆するのです。皆さんの周囲にも、ないのです。皆さんはまず歩みを、正しい苦難の道を歩まねばならず、苦待する懇切なる心情の基準を高くしなければなりません。立てる正しい人類歴史が残っている限り、これを精算する前までは、その日は来ないことを知らねばなりせん。 今我々の歩みはその所望の理念のために、お出ましの準備をして出発する天の精兵であるので、その歩みは前進の他は知らずに行くのです。後ろに声が挙がったと、振り返って見てはなりません。それは怨讐の声なのです。横に君よと、近寄ってはなりません。それは自分の命を狙う怨讐であることを知らねばなりません。皆さんが生きてゆく環境には、真の親友がいないのです。 皆さんが生きてゆくにおいて、真の指導者がいません。皆さんが真の真理を求め、真の指導者を求める場においてのみ、真の天の指導者が現れるのです。皆さんが偽りの心を持っているなら、どんなに真なる者であっても、偽りの者になってしまうのです。歴史過程にはどんなに真の生命の因縁を持っていたとしても、偽りの生命の因縁によって現れなければならない曲折があるのです。真を求める皆さんの心に、訪れなければなりません。真の師を求める皆さんの心に、真の家を求める皆さんの心に、真の故郷を求める皆さんの心に、真の国を求める皆さんの心に、訪れなければなりません。そして皆さんは所望の理念を、帰結点として考えなければなりません。さらにはこれを中心にして、環境的な暗闇と闘い、この因縁を誇らねばならず、もどかしい心情で所望が成ることを苦待しなければなりません。こんな真の自身の姿を誇って周囲の環境を押し退けて行くとき、初めて天の役事が加わるのです。 ですから皆さんが最後の勝利の決定線で、最後の一歩を踏み出してその線を切るや、皆さんに新しい所望が現れるのです。皆さんが新しい日を迎えるのです。新しい理念を、皆さんのものとして所有するのです。この新しい理念を皆さんのものとして、因縁を結ぶためには、このような道を行かねばならない天的な条件が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。従ってこのような歴史的な運命を前にしている皆さんは、しっかりとした覚悟を持たねばなりません。 今こんな境地で、皆さん自身を振り返って反省してください。私は果たして信仰者の態度になっているか。所望の心を立ててゆくための信仰になっているか。これを願う自分であるか。古い信仰をもってみな成ると思い、すべてのことを解決しようとしたら、この道を行けないのです。 正しい信仰の態度をもってゆくべき我々ですから、今我々に死亡の威力がぶつかってきても、その死亡の力を精算しても残るものがなければなりません。残ったという痕跡がなければなりません。わが情熱もそうであり、わが忠誠も、わが努力も、わが忍耐も、自分に属しているすべてのものに、残る分野がなければなりません。これが天の相続の第一の基準になるということを、知らねばなりません。 今日のこの複雑なる有形を経てゆくためには、この所望を捜し求めて行かねばなりません。歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を心に抱いて、所望の私一自体を苦待して、これを捜し求めてゆかなければなりません。これを捜し求めてゆけば、限りなく怨讐たちが立ち塞がるのですが、それらと闘い、また闘って行ってまた行ってぶつかり、またぶつからなければなりません。こうして忍耐の祭壇をわが肩とし、足とし、手とし、体とし、頭として、忍耐の峠を越えることを覚悟して、生きた祭物にならなければなりません。そうでなければ、真の信仰者の態度を持つ者と見ることができません。天のみ旨と天の真理を捜し求める者と、見ることができないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.14
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エリヤに対する天の心情一九五九年三月一五日(日)前本部教会 神様は堕落の歴史が始まってから後、長い歳月の間無数の苦労をものともせずに、選んだイスラエル民族を抱えてゆかれたのですが、三千年がたって時にイスラエル民族が知らないうちに、大きな所望と期待をもってサウル王を立てられました。ところがサウル王が責任を担わないことによって、神の本来のみ旨はダビデ王を経て、ソロモン王の時まで延長されたのです。即ちサウルを立てて成そうとされた神のみ旨は、ソロモン王の時まで、一二〇年間というもの延長されてきたのでした。 分裂して異邦の神に仕えてユダヤ民族 ソロモン王は天のみ旨を受けて神殿を造り、彼の民族を統率して神殿と一つになるべき天的な責任があったのですが、その使命を担わずに自身も罪を犯すことによって、民族をサタンに渡してしまう立場になったことを、我々は知っています。 結局、ソロモン王が死んだ後、ヤラベアム王とレハベアム王によって、北朝イスラエルと南朝ユダに分けられました。神を中心として一人の指導者がきて、彼が左と言えば共に左となり、彼が右と言えば共に右となるべきイスラエル民族が、神様が苦労の歴史を経て来て率いた民族が、天の引率を受けるイスラエル民族が、天の所望とは異なり、南と北の二つの王朝に分かれた哀しい事実を、我々は知っています。イスラエル十二支派は天の側に立って、一つの祭壇を中心として、天と一つにならねばならなかったのです。 ヤコブがハランに向かって行く時、神はベトエルでヤコブに現れて祝福を与えられ、ヤコブは枕にしていた石を立てて石像とし、神様に誓願したのです。そしてヤボク川を渡る前にギルアデの山地で石塚を造り、神の名を付け、ラバンと約束しました。このように天から祝福を受けたヤコブから始まったイスラエル民族は、神の権限を行使することができる一つの主権国家として、一つの主権民族として、一つとなって神殿を受けなければなりませんでした。ところがこの天的な使命を投げ捨て、十二支派は北朝十支派と、南朝二支派に分かれたのです。この哀しい事実を我々は、歴史的な事実としてのみ知るのではいけないのです。 当時のイスラエル民族は、神の血の涙の三千年の歴史と、闘いの路程を経て来て生き残った群れであり、追われて残った群れであり、惨めに扱われる哀しい路程で残った群れであったのです。彼らは先祖たちを蹂躪した数多くの異邦民族と、神のみ旨に背信した数多くのサタンたちを恨み、怨讐視しなければならない立場を忘れ、同族同士が血の戦いを起こしたのです。こんな哀しい事実を引き起こしたイスラエルとユダを見やる神の心情が、どのようであったかを考えてみなければなりません。 ヨシュアとカレブの導きでカナンの福地に入ったイスラエル民族は、ソロモン王を中心に神が留まる神殿を建設して、神に侍らなければなりませんでした。であったにもかかわらず、北朝イスラエルと南朝ユダに分かれて、互いに争って、バアルの神とアシュラの神を崇拝するまでになったのです。こんな悲惨な光景を見やる神の心情を、我々は知らねばなりませんん。 このような歴史を率いて来られた神は悲しみに染まり、その染みた悲しみは歴史を経て今日、我々にまで及んでいるのです。ところで歴史的な哀しみはどこへ行き、民族的な哀しみはどこへ行き、さらには天的な哀しみはどこへと行くのか! このような条件が皆さんの心情を包み込んでいるということを、このような条件が天を求める我々の周囲を取り囲んでいるということを、このような条件が我々の意識世界を超越して、我々の行く方向を正しているという事実を、我々は知らないのです。 召命されたエリヤの心 このような凄惨な環境を見られた神は、ギレアデの地に住んでいた農民の中から、エリヤという人間を捜し立てられました。イスラエルの王もおり、十支派の族長もいるのに、エリヤを選ばれたのです。こんな哀しい事実を皆さんは知らねばなりません。 国家を支配して天の神殿を守るべき王が、その責任を忘れて天を排斥して恨み、民族を蹂躪したのです。さらには天の怨讐であるバアルのために祭壇を築き、アシュラの木造を造り、民族のまえに立てて仕えたのです。こんなアハブ王を天はどんなに憎悪されたか、我々は考えなければなりません。神様はその憎悪の心情を抑えることができず、選んだ民がサタンに蹂躪されるのを見る悲しい心情を抑えることができず、その哀れな事情と心情を解くために一人の人間を選ばれたのです。ところがその選ばれた人間は、国の王でもなく、皇族でもなく、ある族長でもない平民のエリヤだったのです。 天は捜すべき者を捜さず、持つべき者を持たず、率いるべき者を率いない立場に立つとき、切ない心情を抱えて王から族長たちと、多くの人々を捜し求めたのですが得られず、その時代の民族的な悲しみと、天的な悲しみを知って案じ、天に向かって祈祷して泣き叫ぶ一人の姿を捜し立てられたのですが、彼がエリヤだったのです。 このようにして立てられた、エリヤでした。皆さん! このエリヤを回想してみてください。エリヤは宗族の後援を受けた人でもなく、自分を擁護し、自分の立場と処し方を擁護してくれる環境を持つ人間でもありませんでした。彼は天の心情を知り、天の召命を受けて現れた人だったのです。 この時、彼が対して仰ぎ見る環境は、アハブ王の主権下にあった怨讐の環境だったのです。このような環境で天の召命を受けたエリヤは、死んでもこの民族を抱えて死ぬという心が、誰よりも強かったのです。死んでも民族的な摂理歴史路程で歴史的な心情を代身した先知先烈の伝統を、尊重しようとしたエリヤだったのです。さらには誰よりも神の心情を案じて涙を流し、民族と歴史を代身して涙を流すエリヤであったことを、皆さんは回想してください。ですから天は、このようなエリヤを捜し求めたのです。 それで今日皆さんに語る御言の題目は「エリヤに対する天の心情」です。「エリヤに対する天の心情」こんな内容で暫くの間、お話しします。 ごらんなさい。神は三千余年の悲しい心情を代身して、エリヤを捜しだされたのです。即ち、数多くの先知先烈たちが歩んで感じた歴史的な心情を代身して、神が手を挙げてイスラエルであると祝福された約束を忘れることなく、それを案じる天であるがゆえに、ヤコブ以後エリヤの時まで、一千年余年の歴史過程を経て摂理されてきた心情を抱え、エリヤを捜し求めたのでした。 神がエリヤを召された心情と責任者として立てる方法 怨讐に捕らわれたイスラエル民族を再び回復するために、エリヤを立てられた神様には悲しい反面、希望にみちた面もあったということを、我々は考えざるを得ません。 神に選ばれたイスラエル民族が、アハブ王と彼の王妃イザベラと共に、異邦のバアル神を崇拝し、アシェラ偶像を造って汚されていることを見て、悲しみに耐えることができずにエリヤを召される時、彼は喜びの心で父の前に現れたのではなかったのです。 エリヤは天が召されたからとて「アボジ! 分かりました。あなたが願われるこの道を私が行きます。あなたが招くみ旨を、私が責任を負って行きます」とすることが出来なかったのです。それで「私は何にもない平民に過ぎません。天よ、私よりも素晴らしい族長もおり、王もあり、王族もあり、数多くのイスラエル民族があるのに、私のような微々たる者を求められるのは、何としたことでしょうか」としたのでした。良心を持つエリヤはイスラエルを案じる心が大きかれば大きいほど、私心なく天のまえに固辞する他はなかったのです。 しかし天は時期から見て、この民族全部を捜し立てることは出来ず、エリヤでなければ駄目なことを知っておられたゆえに、エリヤを立てたのでした。 それゆえ神様は、エリヤがその場で使命を果たすよう命令して追い立てるのではなく、その環境を整理してあのように、このようにとショックを与え、自動的に現れるようにされたのでした。 ですからエリヤが天の召命を受け、アハブ王に現れる時、天は「父の命令であるから、あなたがすぐに行くのだ」という瞬間的な決心をするようにしたのではなく、行かないとしても行かざるを得ない環境にぶっつけ、自身の惨めさと民族の惨めさが、よりつのってゆくようにし、「民族の代身、私が死んでゆき、宗族の代身、私が死んでゆきます」という覚悟をした後に、闘いの責任者として押し出したという事実を、皆さんは知らねばなりません。 ノアとマリアの信仰姿勢 我々の祖先であるノア、もそうだったのです。「一二〇年後にすべての世を水で審判するから、あなたは箱舟を造りなさい」という神様の御言を実践してゆき、ノアは内的な闘いの路程で、天を疑うようなときも多かったのであり、自分自身の微弱なることを嘆息する環境におかれるときも多かったのです。しかしノアがそんな立場に立つほどに心に染みたことは、この地の上の人間たちが水に襲われる審判の日が、近づいて来るということだったのです。 また、マリアを見るのです。彼女は純潔な処女であり、イスラエル民族を誰よりも深い心情で案じたイスラエルの真の女性でした。天が数千年前から約束された、我々の指導者メシアはいつ来るのかと、メシアを待ち望む心情が、イスラエル民族の誰よりも強い人だったのです。 メシアを送ろうとする天の心情を知るマリアでした。このようにメシアを迎えなければならないイスラエル民族を代表するマリアを、人々は知らないとしても天は知っていたのです。こんな心的基準を、マリアは持っていたのでした。 こんなマリアの心的基準は、民族を代身して怨讐を打ち破るということではなかったのです。苦しみの中に呻吟している民族の哀しみを精算するために、闘いの勇士として現れるということでもありません。天の悲しみがあることを知って涙を流す心情、当時の人々は知らなのですが、民族の背後に悲しみの歴史路程があるということを知る心情、選ばれたイスラエル民族が、神のまえに立てない悲惨な実情を、嘆き悲しむ心情を持っていたのでした。 このように現れるべき堂々たる姿が現れないとき、その姿が現れることを願って涙を流し、骨に染みる心情を抱いていたその功績によって、天の歴史的な心情と因縁を結ぶことができたので、予想もしなかった時に天使が現れて「あなたはみごもって男の子を産むでしょう・・・(ルカ一:三一)」と晴天の霹靂のような御言を告げたのです。しかしマリアは言い張り「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに(ルカ一:三四)」と言うと、天使が再び「神には、なんでもできないことはありません(ルカ一:三七)」と言ったのです。父の事を成そうとする天使のこのような話を聞いて、マリアはためらうことなく「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言ったのでした。 このように天の心情と因縁を結ぼうとした、マリアの心情は強固であり、自身の生涯が破綻し、終いには死ぬかも知れない立場になっても「みこころのままになさって下さい」としたのでした。なぜならば、処女の体で懐妊した話が広まったなら、その当時のモ-セの律法によって、その場で石で打ち殺され、民族から追放され、宗族から許されなかったからです。そんな環境であっても、イスラエル民族の中で誰一人自分を歓迎してくれなかったのですが、マリアは「主よ! はしためですから、みこころのままになさってください」としたのです。 悲しみに染みた内的心情と、実体的な信仰を現すここに、マリアは歴史的な主人公であり、時代的な主人公であり、未来的な主人公であり、世界的な人類の主人公であるメシアを誕生させる母親となったのです。 エリヤの涙と忠節 このように天のまえに、エリヤは召命を受けました。天が彼を訪ねられる時まで、エリヤは人が知らない涙を流す、涙の王者だったのです。イスラエルの王よりも、イスラエルのどんな人間よりも、多くの涙を流す涙の王者でした。哀れな境遇で涙を流すイスラエルの民があったとしても、彼らが流す涙は自分自身の為に流す涙であって、一人の平民ではあってもエリヤが自身の環境と威信を忘れて流す涙は、自分自身を越えた涙であったのです。彼には「天が導くイスラエルがなぜこのようになったのか」という心が何よりも大きかったことを、皆さんは知らねばなりません。 エジプト苦役四百年を経て、荒野の四〇年路程において六〇万大衆を失い、残った民族がカナンの地に入って国家を成したイスラエルが、異邦の国によってこのようにされ、怨讐によって籠絡され、神が選ばれた選民圏が没落することを見て、染みる悲しみを抱く人間がエリヤだったのです。彼は誰よりも民族の為に熱心に祈祷し、誰よりも天の為に誠精を多く捧げました。このようなエリヤだけがイスラエルを代身することができたので、天は彼を捜し求めたのです。 神のまえに召されたエリヤは天から「エリヤよ、エリヤよ」という声を聞いた時、うろたえたのです。彼は「この御印は何としたことでしょうか? これは夢にも考えず、予想もしなかったことです」としたのです。このように恐れおののいて、大きなみ旨のまえに出るとき、天は「わたしがいるから、行ってアハブ王に告げよ」と言われました。天のその御言に、エリヤは天を代身してアハブ王と闘っていったのでした。 異邦の国から来た王妃イゼベルを通して入ってきた、バアルとアシェラ木像によって、遠からず審判の日が来ることを恐れていたエリヤであり、長い間天の悲しみと、民族を抱きしめて悲しむエリヤであったがゆえに、天の命令に「父よ、民族が生きるなら、この体を祭物にしてこの事を断行いたします」と出ていったのでした。このように天の命令を受け、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活に喜びという名詞はなかったのです。彼は見ることも予想もしない現象を見、聞くことも考えてもみないことを聞かなければならず、食べて着て寝る環境も、安らかならぬ環境であったことを、皆さんは知らねばなりません。 エリヤはアハブ王に、異邦の神を崇拝すれば滅ぶのであり、凶年に入って飢えるよになることを預告したのですが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、むしろエリヤを殺そうとしたのです。それでエリヤは逃げ、ベエルシバに身を避けたのでした。その時、エリヤの心情は限りなく悲しかったのです。 天を知らなかったなら、彼には身を横たえる家があり、父母があり、親戚があり、兄弟があったのです。暮らすことのできる地もあったのであり、自分を認めてくれる環境もあったのですが、天を抱えて出ていったその日から、彼は考えてもみなかった渓谷に身を避けなければならない身の上となったのです。 それでもエリヤは天を恨むのではなく、アハブを恨み、民族を恨むのではなく、イゼベルを恨んだのです。このように追われ追われる環境で、天に対する忠節の心がなかったとしたら、エリヤはそんな環境を捨て去ったのです。しかしエリヤは自分の環境が難しければ難しいほど、さらに天の悲しみを抱え、民族を抱きしめたのでした。天を抱えて悲しむ生活が、暫くの間喜びを感じる生活よりも大きいことを知るエリヤであったので、歴史的な先祖たちの功績を忘れることなく、自身の苦痛をものともせずに天のまえに近づき、さらに近づいて行ったのです。 ではあってもエリヤは、兄弟が考えてくれる以上に天が自分を考えてくれ、親族が案じてくれる以上に天が案じてくれ、父母が案じてくれる以上に天が自分を案じてくれることを、知らなかったのです。いつも過ぎ去った後で、天の心情を知るのであって、これが天を求めゆく悲しい事情なのです。 エリヤの重要な業績と苦難 エリヤはベエルシバに身を避けるその環境にあっても、覚悟を新たにしたのです。アハブとイザベルを追い出してイスラエル民族を救うために、身を避けたエリヤの切ない心情を人々は知らなかったのですが。カラスが飛んできて食べ物をくれたのです。このように飢える生活をつづけても、天の心情を知ってくれる群れを捜し求めると誓ったエリヤを、皆さんは知らねばなりません。 彼は生死の岐路に立つ民族によって天の悲しみが染み、その染みた心情が積もって審判の日が来ることを知ったのです。ところがこれを独りで担うことが出来ないことを感ずれば感ずるほど、天のみ旨の為に自分を犠牲できる一人の同士を、エリヤは慕ったのです。民族を愛するほどに自身のまえに現れる同士たちを愛し、天を愛するほどに自身のまえに現れる同士たちを、愛したい心に染みたエリヤでした。 このようなエリヤの心が、民族を救うことができる心であり、民族を生かす群れを抱きかかえる心であったのです。また天と人間を、因縁づける強固な心だったのです。エリヤにこのような心情があったがゆえに、天は彼を選び、彼を導いたのでした。 一度は飢えたエリヤが、天の導きでザレパテの寡婦の家にいって餅をもらって食べたのですが、この哀れなエリヤを助けた寡婦は、食べ残した粉で餅を作ったのではなく、一握りしか食べる物がない粉で、餅を作ってくれたのです。それゆえその後、ザレパテの寡婦は食べ物の心配をしなくてもよかったことを、我々は知らねばなりません。 エリヤがザレバテの寡婦の家に留まっていた時、その寡婦の息子の病が重くなって息を引き取ると、寡婦はその息子を抱えてエリヤに訴えました。その寡婦の痛切な訴えを聞いてエリヤが天のまえに祈祷すると、死んだ幼子が生き返ったのです。また、カルメル山の頂上でバアル神の預言者と、アセラ神の預言者八百人を捕らえて殺したのですが、これは偽の神と真の神を分けて立てるための、一大決戦であったのです。 こんな立場でエリヤは神様が民族を愛されているがゆえに、自身を召されたことを知ったのです。神が自身を召されたのは、怨讐を憎む神を代身、戦ってゆくためであった事実を知ったのでした。民族を代身して召され、神を代身してバアル神とアセラ神の預言者に対して戦う責任者として召されたことを知り、エリヤは水に浸った祭壇に天が火を付けて焼かれる時、バアル神の預言者とアセラ神の預言者八百余人を捕らえて殺したのです。 この事が終わった後に、凶年と飢えで悲嘆の中にあったイスラエル民族を哀れに思ったエリヤは、カルメル山頂に登って、命を懸けて天のまえに七度重ねて訴えたのでした。するとアハブ王が来る前に、雨が降ってきたのです。 このような役事を通してアハブ王とイスラエルの民は、生きておられる神を知り、自分たちが仕えているバアルが偽の神であったことをよくよく知り、悔いてエリヤの後に従ったのです。アハブは宮中に入り、イサベルに詳しく告げました。そしたらイザベルは、エリヤに「あなたが刃で切り殺したバアルの預言者のような運命になる」という使者の伝言を伝えたのです。 それでエリヤはイスラエルの国境を越えて、ユダのベエルシェバに至り、そこで僕を残し、荒野に入って一日の道のりを行き、さらにはレダマの木の下で天のまえに祭壇を築いて祈祷したのです。 イスラエルの国境を越え、願いであったユダヤの地に行ったのに、行く道が塞がれたのです。許されたイスラエルを救うために自分が選ばれたことを知るエリヤは、多くの逆境と多くの闘いの路程を経て、苦労しても苦労したような実績を立てられなかったのです。こうしてユダヤの地に逃げて行ったのですが、行く道が塞がれたエリヤは、膝を屈し「天よ、あなたが送られた預言者たちがみな死んで私を立てられたのですが、天を求め、天に対しようという心情を抱く者を捜すことができず、また彼らが私を捕まえようとするので私は今、これ以上行くことが出来ません。私を死なせてください」と言ったのです。 お父様! 私だけが残りました 摂理を営む神様が信じて召し、立てた目的を果たすために苦労して民族を率いてきたエリヤが追われる悲しい場で「お父様、私だけが残りました!」と訴えるのを見やる天は、さらに加重された悲しみを感じた事実を、我々は知らねばなりません。 天は迫害され、追われて身を避けるエリヤを、数多くのイスラエル民族よりも、より尊く感じ、イスラエルの地におく所望よりも、さらに大きな所望を彼においていたのです。疲れるだけ疲れ、望みも絶たれたまま、その行く方向も分からない荒野において、最後の決定を下すことを訴えたエリヤを、我々は考えてみなければなりません。さらにはイスラエル民族を率いる神、エリヤを捜し立てるために苦労された神、エリヤが苦境に陥っている時、さまざまな奇跡で助けて下さり、家より彼を抱えて下さった神を知らねばなりません。ここにおいて、エリヤに対する天の心情が悲しみに浸っていたことを、皆さんは知らねばなりません。 ユダヤの地に留まることが出来ないことを悟ったエリヤは、四〇昼夜を歩んでイスラエル民族がエジプトから出る時、神が彼らに祝福を下された山、彼の先祖たちが天と因縁を結んだシナイ山の近くにあるホレブの山から逃げ出したのでした。エリヤが国境を越えなければならないことを知る神も、このように逃亡するエリヤの行く道が遠く、また彼が行く道に友もなく、同情する者もないことを知られたのです。それで神様はレダマの木の下に座っているエリヤに、天使を通して焼け石の上で焼いたパンと、一ビンの水を与えて食べさせたのでした。 エリヤはこれを食べ、再び力を得て天の悲しみと民族の悲しみを抱き、怨讐に仇を返す敵愾心を抱き、悲しみの地であるイスラエルに向かって駆けて行かなければなりませんでした。であるにもかかわらず、反対にホレブの山に向かって逃げて行ったのです。 このように四〇昼夜を歩み、ホレブの山のあるほら穴で眠るエリヤは、敗残兵のように哀れな身の上であったのです。神が導いて下さる道を離脱した後、自分一身の平安のために逃げてほら穴の中で眠っているエリヤを、天はまた訪ねたのでした。眠っているエリヤに神様は「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と言われたので、エリヤは「天のために熱心に考えていました。しかし私は先祖たちより弱い者です」と答えました。この言葉は、神を慰める言葉ではありませんでした。 しかし神は眠れるエリヤを山に立たせて、さまざまな様相で勧告されたのです。強い風で、あるいは地震で、あるいは火の手で勧告されたのです。しかし神は直接エリヤの前に現れなかったのです。その後、静かなうちに神は現れ、エリヤを呼ばれました。エリヤは答えました。「父よ、あなたの預言者たちがすべて彼らの手で殺され、追われ追われたこの場で、私は何としたものでしょうか」しかし神は再び「イスラエルがアハブの手中にあるが、その中で割礼を守り、バアルに膝をかがめない七千余の群れがあるが、彼らをどうしたものか」とされたのです。「アハブ王の手の下で苦しみを受け、バアルに屈しない七千余の群れはどうしたものか・・・」これがエリヤに対する天の哀しい心情であったのです。 こにおいてエリヤは再び天の命令の通りにダマスコに帰り、ハザエルとエヒウに油を注ぎ、王として立て、エリシャに油を注ぎ、自分の後に彼を預言者として立てたのでした。 エリヤは歩みを返し、バアルに屈しない残った七千余の群れを天が案じていたことを知り、新らたな決意をしたのです。 これと同じように、今日摂理のみ旨に対しているすべての人々は、苦労の道を行っているのです。血の涙の道を行っているのです。十字架を背に負い、追われる道を行っているのです。それではこの悲しみと、痛憤と悔しさの場は、誰がゆえに生じたのか。民族のゆえであるのです。さらには神の六千年の怨讐であるサタンのゆえであったということを、知らねばなりません。 悲しみと苦しみが込み上げてきて、迫害の暴風が襲い来る事情におかれている原因は、何であるのか。それは民族を生かすためであり、天を解放させるためであるのです。ところが天のみ旨に対している人々も、こんな神の心情を感じ難いのです。 十字架上でも天を案じ怨讐を愛したイエス イエスは教団から追われ、民族から追われました。教団の異端者として、律法の破壊分子と見られました。彼は自身の宗族から追われ、家で追われたのです。洗礼ヨハネの一団からも追われたのです。荒野に行っても、そこでも追われました。それで終わるのではありません。ついには全体が動員されて、十字架の道へと、ゴルゴダの道へと追いやられたのです。 しかし反逆者として追い立てる民族の為に、むしろ涙を流したイエスであったのです。イエス様はユダヤ教団から異端者として扱われたのですが、イスラエルのどんな祭司長よりも、彼らの為にさらに血の涙を流す人であったのです。その時代の誰一人、自分の味方になってくれる人間がいなかったのに、イエスはその時代の親友でした。民族の反逆者として追われたのに、民族の忠臣であり、教団の異端者として追われたのに、教団の忠臣であったのです。 彼の歩みは、どんな歩みであったのでしょう。引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を負う悲惨な歩みでした。その道だけだったのでしょうか? 無茶な悪党どもの鞭で打たれて追われることもありました。そんな場でもしもイエスが、エリヤのような人間であったら、また再び「お父様、私だけが残りました」こんな祈祷をしたのです。 しかしイエス様はゲッセマネの園で、三弟子を後にして祈祷されるとき「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」とされたのでした。これは偉大なことです。自身の事情も痛ましいのですが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物であることを知っておられたのです。 このようなことを知るイエスは、自身の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいかということを案じる心が、さらに強かったのです。民族の為に現れたのですが、民族のまえに背反される自分を見やる天の悲しみが、どれほど大きいかということを、より案じられたのです。イエスは天の皇太子であり、満宇宙の主人公であり、メシアであったのです。そんなイエスが、悲惨な十字架の運命とは何としたことでしょうか? 嘆息するなら、この宇宙を総動員して嘆息するところなのに、嘆息することができない自分自身であることを感じていたので、追われる場に立つことを面目なく思ったのです。 教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設して、世界を父の懐に抱かせるべき責任を負うイエスは、その責任を果たさずに十字架の道を行くとき、恨む何ものも感じなかったのです。「この杯を過ぎ去らせてきださい」と祈祷されたのも、自分一身が死ぬことが悲しいのではないのです。自分一身が死ぬことによって、民族の悲しみと、天の悲しみが加重されるとをを知っておられたので、このように祈祷されたのです。 イエスは自身が十字架に倒れれば、後代の世界人類のまえに加重される十字架が残り、それによって悲しみの歴史が終わらないことを知っていたのです。ゴルゴダの道が終わらないことを知っていたのです。死の道が終わらないことを知っていたのです。そして自身がゴルゴダの道を行けば、自身に従う人々もゴルゴダの道を歩まねばならないことを知っていたのです。十字架のみならず、さらに困難な道が残ることを知る、イエスであったのです。 両手、両足に釘打たれ、脇腹を槍で突かれて血を流す場、イバラの冠を被る場に立ったとしても、これが自分に止まらないことを知っても、イエスは天に向かって「すべてが終わった」とされたのです。この御言は人間の世において、十字架の道がすべて終わったということではなかったのです。十字架のために泣いて案じる心の訴えが、天に通じたということなのです。 イエスは数多くの先知先烈たちが、天のまえに犯した過ちを背負い、天を慰めて差し上げるために自分自身が生きた供え物として、天のまえに捧げたという事実を、皆さんは知らねばなりません。 それでは、イエスに対された神の心情はどうだったのでしょう。死にゆくイエスの姿、天を案じ、十字架の峠を越えてゆくその姿を見やるとき、人間世界に憤ることがあるとしても、これ以上の憤りはないのです。天の四千年の歴史路程に憤りがあるとして、これ以上の憤りはないのです。 しかしイエス自身は死につつ「父よ、わたしをお許し下さい。自分が天のことを知らなかったからです」とされたのです。神はノアの時以上の審判をされたい心があったのですが、イエスが民族を抱いて死に、教団を抱いて死に、十字架を抱いて死んだがゆえに、神は人間たちを捨てたまわず、抱いてこられたのです。こんな心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、背反する後代の人間たちを捨てたまわず、抱いてこられたのです。背反する後代の教団を、抱いてこられたのです。 我々が成すべき事 後代に生まれた我々は今、こんな天の心情を知らねばなりません。イエスはこんな心情で天に対することを苦待され、このような生涯を送ることを願ったのです。イエスの宗族であり、イエスの後継者であり、イエスの遺業を相続しなければならない我々、天のまえに栄光の実体であると、誇ることのできる群れにならねばならない我々、こんな使命と責任を背負い、天的な期待のまえに立つ今日の我々は今、何を求め、何を感じ、何をすべきかを、考えてみなければなりません。 今我々はまた、何を考えなければならないか。イエスの友となり、イエスの新婦になろうとして、そんな人間になると考えなければなりまねん。さらには、我々は我々の先祖が天のまえに結んだ、歴史的な恨を解いて差し上げなければなりません。それで死の嘆息の因縁を、我々の後代に残さないようにしなければなりません。闘いの路程を死のゴルゴダに残すことなく、勝利のゴルゴダとして残さなければなりません。天はこんな責任を負う者を捜し求めておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 このような終わりの日の使命が信徒にあるなら、審判の日を待ち焦がれ、復活の主を求め、栄光の基台に立つことを願う我々は、イエスの心情とノア家庭に対された神の悲しい心情を知らねばなりません。天のまえに立てられたノアが、一二〇年の間苦労した後で洪水審判を逃れる時、天は残ったノアの八人の食口を通して、その間の怨恨をすべて解こうとされたのですが、ハムの失敗によって再び嘆息の条件が残ったという事実を知り、ノア家庭の悲しみを再び解いてあげる、我々にならねばなりません。 アブラハムは祭物の失敗によって、息子のイサクを祭物に捧げたのであり、彼の後孫たちはカナンの地を離れ、エジプトに入って四百年の苦役時代を経たのです。 天はイスラエル民族をカナンの福地に復帰させるためにモ-セを立てられたのですが、その復帰路程において、イスラエル民族はさまざまに天を背反したのでした。その後、数多くの我々の先祖たちがみ旨に対して出ていったのですが、天が「おお 、わたしのみ旨をすべてやった、わが願いは果たされた」とされる賞賛と祝福を受ける群れはないのです。 このように先祖たちによって悲しみの心情に染みた、天の心まで皆さんは知り、今日聞いた御言のように、アハブ王のまえに逼迫と迫害を受けるエリヤのような立場に立つとしても、草露の生涯として消える恨があるとしても、自身の身の上を嘆くことなく、ただ神を抱いて行かなければなりません。 ゲッセマネの園とゴルゴダの山頂で、イエスが抱いたような心情をエリヤが抱いたら、そこで天と因縁を結ぶのであって、天はここに歴史的な悲しみの一端を、解怨することができるのです。しかしそうならないことによって、天の悲しみはイエスにまでも延長されたのでした。 ところがイエスが死なれることによって、このみ旨は解怨されないまま、今日にまで延長されてきていることを、我々は知っているのです。 この時代のエリヤ 今日この世界に起こる現象を見てみるとき、これは昔のイスラエルのアハブ王の時代に起こった事と符合するのです。偶像というものは何ですか? 天を見捨てて他の何かを崇拝すること、それを神様以上に崇めることが偶像なのです。ところが今日の数多くの人類は、自分も知らないうちに文明という偶像の下にあるということを、我々は知らねばなりません。 このような時に、アハブ王を見やるエリヤと同じ心情で、即ち、アハブ王を見やった天の悲しい心情を、内的心情に加重して感じたエリヤのような心情を持つ者がいたとしたなら、エリヤと同じ心情で天を慰め「この地を父の懐に抱かせる愛する息子・娘として立ててください」と祈祷する群れがいたとしたら、彼らはエリヤ以上の憤慨する心を持って、この時代を見やる群れでなければならないのです。 そんな群れがないとするなら、自身がたとえ卑しいとしても、先祖たちが天のみ旨を受け、天倫の道を立て、摂理の伝統を立て、摂理をなされている神の歴史が残っていることを知り、自分自身がたとえ不足であったとしても不足だとは考えないで、ひと知れぬうちに祭壇を築き、ひと知れぬ涙を流す群れにならねばなりません。こんな群れがこの地上に現れて闘わなかったなら、この世界の終末的現象を防ぐことはできないのです。 アハブ王が天に背反し、イスラエル民族を籠絡したのですが、これは民族的であったのです。しかし今日は世界的に、人々は物質を偶像化し、文明の奴隷となり、自分の命の中心がどこにあり、自分が行く方向と位置がどこなのか分からなくなって、天を捜し求めずにさまよっているのです。こんな群れは昔、アハブ王に捕らえられた群れと同じです。 今日我々のまえには、世界的な神の審判が残っています。アハブ王とイスラエル民族のまえに審判があったように、終末期の我々のまえに、偶像の包みをぶち壊す審判の日があるということを、我々は知っているのです。このようなとき、天はエリヤに対された以上の悲しみの心情をもって、今日の皆さんに対されているという事実を、夢にでも見たことがありますか? ないとしたら、反省しなければなりません。 アハブ王を中心としたイスラエル民族が、死んでも神殿、生きても神殿という心で天に対し、天の伝統を継承して、天の血族を成すために苦労すべきであったのに、そうではなかったことによって、アハブ王を中心としたイスラエル民族は血の闘争によって終わりを迎えてしまったことを、我々は知っているのです。このような歴史的な実情は、時代的な実情として今日、再び再現されているのです。 世界も世界ですが、我々はこの時代を見やり、我々の民族を知らねばなりません。我々は大韓の息子・娘です。先祖から血と肉を受け継いだ大韓の血族です。我々は国の為に、民族の為に、民族の将来に光明の朝が訪れるようにする為に、民族精神を鼓舞する為に、血を流し涙を流した忠臣たちが多かったという事実を、知らねばなりません。いかなる民族の歴史にもない、悲しみと悲劇の悲惨な環境を経てきて、その時々に数多くの忠臣・烈士たちが、血の道を歩んだ歴史を持つ民族であることを知らねばなりません。 このような歴史的な伝統を受け継いで、人倫的なことよりも天倫的なことを得て、アハブ王の偶像のようなこの世界の文明を押し退け、天が君臨できる新エルサレム神殿を建設する者は誰か、ということを案じる時が来たのです。 今我々は、心を広げなければなりません。私の悲しみよりも、民族を抱えて悲しみ、さらには世界人類を抱えて悲しみ、またさらには、神と天と地の為に悲しむ者にならねばなりません。 堕落圏内で嘆息している民族を抱え、天の代身、泣くことのできる心情を持つ主人公はどこに現れるのか? もしもこの地上に万王の王であられる主が降臨されるとしたら、間違いなく世界的な理念を持って来るのであり、世界的な指導者として、人倫と心的因縁を結ぶために来られるのです。 しかし今日皆さんがこのようなことを考えなかったら、主は皆さんといかなる関係も結べないのです。こんな理念を持って統治される主が来ても、このような理念の世界を夢見て考えてみなかったら、この世界と何らの関係も結ぶことができないのです。考えてもみて、思案もし、空想もしてみなければならない立場に、皆さんはおかれているのです。 皆さんは個人を案じてみましたか? 塗炭の苦しみにあえいでいる家庭を、案じてみましたか? ある社会や、国家を案じてみましたか? そうではない自分を発見するなら、宇宙歴史のまえに犯罪者である自身の正体を暴露して、天のまえに悔い改める心なりと持たねばなりません。 皆さんにもしもこのような心すらないなら、この民族はどうなるのか。五千年の歴史を誇る韓民族ではあっても、神の摂理歴史を経て、苦難の歴史を経てきた民族であっても、このような何かがないとしたら世界史、あるいは世界文明圏内において、あるいは神の摂理圏内において、何をもって貢献することが出来るのか。 我々が誇る何かを持っているとしたら、これが天と天的な因縁を結ばないなら、むしろ天に悲しみを加重させる他はないという事実を、我々は知らねばなりません。 歴史の主人 歴史は、追われ追われる群れが主役であったのです。歴史を支配してきた主人は、このような群れによって造られました。(高台広室)高い場で、豪華絢爛に生きて、山海の珍味を楽しむ群れが、ある主義を成してはこなかったのです。追われる場、踏まれる場、哀れな場にある者たちが造ってきたのです。彼らが歩みだすとき、涙の一歩を踏み出したのです。 民族が腐敗し、世界が混乱をきわめるとき、世界を抱えて天を代身し、涙を流す群れは世界的なエリヤの後継者たちです。こんな群れはエリヤが案じたイスラエルの民を代身して、天のまえに立つことができるのです。「エリヤはエリヤ、私は私」と言うなら滅びます。天が泣き、天が悲しむなら、共に悲しむ我々にならねばなりません。 御言のみをされる天ではありません。御言と、実体と、心情と、愛の神なのです。ところが我々は、御言も分からない群れになってしまいました。体が何んであるか、分からないのです。自身の心情がどんなものかも、分からないのです。天が主張される天の愛が、どんなものであるかも分からないでいる我々なのです。 皆さん! 神の愛がどんなものであるか、説明することができますか? 心情がどんなものであるか、説明することができますか? 自分自体がどんな存在であるかと、説明できますか? 自分の話す言葉が、どんな言葉であるかを説明することができる何かを持っていますか? ないのです。ありません。 今日人々は、自分の優れていることを誇ります。ではこれを誇るとして、何世紀の間誇っていられますか。過去のある時代に誇っても、名は何世紀まで残るの。それゆえ人間にただ誇ることがあるとしても、残ることのなこを行くのです。こんな民族は、滅びることがありません。 今までのすべての民族が共通的に行く道を行く人間が、民族を生かし、世界を生かすのではなく、他人が行かなこを行く人々が民族を生かし、世界を生かしてきたのです。キリスト教が歩んだ路程も、こんな路程です。 今日世界のキリスト教は、嘆息すべき時です。神を信じ、イエスの十字架の死を知り、イエス以後、聖霊を送って二千年の間苦労した歴史を知るとしても、現実のキリスト教を見やって、安らかに眠ることができません。 イエス様当時のユダヤ教徒は、この時代の教徒よりも、より教会に行くことを喜んだのです。この時代の教会よりも、さらによく礼式と形式を備えていたのです。御言がなかったのではなく、歴史がなかったのではなく、誇る条件がなかったのではありません。ところがそんなユダヤ教を、天のまえに誇ることができなかった訳は何でしょう。それは彼らが、天の新しい摂理を知らなかったからです。 それゆえイエス様は、今日のキリスト教徒がご自身の死を連想して「イエス様の心情がわたしの心情であり、カルバリ山頂で釘打たれたイエス様の体が、わたしの体だ」と考えて、ご自身のために泣いてくれることを願っているのです。そんな親友を待ち望んでいるのです。また、死んでも言えないのですが、心中に染みるほどの心からの新婦を、苦待されているのです。その新婦に逢える日には心を解き放ち、彼の生涯のすべてを語ることができ、六千年の間、役事されている神の内的心情の、悲しみを語ることができるのです。その内容は聖書にある御言とは、異なるのです。 もしもイエス様の悲しみと、神の悲しみが皆さんの愛する息子・娘のまえにあったとしたなら、どうするのですか? 皆さんの愛する父母のまえにあったとしたなら、どうするのですか? 時はいよいよ最後の解決点に向かって、流れているのです。歴史も流れ、宗教も流れ、主義も流れ、この問題を解決するのにこっちでも戦い、あっちでも戦い、こっちでも嘆息し、あっちでも嘆息しているのです。 こんな混乱期に、信じようにも信じることができず、収拾しようにも収拾することができない時に、エリヤが現れて新しい心情の一端を吐露したように、歴史において捜し見ることができなかった、天の心情を吐露するある新しい声がないのかと、皆さんはこんな考えをしなければなりません。 この時代の信仰者が取るべき姿勢 主義と思想は、今日皆さんを刻一刻と刺激しています。さらにはこの時は、妙なる時です。歴史に対する恐怖が、皆さんを押し出しているのであり、この恐怖と闘って勝ち、個人的に勝利の凱旋歌をうたう者は誰であるのか。いないのです。 それではこの歴史は、どこへ行くのか。死が引き倒そうとしているので、新しい希望と解放を叫ぶ声は、どこから現れるのか。どうか早く来なければならないのですが、これが問題です。 今皆さんが想像もしていない、新しい何かが出て来なければなりません。皆さんが想像もせず、夢にも考えない何かが、現れなければならないのです。 この時代は宗教の戦いを経ている時代です。これからは民族の戦い、国家の戦い、世界の戦い、主義の戦い、宗教の戦いはすべて過ぎ去るのです。しかし皆さんの心が、皆さんが知ることのないその何かに襲われても、それに勝たなければなりません。そんな時が来たのです。 この世界に多くの人間が生きていますが、神との縦的な関係を中心にして見れは、皆さんとは何らの関係がないのです。三千万民族が皆さんと切っても切れない関係を結んではいるのですが、神との縦的な関係を中心として見れば、何らの関係がありません。 カルメル山のてっぺんでエリヤが「神よ、私だけが残りました」としたその叫びを、エリヤの叫びだけにしてはいけないのなのであり、今日この終わりの日に、審判を受けなければならない群れの、叫びとしなければなりません。 皆さん、そんな立場におかれていないでしょうか? 皆さんの命を誰が保証してくれますか? 父母でもなく、愛する妻でもなく、子女でもなく、国家でもなく、主義でもありません。皆さん、このような生命を尊重視している皆さん自身を、考えてみてください。底も終わりもない渦に巻き込まれて、正体を解明することもできない虚しい自身を誇らないでください。 今日世界人類は、カルメル山頂で戦ったエリヤの闘争の歴史を経なければなりません。天に向かって「私だけが残りました」と訴えたエリヤのように、天に向かって訴えなければなりません。自身も知らない歴史路程を経て、歴史の終点に立つ自分たちを、どんな主義も救えないことを知るなら、天に向かって頭を高く挙げなければなりません。頭を高く挙げ、心が指向するところ、心を解放させてくれるところ、そんなところを希望としなければなりません。そのような欲望に染みて、我々の中に生命が躍動しなければならず、我々がすべき残された何かがあるということを、知らねばなりません。 今日、イエス様がカルバリ山で天を代身して「すべてが終わった」とされたように、そんな言葉を言える群れがありますか?「天よ、私だけが残りました」と言う群れにならなければなりません。そんな時が近づいているのです。 審判の一日を契機として、新しい歴史を出発させる摂理のみ旨が、皆さんのまえに残っていることを知る以上、皆さんは「私だけが残りました」とすることができなければなりません。なぜ? なぜ? なぜ? 今日、我々はどんな宗教も信じられず、どんな主義も信じられず、どんな家庭、親族、師も信じられず、どんな道も信じられないのです。我々はこのように、どれ一つ信じられない立場におかれているのです。 皆さんは天に向かって「私だけが残りました」とする他はない立場におかれているのです。そんな立場で取るべき姿勢は、天に向かって「私だけが残りました」と泣き叫ぶことです。皆さんはどうせ心から、このように泣き叫ばなければならないのです。 今皆さん各自は、闘争の過程を経なければなりません。成すべき天的なみ旨があり、捜し求めるべき民族があり、聖別すべき教団があることを知り、天の側にある人々はみ旨の為に、動員されなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.11
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愛天者と愛国者となろう一九五九年三月一日(日)前本部教会 この時間に話す題目は「愛天者と愛国者となろう、天を愛する者と国を愛する者、即ち愛天者と愛国者となろう」です。 人間を善の方向に導いて来られた神 本来人間は、天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛するようになっているのです。天と人間と地を、すべて愛さなければならない存在であったのです。 神様は本来、人間を創られるとき、天を愛することを知り、兄弟を愛することを知り、地を愛することを知る人間を目標にして創造されたのです。ところが今日、地上に生きている人間はすべて堕落の後孫であるゆえに、天を愛することを知らず、兄弟を愛することを知らず、この地を愛することも知らない人間になってしまったのです。これが堕落による哀しみです。 それゆえ天はこの哀しみを抱いて、堕落した人間を本然の人間に回復させるために今まで、六千年という長い歳月の間どんな闘いもものともせず、犠牲を重ねてこられた事実を皆さんは知っています。即ち、失った人間を復帰しなければならない天的な責任を持って人間を捜し求めて来られたことを、我々は知っています。 今日我々は神の復帰摂理のみ旨は知らなくても、自分の心は密かに天的な因縁に従っていて、その天的な因縁は私の生活と人生を支配しているという事実を、我々は実際の生活で多く体験しているのです。 それではどうして皆さんの心は、われ知らぬうちに善なる大きな理念の世界を憧憬して休む間もなく動いているのか。皆さんの心がどうして、自分が願う方向に動いていかないのか。それは皆さんが考えず、知らない方向へと率いる神、即ち、皆さんが考える以上の因縁を通して、経倫され苦労されている神がおられるからです。このように我々の心は、善の理念に率いられてゆくのです。 天は最高の善であり、最高の理念です。この天は我々人間の最高の生命であり、最高の所望の中心として過去にも動き、現在も動き、未来にも動いてのですから、我々の心はこの天の指向する善の方向へと率いられて行っているという事実を、我々は悟らなければなりません。 皆さんが善を指向する心情を持っていて、善なる天禀を持っているとしても、皆さんはこれを自分のものだと大言しては駄目です。また天禀を元にして自分の体が造られ、善なる段階にいるとしても、この体は自分のものだと自慢しても駄目です。 良にして善なるものがあり、他人のまえに光るものがあったとしても、これを自分のものとのみ思って、自分のものとして現しては駄目です。天が皆さんをこのように因縁づけられたにもかかわらず、皆さんがこれを忘れて自分を立てて誇る立場に立ったなら、その時から天的な罪を犯す立場になるという、恐ろしい事実を知らねばなりません。今日我々は、我々の周囲に暮らしている人々の中で、往々にしてこんな罪を犯すことを目撃するのです。 今日我々はすべて善なることを望み、義なることを望んでいます。このように我々には善になろうとする心と、義なる方向へと動いて行こうとする心があるとしても、この心もまた皆さん自身のものではないのです。この善なる心の歴史を探って見れば、六千年の人類歴史が表れてくるのであり、さらには神の創造の歴史が表れてくるのであり、神の創造本然の心情が表れてくるのです。 ですから皆さんはこのような歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を代身して、その中心を通して動いている本然の善を、所有しなければなりません。 皆さんがこの善を、皆さんのものとして所有しようとするとき、誰かがその道を妨げ、この善に反対となる条件を示すなら、これが法度的な条件に引っ掛からないと言い切れるでしょうか? 今日人間は、このような善の心を捜し求めねばなりません。さらにはこのような善の心を持って、この心が自分の為に動くのではなく、全体的な善の主体に向かって動いてゆかねばなりません。であるにもかかわらず、これを知る人間が多くないことを我々は知っているのです。 善の実現と良心作用 元来、善というものは自体内で成される法はありません。善は自分を越え、環境を越えて、世界を越えて創造主の善と因縁を結ぶところにのみ成るのです。実績が残る路程にのみ、この善という名詞が立てられるのです。 我々はこのような善の方向を求め、その目的地を知り、そこに向かって動いて行くと同時に、善なる自体となって、善なる生活の実績を残さなければなりません。今までの歴史路程にこのような事実を知り、すべての事に責任を負い、自信をもって生きてゆく人間がいなかったと言っても過言ではありません。このような人間を抱えて、神様は今日まで苦労して来られたのです。苦労をしてもこの苦労に答えることのできない人間、死の道で自分の命が救われても感謝することを知らない人間を、六千年の間率いて来られたのです。 このような歴史的な哀しみの路程が、今日皆さんの代で終わらなかったら、皆さんの後孫にまで延長されるのです。この哀しみの路程が皆さんの生活の中に、皆さんが呼吸している生命の上に流れているという事実を感じる人間にならないなら、国を愛し、天を愛するという言葉は嘘だということを、我々は考えざるを得ません。 一日の生活も、善を根拠とする心でなけれななりません。善なる心が我々の生活を支配しなればならないのです。それで今我々は生涯の目標を成してゆくとき、善の理念圏内で誇ることができる実績を立てなければなりません。そうではない者は歴史路程と、天的な善を捜し求めてゆく復帰路程に、どんな貢献どんな実績も残すことのない者と見る他ありません。 それでは人類の堕落はなぜ生じたのか? 自身の生涯を自分のものとのみ思っていたので、堕落したのです。人類の始祖であるアダムとエバは、自分たちによって万事が成ることを知り、自分たちを根拠としてすべての事が出発することを知り、自分たちにすべての目的が結実することを知っていたので、堕落したのです。これを皆さんは知らねばなりません。 従って我々は、先祖たちが犯した罪を暴露し、自分を根拠として何でも解決しようとする心を、捨てなければなりません。その代わり民族と、世界と、天と地を懸けて解決するという真の心を持って、善なる世界を指向する人間にならねばなりません。そんな群れがあるなら、天は彼らを捜し求めるのです。良心が指向する目的を立てようと摂理される天は、このような群れを求めておられることを、我々は肝に銘じなければなりません。 このようなことを明らかにした後に、自分を再認識してここに自身の価値観、生活観、生涯観、人生観、歴史観、宇宙観を持って「天を愛します」とすれば、ここに愛の因縁が結ばれるのです。またこんな観点から国を愛してこそ、皆さんが本当に国を愛したとする立場に立つことができるのです。 我々はこの道が歴史的な人物も行くべき路程であり、時代的な人物も行くべき路程であることを知り、このような方向で自分を再分析してみなければならないと見るのです。 今日人間は堕落することによって、善なる良心作用は感じていても、善が指向する目的地は知らないのです。善を指向する良心の作用を受けても、良心の呵責を受けない善なる生活は、していないのです。 今皆さんはこのような矛盾した立場に処している自分を明らかにして、新しい目標と、新しい理念のまえに自分を照らして見なければなりません。こうして今まで持っていたある認識、ある主義主張、ある観念を捨てて、新しい善の目標に向かって行くのです。終わりの日のこの時代の人類は、この善の目標に向かって行くべき危機に面してしていることを、我々は知らねばなりません。 真なる愛天者とはどんな人間か ところで堕落した人間は、どの時点まで落ちたのか? 神の創造理念と正反対の立場まで落ちたのです。 人間は本来この世の中を、自分たちの世の中と思って愉み、全人類が一つの宗族として生き、また創造主神を自分たちの神として、侍って生きなければならないのです。 ところが今日地上の人間たちが、自分の世界を成していますか? 成してはいないのです。全人類を一つの宗族と考える人間がいますか、国家がありますか? ありません。また神を自分たちの神として侍り、生きる群れがありますか? ありません。 それゆえ我々は善の基準を捜し立てた次に、我々の力とすべてのものを注いで、我々の世界、我々の宗族、我々の神を捜し求めなければなりません。これが堕落した人間が求めて成すべき歴史的な使命であることを、我々は知らねばなりません。 我々の神は虚しく消え去り、我々の宗族である人類も四方に散り、我々が主管すべきこの地もバラバラに分けられてしまったのです。 創造主がおられるなら、その創造主の理念が何でしょうか。この地を我々の地として造ろうとすることであり、この人類を一つの宗族、一つの兄弟にすることであり、我々を神と一つに和するようにすることです。こうして創造主がこの人類の神として、世界の神として、現れようとされることを知らねばなりません。 それでは「私は天を愛します」と言う愛天者がいるとすれば、彼はどんな人間でしょうか? 彼は我々の世界を捜してさまよう者であり、人類全体を一つの宗族として造ろうとさまよう者であり、創造主神を我々人類の神として、世界の神として親しく侍って生きようとする者です。このような者をいわゆる、天を愛する者というのです。 今日人間はこのような標準を喪失してしまったので、善が動く心の作用を感じても、善の実績を求めるにもも求められない生活をしていることを、我々はよく知っています。 善の作用は創造理念、人間が成すべき天的な理念、世界的な理念を中心として、我々の心のうちに絶えず起こってくるのですが、これを無視して断ち切って蹂躪して生きてきた我々であることを、この時間にいま一度、骨肉に染みて感じてみなければなりません。 このような人間にならないとしても、堕落した人間として神を愛するという場に入ろうにも、到底入ることができないという事実を、皆さんは知らねばなりません。 それでは今皆さんが、ある誠精をすべて注いでやるべき事が何でしょう? どんな犠牲も覚悟してやるべき事が何でしょう? 神様が所望とされる世界、人類が所望とする世界を成す事です。神様は一父母による血族、即ち神を中心とした一つの宗族を求めておられるのです。神を中心とした、一つの家庭のような世界を求めておられるのです。我々はこれを知り、この基準に合った生活をする人間にならねばなりません。そんな人間にならなかったら、神様が求めておられる理念的な世界、理念的な人類、理念的な天国は成すことが出来ないのであり、成したとしても我々とは何らの関係もないことを、我々は悟らねばなりません。 神様は人間を創造して祝福され「万物を主管せよ」とされました。「地に満ちるほど繁殖せよ」とされました。人間がこの御言をすべて成して完成したら、神様はその完成した人間を自ら主管されようとされたのです。これが創造の基準でした。ところが人間はこの基準を今まで完成しなかったのです。それゆえ我々は、地を主管できない者たちであり、真の愛の世界において繁殖できない者たちであり、真の神の愛を受けられない者たちなのです。これが我々の悲しみです。このような因縁圏内にあるゆえに、我々はサタンの試みの祭物になっているのです。 このような人類を天は再び立たせ、地を主管させるようにし、善の功績を積んで悪にからまれた堕落した人間のすべてのものを精算して、これを再び和合させて天の血族として造ろうとされるのです。そうした後にこれを主管なさるために、神様は動いておられるのです。これが人間が指向してゆく歴史的な目的であり、人類が心から憧憬する所望の基準であるのです。 我々はそのような所で生きるべき存在なのです。ですから我々のすべての要素が、体と心が所望とするその所に向かって行くことを、限りなくあり難く思う我々でなければなりません。 神を中心とする愛の世界を建設すべき人間 ところが天を失い、本然の兄弟を失い、落ちるままに落ちないで目茶苦茶に落ちた人間は、逆にこれを捜し求めているのです。本来は神の愛を受けて、兄弟と愛の因縁を結び、夫婦同士が愛の因縁を結び、その後に父母に侍らなければならないのですが、神と愛の因縁を結ばないで、堕落した人間になってしまったのです。ですから真の父母、真の夫婦、真の兄弟だと大きなことを言う人間がいたとしても、神の愛を中心とする真なる関係を結ぶ人間は、一人もいないのです。 我々はこのような宗族であるゆえに、人間が主管するどんな物も、神のものであると主張する何らの理由もないのです。神のものとして創られたこの世界が、人間のものにもならず、恨めしくもサタンのものになったのは、何としたことでしょうか? 神のものでなければならず、人類のものにならねばならないこの地が、神や人類のどちらのものでもなく、出し抜けにサタンの所有になってしまったのです。これを見やる天の悲しみを体恤する者、人類の悲しみを体恤する者が出てこなれば、この世界をサタンの所有から解放させる運動をすることが出来ません。 神様はこの運動を展開するために、長い歴史路程を経て来られて、人間に良心の作用を起こさせてきたのです。神様が主管すべき人間を失ったので、時代々々ごとに時を迎えて中心人物たちを送ったのです。人類のすべての問題に責任を負い、人類がやるべき使命と時を知らしめるために中心人物を送ったのですが、この人々が誰かといえば歴史路程に往来した先知先烈たちでした。 人間は堕落して神の創造期間の六日をすべて失ってしまい、安息日という一日を通して神に対するようになったのです。このようになって、常に対するはずの人間を失った神はそうできる契機を求めてさまよい、限りない苦労もいとわず、人間を捜し求めておられるのです。ところが人間は神様がどんなに苦労されているか、まるで知らないのです。 それでは時を迎えて来ては行った先知先烈たち、時代的な使命に責任を負い、来ては行った天的な人々は、この地に何を提示したのか? 地のいかなる存在価値も認めないで、天を信じよと主張したのです。人間が生きているこの地が、永遠なる地ではないと主張したのです。また地の上での命が永遠の命ではないと主張したのです。地上で愉む幸福は永遠の幸福と何らの因縁がないことを、歴史路程において提唱して行ったのです。 神様が六千年の摂理路程において一時期、一時代を代表する苦労の実体として送られた先知者たちを、捕らえて殺すために血を流して闘ってきた罪の祖先を持つ我々、天倫のみ旨に背反した歴史的な背反の罪状を持つ我々、神様が送られた人のみならず、神様まで背反した祖先を持つ我々、今日このような我々がどのような立場にいるのか、再度考えてみるべき時が来たのです。 天はこのような人々を立てられ、堕落した人間と因縁を結ぶために無限の苦労の路程を経て来られたのです。このような苦労が積みに積まれたのが天の悲しみであり、地の悲しみとして残ったにもかかわらず、この悲しみを認識してもみないまま、自分個人の事をおいて悲しんでいる人間、自分の家庭の事をおいて悲しんでいる人々は多いのですが、天と地をおいて悲しむ人間は、一人もいないのです。 終わりの日が近づいて来たと、異口同音に言うこの時に、皆さんは天の哀れさと悲しみを抱いて嘆く人間がいないことを知る、天の心情を感じてみましたか? 神様は六千年の間、嘆息し、後悔されながらも人類を抱えて闘って来られたのに、人間は未だに天のまえに嘆息の条件として残っているのです。ところが今日皆さんは、心の門を開き、天と地と全万物に染みている天の悲しい心情、泰山よりも高く積まれた天の悲しい心情を推し量ってみましたか? この悲しみはどんな民族の悲しみよりも、どんな国家の悲しみよりも大きいのです。今まで人間が悲しんできたどんな悲しみも、比べることができない悲しみであることを、我々は知らねばなりません。 自分中心の思考方式を捨てよ 我々が天を愛する愛天者の群れに同参する人間であるなら、このような運命の道を行くべき堕落した人間の後孫であるなら、我々の心中に善を指向する心が爆発して、天と全万物にまで染みている天の哀しみを感じて、その哀しみを解いてあげる責任を果たす群れにならねばなりません。そんな群れが現れなければ、大きな摂理のみ旨は成就できないことを、皆さんは知らねばなりません。 ところが人間は今まで、自分だけを中心にして闘ってきました。自分の家庭を中心に、自分の国、自分の地、自分の民族を主にして闘ってきたのです。しかし天はそうではありません。神様は我々の世界、我々人類の為に、我々の神となる為に苦労して来られたのです。ところが地に生きている人類は、自分を中心とする家庭、自分を中心とする国家、自分を中心として主管する地を求めて、さまよっているのです。これが今までの歴史路程であったのです。 人間は堕落することによって、天的な心情と良心と、体と心を失ったのです。ところが人間はこんなひどい事実を知らないまま、自分を中心とする物質、自分を中心とする体、自分を中心とする心、自分を中心とする情を追い求めているのです。このような人間を抱えて、自分を越えてゆく方向へと率いる神の摂理がなかったとしたら、人類は滅亡してしまうのです。人類は滅亡するのです。 こんな人類を目覚めさせようと、我々の心を通して日々の生活に命令される天に対し、我々は限りなく感謝しなければなりません。今日まで自分を中心にして生きてきた堕落した人間は、落ちるところまで落ちてしまったのです。それで自分を中心にして、地を捜し求めているのです。しかし堕落した人間は、本然の立場に行くべき復帰の運命におかれていることを、知らねばなりません。 今日皆さんが持つ体は、宇宙的な価値を成すための体であり、皆さんが所有しているすべてのものは、宇宙と因縁を結んでいる祭物なのです。ところが人間は今まで、これを知らないでいるのです。皆さんにある天的な心情があるなら、その心情は宇宙的な、天的な心情と因縁を結んでいる心情です。ところがこれを忘れている人間、即ち、天と反対の立場にある人間と、天は因縁を結ぶために今まで苦労して来られた事実を、皆さんは知らねばなりません。 今までの歴史路程において見たすべての事実は、自分個人を中心に闘うことでした。自分の一民族を中心に、自分の一国土を中心に闘ってきました。一つの主権の下で、自己の国土、自己の民族、自己の主権のために闘うところに留まっていました。利己主義を中心に今日まで、即ち、第一次大戦前後まで闘って来たのです。ところでこのような闘いに止まっていたなら、人類は滅亡へと駆け上ってしまうのです。 今まで数多くの民族、国家が明滅しましたが、その民族や国家の為に忠臣であった人間は沢山いました。民族と国家を愛した人間は多くいたのです。その時代にその民族、国土とその主権を抱えて愛した人間は多くいたのです。ところでその愛国者たちは、みなどこへ行った。歴史上に名を残したその愛国者たちは、みな消え去ってしまったのです。歴史上の主権国家には多くの忠臣がいたのですが、今日このような忠臣の節と義の心は、訪ねても見られないほどに消え去ってしまったのす。 我々が知らねばならないことは、今までの歴史的な事実を探って見るとき、多くの人々が地を奪うために戦い、国境を打破することをして来たのですが、こんな方法では本然の理想世界を建設することは出来ません。 このように地を奪って拡張する帝国主義時代を過ぎた次に、我々人間は何を求めるのでしょうか? 世界的な帝国主義時代が過ぎた次に、人間を捜し求めなければなりません。そんな時が来たのです。そんな人間を求めて要求することが、主義と主張なのです。しかしある主義主張を中心にして地を占めようとすれば、その主義は主義として存続できません。皆さんは第一次大戦を峠として、新しい主義と理念を求めていった歴史的な事実を、否定できません。地を求めて戦った時代が過ぎた次には、人間を求めるために戦う時代が来るのです。この時が、理念を持って戦う時代なのです。 民族観念を克服して天を愛する新宗教が出なければ この時代を過ぎて、その次にはどんな時代が来るのか。本然の人間が失ってしまったものを、取り戻さなければならない時代が来ます。万物を主管すべき責任が人間にはあるので、世界を我々のものとして造るために、我々の本心は動いているのです。ある主権を動かすことが出来る権限があるとしたら、この主権を世界的な標準にまで引き上げたいのが人間の本心です。ですから本性はある方向を提示して、我々の心を主管しているのです。 その次には「神の息子・娘として全世界に満ちよ」とされました。神の息子・娘として満ちよとされましたので、今日世界の格国は主義と思想を中心として、民族性を基としなければなりません。民族性を基として、民族観念を引き起こさなければなりません。人間は知らないのですが、天はこんな闘いをされているのです。 こうして地を主管して、兄弟を回復した次には何をするのか。天を愛さなければなりません。これが人間が必ず行くべき運命の道ですから、これから新しい宗教が現れるとしたら、それはこの時代の宗教を克服する愛天的な宗教でなければなりません。 地を求めてさまよう人間のまえに、これを求めるために民族を動員し、国境を打破して領土を拡張させてゆき、人類を捜し立てるべき天的な摂理時代に生きる人類のまえには、民族と民族の障壁を打破する主義と思想を立ててきたのですが、その次には何が来なければならないか。天を愛することができる主義と思想、宗教と教派の垣を基とする一つの主義が、必ず出なければならないのです。こうしてこそ復帰歴史の終結を見ることが出来るのです。 ですから過去のようにある国土に欲望を持って、自分の民族のみを愛する心で侵略的な作戦を立てる主権国家は滅んでしまったのです。しかし他を侵略しても、近づく時代の新しい理念と接近する指導理念を立てて侵略したなら、その指導理念の効果が消滅する時までは、滅びることなく持続するのです。歴史はこのように流れた来ました。 こうして今日まで、数多くの宗族が糾合してきました。ところでどんな民族が天的な理念に近い理念を持って、国家形態をなして動いてきたのか? 天的な理念と近い時は主権を行使できるのですが、そうでなくなるとこの主権が第三者に渡されるのです。また天的な理念により近くなり、より近づいてゆく理念を持つ第三者にその主権が渡されていって発展してきたのが、歴史発展の実情であるのです。 今日は皆さんがご存じのように三・一節(三・一独立運動記念日)です。我々の民族は日帝から三六年間、限りない苦しみを受けてきました。日帝治下で苦痛を受けた我々民族の所望は何であったかといえば、日本が滅ぶことでした。我々の民族はこのような時が必ず来ることを願って、忍耐して生きてきました。外的な環境が拡張されてゆけばゆくほど内的に強い意思が積もるその流れが、今日の三・一節の爆発となったのです。第一大戦前後に、ウイルソン大統領によって主張された民族自決主義の影響によって三一運動が起こったことを、皆さんはよく知っています。 アメリカという国が民主主義陣営の主導権を握って、民主陣営の全体を動かす一つの代表的な国家として今まできたのですが、これも天的な復帰摂理路程において、その指向する方向が、天に近いほどに残ることができるのです。もしもその間にヒビが生じる時にはアメリカも衰退の一途をたどるのです。 我々は日帝三六年間に、数多くの愛国者たちを見ました。またこの国この国土に愛国者たちの血を流してきました。血を流しても彼らの心は、この民族は今はただ圧政を受ける立場にあっても、この環境で滅びるのではなく、きっと独立国家になるという所望を持って闘ったゆえに、今日の大韓民国という主権国家を回復させたのです。 イエス様がメシアになることができた理由 その愛国者たちが圧政下ですべての条件に対抗して闘ったことは、勿論民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また彼らには勝利の一日を望み願う心と、その勝利の一日がきっと来ることを信じる強い心があったゆえに、そんな圧政下においても屈することなく、闘ってきたのです。これを我々は知らねばなりません。 このように、一つの国を求めるときもそうなのです。まして天的な理念を求めるときにいおいては、よりいっそう変わらぬ信念と、変わらぬ同士愛を持って、聖土を所望とし、天を代身しなければなりません。こんな群れがこの世になかったなら、この世は天と因縁を結ぶことが出来ません。歴史的な流れに同伴して、天が摂理されるみ旨を受けてきた数多くの宗教人たちがいますが、その中においても歴史を経て来て、サタンとの血の闘争において悲惨な犠牲の祭物になったキリスト教徒が、正にこのような群れであることを我々は知らねばなりません。 旧約四千年の歴史から、イエス以後二千年のキリスト教の歴史を見ても、他の人々はこの理念に対しては夢にも見ず、また、異邦の人々はまるで考えてもみないところで、天の教えに従って死んだ人間が、数限りなくいるのです。それのみならず、天の理念を捜し求めるときにおいても、数多くの人々が犠牲になったのです。 このように歴史路程において、天の理念を捜し求めるために数多くの人間が犠牲になってきました。それでは天のみ旨を求め、このみ旨を成すために犠牲になっていった群れとこれに反して国家のために闘って犠牲になった群れは、どのような帰結点に達するのか。これがこの時代の我々にとって、気がかりな問題です。これからは世界政府主義の時代が来ると、人々は言っています。一つの政府の形態、一つの理念の世界に向かって、歴史は流れており、この二つは今日近くに接近しているのです。ところでこの二つが、互いに和合する気配が見えないでいるのが実情ですが、我々はこれをどうすべきなのか。 ここにおいて皆さんは、歴史路程において天の為に無残に血を流した群れ、天の理念を握って闘っていったこの群れを、記憶しなければなりません。神様はある一時のために、彼らを率いて来られました。それゆえ地を奪い、主義を立てて人間を包摂する時代は必ず過ぎ去るのです。 宗教はすでにある形態をもって、天が指向する方向へと動いていますが、人間の所望はその場まで行かないで中間で止まってしまっているので、歴史上に数多くの忠臣がいますが、彼らが今日歴史が輝くこの時に、世界が動いているこの時に誇るものが何でしょか? 我々韓国の六忠臣のような方たちが、世界的な次元で誇る何かがあるでしょうか? 民族的な次元においてのみ、誇ることができる方たちです。 このような見地から、二千年前のイエス様と我々を比べて見れば、イエス様はどのようなお方でしょうか? イエス様は国家を統治し、世界を統治し、人類を統治することができる理念と資格を持って、神を父と侍り、神の独り子であると主張されたお方です。これ以上また、することがあるでしょうか? 正にメシアの資格があるというのです。 今日我々は、何かの最後の息子・娘となり、この世のある主人の息子・娘となることを待ち望んでいるのですが、イエス様は創造主をおいて、自身がその独り子であるとされたのですから、果たしてメシアの資格があるお方なのです。 このような姿で現れたイエス様は、どんな困難にも嘆くことがなかったのです。これが彼が人類のまえに残した、最大の貢献だったのです。イエス様はそんな信念を持って、どんな億千万のひどい暴風雨がぶつかってきても、その場において忠臣の気概を立てたがゆえに、今日万民のメシアとして賞賛されているのです。 このような気概を抱き、一つの理念を成就するために生涯を捧げられたイエス、彼はその道を妨げる父母にも「やるなら、やれ」民族にも「やるなら、やれ」宗族にも「やるなら、やれ」教団にも「やるなら、やれ」とされたのです。すべてのものをみな捨て、抱えたものは世界と人類だったのです。彼は世界と人類を抱えて行ったのです。父母、兄弟、教団、民族が行くままに行ったのですが、そのまえに消え去っては駄目だと考えたのが、この世界であり人類だったのです。これがイエス様の中心となる考えでした。 ですからイエス様はこの世界のまえに必要なお方であり、この人類のまえに必要なお方でした。そしてイエス様は天を抱え、天の為に生きてゆかれたお方でした。しかしイエス様は神様が必要とされお方でした。このように天地が必要とするお方ですから、メシアとならざえを得ないのです。今日我々は、これを知らねばなりません。 何を捨て、何を得るのか 今までの歴史をすべて収拾したなら、次に何をもって世界的な因縁を結ぶのか? これが今日、み旨と抱負と希望のある青年男女の解決すべき重大な問題です。また何を持ち、何を捨てるかということが、終わりの日の審判を見やる人類が最後の行動のために、選択しなければならない問題なのです。 イエス様は当時の時代状況から見るとき、民族の反逆者でした。教団の反逆者であり、宗族の反逆者であり、さらには伝統の破壊者でした。しかし真の意味において、彼は破壊者ではなく建設者であり、反逆者ではなく愛国者であり、愛天者であったのです。このよな事実を人間は、今日に至って知ったのです。 我々が真の愛国者というなら、彼はどんな人間でしょうか。真の愛国者、真の民族主義というなら、イエス様のように世界を一つの民族として考えなければなりません。 ゴルゴダの道、十字架の道を堂々と行かれたその姿が、我々が尊敬すべきお方の姿であることを、いま一度考えて見なければなりません。イエス様が悔しくもこのようなイバラの路程を行かれたのですが、その悔しさを知ってくれる群れがどこにいるでしょう。逝かれた方の殉教の基台が地上に残り、彼の悲しみが天に染みている限り、成すべき天のみ旨が残っている限り、そのすべての悲しみを解くことのできる歴史的な終末の時は、必ず来るのです。この時を指して我々は、審判の日、終末というのです。 今、終末の時代であると胸の奥深く感じるこの時に、皆さんはどこに行き、何を得なければならないのか? これは皆さんが自問自答して、解決しなければならない問題です。イエス様の断固たる行動を模範としてゆく群れが、果たしてこの民族に中に、この世界の中にあるでしょうか? 我々は視線を変えて他の角度からこのような群れを捜して見る、知恵ある人間にならねばなりません。 皆さん! イエス様が死なれたその時代と、我々が生きているこの時代は何が違いますか? 何にも異なるものはないのです。ありません。何にも変わらない時代に生きている今日の我々が、あの時代に排斥されたイエスに侍ることができるかということは、考えてみるべき問題です。 今日我々が世界を捜し求めるこの時代に平等を叫ぶ共産主義はどうであるか。「労働者農民を生かせ、同じように食べ、同じように生かせ」と叫んでいます。 歴史の流れを、もう一度観察して見ます。これから世界を動かす民族はどんな民族なのか。世界を動かすことのできる主義は、どんな主義なのか。世界を動かしてゆく宗教は、どんな宗教なのか。これはまず御言が教えるように、善の理念と化してすべてのことをこれに依り、行動する民族主義宗教なのです。 これが何の事かといえば、善というものは自分を中心にするものではないということです。自分の家庭を主として生きて、滅びなかった家庭がありますか? 自分の一国家を中心として世界を求めた民族の中で、残った民族がどこにありますか? こんな主義を中心にしてこの世界を支配し、永遠不変の理念を得たと大言壮語するようですが、見ていてごらんなさい。天を奪えば万事は終わりです。 本来の人間は神に侍り、天倫を中心に生きるようになっているのです。このような人間の生活において、天倫の条件を代身するものが何かといえば、人間が持っている良心の基準です。この良心の基準のまえに理念があり、理念の基準のまえに天情があるのです。このような内的環境において、天倫を捜し求めてゆくことが復帰なのです。 人類はみな同じ神の息子・娘 我々の世界に訪れ、我々の民族に訪れ、我々宗族に訪れ、我々の国に訪れ、我々の主人に侍ることができるその日が、いわゆる天が所望とされる終わりの日です。その日が天のみ旨を持って地に来られたイエス・キリストが定めた終わりの日であり、我々が捜し求める所望の日です。天が所望とし、イエスが所望とし、我々がまた所望とする日であるのです。その日には、すべての事が解決されるのです。 皆さん、再臨主は行かれたように来るのが復帰の原則です。あるものを無くしたら、無くした所に行って捜さなければなりません。故障を起こしたら、その反対の方向で、故障を起こした順序を経てこそ、故障を起こさない場まで戻るのです。これが因果法則に外れない鉄則ですから、再臨主も行ったように来るということを、知らねばなりません。失ったように捜し求めることを、知らねばなりません。 今日この時代は、エデンの園でアダムとエバに許されたことを取り戻す時代なのです。今日この地上に生きている人間は、すべて堕落したアダムとエバの後孫たちです。皆さんも堕落した父母の子孫なのです。真の父母の子孫になっていないのです。それで再び、真の父母の子孫にならねばなりません。これが何の話かと言えば、皆さんは神と真の父母に直接対することができる神の愛の圏内で、真の父母様が両手を挙げてなされる祝福を受けて、夫婦となり、繁殖する真の父母の血族にならねばならないのです。ところが今日まで我々人間は、真の父母の子女としてこの地を真に主管してみないので、真の父母の息子・娘になることができないのです。道理がそうではありませんか? それでは今日は、四千年の間苦労されて人間のまえにどんな主義を立て、どんな主人公を立てられたのか。「この世界は私のものであり、全人類は私の宗族であり、神は私の父である」という主義を叫ぶ、イエスを立てたのです。こうして初めて人間と因縁を結ぶようになったのです。ところがこのようなみ旨を、地上においてすべて果たすことなく十字架につかれたので、逝かれたその主様は再び来るべき運命にあられるのです。これが民族的な審判の終わりの日が、世界的な審判の終わりの日へと、延長される結果を生んだのです。 今日この世の中に、イエス様が行かれた通りに再び来るなら、すべてのことを捨てて逝かれ、果たせなかったイエスの目的が成されなければならず、イエスを主とする世界理念を得ると同時に、イエスを主とする宗族の動きが現れなければなりません。 ですから統一の形態をもってゆく運動が、起こらなければならないのです。単にキリスト教の統一だけではありません。すべての宗教が一つの形態を成さねばなりません。 キリスト教徒たちは「あ・・・! あなたは儒教を信じて、仏教を信じているので地獄に行く」このように言っています。ところが、そうはなっていないのです。行ってみるとそうではないのです。そのようになっているなら、私があの世に行って談判してみます。絶対にそうではありません。イエス様お一人をおいて四方から引き上げてゆくので、一つ所に早く集めなければなないので、横的には行けないので縦的に「お前が一番だ」といって追い込むのです。このように見るとき、今日人間は全部み旨の中にいる群れなのです。 イエス様は四千年の間、民族と血肉を捨てて積んだユダヤ教団、四千年を経て選び立てられたイスラエル民族を放棄されたのです。とはいえ彼らは神と因縁がない民族ではありません。絶対的な因縁がある民族でした。どんな立場であっても「神は我々の神だ」ということのできる民族でした。このようなイスラエル民族をイエスが放棄したので、天も放棄し、地も放棄し、人類も放棄したのです。それゆえユダヤの民は世界で最も悲惨な群れになったのです。世界を流浪漂泊して、この民族、あの民族にと追われたのです。 天を所望としている今日の我々も、悲惨な生活を沢山しています。これを今までは人々が知らないのですが、我々の一日が来れば世界歴史路程の動きにおいて、我々が無視することができない位置に立つのです。 イエスを背反しなかったなら、栄光なる世界理念を獲得することができた民族が、苦労と逆境の中で世界の理念を捜し求めてきたので、祝福を受ける民族も受けない民族も同じになってしまったのです。 イエス様が、天が四千年間念をいれた民族を捨てて掴んだものが、世界なのです。イエス様はユダヤ教を中心とする、宗派的な観念に囚われることがなかったのです。ユダヤ民族が信じなくてもいいという覚悟で、新しい理念をもっていったイエス様であったことを振り返って見るとき、今日のキリスト教徒たちには、覚醒すべき一面があるのです。 心情で世界を統一する天民となれ このような内容を全体的に整理してみるとき、民主主義の形態をもって、主義と思想をもって、理念的な宗教の統一形態を得てゆく鉄則があることが分かるのです。この時に、民主陣営に残る群れとなるには、どうしなければならないでしょうか? 民主陣営に残る群れとなるには、イエスと同じでなければなりません。イエスのように全世界の為に、全人類の為に、天の為にすべてを捨てることを知れば、その国は残るのです。自分の下着まで奪われても「おお ! 天よ」と叫んだイエス、天情に染み、天のみを抱き、自身のすべてを捧げたイエスの後に従えば、残る群れとなるのです。ある民族がこのような理念をもってゆけば、その民族のまえにすべての民族が、制覇されざるを得ないのです。 このような観点から見るとき、韓半島に生まれた哀れな群れである我々は、今何を覚醒し、何を覚悟するのか?「南北に分けられたこの国に生きる私たち、持っているすべてのものをみな捨てました。父母、兄弟も捨て、家族も捨て、宗族も捨て、物もみな捨てましたので、このような事を気にもかけません。願わくば天よ! 世界の中で私たちがいるこの場が、イエス様が叫んだゲッセマネの園としてください。この地が世界のゲッセマネの園になるようにしてください。さらには世界のゴルゴダの頂上にしてください」と祈願する心が燃えなければなりません。このような青年男女がこの国に多く出てきたなら、この国は絶対に滅びないのです。 今日「歴史を捨てても、この時代を捨てても、ある主義、ある宗族を捨てても、天の心情のみは、天の愛するものだけは捨てることができません」とする群れがいたなら、その群れは世界を支配するのです。このような群れが、真の天の群れなのです。 イエス様が再び来られる時に、行かれたように来られるとしたら、その行った足跡、ゲッセマネの園におけるその悔しい心情はどこへゆくの。ゴルゴダで十字架を背負い、血の汗を流して歩んだその切ない心情はどこへ行くの。イエスそれ自体が、問題ではありません。今我々が捜し求めなければならないものは、イエスの心情です。 心情を通して許し、心情を通して一つになり、心情を通して和合し、真の人類愛に染まる群れが希望の園で生きるのであり、心情を通して世界を見やる主人公になってこそ、この世界万物までも和平するのです。その時こそ、初めて神を私の父と呼べるのであり、六千年の間結ばれてきた億千万の怨恨の峠があったとしても、これを越えて天を抱きしめることができるのです。このような群れが、ゲッセマネの園において叫んだイエスの実体の結実であり、ゴルゴダで十字架につかれたイエスの実体の結実なのです。 それゆえこんな存在が現れてこそ、全人類が善の園で一つの宗族として神に侍り、一つに和して生きることができるのです。この世界は受けんとする人々が生きる所ではなく、与えようとする人々が、与える為に気づかって生きる所です。今まで歴史路程において、受ける為にさまよってきたのは正にサタンです。自分を主にした善と統一を主張するのではなく、他の為に善と統一を主張する群れが生きる所が、統一教会で主張する地上天国なのです。 神様はイスラエル民族に選民思想を与えられたのですが、その選民思想をもって誇って生きる人間が、正に選民思想を持つ人間です。ですから神様が今まで捜し求めた人間は、選民を失った天の悲しみを知り、天国を建設するための選民思想に徹底した人間です。選民思想に徹底したその心情がある所が、千万人の帰結点です。 ですからそこに入る者は、滅びることがないのです。またこの点をおいて出てゆくときは、万事解決されない問題がありません。その心情に染みて、他の為に与えるために気づかう群れが生きる世界が、いわゆる初めに主張したみ旨の世界なのです。また、今日までの歴史過程を経て、摂理された神のみ旨が成る世界であり、今まで苦労して苦しみを受けつつ経てきた歴史路程の所望の園であることを、皆さんは知らねばなりません。 すべての事を犠牲にしてみ旨の為に闘う人間が真の愛天者 この地に真の国があるとしたら、その国はどんな国でしょうか。その国を、いわゆる地上天国と呼ぶのです。その国が成ってこそ、神様が本然のアダムとエバに「あなた方が完成した時に、万物を主管せよ」と祝福されたそのみ旨を成し、人間は初めてこの地の真の主人として現れることができるのです。また、その時にこそ初めて人類は、互いに真の兄弟になることができるのです。その時に初めて我々は、神の真の息子・娘になるのです。天の父に対しては真の孝子・孝女、主人に対しては忠臣であり、この宇宙万物に対しては真の主人になるのです。そのようになれば神様は我々に全権を任されるとき、外的な全権のみならず、内的な全体の心情の中心までも移し与えてくださるのです。神がすべてのことを任せて、安心することができる息子・娘になるのです。 こんな息子・娘は歴史路程におけるどんな忠臣、烈女、孝子、孝女よりも大きな存在です。こんな人々を世界的に誇ることができる日が、これから来なければなりません。 今日共産主義者たちは、自分たちが標榜する理念を中心として、人格者と功労者に従うようにモデルを立てているのですが、民主主義はそうではありません。 我々はこれを越え、歴史路程において天に対し、全体の理念を立てる功労者たちを崇拝し、彼らの人格を尊敬しなければなりません。さらには彼らの足跡を死守し、そんな主義を持って地上において、天が要求する理念の世界に向かって動いてゆく人間、またそんな群れにならねばなりません。 このような理念圏内でこの世界を一つの国として、この世界人類を一つの民族として考え、希望の主人公に侍って生きる一日、天地を代身して全被造万物を和合させ、敬礼することができるその日を望み見ていかなければなりません。その時が来るまで、すべての事を与え、犠牲を覚悟して闘ってゆく人間が、正に天が願う愛国者であり、天が願う愛天者であると言うことができるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.11
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天に向かう決心を失わないように一九五八年二月二三日 前本部教会 「天に向かう決心を失わないように」こんな題目でお話します。 決心の価値基準 今日集まった皆さんの中には、心のうちにある決心を持っている方たちもいるのです。また人の前に自信ありげに「私の決心は正しい」と主張して出る人々もいるかも知れません。 しかし今皆さんは、自身の決心が誰のための決心であるかを、考えでみなければなりません。即ち、皆さんが持っている決心が、自分のみのための決心であるか、さらには神のためにまでの決心であるかを、考えてみなければなりません。 何よりも自分が抱いている決心が天のためか、そうではないか、ということを考えるべき時が、皆さんのまえに来ているという事実を忘れてはなりません。 今日人々が持っている決心はさまざまです。甲が持っている決心と、乙が持っている決心は異なり、男性が持っている決心と、女性が持っている決心は違います。またこの民族とあの民族が違うように、彼らは各自異なる決心を持っているのです。 それでは各自が主張し、各自が持っている決心が、どんな目的を達成するためであるのか。自分について冷徹に反問してみるとき、自暴自棄にならざるを得ない立場であることを認識するのです。 終わりの日に処している我々、また地の上に生きている人類は、自分が持っている決心が、民族を動かすことができる決心なのか、世界を動かすことができる決心なのか、さらには天上にある千々万聖徒たちを動かすことができる決心なのか、またさらには神までも動かすことができる決心なのかと反問してみるとき、そうではないと告白せざるを得ないのです。 このような私、このような我々に天の希望があるとすれば、我々が我々の心の底に何を納め、何を望んでゆくかというこの問題を、何よりも重要に思ってください。 今までの歴史過程に数多くの人々が、ある主義をもってこれを主張してきたのですが、彼らが主張した主義が、今日の我々の心を動かすことができるある要素を持っていないとすれば、彼らの主張、即ち歴史過程に往来した数多くの先哲たちが主張してきた主義は、我々とは何らの関係がなくなるのです。 それでは今までの人類歴史は、何を立てるために発展してきたのか。これは人類の幸福のために、あるいは人類の永遠なる理念を立てるために発展してきたことを、天があるという事実を知るならば、否定することができません。天がある限り、人間に幸福の園がどんなものかを教え、人間をして永遠なる喜びの園を、建設させなければならないのです。この責任を完遂するために、歴史過程を摂理された神であるのですから、歴史の終末段階に処している我々とは、切っても切れない数知れぬ関係を持っているのです。 従って天が動ずれば自分も動じ、天が静ずれば自分も静ずることができる基準を、心の本性のなかに持っていない人間は、歴史を蹂躪する者であり、神の所望に背反する者になるのです。 神の決心 全宇宙の運行の法度は、天倫の原則に従っており、この運行の中に全体の目的を成すための摂理があるとすれば、神もこの摂理の運行法度を通さなければならず、また人類もこの運行法度を経てゆかねばならないのです。であるなら今、私一自身を民族のまえに立てて考えてみなければなりません。 この民族に対して運行されている神のみ旨が何であり、この民族を覚醒させるための神の決心が何であるを、皆さんは考えてみたことがありますか? ないというなら、皆さんは民族を天倫のまえに導くのを妨げる立場に立つということを、知らねばなりません。 そして今日我々の心に悲痛なることがあるなら、この民族がいずれ行かねばならなこを行くために、一つの理念を中心にして団結した心で、闘争していないということです。また天倫に対して全世界人類が団結した立場に立っていないということが、天の哀しみであり、人類の哀しみであることを、皆さんは悟らなければなりません。 そして今日我々は、自身がどんな立場に立っているのかということを、冷徹に分析して批判してみなければなりません。天は皆さんが民族のまえに自信をもって出て、自信をもって天倫に対することができる心の基となっているかということを、我々に問うておられるのです。 神が人間に対して最大の所望があるとすれば、これが何であるか。まずこの地上にみ旨を成就させようという神の決心を、人間が果たしてくれることです。神は天地万物を創造する前に決心されたことがあり、この決心によって万物を創造されたのですが、この決心が未だにこの被造世界に実現されていないので、神は悲しみの歴史を経て来たことを我々は知っています。 今このような事実を知る我々が、宇宙を隅々まで捜して見なければならないものがあります。これが正に神の決心です。我々はこれを捜し求めて、成してあげねばなりません。こうして神が抱かれる哀れさと悲しみを、解いて差し上げねばなりません。 ですから今日我々はこのようなみ旨を中心に、一大革命の過程に立つという決心と、主義主張と覚悟を持たねばなりません。それでこそ神の悲しみを解怨することができるのです。 神様は我々が知ることのない中で、ご自身が決心されたみ旨を地上の人間たちに知らしめるために、苦労の歴史過程を歩んで来られたのですが、これが今までの摂理歴史であることを、皆さんは知らねばなりません。 神のこの決心をもって人間を代身する救世主が地上に現れ、すべての悪の勢力と対抗して、彼らを撃滅させなければなりません。このような使命を遂行する代表的な人間がこの地上に現れないなら、神のみ旨は成就されないのです。そして神の決心と、人間の所望の基準が、ある一日に連結されなければ駄目なのです。 神の指向されるこのみ旨を、人間を代身してこの地上に成就するために、一人の中心存在として送られた方が、イエス・キリストです。神様は四千年の間苦労され、すべての難しい環境で闘いの道を歩まれたのですが、このような道を行く方が、正に我々が救世主として信じているイエス様であるのです。人間始祖アダムとエバが堕落することによって、成就されなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神様がこの俗なる人間の世に、第二アダム格の人物として立てられ、神の決心を満宇宙のまえに現すために、イエス様をこの地上に送られたのです。 それゆえイエス様は「わたしは神と一体」であると主張されたのです。神とイエス様は二つではなく、一つだという言葉です。ここに神が喜ばれる条件ができたということを、皆さんは知らねばなりません。またイエス様は「神はわたしの父である。これに反対して阻もうとしても、わたしが感じ、決心しているこの内容は、何ら奪うことができない」と語られるほど、自負心を持っていたのです。即ち、イエスは命を失う覚悟をして、これを果敢に公表されたのです。 神の決心を今日の数多くの信者たちに現すことが、イエス様の二千年の間の苦労の目的であったのです。神はイエス様を送られるために、六千年間の長い歳月を休むことなく、苦労されて来たことを、今日地上の我々は知らねばなりません。 イエス様の決心と聖霊の役割 今皆さんが天に対して出るならば、天のみ旨を代身すると決心していったキリストの性相を、皆さん自身の性相に代えて感じるときがあったかを、天は反問されるのです。 イエス様はこの地上に来られ、三〇余年の生涯の間、言葉にもならない苦難の道を歩まれ、最後には十字架の道をゆく悲運の人生を送られたのです。ではあっても自身が持つ中心だけは、何ものも決して壊すことができない確固たるものとして、保たれたのです。 それゆえイエス様は天に対する決心を、今日我々の心の底にまで植えつけられているのです。死がやってきても、弟子たちが背反しても、選ばれた民族が背反し、教会が背反しても、彼は創世全部が父の持つ決心の内容であると知っていたので、変わることのない立場を守ったのです。 このような決心の主人公が、地上の人間のまえに何を立てるために来たのか。それは自身が抱いている神の創世前の決心を、愛する弟子たちに受け継がせるためだったのです。ところが歴史過程に現れた数多くの聖徒たちの中で、イエスが持っていた決心を抱いて、神のみ旨を成すために闘った人間が何人いたでしょうか。これを考えてみるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名によって信じる、聖徒たちにあるのです。天を代身する確固たる決心がない聖徒たちを見て、神は悲しまれたことを我々は悟らなければなりません。 イエス様はこの地上で、自身の決心を分かってくれる一人の相対者を捜しだせなかったので、み旨を完全に成すことが出来ないまま逝かれたのです。この世においてイエス様を代身する、神を代身する決心を持つ人間がいたならば、神は彼の心情を通して直接的な権限を行使されて、統一の炎を燃やすことができたのですが、このような決心の所有者がいないゆえに、神のみ旨は成されていないのです。 だからイエスには復活した後に、この地上に来た目的を代身する決心の主人公を再び立てるべき、責任が残っていたのです。それで自身の使命を受け継ぐ一人のお方を送ったのです。このお方が誰かといえば、人間のまえに現れた聖霊であるということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは天の決心とイエスの決心は、誰において実を結ぶのでしょうか? 神は聖霊を通してご自身の決心を再度、人間のまえに現したのです。これをみ旨の主人公のまえに伝え、この主人公は新婦のまえに伝えてこれを足場にして、み旨の主人公が地上に臨在して一つの家庭に移し、家庭を中心とする親族、親族を中心に民族、民族を中心に国家、国家を中心に世界にまで移してゆくということが神のみ旨であることを、今日人類は知らないのです。信じている信徒たちさえ知らないのです。 皆さんはイエスを信じ、聖霊によって神のまえに行くことができると、自信を持っていけますか? どんな苦難と犠牲があっても、またどんな誘惑が付いてきてもこれをはね退け、押し退ける神の心情を代身する決心と、イエスと聖霊を代身する決心を持っていますか? このような質問に、私はイエスを代身する心情と決心を所有していますと、自信をもって答えることができる人間にならなかったなら、イエスを背信し、イエスを売ったイスラエル民族よりも、さらに厳しい審判を逃れることはできません。 なぜなら、イエス様のみ旨を受け入れなかった民族ですから、聖霊を苦労させ、聖霊のみ旨を受け入れない第二のイスラエル型の今日のキリスト教徒は、数多くの使徒たちを苦労させ、単に使徒たちのみならず、我々の数多くの先祖たちを苦労させたからです。このような苦労をさせている今日の我々ですから、我々がイエス様の持つ心情と決心を所有しないならば、神のまえに体面が立たず、イエスと聖霊のまえにも体面を立てることができなのです。のみならず、この時まで数多くの犠牲の祭壇を積んできた聖徒たちのまえにも体面が立たないのです。これから責任を果たさない人々が、自らを嘆く時が来ることを知らねばなりません。 天の決心を所有しなければならない聖徒 天は今日終わりの日にあって、我々に要求しているのです。イエス様と聖霊も我々に向かって訴えているのです。父の実体になり、父の決心を所有する人間になり、これを蹂躪するサタンを撲滅させる勝利の主人公になることを、神はこの時間も苦待されているという事実を、皆さんの骨と肉に染みて体恤しなければなりません。こうして「天が抱く決心を私に相続させてくださり、血がとびちる祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」とする資格を持たねばなりません。ではなくて天国に行こうというなら、それは間違いであることを、我々は再認識せざるを得ない時が来たのです。 現下のキリスト教を覚醒させなければならない責任が、我々にはあります。神の決心とイエス様と聖霊の決心と自分が連なって、一つの実体になって現れたなら、歴史を支配する権限を行使することができるのです。 先に読んだ聖書の御言にはソドム、ゴモラに審判を下された神の切ない心情が現れていました。神様はその都に向かって審判をしようとされる時、愛するアブラハムの甥のロトがいました。神はロトが審判を逃れるようにしました。ロトが立派でソドム、ゴモラの審判が避けられたのではありません。神様はアブラハムを愛されていたので、何の苦労した功績もない甥にまで、審判を逃れるようにされたのです。ではあってもロトの家庭全体が神の心情を分かっていたかというと、そうではなかったのです。 ロトと彼の二人の娘は、神様が避けようとされた所に逃げたのですが、ロトの妻は神のみ旨が何であるかを知らなかったのです。彼女が天のみ旨に対する決心や、み旨に対する配慮、または天に対する恐れよりも、自分たちの暮らした家とその環境を慕って振り返ったことが、ソドム・ゴモラよりもまず神の戒めを受ける他ない条件になったのです。 人間には必ず歩むべき道があるのですが、この道がどんな道かといえば、天倫のみ旨に従っていかなる困難も覚悟して歩んで行く道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も、自分のすべてのものを捨てて行く決心がつかなかったので、死んでしまったのです。神の命令を受け入れていった自分の夫を、神の代身者として信じて夫がやれという通りにしたなら、彼女は決して死ぬことはなかったのです。 神が摂理歴史をなさる過程においても、神はご自身の心情を代身する人間を立て、ご自身を信じないとしても、その人間の言葉を聞いても決心ができるようにされるのです。ところがそれさえできない人間は、審判を避けることはできません。 我々自身を見てみれば、堕落した宗族ですから経てきた悲しみがあるのです。大きな神のみ旨に対して最善を尽くしたく、自分の心身を祭物にして、新たな決心をして行動に移したい心は暗黙のうちに感じているのですが、この決心を断行できないわけは、我々が堕落の宗族であるからです。 アダムとエバは自分たちを創造されて「取って食べてはならない」と言われた神の御言を心の奥深く納め、その御言と自分たちは離すに離せない一つの結合体と考えて、変わらぬ決心を持ってすべての万物を主管する責任が、自分たちにあることを実感したら堕落することはなかったのです。 アダムとエバが堕落するようになったのは、エバがアダムと一つにならなかったからであり、またアダムが神と一つにならなかったからです。こうして各自がバラバラに分立してしまい、自由気儘、自由自在の環境において自分勝手に振るまって、創造理想の園を台無しにしてしまったのです。終わりの日にもやはり、神を中心にした決心を立てないで、自由主義を叫ぶ自由陣営も壊されてしまうのです。天地の道理がこのようになっているのです。 神を代身すべきアダムが、どこの誰がみ旨を破るように誘惑したとしても、自身は絶対にそのみ旨を破らないと決心してエバを主管し、天使を主管したなら、堕落することはなかったのです。まず堕落したエバがどんなに自分を籠絡しても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなかったら、アダムは死ななかったのです。もしもアダムが堕落しなかったら、エバはいくらでも再び創造することができるのです。 天に背反したために天倫と遠くなり、許された御言とみ旨を自身の心に一つの中心として立てることができなくなって、アダムはアダムなりに、エバはエバなりに、天使長は天使長なりに分かれてしまったのです。こんな宗族になった我々は、今日信じていたことが明日は信じられず、この時代に信じていたことが次の世紀には信じられなくなり、次の世紀に信じたことが、その次の終わりの日には信じることができない環境になってしまうのです。 神の解怨のための決心の主人公 それでは神の案じることが何でしょうか? 天の悲しみが何でしょうか?「わたしが六千年の間、ひどい逆境と苦難の過程を経てきて苦労して、このようにおまえ一人を捜し求め、今やおまえに出会ったので安息できることよ」とされて、エデンの園で天使長に語ることができなかったその内容を、安息できる場において語り、ご自身の心境を吐露することができる一人の人間がいないことが、神の悲しみであることを知らねばなりません。 我々はアボジを求めており、信仰生活をしてはいても、神が安息できる環境を持っていないのです。こんな立場にある我々は、行けば行くほど心の焦りを避けることができず、どんなに優れていると威張っていても、終わりの日が近づけば近づくほど、心の不安感を免れることができないのです。こうして個人的であれ、社会的であれ、国家的に、そして世界的に難しい立場に処しているのです。 それでは終末時代に、いきなりやって来るこの恐怖と不安を押し退ける人間が、どこにいるでしょうか。人間を代身して大胆に出るのではなく、天倫を代身して大胆に出ることができる決心の主人公はどこにいるでしょうか。天はこんな人間を捜し求めているということを、知らねばなりません。 神がアダム家庭を失うことによって、アダムと通じる創造本然の家庭を失ってしまい、同時にアダムと通じる親族と、アダムの血族を代身する民族と、アダムを中心とする国民と、アダムを中心とする天国の民をみな失ったのです。しかしながら神はこの失われたすべてのものを、再び捜し求めておられるのです。 神はこの民族全体を求め、世界まで捜すために、まず一個人から初めて家庭・社会を捜し立てようとされるのです。これを基として民族型から世界型まで、さらにはこの世界全体を求めるために、神は摂理されておられるのです。 神は一面では闘い、またあるところでは犠牲となって、歴史過程を通してこれを捜し求めて来られたのです。このような裏面で個人的な形態を得て、アダムを代身する家庭・親族・民族・国家・世界をこの地上に建設されておられるのです。 ですからアダム家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身のみの悲しみではなく、アダムの血統を通して千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活圏内において痛切に感じるのです。こんな状態で安逸を望み、安楽を享受しようとする人々がいても、こんな安逸で安楽な生活はいつまでも続かないことを、知らねばなりません。 我々は恐怖の関門を前にして、これを越えるべき立場にあることを知らなければなりません。このような時を、いわゆる「審判の日」というのです。 神はこんな恐怖を無くするために、選んだ一人の人間を立てた後、彼を中心とする民族を立て、この民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで切なく摂理されておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 これから天の国を建設することができる民族は、大きな民族ではありません。今日世界を支配している民族でもありません。天国主権を回復して、第二天国を建設しようという民族は、大きな民族ではありません。神様は何ということのない所に、隠密に天国を建設する作業をなさるのです。 そんなわけで、神のみ旨に背反する人々は良い暮らしをしているのに、神のみ旨を受け入れる人々はむしろ食べず生きられない、こんな反対の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで継続しているのです。なぜならば神に対する心情を失った人間ですから、再び神が信じられる立場を復帰するには、このような過程を経なければならないからです。であれば神が六千年の間苦労されたこの苦難が、一時に自分にぶつかって来ても、これを乗り越えられる自分にならねばなりません。自分の命を失う恨があってもその前に屈しない決心の主人公になって、天が代表して出す一存在として、立たねばなりません。 天に向かう決心を抱いて生きた先祖たち 神様はそのような世界的な代表としてイエスを送られたのであり、そのような人間を立てるために数多くの我々の先祖たちが苦労の道を行ったのです。アダムが失った家庭を求めるためにアダムの代身、不信の心を持つその宗族と民族を蹴散らし、天に対して信仰の決心を抱く一人の人間が召命されたのですが、この人間がノアなのです。 ノアは一二〇年間、天が引っ張っても引っ張っても変わらない決心を抱いていたので、これがアダムよりも素晴らしかったのです。アダムは未成年の時に堕落したことを、我々は知っています。アダムが神に背反したゆえに、神が再び信じられるためにアダム以上の苦労をするなら、何百倍の苦労をするとしても、これを貫いて行かねばなりません。 ノアは自分の一身、自分の家庭、自分の親族、自分の民族、さらには自身と因縁を持つどんな世界万象が反対したとしても意に介せず、一瞬の決心を最後まで守ってアボジを抱えて一二〇年間闘ったことが、神を代身してこの時の人類のまえに立つ条件になったことを知らねばなりません。 洪水審判を逃れて神の恩賜の圏内にいたノアにあって、何よりも重要なことは、神の心を持つこのノアの心を、受け継ぐ人間がいなければならないということでした。しかしノア自身も、このような事実を知らなかったのです。 ノアが一二〇年の間苦労してこの切なく悔しい路程を経て、天倫を案じたその心を代身して、ノアの手を握って「お父さん、何なりと私に命じてください」とすることのできる一人の息子がいなかったのです。それゆえ一二〇年の間苦労して造った祭壇は、崩れてしまったのです。 神に対して、真心を尽くす決心を抱くノアであることを、ノアの八人の食口が知っていたなら、死んでも生きてもノアのまえに絶対服従して、父が死ぬなら自分も死に、父が良いなら自分も良いという立場に立たねばなりませんでした。そうであったら他の物の数でもない内的な条件がしみ付いていたとしても、神を中心にして心情を結束させれば何の問題もないのです。ハムは父のノアの言葉を聞かなければなりませんでした。兄弟たちが何かの話をしても、父のみ旨に外れていれば聞いてはならなかったのです。彼が聞かなければならない言葉は聞かず、聞いてはならない言葉を聞いたので、ノアの一二〇年の苦労は無になってしまったのです。 アブラハムも同じでした。アブラハムが故郷と自分の持ち物をすべて捨て、カルデアのウルの荒漠たる荒野に向かって去って行ったのも、やはりたやすいことではありませんでした。神のみ旨を知った後、アブラハムは人知れぬ決心を抱いて住みなれた故郷山川と、自分の親族もみな捨てて、カナンの地を求めて行ったのです。 その後、アブラハムが故郷を捨てて神のみ旨一つを案じる、その心を最後まで捨てることなく、全勢力を注いで祭壇を守ったのも、ここに失敗があってはならなかったのです。祭物を捧げる自分が凄まじい立場であることを知り、自分の信仰のすべて、ある勢力のすべてを注いで、神と一致するという決心を持っていったのです。そして自身は小さな祭物であっても、自身の理念を立てて、全体の天倫のみ旨を代身する立場で神に対し、至誠みつる心で祭物を捧げたなら、ここで失敗することはなかったのです。 祭物に失敗したアブラハムは、再び神のみ旨を受け継ぐために、祭物の代身にイサク献祭が必要であったのです。言い換えれば、アブラハムの心と一つになっている息子の姿を求め、ノアの心と一つになっている姿を求めなければならないのです。それでアブラハムは自分の心と、息子の心が一つに結実することができる立場を求めていったのです。 背反されても変わらない決心の価値 こうしてイサクをモリヤの山頂の祭壇にのせ、刃で刺そうとした場面で、死の祭物を代身するという天の認定を受けたのです。イサクも父のまえに服従したのであり、アブラハムも父のまえに服従して、彼らは天倫の指向する方向へ向かうことができたのです。 その後イサクを経てヤコブのときに至って、ヤコブを中心にして初めてアダム家庭を代身し、ノア家庭を代身することができる基準を捜し立てたのでした。こうして初めて三代の親族形態を持つ七〇人が、カナンの地を離れてエジプトへと入って行ったのです。 言い換えれば、息子から孫まで、地上に三形態の親族的な形態を持つ土台によって、彼らはサタン世界のエジプトに入って行ったのです。ところがこのように、個人から家庭、そして親族的な環境を立てた後にも、彼らは平安な道を歩んで行ったのではありません。親族的な七〇門徒を代身する彼らは、また再び民族を造成するための民族的な闘いを展開して、神を中心とする民族を形成しなければならない試練の舞台に上がったのです。これがパロ宮中四百年の苦役期間であることを、皆さんは知っています。 この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔自分たちの先祖が神を恨んで神のみ旨に背反したことを後悔して、再び神を慕う心に帰ってゆかねばなりませんでした。こんな心が強ければ強いほど、イスラエル民族は激しいエジプト苦役に勝って団結して、六〇万をまるごと率いてカナンの福地へと入って行く道が、たやすく開くのです。 ですから、エジプトで苦難を受けるイスラエル民族を導くべきモ-セも、パロ宮中で四〇年の間人知れず心中苦悶して、民族を愛する民族精神に燃えていったのです。ところがエジプト人を打ち殺したことが、結局荒野でもの寂しい牧者の生活をする動機になったのです。このような立場に処したモ-セは、エジプト宮中の豪華であったすべての栄光を捨て、逆にミデアンの荒野の苦役生活が近づいたとしても、変わらぬ心を抱いて自分を愛する心よりも、神のみ旨を案じる決心を持ったのです。 荒野のあらゆる風雨にさらされる悲しみを味わってもこれを押し退け、民族から追われても神を抱えたモ-セの変わらぬ決心があったがゆえに、民族が難しい事情におかれ、モ-セがこのような困難の環境におかれても、民族が団結するようになったのであり、天はモ-セを立てて摂理することができたのです。 ある民族を再び選んで国家として立てるためには、世界的な試練のまえにこの民族を追い込んでおいて、攻撃戦を展開させることが神の摂理の方法なのです。ですから神を中心とする一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族のまえに反対されるのです。復帰過程のゆえにそうなるのです。 アダム家庭において、アダムに従うべきエバがアダムを打ち、ノアに従うべきノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族六〇万大衆がモ-セに従うべきなのにもかかわらず、モ-セをミデヤンの荒野で追ったのです。このような歴史過程を経ていったので、イエス様が主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスのまえに新婦格であるのに、むしろイエスに反発したのです。 天倫の法度を知るイエス様はイスラエル民族から追われ、ユダヤ教団からも追われました。自身の親族に追われるだけでなく、天が選んだ洗礼ヨハネの一団からも追われ、従う使徒たちからも追われ、天と地を与えても替えられない三弟子からも追われました。それでも彼らを抱え、天のまえに連れてゆくイエスの事情があったということを、誰が知っていたでしようか。アダムがイエスのような事情にあって、エバの持つ凶悪な欺瞞と誘惑があってもこれを手折るべき立場にあったのと同じように、イエス様の立場も民族を捜し求めなければならないのです。モ-セがイスラエル民族のまえに追われて荒野の生活をしたように、イエスが民族のまえに追われるなら、世界のまえにも追われなければならない立場におかれることを、知らねばなりません。 もしもこのように「民族が背反し、教団が背反しても、自分のアボジに対する一片丹心を誰が奪ってゆけようか。自分が立てる決心のまえには、天が立てた洗礼ヨハネが背反したとしても問題ではなく、自分に従っている弟子が背反したとしても問題ではない。さらには自分の肉体が問題ではなく、この決心があれば悲しい事があっても悲しまず、哀れな場であっても哀れな表情ができない復帰の運命に責任を負うイエスの心情を、今日我々は知らねばなりません。 天に対する一つの決心を持って、祭物であることを満天宙のまえに押し立て、人間が反発しても崩れることなく、霊界にある千々万聖徒と、今日空中権勢を握っているサタンが総動員しても、奪われることのないそんな決心があるので、ここから歴史的な転換点が起ってきたのです。 決心の相続 こうして霊・肉共に実体的な勝利の基台が、世界的に起らなければならないのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに与え、霊界カナン復帰理念を立ててこられたことを、皆さんが知らねばなりません。 イエス様は世界人類のためにこの地上に訪ねて来られました。世界の人々はイエスのまえには息子の立場、即ち相対的な立場にあるのです。エバがアダムを蹂躪し、イスラエル民族がモ-セを追い、祭物がアブラハムを讒訴し、ノアの息子がノアを追ったように、世界のキリスト教は行く所々、世界のいたる所で追われ、悲惨な路程を逃れることはできなかったのです。 今日世界に広がっている第二イスラエルの祝福が、イスラエルを中心にして成就されなかったので、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立ててこの怨恨を解き、天と地を復帰しようとされるのです。神は天宙復帰のみ旨を成就するために一人の中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を求めているということを、皆さんは知らねばなりません。 なぜそうかというと、六千年の間苦労してみ旨に対してきたのですが、イエスが死ぬことによってノアも、アブラハムも、モ-セも、失敗した形になったのです。イエス様お一人が逝かれることによって、復帰摂理が完成を見ないことになってしまったのです。こうして今日、楽園にある霊人たちは失った第一イスラエルを復帰しようとされたイエス様のみ旨のための足場を築き、されに回復のみ旨を霊的に成就した型の、霊人たちなのです。選ばれたイスラエル民族が、元来第一イスラエルにならねばならないのですが、第一イスラエルが崩れてしまったので、第二イスラエル型が、霊的復帰の過程に留まっているのです。 イエス様を失って結ばれた神の怨恨は、今日第二イスラエル型に属する霊界の霊人たちによって解かれるのです。第一イスラエルを選ばれた神のみ旨は、イエス様が成さねばなりません。それでこそ神に結ばれた怨恨の心情を、解くことができるのです。それゆえ今第二イスラエルを動員して、霊界の霊人たちを動員して、第二イスラエル回復運動に拍車をかける時が、終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。 それでは今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな時代に処しているのか。モ-セの荒野四〇年路程に、匹敵する時代に処しているのです。モ-セがシナイ山に登って石版を受けるために祈祷した期間に相当し、イエスが昇天して以後、二千年の歴史過程は、モ-セの四〇日の断食期間に相当し、四〇年の荒野期間に匹敵するのです。またモ-セがいないことを見て、イスラエル民族が切なかった状況に匹敵するのです。 このキリスト教は再び現れるモ-セを迎え、何をしなければならないのでしょうか。荒野のイスラエル民族は昔の旧約の御言、モ-セの十戒の御言を受けるべきが受けず、歓喜の心情を持たない民族になったのです。モ-セにおきましては、民族がモ-セの背反者になってしまったのですが、我々は天が願われる道を捜し求めなければなりません。こうして第三イスラエルの場を求め、勝利して世界カナン復帰の理念を成就しなければなりません。そのためには新しい御言を受け入れる覚悟を、持たなければなりません。 モ-セの決心が、六〇万大衆の決心にならねばならないのです。今日、世界に広がっている第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族、あるいは世界人類とクリスチャンたちはイエスの決心を受け継いでいないので、モ-セのとき荒野でサタンがイスラエルの六〇万大衆を籠絡したように、今この時代もこんな時代にきているのです。 これを見やってみるとき、今日わが肉体に血肉がおどり、わが心に何かを感じる皆さんであるなら、皆さん自身が忠誠を尽くしていかなければなりません。イスラエル民族がモ-セに出会うまでは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、眠ることも忘れなければならないのに、そうではなかったのでイスラエルがモ-セを失い、すべてのみ旨が崩れていったことを忘れてはなりません。 これと同じく、イエス以後の二千年間は荒野時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、悔しいことにも憤りにも耐えに耐え、歯を食い縛ってイエス様に出会う時まで、かってモ-セの歩みの跡を死守しなかったことを、反対に蕩減復帰して、我々はイエスの歩みの跡を死守するイスラエルにならねばなりません。ところがこんな立場に処している今日のキリスト教徒が、自分たちにそんな使命があるということを、知らないでいるのです。 終わりの日の現象と聖徒が抱くべき覚悟 時が近づいてきたので、この時を準備しなければならない過程において、選ばれた民族を異邦の国に渡されるのです。皆さんが学んで知っているように、イスラエル民族がメシア降臨準備時代を迎えるために、イエス様が来る六世紀前に準備する期間として、バビロニア捕虜時代があったのです。 イエス様再降臨六世紀前から、文芸復興運動を中心としてキリスト教を破壊させる世界的な攻勢が起こってきたのです。この闘いの路程を今日、世界のキリスト教信者たちはどのように対処しなければならないでしょうか? これを防ぐ責任を果たすために、我々がまず覚醒しなければなりません。 一四世紀から一六世紀に至る時代において、文芸復興運動が誘発されたことは、人々が昔のギリシャの古代文明を研究して、新しい復帰理念を得ようとしたからです。このように革新的な文化の一面を起こさせたように、今日終わりの日を迎えている聖徒たちも、歴史を回顧して二千年前のイエス様の心情を体恤できなければならず、また堕落前のアダムとエバと神の心情を体恤して、心を革新しなければならない時が来たのです。 み旨に対する直前のアダムとエバに、天使長の攻撃があったように、ノアにも、モ-セにも、イエスにも、み旨が現れなければならない末日の聖徒たちにも、このような攻撃が現れるのです。これはサタンの攻撃です。まずは物質的な攻撃があり、その次には情的な攻撃時代が来るのです。このような時代性が今日の我々のまえに展開されているのです。こんなキリスト教の歴史がある国、ある民族を通して進展する時、その路程は公式的な原理原則によってなってゆくのです。 世界がキリスト教を外的に反対する、そんな時代がありました。この時代には昔イスラエル民族に反対したエジプト民族型が現れ、第二イスラエル民族のまえにモ-セのような人物が現れる時、民族が団結して彼を追い出す現象が現れるのです。 それでは終末時代の信仰者は、全部どのようになるのでしょう? 我々の周囲においては、エジプトの地のような事が起こるのです。今日我々が生きている現実は、エジプト苦役時代を彷彿させる状態です。のみならず、象徴的にも実体的にも、あるいは信仰的に、すべての面において侵犯されざるを得ないような状態になってゆくのです。 一時選ばれた選民の志操をもって自分たち同士が抱き合い、外部から来る悲しみを押し退けるためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒たちにもこんな運動がなければならないのです。教派に依存する者や、自分の教会の年輪を自慢する者はユダの一派になるのです。モ-セの命に従って、カナン探偵から帰った十二支派の中で、ヨシュア・カレブに反対した十支派があったように、今日このような形態が起こらないと誰が言い切れるでしょうか? このような時が、我々の目前に迫っているのです。 それでは我々は今、自身のすべてのものを忘れて出なければなりません。また、ソドムゴモラが受けたような審判を避けるためには、ロトの家庭が歩んだ足跡を我々の鏡としなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る時も、すべてのものをみな捨てて出たのであって、我々の歩みもヤコブのような歩みでなければなりません。またイスラエル民族がエジプトの地を離れる時、すべての未練をはね退けて出たように、我々もそうでなければならないのであり、イエスがすべてのものをみな捨てて、十字架の道を独り越えて行ったように、我々もそんな道を行くという決心を持って行かねばなりません。 このような覚悟と決心を、すべての万物万象のまえに押し立てる資格を持つ人間がいますか。天はそんな資格を持つ人間を求めていることを、皆さんは知らねばなりません。今日世界に広がっている新教が、旧教に追われた過程は、哀れなモ-セの過程を反復するような現象なのです。 キリスト教徒の使命 今荒野のようなこの世の中を開拓する、新しい使命者が出なければならなりません。今日のキリスト教で満足しては駄目です。イスラエル民族が荒野の生活でモ-セの身辺を守らなかったように、新教の出現の時もそうでした。新教が現れたのですが、荒野生活の形態で認定されなかったことが、モ-セの事情と同じでした。終わりの日にもこのような形態によって、神のみ旨が進展するということを、皆さんは知らねばなりません。 モ-セとイエスは、人間的に見れば哀れな人々です。モ-セとイエスを考えるとき、皆さんの血肉に通じる感じがありますか? 皆さんの心に、モ-セとイエスが身のおく所もなくさまい歩いた、その歩みを考える一時がないとしたなら、モ-セの四〇日シナイ山断食祈祷の時に流した切なく哀しい涙を売り渡す、天倫の背反者になるのであり、荒野で倒れたイスラエル民族のようになるということを、皆さんは知らねばなりません。 イエスの哀しい心情を我々が体恤して、第一イスラエルと、第二イスラエルが成せなかったことを、成就しなければなりません。これを成就しようとして来られたイエス様の哀しい心情と歩みを、皆さんは分かりますか? 宇宙的な理念のみ旨を成すために「霊界の霊人たちよ! わたしが彼らの所願を解いてあげます。地上の万人よ! おまえたちの祭物になります。空中の権勢を握るサタンたちよ! おまえたちを捕虜にして、天の審判台に引きあげ、讒訴するのだ」という決心を持って、時代が変わり世界が変わっても、人間の主義主張がすべて変わっても、わたしは変わらないとされたイエス様の気概と忠節を、今日皆さんが持たねばなりません。このように時間性を越え、生涯の理念を越え、天倫の理念に通じる心的な覚悟と決心の基がなっていないとするならば、神のまえに無条件に従わねばなりません。でなれば審判を免れることはできません。 シナイ山に登ったモ-セのまえに、イスラエル民族が無条件に服従したならば、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ったのです。またイエス様のときもそうであり、今日終わりの日もそうなのです。皆さんの前途には、人生全体の価値を決定すべき時が訪れているのです。我々が死ぬまで神のみ旨ただ一つに責任を持ってゆくという心で、天を代身してゆくことをアボジも望み、イエスと聖霊も望み、我々の先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨髄に染みて感じなければなりません。 こんな事実をまえにして、我々自身を振り返って見れば、自分を中心とするこの肉体が怨讐であり、自分を中心とするわが家庭が怨讐なのです。ノアにあっては家庭が怨讐だったのであり、ヤコブの家庭においては宗族が怨讐であり、その次に国家形態においては世界が怨讐でした。神はこのような歴史路程を歩んで来られ、今も数多くの山場々々を回り回って、ある中心人物が倒れれば他の人間を立ててでも、また繰り返さなければならない事情に処しているのであり、皆さんはこのような神の体面と威信を立てることを知る人間にならねばなりません。 ある個人の力だけでは、神のみ旨を成すことはできません。神様は世界に分散する一つの民族形態を、捜し立てる包囲作戦をして来られるのです。こうして個人から家庭、宗族と民族を捜し立て、神を中心とする国家形態を得なければならない時が来たのです。 それゆえ今日、全世界キリスト教十二支派を再創建すべき時期が到来しているのです。荒野に広がったイスラエル民族に班列があったように、世界キリスト教徒たちが班列を編成して、サタンに対する攻撃戦を展開しなればならない時代が来ているのです。これを知らないでいるクリスチャンたちは、荒野のイスラエル民族がモ-セが導く方向を知らなかったのと、同じ立場に立っていることを知らねばなりません。 団結して強く雄々しく進べき時 今我々は、手に手を取って行くべき共同運命におかれているのです。十二使徒の中でイエス様を売ったユダ一人によって十二使徒を蹴散らし、イエスを殺してしまったように、我々も同じ運命におかれることもある立場なのです。それゆえ我々の教会の食口たちは、すべてがこの時の決心がわが決心であり、この時の心がわが心であるとして、み旨のために一つになることができる班列的な、形態を持って行かねばなりません。そして紅海を渡り、荒野を過ぎてヨルダン川を横切り、カナン七族を全滅させなければならない我々の闘いの基が、残っていることを知らねばなりません。 従って今、我々は歴史的な使命持って、これを蕩減復帰していかなければなりません。今までの祭壇では神が「捧げよ」とされたのですが、今は神様が「受け取ってください」とする祭物がなければなりません。 天倫の決心が内的・外的な決心の実体として現れ、この決心を中心にして家庭と競い、その家庭を復帰しなければならず、教会を覚醒させ国家、民族を覚醒させて復帰しなければなりません。このような場面において自分が暮らしている家庭、社会、国家、教会が、そして自分が願い望んでいるこの世界が、我々を怨讐視することは不可避なことです。 今日皆さん自身は、家庭と社会において迫害を受けています。ところでこの迫害に勝ったからといって喜ばないでください。この後の荒野時代にいろんな困難が襲いかかって、攻撃戦が起こってくるその闘いで、皆さんが倒れては駄目だというのです。天倫の運勢は一度打たれて越えなければならないので、世界的な復帰過程においてキリスト教を打つのです。外的に打ち、内的に打つそんな時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来たので、霊界が動員されるのです。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界的に広げておいて、第三イスラエル民族を建設しているのです。 それではイスラエル民族が荒野でさまよって人が知らない物、他の国の人間が知らない物、誰もが想像できない命の食料を食べたように、今日皆さんはこんな時代に、天が降らすマナとウズラを食べることを知る人間にならねばなりません。今これからは不毛の時が来るゆえに、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。 今復帰の園を建設すべき時が来たので千辛万苦、肉が裂け骨が砕ける恨があったとしても、天倫のみ旨一つのために「アボジよ! 霊界の千々万聖徒たちよ! 役事してください」と叫ばなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員しなかったのですが、我々は霊界を動員しなければならない時が来たのです。ですから皆さんには霊界の協助があるのです。我々食口は、霊界の霊人を呼べば来るのです。ですから今日、神霊役事が沢山起こってくるのです。 我々は自分一身を立て、自分の家庭と民族、世界を動員すべき使命、またサタンをアボジのまえに屈伏させるべき最後の使命が、我々に負わされていることを知らねばなりません。ところで我々がいつ自分一身に対する試験、家庭に対する試験、教会に対する試験、社会に対する試験に勝ったかというのです。このような試験に勝つという覚悟を持ってこそ、天的な使命を完遂することが出来るのです。 神がヨシュア・カレブに強く雄々しくあれとされましたが、今我々にも強く雄々しくあれという時が来たのです。皆さんは手に手を取って、心と心を合わせ、サタンと闘って勝利を勝ち取らなければならない時が来たことを肝に銘じ、強く雄々しくならなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.05
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全天宙は愛の一日を捜してさまよう 一九五八年二月十六日(日)前本部教会皆さんは原理の中に、天宙という言葉があることを知っています。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることを知っています。 ところで被造世界を創造された創造主や、その創られた被造物やがすべて愛の一日を捜しているというのです。 人間が生きてゆくのに必要なもの 我々人間におきまして最も必要であり、また何よりも急を要する重大な日があるなら、それは神を所有する一日です。その次には真の心と真の体を持つ、真の人間になる一日です。その次には真の物質を持つ一日です。その次には、どんな日でしょうか? それは我々人間になくてはならない愛を持つ一日です。これらのものが今日堕落した人間が生きてゆくにおいて、なくてはならない重要な一日であるのです。 今日自分一身を見てみるとき私には私を中心とする、神と私を中心とする真の人間と、私を中心とする真の善なる物質が必要であり、さらには私を中心としてすべてのものを、団結させる愛の因縁が必要であることを、皆さんは否定することができないのです。 それでは今日皆さん自体をおいて見るとき、皆さんが必要としている神がどこにおられるのか、知っていますか? 皆さんが必要としている真の人間、真の物が、どこにあるのか知っていますか? このような質問を受けるとき、それはこれこれですと自信と実力を持って出る人間が、一人もいないのです。 それゆえ今日ここに集まった皆さん自身の中に、誇る何かがあるなら、新しい心、新しい意識を持ってゆかなければならないのです。でなければ駄目な時がきたのです。今日皆さんは自分に必要なすべての要素を持ってはいないので、人生路程を歩むにおきまして、平安と安逸の生活をすることができず、永遠なる創造理念に対している神の愛を体得して自身の人生を歌い、生きてゆくことができないことを、皆さんは今まで生きてきた人生を通して強く感じるのです。 それゆえ全天宙万象のまえに自身を立てて、誇ることができる何ものも持っていないことを嘆息する時が来たという事実を、皆さんは否定することができないのです。ですからこんな事実が天の哀しみであり、人間の哀しみであり、万物の哀しみであることを、パウロはありありと披瀝したのです。皆さんはこのような哀しみを解怨しなければならない責任が皆さんに与えられ、こんな責任を持ってゆくことが、復帰の運命圏内に生きている皆さんが行くべき人生路程であるという事実を、忘れてはならないのです。 それゆえ今、自らに告げるべき立場に立つ、自分であることを嘆息する心があるなら、皆さんは引きつづく歴史を案じなければならないのであり、この時間以後の未来を案じなければならないのです。 ところが案じなければならない自体をおいて、考えもなくあえぎ苦しむ人間がいるならこれ以上に哀れな人間はいないのです。堕落することによって天地のまえに残された嘆息の条件を、解怨しなければならない運命を背負った人間が、自身の位置を悟ることができず、万象のまえに恥ずかしい姿をさらすとき、これを見やる神の心情がどうでしょうか? ここにおいて皆さんは、神様に嘆息を増し加えている恥ずかしい姿であることを、悟らなければなりません。 人類の究極的な所望 それではこんな相反する環境を踏み越えて、全天宙の嘆息を代身して責任を負うと、堂々と現れる一人の忠臣の姿がどこにあるのか! 人類に所望があるとしたなら、このような一人の忠臣になることです。 それでは我々がこのような忠臣になるためには、どうしなければならないのか。今日我々に必要な、神と真なる人間と、真なる万物を代身して、これを一つに一致させ、神のまえで愛を語りあえる存在にならねばなりません。 今まで我々人間が摂理歴史過程を経てきて、神様にさまざまな祈祷をしてみ旨を受けて来たのですが、神の心の底に深く染みている怨恨を解怨して愛を語りあえる場には、未だ誰一人として至っていないということを、皆さんは知らねばなりません。イエス様がこの地上に来られたのですが、人間がこのお方を通して実地に神と愛の関係を結べなかったので、このお方は再び来なければならないのです。 イエス・キリストは四千年の復帰の歴史を、完成させるべき使命を持って来られたのですが「人間が神の愛と因縁を結んでいるか」と反問されるとき、誰も「そうです」と答えられる立場に、立っていなかったのです。このような我々ですから、哀れといえばこれ以上に哀れなことはなく、嘆息するならこれ以上に嘆息することはないのです。 それでは今日皆さんは、自身を立てて誇る何を持っていますか? 知識を持っていますか? 皆さんが持っている知識は天地万象の原理原則に比べてみれば、極めて微々たるものです。二〇世紀文明がどんなに発達しているとしても、一つの絶対的な原理原則を成立させ得ない圏内に留まっているのです。それゆえ我々に誇る材料があったとしても、これを再分析すべき新しい時代が近づいているという事実を、皆さんは感じなければならないのです。 それでは天が歴史的な運命を望み見、時代的な運命を望み見、未来的な運命を案じて、私自身を捜し求めておられるなら、こんな天のまえに私自身を立て、また私自身を誇ろうとするなら、皆さんはまず天を所有することができる人間にならねばなりません。真なる人間にならねばなりません。また真なる万物に対することができる人間にならねばなりません。これが重大な問題なのです。 そして皆さんは神様が天地万物を創っておかれ、アダムとエバにこれらを主管せよとされた、その主管の資格を得て「お父様が願われたこと、お父様が祝福して下さったことがこれであることを知りましたので、あなたの天的な愛の因縁に結びつけてください」とすることができる一人の姿が、今まで摂理されて来られた神の最高の目的であり、摂理のみ旨を立てて今まで苦労されて来られたイエス・キリストの最高の基準であることを、はっきると知らねばなりません。 ところでどうして人間は現在のような状態に至ったのか。それは、人間の堕落のためです。今日の人間は、堕落人間の後孫であるので、堕落した様子と形式を逃れて生活する人間は、一人もいないのです。個人の堕落した生活が合わさって、世界的な堕落性を成していっているので、これを蕩減して除去するためには、世界的な堕落性をぶち壊す一つの原則が出なければなりません。 堕落とは反対の方向に、人間を導いて行くことができる原則が出るまでは、人間がどんな善の理念、どんな真理を主張したとしても、これは我々人間の所望、また根本的な喜びと関係を結ぼうにも結ぶことが出来ないことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 それでは堕落歴史の絆を断ち切れない堕落の後孫である我々が、追求しなければならないことが何であるか? これは全天宙の理念を代身することができる人格と、全万物を主管することができる価値を持つ、真の人間になるということです。また、我々が神の愛を苦待しているとしたら、忘れてはならないことが何でしょうか。これが何であるかといえば、我々は堕落の血統を受け継いだ宗族であるという事実です。 そして皆さんが自身の心の奥に、堕落の根性が居座っていることを感じたなら、今まで考えたこともなく、推し量っても見なかった新しい何かが現れるという事実を、知るようになるのです。今皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代身した人格者として、神のまえに出て「私は堕落の宗族です」と訴えなければなりません。こんな祈祷の一時がなければ、皆さんは未だ天宙のまえに残っている嘆息圏を逃れることはできません。 堕落と不信によって失われたもの それではアダムとエバの堕落は、何を意味しているのか? それは神を捨てたことであり、本然の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味するのです。言い換えれば、神を失い、真の人間を失い、真の物質を失ったのです。その次には神の御言を失い、神の愛を失ったのです。これが堕落であったのです。ところで人間はこんな結果を、越えることが出来ないでいるのです。 今我々はこれらのものを反対の方向から収拾して、開拓するための闘いをしなればなりません。皆さんがこんな闘士にならなかったなら、歴史的な罪悪圏と、天の摂理に反対するサタン圏を、逃れようにも逃れることが出来ないことを知らねばなりません。 人間は堕落することによって神の懐から外れ、本然の真の人間性から外れ、真の宇宙圏から外れてしまったのです。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで苦労されて来られた神の摂理なのです。 第一アダムが堕落したことによって、怨恨が結ばれるようになったので第二のアダム、即ち復帰されたアダム格として来られたイエス様は、どんな事をされなければならなかったか? まずイエス様自身の心に神が来るようにしなければならず、自身の体に真の人間のみ旨を持たねばならず、真の主管者にならねばなりませんでした。こんな実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までも証して一つに統合させることができる、一人の主体としてイエス様はこの地上に来られたのです。 ですからイエス様はこの地上に来られ、心の天国を主張されたのです。そして神が自身の心の奥にいるとして、神と一致している自身を主張したのです。また全宇宙が自身の主管を受けなければならないとされたのです。そして全人類に対しては愛の標語を掲げ「わたしは神の息子であり、あなたがたはわたしの友であり、兄弟」とされたのです。 皆さんはこの御言に、メシアとしてのイエス様の価値が盛られていることを、知らねばなりません。 イエス様には自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらには天宙までも動かす使命があったのですが、イスラエル民族が背反し、教会が背反し、選ばれた洗礼ヨハネが背反し、家庭が背反したのです。 それでイエス様は自ら使徒たちを立てて彼らを足場として、世界的な第二イスラエルを形成して、世界的なカナン復帰の理念を実現されようとした事実を、皆さんは原理を通してよく知っているのです。当時イエス様は、十二支派に形成されたイスラエル民族が反対したので十二支派型が壊され、モ-セが造っておいた足場が失われ、ヤコブが成しておいた十二兄弟を中心とする足場が失われて、十二弟子のみを連れて出て行かれたのです。 第二イスラエルの創立者として、先頭に立たなければならないイエス様でしたから、ヤコブの十二子息のような十二使徒たちが崩され、再び遡ってノア家庭の形態を取らなければならなかったので、ノアの三人に息子の型である三弟子を連れて、ゲッセマネの園をさまよったのです。しかしこの三弟子までがイエス様と一つになることが出来ず、イエス様は堕落当時のアダム家庭へと落ちてしまったのです。これがイエス様の姿であることを、皆さんは知らねばなりません。今日キリスト教徒は、これをよく知らないのです。またイエス様が無知な人類の為に祈祷されたことと、イエス様の哀しい心情を知らないでいたのです。 世界を主管する主人公として、世界人類に神の心情を教えなければならないイエス様、万物を主管すべきイエス様なのですが、彼は洗礼ヨハネから排斥され、自身の家庭から排斥されたのです。 こうしてイエス様は世界的な足場を失ってしまい、民族的な足場を失った哀れな姿になってしまったのです。こうしてイエス様は、堕落したエバによって新婦を失ったアダムのような立場になってしまったのです。 堕落しない真の父母を失った人類のまえに、真の父母として来られたイエス様であったのですが、子女として立てた三弟子まで失ってしまって、イエス様はエバを失ったアダムの立場になったのです。それでイエス様はこの地上に、新郎・新婦という名詞を残しておかれたのです。このように切ない事情に処しておられたイエス様であったことを、皆さんは知らねばなりません。 そしてイエス様は世界を統合することができる御言と、イスラエル十二支派を代身する世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる御言と、天倫のまえに立つことができる個人的な法度と社会倫理と、家庭の制度に関する御言を、すべて伝えることができずに逝かれたのです。これがイエス様の、最も大きな哀しみなのです。 しかし今日人間たちは、このような歴史的な事実を知らないでいます。そのうえ神を信じるというキリスト教徒までも、知らないでいるのです。このような人間たちを見やる神様が、どうして嘆息しないでいられるでしょうか。イエス様当時にユダヤ民族を第二イスラエルとして祝福され、第二のカナンを建設させようとした神の計画が駄目になることによって、神の哀しみはさらに加重されたのです。 再び来られる主様に必要なもの それではイエス様が地上に再び来るなら、どこの誰に来るのか? イエス様は堕落した人間世界に、ただ一度訪ねて来るのではありません。復帰の路程を経て来なければならないイエス様ですから、ノア家庭とアダム家庭の段階を越えなければなりません。 こんなイエス様の事情を引受けて世界まで行くべき歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし今日の信仰者たちは、これを知らないのです。これを知らなければ、イエスをよく信じたとしても、彼を迎える道がないのです。 再び来る主様は、世界の主人公として来られるのです。しかし再び来る主様に、まず天を中心とする家庭がなければならず、宗族がなければならず、民族と国家がなければなりません。それでこそ、世界の主人公になるのです。これが原則です。 今日キリスト教が、世界を復帰しようとされる主様の理念を代身するならば、世界的な足場となるイエスを中心とする天の家庭があるかということを、まず考えてみなければなりません。イエスを中心とする天の宗族、天の教団を得て、民族的な観念を超越することができる基台を造成して、世界的な足場を成しておかなければ、イエスがこの地上に再び来ても、悲しみのイエスにならないと、誰が言えるでしょうか? 歴史的な事実がこれを立証していることを、皆さんは忘れてはなりません。 天地の運勢は、皆さん自身を経て来ているのです。皆さんが知ってか知らずか、民族が知ってか知らずか、国が滅んだり興ったりしている間に、ありったけの曲折の路程が皆さんを経て行っているのです。 イエス以後二千年の歴史過程を摂理された、神のみ旨がどんなものであったのか。イエス様を通して、全体の天的な理念を代身することができる中心を立てて、この地上に真の愛を実現させることが正に神のみ旨でした。しかしイエス様が十字架に逝かれることによって、このようなみ旨が完結できなかったので、このみ旨を完結させなければならない使命が、地上の人間に残っているのです。 それでは今、皆さんはどうしなければならないか。イエス様を失ったゆえに、天の側に属する真の人間、真の万物を所有している真の指導者を、再び送ってくださいと天のまえに訴えなければなりません。 第二アダム格として来たイエス様を殺したがゆえに、人間はまた再度、神の心中に秘められた御言を持って来る主様、天国の人格を代表して天国を建設しようと来られる主様、万物を主管することができる資格を持って来る主様が必要なのです。これが人類の希望であるのです。 今我々は、我々人間を立てて摂理される神のまえに、体面を立てることを知らねばなりません。でなければイエス様がこの地上に再び来られても、我々はそのお方に会うことができません。その次に皆さんは、イエス様がこの地上に来られたとき、イエス様を受け入れなければならない人間たちが、イエス様を逝かしめて第二次の堕落をする立場に陥ったことによって、また再び神を捨て、天国を捨て、真の人間を捨て、満宇宙を捨ててしまったということを肝に銘じて、常に主様を信じて受け入れなければなりません。 新時代の主役たちがすべき事 それでは今日の信徒たちは、何をしなければならないのか。最も重要なことはイエスの愛を通して天国を建設することです。それでは天国はどこから始まるのか。それはイエス様の愛と人格を知って、イエス様が主管される万物の主管権を知るところから始まるのです。イエス様の愛と人格、万物の主管権を知らない人間は、神を求めないようになっているのです。 我々がイエス以後の二千年の歴史を回顧して見れば、数多くのキリスト教徒たちが神を再び捜し求める運動をしてきたことを知っています。それで激しく迫害したロ-マがキリスト教を公認するに至り、ついにはロ-マに法王庁を立て、法王権を中心とした政治をするようになり、さらには封建社会を形成していったのです。 ところが中世に入り、再び法王庁が腐敗して人本主義の思想がキリスト教に入ることによって、中世以後のキリスト教徒においては、神を捨てることが起こるようになったのです。即ち、多くの人々が人本主義の思想によって流されてしまったのです。こうして啓蒙思潮を経て結局、唯物史観が現れたのです。 これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義の哲学思想を根拠としているのです。それで世界は今、唯物史観と資本主義の思潮によって、物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に転落してしまったのです。 イエス様は天のみ旨を代身して、全体の摂理を統合する使命を負い、第二のアダム格としてこの地上に来られたのですが、我々の先祖たちがイエス様を排斥することによって、最悪の歴史路程を逃れることが出来なくなったのです。こうして神を求めず、真の人間を求めないので、真の物質を捜し求めないのです。それでどんなに真の人間を求めようとあがいても、求める道がないという状況になってしまったのです。 それでは中世の封建社会を、誰が崩壊させたのか? 天が崩壊させたのです。神はロ-マ法王庁を中心にみ旨を成そうとされたのですが、その法王庁が腐敗してしまったので、これを壊されたのです。天を信じる人々がむしろ天倫のみ旨に背反したので、人本主義の思想を立てて、彼らを打ったのです。 そんな中で神様は摂理の起点を失わないために、天を案じる一人の人間、ルタ-を中心にして宗教改革を起こしました。このように神様は片方は壊し、片方は立てる摂理をされたのです。そしてキリスト教を通して第二のイスラエル型を経ていって文芸復興を経て、一大混乱をたどった後で、人本主義的な理性の哲学を中心とする啓蒙思想に敵対してゆく摂理をされてきたのです。 啓蒙主義者であるヴォルテ-ルやルソ-、モンテユスキ-のような人々はキリスト教が破滅すると知っていたのです。ところがドイツで清廉な人物たちが出て、神秘性をうたって神の実体的な内的体験を主張したのです。これが英国を経て、ウエスレ-兄弟の復興運動を起こしたのです。のみならずクエイカ-教派を起こし、神秘的な内的体験をするようになったのです。 反面、人間は神を愛することを忘れ、人間を愛する理性も忘れ、物質を愛することだけを知る、唯物思潮的な主義にまで至ってしまったのです。堕落した人間であっても、必ず本然の立場に帰らなければならないので、いつの時かは、この物質を中心とする思潮を打つ時が来るのです。 今日は神を中心とした中世も過ぎて、理性哲学を中心にして支配した時代も消え去り、十八世紀に成立した唯物思潮を中心とする、唯物論的な理念も光を失っている状態です。これからの世界は人間が物資を愛しても満足を得ることができず、過去の歴史的な人間の教えに従っても、現実の問題を打開することができない、そんな悲惨な世界です。ですから物質的な生産力を通して、社会の反映を指向する共産主義の理念をもっては、到底世界を支配することは出来ません。 ですから二一世紀を契機として、我々のまえには原子力時代を迎えて、物質文明の世界的な支配を破壊させる時代が来るのです。その次には、どんな時代が来るのか? 愛を求めて愉む時代が訪れるのです。互いの為に与える時代が、我々のまえに訪れるのです。 ですから皆さんは近づく愛の時代に、宇宙万象のまえに晴々と胸を張って出るために、歴史的なすべての価値を総合して、統合させることができる中心的な存在として、使命を担う賢明な人々にならねばなりません。 そして皆さんは堕落したアダムとエバの路程を経るべき境遇であり、第二のアダムの時代的な使命を継承すべきなのに、そのような資格を持っていないことを知らねばなりません。さらには今日の歴史は、人間の堕落によって失った神と、真の人間と、真の物質を捜し求める歴史であることを、知らねばなりません。 堕落の原因と歴史発展の究極的目的 それではアダムの堕落はどうして起こったのか? 神が許されない、左右横から入ってきた不義なる愛の誘惑に引かれて、天倫を破壊したところに始まったのです。我々が生きてゆくにおいて、エデンの園で起こった天使長的な形態が、多く現れるのです。正道ではないものが、正道のふりをする時代を経ていっているので、ここに愛の混乱時代を免れることは出来ないのです。 神の摂理は反対経路を経て、逆に役事されてくるのです。六千年の歴史を今日の我々が振り返って見れば、旧約時代は物質を求める時代、即ち、物質を祭物にして神のまえに出てゆく時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエス様を祭物に捧げた時代であったことを知るのです。 そしてこれからの成約時代は、すべての人間が神のまえに実体祭物になって、全万物を統合することができる基準を越えて、愛を支配する時代になるのです。 ところが世の中の外的な面は打って無にしてしまい、内的な面を捜し立てる形態へと、神の摂理は現れているということを、今日のキリスト教徒たちは知らないでいるのです。言い換えれば、歴史の外的な面は打って、内的な面は受入れる神の内的摂理の内容を、知らないでいるのです。 それでは神様が六千年の間、摂理されて来たことは何を捜し求めるためでしょうか? 神と人間とを結ぶ永遠の約束の御言を捜すためなのです。この御言は父子の関係を結んで一つになれということです。 皆さんは原理を通して人間の堕落は、非原理的な不倫なる情緒関係が原因であったことを知っています。ですから終わりの日に面している皆さんは注意しなければなりません。どんな男性であっても、ひょっとして誤って二人の女性に相対する立場に立てば、女性はここに巻き込まれやすいのです。 それではこれをどのように収拾して防ぐのか。このハンドルをどのように回すのか。これが問題です。 無限動力を中心とする物質文明の時代は来ているのです。一番初め、人間には生食時代があり、その次には火食時代を経て、次には水食時代、即ち水の栄養を取る時が来るのです。これから科学的食料によって、我々の健康を充分に保つ時代が訪れるのです。我々人間の努力が必要な時代は越えてゆくのです。 この時、我々は何をするのでしょうか? この時に残るものは芸術文化であり、我々は美と愛の道を求めてさまようのです。これは良い事です。 しかし人類が天理法度に外れて、この道を求めてさまよったなら、結局はどこに行き、どのようになってしまうのか? これは今日、宗教を尊ぶ人々が案じなければならないことです。 現代の文明は世界の真相を知らないで、あえぎ苦しむ宗教が必要ない段階にまで来たのです。ですから今日、宗教は人間たちが行かないとしても行かざるを得ない、そのような道を提示しなければならない使命を負っているのです。二千年の歴史を回顧して見る時、数多くの革命がありました。人類はこの革命の過程を経ていって、一つの統一世界を指向しているということを、皆さんは知らねばなりません。 神の愛を中心とする正義の世界 人間には知、情、意があることを考えるとき、人間を創られ、全天地万物の主導的な主人公としておられる創造主は、より高次的な原理法度を通す知、情、意の主体であられることを知るのです。そして歴史を探って見れば個人から家庭、家庭から宗族、宗族から民族、国家、世界へと拡大していっているのです。またこのような外的な型を経て、内的な思想及び観念を優先する時代へと入って来ているのです。 人間個体におきましても、外的な面を経て、内的な精神面に向かっているのです。精神が主導的ですから、この精神を統一してこそ、一つの価値性を捜し立てることができ、そのようになれば統一的な目的に向かって正しい行路を歩むのです。 世界もやはり同じことです。世界にも世界認識がありますから、一つの帰結点である精神統一のために、世界を一つに束ねることができる世界構造が出てくるのです。これが正に今日、民主と共産が対立して闘っている姿です。この時は霊界と天宙を創造された神様が、天宙の統一理念を実現されようとされるので、霊界の理念と地上の理念が相反してぶつかるということを、皆さんは知らねばなりません。 地上においても今まで優勢な民族と劣等民族が、闘いの歴史過程を経て一つの世界観を中心として、一つの世界へと行っているのです。これから霊界のすべての霊が、全部地上に再臨する時があるのです。そのようになれば地上では大きな混乱と、あらゆる衝突と闘いが起こるのです。そのようになる時皆さんは、このような事が天が願っている方向に帰結するようにする、主導的な役割をしなければなりません。そのためには神の心情と、天倫の理念を代身する、資格者にならなければなりません。これが神の歴史の終わりに願う所望ですが、今日のキリスト教ではこの所望を果たすことが出来ないのです。 今までの歴史過程を経てきて数多くの革命がありましたが、人間の情的な問題をおいて革命があったことはありません。社会と国家のすべての構成体制は時代を経ていって、革命の要素が芽生える時にこれを押し流すことができず、むしろそれらから革命を受けてみな壊されたのです。 しかし人間の父子の間の情、夫婦の間の情、兄弟の間の情だけは、未だに革命されたことがありません。ある倫理や道徳、ある哲学や理念は革命過程を経て来たのですが、情的な愛の問題においては、革命を起こすことが出来ないのです。 それでは今日皆さんは、この情的な問題を持って、天のまえに立つことができる真の父母になっていますか? 真の夫婦になっていますか? 真の子女を持っていますか? そうではなかったならば、天倫に引っ掛かるのです。 ですからイエス様はこの地上に神の愛を持って来られ、その愛を示して自身を神の息子であるとされました。イエス様が神と結んだその愛の因縁は、今日まで誰も壊すことができません。この地上にサタンの勢力がどんなに強くても、これを壊すことができないのです。またイエス様は「あなたがたはわたしの新婦であり、わたしの兄弟」とされたことを壊すことはできないのです。 このような基盤がありますから、キリスト教は歴史過程を通して発展してきたのです。こうしてキリスト教は天国の中枢になることができ、一つの人格を通す天情を代身する家庭形態を成すために、歴史過程を通して発展してきたのです。 どんなに強大な権勢を持ち、博学者の地位を持っていたとしても、天との情的な因縁を持たない人間は哀れなのです。それでこのような原則を知る人々は、イエス様に対して感謝であると考えるのです。もしもイエス様がこれを主張しなかったならば、人間世界はどのようになったでしょうか。暗黒の世界に変わったのです。不信と闘争、反目と不和の世界に変貌するのです。 ですからこの地上には神の愛を中心にして、人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が建設されて初めて、和平の時代が到来するのです。従ってこの宇宙終末時代に処する皆さんは、理性的な問題において、自分を中心にしてはいけません。そして自分よりも家庭をより愛し、家庭よりも民族・国家・世界をより愛し、世界よりも天宙をより愛するという心を持たねばなりません。今までの歴史過程において求めたすべての、人間的な経倫と天的な経倫が、この終末時代に一〇〇%結びついてこそであります。 こうして今、自身が今まで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい報せを聞くことを願う時がきたのです。二千年前イエス様が、誰よりもわたしを愛せよ、とされたその御言がこの終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代を経たので、今は愛の時代が到来したのです。 ですから今は人間の情的な問題、愛の問題を解決することができる天の御言が必要なのです。このような時が来たのです。 神と愛を授け受けようとすれば 今までの人間は歴史過程を通して、プラス的な理念のみを追求してきたのですが、それではいけないのです。天はプラスであり、人間はマイナスと同じです。それで宗教においては、人間は傲慢であってはならないとします。また自分を愛してもいけないとします。自分のすべてのものを否定して、さらには自分の体も打つのです。これは天がプラスなので、人間がマイナスになってこそ、互いに授け受けするからです。 プラスとプラスは相反します。互いに反発して憎むのです。サタンが何であるかというと、神がプラスの立場であるのにマイナスの立場に立たないで、プラスの立場に立ったということ、これが正にサタンなのです。前に言ったように、修道の生活においては禁欲主義を叫んでいます。これはサタンの側、即ち悪に属するプラス的な面を打って、マイナス的な立場に転換させるためであるのです。 体を打つことは、体がマイナス的な立場に立たべきなのに、プラスの立場に立とうとするので、これを打ってマイナス的な立場に返して、天(+)と完全に授け受けるするためなのです。従って皆さんも、自身の体を主とするすべての条件を除去しなければ、完全なるプラスである天のまえに、完全なマイナスとして立てません。 全天宙はこのような存在が、この地上にすぐに現れ、神と永遠なる愛を授け受けする愛の一日が来ることを苦待していることを、皆さんは肝に銘じてください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.03
