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きょうは大晦日。新聞の朝刊は「36歳の男逮捕」と、奈良の女児誘拐殺人事件の容疑者が捕まったことを大きく報じている。やりきれない事件だったが、年内にとにかく容疑者が捕まったことは、良かった。(亡くなった楓ちゃんは帰ってこないけれど…)。 きのうの日記にも書いたけれど、毎年大晦日から泊まりがけで来る友人が、ことしは、元日の昼からの来訪となる。ややヒマができたので、DVDのハードディスクにたまっている、何回分かのドラマ(フジ月曜夜9時~の「ラスト・クリスマス」)を朝から、まとめて見た。 それでも、まだ時間が余ったので、マイカーで聴くJAZZのMDをつくるため、CDからのダビング作業にいそしんだ。どんな曲をどういう順で入れようかと考えるのは、結構楽しい。あれこれ考えた末、出来たのは次のような内容のMD。 1.Margot(キース・ジャレット) 2.Glad I Met Pat(デューク・ジョーダン) 3.Georgia On My Mind(オスカー・ピーターソン) 4.Satin Doll(マッコイ・ターナー) 5.酒とバラの日々(同) 6.Alice In Wonderland(ビル・エヴァンス) 7.Wouldn’t It Loverly?(アンドレ・プレヴィン) 8.Some Day My Prince Will Come(ケニー・ドリュー) 9.Blame It On My Youth(ブラッド・メルドー) 10.Softly、As In A Morning Sunrise(トミー・フラナガン) 11.星に願いを(リニー・ロスネス) 12.枯葉(木住野佳子) 僕の好みで、ピアノ・トリオばかりとなったが、「なかなかいい感じに仕上がった」と自画自賛。今度ハンドルを握るのが楽しみだ。(と言っても、僕は週に1回くらいしか車の運転はしないが…)。 一昨日(29日)もヒマを持て余し、「そうだ!」と思いついて、na_geanna_mさんに教えてもらった、あのピクルスをつくった。 近所のスーパーでキュウリ、人参、セロリ、パプリカ、大根を買ってきた。保存瓶にまず、ワインビネガー500ccに、砂糖大さじ7杯、塩大さじ1.5杯だったよね…。それにローレルの葉も忘れずに…。野菜は、教えられた通り、「愛情を込めて」優しく切って、瓶に入れた。 食べられるのは元日くらいからかな。きょうも、瓶のなかで静かに眠る野菜たちを見ては、「美味しくな~れ~」と声をかける。 そんな訳で、年末の都会の人混みが嫌いだから、僕はこの3日間、ほとんど家で過ごした。集中豪雨、台風、地震と、自然災害がこれでもかこれでもかと続き、陰惨な事件も後を絶たなかった04年が、暮れていく。 来年は本当に明るい、楽しい年であってほしいと、心から願っている。
2004/12/31
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年賀状もようやく書き終えて、迎春準備の買い物もほぼ済ませ、ようやくホッとした時間を過ごしている。おせちの準備に精を出すつれ合いを横目で見ながら、僕はピアノの練習をしたり、CDを聴いたり、部屋の片づけをしたりしている。 我が家ではここ10年近く、大晦日から元日にかけて、友人夫婦が泊まりがけで遊びに来るのが恒例となっている。夫の方は、なんと僕の幼稚園からの同級生という仲だ。 (今は興味も薄れているのだが)紅白歌合戦をてきとーに見ながら、飲んで食べて、ワイワイ騒ぐ。晩のメニューは、いつも鴨なべにしている。午前零時にはシャンパンを抜いて、新年を祝う。そして、鴨なべの残り汁(これが旨い!)で、「年越しそば」を楽しむというのがいつものパターンだ。 ところが先日、その友人から突然電話があった。「父親が脳梗塞で入院したので、今年は行けないかもしれない」という。幸い、病状は軽くて、命がどうこうという話ではないとのこと。 我々くらいの年齢になると、どうしても、友人の間で、両親や祖父母の体調が(年末に限らないが)急におかしくなるということが少なくない。そういうつれ合いの父親も昨今、あまり体調は良くない。 僕は、友人に「いいよ、気にしなくても。病状が安定してたら、大晦日からは無理でも、元日のお昼からでもおいでよ」と伝えた。 実は、彼は大阪でも名だたる老舗イタリアン・レストランのフロア・チーフ。今でこそ厨房はノータッチだが、もともとは料理学校出身で、調理師免許も持っているので、ちょっとした酒の肴をつくるのがとても上手だ。 大晦日に来るときは、いつも手作りの一品をいろいろ持参してくれるが、これがまた、ワインにも日本酒にも合う、絶妙の品が多い。 その彼が大晦日に来られないとなったから、うちのつれ合いもちょっと動揺している。昨日幸い、「元日の昼くらいには行けそうだ」と電話があった。同じ元日には別の2組の友人も我が家で合流する。 つれ合いは「う~ん、何かちょっと凝った一品を、もう何品か作らないと…」と思案しながら、雑誌の「おせち料理特集」をいろいろ眺めているが、さてどうなることやら。 そういう僕は、チーズと合鴨の薫製と、生ハムを作って、お助けするしかないけれど…。ごめんなさい。
2004/12/30
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大阪や神戸のBARには、この20年ほど、結構あちこち出没しているので、名の知れたオーセンティックBARで、名前も知らないところはほとんどないと、自分でも思っている。 だが、それでも、この歳になって突然、「えーっ! こんな店があったことを、今まで知らんかったとはー!」と愕(がく)然とすることがある。今年も、そんなBARと1軒出合った。 きっかけは、僕の友人T氏がことし9月、著した本だった。彼は、バーテンダーを主人公にして、日本のBAR文化や洋酒文化、そしてBARでの楽しみ方、マナー&エチケットなどを、次世代に伝えることを願いながら、小説のようなスタイルで素敵な物語を編んだ。 最初は、バーテンダーは彼の創作上の人物かと思って読み始めた僕は、何と、そのバーテンダーが大阪の兎我野(とがの)町というところに実在する「Boby’s Bar」(写真)という酒場のCさんなのだということを知った。 Cさんは72歳。69年にオープンした店は、ことしで35周年。バーテンダーとしてのキャリアも50年近いということを知って、ただ驚くしかなかった。 あるBARのバーテンダーに、Cさんの話をしたら、「えー! 知らんかったんですか? そりゃ、ぜひ一度行ってみなあきませんよ!」と言われてしまった。そして、勇気を出して10月の初め、「Boby’s Bar」のドアを開けた。 そのBARはとくに、スピリッツやリキュールへのこだわりで知られ、2階にある店には、なんと1000本近いボトルが所狭しと並べられていた。 ジンだけでも40種類(!)もの銘柄を揃えている。聞くと、物置代わりに使う3階にも、約600本くらいストックがあると言う。 本の中でCさんは、どちらかと言えば、客のマナーにうるさい、頑固なバーテンダーとして描かれている。しかし実際に会ってみると、Cさんはめちゃくちゃ気さくで、優しくて、おしゃべり。こっちが2杯目の注文をするのがはばかれるくらい、トークに切れ目がない。 進駐軍のBARで働いていた頃の思い出、イタリアで酒屋巡りをした話、店にあるリキュールにまつわるエピソード…と、本当に次々とトークが展開し、客はまったく退屈することがない。 「美味しいリキュールは、ぜひストレートで味わってみて」と、珍しい銘柄を何種類か試飲までさせてくれて、僕は幸せな気分で家路に付いた。 その後も、酒好きの同僚と一緒に何度かお邪魔した。「あの雰囲気とトークは、若いバーテンダーには出せないね。年季と歴史の重みだね」と同僚は言う。確かに、その通り。「Cさんの元気なうちに、もっといろんな話を聞かせてほしいね」と僕。Cさんと出会えた喜びを、僕はもう一度かみしめている。 【追記】ご興味のある方のために、友人T氏の著した本のタイトルは、「ボビーズ・バー〈洋酒の精〉に乾杯!」(新風書房刊、1200円)。関西の出版社なので、関東の書店では手に入りにくいかもしれないが、注文すればきっと入手は可能かと…。
2004/12/29
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na_geanna_mさん、LadyBirdさん、Pattieさん、カピタンさん、ミスターKさん、ケルティック・タイガーさん、ぶーきちさん、アンクルトリスの孫さん、その他、「縁」あって僕のページと出逢い、いつも書き込みをしてくださる(&これまでに書き込みをしてくださった)優しい皆さんへ。 年の瀬も、本当に押し詰まってきましたが、早いもので、11月28日にこのページを始めてから、今日でちょうど1カ月です。 9つのカテゴリーに分け、酒、BAR、ピアノ、ギター、音楽、テレビ、料理、薫製、ハーブ、旅、方言など、好き勝手にあれこれ、趣味的な世界のことばかり記してきましたが、「毎日更新」って、こんなにしんどいものとは思いませんでした。(でも、よく1カ月も続いたなぁと自分でも思います)。 僕自身は、楽しんで書いているつもりですが、読まれる方のこともよく考えず、いつも、ついつい長くなってしまうのが悪いクセだと、反省もしています。読まされる皆さん、ごめんなさい! 書くネタはまだそれなりにあるのですが、本業のサラリーマンをやりながら、毎日欠かすことなく続けるというのは、正直言って、少々重荷になってきました。毎日更新されているna_geanna_mさん、LadyBirdさん、Pattieさんには、本当に頭が下がります。 という訳で、年内は一応毎日更新するつもりですが、2005年からは、基本的に2日に1回くらいのペースに落とそうかなと考えています。すみませーんm(__)m どうか、ペースダウンにお許しを! そして、引き続きご愛読よろしくお願いしまーす!
