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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありませんでした。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、原料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン農家の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に簡易で小型の蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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先週末、仕事で四国・松山へ行く用事があり、再び、BAR巡りをしてまいりました。まずは、BAR巡りの前の腹ごしらえ。地元の友人に教えてもらった「さかな工房 丸万」=写真右=という魚料理のお店へ。 祇園町という市中心部の盛り場から少しはずれた、若干「場末感」が漂うエリアに店はあった。明治12年創業の老舗の魚屋さんの経営で、現在の大将は4代目という。店に入って驚かされるのは、カウンターの目の前が魚屋さんの陳列棚のようにディスプレーされていること=写真左下。 タイ、ノドグロ、サヨリ、ウオゼ(愛媛ではアマギと言うとか)、ウマヅラハギ、カンパチ、マナガツオ、ハタハタなど数えただけでも20種類近い魚が氷の上にてんこ盛り状態。ウチワエビ、イカ、サザエ、トコブシ、アサリなどの甲殻類、貝類も豊富だ。 この魚や貝類を見ながら、どれを食べたいかを選び、さらにどんな調理法が一番美味しいかを尋ね、それでメニューを決めていくという贅沢。で、我々が食べたのは、刺身の盛り合わせ、ウチワエビの刺身(これがイセエビみたいに身が甘くて美味!)、ハタハタの唐揚げ、キスの塩焼き、ウマヅラの煮付け、サザエの壺焼き、トコブシのバター焼き等々。 お値段も都会じゃ信じられないくらい良心的。市中心部から少し遠いのに、これだけ繁盛している理由もわかる。友人も「人にあまり教えたくない店」と言っていた。皆さんも松山へ行く機会があったらぜひお越しを(事前の予約は必須ですぞ)。 この夜の1軒目は、まずワインBAR。先の「丸万」からは中心部へ戻りながら歩いて5、6分ほど。「ワインセラー・ヤマモト」というお店。お店と言っても、看板も何も出ていない。入り口に見逃してしまいそうな立て看板が一つあるだけ。 入り口の店内側には酒の段ボール箱が山積みになっていて、店内の様子はまったく見えない。しかも薄暗い。「ほんまに営業してるの?」という感じなのだが、店に入ってすぐ左側の階段を下りると、別世界。確かにそこはワインBARでした=写真右下。 実はここ、かつては酒屋さんの倉庫だったとか。店内の壁には、ワインの収納・運搬用の木箱が天井まで所狭しを山積みにされていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。店は交通量の多い道路の側(そば)にあるが、店内は意外と静かで、喧噪はここまでは聞こえない。 僕らは店主おすすめのグラスワインを数杯頂きまがら、居心地の良い時間を過ごす。店内が少し寒いのは、ここがワインのセラー(保管庫)でもあるから。店主は「寒かったら、そのジャンバーを来てくださいね」と、僕らの背中側に立っている洋服掛けを示した。 ここではグラスでも(品数は限られているが)、ボトルでもワインを楽しめる。しっかりしたフードもあれこれある(店主のお母さんご自慢の手料理らしい)ので、お腹を空かせて行ってもOK。また松山に来たら、訪れてみたいBARだけど、わかりにくいので無事にたどり着けるかがちょっと心配だ(笑)。 さて、2軒目は、昨年11月に松山へ行った際、初めてお邪魔した「Bar・JuJu」を再訪=写真左下。人気店で金曜日とあって、ほぼ満員。店に向かいながら事前に電話でカウンターの席をおさえておいて良かった。 再会したマスターとご挨拶して、早速「予約席」へ。「JuJu」は、お酒の品揃えやフード・メニューがとても充実しているのが嬉しい。この「JuJu」で同行メンバーが1人増えたこともあって、サーモン・パイとトマトソース系のパスタ、バゲットを注文。 僕らは「丸万」でしっかり食べてきたはずだが、「JuJu」の美味しいそうな料理を前にすると抵抗もできず、一緒に分け合う。久しぶりの「JuJu」では、ホット・ラム(この夜松山はめちゃ寒かったので)数杯を飲んで、その後、モルトウイスキーを頂く。 「JuJu」はお酒やフードの充実度で言えば、大阪キタのBarのクルラホンに近い。クルラホンと違うのは、店の広さと店内のライティングか。「もう少し暗めの方が雰囲気も出てええと思うんだけど…」とFマスターに言ったら、苦笑しながら「あんまり暗くすると、フルーツや生ハムがうまく切れないんですよ」と。 確かに、カウンターの端には生ハム用のイベリコ豚の足が鎮座している。客の目の前で、フルーツ・カッティングなど細かい作業をする分、暗いライティングはしたくても出来ないのだろう。余計なこと言ってごめんなさい、マスター。 「JuJu」はこれからも何度でも来てみたいと思える店だ。訪れるたびに違う、新しい発見が期待できそうな店だ。この夜は店がめちゃ忙しかったので、Fマスターとあまりお話ができなかったのが残念だが、楽しい時間は過ごせた。帰り際、マスターは「またブログ見ときますからね」と言ってくれた。そう言われたら、やはりすぐ報告を書かねばならないと思って、こうして綴っている。 さて、1軒目の「丸万」でちょっと時間を使い過ぎてしまった分、もう日付変更線に近くなってしまった(いつも松山では必ず寄っていた「Bar露口」は午前零時閉店なので、今回はもう無理だなぁとあきらめる。「露口さんご夫妻、すみません! 次回は必ず寄りますから!」)。 今回の松山行では、最後にもう1軒、お邪魔してみたいBAがあった。「JuJu」からも歩いて数分のロケーション。しかし、店の前辺りまで来ても、それらしい看板が見当たらない。やむを得ず店へ電話する。 「四つ角の中華の店の前にいます」と言うと、数分後にマスターがどこからとなく現れた。なんと中華店の目の前の、角のビルの2階にあるという。でも表に看板は出ておらず、そのビルの2Fへ上がる階段の途中に小さなサインがあるだけ。ある方がネットで記した訪問記でも、「ものすごく見つけにくい」と書いてあったが、確かにその通り。 BAR店の名前は「独奏(「DOKUSOU」とも表記)」という=写真右。田代まさしがアフロの長髪をしているような独特の雰囲気のマスター。聞けば、この店を持って2年だが、その前に雇われで6年ほど働いたという。 店の名前は以前は「独創」だったが、オーナーとなった時に「独奏」に変えたという。「以前の店の名前で知ってる人も電話してくるから、電話で返事するとき、『はい、どくそうです』と言えば済むので便利でしょ」と面白い返答をしてくれるマスター。 マスターは基本的には寡黙で、一見、無愛想で厳しいそうに見える。しかし、ひとたび会話を始めると、話の“間”が抜群で、ボケるトークもまた巧みだ。だからカクテル一つ頼んでも、出来てくるまでが一筋縄ではいかない(笑)。 酒はフルーツ・カクテルとバーボン(それもオールド・ボトルもいっぱい)にこだわり、(真偽の程は確認しなかったが)生ビールやワインや焼酎は置かない、フードもほとんどないとか。その一方で瓶ビールやウイスキーの品揃えは、松山でも群を抜くという。ネットでは「少し独特の雰囲気を持ったマスターは、客側にも好きか嫌いにはっきり分かれるだろう」との表現もあったが、僕も確かにそう思う。そして、僕にとっては「好き」なタイプのマスターだ。 この夜、僕らは主にフルーツ・カクテルを中心に頼んだ。せっかくだからと、「バーボンをベースにしたカクテルを」と頼むと、ミント・ジュレップにイチゴのフレッシュ・ジュースを加えたオリジナルをつくってくれたが、これがまた絶品だった。「独奏」という店名は、このBARの素晴らしさを実によく表しているかもしれない。松山に来る楽しみがまた増えた。 【さかな工房 丸万】松山市祇園町3-21 089-921-7242 午後5時半~11時 不定休 【ワインセラー・ヤマモト】松山市河原町139 945-0303 営業時間&定休日? 【Bar JuJu】松山市一番町2-4-2 モナーク2F 932-4536 6時~2時 日休 【Bar 独奏】松山市二番町2-2-3 まるはビル2F 935-6800 6時~深夜 不定休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/03/28
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ブログでお店のことを書く際の法律上の注意点について、友人でもある弁護士のやまうちんさんがお忙しい中、私の度重なる質問に、法律家として的確な助言を下さいました。この場を借りて心から感謝いたします。 せっかくなので、頂いた貴重な助言に、その後私が改めて確認した(学んだ)名誉毀損罪等の一般的・基礎知識を参考にしながら、自戒を込めて自分なりにポイントを整理してみました。ブログなどSNSをされている方には、きっと参考になると思いますし、かつ常に頭の片隅に覚えておかねばならない大切なルールだと思います。 (※やまうちんさん、もし小生の理解・解釈が間違っていたら、ご指摘くださいませ。他にも、この辺りの法律に詳しい方がいらっしゃれば、よろしくお願いいたします)。1.訪れたお店を感想等を了解なくネット上で書いてよいのか? 店側の了解を取る必要はありません。私たちは公権力との関係では、「表現の自由」(憲法第21条)を有しています。私人の間においても、書きたいことを書くに際して了解を取らないといけないような義務などはありません。感想、意見、論評の程度であれば、まず何の問題もありません。「世間に出て自分の顔と名前で商売をしながら、『了解もなく書いてくれるな』と言うのは不合理」というのが法律解釈上の多数意見です。 ただし(※この段落は私の意見です)、了解なく書いたことを後に店側が知って、「了解なしに書くのは違法行為」という間違った認識を持っていた場合はトラブルことになります。しかし、もし好意的な紹介内容なら、書かれて困るという店はほとんどないでしょう。私もそういうクレームは過去一度も受けていません。そのためにも、普段から馴染みの店とは良好な信頼関係を保ち、旅先で初めて訪れた店には好印象を与えておくことも大切でしょう。2.書いた内容で問題になるケースは? 書いた内容が、誹謗中傷であったり、ことさらに他人の名誉やプライバシーを侵害するものであったり、虚偽の事実によって営業を妨害するようなものであったりした場合は、民事上または刑事上の責任を問われるのは当然です(侮辱罪、名誉毀損罪、偽計業務妨害罪等)。 しばしば問題になる「名誉毀損」の場合、名誉毀損罪が成立するのは、「公然と」「事実を摘示し」「他人の社会的評価が害される危険を生じさせる(た)」場合です。「公然と」とは「不特定多数に知れ渡る状態にした」ということで、ネット上に書いたり、本を出したりする行為等がこれに当たります。また、「事実を摘示」の「事実」とは「虚偽の事実」か「真実」かは問われないということです(※「摘示(てきし)」とはあまり耳慣れない言葉ですが、法律用語としては「要点をかいつまんで示すこと」「あばくこと」を意味するとか)。 ただし、(1)事実の公益性(2)目的の公共性(3)事実の真実性の証明――の3つの要件を満たせば違法性は免れ、罪には問われません(「違法性阻却事由の規定」=刑法230条第2項)。例えば、「A議員は万引きした」とネット上で書くと、たとえ事実であっても(通常であれば)「名誉毀損」の要件が成立すると思われるかもしれませんが、A議員は公人であるために、当然「公共性」「公益性」があるので書いても罪には問われません。言い方を変えれば、「公共性」「公益性」があれば相手が一般人であったとしても、「名誉毀損」は成立しません。 なお、侮辱罪、名誉毀損罪は親告罪なので、「被害を受けた」という告訴がなければ訴追されません。 【追記】たとえ店(相手)を匿名で表記し、内容的にも名誉毀損は成立しない、違法性がない論評・感想・意見であっても、(1)書かれた店(相手)の名前が、たとえごく一部の人にであっても推定できる場合で、かつ(2)店側が不快感を持つような内容が含まれている場合(批判的なことを書いている場合は当然といえば当然ですが…)は、トラブる可能性があります。店側から修正要求などのクレームが来た場合は、弁護士さんに相談することも必要ですが、裁判で争う手間や労力を考えれば、当事者間で直接話し合って解決するしかないでしょう。3.特定の店(BAR等)を論評したり、批判したりすることに公共性・公益性があるのか? まず、その文章が「名誉毀損的な内容でない」「あくまで事実や真実を書いている」ということが前提です。そのうえで、そのお店を論評することの「公共性」「公益性」を考える必要があります。 「公共性」とは、そのテーマや問題が他の人(お客さん)にも関係あるのかがポイントです。貴方とそのお店(マスター)との個人的な関係のなかでの話なら、微妙です。論評した問題が他の人にも影響を及ぼす可能性があることが必要です。 「公益性」とは、単なる悪口や腹いせ、個人攻撃ではなく、例えば、「この店は他のお客さんにも同じことをやっているかもしれないから、注意を呼びかけたい」という正当な目的がなければなりません。 有名シェフ(マスター)や有名人が経営するようなお店なら、当然、「公共性」「公益性」がある訳ですが、たとえ有名人でない人が営んでるお店でも、常連さんが多くいる場合は「公共性」がありますし、ネット上や出版物上でそのお店について感想・意見を述べたり、論評したりすることにも当然「公益性」があると言えます。4.その論評・批判において、相手を匿名にした場合は? 名誉毀損は「公然性」が必要ですから、実名をさらさなければ原則として名誉毀損は成立しません。しかし、その内容に本人の特定につながるようなデータが含まれておれば、「公然性」が認められ、論評内容によっては名誉毀損になるケースもあります。 批判的な論評を公表する場合に、「公共性」や「公益性」に100%自信が持てなければ、実名は出さない方がいいと私は考えていますので、ブログでも、本でも批判的な記述の際は、原則として相手は「匿名」にしています。5.ブログで書いたお店の訪問記・感想を、(1)本にして個人的なルートで無料で配る場合、(2)本にして個人ルートで販売する場合、(3)本にして一般書店ルートで販売する場合--のいずれも店側の「了解をとる」必要はあるのか? 上記3種の配布方法はいずれも、ブログ(ネット)上で書く場合と同じ考え方で、原則として「了解を取る」必要はありません。 ただし、内容に名誉毀損的なことが書いてあれば問題になるのは言うまでもありません。配布規模の違いはあれ、ブログと同様に不特定多数の読者を想定している以上、ネットでも、個人出版でも、書店販売でも、名誉毀損(罪)や侮辱(罪)は成立します。 言わずもがなですが、「了解を取る必要がない」のは、憲法第21条で認められている「表現の自由」が故であって、不特定多数の読者を想定していることが理由ではありません。 6.BARで撮った店内の風景(バック・バー等)や、お酒(ボトルやカクテル)の写真を、了解なくブログまたは本で公開(使用)するのは法的に問題ないのか? 違法性はありません(=やまうちんさんは「個人的な見解、解釈」と断っておられます)。自宅の中など、他人が出入りすることを前提としない場所は、プライバシー空間ということで、それを写して公開すればプライバシー侵害になります。名誉棄損罪という犯罪はありますが、プライバシー侵害罪という犯罪はないので(どこかの条例くらいには引っかかるかも知れませんが)、民事上の精神的苦痛に対する賠償の問題となります。 しかし、BARは、いちおうは開かれた場であり、プライバシー空間ではないので、撮影と公開は、違法とはなりません。これはあくまでマナーのレベルの問題です。仮に、店舗入り口に「撮影禁止」と掲げておけば、そこに来る客はその「条件」を承諾したことになり、一種の「契約」が発生して、撮影・公開してはならない義務を負うと解することもできます(寺社仏閣などにはこれが多いです)が、さすがにBARでそういう無粋な看板を掲げるようなところはないでしょう。7.BARで撮ったマスターの顔が写った写真(あるいはたまたま撮ったら写っていた写真)を、了解なくブログまたは本で公開(使用)するのは法的に問題ないのか? 人の容貌となってくると微妙です。公権力との関係では、国民は「みだりに容貌を撮影されない」という憲法上の権利を有します。根拠は「個人の尊重・尊厳」を規定した憲法13条で、幸福追求権にこれが含まれると最高裁も認めています。 しかし、私人の間においては、撮影・公開を禁止するような直接的な根拠規定は何もありません。結局、一般的な話に戻って、ことさらに当人に不快感、不安感を与えるような態様で撮影・公開したとすれば、プライバシーや人格権の侵害を根拠にして民事上の責任が発生します。また、写真とともにその人を誹謗中傷するようなことを書き加えれば、名誉毀損や侮辱罪といった刑法上の問題が発生します。あとはマナーの問題に委ねられます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/07/09
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バーUKにお越しになる若い世代のお客様から時々、「オーセンティック・バーのマナーとして絶対に知っておいた方がいいルールとかマナーはありますか?」という質問を受けることがあります。バーでのルールやマナーは、永遠に変わらないものもありますが、その時代に応じて変わるものもあります。 最近、SNS上でいろんな方々(オーセンティック・バーのマスターや通い慣れている年配のお客様など)から、ルールやマナーについて様々な投稿がありました。そこで、そうした投稿も参考にしながら私自身も、2022年の現在、世代に関係なく覚えておいた方がよいと考える20のルールとマナーを挙げてみました(他の方の提案で私も同意できるルールについては、ほぼそのまま採用させてもらっているものもあります)。 おそらく、これだけを覚えて実践すれば、貴方はきっとオーセンティック・バーで「大人」として丁重な扱いを受け、楽しく充実した時間が過ごせるはずだと信じています。 <知っておきたいバーでの大人のマナー20カ条>1.酒場に相応しい服装で出かけ、いつもより「ちょっとカッコいい大人」であろうと努力する。2.店に入った時、または席に着くまでに店主やスタッフと挨拶を交す。3.言葉遣い・会話は人格、品格を映す。丁寧な言葉遣いをし、場に相応しい会話内容に注意する。4.お酒は大切に、美味しい状態のうちに飲む。ショート・カクテルはだらだらと飲まず、1杯20分を目安に味わう。バーは無料の休息空間ではない。概ね30分に1杯は何か注文する。お酒を残すときはひとこと言い添える。5.バーテンダーの方を「バーテン」と呼ばない。「バーテンダーさん」と呼んであげよう(「バーテン」とは、80年代以前に客が使っていた「蔑称」であり、現代の仕事に誇りを持つバーテンダーは嫌がる呼び方である)。6. お酒の話で知ったかぶりをしない。知らないことは店主に聞く。7.マスター(バーテンダー)を一人で独占しない。お酒をつくっている時はできるだけ話しかけない。8.カウンターや棚のボトルは、勝手に手に取ってはいけない。手に取って見たいときは店主の許可を得る。9.カウンターには鞄などの物は置かない。また、できるだけ肘はつかないで飲む。10.店内で男女でベタベタしない(同行した人の身体には触らない。キスは店外でする)。11.会話の声の大きさに注意する。大声で喋らず、騒がず、静かに飲む。12.むやみに他の客に話しかけたり、他人の話に絡んだりしない、話題に入る場合も批判はしない。また、他の客をじーっと見ないこと(感じが悪いし、喧嘩の原因になることもある)。13.バーで異性を口説くのはご法度。バーはナンパの場ではない。14. 飲んでも飲まれるな。カウンターで眠らない、泣かない、吐かない。自分の適量を知り、ペース配分に気を付け、限度を守る。飲み過ぎたと思う時は、店に迷惑をかける前に素直に帰宅する。15.トイレの利用は短時間できれいに(次に待っている人がいます)。16.長居は無用。混んできて、満席になったら、新しく来た人に席を譲る。17. 喫煙はその店のルールを守り、許されている場合でも隣客に気遣い、煙の行き先を注意しながら嗜むこと(葉巻やパイプ煙草は臭いがキツいので店主の許可を取る。バーUKのように、店によってはNGである場合も)。18.携帯電話は基本、店内ではNG。店の外で使うこと。19.店内風景やボトル、カクテルなどを写真に撮る時は店主の許可をとること。フラッシュはたかない。20. できるだけ現金ですっきり払う(十分な現金の用意をし、割り勘でぐずぐずしない)。
2022/04/24
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その11:バーテンダーとどう接するか ◆言葉づかいは丁寧に、見下した物言いは論外 BARのマスターやバーテンダーの年齢は千差万別だ。老舗BARなら人生の先輩でもある、60代、70代でも現役という方ものも珍しくない(現役最高は88歳だ!)。比較的新しい店ならそれに合わせて、マスターも25歳~30歳くらいと、貴方より若いこともある。さらに、マスターが貴方より年上だったとしても、そのBARで働くバーテンダーさんたちは、貴方よりは年下ということもある。 しかし相手の年齢がいくつであれ、そのマスターやバーテンダーがプロであることには変わりはない。彼らは日々誇りを持って仕事に打ち込んでいる。貴方は1人の人間として、言葉を交わす際は、その道のプロには敬意を忘れてはいけない。 たとえ、貴方がどんなに社会的なステイタスが高くとも、どんなに収入を得ていようとも、当然のことだが、職業には貴賤はない。たとえお店の方が明らかに年下であったとしても、目上の人と話すような丁寧な言葉遣いを心がけたい。ことさら敬語を使う必要はまったくないが、決して見下したようなものの言い方はしてはならない。 もっとも、これはどんな職業の方と接する時にも言えることだ。要は、良識ある普通の社会人としての振るまい、言葉遣いをすればいいのである。繰り返し言うが、BARは紳士・淑女の社交場である。丁寧なしゃべり方を聞いて不快感を持つ人などいない。貴方は「マナーのいい素敵な紳士」と店側の記憶に長く残るに違いない。 ◆「Bartender」という言葉 ところで、僕たちが何気なく使っている「Bartender(バーテンダー)」という呼び方は、どういう意味で、いつ頃生まれた言葉なのか。「Bartender」は見ての通り、「Bar(横木)」と「Tender(見張り人、世話人、相談役)」を組み合わせて生まれた言葉である。1930年代の米国内で定着した言葉だが、その起源はそれ以前の「西部開拓時代(1860~1890年)」の宿場にさかのぼると言われる。 「Bar(横木)」とは、西部開拓時代に各地にあった「道の駅(宿場)」の酒場で、酒樽と客を仕切った「横木」のこと(「道の駅」で馬をつないだ「横木」のことという説も)である。「横木」は、マナーの悪い客が酒樽から勝手についで盗み飲みをするのを防ぐ意味合いもあった。そしていつしか、宿場で休息し、酒を飲むことを「Barで飲む」、その後、酒場そのものを「Bar」と言うようになったという。 「Tender」はそのBarの見張り人、すなわちカウンターのなかで客の世話をする店主や従業員のことだった(米国とは少し違うBAR文化を持つヨーロッパでは、「Bartender」という言い方もするが、「Barman」「Barkeeper」などと言うことが多い)。 ◆家族以上の頼れる存在 しかし、「Tenderが持つもう一つの意味「相談役」こそが、うらんかんろは現代におけるBartenderの存在の大切さを象徴していると思う。米国のあるBARでの話だ。ある晩、男が独りでやって来た。彼は仕事で大失敗し、会社も解雇され、愛する人にも捨てられた。 そして、Bartenderにいろいろと悩みを打ち明けた。Bartenderは彼の話し相手となり、その話(悩み)をじっくりと聞いてやった。そして励ました。「たとえ破産しても、生きている限り人生はやり直せる。恋愛なんて、生きてる限りこれからいくらでもできるじゃないか」と。 その10数年後、立ち直って仕事にも成功した彼が、再びそのBARにやって来た。そして、かつて悩みを真剣に聞いてくれたBartenderに対して、「実は10数年前のあの夜、貴方に話を聞いてもらうまでは、私は自殺するつもりでいた。最期の1杯を飲むつもりで来ていた。でもあの時、貴方にいろいろ話を聞いてもらい、励ましてもらったおかげで(自殺を)思いとどまることができた」と涙ながらに話したという。Bartenderとは、ある意味、家族以上に素晴らしい、頼れる存在なのである。 ◆BARには「バーテン」はいない バーテンダーのことを「バーテン」と呼ぶ人が、時々いる。「いる」と書いたが、日本では昔はそう呼ぶ人の方が多かった。かつてオーセンティックBARなど日本国内にほとんどなかった時代、バーテンダーはいわゆる「水商売」に生きる一員として見下され、「バーテン」と呼ばれた。その言い方には、「水商売」全体を見下すニュアンスがにじんでいた。 現代では、客においしい「酒」をつくり、「ホスピタリティ」を与える職業として、バーテンダーは皆、自分の仕事に強い誇りを持っている。Barのマスターやバーテンダーの一部には「いやぁ、バーテンでもいいですよ」と言う人もいるが、「バーテン」は蔑称と受け取るバーテンダーも多い。 貴方はゆめゆめ「バーテンダー」を「バーテン」と呼ばないでほしい。敬意を込めて「バーテンダー」と呼んであげてほしい。そして、友人や同僚などが「バーテン」と言ったら、「その言い方は間違いだ」とそっと教えてあげてほしい(ちなみに女性バーテンダーのことは男性と区別して、最近は「バーテンドレス」と呼ぶこともあるが、まだあまり一般的ではない)。 ◆バーテンダーと馴れ馴れしくしてはいけない バーテンダーと仲良くなるのは楽しい。仲良くなれば、接客も違ってくる。時には美味しいお酒の「おこぼれ」にご相伴(しょうばん)できることもある。しかし店の営業時間内は、バーテンダーはすべての客と平等に接しなければならない。貴方といくら仲が良くても、貴方がどんなに金払いのいい上客でも、カウンターに並んだ客は、社長もヒラも皆平等だ。常連客だからと言って特別扱いはできない。 だから、忙しい時間帯はもちろんだが、たとえ余裕のある時間帯であっても、営業時間中である限り、マスターやバーテンダーとあまり馴れ馴れしくするのはやめたい。友達のような口をきいたりするのも避けたい。そんな行為をすれば、かえって迷惑になる。 貴方がどんなにマスターやバーテンダーと仲良くなっても、店の中ではあくまで「1人の客と店側の人間」という立場を守りたい。店と客は、どんなに常連であっても「一線」を守る方が良い関係が長続きすると僕は信じている。 ◆お店の方に「1杯どうぞ」はいいか BARでは時々、常連客がマスターにビールなどのお酒を勧めている光景を目にする。オーセンティックBARでは、マスターやバーテンダーは酒を勧められても、断ることが多い。客の前で飲むのを美しい所作ではないと考えるバーテンダーもいる一方で、普段からよく客と一緒に飲んでいるマスター(独りでお店を営んでいる人が多い)もいる。 常連客が、素直な感謝の気持ちを込めて、「1杯どうぞ」と勧めたい気持ちも僕は分かる。結論としては、この問いかけに対しては、いいとも悪いとも言えない。その店のマスターの考え方一つだ。「断らない方なら勧めても構わない」としか言えない。 ただし、絶対に「1杯どうぞ」と勧めていけない場合もある。そのマスターがマイカーで通勤していることを貴方が知っている場合は、厳禁だ(帰途にタクシーを使う場合は別だが)。夜に飲めば、どんなに酒に強いマスターでも、朝まで血中アルコールは残る。飲酒運転は犯罪だ。万一、マスターが帰りに検問にかかったり、事故を起こしたら、知っていて勧めた貴方も罪に問われる。店との良好な関係もそこで終わりになる。そういう悲劇だけは絶対に避けたい。【その12へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/30
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洋楽に本格的に親しみ始めたのは60年代末だった。その頃、ビートルズやローリング・ストーンズはすでにメジャーになっていたが、その陰に隠れて、あまり目立たない存在だったけれど、ビージーズ(写真左)も結構好きでよく聞いていた。 一発屋で終わるか、息の長いバンドになるか、それとも鳴かず飛ばずで終わるか、バンドの運命もいろいろだけれど、ビージーズほど、長いキャリアの中で、ピークを何度か繰り返したバンドも数少ないだろう。 バリー、ロビン、モーリスの3兄弟(弟のロビンとモーリスは双子=あまり似てないから二卵性かな)。60年代のデビュー当時はほかにもメンバーはいたみたいだけど、基本的にはこの3人がコアとなってバンドを維持し続けた。 僕が最初にビージーズを知ったのは、彼らの初期の大ヒット曲「マサチューセッツ」(1967年=写真右)。その魅力は一言で言って、ファルセットによるハーモニー。声質が似ているので、完璧なまでに美しい。 イギリス出身で、オーストラリアでバンド・デビューした彼らが、「なんでアメリカのマサチューセッツやねん」と幼な心にも妙な感じがしたが、曲は馴染みやすい素敵な曲で、全米でも大ヒットした。 その後、しばらくスマッシュ・ヒット止まりだった彼らだけれど、数年後に「小さな恋のメロディー」という映画の主題歌(71年=写真左)を提供し、これが大ヒットとなり、ビージーズ健在なりとアピールした。しかしながら、また「不遇の時代」がしばらく続き、次に彼らが注目を浴びるのは、70年代末になってから。 ディスコ・ブームをうまくとらえた77年の映画「サタディー・ナイト・フィーバー」(ジョン・トラボルタ主演)の音楽を全面的に担当したのがビージーズだった。この映画のサントラ盤(写真右)もミリオンセラーとなり、アルバムからは「恋のナイトフィーバー」「ジャイブ・トーキン」「愛はきらめきの中に」(写真左下)などが大ヒットした。 それまでビージーズを知らなかった若い世代の人気も得て、ビージーズは完全に復活した。この「サタディー…」は、それまでのビージーズ・ファンの一部には不評だったが、結果的にビージーズの幅広い音楽性を立証した形にもなった。いまだにビージーズと言えば、ディスコ・ミュージックを思っている世代も多いが、それもやむを得ないかも…。 その後のビージーズはさほど大きく注目されることはなかったが、それでも、アルバムは出し続けたし、ライブ活動にも力を注いだし、決して音楽の表舞台からからは引退することはなかった。グラミー賞授賞式などでのライブで時々登場する彼らを見て、ほんとに嬉しかった。 そんな僕に、ショッキングなニュースが2003年1月に飛び込んできた。弟のモーリスが腸閉塞のため、53歳の若さで急死したという。新聞でそのニュースを読んだ僕は、にわかには信じられなかった。 3人によるファルセット・トライアングルがもう見られないという事実は、「ビージーズの終わり」を意味する。そう思うと、心底悲しい気持ちになった(バリーは「ビージーズとしての活動はやめる」という発言をその後撤回したが、それでもモーリスが抜けたビージーズは、僕はビージーズとは思えない)。 ビージーズはその後、表だった音楽活動からは遠ざかる。しかし、モーリスの死という悲しみを乗り越えて、バリーやロビンもようやく本格的に音楽に取り組もうという気持ちに目覚めたようだ。今年2月には、米フロリダ州で糖尿病患者のためのチャリティ・コンサートに出演。近いうちにアルバムも製作すると語っていた。 ことし60歳のバリー、57歳のロビン。まだまだ老け込むには早い歳だろう(ミック・ジャガーだって、62歳でまだまだ現役だよ)。モーリスのためにも、ぜひもう一度歌ってほしい。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/03/09
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ジャズのヴォーカル・アルバムでは聴くのは女性歌手が多くて、男性歌手のアルバムはわずかしか持っていない。別に男性を毛嫌いしているわけじゃないんだけど、ジャズの歌ものは、なぜか女声の方がしっとりくる。 そんな男性ジャズ・ヴォーカルだが、トニー・ベネット(Tony Bennett)だけは別格で、アルバムをいくつか持っていて、比較的よく聴く。 ベネットはあまり奇をてらった歌い方をしない。原曲のメロディーを大切にしながら歌う、正統派のジャズ歌手と言ってもいいだろう。 だから、安心して聴ける彼のアルバムは、ジャズ・ヴォーカルの入門アルバムとしてはぴったりかもしれない。 1926年8月、米国ニューヨーク生まれというから、ことし80歳。10歳の時からステージに立っていたというから、音楽生活はなんと70年! 「霧のサンフランシスコ」(写真右下=同名のタイトルのアルバム)という大ヒット曲の生みの親。そして、80歳にしてなお精力的な音楽活動を続ける偉大なエンターテイナー。その彼が、超豪華なデュエット・アルバムをつくってくれました。 10月24日に発売されたばかりの国内盤(タイトルもそのものずばり「Duets:An American Classic」)=写真左上=を、早速買い求めました(輸入盤には歌詞が付いていません。だから買うなら絶対国内盤!)。 この「Duets」、1曲を除いてすべてデュエット。とにかく共演しているアーチストの顔ぶれが凄い! 長いキャリアもあって、他のアーチストから尊敬されているベネットだからこそ実現できたアルバムだろう。 ポール・マッカートニー、バーブラ・ストライサンド、ジェームス・テイラー、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、セリーヌ・ディオン、ダイアナ・クラール、スティービー・ワンダー、エルビス・コステロ、スティング、ボノ、ジョージ・マイケル…と、まだまだいるんだけど書ききれないので、あとはCDを見てください。 曲は、ベネットが長年歌ってきた美しいスタンダードからの選曲だから、文句なし。唯一、スティービー・ワンダーとは、スティービーの曲「For Once In My Life」を歌っているけれど、これがまためちゃいい感じに仕上がっている。 ベネットは全編とてもリラックスした感じで歌っている。歌の合間には、共演者にジョークを飛ばしたりと実に楽しそうな録音。その雰囲気がまたいい(円熟っていうのはこういうのを言うんだろうなぁ…)。 しかも20曲も(輸入盤は19曲)入っていて、定価は2520円だから、凄いお買い得感! ジャズ好きな方はもちろん、日頃ジャズを聴かない方でも、きっとお気に入りの1枚になること保証します。 最後に一つ。ベネットと言えば、以前にブログのトップ・ページで紹介したビル・エバンスとのヴォーカル・アルバム「The Tony Bennett/Bill Evans Album」(写真左)も不朽の名盤。名曲「My Foolish Heart」をこれほど美しく歌い上げた歌手を、僕は他には知らない。まだ聴いていない方はぜひこちらもどうぞ! 80歳にしてなお輝き続けるトニー・ベネット。何歳になっても音楽への情熱を失わず、新しい挑戦をする。僕も、彼みたいなおじいちゃんになりたいなぁ。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/28
