三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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)() 平安時代中期の歌人曽禰好忠は、「難波津の歌」を「沓」に、「安積山の歌」を「冠」にして、31首を組みにして「沓冠折句」を詠んでいる。 「あ」 りへじとなげくものから限りあればなみだにうきてよをもふるか 「な」 「さ」 かだがはふちはせにこそなりにけれみづのながれははやくながら 「に」 「か」 ずならぬこころをちぢにくだきつつひとをしのばぬときしなけれ 「は」 「や」 つはしのくもでにものをおもふかなそではなみだのふちとなしつ 「つ」 「ま」 つのはのみどりのそでは年ふともいいろかわるべきわれならなく 「に」 「か」 きくらすこころのやみにまどひつつうしとみるよにふるぞわびし 「さ」 「け」 ふかともしらぬわが身をなげくまにわがくろかみもしろくなりゆ 「く」 「さ」 ざなみやながらのやまのながらへてこころにもののかなはざらめ 「や」 「へ」 じやよにいかにせましとおもひかねとはばこたへよよものやまび 「こ」 「み」 よしのにたてるまつすらちよふるをかくもあるかなつねならぬよ 「の」 「ゆ」 めにてもおもはざりしをしらくものかかるうきよにすまひせんと 「は」 「る」 いよりもひとりはなれてとぶかりのともにおくるるわが身かなし 「な」 「や」 へむぐらしげれるやどにふくかぜをむかしの人のくるかとぞおも 「ふ」 「ま」 ろこすげしげれるやどの草のうへにたまとみるまでおけるしらつ 「ゆ」 「の」 どかにもおもほゆるかなとこなつのひさしくにほふやまとなでし 「こ」 「い」 でのやまよそながらにも見るべきをたちなへだてそみねのしらく 「も」 「の」 ちおひのつのぐむあしのほどもなきうきよのななはすみうかりけ 「り」 「あ」 ればいとふなければしのぶよの中にわが身ひとつはすみわびぬや 「は」 (「は」は、「い」でなければならない。) 「さ」 はだかはながれてひとの見えこずはたれにみせましせぜのしらた 「ま」 「く」 さふかみふしみのさとはあれぬらんここにわがよのひさにへぬれ 「ば」 「は」 なすすきほにいでて人をまねくかなしのばむことのあぢきなけれ 「ば」 「ひ」 とこふるなみだのうみにしづみつつみずのあはとぞおみひきえぬ 「る」 「と」 ぶとりのこころはそらにあくがれてゆくへもしらぬものをこそ思 「へ」 「を」 しからぬいのちこころにかなはずはありへばひとにあふせありや 「と」 「お」 もひやるこころづかひはいとなきをゆめに見えずときくがあやし 「さ」 「も」 くづやくうらにはあまやかれにけんけぶりたつとも見えずなりゆ 「く」 「ふ」 るさとはありしさまにもあらずかといふひとあらばとひてきかば 「や」 「も」 とつめにいまはかぎりと見えしよりたれならすらんわがふしとこ 「は] は、「こ」でなければならない) 「の」 がひせしこまのはるよりあさりしにつきずもあるかな淀のまこも 「の」 「か」 ひなくてつきひをのみぞすぐしけるそらをながめてよをしつくせ 「ば」 「は」 りまなるしかまにそむるあながちにひとをつらしとおもふころか 「な」
2024.02.10
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次の文は、甲賀市教育委員会の発表を簡略化したものです。「この木簡の捨てられた時期の上限については、紫香楽宮の造営が開始された天平十四年(742)以降に基幹排水路として西大溝の開削が始まった頃と考えられ、下限については、天平十七年(745)五月、聖武天皇により紫香楽に離宮が作られた頃に捨てられたと考えられている。『安積山のうた』が掲載されている『万葉集』巻16は、天平十七年以降の数年の間に成立したと考えられているから、今回出土した歌木簡の年紀を、捨てられた時期の下限と考えている天平十七年以前としても、『万葉集』の成立よりも早いと考えられる。つまり今回出土した木簡は、『万葉集』を見て、そこに載っている『安積山のうた』を書き写したものではなく、それ以前に『安積山のうた』が流布していたことを表しており、この歌木簡に書かれる一方で、『万葉集』に収められたと解釈できる」とあり、今回の木簡は万葉集以前に書かれた可能性が強く、市教委は、「この歌が当時、広く流布しており、それを万葉集に収録したのであろう」と推測している。つまり甲賀市教育委員会が意味していることは、以前より知られていた『安積山のうた』が歌木簡に書かれたのちになって、万葉集に収められたのではないかということなのである。このことはともあれ、甲賀市教育委員会が言うように、安積親王が14歳となる742年以前より『安積山のうた』が広く流布していたとすれば、このような時期、都で前項のような動きをしていた葛城王が、郡山に来たとは考えられないのではないでしょうか。 さて『安積山のうた』は、『難波津の歌』とともに『歌の父母』の一つとされています。その『難波津の歌』は、 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花、というものです。私にはこの仮名序に、不思議なことが書いてあるように思えるのです。と言うのは、第一首の『難波津の歌』は仁徳天皇を讃える歌で王仁という学者の作とされているのですが、第二首の『安積山』は『歌』ではなく『言葉』とされ、詠み人は天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う采女による『戯れ歌』とされているからです。では何故このような『戯れ歌』が『歌の父母』の二とされたのでしょうか。そう考えてくると、『安積山のうた』が歌の父母の二とされたのは、単に『安積山のうた』の出来映えが良かったからかも知れません。しかし『安積山のうた』を大伴家持が万葉集に取り上げたときに、あえて橘諸兄は自分の名を隠すために、いかにも実在の人物であるかのようにして、架空の人物である『陸奥国前采女某』とした、とも想像できます。おそらく私は、万葉集を編纂したとされる大伴家持と橘諸兄との間で何らかの話し合いがもたれ、橘諸兄が安積に行幸したことにして『安積山のうた』を詠み、作者も陸奥国前采女某、つまり詠者不明として左注を書いたという可能性が無いこともないと考えているのですが、どうでしょうか。