2004/12/28
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キャロル・キングと言えば、60年代始めから活躍を続け、浮き沈みの激しいポップ・ミュージック界のなかで、確固たる地位を築いている、偉大な女性シンガー・ソングライター。僕も、大好きなアーティストの一人だ。 先日(12月23日)の日記で、エルトン・ジョンのことを、「ピアノの弾き語りという分野を確立させたアーティスト」と書いたが、キャロルは「(ピアノの)弾き語りの分野を切り拓いた最初のアーティスト」かもしれない。 キャロルを有名にしたのは何と言っても、1971年に発表した、ベストセラーアルバムの「Tapestry(つづれおり)」(写真左)。アテネ五輪の際には、卓球の福原愛ちゃんをモデルにした富士フィルムのCMのバックに、このアルバムから「Home Again」という曲が使われた。 このアルバムからは、「You’ve Got A Friend」「It’s Too Late」などの大ヒット曲も生まれているが、アルバム・トータルとしての完成度の高さ(駄作が1曲もない!)からしても、おそらく、20世紀のポップ・ミュージック史上、ベスト10に入るアルバムだろう。 当初はシンガーとしてよりも、当時の夫、ゲリー・ゴフィンとのコンビでつくった、数々のヒット曲の作曲家として、20代前半で早くも業界で注目を浴びていた。「Locomotion」「Will You Love Me Tomorrow?」など、キャロルが当時書いた曲は、歌い継がれて、今ではポップスのスタンダードにもなっている。 僕も彼女の曲を、弾き語りでよく歌う。「You’ve Got…」や「Home Again」、「It’s Too Late」のほか、「So Far Away」「Natural Woman」も好きだ。キャロルはもちろんピアノの名手だが、弾き語りであまり難しいテクニックは使わない。自然で、素直な伴奏が多い。だから、僕のような初級者でも何とかこなせる。歌のキーも、女声なのだが、少し移調すれば男声の僕でもわりと合う。 残念なのは、キャロルはここ15年くらい来日がないことだ。20年くらい前、新聞に来日公演のお知らせ広告が出ていた記憶があるが、その時は運悪く、生で聴くことができなかった。本人を見てもとてもそんな歳には見えないが、1942年生まれだから、もうすぐ63歳。早くもう一度日本に来てほしいと願っているのは、僕だけではないと思う。
2004/12/27
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1年くらい前から薫製づくりにはまっている。今日も、仕事が休みだったので、迎春用のチーズや合鴨の薫製を作った。 作り方は至って簡単。市販のスチール製スモーカー(3千円くらい)内の網に材料を載せ、中でウッド(種類は主にサクラかクルミ、時にはヒッコリー)を燃やし、スモークするだけ(スモークする時間は当然、材料によって変わってくる)。 ウッドと言っても分からない人に、ちょっと説明しておくと、長さ25cmくらいの太い線香みたいなもので、線路の枕木みたいな形をしている(東急ハンズなどで1本350円くらいで売っています)。 チーズ、合鴨以外にも、チキン、イカゲソ、ハタハタ、サーモン、サンマ、サラミ、生ハム、カマボコ、たくあん、ゆで玉子、ミックスナッツ、ちりめんじゃこ…と、これまでさまざまな材料でスモークしてみたが、今のところ、家族に一番評判がいいのは、チーズと生ハム。 サーモンは、40度くらいの中低温でスモークしなければならないので、温度管理がすごく難しい。いまだに失敗ばかりで、市販品の方がやはり旨い。 チーズは、市販の「6Pチーズ」を2~3時間スモークするだけ。乳脂肪の多いメーカーの高級品は熱に弱くて形が崩れやすいので、あえて値段の安い生協製を使うが、食べ比べた結果は、なぜか生協チーズの方が旨い。 「生ハム」というと、驚かれるかもしれないが、風乾の過程は省略しているので、正確に言えば「生ハムもどき」かもしれない。作り方は、豚のもも肉(約500g)のブロック肉に塩30g、砂糖15g、粗挽き黒コショウ、その他スパイス類(量や種類はお好みで)を、肉に十分すり込む。 肉をジプロックに入れ、まず1週間、冷蔵庫のチルドルームで寝かせる(肉の水分が出てくるので、途中で一度捨てること)。1週間後、ジプロックから取りだし、脱水シートにしっかり包み直し、さらにもう1週間チルドルームで寝かせる。計2週間後、その肉を1時間~1時間半くらい、スモークすれば出来上がり。 出来上がりは、まるで市販の生ハムとそう変わらない感じ。材料・製作費も、おそらく市販のものを買う場合の7~8分の1くらいだろう。つれ合い曰く「市販の生ハムに負けない味」とのこと。お時間と興味があれば、騙(だま)されたと思って、一度挑戦してみてください。 【注意】ただし、保存料などは一切使っていないので、賞味期限は冷蔵庫で保存し、完成後、最長3週間以内をめどにお召し上がりを。それ以上経ってから食べて、お腹をこわされても責任は負いかねますので(^_^;)
2004/12/26
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グラスにこだわるBARが好きだ。ロックグラスでもカクテルグラスでも、1点ものしか置いていないBARなら、なおさら好きだ。 大阪で昔、ある若いバーテンダーI君がやっていたBAR「S」に入った。彼はグラスになみなみならぬ情熱を注ぎ、買い集めた美しいカットグラスやアンティークグラスなどを、惜しげもなく客に使ってくれた。 店には同じグラスは2つとなかった。トークもうまいし、性格もさっぱり。彼をとても気に入った僕は、ひと頃よく彼のBARに通った。 そして、素晴らしいグラスの並ぶそのBARでも、僕がとくに、そのデザインを気に入ったロックグラスがあった。「これ、どこのグラス?」って彼に聞くと、「スコットランドのエジンバラ・クリスタルって会社のグラスです」と。 「えー?じゃぁ無理だね手に入れるの…」と僕が言うと、「いや、インターネットでもFAXでも通信販売で買えますよ」と教えてくれた(写真左=エジンバラ・クリスタルの「シスル」シリーズのロックグラス)。 そして僕は、生まれて初めて海外の会社へ直接ネットで注文を出し、そのグラスを手に入れた。VISAカードでの決済。本当にちゃんと来るのかなと、心配していたが、意外と早く、約10日後には注文の品が無事届いた。 1個約6000円と高いグラスだったが、カットの技術は本当に素晴らしい。後で、別のバーテンダーに聞くと、日本でも取り扱っている輸入業者はあるけれど、「そこで買ったら最低1万5千円はしますから、絶対お得ですよ」と言われた。 教えてくれたI君には、「本当に感謝してるよ」と御礼を言ったが、彼にはただ、一つだけ念を押された。「他のBARでは、僕の店のグラスのことを話題にしないでください」と。 「どうして?」と僕が尋ねると、「グラスが僕のBARのこだわり。他のBARに真似をされたくないんです」と。そんなこだわりのある彼が、僕は大好きだった。 そんな彼が昨年秋、なぜか突然、他の人にBARを譲って、別の職種へ転身してしまった。理由を聞いても、彼は「ちょっと思うところがあって…」「この業界で、僕は成功する才能がないような気もするし…」としか言わなかった。 I君がいたBARは、今も同じ店名で営業を続ける。だが、彼のいなくなったそのBARへは、いまだに行く気持ちは起こらない。
2004/12/25
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ボストン・シェーカー(写真、以下「ボストン」と略)という名前のシェーカーがある。BAR好きの人なら、一度くらいは見たことがあるだろうが、金属部分とガラス部分の2つのパーツに分かれた、個性的なシェーカーだ。 バーテンダーは、このボストンを生フルーツのカクテルづくりでよく使う。ガラス製の大型グラスのような部分に果物を入れ、木製のすりこぎ棒で押しつぶす。そしてベースの酒やリキュールを加え、金属部分と合体させてシェークする。 ガラスが透明なので、果物がつぶされ、酒類と混ぜ合わされて行く過程が、つぶさに観察できるため、客はカウンターに座ったまま目でも楽しめる。 ただ難しいのは、金属製シェーカーは各パーツがきっちり合体できるのに、ボストンはただ「圧力だけで絞める」という感じ。慣れないと、この「絞め具合」の加減がなかなか難しい。 締め方が緩いとシェークの際、中身が漏れ出すし、きつく絞め過ぎると、シェークした後、ガラスの部分が外れにくくなる。僕も家で時々、ボストンを使ってスイカや巨峰などのカクテルをつくるが、よく中身を飛ばして、つれ合いに笑われてしまう。 昔、あるカクテルコンペでボストンを使用したバーテンダーが、勢い余って、シェーカーごと飛ばしてしまったという話を聞いたことがあるが、それくらい、プロでも扱いは難しいようだ。 ただ、バーテンダーでも好みがあるようで、ボストンをよく使う人もいれば、「僕は、ボストンは使いません」という人もいる。ボストンでなければ生フルーツカクテルができない訳でもないから、まぁ、僕は別にどちらでも構わない。 5、6年前、東京在住の友人に、横浜の「C」というBARへ連れて行ってもらった。Yさんという方がオーナー・バーテンダー。とても気さくで、親切な人だった。僕は当時のクセで、ジン・リッキーとスコッチを頼んだ。 そのYさんが日本でもトップクラスのボストンの使い手であることを、後に知った。「なんであの時、ボストンを使ったカクテルを頼まんかったのかー!」と、帰ってからしばらく悔やんだ。 Yさんのつくる素晴らしい生フルーツカクテルの数々は、02年秋、「カクテル・フレッシュフルーツ・テクニック」(柴田書店)という本になった。本を見たら、ますますもう一度「C」を訪ねてみたいと思うようになった。次回は、Yさんに「ぜひボストンで何か」と頼んでみたい。
2004/12/24
