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今日、ご紹介いたしますのは、『アジアの貧しい子供たちへのサポートプロジェクト』という、毎月1000円の引き落しでできるボランティアのご紹介です。このプロジェクトの主旨は、映画『神の子たち』の四ノ宮浩監督が映画製作時に出会った『貧しさによって命を落としていく子供たちを一人でも多く助けること』を目的に、有志の方々の月々1000円の資金を元に、現地で出会った子供たちへの食料や薬などの直接的支援をすることにより、とぎれそうな子供たちのいのちの炎を出来る限り、可能な限り、灯しつづけるプロジェクト とのことです。(以上、私が申込み時の書類より一部抜粋、少々加筆)<参考>映画 『神の子たち』2002年 シネマアンビエンテ国際環境映画祭グランプリ受賞作品2002年 ベルリン国際映画祭正式招待作品2002年 モントリオール国際映画祭正式招待作品私が特に心を動かされたのが、このプロジェクトは岡山の有志の方を中心に立ち上げられたプロジェクトだということ。早速、四ノ宮監督のオフィスフォープロダクションを通じてその代表の方とコンタクトを取り、このプロジェクトに関する詳しい話を電話でお聞きいたしました。プロジェクト以外のお話もしていただき、電話ではありましたが大変有意義な時間を過ごせました。。このような企画を立ち上げられる方はやはり素晴らしいですm(゚- ゚ )私は今年の夏からこのプロジェクトに1口参加しています。私の住んでいる岡山もなかなか捨てたものではありません。。(゚-゚;)以前ご紹介しました『シンギングエンジェルプロジェクト』も岡山が発祥ですし(^^)bhttp://www.sa-p.jp/下記に本プロジェクトの詳細が書かれていますので、ご興味のある方は下記リンク先をご覧になってくださいね(^^)★下記『オフィスフォープロダクション』のトップページの中ほどにこのプロジェクトの詳細が掲載されています。http://office4-pro.com/私事になりますが、世界の不遇な子供たちに今私が出来ることと言えば、考えてみると少々のお金を援助することくらいです。。そんなことよりも私のダウン症の息子の事をもっと考えてやるのが本来は先決なのかもしれませんが、今は少し子育てにも余裕が出来てきました。(若干ですが^^;)自分の子以外の子どもを気持ちだけでも援助していくことはきっと私の息子にとってもプラスになってくれると信じています。それよりも本音は今まで私が社会からお世話になった分、(結構色んなことでお世話になっていますので・・(^_^;A)色んな面でお返ししていきたいという気持ちが大きいです。(注:いわゆるこれは罪滅ぼしですので褒められたものでは全くありません・・´・ω・`)まだまだ私の考えは浅いのですが、今後もその気持ちだけは忘れないようにしていきたいと思っています。。★オフィスフォープロダクションHPhttp://www.office4-pro.com/★四ノ宮浩監督の次回作『(仮)放浪』の為の『5000人委員会』についてもまだまだお申込み出来ます。下記は『5000人委員会』紹介時の時の記事になります。私も『派遣のヒロ』の名前で1口参加しています!(^^)♪http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200612020004/★【参考】私のブログ内の四ノ宮監督関連記事集http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/?ctgy=29
2007年12月24日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載最終回タイトルバックに2006年のマニラ、夕陽や街の映像にかぶり「フィリピン首都マニラでは、今でも青年男女の失業率が50%を越え、スクワッターと呼ばれる他人の土地に住む人々が30%もいる。この街角のいたる所では子どもたちが物貰いをし、住民の多くが生きていくことに必死な形相は17年前と変わらない」 2006年のマニラの普通のスラムに住むある家庭の映像にかぶり「今現在も、たとえ仕事があったって大人1日の最低賃金は日本円で600円ばかりで、月給15,000円という金額では、一家7人で1日3回、ご飯と小魚のおかずを食べて終わりといった感覚で、肉も牛乳も果物も石鹸も服も靴も何もかもすべてまともに買えず、誰もが真面目に働くのがバカバカしくなる。だから、ここでは、汚職、袖の下、泥棒、スリ、売春、売血、薬物中毒、アル中、臓器売買、殺人などは当たり前におこり、警察官さえ信用できないすべてがお金で方がつく社会になっている」 学校に登校する子どもたちにかぶり「子どもが毎日学校に行ける家庭はいいほうで、日本と違い、小学校でも、交通費や弁当代などの他、たまにレポート代として先生にお金を持っていく必要があり、その日、家に現金のない子どもは学校に行きたくとも行けない。その他に、教科書、ノート、制服、かばんなどの費用も当然かかるし、飯を食えなかった翌日には、学校とか勉強とかもうどうでもよくなるのが人間である。この血縁第一主義の貧しき国では、いくら成績優秀者でも仕事は得られず、貧しき家の多くの子どもたちは、物心つく12,3歳頃までに学校をやめてしまう。だから、貧しき国の親は『子どもがただ生き続けていることが幸せ』と感じ、貧しき国の子どもは『学校にいき勉強できることが夢』だったりする」 ストリートチルドレンの映像にかぶり「財政破綻した国の政策は、貧しき子どもたちを助ける意識はあっても、社会全体は何もかもお金がかかる仕組みになっている。当然、日本の生活保護などの制度もなく、多くの優秀な国民が給料のいい外国に出稼ぎに行って家族と離れ離れに暮らし、多くの家庭崩壊を招いている」 病院の映像にかぶり「病院の診察料はただでも、薬は日本と同価格でしか買えず、弱者である子どもたちの死が目につく。この貧しき社会においては、たとえうそを言っても、お金を得たものだけが生き残っていける弱肉強食の世界になっている」新しいゴミ捨て場の子どもたちやゴミ捨て場裏のスラムの映像にかぶり「この地では、飯をまずくてもいいから、食うことが一番優先され、貧しき子どもたちは、腹いっぱい食べたことがないため、胃も小さく、体格も日本人の同年齢と比較してかなり小さい。ここでは住民登録のない子どもたちの予防接種なども当然なく、貧しき家庭に生まれた子どもたちが パタパタと死んでいく。子どもの死因は肺炎結核コレラ栄養失調などで、昨日まで元気な子どもが今日急に死ぬ場合も多く、5歳未満の幼児死亡率が30パーセントにのぼる。このゴミ捨て場では一家に子どもが5人生まれれば必ず1人2人は死んでいた」田舎の農家の映像にかぶり「フィリピンでは一部の財閥系ファミリー数十家族がフィリピンの富の90パーセントを所有して、国民はあとの10パーセントの富を分け合う構造といわれる。 誰が自分たちの家族の富をすべて他人に分け与えるというのか。世の中にそんな聖人君主は誰もいやしない。だから、その貧困の事実や原因を知らせ、財閥に外圧をかけて、富やお金を分配できるシステムを作るのもひとつの貧困解決策である。ぜひ日本政府にもフィリピン政府や財閥などの土地を長期に借り上げ、日本人村や日本人街にして、やる気のある日本人の若者に来てもらい、お互いの国のためになる農業政策などを立案実行してほしいとただ願うばかりである」僕は映画を見たみんなと真剣に考えて行動したい。「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」を。 映画「(仮題)天国の子どもたち」監督四ノ宮浩~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~今回で、四ノ宮浩監督の手記『新作映画・そして僕自身のためのノート』の連載を終了いたします。長い間お付合いいただき誠にありがとうございました。この監督の手記を読んで、『天国の子どもたち』の上映が今からとても楽しみになりましたm(゚- ゚ )フィリピンのこの一連のお話は、私にとっては他人事ではなく、掘り下げていけば行くほど、さまざまな面で私の生き方について気づかせてくれ、また変えてくれています。貧困、犯罪、戦争、環境問題、障がい者、子ども、教育、死など、まるで、人間に課せられた課題の縮図を見ているようです。四ノ宮監督のご活動は、監督の最近の手記を読んでみますと、今後さらに多方面に渡っていくだろうと思われます。四ノ宮監督の今後のご活動を見ていきながら、私も少しでも勉強させていただけたらと思っています。~四ノ宮監督様へ~貴重な手記を長期にわたり連載させて頂き、誠にありがとうございました。今後のますますのご活躍をとても楽しみにしています(^^)【1】へ 前へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2007年01月11日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第14回目僕はフィリピンで「忘れられた子供たち」「神の子たち」の主人公の現在の状況を調べることにした。そして、映画の登場人物の中だけでも、死んだり、殺されたり、レイプされたり、行方不明の子どもたちが半分ぐらいはいるのである。「忘れられた子供たち」のエモンは死に、母と妹は田舎のミンダナオ島に戻っていた。僕たちスタッフはエモンの死の真相を調べるうちに、また衝撃的な事実をつかむ。JRはゴミ拾い、クリスは4人の子どもがいて、小さなお店を市場で開いていた。「神の子たち」主人公ノーラは夫に殺され、子どもは行方不明。ニーニャは妹が病気で死に、今は学校に通いながらゴミ拾いしていた。水頭症のアレックスは撮影スタッフにより援助を受けとても元気だった。日本人の高校生や大学生がゴミ捨て場を訪問しに来ていた。そして、日本人アーテストもこの見捨てられた地にやってきてくれた。このように実際に現地に来て友達を作っていく日本人が多くなることを僕は願うばかりである。彼らから次々に感想が語られる。僕はアロヨ大統領にこの映画のご協力を願いにいった。「この映画を一緒に作り、世界中の人々にも見てもらい、多くの人々にフィリピンを訪問してもらいましょう」僕たちのフィリピン人スタッフは、名刺大の緊急電話番号を書いた紙を貧しい地域に配り始めた。そこには「子どもの命が危険でしたらボランテイアが駆けつけますのですぐ電話ください」と書いてあった。僕たちは逐一その子どもたちの姿を撮影して、この映画で見せることにした。僕は中国や韓国、インド、ロシアなどの外国人が来るフィリピンの場末の安酒場で酔いながら神に誓う。