『福島の歴史物語」

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2024.01.01
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 684年、葛城王は、敏達天皇のひ孫の美努王と、県犬養三千代 ( あがたいぬかいのみちよ ) (以後三千代と略す)の間に生まれたが、美努王と三千代は離別する。三千代は阿閇皇女 ( あへのひめみこ ) (のちの元明天皇)付き女官となったが、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと思われる。その後、藤原不比等と三千代の間に安宿媛 ( あすかべひめ ) (のちの光明皇后)が生まれたことから、葛城王は母が同じでも父親違いの義理の兄妹となった。不比等は、皇室とのつながりを渇望していたのである。


694年、葛城王10歳のとき、藤原京に遷都され、巡察使が諸国に派遣された。


697年、葛城王13歳のとき、42代の文武天皇が即位し、藤原不比等の長女の宮子が
     その皇后となった。


699年、葛城王15歳のとき、修験道の基礎を築いた役の小角 ( えんのおづぬ ) が、
     「人々を惑わす」として伊豆へ流された。


700年、葛城王16歳のとき、文武天皇と宮子の間に首皇子 ( おびとのみこ ) が生れた。


701年、葛城王17歳のとき、藤原不比等らが選定していた大宝律令が完成した。


702年、葛城王18歳のとき、663年に、倭・百済の連合軍は白村江の戦いで、唐・
     新羅  連合軍に大敗していた。そして約4
0年後のこの年、倭国は講和の使
     者として、粟田朝臣真人を唐に派遣した。
その最大の目的は、講和であり捕虜
     の交換
の交渉であったとされる。


703年、葛城王19歳のとき、東海道・北陸道・山陰道・東山道に巡察使が派遣され、
     国司の政治の成果と人民の暮らしの苦楽
について調べさせた。東山道には、
     多治比三宅麻呂が派遣されたとあるが、ここに葛城王の名はない。なおこの時
     代の
東山道には陸奥が含まれているから、多治比三宅麻呂は安積を通ったとも
     考えられる。


704年、葛城王20歳のとき、飢饉や疫病が全国化し、社会不安が募っていた。


707年、葛城王23歳のとき、42代・文武天皇が崩御したが首皇子はまだ幼く、文武
     天皇の母が第43代元明天皇に即位した。
なお、平安時代初期の歴史書『続日
     本紀』によると、陸奥国信夫郡出身の壬生五百足ら倭軍兵士4人が、白村江の
     戦いで捕虜となっていたが、実に44年後に帰国した。唐で賎民に落とされて
     いたが、日本から来 た遣唐使の粟田朝臣真人の捕虜交換の努力もあって、運
     よく帰国することができたという。なお壬生五百足は、童話・浦島太郎のモデ
     ルとされている。


708年、葛城王24歳のとき、平城京の造営が始まった。この年、三千代に、橘宿禰の
     氏姓が与えられた。


709年、葛城王25歳のとき、陸奥・越後の蝦夷の討伐戦があった。


710年、葛城王26歳のとき、従五位下に直叙された。この年、藤原不比等が中心とな
     って、中国の長安を模倣した広大な平城
京へ遷都され、藤原氏の勢力は強固な
     ものとなっていった。


711年、葛城王27歳のとき、馬寮監に任ぜられた。


712年、葛城王28歳のとき、出羽国が建置された。またこの年より毎年巡察使が派遣
     され、国内各地の様子を調べさせた。


713年、葛城王29歳のとき、諸国郡郷名著好字令が発せられた。この頃、阿尺が安積
     になったと思われる。


715年、葛城王31歳のとき、43代の元明天皇が自身の老齢を理由に退位、娘の氷高
     皇女が44代元正天皇として即位した。


716年、葛城王32歳のとき、首皇子は、藤原不比等の後妻となった三千代との子の

     安宿媛を妃とした。三千代は夫である藤原 氏の繁栄を図り、首皇子に三千代
     の一族から県犬養広刀自を入内させた。以後、広刀自と略す。


717年、葛城王33歳のとき、従五位上となった。この年、能登・安房・石城・石背が
     設置された。またこの年、首皇子と広刀
自の間に、井上内親王が長女として
     生まれた。


718年、葛城王34歳のとき、首皇子と安宿媛との間に、阿倍内親王 ( のちの46代
     孝謙天皇で、さらに重祚して48代の称徳天
) が生まれた。


719年、葛城王35歳のとき、正式に按察使が置かれた。この703年の巡察使や
     712年からの巡察使、さらには719年か
らの按察使による報告などから、
     葛城王は安積という地名について知っていたと思われる。


720年、葛城王36歳のとき、大伴家持の父の旅人が、九州の隼人を撃った。
     実力者であった藤原不比等が死去し、その後を、
藤原武智麻呂・房前・宇合・
     麻呂の四兄弟が継いだ。この年、石城と石背が、再び陸奥国に併合された。