また、2019年5月27日のBS—TBSで、『歴史鑑定 万葉集に隠された本当の古代史』が放映されたのですが、それによりますと、万葉集が編まれた当時、万葉仮名を知っている人は限られており、歌を詠んだ人と記録した人は別人であったことが多かったというのです。しかし『安積山のうた』の場合、大伴家持か橘諸兄が自分で選んで自分で万葉集に載せたと考えられますから、第三者が手を貸すことはなかったのではないかと思われます。そう考えてくると、『安積山のうた』が仮名序において、『歌の父母』として推奨された二つの歌のなかの一つにされたのは、安積親王を顕彰しようとしたことのような気がするのです。 さてそろそろ素人なりではあっても、この『安積山のうた』についての結論を出さねばなりません。私は、都にあって、橘諸兄が藤原の強い権力に逆らい、安積親王を天皇の座に座らせようとした意志を表した歌が、『安積山のうた』であったのではないだろうか、というのが私の推論です。もし素人の私のこの推測を許して頂ければ、この『安積山のうた』、『安積香山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を わが思はなくに』は、次のようになると思われます。 『安積親王のお顔を映すような浅い山ノ井、しかし私(葛城王)が親王を思う心は深いのです』 私には、この歌の内容から想像して、『安積山のうた』は安積親王の死去後に詠まれたように思えるのです。そしてそのように解釈すると、『安積山のうた』が仮名序に選ばれた理由がわかるような気がするのです。いずれにせよ、無知蒙昧の私が臆することもなく、何故このようなことをひねくり回すのか疑問に思われる方が多いと思われます。それはひとえに、『安積山のうた』に、なんとも納得しがたいことがあったからでした。したがってこれは、私の全くの寓見です。それに私には、『郡山うねめまつり』を否定する気はさらさらありません。これからも采女物語の具現として、大いに楽しむべきであると思っています。
2024.02.01
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さて私は、『安積山のうた』は、これまでに述べてきたことから想像して、藤原仲麻呂に殺害されたらしい安積親王を比喩的に詠ったものと考えている。そう仮定すれば、葛城王が『安積山のうた』を万葉集に載せた時点で『安積香山』としたのは、藤原氏に疑われた場合に、『安積親王』を詠ったものではないとの言い逃れにしたとも考えられる。そして『山ノ井』である。つまり葛城王は、『山ノ井』が映したのは『安積山』ではなく、『安積親王の顔』を想像したのではないだろうか。すると『安積山のうた』の本当の詠み人は、『陸奥国前采女某』ではなく、葛城王ではないかということになるのではないだろうか。 ところで、以前に私は、郡山の歴史家・今泉正顕氏から、「奈良の春日大社の建つ丘の名が『安積山』であるということを、春日大社の宮司に聞いた」と教えられていた。しかしすでに亡くなられているその方の著書を図書館で漁ってみたが、それについての記述を見つけることができなかった。そこで奈良の春日大社に、それが事実かどうかの問い合わせをしてみたのである。ほどなく、春日大社宝物殿学芸員の松村和歌子氏より、『奈良曝(ならさらし)』という本のカラーコピーが送られて来た。その奈良曝の序には、『古き京の残れる跡、春日・興福・東大或ハ栄行、今の寺社・名師・名匠・諸職・商店・町々の竪横を搔き集めしより奈良曝としかいふ』とあったのです。以下は、その松村氏よりの、返事の手紙の内容である。 お尋ねの安積山(浅香山(ママ)))については、貞享四年(1687年)刊行された『奈良曝』の第三巻の記載により、いまの奈良市高畑町の荒池畔の奈良ホテルがある小高い丘が浅香山と呼ばれ、近くに山ノ井があったことが分かります。奈良の采女神社のある猿沢池から言えば、南東方向になります。 奈良曝の浅香山の項には、お手紙にあった万葉集にある『安積山のうた』をあげたあとに、「菩提谷成身院のうしろなる山をいへり、きおん山のつづきなり・・・」とあり、興福寺の大事の書をうつすとき用いる水とされます。 『山ノ井』については、『水源が春日大社の建つ背後の御蓋山(みかさやま)(若草山)で、その清流にある水谷川(みずやがわ)から流れてくる』とあります。近世の地誌ですので、これが、万葉集にある安積山という確証はありませんが、近世にはそう信じられていたようです。春日大社は、神護景雲二年(768)に、藤原北家の藤原永手が藤原氏の氏社として創建されたものです。なお御蓋山は、春日山の通称となります。 この手紙の内容は、私の予想を超えたものでした。この奈良曝によると、近世からではあっても、奈良に『浅香山』や『山ノ井』があったというのです。しかし近世からそう言われたとしても、古代から使われていた地名が現在も使われている例は、少なくありません。それですから、奈良にある『浅香山』も『山ノ井』も、これと同じと考えても良いのではないかと思われます。そう考えると、『安積山のうた』は安積で詠まれた歌ではなく、奈良で詠まれた歌と考えても無理ではなくなるようなのです。それにこの春日大社のある御蓋山に、水源となる『山ノ井』があったということは、『安積山』を『安積香山』と表現し、現実に奈良にある『浅香山』と誤解させることで、橘諸兄が擁護する安積親王を、藤原氏から隠そうとしたのではないかとの意図が感じられます。このことは、以前に読んだ澤潟久孝氏の著、『万葉集注釈巻十六』にあった『確証がないからこそ、安積山のうたが都の歌人によって作られた歌であると、思いたい』との記述を思い起こさせられるのですが、むしろ私は、これこそが事実であったと思いたいのです。そしてそれと重なると思われるのが、安積親王が葬られた山の名、『和豆香山(わづかやま)』です。この『和豆香山』のなかに『香山』という文字があることから、郡山の地名の起こりとする説もあるようです。 さてここまでくると、大伴家持が万葉集を編纂しているとされているので、『安積山のうた』を万葉集に載せるについては、大伴家持が深く関わっていたと考えられます。ところで延喜五年(905)、紀貫之が編纂の中心となり、奏上された古今和歌集の前書きである仮名序には、次のように『安積山のうた』が登場するのです。 なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり あさかやまのことばは うねめのたはぶれよりよみて このふたうたは うたのちちははのやうにてぞ てならふひとの はじめにもしける 現代文にしてみると、次のようになると思われます。 難波津の歌は、仁徳天皇の御代の初めを祝う歌である。 安積山の言葉は、采女の遊び心により詠まれたものである。 この二つの歌は、歌の父母のようなものである。 文字を習う人が最初に習うものである。 この2つの歌の書かれていた歌木簡は、平成九年度に実施された宮町遺跡(甲賀市信楽町宮町にある古代宮殿遺跡。国の史跡に指定されている)の第22次調査で、西側の大きな溝から出土したものですが、その解読された文字を、太斜字で表してみました。 阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓 あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
2024.01.20
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見まつりて 未だ時だに 更(かわ)らねば 年月の如 思ほゆる君 (万葉集4〜579) (お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ) 733年、葛城王49歳のとき、母の三千代が亡くなった。734年、葛城王50歳のとき、近畿地方を中心に、古代史上最大と言われる大地震により多くの被害が発生した。 ところで、735年から翌年にかけて、遣唐使の吉備真備や僧侶の玄昉が唐より帰国した。この頃、九州の太宰府で疱瘡(天然痘)が発生し、全国に蔓延した。当時の日本の人口の3分の1、100万人から150万人が死亡したとされる。このころには大凶作もあって税収が減少、国家経営が危機に陥った。(2022/7/9・関口宏の新しい古代史より) 736年、葛城王52歳のとき、弟の佐為王と共に、母の三千代の姓である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、以後は橘諸兄を名乗ることになる。なお次の歌は、葛城王が橘姓を継いだ時に、聖武天皇より賜わった和歌である。橘諸兄に対する皇室の期待と信頼の篤さが窺われる。 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (万葉集 6〜1009) (橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いても いよいよ栄える木である) ところで、『安積山のうた』の左注に、葛城王とあることから、この歌はこの頃までに詠われたものであろうか。しかしこれまでに述べてきたような忙しい時期に、葛城王が安積を訪れることは、到底不可能であったと思われるがどうであろうか。 737年、橘諸兄53歳のとき、全国に蔓延した疱瘡のため、政権を握っていた藤原四兄弟が続けざまに死去した。しかも同時期、8人の公卿のうち5人が死亡した。朝廷はこの非常事態に、急遽、故・長屋王の弟の鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を大納言に任命して急場を凌いだ。 738年、橘諸兄54歳のとき、右大臣に任ぜられ、吉備真備や玄昉をブレーンとして政権運営に当たった。この年、朝廷は、諸国に巡察使をおくっている。 739年、橘諸兄55歳のとき、従二位に昇叙されて橘諸兄政権を成立させた。藤原氏の勢力は大きく後退することになる。 このとき11歳となっていた『安積親王』に、大伴家持は歌を贈っている。 我が屋戸の 一むら萩を 思ふ児に 見せずほとほと 散らしつるかも (万葉集 8〜1565) (我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている児に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました) ここで大伴家持は、安積親王を、『思ふ児』と表現したようである。また橘諸兄の邸で開かれた宴席で、橘諸兄は次の歌を詠っている。 ももしきの 大宮人は 今日もかも 暇を無みと 里に去(ゆ)かずあらむ (万葉集 6〜1026) (百敷の大宮に仕える人は今日も暇がないからと里にはいかないのだろうかなあ) そしてその左注によると、『右の一首は、右大臣伝えて曰く、故豊島采女の歌なりとえへり。』とあり、その詠み人の名を明らかにしている。それなのに橘諸兄は、なぜ、『安積山のうた』で、その詠者を、陸奥国前采女『某』としたのであろうか。 740年、橘諸兄56歳のとき、亡くなった藤原四兄弟の長兄、藤原武智麻呂の次男の藤原仲麻呂は、正五位上とされた。藤原仲麻呂は藤原氏の栄華を再現しようとして、吉備真備や玄昉の排除を画策した『藤原博嗣の乱』に失敗した後に、都が平城京から恭仁京に遷都された。この地が選ばれたのは、橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。さらにこの年には、国分寺が創建された。これは四天王が来て、国を護るという信仰に基づく事業であったが、これには遷都にかかる費用の他に、多大な犠牲を人民に求めることとなった。 742年、橘諸兄58歳のとき、聖武天皇は、近江紫香楽に離宮を作り、諸国に巡察使をおくった。 743年、橘諸兄59歳のとき、聖武天皇が計画した大仏建立の財源を確保するため、6歳以上の男女に田を分け与えるという墾田永年私財法を実施した。そしてこの年の秋から冬にかけての頃、15歳になった安積親王を、橘諸兄の甥の藤原八束が自身の屋敷に招き、宴を開いた。この宴の時に大伴家持が、安積親王を詠った歌が万葉集(6〜1040)に残されている。 久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ (雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そうしたら、私の大切に思っているあの子が帰れなくなって、今夜はここにお泊りになるだろうから) 大伴家持は、ここでも『思ふ子』として、安積親王の名を伏せている。 744年、橘諸兄59歳のときの元旦、安積皇子の屋敷があった『活道岡(いくじがおか)』で、大伴家持や天智天皇の玄孫である市原王らが集まって宴を開いた。