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ビートルズのポールがピアノへのきっかけを作ってくれたとしたら、育ててくれたのは、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルだ。ビートルズの後、弾き語りに取り組んだのはまず、エルトン・ジョンの曲だった。 エルトンは、シンガー・ソングライターの中で、ピアノの弾き語りという分野を確立した、おそらく最初のアーティストに違いない。デビューまもない1970年にリリースした「Your Song」は大ヒットし、30年以上経った今、20世紀のスタンダード曲の一つとなった。独特の旋律の伴奏を伴った美しいメロディーは、今も輝きを失わない。 僕が曲のコピーを始めたころは、まだ楽譜(ピアノ譜)が発売されていなかった。しばらくして輸入楽譜が手に入ったが、なぜか譜面はレコードの伴奏と微妙に違った。プロ・ミュージシャンだった知り合いに、レコードからの採譜を頼んで、ようやく本物に近い伴奏になった。 「Your Song」は、今でもピアノBARでの弾き語りなどで、一番よく歌う僕の愛唱歌。「Rocket Man」や「Daniel」「Candle In The Wind」も好きだが、やはりエルトンは「Your Song」に尽きる。 一方のビリー・ジョエルも、弾き語りに向いた素敵な曲が多い。なかでも、僕が一番好きなのは「Honesty」。歌のキーとしては「New York State of Mind」の方が合っていて、こちらの方が比較的うまく歌えるのだが、やはり、「Honesty」や「Just The Way You Are」をリクエストされることの方が多い。 その二人が1998年春、「Face To Face Tour」と銘打って、一緒に来日した(写真左上は、ツアー・パンフの表紙)。僕も当然、聴きに行った。会場は大阪ドーム。第1部のステージには、2台のグランドピアノだけが、向い合わせに置かれていた。ビリーが「Your Song」を、エルトンが「Honesty」をと、お互いの持ち歌をうたい合うという、とても粋なオープニング。 そして、2部、3部はビリーとエルトンが別々に演奏。最後はアンコールで、ビリーの名曲「Piano Man」を、二人が2台のピアノでかけ合いで弾き、歌ったが、この時の「Pinao Man」の自由奔放な素晴らしさは、ちょっと言葉で言い表せない。 エルトンはそのとき51歳、ビリーは49歳。中年になって、二人とも立派なお腹をしていたが、やはりピアノも歌も素敵だった。僕は至福の時間に酔うとともに、ピアノと僕をさらに近づけてくれたステージの二人に感謝していた。
2004/12/23
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もう随分前の話だが、「オールド・ボトル」集めをしていた時期がある。オールド・ボトルというのは、一般的には1950年代から90年までの古い酒を言う。具体的には、ボトルのラベルに「ウイスキー1級」などと書かれていた、いわゆる「従価税」時代の酒類のこと。 もともとはオールド・ボトルなんて、全く興味がなかった。ある時、大阪のあるBARで、マスターから「これ、飲み比べてみて」と2つのグラスを差し出された。「どちらも同じ銘柄だよ」というブレンディド・スコッチ・ウイスキー。 恐る恐る、ゆっくりと口を付ける。「う~ん、違う。明らかに違う!」と、僕は唸る。「そうでしょうー、これは今売ってるやつ。もう一つは60年代後半のボトル」とマスター。明らかに60年代のものの方が、味もなめらか、香りもふくよかで旨い。 「ブレンドの基になっているキーモルトの出来が、今とまったく違うんですよ」。 マスター曰く。昔は手作業の部分も多く、ずっと丁寧に作っていた。今は、コンピューター管理している蒸留所も多いから、均質だけれど、どこか奥行きのない、薄っぺらなウイスキーが生産されてしまうという。 こんなにも違うものかと、僕はただ驚くしかなかった。それからと言うものの、地方都市に出張に行った際などに、その街の酒屋さんを回って、古い時代のウイスキーがあれば、買い求めた。 集めたオールド・ボトルは、一部は飲んで、一部は今も家に残る。珍しいボトルは、馴染みのBAR持ち込み、バーテンダーと一緒に味わい、そのまま店へプレゼントしたりした。 だが、ある時期から、オールド・ボトル探しはもう止めた。一つには、当然と言えば当然だが、地方都市へ行っても、オールド・ボトルと出合える確率は非常に少なくなった。日本全国、バーテンダーのコレクターが訪れていない酒屋は、もうほとんどないと言ってもいい。 もう一つの理由は、あるバーテンダーから言われた言葉だ。そのバーテンダーは、「僕は、オールド・ボトル集めなんてやりません。今流通しているものの中から、美味しいものを見つけるのが、バーテンダーの努めだと思っています」と僕に言った。 彼はさらに、こうも付け加えた。「オールド・ボトルとか言っても、そのボトルが流通していた時代の人間にとっては現行品だったわけです。有り難がって飲んでいたわけではありません」「それに、いったん瓶詰めされたら、あとは品質は劣化するだけ。せいぜい40年が限度ですよ」とも。 僕は頭をガーンと殴られたような気がした。「オールド・ボトル信仰」に惑わされた自分が、少々恥ずかしいような気持ちにもなった。 今は、地方へ出張に行っても、あえて酒屋さんの前も素通りする。それよりも、その街の素敵なBARを探して、旨い酒を飲むことにしている。
2004/12/22
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19日の日曜の夜、神戸・北野である会合に足を運んだ。BARと酒をこよなく愛する人間の集まり…。僕も「縁」あって会員になった。その会の「発足20周年」のお祝いの集いだった。 当日の参加者は約60人ほど。会の代表、T氏はサラリーマンだが、僕に劣らぬBAR好き、酒好き。カラオケ・バー・ブームにうんざりしていた彼は、80年代初め、三宮のあるビルの地下で、「神戸ハイボール」というBARと出会った。 案内状の彼の言葉曰く。「歴史を感じさせる店の雰囲気、ひっそりと交わされるエスプリとウィットに富んだ会話、そして何よりも初老のバーテンダーがつくり出す酒の旨さ。この三位一体がつくる得もしれぬ歓び」。その歓びを知って彼は、取り憑かれたようにBAR行脚を始めた。 そして、この会を立ち上げ、BARを愛する同好の士を集めた。彼の熱意と軽妙洒脱な人柄を慕って、20年が経って会員は200人近くに増えた。快く会員になってくれるBAR店主までいた。 彼は、絵のうまい会員の友人と、「GOOD BAR」を紹介する絵はがき通信を始め、これは10年近く続いた。自費出版で、「GOOD BAR」を紹介する絵本も出した。 会員に呼びかけ、年に数回は、BAR行脚をしたり、某S社の蒸留所見学へ行ったり、また、時には日本酒の酒蔵、時にはビール工場と、さまざまなイベントを企画し続けた。毎回、30~50人くらいの参加者で盛り上がった。 だが、20年の歳月。当然ながら代表の彼も、会員も歳をとる。昔のパワーには若干かげりも見えてきた。当初、会の主たる目的であった「BAR探訪」の比重は少なくなり、最近は、「ただ集まって酒を飲んで楽しむ、『宴会同好会』みたいな雰囲気も」とある会員の弁。 祝賀会には、長年お世話になってきた関西のBAR店主らも10人近く参加してくれた。遠く横浜から駆けつけてくれた75歳のバーテンダーもいた。何という感激! T氏の発足時からのパートナーでもある友人は、スピーチで、「この会の原点へ帰ろう」「宴会もいいが、みんなBARへ行こう」と訴えた。「大人数で連れもってBARへ」というのは、実際難しい。BARにも迷惑にもなるし、もともとそんな団体行動が、この会の目的ではない。 「会員一人ひとりが、もっと自発的にBARへ行けばいい」と、その友人は言う。僕もまったく同感。代表のT氏へは、「ふけこむのは早いよ」とハッパをかけた。 会員への「GOOD BAR」紹介では、僕もできる限りの協力をしたいと思う。「来年は原点へ帰ろう」。そう心に誓った夜だった。
2004/12/21
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転勤族にとって、その土地土地で暮らす楽しさはいろいろあるが、「食」の探求に加えて、僕は、方言とふれ合い、自分でも喋る面白さが好きだった。 かつて住んでいた徳島市では、阿波弁(徳島弁とも言う)が話されている。阿波弁と言っても、県内の地域によって、若干違いはあるのだが、有名なところでは、「~けんど」「~けん」に代表される語尾だ。(そう言えば、「けんど茶屋」という名前の居酒屋もあった)。 語尾の言葉も特徴的だが、接続詞の「ほなけん」(だから、だけど)、「ほなけんど」(しかし)なんて言葉も、頻繁に耳にする。女性は「です」の意味で、「~じょ」という言葉をよく使うが、これがすごく色っぽい。「ほうなんじょー」(そうなんですよ)と耳元で言われるととても艶っぽく、ゾクゾクっとする(と感じているのは僕だけかもしれないが)。 阿波弁は、関西弁とイントネーションはやや似ている。四国の他の3県と違って、関西の民放テレビすべての電波が届くという地理的な条件も影響したのかもしれない。だから徳島県人は、みんな小さい頃から「吉本新喜劇」を見て育っている(写真=徳島と言えば、やはり「阿波踊り」。老いも若きもお盆の4日間、踊って燃える)。 語彙にも関西弁と共通のものもたくさんある。例えば、「かく」(運ぶ)、「こすい」(ずるい)、「食べさし」(食べかけ)、「ちびる」(摩耗する)、「ちょける」(ふざける)、「なんぼ」(いくら)、「のーなる」(なくなる)、「見てくれ」(外見)、「よーけ」(たくさん)、「わや」(駄目、めちゃくちゃ)なんて言葉は、徳島の人は、阿波弁だと思っている人が意外に多いが、実は関西弁とほぼ同じ意味で、共に使う。 だから関西方面から転勤してきた場合、言葉の上では馴染みやすい土地とも言えるが、阿波弁でしか使われない意味で、使う言葉があるので要注意。 徳島へ転勤した僕が一番戸惑ったのは、ある病院に初めて行った際、看護師さんからいきなり、「せこいですか?」と聞かれた時。関西弁でも「せこい」という形容詞は使うが、「ケチ」とか「(お金に)きたない」「ずるがしこい」なんて意味でしか使われない。 しかし、徳島では(関西弁での意味で使うこともあるが)その「せこい」を、「苦しい」「しんどい」なんて意味で、かなり一般的に(!)使う。だから徳島でビジネスの相手から、「あんたの仕事もせこい仕事やねー」なんて言われても、決して怒ってはいけない。同情されているのだから…。 もう一つ忘れられない言葉。ある時、年配の男性2人連れAさん、Bさんと同席した。Aさんは「Bと僕はちんちんの仲ですけん」と僕に紹介した。僕の頭の中は混乱する。「えー! ちんちん??」。「この2人は、ひょっとしてゲイ友?」。 もちろん、そんな意味であるはずはない。答えを先に言うと、「ちんちん」とは阿波弁で「仲良し」という意味。ただし、このエピソードを徳島の30~40代の友人に話したら、「えー、そんな言葉、僕らの世代ではもう使いませんよー」と反応した。だから、阿波弁の「ちんちん」ももう死語になりつつあるようだ。