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6.アヴィエイション(Aviation)【現代の標準的なレシピ】ジン(45)、レモン・ジュース(15)、マラスキーノ(10)、飾り=マラスキーノ・チェリー 【スタイル】シェイク 「アヴィエーション」は日本でも欧米でもメジャーなカクテルではありませんが、誕生から一世紀を生き抜いてきたクラシック・カクテルの一つです。欧米のバーテンダーにとっては、今も「マスト・アイテム」なカクテルとも言われています。 ニューヨーク・ワリックホテル(the Hotel Wallick)のチーフ・バーテンダーだったヒューゴ・エンスリン(Hugo Ensslin 1880~1929)が1910年代に考案し、エンスリン自身が1916年に出版したカクテルブック「Recipes for Mixed Drinks」に初めて収録されています(レシピはジン3分の2、レモン・ジュース3分の1、マラスキーノ2dash、ヴァイオレット・リキュール2dash。出典:Wikipedia英語版)。 「Aviation」とは直訳すれば「航空技術(産業)」「軍用機」。エンスリンが考案した1916年は、プロペラの戦闘機が初めて実戦で使用された第一次世界大戦のさ中でした。今後の航空機時代を予感させる、そうした世相を反映して考案されたのでしょう(旅客を乗せて飛ぶ定期航空路の開設はもう少し後で、1930年代です)。 当初のエンスリンのレシピには、ヴァイオレット・リキュールも2dash入っていましたが、「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」(1930年刊)で著者ハリー・クラドック(Harry Craddock)がヴァイオレット・リキュール抜きのレシピを示したため、現在ではこちらの方が主流となっています(エンスリンは、禁酒法が施行されるまではニューヨークで働きましたが、バーテンダーとして働く場を失うとペンシルベニアへ移り、別のホテルで働きました。1929年、理由は明らかでありませんが49歳の若さでピストル自殺しています)。 参考までに1930~50年代のカクテルブックに見られる「アヴィエーション」のレシピを見てみましょう。 ・「The Savoy Cocktail Book」(1930年刊)英 ジン3分の2、レモン・ジュース3分の1、マラスキーノ2dash ・「World Drinks and How To Mix Them」(1934年刊)米 ジン3分の2、レモン・ジュース3分の1、マラスキーノ2dash(※「Aviation No.3」という名で収録。「No.1」はデュボネ・ベース、「No.2」はウイスキー・ベースの別レシピのカクテル) ・「Café Royale Cocktail Book」(1937年刊)英 ジン3分の2、レモン・ジュース3分の1、マラスキーノ2dash ・「Trader Vic's Bartender's Guide」(1947年刊)米 デュボネ2分の1、スイート・シェリー2分の1、オレンジ・ピール ・「The Official Mixer's Manual」(1948年刊)米 ジン3分の2、レモン・ジュース3分の1、マラスキーノ2dash アプリコット・ブランデー2dash ・「Esquire Drink Book」(1956年刊)米 ジン11分の8、レモン・ジュース11分の2、マラスキーノ11分の1 なお、このアヴィエイション(※「エイヴィエイション」と発音する方が原語に近い)は、現在でもデュボネ・ベース(上記「Trader Vic’s…」参照)またはウイスキー・ベースの同名カクテルが見受けられますが、知名度という意味ではやはりこのジン・ベースのオリジナルが勝ります。 「アヴィエーション」が日本にいつ頃お目見えしたのかは定かではありませんが、戦後間もない時期には伝わっていたのではないかと推測されています。文献に登場するのは60年代に入ってからです。 【確認できる日本初出資料】カクテルガイド(落合芳明著、1961年刊)。レシピは、ジン5分の3、レモン・ジュース5分の1、マラスキーノ3dash、アプリコット・ブランデー3dash。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/11/17
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<下> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです。★エスプレッソ・マティーニ(Espresso Martini) (1983年、考案者=ディック・ブラッドセル<Dick Bradsell>) ウオッカ40ml、エスプレッソ・コーヒー20ml、コーヒー・リキュール10ml、シロップ1tsp。シェイクしてカクテルグラスに注いだ後、表面にコーヒー豆2~3粒を浮かべる ※1983年、当時ロンドン「ソーホー・ブラッセリ―(Soho Brasserie)」に勤めていたディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が考案した。当初は、裏メニューとして「ウオッカ・エスプレッソ」の名前で提供されていたが、90年代末、ブラッドセル氏が移籍した「マッチ(Match)」というバーで初めて「エスプレッソ・マティーニ」の名でオン・メニューとなり、幅広く知られるようになった。その後米国の大都市のバーにも伝わり人気が定着した。近年、欧米の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランクされている。 ブラッドセル氏は、1980~90年代に活躍し、数多くの「モダン・クラシック」カクテルを遺したことで知られる。ロシアン・スプリング・パンチ(Russian Spring Punch) (1986~87年頃、考案者=ディック・ブラッドセル) ウオッカ45ml、クレーム・ド・フランボワーズ7.5ml、カシス・リキュール7.5ml、レモンジュース23ml、シロップ7.5ml、生ラズベリー6~7個。シェイクした後、氷を入れたタンブラーに注ぎ、シャンパンで満たす ※ディック・ブラッドセル氏(上記45の説明ご参考)が、1986~87年頃、当時バーテンダーとして働いていたロンドンの「ザンジバー(Zanzibar)」で友人のために考案したと伝わる。★トミーズ・マルガリータ(Tommy’s Margarita) (1987~88年頃、考案者=フリオ・ベルメイヨ<Julio Bermejp>) テキーラ40ml、アガヴェ・ネクター(シロップ)15ml、ライム・ジュース15ml(シェイク)、塩でスノースタイルしたロック・グラスに注ぐ ※サンフランシスコのメキシカン・レストラン「トミーズ(Tommy's)」のオーナーで、“テキーラ・マスター”の異名を持つフリオ・ベルメイヨが、1987~88年頃考案したと伝わる。「マルガリータ(Margarita)」のバリエーションだが、マルガリータがホワイト・キュラソー(コアントロー、トリプルセック)を使うのに対して、このカクテルではアガベ・ネクターを使う。ロック・スタイルで味わうことも多いが、ショート・カクテルでも提供される。「アガベ・ネクター」はアガベ・シロップとも呼ばれるフレンチ・マティーニ(French Martini) (1980後半~90年代前半、考案者は不詳、ディック・ブラッドセル考案説も) ウオッカ60ml、ラズベリー・リキュール15ml、パイナップルジュース45ml(シェイク) ※ロンドンもしくはニューヨーク発祥。1997年の「Class Magazine」誌によれば、Chambord社のキャンペーンのために考案されたという(「Keith London」発祥説も)。セレンディピティ(Serendipity) (1994年、考案者=コリン・ピーター・フィールド<Colin Peter Field>) カルバドス45ml、アップル・ジュース45ml、シュガー・シロップ7.5ml、生ミントの葉5~6枚、シェイクした後、氷を入れたタンブラーに入れ、シャンパンで満たす ※パリのリッツホテル(The Ritz Hotel)内「ヘミングウェイ・バー(Hemingway Bar)」のチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールド氏(1961~)が、常連客のためにオリジナル・カクテルをつくったところ、予想を超える美味しさに感激したその客が「Serendipity!」(直接の意味は「素敵な偶然に出会うこと」)と叫んだことから、その言葉がそのままカクテル名になったという。★ジン・ジン・ミュール(Gin Gin Mule) (2000年、考案者=オードリー・サンダース<Audray Sannders>) ジン(タンカレー)50ml、ジンジャー・ビア30ml、ライムジュース20ml、シロップ15ml(シェイク)、フレッシュミントの小枝=飾り ※ウオッカ・ベースの「モスコー・ミュール」のジン・バージョン。サンダース氏は当時ニューヨークの「Beacon Bar」のバーテンダー。オリジナルレシピではホームメイドのジンジャービアが使われているが、通常の缶入りジンジャービアでも構わない。このカクテルは、後にサンダース氏が独立・創業したバー「ペグー・クラブ(Pegu Club)」の看板カクテルにもなった★ポーン・スター・マティーニ(Porn Star Martini) (2002年、考案者=ダグラス・アンクラーー<Douglas Ankrah>) ウオッカ40ml、パッションフルーツ・リキュール15ml、ライムジュース20ml、ヴァニラ・シロップ15ml、パッションフルーツ・ピューレ30ml(シェイク)※小ぶりのタンブラーに入れたシャンパンを別にサーブ ※アンクラー氏は当時ロンドン・ナイトブリッジ「タウンハウス・バー」のバーテンダー。その奇抜な名前もあって、英国内のカクテル・バーで人気を集めるようになり、現在では「モダン・クラシック」の一つとして定着している。ちなみに、2019年には英国内最も飲まれたカクテルだったという。 アンクラー氏がなぜこんな名前(Porn Star=ポルノスター)を付けたのかはよく分からないが、生前(同氏は2021年に死去)のインタビューで「だって、パーティーのスターターとしては、とてもセクシーで、楽しい、気取らない究極のドリンクだろう?」と語っていたと伝わる。リボルバー(Revolver) (2004年、考案者=ヤン・サンター<Jon Santer>) バーボン(銘柄は「Bulleit」を指定)60ml、コーヒー・リキュール15ml、オレンジ・ビターズ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※サンター氏は当時サンフランシスコ在住のバーテンダー。有名なカクテル「マンハッタン」のバリエーションとして考案したという。その後、ニューヨークの有名カクテルバーのメニューにも取り入れられ、幅広く普及するようになった。 「ブレイト(Bulleit)・バーボン」は1997年に復活したブランド。「リボルバー」とは回転式拳銃のことだが、ベースのバーボンの銘柄「Bulleit」と音の響きが似ている「ブレット(Bullet=銃弾)」からの連想で、この名を付けたのかどうかは、調べて限りでは分からなかった。オールド・キューバン(Old Cuban) (2004年、考案者=オードリー・サンダース<Audrey Sanders>) ラム45ml、ライムジュース23ml、シロップ15ml、ビターズ2dash、生ミント(シェイク)、シャンパンで満たす ※オードリー・サンダース氏は、米国の伝説的バーテンダーで著述家のデイル・デグロフ氏の弟子にあたる。サンダース氏自身も、現在ではニューヨークを中心に活躍する著名な女性バーテンダーで、数多くの「モダン・クラシック」を考案している。スパイシー・フィフティ(Spicy Fifty) (2004~05年頃、考案者=サルバトーレ・カラブレース<Salvatore Calabrese>) ヴァニラ・ウオッカ50ml、エルダーフラワー・コーディアル15ml、ライムジュース20ml、ハニー・ジンジャー・シロップ10ml(シェイク) ※あらかじめ底に唐辛子1個置いたグラスに注ぎ、最後にレッドホット・チリペッパーを少し振る。 ※カラブレース氏は当時ロンドンのバー「フィフティ」のバーテンダー。★ペニシリン(Penicillin) (2005年、考案者=サム・ロス<Sam Roth>) ウイスキー60ml、レモンジュース15ml、ジンジャー・ハニーシロップ15ml、1tsp、アイラ・シングルモルト(できれば「ラフロイグ=Laphroaig」で)1.5tsp(シェイク) ※「ペニシリン」は2000年以降に誕生した「モダン・クラシック」の中でも、群を抜いて知名度を獲得し、人気カクテルとなった。ロス氏は、当時ニューヨーク・マンハッタンの人気カクテルバー「ミルク&ハニー(Milk & Honey)」のバーテンダー。現在はブルックリンでバー「ダイアモンド・リーフ(Diamond Reef)」を営み、フローズン・バージョンも提供しているという。 ジンジャー・ハニーシロップは、サントリー社のプレミアム・シロップ「和 tsunagi 生姜」で代用することも可能。ペーパー・プレーン(Paper Plane) (2008年、考案者=サム・ロス) バーボン、アペロール、ビタースイート、レモンジュースを各4分の1ずつ(シェイク) ※サム・ロス氏が2008年、「店のオリジナル・カクテルをつくってほしい」と依頼してきたシカゴの友人、トビー・マロニー氏(バー「ヴァイオレット・アワー(The Violet Hour)」オーナー)のために考案した。カクテル名は、英国の世界的ラッパーM.I.A.の曲名から名付けたという。ちなみに、当初はアペロールではなく、カンパリを使っていたが、その後「甘さと苦さのバランスがよくない」と感じたロス自身がアペロールに変えたという。★メスカル・ミュール(Mescal Mule) (2008年、考案者=ジム・ミーハン<Jim Meehan>) メスカル45ml、ジンジャー・ウォート【注参照】30ml、ライムジュース23ml、パッションフルーツ・ピュレ23ml、アガヴェ・シロップ15ml(シェイク)。飾り=キュウリのスライス3片、砂糖漬けの生姜 ※ジム・ミーハン氏は当時ニューヨークの超人気バー「PDT(Please Don't Tell )」のオーナー・バーテンダー。「メスカル・ミュール」は数多くの「モダン・クラシック」を考案してきたミーハン氏の代表作の一つ。「ソンブラ・メスカル」の創業者のために捧げられたという。 ミーハン氏はクラシック・カクテルへの造詣が深いことでも知られ、彼が近年に出版した「PDTカクテルブック」と「バーテンダーズ・マニュアル」は「21世紀のサヴォイ・カクテルブック」とも称されている。現在はオレゴン州ポートランドのジャパニーズ・レストランバー「TAKIBI」で、バー部門の責任者として活躍している。 【注】ジンジャー・ウォートは、水、生姜のみじん切り、キビ砂糖、ライムジュースを煮詰めて漉し、つくる。難しければジンジャー・ビアで代用することも可。トリニダード・サワー(Trinidard Sour) (2009年、考案者=ジョセッペ・ゴンザレス<Giuseppe Gonzalez>) アンゴスチュラ・ビターズ30ml、オルゲート・シロップ20ml、レモンジュース15ml、ライ・ウイスキー10ml(シェイク)、「サワー」と言う名が付くがカクテルグラスで提供されるのが普通 ※カクテルでは普通は数滴しか使わないビターズをこんなに多く使ったら、とんでもないカクテルになりそうだが、予想は裏切られ、甘酸っぱさと苦さと複雑な香りが”同居”する不思議な味わいに変身する。現在ではIBA公認カクテルにも認定されている。ゴンザレス氏は当時ニューヨーク・ブルックリンの「クローバークラブ・バー」のバーテンダー (なお、オリジナル・レシピではビターズは「45ml」も使うが、それは150~200mlも入りそうな容量の大ぶりのカクテルグラスで提供することの多い欧米での話。総量70ml前後で提供することの多い日本のバーでは冒頭の分量比で適切と信じる)。ネイキド&フェイマス(Naked & Famous) (2011年、考案者=ホアキン・シモ<Joaquin Simo>) メスカル、ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボ、イエロー・シャルトリューズ、ライムジュース各4分の1ずつ(シェイク) ※シモ氏はニューヨークのバー「Death and Co」のバーテンダー。ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボはアペロールで代用できる。Ve. n. to(ヴェネト) (2021年、考案者=サムネーレ・アンブローシ<Samnele Ambrosi>) グラッパ45ml、レモンジュース23ml、ハニー・ミックス15ml、カモミール・コーディアル15ml、卵白(シェイク) ※カクテル名はイタリアの「ヴェネト(Veneto)州」に由来。アンブローシ氏は「Riva Bar」(所在地不詳)勤務のバーテンダー。同氏曰く「グラッパをベースにした過去にもない、初めてのカクテル」。【以下のカクテルについては、まだ情報は不足していますが、近年、欧米のバーの現場ではしばしば目にするものです。詳しいい情報を入手でき次第、改めて追記いたしますのでご了承ください】イリーガル(Illegal) (2000年代、考案者は不詳) メスカル30ml、ホワイト・ラム15ml、ファレナム(【注】ご参照)15ml、マラスキーノ1tsp、ライムジュース20ml、シロップ10ml(シェイク) ※【注】「ファレナム」はライム、ジンジャー、アーモンド・リキュールでできたトロピカル・シロップ。オルゲート・シロップで代用できる。イエロー・スコーピオン(Yellow Scopion) (2000年以降、考案者は不詳) ウオッカ45ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース0.5tsp、シロップ0.5tsp、アニスシード1tsp(シェイク)ホアン・コリンズ(Juan Collins)(2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、レモンジュース30ml、アガヴェ・シロップ15ml、シェイクしてソーダで満たす。レモン・スライス=飾りブレイブ・ブル(Brave Bull) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ40ml、カルーア20ml、氷、ロック・スタイルで(ビルド)エンヴィ・カクテル(Envy Cocktail) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、ブルー・キュラソー30ml、パイナップルジュース15ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾りブラッディ・マリア(Bloody Maria) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ60ml、トマト・ジュース120~180ml、スパイス類(シェイク)、レモン・スライス=飾り※レシピから分かるように、ブラッディ・メアリーのテキーラ版。【謝意】この回の執筆にあたっては、Robert Simonson氏の著書「Modern Classic Cocktail」(2022年刊)から多くの参考情報を得ることができました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
2023/04/19
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40.ホーセズ・ネック(Horse's Neck)【現代の標準的なレシピ】ウイスキー(またはブランデー)(45)、レモンの皮(らせん状にむいたもの)、氷、ジンジャー・エール(適量)、アロマチック・ビターズ1dash(お好みで) 【スタイル】ビルド 現代でも世界中にバーで飲まれ続けている初期のクラシックカクテルの代表格の一つです。19世紀の中頃、ジンジャー・エール、氷、レモン・ピールだけのノン・アルコール・カクテルとして飲まれていたものが、1870年代になってお酒(ブランデーやバーボン・ウイスキー)を加えるようになり、現在の形となったと言われています(出典:Wikipedia英語版ほか)。 当初、「ホーセズ・ネック」はノンアルコールの方を指し、アルコール入りの方は「ホーセズ・ネック・ウイズ・ア・キック(Horse's Neck With a Kick)」または「スティフ・ホーセズ・ネック(Stiff Horse's Neck)」と呼び、区別していましたが、時代とともに前者が廃れて、アルコール入りの方を単に「ホーセズ・ネック」と呼ぶようになっていったとのことです(出典:同)。 誕生の経緯は定かでありませんが、名前の由来については、以下の2説がよく知られていますが、(1)については裏付け資料は明らかではありません。 (1)セオドア・ルーズベルト大統領(1858~1919)が馬に乗って出かけようとしたときに、歩き出そうとした馬の首をなでてあやしながら、レモンの皮を入れたジンジャー・エールを飲んだというエピソードから(出典:欧米の複数の専門サイトや文献から)。 (2)昔、欧米の秋祭りで、レモンの皮を、祭りの主役であった馬の首に見立てたカクテルが飲まれていたことから(→グラスにかけた、らせん状のレモンの皮が馬の首に見えたことから)(出典:同)。 英海軍では、1950~60年代にはピンク・ジンに代わって人気のカクテルとなったと伝わっています(出典:同)。当初はブランデー・ベースが主流でしたが、現在ではご存知のように、ウイスキー・ベースが一般的となっています。ベースの酒抜きでつくるスタイルの場合は、「ホーセズ・ネック・ウイズアウト・ア・キック」と呼ばれます。 欧米のカクテルブックで、アルコール入りカクテルとして「ホーセズ・ネック」の名前で登場するのは、現時点で確認できた限りでは、1882年に出版された「Bartender's Manual」(Harry Johnson著)が最初です。その後、1890年代以降の文献には頻繁に紹介されています。 「Bartender's Manual」でのレシピは、「長細く切ったレモンピールをグラスに入れ、片方の端はグラスの縁にかけるようにする。ボウカーズ・ビター(Boker's bitter)2~3dashを入れる。グラス一杯分のウイスキー(ライ、スコッチ、アイリッシュ等お好みで)を注ぎ、氷3~4個を入れ、最後に炭酸水かジンジャー・エールで満たす」となっており、誕生当初のレシピはかなり緩やかなものだったことが分かります。 「ホーセズ・ネック」は日本にも1900年代末までには伝わっていたと思われます。1907年刊行の文献にその名が見えます。 【確認できる日本初出資料】「洋酒調合法」(高野新太郎編、1907年刊)※「欧米料理法全書」の附録という形の文献です。ただし、この文献で紹介されているホーセズ・ネックはなぜかアルコール抜きです。 アルコール入りのホーセズ・ネックについては、その後1936年に出版された「スタンダード・カクテルブック(村井洋著、JBA編)に見えます。そのレシピは、原文のまま紹介すると、「レモンの皮を林檎の皮の棒にくるくるそぎ取る如く切り、大型タムブラー・グラス(10オンス入り)の縁にその一端を掛けて入れ、氷塊1個を加えてその上よりジンジャー・エールを満たし、ストローを添えて供す。これにウイスキー、ブランデー、或いはジン等の蒸留酒とオレンジ・ビターズ等を追加する処方は『スティフ・ホーセズ・ネック』と言ふ」と紹介されています。 このように、日本では当初、原型であるノンアルコール・カクテルとして伝わり、ウイスキー等を加えるレシピとは区別して扱っていたことが伺えます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/03/11
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52.マルガリータ(Margarita)【現代の標準的なレシピ】(容量はml)テキーラ(30~40)、ホワイト・キュラソー(またはコアントロー、トリプルセック)(15)、ライム・ジュース(15) ※グラスを塩でスノースタイルに 【スタイル】シェイク マルガリータは現代においても、とても有名で重要なカクテルですが、残念ながら誕生の経緯・由来について、確かな説や裏付け資料は現時点では確認されていません。 にも関わらず、日本ではいまだに、「1949年、ジャン・デュレッサー(以下の【注】ご参照)というバーテンダーが、全米カクテルコンテストで3位になった自分のカクテルに、かつてハンティング中の流れ弾に当たって亡くなった悲運の恋人の名をつけた」という説が、定説のように信じられています。 【注】John Durlesserは、日本ではこれまで「ジャン・デュレッサー」と表記されることが多かったのですが、本稿では以下、より原音に近い「ジョン・ダーレッサー」と表記します。ダーレッサーは実在の人物で、カリフォルニア州ロサンゼルスの有名レストランのチーフ・バーテンダーでした。 なぜかよく分からないのですが、日本国内で発行されるほとんどのカクテルブックでは、この根拠不確かな「流れ弾説」がよく紹介されています。非常に残念ながら、最も権威と信頼性があるはずの「NBAバーテンダーズ・マニュアル」の最新改訂版(2016年、あの「食の専門出版社」・柴田書店が刊行)を始め、Wikipedia日本語版、大手ウイスキー会社のHPでさえも!。 Wikipedia英語版では「流れ弾説」はまったく見向きもされていないのに、同じWikipediaの日本語版ではこの「流れ弾説」を定説として紹介しているのを見ると、もう笑うしかありません。結果として、日本のバーの現場では、ほとんどのバーテンダーがこの根拠のない「流れ弾説」を信じ、拡散し続けています。 確かなことは、この「ダーレッサー=流れ弾説」は欧米の専門サイトや文献ではほとんど取り上げられていないということです(Wikipedia英語版の掲示板では、「このフィクションは日本人のほとんどに信じられている。バーテンダーを主人公にしたドラマがさらに、そのフィクションを事実のように取り上げた」という批判的な書き込みもありました)。 2008年、この「流れ弾説」が幅を利かせる日本のバー業界の現状に一石を投じたのが石垣憲一氏でした。石垣氏は『カクテル ホントのうんちく話』(柴田書店刊)を著し、その地道な調査の結果、(日本人による)後世の作り話である可能性がきわめて強いことをほぼ証明しました。 石垣氏によれば、1949年当時、全米カクテルコンクールが開かれたという記録はなく、ダーレッサー考案説は、その前提自体が疑わしいということです。国際バーテンダー協会北米支部の公式見解によると、マルガリータの原型となるカクテルは、1930~40年代にメキシコ・アカプルコのバーで生まれたといいます。ただし当時はどういう名前が付いていたのかは定かではありません。 同支部は1940~50年代に、アカプルコに別荘を持っていたマーガレット・セイムズなる米国人女性がこのカクテルをいたく好んで、米国内に広めたといい、カクテル名も彼女の名前マーガレットにちなんで「マルガリータ」となったと説明しています(ただし、このセイムズ説について、同支部は裏付け資料を示しておらず、「考案者」とは言っていません)。ちなみに、このセイムズなる女性は2000年代前半、日本のテレビ番組にも登場し、「私がマルガリータの生みの親」と語っていたそうです。 しかし、石垣氏によれば、彼とマルガリータの創作を結びつける根拠ある証拠資料や証言は見当たらず、ダーレッサー自身のコメントもまったく伝わっていません(もしそれほど有名な考案者であれば、普通当事者の何らかのコメントが伝わっているはずです)。第二次大戦後に、日本人の誰がこのような、手の込んだ「作り話」を考えつき、拡散させたのか…。本当に罪作りと言うしかありません。 マルガリータの起源については、今なお諸説入り乱れて、真実は不明です。しかし、専門家による最新の研究によれば、おそらく、禁酒法時代(1920~33)以前から存在していた「デイジー(Daisy)」というドリンクが原型だろうということではほぼ一致しています。「デイジー」はスピリッツをベースに、柑橘系のジュースやシロップを加えシェイクした後、氷を入れたコブレットで味わう古典的なカクテルです。 テキーラが米国中西部やメキシコ側の国境地域で普及するにつれて、「テキーラ・デイジー」というカクテルへ発展し、それが「デイジー」の原意(「ひな菊」)を意味するスペイン語の「マルガリータ」と呼ばれるようになったと考えるのが現時点では一番信憑性があり、説得力があるでしょう(出典:2021年刊の「The Cocktail Workshop」=Steven Grasse & Adam Erace共著ほか米国の専門サイト)。 ご参考までに紹介すると、欧米では以下のような諸説が伝わっています(出典:WiKIpedia英語版や米国の複数の専門サイト<drinkmagazine、thewinetimes、vinepairほか>)。当然ながら、「ダーレッサー=流れ弾説」を紹介しているサイトはまったくありません。(1)=石垣氏が紹介した国際バーテンダー協会北米支部の説 元々は1930~40年代にメキシコ・アカプルコのバーで誕生した。その後1940~50年代(1948年頃?)に、アカプルコに別荘を持っていた米テキサス州在住のマーガレット・セイムズ(Margaret Sames)なる女性が、別荘で開いたパーティーなどを通じて米国内に広めたといい、カクテル名は自分の名前をスペイン語風に変えて『マルガリータ』と呼んだ」という。 ※セイムズのパーティーでこのカクテルを飲んで気に入った友人のトミー・ヒルトンは、自らが経営するヒルトン・ホテルのバー・メニューに早速、マルガリータを加えたという。(2)1936年、メキシコ南部、プエルバ(Puebla)のホテルの支配人、ダニー・ネグレーテ(Danny Negrete)がマルガリータという名の彼のガールフレンドのために考案した。(3)1930年代後半(1938~39年頃?)、メキシコ国境に近いカリフォルニア州ロサリート(Rosarito)にあるバー「ランチョ・ラ・グロリア」のバーテンダー、カルロス・エラーラ(Carlos Herrara)がマリオーリ・キングという名の女優のために考案した。(4)1940年代、ハリウッド在住のバーテンダー、エンリケ・グティエーレス(Enrique Gutierrez)が顧客の一人であった、女優リタ・ヘイワーズ(Rita Hayworth)のために考案した。ヘイワーズの本名「マルガリータ・カンシーノ」にちなんでマルガリータと名付けたという。(5)1941年、メキシコ・エンセナーダのバーテンダー、ドン・カルロス・オロスコ(Don Carlos Orozco)がドイツ大使の娘、マルガリータ・ヘンケルのために考案した。(6)1948年、テキサス州ガルベストンに住むバーテンダー、サントス・クルーズ(Santos Cruz)がマーガレットのミドルネームをもつ歌手のペギー・リーのために考案した。(7)テキーラ・メーカーの「ホセ・クエルボ社(Jose Cuervo)」が1945年に自社のテキーラの販促キャンペーンのために考案した。(8)1910年代に生まれた「サイドカー」というカクテルのベースをブランデーからテキーラに替えたものが、1930~40年代に何かのきっかけで「マルガリータ」と呼ばれるようになった 欧米のカクテルブックで、「マルガリータ」の名前で初めて登場するのは、現時点で確認できた限りでは、1947年に出版された「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著)です。レシピは「テキーラ1oz、トリプルセック(オレンジ・キュラソー)0.5oz、ライム・ジュース半個分、シェイクして縁を塩でリムしたグラスに注ぐ」(1oz=ounce=は約30ml)となっていて、現代のレシピとそう大きく変わりません。少なくとも1940年代半ばの米国では、マルガリータはある程度認知されていたことを裏付ける文献です。 ご参考までに、1950~80年代の欧米のカクテルブックから、「マルガリータ」のレシピを少し紹介しておきましょう(塩でグラスをスノースタイルにするのは共通なので省略します)。・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 テキーラ1oz、トリプルセック1dash、ライム(またはレモン)・ジュース半個分(ステア)・「Mr Boston Bartender's Guide」(1960年版)米 テキーラ1.5oz、トリプルセック0.5oz、ライム(またはレモン)・ジュース0.5oz(ステア)・「Booth's Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(John Doxat著、1966年刊)英 テキーラ1oz、コアントロー0.5oz、ライム(またはレモン)・ジュース0.5oz(シェイク)・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊)米 テキーラ1jigger、トリプルセック(またはコアントロー)0.5jigger、ライム(またはレモン)・ジュース0.5jigger(シェイク)※1jiggerは45ml・「Harry's ABC of Mixing Cocktails」(Harry MacElhone著、1986年刊の復刻版)英 テキーラ3分の1、コアントロー3分の1、レモン・ジュース3分の1(シェイク) なお、1937年に英国で出版された「Café Royal Cocktail Book」(J.W.Tarling著)には「ピカドール(Picador)」、1939年に米国で出版された「The World Famous Cotton Club:1939 Book of Mixed Drinks」(Charlie Conolly著)には「テキーラ・サワー(Tequila Sour)」という、それぞれ「マルガリータ」とほとんど同じレシピのカクテル(テキーラ、コアントロー、ライム・ジュース)が収録されていますが、これを「マルガリータ」のルーツとするかどうかは、残念ながら、私には判断できる材料がありません。 マルガリータは、日本にもおそらくは1950年代後半には伝わっていたのでしょうが、文献に登場するのは60年代になってからで、街場のバーで一般的に知られるようになったのは70年代以降です。その後は、トロピカルカクテル・ブームなどの効果もあって、幅広く浸透するようになりました。 くどいようですが、最新の「NBAオフィシャル・カクテルブック」(柴田書店刊、2016年改訂版刊)を始めとして、日本のほとんどのカクテルブックはいまだに、冒頭に紹介した「流れ弾 ・悲運の恋人説」にこだわり、根拠のない説を取り上げて続けています。結果として、多くのバーテンダーがこの作り話を歴史的事実と誤解して、お客様に広めています。 いい加減、日本のバー業界団体や日本人バーテンダー、出版業界も、この根拠なき「後世の作り話」を忘れるべき時期ではないでしょうか。少なくとも業界最大の団体としてNBAカクテルブックを監修している日本バーテンダー協会とその出版元(柴田書店)は、その責任を考えるべきでしょう。 【確認できる日本初出資料】「カクテル小事典」(今井清&福西英三著、1967年刊)。レシピは「テキーラ40ml、トリプルセック15ml、レモン・ジュース15ml、シェイクして、塩でスノースタイルにしたシャンパン・グラスに注ぎ、氷1個を加える(氷を加えないこともある)」となっています。冒頭の現代レシピとほぼ同じです。 ※なお、1962年刊の「カクテール全書」(木村与三男著)には、冒頭のレシピにアンゴスチュラ・ビタースを少し加えた「テキーラ・マルガリート」というカクテルが紹介されていますが、これを日本初出とするかは少し意見が分かれるところでしょう。 ※この稿の執筆にあたっては、石垣憲一氏とその著書「カクテル ホントのうんちく話」(柴田書店刊)に非常にお世話になりました。この場をかりて改めて厚く御礼を申し上げます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/05/28