「もう世界はアメリカに頼ったって何もしてくれない。だから僕は、このフィリピンの貧しさだけは絶対になくす。僕の力をすべてこの地に捧げ、一人でも多くの子どもたちの命を救いますのでどうか見守ってください」僕は、酔いながら、また神に誓う。「自分の愛する家族を大事にすることと、この映画を早く完成させ、この映画を見た人たちが、世界中の死んでいく子どもたちを少なくするために働いてもらうのでご協力お願いします」と。僕が心の底から笑い、そして泣ける唯一の場所、それはフィリピンと呼ばれる国である。 この地は7000余りの島々からなり、年中常夏なので裸だって生きていけるし、土地が豊富にあるし、なによりも人間が魅力的で、素直で嘘は言わず、約束は守り、他人を家族と同様に思って助けてくれる。僕のフィリピンとの付き合いもすでに17年。あっという間の出来事のような気がする。生と死の渦巻く国フィリピンは、僕を確実に人間として成長させてくれた。 僕はこれからこの国と日本人が積極的に関わってお互いのためになる方法を本気で考える。まず始めにこの地に「日本人のための何でも相談室」の事務所を開こう。 生きる希望をなくした人にはこの地に来ることを進め友達を紹介してあげよう。結婚相手を探している人には心優しい相手を紹介してあげよう。海外で農業をしながら暮らす経験をしたい人には格安の農地を探してあげよう。ボランティアをしたい人には事務所の仕事を手伝って、貧しさのために死んでいく子どもたちの命を助けてもらおう。~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2007年01月09日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第13回目2004年秋、家族の問題もかたづき、僕は、どうしても戦争を体験するために、危険になったイラク入りをしようと思ったが、日本人青年香田君がイラクで武装勢力に捕まった。僕は彼のイラク入りを止めなかったことを今でも悔やんでいる。彼は僕と同じように危険を冒しても「戦争という状況」を体験し、自分の生きる道を決めたかったと思う。僕は彼の葬儀に参列し彼の両親に詫びた。僕はその後、戦時下のイラク入りの機会がなくなり、膨大な本を読みふけることになった。また、911ボーイングを捜せというDVDにもめぐり合う。そこには、911事件の政府発表とは違う事実が検証されていた。また、田中宇(さかい)さんという国際政治ジャーナリストのHPには今まで知らなかった「イラク戦争の真実」やだれが世界を動かしているかなどの記述などがあり驚く。世界では日本も含め、さまざまな情報操作が行われていた事実が僕の頭を駆け巡った。2005年9月、世界中の貧困問題を何とかしようというホワイトバンド運動に出会い、僕は諦めていたフィリピンの貧困にもう一度向き合うことになる。世界中で、3秒にひとり、子どもたちが貧しさのために食べ物がなく、水も汚いといった理由で死んでいる現実にただ驚いた。1日に換算すると世界中で2万5千人の子どもたちが貧しさのために死んでいるこの世界とは一体なんなのか。僕は怒りがこみ上げた。僕はようやくこの数年でいろいろなことがわかってきたように思う。世界各国が国益で政策を行っていく現実において、世界の中心だったアメリカ政府が問題にしなければ、利益をまるで生み出さないアフリカの飢餓やアジアの貧困問題などはどうでもいいことなのである。また「世界は、イラク戦争阻止の世界中の反戦1000万人の行動や声でも変わらなかった」ことを思えば、アメリカ政府は石油や軍需産業の国益などでイラク戦争に突入したのかともかんぐりたくなってきた。 日本政府だって実はアメリカ政府の言いなりで、アメリカ国債を毎年20兆円買わされたり、沖縄基地のグアム移転予算7000億円をだすことさえも、日本国民は知らず知らずのうちに納得していることになってしまっている。僕は次第に、世界は、石油、穀物、金、ダイヤモンド、金融、原子力、マスコミを支配した人々により動かされているのではないかと考えるようになっていった。2006年4月、現在のフィリピンは、次はイラン戦争かとの懸念からか石油高の影響をもろに受け、毎週毎週物価が上がっていた。このままいけば間違いなく物価が日本並みになるだろう。街ではホールドアップが横行し、MONEYを稼ぐために人々はたとえ嘘を言っても、泥棒しても、人を殺しても生き延びることに必死になっている様である。たぶんこの国はもうすぐ飢餓のために人々、特に子どもたちから死んでいく予感がする。この国の薬は高くて買えないし、まるで、サバイバルゲームをしているみたいに子どもたちが死んでいく予感がする。誰が石油や薬の値段を決めているというのか。「いったい世界はどんな構造になっていて、誰が世界の政策を決定するというのだろうか」~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~※次回【13】は1月10日(水)掲載予定です。【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2007年01月08日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第12回目そして、2001年の9,11のニューヨークでの同時多発テロ事件のあと、アフガニスタンでの報復攻撃へと続き、僕の頭の思考停止状態は6ヶ月続いたが、 2002年3月末に映画上映ついでに「グランドゼロ」を訪れ、「世界が平和になるために僕たちはなにをしなければならないのか」との思いが急に湧き、「今の世界の中心はアメリカであり、アメリカ政府が世界を変えようとしなければ何も変わらない」事に気づき、僕の映画をアメリカ人に見てもらうための活動もしたが、アメリカのメディアは他の国の貧困問題などに思いを寄せることはしなかった。(唯一ニューヨークタイムスが映画のレビューを記事にして載せてくれた) いつの頃からか、僕の心の中は、「世界の貧困はぜったいに変わらない」と諦めかけるようになり、時たまテレビから流れる「アフリカで起きた戦争や内戦などによる飢餓の子どもたち」などのニュース番組を見てさえ、自分の心からその映像を追い出してしまっていた。 それから、世界は、アメリカは、世界中のメディアは、2003年3月20日のイラク戦争から今まで世界の貧困問題にはほとんど目もくれずに、置き去りにされ続けてきた。 僕の興味も「かわらない世界の貧困問題」から「自分で体験したことのない戦争とは何なのか」に移り、僕は、イラク戦争前にイラク入りしたが、ほとんど撮影させてもらえず、恐怖も手伝って、戦争前にイラクから逃げ帰ったことを今でも後悔している。そして、4月5月6月と戦後のイラクに入るが、その後、人には言えない家庭の問題が起きたため帰国、現在に至るまで「戦争という状況」があまりわからない。 イラクでアメリカ軍として派兵されたフィリピン人兵士などから、顔を隠し、声を変えての衝撃的なイラク戦争の実態が語られる。(この戦争がいかに不正義によりしかけられていたか、いかに多くのイラクの罪もない住民や子どもたちをも殺す命令が出されていたかなどが具体的に語られる。また、この戦争にはイスラエルの情報機関なども関与した可能性や、今でも戦争をわざと終わらせないような命令が出ているのではないかといった疑問の声やその他の衝撃的内容が語られる) また、日本では、ほとんど誰も知らない911事件後のアメリカ市民の実態(イラク戦争でのアメリカ兵の死体はテレビに流れないことやアメリカの若者は麻薬づけも多く、街にはホームレスが溢れていることなど)も語られた。~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2007年01月05日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第11回目1998年ごろ、僕と妻とクリスは長年の念願だったスモーキー跡地近くのトンド地区にNGO「忘れられた子どもたちの家基金」事務所を作り、ゴミ捨て場の子どもたちの教育援助などをはじめた。しかし、僕と妻のどちらかが日本でどちらかがフィリピンという生活を余儀なくされ、だんだん夫婦仲が悪くなり、閉鎖せざるをえなかった。この頃、初めて僕は命を狙われ、人を本気で殺そうとも思ったが、やめた。僕の心のどこかで「今、人を殺して、次に生まれ変わるとしたら、ひどい境遇に生まれるぞ」と別な僕がささやいた。 その頃、僕はあるカメラマンにゴミ捨て場の子どもたちを撮影したいと言われ、ケソン市パヤタスゴミ捨場を案内することにして、驚いた。その地では50mに1人の割合で障害を持った子どもたちが生まれていた。水頭症、小児麻痺、ダウン症、脳性まひなどの子どもたちだった。その日、僕は初めて子どもに触れない経験をした。生後数週間のその赤ん坊はまるで映画のETに出てくる子と一緒の外見だった。しかし、その子の母親も4、5歳の姉もその子を抱きあげ、頬摺りをし、その子を愛していた。僕は自分の差別した気持ちを恥じた。数ヵ月後、また訪れてみるとその子は神の子となっていた。だから僕はその地で障害を持って生まれた子どもたちの映画を創ろうと決めた。ある日、街をうろついていると、1人の母親が僕のそばに駆け寄ってきた。「赤ちゃんが吐いて下痢なので病院に連れて行って」僕はすぐその家に向かうと、元気そうな赤ん坊が寝ていたように見えた。僕はすこし安心し、タクシーの拾えるところまでその親と赤ん坊を連れて行かせた。次の日、一晩中、病院をたらいまわしにされ死んだ赤ん坊の遺体と対面した。日本人の僕が病院まで連れて行き病院で「お金の面倒を見ます」といえばその子の命は助かったはずだ。僕は自分の判断ミスから、1人の赤ちゃんの命を救えず、悔やんだ。2000年7月、撮影開始後1週間で、予想しなかったゴミ捨て場の崩落事故がおき、1000名の住民が生き埋めになった。僕たちは毎日毎日、死臭漂う中で、ゴミの来なくなった、生活手段を失った住民の生活を撮り続け、2001年5月に映画「神の子たち」を完成させ、公開の準備に入った。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2007年01月03日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第10回目1991年5月、エモンが家族の近くに戻り家族の世話をしていた。クリスもJRの家に戻って親子3人暮らしていた。クリスが話してくれた。「私たちにとっていい生活は必要ありません。子どものミルク代と1日3回食べれればいいです。私たちは今家族が一緒なので幸せです」僕の妻となった彼女は妊娠5ヶ月目に入っていた。 