この年、恭仁京から、さらに難波京への遷都が実施された。このとき大伴家持が、歌を詠んでいる。 たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶ心は 長くとそ思(おも)ふ (万葉集 06〜1043) (いつまで生きるかわからない、それでも松の枝(えだ)結ぶ、やはり長く生きたいと 内心願っているからだ) この家持の歌は、安積親王への正月の祝賀の歌であると同時に、『松が枝』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。そしてこれらの歌は、皇統から疎外された天智天皇の玄孫である市原王と、政権から疎外された大伴家持との、安積親王に対する祝福の歌であったと言われている。彼らにとっての最大の願望は、安積親王の即位にあったのである。そしてこの歌会のあった一ヶ月後の閏一月、聖武天皇は難波宮への行幸に際して、恭仁宮の留守居役として、皇族である鈴鹿王と藤原仲麻呂を任命した。この聖武天皇の難波宮への行幸に同行した安積親王は、途中の桜井頓宮から脚の痛みにより引き返し、その日のうちに恭仁宮へ戻って来た。そしてこの年の三月七日、安積親王が亡くなった。恭仁宮へ戻ったわずか二日後、たった16歳であった。この脚の痛みによるこの安積親王の早過ぎる死は、藤原の血を受けぬ安積親王が皇位を継ぐことを嫌った藤原仲麻呂により、暗殺されたと考えられている。恭仁宮で留守を命じられた藤原仲麻呂にとって、それは正に絶好の機会であったのではあるまいか。藤原仲麻呂か、もしくはその妻の藤原宇比良古によって暗殺されたのではないかという説になっている。この安積親王の薨去により、安積親王の姉の井上内親王は、27歳で斎王の任を解かれて退下したとされるが、帰京後、白壁王、のちの光仁天皇の妃となった。 745年、橘諸兄60歳のとき、聖武天皇は、都を難波京から平城京へ復した。この短期間での異常とも思える遷都は、自身の第一皇子の基王と第二皇子の安積親王を亡くした上、大地震、大凶作、そして疱瘡の大流行に怯えた聖武天皇が迷ったことによる行為と想像されている。 746年、橘諸兄61歳のとき、大伴家持は越中守に遷任され、七月、越中へ向け旅立った。この年、玄昉は藤原仲麻呂により筑紫の観世音寺別当に左遷されたのち、任地で没した。再興しつつあった藤原氏に、暗殺されたとの説もある。 748年、橘諸兄63歳のとき、元正上皇が薨去された。 749年、橘諸兄64歳のとき、安積親王の義姉の阿部内親王が、46代の孝謙天皇として即位した。 750年、橘諸兄65歳のとき、正一位に上った。この年、吉備真備は筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として再び唐へ渡航した。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂による陰謀説がある。 756年、橘諸兄は71歳で亡くなった。藤原氏が再び勢力を得る中で、安積親王を擁護した著名な人々は、このような不遇にさらされていったのである。 いずれこの橘諸兄の経歴から、葛城王を称した時代となる713年から736年の間に安積に来たと考えることは、難しいと思われる。ところで万葉学者で文学博士の澤潟久孝氏はその著『万葉集注釈巻十六』の85頁に、『確証がないからこそ、安積山の歌が都の歌人によって作られた歌であると、思いたい』と記述している。『思いたい』と言って断定こそしていないが、専門家でもこう考える人がいるのである。
2024.01.10
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684年、葛城王は、敏達天皇のひ孫の美努王と、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(以後三千代と略す)の間に生まれたが、美努王と三千代は離別する。三千代は阿閇皇女(あへのひめみこ)(のちの元明天皇)付き女官となったが、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと思われる。その後、藤原不比等と三千代の間に安宿媛(あすかべひめ)(のちの光明皇后)が生まれたことから、葛城王は母が同じでも父親違いの義理の兄妹となった。不比等は、皇室とのつながりを渇望していたのである。694年、葛城王10歳のとき、藤原京に遷都され、巡察使が諸国に派遣された。697年、葛城王13歳のとき、42代の文武天皇が即位し、藤原不比等の長女の宮子が その皇后となった。699年、葛城王15歳のとき、修験道の基礎を築いた役の小角(えんのおづぬ)が、 「人々を惑わす」として伊豆へ流された。700年、葛城王16歳のとき、文武天皇と宮子の間に首皇子(おびとのみこ)が生れた。701年、葛城王17歳のとき、藤原不比等らが選定していた大宝律令が完成した。702年、葛城王18歳のとき、663年に、倭・百済の連合軍は白村江の戦いで、唐・ 新羅 連合軍に大敗していた。そして約40年後のこの年、倭国は講和の使 者として、粟田朝臣真人を唐に派遣した。その最大の目的は、講和であり捕虜 の交換の交渉であったとされる。703年、葛城王19歳のとき、東海道・北陸道・山陰道・東山道に巡察使が派遣され、 国司の政治の成果と人民の暮らしの苦楽について調べさせた。東山道には、 多治比三宅麻呂が派遣されたとあるが、ここに葛城王の名はない。なおこの時 代の東山道には陸奥が含まれているから、多治比三宅麻呂は安積を通ったとも 考えられる。704年、葛城王20歳のとき、飢饉や疫病が全国化し、社会不安が募っていた。707年、葛城王23歳のとき、42代・文武天皇が崩御したが首皇子はまだ幼く、文武 天皇の母が第43代元明天皇に即位した。なお、平安時代初期の歴史書『続日 本紀』によると、陸奥国信夫郡出身の壬生五百足ら倭軍兵士4人が、白村江の 戦いで捕虜となっていたが、実に44年後に帰国した。唐で賎民に落とされて いたが、日本から来 た遣唐使の粟田朝臣真人の捕虜交換の努力もあって、運 よく帰国することができたという。なお壬生五百足は、童話・浦島太郎のモデ ルとされている。708年、葛城王24歳のとき、平城京の造営が始まった。この年、三千代に、橘宿禰の 氏姓が与えられた。