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ピアノBar・Mで、「新曲は何かないんですかー?」とスタッフのコに言われて、最近練習中なのがこれ。新曲と言うには、2008年に発表された曲なんで、少々古くて恥ずかしいだけど、ね。 ピアノの弾き語りに向いた曲で、歌詞もメロディーも素敵なんだけど、いかんせん、2サビのラップの部分(「二人ふざけあった帰り道 それも大切な僕らの日々…」)がめちゃ難し~い。メロディーがいまいちつかみにくいし、なんと言ってもこの手の歌は、歌詞が多すぎるー!(笑) という訳で、先日、Bar・Mで初披露したけど、まだ完成度は7~8割程度。スタッフはなかなかいいと誉めてくれたけど、まぁ半分は営業トークだし、もっと曲を聴きこんで、しっかり練習しないと。頑張るぞー。 キセキ(By GReeeeN) 明日 今日よりも好きになれる 溢れる思いが止まらない 今もこんなに好きでいるのに 言葉にできない 君のくれた日々が積み重なり 過ぎ去った日々 二人歩いたキセキ 僕らの出会いが もし偶然ならば? 運命ならば? 君に巡り会えた それってキセキ 二人寄り添って歩いて 永久(とわ)の愛を形にして いつまでも君の横で 笑っていたくて 「ありがとう」や Ah 「愛してる」じゃまだ 足りないけど せめて言わせて「幸せです」と ※著作権法上、歌詞は一部しかご紹介できません。ご容赦を。【ご参考: GReeeeN】HIDE、navi、92、SOHという男性4人組で構成されたヴォーカル・グループ。2002年、現プロデューサーであり、HIDEの実兄でもあるJINのサポートを受けて、GReeeeNを結成。デビュー当時、4人全員が現役の大学歯学部生で、学業とミュージシャンを両立させるための、顔を隠しての覆面活動が話題を集めた。現在は、4人全員が歯科医師として働きながら(福島県郡山市在住)、音楽活動を続けている。 2008年5月に発売された7枚目のシングル「キセキ」は、TBS系のテレビドラマ「ルーキーズ」の主題歌にもなって大ブレイク、オリコン・ランキングでも2週連続1位に輝いた。2009年6月には、日本国内で最もダウンロード回数が多かった曲としてギネス・ブックに認定されたという(出典:Wikipedia)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/01/30
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このところ、推理作家・東野圭吾の作品で、加賀恭一郎(かが・きょういちろう)という刑事が出てくる一連のシリーズ(計8作品あるそうです)を、むさぼるように読んでいます。 昨年発表され、ベストセラーになった最新作「新参者」から、発表年をさかのぼって読んでいるので、まだ全作品制覇に至っていませんが(現時点では5作品=「新参者」「赤い指」「嘘をもうひとつだけ」「私が彼を殺した」「悪意」です)、どの作品も睡眠不足になるほど、ハマッてしまいます。 加賀恭一郎が初めて登場したのは1986年、東野のデビュー第2作「卒業」です(これは未読です)、加賀は国立T大学に通う大学生で、在学中に巻き込まれた連続殺人事件の探偵役として登場します。その3年後の1989年の「眠りの森」(これも未読)では、警視庁捜査一課の刑事として再登場します。 さらに、1990年代中盤から後半にかけては主に警視庁捜査一課や練馬警察署に勤めているという設定で、「悪意」や「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「嘘をもうひとつだけ」という作品で登場しています。 2002年発表の「私が彼を殺した」は、(ネタばらしになるので詳しくは書けませんが)容疑者たちの中から、加賀刑事(すなわち作者)が犯人を明確に提示しないで終わるという“掟破り”の書き方で読者に論争を巻き起こしました(袋とじの「推理のヒント」が付いているという凝りよう)。 2006年に刊行された「赤い指」では住宅街の公園で起きた少女の死体遺棄事件から、どこの家族にでもあるかもしれない「闇」の部分に迫りました。そして2009年、あの書評家としても有名な俳優・児玉清氏をして「今年出版された本の中で文句なしに最も面白い!」と言わしめた話題の「新参者」へと続きます。 「新参者」では、加賀刑事は前作の練馬警察署から日本橋警察署へ転勤したという設定ですが、日本橋界隈という下町を舞台にした9つの短編がそれぞれ、「完結した人情推理もの」になっていながら、すべてが結末編へつながってゆくという構成が、実に見事というしかありません。 加賀刑事は独身で、30代半ばから30代後半という設定。初登場時は大学生でしたが、東野作品のプロフィール設定では卒業後に教師になったものの、ある出来事から「教師としては失格」と思って教師を辞め、父親と同じ警察官になりました。母親は蒸発しており、その原因が父親の多忙さにあると思っていて、父親とは仲はあまり良くありません。 警視庁では本庁捜査一課と練馬署(捜査一係)を往復した後、最新作の日本橋署へ異動します。国立大の社会学部の出身ですが、在学中は剣道部の部長(段位は六段)を務め全日本選手権で優勝したこともあるので、どちらかと言えば体育会系でしょうか。 警察官になってからは、どちらかと言えば協調性の少ない人間として描かれています。先輩や同僚と協力しながら事件を解決するというよりも、単独行動して事件解決の糸口をつかむのが加賀のやり方です。しかし、冷静沈着で、事件全体を見通せる能力はピカ一です。まぁ推理小説の主人公の刑事としてはよくあるパターンでしょう。 加賀は口数は少ないけれど、人情に厚い刑事です。犯罪者に対しても、優しさや思いやりを失いません。「新参者」では、ある事件の裁判で弁護側の情状証人として出廷したことが記され、そのせいで所轄の日本橋署に異動(左遷か?)となったとのことです。ちなみに加賀の趣味は、「新参者」の中では茶道とクラシックバレエ鑑賞となっていますが、小説の中では趣味に打ち込んでいる場面は出てきません(笑)。 残る「加賀シリーズ」は3作(「卒業」「眠りの森「どちらかが彼女を殺した」)ですが、全部すぐ読み終えてしまったらつまらないので、あわてずに挑もうと思います。現実の警察の世界では、加賀のようなキャラの刑事はなかなかいないでしょうが、そこはまぁ小説の世界だから許しましょう。東野さん、加賀刑事が日本橋界隈で活躍する「下町人情もの」の続編をぜひ書いてくださいなー。 ※本の表紙画像は基本的にAmazon上のものを引用しています。Amazon.Japanに感謝します。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/31
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いさかか旧聞で申し訳ありませんが、1960~70年代に活躍した米国のフォークグループ「ピーター、ポール&マリー(PP&M)」のマリー・トラバースさんが9月16日、がん(白血病という話です)のため、米コネティカット州の病院で亡くなられました。72歳でした。 マリーさんは、ケンタッキー州ルイビル生まれ。グループは60年代前半にニューヨークで結成され、「風に吹かれて」「パフ」「花はどこへ行った」「500マイル」「天使のハンマー」「我が祖国」などのヒット作を送り出しました。「風に吹かれて」はボブ・ディラン作でしたが、この曲がきっかけで日本でもディランの存在が知られるようになりました。 PP&Mは民主党支持者で、ベトナム反戦運動や、黒人差別撤廃を求めた公民権運動にも精力的に取り組んだミュージシャンでした。「悲惨な戦争」など反戦的なメッセージソングを積極的につくり、若者に大きな影響を与えました。今でも反戦集会や市民集会では、「我が祖国」がよく歌われますが、これもPP&Mがそのきっかけをつくったものでした。 小学生でギターを始めた僕が最初、ギターの練習の課題曲としてよくチャレンジしたのがPP&Mでした。「悲惨な戦争」でアルペジオを習い、さらに「パフ」でツー・フィンガー、「くよくよするな」でスリー・フィンガーのピッキングを覚えました。 マリーさんの担当はギターでなく、ヴォーカルでした。そしてPP&Mの歌は3部のハーモニーのコーラスであることが多かったのですが、その中で「芯を貫いていた」のは彼女のしっとりとした歌声でした。 マリーさんのパートを男声で歌うのはしっくりこない感じもしたのですが、僕はよくPP&Mの曲をギターで弾き語りしました。PP&Mを手本にしっかりスリー・フィンガーを練習したおかげで、後に自分のバンドでCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の曲を演奏した時、おおいに役に立ちました。 PP&Mの生の歌声は中学生の頃、当時の大阪府立体育会館でのコンサートで聴きましたが、音響がいまいちの会場もものともせず、素晴らしい曲の数々を聴かせてくれて、ますますギターやPP&Mの曲にのめり込んだものでした。当時のほっそりしたマリーsんの姿(晩年はおばちゃん体型になりましたが(失礼!))は今も目に焼き付いています マリーさんの存在なくして、PP&Mというグループはあり得なかったと僕も思いますし、多くのファンも同じ思いでしょう。僕にとっても、PP&Mとの出会いなくして、今の音楽の素養もなかった訳ですから、彼女には、ただただ感謝するしかありません。 マリーさんはグループ活動休止の後も、終生、国内外で人権擁護活動に力を注ぎました。そんな真摯で、ヒューマンな人間性には頭が下がる思いです。72歳は、天に召されるにはまだ若すぎる歳です。彼女の歌声がもう聴けないと思うと本当に切ない気持ちになります。今はただ、心からご冥福をお祈りしたいと思います。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/10/03
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追補3.ペインキラー(Painkiller)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ダークラム(30~60)、パイナップル・ジュース(60~120)、オレンジ・ジュース(15)、ココナツ・ミルク(またはココナツ・リキュール)(15)、クラッシュド・アイス、ナツメグ・パウダー(最後に振りかける) 【スタイル】シェイク 「痛み止め」という変わった名前を持つ「ペインキラー」は近年、とくに2000年以降、世界中で注目を浴びるようになってきたカクテルです。考案されたのは実は1970年代初めで、発祥はカリブ海に浮かぶ英領ヴァージン諸島の一つ、ヨスト・ファン・ダイク(Jost Van Dyke)島と伝わっています。80年代以降、米国経由で欧州にも普及。現在では欧米のバーでは人気ドリンクの一つとなっています。 「ペインキラー」はダークラム・ベースのカクテルですが、「パッサーズ・ネイビーラム(Pusser's Navy Rum)」(末尾【注】ご参照)という銘柄を使って考案されました(現在でも、パッサーズ・ラムを代表する「シグニチャー・カクテル」なっていますが、もちろんパッサーズ以外の銘柄=ラムを使ってはダメということではありません)。 Wikipedia英語版やパッサーズ・ラム社のHPによれば、ヨスト・ファン・ダイク島ホワイト・ベイにある、「ソギー・ダラー・バー(Soggy Doller Bar)」で働いていたダフィニー・ヘンダーソン(Daphne Henderson)という英国人女性のオーナー・バーテンダーが考案したそうです(※なお、この島には現在でも船着き場がなく、このバーを訪問する客は、浜辺近くで停泊した船から海に入って泳いで行くんだそうです。客がポケットに入れたドル札は「びしょびしょに濡れて<soggy>」しまうのが店名の由来なんだとか)。 ヘンダーソンの「ペインキラー」が美味しいという噂は、周辺の島々にもたちまち伝わります。カクテルの評判は、パッサーズ・ラム社(蒸留所)の経営者、チャールズ・トビアス(Charles Tobias)の耳にも入ります。トビアスは程なく自らダイク島を訪れ、ヘンダーソンに「レシピを教えてほしい」と頼みました。しかし彼女は「レシピは極秘だ」として、どうしても応じません。そこで、トビアスは2年がかりで「調合したペインキラーのサンプル」を入手。試行錯誤の末レシピを解明し、ヘンダーソンの味わいに近い「ペインキラー」を生み出しました。 トビアスは自らがつくった「ペインキラー」のサンプルをこのバーの常連客らに試飲してもらい、評価を求めます。すると、ほとんどの客が「トビアスのペインキラーの方が美味しい」という反応だったそうです。自信を得たトビアスはその後、さらに少しアレンジを加えたうえで、世界中のバーに紹介していきました(出典:パッサーズ・ラム社のHP)。 ヘンダーソンのオリジナル・レシピの詳細は不明ですが、米国の著名なカクテル研究家・デイル・デグロフ氏によれば「全体の半分がラムで、やや平凡な味わいだった」そうです。トビアスは、4つの材料の分量比を変えて、飲みやすい洗練された味わいに仕上げました。 「ペインキラー」は、ココナッツ・ミルクが入っているので、クリーミーな舌触り。オレンジ・ジュースとパイナップル・ジュースの甘味、酸味とのバランスもいい心地良いカクテルです。同じくココナツ・リキュールを使う「ピーニャ・コラーダ」(ホワイト・ラムがベース)という有名なカクテルにも似ていますが、ダーク・ラムがベースなので意外と濃厚で、しっかりした味わいです。 「ペインキラー」の世界的な普及には、ドイツ・ミュンヘンにある「パッサーズ・ニューヨークバー(Pusser's New York Bar)」=1974年創業=が貢献したことで有名です(今も同店の看板カクテルになっていて、年間5万杯の注文があり、月平均ボトル約250本のパッサーズ・ラムが消費されるそうです)。 同店の「ペインキラー」はNo.2からNo.4まで3種類あり、No.2はラムを40ml、No.3は60ml、No.4は80ml入れるそうです(他にも、”裏メニュー”で「No.1」というノンアルコールもあるとか)。レシピは、例えば「No.3」の場合、「パッサーズラム60ml、パイナップル・ジュース120ml、オレンジ・ジュース30ml、ココナッツ・クリーム30ml、ナツメグ・パウダー(シェイク)」です。 ちなみに「パッサーズ・ニューヨーク・バー」は、世界的に有名なバーテンダー、チャールズ・シューマン(Charles Schumann)氏出身のバーとして知られており、現在店長としてバーを仕切っているのは、日本人バーテンダーの那須孝光氏です。 「ペインキラー」は、現在はとても知名度のあるカクテルで、欧米のWEBのカクテル専門サイトでよく紹介されていますが、意外なことに、カクテルブックで収録している例はなぜかあまり見かけません。現時点で確認できたのは、以下の欧米の3冊だけです。・「New York Bartender's Guide」(Sally Ann Berg著、1995年刊) ダークラム90ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ジュース30ml、ココナツ・クリーム15ml、ナツメグ・パウダー少々、マラスキーノ・チェリー(飾り)、氷(シェイク)・「Complete World Bartender Guide」(Bob Sennett編、2007年刊) ダークラム60ml、パイナップル・ジュース120ml、オレンジ・ジュース30ml、ココナツ・クリーム15ml、氷(シェイク)・「Essential Cocktail:The Art of Mixing Perfect Drinks」(Dale Degroff著、2008年刊) ダークラム60ml、パイナップル・ジュース60ml、オレンジ・ジュース30ml、ココナツ・クリーム30ml、氷、ナツメグ・パウダー(シェイク) 「ペインキラー」は90年代には日本に伝わったと思われますが、バーでその名が知られるようになったのは2010年以降です。最近は、日本にたびたび帰国しペインキラーのPR・普及に尽力されている那須氏の努力もあって、日本国内のバーでもかなり認知度が上がってきました。【確認できる日本初出資料】現時点ではまだ確認できていません(掲載例をご存知の方は、arkwez@gmail.comまでご教示頂ければ幸いです)。【注】パッサーズ・ネイビーラム:英領ヴァージン諸島に本社があり、17世紀半ばから英国海軍御用達だったダークラムとして知られる。蒸留所はトリニダードトバゴとガイアナにあり、木製ポットスティルで蒸留された後、最低3年以上樽熟成されます。以前は海軍専用の非売品でしたが、現在は一般にも販売されており、日本にも輸入されています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2019/04/20
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【2005年7月17日の記事の再投稿です。原則として、当時書いたままの文章を再録しています】 キリンのお茶「茶来」のCMに、芸能界に復帰した中山美穂が登場している。ミポリンには特別興味はない私だが、バックに流れている曲を聴いて、思わず「あぁ、懐かしいなぁ…。いい曲だなぁ…。でも、40歳以下の人はこの曲、誰の曲か分からないだろうなぁ…」と独りつぶやいていた。 曲名はCM画面の片隅にも出ている通り、「地球はメリー・ゴーランド」。1972年、GARO(ガロ)という3人組のグループが出した2枚目のシングル曲(デビューアルバム=写真左=にも入っている)である。GAROと言ってもすぐピンと来ない人でも、「『学生街の喫茶店』を歌っていたグループ…」と言えば、思い出されるかもしれない。 GAROは、1971年にデビューした。堀内護(愛称「マーク」、当時22歳)、日高富明(同「トミー」、同21歳)、大野真澄(同「ボーカル」、同22歳)の3人からなるグループ。当時は「フォーク・ロック」というジャンルに入っていたかと思う。アコースティック・ギターによるコーラス・バンドで、カバー曲以外の、オリジナル曲づくりも自分たちでこなした。 当時、同じくギター・バンドをやっていた私にとっても、GAROはお手本でもあり、目標でもあった。彼らの曲もよくコピーし、歌った(写真右=GAROが残した唯一のライブ・アルバム。CS&Nなどの洋楽を演奏したライブ音源も、ぜひCD化してほしいが…)。 当時GAROは、単に「フォーク・グループ」と呼ばれることが多かったが、私は今でもこの言い方には馴染めない。高いコーラス・ワークとギター・テクニックを誇った彼らは、メジャー・デビュー前から、「和製CS&N(クロスビー、スティルス&ナッシュ)」とも言われ、注目されていた。実際、彼らが目指していたのも、フォークとかいう狭いジャンルにとらわれない音楽だった。 デビュー・アルバムでは、曲づくりやコーラスで、その素晴らしい才能があちこちに垣間見れる。初期の頃は、冒頭で触れた「地球は…」のほかにも「1人で行くさ」「涙はいらない」など、音楽的にもレベルの高い、クオリティの高い曲が多かった。しかし、大ヒットという訳にはいかず、GAROは一部の熱狂的なファンの間での存在だった。 それが一転したのが1973年、3枚目(4枚目説も)のシングルとして発売された「学生街の喫茶店」の大ヒットだった。実は当初、この曲は「美しすぎて」というシングル曲のB面だった。それが、GAROの「大衆化路線」を目論むレコード会社やプロデューサーの方針で、発売直前、B面の「学生街…」がA面に差し替えられたという(このためジャケットの裏面の歌詞では、A面は元の「美しすぎて」のままだった)。 この曲をつくったのは、すぎやまこういちという当時の売れっ子作曲家・編曲家だった(代表曲にタイガースの「花の首飾り」、ヴィレッジ・シンガースの「亜麻色の髪の乙女」などGS<グループサウンズ>に数多くの曲を提供していた)。GAROのメンバーは、この「歌謡ポップス」のような曲を、最初あまり歌いたくなかったと聞く。しかし、デビュー間もない3人に大レコード会社、大作曲家に抵抗できるはずもなく、言われるがまま「学生街…」がA面として売り出された。 それが幸か不幸か、それがオリコン・チャートで1位になり、70万枚を超える大ヒットになってしまった。その年のNHK紅白歌合戦にも出場し、この曲を歌わされることになる。そしてそれ以後、GAROと言えば、「学生街…」というレッテルが付いて回った。もともと洋楽志向だった3人にとって、「歌謡ポップス」のグループのように見られるのは、辛い現実だったに違いない(写真左=GAROのアルバムはほとんどが廃盤になっていて、現在はこのベスト盤のみが発売されている)。 GAROはライブなどでは、思い切り、洋楽のカバーや洋楽をルーツにしたオリジナル曲を歌っていたが、テレビではやはり、「『学生街…』を歌ってください」ということになる。しばらくは我慢していた3人だが、結局は、「これは僕らの求めていた音楽ではない」と気づく。そして、12枚のシングルと8枚のオリジナル・アルバムを残して、3年後の1976年に解散。3人はそれぞれの道を歩むことになる。 マークは、その後3枚ほどソロ・アルバムを出したが、その後は芸能界から姿を消した。しかし、90年代半ばからは再び音楽活動も再開し、様々なユニットでアルバムも出した。だが、残念ながら2014年12月、病気(胃がん)のため65歳で亡くなった(この箇所は2015年に追記)。 トミーは解散後、ロック・バンドを結成し、ライブ活動をしていたが、皆さんもご存じのように、1986年、飛び降り自殺をして、36年の短い生涯を終えた。音楽的な行き詰まりが原因とも聞くが、本当のところは分からない(私も詳しいことは知らない)。 ボーカルは、レコード・プロデューサー、ディレクターに転じて、現在も音楽業界にいる。7、8年前にはテレビに出て、「学生街…」を1人で歌っていたのを見たことがあるが、私は切なくて、悲しくて、途中でチャンネルを変えてしまった(自分たちの音楽の原点を壊してしまった曲を歌うことに、心に抵抗はないのだろうか)。 実質5年余の活動で音楽界から消えた伝説のバンド、GARO。その解散も、トミーの死も、私は今でも残念でならない。もし彼らが「望む道」を歩んでいたら、きっと、60代の今も現役で活躍しているCS&Nのように、息の長いバンドになっていたにかもしれない。彼らを間違った運命へ導いたレコード会社の幹部やプロデューサー、そしてGAROのために「学生街…」をつくったすぎやまこういちなる作曲家を、私は今も恨む。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/23
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読者の皆様、先頃連載した「禁酒法時代(1920~1933)の米国--酒と酒場と庶民のストーリー」で一部訂正があります。 第3回の項で、アル・カポネが当時、闇ビジネスで稼いだ金額(年収)について紹介しましたが、その際、「もぐり酒場の経営などで、1927年の1年間だけで約1万5千ドル(当時の平均的米国民の年収約6倍)を稼いだ」と記しました。 しかし、その後さらに幾つかの資料にあたってみると、カポネは実際には、1927年当時、すでに年間約2000万ドルの稼ぎがあったことが分かりましたので、つつしんで訂正させて頂きます。大変大きな数字の違いで申し訳ございません。本ブログ上の本文は、すでに以下のように修正いたしております。 「カポネ自身はシカゴで約160カ所のもぐり酒場も経営し、もぐり酒場のほか、とばく場や売春宿の経営等も含めて、1925~30年頃、少なくとも年間約2000万ドル(貨幣価値が現在とは違いますが、当時平均的米国民の年収の約7700倍)の稼ぎを得ていたと言われています。」 連載を小冊子にしてお送りした皆さんには、大変申し訳ありませんが、このページか修正済みの本文の該当箇所をプリントアウトして正誤表としてお使いください。 なお1920年当時の2000万ドルは、日本円でどれくらいの価値があったかですが、日銀のHPなどによれば、1920年当時の対ドルの円レートは、1ドル=約2.5円でしたので、2000万ドルは単純には5億円となります。 しかし一方、当時の日本の公務員の平均月収は約20円だったそうですから、そう考えるとこれは当時の5億円は、今の貨幣価値だと4兆円くらいにも相当することになります。いかにカポネの稼ぎが凄かったのかを感じさせる数字です。 以上、宜しくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/12/23
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90年以上の歴史を持つ関西屈指の老舗BARグループ「サンボア」(SAMBOA)のことはこれまでも折りに触れて何度か書いた(例えば、2005年3月12日の日記)。しかし、うらんかんろがまだ取り組んでいなかったことがあった。サンボア・グループ11店(この投稿当時でのグループ全店。※その後増えて2021年4月末現在では15店になっている)の「詳細な紹介」と「飲み比べ」である。 一口にBARサンボアと言っても、一様でない。微妙に違うのである。他のサンボアでは常識であっても、別のサンボアでは通用しないこともある。そもそもメインのお酒だって、「サンボアだから当然、サントリーの角瓶でしょう」と思っている貴方、そうじゃないという事実に驚かされるに違いない(写真右=堂島サンボア)。 貴方の持っている「バー・サンボアの常識」は当たっているのか。うらんかんろも今回11店すべてを改めて訪れて、初めて知った驚くべき事実がいろいろある。それではテーマごとに紹介していこう。 【メインのウイスキー】 バー・サンボアと言えば「ハイボール」が代名詞。そしてハイボールに使われるウイスキーの銘柄は基本的には、前述したように「サントリーの角瓶」である。 しかし、なぜか京都(寺町)サンボアと木屋町サンボアだけはニッカである(ちなみに、京都サンボアはグループ最古の歴史を持つ店)。前者はなんと竹鶴12年(ハイボールで飲むなんてもったいない!)、後者はスーパー・ニッカを使う(なお、竹鶴12年のコンスタントな入荷が難しくなってきた2015年頃からは、京都サンボアもスーパー・ニッカに切り替えたと聞いています)。 理由は正確には知らないが、BAR業界関係者に聞いたところでは、京都サンボアはサントリーの営業マンとある時、喧嘩別れしてから、ニッカ一本に宗旨替えしたのだとか(個人的にはやはりサンボアを名乗る以上は「角瓶」でやってほしいと思うのだけれど…)。(写真左=北サンボア)。 【氷を入れる・入れない】 サンボアと言えば、ハイボールに氷は入れないというのが定番。グラスに冷凍庫で冷やした角瓶とこれまたキンキンに冷やしたソーダを注ぎ、仕上げにレモンピールをさっとかけるのが正しいハイボールだ(写真右=北新地サンボア)。 店によってはグラスまで冷蔵庫で冷やしておいてくれる店もあるが、ほとんどの店は常温保存のグラスに注ぐ。だからいくらウイスキーとソーダがよく冷えていたとしても、20分以内で飲み干さないと美味しくは飲めない。 なお、「サンボア=氷なしハイボール」と書いたが、前項で紹介した京都サンボアと木屋町サンボアはなぜか少量の氷を入れる。理由はあえて聞かなかった。聞いても、「うちは最後までぬるくならないように、氷を入れた方がいいと思ってるんです」という答えが返ってくるのは予想できる。京都サンボアと木屋町サンボアは、サンボア・グループの「異端児」ということなんだろう(写真左=ヒルトン・サンボア)。 【飲むスタイル】 サンボアと言えば、これまたスタンディングで飲む店ばかりと誤解している人も多い。確かにカウンターがスタンディングの店は多い。堂島。北、梅田、北新地。銀座の5店はそう。しかし、それ以外の6店にはカウンターに椅子がある。またカウンターがスタンディングの店でも店内の別の場所に椅子席もあるので、疲れた場合はそちらに移動することもできる。 ハイボールは基本的にダブル(ウイスキーが60ml)で供される店が多い。これが強すぎるという方は、「シングルでお願いします」と頼めばそうしてくれる。ただし、お値段は半額とはいかず、100~200円お安くなるという程度(写真右=梅田サンボア)。 【付き出し】 「サンボアの付き出しと言えば、そら、南京豆に決まっているでしょうが」と思っている貴方、そうした先入観も大きな間違い。今回11店を回って、うらんかんろもそのバリエーションの多さに驚いた次第。 南京豆だけを出しているところは堂島、北、北新地、京都、木屋町、銀座の6店だけ。その他の5店は、梅田=塩豆、ヒルトン、南、島之内=南京豆とピクルス、祇園=ホット・サンドイッチだった(写真左=南サンボア)。 という訳で、付き出しとチャージ(後述)のコストパフォーマンスで比較してみると、ヒルトンと南、島之内の3店が一番お得感がある。個人的には、ヒルトンのピクルスは結構いける味わいで気に入っています。 【雰囲気】 サンボアだから基本的には英国調でウッディな造りの店が多く、どこもまず落ち着いて飲める。ただし、歴史と伝統に裏打ちされた重みという点では、やはり北、堂島、京都の3店が群を抜く。どの店も内装を見ているだけでも飽きない(写真右=島之内サンボア)。 個人的には、比較的新しいサンボアだけれど、北新地とヒルトンも大好きだ。前者のバック・バーの棚はあの伝説の名バー「コウベハイボール」のものを移築したもので、一見の価値がある。後者は意外といつもすいている都会の穴場で、ゆったり落ち着けるカウンターがとてもいい。 【ハイボール1杯のお値段】 サンボアだからハイボールのお値段は基本的にはリーズナブルだけれども、1杯のお値段は当然、店によってかなりばらつきがある。梅田、島之内=700円、堂島、北、ヒルトン=800~850円、北新地、南、京都、木屋町、祇園、銀座=900~1000円(写真左=京都サンボア)。 グラスの大きさや作り方も微妙に違うから、どの店が一番とは一概には言えないが、コストパフォーマンス的に言えば、堂島、北、ヒルトンが僕のおすすめ(なお、1杯の値段を「消費税込み」にしている店もあれば、「税別」の店もあります)。 【チャージ】 「サンボア=ノー・チャージ」と意外とみんなそう思っている。しかし、今回改めてお邪魔してお勘定をしてみた結果では、多かれ少なかれ何らかのチャージはとられていることを確認した。その額も店によりまちまちだ(写真右=木屋町サンボア)。 150円(北)の店もあれば400円(祇園)の店もある。だいたいが200~300円だ。ただし、どんなに高い店でも銀座や北新地で無意味に法外なチャージをとるBARに比べれば、十分良心的であることは言うまでもない。 【キャパ】 店の広さはまちまち。比較的広い店で言えば北新地、北、ヒルトン、南、銀座。中くらいなのは堂島、京都、祇園の3店(写真左=祇園サンボア)。 梅田、島之内、木屋町は10人も入ればいっぱいになるような小さい店だ。なお北新地と銀座では、広いキャパを生かして時々ライブ演奏などの催しもある。 【その他】 ・北サンボアと南サンボアでは、おしぼりまで出してくれます(北サンボアは、マスターも奥様もいつも笑顔で親切で、とても気持ちのいい接客です)。 ・午後3時開店の北新地と銀座では、6時までは「ハッピー・アワー」として、65歳以上は半額という嬉しいサービスをしています。それ故、開店後の早い時間帯はお年寄りが一人でふらっと来て、楽しそうに飲んでいる姿をよく見かけます(写真右=銀座サンボア)。 ・ヒルトン・サンボアでは、サンボア・グループではただ1軒、ランチもやってます。 ・祇園サンボアの正面玄関には素敵な暖簾がかかっています。暖簾の「サンボア」の文字は、ここの常連だった作家の故山口瞳氏の筆で、とても味わいのある筆致です。一見の価値があります。 ・京都と木屋町のマスターはスモーカー。目の前でタバコを吸われるのがお嫌いな方は行かない方がよろしいかと。 ◆サンボア・グループ(営業時間は各店へお尋ねください)【堂島サンボア】大阪市北区堂島1-5-40 電話06-6341-5368 日祝休 【北サンボア】同北区曽根崎2-2-12 電話6311-3645 日祝&第2土休 【北新地サンボア】同北区曽根崎新地1-9-25 玉美ビル1F 電話6344-5945 無休 【梅田サンボア】同北区角田町9-26 新梅田食堂街2F 電話6312-8987 日休 【ヒルトンサンボア】同北区梅田1-8-16 ヒルトンプラザイーストB2F 電話6347-7417 無休 【南サンボア】同中央区心斎橋筋2-1-10 電話6211-0215 日祝休 【島之内サンボア】同中央区東心斎橋1-6-23 清水町会館1F 6241-9513 日休【京都サンボア】京都市中京区寺町通三条下ル桜之町406 電話075-221-2811 火休&第2水休 【木屋町サンボア】同中京区西木屋町通四条上ル紙屋町367 電話222-2389 月休 【祇園サンボア】同東山区祇園南側有楽町570 電話541-7509 月休 【銀座サンボア】東京都中央区銀座5-4-7 銀座サワモトビルB1F 電話03-5568-6155 無休【追記】2010年以降、サンボア・グループでは新たに4店がオープンして、2022年1月現在、計15店となっています。新しくできた4店を以下ご紹介しておきます。いずれも素敵な雰囲気の店です。【数寄屋橋サンボア】東京都中央区銀座7-3-16 東五ビル1F 電話03-3572-5466 日休(2010年10月開業)。【浅草サンボア】東京都台東区浅草1-16-8 電話03-6231-7994 水休(2011年2月開業)。※オーナーは北新地サンボア、銀座サンボアと同じです。【天神橋サンボア】大阪市北区天神橋3-8-3 電話06-6360-4212 火休(2013年8月開業)。 【神戸サンボア】神戸市中央区加納町4-2-1 電話078-381-8179 定休日は現時点では未定(2021年4月26日開業)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/03/29