10月5日、マニラの小さな診療所で自分の子どもの生まれる瞬間に立ち会った。僕は「この世で自分よりも大切な存在ができ、僕は2番目になった」と感じた。 1992年7月22日、 日本語で「こんにちは」も言えない妻と赤ん坊たちで日本の生活を始めることにした。 1993年秋、一家で800円しかなくなり、初めて貧困の現実を体験した。僕は妻から言われた。「今のヒロがいい。フィリピンにいる時、あなたはいつもお金があり、いつもどこかにいっていたので、私は今のほうがずっと幸せよ」と微笑んでくれた。僕は映画の内容を、「かわいそうなゴミ捨て場の子どもたち」から「家族の絆を大切さにするゴミ捨て場の子どもたち」を中心とした話に変えた。 そして、ついに僕は、強烈な悪臭と不衛生な環境にさらされ、金銭的な苦労をしながらも、スモーキーマウンテンと呼ばれたゴミ捨て場に生きる子どもたちの生活記録映画「忘れられた子供たち スカベンジャー」を完成させた。そして、1995年5月に東京の若者の街、渋谷で公開させ、日本各地やアメリカを除く世界各国でも上映されるようになった。 しかし、その後、スモーキーマウンテンでは住民の強制立ち退き話が持ち上がり、街は賛成派と反対派に分かれていた。時のラモス大統領は、「フィリピンはゴミ捨て場の貧しい国」というイメージを嫌い、11月にゴミ捨て場を閉鎖、すべての住民の強制退去が行われた。すべての住民は近くの仮設住宅に移転させられたが、住民の生活手段はごみを拾って生きる以外の方法が何もなかった。~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月31日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第9回目7月、僕はゴミ捨て場の子どもたちの生活をようやく撮り終え、一時、東京に戻り映画の編集をしようとしたが、どうしても自分の彼女のことが気にかかり悶々としていた。すると、フィリピンに残っていたスタッフの1人から国際電話が入った。7人組のJRとクリスティーナがどうやら結婚する予定だという。僕は撮影を口実に、喜び勇んでフィリピンに戻り、彼女と家を借り、同居することにした。 12月スモーキー教会で自分の想像を超えていた「JRとクリスティーナの結婚式」が行われた。僕は、撮影拒否にあった神父と問題が発生するのがいやで撮影に立ち会わないことにした。 またこの頃、アキノ大統領退陣を求め、首都マニラで大規模なクーデター騒動があった。僕は偶然、反乱軍と政府軍の境界地域に迷い込み、一機の戦闘機が僕をめがけ低空飛行してきた。僕は全速力で走り、はじめて「死」を覚悟した。機関銃の玉が僕の背中を掠めたのがわかった。僕のすぐ前を走っていたフィリピン人ジャーナリストの手が撃ち抜かれ、血だらけになっていた。 1990年5月、家族思いのエモンが家出したが、家出先で彼は母に渡すお金を貯金箱に貯めていた。エモンに聞くと、彼は家出をして3日間何も食えない経験をして、意識が朦朧となり、知らずに他人の家から泥棒していたことを話してくれた。そして、弟ミンショが行方不明になり母が懸命に探してみつけた。また、JRとクリスの子どもが生まれるが、ゴミがほとんど来ず、子どもの黄疸の薬代のためにJRは売血しに行くが体重が減っていたため売れなかった。3ヵ月後、二人は別居した。このように貧困とはだんだん人間を人間でなくしていく。僕はこの悲劇で映画を終わらせたくなかった。だから僕は待った。エモンが家に戻り、JRとクリスが仲直りする日まで。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月29日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第8回目それから僕は、無理にスモーキーマウンテンに住むことはやめ、食事と水は外で取ることに決めたが、部屋は借りっぱなしにし、以前どおり、この街を訳もなくカメラ片手にただうろついた。街のあちこちでは僕への挨拶が聞こえてくるようになった。いつしか僕は、このゴミ捨て場の住民として認められ、名前も「ヒロ」と覚えてもらい、この街のどこにいっても友達や知り合いがいるようになった。僕はもう、この地で何をやっても許されるようになっていた。 やがて僕は、ゴミ捨て場でJR18歳、クリスティーナ16歳、マリルー13歳などいつも一緒にゴミ拾いしていた仲良し7人組と出会った。彼女たちは月曜から土曜日までは朝8時から夕方までゴミ捨て場で仕事をし、母に稼ぎの大半を渡していた。 ある日曜日、僕は彼女たちから遊びに誘われ一緒に行くことにした。この日、みんなは午前中で仕事を終え、家に帰りおしゃれをして、ジプニ―と呼ばれる乗り合いバスに乗り込んだ。日曜日だけは、彼女たちが、稼ぎを母に渡さずに自分たちで使う日だった。 彼女たちが最初に向かった先は教会だった。僕は、30分ほどミサに参加して戻ってきた彼女たちにとっさにある質問をしていた。「神様に何を祈っていたの?」マリルーは「私はずっとゴミ捨て場で働いていいから、せめて妹と弟を学校に行かせてくださいと神様に祈っていました」といった。ネリア14歳は「今お父さんが病気なので、私の命が少し短くなってもいいから治して下さい。そうしないと私の家族全員が生きていけなくなりますからと祈っていました」と答えてくれた。僕は、「自分たちの事よりも大事にしている家族がいる」この子たちが、とてもいとおしく感じられた。そして、自分自身がこれから何を大切にして生きていくのかを真剣に考え始めていた。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月27日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第7回目次の日から僕は、ゴミ捨て場の麓の知り合いになった人の家のひと部屋を借り、住みついた。1日目 ゴミ捨て場から強烈な悪臭がした。ゴミ捨て場で捨てられた死体をみて驚いた。2日目 ゴミ捨て場の斜面の家々を歩き回ってもあまり臭わなかった。ゴミ捨て場に行く途中の家の前で病気で急死した棺おけに入った5、6歳の子どもの死体をみた。3日目 どこを歩いてもゴミの臭いが感じられなくなった。この街を流れる川にどこかで殺された死体が浮いているのを見ている僕がいた。 僕はこのように毎日毎日、この街を用もないのにただうろついた。そしてゴミの悪臭と死体にも慣れてしまい、何も驚かなくなった僕がいた。そして、友達を作る目的で、住民たちに、この地では珍しかった写真を撮ってタダで上げたり、原価で分けてあげたりした。しかし、住み始めて2週間も過ぎた頃、僕は急に倒れ、意識もうろうとし、3日間寝込んだ。僕はうまれて初めて自分の限界を超える体験をした。 もう僕は一刻も早くこの国を離れたかった。そして、しばらく安宿で休養することにした。そして僕はある日、街の安酒場でウエイトレスのバイトをしていた現在の妻である女性と出会った。彼女の家庭も裕福ではなかったので彼女は働かざるをえなかった。その日から僕たちは毎日会い、いろいろなことを話し合った。フィリピンの貧しさの事、日本の豊かさの事、理想の生き方とは。僕はいつしか彼女の実家にまで行き、彼女の家族とも仲良くなっていた。彼女の母は、家の土地に入った泥棒に銃殺されていた。僕たちは二人で孤島まで出かけたこともあった。そして彼女に言われた。「あきらめないでフィリピンの貧しい子どもたちのためになる映画を撮って・・・」僕は彼女に元気をもらい、初めてこの国が好きになりかけていた。~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 前へ 次へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月25日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第6回目そのあと、僕は一緒にいったスタッフ達とこのゴミ捨て場の街を見て回ることにし、ゴミ捨て場の頂上を目指し歩き始めた。僕はかなり動揺していたが、誰にもそのことを悟られるのがいやで一番後ろを歩くことにした。道はかなりぬかるみ、靴が重くなっていくのがわかる。ちょうど、山の中腹に差し掛かったぐらいで、向こうの路地から、今ゴミ拾いを終えたばかりだと思われる強烈なにおいの4、5人の女の子たちが僕たちをめがけやってきた。僕はとっさにポケットに手を突っ込み小銭をさがし、その子たちから言われたら渡そうと準備した。ところがその子たちは、僕たちとすれ違いざまに澄んだ瞳で微笑を浮かべ「カムスタカナ」(日本語でこんにちはという意味)と挨拶の言葉をいい、ただ僕たちの前を通り過ぎていった。 僕は、この日、この地獄だと思ったゴミ捨て場で偶然出会った子どもたちに惹かれた。ここに住む少年少女たちは、このゴミ捨て場で生まれ、育ち、多くは途中で死んでいく運命と聞いたが、僕はどうしても、この子どもたちの澄んだ瞳のわけを知りたくて撮影を始めた。 僕たちは毎日、マニラの安宿からこの地に通い、ゴミ捨て場で働く子どもたちを撮影することにした。また、夜になると、この地から街にゴミを探しにいく13歳のエモン君一家に出会うことになった。彼は学校もやめ、母、弟、妹と一緒に毎日カリトンという荷車を押して市場などにいきゴミを拾っていた。彼は父の死んだあと、一家を支えていた。彼と話すと、彼はゴミ捨て場以外の生活は何も知らず、車にさえ乗った経験がなかった。 数週間後、僕たちは、この街の住民会議に呼び出され、住民代表から「私たちは見世物ではないのですべての撮影を拒否します」と宣告され、途方にくれた。 僕たちスタッフは安宿に帰り、今後の対応を考えた。すると、撮影助手から僕はこんな言葉を投げつけられた。「監督は住まなくちゃだめなんだよ」僕はひとりになり考えた。「今まで生きてきて、自分の限界を感じたことがなかったが、今回初めて挑戦してみるか・・」 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 【5】へ 【7】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月22日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第5回目そして、撮影を目的に、ストリートチルドレンと付き合いながらも、嘘をつかれお金をせびられ続け(親を捨てたり、親から捨てられた少年少女たちは、生活のために手段を選べないので、気持ちはすっかりすさんでいた)僕は辟易とした気持ちになり、なかば投げやりにもなり、日本への帰国も脳裏によぎり始めたまさにその時、僕は、マニラの北のマニラ湾沿いに位置する40年以上続いていた地図にも載っていない「スモーキーマウンテン」と呼ばれていたゴミ捨て場の街に出くわした。 