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Jul 3, 2026
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カテゴリ: カテゴリ未分類
広島にあるお好み焼き店「ロン」はいつも外国人観光客で超満員なのがYouTube でよく紹介されてますね。

おなじ広島でも「いっちゃん 本店」は、「ミシュランガイド広島」で優れたコストパフォーマンスの店に贈られるビブグルマンを複数回獲得した有名店です。
どっちもキャベツ大盛りの広島風お好み焼きですね。


アレアレ!お好み焼き云うたら大阪ちゃうの?
まぁ、大阪のたこ焼きに対する兵庫の明石焼きと同じで、よく似た食べ物でもところ変われば品も変わる。
お好み焼き、大阪人でも広島焼き大好きですよ。
広島焼きのキャベツは大阪のように刻まないし、焼きそばを必ず入れるのがミソですね。
お好み焼きの起源は昔も昔、千利休に発します。


これが「麩の焼き」と云う名で江戸時代に商品になるのですね。
あんを巻いた甘い焼き菓子で、後に「せんべい」「落雁」「どら焼き」などの菓子になっていくのです。
江戸後期の文政十年(1827年)版の「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」には「杓子(しゃくし)程度では書ケぬ文字焼屋」と云う川柳が載せられてます。
文字焼きってのは、駄菓子屋や屋台で、子どもたちが小麦粉を砂糖蜜で溶き、鉄板の上で薄く焼いて食べるのが流行したのですが、このとき溶いた小麦粉で杓子を使って文字を書いて遊んだのが名前の由来。
この「文字(もんじ)」がなまって「」になったのです。
屋台の文字焼き屋が太鼓をたたいて流して歩いたので、「どんどん焼き」とも呼ばれるようになりました。
私は大阪人で「もんじゃ焼き」が好きだと云う人と出会ったことないし、そもそも「あんなゲロ吐き出したようなモン食べられへん」と云うのが大半。
大阪のお好み焼きは水溶きした小麦粉を鉄板に流し、順次その上に具を載せ、ひっくり返してすっかり焼き上げる。
対する東京は、先ず具を焼き、それでドーナツ状の堤防を作り、その中に小麦粉を流し入れる。
周りの具を少しずつそれに混ぜながらいただく。

お好み焼きだって美的感覚とは大きく外れてるけど、もんじゃ焼きは美的感覚そのものが無いですな。
明治十五年(1882年)、アメリカから小麦粉が初めて輸入されました。
それまでの小麦粉が「うどん粉」と云ったのに対し、この小麦粉に英語の「アメリカン(American)」がなまった言葉「メリケン粉」と云う名前をつけたんですね。
これによって小麦粉使った食文化が大きく広がります。
明治から大正にかけて、桜エビや天カスなどの具を載せる食べ方が広まったのです。


この洋食焼きは1枚が1銭だったので、「1銭洋食」と称しました。
一方、東京では「どんどん焼き」とか「もんじゃ焼き」と名前を継承していったのですね。
大阪で1銭洋食にソースを塗りだしたのは、昭和五年(1930年)ころから。
ソースは外来の調味料なので、洋食焼きの名前にピッタシだったのですね。
小麦粉そのものに味が無いので、粉モンはソースが決めて。

国産ソースを最初に作ったのは銚子のヤマサ醤油の「ミカドソース」です。
ところが思うように売れず中絶してしまうのですね。
で、25年(1892年)に神戸の「日の出ソース」、27年に大阪の「三ツ矢ソース」と「錨印ソース」が本格的に発売され大ヒットしました。
昭和四年(1929年)、大阪梅田に阪急百貨店が開業され、大食堂の「ソースライス」が大評判になりました。
コレ、ただのライスにソースをかけて食べる、ただそれだけのメニューだったのですね。
洋食焼きと云う子どものオヤツがお好み焼きに変貌したワケです。
お好み焼きを扱ったのは、先ず大阪ミナミの甘党屋です。
洋食焼きを上品(?)でオシャレにしたのですね。
好きなものを載せて自分で焼くので、若い女性ファンがたちまち増加したのです。
これが招じて専門のお店を構えるようになっていくのですが、洋食焼きみたいに屋台や駄菓子屋ではなく、盛り場の横町に多くできていったのですね。

大阪の宗右衛門町や曽根崎新地など花街近くのお店は、旦那衆と芸子が座敷の後の逢引に使ってました。
そのため、お好み焼き屋はお店の座敷につい立てや仕切りをしたり、小間に暖簾をかけ、個室もできました。
そもそも「お好み焼き」の「好き」と云う字に色気がある。
男女の密会にうってつけなんですな。
これは飲食店ではなく、風俗営業だと警察がうるさく取り締まり対象にしたそうです。
昭和21年(1946年)、大阪でも下町中の下町 玉出にある自宅の玄関先で西野栄吉がお好み焼き屋を開業しました。
このお店のお好み焼きは、ぼってりと厚みがあり、具の豚肉が焼けるときに"ぢゅう"と音をたてることから屋号は「ぼてぢゅう」に。
この「ぼてぢゅう」が成功して、ミナミの宗右衛門町にお店を出すまでになりました。
このとき、それまでのお好み焼き屋の小間をやめて、広いカウンターにしたのですね。
お好み焼きが密室からオープンに変わった瞬間です。
これによって家族連れも含め、普通の人々が多く食べに行くきっかけになったのです。
お好み焼きにマヨネーズをかけたのも「ぼてぢゅう」が最初です。
大阪人は「いらち」なので、焼けるのをじっくり待てない。
早くひっくり返してしくじります。
早く焼けるようにと、コテでしきりに押さえる。
それでせっかくの具の肉汁が出てしまう。

こりゃあ見てられないと、客に焼かさないようにして、一切を店主が焼くようにした最初は大阪、天満の「菊水」です。
昭和31年(1956年)のこと。
これが名物になって今でもお客はいっさい触れないのですが、私がいったとき「ちょっとどんな具合?」と触ろうとしたら、「触るな!」と店主に叱られて、えらい客を客と思ってない店やなぁと思った記憶があります。
天満の菊水はお好み焼き超有名店でしたが店主が亡くなって閉店してしまいました





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Last updated  Jul 3, 2026 05:20:09 AM
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