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◆フェノール値 & ppm って何だ? モルト・ウイスキーの味わいを表現する形容詞に、スモーキー(smoky)、ピーティー(peaty)という言葉があります。そして、「スモーキーさ」「ピーティーさ」の程度を表す数値として、(あまり一般的ではありませんが)しばしばフェノール値という言葉が登場し、「ppm」という単位が使われます。最近では、ウイスキーのパンフレットやラベルの説明にもお目見えするようになりました。 しかし、「フェノール値とかppmとかって何なの?」と聞かれて、正確に答えることが出来る人は、ウイスキーに詳しいバーのマスターやバー業界関係者でも、意外と少ないのが現状です。そこで、自分なりに得られるだけの資料を使って、友人のサポートも受けながら、精一杯まとめてみました(※お読みになってもし何かお気づきの点があれば、ご指摘頂ければ幸いです)。 1.ピートが生むスモーキーさ スモーキーなウイスキーが誕生するためには、ピート(泥炭)、原材料の大麦、酵母、仕込み水、樽の種類などいろいろな要素が絡んできますが、なかでもピートと原材料の大麦の影響が大きいと考えられています。ピートはヒースなどの野草や灌木などが長い歳月で堆積して炭化したもので粘土状のものです。スコットランドでは昔から、掘り出して乾燥させ、冬季には貴重な燃料源として燃やして暖房に使ったりしています。 スモーキーなウイスキー造りの際には、発芽後の大麦(モルト)をしばしばピートを燃やしてその煙と熱で乾燥させます(逆に、最終商品として「スモーキーなウイスキー」を造らない場合は、ピートは使いません)。ピートはスコットランドの北部や南部、島部など広い地域で採掘されますがその成分は産地によって違います。アイラ島などはピートに海藻や貝殻、海の生物、海水が結構含まれているため、燃やすと燻製香、ヨード香が強く出ます。一方、内陸部のピートは灌木や草花(ヒースなど)といった植物系の成分が多いのでスモーキーさも穏やかです。ピートのどの部分(成分)が、どのようなスモーキーさを生み出すのかは、まだよく解明されていません。 2.製麦はほとんどがモルトスター頼み ただし、スコットランドでも現在はほとんどの蒸留所が、大手のモルトスター(製麦会社)から乾燥済みの原料大麦を購入しており、フロアモルティング&乾燥を自ら行っているところは稀です(ボウモア、ラフロイグ、キルホーマン、ハイランドパーク、スプリングバンクなど7~8カ所程度です)。そして、フロアモルティングしている蒸留所でもウイスキー造りに使う大麦の全量の製麦はできないため、多かれ少なかれモルトスターから購入しています。 モルトスターは蒸留所からの注文に応じて、ノン・ピーティド大麦、ピーティド大麦を販売し、ピーティド(焚き込み)のレベルも、例えば「40ppm程度で」などの注文に応じています(自社生産している蒸留所は、過去の経験値からピートを燃やし乾燥させる量や時間を調整し、目指すppmレベルに近づけます)。 3.スモーキーさの「一つの指標」 ウイスキー造りの世界では、このピート由来の香り=「スモーキーさ」はフェノール値の数字「ppm」という単位で表されます。すなわち、ppmは「スモーキーさの指標」であり、「フェノール化合物の濃度」です(ppmは「parts per million」の略。1ppmは0.0001%、1%は10000ppmに相当します)。 ピートを燃やして乾燥された大麦は、そのピートの種類や量、乾燥時間などで一般的に、ライト・ピーティド大麦(一般に5ppm以下)、ミディアム・ピーティド大麦(6~19ppm)、ヘビリー・ピーティド大麦(20ppm以上)、スーパー・ヘビリー・ピーティド大麦(概ね80ppm以上)と分けられます。 ピートの使用量は一般的に、ヘビリーの場合で麦芽1トンに対して20~30kg、ミディアムで15kg、ライトで10kgくらいです(この部分の出典:集英社新書「日本のウイスキー 世界一への道」輿水精一&嶋谷幸雄 共著から。※ちなみに、日本国内の蒸留所は現在、ウイスキー用大麦麦芽のほぼ全量を海外から=主にスコットランドから=輸入しており、国産大麦を一部使っているのは秩父蒸留所のみ、国産ピートはニッカの余市蒸留所や新興の厚岸蒸留所が使用していますが、採掘規制もあり、使用量はごく一部です)。 なお、ピートで乾燥させない大麦は「ノン・ピーティド大麦」と呼ばれますが、ノン・ピーティドでも、ウイスキーの製造過程でピート層を通った仕込み水を使ったりするので、アイラ・モルトなどでは1~5ppm程度のフェノール値が検出されることがあります。 4.「スモーキーさ」を生む化合物 ppmは「フェノール化合物の濃度」と先ほど書きましたが、この化合物には様々な種類のものが存在します。代表的なフェノール(phenol)、クレゾール(cresol)以外にも、エチルフェノール(ethylphenol)、グアヤコール(guaiacol)など。いわゆる「スモーキーさ」を生むのは、クレゾール、エチルフェノール、シリンゴル(syringol)、キシレノール(xylenol)、ビニルグアヤコール(vynylguaiacol)という化合物が要因です。 通常は、出来たてのウイスキーのフェノール値を測定する場合、様々なタイプの検査機器、例えばHPLC(High Performance Liquid Chromatography=高効率液体クロマトグラフィー)や、GC/MS(ガスクロマトグラフィー<GC: Gas Chromatography>と質量分析計<MS: Mass Spectrometry>を組み合わせた測定機器)などを使いますが、上記のような様々な化合物の含有量の総量がフェノール値としてppmで表示されます。 5.フェノール値(ピートレベル)は何で測るのか フェノール値は、完成したウイスキーの液体そのものではなく、通常、ピートの燻煙で乾燥させた大麦麦芽を使って測ります。フェノール化合物はそれぞれ特有のにおいを持っていますので、含まれる割合によってウイスキーのにおいも異なります。それがウイスキーの個性とも言えます。ただ、フェノール値だけで「どの化合物がどれくらい含まれているか」を判断(数値化)することはできません。また、フェノール値(ppm)が高いからと言って、最終商品としてのウイスキーの「スモーキーさ」が強くなるという訳ではありません。 この理由には、いくつかの要因が指摘されています。例えば蒸留後、冷却して出来上がった原酒は通常、最初に出て来る部分と最後の残りの部分はカットされて、真ん中の部分(ミドルカット)のみ樽熟成に回されます。「前後の部分」をどの程度カットするかは、各蒸留所の製造方針によって違います。また、どのような種類の樽でどのくらいの期間、どのような環境で貯蔵・熟成するかによっても、最終商品のスモーキーさは変わってきます。 従って、(大麦麦芽段階での)フェノール値が高いほど「よりスモーキーな(臭い)ウイスキーになる」というのは迷信・誤解です。フェノール値100ppmのモルトウイスキーより、50ppmのモルトウイスキーの方がスモーキーだったということもしばしば起こります(例えば、フェノール値が軒並み100ppm以上の「オクトモア」より、50ppmのアードベッグの方がよりスモーキーさを感じるように)。 6.フェノール値(ppm)は、麦芽の乾燥時間で経験的に決めている? ここで私の友人で、職業柄「サイエンス・ライティング」に詳しい、ウイスキー愛好家の安部祥輔氏の示唆に富む見解を紹介しましょう。 安部氏は「私の中での仮説でしかないのですが、(各蒸留所が目指す)フェノール値は『ピートで麦芽を※時間乾燥させたから**ppm』というふうに乾燥時間で決めているような気がしています」と話します。 海外サイトを見ていると、フェノール値は「麦芽の乾燥の度合い」とか「ピートを焚きこんだ度合い」といった記述がけっこう見受けられます。安部氏ならずとも、単位がppmなので、濃度にばかり意識が向きます(実際にほとんどのサイトは濃度について言及しています)が、「なぜ乾燥度合いがppmなのか?」と疑問に思います。 安部氏は「しかしながらフェノール値は、フェノール化合物が含まれている実際の濃度ではなく、単にピートを使った乾燥時間と考えると、腑に落ちることがたくさんあります。経験的に、製麦業者や蒸留所の製麦職人は、乾燥時間からおおよその数値を類推しているのではないでしょうか。乾燥時間が長ければ、麦芽に含まれるフェノール化合物量が増えてフェノール値が大きくなるのでしょうが、含まれる化合物の割合はこの値からはわかりません」と語ります。 なので繰り返しになりますが、ppm値が大きいからといってスモーク臭が強いわけではなく、「含まれるフェノール化合物の大半がクレゾールならボウモアのような香り、すなわち消毒薬のような匂い」になる、一方で、「グアヤコールが多ければ(ラフロイグのような)正露丸のような香り」がする、などという合理的な説明ができます。ppmは100万分の1単位という極微量単位だから測定誤差も考慮すれば、乾燥時間でppm値をざっくりと決めたとしても罪はないでしょう。 7.フェノール値の定義(算出方法)と測定方法は不明確 「どこを探してもフェノール値の定義と算出方法に関する記述が見つけられない」。ウイスキー愛好家から、しばしばこういう声を聞きます。フェノール値の算出方法としていくつかの手法が考えられますが、個々のメーカー(蒸留所)は、具体的にどのように測定・算出しているのかは公表していません。 安部氏は、以下のような手法を推測しています。 議論の前提として、そもそもフェノール値とは、測定対象(モルトやウイスキー)から検出されたすべてのフェノール化合物の濃度をすべて合算した数値なのか、何種類かのフェノール化合物をあらかじめ決めておいて、それらの濃度を合算したものなのか、それが判然としません。どのHPを探しても記述が見つけられません。いずれの方法でもない可能性もあります。 あるメーカー(蒸留所)が、例えば「以下のようなフェノ―ル化合物の濃度の合計値」を自社ウイスキーのフェノール値とするとあらかじめ決めていて、 フェノール(phenol)5ppm、 o-クレゾール(o-cresol)4ppm、 m-クレゾール(m-cresol)2ppm、 p-クレゾール(p-cresol)3ppm、 グアヤコール(guaiacol)8ppm、 4-エチルフェノール(4-ethylphenol)9ppm、 4-エチルグアヤコール(4-ethylguaiacol)10ppm だった場合、 合計値(合算値)である41ppmがそのウイスキーのフェノール値ということになります。 一つ手掛かりとなるのは、日本の大手メーカー(蒸留所)の手法です。先に紹介した輿水氏&嶋谷氏の共著のなかでは、「(サントリー社は)輸入された麦芽を、定性的にはガスクロマトグラフィー分析によって、ピーティングの度合いを調べ、定量的には全フェノール値、揮発性フェノール値を用いる」と紹介されています。 そこで、ここでは前者の算出方法、すなわち「検出されたすべてのフェノール化合物の濃度のすべてを合算」した場合を説明してみましょう。 ウイスキー中のフェノール値を算出すると、ピート由来だけではなく樽由来のフェノール化合物、さらに双方に由来するフェノール化合物とエチルアルコール(言うまでもなくウイスキーの主成分)との反応物であるフェノール化合物など、すべての製造工程で生成したフェノール化合物の濃度が算出されるわけです。 だとすれば(樽由来のフェノール化合物はスモーキーさとは縁遠いものもありますので)、フェノール値をもってスモーキーさを議論することはまったく不毛であることは誰にでも理解できることでしょう。 完成品としての(ニューポットではなく樽熟成後の)ウイスキーのフェノール値に言及している記事も多々あります。しかし、モルト中のフェノール値を算出するにしても、いったい何種類くらいのフェノール化合物が含まれるのか分かりませんが、スモーキーさの要因となる化合物とそうではない化合物のすべての濃度を算出することにあまり合理性が感じられません。従って、モルト(乾燥麦芽)中ではなく完成品のウイスキー中のフェノール化合物を、同じ指標で語ることはナンセンスだということです。 8.フェノール値の測定・算出方法とは? 「フェノール値の定義(算出方法)についての記述が見つからない」と書いているのは、ここまでの考察や推察を含んでの話です。ウェブサイト上でどんなに探しても「フェノール化合物の濃度」とか「ガスクロマトグラフィーを使って測定する」というレベルの域を超える記述は見当たりません。 もちろん分析化学や環境化学を専門としている研究者の文献を探せば、サイエンスに基づいて厳密に書かれた論文はいくらでも見つかりますし、ウイスキーの成分分析に関する論文もいくらでも見つけられますが、フェノール値の定義(算出方法)はどこにも書かれていません。 測定方法についても、やや専門的過ぎるかもしれませんが、改めて少し確認しておきましょう。専門家が紹介している様々な情報から推察すると、ウイスキーに含まれる成分の分析では、ガスクロマトグラフィー(GC: Gas Chromatography)単体ではなく、質量分析計(MS:Mass Spectrometry)を組み合わせた「GC/MS」や、高効率液体クロマトグラフィー(HPLC:High Performance Liquid Chromatography)と「MS」を組み合わせた「LC/MS(液体クロマトグラフィー質量分析法)」が用いられていることが多いのではないかと思います。GC単体やHPLC単体で調べるよりも、精度が高く分析も簡単だからです。 ただ、いろんな文献を検索して読んでいると、近年は、「GC/TOFMS(ガスクロマトグラフ飛行時間質量分析計=最新の分析機器です)」もよく使われているような印象です。 ちなみに、10社近くのモルトスターのサイトを調べてみると、多くの会社が「IoB Methods of Analysis」という測定手法を採用しているようです。これはイギリスの「The Institute of Brewing and Distilling」という業界団体が推奨する方法のようです(同法人のサイトには分析法の詳細が記載されているようですが、会員制サイトなのでIDとPWがなければアクセスができません。残念…)。 モルトスターは、IoB Method以外にもThe American Society of Brewing Chemists(ASBC)、The European Brewing Convention(EBC)という業界団体が推奨する分析法を使っていることもわかりました。国や業界(ビール、ウイスキー、ワインなどなど)ごとに基準があるようです(以上、測定方法については、しっかりとした「裏取り」はしていないうえでの記述であることをお含みおきください)。 ただしそもそも、こうしたモルトスターや蒸留所が、どのようにサンプリング(試料採取)しているのか、1回の測定に使用するモルトは何グラムか、どのような試薬を使って対象化合物を抽出するのかなどの測定手順やルールは公表されていません。微量成分の分析を行うのであれば、モルトスター間で分析手法を統一しなければ、測定データのバラツキが大きくなってしまいますが、それも不明です。 このように考えると、誤解をおそれずに言えば、本当にモルトスターや蒸溜所が(フェノール値の)濃度をきちんと測定しているのだろうか、データの信ぴょう性はどうなのかという疑問すら生じます。 9.結び 本稿を締めくくるにあたっては、やはり、安部氏の言葉を紹介しておきたいと思います。 「個人的には、やはりピートの焚き具合でppm値を決めていると思いたい。そのほうがサイエンスの手法で数値をはじき出すよりも、家内制手工業的なウイスキー製造にロマンを感じるからです。自社でフロアモルティングをやっている蒸溜所に、GC/TOFMSのような最新の分析装置がセッティングされていたら興ざめじゃないですか」。 私もまったく同感です。ウイスキーは数字で楽しむ(飲む)ものではないと思います。ウイスキーが嗜好品である以上、何でも機械や科学で決めてしまうより、蒸留所の職人たちが長年の経験を活かして、原材料や仕込み水、発酵条件、樽や熟成期間、風土等という様々な「偶然」と向き合いながら造る方が、より魅力的なウイスキーが出来ると信じています。 【御礼】この稿の作成にあたっては、本文中にも紹介したサイエンス・ライティングに詳しい安部祥輔氏のほか、堀正明氏(ウイスキー文化研究所認定ウイスキーセミナー講師)、大北賜氏(大阪「リトル・バー」マスター、※現在は「マスター・オブ・ウイスキー」)の御三方に貴重な情報、ご助言を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/03/08
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先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) チェリー・ブランデー30ml、ブランデー20ml、オレンジ・キュラソー10ml、レモン果汁5ml、グレナディン・シロップ5ml ※田尾氏(故人)がオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、「パリ」と改名)で誕生した伝わっている。カクテル「横浜」と同様、欧州航路の客船を通じてロンドンやパリなどの欧州の大都市にも伝わった。サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されている。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
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神戸には、今はもう姿を消した伝説的なBARがいくつもある。「ルル」「ギルビー」「サンシャイン」「マダムマルソー」「キングズ・アームズ」…そして、忘れてはならないのが「コウベハイボール」(「神戸ハイボール」ではなく、こう名乗った)。 その多くは、バブル期の地上げや後継者難で、さらに、追い打ちをかけたあの阪神大震災での被害のために、閉店を余儀なくされた。そうした伝説的なBARに出入りする機会が持てた私はある意味幸せだったが、店がなくなってしまった今では、寂しさばかりが募る。 とくに、最後に名をあげた「コウベハイボール」。私が神戸で仕事をしていた頃、勤め先があったビル(神戸朝日会館)の地下にあったので足繁く通った、とても想い出深いオーセンティックBARである(ついでに言えば、同じビルの地下にあった「銀串」という焼鳥屋にもよくお邪魔した。老夫婦が営む味わいある店だった)。 「コウベハイボール」は昭和29年(1954)の開業。店は平日、午後3時にはオープンしていた。私は夕方を待ちかねたように、同僚らと会社をそっと抜け出しては地下へ下り、スイング式のドアを開けた。スタンディングのカウンターはいつも、6時前にはもう客が溢れていた。 大阪キタにある「北新地サンボア」で先日、そんな「コウベハイボール」の想い出話をしていたら、お店の方が「昔の写真、ありますよ」と数枚のプリントを見せてくれた。セピア色の写真には、もっとも円熟していた頃の「コウベハイボール」(写真左上)と、マスターの河村親一さん(写真右&左下)が紛れもなく写っていた。 この古き良き酒場の情景を皆さんにも見て欲しいと思って、接写させてもらったのがこの日記でも紹介した3枚。どれも、私にとっては、懐かしさで涙が出そうなほどの情景だ 河村さんはいつも白いバーコートに蝶ネクタイというスタイル。あまり笑わない、寡黙なマスターだったが、仕事は何もかも超一流だった。お店の名物の「ハイボール」は、きんきんに冷やしたサントリー・ホワイトとウイルキンソン炭酸でつくる。 今はなき「神戸サンボア」の歴史を受け継いだお店とあって、河村さんは氷なしのサンボアスタイルを継承したが、これが絶妙の旨さだった(当時1杯確か400円)。ついでに言えば、付きだしで供されるカレー風味のピクルス、これがまた美味だった。 酒場でのマナーにも厳しい人だった。大声を出したり、騒いだりする客には厳しく注意したし、スタンディングのカウンターはできるだけ多くの客が飲めるようにと、いつも気を遣い、客に声をかけていた。は、この「コウベハイボール」でBARという場所での大人の飲み方や、酒場でのマナーを学んだと言っても過言ではない。 「コウベハイボール」は、入居していたビル(朝日会館)の建て替えにぶつかった1990年、惜しまれながら、半世紀近い歴史に幕を閉じた。当時まだ68歳の河村さんだったが、後継者がいないこともあって建て替え後のビルには入らず、一代で店を閉じる決断をした。 最終日には、「コウベハイボール」に通い詰めた客たち(僕もその場にいた)が、古き良き酒場に悲しいお別れをした。私は友人らと費用を出し合い、河村さんに花を贈った(河村さんは1995年頃、一度お会いしたが、その後の詳しい消息は知らない)。 「コウベハイボール」のバック・バーの棚は幸い、しばらくの時を経て、冒頭、写真を見せてもらった「北新地サンボア」(大阪市北区曽根崎新地1-9-25 電話06-6344-5945)に移設された=写真右(オーナーのSさんの情熱のおかげだ)。 大阪に、「コウベハイボール」の想い出に浸れる空間があることはとても嬉しいが、個人的には、「コウベハイボール」という素晴らしい空間(酒場)がこの世から消えたことが痛恨というか、残念でならない。 古き良き酒場のない都会(街)には、私はほとんど魅力を感じない。人の匂いも、潤いも、温かさも感じられない、そんな街には私は住みたくない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/10
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関西発祥のBARグループである「サンボア・グループ」については、以前もたびたび取り上げたので、皆さんもよくご存知かと思う。だが、関西にはもう一つ、「Savoy」というBARが核となったBARグループが神戸と大阪にある。 グループの原点であるBar「Savoy」はついては、かつてこの日記でも二度ほど紹介した(05年12月28日の日記 & 06年12月27日の日記)が、1967年(昭和42年)、小林省三マスター=写真右=が創業した。関西のBAR業界の先達として、カクテル文化の定着や後進の指導に大きな功績を残されたが、残念ながら店は2006年12月、多くのSavoyファンに惜しまれつつ約40年の歴史に幕を閉じた。 しかし嬉しいことに、小林マスターの右腕として、34年間Bar「Savoy」を支えてきた木村義久さんが2002年に独立され、Bar「Savoy北野坂」=写真左=を一足早くオープンされた。店は「Savoy」本店が幕を閉じてしばらくした後、店名をBar「Savoy」に戻した。今では「Savoy」グループを支える柱となっているだけでなく、神戸を代表するオーセンティックBARの1軒でもある。 新「Savoy」では、「サン・エキスポ」=写真左下=など小林さんのオリジナル・カクテルを後世に伝えるとともに、木村マスターがサントリー・カクテルコンペで優勝したオリジナル「ソルクバーノ」ももちろん味わえる(写真右=Bar・Savoyの店内)。 小林さんや木村さんは、店で弟子を育てるだけでなく、「独り立ち」を積極的に支援してきた。その結果、Savoyグループは現在、神戸にBar「Savoy」をはじめ、Bar「Puerto」(写真右下)、Bar「Savoy Hommage」(写真左下)、Bar「Savoy Nino」、Bar「SONORA」の5店、大阪にBar「Savoy Osaka」と計6店を擁するBARグループに発展している(このうち「SONORA」と「Savoy Osaka」は、独立した営業をしている)。 SavoyグループのBARは、当然ながら、店ごとに個性的で、特徴が異なる。「Puerto」はワンコインBAR(ノーチャージで、どのお酒も嬉しい1杯500円均一!)、「Hommage」はどこかの家の応接間のように落ち着いた雰囲気で、トークが抜群のMマスターの素晴らしいとカクテルが楽しめる。 「Nino」(写真左下=通りにあるこの看板が目印)はこじんまりしたBARだが、女性店長Iさんの優しい接客にいつも癒される。路地裏の突き当たりにあるというロケーションもいい。 「SONORA」(写真右下)は「Puerto」で人気者だったKマスターが独立した店。飾らない人柄と誠実な接客・サービスが嬉しい。店の内装はSavoyグループでは一番明るく、ラテン系な雰囲気。 大阪にある「Savoy Osaka」は以前この日記でもいち早く紹介(08年8月10日の日記)したが、フードが充実し、シェリーの品揃えもよく、BARとバルの中間のような使い方ができる、嬉しい店だ。Hマスターはまだ若いのに研究熱心で、工夫を凝らしたオリジナル・カクテルも魅力的だ(僕の仕事場からも近くて、お値段もリーズナブルなのも有り難い)。 いずれも店の店主、バーテンダー、バーテンドレスにも共通して言えることは、どなたも気さくで、接客が温かいということ。これはおそらく小林さん、木村さんの後進教育のたまものだろう。 唯一、個人的に残念なことは、グループの店のほとんどが神戸の三宮、元町エリアに集中していることか。できれば、今後お弟子さんが独立される際は、ぜひ大阪や京都にももっと進出してほしい。そして、ゆくゆくは東京へも出店して、「関西にSavoyあり」の存在感を見せてあげてほしいと願う(写真右=Bar・Savoy Osaka)。 なお、小林さんは「Savoy」を閉じられた後、しばらく「Puerto」などのカウンターに週数回立たれていた。最近は少し体調を崩されてるが、現在は、調子が良い時は「Hommage」のカウンターに不定期で接客されているという(個人的にも、早くもっと元気になっていただきたい)。小林さんと再会されたい方は、Hommageに電話でご確認のうえ、お越しください。 【Bar Savoy】神戸市中央区中山手通1-7-20 第3天成ビル4F 078-331-8977 【Bar Puerto】神戸市中央区元町通2-2-7 尾上ビル2F 331-8654 【Bar Savoy Hommage】神戸市中央区下山手通5-8-14 341-1208 【Bar Savoy Nino】神戸市中央区三宮町3-9-4 331-2275 【Bar SONORA】神戸市中央区下山手通2-4-13 永都ビル3F 392-6715 【Bar Savoy Osaka】大阪市西区江戸堀1-1-9 06-6445-2077(営業時間、定休日等は各店へお尋ねください) 【追記1】20100109ネットであれこれ調べていたら、「Savoy」という名前を使ったBARは全国に他にも6カ所あることを知った。このうち秋田、新潟、四日市、福岡(博多)の4つはBARで、厚木とつくばの2軒はライブBAR(ライブハウス?)だった。いずれにしても、神戸のSavoyより歴史が古いということはなかろう。同じ名前を気軽に使うのはいかがなものかと思うけれどねぇ…(もちろん「本家のSavoyもあのSavoy Hotelの名前を勝手に使っているじゃないか」と言われたら、反論は難しいのかもしれないけれど…)。 【追記2】小林省三氏は大変残念ながら2015年10月に天上に旅立たれました。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/12/29
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◆(2)禁酒法施行下、実際の社会、暮らしはどうなったか 禁酒法を具体化した「ボルステッド法」が禁止の対象としたのは、飲用目的での0.5%以上のアルコール分を含む酒の製造、販売(供給)、交換、運搬・配達、輸出入、所有(自宅以外の場所で他人が飲む目的での)でした。 禁酒法反対派への妥協策として、家庭内で個人が飲むためのアルコールの消費(飲酒)までは禁止されませんでした。おまけに、法成立から実際の施行までは約1年の猶予期間が設けられました。 そこで、経済的に余裕のある富裕層の多くは、施行前に酒を大量に買い占めて自宅に保管したのです。一般家庭でも可能な範囲で買いだめに走りました。高級なレストラン・クラブ、バーでは、違法と知りつつも向こう5年や10年は十分提供できるくらいの酒を大量にストックするところもありました(A、B)。 また、飲用アルコールがすべて製造禁止になった訳ではありません。例外として、医師が医療用に処方するアルコールは認められました(「食欲促進・消化促進の効用」や「利尿作用」が認められていたビール等)(写真左=摘発されて路上で廃棄される密造酒。場所や撮影年月日は不明) ドラッグストアが、「医薬品(For Medicinal Purposes Only)」としてウイスキー、ビールなどの酒類を販売することも許可されました。すなわち一般市民は、医師の処方箋代(約2ドル)を払えば、薬局で堂々と酒を購入することができたわけです。 さらに、聖職者が儀式で使うアルコール(ワインやブランデー)や、煙草製造の過程で使うアルコール(ラム等)の製造も認められ、農家などが自家消費のためのワインやリンゴ酒(シードル)を造り、飲用することも禁止されませんでした(年750リットルまで許可)(WK)。つまり、禁酒法と言っても、実態は抜け穴だらけの「ザル法」だったのです。 これまで紹介してきたように、家庭内で個人が飲むための所有は合法でしたが、その酒のボトルは、あくまで「禁酒法施行前に製造・販売されたもの」でなければなりませんでした。 法施行後に製造されたものは、例外規定の酒以外すべて「禁制品」でした。家庭内であっても、見つかれば没収・処罰の対象となりました(しかし実際、取締官が一般家庭にまで踏み込んで摘発したという話はほとんど伝わっていません)。 それでも人間というものは、法律で規制されれば、あらゆる知恵を絞ってその「抜け穴」を探すものです。密造・密輸されたウイスキーなどには、「1910年製造」などという「偽シール」が貼られたものが多かったといいます(B)。富裕層の間では、禁酒法施行後、自宅内を改造してホーム・バーを造るのがブームになりました。 酒のボトルを収納・陳列する応接間用の専用キャビネット(家具)が相次いで考案され、販売されたのもこの時期です。自家製蒸留器・醸造器までも考案・販売されました(A、B)。 一方、正規の酒屋(リカーストア)は、当然ながら廃業に追い込まれるところが相次ぎました(A)。ドラッグストアや雑貨屋に宗旨替えするところもあったそうです(写真右=密輸途中に見つかり、沿岸警備隊から攻撃を受けて炎上する船。密輸船は「ラム・ランナー」とも呼ばれた)。 富裕層の人たちは、カナダから密輸された正規品のライ・ウイスキー(一瓶12ドル)やシャンパン(同20ドル)が買えたわけですが、裕福でない労働者階級の人達にとっては、正規品を手に入れる経済的余裕もなく、禁酒法は辛く厳しいものでした。 この時代、米国の全世帯の平均年収は約2600ドルでしたが、国民の3分の2を占める労働者階級の半数は、年収1000ドル以下でした。法施行とともに、密輸酒・密造酒は2~6倍に高騰(1クォート=約0.95リットル=の価格がビールで約80セント、ジンで約6ドル、コーン・ウイスキーが約4ドルも)し、一般庶民には簡単に手が届くものではなくなり、毎日酒を楽しむことなど夢のような話になりました(A、B)。 禁酒法時代の米国民のアルコール消費量について、現代の私たちは、「政府による規制への反発もあって法施行後は、法施行前と比べかえって消費量は多くなった」という説をこれまで聞いていました(この説を裏付けるデータは何だったのかはわかりません)。 しかし、最近の専門家の研究によれば、事実は必ずしもそうではなかったようです。酒類の入手の難しさや、闇市場での価格高騰もあって、米国民全体のアルコール消費量は、1920~30年の年平均でみても、禁酒施行前の半分に減ったといいます。アルコール消費量が増えたのは、経済的に余裕のあった上・中流階級の人たちに限った話だったというのです(B)。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/05