僕は、その日のことを、昨日の出来事のように鮮明に何もかも覚えている。その記憶は絶対に一生忘れることのない強烈な体験だった。そのゴミ捨て場は、マニラ中の家庭や工場からの産業廃棄物も一部含んだゴミが捨てられ続けた、広さ21ha高さ40mの巨大なゴミ山だった。驚くことに、ゴミ山の斜面には、3000世帯2万1千人の暮らす掘っ立て小屋が所狭しと並んでいた。この場所は、政府のゴミ捨て場なので、当然、勝手に住み着いた住民のための水道や電気なども通っておらず、フィリピン人からも国の恥部だ、臭いやつらだと陰口をたたかれた差別された街だった。このゴミ捨て場の周りはすべて強烈過ぎるすえた生ゴミの悪臭とハエの大群で覆われ、口を閉じていないとハエが口の中に飛び込んでくる様である。 僕は、遠巻きから、ゴミ捨て場の頂上を見ると、ゴミ収集車から捨てられたゴミに向かって懸命に走って群がり、そのゴミを拾っている豆粒大の老若男女の数百数千人の人間らしき姿がみえた。僕は、その時「自分の想像している地獄とはここの事だったのか」と正直、思ってしまった。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 【4】へ 【6】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月20日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第4回目ようやく数日後、すこしはその状況にも慣れ、街を恐る恐る散歩していると、日本では想像などしなかった「働く子どもたち」と出会うことになった。気を落ち着けてみると、マニラ市街地では物乞いや観光客目当ての花売りなどをしながらも、家族と路上生活しているストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちが数えきれない程たくさんいた。彼や彼女らは、学校にも通わず、5,6歳ぐらいから仕事をはじめ、しばらく観察していると、必ず当たり前のように、満面の笑みで、母親に稼ぎの大半を渡していた。 「なぜ、この国ではこんな子どもたちまでが働いて一家の稼ぎ手になっているのか・・・」この光景は確実に僕の頭の中にある日本での常識を吹き飛ばしていた。 その後、僕は、「もう二度とこの地には来ない」と心に決め帰国の途についたつもりだが、なぜか飛行機が成田空港に着いた瞬間、またすぐフィリピンに引き返したくなっていた自分がいた。たぶん、僕の心の中は、何をしてでも食べていけた日本での暮らしに魅力を失い、心躍る何かに飢えていたのだと思う。たった1週間のフィリピン滞在だったが、僕の心のどこかの震えはまだ収まることなく、体の中の血はまだ沸き立って動き回っているかのような感覚だった。 初めて訪れた国、フィリピンで初めて命の危険を感じ、自分以外はだれも信じられない状況に追い込まれ、マニラの働らくストリートチルドレンたちとも出会い、子どもたちの屈託のない笑顔に魅了された僕は、ついに1989年1月、運よく映画製作資金の一部の都合もつき、なかば日本を捨てる覚悟(日本から捨てられる覚悟でもある)でまた貧しき国へと旅立った。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 【3】へ 【5】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月17日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第3回目30歳までの僕はというと、東京で親に大学まで行かせてもらい、自分の将来の夢は大金を稼ぎいい生活をすることなどと思っていた。僕は、たまたま持ち前の要領のよさから、20代前半に寺山修司の劇団天井桟敷の演劇世界を垣間見、彼の死後は映画の世界に入ることになり、監督をさせてもらいながら、一般映画の題材を探していたが、命をかけてまで撮るものが何も見つからず、金のためにいやな仕事をしながらも、かといって自分のやりたい仕事も見つけられず、出会う人々に迷惑を撒き散らしながら、ただ悶々と時間だけが過ぎていた気がする。1988年9月頃、友人の誘いもあり、僕は初めてフィリピンに渡り、「世界の貧しさ」という現実にぶつかった。僕はその時、僕の財布からお金をせびりに押し寄せてくる貧しい人々の大群にうろたえた。その時の僕は、初めて泊まったホテルからさえ一歩も出られなくなるぐらいの身の危険を感じ、体は小刻みに震えていた。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 【2】へ 【4】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月15日
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第2回目以前はゴミ捨て場の街だったこの地は、今は跡形もなくただの広い丘になり、あたり一面は草で覆われていた。この丘の向こうにはこの地に暮らしていた住民のための10棟ほどの中層住宅が立ち並んでいた。朝8時、その場所からゴミ拾いの格好をした多くの人々が近くにできた別のゴミ捨て場に通い、17年前と同じように、毎日、再生可能なゴミを拾い、それをその日のうちに売ってお金を稼ぎ、生活していた。そこには多くの子どもたちがゴミ拾いをして働いていた。また、ゴミ捨て場の裏手には以前のスモーキーの街かと錯覚してしまうほどの広大な掘っ立て小屋のスラム街が拡がっていた。 どうやら僕は、長い間、「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」この答えを探しに、いつもどこかを「放浪」していた気がする。最初はフィリピン、インド、タイなどのアジアで、2001年の911ニューヨーク同時多発テロ事件以降は、アメリカ、パキスタン、アフガニスタン、そしてイラク、ヨルダン、イスラエルなどの中東だった。~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【1】へ 【3】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月13日
本日から四ノ宮浩監督の次回作、(仮題)『天国の子どもたち-世界中の貧困と飢餓と戦争をなくすために-』 のたたき台として公開されている、四ノ宮監督ご自身の手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』を連載させて頂きます。(プロダクション様ご了承済みです)この手記は、HP上でも公開されています。私が四ノ宮監督の手記を連載する目的は、この手記を読まれた方が次回作の映画に興味を持っていただけるよう、また、その延長として、この映画製作費を支える『5000人製作委員会』を1人でも多くの方に知っていただこうという趣旨で連載いたします。手記の内容がとても素晴らしいものでしたので、プロダクションの方に無理をお願いしてこの度、四ノ宮監督の手記を、私のブログに連載させていただけることになりました。今後は2~3日に1回程度の割合で連載していく予定です。そして、『5000人製作委員会』への参加の呼びかけも同時にしていく予定にしています。先日お聞きしましたプロダクションの方のお話では、この次回作は初め『戦争と平和』という題を掲げ、アフガンやイラクの中東方面を中心とした作品を作ろうとされていたそうです。しかしながら、アフガンの戦争の激化によって、撮影が非常に困難になったことや、世界情勢の変化もあって、今一度原点に立ち戻ってみるという結論に至ったとのことです。それで、現在フィリピンの前作の主人公たちや、様々な環境にある子どもたちを撮影しているのが現状だそうです。(手記の中には上記に関連する興味深いレポートも含まれています)前置きが長くなりましたが、下記より連載を開始したいと思います。●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第1回目新作映画・そして僕自身のためのノート2006年5月、僕は、17年前に日本を飛び出し、最初に訪れたフィリピン、マニラ首都圏のスモーキーマウンテン跡地にたたずみ、今までの自分自身が経験した数々のこの地での出来事を振り返っていた。そして、その記憶の多くは決して死ぬまで僕の脳裏から消えることがないと断言できるほど強烈な体験の数々だった。僕はこの地で、日本では想像できないほど、「多くの子どもたちの死」に立ち会った。そして、この地で撮影した映画「忘れられた子供たち スカベンジャー」の主人公エモン(当時13歳)が自殺して死んだという噂を聞いた。彼がいくら貧しくとも、自殺するなんて有り得ない事だった。僕は彼の自殺の真相を確かめようと思った。タイトル「(仮題)天国の子どもたち ー世界中の貧困と飢餓と戦争をなくすためにー」~以上、四ノ宮浩監督手記、『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~【2】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月11日
●『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要(最終回)この国では、とにもかくにも、飯をまずくてもいいから、食うことが一番優先され、貧しき子供たちは、腹いっぱい食べたことがないため、胃も小さく、体格も日本人の同年齢と比較してかなり小さい。また、ここでは住民登録のない子供たちの予防接種なども当然なく、貧しき家庭に生まれた子供たちが パタパタと死んでいく。子供の死因は肺炎結核コレラ栄養失調などで、昨日まで元気な子供が今日急に死ぬ場合も多く、5歳未満の幼児死亡率が30パーセントといわれている。ゴミ捨て場では一家に子供が5人生まれれば必ず1人は死んでいた。 僕は映画を見たみんなと真剣に考えて行動したいと思う。「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」を。~以上、四ノ宮監督次回作 『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要より転載~【1】へ 【4】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/上記HP左サイドバーの『information』から上記<映画ストーリー概要>の続きを見ることができます。※『(仮題)天国の子どもたち』の製作資金が不足しています。本映画にご興味のある方は、『5000人製作委員会』参加にぜひご協力下さいm(_ _)m 上記HP左サイドバーの『5000人製作委員会案内』に詳細が説明されています(^-^ )※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※次回から、新作映画『(仮題)天国の子どもたち』のたたき台として公開された四ノ宮監督の手記「新作映画・そして僕自身のためのノート」を連載させていただきます。尚、この手記はHP上でも公開されています。★詳細は下記リンク先をご参照下さい。(私のブログ記事です)http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200612020004/