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神の選民である選ばれたイスラエルになれ一九五八年二月九日(日)前本部教会皆さんとしばらくの間考えてみる御言の題目は「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」という題目でしばらくの間、お話しします。 創世記にはヤコブがひどい苦労の路程を経た後に、天を代身して試みを受けた内容があります。 ヤコブはその試練の過程で、自分がイサクから祝福を受けた選民であるということを心に抱いて、そのみ旨をさえぎろうとする天使と、最後まで闘ったのです。それで勝利して神が許された選民圏内に入ったということを、我々が知っているのです。ヤコブが神のみ旨を中心として、あらゆる逆境と闘って勝利した者として、神が許されたのが「イスラエル」という名詞です。今日我々はイスラエルという言葉を、沢山使っています。 ところでこれは単純な名詞として、残っているのではありません。この言葉は歴史的な生命を代身している名詞であり、天と地を復帰するための、アダムからヤコブまでの二〇〇〇年の歴史を終結させる勝利の名詞であることを、我々は忘れてはなりません。また神がヤコブを立てて、イスラエルという祝福をされる時、喜びがあったということは勿論ですが、反面悲しみもあったという事実を、我々は悟らなければなりません。 ヤコブを苦労させた神のみ旨 神様がヤコブを捜し求め、数千年の間苦労されて摂理されてきたことは、ヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落することによって、神様がされようとした祝福を失ったのです。それでその祝福を再び求めたのですが、失った神の祝福を再び捜し求める歴史過程には、言葉にもならない哀しい事情があったのです。ヤコブをイスラエルという名で祝福された神には、こんな哀しい心情があったということを、皆さんが知らねばなりません。 神がイスラエルという祝福の御言をくだされたことは、ヤコブ一代だけに許された御言ではなく、全創造の理念と理想を代身した御言であり、神の全体心情がこの一言に込められていることを、皆さんは知らねばなりません。 ですからラバンの家に行って数十年間、苦労して疲れたヤコブ、神が許されたカナンの地を立てるための困難な路程を経たヤコブは、イサクが手をのべて祝福した天のみ旨を実践する場において、自分が持っているすべての財物を失っていって、エドムの地のエサウを訪ねたのです。 ところが訪ねた故郷は、自分一代に幸福を与える本郷ではなく、喜ばしい場ではなかったのです。懐かしい故郷と兄を訪ねたのに、心配と苦労をしなければならない事情に直面したのです。これはヤコブ一身だけの事情ではなく、全人類が歩むべき路程であることを見せてくださったという事実を、皆さんは忘れてはなりません。 故郷を訪ねたその前には、ヨルダン川が横たわり、ヤボク川が立ちふさがっており、許された祝福の地を前にして、夜の眠りもままならず、涙を流して祈祷しなければならなかったこんな事情は、先祖たちが残していった事情であり、天倫の摂理をされるアボジの事情であったことを、ヤコブは誰よりも骨身に感じたことを、皆さん知らねばなりません。このような事情は、ヤコブ一代においてのみの事情だはなかったのです。選民イスラエル民族が歩んだ歴史路程であるのみならず、神のみ旨に対して現れたすべての我々の先烈たちは全部、このような心情を抱いてアボジの懐にとび込むために、暗闇の障壁を前にして闘いの峠を越えなければならない事情に面したことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 それではイサクの手を通して祝福された神、すべてのものを捨てて故郷に帰れと告げた神様は、どうしてヤコブを案内して行く道を平坦にしてやらず、またヤボクの川岸で夜を明かして天倫のみ旨を抱いて、切ない心情で天のまえに訴えるヤコブに、励ましの御言をかけてあげるどころかむしろ天使を送ってヤコブを打つという、そんな非情な環境においたのか! 言うこともできない事情、人間が知るべくもない切ない曲折の心情がここにあったということを、今日我々は忘れてはなりません。このように神が許された故郷の山川を訪れたヤコブの道は、荒野の道であったのです。今日我々が歩んで行く路程にも、こんな曲折があるということを、ヤコブの路程を通して悟らなければなりません。 それではどうして天は、このような環境を提示しなければならなかったのか。人間一人を選んで立てることも勿論、神の摂理のみ旨ですが、背後のサタンを押し退ける足場を造ることが、さらに重要な摂理のみ旨なので、人間の知らない、神とサタンが知る見えざる世界の曲折の垣を、人間を通してつき崩さなければならないそんな曲折があるので、これを壊すことができる条件を立てるために、ヤコブに無理な行動を天は提示せざるを得なかったのです。これを皆さんは知らねばなりません。 ヤコブには祝福を受けたその日から、エサウがいる故郷の地に帰ってくるときまで、喜びの一日がなかったのです。これは何を我々に見せてくださるのかといえば、神のみ旨を代身して神の祝福を受けた者がいるなら、彼は天地のまえに一つの祭物の立場でこれに判決を下す時までは、憂愁の生涯路程を経て行かざるを得ないことを、見せてくださるのです。 このような歴史路程が残っているので、今日皆さんが神の祝福に責任を負ってゆくというとき、ヤコブのように怨讐の世界にも訪ねて行かねばならず、難しい環境と独り闘う、闘いの路程も歩まなければならないのです。 このような闘いの路程においてヤコブが疲れて倒れたなら、彼にはイスラエルという名は与えられなかったのです。イスラエルの名を通した祝福の恩賜が、ヤコブとは関係ないのです。しかしヤコブがイサクの手を通して下された祝福を成すために、どんな苦難と難関にぶつかってもこれを克服してゆくという燃えるような心情を持って、天に対して忠誠であったので、ヤボクの岸に現れた天使との闘いに勇猛果敢に闘い、勝利の足場を築いたことを、皆さんは知らねばなりません。 ヤコブが受けた「イスラエル」の内容 このようにヤコブは天が許した御言を中心に、生命を失う恨があったとしても、これを失わないために凄い闘いの道を歩んだ代表的な天の精兵であることを、皆さんは知らねばなりません。 それではこれは何を預告しているのか。我々の先祖であるアダムとエバが所望の一日を迎えるために最後まで御言を守らなければならなかったのに、彼らはそうはできなかったのです。この一つの事実を蕩減するためには、アダム以上に神の御言を死守する存在がなければならないのです。ヤコブが正にこんな人物として天のまえに呼ばれたことを、皆さんは知らねばなりません。 こんな立場に立ったヤコブ、天の試練を受ける立場にあったヤコブは、一時も心をゆるせなかったことを、皆さんは知らねばなりません。彼は神の祝福の御言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が抜ける恨があっても退かないという、固い信念を持っていたのです。このように闘って勝利した後にこそ、祝福が臨んだのでした。これがイスラエル選民の勝利の基礎になったということを、皆さんが忘れてはなりません。 それではどうしてヤコブが、こんな立場に立つようになったのか。それは人間祖先、アダムとエバが神の御言に不信して、神に背反したために彼の後孫たちは、神様が自分を捨てられる恨があったとしても、この御言を中心に最後まで神を信じなければならなかったからです。ヤコブはこんな立場で御言を中心にして最後まで信仰を守ったので、サタンのすべての讒訴条件を越えることができたのです。 ヤボク川の岸で徹夜していたヤコブに、神を代身して天使が現れなかったなら、ヤコブはサタンの試練を受けるべき立場に立つのです。神はサタンが讒訴できないほどに信じることができ、その御言を中心に闘うことができる代表的な人物として現れるために、ヤコブに天使を送って夜通し相撲を取らせたのです。 ヤコブは一人の人間として、天使を問題なく退けるために死ぬ恨があっても、自分に与えられたこのみ旨を成すという、心を抱いて闘ったのでした。このようなヤコブのまえにサタンはあえて讒訴の条件を示すことができず、どんな弁明もできませんでした。こんな勝利がヤボクの岸でなりましたので、天は第二試験の対象であるエサウを感動させ、ヤコブのまえに屈伏させることができたことを、皆さんは知らねばなりません。 このようにヤコブによって立てられたイスラエルという名と、ヤコブによって立てられたイスラエルの基台は、一代だけの祝福の対象として成立したものではないのです。ヤコブを通して個人的なイスラエルが始まり、ヤコブを通して家庭的なイスラエルが始まり、民族・国家・世界的なイスラエルを形成するためのイスラエルの名であり、イスラエルの基台なのです。こんな神のみ旨があったということを、ヤコブの後孫たちは歴史路程を経ていって感じ、信じなければなりません。 ところがヤコブの後孫たちはヤコブによって自分たちにまで及んだ祝福を、ただ自分たちのものとしてのみ信じ、行動してきたのです。それで選ばれたイスラエル民族は、今日この地上にその事跡を現すことができないでいるという事実を、皆さんはよく知らねばなりません。 民族に対するモ-セの愛と彼が歩んだ苦難の路程 ヤコブがハランで家庭を形成して勝利したのですが、また越えなければならない峠、即ちヤコブ家庭における、天使との闘いがあったのです。これをヤコブの後孫たちは知らなかったのです。即ちヤコブの後孫たちはエジプトに入って、四〇〇年間パロの懐で、民族的な試練を経なければならなかったのです。このときモ-セが現れ、イスラエル民族を再び収拾して、昔ヤコブから約束されたカナンの地を、回復すべき責任を背負ったいったのです。 ヤコブ一代で造られた勝利的イスラエルの足場のような、民族的な勝利の足場をイスラエル民族は、エジプトにおいて持たなければなりませんでした。即ち、イスラエル民族はエジプトで疲れるだけ疲れて、ヤコブがヤボク川の岸で天使と闘って勝利した足場を、怨讐の国において立てなければならなかったのですが、これを立てられなかったのです。言い換えれば、イスラエル民族は団結して、民族的な天の試練と情を通過しなければならない立場に立っていたという事実を、忘れてしまったのです。 こんな立場に立っていた民族を再び収拾するために、天はモ-セを立て、民族を代表してパロ宮中で四〇年間の準備をさせ、ミデアンの羊飼の生活四〇年の路程を経ていったのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブが昔、ヤボク川の岸で成したその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成すことができないでいるので、彼らを再収拾するために、モ-セはヤコブのような民族的な路程を歩むために、荒野に去って行ったのでした。 ヤコブがエサウの祝福を再び受け、ハランの荒野を訪ねて行ったように、モ-セもイスラエル民族を代身して、神からの祝福を再び立てるべき責任を担ったのです。このようなモ-セが、同族同士が一つになれずに争うのを見て憤激し、また民族が異邦人のまえに屈辱を受けているのを見て、その異邦民族に対抗して命を懸けて闘っていったのでした。 こんなモ-セの後に従って、エジプト民族に対抗しなければならないイスラエル民族がむしろモ-セを押し退ける立場に立ったので、これはちょうどヤコブが神の祝福を受け、自分の故郷を去って行ったような立場だったのです。また、ヤコブが祝福を受けなければならない家庭を去り、サタン家庭へと行ったように、モ-セも祝福されるべきイスラエル民族をエジプトに残しておいて、ミデアンの荒野生活四〇年の路程に出て行ったのです。 このようにモ-セが荒野に向かって去った事実は、モ-セ一身のみの問題ではなかったのです。 それではどうしてモ-セは、こんな路程を歩まねばならなかったのか? これはヤコブが神の心情を代身して築いた、勝利の足場がなかったからです。そしてこの足場を民族的に再び築かなければならない責任感を、誰よりも切実に感じるモ-セだったのです。 怨讐の懐で苦役をなめるイスラエル民族のために、誰よりも懇切に祈祷したモ-セ、一日一時であろうと苦役の路程にあるイスラエル民族を、忘れることはなかったモ-セの心情を、皆さんは骨に徹して感じなければなりません。 羊飼として、荒野で寂しい生活をする自身の事情が惨めであっても、自分の惨めさを忘れ、エジプトの地で怨讐にいじめられて苦労しているイスラエル民族を見やり、同情の涙を流したモ-セであることを、皆さんが知らねばなりません。こんなモ-セの寂しい事情と心情が天に染みて、モ-セが天のために案じ、選民のための代表的な兄として現れたので、神はモ-セを再び呼んでパロの宮中へと送られたのです。 これはちょうどヤコブがエサウを恐れて、二一年の間ラバンの家で苦労した後、自分のすべての所有物を持って、エサウがいる所に訪ねていった路程と同じことなのです。このようにモ-セも、ヤコブと同じ難しい路程を歩んで行ったことを皆さんは知らねばなりません。 こうして三大奇跡を見せられ、御言を代身するアロンとミリアムを立て、天が行けといわれるパロ宮中を目ざして行ったのです。 ところで、ここにまたどんな事が起こったでしょうか? モ-セの行く道は神が後押しする立場ではなく、眠っているモ-セを殺そうとされる事が起こったのです。これもやはり、ヤコブが歩んだ行ったことと同じ路程だったのです。ヤコブがヤボク川の岸で天使と相撲を取っている時、腰骨が外れるのも知らないで闘ったその事情を通さなければならないモ-セの立場であったので、モ-セも今、神のまえにそれと同じ立場に立たされたのです。モ-セはこんな試みを無難に越えた後に、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代身して、民族的なイスラエルの祭壇を積むようになったことを、皆さんは知らねばなりません。 モ-セに対するイスラエル民族の責任 今ここに我々が知るべきことが何でしょうか? 我々の先祖たちのヤコブとモ-セだけがこんな路程を歩み、こんな責任を背負うのかといえば、そうではないのです。ヤコブだけがこんな責任を担うのではなく、ヤコブ家庭のすべての食口たちもヤコブ以上に切ない心情をもって天のまえに訴え、責任を担う立場にあったのです。ところがヤコブに従っていったその食口たちは、この事実を知らなかったのです。これが正に天の悲しみだったのです。事実、ヤコブよりも食口たちが、より切実でなければなりませんでした。 イスラエル民族を訪ねていったモ-セ、神がミデアンの荒野で、天地が変わってもわたしの約束は変わることがない、と言われた御言を信じていったモ-セは、固い覚悟と決心をもってイスラエル民族のまえに再び現れたのでした。 こんな立場にあったモ-セには神の試みだけがあったのではなく、ヤコブがエサウから受けた反対のような、パロ宮中の反対があったのです。皆さんが原理を学んでよく知っているでしょうが、ヤコブが十回だまされた事を蕩減する十災禍をエジプトに下して、パロを屈伏させて、イスラエル民族は第二次の民族的な祭壇を造成したという事実を、皆さんは再び回顧して見なければなりません。 それでは神様に哀しみがあるなら、それが何であったのでしょうか? それは怨讐によってもたらされた哀しみではありませんでした。また、神に悲しみがあったとしたら、それは怨讐たちが悪であるゆえに感じる悲しみではなく、神の苦労の道に従ってきたイスラエル民族の祭壇が崩れることが、神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知らねばなりません。 六〇万大衆を率いてカナンの地に入らなければならないモ-セには、また他の試練が横たわっていたのです。これが正に紅海の路程と、荒野路程でした。これは何を意味するのかといえば、モ-セが個人的に歩んだ試練の荒野路程を、民族的に経るということを意味しているのです。こんな運命へとイスラエル民族を押し出していったことを、皆さんは知らねばなりません。 荒野でイスラエル民族は、モ-セが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モ-セが行けば彼らも行かなければなりませんでした。即ち、六〇万大衆が全部第二のモ-セになって、モ-セと神を代身しなければならなかったのに、彼らはこれを忘れたのです。言い換えれば、神がパロの宮中から導き出された時は感謝して、我々を愛される神であると知り、鉄石のような約束によって、自分たちをカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族であったのです。 それではこの民族が、どうして荒野で倒れてしまったのか? 四〇年の間、荒野において放浪の生活をして、牧者の生活をしながらも、神が愛する選民のために気概をもって闘った、モ-セの心を持っていなかったからなのです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたら、荒野で倒れはしなかったのです。 民族をおいて、民族的なイスラエルの祝福を立てようとされた神の願いは、民族を代表するモ-セと、その民族が一つになるところにあるのですが、二つに分かれたので民族を代表するモ-セもやられ、民族を代表するモ-セがやられるにつれて、イスラエル民族も壊れたことを、皆さんは知らねばなりません。 それでは荒野に出ていって、腹がへった時にはウズラを食べさせ、マナを降らせてくださった神様が、どうしてアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃する事が起ったのでしょうか。これは天倫のみ旨に反逆した人間であったので、人間が天倫のみ旨を捜し求めようとするときには、神も反対の立場で打つべき摂理的な条件が残っているので、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。こんな天の切ない心情があったこをを、皆さんは知らねばなりません。 この試験を通過できなかったので、死んではならないモ-セが死に、死んではならない民族も滅んでしまったことを、皆さんは知らねばなりません。この時モ-セには民族に対する指導者としての責任があるので、モ-セ自身に過ちがなくても、不信する民族を代表してシナイ山に登り、食べず着ないで倒れようとするイスラエルを求めて四〇日の間、贖罪の祭壇を積んだのでした。 もしもイスラエル民族に選民の資格があったなら、モ-セがシナイ山に登って切なくやるせない時、その山を取り囲んで六〇万大衆が、寝食を忘れて天に向かい「神よ、我々の指導者モ-セを下ろしてください」という祈祷に力をこめたのです。しかしそんな人間は一人もいなかったのです。 モ-セが飢えて祈祷しなければならない事情は、自分一身のためにではなく、民族のためであったにもかかわらず、民族は夢にも思わなかったので滅びる他はなかったのです。モ-セは、ヤコブがヤボク川の岸で祈祷したように、難しい峠にあったのですが、モ-セを代身してイスラエル六〇万大衆を指導する人間がいなかったのです。もしもこんな人間が一人でも出て民族を率いたら、彼らは困難な立場におかれることはなかったのであり、平安な場にいたのです。そうではなかったので、サタンが民族を籠絡していったのです。このような歴史路程を、我々の先祖たちは歩んだのでした。 試験と試練の意味 こうして再びモ-セを代身する指導者、ヨシュアとカレブを立て、二世たちを率いてカナンの地に入ったのでした。イスラエル民族はカナンの地に入ったなら聖殿理念を実現して、聖殿と一つにならねばなりませんでした。ところがこのような立場に立てなかったので、イスラエル民族は倒れてしまったのです。このように御言を中心として一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見捨てられるのです。 アダムとエバが全被造万物の主人公になれなかったので、この被造万物は御言を中心に六段階期間を通して創造されたので、万物復帰の民族的な峠を越えて、世界的な峠を越える時にも必ず六数の過程を歩んで、神の御言を立てるか立てないかという試験、即ち天使長の代身、アダムを攻撃する事が起こるのです。 それでイエス降臨六世紀前に、イスラエル民族は旧約の御言をよく守るか、守らないかという試験を受けたのです。即ち、天はイスラエル民族がみ旨を世界的に伝播しなければならない時に至るや、民族を打ったのです。これがイスラエル民族が、バビロンに捕囚になる期間なのです。それで過去に神に背反したこの民族が、再び御言に背反するか、背反しないかという重大なる岐路に立ったのでした。 天に背反した民族ですから、天を代身してこの民族が新しい六数の出発の峠を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。それでバビロンをしてイスラエル民族を占領させる時があったのです。 この時、イスラエル民族はどのようにしなければならなかったのか? 神がくだされた御言を抱え、モ-セが荒野をさまよっても神の為に、民族を愛したその心情を抱き、怨讐の国であるバビロンに行って最後まで闘って、この御言を死守しなければなりませんでした。このような民族になるべきなのに、そうはならなかったイスラエル民族は壊れてしまったのです。 旧約聖書を中心に、第二次民族的な御言の基準を復帰しなければならない歴史的な路程に立つイスラエル民族が、神の選民である気概を抱いていったなら、たとえバビロンに捕囚になったとしても、モ-セのような新しい指導者が出て、彼らを率いて行ったのです。 ところが六世紀が過ぎた後に、どんな形態が起こったでしょうか? 意味があってヤコブがエサウの直系を無視し、モ-セが選ばれたイスラエル民族を無視したように、イエスが地上に来られ、意味あってエサウの立場にあったイスラエル民族、エサウ的な御言である旧約を無視していかれるとき、歓迎しなければならなエサウの立場にあったイスラエル民族が、イエスを歓迎しなかったので、世界的な死亡圏を形成してしまったことを、皆さんが知らねばなりません。 それではこのイスラエル民族はどんな型なのか。エデンの園でアダムとエバを試みた、天使長型と似ているのです。そして今から五〇〇年前には、新約聖書を打つということがありました。即ち、人本主義思想を中心とする文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とする封建社会が、根本的に崩壊してしまったのです。 法王庁の主権が壊され、フランスの攻撃によってアビニヨンの捕虜期間を経なければならない運命があったのですが、これは何でしょうか? 復帰路程において、こんなイスラエル民族を代身する第二イスラエル民族が、イエス当時に形成されねばならないのに、第二イスラエル民族を代身した新しい使命を背負うキリスト教が、使命を果たさなかったので、キリスト教を世界的に打つことがあったのです。これは皆さんは原理を通して、よく知っています。 ここにおいて、法王は天のまえに悔い改めなければならず、神が立てた気概の心を抱いて、終わりの日までこのようなみ旨を継承して、今日に至らなければなりません。それでは終わりの日に至って、どのようにしなければならないのか。その時に残る既成の御言と既成の教団は、エサウの立場であり、イスラエル民族の立場に立っているということを、彼らが知らねばならないのです。 キリスト教信者に対する神の願い ですから神に願いがあるなら、その願いが何でしょうか。堕落することによって失ったこの世界人類を、代身して求めた選民イスラエルを復帰することが、神の願いであることを、皆さんは知らねばなりません。イスラエル民族を復帰されようとする天の摂理のみ旨を、皆さんは知らねばなりません。 ヤコブを通して、モ-セを通して立てられたイスラエル民族は、二〇〇〇年前にどこへ行ったのか。イスラエル民族とユダヤの国を世界復帰の足場として立て、この足場を中心にして世界的な復帰の電撃戦をやらなければならないイエス・キリストの路程であったのですが、イエスが逝かれることによってイエス様はモ-セのような事情になってしまい、それで今日になるまでキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じように、荒野路程に留まっているということを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様は地上に来られて、第二イスラエルを回復して、ヤダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならないのですが、このような責任を背負ってイエスのまえに立つ、選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのか。またユダヤ教はどこに行ったのか。イスラエル民族がなくなり、ユダヤ教団がなくなり、イスラエルの家庭がなくなり、ヤコブやモ-セのような個人的なイスラエルもなくなることによって、哀れなイエスになって死んで逝かれたのです。 死にたくて死んだのではありません。今日、既成神学者たちは、死ななければならなかったと、誤って認識しているのです。民族と教団のまえに追われ、家庭から追われ十二弟子から背反され、最後には三弟子からまで背反されたので、行くところは死の他になかったのです。 イエス様が三〇余年の生涯を哀れに死んだことは、神がイエスを送られた目的ではありません。イエス様は神の皇太子であり、独り創造理念を代身することができる天上天下の主人公として送られたのであって、神が愛される独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが誤ってそのようになったのではないのです。民族と教団が知らずにそうなったのであり、社会と家庭が知らずに苦難の道を行ったのでした。 このように、イエスを殺す歴史的な犯罪を犯した我々に、イエスが求めたイスラエルはどこにいるのか! 心から訴えてみなければなりません。またイエスが求めたイスラエル教団はどこにいるのか! 心から祈祷してみなければなりません。イエス様は二〇〇〇年前にこの地上に来られ、イスラエル民族と教団を捜し求めたことを、皆さんが知らねばなりません。 イエスはこの地上に来られ、選ばれたイスラエルが反対することによって逝かれたのです。それで自身を信じるキリスト教徒を、失われた第一イスラエルを代身する第二イスラエルとして立て、世界に広げてもう一度再収拾されておかれるのです。今が正に、そんな時なのです。 それで今日世界に広がってイエスを信ずるキリスト教信者たちには、どんな使命があるのか。イエスに背反して十字架で殺すことによって、最初に選ばれたイスラエルを失ったので、これを代身する第二イスラエルを建設すべき路程が、今日のキリスト教徒に残っているのです。 今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな立場に処しているのかといえば、イエスの十二弟子のような人物を中心として、またはイエスの三弟子のような人物を中心として、一つの教派に団結しなければならないのに、こんな条件を失っているキリスト教ですから大変なのです。モ-セのまえに六〇万大衆は、十二支派長と七〇長老を中心にした班形態の組織内において、各々の位置が定まることによって荒野路程を経ていったのですが、今日第二イスラエルにならねばならない使命を背負う世界のキリスト教徒たちは、班列がないでしょう。 イエスのまえに十二班列を代身して現れた十二使徒と、三弟子が責任を果たさないでイエスが逝かれることによって、全世界キリスト教は世界の代表的な教派を中心に、十二教派の形態をもって結束しなければならない時期が訪れていることを知らねばなりません。 イエスは今、どんな生活をされているのでしょうか? イエス様が天のみ旨をこの地上に成せなかったことにより、ヤコブとモ-セが牧者生活をしたように、今イエスもあの世にいって牧者生活をしているのです。霊界にいって休むことなく、皆さんのために祈祷されているので、これが牧者生活です。 ですから何をされたのでしょうか。イエス様は今までの二〇〇〇年の歴史路程で、イエスを信じていった人々、即ちイスラエルになることができる人々を集めて、霊界において失った第二イスラエル型を造っておくことが楽園なのです。イエスを殺した第一イスラエルを失うことによって、蕩減復帰原則によってイエスのまえに捜し求めてきた使徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した型が、今日の楽園世界なのです。 地上天国の主人公の資格 楽園世界はどのようになっているのか? 楽園世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを歓迎する足場を地上に立てるべき条件があるので、天上のすべての霊人たちは地上に再臨して、現在生きているクリスチャンたちを第二イスラエルの祝福を代身する立場に立てて、彼らと一つになって、第一イスラエルがイエスに反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知らねばなりません。ところが今日のキリスト教徒は、これを知らないのです。 今日終わりの日は、いかなる時でしょうか? 旧約の御言を信じていたユダヤ民族を、異邦民族が打ったように、新約の御言を信じているキリスト教徒を打つ時があるのです。それで人本主義思想を中心に、唯物思想がキリスト教を打っているのです。このように新約の御言を信じるキリスト教が打たれている中で、御言を抱えて出る一つの教派が現れねばならないのですが、この教派は改革教派なのです。 ところでモ-セ路程において、幕屋を祭る時代が過ぎ、聖殿を祭るべき時に民族が結束して闘うべき試練が残っていたことを、ユダヤ民族は知らなかったのです。そして聖殿を祭る時代から、実体聖殿を完成しなければならない時代に変わる時も、宇宙的な闘いがなければならないのです。この闘いを防ぐことはできないので、今日この闘いが世界的に起こったのです。 終わりの日においても同じように皆さんは今、実体聖殿を持たねばならないのです。そして実体聖殿を成した次には、何をすべきか。地上天国を建設しなければなりません。 人間は堕落することによって、御言を失いました。それで新・旧約御言がでて、人間を善なる方向へと導き、今新しい御言がでて、その御言と一つになる人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は、神のみを主とする時代でした。ところが宗教改革が起こって、この宗教改革によって神のみを主とするのではなく、人間と結合している神として考えたのです。人間がこのような過程を経ていったのですが、今実体聖殿を復帰する時代に入ったのです。 それではここにおいて、皆さんはどうすべきかといえば、新約を中心とするこの時に、これから世界的に成約の理念が現れる時、皆さんが世界を抱くことができる主人公にならねばならず、イエスの代身存在にならねばなりません。地上天国の主人公になるには、実体聖殿が成った後に、環境的な主人公にならねばなりません。こんな存在になるには、理念的な革命過程を越えなければならないのです。 それではこの過程は、どのような型によって成されるのか。歴史は蒔かれた通り、または植えられた通りに刈り入れるのであり、今日世界的な終末時代においても、既成観念に属している信仰者たちと、既成主義の御言を持つ者たちは全部、天を背反する立場に立つのです。彼らが誰かといえば、天使長のような立場にある者たちなのです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したように、終わりの日の時代において、天使長のような霊的な教団が現れ、神のみ旨に対して反対する時が不可避なように現れるのです。 神様はこのような原則を通して、復帰摂理をされるということを感じるとき、終わりの日に面している我々は、どうすれば選民であるイスラエル民族になることができるのか。覚悟をしなければなりません。皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? 皆さんはヤコブの後継者にならねばなりません。二〇余年の人生を経て、ヤボク川の岸で闘ったヤコブの代身者にならねばならず、荒野路程においてイスラエル民族を抱えて哀願して歩んで行ったモ-セを、あるいは世界人類を代表するイスラエルの国に対して、ゲッセマネの園で祈祷したイエスを、代身することができる人間にならなければなりません。 末世におかれたキリスト教徒の立場 それでは今、世界に広がっている第二イスラエルよ! おまえの行くところがどこか?世界に広がっているキリスト教徒は、天のまえに訴えなければならない時がきました。イスラエル民族が塗炭の苦しみの中でエジプトのパロ宮中を憎み、我々の約束の地カナンの福地へと誰が導いてくれるのかと、指導者を捜し求めてさまよったように、今日のキリスト教徒も自分が処すべき班列と種族がどこであるかを、捜し求めなければなりません。 ですから既成教会はこわれます。そのようになってこそ、十二班列に分けることができるからです。どうにでもしてみなさい。班列を構成して世界的な復帰の運命を経なければならない立場にあるのですから、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会と家庭そして個人において、威信を失ってしまう時がくるのです。 イスラエル民族がエジプトにいる時、班列編成をしなかったのですが、荒野に出発しなければならない時には班列編成をしたように、世界的なキリスト教も、世界的なカナン復帰のための再臨理想が近づいてきたので、班列編成を開始しなければならない時が来ました。 過ぎし日イエスが地において、ペテロ・ヨハネ・ヤコブを中心に十二弟子を通して班列を編成して、信仰者は誰でもこの支派に属するようにして逝かれたなら、今日世界のキリスト教は混乱を起こさなかったのです。これを再び収拾しなければならない時が来ているのです。ところで最もどん底で排斥されている一つの集まりを立て、証しする時が来ているかも知れないのです。統一教会が正に、こんな教会であるかも知れませんよ。 それで今日、韓国のキリスト教において神霊役事をする人間、ナ長老やパク長老という新しい教派が現れました。このような派が今、教会を壊しています。班列を組織しなければならないのに、こんな役事が起こっているのです。ここに今、問題点として残ることが何でしょうか? 既成主義的な観念です。これは神のまえに怨讐です。既成主義的な観念即ち自分はエサウのように長男であるから、神の祝福を受けなければならないという、こんな下らない思想を、捨てなければなりません。ひょっとして誤ってエサウの観念に立って、イエスを殺したユダヤの民になりやすいのです。 これを越えなければならない歴史の終局に至っているので、今この関門をどのように越えるのか。この時におきまして、誰が怨讐なのか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が怨讐になったように、アダムを復帰するための、第二アダムとして来られたイエスのまえに、霊界の天使長型に該当していた当時のユダヤ教の祭司長が、最も怨讐であったのです。彼らは天使長型を第二次として受け継いで、イエスを攻撃したので地獄に行かなければなりません。 今日終わりの日にもやはり、世界に広がっている教職者たちが再臨される主のまえに天使長になって、天の名において天を打つ、こんな型が起こるのです。しかしこんな立場に立っても環境に影響されることなく、歴史的な運勢は越えてゆくのです。こんな道を誰が歩むのか。このような祭壇の前に新しい御言と、新しい終末を告げる一つの先知者的な使命者たちが出なければなりません。しかし彼らは既成教団のまえに排斥されなければならないのであり、それで新しい段階に越えて行くのです。 それでは同時に、どんな時代が来るのか? 霊的な世界の攻撃時代が来るのです。天使長がヤボク川の岸でヤコブを苦しめ、またモ-セを攻撃したように、世界的な終末時代におきましても、この地上のすべての人々が反対すると同時に、天までも攻撃する時代が来るのです。 サタンの讒訴を逃れることができる信仰 イエス様が亡くなるその時「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七:四六)と言われたことは、満宇宙復帰の主人公を代身して現れたイエスであるので、宇宙を代表したアダムが天に背反したことを、蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様はご自分を知らないというときも「知らない」という神を「知った」されたので、その「知った」という条件が霊的復活を起こさせたのです。皆さん自体にもこのような、歴史的な峠が残っていることを知らねばなりません。 世界的な終末の運勢が、今日皆さんの生活圏内に染みいっていることを、皆さんが感じたならこれが皆さんに、モ-セと民族が結束しなければならなかったその時を預告しているのであり、モ-セがパロと闘ったその時代を預告していることを知らねばなりません。それでは神の悲しみは、どこからもたらされたのか? その指導者たちが誤ったために神が悲しむのではなく、後に従う人々が駄目なために神を悲しませているということを、皆さんが知らねばなりません。 今日皆さんは人が知らなこ、人が行かなこを歩んでいる目的が、何でしょうか? 皆さんは力を合わせて団結して、神の運行される一つの班列となり、食べても飢えても個体を失っても、天倫のみ旨に対して身悶えたモ-セの足跡を死守する後継者になり、イエスが行った足跡に従う後継者として、使命を完遂しなければなりません。これが終わりの日の聖徒たちが、選ばれたイスラエル圏に入ることができる条件です。 天を代身したイエスはこんな原則を知っていたので、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる、といわれたのです。即ちサタンを屈伏させるには、神を中心とする死の場であっても越えなければなりません。天が人間を排斥されてもこれに動揺しないで、引き続いて天を信じていってこそ、サタンが離れ、サタンのすべての讒訴条件を逃れるのです。 それでは今、天は失われた第一イスラエル型を霊的に立て、世界に広がる世界の教徒を第二イスラエルとして立てて、彼らを合わせて一つにした場において、第三イスラエルの建設をされるということを、知らねばなりません。 それゆえ皆さんは、アブラハムのような第三イスラエルの祖先、ヤコブの代身第三イスラエルの祖先、民族の代表者であるモ-セのような第三イスラエルの代表者、世界の代表者であるイエスのような、第三イスラエルの代表者にならなければなりません。また皆さん自身は神の復帰摂理歴史過程を振り返って見て、過ぎし日に父なる神に対して讒訴したサタンを踏み越えて、神を慰めることができる個人、民族、国家、世界になるということを、知らねばなりません。 それでは、サタンとは何か? 神に背反した逆族です。ところでサタンも、神が悪くないというのです。それで神がサタンに対し、与えざるを得ないのです。サタンも神を好きなのです。こんな条件があるので、六〇〇〇年間の長い歳月を経なければならなかったのです。ではサタンも神を好きだという立場で「アダムを通して満宇宙を主管すべきこのようなみ旨を、わたしを立てて主管するようにしてください。であれば神のまえに絶対服従いたします」このようにいうのです。 サタンは神に対抗していって、神のまえに肯定せしめるための役事をしているのです。摂理のみ旨に最後まで反対して、肯定させるための立場に立つのです。 忠臣のふりをする奸臣たちも、王を嫌う法はありません。ところが忠臣を取り除いて、自分の言うことを聞けというのです。 このような立場に立つサタンの圏内に全世界が入っているので、これ一つだけ認定すれば、世界が神に帰ってくることができるのです。ところが、なぜしないのか? 天理法度を破ることができないからです。神は法度の神であれば、秩序を壊すことができないのです。ですからあらゆる苦労をされても、世界を主管するサタンを肯定することなく、世界を主管するサタンのまえに人間を立てて、讒訴するサタンを阻むのです。これが神の切ない心情であるのです。 もしもサタンの讒訴を阻む人間が現れたなら、神に対してとやかく言わせないのです。天理原則が回復されるので、エデンの園で天使長がアダムとエバの主管を受けなければならない原則を持ちだす主人がいれば、サタンが根本的に屈伏しなければならないのです。それもイエス様のように霊界で、神の玉座に行くことではなく、地上においてこのような一日を立てなければなりません。こんな一日を立てる時が、再臨時代なのです。 皆さんは今、反対するサタンの立場に立ってはならず、六〇〇〇年苦労された神の足跡に従って行かねばなりません。今日終わりの日の皆さんは、神の無限の世界の初めての出発であるアダムとエバから今日に至るまでの、復帰過程において苦労された神の心情を体恤して、神の後に付いて行かなければなりません。このような運命におかれているにもかかわらず、夢にも見ないでいるのですから大変です。 サタンの試験に勝利する道 「神よ! 私を通して栄光を受けてお休みください」とすることのできる天の国の選ばれたイスラエルがなければなりません。このような使命を代身したヤコブであり、モ-セであり、イエスであったのです。神がサタンと闘う闘いを代身して受け継ぎ、サタンに対抗して闘うことができる一つの姿になってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天のまえに立てられるのです。こうして今まで神を讒訴していても、戦争の目的を終結させておかなければならないのです。いかなる抗議もできないので、戦争は終わるのです。こんな人々を中心にしていって、第三イスラエル建設のために出発すべき時が来なければならないのです。 モ-セ時代のエジプトの地のイスラエル民族は、自分たちの故郷であるカナンの福地を攻撃する戦いが残っていたのであり、イエス時代にはイスラエル民族を中心に、世界的なカナンの福地を建設する戦いが残っていたのであり、今日第三イスラエルを建設しなければならない我々においては、団結して第三イスラエルを成就するための激戦が残ったのです。 それでは今日皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? イスラエル民族を再編成してゆくとき、天に対して神のまえに立てられたイスラエルの選民として自ら進んで、三人組の一員になり、小隊長になり、中隊、大隊、連隊、師団長にならねばなりません。こんな天の精兵の指揮官に、誰がなるかということが問題です。これをやらねばならない時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてのものが、一つの世界に統一されるのです。多くの人々が思想統一を要求しており、地上世界が統一理念を要求しているので、必ず天の理念を通す、統一の時が来るのです。 今までの歴史過程ではどのようになったかといえば、二つが戦えばその中で少しは善なるものが勝ったのです。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入ってくれば、どのようになるでしょうか? 地上よりも少し善なるものが勝つのです。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから今日、名を神経症などという神経系統の病気が、多く発生するのです。薬では駄目です。これは天地サンファ湯(疲労回復の煎じ薬)を飲まなければなりません。 天を和動させ、地を和動させることができる、そんな理念のために霊界が地上を襲撃する時が来たのです。地上人が地において神のみ旨を代身する時ですから、一つになるためには必ず戦いがあるのです。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心にして合わさる正に審判の時なのです。このように霊界が地上を襲撃するこんな場面で、地上を代表する総指揮官の使命を持ってくるお方が、再臨主であるのです。 第三イスラエル建設路程の出発に立つ皆さん! 皆さんはどうしなければならないか?霊界の法度を知ってこそ、逃れることができるのです。この命令系統がどのようになっているかを、知らなければなりません。その国の軍隊は、自分の側の軍隊が使っている暗号を知れば、戦争する時に自分の側から攻撃されることはありません。 この時は天の国の暗号が聞かれる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、また人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代なので、このような暗号を通して連絡でき、作戦計画を遂行をして、地上統一の理念を代身することができる時代なのです。 今日、既成教会で反対するパク長老やら、ナ長老やら、統一教会やら、あるいはいわゆる異端やらいうこと、よろしいです。現代は科学も天宙時代を論議するそんな時代です。このような時代に至ったのに、未だに古臭い宗教観念を持っていては駄目です。これを踏み越えて上がる、一つの包括的な統一主義が出てこそ成るのです。 今日暗号に通じることができる短波装置があるように、神の秘密に通じる短波装置の所有者があるなら、彼は勝利するのです。ですから霊界が地上を襲撃して来る時は、戦争方法が変わるのです。起きることは起きるのですが、限界を知りません。このような様相の戦いが地上に起こるのですが、この時に良心ある人々は、ここに動員されてくるのです。 第三イスラエルの先祖になる道 今皆さんは終わりの日のこの一日に備え、良心的な善なる人々を犠牲にして、今日まで歴史が流れて来たことを知らねばなりません。今日、堕落の運命におかれている我々は、最後の帰一的な理念世界を捜し求め、すべてのものを失って犠牲にならねばなりません。そしてイエスの肩にのっかって「神様、私に任せてください」と自信をもって言うことのできる天の息子・娘にならねばなりません。神もこんな息子・娘が現れることを願っているのです。 皆さんは楽園世界のすべてのものを解怨して、天国生活を教えてあげるべき使命がイエス、あるいは神にあるのではなく、今日終わりの日の皆さんにあるということを、肝に銘じてください。イエス様の代身、すべての作戦計画を任され、神の代身、闘ってゆく代表者が出て、責任を完遂してこそ神を解放してあげられるということを、知らねばなりません。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利的なイスラエルの路程を捜し求めて行かねばなりません。 そのためには皆さんが、自分が属している班列を捜し、自分の指導者を捜さなければなりません。また自分が留まっている位置が、天のまえにどんな位置かということを知り、変わらぬモ-セ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代身存在にならねばなりません。それでサタンに対して号令してゆくときも「君、このときは宇宙の創造理念を代身して神のまえに栄光をお返しする資格者である神の息子・娘だなあ」という賞賛と共に、サタンから敬礼をされる一人の存在になってこそ、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代身して、神のまえに立つことができるのです。 そのようになる前に、皆さんは一大激戦にぶつかるのです。皆さんを各教派が攻撃するのです。皆さんを霊的に試験もします。モ-セを神が打ったように、皆さん自身にもこのような路程があり、モ-セを民族が背反したように、皆さんのまえにもこのような路程があるのです。イエスが十字架上で天から捨てらたように、皆さんのまえにもそんな事があるのであり、イエスが民族から背反されたように、皆さんのまえにもこのような路程があるということを知り、皆さんはここで落胆してはなりません。 神のみ旨というものは優しいみ旨ではなく、極めて難しいものです。それで皆さんは世界的な艱難を背負い、極めて凄まじい反対を受けても闘いの路程で倒れてはなりません。世界と天地の、一つの帰一点を発見するときまで、皆さんは闘争し続けなければなりません。 この過程において皆さんは、イスラエル民族がエジプトを離れて荒野に出て、食べる物がない、飲む水がないと恨嘆したように、恨嘆しないでください。誰が知ってくれないと恨まないでください。自分を知ってくれるモ-セのような指導者が、一人だけいてくれたら最高と考えてください。自分を知ってくれる神だけを抱えてこれが最高と信じて、すべてが排斥したとしても、このお方だけを抱えて行けば、このお方がなさることを自分が受け継ぐことができる、という心を持たねばなりません。こうしてこそ皆さんは、第三イスラエルの選民たる資格を得て、神の栄光に参与することができるのです。 こうして神の栄光の姿となることができると同時に、歴史的な栄光の姿、全天宙の理念を代身する栄光の姿になるのです。即ち我々が栄光の息子・娘として世界を代表し、天のまえに現れてこそ、初めて神が休まれるのです。 ヤコブに天使が祝福したそんな祝福ではなく、神が直接イエスに手を差しのべて祝福された、その祝福を下さるのです。即ち、終わりの日に訪ねてきた皆さんに神は手をのべ、イエスを代身するわが息子・娘、永遠の第三イスラエルの主人公としての、わが息子・娘になれと祝福されるのであり、永遠に天が喜ぶことができる実体的な、喜びと栄光と美の存在になれと、初めて祝福されるのです。 このようにイエスの愛を通して、神の愛の圏内に入り、神の愛を成してこそ第三イスラエルの祖先になるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.03
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イエス・キリストの心臓を持つ者となれ一九五八年一月二六日(日)前本部教会皆さんと暫くの間考えてみる御言の題目は「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」です。聖句の中で「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるのは神である」という御言を中心に「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」という題目でお話しします。 アダムとエバが堕落したその日から、神の所望が何であるかといえば、神の心情を代身することができる人間、神が住まわれる聖殿として完成した人間、神と一致する心情と心臓を持つ人間を捜し求めることです。 この地の上に神のみ旨を代身した、神の実体聖殿として来られたイエス・キリストは、四〇〇〇年の間、神が苦労された歴史的な摂理路程を代身して現れた神の聖殿であると同時に、四〇〇〇年の間摂理された神の内的心情を代身したお方として、実体的な生きた胸を持って現れたお方であったことを、今日我々は感じてみなければなりません。 イエスの心情と心臓 神の心情を体恤しているイエス・キリストの体であり、神の心情を感じているイエスの心臓なのです。それでイエス様のときめく心臓は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動ずればイエスが動じ、人間が静ずればイエスが静ずる一体の関係を結ばなければならないのであり、これが地上に来たイエス・キリストの使命であったのですが、神の心情を感じるイエス・キリストの内的心情を知る人間、神の体を代身するイエス様の外的心臓を知る人間がいなかったのです。 それでイエス・キリストの心臓がどうだったかといえば、三〇年の準備期間に他人が知らぬうら寂しさを感じる心臓だったのです。 イエス様はなぜ、こんなうら寂しさを感じたのか。それは神が人間始祖のアダムとエバが堕落することによって、創造の理念を成して栄光を受けようとされた神のみ旨が成されず、被造万物は主人を失う立場に立ってしまったので、これを見やる神は口にも言えないうら寂しさを感じておられるので、そんな神の心情を知るイエス様でしたから、イエス様もうら寂しさを感じたのです。それゆえ皆さんもイエス様のように、被造世界が口にも言えないほどにうら寂しい世界になってしまったことを、感じる人間にならなければなりません。 三〇年の準備期間を経たイエス様は、その次にどんな生活をされたのか。四〇〇〇年の間、神様が苦労されて選び立てられたイスラエル民族のまえに、神を代身してみ旨を受けて現れ、新しい福音を伝えるとき、その胸は言葉にもできない使命感がみなぎっていたのです。三〇年間の哀しみの人生を精算して、天の哀れさと悲しみをさえぎり、失われたエデンの主人公を再び回復させるべき使命を負うイエスは、誰にも話すことができないときめく心臓を抱いて現れたということを、皆さんは忘れてはなりません。 選ばれた選民のまえに現れ、神の代身、新しい御言を伝えるとき、み旨に従ってきたイスラエル、摂理のみ旨を代身して召されたイスラエルは、イエス様を理念の全体を代身したお方として、自分たちの希望の実体として、自分たちの栄光の自体として侍る環境を持たず、むしろ彼らはイエス様のまえに反旗をひるがえし、敵対する胸を抱いて現れたのです。神がご自身のみ旨を代身して立てた、アダムとエバが堕落することによって、哀しみを感じられたように、立てられたイスラエル民族がイエス様のまえに、み旨に対して応じてこなかったとき、イエス様は神がアダムとエバを失い、悲しまれた心情を再び感じる他なかったことを、皆さんは知らねばなりません。 不信するイスラエル民族を見やるイエス様の心情は、無限に悲しかったのです。憤慨心も大きかったのです。天のまえに訴え、呪咀し、彼らを打てと命令したい心も痛切であったのです。しかしイエス様はそんな心情をすべて振り捨て、溢れる胸を、溢れる心臓を押さえつけ、昔エデンでアダムとエバが堕落した後に、神が耐えられたその心情を思い、じっと耐える、哀しい心情を抱かれてきたのです。そして反対するイスラエル民族に対して希望を残してきたイエス・キリストであることを、皆さんは知らねばなりません。 イスラエル民族を代身して贖罪の祭壇を積んでゆくべき洗礼ヨハネであるとか、アブラハム以後四〇余代の選民の血族として、神の手によって導かれてきたヨセフ家庭も消え失せ、み旨を受けてご自身を懐妊して産んで三〇年間育ててきたマリアと、兄弟たちや氏族たちもみな消え失せてしまったのです。 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない」(マタイ八章二〇節)と言われたイエスの心情、天のみ旨を抱えて孤独な身の上で闘って行かなければならなかったイエスの脈打つ心臓を、皆さんはこの時間にも感じてみなければなりません。その脈打つ心臓の中に、神の苦労が大きいことを知れば知るほど、イエスの切なさと憤慨心は大きくなり、選ばれたイスラエル民族に対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は張り裂けんばかりの怨恨に染みたのです。しかしこれをこらえ、黙って家を出ていったイエスの心臓がどうであったかを、皆さんは感じてみなければならず、今日脈打っている皆さんの心臓がどんな状態であるかを探って見るときが、正にこの時であることを知らねばなりません。 イエス様の真の友 時は過ぎましたがイエス・キリストの脈打つ心臓の脈拍が、今日皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通して動いているのです。それゆえ皆さんは、天的な心臓の脈拍を代身することができる人間にならねばなりません。こんな責任を代身することができる人間が現れることを、イエス様は二〇〇〇年の間、苦待されてきたのです。また神は六〇〇〇年の間というもの、待ってこられたことを皆さんは知らねばなりません。 このような事を考えてみるとき、枕する所もない事情におかれたイエス・キリスト、選ばれたイスラエル民族を後にして、天を信奉してきたユダヤ教を後にして、三〇余年の生涯を懸けて荒野でイナゴと野蜜を食し、千辛万苦、苦労してメシアの道を備えた洗礼ヨハネも後にして、選ばれたイスラエル民族の血族として続いてきたヨセフ家庭も後にして、天を背にし、家庭を背にし、教団を背にして荒野に出て行ったイエスの脈打つ心臓は、いかばかりであったかということを、皆さんは知らねばなりません。 背を向けて行かれたその歩みに怨恨があったとすれば、天を代身して染みる心情を持って民族を恨み、その恨みに染みた心情が鬱憤ばらしをするなら、呪咀の炎を下して審判の訴えをすべき立場であるにもかかわらず、イエス様は民族の行く道を案じ、背反し排斥する人々を案じ、彼らを再び抱くために荒野に向かって歩んで行かれたのです。こんなイエスの寂しい心情を、皆さんは感じなければなりません。 歴史的なすべての運命を精算し、自身の使命の全体のための準備と、時代的であり永遠の問題の解決のために、この世の万事を放棄し、頼るべき所一つない不毛の荒野に向かって行ったイエス・キリストの心臓を、推し量ってみる人間にならねばなりません。 イエス様は民族を後において荒野に行き、四〇日間の断食をしたのです。このように荒野に出て、食べる物も食べずに四〇日間、独りさまよったことを考えれば悔しさが染みるのですが、四〇〇〇年の間耐えてこられた神の心情を考え、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じるイエス様は、彼らに第二の基台を造ってあげるために、荒野で食べる物も食べずに四〇日間、神のまえに民族的な祭物を捧げたことを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんも断食してみて分かるでしょうが、イエス様は四〇日断食期間中、食べる物も食べなかったので、体が渇きに渇いたのです。四〇日間断食する過程で、イエス様の心情は口に言えぬほど憂いに沈み、心臓は衰えていったのですが、四〇日断食の峠を越えたのは神の心情を感じたからです。 それでは今日皆さんは、どうしなければならないか? イエス・キリストの事情に通じる友となると同時に、食べなかったイエス・キリストを抱きかかえ、死にゆくイエスの心臓の音を案じる友とならねばなりません。 そして力のでない体ではあっても、天倫の新しい理念を開く闘いの路程で、煮えたつ心を抱えておられたイエス様、神の寂しい心情を思って染みる心を抱えておられたイエス様に、友が現れずにサタンが現れて試練したのです。こんな事情に処しても、自身の使命を完遂しなければならないイエス・キリストの心臓を感じる皆さんでなければなりません。 サタンが現れ、イエス様の心と体まで破壊するための三大試練をするとき、我々は神のみ旨を代身し、民族を代身し、先祖たちを代身して新たに決心していったイエス様の、脈打つ心臓を感じなければなりません。 結局、サタンの試練を押し退けたイエス様は、自身を排斥したイスラエル民族、また自身に反対して追い出したユダヤ教が、再び訪れるのは骨の折れることであることを知ってはいても、荒野に出て神と談判した後に、この罪悪の都を復帰するための闘いに燃える忠誠心をもって、決然と立ったことを皆さんは知らねばなりません。 この日から、イエス様は死を覚悟していったのです。イスラエル民族を代身し、死んでも自分の一身は自分のものではないことを自覚して、自分を試練したサタンに対して、自分を排斥したイスラエル民族に向かって、第二の攻勢をかけていったイエス・キリストの脈打つ心臓を、皆さんがこの時間、再び感じなければなりません。 ところで俗に、人々はイエス・キリストだからそんな事情に耐えられたのであって、そんな苦難と非難にも耐えることができたのだと言うのです。しかしイエス・キリストだからより耐えられないということを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は人よりさらに鋭敏であり、人よりさらに深い心情に染みておられたがゆえに、誰にもない悲壮な心情を持ったのです。 こんな立場に立ったイエス・キリストが、失った都を再び求めて行ったとき、人々は信じなかったのです。イエス様があれほど悲しい生活、ぼろをまとう生活、飢える生活をみな経てゆく立場に立ったとしても、地上においてイエス様の事情に同参する同志が、一人もいなかったのです。それでイエス様は神だけが自分の友であり、神だけが自分のアボジだという心情を持たれたのです。このように当時の人々は、イエス様を信じようとしなかったのです。 神はわたしと共におられた 民族が背反し、教団が非難し、親戚と血族が顔を背け、自身のすべてのものがなくなったとしても、ただイエス様の慰めとなり、彼の希望となり、彼の心情を補ってくれたものが何であったかといえば、果たして神は自分と共にいるという事実、神は自分のものというこの一つの事実であったのです。この一つの事実が、四〇〇〇年の歴史を代身して再び天を案じ、神のみ旨を再び成してイスラエル民族に伝え、神の心情を万人類に植えつけようという思いを抱かせたのです。 イエス様はご自身が荒野に出る前までは、神は愛の神とのみ思っていたのです。自身を育ててくれる無限の希望の神として、喜びをもって訪ねて来るお方と思っていたのが、こんな手にあまる心情を抱いてゆくとき、昔は相対的な関係としておられ、いつも自分を育て、自分を抱いてくれ、慰めてくれた神の難しい事情に面して、神の難しい事情と悲しみの心情を感じるようになったのです。そんなわけでみ旨を「わたしが担います」と訴え、こんな心情を抱いてゆくとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共におられる神として、神と共に新しい覚悟のもとに、怨讐たちのまえに出ていったのです。 それで四〇日断食期間が終わり、新しい闘いの路程を出発したイエス様、民族を代身して四〇〇〇年の神の怨恨を解いてあげるために、神の怨讐であるサタンを退けるために、死を覚悟していったイエス様は、イエス一身としてのみ行ったのではなく、四〇〇〇年の間そうであった姿、神の心情を代身したお方の姿として現れたのです。 この次からされたイエス様の御言は、イエス自身の御言ではなく、イエス様の行動もイエス様自身のみの行動ではなかったのです。イエス様がされた御言は、神の御言を代身したものであり、イエス様がされた行動は、神の行動を代身したものであったのです。イエス様は明らかに神が自身の心のうちに生きておられ、自身の心情を動かしておられることを感じたのです。 こうしてイエス様は再びイスラエルの村々に帰ってきました。ところが初めに民族が反対したときには、寂しい心情を抱いて荒野に出て行ったのですが、今は押し寄せる試練と迫害がどんなに強くても、ぶつかって勝負をつけるという覚悟と決意をもってゆくキリストの心情を、皆さんは今一度考えてみなければなりません。 失ったイスラエルを再び捜し求めるために行くイエス様、肉体がなくなる恨があっても決して後退しないという、確固たる信念に燃えれば燃えるほど、さらに脈打つ心臓を抑えることができないイエス様であることを、誰が知っていたでしょうか。この世の中にはイエス様の脈打つ心臓を知る者が、まるでいなかったのです。ただ神様だけが、イエス様の心臓を知っておられたのです。 このような中でイエス様は、三年公生涯路程を歩み始めたのです。初めに弟子として使徒たちを選び立てたのです。しかしイエス様は弟子たちに対するときにも、四千年の間、アダムを失って悲しまれる神の心情を代身して、弟子たちに対されたのです。この弟子たちが誰でしょうか? 神の実体聖殿になるべき使命を持っている弟子たちでした。そしてイエス様は直接彼らをして、実体聖殿になるように導くという心が、骨に染みていたのです。 反対するイスラエル民族もサタンの宗族ではなく、神の実体として現れなければならない息子・娘であるので、神のみ旨を知らずに反対する彼らを見て悲しむ神の心情を感じるイエス・キリストの心情が、いかばかりであったかを皆さんは知らねばなりません。 それでイエス様の三年公生涯路程を探って見るときに、イエス様は自身の為に生きるのではなく、まず神の為に生き、次には弟子たちと人類の為に生きたのです。イエス様は自身の為に生きたのではなく、神の心情を代身して生きたのです。 イスラエル民族の不信と弟子たちの無知蒙昧 そしてイエス様の脈打つ心臓は、神を代身し、イスラエル民族を代身していたのです。それがゆえに神の悲しみがイエス様の悲しみであり、イスラエル民族の悲しみがイエス様の悲しみになったのでした。ここに神と、イエス様と、イスラエル民族を代表する使徒たちは、三つではなく一つになることができたのです。神と民族と自身が一つになるという心情に染みた、イエス様であったのです。そして皆さんはイエス様がご自分に従ってくる弟子たちを、自身の真の子女以上に大切に思われ、愛されたことを知らねばなりません。 イエス様の三年公生涯路程は、子女たちの為に犠牲になる父母の心情をもって、真の愛の生活をされた路程だったのです。罪悪にあえいでいる人間たちを哀れに思う神の心情を代身して、民族と使徒たちの心情を代身したイエス様であることを知る人間がなく、イエス様の事情を知る人間が、地上に一人もいなかったのです。 一人も知る者がいない中で、切ない天の心情を抱いて闘って行かれたイエス様、また再び民族が反対し、ついてきた人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で独り祈祷されたイエス様の心情は、いかばかりであったか? 皆さんはこれを考えてみなければなりません。ゲッセマネの園で、夜を明かして祈祷されたイエスの心情は、言葉にならぬほど切ない心情であったのです。であったにもかかわらず、ついてきた三弟子たちは、イエス様と行動を一致することができず、各自それぞれに行動したのです。イエス様だけを通して行かねばならず、イエス様と同じ心情で訴えなければならないにもかかわらず、またイエス様は愛する弟子たちの為に心から訴え、弟子たちを案じたにもかかわらず、彼らはイエス様の心情がどうであるかを知らず、疲れて眠ってしまったのです。 生死の決判をつける場、死ぬか生きるか、岐路に立っていたイエス様の心情は、天と地が溶けるとても言葉につくせぬ切ない心情であったのです。しかし三年の間、本当の息子娘のように育てた愛する三弟子は、イエスの心情を知らずに居眠りをしていたのです。それで火のように切ない心情で、三度まで弟子たちを目覚めさせたイエス様の痛々しい心情を、皆さんは感じなければなりません。 この時、イエス様はどんな心情を感じたことでしょうか? 神がエデンの園でアダムとエバを失って感じた悲しみを、感じたのでした。そしてイエス様はご自身のまえに、第二民族として選ばれたイスラエル民族が反対し、ユダヤ教が反対し、再び三年公生涯路程を経てきながら、自身を絶対に信じる一人の人間を捜しだせなかったとき、信じがたい人間たちであることを感じたのです。 アダムが堕落した後に感じた神の悲しみ、イエス様の三〇年私生涯期間と、三年公生涯期間に感じた悲しみ、さらにはゲセマネの園で祈祷したその切ない心情を感じて、イエス様に対した人間がいないのであり、神の心情を感じる人間がいなかったのです。三年公生涯路程で喜怒哀楽を共にした、弟子たちも知らなかったのです。 神を代身して歩んで行かれた一生であったにもかかわらず、イエス様が歩んで行った目的が、民族の為であり、世界の為であり、人類の為であったにもかかわらず、三三年の生涯を歩んでみれば、残っていたのは独りだったのです。そして四〇日断食を終えた時も、切ない心情と哀しい心情に染みるイエス様に、怨讐サタンが現れたのでした。 こんな時、イエスの心情はいかがであり、脈打つ心臓はどうであったか。人間の世に対して、すべての事を信じることができず、どんな所にも頼ることができず、居場所を伝えることができない切ない事情にあったにもかかわらず、怨讐サタンが現れて試みたので、イエス様の心情は言葉にならぬほどに切なかったのです。ではあってもユダヤ民族と、人類を案じて、焦るようなイエスの心情を、皆さんは知らねばなりません。 我々に歴史的な使命を代身して、蕩減の路程を再び歩まねばならない責任があるとすれば、神の心情を代表するイエス様の切ない心情を代身し、代身して闘い、イエス様の脈打つ心臓を代身して案じなければなりません。天はこのような真の息子・娘が現れることを苦待されておられるのです。 十字架を背負うイエス様の心情と心臓 所望の条件を全部断ち切っていった荒野の路程において、イエス様はサタンと闘い、勝利されたのですが、イエス様には実体祭物を捧げなければならない事情があったのです。これを皆さんは知らねばなりません。 こうしてイエス様は愛する弟子たちと共にエルサレムに入られ、選ばれたイスラエル民族と教団を失って瓢々単身、哀れにもゴルゴダの道を歩まれたイエス様の事情も、皆さんは知らねばなりません。また、この事情から恨むべきイスラエル民族であり、呪咀すべき十二使徒ですが、鞭で追い立て、大声で騒ぎたてる選ばれたイスラエル民族を見やり、言葉もなく十字架を背負い、死に至るゴルゴダの道を歩んで行かれるイエス様の心情を、皆さんは知らねばなりません。 イエス様も人間ですから、人情的な感情があるなら悔しいのです。呪咀と恨みに染みた痛憤なる心が胸に込み上げてくるのですが、神がこの民族を、この世を再び救援されようとするみ旨が残っていることを知るイエスは、呪咀の口をふさぎ、哀しみの心情にかえたのです。 イエス様はご自身が天を代身してこの民族を呪咀し、神を代身して審判すれば、後代の人間を救援する救援摂理が破壊されることを感じていたので、救援の一基準を立てることができたのです。もしもイエス様が自身の悔しさを、悔しさとして表し、神を代身する自体として呪咀と怨恨の立場に立ったなら、この世の中は希望がすべて絶たれてしまうのです。この世の中はこの時から、お終いになってしまうのです。 このような事を知るイエス様でしたから、自分が死の峠を越えたとしても成せねばならない神のみ旨があることを知るイエス様の心情は、呪咀し恨むべき民族に対して、復讐すべき怨讐たちに対して「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三:三四)とされたのです。このように第二救援摂理のみ旨を受け継ぎ、出発した切なくも深刻な瞬間であったことを、皆さん知らねばなりません。こうして神はイエス様を第二救援の実践者として立てることができ、人間たちに復活の恩賜を与えることができたのです。 このような事情に処したイエスは、怨讐たちが十字架に釘打つことを忘れ、過去の歴史を回顧して神の心情を案じ、未来の後代の子孫たちを案じ、自身の血肉が引き裂かれることも忘れて、天の歴史的な哀しみの心情を代って背負い、歴史的な神の怨恨と、歴史的な救援のための責任を代って背負い、「天よ! 蕩減してください!」と訴えたイエス・キリストの心情と、イエス・キリストの止まってゆく心臓を思う人間にならなければなりません。 こうして万民にために哀惜しながらも、人間として生まれてこの世に一つの慰めの場所さえ求められず、こっちに追われ、あっちに追われる寂しい孤児のように、追われる放浪児のように寂しこを歩む生活が、最後の場がカルバリ山頂の十字架の死で終わってしまったこの事実を考えてみるとき、これをご覧になる神の心情がいかばかりでしょうか! 神の悲しみは、天と地が引っ繰り返ったほどだったのです。聖書にイエス様が息をひきとる時、三時間にわたって天地が暗くなったと記録されていますが、これは神も四〇〇〇年の間信じてきた息子イエス、四〇〇〇年の間失ったアダムを捜し求めるために、後のアダムとして立てたイエスであったのが、死のゴルゴダの道で祭物になってしまったことをご覧になり、息もとまる心情を抱かれたことを表しているのです。このような神の悲しみと切ない心情を知らねばなりません。 これを知るイエスは、神の悲しみが自分の悲しみよりも大きく、神の憤りが自分よりも大きいことを知り、神の痛みが自分の痛みよりも大きいことと、反対する民族ではあっても再び捜し求めなければならない、神のみ旨があることを知っておられたがゆえに、イエスはむしろ「わたしの死は軽いのです」と従順に祭物になったのでした。死の場にあっても、こんな従順と孝誠の心情が強かったイエス様を、皆さんが知らねばなりません。 このように逝かれたのですが、イエスの死を慰める人間、イエスの死体を神の息子として侍って差し上げる人間は、一人もいなかったのです。また、イエスを好き勝手に扱ったロ-マ兵たちは、終いには槍でイエスの心臓を突き刺したのですが、このように突き刺されたイエスの心臓を、皆さんは知らねばなりません。 自分の血がふりまかれた心臓になって、一滴の血も残さない残忍な怨讐のまえに立つイエスの心臓を、皆さんは考えてみなければなりません。 終わりの日の聖徒に対する神とイエス様の願い それでは神の怨恨と悲しみが何であったか! 地上に生きたイエス・キリストの生涯を代身し、神のみ旨を証したイエス・キリストの心情を、自分の心情のように感じ、イエス様のみ旨を代身、相続する者が誰なのか? 神はこんな人間がでてくることを願っているのです。 こうして死んで三日のうちに暗闇をかきわけて復活して、選ばれた第一イスラエルを失って、第二イスラエルを救うための福音運動を展開して求めた人々が、今日全世界に広がっているキリスト教徒であることを知らねばなりません。 今日世界キリスト信者たちは誰なのか? 彼らはイスラエル民族の失敗を復帰するための第二イスラエルであり、第二の選民なのです。 それでこの民族のまえに、人類のまえに、この一つの所望と救援のみ旨が残ることによって、十字架上で祈祷されたこのみ旨を解怨するために、イエスも神も摂理されておられるのですが、この所望が誰に留まっているのか! 今日第二イスラエルである皆さんに、留まっていることを知らねばなりません。 四〇〇〇年歴史を代身して現れるべきイスラエルが崩れたことを、今日我々は復帰したイスラエル、イエスに反対したイスラエルを、イエスを歓迎するイスラエルに復帰しなければなりません。そして神の心情を代身して来られたイエスを排斥したイスラエルをこわし、今日第二のイスラエルである我々が神を代身して、悔しさを解怨して差し上げてこそ今日主様を我々は迎えることができるのです。天もこれを要求しておられるのです。 それでは終わりの日の聖徒たちに願う、最大の要求が何であるのか! 再び来るメシアを迎える人間は誰であるのか! イエス様が切ない心情を抱いてこられたその脈打つ心臓の、内情を体恤する息子・娘なのです。そのような息子・娘がこの地上にでてこそ、死なれたイエス・キリストの恨を解き、神の怨恨まで解いてあげることができるのです。であれば人間は喜びの一日を迎えることができることを、皆さんは知らねばなりません。 イエスは復活の一日を求め、復活した後にもイエスは排斥した弟子たちに会ったのですが、喜ばれはしなかったのです。復活した後にマクダラのマリアがイエスに会い、抱きつこうとしたときも、触れてはならないとされたのです。 喜びの一日であり、喜びの瞬間であったのですが、歴史的な悲しみを引きつぐ事情を知らない彼らであったので、彼らはイエスを代身し、イエスのまえに喜びの一つの条件を立てることができなかったのです。これを皆さんが悟り、復活した後にイエスに抱きついたマリアの心情を越えて、イエスの内的心情を洞察して、彼の心臓まで知って、一人の主人公の資格を得て、天地を肩に背負う勝利者の資格を得なければなりません。いかなる人の世のサタンであっても踏みつけて天のまえに出てゆき、神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々になってこそであります。 アベルの血が歴史を代身して訴え、これを蕩減しなければならないイエス様が、血の訴えの祭物を捧げたのですから、その後に我々はどうしなければならないのか! イエス様が血を流したことのみによって終わるのではなく、この血を収め、再び神が生きる人間の血として我々の心身に備え、この血が躍動する天的な心情と心臓を所有する、資格者にならなければなりません。 皆さんは、イエス様が自身を排斥した彼らに対して、もう一度許しの心を抱かれた心情を知らねばなりません。互いに鉄石のごとくに信じ、死ぬも生きるも一緒であり、同じ生死の道を行くと覚悟をした弟子たちが排斥してゆくとき、ここにおいてイエス様が再び雅量をもって彼らに対され、ご自身が代身して死の峠に当たるとしても、彼らを呪咀されることなく、許されたその心情を知らねばなりません。 また排斥した弟子たちをみな後にして、復活して喜びの心をもって独り昇天していったイエス・キリスト、ご自身に反対した使徒たちを訪ねたイエスの心情を、皆さんは感じてみなければなりません。 歴史的な解怨の出発点 それでは今日、歴史的な解怨はどこから始まるのでしょうか。イエス様の悲しい心情を慰め、喜びの心情にするところから始まるということを、皆さんは知らねばなりません。今日、地上で悲しむ人間がいるなら、彼を抱きかかえて悲しむ皆さんにならねばなりません。 地上で選ばれた第二イスラエル的な立場の、世界に広がっているキリスト教徒たちを見てみるとき、選ばれたイスラエルを再び収拾して、神の祭壇を積み、生きた祭物を捧げなければならなかったイエス・キリストの切ない事情が、歴史的な怨恨として結ばれていることを知らねばなりません。そして今日世界に広がっている第二イスラエルを動員して、彼らの保護者となり、彼らの闘いの代表者になり、彼らを代身してサタンに対して闘ったイエス・キリストの事情を体恤する人間にならねばなりません。こんな心情を体恤する使徒たちになってこそ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことができるのです。 皆さんはまた、すべてのものを放棄していったイエス・キリストの足跡を死守し、イエス様が荒野で受けたようなサタンの試みや、カイサルの審判や、ロ-マ兵士の槍先を払いのけ、勝利することのできる人々にならねばなりません。こんな責任を完遂する一人の同志がいると同時に、イエス様に侍ることができる一つの家庭と宗族、社会、一つの国家、一つの世界がなければならないのに、これらのものはみなどこへ行った! 今日我々は、団結しなければなりません。教団を踏み越え、神の心情を代身して団結する時がきたのです。御言を通過してイエス・キリストの実体を所有する時がきたのです。旧約の御言を土台として、イエス・キリストの実体を所有しなければならないのであり、イエス様の実体通過の門があるのですが、この門が分からないのでイスラエル民族が崩折れたことを知らねばならず、さらには新・旧約の御言によって通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通した、実体通過時代が来ていることを知らねばなりません。 エデンの怨恨が何であったのか! 御言を失ったことは勿論、怨恨の条件になるのですが、実体を失ったことがより大きな怨恨であったのです。それでは誰が御言を踏み越え、実体通過の門を解放させるのか! これが問題です。こんな門がないので、今日皆さんがこの門の石になり、この門を造らねばならない使命を背負っていることを、皆さんは知らねばなりません。 神は御言のみを、重要視されるのではありません。新・旧約聖書、即ち数億の人々が読んでいる聖書の御言よりも、この御言を通過した一人の息子を、重要視するのです。この息子は、いかなる人間か。御言を頭で知る人間ではなく、心臓と体で知る人間なのです。頭で知る時代は過ぎたのです。御言を胸で知り、体で知り、神を代身して自分独りでもサタンに対して闘ってゆく、実体祭物を要求する時が来ているのです。 イエスが三〇余年の生涯を経ていったことは、神の切ない心情を解くために、旧約の御言をはね除けても、一人間自体が御言を代身して、神の心情と一つになり、誰もが引き離すことができない一つの門を、この地上に造っておくために苦労した生涯であり、またこんな資格を持った一人の人間を捜し求めるための、闘いの路程であったのです。 この一人の人間がいないために、イエスは逝かねばならない運命におかれ「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」という御言を残されたのです。 今日この怨恨を誰が解怨してあげるのか。神の恨を解くために、イエスは身悶えて苦労したのですが、成就することなく逝かれたのです。六〇〇〇年の歴史の終末である今日、この摂理を受け継ぎ、この使命を担うために、身悶えて神とイエスの恨を解いてあげる、地上の新婦が誰なのか。この新婦は、新・旧約を知っているだけの人間ではないのです。 イエス・キリストは三〇余年の間、神のために染みる悲しみを抱き、人知れぬ排斥を受けたのです。四〇日の間、食べることもせずにサタンと闘ったイエス様は、死ぬも生きるも一緒と誓ったはずの背反した弟子たちを、再び抱くために行ったのです。人間のようであれば夢にも会いたくないはずなのに、イエス様は復活した後に再び弟子たちを捜し求めたのです。このように神の心情を代身したイエス・キリストであるのに、皆さんがイエスキリストを売りとばしては駄目です。 彼を代身しなければならない世界に広がる第二イスラエルのキリスト教徒は、どこに行ってしまったのか? 教団を造ってきたサドカイ教徒、パリサイ教徒は全部、イエスを受け入れなかったのですが、今日皆さんは、こんな教団を踏み越える人間にならなければなりません。 神の恨を解いて差し上げる真の息子・娘になろう 皆さんはアボジの御言を代身して、こんな教団を踏み越える実体祭物にならねばなりません。心臓と心臓が連なるイエスの祭物を神が受けられたように、イエスと神の心情が一つとなる生きた祭物の実体が、この民族を代身した教団のうえに現れなければならない時が来たにもかかわらず、今日この民族と人類は眠っているのです。 世界が一つの心臓の動きによって、一つの形態を得てゆき、天の心情とイエスの血肉を通して歴史が流れたきたのですが、今日ただ今実を結んでいる一つの実体が、皆さん自身であることを知らねばなりません。 皆さんはイエス・キリストの切ない心情と、脈打つ心臓を所有する相対者になってこそ第三イスラエルとして残ることができることを、知らねばなりません。イエスがこんな心情を抱いて祭物になり、第二イスラエルを造られたのですから、今日我々がこんな覚悟を持ってこそ、第三イスラエルの先祖になることができるのです。またいわゆる、エデンの園の本然の子女になるのです。 皆さんは復活の恩賜の実体をもって、歴史的なすべての苦痛を経て、時代的な怨恨を脱いで天を求めていってこそ、神の息子・娘として捜し立てられるのです。 イエス様の三〇余年の生涯が、神の四〇〇〇年の歴史の心情を代身して、祭物の実体として現れたように、今日我々も六〇〇〇年の間、復帰摂理をされた神の心情とイエス・キリストの心情を代身して、天が動ずれば動じ、静ずれば静ずる神の子女たちにならねばなりません。 こうして過去六〇〇〇年の歴史を回顧して哀しみ、不信したイスラエルを見て哀しみ、未来に第三イスラエルの園を立てるべき使命を抱いて案じて、誰が行っても行かなくても「私独りこの責任を負って行く」と天のまえに誓う、息子・娘にならねばなりません。そしてイエスの足跡を死守し、後継者の責任を完遂しなければならないのです。 皆さん自身が今、新・旧約の御言が何であるか、ということを知らねばなりません。新・旧約の御言よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどうかということを知っていって、即ち、イエスの内的な心情を知り、外的な心臓の動きを知り、天が動ずれば皆さんも動じなければなりません。 皆さんはまた、天の動と静に合わせて動き、天倫を代身してアボジのまえに勝利の祭物として捧げてこそ、イエスがこの地上で恨を解くのであり、神もこの地上において恨を解くのであり、万民万象すべてが神のまえで、彼に従って勝利の栄光を受けることができるのです。 皆さんが偶然にこんな立場に立ったと考えないでください。歴史的な運命を代身して、必然的な路程の祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山頂で積んで残した哀しみの障壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山頂まで登り、十二使徒を一つに束ねた生きた祭物として勝利の祭壇を積み、サタンを屈伏させて「アボジよ、独り栄光をお受けください!」とする勝利の息子・娘になってこそ、主のみまえに新婦の資格を得る、勝利者になることができるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.01
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歴史的な悲運の峠を我々は越えよう一九五八年一月一九日(日)前本部教会皆さんと漸次、考えてみる御言の題目は「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」です。こんな題目で暫くの間、お話しします。 越えるべき悲運の運命の道 今日この世の中に数多くの人々が生きているとしても、彼らの前には越えるに越えられない悲運の運命の道があるということを、皆さんはよく知っているのす。 キリスト教思想から見ても、終わりの日には審判というものがあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、どのようにこの死の峠を越えるかを案じて今まで生きてきたことを、皆さんはよく知っているのです。 現在生きている自分を推し量って見るとき、自身も分からない悲しみの運命の中にあるということを、自ら認めれば認めるほど深刻な問題が自身の前途に、あるいは周囲に、あるいは心と体に、まとい付いていることを感じるのです。 こんな悲運の環境を跳ね返してゆく使命が今日の我々にあり、これが残る人生の使命なのです。こんな悲しみの環境を踏み越えて上がってゆく、その一日が皆さんの前にあってこそ、皆さんは過ぎた日の悲運の歴史を踏み越えて行けるのであり、これを踏み越えてこそ新しい一日の、希望の園を迎えることができるのです。 このような時点にある我々が、過去の歴史を回顧して見るとき、皆さんが今迎えているこの悲運の峠や環境が、ただ皆さんだけが迎えている悲運の環境ではありません。六〇〇〇年という長い歳月を経てきて、我々の先祖たちもやはり悲運の路程を経てきたことを、皆さんは知らねばなりません。 それでは歴史を探って見て、皆さんは先祖たちが悲運の立場を避けられなかったと同時に、人間と創造主の間の関係においても悲運の立場を避けられない場にあったことを、感じなければなりません。皆さんは自身を中心に歴史性を代身して、あるいは創造理念を代身して、こんな切迫した心情を感じると同時にある一日、歴史を代身して勝利したという喜びの日を持たねばなりません。でなければ今日の人間社会において、幸福とか希望とか理念が、みな途絶えてしまうのです。 こんな歴史過程を経てきた人間ですから、神は人間の精神と生活に垂れ下がっている悲運の幕、歴史を通して流れている悲運の幕を、どのようにして開くかという責任を感じてこられたのです。道を求める修道の人たちも、人間のためにこの問題を解決しようという責任感を抱いてきたのです。今まで存在してきた数多くの宗教が、未解決の課題を残したとするなら、この問題を解決しなければならない使命を残したのです。 人間に残っているこんな悲運の障壁を除くために、天が動員されていることを皆さんは知っています。この悲運の運命を打開するために天が動員されると同時に、あの世の霊界が動員されているということを、皆さんは知らねばなりません。さらには地上の人間たちも動員されているのです。 悲運の障壁を踏み越える歴史的な一時を捜し求める人間が、この時を求められないために、今日我々が再びこの悲運の歴史を引き継いでいるのです。それゆえ我々は今、団結してこのすべての悲運の障壁を踏み越えなければなりません。これを踏み越えなかったら、皆さんの後孫たちもやはり悲運の障壁を越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道、悲しみの道、涙の道を免れえないことを、皆さんは知らねばなりません。 これを考えてみるとき、今日皆さん自身は、単純な存在ではないことを知るのです。皆さん自身には天上の哀願が懸かっており、人類の哀願が染みているのです。さらには皆さんは過去・現在・未来の、哀願全体を解決すべき張本人の立場に立っているのです。 皆さんが一日の生活で、あるいは一代の人生で、このすべての悲運の障壁を開拓して越えなかったとしたら、皆さんを望み見てきた歴史的な所望、あるいは摂理的な所望、あるいは天的な所望、皆さん一人を望み見て、悲運の障壁を越えようとした霊界の所望が、崩れてしまうのです。これを考えてみるとき、皆さんは個人ではないということを悟らねばなりません。 今日多くの人がいますが、果たして神の悲運と天使の悲運と、未来人類の悲運の心情まで代身して、我々を妨げている見えざるサタンと悪の群れに対抗して闘う責任者が、どれほどいるかを考えてみなければなりません。 これを考えてみるとき、今日我々だけがこんな立場に出逢うのではなく、今まで神の摂理に対してきた数多くの先烈たちも、同じ立場、同じ環境において自身の人生を放棄しても、この一つの問題を解決するために闘ってきたことを知るのです。皆さんはこれを骨身に染みて、感じなければならないのです。 ノアの悲惨な運命 皆さんが旧約時代を振り返って、ノアをご覧なさい。ノアは神様が人間始祖が悲惨な運命を残して以後、一六〇〇年の間苦労して、数多くの人々の間から初めて捜しだした一人だったのです。このノアは、どんな存在でしたか? 彼は当時の数多くの人類を代表して天の悲運の心情を感じる心情を持つべき存在であり、当時の人々が感じる悲運の心情を代身して、神を慰めてあげるべき立場に立ったノアだったのです。 こんな立場にあったノア、一六〇〇年の歴史的な使命を背負ったノアは、人間のためや天のためにこの悲運の障壁を除き、歴史以来誰もが感じてみなかった悲運の場、踏まれ、嘲弄され、追われる悔しい場において闘ったのです。このようなノアの人生を、皆さんは忘れてはなりません。 それではノアの生活のまえに現れたものが何ですか? 蕩減の原則を立てるための神の復帰摂理たれとノアのまえには、一六〇〇年を経て望んだ哀しい悲運の事情を代身する箱舟が現れたのです。ノアが対した箱舟は、歴史的な悲運を代身する一つの存在なのです。 一六〇〇年の悲運の峠を越えるべき使命を感じたゆえに責任を任した神と、この責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。歴史的的な蕩減条件として任せられた箱舟であることをノアは知っていたので、一二〇年間ひどい悲運の生活とイバラの道を歩んだことを、皆さんは知らねばなりません。 一二〇年の後にこの地を水で審判することを予告されたノアは、この日からありったけの誠精を尽くして箱舟を造り始めたのです。ところで一年でもなく、一二〇年という長い期間を耐えて船を造ったのですが、船を造るノアの心情は、自分の家庭のために造るのではないのです。自分の後孫のために造るという心情でもなかったのです。また、その当時の悪なる世の中のために造るという心情は、さらになかったのです。むしろこの箱舟を造ることは、神のみ旨一つを成就するために造るという心情だったのです。このように神の哀しみと、一六〇〇〇年の間経てきた数多くの先知先烈たちの哀しみを抱いて、黙々と闘ったノアの姿を、皆さんは回顧して見なければなりません。 これを考えてみるとき我々は、過去に神のみ旨を受けた先祖たちが悲しこを行ったのですが、こんな環境に面したノアは、悲しく難しい環境が押し寄せれば押し寄せるほど、この環境を押し分けて踏み上がるために、内的に心身が無限の闘争をなしていったことを知らねばなりません。 このような闘いが一二〇年というもの、続いたのです。誰一人同情してくれない中で、ノアは神のみ旨一つを立てるために忠誠を尽くし、義を守っていったのです。これを考えてみるとき、ノアの心情は実に一六〇〇年以後、いかなる先祖たちも感じてみなかった悲しみの心情であることを知るのです。 こんな過程を経た後に初めて天が成されるのであって、時が満ちて神の約束が成就する一日、悲運の怨恨を解くことができる審判の役事が起こったのです。 ノアがこのように大きな摂理の使命を背負えば背負うほど、彼は安楽に生活することが出来ないのです。喜ばしく平安な生活をすることが出来ないのです。体は苦痛を受け、心が苦痛を受け、罪悪の環境から迫害を受けたのです。このように、誰一人味方する者もない難しい峠をすべて越えた後に、天が味方になってくれるのであり、一二〇年の迫害と悲しみと口にも言えない悲運の運命を経た後に初めて神は友として、ノアの慰労者として、ノアの悲運を解怨してくれる責任者として現れたことを、皆さんは知らねばなりません。 しかしノアは約束が成就する時までの過程では、内的な生活や外的な生活において、身を寄せる場もないほどの悲運の環境で身悶えて、無慈悲な闘争をしなければならなかったことを、皆さんは知らねばなりません。内的な悲運の障壁があるかとおもえば、外的は悲運の障壁もあるということを、ノア自身は知らなかったのです。神の摂理のみ旨は、外的な箱舟を造ることによって、すべて終わるのではなかったのです。箱舟を造った後で、神の審判の行事があり、それ以後には復帰された園で、新しい家庭を建設しなければならない立場があったのです。このように箱舟ですべてが終わると思っていたのに、外的な箱舟の峠を越えた後には、内的な悲運の峠が残っていたということを、ノア自身は知らなかったのです。結局その日の失敗によって、ノア家庭は倒れたのでした。 全体の悲運に責任を負わなければならなかったアブラハムとモ-セ アブラハムもやはり同じでした。ノアのみ旨を受け継ぎ、四〇〇年の後に信仰の祖として立てられたアブラハムも、天と地の悲運の障壁を独り越えなければならない使命を背負ったのでした。それでアブラハムもやはり、ノアが歩んだ道を避けることは出来なかったのです。 それでアブラハムはなじみ深い故郷の山川を捨てて出てから、即ちカルデアのウルを離れよという神の命令を受けて出てからは、その時までは経験してもみなかった悲運の生活をするようになったことを、皆さんは知らねばなりません。 カルデアのウルを離れて以後、あるいはエジプトを経てカナンの地に入って以後、ロトを訪ねて万物復帰の条件を捜し立てる時までの生活というものは、天を求めて行った人々が感じてみなかった悲しみの心情を、独り感じなければならなかったのです。 そこには親戚もありませんでした。同志もいません。親友もいません。ではあっても全体の歴史に責任を負うべき立場で、人類の全体的な悲運の心情を、アブラハムが担わなければなりませんでした。それでどんな悲運の峠が迫ってきても、どんな苦難が迫っても、どんな悲しみが訪れても、どんな困難と苦痛がついてきても、残された神のみ旨を果たすという心を抱き、すべてのことに打ち勝ったアブラハムの悲運の生涯を、皆さんが知らねばなりません。 こうして祭壇を造りあげ、三大祭物を捧げる時までの苦労は大きかったのですが、祭物を中心とする内的な哀しみがアブラハムに押し寄せてくることを、アブラハム自身も知らなかったのです。それで我々はアブラハムの立場を再び回顧して見なければなりません。アブラハムは環境的な悲運に処しても、自分が今こんな環境にあることが、自分の為のものではないということを感じて、自分が歴史的な使命を代身し、時代的な使命を代身し、また未来の後孫たちの使命と、天上の使命までも代身するということを知らねばなりませんでした。ところでアブラハムは、そこまでは未だ考えてはいなかったのです。 その時まで残っていた外的な悲運の峠を越えることによって、すべてのものがみな解決されるのであって、当代の悲運は無論、未来の悲運まで解決されなければならないということを、未だ知らなかったのです。永遠なる人類歴史に、一つの復帰の基準点を立てるべきアブラハムであったのですが、その事が出来なかったのです。それでアブラハムが内的な悲運の生活を踏み越えて、イサクを献祭する場まで行ったのですが、それによって解決されるのではなく、内的な悲運が今日の我々にまで下ってきているのです。 しかし皆さんは歴史的な悲運に責任を負ったアブラハムが、哀れな場におかれていたということを知らねばなりません。 それではアブラハムは、その時までの人々が感じてみなかった悲運の心情を抱いて、神のまえに責任を担ってゆくと何度決心し、誓ったことか。彼は寝ても覚めても、目覚めているいかなる瞬間であっても神のみ旨を中心に、自分が祭物になることを忘れる日には、神のみ旨が成されないことを案じていたのです。そして天に対して哀しみ、天の為に自身を捧げると考えたのです。こんなアブラハムの悲運の心情を皆さん知らねばなりません。 ヤコブを見渡してみても、アブラハムの基台を継承し、天の祝福を成して差し上げる使命を受けたその日から、ヤコブは悲運の生活をしたのです。ハランのラバンの家で、二一年という長い歳月の間、悲運の生活をするのみならず、内的にエサウを屈伏させる生活をしたのです。ここにヤコブが行く道には、常に一つの哀しい条件があったということを、皆さんは知らねばなりません。 モ-セとイスラエル民族が悲運を越えられなかった理由 モ-セが歩んだ道も、やはり同じです。アブラハム以後の四〇〇年を、民族的に蕩減復帰するための使命を負うモ-セにおきまして、神のみ旨に対するための準備の期間のパロ宮中の四〇年や、み旨を実践する段階においてのミデヤン荒野生活四〇年や、エジプトから六〇万大衆を率いてカナンへと向かう荒野路程四〇年期間は、すべて口にも言えない悲運の期間であったのです。 また、独り民族が知らぬ悲運の心情を抱き、民族を代身して責任を完遂するためにシナイ山に登り、天のまえに談判したこともありました。六〇万大衆を荒野に放り出して、独り神のみ旨一つの為に、自身の八〇余年の人生のすべてのことも忘れ、この時に受けた悲しい環境も忘れ、シナイ山に向かったモ-セの悲しい心情を、皆さんは体恤してみる人間にならねばなりません。 シナイ山に登り、祭物の時間として食べること着ることをすべて忘れて、心も体も投げ出して身悶え、天のまえに訴えてこい願ったモ-セの悲惨な心情を知る人間が、イスラエル民族の中に誰一人いなかったのです。 これを察して見るとき、ノアから今まで、復帰の使命を背負っていった我々の信仰の先祖たちが、悲しみの生活と悲運の生涯路程を訴えるのに、彼らの心情を少しも感じてみないで、誰も彼に従って来なかったことを知るのです。それで天上にいる先知先烈たちは、自分たちが天を代身して闘ったが、残った悲運と怨恨を誰が責任を持ってくれるかと、嘆息しているのです。もしも皆さんがこの悲運の運命に責任を負わなかったら、彼らが皆さんを讒訴するのです。 民族全体が神が許されるカナンの福地に入るべき使命を背負っていたにもかかわらず、彼らは不平を言い、荒野でへたりこんだのです。こんな時にモ-セが一命を投げ出して、全民族の生命を救おうと生きた祭物とならんと身悶えたことを、この民族は知らなかったのです。ただ神様だけがご存じだったのです。神様だけが友となり、神様だけがアボジとして彼に対してくださったのです。 モ-セはこのような神であることを知っていたので、四〇年間食べることを忘れても、再びアボジに悲しみと悲運の心情を味あわせてはならないという責任感を感じ、あらゆる誠精を尽くして訴えることによって、イスラエル民族を復活させる御言を受けたのです。 これは喜ばしい事です。ところで喜びを教えてあげるためには、ひと知れぬ中で背後で悲しみの祭物になった者があったということを、イスラエル民族は知らなかったのです。もしも彼らがこれを知っていたなら、荒野で六〇万大衆が倒れることは免れたのです。その後であっても、彼らがモ-セの十戒を受けて、天の悲しい心情を解怨して差し上げるために、自分たちの体は祭物となっても曲げることなく行くという信仰があったなら、彼らは荒野で倒れはしなかったのです。 モ-セも外的な石版は受けたのですが、自分一身を通して後孫たちの内的な悲運まで解怨するということは知らなかったのです。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブもそうだったのです。自分一身に現れる生活的な環境が悲運的なものだったのですが、自身を通して後孫たちの内的な悲運まで担うべき責任は、モ-セも知らなかったのです。 それでモ-セの盤石二打によって、パロ宮中から神の協助によって導かれたイスラエル六〇万大衆が、荒野で倒れてしまったのです。 彼らが倒れるまた一つの原因が何であるか。それはモ-セの心情を知らなかったことです。モ-セの気概を彼らが受け継がなかったために、彼らは荒野で倒れたのです。 これを考えてみるとき、今皆さんが立っている場が、昔ノアが箱舟を造った場であり、アブラハムが祭物を捧げた場であり、ヤコブが二一年の間、羊飼だった場であり、モ-セが一二〇年間苦労した場であり、四〇日断食した場であることを、皆さんは知らねばなりません。 悲運に遭われたイエス様の姿勢 神から希望の園を約束され、歓喜の栄光をお返してパロ宮中を蹴とばして出たイスラエル民族が、神の心情を忘却してくとき、その喜びはゆくところがなく、怨讐に向かう敵愾心が変わり、民族に向かう敵愾心になったのです。このようになるとき、天は彼らを打つ他はなかったことを、皆さんは知らねばなりません。 今日我々キリスト聖徒たちが、持つべきものが何でしょうか? 我々の歴史を籠絡し、我々の行く道を籠絡するサタンの勢力に対抗して闘ってゆくという心、サタンに向かう敵愾心を持たねばならないのです。こんな人間は滅びることはありません。しかしサタンの勢力に対する敵愾心ではなく、自分たち同士が恨みや敵愾心を抱いては駄目です。こんな人間や教団があったら、間違いなく壊れてしまうことを、皆さんは知らねばなりません。 これを考えますとき、神のみ旨を知る人々は民族がこんな場に立っていないかを案じて祈祷してきたことを知るのです。そして神のみ旨を代身して、民族と世界を指導すべき使命を背負う人間がいたとしたら、彼は時がきて環境が許せば、民族の数多くの怨讐たちを一時に全滅させるのです。 自分を中心に考え、自分を中心に動いてゆく人間が多い民族は滅びても、民族の怨讐に対して闘ってゆくという使命感を持って、自身の心身を犠牲にする人間が多い民族は、滅びることはないのです。 それでは終わりの日にある皆さん自身は、どんな立場に立っているのか。皆さんがすべての先祖たちを代身して出てきたなら、ノアからアブラハムを経て、ヤコブとモ-セ、イエス様等すべての先祖たちが怨讐と闘って歩んできたこの道を歩んで行かねばならず、苦労して使命を担ってきたことを皆さんが手本にしなければなりません。皆さんがこの時間こんな心を持たなかったら、誰が皆さんを追い越して行くか分かりません。皆さんはこれを、肝に銘じなければなりません。 モ-セも「わたしだけが残ってしまった」と天のまえに訴えた、エリヤの悲しみを感じて闘ったのですが、イスラエル民族の為の心、そして民族の怨讐に仇を返す一日を苦待した懇切な心情が、彼の心と体から消えていなかったので、倒れまた倒れてもイスラエルを導いて、使命を続けて担うことが出来たのです。彼がこのように生きたことは、自分一身の為という考えでそうしたのではないのです。彼の生はみ旨の為の生であり、民族の為の生であったのです。 イエス様がこの地に降臨される六か月前に生まれ、み旨の為に闘った洗礼ヨハネも、彼がみ旨に対して現れる時、彼の生活環境は悲惨だったのです。彼も悲運の環境を避けることはできなかったのです。神様が四〇〇〇年の間、予告されてきたメシア一人のために荒野で三〇余年の間準備した彼の生涯こそは、誰もが理解することができない難しい生活だったのです。ただそれだけを知る生活だったのです。 ところで彼もこんな心情を抱いて三〇余年の間、血のにじむ悲しみの生活を経てきたのですが、イエス様が自分よりもさらに内的な悲運に染みている師であることを、知らなかったのです。 マタイやヨハネもやはり、悲運の道を行ったのです。ところで四〇〇〇年の歴史を代表して、天上の悲運、地上の悲運、全人類の悲運を代身して、歴史上に誰もが感じてみなかった最高の悲惨な心情を感じて、この悲運の歴史をもたらしたサタンを追い出す一つの存在が、この地に現れなければならないのです。こんな存在を、天が立てなければならないのです。 こんな責任を背負って来られたお方が誰かといえば、皆さんがよく知っているイエス様なのです。イエス様は四〇〇〇年の復帰歴史の中で、誰もが感じてみなかった最高の悲惨な心情を感じながら、この悲運な歴史をもたらしたサタンと対決して、勝利することができるお方だったのです。 聖書には出てこないのですが、イエス様自身はヨセフ家庭での三〇年の私生涯期間に、言うこともできない悲運の道を歩んで行かれたのです。これは民族を抱くためであり、神の心を代身して現れるためであり、神を代身して教団と宗族まで抱くためだったのです。 終わりの日の聖徒たちの責任 ところが自身の家庭と宗族、教団と民族を抱きたい心情にかられたイエス様だったのですが、イエス様は民族から迫害され、教団から嘲弄され、宗族から追われ、終いには十二弟子から背反されたのです。 これを考えれば、大声で慟哭しなければならない悲しいことであり、人間たちを呪咀するところなのに、イエス様は怨讐に対する敵愾心を克服されたのです。むしろ行く道が塞がれることを知るイエス様は、誰が歴史的な悲運の心情を受け継いで、天を代身してアボジの内的心情を慰労して差し上げるかを、案じられたのです。 従ってきた数多くの群れは、イスラエルの福を受け継ごうとし、ユダヤ教団の祝福を成就しようとし、自分たちを中心にして歴史的な天国を造ろうとして、イエス様を十字架につかせてしまったのです。 先祖たちが歩んだ公式的な道を経て行く立場に立つイエス様は、この地上でやるべき使命が大きければ大きいほど、あるいは理念が高ければ高いほど、責任感を感じれば感じるほど、当時この民族はイエス様に反逆したのですが、将来ご自身の福音が世界的に伝播され、世界的な怨讐たちが屈伏してくることを知り、十字架の道を歩んで行かれたのです。民族的な怨讐の立場に立つのではなく、これを踏み越えて世界的な怨讐を屈伏させることを考えられ、十字架の道を選ばれたのです。 それで聖書に記録されているイエス様の、ヨセフ家庭での三〇年私生涯であるとか、三年公生涯に関する御言を見れば、イエス様は歴史的な悲運を代身したお方であり、天的な悲運を代身したお方であることを知るのです。 ところがイエス様に従った多くの群れが、五つのパンと二匹の魚の奇跡を見た時には、わたしのメシアよ、民族を救う救世主よと信じたのですが、いざイエス様が逝かれる時には、みんな捨てて逃げてしまったのです。 もしも、イエス様に従った多くの群れが天に対するイエス様の内的な心情、即ち神に対して染みた心情を持つお方であり、全体の摂理歴史に責任を持つお方であることを知ったら、イエス様の事情を悟ってイエス様の後に付いてきたのです。また、まず従った群れに従い、民族全体がイエス様の後に従ったのです。 ところが、四〇〇〇年の復帰歴史を栄光の一ペイジとして象徴すべきイエス様の福音の歴史が、血の祭壇を通した涙の歴史として記録されたのです。これが一度だけで終わるのではなく、終わりの日まで継続されることは避け得ない事実であることを知っておられたイエス様でしたから「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ二七:四六)」と祈祷したのです。これは自身を案じてされた祈祷ではないのです。民族を案じ、後代の数多くの人類を案じてされた祈祷であったことを、皆さんは知らねばなりません。 皆さん、持っているものがないと、落胆しないでください。知っていることがないと、落胆しないでください。皆さんが落胆することがあるなら、歴史過程を経て闘ってこられた、神の心情を感じていない事実に対してです。また先知先烈たちが血の祭壇を積んで苦労した、その心情を感じてみないことを案じなければなりません。さらには我々が神の真の子女になり、キリストの真の友になることを妬んで誘惑したサタンに対して、悲壮なる覚悟と染みた敵愾心を持っていないことを、切なく思わなければなりません。 今日我々が過ぎた歴史過程を回顧して見るとき、我々の数多くの先祖たちがこんな心を持っていたなら、あるいは民族的な悲運の峠を越えたことを知らねばなりません。世界的な悲運の障壁を越えなければならない我々は、ノア家庭の失敗を忘れてはなりません。アブラハム、モ-セ、洗礼ヨハネの失敗を反復してはなりません。 人間堕落以後六〇〇〇年が経過した今日に至るまで、神の全体的な悲しい心情を感じる人間がいないとしたら、皆さんは「アボジよ! 私を立てて、ノアとアブラハムとヤコブとイエス様の心情を代身して、全体的なアボジの心情、即ち堕落する前のアダムを愛された心情、また堕落以後の人間たちに対して表されなかった染みた怨恨の心情までも、わが心に感じ、歴史的で宇宙的な祭物になります」と、祈祷できなければなりません。 神が創世以後、今まで鞭を振るうことができない哀しい場におられたことを、誰が知ってあげたでしょうか? 愛の神としてのみ知るのであって、公憤公義の神であることを人間は知らなかったのです。過程においては愛で対してくださっても、最後には審判して打たねばならない立場におられる神様なのです。皆さんは神がこのように愛の神であると同時に、公憤の心情も持っておられる公義の神でることを、はっきり知らねばなりません。 こんなことを知る人間であれば、カナン七族を追い出し、イスラエルの福地を建設することが出来るのです。今日終わりの日に召命を受けた皆さん、ひと知れずみ旨に従っている皆さん、愛の神ではあっても、公義で審判するという命題をおいて、皆さんに対しておられることを知らねばなりません。そして、そうしなければならない神の事情を知る人間にならねばなりません。 終わりの日に面している我々は、歴史的なアボジの心情を知ると同時に、この心情を代身して、この地上にみ旨を成せないがゆえに大きな怨恨を抱いておられるアボジを解怨して差し上げるために、闘って行かねばなりません。神の息子・娘の立場で、こんな使命を完結させるために来られるお方が、いわゆる再臨主なのです。 新しい宗教の役割と使命 皆さんご覧なさい。ノアのときには箱舟を中心に打ち、アブラハムのときには祭壇を中心に打ち、モ-セのときにはイスラエル民族を中心にパロを打ち、イエス様を中心にサタン世界を打とうとしたのですが、打てなかったのです。それでイエス様は審判という名詞をおいて逝かれたのです。 今日皆さんのまえに残っている歴史的な悲運の峠を、どのように越えるのですか? これは皆さん個々人にかかっています。天国の門は無理に入って行くことはできません。それゆえ皆さん自身が悲運の峠を越えなければならず、この悲運の障壁を崩さなければならないのです。こうして結ばれたアボジの怨恨を解いて差し上げ、カナンに向かったイスラエルの所望を持って闘う勇士となってこそ、この峠を越えることが出来るのです。 今までの歴史過程によって、皆さんの生涯路程をじっと推し量って見れば、これからの終末時代は皆さんが越えるべき悲運の峠が、非常に多いのです。その時に皆さんは個人的な門を通過しなければなりません。個人的な門を通過した次に家庭的な門、そして国家、世界的な門まで通過しなければなりません。 皆さんは今日どんな使命を任されているのか。皆さんは昔の先祖たちの悲運に責任を負うべき立場でなければ、時代的な使命を任される立場なのです。あるいは世界的な使命を任される立場でなければ、永遠なる摂理のみ旨に責任を負う立場にいるのです。皆さんはこれを肝に銘じなければなりません。 今までの歴史は何を指向してきたのか。世界歴史は天的なメシアに向かって動いてきたのです。それで悲運の歴史は今、過ぎ去るのです。信仰的な時代も、過ぎ去るのです。新しい使命を持って、世界的な悲運を解決しようと来るメシアが、すべてに染みた悲運を解決する時まで、皆さんは勇気を持って前進しなければなりません。 今日復帰摂理の終末期に面している皆さんの中には、歴史的に下ってきたすべての蕩減条件を横的に、一時に蕩減復帰しなければならないこの時において、一時の運をもらった人もあり、時代の運を代身する人もあり、世界の運を代身した使命者と、天運を代身した使命者もいるのです。 これらをどのように連結させて、糾合させるのでしょうか? これが正に道人たちと宗教人たちの使命なのです。また実際この使命を完結することが、宗教の使命なのです。 宇宙が生まれて以後、今まで人間たちは何を中心にしてきたのか。今まで人間たちは、父母と夫婦と子女の愛を目標としてきたのです。即ち何の道、何の主義だといって歴史と時代は変遷してきたのですが、父母と夫婦と子女の道理と法度は、一度も蹂躪されることはなかったのです。 終わりの日に面している人間たちは、どうすべきなのか。個人的な情を越えなければなりません。それで道を求める路程にあった今までの道人たちは、初めから個人的な情を切り捨てて出発したのです。これが修道の世界における闘いなのです。 人間の情的な問題が歴史的な信仰の目標になってきたのですが、これによって天倫の縦的な理念とは通じることが出来ないのです。六〇〇〇年の人類歴史が、これ一つを立てるためにきたのですが、これによっては天宙的な問題が全部解決されるのではなく、天的な生の法度を立てることができる、一つの理念を持つ宗教が出てこなければなりません。 それでは今後、今天運の時代に突入するこの時において、立てられるであろう真の父母と、真の子女、真の夫婦とはどんな人々なのか。そんな人々は人間の情に通じ、神の心情に通じる人々であり、神の心情に染みた天宙的な苦難を体恤する人々であり、神の愛を中心に神はわがアボジとする、何かを感じる人々なのです。 六〇〇〇年歴史を経てきて、人間たちは人間の縦的な問題を解決できず、横的な問題も解決できないのです。それで人間たちはこんな問題を解決してくれる宗教を指向してきたのです。我々は終末時代においてぶつかるこのような峠と、すべての障壁を越えて行かなければなりません。 我々の行く道 神は長い歴史を経てきて、人間たちに対してすべての事に耐えてこられた、真の父母であることを知らねばなりません。またその次には、イエス様はどんなお方か。イエス様が「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」と語られましたが、このような新郎・新婦、即ち天的な情(愛)の問題を解決する宗教が、最後の峠を越えることができるのです。こんな意味において、キリスト教が中心宗教なのです。 そしてイエス様は「わたしは神と一体である。わたしは神の独り子」とされました。さらにはイエス様は人類に向かって「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」とされました。天は長い歳月の間、こんな基準を中心に世界的な悲運の障壁を越えることを願っていたのですが、このような事を担う祖先の立場にあったお方が、イエス様だったのです。 今皆さんは、どうしなければならないか。皆さんは二〇〇〇年の間、新郎の悲運の心情を抱いてこられたイエス様の心情と、数多くの先知先烈たちの抱いた悲運の心情を抱く人々にならなければなりません。そのような人間であってこそ、神の子女であるとすることができ、イエス様のまえに、一人の兄弟姉妹といえるのです。 皆さんがこんな人間になろうとすれば、サタンが皆さんを攻撃するのです。これがサタンの攻撃目標なのです。しかし新しい主義や理念、新しい宗教、新しい中心人物が出て、これに当たってくれればサタンの攻撃までも退けるのです。そのようになればサタンが襲って来ません。そこには再び革命と変換がないのです。その時に初めて永遠の理念が展開されるのです。 皆さんは天国に行くという考えを持ってはいけません。地上に天国を建設するという考えをしなければなりません。そして天国を建設する前に、皆さん自身がまず天国人にならねばなりません。そんな天国人になるには、アボジの心はわが心、わが心はアボジの心、と自分に言えるほどアボジと心情一体にならなければなりません。それで地上でアボジの心を代身し、主様と先祖たちの心を代身しなければなりません。それでこそ歴史的なすべての問題を解決することが出来るのです。 霊界が動員されて、歴史的な悲運の障壁を越えて行こうとしているのですが、地上に生きている我々も、この事をすべき使命があるのです。我々がこのような使命感を持って、歴史的な最後の悲運の障壁を蹴とばして行くなら、我々は神の悲運の心情と、歴史的な悲運の心情と、現実に残っている悲運の心情と、未来に染みている悲運の心情を知って、我々に立ちふさがる真の父母の怨讐、真の子女の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐に対して、敵愾心を持たねばなりません。こんな敵愾心に燃える息子・娘でなければ、最後の審判の峠を越えることが出来ません。 歴史的な使命、時代的な使命、未来のみ旨を立てるべき使命のまえにおかれている皆さんは、現在どんな時代に立っているのか? 皆さんは時に対する問題を知らねばなりません。これからは、宇宙主義時代が来るのです。遠からずして、誰もが持たない天に対する心情と、サタンに対する敵愾心を持つお方が来て、この世界を回復するのです。この時、このお方に侍り、協力しなければならない使命が、キリスト教にあるのです。 一日を生きるのもアボジのみ旨の為に生き、生涯の路程を歩んで行くのもアボジのみ旨の為に歩んで行かねばなりません。 そして皆さんは、先祖たちが歩んで行った路程を、経なければなりません。我々は今、荒野に出たイスラエル民族と同じです。モ-セとイスラエル民族が荒野で追われ、苦難に逢い、イエス様が教会から排斥され、家庭から不信されたのですが、皆さんもこんな悲しく、悔しい場を経なければなりません。ではあっても、落胆しないでください。皆さんがこんな悔しい場においてやるべき事があったら、歴史的に苦難を受けたアボジの心情を体恤して、主の哀しみがわが哀しみであり、先祖たちの苦痛が自分の苦痛であると考えて、千年万年、このみ旨の為に変わらずに団結して、サタンに対して敵愾心を抱かなければなりません。そのような青年男女を天は今、要求しているのです。牧師・長老にみ旨を任せるのではないのです。彼らが責任を果たせなければ執事たち、執事たちが駄目なら青年たちがやらなければなりません。それで教団と民族を生かすなら、立ち上がらなければなりません。このように天的な悲運に染みた真の青年たちを、天は捜し求めてきたのです。 民族を代身して我々にこんな使命を任されたなら、我々はアボジの怨恨の心情を感じ、アボジの悲しみをわが胸に抱き、怨讐に向かって進撃する精兵にならねばなりません。そのためには皆さんは、皆さんの生活と理念を、統一させなければなりません。天の哀しみと、イエス様の哀しみと、先祖たちの哀しみと、後孫たちの哀しみを解怨するために闘わねばなりません。 今、悲運の歴史が皆さんに近づいています。それゆえ皆さんは心を尽くし、み旨を尽くし、自身のすべてを捧げ、自身が冷遇され、悔しさを味わったとしても、イエス様を代身して、民族と世界のまえに祭物になるという覚悟をして、自ら手を挙げて天のまえに誓わなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.27
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三位基台の意義 1958年1月3日(陰暦1957年11月14日) 韓国・青坡洞旧本部教会 復帰摂理史に現れた数の意義 三位基台を組織しましたが、皆さんは、これに関する天的な価値をよく知らないのです。皆さんは原理を通して復帰という言葉の意味が何であるかを知っています。それでは何を復帰するのか? イエス様は、この地上に来て何を復帰しなければならなかったのか? 復帰摂理において、イエス様の中心的な責任は何であったのか? それは、アダム家庭で失われてしまったその数を捜すことです。これを復帰しなければならない使命を持って、イエス様は、この地上に来られたのです。 ですから、アダム家庭では、アダムを中心として三人の息子たちと、その妻たちを合わせた八人家族がいたのですが、この八人家族を復帰するために一六〇〇年の間、神が摂理をされました。また一二〇年の間、摂理の御旨を奉るために、ノアを選ばれてノアの八人家族を立てられたのです。 アダムから十代を経てノアを立て、ハムの失敗によって続けて御旨を奉ることができなくなったので、また、十代を延長して、アブラハムまで下ってきました。ところで、アブラハムが祭物を捧げるとき、また、失敗をしたために、二代を更に延長するようになりました。そうして、ヤコブの時に初めて、二千年摂理の一段階を終結したということです。このことを皆さんは、知っているのです。 それでは、ヤコブの十二人の息子は何を象徴しているかというと、アダムからノアまでを象徴するのであり、これを復帰する数を象徴するのであり、縦的な歴史を横的に復帰する数を象徴しているのです。ヤコブは、このような意味を持った十二人の息子を立てておかなければならなかったのです。 蕩減復帰歴史を皆さんが知っているように、六千年の摂理歴史の終わりの日には、六千年の間、神様が摂理なさったすべての内容が横的に現れるようになるのです。聖書の六十六巻が縦的な六千年の復帰摂理歴史の記録だということで、聖書六十六巻の事実が横的にこの地上に一度に展開されるというのです。それで、あるところでは、創世記一章を蕩減する責任を負った人がいるし、また別なところでは、二章を蕩減する責任を負った人がいて、このように色々な人が聖書六十六巻の部分部分を担当しています。 それでは、終わりの日はどんな時なのか? 縦的な歴史過程に現れた全体の摂理を一時に現して地上で完結しなければならない時だというのです。なぜならば、神の復帰摂理歴史は地上で完結されなければならないのです。そのために、縦的な摂理歴史が横的な面で全世界的に現れなければならないのです。 それでは、これが何を現すのか? 全体的に見ると、アダム家庭のカインとアベルの闘争を現したのであり、また歴史的に見ると、全体の闘争歴史を現しているのです。このような中で、摂理の御旨を終結し、勝利した自分自身を捜そうとするならば、どのような存在にならなければならないのか? イエス様がこの地上に来られて希望なさったその中心的目標を、皆さん自体が捜し出さなければなりません。そうでなければ、この終わりの日に勝利の新婦として、新郎になられたイエス様の前に立つことができないのです。 イエス様が三十三年の生涯を送られましたが、イエス様は三十年の準備時代、三年の実践時代、三日の完成時代を経て、三段階の歴史過程を解決しておかれたのです。また、三年の公生涯路程を見るときに、御旨を奉って出発なされながら三大試練を経て最後の十字架を前にして、ゲッセマネの園で三次の祈祷をしたのです。三次の祈祷を捧げる時は、一人で祈祷したのではなくて、ペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて行かれたのです。 イエス様は、最後に生命を賭けて切実に祈祷する時機に、三弟子もイエス様と同じ心で夜を徹して祈祷しなければならなかったにもかかわらず、三弟子は、寝入ってしまったのです。それで、イエス様との関係が切れてしまったのです。ここに天的な悲しみが残ったということです。これを皆さんは知らなければなりません。 それでは、今日復帰の運命を打開しなければならない我々各自の使命は何で、我々はどのようにしなければならないのか? 我々はゲッセマネの園のペテロになり、ヤコブになり、ヨハネになって、いずれか一人の責任を担当しなければなりません。このような立場におかれていることを、皆さんは心に刻まなければならないのです。 変わらない基台の上に御旨を立てようとなされる神 イエス様の悲しみは、十二弟子がイエス様の御旨を奉ることができなかったことであり、十二弟子を代身した三弟子が、イエス様の心情を分かってなかったことです。死を前にしたイエス様の悲しい心情が今日の一つの恨みとして残っていることを、皆さんは知らなければなりません。 それでは、今日皆さんは、どのようにならなければならないのか? 皆さん自身がペテロとなり、ヤコブとなり、ヨハネとなって三人が一つとなって、主の前にいかなるものでも離そうとしても離すことができない一つの模型を備えておかなければなりません。そうしてこそ、ゲッセマネの園で祈祷されたイエス・キリストのやるせない心情の前に初めて立つことのできる資格者になるのです。この御旨を復帰するために捜し求めていで立った我々なので、このような三位基台の組織をしなければならないということです。 それでは、イエス様は、どうして三弟子を連れて歩いたのか? アダム家庭において、アダムを代身した方がイエス様であり、アダムの三人の息子を代身したのがイエス様の三弟子でした。このようにイエス様は、アダムとして来られたのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、カイン、アベル、セツを代身する三弟子たちです。イエス様は、この地に来られて三弟子を立てて相対を捜し、八人の家族を形成してアダムとノアの八人家族型を復帰する使命をなさるのですが、その御旨をなし遂げられずに、独身で亡くなられてしまいました。 そのために、新郎新婦の名前も残して二千年の間ご苦労なさって来られたのです。その後今日この時まで、この原則的基準、つまり、アダム家庭でアダムを中心とした三人の息子の基準をこの地上に捜し立てることが、最後の摂理の御旨としてこの地に残されているというのです。 今日、我々の教会では、男性三人、女性三人、このように三位基台を作りました。なぜ、このように作ったのかといえば、これから主に侍らなければならない我々において、アダム家庭でのアダム夫婦と、その三人の息子と三人の息子の嫁の型を代身することのできる模型を備えなければならないからです。 だからこの三人が一つにならなければ、また破壊される憂いがあるというのです。特に三人の男性が一つにならなければなりません。死のうが生きようが霊的に一つになり、体で一つになれなければなりません。それで、時間性を超越した主体的な一つの型を備えなければなりません。そうでなければ、また来られる主の前に立つ面目がないということを、皆さんは知らなければなりません。 もし、三人が一つになって御旨を代身することのできる原則的な足場を作るなら、言い換えるなら、天が変わったとしても、我々は変わらないという覚悟を抱いた三位基台になっているならば、天は、このような基台の上で御旨を成し遂げられるのです。 このような内容を備えるために、皆さんを中心として三位基台を組織しました。そして、三位基台を造成するにあたっても、皆さんは、三つの三位基台を中心にして十人が団結しなければなりません。なぜならば、三位基台は、主を中心としてゲッセマネの園で祈祷した三弟子を代身すると同時に、アダムを中心とした三人の息子の型を捜したてる形態にもなるからです。また、三つの三位基台を中心として班を作るときは、何の意味があるかというと、縦的に見ればアダムからノアまでの十代を代身するのであり、班長は、二人の責任があるために、十二人型を備えるのだと見ることができるのです。 これはまた、ノアからヤコブまでの十二代を代身することのできる型であり、歴史的な面、つまり、縦的な面においては十代と十二代を代身することのできる型です。そうして、縦的な二千年の歴史を代身することのできる横的な十二型を備えたので、ヤコブの十二人の子息を代身した数の人だけが一つになれば、二千年の神の摂理の目的として捜していたノアの家庭を復帰すると同時に、ヤコブ家庭型を復帰するというのです。このように、三つの班が合わさって一組になり、一組は、三十六数、三十六人を代身するようになります。 これは、ヤコブにおいては十二の子息、モーセにおいては十二支派、イエスの十二使徒を表示するのであり、六千年の歴史的代表を合わせたものを象徴する数が三十六数なのです。 それで男性三十六人(三十六数)が一つになれば、六千年の摂理過程で捜そうとした中心メンバーを縦的な型に備えることができ、横的な面でも増えることができるのです。このような重大な責任と使命が三十六人にあり、ここには重大な意義があるのです。 男性三十六人、女性三十六人が合わさって七十二人になります。それで、イエス様を中心として七十人門徒がおり、モーセを中心とする七十人長老、ヤコブの七十人家族がいました。そのようなわけで、イエス様と七十人門徒、そしてイエス様の新婦格が合わされば、七十二人になるというのです。今日、天地の度数を合わせなければならない使命が我々にあるので、我々がこの峠を越えなければならないというのです。 皆さんは、三位基台に属した三人が互いに心を合わせることを知らなければなりません。このように心を合わせられない人は、天国へ行けません。統一の理念は、ここから始まるのです。三人の心を合わせることを知らなければ、天国へ入って行けないのです。入門もできません。天国の見物もできません。また、三人が一つになって、これを単位として十二人の心を合わせて一つにならなければならないというのです。反対に、三つの班が合わさって一組になり、この一組の三十六人が団結できれば、サタンが少しも身動きできないのです。誰も壊すことができないのです。 世間でも三人が力を合わせれば、できないことはないといいます。我々の教会では八人の食口が動かなければなりません。どんなに大きな迫害を受ける教会でも、指導者とその夫人、そして、三人の男性と三人の女性が合わさった八人の食口が一つになれば、誰も壊すことができません。これが鉄則です。このような復帰型を各自が備えなければならない使命があるために、三位基台を組織しました。 天の役事もこのようになります。一人を立てて役事されるのではなく、三人以上立てて二人を打つことなのです。終わりの日に韓国に恵みの歴史が始まる時も、このような原則でなされるようになります。 天は必ず三人を立てて、一人を選んで使うというのです。韓国の実情もこのようになっているではありませんか? 終わりの日にも、必ず天が立ててくれるペテロ的な存在、ヤコブ的な存在、ヨハネ的な存在、このように三弟子の使命を果たす人が出てくるのです。その中で一人が欠けた二人は、壊れやすいというのです。でも、三人が一つになれば壊れません。今日、霊妙な人々が出て行って途中で壊れる大部分の原因がここにあります。 信仰路程における三大試練 我々がサタンを撲滅して、神の恨みを解いてあげようとするならば、末端の食口まで一つにならなければなりません。そうすれば、サタンは耐えられないのです。これが歴史的な型において、天地の運行度数にもぴったり合うのです。一つの点を中心にして四方性があると同じように、東西南北があって、春夏秋冬の四季があります。四方をさらに十二四方に分けると、東方も三つ、南方も三つ、北方も三つ、西方も三つになります。このようにイエス様を中心として十二数が立てられれば、東西南北と春夏秋冬の完全な四方型を備えることができるのです。 イエス様を中心として見たとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、春の節気型、すなわち、一月、二月、三月を象徴するというのです。彼らが十二カ月過ぎて一つの軌道の中にイエス様を中心として同じ距離で円を描いていたなら、イエス様は、亡くなられなかったのです。春節気型である三弟子の後に、十月、十一月、十二月がありますが、これは、サタンが犯すことのできる空間があることを意味するのです。三大試練の根拠もここにあります。 十人が一つになろうとするとき、そこには必ず、三人の妨害者がいます。理由なく憎しみ、突き刺す群れがあるというのです。それ故に、皆さんは、三度以上試練を受けなければならないというのです。 このような現象は、終末の時に起こるので、個人の信仰にもそのような試練と苦難があり、個人の信仰から家庭単位で発展してゆくときもそのような三大試練があり、社会から国家、国家から世界に越えてゆくときも、そのような三大試練があるようになります。ですから、今日、世界的な終末の時期にあって、世界人類は三度天の試練とサタンの試練を越えてゆかなければならないというのです。これが、第一次、第二次、第三次世界大戦です。個体にあっても同じです。 今日我々には、このような核心的な中心型に合うように、各自の基準を準備しなければならない責任があるのです。霊界を見ても、十二使徒を中心とした二十四人の長老がいて、四つの霊物があり、数多くの霊人たちがいるというのです。(ヨハネ黙示録四章六節)地上の節気の運行を見るときも、やはり一年には四季節あり、十二カ月あり、また二十四節気があるのです。そして、一季節には、三カ月あります。 これと同じように、天と地は、その運行法度によって順理的に回ってゆくのに、人間だけがこれと反対に回っているというのです。これが堕落だというのです。これを正しく合わせなければならない責任があるので、イエス様は、その使命を果たすためにこの地上に降臨されたのです。 そして、今日、信ずる信徒たちも、このような使命を果たさなければならないのです。聖徒たちにこのような使命があるために、全体のキリスト教の歴史を見るときに、キリスト教歴史にも、三段階の型を経なければならないというのです。例を挙げれば、旧教から新教が出てきたのですが、新教からまた、新しい宗教が出なければならないというのです。そして、教派の分裂について見るとき、三教派が十二教派に分かれ、更に三十六教派と三百六十教派まで広がるということです。そのようになれば、終わりの日だということを知らなければなりません。 また、国家的に見るときに、三大国家を中心として、世界は三ブロックに分かれているのですが、これが歴史の終末を経て、越えていくようになっているというのです。そして民主陣営だけでなく、共産陣営も三ブロックに分かれているのです。 キリスト教の倫理観 キリスト教が大きく三教派に分かれて、これが更にもっと多い教派に分かれているのを見るようになるときに、現在の立場で最も原則的な橋渡しが何かというと、三位基台を中心とした十二人を心を合わせてやることです。このようなことをしなければならない時になったというのです。 それでは、イエス様は、三十三年の生涯を捧げて何をしたのか? イエス様は、三十三年間の精力をすべて傾けて、十二人の心を合わせる主人公になるために努力したのです。 それでは今、イエス様の恨みを解いてやることのできる資格者は誰なのか? イエス様がなそうとする中心を理解し、これを解決してあげることのできる新婦です。この新婦の資格を備えたこと、これが、終わりの日の道(どう)の道です。十二人以上の心を合わせてやることが道(どう)の路程であるが、神は、このような原則を直接的に教えてくださることができないのです。もっぱら漠然と「とにかくあなたがたは、私を信じなさい。敬いなさい。道(どう)に順応するために体を殺し、無条件に奉仕して、犠牲を払いなさい」と、教えられました。ここにキリスト教の倫理観があるというのです。 どうしてかというと、怨讐までも幸を願わなければならないというのです。こうしてこそ、怨讐まで踏んで上がって立つことができるからです。このようにキリスト教は、正月から十二月まで越えることのできる道の基準を立てておきました。 この内容をこれまで道を磨いてきた人たちは知りませんでした。そうでありながらも、耐え忍んでゆかなければならないのが、道(どう)の道であるということだけを知って、苦痛の道でも無条件に従い、犠牲となり、奉仕しながら正月から始まって、この人、あの人と、みんなの心を合わせて行ってみると、十二カ月をすべて通過することができたのです。 春の節気型に生まれついている人もいるし、夏の節気、秋の節気、冬の節気型に、生まれついている人もいます。このようにお互いに違う多くの型の人を経過してゆかなければならない天理原則がある故に、これを足場として、捜してゆかなければならない運命におかれている人間は、正月から出発して、二月、三月を経てずっと秋の節気を過ぎて、冬の節気を過ぎるようになってその次は、審判を経るようになります。 それ故に、キリスト教の真理は、犠牲の真理であり、奉仕の真理なのです。天地の度数をたやすく越えようとする原則の下で、神は、このような内容を人間に紹介したということを皆さんは知らなければなりません。 我々が正しい心を持って天地の方向を捜して出で立った身だというのだが、自分に反対する人々を怨讐だと思わないでください。皆さんをそのままおけば、脇道へ行くので、正しく追い込む使命を彼らがするというのです。皆さんは、サタンを歓迎することを知っている人にならなければならないというのです。神は、サタンに関しても希望を持っている方だというのです。 今日、統一教会が反対を受けているが、私はありがたいと思っています。万が一、我々は反対を受けなかったとしたなら、今日の統一教会がどこに行っただろうか? 大きいビルディングを建てるときでも、深く掘ってコンクリートを流さなければならないのに、少しだけ掘ってコンクリートを流したなら、丈夫なビルディングになれないのです。このような事情を知っているので、イエス様もサタンのために手を取って祈祷することができたというのです。 そのようなわけで、今年の神の命令は、皆さんを生きられなくするほどに訓練させなさい、ということです。今年は、修練の年、試練の年としてどのような苦痛もりりしく越えてゆくことができる年になるようにしなければならず、十二人以上の、心を合わせる人を早く作らなければならないのです。 三位基台を中心として、一つになる生活 それでは、これから天的な因縁を代身して天の食口として立つことのできる数は、相当な数なのです。霊界では、数億の霊人たちがいるのです。その霊人たち全部が手を上げて歓迎することのできる、その理念とは、我々が守らなければならない本然の理念なので、今日地上で十人が一つになれなければ、天国に行けないというのです。 そうなれば、我々が今このとき、他の人の心を合わせる歴史的な代表者になってみましょう。今まで、神は皆さんの心を合わせる神であり、神にとっては皆さんの世話をする責任があったというのです。 このような原則があるということを知って、きょう特に一月三日ですが、皆さん、固く決心しなければなりません。三カ月に一度ずつ三位基台を変更するときに、皆さんは、誰と合うようになるとしても一つにならなければなりません。皆さんは、三位基台に結ばれた相手に、「あなたは、長い六千年の摂理歴史を回り回って、何の因縁があって私と出会ったのか」と言いながら、歴史的な運命の出会いだと、感じなければならないのです。 そして、三人が一つになり、十人が一つになり、三十六、七十人が一つにならなければならないというのです。 ですから、このような組織は、原理原則を離れてはあり得ず、原則は、組織を離れてはありえないのです。これが組織の生命です。このような形態で天地の度数に合わせて天地の中心と私の中心が一つになって回らなければならず、自分自身が万物世界の運行法度に従い、回らなければならないというのです。 一日、一日、私の心が天倫を中心として回らなければならず、一年も一生も天倫を中心にして回らなければならないというのです。こうしてこそ、永遠に生きることができるというのです。それでは、朝起きて、きょうは、誰のために回るのか? 天倫のために回ったのか? と、自問自答しなければならないのです。その道は、足場が三位基台であり、班というものです。これを離れては生命の足場がありえないのです。ですから、今回は、新しく三位基台を組織しました。ここで問題になるのは、どの程度まで天の御旨を考えて、それを生命視して活動するのかです。 我々の教会の信徒は、すべてが平等であり、一家族です。それで、原則的な条件を立てて法度に沿って一つになればいいのです。今年からは、新しい覚悟の下で新しい活動を展開しなければなりません。 攻撃戦を開始しなければなりません。そのような意味で、天倫の前へ実生活を通してこのような原則的な足場を備え、宇宙的な一つの単位形態が自分を中心として始まるという驚くべき事実を皆さんの喜びであると知って行かなければなりません。 六千年の歴史過程で御旨の道を歩んでいる私は、最大の悲劇俳優だと思ってください。これは、他の人ができない事をしようということです。他の人が行けない歩みを歩もうというのです。ここではサタンは、耐え忍べないというのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.24
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イエスの摂理的生涯とその勝利的目的 一九五七年十月二七日(日)前本部教会 堕落した以後、今日まで神の復帰摂理がなかったなら、罪のうちにある人間の口を通して神に向かって「アボジ」と呼ぶことがなく、また死亡の血統を受けた姿としてもやはりアボジに対して、天の恩賜や愛の恩賜などということを、考えることができないのです。 イエスを通して人間を抱こうとされた神 イエス様の摂理的生涯といえば、ここには全体性がみな入るのです。イエス様を送られるまで、神の摂理は四〇〇〇年の歴史を経過し、イエス様がこの地上に来られることによって、神様はイエス様を中心にして新しい摂理を出発することができたのです。即ち、神様は地上の人間たちと自由に対することができないので、数多くの天使たちをみ使いとして摂理してきた旧約時代を過ぎ、地上に直接的に役事することがきる実体を持つキリストを立てることによって、堕落した人間を再び抱こうとされた神の摂理が、出発することができたのです。こんな内容を持つキリストの誕生であることを、皆さんは知らねばなりません。 キリストが来ては行って後、今まで二〇〇〇年の歴史が流れました。それで今日皆さんは、アボジの恩賜圏内に入ることによってイエス・キリストを主として侍り、聖霊の保護を受け、恩賜を受けることができるそんな時にあるという事実を、知らねばなりません。イエスが来られる前の二〇〇〇年の間、人間に直接対することができないので、数多くの天使たちをみ使いとして、人間を捜し求めるアボジの苦労の摂理があったということを皆さんは知らねばなりません。また、霊界と肉界を分けておいて摂理されたお父様は、人間のまえに直接的で平面的な摂理を立てるために、イエス・キリストを送られたということを知らねばなりません。 イエス・キリストが来ては行った二〇〇〇年の歴史が経過した今日、皆さん自体がこの恩賜のまえに選択を受けるなら、イエスが来る前の四〇〇〇年の間、霊的な面で人間を求めてこられた神の心情を、体恤しなければなりません。また、イエス様がこの地上に来られ、ご自身の生活と生涯と永世の目標を懸けて、皆さん一人を彼の生活に同伴させ、彼の生涯に同伴させ、彼の永世に同伴させて導いて行こうとされる摂理のみ旨に対している、歴史的な過程に立っていることを、皆さんは忘れてはなりません。 イエス様はこのようなみ旨を、三〇余年の生涯の生活目的として、また全体的な人生の目的として立て、これを成就させるための二〇〇〇年を経て、皆さんの先祖たちを率いてきたのです。またこれからも、皆さんの後孫たちを率いて行くべき摂理的な責任が、イエス様に残っていることを皆さんは感じなければなりません。 こんな立場に立っているイエス様が摂理のみ旨に対するとき、イエスご自身だけが喜ぶ生活、イエス様ご自身だけが喜べる生涯、イエスご自身だけが永世を懸けて安逸の一日を迎えることができないという事実を、皆さんは良く知っているのです。 それでは今日、天の安逸を求めることができず、天が要求する所望の一日を得ることができないこの時に、地上に生きている人間はどんな立場にあるのか。皆さんは安逸を求めようにも、求めることができないのです。心ではどんなに平和を求めていて、どんなに理想的で理念的な世の中を夢見たとしても、皆さんはこれを保障できない運命におかれているのです。 なぜならば、天地を創造された神の摂理が、悲しみの摂理として残っており、この地の堕落人間の為に救援摂理を成就しようと来られた、万物の主人公であられるイエス・キリストもやはり、悲しみの心情を抱いて摂理のみ旨に対しているゆえに、地上のどんな人間もその心に安逸を求めることができず、私は勝利の栄光を得た者と誇ることができないのです。 このような摂理の運命を背負い、人間を率いて行かなければならない神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを率いて行くイエス・キリストの切ない心情が残っている限り、そして千々万聖徒が摂理に対している悲しみが残っている限り、今日人類が希望とする善の園や、人類が欣慕する神の愛を、永遠に受けようにも受け取れないのです。 こんな摂理に対している天が人間を抱えて行くことも容易なことではないのであって、ここにどんな事があるかといえば、悲しい心情のアボジのまえに人間を条件としてサタンが立ち塞がり、讒訴しているのです。これを皆さんは知らねばなりません。 皆さんの生活と人生路程の中で、あるいは皆さんが望んでいる理想の中で天理原則、または神の創造理想に符合しない要素があるときには、どんな一つの条件も抜くことなく、サタンから無慈悲な讒訴を受け、皆さんの代わりに悲しみ、皆さんの代わりに打たれて闘ってこられた、アボジと主様と聖徒たちがあったことを、皆さんは悟らねばなりません。それで神の摂理歴史には神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、今まで摂理に対してきた千々万聖徒の悲しみが残っているので、それよりさらに大きな神の悲しみが何でしょう。我々を守り、再びサタンと対決しようとのみされている悲しみです。こんな立場におられる神様であることを、皆さんは知らねばなりません。 神と人間の距離を縮めようとされたイエス 今皆さんは、イエス・キリストの誕生と生涯をづっと考えてみなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神とは遠い距離があったのです。それで神は人間たちが持てる誠精を注ぎ、努力を尽くしてサタンの世のすべての条件を踏まえ、即ち空中権勢を握る闇のサタンの勢力を貫いて、神にまで捜し求めて上がってくることを願ったのです。それでこそ人間が神の恩賜を受けることができたのが、旧約時代の摂理でした。しかし人間の努力と苦労だけでは到底、ご自身を捜し求めることはきないことを知る神は、この地にイエス様を送られて、立体的な立場で空中権勢を貫いて上がろうとする立場にあった人間、天に向かって峠を見上げて悲しい涙を流してばかりいる堕落した人間をして、平面的な立場で相対的価値を持って、神を代身する一中心に対することができるようにされたのです。これが四〇〇〇年摂理歴史において、サタンに対する一大勝利の条件であり、誇りの条件であったのです。 ところが人間が不信することによって、イエス様がこの地に来られた目的を成就できなかったがゆえに、未だに我々は天に向かって祈祷しなければならず、誠精を尽くす運命におかれているのです。 元来、人間の視線は平面的に見て動くように創造されているのに、どうして心は天に向かう立場におかれているのか。皆さんが平面圏内において神の摂理のみ旨を成就すれば、神が喜び、イエスと聖霊が喜び、地上の万民が喜ぶことができるのです。こんな一時が成ってこそ、我々の希望がかなうようになるのです。こんな目標を成就するための初段階としてイエス・キリストを送られたのに、人間の不信によって逝かれたのであり、逝かれたイエス・キリストを再び迎えなければならない責任が、皆さんにあるということを、知らねばなりません。 イエス様は地上に来られ、その摂理的な人生の初出発として、天の摂理のみ旨に従い、生活の第一歩を踏み出したのです。この生活の中心が何であったのか。まず人間を率いて神のまえに行くと同時に、人間を讒訴するサタンと対決して、闘うことだったのです。こんな両面的な立場で、イエスは出発するようになったのです。 見えざる霊界においては、サタンから讒訴され、見える肉界においてはすべての不信の輩から反対される立場で、イエス様は独り四〇〇〇年の間、摂理された神の悲しみを代身して悲しみ、天倫の悲しみを代身して悲しんだのです。こんな心を抱いて、このお方の視線はイスラエル民族に向かったのであり、神の愛の心情によって選ばれたユダヤ教に向かったのです。 しかしイエス様の使命完遂のために協助しなければならないイスラエル民族と、神のみ旨を受けてゆくべきユダヤ教団は、イエスのまえに一切現れず、全部が反対する立場にあったのです。今日これが必然的な事実であると信じているキリスト教徒たちは、イエス様の本当の心情を察して見るべき時が来たことを、知らねばなりません。 イエス様は霊的に侵犯して入ってきたサタンの勢力を防ぎ、数多くの人々によって肉的に飛んでくる、すべての不信の矢を防がねばなりません。ところがイエス様はこんな闘いだけ、しているわけにはいかないのです。より大きく、より遠い神のみ旨と、その所望を望み見てそこに自身の体と心を、合わせていかなければならない立場におられたキリストの人生の出発を、皆さんが同じ立場で同情することができる心を持たねばなりません。 こんな立場で出発したイエス・キリストにおいては、どうすれば神のみ旨を成就させ、どうすればサタンを屈伏させ、どうすれば堕落性を持っている万民を再び復帰させるかということが問題であったので、イエス様はこれを解決するために行かれたのです。 イエス様が従順の道理を教えられた理由 この地上で権勢を握るサタンは、神の栄光を自分たちが受けてきて、神が主管すべき人間を自分たちが主管してきたのです。このように人間はサタンの圧迫の下に生きてきたのです。それでイエス様はこの地に来てまず反対する人間よりも、人間をしてイエス様に反対させる霊的なサタンと、対決しなければなりませんでした。こんな闘いからキリスト教の歴史が始まったことを、皆さんは知らねばなりません。 それではサタンの本質と対決するために現れたイエス様は、彼の生活圏内において、まず何を表示して現れたのか。サタンが出来ないことを、しなければなりません。こんな責任を完遂するために、彼の生活圏内において実践的な行動を示したことが、今日キリスト教の福音なのです。 御言もそうであり、彼の心もそうであり、彼の生活もそうであり、彼の生涯もそうであり、彼の死までも、サタンが出来ない条件を捜し立てるための事であったのです。このようなイエス・キリストの生涯路程を、皆さんは知らねばなりません。天理法度が厳然としてあるがゆえに、言い換えれば、法度を中心としてすべてのものを治める神がおられるゆえに、イエス・キリストはこの天理法度によってサタンを分立したのです。 サタンの本質は傲慢と血気です。こんな性質で世の人間に対するサタンであったのですが、イエス様は温柔と謙遜で、世の人々のまえに現れたのです。 イエス様が至らなくて、温柔謙遜な立場に立ったのではありません。誰よりも最高に高くなることができ、栄光を受けることができるのですが、イエス様はこれをすべて捨て、温柔謙遜な立場に立たれたのです。サタンはこんなイエス・キリストと対決して闘おうとしたのですが、サタンには神のまえに屈伏しなければならない条件があることを知っておられたので、イエス様は最後まで温柔謙遜であられたのです。それでサタンの本質である傲慢と血気に反対の、温柔謙遜をもって現れたのです。 また厳然と天理法度があることを知るサタンであるがゆえに、終いにはイエス・キリストを認定するようになったのです。即ち、言ってみれば温柔謙遜でありつづければ、サタン世界も自然屈伏するということです。こんな原則を知るイエス様はサタンがやらない、サタンが出来ない温柔謙遜の立場をとられたのです。このように温柔謙遜な立場に立てば中心を通して役事される神も行く新しこを開拓することができるということを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様は、何を与えられたのかといえば、従順と服従です。従順は応じることができる環境で命令に従うことであり、服従は応じることができない環境で従うことです。イエス様は不信する人間に、こんな従順と服従の道理を教えられたのです。これもやはりサタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を防ぐためのものです。 サタンは自分を中心にして、他人がどうなろうと関係しない存在です。これがまた一つのサタンの本質です。それでサタンの後を追うなら、不幸になるのです。それでイエス様はすべての人間が自分を信じ、自分に従順になり、天に従ってくるように教えられたのです。こんなイエス様のみ旨を知らないで、人々はむしろイエス様を、神のみ旨のまえに不義なる人間だと考えたのです。こんな立場で、口にもできない蔑視と冷遇を受けても、イエス様は従順の道を開拓して行かれたのです。 また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を、づっと現されました。その実、天の栄光を代身する神の独り子としてこの地に来たイエス様は、万民と万物・サタンまでも主管して、彼らの犠牲と奉仕を受けるべき立場であったのに、その反対の立場に立たれたのでした。サタンがご自身のまえに従順になり、奉仕し、犠牲になるように造るために、即ちこんなサタンのすべての勢力を屈伏させるために、イエス様は無限に犠牲と奉仕の祭物として捧げる路程を歩まれたのでした。これを皆さんは知らねばなりません。 サタン世界は人間に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様はその反対の立場を取られたのです。このようにサタンがやらない生活を、イエス様が代表的にされたので、即ち温柔謙遜であり、従順であり服従して、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもこのような面では屈伏しなければならなかったのです。 皆さんは自分を、イエス様が教えられた温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らして見て、彼の教えを自分の生活圏内において実践することがきないと考えるなら、未だにサタンの宗族であることを悟らなければなりません。 サタンと同伴しては行けない天の道 今までの皆さんの生活はどうでしょうか? 自分を中心として血気と傲慢で生きる人間が今だにいますか? 皆さんは一日も早くこんな立場から抜けだし、イエス・キリストが立てておかれた基準、サタンを屈伏させる最後の闘いで勝利することができる基準である温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を迫害する者たちに向かって闘って行くという、内的な覚悟を誓わねばなりません。 み旨に対立し、み旨に反逆する立場に立つのがサタンであり、このようなことがサタンの生活になっているのです。それでわれ知らずみ旨に反発しようとする心がわくのは、自らの心ではなくてサタンの勢力が環境にさっと満ちて、その環境にしがみついているからなのであって、われ知らずサタンの勢力が自分を中心にして現れてくるのです。 イエス様は怨恨と悲しみがサタン世界に結ばれているとしても、犠牲と奉仕を覚悟してこの道を解決しようとして行かれたのです。 今日我々が面している終わりの日には、二筋の道があるのですが、サタンが行く道と天が行く道です。ところでサタンが行く道と、天が行く道は違います。天が行く道は、サタンが行かなこです。即ち、サタンはイエス様のように、神に対して従順に服従して、み旨を温柔、謙遜に実践し、摂理のみ旨のまえに全人類を代身して犠牲と奉仕はしないのです。 それでイエス様は善において王の中の王であり、温柔謙遜において王の中の王であり、従順と服従において王の中の王であり、犠牲と奉仕をするにおいて王の中の王であったことを、皆さんは知らねばなりません。 地上の数多くの人々は温柔を知らず、従順を知らず、犠牲と奉仕の祭物の道を行くことを知らないのです。イエス様は四〇〇〇年の歴史上に数多くの人々が来ては行き、数多くの聖賢たちが来ては行ったのですが、彼らがやれなかったこと、即ち天のまえに最高の温柔の道、最高の従順の基準、最高の祭物の基準を立てることによって、サタン世界のすべてのものを踏み越えて上がることができたのです。イエス様はこのようなサタンを屈伏させる血のにじむ路程を、我々に見せてくださったのです。 イエス様はこの地に来られ、温柔謙遜に従順に服従して、犠牲と奉仕の生活をされましたが、神様が長い歴史を経て、この地に対して苦労されたその心に通じる心情を持って、このような生活をされたのでサタンが根本的に屈伏し、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点となったのです。これを皆さんは知らねばなりません。 サタンは神の心情を知ってはいても、人間が神のものへ行こうとする道を塞ぎ、かえって自分のほうへと引っ張る存在なのです。自ら高くなろうとし、自ら対抗しようとし、自ら人間を利用しようとするのです。こんなサタンですが、神様とイエス様が来られれば、あえて頭を上げるにも上げられないのです。こんな条件がイエス様の生活圏内において立てられたことを、皆さんは知らねばなりません。それゆえ、イエス様について行けば我々からサタンが分離されるのです。イエス様の生涯は、こんな歴史的な出発をなす生涯だったのです。 こんな基準をイエス様は、どのようにして立てられたのか。イエス様はまず神とわたしは二つではなく、一つであるという基準を立てられました。神が永世であるならわたしも永世であり、神が不変であるならわたしも不変であり、神が無限に慈悲であるならわたしも無限に慈悲であるという心を持たれたのです。即ち神の内的心情をイエス様は誰よりもよく感じて、一つになることができたので、サタンに対する闘いの路程において勝利の基準を立てることができたのです。 しかしイエスが逝ってから今日まで、サタン世界には神とイエスとの内的心情が連結されたこの御言、また神とサタンの間にいかなる曲折、いかなる染みこんだ内容があるかということを知る人間が、少しもいなかったのです。 温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕 二〇〇〇年前にイエスがこの地に来て、サタンを屈伏させる方法として「温柔謙遜であれ」「従順服従せよ」「犠牲奉仕せよ」と人間たちに教えられたのですが、地の上の人間たちはイエス様の教えられた通り、温柔謙遜に感謝して、従順服従して感謝し、犠牲奉仕して感謝する生活環境を持つことができないがゆえに、われ知らず従順の心が変わって血気と傲慢、対立と反発をするようになり、奉仕と犠牲が変わって利用と搾取を常としているのです。 イエス様がこんな問題点を解決することが出来たということは、神と切っても切れない因縁があり、神とサタンとの切って捨てるべき曲折と、サタンとどうしたら別れられるかを知っていたがゆえに、イエスはこんな道を行くことができたのです。ところがこんな内容を人間たちは知らないので、イエス様と同じ道を行くことができなかったのです。 ですから皆さんは天に向かって「アボジ」と叫ばなければならず、イエス様に向かって祈祷しなければならないのです。そして神とイエス様の心情を知り、サタンの陰謀までも知って、歴史的なサタンの犯罪を暴露して、現実的にサタンの群れを屈伏させて、神の摂理の秘密を明らかにし、これを精算しなければならないのです。 温柔であり謙遜でなければ、イエス様の心情を体恤できません。また従順と屈伏・犠牲と奉仕の生活をしなかったら、イエス様のまえに近寄ることはできません。これを皆さんは知らねばなりません。現在の我々であっては、このような生活を完全になして神を求めてゆくことは難しいです。それで人間たちは「おお ! 神よ、我々に臨んでください」、「神よ! 我々を哀れんでください」と訴えているのです。そうして「神の時がいつ来るのですか」「イエスと聖霊がいつこの地の万民に現れるのですか」とその時を待っているのです。これが歴史的な悲しみの状況として、残っているのです。 皆さんは神とイエス様と、サタンとの間の曲折を知らない不信の人間たちですから、彼らに語りたかくても語ることが出来なかったイエス様の、切ない心情を知らねばなりません。 こうして従順の祭物になり、歴史の祭物になり、犠牲と奉仕の祭物になり、サタンに対して「おまえはなぜ、神の摂理のみ旨に従わないのか?」と叱りつけ、霊と肉を合わせた実体として、サタンを屈伏させる天的な秘密を捜し求めなければ、イエスが霊的に勝利したサタンを、実体的に屈伏させることができないのです。 ですから「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない」(ヨハネ一六:一二)「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三:一二)と言われ、語ることが出来なかったイエス・キリストの心情を、皆さんが解いてあげなければなりません。 それではこのような歴史的な審判の一日が、我々の目的に至っているこの時において、皆さんが悲しみを抱くなら、どんな悲しみを抱かなければならないか。イエス・キリストがサタンを屈伏させるために悲しかった以上の、悲しい心情を感じる聖徒にならねばなりません。 イエス様が十字架をまえにして、ゲッセマネの園に登って訴えた瞬間は、皆さんが想像することができない悲しい瞬間であったのです。自分一身が死ぬことが問題ではなく、天と地が、右と左になるからだったのです。サタンの勢力を精算することを願う立場で、一身に衝撃を受けてゲッセマネの園で祈祷され、泣き叫んだイエス様の心情を皆さんが蕩減して、さらには神の心情までも体恤して、サタンをその心のまえに呼び、サタンを屈伏させる皆さんにならねばなりません。でなければこの地上に再臨主が来られても、そのお方はまた、悲しみの主になるのです。 それでは今日、我々はどうしなければならないのか。我々は今死を覚悟して、み旨であるなら温柔謙遜の先がけとして立たねばならず、み旨であるなら従順屈伏して、この地のどんな人間が反対しても、イエス様が独り行かれたように、皆さんも神のみ旨の為に従順と服従の祭物にならねばなりません。 それでは、温柔謙遜、犠牲奉仕、従順屈伏の程度は、どの程度でなければならないか。神の威信があり、イエス・キリストの威信がある以上、皆さんが神とイエスの威信を立てるべき立場にあるのですから、三千万を代身して温柔謙遜に、サタンの血気と傲慢と対決しなければならず、三千万を代身して従順に服従して、サタンの対立反抗と対決しなければなりません。 こうして利用し、搾取しようとするサタンに対して、犠牲と奉仕の心情を持ってゆかねばならず、神とイエス様が抱いたサタンに対する鬱憤の心情を持って、サタンに対して対決しなければなりません。皆さんがこのような聖徒にならなかったなら、来られる主様を地に迎えることができず、また主様が来られたとしても、そのお方と何らの関係も結べないのです。 それでは今日、クリスチャンたちが持つべき生活的な理念が何でしょうか。自分がまず従順屈伏して、まず温柔謙遜であり、まず犠牲になり奉仕するという精神であるのです。こんな道を通してアボジのみ旨が成り、アボジの心情とイエス様の心情が解怨されるということを、知らねばなりません。歯を食いしばり、教会と民族を代身して犠牲奉仕して、天のみ旨の為に従順屈伏することができる聖徒が、三千万民族の中に多く現れることを、天は待ちわびておられるのです。 栄光の主と同参できる者 イエス様がこのように闘って勝利され、サタンを分別させたように、今日我々もサタンと闘って勝利し、アボジの懐に安らぐ子女たちになってこそ、イエス様がこの地に来られるようになるのです。 終わりの日である今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して闘った生活的な理念を継承する温柔謙遜な人間、従順屈伏する人間、犠牲奉仕する人間がいて、全体的な使命を果たさないとしても、神の蕩減復帰摂理のために世界万民を代身して、各々その使命を分担すべきなのです。またある一分野を独りで責任が持てなかったら、大勢が団結してでもその責任を完遂しなければなりません。こんな摂理的な運命が我々のまえに横たわっていることを、皆さん知らねばなりません。 イエス様が四〇〇〇年歴史を代身して、祭物の価値を象徴的に立てられたように、この時代におきまして我々は、イエス様を代身することができる立場に立たねばなりません。そのためにはイエス様と従順屈伏の友となり、温柔謙遜の友となり、犠牲奉仕の友とならねばなりません。そのような一人の人間が現れることを、天は苦待しておられることを、皆さん知らねばなりません。 皆さんがそんな姿になるためには、他人が何をしようと、サタンの非難や妨害、苦難があったとしても、それらに勝たねばなりません。そして、イエス様がゲッセマネの園を経て、十字架を背負い、ゴルゴダの山頂まで行かれた哀しい心情が付いてきても、そんな場にあってもイエス様が温柔謙遜であり、あらん限りの犠牲の祭物であられたように、皆さんは温柔謙遜であり、従順であらねばなりません。 我々は神の息子・娘として、神の威信をお立てしなければなりません。イエス様が自身の立場を誇ったり、自身を表すことなく常に神の立場を表て立てたように、我々も神の息子・娘として天理法度を守り、自身を誇ってはならないのです。ところでイエス様が温柔謙遜であり、従順に服従して犠牲となり奉仕されたことは、神のゆえであったのです。神様が元来、そんなお方であるからです。 死にゆく生命を救い、この堕落世界を救うには、早く早く従順屈伏して、早く早く温柔謙遜になれというのです。どうかどうか犠牲奉仕せよというのです。こんな群れが世界的に広がれば、サタンが主管し、怨讐たちが治めるこの地が帰ってくるのです。 皆さんは温柔謙遜であり、犠牲奉仕して、他に与えるのも無限に与えなければなりません。であれば天に染みこんだ怨恨の心情を持って、サタンと闘ったイエス・キリストが再び来る時、審判の権勢を持って栄光の姿でこの地に来る時、同参者になることができるのです。 神の国を回復して差し上げる御言の主人公 イエスはこの地に来て、切なく怨痛なる生活をされたのですが、その人生において願った所望が終結する一日を持ってみなかったのです。それで自身の心情を打ち明け、自身のすべての福を預け、自身のすべてのみ旨を委ねることができる一日を望み見て、今日までの二〇〇〇年の歴史を苦労して来られたことを、皆さんは知らねばなりません。 イエス・キリストはこの地において、言いたい事を言えず、やりたい事をやれず、持ちたい家庭を持ってみなかったのです。それではイエス様が言いたかったその御言が何であったか。それは神の玄奥(秘密)であり、サタンの玄奥(秘密)であり、人間の玄奥(秘密)を明らかにする御言であったのです。このような御言は、独りでやろうとしてやれるものではありません。神の創造原則、自律的運行法度を通して主管されるような御言をされるときにも、自由なる環境がまず造られなければなりません。こんな自由なる環境が造られる一日を、イエス様は持ってみなかったのです。 皆さんはイエス・キリストが、人間たちに自由なる環境で心を許して御言を語ることができる一日を、迎えるようにしなければなりません。この御言の中に神が伴い、イエス様が伴い、自分が伴い、サタンも自分のすべてのものを捨てて皆さんに付いてくることができる勝利者になって、神も喜び、イエス様も喜び、我々も喜ぶことができる一日を、この地に成さねばなりません。そのようになってこそ、神のみ旨が成るということを、知らねばなりません。 イエス様は御言と人格と愛の主人公として来られ、神様から天地万物を主管せよという祝福を受けたアダムとエバが堕落して、この御言を成就できずに怨恨を残したのですが、イエス様はこれを解消しようとして来られたのです。またイエス様は万物を主管することができる人格的な基準を回復して、万物を主管しているサタンを追い出し、神の主管圏を回復させることができる御言の主人公、真理の主人公であることを知らねばなりません。 さらにはイエス様は全万民、信じる人は勿論ですが信じない人までも愛して、サタンの束縛のうちに呻吟している人間を解放させることができる、無限の愛を抱いて来られたお方なのです。 今日キリストの新婦の理念を求めている我々が、その新婦の理念を得るにはどうすべきかといえば、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四:六)と言われた御言。道であり、真理であり、命である御言を受けて、その御言の通りに生きなければなりません。 我々がまたサタンを屈伏させるには、サタンが持っていない御言、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たねばなりません。そしてイエス・キリストが地上の人間たちに表せなかった切なく、懇切な心情を知らねばなりません。 今日皆さんは、追われている統一教会に通っています。私は時々言うのです。「哀れな人間の道に従っている皆さんは哀れであり、哀しい人間の後に付いてくる皆さんは哀しいのです。しかしその哀れさと悲しさは、わたしの為のものではないのです」 皆さんが真にこのような立場になるときに、ここに天が役事されるのです。こんな心情を通し「自分がキリストの心情を知り、キリストの生涯の目的を知りましたから、この目的を代身して自分がサタンと闘ってゆきます。キリストが霊・肉共にサタンを屈伏させるために闘った、その闘いに今自分が責任を負って悪党どもを追い払い、サタンを屈伏させます」と自分に言える一人の人間を捜し求めなければなりません。天はそのような人間を求めておられるのです。 今審判の日が近づいて来て、我々は艱難と悲しみの峠を越え、死の祭物となって新しい真理の御言を握り、新しい人格を代身し、新しい生活理念を捜し立ててあげる天的な人間を中心に動き始めてこそ、真の生活をし、人生の目的を達成し、新しい永世の理想生活を出発するようになるのです。この事は神がなさることでもなく、イエスがなさることでもなく、皆さん自身がしなければならないのです。 イエス様は神のような御言のみを聖書に表されましたが、今内的な御言を持って再び来られ、サタンの秘密を暴露し、サタンを永遠に底無しの地獄に閉じ込めるのです。それゆえ皆さんは、再び来られる主様から受ける真理の、主人公たちにならねばなりません。 この真理の御言は、神も頷き篤実な聖徒も頷き、サタンまでも頷く御言でなければならず、この御言のまえには正しく、本然の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる御言でなければなりません。 皆さんは真理の御言を持ったイエス様が、祭物になってまでも神のまえに畏敬なる心情を抱いたように、イエス様のまえに畏敬を感じる新婦になり、アボジのまえに祭物として捧げることができる人格を持つなら、人格審判の峠を越えるのです。そして真理審判の峠を越えることによって、神様がアダムとエバに祝福された、万物主管権を回復することができるのです。ここから新しい人生の出発が始まるのです。 新郎・新婦の資格を得て、永遠なる神の愛を中心に、新しい生活が出発すること、これがいわゆる歴史的な所望であり、千年王国の基盤であるのです。皆さんは原理を学んで知っているように、天使長の愛以上の神の愛を受けることができる勝利の資格者となり「ハレルヤ、ア-メン!」としなければなりません。 こうしてサタンの死亡圏から解放され、自由と幸福と愛と善と美を中心に生き、自分を中心にせず、神と天倫を中心にして生きなければなりません。そして主様の所願が私の所願であり、主様の愛が私の愛であり、主様の美が私の美となる一体として万象のまえに現れるとき、皆さんがイエス様を欣慕したように、万物も皆さんを欣慕するのです。こんな資格を持つ新婦となることが、終わりの日の希望なのです。 このように皆さんが新婦の資格を完成して、地において霊・肉共にイエスを代身して、彼の念願を成就して、サタンに対して誇ることができる姿となり、全体を主管しなければならないのです。そうなればイエス・キリストの所望の一日が、勝利の一日として永遠に天地にまえに立ち、人間のまえに立ち、神のまえに立つことができるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.22