709年、葛城王25歳のとき、陸奥・越後の蝦夷の討伐戦があった。710年、葛城王26歳のとき、従五位下に直叙された。この年、藤原不比等が中心とな って、中国の長安を模倣した広大な平城京へ遷都され、藤原氏の勢力は強固な ものとなっていった。711年、葛城王27歳のとき、馬寮監に任ぜられた。712年、葛城王28歳のとき、出羽国が建置された。またこの年より毎年巡察使が派遣 され、国内各地の様子を調べさせた。713年、葛城王29歳のとき、諸国郡郷名著好字令が発せられた。この頃、阿尺が安積 になったと思われる。715年、葛城王31歳のとき、43代の元明天皇が自身の老齢を理由に退位、娘の氷高 皇女が44代元正天皇として即位した。716年、葛城王32歳のとき、首皇子は、藤原不比等の後妻となった三千代との子の 安宿媛を妃とした。三千代は夫である藤原氏の繁栄を図り、首皇子に三千代 の一族から県犬養広刀自を入内させた。以後、広刀自と略す。717年、葛城王33歳のとき、従五位上となった。この年、能登・安房・石城・石背が 設置された。またこの年、首皇子と広刀自の間に、井上内親王が長女として 生まれた。718年、葛城王34歳のとき、首皇子と安宿媛との間に、阿倍内親王(のちの46代 孝謙天皇で、さらに重祚して48代の称徳天皇)が生まれた。719年、葛城王35歳のとき、正式に按察使が置かれた。この703年の巡察使や 712年からの巡察使、さらには719年からの按察使による報告などから、 葛城王は安積という地名について知っていたと思われる。720年、葛城王36歳のとき、大伴家持の父の旅人が、九州の隼人を撃った。 実力者であった藤原不比等が死去し、その後を、藤原武智麻呂・房前・宇合・ 麻呂の四兄弟が継いだ。この年、石城と石背が、再び陸奥国に併合された。721年、葛城王37歳のとき、正五位下に昇進した。この年、元明上皇が薨去された。 5歳の井上内親王は、伊勢神宮の斎王に定められた。722年、葛城王38歳のとき、不作のため税収が不足し、それに対応して百万町歩開墾 が計画された。食糧を官給し、農具などを貸与して良田百万町歩を開墾しよう としたが,はかばかしくなかった。723年、葛城王39歳のとき、正五位上となった。不調であった前年の百万町の開墾に 代えて、三世一身法が制定されたが、それも不調の中、蝦夷に対抗するための 軍事拠点として、按察使の大野東人により多賀城の建造がはじめられた。724年、葛城王40歳のとき、従四位下に叙せられた。元正天皇が譲位し、首皇子が 聖武天皇となった。聖武天皇は、第42代の文武天皇を父とし、藤原不比等と 三千代の長女の藤原宮子を母とし、なおかつ、聖武天皇は、藤原不比等の娘の 媛をその皇后とした。文武天の妃の藤原宮子の異母妹が安宿媛である。藤原氏 は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ,安宿媛の立后を画策した。 このようにして天皇家と強い絆を作り上げ、勢力を扶植してきた藤原氏に対し て、長屋王・葛城王などの皇族を中心とする派との対立が深まっていった。727年、葛城王43歳のとき、聖武天皇と安宿媛との間に基王(もといおう)が生まれ た。藤原氏繁栄の期待を担った基王は、生まれてすぐに次期の天皇となる 皇太子とされた。この年には雷雨と強風があり、僧600人、尼200人 を中宮に経を転読させた。この年、使いを七道の諸国に派遣して、国司に よる治政と勤務状況について調査をさせた。728年、葛城王44歳のとき、聖武天皇と広刀自を母として、第2皇子の『安積親王』 が生まれた。なお生没年が不明であるが、その後に、安積親王の妹の不破 内親王が生まれている。ところがその九月、この皇太子である基王が一歳に満 たずして亡くなったのである。藤原氏は、安積親王が次の天皇になれば、権力 の座を奪われるのではないかとおそれたと思われる。 ところで安積親王の名であるが、この安積の文字は、現在でも難読地名とされている。この文字をアサカとストレートに読めるのは、福島県の人だけではないかと思う。例えば元明天皇が各国の国司に命じて作らせた資料の一つの『播磨国風土記』にある安積山(あづみやま)製鉄遺跡が、いまも兵庫県宍栗市一宮町字安積(あづみ)に残されている。それなのに何故、聖武天皇は自分の第2皇子に、普段は読まれることのないアサカという名にしたのであろうか。これに関連するかどうか分からないが、安積親王が生まれた時期は、この地域が『諸国郡郷名著好字令』に従って、阿尺から安積と表記されるようになってから15年後のことであり、しかも多賀城へ往還する者たちから、天皇をはじめ高官たちがアサカという地名を聞いており、多くの人に知られていたものと思われる。 729年、葛城王45歳のとき、藤原不比等の娘の安宿媛が聖武天皇の皇后となったた め、藤原四兄弟は皇室に対して強い影響力を持つようになった。この年、葛城 王は正四位下に叙せられるとともに、左大弁に任ぜられた。藤原氏一族は、 広刀自を母とする安積親王を疎んじた。それに対して、天武天皇の孫の 長屋王が、藤原四兄弟に反抗の兵を挙げたが、敗れて自害した。この事件の 後、藤原氏はより一層の繁栄を極めることになる。また安積親王の姉の 井上内親王が、のちに第49代光仁天皇となる白壁王と結婚した。 731年、葛城王47歳のとき、藤原四兄弟全員が議政官に昇り詰めた。このとき 葛城王は、参議に任ぜられて公卿に列している。732年、葛城王48歳のとき、従三位に叙せられた。この年、東海道、東山道、 山陰道、西海道に節度使が派遣された。さらにこの年、『反藤原』であり 『安積親王養護』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。12〜3歳に なっていたその子の大伴家持は、3歳となった安積親王に、次の歌を贈って いる。しかしここでは、藤原氏に対する忖度があってか、『安積親王』の名は 出していない。大伴家持は、葛城王らとともに、安積親王の有力な支持者と なっていた。次回は、その家持の歌である。すみません。文字がうまく入りません。
2024.01.01