2006年12月09日
●『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要(4)僕は中国や韓国、インド、ロシアなど外国人も来るフィリピンの場末の安酒場で酔いながら神に誓う。「僕は、このフィリピンの貧しさだけは絶対になくす。僕の力をすべてこの地に捧げ、一人でも多くの子供たちの命を救う」僕は、酔いながら、また神に誓う。「自分の愛する家族をまず大事にし、この映画をはやく完成させ、世界中で見せ、世界中の死んでいく子供たちを少なくする活動を一緒にしていくこと」を。僕が心の底から笑い、そして泣ける唯一の場所、それはフィリピンと呼ばれる国である。 ~以上、四ノ宮監督次回作 『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要より転載~【3】へ 【5/最終回へ】★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月07日
●『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要(3)そして、映画の登場人物の中だけでも、死んだり、殺されたり、レイプされたり、行方不明の子供たちが半分ぐらいはいるのである。「忘れられた子供たち」のエモンは死に、母と妹は田舎のミンダナオ島に戻っていた。僕たちスタッフはエモンの死の真相を調べるうちに、衝撃的な事実をつかむ。JRはゴミ拾い、クリスは4人の子供がいて、小さなお店を市場で開いていた。 「神の子たち」主人公ノーラは夫に殺され、子供は行方不明。ニーニャは妹が病気で死に、今は学校に通いながらゴミ拾いしていた。水頭症のアレックスは撮影スタッフにより援助を受けとても元気だった。 ~以上、四ノ宮監督次回作 『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要より転載~【4】へ続きます【2】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月06日
●『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要(2)そして、2001年の9,11のニューヨークでの同時多発テロ事件のあと、アフガニスタンでの報復攻撃へと続き、僕の頭の思考停止状態は6ヶ月続いたが、2002年3月末に映画上映ついでに「グランドゼロ」を訪れ、「世界が平和になるために僕たちはなにをしなければならないのか」との思いが急に湧き、いつしか「今の世界の中心はアメリカであり、アメリカ政府が世界を変えようとしなければ何も変わらない」事に気づき、僕の映画をアメリカ人に見てもらうための活動もしたが、アメリカのメディアは他国の貧困問題などに思いを寄せることはなかった。それから、世界は、アメリカは、世界中のメディアは、2003年3月20日のイラク戦争から今まで世界の貧困問題にはほとんど目もくれずに、置き去りにされ続けてきた。僕はフィリピンで「忘れられた子供たち」「神の子たち」の主人公の現在の状況を調べることにした。 ~以上、四ノ宮監督次回作 『(仮題)天国の子どもたち』映画ストーリー概要より転載~【1】へ 【3】へ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月05日
今日から、先日お話していました四ノ宮浩監督の次回作、(仮題)「天国の子どもたち-世界中の貧困と飢餓と戦争をなくすために-」 のたたき台として公開されている、「新作映画・そして僕自身のためのノート」を連載していきますが、それに先立ち、上記映画のストーリー概要を四ノ宮監督ご自身の手記を通じて5回に分けて連載します。この手記は、『5000人製作委員会』に申し込んだ時の資料のひとつで、HP上でも公開されているものです。<映画ストーリー概要(1)>2006年5月、僕は、17年前に日本を飛び出し、最初に訪れたフィリピン、マニラ首都圏のスモーキーマウンテン跡地にたたずみ、今までの自分自身が経験した数々のこの地での出来事を振り返っていた。そして、その記憶の多くは決して死ぬまで僕の脳裏から消えることがないと断言できるほど強烈な体験の数々だった。僕はこの地で、日本では想像できないほど「多くの子供たちの死」に立ち会った。そして、この地で撮影した映画「忘れられた子供たち/スカベンジャー」の主人公エモン(当時13歳)が自殺して死んだという噂を聞いた。彼がいくら貧しくとも、自殺するなんて有り得ない事だった。僕は彼の自殺の真相を確かめようと思った。どうやら僕は、長い間、「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」この答えを探しに、いつもどこかを「放浪」していた気がする。最初はフィリピン、インド、タイなどのアジアで、2001年の911ニューヨーク同時多発テロ事件以降は、アメリカ、パキスタン、アフガニスタン、そしてイラク、ヨルダン、イスラエルなどの中東だった。【2】へ続きます★『(仮題)天国の子どもたち』公式HPhttp://sensotoheiwa.office4-pro.com/
2006年12月04日
<前回の続きです>今回も前回の記事に引き続き、四ノ宮浩監督の『忘れられた子供たち』をご紹介致します。下記に引用する文は次回作、(仮題)「天国の子どもたち-世界中の貧困と飢餓と戦争をなくすために-」 のたたき台として現在公開されている監督ご自身の手記、「新作映画・そして僕自身のためのノート」からの抜粋になります。四ノ宮監督が、このフィリピンの地で映画撮影を始められた当初から現在までの思いを綴られているこの手記の中から『忘れられた子供たち』に関係する箇所をご紹介するものです。(プロダクション様ご了承済みです)※以下、四ノ宮監督の手記「新作映画・そして僕自身のためのノート」からの転載です。1988年9月頃、友人の誘いもあり、僕は初めてフィリピンに渡り、「世界の貧しさ」という現実にぶつかった。僕はその時、僕の財布からお金をせびりに押し寄せてくる貧しい人々の大群にうろたえた。その時の僕は、初めて泊まったホテルからさえ一歩も出られなくなるぐらいの身の危険を感じ、体は小刻みに震えていた。 ~中略~日本への帰国も脳裏によぎり始めたまさにその時、僕は、マニラの北のマニラ湾沿いに位置する40年以上続いていた地図にも載っていない「スモーキーマウンテン」と呼ばれていたゴミ捨て場の街に出くわした。 僕は、その日のことを、昨日の出来事のように鮮明に何もかも覚えている。その記憶は絶対に一生忘れることのない強烈な体験だった。そのゴミ捨て場は、マニラ中の家庭や工場からの産業廃棄物も一部含んだゴミが捨てられ続けた、広さ21ha高さ40mの巨大なゴミ山だった。驚くことに、ゴミ山の斜面には、3000世帯2万1千人の暮らす掘っ立て小屋が所狭しと並んでいた。この場所は、政府のゴミ捨て場なので、当然、勝手に住み着いた住民のための水道や電気なども通っておらず、フィリピン人からも国の恥部だ、臭いやつらだと陰口をたたかれた差別された街だった。このゴミ捨て場の周りはすべて強烈過ぎるすえた生ゴミの悪臭とハエの大群で覆われ、口を閉じていないとハエが口の中に飛び込んでくる様である。 僕は、遠巻きから、ゴミ捨て場の頂上を見ると、ゴミ収集車から捨てられたゴミに向かって懸命に走って群がり、そのゴミを拾っている豆粒大の老若男女の数百数千人の人間らしき姿がみえた。僕は、その時「自分の想像している地獄とはここの事だったのか」と正直、思ってしまった。 そのあと、僕は一緒にいったスタッフ達とこのゴミ捨て場の街を見て回ることにし、ゴミ捨て場の頂上を目指し歩き始めた。僕はかなり動揺していたが、誰にもそのことを悟られるのがいやで一番後ろを歩くことにした。道はかなりぬかるみ、靴が重くなっていくのがわかる。ちょうど、山の中腹に差し掛かったぐらいで、向こうの路地から、今ゴミ拾いを終えたばかりだと思われる強烈なにおいの4、5人の女の子たちが僕たちをめがけやってきた。僕はとっさにポケットに手を突っ込み小銭をさがし、その子たちから言われたら渡そうと準備した。ところがその子たちは、僕たちとすれ違いざまに澄んだ瞳で微笑を浮かべ「カムスタカナ」(日本語でこんにちはという意味)と挨拶の言葉をいい、ただ僕たちの前を通り過ぎていった。 僕は、この日、この地獄だと思ったゴミ捨て場で偶然出会った子どもたちに惹かれた。ここに住む少年少女たちは、このゴミ捨て場で生まれ、育ち、多くは途中で死んでいく運命と聞いたが、僕はどうしても、この子どもたちの澄んだ瞳のわけを知りたくて撮影を始めた。 以上、四ノ宮監督の手記から転載させていただきました。この手記は、『5000人製作委員会』の資料を申し込んだ時に資料として同封されていたものです。かなりの長文でしたが、とても感動しながら読ませていただいたことを思い出します。尚、この手記は、監督のプロダクションのHPでもご覧になれます。下記リンク先(トップページ)のトピック、『~~現在製作中の映画仮タイトルが変更になりました~~』の「新作映画・そして僕自身のためのノート」から見て下さい。私が読んだ、四ノ宮監督の手記の全文を見ることが出来ます。http://www.office4-pro.com/そして、次回作の製作費を捻出する為に発足された『5000人製作委員会』にもぜひ参加をご検討下さい。この会に参加されると、『神の子たち』もしくは『忘れられた子どもたち』のサンプルDVDが送られてきます。プロダクションの話ではサンプルDVDと市販品DVDの違いは、監督ご自身の解説の入っている第二音声がないということと、画質が少々劣化している違いがあるとのことでした。