721年、葛城王37歳のとき、正五位下に昇進した。この年、元明上皇が薨去された。
     5歳の井上内親王は、伊勢神宮の斎王に
定められた。


722年、葛城王38歳のとき、不作のため税収が不足し、それに対応して百万町歩開墾
     が計画された。食糧を官給し、農具など
を貸与して良田百万町歩を開墾しよう
     としたが,はかばかしくなかった。


723年、葛城王39歳のとき、正五位上となった。不調であった前年の百万町の開墾に
     代えて、三世一身法が制定されたが、そ
れも不調の中、蝦夷に対抗するための
     軍事拠点として、按察使の大野東人により多賀城の建造がはじめられた。


724年、葛城王40歳のとき、従四位下に叙せられた。元正天皇が譲位し、首皇子が
     聖武天皇となった。聖武天皇は、第42代
の文武天皇を父とし、藤原不比等と
     三千代の長女の藤原宮子を母とし、なおかつ、聖武天皇は、藤原不比等の娘の
     媛をその皇后とした。文武天の妃の藤原宮子の異母妹が安宿媛である。藤原氏
     は天皇家との外戚関係が絶えることを恐
れ,安宿媛の立后を画策した。
     このようにして天皇家と強い絆を作り上げ、勢力を扶植してきた藤原氏に対し
     て、長屋
王・葛城王などの皇族を中心とする派との対立が深まっていった。


727年、葛城王43歳のとき、聖武天皇と安宿媛との間に基王 ( もといおう ) が生まれ
     た。藤原氏繁栄の期待を担った基王は、生まれてすぐ
に次期の天皇となる
     皇太子とされた。この年には雷雨と強風があり、僧600人、尼200人
     を中宮に
経を転読させた。この年、使いを七道の諸国に 派遣して、国司に
     よる治政と勤務状況について調査をさせた。


728年、葛城王44歳のとき、聖武天皇と広刀自を母として、第2皇子の『安積親王』
     が生まれた。なお生没年が不明であるが、
その後に、安積親王の妹の不破
     内親王が生まれている。ところがその九月、この皇太子である基王が一歳に満
     たずして亡
くなったのである。藤原氏は、安積親王が次の天皇になれば、権力
     の座を奪われるのではないかとおそれたと思われる。


 ところで安積親王の名であるが、この安積の文字は、現在でも難読地名とされている。この文字をアサカとストレートに読めるのは、福島県の人だけではないかと思う。例えば元明天皇が各国の国司に命じて作らせた資料の一つの『播磨国風土記』にある安積山 ( あづみやま ) 製鉄遺跡が、いまも兵庫県宍栗市一宮町字安積 ( あづみ ) に残されている。それなのに何故、聖武天皇は自分の第2皇子に、普段は読まれることのないアサカという名にしたのであろうか。これに関連するかどうか分からないが、安積親王が生まれた時期は、この地域が『諸国郡郷名著好字令』に従って、阿尺から安積と表記されるようになってから15年後のことであり、しかも多賀城へ往還する者たちから、天皇をはじめ高官たちがアサカという地名を聞いており、多くの人に知られていたものと思われる。


729年、葛城王45歳のとき、藤原不比等の娘の安宿媛が聖武天皇の皇后となったた

     め、藤原四兄弟は皇室に対して強い影響力 を持つようになった。この年、葛城
     王は正四位下に叙せられるとともに、左大弁に任ぜられた。藤原氏一族は、
     広刀自
を母とする安積親王を疎んじた。それに対して、天武天皇の孫の
     長屋王が、藤原四兄弟に反抗の兵を挙げたが、敗れて
自害した。この事件の
     後、藤原氏はより一層の繁栄を極めることになる。また安積親王の姉の
      井上内親王が、のちに第
49代光仁天皇となる白壁王と結婚した。


731年、葛城王47歳のとき、藤原四兄弟全員が議政官に昇り詰めた。このとき
     葛城王は、参議に任ぜられて公卿に列している。


732年、葛城王48歳のとき、従三位に叙せられた。この年、東海道、東山道、
     山陰道、西海道に節度使が派遣された。さらに
この年、『反藤原』であり
     『安積親王養護』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。12〜3歳に
     なっていたその子の
大伴家持は、3歳となった安積親王に、次の歌を贈って
     いる。しかしここでは、藤原氏に対する忖度があってか、『安積
親王』の名は
     出していない。大伴家持は、葛城王らとともに、安積親王の有力な支持者と
     なっていた。次回は、その家
持の歌である。

すみません。文字がうまく入りません。






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最終更新日  2024.01.03 11:54:45
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