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神の悲しみを知る者となろう一九五七年十月二五日(金)前本部教会この時間は「神の悲しみを知る者となろう」という題目で皆さんに暫くの間、お話しします。 人間の堕落による悲しみ 悲しみは今まで数千年の歴史過程を経てきて、我々人間と切っても切れない不可分の関係を結んできたということを、皆さんはよく知っています。また皆さんは人間だけが悲しんでいるのではなく、人間と連なる万物も悲しんでいるのであり、また創造理想を立て、人間を創られた創造主神様も、悲しんでおられることを知っています。 皆さんが今、心を引き締めて上には天を見上げ、下には万物を見渡す立場で、この地上の人間を探って見るとき、誰が神を代身し、人間を代身し、万物を代身した悲しみの苦難の中で、私は解放されたと叫んだか。そんな人間は一人もいなかったことを知るのです。 神の悲しみが収まらない限り、地上の人間の悲しみも収まることがなく、地上に生きている人間の悲しみが収まらない限り、人間の為に創られた被造万物も悲しみを免れることはできないのです。 それでは神に悲しみを抱かせた張本人は、誰だったのですか? その張本人は神でもなく、万物でもなく、正に人間なのです。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たさなければならなかった人間が堕落することによって、神に悲しみを起こさせ、万物にまで悲しみを負わせたのです。 ですから今日皆さんは、皆さんの一身が天地のまえに独り立つ自分であることを悟り、皆さんの心の中に流れている悲しい心情を、除去する闘争の過程を経て行く必然的な運命におかれているということを、肝に銘じなければなりません。 そして、皆さん一身の悲しみは、皆さん自体の悲しみで終わるのではなく、その悲しみは天の悲しみとして、万民の悲しみとして連結されているのです。皆さん一人によって、皆さんの家庭・社会・国家・世界にまで、その悲しみの波動が及ぶのです。 ですから皆さんはこのように重々しい立場にあるということを、知らねばなりません。 それでは、今このように悲しい立場にある今日の私は、どんな心情で天の悲しみを代身することを願っているのか、どんな心情で地上の万民の悲しみを代身し、また万物の悲しみを代身することを願っているのか、反省してみなければなりません。このような問題は最後の審判の峠を越えなければならない、我々堕落した人間が抱いている問題の中の一つです。世界的なゴルゴダの逆境を迎えているこの時、我々はこの荷と包みを自分一身で精算して「私は自由の体であり、希望の体であり、幸福の体であり、天地万物を愛する体」と自負することができなければなりません。また我々は神の悲しみを除去し、万物の悲しみまでも精算することができる基準を残す人間にならねばなりません。 もしもこのような一つの基準を残さなかったら、今日皆さんがこの一時に喜ぶどんな喜びがあったとしても、その喜びは一瞬に終わってしまい、楽しめるどんな恩賜を受けたとしても、その恩賜は一瞬に終わってしまい、すぐに悲しみに浸るのです。こんな悲しみから脱しなければならない責任が、皆さんにあるのです。 それでは、我々はこの悲しみを、どのように脱するのか。これは人間独りでは、抜けることができません。ですから天は今まで数千年の間、我々に新しい力と新しい恩賜と、復活の役事を起こさせ、この悲しみを除去するための闘いを、皆さんが知らない間にやってこられたことを、我々は原理を通してよく知っているのです。 また、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみと化しており、堕落した人間によって、人間と神と万物とが一つになってゆく愛の道が立ち塞がれていることを、よく知っているのです。 ですから皆さんは、自身の悲しみによって自暴自棄になる立場に立ってはいけません。皆さんの立場よりも、今まで長い歴史過程を経てこられ、数多くの人類に対して悲しまれた、アボジの悲しみが何であったかを、まず考えることを知らねばなりません。こうして皆さんがアボジの悲しみを、自分の実際の生活で感じる人間になれば、自分に及んでいる悲しみを、そのまま自分の悲しみとしてのみ考えることのない環境にぶつかるのです。こんな立場を軽く越えられなかったら、皆さんは終わりの日の審判の峠を越え、神の心情を慰めることができる資格者にはなれないという事実を、肝に銘じなければなりません。 神の二重の悲しみ それでは、神様はいかなる悲しみを抱いておられるのか。これが我々が知らねばならない極めて重大な問題なのです。それは神様が創造理想を成就するための、中心責任者として創られたアダムとエバが堕落して、彼らを通して立てようとされた創造本然の世界を成すことが出来ないことのよって生じた悲しみなのです。それゆえ今日皆さんは、このような神の悲しみを体恤する人間にならねばなりません。 即ち、アダムとエバが堕落することのよって、永遠の神の愛と理念を中心とした愛の園で、永遠に至福を享受することのできる創造の理想が挫折し、神は今まで数千年の歴史の中で、苦労せざるを得なくなったのです。それゆえ今日皆さんは、アダムとエバが堕落することによって成せなかった創造理想を成すために、神が今までサタンと闘われて味わったその悲しい心情を、体恤する人間にならなければなりません。 それでは、今皆さんはアダムを失ったその時の悲しみ、アダムとエバが神に背反して堕落した時の、神の心情を体恤しなければなりません。そのためにはまず、愛が何であるかを知り、神が人間をどれほど愛されているかを体恤しなければなりません。でなければ皆さんは、神様がアダムとエバを失って悲しんだその心情を、とうてい体恤する道がないのです。ですから皆さんは何よりもまず、アダムとエバの堕落によって創造理想を成せなかった神の悲しい心情を、体恤しなければなりません。 創造理想を成就するための神の切ない心情が、全被造世界に結ばれているのです。これを打開するためのものが、今までの摂理歴史であることを皆さんは知らねばなりません。アダム以後、ノア・アブラハム・モ-セ・イエスのときまで、来ては行ったすべての先知先烈たちは、この地上で何を人間に証し、何を紹介したのか。彼らは当時、神の悲しみを無知な人間のまえに伝えたのです。 皆さんは神様が、人間の堕落によって創造理想を成せなかった悲しみを抱いておられ、またその創造理想を成すために数多くの先知先烈たちを送り、彼らをしてサタンと闘わせた後、彼らを見やって悲しむ他はなかった、二重の悲しみを抱かれたという事実を、知らねばなりません。 即ち、神に背反した無知なる民に、今までどんな人間も歓迎しなかった神のみ旨と、神の悲しい心情を教えてあげるために、数多くの先知先烈たちは切ない苦労の路程を歩んで行ったのです。彼らは神の悲しい心情を、内的に体恤すれば体恤するほど、地に対して神の代身、悲しむべき使命を感じ、神と同じ切ない心情でサタンと闘わなければならなかったのです。 また神のみ旨を代身して、価値を認められた存在として現れるべき彼らでしたが、むしろ無知な人間たちに蔑視と排斥を受け、冷たくあしらわれて無価値のようにこっちに追われ、あっちに追われる彼らの姿を見やる神様は、二重の悲しみを感じられたのです。神には自身の創造理想が成せないことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人間たちに悟らせ、サタンと闘わねばならない運命に立つ先知先烈たちを眺めやることも、言葉にも出せない悲しみであったのです。このように神様は二重の悲しみを抱いておられたことを、皆さんは忘れてはなりません。 ノアの時を振り返って見れば、一六〇〇年の間、神は口にも出せない切ない心情が込み上げてきても、耐える道を歩んでこられたのです。一時一瞬も忘れることのできない人間に対する悲しみが込み上げてきても、これをすべて耐え、ご自身の悲しみを代身して万民のまえに、また万物のまえに温情を現すために、ノアを選び立てたのでした。 それでは、神様はどうしてノアを、その当時の人間たちが理解することができない立場に立てられたのか。一六〇〇年の間、人間たちが神を悲しみに浸らせたことを、ノア一人を立てて彼が人間を代表して、その天的な切なさと悲しみを感じさせるために、こんな理解できない環境に立てておかれたことを、皆さんは知らねばなりません。 悲しまれる神を慰めた歴代の先知先烈 ノアは一二〇年の間、自分を不信し反対して呪咀する人間たちのまえに、黙々と現れたのです。また一二〇年後にこの地を審判するという天の予告を受けた時、彼は天に対して信仰の道理を尽くしたのです。彼を見て、当時の義人であるとされました。義人であったがゆえに、彼は自分が生きていた当時の社会が暴虐であればあるほど、より社会のために案じて悲しんだのです。 多くの人々が自分自身の安逸のためにあたふたしている時に、ノアだけは独り公義の法度を求めて身悶え、天倫を案じ、ひとが願わざる環境において悲しんだのです。このようなノア、即ち、その当時の人間のために案じ、悲しむ心を持っていたノアでしたから、神様は彼を召命されたことを皆さんは知らねばなりません。 ただノアだけではありません。今まで神のみ旨を成就すべき責任を担うすべての先知先烈たちが、選ばれた原因がどこにあったのでしょうか? 彼らはすべてその当時の暴虐の地と、暴虐の人間たちを独り案じたからだったのです。そのように個人と家庭・社会・国家・世界を案じる心を持って、ひと知れぬなかで「天はおられるのですか? あるとしたら、この罪悪の地を救ってください」と祈祷して、天に対する切ない心情で忠誠を尽くしたゆえに、彼らは天の召命を受けるようになったのです。 神様はノアならノア、ある先知者なら先知者を立てるとき、その心情はとても言うこともできない悲しみに染まっていたことを、皆さんは知らねばなりません。また神のまえに召命を受けた先知者たちが、地上に人間たちに不信と反対を受けるなかで、瓢々単身悲しみの心情を抱き「おお ! アボジよ!」と叫ぶ祈祷の声が響きわたるなら、その祈祷の声は人間にとって喜びの声ではありません。 しかしそんな祈祷の声を聞かれる神様は、その懇切なる訴えに動かされるがゆえに、今日まで数多くの先烈たちは、神の悲しい心情を慰めるために、どんな受難の道もものともせずに歩んで来たのです。 誰であっても切ない心情で、このように天に対して訴え、祈祷するその姿を見られた神は、さらに込み上げる切ない心情で彼に対されたのでした。神は彼らに対されるとき、ご自身の欲求と理念をすべて尋ね求める、そんな心が動かされたことを皆さんは知らねばなりません。 しかし、神様はこのように自身を信じて従う愛する先知者、あるいは愛する息子・娘に対して、いつも心を許して命令することができない立場であり、時間と場所を越えて話し合うことができない事情があったのです。このようにある象徴的な条件を立てておいて、人間に対する他はない神の哀しさを、皆さんは知らねばなりません。それで旧約時代は祭物を通して、新約時代はイエス様を通して、神の哀しみを除く役事をしてきたことを、皆さんはよく知っているのです。 これによって神のみ旨が、すべて成るということではありません。神様は直接皆さんと心ゆくまで授受し、そうして皆さんを懐に抱き、神の愛の圏内で永遠に共に生きてみたいのです。そうしてすべての人間をわが息子・娘と呼んでみたいのです。そうしてすべての怨恨と悲しい心情をぶちまけたい心を、今日まで耐えてこられたことを皆さんは知らねばなりません。 今日この地上に生きている皆さんは、自分の悲しみを人間に、また家庭のまえに、あるいは氏族に打ち明けることができますが、神はそのようにすることもできないのです。また皆さんは難しい時、「私は悲しい、あるいは私は淋しい」と自分の心情を吐露することもできますが、神は数千年の歴史過程を経てくる中において悲しくても、悲しいという一言を発しられなかったのです。このように切ない立場におられる神の心情を、皆さんは感じることがきなければなりません。 今までの歴史過程の先知先烈たちが自身の悲しみを明かす前に、彼らを代身して地上のすべての人間の悲しみをまず現したことを皆さんが知り、今皆さんが天のまえに立とうとするなら、まず自身の過去を反省して見なければなりません。皆さんが自身の生活圏内で六〇〇〇年という長い歳月を通して悲しんでこられた神のまえに、慰めとなることができるある小さな事でもしてきたかを、回想して見なければなりません。 神の悲しみを解いて差し上げるべき人間 こうして未来を見やり、自分の家庭の為に、あるいはこの国、この民族の為に案じる人間にならねばならず、また世の中が混乱して死亡の圏内にさらされているとしても、変わらぬ心で天に向かって歩む人間にならねばなりません。そんな皆さんになったなら、皆さんは決して滅びることはないのであり、神から呪いを受けることはありません。 ですから神様は人間が堕落して創造理想が成せないことを悲しみ、また成すことができないその理想を再び成すために、この地を代身して案じて苦労する一人の人間を捜し求めておられるのです。今日皆さんは、このように悲しい立場におられる神を慰労し、その悲しみを除去して差し上げる道を歩むべき、運命におかれているのです。 しかし神様に悲しみをもたらしたのが人間であるがゆえに、その悲しみを追放しなければならない者も、人間であるということを皆さんはよく知らないのです。天宙を代身して神の悲しみを解いて差し上げる者が、正に皆さん自身であることを悟り、その悲しみを解いて差し上げるために努力しなければならないのです。これが皆さんが重大視すべき最も大きな問題であることを、はっきりと知らねばなりません。 今まで神様は、選び立てた人間たちの人生路程におけるどの一時どの瞬間も、悲しくない時がなかったのです。なぜならば、神様はご自身の悲しみを解くために、ありったけの誠心を尽くして、中心的な使命を果たす人間がいても、ある一瞬間でもご自身の心を充たしてくれるほど慰められる事ができないことを、眺める他はなかったからです。神様はご自身が選び立てた人間と、心が通じ、事情が通じる立場にありながら、その所望とする事を彼らが当代に成してあげることができず、切なさを抱いてこられたのです。 このような悲しい歴史の四〇〇〇年が経過した後に、神様は初めてこの地上に四〇〇〇年の歴史を代身することができ、その四〇〇〇年の歴史のうちに来ては行ったすべての先知者たちを代身することができ、全天宙を代身することができるお方を送られたのです。神様は天を代身し、万物を代身し、人間を代身することができる一つの存在を送られたのですが、そのお方が誰かといえば、正に皆さんが信じているイエス・キリストなのです。このお方が来られた日は、万物が喜ぶ日であり、万民が喜ぶ日であり、天が喜ぶことができる日であったことを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様が、この地上に何を持って来られたのか。彼は歴史過程の全人類の悲しみを代身し、すべての万物の悲しみを代身した存在、即ち、言うこともできない悲しみを抱いて、この地上に現れたのです。そして神の胸のうちに四〇〇〇年の間染みた悲しみを、全人類と万物を代身して解消して差し上げる責任を持って、この地上に現れたのでした。 イエス様は人間が神に背反して神から離脱した、その堕落の歴史を振り返るために、新しい覚悟で人間の生命と全宇宙の生命に立ち塞がっている、サタンと闘ったのでした。即ち、いかなるサタン的な血統とも関係を結ばない立場で、神と関係を結ぶ一つの理念、一つの所望と喜びを追求していったのです。 イエス様が三〇余年の生涯、このような路程を歩まれたのですが、誰一人信じて共に同調してはくれなかったのです。四〇〇〇年の間結ばれた、神の悲しみを解いて差し上げ、神のみ旨を成してあげるために三〇余年の生涯、血と汗を流して忠誠を尽くしても、イエス様のこのような事情を真に知ってくれる、そんな一人の人間もなかったのです。ユダヤ教団から、あるいはイスラエルの民から追われ、退けられ、ついには留まる所がなく、立つ所がなく、この村、あの村、この山里、あの山里とさまよう他なかったイエス様の哀しい事情を、今日皆さんは感じてみなければなりません。 それでは、イエス様の哀しみはどんな哀しみであったのか。神のみ旨のまえに任された正にその使命を、果たすことが出来ない哀しみであり、無知な民衆に神のみ旨を悟らせることが出来ない哀しみだったのです。それでイエス様は当時ご自身に反対し、不信するユダヤ教に対し、イスラエル民族に対し、悲しまれたのでした。 イエスが伝えようとした神の事情 このような哀しい事情におかれているイエス様を見やる神様は、イエス様を迫害し、不信するユダヤ教とイスラエル民族を、直ちに審判して滅ぼしたくとも、滅ぼされはしなかったのです。こんな神の切ない悲しみがあったということを、皆さんは知らねばなりません。 イエス様がこの地上に万民の救世主として来られて悲しんでいることは、全人類の悲しみを代身し、すべての被造万物の悲しみを代身しているからであることを、皆さんははっきりと知らねばなりませ。 それゆえ今皆さんは、イエス様の淋しい胸を開き、彼の悲しみがどうであるかを感じようという、心構えを持たねばなりません。ひと知れぬ切ない立場におかれていたイエス・キリストの、友になるという心を持たねばなりません。皆さんがイエス様と一日の友になれないなら、一時間の友でもなるという心を持たねばなりません。もしも皆さんにこんな心が少しもなければ、皆さんは天倫を代身して、人間を代身して、神の悲しみを慰められず、むしろ天のまえに反旗を掲げる反逆者の立場になってしまうのです。 皆さんは切ない心情で、任された使命を完遂するために限りなく努力しながら、結局は十字架に架けられたイエス様の姿を見やる、神の悲しい心情を感じることができなければなりません。 イエス様は万民を代身し、全宇宙を代身し、神の悲しみを解いて差し上げ、神のみ旨を成就してサタンを屈伏させなければならない使命があったのに、不信する群れにこっちに追われ、あっちに追われ、結局はゴルゴダの丘で十字架まで背負うようになったのです。このようなイエス様の心情が、どうであったか? 自身を中心に約束されたすべてのみ旨が破壊され、自身の一生が結局は十字架に帰結されたことを感じるイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで、天に背反することなく天に対して忠誠の道理を尽くしたのです。すべての人間たちはイエス様を不信したのですが、イエス様はそんなことに係わらず、天倫に向かうその道を一生の目標として生きて行かれたのです。このようなイエス様の一生が、我々人間に歴史的に所望の道になったということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 十字架の死の直前に「わが神、わが神、どうしてわたしを捨てられるのですか(マタイ二七:四六)」と祈る他はないイエス様の立場を見やる、神の切なく悲しい心情を、皆さは察してみなければなりません。四〇〇〇年の間、悲しみを耐えてこられた神様だったのですが、愛する息子・娘がある蕩減条件を立てる前には、直接主管することができないので、彼らが蕩減条件を立てるときまで耐える他はない神であることを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様はこの地上で、どのように生きられたのか。皆さんのように思いのままに言い、思いのままに行動されたかといえば、そうはできなかったのです。イエス様は常に、安逸な立場に立っておられなかったのです。どこで眠っても、何を食べても、上下左右どこへ動いても、常に骨髄に染みる神の悲しい心情を現す他はなかったのです。イエス様が御言を語れば不信の群れから、骨が溶け、血肉が朽ちるほどの悲しみを感じて、その時のパリサイ人、ユダヤ教徒・イスラエル民族のまえに声高く叫んだのでした。 イエス様は彼らから受けたさまざまな悲しみに染みる怨恨の心情において、無知な民衆と不信の群れに対し、議論することはできないとされたのです。こんな切ない事情がイエス様にはあったことを、皆さんは忘れてはなりません。 天からある使命を受けて、この地上に来たことを知っているイエス様は、天の所望と自身が生きている現実とはあまりに違いがあるので、悲しみの心が込み上げてくる他なかったのです。イエス様はこんな悲しみが天と地を覆ってはいても、自身の事情による悲しみを抱くこともなかったのです。 今日皆さんもこのように、自分の事情に縛られることなく、人類全体の悲しみと、歴史的な悲しみを案じて慰めようとされたイエス様の、三〇年の生涯を手本としなければなりません。今皆さん自身がイエス様の悲しい事情をどれほど案じ、また神のみ旨を成すために、そんな悲しみの場までどれほど行ってみたか、分析してみなければなりません。 イエスを十字架に釘打つことによって加重された神の悲しみ 神様はアダムとエバが堕落することによって、創造理念を失ってしまい、言うこともできない哀しい心情を感じられたのです。それで神様は人間にイエス様を信じさせ、ご自身の哀しい心情が慰められる所望の一日を迎えようとされたのですが、イエス様を十字架に釘打って殺す、悲惨な事情をまたも見ることになったのです。四〇〇〇年の間、苦労してイエス様おひとりを立て、ご自身の悲しみを解き、またこの地上に天国を建設されようとしたのですが、このようなすべてのみ旨が一時に挫折する時、その神の心情がどうであったでしょうか? このときの神の悲しい心情は、昔アダムとエバが堕落する時に感じたそれ以上の悲しみであったのです。アダムとエバが堕落する時は、天と地がすべて壊されるような悲しみを感じられ、イエス様が十字架につかれる時は、神様は四〇〇〇年の間、血と汗と涙で積んだ誠精の塔が一時に壊され、もう一度再創造の歴史を始めなければなかったので、神様は堕落同時の悲しみに加重された言うに言えない悲しみを感じ、嘆息するしかなかったのです。 それでは、今日皆さんはどんな立場におかれているのか? 皆さんは堕落することによって神様に悲しみをもたらした、アダムとエバの後孫なのです。また皆さんは神の悲しみを解いてあげるために来たイエス様を殺し、神の悲しみを加重させた者たちの、後孫であることを知らねばなりません。 神様は人間がご自身に、悲しみをもたらした背反者である事実を忘れ、また再びその後孫たちを抱いて、摂理してこられたのです。神様は人間と、すべての被造万物が一つになり、この地上に神の国が出来るその一日が、どうかすぐに来ることを待ちわびておられるのです。 では皆さんは今、どんな環境で暮らしているのか? 今日皆さんが見渡す現実はどうでしょうか? 世界がどんな状況におかれているでしょうか? 志のある人間であるなら、今日の現実を見渡して胸を打ち、慟哭して悲しむ時です。この地に神の愛を現し、神の悲しい胸を慰めるために地上に来られたイエス・キリストの使命を知る人間であるなら、彼は全地を代身して、暗く重い自身の胸を打たざるを得ないのです。なぜならば、今日の現実は神のみ旨とはあまりに遠い距離にあり、破倫と矛盾と闘争が満ちみちている状況にあるからです。 ですから、今日皆さんは極めて悲しい神の心情を感じ、神の無限の愛を渇望し、ひとが悪口を言おうと迫害しようと意に介さず、ただ希望の一日を成すために、即ちこの地上に神の国を建設するために身悶えて倒れる恨があったとしても、我々はこの一つの道を捜し求めて行かなければなりません。こんな歴史的な責任が、我々にはあるのです。 皆さんはこのような使命を担うために苦労する過程で、自身が不信の群れから受けるいろんな悲しい事由があっても、こんな事情を皆さんよりもさらに悲しい立場におられる、神様に申し上げてはなりません。神様は人間に対する悲しみを、測る道がないとしても、これを今まで人間のまえに全体的に現してみたことがないのです。 今日皆さんは、神がご自身の悲しみを抱いて人間を救援するための摂理されているように、皆さんも自身の悲しみを抱えて、サタンと闘って行かなければなりません。こうして皆さんが祈祷をしても、自分自身のすべてのことを忘れて、ただアボジの悲しみを解怨して差し上げる自分になり、また今までアボジに結ばれた歴史的な怨恨と、宇宙的な悲しみをすべて任せてくださいと、祈祷しなければなりません。そして神のみ旨を成すために、サタンと闘わなければなりません。こんな皆さんになったなら、皆さんは神のみ旨を成すために、そのまま喘いで消える恨があったとしても、決して滅びはしないのです。 ですから神様はこの時間も、そんな人間が現れることを苦待されているのです。自身の生命を捧げても、アボジの悲しみを解怨して差し上げるという人間を、捜し求めておられるのです。神様はこんな人間に、天倫の無限の生命の原動力を吹き込み、彼を通してご自身の悲しみを解き、彼と永遠なる関係を結びたいのです。また、彼を通して家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまでも解怨したいということを、皆さんはこの時間、はっきりと知らねばなりません。 人間に対する神の願い それでは、皆さんには天の染みたどんな悲しみがありますか? 皆さんは皆さん個人のための悲しみがあってはいけません。もしも皆さんが、皆さん自身のための悲しみを抱えているなら皆さんは哀れな人間です。皆さんは皆さんよりも皆さんの家庭・社会・国家・世界、さらには神のための悲しみを抱え、こんなすべての悲しみを解いてゆく人間にならねばなりません。 昔のノア爺さんを回想してみてください。彼は神様が一二〇年後に、わたしがこの地を洪水で審判すると予告されたとき、その予告の一言を一二〇年の間、いつの一瞬も忘れることなく信じてきたのです。一言の命令に一二〇年の間、従順であったのです。これは驚くべき信仰であるのです。ところでこのような神の御言に絶対従順なる人間は、だたノアだけではありません。アブラハムもやはり、神の御言に絶対従順なひとでした。神様が、カルデアのウルを離れよ、と言われたときに祝福されたその祝福の御言を、アブラハムは荒野に出ても、いつの日も忘れたことがありませんでした。それでアブラハムは自身に約束されたその祝福の御言を信じて、毎日のようにサタンと闘ったのでした。 そして、ヤコブもやはりそんな人間でした。イサクから受けた祝福と、神から受けた祝福を忘れることなく生活したので、ハランにおける二一年の苦役生活を耐えることができたのです。また、イエス様もやはり、そのようなお方でした。イエス様もご自身に約束されて下された、ただ一言の命令を受け、その約束の御言を成すために三〇余年の生涯を、サタンと闘っていったのでした。 このように神のまえに召命を受けたすべての先知者たちは、同じように天から与えられたただ一言の御言を、自身のすべてのものを捧げて一生、信仰によって守っていったことを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、今歴史的な悲しみが皆さんを通過しているこの時代に、皆さんはどのようにしなければならないか。まず神の悲しみを体恤する人間にならねばならず、またイエス様と聖霊が、神と人間に対して悲しんだ心情と、今まで六〇〇〇年の間、この地上に来ては行った数多くの先知先烈たちが悲しんだ心情を、体恤する人間にならねばなりません。 こうして皆さんは自分のすべてのものを蹴飛ばして、さらには歴史的なすべての悲しみを解いて、神様に喜びと栄光をお返しする人間にならなければなりません。このような皆さんになることを、神はこの時間にも懇切に願っておられる事実を、今日皆さんは忘れてはなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.21
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み旨に背信する者となるな一九五七年十月二〇日(日)前本部教会今日この時間、皆さんと共に暫くの間考えてみたい御言の題目は「み旨に背信すう者となるな」です。 人間が永遠なる理念と生活圏で生きられなくなった理由 今日我々が生きている生活環境は、信義の法度を捜し立てるには、極めて難しい環境です。また一人の親友を捜し、永遠の友の関係を結んで人生路程を経て、永世の路程までも共に愉しみ、共に生きることができるそんな親友を持つということは、とても難しいことです。 単に親友のみならず、家庭においても永遠に共に生きることができる夫婦、永遠に共に生きることができる父母、永遠に共に生きることができる兄弟を持つのは難しい世の中であることを、皆さんは良く知っています。 我々の心を見渡してみるとき、自分の心が変わらないで、自分が生きている環境のすべてのものが変わらない中で、驚くほどに大きなある理念圏内で共に生きることを、人間はこの時間にも痛切に願っているのです。 元来、人間は互いに永遠に信じることができ、永遠に頼ることができ、また永遠に愛することができる心を持ち、自分のすべてのものを他に任せ、自分のすべて良いものを他に誇ることができる、そんな環境の中で生きるようになっていたのです。ところがこのような環境を失って、これを再び捜し求める必然的な運命を背負うようになったのです。 このような事実が、偶然の歴史としてあるのではないのです。ここには我々が知らないある曲折があったのです。今までの歴史路程を経てきた我々の先祖たちに、絶対的な信義の大原則に背反した条件や、我々が知らない、仕出かした暗黒の条件があったので、これが今日皆さんの血と肉を押さえつけていると同時に、皆さんの生活環境まで押さえつけているということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、このような立場にある今日の皆さんは、どうしなければならないのか。元来人間が持つべきであった本然の理念を中心として、不変の信義の姿を得て、永遠の理念を自分の理念として、永遠の信義を自分の信義として、生活圏内において現さなければなりません。こうして自身の人生路程を越えて永遠に愉しことができるその一日を迎えなければならないのです。今日数多くの人々は正にこんな一日を待ちわび、求めているのです。 それでは我々はどんな存在であるかといえば、未だに堕落の血統を脱ぐことができない存在なのです。即ち、罪の枠の中から解放されていない我々であるのです。ですから今日皆さんには、罪の絆を断ち切る責任が残っているのです。今まで生きてきた自分の誤った生活を反省して、間違っていた一連のすべての動きを止めなければなりません。我々が愉しことができる環境と、生の理念を捜し求めなければならない運命が、我々には未だに残っていることを皆さんは知らねばなりません。 我々がこのような立場にあるのは、すべてが堕落したからなのですが、この堕落とは何を意味しているのか。人間が永遠に変わろうにも変わることができない中心体として、信仰の目的を完成した理念の中心体として、また万物に対して永遠なる存在として現れなかったことです。即ち、互いに変わろうにも変わることができず、分けようにも分けることができない人間と神の関係が、分けられ変わってしまったことが、堕落なのです。これが今日まで、我々に悲しみとして残っているのです。 人間が悲しみを抱くようになったのは、天が立てられた原則を自ら背信したからです。即ち、人間が神様が立てられた創造原則を中心に、地上に神を代身する中心存在として現れるべきこのみ旨を不信して、壊してしまったことのよって、悲しみを抱くようになったのです。 天に背信することによって引き継がれた悲しい歴史 それでは今日、自分一個体即ち、自分の体と心によって現れる自分の生活のすべてが、神のような絶対的な善と、絶対的な義を代身していないということを感じるとき、自分自身が悲しむことが何でしょうか。自分の体と心に神に背信した背信の痕跡が残っていることを、悲しまなければなりません。 人間が天倫に背信しなかったなら背信という名詞、不信という名詞がなかったのです。神と切っても切れない息子・娘の関係を立てなければならないアダムとエバが、天のみ旨に背信したこの事実が、今日宇宙の悲しみであり、歴史上のすべての人生の悲しみとして残ったのです。のみならず、これが今日私の心と体の悲しみとして残っている事実を、皆さんは知らねばなりません。 今皆さんはこのような歴史的な条件を持っている自分をアボジのまえにおき、怨讐に対して闘っていかなければなりません。さらには自分の生活環境と闘い、地上のすべての暗闇の権勢に対抗して闘わねばなりません。皆さんは正にこのような生の運命を背負っているという事実を、知らねばなりません。 それでは今日の私一人の姿を立て、神の絶対的な信義の法度を捜し求めるとき、自分も知らないうちに背信の立場をとっていることを、我々はどのように防ぐのか。血統的に因縁があるのであり、心と生活と社会環境の全体がこのような背景を持っているのを、どう貫いてゆくかが問題なのです。 神様は人間を創造されて後、六〇〇〇年の歴史を摂理されてきたという事実を、皆さんは知っています。この過程において数多くの先知先烈たちを送られて、彼らをしてご自身を信じさせ、変わることのない因縁を結ばせようと苦労されたことを、また皆さんはよく知っています。 それではその神の心情は、どうだったのでしょうか? 無限に人間を愛されようとされました。それで神は今まで人間のために、背後で苦労されたのです。ですから今日皆さんは、このように数千年の歴史過程を耐えてこられ、払い落とすことのできない神の内的な悲しみ、永遠に変わらぬ人間として神の永遠のみ旨を代身してゆくという人間を捜し求めてこられた神の内的な切なさを、探りだして知る人間にならなければなりません。 神はどのようなお方か。六〇〇〇年の間耐えてこられ、人間をして天を信ずる信仰の条件を立てさせるために、苦労されたお方です。人間が堕落した後、今日のこの時間まで、ご自身を背信しない人間がいない立場で、彼らを許して抱いてやらなければならない悲しい心情を持って来られた神様であったのです。これを皆さんは、はっきりと知らねばなりません。 それでは我々が信じているアボジと、我々が侍っているイエス、そのイエスとお父様が今まで数知れぬほど背信されても信じ、また信じたその心情を知る人間がいたとしたら、彼は社会的であり、国家的であり、歴史的なすべての背信の条件を踏み越えて、アボジと共に直接話し合うことができる資格者になるのです。皆さんが正にこんな人間になろうとすれば、皆さんは神の心情をよくよく知らねばなりません。 神が不信した人間を今まで許してこられたその心情を知る人間が、地上に何人かでもいるでしょうか。今日この時間に集まった皆さんは、神のその心情を感じてみなければなりません。背信した人間を見やり、耐えて彼らを再び捜し求めてこられた、神の切ない事情を感じてみなければなりません。今皆さんが数千年の歴史のうちに、背信されながらも耐えて人間を愛され、信じてこられたその神の心情を知る人間にならなかったとしたら、皆さんは歴史的な背信の路程を打破することはできません。 それでは人類歴史において、人間が神を背信したのは、どこから出発したことか。一番初めにアダムとエバが家庭を単位に、神の愛の主管権を背信したところから出発したのです。神の創造理念を立ててあげるべきアダムが、天使長によって堕落して、天のみ旨を不信することによって背信の歴史が出発したということを、皆さんは知らねばなりません。 このような歴史の中で、神は信じることのできる一人の人間を再び捜し立てようと、一六〇〇年を苦労されてノアを立てたのです。神様はノアに一二〇年間苦労させ、ご自身のみ旨を成そうとされたのですが、彼も成就できませんでした。こうしてこのみ旨はノア以後、歴代の信仰の先祖たちを経て、モ-セまで下ってきました。 この地に信仰を立てるために現れたイエス 神様はアダム家庭が違えたことによって堕落した人間が、いろんな民族と化してしまったので、この数多くの民族を代身して信じられる一つのイスラエル民族を選ばれ、またこの民族の中でモ-セを選び立てられたのです。ところが、神がモ-セを通して変わろうに変わることができない天倫の法度を立てたのに、モ-セに従ったこの民族は神に背信したのでした。 こうして神は家庭的にも、民族的にもみ旨を成せなかったのですが、再びイスラエルをパロの手中から奪い、カナン族と戦う戦いの歴史を経て、四〇〇〇年の歴史を代表することができる一人の主人公を送られたのですが、このお方が誰であったかといえば、正にイエス様であったのです。 それでは当時、民族的に受け入れなければならないモ-セに背信した人々が、国家的に受け入れなければならないイエスを果たして受け入れたか。むしろこのイスラエル民族はイエス様を家庭的に背信し、社会的に背信し、国家的に背信したという事実を、皆さんは知らねばなりません。 歴代の先知たち、あるいは歴代の先祖たちがみ旨のまえに現れ、天の使命を担おうと出るときに、神は信じられる彼らが事を成すことを願ったのです。このような歴史的な条件を立てようと天の使命を任された方たちが正にノアであり、アブラハムであり、モ-セであり、またさらにはイエス様であったことを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様はどんな心情を持って、この地に現れたのか。イエス様は神のすべての悲しみを代身して現れ、神の歴史的な御言を代身して現れ、神様が捜し求めた所望の実体として現れた方です。それではイエス様がこの地上に来られ、何を感じられたか。イエス様は自身が神の御言を持って現れ、世の中に向かって叫ぶとき、その御言は歴史的な御言であると同時に、長い歴史を通して数多くの先知先烈たちが現そうとした御言であることを感じたのです。さらにはこの御言はまた、長い歴史過程を経てきて、数多くの人々から背信された御言であることを感じられ、不信のこの地上に信じられる一人の姿を無限に求めておられるアボジの、切ない心情を感じたのでした。 さらにイエス様は、神がエデンの園ですべての勢力を注いで人間を創られ、切るにも切れない理想的な愛の実体として立てようとされたその愛の心情を感じ、背反したアダムとエバの立場をご自身が復帰し、完結させなければならないという使命感を感じたのです。イエス様の立場は、堕落を案じられた神の立場でもありませんでした。イエス様は堕落した人類の痛む心情を感じ、切ない歴史過程を天倫をおいて秤にかける立場に立っておられたのです。見えざる実存に対する見える実存体として、御言を叫んで現れたのです。彼はまた神の心情を抱え、神の形状として現れたのでした。 長い歴史過程を通して数多くの人間から排斥され、蹂躪されたその御言を自分自身のものとし、排斥され蹂躪されたその心を自身のものとし、聖殿としての体を自身のものとしてイエス様は抱きしめて現れたのです。 こんな立場に立つイエス様が所望として捜し、要求した一つの目的があったとしたら、それは善の一日のための思案に違いないのです。彼は所望の一日を立てるために闘い、また逝かれたのです。 イエス様は天のアボジのまえに御言を持って現れるとき、歴史的な過程で排斥されたすべての御言を復帰して、先祖たちがそのままにした背信の罪悪を蕩減して、アボジを慰めるべき責任を感じたのです。こうしてイエス様は「おお 、アボジよ! アボジの心情と心を蹂躪して踏みにじった先祖たちの四〇〇〇年の歴史を、わたしを見て慰められ忘れてください」と祈祷する心を持って現れたのです。イエス様は自身が地上である何かを精算しなければならない使命を感じたのです。歴史的なすべての背信と、現実的な背信の内容を追放し、再び背信の歴史を後代に残さないという心に染みて生きたことを、皆さんは知らねばなりません。 イエスの覚悟 イエス様はこんな使命に責任を負い、天に対して覚悟したのでした。イエス様は神の御言を叫ぶ所に背信の歴史が起こり、神の心を持って現れる所に悲しみと怨痛があり、神の体が現れる所にサタンの矢があることを知られ、また覚悟されたのでした。 このようにイエス様は現実的に自身の立場を擁護してくれ、自身を守ってくれることを願ったにもかかわらず、不信する人間に対して、黙々として耐えたのでした。人知れぬ悲しみを抱いて、人類のためにゲッセマネの園で、あるいはカンラン山で独り祈祷されたその哀しい心情を、今日皆さんは知らなければなりません。 当時の地の人間とイエス様を比較して見るとき、イエス様は誰よりも惨めな人間だったのです。そして歴史過程の数多くの人間から背信された御言を持って、その御言の主体であられる神の心を代身して地上に現れたイエス様と共に、その御言を抱き締め「おお !わが主よ、わが新郎よ、わが導き手よ! 私たちの命をアボジのまえに導いてください」と祈祷する人間は一人もいなかったのです。 四〇〇〇年苦労された神の歴史が、背信によって終結する事実を感じるイエス様でしたが、それでも背信する人類のために涙を流されたのでした。天地にみなぎる神の哀しみを感じながら、背信する人々を捜し求めて行くイエス様に恨があるとすれば、これが無限の恨であったのです。 しかし彼は四〇〇〇年の間、背信されながらも人間を捜し求める神を思うとき、背信されても悲しむことができず、生活が困窮しても落胆できない立場におられ、自身の生命が祭物になる恨があったとしても、アボジのみ旨を拒否することができない立場におられたのでした。 四〇〇〇年の間背信した民族をそれでも捨てられず、愛によって対されたアボジの心情を感じるイエス様ですから、そのアボジを慰めることができたのでした。さらにはアボジと親しくすべてのことを話し合うことができる立場に立たれたことを、今日皆さんははっきりと知らなければなりません。 それではイエス様はこの地上で、何を所望とされたのか。背信の歴史を精算し、背信する現実を克服して、背信する後孫たちが現れないことを、イエス様は願ったのです。ところでそのイエス様の所望が、今だに成されないまま、今日皆さんの所望として残っていることを、皆さんは知らねばなりません。 今日私自身を考えて見れば、自分が生きた過去が背信の立場であり、自分が生きている現実が背信の環境であり、私は子孫たちのまえに背信の根なのです。このように私自身はこんな背信の過去を持っているのであり、背信の現実の中に生きており、そして自分自身の後孫に対して背信の根になっていることを皆さんは知らねばならず、またこれを切なく思い、悲しく思わなければなりません。 それではイエス様が地上に来られ、民族のまえに背信され、国家のまえに反逆者として追われ、ついには強盗よりもひどい罪人として追われたのですが、このような立場であっても、彼らの罪を彼らに負わせないで福を乞うたその心は、どこから来たのか。これは歴史上の背信の民族に対して、数千年の間耐えてこられたアボジの切ない心情を感じるところから来たのです。自身の生命が祭物として消えたとしても、アボジが四〇〇〇年の間背信されてきた心情にはとても比べられないことを悟っていたので、死の峠を越えても背信する群れ、背信する民族に対して福を乞われたということを、皆さんは知らねばなりません。 またイエス様はこの地に来て逝って以後、今も引き続いて我々を捜し求めておられるのです。今まで人間は不信の歴史過程を経てきているのですが、イエス様は今日も人間を信じておられるのです。時と場所を選ばず、背信する環境におかれている人間に対して、呪うのではなくむしろ救援のみ手を差し延べておられるのです。ところが未だにこの地上には、イエス様の御言を代身し、イエス様の体を代身し、イエス様の心を代身して現れる人間が、一人もいないのです。さらにはこのような民族や国家もありません。当時イスラエル民族は、イエス様のみ旨を代身し、その御言を継承しなければならない民族だったのです。ところがイエス様が行かれる所々に歓迎する人間がなく、御言を持って来られたのですが、いつどこの場所でも、誰一人歓迎する人間がいなかったのです。 追われ排斥されても神を求めてゆく道 イエス様はこのような歴史的な道を経て行かれたので、皆さんもこの御言を抱えて行くときには必ず兄弟から、あるいは教団から、あるいは民族から排斥れるのです。しかし皆さんはこのように排斥される環境にあっても、背信する者たちのために福を乞うことができる人間にならねばなりません。 それでは今日皆さんが持っている御言、信じている信仰、立てている宗教理念はどんな状態におかれているのか。二〇〇〇年前、イエス様が個人から家庭・教会・イスラエル民族・国家から背信された立場を経て来られたので、これが今日民族・国家を越えて、世界に至るまで排斥される段階に留まっているのです。 皆さんが、エデンの園でカインがアベルを殺した後の今までの歴史が、悪が善を打つ歴史であったことを知るなら、天に向かって行くにおいて、排斥する者が真ではなく、排斥される者が真なのであり、さらには彼らが天の歴史を成してゆくということを、また知らねばなりません。 それでは今日どの民族が世界を代身して、すべての面において排斥される立場にあるのか。天のみ旨を捜し立て、天のみ旨を代身することができる、天に近いこんな民族があったとしたら、その民族はその民族が持つすべての面で、排斥される歴史的な運命を持っているのです。 それではこの民族は何によって背信されるのか。アダムとエバが堕落する時に、天使長との間に起こったそのすべての条件を通して、背信されるのです。ですからまずは御言を中心とする背信を受けるのです。園の中のどの実も食べてよいが、善悪を知るの木の実だけは取って食べてはならない、という約束の御言が背信される立場に立つのです。 即ち天使長が現れて、取って食べると眼が開けて神のようになるという、この言葉を通して一つの国、一つの理念圏内において、国の理念的なものが現れるように、そのような歴史が現れるようになるのです。 ですから一つの理念、一つの目的、一つの中心に向かう心が、第二の心の形態として現れ、新しい目的を示すかも知れませんが、結局は背信の起源を造るようになるということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、この背信の起源は何を通して起こるのか。言葉を通して起こるのです。それゆえ終わりに日にも天のまえに立てられるべき民族があるとしたなら、この民族はある一時、言語までも背信される立場に立つのであり、その国の言葉を代身する文字があったとしたら、その文字までも背信され、さらにはその国の歴史、その国の民族性までも蹂躪される立場になるのです。 では今日、世紀末的な終末のこの時を見渡してみるとき、そのような国がどこかといえば、正に韓国であるのです。韓国は歴史上に数多くの民族の侵略を受けてきて、多くの背信者たちが出ました。我々は日帝の圧政下において、我々の言語も失ってしまいました。我々の文字も、我々の民族性も、我々の誇りも、我々の理念も、みな抹殺されたのです。 またさらには、今日では同じ民族同士が互いに背信する立場におかれています。同じ民族同士が互いに背信すると同時に、兄弟同士が背信し、父母、親戚が背信し、父子の間で背信する、そんな背信の峠を経てきているのです。 それではこの民族はどうしなければならないか。この民族は神が人類のまえに背信されたその悲しみの心情を、ある一時ある瞬間に受けるのです。その時にこの民族は、イエス様が神の心に背信した民族に対して呪うのでなく、むしろ彼らのためにゲッセマネの園で祈祷されたように、今日この民族も背信する世界の為に、天に向かって祈祷しなければなりません。それでこそ、この民族の生きる道があるのです。 それゆえこの民族は、背信する世界を屈伏させなければなりません。むしろその背信を通して、背信を受けたイエス様の御言を自分の御言として、背信を受けた神の心を自分の心として、背信を受けた先祖たちの体を自分の体と思って、天のまえに跪いて訴えなければなりません。 言葉を分別できる人格完成者 天が無頓着でイスラエル民族が滅んだみたいですが、イスラエルの中にイエス様が出たのであり、この国が滅んだようですが、この国に神の所望があるのです。であれば今、この民族がしなければならないことは、六千年の間背信されてきたアボジの御言を、自分の御言、自分の体、自分の心と思い、六千年のアボジの悲しみを自分の心情で体恤しなければならないのです。 皆さんは今、誰も頼らないでください。誰の言葉も信じないでください。誰も批判しないでください。皆さんは本来、誰かに頼る人間ではありません。誰かを信じなければならない人間ではありません。また誰かを、批判しなければならない人間ではありません。本来の人間になっていないので、他人に頼り、他人の言葉を信じ、他人の行為を批判するのです。 それゆえ本来の目標に向かって行くべき皆さんは、信じる信仰の自体になり、頼ることのできる自体になり、批判することができる自体にならなければなりません。即ち、自体に頼り、自体を信じ、自体を批判することができなければなりません。 神が人間に対して黙々と耐えてこられてように、皆さんも誰よりもよく耐えなければなりません。こうして黙々と自分自らに頼り、自らを信じ、自らを批判できる人間にならねばなりません。 それのみならず、このような自体を立て「アボジよ! 私をご覧になって慰めとしてください」とすることができる立場になり、アボジが私を信じてくださり、私がアボジを信じ、アボジが自分であり、自分がアボジになるという関係を結ぶようになるとき、天の悲しみは皆さん自体から離れてゆくのです。そんな時に、皆さん自体には神の闘いが終わるようになるということを、皆さんは肝に銘じてくれるように願います。 皆さんは今、むかしアダムとエバが横から聞こえた言葉を、分別できなくて堕落したことを悟り、これを分別することができる人格の完成者にならねばなりません。もしもアダムとエバが天から付与された本性によって、天使長の言葉を分別できたなら、彼らは堕落しなかったのです。ですから今日、皆さんもその心が永遠なる理念を通し、永遠なる天倫を代身して不動の役割をすることのできる完全性を得たなら、その心は皆さんをして堕落させることはないのです。 それゆえ今皆さんは、数千年の歴史を通して背信された中で、弁明すればいくらでも弁明できるのに、一日一時も弁明されないアボジと、また二〇〇〇年の間、弁明すれば無弁に弁明できるのに弁明することなく、地の為に案じておられるイエス様を信じる人間として、黙々と耐えて弁明しない人間になり、さらに自身が第二の天使長の立場であることを暴露できる人間にならなければなりません。 今日、周囲には皆さんの環境を危険にさらし、侵犯しようとしている億万サタンがいます。こんな時、皆さんに天倫を売る心があってはなりません。天のみ旨を知って感じ、体で体恤しなければなりません。その後でこそ皆さんはすべてのものを見て、判断することができるのです。それで神はその一日を、大審判の日として待ちわびておられ、イエス様もまた二〇〇〇年の間、億万サタンと闘って、その一日を待ちわびておられるのです。言いたいことをみな言う人間は、持っているものがないのです。やりたい事をみなやった人間は、栄光の基を持つことができません。生きたいように生きた人間は、後世の反逆者となり、背信者となったことを知らねばなりません。背信を受ける立場でも、言いたいことをみな言わず、生きたいように生きてみなかったお方が、正にイエス様であり、また我々の先祖たちであったのです。ですから今日皆さんも、このような事実を悟り、自身の生活圏内で不変の自分として、自制することを知らねばなりません。 皆さんはいつ、いかなる時に、天に背信する場に立つかも知れないということを、肝に銘じてください。もしも皆さんが背信する立場に立ったなら、皆さんはどんな条件に引っ掛かるか分かりますか? 皆さんは六〇〇〇年の間、背信の悲しみを耐えてこられたそのアボジを背信するとき、皆さんは終わりの日の審判を避ける道がないのです。天が皆さんに対して、六〇〇〇年の悲しみを一時に蕩減させようとする大審判の日を、皆さんは越えることができないのです。 それゆえ今、皆さんは世の祭物として無言のうちに十字架につかれたイエス・キリストの心情を、代身する心を持って行かねばなりません。行く時は一年ではありません。十年でもなく、三十年でもありません。一生を経て、皆さんの後代にまで継承させるほどの信仰を持って行かねばなりません。 皆さんは自分を開拓し、自分を輝かせ、自分と天が結ばれた因縁が、このすべての邪悪な世を超越して、宇宙的な終末圏まで越えられることを悟り、自身の生活圏内でアボジと共に愉む勝利的な条件を得なければなりません。そんなとき、皆さんは天倫とみ旨に背信しない、永遠なる勝利の息子・娘として立つということを、肝に銘じて下さい。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.20
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※ 食口(식구、シック)=家族イエスの真の食口となろう 一九五七年十月一八日(金)前本部教会 このマタイ十章の御言は、み旨のための最後の覚悟を持って、またこの地上でサタンとの闘いを指導しなければならない重大なる使命を持つイエス様が、愛する弟子たちを初めて伝道に送られてなされた御言です。 この御言を通して、我々はイエス様がきわめて悲しい心情のなかにも、弟子たちに対して無限の愛と愛着心を抱いておられたということを知るのです。反面イエス様が選ばれたイスラエル民族に、新しい福音の御言を伝えるために弟子たちを送ろうとするとき、去ってゆく弟子たちの心情と事情も哀れですが、送られるイエス様の心情と事情も、誰にも言うこともできない気の毒な立場であったことを、知らねばなりません。 またイエス様は、億万サタンと闘わなければならない弟子たちが勝利して、アボジの栄光を歌うことを心から願い、あるいはその闘いの路程で倒れ、天に心配をかけるのではないかと案じてなされた御言であることを、皆さんは知らねばなりません。 弟子たちを伝道に送り出されたイエスの心情 この御言は、イエス様の愛する弟子たちが最後の闘いを覚悟してゆく歩みですから、そこには必ず怨讐たちが現れることを知られ、その時に彼らと闘って勝ち、勝利の凱歌を歌い、彼らがアボジの息子・娘であることを証しする喜びの一時を迎えるよう心から祈願して、愛する弟子たちを励ます御言なのですが、今日皆さんはこの御言をその当時の使徒たちだけのための御言だと思ったら駄目です。即ち、この御言は今日キリスト教徒たちが闘ってゆくべき全人生の路程も暗示する御言であり、今まで長い歴史過程を経てきて、キリストのみ旨を中心に地上に勝利の基台を立てようとする万民に対してなされた御言なのです。 我々がここに、このように語られたイエス様の心中を推し量って見るとき、去ってゆく使徒たちの信仰を案じられ、また使徒たちが深く信じて難しい環境に処してゆくことを感じられて、なされた御言であることを我々は知ることができるのです。それでイエス様は愛する弟子たちがサタンと闘い、勝利してアボジのまえに栄光を捧げることを願い、誰にも言うことができない悲壮な覚悟と心情で、弟子たちに語られたことを皆さんは知らねばなりません。 また、ここに皆さんはイエス様が愛する弟子たちを送られて、あなたがたが行く所々にあなたがたを歓迎する者がいないと言われましたが、これは天の息子・娘になるために、天の道に従って行く者には、常に彼を窺っているサタンがいることを知って語られたという事実を、知らねばなりません。 さらに皆さんはイエス様が「あなたがたの行く道を塞ぐ者は、信じない異邦人でもなく選び立てられたイスラエルでもなく、信じているユダヤ教徒でもなく、家の中の食口だ」と語られたことを想起して見なければなりません。そして今日皆さんには、たとえ持っているものがなく、天のまえに捧げるものがなかったとしても、イエス様がなされた御言の意味を悟る人間になるなら、このような御言をなされたイエス様がどんな心情と覚悟と誓いの心で語ったかを、推察する人間にならねばなりません。 この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったということを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではなかったのです。 ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。 また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。 地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。 それでイエス様は今日までこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたのです。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。 それでは、今皆さんはどうしなければならないか。皆さんには持っているものがなく、知るものもなく、誇るものがないとしても、神が皆さん一個体に接するその時は、イエス様の真の食口であるとしなければなりません。即ち、神と共に永遠に同居する皆さんにならねばならず、神の栄光を現すことができる天の食口と神が認め、イエス様が認め、皆さん自身も認めることができる姿にならねばなりません。そんな人間が正にアボジが捜し求める人間であり、キリストが捜し求める人間であり、皆さんが希望とする人間であることを、知らねばなりません。 キリストのまえに堂々と立つことができる人間の心の姿勢 それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。 こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。 イエス様は不信の地に生きているイスラエル民族を今一度、天の懐に抱かせるための使命を成就する、神の息子であることを自ら証しされようと、「わたしは天の食口」と証しされたのです。 イエス様は誰が反対しようとこれを恐れることなく、アボジのみ旨を伝播して証し、瓢々単身、死を覚悟して命を捧げ、闘われたことを皆さんは知らねばなりません。 ですから今日皆さんも、神の息子であったイエス様が地上に来られ、ご自身のすべての人生を捧げて神のみ旨を証しされたように、そのイエス様の心情を証しする人間になり、サタンと闘う人間になり、神のみ旨を地の上に成すために、死ぬことができる人間にならねばなりません。 それでは、我々が証しする目的がどこにあり、闘う目的がどこにあり、どうして死を覚悟しなければならないのか? それはこの地上に暗黒のサタンの勢力があり、皆さんを真の食口にさせないようにしているので、皆さんが証さなければならず、皆さんが闘わなければならず、また皆さんがみ旨のために、死ぬ覚悟をしなければならないのです。 ところで怨讐たちは、神の心情を万民のまえに宣布するイエス様を迫害し、イエス様の行かれる道を妨げたのです。即ちイエス様一人を殺すために、サタンが役事したのです。それでイエス様は、そのようなすべてのものをこの地上から追放し、撲滅するために、眠ることも食べることも気にかけず、サタンを屈伏させるための路程を歩まれたのです。 即ち、イエス様はサタンのあらゆる攻撃を防ぎ止めるために、自分一身のすべてのものを犠牲にして、闘いののろしを上げたのでした。 ですから今日皆さんは、イエス様がこのように神のみ旨を証すために、死を意にも介せず闘いの道に出て、十字架の道までも行かれたということを思い、これが正に神の息子であるイエス様が行った道であったことを、知らねばなりません。 それでは、我々が今イエス様を信じて、希望していることが何でしょうか? それは我々が真の神の息子・娘になって、イエス様に侍って生きるイエス様の食口になることを、願っているということです。ですから今日皆さんが、まず天の心情を代身するイエス・キリストのまえに、堂々と立つことができる人間にならねばなりません。即ち、皆さん各自がアボジのまえに頭を垂れ、一つの事情圏を成して、イエス様が平安に安らぐことができる一つの垣を造ってあげる、イエス様の真の食口にならねばならないのです。 なぜならば、当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られなかったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならないのです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。 イエス様の心情と人格に倣う人間 イエス様はヨセフの家庭で三〇年の間、愛する弟妹たちと共に暮らしたのですが、その家族がこのような天の心情を持つ、イエス様の真の食口ではありませんでした。家庭はあったのですが、イエス様が願う家庭ではなく、イエス様が願う食口ではなかったので、イエス様はこの村から追われ、あの村から追われる他はなかったのでした。のみならず、ユダヤ教徒から迫害され、イスラエル民族から迫害され、今までの歴史過程においても、迫害を受けてきたのでした。 このような迫害の中で、イエス様が悲しい心情を抱いて所望とされた事が何であったのか。イエス様は地上に来られて、アボジの心情を抱き、アボジの息子・娘のために生き、アボジに侍り、アボジの食口として生きることを願ったのでした。またイエス様は、愛する食口たちを抱き、アボジを慰めるのみならず、その食口までもアボジを慰めることができることを望んだのでした。ところがイエス様はそのような食口を持つことができないために、ユダヤ教団・イスラエル民族が全部、不信する立場になったのです。 それでイエス様は「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人に子にはまくらする所がない」(マタイ八:二〇)と言われて、どこにも頼る所がない悲痛なる心情を吐露されたのです。それゆえ今日、皆さんはイエス様のこのような事情に同情しなければならず、まくらする所もないイエス様の安息の場を造って差し上げなればなりません。ところで皆さんに、イエス様に侍る一つの家庭がなければ、皆さん自身の心の中でもイエス様に侍り、イエス様に侍って寝てもらう場がなければ、自分の膝に寝ていただく心情を持つ、イエス様の真の食口にならねばなりません。 また皆さんは今まで、この地上に救援のみ旨を成すイエス様の真の食口になることを願っています。それゆえ今日皆さんはイエス様の所望を持って現れるにおいて、それに反対となる、また他の心を抱かせるすべての要素を除去できなければなりません。 イエス様が天の心情を通してされる御言が、天の道を行くにおいては「自分の家の中の食口が怨讐」だとされました。イエス様はすべての人々を食口のように対され、食口のように育てようとされたのですが、こんなイエス様のみ旨を少しも知らず、信じて頼りにしていた最も近い人々が、むしろイエス様と離れていったのです。そうしてサタンはこれを条件として、イエス様を十字架に押しやるようになったのです。ここで皆さんは、人類の生命の木として来られたイエス様が、このような自身の事情を代身する真の一食口を、どれほど願っておられたかを感じる人間にならねばなりません。 それでは、今日ここに集う皆さんがイエス様の事情と心情を知り、彼と永遠に同居することができる食口の立場に立つためには、どうしなければならないか。そのためには、イエス様の心情を代身しなければなりません。いかなる環境、どんな所であっても天に対して変わることなく、忠誠を尽くしたイエス様の心情と人格に倣う、人間にならねばなりません。また、今や新しこを開拓すべき使命を担う皆さんが、捜し立てなければならないことが何でしょうか。イエス様が平安に休まれ、愉むことができる環境を成してあげる、イエス様の真の食口の立場を、皆さんが立てなければなりません。 それではイエス様が「自分の家の中の食口が怨讐だ」と言われた、その怨讐が誰でしょうか? イエス様が悲しむ時に悲しむことを知らない者が怨讐であり、天の心情を証すに切ない時に共に切なくはなく、理解することもできない者が怨讐であったことを知らねばなりません。また皆さんは、イエス様が行く道で、イエス様の母と兄弟たちがイエス様の真の食口になれず、怨讐になったという事実を、はっきりと知らねばなりません。 さらには、あらゆる誠精を尽くし、心情を尽くし、ご自身の命を捧げて教えた弟子、即ち三年の公生涯路程を共に歩んだ使徒たちまで、イエス様の真の食口にならなかった事実を、皆さんは知らねばなりません。イエス様が死の峠、十字架の峠を訪ねて行こうとする時、愛する弟子たちがイエス様の心情と一つになる真の食口になれず、イエス様の怨讐になったのでした。それゆえ今日皆さんは、このように我々の先祖たちが神の心情を知ってあげず、神の求める摂理の時を迎えてあげず、神の真の食口にならなかった歴史的な事実を知らねばなりません。 イエスの真の食口になるには ですから今日皆さんが、食口という言葉を使っていますが、この言葉は実に恐ろしい言葉です。もしも皆さんが信仰路程で誤ったなら、イエス様が神のみ旨を証したその立場を妨げる怨讐になるのです。イエス様がサタンと闘った立場を妨げる怨讐になり、十字架に架かって人類の罪を贖罪した、そのみ旨を妨げる怨讐になるのです。これを皆さんは、肝に銘じてください。 それではどんな人間が、イエス様の食口になるのでしょうか。彼はすべての人間に御言を伝えたかったイエス様に似る人間であり、イエス様がサタンと闘うときに苦労し、苦心して案じ、嘆息されたすべての心情を体恤することができる人間なのです。ですからイエス様が十字架の道を行くとき、ただ従って行く人間はイエス様の食口ではなく、十字架の道に行くまでの、その心情を知ることのできる人間がイエス様の食口であることを、皆さんは明確に知らねばなりません。 そして皆さんはイエス様が地上に来られ、三〇年の人生の路程において真の証し人の使命を負って現れるとき、イエス様を代身して証しする真の食口を持てず、サタンと闘うときに共に闘ってくれる食口、ゴルゴダの十字架を負って行く道において、共に行ってくれる真の食口、さらには天地のまえに誇ることができる真の食口を持てなかったことが、最大のイエス様の辛さであったことを知らねばなりません。 それでは、今日皆さんは何をしなければならないのか。二〇〇〇年前にイエス様が神のみ旨を証しするために切なかったように、今日の皆さんもありったけの誠精を注ぎ、神のみ旨を証さなければなりません。また当時ユダヤ教とイスラエル民族の反対を押し切り、悲壮な心情と覚悟を持って、サタンと対決して闘ったイエス様の心情、天のみ旨成事のために心砕いたイエス様の心情を抱き、代身してみ旨を成してあげる人間にならねばなりません。 さらには、天のみ旨を成就するために行く道を塞ぐすべてのものを除くためには、命も捧げるという覚悟をされたイエス様のその悲壮なる心情を、皆さんは感じられる人間にならねばなりません。また皆さんはすすんで民族を代身し、十字架を負うという祭物の精神も持つことができる人間にならねばなりません。 皆さんはまた、イスラエル民族を代身して生きた祭物になるだけでなく、二〇〇〇年前のイエス様に心情に通じて、イエス様の人格を持つことができる人間にならねばなりません。皆さんはサタンのまえに屈伏する、死んだ祭物になっては駄目です。イエス様の心情に染みて、神のみ旨を証しするのに落胆してはならず、サタンと闘って敗北する人間になっては駄目です。 ですから、終わりの日にある皆さんは、死の峠を踏み越えて、怨讐を神の愛の懐に導いてゆくという悲壮な覚悟と心情を抱く人間になってこそ、イエス様の真の食口になることができるのです。 それでは、イエス様が神の大きなみ旨を代行して行かれるとき、誰がイエス様の心を悲しませたか。イエス様と最も近い人々が、イエス様の心を悲しませたのです。備えられたイスラエル民族が反対するのが悲しみではなく、ユダヤ教徒たちが反対するのが悲しみではなかったのです。三年の間ついて来た弟子たちが、信じなければならない時に信じないで、証さなければならない時に証しをせず、闘うべき時に闘わず、死ぬべく時に死ななかったこの一つの事実が、イエス様には最も大きな悲しみであったのです。これを皆さんははっきりと知るように願います。 それでは、皆さんがどうすれば、天の真の食口と言えるのか。まず皆さん各自々々の心が、一つの心に和合して動いて行かなければなりません。こうして一つの目標(み旨)に向かって闘ってゆき、またその一つのみ旨、即ち神のみ旨を成就するために、死を覚悟して行く人間にならねばなりません。またイエス様が二〇〇〇年前にこの地上に来られ、天のみ旨をすべて成せずに逝かれることによって結ばれた、その怨恨を解いてあげ、慰めてあげる人間にならねばならないのです。このようなすべての事を成すときに、皆さんが天の真の食口と言えるということを、肝に銘じるように願います。 真の食口のする事 それでは、今日皆さんは自分の信仰路程において、何を持つ人間にならなければならないでしょうか。皆さんは食口を持つ人間にならねばなりません。皆さんが家庭に入れば、その家庭で真の食口を持たねばならず、教会に行けばその教会で真の食口を持たねばならず、社会に出ればその社会で真の食口を持たねばなりません。 また皆さんはイエス様が神を代身して証して、神を代身してサタンと闘い、神を代身して逝かれたように、このようなイエス様のために闘わねばならず、イエス様のために死ぬことができなければなりません。 さらには、皆さんはこんな立場に立った後に、自分を証してくれる一人の食口を持つ人間にならねばなりません。そのようになれば、イエス様を証した使徒たちがいたように、皆さんも自分を証してくれる人間が、生ずるようになるのです。即ち、皆さんが神の息子娘であるとする立場に立つためには、皆さんを変わらぬ神の息子・娘であると証しする一人の食口を持たねばならず、皆さんの為に闘ってくれる食口を持ち、皆さん自身の為に死ぬことができる食口を持たねばならないのです。 こんな人間になるために、皆さんはどうしなければならないか? 誰よりも多くの人間の為に、犠牲の道を行く指導者になることです。即ち、多くの人の為に犠牲の闘いをしなければならないのです。言い換えれば、皆さんが多くの人の為に犠牲の十字架を負う真の聖徒になるまでは、皆さんを代身して闘い、皆さんを代身して死んでくれる人間を持つことはできません。 イエス様は神の為に自分というものを一つも考えることなく、自分のすべてのものを捨て、犠牲の道を行ったので、彼が証しするのは自分を証すことではなく、神を証しすることであり、彼が闘うのもやはり自分の為に闘うことではなく、神の為に闘ったのです。また十字架を背負うのも、自分に為に負うのではなく、神の全体摂理のみ旨を成すためであったのです。 それで、今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。 イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。 ですから、皆さんはイエス様の心情を代身したイエス様の食口にならねばならず、自分の為に証してくれ、闘ってくれ、死ぬことのできる一人に食口を持たねばなりません。もしもこんな皆さんにならなかったら、キリストの三〇余年の人生路程を、皆さんが蕩減して生きた祭物としてアボジのまえに捧げることができない怨恨が、皆さんに残ってしまうのです。これを皆さんは、肝に銘じなければなりません。 それでは、今日皆さんはどうするべきか。真の食口を捜し求めるこの一歩において、皆さんはイエス様が心配された、その心配の心情を抱き、また神が心配されたその心配の心情を持たねばならず、食口たちの為に祈祷するその心を持たねばなりません。またイエス様は愛する弟子、愛する民族の為に祈祷されましたが、イエス様の愛を受けた弟子たちとイスラエル民族がむしろ、イエス様を不信して結ばれたすべての怨恨を解いてあげ、慰労してあげる皆さんにならねばなりません。 ですから今日皆さんが、イエス様を中心とする教会と民族を捜し立てるためには、他の人が遊んでいるとき、神をサタンのまえに証しする事をすべきであり、他人が知らぬ間にサタンと闘い、死を覚悟する真の食口を捜し立てなければなりません。 イエス様の業績と一心同体になる家庭形成の重要性 それでは、イエス様は誰の為に十字架の死の場まで行ったのか。これは無論、愛する食口たちの為でした。さらには数多くの民族と人類の為だったのです。イエス様が祈祷される時にも自分の為に祈祷するのではなく、万民の為に祈祷されたのでした。彼が証したこともやはりそうであり、彼が闘ったこともやはりそうであり、彼が死んだこともやはりそうであったのです。ですから今日皆さんは、このようなイエス様の食口になるために、あらゆる誠精を尽くさなければなりません。即ち、皆さんは証しの道を通して、闘いの道を通して、死に道を通して、イエス様の真の食口になるために、すべての誠精を注いで行かなければなりません。 皆さん! 皆さんはイエス様の審判台の前に、またサタンの前にも、自分の為に証してくれるこのような証し人を持っていますか? また皆さんの代身、サタンと闘ってくれる一人の食口を持っていますか? また皆さんを代身して死んでくれる一人の食口を持っていますか? このようなすべての事が、終わりの日の皆さんの価値を決定づけるのです。ですから皆さんは、このみ旨を望み見て行くときにおいて、自分が今まで信じて望み、留まっていた立場がどのようなものであるかを、知らねばなりません。 今日天のみ旨を立てて行く人間は、その過程において怨讐に出合うのです。まず家庭で自分の行く道を塞ぐ怨讐があるようになるのです。即ち皆さんの家庭において、夫人が教会に行けば夫が怨讐になり、夫が行けば夫人が怨讐になるのです。子女が行けば父母が怨讐になり、父母が行けば子女が怨讐になる、こんな状況にぶつかるのです。 それでは今皆さんはどんな立場にあるのか。今まで持っていた家庭を失い、夫と夫人を失う立場に処しているのです。さらには、父母を失わなければならない立場に処しています。ですから今日皆さんは家庭の父母と共に、真の父母を捜し求めなければならず、皆さんが真の新郎となり、真の新婦にならねばなりません。さらには神の真の食口にならねばなりません。 それでは、今日の皆さんはこのような人間になるために、どうしなければならないか。皆さんの家庭において父母が悲しめば食口も悲しみ、子女が悲しめば父母も悲しみ、夫が悲しめば夫人も悲しみ、夫人が悲しめば夫も悲しむのでなければなりません。もしも皆さんの家庭において、一家の食口が一心同体になり、天のみ旨を受け、そのみ旨を成してゆくことができる環境を得てゆかなかったら、皆さんのように哀れな人間はいないのです。そうなれば皆さんは家庭で追われ、社会で追われ、国家から追われるのです。そのようになるとき、皆さんは天のみ旨を中心とする食口が必要になるのです。 世の中の父母に追われる代わりに、真の父母を持たねばならず、夫婦同士が不信する立場で、真の夫婦を形成することができる一人の食口を持たねばならないのです。 世の中のどんなものでも、切り離そうにも切り離すことができず、壊そうにも壊すことができず、死の場までも共に行く、こんな食口の関係を結ばなければなりません。 世の中の父母も、子女が死の立場にあれば、代わって死ぬことができる愛の情を持っているのに、まして天の愛によって因縁を結ぶ皆さんが、この世の中の家庭以上の愛を持って、互いに授け受けることができるそのような環境を造れなかったなら、皆さんが留まる所に、イエス様が臨もうにも臨むことができず、神がおられて安息しようにも安息することができません。 それでは、終わりの日の最後の瞬間が迫るこの時に、皆さんはどうしなければならないか。皆さんは同じ教会の中でも、お互いの心を知らず、お互いの事情と心情を理解しないでいるのですが、そうであっては駄目です。このように互いの事情と心情を知らないで生きることが、怨讐なのです。ですから今日皆さんは、隣りの兄弟に対する関心を持ち、彼の事情が自分の事情であり、彼の辛さが自分の辛さであるとする、永遠の真の食口の関係を結んでゆかねばなりません。 即ち皆さんが神の切ない心情を抱き、お互いが一つの食口だという心で、父母と子女、夫と妻、兄と弟の立場で、互いに為に生きる真の食口の関係を結んでゆかなければならないのです。 イエスの真の食口-お互いの為に生きようとする関係を成す人間 ところで、皆さんがこのような関係を結んで、神に侍り、神を安息させてあげようとするとき、必ずこれを妨げる怨讐が現れるものです。今まで皆さんが因縁を結んできたものが、怨讐として現れるというのです。またこの怨讐は皆さんの家庭に、社会に、国家に、さらには我々が生きているこの世界にあるというのです。 ですから、今日皆さんは家庭と社会・民族・国家・世界にある怨讐を除去して、天上まで行かなければならない重大な責任を背負っているのです。即ち皆さんは、神の事情とイエス様の心情を通して、一つの父母に侍り、家庭を成して、社会・国家・世界までも連ねて行かなければならない重大な使命を背負っているのです。それゆえ今、皆さんは食口の立場でお互いに証しすることができ、闘うことができ、死ぬことができるそんな関係を結んで行かなければなりません。真実そのような皆さんたちになってこそ、皆さんはイエス様の真の食口になることができることを、肝に銘じてくれるよう願います。 祈 祷 愛するお父様! 今日ここに集まった子女たちを、あなたの真の食口の立場に立ててください。 今日、自分を中心にして、アボジの心情と和合することがきないことがあるなら、これがアボジのまえに怨讐の立場に立つ条件になるということを、この時間に知るようお許しください。 愛のお父様、今日の私たちは天の心情を体恤して、その心情を愛する食口たちに伝えてあげるための、証しの闘いをしなければならず、またこれを妨げるサタンに対して闘わねばなりません。またこのような事が成されなかったなら、命を捧げてもこの事を成してゆかなければならない責任が、私たちにあるということを知るようお許しくださり、愛するお父様、切に望み願います。(中略) また私たちの教会全体が一つになり、近づく民族的な怨讐の群れを防ぐことができますよう助けてくださり、さらには神のみ旨を中心に新しい民族が団結して、世界的な怨讐を防げるよう助けてくださることを、愛するお父様、切に望み願います。 私たち各自が民族の為に闘い、人類の為に祈祷し、人類の為に死ぬことができる覚悟を持って行ったなら、神を私たちの家庭の中心、社会、民族・世界の中心として侍ることができ、またこのような私たちになればイエス様の真の食口になれるということを知りましたので、愛するお父様、このような立場まで行けますように導いてくださることを、切に望み願います。すべての御言を主の御名によって、祈祷いたしました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.20
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御国とその義を捜し立てよう一九五七年一〇月一三日(日)前本部教会今日は皆さんと「御国とその義を捜し立てよう」という題目で、共に考えてみます。 人間の所望と実現のために来られたイエス様と彼の御言 今日、この地上に生きている数多くの人間は、神が預告され御国とその義を捜し求めらられないでいます。それで御国とその義を捜し求めることが今日我々人類の所望であり、また今までの数千年の歴史過程の人間におきましても、一つの所望であったことを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、このような所望の御国、所望の義がどうして我々の最後の目標として残るようになったのか。それは人間が堕落したからです。人間の堕落によって、御国とその義の中心になる神と人間が、何らの関係も結べないままにおかれているのです。即ち御国とその義の中心であるアボジに対し、詳しくは知らない人間になってしまったので、神様はこのように無知な民と人類を目覚めさせ、アボジがどんなお方かを知らしめるために、今までの歴史路程で苦労されてきたのです。それで御国とその義を捜し立てることが、今だに我々の所望であり、目標として残るようになったのです。 このように、御国とその義を地上に捜し立てるアボジがおられるなら、アボジのみ旨が地上に必ず残ることを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、このように人間が所望とする神の国、神の義を捜し立てるために、皆さんはどうしなければならないのか? 今までの歴史路程において人間と関係を結んで、御国とその義を捜し立てるために苦労されてきた、アボジを捜し求めなければなりません。まずそのアボジを求めなければ、御国とその義は捜し立てられません。ですからこの世の中に生きている人間は、誰もがどんな歴史過程を経てきているとしても、まず御国の主人公であるアボジを捜し求めなければなりません。ところでもしも人間が、アボジを求めなかったなら、アボジの栄光が地上に現れないばかりか、人間が所望とする神の国と神の義を、この地上に捜し立てることができないのです。 そしてイエス様以前まで、この地上で天と地に向かって「わたしが御国の主人公だ」とする人間は現れなかったのです。言い換えれば、イエス様が来られる前までは、御国の義を代身して、その義に従ってゆき、その義の実体であると自信をもって叫び出る人間が、いなかったのです。 ところで、このように希望のない寂寞たる天地に、天の希望と義の血統を受け継いで生まれ「わたしが御国のアボジの代身であり、わたしが御国の義の実体」と主張されて来たお方があったという事実は、地上の人類には福の中の福であり、吉報の中の吉報だったのです。 それでは、このような主張をされて来たお方が、誰であったのですか? 正にそのお方が宗教から不信され、教団から排斥されて捨てられ、国家から追放されお方、今日皆さんが信じているイエス・キリストであったのです。これを皆さんは、はっきりと知らねばなりません。 それでは、イエス様が地上に現れ、何と語られたのでしょうか? 四〇〇〇年の歴史を引っくり返して、「わたしは神と一体である」とされ、「わたしは神の息子」と主張されたのです。また「わたしを信じればアボジを知り、わたしを信じれば御国を成す」とされました。そして「わたしは道であり、真理であり、生命」であるともされました。このように天の全体的な目的を達成するためには、自分を信じなければならず、自分を通さなければならないと、イエス様は強烈に語られたのです。 そして、天上と地上で塞いでいるすべてのものを蹴ちらして現れ、御国とその義の中心である神と、因縁を結ぼうにも結べない堕落人間たちに、わたしを信じることによって各自の生活に「神と関係を結んでゆくことができる」とイエス様が語られたのは、堕落人間には福音の中の福音であったことを、皆さんは知らねばなりません。 今皆さんは、イエス様のこのような福音を信じている今日のクリスチャンに、イエス様だけを仰ぎ見ているだけでは駄目な時が訪れたことを、知らせなければなりません。 「御国とその義」の本質とイエスの願い 御国とその義を捜し立てる神の所望は、人間と被造万物を離れて成ることではなく、人間を通して成されることです。その所望は真の人間を通して、神と万物が和合するところにあったのです。 それで神様は堕落した人間のまえに、神を代身する一つの実体として、天の血統を代表する者として、イエス様を地上に送られたのです。即ちイエス様は地上に初めて、神の歴史的な所望を成就してあげる為に来られたお方だったのです。 ですからこのようなイエス様を、当時は言うまでもなく、今日この地上に生きている人類、命のあるどんな存在までも、反対してはいけなかったのです。地上に生ある人類は、御国の栄光とその義を証しする、生活的な環境を持つべき存在なのですから、そのみ旨を成しとげる一日を希望としているのです。 このような事実を振り返って見るとき、イエス様が逝かれた事実は、人間にとって無限の悲しみであり、最も悲痛な事にちがいないのです。それによって様々に複雑な環境にぶつかる、歴史的な苦痛の過程を経ざるを得なくなったのです。 それでは、我々が求めている国とは、どんな国なのでしょうか? その国とその義の本質が何であるかを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は地上に来られ、人間が所望とする御国の義を現すために苦労され、万民を愛し、万民を救援するために犠牲の道を行かれたのでした。ですからイエス様が成そうとされた御国とは「主は愛」が溢れる国であり、奉仕する犠牲の生活が溢れる国であったのです。これは皆さんが霊界を体験してみれば、はっきりと感じられるのです。 それではこのような国を主管される神は、どのようなお方か? 万物に対し、人間に対し、切ない心を抱いて愛を注ぐために気づかうお方なのです。このような神が願う生活がどんなものか。神は地上の万民が自身のすべてのものを捨て、犠牲になって奉仕して、御国の建設の為に苦労をいとわない生活をすることを、願っておられるのです。 今日皆さんは、人間が所望とする御国とは本質的な愛が実現する国、即ち与えるために切なる心を抱く人々が暮らす国であること、また愛の本質は与えるために切なること、という事実を知り、その義と通じる犠牲と奉仕の生活路程を歩まねばなりません。 それでは、神の悲しみが何でしょう? ご自身の愛を完全に与えようにも与える愛の対象者が求められないことが、神の悲しみです。そして神は人間に対して、無限に犠牲になり奉仕するか、隣人の為に無限に奉仕して犠牲になる、そんな人間が捜し求められないことが神の悲しみなのです。 それでは、イエス様が地上に来られ、終わりの日を告げられるとき、何を語られたか。神の心情を相続し、神の実体として現れたイエス様は、神の愛を語られました。そしてイエス様は地上の全人類に対し、あなたがたはわたしの友とされ、神の愛を万人のまえに証され、ご自身から行われたのです。 このように天の愛を現すために苦労された、イエス様の心に染みたものが何であったのでしょうか? それはどうしたら万民に天の愛を与えるか、ということでした。そして、イエス様がその愛を与える目的がどこにあったか。その目的はご自身を信じて従う者だけを愛することではなく、イスラエル民族・ユダヤ教団、さらには異邦の民族まで愛して、この地上を神の愛が溢れる、理想の園に建設するところにあったのです。 ところがその当時、イエス様を信じて従った弟子や群衆、また反対したユダヤ教徒・イスラエル民族の中で、どこの誰もがイエス様の愛の心情と、永遠の関係を結ばなかったのです。 愛を与えようとされる神の心情に似る、一人の存在を捜し求め、教団を通し、民族を通し、イスラエル国家を通し、さらには世界を通して、地上に神の国を建設されようとしたのですが、イエス様のこのみ旨を家庭が駄目にし、教団が駄目にし、従った弟子が駄目にし、イスラエル民族が駄目にしたのです。 ですからイエス様のみ旨を、再びこの地上に成すために、イエス様が再び来なければならず、そのような主様が再び来るその日が、正に今日キリスト教徒が希望とする再臨の日であることを、皆さんは知らねばなりません。 そして、皆さんはイエス様が、人間を愛する心に染みていたと同時に、生活的な面においても、他人の為に奉仕する生活をされたということを知らねばなりません。万民の為なら自身がサタンのまえに引き裂かれ、祭物になる恨があっても一身のすべてを忘れ、犠牲と奉仕の道を行かれたイエス様だったのです。 イエスの新婦とイエスの怨讐 ところでその当時、このようなイエス様の心情を知り、神の真の息子・娘として、民族のまえに追われ、排斥されたイエス様を見て悲しんだ人間があったでしょうか? 一人としていなかったのです。もしもこのような人間が一人でもいたなら、彼は四〇〇〇年歴史を代身して、驚くべき証しの使命を果たしたのです。与えることを願うイエス様の切ない愛の心情を代身する人間がいたなら、新婦の立場でイエス様に侍り、神のみ旨を成してゆくことができたのです。 ところでこのように与えたい愛の園、天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいないので、神は今日皆さんに所望の御国を求め、所望のその義を求めている哀しい立場におられるのです。ですから今日皆さんは、どうせこのみ旨を成して行かなければならないのです。 皆さんは世界に広がっている数多くのクリスチャンたちが団結したとして、このみ旨が成るのではないということを知らねばなりません。神の本質的な愛に百%符号することができ、与えるがために切ないイエス様の心情に通じる一人の新婦になれるか、否かが問題なのです。イエス様はご自身が実践された犠牲と奉仕の生活を代身する、一人の存在を捜し求めておられるのです。またこのような存在はイエス様のみならず、神も捜し求めておられることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 宇宙に対する神の摂理が終わらない限り、地上でこんな存在になるために、ある基準を必ず立てなければならないのです。もしも皆さんが、この一つの基準を立てなければ、イエス様が切ない心情で「あなたがたはすべてのものを捨て、ただ御国とその義を求めなさい」とされた御言の目的と、皆さんとは何らの関係もなくなってしまうのです。 それでは今日、我々の悲しみが何でしょうか。私の悲しみが何でしょうか。キリスト教の悲しみが何でしょうか。また世界の悲しみが何であり、この地上の悲しみが何であり、天の悲しみが何でしょうか。与えようとされるイエス様の愛が、どこに留まっているのでしょうか。我々がこんなすべての問題を未だに解決できないでいることが、天の嘆きであることを皆さんは知らねばなりません。 今日この地上の人間を探って見るとき、このような問題を解決できる存在があるかといえば、ないのです。ですから神はこの時間も、切なく嘆息しておられるのです。また皆さんのまえには、これを打開して越えて行くべき歴史的な運命、即ち審判の過程を経て行かなければならない運命が横たわっているのです。 神は皆さんがこのような道を経てゆく過程で、皆さんに天の愛がなくて悲しみを感じるのではなく、天国の義がなくて悲しみを感じるているのではないのです。人間のある理念と観念を超越し、永遠の実存の価値を持つ人間として自然の法度に順応し、神の相対になることができる心情をもつ存在がない故に、悲しまれているのです。 自由に神の愛を感じ、自由に御国とその義の本質である奉仕の心情を持って、生活をしなければならないのですが、人々はこのような生活ができないでいるのです。ですから皆さんは信仰路程において、混乱と矛盾と闘争の過程を経ながら、神の愛で奉仕の生活をするために、身悶えなければならないのです。 それでは、皆さんの怨讐が何でしょうか? 民族の怨讐が誰でしょうか? この世界と天地の怨讐が何でしょうか? それは他ならぬ見えざる億万のサタンが住み着いているこの宇宙全体が、怨讐なのです。 しかしながら皆さんに、このような怨讐は問題視されません。問題は皆さん個人です。皆さん個人に潜んでいる怨讐から除去してゆくことが、至急の問題なのです。万民を救援するために地上に来られた、イエス様の怨讐が誰だったでしょうか? このお方を絶対的な価値の存在としてではなく、相対的な価値の存在として見た人々が、正にイエス様の怨讐でした。それでイエス様は彼らの中に、ご自身の本性と関係を結び「あなたがたの心でありわたしの心」とすることのできる一人の存在が、出てくることを苦待されたのです。このような一人の存在が現れたなら、イエス様は十字架に逝かれたとしても、この方の愛と理念は地上に立ったのですが、そうはならなかったことがイエス様の辛さであったことを、皆さんは知らねばなりません。 また御国とその義が成る世界がどんな世界かといえば、互いに与え合うことを愉しむ愛の世界であり、神のみ旨の為に奉仕し、犠牲になる生活が輝く世界であることを、皆さんは知らねばなりません。ですから今日我々が暮らしているような、こんな世界ではないのです。 神の愛を受けることができる道 それでは、皆さんがどのようにすれば、神の真の愛を受けることができるのか。前にもお話したように、皆さん自らが越えるための犠牲の道、奉仕の道に出て行くとき、初めて神の愛を受けることを、皆さんが肝に銘じるように願います。 地上の人間をこのような道に率いてゆくべき立場のイエス様には、その当時の地上の人間の中で誰もが他を愛し、他の為に生きようとする人間がなく、むしろ自分の為に生きることを望み、愛を受けることだけを願う人間ばかりだったので、対する人間すべてが気の毒な対象としてのみ映ったのです。このように神のみ旨を地上に成すために、犠牲と奉仕で神の愛を与える一人の存在を捜し求められなかったことが、イエス様にはもっとも大きな痛みであり、悲しみであったことを、皆さんは知らねばなりません。 イエス様は見せようとしても見ず、手に取らせても分からない無知な人々に接して、哀しまれたのです。それでイエス様は彼らに「何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思いわずらうな」と言われたのです。これは自身の生活を否定せよという御言であり、すべての環境を否定せよという御言なのです。 イエス様はこれが人間が生きてゆくために、持つべき必然的な条件であることを知らないで、こんな御言を語られたのではなかったのです。堕落した人間はこのような道を踏み越えてこそ、所望の一日を迎えられることを知っておられたので、何を食べるか何を飲もうか、何を着るかを心配しないで、まず御国とその義を求めよと言われたのです。まず御国とその義を成す人間は、この自然的な法度圏内において、万物を主管することができ、自然にこのような万物に対する心配は、する必要がなくなるので言われた御言なのです。 イエス様が地上に来られて、サタンから幾つかの試みを受けました。四〇日断食期間にまず、食べることで試みを受けました。サタンがイエス様の前に現れ、石をパンに変えてみなさい、と言ったのです。これは飢えている人々には喜ばしい報せです。しかしイエス様はこれを否定し、ご自身が食べる事のために来たのではないことを表されました。ただ神の御言を主張することによって、人間が生きてゆく実際生活圏内でのすべての条件を、サタンのまえに失わなかった立場を立てたのでした。 その時まで人間は、物質を中心とする闘争の歴史を経てきたのですが、イエス様がサタンの第一次的な試みに勝利することによって、このような物質を中心とする闘争の歴史を終結させたことを、皆さんは知らねばなりません。 それでは、その次にイエス様はどんな試みを受けたのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて聖殿の頂上に立ったのですが、そこで「あなたが神の息子なら飛び下りてみなさい」(マルコ四:六)という試みを受けたのでした。 イスラエル民族とユダヤ教を、指導する宗教理念を持って現れたイエス様に「飛び下りてみよ」というこの言葉は、どんな意味でしょうか? これはユダヤ教的な習慣と、彼らの主張のまえに屈伏して、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかしイエス様はここでサタンの試みに陥ることなく、勝利されたのです。 その次に、どんな試みがありましたか? サタンはイエス様を極めて高い山の頂上に登らせ、天下万国とその栄光を見せて「もしもわたしに膝まづいて敬礼するなら、このすべてのものをあなたにあげよう」(マルコ四:九)と言ったのです。しかしイエス様はここで、宇宙的な理念を持って神の国、即ち天国を建設するという神のみ旨を立てるために、サタンのこのような要求を払い除けたのです。 イエスの三大試練勝利の意義と聖徒の使命 それではこのような事実は、何を意味しているものか? この地上に新しい天地、即ち天国を建設することができる理念を持つイエス様ですから、そのみ旨を現す実現過程において、このような歴史的な不信のすべての条件を蕩減して、復帰したという象徴的な条件を立てなければならないのです。 ですから終わりの日を迎えている今日の皆さんにも、物質的条件を中心とした闘争が起こるようになるのです。ところで今日すべての人間が、このような物質的な闘争において勝利できずに敗北してしまったら、地上は自然に暗黒の世界に変わるのです。それゆえ今日皆さんは、このような物質的な闘争を踏み越えて、イエス様の天国の理念を受けて行かねばならず、さらには全体がキリスト教徒と力を合わせ、神の国をこの地上に建設しなければならないのです。 言い換えれば、イエス様が昔、イスラエルの全体的な価値に譬えることができるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰しなければならない使命があったように、今日の全世界のキリスト教徒にも、世界を代表する民主主義の理念と、またその民主主義の理念の基本になっているキリスト教の理念を中心にして、一つに団結して、神の国を地上に建設しなければならない使命があるということを、知らねばなりません。 そして皆さんは昔、イエス様がサタンのすべての試みを押し退けて勝利されたように、皆さんもそのような過程を経るということを知らねばなりません。ですから終わりの日になれば、物質的な闘争の過程を越え、次に宗教的な闘争の過程を越えなければならないのです。ここにおいて分裂と矛盾、闘争を解決して通じる宗教が出現するのです。このような時代を象徴することが、イエス様が受けた試みであったのです。 イエス様がどんな逆境の場、死の場であっても変わらぬご自身の姿を現されたように、皆さんもイエス様のそんな人格に似なければなりません。また終わりの日にある今日のクリスチャンたちは、イエス様の世界的な心情理念を捜し立てるために、過去に好んだあるものに執着してはなりません。また皆さんは歴史的な使命を持って地上に来られたイエス様の、その人生路程に符号する路程に立っているのですから、皆さんのまえには歴史的な闘いの一時があるということを知らねばなりません。 今まで世界的な栄光を受けてきたサタンが、最後の闘いに敗北して神の息子・娘のまえに屈伏し、敬礼する時が必ず来なければならないのです。 ですから、このようにサタンを屈伏させて神のみ旨のみを現すことができる一日が、どうかすぐに来て、またこのような事をやれる一人の人間が、出なければならないのです。ところでもしもこんな一存在が現れなかったら、イエス様がまず御国とその義を求めて叫んだそのみ旨が、この地上に成されていないことを、皆さんは肝に銘じるよう願います。 それでは、皆さんが生きているこの時は、どんな時でしょうか? 皆さんは今、物質の試みを経て、神のみ旨を成してゆくときに生きているのです。即ち、物質が人間のみならず、地上のある主義主張を越えていって、さらには神様までも屈伏させようとする時に、我々は生きているのです。ところでこのような時が、正に終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。 御国の民の生活-御国とその義の本質を現す生活 それでは地上の誰もが異口同音に、今日を終わりの日と言っているこの時、即ち、歴史的な終結、科学的な終結、倫理と宗教の終結を予告するこのような世界的な終末時代に面している皆さんは、どのようにしなければならないのか。イエス様が叫んだ御言、即ちまず御国とその義を求めようとされた御言のように、自身のすべてのことを考えず、ただこの地上に神の国と、神の義を立てるために、不変の忠誠を尽くす人間にならねばなりません。そうして皆さんは、自身を満宇宙のまえに誇り、神の代身者の使命を完遂する人間にならねばなりません。 即ち、御国の本質的な理念の内容を、皆さん自身の生活に適用し、これが皆さんの人生に実証的な価値を形成して、永遠の未来を約束する希望の一日を成してゆかなければならないのです。ところがもしもこんな皆さんにならなかったら、皆さんは神がアダムとエバの堕落以後四〇〇〇年の間苦労した後、イエス様を送られて役事したみ旨と、イエス様以後今日まで、イエス様と聖霊を合わせた三位神が役事したそのみ旨とは、何の関係もなくなってしまうのです。 このような観点から皆さんは今、何を捜し求めなければならないのか。皆さんは御国とその義を立てられない、即ち天宙的な理念を立てられない不義の条件等を、捜さなければなりません。こうして皆さんが一身の生活において闘って勝利し、神の息子・娘であるイエス様の代身存在にならなければならないのです。 即ち、皆さん自身が御国にかなう人間、御国の義の民になろうとするなら、食べること着ることで争う、そんな下らない人間になっては駄目です。食べる問題、着る問題を越えて生きる人間にならねばならず、むしろそのようなものが自分に少しでもあれば、これをボロをまとい飢えている人間に、分けてあげなければなりません。 皆さん! 神の心情がどのようであるか、知ってますか? 一片のパンがあれば、そのパンを独りで食べるのではなく、何人かに分けてあげたいのが神の心情なのです。イエス様はそんな心情を代身したのですが、イエス・キリストのまえに現れた人々は、そうではありませんでした。 それでは、今日家庭に不和が生じる原因、争いが起こる原因がどこにあるのでしょう?その家庭が、自分だけの為に存在すると考えるからです。食べる物があれば、これを自分だけが食べるためにあると考えるので、争いが起こり不和が生じるのです。正にこれが罪の矢であり、サタンであることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 ですから今日皆さんは、食べる問題を解決し、着る問題を解決しなければなりません。自分だけの為という心、即ち家庭不和の条件を打破し、正にこのような歴史的な矛盾を踏み越えて上がらなければなりません。このように皆さんは衣食住のすべての問題を越え、神のまえに真の勝利者の姿として現れるべき立場にあることを、忘れてはなりません。 それでは、当時まず御国の義を求めよと叫んだイエス様はどんな立場におられたのか。一つの物を置いて、それに対する神の心と人間の心が互いに異なっていたら、切なく悲しいことです。それでイエス様は、神の心とご自身の心が一つになる状態で、人間の心がご自身の心と一つになることを願ったのでした。ところが、人々はこのお方を不信して反対することによって、彼らと一つになることができなかったので、口にも言えない悲しく寂しい立場におられたということを、皆さんは知らねばなりません。 もし皆さんに食べる物があれば、皆さんはどんな思いで食べなければならないか。神の本質と御国の本質を慕い、与えたい愛の心を持って、食べなければなりません。他の為に犠牲になり奉仕するという心を持って、食べなければなりません。こんな心を抱いて生きる人間になれば、いっぺんに沢山の宝物を持ったとしても、皆さんはこれを自分の意のままに処理できないのです。 それゆえ、皆さんは与えようとされるアボジの心が、小さなパン一片を通しても現れるということを感じて食べる人間になり、またこの地上に成すべき神のみ旨と、難しい環境におかれている多くの哀れな人々を案じて、食べる人間にならねばなりません。こんな人間になれば、彼には物質的な困苦がなくなるのです。 物質に対する姿勢によって訪れる祝福と呪 ところが、今日皆さんはそうではない立場にいるのです。皆さんは物質を中心にする争いに喘いでいるのです。皆さん自体が神と因縁を結んで「この物を通して与えようとされるアボジの心を自分よりもさらに現し、この物を自分よりさらに愛するアボジの息子娘子がいるでしょうか? この物が自分のものではなく、アボジのものですから、彼らにこの物を使わせてください!」とすることができ、また皆さんは彼のまえに与えるべき物を、自分が取ったという謙虚な心を持たねばなりません。そんな時に皆さんの心の奥に潜んでいる本性が現れるのであり、皆さんが永遠の希望の圏内に出て行くことができるので、イエス様は物を使う姿勢について語られたということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは今、皆さんが怨讐とするものが何でしょうか。それは皆さんに与えられた物質を、自分だけのものと考える私心です。それゆえこれを万民に分けて食べることを願う、神の心を代身しなければなりません。食べる物があったなら、これを食べる前に家庭の為にあげる心になり、社会・国家・世界人類の為にあげるという心を持たねばなりません。こんな心を持てば人間は天上的な過程を経て完成するのであって、今日の大部分の人々はこれを忘れたまま、生きているのです。これを皆さんは哀しく思わねばならず、これがまた堕落の立場であることを知らねばなりません。 それでは今日、怨讐は何を通して訪れて来るのでしょうか? 物質的な条件を通して入ってくるのです。ところが神の福も、物質を通して入ってくるのです。このように物質を通して、神と我々の怨讐が同時に訪れてくるということを、皆さんははっきりと知り、物質を通して確固とした信仰の中心を立てる人間にならねばなりません。 どんなものでも一つの中心が立てば、ここに自然に相対的な存在が発生するのです。完全なプラスがあれば完全がマイナスが、自然に発生するのが宇宙の原則ですから、皆さんがこの地上で原則的な信仰の責任、一つの基準を捜し立てなければならないのです。イエス様はこのような原則を知っておられたので、まず御国とその義を求めよ、と叫ばれたことを皆さんは明確に知らねばなりません。 その次に、皆さんが知るべきことが何でしょうか? 食べることのために、家族同士で争いが起こっていることです。食べることのために嫁・姑・兄・弟の間に争いが起こり、国家なら国家同士に争いが起こり、親戚なら親戚同士に争いが起こっていることを、皆さんは知らねばなりません。それでイエス様もこれを踏み越えてゆくため、家庭の為に、社会・国家・世界の為に、切ない心をもって生きられたのであり、御国とその義を建設することができないので、切ない心情を吐露されたのでした。それゆえ今日の皆さんも、イエス様のこのような心情を体恤し、その人格に似るようにしなければなりません。 その次には皆さんのまえに、着ることのために争いが起こるようになるのです。皆さんの信仰路程に、必ず着る問題を解決して越えてゆく過程があるのです。ですから今日の皆さんは、サタンのどんな讒訴にもこだわることなく、このような問題を自由自在に解決できなければなりません。 このように皆さんの、食べて着る問題がサタンになると同時に、サタンが活動することのできる活動の、実践場になるということを知らねばなりません。ですから今、皆さんがする事のすべてに、いつもサタンが侵犯しようと狙っていることを知り、サタンが侵犯するどんな条件も残さない皆さんにならねばなりません。 ですから皆さんは、自分の為だけに生きてはなりません。より大きな目的の為に生きなければなりません。皆さんが家庭に属しているなら、その家庭の為に生きるとき、それは皆さん自身の為に生きることになるのであり、一つの国家に属しているなら、その国家の為に生きるとき、それはまた皆さん自身の為に生きることになるのです。また皆さんが天の為に生きるとき、皆さんは真に自分の為に生きる立場になるのです。それゆえ今日皆さんはこのようなすべての事実が、皆さんの生活環境を通して現れてくるということを、肝に銘じなければなりません。 今皆さんが神のみ旨の為に、神の心情を体恤し、御国とその義を捜し立てるために行くなら、皆さんはどうしなければならないか。皆さんに食べる物があれば、皆さんよりも難しい環境にある人間にこれをみな分けてあげ、自分は飢えるという心、また食べる物があれば、むしろ皆さんを迫害する人間に与えるという心を持つ人間にならねばなりません。 こうして皆さん自身は「私が実践的な面において与えたい心に染みて生活しているか、奉仕するための理念に染みて生活しているか、でなければ今日のこの現実を覆し、御国の理念を実現するために身悶えているか」と反省する人間にならねばならないのです。そんなときに皆さんは、パウロが「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ書七:二四)と嘆息した、その心情を感じるようになるのです。 イエス様の切ない心情の同伴者 このように皆さんは、皆さんの現実において与えたい心に染みて、人生全体の価値を捜し立てる使命があることを知り、またこのような使命を完遂するために、この地上の希望の実体として来られたお方が、正に二〇〇〇年前のイエス様であったことを知らねばなりません。 ところで今日人々は、イエス様がこのように与えたい心に染みて生きたお方であることを、知らないでいるのです。また皆さんが食べるパン一片に、着る一枚の着物に、神様の切ない涙の跡があるということを知らないで生きているのです。これが正に神の悲しみであり、嘆息の条件であることを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、今再び来るはずのそのお方、主様はどんなお方として来るのでしょうか。この方もやはり、神の国を建設するために、与えるための理念の主人公として来られるのです。永遠に変わらぬ天理原則を通して、子女に対する父母の愛を持って、その愛を今日我々人間に与えるために、再び来るのです。 ですから皆さんは来られるその主様を通して、人間始祖が堕落によって失った人間の価値を取り戻すために今まで六〇〇〇年の間、摂理してこられた神の切ない心情を相続しなければなりません。こうして皆さんは、地上に来て祭物として逝かれたイエス様の、切ない心情の同伴者の場まで行かねばなりません。 もしも今日、信仰者たちがこんな場まで行けなかったら、この地上のキリスト教徒がどんなに多くても、キリスト教は発展することができないのであり、国に民がどんなに多かったとしても、その国は繁栄することができません。ですから今日皆さんは、預告された神のみ旨を相続し、イエス様がこの地上に対して切なかった心情を、皆さんの生活圏内で体恤する人間にならねばなりません。 神様は今、この時間も、与えたい心に染みて生きる人間が現れることを願っておられ、イエス様は自身を殺したこの地上のすべての悪の勢力を踏み越えてあがる人間が現れることを、待ちこがれているのです。もしもこのような存在が現れたなら、彼は真にこの社会の主人公になり、この国の主人公になるのですが、今だにこんな一人の人間が現れないことが、神とイエス様の切なさであることを、皆さんは知らねばなりません。 こんな主人公になるために地上に来ては行った数多くの先知先烈たちがいますが、歴史上の先祖たちは彼らを埋め、また迫害して嘲弄したのでした。ですから今日一自体を立てて、このような歴史的なすべての過ちを精算することが、皆さんに対する神の所望であるのです。 今このような神の所望のみ旨を成してあげるには、皆さんはどうしなければならないのでしょうか? まず神の国と神の義のために、血の滲む十字架の道を耐えて行かれたイエス・キリストの後に従う人間にならねばならず、次には六〇〇〇年の歴史の中で、数多くの先知先烈たちが自分一身の栄光をふり捨て、神のみ旨を成すために苦労したその道に従って行く人間にならねばなりません。 とろでもしも皆さんが、このような道を行かず、自分のある栄光のための道を行ったなら、皆さんは神のまえに、また数多くの先知先烈たちのまえに、堂々と出て行くことはできません。また死んで霊界に行っても、アボジのまえに出ることができず、アボジの愛の懐に安らぐことはきません。即ち、信じることも自分の為に信じ、死ぬことも自分だけが救われるために死ぬ人間は、あの世に行ってもアボジのまえに堂々と立てないことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 御国とその義を捜し立てる民 ですから皆さんは自分を否定して、御国とその義の為に生きる人間にならねばなりません。どんな困難な環境にぶつかったとしても、皆さんは自分に対するアボジの所望があることを考え、その環境と闘って勝つ人間になるのです。そんな皆さんになってこそ、初めて神の真の息子・娘と言えるのです。 それでは神の国を建設する人間とは、どんな人間でしょうか? 自分一身を否定し、切ない心で天の為に生きる人間なのです。自分を否定し、社会と民族・国家・世界の為の人間が、正に神の国を建設する人間なのです。さらには国家と世界を否定しても、天の為の人間が、天国を建設する人間であるのです。またどんなに悲しい環境にぶつかったとしても、自分一身のゆえに悲しむのではなく、社会と国家・世界、さらには天のために悲しむ人間であってこそ、神の国を建設することができるのです。 それゆえ今日、皆さん個人のある欲望を満足させるために骨折るのではなく、より大きな目的のために犠牲になり、奉仕する信仰生活をしなければなりません。こうしてただ神のみ旨と人類の為に苦労された、イエス様の心情的な基準まで行かねばならず、今まで苦労されてきた神の切ない心情をお慰めする、神の真の子女の場まで行かねばならないのです。 ですから今日、皆さんは不義を見れば憤慨する心を持ち、また与えたい神の愛の心を持ってこの世の果てまでも行き、神の国と神の義を捜し立てるために苦労し、さらには切ない中で人類を救うために、今まで苦労してきたイエス様の心情を慰めなければならないのです。 それだけでなく、皆さんが神の国と神の義を捜し立てるその過程において、サタンとの闘いに敗北することなく勝利して、皆さんが個人から家庭・社会・民族・国家・世界を一つに連結させなければならないのです。即ち、皆さんがどんな場にあっても、そこでサタンと闘って勝利する人間にならねばなりません。社会にゆけば、その社会のどんな環境の中でもサタンと闘って勝利しなければならず、国家にゆけば、その国家の最も難しい問題に責任を負っていって、サタンどもと闘って勝利する人間にならねばなりません。 もしもこのような人間が現れたなら、我々が見ればその場で滅んでしまいそうですが、後には興ってくることを、皆さんは知らねばなりません。また、正にこんな人間がどこの家、職場・団体・国家の主人なのです。家庭において、父母の為に自分の命を捧げ、孝道の道理を尽くし、夫と妻が各々、烈男・烈女の道理を尽くし、国王の為に忠臣の道理を尽くす人間が、正にその家庭の主人であり、その国家の主人であるのです。 ですから今日、皆さんもこのような人間になって、今までの六〇〇〇年の摂理歴史の目的を代身し、今日の現実的な宇宙的理念を代身して、どんなゴルゴダの道が塞ぐとしても「アボジよ! 感謝します」と言って涙でこれを越えることができなければなりません。こうして皆さんの素晴らしい姿が、皆さんの心の中にわきあがり、体と化して、サタンまでも皆さんを尊敬して従うとき、初めて皆さんは御国とその義を捜し立てる民として現れるということを、この時間、肝に銘じてくれるように願います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.20
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捨てたイエス様のものを捜し立てる新婦となれ 一九五七年十月四日(金)前本部教会 (以南出監記念礼拝) 祈 祷 お父様、この間、私たちを保護されたアボジのまえに真に感謝し、特別なこの日は、私たちが記憶しなければならない日であることを知っております。 愛なるお父様! 過ぎたこの日を記憶し、その時の真心と、その時の心情を回想して、今日の自身がどこに留まっているか、また過ぎ去った一週間の間、アボジのまえにどの程度の栄光を捧げたか、自ら反省することができるこの時間となることをお許し下さるようお父様、切に望み願います。 多くの人々の中で、私たちをまず抱いて下さり、哀れな民族の中で私たちをまず捜し立てられたアボジのまえに、心から感謝し、不足なる私たちが負うべき責任が重大であることを知るようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。 私たちが望む目標は、地上のいかなるものでもなく、私たちが勝ち取ることは、地上のいかなる欲望のためでもなく、天倫に結ばれたアボジの怨恨を解こうとするものであることを、お父様は知っておられますので、このようなみ旨を捨てて忘れてしまう者たちにならないよう導いて下さり、さらにアボジの勝利ののろしのまえに立ち、三千万民族をアボジの愛のまえに率いて越えてゆく子女たちになるよう、お許し下さることを、お父様、切に望み願います。 そうして三千里半島がアボジの愛の懐に安らぐ園となるようお許し下さり、聖霊が臨在することができる園となるようお許し下さい。 愛なるお父様! この日私たちはアボジのまえに、より近づくという心で集まりましたので、自身の不足なることをアボジのまえに、この時間悔い改め、自身が正しからぬすべてのことをアボジのまえに精算し、アボジの仰せられる命令の通り、アボジの許されるみ旨に順応してゆく息子・娘となるようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。 今まで自分を中心にした何かがあるでしょうか? 自身を主張するために生きてきた、どんなものがあるでしょうか? もしもこのようなものが私たちにあったとしたなら、お父様この時間に精算して下さり、私たち自らがアボジのまえに主張するどんな条件も持ってはならないことを知るよう、お許し下さい。そうして私たちの持っているすべてのものをお父様に預け、たのみ望むこの時間になるようお許し下さり、ただアボジの許された恩賜と、アボジの運行される役事のみが現れるようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。 お父様、ここに集まった食口たちを一律的な恩賜によって、この時間主管して下さるよう、この夕べにも地方にひろがっている淋しい食口たちが、アボジのまえに膝まずき、国家の為に祈祷していることを知っていますから、お父様、彼らの心にも一律的な恩賜を共に下さり、愛の聖霊が彼らの明日を守って下さり、また喜びの恩賜がこの時間、彼らの心に充たされるようお許し下さい。 愛のお父様、この場に参席できない食口たちもおり、試練と逆境の中に独り孤独をかこつ食口たちもおりますから、お父様、彼らをお守り下さい。 今まで耐えてこられた心情、アボジの淋しい心情をアボジ、この一時に解いて下さり、私たちがアボジのまえに祭物を捧げる代わりに、アボジの実体の子女として現れることができるその一日が、どうかすぐに臨むようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。 この時間以後のすべての事柄をお父様にお任せしましたので、愛によって保護して下さり、私たちがアボジの愛を体恤することができる時間として導いて下さることを、切に望み願い、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。 <御言> 今日この時間は皆さんに「捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦になれ」という題目で暫くの間、お話しします。 この地の上で見捨てられたイエス 人々が今まで信じてきたイエス様、また今この時代において多くの人々が歓迎し、キリストと呼び、主と呼んでいるイエス様はその時、地上に来られてそんな栄光を受けられなかったことを、皆さんはよく知っています。 今日信じている我々自身は無論ですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた御言を、天の御言として信じた人間がなく、その御言を自身の命を代身する御言として信じる人間が、まるでいなかったのです。 このように地上に来られたイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったのです。個人を代身して、彼を心から歓迎した人間が一人もなく、家庭を代身して、彼を歓迎した人間が一人もいなかったということを、皆さんは知らねばなりません。 イエス様は三〇年の歳月を、ヨセフとマリアの家庭で生きたのですが、その家庭では誰もがイエス様が抱いているその心、イエス様が願っている所望、イエス様の生活とやるべき事が何であるかについて、無知であったのです。のみならず、イエス様がされた御言の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者がいませんでした。むしろイエス様を不信して捨てる立場をとったのが、イエス様の家庭であったのです。 家庭において捜し立てるべき摂理的使命があり、個人に対して捜し立てるべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して捜し立てるべき使命が、イエス様にはあったのですが、その当時のユダヤ民族の中には、そんなイエス様の使命を自身の命と感じる人間が、一人もいなかったのです。 イエス様が見て、聞いて、語り、行い、働くすべての生活が、無知な地上にあったとしても、その生は地上の人間たちの為に生きることのみではなく、人間が知らない新しい神のみ旨の為に生きたのでした。ですからこのような新しい天倫のみ旨の為に生きられたイエス様にはその如くに、人知れぬ背後の悲しみの言葉と、理念と行動と生活に現れていたということを、皆さんは知らねばなりません。 またイエス様は家庭において、自身のみ旨を立てることができなかったので、社会を通して、あるいは教団を通して、自身のみ旨を知らしめることを願ったのです。しかしイエス様はユダヤ教のまえに、またイスラエル民族のまえに歓迎されず、捨てられたのです。このようにイエス様の一身が排斥されたのみならず、さらにはイエス様がされた御言も排斥され、イエス様の生活、イエス様がされようとされたその事が、すべて排斥されたことを、皆さんは知らねばなりません。 それゆえ皆さんは、このように見捨てられたイエス様の心情、捨てられる時のその寂しさ、心に受ける苦痛がどれほど大きかったかを、推し量ってみなければなりません。もしもこのようなイエス様の苦痛を知らない者になったなら、皆さんは四〇〇〇年の歴史に責任を負ってきたイエス様の人生、その理念、その生活、その仕事と御言を知る者として、到底現れることはできません。 今日我々はイエス様のこのような事情が現れている、聖書の御言を通して少しは知っているのですが、それも頭で知っているのです。また耳で聞いて知っている程度です。しかしそれでは駄目なのです。昔イスラエルのユダヤの民に対して、イエス様が御言を伝えられた時にも、それを耳で聞いて、頭で知っただけだったのです。このように実生活において皮膚で体恤しないで、耳で聞き、頭で知っただけでしたので、かえって彼らがイエス様をして、十字架の道に行かせるようになったのです。ですから御言を頭で知り、耳で聞いただけでは駄目だということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、今日我々はどのようにしなければならないか? 聞く御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動することを知らねばなりません。ところがその当時、イエス様が十字架の死の道を経て行かれる時まで、このように御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動する人間が、一人も現れなかったのです。 イスラエル民族、ユダヤ教、さらにはイエス様と三年の間も喜怒哀楽を共にして、ある誠心を注いで教えた弟子たちの中にも、そんな人間が一人も現れず、みな不信する立場になってしまったのです。このようにイエス様はある誠精を注いで教え、夢を通して神の事情を知らしめ、また神の摂理に無知であった彼らに「わたしを見た者は神を見た者」と語られ、強く目覚めさせようとしたのですが、当時のイエス様が愛された弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情を、まるで知らなかったのです。聞いた言葉で、また見る眼で、知る頭ではなく、その御言を頭で悟り、心で感じ、体で行う人間が、一人もいなかったのです。 イエスの新婦の資格と使命 それでは、歴史的な終末の時代を迎えている今日、我々の責任が何でしょうか? 失ったイエス様のすべての理念の回復し、この地上のすべての罪悪と闘い、勝利して天国の世界を建設し、イエス様を新郎として迎えられる新婦の資格を得なければなりません。 これはイエス様の事情を聞いて知る程度でも、自分の頭で悟って知る程度でもなく、心で感じ、体で体恤できなければならないのです。 それゆえ皆さんは、イエス様が語られた御言の中で、その当時の人々のまえにアボジのみ旨のすべてを打ち明けられなかった事情、天倫の秘密のすべてを明らかにして語れなかった、無限に苦しい心情があったということを、知らねばなりません。もしも皆さんが、このようなイエス様の事情と心情を知らなかったなら、イエス様の御言を本当に理解することができないのであり、その御言を立てるために生きたイエス様の生活も理解できないのであり、地上の万民を救援するために努力されたイエス様のその仕事も、理解できないのです。 当時のイエス様の心情と、対する人間の心情には、無限の差異がありました。イエス様は自身の心のおく深く染みた御言を語ることができず、その無知な人々を目覚めさすための勧告の御言のみを語られたのです。 それではその当時イエス様が語られた内容はどんな内容か。サタン世界、悪なる世界、怨讐たちの世の中で生きてはいても、天の子女になろうという者たちのまえに、勧告された御言であったのです。サタン世界で試みを受けることなく、勝利することができる方便を示す内容の御言であったのです。言い換えれば、イエス様は万民がサタン世界でイエス様の御言を守り、イエス様の心情を代身して生きる、そのような一つの足場を残して行かれたのです。 それでイエス様は我々に対して、どんな最後の名詞を残されたかといえば「あなたたちはわたしの新婦」という御言です。当時イエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に語ることができず、後日を約束される立場で語る以外になかったのです。このようなイエス様の心情を、皆さんが知らねばなりません。 天が任されたみ旨をおいて、イエス様が当時の弟子と、イスラエル民族と、ユダヤ教を愛する心には変わりがありませんでした。しかし無知な民衆、無知な教団、無知な弟子たちでしたから、イエス様はサタンと闘う先鋒者として、独りすべての弓矢を受けられ、彼らに生きる道を開拓してあげるために、受難の道を歩まれたのでした。即ち、ご自身の心のおく深くひそむ心情、天の新郎・新婦の理念を明かして語れる環境を持つことができなかった哀しいイエス様であったことを、今日皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、イエス様が行かれて、この地上の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の標的として「あなたがたはわたしの新婦」という御言を語られたのですが、今日この新婦の理念はどうなったのか。今だに数千年の歴史過程を経てきて、サタンとの凄まじい闘いに勝利し、このようなイエス様の新婦の立場に立つ者がいないのです。それゆえ皆さんは、二〇〇〇年前に天を代表して選ばれたイスラエルが立てず、愛する弟子たちが立てなかった、イエス様が願う新婦の理念を代って立てなければならず、皆さん自らイエス様の心情に接することを知る人間にならねばなりません。 それではイエス様の御言は、どんな立場で語られた御言か? 新婦の理念を完成できなかった立場をおいて語られた御言なのです。彼の御言は新郎の立場で、信じる人々が本当の新婦の資格を得て、イエス様の懇切なる事情に通じるために残しておかれた御言であったのです。ですから今日の皆さんは、イエス様がなされた御言の真の意味を解し、イエス様が願った新婦となり、新郎の御言によって立たなければならず、また当時イエス様が感じられた内的な心情を、体恤する場までゆかねばなりません。もしもこのような場までゆく者がなかったら、イエス様が三〇余年の人生路程にわたって語られた、その御言の目的は果たされないということを、皆さんは知らねばなりません。 公生涯路程を歩んだイエスの事情 それでは、イエス様がこの地上で御言を伝えるときの、状況はどうだったのか? 万民がイエス様の御言を歓迎しないで反対したのであり、さらには彼を迫害までしたのです。それゆえ今日皆さんは、イエス様がこのような中で、むしろ迫害する彼らのために語った内的心情を推し量って見る人間になり、万人の新郎であるイエス様のその心を感じる人間にならねばなりません。 また、皆さんはイエス様が二〇〇〇年前に語られたその内的な心情が、今日のわが胸と体と頭を打って、響かせている感覚を持たねばならず、さらにはイエス様をお慰めして差し上げる人間にならねばなりません。そうして当時は排斥された御言を歓迎して、イエス様の御言の目的を、この地上にきっと成してあげる聖徒にならねばなりません。 このように新郎であるイエス様の御言は、今まで多くの歴史の峠道を越えて我々に伝達されましたが、終末の時を迎えた今日において、その御言を皆さんはどのように受け取るべきか? 皆さんはその御言を頭で知るだけでなく、心で知り、体で知らなければなりません。 そして、皆さんはイエス様の御言が捨てられた当時、イエス様の三〇余年の祭物の路程も見捨てられたということを、知らねばなりません。即ち、イエス様の御言が捨てられたことは無論ですが、イエス様自身も見捨てられ、またイエス様自身が見捨てられることによって、自身の三〇余年の人生も見捨てられてしまったことを、知らねばなりません。 それではイエス様の新婦になるべき今日の皆さんは、今何をしなければならないのか。イエス様のこのように見捨てられた三〇余年の人生路程を、皆さんの一身において刈り入れなければなりません。 イエス様は三〇年の間、ヨセフの家庭で暮らしたのですが、そのお方がやろうとしている事を誰も歓迎することがなく、またイエス様はどこでも思いのままに訪ねて行くことができる環境に生きてみなかったことを、知らねばなりません。このお方のみ旨と御言は、このお方がされた生活とは、あまりに大きな隔たりがあったのです。自身の事情を打ち明ける一人の存在も求めることができず、イエス様は自身が語りたい言葉も言えずに黙って大工の仕事をされて生きたのです。 またイエス様は、神様が数多くの先知者たちを送られて成されようとされた、そのみ旨を成す主人公だったのです。即ち、そのときイエス様は民族の中心であり、教団の中心であり、さらには個人の中心であるのみならず、全体を代表する中心であったのです。 ところでイエス様は自身がこのように、地上のすべてのものを代身する主人であるのみならず、霊界までも主管すべきであることを知られたのですが、このようなすべての事実が誤ってしまうことによって、さらに哀しい生活をされていかれたのでした。 このように、イエス様の生活を捨てた責任が、昔のイスラエル民族にあると同時にユダヤ教団にあり、洗礼ヨハネにあり、イエス様の愛する弟子たちにあったのです。 それでは、このような事実を皆さんは今日、どのようにしなければならないのか? 皆さんは万民の所望である新郎として、再び来られるそのイエス様を、世界と民族を代表して慰めることができ、数多くの教団を代表して、数多くの家庭を代表し、イエス様の愛する弟子たちを代表して、慰めることができる存在にならねばなりません。 また、神様がイエス様が生きておられる間、骨肉に染みるほど感じた哀しい心情を、今日一身に感じるために悶える一人の存在が現れることを願って今まで、地のために役事され、また聖霊を通して役事されたということを、知らねばなりません。 イエスの代身者にならねばならない終わりの日の聖徒 イエス様は新しい福音の御言を伝えるために行く所々で不信され、行く所々で迫害されても、イスラエル民族の悩み事、難しい問題を引き受けたのです。ところがその当時の人間の中で、このように独りすべての人間の悩み事を引き受けたイエス様の仕事と御言を、自分の仕事と御言として感じ、共に苦労した人間が一人もいなかったのです。ですから今日の皆さんは、その当時ユダヤ民族がイエス様の御言を捨て、世界を捨て、イエス様の仕事を捨てたその誤ったすべての罪悪を精算し、イエス様の理念をこの地上に立てなければなりません。また皆さんは、イエス様が天上のみ旨を代身し、億兆の万民の友となろうとされたその理念を、捜し立てなければなりません。 それでは、今日我々が聖書の観点から見るとき、イエス様はこの地上に来られ、どの程度の御言を表されて行かれたのか。イエス様は地上に来られて、当時のユダヤ民族の不信ゆえに、神の永遠の理想全体を現すことができずに行かれました。それでは、このようなイエス様の理想が、一体何であったのか? 彼の理想は天と地を合わせた一つの国、一つの世界、一つの理想の園を成すためであったのです。しかし、これは決してやさしい事ではないことを、我々は知らねばなりません。 一つの国家があるなら、ここには一つの国家理念があるのです。また一つの国家を治めるある政治機構があるのであって、そこには必ずある政策があり、さらには政策を立てるある一つの政党があるのです。それですべての国民は、各自がある一つの政党を中心にして、各自が思いどおりに暮らしていることを我々は知っています。 一つの国家が一つの国家としての理念を立てるためには、このような複雑な過程を経てこそ、その本来のみ旨が成就できるということを知らねばならず、さらには天倫の大課業を成就させるべき人間個人々々には、イエス様の御言とイエス様の生活、イエス様の仕事を代身して、捜し立てなければならない責任があるのです。ところで、未だにこのような責任を完遂した人間がいないので、イエス様の理念は未だに地上に実現して現れることなく、また神のまえに大きな悲しみを抱かせているということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。また皆さんは、イエス様がこの地上に至聖所、即ち、天国を建設されようと天に対して忠誠であった、その忠誠を手本とする人間にならねばなりません。 イエス様が愛する弟子たちにされた御言の中で、最も重要な御言は「あなたたちはわたしの新婦」という御言なのです。即ちイエス様は地上に来られ、新郎・新婦の理念を立てて行かれたのでした。 ですから、今日皆さんは新郎・新婦の位置を経た後、家庭を超越し、社会と国家を越えて、世界と因縁を結んで、天倫を代表する創造主であるアボジの理念と一つになる、その場まで行かなければなりません。皆さんが行く過程で不足な点があったとしたら、イエス様がそれに比例して悲しまれるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、今日終わりの日にある聖徒たちは、どうしなければならないのか。イエス様と心情を通じることができるその御言を復帰すると同時に、生活の理念を復帰し、彼の仕事を復帰しなければなりません。こうして家庭を越えて社会に通じ、国家と世界、全宇宙に通じることができる人間にならねばなりません。 イエス様は天国の理念を確立すべきお方であり、神様は天国世界の主人として、イエス様を立てようとされたので、イエス様はこのような神のみ旨に責任を負い、地上に天国を建設する新しい理念を紹介されたのでした。 イエス様はこのような使命を引き受けるために、自分一身のすべての道をふり捨て、一つの教団を代身し、神を代身するそのような道を歩まねばならなかったのです。それで瓢々と単身、淋しこを歩まれ、人間に対して嘆息と所願の御言を残して逝かれた事実を、今日皆さんは忘れてはなりません。 イエスの御言を実践する生活 それでは、今日終わりに日にある皆さんが、イエス様の仕事を復活し、この地上に天国を建設するためには、まず何を求めるのか。イエス様の理念であるその御言をまず求めなければなりません。生活を通して、イエス様の理念を立てなければなりません。捨てられているイエス様の仕事を今は、生活の中で求めて実践してゆかなければなりません。 こうして個人を通して家庭の形態を経て、教団の形態を経て、国家・世界まで出て行って神が動けば、イエスが動き、イエスが動けばこの地上が動くのであり、このような一体的な関係を立てる人間にならねばなりません。なぜならば、聖霊の力のみでは結ぶことができないからです。ですからイエス様の御言は悪の世の中、即ちサタンの侵犯を受ける環境において、その苦難を防御することができる御言なのです。 それでは、今皆さんが知らねばならないことが何であるか。イエス様が地上に来られ、万民に御言を語り尽くせず、天寿をまっとうできず、やるべき仕事を果たして後に万民に号令することができずに逝かれたことを、皆さんは知らねばなりません。このようにイエス様はこの地上に来られ、すべて成すことができずに逝く他はなかった、内的な悲しい心情を感じる人間になってこそ、イエス様の新婦の資格を得ることができるのです。 新郎に侍る新婦は、新郎の所望を自分の所望としなければならず、新郎の生活が自身の生活にならねばならず、新郎の話す言葉も自身の言葉になり、新郎がする事も自身の事となる一体的な関係を永遠に結ばなければならないのです。今日の皆さんもイエス様の新婦になるためには、このような新婦の資格を得る場に出なければなりません。 ですから今日皆さんは、イエス様が歩まれたその道を、皆さんの実生活において感じ、体恤しなければならないのであり、さらには不信の群れのまえにもイエス様の御言と、そのみ旨を伝えてやらなければなりません。また、皆さんが神のみ旨に対するイエス様の心情が、懇切であったことを知れば知るほど、またイエス様と一つになればなるほど、より謙遜な立場で、兄弟と一つになっていかねばなりません。そんなときに皆さんは、今まで人間が行くべき道、人生の真の道に向かって生きた宗教の主人公たちを、理解することができるのです。 それではイエス様が、今日終わりの日にある聖徒たちに、願うことが何でしょうか?イエス様はご自身の相対になれる新婦になることを、願っておられます。ところでこの新婦とは、どんな新婦なのか? それは家庭に留まる新婦ではなく、あるいはユダヤ教団にのみ留まる新婦ではなく、選ばれたイスラエル民族とその国家を代表し、また世界を代表することができる新婦であるのみならず、天地を代表し、神の仕事を代身して責任を負ってゆき、神のみ旨を成すために公義の法度に従い、共に話し合うことができる新婦になることを願われ、またこのような新婦を捜し求めておられるのです。 今皆さんは自分が信仰生活をしていて、どの程度にイエス様が願う新婦の資格を得ているか、反省して見なければなりません。皆さんは生活において、真にイエス様のことを求めていますか? 真にイエス様の理念を実践するために、努力していますか? 即ち、言葉においてか仕事において、皆さんはイエス様の言葉と仕事を代身しようと骨折っていますか? これを皆さんは、反省して見なければなりません。 そうして皆さんは自分の生活が、その当時のイエス様の理念と関連している生活、その当時のイエス様の仕事と関連している行動をしなければならず、また天を代身して地上に来られたご自身の理念のすべてを失って行かれたイエス様の、内的な悲しみをすべて受け継ぎ、さらにはその悲しみを解いてあげなければなりません。このような使命が皆さんそれぞれに与えられていることを、はっきりと知らねばなりません。 それでは今、皆さんはイエス様が地上に来られ、新婦一人を捜し求めるために苦労されたその切ない心情を抱いて、多くの人々を見やり、多くの教団を見渡して見なければなりません。即ち、神のみ旨を成就できないまま、切なく悲しい心情を抱いて生きたイエス様の心情に通じなければならず、真実に向かう懇切なる心情で不義なる自身を打ち、逆境を克服する闘いの路程で、疲れて止まることがあったとしても、天のみ旨を成すために戦ってゆく真の勇気を持つ人間にならねばなりません。 即ち、サタンのまえに独り先鋒として出てゆき、十字架の死までも恐れることなく、その十字架を踏み越えて上がり、天のまえに栄光をお返ししたイエス様の、実践的生活を手本にする人間にならねばなりません。さらには、皆さんはイエス様の実践的な生活を手本とすることで満足せず、ある一日、サタンと闘って勝利したとして満足するのではなく、この宇宙がイエス様の理念によって永遠に統治され、天の栄光がイエス様の栄光として、また皆さんの栄光として現れるその場まで出ていって、満足しなければなりません。即ち自身によって天を感動させ、イエス様を感動させ、アボジを喜ばせ、全宇宙を喜ばせることができる一日を成すことによって、満足しなければなりません。 天を感動させて得る自分の満足 それでは今、我々が求めるものが何か。まずイエス様の四方を代身する皆さん個人を求めなければなりません。そうして皆さん個人が過去の十二支派を代身する個々人の姿になり、十二支派を代表して新たに来られたキリストと、その十二支派とはどんな関係であるかを、はっきりと知らねばならず、どんな環境であってもイエス様と共苦共楽して、彼の理念をこの地上に成してあげる、天の主人公たちにならねばなりません。 また皆さんは家庭を代表したイエス様の哀しみを知り、教会を代表して哀しまれたその事情を知り、皆さん同士が団結して、最後の使命を受け継がなければなりません。さらには、同時のイスラエルとユダヤ教を代身することができる我々の教団を造り、使徒たちが天を代身してサタンのまえに成そうとした、すべてのものを成してあげる人間にならねばなりません。もしもその当時、使徒たちがサタンのまえに横たえられた人類を代身した個人を造り、全イスラエルを代身した民族を造り、また世界を造ったなら、イエス様はより以上、いかなる御言を語られたでしょうか? またイエス様の御言に、彼らが無条件に従い、無条件に屈伏し、無条件に実践しなければならない、こんな法度を立てられなかったので、今日我々はこのようなすべてのものを、再び捜し立てることができる人間にならねばなりません。 それでは今皆さんが、地上に来て生き、地上に来て闘い、地上に来て息をしたイエス様でしたが、ご自身の目的としたみ旨をどれ一つとして求められないまま、人生路程を終えられたことを知りますとき、これをイエス様が行かれた道に従うことだけで満足することはできないのです。皆さんはイエス様が愛する弟子たちを、死亡の道、死の道へと追いやる他はなかった新郎たるイエス様の、内的な哀しみを感じる人間にならねばなりません。 そしてまた皆さんは新郎をお慰めし、十字架に出てゆかせた過ちを心に抱き、所望の一日を願って闘ってゆく人間にならねばなりません。即ちイエス様の根本理念を悟り、彼が抱いた内的な怨恨を解いてあげ、彼がやり残したことを成してあげることができなければなりません。 それでは今、終わりの日にある聖徒たちはどうしなければならないのか。六〇〇〇年の歴史のうちに結ばれた神の怨恨と、イエス様の怨恨を解怨してさしあげる存在にならねばならず、十字架の道であり、イバラの道であったとしても、この道をかきわけ、死を覚悟して命を捧げ、この地上に神の国、天国を建設してゆくという天の勇士にならねばなりません。 神様は四〇〇〇年の歴史のうちにイスラエル民族を立てて、彼らにメシヤを送るであろうという約束どおり、イエス様をこの地上に送られたのですが、イスラエル民族と使徒たちが不信することによって、イエス様はイスラエル民族に対してを語り尽くせず、弟子たちに対しても御言をすべて語れなかったのです。我々はイエス様にこのような内的な哀しみがあったということを、知る人間にならねばなりません。 のみならず皆さんは、このような哀しみの原因が今だにこの地上に残っていることを知り、この時間にも皆さんの胸々に向かって、動いていることを感じなければなりません。 そして、皆さんはイエス様が失った御言、失った生活の理念、失った天倫の理念を再び捜し求め、今まで逆境の中で苦労してきたこの民族の事情を知る人間にならねばなりません。 さらには皆さんは、神と対抗しているサタンをイエス様が任されたように、イエス様と闘っているサタンを引受るだけでなく、今日この地上の数多くの生命に責任を負ってゆくという人間にならねばならないのです。 み旨の道を塞ぐサタンとの必死の闘い それでは、今日の信仰路程で、難しい問題がどこにあるのか。イエス様が現そうにも現すことができなかったその内的な哀しみと、当時の人々のために苦労されたその基台を受け継ぐことができる、ある一つの条件を立てるか立てられないか、ということが問題なのです。 このようなことを考えて見るとき、終わりの日にある皆さんが、失ったイエス様の御言を再び捜し求めるなら、この地上でどんな試練と迫害にも倒れることなく、イエス様に代って神のみ旨をきっと成すという固い覚悟と、決意がなければなりません。 そして、昔イエス様を殺そうとし、イエス様の生活をたがえたサタンがいたように、今日皆さんがイエス様のみ旨を代身して生きようとするときにも、このような環境が起こるようになるということを、知らねばなりません。即ち、当時イエス様の仕事を家庭が駄目にし、教団が駄目にし、国家が駄目にしたと同じ環境が、皆さんに訪れるのです。 このような立場にあったイエス様を怨讐に売り、十字架に渡し、自分たちは平安な場にいた者が誰であったかといえば、正にイエス様の弟子たちであり、そのイエス様が神が召して立てたメシアであることを知らずに不信して、迫害した者たちが誰であったかといえば、正にイスラエル民族であったということを、知らねばなりません。のみならず、不信によって神に怨恨を結ばせて以後、今までサタンの歴史が終結していないゆえに、今日皆さんの信仰路程においても、当時イエスの人生を駄目にし、イエス様の御言を駄目にし、イエス様の仕事を駄目にしたのと、同じことが現れてくるということを知らねばなりません。 それで今日サタンは皆さんをして、個人的な限界圏を脱っせなくしているのです。イエス様のみ旨は皆さん個人を通し、家庭を通し、社会・国家・世界まで通ずるみ旨なのですが、サタンは生活的な環境に、皆さんが個人的な限界圏を越えて行けないように妨げているのです。それゆえ皆さんは、イエス様当時と同じ生活的な環境におかれているとき、自分の命を懸け、その環境を脱するために闘わなければならないのです。 このようにイエス様の御言を代身し、サタンに対して闘おうとするとき、誰もが知ることもできない難しい事情を抱える以外にない立場に出逢うということを、皆さんは知らねばならず、またさらには、皆さんはこのような立場にあったとしても、イエス様の人生を代身したある直接的な条件を立てて、越えて行かなければなりません。 それでは今まで新婦の理念を願い、信仰生活をしてきた皆さんはどうしなければならないのか。イエス様が一生を通して語られた全人生の理念、即ち全宇宙的な所望の理念を、イエス様の代身、成してさしあげなければならないのです。こんなときにイエス様の新婦の場に出られるということを、はっきりと知らねばなりません。 今日皆さんはどこに留まっているのか? 皆さんは皆さんの個体に固執して、嘆息する環境に留まっていては駄目です。皆さんはこのような環境を越える人間にならねばなりません。愛する父母、愛する弟妹は無論、愛する人々がみな反対しても、その反対を押し切って歩んだイエス様の、後に従ってゆく皆さんにならねばなりません。そうでなかったなら、皆さんは本然の人間として復帰されず、今日統一教会はその存在価値がなくなるのです。 皆さんがこのような原理原則による摂理歴史が展開されているという事実を知るなら、皆さんはこのような道に入らなければならず、またこのような道に入っても、個人の欲望を充たすために心を砕くのではなく、全体のために努力しなければなりません。 それでは皆さんは、失ったイエス様の御言を代身することができる御言を捜し求めなければならず、イエス様一代の生活を代身することができる生活をしなければなりません。イエス様は神がご自身に約束された、天と地のすべての権勢を一身に許諾された、そのみ旨が成されなくても落胆しなかったのですが、皆さんはこのようなイエス様の人格に学ばねばなりません。 それゆえ今日皆さんは先立って歩まれたイエス様の足跡に従い、常に新郎であるイエス様に侍ることができる新婦になっているか、今日の自分はどんな環境に生きていて、どこの峠を越えているか、ということをよく反省してみなければなりません。そうして皆さんは、どうせ聖徒たちが行かなければならない血の滲む路程を越えた後に、栄光の中で再び訪ねて来られる主様を迎えなければならないのです。 苦難の峠を越えた後に迎えるようになる栄光の主 それでは、再び来られる主様が神の栄光の中で現れる時、皆さんはどうしなければならないのか? 再び来られる主様を皆さんが迎えるなら、その喜びが皆さん個人で終わってはなりません。栄光を代表し、あるいは無限の天国の理念を代表した喜びとして、現さなければならないのです。即ち皆さんが一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足することなく、さらにはサタンと闘い勝利した永遠の喜び、神の永遠の愛を体恤するこのような喜びを感じなければならないのです。また恩賜を感じても、とても想像することもできない飛躍的な恩賜をイエス様が感じたように、皆さんもそのような恩賜を感じなければなりません。 それではイエス様がどのような過程を通って、そんな恩賜を感じるようになったのか。それはイエス様が自身の人生において、万事を断ち切ってただ神のみ旨のみを案じたからです。またイエス様が復活の栄光を望み見たのは、何故でしょうか? イエス様は天地の栄光と、天地の忠誠、天地のどんな人間も持っていない理念まですべてが絶たれても、自身は変わることなく神の為にあったからです。こうしてイエス様は神の直接的な栄光の圏内に入って行かれ、この地上の人間と関係を結ぶことができる立場に立ったのです。 それでは今日、皆さんが感じているその喜びはどのようなものか? その喜びは皆さん個人のためのものではありません。その喜びはこの地上のサタンの勢力と闘うための、力を吹き込んでくれる恩賜なのです。ですから、皆さんは自身に喜びを与えるアボジに感謝して、サタンとの闘いに勝利して、今まで地の上で結ばれた六〇〇〇年の怨恨を除く歓喜の凱歌をあげ、アボジと永遠に一つになった中で喜ぶという覚悟を持たねばなりません。ですから皆さんが受けたその恩賜は、永遠につづく恩賜ではなく、皆さん自身のためのみの恩賜ではありません。その恩賜は皆さんをしてサタンと闘うようにする恩賜であり、サタンを屈伏させようとする恩賜なのです。ですから、皆さんは受けたその恩賜をして、皆さん自身のためのどんな安逸な条件を立るのではなく、この地上のすべての罪悪とサタンの勢力を、除去させてゆかなければならないのです。こうして皆さんがこの地上で神の創造目的を完成した勝利の息子・娘として、また復帰のすべての条件を成した者として現れるときには、サタンがどんなに発悪しても役に立たないのです。またこのような姿として現れる人間がいたなら、彼はどこに行っても自由であり、彼の歩んだ足跡には常に勝利の跡が残るようになるということを、皆さんがはっきりと知らねばなりません。 それでは今日皆さんがこの御言を聞いて、感じるものがありますか。新たに悟るものががありますか。また求めるものがありますか。また皆さんが統一教会に入って、原理を通して学ぶものがありますか? これが真理の御言であるとしても、皆さんはこの御言を頭でのみ知ったのでは駄目です。皆さんはこの御言を頭で知ると同時に、胸で知らなければならず、胸で知ると同時に体で知り、また体で知ると同時に心で知らねばなりません。 このように皆さんが御言を頭で知り、胸で知り、体で知り、心で知るようになるとき、皆さんはこの御言の目的を達成するために、動かないとしても動かざるを得ず、サタンと闘わないとしても闘わざるを得ないのです。また口を開いてアボジの悪口を言い、自分の思いを天に背反する場に向かわせようとしても、行かせることができないのです。 責任を果たして終わりまで進む新天地の開拓者 また皆さんが御言をこのように頭で知り、胸で知り、体で知り、心で知る立場になるとき、周囲からの数多くのサタンの矢が、殺到することを感じるのです。それを感じれば感じるほど、皆さんは自身と同じ立場にいる人間同士が、団結しないとしてもせざるを得なくなるのです。 こうして相対側の事情を自分の事情として、彼の怨恨を自分の怨恨として、彼の憤懣を自分の憤懣として、互いに頼り合い、協助する相互一体的な生活環境を得て、新天地を成して行かなければなりません。まさしくこのような人間が、新天地の開拓者であることを皆さんは知らねばなりません。 このような皆さんが、その受けた恩賜を日々の生活を通して、その実践的な分野に現して、どんなサタンの矢も、どんなサタンの讒訴も防いで越えて行くという心を持たねばなりません。また皆さんがこのような心を持てばどこへ行っても、どんな人間に対しても、どんな淋しい場にあっても、天軍天使が常に皆さんの命を守ってくれるのです。イエス様もこのような心を持っておられたので、天の千々万聖徒が彼を守り、支持したのです。もしもイエス様がこのような心を持たなかったなら、地に対して役事することもできず、天軍天使とアボジのみ旨のまえに出ることもできないのです。 皆さんは今日までこのような心を持ち、天の栄光の恩賜に浴して生きることができる環境を、この地上に成せずにいるのです。ですから今まで神と天使が、地上の人間をして、その栄光の恩賜に向かって進んで行くために、背後で協助しているのであり、また今だに神は哀しみに中におられるということを、知らねばなりません。 イエス様はこのような神の切ない心情を抱いていたので、新しい天倫の法度を持って、これを条件として地上の人間と永遠の理念の関係を結ぼうとされたのですが、当時の人間たちの不信によりこのようなみ旨を成すことができず、悲しくも悔しく十字架に架けられていったのです。 それでは、今日このように悲しく逝かれたイエス様を求めている皆さんは、どんな環境に面しているのか。今日も、イエス様の御言を不信し、イエス様の仕事を排斥したと同様の現象が起こっているのです。即ち今日の皆さんもこの地上で迫害され、万人から捨てられ、人ごとではないこの道を行っているのです。それゆえ皆さんは、このように捨てられる悲しみを払い除け、必ず天と地が喜ぶ勝利的な条件を立てるために努力しなければならず、また我々の集まりが、このようなみ旨を成してゆく集まりであるなら、すべてが一心同体となって、イエス様が行かれた歩みの跡に付いて行かねばなりません。 今日皆さんが排斥され、迫害される悲しみ、あるいは教会によって捨てられる悲しみを沢山受けても、皆さんは蕩減復帰原則に従い、その悲しみを踏んで成さねばなりません。即ち統一教会のすべての食口たちは、神の心情とみ旨を感じて悲しむだけの人間、従うだけの人間、良いというだけの人間になっては駄目であり、越えて行くべき道、絶つべき道をみな絶ち、さらにはアボジの復活の栄光に参与しなければなりません。 皆さんがイエス様が地上に成そうとされたみ旨を代身し、歴史と天宙を代身し、責任を果たしたという条件を立てるなら、人間始祖アダムとエバを堕落させたサタンは、この地上から自然に消えてしまうのです。それゆえ皆さんはこの地上での、サタンとの闘いの一つの峠だけ越えたら、常に天が共におられるということを知らねばなりません。 そしてイエス様が新郎・新婦の理念圏内に留まっている世界を代表した、中心的な立場におられるということを知らねばならず、またこれに対してサタンが讒訴できないということを知らねばなりません。 ですから今日皆さんが、イエス様の内的心情を代身し、イエス様の国家理念・世界理念を経て、天地を復帰する全体価値を皆さん自身から捜し求める主人公として現れるとき、イエス様が失ったすべてのものを復帰し、受けたすべての悲しみを理解する者として、また勝利の価値を持つ者として立つようになることを、肝に銘じなければなりません。 祈 祷 お父様! 淋しい者たちを案じるアボジの心情を知らないで、ただ今まで私たちの切なさをアボジのまえに解いてくださいと訴える、不忠不孝な立場にあった私たちをお許しください。 天の心情がどのように悲痛であり、どのように切ないかということを悟り、あえてお父様に私たちの事情を申し上げなかったことをお知りください。 お父様、それだけでも不足でありますから、アボジの心配、アボジの案じられる事を今日のわが一身を通して解いて差し上げられますようお許しくださり、アボジのまえにこの一時、私たちのすべてのものを捧げることができる息子・娘となるようお許しくださるよう、愛するお父様、切に望み願います。 今日私たちが天に対する価値的な条件を、我々の実際生活圏内において立てるために努力しますから、お父様、共にいてください。 私たちは天の価値の条件を立てるにおいて、私たちの犠牲を喜ばぬ不足なる姿の者たちですから、今からはアボジのまえに無限に利用されても喜ぶことができる心を持つ息子・娘になりますから、お父様、お許しください。このような私たちの歩みをサタンも塞ぐことができないことを知っておりますから、今日も明日も私たちの心が変わらぬよう助けてくださることを、愛するお父様、切に望み願います。 お父様、私たちが新郎であるイエス様の新婦になろうとするなら、新郎が心配すれば私たちも心配し、新郎が闘うなら私たちも闘い、死ぬも生きるも新郎と共に行くべき立場の私たちであることを知るようお許しくださり、闘いの過程を経て解放の恩賜の中で、アボジの栄光を歌う新郎の喜びを体恤する新婦の立場に立ててください。 こうして失ったすべてのものを捜し求め、アボジの栄光を喜びで歌いあげることができる一日が、どうかすぐにここに集う各自々々の人生路程に、各自々々の生活に、各自々々の心のうえに現れますようにお許しくださることを、切に許諾してくださり、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.20