私が確認したところでは、画質の劣化は気にならない程度で、上記に加えて、サンプルDVDにはチャプターがないくらいでした。映画収録内容は同一のものですので、その点の心配はありません。また、『5000人製作委員会』に参加されると、HPの『5000人委員会名簿』と映画のエンドロールに名前が載るそうです。私は、HPではハンドルネームにしましたが、映画では実名にしていただこうとお願いするつもりです(^^)★『5000人製作委員会』の詳細は、下記リンク先の前回記事をご参照下さい。http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200612020000/四ノ宮浩(しのみや・ひろし)1958年仙台市生まれ。大学在学中に寺山修司率いる「天井桟敷」に入団し、大学は中退。その後、様々な職業をへて、1986年監督デビュー。1995年ドキュメンタリー映画「忘れられた子供たち―スカベンジャー」を完成。第44回マンハイム国際映画祭ベストドキュメンタリー賞受賞など受賞歴多数。2001年5月「神の子たち」完成。第52回ベルリン国際映画祭、モントリオール国際映画祭へ正式招待を受ける。またNYでのNewDirector/NewFilms映画祭(ニューヨーク近代美術館 MOMA)での上映の際、ニューヨークタイムズ紙に 映画レビュー が掲載された。http://www011.upp.so-net.ne.jp/office4pro/kaminoko/ny_review.htm2002年10月シネマアンビエンテ環境映画祭(トリノ、イタリア)コンペティション部門グランプリを受賞。その後世界20カ国以上の国で映画が今も見られ続けている。映画「(仮題)天国の子どもたち」現在製作中。★オフィスフォープロダクションHPhttp://www.office4-pro.com/四ノ宮監督の最新動向がわかります!監督ご自身の手記がとても印象に残るHPです。3作品についても詳しくページが作られています。【1】に戻ります★映画『神の子たち』についての過去記事はこちらhttp://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200611180001/★『神の子たち』関連写真と記事の特集(mahalさんの資料を編集)http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200611260001/
2006年12月02日
忘れられた子供たち文部省選定作品(少年向、青年向、成人向)厚生省中央児童福祉審議会平成7年度推薦文化財(高校生・家庭向)カトリック中央協議会広報部推薦作品日本映画ペンクラブ推薦作品日本PTA全国協議会推薦作品第44回マンハイム国際映画祭 ベストドキュメンタリー賞授賞作品(ドイツ)エコメディア国際環境映画祭1995 Hoimar von Ditfurth賞授賞作品(ドイツ)第4回地球環境映像祭 社会環境映像賞授賞作品(日本)Encontros Internacionais de CINEMA 1996 ベストドキュメンタリー賞(ポルトガル) 先日、四ノ宮監督の第2作目映画『神の子たち』をご紹介しましたが、http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200611180001/今回は第1作目の『忘れられた子供たち』をご紹介します。この映画の舞台は、当時地図にもその所在が載っていない村と言われていた、フィリピン首都のマニラ市北部に位置する、マニラ湾沿いの巨大なゴミ捨て場、通称『スモーキーマウンテン』。当時世界3大スラムの1つに数えられていたそうです。現在そこは閉鎖されていて、そこで生計を立てていた人々は、『神の子たち』の舞台になった『パタヤスゴミ処理場』などに移住していると聞きます。当時、ゴミ捨て場の山の斜面に3000家族、21000人の人々が、そこで生活していたとの事です。※下記は、四ノ宮浩監督著『忘れられた子供たち』より引用ここは、もともと静かな漁村だった。今から40年ほど前、1954年にこの場所がマニラから出されるゴミの処分場となった。その直後から、捨てられたゴミを目当てに家を作り、このゴミ捨て場の中に住む人々が現れた。彼らは、ここに捨てられたゴミからまだリサイクルできる物を探し出し、それをお金に換えて生きている。このような”仕事”をして暮らす人たちのことを英語で「スカベンジャー(ゴミを拾う人々)」と呼ぶ。余談ですが、『スモーキーマウンテン』日本語で『煙の山』と言われる理由は、いつもメタンガスの自然発火により煙がたち上っているところからつけられた名称だそうです。現在は、1995年11月にフィリピン政府により強制閉鎖され、そこで暮らしている人々は、他のゴミ捨て場に移ったと聞きます。その1つが、第2作目の『神の子たち』の舞台になったパタヤスゴミ処理場、通称『スモーキーバレー』(煙の谷)です。前置きが長くなりましたが、映画『忘れられた子供たち』は四ノ宮浩監督が初めてフィリピンへ行き、そこでスモーキーマウンテンを見つけ、その後約6年にも渡り撮影された貴重な映像集です。その当時の現状が、様々な家族や少年少女を通じてモノクロで撮影されています。(最後の1部分はカラーに変わります)ここでは時々ゴミに混ざって、赤ちゃんの死体や、病院で切断された手足、殺された人などもころがっているようです。子供へのインタビューで、その子供が嫌なことのひとつに上げていました。「でももう慣れた」という怖い一言も付け加えて。。(この話は、映画か本かどちらかで語られていました)汚染された血液がついた注射器も時々ころがっていたそうで、とても危険極まりないところです。そこをときには裸足で歩いている子どもたち。悪臭もかなりのものもらしいです。四ノ宮監督も、一時期撮影の為にそこに住みつくことを余儀なくされましたが、体がとても持たなかったそうです。この映画では、いくらそこから抜け出したくて頑張っても、このゴミ捨て場から抜け出すことが出来ないフィリピン社会の構造が少年少女たちを通じて描かれています。とても考えさせられる映画でした。★この映画の詳細は『忘れられた子供たち』専用HPをぜひご覧下さい。大変素晴らしいページで感心しました。http://scaven.office4-pro.com/また、同名の本も出版されています。ただし、すでに絶版ですので、図書館で借りるかもしくは、中古で買うしか手に入れることは出来ません。私はアマゾンの中古で買いましたが、宝物の1つになっています。とてもすばらしい本で資料としても優れたものだと思います。四ノ宮監督がなぜこの地を撮ろうとしたのかその原点がここには描かれています。映画とともにご覧になればとても参考になると思います。再出版をとても希望いたします。忘れられた子供たち●『5000人製作委員会』について先日、次回作『(仮題)天国のこどもたち』(今年撮影終了予定)の撮影資金を寄付する為に『5000人製作委員会』に参加しました。その時に頂いた資料の中に、四ノ宮監督が次回作紹介の為に書かれた、第1作目の撮影時から今までの監督ご自身の思いを綴った長い手記が同封されていました。この手記から次回、『忘れられた子供たち』について述べられている箇所を少しですがピックアップしてご紹介させて頂くことに致します。(プロダクション様ご了承済みです)★『5000人製作委員会』については下記リンクのトップページ左側よりお入り下さい。http://www.office4-pro.com/●5000人製作委員会についての説明(上記リンク先からの引用です)「5000人製作委員会」は、ドキュメンタリー映画監督・四ノ宮浩の最新作「(仮題)天国の子どもたち」製作・公開のため”5000人の力を集めて一本の映画を作ろう!”を目標として作られました。現在一口一万円にて参加していただける方々・団体を募集しております。(現在行われている撮影・ロケハンも、この映画の製作に賛同していただいた方々の寄付金が中心となって製作活動が支えられています。)~中略~※ご参加いただいた方々のお名前は映画のタイトルクレジット及びHP上で明記させていただきます。1口:1万円 (1口未満の御寄付もぜひお願いいたします。)※一口御寄付頂いた方には、「忘れられた子供たち/スカベンジャー」か「神の子たち」のサンプルDVDを進呈させて頂きます。 ※2口以上ご寄付いただいた方には、「忘れられた子供たち/スカベンジャー」「神の子たち」両作品のサンプルDVDを進呈させていただいております。より多くの皆様のご理解とご賛同・ご支援をお願いいたします。以上、HPからの引用でした。詳細は必ず上記『5000人製作委員会』のリンク先をご確認くださいね!※『5000人製作委員会』については後日あらためてご紹介致します。私も1口『派遣のヒロ』で参加しています。ご参加された方は、下記HP左の『5000人委員会名簿』のリンク先に名前が掲載されます。http://www.office4-pro.com/次回は四ノ宮監督の手記の抜粋になります。
2006年12月02日