2004/12/20
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オーセンティックBAR通いを始めたのはもう随分前だが、昔は、1杯目にビールを頼み、次はブレンディド・ウイスキーの水割り、そして、最後まで水割りという時期が結構長かった。 それが、いつの頃からかカクテルを飲むようになった。ただ、カクテルと言っても、せいぜいジン・リッキーかギムレット、モスコー・ミュール、ソルティ・ドッグなど、ごくありふれた定番ものばかりだった。 ワインはワイン・バーでは飲んだ。いわゆる「BAR」ではあまり頼まなかった。日本酒は居酒屋で、焼酎は焼酎専門バーで飲むことが多かった。 そして最近は、以前の日記にも書いたように、BARではいきなり、モルトのストレートや生フルーツのカクテルなんかから、始めたりする。 15年くらい前から僕を知る大阪のあるバーテンダーが、ある時、「最近は、いろんなお酒を飲まれるようになりましたね」と言った。「昔はいつも最初は、バッドワイザーかカールズバーグを飲んで、そして2杯目にフェイマス・グラウスの水割りを飲んで、1時間くらいでさっと帰られましたよねぇ…」とも(最近はしつこいのかなぁ…)。 今も通うそのBARでは、モルトもいろいろ飲むが、最近は、すいている時間帯なら、生フルーツのカクテルもよく頼む。生の果物を生かし、プロがどんなカクテルをつくってくれるのか、結構興味深いのである。 僕は席につくなり、「きょうは果物は何があるの?」なんて、まず尋ねる。彼は、「えぇーと、きょうはイチゴ、巨峰、ブルーベリー、パッシション・フルーツ、ラ・フランス、パイナップル、オレンジ……それくらいですかねぇ…」などと。 僕は、「じゃぁ、パッション・フルーツを使ったショート(カクテル)を。ベースはラムで。テーマは『今夜の気分』。あとはお任せ!」と。彼は「はい、分かりました!」と言いながら、すでに副材料のリキュールに何を使おうかと、あれこれ考えている。 そうしたバーテンダーの創造の過程を見ながら飲むのは、実に楽しい。「バーテンダーいじめ」みたいに見えるが、決してそうではない(と彼らも言う)。 「テーマを与えられて、挑発されるのは自分の勉強にもなるし、ときどき思わぬ発見があって、新しいオリジナル・カクテルにつながるし、あれこれ注文されるのは大歓迎ですよ」と。 そんな優しいバーテンダーに甘えて、わがままな客の僕は今日も、「じゃぁキンカンを使って何か…。すべてお任せ!」と無理難題を言う。「えー!キンカンですか? 作ったことないですよー」と言いながら、彼は目はもう、「ベースの酒を何にしようか」とバック・バーへ注がれている。
2004/12/19
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昨日、生まれて初めて、生の「第九」を聴きに行った。もちろん、テレビやCDでは何度か聴いたことがあるので、曲は知っている。 場所は、大阪・北区のザ・シンフォニー・ホール。大阪で約20年前、初めてできた本格的なクラシック専用ホール(約1700席)で、音響のすばらしさは、今でも定評がある。わざわざ生で聴きに行こうと思ったのは、それを一度自分の耳で確かめたかったこともある。 ロビーにあるウェイティングBARの雰囲気も、とても良かった。シャンペンを飲んでいる人も目についた。一杯飲んでから聴くのもいいなと思ったが、演奏中に寝てしまってはいけないと思い、コーヒーにした。 音響は、評判通りすばらしいものだった。柔らい、繊細な弦の音はもちろん、管楽器の骨太の音まで実にクリアに耳に入ってきた。 クラシックの、それもフル・オーケストラのコンサートに行く機会はあまりない。思い出しても、これまで2度だけ(モーツアルトの「ジュピター」とドヴォルザークの「新世界」)。そもそも、モーツアルトとショパンは好きだが、ベートーヴェンはそれほどでもない。 しかし、それほど好きでもないベートーヴェンでもやはり、合唱付きの、この「第九」の迫力は感動的で、心を揺さぶられた。12月に「第九」を聴いてその年を振り返り、来年への新たな勇気をもらうというクラシック・ファンが多いというが、何となく、そんな気持ちが分かるような気がした。 ところで、初めて生の「第九」を聴いて、会場で気づいたことを思いつくまま記すと--。 1.ご存知のように、第4楽章の合唱は、合唱団と4人(男女2人ずつ)のソリストが歌う。しかし、改めて聴いてみて、ソリストも大事だが、歌っている時間で言うと、バックの合唱団の方が圧倒的に長い。合唱の主役は合唱団だったのだ。 2.オーケストラの奏者のうち、トロンボーンとシンバル、大太鼓の出番は第4楽章の後半のわずか5、6分くらい。約1時間15分ほどの演奏時間中、出番が来るまでずっと座って待っているだけ。見ていて少々気の毒でもあった。ベートーヴェンさん、もっと考えて作曲してあげなさいよ。 3.第3楽章の冒頭部分のメロディー、「あれ、何かに似てるなぁ」と考えたら、ピアノ・ソナタ「悲愴」の第2楽章のメロディー。でも作曲者は同じベートーヴェンだから、盗作ではない。よほど気に入ったフレーズだったから、使い回したんだね。(自作のメロディーの使い回しは、モーツアルトもよくやっている)。 4.バリトンのソリストが歌の合間に、ペットボトルで水ばかり飲んでいたのがおかしかった。 5.第1楽章が始まってまもなく、最前列の年配男性がフラッシュをたいて写真を撮った。コンサート会場での「撮影・録音禁止」は常識のはず。普通こんなことは許されない。退場させられてもいいはずなのに、その男性はおとがめもなく、その後ずっと聴き続けた。一体どうなってんの?! 6.携帯電話は、会場内では自動的に「圏外」になり、切り忘れによるコンサート妨害がないようなシステムになっていた。さすが! こうでなくっちゃね(それでも開演前、「携帯のスイッチはお切りください」と、アナウンスをしていたのは、なんで?)。
2004/12/18
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ニューヨークのマンハッタンに、「アルゴンキン(Algonquin)」(写真左)というホテルがある。このホテル内にあるBlue Barは、作家や編集者らいわゆる文士が集まる場として、知る人ぞ知る有名なBARだ。このホテルを愛したテネシー・ウイリアムズやジョン・アップダイクらが足繁く通い、俳優のローレンス・オリビエなんかも常連だったとも言う。 Algonquin Hotelには、もう一つ名物がある。ホテルの初代オーナーが非常に猫好きだったことから、ホテルのロビーには代々、マスコットの猫がいる。ヴィクトリア朝の立派な専用寝床(ベッド)まで用意してもらっている猫は、常連の宿泊客の人気者で、可愛いがられている。ロビーとつながっているBlue Barにも時々出没して、酔客のお相手をしてくれる。 15年ほど前、そんな話を雑誌で読んだ僕は、いつかAlgonquin Hotelを、そしてBlue Barを訪れる夢をずっと抱き続けてきた。そして、その夢が7年ほど前に、叶った。当時ニュージャージーにいた親友を訪ねる機会を狙って、その親友夫妻とともに、初めて、Algonquin HotelとBlue Barに足を踏み入れることができた。 Blue Barには、ニューヨークの「バーテンダー中のバーテンダー」として有名な、ジョージ・ソロカというバーテンダーがいるはずだったが、その姿は見えなかった。尋ねると「数年前にリタイアした」と言い、残念ながら会うことはできなかった。 しかし、念願のマスコット猫とは逢えた。名前は、雑誌で見た「ハムレット」から「マチルダ」に変わっていたが、「人なつっこいところは同じだよ」とホテルの従業員は言った。その言葉通り、マチルダは愛想がよく、なでても抱いても平気だった。僕はマチルダと一緒に写真に収まった(写真右)。 数年前、大阪のあるBARで偶然、隣席になった若い夫婦が、「近く、ニューヨークへ遊びに行くんです。できればニューヨークでもBARへ行きたい」と話すのが聞こえた。おせっかいとは思いつつ、「ぜひアルゴンキンのBlue Barを訪ねてみてください。とても居心地のいい素敵なBARです。マチルダという可愛い猫もいますよ」と伝えた。 そして数ヶ月後、その夫婦とまたその同じBARで会った。「行きましたよ、Blue Bar…。マチルダにも会いましたよ」と写真を見せてくれた。猫は写っていたが、僕が逢ったマチルダではなく、代がわりした、2代目のマチルダだった(写真左下=アルゴンキン・ホテルでは、名物の猫にちなんだ本もお土産で売っていました)。 夫婦は「これ、教えてもらった御礼です」と言って、あるものを僕にくれた。それは、前回僕がもらい忘れたBlue Barのコースター。「嬉しいなぁ!お気遣い有難う」と言うと、「これももらってきちゃった、どうぞ」と奥さん。それは、Blue Barの飲み物のメニューだった。 「えー、こんなのくれたの?」と聞いても、奥さんはただニコニコと笑うだけ。Blue Barさん、ごめんなさい。でも、そのメニューは、今では僕の宝物の一つです。
2004/12/17