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奈良市にある采女神社に、次のような案内板がある。それには、『天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女が、猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為、祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭の当日は、采女神社本殿にて祭典が執行され、中秋の名月の月明りが猿沢の池に写る頃、龍頭船(りゅうずせん)と鷁首船(げきすせん)の二艘の船は、幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る』とあるが、この案内板には、郡山に関する文字はない。ところが奈良市の『奈良新発見伝』には、『福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住んでいました。奈良の都から葛城王が東北巡察使として彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮中に仕えさせることになりました。 美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けましたが、その寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えられています。池の南東には、采女が入水するときに衣服を掛けたという衣掛柳があり、北西には、采女神社があります。この采女神社は春姫が身を投げた池を見るのは嫌だといって後ろを向かれたということで、道のある池側とは反対の方向を向いています。ところで、この采女の出身地とされる郡山では、こんな風に伝えられています。 春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、衣を柳に掛けて身投げをしたように装い、故郷まで苦労して帰り着きました。しかし恋人は春姫を失ったことを悲しんで井戸で自殺をしていました。春姫もその井戸に身を投げてなくなったということです。』という話が載せられている。どうでしょうかこの『奈良新発見伝』にある話、この話にある『福島県の郡山市片平町』という地名と、ヒロインの名が同じ『春姫』であるということから、郡山で伝えられていた『采女物語』を参考にして作られた気配は濃厚である。ところがこれら郡山や奈良の『話』に関して原型の一つと思われるものが、天暦五年(951)頃に成立したとされる『大和物語の155段』に記載されているので、これを抄略してみる。 『むかし、大納言が美しい娘を持っていた。帝の嫁にと思っていたところ、大納言のもとで働く内舎人の一人だった男が、この娘に惚れて、恋にやつれて病気のようになってしまった。 とうとう「どうしても言いたいことが」と娘を呼び出して、「どうしたのでしょう」と出向いてきたところを、用意していた馬に乗せて、抱きかかえて奪い去り、そのまま、安積山まで逃げ延びて、住まいを作り、女を住まわせて年月を暮したが、とうとう身ごもってしまった。 そこで娘は男のいない間に、山の井戸に写った自分の姿を眺めると、かつての美しい姿とも思えない、恐ろしげな姿だったので、女は恥ずかしさにさいなまれ、 安積山 影さへ見ゆる 山の井 あさくは人を 思ふものかはと詠んで死んでしまった。帰ってきた男は、この和歌を見て途方に暮れ、和歌の思いを胸に、女のそばで死んだという。遠い昔話である。』 ここには『安積山のうた』があり、山の井戸に映ったのは安積山ではなく娘の顔になっている。すると『安積山のうた』にある『山ノ井』が写したのは山ではなく誰かの顔であったのではなかったかと想像できる。ところで、万葉集は8世紀頃に編まれたとされ、大和物語のそれは天暦五年(951)の頃とされるから、『大和物語』は万葉集よりほぼ150年後の作品となる。この大和物語の作者にはいろんな説があり、現在に至るも不明であるが、国文学者で元・大正大学教授の阿部俊子氏は、源順(みなもとのしたごう)(911〜983)を挙げて、次のように記しておられる。『第52代嵯峨天皇をその先祖とする源順の作品には、 あさましや あさかのぬまの さくらばな かすみこめても みせずもあるかがあり、さらに ゐても恋ひ ふしても恋ふる かひもなく かく浅ましく みゆる山の井がある。この歌の本歌は、万葉集にある安積山のうたです。源順は、村上天皇の命により、漢字のみで書かれた「万葉集」の短歌を、「平仮名で書かれた和歌」に置き換えた人物と推定されており、その置き換えは、約4500首の「万葉集」の歌のうち、4000首を越えると算定されています。さらに源順は、第一勅撰集「古今和歌集」に倣って、第二勅撰集「後撰和歌集」を編纂していますから、万葉集と古今集のことを熟知していたはずです。大和物語155段の『大納言の娘が安積山で死ぬ話(現代語訳福永武彦)』の中は、万葉集の官官接待に関するエピソードとは次元が異なる説話の中に、「安積山のうた」が出てくるのです。この「安積山のうた」を31首の短歌の折句に詠みこんだ源順の作品は、古今集仮名序の不自然さに注目せよという、後世への大変なメッセージなのかもしれません。』とあった。なおこの折句は、資料として、巻末に掲載しておく。 ところで、これらのことに関連するかどうかわからないが、第21代の雄略天皇の御代(456年〜479年)に、『伊勢の国の三重の采女』が、宴会で天皇に捧げる盃に木の葉が入っていることに気付かず酒を注いでしまい、天皇の怒りに触れて殺されそうになった。そこで采女は即興で天皇を讃えて繁栄を祈った歌を詠んだところ歌の出来が大層素晴らしかったので感心し、命拾いをしたという記述が古事記にあるという。古事記は万葉集より先に編纂されているから、この話などは、『安積山のうた』の左注の原型になったのではないかと思われるほど似た話である。なお三重県四日市市には、采女という地名がある。ともあれ、これらの話が縁となって、昭和四十六年に郡山市と奈良市は姉妹都市を締結し、毎年八月に開かれる『うねめ踊り』には奈良市から親善使節団が郡山市を訪れ、また仲秋の名月には郡山市から親善使節団が奈良市を訪問して両市の交流を深めている。しかしこの祭りの主人公である葛城王が、本当に郡山に来られたかは解明されていないが、福島県教育委員会の『うつくしま電子辞典』に、『8世紀前半(700〜750)、貴族の葛城王が陸奥国をおとずれた』と記述されている。これは事実なのであろうか。そこで私は、『葛城王』が実際に郡山へ来られる状況にあったのかを知るために、彼の経歴を調べてみた。ただしこれから先は、年代について分かり易くするため西暦年で追ってみた。