今回は、前回フィリピンの『スモーキーバレー』のお写真を提供して下さいましたmahalさんのブログ記事特集になります。★mahalさんのブログ『フィリピン大好きo(^o^)o』http://ameblo.jp/mahal/面白い記事がたくさんありますので少し絞りこみました。マニラカテゴリの中から、映画『神の子たち』に共通点のある記事で、なおかつ、私がとても気に入った記事を選ばせて頂きました。映画『神の子たち』は、フィリピンのスラムに住む子どもたちに焦点を当てて撮影されています。また、題名の『神の子』でも表されているように、劣悪な環境の為か、そこで多く生まれてくる障がい児についても多く取り上げています。(フィリピンでは障がい児のことを『神の子』と呼ぶそうです)神の子たちmahalさんは、2005年、2006年のフィリピン渡航で出合った様々な子どもについての想いを記事にされています。フィリピンの障がい者施設での子どもや、道端に倒れている子ども、わざと障がい児にされてお金を稼がされている子ども、栄養失調で余命いくばくも無い子どもなど、フィリピンの現状はとても残酷です。このような国はフィリピンだけではないと思うのですが、日本の常識と比べると、誰でもが信じられる環境ではありません。その現状を目の当たりに見られたmahalさんの記事をテーマ別に私のコメント付で、いくつか下記にご紹介させていただきます。私にとっては大変ショックを受ける記事ばかりでした。(2005年、2006年共1月に渡航されています)<さまざまな子どもたち>★最初の訪問地 ハッピーランド(2005年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10001043608.html栄養失調であと数日しか生きられない子どもとの出会い。さすがにmahalさんも感情を抑えることができなかったようです。★裕福層の子供達(2005年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10002046862.html富裕層の子どもたちと、その正反対の子供たち。それぞれの子どもたちの様子を第3者の立場から見た印象を記事にされています。★イスラムエリア(2005年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10002043275.html「わざと子供を障害者にしてお金を稼がせる親もいる」とてもショッキングな記事でした。。<ストリートチルドレン>★StreetChildren(2005年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10002043311.htmlストリートチルドレンを収容している施設を訪問されています。そこで見られた「ジャッピーノ」と呼ばれる日本人との混血の子供。その背景にとても複雑な思いをされています。★ストリートチルドレンの施設(2006年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10008390940.html“ユニセフによると、年間平均3,700人の少年が常に成人と同じ拘置施設に収容されているという”この言葉がとてもショッキングな記事でした。★虚しさを感じた時…(2006年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10008391024.html「重病の子どもが道端で倒れていたら私はどうするのだろう」と私自身考えさせられました。日本での答えは決まっています。でもフィリピンなら・・mahalさんの子どもに対する思いがとても込められている記事だと思いました。<障がい児施設でのボランティア>★現地の神父様との出会い(2005年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10002043403.htmlマザーテレサの施設に行かれたときの記事です。たくさんの障がい児にmahalさんは会われました。愛情に飢えている子どもたちにも様々な思いがあるようです。とても読み応えのある記事でした。★担当は世話係(2006年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10009057883.html洗濯係と世話係があったようで、mahalさん今年は世話係に。重度の障がいを持つ子どもたちの世話をするのですが、特に食事のことについて書かれています。とても印象に残るお話です。★とても嬉しかった出来事(上の記事の続きです。2006年)http://ameblo.jp/mahal/entry-10009523103.html上の記事の続きですが、時が経つにつれて子どもたちとの別れがつらくなる様子が書かれています。mahalさんの子どもたちに対する愛情がとても深いことがよくわかる記事でした。他にもたくさんの記事があるのですが、上記の記事だけを見ても、月並みな言葉ですが、とても素晴らしいです。多分私では同じ環境にいたとしても、同じ体験が出来たかどうかは自信がありません。mahalさんのフィリピンやそこに住んでいる子どもたちへの深い愛情がとてもよく伝わってくる記事だと思いました。現在mahalさんは介護の学校に行かれているそうです。フィリピンでのご経験も活かされて今後ご活躍されることと思います。mahalさんを通じて私もフィリピンにとても関心を持ち始めています。PS.マニラも悲惨なところだけではないようです。夕日がとてもきれいなところなんですね~m(゚- ゚ )マニラ湾の夕日(写真クリックでmahalさんの記事に飛びます)トップページ左側のセブ島のカテゴリでも、とてものどかなセブ島での様子を日記にされています。同じフィリピンですが、マニラとはまた違う様子が楽しいです。子どもたちとの交流も楽しく描かれていますので、ぜひともご覧になってくださいね!(^^)♪★再度紹介!mahalさんのブログ『フィリピン大好きo(^o^)o』http://ameblo.jp/mahal/前回記事へ<関連リンク>★映画『神の子たち』公式HPhttp://kaminoko.office4-pro.com/
2006年11月28日
今回の記事は、映画『神の子たち』関連になります。http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200611180001/2005年に上記映画の撮影場所、フィリピンの『スモーキーバレー』に行かれたmahalさんから、その時に撮影された写真数枚をお借り出来ました。※『スモーキーバレー』については、『神の子たち』の四ノ宮監督の事務所『オフィスフォープロダクション』HPをご参照下さい。★オフィスフォープロダクション(『神の子たち』専用HP)http://kaminoko.office4-pro.com/上記リンク先右上の『ダイレクトアクセス』を『舞台スモーキーマウンテン』に変更して飛んで下さい。(もしくは左側最上部の『映画紹介』クリック→『舞台スモーキーマウンテン』)また、映画『神の子たち』のテーマでもある、フィリピンの『障がい児』や『子どもたち』についてmahalさん独自の視点から書かれたいくつかの記事も非常に印象に残りました。それらの記事については次回ご紹介させていただきます。mahalさんについて、簡単にご紹介させていただきます。mahalさんは現在、介護の学校に通われています。ボーイスカウトの指導員や、数々のボランティア経験の視点から書かれたブログはとても面白く、参考になります。何よりフィリピンを愛されていることがとてもよくわかります。★mahalさんのブログ『フィリピン大好きo(^o^)o』http://ameblo.jp/mahal/mahalさんとの出会いのきっかけは、私が以前『シンギングエンジェルプロジェクト』を知ってフィリピンのストリートチルドレンについての情報を集めていた時に、真っ先に私にコメントを下さった方です。mahalさんはフィリピンをこよなく愛されている女性です。(もちろん日本人ですよ~(^_^;A)この方は現在、私がフィリピンについての質問などがあったときに真っ先に尋ねることが出来る先生でもあります。下記は2005年1月のケソン市パタヤスゴミ処理場、通称『スモーキーバレー』でmahalさんが撮影された中の数枚です。原版よりもかなり縮小していますので鮮明ではないことをお詫びいたします。尚、写真の無断転載は固く禁止させていただきます。 ※上記のお写真を撮られた時の記事はこちらになります。★スモーキーマウンテンhttp://ameblo.jp/mahal/entry-10001923268.htmlmahalさんは、2005年と2006年にそれぞれ10日ずつ、フィリピンを旅されています。両年ともその3分の2を治安の悪いマニラで過ごされました。mahalさんは、私の質問にこう答えられています。『どうして2年も続けて、神父さまの旅に参加したのかというと・・・あれほど衝撃的な現状とは思ってもいなかったので、まったく予習をしていませんでした。そのため、行く先々で襲われる津波のような衝撃を消化する事ができず帰国しても、頭の中はパニックでした。だから、もう一度参加したのです。』mahalさんのブログ記事からも想像できますが、フィリピンと日本とではかなり国内事情が異なっているようです。世界には、このような国もあるということを私たちはもっと知らなければいけないと思います。次回は、私がmahalさんのブログ記事で特に印象に残ったものをマニラ編からご紹介させていただきます。どれも、とても興味深いものばかりですので楽しみにしていてくださいね(^^) 次回へ続きます
2006年11月26日
神の子たち~パタヤスに吹く風~この絵本は先日ご紹介しました『神の子たち』の絵本版になります。http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200611180001/絵本の内容は映画のストーリーに忠実に作られていて、とてもわかりやすい絵本だと思いました。この地での複雑な問題を、絵本作家の葉祥明(よう・しょうめい)さんが絵本ならではのシンプルさをもって問いかけています。画像でもわかりますがとてもやさしい絵で、人々の小さな顔には全く表情がありませんそれだけに、このゴミ処分場の世界の生々しさが何かしらメルヘンのように映り、とてもこころに響いてくる絵本です。シンプルなだけに、考えながら読み進めやすく、とても共感を持ちながら読むことが出来ました。映画を見れば、より理解が深まる本だとも思います。この本は全文、日本語と英語訳の両方で書かれています。巻末には、パタヤスゴミ処分場の説明や、登場家族の紹介、四ノ宮監督の『神の子たち』の映画紹介等がカラー写真入で掲載されており、資料としても大変参考になりました。この本の収益の一部は、「クリエイティブ・イメージ・ファンデーション」を通じて、パタヤスの貧困者の自立支援の為に使われるそうです。※下記説明は本の引用になります。●クリエイティブ・イメージ・ファンデーションhttp://www.creativeimage.ph/foundation/index.htmlパタヤス(フィリピン・ケソンシティ)の貧困者の自立支援を目的としたボランティア組織です。〔貧困者層の子供の働きながら学べる学習プログラム〕〔妊婦への栄養学などの講習〕〔24時間対応の薬の無料配布〕〔職業技能講習〕などを中心とした活動を行っています。葉祥明(よう・しょうめい)1946年7月7日、熊本市に生まれる。1990年、『風とひょう』でボローニャ国際児童図書展グラフィック賞受賞。1991年、北鎌倉に「葉祥明美術館」をオープン。1992年、オリジナルキャラクター「JAKE]がふみの日記念切手に採用。1995年11月、旧ユーゴのこどもたちとのジョイント展(難民を助ける会主催)を開催。1996年4月、ウィーンの国連ビルギャラリーにて展覧会を開く。1997年、日本各地で『地雷ではなく花をください』原画展を開催。同年、ミュージアムショップ「JAKE HOUSE(ジェイク・ハウス)」を東京・自由が丘にオープン。1998年、心のバリアフリーをテーマに車いすの作家・松兼功氏と共同で詩画集「やさしさの引力」(中央法規出版)を発表、話題となる。※以上、本より引用。★葉祥明オフィシャルサイトhttp://www.yohshomei.com/top.html