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道とその目的と価値一九五七年九月二九日(日)前本部教会今日、皆さんと共に分かちあう御言の題目は「道とその目的と価値」です。「道とその目的と価値」という題目で、皆さんに暫くの間、お話しします。 ただ人間のみならず、この地上に存在しているすべての万物は、神の道を捜し求めているのです。我々の目の前に見えているすべての万物も、自身の個体目的を達成するために絶えず摘要していっているのです。そして人間は長い歴史過程を通して、自身も知らないある中心的な道を捜し求めているのです。それで現在歩んでいる皆さんの道が、このような中心的な道と違うなら、皆さんはその中心的な道をとって行かなければなりません。 堕落人間が生の目的を把握できない理由 人間には個人的に行くべき道があると同時に、団体・社会・国家・世界を経て行かなければならなこがあるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。皆さんは今日の自分一個体が、このような現実の中に生きている自身であり、一人の私ではあっても、この私という存在は本来、天倫のみ旨に向かって歩んで行くべき存在であるということを感じるのですが、その道に向かって行くにおいて、自身の責任を自ら担うことが難しいことを悟るのです。 ところでもしも人間がこのような状態から抜け出して、自身を永遠に責任ある者とするなら、永遠に誇ることができる道を歩む人間になるなら、今までの歴史過程においてか、地上では感じなかった新しい理念と事実を、多く感じるのです。 しかし今日皆さんは、自身が歩む道の目的点を知らないまま、喘ぎ悶えている自身であることを感じるのです。このように人間は堕落して以後、今まで自身の知らなこ、目的もなこをさまよっているのです。 ところで、このように昔の先祖から一つの目的を捜し求めたものは、個人に留まらないのです。個人が合わさって家庭を成し、家庭が合わさって社会を成し、社会が合わさって国家を成し、国家が合わさって世界を成して、この世界がまた合わさってゆくある道を求めて、さまよって来たのです。これを今日皆さんは、生活圏内において感じるのです。 皆さん一個人が、ある生の理念を捜し求めて行こうとするとき、必ずある道を経て行かなければならないのです。そして、この道は一個人と全体が関係を結んでいる、ある一つの帰結点に向かう道であるのです。このように今まで、過去の数多くの人々が複雑な闘いの道を経てきて、この闘いの帰結点である統一の理念に向かって動いていることを、今日皆さんは否認できないのです。 この闘いの目的が達成するその日、この目的自体と我々が永遠に切るにも切れず、変わろうにも変わることができない立場で、一から全体まで貫徹する一つの大きな価値を捜し求めるとき、初めて今日人間が歩んでいる道の目的点が、捜し出されるのです。 ところで、今日わが一個体が、このような宇宙的な全体の価値を捜し求めているのですが、わが個体の心と体が、それと合わさる環境になっていないので、さまざまな方向の闘いが起こっているのです。それゆえわが心と体が、天倫に向かう道と永遠に一つになることができる関係を結んでこそ、この目的を望み見て、自分の現在の生活において愉しみ、この価値に対して生の理念の中で愉しむことができるのです。 それゆえ、世紀末的な環境に面している今日の皆さんは、皆さんが求めているこの道がどんな目的を中心にして、この道と皆さんはどんな距離をおいているのか、皆さん自身が自ら反省してみなくてはいけません。 ところでこの道は、いろいろな道があるのです。宗教を通して行く道もあり、科学を通して行く道もあり、あるいは政治・経済・哲学等々、各分野で各自それぞれが行く道があるのです。たとえその道が、永遠の全体的な道と異なっていたとしても、その帰一する目的点が、全体が歓迎する統一に向かって集まってくるときに、目的とした新しこが現れてくるのです。 今日皆さん個体々々が接している立場において、新しこの出発ともなる永遠の価値を捜し求めているかと考えてみると、少しもこんな価値と目的を捜し求めていないのです。即ち、我々の新しい生の理念を立てることができ、新しい人生の力を形成することができる天的な価値、天的な目的の自体として動いてゆくこの一基準を、今日我々は宗教においてか、科学においてか、あるいは文化的な面など、そのどんな面においても捜し求めることができないのです。 それではどうして人間は、未だにこのような目的と方向、あるいは目的自体も分からない立場に面しているのか? それは今日我々の心と体が、天倫と合わさるその一基準を捜し立てていないからです。即ち人間は、我々の心と体、天倫が合わさることができる一基準を捜し立てる前には、とても宇宙的な目的と繋がる新しい理念と関係を結ぶことができないのです。また、どんなにわが心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになるその場においては、我々が永遠に安息し、統一の理念を感じるその場所に自分一身が立つことはできないのです。 それゆえ、皆さんはある立体的な一つの目的の価値を、皆さんの個体と因縁を結ぶことができるものとして、生活全体の理念と生活の力として現すことができる一つの中心を、皆さんの心と体を中心にして、あるいは霊を中心にして動いてゆくとき、初めて神の全体の価値を探り出すことができることを、はっきりと知らねばなりません。 今日我々が心と体を通して歩んでいるこの路程は、ある理念の終着点としてのみ現れることではなく、心と体を越えて、永遠であり全体的な天倫の価値を支配している一つの主体と因縁を結ぶとき、ここに初めてわが心も留まり、わが体も留まるのです。 それで今日我々人間は、心と体が分かれ、また心と体が天倫と分かれているのを連結させようと、宗教を通してこんな道を捜し求め、また神は堕落した人類を救援しようと、この道を通して我々を捜し求めておられるのです。 統一の帰一点に向かって流れる人類歴史 それでは今まで人間のまえに明らかにされた科学的真理であるとか、宗教的な真理が、本来人間が歩むべき究極的な道を示しているでしょうか? 未だ示してはいないのです。未だに人間は心が体が一つになり、永遠の天倫、あるいはある絶対的な神、創造主と一つになることができる一つの基準を、我々の生活を通した人生理念の中に捜し立てられないでいるのです。 それゆえ人間は、未だに自身がどんな方向に行っているのか、どんな位置に立っているのかを、確実には知らないのです。皆さんは創造主にどんな理念があり、創造された被造万物にどんな理念があったとしても、それらが皆さん自体を離れたら何らの関係もないことを、知らねばなりません。ですから創造主と被造物の最高理念が、私を通して現れるのであり、この理念の目的が成る所ですべてのものを忘れて愉むことができる、一つの基準を持たなければならないのです。もしも皆さんがこのような基準を得なかったならば、現実の生活において、この世的な環境を皆さんは打開して行こうにもゆけないのです。 それゆえ皆さんはこのような絶対的な価値を現す一つの目的体を、自身の人生路程において捜し求めなければならないのです。 ところで今日、数多くの人々が現在を終わりの日であると予告しているのですが、我々もまたこれをよく知っているのです。歴史の最後の終結時代に、至ったということです。またいろんな社会の風習や環境、自然現象、即ち気風や節気なども、この一つの目的を成就するために動員されているということを、皆さんは知らねばならないのです。 そしてこのような時に面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫に適うそのような理念のみでは、この目的を達成できないということを感じるのです。また今まで数多くの人々が歩んできて、あるいは今まで数多くの人々が捜し求めてきた、その過程においては全体の価値と目的を、とうてい達成できないことを感じるのです。 それではこのような環境と立場に面しているわが一身を、捜し立てるべき我々に要求されることがあるなら、それは何でしょうか? 今までの人倫を外れ、天倫と永遠なる因縁を結ぶその一つの道を、今日人類歴史の終末の時期に現さなければならず、また人間が生きているこの世界に、このみ旨を成就させなければならないのです。もしもこのような皆さんにならなかったら、皆さんの人生路程は絶望で出発し、絶望に終わるのです。 このような事を成すための歴史ですから、この広大なる宇宙は個人から出発し、全体の目的に向かって、即ち統一的な帰一点に向かって動いているのです。ところでこの帰一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるようになるのです。この帰一点もやはり、一つの中心を離れては永遠の関係を結ぶことができないので、人間が考える人倫的な標準を越えて、天倫と、あるいは全体の目的と連なる一つの中心を通したすべての力の目的体として、現れるようになるのです。これが正に歴史的な終末時代に現れるようになる、新しい革命であるのです。 人間の究極的な目的とその解決 今日我々が面している二〇世紀の文明圏内、あるいは各自が面している分野において、我々が新しい革命的な条件を捜し立てるなら、この条件は人倫の理念を通すと同時に、天倫の理念を通すことができる価値を持っているのです。それゆえ皆さんがこのような革命的な条件を、人生路程において生の目的の中心として捜し立てられなかったなら、皆さんは人間の全体目的と関係を結ぶことができないのです。 ですから今日すべての事が、終わりにきているのです。政治なら政治、哲学なら哲学、宗教なら宗教、すべてが最後にきているのです。今までの宗教は、宗教としての使命を喘ぎながらも遂行してきたのですが、究極的に捜し立てるべき一つの基準を、未だに示すことができないでいるのです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どんな文化的な歴史路程も、やはりそうなのです。 しかし今この時は、どうせ全宇宙が一つの目的を通した統一の理念を中心にして、動いて行かなければならない時なのです。宇宙を創造された創造主がおられる以上、これは必然的な課業として、創造主の理念を通すそのときには、今まで信じてきたその程度、今まで崇めてきたある文化的な条件をもってしては、このような問題を打開しようにも到底、打開できないのです。 言い換えれば、今まで長い歴史過程を通して、人間の良心を中心に、また体を中心にして、このような問題を解決しようとしてきたのですが、完全に解決できなかったのです。即ち、このような人間の究極的な問題を解決するには今までの宗教、今までの哲学、今までの科学をもってしては到底、駄目なのです。 ですから、どんなに二〇世紀の科学文明を誇る現代の人間であっても、科学を通した新しい宗教の理念を捜し求めるある新しい科学、哲学を通しても哲学それ自体に止まらないある新しい理念の哲学、また宗教を通しても、今までのすべての宗教が持っていなかった新しい理念を持つ宗教を、捜し求めなければならないのです。このような時代が、皆さんのまえに必ず到来するのです。 それで皆さんはある分野で生活していても、一時も平安な心を持つことができないのです。また、皆さんの生活環境において、皆さんが全体の目的を代身して生きているという条件、神のまえに堂々と出てゆく誇りとなる条件を、持っていないのです。ですから神様は、このような生を生きている今までの人間たちを見やり、嘆息する他はなかったのであり、歴史の過程は、悲惨な闘争の過程を経てきているのです。 今日皆さんも、自身が生きている現実の中で、究極的に行くべき目的地に到達していないので、皆さんが生きている環境、留まる所々で闘争せざるを得ないようになっているのです。ところで皆さんは、このような闘争の環境において勝利して、アボジのまえでか人間のまえに、または被造万物のまえに、堂々と出て誇る姿として現れることができないのです。 皆さんはどこまでも、嘆息と悲しみと怨恨の中で生きている自身であることを否定できないならば、皆さん自身が未だ越えるべき道が残っていることを、はっきりと悟らなければなりません。 もしも神がおられ、天倫を立てて摂理されているなら、神の目的であると同時に、人類の目的でもあるその一つの目的地と、今日地上に生きている我々の心と体が一つになるそのような帰結点が、必ずなければならないのです。これを皆さんが、捜し求めなければなりません。 皆さんにもこのような欲望があるのですが、この欲望は個人だけに止まることではありません。この欲望は個人を越えて、世界を越えて、我々の想像することもできない所まで到達してゆきたいのです。 それでは今日の自分の心を通して現れるこの欲望が、いかなる理念とも相関がないのかといえば、そうではないのです。現在我々が生きている生活環境というものは、宇宙の理念と因縁を結んでいるのです。 皆さんは自分一個人を中心にして、今までの習慣や、自分たちが知っている圏内だけでは、自ら満足して生きていないことを感じるのです。これは人間が選択した本意ではなく人倫の法度を求めてゆく理想的な目的ではないので、今まで人間は人倫の法度と、天倫の法度を越えて、全万物を統一的理念によって主管することができる、一人の主人公を要求してきたのです。今日に至っても、我々の心がそうであり、生活もそうであり、願っているすべてのものが、そうなのです。皆さん個人の生活が個人に止まるなら、皆さんは一身の価値を全体のまえに現すことができないのです。なぜならば、人間は現実において生きてはいるのですが、自分だけが生きることを願うのではなく、全体が生きることを願うのが、本心だからです。また人間は欲望を持っているのですが、これは自分だけの為ではなく、全体の為の欲望でなければならないのです。 生の目的達成のための統一理念と主人公 それでは今日皆さんは、どこに向かって歩んでいるのか、皆さん個人の為に歩んでいるのか、社会と通じるために歩んでいるのか、でなければ国家と通じるために歩んでいるのか、あるいは世界と通じるために歩んでいるのか? 皆さん世界と通じる歩みを歩まなければなりません。 ですから、歴史的な終末時代を迎えた終わりの日においては、すべてのものが世界的な理念を通す方向に動こうとしているのです。我々が計画する事業もそうであり、我々の生活も、我々の理念もすべてそうなのです。 ところで、今まで生きてきた自分の生活は、こんな理念を通して示す生活ではありませんでした。また我々が生きている現実もやはり、このような環境にはなっていません。また留まっている環境において、自分が最も尊いとしているそれ自体を得ても、自身の永遠の理想を充たすことができるその何かを、求められない立場に立っているのです。ですから今日我々には、これから行くべき路程がさらに残っていることを知らねばなりません。この時代を歴史的な眼で観察している多くの人々は、今は終わりの日であると言っています。この終わりの日に人類的な要求が絶たれたなら、人間は絶望の中に陥るのです。それゆえこの時において人類的な要求が、人倫の歴史と関係を結び、一つの目的を紹介する一つの中心が、現れなければならないのです。そうしてこの中心が皆さんの個体々々を通して、新しい天倫と、新しい宇宙歴史と関係を結んで現れるとき、ここに初めて新しこへ行くことができる理念が捜し求められることを、皆さんははっきりと悟らねばなりません。 今皆さんは自身が面している環境を、再度探って見なければなりません。今自分自身がどんな環境に留まっているか、自ら反省して見なければなりません。皆さんの中で、学問を探究した人がいますか? 単にその学問のみで終わるのではありません。あるいは宗教を研究した人がいますか? その宗教のみで終わることでもありません。そのようなものを越えて、絶えず大きく新しいことを、追究しなければならないのです。 これはどんな方向にも、すべてのものを結ぶことができ、どんな方向にも公的な価値のものとして現すことができ、どんな方向にも生活的、あるいは理念的な中心として動いてゆけなければなりません。そうしてこれが、皆さんが生きている実生活圏内で、直接的な力を現すことができなければなりません。もしもこんな力を現せなかったなら、人間が所望として求めてきた、全体的な生の目的地まで導く存在があるという事実を、是認できないのです。 自然現象によって雨が降れば、その雨水は流れるままに行くのです。川を経て海へ流れるのです。海へ入った水はここで一つになり、新しい調和を成すのです。海の水は再び蒸発して、水蒸気となって再び雨になって地上に降り、すべての草木を成長させるのです。このように何であってもある道をたどって全体に帰一すれば、静止の状態に止まるのではなく、それ自体を越えて新しい価値を求めて動いているのが、天倫の法度なのです。 全体目的成就と個人の努力 人類歴史を回顧して見るとき、個人々々が集まって全体を成してきたのです。彼らは各々一つの主義を中心にして集まったのですが、今の時は二つの潮流が現れている事実を、我々は知っています。ところでこの二つの潮流が、一つに集まるその時には、その集まり自体としてのみ満足するのではなく、ある統一的な目的地に向かって動いてゆき、また過去の古い姿とは違う、変化した新しい価値的な環境を成して、全体に及ぼすことができる何かを現さなければなりません。 ですから、今日皆さんが各分野々々で最高の実力を持っていたとしても、最高の実力を持ったという、それ自体のみで終わっては駄目です。どこまでも皆さんは全体目的を捜し求める過程にあるのですから、これを踏みあがる歩みをみな越えて行く、このような立場におかれているのです。 それゆえ皆さんはどこまでも、今までの科学を通しては天倫の法度と因縁を結ぶ調和を成せず、今までのある哲学をもって新しい調和を成し、万民が喜び、感謝して生きる世界を成してゆくことはできないのです。 しかし人間はいずれ、宇宙的な目的の中心を捜し求めなければならない立場に立っているので、我々が最高であるとするその何かを持って世界を糾合させ、天宙と関係を結ぶことができる新しい宗教的な理念を、捜し立てなければなりません。 哲学する人間もやはり、哲学のみですべてのものが終わらないということを、知らねばなりません。今まで哲学によって人倫を立ててきたのですが、それだけでは駄目であるので、天倫と結びつける宗教を求めなければならないのです。科学もやはりそうです。今日科学が全体の価値を代身して、人類の平和の為に幸福をもたらすことのない立場にあるので、科学もやはり全体的な一つの目的と、関係を結んで行かなければならないのです。 もしもこのような関係を結んで行かなかったら、この世界は一つの世界に統一することができません。即ち、誰であったも一つの世界を成そうとするその中心を求め、因縁を結ばなかったら、今日動いているこの宇宙の全体目的も、またこの目的を通して現れる全体的な価値も、このようなものとは何らの関係もなくなってしまうのです。 そして、またこんな立場ですべてのものが終わったなら、我々はここに神がおられるという事実を、立証することができません。神がおられるなら、こんな全体的な価値の目的を各分野において、世界的な理念として代置させることができ、各個人が指向する目的を立証させることができるからです。ですからある偉大な科学者や、偉大な哲学者、あるいは偉大な宗教人がすべてこのような一つの全体目的の中心を持つようになるとき、初めて一から合わさり始めるのです。 ところで、今までの宗教と哲学では、このような問題が解決されなかったのです。人間は誰であっても、全体の目的を代身し、全体の価値を代身できる一つの中心をある一時、迎えなければならないのです。であってこそ、各自の心体を通して天倫と因縁を結ぶことができるその一基準が、世界的なある道の目的地として現れ、相対的な価値を認定するようになるのです。こうして人間が歩んでいる道が、目的や価値面において、新しい調和が成されることによって、神の栄光が始まるということを、皆さん知らねばなりません。 元来、神様がアダムとエバを創られる時、このような理念を持って創られたのです。無限であり、絶対者である神は、自身が創造されたアダムとエバが、その無限性と絶対性を生活のどんな面にも現して、愉むことができるように創造されたのです。 ですから今日の人間も、復帰の路程を通してその無限であり、絶対的な神を感じなければならず、心の世界で感じたその無限であり絶対的な価値を、実体的な有限圏内で、理想的な力の要素として、捜し立てなければならないのです。そんなときに初めてここから、天地の調和が成されるのです。 信仰の道を行く私の体と心が、無限であり絶対者であられる神のまえに留まり、彼と同居するようになるとき、創造主の目的が自分の目的であることを感じるのであり、また、留まるその場において喜びを感じるときに現れるその価値が、相対的にではなく、立体的に現れるようになるのです。ここに初めて神の栄光が始まることを、我々は知らねばなりません。 ところで今日人間は、このような問題を越えることができず、すべて嘆息と絶望と恐怖に包まれているのです。哲学や宗教、科学、すべてそれ自体がその限界を外れたなら、すべてが暗黒の中に浸るようになるのです。ですからこのような立場では、必ず無限であり絶対的なある力と、関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教・科学、すべて同じなのです。それゆえ皆さんはこのようなすべての名詞が、統一の帰一点に向かって動いているということを、知らねばなりません。このような趨勢は今までの歴史のみではなく、この世界に存在する万物まで、みな包含していることを、知らねばなりません。 神の栄光が始まる場 我々の心を通して動いているこの道が、人倫の法度に通じる道として終わることなく、天倫の法度に通じるそんな因縁の、一起点を求めなければなりません。皆さんは世界の目的に向かって歩んでいると考えるかも知れませんが、その過程で自身の心ではない絶対的なある心と因縁を結ぶことを求めているのであり、人間的な因縁を超越した、最高の宇宙的な存在を感じることを願っているのです。 今日宗教が価値があるとするのは、このような由縁があるからなのです。宗教は人間が自身の心を通したある心情にのみ留まるためではなく、これを超越したある神の実存を認定して、この神に内在する無限であり絶対的な価値を追究しているのです。それゆえ我々の心がこの無限なる天倫の心情と因縁を結んでゆくとき、驚くべき価値が現れるのです。それでは、数多くの人々が今日を終わりの日であると予告しているこの時において、皆さんはどうしようとするのか。皆さんが今まで歩んできて、世界的な理念を代身することができる道を開拓したこの場で、過去のすべてのものを、善の価値として吸収して、万物の前に立たなければなりません。また、皆さんが動いている環境を、全体的な価値を代身して現れる環境として、立てなければなりません。 それではこのような事を何をもって成すのでしょうか? 今までのある学問をもって、ある宗教をもって、ある哲学をもっては成らないのです。これはただ我々の心を通して、決定されることです。互いの心情、神の心情を通して、その心の帰結点が統一的な目的地として現れなければならず、またそれが現れて、生活の価値を捜し立てなければなりません。そんなときに初めて、神の栄光が現れるということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 それでは今まで人間は何を求めて、苦労してきたのでしょうか? 人類の心を代身することができる天倫の心情を求め、その心情と我々の心が一つになろうと、今まで気づかってきました。一つになったその心は、絶対的な心と因縁を結んでいるので、その心は誰が奪おうにも奪うことができないのです。ですからこのように、どんな理念や主義主張をもってしても犯すことができない心を、我々は今まで求めているのです。それゆえもしも皆さんがこれを求められないなら、皆さんはきっと悲しみと哀れさを免れないのです。 このような一つの歩みの道が、今日我々のまえにあるということを、皆さんは知らねばならず、またこれを捜し求める摂理のみ旨どおり、皆さんの心はより高い心情を求めていかなければならないのです。そうしてこれを我々の生活圏内において、永遠の目的体として、被造万物の永遠の目的体として、また永遠の価値の実体として、皆さんが立証されなければならず、また皆さんがこのような価値を持つ存在、即ち皆さん自身がこのような歴史的な目的体として立証され、歴史的な価値の実体として証しされなければならないのです。このように分離された状態ではなく、一体化して入るここから神の栄光が現れるのです。 ですから神を中心とするすべての万物が、二つではなく一つの目的体として動いているのと同じく、皆さんの心もある良い事がある時には、自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しみ喜べる全体の価値として、因縁を結ばねばなりません。 このように皆さんの心を中心にして、すべての人間の心を一つにするその道が、皆さんが行くべき道であることを知らねばなりません。即ち、心と心を通わせ、お互いが合わさり、お互いが愉むこの一つの道を捜し求めて行くことが、正しこなのです。 真の愛を備えた人の価値 今まで人間は歴史を超越して、変わらぬ心の法度を持っているのです。即ち昔も今も、人間本然の心は時代を超越して、変わらないのです。ところで人間は、その変わらない心を持つ人々が行く価値の道を、未だ捜し求めてはいないのです。 しかし今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体価値と因縁を結んでいるので、皆さんは天倫の心情と通じることができる一つの帰結点を、必ず捜さなければなりません。もしもこれを捜し求められなかったら、この地上にどんな理想主義があったとしても、これは地上で壊れてしまうことを知らねばなりません。 それで今まで人間はこれを捜すために、宗教を求めてきたのですが、この事を代表して現れたのがキリスト教なのです。それではキリスト教の中心であるイエス様が、この地上に来られるとき、何を持って来たのか? イエス様は愛を中心として来られたのです。イエス様が人間の心と心を結び、人類を統合し、天倫までも統合させる愛の帰結点を立てられたというこの事実が、今日我々にとってどれほど驚くべき恩恵であり、驚くべき福音であるかということを、皆さんははっきりと悟らなければなりません。 ですから皆さんの心々が愉しみ、皆さんの心々を動かすことができるこの愛が、今日この終わりの日において生活を通して、世界を通して、さらには天倫の心情と一つになる愛の因縁として現れる、そんな基準まで行かねばならないのです。また各分野でこのような目的を提示し、このように動かす力を持つ宗教であるなら、必ずこんな愛を必要とするのです。 それではこのような愛を求めるなら、何がなければならないか? 今までの我々の生活や観念、今まで我々が持っていた心や、ある理念をもってしては駄目なのです。皆さんはこのすべてのものを精算し、皆さん自身の心に天倫の心情があるか、自ら反省して見なければなりません。そうして皆さんは、自身の心を無限に動かして、解放させなければならず、そんな生活の環境を持たなければならないのです。もしもこのような皆さんにならなかったら皆さんは到底、天倫の心情と通じる心を持つことはできません。 こんな境地に入って生きる人間がいたなら、彼は一つの個体ですが、全宇宙に通じる価値をもつ存在として、いつでも万事を収拾するこができる中心存在として立つのであり、また彼はこのような使命を、充分に担うことができるのです。それで今日我々は、これを目標にして信仰生活をして行くのです。 ところでもしも今日我々が、このような一日の最後の目的地を捜し求められなかったら皆さんはこの地上において、永遠に争いの歴史を脱することができず、永遠に嘆息の歴史を脱することができず、永遠に悲しみの歴史を脱することができないのです。これを皆さんが、肝に銘じてくれることを願います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.20
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本郷の因縁を捜して行こう 一九五七年九月二二日(日)前本部教会 皆さんと共に考える内容は「本郷の因縁を捜して行こう」です。「本郷の因縁を捜して行こう」という題目でお話しします。 堕落人間が本郷を慕う理由 今日我々は堕落しなかった本然の園に向かって、再び回復して行かなければならないということを、皆さんは原理を通して学んだのです。 堕落した人間として、落ちなかったその本然の状態、神を失った人間として、神を失っていないその場、人類の真の父母を中心とする園において、子女として生活するその場を我々は捜して行かなければならないのです。それでこの事を成就するためにも、今日我々には新しい救援摂理という名詞が残っているのです。 もしも人間始祖が善の園にあるとき、神と永遠なる因縁を結んだなら、今日我々に救援という名詞は必要なかったのです。救い主を通さなければならない条件が、必要ないのです。信仰という名詞を立てて、神様を求めるこのような条件も、必要ないのです。このようなものが必要なかったなら、新時代という言葉も必要がなく、悔い改める必要もないのです。 それでは今日、わが一身を立てて分析して見るとき、我々には新しい所望が要求され、新しい指導者が要求され、新しい生活、新しい実践が要求されているのですが、これらすべての事実が何によってこうなったかといえば、堕落によってこのようになったのです。堕落以後、今日まで長い歴史が経過していても未だに、人間が願うその所望の本郷は成されていないのです。人間は心ではその本郷を慕っているのですが、その本郷を捜し求めて成してはいず、その本郷で永遠の幸福を味わってはいないのです。 歴史上、本郷の園で楽しんだ人間が、一人も現れてはいないのです。ある新しい使命に責任を負った修道の主人公も、地上においてその理念を成していった人間は、未だ一人もいません。今日に至るまで創造主は勿論であり、我々が信じるイエス様も、本郷の理念を地上において完成できなかったのです。 人間が本郷の園を慕って生きるならば、いずれこの本郷の園を成就させるという責任が神様にはあるのです。このような神の責任と本郷を成す人間の責任を連結させるものが、宗教なのです。それで宗教を立て、本郷へと行く橋を架けるための祈祷や、宗教儀式という条件を示す使命を善なる人々に任せ、神は役事されてきておられるということを、皆さんは知らねばなりません。 今日我々が生きているこの地上を見渡してみるとき、我々はどうせ善なる心の因縁に従って生きるべき人々であることを否定できないなら、我々が善なる人間にならざるを得ないので、皆さんが善の生活をしている地、所望の本郷を成就するその日まで行く路程は、平坦な路程ではないというのです。この路程には闘いの歴史があるのであり、絶えることなくお互いに讒訴しているのです。それで人間は自身に向かって、讒訴と嘆息の条件が永遠にこの地上から、解決されることを願ってきたのです。 これが人間の悲しみであり、地の上の哀れみであります。嘆きと悲しみを綴る人間は、堕落によって悲しみと哀れみの環境におかれているので、子女たちの悲しみと哀れみを案じる立場から逃れることのできない創造主として、人間が悲しめば神も悲しみ、人間が嘆けば神も嘆く立場におられるのです。 今日わが一身を立て、宇宙的な生を得ている因縁があるということを知らねばなりません。我々が生きて行く環境の、因縁があるのです。環境の背後にも、ある因縁があるのです。 それでは、生の理念を捜し求める我々において、最も貴重なものが何であるか。それは自身の生命の因縁を持つことです。このような生活の因縁、環境の因縁、理念の因縁を捜し求めるときまで皆さんの心は、休むことなくそのある因縁を求めて喘ぎ苦しむのです。それではこのような因縁を求めて人間関係のみを解決するのか、違います。人間関係のみを解決するのではなく、これを人類を越え、天倫にまで連結させなければならないのです。こんな人生の因縁と同時に生活的な因縁であり環境、あるいは全世界的な、あるいは天宙的な因縁としてのその場、自身を中心にして現すことができ、愉しむ生活だと感じることができるとき、人間は初めて勝利の一日を迎えるのです。 父母の因縁、夫婦の因縁、国家の因縁 人間が地の上に生きている以上、この環境で人倫的な法度に外れる人生の足場を、持つ者はいないのです。これを考えて見るとき、今日自分が生まれるためには、自分が地の上に存在するために何の因縁を通すのかといえば、父母の因縁を通さなければなりません。父母の因縁を通さなければ、存在できないことを肝に銘じなければなりません。 地の上に生まれた皆さんは、どんな因縁と目的圏内にあるかといえば、父母の因縁を持っているのです。そして父子の因縁を通した後には、何の因縁を持たねばならないか。生活的な因縁を求めて行くとき、夫婦の因縁を抜かすことはできません。生命の因縁と、生活の因縁を得た後に、何がなければならないか。生活の因縁と関係を結ぶ、国家と国民の因縁を結ばなければなりません。これが今日我々が生きている因縁圏なのです。 それでは、現在我々が生きている因縁圏内において、我々が満足しているか? そうではないのです。このすべてのものを具備していたとしても、心で要求している一つの絶対的な因縁があるのです。この因縁を我々が慕い、捜し求めているということを、皆さん自身が生活において感じるのです。この因縁が何であるか。これは人間に対して、相対的な立場で主体におわす神の因縁であるのです。この世の中では、これを感じない人間が多いのです。 それでは人間がこの地上に生まれるとき、どんな永久の因縁を持って生まれたのか。生を得るために父母との因縁があり、生活の理念を得るために夫婦の因縁を通さなければならず、実践的な活動をするために国家的な因縁を通さなければならず、人倫を越えて永遠に安息することができる一日を求めなければなりません。それゆえこの堕落圏内から復帰圏内に入ろうとする我々の道を妨害するある因縁を断ち切って、これを踏み越えて上がってゆく一つの幹の因縁としてこの地上に立てられたものが、救援摂理を担う宗教というものなのです。 地上に我々が生きるとき、天倫の法度と人倫の法度に我々は従わなければなりません。そして生を預ける父母と通じ、夫婦と通じ、国家と通じ、これが全世界にまで因縁を結ぶことのできる自身になり、歌い、万物と和動することができるその一日を求めて、命尽きる日まで皆さんは、闘争しなければなりません。凄い闘いを展開しなければならないのです。 歴史の出発が争いによって始まったので、歴史の終結も闘いによって成されるのです。勿論、過程もそうです。どんなに自分を愛する父母を持ち、自分が抱かれる国家を持っていたとしても、心の安息の基を失ったこの地上の人類ですから、このような闘いを避けることができないのです。 それでは神が切なく思うことが何でしょうか? この地の上に父母がいない人々が悲しむのを見て切なく思う神ではなく、地の上に夫婦がいなくて悲しむ神様ではありません。地の上に国家・民族がなくて悲しむ神ではないのです。神が悲しむことが何か。天倫の理念が通じることのできる因縁が、地の上に成就できていないことが神の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。 今日堕落の後孫である人間が悟るべきことは、自身が侍っている父母や、係わって生きている国家やこの世界が、神の理念をそのまま表せないでいるということです。このような堕落圏内で生きている人間は、どうせ一段階を越えて、遂行しなければならない責任と使命があるのですが、これを知らない人間に対して摂理しなければならないことが神の苦難であることを、皆さんは知らねばなりません。 人間が行くべき目的地 それでは、人間が今永遠の理念の路程を捜し求めて行くためには、どんな道を通って、どんな歩みをしなければならないか? 現在あるものではない飛躍的な一つの条件が必要なのです。これが何だか分からない条件なのです。これを責任を持って捜すために、この地上に送られたお方が、皆さんが信じているイエス様であるのです。 堕落の後孫である全世界人類は、今日どんな立場にいるのか。神を永遠の父母として侍るべき立場から、落ちてしまっているのです。神を通して人生の出発を見た人間が、堕落することによって、神を中心とする永遠の喜びの条件となる新郎・新婦の因縁も切れてしまったのです。 このような本然の関係が破壊されてしまったので、個人的にも失敗であり、家庭的にも失敗であり、その次にはエホバである神の栄光を相続することができる資格を喪失し、また神と人間の最大の喜びを約束する、環境を喪失してしまったのです。 それでは、人間がイエスを信じ、信仰の道に従う本来の目的はどこにあるのか。それは堕落の血統を受けて生まれた現在の環境圏内において、喜ぶことではありません。そこから脱し、ある一日の罪悪によって縛りつけられたすべての原因を精算して、本然の中心を捜し求めることです。本然の中心とは何か。人間は父母もなければならず、夫婦もなければならず、自身の家庭を守る環境と国がなければなりません。こんなすべてのものを求めることが、我々が信仰する目的なのです。そして神は悪なる人間ではありますが、善なる心を呼び覚まし、良心をゆり動かして、このような理念の基準まで引き上げるために、摂理をされて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。 このようなことを知って皆さんは、自身のすべての誠心を尽くして善のための闘争をしなければならず、本然の法度を外れた人間であり、世界であることを感じて、これに対して闘うという変わらざる信念を持たねばなりません。 父母から養育され、父母の生活を通して国家的な因縁圏、あるいは世界的な因縁圏内で生を営んでいる人間の生き方を探って見れば、人倫を中心とする生ではなく、永遠を中心とする生でもないということを知るのです。堕落の結果であるこの地上のすべての生の形態と理念は、いずれ審判の一日を峠として、精算されるべき運命におかれているのです。 永遠の理念が成されない地上においても、父母の理念がなければ哀しく、夫婦の理念がなければ哀しく、自分と自分の家庭を保護してくれる、国家がなければ哀しいということが、人間のお互いの情として現れているのです。このような変ってしまう因縁であっても環境を得なければ哀しいのであって、永遠の理念を中心とする因縁を持たないことが哀しくないでしょうか。このように人間は、地上の人間的なすべての条件を備えても、ここに加えて天倫の永遠の因縁を、また願っているのです。 それでは今日、我々信仰者はどのように生きるべきか。変わってしまう理念的な条件によって生きるのではありません。変わらない因縁を回復して、この因縁は別々に落ちることなく、自身が生きる生活圏内で、全体が一つの因縁によって連結されているという事実を知り、自ら神と関係を結んで生きなければなりません。 神と関係を結び、これが実証的な価値を回復して、この時間圏内で、この環境圏内で神を心で侍って生きる、即ち神と一体的な因縁の中で生きる、神の息子・娘にならねばなりません。 こんな生活をしていって神の実体を感じたなら、その価値は部分的な価値ではありません。全体的な価値が実現する環境を回復するとき、個体と全体の価値は、自身を中心として動き始めるのです。 神は人間をして、善なる心を起こさせるように役事されるのです。この罪悪歴史はいずれ、変化しなければなりません。こうして一端変化した後で善の世界になるならそれ以上は変わらない理念の門を、人間に開くために神は摂理されておられるのです。神の代身としてこの事をなさるために、この地上に来られた方がイエス様なのです。それでイエス様は、神とご自分は一体であると語られたのです。さらにはご自身は神の息子、それも独り子であると語られたのです。さらには人類の新郎であると語りました。このようなイエス様は、人類の真の父母であったという事実を、皆さんは知らねばなりません。 本然の因縁を回復するために来られたイエス様 信仰の理念によって生きていたユダヤ民族の精神が何であったか? それは神を信じる信仰でした。それで彼らは神に頼む信仰によって、神の国が立つことを願いました。こんな所望を結実させることが、正にイエス様がこの地上に降臨された目的だったのです。 それでイエス様は、わたしは万王の王であると語られたのです。その次に、生活的な立場ではどんな御言をされたかというと、わたしは新郎であり、あなたたちは新婦だとされました。これは夫婦の一体理念を、生活圏内において立てるための御言でした。それゆえイエス様は逝かれても、ご自身と聖霊を通した父母の役事を約束されたのです。 ある面で見れば、イエス様がこの地上に来られた目的は、地を創造された神は見えないので、見えざる神を証しするための人間の代表者として、あるいは神の代身者として来られたとすることができます。 それではこんな使命を帯びてこの地上に来られた、イエス・キリストの視野とはいかなるものか。まず皆さんは、イエス様は天地を創造された神を、アボジと呼ぶことのできる立場であったことを知らねばなりません。 今日数多くの人間たちが堕落圏内で、即ちこの地上に生きていますが、イエス様の子孫と堕落した人間の子孫は違うのです。イエス様は神をわがアボジと呼ぶこの問題に、全精神が溢れでたのです。さらには、わが父がすべてという因縁を実現するために苦心されたのです。そして人間に対して、わたしが新郎であるという名を立てられたのです。ところでイエス様は神のまえに人類の新郎という資格を得る前に、天のまえに新婦の立場を完結する段階を経たのです。 こんな立場を過ぎて真の父母の理念を持ってこの地上に来られたイエス・キリストであるのに、地上に生きている人間たちはイエス様に侍らなかったのです。彼らは自分たちが侍っている父母、自身と共に生活している夫婦、自分が活動している国家があり、自分たちが所望とする世界があったのですが、それでけでは完全ではないという事実を知らなかったのです。 自分たちが持っている所望を知り、その理念を活かし、その全体的な生活、その歴史的な人生路程を活かすことのできる神的な価値を持つ理念の中心存在である、イエス・キリストに侍らなければならないのに、彼らはそうはしなかったのです。 神と人類のすべての所望を完結させるために来たイエス・キリストは、どんな生活をしたのか。イエス様は地の上のヨセフ家庭において生まれたのですが、ヨセフの息子ではありませんでした。マリアの息子でもなかったのです。そしてイエス様が願った因縁は、地の上の人間の所望のようなものではなかったのです。変化する環境で悲しむ父母の因縁、夫婦の因縁、人々が活動している環境的な因縁、さらには審判圏内にある世界的な因縁を超越して、イエス様は善の中心である変わらざる天倫の父母の心情を感じたのです。 これが神様の喜びでした。これが人間が堕落した以後、四〇〇〇年の歴史が経過して捜し求めた、神の息子になることができる内容だったのです。神に対して、わがアボジだという存在がなかったこの地に、初めて神をわがアボジと呼ぶことができるお方が現れたのです。こうして変わる父母の血統をもって生まれた人間が、変わることのない永遠の父母の因縁を求められるようになったのです。 キリスト教の中心が何かといえば、聖書です。聖書の中心が何か。イエス様です。イエスの中心は何か。愛です。愛の中心は新郎・新婦です。そして新郎・新婦の中心は何か。真の父母なのです。 皆さんはこの道を求めて行っているのです。しかし皆さんはどんなに知恵があり、自身を立てて神のまえに誇ったとしても、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間です。変わらざる真の父母の因縁を結んでこそ、天倫の永遠なる因縁を取り戻すのです。このようなことを取り戻すために、霊界が動員され闘っているのであり、こんな永遠の因縁をキリスト教徒たちは所望としているのです。天上に父母の因縁が決定され、天上に夫婦の因縁が決定され、天上に国家的な因縁が決定されたら、神の栄光をこの地上に移すことができるのです。 創造主の理念を実現させるには、人間を生んでいる父母の因縁と生活を、為にする夫婦の因縁と、活動を為にする国家の因縁と宇宙的な因縁が結ばれなければなりません。こんな宇宙的な創造の理念が、人間の生活環境に求め立てられなければ、神様は臨在することができないのです。 イエス様が逝かれて以後、二〇〇〇年の間にされたことが何か。これを開拓することでした。それでは、今日開拓の先鋒者とて来られたイエス様を信じてきた我々は、どのようにしなければならないのか。 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四:六)とされました。イエス様が行かれた道がどんな道かといえば、父母の因縁、夫婦の因縁、国家の因縁を連結する道でした。そしてイエス様は天倫の心情に通じるお方であり、摂理歴史を主管される創造者の心情に通じる善の中心でした。 イエス様は「わたしは道である」とされましたが、この道はどんな道なのでしょうか?「愛の道」をいうのです。そして真理は「十字架の真理」です。そして命は全体的な命をいうのです。だからイエス様を信じなければなりません。 真の息子・娘を捜す神の努力 今日地上に生きている皆さんは、生活していて傷を負えば互いに自身の心情を吐露できる生活圏内に暮らしています。しかし今日皆さんは、所望の主体である神とは、通じようとしても通じないことを感じるのです。これが哀しみです。これを誰かが解決してくれなければなりませんが、これを解決する内的な基準を持つ者がいないのです。これが天の痛みであることを、皆さんは知らねばなりません。 人間は人間同士、互いに見て聞いて自身の心情を表すことができるのに、創造主神の心情は、六〇〇〇年の闘いの歴史を経過しているのに、どの民族にも伝達されていないのです。天の心情と通じることができる民族的基準を立てるために、天が今まで苦労されてきたのです。 このような歴史が六〇〇〇年を経過してきたのですが、未だに天と私と永遠に忘れることのない因縁は、立てられていないのです。こんな基準を立てるために、神は多くの先知者を送られ、イエス様まで送られて摂理されてきたことを、皆さん知らねばなりません。これが真の息子・娘を捜してこられた神の苦労であることを、皆さんは知らねばなりません。 神は理想の中心として、理想の生活理念を成就させる立場におられるのですが、堕落圏内にいる人間と直接的な関係を結ぶことがきないので、先知先烈たちを送り、摂理なさる以外になかったのです。これがまた天の苦難であるのです。 真に全人類が神をアボジとして侍り、来られる神の代身者を救い主として侍ることができる一つの基準が地上に立つことを、神も苦待されているのです。それで我々は人間の本然の人倫の基準と、天が要求する天倫の基準に立ち、天の父のまえに敬礼する一日を、求めて成さなければならないのです。 それではイエス様の心のうちに納められていること、イエス様が悲しまれていることは何であったのでしょうか。今日この地上の人間には父母がなく、あるいは夫婦や国がなくて悲しんでいる人間は多いのです。しかしイエス様が悲しまれたことは、神の悲しみを解怨してさしあげることなく、また真の父母を中心として、真の天の国を立てるべきなのに出来ていないからです。 また、イエス様はいつも変わる立場で生きている人間たちに、永遠に変わることのない天倫の因縁を結ぶために心を痛めたことを、皆さんは知らねばなりません。それで皆さんはイエス様が示された、真理と命と愛の道を歩まなければなりません。 イエス様はこの地上に、不変の原則の中心を立てる使命を帯びて来られたのですが、地の上で生きる基盤を失って逝かれ、この事を成就させようとされているのです。 霊と肉が合わさる世界の中心として来られたイエス様でしたが、十字架につけられたので、霊的に人間に対する他はなかったのです。これがイエス様の悲しみです。しかしこれは摂理の完成ではないのであって、再びこの地上に降臨する条件が、残ったのです。 イエス様が地上に来て感じた、また他の悲しみが何であったか。もしも人間が堕落しなかったならば、心と体で親しく善の父母に侍って暮らすことができるのに、堕落することによって四〇〇〇年という長い歳月の間、真の父母に侍って生きていないことを切なく思ったのです。このように真の父母の心情を抱いて、アボジの立場に立っていたイエス様であることを、当時の人間たちは見忘れたのです。 来られたイエス様を見忘れたことが神の悲しみであり、子女の立場である人類と父子の因縁を持つことができなかったことが、天の切なさであり哀しみであるのです。 聖徒のすべき事 今日、堕落の報いが何であるか。永遠の創造主がアボジなのですが、このお方をアボジと呼べないことが堕落の報いであり、怨恨なのです。イエス様はこのことをよく知っておられたので、人間たちに親しく現れ、愛のみ手によって導こうとされたのですが、人々はその心情を知らず、愛の御言を語られても顔を背け、切ない涙を流されても人間たちはイエス様の事情を知らなかったのです。 今日地の上にある皆さんは、父母のまえに孝道を尽くし、国に忠誠を尽くし、即ち人倫の道を歩まねばなりません。イエス様はこのような人間が歩むべき人倫と、天倫を統合させる使命者として来られたお方でした。こんなイエス様の心情を知る者が、誰であったのか。今日イエス様に背反する人間は多く、その心情を忘れているのですが、二〇〇〇年前人々はもっとイエス様を蔑ろにしたのです。皆さんは自分が本当のクリスチャンか、ということを反省して見なければなりません。 今や皆さんが成就し、回復しなければならないことが何か。イエス様の心情を知ることであり、六〇〇〇年の間悲しまれている神の心情をお慰めすることです。皆さんはイエス様に侍ることなく、神を哀しみにひたらせた二〇〇〇年前の人々に代わって、悔い改めなければなりません。また、現実的な無知を懺悔しなればなりません。 イエス様を最後まで捨てることなく、ついてきた者が誰であったか。イエス様の十二使徒? 違います。その十二使徒の中の三弟子も、イエス様を最後まで信じてついて来なかったのです。 神の愛を人間たちに証し、その愛を実践しようとされたイエス様でしたが、人間たちと愛の因縁を結ぶことなく逝かれました。天倫の愛の御言を伝え、愛に燃える心を持つイエス様でしたが、抱きかかえて「わが息子よ! わがアボジ!」と父子の情を授受することのできる一人の人間を捜しだせずに逝かれたことを、皆さん知らねばなりません。 弟子たちは居眠りをしていたのですが、ゲッセマネの園で夜を明かして哀しみの涙を流して祈祷されたイエス様の、その心情と事情を、皆さんは知らねばなりません。イエス様の愛の御言が良いという人間は多いのですが、二〇〇〇年前のイエス様は、愛そうにも愛することができなかったのです。 こんなイエス様の心情に通じなかったなら、イエス様と父子の関係を結ぶことはできません。また、イエス様を通して夫婦の因縁を結ぶことができず、忠臣、烈女の立場に立つことはできません。 それでは、今日終末に臨んでいるキリスト教徒たちが捜し求めるべきこと、闘い勝って成就すべき一つの中心が何でしょうか。 神をアボジと呼んで抱いて六〇〇〇年の歴史的な哀しみにひたる心情を慰め、解怨してさしあげることです。悲しいアボジの胸を抱いてアボジと呼ぶとき、その一言に分かれていた天地が、再び因縁を結ぶのです。このような基準を再び立てることができる存在にならなければ、神の悲しみは皆さんから離れることなく、神の審判の条件から皆さんは逃れることはできません。 それでは今、皆さんがこの事を成就させるには、どうすべきか、何をすべきか、皆さんがイエス様のみ旨を知るためには、どのようにしなければならないか。本心の通り、教えの通り、イエス様が歩まれた通りに、歩んで行く人間にならなければなりません。 イエス様の所願と我々 イエス様はこの地上に肉身を持って生きる人間として、父母への孝道の情を表すこともできず、夫婦の因縁も持てなければ神の怨恨が解怨されないことが知っておられたので、安楽な環境もみな捨てたのです。世の中の私的なすべての関係を、みな切ってしまったのす。これが今日、修道の世界を求める人々の、避けることのできない事情なのです。 ですから、あれかこれかを選ぶことができない天倫的な条件があったので、イエス様は家庭から排斥されても黙々として、社会から排斥されも黙々として、サタンの讒訴を受けても口を開かなかったのです。六〇〇〇年の間、この地の上の人間に願った一人の新婦を捜しだせず、一人の息子・娘を求めることができなかったイエス様が、誰に対して恨んだのでしょうか。 それでは、イエス様の所願が何でしょうか? それは皆さんがイエス様と一つになることができる中心存在として、イエス様の全体理念、即ち生活的な理念、夫婦の理念、父母の理念を受け継ぐ真の姿として、現れることです。そしてイエス様はご自身が願う愛の理念を、成してあげる人間を願っておられるのです。こんな人々が現れれば、神の事情を探って話し合える時が来るのです。 このような人々が現れないので、今まで神の摂理は全部が塞がれ、言葉にもできない立場になってしまっているのです。また、イエス様も教えようにも教えてあげられない立場に立たれたのです。なぜそうかといえば、本然の理想を代身して、地上に善の理念を成してゆく、真の人間が出てこないからです。それで神の摂理は、象徴的な摂理でした。それで我々は、このような神の象徴的な摂理を、現象的な摂理へと解いてゆくべき運命におかれているのです。 創世以後、今まで地上に神が心を打ち明けて話し合える一人の人間が、出なかったのです。またイエス様が来られて逝って以後、今までご自身のすべての理念を打ち明けて語ることのできる一人の人間が、出なかったのです。そしてイエス様の全体的な理念を成す、実体的な環境が成されていなかったことも、皆さんはよく知っているのです。 それでは誰が歴史を代身して、神とイエス様の相対者にならねばならないか。万人がイエス・キリストの相対者にならねばならず、神の愛の相対者にならねばならないのです。この先まで通じるまでは、皆さんが永遠の因縁を歌う愛を通して、父母の因縁を結ぼうにも結べず、夫婦の因縁、また国家的な因縁も、結ぼうにも結ぶことができないのです。 今日の皆さんが本然の道を捜し求めて行こうとするとき、この地上のすべての条件が、皆さんに掛かってぶら下がる時が来るのです。終わりの日になればなるほど、皆さん好むものだけでは駄目なのです。これはどうせ、すり替えなけばなりません。それでこそ、審判の峠を越えることができるのです。また永遠の父母の因縁、夫婦の因縁、実践的な国家の因縁を結ぶようになるのです。 終わりの日、天の理念を求めてゆく人間がいるなら、その人間の父母がそれに反対することが起こるのです。皆さんがその理念を求めてゆけば、皆さんの父母が断つことが起こるのです。夫婦が断つことが起こり、国家と世界が絶つことが起こってくるのです。 それゆえ皆さんは、イエス様が歩んだ路程を、歩んで行かなければなりません。イエス様は父母から、兄弟から、あるいは教会と国家・世界から追われました。しかしイエス様は牧者の立場で、天倫の変わらざる法度と理念を抱えて逝かれましたので、この理念は生き残ったのです。そしてイエス様を中心とする、勝利の環境が造られていったのです。 このようにイエス様を迫害した人類であったので、蕩減復帰原則によってイエス様を求める人間は、父母が反対する環境、夫婦が反対する環境、国家が反対する環境を経て行かなければならないのです。 それでは変わらざる天倫の父母との因縁と、本然の夫婦の因縁を通して、イエス様が語られた新婦の因縁によって、一体的な生活理念を立て、神に侍って地を愛し、国に忠誠を尽くす忠僕にならねばなりません。こうした後にこそイエス様の所願が成り、神の愛が初めて人間と関係を結ぶのです。 好きなものによって審判される終わりの日 復帰の過程においてある峠を越えるために、過去には天使を通して摂理され、その後には独り子を通して摂理されました。これがこれからは、アボジを通して主管を受けるときが来るのです。それでパウロは、キリストの内にある神の愛について語ることが多かったのです。イエス様の愛のみでは駄目です。また、聖霊の愛のみでも駄目です。イエス様と聖霊の愛を通した、神の愛と因縁を結ぶ基準まで行かなければなりません。 そのためには、地上のある愛の条件に縛られては駄目です。また、地上のどんな栄光の場に留まっていても駄目です。希望の一日が近づいているこの時、我々はアボジが審判される恐怖の一日が訪れることを、感じなければなりません。 どうせ行くべき本然のこの道を行くために出る我々は、すべてのものを捨てて行かねばなりません。まず、物質を捨てなければならず、次には父母と子女、即ち、家庭を失い、そして国家と世界まで失う道を行かねばなりません。 なぜなら、十字架の勝利の峠を越えるとき、父母も失い、親戚も失い、教会も失い、神が約束された宇宙主管の理念も失っても、ただ一つの中心は変わらなかったイエス様を、手本にしなければならないからです。イエス様の中心が何かといえば、永遠に変わらない父母と、夫婦と家庭と、国と世界を成すことでした。 このように皆さんも変わらない永遠の因縁のために、一時的な地上の価値と、因縁を捨てることができる心を持たねばなりません。終わりの日には、自分が好きだというものによって、審判を受ける時が来るのです。皆さんは何を願いますか。博士になることを願いますか? 間違えば博位が、皆さんの首をくくる時が来るのです。あるいは権勢を願いますか? その権勢が、皆さんの首をくくるのです。そして恩恵を受ける人々は、その恩恵によって残る時が来るのです。これがいわゆる、大審判というものです。自分が好きだとい条件、自分が生命視していたその一つの条件が、皆さんを審判台に渡すかも知れないのです。 皆さんは難しい場、骨の折れる場にあっても背反することなく、終わりまで残ることによって復活を受け、第二の自分を誕生させなければなりません。こんな者たちだけが天国に行くということを、はっきり知ってください。それでイエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ八:三四)と語られたのです。そしてイエス様は「地上に平和をもたらすためにわたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇:三四)とも語られました。今日この時は、終わりの日です。イエス様の御言のように、自分の家の中の家族が怨讐です。さらには自分の肉親・国家・社会等、復帰されていないすべが怨讐なのです。 こんな痛々しい事情をおいて「アボジよ、こんな事情を誰が知るでしょうか?」と訴える心、天倫の心情を持つ人間は、真の命を受けるのであり、勝利の復活をするのです。 イエス様はゲッセマネの園における最後の談判祈祷で「わが父よ、できることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六:三九)と祈祷されたのです。こんな信仰が復活の条件になったことを皆さんは悟り、天倫を代身して闘ってきたイエス様の心情を代身しなければならず、神とイスラエル民族に結ばれたその因縁が、皆さんを通して帰結され、その悲しみを解いてさしあげる人間にならなければなりません。 このように天が誇れる個人となった後に、天が誇る夫婦となり、父母となり、孝子となり、国家・世界を成すとき、その時には宗教が必要なくなるのです。信仰という名詞が必要なく、救い主という名詞が必要なくなるのです。二つならぬ一つの一体的な因縁圏内において、神は初めて人間に対して、ご自身の栄光を現す新しい出発をするようになるのです。 このような環境に入るために皆さんは、イエス様の後をそのまま従って行かなければなりません。即ち、イエス様の生活理念をその通りに継承して、不変の復活の基準を立てなければなりません。この基準は、人間中心ではありません。天倫を、中心にするのです。それで天倫的な父母の場、天倫的な夫婦の場、天倫的な孝子の場を経て、天倫的な孝子の法度を皆さんが立て、烈女の法度を立て、忠臣の法度を立てなければなりません。 サタンを分別する生活 歴史以来、こんな孝子、忠臣、烈女がどれほどいたでしょうか。しかし神から愛を受けたこんな人間であってこそ、サタン世界に結ばれているすべての条件を解き、本然の園に入ることができるのです。 こんな皆さんになるためには、どうしなければならないか。神の心情と一つにならねばなりません。神のみ旨と一つにならねばなりません。このようになった以後、この地上のすべての人類と一つにならねばなりません。イエス様は地上に来て、一つになるために、一つの天情に対する一体的な理念を求め、実体的に実践されたお方です。神のみ旨を中心にして、すべての人類が一つになる使命を持って来られた、イエス様だったのです。 皆さんは今や一つにならねばなりません。天のまえに愛を受けた孝子・孝女となって、父母様に侍るためにはまず、兄弟が一つにならねばなりません。さらには家庭、国家、世界が一つになるように造り、サタンを分別する皆さんにならねばなりません。 こんな使命を果たすためには、皆さんは今から闘わなければなりません。サタンは皆さんが復活の栄光圏内に入っても、皆さんの後に従って付いてくるのです。この付いてくるサタンを、皆さんは追い払わなければなりません。それではどのようにしなければならないか。神を中心として、地の上で主人公を捜し求め、父母を捜し求め、夫婦を捜し求め、子女を捜し求め、天の理念を実践することのできる天の国を建て、天の世界を立てなければなりません。そうなるまではサタンが、皆さんの後を常に付いてくるのです。 現在、皆さんの信仰状態はどうでしょうか? 皆さんは神とイエス様の心情に通じる、不変の理念圏内にきています。しかしそれだけで、すべてが成るのではありません。皆さんは責任感を持って、実践しなければならないのです。皆さんは統一教会に入ってきて、真理の基準は知ったのです。しかし真理を知って、真理の解放圏内にあり、真理に従おうとして自分が真理の実体になっているか? 全部そのようなことはないのです。 イエス様は復活された後、今まで二〇〇〇年の間、霊界において天のみ旨のために闘ってこられました。このように皆さんも、天のために闘う環境を持たねばならず、二〇〇〇年の歴史が悲しみの歴史であったように、皆さんも悲しみに打ち克つ新しい真理と一致する信仰をしなければなりません。 神と我々が因縁を結ぶことと、アボジの変わらざる心情を我々は知りました。それゆえ我々は神をお慰めしてあげ、見えざるサタンに備える天の精兵にならねばなりません。 六〇〇〇年の人類歴史が、悲しみの歴史でした。それゆえ皆さんは死んでも変わることなく、アボジのみ旨に従うという覚悟を持たねばなりません。こんな覚悟がなければ、皆さんが統一教会に入ったとしても、すぐに止めてしまうのです。二〇〇〇年前にも多くの人々がイエス様に付いきて良いことだけを知ったのですが、イエス様が十字架の道を行くのを見て、皆な逃げてしまったのです。 神の創造理念を持って、変わらぬ心で世の中を往来し、サタンのまえでも変わらぬ心の中心を持っていたイエス様と、同じ責任感を持ち、失った愛と命の回復のために神と一つになって、サタンのまえに出る人間がいたなら、彼は真の信仰を所有する人です。 今神の理念を実現するためには、まず人間がすべて一つにならなかったら駄目です。悲しみと苦しみを受けたとしても落胆せず、真の因縁を回復するために、原罪とサタンの役事を一掃させ、変わる環境を変わらぬ環境に開拓して、すべてが一つにならねばなりません。一つとなった中で、サタンと対決してゆかなければなりません。 皆さんは天の新しい理念を広める、天の食口にならねばなりません。一家庭の食口なら父母に侍り、父母の認定を受けなければなりません。父母から認められた後でこそ、兄弟たちが喜べるのです。そしてこの家庭が、愉むことのできる環境も得られるのです。 そして自分一身の喜びが、父母と隣り合う喜びであり、国家・世界・神の喜びになるようにしなければなりません。そしてすべての人類に、父母、兄弟のように対して生きるなら、天のみ旨が成ったとすることができるのです。 であるなら、イエス様の教えに従わなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、生命」と示された、生命と真理と愛の道を、みな同じく歩まねばならないのです。究極的には、イエス様の十字架を背負うとしても変わらぬ心を持って、すべての骨折りと苦難に勝利して、アボジのまえに出なければなりません。さらにはアボジが皆さんをサタンのまえに誇ってこそ、本然の世界を復帰できるのです。 それでこそ神に対して、本然の父子の因縁を感じることができ、人間同士がまた万物に対する因縁と、愛を体恤するようになるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.18
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真のお父様の真の息子・娘となろう一九五七年九月一五日(日)前本部教会皆さんに話す御言の題目は「真のお父様の真の息子・娘となろう」です。こんな題目で暫くのあいだお話しします。 人間に対する神の所望 万物を創造された神様は、堕落したこの世界を捨てたまわず、今までサタンと凄い闘いを展開されて、独り責任を負ってこられたということを、皆さんはよく知っています。 こんな神様が望む最高の目的が何であるか。何を願っておられるか。今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられても、人類を捨てたまわずに抱えてこられた内容が何であるか。それは神様は人間に対して、おまえはわが実の息子・娘であるとされたことです。こんな理想を果たすために、神様は今まで闘ってこられました。 神の善の園で、神の栄光の中で、神の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を得て神のまえに「わがアボジよ! 栄光をお受けください」とすることのできるアダムが、堕落することによってそんな価値を喪失してしまったのです。それで神は創世以後、本然の息子・娘が来て「アボジ」と呼ぶその一声が聞きたいのだということを、皆さんは知らねばなりません。 今日我々が呼んでいるそのアボジは、罪悪の立場で呼ぶそんなアボジではありません。それゆえ我々は罪悪の世の中から抜け出し、善の理想卿に入らなければなりません。この理想の園は、人間が神の栄光を現すことができると同時に、喜びに陶酔して生きる世界です。言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静じ、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主神も動じ静ずる世界なのです。のみならず、相対的な神と人間の関係を超越して、一致することができる理想卿なのです。 神は人間がこのようなご自身と一つになることを願い、一つとなった中で素晴らしい愛を中心に喜びに酔うその一場面を描いて、このような世界を創造されてきたのです。ところがこの人間が堕落することによって、これが自分たちの怨恨となると同時に、天倫の怨恨となり、堕落以後今まで、この怨恨に怨恨を重ねる悲しみの歴史をたどって来たということを、今日我々はよく知っています。 それでは神様が今日この地に対して摂理される、最大の希望が何でしょうか。それは堕落の父母を持つ人類を再び神の側に立て、わたしは君らの永遠のアボジであり、君らはわたしの永遠の息子・娘だと呼ぶことです。そのようにできる日を迎えることが、堕落した人間の歴史的な所望であり、天倫に対する天的な所望であることを、皆さんは悟らねばなりません。 今日自らを反省して、天倫のまえに自身を立てて推し量って見るとき、これまで神の愛を中心に和動する日がないことを感じるのです。また、アボジのまえに真の息子・娘として「アボジよ!」としなければならず、天の主管を受ける信仰生活をしなければならないのに、自身がそうでないことを感じるのです。今我々はいつの一時、いつの時間を中心に神に対して「わがアボジよ!」と呼んで自身を変え、アボジの心情を誘発させる愛を中心に、神と新しい父子の関係を結ぶ立場まで行かなければなりません。 神の悲しみと嘆息の原因 このようなことを皆さんに体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労しておられるアボジであることを、皆さんは心においてか生活において感じなければなりません。我々の最後の所望として残っていること、即ち神の恩賜の中で我々が召命を受けたことも、何を基準として成されたのか。それは創造の理念である神と人間の父子の関係を回復するために、地上においてどの程度に実践しているかによるのです。我々の生活圏内において、どの程度に実践しているかに従って、自分たちの価値を捜し求めることができるのです。そして神がこの地に対して悲しまれているのが、何ゆえであるのか。神が地上に対して嘆息されているのが、何ゆえであるのか。神はサタンのゆえに悲しまれているのではありません。悪が憎いと悲しまれ、罪人が多いと嘆息されているだけではないのです。本当の神の悲しみと嘆息は、神が未だに人間に対して「わが愛する息子・娘であることよ」という言うことができず、その息子・娘たちから「わがアボジよ」と呼ぶ言葉を聞くことができないところにあるのです。歓迎を受ける環境にないことが、神の本当の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。 今日我々は神に対して、アボジと呼んでいます。ところで我々が呼ぶアボジは、いろいろであるのです。真のアボジもあり、偽のアボジもあるのです。なぜそのようになるかと言えば、人間が堕落したからです。 人間が呼ぶべき本然の真のアボジは、永遠なる生命の主人であり、理想の中心であり、人間のすべての幸福の中心であるのです。それで我々が、我々の心に侵犯してくる悪を断ち切って心からアボジを呼び、アボジのみ旨を行うことができれば特に天国は必要ないのです。ところで人間が堕落することによって、これを失ったのです。それゆえ堕落した人間はどうせ、必然的に本然の真のアボジを捜し求めて行くべき運命の道におかれているのです。 それでは今、皆さんがどんな価値的な内容を持ってアボジと呼ぶのか、考えてみなければなりません。そして自分が呼んでいるアボジとは、どんなお方かということを知らねばなりません。 我々が真のアボジと呼ぶそのアボジは六千年の間、休むことなく闘ってこられたアボジであり、摂理歴史を経て来る間、数知れぬ苦難の峠を越えられて、今日のわが一身を捜し求めるために苦労されたアボジなのです。そして地上に生きている人間が感じることもない、最大の哀れさと悲しみを感じられているアボジであることを、皆さんは悟らねばなりません。皆さんがこれをどの程度に実感しているかが、何よりも重要であることを、知らねばなりません。 真心からわきおこって「アボジ」と呼ぶ人間がいたなら、彼は神の哀れさと悲しみを感じるのです。また、神の悲痛さがその人間に伝わるのです。それで神と人間の間に心情が交流し、天倫の大理念を成就するために自分一身を越えるとき、初めて神と我々は生命を中心として永遠の因縁を結ぶことができるのです。皆さんはこんな境地を経験しなければ駄目です。 現在の皆さんは、神と完全な関係を結んでいないということを、感じるのです。しかし神と皆さんとは心情的に、また事実的に永遠なる因縁を結んでいるのです。そしてこの因縁は、抜こうにも抜くことができないのです。それで皆さんはこのようなことを感じながら、真の息子・娘の立場で「アボジよ!」とする一時を願って行かなければなりません。重ねて話しますが、人間が真の息子・娘の立場で「アボジ」と呼ぶことが人類の所望であり、すべての万物の所願であり、神の所願なのです。それゆえ我々はこの地上で神の真の息子・娘として、復帰の運命を打開して行かなければならないのですが、ここで我々がただ一つ望むことがあるなら、真の愛を中心として神と父子の関係を回復することです。皆さんは神の切ない心情と哀しみがこの地の上に染み、神の悲しみがこの地の上に満ち溢れるほどに残っていることを感じ、アボジの立場で復帰の祭壇を積まなければなりません。では神の息子の立場を復帰すべき皆さんは、どうしなければならないのか。アボジを愛しなければならず、アボジの事情をアボジの代身として心にかけ、真心からの心情が交流する中で「わたしのアボジ」と呼べるまで努力しなければなりません。 人々が呼ぶ「アボジ」の中には「他人のアボジ」もあり、「義理のアボジ」もあるのであり「真のアボジ」もあるのです。ところで今日、信仰する人々の中で、自分たちは神に向かってアボジだと呼んでいるのですが、そのアボジが「真のアボジ」ではなく、「他人のアボジ」や「義理のアボジ」の立場である場合が多いのです。 人間の存在位置と責任 このようなことは神の所願ではありません。人間に対する神の所願は、すべての復帰の条件を越えて神に対して「真のアボジ」と呼ぶことのできる、一日を成すことです。神は六〇〇〇年の間、所願とされてきたのです。それゆえ皆さんは、神が地に対して苦労されたことを知り、地のために語ることもできない惨めな峠を越えて闘ってこられたことを、知らねばなりません。今我々はこんなアボジに侍って生きなければならず、永遠なるアボジのまえに怨讐の立場で、自分自身のためのみの生活をしていないかどうか、反省して見なければなりません。 今日、並ではない苦難の道を求めて行く皆さん! 六〇〇〇年の天の苦労の末に訪れた皆さん! 皆さんは真のアボジの息子・娘として、アボジの遺業を受け、いつまででもサタンと闘う天の代身者になるという、心を持たねばなりません。またこのために自身をアボジのまえに任せ、新しい使命を受け継ぐとしなければなりません。そして皆さんは、いつでもアボジの足取りが、心の中に浮かんでこなければなりません。アボジの苦痛と苦心の全体すべてに責任を持てないとしても、アボジを心に侍ることができなければなりません。 それでは神の怨恨が、何でしょうか。今日キリスト教においては、神は栄光の中におられるとしています。しかし、そうではないのです。人間が信じず、人間が受けなければ、神のみ旨は成らないということを、知らねばなりません。それで神は今も、人間が責任を果たしてくれることを、もどかしく願っておられるのです。 ですから皆さんは、この地上に天倫を立て、栄光の天の国を成してあげ、神の永遠なる善の理想を、この宇宙に実現させてあげなければなりません。 神お独りでは、どんなにみ旨を成そうとしても成らないのです。また、サタンも善の立場に立とうとしても立てないのです。人間が救援されない限り、永遠なる悪の立場に留まる他はないのです。しかし人間は、そうではありません。神のまえに栄光に輝く姿で立つこともでき、翻ってサタン側に立ち、天に敵対することもできるのです。 それで神も、サタンよりも人間がより恐ろしい存在なのです。人間がなければ、神のみ旨は成されないのです。また人間がなければ、サタンの計略も無駄になるのです。このようにみ旨の成就や罪の成立が、神やサタンにあるのではなく、人間によるのだということを、皆さんは知らねばなりません。 神はこのような人間をおいて、天倫のみ旨と善の理想世界に対する神の理念を、無条件に信じ、これを成してくれる人間がどのように行くを見守りながら、気をもんでこられたのです。ここに神の悲しみと苦喪が染みているということを、皆さんは知らねばなりません。 我々が願うことがあるなら、むしろ真の息子・娘の立場で神をアボジと呼ぶことです。実際こんな人間が三千万民族の中に、一人でもいたとしても、この民族には生きる道が開かれるのです。その人間を中心にして、宇宙的な役事が起こるのです。なぜならば、哀れな民族を代表し、宇宙を代表し、真のアボジと呼ぶことのできる存在があるなら、神のみ旨を率いてゆくことができるからです。今日我々はこれを知らねばなりません。知ると同時に、信じなければなりません。 我々はその間、並はずれた道を歩んで多くの苦難を経てきました。十字架の路程も行きました。天使たちが、皆さんの行く道を心配した事情もあったのです。しかしそれが問題ではありません。我々の苦難と事情を案じられるアボジのまえに、どのように出て行くかが、さらなる問題なのです。悲しみと苦痛、十字架が問題ではないのです。最大の勝利の基台が成る場、人類の理念と天倫の理念が合致するその場に出るとき、その間の難しかった事情を慰められる、本当の自分になっているかが問題です。 それでは今日我々はどんな立場で、神を真のアボジと呼んでいるのか。真のアボジと真の息子は、血統的な因縁を結んでいなければなりません。どんなに切ろうとしても切ることのできない因縁、自然に一つになっている、血肉を通した因縁があるのです。このような立場で見るとき、神と我々とは血統的な因縁があることが分かるのです。それで我々は神を、真のアボジと呼ぶのです。 人間は堕落しました。人間が責任を完遂して永遠の善、天倫の愛を中心にして神の直系の子女になったなら、どこの誰が侵犯して堕落させることができるでしょうか? 人間はこのような所望を持つ実体であることを、皆さんは知らねばなりません。 それでは今日皆さんは、いかなる所に留まっているのか。皆さんは神と天的な因縁を持っているのですが、サタン圏内に留まっているのです。神が許された直系子女の因縁を持っていながら、またサタンとも堕落の因縁を持っているのです。 イエス様の降臨目的と御言の価値 このような人間を救援するために、この地上に来られた方がどんなお方か。このお方は人間を代表する立場におられるのみならず、神と永遠に絶たれぬ因縁を結んで現れた主人公なのです。こんな因縁と使命を帯びてこの地上に降臨された方が、正にイエス・キリストなのです。それでイエス様は福音を伝え、わたしは神の息子であると語られたのです。また、神と一体となったと語られたのです。 これは驚くべき御言です。普通の人々には、求めてもみない御言です。それで神と愛を中心にした血統的な因縁を持って来られたキリストですから、歴史にない中心として、新しい変遷の歴史を起こさざるを得ないのです。こんな面においてイエス様の血と肉は、アボジの血と肉であり、すべてのものがアボジのものであると言えるのです。このように神とイエス様とは、切っても切れない因縁が結ばれていたのです。 ではなぜ、イエス様はこんなお方であったのか。堕落した人間は罪悪の血統を受けて生まれたので、アボジの血肉を代身して接ぎ木してくれる一人のお方を、神はこの地上に送る他なかったのです。このような摂理的な必然によって、イエス様は地上に来られたのです。 ところで召命を受けたイエス様はこの地上に来られたのですが、少しもイエス様を信じなかったのです。こうしてイエス様は結局、十字架を背負うのですが、その終わりの日に弟子たちと最後の晩餐をされ、あなたたちはわたしの血と肉を食べなければならない、と語られました。これが何の御言かと言えば、人間の心と体、血と肉は、神が動じ静じるままに共に動じ静じなければなりません。即ち神との一体理想を成さねばならず、血統的な因縁を結ばなければならないので、イエス様を媒体として、このことを成しなさいという御言です。このようなことが皆さんの生活圏内で成されなかったならば、サタンは否応なく皆さんを讒訴するのです。 人間は神と一体となって、地上に来られたイエス様を信じ、友なる立場でイエス様と対さなければならないのですが、問題は皆さんに懸かっているのです。 イエス様の血と肉と骨、体と心を、皆さんも全く同じに持っているのです。これがイエス様と人間が、一体となれる根拠になっていることなのです。ですからイエス様が神と一体となっているように、皆さんも体と心が神と一つになって、動じ静じなければならないのです。実際そのようになれば、これは誰かが奪おうにも奪ってゆくことができません。その次に我々は、神を真のアボジと呼ぶことができる真の息子・娘にならなければなりません。そして神が我々に真の息子・娘だとされる御言と、我々と共に生きておられるという御言を持たなければなりません。即ち、神と我々は真の父子の因縁がなければならないということです。血統的に神の子女になると同時に、神の御言を納めなければなりません。 イエス様がこの悪なる世に来られ、叫んだ御言は地上の言葉ではなかったのです。イエス様の御言は、今までになかった真の真理の御言であり、地の上にあったものとは余りに異なる新しい理念であり、革新的な事実を提示する御言でした。 サタンが立証する神の真の息子・娘 それでは今、我々は神を真のアボジと呼ぶことができる存在として、神が求めておられる御言を、我々も持たねばなりません。神の御言が下ることごとに善の実績がつまれ、復活の役事・再創造の役事が起こる御言です。それで我々は悪を精算し、復活の役事を起こし、再創造の権能を行使する御言を持つ人間にならなければなりません。 今日皆さんが使っている言葉が、皆さん自身から出ている言葉か、皆さんが侍っている主様が使っている言葉かということを、皆さんは考えてみなければなりません。また皆さんは主様の御言を誇れる環境にあるか、ということを考えてみなければなりません。 イエス様の御言は天にも通じ、地にも通じ、創造されたすべての存在に通じるのです。このようにアボジと呼ぶとき、アボジが聞かれる言葉、アボジのみ旨を代身する言葉を持つ人間にならねばなりません。 今日この地上には、沢山の種類の言葉があります。言葉のような言葉もあり、言葉ではないような言葉もあり、御言もあり、言葉もあります。今人間が捜し求めなければならない最後の御言、天倫の御言と因縁を結ぶ我々も、すべての被造万物と一体となる御言を持たねばなりません。でなければ万物を主管しようにも、主管することができないのです。 堕落は我々が知らねばならない御言を、失ったことであると言うことができるのです。それで我々は、我々が持つべき御言が、どこにあるかを捜さなければなりません。歴史過程を経てきて数多くの人類は、この御言を復帰するために苦労してきました。人倫に通じると同時に、天倫を代弁することができるこの御言を、我々は持たねばなりません。この事実を生活圏内において感じる、皆さんにならねばなりません。 その次にアボジの生活を代身することができる、真の息子・娘にならねばなりません。皆さんの生命は、現段階の環境において始まって終わるべき生命ではありません。今までの生命体は、歴史的な堕落の因縁を脱することができず、社会的な環境と因縁を脱することができないのですが、実際には宇宙の恩賜を代身し、過去の理念を代身し、未来の理念を立証させる立場にあるということを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんは神を代身する生活をしなければなりません。神を代身して栄光と幸福と喜びを享受して生きる、自分でなければなりません。きわめて愛するイエス・キリストを死に至らしめても求めた人間たちを代表して、長子の遺業を継承させようと切ない心情を抱いて捜された、アボジの心情を感じる皆さんになるなら、地とサタンのまえに神の息子・娘として立証されるのです。 皆さんが神の真の息子・娘として生きようとしても、この悪なる世の中は皆さんを全部引っかけて倒すのです。これは六千年の復帰歴史を見ても、分かります。しかし、人間の心を通して、終末期である今に至るまで動いてきた復帰摂理歴史であるなら、皆さんは神と同伴する生活理念を、最後に立てなければなりません。 こんな過程に入る人間、即ち今まで神が捜し求めてきた事実を知る人間がいるなら、彼は神が成されようとするみ旨を知っているのです。そして過去に被造世界を創造された神の心情、より深く入れば、草一株を創られた心情までも、感じることができるのです。こんな心情に触れれば、神が万物に対して持つ心情まで知ることができるのです。そして人間に対して抱いておられる心情までも、感じることができるのです。 こんな心情を感じた後には、またどんな人間にならねばならないでしょうか? 神を代身して地の上の人間たちを案じ、彼らの為に泣くことができ、悲しみを抱く人間になり、また、人間たちが数多くの歴史過程を経て苦難にあえいできたことに同情できる人間にならねばなりません。 そして神のみ旨、神の摂理歴史に責任を負った数多くの先烈たちの人生のすべてを、皆さんが地上において一瞬間でも感じ、同情することができる人間にならねばなりません。また、昔アダムとエバが堕落したときに感じた神の悲しみを、感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しみ、天と地を失って悲しまれたアボジの心情を感じることができる人間にならねばなりません。 天情と人情が通じる道 歴史過程において摂理のみ旨を受け、イエス様の怨恨を晴らそうとする人間がいたら、神は彼を中心にしてさらに活発にみ旨を成し、彼の悲しみを分け合う多くの人間が、彼と共に苦労してきました。 アダム以後、ノアは一二〇年の間この地上に神のみ旨を受けて行きました。一二〇年の間、神の理念を地の上に現す生活、今日神アボジの心情を我々に連結させ、アボジの子女であることを実証させ、我々を中心とする生活的な環境と因縁を結ぶ土台を立てる生活であると同時に、神と通じる理念を現す生活であったのです。 このような境地に入れば、皆さんはアダムの立場に対して理解することができ、神に対して切ない心情を持つのです。また、ノア爺さんが一二〇年の間、不信する世の中の人々に対して切ない心情を抱いてきた心、自分だけが知る心情を無知な民のまえに現すために切なかった心情を、感じるようになるのです。 皆さんはノアの心情から、アブラハム・イサク・ヤコブ・モ-セ・イエス様、そして今日まで苦労した復帰摂理の中心人物たちの心情を知り、彼らのために慟哭して涙を流さなければなりません。皆さん自体が、歴史的な内容を持つ理念を、否定することができず、天倫の歴史性に背反しないならば、生活を通してこんな歴史的な悲しみを感じなければなりません。 今日ここの集まった皆さんは、歴史的に来ては行った数多くの先知先烈たちが、神の生活的な理念を実践するために捜し求めて体恤したことを、受け継がなければなりません。そして皆さんは死の場であっても、すべての苦難を引き受けるという覚悟を持って、すべての人々の心情に合わせて一つになり、歴史性を代身してアボジのまえに出て行く道を一致させなければなりません。 復帰の運命は、歴史的な悲しみの運命であることを知る以上、皆さんは悲しみの生活をしなければなりません。皆さんが神と因縁を結ぶために、神のみ旨をまえに涙することが天情と人情に通じる道であることを、知らねばなりません。それでは皆さんは、皆さん自身を立てて、「おお ! 神よ、私はどんな立場にいるのですか?」と反問して、皆さん自身を反省して見なければなりません。 昔、先祖たちが歴史的な神の摂理を成すための生活を体恤して、その生活を経てゆくとき、ノアの心情を知るようになり、あるいはアブラハム・イサク・ヤコブ、そしてモ-セと数多くの先知たちの心情を知るようになるのです。皆さんはこのように天に対して、万民を代表して流す涙の伝統を残さねばなりません。 こんなことを得ている人間は、どんなに地獄に行こうにも行くことができなくなるのです。ですから今日のキリスト信徒たちの中で、過去の歴史過程に来たが天倫のみ旨をみな完成できずに行った人類を代表して、涙を流すことができる息子・娘にならねばなりません。こんな息子・娘に、天倫のみ旨を任されるのです。また、現時代の人類を代身して、切ない心を持って涙を流す息子・娘になり、未来を案じ、万民を代身し、涙を流す息子・娘にならねばならないのです。 神はこのような心情を通して、現在こんな立場にあり、未来にもこんな事情におかれている息子・娘を、捜し求めておられるのです。神と正反対の生活をしている群れに対して泣き、歴史に対して涙することができる人間が、今日の終末に新しい再創造の歴史を提示する主人公になるのです。 神の心情を抱えて涙し、新しい理念に連結して涙する夫婦がいるなら、この家庭は最高の家庭になるのです。また、神を抱えて涙する民族があるなら、この民族は新しい理念の中心民族になるのです。この民族を通して、宇宙史的な神の全体の愛と真理が紹介されるのです。 過去と現在と未来を代身してアボジを抱え「わがアボジよ、悲しみを預けてください」と訴えることのできるある集まりや団体、あるいはある社会や国家があったなら、周囲にどんな強い文化があったとしても、その文化圏はある国家や団体を踏み越えることができないのです。 神の理念と人間の生活 我々がみ旨の為に行こうとするとき、何を目的として闘ってゆくのかといえば、より善なる歴史と、現実と未来を成すために闘わねばなりません。そうして神の生活理念にひたるその日を復帰し、天上が喜ぶ生活的な環境を提示しなければなりません。このようになるとき、人間と万物を創られたアボジ、歴史的なアボジ、現在と未来を主管されるアボジが、皆さんに責任を持たれるのです。 その次に我々は、何を持たねばならないか? どんな理念を持たねばならないか? 神の理念を通過しなければなりません。我々は神の理念の中に、立たなければなりません。我々は個人ですが、世界と宇宙的な立場で見れば、宇宙とも通じることができ、神の全体の天倫の理念とも通じることができる場に、行かねばなりません。こんな理念にひたり、この理念に率いられて闘うとき、数千万の怨讐に対して闘う場に、堂々と立つのです。 今日終わりの日において、皆さんが知らねばならないことは、我々が今まで生きてきたこの地は、天倫の理念を代身する地になっていないということです。しかしながら我々は悪によって出発したこの歴史を、悪として終結してしまうことはできないのです。 そして悪の歴史を経てきた現時点において、我々は天倫を引き入れず、そっくりそのまま放っておくわけにはいかないのです。我々はきっと後代の人々の為に、新しい理念を提示しなければなりません。 それではイエス様側の、善の歴史とはどんなものか? これは歴史性を経過する神の歴史であり、天倫のみ旨に対して歩む歴史です。かように現実に現れる一つの事件には、全体の歴史が宿っているのであり、我々はこれを通して過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを体恤してゆく、理念を持たねばなりません。 今日我々がこの理念の中に立てば、この理念によってすべてのものと通じるようになるのです。それで我々はこの理念によって、現実生活をよく分析し、その価値を現実の生活理念と結びつけ、全体の理念と因縁を結ぶ一つの基準を得なければなりません。こんな基準を得て生きなければ、神の真の息子・娘になることができません。 イエス・キリストが逝った以後、今日に至るまで、神の摂理は完全に実を結ばないままになっています。聖書を通して示されている理念を、人々は実践しないでいるのです。それで神はすべてのものを得させるために、黙々と六〇〇〇年間準備して来られたのです。惨めな世の中と、哀れな人間たちを眺めて慟哭されながらも、地の上の疑心を精算しなければならない立場におられるゆえ、不信して背を向ける人々を批判されず耐えてこられたのです。 神はどうしてこの日まで耐えて来られたのか。神はある一時、全体的な勝利の一基準を心から立てて闘っておられるので、今まで耐えているのです。 しかし永い間、耐えて来られた神の恨は、天倫的な理念と宇宙的な理念と、人倫的な理念が一つになって現れるその日になれば、その場に現れるのです。この一時が、いわゆる審判の時なのです。過程では愛されるのですが、お終いになると審判がされるのです。神はこのような因縁を残して、今まで役事されて来られたのです。 ノアの審判のような時を望み見る終末の我々において、我々が知るべきことは、この理念を代表する自身になるということです。そして天的な理念に通じ、人倫を伝え、御言を伝え、天の宗教を伝え、天の生活を伝えて、一つの理念を伝える先知者の使命を自身が成さなければならないということです。これが宇宙的な理念を通して、神の息子・娘たちが持たねばならない理念なのです。この理念を持って、我々のすべてを反省すれば視野が広がるのです。 皆さんがこんな使命を負ってゆくとき、感じる悲しみは宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らねばなりません。自分一人のために悲しんで、アボジを呼ぶなら駄目です。地の上で数多くの責任を独り背負って闘ってゆくという覚悟と、神の苦しみを感じてきっと神の宗族としての威信を立て、また天的な理念を感じて、天に適う生活をしなければなりません。 ですから皆さんは、血統を通して神の息子・娘であることを証し、真理を通して神の息子・娘であることを証し、生活を通して神の息子・娘であることを証し、仕事を通して神の息子・娘であることを証しすることのできる、一つの基準を捜し立てねばなりません。この一つの基準を捜し立てなかったら、皆さんが教会に来て信仰生活をすることは、使いばしりに過ぎないのです。 真の息子・娘として備えるべき条件 未だに神に対してアボジと呼ぶ立場になっていない人間は、神の愛の御手が差しのべられるよう、神の名を呼ぶのです。こんな救援の過程を経なければ、神に対して万人を代身する真の息子・娘として、アボジと呼ぶことができないのです。 宗教的なことや血統的なことなど、地の上の人倫的な生活がすべて天倫によって成されるよう、皆さんはこんな理念を通してすべてのことを批判できる心情的な価値を、皆さん自体内において立て、万民のまえにその価値を誇れる一日を持たねばなりません。このような事が起こるのを見た後でこそ、神が今まで闘って来られた歴史を、終結させることができるのです。 今までの闘いは、神とサタンとの闘いだったのですが、今は天を代身して地を中心に人間同士の闘いとして率い、この闘いに責任を負う主人公が出なければなりません。 こんな闘いの路程において、我々は何を勝利の条件として立てるのでしょうか? 我々が本然の天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、天的な血統の因縁を持ったなら、実際に天的な勝利の生活をしなければなりません。これが重要な勝利の条件になるのです。 天的な生活、勝利の生活を通した人格を持つなら、自身の事を予告することができ、天的な人格を持つ人々と和することができるのです。サタンも、神が信じて任せられる一人存在を立てるなら、これを拒否できないのです。 神を崇拝する者が誰でしょうか。今日、終わりの日にある聖徒たちです。また、神を安息させる者が誰でしょうか。見るにたえない我々です。このように神の解怨が、我々の両肩に、体と心にかかっていることを、我々は知らねばなりません。人間歴史の中枢的な条件をまえにおいて、我々は驚くべき天地の使命を任されているのです。皆さんの体は二つとないにもかかわらず、地の上の問題に苦しむ立場にあっては駄目です。今や自身のための安逸な生活理念が立てられない過程にきているのです。 我々が地の上に天の法度を提示して勝利した後からは、安息することができるのです。今日皆さんは、こんな過程におかれているのです。こんな事がどこに起こるのか。今日、民族的な優越性を現す先進国家がありますが、彼らが誇るよりも誇らしいことは、どの民族が神様と近いかということです。 今日我々が知るべきことは「私は神の民族だ」「私は天の民だ」「私は天の子女だ」という資格を持って生きるなら、必ず闘いの路程を経なければならないということです。この世は悪なる世の中であり、悪の歴史を持つ社会ですから、世の中はこんな人々をそのまま歓迎しないのです。 それでここには水と火のように、一つになりにくいものを一つにする哀れみの情、即ち自身の肉身を動かしている天的な内容を持ち、真理を持ち、その次には生活環境と人格を持ち、そして理念を通した愛を持って、悪の世の中を貫いてゆかなければなりません。こんな条件が、宇宙の終わりに日において、天倫を代身する宇宙の審判の条件なのです。 それでは今日我々は責任を果たし、直系的な使命を完遂する自分になっているか? 神の審判を代身することができる真理、生活理念を通した人格、神の理念を通した愛を持って、満天宙に生命の力を主張することができる我々であるか、ということを考えて見なければなりません。 こんな人間がいたなら、彼が動じれば万物も動じ、彼が悲しめば万物も悲しむことを、感じるのです。こんな感じをもって皆さんが、天のまえに立って恐れる立場で「アボジ、六〇〇〇年の怨恨をこの一日に私を見てそそいでください。六〇〇〇年の間、敵対してきたサタンを、私を通して屈伏させてください」としなければなりません。 人間が行くべき道 エデンの園で万物のまえに人間を創られ、「万物を主管せよ」という祝福の御言が、未だに成就の一日を見ないのです。我々はこの御言の成就のために事をしなければなりません。そのようになれば、すべてのものがアボジの栄光になるのです。ここから新しい理念を通した新しい愛を、新しい生活を通した新しい人格、そして新しい御言と真理を得て、また新しい血統を通した子女として出発するのです。 皆さんが動いているのを見れば、現在は皆さん一人をおいて、希望の理念が皆さんを訪ね、歴史的な理念が皆さんを訪ねてきているのであり、現実の理念が皆さんを訪ねてきているのみならず、皆さん一人を立て、天と地の為に直系の息子・娘の栄光を証しする一日を前にしているにもかかわらず、皆さんは事実を忘れたまま、処すべき立場を知らず、自身が留まるべき環境、自身が闘いゆかなければならない希望的環境を、やり過ごしてしまっているのです。 我々が行くべき道は、どのようにしても神の全体的な理念を実現させて、神が安息できる天的な栄光の土台を造成すると同時に、地上のすべての争いを終結させる道です。そのために皆さんは、愛をもって闘わねばなりません。 こんな理念を得るために訪ねて来た皆さんは、宇宙を代身する愛を持たなければならないのです。また、実践的な生活理念と、実践力を持たなければなりません。このように愛と実践力を持ってゆくとき、今まで天に敵対してきたサタンが、自然に屈伏してくるのです。 今日皆さんは、神の所願を持った子女が現れることを願う、神のみ旨を知らねばなりません。そして神の悲壮な悲しみと、悔しさと憤りをいたく感じ、これを解怨して差し上げるために、ありったけの力を注いがなければなりません。そうして希望の一つのみ旨に向かって前進する人間になり、カナンの福地に向かって行ったイスラエル六〇万大衆を代身する、責任者たちにならねばなりません。 今日人間は平坦な生活環境、自由なる生活環境を成すことができないほどに争っているのですが、彼らは荒野に出て、不信するカナン七族と闘わねばなりません。皆さんもこんな闘いの路程を、経なければならないのです。 今、天は皆さん一人をおいて、皆さんが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、日和見主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来に責任を負う実体になるか、ということを考えておられるのです。こんな条件をかけて、皆さんに対しておられるということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは今、どのようにするのか。今日皆さんは、天のまえに捧げる祭物にならねばなりません。祭物とは何であるか。裂かなければならないものです。歴史的に見れば裂かれるものもあり、裂かれないものもありますが、裂かれないものは祭物にはなりません。これからは国家的な祭物もあり、世界的な祭物もあるのです。 こんな祭物の理念を持って行く人々は、自分個人の為に生きてはならず、社会の為に、国家の為に、世界の為に生きなければなりません。皆さんは祭物となる場において、敗北する人間になっては駄目です。こんな裂かれる場、闘いの場においても「おお ! ハレルヤ! 主様の栄光、六〇〇〇年の神の怨恨を解怨することができる栄光の今日だ。ア-メン」としなければなりません。 昔日のヨシヤとカレブの立場を代身して、大胆に出なければならず、選ばれた第一イスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失うことなく、勝利する天の選民にならねばなりません。こうしてこのみ旨の中で耐え、カナンの福地に入って行って、天倫に対して再び責任を果たすヨシヤとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そうして勝利した立場で、アボジに永遠に侍る真の息子・娘にならなければなりません。 祈 祷 愛するお父様とお呼びするとき「アボニムよ、私は信じます」「私はここにおりますから、アボジよ見ててください」とすることのできる姿が、この地の上に沢山現れるように許諾してください。 その日を待ちわび、万物も嘆息し、聖霊も嘆息しており、数多くの千々万聖徒たちも嘆息しているこの地ですから、今日の私の哀れさに泣いてはいけない自身であり、世俗的なすべてのものを、捨てるべき自身であることを悟るようにしてください。 理性に通じる信念を受けましたので、これを実現させることを許諾してください。天倫に通じ、宇宙に通じ、この価値に相対となることができる天的な息子の姿になって、天の摂理歴史的な喜びの日を、我々のまえに実現させてくださることを、お父様、懇切に望み願います。 今日ここに参席した息子・娘たち、真のアボジと呼ぶことができる真の息子・娘となるよう導いてくださり、お父様の為に闘い、自分の為に闘うことのないように導いてくださり、全体的な価値を代身して、天的な人格を兼ねる天的な人間となり、天的な愛に達することができる勝者の姿となるよう許諾してくださり、サタンに強力に対抗する息子・娘になるよう導いてくださることを、アボニム、懇切に望み願います。 不足なる私たちが今、真のアボジに侍ることを所願としていますから、私たちがサタンの糧にならぬよう許諾してくださることを、お父様に懇切にお頼みし、すべての御言を主の御名によって、祈祷いたしました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.17
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いつお父様の前に私は立つのか一九五七年九月八日(日)前本部教会 <御言>皆さんと共に考える御言の題目は「いつお父様の前に私は立つのか」です。こんな題目で、しばらくの間お話します。 お父様の前に立つべき真の信仰者の態度 地上に生きている人間が、どんなに素晴らしく、どんなに優れているとしても、それ自体は堕落の血統を持って生まれた存在です。言い換えれば、原罪を持っているのです。 それで人間は今まで犯罪の歴史を経てきて、この世界において、あるいは宇宙において悪と対決して、知っていることも同じ知らないことも同じ、こんな闘いの路程を経てきているのです。そして我々が所望の一日を望み見て行こうとするとき、そこには無数の条件がその行路を阻んでいるということを、皆さんは生活において、あるいは人生路程において体験するのです。 それでは、このような環境においてどうしたら解けるかが、今までの歴史過程を経てきた良心的で、善なる人々が渇望してきた標的であり、標準であることを、皆さんは良く知っているのです。 ところで、我々が「今日の私」よりも「明日の私」がより善になろうとするなら、絶対的に実存している神を、我々の生活圏内に引き入れなければならないのです。即ち、その神をある論理的な神、観念的な神としてのみ認識するのではなく、生活において実証的な神として認識しなければならないのです。これは我々信仰者において、重大な問題です。人間は堕落しているので、どうせ堕落の運命を脱する道が残っているのです。このような人間が行くべき道において、今まで数多くの先知者たち、道人たちが持てる誠心と忍耐と至誠を尽くしましたが、この道は未だに行き尽くさぬまま、宇宙的な運命の道として残っているのです。 また人間がしでかした罪によって生じた垣も一つ二つではなく、行っても行っても終わることなく立ちふさがっているので、我々はこれを突き崩して越えて行く立場に立っているのです。 こんな立場に立っている人間が信仰の対象、即ち絶対的な神、絶対的な実存体である神を欣慕してはいるのですが、彼らはそれに対するいろんな不明の事実があることを感じているのです。ですから皆さんは漠然と、観念的にのみ神の実存を認識していたのでは駄目なのです。しかし論理的な面だけで神の存在を認識していては、無理があるのです。なぜなら、論理圏内でのみ留まっている神ではないからです。論理的に神を認識する信仰が、我々の人生を導いて永遠なる生命の実体として完成させてくれるかというとき、そこには問題点が多いのです。 それではこのような環境に生きている今日の我々は、どうしたら真の主様とアボジのまえに出て行くことができるのか。我々がアボジのまえに行こうとすることは、人間の所望であると同時に、神の摂理の目標でもあるということを、知らねばなりません。 それでは、このような環境にある我々が神を捜し求め、信仰の道を求めて行くとき、我々が行く道を何が妨げているのか? まず我知らずに生じる疑心が、前途を妨げているのです。また、罪悪の試みが妨げ、予期せず不意に死亡の力が 行く手を塞ぐのです。我々はこんな疑心の峠を越えなければならず、罪悪の峠を越えなければならず、死亡の峠を越えなければならないのです。 そして各自に永遠なる理想と関係を結んで、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の人生の目的を支配してくれることを願う欲望を、人間は抱いてきたのです。また、こんな永遠の関係を結ぶことのできるその基準を、人間は我知らずに待ちわびてきたのです。人間はこのような過程を、必ず経て行かねばならないのです。 また皆さんは生活圏内において、神の実存を体恤することを願い、神の実体と出会うことを欣慕しています。しかしその神の実体を、信仰の対象に立ててゆこうとするとき、さまざまな疑心が起こるのです。であってもこの疑心の条件を越えてゆかなければならず、これを通過しなければなりません。そして皆さんは、信仰の大きな陰の下にいるということを、感じなければなりません。 それではこんなことを感じた後で、どのようにするのでしょうか? これを自分の心に抱いているだけでは、真の信仰の道を行くことはできません。こんな問題を解く道がないのです。皆さんが、神がおられるということを認定したなら、神様に自分が持っているすべての疑心を素直にさらけ出し、信仰の対象者として留まらなければなりません。また、自身のすべての罪悪からくる苦難、即ち自らが負う自犯罪から、血統的に受け継いだ遺伝的な罪まで、全部を率直に神様に告白しなければならないのです。 またそれのみならず、前途を塞いでいるすべてのものと闘う運命におかれているにもかかわらず、永遠の所望の世界に向かって、一歩一歩前進しなければならないにもかかわらず、永遠の生命の理想を感じることができる約束の天国へと入らなければならないにもかかわらず、未だに死亡の圏内に留まっていることを、我々は克服しなければなりません。 疑心の解明方法-勇気ある信仰 今皆さんに天の父を求め願う心があるなら、皆さんは今まで持っていた疑心と、罪悪と死亡の内容を抜き出さなければなりません。皆さんが今まで留まっていたその場、罪悪と因縁を結んでいるその堕落の環境においては、神や善と関係を結ぶことはできません。皆さんが善となる環境はそんな環境ではなく、新しい環境でなければなりません。 それでは、皆さんがそんな環境から抜け出すためには、どのようにしなければならないか。皆さん「私はこんな不足なる姿ですが、お父様、お受けください」という懇切な心情を持たねばなりません。こんな心情が、皆さんの心の内を占めるなら、皆さんは永遠なる生命の世界に入るようになるのです。 そして皆さんが接している周囲の環境から抱いている疑心を取り出して「お父様、自分の心と体からこれを取り除いてください」とすることができ、罪悪に犯されているこのような自身を、お父様のみまえにおいてか、ある信仰の主体者の前にそのまま委ねる勇気を持たねばなりません。でなければこんな心情なりと、心の中心に立てて考えなけれんばなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んで行くことができません。神が人間に対して求めるとき、どんな条件を提示されたかといえば、信仰を提示されたのです。それで人間は信仰によって自身のすべてのものを捨て、疑心となっている環境を打破し、信じることのできる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境を造り、死亡の環境を打破して生命の環境を造成しなければなりません。 このようなことを果たした後にこそ永遠なる神の愛を中心とする、神の無限大の栄光を神に代わって歌うことができ、神の権限を自らが現すことができるようになるのです。このような一時を願って、人間の心は動いてきたのです。この事実は誰も否定できません。今日我々は、我々が留まっているこの罪悪の環境を、無慈悲に精算してしまわねばなりません。また自身のすべてのものをお父様のまえに取り出して、今まで結んでいたお父様との関係においてあった疑心をすべて解明して、今まで持っていたすべての罪悪の要素を打破して、今まで属していた死亡の権勢から解脱することができる信仰の基準を持たねばなりません。 それでは、どのよにしなければならないのか。皆さんが持っている疑心を解明することができる道を、捜さなければなりません。生命へと出て行く道を、捜さなければなりません。もしもこのような道が人間の世になかったなら、神は訪れることができません。自身の過ちを悟り、悔い改めることができる良心を刺激させる実存体が神であるなら、その神が所望とする最大の所望と生命と人倫の基準を、皆さんは必ず立てなければなりません。そのようになる一日、歴史的な終末時代が、いつかはどうせ来なければならないのです。それではこのような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどの程度に考えてみましたか? 事実、今日の皆さんは宇宙とこの社会と世界、はなはだしくは皆さん自身に対しても、疑心を抱く環境におかれているのです。 こんなすべての問題を解明してくれる中心存在が誰であるかといえば、神様です。また、人間の気にかかるすべてのことを知っているお方もやはり神というお方であり、これを解決してくれるお方も、やはり絶対的な存在である神様なのです。 それゆえ皆さんは、皆さんと関係しているすべての宇宙的な疑心を背負い「神よ、私は今、宇宙に対するすべての疑心を持って来ましたので、あなたと私との間には天倫的な因縁があるなら、私を捨てたまわないあなたであるなら、このすべての疑心を受けて解明してください」として神様にお任せする、胆力もなければなりません。 このように疑心となっている問題を、解決しようにも解決することができないそんな立場に立つとき、これを解決することが信仰の道理と知り、これを解決するために困難な闘いをして生きる人間があるなら、彼は独りで歩んでも終わりには、普通に歩んでいる信仰者以上の場に出て行くことができるのです。 皆さんが善の道を塞ぎ、悪の道を開いているそんなサタンの仕業を押し退け、個人的に勝利の目標に向かって開拓して行こうとするときには、自身の疑心を全部、信仰の主体者の前に率直に告白しなければなりません。告白すること自体も高潔なことですが、本当に自分がぶつかっている宇宙的な疑心の限界に対して挑戦する誠実さをもって、天のまえに「アボジよ!神様!」と叫ぶときは、アボジも彼に対して与えてあげなければならないのです。神にはそんな人間に対して、与えなければならない責任があるのです。 真実、天倫が蹂躪される法はなく、真は神が捨てられる理がないのです。それゆえ皆さんは、皆さんの心に疑心となるすべての事実を解決するために真実なる心で、忠実と忠節と誠精の心を持って神を抱き、訴えるそんな覚悟をしなけばなりません。 この疑問が解明されなければ、我々は罪の道を打開する道理がないのです。どんなに大きな恩恵を受けたとしても、疑問が完全に解明されなければ、また残るのです。 歴史的な疑心の障壁を克服されたイエス様の御言 堕落の起源を振り返ってみるとき、アダムとエバが堕落するようになったのは疑心のためであったのです。それゆえ復帰の過程にある我々にある疑心があったなら、これを解明しなければならないのです。疑心が大きければ大きいほど、その心が大きく囚われるのです。それで疑心を解くために神に大胆に出て行く、勇気と覚悟を持つ人間にならなければなりません。 長い歴史を経てきて、人間は人生観や宇宙観において多くの疑問点を解こうと努力してきました。しかし未だ、完全に解明されてはいません。今この疑問となっていることを解明するために、この問題に全面挑戦して、天のまえに忠実なる姿で、ある誠精をすべて捧げる人間がこの地上に現れたなら、神は彼を立ててくださり、また彼の疑問を解いてくだるのです。 長い歴史を経過してきて、このような天倫の秘密を明らかにするために数多くの先知者たちが来ては行ったのです。しかし人類が心がけ、考えてきた全体的な内容が解明されていないのです。それでこのような宇宙的な疑問を解明してくださるために、イエス様は来たのであり、解決されていない人間の罪を解決するためにイエス様は来たのであり、死亡の問題を解決するためにイエス様は来たのです。 人類のこのような疑問と、死亡と罪を解決してくれるお方は、ただイエス様だけなのです。そしてイエス様は四〇〇〇年の歴史過程に来たどこの誰よりも、神の為に忠実な生活をされたお方です。自身を超越して、宇宙的な疑心を解明するために努力され、自分一身の栄光を超越して宇宙の栄光の為に苦労され、自身のすべてのことを省みることなく、ひたすら神のみ旨を成すために、無限に犠牲となって行かれたのです。 こんな一貫した心と生活によって、イエス・キリストは歴史を代表して天のまえに一番の先駆けとして立てられたのです。それでイエス・キリストは歴史的な疑心の障壁を克服して、自信をもって「わたしを信じよ」と叫んだのです。 「わたしを信じよ」と言われたイエス様のこの一言は、いかにして信仰の基準になることができ、またいかにして「わたしを信じよ」という信仰の基準を、イエス様は立てるようになったのか? あまりに多くの疑問を解明するには、時間が必要であることを知るイエス様ですから、これを短縮して、ある時が来れば自然に分かる道を教えようと、イエス様はこのように語られたのです。 イエス様は地上の人間の世の事のみならず、天の世界に対しても知っていたのです。それでイエス様は「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三:一二)と語られたのです。 人間の言葉をもっては、疑問の峠を越えることができません。必ず天の言葉を通さなければ、すべての疑問が解明されないのです。 それでは、天の言葉を聞く時はいつでしょうか? その時は、人類が捜し求める最後の時、キリスト教で言う最後の審判の日なのです。神はこの時を基準として、すべての復帰摂理をなして来られました。ところで、すべての疑心と死亡と罪の条件と、要素を取り除く新しい御言がこの地上に現れる時、この御言を受けることができる皆さん自身になっているか、ということが問題になるのです。 皆さんがこんな御言を受けることを願うなら、皆さんはイエス様が天の為に忠誠を尽くしたように、イエス様の為に忠誠を尽くす人間にならなければならないのです。また、尊い供え物を受けようとする時、これを受けることができる器が必要であるように、これから全体的な疑問を解明する価値ある御言が現れる時、皆さんはこれを受けることができる自身になっていなければならないことを、知らねばなりません。 神様と因縁を結ぶ道 それでは何によって、この御言を受けるのでしょうか? これは正に皆さんの誠精と忠誠によってです。イエス様が四〇〇〇年の歴史を代表して、天に対して忠誠を尽くしたように、皆さんも六〇〇〇年の歴史を代身して、天とイエスのまえに忠誠を尽くさねばなりません。このような皆さんでなければ、全体的に解明される時代にとうてい出てゆくことができません。 それではこの解明の御言とは,どんな御言でしょうか? それは皆さんが聞いてみない新しい御言として、現れたものです。また、この御言はどんな御言でしょうか? この御言は個人的な疑問を解明してくれると同時に、世界に関する疑問と、宇宙に関する疑問を解明してくれる御言として現れたものです。 この御言はまた、どんな体系を持つ御言でしょうか? これは一言で表現することは難しいのですがざっと話せば、六〇〇〇年の間流れてきた疑問の歴史を解明することができる、具体的な内容を持つ御言なのです。 実際にこれからの時代は、そんな具体的な内容を持つ御言が現れるのです。そしてこれから現れるその御言を、我々個人に適用させてみれば、この御言は我々の生活環境を支配する御言として現れるのであり、またこの御言を通して永遠の世界を目的としている絶対者の治理の権限と、我々の生活は密接な関係を結ぶようになっているのです。この御言はこんな具体的な内容を、持っていなければならないのです。それで我々が、神と一体化しているこの御言と一体化すれば、この一体となっている場には、いかなる疑心や死亡や罪悪も、侵犯できないのです。 そしてこの御言は、我々の信仰を完成させてくれる絶対的な御言にならなければなりません。また、我々をして絶対的な善を指向させる御言でなければならず、永遠なる生命を感じさせる御言でなければなりません。 今まで人間が追求してきた真理探究の歴史を探って見れば、初めは人間の探究の対象は宇宙でした。即ち「この宇宙はいかなるものか」という問題について、人間は苦心してきたのです。その次には、人間を中心にして探究してきました。即ち「人間とは何か」という問題について苦心したのです。このように人間は理性を中心に、今まで真理を探究してきたのですが、人間のこの理性は完全なものでしょうか? そうではないのです。理性それ自体のみによっては、完全になることはできません。そしてこの理性は人間をして、絶対的な価値を増進させることができず、永遠なる人間の生活理念になることができないのです。 それで人間は絶対者、即ち宗教的に言えば神を、認定せざるを得なくなったのです。しかしこの神は、人間が犯した罪の要素に許しを乞うための、人倫的な神であったのです。論理を超越した神として、人間個々人と関係を結ぶ神ではなかったのです。どこまでも人間的な思考による神でした。しかしこのような神観は、完全な神観ではありません。 このような立場から一歩飛躍して、正しい信仰者たちは絶対的な神を認めていました。しかし彼らは絶対的な神を認定しても、信仰生活において、自身がその神と因縁を結んでいなかったのです。論理的な立場に留まっているなら、どのようにすれば飛躍的な神の実存を感じることができ、その神の実存が私と生活的に因縁を結ぶことができるか、という問題は解決できないのです。 我々はこれを解決してくれる、理念を持たねばなりません。そしてこの理念は宇宙論を代身して、人間の理念の価値を代身し、人間の生命の価値を代身し、絶対者の理念、即ち神の理念にまで通じなければなりません。このような理念が、我々と関係を結んでいなければならないのです。これはどんな人間の表現をもってしてもできません。どんな人間の人格修養をもってしても、できないのです。 神様に出会うことのできる信仰の基準 それでは今日、我々が天倫の新理念圏に生まれた以上、我々は自分の人生において天宙的な理念を捜し求めなければなりません。神の理念に通じたイエス様であることを知らねばならず、最高の良心の基準と、最高の善の基準に立たれたイエス様は、神の全体的な性禀を代身されたお方であることを、我々は自動的に信じ、知ることができる境地にまで行かなければなりません。 どうして我々自身は、イエス様と同じになれないでいるのか? それは我々が今、何かをしようとしてもその留まっている環境が、何かをやろうとする我々の心を、強力に抑圧している力が塞いでいるからです。人間はこの事実を忘れているのです。また、自分の良心が最高の善、即ち、絶対者の実存に向かっているとしても、このような心は順調に行動に移されないでいるのです。なぜそうなのか、堕落の応報によってこの世界が罪悪の世界になっているからです。 我々の本心、本性の力を押さえている自分の心の力よりも、より強い闇の勢力が我々を押さえているのです。この闇の勢力を、キリスト教ではサタンだとしているのです。我々はこの闇の勢力をどう打破してゆくか、ということを考えてみなければなりません。 闇の勢力と、我々の体にある悪の要件は我々をして疑心を抱かせ、罪悪の行動をさせ、我々を死亡の世界へと引きずって行くのです。我々はこれを防ぎ止めることができる環境を持たねばなりません。こんな環境を求め立てようとする宗教が、正にキリスト教なのです。 それでイエス様は、ご自身が神を信じてゆかれたように我々に「わたしを信じよ」と語られたのです。この「わたし」とは、イエス様のみが成就された「わたし」なのですが、このような個人を成して、人間世界に拡張させる運動を誰がするのでしょうか。これは人間の力によって成ることではないのです。神がしなければなりません。しかしながらここには人間の信仰が必要なのです。言い換えれば、イエス様が神を信仰によって周囲の環境に広がっている闇の勢力を生活のなかで追い出したように、我々が神を信じてゆくとき、瞬間的にサタンが我々の日課、我々が動く所へ現れるのですが、結局天が現れてサタンを追い払ってくださるのです。この一つの基準を立てるために、イエス様は信仰の基準を立てられたのです。 それでは我々が信仰の条件を立てるなら、どの基準まで信じなければならないのでしょうか。皆さんが想像して信じている程度に、適当に信じていたのでは駄目なのです。皆さんの考えが及ぶ程度まで、信じていたのでは駄目だというのです。この基準は今日この世において、信じている基準ではありません。 大きく高い神の実存体の為に信じるなら、この大きく高い神の価値に比較できる信仰の基準を、皆さんは立てなければなりません。 それでは現在、人間はどの程度まで信じていると言えるのでしょうか? この信仰の程度はイエス様が「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか?」(ヨハネ三:一二)と語られたように、とても低いのです。イエス様はこのように人間の信仰の程度に対して、落胆的な御言をされたのです。であれば今日、信仰している人々が絶対的な信仰の基準を立てているか、これが問題です。 今日までキリスト教は、聖書の中の神様のみを信じてきました。しかし神の中にも信仰があったのです。神様ご自身も無限なる創造の理念がある限り、この理念を実現させるための信念があるのです。神ご自身も信じておられる何かがあるのです。それゆえ我々は無限大の信仰を、追究してゆかなければなりません。我々がこのような信仰を所有すれば、聖書の中のすべての御言を信じることができるのです。 また聖書の中のすべての御言を信じるならば、イエス様がこの地上に来て語られなかった御言までも、考えることができるのです。それでイエス様が語られなかった部分を、皆さんが捜し求めることによって宇宙的な疑心の峠を越え、宇宙的な死亡と苦難、そして宇宙的な罪悪歴史を経てきた先祖を、慰めることができるのです。 皆さんが今、信仰の主体である主様を信じているのですが、イエス様を信じることのみに止まっていては駄目です。皆さんはイエス様を信仰によって、その信仰の条件を通して永遠の生命において、イエス様と関係と因縁を結ばねばなりません。そして皆さんはイエス様と信仰の関係を結ぶその基の上で、神の実存まで感じなければなりません。皆さんが真にイエス様を信じるならば、このようになることができるのです。 無限なる信仰の路程を探究してゆく人々は、無限なる発展を成すことができるのです。今日一般キリスト教徒たちは、こんな事実を知らないでいるのです。このような無限の信仰の理念のとりこになって、天国が成ることを願う真の信仰者を、天は待っておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 真の信仰者は悪なる環境に影響を受けない 今皆さんは自身が歩んでいる信仰路程において、生命の条件を通過しなければならず、天倫の秘密に通じなければならないので、そのような道を捜し立てるのだということを、知らねばなりません。 これらを通ったその次には疑心の峠を越え、罪悪の峠を越え、死亡の峠を越え、悪を中心としたすべての欲望の峠を、みな越えなければなりません。 それではこの峠をみな越えて、その次には何をするのでしょうか。その次には神様に、我々が侍らなければなりません。信仰の主体であり、善の主体であり、生命の主体であるこのお方を、我々の心に侍ることができなければなりません。これがイエス様が「わたしはわたしの父におり、あなたがかはわたしにおり、また、わたしがあなたがかにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四:二〇)と言われた御言と同じ一体の境地なのです。無限大の所望を抱く創造主神を信じ、その神を自身の心に侍って、泰然自若としているその姿が、どれほど素晴らしいでしょうか。神は我々がそんな姿になることを望んでおられる事実を、皆さんは知らねばなりません。 霊界の事実を本に記録しようとすれば、何万巻の本でもみな記録することができないほど、沢山の内容があるのです。只今まで人間に見せて教えた霊界は一部分ですから、今までの霊界を紹介した本では、全体の霊界を解明することができないのです。 聖書に記録されている御言が、人間が行くべき信仰路程の全体を盛りこんだ御言であるか、全体の価値を回復させる内容を持っているかというとき、私はそうではないと言いたいのです。こんなことを言えば、悪く言う人がいるかも知れないのですが・・・。それで信仰の条件として、イエス様を信じなさいと言うのであり、神は人間がイエス様を最大の価値を持つお方として信じるよう、いろんな役事をされたのです。 そうして我々がイエス様を信じ、イエス様と関係を結んでゆけばゆくほど、直接的に神様が我々の生活を主管されるのであり、神の主管を受けて我々は神の対象の位置で、神の価値と連結されるのであり、神と心情的な関係を結ぶことができるのです。このように神の真理が我々の生活の中に現れ、神の真理と相対する要素を我々が持つのです。 結局はすべての主義思想を統合し、すべての民族を統合させることができる生活環境を建設しなければなりません。こんな生活環境圏内に入れば、善の希望を持つことができ、善の生命を所有でき、善の絶対的な価値を現すことができるのです。人類がこんな立場に立てば、神はある特定の民族の神ではなく、万有の神として現れることができるのです。皆さんが生きている生前にこのようにならなければ、皆さんは神の直系の息子・娘になることはできないのです。 今日皆さんは、他でもなこにすでに出ているのです。他でもなこをすでに歩んでいるのです。そして皆さんは、信仰の標準を宇宙的な創造主義人格において、信仰しているのです。皆さんの信仰の標準を達成する日には、悪の要素が皆さんから消えるのです。そのようになれば皆さんは、この世のすべての事を消化することができるのです。 真というものは悪と共にあっても、その悪に影響を受けて変わらないのです。それで環境がどんなに悪であっても、神の真の息子・娘であったならば、その環境に支配されないのです。このような真の信仰者にならなければ、天倫に対せないのみならず、神のまえに立つことができないのです。 それではイエス様は、どうして自らを神の独り子だとされたのでしょう。イエス様がこのように、とても人間が信じ難い条件を提示されたことは、彼らがこれを信じれば瞬間的に飛躍できる恵沢を与えるためだったのです。それで人間が無限の信仰によってイエス様を信じ、本心から天に向かって呼べば、飛躍的に信仰が成長するのです。 天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が、高ければ高いほど、霊界も皆さんを通してより大きな役事をするのであり、皆さんが無限の信仰心を持つなら、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像することもできないほどの超感覚的な世界の事実と、宇宙の事実を一時に感じることができるのです。ところが人間はこんな驚くべき事を、失ってしまったのです。 行って行って、また行かなければならないのが、無限なる世界を指向している信仰者の姿勢であるなら、ある限界圏内に留まって信仰を叫んでいる群れを退けるために、終わりの日には、宇宙的な大闘争をしなければならないのです。 神のまえに立つ真の息子・娘になるなら 今までの歴史路程を振り返って見れば、新しい時代を迎えるために来た数多くの先知先烈たちは、ほとんどが迫害されたのです。彼らを追った人間は我々の先祖たちです。イエス様が来られたときも、ユダヤ教徒たちはイエス様を嫌い、反対したのです。彼らは追ったのです。自分たちが信じているものが一番だと思い、宇宙を代身し、天宙を代身した救援摂理を、自分たちで勝手に判断したのです。このように我々の先祖たちは、天倫の道に逆らい、天倫の歴史を壊す過ちを犯してきたのです。 それでは、今日この終わりの日に、誰が百%の信仰を持っているのか。罪悪を追い出すための闘いに出る皆さんが、この立場に立たねばなりません。そしてこの信仰の本質に徹する責任感を持って、絶えず努力して実践してゆかなければなりません。皆さんがこのような立場に立たないなら、無限の愛の理念を持つ新郎の名によって来られるお方の前に、対象の資格をもって立てないのであり、また無限に生育し、繁殖せよといわれた神様と関係を結ぶことができないのです。 このように見るとき、罪が何かといえば、信じないということです。神が送られた人物を信じないことが罪であり、このお方の御言を信じないことが罪になったのです。それゆえ皆さんは、宇宙的な神の理念を受けなければなりません。そして確固とした信仰を持ってゆかなければなりません。ところが皆さんがこんな信仰を持とうとするとき、皆さんの心の中には、これと相反する疑心が生じるのです。 これは皆さんの心に、悪の勢力が働くからです。この悪の勢力は皆さんの心に恐れと恐怖を感じさせるのです。それゆえ皆さんは、この悪の勢力に呑まれる信仰をしては駄目です。このようなものを消化して越えてゆく、雅量を持たねばなりません。こんな立場に立たれたイエス様でしたから、このお方は十字架を背負う場も避けられなかったのです。こんなイエス様を、誰が非難できるでしょうか? 神を本心から信じる人間であるなら、イエス様をとうてい非難することはできないのです。 イエス様のような立場で、我々は新しい信仰路程を捜し求めて歩んで行かなければなりません。我々が真実新しい信仰路程を歩んで行けば、ここに我々は実証的な事実、神と因縁をもつ事実、神と関係した事実を求めるのです。そのようになれば、ここに統一を念願とされた創造主の、理想を実現させる道を捜し求めることができるのです。 今日死を覚悟して、新しい信仰の道に従って行く皆さん、皆さんたちが絶対的な信仰によって神の所望に向かって行けば、こんな信仰路程を通して皆さんは、神的な価値を求めるのです。それで皆さんはこんな信仰を持って責任感を感じ、こんな信仰持って実践する真の使徒たちにならねばなりません。こんな皆さんにならなかったら、とうていアボジのまえに立つことはできません。絶対的なアボジのまえに、真の息子・娘として立てず、忠臣の姿として立つことができないのです。 今我々は絶対的なアボジのまえに、真の息子・娘として立つために新しい信仰によってこのすべての疑心の世界、このすべての恐怖の世界を越えなければなりません。我々が天が要求する信仰の基準を知れば、これを立証することができる基準を立てて天のまえに出なければなりません。でなければとうてい、神の真の息子・娘にはなれないのです。 こんな信仰を持ってゆくとき、皆さんは神と永遠の関係を結ぶことができ、永遠なる善と、永遠なる生命を享受することができ、苦しみから永遠に解放され、永遠なる天国圏内で生きるということを、肝に銘じなければなりません。 祈 祷 一時は神様だけに頼る信仰に、この世界を預けてみたのですが、これがみな崩れました。その後では人間の理性を通して、この地上を捜し求めなければならないと主張してみたのですが、今になってみればこれを通しても、み旨を成就できないことが事実として現れているのです。 それで我々は天にも頼らねばならず、人間にも頼らねばならないことと、天と人間が合同して成すべき部分が残っていることを、感じないとしても感じざるを得ないのです。 お父様、私たちを、私たちだけで放っておかないでください。人類が歴史的な路程を歩んできて、失敗した環境であることを知っています。信仰だけでも駄目であり、自分自身だけでも駄目であることを知っています。自分自身を超越することができ、自分の生命の基準を捜し求める宇宙的な理念と真理を、持つことができますように願っています。 私たちもまた真理を持つと同時に、天が私たちに臨まれる基準を立てなければならないことを知りましたので、絶対的な信仰路程を通して、完全に知る立場でアボジをアボジと呼べる立場まで、行けますように導いてください。 イエス様が私たちに語られるに、新郎と新婦の関係で私を捜し求めておられます。内的な面で事情に通じることが心情であり、内的な面で事情に通じるようにしてくれるものが御言ですから、御言に通じるようにしてくださり、この御言を通して真理と心情を知るようにしてくださり、心情的理念を通して神の心情を知ることができる場まで、お父様、私たちと因縁を結ぶことを許してくださるよう、切に望み願います。 お父様、今日私たちが極めて小さな環境に留まることのないよう許してくださり、小さな事にかたよって、自身の全体的な価値を失う愚かな姿にならぬようにしてください。 より大きなアボジの恩賜を欣慕して、より大きなアボジの天的な人格を望み見るよう許してくださり、この人格が未だこの地上にある姿として現れず、また天が私たちを通してこんな人格が現れることを望んでおられるなら、より大きな信仰の基準をもって、この理念に叶う誠心と忠誠をもって、アボジのまえに進み出られますようお許しくださり、この責任を完遂できるように導いてくださるよう、お父様、切に望み願います。 お父様、この時に許される最後の恩賜をくださり、栄光のアボジの息子・娘として、祭物的な生活を通して、永遠なるアボジの全体の信仰理念を、今日の生活の理念として受けて実践していって、万民に対して誇ることができる勝利の姿になるよう導いてくださることを、お父様、切に望み願います。 すべての御言がこの者たちの心の内に、生命の源泉として染みることができ、この御言がこの者たちの心の内に役事するよう助け、懇切にお許しくださることを、主の御名によってお祈り申しあげました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.14
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イエス様が望まれる人間になろう1957年2月17日(日) 前本部教会 祈祷 愛の園と善の園を失ったお父様! 長い間の歴史を経過されながら立てて置かれるそのひとつの御旨を探すことが出来ず、望まれる本然の真なる人間を探せず、お父様の事情を今日ここに集まっている息子娘たちが感じられるように許して下さい。まして父の永遠な摂理を代身して、お父様の愛の懐にいだかれるのに不足なき弟子たちとして立たれるように、この時間役事してくださいますように。 私たちはひとつから全てのことに至るまで神様に要求しなければならない不足な立場にいますから、お父様あわれみの差しのべる手で引きいれて下さいまして、また先祖たちから受け継いだ罪悪の力と性禀の私たちの心の門を閉じておりますから、能力の恩賜を現わして暗い心の門を開いて下さいますように。善に向って歩みができるように引導して下さるのを愛なる(天の)お父様懇切に望みつつ願うものでございます。 天の御旨に向って進んで行こうとする望みのあなたの息子娘の前に、様々な難しさが立ち塞がっていますから、お父様よ力を許して下さいまして能力の善き手で私たちをつかまえて下さりながら、この者たちにあなたが闘われた全体の闘いをまかせて に許して下さい。そうして、億万のサタンの前に神様の御旨を高く讃めたたえられる息子娘になれるように許して下さる愛なるお父様、切に望みつつ願う者でございます。 この時間あなたの膝の前に現れるようになる我々、お父様の前に捧げる何を備えているのか自ら反省して悟れるように許して下さいますように。万一お父様が喜んで受けられる礼物がない場合、自分で懺悔してお父様の矜恤のめぐみを受けることのできるこの一時になるように許して下さることを、愛なる天のお父様切に望みつつ願う者でございます。 天が我々に与えられる使命は我々一人個体だけをしてのための使命だけではなくて、民族と人類をして千千万の聖徒たちの怨恨まで解いて上げなければならない使命を私たちは知る者でございます。取るに足らない私たちにそのような天倫の御旨を成就させ捧げなければならない使命がありますから、この場所に不足なあなたの息子娘たちの体、心を祭物として望まれる宇宙的なその一つの御旨を成されまして、その御旨を成すのに少しも不足さがない私たち自体として立てて下さることを、愛のお父様切に望みつつ願う者です。まだお父様の御旨の前に、お父様の恵みの前に、お父様の愛の懐の前に容納(寛大)に受け入れられない要素を抱いている子女たちがいるならば、お父様よ、能力の役事として再創造の御言として対して与えて、この者たちをしてお父様の心を知ってあげられないのに対して悔信の涙を流すことのできるこの時間になるのように引き連れて下さいますように、愛のお父様切に願う者でございます。 取るに足らない私たちに三千万の民族を代身して闘うことの出来る天の使命を任されたのに対して感謝するものでございます。御旨を眺めて集ったあなたの息子娘たちが闘いの旗幟を上げて天に対して行かなければならない宇宙的な責任にありますから、お父様よ、この者たちにあなたの能力を与えて下さいませ。 この者たちがお父様の御旨に対して行けないようにでなく、あなたの感動の役事をあなたの直接的な感動をこの者たちの生涯を通して現わして、永遠不変の路程に向かって駆けて行けるようにお父様この者たちを引導して下さいませ。そうして億万のサタンと闘って勝ってすべての群衆の前にお父様が一緒される息子娘、主を証拠しても残りがあるように導いてくださるように愛なるお父様切に望みつつ願う者です。 この日は聖なる日、伏秦(謹んで申し上げる)のために約束して立てられた日であるのを知っていますから、今日ここに集るあなたの息子娘たちがお父様の深くて高らかな愛の懐に抱かれて天性の生活をなすことの出来るように、恩赦を許して下さいますことを切に望みつつ願う者でございます。 孤独な食口たちが四方に広げて許される御言を伝えるために苦労する折々毎に、お父様よ、約束される御旨を現わして下さいませ。そうして生きていらっしゃるお父様の息子娘というのを証拠して、暗黒圏内にいる大勢の民を目覚めさせる直接的に役事があらわれるように許して下さいますのを、愛なるお父様切に望みつつ願う者です。今お父様の前に腹這いの私たち、お父様が応答出来ない主義主張や行動があっても、自らそれをみんな出しておいて尊厳なされるお父様の恩恵として精算受けるために、温柔謙遜して敬拝を捧げることができる心を懐けるように許して下さいませ。 この時間サタンが侵入しないようにお父様主管して下さいまして、苦難に勝って勝利することができるように導いて下さるお父様の恵みの前に、感謝敬拝捧げられるように引導して下さるお父様切に望みつつ願う者です。ただ、御旨(心)と人間だけがこの一時一緒して下さることを切にお願いしながら、全ての御言を主の御名を通して祈祷する者でございます。アーメン。 <御言> 今日は、しばらくの間イエス様が望まれる人間になろうという題目のみ言葉をもって皆さんと一緒に考えて見ようと思います。 イエス様の降臨の目的 神様の胸の中に隠れていた天の御旨を代身して懐いてこの地上に現れたイエス・キリストは、我々の祖先たちが間違った罪悪史を明白にして乗り越えて、勝利の山上に良き真の息子娘を探すために来られた方であることを皆さんは良く知っています。それならば、イエス様がこの地上の人間たちの前に現れるようになった時どのような心をもって現れましたか。堕落する前人間が神様と対した心を懐いて現れたのでした。イエス様は自身が見て聞いて感じて考えられる全ては堕落圏からサタンが喜ぶことのできる感覚ではなく、天性を代身した者であるなら、人間に対して要求された全体の御旨を懐いて生涯の標準を立て、新しい福印のみ言葉を宣布されるようになったのを皆さんが知らなければなりません。 イエス様が御覧になられた目、イエス様がお聞きになった耳、イエス様がお話しになった口、香りを嗅がれた鼻、全てのものを感じられたその肢體は地上の上の人間が自身の願いを成就するために感じる肢體とは違ったのです。それはひたすら罪悪の世上を超越して、神様の心に一致して神様の御旨の前に応答して神様が喜べるみ言葉を自ら実践して、万民が自己を模範とし現れることができる一つの勝利の条件として立てられたのである。 それならばそのような心を抱かれたイエス様が望まれる人間はどんな人であるのか、言いかえれば(言わば)イエス様が探していらっしゃる人はどんな人であるのか? イエス様が望まれる人の基準が何であるのかを知ってその基準を徊復する人がないならば、イエス様が望まれる御旨がこの地上に成就されないだけではなく、神様の御旨も成就されないのである。これを皆さんは確実に知らねばなりません。神様がイエス・キリストを通して要求なさった御旨は、イエス様自身を標本として世界的勝利の条件として万民がイエス様と一つになることでした。ちょうど万民がイエス様を模範としてイエス様と喜ぶことのできる人に成るのを、神様も望まれてイエス様も望まれたのでした。このようにイエス様は万民を復帰しなければならない使命を持ってこの地上に現れられたのに、彼が話された御言や彼が体で感じられた感情や感覚は、今日私たちが用いている言葉や私たちが感じている感情と感覚とは根本的に違っているのである。 それならばイエス様を主として集っている今日の私たちはどのようにしなければならないのか。まずイエス様が天の御旨を成そうとされるその責任感と、宇宙に対して久遠の歴史を完成させなければならない全体的な責任を負われたその心情を推測して知らなければなりません。そうしてイエス様が感じて体恤して考えたその一つの基準まで進んで、イエス様と直接に対することができる相対的な立場に立たなければならないのです。そのような皆さんになれないならばイエス様はかわいそうな方になってしまうのである。 神様は全力を傾けてアダムエバを造られて置かれて、彼らを通して喜びを感じられようとされたのに、彼らが堕落してしまったので神様の心中に悲しみがしみとおるようになってしまいました。この悲しみを解いてあげるために来られた方が誰だったのかと言うならば、すなわちイエス様だったのです。ところでそのようなイエス様が地上に来られ何をされようとなさったのか堕落しない本然の人間と一緒に堕落性を脱いで、怨讐サタンの讒訴を受けない者として神様の前に堂々と現れることのできる一人の真の人を探して立てようとされたのでした。 主様に侍られないユダヤ教団 このようなイエス様の前に四千年の間準備されたユダヤ教が、イエス様が喜ぶことのできる一人の人を捧げなければならなかったのにそのようにできませんでした。このような立場に立つイエス様は昔、神様がアダムとエバを造られて彼等を通して喜ばれようとなされたのに、かえって彼等が堕落したために神様が悲しみを感じられたのと同様、神様の御旨のため準備されたユダヤ教が不信するようになったために、十字架に亡くなられるようになるやいなや言うに言えないやるせなさ(うら悲しい)を感じられたのです。 それだから、皆さんは先祖としての始める神様の悲しみを解いてあげるために来られたのだが、ユダヤ教団が不信のためにこのようにもう一度悲しみの立場に至るようになってしまったイエス様のその恨みを(怨恨)解いてあげる聖徒にならなければなりません。万一そのような人になれないならば、皆さんはイエス様が望む人間になれなくて神様が望む人間になれないのです。これを皆さんは銘心しなければなりません。 今日私達はイエス様が望む、神様が望む人に成るために集ったけれども、私たちの周囲にはそのような人になれないように邪魔する条件がたくさん散らばっています。それはサタンが常に私たちの行く道を邪魔しているためです。このようにサタンはいつでも私たちの生活に讒訴の条件を探し出そうとするのです。 昔アダムとエバが何のために堕落したのかというならば、聞こえて来る言葉がどんな言葉であるのかを分別することができなかったためです。天使長の言葉をエバが聞くようになった時、その言葉が真なる言葉であるのか虚の言葉であるのか分別することができなくて行動して堕落が生じたのでした。それならば今日これを復帰しなければならない私たちはどのようにしなければならないのか、正しい耳、真なる耳をもって聞こえてくる言葉が善なる言葉であるか悪なる言葉であるかを自ら分別しなければならないのです。聞こえてくる言葉がどんな言葉であるか分別できない皆さんになるならば、皆さんも知らない間にサタンの誘惑に天倫を台無しにすることをしでかして 皆さんは知らなければなりません。 今日この地上には皆さんの耳に響いている言葉がたくさん与えられているのを知っています。その中には神様を代身する天の御言もあるのです。人間の享楽を中心とする言葉もあるのです。サタンを中心とする言葉もあるのです。ところで皆さんがこの様な生活周辺から鼓膜を響かせ、聞こえて来るこの言葉がどの園から聞こえて来る言葉かを分別することができなければ、ある時ある所から皆さんがサタンの言葉を聞くようになって、それに因るサタンは皆さんの生命を奪うようになるか知りません。そうであるから皆さんは常に悟って善悪を正しく分別することができるだろうと知らねばなりません。 万民を救うために御言を伝えられたイエス様は、当時ユダヤの民に「耳のある者たちは聞くがよい」と叫ばれました。イエス様がこの御言を話されたのは正しい耳をもつ者は自分の御言を命の御言として聞くので確信するのです。ところでイエス様が呼び求める声を地上にいる人間が天の御言として信じてくれる者が一人もいなかったのでした。 それであるから今日イエス様の悲しみを解いてあげるために集った私たちに、イエス様が伝えた御言は自分の生命に代る御言です。天を代身する御言と思って耳を傾けるように思わなければなりません。またそのような私自体を反省して見なければなりません。皆さんが耳を傾けて天の御言を聞く者になるだけが、イエス様の御心の前に正々堂々立てることができるようになるのを確実に知らねばりません。 そしてイエス様が四千年間苦労なさった神様の心情を代身する御言で、エデンの園からアダムとエバが堕落する全体の事実を(恢復)回復するための神様の事情を代身する御言で、感動の御言で、堕落世界を徊復するための復帰の御言で、民族の前に伝えられたのにその御言を聞く者が一人もいなかったのです。このようにイエス様を信じることができない先祖を持っている(備えている)私たちは、神様の御言とサタンの言葉を分別することができず堕落したアダムとエバの血統を受継いだ私たちであるので、復帰の道を行く路程に私たちを邪魔するサタンたちが多いのを悟って、自分に聞こえて来る一つの言葉もそれが本当のものであるのか虚であるかを正しく区別して聞かねばなりません。万一真と虚を正しく分別できない皆さんになるならば皆さんは神様の息子娘になることができないだけではなく、イエス様の新婦にもなれないのです。 イエス様の新婦になる資格 それならば終りの日を迎えている今日の皆さんがイエス様と永遠に別れることのできない新婦になるためにはどのようにしなければならないのか? イエス様が耳があっても知って聞けない民たちを見られて、やるせなさと寂しさに陥り吐露されたその声を皆さんがもう一度聞いて、その方を慰めてさしあげることのできる者にならなければなりません。そのような皆さんになるときに神様が願われる御旨、イエス様が望まれた御旨、千千万聖徒が願う御旨を皆さん自体として成して上げることができるのです。このように皆さん一人個人の耳を通して聞こえてくる御言の中には、歴史的であって宇宙的である責任が伴っているのを確実に知る皆さんにならなければなりません。 その次には正しく見て知る人にならねばなりません。四千年歴史を代身して天から送られたメシアが、そのように非常に軽い姿で生まれるだろうと当時の人々は夢にも思わなかったのでした。そしてメシアを見てもメシアとして見れなかったのでした。ヨセフの子供として生まれて三十余生涯を、子供一人で大工の仕事をしたイエス様が、神様が初めて万民の前に見せてくださる一人の主人公だったのを、それを誰が知っていましたか? 誰も知りませんでした。誰も知らなかったのでした。 しかし今日皆さんは、イエス様が歴史的な苦労の十字架を負っていらっしゃったのを正しいと思わなければなりません。ちょうど彼の一身自体は、神様が四千年間苦労された全体の路程を蕩減することのできる苦労の祭物として生まれたのを、正しく(間違いなく)見て知らなければならないのです。万一、当時の人々が神様がイエス様一人を探して立てるために四千年歴史過程に数多く先知者たちを送られて、イスラエル選民を形成して現されたのを知ってイエス様を知ったならば、なぜイエス様が十字架を負われましたか? イエス様を正確に見ることができて知らなければならなかったユダ民族の目が暗かったために、イエス様は一人ゴルゴダの山頂に残るようになったのです。しかしイエス様は一人で神様の御旨を、自身が喜びの場所に至ることのできなかったその事情と自己自体に万民の前に、または神様の内的な性相を万民の前に見せてくださるため呼んでその事情を知ることのできる人を探されようとされたのです。ところで、そのような一人の人をイエス様は探し立てられないで、結局十字架に亡くなられるようになったのです。そうであるから、今日六千年歴史を終結させるために御旨の道を歩んでいる皆さんは、皆さんと一緒に御旨の道を行くことのできる人を探して立てなければなりません。万一皆さんがその様な人を探し立てられないならば、イエス様が生まれた時追いやってしまった私たちの先祖達の過誤を、蕩減を立てることができないのである。これを皆さんは銘心しなければなりません。 そのようなわけで今日皆さんは、皆さんの心をお父様の前に立てて置いて、亡くなられたイエス様がどんな姿で私たちに対されて呼ばれていたかを知らねばなりません。ちょうどイエス様が一人で泣き叫ばれ亡くなられた以後、聖書まで送られて今日私たちに向かって切なそうに手振りしていたならば、私たちに対して切ない心情を行動で現れていた事実を知らねばなりません。そうして皆さん自体が二千年前イエス様を知ることのできないユダヤ教人の立場を蕩減して、イエス様に対してやっぱりあなたは四千年だけに神様の御旨を代身する勝利的な一人自体として現れる存在としてだ、と言いながらそれに敬拝を捧げることのできる人にならねばなりません。それだけではなく、イエス様が来て行かれた以後二千年という長い長い歳月を通して、皆さん一人自体を探し立てるために霊的な世界からイエスと聖霊が苦労し来られたのを悟って知る人にならねばなりません。万一そのような皆さんになれなければイエス様の当時に結ばれた四千年の恨みを解くことができなくて、イエス様以後二千年歴史に結ばれて神様の悲しみを解いてさしあげることができないのです。それであるからこのように歴史的な栄光を背負っている皆さんは、過去の先知者たちが伝えた御言や行動したその姿をやたらに批判してはならないのです。 それであるから今日このように皆さんが私たちに向かって手振りし話されるその聖人の前、歴史的な使命にいらっしゃるイエス様の形状の前に温柔謙遜に敬拝を捧げることができて、イエス様の友人になれる一人の存在が現れなければなりません。そのような一人の存在がこの地上に現れたならば、皆さんはその方を模範として三十余一生涯の路程を経て持って、二千年間苦労されるその心情を、実証的に慰めてあげることのできる新婦の席に行くことができるのです。 イエス様を模範としなければならない我々 それならば皆さんが罪悪の虜にされて死亡の墓の中で呻吟するようになった時、イエス様が皆さんを何度か探してこられるのを知っていますか? 皆さんは知らないのです。蕩減復帰しなければならない運命が残っているこの地上であるので、イエス様が十字架に亡くなられたその路程をその通りにおいてにするためにイエス様は皆さんを探してこられたのです。ちょうどイエス様が十字架の救援の摂理を立てる事ができるまでには、神様が四千年間に先知先烈者たちを送って摂理された苦労の歴史があったので、神様は皆さん自体を通してこれを再蕩減復帰しようとされたのです。言いかえれば私たち一人自体がたとえ一人個人であるけれど歴史的な価値を持てるようにして、イエス様と完全に一つになることのできる心を抱けるようにするためにイエス様は探して来られるのです。六千年歴史の罪悪の血統を脱がなければならない皆さんであるので、イエス様は数多く先知先烈達が地上に御旨を成就させることができなかったその恨みを解怨するために、皆さんを探して与えていらっしゃるのです。ちょうどイエス様が、ある時ある所にあっていても神様が堕落しなかった所のアダムに対されたのと同じような心情で皆さんに対して下さいます。 神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、四大先知者など多くの先知者たちを通して御旨をなされようとされたので、彼等は神様の御旨をみな成して捧げる事ができませんでした。この様な歴史的な全体の摂理の御旨を成して捧げるためにイエス様が来られたり、イエス様もユダヤ民族の不信によって御旨をみな成す事ができなくて十字架に亡くなられたのです。今皆さんがこれを引き継いで受けて成さねばならない歴史的な責任を完遂しなければなりません。そうして皆さんは宇宙の中心存在であるイエス様に似なければなりません。 ちょうどイエス様と同様に宇宙の中心存在として、歴史を代身してこの全ての者を蕩減させようとしてイエス様が見せて下さる生活姿勢を模範として、その通りに実践しなければならないのです。このような人にならなければ終日にイエス様から証拠を受ける事ができるのです。今までキリスト教徒は十字架に亡くなられた主様だけを眺めながら信仰生活をしていました。しかしそうしてはならないのです。皆さんは四千年の歴史過程の一生を通して蕩減するイエス様というのを知らねばならず、イエス様の全生を眺めながら信仰しなければなりません。 今日も、過去に来て行ったりしたアブラハムやモーセ、あるいは洗礼ヨハネの使命を担当する人々がいるので、彼らは個人的な使命だけするのではなく歴史過程に生まれた数多くの人々の使命を果しているのです。皆さん自身もこんな使命と責任を負っているので、その使命と責任を完遂するならばイエス様の全生活を模範としなければならないのです。よくよくそのような皆さんになるならば皆さんは新しい人になることができるのです。 今日キリスト教徒の中によくよくイエス様の御言に耳を傾ける人々がどのくらいいますか。イエス様は六千年間、ある一時安らかな時がない程に苦労の道を渡って来られる神様の切ない心情を持って、人間たちを探して来られたのです。ところでそのような心情を持ってイエス様を迎えてイエス様の心を慰めてイエス様のその尊厳な聖人の前に、イエス様が眺める自体として立った聖徒が少なかったのでした。今日真の聖徒になるための道を行く皆さんがまだそのような基準に到達できないならば、皆さんも皆さん自体を反省しなければなりません。そしてひと歩みもっと行く皆さん自体を天の前に祭物として捧げられなければならないのです。 今日人間はイエス様が切ない心で自分たちに向かって手振りしても見ることができず知らない人々になったのです。それだから今皆さんは聞くことのできる耳を持つと同時に見ることのできる目を持たねばならないのです。皆さんは真理の御言を聞くことができると思うと同時に見る事ができると思わなければなりません。その次ぎにはイエス様を代身して真理を話す事のできる口を持たねばなりません。ちょうど皆さんはイエス様が伝えたかった内的心情を代身して、この地上に生きている可愛そうな人々に、見て聞いた六千年歴史とイエスの生涯と事情を正しく紹介してあげられるような人々にならなければならないのです。この様な人々を探していらっしゃるならば神様も探していらっしゃるのです。 今日皆さんたちはイエスの心に涙ぐむ話をしなければなりません。二枚舌を持つヘビの血統である皆さんであるが、皆さんは二つの言葉を話してはならないのです。皆さんは神様の側の御言を聞いて神様の聖さを見てその事実を偽り無く、二つの舌を持つ人間ではなくてひとつの舌を持つ人として万民に現す事のできる人にならなくてはならないのです。神様はこの様にあなたの舌を代身することのできる義憤ある人、イエス様の舌を代身できる一人を探していらっしゃるのです。 御言を伝えなければならない真の聖徒 本来私たち人間は神様を中心に生きる本性を持っています。神様によってを負う本質を持っている人間の心はいつでも、天性の心に似た、それを自分たちの真理の標準として見なすのを願っています。この様な本心を私たちがもう一度徊復して、イエス様の心と体を見て、イエス様の言葉を聞いて、もう一度それらを私たちの心と体の中心として立てなければなりません。さらにこれを通して私たちはイエス様の代身存在になってこの死亡世界にイエス様が伝えられた御言を伝える私たちにならねばなりません。天はこのようにイエス様の御言を伝える口と舌を持つ者たちを探して来られたのを皆さんは知らねばなりません。 今日人間たちは二つの話をする人になりました。心は一つなのに二つの話をする人間になったために、これを精算して一つの話をする人間として徊復させるためのものが摂理歴史だというのです。みなさんが万一神様の御言を代表して話をして、イエス様の心情と生命を代表しているこの様な自信感をもって、一つ一つの生活をして一生を変り無く過ごして行くならば、皆さんにはサタンの讒訴がないのです。また皆さんはサタンの試練をうまく通過することができるのです。 そうであるから終末に処す今日の皆さんは真なる聖徒にならなければなりません。ちょうど六千年歴史を代身して神様と一致することのできる御言、数多くの先知先賢たちを通して教えられる御言、さらに個人的にではなく全体的な御言、そしてイエスと聖霊が二千年間苦労されながら伝えられた御言を皆さん自体が実体的に証しすることができて、再創造の歴史を起こすことのできる神様の御言を伝えなければならないのです。 よくよくそのような人がいたならば、千千万聖徒たちがその御言を歓迎するのであるならば、天を慕う人々も自然に霊界の動員を受けその御言に従うのです。またその御言を永遠の御言として生涯の最高の御言として、立てた不変の心情で自己の生命をかけて伝える者がいたならば、神様がいないのではない以上、イエス様と聖霊、千千万聖徒達がいないのではない以上、彼等の加護の下に必ずこの地上に再創造の役事を成しているのです。それで今、私たちはイエス様がされる御言が二千年前のだけ該当する御言ではないのを知らねばなりません。それならばイエス様の切なさは何なのか、終日が近ずけば近ずくに連れて、また審判の日が近ずくならば近ずくに連れて、イエス様は、人間が世界人類を探すために来られた当時の心を模範として祭物の路程を経て神様の方に抱かれるのを望んでいられるので、このようなイエス様の心を知らなくて、自分の気の向くままの生活で暗闇に引いて行って審判の台に引いて行ったのです。このような姿を眺めているイエス様は言うことのできないやるせなさを感じられたのです。 それだから皆さんは、二千年前に救援摂理を終結させるために来られたその時の心よりもっと切ない心で皆さんを眺めていらっしゃるイエス様の心を、その内的心情を体恤して、それを代身して人間に話すことが出来なかった歴史的な全体の摂理と、全宇宙に対するイエスの御言を万人類に伝えてあげる真の人にならねばなりません。イエス様はこのように、あなたを代身して御言を伝えることのできる真の人間が現れるのを丁寧に見ていらっしゃったのを、皆さん知らねばなりません。 そして天倫の御言を代身するイエス様であるが、それをみんな話されることができず亡くなられそのやるせなさを感じて、審判の恐ろしさを知らない人間に神様を代身して御言を伝えて、聖霊を代身して御言を伝えて下さる真なるクリスチャンをイエス様は探して来られたのです。そして神様も全ての人間がイエス様の一生を模範として、それによってあなたの愛の懐に抱くのを眺めて長い間の歴史を歩いて来られながら苦労されたのです。 今皆さんは皆さん自体を軽率に考えてはならないのです。皆さん自身は自ら考える時至極に末備なのであるが、神様は六千年間皆さん一人を探すために苦労して来られたのです。またイエスが二千年間苦労して現れて来て、数多く先知先烈たちが長い歴史過程を経て来ながら苦労して出て来られたのでした。それで皆さんは皆さん自体を尊く認めてサタンとの終りの勝負を決める戦いで、神様が勝利の一つの条件を立て、捧げるための祭物とならねばなりません。そうして「宇宙を代身して神様を代身して堂々と責任を負って生きたのです」と言うことの出来る勝利者になって、どんな言葉でもどんな命令でも受けることが出来なくてはなりません。実際この様な自身になっているのかを皆さんは反省しなければなりません。 私たちが平凡な社会生活にあって、外的に見れば神様の子供やサタン圏内にいる人にも似ているようにみえます。しかし神様は、イエス・キリストが切ない事情で人類を救おうとされた御旨を代身する人格者、あなたの性禀を代身してこの地上に来られたイエス・キリストの内外的な人格の基準を、完全にこの地上に成そうとする信念を持って真の息子娘を探していらっしゃるのです。 万一、皆さんがよくよくその様な心情を抱いていたとするならば、皆さん自体が喜ぶ日が生じたと心のままに喜ぶことが出来なければならないならば、楽しい日が来たとしてむやみに楽しむことが出来ないのを感ずるのです。なぜならば神様の悲しい心情は、皆さんの家庭を越えて社会を越えて全ての世界、天にいる千千万の聖徒の怨恨まで由来するためです。それで皆さんは神様の悲しみの心情を皆さん個体で中断させなくてはならなくて、皆さん個人や家庭に局限させて生きる人にならなくてはならないのです。 皆さんは時間と空間を超越して天宙の全ての存在と心情で共鳴することの出来る人格基準を持たねばならなくて、全体的な完成を代表する価値の存在にならなくてはなりません。このような人がこの地上にいたならば天は落心しないのです。またこのような人は地獄に別れてこそ行くことが出来ないのです。このような責任を負って一つ一つの生活の中で環境の悪に対して闘わねばならない皆さん自身を見極めて見れば、心は神様の御旨を受入れられるが体はこれを反対するのです。それならば神様が望まれる完成の基準は何であるのか。それは人間が心から神様の御言を受入れて、体がもう一度その御言を受入れて一つになるのです。そのような後にはその御言が周囲の環境に伝達されるのです。万一神様の御旨が私を中心としてこのように成されて行くならば、神様が許される心を中心を通して私の心が永遠を慕いながら感動させることが出来るのです。このような基準を皆さんが地上に完成する前には、永遠の神様の真の息子娘になることが出来ないのです。 それならば神様の息子娘の証拠は何で知ることが出来るのか? 皆さんの行動それ自体だけでは知ることが出来るのではありません。行動は誰でも出来るものであるのに、それ自体を見て判断することは出来ません。行動するのはその人の心に出る神様の息子娘です。イエス様の友達と言うことの出来る内的価値の要素でなければならないのであれば、それがもう一度実態的に現実に連結されねば神様の息子娘となることが出来るのです。神様から心に命令して聞こえて来るのを体と自由に与え受けることの出来る関係、ちょうど心が願う通りに体が動いて、体が願うならば心が一緒に動いてくれることの出来る関係を成してこそ神様の息子娘となることが出来て、またこの地上に再創造の役事を成すことが出来るのです。 それならば今日皆さんが今神様の前に「お父様」と呼ぶならば祈る前に何を考えなければならないのか。それは皆さんの心の核心を探して入って、その心の核心がイエス・キリストの形象を代身することが出来るのを自問自答してみるのです。堕落した人間の先祖からサタンが生命を奪ってしまったので、皆さんにはイエス・キリストの形象を代身することの出来るそのような性禀がなかったのです。そして今日まで数々に人間たちはこの永遠不変の心、人間の良心の核心的渓谷を乗越えて、越えて天倫の道理を立てて現れて来るために身もだえして来たのです。そのような訳で、万一皆さんがイエス様を信じているのでその心をもう一度帰一させるのには、皆さんがその心の命令を通して体を屈伏させるのは問題がないのです。 神様の御旨を相続する者 ところで今日人間はここで苦しんでいます。心に遠くから響いて来るものが体を刺激するのが、その体が順応できなくているのです。それは体を刺激する力が不足するためです。それで今日皆さんは体に強く刺激することのできる心の力を育てなければならないので、そのためにはイエス様の心情と御心を正確に相続する者にならなければなりません。 そのような訳で今日のキリスト教信者がイエス様に対して祈祷しています。彼らは苦難のイエス様を慕わないで栄光のイエス様だけを慕っているがそれではだめです。復活と栄光があるまでには、人知れない苦難の路程を歩まれたイエス様であったのを知らねばなりません。それであるから皆さんも人知れずに苦難の路程で勝利して栄光の席に出て行ってこそ、歴史的な罪悪の轡を脱ぎ捨てることができて、復活されるイエス様の心に相対することができる価値を持つ存在になることができるのです。またこの地上に全体的な復活の役事を成させることができる一人の主人公にれるのです。 今、今日の皆さんはお父様の前に祈る時に愚かな祈祷をしてはならないのです。皆さんは皆さんの心を通して祈祷することのできる人にならねばなりません。皆さんが体を通して現れる言葉や行動が皆さんの心の中心と連結させる時、その言葉や行動は神様とサタンはたはある人の前にも恥かしくなくて当然なのです。神様は即ちこのような存在を探していらっしゃるのです。 そのような訳で皆さんの心に永遠に実存できる本性の力があったならば真なる人格を形象しなければなりません。皆さんがあるものに対してある場所に身を置いてもその様な永遠不変の核心的な真理を受入れて、それを中心として言うのであるならばその言葉は神様の代身再創造の役事を成させるようになるのです。それならば今皆さんが闘わなければならない怨讐はどこにいるのか。皆さんがイエス様が聞かせて下さった御言を信じて、見せて下さる路程通り歩んで行きながらイエス様を代身して御言を伝えるようになる時、皆さんを邪魔する者が何でしょうか。それは世上を通して入ってくるサタン、肉を通して侵犯してくるサタンの矢じりです。エデンの園で第一番目に近い立場にあった所の天使長がエバを堕落させたのと一緒に、今日の皆さんにあってもサタンが最も近い姿で聞くにはよいものを持って現れるのです。また現れる御言がそんなようになるように現れるのです。それだから皆さんは皆さんの心を守ることのできる皆さん自身の聴覚があらねばならず、資格があらねばならず、変らない心の基準があらねばなりません。万一皆さんにそのような基準がなかったならば、皆さんが予期しえない瞬間に持ちあげて来るサタンの侵犯を遮る(止める)ことができないのです。 反面に皆さんがその様な不変の核心を持って心が願う通りに体が動くことができて、常に神様が喜ぶことのできる生活をするならば、皆さんにはもっと神様に全部たまえて与えて下さるのを懇求する祈りが必要ないのです。堕落した人間であるので復帰の運命に逃れようとするから贖罪の祈祷が必要であるのです。そのような訳で今日の皆さんには最も重要な、ちょうどさんさんと輝く太陽の力に比較することのできる心の核心を持つのであるならば、皆さんが心体で動いて定めて全ての万象を区別することのできる宇宙的な知識、知識人の尺度を持たねばなりません。そうしてイエス・キリストが天性を代身して全体の御旨を代身された御言を皆さんが引き継いでこそ、人類に伝えることができる者たちにならねばなりません。そうすることのできる者たちになれなければ神様は皆さんを安心して信じて対することができないのです。 なぜならば神様は善の行動としてだけ現れる者に相対されながら、真なる御言としてだけ自身を現される方なのです。偽りの姿で現れる神様ではなくて、ひとえに一つの御旨、一つの性禀を持たれる神様であられるので、来たり行ったりする二つの心を抱いている人間とは相対することができないのです。これを皆さんは確実に知らなければなりません。 善なる者に相対される神様 そして皆さんはサタンよりももっと恐ろしいものが人であることを知らなくてはなりません。神様は善としてサタンは悪として各々自体の立場を現しているが、人間は二種類の行動を兼ねているのです。神様を信じて現れる時には善として現れるようになって、サタンを中心とする時には悪として現れるようになるのです。それで今日の皆さんは自身の立場をどのようにとらねばならないのですか。皆さんの実生活でサタンの立場をとってはならないのです。立体的としてや平面的としてやサタンの讒訴条件にひっかかる生活をしてはならないのです。絶え間ない祈祷と精誠の生活を通して鋭利な刃物のような知恵で善悪を正しく分別できるその何かを持たねばならないのです。 しかし皆さんは知恵だけを追求してはならないのです。なぜならば知恵だけ追求して見るならばサタンのように悪賢い人になりやすくて失敗しやすいためです。それならば信じるならばできると言ったキリスト教がどうしてこのように分裂したのか。皆さんが信じるならばどの程度まで信じなければなりませんか。イエス様を眺めながら所望を抱き、信じて来たところの御言の内容はどこまでであるのか。神様の御旨を代身して立てられた真理の基準はどこまでであるのか。今日までの言葉だけではだめなのです。真理の核心である神様の人格を抱いて神様と一体と成す不変の姿にならなければならないのです。そうして時代が変って環境が変っても変らない生命体にならなければならないのです。皆さんが神様と一体となれば、神様が不変の姿ならば皆さんも不変の姿になることで、神様が唯一の存在になるのであるならば、神様が永遠にその理想の園を離れられないならば皆さんもその理想の園から離れられないのです。 ところで現在皆さんはその様な立場にいないのです。皆さんは現在皆さんが朝に起きても夕方に寝ても昼に行動しても、サタンよりももっと恐ろしそうに思わなければならないのです。天宙を台無しにする張本人であるサタンではなくて人間にあるのです。天宙を繁栄することのできるのも人間であるのです。皆さんはこのように天宙を台無しにして繁栄するようにするのが皆さん自身であるのを銘心しなければなりません。そして皆さんは天の標的になることができて、サタンの標的になることのできる岐路に置かれているのです。このような岐路に立っている皆さんが天の側に屈しようとするならばどのようにしなければならないのか。まず皆さんは天の言葉を聞いて知らねばなりません。さらに天の模様を見ることができなくては、天の話をすることができなくてはならないのです。そのような皆さんになって善悪を分別する標本の役割をしなければならないのです。そのためにまず皆さんは皆さん個体を探すために闘わなければなりません。同時に環境を復帰するために闘わなければならなくて世界と天宙を復帰するために闘わねばなりません。このような過程を歩んだその後イエス様が皆さんに探して来ることができるのです。それならばイエス様はどんな姿で来られるのか。復活の理想的標準として来られるのです。そしてこの地上に来られて、最高の福音を宣布されるのです。また全ての栄光を現されるのです。 このような宇宙的な復活の主が来られるようになる時、皆さんは審きを担当しても、死に会うようなことが会っても、変らない主様に侍って従う人にならなければなりません。そうでないならばイエス様の姿を見て、イエス様の御言を聞くところとして止めるのです。新郎新婦の関係を結んで天を代身して永遠に愛を与え受けながら生きている新婦になることができないのです。復活直後にマグダラのマリアがイエス様を探して行く時、イエス様は「私に触れてはならない。私はまだ父の身元に上がっていないから」(ヨ二十:十七)とおっしゃいました。そうであるがイエス様はマグダラのマリアが彼自信を慰めることのできる心を持っていたので彼女に現れたのである。 このように、自身を越えて天倫の理想と御旨を感じてこそ、その感じる心に主様は現れるのです。皆さんが神様の御言を聞いて神様の御言を代身して伝えることができるならば、主様は上がられなくても来られるのです。かえって主様が皆さんに向かって上がって手まねして、腕を開けていらっしゃるのを皆さんは知らねばなりません。神様もやっぱりそうなのです。 真の息子娘が現れるのを望まれる神様 今日私たちがこのような宇宙的な責任を担当することができないならば、眠っている民族と世界を自覚させることができません。今は時間と空間を超越する四次元的な世界として捉えている時です。このような時皆さんは、主体性を取揃えている天倫的な人格者、或いは天宙的な人格者が現れるのを望む天の内的心情を推測しながら、生活の中で聞くことができて見ることができて話すことができる人になったならば「神様よ来ないで、イエス様よ来ないで」と言っても神様とイエス様が皆さんの元にやって来なければならない、やって来ざるを得ないのです。またそんな人たちが多く現れてこそこの地上に平和が来るのです。 今日皆さんは上がってゆくために祈祷しないで、神様が皆さんを探して降りて来ることができるように祈祷すべきことを知らねばなりません。神様が皆さんを探して降りて来るようにすることのできる人格者、イエス様の新婦になることのできる真なる(キリスト者)クリスチャンがこの地上に現れたならば、神様が親しく興動して彼を探して下さるのです。ちょうど神様が六千年間苦侍して来た真なる平和の息子娘、真なる人の息子娘がこの地上に現われたならば、神様が喜ばれるだけではなく万物万象まで彼等と一緒に喜ぶようになるのを皆さんは確実に知らねばなりません。 このような天宙的な使命の責任を二つの肩に負っているのが今日のキリスト教徒であるのに、それを深く悟れないでただ「神様お父様」だけ呼んでいるのです。そうしてはだめなのです。十字架の道、逆境の路程を開(貫)いて勝利した後に「お父様よ」と呼ばねばならないのです。そのような者を天が探しているのです。また平素にそのような心情の基準を立てて生活するようになるならば、何を見るや否やする前に見せて自身が言う前に言葉がひとりでに出てくるようになるのです。このような見地まで皆さんが行かなければならないのです。 ところでここに皆さんを遮る怨讐らがいるのです。イスラエル民族がイエス様の三十余の一生の路程に自分達の因習的な条件、歴史上に現われたある条件でイエス様を遮ったのと同様に、今日皆さんにもこのような事件が現われるのです。それだから今日の皆さんは歴史過程に現われたイスラエル民族と同じ姿になってはならないのです。歴史的として終わってくる過去の因習を果敢に打破して行くべきことを知らなくてはなりません。復活の結実に向かって新しい理想の園を探して行く皆さん! 歴史の過程的な現象を皆さんの体心に連結させて天の御旨にしみとおってキリストに従って、キリストの人格を代身することのできる皆さんにならなければなりません。その様な皆さんになってこそ、新しい理想の園で神様が話して見せてあげて聞いてあげて見たいものを受けて担当することができるのです。 イエス様が天地万象に変わらない現実に入って行っても変わらない(不変の)姿で歴史過程で現われた因習的な条件を打破して神様を愛されたその路程を、今日の皆さんが模範にしなければなりません。天の御旨の道を行くところにあっても皆さんの環境がぶつかって来ても不平を言わず、恐ろしさと恐怖に感じるサタンの試験が来てもそれに勝って主様に侍ることのできるものにならねばなりません。そして皆さんは主様に侍る所にあっても自由の中にも最高の自由栄光の中にも、最高の栄光喜びの中にも最高の喜びの席で主様に侍らなければならないのです。そして歴史的に現われたサタンのすべての讒訴条件を逃れてお父様を呼ぶことができなくてはならないのです。そのような者にならなければ天は皆さんが話す前にまず皆さんを探し与えられるはずです。それだから皆さんはそのような基準を皆さんの生活過程で立てなければならないのです。 神様はこのように御自身の宇宙的な愛を中心に見る体恤的な人格の価値を持った一人の人、イエス様を代身して歴史を代表する人格の価値を持った一人の人をまず探して来られたのである。このような人が集って国を探して世界を探して天地を探して与えるイエス様は望んでいらっしゃるのです。またそれが神様の御旨であるのを皆さんは知らねばなりません。 今日皆さん自身がサタンの讒訴条件にとらえられていても、あるいは皆さん自体を屈伏しようとして億兆万の逆境が押しよせて来ても、皆さんは不変の姿で神様とイエス様の中にある全体の秘密を引き継いで持ってそれを解いて捧げる実体者になって、サタンの讒訴条件を逃れるだけでなくサタンと闘って屈伏させることのできる勝利の主人公になって、神様を慰めることができてイエス様を慰めることができなくてはならないのです。 イエス様が三十余の生涯を歩まれて十字架に亡くなられた日が近ずいた時、愛する弟子達を集めておいて「私はまだあなた方に話すことが多くあるが今はあなた方には耐えられない」(ヨ十六:十二)とおっしゃいました。これを見るならば使徒たちがイエス様の御心を悟れなかったのを知ることができます。それだからイエス様の御心を悟れない使徒ではなくて、イエス様の御心を悟れる新婦になって妻の立場まで行くことのできる人格の基準を立てて、イエス様が残した御旨を責任を受けてイエス様を安息させて差し上げられる人にならなければ、サタンを屈伏させてサタンを抱いて神様の前に行って「永遠な勝利の栄光を一人お受け下さいませ」ということのできる人にならなければなりません。そうしてこそが六千年間復帰摂理していらっしゃる神様の怨恨が解かれるのであります。イエス様が探し望まれた真なる新婦を探すことができるのです。さらにイエス・キリストが望まれる真なる妻を探してこの地上に平和の園を建設することができるのです。 今御旨に従って立った皆さんは自身がサタンよりももっと恐ろしい存在だと言うことを銘心して、どのような過程でどんな難しい路程があったとしてもどのような険しいことがあったとしても、皆さんの心の中に決められたその御旨を掴んで天倫の公認を受けるその日まで変りなく闘って勝利する者になって、イエス様の前に謙遜にひれ伏すことができなければなりません。皆さんがそのような人になってこそはじめてイエス様が望まれる人になることができるだけではなく、すべての人類がそのような皆さんを愛の標準としてお父様の前に栄光の席に立たれるのです。これを皆さん銘心しなければならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2021.02.14