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その3:店へ行く時&店に入ったら ◆服装について BAR(ここで言う「BAR」とはオーセンティックBARを指す)は日常を忘れて、静かな雰囲気で、美味しい酒と会話を楽しむ空間だ。言葉を換えれば、非日常を楽しむ「ハレ」の場所である。オーセンティックと言っても、高級ホテルのカクテル・パーティーではない。だから「ドレス・コード」がある訳ではない。 しかしオーセンティックBARにデビューするということは、貴方はいっぱしの社会人、大人の仲間入りをするということだ。大人の世界には、TPOに合わせた大人のマナー、ルールというものがある。「ハレ」の場所を訪れるからには、TPOに合わせた、常識ある、センスある服装で行きたい。 上はTシャツやタンクトップ1枚、下はジーンズや半パンツにサンダルなんて格好で行っても、日本では高級ホテルならいざ知らず、街場のBARで入店を断われることはまずないだろう。ただし、海外ならスタンダードクラスのホテルのBARでも、入店拒否に遭うこともあるので要注意! だが、たとえ入店が認められたとしても、貴方の品性はその時点で「NGの烙印」を押されている。 別にスーツで行く必要はない。ネクタイ着用でなければならないこともない。しかし、ウイーク・デーなら、やはり「きちんとした服装」で飲みたい(なお土・日も開けているBARにウイーク・エンドに行く場合は、カジュアルな格好=許容範囲はあるが=でも構わない)。 ◆勝手に座らない BARのドアをいったん開ければ、そこは他人の家と同じ。自分の家のように勝手に振る舞うのは許されない。カウンターに幾つか空いている席があっても、勝手に座るのはBARのルール違反である。 貴方が座った席は予約席かもしれない。後から遅れて来るお連れ客のために、店側がキープしている席かもしれない。マスターは常にその夜の客と席の配置のことを考えている。新たな客が来た場合も想定して、「常連なら、とりあえず端っこの席でも我慢してもらえる」「タバコをよく吸われる客ならば、同じく喫煙されてる客の隣に」「まったく初めてのお客さんはここに」などと、あれこれ考えている。 斯様(かよう)に、店側にもいろいろと都合がある。たとえカウンターに誰一人なく、貴方がその夜の最初の客であったとしても、どんなに常連であったとしても、勝手に空いている椅子に座わるのはよくない。マスターやバーテンダーさんの指示があるまで待つのが、BARのルールであり、客のマナーだ。 店に入ったらなるべく、客の入りに関係なく、マスターやバーテンダーさんに「どこがいいですか?」と座る場所を尋ねよう。貴方がそう言えば、初対面であるの店の人は、貴方に対して「とてもマナーのいいお客さんだなぁ」と良い第一印象を持つこと間違いない。BARに馴れてくれば、貴方とお店の方との目と目の会話だけで、座る席が分かるようになる。そういうレベルになれば貴方はもう一人前だ。 ◆最低限の挨拶はしよう 普通の社会生活でも、会社でも、初対面の方には「はじめまして、よろしくお願いします」と挨拶するはずだ。初めてのBARでも同じこと。マスターもバーテンダーも初対面の人だ。店に入ったらまず、「こんばんは」ときちんと挨拶しよう。それが大人のマナーだ。 客に慣れている店の人たちだって、初めての客を前にして、少しは緊張している。「こんばんは」とか「初めてですが、いいですか?」などとちょっと一言話せば、空気は一気に和らぐ。相手との距離もぐっと縮まる。相手も貴方のことを「紳士」として認めてくれる。何事も最初が肝心。気持ちよい挨拶でその夜が始まれば、その後のマスターやバーテンダーとの会話もきっと弾むはずだ。 ◆万一、このBARは馴染めないと思ったら ドアを開けた時の雰囲気で、「ちょっとこの店は合わない、馴染めない、イメージがまったく違う」と思うこともある。うらんかんろにも、そういう時がある。そういう時の選択肢は2つだ。我慢して取りあえずそのBARで飲んでみるか、退くか、である。居てみると意外と良かったなんてこともあるが、いつもそうなるという保証はない。 貴方が明らかに、「(そのBARを)私の好みじゃないなぁ」と思った時には、無理をすることはない。静かにドアを閉じて、礼儀正しくその店を後にすればいい。ただし、立ち去る際には「すみません、(店を)間違えたようです」と言うくらいのエチケットは忘れないでいたい。 言わずもがなだが、もう席に座ってしまってからの「やっぱりやめます」は、いくら何でも不細工なマナーで、御法度だ。決断は早めに。席についてしまったら、とにかく1杯は飲むべし。どんなに貴方に合わない店でも、殺されることはない(笑)。【その4へ続く】【おことわり】写真と本文内容は直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/17
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43.ジャパニーズ・カクテル(Japanese Cocktail)/ミカド(Mikado)【現代標準的なレシピ】ブランデー(またはコニャック)(40)、ライム・ジュース(10)、オルジェート(「オルゲート」と表記する場合も)・シロップ(10)【注1】、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ツイスト 氷(ロング・スタイルの時) ※ライム・ジュースを入れないレシピもある 【スタイル】シェイクまたはステア “カクテルの父”とも言われる、かのジェリー・トーマス(Jerry Thomas)が1860年頃に考案し、世界初の体系的カクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)にも登場する歴史的かつ由緒あるカクテルです。国の名前がついたカクテルの中でも、最も歴史が古いカクテルと言われています。 トーマスが考案したオリジナル・レシピは、「ブランデー1Wineglass、オルジェート・シロップ1tsp、ビターズ2分の1tsp、レモン・ピール→タンブラーに注いでステア」となっています。 1860年と言えば、日本はまだ開国まもない混乱期で、攘夷の嵐が吹き荒れていた時代。そんな頃、なぜ米国で「日本の」という名が付いたカクテルが誕生したのでしょうか--。この理由については、洋酒研究家・石倉一雄氏が、近年まで「謎」に包まれていたその由来を解き明かしてくれています(石倉氏の玉稿「日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド」をご参照。→ Webサイト「Food Watch Japan」= http://www.foodwatch.jp/column/ =で連載)。 石倉氏によれば、1860年当時、ニューヨークのマンハッタンにあった「パレス・バー」でチーフ・バーテンダーとして働いていたトーマスが考案し、名前の由来には、なんと徳川幕府が1860年(安政7年、3月に「万延」元年に改元)に派遣した訪米使節団が大きく関係していているということです。トーマス自身、ニューヨークを訪れたサムライ姿の使節団の姿を目撃し、インスピレーションを得たとも言われています。 しかし、カクテルはブランデーがベースで、他の材料にも日本的なものは一つもないのに、なぜ「ジャパニーズ・カクテル」なのでしょうか? 石倉氏は、トーマスは、このカクテルの材料の一つ「オルジェート・シロップ」に使われている杏(あんず)の核(仁)の香りに、「オリエンタルなイメージ」を強く抱いたのではないか、そして、1850年代から米国西海岸に増え始めた中国人移民が持ち込んだ紹興酒の味わいに「ジャパニーズ」的なイメージを感じ、紹興酒に似た味わいのカクテルを西洋の酒で再現しようとしたのではないかと推察しています。 もちろん、「紹興酒は中国の酒じゃないのか?」と思われる方も多いでしょう。しかし、この当時の一般的な米国人は、中国と日本の区別はほとんどつかず、日本は中国の一部だと考えていた人がほとんどでした。なので、トーマスが紹興酒を日本の酒と考えたとしても不思議ではありません(詳しくはぜひ、石倉氏による渾身の論考をお読みください)。 ジャパニーズ・カクテルはその後欧州へも伝わり、当初は「ジャパニーズ・カクテル」の名で紹介されていました。しかし1885年、日本を舞台にした「ミカド(Mikado)」というオペレッタが、ロンドンの「サヴォイ・シアター」で上演され大ヒットすると、「ジャパニーズ→ミカド」という連想から、いつしか「ミカド・カクテル」と呼ばれることが多くなったということです。「ミカド」はその後、米国でも上演されるなど欧米でロングランの大ヒットとなりました。 ご参考までに、トーマスの本以降に出版されたカクテルブックでの「ジャパニーズ・カクテル」の扱いを見ておきましょう。・「Bartender’s Manual」(ハリー・ジョンソン著、1882年初版、1934年再版、2008年復刻版刊)米 ブランデー1グラス、ボウカーズ・ビター【注2】2~3dash、オルゲート・シロップ2~3dash、マラスキーノ2dash、レモン・ピール・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年初版、2009年復刻再刊)米 コニャック1グラス、アンゴスチュラ・ビターズ3dash、オルゲート・シロップ4分の1tsp、レモン・ピール・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年初版、2008年復刻版刊)米 ※Japanese Cocktailの名での収録はないが、Japanese Punch(ブランデー2分の1、アラック【注3】2分の1、ライム・ジュース半個分、シュガー1tsp、紅茶適量)、Mikado Punch(セント・クロワ・ラム【注4】2分の1、ブランデー2分の1、レモン・ジュース半個分、シュガー1tsp)という2種類が掲載されている。・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著 1908年刊行、1934年再版)米(ジャパニーズ・カクテル、ミカドの双方が登場) ★ジャパニーズ・カクテル → ブランデー1ジガー、オレンジ・ビターズ2dash、オルゲート・シロップ1tsp、(アンゴスチュラ?・)ビターズ2drops、レモン・ピール(同書では、ジン・ベース=3分の2ジガー=に替えた「ジャパニーズNo.2」というカクテルも収録されている) ★ミカド → ブランデー3分の2ジガー、キュラソー2dash、オルゲート・シロップ2dash、クレーム・ド・ノワヨー【注5】2dash、ビターズ2drops、レモン・ピール・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザーズ編、1912年初版、2008年復刻版刊)米 & ・「173 Pre-Prohibition Cocktails」 &「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊、2001年&2006年再刊)米 → 収録なし・「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)英 ブランデー1グラス、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、オルゲート・シロップ1tsp(ティー・スプーン)、シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、チェリーを飾る・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著 1930年刊)英 Mikado(ミカド)の名で登場 → ブランデー2分の1グラス、キュラソー2dash、オルゲート・シロップ2dash、クレーム・ド・ノワヨー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 Mikado(ミカド)の名で登場 → ブランデー2オンス、クレーム・ド・カカオ2分の1tsp、キュラソー2分の1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ2dash ※「ジャパニーズ・フィズの名で以下のレシピのカクテルも登場 → ライ・ウイスキーまたはバーボン・ウイスキー1.5オンス、ポート・ワイン2分の1オンス、レモン・ジュース半個分、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分、ソーダ適量・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 → 収録なし・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米ブランデー1ジガー、オルゲート・シロップ2dash、ボウカーズ・ビターズ1dash、レモン・ピール・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英ブランデー4分の3、オルゲート・シロップ4分の1、ボウカーズ・ビターズ2dash、レモン・ピール・「Trader Vic’s Bartender’s Guide」(ビクター・バージェロン著 1947年刊)米 → 収録なし 「ジャパニーズ・カクテル」は日本には、少なくとも1920年代前半までには伝わり、日本初のカクテルブックと言われる、「カクテル(混合酒調合法)」(秋山徳蔵著、1924年刊)や「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)=に登場します。※同時期に出版された両著ですが、レシピはかなり異なっています。秋山氏のレシピはトーマスの本にルーツを持ち、前田氏のレシピは、サヴォイ・カクテルブックとほぼ同じです。 その後、30年代以降に日本で出版された幾つかのカクテルブックにも「ジャパニーズ・カクテル」または「ミカド」の名で登場します。ただし、せっかく「日本」にちなむカクテルなのに、現代の日本のバーでは残念ながらほとんど知られていません(「オルジェート・シロップ」という若干ややこしい材料のせいでしょうか?)。カクテル名も、現代のカクテルブックやWeb専門サイトにおいてもなお、「ジャパニーズ・カクテル」「ミカド」の両方が混在しています。 なお、「ジャパニーズ・カクテル」には、その後さまざまなバーテンダーによって、多くのバリエーション(20種類近くも!)が生み出されています(代表的なバリエーションの一つは、「ブランデー50ml、クレーム・ド・カカオ1tsp、オレンジ・キュラソー1tsp、シロップ0.5tsp、アロマチック・ビターズ1dash」です)。 また、「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著、1954年刊)にはウイスキー・ベースの、さらに「JBAカクテルブック」(1963年刊)と「すてきな夜にはカクテル」(木村与三男著、1983年刊)にはジン・ベースの「ジャパニーズ・カクテル」がそれぞれ収録されていますが、そのルーツはよく分かっていません。 【注1】「オルジェート(Orgeat)・シロップ」:ナッツの香りが特徴のビター・アーモンド・シロップのこと。19世紀後半から20世紀初頭の欧米のカクテルにはしばしば使用された。Orgeatとは仏語で「アーモンド」の意だが、このOrgeatは普通のアーモンドではなく、杏仁(杏の核)のことを指す。現在でも「MONIN(モナン)」社のシロップ・シリーズで入手可能だが、原材料に杏仁がどの程度使われているかどうかは不明。 【注2】「ボウカーズ・ビター(Boker's Bitter)」は、1828年にドイツ系米国人のジョン(ヨハン)・ボウカーが製造・販売を始めたビターの銘柄。かのジェリー・トーマスもいくつかのカクテルで使用している。1920年代に一時製造中止となったが、近年、その味わいを再現した製品が再発売されている。 【注3】アラック(Arrack)とは、中近東からアジアにかけて、現在でも幅広く造られている蒸留酒。原料は米やサトウキビ、ナツメヤシ、ジャガイモ、ヤシの花穂など。 【注4】カリブ海の米領ヴァージン諸島の「セント・クロワ(St.Croix)島」産のラムのこと。 【注5】「クレーム・ド・ノワヨー(Crème de Noyaux)」=ノワイヨーとも表記される=は、桃や杏の核を主成分とするリキュール。アーモンドの風味を持つ。 【確認できる日本初出資料】カクテル(混合酒調合法)(秋山徳蔵著、1924年刊)、コクテール(前田米吉著、1924年刊)。
2017/04/02
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バーUKは本日29日(水)、第43回「テイスティングの集い」(テーマ「マイナーな蒸留所のモルトウイスキー飲み比べ」)開催のため、原則として貸切営業となります。何卒ご了承くださいませ。Today( May 29th ) the bar UK is fully booked for our private whisky-tasting seminar.
2024/05/29
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最近立て続けに観た3作の邦画について、取り急ぎ感想と独断での評価(★5つで満点)を--(それにしても、映画も結構観ているんだけど、この日記で映画評を書くのはほんとに久しぶりだなぁ…さぼっていて、すみません)。※「あらすじ」部分のデータは公式HP等から引用しました。多謝です! ◆八日目の蝉 <あらすじ>不倫相手の子を堕胎し、その後捨てられた野々宮希和子は、その不倫相手である秋山丈博と妻の間に生まれた生後6カ月の恵理菜を誘拐する。そして、姿を隠しながら恵理菜を育てるが、4年間の逃亡の末、ついに小豆島で逮捕される。映画はこの希和子の判決の場面から始まり、現在の恵理菜と、過去の事件(回想)が平行して描かれる。 法廷で求刑が告げられた後、希和子は静かにこう述べた。「4年間、子育ての喜びを味わわせてもらったことを感謝します」と。一方、21歳の大学生となった恵理菜は、解放後、初めて実の両親に会ったが、「私たちこそが正真正銘の家族だ」と言われても実感が持てなかった。誰にもあまり心を開くことなく、恵理菜は家を出て一人暮らしを始める。 そんな中、岸田という妻子のある男に出会い、好きになったが、ある日、自分が妊娠していることに気づいた恵理菜の心は揺れる。そんな頃、恵理菜のバイト先に安藤千草という女性ルポライターがたびたび訪ねてくる。千草はあの誘拐事件を本にしたいという。恵理菜は放っておいて欲しいと思いながらも、なぜか千草を拒絶することが出来なかった。千草に励まされながら、恵理菜は今までの人生を確認するように、希和子との逃亡生活をたどる旅に出る。 直木賞作家・角田光代の原作小説を、井上真央、永作博美の主演で映画化したヒューマンサスペンス。監督は「孤高のメス」の成島出。 <評> ★3つ 結末にはあえて触れないが、映画の結末は原作とほぼ同じだという。そして、タイトルの意味も含め、いろんな解釈がネット上で飛び交っている映画でもある。そして映画を観た僕も、原作者や監督は結局何が訴えたかったのか、何を描きたかったのかがよく分からなかった(それくらい、観る人によって解釈が分かれる、難解な映画である)。 4歳まで愛情を持って大事に育てられれば、たとえそれが容疑者であっても、完全な憎しみなんて持ち得ないだろう。それが一つのテーマであれば、なぜ出所後の希和子と恵理菜を再会させなかったのか、疑問が残る(原作では、少しだけ再会する場面が描かれているというが)。 子どもをさらったのは、いくら「捨てた相手への復讐だ」「赤ちゃんを見て愛情が沸いた」とか言い訳しても、犯罪には変わりない。だが、希和子だけに罰を与え、元々の原因をつくった勝手な男どもに何ら教訓(罰)を与えていないことにも、説得力を欠く。 原作はどうなんだろう? 僕には、尻切れトンボのようなシーンで終わったことも含め、欲求不満が残る映画と言うしかない。映画は、やはりエンターテイメントである。小説としてはそれなりによくできた作品だったのかもしれないが、結局は、映画化するには無理があったのだろう。まぁ、ヒマならレンタルで借りて一度ご覧ください(永作博美の演技だけは絶品です)。 ◆阪急電車~片道15分の奇跡~ <あらすじ>ある日、結婚式に出席したOLの翔子は、花嫁と見間違えるような純白のドレスで現れ、新郎新婦を唖然とさせる。それは、彼女の復讐だった。会社の同僚でもある婚約者を後輩に寝取られた翔子。別れ話を切り出してきた婚約者に出した条件が、結婚式への出席だった。 披露宴会場を後にした翔子は、帰宅途中の電車で1人の老婦人が声をかけてくる。その老婦人とは、曲がったことの嫌いな時江だった。孫の亜美と電車に乗っていたところ、純白のドレスに引き出物というチグハグないでたちの翔子が気になって、声をかけたのだった。 女子大生ミサの悩みは、恋人カツヤのDV。2人で同棲するための物件を見に行く途中、電車に乗り合わせたドレス姿の翔子のことを話しているうちに口論となり、カツヤはミサを突き飛ばして降りてしまう。それを見ていた時江が吐き捨てた「くだらない男ね」という言葉で、ミサは別れを決意するが…。 また、セレブ気取りの奥様グループに嫌々付き合っている庶民派主婦の康江は、今日も高級レストランでのランチに誘われ、胃痛を我慢して出かける。電車内で傍若無人に振舞う奥様グループに肩身の狭い思いをしていたのだが。 一方、地方出身で都会の雰囲気に馴染めない大学生の権田原美帆と圭一。ある日、電車の中で出会った2人だったが、その距離は近づくのだろうか。また、大学受験を控えた女子高生の悦子は、人はいいがアホな社会人の竜太と付き合っている。プラトニックな関係は保ち続けていたが、ある日、高校の担任から第一志望の大学は難しいと言われ、自暴自棄になって竜太とラブホテルに向かう。 「フリーター、家を買う。」「図書館戦争」などで知られる人気作家・有川浩の原作小説を映画化。兵庫・宝塚市の宝塚駅から西宮市の今津駅までを結ぶ阪急今津線を舞台に、婚約中の恋人を後輩社員に奪われたアラサーOL、恋人のDVに悩む女子大生、息子夫婦との関係がぎくしゃくしている老婦人らの人生が交錯する。片道15分のローカル線で起きる小さな奇跡の数々を描くヒューマンドラマ(監督は関西テレビ出身のドラマ演出家で、この作品が映画監督デビュー作となる三宅喜重)。 <評> ★4つ半 映画の舞台である阪急・今津線は、兵庫県の阪神地域に住む僕にとっても身近な路線である。映画に登場するシーンも馴染みのところがほとんど。これは観に行くしかないと思って出かけた。 映画自体は、どうってことないいくつかの話をつなぎ合わせたオムニバス映画なのだが、それがみんな、微妙に絡み合っていて結末につながっていく。テンポがよくて、構成(演出)が上手いので、原作の映画化としてはとても成功しているだろう。一言で言えば、観た後、あったかい気持ちになれる、後味のとてもいい映画だ。こういう結末のオムニバス映画は、以前に観た「大停電の夜に」にも似ているが、それ以上の出来だと思う。 出演者について言えば、一番輝いていたのは、他でもない老婦人(宮本信子)の孫役をしていた芦田愛菜ちゃん。この子は本当に凄い! 戸田恵理香、南果歩、玉山鉄二、谷村美月は関西出身なので、関西弁が自然で聞いていても気持ちがよかったが、宮本信子の関西弁は違和感がいっぱい(主演の中谷美紀は「関西以外の出身で、関西でOLしている」という設定らしいのでまぁ許そう)。 関西在住・関西出身者の方は必見の映画だと思うが、関西以外の方でも十分楽しめる上質のエンターテイメントだ。ぜひおすすめでーす(ちなみに僕は、この映画、出張先の東京・有楽町マリオン内の映画館で観ましたが、結構お客さん入っていましたぞ)。 ◆プリンセス トヨトミ <あらすじ>7月8日金曜日、午後4時――大阪が全停止した。遡ること4日前の月曜日。東京から大阪に3人の会計検査院調査官がやって来た。税金の無駄遣いを許さず、調査対象を徹底的に追い詰め“鬼の松平”として怖れられている松平元。その部下で、天性の勘で大きな仕事をやってのけ“ミラクル鳥居”と呼ばれている鳥居忠子、日仏のハーフでクールな新人エリート調査官、旭ゲーンズブール。 彼らは順調に大阪での実地調査を進め、次の調査団体のある空堀(からほり)商店街を訪れる。その商店街には、ちょっと変わった少年少女がいた。お好み焼き屋「太閤」を営む真田幸一と竹子夫婦の一人息子・真田大輔は、女の子になりたいという悩みを抱えていた。その幼馴染・橋場茶子は、大輔とは対照的に男勝りでいつも大輔を守っていた。 そんな商店街を訪れた調査員一行は、財団法人「OJO(大阪城跡整備機構)」に不信な点を感じる。だが、徹底的な調査を重ねるも、経理担当の長曽我部にのらりくらりとかわされ、諦め始めた鳥居も「これでOJOが嘘をついているとしたら、大阪中が口裏を合わせていることになりますよ」と不満をもらす。 そのとき、松平の脳裏にある考えが閃いた。「そうだ、大阪の全ての人間が口裏を合わせている」。意を決して再びOJOを訪れた松平の前に現れたのは、お好み焼き屋「太閤」の主人・真田幸一。そして「私は大阪国総理大臣、真田幸一です」と発せられたその言葉に松平は耳を疑った。 「鴨川ホルモー」などで知られる人気作家・万城目学の直木賞候補になったベストセラーを映画化。1615年の大阪夏の陣で断絶したはずの豊臣家の末裔(まつえい)が今も生きつづけ、大阪の男たちは400年もの間その秘密を守り続けていた。国家予算が正しく使われているかを調査する会計検査院の精鋭3人は、ふとしたことからその真実を知ってしまい、大阪の公共機関や商業活動など、あらゆる機能が停止する一大事件に巻き込まれていく(監督は木村拓哉主演の「HERO」や、テレビドラマ「古畑任三郎」シリーズで知られる鈴木雅之)。 <評> ★4つ 関西を舞台にした映画が相次いでいる。なぜか分からないが、東京の映画関係者にとっては、エンターテイメントの舞台(テーマ)としての関西に、僕らの知らない魅力を見ているのだろう。それはともかく、「全編大阪ロケ」と銘打ったこの映画は大阪の名所がてんこ盛り(唯一、鶴橋が出てこなかったのは不満だが)。とくに関西以外の方におすすめしたい。 荒唐無稽過ぎるプロットが故、原作の小説や脚本としての評価はあえて避けるが、映画に出てくるような「大阪国民」が、徳川に滅ぼされた400年後も、豊臣家(秀吉)へのシンパシーを抱いているいるという点(大阪人だけじゃなく、僕も含めた関西人に広く共通するだろう)は、おそらくは東京人には理解できないものだろうが、濃淡の違いはあれ、それは大阪人(関西人)にとっては、「阪神タイガース愛」と共通するDNAと言ってもいいものだろう。 歴史に「たら・れば」はないが、もし秀吉が家康に勝って、大阪幕府が出来て大阪が首都がなっていたことを想像すると、僕は、やはり大阪はNo.2で良かったとつくづく思う。今回の東日本大震災が教えた一つの教訓は、やはり行き過ぎた一極集中はダメだということだ。大災害が起こった時のバックアップとして、やはり政治も経済も機能は出来る限り、二眼レフ化すべきだろう。 なお、映画としてはそれなりに面白かったが、キャスティングについては大いに異論がある。お好み焼屋の店主役でかつ「大阪国内閣総理大臣」役の中井貴一は重要な役柄だったが、大阪弁がやはり変! この役をやらせるなら、他にも例えば、豊川悦司、近藤正臣、内藤剛志、佐々木蔵之介のような、まともな関西弁をしゃべれる関西出身の俳優がいただだろう。あえて中井貴一を起用したのは理解に苦しむ(これは中井の妻役だった和久井映見についても言える)。この映画が画竜点睛を欠いたとしたら、この二人のキャスティングだろう。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/06/18
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拙著「今宵もBARへ…」の販売箇所として、先日、大阪キタの「Cluricaun(クルラホン)」というBARにも新たに置いてもらえる事いなった、と記しました。 読者の皆さんの中には、私がこれまで日記で一度も紹介しなかったBARだったので、不思議に思われた方もいるかもしれません。その通りで、私はこれまでこの「Cliricaun」のことは、匿名では触れたことはあっても、実名は一度も出しませんでした。 酒呑みというのは案外自分勝手な存在で、本当に心地のいい、心から落ち着けるBAR、そして、一人で行っても気兼ねなくくつろげるBARというのは、他人にはあまり教えたくないという傾向があります。私もその例外ではありません。 そんな訳で、私のBAR紹介ではずっと後回しになってきました。でも、この度拙著を置いてもらったことで、もはや隠す意味もあまりなくなりました。そして今回初めて「Cluricaun」を紹介します(「他人に教えたくない…」なんてタイトルを付けながら、紹介するなんてヘンかもしれないけれど…)。 Cluricaunとの出逢いは2002年の秋。たまたま見た雑誌に紹介されていたのがきっかけです。だから、20年、30年付き合うBARが多い私にとっては、意外と付き合いの歴史は新しいのです。しかし今では、わずか7年の付き合いとは自分でも思えないほど濃密な付き合いになり、最近の僕の出没頻度ではベスト3に入っています(ちなみに「Cluricaun」とはゲール語で「天使」の意味だとか)。 雑誌に出ていたCluricaunの写真を見て、私は直感で、「きっと素晴らしい何かがあるBARに違いない」と思いましたが、その予感通りの店でした。店は当初は、双子のマスター羽鳥さん兄弟で始められ、現在では兄の方の羽鳥滋順さんがマスターとして営んでおられます(優秀なバーテンドレスで、サブのHさんと絶妙のコンビで切り盛りしています【追記】Hさんはその後、退店しています)。 Cluricaunの凄さ、素晴らしさは、マスターがダイニングBARでのシェフ経験もあるので、料理の腕が一流であること(だからフードメニューが充実!)、そしてお酒はウイスキー、ワイン、リキュール、日本酒、焼酎など品揃えが半端じゃなく幅広いこと、さらにアーティスティックな感覚に溢れた空間(内装)です。ライティングは普通のオーセンティックBARにしてはやや暗めですが、温もりのある色合いです。 日本酒は、専用のセラーに常時40本ほどベスト・コンディションで用意されています。ワインも専用のセラーがあり、大きさからみると100本くらいは入っていそうです。おまけに羽鳥さんはソムリエの資格も持っているので、選ぶワインの質は確かです。 私が何よりも気に入っていて、高く評価しているのは、リーズナブルな料金設定だけではなく、付き出しを客がその夜何を飲むかによって、洋風または和風とアレンジしてくれるような細やかな心遣いです(しかもその付き出しもとても手の込んだ品!)。ここまで気遣いをしてくれるBARなんて、そうはありません。こういう店を「本物のBAR」と言うのでしょう。 接客もとても洗練されています。プロなら当たり前と言われそうですが、マスターは、話好きな客にはきちんと相手をして、そうでない客には適度な距離を保ってくれます。だから、ここのカウンターで呑む時間は、限りなく心癒されるひとときです。自然とCluricaunを訪れるのは独りであることが多くなります。 私は、Cluricaunではその夜の気分で、お酒を飲み分けます。モルトウイスキーだったり、焼酎や泡盛だったり、時にはシェリーやマール、グラッパだったり。Cluricaunには銘柄では置いていない酒も当然ありますが、(マスターに確認した訳ではありませんが)お酒の種類で置いていないものはないかも…。 こんなに好きなのは一言で言えば、マスターとも、店とも、そこに置いているお酒とも、私との相性が抜群に良かったからでしょう。まだ7年しかない付き合いなのに、私はもうどっぷりとCluricaunに浸かっています。 返す返すも、こんな居心地が良いBARは教えたくなかったのですが、Cluricaunの発展のためには、この店の素晴らしさをもっとたくさんの人に知ってほしいという気持ちもあります。難しいところですね(笑)。皆さんも、大阪キタにお出かけの際は、ぜひこの素晴らしい「Cluricaun World」に包まれて、美酒の数々を味わってみてください。【Bar・Cluricaun】大阪市北区曽根崎新地2丁目2-5 第3シンコービル4F 電話06-6344-8879 午後7時~午前2時 日休 地下鉄四ツ橋線・西梅田駅&JR東西線・北新地駅から徒歩数分(カウンター8席、テーブル席が4人用2つ、2人用1つ、3人用の半個室が1つと使い勝手のいい店でもあります)・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/06/14
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約1カ月ぶりのご無沙汰でしたが、Bar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 マスターはこの日、お客様から誘われて、シンガー・ソングライターのRay Yamadaさんのライブにお邪魔しました。ライブの後は、お客様3人と一緒に居酒屋へ。その店のメニューに「たこ焼きセット」なるものがあり、もちろん注文しました。関西人にはやはり、たまらない味です! バーUKのお酒のラインナップに初めて梅酒が仲間入りしました。しかし、そこは普通の梅酒ではありません。ウイスキー樽で熟成させた梅酒(95%)と梅酒樽熟成のグレーン・ウイスキー(5%)とをブレンドしたという「山崎・焙煎樽梅酒」です。甘さ控えめの上品な味わいです。ぜひ一度ご賞味を! 「初めて来られたお客様にバーUKのことをもっと知ってもらいたい」というマスターの願いを生かした小冊子(A6判、4頁)ができました。バーUKのコンセプトや特徴、主なドリンク&フードメニュー、そして営業日・営業時間等のデータも紹介しています。もちろん、口コミの大切さを重んじるマスターは、常連のお客様にもお渡しして、まだバーUKのことを知らない方にも宣伝してもらえればと願っています。 常連のお客様のご協力もあって、上記の小冊子の英語版もできました。これは訪日&在日の外国人(とくに欧米から来られた皆様)のために作成したものです。来阪する欧米系の外国人の方がよく利用するホテルでもバー案内の際、役立ててもらえると思っています。 マスターは、きょうは閉店後にモルトのお勉強です。スコットランド・セントアンドリュースにできた新しい蒸留所「Eden Mill」。まだ日が浅いのでウイスキーは販売できず、蒸留前のニューメイクスですが、なかなか良い味に仕上がっていたとのことです。 マスターの趣味の一つは、バラ栽培。ことしもお気に入りのチャールストンが咲きました。 きょうは開店前に、ウイスキーのお勉強。台湾のモルトウイスキー「カヴァラン(Kavalan)」のセミナーです。「美味しいし、クオリティも高いんだけど、値段がねぇ」とマスター。購入先として、中国本土の金持ちがターゲットになっているので、高級路線の経営戦略です(ほとんどが1本1万5000円以上)。バーUKでは一番低価格(8000円台)の「コンサートマスター(ポートワイン樽熟成)」という銘柄を置いていますが、マスター曰く「これでも十分美味しい」とか。 きょうはマスターの休日。去年秋に旅したチェコの郷土料理「クバ(Kuba)」に挑戦しました。大麦とドライマッシュルーム、玉ネギを使ったリゾットのような料理です。大麦はこういう形で食べるのは初めてだそうですが、「プリプリした食感が美味しい、不思議な味わい」なんだとか。皆さまも機会があればいかがですか?【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/05/07