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中年から始めたピアノで、一番最初に弾き語りの練習したのは、ビートルズの「Let It Be」だった。この曲ははっきり言って、コードも簡単(C、G、F、Am、Emの5つだけ)だから、初心者の入門編としてぴったり。メロディーも覚えやすい、というよりも、超有名だから、誰でも(?)知っている! ピアノBARで遊びで弾いていると、たまに、見知らぬお客さんから、「弾き語りをしてみたいんですが、どの曲からまず練習したらいいですか?」という質問を受ける。そんなとき、僕は「Let It Beがいいよ」と教えてあげる(写真は、名曲「Let It Be」をおさめたビートルズ晩年の傑作アルバム「Let It Be」。プロデューサーだったフィル・スぺクターが手を加える前のオリジナル版、「Let It Be:Naked」が2年ほど前初めて発売されたが、聴き比べると面白い)。 ビートルズは、ポールが結構器用にピアノを弾くもんだから、他にもピアノ伴奏がの名曲が数多くある。有名なところでは、「Hey Jude」「Long And Winding Road」「Lady Madonna」、ほかにも「Oh、Darling」「Martha My Dear」「Fool On The Hill」などたくさんある。 僕も何曲かをレパートリーに入れているけれど、「Lady Madonna」はアップテンポで、結構テクニックが要るので、僕向きではなかった(笑)。「Oh、Darling」は音域が結構広い曲(とくにサビのキーがものすごく高い)なので、歌いこなせず、ギブアップしてしまった。 解散後も、ポールの「My Love」や「Maybe I’m Amazed」、ジョンの「Imagine」や「Love」など、ピアノをフィーチャーした名曲が、たくさん生み出されている。だが、僕の一番好きなジョージはなぜか、ピアノをフィーチャーした曲をほとんど作らなかった。 91年の来日公演直前のインタビューで、ジョージは「ビートルズが聴きたい人はポールのコンサートへ行けばいい」と、やや過激な発言をしていた。ジョンやポールへの敵愾(がい)心からか、同じような曲はつくりたくないという意地があったのかもしれない。 ジョージは、「Something」「While My Guitar Gently Weeps」「Here Comes The Sun」のような、ギターの音色を生かした、美しい曲を残した。ビートルズの4人の中で、ジョージが一番好きな僕は、「Something」と「While My Guitar…」の2曲を、無理矢理、ピアノの弾き語りのレパートリーに含めてしまった。 後者はやっぱりギターの方が合う曲と思うが、前者はピアノ伴奏でも結構はまる、素敵なバラードだ。ジョージは不本意かもしれないが、亡き彼に感謝しながら、僕はときどきピアノで歌わせてもらっている。
2004/12/16
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「大阪のBARは、東京のBARと、何か違うところはありますか?」。昔、銀座のバーテンダーから、そんな質問を受けたことがある。 「いや、東京であれ大阪であれ、店が違えばみんな違います。1人ひとりの顔が違うように…。地域性の問題ではないのでは…」と僕は答えた。しかし、その後しばらく考えた後、「ただし、バーテンダーには、東西で違いはあるかも…」と付け加えた。 東京のバーテンダーは、所作や接客がスマートで、おしゃれだ。でも、どちらかと言えば、口数の少ない人が多いような気がする。寡黙は、時として冷たい印象にも通じる。カウンターで向かい合う客としては、抜きがたい「距離」を感じてしまうことにもなる。 昔、東京在住の知人が、銀座のある有名なバーテンダーのいるBARへ連れて行ってくれた。このバーテンダーは、数々のカクテル・コンペで優勝経験もある、すばらしい技術を持った方だ。知人は何度か来たことがあって、彼とは顔見知りだった。僕は「関西から来た**です」と自己紹介した。そして、「お噂はかねがね…」と挨拶した。 だが、そのバーテンダーは、とにかく口数が少ない。僕がいろいろ話題を振ろうともほとんど関心は示さず、余計なお世辞や外交辞令も口にせず、ただ黙々とシェーカーを振っていた。(もちろん失礼なふるまいなどは、全くなかったのだが…)。 対して大阪のバーテンダーは、概して人なつっこくて、気さくだ。話好きで、初めての客の懐にでも、どんどん入ってくる。客との「距離」がとても近い。それは時として、「おせっかい」「わずらわしい」「あつかましい」などと言われるくらい。 関東から来た人が、大阪の地下鉄に乗ると、「乗客同士の会話がみんな漫才に聞こえる」とよく言うが、大阪のバーテンダーにも話術が巧みな人が、実に多い。なかには、漫才師顔負けのトークをする人もいる。「客が親しみを感じる」という点では、大阪のバーテンダーの方が、圧倒的に得をしているかもしれない。 もちろん、だからと言って僕は、東京のバーテンダーが嫌いではない。口数が少なくても、温かい、心のこもった接客をしてくれる人は数多い。年に一度くらいしか現れない僕を、懐かしそうに迎え、覚えていてくれるバーテンダーはいっぱいいる。 以前、酒好きの友人と、そのBARが好きになる「ものさし」は何だろうかと、いろいろと議論になったことがある。 接客、サービス、(カクテルなどの)技術、酒の知識、品揃え、店の雰囲気、お値段…と、いろんな「ものさし」が話題になったが、「やはり、最終的には、バーテンダーの人柄かなぁ」ということで、2人の意見は一致した。 バーテンダーの人柄は、客との「相性」もからむので、何とも言えない。が、あえて言えば、僕は、寡黙なバーテンダーよりは、気さくに話しかけてくれるバーテンダーが好きだ。 僕にとっての「理想のバーテンダー像」は、適度に話好きで、客との適度な「距離」も保ってくれる人、ということになるだろうか。
2004/12/15
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お酒ともBARとも音楽とも違う話題を久々に…。 NHKの大河ドラマ「新選組」が12日で終わった。ここ10年近く、大河ドラマはほとんど見なかった。だが、京都の壬生近くで生まれ、新選組屯所などの史跡が思い出深い私は、当代一の売れっ子脚本家、三谷幸喜氏の書き下ろしということもあって、初回から欠かさず見てしまった。 前評判はとても良かったが、始まってみると、「龍馬と近藤勇が一緒に黒船を見に行くなんてあり得ない」「近藤役の香取慎吾が下手すぎる」「出演の俳優が若すぎて、存在感がない」とか、いろんなブーイングも起こってきた。 香取は、顔はなんとなく写真の近藤に似ていたが、最後までセリフが棒読みだった(会津公役の筒井道隆も、あんなに下手とは思わなかった)。香取があまりにも下手だったので、逆に、土方歳三役の山本耕史や、斎藤一役のオダギリ・ジョー、山南敬助役の堺雅史の上手さ、存在感が光っていた。 でも、まぁ、いろいろ毀誉褒貶はあったが(最終的な平均視聴率はまだ知らないが)、最終的には「90点」はあげられるんじゃないかと、僕は思う。 三谷脚本はさすがに、毎回盛り上げるべきところは盛り上げて飽きさせなかった。あの幕末に、一途(いちづ)に生きた若者を生き生きと描いていたと思う。「俳優陣が若すぎる」というのは的を得た批判ではない。現実の近藤や土方ら隊士たちは、当時まだ20~30代の若さだったのだから…。 ただ一つだけ、どうしても(これは三谷氏の責任ではないが)、すっきりとした気持ちになれないのは、このドラマの影響もあって、新選組があまりにも持ち上げられすぎたことだ。 「誠」を貫き、義に殉じた新選組隊士らは、確かに幕末のヒーローに違いない。しかし、池田屋事件などで彼らが数多くの志士の命を奪ったために、「明治維新は少なくとも2年は遅れた」という歴史学者もいる。時代の変わり目に気づかず、滅びつつあった旧体制(幕府)を守るテロ集団にすぎなかった、という見方もある。 私自身の心の内に、近藤や土方らに共感する部分はあることは否定しない。だが、それはあくまで彼らの「純粋さ」へのシンパシーであって、その主義主張に対してではない。
2004/12/14
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東京や横浜のBAR巡りをしていて楽しいことは、初めて入ったBARのマスター(バーテンダー)が偶然、僕と同じ関西出身の方で、話が大いに盛り上がったり、共通の知人がいたりすることだ。 今でもときどき通う銀座のモルトBARのマスターは、大阪で、僕が馴染みのBARのバーテンダーと、たまたま親しい友人だった。 横浜のミナト近くに訪れたBARのマスターは、中学は僕の住む同じ市の中学を卒業したと話したので、昔話に花が咲いた(マスターはその後、親の転勤で横浜へ来たらしい)。 銀座のあるBARで出逢った女性バーテンダーは、徳島でよく行っていたBARのマスターと「昔、吉祥寺で一緒に仕事をしていた」と話したので、本当にびっくりした。彼女はその後独立して、同じ銀座でパートナーと新しいBARを開いた。僕は今でも時々、元気でしているかなと店を覗く。 しかし、これまで一番驚いたのは、赤坂見附近くで初めて訪れたモルトBARでの出会い。モルトと燻製づくりをこよなく愛するマスターは神戸出身。同じ店でカウンターに立つ、気さくな奥さんは西宮出身と、ともに兵庫県出身だったことだ。マスターは、僕の親しい友人とも同じ高校だった。そんな縁もあって、そのBARに、一目惚れしてしまった。 「奇遇」という言葉をよく使うが、僕はそれよりも「運命の神」という存在を信じている。宗教はあまり信じない方なので信心はあまりないが、「運命の神」はこの地球上にきっといると、昔から思ってきた。 その初めての出会い以来、僕は東京出張があるたびに、仕事は銀座・築地かいわいなのに、わざわざ赤坂近くに宿を取り、深夜、そのBARへ通った。 東京には、モルトBARは数多くある。だが、500種類以上のモルトを置くそのBARは、店にあるすべてのモルトが、ハーフ・ショットから味わえる。アルコールにそう強くない僕は、いろんな種類のモルトが楽しめるのが嬉しかった。 僕はいつも心地よい酔い加減で、歩いてホテルにたどり着き、優雅な眠りに陥った。至福の場所は、関西以外にもたくさんある。BAR巡りの楽しさは、思いがけない出会いの喜びでもある。
2004/12/13