2023.12.20
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ところで郡山市史に、『詩に詠まれた安積山は額取山のことである』とある。そこで額取山を調べてみた。額取山は、青森県から栃木県に至る千メートル前後の峰々が連なる奥羽山脈の郡山市の西側に横たわる山である。標高は1108・7メートルで、登山コースは北側から登る磐梯熱海温泉口、東側から登る滝登山口、南側から登る御霊櫃峠口の3コースがある。ところがこの山に対して、東北大学名誉教授の高橋富雄氏は、その著書、『地方からの東北学』において、『当時の都人が思いを抱く安積の山とは一つしかなく、それは安達太良山以外にはないのではないか。安達太良山は万葉集に3首載っているようにみちのくを象徴する山の一つであり、まして天平時代の当時は、安達もまた安積郡の中に入っている頃であるから郡衙の高台から見る安達太良山は、まさに安積地方を代表する高峰だったろう』と書かれておられます。しかしそれなら、何故、『安積山のうた』を詠んだ人は、『安達太良山 影さえ見ゆる』としないで『安積山 影さえ見ゆる』としたのであろうか。近世以降になっても、安積山が安積郡内のどこにあったかが議論の対象とされてきた。これについて、天正十六年(1588)、仙台の『伊達治家記録』には、日和田の山が采女の歌に詠まれた安積山であると記している。また元禄二年(1689)、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で日和田の安積山を訪れているが、この日和田にあると思った山ノ井清水がここから三里も離れた帷子(片平)村にもあることを里人に聞いて、不思議に思ったと書いている。しかしどの文献にも、安積山の存在地の特定はされていないのである。これらのことから想像できることは、『安積山』とは何か別のもの、もしくは『事』をあらわそうとしたのではあるまいかということである。では一体それは、何なのであろうか。 私は図書館に行って、万葉集を確認してみた。この『安積山のうた』は、『陸奥国前采女某』の作として、万葉集の(16〜3807)にあり、その左に左注と言われるものが、次のように短く記されていた。 『右の歌伝へて云はく、葛城王、陸奥国に遣はされたる時に、国司の祇承、緩怠なること異に甚だし。ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり、左手に觴を捧げ、右手に水を持ち王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』 この左注とは、歌の次、つまり歌の左側に書かれた注釈のようなもので、『万葉集では、歌本体のほかに、歌の前につく題詞と、歌の後ろにつく解説の左注がつく。これら歌の解説をする左注は、歌がつくられた背景などを読者に教えるのが目的である』とあったのである。この説明から私は、ここにある左注を、そのまま膨らませて書かれたものが、『郡山の歴史』にある解説文であり、世間一般に伝えられている『采女物語』の原型となったのではないかと思った。しかし同時にこの左注の内容から言って、詠み人の釆女が記したものとは思えず、他の人が書いたものではないかと思った。そこで、万葉集の左注を、私なりに検討をしてみた。 1*『右の歌伝へて云はく』=伝えられている未詳の話。2*『葛城王、陸奥国に遣はされたる時に』=歴史書には、葛城王が郡山へ遣わされたという記述が無い。また都から郡山への道筋 となるはずの地方史にも、これに関する記述が見当たらないようである。3*『国司の祇承(しぞう・下向してきた勅使を接待する役)の緩怠なること異に甚だし』4*『ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ』5*『飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず』6*『ここに前の采女あり 風流(みや)びたる娘子なり』7*『左手に觴(しょう)(酒杯)を捧げ、右手に水を持ち』=宴席のため左手に盃を持っているのは当然として、右手に酒ではなく水を持 って行くのは不思議である。8*『王の膝を撃ちてこの歌を詠む』=この采女は、天皇に連なる身分の高い葛城王とは初対面のようであるが、このような失礼な ことができたものであろうか。9*『すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』=ここでは大勢の宴会ではなく、葛城王単身での宴を想像させる。 そしてこの歌は、『陸奥国前采女某』が詠み人とされている。しかし『某』とは名を特定できないということであろうから、『詠み人知らず』ということになるのではないだろうか。平成二十六年に出版された『郡山の歴史』に、垣内和孝氏は、『前采女は歌の作者ではなく詠者として登場しており、安積山の歌そのものは、これ以前から存在していたとの推定もある』と指摘しておられることもあるから、この左注は采女が書いたものではないと私は思っている。ではこの『陸奥国前采女某』とは、誰なのであろうか。 ところで采女には地方豪族の出身者が多く、容姿端麗で高い教養を持っていたと言われ、天皇のみが手を触れることが許される存在ということもあって、男性の憧れの対象となっていたという。 陸奥国からの采女については、『献上された豪族の娘たち』の著者の門脇禎二氏は、その95ページおよび97ページに、『陸奥国に対しても養老六年(722)以前のある時期には、采女を貢がせるようになったとあることと、安積山のうたが詠まれたのは、この年から、葛城王が橘の姓を与えられた天平八年の14年の間であろう』と推定されていることから、陸奥国より采女が貢がされたであろう期間は短期間であったことになる。ともあれ、その後の南北朝時代に執筆された『百寮訓要集』には、『采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。古今集などにも歌よみなどやさしきことども多し』と記載され、また室町末期の『官職秘抄』にも『ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり』との記述があるという。しかし私は、『その国々の受領』とは『都周辺の受領』ではないかと思っている。理由は、成長してからであれば美人の判断は容易であろうが、その成長までの過程で身についた地方での文化や素養そして言語が、天皇の傍らに仕える身として適宜なものであったのか、疑問に思っているからである。つまりいくら美人であるとは言っても、あえて都の文化から離れた陸奥や筑紫などの遠国から呼び寄せたものであろうか。なお、2014年に出版された『郡山の歴史』26ページに、『古代においては、中央と地方の格差は現代の我々が考える以上である。』とあるのは、これを推測するものとしてうなずけるものがある。