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【皆さま、大阪府においては、本日5月16日以降、短縮営業要請が緩和され、オーセンティック・バーや居酒屋を含む飲食店は、午後10時まで営業できることになりました。私たちの営業許可・営業実態をより正しく知ってもらうことを願って、再度の投稿ですが、何卒ご容赦を!】 バーUKのようなオーセンティック・バーは、風俗営業のバーやパブ、キャバクラなどと一緒くたにされて、国からも大阪府からも、「バーは営業を自粛してください」と言われています。 しかし、「バー営業」という営業許可種目はありません。私たちがもらっているのは基本、食品衛生法に基づく、以下のような営業許可と届け出に基づく認可です。(1)飲食店営業許可(午前0時までの営業する場合、管轄は営業エリアの自治体=保健所)(2)飲食店営業許可+深夜酒類提供飲食店営業の届け出(午前0時以降も営業する場合、管轄は営業エリアの警察署) バーUKは、通常は午後10時半~11時の閉店なので、(1)の「飲食店営業許可」だけで営業させて頂いています(現在は通常営業を自粛中ですが…)。 そして、風営法に基づく「接待」や「遊興」という行為が発生するスナックやラウンジ、クラブ、キャバクラのような営業形態の店の場合は、「飲食店営業許可」に加えて、「風俗営業許可」というものを別途取る必要があります(管轄は営業エリアの警察署)。 ただし、「風俗営業許可と「深夜酒類提供飲食店営業」の許可を同時に取ることはできず、基本、午前0時以降の営業はできません。すなわち、もし午前0時を過ぎても「接待」行為をしているスナックなどがあれば、それは違法営業ということになります。 *********************** オーセンティック・バーのマスターである私は当然、お客様に対して「接客」はしますが、各都道府県らがしばしば口にするような「(隣に座っての)接待」はしませんし、店内では「遊興」行為も発生しません。 ちなみに風営法の解釈運用基準(警察庁策定)では、「接待」「遊興」という行為を以下のように具体的に例示(規定)しています。 「接待」=異性・同性に関係なくオーナーや従業員が客の近くで談笑の相手をしたり、お酌をしたり、カラオケをデュエットしたりするような行為 「遊興」=不特定多数の客に歌、ダンス、ショー、演芸、映画その他の興行を見せたり、カラオケを歌うことを奨励したり、ゲーム・競技等を行わせたりする行為 従って、スナックやラウンジ、キャバクラ、ショー・パブ、キャバレー、ナイトクラブなどでは「接待」「遊興」行為が発生するので、当然、風営法に基づく「風営営業許可」を、スポーツ・バー、マジック・バー、クラブ、ディスコ、ライブハウス、ジャズ・バー(常時生演奏あり)などは(風営法に基づく)「特定遊興飲食店営業許可」を取る必要があります。 以上のように、オーセンティック・バーでは、かりに従業員がいても「接待」や「遊興」行為はあり得ないので、「風俗営業許可」などを取る必要はありません *********************** 先日、私の仲の良いオーセンティック・バーのマスターが「国や自治体が休業要請するバーとは、いったいどういう営業形態の店を想定しているのだろう?」と疑問に思って、大阪府の担当部局に問い合わせました。そのマスターのバーの営業時間は午後5時~0時です(現在は、午後4時~8時に絞って短縮営業されていますが…)。 すると、以下のような回答が来たそうです。「国や各都道府県が現在休業要請しているバーとは、基本、(上記の(2)のような)飲食店営業許可と深夜酒類提供飲食店営業の届け出で午前零時以降も営む店や、風俗営業許可と深夜酒類提供飲食店営業の届け出だけで早朝まで営業しているような店を想定しています。貴店のように、飲食店営業許可だけで営業している形態のバーであれば、いわゆる飲食店、居酒屋と同等に考えて頂いて構いません」。 すなわち、(飲食店の短縮営業時間として指定されている)午前5時~午後8時の間は堂々と営業できるそうですが、いったん国や都道府県の偉い方々から、公式会見で「バー」という言葉でひとくくりにされてしまうと、言葉は独り歩きしてしまいます。「なぜ、あのバーは休業要請に逆らって営業しているのか」と誤解され、非難されてしまいます。 *********************** さて、私がこの投稿の結びとして言いたいのは、以下のようなことです。 大阪府の担当部局の見解によれば、「(オーセンティック・バーは)休業までしなくとも、少なくとも午後8時までは営業し、午後7時まではお酒を提供しても構わない」とのことです。しかし現在、日本じゅうで、「飲食店営業許可」だけのオーセンティック・バーであっても、ほとんどの店が自主的に休業したり、通常営業を自粛したりしています(お酒を提供できるのが午後7時までなら、人件費や光熱費を考えると躊躇するのは当然だと思います)。 結果として、「飲食店営業許可」を持ち、「深夜酒類提供飲食店営業」の届け出もしているオーセンティック・バーでも、午後8時までの営業なら出来るにも関わらず、断念している店がほとんどです。 でも、実のところは、ほとんどのバー・オーナーの皆さんは「収入がほとんどゼロになって本当に苦しいけれど、一日でも早くコロナウイルス感染を終息させるために、そしてコロナから多くの人の命を守るために、私たちが休業・営業自粛することで国民の外出自粛に協力できたら…」という思いから、営業を自粛しているんだと思っています。私もまったく同じ気持ちです。 もちろん一方では、時にはテイクアウトなども取り入れながら、午後8時まで営業しているバーもあります。どの店も悩みぬいた末の苦渋の判断だと思います。街には人の姿はまばらですが、それでも、短時間でも癒しの場・空間を提供してくれています。どうかそういう店を責めないで、温かい気持ちで見守ってあげてほしいというのが私の切なる願いです。 ***********************【追記】5月14日の首相会見、大阪府知事会見などで飲食店などに対する自粛要請が一部緩和されました。しかし、それでも会見では相変わらず、「飲食店営業許可」で営むオーセンティック・バーと、「風俗営業許可」で営むバーなどを一緒くたにする形での発表だったのが、とても悔しく、情けないです。 言わずもがなですが、私たちのような、いわゆるオーセンティック・バーでの通常の「接客」は、風営法に言う「接待」行為ではありません(そもそもオーセンティック・バーではお酌したり、隣席で寄り添ったり、デュエットしたりなどの「接待」行為はしません(笑))。 くどいようですが、今回のコロナ禍で行政側が休業要請をしたのは、「風俗営業許可」で営み、このような「接待」や「遊興」行為を伴う風俗営業許可のバーや、風俗営業許可&深夜営業届出の店(スナックやラウンジ、クラブ、キャバクラなど)です。オーセンティック・バーは基本、「風俗営業許可」は必要なく、ほとんどが「飲食店営業許可」(+午前0時以降営業する場合は「深夜営業届出」も)だけで営んでいるかと思います。 なので、そもそも今回のコロナ禍・緊急事態宣言下での自粛要請(4月6日)でも、オーセンティック・バーは「普通の飲食店と同等の扱い」で、休業要請ではなく、短縮営業要請だったのです(このことを知らないバーのマスターが私の周りにも結構いたのは意外で、残念な気持ちさえ起こりました。誤解したまま完全休業しているマスターもいました)。 首相や知事たちが昨日の会見で、「バーは引き続き自粛要請の対象とする」と言っているのは、当然、風俗営業許可と深夜営業届出で営み、「接待」行為が発生するバーやスナック、ラウンジ、クラブ、キャバクラなどを念頭に置いて喋っているのですが、「(接待行為はしない)普通のオーセンティック・バーは対象外です」ときちんと説明してくれないのが、実に腹立たしいです。会見では相変わらず、普通の「接客」と風営法で規定された「接待」行為が一緒くたにされていました。「接待を伴うバー」と言うべきなのに、「接客を伴うバー」と言うテレビ局が多いのも情けないです。 私は、バー業界団体のトップが、行政側に「風俗営業許可のバーと一緒くたにしないでくれ」「接客と接待を混同しないでくれ」ときちんと言わないことも、全国に誤解が広まったままである大きな原因だと思います。トップが行動して、全国のオーセンティック・バーの声を代弁してくれることを願っています。業界団体が、「いまだにバーテンダーときちんと呼ばれず、バーテンと呼ばれること」に怒り、バーの社会的地位向上を願うなら、こういうことからきちんと声を上げていくことが大事ではないでしょうか。【補足】なお、北海道(札幌市を含む石狩振興局)だけは、4月6日の緊急事態宣言後、現在でもなお、「飲食店営業許可」で営むオーセンティック・バーに対しても休業を要請しています(5月31日まで)。休業要請基準・条件にある程度の地域差が出るのは仕方ありませんが、「風俗営業許可」のバーと同列に扱うのは不愉快で、理解に苦しむところです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/16
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静岡県と言えば、東西に長く広い県だ。県都の静岡市のほかにも、浜松、熱海、三島、沼津、伊東、清水、焼津、磐田など全国的に知られた結構メジャーな都市がたくさんあるのが特徴である。 静岡県は、新幹線で東京へ出張へ行ってもいつも素通りするだけで、これまで途中下車したことはなかった(考えてみても、中学校の修学旅行で富士山や伊豆地方へ行ったほかは、20年ほど前に掛川市にあるヤマハの「つま恋リゾート」を訪れたくらい)。 そんな静岡県に、本当に久しぶりにお邪魔してきた。お隣・神奈川県の藤沢市に住む友人と会う用事があったので、「ついでに静岡のBAE巡りを」ともくろんだ僕。 広い静岡県には当たり前だが、BARが数多くある。人口的には浜松(約80万人)、静岡(約70万人)の両市がダントツだが、静岡のBAR業界の中心都市は、昔からなぜか沼津と三島である。 静岡のBARを以前から巡ってみたいと思っていたのには、2つほど理由があった。一つには、全国的にも有名な老舗BAR・オーセンティックBARの存在。 そして、もう一つの理由は、かつて銀座のBARで知り合ったバーテンダーが、3年ほど前に生まれ故郷の三島に帰って、念願の店を持ったから…。その店を一度訪ねてみたいと、ずっと思い続けてきた。 ようやく実現の日が来た。新幹線で三島に降り立った僕は、ホテルにチェックインした後、再びJR東海道線に乗って、沼津へ向かった。まず1軒目にお邪魔したのは、全国でもその名を知られる老舗BARの「Victory」(写真左上)。沼津駅から南へ歩いて10分弱 少しわかりにくい、静かな住宅街の中に、ぽつんと綺麗なステンドグラスのライト(看板灯)が輝いている。それが店の目印。 ドアを開けるとすぐに階段。そこを2階まで上がると、素晴らしいレトロな空間が広がっていた。マホガニー調の落ち着いた内装、使い込まれた木のカウンターは職人のノミの跡をあえて残し、それがまたいい味わいを醸し出している。真鍮の手すりには細かい装飾(エッチング)が入る凝りよう(写真右上)。 しかしマスターのKさんに尋ねると、驚くなかれオープンして今年でようやく37年(1971年創業)という。とてもそんな歴史の浅い酒場には見えない。まるで40~50年、見ようによったら、戦前から営んでいるような重みのある雰囲気が溢れている。 僕は開店時間の15分ほど前に店に着いてしまったが、嬉しいことに、バーテンダーの方はいやな顔一つせず、「構いませんよ、どうぞ、どうぞ」店に招き入れてくれた。カウンターに座って早速、BAR巡りの「スターター」として、ジン・リッキーを頼んだ。 しばらくして僕の前にやってきたマスターのKさんに自己紹介。「友人からも(Victoryのことは)以前から聞いていて、ここに来るのが夢でした」と伝えた。友人のことはKさんもよく知っていたので、うち解けるのに時間はかからなかった。 僕が関西のBARやバーテンダーのことを話していると、マスターは「3年ほど前でしたか、大阪のバーテンダーさんたちがたくさん団体で、御殿場の蒸留所見学の帰りに寄ってくれましてね」と嬉しそうな顔を見せてくれた。マスターが名前を挙げた大阪のバーテンダーは、ほとんどが僕のよく知る方々で、その場がさらに盛り上がったことは言うまでもない。 Victoryは最近、同じビルの隣の部屋の壁をぶち抜いてBARから続くテーブル席ばかりのラウンジ(写真中左)を造り、店のキャパは大きく増えた(最大40人までOK)。このラウンジがまた素晴らしく、落ち着いた内装。ジャズやクラシックの室内楽でも演奏すればぴったりの空間だろう。BAR愛好家の皆さん、Victoryを知らないなんて、一生の損だと僕は思う。 さて、長居すると目標の「ひと晩5軒」が大変なので、後ろ髪を引かれつつ1時間ほどでVictoryを後にし、次なる店へ向かう。Victoryから歩いて5、6分。沼津で訪ねておきたい店がもう1軒あった。その名は「Bar Frank」(写真中右)。Victoryより少し古い、1967年にオープンした老舗である。 店のドアを開けると、いきなり黒い金属製のらせん階段=写真左(これは2階から階下を見下ろした光景)=が目に飛び込んで来た(沼津の老舗BARは2階がメインという店が多いのかなぁ…(笑))。一歩ずつゆっくりと上がると、右側に長いカウンターがあった。 Victoryに負けないくらいの素晴らしい内装。木を生かした落ち着いた空間。しかし老舗と聞いていたのに、どこを見ても洗練されていて、壁も木も新しい手触りである。バーテンダーの方に聞くと、最近全面リニューアルされたとのこと(以前は店は1階で、2階は倉庫として使っていたとか)。 あいにくマスターのAさんはまだ店に現れていなかったが、バーテンダーの方に自己紹介してカウンターで飲み始める。(写真右=カウンター脇の壁には成田一徹氏の切り絵がありましたが、これは改装前の昔のFrankを描いたものだとか)。 店をリニューアルしたことについては、常連の間でもおそらく賛否があるだろう。昔のままの内装を守ることも大切だが、伝統を守りながらも客がより楽しく落ち着いて飲めるような雰囲気づくりをするのも店の使命だろう。 僕は昔のFrankを知らないから、昔との比較はできない。だが今のFrankの、重厚で、こだわりあふれる内装にはマスターの心意気が感じられ、老舗の風格はしっかり継承されていることは僕も保証する(BAR愛好家らのブログでの評判も、上々のようで嬉しい)。 そんなことを考えていると、Aさんが現れた。口ひげがかっこいい、上品で親切な、想像通りの紳士という第一印象。ゆっくりお話したかったのだけれど、三島へ戻る時間も迫ってきた。Aさんとは丁重にご挨拶だけをして、名残惜しい気持ちいっぱいでお別れし、僕はJR三島駅へ急いだ。※「三島編」へ続く【Bar Victory】静岡県沼津市八幡街125 電話055-962-0684 午後6時~午前1時 無休 【Bar Frank】同県沼津市大手町2-11-17 電話055-951-6098 午後6時~午前1時 日休・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/11/01
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56.ミリオネア(Millionaire) レシピは、ベースが違う様々なものが伝わっていますが、現在も生き残っているのは主に以下の3種類(ウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベース)です(容量の単位はml。スタイルはいずれもシェイクです)。【レシピ1】バーボン(またはライ)・ウイスキー(60)、ホワイト(またはオレンジ)・キュラソー2dash、グレナディン・シロップ4dash、卵白(1個分)【レシピ2】ラム(15)、スロー・ジン(15)、アプリコット・ブランデー(15)、ライム・ジュース(15)、グレナディン・シロップ1dash【レシピ3】ジン(40)、ペルノー(またはアブサン)(20)、アニゼット1dash、卵白(1個分) 20世紀初め(1900~1910年代)に、英国で誕生したと伝わる代表的な古典的なカクテルの一つです。カクテル名は直訳すれば、「百万長者」というめでたい名前ですが、誕生の詳しい経緯や命名の由来は、残念ながら定かではありません。 欧米のカクテルブックで「ミリオネア」が紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、英国で1919年に出版された古典的名著「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン<Harry MacElhone>著)が最初です。そのレシピはウイスキー・ベースで、「ライ・ウイスキー3分の2、卵白1個分、グレナディン・シロップ1tsp、オレンジ・キュラソー2dash(シェイク)」となっています。 誕生の時期については、米国の禁酒法時代<1920~33>と紹介する海外の専門サイトもいくつか見受けられますが、上記の「ABC of …」に掲載されていることからも、少なくとも1910年代後半には登場していたことは間違いありません。また誕生の場所については、「ロンドンのリッツ・ホテルのバーで考案された」とも言われていますが、裏付ける史料等は伝わっていません。 著名なカクテル研究家のデヴィッド・ワンドリッチ氏は「1925年までのある時期に(ロンドンの)リッツ・ホテルで考案された」(出典:http://www.esquire.com/food-drink/drinks/recipes/a3759/millionaire-drink-recipe/)と書いています。しかし、マッケルホーン自身が「ABC of …」の中で「ロンドンのリッツ・ホテルのバーのレシピを参考にした」と付記していることからも、少なくとも1910年代後半には、この同ホテルでウイスキー・ベースの「ミリオネア」が提供されていたことは間違いないでしょう。 さて、この「ミリオネア」は、1920~30年代から、ウイスキー・ベース以外にも、ラム・ベースや、ジン・ベースなど複数の違うベースのレシピが存在してきた変わったカクテルとしても知られています。同じ名前のカクテルなのに、なぜこのように様々なベースを使ったバリエーションが生まれていったのかはよく分かりません(今後の研究課題です)。 参考までに、「ABC Of …」以外の1920~1950年代の主なカクテルブックで「ミリオネア」のレシピがどうなっているか、ざっと見ておきましょう。・「Cocktails: How To Mix Them」(Robert Vermeire著、1922年刊)英 ライ・ウイスキー3分の1ジル(【注】1ジル=120ml)、グレナディン・シロップ6分の1ジル、キュラソー2dash、卵白1個分(シェイク)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英(ラム・ベース、ジン・ベースの2種を紹介。ウイスキー・ベースのものは収録せず) ミリオネアNO.1=ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分(シェイク) ミリオネアNO.2=ドライジン3分の2、アブサン3分の1、アニゼット1dash、卵白1個分(シェイク)・「Cocktails」(Jimmy of the Ciro's Club著、1930年刊)米 ライ・ウイスキー3分の2、グレナディン・シロップ3分の1、キュラソー2dash、卵白1個分(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年復刻版)米(ベースの違う「ミリオネア」3種と、「ミリオネア・ロイヤル」と称するカクテルを紹介。スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=ウイスキー2分の1ジガー、グレナディン・シロップ4分の1ジガー、キュラソー2dash、卵白半個分 ミリオネアNO.2=ジン2分の1ジガー、アブサン4分の1ジガー、アニゼット1dash、卵白半個分 ミリオネアNO.3=ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、レモン・ジュース1tsp ミリオネア・ロイヤル=ウイスキー2分の1ジガー、グレナディン・シロップ4分の1ジガー、アブサン2dash、キュラソー1dash、卵白半個分・「The Artistry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ライ・ウイスキー2分の1、ペルノー(アブサン)1dash、グレナディン・シロップ1dash、卵白半個分(シェイク)・「Mr Boston Bartender's Guide」(1935年初版刊)米 ライ(またはバーボン)・ウイスキー45ml、キュラソー15ml、グレナディン・シロップ4分の1tsp、卵白1個分(シェイク)・「The Waldorf-Astoria Bar Book」(A. S. Crockett著、1935年刊)米(※「マティーニ」のバリエーションとして紹介している珍しい例) ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、グレナディン・シロップ on Top、レモン・ピール(ステア)・「The Café Royal Cocktail Book」(W. J. Tarling著、1937年刊)英 ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分(シェイク)・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米(スロー・ジンをベースとする珍しいレシピ) スロー・ジン約53ml(1+4分の3オンス)、ジャマイカ・ラム15ml、アプリコット・ブランデー15ml、グレナディン・シロップ1dash(シェイク)・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米(※なんと6種類もの「ミリオネア」を収録。スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=バーボン・ウイスキー4分の3オンス、グレナディン・シロップ4分の1オンス、キュラソー2dash、卵白1個分 ミリオネアNO.2=バーボン・ウイスキー1オンス、ペルノー4分の1オンス、グレナディン・シロップ4分の1オンス、キュラソー1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.3=ジン1オンス、ペルノー(アブサン)0.5オンス、アニゼット1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.4=プリマス・ジン1オンス、スイート・ベルモット0.5オンス、グレナディン・シロップ1tsp、パイナップル・ジュース1tsp、卵白1個分 ミリオネアNO.5=ジャマイカ・ラム0.5オンス、アプリコット・ブランデー0.5オンス、スロー・ジン0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分 ミリオネアNO.6=スロー・ジン1.5オンス、ジャマイカ・ラム0.5オンス、アプリコット・ブランデー0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1948年刊)米(スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=ジン3分の2、ペルノー(アブサン)3分の1、アニゼット1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.2=ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分 ミリオネアNO.3=バーボン・ウイスキー1ジガー、キュラソー3分の1ジガー、グレナディン・シロップ1dash、卵白1個分・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ウイスキー1.5オンス、キュラソー0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash、卵白1個分(シェイク) 以上のように欧米では歴史的に、「ミリオネア」のベースのお酒はウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベース他のものが乱立してきました。現在、英国や米国で発行されているカクテルブックのみならず、バーの現場でも「ミリオネア」と言えば、この主な3種類をベースにしたものがそれぞれつくられています。 これも参考までに、グーグルで「Millionaire Cocktail」で検索し1頁目に表示された10件の欧米の専門サイトでは、7件がウイスキー・ベース、3件がラム・ベースでした。しかしカクテルブック等では、今なおジン・ベースのミリオネアも紹介されています。結局のところ、どれが正しく、どれが間違いというものではなく、どのお酒をベースにするかは、そのバーテンダーやお客様の好みによるところが大きいのかもしれません。 「ミリオネア」は、日本にも比較的早く1920年代には伝わりました。当初はウイスキー・ベースの方が主流でしたが、現在のバー・シーンでは、ラム・ベースの方が比較的多くつくられているようです。 ちなみに、最新の「NBAオフィシャル・カクテルブック」(柴田書店刊)ではラム・ベースをメインとして紹介していますが、ウイスキー・ベースのものも「主に米国で飲まれている」との付記して収録しています。【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。※レシピはウイスキー・ベースで、「ウイスキー3分の2オンス、グレナディン・シロップ3分の1オンス、キュラソー1dash、ガム・シロップ2dash、卵白1個分。シェイクしたる後、グラスに注ぎ、アブサン少々を加えてすすめる」となっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/25
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アコースティックでギター・バンドをしていた頃、CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)とともに、ギター伴奏のコピーによく励んだミュージシャンがいた。 ジェームス・テーラー(James Taylor)。米ボストン生まれのシンガー・ソングライター。1969年にデビューし、1970~80年代を通じて、その温もりのある優しい歌声と美しく、分かりやすいメロディーで、幅広いファンの支持を集めた。 ジェームスの69年のデビュー・アルバムは、何とビートルズがつくった英アップル・レコードからの発売だった。しかし、商業的には成功せず、アメリカに帰ったジェームスは、新たな展開を目指してワーナー・レコードに移籍する。 そして、歴史的なアルバム「スイート・ベイビー・ジェイムス」(70年=写真左)を発表。そして、続いて出した「マッド・スライド・スリム(Mud Slide Slim)」(71年=写真右)も大ヒットし、その人気を不動のものにした。 この2枚のアルバムからは、「ファイア・アンド・レイン(Fire and Rain)」(畠山美由紀さんもカバーしてます!)、「スイート・ベイビー・ジェイムス(Sweet Baby James)」、「君の友だち(You've got a friend=キャロル・キングのカバー)」、「カントリー・ロード(Country Road)」(ジョン・デンバーの曲とは違います)などのヒット曲を送り出したが、残念ながら、日本では爆発的とまでの人気を得る存在にはなれなかった。 彼の素晴らしさは、歌もさることながら、やはりそのギター・ワーク。それまでのギターを使ったシンガー・ソングライターは、コード弾きかせいぜいアルペジオかフィンガー・ピッキングだったが、ジェイムスは、革命的といえるような個性的な伴奏を編み出し、自分の曲に生かした。 だから、彼の曲はギターの音色のとても綺麗な曲が多い。簡単そうで、難しいテクニックも目立つ。でも、素人でも一生懸命練習すれば、何とか手の届く範囲だから、僕はよく彼の演奏をコピーした。 当時、もちろん国内版のギターのタブ楽譜はなかったから、ホームステイするために、初めてアメリカへ渡った1973年(当時は1$=約270円だった)、コネチカット州の楽器店で彼の楽譜(ギターのタブ譜付き!)=写真左=を見つけたときは、天にも昇る気持ちだった。僕は、その楽譜を宝物のように扱い、一生懸命練習した。 ジェームズはその頃、「うつろな愛(Love In Vain」がヒット中だった歌手のカーリー・サイモンと、電撃的に結婚。そして、結婚後間もなくカーリーを伴って来日し、大阪にもやって来た(カーリーとは82年に離婚)。 フェスティバル・ホールで開かれたコンサートには、もちろん僕は万難を排して見に行った。昼・夜2回公演という今では考えられないようなコンサート。僕は昼の部の方へ行った。誠実そうな人柄と、アルバムからのヒット曲ばかりがほとんどの、期待通りの素晴らしい内容に僕はとても満足した。 コンサートの途中、ジェームスは、カーリーが飛び入り出演するんじゃないかと期待しているファンに、「ごめん。彼女は今ちょっと買い物に出かけているんだ」とわびていた。後で聞いた話では、夜の部では、カーリーが登場して一緒に、「うつろな愛」をデュエットしたんだとか。あー残念! 夜の部を選べばよかった…。 最近のジェームスは、あまり音沙汰がない。2002年には久々に、「オクトーバー・ロード(October Road)」という新作アルバム(写真右)を発表した。今年は、最新ツアーを記録したDVDも出したりしているが、米国内でも、それほど精力的に活動している訳ではない(レイ・チャールズが死の直後リリースしたデュエット・アルバムでは1曲、共演していたけれど…)。 「もう十分稼いだし、もうステージは気が向いたらでいいや」とジェームス自身は思っているのかもしれないが、1948年生まれの57歳だから、まだ引退するには若すぎる。あの澄み切った歌声を日本でもう一度聴いてみたいのだけれど…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/31
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最近はまっているお酒の一つにシェリーがありますが、銀座の老舗シェリーBAR「しぇりークラブ」がこのほど(10月7日オープン)京都に支店=写真左=を出してくれました。 嬉しいことに初代店長は、僕がよく知っている元・銀座店店長のMさん(大阪のアルテミスというBARにもいた方です!)です。Mさんは京都出身ということもあり、まさに「適役」として抜擢されたようです。 関西にも、大阪キタのバル・キンタ、ミナミのヘミングウェイなど本格的なシェリーBARが増えてきましたが、京都にもまた一つ使えるシェリーBARが誕生したのはとても有り難いことです。 ということで先週の日曜、京都へ行く用事があった際、早速、しぇりークラブ京都店へお邪魔して参りました(連れ合いも同行です)。 場所は、祇園の八坂神社と清水寺の間の、石塀小路にあります。「ねねの寺」で知られる高台院もすぐそばです(非常に見つけにくいロケーションにあるので、最初はちょっと迷いましたぞ)。)。 細い路地に面したお店は、一見すると白壁の土蔵と間違いそうでした。でも、京都にはやはりこういう店が似合いますね。しかも、なんと築約100年の蔵を改造したとのことです。 内装は、蔵の太い柱や梁などの木組みはそのまま活用したけれど、内装はかなり手をいれたそうです(写真右上&左=店内は蔵の雰囲気を生かした素敵な空間)。 完成した店は元の蔵の雰囲気を生かしつつ、カウンター(半分は銀座店の3階から運んだそうです!)や椅子はケヤキを使った特注品で、和と洋が調和した素晴らしい空間に仕上がっています。天井も高いのでとても落ち着いた雰囲気で、表の喧噪はここまで聞こえて来ないために、ゆったりした気分で旨いシェリーが味わえます。 久しぶりに再会したMさんは、僕の顔を見てすぐに思い出してくれました(BARのマスターは客の顔をよく覚えているとは言うけれど、覚えていてくれて、やっぱりめちゃ嬉しいなぁ…)。 早速、おすすめのシェリーをいただきました。京都店も銀座店と同じく、一人ひとり何の銘柄を飲んだのか記してくれる「記録簿」(写真右上)があります。次に訪問した時には、前回とは違うシェリーを味わってもらおうというお店の素敵な心遣いです。 日曜日は午後3時オープンというのが、呑兵衛にはとても嬉しい。居心地もいいから、シェリーの旨さも倍増して、杯がすすみます。まだ外は昼間だというのに、あっという間に2人で5杯も呑んでしまいました。 ちなみに呑んだ銘柄は、「Bajo de Guia」(マンサニージャ)「Solear」(同)「Bertola」(フィノ)「El Maestro Sierra」(同)「Jalifa 30 years」(アモンティリヤード)=写真左上から順番に。とくに最後の「Jalia」の旨さは言葉では表現できないほど。 フード・メニューには、美味しそうな料理が並んでいます。タパスもいろいろありそうです。シェフもいるので安心です。 あいにくこの日は、昼間に法事があって、その後しっかり昼ご飯(和食)を食べてしまったので、お腹がまだいっぱいです。フードは次回の楽しみにとっておきましょう。 しぇりークラブ京都店は、シェリーの品揃えも、接客も、雰囲気も、価格も(=原則として何を呑んでも1杯945円均一)どれもに申し分ない店です。何度でも通いたくなる店です。そして、いろんな人に教えてあげたいけれど、あんまり教えたくもない店です。 Mさんからは、「大阪や神戸の知り合いにPRしてください」とお店のカードをたくさん渡されたけれど、さぁ、どうしよう…(笑)。それはともかく、個人的には京都に来る楽しみがまた一つ増えました。【しぇりークラブ京都・石塀小路店】京都市東山区下河原町489-2 電話075-525-2201 午後5時半~11時半(日午後3時~10時) 月休 阪急四条河原町駅から徒歩15~20分(※わかりにくい立地なので、初めての方は近くまで来たら電話することをお勧めします)