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僕は、あまり多人数で連れ立っては飲まない。基本的には2、3人か、あるいは1人で飲みに行く。静かな雰囲気のカウンターBARが好きだから、自分も静かに飲みたい。そして、バーテンダーとその日あったことなどを、ゆったりと話がしたい。 5人以上の多人数で飲むと、話す話題が分散してしまい、酔ってくると声も大きくなるので、店にも、他のお客さんにも迷惑をかけてしまうことが多い。一度、一緒にオーセンティックなBARへ行った同僚が、酔って歌をうたい始めたことがあった。マスターは騒ぐ客でも客だから、遠慮したのか、何も言わなかった。 僕は、「ここはそういう店じゃない」と怒ったが、相手は、何が問題なのか、あまりよく理解できないようだった。そういう人とは、居酒屋へは行っても、BARへは二度と一緒には行かない。 そんな不愉快な事が嫌だから、僕は少ない人数で行く。もっとも、最近は(いや昔から?)5人以上の団体客は断るようなBARも何軒か知っている。 「BARでは静かに飲みなさい。酔っぱらわない程度に飲みなさい。そして長居は禁物です」。昔、ある年配のバーテンダーに、そう教えられた。そんな風に飲むのが、本当にBARと酒を愛する男(いや女性でも同じか)の格好いい飲み方なんだと…。 タバコを吸うときも、最低限隣の人に「構いませんか?」と断ってから、という人間でありたい。BARでは、僕はタバコは吸わないが、そういうマナーの良い人なら、隣席でも気にはしない(もっとも、いくら断られても隣でシガーを吸われるとモルトの香りが台無しになって、悲惨だが…)。 「店に入ったら帽子は脱ぎなさい」。昔は、親が息子に注意するようにしかる、そんな口うるさい、頑固なバーテンダーもいた。最近は、客のマナーの悪さ(店内での携帯使用や大声など)を、あまりとがめないバーテンダーが増えたような気がする。 「いいバーテンダーは、いい客を育てる」(「いい客は、いいバーテンダーを育てる」とも)と言うが、「いい客」を育てるためにも、バーテンダーは、時には心を鬼にしていいと思う。
2004/12/12
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ハーブやスパイスの利いた料理が好きで、外食するときでも、メニューを見たら、すぐその類の料理に目が行ってしまう。 ハーブの不思議な力に魅せられて、今度はハーブを使った料理を、自分で作ってみようと、ひと頃熱中したことがある。地鶏やシーフードのハーブ風味のオーブン焼きなどは、今でも得意で、好きなメニューの一つだ。 食べるだけでは、物足らず、今度は家の小さな箱庭で、ハーブ栽培も始めた。今でこそ近所のスーパーでも、バジルやミントを売っているが、昔は高級スーパーでしか、ハーブなど手に入らず、しかも値段もとんでもなく高かった。それなら、いっそ苗や種を買ってきて育ててしまえ、と思った。 ローズマリー、セージ、タイム、ミント、コリアンダー、オレガノ、タラゴン、クレソン、パセリ、チャイブ、ディル、フェネル、バジル、ラベンダー、レモンバーム…、一番多いときで20種類くらいのハーブ栽培に挑戦した。 しかし、しょせん素人栽培の悲しさ。夏の暑さ対策になまけ、冬の寒さ対策を怠り、次々と枯らしてしまった。枯れても翌年は芽が出てくると思ったら、春になってもいっこうに芽が出ない。ハーブにも1年草と、多年草があることを初めて知った。 コリアンダーは夏場、虫害に悩まされた。フェネルはやたら育ちがよくて、小さな苗が1メートル近くまで育って、持てあました。長年の試行錯誤の結果、我が家でいま、常時育てているのは、ローズマリー、ミント、レモンバーム、バジルの4種類。本当はコリアンダーやラベンダーも育てたいが、何度やっても失敗するのであきらめた。 5cmくらいの苗木から育てたローズマリーは、10年経って、高さ80cmくらいに育った。年中青々と茂り、オーブン料理に使ったり、小枝を束ねて風呂に入れたりと、重宝している。 ミントはカクテル(モヒートなど)に、バジルはトマトソースのパスタや、自家製のバジルソースを作るので欠かせない。レモンバームは乾燥させて、ハーブ・ティーに使える。ハーブのある暮らしは、いろんな楽しみがあって飽きることがない。
2004/12/11
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神戸で仕事をしていた80年代前半、ある男性に出会った。彼は「おもちゃのデザイナー」だと、僕に自己紹介した。いたずらっぽい、少年のような目をしていて、「木を素材にしたおもちゃを、いろいろ作っている」と話した。 僕が「12個の干支のパーツに分かれていて、組み上げると立方体になる、木のおもちゃを持っている。小黒三郎さんとかいう人の作品だ」と言うと、「彼(小黒氏)は、仕事のパートナーだ」と話した。そんな奇遇が、最初の出会いだった。 まもなく、彼は神戸市内で、自分の店舗兼ギャラリーを開いた。小黒氏とも別れて、自分の会社をつくり、独創的な木のおもちゃや、ユニークなからくり、針金を使ったユーモアあふれるオブジェ、公園の子どもの遊具など、さまざまな分野で、その才能を花開かせ始めた。 いろんな人と飲んで、ワイワイ騒ぐのが好きな彼は、毎月1回、そのギャラリーを開放し、営業時間が終わった後、「飲み会」を開いた。阪神間に住む多彩な友人が集まった。 しばらくして、彼の才能に目をつけた江崎グリコが80年代後半、あの有名なキャラメルの「おまけ」製作を依頼してきた。 彼は、動物や昆虫、乗り物などをモチーフにした、遊び心あふれるおまけを、次々と創り出していった。おまけづくりは、その後7年近くも続き、製品化されたおまけは約250点にも達した。最初はプラスチック製だったおまけは、後期には彼の好きだった木の素材に変わった。 その後、彼とはしばらく会う機会が減った。阪神大震災では、店舗は大丈夫だったが、芦屋にあったアトリエ(工房)は、大きな被害を受け、使えなくなった。それでも、神戸の有馬にアトリエを移して、「一から頑張る」と力強く語っていた(写真左=グリコのおまけの原型となった木型。個展で6種×6セット限定で販売したものの一つ)。 だがその頃、彼の家庭は崩壊し始めていたことを、後に知った。妻や二人の子どもとも別れ、彼は大阪市内で一人暮らしを始めた。まもなく、後にパートナーとなる女性と一緒になった。離婚は個人の問題で、僕がとやかく言う話ではない。僕はその後も彼とは交遊を続けた。 新たな伴侶と暮らすことになった大阪・十三(じゅうそう)のマンションは、淀川の大花火大会見物の絶好のロケーションだった。毎夏、たくさんの飲み友達が変わらず集まった。プロのクラシック・ピアニストだったパートナーの女性の伴奏で、オペラのアリアを熱唱し、客を楽しませる才能もあった。 その彼が、突然亡くなったという知らせを受けたのは01年5月5日だった。まだ50歳の若さ。悪性の胃がんだったという。進行が早く、見つかってから1年も経たなかった。新しいつれ合いの女性は「子どもの日に亡くなるなんて、あの人らしいでしょ」と僕に話した。通夜に駆けつけた僕は、棺の中の、生き急いだ彼を見ながら、声を上げて泣いた。 1年後、有馬温泉の寺で開かれた1周忌の会は、飲んでワイワイ騒ぐのが大好きだった彼のために、酒と音楽がいっぱいの楽しい宴になった。彼の名は、加藤裕三(ゆうぞう)=写真右。グリコの数あるシリーズ・オマケでも、彼の作品は、最も人気があり、高い評価を受けた。作品の数々は、文房具などの形でその後、商品化されたものも多い。彼が亡くなっても、その「遊び心」は確実に受け継がれている。 彼のつくり出した数々の創作おまけは、「グリコのおもちゃ箱」(アムズ・アーツ・プレス刊、1900円)という本で、紹介されている。また、有馬温泉の旅館「花小宿」では、彼の生み出したおもちゃが常設展示され、彼のアトリエも移築・公開されている。加藤裕三の世界に浸りたい方は、ぜひ一度ご覧になってほしい。
2004/12/10
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独学でピアノを始めてから、練習の場はもっぱら家だった。弾き語りは結構恥ずかしいので、家族のいないときなどに集中的にやっていた。 だが、そのうちある程度自信がついてくると、外で自分で歌ったり、誰かの歌の伴奏がしたりしたくなってきた。外で弾くとなると、その手のピアノ・バーを見つけるしかない。ピアノ・バーにも2種類あって、ホステスさんのいるラウンジ系、そしてライブハウス系のピアノ・バーである。 大阪や神戸のような都会では、前者は座っただけで1~2万円という店も少なくない。僕のようなサラリーマンは、おいそれとは行けない。後者では定期または不定期で、ジャズなどの生演奏をやっていることも多いので、素人が弾かせてもらうのは、なかなか難しい。(下手だと、他のお客さんから、確実にクレームが来る)。 だから、まずその店に通い詰めて、マスターと仲良くなることから始める。そして、ライブの合間の、他のお客さんが少ない頃合いを狙って、「お願い」して、弾かせてもらう。 そんな風にして、歌の上手い友人を誘って、洋楽や邦楽のポップス系の曲を、よく練習させてもらった。1人で行くときは、もっぱらジャズの曲(歌なしのソロ・ピアノ)を練習し、徐々に、レパートリーを増やしていった。運がよければ、ドラムを叩けたり、ベースを弾けたりする人(もちろん初対面が)が加わってくれて、「にわかトリオ」で練習できたりもした。 しかし、そのいつも練習させてもらっていたライブ・バーが、ある日突然、閉店してしまった。練習場所を失ってしまった僕は、途方に暮れた。そんな時ちょうど、徳島への転勤の辞令を受けた。初めての、知らない土地。知り合いも1人もいない。気持ちはさらに暗くなった。見知らぬ客に、気軽にピアノを弾かせてくれるようなバーがあるだろうか、と。 でも、そんな心配は杞憂に終わった。徳島には、地方都市にしては珍しいくらい、ジャズ系のライブ・バーが多く、7、8軒もあった。そして、その「敷居」は都会のバーでは、考えられないほど低かった(料金も驚くほど良心的だった!)。 僕をすぐに温かく受け入れてくれた徳島のジャズ・バーは、まるで家族のように扱ってくれる、居心地のいい空間だった。客は常連が多く、親しくなるのに時間はかからなかった。僕の伴奏で歌ってくれる人も、すぐに何人もできた。 経営者がプロのピアニストだった店も何軒かあった。営業時間外に、ジャズ・ピアノのレッスンまで、格安の授業料でしてくれた。そんな幸せな土地で、僕はさらにピアノが好きになってしまった。僕のピアノの師(恩人)は、徳島という街そのものかもしれない。 都会に再び戻った僕は、何とかまたピアノを弾かせてくれるバーを見つけたが、敷居はそう低くはない。徳島にあったような、家族的な雰囲気のピアノ・バーが、大阪や神戸にももっとあればと願うが、それは叶わぬ夢かもしれない。
2004/12/09