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最後の道を行かれながら振返られるイエス 1957年2月10日(日) 前本部教会 祈祷 お父様、一週間の間を御旨を中心にして闘って来たところの息子娘、サタンの巧妙な計巧にねじり倒されないために闘って来たところの息子娘たちがこの時間お父様の前にひれ伏しますから、お父様が親しく現われて各自の心を主管して下さいますように、この時間心にしみとおる望みを抱いている者がいるのでございますか、体にサタンの痕述を持っている者でございますか?愛の多いわたしのお父様、彼等に再創造の歴史を表して下さいまして哀れみの御手を広げてあなたが望まれる御旨の前に不足のない心と体でお父様に敬礼を捧げられる姿になるようにこの時間お父様が恵みを与えてくださって聖別してくださることを切に願い望む者でございます。 愛なるお父様よ! 取るに足らない(つまらない)私たちを呼んで宇宙的な摂理を予告されようとなさるお父様の御心の前に、私たちの頭をたれてひれ伏しますからこの時間親しく私たちの心に命令してくださって私たちの体にみなぎらせて、願われる善の園に向かって願われる善の御旨に向かって願われる勝利の園に向かって、一息に走ることができるように引導して下さいませ。また御旨に対して奮発できる私たちとなれるように至らしめて下さって、自覚的な力と自覚的な決心を整えて出て立てるように許して下さることを愛なるお父様切に望んで願う者でございます。 まだお父様の前に似合わない罪悪の要素が残っている罪悪者たちですから、お父様尊厳な能力の役事で私たちの罪悪の要素を除いて下さいまして、権能の手を差しのべて慰めてくださり、悔い改めの心を起こして下さることをお父様切に望む者でございます。 この日は聖なる日慎んで申しあげる約束された日ですから民族のために集っている数多くの祭壇を祝福して下さいまして、勝利ののろしを上げられるように導いて下さいませ。お父様の栄光と慰めを受けるために、この時間敬拝を捧げている数多くの息子娘たちを祝福してくださって聖霊の役事を降臨してくださるのを愛のお父様切に願いつつ望む者です。 お父様私たちのすべてのものをお父様の前に集まりましたから、お父様の前に似合う自分たちであるかもう一度自分たちを分析することのできるように導いて下さいまして、お父様に似合わない末備な事実が未だにも残っていたならば、全てのものを悔改めて全てのものをしてお父様の忠告とお父様の勧告を受入れられる私たちになれるように許して下さることを、愛なるお父様切に願いつつ望む者です。 まだ闘いの路程が残っているこの時、私たちの心を合せて生命の園に向かって突進できる天の精兵たちになれるように許して下さいませ。一人ぼっちの(孤独)息子娘が地方に広めようと福音の御言を証明するために苦労の祭壇を立てているだろうとするのを知ってくださいます。彼らがどんな所に集ってもお父様が親しく役事して勝利の息子娘であることを証明して下さいました。お父様が親しく運行されて役事されることができる勝利の祭壇を備えることができるように引導して下さることを、愛のお父様切に望みつつ願うものです。 この席に参席する息子娘たち、自己を中心とするある観念や主の主張を持たないように許して下さいまして、小さな子供のような心で自己の全てのことを皆取りだして、命令される御言のために自身の不足なるのを痛悔してお父様の前に申しあげることのできるこの時になる許して下さいませ。 お父様の前に全てのものを任せられましたから、サタンが侵犯するこの時にならないように許して下さいまして、聖別の役事でなさって下さってお父様が親しく主管できるならば、お父様の栄光だけが現われるこの時となれるように導いて下さることを切に望みつつ願いながら、全ての御言を主の御名で申しあげます。アーメン。 イエス様の降臨とユダヤ民族の不信 今日のこの時間は最後の道を行かれながら援助されたイエス様と言う題目で少しの間話すものです。 アダムとエバは堕落したので神様が望まれる理想の園を失ってしまいました。ちょうどアダムとエバは、神様と苦しみや楽しみを共にすることのできる善の園を失ったのです。そして彼等は神様の懐を離れるようになって、神様を慕いながら生きなければならない、はかない生涯を始めたのでした。そうして神様の愛の懐を離れて来た人間たちは今まで悲しい心情で神様を振返りながら、受難の六千年歴史を歩んで来たのです。このように私たちの祖先たちが天に向かって振返る生涯の道を行くことと同じように、今日の全ての人類を自身の本然の位置の回復を望んで天に向かって振返る生涯路程を渡って行っているのです。そしてて人間たちを救援するために来られたイエス様にも、地上から天に向かって振返ることのできる人々を探して来られたのでした。 世の中の人々が、現われたイエス様(キリスト)の新しい福音のために自己の生涯路程を振返って、イエス・キリストを振返ることのできるのを望まれて、ひとつの条件として天の愛としてイエス・キリストを送られましたが、その当時人間だけではなく今日まで数多くの人間たちは天に向かってかえりみられるようにできるそのような主人公を迎えてすぐに仕えることができないので、天に向かって振返りながら行く生涯の目的を達成できないまま歴史は流れて来ているのです。そして今日の皆さんもいずれにしても天に向かって振返りながら行かなければならない運命に処しているのです。 しかし人間自体の力では天に向かってとうてい帰ることのできないので、神様はイエス・キリストを送られて帰ることができる人間たちをして帰ることのできるようにされたのである。万一人間が彼らが願う方向通りに願ってそれが歩む通り歩んだならば、人間たちは神様の懐に帰って行く祈願を成就することができたのです。これが神様がイエス・キリストを送られた中心の御旨であったのを皆さんは確実に知らねばなりません。 当時のユダヤ教人は勿論ですが、イスラエル民族と全世界の人類がイエス様に仕えて、天に向かってかえりみながら行かねばならない生涯の目的を完成して、神様の懐にかえらなければならなかったのに、人間たちが不信したのでイエス様はイエス様の通りに、人間は人間の通りに分かれて行ってしまったのです。そしてイエス様は自身の行く歩みを中止されて、地上に向かって援助される立場にいらっしゃったのを皆さんは心に刻まねばなりません。 ところで人間の中には今日まで六千年という長い長い歴史過程を渡って来られながら、天に向かって 天のために自身の心を尽くして、力を尽くす聖徒たちがいなかったのです。また人間を代身して天に向かって苦難の道を行っているイエス・キリストの足取りを止めるようにするために、神様に自己の生命と自己の愛と自己の行動をかけた聖徒、すなわち汚れない祭物になる人間が一人もいなかったのです。これが神様の身にしみて願われたことを知らねばなりません。 世の中を蹴飛して天に向かって哀願して行かなければならない人間たちが地上に固着して、地上の所望を中心と見做しイエス様を不信したので、神様が四千年間地に向かって摂理された御旨が挫折してしまいました。当時地上の人間が望んだ御旨を成就させてあげるために、神様がイエス・キリストを送られて下さったのに、彼らがイエス様を眺めてよくなって行かなかったので、反対に二千年という長い長い歴史を経て来られながら、神様が地上をもう一度振返らなければならない立場に立つようになってしまったのです。 それならばイエス様が三十余の一生望まれた所願はなんであったのか? その方の所願はただ他人のためのものでした。エデンの園でアダムとエバが追われた時の感じた悲しみを悲しみの心を暮らしながらも、それを表現しないでただ人のために生活なさったイエス様でした。こんなイエス様を当時の人々が、自身の全ての所願を徊復してあげることのできる主人公として知って、イエス様に向かってよくなることができたのだったら、イエス様は十字架に行かずに済んだのです。 無知な人々を覚醒させるため三十余の生涯を過ごされるイエス様と同伴して、同じような行動で神様に向けて行かなければならないイスラエル民族たちがイエス様に背反してから、イエス様は自身が行かなければならない歩みを止めるようになるのです。このように天から与えられた使命を完結させることができなくなったイエス様は、人々のためにもう一度天に向かって望まれる立場に立って、人間の代表の心で神様の懐で探し戻られる歩みを歩まなければならないのを皆さんは心に刻みつけなければならないのです。 そのような訳で人々が神様とイエス様のために精神誠意を尽くして、イエス様が歩んで行かれるその方向に代りに歩んであげて代りに保護して差しあげたならば、イエス様が神様に対されたように人間を愛する神様の代りに人間に対することができてこの地から喜びの祭壇を備えて永遠の一日を迎えることができたのです。ところで当時人々が天に向かって歩んで行くその歩みを真似ることをしないので、イエス様はイエスのまま人間は人間のまま歩んで行くようになったのでした。 ところで創造原理的である責任を負っていらっしゃる神様であられるので、人が行く方向をかえてイエス様を通して神様の懐に出て行くことができる勝利の一日を成されようとするのです。ところで地上に来られたイエス様は、イスラエル民族の排斥を受けて十字架まで行くようになったので、神様がイエス様を送って摂理される御心が失敗して戻るようになってしまったのを皆さんは確実に知らねばなりません。 ペテロを振返られるイエス様の心情 ところでイエス様が十字架の道、ゴルゴダの山頂の孤独の道を渡って行く時、誰をもう一度振返って御覧になったかといえば、愛する十二使徒の代表であるペテロをもう一度振返って御覧になられました。それは自身の後を一番前に従わなければならないペテロの心が変るようになるのを見て心配されたのでした。このように神様の御心を心配する自身の心が悲痛さにもかかわらず、愛する心でペテロを振返ったイエス様のその視線を今日の皆さんがもう一度感じる者にならなければなりません。 しかしペテロは三度もイエス様を知らないと否認した。そして天の御心と完全に分離した立場に立つようになったので、イエス様とは関係ない立場に立つようになってしまったのでした。このようなことを御存知でいらっしゃるイエス様であったけれど、地上のある誰か一人でも死の道に向かって行く自身の後を死守してくれるならば、心で体で同情してくれることのできる一人の人間を探そうとされたので、愛する第一弟子ペデロを振返るようになったのである。このように一人の真の人を探そうとされる心が、愛する弟子ペテロを御覧になるその視線の中に潜んでいる(染みとおっている)のを、今日の皆さんは知らなければなりません。 神様の全体的な摂理を責任を持って来られたイエス様に於いては、このような立場に立つようになる時これ以上の悲しむ場面がないのです。なぜならば人々の不信によってゴルゴダの道、死の道を行く自身の使命を引き継げることのできる一人を探そうとされる切ない心情を知らせる者が一人もいなかったのでした。そしてイエス様は言うに言えない悲しみに包まれたのでした。ただ神様だけがイエス様の切ない心情を知ってくださってイエス様の悲しい事情を心配してくださいました。 イエス様は自身の三十余の一生をただ天の悲痛な事情を代身して歩んで来た苦労の路程を悔改して見るようになる時、人間に対して叱責したくて地上に対して呪いたい心がしみとおったのです。ところで自身のそのような心を抑制されて、自身の歩みを中止して従っているペテロを振返って御覧になったのでした。このようなイエス様の内的心情を今日の皆さんが感じないならば、イエス様を中心と見做す神様の御旨を代身、引き継ぐ万民の前に堂々と立てないことを皆さんは確実に知らなければなりません。 それならばこのように孤独に苦難の路程で一生を終えられるイエス様を眺めるペテロの心はどんなでしたか。彼は過去イエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れられないで、孤独の中で呻吟して言うことができないもの悲しい立場に身を置いたのでした。悲しいイエス様を侮辱して罪なきイエス様を願望しながら、罪なきイエス様を縛って引いてゆくその姿を眺めているペテロの心ももちろん非常に痛かったのでした。 しかしペテロは、イエス様が全人類を取戻すための代表的な使命を持って来られたメシアであるのを悟れないために弟子たちを代身して出て立てないで自分だけを考える立場に立って話していたのでした。この様な立場に立っているペテロの前にはしためたちが現れてキリストの群れではないのかと質問するようになる時、三度も知らないと言うようになってしまった。このようなペテロ一身の姿が地上の人々たちを代表する立場であったことを皆さんは明らかに知らねばなりません。 私たちがこの様なイエス様とペテロの立場をもう一度悔改めて見るようになる時、三度も知らないと言うペテロをイエス様がもう一度振返られたのは、ペテロとイエス様との間だけに起こった事情ではなくて全歴史過程がそうなのを見せて下さったのです。 全世界人類が天の道を行くところに於いて、サタンの前にキリストの御旨を代身する真なるクリスチャンの姿として現われるところには、必ずサタンの讒訴が三度あるようになったのです。これは六千年の歴史の中でアダムの立場、イエスの立場、再臨主の立場を象徴して現われるものと見ることができます。これがもう一つ終りの日に於いて世界的な一次大戦、二次大戦、三次大戦の形態として起こるのです。このようなことがこのように全歴史路程に現われるだけでなく、今日の皆さん個人の信仰路程にも現われるのを皆さんが知らなければなりません。 ペテロの自覚 それならば今日の皆さんが主に会う直前にどんなことがあるのでしょうか。ペテロが天に向かって「知らない」とした背反の時間にあったのとちょうど同じように終末を迎える今日の私たちにあっても、その様な時がやって来ることのできるのを知らねばなりません。 私たちには外的なペテロの立場を溯勝利されるイエス様の後に従うならば、自身を探し立てなければならない。歴史的で摂理的であり信仰的な運命が横たわっています。この様な運命の峠をこえなければならない私たちは、どんな立場からどんな責任をしなければならないのを知らなければならないのです。 またイエス様が十字架から復活される前にゴルゴダの道を歩まれたのとまったく同じように、終末の前世界のキリスト教人は再臨の時に主と一緒に復活の栄光を参与するために、最後のゴルゴダの道を歩まなければなりません。そのような時代に明らかに生まれたのを銘心しなければなりません。 それならば今日私たちはどのような立場から信仰生活をしなければならないのか、ペテロに愛する先生様が何の罪なくローマ兵に対して引かれて行く時、心の中には切ながらも外には「知っている」と言えなかった瞬間があったのと同じように、今日の私たちにも世上的なある条件のために本意でなくイエス様を「知らない」と言わなければならない立場に置かれる時があるのだから、その時にイエス様を「知っている」と言わなければなりません。また私たちはそんな自身を置いて常に注意する信仰生活をしなければならないのです。 地上のゴルゴダの道を歩まれるイエス様は霊界にも今日まで世界的なゴルゴダの道を歩まれて来ました。このように地上と霊界から愛する聖徒たちを後において自ら十字架の道、苦難の道を行かれたイエス様は、将来サタンと一代一騎打ちの闘いを展開されるのです。 そんな接戦の時期が地上に現われる日、時、私たちはどんな立場に立たなければなりませんか。ペテロがイエスを知らないと言ったのと同じような立場に立ってはだめなのです。私たちはイエス様の立場に立って私たちの全ての事情と私たちの全ての罪と私たちの全ての不足を払いのけておいて、私たち自身を再反省しながらイエス様が歩んで行かれる苦労の道を死守することのできる勝利の息子娘にならなければなりません。そんな立場に立てなければ再臨される主様を迎えられる栄光の席に参与できないのです。 ペテロは難しい立場に立てられる先生を三度も知らないと否認したけれども、イエス様は真情で自身の体を顧みてペデロを眺められました。そして自身の難しさや、自身の悲しみ自身の事情も忘れられて振返られるイエス様を見たペテロの心の中には一代変革が生まれたのです。ペテロ自身はそのようにイエス様を三度も知らないと言ったのにもかかわらず、イエス様は御自身の悲しみも忘れられたように真情で自身に危害を与え自身の将来を思念されるのを見てペテロの感情は爆発したのです。また主様と一緒に喜怒哀楽を一緒にしたところの昔の因縁を感じた瞬間、ペテロはその場所から自身の正体を知るようになったのです。 イエス・キリストが天の御旨ひとつを成すために自身の生命を覚悟して天に向かって死の道を行かれながらも、少しも人間的な悲しみにうちひしがれないで、凛々しそうに人間の久遠の道を開拓するために努力するのと、不足な自身までも心配して下さるのを見ながらペテロは心から不足を感じたのです。ちょうどペテロはひたすらイエス様に対して忠誠を全てかけなければならない弟子の立場に立っているのを考えながら、神様を代身しているイエス様の立場と、イエス様を代身しなければならない自分の立場を比較して見るとき、自身がイエス様を信じる信仰とイエス様が神様を信じる信仰とは天地の差があるのを感じたのです。 そして自身がイエス様を信じるとは言ったけれども、主様のように天を中心に生きて信じるのではなく、自分を中心にして信じていたのを知るようになった瞬間、自身を眺めるイエス様の視線の前に程度の衝撃を受けたのです。すなわち不信の自我を置いて嘆息したのでした。 ペテロの通悔と新しい決意の価値 天に向かう信仰路程にあって永遠不変の姿で宇宙的な使命を少も疑わないで祈って行かれるイエス様を眺める瞬間、ペテロの心が一変して一生の間主に対して生きなければならない衝動感が起こって来たのを皆さんは知らねばなりません。不信の自我を悟るようになる時からペテロはイエス様と自分との関係、あるいは互いの生涯路程を比較しながら、自身の不足をもっと感じるようになったのです。 イエス様が天の御旨一つに対してこの地上の上の万民に対して、自身の幸福を求めないで自身の全部を天の前に祭物として捧げて、十字架に引かれて行かれながらも願望なされないイエス様の姿を見守りながら、三人の弟子は自分たちの生涯があまりにも個人中心的であるのを感じるようになったのでした。そうして自己を中心とされないイエス・キリストの前に、弟子たちは自ら自身を反省して、イエス様がいつも所望された御旨を引きつぎ受けてこの地上に対してその御旨を実践するというのを確約して盟誓することができたのである。 その次にペテロはどんなことを感じましたが、自身の不信を感じると同時に周囲の不信を感じたのでした。罪なきイエス・キリストをどこの誰に罪のないというイエス・キリストを悪なる周囲の人々が縛って置いて鞭打ちながら喜んでいるのを見ながら、ペテロは逼迫されるイエス様の視線の中からイエス様のうら悲しくも孤独な心を明らかに分かることができたのでした。 このように憤懣やるかたなき立場でも、天の道を守って行くのを見せて下されるイエス様の暖かい視線の前に、ペテロは周囲の環境の不遜さを感じたのです。そこでイエス様の弟子ペテロはイエス・キリストの側になれない悪の群れを滅ぼすために、主様がもう一度来られる時まで周囲の不遜な勢力と闘う覚悟をしたのです。 天に向かって行くイエス様の善の不変の姿と周囲の環境の不遜さは、天地の差があったのでした。そして瞬間的に振返られるイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自身の愚かだった生涯を精算することができたので、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならない決心をしていっそう神様に向かったのでした。 不平なく天に対して地上に対して万民に対して御旨に対して亡くなられるイエス・キリストの死を通して、ペテロはひとりでに主様を敬うようになって、その死の前に懺悔の涙を流しながら痛哭したのです。 この事情が最後に振返られたイエス・キリストとして、自身を知らせる使徒がいるのを感じるようにして断たれてしまった天と人間の因縁が回復する瞬間、主を感じるようにしたのです。ペテロ一人だけ天と地そして万民と数多く使徒たちを代表して、神様の御旨の前に帰られたイエス様を置いて、自身の不足さを感じながら痛悔の涙を流したのです。このような主様が十字架に亡くなられる前に苦難を受けられるのを見て、ペテロだけが痛哭しながら悲しく泣いたのです。このようことがあったために、イエス様が使徒たちを中心と見なして役事することができる基準、イエス様と人間たちが互いに因縁を結ぶことのできる新しい基準が造成されたのを皆さんは知らねばなりません。 クリスチャンたちがイエス様が十字架に亡くなられた以後今日まで神様の御旨だけをつかまえて、復活と再臨の時を待焦がれたのと一緒の立場を皆さんたちもいずれにでも経由しなければならないのです。そしてペテロのような立場も蕩減復帰しなければならないのです。これが皆さんの信仰の路程に残される最後の運命であると、皆さんたちは深刻な立場から真心でイエス様と自身の間を後を振返りながら、イエス様の志操を模範としなければならないとするのならば、イエス様のその姿勢の前に体を曲げて痛悔することができなければなりません。 私たちが今まで信じて来た信仰生活の中に、主様が私たちを心配して私たちを主様のためにどのくらい心配しながら生きていたのか問題であります。自身はイエスを心配しながら一生の間生きたと言っても、如何に死の場を払いのけながら、ペテロを眺められたイエス様の生涯に比較されることができますか。今、蕩減復帰原則に対してイエス様が死の道で群衆らを振返られたのとちょうど同じように、私たちも死の道でイエス・キリストを振返るような自身にならなければなりません。そんな立場でイエス様を代身する立場に立てて、同時にイエス様を栄光の席に集って捧げるために、私たちが振返りながらイエス様の苦痛を代身して、イエス様の心配を代身しなければならないのです。皆さんにその様な一時があらなければならないのが問題だと言うのです。 万一皆さんたちにそんな一時がなければ、終日ちょうど復活の栄光で迎える時にマグダラのマリアが復活されたイエス・キリストを掴まえたのと同じく、皆さんが復活の主様を掴まえて、私の主よ私の新郎であると言うことができないのです。イエス様が十字架の上からペテロを振返られて初めて、ペテロと三弟子は探してイエス様を直接掴まえて天国まで行ける聖徒たちはいないのです。 イエス様を振返らなければならない聖徒の責任 今終末に処する皆さんがイエス様と同居することができてイエス様が運行されることができる真の聖徒、イエス様の愛を受ける真の弟子になろうとするならば、皆さんはイエス様が死の道を行かれながらもペテロを振返られたのとちょうど同じように、よくよくイエス様を心配してイエス様を代身してサタンに対して闘わなければならないのです。そのようにできなくては、栄光の主を助けて神様に敬拝を捧げられないのを皆さんは知らねばなりません。 信仰生活をしている私たちであるが、私たちは一日一日の生活全体を通しイエス様のために心配する生活はすることができませんでした。それだからイエス様が数百数千度私たちを探し来られたが、不信する私たちの生活のために仕方がなく関係を断ちながら、寂しい目で私たちを眺めながら見られたのです。 イエス様が私たちを探して来られて寂しい目で私たちを眺められる時が多かったが、私たちはその方の事情とその方の心を知ることができず、自身だけのためにして自身の心通りにだけなるようにことを望む、変れる信仰生活をして来たのです。 ペテロがイエス様に眺められる視線の前に自身の一生とイエス様の一生を比較して見た時、自身の不信を自責してあまりにも自身を中心として生きたことを感じたものでした。同じように皆さんも、皆さん自身をイエス様の三十余の生涯を比較して見て、神様に対して今日まで二千年間役事されて来られたイエス様の歴史的な生涯路程と比較して見る時、皆さんはペテロが感じたことのように自己を中心にして生きたのを感じざるを得ないのです。皆さんがこの様な不信の跡から抜け出られなくては皆さんはもう一度来られるイエス様に会う道がないのを知らなくてはなりません。それならば皆さんはどんな場所まで出掛けなければなりませんか。 皆さんはイエス様が休む間なく与えられるその視線に照らし合せてイエス様の心を体恤することができなくては、十字架の苦難を前に置かれるゴルゴダの山頂ではなくて、十字架の峠を越えて復活の恩賜の場所まで出かけることができなければなりません。イエス様が自己を中心として生きられたのではなくて神様の御旨を中心と見なして生きられたのとちょうど(全く)同じように、皆さんも信仰生活をするのにおいて、自分が救援を受けるために自分だけが良くなるために信じる観念を持たないで、神様の御旨のために生きなければならないのです。 自身が良くなるための信仰観念を持っているペテロは自身も知らない間に三度もイエス様を背反したのと同じように、今日の皆さんも自己中心とする信仰観念を持っていたのであるならば、ある時ある瞬間ある時期に自身も知らない間に天を排斥する日が起こるのを銘心しなければならないのです。ちょうど皆さんは自身を信じる信仰生活ではなくてイエス様を信じる信仰生活、自身を探す信仰生活ではなくてイエス様を探す信仰生活を、自身のためにする信仰生活ではなくてイエス様のためにする信仰生活をしなければなりません。ペテロが自身を探す信仰生活をする時に、言うに言えない苦難が彼に断ち塞がるようになって、結局はイエス様との関係を断つようになってしまった事情を悟って皆さんたちはそのような場所を避けなければなりません。自身のためにする信仰生活からイエス様を敬って神様を敬う信仰生活に変らなければなりません。 またその次にはペテロが不信の環境を信仰の環境に徊復して、彼が不信したのを心を痛めるのと同様に、皆さんも神様が望まれない不信を見て言うに言えない義憤心と敵愾心を抱いて行かねばなりません。そして聖徒自身を中心とする善ではなくて神様を中心とする善でなくてはならず、またその善が自身と関係を結ぶようにしなければなりません。この善を探すべき時にこそ初めてペテロが神様の御旨が成されない環境を見て悲しいのと同様に、皆さんもペテロの立場を代身して、世界人類のために悲しむことができて天と地のために悲しむことができるのです。 今日皆さんにはお父様の前にイエス様の前にあるいは聖霊の前に、最後の勝利の功績を立てなければならない責任があるのです。そしてゴルゴダの道を行っているイエス様に背反しないでその方の後を従って行くことのできる皆さんにならなければなりません。そして皆さんは自己を心配する者にならないで、かえって自身の苦痛を忘れながらイエス様の後に従って行きながら先生よと勧告することができなければなりません。ちょうど皆さんはイエス様の視線を受ける人にならないで、かえってイエス様の立場に入って心配な心情でイエス様を慰めてあげられる姿にならねばなりません。どこの誰がこのことを成しましたか。ただイエス様だけがこのことが成就される一日を待焦がれて、人々のために今日まで苦労の役事を繰返して来られたのです。 今皆さんは生活の中でイエス様の心配の対象にならないで、全所望を掛けていらっしゃるイエス様の御心を、また神様の摂理に反逆する自身になってはならないのです。ペテロがイエス様を不信した後に自身を振返って見て嘆息したように、皆さん自身の不信を嘆息して、神様の御旨を代身する切ないイエス様の事情に通じる心で、死を覚悟して出て行かなければなりません。そうしてイエス様が行かれるその道を私も行かなければならない覚悟を持って出てゴルゴダを越えてこそ、復活されたイエス様を新郎として迎えることができて、天の前に喜びと栄光を捧げることができるのを皆さんは銘心しなければなりません。 祈祷 人類の歴史路程をさえぎって天の勝利の基盤を立てながら宇宙的なゴルゴダの心情と悲しい大路を渡って行かなければならない使命が、今日二十四億の人類に残っていますから愛のお父様よ、イエス様を送られて心配されたあなたの心配は昔のゴルゴダにだけ成されるのではなくて、今日私たちの目前にもその心配が奥深くあるのを知ることのできる私たちになれるように許して下さいますように。 兄弟の自身の不足さを心配して泣くことのできる者に勿論ならなければなりませんが、まずイエス様が意味される決心を心配されて泣くことのできる息子娘になるように導いて下さるように切に望みつつ願う者です。私たち自体の不完全さを心配して泣く者にならなければならないのと同時に、神様の御旨が成されないで悪なる世界になって、イエス様に対してわめきたてながらけなすサタンのたぶらかしを見て涙を流すことができて、懺悔することができる私たちになれるように許して下さいませ。 イエス様はその生涯路程に常に神様が眺められる視線を感じながら、蕩減復帰の路程を完結するため亡くなられる瞬間まで復帰の祭物で自身を捧げられるように、私たちも今日ある時にイエス様が私たちを探して来られたけれども、私たちを眺められる視線と探し来られるその足取りを忘れないように許して下さいますように。また今まで私たちがイエス様のその視線と歩みを排斥する時に成ることがないように多くを悟れるようにして下さいますように。 お父様、私たちが一度ではなくて二度三度まで背反するにもかかわらず、変らずに私たち人間を探し来られるイエス様の心情をどんなにか慰めてあげたならば、どんなにか天の前に涙を流したのかを悔改めする私たちになるように許して下さいますように。お父様を慰めるあなたの息子娘、世界的な審判の時が遠くないのですから、宇宙的なゴルゴダの園が私たちの目前に近ずいているのを知りますから、私たちが自身を中心に生きる信仰路程を歩んで行かないように引導して下さいますように。 私たちの生命は私のものではなくて、私たちが生活する生涯も私たちのものではないのです。ならば私たちが所望する所願も私たちのものではないのでありますから、私たちに対して生きる生活にならないように引導して下さいますように。私たちの能力と私たちの要求と私たちの欲望、この全てのものを自身のために持たないように許して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。 私たちがイエス様の代身の十字架の道に行っても、最後にイエス様の変りない信仰を知って行くペテロが心から嘆息して、神様を信奉する同志としてイエス様が十字架を背負って行かれるのを見て涙を流すのと同じく、ゴルゴダの審判の日が来る前に、私たちがイエス様の前に悔い改めの涙を流すことができるならば、宇宙的な悔い改めを引受けてお父様の前に泣くことができて、自身の間違いを吐露することのできる息子娘になれるように引導して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。 お父様、私たちがイエス様の歩みを代身して歩みますから、お父様が私たちにこの地上の哀れな人々を救援することのできる使命を与えて下さってゴルゴダの道を私たちが歩んで行けるように許して下さいますように。そうして私たちが世界のいたる所のサタンを打ちこわして、勝利の栄光の基盤を成して私たちの生前に復活されるイエス様に侍ることができるよう引導して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。 終末にお父様の御旨を私たちが成せるように許して下さいますように。不信の自我を脱ぎ捨てて、永遠に信じることのできる自我として不信の世上を離れるように役事して下さいますように。お父様と一緒に永遠に安息することができて、天の方に立ってお父様の愛を持って億万のサタンを屈伏させて号令することのできる息子娘になれるように、引導して下さることを切に望みつつ願いながら主の御名で申しあげるものです。アーメン。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵 すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 ↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.11
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復帰のためのイエス様の生涯観1957年1月6日(日) 前本部教会 祈祷 お父様! 過ぎし一年間をお父様が保護して下さったことを感謝申しあげます。今日は新年の初めの週間を迎えて喜ばしい心でお父様の前に敬拝を捧げるこの一時間でございます。今我々の過去の不備と不足とさを振返って一年間この一時間からはお父様が願われる聖別した体と心になって温柔謙遜に敬拝を捧げますから、愛のお父様お受け下さいませ。 我々の心にお父様の前に応えられないある主義と主張があるのでございます。これをみんな除いて下さいまして我々の体に悪の侵犯を受け汚されるのでございますが、聖霊の火柱でこれを燃して下さいますならば、隣れみの恵みで許して下さいまして、与えられた本性に和する体になってお父様の喜びの愛を受けることができる息子娘になるように聖別させて下さることをお父様懇切に望みつつ願うものです。 お父様のこの一日から聖なる恵みが連結して悪なるサタンたちを屈伏させることができる能力の歴史が私たちを通して現れるように望みながら与えて下さいますように。私たちの心と体が感動して天上天下のすべての被造万物を和動させて天上にお父様を喜ばせるようにしてあげられるように引導して下さいまして、私たちのこの体がお父様が望まれる真なる会合になるように導いて下さいますように懇切に望み願うものでございます。 今、私たちのあるまごころをみな捧げてお父様の中に隠されていた愛を実現させてあげなければならない時になったのでございますから、お父様の六千年摂理の経綸を現さなければならない時になったのですから、お父様よここに集るあなたの息子娘たち自らが聖別なる立場に立って望まれられてお父様の聖別なる能力を受けお父様が捧げられた杖を持って紅海を渡ったモーセの心情を感じることができる子女たちになるように許して下さいますように、お父様懇切に望み願うものでございます。 お父様この一年、三千万民族にお父様の祝福を与え賜ってこの民族のために集る数多い教国の上にお父様の栄光と愛がとどまって、あなたの隠れている息子娘にお父様の約束なさる御心を現されて、早く早く三千里鳥が勝利の園になれるように許して下さいますように。そうして眠っているこの民族が歓喜の栄光をお父様に捧げて、復帰の御心をこの天地の上に振動させることができるように引導して下さいますことを、お父様懇切に望みて願うものでございます。隠れている聖徒たちのまことの心を我々が身につけるように許して下さって、数多くの教団を動かして三千万民族を目覚めさせて、またこの民族を動員して二十四億人類を目覚めさせ本然の園を早く早くなせるように許して下さることを、愛するお父様懇切に望まれて願うのです。お父様、今日この時に立てられた新しい約束と新しい法度とに我々の心と体を聖別して陶酔されて、お父様のその喜び、心の恵みを私たちに現してくださいませ。約束と話がここに存立するように望みつつ与えて下さいましてこの時間この後からはお父様の前に勝利の祭物として捧げることができるように、お父様の保護のさしのべる手が長く長く一緒にして与えて下さいませ。 お父様が喜ばれる御心だけのために我々の心と体と全てのものをみんな捧げることができる忠孝の息子娘になるように許して下さることをお父様懇切に望んで願うものです。この日も地方に散らばって御言を掴んで一人で祭壇をまかされている群集がいるのですから、彼らをサタンから聖別して下さいますように、暗闇の勢力の前にお父様の実証的な能力を立てられて伝えられる、お父様の栄光を現される誇れる子女たちになれるように許して下さるように、愛なるお父様懇切に望みつつ願うものでございます。 また集る所所ごとにお父様の息子娘たちがお父様の権能の力を受けられるように許して下さいまして、サタンの審判を受けないように保護して下さいますように。お父様この時間三位神が運行されて喜びと栄光の復活の歴史に現れるように許して下さって、初めの時間から終りの時までお父様の聖霊が私たちの心と体に充満するようにして下さるのを懇切に頼みながら、全ての言葉を主の名前で申しあげるものでございます。アーメン。 <御言> 復帰のためのイエス様の生涯観という題目で皆さんに少しの間話しましょう。堕落した人類はまだ世界が立証したことができて地上に立証したことができたなら、天が立証したことができる永遠な生命の価値を探せずにいました。そんなわけで堕落した人間たちには個人の生の価値を探して個人を経て、世界的な生の価値を求めて世界を越えて天的な永遠な生の価値を探さなければならない復帰の使命が残っているのである。 それならば神様が今日まで摂理の御旨を立てられて全体の生の価値を探し来られたその目的はどこで終結するのか。それは皆さん一人自体や世界で終結するのではありません。天と地が一つになって神様が喜ぶことができると同時に世界が喜ぶことができて、世界が喜べて個人が喜べる生涯の価値を探さなければならないのである。その時こそ初めて天の救援摂理も終日なのです。サタンを中心とした世界的な人類も終日ならば個人的な道徳観念も終日になるのです。堕落した人類にはこの様な生涯路程を開拓して行かなければならない責任があるのを皆さんは知らなければなりません。 そして皆さんは皆さん自身を個体的である自分とだけ見るのはたやすいが、皆さん自体の中には創造の全体理念が入っているのを知らねばなりません。それだから皆さんはまず世界的な生の価値を現さなければなりません。そんなしかる後こそ皆さんの個人的な生の価値が成立されるのを知らなければなりません。このような生の価値を探すために生活して行くのがすなわち信仰生活であるというのを、皆さんも良く知っているべきものです。それだから皆さんは自分自体を分析して自身が要求する天性の生命を代身として永遠な生命を持たねばならなくて、歴史的な全ての理念を一つに帰一させて世界的な生を完結させなければなりません。また一つ皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠な生や世界的な生と関係を結べる。 生の足場を立てなければなりません。そうでなければ皆さんの今の生が世界的な生を経て永遠な生になれないのです。このような宇宙的な生を立てなければならない人間先祖、アダム、エバが堕落してそれを捨てたのでこれをもう一度復帰するために神様が六千年間苦労して来られたので神様のこんな苦労の歴史を復帰摂理歴史というのです。この様な宇宙的な生の価値を探して立てるために神様は四千年苦労の路程を経られた後にその天的な生命の価値を代身することができる一人の方を送られ、その方がすなわちイエス・キリストだったのであります。イエス・キリストは一つの体となり、その体は永遠と無限な世界的な生命を代身されて、永遠な個人の生命を代身なさいました。このような歴史的な背景を備えて来られるイエス様であったので、その方は現実にして永遠な所望を現さなくてはならなかったので、天地の上に永遠に実存できる生命の価値を証言しなければならなかったのでした。 それならばこの様な使命を負って来られたイエス・キリストが、どのような標準を中心として生活なされたのか、イエス様は自分個人の命のために生活はされなくて、世界の生命のために生活されながら行かれては、それを越えて永遠な生命のために一日一日を闘われました。これがイエス様の生活の標準だったのでした。言いかえればイエス様が願われたその願いと感じられたその感じ、生活されたその生活は自分個人だけのものではありませんでした。それらは個人的であると同時に世界を代表して、世界を代表すると同時に神様を代身されたのでした。 またイエス様が伝えられた福音の御言もイエス御自身だけのためのものではありません。世界のための御言であって、さらに進んでは神様を代身する永遠な生命の御言であったのです。これを感じられないキリスト教徒らとすれば、イエス・キリストの真なる福音の内容を悟れないので、イエス・キリストが来られた目的を成就してあげられないのであります。これを皆さんは知らねばならないのです。 イエス様が立てられた愛の基準 それならばイエス様はこんな宇宙的な生の価値を実現するために何を主張されたのか。イエス様は愛を主張されました。ちょうど宇宙的な生の価値を天と地の上に完結されようとされて新しい福音を伝えられたのだが、その福音の中心がすなわち愛であったのでした。個人が自分自身の生命を永遠な価値の基準に結びつけられる。最も重要なものが何であるかとすればイエス様がお話なさったのが他人のために自分の命を捧げることができる愛であるのです。実体としてイエス様は自己自身のための愛ではなく、他人を自己以上に愛することとしての生の価値基準を立てられたのでした。 このように天的な全体の生命の価値を代表し現れたイエス様は、人間に自己個体の救援をするためには他人のために命を捨てられる愛を所有してなければならないと教えられたのでした。私のための愛よりも同僚のための愛、同僚のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神様と霊界にいる千万の聖徒たちまでのための愛を備えて来られた方がイエス・キリストであるのを皆さんが確実に知らなければならないのです。イエス様は自己個体の生命の価値を探すための個体的な観念をもって、あるいは個体的な愛をもって生きている方ではありません。イエス様は友を愛される時もただその友関係にだけ愛されるのではありません。その裏面には世界を代身として愛するのは観念を整えて、また神様を代身して愛する心を備えて愛されたのである。 このようにイエス様の愛は一対一の関係での愛ではありませんでした。イエス様がある個人を愛したとしても、そこには神様の愛が内包されていて宇宙的な愛が内包されているならば、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験する皆さんになってこそなれるのです。そのような皆さんになってこそイエス様の生命の価値を正しく知ることができるのです。それならばイエス様は自身の生命の標準を見る基準まで立てられるか、世界のために自分が存在する基準を立てられたのです。イエス様は自己を犠牲にされながら友を愛する時にもその内側には世界のために愛するという観念を抱かれていたのです。 イエス様が十字架上に世界的な救援の愛の基準を立てることができたのは、個人のために死ぬことができると同時に全体のためにも死ぬことができる犠牲と愛の心があったからなのです。このようにイエス・キリストが愛と生命と人格の主人公であったのを皆さんは知らなければなりません。それだけではありませんでした。イエス様はその時天に向かって「私の父よ万一できることでしたらこの盃を私から去らせて下さい。しかし私の願いではなくて父の願いの通りさせてくださいますように。」と祈られたのです。このように死の峠を越えて父の御旨をしてだけ生きるのを望まれたイエス様であったので、神様の愛を人間に紹介することができたのでした。このようにイエス様の路程には驚くべき愛が内包されているのを私達は知らねばなりません。そして宇宙的な生命を復帰するための使命を抱かれて来られたイエス・キリストが生命の価値を探すために主張されたのが何だったのでしたか。それもやっぱり愛です。そしてその愛は人間個々人のためのものではなくて、世界のために、同時に神様を崇めて永遠な世界、ちょうど霊界にいる霊人達までものための愛だったのである。 それならば今、全体復帰の生命を担当しなければならない私たちが一日一日の生活で神様の愛を代身するイエス様の生命の価値を実現するためには、どんなことにぶつかってもその日その時間に感じる感情としてだけに対してはだめである。宇宙的な全体の性禀を代身するイエス・キリストの人格を代身する覚悟と決心で全てのものに対してこそなれるのです。そのような一日一日の生活をしてこそ世界的な生を完結できることで、永遠な生命と関係を結べるのです。 言いかえれば、皆さんの一日一日の生活が、皆さん自体にだけ及ぶ瞬間的な生命の価値を備えているならば永遠と関係を結べないのです。そのようなわけで永遠無垢な神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければならないのです。そんな時に永遠なる神様が皆さんと一緒にされるのです。そして皆さんはイエス・キリストが一生の間毎日毎日神様と関係を結びながら生きたので、イエス様は死んだけれどもイエス様を通して果たされようとされた神様の御旨は継続されて来たのである。 真の聖徒の生活の中心 それならば今日私たちがこの様な関係を結ぶためにはどのようにしなければならないのか。ちょうどイエス様を信じて行くところにあって私たちの中心として立てなければならない観念がなんであるかとすれば、イエス様のように個人のために生まれたのだけではなく世界のために生まれて天のために生まれるという、こんな観念を経験せねばならない。ために生きる生活からだけ、すなわち他人のためには愛と奉仕の生活をしてこそ、神様と永遠な関係を結んでいけるというのを皆さんが確実に知らねばなりません。 今日私たちにイエス様を信じてその愛に感謝する心があったのならば、その感謝を自身だけの感謝としては感じてはだめなのです。その感謝を万民のための感謝として立てて行かねばならないのです。そのような者がいるならば彼は世界的な使命を負うでしょう。進んでは神様の全体的な使命まで責任を負うことができるのである。 私たちがこんな生活の中心を備えて生きたなら私たちは失望しないのです。ある困難が追ってある困苦にぶつかっても、充分にそれを踏んで越えることができるのです。そのようなわけで今まさに心をこめて読む聖書の御言からイエス様は「あなたが全てのものを心配するな」とおっしゃいました。すなわち、食べることのために心配するなと、着るもののために心配するなとおっしゃいました。この御言は全体を否定するのではなく、神様の御旨を代身する全体の価値を探し立てるためには、自己個人の生活を解決することより前に、世界的な問題を解決するために心配して行く、世界的な問題よりも宇宙的な問題のために心配する人になれということである。またそんな覚悟を備えて生きる人には、自己一人の苦痛が問題ではないのである。 それならば今神様の御旨を成就して捧げなければならない私たちはどんなふうに生きなければならないのか。一日一日の生活が自己自体の内外的な問題だけを解決する(生活)になってはいけないのです。自身の問題を越えて全体的な問題を関係を負って永遠な価値を実現させておく責任感を備えて生きなければなりません。そんな時皆さんは天的な福音の御旨を成就してあげることができるのです。また皆さんがそんな使命感を持って伝道の道を行けば神様が一緒にするのです。このように皆さんがそんな愛の心を備えて、ための生活をするならばそこには必ず愛の再創造歴史が起きるのです。これを皆さんは分明に知らなければなりません。 私たちは今まであまりに自己中心に信仰生活をしてきました。私のために苦労して、私のために愛してきました。今後の皆さん方はそうしてはなりません。今皆さんが天に向かって愛を要求しても、全人類のための愛を要求しなければならなくて、霊界にいる数多くの霊人たちまでも、ためになれる愛を要求しなければなりません。 人間の永遠な生命を求めるために長い時代を経る歴史が摂理路程です。世界的な生を探すため残っているのが人類歴史路程であり、一日の生を探すためのものが生活路程であるのです。そしてこれを人間の価値的な関係として望むとき、世界的な生命を探すためのものが人類ならば、個人的な生命を探すためのものが観念であるのである。このように世界をして個人に至るまでの全ての問題がでる一つの自体が関係を結んでいるのを皆さんは知らねばなりません。そして皆さんが永遠に父が保証することができる生命の価値を持つならば、愛を中心のイエス・キリストの生涯観を習わなければなりません。 それならばイエス・キリストの生涯観は何であったのか。その生涯観は愛を中心とするためには心と宇宙的な中心の心情をもって一日一日生活を支配して行くのでした。それがイエス・キリストが宇宙的な生を復帰するために立てる生涯観の中心内容であったのでした。それで皆さんは一日一日が生活からあるわずかな問題にぶつかっても、神様が与えて下さった全体的な生命の復帰運動に責任持った心でそれに対しなければなりません。またイエス・キリストが復帰のための愛の実践者として現れたのを感じなければなりません。 イエス様の使命を相続して御旨を完結しなければならない我々 そしてその愛を実体とするために皆さんは自分が他人のために与える生活をしなければなりません。そんな時に皆さんは全体的な生命と因縁結ぶようになって、永遠なる神様が立証してくださることができる生の価値を成すことができるようになるのです。イエス様は宇宙的な生を復帰してこそ使命をもって来られた方なので、個人的な責任と個人的な蘇生と個人的な苦難の路程を経由されたのです。そしてこんな責任を負うところにあっても、一生一代にだけ責任取ろうとされるのではなくて、全体的な復帰の使命が終わる日、時まで全人類の生命を責任持たれる覚悟を抱いて生きられたのです。いわばイエス様は二千年歴史が経過した今日まで宇宙的な生命の復帰の使命を責任もって来られたのです。ところでイエス様は自身だけでその使命を完結することができないから、聖霊を送って役事されながら、霊界にいる数多い霊人達まで動員してその使命を完結しようと現れているのを、皆さんは知らなければなりません。 このようにイエス、キリストがこんな宇宙的な生命の価値を復帰するために来られて行かれたが、そのことを完結されることができなかったので、まだそのことを成さなければならない使命が残っているのです。そのようなわけでイエス様は今日までもこの地上でその使命を果たすために苦労していらっしゃるのです。 ところでこの責任はイエス様自体だけでは完結させることができません。それならば誰を通してその使命を完結させなければなりませんか。神様は皆さんを通してその使命を完結されようと成されます。言いかえればイエス様が宇宙的な生の復帰の使命を果せなかったので、今私たちがその使命を責任もって現れなければなりません。そして皆さんが皆さん一代でその使命を終結させようとする責任を感じたならば、皆さんの一生を通してその使命をなすという堅い覚悟を持たねばなりません。 今、今日、皆さんたちは一日一日の生活でイエス・キリストが宇宙的な生命の価値を探して立てられるために、摂理歴史過程で苦労していらっしゃるのを体恤しなければなりません。そうでないならば今まで立てて現れた宇宙的な生命の復帰の使命者として苦労して来られたキリストの御心が皆さんを通して完結されないのを皆さんは知らねばなりません。今、皆さんは以前の皆さん自体を天の前に盟誓の条件物として立てるべきことを知らねばなりません。イエス様も世界のために天と地のために、あるいは大勢の民のために、ただもう一度盟誓の条件を立てるのにそれがなんであるかとすれば、十字架というのである。イエス様はこの十字架を通して、数多く先知光烈達が生命をかけて苦労して来たその基準を一時に越えられたのです。 それだから皆さんは宇宙的な生命の価値を実現するために将来にある一時、天の前や世界の前に、または個人の前に捧げる一つの盟誓の祭物になる観念を確実に持たねばなりません。皆さんがあるところに行こうが、あるところに処してあることをしようが、その日その時間に処する環境でいつでも盟誓の条件物として立つために努力しなければなりません。こんな生活がすなわち信仰生活であるのです。 今、皆さんには父の前に宇宙的な生命の価値を探して捧げなければならない使命が残っているから、皆さんたちは自身を盟誓の条件物として立てて、イエス様の生命と関係を結べることができる生活をしなければなりません。また皆さん自体を世界的な条件物として立てる覚悟を持たねばなりません。さらに今まで苦労してきた数多くの先知者たちを代身してイエス・キリストを代身して盟誓の祭物になる覚悟を持たねばならないのです。このように皆さん個体個体がそのような盟誓の条件を造成しなければならない皆さんは神様から二人になって四人になって世界まで行くことができるのです。そんな環境に至るようになる時、生命の価値を探すため世界的な苦難が終結するのを皆さんは知らねばなりません。言いかえるならば生命を探すための世界的な苦難を終結させることができる基盤に皆さんの個体から形成されて、教会、社会、国家、世界にまで拡大されなければ、神様がイエス・キリストを立て宇宙的な生命を復帰されようとする摂理の御旨は終結されないのです。これを皆さんは確実に悟らなければなりません。 ところで今日までこのような摂理の御旨に対して現れる皆さん自体を考えてみる時や、または今日キリスト教人たちを考えてみる時、宇宙的な生命の価値を代身する個人と家庭が出てきて、社会、国家、世界まで連結される基準が造成されなかったのです。神様から全体がちょうど世界、人類全体にその圏内に入らなければならないのにそのようにできなかったのである。そのような基準がこの地上に成るようにならないならば、イエス・キリストの宇宙的な生涯の復帰の使命は終結されないのである。 終日の聖徒たちが行かなければならない生の目的 真なる個体であられるイエス・キリストを立てられたのだが、今日まで家庭、社会、国家、世界に拡大して行けないのを知らなければならない。そんなイエス・キリストの悲しみが宇宙的な悲しみとして残って、また神様の悲しみ、天宙的な悲しみとして残るようになったのです。そして今日まで人間たちはそんな悲しみを抱いて、永遠な天の勝利が成るようになるその日が来るのを期待しているのです。皆さんの一身を通して天と地の全体の摂理の価値を証明して天と地の全体の愛を現す覚悟を持たねばなりません。ところで皆さんが望む生命の価値観と、神様が全体の摂理を成すために願われる宇宙的な生命の価値観とは差異があるのです。それで皆さんは所望の天倫を標準とした生涯路程を経て、個人的な生活にあっても世界的な生活と宇宙的な生活をすることができる心の姿勢を揃えて行かねばなりません。そのような心の姿勢を取揃えて行くならば、その御心をみんな実践することができなかったのであるけれども、内的な面にては継続して全体と関係を結んで行くことができるのです。 そのようなわけで、イエス様にも天国は私の心の中にあるとおっしゃったのである。この御言はどんな意味なのか、宇宙的な生命の価値をもって、宇宙的な愛と真理の完成者として来られたイエス様は、神様が人間個々人に賦興なさった全ての価値を完結されようと、それが彼ら各自の根本になってこそ友達になるような御心でそのようにおっしゃったのでした。このように天国圏に属する個人たちが集って団結し、以て世界的な生命運動を成して霊界にいる数多く、善霊人たちまでが全体と関係を結ぶようにしてくれるべき時、初めてイエス・キリストがこの地上に来られて宇宙的な生命を復帰されようとしたというその御心が、そんな人々を通して終結されるのを皆さんが知らねばなりません。宇宙的な生命の復帰の使命をもって来られたイエス様に従ったその当時の人々が、そんなイエス様の使命をあえて考えてからもできない立場でイエス様に対する時、イエス様は彼らを叱りながら、神様の国と義よりも、食べて飲んで着ることをもっと望んでそれらを生命の標準としてみなしてはならないとおっしゃられたのです。一日の生活を神様を代身して生きて、イエス・キリストを代身して生きて、世界に代身して闘うことができる覚悟をもって生きる者がいたならば、その人は一人きりではありません。そのような人にはこの地上終わるまで神様が一緒でイエス様が一緒で善神が一緒にいるのです。ところでその当時の民たちがこんな関係を知らなくて自己だけのためには生活的な観念をもって生きていたのでイエス様が彼らを叱られたのです。 それならば終りの日に身をおく皆さんがイエス様を信じる目的は何ですか。それはどんな外的な世界の福を受けるためのものではありません。個人の安逸を求めるものや個人が安らかに生きるためのものではありません。私たちが生きるのはイエス様と神様のためのものです。ところでこんな目的が入れかわるような時は、全てのことが良くなるようなことと同じだが、日が過ぎて行くにつれて成って行くところがかえってその日です。反面に人間たちがイエス様のために神様のために世界のために生きて行くならば、神様が全てのものを責任もってくださったのを、イエス様はお話されたのでした。 ところで神様の御旨を成して捧げようとする責任を背負っている皆さんにあって問題は、皆さん自体が神様の御旨のためにある程度まで犠牲することができるとするのです。皆さんが個人のために犠牲になるならば個人的な主人公になることでしょう。世界のために犠牲になるならば世界的な主人公になるでしょう。天と地のために犠牲となって勝利的な生涯基準を立てられたならば天と地を主管することができる主人公になるのです。そしてイエス様は人間たちが自身の人格に似た生命的な価値を探して立てるように、今まで背後で役事されていらっしゃるのです。皆さんが皆さん個体を探して立てたこんな生命の復帰運動を成させるのは人類歴史的な面で見る時、また現実の世界的な面で見る時、あるいは未来の永遠な所望的な面で見る時、言うことのできない重要なことなのです。あわせて皆さんの責任も言うことのできない大きなことなのです。 皆さんが食べて生きる全ての生活の標準はキリストを代身して全体的な生を復帰するためのものにならなければならないと、また皆さんは神様が探されようとする全体生命の価値を、イエス・キリストが立てられた愛を中心として実践する責任感をもって行く者にならなければなりません。そのような皆さんになってこそ神様が宇宙的な生命を復帰しようとする御心が皆さんを通して完結されるのです。そんな人々が集って生きるところが天国です。そんな個人が多ければ多いほど、神様が一緒されてもっと喜ばれるのを皆さんは知らねばなりません。 祈祷 復帰の生命を宇宙的に因縁を結ぶために、天倫の法度を立てられて摂理して来られたお父様の苦労の歴史を私たちの心感じるようになるものです。父よ、あなたが世界的な生の価値を立てられるために、六千年間苦労して来られたことを切実に悟れる私たちになるように引導してくださいませ。個体から全体に至るまでキリストと関係を結ば宗教に神様が干渉することができないことが天法であるのを知りましたから、今、私たちがイエス・キリストが望まれる生命に生きられることができるように許して下さいまして、イエス・キリストの愛の価値を知るように許してくださ愛するお父様懇切に願いつつ望む者でございます。 イエス・キリストが過ごされた生涯の覚悟を私たちも持たねばならないことを知りましたから、私たち個体の生涯の価値を探すことのできる闘うところからサタンの保証を退けて勝利することができるように一緒にして与えて下さいますように。イエス・キリストが残された生涯の価値の復帰路程を私たちが代身して行くところにあってサタンの讒訴があったのを知りましたから、私たち個人の生涯から世界の生宇宙の生まで伸びて行く路程にあってサタンの讒訴受ける者にならないよう導いて下さいませ。堂堂してサタンの讒訴を一日の生活から防いで歴史的な面から防ぎ止める覚悟を持ってその生命と責任を完遂することができるように許して下さいまして、愛するお父様懇切に願いまして望む者です。 今、私たちが永遠なされる生命の価値を持つ世界的な生を成すためには、地の上で万物を主管されたイエス様の完全な人格を似なければならないのを知りますから、愛のお父様キリストのその人格に似ることができるように導いてくださいませ。また私たちはだれを論ぜず実体的にの路程を歩まなければならないに処していますから、お父様社会生活にあってやの前に立って行く人格的な面で、あるいは人間たちに与えなければならない愛の面にあってサタンの讒訴を受けないように、お父様導いて下さいませ。永遠なられるお父様の愛が成る切に所望したキリストの愛を実現されることができるように一緒にしてくださいませ。キリストが立てられた生命的な価値を私たちがもってその価値をこの地上に実現されるように主管してくださることを、お父様切に願いつつ望む者です。 この責任地は私たちがならなければ、個人から世界に渡って天と地まで連結されるのをこの時間感じられるように許してくださいますように、外的な全て条件を退けて全体的な生命の基準と生涯を探すために私たち自らで覚悟して全て条件を盟誓の祭物として見なし、闘って行くことのできる息子娘になるように導いて下さることを愛するお父様、切に願って望む者です。全てのことをお父様の御心の通り主管して下さいまして、この者たちをわせて下さることを切にお頼みしながら、主の御名でお祈りした者でございました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2021.02.10
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天国復帰のために選ばれた群れ1956年12月30日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 今年の最後の聖日を迎えました。お父様、私たちがいつお父様の心情を思いつつ、心配したことがありましたか? いつお父様の御旨のために戦ったことがありましたか? いつお父様を真に愛したことがありましたか? お父様、一年間、憂いの心情で下した命令と、この民族のため私たちに与えたところの責任を、私たちが十分に果たせなかったことを許して下さい。この一年間、足りない私たちが立てられて、お父様から命令されたことが多いのですが、その使命を成しきれなかったことを許して下さい。自分によって、お父様が要求される大きな御旨が成就できるよう許諾してして下さい。 御旨に対する地上の人たちが、時がわからなくて、天が願われる基準まで行けないで、命令の前で従順でなかったことを許して下さい。戦いの一路を経てきたとは言うけれど、勝利の成果がお父様の前に現われないのを見るとき、お父様、ただ申し訳ないばかりです。 ここに集まったあなたの息子・娘に、過去与えたところの責任をもう一度与えて、お父様の御旨のため走りかけて行くように許諾して下さい。内的な自我と外的な自我を分別して、「いつもお父様から愛されることができるか」と、自ら思うことのできる心になるよう許諾して下さい。 お父様、私たちが与えられた使命は、今日の私たち自身だけを探すことではなく、民族を探し、世界を探して、天の恨みまでも解いてあげる使命でありますので、その使命を代身し、お父様の命令に従うべき私たちは、お父様の前で恐れているだけです。 お父様、弱くて足りないものたちを、お父様の御前にもう一度立てて下さって、哀れみと恩賜の御手が、この場を越えてサタン世界まで行けるよう許諾して下さい。 お父様、この民族を哀れんで下さい。この民族の代身として集まった多くの教会を哀れんで下さい。彼らが、お父様の大きな御旨と摂理があるということをわかるように許諾して下さい。 そうして、教会が民族が、お父様の御旨を支えるよう許諾して下さい。この民族を通して24億人類が、お父様の御旨を支えてその所願を成就するように導いて下さり、その栄光を24億の全人類が称えることのできる日が早く訪れて来るように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この日、足りないすべてのことを告げて、お父様の哀れみの愛を願い、信ずる者たちが、お父様の前に集まりましたので、哀れみの愛で守って下さり、栄光の恩賜で抱いて下さり、新しい勇気と力を与えて下さい。 この時間、お父様と共に、天と地が和動でき、お父様の善なる愛がここに宿って、お父様と私たちが一体となる中で実られる栄光をお父様の前へ返してあげ、お父様から愛されるこの時間になるよう許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 この一日、ひたすら喜びの栄光が、全体の頭の上に共にするよう許諾して下さることを、切にお願いしつつ、愛する主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) お父様! とるに足りない私たちを立てられて、この時間まで戦って来るように導いて下さった恩恵を感謝いたします。今日の私たちには、すべてを捧げて、お父様の栄光の一日のため戦うべき使命が残っていますので、疲れ果てないように許諾して下さい。 お父様! 行けという命令に従ってきながら、行かざるを得ない苦難の道も、お父様が共にして下さり、死ぬ道もお父様が共にして下さることをあまりにもたくさん感じました。足りない私たちを導いて下さる、お父様のその愛に感謝せざるを得ません。 お父様! 約束の日と、許諾した日が過ぎて、長くなりましたので、許諾した御旨の前で恥しいばかりです。ここに集まったあなたの息子・娘たちが、この日、お父様、御旨の前に栄光として報いることができないならば、涙ででも報いるよう許諾して下さい。 お父様! 忍耐せよ言われた命令に従って、この民族のため訴えてきた先祖たちの所願が、この終末に成し遂げられるよう許諾して下さり、世界人類の前にお父様の御旨を現わし、命令して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、民族の代身として集まったあなたの息子・娘たちの中で、このように大きなあなたの御旨が自覚できないものがいますか? 骨に徹したお父様の心情を体恤することができるよう許諾して下さい。 私たちが行くべき道は、遠くて険しこであることを知っております。いついかなる障壁が私たちの前を遮っても、十分に乗り越えることのできる力を許諾して下さり、怨讐たちの前で嘆息する者にならないよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 今日ここに集まった息子・娘たちが、すべてのことを清算し、6千年間終み合ったすべてを解決できるよう許諾して下さい。私たち一人の不足さを清算すると同時に、この民族の不足さをこの場で清算するよう許諾して下さい。そうして、6千年の人類歴史上のすべての恥を清算するよう許諾して下さい。そうすることによって、この時間、サタンの前で一つの勝利の条件を立てて年を越すことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い致します。 お父様、私たちを、何も知らない子供みたいになるよう許諾して下さい。導かれるままに従順にいける私たちになるよう、各自の主観や観念が残っていないよう許諾して下さい。お父様の心情を相続して、清い子供の心に似た善の群れになって、生死もかまわずこの道を守るように、血だらけになる道であっても走りかけていけるよう許諾して下さい。 この時間、私たちの足りなさを受け入れて下さい。私たちには誇るものが何もありません。ひたすら、子供のようにお父様の愛の懐に抱かれたい切なる心だけですので、お父様この時間現われて、一人一人の心を洞察して下さり、つくられた通りに祝福して下さることを切にお願い申し上げます。 ここに集まった息子・娘たちの中で、サタンに引っ張られる者がいないように許諾して下さい。聖別されて喜びと勝利の旗を上げ、お父様に永遠なホザナの栄光を返すことのできるこの時間になるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを主の御名によって申し上げました。アーメン。 <祈祷(Ⅲ)> お父様が、天と地が、一つの体のようになっているということを、私たちは御言を通してわかりました。天は主体であり、私たちは枝と葉であることを思う時、一時でも天の愛と生命のエキスなしには生きられないということがわかります。天の枝と葉として生きるべき私たちが、永遠なる神様からにじみ出る愛のエキスを貰いながら生きているということを許して下さい。 お父様! 終末になって審判の日を予告するこの時、私たちが、完全な根であるイエス・キリストを中心として、お父様の愛に接ぎ木されるよう許諾して下さい。永遠なるお父様の愛と、イエスと聖霊の愛を通して実られた愛を、その愛の実りを私たちから収穫されようとするお父様であることを知っておりますが、私たちがそこへ到達するには、あまりにも不完全で未熟で、お父様の収穫の刈り入れを邪魔する者になるのではないかと恐れています。 私たちをお父様に委ねますので、お父様、導いて下さり、守って下さい。試練と患難の中でも、一つの成熟した結実として完結できるよう許諾して下さり、永遠なるお父様の愛の御手を経て、永遠なる天国を成す結実体になり、収穫できるものになるよう許諾して下さい。 お父様! それは、今日初めて予告されたものではありません。旧約時代と、2千年前イエス様当時にも、すでに予告されたものであると知っております。これを知っているならば、今日の私たちが結実して、天の前に収穫物として、天が安息できる結実体になるべきですが、自ら判断してみる時、まだ完全であると感じられない者がいると思います。そうなら、自らお父様の前で悔い改め、自分の足りなさを嘆息しつつ、イエス・キリストの悲しみを代身することのできる、悔い改めの子女たちになるよう許諾して下さい。 ここに集まった群れたち、聖別に聖別を加えて、サタンの役事を終結させることによって、完全に聖別された子女たちになるよう導いて下さって、お父様だけが運行し、お父様だけが干渉されるこの時間になるよう許諾して下さい。 私たちを通してキリストの日を成すことを催促しておられるということがわかるように許諾して下さり、私たちを立ててキリストの愛を現わそうとされる時であることもわかるように許諾して下さい。さらに、私たちを立てて、20世紀である今日において、キリストの患難を抱いて出て行くことを願っておられるということがわかるように、天に向かって走って行く私たちの足取りが、自己中心にならないように、自己を中心として祈るところで止まらないように許諾して下さい。 悪が侵犯できる要素を退けて出られるように許諾して下さい。お父様が運行し、お父様が願われるその御旨を成すために、どんな戦いの道であっても、倒れるしかなく、失望するしかなこであっても、忍耐していけるように、お父様、守って下さることを切にお願い申し上げます。 私たちは地上のものではないので、地上の栄光を受けることができないということをわかります。イエス・キリストを通して予告されたように、2千年の歴史を経てくる中で、真のお父様の愛と志操を持った天の息子・娘がいるとすると、彼らはある世紀、ある時代を問わず、地上からは歓迎されなかったということを知っております。 お父様! 今日の私たちがイエスを代身しましたので、イエスが地上で果たせなかった御旨を代身する祭壇が、この民族から迫害を受ける時、それを甘受することができるよう導いて下さい。天のために生きる時、この地上の人数から蔑視されたり、苦難と悲しみがあっても、十分に克服できるように導いて下さい。 6千年が過ぎた今日、イエスが収穫の一日を待ちつつ私たちを呼んでおられますので、私たちを通して、歴史的な悲しみと十字架の血涙の跡を消し、私たちが勝利の盾になるよう導いて下さい。所望の実体であるイエスは、今日も、私たちがサタンを主管できる資格者になることを待っているわけです。 お父様の喜びの御旨を心に抱き、今日も天の代身として戦わなければならないし、生涯路程を捧げてお父様の御旨を成しながら、この使命が自分一代に終わらないと、二世を通してでも怨讐サタンを屈伏させるべきであるという決心を抱く息子・娘になるよう許諾して下さい。 新年を迎える私たち、生死をかけた戦いの道を行くということを覚悟しなければなりません。どんな怨讐が反対しても、ここに屈伏しないで忠節を守ることのできる私たちになることを、お父様、切にお願い申し上げます。 そうして、お父様を代身した息子・娘であることを全万象の前に現わすことができ、天地に変わることができる子女たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日、許諾された御言を与えて、心と心が繋がるように、霊と霊が動いて、お父様の能力の御手で再創造されるこの時間になるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを主の御名によって申し上げました。 <御言> 自分の位置を確認しなければならない摂理歴史の最後 皆さん、今日私たちは、今年の最後の聖日を迎えました。この年に与えられた使命を完遂することができなければ次の年に完遂すべきであり、今日の責任を果たせなかったら明日にでも必ず果たすべきであるということを、皆さんは復帰原理を通してよく知っていると思います。 創造以来の歴史は、一日を経て、一年を経て、長い日が過ぎ、時と季節が変わるなかで6千年が経過しました。ところで、今この地上では全世界的に大審判が行なわれ、神様が完成されるべき復帰摂理は、今日の皆さんを通して、24億人類を通してなされなければならないということです。 今、6千年の摂理歴史の最後にいる私たち、宇宙的な復帰歴史を協助するため加わった私たち、御旨を成就するために出た私たちが、今や自ら、立っている自分の位置をはっきりしなければならない時になりました。 ゆえに、今皆さん一人が6千年歴史を越えて、最後の復帰の理想であり、創造の中心であるアダム・エバの基準まで到達しなければなりません。さらに、皆さんの家庭と社会、全世界人類がその基準を越えなければなりません。その基準を越える前は、神様の摂理はこの地上で終結できないわけです。 このように、荘厳で恐ろしい苦労の復帰摂理、私たちの先祖が犯した過ち、私たちの先祖が果たさないで残した部分を、子孫である今日の私たちが責任を持って果たしてあげなければなりません。このような宇宙的な使命が皆さんにあるということを、この時間感じなければなりません。アダムとエバの堕落によって、天国理念が根本的に破壊されてしまって、人間を通して完成すべき天国理念が天から落ちてしまいました。それで未だに、天国を探すことができなく、天国を成すための民族も、民族を成すための家庭も、家庭を成すための夫婦や子女兄弟も探すことができないのです。 天国復帰と人間の正しい生 それゆえに、神様が要求される一つの中心目的が何かというと、天国復帰です。天の民族から、天の子女、天の兄弟、天の夫婦、天の家庭まで復帰して天国を成さなければなりません。そのような使命が私たちに残されているわけです。 今日私たちが住んでいるこの地上は、この世の中は、天国の地上でも、天国の世の中でもありません。神様を中心とした世の中ではなく、サタンを中心とした、天国の反対になる世の中であります。しかし、悪の世が、善の天国に回復される歴史的な分水嶺が、歴史の終末にはきっと現われるはずです。 今日の24億人数は、この復帰の峠を越えていくため、神様の摂理に従って、個人復帰から家庭復帰、社会復帰、国家復帰、世界復帰の峠を越えています。 イエス・キリストがこの地上に来られて伝えた福音の中心目的も、天国復帰でした。天国復帰というこの標準は、皆さん個人の復帰は勿論でありますが、個人を越えて、家庭、社会、国家、世界を経て、天宙まで復帰することです。それゆえ、今日の皆さんが、イエスを信じ始めたその日から、復帰のための戦いの一路を経てきたわけです。 今日、世の人たちの生活は、世界のために生きる生活ではありません。国家や家庭のために生きるというけれど、そうでもないのです。また、自分のために生きるというけれど、真に自分ために生きる立場にいるのでもないということです。 今日、悪の世の中にいる全人間は世界のため生きるべきなのに、そう生きていないのです。国家のため、民族のため、種族のため、家庭のため、自分のため生きるべき人間たちが、そのような立場を根本的に失われて生きているわけです。 今日、人間が自分を中心として生きる時も、心を中心として生きるのではありません。私を見る時、どの位まで落ちたかというと、心を中心として生きるべき私であるのにもかかわらず、自分の心を中心として生きることができないほど落ちました。肉を中心として生きる私になったということです。自己中心的で、肉的満足だけのために生きる私になったということです。 神様は、このように堕落した人間を復帰するため、体を立てて心に屈伏させ、個人を立てて家庭を、家庭を立てて民族の前に、民族を立てて国家の前に、国家を立てて世界の前に屈伏させる役事を今までやっておられます。 それゆえ、どの社会からでも個人主義的な人たちは、イエス・キリストを信じてくる革命的な路程の反対の立場に立ってきました。また、家庭を中心としてきた人も、やはり反対の立場に立っていました。 神様は、歴史の流れに伴って、即ち、個人的な時代、家庭的な時代、民族的な時代、国家的な時代の進行に伴って役事されるので、その進行する過程で、人間がついていけない苦難の時期があったわけです。 私たちが指向すべき中心と復帰の順序 今日、6千年歴史が終結される終末であるこの時代に、イエス・キリストの理念が、地上で全世界の復帰の理念として立てられました。つまり、今日キリスト教を中心とした理念が、全世界の中心理念として現われているということです。ところが、ここで怨讐の理念の反撃を受けて、この二つが戦っているわけです。 では、このような立場に立った今日の私たちはどの基準に向かっていくべきなのか。天国復帰の理念を立てたイエス・キリストの所望を通してみると、私たちがいくべき理想の園は、この世界だけではありません。神様が探そうとされる理想の復帰の基準は、この地上だけではないということです。天と地が、二つではない一つに、一体となった理念の園です。そうして、天を中心として和動し、歌うことのできる栄光の一日を探すため、神様は今まで摂理してこられたわけです。 このような時に、今日の私たちが知るべきことは何なのか? 私たち自身が、罪悪史のすべてを蕩減復帰しなければならないということです。 皆さんがイエスを信じていくようになる時も、個人的な戦いが展開されるはずです。体と心の戦いが展開されるのです。その戦いで負ける人は、天国民になれません。体を中心とした悪の動きが心を屈伏させようとする時、それに勝つことができないとするならば、天国民にはなれないということです。 今日の私には、世界から国家、国家ら民族、民族から家庭、家庭から夫婦、夫婦から子女、兄弟まで復帰しなければならない使命があります。このような、神様の天国理念の原則的基準があるので、私たちはまず、自分を復帰すべきです。 「天国はあなたの心の中にある」と言いましたので、宇宙的な天国も完成すべきであるが、まず個人的な天国を完成しなければならないということです。それは何かというと、体と心の相対基準を立てて、天宙の前に立つことのできる存在になることをいいます。 それゆえ、今日の皆さんは、天の全体理想のどの分野からも吸収され和合される、一つの木でいうと、イエス様はぶどうの木であり、私たちはぶどうの木の枝として、どの面に属してでも一つの枝の形を整えなければなりません。そうして、枝である皆さんが幹を通して出ていくこと、これが復帰であります。 天国民としての復帰段階 今皆さんが探すべき一番目の段階は、天国の民になる段階です。天国民の段階に入らなければならない運命が皆さんの前においてあるのです。このような皆さんは、歴史的な意識を新しく持たなければなりません。私一つの存在が、その自身に尽くすのではなく、天国民である天の国の同胞に尽くすという観念を持つべきなのです。それだけではなく、天の国の兄弟のために、天の国の夫婦のために、天の国の父母のために尽くしたいという観念を持つべきであるということです。それは一部分的な観念ではなく、宇宙的な観念です。そのような宇宙的な観念を皆さんは持たなければならないのです。 さらに、皆さんが社会に属して生活するなら、その社会意識を持つべきであり、国家に属しているなら、国家敵な意識を持つべきです。一つの国家に属しているなら、その国の国民を愛することができなければなりません。 今日私たちは、天国建設のために摂理される神様の前に、心と体から主張できる人になるべきです。天国民を愛すべきです。私たちは天国建設のため、お父様の御旨である世界復帰のために存在するという認識を持つようにならねばなりません。 ただイエスを信ずる者として、でたらめにイエスを支えるわけではなく、内的にも外的にも天地の運勢に合わせてイエスを信ずる者になるべきです。神様は、宇宙的な摂理を中心とした天国復帰の理念を立てておられます。私たちはそこに立つことのできる息子・娘、そして民にならねばなりません。そして、天国同胞を愛することができるようになるべきです。 皆さんの横に、皆さんのまわりにいる多くの民の中で、信じる者がいるならば、皆さんは彼らを兄弟として、同胞として思うことができる人にならねばなりません。さらに、すべての人がそうなるようにすべきです。このようなことをみる時、皆さんの責任は大変大きなものです。 それでは、神様が終末である今日の私たちに要求することは何か。それは、信ずる聖徒たちが動員されて、天国の園を建設することです。それゆえ、個人と個人が団合し、民族と民族が団合して、天国同胞をつくらねばなりません。これを皆さんはわからねばなりません。 6千年歴史を縦的にみると、旧約時代には天の民を集めて、新約時代には天の子女を集めました。このように歴史は流れてきたのです。 今日の世には、天国同胞の理念を中心として天国を建設しようとする人がいます。また、天国子女、天国兄弟、天国夫婦の理念に従って天国の建設を図る人もいます。 天国法度の基準と天国生活の標準 皆さんは、生活の中で天国法度を守ることができないといけません。皆さんが、天が要求される天国建設のためには、天国法度を守ることができるべきです。また、天国法度を守れると同時に、天国生活をすることができるようになるべきです。そして、天国生活ができると同時に、天国の愛で一つにならねばなりません。 それでは、神様は天国を復帰するため今まで役事してこられましたが、私たちは何を中心として天国の法度を守るべきなのか。イエスを通して私たちに伝えて下さった聖書の御言を中心として天国の法度を守るべきです。御言が天国法度になりますので、御言を中心として生きなければなりません。ここに皆さんの道があります。特に皆さんは、聖書の御言を通して内的な事実を証しした原理の御言を中心として、天国法度を守りながら生きるべきです。 それでは、生活はどうすべきであるか? イエスの30年生涯に代わった生活をすべきです。終末である今日の皆さんの生活は、イエス・キリストを証しする生活でなければならないということです。それで、皆さんの生活を万民の前に見せてあげられるようになるべきです。イエスが私たちに見せて下さったような、そのような生活を皆さんもしなければならないのです。 皆さんは、神様の御言を中心として法度を守ったイエスの生涯を見習って、和睦の生活をすることによって天のための生活をすべきです。 それゆえ、今皆さんは、天の法度である御言を中心としてイエスの生涯を代身する生活をしなければなりません。皆さんの所望と理想は、神様の愛であるべきです。それゆえ、神様の愛と繋がせるため、和睦の条件を立てていかねばなりません。これを神様は、今日の世界の全クリスチャンに要求しておられます。 一本の木の枝のエキスは、他の枝へも流れます。どの葉、どの枝にも循環されるわけです。それと同じく、お互いに和睦して、尽くしてあげることができる人になるべきです。そのような人は、理想として残された神様の愛を所望することができるのです。 自己中心の観念を捨てなさい したがって、私たちクリスチャンは、自分一人を中心とした観念から離れて、私一人は世界を代身し、宇宙を代身した存在であるという新しい観念を持たなければなりません。 食口たちを見る時も、今日の彼はただの彼ではないということを知らなければなりません。6千年の歴史を代身し、永遠な摂理を代身し、平面的には24億人類を代身した存在であるということを、皆さんは感じなければなりません。誰にも、宇宙的な神様の愛の約束の御旨があります。それゆえ、皆さんはそのような人の前で協助者にならねばなりません。そのような使命が皆さんにあるので、神様の摂理の御旨を正しくわかって、その御旨を代身する群れになるべきです。 皆さんの個人生活や家庭生活でも同様です。皆さん自身の子女、皆さん自身の父母、そして夫婦が、皆さん自身のため存在するわけではありません。子女も皆さんのための子女ではないし、兄弟も父母も同じです。彼らは、国家を越えて、世界を越えて天宙のために存在するわけです。 私たちはそれを知って、そのような次元で子女、兄弟、そして父母に相対すべきです。このようなことを皆さんが認識し、生活から感ずるならば、皆さんはどんな人でも言葉で評することができなくなります。 私たちには宇宙的な神様の御旨があるということを忘れてはいけません。私一人の存在は、私のためにいるのではなく、世界のため、天地のためにいる、復帰の使命を代身した存在であるということを知って、みんなが一つになる生活をしなければなりません。 今日、いわゆる人の違った道をついてきた皆さんは、これから自己中心的な生活から離れるべきです。自分を中心とした観念を捨てなければならないのです。私たちの統一教会も、統一教会だけを中心とする生活観を捨てるようにならないといけません。何故なら、私たちみんなが宇宙の細胞であり、分子であるからです。 今日の私たちは、歴史的な作用を感じるべきであり、天倫の摂理的な作用を、神様の全体的な愛の作用を感じなければなりません。そして、皆さん自身を立てて宇宙的なサタンとの戦いから勝利者になってこそ、皆さんは天国の園で必要な存在になり、その時に天国は皆さんと関係があるようになるわけです。この一つの所望をなすため、神様とイエスと聖霊が一緒にサタンと戦っているということを皆さんはわからねばなりません。 今日の皆さんがサタンと戦う時は、まず、皆さんが持っている考え、持っている観念や主義が、自分のためのものかどうかを分別しなければなりません。すべてを自分のために考えるなら、皆さんにサタン圏から逃れる道がありません。 そして、世界に向かって出ていく私たちクリスチャンも、世界的な歴史意識を持たなければなりません。そうしてその宇宙的な歴史意識で世界を把握し、鑑定できる人にならねばなりません。 平和をつくる者は幸いである では、これから復帰のための世界はどうなるか? 復帰のための社会、復帰のための家庭、復帰のための私はどうなるか? 復帰のための神様の御旨は何か? 皆さんは、このすべてを知らなければなりません。知るためには、御言に従って生きるべきであり、イエス・キリストの奉仕的な心をもって、お互いに和睦すべきです。イエスは、「平和をつくる者は幸いです、その人は神の子供と呼ばれるからです(マタイ5:9)」と言われました。どこへ行っても和睦をつくる人は、神と近くなります。皆さんには、すべての個人を和睦させるべき責任があり、全民族を、世界を、天と地を和睦させるべき責任があります。皆さんが暮らしている生活環境から、そのような実証的な責任を感じることができなければ、皆さんは心ででも感じるべきです。私が個人と個人を和睦させることができる祭物になり、家庭と家庭を、社会と社会、国家と国家、世界全体を和睦させることのできる祭物になりたいという心を持たなければならないということです。そうして、サタンと対立してお父様の前に出られる心を持つ人になるべきです。 皆さんが、そのような関係を結んで生活するならば、良いことをする人を見ると、頭を下げて彼を高めてあげたい心が生ずるはずです。また、悪いことをする人を見ると、「あの人を導くのが私の責任である」という心が生ずるはずです。このような事実を体恤しながら暮らす人がいるとするなら、彼は自分のために祈らなくてもいいのです。自分の家庭のための祈祷もいりません。皆さんが各自が、神様が所望された天国をこの地上に建設するための覚悟をして、それのために生きるなら、神様が共におられるのです。それゆえ、手に手をつないで、和睦の祭壇を築く民族があるならば、その民族は世界に向かって勢いよく新しい革命を起こすはずです。また、教会もそうなります。手に手をつないでキリストを見習って、和睦の祭物になりたいと、死を覚悟して出る群れがあるならば彼らが進んでいく足取りは見た目には危ないようであるかもしれませんが、そうではありません。彼らの足取りは、地上天国に向かった力強い足取りなのです。 イエス・キリストは、天地と大きな使命をもってこの地に来られたわけです。4千年間、天のための忠臣が、孝者がなかった時、天が要求する一人の忠臣、孝者としての使命を果たすため来られた方が、イエス・キリストだったのです。 イエスの30年生涯は、天のための生でした。そして、世界的で宇宙的な生でした。また、彼の生涯は天のための祭物の生涯でした。ですから、歴史上になかった、天のための一つの孝者として来られたイエス・キリストを皆さんは見習うべきです。 お父様の御旨は天国建設です。天国とは、全人類が手に手をつないで和動し、お互いに和睦し、一つの愛に結ばれて、天の前に栄光を返し感謝しつつ生きる世界であります。これを思う時、今日、私たちが信じてきた信仰生活はあまりにも甘い信仰生活でした。今私たちは、その甘い信仰生活を清算しなければなりません。 統一の理念を指向される神様 今は、いかなる教団主義時代も過ぎました。いかなる民族主義も過ぎました。それで、世界主義的な復帰理念、世界主義的な信仰理念を探さなければならない時になったわけです。 今日の韓国人はかわいそうな民族です。かわいそうなこの民族がわかるべきことは、神様の歴史は、個人を壊して家庭を立てて、家庭を壊して社会を、その社会を壊して国家を、国家を壊して世界を立てる歴史であるということです。これが天の審判です。 人類はこのように審判を経てきましたが、今日最後に残った問題は何か。それは、対立して戦ってきたカイン・アベルの二つの路線の中で、カインの路線を完全に壊してしまうことです。それゆえ皆さんは、イエスの御言を中心とした別人になるべきです。イエスの御言を法度として立てて、イエスの生涯を代身した天の忠臣と天の孝者にならなければならないということです。 そうして、統一の理念を指向する神様の前に出て「神様、今まであなたが世界を一つに統合して、その懐に抱いて愛せなかったその恨みを、私を通して解いて下さい」と言えるべきです。ところが、今日のクリスチャンたちは、彼らの前にそのように歴史的な、宇宙的な、天宙的な大きな使命があるということをわかっていません。 それでは、今日の皆さんはイエス・キリストの愛をどれほど現わしたか。イエスによる信仰と生命をどれほど備えているか。皆さんはその限界線をわからねばなりません。 イエスによる恩恵は宇宙的な恩恵です。それゆえ、今日の私たちは、天国意識をもって生きるべきです。皆さんのすべての行動、そして今日のあらゆる感じまでも、「私は天国の代身者である」という中心的な心を持って、そのような観念を持って生活しなければなりません。 皆さんが、万民の前で悪口を言われて烈火のような怒りを感じる時も、皆さん一人が怒ることによって、24億人類が悪口を言われるという感じを持って、それを押えるべきです。天は今までそのような感じでやってこられました。このようなことを知りながらも、皆さんが悔しく思ったり、血気を出して、神様の御旨に背くことがあったらどうなりますか。すべての肢体が連合してお互いに協助しなければなりません。 苦難の中にいる人がいますか? 皆さんはその人の苦難を自分の体の傷のように感じなければなりません。そして協助しなければなりません。このようなことは、韓国民族だけがしてはだめです。全人類がみんな協助しなければならないわけです。 皆さんは、天国復帰のための道を行くべきです。皆さんは天宙の愛を受ける息子・娘にならねばなりません。その次は、天宙の中心である神様に侍ることです。皆さんが叫んでいる神様、皆さんが探し、信じているイエス・キリストは、皆さんだけのための神様でもないし、イエス・キリストでもありません。ところが、今日イエスを信じている人たちはそれがわかりません。ただ、自分のためのイエスであり、自分のための神様であるとわかっています。 しかし、神様の所望はそうではありません。神様の御旨はそうではありません。神様の位置は天と地の中心です。今日の皆さんは、神様にそう侍るべきです。ところが、それは天国生活をする者だけが可能です。 神様に対する正しい信仰 神様が6千年歴史を摂理された理由は何か。歴史全体を御自身の懐に抱くためでした。地上だけではなく、霊界までも、御自身の愛で全体が一つになることを願われ、その一日を欽慕してこられた神様です。このような神様から皆さんが恵みを受けたければ、「お父様! 私を呼んで下さい」と祈るべきです。 神様の愛は、皆さんで止まってはいけません。天が下さったところの恩賜は、皆さんだけのためではないわけです。皆さんを生かすと同時に、全人類を生かすためのものです。 ところが、今日の人間たちは、自己中心的に生きているので、多くの人たちが神様を求めているけれど、恵まれる人はほとんどいないわけです。今日の私たちは、ここから脱皮しなければなりません。これを打破して、天宙的な神様を天宙的な神様として侍ってあげるべきです。このような宇宙的な神様の前で、体と心に徹する責任を感じなければなりません。 皆さんが信じている所望の園は、皆さんだけのものではありません。自己中心的に神様を探し信じようとしたので天使長は堕落しました。 今日、人類が信じている神様は、私の神様であると同時に、人類の神様です。私たちの神様であると同時に、世界的な神様であり、世界的な神様であると同時に、天地の神様であるわけです。それと同時に宇宙的な父母であります。 ところが、今日イエスを信じる人たちの信仰をみると、「私の神様になって下さい。私の家庭の神様になって下さい。この教団の神様になって下さい」と言っています。私たちはこのような観念を持ってはいけません。 今日の世界には、神様を叫ぶ教派が多いのです。しかし、教派圏の中で叫ぶ神様はもう必要ではありません。教派を超越して、天地の中心として信じながら呼べるその一つの存在、全体を代身して神様を私の父であると呼べる資格のある存在、そのような存在たちが集まってこそ、この地上で神様に侍ることができるわけです。 それゆえ、今日の私たちは、自分から感じられる観念が、家庭を通して、全体へまで関係を結ぶようにしなければなりません。新しこへ入った皆さんは、今までの生活を捨てて、宇宙的な生活観念に向かって、新しく歴史的な出発をしなければなりません。 このような時皆さんは、どんな心を持つべきかというと、宇宙的な神様の実存に仕えることのできる心を持つべきです。それから皆さんは、神様の愛を受けることができ、その神様と皆さんが授けて受けることができ、その神様と皆さんが授けて受けられる関係を結ばなければなりません。そうする時、初めて皆さんは、宇宙的な新婦の理念を終結するようになります。 宇宙的な新婦の理念を終結した後、復帰された世界を探して行くことができるわけです。ところが、民族と国民と兄弟、そして子女と夫婦まで復帰してこそ、宇宙的な神様の実存の前に新婦格として現われることができます。その立場まで行くと、そこから出た神様の愛を中心として宇宙的な神様の実存の前に立って、その愛と一つになれます。そうして結ばれた夫婦が、この地を主管できる、天国に住める夫婦であります。さらに、そのような夫婦として子女を産んでこそ、天国家庭を建設するし、そのような兄弟と子女として国民をなす時こそ、初めて復帰摂理を終結して、地上天国生活をするようになります。 このように、大きな天国復帰の運動が、今日皆さんを通して提示されます。ゆえに皆さんは、その御旨をなすために、さらに努力すべきであり、サタンの前で卑屈になってはいけません。イエス・キリストが、御旨一つのため忠臣・孝者の道理を果たしたように、私たちも忠臣、孝者の道理を身につけなければなりません。 天国復帰を完成して勝利の栄光を返すには そして、この民族だけではなく、世界人類、さらには霊界にいるすべての霊人たちもまでも、天に対して忠臣の道理と孝者の道理をするようにさせる時、お父様の前に天国復帰を完成した勝利の栄光を返す息子であり、子女、兄弟、家庭、あるいは民族になるということを、皆さんははっきりわからねばなりません。 祈祷 愛するお父様、今日の私たちは走らなければなりません。力は足りないですが、一回に数十段階を飛んで越えなければならない歴史的な終局を前にしております。私一人が審判の過程を立派に越えるべき立場に立っているのにもかかわらず、今日の私たちは深い眠りの中にいます。お父様、私たちは、世俗に染まっています。罪悪と同伴しているのです。このような私たち、すべての悪の要素を全部清算して出て、天宙の中心であるお父様の前に勝利の栄光を返すことのできる一つの勝利者として立てて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 歴史的なあらゆる事情が、今日の私たちに終まっているので、それを切り、解放の中心を備えて、イエス・キリストの友達の立場に立って、お父様の前に敬拝を捧げる喜び自体として立てて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 天国復帰のために選ばれた私たちが、自分を中心として天国理念を踏んで生きる者にならないよう許諾して下さい。天国理念に引かれて、その理念を成就する時まで、犠牲し、戦っていけるよう許諾して下さり、あなたを宇宙的な父として侍る時まで、忍耐して戦いで勝つことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願いします。お父様、私たちの心を永遠に主管して下さい。新しい宇宙的な生活基準を通して、全体の中心であるお父様の前に感謝敬拝できるように、お父様の愛の中にいる息子・娘になるように許諾して下さることを、お父様、切にお願いしつつ、すべてを主の御名によって申し上げました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.05
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万民のために来られた主に侍る者になろう1956年12月23日(日),前本部教会 祈 祷Ⅰ とるに足らない私たちが尊いお父様の前に出て、「お父様!」と呼べる恩賜を許諾して下さったことを思う時、お父様、本当に感謝です。死亡の呻 うめ きが絶える日なしに、恨みを抱えて生きなければならない私たちに、愛されるイエス様を送って下さって、拘束の恩賜が与えられたことに対して感謝せざるを得ないわけです。 このため、何千年の歴史を経ながら、変わりなく苦労された聖三位神の恩賜の前に、暗やみの地に光を照らして下さったお父様の苦労の前に、まずは体と心を捧げて、その恩賜に報いることのできる子女たちになるよう許諾して下さい。 お父様、この朝、大きな恩賜を心から体恤しつつ、暗やみの中にいた私たちの体が、天に隠れていた生命の流れに入り、死亡の中にいたこの一人一人たちが、宇宙的なお父様の愛の動脈に連結できる恩賜を許諾して下さったことを感謝いたします。 お父様、身も心も、すべてを捧げても、お父様の恩賜に報いる道がないということを、この時間体恤できるように導いて下さい。身も心も、すべてを捧げても、自ら足りなさを感じる者たちになるよう許諾して下さい。 お父様、あらん限りの力と精誠を尽くしてお父様の前に出ましたので、哀れんで下さい。お父様の前に一つの生きた祭物として捧げられるべき私たちであるのにもかかわらず、この日この時間まで、そうできなかったことを許して下さい。そして、お父様から喜ばれる、永遠に誇られる一つの祭物の姿を、一日でも早く備えることができるよう導いて下さい。 お父様、ここに集まったあなたの息子・娘は、小数の群れです。お父様が、この民族に対して勝利の祭物になることを要求していることがわかるよう許諾して下さり、この民族が死亡の波に巻き込まれることを防ごうとすると、多くの祭物が要求されるということもわかるように許諾して下さい。 お父様が心配されるすべての分野に対して責任を持つことのできる祭物、お父様の憂いの根を解いてあげる祭物、善悪の戦場を清算して、天の前に勝利の栄光を返す祭物として、とるに足りない私たちを立てて、この時間も導いて下さる恩賜に感謝する心をもってひれ伏しました。 お父様!、まずはここにいる聴衆を生きた祭物として喜んで受け取って下さい。その次、お父様が探しておられる一つの勝利の祭壇を築くことができるよう導いて下さい。さらに、お父様の哀れみの御旨を、この民族と全人類の前に現すことができるよう導いて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、とるに足りない者たちを立てておいて宇宙的な全体の使命を命令しなければならないあなたの事情を思うことができ、お父様の悲しい心情が体恤できて、骨と肉が鳴るようなはがゆさを感じることができるよう許諾して下さい。そうして、戦いで疲れ果てても、お父様の悲しい事情と心情を体恤して、自ら慰められるよう許諾して下さい。 私たちを呼んでおられる、お父様のやるせない形状を見るたびに、自ら力をつけて戦いへ出られるよう導いて下さり、天のためにためらいなく出ていく息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、年暮れであるこの時、一年の間私に与えられたところの使命を果たしきれなかったことがあるならば、お父様、許して下さい。 天が私に与えて下さった使命は、世界的な歴史観念を越えて、天宙的 な歴史観念にあたる使命でありますが、私たちが一年の間自己中心的にやったことがあるならば、許して下さい。与えて下さった使命をあまりにも軽く思ったことを許して下さい。 お父様、今日お父様の前で、去る一年間犯したすべての足りなさを清算し、新しい心と新しい決心、新しい誓いを持つように許諾して下さり、お父様の御旨の前で足りない自分を悔い改めることができる尊い時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、私たちが行く道は、一生を通して戦いの路程を急いで歩まなければならない、宇宙的な運命の路程でありますので、途中で疲れたり、失望したりしないように許諾して下さい。途中で後を振り向くことによって、永遠の恨みが私たちによって残ることがないように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 行きたくなくても行かざるを得ない宇宙的な運命の道へ、生きて行けないと死んででも行くべき道へ入っていきますので、体と心すべてを捧げてでも足りなさを感じるよう許諾して下さり、あらん限りの真心を尽くしても足りなさを感じるよう許諾して下さい。 足りないものですが、お父様、お父様の愛を求める心だけが私たちの生の全体を主管するように、全体の生活を主管するように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日も寂しい食口たちが、お父様が約束され許諾された御言を持って所々に散らばって、寂しい祭壇の前でお父様に切実な心で祈っていることを知っておりますので、どこにいても守って下さり、彼らの悲しい心の友達になって下さり、心の慰めになって下さい。 この時間、一つの恩賜の前で、一つの御旨の前で、一つの栄光を中心として、等しい心と体で敬拝を捧げる恩賜を許諾して下さることを、切にお願い申し上げます。 お父様、この時間数多い祭壇が、お父様の前で哀れな心で告げております。時を知らないあなたの哀れな息子・娘にも、愛の烽 のろ 火 し を現して下さり、御言の烽火を現して下さい。抱こうとされるお父様の愛の懐に抱かれて、 全体が一つの姿で喜びの栄光を返し、勝利の祭壇を備えて、サタンを屈伏させる栄光の祭壇を一日でも早く成して下さることを、切にお願い申し上げます。 この時間も、全国に散らばって天のために祈っているあなたの息子・娘に、哀れみの恵みが共に運行して下さることをお願いしつつ、すべてを主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈 祷Ⅱ 善の地になるよう許諾して下さい。お父様が造られた本然の園は、善と愛と美と永遠な義の盾を備えた園だったので、サタンが狙うことのできない世界であったということを私たちは知っております。 お父様、私一人が願う所望の標準は、お父様の中に隠れている愛の真・善・美の栄光でありますので、お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちの心をあけて下さり、お父様の中に隠しておいた永遠な愛の恩賜を、この時間許諾して下さることをお願い致します。 すでに約束されたお父様の涙の御言があり、お父様が許諾された使命が、天の全体的な恩賜とお父様の全知全能、お父様の栄光をとるに足りない私たちを通して現そうとする御旨があるならば、この時間惜しみなく現して下さい。聖霊の炎で現して下さり、栄光の恩賜を、再創造の復活の歴史を起こして下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 未だにお父様の前で許されない悪の要素が残っておりますか? 哀れみの御手で、許されないすべての要素を主管されて、本然の善の自体として生まれ変わる喜びの時間になるよう許諾して下さい。 お父様、かわいそうで足りない者たちを立てられて、さらに堕落の要素を持っている者たちを立てられて、お父様の永遠な所望をなしてくれと要求されているお父様の心が、どれほどやるせないかをわからない者たちにならないよう導いて下さい。 6千年間、悲しくて、痛かったお父様の心情を、この時間、体と心から 体恤して、お父様の悲しみを慰めるため努力する息子・娘になるよう許諾して下さい。力はありませんが、天に向かって、「このすべてを捧げますので、お父様、私たちに戦うことのできる勇気と力を下さい」と切に言える息子・娘になるよう許諾して下さい。 3千万民衆の中で、人の否認するこの道に立った私たち、打たれながら、苦難の峠を越えてきた私たちでしたので、お父様、力と勇気を加えて下さい。天の勝利の盾を許諾して下さい。義の心情と義の甲 かっ 冑 ちゅ を う 着て、最後の戦い、最後の決戦をしなければならないので、お父様、ここに集まったあなたの子女たち全体が一つの心を持つように許諾して下さり、一つの形状を持つように導いて下さい。 最後の分別の戦いでサタンと戦って、勝利の栄光をお父様の前に返すことのできる姿になるよう許諾して下さい。そうして、永遠に誇れる息子・娘の名分を立てるよう許諾して下さい。 天から呼ばれたところの威信がありますので、三位神が彼らを守って下さり、忠節を捧げる万物万象の前で誇ることのできる生きた祭物になるよう許諾して下さい。 お父様、今日まで戦ってきた道も苦難の道でしたが、これからの道も戦いであることを知って失望する者たちにならないよう許諾して下さい。 私たちの国籍はこの国でもないし、この地上のどの国でもありません。頼るべき所は天であり、願うものはお父様の御旨しかありません。最後の生命録に記されるまでは、戦いの路程と苦難の峠が残っており、患難と逼 ひっ 迫 ぱく の道でさえぎられていたとしても、心から心配する者たちにならないよう許諾して下さい。 天から呼ばれた私たちが、お父様の愛の化身になり、炎の化身になるよう許諾して下さい。悪を清算し、善が入れる体と心を備えて、善の園をなすことができる勝利の基地になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに参席した多くの息子・娘たちの心を主管して下さい。自分自身がわかるように、苦労され心配され悲しまれるお父様の前で面目を立てることのできる子女になるように許諾して下さい。 人間的な外飾、人間的な仮飾をもっては出ないように許諾して下さい。率直にできるように導いて下さい。自分を解剖して、自分の主観や観念、主義主張を全部お父様の前に出しておいて清算されるよう許諾して下さい。永遠な生命の香り、お父様だけが取ることのできる要素を、お父様の祭壇に捧げることのできるこの時間になるよう許諾して下さい。 お父様、炎のような目で透察して下さい。各自自ら悔い改めるところを、お父様の前で全部悔い改めるよう、最後の審判台の前に立っていることを感じるよう許諾して下さい。お父様の栄光の懐に抱かれることのできる恵みを許諾して下ださり、哀れみの役事を許諾して下ださることを切にお願い申し上げます。 お父様の御意だけが、集まってきた聴衆の上に満ちあふれるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈 祷Ⅲ 今私たちの心が、2千年前にイエスが苦労された心情を抱いて天倫の使命をなすように導いて下さり、天地に代わって出たイエス・キリストのやるせない形状を感ずる時、彼の試練を私たちが担うことができるよう導いて下さい。 御言を通して伝えられたすべての内容を、私たちが受け入れることができるよう許諾して下さい。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われた御言を思う時、お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちの心身は尊い聖殿ですが、天の独生者(独り子)、天のために生まれた皇太者イエス・キリストに仕えることができなかった悲しみの歴史が、今まで彼らの体と心に残っているということがわかります。 数千年間、先祖たちが悲しみの城壁を築いてきましたが、この城壁が日に日に低くなるのではなく、サタンのたくらみによってこの城壁が高 くなっています。 今日の全人類は、先祖たちが造っておいた、この恨みの城壁を壊すべき責任を持っており、私たちにもその責任があるということをわからなければなりません。イエス様の哀れな道が、イエス様だけの悲しみのように思われましたけれど、その悲しみが私たちの悲しみとして残されていることがわかるとき、今や涙しながら天に向かって出ていくべき自分自身であることを発見するものです。 今罪に対する哀れな心情を抱いて、先祖たちが犯したあらゆる罪の城壁を眺める時、あまりにも弱い私たちであることがわかりますので、お父様、お父様の力を受け継いでこれらを追い出すことができるように許諾して下さい。 お父様、私たちは持っているものが何もありません。お父様、この韓国民族を眺められる時、世界人類の中で、極めて哀れな民族ではないでしょうか? 哀れなこの民族の中でも、足りなく、寂しさに追われている私たちはもっと哀れな立場におります。 しかしお父様、私たちは世界的な祝福が天に沈んでいることを知っており、お父様の心情深いところには、お父様の愛が沈んでいるということを知っております。 お父様、寂しい立場にいたとしても、涙の障壁を開拓して、和動の園をつくるように導いて下さり、お父様が心から心配して下さるということを知っている限り、私たちはためらう立場を離れ、絶えず前進する姿になるよう許諾して下さい。 今はお父様から命令されて出た道なので、生死にかまわず、所願成就の道に向かって走れる、天の善なる息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 ある若い書記官がイエス様のもとに来て、「先生、願われるなら、この者はついて行きます」と言った時、「ついて来るな」と言われた悲しい御言を聞く息子・娘が、ここに集まったものたちの中には一人もいないよう許諾して下さい。 私自らイエスの前に立つようになる時、愛のイエス、善のイエス、哀れみのイエス、忍耐のイエス、聖霊の9つの実りの全体性を完備したイエスが、やるせない姿で現れたイエスが、私自体から聖霊の9つの実りの中で一 つの実りでも取ることができる、そのような祭物になるべきであると感ずるところです。 イエス様が取ろうとされた時、取るものがなかったので、「来ている道を来るな。所望したものを所望するな」と言われるしかなかったイエス・キリストの内的な悲しみが、彼自身に留まっているということをわからない者たちにならないよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 ここに集まった全体の群れが、お父様の前で、「すべてを捨てて私についてきなさい」と言われたイエス様の御言に従うことができ、そこに呼ばれることのできる息子・娘になるよう許諾して下さい。 お父様が喜ばれる御旨の前で、願われる望みの園に向かって命令なさる時、何のためらいもなくすべてを準備して出られる、天から愛され、また守られる息子・娘になるべきであると誓っております。 そうして、6千年の歴史的な恨みを私たちが担って、サタンと戦わなければならない責任がありますので、新しい覚悟と、新しい決心、新しい誓いを備えて、百折不屈の心、善なる心をもって戦う勝利の勇者になるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 今は許諾された恩賜の前で、御言を通して喜ぶことができる、愛の恩賜が宿られる、栄光が誇りとして現れるこの時間になるよう、お父様、主管して下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。<御 言> 皆さんと共に考えたい題目は、「万民のために来られた主に仕える者になろう」です。 神様の創造理想と人間堕落の結果 神様と人間と万物、これらすべては一つの創造理想を中心として、永遠に一 つになるべきものだったけれど、天と万物の中間にいる人間の過ちによって、万物は万物通りに、天は天通りに、人間は人間通りに分けられるようになりました。それゆえ、創造本然の世界を取り戻すため、万物から始めて人間と、最後には天までとり戻す復帰の歴史をしなければならなかったのです。このようなお父様の事情がわからない皆さんになってはいけません。 堕落の血統を受けついで生まれた今日の私たち、堕落の種族で寓居している今日の人類は、まず心と体で神様の悲しみが徹しているということを感ずる人たちになるべきです。 私たちはみんな堕落しましたけれど、神様が人間を創造されたという関係がある以上、摂理の御旨を成就するため苦労しておられるお父様がいる以上、私たちは無意味の立場に立っていると考えてはいけません。 皆さん自体が悪であるとしても、悪の立場におかれているとしても、自ら今まで歴史過程を経てきながら摂理された、お父様の苦労の涙の跡が、皆さんの体に残っているということをまず認識する人になるべきであり、次は、私たちを再び探して回復させるための摂理、即ち復帰摂理をなしてこられたお父様の苦難の跡を、皆さんが歴史の代身として皆さんの身体に持っているということを感ずるべきです。それだけではなく、創造本然の理想が神様の中に残っている内的な所願が、終末にいる私たちにあるということをわからねばなりません。 では今は私たちは無形の神としておられる神様の悲しみが、私自体に徹してあり、無形の神としておられ、復帰摂理をされる神様の苦労の標的が、この体に所望の基地として残されているということをわからねばなりません。 そして、この地上にいる私たちは、神様御自身の悲しい心情ぐらい哀れんで、苦労された御自身の痕跡ぐらい苦労し、所望した御自身の本然の善の心情ぐらい心と体でその悲しみを代身できる、悲しみを持った人にならねばなりません。 さらに神様は、御自身の苦労を代身する心情をもって、見えない神様 の苦難を、見える形を備えて現すことができる姿を、この日も要求しておられるのです。それだけではなく、お父様は、歴史的なすべての宗教を区分けして、所願を成し遂げる所望の一つの宗教を探しておられるということをわからねばなりません。 寝ても覚めても立ってもすわっても、活動する時も、いかなる生活過程の中でも、瞬間の時間にも、心に染み渡り、体に刺激を受けることができる、真なる聖徒たちがこの地上に現れることを、お父様は待ちに待っておられますので、ここに集まった皆さんは、それが心から体恤できるところまで行かねばなりません。 イエスの降臨目的とユダヤ人の不信 では今、無形のお父様は、人間と万物を造られ、喜びと栄光の対象となるのを願っておられました。万物の前に人間を立てて、みんなが善の理念をもって神様の愛を誇りつつ、同苦同楽することを願われた神様の創造理念は、人間の堕落によって神様の心に恨みとして残されましたが、これを解いてあげる使命をもって来られた方がイエス様でした。神様の4千年の苦労の歴史の代身として、人類の代身として、万物の代身として、神様の内的な恨みの核心を実体的に解いてあげるため来られた方がイエス・キリストだったわけです。 それでは、イエスに侍るべきだった存在、イエスを望んだ存在、イエスと永遠に同楽することができた存在とはどこにいたのか。 イエス・キリストは、神様の内的な心情、徹した恨みの心情に代わった方であり、無形の実存体としておられる神様の実体相として来られて、神様の恨みを実体的に解いてあげることができる方であるということを、当時のユダヤ人は知るべきだったのです。 ところが、イスラエル人の中で、イエス・キリストを通じて慰められたかった神様の内的な摂理の御旨を知って、「この方は、4千年間の神様の悲しみを解いてあげられる方であり、お父様が探した永遠なる所望の存在」とほめ称えつつ、神様の所望の心情に同感でき、その イエス様に侍ることができた人は一人もいませんでした。 無形の神様の悲しみは、有形の人間を通して解くべきです。そして、神様の悲しみと万民の悲しみを代身することのできる方がイエスでした。 ところがイエス様は、一生喜びの日を過ごすことができなかったのです。なぜなら、4千年間流された神様の悲しみの涙が、彼の心に徹してあり、万民がイエスと一つになって神様の恨みを解いてあげるべきだったのにもかかわらず、そのイエス様の悲しみを体恤してイエスの前に出てきた人が一人もいなかったからでした。そのような人は、イエスの一生を見る時、一人もいなかったわけです。それゆえ、そのような恨みの跡が、今日の私たちにまで延長されてきているということです。 メシヤを待ち望んでいたイスラエル民族には、天の独生者(独り子)、天の皇太者として生まれたイエスが、そんなにみすぼらしい姿をして現れるとは夢にも思えなかった事実でした。 それゆえに、イエス様は御自身に仕える一人の存在を捜し始めました。御自身を中心としてではなく、神様の内的な心情の代身として捜したわけです。イエス様は生まれる時から、神様の悲しみを、神様の苦労を、神様の所望を代身することができる存在を探しましたが、馬屋で生まれ、30年を経て十字架の峠を越えるまで、そのような存在を一人も捜せませんでした。 それでは、十字架で亡くなられたイエスには万民が侍っているが、神様の永遠なる愛をもって来られて、人間にその愛を与えることができる生きたイエスには、どうして誰も侍らなかったのか。その責任は人間たちにあります。神様の悲しみを解いてあげるため、神様の苦労の路程を除くため、所望の園を建設するため神様の実体として来られたイエスだったのです。にもかかわらず、そのイエスの悲しみを抱いて、彼の苦難を担って、彼の所望を感じつつ生きるべき責任を果たさなかったのが、私たち先祖たちの罪だったの です。 では、イエスが今日の私たちに要求するものは何か。神様はすべての恨みを、イエスを通して解きたかったけれど、私たちの先祖が果たさなかった責任によって延長されたので、神様の悲しみはイエスの悲しみとして、神様の苦労はイエスの苦労として、神様の所望はイエスの所望として残されました。そして、そのすべては聖霊にまで及びました。 イエスが今日の私たちに要求するもの このように、2千年の歴史を通して延長されてきた、神様とイエスと聖霊の悲しみを解いてあげるべき責任が、今日の私たちにあるわけです。皆さんはそれを感じなければなりません。 そして、神様の心に隠されている6千年の悲しみを解いてあげることができる人、6千年の苦労を代身することができる人が現れなければなりません。6千年の神様の所望をこの地上に再び現す人が、私たちの中から捜されるべきです。 今皆さんたちは、大きなお父様の恩賜の前へ、あるいはイエス・キリストの恩賜の前へ出ていくようになった時、皆さんが出ていくその日が初めであると思ってはいけません。そして、皆さんがお父様の前に立っているのは、皆さんという一人の個人が立っているのではありません。皆さんの信仰も、皆さんの一生だけをかけた信仰ではなく、6千年歴史をかけての信仰であるという実感を持たなければなりません。 皆さんが、お父様の前で自分の罪を悔い改める時も、それがただ自分一人に対する悔い改めではなく、6千年を代身した悔い改めであるということを感じなければなりません。さらに、主の恩賜と主の愛の前に感謝する時も、ある時間圏の中で皆さん一人が感謝していると思っていてはいけません。6千年間のお父様の全摂理、平面的な歴史と立体的な歴史を代身して、所望的な一つの基準を代身して感謝できる人にならないといけないわけです。 このように、神様の悲しみを解いてあげる人、神様の苦労を担う人、神様の所望を代身して成してあげる人が、今日この地上に現れることをイエス様は願っておられるのです。 お父様の御旨を実体的に解くため来られたイエス様は、この地上でその御旨を果たせなかったので、再び来る運命を抱いて亡くなられました。それゆえイエス様は、再び6千年の歴史を代身する悲しみの心情をもってとるに足りない皆さんを訪ねて来られるわけです。4千年の悲しみだけではなく、そこに2千年の悲しみを加えて皆さんを訪ねて来られます。また悲しみだけではなく、2千年の苦労と恨みを加えて皆さんを訪ねて来られるのです。 再び来られるイエスに対する私たちの責任 6千年の所望をもって来られるイエス様が私たちの前に現れた時、人間たちがなすべき責任は何なのか。それは、イエスの心と悲しみと苦労の荷を実体的に代身として引き受けることです。 神様の4千年の苦労の代身として4千年の悲しみを解いてあげるためイスラエル民族の前に来られたイエス様を、イスラエル民族が信じないで反対したので、十字架で亡くなられるようになりました。このように、イエス様が、お父様の苦労と4千年歴史を代身して、その4千年の恨みを解くために来られた方であると信じ、侍る人がイスラエル民族の中になかったので、イエスは十字架で亡くならざるをえなかったわけです。それゆえ、これを完結されるため、イエス様は再臨しなければなりません。 6千年歴史を総決算すべき終末の私たちは、神様の前に、三位神の前に一人で立って、「神様の悲しみを私の悲しみとして、神様の苦労を私の苦労として、神様の所望を私の所望として預けて下さい」といえる心を持つべきです。皆さんは一つの個体ですけれど、天と地を代身することができるという心を持って、イエスの再臨を準備する皆さんになるべきです。そのような世界のクリスチャンにならなければならないのです。イエスの再臨を準備すべき皆さんは、来られて行かれたイエス・キリストの生涯をもう一度考えてみるべきです。イエスの誕生、イエスの生活、イエスの死の事情が、皆さんの事情として体恤できる人にならなければなりません。 皆さんは、イエスが神様の哀れな心を抱えて、万民を救うべき責任がイエス自身にあると感じた、そのような責任感を持つべきであり、悪の地に生まれ一人で横になったイエス様のまぐさ桶に、皆さんが横になったという心を持つべきです。 イエスは天の皇太者、天の王子であるのに、この地上に生まれる時、馬屋で生まれたのです。そのようなイエス様の悲しみも大きかったのですが、そのイエスを見ておられる神様の内的悲しみは何ともいえない位でした。 皆さんは、そのようなことを知って、骨に染みるほど悲しまなければなりません。また、終末におかれている皆さんは、イエス・キリストを担った使命を自分が引き受けたという責任感を感じるべきです。 そして、万民のため来られたにもかかわらず、冷遇されながら、何とも言えない悲惨なところにおられた神様の事情を、自分の事情として変えて考えてみることができなければなりません。イエスは、この地上に御自身の悲しみを慰めてくれるにふさわしい存在があったならば、その一人をつかまえてすべての所望を聞かしてあげたい位の事情があったわけです。 しかし、神様が4千年の歴史を通して選んでおいたイスラエル民族と、イエス・キリストのために準備されたユダヤ教団がイエスを不信したのです。彼らは、ベツレヘムのかいば桶の上に横になっていたイエスとは、何の関係もなかったわけです。このようなことは、神様をさらに悲しませました。馬屋で生まれたイエスの味方は一人もいなかったのです。 私たちは今、神様の恨みと、この地上にきて行かれたイエス様の恨みを解いてあげる人にならねばなりません。そうしなければ、サタンの侵犯条件を、私たちの体から取り除くことができないわけです。そして、6千年の歴史の代身として再臨主がこの地上に現れるということを知ったならば、どうか皆さんは、イスラエル民族のような立場に立たないでほしいのです。彼らの信仰はイエス中心でも、メシヤ中心でも、神様中心でもありませんでした。自己中心だったのです。メシヤは必ず来られるということを知りながらも、メシヤを迎えるための何の準備もしなかったのです。 東方博士たちが、「ベツレヘムのかいば桶に横になっているイエスに敬拝してきた」と言った時、全エルサレム城は大騒ぎでした。異邦の占い者たちがイエスを訪ねてきたわけです。しかし、このような騒ぎは嬉しいことではありませんでした。嬉しいことではなかったということです。 再び来られる主のための準備 今日、天を信じている皆さん、6千年の歴史の代身として信じている皆さんは、過ちを犯したユダヤ教のような立場にとどまっていてはいけません。今や皆さんは、来られるメシヤのために準備し、初臨イエスの悲しみを皆さん自身が解いてあげるだけではなく、栄光までも返してあげるようになるべきです。このような責任が皆さんにはあります。 今日皆さんが、神霊の段階、お父様と議論するところに入ったら、皆さんに「これをしなさい。あれをしなさい」という指示がたくさん下されます。 地上に主が来られると、食べるはずであり、着るはずであり、活動するはずであったのに、メシヤを待ち望んでいたユダヤ人たちはそれを知らないで、何の準備もしなかったのです。待っている者の中で、メシヤが着る服一つ位も準備した者がなかったわけです。 万一、そのような切なる心をもって準備したものがいたならば、東方博士3人がエルサレムにきてそう言った時、全ユダヤ人が騒いだ時、東方博士の後についてベツレヘムまで行ったはずです。しかし、行く道には東方博士3人だけでした。 このように、悲しみの跡を残しておいたのは、神様についてきた神様の御旨のためにやっていると言った私たちの先祖が犯した罪だったのです。今日の皆さんは、そのような立場に立ってはいけません。皆さんたちは、心と体から、内外から、来られる主に侍る準備をすべきです。 それでは、終末にいる私たち、全世界のクリスチャンたちが動員されてなすべきことは何か? メシヤを待ち望んでいたユダヤ人が、メシヤの誕生を準備する民族だったら、イエスをかいば桶で寝かすことはなかったはずです。同じく、メシヤが誕生されたら、宿る所を準備するクリスチャンにならなければなりません。 来られる主のための礼物 イエスがふろしきに包まれてかいば桶で横になったことに対して、皆さんはうれしく思ってはいけません。イエス様は、万民が一つになって、この地上の誰よりも、4千年歴史の誰よりも栄光になる場に寝かしてあげるべき方でした。そして、神様の息子として、万民からほめ称えられるべき方でした。それだけではなく、サタンの前で誇られるイエス様でした。 ところが、そのようにユダヤ人がイエス様に仕えない場面を眺める神様の心情はどうだったでしょうか。皆さんは、このような神様の悲しみをわからなければなりません。 それゆえに、今皆さんは、神様の心を代身し、2千年前のイエスの悲しい心情を受け継いで、内的にひそかに礼物を準備する人にならなければなりません。天の礼物はサタンの前に見せることができません。人の前にも同じです。それゆえ、聖書でも一番尊い礼物は現したことがなかったのです。何故? これは、知るべき人が先に知らねばならないからです。サタンが先に知れば、未練を持つからいけないというのです。 皆さんは、お父様の前で、世界のため来られる主のために準備をする時は、この地上にない、この地上の何にも比べることのできない尊い礼物 を準備すべきです。 主が自ら臨在して活動される時、主が内的にも肉的にも不便がないように、侍る基地を皆さんの体に捜しておくべきです。これは何故かというと、この世で何より尊いものは、皆さんの体であるからです。 これほど尊い方であり、全宇宙を代身できる一つの実体なので、そのお父様の息子、お父様が愛される独生者が来られるようになる時、永遠に安息できる平和の場所を建設しなければなりません。そして、心と体が一つになって、イエスが再び来られると、イエスの手足になり、イエスの生涯を代身し、イエスを楽にすべきです。また、イエスが2千年前に戦ったその戦いを、代身して戦うことができる人にならねばなりません。 イエス・キリストが2千年間戦ってこられましたが、今はそのサタンとの戦いを、私が全部責任をもって戦うという気になるべきであり、その戦いのための盾までも自分が準備するという気にならねばなりません。そして皆さんは、誕生時のイエスの事情を痛感すべきであり、同時に地上でのイエスの心情を痛感しなければなりません。 イエスの涙と祈り 皆さんが真にお父様を求め、イエスの愛の懐を求めていこうとすると、皆さんは涙を流すようになります。 神様は4千年間悲しみながらも、その悲しさを現すことができなかったが、イエスは実体的に涙を流しながら生きました。聖書に少ししか現れていないけれど、実際イエスが涙し、隠されたことは、無限にあります。 神様が数千年間の摂理歴史を通して愛して来られたユダヤ人をみる時、一時も涙を流さなかった時がありませんでした。イエスは神様の前で祈る時ごとに涙しました。苦しく寂しいことにぶつかるたびにイエスは、お父様だけがわかって下さる中で悲しみました。しかしながらイエスは、そのような悲しさを弟子たちに言えなかったのです。このようなイエスの事情を、皆さんはわからねばなりません。イエスはオリブ山に登って、数多く夜明かしをしながら祈られました。ゲッセマネの園でだけ祈られたのではありません。 苦難の道を歩まれながらも、悲しい事情を告げるところは天しかなかったわけです。しかし、その悲しさを天に委ねようとしませんでした。かえって、その悲しさを一人で担いたいと言ったわけです。「お父様! 私を見てお悲しみになるその悲しさを、私が担いますので、お父様、私によって喜んで下さい。お父様の悲しさも私が担いますので、悲しまないで下さい」と訴えたのです。そして「4千年の苦労を私が責任持ちますので、お父様心配しないで下さい。私がおりますので、お父様の所望が残っていると心配しないで下さい」という祈りだけでした。 イエスは物心がついた時から悲しさがありました。世の人間たちがイエスに侍らなかったので、幼い時から悲しさを味わったわけです。 イエスはヨセフの家庭で、連れ子として育ちました。村中からイエスに対するうわさが聞こえましたが、彼は黙々と生活しました。言えない天の御旨、大きな御旨を抱いていながらも、普通の子として育ったわけです。皆さんは、30年を大工として暮したその生活を、いい生活であったと思ってはいけません。イスラエル民族の誰よりも、もっと貴いところに立って、お父様の喜びと栄光を現しながら暮すべきイエス様が、ヨセフの生活を協助するために大工の生活をしたというが、これはどういうことでしょう。 今日、お父様の御旨を捧げるために、お父様の恨みの心情を解いてあげるために歩んでいる真の子女がいるならば、彼らはイエスが歩んだ生涯を見習って歩むべきです。 皆さんは、イエスの生涯が知りたいと、大きな恩賜を代身したイエスの心情に同感し、その心情を体恤し、その苦難の立場になってみなければなりません。そうすると、イエスの悲しみは生活を越えた悲しみであり、イエスの生活は一時も平安を感ずる生活ではなかったということが感じられます。 しかし、地上のために来られたイエスは、地上から受ける悲しさを天の前に返さないため、焦りました。今日イエスを信ずる人たちは、よく自分の十字架や自分の悲しみも天に返そうとします。私たちは、そうするためにイエスを信じるわけではありません。しかし、「天の悲しみは私による悲しみですので、その悲しみを担います。お父様、心配しないで下さい」と言える人は、イエスの信念、イエスの生活の一面を受け継いだ人です。 「あなたは私の友だちなのか?」 30年余りの一生を涙で暮したイエスの悲しみの足跡が残っているので、皆さんにはこれを解いてあげるべき責任があります。 イエス様は一生を悲しみの中で暮し、結局は十字架を担って、最後の瞬間に致って、「わが神、わが神、どうして私をお見捨になったのですか?」と言いながらも、御旨成就の哀れな心情に徹していたということを、皆さんはわからねばなりません。 では今日の皆さんが、「私はイエスの友達である」という心情でこの世を見るならば、皆さんは涙なしにはこの世を見ることができません。イエスは、足取りを移すたびに、体を動かすたびに涙を流したわけです。一時も涙を流さない時がありませんでした。このようなイエスと同じく、今日の聖徒の中で、日々の生活をする中で、天の前に申し訳ない心情で涙を流す人がいるならば、彼はイエスの友達になります。 教会で、家庭で、お互いのために、イエスの心情を知り、神様に代わって涙を流す人がいるならば、そこにはきっと、神様に要求しなくても、無限な生命と愛が共にするはずです。このように神様は、事情が通じ、情が通じ、内容が通じるクリスチャンを要求しておられるということを皆さんは知らねばなりません。 もし、今日この地上に主が来られると、「お前は苦難の30年を過ご した私の友だちになっているか」とお聞きになるはずです。さらに、「お前はどれほど神様の哀れな心情を抱き、世界的な悲しみをもって生きているか」とお聞きになるはずです。 地上に来られたイエスを、人間たちが否認したので、イエスはサタンの前で一つの条件になっています。皆さんはこの条件を越えなければなりません。 今日の私たちは何故生きているのか? この体が死ぬ前に、この目に土が入る前に、忠誠を尽くして、イエスの生涯に対して泣くことのできる人になり、イエスの生涯で踏まれたことを立たせてあげる真の人にならねばならないからです。ですから皆さんは、生きている間に、そのような責任を果たさなければなりません。 それゆえ、今日の私は、ただの私ではないわけです。皆さんが今まで生きてきた年齢だけの皆さんであると思ってはいけません。皆さん各自は、アダム、エバからイエスまでの4千年、イエスから今までの2千年を合わせた神様の復帰摂理を、皆さん自身が結実すべき宇宙的な使命を担っている自分であるということを感じなければなりません。 それゆえ、イエスが怨讐たちの前で堂々としていたように、皆さんも十字架の苦難を受けながらも堂々たるべきです。涙を流しても自分のために流さないで、泣いても自分のために泣いたらいけません。 泣くならイエスのために泣くべきです。そうすると、皆さんのため皆さんを思われるイエスが、どんなに喜ばれるでしょうか? そして、神様は皆さんの事情をわかって下さるはずです。涙を流しても、そのような心情で涙を流す人になるべきです。自分のため涙を流す者は必要でないということです。イエスのために、神様の愛のために涙を流し、悔い改める者だけが、神様の息子・娘になります。 皆さんが十字架の苦難にぶつかる時、真にお父様の愛を感じ、お父様の愛の中に自分がいるということを自ら感じているなら、祈ることができないと思います。私はそれを感じてみました。肩には千トンにもなるような重い荷があっても、「お父様、これを軽くして下さい」とは祈りませんでした。そのような祈りをしてはいけないのです。 愛するお父様は、そのような立場にいる私をよく知っておられます。悲しい立場におられるお父様に、「お父様、私がこのような荷を担っています」と祈ったら、それが痛いお父様の心に第二の悲しみになるのです。 このようなことがわかる人が、このような心情を持ってる人が、3千万民族の中で何人かだけあったら、この民族の悲しさを防ぐことができるはずです。私たちは、自分の悲しみのために泣く、絶対そのような姿になってはいけません。 お父様を慰めるに心を痛め、思い焦がれたイエス イエスは宇宙的な使命をもってこの地に来られましたが、一生苦難を受けました。しかし、その悲しさのため祈らないで、かえってお父様の心情を心配を慰めるに心を痛め、思い焦がれました。一方、地上を見て、人間たちの無知を受け入れるため悲しんだイエスでした。でも、イエスの生涯は30年の涙の生涯だけで終ったわけではありません。彼は神様の苦労に代わって出たので、死ぬのも生きるのも、かまわずお父様の御旨だけを栄光にしてあげたいという心情で歩みました。イエス様は神様がわかって下さるかどうか、地上の人間がわかってくれるかどうかにかかわらず、時と場所にかかわらず、御旨のために生きられました。 御旨を完全に成し遂げるため来られたイエスでしたが、十字架で死ぬようになったとしても、苦心したり失望したりするイエスではありませんでした。死の立場に立っても、イエスは自分を弁解しませんでした。ピラトの法廷を通してゴルゴダの山頂を経て、十字架で釘づけられる運命の立場になっても、イエスは弁解しませんでした。無弁解の主人公でした。人間から反対されることも、自分の責任であると感じたイエスでした。イエス・キリストを信じている私たちは、生まれたイエスから生 きたイエスを経て、行かれたイエスの友達になるべきです。 イエスは何と友達になったかというと、生命と友達にならないで、死と友達になった方でした。歴史過程の中で数多くの人たちが死の道を行ったけれど、万民の死に代わって死の友達になり、万民に代わって死んだ方はイエスだけだったのです。 それゆえ、キリスト教は死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に勝つ真理です。そして、イエスの活動は自分自身を破滅させることでした。そうしながらも、恨まないで愛することができるイエスの行路であったということを、皆さんは認識しなければなりません。 イエスは死の友達だったので、死を催促される時も死をかまわなかったのです。怨讐のために死ぬことができる、余裕の生涯を送ったということを、皆さんはわからねばなりません。 後は十字架にかかったイエスを、神様までも「知らない」と否認しました。その時イエスは、「わが神、わが神どうして私を見捨になったのですか」と叫びましたが、これは、所望が絶望に、生涯のすべてが無になることを心配して叫んだわけではありません。自分の死によって、お父様の御旨を果たさないでいくのを心配して叫んだわけです。イエスは、自分がなすべきだった責任は果たしたので、お父様が天国へ送っても、地獄へ送ってもかまわなかったのです。死の友達になるべき立場であったイエスは、死ぬことで満足し、死ぬことで自分の使命を完遂しようとしたわけです。 イエスは宇宙的な愛をもって来られましたが、それがわかった者がなかったのです。大きな恩賜をもって来られましたが、いったん死の友達になるため出た以上は、何の未練も持ちませんでした。天の所望をなすために来られたのに、天が所望の存在としてわかって下さいませんでしたが、反ばくしたり怨んだりしなかったイエスだったのです。 私たちが神様へ行くのには最後の峠があります。皆さんがあらん限りの精誠を尽くして出ていっても、最後になって天が否認する時があります。天が否認することは、世界的な使命が私たちの前においてあるからです。イエスも世界的な使命を担当すべきだったので、そのような ことをやられたわけです。同じく、皆さんにもそんなことが生じるのです。忠誠を尽くして、生活を捧げてお父様に従っていても、天が否認することが生じるのです。 しかし皆さんは、死ぬこともお父様の御旨であり、生きることもお父様の御旨であるというべきです。また、希望を持つなら、お父様の御旨をなす、ただその一つの希望を持つべきです。「食べられないことも、着られないことも喜びです」と言える心情を持つ人にならねばなりません。 神様に行く道の最後の峠 今日の皆さんは、天国に行くためイエスを信ずる人になってはいけません。死ぬためイエスを信ずる人は天国に入ります。よく生きるためイエスを信ずるより、よく死ぬためイエスを信ずるなら、それは大変尊い信仰になります。よく生きることを願って信じた12使徒たちは、イエスが死ぬ時、全部どこに行きましたか? 皆さんは、皆さん一人の生命がよく生きるため信ずるわけではなく、皆さんの生命をよく犠牲にするため、即ちよく死ぬため信じなければなりません。 そうするために、私たちはイエスの一生を見習うべきです。イエスの一生を、歴史の代身として捧げるべき責任が私たちにあるのです。彼の生涯を私たちが持つべき責任があるということです。イエスの生涯を持つ時、イエスの愛も持つことができます。イエスに仕える時、イエスの愛を受けることができます。さらに、皆さんは、イエスの2千年間の苦労を見習うことができる信仰人格を備えなければなりません。 それだけではなく、6千年間神様の摂理が延長されたので、6千年の摂理の代身として来られる方を捧げるべきです。皆さんにお父様が、あるいは主が現れた時、主を招待して侍ることができる時間を持たなければならないのです。その時間は、1・2時間ではなく、永遠に侍る時間になるべきです。 では、主に侍る新婦の資格を備えるためには、どうすべきであるか? 何よりも、6千年の神様の悲しみに対して責任を持ち、慰めてあげるようにならねばなりません。それから、苦労した主の前に出て、「私はこうこうします。私はこうこうあなたに捧げます。私はこうこう準備しました」と言えなければなりません。宇宙的な準備をして、「主よ、来て下さい。主よ、現れて下さい」と言える聖徒になるべきです。このような聖徒は滅ぶはずがないのです。 このような大きな使命が私たちにあります。ところが、多くの人たちがそれを知っていないのです。それから、イエスの内的心情と所望が、今日の私たち一人を中心として回っているということも知っていないのです。このような人はどうなるのか! 知らない人は滅びます。自ら胸を叩く時が来ます。 来る主に侍るには 心から侍り、体で、社会で、世界で、天地で侍ること、これが子女の責任です。ところが、今日の皆さん自身は心からもイエスに侍っていないわけです。まだイエスに侍ることの出発ができてないということをわからねばなりません。心から侍り、体で、社会が、国家が、世界が、天地が侍ることによって、その栄光が皆さん個人には勿論であり、家庭と社会、国家、世界と、全被造世界を満たし、あふれるようになるのです。このような天宙的な使命が皆さんにあるということを、皆さんは多分想像しなかったでしょう。 そのような使命を持って、特別に集まった皆さんは、卑屈で愚かな者になってはいけません。怨讐たちの前へ出ても堂々としていなければなりません。皆さんには、宇宙的な栄光と愛をもって来られるイエスを捧げるべき責任があるのです。宇宙的なところに、心と実体をもって出て行かなければならない皆さんであります。 ところが、自分のため、家庭のため精誠を尽くして、それで満足するクリスチャンは必要でないということです。教会一つを中心として満足するクリスチャンも必要でないということです。3千万民族が全部クリスチャンであると しても、民族を代表して出ていけるクリスチャン、世界人類が全部クリスチャンであるとしても、24億人類の代身として立つことができる、代表的なクリスチャンが必要であるということです。 霊界にいる全天使を主管できる資格者になるべき私たちであるとするなら、彼らの前でも、このように価値あることをしたと堂々と言えるようになるべきです。このために誰が来られたかというと、イエス・キリストが来られたのです。 このように大きな使命をもって来られたイエス・キリスト、私たちが大事に侍るべきイエスであるが、そのイエスを眺めていく私たちは、果たしてどう生きましたか? 面目がないわけです。面目がなくて、6千年間涙を流しても足りないわけです。はがゆくて胸を叩き、6千年間痛哭しても足りないはずです。このような立場にいる私たちなので、あつかましい人になってはいけないということです。 皆さんがすぐ死ぬことがあるとしても、倒れて踏まれることがあっても、持っているところの忠節だけは不変であるべきであり、宇宙万象の前で天の息子・娘としての威信を立てるべきです。 節義と忠節の息子・娘 皆さんたちは苦難の道に入りました。行かざるをえない運命の道に入ったわけです。このような運命の道に入った皆さんは、一生、信念と内的な忠節をもってその道を行かなければなりません。 皆さんは泣かねばなりません。「私は主に仕えても、世界的な主、宇宙的な主、6千年の歴史を越えて永遠なる理想世界を抱くことができる主、そのような主に仕えるべき私なのに、私は今まで、家庭の主に仕えて喜ぶ、あるいは民族と国家の主に仕えて喜ぶ位の私でした」と悔い改めながら、慟哭すべきです。 今日の皆さんは、この時代に対する責任と使命があるということを感じていますか? あるいは、最初から創造理念が完結される終末まで、全人類が所望してきた理想を私が代身として成し遂げなければならないと思ったことがありますか? そのような、宇宙的な使命感を感じてみましたか? それだけではなく、皆さんは「私はこのような使命を果たすことのできる、自信のあるものです」という心の余裕をもって祈りを捧げるべきです。そのような立場で祈る時は多くの言葉がいりません。そのような立場に立った者がいるならば、「お父様!」という一言ですべてが通じるはずです。説明とか論理はいりません。 話される前、心の直感的な衝撃によって、ためらわず出て仕えることができる資格を備えなければならない立場に私たちは立っています。そのような宝物を持って私たちは立ちました。もう出発した皆さんは、ある条件にかかっているのではありませんか? 行く途中あるところで止まっているのではありませんか? 皆さんは生涯路程を経ていく中で、今はどの基準に来ていますか? 皆さんは個人から出発して、家庭、社会、国家、世界を経て、天地まで走っていかねばなりません。このような天宙的な使命があるということを知らなければなりません。そうしてこそ、主に出会うことができるということです。 イエス・キリストが、御自身に仕えることのできる真の人を探して、6千年の恨みを忘れて、彼を握って感謝の涙を流しながら、「お父様、あなたが願われた存在がここにいます。お父様! 喜んで下さい」という時、天から、「そうだ」という栄光の答えが聞こえる一日が人間の前に来なければなりません。 その日を標準として戦っていく皆さんは、今日も明日も戦いつつ、全生涯を捧げることのできる人になるべきです。そうして、永生の路程で開拓者になり、先頭者になり、宇宙的な新婦になって、宇宙的な主に仕える人にならなければなりません。 そのような、勝利の栄光、お父様の愛、永遠な生命を受けて、万物万象、全天宙を代身した新婦になり、お父様と永遠に同苦同楽できる息子・娘になる日まで戦っていかねばならないのです。 (終)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.02.01