2008/11/23
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61.ミスター・マンハッタン(Mr. Manhattan)【現代の標準的なレシピ】 (容量の単位はml)ジン(50)、オレンジ・ジュース(10)、レモン・ジュース(10)、シュガー・シロップ1tsp、生ミントの葉(5~6枚)=一緒にシェイクする 【スタイル】シェイク 「ミスター・マンハッタン」という名前から、有名なカクテル「マンハッタン」と何か関係があるのかと思う方も多いかもしれませんが、何の関係もありません。しかし、1920年代後半に誕生したクラシック・カクテルの一つで、あの有名な『サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)』にも収録されています。 レシピはシンプル。味わいは、柑橘系(オレンジ&レモン)ジュースと生ミントのコラボが絶妙なカクテルです。甘さと酸味のバランスも抜群で、実に爽やかな後味です。しかし残念ながら、日本での知名度はそう高くなく、バーの現場で注文されることも少ないためか、あまり知られていません。かなりベテランのバーテンダーの方でも、その存在やレシピを知らないという人に時々出会います。 欧米のカクテルブックで初めて登場するのは、現時点で確認できた限りでは、前述した『サヴォイ・カクテルブック』(1930年刊、ハリー・クラドック<Harry Craddock 1876~1963>著)です。「ミスター・マンハッタン」誕生の経緯や名前の由来については、これまでまったく謎でした。クラドック自身も同著では一切何も触れていませんでした。 しかし、2013年に出版された『The DEANS Of DRINK』(Anistatia Miller & Jared Brown共著 ※ハリー・ジョンソン、ハリー・クラドックというカクテル界の2人の巨人の伝記)が貴重な手掛かり(根拠資料)を示してくれました。 同著によれば、このカクテルの考案者は間違いなく、著者のクラドック自身であり、クラドックが働いていたロンドンのサヴォイホテル「アメリカン・バー」の顧客でもあった米国人のコラムニスト、カール・キッチン(Karl Kitchen 1885~1935)のために考案したことを裏付けるエピソードや、「ミスター・マンハッタン」とは、ニューヨーク・マンハッタンで長くバーテンダーとして脚光を浴びてきたクラドックに、キッチンが付けた「あだ名」であったことも紹介されています。 キッチンは米国の新聞での連載コラムにこう綴っています。「昨日、(アメリカン・バーで)ハリーに私のためのオリジナルカクテルをつくってほしいと頼んだ。そしてきょう、彼は3種類の『ミスター・マンハッタン』をつくってきて、どれが一番美味しいと思ったかを教えてほしいと私に言った。しかし、どれも素晴らしすぎて(私は選べなかった)。米国でも簡単に手に入る材料でつくられているのがとてもいい。新しもの好きな米国の人たちにも、このレシピをぜひ教えてあげたい」。 キッチンがコラムで紹介した「ミスター・マンハッタン」が、米国の”もぐり酒場”(米国は禁酒法時代の最中)でどの程度広まったのかは分かりませんが、ジンさえ手に入れば、後は一般家庭でも簡単につくれるレシピなので(禁酒法時代でも家庭内の飲酒は合法だった)、案外隠れた人気を得ていたのかもしれません。 ちなみに、クラドックがつくった3種類の「ミスター・マンハッタン」とは、冒頭に紹介したジン・ベースのNo.1のほか、No.2「密造(Hooch)ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、ラズベリー・シロップまたはグレナディン・シロップ、角砂糖」、No.3「スコッチ・ウイスキー4分の3、グレープ・ジュース4分の1、グレナディン・シロップ4dash」というものでしたが、自著のカクテルブックには結局、No.1のジン・ベースのものを収録しました。 残念ながら、クラドックがこの「ミスター・マンハッタン」を考案した時期は正確には分かりませんが、おそらくは、クラドックがアメリカン・バーのチーフ・バーテンダーに昇格した1925年以降で、1927~28年頃ではないかと推察されます。 クラドックは英国人ですが、1897年に若干22歳で米国へ渡り、1920年に禁酒法が施行されるまでは、ニューヨークなど米国内の大都市でバーテンダーの仕事をしていました。しかし、禁酒法で仕事の場を奪われ、やむなく英国へ戻ります。そして翌年、ロンドン・サヴォイホテルでバーで職を得ました。カクテルブックを著すのは帰英して10年後です。 なお、クラドックのレシピは、「ジン1Glass、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、角砂糖1個、ミントの葉数枚(シェイク)」となっています(この「1Glass」の容量は不明ですが、この当時のカクテル・レシピでの表記基準を考えると、おそらく90ml前後ではなかったかと思われます)。 参考までに、1930~50年代のカクテルブックで「ミスター・マンハッタン」がどのように紹介されていたのか、ざっと見てみましょう(不思議なことに、欧米のカクテルブックでも、「ミスター・マンハッタン」を取り上げているところはあまり多くありませんでした。私が所蔵しているこの時代の文献での掲載率は約3割でした)。・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1934年刊)米 ジン2jiggers(約90ml)、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、生ミントの葉4枚、角砂糖1個(シェイク)・「The Old Mr. Boston Official Bartender's Guide」(1935年初版刊=以降現在でも不定期で発刊中)米 /「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米 ジン1.5オンス(45ml)、オレンジ・ジュース1tsp、レモン・ジュース4分の1tsp、生ミント4本、角砂糖1個(シェイク)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham編、1956年刊)米 ジン2jiggers、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、生ミントの葉4枚、角砂糖1個(シェイク) 「ミスター・マンハッタン」はその後、忘れ去られたような存在になります。欧米でも1960年代以降、近年に至るまでカクテルブックに登場することは、数えるほどでした。日本でも1950年代のカクテルブックに初めて紹介されましたが、80年代末までは、生のミントはコストがかかり過ぎることもあって、国内のオーセンティック・バーではなかなか普及しませんでした。しかし、そんな状況の中、思わぬところから、このカクテルが陽の目を見ることになります。 2003年春から全日空(ANA)の機内誌「翼の王国」で連載されていたオキ・シロー氏のカクテル・ショートストーリーで、この「ミスター・マンハッタン」が取り上げられたのです(2004年1月号誌上)。そのストーリーと言えばーー。 マンハッタンのバーのカウンターで、一人寂しく飲む男。ある時、カウンターで隣に座った女性をナンパしようと、「ミスター・マンハッタン」を1杯、ご馳走する。しかし、その女性はカクテルを飲み干すと、男の誘いを無視して一人店を後にした。男の願いは潰れてしまったかに見えたが…。物語の最後に、絶妙な”オチ”が用意されています。 このストーリーとカクテルのレシピが、口コミで日本のバー業界にも広がり、オーセンティック・バーの現場でブレイクしたのです。そしてその後、海外でも、昨今のクラシック・カクテル再評価の流れに乗って、再び注目を集めるようになりました(※このショート・ストーリーは、後に「パリの酒 モンマルトル」というタイトルの単行本=2008年、扶桑社刊=に収録されています。現在絶版ですが、アマゾンでは今でも中古で購入可能なようです)。 日本でのブレークがきっかけとなったのかどうかは定かではありませんが、海外のカクテル専門サイトでは、現在、「Cocktail Mr Manhattan」で検索すると、実にたくさんのサイトにヒットします。昨今のトレンドとしては、ただ単純に昔のレシピのままつくるのではなく、現代風にアレンジ(ツイスト)することのも、ごく普通なことです。例えば(ほぼ同じレシピで)ミントジュレップ風のスタイルで提供するのも人気だとか。 日本でも90年代以降は、生ミントも使いやすい価格となり、このカクテルの良さを再認識するバーテンダーも次々に現れてきました。そして前述の「翼の王国」の記事がきっかけとなり、国内に広く知られるようになりました。今では、おそらくプロのバーテンダーなら約8割は知っているカクテルになっているのではないでしょうか。 レシピはとてもシンプルなのに、甘味と酸味と清涼さのバランスが最高な「ミスター・マンハッタン」。個人的には、もっともっと多くの方に味わって頂きたいカクテルの一つと思っています。【確認できる日本初出資料】「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著、1954年刊)。そのレシピは(原文通り記すと)「少量の水を加えて角砂糖1個を潰し、新鮮な薄荷(はっか)の葉芽4枚をその中で潰し、レモン・ジュース1ダッシ、オレンジ・ジュース4ダッシ、ジン1を加えて振蕩し、コクテールグラスに漉し移す」です。この「薄荷」が西洋ミントなのか国産の薄荷なのかが気になるところです。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/07/21
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その8:席でのマナー(1) ◆ショート・カクテルはだらだら飲まない ショート・カクテルを、カウンターで1時間近くもかけてだらだら飲んでいる人を、時々見かける。ショート・カクテルは冷やしたカクテル・グラスに入れて供される。BARで供される飲み物でも、最も華やかで美しい。しかし、ひとたびグラスに入った後は、どんどんぬるくなっていく。 ぬるくなったショート・カクテルほど美味しくないものはない。せっかくバーテンダーが心を込めてつくってくれたのだから、感謝と敬意の気持ちを込めて、冷たく、美味しいうちに3口か4口(時間にして15~20分以内に)で飲みきるのが美しいマナーであり、エチケットだ。 ショートを3~4口でなんてとても飲めないという、お酒にそう強くない方は「ロング(スタイル)でお願いします」と告げよう。すると、バーテンダーさんはコブレットなどのロング・グラスに氷を入れて、時にはソーダなどで割って出してくれる(なお、カクテル・グラスを持つ際は、足の部分を親指と人差し指の先でつかみ、中指で台座の部分を抑えて安定を保つ。カクテルが入っているボウルを持つと体温で温まってしまうので、触らないこと)。 ◆むやみに他の客には話しかけない BARにやって来てカウンターで飲む理由は、人によって様々だ。一人で来る人もいれば、カップルもいる。グループもいる。知らない客に話かけられても構わないという人もいるだろうが、話しかけられたくない客やカップルもいる。BARでは基本的に、隣席の客にむやみに話しかけるのはよくないマナーだ。 他人の話の中に、もし自分の興味をひく話題が出てきたとしても、隣のグループ客の中に顔見知りがいたとしても、そこは我慢しよう。いきなりその会話に入っていくのはマナー違反。BARでは誰にでも、プライバシーを邪魔されない権利と、仲間うちだけで静かに酒を楽しむ権利がある。 ただし、マスターやバーテンダーから、「この方は、****の*****さんなんですよ」と紹介されたら、礼儀正しく挨拶して、話し相手になろう。その人物との会話から、思わぬ発見や知識を得て、得をすることだって珍しくない(ビジネスパートナーを得ることだってある)。BARとはそんな場所である。また、どうしても話したければ、直接ではなく、マスター経由で取り次いでもらって相手の意向を聞いてみよう。 ◆BARでのナンパは論外 BARのカウンターに1人で飲みに来ている女性客に、酔った勢いで声をかけている輩(やから)を時々見かける。言わずもがなだが、見知らぬ女性がすぐ隣で独りで飲んでいたとしても、決していきなり声をかけてはいけない。ましてや馴れ馴れしくしたり、口説いたりしてはならない。 BARは女性をナンパするところではない。女性客も“出会い”を求めて1人で来ている訳ではない(時にはそういう人がいないではないが…)。BARがそういう場所と思っているなら、貴方は変な映画の見過ぎだ。「1人で静かに飲みたいと思っているのに、変な男がしつこく声をかけてきて…いやだわ」と思われ、最悪の場合、その女性客はこのBARに「二度と来たくない」と思うだろう。客を失いかねない店からは貴方は嫌われて、「要注意人物」の烙印を押されるのがオチだ。 ◆奢ったり、奢られたりは? もし、同じ常連客と同じBARで2度、3度出会って、向こうも貴方の顔を知っていて、挨拶でもしてきたら、言葉を交わすのもいいだろう。相性が合ったら、「1杯、僕から」と奢ってあげるのもいい。しかし、その相手が女性であったとしても、それでお近づきになろうなんてすぐには考えない方がいい。後で「オレの女にちょっかいを出したな」なんて、ヘンな男が出てこないとも限らない。くれぐれも慎重に、慎重に。あとは自己責任である。 付け加えて言えば、「1杯いかが?」と逆に他の客から勧められたら、どうするか。「いい客」からの申し出かどうか分からなければ、マスターの目を見ればいい。目がイエスかノーかをきっと教えてくれるだろう。でもマスターが頼りにならないと思ったら、最終的には貴方自身が決めるしかない(その「1杯」にいかなる思惑があるかは分からない。後で高い代償を払うかもしれないが、それも含めて自己責任)。 ◆大声でしゃべらない、騒がない BARは静かにお酒を楽しむ場所だ。貴方だけの空間ではなく、他のお客さんと共有するパブリックな空間だ。この「入門講座」ではさまざまな細かいマナー(=BARの掟)に触れてはいるが、要は、「他の客にも店にも迷惑をかけない」「不快な思いをさせない」ことさえ守ればいいのである。 しかし常連の一部には何を勘違いしているのか、自分の家のように振る舞い、大声を出してしゃべり、大声で笑ったり、机を叩いたりし、あげくの果てはマスターに友達同士のようなぞんざいな口をきく客もいる。マナー違反であることは言うまでもない。貴方は決してそんな客にならないでほしい。 自分の声の大きさには、意外と気が付かない人が多いものだ。とくにグループで飲みに来た場合は要注意だ。集団で語り合うとつい声は大きくなる。グループの中には、声の大きい人が一人や二人はいるかもしれない。一人で静かに飲んでいる他のお客さんに迷惑をかけるような行為は、慎みたい。そんな友人がいたら、貴方は逆に注意してあげるべきだろう。以前にも書いたが、大勢でワイワイ騒ぎたければ、居酒屋やスナックへ行けばいい。 ◆カウンターに肘(ひじ)を突いてはいけないか これには両論がある。「肘は突いてはいけない」というマスターもいれば、「カウンターが混んでいない時は、肘くらい突いてもらって、リラックスしてもらってもいいですよ」というマスターもいる。だから一概には言えない。 昔は、京都サンボアの先代マスター(故人)や神戸の老舗BAR「ギルビー」(今は閉店)のマスターのように、「カウンターに肘はつかない!」と注意する怖いマスターもいた。しかし今では、肘をついたくらいで怒るマスターもそういない。しかしだからと言って、貴方はそんな風潮に甘えないでほしい。肘をついたり、ほおづえをついたりしながら飲む姿は決して美しいものではない。酔いすぎてカウンターに寄りかかって、挙げ句の果ては寝てしまうなどは論外だ。 カウンターでは、できれば背筋を伸ばし、綺麗に格好よく飲みたい。そして、店が混んで来たら、椅子を寄せる(詰める)などの心遣いもほしい。余談だが、京都サンボアの先代マスターは「店に入ってきたら帽子やマフラーはとる!」「(付き出しの)南京豆の殻は(灰皿ではなく)下へ落とす!」(=店ではそういうルールだった)などと口うるさい方だった(こういう頑固マスターも少なくなった)。 ◆マスター(バーテンダー)を独占しない マスターとしゃべりたくてそのBARへやって来る常連客は多い。だから、マスターはつら~い人気者だ。カクテルをつくりながらも、たくさんの客の話し相手をつとめなければならい。 しかし、マスター(バーテンダー)も聖徳太子じゃない。1人で同時に多数の客の話し相手はできない。カクテルの注文を受けて、シェイカーを振っている時はおしゃべりをする余裕はない。客と話だけしていても儲からない。酒を売らなければバーテンダー(従業員)に給料も払えない。だから店が忙しい時は、貴方の前にやってきたマスターに、待ってましたとばかりに話しかけ、ずっと独占するのはよくない。 他の客の様子も見よう。店の空気も読もう。貴方以外にもしゃべりたい客がいるかもしれない。忙しい時は、1対1の会話はせいぜい10分以内にとどめよう。それが優しさというものだ(ただし、開店直後など客があまりいない、余裕のある時間なら、精一杯独占して話をしても構わない)。 ◆お酒を真剣につくっている時は話しかけない バーテンダーはグラスを洗うなど何かの作業をしている時でも、話しかけたら大抵の場合、応えてくれる。しかし、シェイカーを振ってカクテルをつくっている時や、ミキシング・グラスでバー・スプーンを回している最中(マティーニなどをつくる際)などは、全神経を集中しているので、話しかけるのはやめたい。 「作業中でも話しかけてもらって構わない」というバーテンダーもたまにいるが、バーテンダーだって人間だ。神経の集中を乱されるのはイヤに決まっている。だから、真剣にカクテルをつくったりしている時はやはり、シェイキングが終わるまで待つような優しさを持ち合わせたい。 なお、カウンターに座る客の話の内容は、たとえ小声であってもバーテンダーには意外と聞こえているものだ。職業柄の習性で、彼らは無意識に耳の神経を集中させている。だから客の話し声はイヤでも聞こえてくる。貴方がこそこそしゃべった他人の噂話や悪口だって、意外と聞こえている。カウンターではそういうことも承知で声の大きさや話す内容には注意しなければならない。 ◆満席の時は席を空ける オーセンティックBARでは、常連客はもちろん、BAR好きの人はカウンター席で飲みたいものだ。しかし、人気があるBARのカウンターは週末などすぐに満席になる。もし自分がそのBARのカウンターで最初の方に座った先客であった場合、満席になってきたら席を空けて、待っている客に譲ってあげよう。 BARの経営者はある意味、客の回転率を上げることで生計を立てている。ノーチャージのBARであっても、客の回転率が上がった方がいいに決まっている。だから1人の客が長々といることより、次々と客が代わる方が有り難い。貴方がもし本当にそのBARを愛する客ならば、そういう心遣いも必要だ。 貴方が1時間以上そのカウンターに座っていて、すでに2~3杯飲んでいるのであれば、満席になったら、次の客に率先して席を譲ってあげよう。貴方は店からも感謝され、席を譲られた客からも喜ばれる。そして貴方は「良い客」としてマスターに一目おかれる。カウンターはそのBARを愛するみんなのもの。貴方がBARを愛するなら、そういう大人になりたい。【その9へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/24
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約2週間ぶりのBar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 バーUK店内の成田一徹・原画ギャラリーが模様替えされました。今年初めから展示されてきたプロデビュー前の初期作品3点(版画、水彩画、ペン画)などの代わりに、新たに銀座のスタア・バー、タリスカーの切り絵原画が展示されました。加えて、今月4日に亡くなられた札幌バーやまざきの山崎達郎さんの切り絵原画(肖像)も。 今回の展示は、京都に支店が出来たスタアバーと京都に移転したタリスカーの特集記事が雑誌「あまから手帖」12月号(11月22日発売)に掲載されるのにあたって、同誌とのタイアップ企画です。ぜひ生の原画の素晴らしさをご堪能ください(なお12月号には、Bar UKもささやかなスペースですが、紹介されています)。 バーUKで初めて開催される公式ジャズライブ(12月16日開催)の準備にマスターは追われています。ヴォーカル(戸倉洋子さん)とギター(大橋恭さん)のデュオで、写真のようなチラシをつくってPRに努めています。ヴォーカル&ギター・アンプも当日までに新しいものを購入するそうです。当日が楽しみですね。 忙中閑あり。マスターはこの日、京都で“お勉強”です。懇意にして頂いている京都坊主バーで、素敵なモルト(マルス・ウイスキーの限定品「ウイスキー・キャット2015」)を味わいました。そして、その帰り道、高槻のバー・アイラさんに立ち寄って、さらにモルトの“研鑚”を積んだとか(2枚目&3枚目の写真)。「いずれの店も、うちでは真似できない品揃え。まぁ、みんな同じだと面白くないし、それぞれの店が個性を競い合えばいいと思う」とはマスターの感想でした。 Bar UKのティーリング・コレクションに新しい仲間がお目見えしました。今年秋に発売されたばかりの「ニューポット(樽詰め前の出来たての原酒)」です。3年ほど前に発売された前のニューポットは「コーン80%、大麦20%」でしたが、今回のは「大麦100%」です。ぜひお試しください。 今年もボジョレー・ヌーボーの季節です(最近はあまり盛り上がっていませんが)。Bar UKでは毎年1~2本だけ仕入れるようになっています。ボジョレー好きの方は、ぜひお早めにどうぞ。
2016/11/20
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その10:席でのマナー(3) ◆全面禁煙の流れは自業自得の部分も 「BARには紫煙が似合う」と言われていたのはもう過去の話だ。世界的な禁煙・嫌煙の流れもあって、愛煙家には厳しいご時世だ。BARでもタバコ呑みは煙たがられ、小さくなっている。日本国内でも、店内禁煙の酒場も最近では時々見かけるようになってきた(世界的には英国内やフランス、オランダ、スウェーデン、ニューヨーク州など米国内の22州、台湾などはすでに酒場やレストランでは全面禁煙となっている)。 喫煙禁止の広がりはある意味、これまで周りにまったく気遣いもせず、好き放題にスパスパやってきた報いだろう。だが、うらんかんろは実は、たまにタバコを吸う喫煙者である。 だからという訳でもないが、BARからタバコを全面的に追放するのは行きすぎのような気がする。そこまで、禁欲的に、健康第一的な世の中=人生もつまらないと思う。人生には「ある程度の害毒」が存在することも知ることは必要だ。 だから、日本のBARが全面禁煙にならないためにも、貴方が喫煙者であればちょっとしたマナーを心掛けたい。店側にも、非喫煙者に思いやりを持ってほしい(分煙も一つの方法だろう)。JTのCMじゃないけれど、貴方がマナーを守り、BAR経営者の意識が変われば、今後も店内での「共存」はできるに違いない。 ◆タバコは周りの人に断ってから まず、そのBARにいる客が全員吸っていない場合は、マスターに確認してから吸いたい(ひょっとして全面禁煙のBARかもしれない)。もし禁煙でなかったら、吸うのはOKだが、カウンターでは必ず隣客に断ってから吸うこと。それが基本マナーだ。 貴方が「吸ってもいいですか?」と隣客に尋ねて、「困ります」と言われることはまずないだろう。だが、万一そう言われたら、残念だけど我慢しよう。貴方に吸う権利があるのと同等に、隣客にも受動喫煙の被害に遭わない権利がある。「店が認めてるじゃないか!」という気持ちも分かる。しかし、今は店内のルールをすべて経営者が決められるという時代ではない。公共の空間である以上、「他人に迷惑をかけない」「他人を思いやる」というのが基本である。 吸う場合も店内の空調(風)の流れに注意して、吸わない人の方へ煙が流れたら、席を替わるくらいの心遣いをしたい。言わずもがなだが、タバコを口にくわえ、吸いながら店に入って来るなど論外だ。無自覚にプカプカ吸いたい放題をやっていては、いずれ日本もBARでの喫煙が法律で禁止されるだろう。そうならないためにもマナーを守ろう。 ◆シガー類やパイプ煙草はNG これには反論もあるだろう。現に、シガーやパイプ煙草を認めて、店内で販売もしているBARもある。「店が認めているんだから、吸ってどこが悪い」という意見もあって当然だ。しかし、シガー類やパイプ煙草は、匂いがきついために、貴方はよくても周りには迷惑になる。おまけにシングル・モルトやワインの、せっかくの味や香りを台無しにする。 シガーやパイプ煙草は、普通のBARでは控えるのが、うらんかんろは「良きマナー」だと思う。普通のタバコの煙なら何とか我慢できるという人でも、シガーやパイプ煙草は迷惑千万であることが多い(うらんかんろもシガー類やパイプは御免だ)。店も客も「公共の空間である」ということを忘れてはいけない。最近では「シガーBar」と銘打って、葉巻をおおっぴらに吸えるBarもある。吸いたい人はそこへ行けばいい。 ついでに言えば、上記のような理由でヘビー・スモーカーやシガー(またはパイプ煙草)スモーカーのウイスキー評論家、ワイン評論家=著名な評論家でも結構いる=による味の評価や意見というものを、僕はほとんど信用していない。シガー等の香りをかぎながら、ウイスキーやワインの芳醇な香りや味や香りをまっとうに、客観的に評価できるとはとても思えない。 たとえ評論家ではなくとも、1人の酒呑みとして考えても、香りを楽しむものを味わいながら、別の香りで打ち消すのは邪道以外の何ものでもない。シガーを吸いたければ、シガーだけの時間にして、モルト・ウイスキーやワインを飲む際は、それに専念すべし。 ◆店内での携帯電話使用など論外 さすがに最近は、店内で傍若無人に携帯で話す輩(やから)は減ってきた。しかし、それでもそんな「基本のキ」すら知らない馬鹿は相変わらず見かける。「携帯電話は、かかってきたら店の外に出て話す」。これが基本だ。 できれば、店内での待ち受け中はマナーモードにしたい。そしてマナーモードにした携帯は本体だけでカウンターの上には置かないこと(ケースに入っている場合は許そう)。机の上でガタガタ震える音は他人には耳障りでしかない。 隣席の客が、席で携帯で話し始めたらどうするか。基本は出来る限り、お店の人から注意してもらうこと。貴方が直接注意するのはできるだけ避ける。直接注意した後、「(口のきき方が)生意気だ」などと逆襲され、ケンカになることだってある。そうなれば店にも迷惑だ。お店の人がなかなか注意してくれなかったり、注意の効果がなかったら、直接注意するのもやむを得ない。その場合も、言葉遣いはできるだけ丁寧に。 ◆写真は撮っていいのか 今では、ほとんどの携帯電話にカメラ機能が付いている。ブログやミクシイでBARやお酒をテーマに書いている人も多いから、最近は、BARでもよくお酒のボトル(ラベル)やカクテルの写真を撮っている人をよく見かける。店側も暗黙の了解で認めているところが多い。 言わずもがなだが、写真を撮る時は(とくにカウンター席では)店側に「写真撮ってもいいですか?」と、断ってから撮るのが大人のマナーである。お酒やグラス(カクテル)やバック・バー(ボトルを並べている棚)の写真なら、ダメという店はまずないと思う。そして一度店側の許可をもらったら、次回からは(マスターが貴方のことを覚えてくれていたら)その都度断る必要はないだろう。 極めてまれに、「写真はお断りしています」というマスターもいるが、そういう時は素直に従うしかない(「写真NG」は、店のPRを雑誌などで積極的にはしていない店に多い)。どうしても撮りたければ隠し撮りをするしかないが、後でトラブった場合は自己責任である。 ◆フラッシュはたかない ボトルやカクテルの写真を撮る場合は、必ずフラッシュ機能は止めて撮ろう。ピカピカ光るのは他の客に迷惑であるうえに、フラッシュをたくとラベルは反射して見にくくなる。カクテルは撮れても周りの風景が真っ黒に沈んでしまい、かえっていい写真にはならない。ノー・フラッシュで撮る方が圧倒的に綺麗に撮れる(なお、一緒に行った仲間との記念写真は、フラッシュ可だが、撮る回数は1、2回にしよう)。 店内のライティングがとても暗いBARで、とてもノー・フラッシュでは映りそうにないという場合は、最近は簡単かつ良質の写真補正ソフト(しかも無料でダウンロードできる!)もある。とりあえず撮ってからパソコンに取り込んで、パソコン上で明るさを補正するという方法もある(とは言っても、限度はあるが…)。 うらんかんろの場合は、小型のマグライト(携帯用懐中電灯)=サイズは長さ8cm、直径1cm=と、ライトを立てる角度可変スタンド(折り畳み式)をいつも鞄に入れている。店内が暗い場合は補助光(スポットライト)として使っているが、これは結構役に立つ。皆さんも一度お試しを。【その11へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/28
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「サンボア」と言えば、大正の初めに神戸で創業し、現在では大阪、京都、東京に計11店を構える老舗のBARチェーン(経営はそれぞれの店の独立採算。創業地の神戸店は今はない)。 なかでも有名なのは大阪の堂島サンボア(1918年創業)や京都の寺町サンボア(同)。最近では、神戸ハイボールのバック・バーを移築した北新地サンボアや、初めて東京に進出した銀座サンボアもBARファンには人気がある。 そんなサンボア・グループはどこも気さくで、くつろげる店が多いのだが、「なかでも一番くつろげる店はどこかなぁ…」と、BAR好きの友人と話してみたら、お互いやはり「北サンボアかなぁ」という結論になった。 大阪キタ・曽根崎のお初天神から東へ数分。このあたりは細い路地が入り組み、BARやスナック、居酒屋、キャバクラなどが密集する歓楽街(写真左=北サンボアの外観)。 同じキタでも梅田の阪神百貨店の裏側(南方)やマルビルの東側あたりにあった、終戦直後の闇市跡のごちゃごちゃした怪しげな飲食街は、再開発の末に15年ほど前にすっかり姿を消した。 ゆえに、この曽根崎かいわいが戦後の、昭和20~30年代の大阪の盛り場の雰囲気を残す唯一の、貴重な場所かもしれない(写真右=北サンボアの店内。映画に出てきそうな酒場です)。 だが昨今、この辺りにも再開発の波は及び、小さい店がどんどん消えてゆく。先日も老舗の鰻屋が店を閉じた。ただただ、寂しいと言うしかない。 そんな場所の一角に、「北サンボア」は在る。創業は昭和5年(1930)。大阪空襲で被害を受け、一時休業に追い込まれるも、戦後すぐの昭和21年(1946)には焼け野原に店を再建。そして今日に至るまで、味にうるさい「なにわの酒呑み」を楽しませている。 店は内装や調度品は、ほぼ再開当時のまま。丁寧に磨きぬかれたカウンターや真鍮のバーが、落ち着いた雰囲気を醸しだし、歴史と伝統を感じさせてくれる。 サンボア・グループだから、名物のハイボール(写真左)の作り方(氷は入れない)、味わいも、値段も他の店と変わらない。カウンターはスタンディング・スタイルというのも、ほとんどのサンボアと同じだ。 しかし、2代目マスターのOさんや奥さんの年季の入った優しい接客は、やはりこの北サンボアならではの味わいだ。いつ行っても笑顔で温かく迎えられ、ほっこりさせられる。 大阪出身で、東京在住のある友人は昔、「ここ(北サンボア)に来ると大阪に帰ってきたなぁという感じがする。ここでは格好をつける必要もないしね」と語っていた。 店は今3代目の息子さんも手伝う。堂島サンボア同様、店はいつも常連で溢れている。それも年輩客の比率がとても多い(写真右=店内には、今はなき神戸サンボアのマッチも飾られている。必見!)。 年輩客を大事にするということはGOOD・BARの条件である。高齢化社会が駆け足で進む日本。BARは若者や中年だけが独占する場所ではないはずだ。 BAR業界のこれからの生き残りのカギの一つは、高齢者の客をいかに大切にするかだろう。僕はそう信じて疑わない。【北サンボア】大阪市北区曽根崎2丁目2-14 電話06-6311-3654 午後5時~11時 日祝&第2土休 JR大阪駅または阪神、阪急、地下鉄梅田駅から徒歩5~10分こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/11/18
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東京・渋谷の名バー「コレオス」が、来年3月末で閉店するとのことです。信じたくない気持ちですが、大泉マスターからの挨拶状もあるので間違いないようです。 初めてお邪魔したのは、1990年代前半の前身の「コレヒオ」でした。故・成田一徹さんに連れて行ってもらった私を、大泉さんは温かくもてなしてくださいました。 いちげんの客でも分けへだてしない、大泉マスターの素敵なホスピタリティにはいつも癒されました。 時折り、下ネタも交えたジョークを、さりげなく披露する面白い方でした。そして、終戦直後の米占領期の進駐軍のバーを知る、今では数少ない貴重な証人でもありました。 大泉さま、長い間、本当にご苦労様でした。そしてご厚誼、有難うございました!(閉店までにもう一度お邪魔したいなぁ…)。
2013/12/15