2006年11月19日
<前回の続きです>そして何をおいてもこの映画で感じたのは、極限状態の生活では何よりも食事することが大切なこと。食べることが出来なければ生活はこんなにもすさんでしまうものなのか、ということが少しですが実感できました。この映画は、貧困の問題点を浮き彫りにしている映画だと思います。そして、食べることを支える働くことの大切さも。ここ日本では、この様な事に気づくのはとても難しいと思います。私はこの映画を見て仕事に対する考え方が少し変わりました。そして私自身を振り返ってみるとなんて贅沢な暮らしをしていることか。今まで、食べることには不自由してませんし、働き場所についても何度か困ったことはあるとはいえ、待遇を考えなければ働くところはある程度確保できる社会に暮らしていると思います。(私の場合です)それがある程度満たされていますので、欲求はいかに生活を楽しむかにどうしても向かいます。そのために、不必要なものを買ったり、無駄な時間を費やしたり・・この映画を見て今までの贅沢の数々を改めざるを得ませんでした。ゴミがないと生活できない人たちがいて、方やどちらかといえばゴミを出さないように指導されている私たち。この問題に接点はあるのでしょうか。とても虚しい気がしました。無理なことかもしれませんが、国レベルでの対応を早急にしてあげて欲しいと思います。この映画を撮影されたのは、四ノ宮浩(しのみやひろし)監督です。前作品は『忘れられた子供たち』。これも鑑賞しましたがとてもすばらしい作品でした。この映画も世界で上映され、現在も各地で自主上映されています。後日、あらためてご紹介させていただきます。忘れられた子供たち私は久しく尊敬する方について考えてもみなかったのですが、四ノ宮監督は父親の視点から見てとても尊敬できる方になりました。四ノ宮監督から学ぶことは大変多く、このブログでもご好意で、監督の伝記とも言える手記を1~2ヶ月ほど連続でご紹介させていただけることになりました。四ノ宮監督にご興味を持たれた方は、後日あらためて紹介致します『5000人製作委員会』にもぜひご参加下さい。私も1口『派遣のヒロ』で参加しています。★『5000人製作委員会』については下記リンクのトップページ左側よりお入り下さい。http://www.office4-pro.com/●5000人製作委員会についての説明(上記リンク先からの引用です)「5000人製作委員会」は、ドキュメンタリー映画監督・四ノ宮浩の最新作「(仮題)天国の子どもたち」製作・公開のため”5000人の力を集めて一本の映画を作ろう!”を目標として作られました。現在一口一万円にて参加していただける方々・団体を募集しております。(現在行われている撮影・ロケハンも、この映画の製作に賛同していただいた方々の寄付金が中心となって製作活動が支えられています。)~中略~※ご参加いただいた方々のお名前は映画のタイトルクレジット及びHP上で明記させていただきます。1口:1万円 (1口未満の御寄付もぜひお願いいたします。)※一口御寄付頂いた方には、「忘れられた子供たち/スカベンジャー」か「神の子たち」のサンプルDVDを進呈させて頂きます。 ※2口以上ご寄付いただいた方には、「忘れられた子供たち/スカベンジャー」「神の子たち」両作品のサンプルDVDを進呈させていただいております。より多くの皆様のご理解とご賛同・ご支援をお願いいたします。以上、HPからの引用でした。詳細は必ず上記『5000人製作委員会』のリンク先をご確認くださいね!四ノ宮浩(しのみや・ひろし)1958年仙台市生まれ。大学在学中に寺山修司率いる「天井桟敷」に入団し、大学は中退。その後、様々な職業をへて、1986年監督デビュー。1995年ドキュメンタリー映画「忘れられた子供たち―スカベンジャー」を完成。第44回マンハイム国際映画祭ベストドキュメンタリー賞受賞など受賞歴多数。2001年5月「神の子たち」完成。第52回ベルリン国際映画祭、モントリオール国際映画祭へ正式招待を受ける。またNYでのNewDirector/NewFilms映画祭(ニューヨーク近代美術館 MOMA)での上映の際、ニューヨークタイムズ紙に 映画レビュー が掲載された。http://www011.upp.so-net.ne.jp/office4pro/kaminoko/ny_review.htm2002年10月シネマアンビエンテ環境映画祭(トリノ、イタリア)コンペティション部門グランプリを受賞。その後世界20カ国以上の国で映画が今も見られ続けている。映画「(仮題)天国の子どもたち」現在製作中。★オフィスフォープロダクションHPhttp://www.office4-pro.com/四ノ宮監督の最新動向がわかります!監督ご自身の手記がとても印象に残りました。【1】へ戻ります。
2006年11月18日
神の子たち2002年 シネマアンビエンテ国際環境映画祭グランプリ受賞作品2002年 ベルリン国際映画祭正式招待作品2002年 モントリオール国際映画祭正式招待作品『神の子たち』は私が今一番注目している四ノ宮浩監督の作品です。この映画は、私が最近時々紹介させていただいている、『シンギングエンジェルプロジェクト』(通称SAP)にも関係するところがあります。★『神の子たち』HPhttp://kaminoko.office4-pro.com/★『Singing Angel Project』HPhttp://www.sa-p.jp/friends/今月22日に発売される今年のテーマ曲『ライトハウス・オブ・ラブ』を中西圭三さんが主に作詞作曲されていますが、その曲を作るベースがこの映画にありました。SAP会報での中西圭三さんのコラムによると、2001年に中西さんが映画『神の子たち』の上映を見たそうです。それ以後、ずっと中西さんの心の中でくすぶっていたものが、2005年夏のSAPへの参加につながり、曲作りのためのマニラ行きを決意させたとあります。http://plaza.rakuten.co.jp/pmdecorp/diary/200609230002/この映画の舞台はフィリピンのケソン市というところにあるパタヤスゴミ捨て場。そこで、ゴミを拾って生計を立てている数家族にスポットを当てています。『神の子』とはフィリピンでは障がい児の事を指すそうです。この映画のタイトルどおり、この映画には障がい児が何人か出演しています。このゴミ捨て場は劣悪な環境で、そのために障がい児が多く産まれていると聞きます。5歳までに育つ子どもは約30%、50m置きに1人障がい児が産まれているとも四ノ宮監督の手記には書かれています。この映画のあらすじは、偶然にも撮影の直後に起こったある悲惨な事故から始まっています。一つタイミングを間違えば監督スタッフ一同の命も危なかったという2000年のゴミ山の崩落事故。2000年7月にこのゴミ捨て場で大規模なゴミ山の崩落があり、1000名以上の犠牲者が出ました。政府が危険だとしてゴミが約半年間搬入されない時期がありました。この映画はその間、そこでしか生きられない人々の非常に苦しい生活を約半年に渡って撮影されたドキュメンタリー映画です。ここパタヤスでは赤ちゃん、子どもが様々な状況で死ぬのは日常茶飯事。殺されることも不思議ではない世界です。現に、監督が映画撮影後にこの地を訪れた時には、映画出演者の約半分が消息不明や、死んだり殺されたりしていたそうです。この映画には、何人かの赤ちゃんの遺体も撮影されています。皮肉にも、どの赤ちゃんもとてもきれいな顔をしていました。それとは対称に、悲しみにくれるお母さんをはじめとするご家族の映像がとても痛々しいです。なんのために、このような悲惨な状況を監督は撮影されるのか。それについては、今後の映画『忘れられた子供たち』の紹介や、四ノ宮監督の手記の連載等で詳しくお話させていただきます。神の子たち【2】へ続きます。
2006年11月18日
私が尊敬する映画監督で、四ノ宮監督という方がいらっしゃいます。この方は、「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるか」をテーマに命を張って(大げさではありません)映画を撮影されている映画監督です。今監督は、フィリピンのゴミ捨て場で働く子どもに焦点を当てて年内完成予定の映画を撮影されています。私自身、父の視点から見てとても尊敬できる方で、学ぶところが大変多いです。私のブログで近々、この監督の作品や監督の生き方について特集を組む予定にしています。大変、興味ある内容になると思いますので、また後日、ご覧になっていただければ幸いです。まずは、四ノ宮監督の映画「神の子たち」を見た感想からUPしていく予定です。フィリピンでは障がい児のことを「神の子」と呼ぶとのこと。劣悪な環境で必然的に生まれる障がいを持った子どもにスポットを当てている映画です。この映画を見て、私は色んなことを考えさせられました。神の子たち★神の子たちHPhttp://kaminoko.office4-pro.com/とても充実しているHPです!ぜひご覧下さい。四ノ宮浩(しのみや・ひろし)1958年仙台市生まれ。大学在学中に寺山修司率いる「天井桟敷」に入団し、大学は中退。その後、様々な職業をへて、1986年監督デビュー。1995年ドキュメンタリー映画「忘れられた子供たち―スカベンジャー」を完成。第44回マンハイム国際映画祭ベストドキュメンタリー賞受賞など受賞歴多数。2001年5月「神の子たち」完成。第52回ベルリン国際映画祭、モントリオール国際映画祭へ正式招待を受ける。またNYでのNewDirector/NewFilms映画祭(ニューヨーク近代美術館 MOMA)での上映の際、ニューヨークタイムズ紙に 映画レビュー が掲載された。http://www011.upp.so-net.ne.jp/office4pro/kaminoko/ny_review.htm2002年10月シネマアンビエンテ環境映画祭(トリノ、イタリア)コンペティション部門グランプリを受賞。その後世界20カ国以上の国で映画が今も見られ続けている。映画「(仮題)天国の子どもたち」現在製作中。★オフィスフォープロダクションHPhttp://www.office4-pro.com/四ノ宮監督の最新動向がわかります!監督ご自身の手記がとても印象に残りました。
2006年11月11日
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