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所望の天国を所望すべき者たち1956年12月16日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛のお父様、一週間、とるに足らない者たちを抱いて心配なさったお父様、一日の生活が私たちの勝手にならないよう導いて下さい。私たちが告げるすべてを主管して下さった恵みを思う時、お父様、本当に感謝しております。 今日、幼い姿がお父様の前へ訪ねてきました。私たちの体と心が、東方博士三人が捧げた、黄金と乳香と没薬のような祭物になるべきであることをわかっております。まず、私の心と体を捧げるよう許諾して下さい。聖壇の前で憎らしい姿にならないよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 私たちを呼ばれるため苦労をなさったお父様は、6千年の悲しい過程を経て来られたということがわかります。 私たち一人一人が、大きい使命を持って、人類の前に先立てられたとすると、私たちのすべてが天の全信仰を代身して、喜びを現わさなければならないと思います。 選ばれた善の目的が何であるかを、足りない者たちが立てられたということを思えば思うほど、私たちの足りなさをお父様の前に告げざるをえません。私たちのすべての意識や観念、主義主張を全部出しておいてお父様の前にひれ伏しましたので、お父様、導いて下さい。 死亡の波が時間を超越して動いていますけれど、この中で、子女たちを探すため苦労されてこられたお父様、お父様が私たちに恵みを与えて下さったのは、私たちが偉くてではないということを知っております。 お父様の悲しみは、キリストがこの地に再び来られる日まで消えないということも知っております。 お父様、すべてを主管して下さい。この集会が、ただ人間同志の集会にならないよう許諾して下さい。6千年の歴史を抱えて、お父様の悲しい心情を慰めることのできる姿になるように許諾して下さい。私たちが一つの祭物として、多くの聖徒たちと共に喜びの敬拝を捧げることができるように、三位神が私たちの体と心を主管して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、この3千万民族を哀れんで下さい。この民族を愛するため、長い歴史過程を通して苦労なさったことを知る者でございます。御旨のため私たちを選ばれる時には、人の知らない苦労があると思います。 祭壇を築いておいて、お父様と深い因縁を結びつつ、民族を代身して訴えるあなたの息子・娘があるということを知り、彼らに感謝せざるを得ません。彼らの前に、新しい摂理の歴史を、衝動の歴史を見せて下さい。韓民族を代身として、神様の前に責任を持った革命家として立たせて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 民族の恨みが、人類の恨みが天に徹しているということを知っております。この天の悲しみを代身する、祭物になるものがないことに対して天が嘆いているということをわかりますので、今日ここに集まった子女たちがその恨みを解くためにお父様の前で祈る息子・娘になるよう許諾して下さい。サタンの前にお父様の代わりとして出て戦うことができる息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 心と体が、一つの御旨をおいて和動して、お父様の恩賜を讃えることができるように、解放の恩賜に感謝し敬拝を捧げることができるこの時間になるように許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 新しい御言の烽火をあげて各地方から戦っている息子・娘がありますので、彼らが泊まる所ごとに、お父様、共にして下さい。頼るものはこの地上に何もありません。ひたすら天から許された恩賜しかありません。多くの怨讐たちからからかわれながら戦うべき宇宙的な運命の路程に入っていますので、お父様、力をつけて下さい。 今日も同じ恩賜で、ここに集まった者たちの本心に、あふれる天の恩賜を与えて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 御旨を代身して、寂しい立場に立って、お父様の前に憂いの祈りを捧げている息子・娘もいますので、お父様、彼らの心霊を守って下さい。 命令の御言と、許諾されるところの恩賜を与えて下さることを切にお願い致します。この時間、ここに臨在して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 時代を、世紀を経て、終末の時まで苦労されつつ摂理の道を来られたお父様、そのお父様の摂理の御旨が、この地上に早く成されることを望む私たちですので、お父様のその苦労を地上で責任をもって出られる私たちになるよう許諾して下さい。 お父様の聖壇を中心として、天的な使命を受けついて、地上でイエス様の代わりにサタンと戦うことができる、雄々しい息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日に与えられた御言を奉読しました。イエスのために、歴史的な使命をもって地上にきた洗礼ヨハネが、イエスの前に証しの使命は果たしましたが、侍るべきだった天的な使命は全うできなかったことを知りました。 ひれ伏したあなたの息子・娘たち、自分自身が反省できるよう許諾して下さい。自分をお父様の前で明らかにすることができるよう許諾して下さい。自分を大衆の前に立たせて、世紀末的な神様の使命を代身して苦労する姿となるように、天が要求される天的な使命と呼ばれる御言に従順する忠臣になるように許諾して下さい。 御旨の時は限られているのに、人間たちははがゆくも無限に所望しており、今日の現時点で生死が判決されるということを知らない哀れな人たちが多いのです。お父様、初臨の当時、洗礼ヨハネが現われて証する時に残されたものを、今日ここに集まった子女たちは忘れないように許諾して下さい。 私たちの心を開いて、天の内的な祭壇を築くように導いて下さり、私たちの体をサタンに対する勝利的な祭物としてお父様の前に捧げることができる息子、娘と立てて下さい。天は自信のある勇ましい勇士を願われ、卑屈に怨讐の前で膝を屈する者は願われないということを知っておりますので、ここに集まったあなたの息子・娘たち、御旨のためなら生命も捨てることができる天の勇士になるよう許諾して下さい。そのような勇士が必要な時であることを知るものでございます。 天倫の御旨を知った洗礼ヨハネと、彼についてきた群れが、天の内的心情に燃え上がって、腐敗した全ユダヤ教に対抗して新しい事実を展開させたように、今日私たちを通して,この民族の前に哀れみの愛の光を現わして下さい。どうか、お父様の摂理の御手を引き取らないで下さい。 この民族のため築いている数多くの祭壇をお父様、祝福して下さい。立てられた教団と共に防腐剤のような祭物になるため、隠れの祭壇を築く息子、娘たちが所々に多くなるよう許諾して下さい。 多くの人の中から義の群れを呼んで下さったお父様、行かざるを得なくなって、ついてきたら、大変な道であることがわかってきました。開拓者の闘志で闘いの一路を開拓し、天の闘志として出て行くべきであることを知っておりますので、お父様、あなたの御前にひれ伏している幼い息子・娘たちを抱いて下さい。 彼らの行く道がお父様の御旨の道であるならば、それが茨の道であれ、険しい山であれ、体が引き裂かれ、傷ができても、ひたすら御旨だけを中心としてすべてを開拓していけるように導いて下さい。彼らの心にお父様の勧告と恩賜だけを現わして下さい。 今は多くの御言が必要な時ではなく、心を動かして天情に到達すべき時であり、心が動じてお父様の御旨を中心として全食口が和動すべき時でありますので、お父様、ここにひれ伏したあなたの子女たちを、自ら内外を備えてお父様の心情を代身した本然の人たちに立てて下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、寂しこをついてくる哀れな群れを導いて下さい。民族の足りなさを許して下さり、お父様から担われた使命を果たしきれないことを許して下さい。特別に集まったお父様の息子・娘を励まして下さり、彼らを立てられましたので、どうか、戦いの一線で疲れ果てることがないように守って下さい。 お父様、彼らが御旨のため命をかけて戦いに戦って、勝利の一日をとるまで変わらない信仰を下さい。変わらない一つの中心を備えて、敵地に投げられた爆弾のように出て行って、お父様の御旨の勝利のため、怨讐たちの前で爆発できるお父様の息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今、御言をもって立ち上がりましたので、お父様、共にして下さり、一つの心を中心として動かれるよう許諾して下さい。天の御旨を心配しつつ、自ら聖別されたものになって、お父様の前にすべてを出しておくことのできる私たちになるよう許諾して下さい。お父様を受け入れることのできない人性的な要素と人性的な主義・観念が、未だに生活の中で生きているとするならば、お父様、能力で役事して下さり、再創造の御手で役事して下さい。 お父様の前で自分を告げて、謙虚な祭物としてひれ伏すことができる喜びの時間になるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを委ねましたので、御意通りに主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日の御言は「所望の天国を所望すべき者たち」です。 神様の創造理想からみると、神様は無形世界の天国も所望されましたが、あなたが臨在できる実体世界での具体的な天国を願われて万物を創造しました。これは皆さんもよくわかっているところです。 つまり神様は、天上天国と地上天国が、神様とアダム、エバを中心として成されることによって、霊的な天国と実体的な天国の栄光を見るため被造世界を創造されたわけです。 神様の創造理想と人間堕落の結果 ところが、人間の過ち、即ち人間の堕落によって、神様がそんなにも願われた天上天国と地上天国は全く消えてしまいました。このような天上天国や地上天国も神様御自身のために造ったわけではありません。人間のために造ったわけです。 アダムとエバを中心として地上に天国をつくって、地上で天国生活をした人間たちが永遠な天国世界に入って生きるよう、地上天国と天上天国を造ることが神様の天地創造の目的でした。ところが、アダムとエバの堕落によって、霊的な天国と実体的な地上天国はなくなってしまって、天上世界と地上世界はサタンが自由自在に神様に対して讒訴できる悲しみの世界になってしまいました。 堕落以後、地上は勿論であり、天上までサタンの活動範囲になりました。それゆえ、サタンは霊肉界の人間たちを讒訴してきました。サタンがこのような権限をもって動かしてきたということを、今日の信徒たちはよくわかっていないのです。 アダムとエバを中心として、神様の栄光の創造理想を歌いつつ喜ぶべき被造世界が、人間の過ちによってサタンにみんな引き渡されるようになったということは、創造されたお父様に悲しみを抱かせる結果になったということです。これを皆さんは骨に徹するほど感じなければなりません。 神様は、このように汚れた地を再び回復されようと、残った天使たちを通して人間と関係を結ぶ救援摂理をやっておられます。堕落することによって尊い神様を裏切った立場に立っている人間たち、万物にも比較できないほど落ちてしまった人間たちを、神様は再び会うために救援摂理をやってこられるわけです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を神様が主管されるため、橋をかけて役事してこられたことが、旧約時代、新約時代を経て今まで続いています。 旧約時代の摂理 旧約時代は、主に神様御自身が歴史され、神様の栄光で人間に会うべき時代でした。ところが、その摂理が完遂し得なかったので、悲しみを抱え、第二次で天使たちを通して人間たちに会うことのできる道を開拓してきたのが旧約時代の摂理歴史であります。 旧約時代には、僕のような立場の使命者として立てられたノアとアバラハムを通して神様の御旨を伝えてきました。暗闇の地上の万民を、お父様が相対できる立場へ引き上げるため、アブラハム一族を選ばれイスラエル民族を立てました。それで、イスラエル民族を通して人間たちが次第に神様へ出ていける道を開拓してきたわけです。 そうして天は、天使たちを通して役事されることのできる一つの基準を立てました。それから、アダムとエバに対する神様の御旨を完成したという基準を備えることによって、お父様に直接会うことのできる勝利的な土台を造成するため、イエスが来るまで4千年間苦労されたわけです。皆さんはこれを忘れてはいけません。 僕が相対する立場に置かれている人間を、子が相対する立場に高めてくれるために立てられた方がイエス様であり、下さった福音が新約です。それゆえに、イエス以降の人間たちは、イエス様を通して神様に会うことのできる立場になったわけです。神様の愛を直接受けるべき人間が、堕落によって神様の愛を直接受けなかった故に、6千年の歴史を経ながら今までも私たちが所望しているのは、子の愛を受けた後、神様の愛を受けることができる立場になることです。 子の愛を受けて創造理想を成すことによって、愛を中心として喜ばれたかった神様と同苦同楽できる実体を備えた息子・娘にならないといけないわけです。霊的だけではなく、この体も神様が直接誇り得るところまでいくべきです。このような使命は、人間が堕落した故、私たちに残されたということを皆さんは忘れてはいけません。 イエスの使命と聖霊の役割 イエス様はこの地に来られて、人間たちを、神様の愛を受けることができる立場に立たせるべきでした。それも霊肉共に、イエスのような子の立場で愛を受けるようにしなければならなかったわけです。このような使命を持ってイエス様はこの地に来られたが、人間の不信によってその使命を完遂し得なかったのです。霊的にだけ、私たちが息子、娘であるといえる、そのようなところまで開拓されたわけです。 それでは、神様の復帰摂理の最後の目的は何か。この地上で霊肉を備えた実体として存在する人たちが、神様から愛されながら生きることのできる基準を完成することです。 この目的を完成するため、イエス以来2千年間役事されている方が聖霊です。聖霊が、イエス様が亡くなられてから今まで役事しておられますが、神様の創造理想の御旨を完遂する摂理的な土台を地上に立てて役事されることではなく、私たちが彼を通して天の前へ出ていけるよう橋の役割をする役事をされているわけです。皆さんはそれをよくわかるべきです。 それでは、地上で天国生活をしつつ生きることのできる人はいかなる人なのか? 無限な霊界、天上天国で暮らせる霊人体はいかなる霊人体なのか? 地上でイエスと聖霊の愛を受け、それを越えて直接お父様の愛を受けながら、お父様と共に暮しつつ愛の理想を中心として和動の勝利者になった人だけが住めるところが地上天国であり、永遠なる天上天国であるわけです。 天国民族の資格 神様の創造基準からみると、そのような所が所望の天国であるわけです。これを私たちが認めるなら、今日を生きている皆さん自体は、どの圏内で神様の創造目的であった所望の天国を眺めている姿であるかを考えてみるべきです。 黙示録14章1節に「小羊がシオンの山の上に立っていて、またそれと共に14万4千人がいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」という御言があります。 今日世界にいるクリスチャンたちが所望する天の恩賜は何を標準としているかというと、新郎新婦の恩賜を標準としています。これだけが全部であるように思っています。しかしながら、「それと共に14万4千人がいて、その額には小羊の名と、その父の名とがしるしてあった」といったように、父の名が問題であります。 今日の皆さんは、新郎であるイエスを信じ新婦の資格を備えた後には、イエスの愛にだけ留めるわけではなく、そのイエスの愛を土台にして、6千年間直接愛することができなかった神様の愛を、直接愛されるその愛を受けるところまで出ていかねばなりません。 これが神様の摂理の全体目的であり、イエス・キリストを送って2千年間苦労されてきた目的であったのにもかかわらず、今日の聖徒たちはこれを知らないのです。 では、今日の私たちは、いつ新郎新婦の立場を越えて、勝利した永遠な実存体として、地上から天上まで、即ち、永生の天国に行ってまでお父様の愛を中心として和動できる実体になるのか。皆さんはこのような愛の因縁を持たないといけません。これがイエス・キリストの目的であり、神様が摂理される目的であります。 皆さんは今まで、新郎新婦の愛を所望し信じてきました。今は、イエス・キリストの手を握ってお父様の前に出て、「お父様、願われた6千年の御旨を、私たちが成し遂げたと言う立場になりたいのです。神様の創造目的がこれであるということを知っておりますので、お父様、愛して下さい!」と言える皆さんにならねばなりません。このような人間たちを霊界で探すのではなく、実体世界で探す時まで、神様の摂理は終わらないということを皆さんはわからないといけません。 イエス・キリストがこの地に来られて、霊的な息子・娘の愛の権限を獲得できる基台を造成されたので、地上の人間たちがイエス・キリストと関係を結んで一つになり、その愛の権限を受け継ぐとすると、霊界で讒訴していたサタンや、地上で人間の罪を条件として讒訴していたサタンが、讒訴できなくなるのです。 完全救援のための苦労 神様が造られたアダムとエバをサタンが奪ってしまったが、霊だけではなく肉までも奪われた故、天の側ではこの霊と肉を合わせたアダムとエバをサタンからとり戻してきて、神様が直接愛することのできる道を開拓するため、今日の私たち聖徒を立てられたということを、皆さんは忘れていけません。 イエス・キリストは、このような驚くべき宇宙の創造的な一つの中心を標準してこの地上に来られました。では、イエス・キリストは最後の戦いの標準をどこにおいていたか? それは、イエスに従った聖徒たちが、神様の霊的な愛だけを受けたので、彼らが霊肉共に神様の愛を受けるようになることでした。霊肉共に神様の受けることが所望であるので、霊的な救援摂理だけをなさったイエス様は、天にいって完全な栄光が享有できないのです。天にいっても地上の人間たちのため祈らねばならないということです。 このように、イエス・キリストの所望が今まで地上で完全に成されなかったので、イエスを中心として12使徒、楽園にいる数多い霊人たちが、この一つの所望を標準として総動員されています。 今日、終末におかれている私たちには、摂理路程で協助した天使たちの苦労の実績が残っています。その他、数多い使徒たちの苦労の実績も残っています。このような、歴史的な苦労の全実績と条件を、今日の私たちが責任を持たなければなりません。過去の神様の摂理の御旨を代身して、苦労し協助した千々万聖徒たちとイエス、霊界にいるすべての霊人たちの怨みも私たちが解いてあげなければなりません。 終末の私たちは、過去の歴史に代わって神様の前に出て行く時、イエス・キリストから、聖霊から認められなければなりません。そして、イエスと聖霊から認められた段階を経た後、皆さんが神様の前に出ていけるかどうかを三位神が決定するようになります。このような段階まで歴史しているのが新約摂理であるということを、皆さんはわからなければなりません。 認定段階、決定段階、判定段階 ここでの認定段階とは何かというと、結婚式前の婚約段階であると言えます。決定段階とは何かというと、私たちが新婦として聖礼式に出られる姿格を備える段階であると言えます。では、最後の段階は何か? これは、判定段階です。この段階は、神様が人間に対して、「これは私の愛する、私と永遠に同苦同楽できる、創造理想で所望した永遠不変の実体として神様から愛される存在」であると立たせて、神様自ら手を上げて万物の前に頒布する一日を持つようになる段階です。これが、つまり判定の段階です。 神様の6千年間の摂理の中でも、未だに宇宙的な判定の日はなかったわけです。その一日を標準して与えられるものが審判です。 皆さんは、このような判定の門を経ながら、神様がアダムに、「万物を主管せよ」と祝福された、その祝福を受け継ぐべきです。そうして、天の人らしく出て、「お父様、愛して下さい。キリストの所望の御旨を、聖霊と神様が願われる御旨を私が知りましたので、お父様、祝福して下さい」と言える皆さんにならねばなりません。このような人物が終末に現われないといけないわけです。 そのような人を立てて判定した後こそ、全被造万物も、私たちを神様の実子として仕えるべきであるということがわかるようになります。神様と実子の関係が結ばれるとサタンは屈伏します。 このような摂理歴史を前にしている皆さんは、皆さん自体を分別してどのような位置に立つべきであるかというのが問題です。まず、イエス様から認められた後、聖霊から認められる立場に立たなければなりません。これを摂理歴史から見ると、認定段階は旧約時代、決定段階は新約時代、判定段階は再臨時代です。 今日まで歴史は、いろんな過程を経て縦的に流れています。ところが、縦的に流れている歴史が横的に展開される時がきます。6千年間の認定的な摂理、決定的な摂理を経て、判定的な摂理を前にしている私たちは、縦的に流れてきた歴史と、世紀末的な横的歴史を経て行かなければなりません。 これは何の意味か。神様の歴史はサタンとの戦いの歴史でした。6千年間、そんなにサタンと戦ってきたが、今まで判決が出ていません。数多い先知先烈がきて苦労しましたが、地上で神様が要求される御旨をなすことができなかったわけです、このように、先知先烈たちが残した御旨を地上で「完遂した」と言える日を皆さんが迎えるべきです。終末である今日には、皆さんのわからない多くの変な現象が起こります。「私はエリヤだ」と言う人も出ます。そのような時がきます。「私はエリヤ、私はモーセ、私はパウロ」という人、あるいは、サムエルだという人も出るはずです。このような現象がなぜ起こるかというと、蕩減復帰の原理があるからです。即ち、彼らが残した使命を蕩減復帰しなければならないからです。 彼らが蕩減復帰の過程で、神様の摂理の御旨を中心としてサタンと戦ったが、勝利の基準を立てることができませんでした。それゆえ、彼らの使命が後代まで延長されてきているわけです。故に、彼らの使命を受けた人たちが現われるのだが、使命を代わりに受けたことを知らないで、「私がパウロだ、私がエリヤだ」と言うのです。 終末におかれている私たちがわかるべきことは、6千年間の認定的な摂理と決定的な摂理、そして判定的な摂理、これ全部を自分にかけておいて、霊肉が一つになった実体として通過しなければならないということです。そうできてこそ、歴史過程に徹したサタンの讒訴条件にからも免れることができます。そうしてこそ天の前に出られるわけです。 すべての復帰の段階を経るためには 終末の聖徒たちは心を大きくしなければなりません。天の無限な世界、私たちの理想として創造した永遠な天国の理想を、今日の地上の人間たちが探さないといけないわけです。霊界にいるイエス・キリストを通して探すのではなく、地上の人間を通して探すべきであるということをわからなければなりません。 イエスと聖霊は天上におられますが実体がないので、その天国理想を地上で成すことができないわけです。それゆえ、実体を持った神様の息子・娘たちが、この地上で永遠なる天国理念を成し遂げるべきです。6千年間の歴史過程を経てきながら、サタンから讒訴された、そのすべての条件からも免れなければなりません。 アブラハムが三つの祭物、鳩と羊と雌牛を捧げる時、羊と雌牛は二つに裂いたけれども、鳩だけは裂かなかったことによって、天がとることができなかったわけです。皆さんは、このようなことを繰り返してはいけません。 皆さんは、最後の聖別の門を通過しなければなりません。自分自身の罪、即ち、自犯罪、遺伝罪、血統罪、歴史的なあらゆる罪悪までも聖別でき、踏んで上がるべきです。このような人にならないと、「万物を主管せよ」と言われた神様の御旨を成就しえる息子・娘になれないわけです。 皆さんは蕩減復帰歴史をよく知っていると思います。今日の皆さんは個体的な存在ではありません。神様が皆さん各個人を愛されますが、その愛は皆さん一人のための愛ではありません。6千年間の復帰摂理の過程の中で苦労された先祖たちの結実として与える愛なのです。 この終末に皆さんが、神様が自分を愛するという声あるいは命令を受けた時、それが自分一人に留まる愛だと思ったら、それは大変な誤解です。皆さんがその愛を受けるまでは6千年がかかったわけです。ゆえに、その愛は歴史的な愛であり、6千年歴史の結実のための愛なのです。皆さんはそれをわからなければなりません。 人間の宇宙的な価値 それゆえ、その存在は神様の品性に似て、歴史的な摂理の御旨の前に残される愛の性品を持たなければなりません。このようなことを標準として神様は、闘争の摂理歴史を展開して来られたわけです。 イエス・キリストが、4千年復帰摂理歴史が過ぎた後、一つの愛の結実体として現われるようになった時、多くの宗教と種族を統合して結実させる一つの実体で、天が自分を立てたということがわかりました。それゆえ、イエス様は、ユダヤ人に福音を伝える時も、自分の主張を伝えませんでした。イエス様が主張した福音は、4千年歴史を経てきながら苦労した数多い先知先烈たちを代身して、実体として主張したものです。 そしてイエス様は、福音を瞬間的な立場で伝えませんでした。イエス様は、その当時の多くの人たちが神様から愛されることは勿論であり、永遠な未来の人たちも神様の愛を受けることができる福音を述べ伝えようとされたわけです。それゆえ、人間たちが永遠に神様の摂理の御旨を受け継いで行くとするならば、そのすべてはイエス・キリスト一人の方によって始まったわけです。 皆さんの動きは天地を代身した動きです。皆さんが神様の真の子になるのは、イエスと聖霊の所望であり、天上の千々万聖徒たちの所望です。彼らは、真の息子・娘が地上に出て、一つの勝利の基準を立ててくれることを願っています。さらに、そのような基準を立てた、神様の実子、真の実体が現われることを願っています。このようなことを私たちは悟って、自分自身を大事に思わなければなりません。そのような観点から皆さんは、イエス・キリストが、「すべてを得たとしても、あなたの生命を失うと、何の益があるか」と言われたことをわかるべきです。 信仰をしているというクリスチャンたち、信じているという皆さん、皆さんはどれほどこのような宇宙的な価値を感じてみましたか。皆さん自身が、変わらない神様の子であるということに対してどれほど認識しているかということです。こういう意味から、イエス・キリストが、「私は神の子である」と叫んだは、今日のクリスチャンが見習うべき一つの標語です。歴史の終末期である今日、自分を立てて「私は変わらない天の息子です」と言える存在、天の前でもサタンの前でも、どんな人の前でも、変わることのない神様の息子だと、娘だと言える、そのような存在をイエスは探しておられます。そのような存在をイエスは要求しておられるわけです。 「私は神様の子です!」 皆さんは今までの信仰生活の中で、生命の標準を信仰的に立てようとしました。ところが天は、歴史路程で宇宙的な使命に代わって戦える人、「神様の子です」と堂々と言える人を探しているわけです。自信をもって誓って神様の前に堂々と出られる息子・娘を要求しているわけです。 無分別なサタンの讒訴条件があっても卑屈にならず、天のいかなる天使が来て追い出そうとしても防ぐことができ、イエスと聖霊が来て押し出そうとしても十分に防ぐことができる人を探しています。 イエス・キリストは4千年歴史の代身として来て、十字架を背負って死ぬその寸前まで、「私は神の子である」という変わらない心を持ちました。死の前で、天が自分を否認する時も、イエス様は4千年の復帰歴史を切実に感じていたので、変わりませんでした。 神様がつくられた全被造物の中で、神様の子、霊肉を持った神様の子女はその時までなかったのです。 イエス様がこの世のいろんな試練を乗り越えることができた一つの基準は何であったかというと、自分は神様から愛される息子であるという認識でした。この認識を持ってイエス様は、いかなる苦難も乗り越えつつ堂々と戦ってきたわけです。 このような所望と抱負を持ってこの地に来られたイエス・キリストが、この所望と抱負を人間世界で実践すべきだったイエス・キリストがどうなりましたか? 思いもしなかった十字架は何でしたか? 皆さんがもし、イエス・キリストの心情に共鳴できる立場で、いくら地を叩き万物を呪っても、彼の悲しみは解けないと思います。 神様がイエスを捨てた理由と変わらなかったイエス 長い歴史を経てきながら、人間が神様の心情を蹂躙し裏切ったので、蕩減復帰によってイエスが人間の代わりとして神様から捨てられた立場におかれたわけです。 イエスが、「お父様、どうして私をお捨てになりますか?」と言われながら十字架で亡くなられたことは、私たちの先祖であるアダム、エバから4千年間、人間たちが神様を裏切って犯した罪の蕩減のためでした。人が神様を捨てたので、蕩減原則によって、神様がイエスを捨てるしかなかったわけです。 しかし、イエスは天を裏切りませんでした。神様の子は、サタン世界へ投げても、地獄へ行ったとしても神様の子です。このような中心をもって30年の生涯を捧げ苦難の道を歩んだイエス・キリストでした。 このようなイエス様を信じている皆さん、新郎であるイエスの前で新婦になるため信じてきた今日の皆さん、今や皆さんは6千年の歴史を代身した神様の子として立つべきです。神様の前でサタンを讒訴することができる人を天は探しているわけです。 今日までの数多い聖徒たちは、「どうしてイエス・キリストや聖霊までもサタンから試練されなければならないのか」ということに対して考えます。それは、霊肉をもって完遂をすべき使命が未だに完遂できてないからです。 それでは、今日まで2千年間、イエスと聖霊がサタンと行ってきた戦いはいつ終わるか。神様に対するサタンの讒訴はいつ終わるのか。これが終わるためには、イエス・キリストのように、4千年歴史を代身して罪とサタンに勝った神様の子であると堂々と言える中心を持った人が現われなければなりません。そうすると、6千年間神様に讒訴してきたサタンを退けることができ、イエスと聖霊がサタンと行ってきた戦いが終わります。これをクリスチャンたちはわからなければなりません。わかってみるというものです。 楽園にいるかわいそうなイエス・キリストは、今日までも罪人である人間たちを探さなければならない運命におかれています。皆さんが休む時間にもイエスは祈らなけらばならないわけです。聖霊も神様も休めません。このように、少しも休めない歴史を経て来ているのです。 今私たちは、神の子であるという意識を持って、「神様の体面、イエスの体面、聖霊の体面が私によって立てられます」と祈ることのできる祭物にならなければなりません。皆さんは神様の体面を立ててあげるべきです。イエスの体面を、聖霊の体面を立ててあげるべきです。 人類を愛すべき天倫の因縁を持っても、人類に愛されることができない、はがゆい立場におられる神様は、内的にはそのような条件にかかっていたわけです。 万一神様が、「天地を代身して誇ることができる資格を持った私の子」と言われる、そのような存在が現われるならば、その時はサタンは讒訴できません。その時はサタンは讒訴できなくなるわけです。 イエス・キリストが「私は神の子」であるという意識を持ったように、私たちもイエスと聖霊の苦労を受け継いで、6千年歴史の終末期である今日、全宇宙に対しても、「神様とイエスが願われる御旨がこれです。私は歴史を代身した神様の子です。私だけが神様の子です」と言える聖徒たちが、この韓国に多ければ、そのような聖徒が世界のどの国よりも韓国に多ければ、韓国は世界の中心国家になります。 今私たちは、息子・娘の意識を完結して、勝利の一日をお父様の前に立てて、サタンの前で誇れる存在、天がそのような存在を探しておられるということをわからなければなりません。 神様が探している人 今まで6千年の歴史が過ぎましたが、神様が、霊肉が完結された一つの存在をサタンの前に立てて、「お前が今まで反対した人間の中で、永遠に反対できない私の真の息子・真の娘を立てるので、お前はこの前に屈伏しなさい」と言える存在がなかったわけです。 天はそのような人を探しています。これを成すため再臨主が来られるわけです。このようなことを言ったら、私を気違いあつかいします。思うべきことを思わないで………。しかし、これは本当です。皆さんはこれをわからないといけません。 今日の私たちは、6千年の歴史的使命を決定し、判定できる神様の権限を受け継いで、神様の代身として審判できる権限をもって、主が審判される時、その主に協助できる人にならねばなりません。 イエスは自分が神様の子であることがわかりました。その次は、神様の御旨のため戦ったわけです。私は神の子である。今までわからなかった、誰も主張しなかった神の子である認識を持っていたわけです。神様の子になった私、神様の御旨を引き受けた私であると認識し、堂々と出ていくことができました。歴史過程の中で数多い先知先烈がいましたが、神様の子として、「神様のことはすべて私が引き受けます」という人は一人もいなかったわけです。イエス様だけでした。それゆえ、イエス様が救世主になったのです。 終末にいる私たちは、6千年歴史を摂理してこられたお父様の前へ、「6千年歴史を代身としたお父様の子ですので、お父様の御旨を私が引き受けます」と言いながら出ていくべきです。イエス様を見なさい。お父様の御旨をやる時は、滅ぶことも死ぬことも気にしませんでした。滅ぶか死ぬかを問題にしたらいけません。条件がないのです。イエス様を見なさい。サタンを屈伏させる道なら、体なんかどうなってもその道を行きました。これが神様の子である、神様の御旨を代身できる忠節の精神であるわけです。サタンを屈伏させる道があるなら、死もかまわず歩まれた………。 この終末に、神様を代身したイエス・キリストが残した偉業を私たちが受け継いだとすると、私たちは死を冒してでもサタンを屈伏させる道を行くべきです。サタンを屈伏させることのできる道を知り、その道へ一緒に行ける聖別された群れが現われるなら、この世は神様の世になるはずです。 神の息子として、神の御旨を代身した後、初めて神の愛を受けることができます。神の愛は争って得られるものではありません。 神様は、平和の愛の園を造るため被造万物を創造しました。喜びの中で万物と関係を結ぶため万物を造られ、喜びの中で人間と関係を結ぶため人間を造られました。人間が戦い、サタンが戦う天地になることを願われたわけではありません。それは天理法度の原則からはずれることです。それゆえ、人間を愛で引き上げるため、その愛の役割を聖霊がやっておられるわけです。そして人間が、イエスと聖霊を通して天を探してくれることができました。 「聖霊よ! イエスよ! 神様よ! 私に恵みを与えて下さい」と言いながら上がっていくだけなら、恵みは取られてしまいます。終末であるほど神様の恵みは降りてくる時なので、イエス様が再臨するのです。 今日の道理の世界は、上がっていく一路を開拓し、今は永遠に上がっていく道を探そうとする人たちだけがいます。ところが、上がっていくばかりではいけません。時を通して上がっていく段階を経て、再びその恩恵をもっておりてきて、なすことのできる人にならねばなりません。 私たちが特に越えるべき峠 今私たちが、天の恩賜を取り戻し、神様の子であるイエスを中心として神様の御旨を代行しようとするならば、イエスと聖霊に対してサタンが戦ってきたことが何であるかと言うことをわからねばなりません。そのサタンを屈伏させることのできる方便を知るべきです。 今私たちが、特別に越えるべき峠は何かというと、神様とイエスと聖霊に対して戦ってきたサタンを屈伏させることです。そうするためには、サタンが戦ってきた盾は何か、サタンがどういうふうに条件を立てて侵入してきたかということを知らねばなりません。これを知ると、サタンを自然屈伏させることができます。そうなってこそ、神様は皆さんに対して、「私の永遠なる息子」と言えるわけです。 それでは、サタンはどんな存在なのか。サタンはどうできたのか。ここにもサタンに似た人は多いみたいだけれど………。 私たちの前には、生きていけないと死んででもいくべき宇宙的な運命の道があります。何億千万年かかっても、私の霊が死なない以上、その霊によってでも行くべき道があります。永遠な生命の路程で、生きてこの道を経ていけないと、死んででも行かなければなりません。過去の先知先烈たちも、永遠な生のため一身上の問題から離れて、その道を歩みました。 イエス・キリストもサタンと戦うため荒野に立つ時、一日断食をやったら駄目だったので、2日をやり、10日を、20日を、40日をやったわけです。皆さんは、1回指した鉄砲玉のような運命、戻っていけない運命におかれています。イエスもこのようなことを意識して出た時、その道を行かざるをえなかったわけです。統一教会に入ってきた皆さん、皆さんも行かざるをえなこに入ったのです。これを忘れてはいけません。 イエス様も、死の障壁がさえぎられた時は悲惨でした。全民族が、ついてきた使徒たちが、すべての人が裏切った時、これ以上悲惨な場合があったでしょうか。しかし、人たちは後ろを向くことができましたが、死の道でも後ろを向くことのできないイエスの立場を、皆さんはわかるべきです。 今日の皆さんが、イエスを信じ、天の御旨を捧げていくことにおいても、そのような決心を持って、教会と民族を導き、世界のために訴えるなら、神様の息子・娘にならざるをえなくなります。このような覚悟で、皆さんは神様の御旨をを代身してやっていかねばなりません。 イエス様は、霊界へ行かれたとしても休んでおられるわけではありません。霊界でも、十字架と苦難とそれ以上の試練があるとしても、私たちを探すため、この地を探すためサタンと戦っておられます。このような、天宙的な試練と戦いが行なわれているこの時、皆さんは、「サタン、お前が来ても来なくても、私は変わりなく行く」という気迫を持って、試練を恐れてはいけません。そのような人が、つまり神様の民であり、神様の息子・娘です。 今私たちは、神様の子女としてお父様を中心として家庭をなし、民族をなし、お父様から愛される国家と世界をなし、さらには、お父様の願いに適う地上天国までなすべきです。これが、神様の永遠な御旨です。 このような歴史的なすべてのことを皆さんが知って、前後左右からサタンが讒訴できないように防いでサタンの侵入を退け、さらにはサタンを屈伏させる皆さんにならねばなりません。 創造理念から見ると、初めて実体をもって神様の愛を受ける子女になってから、主管されるべき人間を堂々と主管できる人はどこにいるか! このような人になる前は、天国には行けないのです。それゆえ、今まで天国に入った人がいません。 楽園とは、中間過程の霊界です。 このような、宇宙的な運命の生涯を乗り越えて行くためには、攻撃してくるサタンを完全に退けることができないといけません。このような人にならないと、神様の苦労は皆さんを通して解けないということです。それで神様は今日まで、サタンを完全に退けることができる人、あなたの苦労の心情をわかってくれる真の子女を探しておられるのです。 もし人間たちが、神様のその苦労を永遠にわからないならば、この地上に天国は成し遂げられません。霊界でも天国は成し遂げることができないということです。 天国を所有した人 それゆえに、今の皆さんは、地上でのサタンとの戦いから勝利の一路を開拓する開拓者として、先に立って旗を上げて出ていくべきです。このような覚悟と決心が皆さんに必要です。 皆さんにお父様の前に出たいという所望があるなら、自分一人で「億千万のサタンよ! 私に来なさい。私の行く道を24億人類が反対しても、天地が反対しても、私は行く」と言えるべきです。皆さんは、そのような覚悟でお父様の前に誓って出て行かねばなりません。 家庭の、民族の、国家の全人類の迫害があっても、24億人類が統一教会を滅ぼそうとしても、そこで負けてはいけないという覚悟をもって行かねばなりません。行くべきか、行かないべきかとためらってはいけません。出てきた道なので、行かざるを得ない立場にいる私たちであることを忘れてはいけません。 サタンと戦うため出て来たという皆さん、サタンに勝ち、4千年の歴史を代身して第二の勝利のアベルとして立てられることができたイエス・キリストが抱いた誓いと覚悟、神様の御旨を引き受けて戦うという責任感を、皆さんは見習うべきです。イエス様が、そのような覚悟と誓い、そのような責任感をもって戦ったので、サタンを屈伏させることができたわけです。 今は、霊肉を持った、実体を持った私たちがサタンを屈伏させるべきです。この地上にそのような生きた存在が現われてこそ、初めて6千年間摂理して来られた神様の苦労の心情も、イエス・キリストの苦労の心情も解けられます。 そして、神様が主管できる天も私たちのものに、神様が主管できる地も私たちのものになるわけです。これは神様の創造目的です。皆さんは、そのような神様の創造目的を成すため、地上で責任を持って戦って、勝利する人だけが天国を所有することができるということをわかるようにならねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.31
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今回の文総裁のみ言は、2000年9月の挙行された興進様への「祝福権委譲式」そして、「三時代転換一体圏祝福式」の翌月のものです。『ファミリー』2001.1月号にその掲載があります。文中には先祖解怨・先祖祝福について、また、真の父母様による祝福式(血統転換)、特にはお母様と女性たち(レアとラケル)についてのみ言もありました。余談ですが、暗号文遊びの「ほふられた子羊さん」はこれを読まれてどうされますか?子羊さん曰く「私のブログ記事が、御言葉によって間違いであるなら今日にでも閉じる」(2020.09.01)16万女性修練会でも語られていた「ヤコブ家庭のレアとラケル」の話も出てきます。子羊さんの暗号文解読との食い違いが見受けられますが……。「以北出監五十周年記念および霊界解放式」における御言成約八年 2000年10月14日天宙清平修錬苑、天城旺臨宮殿 大聖殿 真のお父様が興南収容所から解放された一九五〇年十月十四日から数えて五十周年の記念日を迎え、天宙清平修錬苑で記念行事とともに霊界解放式が挙行され、式典で語られたものです。 祈祷してください。霊界で祝福を受けた人たちと、その相対となった人たちは、きょうから地上に来ることもでき、ここで祈祷すれば通じることができる、そのような時代に入っていくのです。一緒に暮らすことを許すのです。そのようにするためには、目的が同じであり、思想が同じでなければなりません。そして、祝福家庭を中心として、霊界と肉界を一つの体制にしなければなりません。 ここで、真のご父母様が地上で成したものを霊界に連結させ、霊界にいる先祖たちは天使長の立場なので……。 本来、堕落していなかったならば、天使長圏内にいる先祖の祝福というものはありません。しかし、祝福を受けた家庭は、地上にいる完成したアダムである真の父母を中心とした血族の因縁を中心として見れば、同じ血筋だという因縁を結んだことになるのです。そのようにして祝福を受けた(霊界の)家庭は、先に(霊界に)行ったので天使長の立場に立つのです。 それゆえに、今からこの統一式をすることによってどのようなことが起きるのかといえば、先祖たちが地上に来て祝福を受けた家庭を協助することができる時代に入っていくのです。 天使長が、アダム家庭を育てて天に迎えるようにする、そのことと同様に、先祖の祝福家庭、また霊界で祝福を受けた家庭が地上に来て、祝福家庭を保護することができるようになることによって、祝福家庭が個人や家庭、氏族、世界圏内にサタンの後孫たちが……。 今まで、天の前に背反する立場に立っていたルーシェルは屈伏しましたが、その手下の大勢の残党が世界じゅうに広がり、しがみついて手放すまいとしているのです。 偽りの父母が、偽りの愛を中心として偽りの生命圏、偽りの血統を残すことによって、このような結果になったのですが、真の父母が、霊界に行った先祖たちを祝福して家庭を成してあげることによって、天使長が持つことのできなかった家庭基盤を持つようになったのです。 天使長は、これに仕えるようになっているのであって、侵犯するようにはなっていません。その天使長家庭の立場に立ててくださったかたが、今十四代までの先祖を解放して祝福してあげました。二十一代まですればすべて終わるのです。 このようになれば、皆さんの家庭を中心として、残った十五代から二十一代までの先祖を解放してあげなければなりません。完成時代において、真の父母が、地上で自分の先祖と後孫を解放したのと同じように、皆さんが、残りの二十一代までを解放してあげるのです。 それから、だれがサタンの残党を追放するのかというと、天使長型の祝福家庭である、皆さんの先祖たちです。先祖たちが、地上の祝福家庭を保護すると同時に、祝福家庭となるべきところに侵犯していたサタン世界は、祝福家庭圏とは関係がないので、それを追い出すのです。分かりますか? (「はい。」) 霊界はもちろんのこと、地上でも、サタンの残党を追い出す責任は、祝福を受けた皆さんの先祖たちが地上に来て果たし、また、霊界と肉界を統一する義務を果たすのです。 もちろん次元が異なりますが、霊界と肉界が解放されるときに新しく法を定めて、これに順応していくサタンの残党たちも、天の前に帰っていくことのできる道を開いてあげるのです。そのように、天に従っていくことができる道を許すことによって、サタンの残党までも天の前に帰り、サタン世界を根絶することができるということを知らなければなりません。そのようにするためには、この統一式をしてあげなければならないのです。 今までの皆さんの先祖は霊界に行っていますが、地上にその相対がいるのです。地上に来て、ここにいる相対と一つになり、生活を統一させることによって、霊的世界と肉的世界を統一した、祝福家庭による一つの心情文化世界が地上から始まります。 天上世界まで解放圏を成して、地上世界がきれいに完全整備され、霊界もきれいに完全整備され、サタンまでも方向を変えて、天の国に帰っていくことができる立場に立たせるのです。そうすることによって、真の神様と真の父母、天地父母解放圏が成されるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい。」) ですから、今から皆さんは、一人で生活するのではありません。一人で暮らすのではなく、結婚して夫婦が一緒に暮らすように、(霊界の先祖が)皆さんの家庭に自由に訪ねてくることができる環境になるのです。 そして、皆さんが霊界のみ旨と一致すると同時に、地上の真の父母のみ旨と一致することによって、宗団長(教祖たち)ならば宗団長が訪ねてきて、一緒に生活するのです。 霊界には、四大聖人を中心として、それ以外の聖賢たちもいます。それらの聖賢たちを中心として、宗教圏を中心として、四大聖人を中心として、霊界にいる三分の一、例えば、百人がいれば三十三・三三人、そのような人たちを、六月十三日の南北頂上会談の前に統一することを許可しました。 そして、彼ら全員を祝福したので、今からこの式が終われば、その祝福を受けた人たちが地上に訪ねてきて、皆さんに侍って暮らすことができる環境が連結されるのです。分かりますか? そのようになることによって、地上でも一つの文化圏、天上世界でも全体を統一した、一つの組織が編成されるようになります。それと同時に、霊界が地上の統一を協助して、サタン世界の整備活動を行い、今まで統一教会に反対していた環境が消えてしまうというのです。それでも反対する人たちは、先祖がほうっておきません。 今からは、蕩減時代が過ぎていきます。蕩減時代ではなくなります。アダム一代で復帰できる方法があったかもしれませんが、アダムとエバが堕落したので蕩減時代が始まったのであって、神様の法にも、このような地獄現象が起きていない世界においても、蕩減法はありません。 そのように今、皆さんの家庭が入籍し、この(出監)五十周年解放記念を中心として祝賀してあげることによって、全体の解放的基盤を一元化させるのです。天上世界と地上世界が一元化されるということを知って、皆さんはそこに合わせて生活しなければなりません。 今から、父母である先生は必要ありません。父母である先生は、アダムとエバが失敗して、すべての血筋を汚すことによってつくられた地上地獄と天上地獄を、祝福によって解放してあげ、天上地獄撤廃、地上地獄撤廃をなしたのです。 そのような時が来たので、イエス様がいる楽園と中間霊界、そして地獄は完全撤廃されます。なくなるというのです。分かりますか? (「はい。」)そのようになって、真の父母と神様が一体となった家庭を中心として、天上、地上の父母の位置を中心として、先生の直系の子女の家庭と皆さんの直系の子女の家庭が一つになったその上で、天地が一つになったその上で……。 天と地は、カインとアベルです。その上に父母が立つことができるのです。これをするためには、エバが堕落したので、エバと自分の息子、娘を中心として、家庭において失ってしまったものを連結してこなければなりません。その家庭を中心とした国家的メシヤは、その国の民の母親の立場でアベルとカインを一つにして……。 世界に出て、自分の任地国を一つにし、世界の国々を一つに連結させることができる国家的メシヤたちが、南北統一のために韓国に入ってくるのですが、その任地国の人たちは母親であり、息子、娘です。 そうして、カインを愛することのできるアベルがカインと一つになり、母親が一つになって、父親に従ってどこに行くのかというと、祖国光復に向かうのです。 アダムとエバを中心として、アベルとカインのゆえに、世界の中心国家になることができる国を失ってしまったので、国家的メシヤが、その中心国家を取り戻すべき立場に立つことによって、夫人を中心として息子、娘が一つになることができるようにするのです。 そして、その任地国と中心国家である祖国とを連結するために、夫が韓国に移動すると同時に、夫人もそれに従って韓国に入ってきて、入籍するのです。 しかし、夫には入籍する資格がありません。まだ国が復帰されていないのです。分かりますか? このことをはっきりと知らなければなりません。 それゆえに、ここで今、入籍した人たちは、これから国家的メシヤ、あるいは氏族的メシヤとして国に行って、橋渡しをしてくるのですが、先生がすべて蕩減してあげたので、国家的メシヤは、条件だけ立てて、祖国光復のためにここに来ているのです。しかし、完成したアダムではありません。完成したアダムと、完成した家庭ではないのです。 国を失ってしまったのは、エバとカイン、アベルです。分かりますか? それを世界舞台で蕩減条件を立て、任命されたこの一線地帯に夫が来ていますが、ここで、だれの命令を守らなければならないのですか? アダム家庭で失ってしまった国を、イエス様の時代に復帰しなければならないのですが、イエス様の時代に復帰することができなかったので、再臨時代に復帰しなければならないのです。 旧約時代、新約時代において失敗したことを成約時代に完成するためには、教会の代表である第一イスラエルの夫、第二イスラエルのイエス様の夫、第三イスラエルの真の父母である再臨主の夫、この三時代の父母を連結させることのできる蕩減条件と血統的なレールが、霊界と肉界に合うようにしなければなりません。 ところが、皆さんの家庭においては、世界的メシヤ、世界的真の父母の前に、天を中心として、国家を中心として、まだ国家が分かれている基準なので、これを蕩減しなければなりません。これを蕩減するために、だれが先頭に立つのかというと、母親が先頭に立つのです。 母親が外国に行き、カイン圏を自分の息子と連結させる条件を立て、そして韓国において、母親を中心として一つになったカインとアベルがアベルの立場に立ち、カインの立場である韓民族を消化しなければなりません。だれが、なすのですか? 母親がするのです。 そのように、アベルとカインを一つにして、その上で夫を復帰して立てなければなりません。分かりますか? 夫をどこから追い出したのかというと、アダム家庭から追い出したのであり、国家から追い出したのです。それで家庭と国を失ってしまいました。 ですから、家庭的基準を連結する世界舞台において、本国を訪ねて国家基準を代表した女性たちが先頭に立ち、カイン的国家の国民とアベル、カインが一つになったアベル的な外国の基準とを連結して初めて、国家基準におけるカインとアベルが一つになります。そうして、そのことによって母親として、その後ろに立つことができるのです。分かりますか? そこには、他の考えがあってはいけません。だれだれの、朴パク氏の、金キム氏の夫人ではありません。それゆえに、女性たちが先頭に立ち、国家的メシヤとして、世界においてカイン的息子と自分が生んだ息子、娘を一つにした、その基盤の上で韓国に入ってきて、母親が解放されるのです。 真の父母が、国家的基準と世界的基準の道をすべて築いておいたので、それをすべて絶対的に信じて行動すれば、三、四年以内に完全に整備されるのです。それでできなければ、この国が間違ったことになるのであって、わたしたちが間違ったのではありません。分かりますか? ですから、絶対信仰、それから何ですか? (「絶対愛です。」)それから何ですか? (「絶対服従です。」)だれをですか? 神様が、この宇宙を創造されるとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で創造されました。投入して忘れ、永遠に忘れて、そうしてこの大宇宙を創造されたように、皆さんもそれと同じ立場で、自分が持っているすべてのものを投入し、投入し、さらに投入しようとしなければなりません。 そのようにすれば、ここに真空状態がどんどん大きくなっていくので、自分が投入したすべての外的なものが種となって、世界にあるすべてのものがここに入ってきて、満たしてくれるのです。 そしてまた、満たされたものをすべて世界に連結させることによって、”私”と一体圏が成され、”私”は”私”、相対も”私”という立場に立つことができるので、解放圏が展開するというのです。はっきりと知らなければなりません。 このように、国と国民を完全に”統班撃破”しなければならないのです。このような内容を理解して、すべて ”統班撃破”しなければなりません。 本来は、今から十二年前にこれを成そうとしたのですが、全斗煥、盧泰愚、金キム泳三サムの三人の大統領が、二度もつくった”統班撃破”の組織をすべて壊してしまったのです。これを再び編成しなければなりません。一次、二次、三次目なので、どのようなことがあっても、編成しなければなりません。しなければ問題になるのです。 しなければ、皆さん自身も問題になりますが、大韓民国と北韓の地を、天の地として奉献することができないのです。どのようなことがあったとしても、皆さんが一体となり、先生の心と一つになれば、できます。 それでは、どのようにしてそれを成すのかといえば、国境撤廃をすることによって、また、怨讐を愛することによって、成すのです。 この国民は、先生を中心として四十年間、八代にわたって反対した怨讐です。しかし、彼らを愛しなさいというのです。愛するにおいても、自分の一族よりも、自分の子女よりも、自分の夫よりも愛することができる立場に立たなければなりません。 そのようにして愛する目的は、真の父母の峠を越えるためです。だれが峠を越えなければならないのかといえば、真の父母に従って、自分の妻が越えていかなければならず、息子が越えていかなければなりません。 母親と息子、娘が四年間働くことにおいて、その夫は、あらゆる精誠を尽くさなければならず、自分の骨を削り、骨髄までも絞る、それほどまでに犠牲になってでも、協助してあげるべき責任があるのです。 協助するにおいても、自分一人でしてはいけません。百八十五家庭ずつ祝福してあげたのです。一族を連結して、その一族の母となるかたが活動することのできる解放的権限を持つためには、金キム氏なら金氏全体が総動員されなければなりません。朴パク氏なら朴氏が総動員されなければならないのです。 父親が金氏で、母親が朴氏ならば、先に朴氏一族を解放することができるように、夫も後援しなければなりません。そして、夫が復帰されて入っていくとき、朴氏の解放された母親と息子、娘の基盤全体が、父親の一族の善男善女、十六歳以上の人たち全員が祝福を受けるようにしなければならないようになっているのです。分かりますか? どのようなことがあってもしなければなりません。 それは、「金氏には甥もいるし、孫もいる。親戚同士ではないか?」と言って、するのです。世の中の青少年問題や家庭破綻で滅んでいく人たちは、すべて天国に行くことはできないので、それを知っている以上、金氏の血族、朴氏の血族に対して、強く言ってでも祝福を受けるようにしなければなりません。 それをしなければ、どうするのでしょうか? エジプトで出エジプトする日を決めておいて、「この日に出ていきなさい」と通告したのに出ていかなければ、胸ぐらをつかんで逆さまにし、足を引っ張ってでも出ていかなければならないのです。 出動して十里でも出ていけば、エジプトで死んだことにはなりません。エジプトで死ねば、永遠に地獄です。しかし、境界線を越えたならば、死んだ遺体はイスラエル民族に属するということを知らなければなりません。そのような深刻な時なのです。 霊界のすべての聖人君子、神様までも聞いているこの場なのです。分かりますか? ですから、だれを愛するのですか? 自分の夫を愛するのではなく、自分を愛するのではありません。昔、エバが地獄に行ったので、男性の代表が真の父であり、真の父母なのです。 アダムが王になるのであり、祖父になるのであり、父になるのであり、夫になるのであり、それから何ですか? 兄になるのであり、そして息子になるのです。いくつですか? 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。六つです。これをすべて否定しなければなりません。男性という種は、すべて否定しなければなりません。 今まで、皆さんが結婚した相対は、天使長を中心とした霊界の先祖と同じ立場だったのです。ですから、国を中心として、もう一度否定しなければなりません。分かりますか? (「はい。」) それゆえに、自分の夫を”自分の夫だ”と考えなければよいのです。それは、サタン世界の国を代表した天使長である、ということです。天使長ですが、サタンではありません。祝福を受けたので、霊界の協助を受けて、アダム地上完成国家を復帰すべき責任を、半分の体であるアダムが持っているのです。 だれが、これをすべて脱がせてあげなければならないのでしょうか? エバは、アダムの十六歳以降のサタンの体を中心として、人類を繁殖しました。そのことを蕩減してあげなければならないので、母親と息子、娘が一つになって国を取り戻し、その国を超えて、半分の体である父親と再び結合することによって公認され、解放的地上天国の家庭を完成して、天国に入っていくのです。 適当にはできません。公式によって解いていかなければなりません。数学を解いていくように解いていかなければならないのです。分かりますか? (「はい。」) そこに行くことができれば、自分の子供を思いどおりに……。自分の夫といっても、それは夫ではありません。これを行けないようにするのは、サタンの中のサタンです。家庭から脱落するのです。いくら入籍しても、逆さまに別世界に入っていきます。 皆さんの家庭において、祝福を受けて夫となる基準に該当する立場にはいますが、本然の天国に入っていくことができず、家庭的天国に入っていくことができず、それは家庭的楽園圏内に入っていくのです。 しかし、楽園を中心としては、自分の家庭、一族が連結されず、国家が連結されず、世界が連結されないのです。その位置において、楽園的家庭となり、楽園側で中間霊界を……。 今、聖賢たちは中間霊界にいます。その霊界に留まる環境と地獄……。獄があるのです。監獄ができるのです。監獄がありますが、サタン主管下の監獄ではなく、永遠に、永遠に地獄に落ちて固定されるのではなく、自分の父母や兄弟たちが涙を流し、後孫が協助してくれ、精誠を尽くしてくれれば、下や上から押しあげてくれることによって、解放される道が開かれるのです。自分がはまっていた位置を土でどんどんと埋めて、水平になるまで協助することによって、地獄に入った家庭が解放されるのです。 そのように、自分の先祖が霊界に行っているとしても、後孫が先祖を絶対信仰、絶対愛、絶対服従して侍る道を行ってこそ、天国の自由解放圏を迎えることができるのです。何のことか分かりますか? それで、第一次アベルの立場で、国家的メシヤが自分の息子、娘とカインを一つにして国家に入っていき、第二次のアベル的立場で母親が投入され、兄弟が投入され、カイン的な立場にいる大韓民国と一つにするのです。分かりますか? このようにして一つになったアベル圏は、南北を統一することのできるアベルの立場に立ち、南北とアジア、世界を蕩減することができる祭物の過程を経なければなりません。それで、蘇生、長成、完成の過程を経て初めて、母親が旧約時代解放、新約時代解放、成約時代の統一天下圏に進んでいくことができるのです。分かりますか? 国家時代を超えていくことができるというのです。 今まで、聖人たちは独身生活をしたのです。相対がいませんでした。それで、国家を超えることのできる基準を、先生が別に準備したのです。 ですから、先生には主権があります。天の国と地上の国の主権が行くべき道を知っています。そして、民がいます。祝福を受けた民がいるのです。数十億の人々が祝福圏内に入ってきたのです。ところが、土地がありません。 土地には、南北の土地が必要なのですが、それが一つにならないときには、南北にいる民をけ飛ばして切ってしまうのです。イスラエル民族を切って、第二イスラエルであるキリスト教文化圏を立てたように、韓民族が祖国光復に貢献すべき責任を果たせなければ……。 イエス様を釘で十字架にはりつけにしたように、主権と教会が一つになって先生を追い出しました。再び救ってあげようとしているのに、それにも従おうとしないので、その地を捨てて、第三イスラエル圏を中心として基地をつくるのです。その基地が、南北米の南側です。 南北米が一つになり、旧教と新教の統一圏ができることによって、これを中心として百二十万ヘクタールの土地を国連の土地として奉献するために……。これが設定されたという事実は、韓半島の南北が反対したとしても、イエス様が死んだ立場には立たないということです。 イエス様はイエス様で、国を中心として責任を完成して、天上まで大道を築いておいたので、その国が従って来なければ、しかたなく切ってしまって、大移動が起きるのです。分かりますか? 何のことか、分かりますね? これは、試験しなければなりません。 入籍した女性たちが、このことを知らないでいてはいけません。第一次として、自分の息子、娘と、愛をもって感動させたその国の人々を一つにし、第二次として、外国で一つになったアベルとカインをアベルとして立て、大韓民国の民を中心としてそこに連結しなければなりません。 そうして、これが一つになれば、それがさらに大きなアベルとなり、北韓を消化し、モンゴル、中国、アジア圏を消化しなければなりません。それは、自動的に消化できるようになっています。北韓を自然屈伏させれば、世界が国連を中心として連結される道が、音を立てて開かれるのです。 このような境界圏内の三角地帯に来たので、先生は大急ぎで国連に登場して、国境撤廃と統一天下の理念を宣布したのです。このようにして、そこでNGO……。 NGOとは「nongovernmental organization(非政府組織)」のことです。それをNGOというのです。国連にいる大使たちは、国を代表した大使です。国連は、国の代表が来て、自分勝手にほえながら、けんかをしている戦場です。それをそのままにしておくことはできません。 国家を代表した大使たちは、カイン的な立場に立っているのですが、ここに天を代表した上院制度をつくり、より世界のために生きる人たちが、頂上から、国家のために生きる人たちを、世界のために生きることができるように方向をきちんと定めてあげることによって、天のために生きることができる道を開いてあげるのです。 そうして、真の父母が登場して一つに定着することによって、神様と真の父母、地上、天上天国の祖国光復の基盤がつくられるのです。分かりますか? (「はい。」) そして、皆さんは、ジャルジンに行って四十日修練を受けなければなりません。今まで韓国を中心として世界に連結したのですが、もしこれが断ち切られれば、祝福家庭が全滅させられるのです。それゆえに、ジャルジン四十日修練を……。 それも四位基台復帰です。分かりますか? 父母と息子、娘を連れてくることによって、何千年、何万年、別れていた父母たちが、四十日で一度に出会うのです。 夫も妻も自分勝手に生き、息子、娘も自分勝手に生き、父母と息子、娘が自分勝手に生き、すべて散り散りに別れていたものが、ここにおいて初めて、統合整備された家庭形態を持つようになったのです。 そして、それに乗って真の父母に従い、北から南へと世界を一回りしながら成し遂げたものを、そこですべて連結し、反対なく韓国の地に入ってきて、それを連結するのです。そうして、統一天下、原則的な家庭を中心として、アダム時代、イエス時代に国家的基準を成し遂げられなかったことを蕩減しなければなりません。最後の蕩減を超える闘いをしているのです。分かりますか? 女性と、この国とこの民族と、女性を中心とした息子、娘と、また来られる真の父母が一つになり、ここに天が共にいるので、鉄や石のように硬く、真の父母と一つになれば、サタンがいくら何だかんだと言っても、追い出されるように天がすべて処理してくれるのです。分かりますか、分かりませんか? (「分かります。」) しっかりしなければなりません。この女性たちは、自分勝手に生きて、「わたしの息子、娘を大学に送って出世……」などと考えてはいけません。間違った大学に通った人たちは、今後、全員蕩減を受けなければならないということを知らなければなりません。 それを基準として、皆さんの位置が決定されるという歴史的な時代が待っているのです。そのことを知らなければなりません。それよりももっと厳格なことは、国に入籍できるかできないかということであり、そのような問題が、それにかかっているということです。 先生のみ言と一つになり、天上世界圏を相続することができる、国家基準の忠孝の道理をすべて果たしたのか果たしていないのか、ということを基準として、その基準を満たしたときに、それを越えることができるのであって、ただの見物人が越えていくのではありません。 聖書にも、そのようにあるではないですか? 祝宴の日に貴賓を招待したのですが、招待した人が一人も来ないので、道端にいるあらゆる人を呼び込んだという話が。 そうして、祝宴の餅をいくつかずつ分けてあげて、礼服を着ている人は行列に並ばせ、礼服を着ていない人は、そのまま帰らなければなりません。その礼服に当たるのが、蕩減法です。分かりますか、分かりませんか? はっきりと知らなければなりません。(「はい。」)詳しく話しているのです。 それでは、皆さんはどのようにするのですか? この前列に座っている女性たちは、どのような立場なのかというのです。この女性たちとお母様との関係は何かというと、お母様は本妻です。あなたたちは、復帰摂理上は妾と同じですが、妾だからといって先生が愛したのではありません。 先生はだれかというと、わたしが愛していなくても、皆さんにとっては正式な夫です。正式な夫ですが、その正式な夫がだれと結婚したのかというと、自分の姉と結婚したのです。その姉が、お母様です。皆さんは、妹の立場です。 お母様は、堕落したヤコブ家庭のレアの立場にいるのですが、レアは、妹のラケルの夫をそのまま奪ってしまいました。今回は反対です。お母様は姉の立場で天に侍り、真の父母に侍ることのできる母の立場に立って、妹の福を略奪するのではなく、天の国の福をすべて分け与えてあげるのです。ですから、お母様の分身だということです。分かりますか? それゆえに、女性は、お母様のことも愛するのですが、先生のことは、お母様よりももっと愛するようになっているというのです。だれよりもお父様のことを愛するのですが、その後は、お母様をお父様よりももっと愛してはなりませんか、もっと愛さなければなりませんか? (「もっと愛さなければなりません。」) なぜ、もっと愛さなければならないのですか? 赤ん坊が生まれてくるときには、その赤ん坊は父親の一つの細胞、生命の細胞である精子が母親のおなかの中に入っていき、母親の体を無条件に削って骨、肉、血を分配されたのです。そうして無条件に分けてあげて生まれたのが、妹です。真のご父母様の妹です。分かりますか? それゆえに、血筋が一つになっています。 レアとラケルは、血筋が一つになっていますか、なっていませんか? (「レアとラケルは血筋が一つです。」)ですから、サタンの血筋なので反発が起きるのです。しかし、これは天の血筋なので順応するというのです。姉の夫はだれですか? 先生なのです。分かりますか? (「はい。」) しかし、その先生はだれかというと、昔、自分と婚約した人なのです。その人が姉の夫になりました。それでは、ヤコブを中心として「この怨讐め。」と言いながら、けんかをする立場ですが、そのようにはなりません。反対です。姉がだれよりも妹を愛し、天の祝福を一緒に受けて妹の立場に立ち、真の父母とともに真の父母の妹の立場に立って、天国に入っていくためのみ業に協助しているので、これ以上ありがたいかたは、いないというのです。 女性たちは、お母様が自分たちを、血肉を分配して生んで、育ててくれると同時に、自分の夫も、お父様の種がお母様のおなかの中でお母様の血肉を受けて生まれ、そしてお父様に接ぎ木することによって弟と同じ立場に立つのです。 その弟夫婦が、兄夫婦である真の父母の後に従い、その姉妹の立場を経て、息子、娘の立場、孫の立場で喜んで大騒ぎしながら、天国に自動的に入っていくようになっているのです。アーメン。 それゆえに、蘇生のカイン、アベル、大韓民国(長成)のカイン、アベル、それから、完成のカイン、アベルである南北統一は、世界統一と連結します。 無神論と有神論が一つになることによって、分かれていた歴史、分かれていた心と体、分かれていた夫婦、分かれていた兄弟、分かれていた親子関係、分かれていた一族、分かれていた国が一つになって、真の父母の統一的血統を中心として、一体圏心情世界文化が始まるのです。 それが、地上天上天国であり、天地父母の心情的文化世界であり、単一民族であり、単一文化であり、単一理想的体制であり、その家庭と氏族、民族、国家、世界の体制によって、地上と天上が統一されるのです。 根から始まった栄養素が、どこにでも思いどおりに行くのです。枝でも、芽でも、どこでも、毛先まで、そしてつま先までも、血が循環するのと同じように、統一的生命体、一体的生命体圏を成したものが、地上、天上天国の解放された自由の祖国光復なのです。アーメン。(「アーメン。」)分かりますか? (拍手) そして、父子関係は上下関係、夫婦関係は左右関係……。なぜ、夫婦関係は「左右関係」と言うのですか? 「右左関係」と言わなければならないでしょう? 父子関係は、「上下」というように、逆さまにはなっていません。なぜ、「左右」は夫婦関係なのですか? 堕落したので、女性が先になるのです。 それから、兄弟は何ですか? 「兄弟」と言うでしょう。子女も「子女」と言います。「子女」を逆さまにすれば「女子」ですね。 上下関係と子女関係は正常なのに、夫婦関係は逆さまになっているので、この逆さまになっているものを正しくするために、「三時代大転換四位基台入籍統一祝福式」があるのです。すべて含まれているというのです。その一言を理解することができれば、今、先生が語ったみ言のすべてを理解することができるのです。 上下、左右、前後が、上下、右左、前後を中心として統一された、血統の異なる神様の直系血統によって解放自由天地となり、地上、天上世界が、どこにも障害がなく、国境もない世界になることによって、初めて地上、天上天国の顕現が成されるのです。アーメン。(「アーメン。」)分かったでしょう? (「はい。」) この女性たち、全員行きましたか? お嫁に行った女性は、「夫が婿に来た。」と言いますか、「(お嫁に)行った。」と言いますか? 「お嫁に行った女性を訪ねてきた。」というのが、婿に来たということであり、「行った。」というのは、お嫁に行くということです。 それでは、今から女性たちは、どこに行かなければならないのでしょうか? 夫がいません。真のご父母様の前に再び来て、「ああ、お父様、お母様。私の相対がいなくて寡婦になったので、私を守ってくれる夫をつくってください」と言うのです。 それで、つくってくださるかたは、神様でもつくることができず、真のご父母様だけがつくることができるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい。」)ですから、この四年間は、どのようなことでもしなければなりません。 韓国の伝統では、喪に服したならば、三年以上、父母の墓を守ったものですが、それ以上の忠誠を尽くさなければなりません。分かりますね? (「はい。」)今回、四番目に修練を受ける人たちですか? これからは、どんどん先生に会うことができなくなります。きょうだから会うのであって、卒業しようと何だろうと自分たち同士……。 教えてあげた内容を守り、それを体恤することができるように、伝統として残してあげなければなりません。後代が何千代続いたとしても、本然の先祖が残した伝統を傷つけずに、そっくりそのまま相続して、神様が目をプリズムのようにして見詰められて、「伝統のとおりになっている。」という承認を受けてこそ、解放的アダム完成家庭の位置を相続することができるのです。最後に、国を取り戻し、世界統一……。 世界統一は、国連で自動的にするようになっているのです。祖国光復をすることができる主権と民がいるので、国連に土地を買ってあげ……。百二十万ヘクタールといえば、これはとてつもない広さです。済州島の十二倍です。大韓民国の民を食べさせ、七千万人に食べさせることも問題ではないというのです。 ここで、民が父の国を取り戻すことができずに、先生が父としてこれを取り戻したので、先生がしたことの相対的基準として、大韓民国が百二十万ヘクタールに責任を持たなければなりません。 それから、母の国であるエバ国家が百二十万ヘクタールに責任を持たなければなりません。それ以外の国家も、十二数に該当する土地を、祖国光復のための総生畜献納物として、ささげることが基準になっているのです。 そのようにすれば、一時に祖国光復の地球星になる時代に越えていくのです。解放を願って全体統一されるのです。アーメン。(「アーメン。」)言ってください。アーメン (「アーメン。」)アーメン (「アーメン。」)三回目は両手で、アーメン (「アーメン。」)立ってください。(「全員、その場で立ってくださるようお願いします。」) 皆さんが、うれしくて拍手するときは、このように上で拍手して、このように下で拍手してはいけません。運動しなければなりません。上で神様に侍り、降りてきて地上のアダム完成の道理に従っていかなければなりません。(「アーメン。」)分かりますか? (拍手) さあ、そのようにすれば、霊界にいる人も、神様も、「はあ、今、初めて真のご父母様の本当の心のうちが分かったなあ。」と言われるのです。今まで、よく分からなかったのです。なぜ、このようなことをするのか分からなかったというのです。 きょう、なぜこのような式をするのでしょうか? 今からは、「ああ、孔子様。いつでもお越しください。」と言って、門を開けておいて祈祷し、「神様、孔子様を送ってください。とん、とん、とんと三回合図をすれば、私が寝ていても、ばっと飛び起きて、いつでも、一年じゅう、生涯、永遠に侍ります。」とお願いしなさいというのです。孔子様と約束するのです。分かりますか? 張貞順さんは、今年も床に伏して暮らしています。イエス様が「張女史、働きなさい。」という声を聞きましたか? 働かせなさいというのです。それを知っているのですか、知らないのですか? ええ、尋ねているではないですか? 今からは、働かなければなりません。祈祷して働かなければなりません。先頭に立つのです。座り込んでいてはいけません。座り込んでいては、本当に死んでしまいます。分かりますね? 今からは、代身実体として地上に行って……。 孔子は、儒教の何ですか? 何という廟ですか? 教会堂があるではないですか? 宗廟と言うのですか、何と言うのですか? そこに行って、「わたしが孔子様の夫人ですが、あいさつしなさい。」と言って、うわさを立てるのです。「尋ねてみなさい。そうか、そうでないか。」というのです。来ないのですから、訪ねていって教育しなければならないでしょう? 先生も、反対を受けながら教育して、「お父様」という名称を受け、「真の父母」という名称を復帰したのです。世界が一つになって反対する立場で、それを崩して一つに統一してこそ、地上世界と天上世界が一つになることができます。 天は夫であり、地は夫人となり、それが一つになって天地調和をなすようになれば、愛の心で一つになった二人が行く道をふさぐ者はいないというのです。一人では行くことができません。姜賢實シルさん、そのことが分かりますか? 良いですね。(笑い)一度拍手してあげてください。幸せに暮らしてください。(拍手) さあ、ここに来た霊人たちと、神様と興進君を中心とした四大聖人、それから聖人、それから良心家、これから霊界にいるすべての人たちは、イエス様が真の父母として来て失敗しましたが、彼を兄として侍り、霊界に行った真の父母の息子、夫婦が霊界の中心となって、一つの体制をつくるのです。 今まで霊界でも、仏教、儒教、それぞれのやり方をしていましたが、これからはそれをやめて、原理を中心として成約時代の行列に従っていかなければなりません。 そのようにしてこそ、天上、地上天国に直行することのできる道ができるのであって、仏教圏のふろしきをかぶっていてはいけません。きれいに送別して一つの道に行かなければ、天国の門が開かれません。ふさがってしまうというのです。 明後日ですね。明後日、アメリカで……。きょうが十四日なので、明後日でしょう? イスラム教とキリスト教は怨讐でしたが、先生の下で国境撤廃運動として、「百万家族行進大会(ミリオン・ファミリーマーチ)」が始まるのです。分かりますか? わたしが手伝ってあげなければ、その大会はできません。兄の立場に立ち、父母の立場から、自分のことのように共に手伝ってあげ、今後、歴史的怨讐の宗教が……。 キリスト教とイスラム教は怨讐です。父母が来て、右側には統一教会、左側にはイスラム教を立て、これをぐるっと回し、アメリカの五十の州を中心として、五十か国のイスラム教の代表が集まって家庭的行進が始まるのです。 すべて焦点を合わせて行うのです。国連も家庭的祝福をすることができる時に入り、ロシアと中共とアメリカの若者が千六百人ずつ教育を受けて、真の父母を中心として心情的一体を成し、青少年の淪落を防ぎ、家庭破綻を防がなければならないという群れが一つの所に集まり、超国家的に……。 すべてが三代の怨讐です。三代の怨讐が反対したのです。イエス様を中心として、ペテロ、ヤコブ、すべてが一つになって四位基台をつくらなければならなかったのですが、それができませんでした。一つになることができずに、今、世界に三大怨讐圏をつくって闘っています。 十二歳から二十四歳、そこに相対する四十八歳の青年は、二十歳以上がカインであり、それ以下がアベルです。また、大学街を中心として、これがカインとすれば、中高等学校の学生はアベルです。中高等学校の学生をカインとすれば、小学生がアベルです。 このアベル・カインを中心として連結していき、青少年を中心として世界的な指導を行い、最高の名門家の教授たちと最高の天才的な子弟たちが、三か国を中心として百四十か国の総会をつくり、先生が指揮するとおりに、青年たちを国境を越えて結婚させることができる時を準備しているのです。分かりますか? 青少年の淪落問題と家庭破綻、そして平和に向かう直短距離を破綻させるのは、サタンの仕業であることは間違いないので、国連で発表したレバレンド・ムーンの国境撤廃の話は、極めて当然の話なのです。 それを撤廃するためには、国境を境にして怨讐同士だった者たちが、交差結婚をするのです。このようにしてはできません。(身ぶりをされる)これを離して平行線にしなければなりません。三十八度線はこのようになっています。これが平行線にならなければならないのです。 そして、そこで何かというと、どのようにして平和の内容を提示するのかということです。国境を境にした怨讐国家が交差結婚すれば、そこで地獄と天国が一つになって、闘争概念がなくなるのです。 いくら父の国と母の国が怨讐であったとしても、怨讐の国同士で交差結婚した父母の息子、娘に対しては、「自分たちよりも、りっぱに幸せに暮らしなさい。」と言うのです。ですから、それが地獄を避けて天国に入っていくことができるスタートラインであるということです。分かりますか? (「はい。」) 交差結婚を志願する世界です。怨讐と交差結婚するのです。それでは、神様が怨讐を愛される最終着点とは、どこなのでしょうか? それは、怨讐同士で結婚することができれば、そこが地上、天上天国に裏返されて、神様が自由に活動されることのできる解放地帯となるのです。 ですから、一九八八年に交差結婚をしたのです。日本と韓国が交差結婚しましたか、しませんか? (「しました。」)そのような伝統をつくってきたのです。今から、そのとおりにしなければなりません。 第四次アダム圏時代が来たので、アダムの七代の孫を中心として、自分たちで結婚することができる時になり、超民族的に、超国家的に、地上、天上天国にいる先祖までも合わせて結婚させてあげる時になりました。 そのことによって、怨讐をなくすための交差結婚をして、愛によって抱くことのできる世界となり、歴史を通して怨讐視していた宗教同士がお互いに愛することができる、神様の一方通行の世界になるのです。サタン世界はありません。そこから天国が始まるのです。二つの国が交差結婚するときには、その国が一晩のうちにさっと天国に入籍するのです。復帰が簡単です。分かりますか? 国連さえ公認すれば、交差結婚はわたしに任せなさい、というのです。三か月もかかりません。全員、説得して行うのです。そのような能力があると思いますか、ないと思いますか? (「あると思います。」)ええ、何ですか? (「あります。」)なければどうしますか? (「あります。」)ああ、それは、入籍したあなたたちがするのでしょう? メシヤは必要ありません。結婚して入籍し、神様がエデンの園で祝福したアダム家庭の代理家庭が、このように数万家庭、数十万家庭もいるのですから、心配することがありますか? 今、お父様がメシヤとしての責任を果たさなくても、完全なアダム家庭で願っていたアダム家庭の種が皆さんの家庭なのですから、それを砂利の畑に植えれば、砂利の畑に相当する実が、肥沃な畑に植えれば、肥沃な畑の百倍、千倍、いくらでも実を結ぶことができるのです。そのように結ばれた価値の基準に合わせて、倉庫に納められるのです。 そして、主人が納めた順番どおりに使い、売るものは売り、使うものは使い、還暦の祝宴、誕生日の祝宴、息子の祝宴にも使い、貴いものは、皇室の皇太子と王妃の祝宴に使う贈り物として天地の前に植えるのです。それが、王の基地をつくって、王族を植えることであるということを知らなければなりません。 ですから、これからの皆さんの努力いかんによって、自分たち夫婦が、どれくらい国民を吸収し、国土をたくさん拡大したのか、ということが決まるのです。 真のご父母様は、天地を代身して、そのようなことを成したのですが、あなたたちは、真のご父母様よりも劣っていなければなりませんか、優れていなければなりませんか? (「優れていなければなりません。」) 父母の愛を中心とした主体的な願いは、相対が自分よりも何万倍、何億万倍優れていることなのです。ですから、女性が結婚するときに、夫が自分よりも劣っていることを願う女性は一人もいません。いるとすれば、それは動物と同じです。 それゆえに、愛の相対は、垂直関係においては自分の相対であり、夫と妻です。夫と妻においては、縦的な基準において息子、娘なので、息子、娘が父母の何千万倍りっぱであることを願い、妻は夫が、夫は妻が自分よりも何千万倍りっぱであることを願うのです。 ですから、願いどおりになったのに、それでも不平を言う女性は”地獄行き”であり、そのような男性も”地獄行き”です。息子、娘を中心として、不平を言ってはいけません。いつでも抱きかかえ、息子、娘が地獄に行けば、”ついて行って、天国まで連れて行きたい”と思うのが、父母の心情であり、そのような縦的な心情的伝統こそが、父母の心情の中でも母親の心情なのです。 お母様を愛していますか? (「はい。」)ここにいるお母様は、だれの代身なのかというと、王妃の代身であり、おばあさんの代身であり、母の代身であり、自分の娘の代身であり、それから……。これはいくつですか? 王、おばあさん、母、夫人、娘、その次はありませんか? (「姉です。」)それで、全世界の女性が全員入るでしょう? ですから、統一教会に入ってきて先生に出会えば、王も嫌だと言い、おじいさんも嫌だと言い、父も嫌だと言い、夫も嫌だと言い、息子、娘も嫌だと言って、大騒ぎするのです。それで追い出されて、行く所がなくて、先生のおしりについてきた人が女性たちです。分かりますか? 「女性」という言葉は、自分の立場から”あなた、さあ受けてください”という意味で女性というのです。そのようにささげるのが女性です。ありったけのものをささげて、願うことは、愛だけです。本然の愛を引っ繰り返して打ち込んだエバの願いは、神様の愛に接ぎ木されることなので、”どうか、どうか、私の忠誠を尽くし、あらゆる精誠を尽くしますので、どうか愛だけは、私に残してください”というのが、エバの願いであり、新婦の願いなのです。 ですからキリスト教は、「主よ、新郎よ、早く来てください。」と言いながら、二千年間、それを願ってきたのです。ところが、新郎に正しく侍ることができずに失ってしまいました。 キリスト教は、道を間違えたでしょう? なぜですか? 驕慢だからです。神様は、地獄に行った人たちまで観察しながら、ご自分の愛する息子、娘を犠牲にして働いておられるのに、自分たちが天下で一番だと思いながら、「世界の人たちは地獄に行かなければならない。 仏教も怨讐であり、何々教も怨讐であり、統一教会はひどい怨讐だ。あの統一教会をたたきつぶせ。火をつけてしまえ」と言って、あらゆることをしたのです。 では、たたきつぶそうとして、先生がいなくなりましたか? たたきつぶそうとしても死ななければ、自分たちが死体になって、先生がそれを踏み越えていくのです。先生を打てば、皆、滅んだのです。分かるでしょう? (「はい。」) 霊界の神様を中心として、興進君以下の全体が、秩序整然と一つに統一された立場で、神様が願われる、復帰完成した真の父母の道理による心情一体圏世界を成し遂げるのです。(「アーメン。」)ここで、「アーメン」と言うのですか、言わないのですか? 「アーメン」ですか、「ノーメン」ですか? (「アーメン。」)大きく言ってください。後ろの方は黙っていて、ここにいる聖子のりっぱな女性たちが答えています。「アーメン」ですか、「ノーメン」ですか? (「アーメン。」) そして、今から精誠を尽くして祈祷しなければなりません。一人で暮らすことはできません。今からは、そこで教育することができる巡回班を中心として、母親が「来なさい。」と言って、「釈迦の歴史を解いてあげよう。」と言えば、霊界でその内容を答えなければなりません。 それで、きょう、ここに関係している教区長を中心として、アウグスティヌスを呼んで、姜賢實シルさんも十四の質問をし、教区長も質問し、「全員が質問することができる問答文をここに残しなさい。」と言ったのですが、宗団長たちが来ていませんね。分かりますか? 訓母様ですか? 訓母様は、ここに相対することができる教域長かだれかを代表として組ませ、聖アウグスティヌスが答えたと同じように、孔子なら孔子を呼んで尋ねてみて、霊界がどのようになっているかということを証しすることができるように、記録を残さなければなりません。 孔子を呼べば、孔子が見えるでしょう? 見えますか、見えませんか? (「見えます。」)見えるのなら、ひげが生えていますか、いませんか? (「孔子はひげを生やしています。」)ひげが生えています。顔が細長いですか、丸いですか? (「少し長めです。」)孔子が来たのですから、分かるでしょう? そして、本当に来たのか、孔子の妻も尋ねてみて、それから代表で管理する教区長が尋ねてみて、霊界で祝福を受けたことが……。 釈迦は何をする人で、孔子は何をする人で、イエス様は何をする人で……。すべて尋ねてみて、記録に残さなければなりません。今晩、それをするのです。わたしは、いなくてもかまいません。わたしは、すでにすべてを伝授してあげました。 今からは、真のご父母様の世話になるということは考えず、真のご父母様を呼んではなりません。国さえ取り戻せば、真のご父母様を愛するように、自分の夫を真のご父母様のように、真のご父母様以上に愛さなければなりません。 「カンナ(韓国語で女性のこと)」とは何ですか? 「シジプカンナ? (「嫁に行ったのか?」という意味)」ということです。氏族の家門から戸籍を抜いて他の所に行くので、父母の戸籍以上に輝く実を結ぶことを願うのが、父母の事情であり、一家、一族の事情なのです。 ですから、夫の家族を救ってあげるのは母親の責任です。新婦の責任であるということを知らなければなりません。七代の女王のふるまいをし、七代のおばあさんのふるまいをし、七代の母のふるまいをし、七代の妻のふるまいをし、七代の息子、娘の母にならなければならないのです。そのようにせずに、遊び歩こうという女性たち。最近の韓国の女性たちは、遊び歩き、浮気をし……。 「夫がそうしたので悔しくて……。夫が一度したのならば、わたしは四度しよう。」と看板をつけて、インターネットか何かで親しくなって、フリーセックスに走るような者たちがいます。そのようなことを拡大させているというのです。これをすべて抜いてしまわなければなりません。 母親たちが責任を果たせないので、そのようになるのです。夫が愛に酔って身動きできないようにして、五時前に、四時半になれば、飛んで帰ってくるようにしなければならないというのです。 そして、「なぜ、こんなに早く来たのか?」と言えば、「ああ。 あまりにも会いたくて目玉が下に落ちて、鼻がつまり、口がくっついてしまい、耳がふさがり、五感がすべてストップして死にそうで、地獄でもこれほどの地獄はないので帰ってきた。あなたの顔を見れば、太陽の光のように輝き、暗闇も逃げていくような喜びがあるので、こうして帰ってきた」と言えば、うれしいと思うでしょうか、喜ぶでしょうか? 喜んで、「神様、私の夫が時間を守らずに、申し訳ありません。お赦しください。その代わりに、時間を三十分守らなかったので、三十分間以上、積極的に夫や子女以上に愛します」と言って、母親の代身にもなるのです。そのようにして、夫の代身となり、おじいさんの代身にもなり、王の代身にもなろうとすることができるようにしなければならないのが、母親の責任です。女性の責任です。分かりますか? (「はい。」) この女性たち、先生の言うことをきちんと聞きましたか、聞いていませんか? (「聞きました。」)霊界もすべて聞いているのです。うそを言ってはいけません。きちんと聞きましたか、聞いていませんか? (「きちんと聞きました。」) 今までは、先生のために生きようとする時代でしたが、夫のために生き、自分の国のために生き、自分の子女のために生きることを、先生の言うことよりももっと重要視することのできる実利時代が来たのです。分かりますか? (「はい。」)実利時代です。 アメリカは、目に見える実益ばかりを追求してきたので、神様まで失ってしまい、肉体と物質を重要視しながら、個人主義を絶対思想とすることによって、悪魔が定着する停留所になっています。これでは、すべて地獄に行くのです。これを、すべて壊して復活させなければならないのが、女性です。女性が責任を果たすことができなかったので、そのようなことが起きたのです。 ハリウッドのよこしまな芸人たち、そのような、よこしまなものは、すべて……。 わたしの家庭の者を芸術家にしたのは、そのような者たちに手本を見せて、全員を教化するためです。興進の妻も、あさってには、またヨーロッパに行くのですか? 六か国で踊って帰ってくるのです。それを先生は、喜んで迎えてあげなければならないでしょうか、悲しんで迎えてあげなければならないでしょうか? 以前は、このような芸人たちは人並みに扱われませんでした。それを、わたしが解いてあげなければならないので、素質のある嫁や息子、娘が歌を歌い、毎日のように踊りを踊ることを許したのです。分かりますか? (「はい。」)分かりますか? (「はい。」) ですから、絶対愛の問題において愛を賛美するだけであって、愛を蹂躙する群れになってはいけません。薫淑スク、分かりましたね? 踊りを踊りながら、恋愛のようなことをしたら、すぐに首を切ってしまいます。分かりますか? 何のことか分かりますか? わたしの言うことが分かりますか? 舞踊家であるとか、舞踊をする人で、恋愛をするような者たちは首を切ってしまいなさい。分かりますか? そのような道理を立ててこそ、元に帰ることができるのであって、そのようにしなければ、道がふさがってしまいます。分かりますか? (「はい。」)自分たちも同じです。絶対純潔を守ることができる後輩をつくらなければなりません。宗教圏まで汚されてしまいました。それは、マフィアと同じです。 今、宗教が何をしているのか知っていますか? 世の中のマフィアたちは、隠れ住んで夜に歩き回るのですが、そのようなマフィアと組んでいることを、わたしは知っています。そのようなことがあってはならない、ということを知っているのです。よこしまな悪魔は、日陰の中からもなくすのです。 それゆえに、ここで言う「正午定着」という言葉は、”陰をつくらないように暮らしなさい”ということです。分かりますか? (「はい。」)夫をだまし、その国の主権者をだまし、天の国の王をだまし、自分の後孫をだまして覆い隠してはいけません。それが、あの世に行ってから白昼の下にあからさまになれば、恥の中の恥です。 さあ、ここに参加して、教育を受けて祝福された人たちは、”正午定着”です。正午になれば、陰がなくなるのです。 皆さん、東西南北の四方にも、前後左右にも陰がなく、”自分を思いきり持ち上げて、無限の世界に飛躍することのできる解放的な家庭をつくる”という信念を持って、今から新しく出発する、この時間とならなければなりません。 そのようにしなければ、霊界の先祖たちが先頭に立って、皆さんの家庭を好きなように蹂躙します。言うことを聞かなければすぐに連れて行かれます。病気を与え、薬を与える時が来るというのです。直結処分です。蕩減復帰はありません。 いくら先生が祈祷したとしても、すでにここから分家してお嫁に行ってしまい、戸籍が異なる立場に立っているというのです。 それゆえに、真のご父母様を訪ねる前に、自分の国を復帰すれば、その国によって夫を復帰し、子女を復帰して定着し、千年、万年、万々世の善なる先祖の出発を祈願するのです。それに支障がないようにするために、天上天下の数多くの国境を撤廃して解放し、きょう、五十年の峠を越えるのです。 五十の峠を越え、百年を中心とすれば半分を越える峠であり、過去を越えて、この国(韓半島)でできなければ、新しい天地の平穏な世界を中心として、南米で無限な地平線の国の地を中心として成すのです。 わたしたちは、そこに大移動していくことができるように、いつでも荷物をまとめておいて待っていなければなりません。そのように語ったことを皆、聞いたでしょう? 分かりますか? 分かりますか? (「はい。」) ここで一大勝負をして負ける日には、祖国光復の第一次イスラエルのように失われた人となるのです。そのようにならずに、イスラエルとともに、第二、第三イスラエル圏の基地として韓民族を立てるようになるのならば、韓国のすべての先祖たちも解放的な恵沢を受けて、天下の歴史世界の先祖たちの王となり、氏族の王となり、家庭の王となることができるのです。 これを失って、皆さんの後孫たちが皆さんの前に讒訴しかねない起源を残してはなりません。そのような決意を持って、断固として、「このことを、この期間に完遂して残そう」という心と体の決意とともに、家庭の決意が必要であるということを勧告します。分かりますか? (「はい。」) 完全に分かったという人は、手を空中に高く挙げて拍手。 (拍手)拍手をたくさんして、ぐるぐる回れば、これが踊りになるのです。 夫婦で愛し合ったあとは、布団をかぶって踊ってもかまいません。分かりますか? 妻が夫を裸にして肩に乗せて踊ってもかまわず、夫が重ければ妻が裸になり、馬乗りになって踊ってもかまいません。 それを神様がごらんになれば、直撃弾でめちゃくちゃに壊してしまわれるでしょうか、それとも、めちゃくちゃにするのとは反対に、その夫婦を持ち上げて、「天の国では見物できない装飾品ができた。」と言われて、天の玉座の横に立てておかれるでしょうか? どのようにされるか考えてみてください。 神様は、間違いなく、「ああ、わたしは初めて見たので、地上だけでするのではなく、もう一度、天上でもあなたが模範を見せて、天上の祝福家庭たちもそのようにすることができれば、わたしが万々世、喜びに満たされる。」と言われます。ノーメンですか、アーメンですか? (「アーメン。」) ほうっておくことがノーメンであり、アーメンとは、「ああ、良い」と引っぱることです。ノーメンですか、アーメンですか? (「アーメン。」)それは必要ないというのです。ノーメンも必要なく、アーメンも必要ありません。すべてのことが、それで万事オーケーだということです。 「オーケー」とは何ですか? 「オー」はオープンであり、「ケー」とは何ですか? キッチンです。食堂のおいしいものは、春夏秋冬、一年じゅう、いつでも食べたいと思い、おなかが張り裂けるほど食べたければ食べ、食べたくなければ食べず、願いどおりになるのが、自由解放の天国です。 天国はそうです。直感的に考えること、自分が願えば、すぐに現れるのです。直感を実際に現す能力の世界です。それは、どれほど自由で幸福でしょうか? そのような世界を自分が所有して、そのようにしたければ、先生が「してはいけない。」と言うことはせず、良いことをもっと良くすることができるものがあれば研究し、先生に悪口を言われても続けてどんどんする人は、貴重な立場に立つようになるのです。釈迦が額にダイヤモンドのようなものをつけていますが、天の国の先生の頭の上で、そのような存在になるかもしれません。 そのようにまでなったとしても、先生は、「早く、そのようになりなさい。」と勧告するのです。ですから、悪い先生ではなく、悪い父母ではありませんので、心配しなくてもよいです。良い父母、天上世界のすべてのものを相続させるために万全の準備をしているので、だれがそれを一等でもらっていくのかということを、先生は期待しているのです。 そのような先生であるということを理解して、先生を訪ねてはいけないというのです。分かりますか? 分かりましたね? (「はい。」) 今ではもう、救援摂理は終わりました。神様も訪ねてはいけないというのです。入籍したのに……。神様の代身として、救援摂理の救世主の代身として、千世万世、息子、娘を正しく育てて、天国に連れてきてください。天国に連れてくることができなければ、父母を追及します。 このように、み言を通して邪悪な世界から抜け出す道理をすべて教えてあげたのに、この父母が責任を果たせずに、自分たちの息子、娘が責任を果たせなければ、それは、父母に責任を追及することができるのです。 神様が創造した責任を負われ、アダムとエバの代わりに、責任を持って復帰の役事をしてこられたので、あなたたちが失敗すれば、永遠の後孫を中心として、「お父さん、お母さん、何ということですか? なぜ、このようになるようにしたのですか? ほかの人たちは、あのようになっているのに。真のご父母様が教えてくださったみ言を踏みつぶしておいて、どうして幸せに暮らせるというのですか? 何回か呼吸して終わってしまうような、短い瞬間の人生に何の未練があって、このようにしたのですか?」と讒訴するのです。 そのような後孫と顔を向かい合わせて暮らしながら、どのようにして、それを避けるのですか? この上なく悲惨であり、この上なく無念なことが起きるということを心配して、このような警告をするのです。 きょうの記念日に、霊界でもそのような決意をするので、その霊界よりも、もっと決意することができる祝福家庭となることを願い、主体的家庭の責任を完遂することを願って、み言を終わります。(「アーメン。」) さあ、そのように理解して、霊界が、ためらうことなく統一された行動をして地上にまで臨み、祝福を受けた家庭、後孫までも管理して脱線しないように防御してくれることを願います。 (終)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.30
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神様の摂理と超現実的な冒険性1956年12月2日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 天上に徹した恨みの垣を壊してあげなければならない使命を担った全人類のため、今日まで苦労の歴史を展開してこられたお父様! 今私たちは心から、天の恨みの垣を壊してあげるべきであることを知り、その恨みを地上で解くことによって天上と因縁が結ばれるということを、御言を通してよく知りました。 今日の私たちをお父様が呼んでおられるということを忘れないように導いて下さい。今日を生きていく私たちを、お父様を代身した存在として、全人類の前にお父様の息子・娘として立てて下さいましたので、私たちの体からお父様の栄光だけが現れるように許諾して下さい。私たちの動きからお父様の善と義だけが現われるよう許諾して下さい。 そうして、私たちが集まった所々ごとが、お父様の愛を中心として和動できるように、お父様に栄光をかえす勝利の歌が天地に満ちるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 天はこの時間も私たちを忘れないで呼んでおられるし、私たちに対して願われる御旨を命令しておられますので、それに応じてお父様の前に和動の祭物として出られる自体になっているかを思う時、まだそのようになっていない未熟で不完全なところにいるということを許して下さい。 私たちが心を開けて再び悔い改め、祭物になることによって、天上に徹した恨みが私たちによって解けられるよう許諾して下さり、そのような喜びの一日を迎えることができるあなたの息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 終末の最後の垣が私たちの前に遮られており、生死をかけて戦うべき路程が残っておりますので、この戦いの路程で天の恨みを抱えて倒れてしまう卑屈な者たちにならないよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この身も心も、もう覚悟したところがあって祭物として捧げようとしますので受けとって下さい。捧げられた祭物としてすべてのことをお父様に委ね、お父様から命じられることを喜ぶ息子・娘になるよう許諾して下さい。 お父様、この時間は尊い時間でございます。この日は尊い日でございます。お父様、この年が尊い年になるよう許諾して下さり、この民族を代表して集まったあなたの子女たち、集う所々ごとに祝福して下さい。天に隠されていた聖霊の炎を燃して、終末に約束された聖霊の役事をみせて下さい。水を注ぐように注いで下さい。お父様、恨みの垣を壊すことのできる子女が多くなるよう許諾して下さい。そうして、集まる所々が、隠れた祭壇になると同時に、現われる祭壇になって、宇宙的な戦いから勝利できるよう導いて下さい。天の直接的な命令に従って、宇宙的な戦いから勝利し、その勝利の烽火をお父様の前まで捧げることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちを主管して下さい。今まででも自己中心的な考え方を持っている者がいるならば、そのすべて を捨てきるよう許諾して下さい。お父様の前に生きた祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。喜びと和動の恵みを共にすることができるこの時間になるよう許諾して下さい。 戦いに疲れ果て、傷ついた子女たちがおります。お父様、彼らを勧告して下さって、この時間の恵みが彼らの生涯を主管するよう許諾して下さい。生涯路程の基準を忘れないように、生命の刺激的な力と衝動が生じるように、隠されていたお父様の愛を体恤できるように許諾して下さい。そうして、私たちが感謝し、地上の千々万聖徒たちを和動させ、彼らによって天の前に感謝を返す勝利の祭壇を築くことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 現わそうとされる御旨、願われる御旨が、とるに足らない私たちを通してでも成されるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを委ねますので、お父様、主管して下さい。主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 天に代わって立ちましたが、お父様、私たちはあまりにも足りないのです。何もない私たちが、お父様の前に残されることを願っておりますので、この民族のためにためらわずに出て叫ぶことができるように許諾して下さい。今日この時間まで、人の知らない神様の心情に似ていくため、人の否認する御旨の道に従うため、いろんな面から傷ついた私たちを、お父様、かわいそうに思って下さい。 こっそり涙ながら天を怨む時もありました。遠くない希望の一日を私たちに約束されまして、御旨の最後の実を私たちに許諾されましたけれど、今日の私たちが堪え得ることができるかが心配になり、恐れる心だけです。 お父様、ここに集まって来たあなたの息子・娘たちを主管して下さい。身にも心にもあなたの喜びが現われるよう許諾して下さい。お父様の顕限と運行によって、私たちが持っている正しくない考えと主義と観念を取り除いて下さい。そうして、天に徹している恨みすべてが清算できる、感動の役事が発せられるように、お父様、許諾して下さい。 悔い改めの役事が私たちの心から生じるよう導いて下さい。能力の役事で私たちの体を打って、悪の要素は除かれ、善の要素だけが、永遠に実存されるお父様の前に現われるよう許諾して下さい。そうして、私たちが本質、本性でお父様の善へ答えることができ、お父様の愛と和動することができて、このような美がお父様から楽しまれると同時に、天の聖徒たちまでも私たちと和動して、栄光の歌をお父様の前に返すことができるよう祝福して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 この時間も、罪悪の暗闇が私たちを侵犯しようとしますので、力と能力を許諾して下さい。集まった子女たちが多ければ多いほど、その中にカインとアベル的な存在がいるということがわかり、私たちがカイン的な立場にならないよう許諾して下さい。 アベル的な祭物になって、自ら実体祭物としての責任を果たすよう許諾して下さり、アベルを代身としてカイン的存在をお父様の前に屈伏させることができるよう許諾して下さい。お父様の能力と権能の役事が、この時間全体の前に現われるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日私たちに与えられた使命が、私一人の救援と解放のため与えられたものではないということを忘れないように許諾して下さい。今日の私たちにこの民族の運命がかけられているということがわかるよう許諾して下さい。今日の私たちによって、全世界24億人類が、天地へ訴えの条件を立てることができるよう許諾して下さい。 お父様、荘厳で深刻な生死の道に立っている私たちが、右手は天を握って左手はサタンを打って、勝利してホザナの栄光をお父様の前に返すことができる時まで、お父様、守って下さい。 ここに集まった子女たちを主管して下さい。この中に、まだ悪の根を抱えて悔い改めることをためらう者がないように許諾して下さい。能力として現われて、心に抱えているすべての罪悪の根を除き、爆発させて下さい。 この時間、サタンのものはサタンのものに、天のものは天のものに分別して、聖別された喜びの祭物としてお父様の前に捧げられるよう許諾して下さい。 寂しいあなたの子女たち、新しい福音の御言をもって地方に散らばっているあなたの子女たち、天の前に祭物の道を代身することが難しいということをわかっておりますので、お父様、共になさって下さい。 時ならぬ時に、時の御旨をやるあなたの寂しい子女たち、サタンとの戦いで疲れることのないように許諾して下さい。今まで守って下さったお父様、この時間以後も守って下さる恵みを願っておりますので、どこへいてもあなたの御旨を代身し、あなたの徹した恨みを解くことができるよう許諾して下さい。私たちみんなが、私たちの生命を祭物として捧げても、お父様の恨みの心情を抱えて、天の前に感謝できるように、お父様から喜ばれる美の自体になって一日でも早く天の御旨を成就することができるように許諾して下さることを、愛なるお父様、切にお願い申し上げます。 今日、民族の代身としてお父様の前に集まった祭壇が多いのですが、彼らが御旨を知らないで悪の祭壇を築くことがないように、お父様、共になさって下さい。一人一人の心を合わせ各教団を合わせて、世界的な一つの勝利の祭壇としてお父様の前に捧げられるように、天のお父様の感動の役事を許諾して下さい。 この時間、すべてを主管して下さい。喜びの御旨だけが運行できるように導いて下さい。喜びの御旨だけを現わして下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅲ) お父様、この御言は再創造の御言です。お父様がエデンの園で、「善であろう、善であろう」と言われた、善の御言実体が地上にはないので、それを嘆いておられるということを知るものでございます。失われた善の御言をとり戻すべき条件が残っている限り、善の実体も探すことができないということも知っております。 お父様、善の御言を現わして下さい。とり戻された善の御言で再命令なさって、善の実体をなしておくことのできる、特別な再創造の歴史が私たちの中で行なわれるように導いて下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 御言をもって立ちましたので、伝える者と受ける者が一つになるように許諾して下さい。相対基準をとって、誇られる姿になる時、全体は彼を通して造られることができるという原則を知っておりますので、お父様、ここに立てたあなたの息子、娘を尋ねてこられて、御言の中心を立て、条件の役事を行って、サタンの権限に勝つことができるように許諾して下さい。私の体と心がサタン圏内にとられているならば、御言を通して分別して、お父様の聖別の印をもらうことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 その時は、多くの御言が必要ではありません。今まで私たちは、多くの御言を聞いて知っておりますが、お父様、自分の心が生まれ変わることのできる力が必要でありますので、力で役事して下さり、権能で役事して下さい。 悪のすべての観念を取り除いて復活できる生命を御言を現わして下さり、再創造の復活の歴史をつくって下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 何よりも、体恤的な心、体恤的な感じ、体恤的な観念、体恤的な悔い改めを通して、この時間、一つの美の完成を見たがっておられるお父様の心がわかることのできる者になるように導いて下さい。一つの祭物として捧げられる時間になるように許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日の御言の中には、イエス様が最後の十字架を前において、大変冒険的な覚悟なさった御言があります。それで、今日皆さんと考えてみたい御言の題目は、「神様の摂理と超現実的な冒険性」です。 今日、信じている私たちは審判の日を前にして、絶えず戦いの路程を経ていきます。この路程は坦々たる路程ではありません。故に、皆さんが冒険的な中心を立てたおいて、残された宇宙の怨恨の審判を押し出すことのできる勝利的な中心を持てないと、皆さんは歴史路程の敗北者になり、生涯路程の敗北者になるのです。 最後の宇宙的な審判と自己認識 それゆえ、神様の摂理歴史は、冒険的に出発して冒険的な終結を予告する摂理歴史であるということを皆さんは忘れてはいけません。 今日、私たちが自由に信仰生活ができるいろんな条件と環境は、皆さん自身が成したものではありません。私がこのように自由な立場で神様を呼び、自由な立場で信仰生活をすることができるようになったのは、先祖たちが数多い冒険の峠を越えてきたからです。皆さんはそれを知らなければなりません。そして、皆さんが生活や信仰路程からこれを胸深く感じることができなければ、最後の宇宙的な審判の峠を越えられないということをわかるべきです。 それよりまず、皆さんは、天が今日の私を呼んで立てられたのは何のためかというのをわかるべきであり、6千年の歴史的な恨みの峠を越えている私自体はいかなる存在であるかを自ら解明することができなければなりません。 さらに、今日の私は、サタンによって遮られた宇宙的な怨恨の峠を越えることのできる自由の中心をつくっておいたか、未来に残された怨恨の審判台を充分に越えることのできる勝利的な中心を持っているか等の問題を考えてみるべきです。今日の皆さんの信仰はどの段階に留まっていますか? 皆さんは、歴史的な、現実的な、未来的な過程を通して、全体的な天の摂理が完結されるまでが、天と結ばれている私としての過去、現在、未来のいろんな問題を考えなければなりません。 天が私を立てて、終末の全体的な使命を与え、私を立てて勝利の栄光を現わそうとされる御旨があるならば、その御旨は6千年の摂理の御旨に代わった御旨であるでしょう。そして、天の私を通して立てようとされる基準は、最後の審判の峠を越えることです。即ち、新天地の新しい基準です。 それゆえ、万一皆さんが永遠に生きていける新天地の基準と、勝利的な自由の環境を備えることができないと、歴史過程を経えてこられた神様の摂理の前に、皆さんは勝利者として立つことができないということです。 過去を振り返ってみる時、今日天が私を立てられたのは、私一人だけを救うために立てられたわけではありません。歴史的な恨みを解くための結実体として立てられたわけです。これを皆さんは忘れないで、アダムからの堕落の怨みを解いてあげるべきです。また、ノアの冒険的な恨みの心情とその生涯も解いてあげるべきです。 それ以来、アブラハムからイサク、ヤコブ、モーセなどの先知先烈が歩んでいった冒険的な生涯、その方たちが残して偉業を皆さんが引き受けて、それを一つの土台として未来に残された審判台を充分に越えることのできる中心を備えるべきです。そうしないと、サタンとの歴史的な戦いから販れるようになるということを忘れてはいけません。 冒険の道を歩んだノア これから、過去の私たちの先祖をふり返ってみましょう。まず、ノアの一生をみれば、それは平坦な生活ではありませんでした。神様から「120年後、世を水で審判するので、アララテの山の頂に箱舟をつくりなさい」と命令された時のノアの心情はどうだったでしょうか。12日間でもなく、12年間でもなく、120年間だったのだから………。アララテ山の頂に箱舟をつくれという御言は、その当時の現実とは合わない御言でした。 神様からそう命令されて、それを実行していくノアは、当時の状況からみると、気違いみたいな人であり、その時代には到底合わない人でした。神様からべらぼうなことを命じられたノアは、心から堅い覚悟と決心をするようになりました。そして、一日でもない120年という期間を、ある一日に向かって生活したわけです。そのようなノアこそ、1600年の歴史路程になかった、1600年歴史に代わって天の前にたてられた冒険的な先頭者であったということを知らなければなりません。 そうして、堅い決心を抱いて、下された命令を変わらない約束の御旨として信じていくノアには、世の人たちから何と言われても、神様の主管がどうなっても、そのあらゆる条件は問題にならなかったのです。すでに、御旨のために出発した基準、死を覚悟して始めた彼の足取りの前では、そのすべてのことが何の問題でもなかったわけです。それでノアは、120年という長い期間の苦難の路程を黙々と歩んでいかれたのです。 そのようなノアには、家庭的な非難があったはずです。社会的な非難も大きかったと思います。しかし、人の知らなこ、人の行かなこ、1600年歴史過程の中で誰も行ってみないその道を、天の道を打開するため歩き出したノアだったので、誰もそれを止めることはできなかったわけです。ノアは、当時の社会環境や世の人たちから何といわれても、それに対して堂々と勝つことのできる冒険的な人であったということを皆さんは忘れてはいけません。 そうしてノアは、自分の前のいかなる苦難も必ず乗り越えて、120年後にはアダム家庭が失った復帰された一つの家庭を立てたわけです。ノアには、このような歴史的な事情がありました。 アブラハムもやはり同じです。神様からハランから離れるように命令されたアブラハムは、それが簡単な問題ではなかったのです。住みなれた故郷から離れることを命令された時、アブラハムの心情は実に複雑でした。人間的に思うと有りえないことだったのです。 しかし、神様から命令されたアブラハムはそのすべてを超越しました。家庭を超越して、今までの暮しすべてを放棄して命令に従いました。このようなアブラハムの歩みこそ、当時の現実では有りえないことでした。御旨を感じる人、御旨を知っている人があったとしても、誰がアブラハムの側になって、「正しいです。あなたがいく道は正しいから私を導いて下さい」と言えるでしょうか? アブラハムは、世の中からどう思われ、御旨に対する一片丹心で、永遠にハランを離れる心情で出発したわけです、そうして、天の導き通りにいく時、いかなる冒険が待っていたとしても、死の峠が遮っていたとしても、忍耐しつつそれらを乗り越えていきました。 アブラハムの超現実的な信仰 神様は偶像商であるテラから、その長子アブラハムを奪い出して、そのような立場に立たせたのです。そのように立てられたアブラハムは「これから私が行く道を、私の愛する父母が、友達が、兄弟が、その誰がひきとめても,私の中心は変わってはいけない」と確固な覚悟をしました。それだけではなく、アブラハムは祝福を成すため、100才にやっと得たイサクまで燔祭として捧げることを命ぜられた時にも服従しました。その命令は歴史上になかった、一つの冒険的な条件になる命令でした。それは、天と地に代わって、天上のことや地上のことなど、すべてを左右する条件であったが、これを知らなかったのにもかかわらず、アブラハムはイサクを祭物に捧げようとしたわけです。 愛する息子を祭物にして、刃をもって刺そうとしたアブラハムを、皆さん、考えてみなさい。これは実に、超現実的な意識でした。その当時の誰が、そのようなアブラハムの信仰を認めてくれることができたでしょうか。アブラハムが提示したこの冒険的な行動は、即ち、アブラハムとその家族が天のものであるので、アブラハムは勿論であり、彼の家族とすべての所有物までも神様の命令に従わないといけないということを現わす行動でした。このような事実をアブラハムは、一人しかいない息子を燔祭として捧げる過程から悟りました。 それでアブラハムは、「この息子は私が産んだんだけれど、あなたのものですので、あなたに捧げます」という心でイサクを燔祭し、現実的な環境を打開したわけです。このような先祖たちの信仰の中心を皆さんは悟るべきです。 ヤコブもやはりそうだったし、モーセも同じでした。神様は彼らを立てる時、平坦な道を歩むようにはしなかったわけです。 ヤコブは生まれた後、エソウから長子の嗣業を奪う争いをしなければならなかったし、モーセも生まれながら戦いの条件にかかっていました。 冒険と革命の道を歩んだモーセ モーセは、イスラエル民族が、エジプトで400年間の苦役を経ている時、天から立てられました。そして、パロの押政下で3カ月間は母の保護を受けた後、パロの娘に引きつれられ宮中に入り、40年を送りました。皆さんは、モーセのパロ宮中での生活が贅沢でいい環境であっただろうと思うかもしれません。 しかし、御旨を知るモーセは、エジプト宮中にいながらもエジプトの民族ではありませんでした。イスラエルを代表した、神様の選民であるということが、日に日に彼の胸に徹したのです。そうして、40年間をイスラエルの志操を抱いて暮らしたモーセが宮中から出た時、イスラエル人がエジプト人からやられるのを見て、どうしても我慢できない義憤心が爆発されてエジプト人を殺したわけです。 その後、パロ宮中から出て、残されたイスラエルの祝福の御旨を抱いて、ミデヤンで牧者生活を始めました。それは楽な生活ではなかったのです。その時のある一人も、それほど楽なパロ宮中を捨てて牧者生活をするモーセを理解してくれなかったのです。しかしモーセは失望しないで、天のための人知らない祭壇、イスラエルのための祭壇を築いてきました。このようなモーセだったので、80才になった年、神様は彼を選んで、民族の恨みを解くことのできる主人公として立てたわけです。 その後、モーセが歩んだ道はすべてが冒険的でした。現実を超越した神様の摂理の中心を抱いたが故、彼の生全体が超現実的だったし、望むことも、出て戦ったことも超現実的でした。 神様の命令を受けて、モーセがパロ宮中へ入る時、神様が命令した道を行くモーセを、祝福し守って下さるべきなのに、神様はかえって、モーセの行く道を遮って殺そうとされました。どうして神様は、御自身の命令を受けて行くモーセを遮って殺そうとされたのか? 現実的では有り得ないことでした。ここに、私たち人間が知るすべもない内容があるわけです。 現実的に思うと、とても越えられない峠でした。しかしモーセは、すでに覚悟したので、生死はどうであれ、ひたすら御旨だけがなされることを願う心情で、神様とサタンが妨げる試練の条件を越えたわけです。そうして、パロ宮中で超現実的な神様の実存を確信し、10回以上の奇跡を行なったモーセは、4千年歴史上になかった宇宙的な冒険の革命家であったということを、皆さんは知らねばなりません。このようにモーセは、どんな人の反対にも屈しないで、御旨に対する超現実的な信仰をもって60万イスラエル民族を導きました。これを見る時、モーセの全生涯は超現実的な冒険の行程であったということがわかります。 冒険の歴史を覚悟されたイエス 民族復帰の代表者であるモーセの後、世界復帰の使命者としてこられた方がイエス様です。イエス様は、過去4千年の歴史の中で、数多い先知先烈たちが神様の御旨をなすために、超現実的な生活をやってきたということをわかりました。そして、先知先烈たちが成し遂げられなかった御旨を完成すべき責任が自分にあるということを切実に感じました。 歴史をふり返ってみたイエス様は、多くの先知先烈たちの恨みが残されており、未だに復帰摂理が終結されていないということを悟って、その終結を覚悟したわけです。 家に、4千年の路程を開拓するための、超現実的な冒険の路程を歩む覚悟でした。多くの先知先烈たちの冒険的な歴史を総合したことよりも、もっと歩むことを覚悟したイエス様であったわけです。 イエス様は、宇宙的な冒険の歴史を清算すべき使命を担った故、彼は生まれながら冒険の道を歩まれました。彼の生活はやはり超現実的な冒険の生活でした。そして最後には、十字架にかかる死の道までも超現実的な冒険の道であったわけです。 それでは、イエスの生涯は何を根にした生涯だったのか。4千年歴史を総決算する生涯であって、その時まで天の恨みに徹した冒険的な路程を総決する生涯、新しい勝利の土台を成すための、地上にない超現実的な勝利の生涯でした。 マリヤとヨセフの従順心 皆さんがわかるべきことは、イエス様が処女マリヤの身から生まれたということです。冒険的な生涯をもって来られるイエス様の前に、聖母マリヤのような人がいなかったら、神様の御旨はどうなったかわかりません。聖母マリヤのような処女マリヤが、即ち、天の女性がなかったならばイエス・キリストは生まれることができなかったわけです。地上にマリヤのような冒険的な祭物の土台がなかったとすれば、冒険的な路程を経て、新しい生命をもって生まれるべきだったイエスの誕生はあり得なかったということです。 マリヤに天使が現われて、「あなたは身篭って男の子を産むであろう」と言った時、マリヤは、「私が男を知らないのに、どういうことでしょうか」と聞きました。天使は再び、「万能の神様があなたを選んだ」と言いました。その時マリヤは、「主よ、私は僕でありますので、御意通りにして下さい」と答えました。この一言が宇宙的な冒険を表わす言葉でした。 その当時、処女で妊娠すると、モーセを通して立てておいた律法によって、直ちに石を投げられ死ぬことになっていました。それを知りながらも、マリヤは現実の環境を越えて、「主よ、御意通りにして下さい。女僕であります。私は死んでものあなたのものであり、滅びてもあなたのものでありますので、御意通りにして下さい」と言ったわけです。天はこのように、地上に、生きた実体的な祭物のマリヤがあったからこそ、イエス様を誕生させたわけです。 それだけではありません。皆さんが今日信じていく信仰生活の中でも、皆さんが知らない冒険の道がたくさんあります。自分の婚約者が身重になったことを、夢を通して予告されたヨセフは、人間的ないろんな悩みのためマリヤと離縁しようとしました。自分と婚約した処女が身重になったという事実は、ヨセフにいろんな人間的な悩みを与えたわけです。しかしヨセフは、すべてのことを自分が責任をもって、マリヤを助けようとしました。それは、易しいことではありませんでした。超現実的なことだったのです。 それゆえ、今日の皆さんには、ヤコブが歩んだ道、ヨセフが歩んだ道に従うべき使命があります。イエス様が歩んだ道、マリヤが歩んだ道に従うべき使命が残っているのです。したがって、このような超現実的な場面が、超現実的にしか通じない冒険的な峠が皆さんの前に立ちふさがっているということを、私たちはわからなければなりません。 誕生から超現実的な冒険の道を歩まれたイエス 4千年歴史の悲しみを抱えて、死んでも生きても、専ら御旨のために祭物として捧げられることを覚悟して出たイエス様を、人たちは知りませんでした。彼が万民の救い主メシヤであることを知らなかったわけです。こんなことをみると、イエス様は誕生から超現実的であって、新しい理想的な冒険の生涯を送りました。今日これが、未完成のまま、再臨の時に要求される御旨として残されているということを、皆さんはわからねばなりません。 イエス様の生涯をみると、ヨセフとマリヤの家庭で育っていた時から、御旨に対する憂いと心配がありました。弟たちから非難も受けました。イエスの30年生活は、ヨセフがイエス様に対して持った、最初の心通りにならなかったのです。ヨセフが、イエス様より自分の実の息子をもっと愛したわけです。それゆえ、イエス様はやはり当時の社会形態に合う家庭環境ではなかったということをわかるべきです。 そうして、連れ子のように生き、十字架でなくなられるようになったイエス様のすべての生活は、超現実的な生活でした。そのような環境で、あらゆる家庭的な不和にぶつかりながらも、イエス様は黙々とそれを乗り越えました。ついには、御旨をもって現われて、万民のメシヤであることを証しするのもやはり、現実的ではありませんでした。 永い歴史を通して、ユダヤ教の信条として立てておいた律法の次元を越えて、新しい天の福音をもって現われたイエス様であったので、至る所々から歓迎されたことがなかったわけです。そうしてイエスは、家庭から、洗礼ヨハネから、ユダヤ教から否定され頼るところのない立場になりました。しかし、そのような立場でありながらも、御自身を慰めてくれるところを求めたイエス様ではありませんでした。 神様の御旨を知っているイエス様は、新しい新約の福音を宣布されました。初めて洗礼ヨハネがイエス様を証しした時は、ユダヤ教の祭司長たち、あるいは書記官たちから認められる環境だったのです。ところが、3年公生涯路程を経ながら、イエス様の位置はだんだん下がって、結局は漁夫や婦女者たちだけがついてくる立場に置かれたわけです。 神様の理念を立てるべきイエス様の前に、約束としては永遠な約束が、御旨としては永遠な御旨があるべきだったのに、現実からそれを、いくら探そうとしてもだめだったのです。荒野に5千名の群れを集めておいて、彼らのために天に向かって祝詞なさったイエス様の心情、ラザロの墓の前で切実に祈られたイエス様の心情は、地上の誰にも比べられない悲しい心情でありました。 4千年歴史上の数多い先知先烈たちが、神様の御旨のために冒険的な生活をし、悲壮な覚悟と内的な悲しみを抱いて戦ったが、イエス様の内的悲しみには比べることができません。イエス様は、4千年歴史のすべての恨みの心情を解いて、神様の内的悲しみの心情を慰めてあげるべきだったわけです。 イエス様に従った人たちは、ユダヤ人が歓迎する人たちではありませんでした。ユダヤ聖徒たちが認める人たちではなかったのです。 イエス様は、社会からも教会からも歓迎されなこを歩まれました。どこへ行っても、自由な環境ではない立場に置かれたイエス様だったわけです。 イエス様の悲痛な心情 モーセが、60万イスラエル民族をつれて出る時、彼の前には紅海が立ちふさがって、後にはパロの兵士が押し寄せてきました。モーセは、死を恐れる60万民族を代身して、そのような死の試練から充分に勝つことのできる一つの信条をもって戦いました。それは、60万民族を生かせる道であったわけです。 イエスが、5〇2〇で5千名の群れを腹一杯食べさせたのも同様です。日暮れ野に散らばっている群れを見ておられたイエス様の心情こそ、現実的では地上のどんな人からもみられない心情でした。イエス様は、このような心情をもって、お父様の前に訴えたので、冒険的な創造歴史をつくったわけです。 誕生から冒険的だったイエス様、生きながら冒険の道を歩んだイエス様、最後、十字架にかかるまでも冒険的な基準としてなくなられたイエス様であったことを、私たちは感じなければなりません。こんなことをみると、イエスの生活は、ただの微々たる生活ではなかったということがわかります。上品で格好いい、そのような生活ではなかったのです。 これから皆さんは、信じている自身を分析して、イエス様の生涯路程に合わせてみなければなりません。皆さんに、イエス・キリストの新婦になりたがる心があるならば、皆さんはイエス様の一生の冒険的な生活、ゴルゴダ山頂、蔑視と苦難の生活から十字架にかかるまでの運命の道、冒険的な死の道を行かれたその生涯をわからなければなりません。 実に、イエス様の生涯は冒険から出発して冒険で終わった生涯でした。新郎として来られましたが、寂しく死の道を行かれたイエス様、私のために亡くなられたイエス様、私を救うために亡くなられたイエス様の悲痛な心情を、常に私たちは心から感じなければなりません。 今日のこの終末に、皆さんがイエス様に捧げるものがあるとするならば、それは何であろうか。生涯を冒険的に送ったイエス・キリストのはがゆい心を胸に抱いて、全世界に対して、天地に対して、誰よりも立派な祭物、天地どこからも探すことのできない唯一の宇宙的な冒険の祭物になることです。 それゆえ、これから皆さんは、歴史過程を経てこられた神様の恨みの心情を悟って、僕のところから上がっていくべきです。楽なところから何かをしようとしてはいけません。御旨のため死ぬことができる心情をもって生活しなければなりません。考えてみなさい。地のために死んだイエス・キリストが、地に対して怨んだら、彼以上に怨むことができる人はいないわけです。 しかし、イエス様は御自身のために来られたわけではありませんでした。まずは、歴史のために来られ、イスラエル教団のため、イエスラエル民族ために来られました。従う弟子たちのために、民族と国家、世界、そして天宙のために来られたわけです。彼の一生は、民族と国家、世界、そして天宙のための一生であって、死までも自分のための死ではなかったのです。 ところが、このようなイエスの歩みを、誰も正しいと言わなかったのです。死にいたっては愛する弟子たちからも裏切られ、一人になってすべてに責任を持たざるを得なかったイエス様を考えてみなさい。万一人間に対して悲しんだり怨もうとしたら、地を叩きながら泣いても30年生涯の恨みが解けきれないし、受けた苦難を補償されるすべがないわけです。しかしイエス様は、当時の人類がサタンの主管の中で苦しむことを心配され、哀れみの心情で、十字架の死の立場からも、裏切った民族、裏切った弟子、裏切った全人類のために祈られた方でした。悲しみのイエス様だったゆえ、その方は、この地上の先祖たちが4千年歴史を訴えても、その当時の全人類をあげて訴えても、彼らの友になることができたし、反対した民族のため、怨讐たちのために祈られることができたわけです。これは4千年の人類歴史上になかったことでした。さらに、これは天上と地上に徹した罪悪の垣を壊すための、宇宙的な行事でした。 イエス様が万民の王であるならば、皆さんは、その王の王妃になるため、彼の約束を信じ、すべてを御旨の前に捧げて生活しなければなりません。 イエス様は、そのような道を歩みました。イエス様の生涯は、そのような生涯でした。イエス様の所望は、御旨のために生き、御旨のために死ぬことでした。 先祖たちとイエスを見習って、冒険の道を歩むべき私たち それでは、今日の私たちがすべきことは何で、私たちがわかるべきことは何であろうか。死の立場に立ってでも人類のために祈られ、恨みの心情ですべての悲しみを担っていかれたイエス様を知ることです。地上に一つの御旨を立てておいて、冒険の道をいかれたイエス様の心を、私たちの心にし、イエス様の死を悟った今日の私たちが、宇宙的な冒険の道を通してイエス様の恨みを解いてあげなければなりません。 イエス様を信ずる人の中には、「お父様、福を下さい」と祈る人が多いのです。ところが、福をくれと祈る前、イエス様の悲しみを悟らないといけません。それだけではなく、イエスの生涯と十字架の路程までがわからないとだめです。人間がわからない、イエス様と神様だけが知っている、冒険的な行程の悲しみがあったということを、イエス様が話しきれなかった内的悲しみの心情を悟るべきです。 そうして、「主よ、あなたの恨みと歴史的なすべての恨みを私たちが解いてあげます。私たちを励まして下さい。歴史的な民族を通して成就されたかったその御旨をなすことができるように役事して下さい。私たちが、宇宙的な歴史を代身し、数多い先知先烈たちが残した恨みを解いてあげる冒険的な祭物として立つことができるよう役事して下さい」と言えるようにならねばなりません。 今日、私たちが願うところは、イエス様が地上に残した御旨を成就することです。最低のところまで落ちたイエス様の御旨を成し遂げるべき運命が、私たちの運命であるわけです。歴史は、個体の冒険的な路程を経て、家庭、社会、国家、世界を通して流れてきました。それゆえ、クリスチャンが個人の御旨を成そうとする時は、その個人も行程に冒険的な路程が与えられました。家庭もやはりそうだったし、社会も、国家も、世界も同様でした。今日、このような冒険的な関門が皆さんの前に置かれているということを知らねばなりません。ゆえに、今日の皆さんは、冒険的な生死の岐路、宇宙的な審判台の前に立たされている自分一身の冒険、自分一身の生命や民族の生命、世界人類を代身して冒険的な祭物として捧げられなければなりません。 そして、先知先烈たちが歩んだ生涯路程とイエス様が歩んだ生涯路程を、今日の私たちが、どんな時代や環境からも見習って歩むことができなければなりません。さらに、いつ誰からいかなる条件を提示されても、超現実的な自分を立てて、宇宙万象の前に訴えることができ、天上の御旨を代身した者として出ることのできる覚悟と自信を持たなければなりません。 冒険的な祭物として捧げられるべき私たち 再臨の日が近い今日において、皆さんは6千年歴史の最後に残された、一つの宇宙的で冒険的な責任を遂行しなければなりません。その責任が宇宙的であるならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならないといけません。ここで、冒険的な内的覚悟を持って出るときこそ、その責任が遂行できるというわけです。 神様の御旨が、私たちの信仰生活とは違うように成されるとしたら、どうなるでしょうか? 今まで、超現実的な冒険の路程を通して神様の歴史は進んできました。 このような、宇宙的な関門を経てこそ、最後に勝利の旗をあげて、お父様の前でホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を代身できる存在になるわけです。また、そうできれば、いかなる条件にもかからないで、いかなる迫害と非難があっても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子になることができます。 そのような王子になる覚悟を持った者こそ、神様の摂理の御旨に対して最終的に責任を持ち、その栄光を現わすことのできる、キリストの新婦になるということを皆さんはわからなければなりません。お祈り致しましょう。 祈祷 歴史の曙の時、私たちが悲嘆の中にいても、その一筋の光りは、私たちの心と体に照らされているので、生命の跡を持っている者、生命の力を持っている者に、お父様、共にして下さい。 残された宇宙的な冒険の道を、今日のクリスチャンたちが歩むことができるように、お父様の役事を一日でも早く現わして下さい。 お父様、私たちの今までの信仰生活は、自己中心のものでした。いつ私たちが、イエス様のために、天のために冒険的な生涯を送ることを覚悟したましたか? いつお父様の前で、「冒険的な祭物になります」と祈ったのでしょうか? 今日ここに集まったあなたの息子・娘の中に、そのような者がいなかったら、お父様、悔い改めることができるよう許諾して下さい。天の摂理の前で恐れることを知らない存在にならないように許諾して下さい。そうして、宇宙に代わって冒険の道を歩もうとするお父様の前で、切に祈ることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まってきたあなたの子女たち、超現実的な生涯を求めてきました。彼らの生活は、正常的な生活ではありませんでした。狂的な生活であるとすれば、それ以上に狂的な生活はないはずです。しかし、過去と現在と未来を通して見れば、それは狂的な生活ではないということがわかります。 このような、宇宙的な苦痛の道、宇宙的な冒険の道で、お父様の裏切る者にならないように導いて下さい。お父様、能力の御手を伸ばして下さい。イエス様が歩んでいかれた生涯は、私たちが見習って行くべき路程であることを知って、復活と蘇生の歴史を経て、新しい生涯の中心を持つように許諾して下さい。新しい生活の基盤を築き、新しい力で一つになって、天地から認められる路程を歩むことができるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い致します。 今日伝えた御言が、集まった子女たちに生命の御言になるよう許諾して下さり、永遠なる勝利の祭物として捧げられるよう導いて下さい。彼らが訴えの条件を備えて、天上の恨みを解くことができる息子・娘になるよう許諾して下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.28
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世の罪を担って行かれた神様の子羊を見なさい1956年11月25日(日)本部教会 祈祷Ⅰ 生命の復活を約束されたお父様、愛の恩賜を許諾されたお父様、永遠な生命を下さったお父様! 今日遠くにおられないで、私たちの心と体におられ、私たちの回りにおられるお父様! 私たちは、お父様の愛を慕う心を持っており、お父様の愛の中にいたい心を持っており、お父様の栄光を讃えたい心を持っております。 この時間、私たちに訪れて下さったお父様、お喜びになる栄光を現して下さい。そうして私たちも喜ぶことができる自体に化して、本心・本性で和動でき、万物とも和動できる栄光の雰囲気で、この時間各自の身と心を正しくさせて下さい。 約束のお父様! この時間働いて下さい。能力のお父様! この時間現して下さい。取るに足りない私たちでございますが、お父様の命令に従って出る時は、永遠な生命の路程を開拓することができる力が生ずることを知っております。愛のお父様! この時間ためらわないで、まず私たちの心を通して命令して下さり、私たちの体を通して命令して下さい。 造られた本来の形状を取り戻して下さい。そうして、その美しさをお父様が楽しまれることができ、天上天下の全被造物の前で堂々と誇られる息子・娘としてこの時間守って下さり、立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日は聖なる日です。万民の命に対して責任を持つべき日であり、死亡圏の中の怨讐たちの手につかまれている多くの衆生たちの心と体を、お父様の前に導いてあげないといけない日でございます。 このことを責任持って役事される方がイエス様と聖霊でありまして、このことに協助してきた者たちが天上の千々万聖徒でありましたので、今日地上にいる私たちが武装して、その一つの御旨の為に協助しなければならない、残された使命をわかるように許諾して下さい。 お父様! 残された使命を担当できない立場にいるとしたら、永遠の前から約束された祝福の御旨を私たちが心に保つことができるよう許諾して下さり、私たちを天倫の前に立たせて下さい。 悲しみを刺激させる哀れな息子・娘にならないよう許諾して下さい。 お父様が立てられたすべての御旨を、心と体を通してあなたから言われる前に成すことができ、あなたから要求される前に行うことができ、あなたから願われる前に実践することができる、あなたの息子・娘になるよう許諾して下さい。 お父様、まずこの民族を祝福して下さい。民族を代身した教団を祝福して下さい。ここに集まっているあなたの息子・娘たちを祝福して下さい。 このことを世界の多くの生命に予告して下さり、新しい生命の祝福を許諾して下さい。万民にお父様の御旨を悟らせて下さり、万民の生命の基地を高めて下さって、そこに平和を現すことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今ひれ伏している息子・娘たち、新しい心でお父様から愛され祝福されることができる子女たちになるように、彼らの体がお父様から祝福された栄光の美とその愛の美を適えることができるよう許諾して下さい。 お父様の前にかなわない、お父様を悲しませる罪悪の苦い根を抱いている息子・娘がいるでしょうか? お父様、この時間働いて下さり現して下さい。そうして、直接的な御手で再創造の歴史を起こして下さい。 この時間集まった息子・娘たちにお父様の大なる恩賜を現して下さい。各地方でも寂しい祭壇を積んでいる子女たち、あなたの御言を証する息子・娘にも等しい恩賜としてこの時間役事して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 各個人の心の主人になって下さり、各個人の体の本来の主人になって下さい。私たちの体を聖別させて下さい。許諾された恩賜をこの時間私たちに満して下さり、全体の頭々に臨んで下さることを切にお願いしつつ、すべてを愛する主の御名によって申し上げました。ア-メン。 祈祷Ⅱ 私たちを集める為に苦労されたお父様、今日私たちは集まって来ました。ひれ伏した私たちの心身が一つになって、お父様の命令に代身することができるよう許諾して下さい。ひれ伏した私たちの体が聖なる場にならなければいけないと思います。 長い間を嘆きつつ捜し求めた所望の姿が私たちであることを悟るようになって、お父様がどれほど哀れな立場でおられるかがわかりました。今までの摂理歴史をなさって来られながら、あらゆる侮どりを受けられたお父様の心情もわかるようになりました。 あらゆる侮どりを受けられたお父様であり、あらゆる苦難の中でも所望の息子・娘を願われ、忍び耐えて来られたお父様であることを思う時、私たちは本当に取るに足らない者たちであるということがわかってきます。しかしながら、その御旨の前に申し訳ない心情で、お父様の恨みを解いて捧げる為に出て来ました。 それゆえに、昨日も今日も闘いの路程を歩まねばならない立場にいる私たちであり、私たちが歩もうとする路程がひたすらお父様の栄光だけを思った路程であることをお父様は御存じであると信じていますので、この時間訪ねて下さい。天のみを中心として行うように導いて下さい。 信ずることのできないこの地上でお父様だけを信じ、頼るところのない地上でお父様の命令に頼ってこの場まで来ました。お父様、今日の 摂理を明日の摂理を心配していますので、今日の感謝の心が永遠なる感謝として、今日お父様を求める声が永遠なる声になるよう導いて下さい。万物と共に栄光の歌を歌える時まで守って下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、時は遠くないのに天から催促されているあなたの息子・娘たち、時が忙しくて催促しておられるあなたの心情も歯がゆく思われますが、暗黒と不信の世に立てられて新しいことを開拓しなければならない新しい時代のあなたの息子・娘も可哀想です。 お父様、この時間は安心して下さい。天の念慮が極めて大きいということがわかり、その念慮を私たちが代わりに背負って、残された復帰の御旨のため、あらん限りの力を尽くして闘おうとしますので、お父様、民族の悲しみと教団の悲しみが私たちによって慰められるようになることを願っております。 お父様、喜ぶことのできる一筋の生命の光に向かっていくことができるように、所々に散らばっているあなたの息子・娘たちを早く一つに集められて、勝利の祭壇と栄光の祭壇を、そして義の祭壇を築くように許諾して下さい。民族を通して、この世の人類を通してお父様のその一つの願いを成すことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 ここにいる子女たちの中で、まだサタンから讒訴される条件を持っていたり、怨恨の心情を抱いている者がいるでしょうか。お父様、どうかその様な子女がいないように許諾して下さい。いるとすれば、この時間能力の役事として、力の役事として彼らの心に悔い改めることができる感動の恩賜、復活の恩賜を許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 残された時間も委ねますので、悲しみを除かれ栄光として私たちを主管して下さい。あなたが主張することができ、誇ることができる喜びの恩賜だけが私たちの全身に満たされるように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。すべてのことを委ねましたので、引き受けて下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <祈祷Ⅲ> お父様、命じられた御言によって、万民の前には乗り越えるべき峠が残されていることがわかります。今日私たちは、お父様の完全性の前で私たちの不完全性を除くため闘わなければならない立場におり、不変の真理の原則基準を越えなければならない運命が残っております。 今は宇宙の前に私たち自身を立てなければならない時です。完全なるお父様の性相に似て被造万物を主管しなければならない歴史的な運命が私たち一人一人に残されていることを思う時、今日の私は永遠なるお父様の嘆きを代身すべき私であり、永遠なるお父様の愛を証し、お父様の御言を暗い世の中に伝えて復帰の使命を担当しなければならない私であることがわかってきます。 ところが、今日まで信じてきた私たちの信仰生活はお父様に申し訳ない生活でしたので、この時間自ら悔い改めると同時に、自ら覚醒できるように許諾して下さい。 私たちが持っているすべての観念と主張と主義を、尊いお父様の御旨の前に出しておき、自分という実存を全くなくして、永遠な実存体である本性の自分を回復して完全なるお父様の品性に似るように導いて下さい。お父様の栄光に浸られる自分を回復しなければならない闘いの路程が残っておりますので、今日この闘いの路程から退く者たちにならないよう許諾して下さい。 毎日の生活を通して、そして生涯を通して、お父様の楽しみの栄光になることができ、お父様が取るに相応しい息子・娘たちになるよう許諾して下さい。 今は復帰の時期を反映する時であり、イエス様当時のように歴史的な審判の基準を越えなければならない時であります。ユダヤ教の前に新しい御旨を提示しつつ、ヨルダン川での証しの役事や洗礼をあげた洗礼ヨハネの役事が世界的に行われている時であることを思う時、洗礼ヨハネの使命が後孫である私たちの使命として残されたということをわかります。 今の私たちは、天倫の安息の基地を各自が備えて、洗礼ヨハネの証しによってイエス・キリストが罪とサタンの審判のない中でお父様の前に栄光を帰すべきであったその一つの善の園、みんなが手に手をつないで、一つになって歌うことができる一つの安息の園を建設し なければならないと思います。 この様な責任のため私たちを呼んで下さって、選ばれた者になったので、その御旨の前に悲しみと恨みを残す息子・娘にならないよう許諾して下さい。 洗礼ヨハネの失敗によって、解けられない恨みが歴史の中であるということを知っている私たちが天から呼ばれ、選ばれたので、今日の私たちがお父様の前に立って、宇宙の全体的な摂理の御旨を成し遂げることのできる摂理の土台を造成できるよう導いて下さい。そうして、完全な基地に立って残された使命を全うすることができるよう許諾して下さい。 今日の私たちが、尊いお父様の性相の前で自由の心と体で敬拝を捧げる資格者になっていないとするならば、まだ復帰の恨みを持っている自分であることがわかるように導いて下さい。すべてをお父様の前に出しておいて、喜んであなたを「お父様」と呼ぶようになる時、お父様! 愛の御手で私たちを取って下さって、お父様の栄光の子女であるという名分をもらうことができるよう導いて下さい。そうして、喜びの園で栄光を歌うことができ、宇宙に対してホサンナの勝利の栄光を歌うことができるように、来られる主の前に栄光を帰すことができる息子・娘になるよう許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 歴史の恨みを解くため来られたイエス・キリストを、この与えられた日に思い出すことができるよう許諾して下さい。イエス・キリストの行かれた道がイエスだけの道ではなく、最後の日に私たちが行くべき路程であったということがわかる時、私たちの心が重くなり、体が屈服させられるのを感じておりますので、貴重な御旨の前で自ら身悶えしてでもこの御旨を成す為のお父様の忠臣になるよう許諾して下さい。お父様に対する誠心を備えた忠臣たちになるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 すべてを委ねますので、伝える者の心と受ける者の心が一つになるよう導いて下さい。この時間も疑う者の心を通してサタンが 役事することを恐れていますので、まずその疑いをなくすよう許諾して下さい。 自分もわからないうちにサタンの力が作用して、主の命ずる御言通りにならないで自ら暗闇の中へ引かれていく者がいるならば、哀れみの恵みとして悔い改めることができるよう許諾して下さい。 そうして、お父様の愛の中で、永遠な生命の理想を持つように導いて下さい。この時間、御言とともにお父様の生命の役事、愛の役事、権能の役事が現れるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <御言> 「世の罪を担って行かれた神様の子羊を見なさい」という題目でお話致します。 神様の摂理の目的と人間の使命 堕落があってから、イエス様が来られるまでの4千年の歴史は、善の歴史ではなく罪悪の歴史でした。多くの先知者たちがこの地上に来て、4千年間摂理の御旨に従って罪と闘ったけれども、残された罪をすべて精算することはできませんでした。それゆえ、罪と闘いながら失敗し、また失敗して4千年まで摂理は延長されて来たわけです。 神様の摂理の目的は、この罪を完全に精算することです。したがって、この罪が完全に精算される日までは、闘いの歴史、復帰の歴史は終りません。ゆえに、神様は愛する子女たちを摂理の人物として送るしかないわけです。 それゆえ、神様は御旨を成すために、堕落したアダム家庭の代わりにノア家庭を立てました。ところがノア家庭も失敗したゆえ、アブラハムとイサク、ヤコブを立てて、そして民族に代わったモ-セを立てました。その後、サウル王、ダビデ王、ソロモン王を経て、4大預言者と12小預言者を経ながら洗礼ヨハネまで来ました。 今、天の前に人間として成すべき使命が残っていますが、その使命とは何か? 人間の堕落によって罪の根を持って来ましたから、人間は罪の根であるサタンを屈伏させて、神様の前に善と栄光を帰すことです。このような人間たちを捜して立てるため、神様は4千年間役事してこられました。 イエス・キリストの苦難の原因 洗礼ヨハネの不信 では、洗礼ヨハネがこの地上に来て成すべきだった使命は何であったか? イエスを証しし侍ることでした。 イエス・キリストは堕落しなかった完成したアダムの立場に立てられたので、生まれながら天の前に栄光を帰すことのできる方でした。さらに、御自身によって神様から喜ばれる方でした。神様は、全人類とサタンの前に誇るためイエス・キリストを送ったわけです。 それゆえ、イエス・キリストは、最初から苦難の道を歩んではいけない方でした。生まれる時から、人間に代わって神様に喜びを帰す栄光の仲保者になるべき方であり、愛の仲保者、善の仲保者になるべき方でした。ところが、この様なイエス・キリストを地上の人間たちが捧げてあげなかったのです。 罪とは何の関係も因縁もなく、ただ善と喜びだけの生活であるはずだったのに、洗礼ヨハネがイエス様の前に責任を果たさなかったゆえ、サタンがイエス様を侵犯したということを、皆さんは原理を通して良く知っています。 では、最後の日におかれている私たちにはどんな使命が残っているのか? 洗礼ヨハネの使命を完遂すべき使命が残っているのです。すなわち、4千年歴史を代身して来られたイエス様の前に、勝利した栄光の息子・娘としてイエス様と共に喜ぶことのできる善なる人になるべきです。これが私たちの使命であるということを皆さんは忘れてはいけないのです。 神様の悲しみは、イエス様をサタンがあっちこっち引きずりながら試験した ことです。そして、イエス様以降2千年間サタンと闘うようになったのは、その当時のユダヤ教徒たちの不信と、新しい使命を持ってきた洗礼ヨハネの誤ちの為であったということを皆さんは知っているでしょう。 サタンを屈服させて罪を精算すべき人間 世紀末的な時期が再び目前に来ているこの時、皆さんは罪と闘わなければなりません。4千年間神様と闘ってきたサタンに対抗して闘わなければならなかった洗礼ヨハネの立場に皆さんはおかれているわけです。6千年を代身して、洗礼ヨハネを代身して闘ってサタンを屈伏させなければなりません。そうして、皆さん自身にはサタンの跡がないようにすべきです。その様な責任が皆さんに残っているのです。その責任を果たす皆さんにならないと、来られる再臨主は皆さんに会えないわけです。 もともと、神様の創造理想の園はサタンの跡のない園でした。それゆえ、神様の創造理想をこの地上に成すためには、私たちがサタンを屈伏させて、堕落しない完成したアダム級へ上がるべきです。神様の栄光を代身し、サタンの前に誇ることのできる姿にならないと、イエス様のサタンに対する恨みを解いてあげることができないのです。 人間の堕落のゆえに、サタンが人間を蹂躙し、地上を支配しているが、これを戻らせる為には蕩減の原則によらなければなりません。人間がサタンから蹂躙されたがゆえに、イエス様が、聖霊が、神様が協助してくれなくても人間自らの力でサタンを屈伏させることができないといけません。人間は、サタンが提示する罪の条件を克服しなければならないということです。そうしてこそ勝利の息子・娘になるわけです。 宇宙的なサタンと、一人で闘って勝利できる息子・娘にならないと、皆さんはイエス様とは何の関係もなくなります。 この様な道は、私たちには行かざるを得ない運命の道です。 生きているうちに行けないと、死んででも行くべき運命の道です。 イエス様も、生きて成すべき御旨が成されなかったので、死んででもその御旨を成す為、2千年歴史が経た今日までも御自身の実体を代身できる栄光の息子・娘を待ち望んでおられます。 これを思う時、6千年の歴史は栄光の歴史ではなかったということがわかります。神様の前の栄光の歴史ではなかったということです。そして、イエスと聖霊がサタンと闘っている限り、イエスと聖霊の御旨に従う息子・娘がサタンから主管されている限り、神様の創造本然の理念がこの地上で成されたとは言えないということを皆さんはわからなければなりません。 それゆえ、地上の恨みは神様の恨みとして残され、地上の恨みを解く為の新しい歴史は、神様、イエス様、聖霊、今日の信徒たちの十字架として残されるようになったわけです。 今まで私たちは、聖霊、イエス様、神様から守られ命じられながら生きてきました。しかし、これからの私たちは、“聖霊を慰めることのできる私、イエス様を慰めることのできる私、神様を慰めることのできる私”にならなければなりません。 聖霊の御旨とイエス様の御旨、そして神様の御旨はある個人に対する御旨ではありません。この御旨は、個人から世界、天上までもつながっている御旨です。この様な御旨に代わって、宇宙的な天の心情を慰めることができる宇宙的な息子・娘は誰なのか? 天はこの様な息子・娘を捜すため摂理してきたということを皆さんはわからなければなりません。 私たちは、この様に歴史の中の罪悪を精算するため、今日も明日も闘わなければなりません。生命を捧げてでも、越えるべき罪悪の峠に向かって、新しい覚悟で出て行くべきです。 イエス様が、ユダヤ教の律法主義者や数多くのユダヤ人から反対されながらも、その中心は変わることなく、天を証しされ、新しい洗礼を下さったように、今日の私たちもそうしなければなりません。今の私たちは、最後の段階に立って教派を超越すべきです。また、教派を超越すると同時に、世界人類の 全思想を超越して、一人ででもサタンに対して闘うことができる自体にならなければなりません。 そうして、皆さんが全サタンとの闘いから勝利できれば、天の栄光と喜びが皆さんと共にあるでしょう。 洗礼ヨハネの使命を代身すべき私たち 今日この時間にも皆さんの前には罪悪の垣が遮られているが、その垣はいかなる罪の垣なのか? 4千年間神様を愛した先知先烈を死なせた罪、イエス・キリストを十字架にかけた罪、その罪の垣です。それゆえ、皆さん一代でその罪が精算できなければ、皆さんは罪のない天国とは関係がなくなります。その罪悪の垣を壊すことができないと天国に入れません。これを皆さんはわかるべきです。 今日の皆さんが、神様の御旨に従って宇宙的な洗礼ヨハネの立場に代わって立っているとするならば、宇宙的な罪が観察できなければなりません。そうして、神様、イエス様、聖霊の今までの苦労と恨みを皆さんが慰めてあげるべきです。安息の日をつくる一人の姿が皆さんの中から現れないと、地上に主が再び来られても何の意味もないのです。 私たちはこの終末に、洗礼ヨハネを代身して罪と闘わなければなりません。6千年歴史に代わって、宇宙的な洗礼ヨハネの使命を代身しなければならないということです。さらに、それに加えて、イエス様の闘いの路程も体験しなければなりません。 イエス様が行かれてから、残されたものは十字架の道理です。洗礼の道理を通して、十字架の死の道理を経て永遠な勝利の基準を立てようとしたが、霊的にしか立てませんでした。 今日の私たちには、霊肉を合わせて、洗礼ヨハネ的な、宇宙的な、天倫的な使命を代身すべき使命があります。皆さんは、この地上に来られたイエス様が人間から栄光とされなかった恨みの心情を体恤して、その恨み を解いてあげるべきです。この様な使命が人間にあるので、イエスと聖霊は2千年間人間に対して役事なさいました。ところが、今日の信徒たちはこのような事実を知らないのです。イエスと聖霊を、ただ人間の為の僕として思い、信じてきました。 それではサタンは誰なのか? 天使長です。エデンの園で万物を支配すべき人間が、その支配権を天使長にとられ、行うことができなくなったことが堕落です。それゆえに、私たちは復帰の路程においてサタンまで支配する立場を経なければなりません。 では、その様な道を歩もうとする時、私たちはどうすべきであるか? 洗礼ヨハネが証した生涯、イエス・キリストの生涯を見習って歩めるようになるべきです。 罪悪の垣を壊す為イエスが歩まれた道 イエス様はこの罪悪の垣を壊す為どんな道を歩まれたか……。終末の皆さんは、自分の生涯路程において、イエス様が歩まれた道を再び越えていかなければなりません。 イエス様はサタンと闘う時、宇宙的な罪を取り除く為、その罪を攻撃する立場に立ちませんでした。イエス様は罪を除くため罪に対して攻撃する立場に立たなかったということです。罪を除くため、罪を屈伏させるため、その罪を引き受ける立場に立ちました。これがイエス・キリストの精神です。 罪は悪なるものです。創造の本性として持っている心があるのに、これに反する作用をするのが罪です。イエス様がこの罪を精算するため引き受けました。それだけではなく、イエス様が罪を引き受けたということは、個人から家庭、社会、国家、世界、人類、天上にいる霊人たちの罪までも引き受けたということです。創世以降4千年、歴史上の数多い霊人たちの罪まで引き受けたイエス・キリストだったのです。 はなはなだしくは、地獄にいる霊人たちの罪まで引き受けなければなりませんでした。なぜなら、 イエス様は完成したアダムの立場で来られたからです。アダムの堕落によって、その恨みが天上にまで及ぶようになったので、イエス様は、堕落によって発せられたすべてを引き下ろして埋蔵しなければならなかったわけです。 それゆえ、イエス様が新しい路程を開拓していくその生活は、サタン世界の生活とは反対でした。サタン世界の要素と本質には希望がないということをわかって、それに反して温柔と謙虚の道理を教えました。したがって、キリスト教の真理は、世の中を離脱する真理でした。キリスト教の真理は世に対して反発するものになっているということです。 イエス様は、前から来る罪を後ろ向きに立って引き受けなければならなかった事情があったゆえ、苦難の生涯を送ったわけです。イエス様は、宇宙的なすべての罪を担って、勝利するその時間まで十字架の苦難を受けたかわいそうな方だったのです。今日もあの国におられますが、休むことができません。地上のある一人が、そのすべての罪を担ってくれることを願っておられるのです。 あらゆる侮蔑と苦難を経験されたイエス 人間の罪のため来られたイエス・キリストの一生を思う時、地上に来られて亡くなられるまでの約30年間、人間が経験するすべての苦難を経られたことがわかります。哀れな人の罪を担うため哀れな立場になってみたり、飢える人の罪を担うため、寂しい人の罪を担うためその立場になってみたわけです。 そうして、イエス様は個人の罪を担うことのできる立場に立った後、家庭的な罪を担おうとしました。それで、家庭的な罪を担うため家庭の前に現れましたが、その家庭がイエス様に反対しました。愛する父母が反対し兄弟たちまで反対したわけです。 さらに、イエス様はユダヤ教団からも排斥されました。これは、家庭的な罪を担うと同時に、教団的な罪も担わなければならなかったからです。また、ピラトとヘロデ王までイエス様を排斥しました。彼らは、イエス様の御旨が自分 たちの所望と違うからだといって、イエス様を十字架へ追い出しました。しかしながらイエス様は、亡くなられる日までその様な怨讐たちを恨まないで、かえって彼らのため祈って下さったわけです。この様なイエス様の姿を今日の皆さんは忘れてはいけません。 イエス様は馬屋で生まれました。イエス様は最後のところから出発して、最高のところである神様の子の立場まで行きました。イエス様はこの地上の人間のため、神様を信じている人たちのため来られたのです。 ところで、イエス様の友になった人は誰だったのか。ゲッセマネの園で祈る時、愛する3人の弟子までが打とうとしました。十字架に向かって行く時、一つの心にならねばならない立場だったのに、3人の弟子はその様な事情とは関係のない立場をとったわけです。 イエス様は、宇宙のすべての罪を担うべき使命を持った御自身であることを悟って、誰から打たれても感謝し、避難されても感謝しました。 皆さんは、イエス様が罪を精算するため、その罪を取り除いてしまわないで、サタンと関係のあるすべての宇宙的な罪を御自身が引き受けようとしたことをわからなければなりません。 ところが、今まで罪が完全に精算されなかったので、イエス・キリストはその罪を精算する役事をなさっておられるのです。 迫害されたり、捨てられても不変の信仰を保って この様なイエス様を主として待っている皆さんであるならば、皆さん自身が侍っている主の前で、“私はどの位まで罪を担ったか”、“どの位罪を担おうとしたか”ということを考えてみるべきです。そして、イエス様が生きた環境と同じ環境において見ることができなければなりません。 皆さんが、個人の罪と家庭の罪を担うべき世紀末的な運命におかれているとするなら、いつかは個人的に迫害される時が来るはずです。 さらに、家庭的にも迫害される時が来ます。イエス様が、個人的に、家庭的に、教団的に反対されたように、終末におかれている今日のクリスチャンたちも、そのように反対されると思います。それだけではなく、社会的に反対され、国家的に、世界的に反対される一つの宗教が現れます。 そして、人間の罪を精算するためのイエス・キリストの闘いがまだ完全に終らなかったので、イエス・キリストに代わって地上で宇宙的なすべての罪悪を引き受ける為、個人から家庭、社会、国家、世界、さらには霊界の霊人たちからも避難される信仰者が現れます。それだけではなく、彼は聖父、聖子、聖霊からも避難されるはずです。この様な一つの峠に向かって歴史は動いているのです。これを皆さんはわかるべきです。 旧約を信じてきた人たちが、イエス様の前では怨讐になったように、今日のクリスチャンたちが新しい神様の摂理の前で怨讐の立場になりやすいということです。 イエス様が十字架の上で、“わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか(マタイ27:46)”と言われましたが、これは最後の判決があるその場で、神様がイエス様を知らないと否認したからでした。 これと同じに、今日の皆さんが今までのすべての罪悪歴史に対して責任を持って、自分を捧げようとする時、神様は皆さんを否認すると思います。それでも皆さんは、イエス様が十字架の上でも変わらなかったように、変わらない信仰を持たなければなりません。皆さんが一つだけである体を、御旨の為に捧げたと思うなら、もう皆さんは死んだ者であると思うべきです。この様な革命的な信仰を提示するのがクリスチャンの使命です。 今日皆さんを反対する人がいますか? 皆さんは彼らに感謝しなければなりません。また皆さんを反対する家庭や教団がありますか? その家庭と教団に感謝しなければなりません。国家と世界が反対しても感謝すべきで あるということです。霊界と肉界が反対し、天が皆さんを否認しても、永遠不変の心情を持たなければなりません。変らないという信仰を持つべきです。 アダムとエバを堕落させたサタンが反対し、イエス様と聖霊、神様までが否認しても、それでも変わらない信仰を持つ者が現れなければなりません。これが最後に残った使命であるが、今日の24億人類、イエス様を信じているクリスチャンたちがこれをはっきり知らないということです。それで、そのような信仰を持った個人になったとしても終りではありません。その様な家庭と社会と国家と世界を造らなければなりません。皆さんがこの様な信仰を持った聖徒にならないと、皆さんは神様の御旨とは何の関係もなくなります。イエス様が皆さんの前に新郎として訪ねて来られるその道が遮られるのです。 愛で迫害を消化し勝利しなさい イエス様の愛は神様の愛を代身したものです。そして神様の愛は、宇宙のいかなる存在物が反対しても負けられない愛です。皆さんは、この神様の愛を受けなければなりません。そうなるためには、皆さんにこの世のすべての罪を担わせても、サタンが皆さんを動かせても、それらに対して勝利できる息子・娘にならないといけません。そうできなければ、この宇宙の力の中心、実存の中心として役事なさる神様の愛とは関係がなくなります。 それゆえ、イエス・キリストが地上の人間たちによって悔しい立場になりましたが、かえって彼らのため涙を流したことと同じに、終末にそうできる聖徒が、信ずる聖徒の中でたくさん出なければなりません。その様な聖徒たちが多くなると、教団の分離ということはなくなります。そして、殉教されなくても、良心の作用、真理の作用、天理の力の作用が大きいので、天地がその様な聖徒たちに従って動かざるをえなくなるわけです。 この様な立場に立って、初めて勝利の旗を立てることができ、勝利の家庭、勝利の祭壇、勝利の世界を建設することができ、勝利を天まで連結することができます。その様な責任が皆さんにあるということを忘れてはいけません。 今日皆さんを中心として起こっている闘い、皆さん個人を中心として行われているすべてのことは、皆さん個人に限られたことではありません。ゆえに皆さんは気を付けなければなりません。万一皆さん個人が間違えると、それが全体に影響を及ぼします。 皆さんは神様の御旨を妨害する者になってはいけません。全体の為に犠牲となる道を行くべきです。 そして善なる人がいると、彼を捧げなければなりません。悪なる人がいても、その人以上に心配し、はがゆく思うようにならないとだめです。その様な個人になって、その様な家庭と社会と世界を作るため、十字架の苦難まで担っていくべきです。イエス・キリストの心情を代身し、神様の御旨を成すため忍耐し勝利する者にならなければなりません。 (終)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.27