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20日の日曜の午後、大阪キタのホテルで、今年の日本バーテンダー協会(NBA)の全国コンペティションで見事日本一(総合優勝)に輝いた小西広高さん(Bar Blossom)のお祝いの会=写真左=があり、不肖うらんかんろも参加してきた。 実は、このような業界の内輪が中心のお祝いの会に同席するのは、なんとなく場違いな感じもして、最初、僕はあまり気は進まなかった。 しかし今回は、関西から30年ぶりの優勝者誕生というめでたい祝宴(もう当分はないかも?)で、あるバーテンダーさんからも強く誘われたこともあって、末席にお邪魔させてもらった。 小西さんは以前のブログでも書いたが、まだ30歳の若さ。バーテンダーになって約7年。最初、大阪キタの「Harbor Inn」というBARで約5年間修業。2年前独立して、キタのお初天神の近くに念願の店を持った。 年齢的には若手に違いない小西さんなのだが、数年前からは、さまざまなコンペで上位入賞するなど、とても注目される存在だった(おまけに、大阪のバーテンダーの中でも3本の指に入る「イケメン」!で、女性ファンも多い)。 だから、今回の全国コンペで、彼も含め関西代表からの総合優勝を予想する業界関係者がいなかったとしても、小西さんの「日本一」は決してまぐれではない。 彼が全国コンペで上位入賞するに値する実力を持っていることは、関西のバーテンダーなら誰もが認めていることだろう。 もっとも、上位入賞者に実力差なんてほとんどない。さらに言えば、全国大会に勝ち上がってくる各地区代表の実力差なんて、微々たるもの。後は、運と巡り合わせが左右するのがバーテンダーのコンペの世界だ。 いずれにしても、前のブログでも触れた「今年からよりフェアに改善された審査方法」が、小西さんに良い方向へ働いたのは間違いないという。来年以降も、このようなフェアな審査が続いていってほしいと願うのは僕だけではないだろう。 それはともかく、お祝いの会には業界内外から200人近くが集まった。まず、関西のNBA各支部の代表らの祝辞が続いた後、小西さんが舞台上で、全国コンペ同様、フルーツ・カッティングや創作カクテルのパフォーマンスを披露(写真右上)。 カクテルのパフォーマンスはNBAのコンペ等で見飽きている僕だけれど、普段は一般には公開されないフルーツ・カッティングの演技(制限時間10分以内に、4種のフルーツをカッティングし、大皿に飾り、盛り付ける)は、プロのペティナイフのつかい方がとても興味深くて、面白かった。 おしゃべり上手の司会担当のSさん(Bar Beso)は、演技中に冷やかしやからかいのツッコミを入れるが、さすがの小西さんは余裕の笑顔で、次々とフルーツを飾り付けていく。これも全国優勝からくる自信だろうなぁ…拍手! この後、同じ全国コンペの創作カクテル部門で1位になった鴻野良和さん(徳島のBar 鴻)が駆け付けてくれてスピーチ。「小西君とは同じ組で演技させられ、顔や背丈では勝てないので、僕は絶対総合優勝できないと思った」と話し、会場を笑わせた(写真左上)。 師匠である藤田敏章さん(「Harbor Inn」マスター)は、「彼は5年間無遅刻、無欠勤。とにかく真面目で、努力家でした。それが今回報われたのだと思う」と絶賛した。 この後さらに、若手バーテンダーたちによる仮装パフォーマンス=写真右=(Bar「P」のマスターNさんの「長州小力」には、体型といい、あまりにハマリ役なので笑ってしまった)、奥さんからのねぎらいの言葉、息子さんからの花束贈呈、お楽しみ抽選会などと続き、賑やかに、そして和気あいあいの内に会は終わった。 バーテンダーにとって、全国コンペでの総合優勝(日本一)は究極の夢であり、目標だろう。「しかし、その後のバーテンダー人生の方が長いんですよね」と、ある先輩バーテンダーが僕に語った言葉が印象的だった。だから、まだ30歳の小西さんにとっては、まだ半分にも達していない。 お祝いの会にこれだけたくさんの人たちが集まったのは、関西にとっては30年ぶりの祝宴ということもあるが、小西さんの素朴で、丁寧で、飾らない人柄に負うところも大きいだろう(写真左=奥さん、息子さん、そして師匠の藤田さん=左端=も舞台に上がって、フィナーレ)。 コンペ(競技生活)からは退くことになるが、どうかいつまでも客に愛されるバーテンダーでいてほしい。全国大会で上位入賞したせいなのか、その後「天狗」になって、昔の客が離れていった人も僕は知っているが、小西さんにはそんな心配は杞憂だろう。 日本一という栄誉を得ても、彼はきっとこれからも変わぬ接客につとめて、末永く愛されるバーテンダーであり続けてくれると信じて疑わない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/08/22
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先日、あるBarのマスターから、「昔の素晴らしいバーテンダーがたくさん登場するビデオがあるんですよ。ダビングしたので、差し上げます」と1枚の貴重なDVDをいただきました。 早速、家に帰って観ました。食い入るように見つめました。タイトルは「名バーテンダー物語--東京・銀座」=写真右。ニッカ・ウイスキーが電通と毎日映画社に依頼して制作した約1時間ほどの、かなり昔の映像です。テレビで放映されたのかどうかや、どのような形で販促に使ったのかは、まったくわかりません。 この映像には、銀座のBARの中から10軒の名店とそのマスター(バーテンダー)や店長が登場します。サン・スーシーの野村保さん=写真左下、Barクールの古川緑郎さん、舶来居酒屋「いそむら」の磯村信元さん、Bar樽の吉田富士雄さん、Bar山の小板橋幹生さん、Bar SUZUKIの鈴木昇さん、Tony's Barの松下安東仁さん、スミノフの岩瀬庄治さん、KOBAの小林浩さん、セント・サワイ・オリオンズの澤井慶明さんの10人です。 これらのマスター、バーテンダーは知る人ぞ知る、今では伝説的な方ばかりです。すでに鬼籍に入られた方も数多くおられます(今もご存命の方は、このうち何人いらっしゃるのでしょうか? どなたかご存じの方がいればお教えください)。サン・スーシーやクール、いそむらのように、今はこの世に存在しないBarもあります。 うらんかんろは、登場された方々の中では、野村さん、古川さん、磯村さん、鈴木さん、松下さん、岩瀬さん、吉田さんの7人のお店にはかつてお邪魔して、お目にかかったことがあります。 いずれも日本のBar業界の発展に尽くされ、銀座の古きよき時代を知る、素晴らしい人柄の方で、とても「絵になる」バーテンダーでした。映像を眺めていると、初めてお店を訪れた日の思い出がよみがえってきます(写真右=クールの古川緑郎さん)。 映像に出てくる銀座の街の映像やお店に集うお客さんの服装や髪型、眼鏡、女性の化粧などをよく観察すると、ひと昔前の時代を感じさせる雰囲気です。 バックバーのボトルも、今と同じ銘柄でもラベルのデザインやボトルの形がかなり違っています。今なら、さしづめ「オールド・ボトル」と言われ、珍重される垂涎の酒ばかりです(写真左=「いそむら」の磯村信元さん)。 いつ頃の映像なんだろうかとあれこれ考えていると、映像の中にいくつかヒントがありました。クールの古川さんが、「13歳でサン・スーシーで奉公を始めてこの道に入り、もう60年近くやっています」と話しているシーンがありました。古川さんは1916年(大正5年)生まれでしたので、この撮影時は70~72歳だったとしたら、1986~1988年頃ということになります。いずれにしても80年代の後半の映像です(写真右=Bar樽の吉田富士雄さん)。 それはともかく、今ではとても懐かしい名バーテンダーの所作はとても興味深いものです。技術的には、 今の時代のコンクールで優勝するようなバーテンダーの方が素晴らしいものを持っているのかもしれませんが、年季を積んだバーテンダーのシェイキングは個性的で、とても味わい深いものがあります(写真左=Bar山の小板橋幹生さん)。 例えば、サン・スーシーの野村さん。シェイカーを持つ向きが普通とは逆です(トップが体と反対側に来ています)。澤井さんは右腕がリズミカルに上がる独特のスタイル。鈴木さんは伝説的な「片手振り」を披露してくれています。 小板橋さんは、「同じ水割りをつくるにも工夫をしている」として、バーボンとスコッチと国産ウイスキーで、3種の水割りをつくって、違い(例えば、バーボンは氷が少なめ)を見せてくれています(写真右=Bar・SUZUKIの鈴木昇さん)。 映像では、10人が皆さんがそれぞれ、仕事のあり方や「Barとは何か」という哲学を聞かせてくれていますが、それがすべて含蓄のある内容で、今も通じる内容ばかりです。撮影当時の銀座は、第二次カクテルブームだったということで、オーセンティックBarに客が戻りつつある時代だったようで、その名前が知られ始めたスタンダード・カクテルがよく飲まれています。 オリジナル・カクテルを披露しているマスターやバーテンダーも目立ちます。リキュールやフルーツなど今ほど種類がそう多くなかった時代ですから、オリジナルをつくるにも、きっといろんなご苦労があったと思います(写真左=Tony's Barの松下安東仁さん)。 珠玉の言葉の数々を少し紹介すると--。「オーセンティックBarでは、Barでしか飲めないウイスキーかカクテルを味わってほしい。ビールならビアホールで飲んでほしい。Barでビールでは“間”が持たないんです。 女の子がそばにいてほしいならそういう店へ行けばいいんです」「当たり前のことを当たり前にやるのが一番難しい」「国産でもいいウイスキーがあるんだ。それを知ってもらうことを使命にしてきた」(写真右=スミノフの岩瀬庄治さん)。 「珠玉の言葉」の続き--。「この仕事には何年やってもゴールはない。とても奥が深い」「店では毎日毎日違うお客さんと出会う。同じ仕事のやり方が通用する世界じゃない。それがまた勉強で、面白いんです」「欧米では、『バーテンダー』と呼ばれて尊敬される職業だが、日本ではバーテンという(見下した)言い方をよくされる。僕らは、バーテンダーという誇りを持ってずっとやってきた」。(写真左=KOBAの小林浩さん)。 とくに印象に残っているのは、最後に登場した澤井さんの言葉です。「欧米に追いつけ追い越せという気持ちでやってきた。今は80%までは近づいたかなと思うが、あと20%は僕らの世代だけの力では無理。 (後に続く)全国のみんなが頑張ってくれないと」。そう願った澤井さんも先般、鬼籍に入られました(写真右=セント・サワイ・オリオンズの澤井慶明さん)。 個人的には、技術面では今や日本のバーテンダーは欧米を抜いたと言っても言い過ぎではないと思っています。しかし、この映像に登場するあるBarのように、客が来たら必ず、付きだし代わりにジン・トニックを出すような商法は今では客にあまり支持されないでしょうし、また別の店のようにギムレットに、生ではないライムジュースを使うのも、今では受け入れられないでしょう(ただし、80年代後半はまだ生ライムは高級品で、現在のようにどこのBarでも気軽に使えなかったという事情もあります)。 欧米のBarにまだ追いついていないものは何なのか。答えは簡単ではありませんが、日本のBar業界がさらに発展して、「銀座第一世代」のバーテンダーの願いが叶う日が来る日を、Barファンの一人として心から願うばかりです。最後になりましたが、このような素晴らしいバーテンダーに一個人として出逢えたことを、今さらながら本当に幸せに思っています。Bar業界の先駆者たちに感謝です! 【おことわり】この日記で使用した写真はDVDを再生したテレビ画面をデジカメ接写しましたので、若干ピンボケですがご容赦ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/09/27
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成田一徹切り絵原画・販売用小作品の紹介(10)です(販売主体は「オフィス一徹(Office Ittetsu)」です。Bar UKは、販売場所提供と販売・発送実務でお手伝いしております。販売されるのは原則、原画のみです。額やマットは恐れ入りますが、購入者側でご用意ください)。 ※絵のタイトルは、原則「仮のもの」です。絵のサイズの単位はミリ。 「鬼 平」 サイズ=225×150 価格=¥40,000 「勝鬨(かちどき)橋」 サイズ=204×204 価格=¥35,000 「福寿草」 サイズ=195×145 価格=¥28,000 「お茶屋遊び」 サイズ=174×116 価格=¥20,000 「朝 顔」 サイズ=176×130 価格=¥28,000 「サクランボ」 サイズ=67×112 価格=¥10,000 「サクラ」 サイズ=87×95 価格=¥18,000 「コスモス」 サイズ=100×100 価格=¥9,000 「相 談」 サイズ=119×121 価格=¥12,000 「扇に富士」 サイズ=180×270 価格=¥30,000※掲載された原画の現物はBar UK店内にあり、営業時間中であればいつでもご覧頂けます。遠方の方で、宅配便での発送をご希望の方は御支払い方法等のご相談に応じます(お問合せは、Bar UK <06-6342-0035><arkwez@gmail.com> または、「オフィス一徹」(代表・成田素子さん)<yumekanau@wakuwaku.zaq.jp> まで)。
2017/10/17
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お酒やBar業界の歴史に詳しい友人から、カクテルに関する貴重なコピーを頂きました=写真下。なんと、大正2年(1913年)、約100年前!の資料です。「飲料商報」という月刊の業界紙で、同年10月と11月に出た2号分の特集ページのコピーです。 タイトルには、「西洋酒調合法」とあり、中身はカクテルのレシピやつくり方の紹介です。全部で35種類のカクテルが取り上げられています。筆者は伊藤耕之進という方。うらんかんろはあまり存じ上げない人ですが、東京・三田にあった明治期を代表する西洋料理店「東洋軒」の創業者だった方だとか。 一番注目すべきは、この業界紙が発行された年です。1913年ということは、僕が以前、「日本で最初のカクテルブック」として紹介した秋山徳蔵著の「カクテル(混合酒調合法)」や前田米吉著の「コクテール」(いずれも1924年刊)よりも、さらに11年もさかのぼります。 すなわち、本という体裁はなしていませんが、このカクテル資料は、「日本で最初で、最古の西洋カクテルに関する文献」とも言えるのです。伊藤氏の前書きにはこう記されています。 「欧米に永い経験を有するバーメンが知って居る丈(だ)けの西洋酒の調合法は、オールド、スタンダード・ドリンクスも、インデペンデント、モダーン・ドリンクスも、悉(ことごと)くここに網羅して御覧に入れる。本紙を読みさえすれば、如何にハイカラな飲料でも、自由に調合できるバーメンの達人になれる事を受け合う」と。 各号それぞれ1頁に渡る特集では、ウイスキー・コクテールに始まりハーバード・コクテールまで、計35種類のカクテルが紹介されていますが、派生的なものを除けば、実質は約20種類くらいでしょうか。マティーニやマンハッタンはもちろん、ロブ・ロイやオールド・ファッションドなども紹介されています。 内容はさらに精査は必要ですが、欧米でもまだまともなカクテルブックなど数えるしかなかった時代(ハリー・マッケルホーンのカクテルブック=1919年刊=もまだ世に出ていません)に、こうした西洋の最新のカクテル情報を、著者の伊藤氏がどのようにして手に入れたのか、とても気になるところです。 たった2号分の資料ですが、これにはまだ続きがあるのかも含めて興味は尽きません。「カクテル--その誕生にまつわる逸話」の連載が終わって一段落したら、同時代の欧米のカクテルブックとのレシピ比較など、この資料にじっくりと取り組んでみたいと思っています。 PS.ちなみに秋山徳蔵氏は、宮内省の料理長になる前、この筆者・伊藤氏の営む「東洋軒」で料理長をつとめていました。秋山氏がカクテルの本を書くきっかけをつくったのも、ひょっとして伊藤氏だったのかもしれませんね。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/07/17
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【2018年&2019年の著作権法改正を反映させた改訂版を2020年6月20日付でアップしております。現時点では改訂版の方をお読みください】★「改訂版」はこちら → 2020年6月20日の日記
2012/09/26
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歴史と伝統を持つフェスティバルホール(大阪)が生まれ変わった、こけら落とし公演「フェニーチェ歌劇場 ガラ・コンサート」(10日夕)に行ってきました。 イタリアを代表する歌劇場メンバーによるアリアや合唱などは圧巻でした。オペラにあまり詳しくない僕ですが、結構楽しめました。 客席には、コシノヒロコさん、桂文枝さん、ソニーの元CEOの出井伸之さん、101歳の現役医師の日野原重明さん、イタリア・ベネチア市長とか著名人もいらしてました。 この素晴らしいホールが、大阪から世界への文化発信の拠点となってくれることを願っています。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/04/11
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NBA(日本バーテンダー協会)全国バーテンバー技能競技大会が2日、26年ぶりに大阪で開催され、うらんかんろも観戦&選手の応援に行って参りました(@中之島・グランキューブ大阪)。 全国から数多くのバーテンダーらバー関係者が集い、僕も会場では、懐かしいバーテンダーの皆さんと久しぶりに出会えました。また、会場ロビーではたくさんのメーカーがブースをつくり、無料試飲・試食ができるなど楽しい半日が過ごせました。 さて、うらんかんろが応援していた神戸の懇意なバーテンダーMさん(「カクテルの逸話」連載でもアドバイザーをつとめてくれました)は、残念ながら、総合成績では上位入賞はできませんでしたが、創作カクテル部門の味覚審査では2位だったそうです。素晴らしい!(もとよりコンペの順位にはほとんど興味はありませんでしたが、出場するからにはMさんの上位入賞を願っていました)。 大会終了後、Mさんから届いたメールには「普段のギャグを封印して大会に挑みました。ダジャレ部門があれば上位入賞できましたかね?(笑)。自己研鑽のためコンクール挑んでいますが、なかなか深いものがあります。それを楽しんでいるうちは頑張ってみます!お客様に楽しんで頂く事、僕のモットーです(笑)。今後もよろしくお願いします」とありました。 壇上のMさんは髪型も含めて、いつも店で見ている姿とは違って(失礼!)、めちゃカッコ良かったです。結果は厳粛に受け止めるしかありませんが、。トーク部門があれば、彼は軽妙な話術のセンスで間違なく1位を取れたと思います。 日本全国で数多くのバー巡りをしている僕ですが、Mさんの世代(30代半ば)で、彼ほどトークや“返し”が上手いバーテンダーはまだ会ったことがありません(少し上の世代では、大阪キタのバー・KのMさんが彼と同じくらいトークが凄いですが…)。 次元や中身は違いますが、ソムリエ試験では、お客さんに、ワインの味わい等を上手く表現できるできる話術も審査対象になっています。バーテンダー・コンクールにも、そうした接客話術の評価もあるべきだというのが僕の持論で、以前からも言い続けていますが、旧世代の業界人にはなかなか通じません。 ただ、以前にも書いたかもしれませんが、(うらんかんろが)特定のバーに通い続ける理由に、コンペの順位などまったく関係ありません。マスターの人柄・接客がほとんどすべてです。また、そもそもこの全国大会に出場する選手の技術的なレベルなどほとんど紙一重で、そんな差はカウンターに座る客には意味ないものです。 彼の順位が何位であろうとも、Mさんのバーへの愛は変わりません。Mさん、本当にお疲れ様! そしていつも有難う!
2013/06/04
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うらんかんろは古い時代の欧米や日本のカクテルブックの研究をライフワークの一つとしていますが、先日、神戸で懇意なバーテンダーMさん(彼も、師匠ゆずりで、昔のカクテルブックが大好きなコレクターです)が、「**さん、す、すごい本が手に入りましたよー!」と興奮気味に連絡してきました。 な、なんとそれは、僕も国内外の古書市場でもずっと探しいた伝説のバーテンダー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の名著「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」の、おそらく初版本(1919年刊)と思われる本です! この「Harry's ABC…」は、世界で最初の体系的なカクテルブックと言われています。 「おそらく」と書いた理由は、本のどこを見ても「出版年」がいっさい記されていない一方で、著者名については、「Harry of Ciro's」となっているからです。「Ciro's(シローズ)」というのは、マッケルホーンが1923年、パリで「ニューヨーク・バー」を買い取って自ら経営に乗り出す直前まで働いていたロンドンの社交クラブ「The Ciro's Club」のことです。マッケルホーンはここで1918年から22年まで、約4年間勤めました。そして、この「The Ciro's Club」にいた際、まさにこの歴史的名著を書きあげたのです。 この本が次に改訂されたのは、マッケルホーンがパリで「ニューヨーク・バー」のオーナーとなり、店の名を「ハリーズ・ニューヨーク・バー」と変えた1923年で、本のタイトルも「Harry's ABC Of…」と変わっています。従って、Mさんが手に入れた「Harry's Of Ciro's」という名前がクレジットされている本は、たとえ初版本でなくても、内容はほぼ間違いなく初版本に近いものだと思われます。 しかし、現在我々が手にできる「Harry's ABC…」の本は1986年、Harryの息子アンドリューと孫のダンカンが改訂した復刻版です。この復刻改訂版には、60年代以降のカクテルも数多く追加収録されているため、どれが初版当時の収録カクテルなのかがよくわからないのです。 すなわち、現行の「Harry's ABC…」の本では、1910年代の欧州では、どういうカクテルが登場していたのか判然としないという大きな問題がありました。だから、私もずっとずっと探し続けてきたのが初版本でした。 Mさんは自分がまだ全部読んでいないのに、「先に使ってください」と快く貸してくれました。さぁこれから、これまで謎のままだったいくつかのカクテルの由来が、きっと判明すると思います。 すでにパラパラと呼んだだけでも、定説とは違う驚きの発見がいくつもありました。近いうちにその新発見のすべてをこのブログ上で紹介いたします。ご興味のある方は必見ですよ。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/06/30
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先日の日記で少し触れたマスターの海外雄飛の件、そのご本人、大阪・北新地のバー・ベッソ(BESO)の佐藤章喜さんから挨拶状が届きました。9月14日でもって大阪の店を閉めて、香港へ移転すること、そして「新たな道へ進む」ことに対して「一生懸命努力をする覚悟」が記されていました。 「挑戦するカクテル・アーチスト」として、数多くの独創的な作品を生み出してきた彼を失うことは、大阪にとって、いや日本のバー業界にとって、計り知れないな損失で、残念でなりません。 ただ、僕はこうも思いました。日本という小さな枠に彼を閉じ込めておくより、逆に、彼のような才能が世界に羽ばたき、日本のバーテンダーの高いレベルが世界に認知されることは、日本のバー業界にとっては大きな誇り・財産になるのではないかと。 香港での新たな店は、香港島のセントラル地区に誕生します。40坪の大バコだそうです。当然ですが、住まいも香港に移して、不退転の覚悟でのチャレンジです。店のスタッフも、彼の熱い気持ちを支えようと香港へ同行します。 新しい店の名前は「Dining Bar OWL by BESO, Osaka」。「OWL(アウル)」とは「ふくろう」。「新たに羽ばたくこの時には、『賢者』の別名を持つ鳥がふさわしいかなと思いました」と佐藤さん。心から、彼の成功を祈ります。落ち着いたら、ぜひ新たなステージに立った佐藤さんを香港へ訪ねてみたいと願っています。
2013/08/13
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【前おきを少々】本日の日記は少々長いです。覚悟してお読みください。少しでも読みやすいようにと、小見出しを挟みました。また、我が愛する多くのBARのマスターやバーテンダーにとっては、少々きつい内容となっています。けれど、これはBARを愛してやまず、バーテンダーという職業を心から尊敬する一人のBARファンの言葉と思い、お聞き願えれば幸いです(以下、本文へ)。 人は何のためにBARへ行くのか 僕にとってBARがない人生も、BARがない街も、考えられない。だから、BARは僕にとって、永遠に居心地の良い場所であってほしい。酒呑みはなぜBARに行くのか? 単に酒を飲みに行くためでも、酔っぱらうためでもない。 僕が思うには、酒呑みがBARに通うのは、バーテンダー・バーテンドレスと会って話をしたいがためであり、彼らのつくる美酒を味わいたいがためである。そして、非日常空間で日常を忘れ、日々の疲れを癒したいがためである。 モルトウイスキーを片手に、そんな「独り言」を頭の中で反芻しながら、買ったばかりの月刊誌「男の隠れ家 2007年1月号」(あいであ・らいふ刊)を、家のリビングでパラパラとめくっていた。 思わず目にとまったやりとり すると、ある文章に思わず目が止まった。1月号は「東西146軒、男のくつろぎの空間 大人の酒場」と題したBAR特集である。今や女性もどんどん一人でBARを楽しむ時代に、「男の…」と限定する表紙のコピーのセンスにはがっかりさせられるが、内容はそれなりに充実している。 目が止まったのは、その特集のなかで、BARをこよなく愛する二人、切り絵作家の成田一徹氏と作家の森下賢一氏による対談。二人はBARという空間での楽しみ方をあれこれ語り合っているが、その末尾あたりに、次のようなくだりがあった。若干長いけれど引用させていただく。森下 ただチャージといって、諸外国にはない、座っただけでお金を取られるシステムはバーが普及する障害になっている。残念だね。成田 同感です。バーは僕にとっては「ハレの日に行く場所」ではなく、ごく日常の一部。できるだけ安く飲める“お得感”が大事ですね。森下 その点では、日本のバーはまだ“特別な場所”なのかな。ただ最近は都市部ではなく、郊外にもいい店は増えていて、そういうバーではチャージをとらない所も多い。ご近所にそんなバーがあれば、純粋にお酒を楽しむことができ、きっと人生に幅が生まれますよ。 いまだ国際スタンダードになれぬ訳は… このくだりを読んで、僕も思わず、「まったく同感、同感。その通りだ」と相づちを打った。日本でバーが、いまだ国際スタンダードにはなれず、なお「特別な場所」と思われ続けている最大の原因は、僕もこの「チャージ」という不可解なシステムにあると思っている。 欧米のBARには、僕の知る(訪れた)限り、ホテルのBARなどごく一部を除いてこのようなシステムはない(パブでは、キャッシュ・オンがほとんど。任意のチップがあるのみ)。 BARでは酒代がかかる。これは当たり前である。美味しい酒やカクテルにはそれなりの対価が必要だ。お値段は、美味しい酒を造った人への感謝であり、旨いカクテルをつくってくれるバーテンダー・バーテンドレスの技術への感謝(対価)である。 その値段に見合う、納得できる酒やカクテルであれば、僕は正当な対価として喜んで、支払う。例えば、ジン・リッキー。普通のBARでは、まぁ、700~800円くらいから1500円くらいの間だろうが、もし、素晴らしいバーテンダーがつくる訳(わけ)ありの、特別なジン・リッキーなら2000円払っても惜しくない。 不思議で、不可解なシステム しかし、日本のBARでは酒やフードの代金とは別に、もう一種類、「チャージ」という料金を取るところが多い。誰が始めたのかは知らないが、成田氏や森下氏同様、僕も以前から、この「チャージ」という、日本独特の料金システムを不思議に思ってきた。 だが、なかには「チャージ」を取らないBARもあるから話はややこしい。つまり、「チャージ」はBAR業界に必要不可欠な課金ではなく、経営者の裁量で、取るか取らないかや、いくらにするかを自由に決められる料金なのである。 しかし「チャージって何か?」と尋ねられると、これまた答えるのは難しい。「席料」だという言い方をする経営者もいる(一見都合のよい言い方だが、スタンディング=立ち呑み=でもチャージを取るBARもある)。そもそも、BARが席を用意することに客が対価を払う義務はあるのか、理はあるのか。僕ははなはだ疑問だ。 「チャージ」はそれともサービス料、すなわちおしぼり代やミネラル代、氷代? あるいはグラスが割れた時の保険か? バーテンダーの技術料か? トーク代か(チャージに見合うトークができる人は、そういないぞ…)。 一般的にはチャージ=サービス料かと思われがちだが、なかにはチャージを取りながら、10%~20%のサービス料を別に取る店まであるから、またよく分からない。経営者によって、チャージというものの概念(定義)がばらばらなのが原因だろう。余談だが、雑誌では「ノー・チャージ」と紹介しておきながら、会計の際に客からちゃっかり300円ほどのチャージを取っている老舗BARもある。取りたければ堂々と取ればいいのに、裏でこそこそやる商法はいただけない。 BAR側にも言い分はある 昔、名古屋のあるBARに行ったときのこと。名古屋ではチャージを高めにしてその分、1杯の値段を安く設定している店が多いが、この店もそうだった。チャージは2000円だったが、1杯の値段は600~700円からという設定にして気軽にお代わりしやすくしていた。「なぜこんなシステムに?」と聞くと、「名古屋のお客さんは1杯で粘るんですよ。だからある程度チャージをもらわないと商売あがったりで…」とそのマスター。 大阪のあるBARのマスターはこう言った。「チャージをある程度高くしないと、客層が荒れるんですよ」。確かに、ノー・チャージだと、懐がさびしい若者が多く集まって、店の雰囲気を変えてしまうかもしれない。 しかし、チャージを取らないBARはその分サービスを手抜きしているのか。チャージを取らない店は必ず客層が荒れるのか。それはまったく違う。例えば、大阪ミナミのBar「M」などは、接客も行き届いているし、客層だって、ばか高いチャージを取るBARと比べたらよほど良質である。 チャージを取って何も出さぬ店 チャージを取るBARでは通常、「お通し」という1品のおつまみを出す。この「お通し」に何を出すかや、どういう工夫をしているかで、そのBARのこだわりやホスピタリティ、すなわちサービス度も分かる。大阪キタのBar「C」などは、毎回とても手の込んだ素晴らしい「お通し」が出る(ちなみにこの「C」はチャージ500円で、サービス料はとらない)。 なかには、チャージを取らないのに1品を出すBARもあるが、これは客としては少し心苦しい。一方で、チャージやサービス料を取りながら1品も出さないというBARもあるが、これには、ただ経営者の神経を疑うしかない(この店の場合、いったい何の対価なのだろう?)。 僕は、BARは基本的にはお酒やカクテルの味やクオリティで勝負すべきで、チャージというサービス料が必要なら、お酒やカクテルの価格に反映させるべきだと思う。サービスに見合うお値段なら僕は喜んで対価を払おう。そして、どうしても「チャージ」というサービス料が必要ならば、1000円までに(できれば500円以下に)抑えてほしい(1品くらい用意するのは普通だろう)。 チャージに見合う満足が得られるなら… チャージ=サービス料だったとしても、1000円を超えるチャージを取るBARには、基本的に僕はあまり行かない。そのBARやそのマスターがどんなに有名でも、技術がとても素晴らしいという噂があっても、あまり興味はない。銀座や北新地などには、1500円~2000円もの高いチャージを取るBARもある。 かつて、銀座でチャージがバカ高いBARにお邪魔したことがあるが、マスターは一見の客に、格別愛想が良いわけでもなかった。マスターから話しかけてくることも、お会計の時まで一度もなかった。いくら技術は凄くてもその高いチャージ(別途サービス料10%!)に見合うとは、僕にはとても思えなかった(僕は、2杯頂いて7000円近く支払った)。ただし、チャージが少々高くとも、その額に見合う納得できる接客やサービス、味とクオリティがあるBARならば、例外的に時々お邪魔している店もある。 論外とも思える高いチャージを取る店に限って、接客やサービスが悪いことが意外と多い。常連だけにこびへつらい、マスターは気の利いたトーク一つすらできないということも多かった。「肩書きで飲む」客ばかりを大事にするBAR(こういう店に限ってチャージは高い)もあるが、そういう店には一度は行くことはあっても、「次」はない。 その1杯に正当な「対価」反映を 結論として、僕が思うのは、BAR(バーテンダー)は、提供するお酒のクオリティとカクテルなどの酒づくりの腕や知識、トークを含む接客、内装などの雰囲気づくりで勝負してほしいということだ。 それに対する対価(技術代と材料費、接客のレベルの高さなど)は、その商品である1杯、1杯の値段に反映させてほしい。日本のBARは限りなく、「チャージ」などという不可解な言葉と料金システムから解放されるべきだと思う。 もちろん経営者としての気持ちも分かる。おしぼり代だってかかる、グラスも割れることだってある、日持ちのしない在庫だってある、光熱費もかかる、トイレの電球だって切れる、従業員にボーナスも出さねばならない。考えれば、BAR経営は大変だ。僕もその辺は理解できる。 ならば、10~15%くらいのサービス料を堂々ととればいいと思う。サービスに、なによりも自信があり、サービス料を客からもらっても当然だという自負があれば、ゆめゆめ「チャージ」とは称さず、はっきり「サービス料」と言って徴収すればよい。 「チャージ」という説明不能な、曖昧な言葉に頼っている限り、日本のBARは永遠に国際スタンダードにはなれないと僕は信じている。【おことわり】1枚目の「男の隠れ家」の表紙写真以外の5枚の写真は、記事内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/12/02
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