2023.12.10
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私は祭り太鼓の音に誘われて、郡山駅前の大通りへ出掛けて行った。そこでは大勢の観客の前で、奈良市からの親善使節団を先頭にして、『うねめ踊り』の流しが行われていた。「へ〜え。奈良からも来るんだ」 私は、かたわらの妻に言った。「そうねえ。郡山も有名になったわね」「ああ。ところで『安積山 影さえ見ゆる 山ノ井の』って歌、知っている?」「知っているわよ。郡山生まれですもの」「そうか、そうだよな。それじゃ聞くが、『山ノ井』ってなんだ?」「山ノ井? そうねえ・・・、山の中にある井戸かしらねえ・・・」 気のせいか、妻の返事が少し心細く聞こえた。「山の中の井戸? それじゃあ『安積山の影』は?」「『安積山の影』ねえ・・・、これは・・・安積山そのものかしら、知〜らない!」「なんだ! 郡山生まれのくせに」 とりとめのない話をしている間にも、太鼓の音が遠くにはなったが、踊り流しは続いていた。 『うねめまつり』は、昭和三十年に『市勢発展のため』に、愛宕町の荒池公園で第一回が開かれた比較的新しい『まつり』である。しかし資金難もあって、昭和三十七年を最後に、その後は開催されなかった。しかし昭和四十年になって、旧郡山市と安積郡九カ町村と田村郡三カ町村が合併、市民が一体となれる祭りを催したいという気運が高まったことから郡山市と郡山商工会議所が中心となり、郷土の伝説である奈良時代の宮中女官の『采女物語』を主題とした祭りとして郡山駅前大通りで再開された。通常はこの年を第一回としている。この『采女物語』に出て来るのが『陸奥国前采女某』の作として万葉集にある『安積香山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を わが思はなくに』という歌である。この歌について、私の手元にある平成六年出版の『郡山の歴史』には、次のように記載されている。 『安積山と山ノ井について、日本最古の歌集である万葉集に、次のように詠まれている。 安積香山影さえ見ゆる山ノ井の浅き心をわが思はなくに・陸奥国前采女某 この詩は、葛城王が陸奥国に派遣されたおり、その地の国司のもてなしを受けたが、もてなしがとりわけ不十分であったあったため、王は不快になり、怒りを顔にあらわした。酒食を用意したが、少しも楽しもうとしない。その時、前(さき)に采女として仕え、今はこの地に帰っている一人の風流な女子があらわれた。女子は左の手にさかずきを持ち、右の手に水を持ち、王の膝を打って、安積山のうたを詠んだ。するとたちまち王の心は解きほぐれ、喜び、楽しみ、飲むこと終日であったという。詩の内容は、「安積山の影さえ映って見えるほどの浅い山の清水、そのように浅い心であなたを思っているのではありませんのに、深くお慕い申しあげていますのに・・・。それにもかかわらずあなたは・・・」というものである。「アサカ」という地名は、三重県松阪市や、大阪市の住吉や、堺市にもあり、郡山でないとの意見もある。しかし、陸奥国の安積というのは安積郡のことであり郡山地方にしかない。また日和田の奥州街道脇の小山を安積山と呼ぶが、詩に詠まれた安積山は額取山のことである』 私はこれを読んで、なるほどとは思ったが、やはり『安積山』と『山ノ井』の関係が気になった。つまり『山ノ井』が山にある井戸とは想像できても、井戸の上にある木の枝や葉は映せたとしても、山の全体像は映せないのではないかと思ったからである。次の日、私は、祭神を葛城王とする采女神社のある片平町へ行ってみた。この采女神社のある一帯が、『山ノ井公園』となっている。そこには『安積山のうた』の歌碑があり、『山ノ井清水』と案内板が立てられた小さな池がある。ところが行ってはみたものの、周囲にあるうちのどの山が額取山か分からなかったので、地元の人に聞いてみた。すると、「額取山は、いま目の前に見えている丘に隠されていて、ここからは見えないよ」と言う。それを聞いた私は、アレッと思った。それは、この『山ノ井清水』のある所から見えない額取山を、ここにある『山ノ井』が映すことができない筈だと思ったからである。次いで私は、日和田町の安積山公園に行ってみた。 松尾芭蕉も見たという日和田町の安積山は、いまは安積山公園となっており、そこには芭蕉の句碑が建てられ、その背後には、昭和四十五年に造られた郡山市営の日和田野球場が広がっていた。地元の人に聞くと、「ここは公園や野球場を建設するときに整地されたが、もともとが山と呼ばれるほどの大きなものではなく、せいぜい丘程度のものであった」と言う。今は整地されてしまったから、昔の安積山とは景色が大きく変わっていることになるが、ただ、その公園の一角に、『山ノ井』という案内板の立つ、直径50センチほどの小さな池? があった。しかし安積山が丘程度の山であったとしても、こんな近くの小さな池では、やはり安積山の全体を映せたとはとても思えない。どうも私の見た範囲では、このどちらの公園の『山ノ井』にも、いわゆる安積山という山の全体像を映せる状況にはないようである。すると『山ノ井』は、本当に安積山を映していたのであろうか? ちなみに、この安積山公園の所在地は日和田町字安積山にあり、隣接して字山ノ井がある。町村史からみれば、明治二十二年の町村制施行により、日和田村、高倉村、八丁目村、梅沢村が合併して安積郡山野井村が発足しているが、大正十四年に安積郡山野井村が日和田町となっている。いずれにしても、日和田町に安積山と山ノ井の地名があるは、何を表しているのであろうか。
2023.12.02
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