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イエス様は宇宙的な革命の主人公1956年11月11日(日),本部教会 祈祷 愛するお父様、お父様が生命の園をお眺めになるのが創造の目的であって、お父様の栄光を讃える真理の園が理想的な園であって、永遠不変の愛を中心としてあなたの御前で全体が和動して、お父様の内的性相や外的形状を現しながら、それに酔って生きるべき所が本然の園であったことを知るものでございます。 愛するお父様、今日私たちが願う希望の園を、この時間感じることができるように許諾して下さい。本然の園を体恤して心から欽慕すると同時に体を動かして敬拝できるように許諾して下さり、心からお父様の御旨を高めると同時に、体が供え物として捧げられるよう許諾して下さい。 お父様が私たちを捜すためなさったすべての苦労は、もう私たちに任せてお父様は栄光を受けられるよう切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まったあなたの子女たち、一人の生命もお捨てにならないで、まず彼らの心がお父様の永遠な生命につながれ燃えるように許諾して下さい。そうして、お父様の愛の心と一つになるよう許諾して下さい。お父様の生命に私たちの体と心が一つになり、全体が一つになって供え物として捧げられるこの時間になるように許諾して下さい。そうして、お父様が喜んで受け取って下さる、不足のない供え物になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、私たちを守って下さい。分別の歴史に対して責任を持って下さい。サタンが侵入する時間にならないよう許諾して下さい。ひたすらお父様の御旨に従い、命じられる御旨を中心として和答(和酬)できるよう許諾して下さり、心と体で従順できるこの時間になるよう許諾して下さい。 そうして、自分のすべての足りなさと正しくない要素をお父様の前で率直に告白し、悔い改めることができると同時に、お父様から愛されるこの時間になるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日は聖なる日、福を下さると約束なさった日ですので、この民族の代身として集まる数多くの祭壇を祝福して下さい。お父様の御旨を代身して寂しい祭壇で闘っている子女たちも多いので、彼らにも同じ恩賜を与えて下さい。 予告されたり、見せて下さったり、証拠されたりしたことが、最後の日に彼らによって現れるよう許諾して下さい。この民族が暗闇の中に取られているので、これを悟らせられるお父様の直接的な役事を現して下さり、お父様が動かされる各教会を通して、あなたの娘・息子たちを通してこの時間現れるようなさって下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 約束された最後の日が近づき、許諾される恩賜の時が来ましたけれど、私たちはまだ不完全で未熟ですので、私たちを導いて下さい。支えて差し上げるべきお父様の御旨を、支えることのできない者たちにならないよう許諾して下さい。 不備な自分たちを嘆息しつつ、お父様の前にひれ伏すことのできる者たちになるようになさって下さい。そうして、真なるお父様の御旨を支える忠節の子女たちがこの民族を代身した様々な教団の中に多くなるよう許諾して下さい。 そうして、三分五裂された教団を一つに結ぶことができるよう許諾して下さり、お父様の全体的な恩賜を代身することができるよう導いて下さい。この民族に、天の隠された御旨を現して下さり、24億人類の前に、お父様から喜ばれる ことができ、その御旨を誇ることができる祝福の日が早く臨まれるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日集まってきた多くの子女たちを哀れんで下さい。彼らはお父様から呼ばれて来た者たちであり、お父様によって寂しこへと追い出されて集った子女たちですので、前後、左右、上下から主管して下さい。 今からは心と体にただお父様が願っておられることだけが存在するように許諾して下さり、サタンの痕跡がないように、罪悪の根が残されていないようにして下さい。 聖別に聖別を加えて完全無欠の善を中心として、その心と体がお父様の本性の前で高ぶらない謙遜な群れとして、温柔な姿としてひれ伏すことのできるこの時間になるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、各地で御言を持って闘っている子女たちがお父様の御前にひれ伏していることを知っておりますが、彼らを守って下さり、この時間等しい恩賜を与えて下さい。 お父様、この民族の為に私たちを立てて勧告して下さり、私たちと共に御協力しましたので、私たちが生きておられるお父様の息子・娘であることを誇ることができるよう許諾して下さり、生命の中心に立っている息子・娘であることが証しできるよう許諾して下さい。 お父様、あなたの御手につかまれたことを証しされ、この民族を悟らせて、サタンからこの民族を救い出すことができるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 そうして、民族的な恩賜を許諾しようとされるお父様の全体の御旨での前で、この民族が恥がないように私たちを立てて、お父様の御前へと出ていくように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 最初から最後まで、お父様と聖霊が喜ばれる御旨に私たちの心と体が動ずるよう許諾して下さり、この全体の集まりを栄光の供え物として受け取って下さることを、切にお願い申し上げます。 初めから終りまですべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 祈祷Ⅱ お父様! シオンの一つの中心を探して立てようと数多くの先祖たちが血を流しつつ、お父様に御心配をかけ負債を負っていることを蕩減するため今まで闘ってきました。 お父様、この時間私たちの心と体にシオンの栄光が臨むように許諾して下さり、永遠にお父様が望まれることのできるシオンの喜びが私たちの心に満ちあふれるようにして下さい。 私たちがお父様から主管される栄光の息子・娘になるとすれば、私たちにはそれ以上の願いも所望もないということを知っているものでございます。 しかしながら、永遠なるお父様の愛の御手につかまれないと、この地上に私たちのような寂しくかわいそうな者たちが、惨めな者たちがないと思います。 お父様、闘いと迫害に疲れ、酷しい環境に苦しめられてきたあなたの息子・娘たちを、この時間生命と愛で守って下さり、導いて下さい。 この時間、傷ついた体と心をしてお父様の前に出ましたので、お父様、可哀そうに思って下さり、この時間だけでも闘いからできた私たちの傷が治療できるように、お父様の心に隠されている愛を味わうことができるように許諾して下さい。そうして、天の心に似て、天の栄光を中心として全体が歌うことができ、天の御旨の為に全体が頭を下げることができる時間になるよう許諾して下さい。私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、寂しい私たちをあっちこっちから追い詰められる道へ追い出したのもお父様であり,惨めな所で人知らず天に向かって訴えるようにしたのもお父様でありましたので、この時間彼らが慰められるよう許諾して下さい。今日この場にひれ伏したあなたの息子・娘たちが歩んできた苦労の路程には、未だに血の滲んだ足跡が残っており、悲しみの涙が彼らの祈祷と共にしています。お父様、彼らを哀れんで下さい。 今日からの所望と恨み、そして感じられるお父様の愛を持って、明日からの闘い の峠が越えられるようにして下さり、生涯路程を歩むことにおいて多くの怨讐たちの呪いを乗り越えることができるよう許諾して下さい。そうして平和の心だけが私たちの心の中心になるよう許諾して下さい。勝利に向った切なる心情だけが私たちの生命の中心になって、この民族の代身として闘いの旗を持って出るのに不足のないように許諾して下さい。 天から許諾された勝利の御言を盾として出て行くのに不足のないように、今日も明日も古い悲しみを持っている者たちにならないように導いて下さい。お父様の永遠なる愛につながれて、讒訴してくるサタンに勝つことのできる息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 寂しいこの壇上をお導きになるお父様、あなたの後をついていく息子・娘たちも寂しく哀れな立場に立っています。今日もお父様が、彼らの生命と善と所望のすべてになられて彼らを慰めて下さい。導いて下さり、愛して下さい。 今は終末になって、人の言葉が要らなく、人を通した御言や人を中心とした御旨が必要でない時であることを知っております。ただ永遠な生命の脈を通して動いて出るお父様の愛の御言だけが必要であることを私たちは知っております。ですから、今日集まったあなたの息子・娘たちが愛を体恤することのできない不安定な立場におかれていたとしても、お父様、役事して下さい。火花のような目で観察して下さり、私たちの心に隠された喜悦の核心が現れるようにして下さい。あらゆる恐れにとられた私たち、お父様の前に出て悔い改める子女たちになるよう許諾して下さい。 お父様の御手につかまれて、お父様の恩賜に感謝することをわかる者がいるならば、いつまでもその様な心を保つことができるよう許諾して下さい。尊きお父様の前で、愛の息子・娘であると認められる者たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い致します。 今日もこの民族のため集まる多くの祭壇を祝福して下さい。御旨がわからなくて、悲しみながら天に訴える聖徒たちの声が天に染み通っていると知っております。彼らの恨みを解いて下さり、彼らの心を受け 取って下さって、彼らが終末にお父様が願われる御旨に従い、成し遂げることができるよう導いて下さい。 また、御旨の為に人の知らない寂しこを開拓しながら、暗闇と闘っている隠れた兄弟がこの民族の中に多くいますので、この民族の前にその暗闇が去っていく時が早く来るようにして下さい。 生命の動きも一つでありまして、恩賜の動きも、栄光の顕現も一つでありましたので、お父様、彼らを通して証しなさり、散らばった祭壇を間垣としてお父様の御旨を中心に追い立てて一日でも早くこの民族が一つになれる喜びの祭壇をなして下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日も寂しい息子・娘たちが各地方で御言を持って闘っていますので、あそこにも共にして下さい。彼らは、6千年歴史の最後の怨讐たちと闘って勝利しなければならないという精神で勝利の祭壇を建てて、お父様と息子・娘が一緒に楽しめるその時のため、お父様の命令に従って闘っております。お父様、彼らが留まる所々ごとにお父様の直接的な役事を現して下さい。その様な環境を通して全体にまで及ぶことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この時間、ひたすらお父様の喜びの恩賜を与えて下さり、私たちを受け入れて下さることを切にお願いしつつ、すべてを愛する主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <御言> 今日は“イエス様は宇宙的な革命の主人公”という題目を持ってしばらくお話します。 人間が新しさの実体として完成されることを願われた神様 新しいものが創造される過程を見ると、それは一つの革命的な過程であると見られます。6日の間に造られたすべてのもの、すなわち、虫類から人間に至るまでのすべての被造物を見ると、神様はより新しく良い存在を創造され、最後に人間まで創造されたのです。人間を創造されることによって、神様はより高い御自身の内的な性相と外的な形状を完結され、それが神様が永遠に誇ることのできる新しくて変わらない実体を備えてくれることを願われたのが創造主の理想であったことを皆さんは良く知っていると思います。 このように人間は、神様が楽しめる永遠な新しさの実体として、万物万象に代わって、いかなる被造物と比較してみても、“なるほど、これは実に美しくていいな”と言える一つの姿として造ったのです。このように造られたのが、万物を主管できるアダムとエバであったということを皆さんは知っています。 神様の本然の善と内的な栄光を、実際の生活を通して楽しむべきアダムとエバでした。ところがアダムとエバは堕落したことによってその意を知らなかったのです。神様が創造されたすべてのものに代わって新しさの栄光を現すことのできない立場に止まるようになったのが、堕落した人間です。しかしながら、人間が堕落したとしても神様の御旨は不変の御旨として、必ず完結できなければ、神様は創造主としての威信を守ることができないし、権限を現すことができません。ゆえに、これを再び立てていくことが復帰の歴史であり救援の歴史であるということを皆さんは原理を通して良く知っているところです。 では、天がこの様な立場から宇宙の万物万象を見る時、天上と地上からも見られないし、被造物の中でも見られない一つの尊き存在、神様の奥に隠されている全体の性相を新しく現すことのできるより次元の高い新しさの実体が主人公として現れて、神様の御旨が成就させられる日はいつであろうか? この様な感激的で衝撃的な一日を迎えるため、今日まで神様はこの一つの目的を立てておいて復帰摂理を経てこられながら絶えず役事しておられるのです。 創世以後神様は、すべての被造物の中でこの被造物を全部あげても変えられないし、今までなかった喜びを味わせる新しい宇宙的な存在を探すことのできるその一日を待ちに待っておられるのです。 神様は、神様御自身と人間と万物が共に楽しみ、喜びつつ和動で きる創造理想世界をもう全部設計され、理想的な生活面までももう構想しておきました。そうして、内的な象徴としてなされた天と、外的な象徴としてなされた地が、共に楽しむことができる一つの主人公を中心として楽しむようになる時、天と地が共に喜ぶことができるのです。この様な一つの基準を探すため天が苦労しておられるということも皆さんは良く知っているでしょう。 では、お父様が要求される御旨は何か。 天上天上のすべてのものを壊してしまっても手放せないただ一つの御旨があるとすれば、それは完成人間です。人間が完成されるまでは、原理的な創造の法度を経て真理の実体にならなければいけないのに、堕落によって非原理的な実体になりました。ですから、人間は人間の形態を備えているが、その内的な性禀と外的な形が神様の永遠な実体に代わった分身体として現れることができなかったのです。 その様なゆえんで、堕落した人間は人間の形は備えているが、創造理想の形を失ってしまいました。神様はこの人間に創造理想の形を再び注入させておられます。新しい一つの実証体を探すため苦労される天の役事を皆さんも良く知っているでしょう。 神様の創造理想を成すため来られたイエス では、この一つの中心になる本体、所望の存在として来られた方がどなたかというと、イエス・キリストでした。イエス・キリストを送るまで、神様は4千年間苦労されました。 創世以後、初めて和動できる一つの新しい存在として、万物万象の前に見せてあげられる存在としてイエス様を送られましたが、人間はイエス様を神様の所願の存在であることを知らないで、反対する堕落の歴史を再び行いました。 失った善の基準を探すため苦労された神様は、4千年の歴史を経て来られながら、サタンの讒訴圏にいる人たちを呼び集めて民族的な基盤を造って来られました。ですから、この民族的な基盤は神様と万物を代身し、天上天下のすべての存在を代身することのできる一つの主人公として立てられたイエス様のための基盤にならねばならなかったにもかかわらず、イエス様と民族は別々に行ってしまったのです。ここから私たちの使命と神様の使命が決定されました。 神様を中心として宇宙を新しい世界に再び造るため、全体の代わりの存在として送られたイエス様でした。しかし、ユダヤ人たちの不信によって、全体の主人公になった使命を持つイエス様はイエス様通りに、民は民通りになくなってしまい、これによって神様の悲しさはさらに大きくなったということを皆さんは知らなければなりません。 イエス様自身がその当時ユダヤ人に対して言われた御言と彼が現したすべてのことは自分一身の御旨ではありませんでした。誰の御旨だったかというと、天の御旨だったのです。イエス様は神様の摂理の御旨を代身したのです。しかしながら、イエス様を通して神様の御旨を知らねばならない堕落圏内の民とイエス様の間に相衝的な論争が行われました。 堕落したこの世に神様の御言が現れる時、その御言が民族の前に現れると民族を革命する御言になり、個人に現れると個人を、世界の中に現れると世界を、また天地を新しく革命することができる御言として現れるということをその時のユダヤ人は知りませんでした。 イスラエルの民は4千年間ずっとモ-セを通して下さった律法とヤコブに言われた約束が自分たちの理想を成してくれることができ、全体を代身することができると知っていました。しかし神様は、一番下級から漸進的に引きあげる役事をなさいました。蘇生的な旧約歴史を経てきた後は、長成的な新約時代を経て完成級まで進んで行く天地創造の原則的な順路を再び経て行く歴史をなさっているということを知らないイスラエル民族でした。ゆえに、イエス様の御言はその時代の人たちが受け入れることのできない命の御言でした。旧約の律法よりもっと高い新しい御言であり、従来のものよりさらに高い価値と因縁を結ぶ為の御言であったということを当時の民たちは知りませんでした。 イエス様が願われたことが何であったかというと、神様の全体的な創造理想を成して差し上げることです。それゆえに、天地に代わって宇宙的な使命を完遂しようと絶えず革命的な過程を経て探してこられたのです。ゆえに、イエス様がこの地上に現れた宇宙的な御旨の道を歩むようになる時は、堕落人間を本然の位置に引き上げる過程であって、その過程には限りない闘いと革命的な過程があったということを、今日終末に処している皆さんは知らなければなりません。 イエス様の所望とユダヤ民族の不信 では、この革命的なイエス・キリストの所望はどの程度の所望であるか? 今日皆さんが住んでいるこの地上で持つような所望ではありません。世界を越え、無限な神の国までつながれる所望です。 この所望はイエスの所望であると同時に、一つになった神様の所望でもあります。それゆえに神様は、イエスに所望をかけて神様の御旨をイエスを通して現そうとなさったということを人間たちは知らなければなりません。 では、イエス様がユダヤ民族の前に現れて言われた御言と、神様の全体的な御旨を代表した実証体として現れたそのお姿はどうだったのか? 今まで歴史上になかった新しい真理の主人公として現れました。数多くの人たちが真理を叫んだが、それは個人次元の真理に過ぎなかったのです。彼らはそれを、民族と民族そしてすべての国家を代身することができる真理であると主張したかも知れませんが、実際その様な真理になれませんでした。それで、天と地を再び照らしてあげられる真理を持って現れた方がイエス・キリストでした。ゆえに、イエス・キリストが言われたその御言はその時代、その世界において最高の価値あるものであり、新しく革命的なものでした。 革命的なこの真理の御言を、神様の御旨を待ち焦がれていたユダヤ民族が知った ならば、それまでの自分たちの生活を捨ててこの真理を持つことを願ったはずです。 この様な立場に立つべきユダヤ民族が、成し遂げるべき一日をだめにしてしまったので、私たちがこれを乗り越えなければならないのです。こびり付いているものを解いてあげなければならない使命が私たちにあります。イエス・キリストの真理を受け入れないことによって犠牲が行われるのです。 神様は一つの民族を立てておいて、その民族の中で一つの中心を立ててその中心によって、宇宙的な真理の御言で神様の内的な心情を現そうとされました。しかしながら、イスラエル民族はこの様な事実を知らなかったのです。 イエス様は約30年間に渡って永遠なる真理の御言を現すべきだったのに、彼らの不信によってイエス様は捨てられたのです。そうだったので、世界人類は御言の実体を取り戻せるその瞬間まで、イエス・キリストが神様の御旨と心情に代わってこの地上に伝播しようとされた宇宙的な新しい真理を していかねばならないのです。 今日の聖徒たちはイエス・キリストの所望を成して差し上げるべきです。 イエス様から証された御言は、イエス様当時に民族的な御言として、さらには世界的な御言として現れるべきだったのです。ところが、世界的な御言として現れなかったのでキリスト教は苦難の宗教になりました。 もしも、イエス・キリストが言われた御言がその当時この地上を救うことのできる中心の御言として現れたならば、神様の権能を現すことができたはずです。一人の個人であるイエスに従う個人があり、民族があり、世界があったならば、神様の御旨を担ったイエス様はこの地上でその御旨を成就させたはずです。ところが、イエスの前にはその様な個人と民族と世界がありませんでした。 そして、イエス様の御言を中心としてイエス様を代身すべき愛する弟子たち、愛する家庭、愛する教団、愛する国家がイエス様と一つになって神様の心情を体恤し、神様の御旨を受け入れるべきだったのです。しかしながら、自分たちの教団的次元で自分たちが知っている真理を持ってイエス様を見る立場であったので、イエス様の御言は御言通りに、彼らは彼ら通りに別れるよう になったのです。 では、イエス様が終末の聖徒である皆さんに要求されることは何か。恥しい私たちに宇宙的な存在になることを望まれ、宇宙的な真理を宣布されました。 イエス様はこの地上に個人として来られましたが、彼は平凡な個人ではなく天下万象の被造物を代身した方でした。被造世界の創造原理的な全体の真理に代わった方だったのです。 イエス様が私たちに要求されること この様な価値的な存在として来られましたが、価値の主人公、宇宙の主人公になれなかったのです。それゆえに、皆さんがこの様な宇宙的な価値の目的を達成しなければなりません。それで、私たちがイエス様を信ずるようになると、私たち自身はイエス様の心霊を通して個人的に真理と会えます。この様に皆さんが神霊役事を経る時、無限な恵みが与えられると、それをただ個人的な恵みとして受け入れたらだめです。それは時間が過ぎて環境的な恵み、教団的な恵みを経て世界的な恵みと広げていかなければなりません。そうしてこそ私たちは再び帰って来ることができるわけです。 私たちに恵みが与えられると個人的な考えで自分だけの恵みであると思ってはいけないのです。皆さんが個人的な立場で恵みを受け、個人的な立場でイエス・キリストを通して真理を得たならば、それを良く理解して自分のものにすると同時に、この真理を責任を持って世界まで伝播させて行くようにならねばなりません。このように世界と共に進んで行くと、それは自分の恵みになると同時に、天と地上の恵みになるのです。しかしながら、もし皆さんの信仰観念が皆さん一人を救おうとすることであれば、皆さんは個人的な救援観念に止まってそこで終わってしまいます。 皆さんの心に溢れる恩賜が個人的なものにのみ止まっているならば、昔ユダヤ民族がイエス・キリストを十字架につけた誤ちを再び犯すようになります。 自分の得たところの真理が自分一人の命を救う為の宗教に止まっているとしたら、イエス・キリストの所望を成すことができないのです。個人を通して、家庭、社会、世界を通して天の摂理に及べる所望の中心を持って言われるイエス・キリストの御言が、皆さんの個人的な恩賜を通して復活と衆生の役事をなすようにするわけです。個人的で民族的、国家的、世界的な救援を、皆さんを通してなさねばならないのです。 皆さんは、個人的な救援と民族的、世界的、宇宙的な救援が残っているということをはっきり知らねばなりません。 皆さんがお父様の前に感謝する時も、個人的な感謝だけではなく家庭的、社会的、国家的、世界的な次元で感謝できるようにならねばなりません。さらに、皆さんが悔い改めるとしたら、個人的な悔い改めから家庭的な悔い改め、国家的な悔い改め、世界的な悔い改め、天と地をおいて悔い改める皆さんにならねばなりません。 今は個人的な救援観念を越え、家庭的、社会、国家、世界的な救援観念を越えなければならない時です。そうなってこそ皆さんによって世界的な蕩減が始まるのです。 ユダヤ民族が民族的な救いの観念を持って世界的な救いの観念まで持ったならば、イエス様はこのユダヤ民族を通して世界人類を救って下さったはずです。 イエス様の御言は宇宙的な革命の御言 歴史過程を経て実られたイエス・キリストの福音の御言は真理の御言です。それは先祖たちが経てきた全歴史と生活を超越して皆さんを救われる御言でした。このように、イエスの御言こそ宇宙的な革命の御言であったことを皆さんは悟らなければなりません。 イエス・キリストがこの地上に来られて、あの時まで信じてきたすべての律法主の前に反旗をあげました。“私によってすべての律法は完成されるべきだ”と宣布なさったわけです。このような、イエス様の宇宙的な信仰観が入っている御言、宇宙的な価値の御言の意をイスラエル民族が知らなかったのでイエス様を殺したわけです。 その御言は当時には宇宙的な御言でした。愛の面においてもイエス様は宇宙的な革命の御言を話しました。 イエス様は“誰よりも私を愛せない者は私に似合わない。また、誰よりも私を愛せないと私の弟子になれない”と言われました。これを見ると、神様が創造理想として願われた宇宙的な一つの完成体をなす時まで真理を求めていくのには宇宙的な路程を経なければならないということがわかります。 人間と人間同志の関係、そして人間と神様との関係を結ぶにおいて重要なことは宇宙的な愛です。ところで、人間が宇宙的な愛で神様と関係を結ぶことができなかったので天使長と愛の関係を結ぶようになったのです。それで人間は、神様との理想的な愛を中心として愛の門を貫いていく力を失ってしまいました。再びこの愛の門を貫く為には力が必要です。 イエス様が、“私を誰よりももっと愛しなさい”と言われた目的が何であるかというと、イエス様御自身が愛される為ではありません。人間たちがその御言を信じてイエスを愛すれば、イエスがサタン圏内につかまれている力よりももっと強い力でつかんで下さることによって、人間たちを神様と本然の愛をかわすところまで引き上げる為でした。そうするため、“私を誰よりももっと愛しなさい”と言われたのです。この御言は預言的な革命の御言でした。 このようにイエス様は真理の革命を起こし、さらに十字架の死によって天的な愛の革命を起こしたわけです。これは個人と個人の愛はもちろんで、家庭的、社会的、国家的、世界的な真理を代身した愛でした。宇宙を代身した愛の革命でした。 ところが、今日の世の愛は自己中心の愛です。あるいは国家中心の愛です。今までは自分の国を愛するとか自分の家庭を愛するぐらいでした。国家以上、国家圏を越えることのできる愛はありませんでした。 ところが、神様とイエス様の所望はある民族、ある国ではありません。神様を中心として天上と地上が一つになれる理想的な世界を造ることです。それゆえに、イエス様が提示された愛はこの世的な愛、 自己中心の民族や国家的な次元の愛ではなく世界を越えて天と地までつながれる愛なのです。 真理の革命、愛の革命 では、イエス様が福音の御言を通して立てた真の道は何だったのか。今日皆さんはどの程度の愛をしていますか? イエス・キリストは個人の前に立たなかったのです。家庭や国家の前にも立ちませんでした。こうしたら、宇宙的な愛の主人公であり新郎であるイエス様は家庭的な迫害と国家的な迫害を受けました。 天地の森羅万象、今まで神様の愛を感じられなかったすべての被造物がイエスを起源にして初めて愛の因縁を結ぶようになっていました。この様な因縁が結ばれるようにやってあげる責任がイエス様にあったわけです。 では、イエス様が開拓して立てた愛はどんな愛であるか。この世的な愛とは全く反対の愛です。人間の愛はせいぜいして国のための愛であるが、イエス・キリストの愛は宇宙的な愛です。すなわち、個人を越え、民族、国家、世界を越えて天までも届く愛であるわけです。 では、神様の愛はどんな愛であるか。両面を備えた愛です。自分だけ愛することではなく怨讐までも愛することです。したがって、私たちは神様を愛すると同時に怨讐まで愛せる個体にならねばなりません。 イエス・キリストの愛はどんな愛であるかというと、サタンまでも愛する愛です。サタンまでも愛することが神様の愛であることをわかったので、イエス・キリストは、“怨讐までも愛しなさい(マタイ5:44)”と言われたのです。ですから、私たちはこの様な宇宙的な愛の基準をこの地上に立てなければなりません。私たちが死ぬ時までも完遂できなければ、私たちの子孫を通してでもこの基準を立てるべきであるという心を持たねばなりません。 そして、皆さんは感謝する生活をすべきです。キリストの恩 賜と愛によって私が生きており、天の恩賜と愛によって私が生きていると思って、キリストと天の前に感謝する生活をしなければなりません。私が救われたことも感謝であるが、イエス・キリストの宇宙的な使命を代身することも感謝なことであり、イエス・キリストの愛を完遂するために生きることも感謝なことです。 家庭や家族を代身し、民族を抱いて十字架で亡くなりながらも、怨讐を許し愛したイエスのその宇宙的な愛を皆さんはわからなければなりません。 悲しみに勝ち、愛の心情で怨讐を眺めたイエス様であったのです。 イエス・キリストは十字架で亡くなりながら、“すべてが終わった(ヨハネ19:30)”と言われました。ところが、そう言われる時までは御自身の悲しみと悔しさも全部忘れて天の御旨の為に苦労なさったことを皆さんは知らねばなりません。自分一身を通して宇宙的な生命を取り戻すことができるので、イエス様は自分の痛みも悔しさも忘れてあらゆる苦難に耐えることができたのです。したがって、イエス・キリストの生涯は自分だけが生きようとする生涯ではなく、民族と国はもちろんであり、神様の国を成す為の生涯だったのです。 覚醒すべき終末の聖徒たち 今日皆さんはイエス・キリストの生命を探す為の運動をしており、民主主義世界ではイエス・キリストの名を復活させる為の運動をしています。大きな恩賜を受けて大きな責任を持っている民族も、そうじゃない民族も同様です。この地上にはイエス・キリストの福音が残っており、地上になかった新しい宇宙的な真理と愛と命が残っています。その様な宇宙的な真理と宇宙的な愛と宇宙的な命は皆さんのものになれるというわけです。 この地上の人類を救うため苦労された方として、イエス様よりかわいそうな人はいません。イエス様の御言は世界に代わった御言でした。地上に播かれているべき真理の言葉であり、地上に受け入れて いるべき天の言葉でした。そして、地上に植えられているべき宇宙的な生命の言葉であったのに、地上から受け入れられないで来られたイエス様は否定されました。イエス様の御言を当時の人たちが信じなかったのでイエス様一人残されるようになったわけです。 6千年間苦労してこられた神様の力になれる生命の主人公、真理の主人公がこの地上に来られるならば、地上のすべての良心的な人たちは彼に従うはずです。地上に真理の道を求めていく人たちがいるならば、生命の道を求めていく人がいるならば、きっと彼と共にいくでしょう。このようなことが天が望む基準であるにもかかわらず、今日の人間たちは個人的な愛の基準、個人主義を持って生きています。昔のユダヤ教徒たちのこの様な心を持って生きたので、イエス・キリストを十字架にかけたのです。この様なことがイエス以後にも続かれているという事実を良く知らねばなりません。 今私たちには、天地を代身することのできる新しい御言と新しい生命、新しい愛が必要です。ところが、理念的な御言だけではなく実体化できる御言が必要です。 ですから、終末である今日、皆さんは覚醒しなければなりません。皆さんは新しい真理と生命と愛を持って、民族を救い世界を救って、天地の6千年の恨みを解かねばならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.26
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神様の永遠なる理想をとり戻して捧げよう1956年10月7日(日)前本部教会 祈祷 愛するお父様、天上の恨みとして残っている戦いの歴史を締めくくる人がいないのがあなたの嘆息であることをわかりました。人間たちによって植えられた堕落の根本の根を、人間たちが除いてしまうべきなのに、長い歴史が経たにもかかわらず、未だにその罪の根を持っていますので、お父様、それを除くことができるよう許諾して下さい。 この時間集まった者たち皆が、お父様の心情に徹して一つになるよう許諾して下さることを、切にお願い申し上げます。 お父様の切ない心に似るように許諾して下さり、お父様が所望されるところを我々が新しく持つように許諾して下さい。残された恨みの歴史を負って億万怨讐サタンと戦うことのできる、天と地を代表して現れる勇者になるように許諾して下さい。 残された戦場で、永遠なお父様の愛の心情をお互いに交すことのできる喜びの園が造られるまで、各自お父様の御旨を責任を持って出られるよう許諾して下さい。一人一人がお父様のすべての御旨の代わりとして、サタンと戦うことのできるお父様の勇猛な息子・娘になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 我々の心が天のいかなる標的に向かっており、我々の体は宇宙のいかなる標的に向かっているかを、この時間悟ることができるように、お父様の恨みを解くことのできる喜びの子女たちになるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 我々の体と心は未だにお父様の懐に抱かれていません。お父様、勧告して下さり、能力で役事して下さって我々の心の方向を正しく示して下さい。我々が天性に向かうように心の方向を正しく示して下さり、お父様が願われる所望の道を我々が行けるように許諾して下さい。 お父様の喜びの恩寵を我々が体恤するよう許諾して下さり、我々を中心として再創造の歴史を起こして下さい。そうして、罪悪の根と戦って勝つことによって、お父様の愛を体恤し、お父様の前に栄光を返すことのできる子女たちになるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、この時間集まった子女たち、億万サタンの讒訴を受けることがないように、お父様の祭壇に栄光の祭物として捧げられるように許諾して下さい。 お父様の前にひれ伏した我々、お父様の尊き性相に向かって自分の不足さをわかり、自ら告げることができるように許諾して下さい。温柔謙遜な祭物として、お父様の贖罪と恩賜の前に屈伏する子女たちになり、お父様を訪ねた蕩子のような姿で現われるよう許諾して下さい。 すでに来た群れが嘆息の涙を流さないように、サタンから嘲られる道を歩まないように許諾して下さい。心と体がお父様の前に捕えられたことになるよう、この時間だけでも共にいて下さい。そうして、永遠な生命の恩賜、復活の恩賜、愛の恩賜に出会って、お父様から喜ばれる一つの理想的な祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日は尊き日、万民の前に恵みを与えるための約束の日でした。24億人類の代わりとして集まった聖殿ごとに喜びの恩賜を共にするよう許諾して下さい。今、最後の日を迎えましたので、聖霊の炎を水を注ぐように注いで下さい。そうして、あなたが選んだ子女たちが一つになって、この暗い世の中と対決して戦えるよう役事して下さり、6千年の恨みの心情に代わってすべての悪を打ち破るあなたの子女になるよう許諾して下さい。 まず、3千万民族に代わった3千あまりの祭壇を祝福して下さい。そして3千あまりの祭壇に代わって、お父様にあらん限りの精誠と心と忠節を尽くして生きようとするあなたの子女たちが、永遠なるお父様の祭物になるよう許諾して下さい。 今は残された戦場でお父様に負債を負う者たちにならないように、永遠な勝利の恩賜を受けることができるように許諾して下さい。お父様の祝福されるその心情を地上に現すことのできる理想の園が建設できるまで、百折不屈の勇士の心情をもってお父様の御旨を立てていけるように許諾して下さい。 この夜、この場に共にいることのできなかった多くの子女たちがいますので、どこにいてもお父様が一様に役事して下さい。そして、最後の日に成就されたいあなたの御旨を全世界に宣布して、天と地が和動できる喜びの祭壇を設けるよう許諾して下さい。 あらん限りの心と精力を尽くして、ひたすらお父様の御旨を成就するあなたの子女になるよう許諾して下さることを、切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名によってお祈りいたしました。アーメン。 <御言> この時間は「神様の永遠なる理想をとり戻して捧げよう」という題目でしばらく話します。 神様の創造理想 暗やみのこの地上で神様自らが創造歴史を始められながら立てた一つの標準は、御自身の内的心情に残された理想的な形状を永遠な一つの実体に立てることでした。そうしてこの一つの実体を立てておいて、その永遠な喜びを感じながら、二つでない一つの相対的な理想を備えて 生きようと創造歴史を始められたということを皆さんはよく知っています。 神様は、創造の苦労を経て造った被造物の中で、人間一つをすべての理想の中心として立てられました。ところが、その一つの人間が、神様が本来要求された希望とは反対の立場に立つようになってしまったので、それ以後今まで、長い歴史が流れましたが、神様が願われた理想とは関係がない人間たちになってしまいました。 その一つの理想を成すため、人間を再び探して出る歴史路程が摂理の路程であり、救援の路程であり、開拓の路程でした。 神様の内的心情として所望された一つの理想は、すべての被造万物にまで及ばれる理想であったが、人間一人が誤ったことによってその理想は、被造物の中で探してみるすべがなくなりました。 それゆえに、神様が今まで開拓の歴史と救援の歴史を通して摂理の御旨を成そうとされる一つの中心なる御旨は何なのか。人を立てて神様の内的心情で望んだ理想を実現して、神様御自身が楽しむのは勿論であり、その楽しさの理想を人間の永遠な理想として、栄光の条件として返されるのを願われるのです。このために神様は役事されます。 ゆえに、今我々は天上におられる神様が我々一人一人を呼んでおられるということを知らねばなりません。天上におられる神様は、皆さん自体が御自身の理想を実現させる一つの中心体になることを願われて今まで苦労しておられるのです。 ところが、神様が願われるその理想は、我々が不完全な圏内にある限り、我々が神様の御意と人間の意、そしてサタンの意を分別できない限りは実現されないのです。 左右上下どちらから見ても、いかにしても成就すべきことは神様の理想です。それで、左にいる群れも、右にいる群れも、また地上のすべての存在、天上の千々万聖徒までもその一つの理想を慕っているということを、皆さんは原理を通してよく知っています。 「この暗やみの世の中に、神様の新しい光明の理想が現れるべきその日は いつなのか、そのひと時はどんな時であろうか、その時期はどんな時期であろうか」と言いつつ、数多い聖賢賢哲たちは自分もわからずに、その未知の道を今日まで開拓しています。 ゆえに、今日皆さんは神様の光明の理想の心情を通過した後、彼らに対して「あなたが心から描いた所望がこれで、あなたが指向した理想がこれです」と言える、不変の永遠な理想の要素を持つ必要があります。そうして、皆さんの心を通して、体を通して、環境を通して実現される一つの喜びの基地を成すべきです。そのような喜びの基地を皆さんが造ることができなければ、神様の理想は被造世界では成就できないのです。 神様の理想実現と人間の責任 それでは、ここにおいて一番重要な問題はどこにあるのか? それは、造られた万物にあるのでもなく、霊界にあるのでもないのです。また、天上の天使にあるのでもなく、全体の中心であり、一つの標準であり、一つの核心であり、万物の主人公である皆さん自体にあるのです。したがって、皆さん自体が神様の理想を左右する中心であり、標準であることを皆さんは知らねばなりません。 死亡に押えられているこの天地に、その一つの標準点、その一つの中心点が現れる一日の喜びが、今日歴史路程を歩んでいく我々の所望であり、数多くの悪霊たちと戦っている神様の摂理の御旨であることを我々は忘れてはいけません。 ゆえに、私が神様の理想を慕う心を持つためには、まず神様の内的心情と同感同化できる自我を立てなければなりません。そうして、自然が法則通りに動くのと同様に、我々自身の心が天心を中心として動かねばなりません。そして、これを天の宇宙的な終末点まで繋ぐことができる心の中心を立てない限り、神様の永遠な理想は被造世界と永遠な関係を結ぶことができないということを知らねばなりません。 それでは、今我々自身の心と体を察してみると、我々の心と天の間に立ち塞がっている垣がありますか。私の心と体の間に立ち塞がっている垣がありますか。私の体と万物の間に立ち塞がっている垣がありますか。そのような垣がある限り、永遠なる神様の理想は皆さんとすでに関係を切っているのです。 今我々は心の門を開けて、体のあらゆる罪悪を取り除いて、和動できる一つの基準を立てなければなりません。そうして、天上の性品を感じざるを得なくなり、行わざるを得なくなる自然的な恩賜を受けて、神様に会い、その理想を成していくべきです。 ところが、堕落した人間はその一つの基準と遠い所に処している故、その基準まで引き上げるための苦労の歴史が必要になりますが、それが、即ち復帰歴史なのです。その御旨を成すための摂理歴史が、今日まで先志先烈たちを送って成してきた歴史であることを、我々は決して忘れてはいけないのです。 皆さんはひたすらに進んでいかねばなりません。そうするためには、まず万物の象徴として造られた体の価値、天品に代わって、体の中心として造られた心の価値を所有しなければなりません。そうして、すべての被造万物の中心としておられる神様の内的心性、すべての中心の心からにじみ出る神様の内的心性が、我々の心と体を経て、生活舞台を経て万物万象まで一つの動きとして現れなければなりません。このようなすべてのことを、自分自身の中で成しておかねばなりません。 神様と人間の関係とサタンの活動目標 神様は、堕落によって神様の主管圏から離れた人間を、本然の位置に引き上げるため6千年間を経てきましたが、その歴史がどうでしたか? 神様は創造原理によって、象徴的な実体対象として万物を創造し、形象的な実体対象として人間を創造しました。それゆえに、そのような一つの実存体が、我々の心の理想的な標準になっている限り、我々は神様と離れようとしても離れることのできない、二つでない一つの連関性を持つようになるのです。 人間が持っている神様との連関性を遮り、連結の道を中断させておいて役事する存在が誰かというと、皆さんの怨讐であるサタンです。皆さんが彼と戦って自然屈伏させなければならないサタンなのです。ところが今日も明日も,神様の理想の園が造られない限り、神様が願われる所望の理想が私の体と心を通して天宙宇宙間に成されない限り、そのサタンは除かれないのです。 しかし、神様は我々の心と体に対しての理想があり、万物に対しての理想があります。ところで、サタンはこれに反対して戦っています。ゆえに、そのサタンを世界的に責任をもって屈伏させることのできる所望の一日が現れなければなりません。 その一つのサタンによってできた条件がある故、それを除く前は神様の理想は我々と関係がないのです。それで、神様が御自身の理想を成すためサタンと対立して勝利できる一つの主人を立てましたが、その方がイエス・キリストです。 ところが、今日万物から体へ、体から心へ、心から天上へと連がる間が塞がっています。この要求する心と体、要求する相対の塞がった間を開けて連絡させて下さる役事をして来られた方がイエスと聖霊です。 それでは、イエスがこの地上に来られた不変な目的は何であったか。それは、どうにかしてでも神様の理想を成すことでした。まず、人間の心を復帰し、体を復帰し、その次には、万物世界まで復帰することでした。イエスはこのような全体的な理念と理想をもって来られましたが、信ずるように選んだイスラエル民族が信じなかったが故、神様の心の性相に代わった心的な理想だけを立てて行かれたのです。それゆえに、今日我々はその心的な理想、即ち霊的な理想を立てられる時までの、イエスの生涯と歴史を知らねばなりません。 イエスは、神様が願われるその理想を実現するため心的な勝利の道、即ちサタンに対して勝利できる道を我々に見せて下さいました。それゆえに、我々がイエスに頼って理想を探していくことは、ある時間圏内の理想でなく、神様の永遠な理想を探していくことなのです。 イエスの人格、イエスの持って来られた所望、イエスの信じた理念、イエスが持っていた生命と愛、このすべてのことを成すための使命であり、さらにそれは、一時的な使命ではなく、永遠に代わった使命でした。そのような使命を全うするため戦われたイエスであったということを皆さんは知らねばなりません。 それでは今、神様の理想を訪ねてその理想を成そうとする我々は、今日何を持つべきなのか。神様の永遠な要素を持つべきです。なぜなら、時と場所は変わっても、神様の永遠なる実体は変わらないからです。 したがって、神様が持った理想も永遠な理想であることを皆さんが知らねばなりません。ゆえに、今日人間たちが探していくべき最後に残された理想は、神様が願われる永遠な理想です。皆さんは、神様が願われるその永遠な理想を自分のものにする日まで、今日も明日も戦うべきであり、生涯をかけて戦わなければならないのです。 イエス様が立てた信仰と所望と愛と生命 イエスはこの地上に来られて、神様の永遠なる理想を探していくにおいて、信じないイスラエル民族に代わって永遠な信仰を立てるため戦った方です。歴史路程の数多い人たちが神様を信じてきました。ところが、彼らが信ずるその所望と信仰の限界は、自分個人に留まることでした。しかし、イエス様一人だけは、信仰と所望を自分自身だけのこととして立てなかったのです。彼は、それが神様の永遠なる理 想として立てられている限り、その理想の要素を備えることのできる信仰、即ち永遠な信仰を立てるため一生を捧げました。 イエスが30年生涯を通して願われた一つの中心は何であったか。その時までの4千年の歴史過程において、数多い先志先烈たちが信仰の基準を立てましたが、彼らの信仰は民族的な限界を、世界的な限界を越えることができなかったのです。それでイエスは、そのような基準を越えて神様の永遠なる理想を成すこと、永遠な信仰を立てることが彼の一生の中心でした。 それゆえに、イエスの信仰は自分一身の救いを目的にしたのではありません。自己救援が目的でもないし、この地上だけを救援することが目的でもないのです。歴史の起源からその過程と未来のある終点まで、すべてを摂理して来られる神様の心情をわかって、そのすべてを復帰されようとなさいました。 またイエスは、神様の永遠なる理想を探して立てるため、まず歴史上に過去にも未来にもない永遠な基準、永遠に変わらない一つの基準を立てるためサタンと戦いました。そのようなイエスでしたので、永遠な理想を探しておられる神様の前に、永遠な信仰の条件を立てることができたということを皆さんは知らねばなりません。 それゆえに、皆さんがイエスをつかもうとすれば、まず一人のイエスには歴史的な全人類の御旨が介在されているのを知る必要があります。彼は4千年歴史過程の数多い信仰者たち、さらにその当時の全人類の信仰を統合できる唯一の方でした。それだけではなく、千秋万代の未来歴史の代わりとして全人類の信仰を統合できる一つの基準、永遠不変の一つの中心を持って来られた方でした。 それゆえに、我々はイエスの信仰を見習うべきです。そして、個人、社会、国家、世界、天宙を越えて、永遠なる神様の所望の基準、永遠不変の確個たる一つの信仰の土台を立てるため、この地上で30年生涯を送ったイエスであったことを知らねばなりません。我々がイエスを信じながらも、過去にも未来にもない永遠な信仰の基準を立てた、そのようなイエスに似るように努力しなければなりません。 その次には、イエスの所望を相続しなければなりません。イエスの所望は彼一身の所望ではありませんでした。数多くの先祖たちが長い間願ってきた、そのすべての所望を吸い込んだ所望でした。さらに、天上と地上に徹している永遠なる神様の所望に代わった所望を持ったのです。そうしてイエスは、歴史以来だれも持てなかった神様の永遠な理想を成すことのできる所望の中心を立てたので、我々の所望に代わることができたということを知らねばなりません。 それだけではありません。イエスは天に対する信仰を立てて所望を備え、生命の因縁と愛の因縁を備えました。そうして彼は、自分の所望を永遠の所望として、生命も永遠の生命として立てるため30年生涯の戦いの路程を歩みました。 ところで、イエスが自分の生涯過程において生の価値を感じたのは、すべての被造世界に代わって永遠実存され、生命の中心としておられる神様の永遠な生命の要素を受けつぐようになったからです。イエスは、このような永遠の生命の所有者だった故、いかなるサタンの力も及ぶことができなかったのです。さらに、イエスが立てた愛は、今日人間たちが持っているような、自己中心的な愛ではありませんでした。永遠なる神様の理想を成すためには死ぬこともできる不変の愛でした。それゆえに、その当時、天上におられる神様を愛するイエスの心は万民に代わることができたのです。天上天下に初めて、神様の心的な永遠な理想に代わって、全宇宙人間に代わって変わらない愛の心をイエスは持っておられたということを皆さんは知らねばなりません。 イエス様に対する正しい信仰 イエスがそのような信仰で、所望で、生命で、愛で立てた摂理の御旨を、今日我々は受けついでいます。このように、苦難の路程を経て立てておいた救援の御旨を我々はわからねばなりません。さらに、十字架の盾として自分一身を燃やして、贖罪の基準を立てたその路程を我々は見習わねばなりません。 さらに、今日限界圏内にいる我々は、無限大の神様の信仰から、無限大の神様の所望、無限大の神様の生命、無限大の神様の愛まで慕いつつ、悲しみだったイエスの生涯を考えてみなければなりません。宇宙の主人公であり、万民の救い主であり、地上の主人であるイエスが、所望と信仰、生命、愛のすべてに神様の永遠なる理想を成し遂げる条件を立てるため生涯をかけて戦った事実を皆さんは知らねばなりません。 そして皆さんは、そのようなイエスの心情で万物を見るべきであり、イエスが感じた感情を共に体恤すべきです。さらに、そのような抱負と所望、そのような理想を慕いつつ戦ってこられたイエスであったのを知らねばなりません。ただ漠然と2千年前に来られて去った歴史的な人物として考えてはいけません。今日皆さんの心にあり、皆さんの体の中で同行しているイエスとして感じるべきです。永遠なる神様の理想を成すことのできる生命的な要素を、皆さんは再び認識する必要があります。そうして、皆さんの信仰がイエスの信仰と比べることができ、皆さんの所望と生命と愛も、やはりイエスのそれらと比べることができなければなりません。 神様のすべての理想的な要素に代わったイエスの中心を、皆さんは見習うべきです。イエスが信仰で、所望で、生命で、愛で、それらすべてを立てるため戦ってこられたその中心の心を、今日皆さんが遺業として受けて成すべきです。その御旨を成して捧げる人がなければ、イエスが十字架で亡くなられた故、この地上に来られて果たせなかったその御旨は成就できないのです。イエスが歩みきれなかった路程が残っている故、摂理の御旨は今日我々の一身に留まっています。 それゆえに、我々は体を通してイエスの性相を感じようとし、万物を通してイエスの性相を感じようとすべきなのです。そうして、イエスの性相と我々の性相が一つになって、全宇宙に代わる永遠な神様の理想と一つにならねばなりません。 皆さんは、イエスの十字架の死が何を予告したことかを知らねばなりません。その十字架の峠は永遠な信仰を成就した十字架であり、永遠な神様の所望を体恤させ、勧告した十字架であり、神様の永遠なる生命と愛を我々も持つように勧告した十字架です。そして、十字架によって拘束の歴史を経て残された救援の道理は、イエスの永遠なる信仰と所望と生命と愛を我々に渡せる一つの条件となるということを皆さんは知らねばなりません。 ところが、宇宙の人間全体の代わりとして来られたイエスの信仰が全体に現れなかったので、即ち、全人類に代わって所望したことが世界的に成されなかったので、イエスは十字架で恨みを持って訴えたのです。生命と愛もやはり同じでした。万が一、当時にイエスが願われた信仰、所望、生命、愛が現れたならば、十字架の恨みの訴えはなかったはずです。 十字架を通して備えるべきもの したがって、今我々が十字架を通して備えるべきものは何であるか。イエス・キリストが抱いていた永遠なる信仰、イエス・キリストが持っていた永遠なる所望、イエス・キリストが生きた永遠なる生命、イエス・キリストが慕った永遠なる愛を所有すべきです。今日我々は、十字架の前に立てられた永遠な信仰、永遠な所望、永遠な生命、永遠な愛をただイエスのものにだけ返してはいけないのです。 我々は彼の十字架を担って、彼の永遠な信仰を私の信仰に、彼の永遠な所望を私の所望に、彼の永遠な生命と愛を私の生命と愛に所有すべきです。さらに、イエスが人類のために十字架を担ってまで渡してくれた神様の理想の要素を持たねばなりません。その次には、イエスに永遠な信仰と所望と生命と愛を渡してあげる秀(愛)弟子があったように、我々もそのような人を持つべきなのです。イエスから受け継いだ信仰と所望と生命と愛を、皆さんのために成すことができなかったという条件が残れば、それらが最後の日に皆さんに対して審判の条件として現れるはずです。 最後の日に神様は皆さんに訪ねてこられ、イエス・キリストが残した永遠な信仰の負債を返したかと聞かれるはずです。イエス・キリストが残した所望と生命と愛の負債を返したかと聞かれるはずです。そのような立場に立たれる時、イエス・キリストが十字架で「すべてを成した」と言われたように、皆さんもそのようになるべきなのです。今日我々はイエスの前で、あなたが残してくれた永遠な神様の遺業を私が「すべてを成し遂げました」と言えなければなりません。そのような一人の人間がこの地上に現れない限り、神様の終末的な摂理の御旨は全うされないということを皆さんは知らねばなりません。 4千年歴史路程において、永遠なる神様の理想の中心要素をイエスが立てました。霊的で内的な救援の条件を拡大して世界的な基準にまで引き上げるため、今日までイエスと聖霊が役事してきました。したがって、今日我々が、永遠なる神様の内的な理想の要素を外的に成就できる、永遠な信仰と所望と生命と愛を立てることができなければ、イエスの2千年の摂理の御旨は水泡に帰してしまいます。皆さんはこれを知らねばなりません。 今皆さんは、イエスを見習って神様の心まで感じようとする信仰の路程に入っています。ところで皆さんは、自分自身がどの程度まで信じているかを自ら反省してみる必要があります。もしかしたら皆さんは、自分の観念で立てられた自分の主張圏内で信じているのではありませんか。宇宙全体に代わったイエスの信仰と比べて差があれば、その差は最後の日に審判の条件になるのです。 今日皆さんが持っている所望はどんなことですか。皆さんが観念的に持っているその所望は、自分自身のための所望なのです。皆さんは、イエスの所望を皆さんの所望として証ししなければなりません。そうして、自分自身を越えて、神様の永遠なる理想に代わったイエス・キ リストの所望を持つべきなのです。ところが万が一、皆さんの所望がイエスの所望と差があれば、その分だけ最後の日の審判の条件になるということを知らねばなりません。 生命もやはり同じです。今日我々がイエスを信じて生命を得たならば、その生命は自分一人が生きるためにある生命ではありません。その生命は、この民族を復帰し千々万聖徒たちまで和動させなければならない生命なのです。十字架を前において、サタンの攻撃の前で神様の永遠であることを表したイエスの泰然自若とした心情に代わることのできる生命です。 イエスは、十字架で自分の生命がなくなる立場におかれていながらも、怨讐たちの反撃に対して一切呪わなかったのです。 イエスは彼らがよく知っている、そのような方ではありませんでした。4千年間、神様が人間のために怨讐と戦った、その心情を察しながら神様の永遠なる愛を感じようとされた方です。皆さんがイエスのその無限なる心情を慕うようになる時、それが自分の信仰の基地になるのが感じられるはずです。 それゆえに、イエスは自分が感じた天の愛に対する地上のいかなる非難と苦難も越えることができました。それで、永遠なる神様の理想に代わることができたのです。そのような立場に立ったイエスでしたので、怨讐たちの過ちのため死の道を行かねばならないことも忘れて、人類のために祈ったということを皆さんは知らねばなりません。 十字架の愛 今日皆さんがイエスを信じて、無限なる神様の愛を受け、無限なる生命をもらった自分であるが、その生命がどの圏内に処しているか反省してみる必要があります。 イエスは神様の愛、即ち、天地を造られてそれを抱くため苦労される、永遠で理想的な神様の愛をわかったのです。ゆえに、この地上で自分自身を愛することよりも、自分の家族を、自分の民族を、世界を愛することよりも、神様をもっと愛したの です。 そうしてイエスは、すべての愛の中心になる神様の愛を抱いて、歴史路程にいた数多い先志先烈に代わって、彼らが果たせなかった摂理の御旨を成就しようと、どんな難しいことがあってもそれを忘れて、人類を愛し、神様を愛せる心情を残してくれたことが「十字架の愛」であるということを、皆さんは考えてみるべきです。 最後の日の審判があるとすれば、神様から流れてきてイエスによって現れた神様の愛が皆さんに与えられる時、皆さんはその愛を受けて永遠に所有できる心の土台がなければなりません。万が一、皆さんにそのような心の土台がなければ、皆さんは最後の日の審判の時、神様の前に堂々と出ることができないのです。 ゆえに、今我々の前にはキリストの大きくて高い所望と理想があるということを知らねばなりません。その大きくて高き理想がイエス・キリストによって、初めて地上に現れたのです。 それで今日我々は、イエスを信じ、彼を見習おうとするのです。 イエスは、霊界に行かれても内的な世界に代わってサタンと戦っておられます。永遠なる神様の理想を成就されるため、聖霊とそして天にある千々万天軍天使と共に我々に代わってサタンと戦っておられるのです。 我々に残された信仰、我々に所望した所望、我々に要求した生命、我々に願った愛を、今我々は自分の愛だけで、自分の生命だけで、自分の所望だけで、自分の信仰だけで持ってはいけません。万が一、それを自分のものだけで持っていたとすれば、永遠なる神様の理想は自分とは何の関係もないということを皆さんは知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.24
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神様がわかって下さる栄光に参与しよう1956年7月19日(水)前本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛するお父様! ここに集まったあなたの子女たちを主管して下さい。我々が持った生命が、真に我々が持つべき生命であることをわかる者になるように許諾して下さい。許諾された大いなる恩賜を受けたのに、民族の前にそれを残していくことを知らない者にならないように許諾して下さい。 愛するお父様! 今日寂しこを歩んでいた小数の群れが、この場を訪ねてきてお父様の前にひれ伏しましたので、この者たちがあなたの愛で一つになるよう許諾して下さり、人間を探す為のあなたの愛の御手が、6千年の歴史に代わったこの場で、我々と繋がるように許諾して下さい。そうして、心に心を、体に体を繋いで、我々全部が一つになるように許諾して下さい。 許諾の恩賜が我々だけの恩賜ではなく、全体の恩賜であるので、この恩賜が民族を経て24億の全人類にまで及ぶことのできる恩賜になるよう許諾して下さい。お父様! 我々の生命の中心になり、我々の愛の中心になり、我々の所望の中心になって下さって、あなたの大いなる恩賜の御手をこの時間から我々の頭上に、永遠に共にいて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、多くの人たちがあなたに向かって敬拝していますので、集まる所々ごとにお父様の愛の御手が共にいて下さい。 集まった姿が彼らの集まり全体に代わって、お父様の深い心情の前にひれ伏すように許諾して下さい。 お父様の隠された愛を彼らの前に伝えて下さり、現して下さい。そうして、最後の日の摂理全体の代わりとして、全世界人類の前に現れるのに不足のない群れになるよう許諾して下さい。お父様の権能の恩賜をこの時間許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 今日我々の心情そのままをお父様の祭壇の前に捧げますので、適当でないすべての要素を取り除いて、完全にお父様の貴さを讃えることができ、感謝する心のみで満ちるように許諾して下さい。私のお父様、切にお願い申し上げます。 そうして、集まったあなたの愛する子女の中で、一人だにお父様の前に相応しくない者がないようにして下さい。自分を中心とした罪の跡が残っている息子・娘がいるなら、お父様、炎のような聖霊の役事を現して、罪の跡を持った者たちが自ら悔い改めることのできるこの時間になるよう許諾して下さい。そうして四海民族に代わって、完全なるお父様の前に柔和謙遜な祭物として捧げられる我々に再び造り変えられるように許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日参席できなかった食口たちもいますので、どんな所にいても同じ恩賜の内に役事して下さり、所々で集まって民族に代わって、摂理に代わって叫んでいる寂しい教団を祝福して下さい。お父様、彼らの貴き手を通して烽 のろ 火 し の炎がこの民族の前に現れるよう許諾して下さり、あなたの貴き御旨がお父様を慕う者たちを通して全世界の前に喜ばしい御旨として現れるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間全体を委ねましたので、聖三位神が主管して下さい。切にお願い申し上げながら、主の御名によってお祈り致しました。 祈祷(Ⅱ) 地上に対する審判の行事を早く成して下さい。 今日ここに集まった愛する兄弟たち、お父様だけが守って下さり、お父様だけが主管して下さい。この一時間だけでも、自分を中心とすることが一つもないように許諾して下さい。 私の生命も私のものではなく、私の知識も私のすべての観念も私のものではないということがわかるこの時間になるよう許諾して下さい。ひたすらあなたの前に委ねられた者として、天が動けば私も動き、天が静かであれば私も静かになるよう許諾して下さい。 お父様、傷が残っており、渇望の心に徹している兄弟がいますので、彼らの立場と事情をわかっておられるお父様、彼らの体と心に天から降りる永遠な生命の炎がともされるように許諾して下さい。お父様の前に蘇生の歓喜を返すことのできる時間になるよう許諾して下さい。 世の中のどんな観念が偉大であるかと言っても、天倫には比べられないということがわかるように許諾して下さり、世の中の無知がこの地上に浸透したことを悟らせて、その罪悪の影が全世界と関係を結んでいることがわかるように許諾して下さい。 そうして、自分の不足さを知って、天倫の動きに感動しすべてに対して恐縮な心を持つことのできるこの時間になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まっていますので我々に言い付けて下さい。我々に勧告し願われるところの御言を与えて下さい。復活の権能を現して、塞がっている暗闇の垣を押して出ることのできる力と能力が爆発するように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 心では願っていても、肉身が弱いので、この弱い肉身を打ち破ることのできる力を現して下さり、権能の御手をもって運行され、再創造の恩賜を与えて下さるお父様の前で、真に造り変えられる土になれるように許諾して下さい。栄光の形状で作られる柔和謙遜な者になるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日取るに足らない我々をお父様が呼んで下さったので、あなたの所望を 成して上げられるように許諾して下さい。死んでいくこの民族、塗炭の中にいるこの民族、哀れなこの民族の生きる道を探すため生きた祭壇を現すように許諾して下さい。今日自分一身をお父様の前に立てて一問一答することのできる所に立つように許諾して下さり、私自体、天倫が要求する使命を受けて成すことができるように許諾して下さい。 すべての悪と戦って分別できるように、善悪を分別して善のところに立つように許諾して下さい。善は残され、サタンの悪は清算されることを信じて、正しこへと入ってあなたの栄光の中に捕えられて生きる者になるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 3千万民族を哀れに思って下さい。この民族のため涙を流す神様の息子と娘の涙が、天地に浸透するように許諾して下さり、この民族が悔い改められる天の感動の役事を現して下さい。悔い改めることのできる復活の役事がこの民族全体を通して現れるよう許諾して下さい。そうして、願われる新しい御旨を新しい心で受け入れることのできる民族になるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 ここに集まったあなたの愛する子女たち一人一人を呼んで、個体個体を聖別して下さい。お父様、まず心と体を、そして生活を永遠の理想として干渉して下さい。この時間だけでも全体の御旨の前に、お父様が願われる目的の前にすべてを献げ、お父様だけに取っていただく祭物として敬拝する時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 すべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <祈 祷(Ⅲ)> 愛なるお父様、哀れな民族に対して天の心情を伝えようとしますが、この地上で生きる人間たちはその心情が何かをまだわかっていません。彼らは、天の内的心情が地上とは何の関係もないと思っております。この哀れな人間たちの無知をこの時間許して下さい。 お父様、ここに集まった小数の群れは、天が自分たちを立てて大きな使命を要求しているということを知って、その責任を果たすことのできる 心を持つように許諾して下さい。御旨の前に立てて下さり、この者たちの行動を明白にして下さい。 御旨の前で祭物になるのを願う子女たちが、何人になるでしょうか? 愛するお父様! 言わなくてもお父様の心情を理解できる者が何人になるでしょうか?呼ばなくてもその御意を察して動く者が何人になるでしょうか? お父様! 彼らが天から得ようとするところも大きいが、天が我々に対して期待するところも大きいということを知っております。お父様! この時間からでも小数の食口たちが、お父様の御旨を支える為、不足な者ですが、お父様の祭壇の前に出ていこうと願っていますので、受けとって下さい。足りないところも愛を持って受け止めて下さい。 あなたが愛する我々になってこそ、サタンの讒訴から逃れるということを知っております。お父様! すべてを許して下さり、天の隠した生命のマナをかわすことのできるお父様の恩賜をこの時間許諾して下さい。 ここに集まった群れたちをみる時、力が加えられなければならないということを知るものです。お父様! 溢れる力を加えて下さって彼らが自分の不足さを忘れるように、罪悪の意識をすべて忘れてしまうように許諾して下さり、彼らの前にただ生命だけが現れるこの時間として役事して下さい。 お父様! 今日集まった群れたちが、受ける者の空いた器の心を持って、お父様の前にひれ伏すよう許諾して下さい。生命の水を注がれて空いた器を満たして下さり、本心を起こして下さい。天上に向かってお父様の前に体を上げて、手を上げてすべてを出すことのできるこの時間になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間、彼らの前に立ちましたが、伝える御言が一生一代になければならない、歴史過程になければならないキリストの重大な御言であることがわかるようにして下さい。重い罪の荷を背負った自分たちが、御言の基地の上で復活の能力として勝利の実績を備えるということを知っております。 今日我々も、イエスの前にすべてを委ねて、十字架によって復活の条件を立てたその土台の上で、天から再び造り変えられるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間、すべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日差し上げる御言は、「神様がわかって下さる栄光に参与しよう」です。こういう題目でお話ししてみましょう。 私をわかってくれるということ 天倫の御旨を証拠すべき洗礼ヨハネが、多くの世界の前で彼の使命を果たせなかった故、イエスはサタンと戦わなければならない難しい関門に立たれました。イエスの事情をわかってくれるべきイスラエル民族がイエスの事情をわかってくれないので、サタンがイエスの前におかれた苦難の道を催促する立場に立ちました。天上天下の如何なる存在でもイエスをわかってくれるべきだったにもかかわらず、誰もわかってくれない立場に一人で立って、天上の御旨を知らない民族にイエスはその御旨を伝えようとしました。 自分が内的に知っていることを、無知な民族に伝えなければならない使命を感じたイエスは、自分一身を万民の前に立てておいて、神様のみがわかって下さるという一つの心に頼って、新しい覚悟と、希望と、決心を民族の前に宣布する為に出ていったのです。今日の御言はこのような内容で、重要な御言です。 人の幸せはどこから来るかというと、自分をわかってくれる人を持つ時来るのです。自分の過去を、現実を、さらには自分の未来までわかってくれる友達や同志、または恩師を持っていれば、彼は幸せな者です。そして、人の安息の場はそのような方々の懐を中心として作られるのであり、またそのような方々がおられる環境を通して喜びと幸せを感じることができます。 イエスは、天上におられる神様が歴史を通して、30生涯を通して、永遠な摂理の御旨を通して自分を わかって下さっているということを知りました。 イエス様は、神様が自分をわかって下さったように、人間世界において全人類を歴史や彼らの生活を通してわかってあげなければならなかったし、未来を通してもわかってあげる立場に立たねばならなかったのです。これをわかったイエスは、人間たちに神様を知らせる中心的な存在が自分であるということが感じられれば感じられるほど、どんな形態ででも民族の前に神様を証ししなければなりませんでした。 神様がわかって下さるのを民族に証ししなければならなかったイエス様 まずイエスが証ししたかったことは、自分は神様の御旨の前に4千年間経て来た摂理路程と、切ろうとしても切れない関係の因縁を代表した存在であるということでした。4千年摂理を通して神様がイエスをわかって下さったように、全イスラエル民族を神様に領導せねばならない責任を感じたイエスは、自分の生涯路程で神様がわかって下さることを民族の前に現そうとしたのです。 また彼の30年生涯以後の摂理路程で、全人類が自分の未来の理想と一つにならないといけないということがわかっていたため、イエスは自分をわかってくれる理想世界に至るまで、彼の一身を通して人類の前にそれを知らせてあげねばならない責任を感じました。 過去から現在へと、現在から未来へと成されるべき復帰摂理は、無限なる時期を経てイエスへと至っているが永遠な天上世界と地上世界において未だに残されている。故にこの摂理を天の前に知らせることが、また千々万聖徒の前に知らせることが、イエスだけの使命ではなかったし、歴史的な先祖たちの前に知らせることもイエスだけの使命ではありませんでした。 全体の代わりとして御旨の前に立ったイエスは、神様が自分をわかって下さったのと同じく、神様に代わって民族をわかってあげねばならなかったし、イエスが神様に代わっているように、民族がイエスの代わりにならねばならないことを民族に知らせなければなりませんでした。イエスが神様をわかってあげるように、民族がイエスをわかってくれねばならぬ関係を結ばないと、イエスは一生、「神様をわかっていること」の幸せを感じることができないということです。イエス様は、 天上に向かっては神様と共に喜べるが、地上に対しては人たちがわかってくれないので、喜べない立場に立つしかなかったのを皆さんは知らねばなりません。 イエス様が語った御言は、天のみをわかってくれという御言ではありませんでした。彼が伝えた福音は天のみの為の福音ではなかったのです。彼の御言、苦労、すべての難しい戦いは歴史的な民族の為であって、歴史を導いていく未来の民族の為でした。ところがこのような事実をイエス当時の人たちは知らなかったのです。イエスが神様をわかるように、地上の人たちがイエスをわかってあげたら、イエスの生涯がそれほど悲しくはなかったはずです。 神様とイエス様がお互いにわかって下さった程度 それでは、神様がイエスをわかって下さったというが、どこまでわかってくださったのか。神様はイエスをどういうふうにわかって下さったのか。創造歴史の起源から人類歴史の過程を通して、歴史の因縁を通して、その当時の現実社会全体まで、さらにはイエスの未来の理想までわかって下さったのです。 無知な民族の前に現れたイエスは、天から言い付けられて自分一身を立てて苦労しました。そして、歴史路程で限りなく苦労された神様の哀切の心情に徹して戦いました。さらに、歴史過程で苦労された先祖たちを慰め歴史過程を惨 いた んでいる悲しみを解こうとされたのです。神様はイエスをこのような存在として立てられたのです。 イエスには天の為の心があって、その心を人間の前に伝えたい哀切の心情がありました。このような哀切の心がイエスに残っている限り、イエスに対する神様の心も哀切であるしかないのです。人間が責任を果たさなかった故、神様が悲しみの中に、そして哀れみの中におられるということを我々は知らねばなりません。 それでは、神様はイエスをどの位までおわかりになったのか。アダム家庭を中心とした新郎新婦の理念を通して、子女の栄光を全世界に現すことのできるイエスとして神様は知っておられました。 それでは、イエスは神様をどの位わかっていたのか。自分を歴史に代わった存在としてわかって下さるということを知ると同時に、神様がマリアを中心とした家庭生活から現実生涯路程にまで、新郎新婦の信仰を自分によって地上に現し、善の栄光まで地上に現すのを願っておれらるということをイエスはわかりました。それゆえに、彼の御言は歴史の恨みを解いてくれる御言でした。 イエス様は、マリヤの服従について、神様がわかっておられるということを知りました。マリヤの事情を神様がわかるということも知りました。誰よりも低いところから出発の基地を作らねばならない新郎新婦の信仰を神様が願っておられるということを知っていたのです。さらに、万民の中で善の期待を願われる事実も知っていました。このように、イエスが神様を知っているのを人間たちがわかってあげてこそ、イエスが持った愛の御旨と人間たちが関係を結ぶことができたのに、当時の人間たちはそれを知らなかったのです。 ゆえにイエスは、神様とは論議することができたが、人間とはできなくなってしまったのです。イエスの怨恨の心情と地上での救いの摂理を知らせてあげる人がなかったので、イエスの悲しみが天地を失った悲しみよりももっと大きかったということを皆さんは知らねばなりません。 愛は三代を経て完成 愛は一代で完成できなければ三代を経ていきます。最初は天倫の愛を経て、父母の愛を経て、夫婦の愛を経ていきます。我々はこのように、堕落と人間たちが繰り返す過ちのため復帰摂理を歩んでいるのです。 それゆえに、一生の中で成人になるまでは父母の愛を受ける時期です。その時期が過ぎた後、自分を中心とした愛の時期が新郎新婦の時期です。その次は、子女に対する愛の時期が来るのです。 それでは、神様が6千年歴史を摂理して来られる上で、イエスが来るまではどのような愛の時期であったか。イエスを立てて、神様自らが父母として愛を与える時期でした。その後、イエスが父母の愛圏から離れ て自分の家庭生活を設けることが新郎新婦の時期です。 では、来たるべき時期はいかなる時期なのか。新郎新婦の理念を地上で終結する時期です。そうして地上でイエスが、内的な神様の御旨を中心として家庭的な基台を展開しなければならないのです。そうなる為にはまず、霊的新郎新婦の生活を地上に展開すべきです。霊的な天の家庭生活を地上に展開して、地上で歴史を代表した家庭型を造らなければならないということです。 イエス以後2千年の歴史を経た今日は、天上と地上が一緒になって、内的な型と外的な型が結び付けられて一つの実体を成すことによって、彼と関係を結ぶべきです。皆さん自体を中心として新しい父母の子女にならねばなりません。父母の時期には新しい子女を育てることができなければなりません。そうして、その新しい子女によって、新しい新郎新婦の理念を地上に立てるべきです。このような理想の歴史路程が残っているのです。 イエス様が来られた目的 それでは、イエスが来られた目的は何か。それは内的な家庭型と外的な新郎新婦の理念と子女の生活を総決算することでした。外的な基盤だけではなく、内外が繋がって相対的な基準を終結することによって、天倫の運勢は内的なことから一つの基準を立て、歴史的な家庭形態の復帰路程を経ていけるのです。誰かを通してでも、現実と歴史的な事実だけではなく決定的な事実として、皆さんは神様がイエスを立てる時までの家庭的な生活型を立てなければいけません。 イエスが新約を中心として2千年間摂理した路程の新郎新婦の実証的な内容を皆さん自体が持たないと、新郎新婦の基準を堂々と探して出ていくことができないのです。 皆さんが永存でき実存できる一つの実体的な善の子女を地上において、それは恥かしい子女ではなく罪悪の歴史から完全に離れた、 どんな怨讐でも讒訴できない子女を立てます。そしてその後には隠れた天上の心情の秘密を知り、実体型である私を立てて天の愛を受け、天と対話し、授け受けするような天との因縁を結ぶことができます。 皆さんが今日、信仰生活を通して信じているイエス、神様がわかって下さったそのイエスの目的は何だったのか? 皆さんはイエスをどの位知っていますか? 皆さんは、新郎新婦の姿をイエスと聖霊にだけ知ってはいけません。 皆さんが一生で、家庭の実体的な愛を通し内的な愛を経て、永遠なる生の基台、永遠なる救いを成す勝利の基台を残すことのできる人にならなければ、天の理想と天の所望は皆さんと関係がなくなります。さらにそれは、神様のことや、イエスと聖霊のことにはなるが、私のことにはならないのです。 それゆえに、皆さんはイエスそれ自体だけを知ってはいけません。故に、イエスを中心として和合できる人がいるならば、彼はイエスをわかって下さった神様の息子としてイエスと等しくなれる人です。彼は地上で、歴史に代わって現世に代わって未来に代わって堂々と出ていけるようになります。そのような一つの存在がこの地上に現れるならば、それ自体は歴史を知る者であり、イエスの摂理を知る者であり、イエスが所望する世界を代表できる者に違いありません。 そのような存在になるためには、如何なる条件を提示しても神様の前に感謝できる人、如何なる環境でも希望を失わない人にならねばなりません。イエスは、私が如何なるものを愛することよりも、もっと強い神様の希望と愛が生じなければならないことを感じられたのです。 それゆえに、環境が変わり歴史が変わり天地が混沌とした時にも、最後の瞬間にまでもイエスが考えたのが何であったかというと、人間であったのです。人間のために切ることのできない永遠な関係を結んで、永遠な生命と中心の心情を代身しようとしたのです。ゆえに、「十字架も来なさい、死も早く来なさい」と言うことができたのです。 今日皆さんたちが生活を通して、生涯を通してそのようなことを感じることができなければ、皆さんはイエスを知ったとしても知らないのと 同じです。 ですから皆さんは、摂理路程の全般的な歴史形態を代表し、全体歴史を代表し、永遠な歴史を代表して、永遠な神様の動的な心情と情的な心情にまで通じられる関係を結ばねばなりません。そうして、歴史に疼 うず く恨みを解いて万民の前に現れるべきです。そのような人として現れることができなければ、イエスが探し、要求している、即ち天が知ってくれる子女であると言えないのです。ところで、もしもそのような人がいれば、彼は自分が食べるひと匙 さじ の御飯をおいても神様に感謝を返すに違いないし、息をするその一息からも神様の愛を感じることができるのです。 天が知って下さる子女 天地の運勢が回っていくように私の心も新しく無限に回っていくことを願っているが、なぜそうならないのか。天地の力と愛が繋がって、天倫の原則の基準が繋がっているということを我々は忘却しているからです。 それゆえに、今日我々は、イエスが神様を知ったように、我々の生活の中でイエスを知らねばなりません。そして、イエスが神様の恨みを知って、イエス一身の栄光が天の前に返ったように私を通して私の栄光をイエスに返すことができるようにイエスに付いていこうという心を持たねばなりません。イエスが神様に従い神様の愛の心情をわかっているのに、我々がイエスをわからなければ、イエスの宿命的な所願はどこへ行って解くのか。今日皆さんはそれを考えねばなりません。 今日皆さんは、イエスの為に一瞬一瞬生きていると言うかも知れません。皆さんは多くの国と多くの民族の為に存在すべきです。歴史の終末時代まで、その流れと天倫の心情を永遠に感じながら、万物の主人公として天の栄光を讃え、天に栄光を返すことのできる群れになるべきなのです。 それがイエスの所望であるとすれば、私自体がイエスの代わりとして天の前 に栄光を返さねばなりません。ですから皆さんは、夢のような事実を夢ではない現実で実践できなければなりません。神様の所願はそのような御旨を終結することです。神様とイエスの心情に徹していたその要求とその所望が皆さんを通して現れています。もし、そのようなイエスの心情を通して、神様の内的心情に従ってお父様の代身になりイエスの代身になれる、地上で真にイエスを信ずる人がいるならば、イエスをわかって下さったように神様がわかって下さり、イエスと聖霊もわかって下さるはずです。さらに、イエスと聖霊がわかって下さると同時に、イエスと聖霊に繋がっている千軍天使たちがわかって下さるに違いありません。ところが今日の人間たちはこのような栄光の恩賜を恩賜として知らないのです。 勝利の栄光を返すには イエスは神様だけがわかって下さったが、我々は神様もわかって下さり、イエスと聖霊、天にいる千々万聖徒たちがわかって下さるはずです。それゆえに、地上で私が天上の神様を知ることができれば、天からイエスと聖霊を通して霊界へまで認められることができます。ゆえに、私自体がこのような認定圏の中に立って、イエスを通して2千年間摂理された神様の心を知ってあげることのできる私にならねばなりません。 神様の摂理の理念は皆さんたちを通して現れるべきです。これを考えると、我々は恵まれた群れです。イエスが十字架に出ていく時よりさらに恵まれた立場にいるということを知らねばなりません。 イエスは神様の為に一人で死にました。しかし我々は、神様の為にもイエスと聖霊の為にも死ぬことができなければなりません。そうして、千々万聖徒たちが我々の出ていく道を守り、我々を歓迎できる自分たちにならねばなりません。「私が悟りましたので、お父様、その私に運行されて千々万聖徒たちが、今日私によって慰められることができるように導いて下さい」と言える皆さんになるべきです。そうなる時皆さんは、天のすべての摂理を代表して勝利の栄光を現すことができるということを知らねばなりません。 祈祷 お父様! 信じていると言っている者たちがお父様の前で悪臭のみを臭わしながら、まだ自分がわかっていないのです。お父様、天上の心情を通じて私自体がわかるように許諾して下さい。地上の摂理の御旨を通して私自体がわかるように許諾して下さい。 天上と地上が結ばれる栄光の御旨を私自身がわかるように許諾して下さい。お父様、ここに集まった子女たちを愛して下さって、語りたいお父様の切ない心までも察することができるように許諾して下さい。お父様を中心として天を知ることのできる心情を許諾して下さり、永遠なるお父様の生涯路程を我々が知って、天を知り、天の栄光を慕う子女たちになるように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 今日集まった全子女たちが、お父様から流れてくる愛の力を受けて、お父様が「動」であれば我々も「動」であり、お父様が「静」であれば我々も「静」であるように、相対的な祝福を許諾して下さい。我々がお父様のあらゆる心配を減らしてあげることができ、歴史的な摂理の全部を代身できるように許諾して下さい。 そうして、天上天下を左右できるお父様の永遠なる国を建設することによって、神様が知り、イエスと聖父と聖子と千々万聖徒たちが知り、地上にいるすべての聖徒たちまでが知るように許諾して下さい。 お父様の「知」(知っていること)の栄光を勝利の条件にしてサタンの権勢を破って、勝利の版図を成し遂げるように許諾して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.19
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イエスは何故世の中の罪を背負った仔羊になったか1956年7月11日(水), 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛する私のお父様! あなたの愛を慕い求めて御前に出てひれ伏しました。我々の心を主管して下さって、我々の心にはあなたの貴き性相を慕うことだけが残されるように許諾して下さり、我々の体はお父様の形相の美を備えて、無言の中で感動の恩恵に浸ることができるように許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 この地が暗闇に落ちています。この暗闇に落ちている地上に責任を持たねばならない使命も、今日足りない我々に与えられており、そして未だ残されているということを知っております。 愛なるお父様! 哀れみのお父様! 我々だけでは、我々の力だけでは絶対善と悪を分別して、善を高めることができないのです。どうか、天に隠しておいた善の能力と愛の能力を現わして、復活の能力として役事して下さり、不足な所で善の能力を現わし、そこを満たすことができるように許諾して下さい。復活の栄光を備えてお父様に敬拝を捧げることができ、心と体を尽くして栄光を現わすことができるこの時間を許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 ここにひれ伏している多くの子女の心を、お父様、聖別して下さい。各自の心霊ごとに聖別の御手で役事して下さって、お父様、一人一人の心と体を聖別して下さい。 そうして、正しくないすべての要素を除かないといけないので、お父様、御自身が分別の主人公になって下さり、心情の主人公にもなって下さい。 善悪を分別して、悪は退けて善のみ持った生けにえとして、一つの中心を通してお父様の御前に現われることができるように許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 今集まりましたので、顕現されるお父様の形相の前で、不足な自己を認識することができる時間になるよう許諾して下さい。過去の罪悪の力を受けて死亡圏に入っている自己を発見して、お父様の前に、そして善の栄光の祭壇の前に自分を現わすことができる時間として主管して下さり、過去の良くない習性、お父様を信じられない観念を除いて下さい。新しい善の刺激を受けてお父様の性相の新しい価値を感じ、心と体で衝撃が感じられるこの時間になるようにして下さり、悔い改めと感動の役事を現わして下さることを、切にお願い申しあげます。 お父様、少数の群れが集まりましたので、主管して下さい。ここに集まった子女たちの中の一人もサタンに主管されることがないように許諾して下さり、お父様の再創造の苦労の歴史と全能の歴史を経た後、今日の惰性を捨てることができるこの時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 すべての罪悪の要素を除いて下さい。お父様から干渉され主管される栄光の要素のみが集まった全体に役事され、そして主管して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 お父様、この夜は寂しい群れたちが所々で民族の代わりに天の前に敬拝する時間ですので、お父様、寂しい群れを友人として役事されるお父様、彼らと対話なさりながら役事される私のお父様、彼らが処した如何なる環境や立場でも、お父様、彼らの天に向かった忠誠と忠節だけは変わらないように許諾して下さい。 嘲弄に徹したサタンが太山のように我々の前に立ち塞っても、これを越えて行ける天の勇将として立てて下さって、最後の日に与えられた使命を成就することができるように導いて下さり、戦っていける変わらない天の力が共にあるよう導いて下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 この夜、この民族に代わって集まる数多い祭壇の上にも、人類に代わって集まる数多い祭壇の上にも、聖三位神が同じ役事を持って臨在して下さい。最後の日に成される所の全体の使命を彼らの前に予告して下さり、探さなければならないお父様の本然の御旨を24億全人類の前に、またこの地球上に現わすことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 初めから終りまで、ひたすら与えられたところの祭物として、お父様から喜ばれる祭壇を成して喜びの聖体を証しすることができる役事と能力と栄光だけが現われるように許諾して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 愛するお父様! 我々を統率され天倫の御旨に代わって現われたキリストの形相を見て、ヨルダン川に立って天に向かって叫んだヨハネの前に立てられたイスラエル民族の立場に代わることができる環境を造成して下さい。 我々の心は歴史において傍観者的であったとしても、天倫を中心として切ない心情で叫んだ洗礼ヨハネの声を我々が再び聞ける感動の恩恵を許諾して下さい。「見なさい。世の罪を取り除く神様の仔羊である」と言われた御言は、驚くほど恐ろしい、荘厳な御言でした。 この地上に数多くの人が、数多くの聖賢たちが来て去って行ったが、誰一人として堂々たる立場で万民の罪を代わりとして叫んだ者はなかった。その中でイエスを立てて証しした洗礼ヨハネの御言が歴史的な新しい再創造の基準を立てたということを我々は知っております。全万民がいやがる罪を背負うことができる一つの存在を探し立てた洗礼ヨハネの心を我々が知り、我々のすべての罪をイエス・キリストに委ねて天に向かって敬拝できる喜びの恩恵を許諾して下さい。 今日我々の環境を、解放の恩恵を受けたイスラエル民族の環境に変えて下さい。彼らの心情を我々の環境に現わして下さい。自分のすべての罪を委ねることができる一つの主人公を探した者があるならば、それ以上恵まれた者がないということを我々が自覚するように許諾して下さい。 私の生命と私のすべてを委ねて自由な環境で自ら感謝できるように、天を所望した者の喜びを我々が感じるように許諾して下さり、イエスがこの地上に来て我々の罪を背負われたと言うことを、今日我々が再び認識するように許諾して下さい。 今日この時間に集まった者たちのすべての罪を引き受けて下さり、善のみが残されて、善のみが満ちるように許諾して下さい。すべての罪の要素はイエス・キリストの前に委ねて、お父様の前に栄光を返すことができ、キリストの悲しみを慰めることができる刺激的な衝動が我々から生じられるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今日集まった多くの子女たちを守って下さい。伝える者の心や受ける者の心が二つにならないように許諾して下さい。我々を再び生かしうる復活の能力を許諾して下さり、我々を回生させることができる御言で役事して下さい。我々の心と体が罪悪の鎖を切って再創造の御言に従って本然の姿へと回復しうる喜びの恩恵を許諾して下さい。 すべてのことを委ねましたので、許諾されるところの御意通りに許諾して下さい。愛する主の御名によってお祈り致しました。 <御言> 今晩お話しする題目は「イエスは何故世の中の罪を背負った仔羊になったか」です。 イエス様が降臨された背景 神様は御自身の内的な理想を実体的に感じることができる一つの中心存在として人間を造りました。そうして、隠された天の美と愛と栄光を人間であるアダムとエバの生活を通して、生涯を通して、永生の路程を通して成し、いつでも隔たりのない喜びの世界を造ろうとされました。 人間の堕落によって、神様が願われたそのような本然の御旨は根本的に切られてしまって、人間たちは願わなかったサタンを神様の代わりに立ててしまい、そのサタンの主管圏内に置かれるようになりました。神様の栄光と喜びをお返ししつつ、神様に仕える生活をせねばならぬ人間が、神様の代わりにサタンを中心として、彼に仕えて従う侮蔑の歴史を重ねてきているということです。これは皆さんが良く知っているところです。 そして、神様は人を中心として取り戻すべき栄光が残っており、人を中心として愛すべき御旨が残っており、人を中心として勧告すべきことが残っていて今まで摂理をなさっておられますが、サタンは反対に、神様の栄光を破壊する為の戦い、神様の愛を破壊する為の戦い、天の生命を破壊する為の戦い、今日人間たちを自分の側に掴んでおいて、神側へと引き渡さないようにする戦いをずっとやっているという事実も皆さんは良く知っています。 それゆえに、今神様は人を立てて、サタンを恨むことができる一つの条件と、神様に返すべき栄光を中心としてサタンに抗議できる条件、神様の代わりに人間から愛されているサタンに対して抗議できる条件を立てなければなりません。また、神様に代わってサタンが全生命の権限を持っているので、神様はこれに対しても抗議できる人を立てておかねばならないのです。このような責任が神様に残っています。 神様が探そうとされる創造本然の人間、サタンに対して攻撃できる一人の主人公が出なければ、再び神様に栄光を返す道が、愛を返す道が、生命を返す道がないのです。 この一つの中心存在を立てられるため、神様は4000年間苦労しつつ摂理をされました。それで初めて神様が万民の前に、一つの信仰の中心、人間の代表的な中心、神様の栄光を証しし、神様の愛を証しし、神様の生命を証しする為立てられた方がイエス・キリストです。 イエスの責任 イエス・キリストがこの地上に来られてなすべき責任が何であったかというと、神様の栄光を回復し、愛を回復し、生命を回復することでした。ところが、ここには罪というものが立ち塞がっていました。 罪悪は万民が神様の前に栄光を返すことができないように、神様の愛を愛として感じられないように、天の生命を生命として感じられないようにして、永生の中心を立てることができないようにしました。それは何故か? それは、堕落によって血統的な罪と自犯的な罪が人間を中心として全被造万物にまで浸透しているからです。 それゆえに、キリストが地上に来られて遂行すべき責任は何であったかというと、神様の栄光を回復する前に、神様の愛を回復する前に、神様の生命を回復する前に、まず万民と全被造万物の中に浸透している罪悪の根を取り除く戦いをしなければなりませんでした。 ゆえにキリストは、この地上に来られて罪を取り除く為、万民の罪を御自身が代わりに背負われました。 それでは、イエス様はいかなる理由があって罪を背負わなければならなかったのか。それは、人間たちに罪があったからです。さらに人間たちは真理を知っていなかったからでした。 イエス・キリストはこの地上に、神様の栄光と愛と永遠なる生命をもって万民を救うため来られたが、彼の道を邪魔する一つの条件がありました。それが何であったかと言うと、人と人、団体と団体、社会と社会、国と国の間に一つの鉄鋼のように編み絡っている罪というものでした。 この罪を自ら清算するまでは、この地上で神様の栄光も、神様の愛も、神様の生命も見ることができないのです。 神様は、人間たちがこの罪を清算するようになさってこられました。人間たちがこの罪を清算すると、それによって彼に神様の栄光を、神様を愛を、神様の生命を与えることができるのです。人間の立場からみると、神様が人間によってこの罪を清算するようにされたのは、人間自らが今まで知らなかった主人公を知らせる目的の為でした。 それで我々が、その主人公を天の栄光に代わって、天の愛に代わって、天の生命に代わって仕えることができれば、そのような我々になれば、天を中心として立てられたイエス・キリストと我々の間を切ることのできる力はありません。 ところが、堕落した故にこの世界が終末になるまでは、私とイエス様と聖霊の間には取り除かねばならない罪が残っています。この罪は、個人を中心とした家庭と社会と国家と世界、天地に残っておりますので、この世のすべての罪を背負うことのできる一つの存在が来られるということが、何よりも喜びであり、救いと勝利の福音であるのです。 それでは、今日、我々自体がイエス・キリストの前に罪を委ねましたか? また、我々家族が、我々が生きているこの世の中がイエス・キリストの前に罪を委ねましたか? まだ罪悪の未解脱圏内に残っている聖徒がこの地上に何人であろうかということが問題です。 日常の信仰生活を通して皆さんがなすべきこと 皆さんが日常の信仰生活においてなすべきことが何かというと、皆さんの罪すべてをイエス様に委ねることです。皆さんは自分の罪を全部イエス様に引き渡しましたか? 自ら反問してみなければなりません。実際に、「お父様、私に残っている罪は自分自らではどうにもならないのです。私の罪をお父様に委ねます」と言える存在がこの地上に出なければなりません。そうでないとイエス・キリストの理想は成就できないのです。 私にはまだ罪が残っており、私の家庭に、我が社会、我が国、我が世界、天地に未だに罪による嘆息の要素が残っているとするなら、イエス・キリストの十字架の苦難は延長されるのです。 皆さんはこの時間でもイエス・キリストの十字架の苦難を延長させているという事実を知らねばなりません。 今日我々はイエス様に、「私のすべての罪を引き取って下さい」と言わねばなりません。 私の心と体と合わせ、イエスの心と体を合わして、イエスの与えられた罪の荷を背負って、イエスの手を経て私の手を経て、罪のどん底まで貫いて出てくるという革命的路程を経なければ、聖霊に対して、イエス・キリストに対して罪を完全に清算した人であると言えないのです。 それでは、イエスがこの地上に来られ罪を背負うとされる御意は何なのか。我々の堕落によって生命の主人である神様を失い、真の父母を失い、私を守り愛してくれる一つの中心を失ってしまいましたが、この中心存在として来られた方がイエス様でした。イエス・キリストがこの世のすべての罪を引き取った後は、天と地とサタンがイエス様一人をおいて判定を下すようになる時が来るでしょう。 皆さんが自分の罪を全部イエス様に、神様に委ねなければ、イエス・キリストが皆さんの主人公として干渉してあげたくても干渉できなくなるのです。皆さんはこれを知らねばなりません。 人間的にみるとイエス様は不幸者の中の不幸者 我々はイエス様の心情を知らねばなりません。この世を訪ねて来られたイエスの心情を知るべきです。そのイエスの心情は全宇宙の罪を背負いたい心情であったのです。人間的にみると、イエス様はかわいそうな方であったということを皆さんは知らねばなりません。イエス様がこの地上に来られた時、イエスのような不幸せな人がなかったということを皆さんは知るべきなのです。失ったものを取り戻すため、また恩恵を与えるため来れたのが、誰一人イエスの所願がわかって、「イエス様は私の永遠なる理想であり、,不変の主人です」と言いながら仕える人がなかったのです。 民族の為に、国家の為に、世界の為に、天地の為に来られましたが、人類の前に立てられたイエス・キリストは、不幸者の中の不幸者であったということを皆さんは知らねばなりません。この地上に来られて語った御言と、なさった行動を見て「あ、歓迎致します」と言いながら信じた人が一人もいなかったのです。この上、人間的にみると、イエス様個人が処した環境は非常に不安な環境でした。 やはりイエス様も、一人の人間として感じる感性は皆さんと同じに違いありません。しかし、自分一身の罪を解決することのできない人類の罪を背負って、全人類の過去と未来の罪に責任を持たれたイエス様は、苦労も忘れて寂しい所で、自分の罪を恨む個人個人を慰めてあげる立場に立たれたのを皆さんは知らねばなりません。そして、人類の罪を引き取る為に来られたイエス・キリストの内的な苦労と苦痛、悲しみを我々が慰めてあげなければなりません。 勿論我々は、我々の罪に対して悲しむべきです。どんな理由で悲しむべきかと言うと、この悲しみが直接天に達するようになってはいけないからです。この悲しみを慰めて下さる為に来られた方が聖霊です。 我々はイエスと聖霊の協助を受けて、我々の罪を脱がなければなりません。そうしなければ、我々の為に罪を背負ったイエス・キリストの悩みは、この地上でも天上でも解けないのです。 それでは、今皆さんが知らなければならないのは何か。聖霊は我々の罪を天の前に詫びることを担当しておられます。これは、人間が天上におられる神様やイエス様と直接的な関係を結ぶことができていないからです。故に、地上で役事される聖霊の協助を受けなければならないのです。 そして、我々が知るべきことは、イエス・キリストの十字架によって贖罪の道は開けましたが、実際我々の罪を背負って苦労される方は聖霊です。聖霊は我々の為に、罪人のように哀れな私に代わって、中間の立場で苦労しておられるのを皆さんは知らねばなりません。 聖霊の苦労はどんな苦労なのか。十字架で亡くなられたイエス様の苦労は、我々の罪を背負った苦労であって、聖霊の苦労は、皆さんが泣けば共に泣かれ、皆さんが十字架にかかれば共に十字架にかかるという苦労であります。そして、十字架の峠を越える苦労の役事を、今日も皆さんの為に成して下さっているのです。これを皆さんは良く知らなければなりません。 そうして、イエスの苦労と聖霊の苦労が私を中間において一つになって、天が要求するその苦労の基準を越えるようになると、地上で我々が犯した罪がすべて贖罪されるのです。 聖霊の苦労に対する人間の責任 我々は今まで、イエス・キリストを迎える為に自分だけが苦労して来たと思っていたが、私の背後で私以上に苦労をされた聖霊がおられるということを知らねばなりません。 イエスが願われることは、人間たちの苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、その聖霊を立ててイエス・キリストの栄光に代わり、人間たちを糾合しようとされるのです。そのような一日が来なければ、イエスがこの地上に再び来られて万民の主人公として立たれることができないのです。 それゆえに、我々が悪の前に立つ時、我々が犯した罪の為、聖霊が地上で苦労され、イエスが十字架にかけられるようになったということを知らねばなりません。さらに、天地どこへ行っても、我々は天の恨みから逃れる術のない罪人であるのを知るべきです。 この罪を悟って、我々の身も心も捧げなければなりません。そうして、先ずは聖霊の苦労に頼ってイエス・キリストの苦労を満たすことによって、その苦労の荷を脱がせてあげるべきです。このように、私によって聖霊の苦労が、イエス様の苦労が、神様の苦労が終わる時こそ、我々の為に罪を背負って苦労された天の復帰摂理の御旨が終結される時なのです。この時初めて、我々自体は一つの主人公に会えるようになります。これを皆さんが知らねばなりません。 イエス様は人間としてこの地上に来られました。体を持った一つの人間として来られました。皆さんが霊界を通じてみれば、イエス様は我々と一問一答することのできる体を持っておられるので、皆さんの霊眼が開けると我々の為に亡くなられたイエス様を慰めることができ感謝できます。ところが、聖霊に対してはそれができないのです。何故なら、聖霊は体をもっていないからです。 イエス様は実体の天の主人公として、被造世界の中心としてこの地上に来られました。ところが、聖霊は未だに体を持てなかったので、聖霊の苦労に対して直接慰めてあげられないのです。このような恨みを解いてあげる為、2000年の苦労の歴史を経ながら新郎新婦の理念を立ててきたのに、これを今日のクリスチャンたちは知らないのです。 それでは、新郎なる天上のイエスの前に、新婦になれる地上の実体聖霊は、いつこの地上に現われるのであろうか。 我々が犯した罪は、イエスだけを死の峠を越えるように向かわせたのではなく、聖霊までもそのような苦労の峠を越えるようにさせたのです。ところが、私自体を通してその苦労の恨みが解かれると、その喜びと栄光をイエスには返すことができるが、聖霊にはできないのです。 我々が罪を委ねると、先ずは聖霊が我々の罪を引き取ります。その後にイエス・キリストが引き取り、その後に神様から清算されますが、今日我々はこれを良く知らないのです。これを、このような使命がわかる聖徒たちが出れば、聖霊の感動の役事は彼らを通して全人類に現われるようになります。 それでは、イエス・キリストがこの地上に来られましたが、我々は今どうすべきなのか。我々は、イエスのような立場の新郎格主人公と、聖霊のような立場の新婦格主人公を探さなければなりません。そうして、贖罪の恩恵を受けなければなりません。聖霊とイエスを掴んで、「聖霊と聖子、そして神様、祝福して下さいませ」と言えるべきです。そのような皆さんにならないと、イエス・キリストの2000年の苦労と聖霊の2000年の苦労はこの地上で完結されないのです。 イエスは何故世の罪を担当されたのか? それは我々の為に、我々が自由を所有することができるようにするためでした。そして、主人を探すようにさせたのは、人間に本然の姿を備えさせてサタンの支配を受けた立場から、サタンを支配できる立場へと移してあげるためでした。ですから皆さんは、この路程を全部歩んだ後に自由の子女にならねばなりません。 サタンを撃滅して罪から自由になるためには 我々の自由を束縛するのは罪です。しかし罪それ自体が我々を束縛するのではありません。我々が犯した罪を条件にしてサタンが束縛しているのです。 主人を探すことは我々の成すべき使命であり、罪を脱ぐにおいても体と心を中心として戦わねばならないので、自由を探すにはサタンと戦わざるを得ません。 サタンと戦う時、自分一身だけではサタンを撃滅することはできません。聖霊だけでも、イエスだけでも、神様だけでも駄目です。このように言うと語弊があると言われるかも知れません。しかし、神様自体だけでサタンが撃滅できるとすれば、何故この地上でイエス・キリストの苦難の30年生涯と十字架の犠牲が必要だったでしょうか? 今我々はサタンとの戦いを展開しなければなりません。そして、戦いを展開するにおいては、誰の為に戦うかということを良く知らねばなりません。まず、聖父、聖子、聖霊のために、その次自分の為に戦うということを知るべきです。我々クリスチャンたちは天の為に戦うということは知っておりますが、私の為に戦うという事実を忘れています。では、天の為に戦うことは何のためであるか。サタンの攻撃と侵略を防ぐ為です。 皆さんは、皆さん自体が永遠なる恵みの道を探せるようにするため、天が動員されているということを知らねばなりません。地上にも動員されているのです。即ち、天上には神様が、イエスが、聖霊が動員されており、地上には皆さんの知らない多くの先覚者たちが皆さんの為に動員されているのです。皆さんはこれを知らねばなりません。 ですから皆さんは、このように数多い方々が天上と地上で動員されて、皆さんに自由を与える為に戦っているという事実を知って、それに応える皆さんにならねばなりません。 今日この時間も、皆さんの心と体を真理のところへと導く為多くの方々が苦労しておられます。天上では長い間神様が苦労しておられ、イエスと聖霊が苦労しておられるのです。それだけではなく、千々万聖徒と天者天使たちが苦労しています。皆さんはそれを忘れてはいけません。また、人間たちが束縛されている暗い環境を収拾する為、死を覚悟して責任を遂行する聖徒たちがいるということを忘れてもいけません。 地上で天倫の使命を行いながら成す苦労が天国では栄光になるということを我々が知っています。ですから天の前に面目を施すことができなければなりません。 審判の日が近づくと、皆さんを自由にさせる為のイエスの苦労と同じ苦労を皆さんに要求します。聖霊の苦労のような苦労を要求します。そして、神様の苦労のような苦労を要求します。それだけではなく、皆さんを解放させる為、数多くの先志聖賢が苦労したのと同じ苦労を要求します。 皆さんは自分一人が楽だといって、それで満足する信仰生活をしてはいけません。皆さんがそのような生活をすると、自分一身の苦難は逃れるかも知れませんが、苦難の歴史を歩んで来られた聖霊とイエスと神様、そして千々万聖徒たちが要求する事柄からは逃れる術がないのです。 それでは、今日我々が自由を得て、自由の身になって。「お父様、感謝致します」と言おうとするならば、イエスを中心として感謝しなければなりません。天上で聖霊と千々万聖徒たちは自分たちの苦労の報を、皆さんを通して神様の前に返すことを望んでいるのです。皆さんはそれを知らねばなりません。 イエスの恨みは地上の万民が解いてあげなければならないし、イエスの目的は地上の万民が成してあげなければなりません。そしてその目的を地上で完結すると同時に、天上でも完結しなければならない使命が人間たちにあるのです。 人間の解放の為苦労された方々への報い イエスを通して贖罪され自由と解放を得たとすれば、イエスが願われることを成してあげなければなりません。それができる人を探すことが天の所望であるということを皆さんは知らねばなりません。 地上が罪悪に落ちていたとしても、神様の心情を通し、天倫の心情を通し、先志聖賢の心情を通して、人類に代わってサタンの前に堂々と出るようにならねばなりません。それでサタンに対して、「お前たちがいくら乱暴で、強力であっても、お前たちには負けない」と言いながら、堂々と攻勢できなければなりません。このような自由の心情を備えて、万物の前に自慢できる人が出なければなりません。このような一つの主人公が出なければ、天の栄光と愛と生命が我々に連結されないのです。 今日我々は、自由の環境を造れなかったので、神様の理念とイエスの理念と聖霊の理念が我々と繋がっていないのです。この理念が繋がらないと、天上で働かれる神様の生命、神様の愛、神様の栄光は我々と何の関係もなくなります。 それでは、今日クリスチャンたちは自由に信仰をしながら、解放の恩恵を受けたところに立っていると言いながらも、なぜ永遠に向かって進んで行けないのか。栄光の主を通して喜びと自由の環境に処したとしても、それが全部ではないからです。永遠なる生命を受けなければなりません。今日皆さんは、時間ごとに移り変わり、何年をも過しえない自分を見て嘆息したり恨む立場に立っていますか? そのような立場から逃れられなければ、神様の善の生命と皆さんとは遠い関係におかれるようになるということを知らねばなりません。 皆さん自体も尊いけれど、自分の尊い価値を考える前に、先ず神様の尊い価値を認めて神様を解放してあげ、天の自由の主人公を立てるその事を、地上で責任を持たなければなりません。そのような一つの主人公が出れば、彼はイエスの前で新婦にならざるを得なくなります。 今皆さんは、時と場所を超越して戦って神様の内的な愛の基準を探して立てなければなりません。そして、他人に何かをあげたいという愛の心を永遠を中心として感じられるべきです。さらに、その真の主人公に対する場合でも一時的なものになってはいけないのです。 今日我々のまわりには、一時の自由と一時の喜びの為に生きる人たちが多いが、皆さんは永遠に変わらない喜びと自由の基準を、その心の基にはっきり持たなければなりません。その基準を立ててこそ、永生に参与できるのです。このような永生の基準と、一方的な環境ではなく四方的な環境を成してこそ、聖霊の愛が、聖子の愛が、聖父の愛が及ぶのです。 イエス様が世の罪を担当された理由 イエスが我々自身の罪を引き取って、世の罪を背負った理由は何かというと、第一は、神様の栄光の為です。その次は、神様の生命と神様の愛の為です。そして、人類の主人公として、自由の主人公として、生命の主人公として、愛の主人公として、和動の仲保者として、皆さんと共に永遠を中心として同苦同楽する為です。 ですから、我々がイエスを信じ従うと、地上に留まる時でも神様の栄光を受け、神様の創造理念を成就することができます。そして、皆さんによって創造理念が成就されると、神様自らが「サタンに勝った永遠な勝利者」として祝福され愛されるはずです。 祈祷 愛するお父様! 天がこれほど切ない心情を宣布される時、我々が経なければならない関門がこんなにも多いとは知りませんでした。今日ここに集まった愛するあなたの子女たち、心の門を開けてイエス様を受け入れることができるようにして下さり、天上で恥じない者になるように許諾して下さい。 地上でサタンの前に出ていく群れにならないように許諾して下さい。そうして、永遠なる生命を中心として、愛を中心として、栄光を中心として、私が仕えることのできる私の主人であり、私が愛せる私の主人であり、私が讃えることのできる私の主人であると言える、喜びの栄光をこの地上で受けられるように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 ここに集まった愛する子女たちの心を察して下さり、彼らに力を下さい。彼らの体を打って下さい。 彼らがお父様に力を願う時には力を下さり、無限な生命を願う時には無限な生命を下さい。彼らが無限な戦いの道を歩んで、天が歩んで来た苦難の道が彼らの一身で終結されるようにして下さい。 残されたあなたの子女たちを立てられて、天の精兵の列に立てて下さり、天の戦場でサタンとの戦いを担当できる子女として立てて下さり、不足のない子女として立てて下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、すべてがおわかりになっているので、求めないすべてのことも成して下さい。心から心で繋がって、天上の因縁が彼らの体にまで繋がるように許諾して下さることを切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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成し遂げるべき新しい約束1956年7月8日(日)前本部教会 祈祷(1) 愛なるお父様! 哀れみの愛を施して下さい。頼るところを知らなかった群れがお父様のみを頼る為、すべてを忘れて出ています。我々の心がお父様の性相を描くように許諾して下さり、我々の体がお父様の形状を喜び慕うように許諾して下さい。そうして、天上に隠れていたお父様の愛と我々が和合して、探そうとされる天の栄光を現すことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まった群れを導いて下さい。彼らの体と心をあなたが主管して彼らが持っている観念にあなたが運行でき、御旨がわかる観念に変えて下さい。そうして最後の日に、お父様が全人類に対して要求される全体的な観念が、彼らの心深きところで根を下ろすように許諾して下さい。そして、この観念を終末時代の新しい理念として立てて下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、集まった子女たちをこの時間全部主管して下さり、死後、恥になる要素があるならば、お父様! 聖霊の力で、三位神の力で除いて下さい。炎のような目で洞察されて貴きお父様の御前にすべてを告げることができる、この時間になるよう許諾して下さい。お父様の御前で、贖罪から解放された者になり、自由の祝福を受けた者になって、万民万象の前に出て一人でおられるお父様を誇ることができるように許諾して下さい。そうして、真のお父様を仕えることができるように許諾して下さり、そのお父様の前で栄光を返すことができる子女たちとして立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間に集まったすべての群れを主管して下さり、民族を代表した数多い祭壇の上に、世界人類を代表した全祭壇の上に、お父様! 等しき役事を現して、その祭壇が最後の日に摂理の中心の御旨を現せるように許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げました。 我々の体と心をお父様の祭壇の前に捧げておりますので、カインとアベルの立場を分別して下さい。そうして、カイン的な祭物にならないで、アベル的な聖別の祭物になるように許諾して下さい。お父様が摂理が終わるまで万民の前で訴えられるように、この時間設けて捧げる祭壇を、全世界に対するあなたの御旨が成し遂げられるまで、天上に対して訴えることができる代表的な祭壇として立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日のすべての恩賜を主管されるお父様、御意の通りに現れて下さい。許諾されるべき恩賜を許諾され、避けるべきところを避けるように許諾して下さい。そうして、あなたの永遠なる御旨を与えられるに不足のない子女になるよう役事して下さることを、お父様! 切にお願い致します。すべてのことを主の御名によってお祈り捧げ申し上げました。ア-メン。 祈祷(2) お父様! 命令されて御言を受けようとする者に、許諾されるところの御旨を現して下さり、決定されたところの摂理の御旨を支えてお父様の願いを成して捧げることができるように役事して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日下さる御言は、今日現れた御言ではなく、長い歴史を経てきた御言であるということを知っております。またこの御言には、イエス様と彼の愛する弟子たちの間に行なわれた忘れがたい悲しい事実があったので、歴史的な我々の先祖たちもそれを考えて、死の道もかまわず行ったという事実を知っております。 残された新しい約束に従う為、イエス様の使徒たちとそれ以降今までの2千年間イエス様を信じてきた聖徒たちは、血と涙の道もかまわず残されて約束の御旨、切実な所願の御旨を地上に成し遂げる為闘ってきたということも、我々は良く知っております。 お父様、我々を哀れに思って下さい。心を開いて、2千年前にイエス・キリストに対した使徒たちの心を代身することができるように許諾して下さい。我々の足取りを、昔の使徒たちが処した苦難の事情と通じることができるように立てて下さって、終りの日に残された全体摂理の目的を成して捧げられるようにして下さることを、切にお願い申し上げます。 以後のすべてを主管して下さり、成すべきすべての御旨を成されて、喜びの一日を迎える栄光を享有されることを、お父様、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りお捧げ申し上げました。ア-メン。 <御言> 今日お話ししようとする題目は、「成し遂げるべき新しい約束」です。このような題目でしばらくの間お話ししてみましょう。 イエス様が分けて下さったパンと葡萄酒の意味 4千年間の復活の摂理を通して救いの役事をされてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理のみでは、天上の御旨と地上の御旨を合わせて完結させることができないので、新しい約束を立てておいて、これを持って天上と地上の御旨を合わせ、約束された本然の園を探す摂理をなさってこられたのを皆さんは良く知っているでしょう。 これを見ると、イエス様が下さった杯とパンが即ち、新しい約束であると言いました。イエス様が去られて以後、我々はそのイエス様の血と肉をいただいたが、これは即ち、なすべき全生命を代身したと同時に、すべての真理に代わったものであることを皆さんは知らなければなりません。 イエス様の血と肉をいただいたことは何を象徴するのか。それは、イエス個人の血と肉ということではありません。大きく言えば、天と地の意味であり、小さく言えば、中心と個体を意味します。また、肉は真理を象徴し、血は神霊を象徴します。 このすべてのものは、イエス様が我々に無条件的に下さいました。そのように下さったイエス様の一身は、それ自体に限った問題は勿論のこと、彼を中心として繋がっている天上天下のいかなる問題も、すべて彼の問題に帰着することを皆さんは知らなければなりません。 神様と人間との間に遮られているのは何か。天の御意が地上に現れ、地上のすべての状況が天の御意へ帰結されて、一つの目的として動くべきなのに、これが遮られました。そうして、愛の主人公であったイエス様は、勝利的な天の栄光の代わりとして現れるその一つの御旨の象徴として、今まで苦労してこられたのです。 神様が4千年間苦労されてイエス様一人を立てられたということは、天のすべてと地のすべてを所有できるということを象徴しております。それゆえに、イエス様を信ずる人は、天のすべてを所有でき、地のすべてを所有できるのです。ところで、そのように所有したものを自分のものにのみ帰結するのではなく、所有したのち再び天の前にお返しすべき全体的な摂理の御旨を我々は与えられています。 イエス様が新しい約束を立てて行かれたので、彼が亡くなられた後に、霊的な世界と肉的な世界が人間を中心として、即ちイエス様に従う使徒たちを中心として繋げられなければならない条件が残されました。イエス様が亡くなられなかったら、イエス様を中心として天と地が連結されるはずだったが、亡くなられたので、イエス様は天の条件の代わりに、聖霊は地の条件の代わりになったのです。 イエスと聖霊の御旨を代身する人 それでは、天と地の中間の立場に立って、イエス様の御旨を代身することができる人、聖霊の御旨を代身することができる人は誰であろうか。それは今まで、地上で新しい約束の御言を信じている使徒たち、または我々であるということを皆さんは忘れてはいけません。 イエス様の所願はどこにあるのか。その所願は天上ではありません。人間の所願はどこにあるのか。それまた地上ではありません。イエス様の所願は地上の御旨と繋ぎ、地上にいる人間たちの所願は天上の御旨と繋がなければなりません。したがって皆さんは、天を中心としてイエス様が下さったその血と肉を代身した聖体として、天と地の代わりとしての一つの祭物になるべきです。そうしなければ、イエス様と聖霊は永遠に一つになれません。聖霊は聖霊なりに地上で役事を続けるはずであり、イエス様はイエス様なりに天上で役事を続けるしかないのです。 イエス様が弟子たちに、「あなたたちは私の血を飲み、私の肉を食べよ」と言われたその御言は何なのか。そこには、「私は去っても天の摂理圏内に入ったすべてをあなたたちが持って、私の所願を成就してくれ」というイエス様の切実な心情が内包されていることを皆さんは忘れてはいけません。 弟子たちがイエス様からもらった血は、イエス様の霊的な面を象徴し、肉は肉的な面を象徴したもので、即ち聖霊を表します。そうしてイエス様と聖霊は、その血と肉によって一つの聖体を備えて、一つの目的に向かって進んでいける中心存在として立ってくれることを望まれました。そして、そのイエス様の血と肉は、血は天を象徴し、肉は地を象徴しました。したがって皆さんは、そこにイエス様の大なる希望と抱負が現れていたということを知らなければなりません。 今日皆さんは、聖霊を通して尊き体になった後に、心がイエスの聖体と繋がるべきです。これは、復帰歴史の過程を象徴します。アダムとエバを創造する時にも、体を造ってから霊魂を造りました。肉を造ってから、鼻に生命を吹き入れてアダムとエバを創造したのです。このように、二つの条件の原則を合わせて一人の人間を造ったのと同じく、復帰摂理の路程でも、イエスを中心とした聖霊が新しい約束を立てた故に、それ以降今まで天上と地上が一つになったイエス様と聖霊の役事が連結されているのです。 これを考えると、今日の我々にどれほど重要なる責任が与えられているかを皆さんは知らなければなりません。 足りない使徒たち、足りない我々の働きによって天が左右されるということを知るべきです。使徒たちの代わりの皆さん! イエス様の聖体を与えられて生まれた皆さんには、神様の代わりであるイエス様の生命力が現れなければなりません。天の代わりである聖霊の感動の役事が現れるべきです。そうして、全被造世界を復帰するためのイエス様の御旨の前で、皆さんが一つになって歩んでいくならば、皆さんが左に向かうと天も左に向かい、皆さんが右に向かうと天も右に向かうようになります。皆さんが動く通りに天も動くのです。 天が人間を通して働ける基準を皆さんが立てて完結しなければ、イエス様と聖霊は皆さんに訴えるはずです。イエス様が残した宇宙的な使命が皆さんを讒訴するということです。今日これを考えると、何の価値もない我々を通してイエス様は、天上を左右することができ、地上を左右することができる大宇宙的な御旨を成しとげようとするということを感じなければなりません。 イエス様には人間なしに決定することができる権限がありません。聖霊にも決定の権限はありません。決定の権限は、我々人間だけにあるのです。 イエス様からいただいた血と肉に対する報い 今までの新約歴史は、「神様、あなたがなさって下さい」という歴史でした。 自分の願望を要求してきたという限界ある歴史でした。ある限界から逃れられず、そこに留まっていたのが新約歴史でした。我々は、その新約の御言を越えられなければなりません。その限界圏内の歴史を越えて、天の恩賜を受けるべきです。自分一身で天上天下のすべてを所有しようとしたイエス様の全価値性を持って進んで、その新約の限界を越えて、「お父様! 私に新しい約束を下さい」と言える人にならねばなりません。 イエス様の血の訴えと十字架で肉を裂かれながら訴えられた訴えを、今日皆さんが生活の中で現さなければなりません。我々が天上へ行くにも、完結せねばならない人間の責任がイエス様によって約束されています。ところが、それがただ約束に終わってはいけません。今まですべての恩賜とすべての所望とすべての生命を私一人が所有して、私一人の生命の理想を持ってその限界を越え、信じて与えることができる基準を我々が地上に立てて完結することができなければなりません。そうしなければイエス様の怨恨は溶けるすべがないということを知らねばなりません。 我々は今は、所望成就の過程に留まっています。ある目的を見つめて、その所望を成していく過程の中にいるのです。この過程で動いたとすると、皆さんは、立てた信仰の約束を完結すべきです。その様な限界を越えた皆さんは最後のひと時に、主からいただいた血と肉に対する報いの存在であるということを皆さんは知らねばなりません。 この様な意味で,私はどういうふうにすべきなのか。あえてイエス様の前後、左右、上下、また聖霊と神様の前後、左右、上下に代わることができなければなりません。天上の御旨であると同時に地上の御旨を持っている人間を通して帰結できる日を地上に立てることができなければ、イエス様の御旨も神様の御旨も成就されないということを知るべきです。そして、その様な御旨を考えると、今日何ものでもない我々の価値はあまりにも大きいということを知らねばなりません。 イエス様が弟子たちに血と肉を与えて要求したものは何か? 「そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互いに分けて飲め』(ルカ 22:17)」とおっしゃった御言です。皆さんはこれを忘れてはいけません。我々はイエス様の血肉をいただいたので、イエス様の使命に代わって、天の問題も我々が責任持って出ていかなければなりません。そうすれば神様の御旨は成就されるでしょう。これが天上の所望です。 今日我々には、イエス様の血と肉をもらったという条件で、我々お互いに関係を結んで勝利の祭壇を探していかねばならない最後の日の責任があります。この様な我々の責任を皆さんは切実に感じなければなりません。 「お互いに愛しなさい」と願われた主の御意 上から下りてくる原則は変わりません。では、この変わらない上下原則、そして左右へと連結せねばならない関係は誰が探すべきか、皆さんが探さなければなりません。イエス様と聖霊は歴史が変わり、時代が変わっても、変わらない中心として一つの方向のみを指向してきました。イエス様と聖霊が授け受けしたのと同じく、我々自体もその様な関係を結ばなければなりません。もし、その様な関係を結ぶことができなければ、神様が運行される祭壇は地上に現れることができないということを皆さんは知らねばなりません。 自分の血と肉を分けて下さった、そのイエス様の心情をわかりますか? 何ともいえない程悲痛の心情でした。今日世の中でも、御旨を知る人、御旨をなそうとする人は、悲痛で悲惨なところで骨に染み込まれる試練を一人で乗り越えながら御旨を現そうとします。したがって、これを感じられなかった人たち、この様な御旨を知らない人たちを見るイエス様の心情がどうであるかを皆さんは知らねばなりません。 この様な歴史的事情が理解できなければ、皆さん同志の横的な聖晩餐も成り立ちません。それゆえに、今日我々にはイエス様が神様と連結できる時、またイエス様が聖霊と連結できる時交わしたその愛の心を、我々がお互いに交せる、即ち聖体の愛を現す生活が必要です。 個人個人を繋いで、教団と教団を繋いで、さらに教団を越えていかなる形態ででも天の愛を中心とした一つの圏内に入って行くようにする為、「お互いに愛の心を交わしなさい」と言われたイエス様の御意を知らねばなりません。 今日皆さんの中で、自分自体を授け相手から彼自体を受け取るというような同志を持っていない人、その人はかわいそうな人であることを知らねばなりません。そしてイエス様は、人は変わってもイエス様の前での聖霊は変わらないので、その聖霊と授け受けしてこられたのです。したがって皆さんは、彼と共に授け受けできる基準で、霊的な世界の歴史に代わって闘わなければなりません。 もはや、イエス様が残された最後の一つの所望を我々が完結する時がきました。この一つの所望を皆さんが左右へと連結しようとすれば、どうすべきなのか。まず地上で仕えることができる人になるべきです。地上で闘って殉教する人、地上で義人に仕える人にならねばなりません。 今日皆さんは、イエス様が言われたことを忘れてはいけません。「仕える人は仕えられる人になる」と言われ、「自ら高くなろうとする人は低くなる」と言われました。これは何かと言うと、今日我々が横的な面から感ずる一つの生活の中心です。ですから我々は、誰にでも仕えることができ、誰の友だちにもなることができ、さらに彼らを守ってあげることもできるようにならねばなりません。 新しい約束を成すには 今新しい新約の御言が約束されてきましたので、我々はイエス様の命令されたその内的心情を感じねばなりません。そして、彼の心を察すると同時に、彼の理想と実践的な方面まで察するようになるべきです。そうして、イエス様と聖霊の御旨を我々が成していかなければならないのです。その様な御旨が我々からなされないとすれば、最後の日にはイエス様と聖霊の役事が終わってしまいます。 イエス様と聖霊の役事が終わるとすれば、終わるその日に一人で立ってイエス様の所望と聖霊の所望を知り、イエス様が行かれた実践的な路程を歩むことができる私に、そしてイエス様と聖霊の代わりとして新しい理想を持って、それを守りつつ進める、その様な立場の私にならねばなりません。 我々は、イエス様の新しい約束の血肉を受けた者たちです。この様な我々に残された使命は何か。新しい約束を成すことです。そうする為には、私一人でも最後の日に、三位神の協助なしにサタンに対して充分に勝利できるようにならねばなりません。それでは、サタンに対して勝利できるその中心は何か。サタンができないことができるということです。サタンができないことができなければなりません。 サタンの本質は傲慢です。サタンの本質は妬みです。サタンの本質は自分のみを思うことです。それゆえに、イエス様と聖霊の教訓は、「柔和謙遜でありなさい。犠牲になりなさい。祭物になりなさい」ということです。これらはすべてサタンができないことです。サタンが柔和にしようとすれば、神様の前ですべての罪を悔い改めなければなりません。サタンにもし妬む心がなければ、今日の世界のすべては天の前に帰ってきたことでしょう。 ですから、皆さんはサタンと反対の要素を自分自体に備えるべきです。さらに、皆さんがその限界圏内に留まらないで、その限界を越えて新しい約束圏内に入らねばなりません。そうして,皆さんが変わらない一つの中心を立てるようになる時、イエス様の血肉を受けた者として新しい約束の御旨を成すことができるのです。 神様がイエスと議論できなかったことを、イエス様が聖霊と議論できなかったことを、皆さんによって再び議論できるという所に皆さんが立たなければ、即ち皆さんが天地のすべての基準に代わった中心存在として立たなければ、イエス様の約束の御旨は成されません。同時に、神様が願われる新しい約束の御旨も成就されないということを皆さんははっきり知らねばなりません。 今日我々は、世の中のものを持てなかったとしても、イエス様の体と心だけは完全に持たねばなりません。天の地に代わった一つの中心価値を天から認められなければなりません。そうして、その認められた我々の価値が、ある限界圏内に留まっていてはいけないのです。天上のいかなる存在も我々を歓迎せざるを得ない、その様な価値的存在になるべきです。 イエス様の血と肉は地上でのみ通じることではありません。地上でのみ適用されることではありません。信仰路程が天上でも適用されるのと同じく、それらは天でも適用されます。ですから、我々がイエス様の血と肉を完全に受けたとするならば、私の所願が天上でも地上でも完成されるようになります。そして、完成されたそれが,天上ではイエス様の所願に地上では聖霊の所願に代わるのです。 そうして、二つが一つになって、イエス様と聖霊が成したことを受け継いで、イエス様と聖霊を休ませ、神様と再び約束できるその基準まで行かねばなりません。そうしてこそ初めて、新しい神様の歴史、全体的な天の摂理歴史が皆さんを通して勝利の基準として立ち、進行されるようになるということを皆さんは忘れてはいけません。 祈祷 お父様! 地上では真理の戦いが行なわれており、天上では愛の競争が行なわれているということを我々は知っております。 地上での真理の戦いはイエスの体における戦いを象徴し、それを帰結するための一つの目的があることを我々は知っており、我々が天上に向かって願うこと、愛を慕うことはイエスの肉の御旨を完結するためのものであるということも知っております。 愛と真理が交差できる一つの基準は、イエス様が臨在できる基準であり、聖霊が臨在できる基準であり、神様が運行されることができる勝利的な基準であるということを我々は知りましたので、お父様の勝利の基準がイエス様を中心としてではなく、聖霊を中心としてでもなく、地上にいる私を通して、我々を通して立てられるよう許諾して下さい。 そうして、その基準が永遠に変わらない一つの帰結の終点、または円形を描きながら回転する、ある一点に向かって歩むべき我々の使命が残っているのを知っております。 お父様、ここに集まったあなたの愛する子女たち、お父様の前に、イエス様の前に、聖霊の前に立って、「あ、お父様! 主よ! 聖霊よ!」と叫べるように許諾して下さい。また、その声に天上が動かされるよう許諾して下さい。地上が動かされるよう許諾して下さい。心から願うことを許諾して下さって、「お父様」という声が天を通して地上の万物にまで至るように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日我々によって、イエス様が我々に血肉を下さった目的が完結されるよう許諾して下さり、イエス様の人格に代わった永遠なる勝利の園で、お父様に仕えながら生きることのできる子女の名分を立てるように許諾して下さい。お父様、切にお願い致します。 今、私の心にイエスの血が滲み込むように、私の心がイエスの肉に凝るように許諾して下さり、私の所望と私の意志が天上の所望と天上の御意に代わることができるよう許諾して下さい。 我々はイエスを殺した血統的な罪の因縁から逃れられなかった故に、今日サタンの本質的な要素を精算することができないので、お父様、このすべての罪悪の要素を蕩減して下さって、生命の恩賜のみがあふれるように許諾して下さい。 このすべてを主管し、超越して、生命に代わったイエス様の血の価値を我々が現すように、体に代わったイエス様の勝利的な栄光の園を現すことができるように、お父様、切にお願い申し上げます。 すべてを主管して下さった恩賜に感謝しつつ、主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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復帰の価値を現わそう1956年7月3日(水),本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛なるお父様、3日間をお父様の愛の懐で守られて、この夜再びあなたの御前に多くの子女たちが集まりましたので、この者たちの頭上にあなたの栄光が共にあるよう導いて下さい。耐えつつ摂理されるお父様の愛のみ手が共に現われて、この者たちによって万民が敬拝せざるを得なくなる心の感動が起こるように許諾して下さり、それによって柔和謙遜にお父様にひれ伏して敬拝できるこのひと時になるよう許諾して下さい。 お父様、3日間お父様の懐の中で生かして下さった御意に対して、我々の心と体がそれにふさわしくなかった時が多かったと思います。足りなくて天と地の前に、あるいはサタンの前に讒訴される条件があるならば、この時間お父様の愛の力でその条件を防いで下さり、力ある御手でそれを除いて下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 渇望する心と体になるように、天上に閉ざされていた愛を慕うことができるように許諾して下さり、天が喜べる一つの祭物として捧げられるこの時間にならしめて下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 この場に集まった子女たちの心と体が、お父様が喜ばれる祭壇の祭物になるよう主管して下さい。お父様が取るにふさわしい子女たちになるように導いて下さい。そうして、お父様のすべての忠告の御言と命令の御言を残らず受けることのできるこの時間になるよう許諾して下さい。 お父様の勧告と愛の恩恵をやむを得ず受ける者たちがないように主管して下さり、全体が一つの心と一つの喜びでお父様の心に代って一つになれる貴き時間として導いて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、あなたの御前に出て彼らの中で、自分を中心としたある事情があるならば、お父様が炎のような目で洞察して下さって、それに勝てるようにして下さり、彼らが平和と感謝の心でお父様の実存を悟るように導いて下さい。そうして、自分の足りなさを事実どおり告げて悔い改められる感動の歴史が現われるよう許諾して下さい。 お父様、その感動に我々の心と体が動かされるように、全体が動かされるようにして下さい、我々自体がお父様に感謝の祭物、栄光の祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。 我々一人一人にお父様の御言の恩恵を下さり、我々各自の心と体に罪悪の要素があるならば、これらすべてをお父様の前で精算できるこの時間になるように主管して下さり、この時だけでもお父様の愛の懐に抱かれて、お父様の柔和な本性に似るように許諾して下さい。 お父様の平和なる本性に似るように、涙こぼるる感動感化の心でお父様の栄光を称え、お父様の貴さの前に讃え捧げられるこの時間になるよう導いて下さい。 お父様、今日は民族に代って数多い教団が我々と共に敬拝を捧げる日ですが、集まる所々ごとに哀れみの愛を許諾して下さい。そうして、無知な民族が心の門を開けて天倫が要求する一つの生き方で、天が立たしめようとする切ない愛の心情を察することができるように悟らせて下さり、そのような子女たちが所々から多く現われ愛の炎を起こすよう役事して下さい。そのような生命の炎が全世界に現れるよう許諾して下さい。 お父様! 救いの能力をこの民族に与えて、民族を代表したアベル祭壇が勝利の条件を備えて、すべてを復帰できる勝利のアベル祭壇として捧げられるように許諾して下さい。天が要求される祭壇を設けることができるよう導いて下さい。 孤独な道に立って、この時間天に向かって心と体と誠心を尽して敬拝を捧げる小数の群れの上にお父様、共にいて下さい。彼らは、最後の日に与えられたところの使命が大きいということを知って敬拝を捧げる群れですので、お父様、一人でもサタンの誘惑に負けないように導いて下さい。その集まるすべての群れは、お父様の愛の摂理から選ばれた者たちですので、一人でも捨てないで下さい。そしてサタンに、やられてお父様を悲しませる子女たちにならないよう守って下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 きょうも天に向かってやるせない心情で、隠れた祭壇で万民に代って人知れず續罪の祭壇を設ける子女たちが多いと思います。また、洞窟であるいは山や荒野でお父様の心情に代って叫ぶ哀切の子女たちが多いので、お父様、彼らの前に最後の日に約束されたところの御旨を現わしめて下さい。 許諾されたところの恩恵を与えて下さり、この民族が天の前に栄光の祭壇を設けるよう、この民族が喜びと勝利を歌えるように、この民族のすべての祭壇に代った一つの祭壇を造成して、天上天下に永遠な真理の烽火をもって出られるように導いて下さい。 お父様! この事を準備するためには隠れた祭壇を守らねばならないので、早く多くの群れが集まるように、早くこの民族がお父様に仕えるように許諾して下さい。あふれる喜びでお父様の栄光を表わすよう導いて下さい。 最初から最後まで主管して下さり、一人の生命でもサタンの祭物にならないように導いて下さることを切にお願い申しあげます。 主の御名によってお祈り致しました。アーメン 祈祷(Ⅱ) 一つの御旨を成就するための路程が、万民たちの知らない孤独な路程であったことがわかる時、ヤコブが歩んだ21年の生涯が我々の信仰の行路として残されていることを考える時、苦難の足跡ごとに涙と溜め息が疼いているのがわかります。 お父様、今日集まった者たちも、ハラン荒野を前にしてラバンの家に向かっていったヤコブの路程を模範として、御旨の道を歩むため出発した群れですので、彼らを同情し、彼らの友になって下さい。彼らの歩む道を守って下さい。 彼らの行く道の前に多くのサタンが立ち塞がっています。黒暗の権勢が立ち塞がっていますので、愛するお父様、ヤコブの歩んだ路程を模範として歩もうとする子女たちの心に変らない一つの中心だけが残るように許諾して下さい。一片丹心を捧げて天倫の御旨だけを心に抱いて、肉身のすべての条件を忘れて、走り抜くことのできる子女たちになるよう許諾して下さい。 そうして、最後の凱歌をお父様の前にお返しする時までは、耐えながら戦って行かねばならないが残っておりますので、天よ、力を許諾して下さり、能力を許諾して下さい。ヤコブの孤独な心情を受けつぐ、地上から天の果てまでつるした弟子を天使たちが上り降りするその栄光を眺める恩賜をこの場に許諾して下さい。 最後まで協助して下さる天が共におられることを彼らがわかるように許諾して下さり、お父様の忍びの心情をわかるように許諾して下さい。そうしてお父様の永遠の御旨が成就されるその日まで、戦いの勇者として、耐え忍ぶ勇者として最後まで戦って勝利できるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今すべてのことを委ねました。我々がお父様に申しあげたい切ない心を、このすべてを中心として受け取って下さり、体と心が一つに化した祭物として捧げられることを願っておりますので、すべてを祭物として捧げられる恩賜として許諾して下さい。 お父様! この時間が許諾された恩恵に感謝できる時間になるよう導いて下さり、私的なすべての主張を防いで下さい。サタンの讒訴条件をもっている嘆息の群れにならないように、勝利の栄光を高く上げ柔和謙遜の祭物を体と心を尽くして、勝利の祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。 心と体を完全にお父様の前に捧げましたので、すべてを勝利の栄光として主管して下さい。喜びの恩恵がこの時間共にあるように許諾して下さることを切にお願い申しつつ、主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅲ) お父様、一人の心が天の前で中心を失えば、全体に及ぶ影響が大きいということを各自がわかるよう許諾して下さい。私一人が足りなくてサタンにやられてしまうと、準備した祭壇全体がお父様の前に捧げられなくなるということがわかるように許諾して下さい。 もし、天の役事が表われて分別の役事を起こすならば、中心が取れなかった者はカインの道へ、中心が取った者はアベルの道へ立ち入ることを知っておりますので、この場にはアベル的な存在が多くあるように、そしてカイン的な立場に入らないように許諾して下さい。 お父様! この時間、分別の役事を起こされて、我々の心を自らが明白にすることができるよう、我々の心に中心を立たしめて天の右の立場に立つことができるよう導いて下さい。 左に立って右を盗み見する者の心を持たないように、天が喜ばれる所に向かって柔和謙遜となって、知らないうちにお父様の前に屈伏できる者になるよう導いて下さい。天上の中心と和動するためあらん限りの精力を尽くすよう許諾して下さい。 この夜あなたの愛する子女たちが生命の御言が受け入れることができるよう、心と体に天が新しい炎の御言を伝えしめて、我々が各自どんな立場にいるかを悟ることができるよう許諾して下さい。 そうして、天から喜ばれるその一日の心を探すよう導いて下さり、お父様の祭壇の前にふさわしい体を立てて喜びの存在として立つことができるよう許諾して下さい。 この夜、幼い子女たちを前にして許諾されるところの御言を伝えようとしますので、お父様、ふさわしい御言を現わして下さい、願われることと望まれるところがこの時間に成されるよう許諾して下さい。 我々にあるすべての邪悪な心を取り除いて下さって、善の心の基地で喜べる栄光の生霊を奉ることができるよう許諾して下さい。 この時間、御言を伝える者の心と受ける者の心がお父様の形相に似て、一つの形を揃えて、授受できる時間になるよう許諾して下さい。そうして、天上が我々によって和動ができる貴い時間になるよう許諾して下さい。 聖霊の炎ですべてを主管して下さることを切にお願いしつつ、愛深き主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 世界復帰の使命をもって来られたイエス 神様が堕落した人間を救おうとされる目的は、皆さんがよく知っているように、人間たちをして創造本然の状態に回復することにあります。神様の御旨を悟った数多い先志聖賢たちはその時代時代を経ながら、そのような復帰の目的に責任もち、その御旨を成就するため、その一つの目標に向かって苦労してきたのです。即ち、イエス前の4千年の歴史も、イエスがこの地上に来られ30年生涯戦った路程もその目的を成し遂げるための路程であったし、亡くなられた以後2千年間聖霊と共に戦いの歴史を展開されたのも、やはりこの一つの目的を成すための路程だったのです。 イエスがこの地上に来られた目的は歴史の復帰のためであって、さらには、御自身の復帰と世界復帰の使命をもって来られたのです。それで、イエスがこの地上に来られて語られたその福音の御言は、過去のイスラエルの歴史を回復するための御言であって、30年生涯の自分を復帰するための、さらには、世界人類を復帰するための御言だったのです。 それゆえに、今日まで人間たちはイエスが残して下さったその御言を通して復帰摂理を分担しつつ歴史過程を経てきているのです。 今日皆さんは、2千年前にイエスが語られた新約の御言を中心として、過去6千年歴史を蕩減し今後の永遠の生涯を代身できる忠臣の姿を備えて、自分一身を回復すると同時に、歴史を回復し未来を回復できる勝利的な価値を探さねばなりません。そうできなければ、イエス・キリストがこの地上に来られて4千年歴史に代り、御自身の30年生涯に代った福音の御言と、万民を回復するため生命の御言として残されたその福音の御言は何の実も結ぶことができないのです。 今日皆さんは、4千年歴史に代ったイエスの恨みを解いてあげる子女たちになるべきであり、30年生涯を通して万民の前に新しい復帰の理念を立てて天の勝利的な基盤を成そうとしたイエス自身の復帰の使命、また、聖霊と共に2千年間苦労されたその使命を全うする子女たちにならねばなりません。 そうして皆さんは、歴史の代りとしての立場で勝利的な復帰の栄光をお父様の前にお返しし、勝利的生涯を経たイエス一代の価値以上の価値として、お父様の前に栄光をお返ししなければなりません。 そして、イエスが新しい福音の御言を宣布なさり、2千年の救援摂理をなして来られたのと同じく、今日皆さんは再び天から新しい御言を引きついで、すべての復帰の偉業を全うし、それを千々万代に永遠に残してあげなければなりません。このような使命が今日の皆さんに残っているということを、皆さんは一時も忘れてはいけません。 イエス自身は神様の復帰歴史を成就するため人間の前にはすべてを現わしながら役事してきたかというと、そうではありません。今までイエスは、復帰摂理の具体的な内容を現わせないで復帰歴史を歩んできたという事実を我々は原理を通してよく知っております。 イエスの歴史は自身を隠しておいて、象徴的な許しの御言を通して天の御旨をこの地上に成し遂げるための復帰歴史でした。さらに天の栄光を人間の前にすべて現わすことのできなかった復帰歴史でした。ゆえに我々は、摂理の具体的な内容をはっきり表わさないまま復帰歴史を推進して来なければならなかったイエスの内的心情を知らねばなりません。 イエス様が内心を現わすことができなかった理由 それでは、今日皆さんが復帰の栄光を備えるためには何を知らねばならないのか? 皆さんは先ず生活を通して、イエスが現わせなかった隠された復帰の価値を知るべきであり、次には、心を通してイエスが現わせなかった隠された復帰の価値を知らねばなりません。その次には、永遠なる生命の価値を現わせなかったイエスの隠された復帰の内容を知らねばならないのです。 そして、神様が天倫に代って復帰の栄光を全うしようとされる時、我々は何を知らねばならないのか。 イエスが生涯の生活過程で、心の奥深く隠しておいて万民の前に語り切れず、明らかにできなかった内容が何であるかを知るべきです。 もし、そのような内容を皆さんが知らなければ、皆さんによって天上天下に代ったすべての復帰の価値を地上から天上にまで表わすことができないのです。 今日我々が、イエスの福音の御言を考察してみると、その中にはイエスの具体的な生活内容が全く出ていません。イエスは、奉仕の生活として自分の隠された生活の一面を暗示していたのです。即ち、自分が高くなれる栄光の息子でしたが、その自分の一身を低くして多くの罪人の足下に入って奉仕する生活をすることによって隠されたところの一面を現わしたのです。さらにイエスは、だれにも言えない心の中に隠された一面を無言の生活として現わしたのです。 イエスは自分に付いていた弟子たちにも自分の内心を発表できませんでした。 では、なぜイエスがそのような秘密を発表することができなかったのか。天上の秘密を心の中に持っていたとしても、その秘密をわかってくれる人がいない時それを発表すると、サタンにやられてしまうことをイエスはわかっていたので発表できなかったのです。即ち、イエスはお父様から知らされた事実を一人でしまっておいて、人間の前に伝えてあげねばならぬという哀切のやるせない心がありましたが、自分のそのような心を察して訪ねてきて聞いてくれる人がいなかったので、天上の秘密を人間の前に発表できず、隠された心の一面を人間たちの前に現すことができなかったのです。 こうしてイエスは十字架の絶頂にまで出され、教師たちとピラトの前で“自称ユダヤ人の王”という罪目で審問されるようになりました。その時、イエスは沈黙で一貫したが、ピラトから“あなたがユダヤ人の王なのか”と聞かれた時、初めて自分を証ししました。 善なる天の側の人たちが、イエスを自分たちの王として仕えることを生涯の栄光と思って礼拝を捧げるべきだったのに、イエスはピラトの前で罪人の名として審問されるようになりました。このように避けられない立場でサタンの審問を受けて、神様の悲しみに代った立場で沈黙を守っていた口を開けて、事実を事実通り言わざるを得なかったのです。 これを見る時、いくら天の歴史でもサタンが天の側に対して事実を明らかにして反問すると、天の側でも隠された心を現わすしかなく、またサタンの側でも神側にいる聖徒たちがサタンの隠れた秘密を暴き出すと、それを現わして言わざるを得なくなるということを我々はわかるようになります。 イエスは自分の中に、だれにも言えない復帰の内容をもって生活する中で、無言の奉仕を通して天倫の摂理を推進し、さらに、その実践的な面においてもだれよりも先頭の立場に立って、残された復帰の内容を現わしたのです。ですから皆さんは、このような復帰の理念を代身できるイエスの心に分け入り、“あなたの心はこうでしょう?”と反問できる人にならねばなりません。 聖霊の協助を受けて隠された摂理の秘密を知らなければ もし、そのような人が現われなければ、歴史がいくら経過しても、イエスの心の中に隠された摂理の秘密はこの地上に現われることはできないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 そして皆さんは、イエスが生活を通して現わした復帰の秘密と心の中にある復帰の内容を知らねばなりません。 そうなってこそ皆さんは、神様の前に堂々と立つことができ、サタンの前にも自信をもって出られる者、即ち一つの勝利的な生命を復帰完成した者になるのです。 イエスは30年生涯を通して4千年歴史を蕩減して、天上天下のすべてに代って復帰の中心を全うしました。ところが、今日までこのようなイエスの完結した価値、即ちイエスが抱いていた心の中の秘密と、知られていないイエスの生活の価値を引きつげる者がなかったのです。 それで、そのようなイエスの内的秘密と生活的な秘密をだれが代りにもって現われたかと言えば、聖霊だったのです。 今日皆さんは、イエスの福音の御言を信じているが、その御言自体だけ信じては復帰できません。そこに必要なのは、聖霊が私の生活を協助し、私と共にいなければならないということです。 ゆえに、イエスが犠牲奉仕の路程を歩んだように、皆さんもそのような路程をへて十字架の絶頂にまで出てこそ、イエスの隠された生活的な秘密がイエスと聖霊を通して、初めて現われるようになります。また、心の内に持っていた内的な秘密もそのようにして現われるのです。 それゆえに、今日我々は聖霊が協助する生活を通して聖霊の心と一つになって、心と生活が一つになり、イエスと聖霊が一つになった因縁を私一人を中心として結ばなければ、真の生命は存在できないということを知らねばなりません。 このように今日我々は、聖霊の協助を受けて、イエスが生活的な面で隠してきた秘密に包まれた復帰の内容と、心に隠された復帰の内容を成していく重要な過程にいるのです。したがって、そのような過程にいる我々は、イエスと聖霊が一つなったのと同じく、聖霊と私が一つになって、イエスを中心とした三位一体の型の基準を持つようになる。そしてその時こそこの地上で神様の勝利的な基盤が造成できる平面的な基台が成されるのです。 そして皆さんは、秘蔵されている真の生命の内容を探していく上で、イエスと聖霊の協助を受ける生活をしているとしても、その生活は全生命を復帰する上でも一部分に過ぎないのです。なぜなら、全生命の復帰の秘密は末だに天上の秘密として残されているからです。それゆえに、イエスと聖霊を通して生命的な価値の内容をある程度までは全うしたとしても、それだけでは終結されません。まだ神様がイエスと聖霊を通して現わさなかった生命の隠された部分があるのです。 我々に必要なもの 今日、復帰の価値を全うしなければならない我々は、イエス生涯の“秘密の価値”を多くの人たちに見せてあげねばなりません。また同時に、イエスが持たれた秘密の価値に代り、イエスと聖霊の宇宙的な生命の価値を神様から再び認めてもらわないといけないのです。 それでは、今日皆さんはどのような状態にいるのか? 皆さんは、イエスを愛したい心はありますが、まともに愛していないということです。ゆえに、イエスと聖霊が合力によって、人間たちが神様を愛するため奉 仕の生活をずっとやってきたことと、イエスが万物万象に代って苦労したその価値ほど、神様がイエスを愛することができなかったその愛の内容を皆さんは学ばねばなりません。 皆さんがそのような愛の内容を知って成して行かなければ、天の恨みを解くことも神様の残された復帰の歴史のこの地上で完結することもできないのです。 それでは、イエスの3年公生涯路程と十字架路程、亡くなられて2千年間聖霊と共に苦労してこられた協助の路程の上で、生命復帰と長成復帰摂理の目的に向かって進んでいる我々に必要なものは何か? それは、神様がイエスと聖霊を愛し、6千年間全人類を抱いて愛した、その善の基準の心を見習って、我々の心とイエスと聖霊の心が一つになって働ける愛の中心を立てなければならないということです。万が一、そのような皆さんにならなければ、生活的な復帰、心的な復帰、生命的な復帰を完遂して、すべての生命と栄光の価値を成就することのできる、神様の愛と関係を結ぶことができません。 神様と愛の関係を結ぶためには それでは、今日我々がそのような神様と関係を結ぶためには、どうすべきであるか。我々は、イエスが歩んだ全生涯の中心の内容と、今まで2千年間人類のために苦労したその心を経なければなりません。 即ち、歴史過程で万民に対して悲しんだイエスの内的心情、イエスが亡くなられた後今まで役事してきた聖霊の内的心情、創造以降6千年間摂理され、さらに来たるべき理想世界を成すため苦労される神様の哀切の内的心情を体恤しなければならないということです。そのような皆さんにならなければ、皆さんは永遠に残される生命の栄光を代身できる神様の愛を中心として、すべての復帰の価値を完結することができないのです。皆さんはそれを忘れてはいけません。 ゆえに、皆さんはイエスが歩んでいたのと同じく、聖霊がなしたのと同じ人の道を歩まねばなりません。さらに、使徒たちが歩んだ路程、即ち、自分自身の存在感までも忘れて、ひたすら神様とイエスと聖霊のため生きたその使徒たちの生活を見習わねばなりません。 そのような路程を歩むようになる時、初めて私の心と生活を主管することができ、私の生命が神様の愛と因縁を結ぶことができるようになります。さらに、イエスの愛が私によって現われ、聖霊の愛が私の生活まで臨在されるようになるのです。皆さんはそれをはっきり知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.10
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根になった者たちの責任1956年7月1日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛するお父様! ここに集まった子女たちの心情をあなたは知っておられますが、この者たちの体の細胞一つ一つまでも哀れみのお父様に向かっていくように許諾して下さい。 彼らの体と心が、あなたが運行される愛の御手に捕えられるよう許諾して下さい。彼らを全体の和動の要素として現わして、あなたの御言を証しするために命をかけて駆けぬけることができる天の勇士として、この時間聖別して下さい。 お父様、集まった多くの子女たちを哀れに見て下さい。あなたが許諾される生命の御言に頼って、一段階上がらなければならない運命の復帰路程が残っていることがわかっております。愛のお父様! 愛の御手を差し延べて不足な我々の手を取って導いて下さい。我々が体と心を合わせてひれ伏しましたので、お父様、導いて下さって我々の心を天の心に変えることができるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 今日、ここに参席した数多くの群れを祝福して下さり、神様の生命の役事と感動の役事と復活の役事が現われるように許諾して下さい。今我々が持っているあらゆる現世の観念をお父様の御前に全部現わして、柔和謙遜な子供の心情を持って出ていますので、お父様、恩恵の御手で再創造の役事を起こして下さい。聖霊の炎を現わして下さい。隠した愛を現わして、最後の日に彼らが閉じた死亡圏の門を開けてお父様の勝利の栄光を現わすことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 もう多くの御言が必要でないことを知っております。集まった子女たちが多くの御言を受けなかったとしても、許諾されたところの恩恵を受けて充分に耐えうるようにして下さい。天のお父様、許諾されたところの約束の御旨を成し遂げようと、天に向かってこの時間約束し、決意しましたので、空いた器があるならば満たして下さい。お父様の溢れる恩恵に酔って感謝でき、お父様に栄光をお返しできる生きた子女たちとして立てて下さい。お父様から愛される子女たちとして立てられる恩恵をこの時許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 伝える者の心と受ける者の心を一つに結んで下さり、天の感動に我々の心が感動し、天の動きに我々の体も動かされて、お父様の形状に心身共に見習って似ていくように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 残りの時間も哀れみの命令の御言として役事して下さることをお願いしつつ、愛なる主の御名によってお祈りしました。ア-メン。 祈祷(Ⅱ) 許諾されたこの日、お父様の御前に敬拝しようとひれ伏しましたので、ここに集まった個人個人への心霊を洞察されて傷のない心を起こして下さい。この時間に捧げる敬拝がお父様の哀切な心情を慰めることができる敬拝になるように許諾して下さい。あなたが経綸される御旨を我々に命じて任せることができる時間になるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 子女たちを呼び集めたのもあなたであり、彼らを呼び集め生命圏の中で働くようになさったのもあなたの役事であることを知っております。あなたが約束された聖霊の炎を許諾して、各自の体と心が和動して全体の楽しみとして現われるに不足ないように導いて下さり、お父様が要求された神聖のすべてがこの時間現われるように許諾して下さることを、 愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まった子女たちの上に哀れみの愛を注いで下さり、天の栄光に向かって全体の心が傾くように聖霊の役事を働かして下さい。そうして、我々皆が民族の代身として、人類の代身として、天上天下の全被造万物の代身として、至聖所の門を開けてお父様の御前に尋ねていって、勝利の祭物を捧げることができる敬拝の時間として受けて下さることを切にお願い申し上げます。 我々の敬拝によって、この民族がお父様の御前に立つことができるように許諾して下さり、さらには、全人類が罪悪圏から逃れて、お父様が主管される善主権の世界へと移ってくることができる機会を持つように許諾して下さることを、切にお願い申し上げます。 この時間も、民族の代身として天の前に精誠を尽くしている祭壇が所々に散らばっているのを知っております。いかなる所で天に向かって敬拝するとしても、等しい恩恵が与えられるよう祝福して下さい。最後の日に予告されるはずの全体の役事を予告して下さり、お父様がこの民族を通して立てるべき全体の御旨を立て、この民族が、証しする使命を果たすことによって天が喜ばれる基として立てて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この時間、全体の身も心もお父様に向かって、敬拝できる心とひれ伏して従順なる心をお父様の御前に捧げましたので、約束なさって成し遂げるべきすべての御旨を彼らに命じて下さることを、切にお願い申し上げます。 聖三位神の役事が全体の頭の上に充満するように導いて下さることをお願いしつつ、主の御名によってお祈り捧げ申し上げました。ア-メン。 神様の摂理の中心 それゆえに、今日まで経綸してこられた神様の摂理の中心点は、エデンの園で人間の幸せの根にも、理想の根にも、生命の根にも、愛の根にもなることができたその根本の根、即ち、アダムとエバを通して立てようとされた根本の根を再び探して立てるということでした。 ですから、摂理の路程を歩んできた数多くの先志先烈たちも、天倫の事情は良く知らなかったとしても、彼らが御旨の中で苦労してきたことは、摂理の目的としてなして捧げるべきその失われた根を不変の実体として迎える為の土台を築いてきたことになったのです。 そうして、摂理の歴史を始めてから4千年が経る中で、エデンの園で失われた根を再び取り戻す為立てられた方が誰だったかというと、皆さんが信じているイエス・キリストでした。 故に、この地に来られたイエス・キリストの使命は永遠に残る根として、神様がこの根を根拠にして自由に経営されることができる一つのぶどう園のような形態を堕落した地上に再び立てることでした。これが即ち、この地上にイエス・キリストを送られた神様の目的でした。 天の摂理が出発して以来4千年が経てイエス様が現われるまでは、数多くの先志先烈たちの天の御意を中心とした血と涙の苦労の道があったということを皆さんは知らねばなりません。 即ち、家族を代表した摂理の御旨もあったし、民族と国家、世界、歴史の代身としての摂理もあったが、その摂理に代わったある地域なら地域、環境なら環境を 経てくるまでは、根の要素になれる数多くの先志先烈たちの苦労の基地があったということを皆さんは忘れてはいけないのです。 そして、個人として、民族として、さらには世界として立てられる根まで完結させられた実体として送られた方がイエス様でした。 今日、イエス様を信じている我々が知るべきものは、イエスの生涯の苦労と、イエスが亡くなられた以降今までの2千年歴史のあらゆる苦労が、世界を代表しての苦労だったということです。そして、イエス様が完成された一つの根として神様の前に立てられるまで、その背後に隠れた根として、歴史の試練の折々を代行して怨讐と闘ってきた先志先烈の苦労を皆さんは知らねばなりません。 隠れた苦労の生涯を歩んだアブラハム イエスがこのように完成された存在として立てられるようになったのは、アブラハムという歴史的な背後の存在があったからです。 アブラハムは人がわかってくれない環境の中で、即ちサタン圏である怨讐の国に捕えられて、天倫の御意を裏切ることができたような立場でも天を裏切らなかった隠れた人格の所有者だったのです。このように、隠された根のようなアブラハムは時代が、歴史が、環境が混乱したとしても、その様なすべてから逃げようとしないで克服してきた上に、かえって没落していくソドムとゴモラに向かってやるせない思いで訴えたのです。 たとえ、悪人でも自分が何かを持ったとすればそれを自慢しようとするのが人間の俗性である。しかし、アブラハムは長い期間を通して神様の御意を受け入れる為、心に約束された大きな摂理の御旨を持っていながらもこれを現わさないで希望の中で、ひたすら立てられた一つの根として、いかなる人から邪魔されてもびくともしなかった。そして確固たる基準を立てる為あらゆる迫害と侮辱の中でも耐えて克服してきた隠れた苦労の生涯を歩んでいった方でした。 このようにアブラハムは、元の前に自己一身の不変の基台を立てたのは 勿論、自己一身の犠牲的な生活が蒔かれた種になって、地上万民の為、また、悪の民族までも天の前に帰ることができる、一つの不変の基台を立てるようになった。そしてその日にはこの基準を持って変わらないという切ない心情を持っていた人でした。 ソドムとゴモラの街は神様から審判の刑罰を受けるべき所であって、アブラハムがいる所とは何の関係もない地域でした。しかしアブラハムは、ソドムとゴモラの街が天の御旨に対して無知であっても、その民族がどうなっても何の関係もない人であったが、彼は天の前における摂理的な使命感だけではなく、耐え得なければならないという責任を感じたので、昼も夜もソドムとゴモラの街に対してやるせない思いをし心配したのです。その様なアブラハムの内的心情が現われているのがここに書かれた御言です。6千年歴史の終結時期を迎えた今日、皆さんが楽に寝ることができ、いい服を着て、ごちそうが食べれるのは、自分が偉くてではありません。そう思ったら大変なことになります。 今日、世の中がどうにか持ち耐えていけるのは、皆さんの知らない人たちが背後で隠れた根になって、血と涙の祭壇を設けているからです。皆さんはこの様な事実をすべての人たちに知らせてあげるべき使命があります。 もし、ソドムとゴモラの街の中に、アブラハムの切なる祈祷が天上に染み入って、神様と一問一答しているという事実を知る群れがあったなら、またその群れの中でアブラハムに気づいた義人何人かがあったなら、アブラハムはソドムとゴモラの街がいくら悪であっても、そこには義人がいるということを条件にして、神様に「公義で判断され審判されるお父様、義人と悪人を共に火で審判することはお父様の御意ではないでしょう?」と訴えることができたはずです。 しかし、自分自身だけが、自分一人だけがソドムとゴモラを代表して祈るようになったのが感じられた時、アブラハムの悲しみは何とも言えない程大きくなったというのを 皆さんは知らねばなりません。 では、皆さんはアブラムがアブラハムになった原因がどこにあるか知っていますか? アブラハムには自己一身の幸福、自己一身の安楽よりも、家族の為に命をかけて訴えた隠れた基準があったという事実を皆さんは忘れてはいけません。 アブラハムが信仰の先祖になった理由 イエス様が信仰の実として現われるようになったことも、アブラハムのような方が天の摂理の前に立てられて、地上に現われなかった隠れた根の役割を果たしたからです。つまり、摂理歴史過程で他のすべての者が曲げられたとしても、天上に対して永遠に変わらない不変の信仰を実証できるアブラハムのような方がいて、信仰の根の役割をすることによって、その基台の上でイエス・キリストが誕生することができたということを知らなければなりません。 皆さんは個人の立場のアブラム(訳すれば「大なる父」)から、信仰の先祖になることを決定されたアブラハム(訳すれば「諸国の父」)になったそれ自体よりも、彼が人の知らない大変な苦労の道を歩んだことから、我々は今日の歴史を眺めながら、私とアブラハムを1対1の立場において比較し自分自身を反省して見るべきなのです。そして、アブラハムの立場を体恤しなければなりません。 アブラハムがソドムとゴモラの街に対して隠れた根の祭壇を設けたことと同じく、自分が住んでいる所とそこの住民たちに向かって切に訴えて祈ったアブラハムの熱い心情を、皆さん自身も持つべきです。アブラハムの苦労の路程で立てられた信仰の基台、隠れた根のような基準を皆さん自身が相続せねばならぬということを決して忘れてはいけません。 信仰の先祖アブラハムの家庭が、恵みの機関として約束されましたが、これがイサクとヤコブを経てモーセを通して民族的な形態をなし、イエスを通して 世界的な範囲に拡大されたのです。アブラハムの天の前に染みわたる忠誠心と信仰がなかったら、この地上には天と接続させることができる一つの因縁ができなかったということです。 今日、人間は自分に良いものがあれば表面に現わそうとします。現わして自慢しようとします。しかし、このように現わして人に知らせようとする人は、一つの枝のような責任は果たすかもしれませんが、一つの根としての責任は果たせないということです。 アブラハムが信仰の先祖になることができた隠れた秘訣が何だったかわかりますか? ひたすら天を慕う心と地を愛する心だけだったので、天のお父様との広くて深い因縁のもとが与えられたし、信仰の先祖になることができたのです。 民族の指導者になったモーセ モ-セもやはり同じです。モ-セ自身が民族の前に立たせられるまでは、一つの隠れた根として過ごしたパロ宮中での40年間の苦労の期間があったのです。モ-セはパロ宮中に留まる間、権力や富貴に溺れたり、歓喜に溢れる生活をしませんでした。彼はいつも、食べたり着たり寝たりする生活のある一瞬間においても、イスラエル民族を心配しなかった時がありませんでした。 エジプトにいるイスラエル民族の中でモ-セ一人だけが、その民族が知るも知らずも、天に向かった忠誠心が変わらなかったのです。 怨讐の懐の中にいながらも、不変の核心体として、いかなる環境が自分を押しつけ、天倫の御旨に向かった自分の心を遮る何かがあったとしても、絶対変わりはしないと誓いに誓ったモ-セでした。モ-セにこのような天に対する不変の心情と精誠を捧げる40年期間があったがゆえに、のち民族に対する愛の力を爆発させることができたのです。 皆さんにはモ-セが血気盛んな人に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。エジプト人とイスラエル人が争うのを見て、エジプト人を殺したモ-セの義憤感は、その瞬間の衝撃から生じたことではなかったのです。その光景を見て、モ-セは40年間天に向かって切ない心で民族の為訴えた内的悲しみの心情が爆発したのです。つまり、イスラエル選民が悔しくもやられるのを見て、抑制できない義憤感が生じてエジプト人を殺したということです。このように、イスラエル民族に対する愛とエジプトに対する義憤感が、その様なモ-セの行動の内的原因であったのです。そして、その様なモ-セの行動には摂理的な御意が内在されていたということです。 モ-セが欝憤を耐えられなくなってエジプト人を殺したのは、イスラエル民族の運命を心配し責任を持った立場から殺したことであって、それはエジプト人がイスラエル民族を迫害した罪に比べればわずかのことでした。それで神様は誰よりも民族の為心配するモ-セを民族の指導者として立てられたのです。しかし、イスラエル民族はモ-セを誤解し、エジプト人を殺したのを暴露することを通して、モ-セは自分の行動がばれたのを知り、仕方なしにミデアンの荒野へと身を逃れるようになったのです。 ミデアン荒野で生活したモ-セは、パロ宮中での派手だった暮しを恥かしく思い、パロ王の娘が自分のためにすべてのことをしてくれる自由な環境で過ごした過去の富貴栄華を全部忘れました。そして、羊飼いの服を着て羊の群れを追い歩く身の上となったが、その羊の群れを眺めながら、昔の先祖アブラハムに約束されたカナンの地を懐しがりました。 今は羊の群れを追い歩いていても、いずれの日に羊の群れを追い歩くように、民族を導いてカナンの地に入ろうという切ない心で天の前に訴えたモ-セでした。モ-セは寝ても覚めても、心を痛め思い焦がれてそのすべての精誠を尽くして、アブラハムがソドムとゴモラ人の知らないうちに彼らの為祈ったのと同じく、この民族の為心配し祈りました。 モ-セはエジプト人の迫害と塗炭の中で苦しんでいるイスラエル民族を見ると、骨が溶けるような悲しみを感じ、天に向かって、「エホバよ! 私を見てこの民族を哀れに思って下さい」と訴えたのです。それで神様は、このように精誠を尽くしたモ-セをエジプトの地から60万民衆を導き出す指導者として立てたのです。そして人の目には何もない ような、ミデアン荒野で羊飼いの生活をしていたモ-セを、先祖たちからの隠れた根を受け継ぐことができるようにして民族の代表者としてたてたのです。そして、イスラエル民族がこの様なモ-セと一つになってカナンの地へと入れるようにされたのです。 モ-セの隠れた精誠の基台を知らなかったユダヤ民族 モ-セが天から許諾されたところの約束を受けてエジプトへ入るようになった時、彼は喜びに溢れました。しかしモ-セは、決してその喜びだけに満足していなかったのです。彼は自分の民族をカナンの地へ導く為生涯を捧げたいと天の前に訴えた、その意が成就して民族が生きる道を開拓するようになったが、その様な喜びのみに満足しないで、これから第二の責任を忠実になそうという使命感と責任感を持つようになりました。 その時からモ-セは、自己中心的に行動しないで、小さなことでも大きなことでも神様と因縁を結ぶことなしに遂行したことは一つもありませんでした。 こうして,モ-セが暴悪なパロ宮中に入って、彼らの神の前で10回以上の奇蹟と災禍を行って、イスラエル民族を荒野へと導きだすようになりました。ここでイスラエル民族はモ-セと一つになるべきでした。即ち、荒野であるが、自由な環境へと脱出してきたイスラエル民族が、カナンの地に向かって行くのにはモ-セの心が、即ち自分たちの心であるべきだったのです。自分たちをパロ宮中から救い出してくれたモ-セと心が異なってはならなかったのです。ところで彼らは、モ-セと一つになれず天倫に外れる道を行くことによって滅びるようになりました。では、彼らがこのように滅びた原因はどこにあったのか? 彼らはモ-セが民族の指導者になる過程の中で、天の前に訴えた隠れた精誠の基台を知らなかったのです。そして彼らは、モ-セが自分たちを導いてエジプトを脱出したその日から、モ-セが様々な苦難の中でも自分たちの為に尽くしたにもかかわらず、この様なモ-セの苦労を知ってあげることができませんでした。それで彼らとモ-セは荒野で別れて、結局彼らは荒野で滅びて しまいました。 この様に、イスラエル民族がモ-セを不信した歴史的な事実が、今日最後の日の聖徒たちにも再び現われています。 覚醒すべき最後の日の聖徒たち イエス・キリストがこの地に来られ30年余りの生涯を人類の為苦労し、亡くなられて以降2千年間人間たちを尋ねて下さり、愛と恩恵で役事して下さったにもかかわらず、人間たちはその様なイエス様に、生活の中で真に仕えていません。 そして、イスラエル民族がモ-セを不信したことによって、モ-セがイスラエル民族をカナンの地へ導こうとする神様の御意を完全に成し遂げることができなかったような、恐ろしいことが最後の日の聖徒たちにも現われるかもしれません。イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面した時、モ-セは不信する民族を責める前、自分自身の不足を天の前に訴えました。即ち、彼はシナイ山に登って40日間断食祈祷をしながら、「お父様、この民族は許諾された地を目の前にしながらも、なぜそこに入れないですか。 その責任は誰にありますか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物にして民族の滅亡を防いで下さい」と訴えたのです。この様なモ-セの隠れた精誠の期間があったということを皆さんは知らねばなりません。 もしイスラエル民族が、モ-セが人知れず哀切の心を持って断食するのが、モ-セ自身の為ではなく彼らの為であることを知ったなら、彼らはモ-セの40日断食期間に金の牛を作って崇拝する不信の遊びはしなかったはずです。また彼らが、民族の祝福の代わりのモ-セが一つの隠れた祭物として天の前に捧げられるようになった時、モ-セの心を同情し彼の苦労を心配して、シナイ山にいるモ-セと共に涙を流しながら天の前に訴えることができたならば、彼らは神様の懐から離れていかなかったはずです。 この様に、モ-セが一人で民族の代表として寂しこを歩んだように、イエス様もその様な道を歩まれました。即ち、アブラハムの歴史的な犠牲とモ-セの民族を 代表した祭物の路程を通して、世界の中心として立てられたイエス・キリストは、アブラハムが家庭を代表してサタンの讒訴条件を防いで、モ-セが民族を代表してサタンの讒訴条件を防いだのと同じく、世界人類の代わりとして一人でサタンのすべての讒訴条件を防がねばならなかったのです。そして勝利的な蕩減の基台を築かなければなりませんでした。 イエス様は勝利の中心であり、万民の救世主 皆さんはイエス様にこの様な責任があったということを知らなければなりません。故に、世界的に勝利して不変の基地を整える時まで、イエス様の一身は御自身の一身として終わってはいけないということです。それゆえにイエス様は、4千年歴史過程の中で天の前に忠誠を尽くしたいかなる信仰の中心人物よりももっと忠誠を尽くしたし、全体の為に自分の一身を犠牲にしたのです。 この様にイエス様は、30年余りの生涯を通して自分の使命分野で、歴史上誰も備えることができなかった全体の代身としての中心形態を成したのです。もしその様な中心人物になれなかったら、イエス様は世界的な摂理の責任を持った先頭者になれなかったということを皆さんは知らねばなりません。 今日イエスを信じる聖徒たちは、イエス様を一代の十字架を背負った方として信じているが、皆さんはその様なイエス様だけを信じてはいけません。イエス様の十字架の死があるまでには、アブラハムが築いた苦労の祭壇があったし、モ-セが苦労した祭物の路程もありました。そしてイエス様は、苦難と塗炭の中にいる民族と世界人類の苦しみを感じられ、「彼らの苦痛の荷を私に背負わせて下さい。彼らには自分たちが要求する永遠な理想を許諾して下さい」と天の前に訴えただけではなく、実際彼らの苦痛に対して責任を持つため、一日も楽な生活をすることができませんでした。 この様にイエス様は、怨讐の懐にいる人たちまでも心配され、御自身の喜びよりも全体の御旨に責任を持った立場で生活したので、サタン世界との戦いで勝利した中心存在として、万民の救世主として立てられたのです。 では、最後の日に処した我々、イエスを信ずる聖徒たちが悟るべきことは何なのか? 我々は今まで、悪人の為に涙を流しながら心配し、祈ってあげる生活ができなかったということを反省しなければなりません。最後の日に審判を受けるべき人が多ければ多いほど、我々はより彼らの為に祈らざるを得ないのです。そして、我々の為に心配し祈って下さるイエス様がおられるということを忘れてはいけません。我々がその様なイエス様を忘れて不信すれば、我々は最後の日の審判から逃れることができなくなります。 根の使命を果たすべき最後の日の聖徒たち もし昔のソドムとゴモラの人たちが、アブラハムとロトを通して予告して下さった神様の審判に対する警告を受け入れて、自分たちの悪行を反省し悔い改めたなら、彼らは審判から逃れることもできたはずです。歴史的な事実は、これから成されることを実証的に教えてくれることなので、最後の日に処した今日の我々も、過去の自分の生活を反省し悔い改めなければなりません。ですから我々は、モ-セがシナイ山に登って、不信するユダヤ民族の為に祈ったように、イエス様が今この時間にも霊的シナイ山上で我々の為に祈っておられるという事実をはっきり知らなければなりません。 イエス様が2千年間天の王座におられながら、人間の為に祈るその心は、モ-セがシナイ山に登って不信するユダヤ民族の為に祈って哀切の心、それ以上でした。ですから、地上にいる皆さんはこれを知って、イエス様の御意の通りに生きるべきです。昔アブラハムが、義人10人がいれば彼らを見て、ソドムとゴモラが審判から逃れるよう神様に祈ったが、そのソドムとゴモラには義人10人がいなかったので神様の審判を受けたのです。 ですから皆さんは、イエス様が十字架で亡くなられた以降今日まで、天上におられながら人間たちの為祈っておられるように、またモ-セがシナイ山頂で祈られたように、その切なる心情を体恤してこの時代の中でイエス様の代わりに心配し祈らねばなりません。そして皆さんは、イエス様の世界的な御旨を代身できるし、歴史上の先志先烈たちの代身として天が立てられた者がどこにいるかと、目覚めて祈祷し精誠を尽くしながら探すことを忘れてはいけません。最後の日にこのように根として残される者がただ一人でもいなければ、イスラエル民族が荒野で倒れたのと同じく、我々が住んでいるこの地も世界的な終末期を迎えると、恐ろしい審判から逃れられなくなります。 では、今日我々はいかにすべきなのか? 皆さんは隠れた房のような存在なので、キリストの精神を持って歴史路程を歩みながら、一つの中心の根を待ちに待ってきた先祖たちの望みに応ずる存在にならねばなりません。そして、2千年間変わらず再臨の一日を待ちながら苦労してきたイエス・キリストの心情を痛感することができる皆さんになるべきです。これが問題です。ですから皆さんは、皆さん自身を歴史的中心人物たちの相対的な立場に立てておいて、検討し分析してみなければなりません。即ち、皆さん自身をアブラハムとモ-セとイエスの相対の立場に立てておいて、彼らの心が皆さんの心であり、彼らの所願が皆さんの所願であり、彼らの怨恨が皆さんの怨恨であると言える自分になっているかということを分析してみるべきであるということです。 今我々は、赤手空拳で天の前に出て談判して訴える祭壇を高く築けるようになるべきです。アブラハムがソドムとゴモラのため天の前に訴えた心情を知らねばなりません。アブラハムがソドムとゴモラのために祈ったのは自分の息子、娘やいとこロトのためではなかったのです。しかし、アブラハムがすべてを忘れて隠れた精誠の祭壇を築いたが故に、アブラハムと関係があったロトは審判から逃れることができたのです。 今日信ずるという人たちは「私の願いを成して下さい」と祈ります。我々はその様な祈祷はすべきではありません。かえって、「私の願いより神様の願いが成されるように………」と祈らねばなりません。天の願いが成し遂げられる時、私の願いは成し遂げられます。ですから、「私の願いを成して下さい」という祈祷はいけません。我々はあらん限りの精誠を尽くして「お父様、私をたてて下さったので、私を呼んで下さったので、私を通してお父様の願いを成して下さい」と言うべきです。 では、今皆さんが知らねばならないことが何かというと、皆さんが受け継いだ遺業は、皆さん一代だけの遺業ではなく、アブラハムからモ-セとイエスを経てきた遺業であるということです。 この時代に生きている皆さんは、イエス様が必要とされるような人になって、天が要求する御旨を成就すべきです。そうして,この地上は悪であっても、暗くても、滅びていっても、皆さんは天が立てられた隠れた根にならねばならないということを知らなければなりません。 天がこの時代に我々に要求されること 天は今日、個人的な信仰をもとにして我々に宗教の使命を成就することを要求しています。では、この要求は何か? それは、アブラハムが成したような責任を果たしたかということであり、その次は、モ-セがイスラエル民族の為哀切の心情を持って苦労したように、皆さんが韓国3千万民族が塗炭の中にいた時、モ-セのように皆さんのすべてを尽くしたかということです。そして、イエス様が創世以降から今まで、万民を救う為苦労されたように、皆さんも同じ意と心情を持って万民の為イエス様の代わりとして苦労したかと天はお聞きになるはずです。 では、このようにアブラハム、モ-セ、イエスのような生き方であったかと聞かれる時、「そうです。あなたが我々を良く知っておられるでしょう。隠された根は我々にだけあるのではなく神様の中にもあります」と言える人にならねばなりません。 その様な皆さんになる時、アブラハムが自分一身を通して信仰の節操を立てた意が皆さんによって実るようになります。さらに、モ-セが民族を通して哀願した御旨も、イエスが世界に対して抱いたあらゆる悲しみの要素も皆さんによって解かれることでしょう。 もし、その様な人がこの地上にいるとすれば、アブラハムが一代で悲しんだ心、モ-セが一代で悲しんだ心、イエス様が今まで悲しんだ心が解かれます。ですから、その様な人がいるならば、皆さんは彼に 精誠を尽くして仕えるべきです。その様な人がいなければ、皆さんがその様な人になるべきであり、その様な人がいれば、その人をアブラハムの代わりに、モ-セの代わりに、イエス様の代わりに侍り仕えなければなりません。そうして、「民族の為祈って下さい。活動して下さい」と言うべきであり、さらに、皆さんが天の前に捧げられる祭物にはなれなくても、祭壇でも設ける人になるべきです。 それゆえに、今日皆さんは神様に対して「お父様」と呼ばなければなりません。そうして、天地創造以来今までの歴史過程で、主人として行動できなかったそのお父様を実感することができなければ、皆さんは一代において解くことができません。したがって、皆さんはそのすべての代わりとして、アブラハムが祈ったのと同じく、モ-セとイエス様が祈ったのと同じく祈祷の祭壇を築かなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.10