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仕事で東京へ出張することが、時々ある。そんな時、夜は必ず、新しいBARのドアを開けるように努力している。20数年前から、上京の際のそんな酒場探訪を楽しみにしてきた。オーセンテイックなカウンターBARが好きだから、訪ねるのはもっぱら、そんな雰囲気の店を探す。 今はいろいろとガイドブックが出ているが、昔は東京のBARを紹介してくれる本は数えるほどしかなかった。詳しい知人から教えてもらったりして、1軒1軒店を増やしていった。 そのBARを好きになるかは、8割くらいはバーテンダーの印象であり、自分との相性だと思っている。関西から訪ねてきた初めての客にどう接してくれるかは、バーテンダーによって微妙に違う。 だが、私が「相性が合わない」と思っても、その店と「(相性が)合う」人だって、当然いる。私自身が好きになれなかったBARを否定するつもりはないし、否定すべきではない。 東京でもたくさんのバーテンダーと知り合い、親切にしてもらった。20年近く通うまでの、長い付き合いになったBARもある。なかでも、最初のときから変わらず温かく接してくれたのが、87歳まで「現役」を貫いた、あの有名な「クール」の古川緑郎さん(写真右)だった。 クールは東京の酒場通の人ならとっくに承知だが、惜しまれながら昨年(2003年)の11月、55年の歴史を閉じた。銀座のBARの歴史そのものとも言われた店だった。 僕は、本当に運良く出張があって、閉店2日前のクールに立ち寄ることができた。閉店を惜しむ客が、店の表まであふれる状態だったが、元気そうな、笑顔を絶やさない古川さんや奥さんとも写真を撮ることもでき、至福の時間を過ごした。 「いってらっしゃいまし」。僕が店を去るとき、奥さんはいつもと同じように送り出してくれた。カウンターの古川さんともう会えないのは、本当にさびしい。 古川さんほど「絵になる」バーテンダーは、かつて神戸にあった「ルル」の長原さんくらいしか思いつかない。そう言えば、関西にも「絵になる」バーテンダーが本当に少なくなった。
2004/12/08
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初めてスコッチ・モルト・ウイスキーなるものと出逢ったのは、仕事で徳島に住んでいた頃だった。行きつけだった「FULLHOUSE」というBARの若いマスターが、「こんなウイスキーありますけど飲みますか?」と勧めてくれたのが、ラフロイグだった。 今思えば、そのFULLHOUSEには、ブレンディドよりモルトの方が多く種類があった。そして、モルトもアイラ系がほとんどという変なBARだった。 最初のモルトがラフロイグだった人なら、誰でも同じ思いを持っただろうが、「何だこれ、まるで消毒薬みたいだ」が第一印象だった。こうして僕のモルトとの出逢いはアイラから始まった。 それからモルト狂いが始まった。徳島にもなぜか、モルトをいろいろ置くBARができた。「Standard」という名のそのBARでは、アイラ以外のモルトもいろいろ並べて、都会では考えられないくらい良心的な値段で楽しめた。 ハイランド、スペイサイド、ローランドなどスコットランドには地域ごとに、いろんな個性あるモルトウイスキーがあることも知った。徳島を去った後、一念発起して、スコットランドの約120ある蒸留所の、(もちろん、今は閉鎖されているところも多いが)モルトを、「すべて味わってやろう」という目標を立て、実行に移した。 一応オフィシャル・ボトルをまず味わい、オフィシャルがもうない蒸留所については、ボトラーズの一番スタンダードなものを飲んだ。キンクレイス、レディーバーン、ベン・ウィヴィスの3つは、持っているBARを探すのに苦労したが、何とか見つけて味わえた(1ショットのお値段もなかなかのものだったが…)。 「目標」は約3年かかって達成できた。「で、どうなんや、一番旨かったのはどれやった?」と、飲み友達は僕に尋ねた。 僕の答えは、このページの「MY FAVORITES」に出ている。1つに絞るのは不可能だったので、5つの蒸留所(ハイランド・パーク、ボウモア、オールド・プルトニー、グレンファークラス、タリスカー)を選んだ。 もちろんこれ以外にも旨いモルトはたくさんあった。酒はしょせん嗜好品だ。結局は、個人の好き嫌いに行き着くのだという当たり前のことが分かっただけかもしれない。「全蒸留所制覇」は、ある意味むなしい挑戦だったが、蒸留所に秘められた深い歴史の勉強にはなった。 僕にモルトを教えてくれたFULLHOUSEは、その後なぜか、「St.Patrick」というアイリッシュ・パブに衣替えした。マスターも元気で頑張っている。素敵なアイリッシュ・パブなので、徳島へ行かれる機会があれば、ぜひ一度訪ねてあげてほしい。
2004/12/07
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昔は年に数回くらい外国人歌手のコンサートへ行っていたが、最近はとんとご無沙汰している。生まれて初めて「外タレ」のコンサートへ行ったのは、高校1年の夏で、ドノヴァンという英国のフォーク歌手だった。厚生年金の大ホールという広い会場にもかかわらず、ギター1本の弾き語りで、約2時間飽きさせず、しみじみと聴かせてくれた。 次に行ったエルトン・ジョンも、今も最高傑作と言われる2枚組アルバム、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」(1973年発表)の発売まもない頃で、実に充実した、素晴らしいコンサートだった。今思えば、音楽的にもおそらく、彼の絶頂の時期だったかもしれない。 その後も、ジェームズ・テイラー、ニール・ヤング、ジャクソン・ブラウン、サイモン&ガーファンクル、ケニー・ロギンス、ホール&オーツ、トム・ウェイツ、マイケル・ジャクソン、クロスビー、スティルス&ナッシュ、ホイットニー・ヒューストン、ジョージ・ハリスン、ベビー・フェイス、ストーンズ、ビリー・ジョエル、マライア、クラプトン……と、好きなアーティストが来日するたび必死でチケットを取り、生音に酔いしれた(マライアは一部口パクだったという話もあるが…)。 77年に行ったジャクソン・ブラウンは「プリテンダー」を出す直前の初来日ライブで、彼の来日ライブのなかでは、今もファンの間ではベストとの評判だ(この時のライブは、ブートレックの2枚組で後年リリースされている)。87年(?)のM・ジャクソンは「Bad」リリース直後の初来日。今はなき大阪球場が会場だった。91年のジョージ・ハリスンは、クラプトンをバックに従え、ソロとしては最後のコンサートとなってしまった。 今も悔やむのは、全盛期のツェッペリンを聴けなかったこと。数年前、ペイジ&プラントでの来日コンサートがあったが、なぜか行く気は起こらなかった。ドラムのJ・ボンナムのいないツェッペリンはツェッペリンではない気がした。 これまでの人生で一番感激したコンサートと言えば、02年11月、大阪ドームで初めて観たポール・マッカートニー(写真左)に尽きる。 ステージに登場したポールは、いきなり「もうかりまっかー、オオサカ?」と、大阪弁で客席を沸かせ、60歳というのに、約2時間半をほぼ休息なしで演奏し続けた。「おそらく、もう日本には来ないだろうなぁ」と思うと胸が締め付けられた。 ステージ上で時には飛び跳ねながら、エネルギッシュに歌うポールを観ながら、「自分は60歳になったとき、精神も肉体もあんなに若々しくあり続けられるだろうか」と、問いかけていた僕。アンコールで、生ギター1本で聴かせてくれた、「イエスタディ」が、今も心にしみる。 「外タレ」のコンサートとも、その後は、20年越しの念願だったスティービー・ワンダー(04年1月)を最後に遠ざかっている。もはや、生で聴いてみたいという「外タレ」が思い浮かばないのも理由だが、小ガネ稼ぎ目当てに頻繁に来日するアーティストが増えたのも原因だ。 米国内ならせいぜい20~30ドルくらいのチケット代も、日本ではドーム会場なら1万円前後に跳ね上がる。母国では落ち目でも、日本へ行けば、「昔のヒット曲を適当に歌うだけで稼げるさ」と思ってる輩(やから)が多いのだろう。聴衆とのふれ合いを求めて、本当にライブを愛するがために、遠い日本まで来てくれたアーティストが多かった昔が懐かしい。
2004/12/06
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ピアノに夢中なる前は、もっぱらギターだった。小学6年からギターを始めた僕は、中学3年の時、同級生の友人のYとアコースティック・バンドを作った。バンドと言っても、最初はお互いの家の室内で歌い、弾くだけのバンドだった。 Yと僕は別々の高校に進んだが、ある時、そのYが別の音楽好きの友人Aを連れてきた。音楽的な嗜好もほぼ合ったので、3人でバンドを組むことにした。一応、バンドに名前を付けようということになって、好きだった漫画「伊賀の影丸」の忍法からとって、「木の葉がくれ」とした。 最初はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)やバーズ、ロギンス&メッシーナなどのコピーが中心だった。そのうちに、コピーだけでは物足りなくなって、オリジナルをつくり始めた。他の2人は作詞、作曲ともに自分でこなしたが、詩作の才能のあまりない僕は、バンドの「アドバイザー」的な存在だった別の友人Kに、しばしば詩を書いてもらった。 バンド活動中に残した曲は、50曲近い。音楽のジャンルとしては、フォーク・ロックというところだろうか。CSN&Yのコピーから始めた影響もあるが、オリジナルでも、できるだけ3声のハーモニーを聴かせるようにこだわった。 身内だけに配るアルバム(もっとも当時はカセットテープ・アルバムで、後にCDにダビングしたが…)も3枚ほど作った。小さいライブハウスやラジオのサテライトスタジオ、学園祭などで演奏もした。 プロになる気持ちはまったくなかったが、ヤマハのポプコンの地区予選に挑戦もした。(ひょっとしてという色気があったのかもしれない)。しかし、地区予選でもレベルはとても高く、見事に1次予選で脱落した。 予選で1位になった女性は、名前は忘れてしまったが、1人でのピアノの弾き語りだった。オリジナル曲で他の参加者に圧倒的な存在感を見せつけた。(「あなた」でグランプリを取った、あの小坂明子さんではありません=念のため)。「こりゃ、あかんわ。負けた」とすぐ感じた。 あの頃、全国各地区の予選に出ていて名前で今も覚えている人たち。中島みゆき、RCサクセッション、小田和正(オフコースとして出場)、井上陽水、上田正樹…、今も音楽界で確固たる地位を築いている彼(彼女)らの才能には疑いはない。「上には上がある」。音楽で稼ごう(プロになろう)などという考えは二度と起きなかった。 バンドは大学2年くらいになると、自然と活動休止状態になった。3人が進んだ大学が別々に分かれたこともあるが、人生で目指すものが、お互い微妙に変わってきたことが大きな理由だったかもしれない。再結成しようという声も出てこず、作詞・作曲することもほとんどなくなった。 数年前、あるライブ・バーで、友人の求めに応じて昔のオリジナル曲を、ピアノで弾き語りしたことがあったが、時代が変わった今、70年代のラブソングの歌詞などはっきり口にするのは少し恥ずかしかった。