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神様の主管世界を取り戻して差し上げよう1856年6月27日 本部教会祈祷(Ⅰ) 愛するお父様、哀れなこの群れたち、あなたの懐が恋しくて訪ねてきました。私たちの体と心を主管して下さい。私たちの全体を主管して下さい。私たちの心と体がお父様の喜ばれる心と体であることがわかるように導いて下さい。お父様の栄光と義を讃えることができる、恩恵に満たされるこの時間になるように許諾して下さい。 愛するお父様! お父様が恋しくて集まった子女たちを哀れみの愛で見つめて下さい。彼らにお父様がおられないとすればどれほど哀れな者たちであり、どれほど淋しい者たちであるでしょうか。お父様! 彼ら全部を主管して下さい。彼らの希望故、自ら満足できる主人公としてこの時間役事して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この一時、散り散りになった心を一つにして、あなたの貴き御前に供え物を捧げる為ひれ伏しました。最初から最後まで、あなたから許されることができないすべての要素を取り去って下さり、和動できる要素だけを残して下さい。全体の雰囲気を主管なさって、我々の心を動かして下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日、恵みを祈る為集まる群れが多いでしょう。集まる所々に聖三位神のような恵みとして役事して下さい。最後の日に与えられた全体的な使命を成し得る為、集まる所々に、あなたの栄光を讃える人々に、同じ恵みを受けることができるその時が、この民族の前に早く訪れるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今日、淋しい食口たちが所々に集まって、人の知らない祭壇の前で敬礼を捧げていますので、全体の生命の主人として、全体の復活の霊として現れて下さい。彼らの生命の役事、復活の役事が地上で留まらないように許諾して下さり、天の数千万聖徒たちと全被造万物まで和動して、その喜びを天の前にお返しすることができる栄光だけがこの場に満ちるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 最初から最後まで、サタンの侵入できない時間として勝利のお父様が導いて下さることを切にお願いしつつ、愛する主の御名を通してお祈り捧げ申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 愛するお父様! 何もない兄弟たちがお父様の前に出ました。彼らが感ずることが、自分自身を中心として感じることがないように導いて下さい。 天の為、お父様の為ではなく、自己を中心としては、何ものも持たないように分別して下さい。神様の摂理の為に全体が祭物として捧げられるように許諾して下さい。 我々は心も体も暗闇の中にいる哀れな者たちでございます。お父様、何の力もない手を天に向かって広げていますので、お父様、恵みの御手で取って下さい。サタンの前に引っ張られていった者たちが、天に向かって両手を開いて叫んでおりますから、お父様、彼らを抱きしめて下さい。 サタンの主管する険しい地上で生きていても、神様の永遠なる心情を持った天の盾として、戦いの勇士として、天の誇りになる子女として立てて下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ただ今あなたの愛する子女たちが集まりました。集まった子女たちの心性はそれぞれ違うかもしれませんが、お父様の心性に 似ようとする切なる心を持っている者ですので、一つの心として受け入れて下さい。そうして、御命令に順応し、天の心情が証しできるように導いて下さい。 この時間、お父様が呼んで下さった子女たちが集まりましたので、全世界に広がっている怨讐サタンと闘うことができ、押し入ってくる苦難を勝利の盾で防ぐのに不足することなく導いて下さい。奪う者の立場よりは与える者の立場に立てるように、自分一人の価値を現してお父様の栄光の姿になれるように許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、苦しみと患難の中におかれているあなたの愛する子女たち、今あなたが導いて下さらなければ、彼らより哀れな者はおりません。彼らの動き出す一つ一つの足取りに、彼らの処している環境ごとに、試練と患難と悲嘆がありますので、彼らを守って下さい。そして導いて下さい。 今日まで、お父様が共に苦労し心配して下さった故闘うことができました。彼らはお父様の苦難を受けており、お父様の涙を流しておりますので、お父様、永遠に守って下さい。最後に勝利の園で、勝利の喜びを持って全万物万象に代わってハレルヤ、ホサナの栄光をお父様の御前にお返しでき、感謝の敬拝を捧げることができるその日まで守って下さい。 この時間、許諾された御言を、お父様の代わりに伝えようとしますので、間違っている意識と観念を除いて下さい。またお父様の命ずる全体的な再創造の感動の役事が現れるように、和動の役事が現れるように許諾して下さい。 そうして、身も心もお父様の愛に浸って、感動せざるを得ない、敬拝を捧げざるを得ない、克服せざるを得ない、悔い改めざるを得なくなるこの時間になるように許諾して下さい。天の心情をそのまま受け入れることができるこの時間になるように許諾して下さい。切にお願いしつつ、愛なる主の御名を通してお祈りお捧げ申し上げました。ア-メン。 御言 拝読した聖書の本文を中心に 「神様の主管世界を取り戻して差し上げよう」という内容で話します。 主管主である神様を探すこと 神様が6日間で造られたすべての万物は、未だに神様を主管主として侍ることができないまま、悲しく苦しい立場に留まっています。これは我々が復帰路程で必ず解決すべき運命として残っています。したがって、我々一人一人が天の前に誓って、勝利できる祭物として立つことを願っているならば、神様が願っておられる主管性復帰を完結して捧げなければなりません。そのようにできなければ到底勝利の祭物として立つことができません。人間にこのような過程があるようになった理由は、堕落以降誰も願っていない、サタンの主管世界が現れたからです。 アダムとエバを通して喜びを得たくて被造万物を造られた神様は、アダムとエバの堕落によって、造られたすべてを失ってしまいました。アダムとエバも失い、万物も失ってしまいました。それゆえに、思ってもいなかったサタンが、創造主である神様の立場の代わりに万物を主管するようになったのです。これは神様の悲しみであり、今までの復帰歴史路程で神様の心情に似る為、天に向かって祈願してきた良心的な人々と聖徒たちの悲しみとして残っています。 もし、ある被造物に、彼の所願が何かを聞いたら、その被造物は何と答えるか。それは、いかなる存在物も「主管主である神様を探すこと」だと答えるはずです。このように、万物万象が探しているものが、真の主管主である神様であることを神様御自身も良く知っておられますが、神様は万物を直接主管しようとしても主管できない立場におられます。これが天の悲しみであることを皆さんはわからなければなりません。 では、主管主である神様を失った、被造物の中の一つである我々が、今日心身から願う所望は何であるか? 全被造万物が願って望んだ通り主管して下さった創造主神様、その神様が再び直接 主管して下さることでしょう。 今日我々には、この様な所望と御旨を成す使命があり、そのことを完遂するための召命を受けています。それゆえに、我々は神様の主管性を復帰し、また万物の主人としての主管性も復帰しなければなりません。そして、神様が主管して下さる恵みに対し、感謝の栄光をお返しすべきです。この様な責任が万物にあるのでもなく、天の天軍天使にあるのでもなく、今日何もないような我々にあるということを知らなければなりません。 それゆえに、我々が一度責任を果たさないと、天の全体の主管性を失うことになり、本然の天の姿が失われると万物の所望全部を失うことになります。それゆえに、我々が生活を通して、生命を通して、その歴史的な運命に代わった責任を果たすことができなければ、神様の前に出られないということであり、また万物の前に万物の霊長として現れることができないということです。 そして皆さんは、全被造世界の中心であり神様の創造性を持った、内的な世界の中心として創造された一人です。その私が歩んでいく路程は今日私個人のこととして終わることではないということを知らなければなりません。 皆さんが、天倫の為に生きる生活において、自分だけの為に生きる生活をするならば、神様の創造的な主管性は失われるようになります。皆さんが万物を主管できることを願われるその所望も切れるということを、皆さんはわからなければなりません。 それゆえに、皆さん自体が、天が全体を主管する立場に代わり、万物の主管主に代わるその価値を現わさなければなりません。そうして、自ら「あなたが探そうとする一つの存在、全体に代わる本来の主管主自体として、立てられた御旨を全部成し遂げましたので、お父様、命令して下さい」と言えるようにならなければなりません。この様な立場に立つことができる、その一つの存在が6千年間の摂理の中で、神様が探し求めておられる存在であるのです。したがって、神様の6千年の摂理歴史の中で、苦難と闘い、逆境と闘って、怨讐サタンを退けて人間を復帰させることが我々の全体的な義務なのです。 この様に、全体に代わった我々一人一人が取り戻すべき主管性の権限を思ってみる時、今日我々が具体的に何を探さなければならないのでしょうか。 人間は堕落によって、全体を主管する神様を失ってしまいました。全体を主管し、全体の根源になる神様を失ってしまったということです。したがって、今日我々が取り戻すべきものが何かといえば、天地万物を創造なさった神様だということです。それゆえに、皆さんは神様の主管物を自分のものに所有する人にならなければなりません。 神様を失ってしまった結果 では、今日の我々の悲しみは何か、我々の痛ましさは何で、嘆息は何か。今までの6千年間の復帰歴史の過程に隠れている懇切な所願は何だったのか。それは私と、万民と、全宇宙と、天と地が失ってしまった神様を取り戻すことでした。神様は我々が取り戻さなければならない所望の本体であると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体であります。それゆえに、今日皆さんが、神様の全体の主管性を復帰する為には、皆さん自体が神様を所有できなければなりません。神様を迎えることができる人にならなければならないということです。 では、その神様はいかなる方であるか。万民を造られた神様であり、万物の全体主管の役事をなさる為に復帰の苦労をしておられる神様であることを、皆さんはわからなければなりません。したがって、皆さんが神様を所有できれば、その神様は皆さんの神様であるので、彼が永遠であれば皆さんも永遠になり、彼が全被造世界に対して主管性を持つようになれば、皆さん自体も実体の神様的な立場に立って、万物を主管できるようになるということです。この様になれる皆さん自体を立てることができなければ、皆さんは神様を所有したとは言えないでしょう。 今日、この地上に悲哀と死亡があるようになったすべての原因は、神様を失ったところにあります。そして、神様を失ったことによって、サタンが主人のごとく振舞うようになりました。人間は元来、創造原則を中心としてみると、 神様を一つの主人とすべき被造物だったが、堕落したことによって、神様の代わりにサタンを主人にするようになったのです。 今皆さんには、愛の神様を再び所有しなければならない運命的な責任が残っていますが、その道を遮っているものは誰なのか。造られたこの被造世界で、神様を一つの主人公とすべきその御意に反対している者は誰なのか。それは今日皆さんに罪悪を抱かせているサタンだということです。 それゆえに、今は皆さんが、自分の心に染み込んでいる罪悪の根を取り除き、万民に代わって、今日まで6千年間、天を裏切って闘ってきたサタンを屈伏させて、神の世界を成すことができなければ、この地上で神様の主管的な役事をすることができないということです。 では、皆さんは心から自由を求めているが、どんな自由を求めているのか。皆さんが神様を求めないとサタンの僕になるわけです。したがって、皆さんが神様を所有できなくなってサタンを所有するようになったら、皆さんは天理原則を敵にする逆族になるのです。皆さんはこれをわからなければなりません。 神様を所有しようとすれば では、神様が天倫の法道を教えて下さった理由はどこにあるのか? 神様を探すことができる方法、神様を知ることができる方法を教えて下さる為でした。そして、その方法を教えて下さる為の摂理路程が6千年歴史路程でした。 今日皆さんは、もっている信仰で、神様の実存と神様の本性が全被造万物の中心の性禀として現れているということを、誰も良く知っています。ところが、知っているその神様が皆さんのものにならなければいけないということです。皆さんが神様と永遠に、切ろうとしても切れない関係を結ぶべきだということです。 そうなったら、皆さんが東西南北のどっちに向かって走っても、またいかなる過程にいても、神様が変わらない以上、皆さんが 持っている神様に対する所有権は変更されません。皆さんがその様な立場に立つことができなければ、皆さんに対する神様の要求と所望はそのまま未完成の状態に止まり、不備の立場に処するようになるわけです。こうなれば、私によってサタンが讒訴できる条件が残り、神様の悲しみが残るということを皆さんは知らなければなりません。 この様な立場にいる我々人間が、今日成すべきことは何か。まず、サタンの讒訴から逃れることです。そうして、「本当にあなたは神様の子であり、神様を所有できる資格があり、神様と一体的な関係をなした神様の子」だと、イエス様のように証される一日を迎えなければなりません。そのような一日が復帰できなければ、すべての被造万物を主管する神様の前に、皆さんは万物の主人公として出られないということを知らなければなりません。 人間の堕落によって神様を失ったと同時に、また何を失ったかというと、創造本然の心性を失ってしまいました。そして自分自体を分析してみたら、神様を失ったと同時に本然の心を失ってしまいました。皆さんが頼るべきものは自分の心です。皆さんが自分自身の心を主管できなければ、皆さんは神様を所有できず、神様も皆さんとの関係を結ぶことができません。 皆さんの心が、神様と永遠な相対基準を造成する時、皆さんは神様を所有でき、神様は皆さんの心を自由に主管なさるようになります。それゆえに、神様とイエス様の心が一つになるように、今日皆さんは、イエス様の心と一つになった立場に入り、神様の心と一体的な関係をなした立場に立たなければなりません。もし、その様な立場に立つことができなければ、皆さんの心にはサタンの讒訴条件が残るのです。 もともと人間は、神様の要求される御旨の中で、自分の心が願う目的通りに生きて、神様の全体的な理念を代理にすることによって、第二の神様の立場に立つべきでした。しかし人間は、そうできる本性の心を堕落によって失った故、今日の人間は、悲しみつつこの本性の心を取り戻さなければならない条件、痛ましい運命の路程を歩む条件を 担うようになりました。 それゆえ、我々はイエス・キリストを通して自分の心を明らかにしなければなりません。そうして悲しみに捕われている心であっても、天倫に接する時、新しい心を持って暗闇を払いのけていける本性の心を立てなければならないということです。そうすることによって天上におられる神様の心情と通じ、死亡圏に包まれた人間の心とまでも関係を結んで、立ち起こすことができる心の形態を探すべきなのです。その様な皆さんになれないとすれば、皆さんは、神様を永遠に所有できる心を持っていないということをわかって、悔い改めをすべきなのです。 我々が、神様に代わって誠心を尽くすにおいては、ある特定な時期だけ精誠を尽くす生活になってはいけません。神様が変わらない以上、皆さん自身の生涯路程において、天に対して不変の心情を持たなければならないということ、即ち、サタンのいかなる条件も侵犯できない心の土台を立てなければなりません。それが今後には、不変の体系で立てられるべきであり、天倫の道に向かっていく根本的な原則にならなければなりません。 皆さんが、神様の誇ることができる心を持っていなかったとすれば、神様が皆さんを哀れに思われる立場に立てないということを知らなければなりません。 神様を所有されたイエス 人間が本心を取り戻すことによって、全体の主管圏が復帰される時は、万物の中のいかなる存在物に対してでも、その心の作用を通して命令できる権限が立てられるようになるが、今まで誰も、その様な心の主管性を完遂できなかったのです。 また未だに、神様の願われる通りに、人間が神様の代わりの体系的な権限を立てて行動できない悲しい立場に留まっています。そうだとすれば、人間が留まっている分だけサタンが楽しめる舞台を残す結果になります。ゆえに、神様が悲しみに処するようになる条件が残って しまいます。これを皆さんは知らなければなりません。 天地の法則は、二つが一緒にならない限り、一つになる原則を、または一つの新しいものを産み出すことはできません。 では、神様が4千年間準備され送られたイエス・キリストを通して成されようとした願いは何だったのか。4千年の歴史路程を経て、誰一人として、失った神様を所有した人がなかった故、人間がイエス様を通して、失った神様を所有できるように願われたのです。 それ故に、神様を所有した、完結されたものとして立てられた方が、即ちイエス様でした。また、人間世界において、人間の心に代わって、神様の心情の外的部分に代わった形態を備えた存在、霊界の無形世界と実体的な有形世界において、万物を主管できる存在として送られた方がイエス様だったのです。 イエス様が来られてから2千年がたちましたが、いかなる民族であろうが、種族、個人であろうが、彼らが栄光の条件として持つべきものは何か。それは神様を所有することです。その様な人が現れるのがイエス様の願われる要求であり、イエス様を送られた神様の要求であることを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は地上に来られて神様を所有し、さらに彼の心が人間と相対基準を造成することによって、彼の体は神様の体を代理したということです。 神様の心を所有し、万物を所有できる基準を立てて現れたイエス様は、その体が原則的な所有権を持って現れた故、彼が現れた日は天倫に代わった神の日だったのです。 では、今日の聖徒たちがイエス様を信じ、神様がわかって、神様の全体的な所有権、不変な所有権を持っていたとすれば、どうすべきなのか。その所有権を中心とした価値的な基準と、皆さんの心が結合して、イエス・キリストが地上に残していかれた肉身を中心とした全体的な所有権の価値を全天上天下に現すべきです。そうできる一日が来るのを願うことが再臨思想だということを皆さんは知らなければなりません。 では、この地上に再臨主が来られ、成すべき使命は何か。終末のクリスチャンたちが成すべき最後の目的は何か。クリスチャンたちがいくら心から神様を所有し、皆さんが皆さん自身の心を所有したとしても、一つの条件が残っているが、それは体を自分のものとして所有できなかったことです。それゆえに、今の皆さんが体の所有権を全うして、神様の愛の実体、神様の本性を実証できる化身体として現れなければなりません。その様な存在がいつ現れるでしょうか。その様な存在を探す為に、イエス・キリストが来られたということを皆さんはわからなければなりません。 体の復帰と全体的な主管権復帰 そのために、イエス様が行かれた以降、この地上に聖霊を送られました。ゆえに皆さんは、イエス様が持たれた心の主管性と、神様の全体主管性と一つになり、自分の所有圏と神様の所有圏が一つになって現れることによって、自分の体が聖霊的な価値を現すべきです。ところが、霊の分離によって肉的な価値は現すことができなかったが、イエスの心的な部分と神様と一つになった聖霊が現れたということを皆さんは知らなければなりません。 それゆえに、4千年の歴史が何だったかというと、人間が持てる心の所有圏を、因習的な圏内から自然的な所有圏に転換させる為の歴史でした。このことはそんなに難しくありません。しかし、その認識を通し体で完結させて、その認識の価値を相対的な価値に現そうとすることが摂理路程にあっての難しさだということを知らなければなりません。 このためにイエス様自身は、33年の生涯を通して、神様を所有し、その心を所有したけれど、2千年歴史の中で、未だにサタンの讒訴圏から逃れていないのです。まだサタンの試験のない完全な立場に立っていないということです。いくらイエス様、聖霊だといっても、イエス様は霊界で、聖霊は肉界でサタンから讒訴されているのです。 これは、人間が肉的な圏で創造の三段階基準を越えられなかった過程が残っているからです。それでサタンが今日までイエス様と闘うことができる条件を持っているのであり、神様と聖霊との闘いの条件を提示することができるということを、皆さんはわかるべきです。さらに皆さんは、イエス様が30年余りの生涯を通して、心的な面においては神様を所有しましたが、肉的な面では所有できなかった故、今までも我々の体を神様が主管できないということもわからなければなりません。 今日の人間たちは、信仰路程において自分の体を打たねばならない立場におかれています。では、体を打つのは何のためなのか? 体を打つのはサタンを取り除こうということです。体を打つことによって、その体は聖霊に占領されるようになります。故に、我々が体を打つことは、結果的にはサタンを撃つことになるから、自分の体を撃つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンに占領された体を聖霊が占領するようにしなければならないのです。それ故に、神様を所有することができ、本然の良心と体を所有することができるのです。そうなる時、そこから初めて、天上天下のすべての万物に代った、永遠不変の一つの所有圏を完結したといえる価値を取り戻すようになるのです。 したがって、その様な境地を探すことができなければ、皆さんは自分の体を打ったといえません。それを探してこそ、皆さんは情的面において全体的な基準を立てて、神様に代って栄光を受けることができるのです。この様な御意があったので、イエス様は亡くなられてから今までも役事しておられるし、聖霊も役事もあるのです。故に、霊肉を持ったすべての人であっても、サタン圏の中にいる人であっても、聖霊が占領できる日を望みつつ来られたのが、イエス以降の神様の悲しい2千年摂理歴史だったのです。 今はこの様な内容を持って、我々の過去を振り返ってみなければなりません。皆さんに神様を所有すべき権限が残っている限り、自分に残された所有権がある限り、主管主としておられるお父様の悲しみが残っています。したがって、 神様と被造世界が抱えているその悲しみは、皆さんが与えたものだということを考えると、今日皆さんは、自分の罪を悔い改めなければなりません。 自分が犯した罪を悔い改めることは、自分の心的な価値を探す為です。全体の主管主である神様を所有したといえる、その様な内容の悔い改めが必要です。 自分の罪を悔い改めなければならない理由 そして、今までの信徒たちは自分の体を打つ生活をしてきましたが、永遠にそうしてはいけないということを皆さんはわかるべきです。体を打つ目的は、その体が聖霊から占領されるようになって、神様の愛を受けようとするところにあります。こうせねばならぬ責任があるということを、今日のクリスチャンたちは忘却しています。2千年間にこれを忘却しています。肉の愛が度外視された中で、霊の愛が完全であるはずがないのです。 なぜなら、神様と心が一つになり、心と体が一つになれば、体は自然に動かされ、心と体が神様を中心にして完全に授受するところから発展するのが天理原則であるからです。相対的な基準を立てて、お互いに一つになり、良く授け良く受ける授受作用が成されるところでは、実証的な一つの実体が創造されるのが創造の法度であり、そうしてこそ完全なものです。 神様が万物を創造された原因が何かというと、神様御自身が喜ぶ為でした。人間の心と神様の心が一つになる、その関係性を果たす為の実践を成す時は、神様と一つになり、さらに地上の人間と一つになる基準が持たれた時なので、地上に天の摂理が新しく展開されるのです。したがって、今日皆さん一身においても、心と体が一つになって聖霊と因縁が結ばれた時、神様の勝利的な全体主管性を復帰しうるということを知るべきです。 今になってみると、神様の御旨に向かっていくには一つの方向だけではありませんでした。それは前後左右にあります。ところが、今日の人間にはサタンに向かった方向だけが残されています。故に、皆さんが 心と体を探そうとしても、心と体が縦的な面を備え、横的な面を備えようとしても、サタンが前後左右上下の6方向で暗闇の幕を張り巡らしているのです。ですから、今や皆さんはサタンの幕を壊して自分一身を立てて、「神様は永遠の私の所有である。私の心は神様の所有であり、私の体も神様の所有である。彼であり私、私であり彼」であるという価値を万物の前に現しうるようにならねばなりません。天上と地上で三位神が合同に探し求めている一つの実体が早く出なければならないのです。 この様な一つの価値的存在、聖霊と、イエス様と、神様が臨まれる一つの価値的存在が、この被造世界のどこにあるのか。この一つの存在が、神様が6千年間切なく所望された実体であり、探そうとされた復帰の理想の実体であることを皆さんは知るべきです。 神様が6千年間切なく探し求めこられた実体 それゆえに、その様な価値が地上に現れるなら、神様は彼に対していかなる条件の不備も許されません。サタンまでも神様までも、彼を引止めて慰めの涙を流すはずです。したがって、今日我々は、私という固体がいかなる環境におかれているかを知らねばなりません。皆さんは、全体的な責任圏内に立てられた自分自身を無視してはいけないし、その様な大きな責任を痛感すべきです。 皆さんが心から神様を所有したといえる時、永遠な中心として立てられる皆さん自体の心を所有するようになったのです。さらに、皆さんの体を、永遠な生命をなすことができる実体として完結して所有したとするならば、皆さんが東西南北どこへ行っても、その方向は問題ではありません。皆さん自体が留まるところがどこであれ、そこでは勝利のホサナの凱歌が上げられるでしょう。すべての被造万物が、「なるほど、あなたは栄光の神の子である」と言いながら、自然屈伏できる状況になるということです。これを皆さんは知るべきです。 しかし、今日その様なことが一部だけではなく、全体に現れなければなりません。ところが、まだ全体の主管権に代った人間として、原則的な所有の問題を全部終結して、その価値の栄光を備えて万物万象の前に現れた存在がなかったので、そのような一つの存在になることが、皆さんの所望として残っているのです。 この様な立場におかれた人間に対して、私も、あなたも、神様も悲しむのです。 今日我々が、その様な価値を持った立場で、万物万象、全体の代りになって、天の栄光を備えて、神様の御前にホサナの凱歌を返さねばなりません。そうする時初めて、天上にいる天君天使と千々万聖徒が、喜びのひととき、楽しみのひとときを迎えるようになり、さらに我々は、神様の御前に栄光をお返しするようになるのです。この様なことが完結されないと、このための道を人間たちは億兆万年にかけてでも行かねばならないのです。 今までそれを完結していません。では、それは誰の為にそうなったのか。勿論、私が不完全で、私自身が悪い為でもありますが、私よりも天に対して讒訴するサタンがあってその様になったということを知らねばなりません。 全体の主人、全体の主管主である一人がおられたとして、その方によって宇宙万象を主管することができたなら、彼が全体の復帰を完成できなかったとしてもかまわないのです。全体的な力を利用して集中的に新しいことをしうるということです。このように神様は、全体の歴史が一つの方向へと進むようにされました。しかしサタンがあったので完結できなかったのです。 それで、神様はサタンを無条件屈伏させる為、また完成せず霊界に行った天上の全霊人が完成のところまで行ける恵みを与える為、一人の方を送って下さることを約束しました。その方がイエス様なのです。 では、皆さんが神様の栄光を追及すべき立場に立っているのがわかった時、今自分が持つべきものは何なのか。元来、人間に対する天の 理想は天の所有権、心の所有権、体の所有権を持つことでした。故に、皆さんがそのような理想圏に入れなかったとすれば、皆さんは悪の所有権と善の所有権が区別できる目を持つ必要があることになります。さらに、そのような目を持ったとすれば、次は善の所有権と悪の所有権を分別して聞くことのできる耳を持つべきです。その様な五官を全部持つべきです。 皆さんの生活において、サタンの讒訴を防ぐことができる自分にならないと、皆さんは再臨主が来られてもわからなくなります。 分別できる信仰 皆さんたちは「再臨主」と言えば、すぐいい気になって喜びますが、いったい何がいいのですか? イエス様をイスラエル民族、即ちパリサイ人、祭司長たちは真の意味では見られませんでした。ローマ兵士が彼を見られなかったし、反対した人たちは彼を見ようとしても見られなかったのです。自分の心性で、心と体を通じて、全体に代った価値の基準が立てられた人だけがイエスを見たのです。見たり聞いたりするのは人間自身の心性による面があるのです。 それゆえに、皆さんは全人間の前に良き善の価値を持つべきです。ところで、体がそれを反対します。これがサタンの本質です。 では、隠れて現れない中で、人の知らない中で神様を所有した人、人の知らない中で本然の心を所有した人、この様な人がどこにいるのか。この様な人を探す人は永遠なる神様が共にいるでしょう。 それゆえに、今日我々がその様なところまで行けなかったとすれば、悪の主管圏と善の主管圏でも分別できるべきです。それらが心と体で分別できるべきであり、深く考えなくても分別できねばなりません。皆さんが神様の価値がわからないとすればイエス様とは何の関係もありません。だから、サタンのすべてが分別できねばならないのです。天上天下に残された悪のすべての主管的な要素が分別できる人でなければ、神様の御前で勝利的な完結条件を立てる ことができないのです。 もし皆さんがその様な条件を立てることができるならば、皆さんはこの地上で苦痛なしに生きられます。神様を所有した人として心はキリストに、体は聖霊に捕えられるようになるからです。 今までは心の世界に対する摂理過程であった故、体の苦痛が並存しました。体が苦しみを覚えました。心と体が分裂されたのです。 ところが、今はそれが一緒になって、霊界は肉界に、肉界は霊界に行って互いに合同して役事しています。さらに、聖父、聖母、聖霊が共に役事しています。ですから皆さんはこの様な時、イエスと聖霊の前だけではなく、神様の前で敬拝できる自分にならねばなりません。 さらに、皆さんが生涯を通して体恤的な信仰をするにおいて,分別的な原則の路程を歩み、万物万象の前で永遠を代身した不変の勝利者であると誇ることができる基準を立てるべきです。その様な基準を皆さんが立てないと、この地上に悲しみの条件が残ります。この悲しみの条件が残っている限り、天上に行っても神様の内的心情を探すのが難しくなります。故に、皆さんが心的なイエス、肉的な聖霊を通した生命体として、神様の栄光の実体として現れねばなりません。そうなる時初めて皆さんは信仰の実体になります。 ですから、皆さんが三位神の協助なしに栄光の自我を復帰したならば、この天地が運行する法度と同じく、喜びの心が皆さんのすべてを主管するようになります。その様な生活は瞬間的ではなく永遠のものにすべきです。そうして、「お父様が私のもの、主が私のもの、聖霊が私のもの、私も私のもの」と言いながら、万物の前に堂々と主管者として出なければなりません。天に対しても「ああ、お父様! 感謝します」と言えるべきです。 天地運勢の法度において相争う存在はありません。人間は創造主の全体理念を代身し、創造主の主管性が代身できる存在として立てられた故、心と体がある限り、この二つの関係からはずれては存在できません。それゆえに、皆さんがこの地上で,天上天下のすべての ものと関係を持つことができる主管世界をなす時こそ、主の栄光を現すことができるということを忘れてはいけません。 祈祷 愛するお父様、我々に残された運命の道がこんなに重畳山中、泰山峻嶺であるのに、今日我々が信じている範囲が余りにも小さかったということを知るものでございます。余りにも狭く、消極的に、不備なまま御旨の道を歩んできた我々であったことを、お父様の御前に告げざるを得ません。 お父様、今日この時間から、天倫の全摂理を担っていかれるお父様から主管されるように許諾して下さい。お父様の形状が見られるように、お父様、哀れみを許諾して下さり、イエスよ、聖霊よ、立てて下さい。地上の万物を代身するのに不足のない姿として、自然的に善悪が分別できる本然の実体として作って下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 今日夜集まったあなたの子女たち、お父様、もう自己という観念を忘れるように許諾して下さり、我々の体からサタンの所有権を除くように許諾して下さい。そうして、我々の心が神様だけを所有し、神様だけを呼び、神様だけを誇ることができる、万物に対する不変の個性体として復帰されるように導いて下さい。 そうして、我々がお父様に栄光をお返しするようになると、万物も和動し、天の千々万聖徒も和動して、一つの泣き声、一つの叫び、感謝、ハレルヤが天地に一律的に現れます。その時、サタンが自然屈伏したことを知るようになりますが、そのようにお父様、導いて下さい。 お父様の全体の主管性を我々の体で終結するように許諾して下さり、全体の代身として立てられた我々が、勝利のホサナの凱歌をお父様の御前で奏することができるように許諾して下さい。万物万象が和動する中で、天に代わった勝利の子女、許しの主人公たちになるように許諾して下さることを、お父様、切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名を通して申し上げました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.09
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1956年、1960年の文鮮明総裁・韓鶴子総裁の「聖婚式」を前にしての文総裁のみ言ですが、以下の中にはすでに「真の父母様」という概念があり、イエス様も本来は「真の父母」として来られたお方であったことが記されていました。あいにく使命途上で十字架に架かられましたが、その「真の父母」となることが出来なかった負債を返すために再臨を約束されていたものでした。私たち人類もそのイエス様を正しくお迎えすることが出来なかった負債を負ったものでした。背負った負債を返す者となろう1956年6月10日(日) 本部教会 祈祷 創造のお父様! あなたの美がすべての万物万象に現れており、あなたの御手が加わったものの上には奥妙なる美が満ち溢れています。 人間に対する創造の目的である美を、今日も休むことなく探しておられるお父様の切なく悲しい心を、私たちが心と体で体恤する事ができて、あなたの愛の御前に美を持ってお応えする事ができるように導いて下さい。 私たちの心が創造時の本然の心として現せるように導いて下さい。私たちの体を罪に染まることのない創造の直後の体として、その美を現せるようにせしめて下さり、私たちの心と体が神様の愛と心情の代わりとして、神様が動じるならば私たちも動じ、神様が静ずるならば私たちも静じることができる完全無欠な本然の姿として立てることができるよう導いて下さい。 これはお父様が今まで復帰摂理歴史を経ながら求めてこられた一つの標準であった事を知るようになります。 今私たちが探さなければならないのは私の心であり、成し遂げなければならないのは私の体でありますので、それを探して成すことのできるようにして下さい。そうしてお父様の本性の美に代わって敬拝を捧げることのできる一自体として立たせて下さい。お父様の御前に感謝と栄光の歌を捧げる事ができるように導いて下さり、これが苦労されるお父様の目的である事を私たちが身体の隅々まで感じる事ができるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 私たちは堕落の血統を引き継いだ故に、自分も知らない間に天を離れて自分を中心とする生活をするようになりましたし、天倫を離れ自分を中心として動く者となりましたので、これを直し、天倫に相対することのできる本然の心の叫びに導かれるように導いて下さり、本心の動きが私の体を刺激させて天が捕えることのできる、自分のものとできる本然の自我を探すように導いて下さい。そうして億兆蒼生の人間に対する嘆きを私たちが解いて、天地のすべての嘆きを解いて、お父様の御前に謙遜にひれ伏して敬拝を捧げる事ができる子女として立たしめて下さる事を、愛するお父様、切にお願い致します。 ここに集いしすべての子女たちを一人一人受けもって下さい。一週間の間この世と闘おうとした傷跡が残っていると思います。これらの心と体はお父様の御旨をすべて信じようとしていますが、サタンの罠によってサタンの供え物となった者たちがいるとすれば、お許し下さい。 そうしてこれらが受けた傷を癒す事ができるように導いて下さり、哀れみの愛で抱いて下さい。愛の油を注いで下さい。完全になるように導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 この時間あなたの御前に捧げるべき(何の)供え物も持ち得なかったとしても、柔和謙遜な心だけでもあなた様の御前に捧げ、身体と心にはびこっているすべての罪を出して悔い改める事のできるこの時間となるように導いて下さい。あなたの御前にありのまま告白することのできるこの時間となるようにお許し下さい。尊厳なるお父様の愛が運行される力により自然に吸収されて、あなたと一つとなる和動の役事を心と体に感じることができるこの一時となるように導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 今日ここに集いし数少ない群れを育てるために苦労されたお父様……今まで私たちが険しこを行くとき共に歩んで下さったし、頼る所なく心寂しい時友となって下さったし、闘う時に盾となって下さったのですが、それは私たちが優れているからなのではなく、お父様の隠れた愛の大きな光、大きな慰労が共にあったからであった事を知っておりますので、今日この生命をお受け下さい。 お父様! 願われることをこの時間愛として現して下さり、あなたが主張される願いを私たちが代わって敬拝して讃美を捧げることのできる恵みを与えて下さい。私のお父様、子供たちが四方に散らばり、ひれ伏しこの一所に向かって敬拝の祭壇を築いて天の御前に祈祷しておりますので、等しく恵みを与えて下さい。そして終りの日まで残ってしまったその任せられた使命を、与えられた場所で完遂することができるように導いて下さり、全体が和動の中心を慕うことのできるように導いて下さい。 3千万民衆の前に新しい一つの御旨を現わすことのできるように導いて下さり、刺激的な新しい衝動を起こして下さり、悪なる道へ行く時、善なる道へ導いて下さい。お父様の愛の御手を差し延べて下さり、愛の能力の役事を現して下さい。私のお父様、切にお願い致します。 集いし子女たちを一人も見捨てることなく、あなたの愛の懐に抱いて導かれた全体の主導的な役事を、彼らが同じ恵みとして感じることができるように役事をして下さい。愛するお父様、切にお願い致します。残った時間をお任せしますので主管して下さい。主の御名によって祈祷致しました。ア―メン。 罪の負債と苦労の負債を背負っている人間 本来神様は天地万物を創造される時には、負債を負えという原則を立てていません。お互いに与えて受けることができて、あなたの物であり、同時に私の物である、二つの姿となっているが、一つの実証体として人間と一体の関係を結ぼうとされたことが神様の創造目的でした。 このような目的で創造されたアダム・エバが神様の御旨を果たせないで、堕落することによって、それ以後今日までの人類は天の御前に無限な負債を背負った者となりました。堕落によって余地なく離れた人間をして再び負債を返すことのできる道を立てて下さるために、代表的な一人の存在として送られて来た御方が誰かと言えば、即ちイエス・キリストなのです。それで私たちはイエス・キリストを通した歴史的過程を経ながら、負債を返す生活をしています。またこのような生涯を通して私たちは永生を願い進んでいるのです。 皆さん一人が全宇宙の前に立てられる事ができる資格があると思っていますが、皆さんの一身には、皆さんが知らない間に数千年歴史を通して堕落の血統を受けた罪の負債が残っているのを知らなければなりません。 また私たちにはその罪の負債の他に、神様が私たち人間に対して摂理された苦労の負債が残っており、その他に数多くの預言者・聖者たち、あるいは天使天軍たちが復帰摂理を歩んできた苦労の負債が残っていることを知らなければなりません。 このようなことを考える時、今日私自身には天倫の御前に背負った負債を返そうとしても返すことができず、体面を立てようとしても立てることのできない人間であることがわかるようになります。それでこのような人間の体面を立てて天倫の前に立てるために、私たちを代表して立てられた御方が即ちイエス・キリストであります。 永生の負債、生涯の負債、愛の負債、因縁の負債 私たちは生まれた時から神様を中心として永遠なる生命を持たなければならない人間でした。父母を通して生まれた時から神様の愛を代身しなければならない存在でありました。また夫婦を中心として父母を代身した愛を持つべき存在でありました。万物とも愛の因縁を結ばなければならない人間でありました。 ところがそのような人間になれないために人間は神様に対しては永生の負債を背負うようになったし、父母に対しては生涯の負債を背負うようになったし、夫婦にあっては愛の負債を背負うようになったし、万物に対しては因縁の負債を背負うようになったことを皆さんは知らなければならないのです。 神様が天地万物を造られた後、その万物の主人公としてアダム・エバを立てた目的はどこにあったかと言えば、人に永遠なる責任を与えるためであったのでした。だから私たちには永遠に愛さなければならない責任が与えられていました。即ち、アダム・エバが神様の御旨に従えなくてサタンの懐に引っ張られることによって、永遠なる神様の愛を中心とする生命の負債が、今日私たち各自に止どまるようになりました。 また父母を中心として生まれた後、父母様が生涯を通して愛して下さり、心配して下さる負債を背負っています。夫婦を中心として生活的に成し遂げなければならない神様の愛に対する負債も背負っています。万物に対する自然が与えてくれた愛の負債も背負っています。 これを考えれば、神様には永遠なる愛の負債を、父母には生涯の負債を、夫婦にあっては生涯を中心とする愛の負債を、万物に対しては時間の生活での背負った愛の因縁の負債を背負った者たちが、即ち今日私たち一人一人であるという事を知らなければならないのです。 皆さんは万物の主人公として天の御前に体面を守る事ができる者とならなければならないのです。人間は天への永遠なる負債、父母に対する生涯の負債、夫婦に対する愛の負債、万物に対する生活の負債等を持っているのですが、万物は人間がこのすべての負債を返すことを沈黙の中で要求している事を皆さんは悟らなければならないのです。 人間の負債に代わって返しに来られたイエス様 ところが人間の能力ではその負債を返そうとしても返す事ができないし、清算しようとしても清算できないのです。それでそのような立場にいる人間たちをして永遠なる天の御前に立つことができるように、即ち永遠なる父母を代身して天の御前に立つことができ、永遠なる夫婦を代身して天の御前に立つことができ、永遠なる万物の愛を代身して天の御前に立つことのできる一つの中心存在として立てられた方が誰かと言えば、イエス・キリストでありました。 イエス・キリストが来られることを通して永遠なる神様の愛が現れるようになったのでした。天が人間たちに願われた愛の実績が現れるようになりました。永遠なる父母を代身する愛の実体として現れた方がイエス様でした。また永遠なる夫婦を代身した愛の実体として現れた方もイエス様でした。万物の愛と永遠なる因縁を結んで来た存在も即ちイエス様でした。そのためにイエス様の一身には4千年という長い長い歴史が続いており、更に永遠なる未来まで続いていたというのです。 人間が堕落によって永遠なる神様の御前に背負うようになった負債と、永遠なる真の父母様の御前に背負うようになった負債と、悪から侵犯されていない善なる万物の前に背負うようになった因縁の負債を返すためにイエス様が来られましたが、すべて返すことができずに行かれました。それで今私たちはイエス様が残して行かれたその負債をすべて清算しなければならないのです。 イエス様を中心にして万物との因縁から、夫婦の因縁と父母の因縁と永遠なる神様との因縁を結ばなければならないのです。そのようにできなければ、私たちのために来られたイエス・キリストの降臨目的は、また再び未完成の段階に止どまるということを皆さんは知らなければならないのです。 歴史過程を一つ一つ見る時、イエス様が来られるまでは時代的に万物崇拝時代でありました。万物を神様の代わりに信じて、万物を神様の代わりにした時代でした。その次には人間がすべての物よりも自分たちの息子・娘に全力を注ぎ傾けました。 このように万物崇拝時代を経て、子女を崇拝する時代を経た後に、新郎・新婦を崇拝する時代に入ったのですが、今は新郎・新婦を崇拝する時代も過ぎ行きつつあります。 それでは今残る時代が何かと言うならば、父母を崇拝する時代です。父母をより一層に崇拝することのできる時代が必ず現れなければならないというのです。だから今私たちは私たちの体と神様との関係を結ばなければならないのです。私一人がイエス様と一つとなる立場に入って行き、今日のこの微妙なすべての自然現象を眺めて、神様の生命の因縁から外れない、直感的な生活をしなければならないのです。 照り付ける太陽とか吹いてくる風などすべて万物たちと私たちは、神様の永遠なる生命の脈搏にとって代わる関係を結ばなければならないのです。 今までなんとも感じないような私たちでしたが、イエス様を中心として生活していけば、新しい物を感じることができ、万物と新しい心情の因縁を結ぶことができるのです。また神様の所有原則を中心とした因縁を結ぶことができるのです。 その後には万物と喜びを授受することができると同時に、神様の愛の圏内に引っ張られていくことができ、またその愛が私の心に引っ張られて来ることができる生活をするようになります。皆さんがこのような深い恵みの立場に入って、天の御前に立つようになる時には、どのような万物とも囁くことができるのです。 風の音やその他の存在するすべての万物中、どのような存在も人間との因縁を結んでいないものはないのです。そのために人間のために創造されたすべての万物は、人間と結ばれた因縁の価値を人間の前に現して、人間の前に認められるための存在であると見ることができるのです。 万物に対する負債を返そうとするならば ところが今日私たちは堕落圏内にあるために、この万物の価値を認めてあげられない立場にいます。それ故今日皆さんが神様から来る新しい愛を感じるようになる時、万物も新しい生命を感じることができることを皆さんが悟って、どのような万物を掴まえても最高の生命の基準を立てることのできる生活をしなければならないのです。皆さん一人(だけ)でも天の無限なる愛を歌うことができるようにならなければならないのです。この様な人になれば、私たちは拘束を受けない(自由な)気持ちに成るでしょう。 そのようになるならば、万物が私たちによって活動することができるので、私一人がどこにいても平和でありえるのです。これはどのような力もせき止めることはできません。神様はこの一つの基準を創造の目的として立てられて、その目的を成し遂げる代身者として人間を立てられたし、人間をして万物を主管させるようにしたのですが、今日人間はその万物の前に体面を立てられない悲しい立場に立っています。 そのためにロマ書八章にある御言と同様に、万物が私たちに対して望むところは、神様の息子たちが現れることです。なぜかと言えば本来の神様の愛を代身する人間を仲保として神様と通じるようにならなければならない万物が、人間が腐敗して堕落することを通してその万物の理想体がなくなってしまったためです。それ故イエス様が行かれた後、2千年歴史が経過する今日にあっても、万物はそれらに対する一つの目的が私たち人間たちによって成し遂げられるのを待ち焦がれているということを知らなければならないのです。 これを考える時、私たちは自分も知らない内に万物の前に負債を負っている事実を知ることができます。万物が要求する希望の負債を負っているのです。 今私自身がこの希望の負債を清算しなければならないのです。万物と一つとなることができる資格者となると同時に、万物が愛することのできる、万物が尽くして上げることのできる神様の息子・娘とならなければならないのです。更に神様の息子・娘となって神様の愛を受けなければならない私たちであるのです。 愛の負債を返す事ができる資格者 イエス様と聖霊は今日皆さんを新しく産み出す役事をしています。そうして人間はイエス様と聖霊の要素を受け、どこを標準にして歩んでいるかと言うならば、子女の立場を経て、新郎・新婦の立場を標準にして歩んでいます。私たちは今日イエス様を信じて恵みを受けて聖霊の感動を受けてその力によって歩んでいます。 ところで今日私自身にあって成し遂げるべき事は何なのか。イエス様の恵みがなくても、聖霊の感動がなくても私自身がイエス様の恵みを受けた代わりに、聖霊の感動を受けた代わりに、一つの新婦体として完成しなければならないのです。 これは今日キリスト教で実現できないでいます。今日私たちまでも聖霊が働く時だけ新婦としての愛を感じています。私たちは今聖霊の働きを通して子女として成長したので、聖霊の役事を受けなくてもイエス様を新郎として慕う心を持ち、実際できなければならないのです。万一聖霊の協助を受け続けなければならないならば、皆さんが地上で夫婦の愛に対して負債を返す道理が無くなるのです。 そのために私一人を通して、聖霊の感動を受けられなくてもイエス様を新郎として迎え侍る事ができる新婦の位置まで上がって行ってこそ、私たちが天倫の前に本然の位置として立たされた夫婦、その夫婦の愛の負債を返すことのできる資格者となることができることを、皆さんは知らなければなりません。 堕落して落ちた人間が復帰摂理を通して万物から子女の立場を経て、新郎・新婦の立場まで復帰された後には何をすべきなのか? その次には私たちの生涯を責任持って愛して下さった真の父母様の愛と因縁を結べなかったために、神様が創造の意味で立てられたその真の父母の愛の負債を私たちが蕩減しなければならないのです。神様が立てられた真の父母が私の一生を心配して下さる、そのような天倫的な愛の負債を皆さんが霊と肉を合わせて返せなければならないのです。 言いかえれば、私たちがイエス・キリストを通して万物から子女の立場を経て、新郎・新婦に復帰した後には何を求めなければならなのか? 真の父母を求めなければならないのです。ところが今日全世界人類はそれをわからないでいます。堕落した父母であるので、この真の父母が何時現れるのかをわからないでいます。真の父母は再臨時期に現れます。 真の父母に対する負債を返さなければならない時 キリスト教では新郎・新婦の理念を通して子羊の祝宴をすると言います。それではこの子羊の祝宴の中心存在である新郎・新婦はどのような人たちなのか? 地上で真の父母の愛と因縁を結んだ人たちであります。 それでは私は真の父母を迎え侍り、真の父母の愛を受けるために何を知らなければならないのか? 今までイエス・キリストの2千年摂理歴史を知らなければならないのです。 イエス・キリストは全宇宙と全人類に代わってこの地上に来られて、人類が背負った負債を蕩減するための役事を今までして来られました。そのために皆さんが万物の位置を経て、新郎・新婦の位置まで経た後、イエス様を中心にして真の父母に迎え侍ることのできる一時を迎えなければならないのです。そうして真の父母に侍る使命を完結してこそ、永遠なる神様を代身する真の父母の愛を地上に現わすことができ、またその時にイエス様の使命が初めて終わるというのです。イエス様は霊的な世界で復帰摂理の目的がこの地上の万物の中で実体的に成されることを願われたのです。そのために今日復活されたイエス様を信じる聖徒たちがイエス様が返さなければならない新郎・新婦の負債を返すと同時に、地上でイエス様が達成しなければならなかったその真の父母の目的を達成して、神様の御前に万民に代わって復帰の祈祷を捧げることができるその一日をこの地で迎えることができなければ、私たちは神様の永遠なる愛の負債を返す道理がないのです。 そのためにイエス様も2千年の間負債者の立場にありました。真の父母の御旨をすべて完遂できないことによって、背負ったこの負債を全万民に代わって返さなければならない責任が残っていたためでした。ところがその責任は霊的責任で終わるものではありません。霊肉を合わせた堕落しない本然のアダムとエバの位置を復帰して、神様の永遠なる生命を中心にして万物万象の中で永遠なる神様の愛を歌い、敬拝を捧げることができる真の父母に代わる家庭を成し遂げてこそ、イエス・キリストの2千年歴史路程の目的が終結するのです。 この一つの目的を成し遂げることを願って、イエス様は2千年間神様の御前に切なる心情を持って望んで来られました。そうして天地万物を創造された神様の本然の世界を探すことのできる第一基準を完結しようとしました。 堕落しなかったならば、真の父母の愛を原点として、夫婦そして子女と万物にまで因縁を結ぶことができました。ところが人間が堕落したために反対方向に逆に上がって行く摂理をされるのです。そうすることによって万物と子女と夫婦が因縁を結び、真の父母として現れるイエス様を中心として新郎・新婦の基準を中心として、万民すべてが真の父母の御言に応じて神様の御前に現れる事ができるその世界がキリスト教でいう無窮世です。 今や再臨歴史時期にいる私たちは、イエス様の2千年苦労のすべてを受けなければなりません。2千年間イエス様が苦労なさったその歴史の全部を私が代身できるという決意を持たなければならないのです。この様な決意を持ってこそ、初めて真の父母の前に背負った愛の負債を返した子女の位置に立つことができます。そして神様に代わって万物を主管する一つの中心存在となる事ができます。そうなれば、皆さんによってエデンの園でアダムとエバを造った後、祝福された天の御旨が完結し終えるのです。 また皆さんは神様の愛を中心として真の父母から背負った負債を返して、真の夫婦の負債を返して、真の万物の負債を返した後、神様に対する時、皆さんの心と体が神様の御前に出て行かざるを得ない自分たちとなるようになります。神様に対して感謝の敬拝を捧げないではいられないという私とならなければならないのです。考える前に行なう事のできる私となって、要求する前に目的を現すことのできる私とならなければならないのです。 神様に対する負債を返そうとするならば そのためにはどのようにしなければならないのか? 天地の運勢は天から父母、父母から夫婦、夫婦から万物まで回っています。したがって皆さんはこのすべての段階と因縁を結んで出て行ける存在とならなければならないのです。このような存在となってこそ、神様の御前に立つことができ、「お父様!」と呼べる存在となれるのです。そのような立場に立っているのが直接主管圏の世界であります。そのような立場に現れて、神様に相対できる位置まで私たちは上がって行かなければならないのです。 そのためには2千年間イエス様が霊界で戦って、聖霊が地で戦ったことを、今日私たちが受け継いで今まで背負った負債を返すことをもって、真の父母の代わりの立場で万物に対することができ、この地にいるサタンに対して戦い打ち負かすことができるようになるのです。 このような私となる時、永遠なる神様が堕落した人類に対して復帰摂理をしながら、心配され嘆かれたその心を解怨できると同時に、私自身が初めてサタンによって、「これは神様の愛を受けることができる者です」と言われる立場に立つようになるというのです。このような創造的存在が現れることによって永遠なる神様の愛が共にあるということを皆さんは知らなければならないのです。 それ故私たちは重大な使命があります。今日信仰生活を通して皆さんは私に関係あった、すべての環境の中で負債を返さなければならないのです。したがって生活の中で私がそれに相応しい負債を返す生活をしているのかを自ら検討しなければならないのです。 今日皆さんが信仰生活をするのにも、永遠なる神様の負債と父母の負債と夫婦の負債、そして万物の負債と関係を結んでいます。皆さんはこのすべての負債を蕩減する時代と因縁あるため、皆さんがどのような心を持たなければならないかを考えなければならないのです。 私たちが堕落した直後には、神様の御前に立とうとしても立つことができない、神様に相対しようとしても相対することのできない人間でありました。神様が人間に対して恨もうとすれば、限りなく恨むことができましたし、嘆き憎もうとすれば限り無く嘆き憎むことができました。このように私たちは堕落の負債もありますが、歴史過程のすべての怨恨の負債も背負っているのです。 私たちが忍ばなければならない原因がどこにあるのか? 今日私たちが耐えて忍ばなければならない原因がどこにあるのか? 私たちが耐えないならば、私たちが背負った負債を返すことができず、天が抱いて忍んできた恨みを解くことができないためです。 天地の運勢は神様の摂理と一緒に回るために、皆さんは神様が歌う時共に歌うことができ、神様の欝憤と憤慨に対して応援するなら、サタン世界は審判を受けるというのです。今日信仰路程を行く私たちに対して天が柔和謙遜で怒ることなく、耐えて堪えなさいというこのようなすべての教えが、皆そのような理由のためです。 したがって私たちがそこに同じ歩調を合わせられずに、神様の摂理との間に隙間が生ずるようになるなら、サタンが入るのです。そのために今日私たち信仰者は無条件に犠牲となり、無条件に従順となり、愛の内的な部分だけに従って進まなければならないのです。 私たち人間は神様の宇宙的な天倫法度を破綻させた破綻者として、また負債者として万物の前に恥ずかしい生活をして来ましたし、天の御前に心配を掛ける生活をして来ました。そのために信仰生活をする夫婦は主を代身することができる夫婦とならなければならないのです。そして尚一層神様とイエス様を代身して、地を代身して私の一生に父母を迎え、お世話する関係を結ばなければならないのです。 このような関係を結んで天を代身して真の父母、真の夫婦、真の万物に対することのできる関係を、私たちが平面的にでも立体的にでも成さなければならないのです。この様になって神様の御前に、「私は遂に勝利しました。アバ、父よ! 私は私の生涯を捧げ、人類が今まで6千年間サタンを神様の代わりとして従い、サタンから言うに言えない試みを受けて来たこのすべての関係をすべて退けました。そして私は全宇宙の負債をすべて返して、サタンを完全に克服させて完成した子女である」と言える存在とならなければならないのです。 このようになってこそ、私たちに止どまっている天倫の負債を返した者として、天と全宇宙の前に面目を立てることができることを皆さんは知らなければなりません。 祈祷 お父様! 私たちは堕落した世界で生きながら万物に対し負債者の生活をしており、家庭の夫婦同志であっても、互いに互いが負債者であることを私たちは知りませんでした。父母にも負債者の立場にいることを知らなかったし、永遠なる神様の御前にも言葉にならない大きな負債を持っている私たちであることを知りませんでした。 堕落世界から見て死んで当然の負債を負った私たちであったし、万物にも負債を負っており、新郎・新婦の理念を立てたイエス・キリストにも負債をおっている私たちでありました。永遠なる神様の愛に代わって負債を返さなければならない私たちであるのですが、背負った負債を返すことを知らず、私一人を中心として、心配して嘆き、地を呪い、万物を呪い、天を呪った私たちでありました。どの一部分も許すことのできない私たちでありました。 この様な人間を再び立てるために、イエス様は死の道も顧みるず戦われ、十字架に掛かられたのでした。天倫に絡んだ負債を返すため2千年の戦いがそれによって今まで終結されないまま、「審判」という名詞が残るようになりました。 お父様! 審判の峠を私たちが越えることができるように、今までの複雑な歴史過程で背負った負債をすべて清算することのできる者となれるように導いて下さい。負債をみな返しても残ることができる者となってこそ、永遠なる父の御前に立つことができるということを知らしめて下さい。 真の父母の負債を返し、真の夫婦の負債を返し、真の万物の負債を返す者としてサタンの条件をまぬがれ、お父様の愛への負債、お父様が願われる生命への負債を返すことができる生活に一日も早く導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 イエス様もこの一つの道のために今まで苦労されたことを、お父様、悟れるようになさしめて下さい。イエス様と聖霊は霊界で万民のために絶え間なく祈っておられますが、これは私たちが未だ天倫の前に背負った負債を蕩減できないためであり、またはこれは私たちがあまりにも不備で、不完全であるためであるのを忘れないようになさしめ下さい。 イエス様と聖霊がお父様が喜び得る栄光の席に立とうとすれば、私たちがイエス様の責任を代身しなければならないのを、お父様、私たちがこの時間知りましたので、天からの役事が地上で成され、天でのサタンとの戦いが地上の私たちを通して勝利へ導かれるようになさしめて下さい。そうして永遠なる父の愛を喜びと栄光に感じるあなたの永遠の子女となるように導いて下さることを切にお願い致します。 そうしてお父様の前にも、イエス様と聖霊の前にも、数多くの預言者・聖者たちの前にも、地上の人類の前にも万物の前においても恥かしくないお父様の愛する子女として、万物を堂々と主管できるお父様の真の息子・娘として立てて下さることを、愛するお父様切にお願い申し上げます。 この者たちによって負債を返すことができるように、お父様、主管して下さるように切にお願いしながら、すべての言葉を主の御名によってお祈り致しました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.09
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統一しようとする神様の愛の御旨をなそう1956年6月6日(水) 本部教会 預言者たちを立て摂理される神様の希望 アダムの堕落によって神様の御旨が成せなかったため、今日まで歴史路程を経ながら復帰摂理は反復されています。 神様と人間が一つの御旨を中心として、一つの愛に和合して住み、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、全部が一つになって生きることが神様の創造本然の御旨でありました。ところがアダムとエバが堕落することによって神様の愛は神様の愛だけに止どまるようになってしまいました。即ち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結べず、人間から去るようになり、全被造世界から去るようになりました。 それで神様は御自身が立たせようとするその愛を中心にして全万物を糾合して、神様と万物が共に喜ぶことのできるその一日を求めながら、今まで6千年歴史を経て来られました。しかし未だ神様の愛を中心にして全被造万象が一つに統一できないまま、その神様の理念は理念のまま残っており、求めなければならない希望の愛もそのまま残っているのであります。それで神様のその御旨を必ず成し遂げるために今まで摂理して来られているのです。 このように神様は人間堕落以後、今までどの時代をおいても神様の希望を成して、人間に対して信じることができる心と、愛することができる一つの心を訪ねるために、長い間摂理して来られたのですが、未だそれらを成せないで、探せないで来られたのであります。 私たち天の摂理歴史を回顧して見るならば、神様はアブラハム一人を立てて、人間に対する希望と、人間に対する理想と、人間に対する愛の変わらない基準を立てようとされたのを知ることができます。このような神様の御旨が成し遂げられる日が来てこそ、そういう愛の中心が立つ日が来てこそ、神様と人間と関係が結ばれるようになるし、その結ばれた関係の土台によって神様は新しい理想の喜びを享受できるので、アブラハムを選び立てたのであります。ところがアブラハムが愛の中心を立てられないことによって、神様はそれ以後イエス様の時代に至るまで、天の愛の御旨を立てるための足場を築いて来られたのです。 そのためにイエス様までの4千年歴史は、全体摂理の御旨の前にあって、神様の希望と信仰と愛を成した一つの実証的な存在を立てなければならない期間でありました。そういう存在を立てられないならば、神様の希望と信仰と愛は、各自各々分離してどの一時期にも統一を見ることができない歴史として綴られたので、神様はまず希望の基盤を築かれました。そうしてその希望の上に信仰の希望を築き、その信仰の基盤の上に愛の基盤を築かれようとしたのです。そうして後にはこのすべてのものを結実した一つの化身体、即ち全体の希望の実証的自体、全体の信仰の実証的自体、全体の愛の実証的自体を天地の前に押し立てることができる日を迎えようとされたのです。ところが万一そういう日を迎えられないとしたら、神様の愛を中心に統一の理念はこの地上に成就できなくなるのです。 その日を立てるために神様は、アブラハムから始めてモーゼを経て、洗礼ヨハネに至るまで4千年摂理歴史を三段階に分けて、希望の基盤を築きながら苦労して来られたのです。そういう希望の基盤の上に一つの実体として現れた方が誰だったかと言えば、即ちイエス・キリストでありました。イエス・キリストは神様が4千年の間希望された一つの実体として現れた存在だったために、神様が4千年間希望を目指して摂理して来られた総合実体でした。 それならばイエス様がそのような結実体としてこの地上に来られて蒔かれたものが何かと言えば、それは信義の時代で立てられた新約の福音、即ち信仰の福音でありました。その後この信仰の福音を中心にして今日まで2千年の歴史が経過しました。 それならばその信仰の福音が結実した基盤の上に天地を代身して、全体の愛の実体として現れる一つの存在が誰かと言えば、それが即ち来たるべき再臨主ということを皆さんは知らなければいけないのです。それでは神様は再臨時代に何をしようとされるのか? 来られる再臨主を中心に今まで築かれて来た信仰の基盤の上に、一つの生命の種を蒔いて結実するようにすることが神様の6千年摂理歴史の目的であることを、皆さんは知られなければならないのです。 成約時代の中心要素 今日私たちは神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公であられた神様は、人間をして歴史の過程で希望を代身する旧約時代、信仰を代身する新約時代を経るようにされたので、これからは愛を中心とする成約時代を経なければならないのです。 それでは今そういう成約時代即ち再臨時代にあって、永遠不変の一つの中心要素として残れるものは何なのか? それは神様の愛であります。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなる のです。 そのために今まで人間たちはこの愛のため、希望の摂理路程と信仰の摂理路程を経て来ました。しかし今愛の摂理路程を皆さん一人一人が歩かないならば、神様がこの地上に愛を中心として成さなければならない統一の基盤は崩壊してしまう事実を皆さんが知らなければならないのです。 希望の基盤の上に信仰の中心として現れたイエス・キリストは、この地上に信仰を立てるための御言を語られました。万一こういうイエス・キリストをその当時の人間たちが信仰の実体として受け入れたならば、即ちイエス様を神様の4千年摂理歴史の希望の結実体、永遠無窮なる信仰路程にあっての信仰の中心存在、また永遠なる神様の愛を証しして統合させることのできる一つの実体として侍るならば、その当時の人間たちはイエス様一人によって永遠無窮なる神様の希望を持つことができたであろうし、永遠無窮なる神様の信仰を持つことができたであろうし、永遠無窮なる本然の愛を体恤することができたのであります。 ところがユダヤ民族の不信でイエス・キリストが亡くなられることによって、今日私たちは信仰路程で霊的な希望の実体だけを完成するようになり、霊的な信仰の実体を完成するようになり、霊的な愛の実体だけを完成するようになったのであります。 それでは神様の愛の勝利の基準は何であるか? 天上天下のどんな存在物でも神様の愛を中心として動いています。ところがその神様の愛の化身として来られたイエス・キリストが亡くなられることによって、そのすべての願いが崩れてしまったのです。 イエス様は神様が4千年間苦労を伴う希望の存在であり、万物の主人公として来られ、神様と一体となるのを願ったものがアダムとエバの堕落によって壊れました。それでイエス・キリストを中心にして神様の理念と一つとなり、霊肉合わせた信仰の実体として現れなければならなかったのに、霊的な面だけ完結してしまいました。 そのために今日私たちは、今イエス様が残して行かれた遺業を 継承して成就しなければならないのです。イエス様の一身の霊肉を備えた一つの希望の実体となることと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないし、またイエス様が信仰の実体だったのと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないのです。また愛を中心とした一つの実体であったのと同様に、私がそういう人とならなければならないのです。そうして神様の御前に立ってイエス様の希望と信仰と愛を代身して出て、聖霊の希望の実体として、聖霊の信仰の実体として、聖霊の愛の実体としてその使命を代身しなければならないのです。 これがイエス様が来られ行かれた以後、今日この地上の人間たちがお父様の御前に成さなければならない使命だというのです。したがって私たちがその使命を完遂しようとする時、イエス様の希望の終結を、聖霊の希望の終結を見ることができます。更にイエス様の信仰と聖霊の信仰、イエス様の愛と聖霊の愛の終結を見ることができます。そうして皆さんがそのすべてのことを終結することのできるその日を成し遂げてこそ、この地上に再臨主が現れることができるというのです。 神様の信仰・希望・愛の実体とならなければならない人間 神様の希望は神様自体のものではなく、人間のための希望でありました。神様の信仰も神様のものではなく、人間のための信仰でした。また神様の愛も神様自身のための愛ではなく、人間のための愛だったのであります。そのために人間がそういう神様の希望を代身して、信仰を代身して、愛を代身できなければならないのです。その時にそういう人間自身を全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代身する存在として神様が万物万象の前に誇ることができるのです。言いかえれば、彼自身をこのすべての万物が願う希望の中心体だと誇ることができるのです。また全被造万物即ち、天地にあるどんな存在物でも信じて生きることができる主人公として誇ることができるのです。のみならずすべての存在が愛することのできる一つの敬慕の中心体として誇ることができるのです。イエス・キリストが神様の愛を代身する仲保的な化身として現れたのと同様に、今日私たちはイエス・キリストの希望と信仰と愛を受け、この地上にどんな悪い人の前にも一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければならないのです。 そういう存在とならないならば、そのどこへ行ってもイエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立させることができないのです。そのために今日私たちは、このサタン世界の前に神様の希望、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに応えなければならないのです。 ところでイエス・キリストの部分的な希望に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な信仰に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な愛に対して応えるのではなくして、全体に対して応えなければならないのです。人間たちは今までその一つの基準をこの地上に探し出してそれに応えようとしましたが、全体に対して応えて差し上げることができませんでした。しかしイエス様は3弟子を通じてそういう家庭形を現そうとされたことを皆さんは知らなければならないのです。 それでは信仰の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヤコブでした。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヨハネでした。 この3人がキリストの福音の一部分一部分を責任持って一つになって進むことによって、今日私が希望の結実を譲り受けることができ、信仰の結実を譲り受けることができ、愛の結実を譲り受けることができるようになって、また摂理歴史はそのようになるのを願いながら流れて来たのです。そのために3人が一つになって一つの完成体として完結し終えることが最後の道であります。これが、キリストがこの地上に残された最後の教えだったのです。 だから今日皆さんが最後の完成者として現れるためには、キリストの代身体とならなければならないのです。ところが万一皆さんがキリストの3弟子を根とした一つの不変の実体として立てないならば、三弟子を立てて行かれた新郎になられるイエス様の御前に、出ることができないようになります。これを考える時、今日私たちはペテロを立てようとされたその信仰の希望を私自身で成し遂げて差し上げなくてはならないのです。ヤコブを立てようとされた希望の実りを私自身で成し遂げなければならないのです。ヨハネを立てようとされた愛の実りを私自身で刈り取らなければならないのです。 このような皆さん自身となるならば、即ち皆さんが終りの日のイエス様の御前に立つことのできる一人の新婦となるならば、皆さんは神様が6千年間悲しまれた希望の願いが自分自身で結実された喜びを感じるようになって、お父様の御前に感謝をお返しできるようになるでしょう。 更に皆さんは神様が今まで6千年間願って来られたその信仰の希望が、イエス様の愛を中心として成し遂げられたという、すべての万象を代身して成し遂げられたというその喜びの事実を現さなければなりません。そして神様が喜び愛する中でその愛の喜びを感じて、お父様の御前に感謝することのできる皆さんとならなければならないのです。このことが今日皆さんに歴史的な責任として残っていることを知らなければなりません。 摂理が要求するもの それでは皆さん自身が「アバ父よ」と呼びながら、希望の結実を持たなければならない、信仰の結実を持たなければならない時、愛の結実を持たなければならない時となったのですが、今皆さんに要求することは何か? 神様が6千年間希望を抱いて切なく思われたその切なさを感じとれなければなりません。または6千年間信仰を立てるために苦労されたその苦労を感じとれなければならないし、6千年の間神様が愛を成すために犠牲の路程を繰り返して来られたその事実を感じとれなければならないのです。 イエス様一身において、神様の4千年の希望の結実を代身する実践的な路程を立てたものが信仰の摂理であって、その信仰を代身する実践的な路程に立てられたものが何かと言えば、神霊の歴史でした。またその次には愛を代身する実践的な路程が見せてくれたものが何かと言えば、統一の歴史でありました。このようにイエス様は希望を持って摂理の道を立てたし、神霊を持ってここに種を蒔いて繁殖させたし、その繁殖したことなどを一つにまとめようとされた のです。 したがって今皆さんは神様の愛、イエス様の愛、聖霊の愛を実現しなければならないのです。そしてイエス様の希望が神様の希望として変化する時が再臨時代であり、イエス様の信仰が神様の信仰として変化する時代が再臨時代であり、イエス様の愛が神様の愛として蒔かれる時が再臨時代であることを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様の希望の結実、イエス様の信仰の結実、イエス様の愛の結実が皆さん自身の中で結ばれていなかったということであれば、皆さんはまた再び神様の新しい希望の中心を探し立てなければならないし、神様の新しい信仰の中心を探さなければならないし、神様の新しい愛の中心を探さなければならないのです。これが皆さんに与えられた課題であります。 それではそれらを探すために皆さんはどのようにしなければならないのか? 皆さん自身がイエス様の希望を成して、聖霊の希望を引き継いで、イエス様と聖霊の信仰を引き継いで、イエス様と聖霊の愛を引き継がなければならないのです。そうして、「お父様、聖霊の苦労がわかりました。聖霊の希望がわかりました。聖霊の信じて来られた歴史(役事)がわかりました。イエス・キリストの希望がわかりました。イエス・キリストの信仰がわかりました。イエス・キリストの愛がわかりました」と言えるようにならなければなりません。このように言いながら、お父様の御前に出て行くことができるその一つの存在が、今日この地上に現れなければならないということを皆さんは知らなければならないのです。 それならばその一つの存在はどういう存在なのか? その一つの存在が持っている希望はキリストの希望であり、信仰はキリストの信仰であり、愛はキリストの愛であります。ところでその一つの存在がこれらを神様的な希望と神様的な信仰と神様的な愛で終結される時に、初めて神様はイエス・キリストの希望として残されたその目的を終結し終えて御旨を立てることができます。したがってその一つの存在は神様のイエス・キリストが祈られた歴史、イエス・キリストが今まで私たちのために神様の右側で立って祈られたそういう歴史を越えなければならないし、更に霊肉を持つ完成体として天の御前に立て得るようにならなくてはならないのです。またそういう存在が私と天の喜びをキリストを通して体恤するようになる時、初めて神様と人間が 一つになれるのです。そんな位置まで上がって行かなければならないことを私たちは知らなければならないのです。 そのために今日私たちは、神様が4千年間苦労して立てられたキリストの心情、またキリスト以後2千年間苦労して立てようとされた再臨主の心情まで体恤しなければならないのです。そして今日私たちにはイエス・キリストが霊的な完成の立場を越えて、肉的に完結しなければならない希望の実体を完結できず、信仰の実体を完結できず、また愛の実体を完結できないために、その実体を完結しなければならない責任があるというのです。 再臨主は信仰・希望・愛の代表者 イエス・キリストの愛を中心として来られるところの再臨主を立てて、神様と繋がることのできる関係を結ばなければならないのです。 それでは、今日私たちはこのためにどのようにしなければならないのか? 実証的な希望の実体として現れなければならないし、信仰の実体として現れなければならないし、愛の実体として現れなければならないのです。そんな皆さんの基盤の上に再臨主が来られたならば、神様がイエス・キリストを立てられて願われたその希望が皆さん自身を通して決定するのです。そのためにその再臨主は私全体の希望として現れて、私全体の信仰として現れて、私全体の愛として現れるというのです。 ところで再臨主がそのような愛として、希望として、信仰として現れるようになる時、皆さんは皆さん一人で喜ぶだけではいけないのです。その喜び、希望の喜びがその方によってなのですから、その方に感謝しなければならないのです。私が信仰の実体に立ったその事実に対して感謝しなければならないのです。そうする時、全天地が皆さんに和合して、皆さんを愛の実体として対することのできるようになるのです。このように全天地が動く感じを皆さんは持たなければならないのです。 そういう感じの中で皆さんは、神様がイエス・キリストに対して希望されたことを、希望を代身する実践の路程を通して開拓しなければならないのです。 また信仰を代身する心霊的な歴史(役事)を開拓しなければならないのです。更に愛を代身した侍る生活を実践して、統一の歴史(役事)を成して、すべての万民が栄光に侍って差し上げることができる人々とならなくてはならないのです。 そのために最後の神様の愛を成し遂げるには実践的な希望、心霊的な信仰、心霊的な愛をすべて備えなければならないのです。その時私たちは主に侍り、永遠に生きることができ、神様に侍って永遠に生きることができるのです。 そして今日の私自身は天の喜びに満ち溢れて、地上の万物の前に喜びに満ち溢れ、地上の人間の前に喜びに満ち溢れていなければならないのです。そうしてその一つの喜びを全世界が統一するように感じながら、永遠に生きることができる時代を皆さんが建設しなければならないのです。 そうして皆さんがいる所隅々まで、そこは神様の希望の実践的な場となって、信仰的な場となって、愛の化身的な場とならなければならないでしょう。そうして神様が希望した御旨を地上で成し遂げて、神様がイエス様を通じて成し遂げようとした希望が、私たちから成し遂げられるようになって地上の万物に結ばれなければならないのです。また神様の喜びが人間を通して万物にまで結ばれる時、初めて神様が願った統一の歴史が成立されるのです。 そのために今日皆さんは、自分が神様の御前に希望の存在として立つためには、まず天上天下のすべての万物を代身して希望の結実体として喜んでいたかを自問自答してみなければなりません。また皆さんは、今まで地上の多くの人間が天を信じてきたその信仰の全体を代身して喜ぶことができる存在となったか? 更に神様から愛を受け、愛するその愛の感じを感じることができる存在となったか反問してみなければならないのです。 ところがそのすべての完結体として来られる一人の存在が誰かと言えば、即ち再臨主なのです。即ち、その再臨主は全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代表して現れる方だというのです。ところでその方が現れるようになる時、皆さんは彼を迎える準備ができていてこそ、彼の希望と彼の心霊的な信仰と彼の愛を所有することができるのです。またその時皆さんは、 神様の御旨を成すために行くまいとしても行かずにはおられないし、行わないでおこうとしても行わざるを得ないのです。そのために皆さんは今日この地の堕落圏内で生きている人間たちの感情を超越した希望の化身として、信仰の実体として、愛の実体として現れなければならないのです。万一このような存在がこの地にいるならば、再臨主はそのような存在を訪ねて来られるのです。 それならばそういう存在を求めて来られる目的は何であるか? イエス・キリストが残した使命、肉的に完結しなければならない使命のために尋ねて来られるのであります。6千年前から神様が希望される霊肉を中心としたその御旨を成し遂げようと尋ねて来られるのです。 したがってそういう御旨を条件として手本となれる隠れた存在がこの地上に現れるようになる時、どんな存在であっても彼を希望の存在として、信仰の存在として、愛の存在として侍ることができなければなりません。愛を中心としてこそ統一の理念が成された一つの世界は希望を越え、信仰も越えた世界なのです。だから今皆様には、愛を中心とした自分の生活に天上天下が和合できる日を成し遂げなければならない重大な責任があるのです。 再臨主の実践的な基盤 たとえ再臨主がこの地上に来られると言っても、人間の実践的な基盤がなければなりません。たとえ永遠なる神様の愛を代身した存在だと言っても、人間即ち皆さんの基盤がなくてはならないのです。このような重大な責任が皆さんにあるのです。したがって今日皆さん一人は24億人類に代わって、今まで天上にいる億兆の先祖たちを代身していることを知らなければなりません。更に私一自身は天地のすべての存在物が希望する存在であり、全天地は私一自身が信仰の個体、愛の実証的な個体となることを願っているのです。 だから今皆さんはそんな心を感じ取って、食べても飢えても生きても死んでも、その日常生活にあって全体の中心を証して保護して差し上げなければならないのです。そうして自然万物を通して神様の御前に栄光を帰し得る、このような歴史(役事)まで皆さんがやらなければならないのです。このような重大な責任を 今日皆さんは背負っているのです。 それでは皆さんたちの過去の信仰生活を振り返って見る時、希望を成したと言って証しできる自分となっているか? 信仰を成したと言って証しできる自分となっているか? 愛を成したと言って証しできる自分となっているかということが問題です。 そんな皆さんになる時、イエス・キリストの希望が、イエス・キリストの信仰が、イエス・キリストの愛が皆さんに神様の希望として、信仰として、愛として体恤されるようになるのです。したがって今皆さんはイエス・キリストを通じて残された神様の希望を、残された信仰を、残された愛を感じることができなければならないのです。 そのような感じを感じる人がいるとすれば、彼は神様の直接的な恵みを受けている人です。またその様な人は、神様の希望を現すまいと思っても現さないではおられない、神様の信仰を現わすまいと思っても現さないではおられない、神様の愛を現すまいと思っても現さないではいられないのです。万一皆さんがそういう存在となるならば、皆さんがどこへ行っても神様の希望を分け与えることができ、どこへ行っても神様の信仰を分け与えることができて、どこへ行っても神様の愛を分け与えることができるのです。 また皆さんがそのようにしてこそ、来られる再臨主を地上で神様の代身としてお迎えできることを、皆さんは肝に銘じなければならないでしょう。 祈祷 愛するお父様、天倫の隠された御旨の世界が成らなかったことがすべて神様に責任あると思ってましたが、人間の堕落によって私たちにもあることを知りました。 神様の永遠なる希望が残っている限り、今日私たちにも永遠なる希望が残っており、神様の永遠なる信仰の願いが残っている限り、今日私たちにも永遠なる信仰の願いが残っており、神様の永遠なる愛の実践が成し遂げられない限り、今日私にも永遠なる愛の実体を成さなければならない責任が残っていることを知りました。 この一日に蕩減的な歴史を継承するために、私たちは4千年希望を継承して6千年の希望として、4千年の信仰を継承して6千年の信仰として、 4千年の愛を継承して6千年の愛として現さなければならないのです。神様の御前に立って6千年の希望を永遠なる希望として、6千年の信仰を永遠なる信仰として、6千年の愛を永遠なる愛として立てるべき責任が私たちに残されていますから、この日の私たちの至らなさと不足さをお許し下さい。この日の私たちの不忠さと不孝さを許し、私自身を高く立てていたことをお許し下さい。 今万民の希望を結実しなければならない時になりましたし、万民の信仰を結実しなければならない時になりましたし、万民の愛を一つの実体として現さなければならない時になりましたが、その一つの実体がいずこに結実されておりますか? 取るに足りない私たちでありますが、新しい新婦として正装しなければならない自分たちであることがわかるように悟らしめて下さい。 その時内的な面で完結を成し遂げられたイエス・キリストの苦労の歴史が、外的な私たちを通して結実されることができるのであり、再臨理想が実践されることができるのであり、外的な歴史を展開できることを知っております。 今日天地の中心的な役割を担当すべき人が誰かといえば、終末の再臨歴史を前においている聖徒たちだということを知っています。お父様はそのような人々に永遠なるお父様の希望を任せようと願っておられますが、彼らがその希望を受け持つ者となっているか、永遠なるお父様の信仰を任せようとされていますが、その信仰を受け持てる者となったか、永遠なる神様の愛を任せようとしましたが、その愛を受け持つ者となったのか、それが心配なのです。 そのすべてのものを主の代わりに受け持って、お父様の御前に永遠に変わらない姿でお父様の愛に属した人になる事を通じて、今は永遠なる希望の種族となった者として立たなければならないのです。永遠なる信仰の種族となった者として立たなければならないし、永遠なる愛の種族となった者として立たなければならないのです。このような責任が私たちに分担されている事をわかるようになさしめて下さい。 選ばれたイスラエルの一つの勝利的な中心実体としておられるイエス・キリストの目的を、今日私たち一人一人で成して、即ち全体を代身する希望の実体を備えて、信仰の実体を備えて、愛の実体を備えなければならないのです。今再臨歴史以後には、キリストがこの地上に来られて行なわれたそのすべてのものを代身する、即ちイエス・キリストの希望の実体として立たなければ ならないのであり、信仰の後継者たちとならなければならないのですから、これをはっきりわかるようになさしめて下さい。 今堕落の峠を越えなければならない復帰過程にある私たちが、「お父様の希望に責任持ちます。お父様の信仰に責任持ちます。お父様の愛に責任持ちます」ということができなければならないし、その希望、信仰、愛を、お父様の御前にお返しできなければならないし、更に万民の前に不変の愛を中心として立たなければならないのです。そうしてお父様の御前に愛される事のできる勝利的な存在となってこそ、終末に最後の栄光を代身する事のできる資格者であることを知っておりますので、今日ここに集まった子女たち、どうぞお父様が、「お前は私の希望の存在であり、私の信じる事のできる者であり、私が愛するできる者」という事のできる姿となるように導いて下さい。 更に天上天下すべての万物の前に宣布して、判定の恵みを受けて和動の一つの条件を立てる事ができる勝利の子女たちとなるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 そのためにお父様の喜びがこの地の喜びとして置きかえられ、お父様の愛がこの地の愛として置き換えられて、お父様の希望と信仰がこの地の希望と信仰として置き換えられなければならないのです。再臨理想を迎え受けながら、平面的な喜びをお父様の御前に置き換える事ができるように導いて下さり、お父様の願いが地を中心とする私たちによって成就されることのできる栄光を、全被造世界に現すことのできるように導いて下さい。 私たちの生活を通して生涯を通して、モーゼの栄光を称えることができなければならないし、モーゼの愛によって私たちすべてが一つとなれるよう導いて下さい。そうして24億人類を全部すべて合わせて霊界にいる千々万聖徒たちまで合わせてこそ、一つ誇りを誇ることは神様の御旨を成就することであることを知っていますので、その成し遂げたすべての希望、成し遂げたすべての信仰、成し遂げたすべての愛を永遠に誇ることのできる条件として、天地の中心の中で立てる事のできるようお導き下さることを切にお願いしながら、すべての御言を主の御名によってお捧げ致します。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.04
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文鮮明先生御言選集 19560527 - イエスのように復活の栄光を神様に帰そう1956年5月27日(日) 本部教会祈祷 愛するお父様、イエス様を信じないイスラエル民族に対して、パリサイ人やユダヤ人たちに対して、悔い改めることを幾たび願われたことでしょうか? 追われ追い込まれて安息の眠りに就けなかったイエス様の路程が、私たちの心身に宿り、イエス様の心情を感じないようにしようとしても感じずにはおれない、その心情に似るまいと思っても似ずにはおられないこの時となるように許諾して下さい。またそういう心が私たちの中に現れなければならないことが、お父様が要求される御旨であり、または私たちが望む所の願いではないでしょうか? 今イエス・キリストが歩まれたその路程を、イエス・キリストが残して行かれたその福音の御言を代わりに背負って、億兆万サタンと戦い、勝利の栄光をお父様の御前にお返ししなければならない責任が私たちにあることを、この時間心の中に感じとれるよう許諾して下さい。そうしてイエス様が天に対して懇切な心を持たれたように、今日私たちも天に向かう懇切な心を持てるように許諾して下さい。 天を信じて集まった全体の群れに対して、堂々と出ていったイエス様の凛々しい態度と同じように、私たちもお父様の生命の御言、真理の御言を信じて堂々と出ることのできる態度を持った子女となれるように許諾して下さい。 今日私自身をイエス様の御前に誇れるように許諾して下さり、今日の私の事情をお父様の前に誇らないように許諾して下さい。この時間お父様の御前にひれ伏した者が多いのですが、恥かしい者とならないように許諾して下さい。イエス様と同じ位置を獲得することができ、お父様の心に代わることのできるように導いて下さり、イエス・キリストの願いを代身して万民の前にいつ如何なる時にも躊躇することなく現れることを願っておられるのがお父様の希望であろうと思いますから、お父様、ここにひれ伏した子女たちを記憶して下さい。一つ一つ尋ねて下さり、一つ一つ命令して下さい。 お父様の御旨を成すためにイエス・キリストの代わりとして戦うことができ、お父様の御旨の前に共に動ずる聖徒となるよう導いて下さい。私のお父様、懇切にお願い致します。 お父様、イエス様は反対を受ける時にも天のために弁明されて、お父様の御旨一つを携え、念慮しながらその御旨を立たせるために戦って来ましたが、今日私たち一自体はイエス様の御旨、お父様の御旨のために出て行くにあっていつ如何なる時にもお父様のために賛成したことばかりだったでしょうか? お父様の御旨に対して恨むことの多い私たちでした。 お父様、このような私たちを許して下さい。今私たちはお父様の御旨を万民の前に堂々と訴えますから、お父様、この夕方集まった群れを天の勇士として立たせ、お父様の子女として立たせて下さい。仰せつけて下さり、御指導して下さり、尋ねてきて自慢できる立場に立たせて下さい。愛して下さり、導いて下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 この時間初めから終りまでお父様の能力の導きが共にあって下さい。私たちが柔和謙遜で幼な子のような心を持てるように許諾して下さい。尊厳なるお父様の御前に、生きた祭物として捧げることのできる子女になって、本然の自己に再創造できるこの時間となるよう許諾して下さいますよう、お父様、懇切にお願い申し上げます。 この時間多くの御言が必要ではありませんが、生命の感動の役事(導き)が、心と体全体に染み通るように許諾して下さい。お父様の喜びを歌うことができ、お父様の栄光を証することができるように、御言で私たちの心と体を覚醒して下さいますよう懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。 <御言> この時間皆さんと共に考えようとする御言の題は、「イエスのように復活の栄光を神様に帰そう」です。「イエス様のように復活の栄光を神様に帰そう」という題で暫くの間お話してみます。 創造理想とイエス様の降臨の目的 エデンの園は、永遠に神様が栄光を享受して、全被造万物が神様に歓喜の敬拝を捧げ喜びながら住む園でした。このような園を造ることが神様の創造目的でした。また人間は神様が願う希望の栄光を地上に現さなければなりませんでした。このように神様の栄光を実体として現さなければならないのが私たちの先祖アダム・エバの責任でしたが、彼らが堕落することによってその御旨が成し遂げられませんでした。 神様が創造理想を成し遂げることをもって喜ぼうされた本然のその園は、人間が堕落することによって成し遂げられませんでした。それで今まで全人類は、復活の栄光を願いながら暗闇の勢力と対決して戦いの道を経て来ているのです。これが6千年歴史の路程でありました。 神様は今まで歴史を経過しながら、全体的な復活の栄光と全体的な復活の遺業を成して、この地上の億兆蒼生(万民)と霊界の千々万・天軍天使、そして被造万物までも神様の栄光を歌い、感謝の敬拝を捧げられる一日を迎えようとしました。その一日を迎えるために神様は多くの預言者たちをこの地上に送られ、4千年歴史が経過した後に神様御自身の内的心情を外的実体をもって栄光の実体として送って下さったその御方が、間違いなく独り子イエス・キリストでした。 このように神様の栄光の存在が現れたので、多くの民は喜びと感謝を捧げるべきでありましたが、即ち、選び立てたイスラエル民族と摂理を成就するために立てたユダヤ教団がイエス様の栄光に代わって現すべきでしたが、そうなりませんでした。そうしてイエス様は悲しみの嘆息と、成し遂げられない思いの嘆息を残さなければならなかったのを皆さんは良く知っています。 イエス様が残した御言を今日私たちが見てみる時、彼の御言は信じない民だけに訴える御言ではありませんでした。万民に対して語られ たのです。イエス様は神様のために死を覚悟しました。残された道がなく、行かないでおこうとしても行かざるを得ない運命の道であることを知っておられたし、堕落した人間がどの一時、どの一歴史過程でも神様に対して心を尽くして性品を尽くして思い尽くせなかったので、これを知られたイエス様は堂々と人前に出て叫ばれたのでした。「汝の心を尽くし、性品(精神)を尽くし、思いを尽くし、主なる汝の神様を愛せよ」と堂々と語られたのでした。皆さんはこの一節の御言が皆さん一人にだけ該当する御言として理解してはいけないのです。 イエス様が下さった御言 それならばこの一節の御言は何を現わす御言なのか? イエス様は4千年歴史過程に隠れた神様の切ない内的心情を切々と感じました。そうして自分が神様に仕えなければならない責任を感じて、いつ・どの時間でも自分が今まで4千年歴史過程に未だなかった心をすべて尽くす代表者とならなければならないし、生命を掛ける代表者とならなければならないし、思いを尽くす代表者とならなければいけないことを、ここで再度明らかにされたのです。 天の栄光がイエス様の栄光として現われて、イエス様の栄光が万民の栄光として現れて、万民の栄光が被造万物のいずれにも及ばなければならなかったのです。しかるにイエス様と万民が断絶されることによってイエス様お一人で成し遂げた復活の栄光、感謝の栄光は今日人類の願いとして残ったことを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は神様の栄光の化身として現れました。神様のために自分の心を尽くし、性品を尽くして思いを尽された一存在、歴史過程になかった勝利の化身が即ちイエス様だったのです。そのためにイエス様お一人に神様の心情が積み重ねられたことを知らなければなりません。 更に皆さんは、イエス様が心を尽くす前に、まず神様が心を尽くされたことを知らなければなりません。イエス様が思いを尽くす前に、まず神様が思いを尽くされたのを知らなければなりません。そしてイエス様が性品を尽くす前に、まず神様が性品を尽くされたことを知らなければなりません。このように福音の化身として仲保的存在として現れた方がイエス様だったのです。 そのためにイエス様のこの真理の御言は、単に絹(安楽)のもとで感じられる御言ではなく、創造理念に通ずる御言であり、全体の価値を高めることができる栄光の理念として立てられた御言であり、お父様の隠された心を現した御言でした。これを皆さんは知らなければいけないのです。 今日皆さんは、神様が語った願いが私だけを愛して語ったと考えてはいけません。そしてイエス様がそういう御言を語られたのは、神様が自分を立てるために苦労されたその御旨を、自分が今実体的に成し遂げなければならないことと考えたのでした。神様がイエス様に対して尽くしたことと同じように、人間が神様に対して尽くすべき責任があると証しした、その御言を成就でき得ないまま今に至っているのです。 心と意思と性品を尽くし尋ねてこられる神様 したがって今私たちは、心を尽くして思いを尽くして性品を尽くして神様を敬わなければならないし、神様御自身まず心を尽くし、思いを尽くし、性品を尽くして私たちを求めて来られたことを知らなければなりません。 神様は4千年間に対してどんな心を持ってこられたのか? 自分のために尽くそうという心を持って来たのではありません。今すぐに死んで当然な人間であり、苦痛を味わっても当然の人間でありますが、神様は人間に対して心を尽くす立場で忍耐の4千年歴史路程を歩んで来られ、また思いを尽くして4千年の間サタンを分別する戦いの路程を歩んで来られたことを皆さんは知らなければなりません。 このように不変の愛の心を持って4千年の間忍耐し戦って来られ、愛して来られた神様の性品を知らなければなりません。 こういう神様の御前に現れたイエス様は、イスラエル民族を中心にした神の国を建てるために、自分お一人の心を尽くしました。そのためにイエス様の30余生涯の路程は、心を尽くす犠牲の期間だったのです。30余生涯の路程にあって民族の前に自分を現さず、黙々と4千年の間忍耐して来られた天の心情を体恤しようとされたのでした。 そうしてイエス様は4千年歴史過程にあってサタンと関係した曲折の事実を感じて、それを霊界で内的に証し受けて明らかにされたのです。更に4千年歴史の中で隠された天倫の秘密を明らかにして、神様の内的な忍耐の実体基台を成し遂げられ、外的な実体基台を30余生涯に立てなければならない責任を背負ったイエス様だったことを皆さんは知らなければなりません。 そのためにイエス様は難しい立場にぶつかればぶつかるほど、自我を求める立場にあったのでありますが、求めるという考えを試みてみることができませんでした。イエス様は神様が4千年歴史を経過しながらイエス様自身を尋ねるために忍耐して来られた神様の心、人間一人一人を尋ねるために忍耐されたその神様の心を感じて、その心を解怨するための実体として現れるための30余年準備の生活をされたことを、皆さんは知らなければなりません。 神様はこの時間まで誰に対しても御自分の立場を弁明されませんでした。万民に対して弁明されることもできなかったし、怨讐サタンにも弁明しませんでした。神様のこういう全体の心情を体恤しようとするイエス様だったために、寂しい立場になったとしても、どの誰にも弁明されず忍耐されたのでした。こういうイエス様の忍耐の生活を皆さんは模範としなければいけないのです。 神様はイエス様のために耐え忍ばれ、イエス様は自分のために忍耐されたのではなくて、神様のために忍耐されたのであります。即ち、イエス様は神様が自分を捜し求めるために苦労の路程を歩まれたことを感じ、自分のために耐えられたのではなく、神様のために耐えられたのです。 このようにイエス様が30余生涯自分を捨て、神様のため忍耐されたのでサタンの忍耐を凌駕しました。サタンは今まで神様が4千年の間忍耐して来られた道、その道を破壊するために奮闘して来たのです。しかしサタンが堪えた以上のお父様の忍耐であったということを知っておられたイエス様は、そのお父様を信じて、お父様と共に忍耐するために忍耐の化身となったのです。 このようにイエス様自ら、神様が4千年間求めて来られた心情の基台の上に立って、それを勝利の足台としてその上に立ってサタンと戦うことにあって忍耐心を持って戦い勝たれたのですが、実体的勝利の基盤を持つことができなければ、神様が4千年の間忍耐して来られた心情は破壊されるようになることを皆さんは知らなければなりません。 忍耐の心情でサタンを打ち負かしたイエス様 イエス様が30余生涯を通じて、御自身が耐えられない環境に置かれたとしても神様の御旨をして堪えたため、またサタンが耐えられない立場で耐えて神様の御旨を行ったため、また忍耐する者のシンボルとして立てられために、イエス様はサタンに対して戦うことのできる主人公となったのでした。 神様はイエス様お一人を求めるために4千年歴史の血の滲む路程を歩まれました。また人間は自分の欲望を成し遂げるために喘いでいるような中にあっても、神様は人間のために戦いの歴史路程を歩んで来られました。このように神様は4千年の間サタンと戦って来ましたが、神様は自分を中心として戦かわれることはしませんでした。 ところがサタンが今日まで戦ってきながら願って来たことは、自分の栄光だったのです。また今まで自分を中心として神様と戦って来たのであります。しかし神様は自分のために戦うことはされませんでした。神様が戦われる目的は、サタンの懐にいる哀れな人類のためであったのであり、選ばれた民族を通じてイエス様お一人を立てられるための戦いだったのであります。 それではイエス様はどういう存在として現れたのか? 神様が4千年間サタンと戦い打ち負かす勝利の代身実体、化身として現れたのでありました。イエス様はこのように神様に代わる戦いの主人公としてこの地に来られたのです。それでイエス様が内的に勝利の基準を立られた神様の御旨を相続して、外的に勝利の基準を地上に立てなければならない責任を背負って実践された路程が、即ち3年公生涯でした。 この3年の公生涯期間にあってサタンは自分一人の勝利のためにイエス様と戦いましたが、敗北するので再び民族を動員してイエス様と戦うようになったのでした。 しかし、イエス様は3年公生涯期間にどのような難しい戦いの立場でも、決して自分を中心として戦うことはありませんでした。イエス様は 父が行ったことを見て行なうとおっしゃいました。神様に代わって戦いの化身として、神様の内的な心情を現す神様の代身実体として3年公生涯を歩まれたのでした。イエス様は自分を弁明する戦いをされませんでした。 神様が自分のため弁明できないのと同様に、イエス様御自身も万民の前でサタンと戦う立場で自分を弁明することはありませんでした。神様が4千年間自分のために摂理して来られたその苦労に対して、変わることのない心を持って神様を敬われたイエス様でありました。 神様の御旨が摂理の闘争の路程に現れたこの一つの事実を悟ったイエス様は、神様が内的に立てられたこの全体の御旨を外的に成就するための戦いを展開されたのでした。それでイエス様とサタンの戦いにあって、サタンは自分のために戦ったのですが、イエス様は天のために戦ったのであります。ここに勝利の基準が立ったのです。 ではサタンが敗北した原因は何だったのか? 自分のために戦ったためです。サタンの戦いの目的は自分にありました。しかし、イエス様は戦いの目的は天に置きました。そしてイエス様は神様が変わらない以上、最後まで変わらないという心を持って思いを尽くして戦われために、勝利の基準を立てたのであります。また神様が心を尽くし、意思を尽くし、性品を尽くしたのと同様に、イエス様も人類の前にそういう姿勢を見せて下さったのです。 イエス様は神様の代身実体 そうしてイエス様は神様の内的な性品を代身してすべての苦難と悲しみを堪えながら、愛された神様の心情を継承できたのでした。それでイエス様は自分がどの立場、どの所にいたとしても、ただ神様の御旨、神様の愛を代身する実体としてサタンと戦ったのでした。 イエス様はサタンと戦う過程に、サタンが自分のための目的を中心に攻撃する時に、その影響はイエス様御自身のみならず、神様にまで及んだことを知りました。そのためにイエス様はどのような受 難に会われたとしても、神様が自分(イエス)のために忍ばれたように、また万民のために耐え忍ばれたように、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦われたのと同様に、30余年生涯をただ一人耐え忍びながらサタンに対して戦われたのでした。このように十字架上で亡くなるその絶頂の瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体としてずっと神様の愛を自ら実践して現す生涯でした。ところが彼の生涯路程、即ち神様の愛を実践した路程は、サタンと戦いながら歩んだ試練過程だったのです。 それではどうして神様はイエス様をサタンの前に渡して十字架で殺したのか? それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様はイエス様を愛したけれども、どの程度まで愛されたのか皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は、事実上死を越える立場で受けるということを皆さんは知らなければなりません。それ故に皆さんは神様に代わりに来られたイエス様の愛を受けるためには、死の峠をも越えることができるという切々たる心情を持たなければなりません。そういう時にサタンが屈伏するようになるからです。 4千年間、神様お一人全体の世界を眺めながら悲しまれ、心配され、苦労されましたが、イエス様お一人が地上に立てられることによって、彼を中心にするサタンとの新しい戦いが展開したのです。そうしてイエス様は自分のすべてのことを忘れて神様のために戦ったのみならず、死の場にあっても自分のための欲望を持たなかったために、復活の能力を現すことができたのでした。今日私たちもイエス様のようなそういう勝利の過程を歩まなければならないのです。 イエス様は神様の永遠の生命を所有して、神様の栄光を現すために自分のすべてのものを捧げ尽くしました。そして罪悪に満ちた人間たちのために自分一人を祭物に捧げました。私たちは、サタンが反対しているということまでも忘れる程に、人類のために手を上げて祈祷されたイエス様の愛を知らなければなりません。 サタン世界では現すことのできない愛をイエス様は現したために、サタンは彼の愛の前に屈伏するまいと思っても屈伏せずにはおられませんでした。サタンは自分個人として求めることが(別に)ありましたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じる ようになったのでした。そうして十字架によって4千年間摂理して来られた神様が悲しみ始めたのみならず、人間も悲しみ始めて、またサタンも悲しみ始めたのであります。これを皆さんは知らなくてはなりません。 イエス様が亡くなったことに対して、神様と人間だけが悲しんだのではありませんでした。イエス様の愛と死についてサタンも悲しむようになったのです。それでサタンの悲しみが大きくなればなる程、イエス様の愛の結実はより多く結ばれたのでした。 イエス様は自分の愛を実証する十字架の勝利によって、4千年の間摂理して来られた神様と不変の因縁を結んだし、不変の勝利、不変の愛の実体となりました。イエス様は天と地、人間を代身して神様と一つとなったために、神様が変わらない以上イエス・キリストもまた変わることができなかったのであります。 神様は4千年の間栄光を現そうとされましたが、その願いを成し遂げられなかったので、イエス様お一人を立てて初めてその願いを成し遂げようとしたのでした。それでイエス様は人間を通じてその願いをこの地上に現そうとしたのでした。そういう神様の4千年摂理の証拠的な実体として現さなければならないのに、十字架によってその願いがサタンに蹂躙されることになったのです。しかし、イエス様は神様の栄光の実体として4千年間摂理してこられた神様の栄光を見せてくれましたが、それが何かと言うならば、復活の栄光だったということです。これを皆さんは知らなければなりません。 復活の栄光を現されたイエス様 その復活は4千年歴史において初めて天の栄光を代身したものであり、4千年間サタンとの戦いを勝利した栄光を代身したのでありました。イエス様がこのように勝利的な基準を霊的にとか実体的に見せて下さったために、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開されるようになったのでした。イエス様が十字架に掛かることによって4千年摂理歴史の責任を引き受けて、祖先たちの責任を引き受け持って、天の栄光を代身して あの世に行かれたことが復活・昇天だったのです。 このようにイエス様は内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるために、即ち神様の完全な栄光を現すために来られた御方です。なぜかと言えば、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が合わされてこそ成し遂げられるからです。イエス様は間違いなくこの使命を成すために来られたのです。 神様の栄光が完全に成し遂げられるには、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子・イエス様とユダヤ民族が、離れずに一つになることによって、イエス様の手にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければならなかったのです。しかし神様の4千年摂理歴史を受け持って神様の栄光を実現しなければならないイエス様が、ユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。そのためにイエス様は未完の栄光を成して昇天されたのでした。 イエス様が昇天した後に霊界で、神様が4千年間サタンに対して行った天の戦いと、人間を復帰するために行った真の戦いと、御旨を成し遂げるための摂理の戦いと、聖霊を代身とする愛の戦いをしておられるのです。即ち、イエス様は霊界に行かれて、神様がして来られた戦いを継承して神様の代わりとして戦っておられるのです。 それでは4千年の間摂理して来られた神様の前に、人間を代身して、万物を代身して、天の愛を代身したイエス・キリストが真実に勝利しなければならない場所はどこにあるのか? 他でもないこの地だと言うことです。 地上の戦いを責任持つ聖霊 それでは地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任持たなければならないのか、これが問題です。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを継承して戦っておられるのですが、聖霊と私たちは地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いに勝利するために、全部が協助しなければなりません。この戦いは霊的にのみ戦う戦いではありません。霊肉共に戦わなければならないのです。そしてその戦いで勝たなければならない運命が、私たち人間に残されているのを皆さんは知るべきです。即ちイエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継いで今まで戦って来られたことと、この地で30余生涯を犠牲にして人類救援のために戦って来られたことを、私たちが引き継いで勝たなければならないのが私たちの運命だと言うのです。 そのために今皆さんたちは、「お父様! イエス様! 聖霊よ、私に力を下さい」と祈祷して叫びながら、地上で天の歴史的な希望を成し遂げるために全力を尽くさなければならないのです。 イエス様はこの地上に神様の4千年苦労の結実体として来られたし、最初の完成体として来られた御方です。しかしイエス・キリストは30余生涯に成し遂げられない路程が残ってました。そして3年公生涯期間の戦いの路程にも神様の栄光を完全にすべて成し遂げられないという恨みが残っており、また十字架の血にじむ愛の心情が地上に残っているのです。 それ故に、今日私たちはイエス様が地上で成せない使命を引き継ぎ、霊肉同時に成し遂げなければならないのであります。そして私たちは私たちの生涯路程をみな捧げて、イエス・キリストの行かれた道を継承して行かなければならないのです。 それならば今日私一個人をお父様の御前に立てて批判しようとする時、どのようにしなければならないのか? イエス様は神様の御旨を成し遂げるためにサタンと戦い、イエス様が行かれて以後2千年の間も聖霊と共に苦労して来られました。そういうイエス様に皆さんは似なければならないのです。そしてイエス様はお父様の御前に自分一人を立てて勝利の戦いを展開したことが、どの一日だけではなくて、30余生涯の期間であったことを知らなければならないのです。6千年間摂理されたお父様の心、御旨を成し遂げるために心配し、苦労されたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。 そうして今日皆さんが耐えなければならない路程にあって心を尽くして耐えることができないならば、皆さん一人によって6千年の間心配され苦労された神様の御旨、イエス様が生涯苦労された御旨、イエス様が亡くなられた後聖霊が2千年の間苦労した御旨がすべて挫折してしまうというのです。これを皆さんは確実に知らなければならないの です。 それ故、今皆さんはこの御旨のための戦いを展開しなければならないのです。 私たちの使命 イエス様は怨讐の反対を沢山受けました。この城から追われればあの城へ行かれ、こちらで迫害されればあちらへと逃れて行かれたのです。そのような中でもイエス様は自分の一身を弁明することを知りませんでした。天の全体生命を持って来られたのに、そういう価値を現すことができませんでした。そうして無言の戦いの路程を経て来たイエス様、更に十字架の山上でも自分を忘れて神様の御旨と愛を中心として証しするためにサタンと戦われたイエス様でした。 それ故、今皆さんがイエス様自体を尋ね立てようとするある愛の心がある訳ですが、それがイエス様を悲しくさせるのではなく、喜びを差し上げることなのです。皆さんはこういう事実を考えて、今日皆さんがイエス様の苦労多い30余生涯を代身しなければならず、今日まで耐えて来られた神様の心情を代身しなければならないのです。 4千年の間、神様の御旨を成し遂げるために祭壇を立て、民族を通して摂理された預言者たちの心を代身しなければならず、イエス様が人間を愛されたその心を模範にしなければならないのです。そうして今日皆さんは、イエス様が自分を立てないで、自分を愛さない心で勝利の基準を立ててサタンを嘆かせたのと同じ、そのような事をしなければならないのです。6千年間のすべての戦いを終結させなければならないのです。 皆さんは忍耐のすべての闘争路程に勝利しなければなりません。また天の御旨を証しする戦いで勝利しなければなりません。皆さん一人一人がイエス・キリストを代身しなければなりません。4千年の間神様が忍んでこられた御旨、忍んでこられた栄光、忍んでこられた愛の勝利の心情を抱かなければなりません。イエス様が自分自身を忘れて、ただ天の御旨を成し遂げるためだけに苦労されたように、皆さんも自分自身を忘れて、神様が願われる全体の栄光を結実して差し上げなければならないのです。心で、体で勝利の実を結ばなければならないのです。 そのために心ではイエス様の栄光を歌うことができ、体では聖霊の栄光を歌うことができるのです。そして私たちが、心ではイエス様の復活の栄光を代身して、体では聖霊を通じて復活の栄光を代身できないならば、聖霊は復活の栄光の立場に出られないという事です。イエス様は復活昇天できる栄光を整えましたが、聖霊は未だ復活昇天できる栄光を持っておりません。 今日まで6千年間摂理して来られた神様の栄光に代わって霊肉を持った一つの実体が出て来なかったのです。今日はイエス様の愛によって勝利の栄光を代身する人が出なければならないし、聖霊によって復活の栄光の立場に立つことのできる人が出なければならないのです。皆さんが、イエス様が神様の4千年摂理の御旨を成し遂げるため心と体で戦うことができたように、そういう一つの実体として現れないならば、6千年の間摂理して来られた神様の御旨は栄光として現れないということを知らなければならないのです。 それならばこれ以後に私たちはどのようにしなければならないのか? すべてを尽くす意思とすべてを尽くす心とすべてを尽くす性品を備えた聖霊がこの地に来られたという事を知らなければならないのです。そのために天の御旨を代身したイエス・キリストの代身実体、聖霊の代身実体がこの地に現れないならば、神様の御旨が成し遂げられないのです。皆さんはこれを知らなければならないのです。今日皆さんは生命を下さったお父様の御前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放して差し上げなければならない責任を担っていることを知らなければならないのです。 それで終末である今日このことが成し遂げられないなら、神様の6千年摂理の目的が成し遂げられないのです。そのために今日皆さんは、神様とイエス様、聖霊が願う御旨を成し遂げるためにすべての戦いの路程に勝利しなければならないのです。三位神の復活の栄光を現すために、その戦いの路程、忍耐の路程を越えなければならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.02
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天地のため往来されるイエス1956年5月23日(水)前本部教会 祈 祷(I) 幼なき子女たち、再び生きる道を尋ねてお父様の膝元に出て来ましたので、お父様、受け入れて下さい。私たちが宇宙より尊いとして話して下さったのを知っております。多くの群れが生命が渇き、この聖壇の前に集まりましたので、お父様、集まったこの群れがお父様の栄光に代わることのできるように許諾して下さり、喜びの祭壇を代身して、お父様の心慮と心配を知ることができ、お父様の心情を体恤できるこのひとときの時間として許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様には、とるに足りない者たちに対して、信じなければいけない立場におられるということを知っておりますし、とるに足りない者たちを頼って役事を行なわざるを得ない立場におられることを知っております。今日まで天が私たちを信じなければならない、信じて立たせなければいけない立場におられることを知っていながらも、お父様が私たちを信じて下さることのできるようにして差し上げられなかった過去の過ちを容納して下さい。 私たちが支えとならなければならない責任も充分に担当できない私たち人間でありましたが、お父様、この時間を容納して下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。お父様を信じて、お父様にたよって私の生命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に差し出すことのできる、お父様が取られるに相応しい供え物としてこの時間お受け下さることを、愛する私のお父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様、多くの人々の中でとるに足らない私たちを呼んで下さったのですから、受け持ってお父様の矜恤の愛で抱いて下さい。 お父様に、この時間身も心もすべて捧げ奉り、お父様の念慮(心配)する心を体恤できるよう許諾して下さり、お父様が私たちに要求されるその一つの願いを受けるに相応しい子女となれるように許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 6千年の間、解かれなかったあなたの切ない事情が今日まで継続しており、あなたの嘆息が今日までも継続している歴史を見てみる時、今日も私たち自体がお父様の嘆息の原因となっていることを容納して下さい。 お父様の生命と願いの理念の実体として下さいまして、お父様が喜ぶことのできる生命の根として下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 今日ここに集まった子女たちを哀れみ、この時間ありったけの精誠を捧げ、お父様の愛を讚美して、千々万聖徒たちの前に立てた子女として恥ずかしくない、生きた喜びの供え物となれるこの時間となれるよう許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべてのことをお任せしましたので主管して下さい。主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅱ) お父様! 孤独な環境の中にあっても各自の十字架を背負って天に向かう険し???を歩んで来た子女たちが、この時間もお父様の膝元に集まり、お父様の大きくて高い愛の恩賜を願ってひれ伏しておりますので、お父様、自ら尋ねて下さり、愛で抱いて下さり、疲れた心を慰労して下さり、乾いた心霊を呼び起こし立てて下さい。 お父様自ら私たちを掴んで下さらなければ、私たちが行く所がどこにあるでしょうか? 哀れな子女たちですから、お父様自ら共にいて下さり、私たちの行く道をお父様自ら導いて下さって、お父様が目指す御旨に向かって一路邁進することのできる子女とならしめて下さい。 この時間集まった子女たちの心と体をお父様自ら主管して下さいまして、各自の心をお父様の御前にうち出しておきますので、お父様、新しい役事を起こして下さり、矜恤の心を持って対して下さい。 各自自分の過去に行なったすべてのことをお父様の前に出して悔い改めることによって、この時間お父様の大きな愛の役事が起こるよう大きな恩賜を施して下さることを懇切にお願い致します。 お父様! 私たちの前には未だ険しこが残されておりますので、お父様自ら手を取って下さり、すべての死の道を歩んでも生き残ることのできる力を許して下さることを、懇切にお願い致します。 今眺めているだけの愚かな子女たちを抱いて下さり、ひたすら天の御旨を立てるために一路邁進できる勇気を与えて下さり、召命された天の子女たちとして天の勇士として進んで行けるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 眠っているすべての子女たちを起こし、お父様の前に導かなければならない責任を持った聖徒たちが集まっておりますので、この者たちが担った使命を果たすのに不足のないように助けて下さい。過去のどんな聖徒たちよりも尚一層高くなれるようにして下さり、サタンまでも愛することのできる子女になれるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 お父様の掴まえに応じて、相応しい歩みをする子女として下さり、サタンの嘲弄を受ける子女とならぬよう助けて下さいますことをお願い致します。自分を中心として天倫を思いはかる愚かな者になることのないようにして下さい。ひとえにお父様の栄光だけを現し、この地上にお父様の恩賜を高めることのできる子女たちとなれるようにして下さいますようお願い致します。 この時間お父様の御名によって集まったすべての子女たちの上に特別の恩賜を施して下さいまして、礼拝を捧げ津々浦々まで生命の炎を呼び起こして下さい。最後の新しい摂理を悟れるようにして下さいまして、この地上にお父様の栄光を高めることのできる子女を一日も早く呼んで下さることを懇切にお願い致します。 この時間にも、お父様を呼んで密かな祭壇を築きながら御旨の道を探し求め渇望する子女たちがどれだけいるでしょうか? この者たちを探す使命もこの席に集まった子女たちが背負っておりますので、お父様! そのような使命を全うするために不足なきようにして下さい。すべての子女たちをお父様が呼び集めて下さり、私たちがお父様の大いなる栄光の御旨を高めることのできる日が一日も早く臨むようにして下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 眠れる24億人類をお父様の御前に尋ね立てなければならない使命が私たちにありますので、お父様、私たちに下さった御言を持って自信を持ち進んで行く所すべてに生命の炎を呼び起こして下さり、復活の役事を起こして下さり、お父様の喜びと栄光をこの地上に高らかに立てることのできる子女となれるようにして下さることを、懇切にお願い致します。 今日まで数千年の間、この地の人類のため苦労して下さったキリストの懇切な心情と、私たちのためにお父様の前に訴えられたキリストの嘆きを解怨しなければならない責任が私たちにあることを、確実に信じられるようにして下さい。 人間が成すべき責任を果たす前に天の基準を捨てないようにして下さり、ただひたすら天のみに対することのできる子女たちとなれるように許諾して下さい。お父様、この時間この席に臨んで下さいまして、責任を果たして天の恵みを受けることができる子女になれるよう助けて下さることを、切にお願い致します。 既に担った使命をまた地に捨てる子女とならぬよう助けて下さい。お父様の栄光を最後まで現せるお父様の愛する子女、能力の子女として立てて下さり、余恨のないよう助けて下さいますことを懇切にお願い致します。 難しい環境にあって孤独な祭壇を築き、お父様の御前に叫び訴える子女たちを、お父様自ら抱いて下さり、役事して下さい。そうして立派に御旨を支えられる天の子女となれるよう許諾して下さることを、懇切にお願い致します。 お父様、この時間自ら役事して下さり、永生の路程を歩むことのできる生命の御言を受け持って帰ることのできる恵みを許諾して下さい。 この時間最後まで共にして下さって、この席に集まった子女たちが帰るときには、清らかな心霊をもって天の大いなる恩賜を受けて、お父様の御前に讚美をしながら帰る子女として分別して下さいますことを懇切に願ってお願いする時に、このすべての御言を愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅲ) お父様! 愛する弟子たちを残して十字架の峠を越えて永遠の世界へ行かなければならないイエス様の心情を知るようにして下さい。3年間喜怒哀楽を共にして従っていった愛する弟子たちをあなたの膝元に集めておいて、念慮(心配)しながら懇切にお願いしたイエス・キリストの心情を体恤することのできるこの時間となるよう許諾して下さい。 心で推しはかり体で体恤して、神様に応じれる心が天に徹し、地上の人間を動かし、神様の心が動ずるなら共に動じ、神様の御旨に謙遜な祭物として捧げられる愛する子女となれるよう許諾して下さることを懇切にお願い致します。 苦海の如き立場において従ってきた数多くの群れは皆落ちてしまい、12使徒だけ残ったけれど、その中でも遠からず自分を裏切るユダがいるのを感じたイエス・キリストの心情を、私たちが体恤することのできるよう許諾して下さい。人を信じて役事された3年公生涯路程が、このように寂しい環境として残された時のイエス・キリストの心情を、今日私たちが心と体で体恤することができるように許諾して下さることを、懇切にお願いします。 お父様! 十字架の死の道を前にして天と一問一答したイエス・キリストの切ない心情を、今日私たちが体恤するようにして下さり、お父様の御前にひれ伏した、生きた喜びの祭物としてその心に慰労の相対者となれる子女として立って下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 今私たちだけを残さないでお父様自ら共にいて下さって、集まったこの時間、探してきた足どりが嘆息の歩みとならないよう許諾して下さい。そのようにして私の生命のすべてを、お父様、受け入れて主管して下さることを懇切にお願い致します。 サタンが周囲に広がっていることを、愛する子女たちがどうぞ知ることができるように許諾して下さいまして、サタンに譲歩する心の余裕を持つ子女とならないように許諾して下さい。お父様に向かう正しい心と体を持てるようにして下さり、使命感を持って知性と誠心を尽くして勝利の祭壇を築くことのできるこの時間となるよう許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 人間的な認識と人間的な観念を私たちの周囲の環境の中から取り除いて下さり、伝える者の心と受ける者の心が一つに和して、お父様の喜びと栄光となれるように許諾して下さることを懇切にお願いしながら、愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。天地のため往来されるイエス(2) 天宙にあってのアダム・エバの位置 神様が天地万物を創造されたのは神様が栄光を受けるためであったことは間違いない事実です。そのためにまず無形の天使世界を創造されて、次に無形実体世界の表象として有形実体世界を創造されました。そして霊界と実体世界の中心であり、代表としてアダムとエバを創造されました。 このアダムとエバは、天地が変わらない限り理想天地と運命を共にしなければならなかったのです。即ち、天地が動ずる如く動じなければならない運命を持っていたアダムとエバだったのです。それでアダムとエバが変われば天地も変わるのであり、アダム・エバの中心が散らばるならば、天地の中心も散らばるのです。そして全天宙の中心が散らばるなら創造主の中心も散らばるという、必然的な条件を持って創られたアダム・エバでありました。 こういうアダム・エバが堕落することによって天宙の中心からずれて、天宙の中心がずれることによって創造主の中心もずれてしまったのです。そのために神様は天地の中心を再び立てて被造世界をして、その正しい中心に和するようにして、創造主の中心と創造された被造物の中心が二つではなく、一つになるようにしなければならない立場におられるのです。そのようになれば再び、天が喜ぶなら地も喜び、地が喜ぶなら天も喜ぶようになるのであり、天が永遠である故に地も永遠であり、天が無限の喜びに浸るなら地も無限の喜びに浸るようになるのです。 創造主の運命が誤らない以上、被造世界の運命は変わることができないのです。このような被造世界の中心であるアダム・エバが堕落することによってすべてが散らばってしまい、すべては方向と中心がずれてしまうようになってしまいました。これを再び回復するための役事が復帰摂理歴史であり、復帰摂理歴史を繰り返し、長い6千年の歳月を経過して今日に至っているのです。 この時間まで神様の愛の摂理は数多くの先知先烈(預言者・聖者たち)を通して現し、先知先烈たちを通して象徴的に愛を現したと同時に、その全体的な愛の結晶体として現れたイエス・キリストを通して実証的な摂理の愛を内的、外的に見せて下さったのです。 そのために彼の心は無形世界の中心を代身して、彼の体は有形実体世界の中心を代表したのです。こういうイエス様であることを知らなければならないイスラエル民族が知らなかったために、イエス・キリストを十字架に渡してしまったのです。それで全天地が闇につかった事実を皆さんは知らねばなりません。 イエス様の御言と実践生活の目的 イエス・キリストが来られるただ一つの目的が何であるかと言えば、天地を創造されたお父様の心情を整えて天地に変わらない永遠の中心を立てるということだったのです。こういう中心を立てるためにイエス・キリストがこの地に来られたのです。 そのために彼が話す事は自分のある中心を立てるためのものではなかったのです。エルサレムのある村やイスラエル一村の部分的な中心を立てようとしたのではなく、全体霊界の中心、創造主の中心に至るまで連なることのできる一つの中心を立てるためでありました。 彼の行動もまた一個人の行動でなく、彼の願いも一個人の願いではなく、彼が争うことも一個人で止どまる争いではありませんでした。彼が願う目標は全天地万物全体を抱くことのできる不変の中心に立ち、万物をはるかに越えて無形世界を経て、創造主であられる神様の心情に代わるところまで進んで行くことだったことを皆さんは知らなければなりません。 そういう願いを持ったイエス・キリストの御言、イエス・キリストの生涯、イエス・キリストの実践的な行動を皆さんは知らなければいけません。彼の行動は天地を新しく建設する出発としての行動であり、彼が語った御言はその一つの御旨を成就せしめるために、再創造の役事を成し遂げる御言だった事を皆さんは知らなければならないのです。 30年の準備期間を経て3年の実践生涯路程でアダムとエバの時に失なわれた天地不変の中心を再び立てさせるために語ったのに、語られた御言をイスラエル民族が信じなかったために、霊界と肉界の中心として立たされなければならなかったイエス・キリストは、霊界の中心としてのみ立たれ、実体的な肉身世界の中心としては立たれなかったということを皆さんは知らなければならないのです。 イエス・キリストは、十字架の峠を越える時まで、何のために生きられたのか? この地に来られて30余年の生涯……何のために苦労したかというならば、一次的には地のために苦労されたのであります。 ところが地のために苦労した彼の功績によって、地上で収穫しようとしていた目的が成し遂げられて霊肉を合わせて地上で成さなければならない一つの中心が、一つの実体に完結されなければならなかったのに、霊と肉が分かれるようになることによって、地上で成さなければならない実体の中心たるイエス・キリストの体は害を受けたというのです。そうして霊的な世界を代表してイエス様の霊だけが完成することによって、復活以後今日まで2千年の歴史は霊界中心に復帰摂理をした期間であったことを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様は十字架に掛かった後復活され、復活されてから40日の間地上で活動された後に、また再び霊界へ行かれました。このようにイエス様が亡くなって復活され、復活されたが再び昇天されたこの事実は神様の創造の役事を象徴的に見せて下さったものです。 創世記を見れば、「夕となり朝となった。第一日である(創世記一章5節)」という御言があります。それは夜の時間があるのです。イエス様の墓中3日期間はまさに夜の時間と同じ期間なのです。30余年生涯は昼の時間であるが、イエス様は弟子たちを立てるために30余年間苦労されました。この苦労の過程を経た後、復活されたということは、夜を過ごして新しい朝を迎える事と同じなのです。 復活されたイエス様は地上に明かりをともすために苦労されたのですが、地上に明かりを立てることはできませんでした。それで地上に明かりを新しくするために、復活されたようであるが、実は霊界の中心として復活されたために、イエス・キリストは地上にそのままおられずに再び霊界へ行かれたというのです。これは何を意味するのかと言えば、夜の期間を過ごし昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕を迎え、永遠の世界へ行かれたことを意味しているのであります。 「知らない」という人間を「知ってる」と言わなければならなかったイエス それでは今残ったのは何なのか? 残ったものが何かと言うならば夜の期間です。キリストの到来によって永遠の朝となるべきものが、イエス・キリストが亡くなられることによって再び夕と同じ期間が残るようになったので、この夜の期間を責任持つべき責任が残っているというのです。私たちがイエス・キリストを渡したという理由で、私たちがその責任を取らなければならないというのです。 この夜の期間の責任を全うしてイエス・キリストが十字架上でサタンを打ち負かし、勝利の基準を立てられたように今日この地に残された多くのクリスチャンは夜の期間の戦いの峠を越えなければならない運命に置かれているのです。 この夜の期間の峠を越えて行き、皆さん自身がイエス様を手本として復活して、彼と共に新しい朝の栄光を受ける時代が何かと言うと、所望の再臨時代なのです。 イエス・キリストはこの地に来られて30余年生涯をこの地のために生きられました。イエス様は(この)地のために地上の人類のために来られたため、地上にいる人間たちは反対したとしても、地上の人間たちは「知らない」と言おうとも、イエス様は「知ってる」という立場に立たなければならないのです。 イエス様がゲッセマネの園を経てカルバリ山上に出て行く時、従って来た弟子たちまでイエス様を見捨てました。イエス様が十字架に掛かる時に、イエス様を「知ってる」と言う人がいなかったのです。どの弟子も、イエス様を「知ってる」と言えなかったのです。このように、「知ってる」という人が一人もいなかったが、この地のためにイエス様は来られたので、「知らない」という地上の人間たちに対して、「知ってる」という立場をとられたのであり、復活されガリラヤの海辺に弟子たちを尋ねて行かれたのがそれなのです。このようにイエス様は、地上の人間たちが知ることのできる一つの道を残しておいて、40日の後に再び昇天されたのです。 今私たちは、私たちが「知らない」という立場にいる時にも、イエス・キリストが私たちを「知ってる」という立場におられるので、イエス様をわからないで(地に)生きているとしても、イエス様を「知ってる」という立場に立たなければいけないのです。 そのためにイエス様が来て行かれた後2千年の間、人間は心からイエス様を探していくという旅をしているのです。ガリラヤの海辺でイエス様が使徒たちを尋ねて下さった事と同じように尋ねて下さったイエス様の恩賜に応えるために、信仰者たちも2千年の間イエス様が行かれた天に向かって尋ねていかなければならなかったのです。こういう生活が今日まで2千年の間継続して来たのであります。 それではイエス様は何のために天国へ行かれたのか? 地のために来られたイエス様が成さなければならない事は天の御旨であるため、霊界に行かれたとしても尚天の御旨のため今日まで働いているのです。 地のために来られたイエス様が、地上に「知ってる」という基準を立てておいたとしても、霊界に行って、即ち無形世界へ行って「知ってる」という基準を立てられないとしたら、人間たちが、「知ってる」という世界へとどまれないようになるので、今日まで2千年間霊界から皆さんが、「知らない」という立場から、「知ってる」という基準を立てるために神様の前に祈祷しておられるのです。 それではイエス様が人間たちのため神様の右側で祈祷されていたが、どんな祈祷をしておられるのか? 血・汗にじむ祈祷をされるのであります。人間たちが地上でイエス様を「知ってる」と言ったなら、イエス様が霊界に行って彼らを「知ってる」と言われるのです。 このようにイエス様が神様の前に、「知ってる」という立場をつくっておかなければ、人間たちが行ける霊界がお父様の前に認定されないために、イエス様は今日まで霊界へ行って、神様の前に私たちを「知ってる」という苦労の祈祷をしておられるのです。これを皆さんはよく知らなければなりません。 この仕事を経た後、イエス様が再び来られる時にはどのようにして来られるのか? 来られるときには地の仕事と天の仕事を合わせ持って来られるのであります。地の仕事と天の仕事に代わって責任持って来られるのであります。それ故、今日私たちも十字架の死から復活され昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られる時まで、そのイエス様が越えられた峠について行き、越えて行かなければならないのです。 また2千年の夜の期間を経て復活の朝に該当するこの時にあって、行かれたイエス様が天で歓迎する一つの中心を立て再び来られる時に、皆さんはこのイエス様が地に向かって来られるのを心で感じ知らなければなりません。 今まで私たち信じる者たちの信仰形態は、天を眺めイエス様を思慕してまいりました。これが今日までの私たちの信仰のモットーであり標準でありました。 聖霊を思慕しなければならない今日 今私たちが慕わなければならない一つの事が残っていますが、それは何ですか? 私たちは地のために代身して働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知らなければなりません。今まで多くの人たちがイエス様を2千年間霊的に思慕してきましたが、今日は聖霊も思慕しなければならないのであります。そうしなければならない聖徒たちであり、私たち人類であるということを、皆さんは考えなければなりません。このように聖霊を思慕すべき時代が来て、新婦の体を完成しなければならない時が来ました。 聖霊は新婦の神であられるので、新婦の形を整え、新婦の形態を成し、私たちは慕わなければなりません。このようになるならイエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて再び私たちがこの地を中心にして尋ねていくのであります。 心で霊界を慕った私たちは、今私自身に役事される聖霊を慕わなければいけないのです。そうして私たちは霊的な象徴であるイエス様を思慕し、肉的な象徴である聖霊を思慕して、私たち一個体で霊的イエス様を思慕する心と肉的聖霊を思慕する体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が私一人の心と体で一体となることができるのであります。そうなることによってイエス様も私の身代わりに立つ事ができ、聖霊も私の身代わりに立つことができるのであり、私はその中にあってイエス様と聖霊の御旨を代身して万民を代表して現れる事ができるのであります。これを皆さんは知らなければなりません。 それでは今この地上に来たるべき主はどんな御旨を持って来られるのか? 皆さんはイエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体に立てなければならないのです。生きた肉体を持った皆さんが、霊界を象徴し、肉体を象徴したイエス様と聖霊を手本として霊肉合わせた一つの実体の中心体として完成しなければならないのです。そうでなければ神様の全体創造の理念が皆さん一人において完結しえないのであります。このように一つの中心の使命がイエス様と聖霊の使命というのであります。この一中心を立てるためにイエス・キリストは再臨されるのであります.天地のため往来されるイエス(3) 再臨時代の聖徒たちが果たさなければならない事 では、今日私たちが今この一つの御旨を支えようとすれば、どのようにしなければならないか? イエス・キリストがガリラヤ海岸で愛する弟子たちを探して行かれたことだけを思っていてはいけません。イエス・キリストは皆さんたちをいつも尋ねて下さるのではありません。皆さん自身が一人の新婦となり、イエス・キリストを迎えなければなりません。 イエス様と聖霊は天の中心であるので、皆さんは心と体が一つになることができる中心を具備することによって地の中心となって、一つとなって対することのできるこの一基準を立てなければならないのです。今この時はいつもイエス様だけを思慕するという時ではないのです。今は聖霊の体を具備して、私たち一個体がイエス様を地上で代わりに尋ね迎え入れることができなければなりません。こういう一つの中心を皆さんが尋ねて立てることができなければなりません。 この一つの中心を所願されるイエス・キリストは、皆さんのために聖霊を立てて今日まで2千年間苦労して来られました。今皆さんはこの苦労に報いなければなりません。天が霊と肉を代表した中心としてイエス・キリストをこの地に送って霊的にのみ完成したという基準を立てたのですが、皆さんがイエス・キリストを尋ねて迎え、この残された肉の未完成の部分を完結しなければならないのです。皆さん一人でそれを完結すれば、今日まで苦労してこられたイエス・キリストを皆さんの心に迎えることができるのです。 今日人類はイエス様の御前に尋ね出て、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似て全天地万物の前に自信を持って現れなければならないし、神様の御前に自分の一個体を立てて誇りうる人とならなければなりません。 そしてイエス様と聖霊の前に誇りうることのできる私とならなければなりません。またその次には使徒たちの前に誇りうる自分とならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、「今日まで6千年間苦労されたお父様! 6千年間怨讐だったサタンを私一人で屈伏させますので、お父様、今日この時間から私によってサタンに対する思い煩いを捨てて下さい」という自信をもって叫ぶことができなければなりません。 またそして、「この全被造の園に染み込んでいる罪悪の嘆息が、私によってすべて去って行きますので、お父様! 天地に染み込んだ嘆息を、これによって解怨して下さい」ということのできる心を持たなければなりません。 またその次には、神様が6千年間愛する息子・娘を立たせて一度も愛することができませんでした。今日も神様は私たち自体を愛したい心があっても、真心から私たちを尋ね立てて、愛することができないのであります。イエス様と聖霊は私たちを尋ねて来て愛することができますが、神様は私たちがその御言を信じる以前には愛することができないのであります。 信ずる者の責任 そのために今日私たちが、イエス・キリストの代わりとして一つの中心を持って、「アバ父よ! 今日この地の人間たちのすべての罪と嘆息を私が責任持ちますので、6千年の間人間を愛したかった父よ! 今こそ創造本然の愛で愛して下さい」と言うことのできる存在とならなければなりません。皆さん自身がお父様の御前に出て、「お父様! 私を愛して下さい。お父様! 私を愛して下さい」と堂々と言える人とならなければいけません。それでこそ天地を創造された神様の御旨が、イエス・キリストを経て皆さん自体で成就されるのであります。 そのために今日私たち信ずる者の責任というのは…。 イエス様は、この地のために来られ、天のために苦労されました。このように天のために苦労されたイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前に、全被造世界の代わりとして、無限な霊界に代わった中心存在として堂々と立つことのできる存在となってこそ、イエス・キリストが天地の喜びをもって現れる栄光の世界に参席して、神様とイエス様と聖霊と皆さんが一つになって喜びの世界で生きることができるのであります。これを皆さんは肝に命じなければなりません。 祈祷 愛のお父様! 6千年歴史を見てみる時、大きく見れば今までは夜の期間であり、今現れるべき夜明けを待ち望む時に私たちは来ております。 大きく見れば夜の期間を越え、今、朝に達する時点に立っており、全体的な朝の期間を迎えるべき今日、私たちにあっては暗い夜の期間を過ぎて復活の恩賜を持たなければならず、天に行かれたイエス様の御前に心を置き、再び来られるところの心に従って、地を思うイエス様に対して私たちが身代わりとなる体を備えることによって、尋ねて来られる聖霊と一体となって、肉的な中心をなし、そうしてその中心にイエス・キリストを奉り、霊的中心を成してこそ天地を創造されたお父様の本然の心情を備えた一つの中心存在として立てられるということを、この時間少しだけ語りました. 今迄私たちは地のためにだけ生きて来たのでしょうか。これは半分だけにしかならない人生であることを知っています。そうでなければ霊のためにだけ私たちが生きているのでしょうか。これも半分だけにしかならないことになります。 今日までは私たちがイエス様に従って上がる生活をしてきましたが、今からは従って下りて聖霊を慕って一体的な新婦として完成することを願うイエス様の希望を成し遂げることができるようにして下さい。この地で聖霊の新婦の品性を慕って、彼の心情が彼の徳性が体と心に一つとなるよう、ならしめて下さり、イエス・キリストが地上で肉的に完成できなかったことを、聖霊の役事と協助によって私たちが完成する存在として立ち、創造の理念全体に代わることのできる一つの中心存在として立たしめて下さい。 そうして天の本然の中心として、天地に通じた創造主の中心に通じた心の中心として、全被造万物の前に誇ることのできるようにして下さいまして、全被造世界の中心に立たしめて下さい。そうしてお父様の御前に堂々と立ち、「隠して来られた6千年の愛の心情を、私一人でお返しする自信がありますので、お父様! 愛して下さい」と言える息子の立場まで導いて下さい。 今日までこれを成し遂げるために苦労の歴史を歩んで来ましたが、苦労の歴史を経てきたお父様の苦労の前に召命を信じて、立てて下さることを信じて、求めて下さることを信じて、愛することのできる存在として立ち、今お父様が眺めてこられた席に立って、万物を眺めることのできる子女の立場に立たせて下さり、万物に対してお父様が真に誇ることのできる自分として立たしめて下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 この時間参席したあなたの愛する子女たち、しばしの間、聞いた御言が心に和して生命の中心として立てるようにして下さり、私一人が真理を代身して被造世界の創造主の中心を代身して、どこに行っても不足がなく、どこへ行こうとも中心を見失うことのないように導いて下さい。夜になったとしても心だけは昼に住むことができるようにして下さり、何時、如何なる時に主が来られ、聖霊が尋ねてきて、お父様が現れたとしても、迎えるのに不足のない姿になれるように導いて下さい。何時来られたとしても準備を完結した子女として立て下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべての御言を語り終えましたが、息子たちの生涯路程において永遠に共にいて下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2020.12.30
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