2004/12/05
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1980年代前半、神戸で仕事をしていた。神戸にはその頃、港に数日停泊する外国人貨物船員相手のためのBARが、(当時は、もっぱら「外人BAR」と呼ばれていたが)元町かいわいに数多くあった。 正統派のBARから、接待の女性がいるスナックに近いBARまで、その数40~50軒、いやひょっとして100軒近くあっただろうか。なかにはいかがわしい、いわゆるぼったくりBARもないではなかった。 ノルウェー、デンマーク、イギリス、ギリシャ、アジア系など、国籍ごとに「たまり場」となるBARは分かれていた。もっぱら、ゲイの船員がよく集うBARもあった。客として出入りできるのは、原則として外国人オンリー。「日本人お断り」。店の表にそう書かれている店も少なくなかった。 外人BARってどんなところだろうか、と好奇心をたぎらせた僕は、ある時、東南アジアの船会社の関係者を装って、わざと変な日本語をしゃべって潜入(入店)に成功したことがあった。もちろん、座ってものの15分くらいで、「あんた日本人違うん?」と見破られてしまったが、追い出されることもなく、そのまま飲ませてくれた。そんな大らかな時代だった。 僕はそんな異国の怪しげな雰囲気を漂わせる外人BARが好きになり、あちこちのBARに出没した。なかでも一番よく通いつめたのは、南京町の近くにあった「Sunshine」というBARだった(写真=成田一徹氏の切り絵に残された「Bar Sunshine」の店内風景。昔、個展で購入)。 マスターのロバートさん(日本人の客は、いつも「ロバさん」と呼んでいた)はデンマーク人で、マースク・ラインの元船員。神戸がことのほか気に入って居ついてしまい、その後、ついには日本人女性と結婚した。 店は、その奥さんと2人で切り盛りしていた。当然、毎夜のように、デンマークの船員が集まり、店内にはデンマーク語があふれ、彼らはアクアヴィットをストレートでくいくい飲み干しながら、もっぱら賭けダーツに興じていた。僕もカタコトのデンマーク語をおそわったりした。雰囲気はまるで外国のようだった。 その「Sunshine」も悲しいかな、バブル景気のあおりで地上げに遭い、90年初めまでには姿を消してしまった。もう1軒、よく通った「Charlie Brown」のチャーリーさんも、その後、病気で天国へ旅立ってしまった。居心地のいい酒場を無くしてしまった僕は、今もバブル景気を恨む。 高速コンテナ貨物船が主流となった今は、船は朝港に着いても夜には出航してしまう。船員たちが陸(おか)に上がってBARで一夜を楽しむ余裕(時間)はなくなり、元町かいわいのBARで夜、外国人船員と出逢うことはほとんどない。 元町の外人BARもその後、店を閉めたり、普通のBARやスナックや喫茶店に姿を変えたりして、今は、1、2軒がかろうじて残る程度(もちろん、今は「日本人もウエルカム」だが、昔の外人BARの面影はない)。 南京町かいわいを歩くと、今でも「Sunshine」での懐かしい夜と喧噪を思い出す。その後、ロバさん夫妻の消息も聞かない。時代が変わるのは仕方がない。しかし、ミナト神戸によくお似合いだった、あの猥雑で怪し気な外人BARが消えたのは、言葉で言えないくらい悲しい。
2004/12/04
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ページのタイトルに「酒」という言葉を使っているが、実は、そんなに飲める方ではない。持って生まれた体は、飲めば顔が真っ赤になる体質だ。 「赤くなるのは生まれつき肝臓にアルコールを分解する酵素がないからで、警戒警報みたいなもんだから、赤くならない人間よりも得してるのだ」なんて友人は言うが、私自身は、いくら飲んでも顔に出ない人がうらやましい。 今はそれなりに飲めようになったが、社会人になったばかりの頃は、ビールでコップ1~2杯くらいが限界だった。そう言っても、昔の私を知らない人はまず信じてくれない。 酒は決して嫌いじゃない。だから、それから長い時間をかけて自分なりに努力(?)した。ビールから始まった付き合いも、日本酒、ウイスキー(ブレンディド)、紹興酒、バーボン、カクテル各種、ワイン、スピリッツ各種、モルト・ウイスキー、焼酎と遍歴を重ねた。およそアルコールと名のつくものは、ほとんどを経験した。 不思議なもので、「ウン十年」経った今の私は、顔が赤くなるのは変わらないが、修業の成果か、水割りなら4~5杯は普通に飲めるまでに成長した。(肝臓はきっといささか疲れ気味だろうが…)。 もっとも昔と違って、今は無茶な飲み方はまずしない。BARでも家でも、ゆっくりと味わいながら飲むスタイルを貫いている。肝硬変では死にたくない。じっくり味わいたいヴィンテージものウイスキーも、未開封のまま僕を待っている。ボトルを開けないうちに、飲めない体になってしまっては、悔しくて死ぬに死ねない。 酒はゆっくりと味わい、(量もほどほどに)楽しむものでありたい。人生最期の日まで、心地よく飲めるのが究極の夢だ。
2004/12/03
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動物が好きで、子どもの頃は実家で犬や猫を飼っていた。犬は看取ったことはあるが、猫は、なぜか家出をしてしまったりで、家で最期まで看取ったことはなかった。 社会人になってからはしばらく、ペットは金魚か小鳥くらいしか飼わなかった。だが、阪神大震災のあった95年の秋、ひょんなことで親が震災被災猫だった白い子猫(メス猫)と出会い、生後2ヶ月半くらいの時に我が家にやってきた。 そしてその3年後、隣家に迷い込んできた茶色のメスの野良猫(成猫)も我が家の家族に加わり、2匹の猫と同居することになった。2匹は、最初は吹き合ったりして、よくけんかをしていた。そのうち、お互いの存在を認め合うようになったが、仲の良い関係という訳でもなかった。 その後(あと)から我が家に来た茶色の猫(写真左)が10月の初め、病気で亡くなってしまった。8月くらいから体調を崩し、獣医さんにも診てもらいながら、投薬治療を続けてきたが、奇跡は起こらず天国へ旅立ってしまった。 野良だったので正確な年齢は分からない。獣医さんの見立てでは、推定14歳くらいという。亡くなる当日の朝も生きていたのに、しばらくして様子を見に来たら、すでに息を引き取っていた。 野良育ちがゆえ最後まで人間への警戒心が完全には消えず、なかなか抱かせてくれなかったが、それでも可愛い、家族の一員だった。茶猫は先住者の白猫に遠慮して、夜も、決して飼い主のベッドのそばには来なかった。だから「せめて最後に」と、亡くなった夜は、冷たくなったその愛猫を、ベッドの横に置いて一緒に一夜を共に過ごした。 翌日、ペット葬儀社に頼んで火葬にしてもらった。遺骨は今も家にある。猫を最期まで看取ったのは初めてだが、「ペットロス症候群」にも、生まれて初めてかかってしまった。2カ月近くたった今も、遺影を見ると自然と涙がこぼれてしまう。喪失感の大きさは言葉では言い表せない。 ペットとの暮らしは楽しいが、人間と同じで死は避けられない。最初に我が家に来た白猫はまだまだ元気だが、それでもいつか辛い、永遠の別れが訪れる。その日が来るまで、精一杯の愛情を注いであげようと誓っている。
2004/12/02
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BAR好きが高じて、家でも時々、バーテンダーのまねごとのようなことをする。シェーカーを振ったり、ミキシング・グラスを使ったりして、いろんなカクテルをつくる。 スタンダードと言われるカクテルの、ほぼ半分くらいは一応つくれるだけのスピリッツやリキュールは常備しているが、悲しいかな、やはり本物のバーテンダーがつくってくれて、BARで飲むカクテルの方が断然旨い(当たり前か?!)。 客人を家に招いて、一緒に飲んだり食べたりするのも好きなので、そんなとき、「にわかバーテンダー」に変身して、シェーカーを振る。客に人気があるのは、ジャックローズ、コスモポリタン、モヒート。(もっともモヒートはシェイクではなくビルドでつくるが…)。 晩秋なら、ジャックローズのグレナディン(ザクロ)には、我が家に育つ「ヒメザクロ」の実が役立つ。(ただし小粒なのでそんなに汁は出ない。香り付け程度)。モヒートで使うミントも栽培しているが、なぜか毎年出来が悪く、客人が多いときは市販のものを買い足すことになる。 5、6種類もの違うカクテルの注文が一度に来ると、どれから順番につくればいいのか、頭が混乱して、もうパニックだ。顔色ひとつ変えずテキパキと仕事をこなしてしまう、プロのバーテンダーは「やはり凄い」と感心してしまう。 最近のお気に入りカクテルは、あるプロのバーテンダーが著したフルーツカクテルの本に出ていたものだが、「焼酎と和ナシとすだちのフローズン・カクテル」。ナシ2分の1個に焼酎30~40ml、すだちの搾り汁2分の1個分を、ミキサーにクラッシュ・アイスと一緒に入れてただ混ぜるだけ。 いたって簡単なレシピだが、これがめちゃ旨い。風呂上がりなどには最高だ。すだちの香りが、かつて住んだ徳島を思い起こさせてくれることも嬉しい。ただ、ナシのシーズンしか飲めないのがさびしい。1年中ナシが手に入る果物屋さんってあるんだろうか…。
2004/12/01
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